★★☆ビューティフルエンプレス・元正天皇☆★★

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1承子タン
超美人の女帝・元正天皇(氷高内親王)について語りましょう!

◆元明天皇譲位の詔◆
『続日本紀』より 霊亀元年九月庚辰条
一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙(つと)に徳育を彰せり。天の縦(ゆる)せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載佇(とま)り、謳訟帰(おもむ)くところを知る。

【訳】『続日本紀(上)』講談社学術文庫より
一品氷高内親王は、若いうちからめでたいめぐり合わせにあい、早くから良い評判が世に知られている。心ひろくあわれみ深い性質を天から授かっており、物静かで若く美しい。天下の人々はこの内親王を戴き、仰ぎほめたたえることを知るであろう。
2日本@名無史さん:2001/02/25(日) 13:32
氷高内親王ってどうして未婚のままだったの?
3日本@名無史さん:2001/02/25(日) 13:37
母親に禁止されてたんじゃなかったっけ
4日本@名無史さん:2001/02/25(日) 14:11
>>2
長屋王と愛人であったと推測するが、どうよ??
5元正天皇 680‐748(天武9‐天平20):2001/02/25(日) 14:16
第44代に数えられる奈良前期の女帝。在位715‐724年。
父は草壁皇子,母は元明天皇,文武天皇の同母姉。諱(いみな)は氷高(ひたか),または新家(にいのみ)。和風謚号(しごう)を日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたかみずきよたらしひめ)天皇という。
715年9月に元明天皇は譲位を決意したが,皇太子首皇子がまだ若すぎるため,代わって未婚のまま即位,霊亀と改元された。
724年(神亀1)2月に首皇子(聖武天皇)に譲位するまでの治世9年の間に,《養老律令》の編纂,隼人の反乱,《日本書紀》の斤進,右大臣藤原不比等や元明太上天皇の死去,三世一身法の制定などがあった。
748年4月に平城宮にて没した。佐保山陵に火葬したが,2年後,奈保山陵(〈諸陵式〉奈保山西陵)に改葬。《万葉集》に歌7首ほどがみえる。     岸俊男

通説では、元正天皇は「和銅6年(715)9月皇太子首皇子がまだ若すぎるため、代わって未婚のまま即位した」といわれています。
しかし首皇子(後の聖武天皇)は、この時15才。和銅7年(714)6月には14歳で立太子しており、即位できない年齢ではありませんでした。

小説家の永井路子氏は、この元正天皇即位を「藤原朝臣不比等と三女帝の見えざる戦い」という視点から捉えています。三女帝とは持統・元明・元正天皇で、この女帝たちが文武天皇が宮子(不比等の娘)に生ませた首皇子を嫌い、その即位を拒んだというのです。

女性らしい面白い視点です。
6元正天皇こそ「かくや姫」のモデル:2001/02/25(日) 14:17
私は、「かぐや姫」のモデルは「元正天皇(氷高皇女)」、そして「帝」のモデルは、「聖武天皇」だと思だとかんがえています。

そう考える直接的な理由は、元正天皇が「女帝の中で最も美しかった」と言われているからです。
霊亀1年(715)即位したとき御年35才で、独身。処女帝だったと伝えられます。
『竹取物語』の求婚譚は、大宝期(701-703)前後が時代背景ですから、元正天皇が氷高皇女と呼ばれていた20才前後のことになります。
元正天皇を、絶世の美女だったという人もいます。
その天皇の娘時代、求婚を拒み続けた「氷高皇女」こそ「かぐや姫」のモデルだと考えます。

そして養老1年(717)石上朝臣麻呂薨去の際、長屋王を後継者として朝廷に迎え、次の聖武朝に送り込みます。
聖武天皇は、神亀1年(724)に即位してから、生涯、藤原氏と反藤原氏の勢力争いの板挟みになって苦しんだ天皇です。
元正天皇が崩御するのは、天平20年(728)。それまで元正天皇は、聖武天皇のよき相談相手だったと思われます。
天平21年(729)元正天皇が崩御した翌年、長屋王は陰謀によって自殺に追い込まれます。
この後、古代日本は藤原氏独裁の世になっていきます。

『竹取物語』は、優れた文芸作品です。
しかし同時に、藤原氏批判の思想書的側面があります。
物語中に描かれる「月の軍隊」は、台頭する藤原勢力を押さえ、元正朝を支えた長屋王の勢力を暗示しています。
月には「嫦娥がいる」という古代中国の伝説があります。
嫦娥は、夫のが西王母からもらいうけた不死の薬を盗み、月に逃げ込み蟇(ガマ)に変わったと伝えられる女です。
「かぐや姫」の人物像が、嫦娥伝説を踏まえていることも見逃せません。
そして嫦娥伝説は、「不死の薬」を介して「徐福」(古事記)に結びつくのです。

元正天皇は、在位中、壬申の乱に協力した美濃や尾張に出かけています。
尾張には、『古事記』を今に伝える真福寺があります。
7:2001/02/25(日) 14:18
「かくや姫」←「ぐ」です。
8日本@名無史さん:2001/02/25(日) 14:26
氷高たん、ハァハァ
9逝きますっ!:2001/02/25(日) 14:42
◆◆◆『美貌の女帝』
永井路子/文春文庫

 美貌の女帝……氷高皇女(元正天皇)の物語。
10日本@名無史さん:2001/02/25(日) 14:47
>>4
元正天皇が崩御した翌年に長屋王は自殺に追い込まれるんだよね
ってことはやっぱりあやしいのか???
11承子タン :2001/02/25(日) 14:51
◆元正天皇の人柄◆
『続日本紀』より 元正天皇即位前記
天皇、神識沈深にして、言必ず典礼あり。

【訳】天皇は、御心は沈着にして思慮深い。言動は礼儀にかなっている。

◆日本書紀完成(天武朝に始まる編修事業がここで完成した)◆
『続日本紀』より 養老四年五月癸酉条
是より先、一品舎人皇子、勅を奉けたまはりて日本紀を修(あ)む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀卅巻系図一巻なり。

【訳】これより先に、一品の舎人親王は、勅をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上した。

◆学業にすぐれたものを褒賞する詔◆
『続日本紀』より 養老五年正月甲戌条
また、詔して曰はく、「文人・武士は国家の重みする所なり。医卜・方術は古今、斯れ崇ぶ。百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢(ぬきいだし)て、特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし」とのたまふ。

【訳】また次のようにも詔した。文人と武士は国家の重んずるところであり、医術・卜筮(ぼくぜい)・方術(天文・医薬・占いなどのわざ)は、昔も今も貴ばれる。百官の中から学問を深く拾得した者をあげて、褒賞を与え、後学を励ますこととしたい。

◆女医博士を置く◆
『続日本紀』より 養老六年十一月甲戌条
始めて女医の博士を置く。
【訳】初めて女医の博士を置いた。
〔博士〕女医を養成する医博士のこと
〔女医〕官戸や婢から若くて頭の良い女子30人を取り、医学の教育を受けさせ、七年以内に修了させるもの
12日本@名無史さん:2001/02/25(日) 14:52
>10
求婚を拒んでいたという話もある。
でも、そうであっても問題ないでしょ。皇族どうしだし。
13歴史趣味:2001/02/25(日) 15:24
今手元にないけど
元正天皇の勅で一番感心というか共感できたのは
「面前では媚びておいて退出後陰口言ったりするな」
というもの。漢籍からの引用らしいが
結構苦労してたのかな、って思う。

>10
それは元明天皇では?
元正上皇は譲位後もかなり長生きしてる。
14日本@名無史さん:2001/02/25(日) 17:44
ハァハァ
15日本@名無史さん:2001/02/25(日) 20:17
聖武天皇の母、宮子は聖武天皇を生んだ後長年幽閉されていて、
聖武天皇が宮子に対面できたのは30歳を過ぎてからだそうです。
これって元正天皇の陰謀?
16日本@名無史さん:2001/02/26(月) 01:55
>>13
元正上皇が崩御(729年)した翌年に長屋王は滅ぼされちゃうわけですよね
てことは庇護者(愛人)を失ったのがかなり大きかったのではないかと思います
17日本@名無史さん:2001/02/26(月) 07:21
>>15
聖武天皇の母の宮子って藤原出身だっけ?
元明・元正は藤原排除派だったという捉え方もできるしなあ。
18日本@名無史さん:2001/02/26(月) 16:47
ひたかさまの名前の由来はなんなんでしょ??
19日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:06
氷高で生まれ育ったとか??
20日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:36
宮子は不比等の子供なり
21日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:40
商務の妻の功名氏って商務の叔母だろ?
ドキュソだね。
22日本@名無史さん:2001/02/27(火) 00:53
天皇家は血が濃いからね。
23当時の美人って・・:2001/02/27(火) 01:05
おたふくだろ。

東北に今の基準でいう美人がいっぱいいたと思うけど。
関西から旅人が来ると争って種を貰ってたらしいぜ。
2415:2001/02/27(火) 01:06
》17 宮子は藤原不比等の養女で海人の娘であると言う髪長姫の伝説があります。
25名無しさんの主張:2001/02/27(火) 03:47
>22
古代はどこもそう。

>23
縄文人はチビで頭デカイのばっか。
今の基準で美人なんかいないだろ。
あと、あの当時はおたふくでないんじゃないか?
26日本@名無史さん:2001/02/27(火) 05:42
>>20
宮子は不比等の子供だとすると、
どうして>>15がいうように幽閉されてしまったの?
27日本@名無史さん:2001/02/27(火) 17:18
既に不比等はおなくなりになっていたんだよね
すると守ってくれそうな人は誰だろ
28日本@名無史さん:2001/02/27(火) 17:25
>古代はどこもそう。

そうなの?否定する材料も知らんが、肯定できるような史料も
知らんもので。なにか根拠のある話?日本の古代の民間とかでも
この手の近親婚ってありふれていたのだろうか?
29日本@名無史さん:2001/02/27(火) 17:39
>28
近親婚を避ける理由があるのか?
30日本@名無史さん:2001/02/27(火) 17:41
>28
そもそも民間とそうでないという線引きはどこでわけるの?
その根拠から出してくれ。
31日本@名無史さん:2001/02/27(火) 17:52
28>29
避ける理由?そんなものは知らないよ。ただ近親婚が禁忌だと
いうのは本能的にわかる可能性もなくはないんじゃないかな?
「古代はどこでもそう」という以上、そう言い出した人は
何か庶民の婚姻の史料を持っているんじゃないのか?

28>30
例えば関東圏とか九州圏の被支配者階級とかさ。
「例えば」だよ。少なくともそういう人たちは民間人と
言って、そう間違いはないだろう?

3230:2001/02/27(火) 19:36
>31

だからその根拠を出してよ。どうやって線引きするの?
それがわからなければ意味無いよ。
33日本@名無史さん:2001/02/27(火) 23:50
>>32
詭弁だろう?庶民・民間人といえば根拠だの線引だの言わなくたって
一応の共通理解はあるはずだろう。そういうところにこだわって
質問には答えないつもりなのか?俺は別にどちらがどうでもいいんだよ。
ただ皇族やその周辺の家系というのは容易に手に入るから調べがつくが
古代の庶民(少なくとも皇族や貴族ではない人々)の家族・婚姻形態に
ついては寡聞にして知らないものでね。知っているというのなら
教えてもらいたいんだよ。「古代はどこもそう」というからには
そう判断する素材があるんだろうからね。
34日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:04
その論理なら、
「天皇家が血が濃い」ともいえないね。
だってそれは、その庶民・民間人と比較してのもの以外ないでしょ。
そもそも、過去ログを見ればわかるように、「古代はどこもそう」という発言は、
「天皇家が血が濃い」に対してのレスでしょう。
「天皇家が(庶民。民間より)血が濃い」根拠を出さずに、
それに対するレスのほうに根拠を求めることこそ詭弁だね。
3534:2001/02/28(水) 00:05
>33
に対してです。
ちなみに俺は25ではないからね。
3634:2001/02/28(水) 00:07
>庶民・民間人といえば根拠だの線引だの言わなくたって
>一応の共通理解はあるはずだろう。

「あるはずだろう」では困るね。
具体的にどこで線引きするの?
37日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:10
33>>34
>「天皇家が血が濃い」ともいえないね。

俺はそんなこと言ってないよ。どっちが先とかそんなことはいいから
古代の庶民の結婚形態についてただ知りたいだけ。教えてくれよ。
38日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:13
なんで線引にそれほどこだわるんだよ?庶民以外の何者でもない
人間なんていくらでもいるだろうが。そんなに庶民や民間人という
言葉が嫌いなら、皇族・貴族以外の人間、という定義でもいいから
それらの人々の結婚形態について教えてくれ。
3934:2001/02/28(水) 00:19
俺はそんなこと知らないよ。
ただ、皇族・貴族だけが近親婚で、他は違うなどという理屈が通るなら、
その理由を知りたいんだよ。
また違うのならば、どこで線引きできるか、
果たして線引きなどできるのかを知りたい。
40日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:24
>>ただ、皇族・貴族だけが近親婚で、他は違うなどという理屈が通るなら、

そんなこと俺は言ってないし、ほかの人も殊更主張してないんじゃないか?
貴族にも庶民の血は混じってるし、その逆もある、みたいなことを
言いたいわけか?まあそれは事実だろうけど、そんなに明確な線引など
要求しなくても、都から遠く離れた集落みたいなものは普通に考えて
庶民だろう?完全な線引などありえないことを承知でそれを求める
嫌がらせをしたいだけか?
41日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:37
>貴族にも庶民の血は混じってるし、その逆もある、みたいなことを
言いたいわけか?

??
近親婚の話でしょ。
民間というのだから、どこからが民間なのかを
定義してもらわないとわからないということ。

>都から遠く離れた集落みたいなものは普通に考えて庶民だろう?

都に住む人は民間でないという事?
都から遠く離れた集落に住んでいる人以外は民間ではないの?
そういう人たちは、近親婚を避ける風習があったの?
そもそも当時、地域差で近親婚してるかしてないかを
分けられるものなの?
42日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:39
>都から遠く離れた集落に住んでいる人以外は民間ではないの?」
訂正
都から遠く離れた集落に住んでいる人以外は民間・庶民にならないの?

43日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:47
近親婚がなくなったのは、儒教思想など宗教の影響じゃないのかな。
古代に、貴族だけが近親婚をして、ほかは避けていたとはとても思えないけど。
44日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:49
>>41
>都に住む人は民間でないという事?

都に住んでる庶民には貴族の落としだねが混じってる確率(あくまで
確率)が高い、というようなこともあるだろう?だから都から遠いほうが
純粋な庶民(敢えて言えば)に近い、というような意図で言ったまでのこと。
どうせ何にも貴族以外の人々に関する史料を、きみは持ってないんだろう?
持っているなら教えてほしい、と思っただけだからさ。そんな詭弁を
振り回すだけならレス返してくれなくていいよ。
45日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:53
>>43
ただ貴族の場合は政治的意図から近親婚を敢えてした、というような
場合も想定できるようにも思うんだけど?あくまで想像だけど。
もちろん村社会にもそこの共同体の小さな政治性に繋がる婚姻は
ありえたかもしれないけどね。
46日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:54
>44
だからさあ、
古代で都から遠くの集落に住んでいる人が、
貴族と違って近親婚を避けていたとする根拠は何?
君も史料はないんでしょう?
47日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:56
>45
43さんではありません。

>ただ貴族の場合は政治的意図から近親婚を敢えてした、というような
場合も想定できるようにも思うんだけど?

その想定なら、集落の共同体でも同様のことが言える。
貴族のほうが近親婚が多いという証明にはならない。
48日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:57
>46
>貴族と違って近親婚を避けていたとする根拠は何?

そんなテーゼを俺は持ち出してないよ。

>君も史料はないんでしょう?

史料がないから教えてくれ、って言ってるんじゃないか。
貴族同様に近親婚だった、というならその根拠となる史料が
あるんじゃないのか?
49日本@名無史さん:2001/02/28(水) 00:59
やっぱり、近親相姦タブーは宗教によるところが大きいと思うけどな。
そういう宗教がないところでは、今でも近親婚はやってるでしょ。
50日本@名無史さん:2001/02/28(水) 01:03
>48
逆でしょう。
貴族と違って近親婚ではなかったいうなら、
その根拠を出してくれと言ってるんだよ。
同じじゃないという否定派こそ、根拠を出すべき。
では、近親婚のタブーはどっから出てきたの?
51日本@名無史さん:2001/02/28(水) 01:16
>50
>貴族と違って近親婚ではなかったいうなら、

そんなこといってない、って何回言ったらわかるのかなあ。
貴族には系図史料があるけど、庶民の史料というのは専門家でも
ないし知らないから、そういう自分みたいな人間からすれば
現代と比べて、古代の貴族社会は近親婚だ、とは言えるけど、
庶民については史料がないからわからない、としか言えないわけ。
古代はみんな近親婚、と言うからには、なにがしかの貴族社会以外の
史料が必要なはずだろう?それが何なのか知りたいだけ。
52日本@名無史さん:2001/02/28(水) 02:55
>51
>古代はみんな近親婚、と言うからには、

俺はそんなこと言ってないだろう。いつ言った?
そっちこそわかってないよ。
そもそも「天皇家は血が濃い」と言った奴がいて、
それに対して「古代はみんなそう」というレスがあったわけだろ。(俺じゃないが)
ならば、何をもって血が濃いかを問うほうが先だろ。
それに庶民の個々の史料を一例、二例だしても意味ないことぐらいわかるよな。
後は、古代の家族形態や結婚形態を調べるしかないだろ。
そこで、そもそも近親婚タブーがいつからあるのか?というところだろ。
それがわからなければ、古代人が近親婚をしてないとはいえないだろ。
今より人口密度は滅茶苦茶低いわけだし、交通手段は徒歩だけで道も整備されてない。
そういう狭い村社会の集落に住む庶民が、貴族より血が薄いといえるのか?
貴族は政治的な近親婚があるとはいえ、一方でたくさんの女性との間に子供を
作るわけでしょう。権力があれば、身分は低くとも美しい女性を妾にむかえ、
正妻より寵愛したり、子供を産ませることも多いでしょう。ある意味、外からの
血が入りやすいともいえる。(あくまでも俺の推測だから、根拠問われても困るけどね)

>それが何なのか知りたいだけ。

俺に問うなよ。
俺は「天皇家が(庶民・民間より)血が濃い」根拠を聞いてるだけ。
53日本@名無史さん:2001/02/28(水) 17:17
農村内での結婚で閉じており、村全体として結果的に近親婚になったと思われます。
54日本@名無史さん:2001/02/28(水) 17:21
>農村内での結婚で閉じており

どこかにそんな史料でもあるのか?
55日本@名無史さん:2001/02/28(水) 18:15
まあまあ。
近親婚のタブーがなかったってことと、近親婚がやたら多かったってことは別問題。
近親に萌える奴もいればマレビトに萌える奴もいたろ。
いいじゃんどっちでも。

ただ貴族の場合は、政治的意図があれば近親婚はやんないだろ?
逆の事いってたのがいるけど。
身内でやったら政略結婚にならんし。どーよ?
56日本@名無史さん:2001/02/28(水) 18:21
>身内でやったら政略結婚にならんし。どーよ?

これについてだけ言えば、身内で争った貴族・皇族っていくらでも
いるしな。兄弟でも母親が違えば違うウチで育って、兄弟という
認識が希薄だったのが貴族じゃないの?つまり近親間の政略結婚は
ありうるだろう?
57日本@名無史さん:2001/02/28(水) 18:27
近親婚は貴族だけだと思ってる怒窮鼠は痛い。
58日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:26
>57
庶民の古代の婚姻形態について語れよ
59日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:29
>58
ドキュソに語ってどうなるんだ?
60日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:30
>59
語れるものなら語れ
61日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:33
>60
じゃあ、君が語れば?
62日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:35
>61
はあ?なぜ俺が語るんだよ、あほか?庶民の婚姻形態なんて
わかるわけねえだろ。わかりもしねえくせに貴族並みに血が濃かった
とかなんとか抜かしてるだけだろがあほ。
63日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:38
>62
わかるはずないんなら聞くなよ。
わかりもしねえくせに貴族並みに血が濃くなかった
とかなんとか抜かしてるだけだろがあほ。
64日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:40
>63
>貴族並みに血が濃くなかったとかなんとか
んなこと言ってねえだろがあほ。
65日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:40
近親婚は貴族だけだと思ってる怒窮鼠は痛い。
66日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:41
52 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/28(水) 02:55
>51
>古代はみんな近親婚、と言うからには、

俺はそんなこと言ってないだろう。いつ言った?
そっちこそわかってないよ。
そもそも「天皇家は血が濃い」と言った奴がいて、
それに対して「古代はみんなそう」というレスがあったわけだろ。(俺じゃないが)
ならば、何をもって血が濃いかを問うほうが先だろ。
それに庶民の個々の史料を一例、二例だしても意味ないことぐらいわかるよな。
後は、古代の家族形態や結婚形態を調べるしかないだろ。
そこで、そもそも近親婚タブーがいつからあるのか?というところだろ。
それがわからなければ、古代人が近親婚をしてないとはいえないだろ。
今より人口密度は滅茶苦茶低いわけだし、交通手段は徒歩だけで道も整備されてない。
そういう狭い村社会の集落に住む庶民が、貴族より血が薄いといえるのか?
貴族は政治的な近親婚があるとはいえ、一方でたくさんの女性との間に子供を
作るわけでしょう。権力があれば、身分は低くとも美しい女性を妾にむかえ、
正妻より寵愛したり、子供を産ませることも多いでしょう。ある意味、外からの
血が入りやすいともいえる。(あくまでも俺の推測だから、根拠問われても困るけどね)

>それが何なのか知りたいだけ。

俺に問うなよ。
俺は「天皇家が(庶民・民間より)血が濃い」根拠を聞いてるだけ。
67コピペ:2001/02/28(水) 21:43
43 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/28(水) 00:47
近親婚がなくなったのは、儒教思想など宗教の影響じゃないのかな。
古代に、貴族だけが近親婚をして、ほかは避けていたとはとても思えないけど。


49 名前:日本@名無史さん投稿日:2001/02/28(水) 00:59
やっぱり、近親相姦タブーは宗教によるところが大きいと思うけどな。
そういう宗教がないところでは、今でも近親婚はやってるでしょ。

68日本@名無史さん:2001/02/28(水) 21:43
わざわざコピペするほどの内容じゃねえじゃん
69日本@名無史さん:2001/02/28(水) 23:43
まあ、移動距離が限られてるから
現在よりは血が濃かったんじゃない?
それが濃いというかは分からんが。
(庶民ね)
70日本@名無史さん:2001/03/01(木) 01:26
現在と比較しても意味ないし、
そんなの普通に考えればあたりまえの話。人口も人口密度もぜんぜん違うからね。
庶民の全体の平均はわからないから、結論はでようもないが、
いずれにせよ、貴族より薄いとは証明できないってこと。
71日本@名無史さん:2001/03/01(木) 05:14
氷高たんのスレッドがあああ〜〜〜
なんか近親婚スレッドになってるね。
ま、いいけど。
「いとこの味はカモの味」って昔から言うし。日本っていい国だなあ。
72日本@名無史さん:2001/03/01(木) 19:26
氷高ちゃんは、藤原房前とラブラブなの。
だから、長男の武智麻呂よりも房前くんを優遇したの。
そんで、それが面白くなく武智麻呂は、氷高ちゃんの権威の基盤である長屋&
吉備ちゃん夫婦を、聖武天皇を抱きこんで殺しちゃいました。
これで氷高ちゃんの権威もおじゃんだし、そのあおりで、あわれ房前くんも冷
や飯ぐいって事です。
73日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:09
氷高と房前ってそういう関係だったのか‥
74日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:18
すいません。わたくし、嘘をついておりました。
75日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:32
なるほど。学問的にはどうだかさておいて、
ストーリーとして面白いからage
76日本@名無史さん:2001/03/02(金) 05:43
藤原四子の中で長屋王の変の前と後で、官位に変わりが無かったのは房前だけ
なんだよね。
後の3人の官位は、長屋王の変以降に上昇しているのにね。
それに房前は、元明&元正天皇の内臣だったから、両天皇の信頼が厚かったと
思う。
そして、元明の娘&元正の妹である吉備を妻にしていた長屋王とは、親しい関
係にあったと推測しています。
したがって房前と長屋王は、元明&元正派だと思います。
だから長屋王の変は、元明&元正派から聖武&光明派への権力の移行を目指し
たクーデターだと思っています。
その結果藤原氏の権力も、元明&元正派の房前から、聖武&光明派の武智麻呂
に移ったんじゃないかな。
77やおらあ:2001/03/02(金) 06:59
>>76
なるほど。御教示かたじけない。
ところで、するってーと、誰と誰がラブラブなんでしょうか?
78日本@名無史さん:2001/03/02(金) 21:10
オレは、仲麻呂が阿部ちゃんをどういうテクニックでものにしたのか、めちゃ知りたい
79日本@名無史さん:2001/03/02(金) 21:12
>78
電波だって。
80日本@名無史さん:2001/03/03(土) 01:53
なんで電波なんだ?
二人が愛人だったのは有名な事実じゃないのか?

まさか電波というテクニックを使ったとか言い出すのか??
81日本@名無史さん:2001/03/03(土) 01:55
なんだこの糞スレ
82日本@名無史さん:2001/03/03(土) 02:08
>80
根拠は?
83日本@名無史さん:2001/03/03(土) 22:31
どっちに決まってもたいして面白くないからやめてくれ。

仲麻呂と阿部ちゃんがラブラブなんだろ?

まあいいじゃねえかそれで。
84日本@名無史さん:2001/03/03(土) 22:34
阿部って誰のこと?
85日本@名無史さん:2001/03/03(土) 22:36
>83
元正天皇スレで関係ない話をするなよ。
86名無しさん@ご利用は計画的に:2001/03/04(日) 16:03
阿部は元明天皇だって
87日本@名無史さん:2001/03/04(日) 23:08
阿倍は孝謙=称徳天皇の名前です。
元明天皇の名前は、安閇ですよ。
88日本@名無史さん:2001/03/04(日) 23:37
元明天皇と仲麻呂がラブラブって、意味がわかんないんだけど。
89日本@名無史さん:2001/03/05(月) 04:56
72、76あたりの入り組んでそうな人間関係
誰かわかりやすく整理しちくり。
90日本@名無史さん:2001/03/05(月) 15:31
電波
91nanasisan:2001/03/06(火) 00:34
age
92nanasisan:2001/03/07(水) 00:03
아게
93日本@名無史さん:2001/03/07(水) 00:04
nanasisan=あげ荒らし

94日本@名無史さん:2001/03/07(水) 17:01
なにが電波なの? 72、76は真相どうなの?
95日本@名無史さん:2001/03/07(水) 17:06
>94
おまえが電波
96日本@名無史さん:2001/03/07(水) 17:17
質問してるだけで何もへんな主張してないダロ?
97NANASISAN:2001/03/07(水) 21:41
아게
98日本@名無史さん:2001/03/07(水) 21:42
nanasisan=あげ荒らし
99日本@名無史さん:2001/03/08(木) 21:23
>>98
あんたも同罪だよ。

>>87
安閇ってなんてよむん?
100あぼーん:あぼーん
あぼーん
101あぼーん:あぼーん
あぼーん
102あぼーん:あぼーん
あぼーん
103あぼーん:あぼーん
あぼーん
10496:2001/03/09(金) 05:14
俺は98ではない。
72や76は不在なのか?
105日本@名無史さん:2001/03/09(金) 11:33
藤原房前が、元正帝に内臣に任じられたのは事実です。
長屋王が、元正帝の妹である吉備内親王を正妻をしていたのも事実です。
したがって、房前と長屋王は元正派であると思われます。

藤原四子の官位は長屋王の変の前と後では、
武智麻呂は、正三位・中納言から最終的に正二位・左大臣まで昇進。
房前は、正三位・参議に据え置き。
宇合は、従三位から最終的に正三位・参議に昇進。
麻呂は、正四位上から最終的に従三位・参議に昇進。
と言う事ですから、房前が長屋王の変以後は冷遇されていたのは間違いない事
だと思います。

やはり長屋王の変を境にして、元明&元正派は後退して、聖武&光明派が優位
となったのだと思われます。


106日本@名無史さん:2001/03/09(金) 21:51
ううむ、南家が‥
107あぼーん:あぼーん
あぼーん
108あぼーん:あぼーん
あぼーん
109あぼーん:あぼーん
あぼーん
110あぼーん:あぼーん
あぼーん
111あぼーん:あぼーん
あぼーん
112日本@名無史さん:2001/03/09(金) 23:44
>>105
元明と元正は聖武へ皇位をつたえるために皇位をついでまわしてきたと理解していたのですが、
実際はそういうわけではなかったということなのでしょうか?

(いくら元正天皇を嫌いだからといって議論の邪魔をするコピペはやめて欲しいです。)
113sage:2001/03/09(金) 23:46
無理に議論するのもなあ。
114日本@名無史さん:2001/03/10(土) 05:59
>>112
そうじゃなくて、形式上の皇位はいずれ聖武に伝わるんだけど、
政治の実権は天皇家(元明元正派)か藤原氏(聖武光明子派)ということでしょ。
115日本@名無史さん:2001/03/10(土) 09:24
>>112
蘇我氏系と藤原氏系の対立と言う側面もあったのでは?
元明、元正、吉備、長屋は、明らかに蘇我氏系皇族ですから。
そして、房前が藤原氏ながら元正の信任が厚かったのは、嫡男では無いから武智麻
呂に対しての対抗馬として使える事と、推測ですが氷高と房前がラブな関係にあっ
からだと思っています。
116日本@名無史さん:2001/03/10(土) 09:50
武智麻呂は、聖武の皇太子時代の東宮傅でしたから聖武側近と言って良いでしょう。
房前は元正の内臣ですから、元正の側近中の側近でしょう。

ここからは推測ですが、元正としては光明子の産んだ皇子・皇女を即位させるのは
反対であったと思います。
元正は、妹の吉備と従兄弟の長屋との間に生まれた王子を、聖武の次の天皇に即位
させたかったと思われます。

そして、この構想を砕いたのが武智麻呂であり、長屋王の変で、長屋だけでは無く
吉備とその王子までが死に追い込まれたのは、皇位継承から蘇我系皇族を完全に排
除する為であったからだと思っています。

117日本@名無史さん:2001/03/11(日) 01:55
膳夫王・葛木王・鉤取王はすべて蘇我系になるんでしょうか?
118日本@名無史さん:2001/03/11(日) 12:34
>>117
そうだと思います。
長屋王、吉備内親王のどちらも、その祖先は蘇我倉山田石川麻呂ですから蘇我系
皇族ですし、その二人の子供も蘇我系皇族と言えると思います。
そして同じ長屋王の子供でも、藤原系の安宿王、黄文王、山背王が罪に問われな
かった事を考えても、蘇我系皇族の排除を目的にしたものだと思います。
119赤塚不二夫:2001/03/11(日) 22:36
なるほど。勉強になりました。
ところで、いつも「承子たん」って書いてるやつ見かけると
「ホッカイローのケイコたん」を思い出すなあ。
120>おーる:2001/03/12(月) 16:39
皇室関連スレに条虫している粘着質ブサヨク(根拠君)は
なんでも絡んでくるから気をつけたほうがいいよ。
また、彼は被害妄想が強く、自分の敵はすべて同一人物にし、
自分は別キャラ(バレバレだが)で自作自演の応援レスをやってます。
パターン化されてますから、すぐわかると思います。
121名無しさん:2001/03/12(月) 18:21
age
122日本@名無史さん:2001/03/12(月) 20:53
マルチポストする奴のいうことを誰が信用するのだ(藁
123日本@名無史さん:2001/03/13(火) 06:26
>>118
その時点で蘇我系の王族はすべて一掃されてしまったの?
124日本@名無史さん:2001/03/13(火) 13:50
>118
少なくとも、即位の可能性のある蘇我系皇族は一掃されてしまったのでは。
125日本@名無史さん:2001/03/13(火) 23:06
蘇我系の皇族が消えちゃってから日本はダメになったね
126日本@名無史さん:2001/03/15(木) 01:43
藤原がはびこってからということだろうか?
127日本@名無史さん:2001/03/15(木) 21:55
自分の娘を皇后にして外戚におさまるっていう藤原氏の遣り口は
蘇我氏から学んだものだろう。
128日本@名無史さん:2001/03/16(金) 22:29
物部氏はどうして外戚にならなかったの?
129日本@名無史さん:2001/03/16(金) 23:10
>>128
大連の氏族が娘を天皇の妃にするのは
なんかの理由で禁止されてたんじゃなかったっけ?
どこかで読んだような。
130日本@名無史さん:2001/03/16(金) 23:24
連氏系氏族は、大王家の直臣だから后を出す事が出来ないって、どこ
かで読んだような。
131日本@名無史さん:2001/03/17(土) 20:24
蘇我氏はどうして后を出す事ができたのだろう?
大王家の直臣ではないということか??
132日本@名無史さん:2001/03/18(日) 07:24
べつに連系氏族だって妃は出せたと思うよ。
でも蘇我みたいな臣系氏族は皇別氏族(つまり先祖を遡れば皇族ね)なので、
家柄としては連系氏族より一段と格上なわけで、
連系氏族の母から生まれた皇子と臣系氏族の母から生まれた皇子とが
皇位をめぐって競合した場合、そこに優劣が生じると思われ。
133日本@名無史さん:2001/03/19(月) 23:32
蘇我が皇別氏族だというのは後付けのような気がするんだけど?
134日本@名無史さん:2001/03/20(火) 02:21
>>105
藤原房前を内臣に任命したのは元明上皇では?

個人的には房前はやはり他の兄弟と足並みを同じにしていたと思います。
彼は神亀年間に授刀長官兼近江若狭按察使になっていますよね。
長屋王の変直前にここまで重要なポストに着いている以上、
房前が藤原兄弟の除け者だったとは思えないのですが…。
また、房前は橘三千代の娘牟漏女王を正妻にしていますよね。
牟漏女王と光明子は異父姉妹ですし…。

また、房前の官位は当時の律令制から言って頭打ちではなかったでしょうか?
もちろん次の世代では選叙令も何もあったものではないですが。
135日本@名無史さん:2001/03/20(火) 02:33
必要ないかもしれませんが、簡潔に関連年表を。
715 元正即位
720 日本書紀完成。不比等没
721 房前内臣。元明崩御
724 元正譲位。聖武即位
729 長屋王の変。光明立后
737 四兄弟没
748 元正崩御。享年六九
136日本@名無史さん:2001/03/20(火) 10:43
>また、房前の官位は当時の律令制から言って頭打ちではなかったでしょうか?

少し時代は下がりますが、同母兄弟である藤原豊成が右大臣、藤原仲麻呂が大
納言という例もありますから、武智麻呂が正二位・右大臣で、房前が正三位・
参議というのは、序列に差が付き過ぎていると思います。

それと聖武・孝謙帝時代は、官位の点で南家に比べると北家が冷遇されている
と言う印象があります。
南家の豊成と仲麻呂が従二位・右大臣と従二位・大納言の時に、北家の永手が
従三位・権中納言で、八束が従四位・参議ですからね。
137日本@名無史さん:2001/03/20(火) 11:06
>また、房前は橘三千代の娘牟漏女王を正妻にしていますよね。
>牟漏女王と光明子は異父姉妹ですし…。

でも、その光明子と異父兄妹の諸兄の息子で、母親は不比等と三千代
の娘の多比能である奈良麻呂は、反藤原というか反南家ですから、単
純に血縁関係だけでは計れないと思います
138日本@名無史さん:2001/03/20(火) 11:21
>長屋王の変直前にここまで重要なポストに着いている以上、
>房前が藤原兄弟の除け者だったとは思えないのですが…。

次男である房前が、嫡男である武智麻呂に先んじて参議となった事は
元明・元正帝側が、藤原四子の結束に楔を打ち込む為とも考えられま
す。
139日本@名無史さん:2001/03/20(火) 12:34
>>136
仲麻呂が正官である大納言についたのは孝謙即位の年ですよね。
彼は光明皇后・孝謙と繋がりが深いですから、ここでは単純に比較できないのでは?
それと同じで、豊成・仲麻呂と永手・八束の官位比較も。年齢差もありますし。

仲麻呂の専横以降は一氏どころか一家一氏族制も無実化しましたが、
律令制定者の4兄弟はまだ律令遵守の気持ちが強かったように思われます。
宇合・麻呂の参議就任も官人達の推挙という回りくどい手段を取りましたし。
140136:2001/03/20(火) 12:36
律令制定者の息子である、に訂正です。すみません。
141日本@名無史さん:2001/03/20(火) 12:45
>>137
仲麻呂政権下の頃ですよね? 全く政局が違うように思います。
世代も代わっています。
その頃になると藤原氏内どころか南家同士でも対立が認められますから。

光明子〜三千代〜牟漏女王〜房前のラインは結束が堅いのではないかと。
142日本@名無史さん:2001/03/20(火) 13:17
>>138
それなら楔を入れるより他氏の者を参議に入れた方が確実では?
三千代の娘牟漏女王を娶っていた房前は間違いなく藤原氏の一員なのですから。
まだ一氏族一太政官制の原則が残っている時代に無理をして藤原氏を入れなくても、
と思いますが…。
この頃に元明・元正がそこまで房前を信任する根拠が分かりません。

嫡男武智麻呂より先に次男房前を参政させたのは不比等の意向と見るのが一般的でしょう。
父とその嫡男の議政官連任は諸豪族の反感を買いますし、選叙令にも引っかかります。
(それこそ蘇我蝦夷・入鹿を思い起こさせてしまう…)
ここで敢えて次男を(令下官である)参議にしたのは一氏族一太政官の原則を頭に入れ、
なおかつ次世代の藤原氏を考慮した上での策ではないでしょうか?
143日本@名無史さん:2001/03/20(火) 13:35
また、>>136に補足ですが、正三位の上階は従二位。
一般的にこの官位は右大臣クラスでないと難しいでしょう。
房前に限らず、宇合・麻呂も参議止まり。
(正従三位なら中納言・大納言も決しておかしくない)
これはやはり選叙令の抵触(=納言・大臣連任)を避けたい四兄弟の意思の表れでは?
その分官職の方で政治機能を掌握していますよね。
房前も中務卿や中衛大将・東海東山道節度使という大事な役目に就いています。
四兄弟は名より実を取ろうとしたのではないでしょうか。

また、聖武・孝謙時代に北家がが冷遇されているというより、
孝謙・光明の南家仲麻呂に対する寵愛が尋常ではなかったと言うべきでは?
もし本当に房前が除け者にされていたなら、
正一位太政大臣という死後の贈位贈官もあり得ない気がします。
(宇合・麻呂には死後の贈位贈官はなかった)
144sage:2001/03/20(火) 13:36
話題が女帝と離れてきたので下げます。ごめんなさい。
145日本@名無史さん:2001/03/20(火) 13:40
下げ間違えました…はずかし…。
146日本@名無史さん:2001/03/20(火) 14:28
臣系が皇別氏族というのは,133がいうように理由になってないし,事実としても違うんじゃないかな.
皇別だから連系よりも格上というのも,ムリがありますね.
   連系→大王家より格下(配下),臣系→大王家と同格(客分)
だから,臣系のほうが連系よりも格上というのなら,まだわかりますが.

臣系からは后を出せなかった理由は,文化人類学でいうところの「婚姻規則」(「外婚」か「内婚」か)の概念によって説明されるべき現象ではないかと思います.
ある時期までは,日本における婚姻規則は「外婚」が支配的だったか,その名残りがあったとしましょう.物部や大伴などの連系の氏族は,大王家と婚姻規則上は同一クランに属していたので大王家との通婚はありえなかったが,蘇我氏などの臣系の氏族は天皇家からみて外部のクランに属していたので,后妃を出せたのではないか.

崇峻などは,連である大伴から妃を入内させていなかったかな? これはルール違反と当時認識されていたのか?
「外婚」「内婚」といった婚姻規則は,もともと文化人類学的な概念なので,時代が変われば変化するのは当然でしょう.崇峻の頃が,ちょうど過渡期なのかも.
147日本@名無史さん:2001/03/20(火) 14:49
>この頃に元明・元正がそこまで房前を信任する根拠が分かりません。

元明が養老5年10月に遺言を詔しましたが、その相手は長屋王と房前
です。
長屋王は元明の娘婿ですから当然として、武智麻呂では無くて房前だ
った点に、元明の房前への信頼の厚さが伺えます。

>正一位太政大臣という死後の贈位贈官もあり得ない気がします。
>(宇合・麻呂には死後の贈位贈官はなかった)

この件は、橘諸兄の意向だと推測しています。
房前は、天平9年10月7日に正一位・左大臣が贈られましたが、これ
は四子の死後、太政官の首座についた諸兄が、妹婿の為に贈ったもの
と考えられますから。


148日本@名無史さん:2001/03/20(火) 15:18
>光明子〜三千代〜牟漏女王〜房前のラインは
>結束が堅いのではないかと。

基本的には同意ですが、私は光明子だけは外して考えています。
むしろ私は、元明、元正、吉備内親王、橘三千代、牟漏女王という
女性のラインが、長屋王と藤原房前の、権威と権力の源泉となって
いたと考えています。
149日本@名無史さん:2001/03/20(火) 23:47
>>147
なぜ武智麻呂ではなく房前かというと、房前の後ろに橘三千代がいるからでしょう。
それに三千代は長い間元明親子に仕えて信任を得ていましたから。
代わって武智麻呂は聖武の東宮傅として仕えていたこともあり、
元明・元正との結びつきは房前・三千代に比べ希薄でした。
政治経験も武智麻呂は房前よりも少ないですし…。
元明の判断がそれほど特別であったとは思いません。
ただ、三千代は忠義一筋の女性ではないことは不比等との再婚から見ても明らか。
思うに、三千代は元明が考える以上に野心家でしたたかだったと。

また、正一位左大臣の追贈は橘諸兄ではなくむしろ聖武・光明の意向が妥当では。
天平9年当時、一参議に過ぎなかった橘諸兄がそこまでの権力を握っていたとは思えません。
四兄弟の死後、思わぬ形で政治首班の座が転がり込んできたのですから。
諸兄政権は基本的に聖武の意向に強く反対できない政権でもありました。

正一位左大臣の追贈は房前の死後まもなくですが、太政大臣追贈は仲麻呂政権下でのこと。
専横の非難多い仲麻呂の懐柔策とは言え、房前が除け者であったなら追贈はなかったはず。
もちろん仲麻呂の正妻が房前の娘であったことも考慮しなければなりませんが、
それは逆に仲麻呂の青年期、すなわち神亀〜天平年間は
北家と南家の関係が良好であったことを証明しています。
150日本@名無史さん:2001/03/21(水) 00:23
>それと聖武・孝謙帝時代は、官位の点で南家に比べると北家が冷遇されている
>と言う印象があります。

南家の長男豊成が参議に就任したのは34歳の時。
南家の次男仲麻呂が参議に就任したのは38歳の時。
北家の三男八束が参議に就任したのは34歳の時。
北家の四男清河が参議に就任したのは年齢不詳ながら八束参議就任の翌年、すなわち清河35歳未満。
従五位下が与えられたのは豊成21歳、仲麻呂29歳、八束26歳、清河26歳未満(推定)。
従四位下が与えられたのは豊成34歳、仲麻呂36歳、八束30歳、清河28歳未満(推定)。
以上を検討すると、少なくとも聖武朝で北家が冷遇されていたとは認められません。
ただ八束の同母兄永手は参政が非常に遅れ、参議を経ずに43歳で権中納言。
ですが官位自体は従五位下24歳、従四位下36歳と他と比べそれほど遜色がありません。
参政の遅れは永手の方に特殊な事情があったと見るのが妥当でしょう。
(橘諸兄政権時にのみ冷遇されているところから見て、諸兄と永手は不仲だったよう)

>南家の豊成と仲麻呂が従二位・右大臣と従二位・大納言の時に、北家の永手が
>従三位・権中納言で、八束が従四位・参議ですからね。

それは孝謙・仲麻呂政権でのことですよね。
(諸兄が首班であったものの主導は明らかに孝謙・仲麻呂側にあった)
これ以降は確かに北家と南家の差がついてきますが、それは仲麻呂専横があったからこそ。
豊成は南家のみならず藤原四家の中でも最年長ですし、ここでの比較は適さないでしょう。
151日本@名無史さん:2001/03/22(木) 10:38
長屋王をそろそろ長屋親王と記述変えましょうか。
152日本@名無史さん:2001/03/22(木) 11:00
>諸兄政権は基本的に聖武の意向に強く反対できない政権
>でもありました。
と述べながら、
>(橘諸兄政権時にのみ冷遇されているところから見て、諸
>兄と永手は不仲だったよう)
と述べるのには矛盾を感じます。

諸兄政権が、聖武の意向に反対できないと言う政権ならば、永
手(北家)の冷遇は、諸兄と言うよりも聖武の意向と言う事にな
りますね。
153日本@名無史さん:2001/03/22(木) 19:13
>148
橘三千代が長屋王派? 聞いたことがありませんがその根拠は?
牟漏女王が長屋王派というのも聞いたことがありませんけど・・・。
148さんは115さんでしょうか?
房前と元正がラブな関係、と言うのを念頭に置いては史実を見ているのでは?
154153:2001/03/22(木) 19:18
念頭に置いて史実を見ているのでは?、でした。日本語になっていない・・・鬱

155農NAME:2001/03/22(木) 19:24
秦?

そんなの田原本の秦之庄行ったら全部秦さんだよ。ついでにいえば
うちの学校の美術も秦だったな。あいつらもうマレビトもクソも
なくなって、ただの大和の百姓だ。
156日本@名無史さん:2001/03/22(木) 20:07
>橘三千代が長屋王派? 聞いたことがありませんがその根拠は?
>牟漏女王が長屋王派というのも聞いたことがありませんけど・・・。

長屋王派では無くて、元明・元正派という事ですね。
房前は、元明・元正によって内臣に任じられています。
長屋王は元明によって、自分と吉備内親王との間の子を、令の男系
主義と異なり皇孫待遇として貰っています。
令の男系主義から言えば、長屋王の子は三世王となるに筈なのに、
これは大変な優遇だと言えます。
つまり、元明を頂点とした政治勢力の中核に、長屋王と藤原房前が
居たと言う事です。

157日本@名無史さん:2001/03/22(木) 23:14
>>152
永手の参政遅延の原因ははっきりわかりません。
自身の健康問題かもしれませんし、おっしゃるとおり、聖武自身の意向かもしれません。
ですが、永手の不遇と北家の不遇とは決してイコールではありません。
北家が聖武に冷遇されていないことは>>150ですでに述べました。
(全体的に見るとむしろ厚遇されています。藤原本宗家である南家嫡男豊成との比較を別にすると)
繰り返しますが、北家三男八束の参議就任年齢は南家嫡男であり氏全体の代表者である豊成と同じ。
(さらに言えば豊成の参議就任は四兄弟が揃って没していなければもっと遅れたと思われます)
諸兄が聖武の意向に「強く」反対できないと書いただけで、全く反対できないとは書いていませんが…。
永手参政遅延の原因は北家全体ではなく永手自身に求めるのが妥当でしょう。
158日本@名無史さん:2001/03/22(木) 23:16
>>136
「正二位・右大臣」の武智麻呂と房前を比べるのはおかしいでしょう。
(武智麻呂は正二位を授かったことはありません。死の床で従二位から正一位へ越階したのです)
死の当日に授かった正一位と比べるのも尋常ではないので、その前の従二位で房前と比較するべき。
官職の方には前述の理由があり、官位の方も理由ありでなおかつその差はたったの一階ですから
長幼を考えるとむしろ当然、聖武朝に房前は冷遇されていたとは言えないでしょう。
159日本@名無史さん:2001/03/22(木) 23:17
房前の官位が頭打ちであるかどうかは同時代の朝堂構成員を見れば一目瞭然です。
房前は参議ながら正三位、武智麻呂もその死の三年前までは同じく正三位。
武智麻呂は右大臣になると同時に従二位となりました。
では武智麻呂右大臣時代(=没する1日前まで)、臣下で第二位の官位を持っていたのは誰か。
これは房前・宇合・多治比県守の3人が横並びなのです。
これを見るに房前の官位が頭打ちであることは間違いありません。
(宇合の昇進はめざましいですが、房前も氏全体の長武智麻呂と同官位であったことがありました)
房前の官位を上げれば一参議が政治首班武智麻呂と同官位となりいかにも不自然です。
逆にいうと房前の官位をどうしても上げたいのなら房前を大納言以上に任命する必要があります。
(過去に従二位を授かって大納言以上にならなかった人物はひとりもいません)
ですがここでどうしても前述した「選叙令」に反してしまいます。
160日本@名無史さん:2001/03/22(木) 23:18
武智麻呂右大臣時代においては大納言は欠員で中納言は多治比県守しかいませんから、
房前・宇合・麻呂を大納言もしくは中納言に補任することは選叙令を無視すれば可能でした。
(これまでは大中納言は合計で3〜5人程度が一般的だった)
もちろん藤原氏の力を持ってすれば強引に補任できなくもないでしょうが、
他氏からの反感を無駄に買うだけ、不比等の薫育を直接受けた四兄弟はそれほど愚かではありません。
熟慮の末、武智麻呂以外を参議据え置きとしたと考えられます。
と同時に他の参議も大中納言には簡単に補任しないという慎重な策を取ったと思われます。
(藤原氏以外を参議から大中納言に補任→減った参議を補充する→
 それは大抵藤原氏以外→太政官内での藤原氏の発言力が弱くなる、という理由で)
代わりに中務・式部・兵部・民部卿、大宰帥、中衛大将などを兼任することによって実を取った、と。
その結果が右大臣武智麻呂・中納言一名・残り三兄弟を含む参議六名の藤原兄弟体制だと言えます。
(八名中四名が藤原氏、他は多治比県守・橘諸兄・大伴道足・鈴鹿王。50パーセントが藤原氏)
161日本@名無史さん:2001/03/22(木) 23:19
さらに補足すれば、中納言は大納言と違い大臣不在の時に大臣の代行はできません。
つまり、万一武智麻呂が一番に没した場合でも多治比県守はすぐには首班になれないのです。
(もっとも県守は史実では武智麻呂より先に没しましたが。年齢も武智麻呂より12も上ですし)
その時はおそらく多治比県守を飛び越して房前が大納言に就任したと推測されます。
大伴旅人没から四兄弟没まで、武智麻呂以外の人物が大納言に補任されていないのは、
藤原氏以外にあっさり政治首班が移ることを防ぐための策だったと思います。
162日本@名無史さん:2001/03/22(木) 23:20
>>148
天平改元に際して、祥瑞の亀を捕らえた賀茂子虫は古市郡の人ですね。
そして光明子の生母県犬養橘三千代の本貫も古市郡。
その古市郡内に鴨里があり、そこに県犬養氏が居住していたことも知られています。
その亀を献上するよう子虫を教導した唐の僧道栄(養老四年末に転経唱礼の規範とされる)、
出家した三千代(養老五年に出家した)との繋がりを想定する学者方も少なくありません。
瑞亀献上は三千代が光明立后のため道栄と組み、賀茂子虫を用いた疑いが濃厚です。
もうひとつ、760年に三千代は正一位と大夫人の称号を贈られています。
光明皇后と三千代の間が良好であったというエピソードこそあれ、溝があったという話は聞きません。
光明子〜三千代〜牟漏女王〜房前のラインから光明子を外すのは無理があります。
163日本@名無史さん:2001/03/23(金) 12:57
>他氏からの反感を無駄に買うだけ、不比等の薫育を直接受けた
>四兄弟はそれほど愚かではありません。

房前は元明から養老5年10月24日に「汝房前はまさに内臣となって、内外に渉っ
てよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にす
るように」と言う詔を受けました。
青木和夫氏はこれを「『立案したことは勅に準じて施行させる』という強力な権
限を与えるものであった」と解釈しています。
これだけの権限を元明から個人的に与えられた房前は、他氏どころか兄である武
智麻呂からさえも反感を受けるのではありませんか?

それと>>156で述べた長屋王と共に房前は、元明から令の規定を超えうる優遇を
受けていた存在だと言えます。

また長屋王と房前の二人は直接、元明から遺言を詔せられている存在です。

したがって、これだけ元明から個人的な優遇を受けている長屋王と房前の二人は
舎人や新田部といった皇族や、藤原氏の嫡男である武智麻呂から反感を受ける立
場にいたと推測しています。


164日本@名無史さん:2001/03/23(金) 23:48
>>163
「天皇の仕事を助けて」ですよね。
元明が没し、元正が皇位を聖武に譲った以上、
房前が最終的に仕えたのは聖武ということになります。
事実、宮子夫人称号事件は大臣・納言を通さない勅から発したものであるため、
内臣房前の関与はあなたがおっしゃる青木和夫氏の指摘するところでもあります。
青木和夫氏に限らず、房前の関与を認める説の方が大多数ですね。

政治というものは常に流動的であり、己の氏の権力伸張に努めるのが政治家です。
元明から内臣に任命されたとはいえ、
その一点で房前=長屋王派を立証するのは難しいでしょう。
165日本@名無史さん:2001/03/24(土) 00:36
>156
元明が没し元正が政治の裏方に回った以上、長屋王派ではないですか?
長屋王と吉備内親王の子が皇孫扱いであることは事実ですが、
それと三千代は関係ないのでここで持ち出しても仕方ないと思いますが・・・。

164さんの言うとおり政局は流動的なものですから、元明と三千代はともかく
長屋王自身と橘三千代の繋がりを証明しないとダメなのでは?
もしくは牟漏女王と長屋王の繋がりとか。

客観的事実を述べている164さんのいうことは正論だと思います。
私には148さんは房前と元正の関係を特別視しすぎのように思えますが。
166日本@名無史さん:2001/03/24(土) 11:43
>客観的事実を述べている164さんのいうことは正論だと思います。
>私には148さんは房前と元正の関係を特別視しすぎのように思えますが。

148さんの意見は、青木和夫氏を頂点とする学会の主流の見解ですから。
それと、元正と房前の関係については、個人的な想像であって史料的根
拠はありません。
ただ長屋王に関しては、元明・元正と最も親密な関係を築いていた事は
血統や婚姻関係、そして「続日本紀」の記述および「長屋王邸木簡」か
ら間違い無い事だと思っています。

青木和夫氏は元明・元正は長屋王よりも、藤原氏との関係の方がより親
密であったと言う見解を持っているようですが、その点について私は反
対の考え方を持っています。
(この問題は、元正が聖武の中継ぎか否かの問題に関わってきます。)
そして元明・元正は、藤原氏より長屋王&吉備内親王夫婦に対しての方
に、より親密な感情を持っていたと考えています。


167日本@名無史さん:2001/03/24(土) 12:11
>内臣房前の関与はあなたがおっしゃる青木和夫氏の指摘するところ
>でもあります。
>青木和夫氏に限らず、房前の関与を認める説の方が大多数ですね。

房前が、聖武の内臣でもあったという史料があるのでしょうか?
内臣は令に規定されている役職では無く、また中納言や参議等の太政
官における、令外の官とも違う性格のものだと解釈しています。
令外の官と言っても中納言や参議などは、天皇が変っても解任されな
い限りは現職のままで居られますが、内臣のような天皇との個人的な
繋がり感じさせる役職が、天皇の変った後でも同じであるとは考えに
くいのです。

聖武が即位した時、改めて房前を内臣に任じる詔が出ない限りは、房
前の内臣職は、元正の譲位と共に消滅したと認識しています。
青木氏を始めとする学会の主流は、どうも後年の北家が藤原氏の中で
一番栄えた事から、房前が南家の始祖である武智麻呂よりも聖武天皇
の時代においても地位や実力が上であったとの認識を持っているよう
です。

なお房前の内臣に関しては、瀧浪貞子氏が青木和夫氏とは反対の解釈
している論文を書いておりますね。
168日本@名無史さん:2001/03/25(日) 00:10
165さんは長屋王自身と三千代・牟漏女王の繋がりを証明して欲しいとあります。
元明・元正と長屋王の関係を持ち出すのは論点のすり替えでは?
156でも同様のことをしていると思いますが。
また164さんも165さんも元明・元正は長屋王ではなく不比等と
親しかったなどとは書いていませんが・・・?
青木和夫氏の意見はそのまま164さん・165さんの意見ではありませんよ。
もう少し論点を見極めなければ。
169168:2001/03/25(日) 00:14
あ、不比等ではなく藤原氏でしたね。
170日本@名無史さん:2001/03/25(日) 00:27
167さんが反論すべきは房前の官位が頭打ちであったかどうか、
房前は天皇・皇后と疎い関係で冷遇されていたか、
そして橘三千代・牟漏女王と長屋王の関係の証明でしょう。
房前があくまで聖武朝に冷遇されていたと言うのなら
>>142以降の意見にきちんと反論しないといけませんよ。
171日本@名無史さん:2001/03/25(日) 06:33
房前が内臣として宮子尊称事件に関わったのでは、
という点では青木氏の意見に賛成ですが、165さんのおっしゃるとおり
元明・元正が長屋王より藤原氏に親密であったとは私は言っていません。
私は青木氏の考えに全て賛成しているのではありませんので。
また、御代がわりした時に内臣に任命し直す、というのは房前に限らず
それ以降の内臣もなかったことですから、内臣が任命され直すものであったかは
断言できないはずです。
ここは考え方・捉え方がが違うのでこれ以上は言いませんが。
172日本@名無史さん:2001/03/25(日) 07:07
少し前の話題になりますが…。

>次男である房前が、嫡男である武智麻呂に先んじて参議となった事は
>元明・元正帝側が、藤原四子の結束に楔を打ち込む為とも考えられます。

その可能性は少ない、いえほとんどないと言っていいでしょう。
717年に房前が参議に任命された時の太政官の構成メンバーは
右大臣不比等・中納言粟田真人・中納言阿倍宿奈麻呂の3名。
多治比氏・大伴氏・巨勢氏などまだまだ入れるべき人材はありました。
ここで元明がわざわざ藤原氏を参議に入れるのはおかしいですね。
あの長屋王ですらこの時点で太政官入りしていないのです。
元明・元正なら房前より血縁の長屋王を先に入れるはずでしょう。
房前を参政させたのは不比等の意思によるものと考えて当然です。
また、兄弟間に楔を入れるも何も、当時24歳の宇合は遣唐副使として在唐ですし、
麻呂に至ってはまだ正六位下で昇殿すら許されない身分でした。
173日本@名無史さん:2001/03/25(日) 07:08
嫡男武智麻呂に先んじて、という点ではどうでしょうか。
これは奈良前期の有力氏族の太政官就任状況を調べることで分かります。

右大臣阿倍御主人703没→705宿奈麻呂中納言(参議を経ず、以下同じ)、720没→722広庭参議

左大臣多治比嶋701没→718池守中納言、730没→731県守参議、737.6没→737.9広成参議

大納言大伴安麻呂714没→718旅人中納言、731.7没→731.8道足参議

中納言巨勢麻呂717没→718祖父中納言、724没→739奈弖麻呂参議、753没→757堺麻呂参議

のように、期間の差はあれど常に本宗家代表者没→嫡男もしくは本宗家後継者着任となっています。

(ちなみに藤原本宗家は 不比等720没→721武智麻呂中納言、737.7没→737.12豊成参議)

例外として、橘諸兄・奈良麻呂、藤原仲麻呂とその息子達の2例がありますが、
前者は孝謙即位と同時に太政官を大量に増やした結果、
橘諸兄と仲麻呂の間に交換条件がもたれた疑いが濃厚です。
(仲麻呂大納言就任と橘奈良麻呂参議就任)
仲麻呂の子息達の参議就任についてはここで挙げるべき例ではないでしょう。

よって、前述した選叙令の件もあることですし、
房前が武智麻呂に先んじて参政したのはむしろ当然です。
そして、房前参議就任というのは元明の意思ではなく、
子・孫の世代での分家を企んだ不比等一流の戦略と言えるでしょう。
174日本@名無史さん:2001/03/27(火) 14:27
>>146
クランというのはどういう概念ですか?漢字があるならば教えてくださいませ。

配下からは后をとらず、客分からは后をとったというのはわかりやすいですね。
175横レスします:2001/03/27(火) 17:39
このスレってレベル高いね!驚いちゃったよ。
>>174
クランって人類学の用語で「氏族」、「血族」って意味じゃなかったっけ?
婚姻交換は構造主義(レヴィ・ストロース)の基本概念でなんだか懐かしいなあ。
176日本@名無史さん:2001/03/27(火) 21:15
>>146
う〜ん、どうなのかなあ。
連系氏族から后妃が出た例はあまりに多すぎて例外扱いは不可能だと思うが…
やはりたんじゅんに臣の方が連より格上(少なくとも后妃の出身氏族としては)だった
ということで済んじゃうんじゃない?
177日本@名無史さん:2001/03/29(木) 16:18
初期の頃は尾張氏とか外様ばっかしですよね。
178146:2001/03/29(木) 21:00
そういえば,尾張氏も連ですね.
エクソガミー(外婚規制)が,日本の上代においても存在したというのは
通説のように思っていましたが,そのこと自体についても結構批判もあるみたいですね.

というのは,皇女や皇孫系の娘を后にする例も早期からありますから,
この時点で外婚規制がルールとして成立していないわけですね.
あるいは臣系との婚姻が奨励されていたということぐらいはいえるかも
しれませんが,それをエクソガミーの結果と解釈するのはムリがあると
いうことでしょうか.
179女帝マニア:2001/04/01(日) 00:51
age
180日本@名無史さん:2001/04/01(日) 16:36
>>170
反論出来ません。
藤原四子は政治的一体性があり、兄弟間に対立は無かったと言う見解を受け入れ
ます。
181日本@名無史さん:2001/04/07(土) 16:03
>>178
そうすると、尾張氏などもOKなのに、
なぜ物部氏だけが外戚とならなかったのかがますます謎な気がします。
182日本@名無史さん:2001/04/14(土) 20:36
尾張氏と物部氏は同族という説がありますね。
それぞれが祀る神や先祖が一致(?)してる。
183日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:23
物部は妃を出したけど、天皇の外戚にならなかったのはたまたまだろ。
物部より格上の臣系出身の妃や皇族出身の妃がいっぱいいるんだからさ。
尾張氏が継体に妃を出したのはまだ継体天皇が候補になってない身分の低い時代のこと。
以上、どこにもなんの不思議もないこと。
ついでに尾張氏と物部氏は同族ではないしニギハヤヒとホアカリも別神。
同一説はとんでも説。何度も何度も、もういい加減にしろよ。
184日本@名無史さん:2001/04/27(金) 20:46
欠決8代へは尾張氏がけっこう妃をだしていませんでしたっけ??
185日本@名無史さん:2001/05/18(金) 03:17
てことは、尾張氏は将来の有力者として継体天皇に?
186日本@名無史さん:2001/05/21(月) 04:18
しかし失敗だね
異母兄は二人とも殺されちった
187名無しさん:2001/05/21(月) 13:13
神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐、朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条、三条、後一条、後朱雀、後冷泉、後三条、白河、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽、土御門、順徳、仲恭、後堀河、四条、後嵯峨、後深草、亀山、後宇多、伏見、後伏見、後二条、花園、後醍醐、後村上、長慶、後亀山、後小松、称光、後花園、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成、後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、今上
     
188日本@名無史さん:2001/05/27(日) 01:19
異母兄てのは安閑と宣化ですかね
189日本@名無史さん:2001/05/29(火) 21:29
宣化が死ななければどうなっていたんだろう‥
190風紀委員1:2001/05/29(火) 22:34
告知

荒らし防止のため、これからは以下の規制をこの板全体にかけたいと思います。
つきましては、ご異議のある方は取り急ぎ、「日本史版 風紀委員会」まで
ご意見をお聞かせください。

 <規制案>
proxy規制、ID表示、連続投稿禁止規制、連続スレッド立ち上げ禁止規制
<規制の趣旨>
アラシ行為の撲滅(スレ立てアラシ、スレ上げアラシなどの予防措置)
<異議の受付>
五月三十一日まで・風紀委員会へどうぞ
<規制の実施時期>
管理人に依頼し、できるかぎり早期の実施を予定。

日本史版 風紀委員会
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=990956059
191日本@名無史さん:2001/06/03(日) 06:50
安閑と宣化がつぎつぎになくなったのは、やはり、外戚の尾張氏の排除だとは思うが‥
192日本@名無史さん:2001/06/04(月) 20:51
欽明の母の実家の方が強かったってこと??
193日本@名無史さん:2001/06/07(木) 11:13
欽明の母の実家=前王朝では??
194日本@名無史さん:2001/06/09(土) 20:29
>安閑と宣化がつぎつぎになくなったのは、やはり、外戚の尾張氏の排除だとは思うが‥

たんに高齢だったからだろ。
本命の欽明天皇は年少でだったけど即位できなかったわけではない。
ただ先代の武烈天皇が10歳で即位して18歳で後嗣もなく崩御した記憶がまだ鮮明なので
年少の天皇は縁起が悪いように思われたのだろう。
195日本@名無史さん:2001/06/14(木) 00:05
それだと、なぜ本命が欽明だったのか、が説明できてないよ。
196日本@名無史さん:2001/06/24(日) 08:33
母系のほうが重視されていたような気がするんだけど。。
197あぼーん:あぼーん
あぼーん
198日本@名無史さん:2001/07/03(火) 17:58
>>194
武烈天皇が暴れたっていうのはまだ子供だったからなの?
199あぼーん:あぼーん
あぼーん
200194:2001/07/04(水) 01:09
>>198
日本書紀は、武烈天皇が暴君だったという記事と名君だったという記事が不自然に混合している。
暴君説は、原史料となった「帝紀」に後から加えられた部分。
仁徳統の断絶を儒教的な王朝交代の観念で潤色したもの、といわれている。
ただし個人的には「暴虐な少年天皇」の方が趣味だけど・・・
201日本@名無史さん:2001/07/04(水) 01:15
武烈天皇は、日本版ネロもしくはエラガバルス
202日本@名無史さん:2001/07/04(水) 01:47
「女帝統一スレ」をつくりました。女帝スレは9個もありますが、最近は
実態的には有効活用されていないようです。
実態のないスレのために他のスレがdat入りするのは虚しいものです。
日本史板全体の健全化のために、無駄あげはやめて、統一スレで語りましょう。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=993881620
203日本@名無史さん:2001/07/04(水) 06:36
武烈天皇なんて元正天皇となんの関係もないじゃないか。
やはり統一スレで十分だな。
204日本@名無史さん:2001/07/04(水) 18:48
どうも元明タンと元正タンをよく間違う

でも未亡人と未通女の母娘って萌えますなぁ

統一スレは無意味
逝ってヨシ
205日本@名無史さん:2001/07/04(水) 19:24
>>200
男大迹王による正当化ではないの?
それに少年天皇に権力があったと思えないし。
206日本@名無史さん:2001/07/05(木) 18:52
『美貌の女帝』/永井路子/文芸春秋
というのがありますね。

『長屋王残照記』/里中満智子/徳間書店
にも登場してますね。
207あぼーん:あぼーん
あぼーん
208日本@名無史さん:2001/07/07(土) 06:54
>>200
帝紀が原史料となっているのが本当かどうかはわからないのですが、
万世一系の概念は帝紀においては存在しないということでしょうか?
209日本@名無史さん:2001/07/07(土) 22:36
>>205
同時代人だから無理でしょう。

>>208
そうではなくて、継体天皇は応神天皇の末裔なので
いちよう万世一系にはなっているでしょう。
帝紀の文章は、武烈天皇の子孫が絶えた理由については
とくに感心がない書きぶりだったのでしょう。
しかしそれをみた日本書紀の編纂者は、儒教的な発想で
「名君の子孫が絶えて新しい系統に皇位が移るのはおかしい」
と考えて、武烈を暗君、継体を名君とする文章を書き足したのです。
その際、武烈を優秀な天皇であるように書いてあったもともとの
文章を削除しなかったので、ふたつの評価が不自然に混合している
のです。継体については、高貴な宮廷人よりはいくらか民情を知り
やすい立場にいたこと、数ある候補から選ばれたと思われること、
などから、それほど暗愚な人物だったとは思えませんが、外交など
は不得手だったようですね。
210日本@名無史さん:2001/07/09(月) 00:37
元正天皇の実権はどれくらいのものだったのでしょうか。

たとえば、養老律令を作らせたことで有名らしいのですが、
元正天皇が自ら動いたのか、お飾りだったのか気になります。
211日本@名無史さん:2001/07/11(水) 12:49
氷高内親王時代から史上最大の美女として人気抜群だったらしいよ。
指示に従う親衛隊とかもいたかも。
212日本@名無史さん:2001/07/16(月) 07:28
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      Λ⌒Λ、          ..'⌒⌒ヽ 、/I LOVE OSAKA〜〜!!〈   つ/彡/
      (ノ~\\          | ノノソハ))) 今日からライブ初日や〜  (   ヽ∨
      L`.∀´」          リリ ^‐ ^)リ明日はデビュー3周年やで!(__`__)~^\ \_,,,,,
    ,___/(   )ヽ         ( つ 目つ\                !!!|!|||||!!!!!|| (⌒ )!!!!!
   Σ≒∪=(====∩=:::コ    〈 〈 ┃\ ,,                     !!!!|||||||||!!!
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213日本@名無史さん:2001/07/31(火) 13:57
>>211
氷高内親王の御写真とか残っているのでしょうか?
214なぞとき
斉明が即位した655年が元正の即位した715年の干支シフトにあたることが
分かってしまった・・。どちらも足姫。