享和元年(1801)の御触書
領主によって苗字帯刀を許された庶民は
(1)郷士のように由緒あって以前から許されていたもの
(2)奇特な行為によって褒賞として新たに許されたもの
(3)町年寄・庄屋・名主・御用商人・本陣などの役柄によるもの
11 : 日本@名無史さん[] 投稿日:03/07/28 23:58
あるホームページからの引用ですが。
>>郷士と名主は、飽くまで豪農の形態の延長と思われがちだが、名主は飽くまで地侍衆の帰農した姿で、
郷士は、武将の家臣団が浪人し土着したものである。地侍とは、戦国の文献史料でも、正規の武士とは異なる表記となっている。
これは、土地を所有する階層で、どちらかと言えば地生えの豪農である。戦国期、農地の生産性が成長した為に現われた新興勢力である。
郷士の先祖となるのは、元々の守護領国制から来た武士の次男、三男であり、領地を所有する階層であった。彼らは、主家没落後に浪人となる。
尤も、時代劇のような長屋住まいの都市型の浪人でなく、領内に持っていた直営田に潜伏した、不労所得者。それが、郷士の始まりの姿なのである
5 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 15:33:50.28
>>4 素晴らしい解説だ!!!
GJ!!!!!!
その通りだ!!
我らこそ真の名門だ!!!!
郷士って言葉は、一般には土佐藩の身分制以外で聞くことはないよね。
土佐藩の場合、旧主大名長宗我部家の時に家臣だった武士たちを藩士として受け入れず帰農させたから、
自発的に帰農したわけではないとは言え、実質的には名主と同様だよね。
それ以外の郷士って、聞き覚えがないんだけど……
そもそも、庄屋・名主の起源も、多くは地侍じゃなく領主武士だろ。
田堵制の名主(名主)と江戸時代の名主(なぬし)を混同してるんじゃないかって気がするほどの微妙さ。
薩摩郷士を忘れてもらっては困る、後藤堂家の無足人等言葉が違う。
でも大多数は関西以西だね。関東だと新田遺臣や最近議論の多い八王子千人同心
8 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 08:09:13.12
>>7 もっと分かりやすく言ってくれないか?
関西以西はどいうう傾向だと言っているの?
要するに関西以西に郷士が多くて関東は少ないね。という話
関東は幕領が多かったから郷士身分は認めず百姓に落とした
新撰組の屯所になった 八木家も郷士だね 確か
八木家は浪人扱いの郷士だね。一応京都は天領なので珍しいパターンなのかな?
郷士といえば 十津川郷士 才谷梅太郎
13 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 21:10:15.52
でも、郷士っていわれるとなんかなあ〜
やはり、庄屋とかそういわれる方がしっくりくるんだよなあ・・・
あと、南北朝の動乱の時に住み着いた武者の子孫で安土桃山まで半士半農、
江戸になって庄屋になったとかいう家も、郷士という区分で問題ない?
14 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 22:22:49.41
>>13 だから、東日本では庄屋区分、西日本では郷士区分になってるのが多いということ
大庄屋や庄屋とかだと 名字帯刀認められた家・人もそれなりにいるだろうけど
郷士かっつうと違うし
郷士っていう士分の制度があるとこじゃないと
16 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 23:24:49.29
そうだね。郷士制度が扱われてるのが西日本が圧倒的ということ
前も書いたけどうちの中国地方の市の場合は庄屋は有力百姓のローテーションの役職で
「ははぁっ庄屋様〜」ってのはないな
中世領主くずれの超豪農はいたにはいたけど相談役みたいな位置づけ
18 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 23:49:39.06
ウーム
だから西日本は郷士制度が存在したため、庄屋制度が逆に形骸化したのか
19 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 23:50:38.10
訂正
庄屋の権威的位置づけが形骸化したのか
20 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 23:54:00.75
19
庄屋は村の取り締まり役みたいなもんですよ
年貢とかあつめて幕府なり領主なりに取り次ぐ役割り
21 :
日本@名無史さん:2014/10/13(月) 23:56:04.54
この庄屋ってのは江戸時代に名字を持つことができたの
俺んとこは江戸時代に名字持ってた
>>21 俺は
>>17だけど古文書(1800年代)を見ると庄屋の苗字は書かれてなかった
中部地方だが身分的に庄屋(百姓)の家でも郷士っていうことはあるけどね。
おそらく先祖が武士であった家とそうでない家を分けてるのかもしれないけども
>>18-19 庄屋って身分が出現したのが戦国時代中葉、一般化したのが江戸時代初頭だろ。
西日本の村は面積範囲は狭く人口も多くないので、そこに村方三役まで入ると庄屋の孤高さが色あせるんじゃね?
石高にして百石二百石、人口百人以下の村が非常に多いからな。
東日本だと、こういうのは集落とか部落とか、村の中の一部って扱いだから、規模が大きい。
>>21 普通、たいていの庄屋は苗字帯刀のはず
25 :
日本@名無史さん:2014/10/14(火) 10:39:55.25
>>13だけど近畿であることを言い忘れてました。
うちは代官庄屋やってたから、ほかの庄屋さんとはまた違う扱いだったらしい。
祖母に聞いたところ「近所の庄屋さんとはまた違うんやで〜」と言われていた。
大昔のご先祖様の嫁ぎ先見ても、大庄屋か割と有名な酒造・醤油造屋が多い。
庄屋も大庄屋も格色情の違いはない。代官は一時的に士分になるかも
27 :
日本@名無史さん:2014/10/14(火) 22:31:32.07
一応、いくつかの村の庄屋をまとめてるのが大庄屋だから
格式は違うんじゃない?
あと、庄屋で本陣を務めてる家と大庄屋とだったら、どちらが格でいえば上になるのだろう?
そういう例は存在しないのかな?
>>27長崎奉行所支配地域(?だったと思うけど)の研究で庄屋と大庄屋は格式に違いは
ないとの研究があった。財力に違いはあるかもしれないけどね
>>27 島崎藤村の家が本陣・庄屋・問屋を兼ねる旧家だね
夜明け前って小説に詳しいけど
藤村の家とかは、直に代官の支配みたいな感じだけど
格式というか序列なら、大庄屋が上でしょうな
島崎藤村と言えば破戒
ボロボロ泣けてくるぜ
西田幾多郎の家も十村(大庄屋)
名字帯刀が認められてるってのと名字を持ってるってのは別なんだよね
多くの家が名字を持ってたんだけど、それが公式に認められてるのかどうかが大きいんだよね
庄屋でも、名字を公式に名乗れるのは そんなに多くないと思うよ
庄屋と足軽の苗字帯刀は異論反論が多くてよくわかんないとこが多いらしいが
普段は兎も角、殿様出向かえとか公式の場では帯刀してることが多いらしいとの話
もある。当時の浮世絵とかでも、本陣内で庄屋や本陣主が帯刀してるが、研究者
曰く、中が見れるわけがないので想像で描いてるとかetc
>>33 その浮世絵を描いてヒットさせた最初の浮世絵師が実際に自分で本陣内にいた、庄屋や本陣主が帯刀してる現場を見た可能性があるし、
見てなくても、当時の人々にとって周知の常識だった可能性もある。
想像で描いてるとは限らんのだがな。
苗字帯刀の書状が残っていれば分かりやすいけど、でもこれって庄屋を長く勤めた
褒美でとか献金の褒美とかだからな、庄屋としての役ではどうなんだろうか
いやぁ、大名側が泊まるって言ってきたから家臣団の料理をつくるために
食糧発注したりしてたのに、大名側が急に川の増水で臨時に他のところ泊まったから
そっち行けなくなったわとかでキャンセルされたりする庄屋けっこういたと思うけどな
そうなったら庄屋は大損だから、大名に談判に行くが当然、大名もない袖はふれず
お役目ご苦労、苗字帯刀を許すでうやむやにされてたわけで
正直、永代苗字帯刀なんてのも、江戸末期にはありがた迷惑です。
37 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 15:44:40.47
うちの家江戸時代に庄屋してたらしいんだが
藩の顧問人ってのもしてたって本に書いてある
これってどれぐらいの地位なんでしょうか?
そういうのは藩、大名家によって違うからねえ。
どこの大名家か分からんと判断できないんじゃないか。ぜひ書いてくれ。どこの大名家の顧問人?
39 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 18:29:08.29
>>38 藩は流石に書けないけど
今調べたら松平家で20万石ぐらいのとこ
40 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 19:51:38.83
>>17 うちもそうだな。
明治から終戦までの村長もそんな感じ。
じいさんが村長だったけど、給料はタバコ代程度だったらしい。
今でも地区の役員とかそんな感じ。
本家分家の格差もあまりない。というか下克上。
戦国期から苗字があって墓にも書いてあるけど、江戸時代は公式には
名乗ってはいけなかったんだろね。
41 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 20:41:56.82
>>40 そらそうだろ。大政官府告にも明治期の村長は名誉職とかかれている。
へたすりゃ村長は私財も投げ売らなきゃならないほどのレベル。
だから政府は初期、財力ある庄屋を指名した。
その代わり戦前まではそのような家は地域での存在感は保証されてたから名誉職なわけで。
42 :
>>17:2014/10/20(月) 22:58:35.51
>>40 ローテーションの庄屋は公文書に苗字は書けず、一般百姓と同じ墨印を使ってた
明治時代の戸長はローテーションでたまたま江戸時代最末期だったときの庄屋が任命されてた
江戸時代には、村の治安を守るのは村の仕事で部外者が入らなかったのが、明治期にその権限を取り上げて、
外部から巡査という名称の職業の人間を送り込んだし、
村人から徴税して攘夷の領主に年貢を納める税務署(の出張所?)の仕事も江戸時代には村長だったが、明治には国が直接はいるようになった
そんな風にして村長の権限が大幅に削られたから、名誉職に変化したわけだよな。
>>39 松平と言っても様々だからなあ。
いや 戦前でも 戸長、村長等 報酬はそこそこあったでしょ
村の財政とか厳しいとこも多かっただろうから、村によって違うのかもしれんけど
まあ 収入以上の出費するような村長もいただろけど でも 基本地主階級だから
庄屋は明治には郵便局長でしょ
46 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 13:45:24.09
村長
議員
郵便局
製糸業などの企業家
先生
小説家
などが主
医者ってのも多いな。
48 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 14:38:07.09
お酒とかお醤油作ってる家も多いな。
母の実家は銀行やってた。
49 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 16:46:32.68
>>44 先祖の一人が明治に20代で村長だった。
貧しい村だったのか報酬はあまりなかったと聞いている。
まあ、地主だったけどな。
嫁は遠くの村の醤油屋(作ってるやつ)から貰ったらしい。
50 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:12:56.99
そういえば、うちは被差別部落とかじゃないけど、村長って言わずに部落長って言うてた。
部落は、日本の農村における集落をいい、基本的単位としての地域的生活共同体を指す言葉である。
もともとは「村」と呼ばれていたが、市町村制によっていくつかの集落を人為的に統合してつくられた行政組繊体の「村」と区別 して「部落」という言葉でよばれた。
生産と生活をともにする共同体的結合を基礎とした地縁団体であり、水利を共同で管理し、共有財産を所有し、精神的統合のシンボルである氏神神社をもっていた。
部落は、農村の社会的統一体としての基本的単位である。部落は、いくつかの組によって構成されている。
組は、日常的に対面的接触ができる規模であり、10戸から30戸ぐらいを単位とするが、生産と生活の共同の場としては自立しえない。
さすがに村長のこと部落長ってよんでないと思うよ
だいたい 村長って市町村制が出来た後の公的役職名だから、中世辺りのむらおさ時代は知らんが
今で言う 自治会長のことを部落長っていってたんじゃね 普通に
今でもネットで地方史の紹介でOO部落と普通に書いてあるじゃん。
田舎で今で言う区ってやつだね。OO町OO区。
54 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 21:28:48.39
>>50 補足しとくと、息子さんは村長をやってて、おじいさんは部落長っていってた。
部落長のほうが偉いのかしらん・・・。
庄屋といえば門だが関東は豪壮な長屋門と黒板塀が多いけど関西はどう?
土塀てイメージが関西にはあるけども
>>55 広島県の我が市では
近年改修されたものは漆喰が施されているけど江戸明治の塀は土壁むき出しのものばかり
>>55 そういう立派な物(でなくとも、それなり以上の規模の者も含め。)は、秀吉時代や家康時代に城割りの対象となって破却されたから。
濠と塀の半分を壊して、建物の周り半周を裸にしたらOkとのことで、塀が半分しかない建物が多い。
純粋な土塀って関東、中部ではあんまり見ないね。板塀の上に漆喰塗って土塀風のは
あるけど。金沢だと木組みの中に石を詰め込んでるらしいが土塀といえるのかどうか
59 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:40:06.03
長屋門は関西でも普通にあるよ。
土塀なんてあるのはかなり(建築年数が)古い家でないとないと思う。
関西でも主要な街道沿いならば結構ちゃんとした家が多いけど、本当にド田舎であれば
塀というか垣根しかないような家も多いね。
格式の高さが門の大きさで分かるとか云われるが、貧坊ちゃまみたいなことはない?
藩の規制があるとこ多いだろうしね 門とか
62 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 02:01:03.93
泉大津の北助松に紀州のお殿様が毎回御泊まりになったという本陣がありますが、
そこの一番格の高い門は長屋門でした。
あんまり、藥医門は見ませんねえ。
和泉国あたりのある程度の家に長屋門自体は、割かし許されていたようですが、両潜戸は庄屋さんが豪農のみかと思われます。
大概、片方のみとなっています。
高槻やら河内長野などではまた違ってくるようですね。
同じ長屋門でも土壁、漆喰、etc細かく規制されていたそうだ
専門家が見ると庄屋門と武家門の形式の違いは分かるけど、特別な由緒で
武家門を許されたり在地代官勤めてる時に武家門作ったりとかあるから
形式はあくまで形式なんだよね。逆は無いだろうけど
出格子付が武家門とみていい
66 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 21:41:51.79
うちはど田舎だから長屋門はないなあ。あっても板塀だ。
聞いてる話では、総二階のごっつい瓦屋根だったことか。
他の家は茅葺きだから、差はあるけど、まあしれてるね。
関西某所には現存する長屋門は維新以降に作ったのも多いみたい。
どれも新しいし、土地成金が最近作ったような感じだね。
萱葺き>>>>>>>藁葺き・・・金の差
明治初期に保長って役職があったみたいなんだけど
これって全国的なもんなのかな
69 :
日本@名無史さん:2014/10/26(日) 21:03:28.41
保長?
保長って、平安時代の役職じゃなかったっけ?
明治政府は律令制を真似てるから、その時にちょっと復活したのかな?
>>69 明治時代の初期のほんの一時期だけみられるんだよね
ネット上で調べる限りでは、戸長のような扱いもあれば、戸長・副戸長と併置されてたり
まあ 推測すると 助役と収入役を兼ねたような感じだと思うんだけどね
大区小区制という奇妙な制度も実施されてるし、明治初期のムラ関連政策はカオスだよな
72 :
日本@名無史さん:2014/10/27(月) 19:42:50.17
そういえば、やはり庄屋さんともなると血統とかわかってるものなんでしょうかね。
同じ庄屋さんでも33代であったり、12代であったり色々いますよね。
うちは、中興16代と称しています。
江戸の初期の人を中興の初代としており、一応それ以前の室町から今の地に住み着いているのですが・・・
73 :
日本@名無史さん:2014/10/27(月) 19:53:52.89
>>72 うちと同じだな
うちは室町から廻船問屋初めて江戸時代が最盛期
そんで地主業も兼業してて
明治以降は地主
農地改革で没落
74 :
日本@名無史さん:2014/10/27(月) 20:32:16.49
75 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 01:15:13.56
>>74 もう金持ちではない
生活する分には困らないぐらい
うちも没落したが父の血統欲しさに、お見合い結婚したから母方が金持ちな分
一般家庭よりも金銭的には有利だが家庭内崩壊。
77 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 17:46:30.26
生活する分には困らないなら裕福だろ
78 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 17:52:41.23
私の知ってる元庄屋は没落どころか、戦後、そして高度経済成長、バブル、
このうなぎ登りに反比例して農地解放以降没落し、いまでは小作の家どころじゃないよ
市営アパートの悪臭だらけのとこに住んでるんだが?
元は御大尽様と呼ばれた土豪の家柄の庄屋だったのになあ
祖父の家は庄屋だったけど一族で旧制中学すら出た人がいない
80 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 18:11:22.98
田舎の庄屋は昔から超裕福だから、街場の庄屋と違い覚歴は付けさせない。
何故なら農家の跡を継がず都会に行ってしまうから下手に学歴はつけさせないというのが通例
そりゃないだろ。うちの曽祖父は田舎から東京府尋常中学校にいったぞ。
82 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 21:20:28.55
地域によるだろ。
83 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 22:09:06.58
うちの家庄屋だが長男以外は大学行ったぞ
いや そりゃ いろいろあるだろ
一概に言えるようなもんでもないし
>>80ていうか基本的な勘違いで、庄屋は農家なんてやらないだろ。
やらせる方でやる方ではないよ
小作さんいらっしゃ〜い
中部地方だが庄屋は確かに長男は都会に出て次男以下が継いでるケースは多いけど
正確に言えば家督相続は長男で大多数の田畑を所有していた、次男が家を貰った。
ただ、農地改革や不在地主何やらめちゃめちゃ。
あ庄屋様〜
まあ 庄屋といっても 大地主じゃないとこも多かったし
家格はいいんだけど、そんなに大地主じゃないってとこ
それに、幕末から明治にかけて、没落した旧家が多いんだよね
そのかわり成金みたいな家がでてくる、太宰治の家みたいに
90 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 23:34:19.39
明治維新よりも、一番大きかったのが戦後の農地解放やろうね。
今の世の中で、田んぼ持ってて、人に耕させてその小作料で生きていくことって可能なのかな・・・
91 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 23:56:51.86
小作に払えるだけの収益あげるには、奴隷レベルにしないとな
もしくは果物農家に転職
だがうちの地方は果物農家は貧農しゅっしんだけで成金ばかり
列記とした名主さんたちは果物は絶対作らず。だから現代の貧農に
92 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 00:05:38.90
小作から地主に成り上がったアシックス創業者の鬼塚喜八郎の祖父は立派
農地解放で没落した家より
明治に没落した家のほうが多いと思うよ、庄屋や名主、組頭クラスだと、結構栄えてた商人とかも
農地解放のときには、もうある程度集約された家ばっかだから
94 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 16:27:30.00
というか昭和恐慌で潰れた家が多いこと多いこと
昭和恐慌以前でも徐々に地主の統廃合がすすんで大地主の所有地が増えていってるんだけど、
昭和恐慌で一気に中小地主の破綻が進んでるんだよね?
転機は松方デフレと寄生地主制
おまえらもいつかは師匠に
>>80 何か勘違いしてるんじゃないか?
庄屋とか地主は「農家」とは違うよ。
田地は所有しているが、自分で田畑を耕してるわけじゃない。
うちはど田舎だけど、庄屋クラスの家は戦前は旧制中学に行ってるよ。
というか、庄屋クラスじゃないと行けなかった。
爺さんの同級生はいいとこのボンボンが多い。
その中でものすごく出来がいいのがもっと上の学校へ行かせてもらってる。
戦後は庄屋さんも自分で農業をやったりリーマンになったりしてるけどね。
>>55 奈良の新興住人だが、近隣の旧村の家を見ると関東のようなのは見かけないね。
長屋門は結構あるけど、小振りで新しい感じだ。
近年土地を売った土地成金が見栄で作った感じ。
100 :
日本@名無史さん:2014/11/06(木) 22:27:35.21
いくら古い家でも、関東みたいな大振りなのは、畿内ではあんまり見かけないね。
特に、2階建ての長屋門なんて生まれてこの方見たことがない。
>>99-100 関東の庄屋は経営規模の大きいのが主流で、郡単位みたいな大規模なのも珍しくないだろ?
100石200石の小規模なムラを束ねる程度の小規模な庄屋なんてほとんどいないんじゃないか?
関西じゃムラを細分化して庄屋が乱立・分立するのが多く、一人の庄屋の管轄範囲なんてせいぜいその程度だ。
こんな小さなムラで、複数の庄屋が交代するとこすらある。
関東平野は広大だからな。
103 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 08:32:26.17
庄屋の没落は明らかに農地解放でしょ?
維新は零細地主が統廃合された程度で、ある意味庄屋の力や政治力は安定化か、逆に集約されたり拡大がみられる。
農地解放は進駐軍の強制でもあるから、アメリカ白人は地主と黒人奴隷という構図で地域社会 が成り立ってたから、徹底さして地主解体を行ってる。
庄屋名主は完全にターゲットで、名主層が没落どころか、数年後小作人以下にまで成り下がってしまった名主層も多勢うでている。
また先祖伝来の土地ということで意識的束縛から農業に縛り付け続けた。
逆に小作層は与えられた土地なんて愛着やこだわりなく、果物農家やアパート)借貸、駐車場、売却など運用に走り、またその金で土地を買ってまた運用したため、田舎ではバブルを通して完全に財力は逆転してる傾向が多いねうちの地域。
地域の名門庄屋は農地解放で零細になり、しかも土地を売買という概念がなく、先祖伝来の土地を守るという意識が強いたやめ運用もできず、零細でありながら農業にこだわった。
バブル期に商売にてをだし失敗、結果現在では一族もろとも屋敷の土地まで手放し、現在は公営団地住まい。
反面その庄屋の小作人たちは地元で逆に土地運用から次々と高度経済成長期に商売して今じゃ小作人たちが地元の大地主となってる。
なにかの呪いとまで感じる
104 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 08:34:59.96
ちなみに103でかいた名門庄屋は、30代近く続く旧土豪の名門庄屋だった
地主の規模と人数の統計から考えたら、庄屋の過半数、ひょっとしたら7割ぐらいは農地解放より前に零落してるはず
106 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 21:40:31.73
兵庫のちょっと郊外に出たあたりの場所だが、いまだに村の祭りとかの関係で
うちはかろうじてちゃんと庄屋としての地位は残せてる。
村長になれる家とか祭りの委員長とかはうちが世襲みたいな感じ。
農地は、ショッピングモールやら駐車場になってしまって、残ってるのは大きな家と蔵だけだけどね。
農地解放の時は、もともと酒造もやってたから家を手放さずに済んだんだとさ。
たぶん 学術的な研究はされてんだろうけど
庄屋とかの地方の旧家とかは、農地解放以前に没落してるとこが多いんじゃない
地方都市の豪商っていわれてるとこも、明治あたりで結構没落してるとこ多いし
地域差とかも結構ありそうだけど
松方デフレで没落した旧家は多い
そうそう
高祖父が足軽のうちも没落してさぁ本当参っちゃうよなぁ
松方デフレ松方デフレ言ってるヤツ多い(人数じゃなく発言回数かも)けど、
統計から見ると、むしろ一定ペースで漸減を続けてる感じ。
まあ、データ取得時期の間にそれぞれ不況がはさまってるから、短期間でみれば減少期と安定期はあったんだろうけど、
松方デフレより以前の時点でもかなり減ってるぞ
>>110 松方デフレより前だと明治維新以前になるな
むしろ、そこから庄屋の倒産・廃業が増え続けた感じか?
いちばん影響があったのは昭和恐慌だろ
大阪の銭屋って豪商も
明治後期に破産してるしね
龍馬の才谷屋も 明治なかばに没落してるし
藩札とか発行してた、地方の豪商って
明治辺りに没落したんだろうか
藩札って借用証書みたいなもんだから、明治維新の時に返済されてないか?
満額返済じゃないにしても、それなりには返済されてるだろ?
まあ、江戸時代の商人の相当数、相当割合が明治維新の頃に没落したのはたしかだが。
維新時殿様は借金踏み倒して東京へ逃走。
118 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 23:46:12.47
その通りですよ!!
いまだに幕府への借用書をうちは持ってます・・・・
あれさえなければ・・・・・
札差あたりも 全滅だよね
政府から石高の十分の一が支給され、もはや領内統治する必要が無いから
商人に頼る必要ないしな、特に踏み倒しても問題は無い。
121 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 08:40:56.84
結局、江戸系は大名からして成り上がりの雑多チンピラが出自だから、こんなんなんだろうな。
122 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 13:19:45.60
>>121 ほんとな
大名言うても戦国時代のポッとでが多いし
むしろ旗本とかの方が名門多い
高々260年調子よかっただけ
庄屋の没落は地域によるんだろうな。
関東や東北あたりは、大地主ー小作っていう関係が長く続いたようだね。
関西圏じゃ、江戸時代から商品経済が進んでいて、地主がいろんな事業に
手を出してる。地主以外も同じく。
だから、事業に失敗して没落したり、逆に成功して大きくなったり、
数代でまた没落したりと、浮き沈みが激しい感じ。
だから「昔はすごかった」家がいっぱいあるw
町史によれば、小作地って意外と少なくて驚き。
江戸中期で一割とか二割程度なんだよな。
それでも庄屋や村役、後の村長、昭和の地区の役員のようなのは特定の家なんだ。
関西は名門「商家」てイメージがあるね。関東だと豪農というイメージ東北も。
125 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 22:40:20.97
大阪の船場(御堂筋の辺りとでもいえばわかりやすいですかね)だと名門の商家がおおいですね。
天神祭で神事に参加できるのはあのあたりの古い商家だけです。
堺と富田林の寺内町も何軒か残ってますよ。
堺は、商家というか鉄砲鍛冶の家が、唯一残ってました。
ちょっと前まで、鉄砲ではなくて和釘を作ってたと記憶しています。
とはいえ関西でも、農村地帯へ行けば、かつて豪農であった家はありますよ。
まあ大阪だと、信州あたりのああいう感じの豪農は、開発がどこも進んでもう残ってませんが・・・。
126 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 22:46:55.16
あ、京都を忘れていました。
京都はまさに古い商家が多いです。
有名な話ですが「前の戦(いくさ)で家財が〜」といえば、本当に応仁の乱のことを指すくらいです。
とはいえ、京都でも京都市街をでると、農地がほとんどです。
特に京都は割と大きな庄屋さんが残ってますよ。
前の戦って蛤御門の変じゃないの?
128 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 22:25:22.75
京都がめちゃくちゃになったのは、応仁の乱が最後。
それ以降、明治維新の際は、御所の周りで銃撃戦があったくらいで、
市民に対する被害は微々たるものです。
京都の名家というと公家の家臣遣ってたりして苗字帯刀とか云う感じかね
130 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:41:04.94
苗字帯刀云々は名門といわれる言えば大体許されているのであれですが、
京都の名門の家といっても、農家は街中には存在しないので、大体西陣問屋であったり御菓子屋であったりが多いですね。
>>129 準貴族みたいな六位だか七位だかを貰ってたんだっけ?
江戸時代って、百姓=農家がコメを作ってたというのとは違うね。
戦前や高度成長以前もそうだけどさ。
燃料の供給、衣類の供給、様々な素材の供給、全部百姓だもんな。
大阪の綿作りや綿織物あたりが有名らしいけど、単に商人というんじゃなくて、
商品として高く売れるものを作るというか。
酒や西陣織もそうだけど、当時の先端技術でベンチャーを立ち上げたのが
関西に多かったんだろうな。
京都は天領の割りに特例が多いよね。壬生郷士とか・・・帯刀も緩めみたいだし
十津川郷士
庄屋の皆さんオラにもお年玉よろしくお願いします
136 :
日本@名無史さん:2014/11/18(火) 17:48:05.42
最近は家の老朽化で維持できなくなり家は建て替え、蔵は売れるので売却で
門だけはなんとか残すってのが多いみたい。
137 :
日本@名無史さん:2014/11/18(火) 18:04:05.11
132
工商は百姓に入らないぞ
それぞれの呼び方も知らないのか?
>>137 江戸時代には「士農工商」という呼び名はありませんよ。
明治になってからです。
仮にあったとしても、綿づくり農家(繰綿製造を兼ねる)が工商になるなんて
初めて聞く説ですなあ。
139 :
日本@名無史さん:2014/11/18(火) 21:20:19.08
ちゃんと、結婚するにも相手の家を調べたり、
伝統的な行事を欠かさなかったり、家に対しての誇りと格を失っていない家であれば、
そんな家を簡単につぶしたりはしない。
家屋敷自体が家の格を表すものだからな。
>>137 単に工業を生業にしてるだけ、商業を生業にしてるだけの人は百姓だぞ
商業とか工業で統治活動になんらかの関わりを持つ人(お抱えの職人とか御用商人の、もっと広義な感じ?)のみが、
身分制度上の商人・工人に該当するんだからな。
よく知られてる例では、輪島塗の職人が水呑百姓に位置づけられてるとかだな。
士農工商って言葉が明治維新後に使われるようになった、江戸時代のことを非難する目的の言葉なのも138の言うとおりだし。
浪人も手の込んだ内職をしてたしな
142 :
日本@名無史さん:2014/11/21(金) 15:38:15.17
松浦兵衛尉直義 旧因島領主
元和五年(1,619年)福島正則に代って、芸備両国の 大守となった浅野但馬守長晟が、 紀州和歌山から広島城に入り、この時から
因島は、浅野長晟の所領となった。
直義は、この新しい領主浅野家に仕え、代領職として、因島一円を管理した。
石名松浦十二代目 浅野家に仕える この当時、松浦直義は、石名郷の
家に居住していた。
武士としての生活は、直義の代で終わりを迎える。
寛政十八年(1,641年)7月7日寂
法名 鶴松院智嶽安徳居士
元和六年(1,620年)頃の自治体構成
村政機関として
大庄屋(割庄屋)、村役人、村寄り合い、村役人としては、村方三役
庄屋(関東では名主という)。
組頭(年寄り)
百姓代(長百姓)
中興の祖 (庄屋) 石名松浦13代目 松浦治良太夫 義光
元和三年(1,617年)名主(庄屋)として、因島を管理した。
寛永二年(1,625年)八月一日茶臼山の城址に社殿を
再建して、祖神を祭祀した。
中興の祖 (帰農) 松浦13代目義光 寛永三年(1,626年)因島が9ヶ村に分割された。
これを機に、松浦義光は、名主職を辞退し、
同時に民籍に帰し、以後、専ら
農業に精励した。
143 :
日本@名無史さん:2014/11/21(金) 18:48:28.05
あちこちにコピペはんな
昔の家と同じのをを建てようと思ったら、すごい高価ですよね。
うちなんか大した家じゃないけど、それでももう同じのは無理だ。
大黒柱やその他、欅が使われている。
欅の柱一本の値段にびっくり仰天。
柱だけで家一軒が建てられそうだ。
ボロ屋だとバカにしててごめんなさい。
>>144 うちの実家は70〜80年前に祖父が建てたんだが、古家を買ってその木材を
再利用したと聞いている。大黒柱の一部に以前の跡がある。
お金がないから古家を買ったんだと思ってたけど、それだけではないらしい。
欅は長期間乾燥させたものほどいいらしい。
昔の家ってほんとに丈夫だと思うわ。
母方の祖父の家は、1700年代前半に新築したらしい。
40年前に建て替えたんだけどね。200年以上経ってた。
取り壊すときも大変だったらしい。がっちりしてるからなかなか倒れなかった
と今でも言ってる。新しい大黒柱は欅ではないんだよな。
俺んちは戦後に建てられた平凡な家屋だけど
祖父が生前、「うちは地域(大字)で初めて建てた2階建て家屋だ
2階建ては許可がやっと降りたんだ」
って言ってたんだけど、昔は2階建てって制限されてたの?
理由は空襲の標的になるから?
戦前でも2階建てはあるよ。
明治でも江戸時代でもある。
どこなの?
>>147 広島県の山奥です
地域自体は当時も現在も農村だけど福山市や岡山県から関西方面に空襲がある度に
米軍機を見たって人もいる
149 :
日本@名無史さん:2014/11/27(木) 00:10:48.88
うちは、火災保険はいってたけど、10年くらい前に「保険料を見直しました」って
これまでの2倍くらいのお金を請求されるようになって、やめた・・・
150 :
日本@名無史さん:2014/11/27(木) 01:21:39.81
庄屋は大体2階建てだろ。2階は養蚕スペース
>>148 うちもど田舎だけど、明治の頃に火事で焼けた家が総二階だったって聞いてる。
地域的なものなんじゃないの?
何かで、大名行列が通る道は二階から見下ろしてはいけないから二階禁止とか
あったような気がするんだが、違ったかな。
152 :
日本@名無史さん:2014/11/27(木) 13:37:17.31
欅は梁に使うもんだろ
>>150 蚕は二階じゃなくて屋根裏じゃないんかの?
154 :
日本@名無史さん:2014/11/28(金) 14:25:33.71
うちは街道沿いに家あったけど、中2階はあった。
2階というよりも、長持とか箪笥だけおいてある感じね。
主要な街道沿いの家屋に関しては規制されていた模様。
155 :
日本@名無史さん:2014/11/28(金) 14:36:39.06
153
蚕は二階だよ
昔の家はみんなそう
156 :
日本@名無史さん:2014/11/28(金) 14:39:13.19
まあ屋根裏っちゃあそうか
>>155 そんなん地域によって全然ちがうんだから、日本中どこも同じみたいに書くのはよくない
>>154 参勤交代で常用される街道に限定の規制じゃないかなあ。
158 :
日本@名無史さん:2014/11/30(日) 14:38:12.48
そもそも二階建てにする必要がない
土地なら余ってる
うちの地方だけかも知れないが、元庄屋だと近所の家を子分って言わない?
ばーちゃんがよく使ってて凄く違和感があった。
160 :
日本@名無史さん:2014/11/30(日) 18:55:56.83
どこのヤクザ?w
つうか墓をみりゃ分かるだろ
○○家初代の墓みたいなんでよw
うちは300年前からあるけど
ヤクザじゃないよ。
墓というか墓所はあって、家系図では江戸初頭に始まった家らしいけど。
古い時代だと墓石じゃなく木製の墓標が主に用いられてるから、
古い家だと初代の墓なんて残ってないだろ
れっきとした旧家なら石製の五輪塔や宝篋印塔があるはず
164 :
日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:35:51.50
古い家かは知らんが年号が刻んであるからな
それで年代が分かるわ
165 :
日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:41:40.80
5代前に破産しちまったからどうなってんだかよくわからん
いちおう、墓守りで世話してくれてる人が墓の前の家がやってくれてんわ
土地や家はそんときにほとんど手放した
166 :
日本@名無史さん:2014/11/30(日) 23:46:48.37
まあ幕末んときだよな
墓は地方差がある見たいね。関西じゃ最近までまともな墓は無いのが多いが
関東なんて旧家なら戦国期の五輪塔から残ってるし。下手すると室町期ぐらいまである
関東 200軒に一軒の豪農は古い墓と豪邸があるが、一般庶民は小作が多く子分
関西 すごい豪邸はないが、10軒に一軒位の割合で庄屋クラスがいて、分家も平等
169 :
日本@名無史さん:2014/12/02(火) 00:07:09.51
関西だが、分家さんのことは全部合わせて「門下(もっか)さん」っていうよ。
門下さんの中に、ひねの分家とか新分家とかがある感じ。
170 :
日本@名無史さん:2014/12/02(火) 00:14:01.71
関東て、百姓自体もヒエラルキーはんぱないよな
中世感がそのまま百姓となっても完全に残ってる
171 :
日本@名無史さん:2014/12/02(火) 01:54:16.62
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県)
甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
香取神刀流 常陸笠間藩士(茨城県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
一族(まけ)、分家(わけ)とか昔読んだな・・・どこの地方だったか
屋号でよんでないのか
田舎だと 昔からある家は 集落内では屋号でよんでたわ
今はそうでもないんだけど
ネットの国語辞典で調べたら
まき
本家・分家の関係をもつ家同士をよぶ呼び名。
同族。一族。東日本に多くみられる。まけ。
とあるから「まき・まけ」ってのは関東での呼び方みたいね
175 :
日本@名無史さん:2014/12/05(金) 01:16:31.62
分家は屋号はあるけど、うちは屋号はない
おじいちゃんに聞いてみたら「うちは大本家(おおほんけ)ってのが屋号みたいなもんやで」って教えてくれた
総本家やから、わざわざ下の名前で呼ぶことはなかったらしい。
本家も分家も屋号があるなあ。
本家は酒屋だったからか屋号が酒屋。
親戚には醤油屋というのもある。
本家は潰れたが、醤油屋は今も細々ながら醤油屋をやってる。
177 :
日本@名無史さん:2014/12/05(金) 13:10:58.77
どういうのか知らんが昔は職業でよく〜屋って呼んでたわ
石屋とか菓子屋とかな
Googleで見てると、関東以北の田舎が不思議な感じがするよ。
関西なら古い集落は古い家がたくさんあって、蔵なんかもそのまま残ってるし
蔵のある家も珍しくない。
だけど、東ではそういうのがあまり見つからんね。
田舎の農家だと思える家でも、家自体は新しいというか今風というか。
建て直ししてるのかなあ。
うちの田舎なんか、修理はしてるけど古いままで、100年超す家が多いんだが。
東日本って農家がお金持ちなのか?
家は建て替えたけど蔵は300年前のが残ってる。
北陸です。
寒いから建て替えるんだろ。
江戸時代、農民は米を食べられなかったと聞きますが
8割強もいた農民がつくった米は他の誰が消費していたのでしょうか?
郷士でしょうか?
鼠です
>>182 > 江戸時代、農民は米を食べられなかったと聞きますが
そんなことは無いよ。ちゃんと白いおまんま食べてました。
俺が小学生の頃左翼教師もそんなこと言ってたな、、、
中には年貢を払うために米を買う人もいたわけでな
8割が農民って話が実は与太話だったってのもある。
耕地の過半は水田じゃなく畑、そこで商品作物を作ってるとこも多い。
ハレの日以外で、日常生活で頻繁に白米を食ってたら足りないよ。
都市部、特に大都会じゃ、運びやすくて日持ちのする米以外の食材は入手難(米より割高)で、
特に江戸の住民とかは白米以外の食材を口にする機会が少ない。
そういう都市民が、(貧困層も含めて)庶民も白米を食うから、農村部では米はあまり食えないわけ。
俺の経験だけど庄屋の子孫で俺と同年代の奴はヤの孫が2人いる
まぁ俺んちのほうが足軽の子孫で武士として偉いけどな(脚ブルブル)
ぶっちゃけ、戦国時代江戸時代(ただし中期ごろまでかも?)なら、
足軽は庄屋に雇われる程度の弱い立場で、庄屋の方がえらかったけどな。
188 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 11:56:00.39
俺が子供の頃まで足軽長屋が残ってたけど、粗末極まりない物だった
189 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 15:58:09.41
庄屋なんて足軽に土下座するレベル
190 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 17:19:06.36
下士足軽は庄屋様を呼びつけしただけで藩に直訴されてるレベルだけどな現実は
>>182 8割もいる百姓がコメを食べなかったとしたら、作ったコメはどこへ消えた?
どっかのスレにいたね。百姓はコメをほとんど食べられなかったって言い張るやつ。
コメは毎年出来るんだから、いくら通貨の代わりと言っても誰かが食べなきゃ
価値がなくなるよね。金じゃないんだからさ。
農民は麦飯が主食だったとかいうのもいるけど、麦を作るのだって畑がいるし
手間も係る。しかも、麦は土地生産性が低い。
同じ面積の土地があれば、水が引けないとか寒くて作れないとかの事情がない限り、
コメを作るほうが多くの人間を養える。
千枚田とか山の上の方まで田んぼを作ったのさ。
わざわざ麦畑にする理由はないのよ。
たとえばな。
江戸の住民の半分は武士で半分は武士以外だった。
その、武士以外の住民はどういう身分だったかというと、大半は町人でも工人でもなく百姓だ。
農業をおこなっておらず、当然ながら自分では米を作っていないが、江戸の住民は基本的に米を日常的に食う。
人口密度が高い江戸では、米のような保存の効く食材以外は容易に手に入れることができなくて、たいていは贅沢品だったからな。
鮮魚も野菜も高級品という生活で、もっぱら米ばかり食うのが江戸の街に住む百姓ってわけだ。
百姓=農民とかいう思い込みは間違ってるからな。
身分は百姓で生業は非農業って人はかなり多い。ここ重要。
それからもうひとつ。
前近代は灌漑技術の制限との関係からか、耕地の半分ぐらいが畑地だった。
開墾しすぎて水不足を引き起こしたり山崩れを多発させるようになったりして開発制限が出たぐらいだ。
水を多く使う水田は特に量的規制が厳しかったんだろうよ。
明治になってから、畑地を水田に転換させる政策がとられて畑地が減り水田が増えたんだよ。
といってもまあ、関東平野のような一部の土地以外では、麦を育てるのは畑地じゃなく主に水田で、要するに二毛作がメジャーだったみたいだぞ
結局農民は米喰ってたってことじゃん
日本史はガセネタが多すぎるんだよ
世界史もそうだけど
農民が米食ってた、とは書いてないだろ。
農民が米を常食してはいない、ハレの日以外に食うことは少ない。
百姓で米を主に食うのは農民以外が大半
そもそも百姓は農民って意味じゃない。明治以後に意味が変わって農民のことをいうようになっただけだ。
195 :
日本@名無史さん:2014/12/16(火) 00:03:42.59
そもそも士農工商もなけりゃ切り捨てごめんの事例もない。
雑魚藩士程度が庄屋にでかい態度とれていた事実ないどころか、庄屋に呼びつけして生意気だと直訴されてる藩士すらいるしまつ
日本史は嘘だらけ
嘘だらけは日本史だけに限らんけどな
始皇帝の墓を暴いたり咸陽の街を火の海にしたりしたと濡れ衣を着せられた項羽の物語とか、
オーストリア帝国の女帝マリアテレジアの出身地/領地だったロートリンゲン地方をフランス固有の領土と嘯く「最後の授業」やら、
世の中、分かりやすい物語ってのはたいてい嘘で満ちている。
明治維新は下級武士によっておこされたブルジョワ革命なのでしょうか?
それとも実は奇兵隊などの農民によっておこされたプロレタリア革命なのでしょうか?
歴史を見ますと、上級、下級問わず、少数の維新元勲を除いて武士階級は集団自殺します。
しかし、反動である武士階級がプロレタリア革命を計画するわけがありません。
きっと裏にプロレタリアートが周到に計画した革命だと思います。
いったい誰が計画していたのでしょうか?
・下級武士はブルジョワじゃない
・幕末に新規に取り立てられた農民っぽい人々って、実際のトコ、庄屋の出身とかの、
わりと資金力のある人の方が多いだろ、つまりプロレタリアートとは言えないはず
199 :
日本@名無史さん:2014/12/17(水) 13:56:20.37
親やご先祖は、はっきりいってしまえば、
ただ、たんに、
チンポがうずくから・チンポを満足させるために、
ただそれだけのために、生殖行為をやってきたに過ぎない。
あくまで、その結果として、子供ができてしまった。
そして、できちゃった以上は、ある程度やむを得ずに、子供を育ててきたに過ぎない。
あくまで、チンポを満足させるためにやってきたということだ。
ご先祖様のためにだとか、少子化対策への貢献のためにだとか、人類繁栄のためにだとか、
そういう高遠なことを考えてやってきたわけではない。
何度もいうが、
あくまで、自分のチンポを
とりあえず満足させるためにやってきたということだ。(´・ω・`)
201 :
日本@名無史さん:2014/12/17(水) 22:51:18.48
とはいえ、まあ、御先祖様がどうしてきたかは知らんけど、家を残そうって思えば
生きていきやすいじゃない?
生まれた意義というか、そういうものがあるからこそ、旧家名門に生まれた子供は一般的に、ちゃんと育つ。
「家のため」と思うからこそ、勉強したりするんだよ。
ニートなんてやってるやつを輩出してるのは、真の名門とは言えない。
高等遊民
>>103 あー ウチの地元もこのパターンだな・・ 今、町会で幅利かせてる連中
みんな、戦前は小作だった連中だわ ・・・・
爺さん世代が若い頃は下向いて肥溜め担いでるような人だったのに、
その息子は、ベンツにゴルフバッグ入れて転がしてる みたいな
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1420734129 恐れ入りますが、小作とか小作人って言葉を使ってはいけないのですか?あと、丁稚奉公とか奉公人とか?
又、使ってはいけないとしたら、なんて呼べば良いんでしょうか?
でも、法律には小作とか出てきますよね。
なんでこんな事を言うのかと申しますと、私の家が、20ちょっとの、何もない小作人と、奉公人を昔抱えていて、
農地解放で、タダで、すさまじい広い土地を皆にあげました。GHQ警察から逮捕するといわれたもので。
そして現代において、その時の村の会合の取り決めなどの時に、私の父が、皆さんが小作料を払っていたときに、
各々、各自決めたことじゃないですか〜どうのこうの言ったら、物事の趣旨や回答は、そっちのけで、
今は、小作なんて関係ね〜、時代がわるかっただけだ。そうだ関係ね〜と怒られたそうです。
別に、何もなかった小作人だから意見をいうなとか、そういう馬鹿なことを言ってるわけでもなく、小作という言葉自体を言うと反抗してきます。
では、なんていえば、良いのでしょうか?また、小作という言葉を使ってはいけないのでしょうか?
私は、そういうのを、聞いているので、人に言うとき、かわいく、コサッキーと言葉にだしたりして
おどおどと言ってますが、友達に、大爆笑されました。そっちの方がやばいって。
当時、何もなかった人を小作人として登用してあげたり、小作人が、私はなにもないので、もう少し土地をかしてくだせ〜と涙ぐむので、
可哀想だからと、貸してあげたり、凄く、人道的な事をしてきたつもりでしたが、農地解放後、いきなり、土地の境界線を、勝手に動かしたり、
土地の栗を植えて、生産緑地にしてあるところの栗を勝手に盗んで農協に売ったり、ただで、もらって、感謝もしたことないで、
今は、関係ね〜、昔の話をすると、怒り出す。逆に当たり前だ、今までがおかしかったと言うだす始末。
さらに、地元の銀行に、自分が町内で一番の土地持ちだとか、
又、子供に、地主だといって、その子供が訳もわからず、うちを小作人のようにみて、得張っている始末。
人って、信用したらいけませんよ。感謝も何もないんだから。当時、借りてる面積が大きい人などが、得をしましたので、
少なく借りてる人はかわいそうだから、多めにあげたのに、その時はありがとうごぜえます。とか言ってたのに、今は、かんけいね〜だって。
一人を除いて、みんなそう。
小作人は、サラリーマンとか馬鹿にした発言してますが、おかしいよ
その後…「これは、お金と同じなんだよ」と言って
見たことも無い金券のようなものを見せてくれた。
もう使ってしまったのか、
そのチケットは、いつの間にか無くなっていた。
確か、ピンクか赤い模様で縁どられていた。
206,207
あれは何だったんだろう
209 :
日本@名無史さん:2014/12/18(木) 00:50:25.35
軍票とかの「カネみたいなもの」が期間限定で流通したことはあったよな、どんな姿の紙だったか知らんけど。
敗戦に伴って無価値になったはず、たしか。
210 :
日本@名無史さん:2014/12/18(木) 22:01:35.03
>>203 それは、時代の栄枯盛衰というやつですわなあ・・・
だいぶん前にレスしたけど、うちは「GHQにとられる」ってわかった途端に、小作の人を解雇して
多くの田畑を自分の自分の家族だけで管理するようにした。
で、その一部をビルとかマンションに変えて、今に至る。
なお、解雇した小作の人たちは、近所の村々の庄屋さんの田畑をかっさらったみたい。
小作クズだな
衣食足りて礼節を知る、という格言を見直したは
小作は(いまはともかく当時は)衣食足りざる人だから礼節とか知らんかったんだろ
いまでもクズな人もいるだろうけど、当時はたいていクズだったと思っていいんじゃないか?
213 :
日本@名無史さん:2014/12/19(金) 14:04:17.34
近所の庄屋は今じゃ屋敷もなにもかも跡形もなくなり、村八分常態で数十年前に地元を追いやられ、
平百姓以下どもががその庄屋の土地を戦後接収して今じゃ自治会で言いたい放題
そいつら庄屋の悪口だらけだが、そいつらの現在の自治会でのふるまいのほうがよほど品性に欠ける。
うちの地方だと小作も一族だけど、本家が地侍で城のあった場所から分家?
して山下って新田開発。最初期の分家は大地主だが次第に分家の分家は
小規模地主兼小作で・・・関係もまあ良好。
逆に昔住んだことがある新興住宅街では地主は恨まれていて、娘の結婚調査
では文句言いまくりで破談にさせたりとか多いね。でも、地主はアパート経営で
ホクホクで・・・
>>210 小作人って雇用者じゃないんですけどね。
だから、解雇ってありえないし。
地主と小作がどういう関係か分かってない人?
農民がコメを食えなかったって、なんでこう信者が多いんだろうなあ。
そりゃ、一部の地域とか、飢饉の時とか、貧乏人とかはそうだろうけどさ。
コメを食わずに何を食べるんだろ?麦や雑穀?それをどこで誰が作るんだ?
勝手に食卓に上がってくるとでも?
畑では、綿や桑の木や豆類や菜種やらの商品作物を作るのにいっぱいいっぱいですよ。
麦のような反収の悪い作物にわざわざ回してやる余裕はない。
217 :
日本@名無史さん:2014/12/21(日) 10:25:01.51
時代と地域によるだろうな
年貢米はある程度回ったら廃棄してたんじゃないかな
状況は違うけどアメリカの世界恐慌のときのオレンジみたいな感じ
恐慌の場合に限らず、単純に余ってるからと例えば格安で提供すると
定価で買う人はいなくなって社会は混乱するし
219 :
日本@名無史さん:2014/12/21(日) 10:30:37.47
216
お前、単なる物知らず
218
闇米って知ってるか?
年貢米を収めた分はこれは単に武士の取り分
残りは庄屋屋敷に収めてるの
これを売って金銭に変えたり
220 :
日本@名無史さん:2014/12/21(日) 10:34:59.10
武家は武家でその米を売ることで金銭得てるの
米って腐らんよ
カビなんかは生えるけど縄文時代のツボに入ってた
米が発芽した話知らんのか?
2000 〜3000年前のもんだぞw
麹ってカビだよね
農地解放後も広大な農地を持ってるやつってどんな裏取引があったんだ?
家は利用価値のない山ばかり残ったが、、、
当時は農地じゃなくて、後に農地に転用したトコとかじゃなくて?
224 :
日本@名無史さん:2014/12/22(月) 02:06:46.06
>>215 申し訳ない。
解雇って言い方はよくなかった。
細かく聞き直したところ、「少々、事情によってうちの畑を耕してもらうわけにはいかんようになった。
とはいえ、生活もあるやろうし、遠い場所の土地を手放すから、それを皆で割り振って耕して生活してほしい」
ってことだったらしい。
>>222地域差があったらしい。本来自宅と一町歩(3000坪)の小作地はのこされた
が地方によってはほとんど残されなかったとこもある。
うちの土地台帳を取り寄せたが2町歩ていどの零細地主だが、ほとんどに農林省の
判が押してある。
1町歩と荒地数町歩あれば都会なら地価価格上昇とともに再び資産家へ
エタは皮製品で手に職がある感じがするけど、皮を剥ぐことしか脳がない非人や
その他大勢の草むしりと稲刈りしか出来ない奴隷小作人はそれ以下だと思っちゃうんだよね。
特に小作人なんて江戸〜戦後くらいまで国民の7・8割はそうだろ?みんな大体そんな連中の
子孫なんだろ?小作人って明治初期から早い時期に都市に流入してくるから、昔から市街地に
住んで商売もしてないような奴って小作人の子孫が多いんだよな。明治時代から納税名鑑なん
かも各県で残してるしネットでも見れたりするから、自分の先祖がマトモに納税して選挙権を
持っていた地主層なのか商人なのかも今じゃ確認ができるからね。そんなのがエタだの非人だ
の同和だのと、よく自分は大層な出自を持ってるような妄想で語れるなぁと関心します。
なんか面白いですね。
俺は同和問題を学校で習わなかったから
成人するまで存在を知らなかった。
関西では道徳の時間に必ずやるらしいな。
関東以北では蝦夷が和人が同化した。
関西では俘囚を別所に閉じ込めた。
YパプロDタイプの分布が関西と関東で大きく異なるのは
そういうことだろう。
>>226 小作人は農奴じゃないよ。
それと、7〜8割が小作人というのも違う。
東は小作の比率が多いのかも知れんが、西は違うね。
農地のうち小作地は2割とかその程度。
一番多いのは自小作というやつ。5反の自作地と1反の小作地を耕すとか
そんな感じ。
小作人といっても、それだけで貧しいとは限らない。
摂津国には大規模な土地を借りて綿を作り、その綿で10人を雇い繰綿を
生産していた家内制手工業の親方もいた。形の上では小作になる。
明治の早い時期に東京へ流入したのは、小作人というよりも、地方の
次男三男でしょうな。といっても、40年たって130万増えただけなんだけど。
229 :
日本@名無史さん:2014/12/31(水) 18:43:01.54
>>225 2町て零細なのか?それとも謙虚か?
関東は庄屋クラスが2〜3町なんだが?
230 :
日本@名無史さん:2014/12/31(水) 18:52:58.55
西みたいな渡来地はどうでもいいよな。
関東以北の純日本人地域は地主と小作率は7対3か8対2レベル
健全な封建秩序が保たれていた。
231 :
日本@名無史さん:2014/12/31(水) 19:33:10.77
西みたいな渡来地はどうでもいいよな。
関東以北の純日本人地域は地主と小作率は7対3か8対2レベル
健全な封建秩序が保たれていた。
徳川幕府の政策は自作農主義だ。
東日本に多かった小作にしても、明治になって年貢から税金金納になって恐れをなした者達だろ。
地主に農地を渡して、税金納付の立場を免れた。
幕府が自作農を保護する政策をとっていても、小作が増えるのを止められたわけではない。
とはいえ、たいていの地域は小作地より自作地の方が多かったけども。
明治以後に小作が増えたのは、地租を払えなくて破産した農家が土地を売り払わざるを得なかったからで、
自作を続けられなかったゆえ。逃げたくて逃げたわけじゃないぞ
一般自作農どころか、中小の地主も続々と破産して土地を手放してるぐらいだ。
金銭なんてほとんど縁の無い暮らしをしてきた百姓が地租金納を求められたら戸惑うだろう。
土地の名義を庄屋、名主階級に移して、小作となり、旧来のように米を彼等に納める生活に逃げたくもなっただろう。
235 :
日本@名無史さん:2014/12/31(水) 20:45:22.01
そこでいってる納税のがれた自作農とは、なばかりの三反百姓だろが。
関東じゃ三反百姓の自作農層がうじゃうじゃいるが、小作扱いでなくとも、底辺扱い。
三反百姓じゃそりゃ逃亡したくなるわな。
ただ、三反百姓のような平百姓未満は、分類上自作農扱いなんて受けない。
一人前扱いも受けない
「名主さまぁ、税金をば納めれっちゅうお達しがごぜぇやしたども
オラたつは米をばこさえて年貢納めるしかできませないだ
ほんで、これからも今までどおり名主様の世話になって暮らしたいと思っておりやす
つきましては、ご迷惑と存じますども、どうか田圃の名義を貰っていただきたく、
こうやって酒一升下げてお願げぇに参りましただ」
237 :
日本@名無史さん:2015/01/01(木) 02:23:30.79
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県)
甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
香取神刀流 常陸笠間藩士(茨城県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
238 :
日本@名無史さん:2015/01/01(木) 19:25:02.00
関西に住んでたコネのない渡来人はすべて関東に強制移住させられていまの時代になりました
239 :
日本@名無史さん:2015/01/01(木) 19:32:39.70
何だかね
インチキ臭い話ばっかりしてんだな
240 :
日本@名無史さん:2015/01/02(金) 21:49:41.04
関西と関東では、農地の量からして違うんだから、話し合っても意味がなかろうなあ。
関西の庄屋さんは、それぞれの家にそこまで大きな違いがないから、
農地の量とかではなくその家の由緒とか格で決められている部分が多いと思う。
関東の肝煎であったり名主は、家の格もそれなりにあるだろうけど、やはり、新田開発領主であったり、
財力があったりで決められているんでないかな。
>>230 どこが健全な封建制なんだかw
太閤検地以降の検地がなんであったか分からんと見える。
大家族制を廃止し、それぞれが独立し新田も含めて自立したことによって
江戸前期の人口爆発が起きた。
江戸時代以前に開発され尽くしていた西日本と違い、東は開発の余地が大きく、
幕府、大名が率先して開発した。資金を持った帰農武士が一族郎党を引き連れ
開発にあたり、大規模地主になった。あたかも中世の封建領主のように。
西はそういう時代は過ぎ、商品経済が進展していた。
田畑で商品作物を作り、絹や綿も国内で自給出来るようになった。
年貢も米ではなく貨幣で納入が多かったんだよ。
>>241 だが、江戸時代初頭と中期後期の人口比を見ると、江戸周辺は江戸中期以降伸び悩んだのに対し、
薩摩や長州など西国では伸び続けてるわけでな
幕末に活躍した雄藩の多くは江戸時代後半に人口を伸ばしたトコなんだよ。
人口での比重が下がったのも幕府の敗因のひとつってわけさ
>>242 そう。
江戸初期〜前半にかけて人口が倍増以上している。
しかし、その後幕末までは停滞している。
地域ごとに見ると、東日本は飢饉の際に減少し、多少は戻すが最盛期までは
戻らない地域が多い。
西は機内とその周辺の蟻地獄地を除いて増加している。
維新の立役者だった地域は特に増加し、人口増が新時代を求める原動力だったという
説もある。逆に言えば、人口増をもたらす技術革新か社会変動が起きていたと言うべきか。
東は、中世の封建制さながらの様相で幕末を迎え、西は商品経済の進展と
多様な技術革新と、大阪に見られる為替など、江戸後期には社会が大きく
変動していた。
もう一つ重要なことがあってな
大都市は周辺地域の人口を飲み込み続けるんだ。
医学の発達度が不十分だった時代、近代初頭までの期間は、大都市では人口は基本的に減る。
周辺地域からの流入人口がないと規模を維持することさえできない。出生率が低すぎることもあるし、流行病などによる死亡率が外部より高いからな。
そのせいで、大都市周辺部は生活に余裕があるのに人口が増えなくなる。
薩長の人口の伸びの要因のひとつは、江戸や大坂のような大都市から遠かったって事があるわけさ。
245 :
日本@名無史さん:2015/01/11(日) 22:51:48.05
その結果、東日本は戦後も純日本人占有率が高いと言うことか
ばかたれ。
「日本人」という民族が成立する以前の、祖先種の一部だけを取り出して純血種呼ばわりとか、あほか。
弥生人も縄文人も全部混ざった結果として成立したのが日本人。その成立期の構成が基本であって、それ以外の時期の構成は参考にするべきではない。
247 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 10:57:25.04
>>245 弥生の稲作民は日本人だよ。
お前の説では、純日本人はマタギになってしまうぞ。
248 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 17:29:23.02
関西大学社会学部教授 石元清英
「夙」(しゅく)、宿という字もあてたりはしますが、「夙」と呼ばれる人たちがいました。
この夙という人たちはどういう人たちかというと、記録の上では10世紀ぐらいに夙非人という形で文書に出てきます。
この人たちっていうのは14世紀ぐらいになりますと、神社の隷属民になるのですね。神社の支配下に入っていきます。
この神社の隷属民といっても別に神社の境内に住んでいたわけではありません。
当時の神社というのはお寺もそうですが、非常に広大な荘園、農地を持っていました。
その神社が支配している荘園内にいる夙の村があって、その夙の人たちを神社が支配下に置いたということなのです。
この夙の人たちなのですが、何かをしたのかというと清めなのです。
この清めというのは、お祭りがあったりしたときに神輿が出たり、あるいは山車が出る。
そういう際に夙の人たちが先頭を歩くのですね。
先頭を歩くことによって道についたさまざまな穢れというのを取り去ってしまう、吸収してしまう、
取り払ってしまう、そういう特殊な能力を持っているのだと当時の人たちは考えました。
この夙の人たちは穢れを扱う特殊な能力を持っている。それがゆえに汚れた存在だと、みなされたのです。
ですから、周りの人たちは夙とは結婚はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を取り続けました。
249 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 17:30:02.12
中世も後半、終わり頃になりますと、だんだんと戦国大名が台頭してきます。
神社もお寺も広大な荘園を持っていたのですが、戦国大名との戦いによって失っていくのです。
要するに神社、お寺の勢力がだんだんと弱まっていきます。
そして、夙も神社との関係が切れてしまいます。完全な百姓村になってしまうのです。
周りの百姓と何ら変わらない。祭りがあっても特別なことは一切しないという百姓村になってしまいます。
江戸時代になりまして身分制度が整えられたときに、この夙の人たちは百姓身分になるのです。
賤民身分にはなりませんでした。百姓身分になるのですが、周りの百姓たちは自分たちとは違う、夙だと。
従来どおり結婚の行き来はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を変えなかったのです。
その結果、現在、夙村であったところで部落になっているというところがたくさんあります。
特に、京都府、奈良県、和歌山県は夙系の部落というのが非常にたくさんあって、
やはり穢多系の部落と全く同様の結婚差別事件というのが起こったりしています。
250 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 17:30:50.61
京都女子大学文学部史学科准教授 梅田千尋
山城国綴喜郡北谷村の歴代組陰陽師居村の事例から、村落社会における民間宗教者としての陰陽師の存在形態と、
彼等に対する土御門家支配のもたらした意義について考察した。まずは、地域社会との関わりについて。
本論に登場する陰陽師村は、中世の荘園(朱智庄)を母体とし、
近世に至ってなお神事や首座を介して結ばれていた普賢寺郷という郷村において、
「キヨメ」的役割を坦い、差別の対象となった村の内の一つである。
これは、荘園・郷村という枠組の中で、北谷集落の成立が見られたことを意味するが、
近世に入ると、領主からは陰陽師も百姓身分として把握された。
また、北谷は本村に従属する枝郷として位置付けられていたが、村の経済状況を示す石高分析からは、
陰陽師である西尾家の本村を凌ぐ富の集積が明らかとなり、同氏が枝郷庄屋であった事実とともに、
本村─枝郷という序列が、陰陽師村に対する決定的な支配となりえない側面を指摘した。
こうした陰陽師村と本村とは、村落間の序列をめぐって争論を構えることとなった。
本論では、土御門家の許状による陰陽師らの名字帯刀が、本村側の訴えによって差し止められた事例を以て、
土御門家による支配は、地域社会においては影響を及ぼし得なかったことを示している。
251 :
日本@名無史さん:2015/01/15(木) 17:31:29.20
山城国綴喜郡北谷村の歴代組陰陽師村を取り上げ、この村の陰陽師たちは、領主からは百姓身分として把握されたが、
この村を含む普賢寺郷においては「キヨメ」的役割を担い、差別の対象となっていたこと、
また、本村に従属する枝郷として位置付けられた北谷ではあるが、
経済的には本村を凌ぐ者が現れ、また庄屋が置かれるなど、本村による北谷への一方的支配は貫徹していないこと、
いっぽう本所土御門家が認可した北谷陰陽師への名字帯刀が本村の訴えで否定されたように、
土御門家の支配も地域社会を規定するほどの影響を持ち得なかったこと、
比較的古くから土御門家の配下であった北谷の陰陽師は、近世後期、組頭の西尾氏が陰陽師組織の重職に就くなど、
土御門家との関係をいっそう強めていったこと、また婚姻関係で結ばれた「仲間村」が、
寛政年間以降、貢納金の徴収単位として組織されたこと、
従来の研究で土御門家主宰の宮廷陰陽道に参加する特権を持った陰陽師を「歴代組」と呼んできたが、
その公認は嘉永期に寺社奉行によってなされたこと、を明らかにした。
さらに政治的賤民ではなかった陰陽師への賤視は、職能による蔑視というよりは、
種姓的な「筋目」=血筋そのものへの忌避として周囲の百姓に意識され、
それゆえに「ケガレ」観に基づく習俗的差別の対象となっていたこと、
こうした状況に対し陰陽師たちは土御門家の権威を利用することによって賤視からの脱却を図ったと論じる。
252 :
日本@名無史さん:2015/01/24(土) 11:25:23.66
テリー伊藤さんの母親の実家鳥海家も土御門家から認可を受けた陰陽師でした。その名残は鳥海家の屋号「ねぎどん」に残されています。「ねぎ」とは神社の神主を意味する禰宜(ねぎ)のことです。
鳥海家がある千葉県南房総市白間津には日枝神社があります。その祭りは「白間津のオオマチ」といわれ、陰陽道の思想が反映されているといわれています。
天保年間(1830−43)の白間村の家数は145軒。村人は農業のほかにイワシやアワビ漁をし、明治以降になるとテリー伊藤さんの母鳥海なみ子さんの父米吉さんのように、カジキ漁をする人もいました。
陰陽師だった鳥海家はこの村で現在では国指定無形民俗文化財となっている「白間津のオオマチ」と深く関わりながら、住民の求めに応じて吉凶を占っていたのでしょう。鳥海家のルーツは第50代桓武天皇(737−806)の流れをくむ桓武平氏の子孫と思われます。
ここまで引用ね。
千葉県印西市、現在の利根川と印旛沼などの湖沼に囲まれた一体には、鳥見神社が集中的に存在し、テリーの母親の実家は元も鳥見神社だったのだろう。桓武平氏はイベント屋だっったことがわかる。
幕末開港への畿内農村の対応 -綿業から茶業へ-
http://kaken.nii.ac.jp/d/p/62301075/1988/6/ja.ja.html 1. 上狛村では、太閤検地のさい、中世の荘官狛氏でなく、外来者で土地を集積した浅田家が庄屋に任命され、
その後狛氏一族の松井氏が農村の秩序を背景に庄屋浅田家と対立した(ただし、浅田家の庄屋就任時期は推定にとどまる)。
同村は、1635年4か村に分かれるが、それは4人の庄屋へ親戚や近隣居住者が分属する形をとったため、耕地は極端に入り組んでしまった。
2. 西法花野村「宗旨改帳」によると、1670年代に複合大家族の解体がみられ、18世紀中は人口・戸数とも漸減し、19世紀に入って人口が増加する。
この間成年男子の出奔が多いが、絶家のあとを他村の親戚が入って継ぐこともよくみられた。
出奉公人の史料からは、17世紀中葉に江戸その他、その後は畿内都市・農村への出奉公が多く、年季切れ後も戻らぬ者が多いことがわかる。
19世紀に入ると、大坂への女子奉公人が何故か急増するが、人口も増加しているから、村内での就業機会も増えていたのであろう。
3. 中世非人宿「コマの宿」の流れを汲んで、近世の上狛村にも「夙」などの被差別民がいた。
彼らは、結婚、埋葬、宗教など生活面で根強い差別を受けており、1838年には百姓の差別発言を京都町奉行所へ訴える事件が生ずるが、
その基礎には、百姓・商人としての彼らの経済的成長があった。
4. 近世初頭から綿作地帯であった南山城は、幕末開港後は製茶輸出の刺激を受けて製茶地帯へと変貌する。
比較的早くから茶業が展開していた綴喜郡田原郷などでは、多数の焙炉師と茶摘子を雇う大規模経営がみられたが、
雇い入れ期間はせいぜい10日間程度にすぎなかった。
なお、田原郷や和束郷の茶商人につづいて上狛茶商人が成長するのは1870年代後半からである。この地域経済の分析にさいしては、
林村柳沢家にみられるような安定的だが非成長指向の酒造業経営者=豪農の存在もあわせて注目される必要があろう。
浅田家文書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8
狛氏って朝鮮人じゃん
狛氏の居住
高句麗使節が滞在した地は、以前から高句麗系の渡来人と密接なかかわりを持つ地域であったことが推定される。
それを傍証するのは、南山城地域における高句麗系渡来人の広範な居住である。
現在も南山城には上狛(木津川市山城町)・下狛(精華町)・狛田(同。ただし下狛村・菱田村合併による地名)などの地名が残っているし、
また近時まで高麗村(木津川市山城町。ただし明治22年(1889)町村制施行による合併村名)も存在した。
また『万葉集』の歌枕を検出すると、コマに関わるそれとして「狛山」が見えていて(巻6・1058)、
これは「恭邇新京を讃る歌」への反歌として詠まれているから、この「狛山」はおそらくは木津川右岸、
古北陸道の川を渡ってすぐの地、現在の上狛あたりをいうものであろう。
また「泉狛村」(天平宝字6年「造金堂所解案」、『大日本古文書』編年文書 16)、
さらに「狛野」( 『 続日本紀』天平神護元年8月庚申朔条)も見え、こちらは和気王の謀反に関連する記事中の登場で、
和気王が紀益女とともに逮捕されて伊豆国への流罪となる途中、「山背国相楽郡」で処刑されて、「狛野」に埋められ、
益女は古山陰山陽併用道分岐後の(藤岡謙二郎氏編・足利健亮氏執筆『古代日本の交通路』1)、
古山陽道ぞいの「綴喜郡松井村」(京田辺市松井)で絞首に処されたというから、この場合の「狛野」は木津川左岸になるのであろう。
いずれにせよ、南山城の地には多くの高句麗系渡来人の足跡が刻まれていたことをここでは確認しておきたいのである。
近畿朝鮮人
高麗寺跡(木津川市)
http://everkyoto.web.fc2.com/report674.html 木津川流れる山城町上狛(かみこま)の台地、棚田の中に、府内最古の古代寺院であり、
国内最大級の寺院だった高麗寺(こまでら)跡(飛鳥時代創鷺国史跡)がある。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
飛鳥時代、6世紀末、渡来僧(高麗僧)の恵弁(恵使)により創建されたとの伝承がある。
570年、高句麗の使者を「山背の高麗館」「相楽の館」(場所は特定されていない)に入れたと記されている。(『日本書紀』同年条)
飛鳥時代、7世紀初頭に創建されたとみられている。
◆高麗寺 高麗寺の名は、奈良時代の『日本書紀』、平安時代初期の説話集『日本霊異記』、
平安時代後期の説話集『今昔物語集」などにも登場するという。
これらには、「高麗寺の渡来僧栄常」にまつわる記述がある。
高句麗からの渡来系氏族狛(こま、高麗)氏の氏寺だったとみられている。
当時の日本は、すでに朝鮮半島の扶余系民族国家・高句麗(B.C.37頃 - 668)との国交があった。
高句麗からの渡来系氏族狛氏も南山城(相楽七郷中の大狛郷)周辺に居住していたとみられ、現在も上狛の地名が残っている。
近畿朝鮮人
259 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 13:28:12.44
というか、朝鮮人とかってどういう風に決めるのだろうか。
戦前・戦中・戦後にやってきた人たちは、明らかに「朝鮮人」と言えるかもしれない。
でも、壬申の乱やらそのころにやってきた渡来系の子孫は「朝鮮人」なのだろうか。
もし、それを「朝鮮人」だとかいうのであれば、戦国大名の中にも渡来系の家はあると思うんだが・・・
壬申の乱の頃の朝鮮人と今の朝鮮人は人種が違うだろ
261 :
日本@名無史さん:2015/01/26(月) 13:34:46.15
島津とか長宗我部とか秦氏だろ
江戸時代になり、狛氏は、織田氏との縁を頼り、寛文11年(1671年)
大和国宇陀郡松山(現宇陀市)の織田家に出仕し、上狛を離れる。
この際、城跡や屋敷等の管理を上狛に残る旧家臣団に委ねるが、
合わせて家蔵の古文書の管理も委ねたものと判断され、
「狛文書」として現在まで上狛の旧家で守り伝えられてきたものである。
なお、狛氏は、 元禄8年(1693年)の織田家の転封にともない、
丹波国氷上郡柏原(現丹波市)に移り、現在も兵庫県に在住される。
>>259 アホチョンだから厳密性とか考えてないんだろ
ひたすら書き込んでうわさにしてソースロンダリングして
世界中に垂れ流す
英語wikiとかチョンの工作ひどいからな
日本人と朝鮮人とじゃそこまで違いはないだろ
265 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 19:18:15.14
>>261 秦氏も結局は渡来系じゃないですかね・・・
266 :
日本@名無史さん:2015/01/27(火) 19:21:02.33
秦氏は新羅からの渡来人やね
267 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 20:05:08.06
つまりところ、やはり江戸時代に日本人として認められていたかが問題なのではないかと思う
江戸時代におおよその身分制度が決まって、それ以降それが更新されるような事態が起きていないからね
268 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 23:09:49.70
沈壽官家や東郷茂徳とか旧士族身分の立派な日本人だものね
269 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 23:42:02.52
やっぱし、リアル半島渡来系の殿様は優遇すんだな
某県某市の外れに小さな集落がある
高い山に囲まれ車がすれ違えない狭い道しかない
そこの庄屋の子孫の家の資産がヤバい
郷土史家によると埋蔵金疑惑が濃厚とのこと
金目のものは蔵を探ればどんどん出てくる
戦国時代の焼き物らしき逸品の数々…
口止めされているが歴史書を数冊書ける話らしい
こういう話がまだあちこちで隠れているのだろうか?
>>268 東郷名乗ったのはチョンらしいというか明らかに背乗りをねらった変名だろうね
だが、あくまで朝鮮系というだけで日本の血もまざってるだろそいつは
まぁ、そいつの孫はチョンにちやほやされて頭わいっちゃてる人だけどな
女装は武門の嗜み
274 :
日本@名無史さん:2015/01/31(土) 15:08:11.33
マツコ・デラックスも武門のはしくれということになるな
275 :
日本@名無史さん:2015/01/31(土) 22:10:50.62
>>269 そういった、まったく歴史的な根拠のないことをおっしゃるのはよくないと思います
半島系とはいえ、応神天皇とかそんな時代の話です
それを「渡来系」というのかどうか
第一、その時代、渡来系がかなり多数いたことを考えても
秦氏は十二分に日本人だといっても問題ないのではないかと思いますがね
276 :
日本@名無史さん:2015/01/31(土) 22:25:36.44
渡来系は渡来系
男
すなわち田んぼに力を入れるる者を言う
田んぼどころか土地も持たない足軽は武士…いや男と言えようか
278 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 09:05:52.31
花は桜木、人は武士
庄屋?何それ?
田子作の親方か?
田舎のオッサン?
279 :
日本@名無史さん:2015/02/01(日) 11:24:19.66
足軽にも土下座するレベルの田舎の百姓頭
>>274 あの庄屋、武家だとか言って短小じゃないの〜