政宗の眼帯について

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1謙より尾上辰之助
政宗って本当は眼帯なんかしてなかったんですよね
教えてつかぁさい。
2名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 23:28
昔ね、伊達政宗役をタモリが演じてね、以降そうなったんだよ(わら
3名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 23:32
>2
タモリの眼帯、厨房は知らないだろう
4名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 02:07
刀の鍔(つば)を眼帯代わりにしていたという話があるが、あれは嘘?
5名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 04:54
タモリ片目義眼だろ?弱視だっけ?
6名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 07:08
ということでこのスレの結論は
タモソの前世=伊達政宗
ということでよろしいですか?
7名無しさん@1周年:2000/08/08(火) 07:27
いや、タモリン=伊達公子だって。
8厨房くんへ:2000/08/08(火) 18:56
伊達政宗が眼帯していたという記述はちゃんと残っています。(鬼庭家伝)
それによると実際は黒ではなく、白と赤(ピンクに近い)の縞模様だったそうです。
9名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 07:07
「鬼庭家伝」の成立時期はいつ頃ですか?
10笑う埴輪:2000/08/12(土) 20:32
>8
海賊だな〜(藁
118だ:2000/08/23(水) 21:03
>9
>10
たのむから2〜7のカキコの雰囲気から察してくれ
責任を感じたので上げとく
12名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 21:18
「鬼庭家伝」ではなく「片倉御留書」に載ってます。
13名無しさん@1周年:2000/08/24(木) 14:28
瑞巌寺に残る肖像画は両眼ありだぞ。(笑)
14>13:2000/08/24(木) 14:30
自らの遺言で「両目」にしたんじゃなかったけ?
コンプレックスだったんだろうな…
15名無しさん@1周年 :2000/08/25(金) 20:01
誰も1の質問に答えてあげてないじゃん
16名無しさん@1周年 :2000/09/24(日) 04:26
ぜんぜんだめじゃん
17名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 17:51
徳川家康の前で4ケ国マージャンとかやったらしいよ。
18名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 20:54
眼帯の話からずれちゃうけど・・・
鬼庭左月は常時四名の配下を従え、計五名で働く事が多かったようです。
ただ左月のやり方(部下のまとめ方)はあまりにも粗暴かつ傲慢であり、
配下の一名は嫌気がさし、脱落し、他の者と交替したそうてす。
四名の配下のうち一名は最終的には諸侯に列しています。
(何藩なのか僕には分からないのですが・・・)
19名無しさん@1周年 :2000/09/25(月) 23:16
いかりや左月ちゃんは短気だからたった72歳で若くして死に至ったのね。
20名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 06:31
ソースきぼーむ>18
21名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 08:28
眼帯の話は12でいいの?
22名無しさん@1周年 :2000/09/26(火) 19:45
>18
横からちょっと補足させてもらう
脱落した理由は俸禄の問題らしい。つまり左月が公平に分配しなかったというのが真相。
それと諸侯になった者の出自は武州西部の狭山近郊と伝えられている。城持ちなので、
決して1〜2万石やそこらの石高ではなかったはずだ。
追加で、あまり有名ではないが、左月があみ出したのか、誰かから伝授されたか知らんが、
必殺剣があったようだ。
突く、押す、払う、斬る、この4項目をそれぞれ2回繰返し、一連の流れで相手を倒すというもの。
「突いて、突いて、押して、押して、払って、払って、最後に斬る」
稽古には真剣や木刀は用いず、竹刀を使ったようだ。
23日本@名無史さん :2000/10/04(水) 21:49
>17
政宗の時代の日本に麻雀は伝わってないと思うけど・・・本当ならすみません。

>18、22
ソース知ってますよ。「成実遁世録」でしょ。
「鬼庭家伝」「片倉御留書」両方とも原書間違え。
大阪の陣(夏?)の戦勝祝の余興の席で、他の武将は飲み比べしたり詩を吟じていたが、
家康が退屈しているのを政宗は気付き、面白いものを披露しようと言って、普段は眼帯など
していないのに、紅白の眼帯を付けて突然四つん這いになり、首をきょろきょろさせながら
畳の上を這い回ったところ、いやさすがは伊達者なりと一同絶賛した。
これって結構有名な話ですよね。
みなさんどうしてsageでカキコなんですか?
24日本@名無史さん :2000/10/05(木) 06:59
うそつけ!
25日本@名無史さん :2000/10/05(木) 07:13
秀忠、家光と諸大名の観能を催しの席
伊達政宗は隣で寝ぼけている佐竹義宣のひざを押した。
「ほれほれ、あいつ見てみぃ?」
義宣が政宗の指差す方向を見てみると、
なんと義宣の養子、義継がぐっすり寝込んでいるではないか。
「あいつさぁ、こんな将軍も大御所もいる席で眠ってやんの。
めっちゃ、ドキュンじゃん。どこの馬鹿?」
政宗の冷笑に恥ずかしくなった義宣は
自分も半分眠っていたくせにそれを棚に上げて
義継を廃嫡したのであった。
めでたしめでたし。
26日本@名無史さん :2000/10/05(木) 08:18
政宗はカッコイイということになってるから、このスレはあげちゃ駄目なの
ここに書いてある事ぐらい全部知ってるわい
27日本@名無史さん :2000/10/05(木) 12:35
政宗の余興というのは、平永衝の領地といわれる伊具に伝わる「伊具阿南」の
基本の動作じゃないの?
まあ西国ドキュン大名にはそんなのこと理解できなかったろうね
287=9 :2000/10/05(木) 19:59
なんだか微妙におもしろいな、このスレ。
騙されてマジレスしてる人もいるし。
29日本@名無史さん :2000/10/05(木) 21:18
百万石のお墨付きをもらいながら、果たせなかったのはきっと心残りだったろう。
六十余万石ながら、実質百万石への希望があったのかどうか分からんが、収穫高を
上げようとしたみたいだ。年貢率引上も当然ながら、治水工事も熱心にやった。
また農民の心配りも忘れていない。伊達領では田圃の脇に、田圃の守り神を祭った
小さい祠がある風景をよく見かける。そういうものを勧請する場合には、現在でいう
補助金みたいなものが藩から出ていたようだ。そういう田守様を農民は崇めていた。
30日本@名無史さん :2000/10/06(金) 21:33
あのさー、政宗は眼帯してたのかどうかのスレなんだよ!!!
はやく誰か教えてよ
なんで鬼庭左月とか政宗の余興とか話になるんだよ!
31日本@名無史さん :2000/10/06(金) 21:52
>>22
>「突いて、突いて、押して、押して、払って、払って、最後に斬る」
私はこのドリフの剣道コントが、結構好きでした。
鬼庭左月が元ネタでしたか…
これって結構有名なんですか?
32日本@名無史さん :2000/10/06(金) 22:12
伊達藩が支倉常長を海外に派遣したのは有名だか、伊達藩というのはそういう
進取の気性に溢れた活気ある藩で、藩士にもその分野のものを習得するのを奨励した。
特に片倉小十郎は非常に優秀な人物だった。イスパニアの情熱的民族音楽を小十郎は
短期間で身に付け、人前で披露する程の腕前になった。
ただ、習得したのは一曲だけであったそうだ(原因は不明)
33日本@名無史さん :2000/10/06(金) 22:35
>22
「最後に斬る」の前に「ああ」を入れて欲しかった(爆)

>29
最後まで考えてしまった

その他はまあまあ簡単だった(まだわからん人いるのかな)
34名無しさん@1周年 :2000/10/11(水) 03:02
>>32
元ネタがわからねえ〜
35日本@名無史さん :2000/10/11(水) 22:01
政宗は眼帯なんか付けてなかったつーことでいいんですね
ついでに大久保彦左衛門も眼鏡なんかかけてなかったつーことでいいんですね
36日本@名無史さん :2000/10/12(木) 06:47
伊達政宗と佐竹義宣が将軍秀忠の茶会によばれたことがある。
雑談になった折、政宗は過去の自分の戦績について語り出した。
「いやー、人取橋ではかぁなりやばかったね。でもさ、
敵の大将がヘタレで途中で帰っちゃったんだよね。
何でも国元を狙っている奴がいるという噂だったらしいんだけど」
敵の大将とは義宣の父、佐竹義重のことである。
義重の嫁、つまり義宣の母は政宗の叔母で、常陸が危ないという
噂を流した張本人であった。義宣はこのことをすっかり信じ、
父義重に常陸に帰ってくるよう手紙を書いたのであった。
政宗「やっぱさぁ戦争すんのに女子供の言うこと聞いてる馬鹿が
悪いんだよね。あー、あんときはマジでやばかったなぁ。
もう一日戦ってたら俺死んでたね。ププ(ワラ」
義宣「そ、そうっすよね。まともな大将は女の言葉なんか
聞かないっすよね。はははははは。(…こいつぜったい殺す!)」
幕末へ続く。
37日本@名無史さん :2000/10/15(日) 04:28
らぶりー眼帯
38田守 :2000/10/15(日) 20:25
このスレッド大好きage。
楽しく、かつ史料をあげながら語ろうage。
39日本@名無史さん
眼帯対決なら柳生十兵衛が最強であろう
千葉先生に期待しよう(もうやらんだろうが)