1 :
日本@名無史さん :
2014/09/02(火) 22:04:58.71 古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている 日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで 有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である 毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ 毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している 勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、 「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった 坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである ふるってご参加ください
2 :
日本@名無史さん :2014/09/02(火) 22:07:09.07
3 :
日本@名無史さん :2014/09/02(火) 22:14:10.01
改めて書きます。 684年(天武13)に制定された八色の姓(やくさのはばね)、その5番目、道師(みちのし)、こそ、道の管理、流通や情報伝達をつかさどる毛野に与えられるはずの姓(かばね)だった。 ところが、その直後に起きた白鳳の大地震、つまり、南海トラフ巨大地震と推定される地震で、東国との連絡網が途絶えてしまった。 これが、八色の姓の5番目、道師(みちのし)が賜姓されなかった本当の理由である。
4 :
日本@名無史さん :2014/09/03(水) 18:09:31.26
東山道の新田駅家から東に二駅目くらいに三毳山〈みかもやま〉があり麓には、三鴨駅家があった。 これが一番、毛野国らしい駅家だと思うな。
5 :
日本@名無史さん :2014/09/03(水) 19:11:30.92
へえそうなん(・ω・)ノ まあ米とかを運ぶ流通路はあったみたいだな
佐野と言えば、犬伏宿と天明宿。 天明の方は鋳物の街だけれど、白村江のころから毛野氏の鎧や兜を作っていたのだろう。 犬伏宿の方は藤原秀郷ゆかりの唐沢城の麓です。 唐沢城からは江戸大火も見えて、それを危険視した徳川幕府は佐野氏を改易し、佐野庄を天領にしたという。
徳川氏って毛野国から見たらゴミみたいな氏族だよな。 新田氏ですら遙かに新参者なのにそのシッポ以下のシッポですら怪しいという。 武家の祖の八幡神社は応神を祀るが その応神の朝鮮征伐に参戦してたのが毛野氏じゃん。 八幡神社って毛野氏を崇めてる神社?
8 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 08:30:03.97
下野国新田郡徳川郷を名字の地と見なされて少し北方に日光東照宮は、燦然とその凛とした勇姿を現したのであろうか。今や世界の各地から観光客が訪れる日本屈指の名所旧跡だ。 見猿言わ猿聞か猿。小野猿麻呂のお友達も上毛野国に睨みを利かす。八幡神社が崇めているのは誰かって。義家と毛野氏は全くの無関係。毛野氏を崇めている神社なら東北の方に 一、二カ所、上毛野田道の神社かあるらしい。時が変わって正月参賀日、明治神宮のお賽銭ときたら銀行員もテンヤワンヤの大騒ぎ。それに引き換え陸奥の田道の神社と来た日には、 寂しそうに閑古鳥が鳴いているだけなのかもしれない。
まーた他氏族貶めてる基地外が来てるな
10 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 13:36:06.89
北海道は札幌市に豊平神社もあるで。上毛野田道を祀っている。
豊平川のシャケ供えるべ
12 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 14:27:26.02
川漁用のヤスには、鮭用、鮎用と様々なものがある。貴殿は、ざるでドジョウ位すくったことはあるのかね。
13 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 14:46:15.95
おい! ちょっとスレを上げているやつ身元名乗ってみ?!w
14 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 15:04:35.57
武茂郷出身ですが。那珂川流域では、ヤスでサケや鮎をついたり、上流の方では笊でドジョウをすくっていますか、何か疑問点があるのですか。
15 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 15:26:46.46
那珂川沿いの高瀬の簗近くで、ドジョウ汁が出てきたので少し食べてみたら丼には五十匹ぐらいの天然ドジョウが入っていて驚いたわ。
16 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 16:29:29.57
古代の食卓 春先は木の芽の季節である。私はタラの芽や白木の芽を取ってきて食したことがある。ところが都市部の八百屋では、タラの芽はあっても白木の芽はないらしい。古代人は、もっと豊富な木の芽を食糧源としていたのではないだろうか。 皆さん、白木の芽を食べたことはありますか。 ?
17 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 17:51:25.29
18 :
日本@名無史さん :2014/09/04(木) 21:17:13.93
残念ながら渋川は、その時代、毛野ではなく、新潟方面から侵入してきた物部氏に占領されていた。 その武具も、物部氏のものだろう。物部氏は朝鮮半島からやってきた渡来系で、毛野の領土に侵入し、氷川神社を関東各地に残している。
物部は製鉄の全過程に関わってた氏族(物部連)の総称で日本人だよ。 結社かコンツェルンみたいなもん。 現代でいうと「三菱グループ」みたいなもん。 後には渡来人の秦氏も加わるけど。 朝鮮半島は東国などと並んで、その進出先の一つ。秦氏を日本に連れてきたのも物部連でその絡み。
東国の歴史は、上毛野、下毛野、武蔵、相模に別れる以前の記録がほとんどない。 それは、文字が抹殺されたからではなく、残りにくい媒体に記録されていたためだろう。 例えば、縄文字、沖縄やインカ帝国のキープ。 竹の皮、木の皮に書いた。 一番の可能性は口伝。 言霊の力を信じていたのだ。
>>20 河川氾濫圏内(湿地帯含む)に留意するように
考古学的知見と日本書紀の記述(崇神帝、四道将軍)との連関性にも注目されたし。
豊城が290〜330(318没崇神+20) 八綱田が310〜350 で垂仁時代の狭穂彦王の叛乱が330〜340(20〜40のときに将軍として畿内の乱を鎮圧) 彦狭島王 330〜355 早死 滋賀〜美濃止まり? 御諸別王 350〜390 関東平野に到達・蝦夷征伐あり 荒田別・鹿我別 370〜420 応神遠征に同行
360〜370までに関東平定が終わってないと394応神の朝鮮征伐に軍勢連れて同行できない。 340くらいまでは畿内に留まっている。 つまり実際に関東征伐をしたのは御諸別王か。 300〜360までが関東遠征の期間。 だが300〜330の関東周辺の遺跡の変化はないらしいので=民間交流すら見られない。 350〜370に毛野氏がきたものと思われる。
群馬・栃木の初期古墳は4世紀末に見られるので 300年代後半に来たのか? ただ土器=民間人は280までくらいに少数の集団が畿内かどこかから関東に来てたらしい。 卑弥呼の死後に来た?集団がいる模様。
27 :
日本@名無史さん :2014/09/06(土) 20:09:15.52
奈良時代の人口と兵士 初期の頃の日本の総人口は、500万人弱とされている資料が多いようだ。一郷あたり1399人と想定して、それに郷数を乗じて算出するらしい。下野国は70郷だったので9万7千人になるという。 したがって、古代毛野国の人口は、おおよそ二倍にして那須国分を控除することになる。すると約18万人となる。飛鳥や古墳時代は、緩やかに逓減する。この数字から兵士の動員数5万人というのは、 大風呂敷の荒唐無稽なる絵空事と言わざるを得ない。まず女子は省かれるので半夏する。残りから、さらに老若を除くのである。5万人と言ったら適任者のほぼ全員になってしまう。周りのの信濃や、 武蔵国、まとまった感じのしない国造の多い常陸国などなが八紘一宇になるなど夢にも思えないのである。
>>27 >尾張が2万なら毛野は5万くらいだろ。
「誇張」を入れても「洪水だらけの尾張よりは開発できてるから兵力はでかい」
んだから【それに合わせた数字】なだけですが。
尾張が2000なら毛野が5000という意味で5万といったまでですけど
そんなに変というなら「尾張が2万なのがそもそもおかしい」って書いてある
日本書紀28巻
(尾張國司守小子部連 鉤、率二萬衆歸之)
に文句言ってくれ。
尾張 鬼頭宏 5.5万 澤田吾一@ 5.5万 A 5.5万
上野 鬼頭宏 11.2万 澤田吾一@16.5万 A10.4万
下野 鬼頭宏 7.7万 澤田吾一@9.7万 A10.2万
尾張 人口5.5万人で兵力2万?
5.5 VS 18.9 or 26.2 or 20.6
1 VS 3.4倍 4.7倍 3.7倍
尾張が2000なら毛野氏は6800〜9400
尾張が5000なら毛野氏は17000〜23500
尾張が1万なら毛野氏は3.4〜4.7万
尾張が2万なら毛野氏は6.8万〜9.4万
「尾張が2万なら毛野氏は10万」
が正しいねー
5万じゃなかったわ、失礼。
うーん、見れば見るほど天武は尾張の軍勢で大逆転したとあるが 毛野氏の軍団規模はすさまじいなと。 「天武が大喜びした大軍勢の尾張を毛野氏は全滅」できるくらいの規模。 倭国軍主力だしな。第二軍総軍で1万7000で、他の地域があるにしても1万3000〜1万5000くらいは出せたな。 「壬申の乱で尾張2万」なんて嘘くさいが=実際2万じゃなくて2000だとすると実に現実通り。 >人口5万で兵力2000は「4%」だからそんな程度。<「人口の4%は問題なく出せる兵力数」 白村江の兵力数に関してはかなり信憑性が高いな。 毛野氏はこの時代に兵士が1万5000超えくらいいるね。 そんで尾張は2000だろうな。
690くらいの毛野氏は 平常動員数が1万3000で 最大動員数が2万6000くらいか?<人口の10%根こそぎ動員かけると 戦国時代だとすると兵力3万の大名だな。 戦国最大クラスの大名だな。 そんで遠征が多いから騎馬の比率も高いかと。
後の時代になるが、毛野はアテルイとの戦い、東北遠征でも数万の兵が徴用され疲弊している。 防人として九州へ行くにも、旅費が出るわけではなく、手弁当で行かねばならぬ。 九州に歩いて、一部船で行くにしても村中から有り金残らず集めなければならなかったはず。 白村江の戦いでも5万の兵を出してその殆どが帰国できず、生き残った兵は現地化した。 神功皇后の時代から毛野は武人として兵役に就いているから、現地化した集落が多い。 例えば、九州の豊前上毛町には三毛郡(みけの こおり)があった。 大和朝廷へ租庸調を差し出すのも自力で運ばなければならず、野垂れ死んだ。 大和朝廷が来てから毛野にはろくなことがない。 非征服民として、奴隷のように扱われたのだろう。 平将門の気持ちがわかるだろう?
>>29 >>30 確かにそんな感じだろうね。況してや当時の尾張は今の名古屋中心部辺りまで
内湾状態だったわけだし。
>平将門の気持ちがわかるだろう? 将門の方がひどいですぅー 東国を滅ぼしたのは火山灰以外では将門=桓武平氏が最悪だった マジで東国が荒廃したからな。
尾張は平安時代から戦国時代にかけてすごい石高=人口が増えるが それは後の時代のこと。 1000年以前は全然まったく毛野国には歯が立たない地域。 ↑ みたいな貧乏地域の援軍で畿内が一気に盛り返すって・・・ ワロス どんだけ畿内ザコなんだよ。
36 :
日本@名無史さん :2014/09/07(日) 22:20:38.70
古代の公共の宿、駅家って食事付きと違うか。 奈良時代になると白河軍団や安積軍団、磐城軍団とか計八軍団はあったけれど、 上野軍団ってあったか。 ?
37 :
日本@名無史さん :2014/09/07(日) 23:04:02.90
押し入り強盗は犯罪である。それでは最近では、あまり聞かない押し入り投宿とは如何なるものを指すのであろうか。それは戦で、その日の戦いが済んで見ず知らずの民家に問答無用で強引に投宿すること。 幕末の天狗騒ぎの際に見受けられた。それでは最初に行った集団は誰なのであろうか。もしかして、それは貴方の近くにいる毛野氏関係者かも知れない。 押し入り投宿、万歳!! 朝から酒飲むなよ。
38 :
日本@名無史さん :2014/09/08(月) 00:37:54.04
>>35 尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
スコットランドが独立するかもしれないな 毛野国も独立すればいい 初代天皇の崇神から賜った私領だもんな。 毛野氏は独自に東国を支配してもよいとのお墨付きをもらってる。 今の天皇には毛野国を支配する根拠がない。 毛野国はそもそも日本建国以来の独立国だろ。スコットランド程度の関係。 崇神とそれ以降の天皇は格が全然違うから何言ってもムダ。
畿内天皇家は西国支配 毛野氏は東国支配 というのが日本の初代天皇の崇神が決めた国是なんだが。 なんで天皇家が東京に来てるんだろうか・・ 根拠がないんじゃないの? 誰の許可? 天皇勢力は西日本ほったらかしにしてるんだが・・ やっぱりバランスに欠ける配置だよな。東国は親王国で、皇太子が来てもいいが 本家の天皇家は大阪なり京都なり奈良にいるべきだろ。
41 :
日本@名無史さん :2014/09/08(月) 07:37:49.33
東京奠都は、知る人ぞ知る我らが武茂郷出身の北島秀朝らの尽力により実現した。明治維新の総仕上げ。一部の御三家の水戸藩のものは倒幕に動いたのかよ。別におかしくはない。 鎌倉幕府を倒したのは、新田義貞や足利高氏らである。江戸幕府を倒したのは、御三家水戸藩の尊王攘夷思想が源流にある。 ところで、もうすぐ毛野が独立するって。本当かよ。 バチカン市国よりは大国になるのか。 周りにいる奴は、高い通行税を取ってやれ。関税は350%にしようぜ。直ぐに干しあがるな。 年末年始ごろに街の何処かで忠臣蔵が放映 されていて、吉良上野介が出てくるけど、少し前まで上野国をこうずけこくと読んでいたよ。普通は、こうずけって読むよな。ところで吉良氏も足利氏系で源氏か。毛野には、随分と源氏が多いな。
このスレの基地外率はパないな
43 :
日本@名無史さん :2014/09/08(月) 22:48:59.08
北島秀朝--「天皇と窮民に尽くした人」という資料があるらしい。 読みたくなって国会図書館から取り寄せたよ。
44 :
日本@名無史さん :2014/09/09(火) 06:51:19.31
北島秀朝は、天皇の御東行だけではなく、太政官も移されることも望んだとされる。次のような趣旨の書簡が残されている。 「関東はひとまず平定することが出来ましたが、天皇の御威光はまだ全国に広まってはいません。人々は、ただ官軍の強さに恐れを抱いて服従しているにすぎません。 願わくば天皇に東京に来ていただかなくては、どんなに有能な人でも政治を安定させることは難しいと思います」 秀朝の明治元年の京都滞在は三度にわたる。時期と頻度からいって、その活躍の度合いが分かるであろう。 実は京都には、天皇の御東行に対して反対勢力が存在していた。
45 :
日本@名無史さん :2014/09/09(火) 11:44:25.55
北島秀朝は、明治元年7月26日から京都にいて八方手を尽くしているらしかった。しかし多くの案件は滞ったままだったらしい。そこで北島は、京都から東京に戻ると9月6日に江藤新平と二人で大久保利通宅を訪ねて、 上京の上で反対派を説得して御東行を実現する旨要請した。大久保は要請に応えて翌7日に西上の命を受け9日に海路東京を立ち13日に京都に着いた。直ちに大久保は太政官に出頭して御東行の義について協議した。 大久保利通得意の熱弁をこれでもかと言わんばかりに奮ったのであろうか。その結果、御東行の京都出発は、9月20日に決定したのである、但しこれは、第一回目の御東行で後の東京奠都の予行練習の様なものになった。 なお、予算関連については、すでに一応の目処は立ったことから8月13日に三条実美は、「御東行後御用費之義」の手配の整ったことを岩倉具視宛に通知していた。
毛野国独立運動まだー? グンマーは治外法権なんだよ。崇神天皇がそう決めたんだよ。 東国15ヵ国は「毛野氏の私領」です。 将門は勝手に名乗ってよくないが 「毛野国は崇神から賜った独立領地」なので天皇制なら逆らえませんよ−。 天皇には畿内があります。 西は天皇 東は毛野氏 これが日本の正しい国境です。
日本書紀の崇神期に書いてあるじゃん 「豊城は東国を治めよ」 って。 東国を治めて良いのは垂仁の末孫ではなく毛野氏です。
まーた基地外出現かw
49 :
日本@名無史さん :2014/09/09(火) 17:52:10.30
西も東も分からない輩が、能書き垂れるな。 例えば、富山はどちらですか。?
50 :
日本@名無史さん :2014/09/09(火) 18:37:22.75
当時の日本は、百余国に分かれていた。仮に百余国を120か国と仮定した場合、その内の15か国は、日本の国土の約12%になる。 狭いなあ。 これで独立国気取りかよ。ポルトガル本土は狭いけれど、ブラジルは広大だ。少しはポルトガルやスペインを見習ってくれ。
その「狭さ」に萌えてしまう俺がいる。
狭いところが好きなのも毛人の特徴。 うさぎ小屋のような住宅、ワンルームマンション、カプセルホテル、一人用テントが好きだ。落ち着く。 恐らく、古代人も、竪穴式住居だけではなく、岩穴に住んでいたのではと思う。 吉見のような百穴が関東各地に見らるが、あれは、古代のビジネスホテルのシングルルームかワンルームマンションだと思われる。 空の下では眠れない、体育館の真ん中でも眠れないのです。
>>53 どうなんだろうかねぇ……自分は判らなくはないと思う口だが。
そんなオレは基地外様方から氏族丸ごとで誹謗中傷を喰らう足利(源姓)門葉の後裔w
>>50 まずは毛野国が独立して毛野氏直属の軍団をつくってから、南関東を取るんだよ。
東京攻略なんかちょろいよ。
大本営も防衛無理だと判断して長野に基地をつくってたし。
アメリカ海兵隊と互角に戦った毛野国なら問題なく東京は取れます。
練馬駐屯地潰せば勝てる。
第十二旅団(群馬栃木連合)で第一師団(練馬)を倒せばいいだけ
都市部の戦車戦を想定した10式戦車は毛野氏の南下を阻止するために開発されたんだよ。
グンマーとネリマーの戦いがはじまると 勝った方が関東平野を掌握できる。
57 :
日本@名無史さん :2014/09/11(木) 21:51:26.12
国内戦は明治十年の西南戦争が最後かと思っていたけれど、そうでもないらしい。武蔵国造の乱で助太刀して負けた怨念を今こそ晴らす時だ。 1500年は永いようで短かった。 いざ出陣。 座間や横須賀にいる外国勢は何方につくのか。 私は、永世中立人間なので高みの見物といくか。
>>56 ネリマーでは無理だ、存在しないw
此処はトシマーを担ぎ奉らんぞ!w
福島の自衛隊はザコだった すぐに逃げたしな。 敵ではない 練馬も「烏合の衆」だからザコだろ。命をかけて練馬を守ろうとする連中がどれだけいるのか? 静岡の砲兵部隊は市街地戦じゃ使えないし。 けっこう勝率高くて笑える。 ザコしかいない練馬駐屯地を1つ潰せば霞ヶ関を毛野国が取れます。 まあ東京を取ったところで、群馬と栃木が争う内乱になるわけだが・・
群馬と栃木が連合組んで 要するに練馬の陸自を倒せばいいのです そんなに複雑怪奇なプロセスはいらないです。 命をかけて東京を守ろうとする陸自がそんなにいるとも思えない。 群馬栃木はやばすぎる。 ろくに物資がない太平洋戦争でアメリカの精鋭師団でも勝てなかったんだぞ。 全滅させて撤退させたしな。 硫黄島を守った九州の師団の強さは認めるが九州の師団は練馬にいないから「勝てます」 地方から支援にくるかもしれないが、主要道路をぶっつぶすし、南下速度が速ければ勝てる。
グンマーやネリマーより、ソウマーの平将門の方が強かった
62 :
日本@名無史さん :2014/09/11(木) 22:08:49.21
戦場ヶ原と南北朝期の内乱と二連敗しているから、負けた側の敵愾心も爆発寸前なんだろうな。
63 :
日本@名無史さん :2014/09/11(木) 22:16:53.48
天狗党にも負けたのか。天狗党には、下野の人間もいた。
>>62 そんな状況下において岩松っちゃんちなオレ気分複雑(´・ω・`)
明治以降にとんでもない内乱起こしたのは
西ク隆盛以外じゃ北関東の連中
警察の手に負えず
「東京鎮台」がでてきたしな
このときグンマーと栃木が同時立ち上がっていれば南関東の明治政府は崩壊したと思われる。
北からの南下速度を確保できるかが重要。
>>61 将門は大手門に首塚がある。つまりあそこは将門の勢力圏だな。
北関東から将門の首塚まで進軍するべきだろう。
>>65 ところが将門の首塚はおそらく崇神帝による四道将軍事蹟にも係るやもしれぬ
出雲系氏族の墳墓跡と見るべきなんよね(´・ω・`)
>>66 ご、ごめそ(´・ω:;.:...
毛野軍団=第12旅団 (陸上自衛隊) 司令部を群馬県榛東村の相馬原駐屯地に置く。 >陸上自衛隊で唯一、空中機動力を高めた即応近代化旅団である。 ↑陸自唯一の空中機動力をもって練馬駐屯地を2時間以内に強襲しようぜ! >また、首都圏の防衛を主任務とする東部方面隊隷下であることから >4個の普通科連隊の重迫撃砲中隊は2個射撃小隊編制から3個射撃分隊を有する ↑ 首都圏防衛しなくていいから 重迫撃砲で逆に首都圏攻めようぜ! 霞ヶ関は3日くらいで攻略できると思うわ。
畿内は後方基地 「女子供がいる場所」 前線基地が東国 将軍・元帥は前線にいるもんだ。 皇族は安全地帯で昼寝していることに威厳があるのではなく ローマ皇帝アントニヌスのように戦場で戦うべきであって 最前線で鼻水たらして泣いてた上毛野田道こそ真の皇族だろう。 応神以外じゃ畿内の偉い王様はろくに戦ってないのがねー。 戦国時代も応仁の乱もほったらかしで何してたの? まあ毛野氏は女までも男を蹴っ飛ばして無理矢理戦わせてたわけで(上毛野形名妻) サイヤ人みたいなのが毛野氏だな。 崇神は垂仁はアホの子だと思ってたのかもしれん。 「仁」ってw 要するに無能ってことだろ 豊城入彦命の末孫は生まれも育ちもガチな戦闘集団で崇神の真の後継だな。
武力と権威が一体になって口だけ番長じゃなくて 実際に戦地で将軍として戦死しているなど、血も流している。 まさに皇室のあるべき姿だなー 指揮官だけじゃなくて率いる兵士も精強揃い 畿内の皇族も今の東京の皇族も軍隊の指揮監督権がないわけで 後鳥羽・後醍醐・明治・大正・昭和天皇も無理だった皇族将軍だな。 部隊を直接率いて勝利して天下を治めた唯一の例は天武くらいか。 天武はまあまあ認める。 雄略は何したかそもそも分からん。 あと神武か崇神だな 応神とは互角か。負けてはない。 神武・崇神>>毛野氏・応神>>天武・百済王>>天智>>その他なんらかの戦乱との直接関わりあった天皇>>何の指揮権もない置物 99%の天皇より普通に蝦夷の方がすごいのでは? 指揮権があったしな。 蝦夷の将軍は置物じゃないよな。
継体もすごいよな。おそらく継体自身が直接なんらかの軍事行動をして 畿内を征服している。継体も天武クラスか。 磐井(毛野氏?)の九州勢も軍事行動の独立した指揮権があったようだ。 天智もまあまあだが、「負けた」から天武より劣るな。 毛野氏も何度も負けているので、天智よりすごいとは限らないが 長期間活動しているのでプラスだな。 神武崇神応神継体天武の合計で畿内が優勢だが=軍事行動を指揮してるので 結局 毛野氏と同時代。 そういった権威と武が一体になったのは700年以前という・・ その後は抜け殻のようなのが皇族と。 そもそも最前線にいかないと情勢も分からないのでは? ミッドウェーやガダルカナルに皇族が行って、戦死するなり必死で報告するなりしてれば もう少し太平洋戦争はまともだったのでは? 皇族独自の情報ルートすらないというのが・・ それで戦争を始めるか終わるかをまともに判断できるのかなと。 やはり「直接指揮」をしている皇族が歴代最上位ランクというのは間違ってないな。 野山をかけるわけで、情勢を良くも悪くも理解しているし、 それだけでどっかの氏族の傀儡じゃなくて天皇独自の情報網と指揮系統があったということ。 作戦に失敗したら死ぬわけで、作戦の責任も体で十分とっている。
イギリス王室も皇太子が戦場にいかされるよな。 イギリス王室にも何の権威もないけど、やっぱり皇族と武力は分離しちゃだめだと思うわ。 自分で見ないとやっぱりわからないだろ情勢が。兵士の声も聞けるし。 象徴天皇でも置物はよくないな。今の皇太子はひどいw
このスレ、ネタスレ化してきてんなw
伊達氏は毛野氏なんだな。 毛野国の境界付近の氏族だったらしい。 出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられる 伊達氏は伊佐氏が祖か その伊佐氏は >従来は藤原氏の藤原北家山蔭流とされてきたが、毛野氏とする説も提唱されている。 と書かれている。 藤原でも源氏でも平氏でもなければ毛野氏だろうな。 それ以外の氏族もあるが、それもここら辺の氏族の源流はどうせ毛野氏になる。 伊達政宗は毛野氏らしい。
こうして見ていくと、伊達氏の先の伊佐中村氏と宇都宮・八田氏とは、遠く遡ると同族同祖の関係にあって、実際には下毛野一族の車持君氏ないしは韓矢田部造氏から 出自したものではないかとみられる。ともに藤原姓を称し、名前に宗や綱の字が多く見えるという共通点もあげられる。 以上、伊達氏の遠祖について、多角度から見てきたが、資料が乏しく断定はできないものの、多くの関係者からみて、 毛野氏族の出とみるのが比較的自然な模様である 伊達家臣の)只木氏は下野国足利郡只木村、いま足利市東端部の多田木に起ったといわれる。 系図スレでも伊達氏=毛野氏説が有力 なるほど伊達氏は毛野氏なのか・・
76 :
日本@名無史さん :2014/09/13(土) 08:18:48.97
伊達政宗は、近世においても活躍した人。出自が分からないのであれば不詳というのが適切である。 宇都宮氏の綱という文字は、縄綱や藤綱の藤の方からきているのではないか。? 毛野氏というのは、ご立派氏族名である。実際に毛野氏であるならば、何故それを隠匿して公明正大に藤原氏であることを喧伝するのか理由が分からない。 毛野氏は、藤原上野国司を殺害しているのである。殺害した相手の苗字を名乗るのも奇妙と言わざるを得ない。藤原宗円と毛野氏が同族とは思えない。
77 :
日本@名無史さん :2014/09/13(土) 08:47:01.32
将棋というのは、面白い嗜みである。日本の将棋は、中国将棋とは違うらしい。チェスとも違う。生け捕りにした敵兵を、直ぐに自陣に組み入れられる。 日本で改良された将棋にモデルはいるのであろうか。自分なり源平合戦を参考に考えてみた。ちなみに俺、奨励会員と一度一戦を交えて勝っているんだ。 王将 一人 文字通り王で将軍。頼朝。家康。足利義満(自ら日本の王であることを表明した) 飛車 一人 牛若丸 角 一人 那須与一。屋島の戦いは立派であった。 金将 二人 大勢いて甲乙つけがたい。 銀将 二人 同上。癖のある梶原景時などは適切か。 桂馬 二人 忍者のような動き。服部半蔵が目に浮かぶ。 香車 二人 武蔵坊弁慶等。 歩 九人 名無しの権兵衛。源平合戦当時は騎馬軍団中心か。
>>76 網野用語になっちまうが「荘園公領制」が発達する過程で
毛野氏が時代について行けず没落=ブランドとしても価値が
下がってきたからだろうな
出羽の吉彦氏のような名乗りの変化もあったりするし
但木土佐殿には気の毒であった
81 :
日本@名無史さん :2014/09/13(土) 15:19:19.16
奥羽越列藩同盟には水戸藩の市川三左衛門率いる保守門閥の諸生派も与して慶応四年春から越後方面で本格的な戦闘を開始していた。一部は佐渡に渡って軍資金を求めたが果たせなかった。 やがて水戸城が手薄なことを知った市川等と長岡藩約百名を加えた総勢五百余名は、会津の陥落直前に、「勝機到来ぞ、今こそ手薄な水戸城を奪還して佐幕の兵を関東に挙げようではないか」 と叫びながら南下していった。長岡藩兵は銚子から、願わくは仙台に向かう意向だった。しかし銚子では、飛び地として高崎藩兵が護衛していた。もっともこの時には、仙台藩は、すでに新政府軍に 降服していた。長岡藩兵も白旗を挙げる。 なおも水戸藩諸生軍は、抵抗を続けようとしたが八日市場あたりで壊滅した。しかしここでも市川三左衛門は逃走。今の東京都港区三田の娘の嫁ぎ先で ある宝生院や剣術指南役宅などに潜んでいたか、やがて水戸藩関係者によって逮捕されてしまった。 宝生院には都々一坊扇歌の妻の墓所でもあった。
北島 秀朝(きたじま ひでとも)旧姓・益子。 益子氏の本姓は、下野宇都宮氏を支えた紀清両党の紀氏だ。 その子孫が出雲国造家北島家の養子となり、東京遷宮に関わった。 下野宇都宮氏と言えば、祟神天皇、豊城入彦、下毛野氏の流れを汲む東国の支配者の正統。 古代の神武東遷も出雲の国譲りによるもので、裏のそのまた裏で日本を動かしているのは出雲国造家なのだ。
83 :
日本@名無史さん :2014/09/13(土) 16:26:43.54
北島家の養子になったのは事実、しかし京都には、既に北島家は無かった。これは岩倉具視の権謀術策か。あるいは当時、名前を変えるとは護身のためであった。単純に、その理由と思える。 元、東山道軍大監察の北島の妻は、江戸は浅草下平右衛門町三番地の松岡蒼造の妹である。最早、旧家としての北島家の痕跡は何もない。
84 :
日本@名無史さん :2014/09/13(土) 16:46:01.83
北島は、源頼朝や藤原秀郷に憧れていて秀朝というカッコいい名前にしたのであろうか。何となく気になる。
>>79 毛野氏は百済を支配してたのに何をいまさら・・
左翼のせいで毛野氏の朝鮮の300年統治が教科書に書かれなくなって残念だね。
徳川や秀吉すらやってないし、源氏も平氏もやったことがない海外遠征・海外統治を
毛野氏はやってたわけで
毛野氏を過小評価しすぎた時代は終わるべきだろう。
「レベルが違う」氏族です。
前橋から霞ヶ浦の西側 筑波山までの平野部が毛野氏の領地かな。 霞ヶ浦から千葉の下側ラインは違う。 これだけの平野部というと名古屋平野全域 大阪・奈良・滋賀の平野部全域と互角以上 平野面積だけ見ても古代毛野氏には恐ろしいまでの軍事力があったと思われる。
畿内が信長 東国が家康の関係でもないな 信長はいざとなれば家康を滅ぼせるが 防衛側が有利なことを考えると 毛野氏を滅ぼすのは畿内全力+名古屋でも軍事的に不可能でしょう。 畿内と東国の関係は思った以上に緊張感があったのでは? というか、毛野氏は滅ぼせないわけで、独立地域だなこれは。 日本はアメリカを滅ぼせないし、アメリカはできるが、 両国は同盟してるのと同じようなもんか パワーバランスがおもしろいな。
崇神が「豊城は今後 東国を治めよ」 と言ったのは文字通りそうなってたわけで 畿内の支配権認定とかでもなんでもなく、純粋に独立地域と化していたようだ。 毛野氏は朝臣にすぎないが、52朝臣の中では完全に別格だな。 筆頭家老ですらないな、「同盟してやっている」だけの関係。 末期の秀吉政権の中での家康と同じポジションか。もっとすごいか。 畿内政権が日本すべての軍事力を動員すれば理論上は毛野氏を滅ぼせるが 天智が九州に無視されたように、地方が必ずしも畿内の天皇に完全に従い、 十分な兵力を出兵できるとは思えず。 秀吉と家康の関係よりひどいかも・・ 畿内に東山道直結でけっこう近いから毛野氏側からの侵攻は可能なのな。 関ヶ原をいつでもおこせたのが毛野氏か。
戦争するには理由がいるから 必ずしも軍事力が畿内より数倍あるからといって勝てるわけではないが。 (なんで戦うの?と家臣に疑われる) いつでも畿内を滅ぼせる毛野氏だったが=武田信玄の比ではない たまたまやらなかっただけですね。 300回くらい畿内を滅ぼせる可能性はあったのでは? 逆はないけどな
毛野は部族ではないので毛野氏は滅ぼせない。 当時の毛野はトヨタと三菱商事と日本郵便と専売公社とセブンイレブンを合わせたような東日本を牛耳る巨大組織だった。 つまり、武器や農具など鉄製品、海産物や塩と酒といった必需品の生産、物流に加え、通信、小売まで支配する巨大コンツェルンだ。 しかも、関東の主要道路沿いには毛野の拠点が2、3キロ毎に置かれていたし、関東以外にも支店網があった。 中仙道や東海道の主要宿、そして近江に一大拠点があったし、遠く九州、任那(恐らく、木浦付近)にも広がっていた。 白村江の戦では5万の兵を動員する力はあったが、政治、軍地面では表だつことを嫌ったようだ。 毛野には総帥はおらず、重要事項は合議で決めており、中央集権ではなく、アメーバーのような有機体組織だったのだ。 東国の六腹と呼ばれる有力氏族も、毛野を構成する大親分の一人にすぎなかったし、毛野が長い歴史の中で培ってきた習慣を無視するものは徹底的に排除された。 徳川家康は、毛野の伝統や既得権を認めることで東国の政治や軍事面での支配を認められたのだ。 つまり、士農工商は徳川の支配下にあるけれど、それ以外の 穢多(えた)、非人は浅草団左衛門等の 穢多頭や各地の大親分、 僧侶は各寺院、神官は各寺院が支配する権利の二重構造があったのだ。
海なし県の群馬+海なし県の栃木+海なし県の埼玉 ↓ 海なし毛野国 毛野国は海を確保すべく、海を求めて南下政策をすべきだろう
邪悪な海あり県を軍事力で平定すべき。
>>94 長野や山梨、甲斐武田や上杉も殿様はともかく主要な将は毛野の血を引くものたちだろう。
上杉は、その後やはり盆地の米沢に移った。
盆地好きの伝統はヤマトタケルの頃にすでにあった。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠 (やまこも)れる 倭しうるはし
これは縄文人の生活に適した場所だったと言うことで、海賊に襲われないし、大津波も来ない。
長く1万2千年も続いたのは盆地の気候が比較的安定していたからでもある。
そして毛野の居住地は、更に古い旧石器時代の集落跡とも重なりそうだ。
96 :
日本@名無史さん :2014/09/14(日) 11:23:03.26
>>60 なぜ硫黄島を守ったのが九州?
鹿児島の硫黄島(いおうじま)と東京の硫黄島(いおうとう)を
取り違えていないか?
日本の首都は群馬か奈良にすべきだろ 毛野氏は海外遠征しまくったせいか、 海外からの侵略にも怯えていて それで内陸部を重視してたわけだな。 「沿岸部がやられている間に対策をうてる」からな! 東京が首都なんて韓国の首都を釜山にするような愚かな行為ってことだな。 一瞬でやられるじゃん。 バカ徳川様は海に面したところを首都にしたくせに 海からの侵略で一発で終わるとかマヌケもいいところ 毛野氏は海外遠征の経験が豊富なので、海に面した地域の防衛の脆弱性をよく理解してたと。 やっぱり毛野氏は総合的に徳川より遙かに上だな。
99 :
日本@名無史さん :2014/09/14(日) 20:20:41.36
歴史街道を行く 群馬編 私が初め群馬の地に足を踏み入れたのは、平成二年頃の社内旅行であった。サファリーパークという動物園に行くことになった。車の中から見る百獣の王ライオンは少し眠そうな感じはしたものの野迫力満点であった。 旅行から戻るとテレビや新聞で飼育員がライオンの餌食になってしまったという報道があった。ライオンの前では油断大敵であると肝に銘じた。 そのころであろうか、東京は目黒駅西口の中華料理店で昼食を取った ところ、カウンターの隣の席では、何処かで見かけたことがあるよう方がごく普通のラーメンを頬張られていた。私も何か麺類を注文している。食事を終えて店から出ると同僚から、あの方は司馬遼太郎だと教えられた。 何でも近くの杉野女子大で教鞭を執られていたということで同僚な話では、「時々、この辺にも出没される」ということであった。私は、いききなり十か所位の歴史街道を行く旅をおえたような気分になったものである。
海なし県の方が外的の侵略に対して防衛できる ・そもそも都市部が海から遠いので地理的に何もしなくてもある程度の防衛になる。艦砲射撃も不可能 ・「海は恐ろしいもの」という発想の下で、海をそもそもの侵略者とみなしている ↑ 海有り県は海があまりに目の前すぎて、「海は海水浴をして楽しむもの」という間違った判断をしてしまう。 →海有り県ほど海岸線の防衛に関して完全に無頓着(徳川幕府は江戸湾にありながら、黒船までお台場防衛を一切してこなかった) 海がない内陸部では「海は邪悪なおそろしいもの」という「正しい判断」をしているので 防衛ラインを内陸部の山間部にひきやすく、それ自体が外的の侵略に対して絶大な効果がある →黒船なにそれ? 見えないしw この「海はおそろしい未知なるもの」という内陸人特有の発想が ペリリュー島の防衛に向いていたのであろう。 フィリピン・サイパンで海岸線で無様に玉砕したのに対して 内陸人はそもそも「海は怖い」ので山城を築こうとする習性があり 「海は楽しむもの、おもしろいもの」という誤った発想の連中が負けまくるのに対して アメリカに対して内陸人は唯一猛攻を行い、イーブンに持ち込めたのである。 海なし県こそ首都に向いているのはこのため。 ・そもそも津波なんて赤城山までこない ・外人が侵略してきても「沿岸部の尊い犠牲」によって時間を稼げるので 防衛ラインを構築できる。 海あり県の発想は海外からの侵略に対して非常に脆弱なのは津波被害をみても分かる。
海あり県の県民性はマヌケで無様の連続であり、任せられない。 日本の首都は今後群馬・栃木にすべき。 千葉や神奈川や東京は海外からの攻撃にやられやすいので 「やられ地帯」でしかないので内陸部に首都を遷都すべきだろう。
102 :
日本@名無史さん :2014/09/14(日) 22:15:56.53
平成になったばかりの頃に首都機能の移転先は、那須地方が有望ということで、どこかの役所まで行って、取り纏められた資料を受け取ったりしたもんだ。 当時の青島都知事は、首都機能の移転には断固反対しますと頑張られていたので。私は、「首都機能の移転には賛成します」という葉書を送付したところ、 青島都知事の直筆で、「貴重なご意見有難うございます。今後の都政にご参考にいたします」という返書が届いて驚いたことがある。
スコットランドが独立するかもしれない 毛野国も独立しよう!
群馬・栃木・埼玉は連合を組んで独立すべき。 秩父一揆程度ではなく独立運動をすべきだろ。 日本の首都を群馬にしない限り、毛野国独立を撤回することはできない。
105 :
日本@名無史さん :2014/09/15(月) 08:51:14.20
群馬は100%ない。榛名山や浅間山が火が噴きそうだ。阿蘇や桜島のある九州もない。 那須と筑波周辺の争いとなるであろう。
内陸の山の中の毛野氏の方が徳川よりも海外に行きまくってるのがおもしろいなー 家康は「朝鮮にも東北にすら行ってない」 家康は「中国軍と戦ったこともないし、東北で戦ったこともない」 鎌倉北条の活動範囲はごく狭いし、元寇で戦ったのは九州・西国の武士団であって 元寇で東国が何してたのか分からん。 偉そうに命令してただけでは? 時宗が九州で戦ったわけでもないしな。口だけ番長で九州が戦って血を流したわけだろ。 海すらない内陸の毛野氏の方が活動範囲が徳川や北条氏より遙かに広いのがおもしろい。
107 :
日本@名無史さん :2014/09/15(月) 11:07:46.21
毛野国は、香取海に面していたのではないか。
確かに香取海勢力(鹿島、香取両神宮を奉祭)と、両毛の勢力(つまり元は毛野氏に源流)とは古くから繋がりがあるっぽいな。 鎌足は鹿島の出だし、息子の不平等は毛野(車持)氏が母系氏族だ。 また、藤原秀郷は母が鹿島氏(大中臣貞忠に比定する説あり)。 将門の与党に藤原玄明というのがいて、別名が鹿島玄明とも名乗っていた。玄明もその名と根拠地から、母系氏族はおそらく鹿島神宮宮司家・大中臣氏の一族であり、秀郷とは母系で同族の関係にあったのだろう。 さらに、その秀郷の父・藤原村雄の娘(つまり秀郷の姉妹)が、常陸平氏・平国香と婚姻している史料がある。つまりこれによると秀郷と貞盛は従兄弟同士ということになる。 平将門の乱はこれらの姻戚関係が複雑に絡み合い、土地の利権関係などが一筋縄では行かなかった結果起こったものなんだろうな。 さらに、上で誰かも述べているように、伊達氏も、常陸と毛野に跨る前史を有しているようだ。
>>108 一筋縄では行かなかった結果
↓
一筋縄では行かなくなった結果
>>106 他氏族貶してまーた逆に毛野氏sageやってんのかよw
上毛野、下毛野、武蔵、相模に別れる前の毛野には、太平洋岸から内陸部の上毛野、下毛野に通じる道は幾通りもあって、西から、 1.平塚市の相模川を真っ直ぐ北上する西の国境線ルート。ここは相模国なってしまった。 2.三浦半島城ヶ島ルート。ここは、神津島の黒曜石積み出し基地でもあったが、武蔵国になってしまった。 3.葛西、長島ルート。ここは、古地図で見ると分かりやすいが、将門の本拠地葛飾郡の南端にあたる。 4.船橋、太日川ルート。ここが最重要ルートだ。上毛野の軍港といっても良い。 その他1.霞ヶ浦、美浦村付近。 全国を代表する縄文遺跡である「陸平貝塚」があり、古代の食料基地だった。 その他2.水戸、ひたちなか。那珂川と中臣の中は同じだろう。 鬼怒川の向こうは異国だが、敵対していたわけではなく、交流があった。
>>111 考古学的知見からすると、所謂後の毛野国圏内の古墳というのは
いつ頃より発生しはじめかつ、築造年代的にはいつ頃が最盛期だったのかな?
御教示頂けると有り難い。
113 :
日本@名無史さん :2014/09/15(月) 16:21:36.36
「これは今時珍しい掘り出し物ですよ」と口八丁手八丁に話す商人に聞いてくれ。 東国は西国よりも遅く、那珂川西岸の那須国の全方後方墳等の築造は、4世紀後半みたいですよ。 毛野国は、那須国よりも少し遅いのではありませんか。
114 :
112 :2014/09/15(月) 17:09:20.99
栃木県真岡市の「大前神社」、この社の祭神は当初から 大己貴命(大国主命)、事代主大神だったのかな? どなたか同社にj詳しい方の知見・見識を巡りその詳細を 御教示願えたら幸いです。
毛野氏である伊達氏が慶長遣欧使節でスペインと海外交流しようとしたのは 毛野氏の海外へ向けての発展性を示すものだろう。 徳川や北条は国内どころか関東のローカルな活動に止まったただの田舎者。 毛野氏は関東にとどまらない国際的な武士団である。
>>114 神社の祭神はその地域の豪族と関わりがある
=豪族が自分の敬う祭神をかかげるために神社をつくるため
大前神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE 芳賀郡周辺の遺構は中村廃寺がある
瓦はあまりみつかってないが、軒丸瓦は単弁・複弁がある典型的な
白鳳時代の瓦で、群馬各地・畿内でも見つかっている。
下野だから下毛野氏が関係しているとみてよい。
毛野氏である宇都宮氏関連ではないかと思うが、
祭神からはアマテラスやオオクニヌシなど「ごくありふれた祭神」しか出ないので
何とも言えない。
後の時代に祭神を「一般的なものに」変えた可能性もあるが
社伝の記録は創建時のことについてはあまり書かれてない。
豪族の解明のために真岡市の歴史を古墳時代から詳しく調べないといけないだろう。
がんばってな。時間があれば六国史を調べておく
>毛野氏は関東にとどまらない国際的な武士団である。 詳しくは武士団の定義からは外れるけどな。 武士は公家=摂関政治ができるときに分離された雑用係で 元は皇武は一体のもの。 たとえば神武や崇神や応神とその兵士どもが武士団かと言われたら「そうじゃない」わけで 神武や応神は武士団の統領でもない。 学者的な定義からは「毛野氏は武士団ではない」 が、「武」に関わる氏族であることは確か、武士団ではないが、武○○? しかしこれを明確に定義する言葉が日本の史学ではないわけだな。 武力が権力から分離された藤原氏以降=摂関政治時代しか扱わないようになっている。 臨時任命とも違う。 「武士団の前の武士団」をなんというのか分からないし、間違っているが 暫定的に「毛野氏は武士団」としておく。 というか「独立国」とすれば、国家ならば当然国家独自の防衛力=軍事力を内包するわけで 「毛野国は完全な独立国」というのが最も妥当か=独立国でも軍事行動を畿内の政府ととってもおかしくない =リムパック演習は総勢22ヵ国が参加するが、それぞれが家臣や部下という関係でもない。 毛野国が畿内天皇家と軍事行動を取っても全然おかしくないし、「畿内主導」でも東国の独立性は変わらない。
>学者的な定義からは「毛野氏は武士団ではない」 >が、「武」に関わる氏族であることは確か、武士団ではないが、武○○? >しかしこれを明確に定義する言葉が日本の史学ではないわけだな。 「毛野は独立国」だが、「独立国が日本各地にあった」 とすると「畿内主観の統一国家大和」の観点から外れるからあえて取り扱わないのかもな。 (武士団は出自からして臣従関係が公家以下だったが=それに反発したのが武家政権) わけのわからない構造の武家政権と違って古代豪族の毛野氏は独立性がかなり認められるので 「独立国で畿内と同盟関係」だったというのがもっとも正確 本質的に主従関係が分断されている。 「そうは言っても家臣が出自ではないか」という反論があるが 豊城入彦命に限っては「そもそも家臣ではない」ので「畿内の並立関係」にある そもそも豊城は「垂仁の兄」なわけで 長兄優位の後世の価値観からすれば 「畿内は弟の国」だろ。 かつ軍事力についても豊城系統の方が最初から畿内を上回っている =畿内の反乱の鎮圧をまかされている。 "出自からして家臣ではなく"、"その後も家臣になった覚えはない"。 毛野国が占領されたこともないし畿内に合戦で負けたこともない。 しょぼい合戦で緑野屯倉を渡しただけ=国境紛争があった程度 武士団でもなく家臣でもない。 これを定義する言葉は「毛野国は独立国である」としか言いようがない。
「毛野は独立国」であるので独自の軍事力と指揮権を有する。 畿内が毛野氏に官位を与えることもあるが、 天皇がイギリス大使に勲章を与えたところで、イギリス大使はイギリス王室に属するわけで、イギリス大使が天皇の家臣団なわけではない。 →毛野への官位授与の有無は毛野国の独立性を否定するものではない。 毛野氏は東北遠征に従うこともあるが、「同盟国間の協調軍事行動」とすれば 日米軍事演習くらいのもので、 これも毛野国の独立性を失うことにもつながらない。 結局350から750くらいまでの400年間〜もしくはさらに延長して500年以上 毛野国は倭国の中で独立国として君臨していて、不可侵領域だったと言える。 毛野氏の私領だな。 毛野氏が自力で先住民の関東の縄文人から奪い取った地域で官位や任命と無関係。 この関東の独立国が完全に解体されるのはかなり後の時代になると思われる。 蝦夷や熊襲問題ではないな。 「関東に400年以上独立国が存在した」という問題は後々重要になってくるだろうな
基地外はハンドルつけてくんねーかなー 下らねー与太話はいらねーんだよ
>>120 あなたは、どのレスを基地外だと感じたのか?
アンカーを付けて、簡潔に理由を書いた方がよいですよ。
でないと反論もできません。
個人叩きになるのは嫌だから、個人的にはハンドルは付けない方が良いと思う。
なるほど、毛野国は水源も多数のダムによる電力発電もあるわけだな。 即座に南関東の息の根を止める恐ろしい地位にあるわけか。 「東京の水源地を有する」ってすげー優位性だな。 その割に立場が低いのはおかしい。 南関東に何も依存してないどころか、毛野国の資源に南関東すべてが依存しているというのが正しい。 毛野が独立すれば、関東は電気も止まるし、水も止まるのか・・ 中東で油田を占拠してるのと同じだな。 奥多摩水系だけではまかなえないはず。 関東は利根川に依存し、利根川は毛野国が制していると。 ふーん。まさに要衝だな。
>>121 スコットランド独立が盛り上がってるので、
「毛野国独立」をネタにして盛り上がろう!というだけです
そもそも日本史スレなんて所詮すべてネタスレだろ。
「おもしろくない」という批判は受け入れるがw
毛野氏は四六時中戦争してた武装集団なので、 関東の軍事についてあれこれ考えるのが論外とは思わない。 意外と優位性が多数みつかり、勝てるかもしれないのがおもしろい。 毛野国独立で東京は未曾有宇の大混乱に陥るね。 南関東の圧政を解放するのが北関東=毛野国の使命。秩父困民党の例もある。 隙あらば群馬・栃木は南関東占領を狙うべきだろ。
・まず南関東への水と電力を遮断する。 ・24時間以内に第十二師団の空中輸送力を持って重迫撃砲を輸送し、 練馬駐屯地に向けて進軍する ・練馬を制したら霞ヶ関に進軍する。 ・独立を宣言する。 作戦は72時間以内に完了するな。 100年以内に実行されるでしょうね。日本史で次の政変があるとしたら毛野国からだわ・・
群馬・栃木の第十二旅団はドイツ降下猟兵(ドイツ最強の精兵師団 恐ろしい戦歴を有する) に匹敵するのでは? 練馬駐屯地のザコどもが第十二旅団の猛攻に耐えられるとは思えない。
静岡の第一戦車隊は関東を脱出する避難民が殺到するので 陸路じゃとうてい間に合わないな。 南関東は電気がなくなるので電車も動きません=車両輸送ができない 線路もJRがダイヤを空けるか分からん。 水がなくなるので自衛隊は給水活動に追われ戦力が減る。 そもそも命をかけて南関東なんぞを守ろうとする自衛隊員がどれだけいるのか非常に疑問だわ。 どっちにしろ進行速度が速すぎるからとうてい支援が間に合いませんね。 各地から支援が集まる速度より、群馬から霞ヶ関に到達する速度の方が速い。 練馬は戦うどころか、むしろ寝返るのでは?w もしくは素通りさせるかと。 ある事前準備すれば、いずれにしても救援は線路・道路ともに十分に遮断できる。 群馬・栃木はやれば勝てるんだよな。 やっぱり日本の首都は群馬にすべきだろ。 そもそもザコのくせに威張りすぎなんだよ東京とかは。 東京=練馬で、 群馬が練馬なんかに負けるわけねー
>>123 毛野がスコットランドに似ていると俺も感じた。
しかし、日本の場合は、もう120年前にスコットランドに首都を移してしまったと言うことです。
というか、鎌倉幕府も江戸幕府も毛野の子孫が影で支えていたのです。
イギリスも、首都をロンドンからエディンバラか秋葉原に移せばよいのです。
そうしないと、渡来系のイングランドと、原住民のスコットランドの真の統合はないでしょう。
あと、スコットランドヤードと六波羅探題も似ていると思った。
ネタが嫌いな人、ゴメン。
エジンバラ公が豊城入彦命末孫で イギリス王室が畿内天皇家とすれば、まさにそんな関係だな。 両君体制だったのに勝手に家臣みたいに扱ってきたのがスコットランド そんで毛野国は畿内に占領されたことすらない。 スコットランドはスコットランド独立戦争をして負けているが そもそも毛野国は成立当初から独立国家。畿内の属国や臣下だったことはない。 経済的には東京都民に電気と水を高値で売ればよろしい。 東北からは電気を依存していたが、毛野国からは「電気も水も依存」しているのが南関東。 優位性は非常に高いと言える。 軍事的・地形的・宗教的・歴史的に毛野国の独立は完全に正当性があると言える。 熊谷県を復活させ、栃木と茨城を編入して独立国家になり 東北=毛野氏の伊達氏と連盟を組むべきだろう=これで海もできる。 もちろん軍事行動なんかしないで群馬と栃木と埼玉と茨城の一部が 住民投票をして平和的に毛野国独立宣言を採択するのが最善だろう。
毛野国はイスラム国をめざすもよし スコットランドの独立を見習うもよし どちらでもいい いずれにしてもこれ以上、東京・神奈川による内陸国をバカにする態度はもう許すまじです。 関東平野の覇者は毛野です。 毛野国の今後の参考にするためにもスコットランドを注視だな 最初はネタでやってる内に実現するかもしれない。
地域分断工作の亜種みたいになってきたね。
毛野氏は兵士1万人を輸送できる大量の軍船を持ってたんだが・・ いったいどこに持ってたのかな? 「群馬に外洋船があったのか?」 対馬海峡渡るにはそれなりの船じゃないと無理 多賀城あたり? うーん分からん。毛野氏は海軍力を持ってるようだが、利根川にでもあったのか? まあ木ならいくらでもあるからでかい船も作れなくはないけど 利根川をそのまま下ればいいのか。 そんで朝鮮まで行ったのか? なんかすごいな。
歩いて九州までいくと兵糧・物資の輸送に難がある できれば自前の船が必要。 独自の海軍まで持ってたっぽい毛野氏 伊達氏が外洋船の建造に拘ったのも何か理由があったのか、血筋が船を造らせたのかと。 「山の中の武士団」のはずなのに海軍力まで持っていた毛野氏はおもしろい。 東山道だけではなく舟運のルートも握ってたのかな。
古代の利根川は猛烈に川幅があり、霞ヶ浦につながっている。 直接太平洋から群馬・栃木まで船で遡上できたのでは? もちろん下ることもできたと。 江戸湾みたいなもので、毛野氏の保有する海軍基地が途中にあったのかもしれない。
136 :
日本@名無史さん :2014/09/16(火) 07:04:26.87
宇都宮氏や伊達氏を勝手に毛野氏にしないでくれ。 親族一同の了承は取れているのか。 ?
137 :
日本@名無史さん :2014/09/16(火) 08:00:58.88
新田郡徳川剛は下野国であった。明治となり徳川郷は群馬県になった。 従って群馬県民は徳川郷を、「私の愛する憩いの地」としなければならない。ところが一部には、徳川郷を毛嫌いする群馬県民がいるようだ。これは筋違いもいいところ。 そのような人間は、軽薄短小と言わざるを得ない。
138 :
112 :2014/09/16(火) 09:53:27.42
>>133 毛野氏は越国との関係も一定程度有していた蓋然性も高いですから、
充分可能だったような気も致しますね。
139 :
112 :2014/09/16(火) 10:02:27.07
>>136 平安後期〜鎌倉初期までは利権絡みもあって公家であれ百姓(この場合皇族や公家、
あるいは各層の私奴婢除く全ての層)であれ招婿婚を基本とし、男系で官位浴典や姓等の
権威を、女系で地盤や財産等の敬称相続を基本としていた事実を無視し、つまらない話題で
スレの無駄遣いをする人達(上の方で基地○扱いされているネタ遊びの人達)が結構いるので
お赦し下さい。
そういう人達に限って上記基本を押さえていないので、他にも他氏族を徒に貶める向きも
ありますので、併せてお赦し下さい。
本当に詰まらないスレになりましたね。では、仕事へ。
母系制、或いは双系制などと言われますね。 伊達氏も宇都宮氏も招婿婚によって藤原氏から婿を入れている蓋然性はかなり高いと思います。 南関東の桓武平氏諸氏、 北関東の秀郷流藤原氏諸氏、 武蔵や常陸の嵯峨・仁明系源氏諸氏など、 他の豪族がみな、元は国造やその後裔たる郡司階層などの在地豪族を基層(母系氏族)にして、 そこに国司や押領使などとして赴任してきた主に「源平藤橘」を中心とする中央貴族が婿入りして成立した氏族であると考えられる中で、上記二氏だけがその対象外であると考える方が不自然ですので。
舞踊に荒らされてる方がま〜だマシ それくらい程度の低い糞スレ(笑)
142 :
日本@名無史さん :2014/09/16(火) 19:06:23.37
藤原兼房 妻 源高雅娘 子 兼仲 左大臣家少輔 静範 円範 宗円 藤原宗円 妻 益子氏娘 子 宗綱 (頼朝の乳母である寒河尼の父)、他 前九年の役の後に八幡太郎義家が下野国司になると、ほぼ同時に宗円は宇都宮二荒山神社の検校職になった。 さらに常陸国八田(今の茨城県下館市)に所領を得た。 これには八幡太郎義家の後ろ盾や紀勢両党からの支援があったであろうことは間違いない。 世間体もあるし、日もまだ浅い藤原上野国司を殺害した一族からの支援など受けていないのではないだろうか。 遅かれ早かれ毛野氏は宇都宮二荒山神社への出入り禁止になったであろう。頼朝なら、そう決断するに違いない。
143 :
日本@名無史さん :2014/09/16(火) 19:14:50.85
舞踊婆
益子氏は確か紀清両党(紀氏)でしたよね。 そうであるなら、毛野氏が出入り禁止含め排除されたとは言い難いような気もするのですが、どうでしょうか?
145 :
日本@名無史さん :2014/09/16(火) 19:54:38.50
八幡太郎義家の何代か前の者は、関白藤原道兼の家人だったのである。 藤原上野国司と敵対したのは、痛手であったような気がするのです。
ぶよってまだいるの?
147 :
日本@名無史さん :2014/09/16(火) 20:05:29.29
いるよ。名前伏せていつもかきこんでんじゃん
>>147 まだいるんだw
さんきゅ。
どのあたりのスレ?自分最近あまり史板に来ないんで。
毛野は母系社会だから、婿を入れて生ませた子に家を継がせた。 そうすることで、次の代から入り婿の姓を名乗ることができた。 藤原、平、源。母系毛野は、いつの時代にもこの手口で当時の最大勢力に取り入ってきた。 豊城入彦は、崇神天皇の第1皇子であり、母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛だから母系は毛野と同族の紀氏。 その上、豊城入彦は垂仁天皇の異母兄という立場でもあり、イリ王朝から入婿を迎えることで毛野は天下を佐治する立場に立てるはずだった。 ところが、それを快く思わない勢力があった。 そのため、豊城樹入彦、子-八綱田、孫 -??彦狭島王と3代に渡って入国を拒まれ、三世孫 -??御諸別王が初めて毛野国に入国することになる。 続く
>>149 >毛野は母系社会だから
毛野に限らず古代の氏族社会はみなそう。
>>150 >毛野に限らず古代の氏族社会はみなそう。
ソースプリーズ
>>151 常識だろ?
野口実さんの本読んでも、高橋昌明さんの本読んでも、下向龍彦さんの本読んでもみんな書いてあるわ。
お前なに読んでんの?
>>152 あれだね、
>>151 は招婿婚って言葉すら知らなさそうだねw
そういう類がこのスレを玩具にして糞スレ化させてんだろな(ノД`)アチャー
「藤原氏ガー」 って騙してきたが、 これだけ情報が広がってくると 藤原氏なんてただの馬の骨で、毛野氏こそが皇族だったのがよく分かるな。 藤原氏はいまやfacebookで適当なこと言ってるバカに見える。 それらの摂関家の権威なんて笑えてくるな。馬の骨の末裔でしかないわ。 もちろん天皇家の正当性についてはノーコメントだが、「藤原氏は出自が卑しい氏族」ってのがモロバレしてきた時代ですね。 毛野氏は初代天皇崇神の末裔で、応神系統が絶え、継体系統がやや怪しく、蘇我氏や物部の「汚染=入れ替わり?」の可能性を考慮すると 純系皇族は毛野氏の可能性が高いわ。
155 :
日本@名無史さん :2014/09/18(木) 07:49:37.32
藤原氏が馬なら貴殿は鹿だ。二人合わせて仲良く○○だ。 来週からヤンマー農機のコマーシャルに出てくれ。
崇神期までに出てない氏族は部落民みたいなもんだな。 またそれ以前の氏族はツチグモ族だったんだろ。 崇神以前が確定できない以上、 崇神の直後が超えられない血統の最上ランクと言える ・神武東征の家臣→神武の系統ではないのであくまで「家臣の最上ランク」止まり ・神武の血統=崇神の血統なので同じ。差はない 神武ー崇神の系統で応神までが第一ランクとすると 「応神系統は断絶してしまった」ので、崇神系統の豊城入彦命が第一ランクを引き継ぐ最上ランクに交代する。 応神系統から劣るのが継体系統で、「畿内のなんとか氏族は継体以下」なのが確定してしまったので=そうじゃなきゃそいつが継体になってるはず。 かなり早い段階でなんらかの戦乱が畿内に起こっており、畿内での第一ランクの血統は断絶したのが確定しているので 毛野しか第一ランクは残っていない=継体は応神系統ということだが、参考記録に留まる。 藤原祖の中臣氏がいくら偉かろうが、「家臣の中で」止まりで いくら家臣ががんばっても皇族にはなれない。=信長ががんばっても天皇になれない。 つまり血統的には毛野氏が日本史史上最上位ランクとして残っているわけだな。 これ以降はとくに断絶してないので(断絶したという記録もない) かなり長期間、天皇家の最初期の第一ランクの血統が東国の毛野氏で受け継がれていたと言える。
継体系統の血筋と毛野氏の血筋はどちらが上かと言えば 毛野の方が互角かそれ以上だったと言える。 ただし「地理的な意味合いで」畿内に近かった継体の方が畿内を支配することになっただけ。 またしても西国と東国の並列論が成立するわけだな。 毛野氏から天皇を出しても全然おかしくないくらいの血筋。 ただ、なんというか「新しいものがすばらしい」というスマホ理論的な意味での選択が 継体系統を天皇にしたと言える。 応神末孫>>>崇神末孫 というのは間違った考えだなー 今なら完全におかしいと思うはず。 でもまあ間違ってはないので、 応神を崇拝するなら、豊城入彦命系統は「応神の部下」にあたってしまうので 皇族>>>家臣という関係が成立したため でも「途中の母がだれだろうが父系のみ最優先で5代すっとばす」ことが許されるなら 東国で畿内の母親と関係が薄くなった毛野氏も同じく「父系では崇神末孫」なので互角と言える。 つまり 豊城入彦命系統は 「崇神末孫+応神臣下」というブランドであり 「応神末孫ではなくそれ以降の臣下」 「神武の臣下」よりはブランドが高いが 「応神末孫」には若干劣るブランドと言える。あと東国なのでこれも減点対象と言えるが 欧州では血統が断絶した場合はフランスやスペイン、その他遠隔地から 「血統を再注文して取り寄せる」ことがよくあったため、東国からは天皇がでないという論理は成立しないと思う。 遠隔地から血統を取り寄せると、東国の政治介入がはじまり、戦乱の元となるのを警戒したのかもしれない。 軍事力では東国>>畿内だから血統まで入れると完全に畿内が東国に平定されて畿内の在来豪族が一掃される危険性がある。
断絶が発生したときに、東国毛野氏ではなく やや勢力が薄いが「畿内が滅ぼされることはない」 微妙なスタンスの近江の王族の末孫を畿内が採用したのは 政治的とも言える。 血統的にはかなり悩んだはずでしょ。 問題は東国が軍事力が強すぎたこと。 これを継体を選んだ畿内の勢力はかなり警戒したのだろうと思う。 ここら辺の葛藤はイングランド王とスペイン王フェリペ2世や フランス王との王位争奪戦でも理解できる話。 イングランド・フランス二重王国 wikipedia >ヘンリー5世の息子であるヘンリー6世はイングランドとフランスの両国王となった >ヘンリー6世はヘンリー5世の唯一の子であり後継者であった。 >彼は1421年12月6日、ウィンザー城で誕生し、1422年8月31日、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、 >1422年10月には母方の祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継いだ。 イングランド=畿内 フランス=毛野国 とすると血統論争が分かりやすい。血統理論ではフランス王の血筋を輸入しなければならないが そうすると血筋だけではなく、フランスからの政治介入も生まれるので=最悪 それを理由にフランスにイングランドが支配される。 というのが継体天皇の真相でしょうね。20年間の空白は畿内の混乱を示している。 もちろん東国毛野氏を天皇家として迎え入れれば済む話だが それだと畿内の豪族が一掃される恐怖があったんだろうな。 断絶が長引くのもやばいので、小集団でしかない近江・北陸の継体をしょうがなく選んだと。
ここら辺はおもしろいですね。 継体天皇になったのは東国毛野氏がかなり関係している。 もっと積極的な意味で毛野氏が関わっていた可能性もありますね。 毛野氏は応神末孫ではないが、崇神末孫で、畿内とパワーバランスが拮抗・逆転するくらいの超大国だったと。 こんな恐ろしいお目付役の毛野氏がいなければむしろ天皇家はかなり早くに断絶していたのでは? とも思う。
継体天皇が応神末孫ではなく別の氏族の僭称だという主張もあるが>継体新王朝論 「そんなことしやがったら毛野氏がぶち切れて武装侵略して畿内を焼け野原にした」 可能性が高いです。完全に皇族とは別の氏族の王の国になったら、毛野氏は不可侵条約を維持する理由もなくなるからな。 そこまで東国と西国は全面的な戦乱にはなってないようなので、やはり継体は皇族(の末孫)というのはかなり確実になる。 このように毛野氏は畿内に常時圧力をかけられる地位だったので 東国の軍事力は畿内の政治にもかなり影響していたように見える。 畿内の政治を左右した中心氏族は 物部・蘇我・毛野氏だろ。毛野氏をもっと教科書でやるべきだな。
161 :
日本@名無史さん :2014/09/18(木) 11:18:12.20
小中高で使用されている教科書に毛野氏の毛の字も掲載されていない理由を知りたい方も若干いるのではないか。ある小学生の質問、これってモヤシ(毛野氏)と読むのですか。?
毛野氏を貶すのも瘋的理屈だが、毛野氏こそなんて宣う一部諸兄も瘋理屈になりかけているのをお忘れなきよう。 先ずは毛野氏の本来的発祥、皇統と磯城県主等周辺氏族から拡がる姻戚ネットワーク、その渦中で毛野氏が如何なる 途を辿って東山道圏、香取海圏、出羽方面へと進出したのか、一方でなぜ後の東海道行政圏内に入る相模の方がより 古い古墳等文明が拡散しているか、また最終的に香取海南岸地域を出雲系、あるいは物部系に押さえられてしまったのか、 冷静に氏族としての毛野氏を語るが有意義と思われるのだが、如何?
163 :
日本@名無史さん :2014/09/18(木) 12:03:29.62
筑紫とか毛野とか、キミ姓の国造は皇位継承権がないだけで 江戸時代の将軍家でいえば御三家とヒラ親藩の間ぐらいの存在だろうね
>>163 ところがこのスレの少なくない毛野氏過剰評価組はそう考えず、一部は御三家の水戸家(将軍位叙任資格なし、定府)程度は力があったと思い込み、
一部は尾張家、紀伊家程度に思い込み、更に拗らせた手合いはファンタジーの世界の住人――厨ニ病的暗黒面にさえ堕している始末。そういう体だから
スコットランド独立という時事問題と単純に結びつける巫山戯たお遊びを始めたり、根拠不明意味不明の他氏族侮辱を吐いて恥じない輩すら出る始末。
真面目に毛野氏及びその周辺を論じる人々だけがこのスレに残る良い手立てはない物かと真剣に悩む昨今。
165 :
日本@名無史さん :2014/09/18(木) 14:27:59.69
御三家とヒラ親藩の間ですぐに思いつくのは、会津松平家。似ているような似ていないような。会津は食料自給率が、ほぼ100%。水力発電所もある。今直ぐにでも独立出来るのではないでしょうか。
毛野の祖を祟神天皇の第一子豊城入彦に求めようとすると大きな錯覚に陥る。 実は、毛野にとっては、祟神の子豊城入彦も高望王の子 平国香も、藤原秀郷も、招婿婚の相手つまり婿殿にすぎず、 姑に反抗しない男の方が好まれたのだ。将門は最悪だったのだろう。。 毛野は、畿内の大王家から良き種を貰うことで子孫の繁栄を果たしたのだ。
まだ確証はないが、徳川幕府も毛野に入婿することで、江戸に幕府を開くことができた。それが徳川秀忠とお江。 お江は、近江八幡をに勢力を置く浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。 最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれたが死別。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。 つまり、近江毛野の浅井の娘を嫁にすることが、天下を取るための条件だったことがわかる。
毛野氏:崇神末孫・応神時は軍団長=皇族の最上位ランク ↓ ↓ ↓ 藤原氏<こいつ何したの? >藤原氏祖の中臣鎌足:すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。 武力はカス。自分で認めてます。藤原氏は武力は何もない。武力で貢献してない 「天武の末孫ですらないし、天武の部下でもない」。天武系統断絶で天智政権になったために のし上がっただけじゃん。 やっぱり藤原氏祖の鎌足を見ても 毛野氏>>>>>>馬の骨の藤原氏は確定です 崇神・応神は「別格」なんです。天武や天智はそれに勝るわけがない。 崇神・応神両方に関与した毛野氏は日本史史上最上位の出自を持つ皇族が確定。
169 :
日本@名無史さん :2014/09/18(木) 22:41:03.16
藤原秀郷 武 藤原定家 文 藤原道長 娘 その他藤原氏 官 今日でも大奥の人々に影響を与えているのではないでしょうか。毛野氏の比ではない。
藤原氏がどんなに優秀かは 「藤原氏子孫だけになった」平安時代以降にはっきりと表れるわけですね 「私には武が分からない」とか言ってた藤原鎌足の子孫が繁栄することは まさに皇族がその後(武力が分からない天皇家になって)武家に負けて没落することを確定してしまったのである。 むしろ逆臣では? まだ物部の方がマシだったわ。
たいそう優秀で、文官でしかなく武力軽視の藤原家によって 天皇家は平安時代以降完全に没落してしまったのである。 藤原の子孫の近衛も戦争さっぱりのクズだったし。 本当に藤原氏はすばらしい家系ですこと。
まあそういう意味で東国=毛野氏の子孫関連だとすれば 武家を犬くらいにしか思ってない公家のアホを 東国出身の武士団がその後圧倒して主従逆転させてしまうことはおもしろいですね。 藤原氏には負けたが、武の毛野氏は勝ったのである。 勝負には負けたが試合には勝った。
○試合(官位競争)に負けたが勝負(武家と公家の争い)には勝った。 のミス
まーた他氏族侮辱で毛野氏に悪印象を与えようとしているヴァカは抛っておくとして。
>>167 現状、信頼し得る諸史料や研究(鈴木真年等)からするに、浅井氏の場合は物部連
もしくは浅井直(あたい)とする蓋然性が高く、下毛野氏関連との結び付きを求める場合、
美濃における毛野氏の事蹟と保食神等の祭祀を巡って考慮する必要があると思う。
ということで、自分は正親町三条等、藤姓を仮冒する浅井氏を古代浅井氏まで下って
眺める場合、毛野氏との関係性はほぼないと考えているわけですが如何でしょうかねぇ。
175 :
日本@名無史さん :2014/09/18(木) 22:54:58.35
多くの武将は源氏と藤原氏ではないのか。毛野氏がいるとすれば、せいぜい足軽クラスか。それ以下の荷物運びかも。
>>175 女系で毛野氏の地盤や利権を受け継いだ家は数多ありますよ、殊に
秀郷流の家等の場合。
当時の承継相続を巡って調べてみると宜しいと思います。
(ちなみに後三年の役のキーパーソンたる出羽の豪族・吉彦秀武は
毛野氏族になります)
| | 彡⌒ミ \ (´・ω・`)また毛野話してる (| |):::: (γ /::::::: し \::: \
「私は武力は苦手ですぅー」 って泣きべそかいてるのが、あらゆる公家の祖(事実上)の藤原鎌足です こういうヘタレ氏族が天皇家と合体したことにより、 天皇家は武力ダメダメになり際限なく形骸化していったわけだな。
蘇我や物部はアホだったがキングオブヘタレの藤原氏よりは100倍マシ 公家が武家をバカにして犬呼ばわりしたのは 軍事からきしの、武を誇った崇神・応神とは一切無関係の出自からして卑しい藤原氏が祖だったため。
調略や血縁戦略が軍事より劣るとは必ずしも言い切れないが 全然かっこよくもないし、尊敬もしないよね ずるがしこいひねくれものの詐欺師集団にしか見えない。 自分が死にもしない安全なポジションから偉そうに命令するだけの公家をどう尊敬しろというのかな?
戦場で鼻水垂らしながら戦死した上毛野田道の方がずっとかっこいいと思います。 「戦場で戦死」は最上位の尊敬に値するわ。 同じく戦場で戦死した リチャード1世 リチャード3世 (イングランド王)と同じだな。 クソの藤原氏とはわけがちがうのが毛野氏です。
藤原の事実上の氏祖は車持(毛野)氏の不比等なんだけどね。 つまり藤原氏を貶めることは毛野を貶めていることになるわけだ。 もはや統失君には何を言っても無駄なんだろうが。
183 :
日本@名無史さん :2014/09/19(金) 08:48:59.76
「私は武力は苦手ですぅー」で最近では、東山道軍大軍艦を務めながら戦後には、「私は軍務は苦手だから」と言って宮内庁に移られた北島の盟友香川恵三が思い出される。 香川敬三は宮内庁において確かな足跡を残された。 素晴らしいではないか。駄目人間扱いされる筋ではない。武門に生を受けて他の道に進んだ者も数多い。 西行 遊行上人として名高い。 雪舟 日本最高峰。絵ばかり描いているので柱に縛り付けられた。それでもなおかつ悔し涙で廊下に生きているような鼠を描いた。坊主は追い払おうと空振りした。 芭蕉 知らない人はいない。多くの旅人は跡を追う。 何れの方も教科書に大々的に名前が載っているのではないか。 白村江の戦は教科書には載っているけれども、指揮官である上毛野雅子の記載はあったかなあ。? 偏狭的な武門至上主義は誤りである。 これが世間の正しい評価だ。
>>182 ほんまこのKitty Guyな嵐クソはどうにかならんかねw
おまえさんの書いた通りで、藤原不比等は車持氏の血統も享受してるってのにw
しかも香取海湾口部を出雲系氏族と共に要衝として押さえていた鎌足=中臣氏を
「出自からして卑しい」とか、トンデモ歴史オンチだったりでもうねとww
>>178-181 、テメー(テメーら)のことだよwww
>>181 キミ、文明文化や固有性――その差異についてまるで理解していないようだね。
そんなキミに一体全体、毛野氏の「何が」語れるのかな?
否、毛野氏どころか古代史や古代氏姓制度、その中にあっての大王家(神武天皇の血統)の位置づけand so on.....
毛筋程も理解していないようだし理解する用意もないようだね。キミには毛野氏を語る資格はないと考えて強ち間違いではなさそうだね。
>>185 多分ソイツ、神武東征とか崇神天皇による四道将軍派遣、豊城入彦命の実態についても
まるっきり知らないってか知ったか扱いてるだけだと思うよ
>>185 あ、それとソイツ、プランタジネー(プランタジネット朝)のリチャード獅子心王についても
ヨーク朝のリチャードV世についても知ったか扱いてるだけ思う(pgr
>>187 そもそもイングランド史も、偶に絡ませてるのがいるがスコットランド時事問題も、どっちもスレチ
>>183 >偏狭的な武門至上主義は誤りである。 これが世間の正しい評価だ。
蓋し! 正に言い得て妙! その通りであります!
結果的には東国とか東北とかでに毛野氏は時代の趨勢に追いつけず ほんの一握り(宇都宮氏等)を残して吸収合併されたような感じ?・・・ どっちにしても試合にも勝負にも負けてるじゃん・・・
191 :
日本@名無史さん :2014/09/20(土) 06:50:31.32
何故、一握りの群馬県民は、宇都宮氏にこだわるのだろうか。 どうせなら上野の武将を選択してくれ。
スコットランドの平将門も討伐されてしまった。特定個人はいないようだが。 ヘタレの藤原秀郷が勝ったのも、結局は独立に不安を覚える消極的な独立反対派に押しきられたのだろうな。 文化的にも経済的にも勝る畿内勢力から独立すると、毛野のような流通や金融で飯を食っている氏族は大打撃を受けるから、心情的には賛成でも、いざとなると引いちゃったのだろう。 しかし、東国武士団の不満は根強く蓄積していって、後の鎌倉幕府成立に繋がるのです。 いい国作ろうスコットランド。
193 :
日本@名無史さん :2014/09/20(土) 07:58:49.77
「いい国作ろう」とは、頼朝の台詞ではないのか。貴殿は頼朝派ですか。?
まーたヴァカが湧いて来た 笑
スレ違い しかも遺伝子工学的に原住民とか間違いも甚だしい スコットランドネタかます以前にノルマン・コンクエストから勉強し直して来い!
スコッチはまじで助かった。 独立が決まってたら、ウェールズ、カタルーニャ、バスク、コルシカ、フランドル、ケベックとその余波が半端なかった。 そして日本では沖縄と、もしかしたら北海道にも波及するところだった。 もちろん、国を弱めたい売国奴側の先導によってだけどね。
>原住民とか間違いも甚だしい
これはちょっと言いすぎじゃ?^^;
>>197 同意
まあでもスレチはスレチだなw
民族自決は世界の趨勢、止めようとすれば、却って火に油を注ぐことになる。 毛野族も一致団結して毛野国再興に向けて立ち上がろうではないか。 しかし、ここで一番問題なのは、毛野の人々は独立心が強く団結するのが好きではないことだ。 みんな自分の判断で、好き勝手に戦うものだから局地戦では勝っても、総力戦となると押し切られてしまう。 まあ、各人自立心があることが、異民族に支配されることなく、政権が変わろうが自分らしく生られた由縁なのだが。
おふざけもほどほどに。 そも毛野氏族はほぼ完璧に混淆=吸収合併されたも同然だから。 ま、グンマーは確かにちょいほり深めてか縄文系が多いが(オレも父系源義康流で数百年来のグンマー族)、 女系含め辿ると池田氏がいたり非・毛野系武蔵七党系がいたりで、帰属意識は「日本人」のそれしかないわ。
やはりまた内紛かよ。 やれ池田朝臣だ、大野東人日の子孫だ、武蔵七党だ、新羅の羊太夫だ、 高麗若光の末だといって仲間割れを始める。 これでは、統制のとれた徳川軍に対抗できるはずがない。吸収合併されて当然。
徳川軍に対抗とかいう発想がそもそもナンセンス てかネタに走り過ぎなんだよw
結局、元は渡来系だった氏族も、母系の毛野の土豪から嫁を貰ったり、紹婿婚を繰り返しているうちに、すっかり毛野に毒されてしまっている。 関東地方のかかあ天下の家は全ては毛野氏の母系と見て良いだろう。
204 :
日本@名無史さん :2014/09/20(土) 14:25:10.45
徳川家康の故郷は、松平郷ではなく毛野国新田郡徳川郷。 遊行僧徳阿弥は、ここから旅に出た。 知らない人もいるのだから、地元有志代表で誰か徳川郷を紹介してもらえないかなあ。
>>203 そりゃ上野東半分と下野、常陸下総の一部だけだろw
後は出羽と陸奥南部くらい
>>205 上野国西部や上総匝瑳、武蔵南西部等、意外と物部がしぶとかったりするからなw
それと知々夫国造
鍵を握るは村岡五郎こと平良文かw
高望王は高望みせず、たいして有力ではない東国の豪族に婿入りさせているから、 その子孫は、毛野だったり、物部だったり、後に兄弟や叔父と戦う火種になった。
地図みたら関東平野は群馬・栃木・茨城でほぼ大部分だね。 これらが独立していたと考えればいい。 そんでわずかの面積の南関東はほとんど湿地帯だらけ。 江戸時代直前まで漁村がちらほらある程度。 今でこそ名古屋と威張ってるが、尾張や東海は不毛のやせた土地で、ろくな石高はなかった。 古代の毛野国がどれだけの圧力だったかは想像以上のもののはず。 それが血族集団でほとんど内乱もなく統一した軍事行動を取っていたわけだな。 日本で独立すべき地域があるとすれば毛野氏直轄領の毛野国一帯だろうね。 蝦夷ははっきりとした勢力図が残ってないので、独立はムリだろう。 蝦夷は王がいたかも分からない。
209 :
日本@名無史さん :2014/09/21(日) 06:35:14.67
蝦夷は、王ではなく酋長か。?
>江戸時代直前まで漁村がちらほらある程度。 嘘吐いちゃダメだろw 相模等、荘園や牧は平安期からあるし、人の入植、古墳等各種遺跡等、 北関東より早いぞw
>>210 後の令制国としての相模国及び武蔵国南部(多摩川水系南西)、総国圏内は諸説あれど、
阿波国、紀伊国圏内から早期に入植があり、それが面的拡散し、初期は大王家の意向を含む
出雲系及び後の畿内圏等の氏族が職能集団としてそれを機能し得る状態へと発展させている。
比較的緩い連合体。時期的には景行天皇前後――小碓尊(日本武尊)東征期に当たり、
毛国圏内より僅かに早い。毛国は、実際には豊城入彦ではなく、その後裔たる御諸別の頃。
こちらも職能集団的氏族であるが、系統が少ないので比較的結束が固い。
ただいずれにせよ違いはその程度で、独立云々などという話は、毛野氏が結局は利根川水系、
荒川水系を南下し得ずまた、香取海を巡っても早期に入ってきた出雲系、物部、中臣等氏族
集団に南岸及び実質的「制海権」を抑えられている以上、最早「与太話」に過ぎない。
毛野がどういう勢力かについて、渡来系の神社の配置との関係について色々調べているのだが、 結果だけを書けば、毛野は、香取、鹿嶋、氷川、賀茂、熊野、三輪、八幡等、いずれの神社集団とも関係が薄いようだ。 というより、これらの神社が集中する地域と毛野の支配地は重複がきわめて少ないく、避けているのではないかと思えた。 恐らく、これらの渡来系入植者の多くは、毛野の住まない低湿地や山挟地で水田稲作を始めた弥生系だったからだと思われる。 それは毛野の支配が流通拠点とその周辺、そしてそれらの拠点間を結ぶ道と河川にとどまっていたこととも関係がありそうだ。 ただ、碓井峠から倉賀野、高崎にかけてや、行田のさきたま古墳群周辺など、毛野が戦いに敗れて土地を追われたのではないかと思われる地域がいくつかある。 なお、アラハバキ、星神香香背男(ほしのかがせお)などの土着系の神社との関係も薄いようだ。
>>212 面白い着眼点ですね、特に祭神祭祀との係わりについて。
時代が聊か下ってしまう蓋然性が高いので、精度的には決して高くはなくなるかもしれませんが、
例えば出羽国南部、陸奥国最南部(特に旧・那須国近接圏内)の祭神等を詳細に追うと面白いかも
しれませんね。
>>212 の続き
例えば、千葉県印西市の手賀沼と印旛沼に挟まれた地域に鳥見神社というのが10社ほど残っているけれど、 その多くは、物部氏の初代の宇麻志摩遅命や祖神である饒速日命を主祭神としている。
千葉県には、 他に宗像神社・麻賀多・香取神社が有力だが、勢力範囲は重なっておらず住み分けている。これらの神社は景行天皇の御代、ヤマトタケル伝説以降に入植を果たした氏族だろう。
毛野の流通網は、これらの神社の勢力範囲を避けて配置されているというより、毛野の手引きで入植を果たした物部や宗像などの勢力だろう。
215 :
日本@名無史さん :2014/09/21(日) 15:18:10.34
南陸奥とは、茨城県大子町のこと。間違っている人が多い。教科書も間違っている。陸奥国一宮神社は、次第に北上していったけれど最初は今の棚倉町にあったらしいね。
216 :
日本@名無史さん :2014/09/22(月) 02:41:06.19
こういう事
>>208 を言う奴って、ほぼ100%関西の人間
関西なんて朝鮮移民の末裔しか居ない
京都の神社は朝鮮人が建てたものだと言う事すら知らない無知
千葉=利根川の南は東海道を来た氏族だろ。 物部といえばそうかもしれないな。 まあ物部の侵入を毛野氏は埼玉連合で撃退したから 物部は毛野国に侵入できなかたので、その周辺域の湿地帯に行かざるを得なかったわけだが。 逆にその地域が別の氏族が古くからいたとしても、毛野氏ほど軍事力がなかったために こちらは物部にかなり侵略されたのではないかと。
>>216 関西が朝鮮移民の末裔しかいないなら
朝鮮を394年に北朝鮮北部まで(朝鮮半島ほぼ全域まで)
侵略成功したのは毛野氏だから
(という風に秀吉や信長や桓武平氏や徳川などどの氏族も成し遂げなかった
海外派兵・海外侵略の偉業をあっさりやってるのが毛野氏)
毛野氏>>>朝鮮>>>畿内 の力関係はまた動かしがたい。
どちらにしろ毛野氏が最上位だな。
毛野氏は他氏族・他地域を侵略したことしかない。
負けたことがない関東最強氏族。
侵略行為では畿内を最初に平定した崇神には劣るが、
崇神第一皇子は伊達じゃないな。 ああ、伊達氏も毛野氏か・・
畿内は統一王朝が残存していれば毛野氏よりは格が高いんだが=崇神がいたところだから まあものの見事に皇統がめちゃくちゃだよな。 物部やら蘇我やら、結局どの種かとw 総合的に考えて 300は畿内 400は互角(応神と荒田別は同格) 500〜700は毛野が優勢だな。 これは古墳規模の推移から言ってるので、確固たる事実。 500以降はどうみても日本最大の勢力を誇った国家が毛野国だった。 そのとき畿内はわけのわからん氏族がごちゃごちゃしてたからな。 スコットランドがイングランドを侵略・統治したことはないが 毛野国は日本最大の国家だった時期が確かにあるんだなー。 やはり独立すべきだと思うわ。
220 :
日本@名無史さん :2014/09/22(月) 09:33:45.04
伊達氏の故郷は、下野か常陸の中村荘とか言われている。 ハッキリしてから言明してくれ。 花吹雪の似合う伊達男と野暮の骨頂である毛野氏は、縁遠い気がするのです。
基地外は大体未明〜早朝に現れるようだなw ・軍事力バカ ・多面的視野の欠如により単一事象で自らに都合のよいところを切り取って比較 ・すぐばれる嘘をつく ・スコットランドネタがお好き ・皇族や他氏族sage おおまかに基地外の特徴挙げてみたんだけど、まだ他にある?
常陸伊佐郡なら伊達は伊佐氏なので毛野氏 下野中村荘なら下野だから毛野氏 中村氏は正体がよく分からないが伊佐氏と関連するし宇都宮の近くだから毛野氏だろう。 中村氏(なかむらし・なかむらうじ)は、 伊達氏の祖とされる一族。常陸国伊佐郡の伊佐氏とは同族 ↑ 伊佐氏なら毛野氏だし、中村氏も伊佐氏だから毛野氏になる。 よって伊達氏は毛野氏が出自。 千葉や茨城の海岸部くらいなら毛野氏の可能性は薄れるが まあ「どんぴしゃの毛野氏の勢力圏」ですな。 >古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、 >中村蔵人義宗と名乗り後に改め なんかどうでもいい話だな。ようするに毛野氏だろうこれは。 義経の遺児? 伊佐氏の分家だろこれ また本当になんとか氏の末裔としても、 徳川氏のDNAを見ても多数派の毛野氏に取って代わるんだから ようするに毛野氏になる可能性が非常に高い。 そもそも関東平野の武士団は400年間治めた 武家の技術は毛野氏が育てた財産だから、功績があるとすれば毛野氏の功績ですね。
徳川氏なんて、俺の先祖が群馬に住んでたから俺は新田氏の末裔だ! なんて言ってるもんな。 その論理でいくと、伊達の初代は毛野国にいたんだから毛野氏でしょうね。 伊達朝宗は「毛野氏じゃない明確な系図の証拠」がないので、「毛野国なら99%毛野氏の法則」から毛野氏でしょう。
>>218 >>219 近年の文献学と考古学的知見の更新が遅れているようなので、一度ニュートラルになって諸研究成果に当たるべし。
毛野氏に夢を抱き過ぎて、現実が見えなくなっている自らに気付く事でしょう。
尚、伊達氏については同意。補強材料として宇都宮氏との関係にも触れておきます。
自分も伊達氏は毛野氏と血縁を持つ数少ない武家だと思いますね。
ただそれが北関東にありがちな女系か、はたまた秀郷流等で男系では別氏族か
までは結論を出すに史料が未だ不足しているように思います。
>>222 貴方は上記の何方かが言う軍事○○ですか?
もしそうでないなら、古代氏族制度時の軍事行動と、近江令を嚆矢とする、所謂「律令体制」
下における「軍団制度」、それと後年の「武士団」の違いについて明確にされるべきでしょうね。
特に
『そもそも関東平野の武士団は400年間治めた
武家の技術は毛野氏が育てた財産だから、功績があるとすれば毛野氏の功績ですね。』
などは毛野氏可愛さの余りの言い過ぎ、毛野氏贔屓が目立つように見受けられますが如何?
>>224 毛野国は完全なる「母系継承社会」なのでしょうか?
少なくとも、伊達氏の祖が更に北上する契機を得た平安末〜鎌倉初期までは?
そうでないのであれば、毛野国なら99%毛野氏の法則なとという思いあがった
断定は浮かび上がらないと思うのですが?
毛野国は鎌倉初期まで完全なる「母系社会」だったのでしょうか?お答え下さい。
>>226 >『そもそも関東平野の武士団は400年間治めた
>武家の技術は毛野氏が育てた財産だから、功績があるとすれば毛野氏の功績ですね。』
>などは毛野氏可愛さの余りの言い過ぎ、毛野氏贔屓が目立つように見受けられますが
ハリウッドに中国人監督がきて映画をつくったら
それは「中国の映画が完成した」なのかね?
ハリウッドを作り上げたのは砂漠を切り開いたアメリカ人の長年の功績だろ。
ハリウッド=毛野国とすれば、毛野国の功績が第一で
後からきて上前だけかっさらって自画自賛だけとは
「恥知らず」ではないかな?
ハリウッド映画は99%アメリカ人の功績だろ 何がおかしいのか? あと、おまえはフランス人なのか? 日本語を使ってるなら日本人なんだ(=毛野国住人なら99%毛野氏の末孫)と 推測することの何がおかしいのか? 中国人やらがハリウッドに来て中国人30人くらいで映画を作る=軍事作戦で功績を挙げる ならそりゃ中国映画だが、 ハリウッド(毛野国)に来てハリウッドの人間(毛野氏の人員)を使ったなら それは99%ハリウッド映画=毛野氏の功績 だろ。 監督の功績も多少あるが、ハリウッド映画=毛野氏の功績なのは変わらん。 ハリウッドの映画技術=毛野氏の400年培った軍事技術を無視して戦争したというなら その証拠を見せてくれないかな? 普通に考えて無理がある。 韓国人が日本にきて日本の空手に学んだのに、 「テコンドーは韓国人が創設した」というのと同じで 「恥知らず」でしょう。 「長年の技術の蓄積」なんてどうでもいいというなら、 韓国は韓国剣道=コムドを創設したというのも認めるのかな? 軍事国家の毛野国なのに毛野氏の功績無視の武家がいたとか、そういう論理ですよ。
源氏とか平氏とか一から合戦技術を教わった毛野氏を無視して恥知らずもいいとこだな 毛野氏の特許と戦争技術の蓄積、職人の技術をもっと尊敬すべき 鎌倉幕府は毛野氏が創ったし 室町幕府も毛野氏 徳川幕府も毛野氏である。 違うというなら、九州とか北海道の武士団からやりなおせよ。 関東武士団で毛野氏無関係とかアホらしいわ。 ハリウッドスタジオで映画作って中国映画というに等しい。 中国の新幹線が日本抜きで中国の技術で完成させたというのに等しい ばかばかしいですわ
>>228 >>226 ですが、例えに無理があり過ぎますね。全然説得力がありません。
そもそも、日本書紀等に記載される軍事行動等と内地における軍事行動含め、古代のそれと
律令制下における「軍団制度」ではまったく「モノ」が異なります。ハリウッド映画の例えが如何に
馬鹿げているかの証左にしかなりません。
それこそ律令制が事実上崩壊し、各地の百姓・有徳人(当然だと思いますが、この場合の百姓の
意味はお分かりですよね?)等が私奴婢を家人として自衛武装し武士団化していく過程と、古代
毛野氏の軍事技術に接点はありません。ですから先のレスで『古代氏族制度時の軍事行動と、
近江令を嚆矢とする、所謂「律令体制」下における「軍団制度」、それと後年の「武士団」の違いに
ついて明確にされるべきでしょうね』
と書かせて頂いたのです。残念な、それこそ例えにさえならない例えで誤魔化さずに、改めて明確に
して頂きたいものです。
如何でしょうか?
>>230 そもそも太刀はいつ、何処で何故深い反りを有するようになったのでしょうか?
騎馬の将と徒の家人等の小さなグループ複数よりなる戦闘単位を古代氏族は
採っておりましたか?
「軍男制」はどのような定義の許で組織運用されておりましたか?
恥知らずもいいのは貴方の方です。
鎌倉幕府は百歩譲って、主に平良文を男系とする関東各所古代豪族の後裔らの力、
室町幕府に至れば更に毛野氏の影は薄い。
江戸幕藩体制は織豊期、特に豊臣期の「刀狩り」以降、武士がほぼ専業化し、女系
女性の力が相対的に低下してから家康が工作運動して確立したもの。
毛野氏は女系では多少、その遺伝子を残すことに奏功したでしょう。けれども男系では
武家で精々壬生氏(伊達氏も可能性あり)、六腹に至っては全て地下人ですよ?
毛野氏可愛さは理解しますが、数日前の書き込みから牽くなら、毛野氏は試合でも
勝負でも負けたのです。その卵子が細々と受け継がれた事実以外にあっては。
東国毛野国に来るまでの武士団の統領とかいうのは 「右も左も分からない公家さま」とか、「畑耕してただけ」の連中。 そこで毛野氏の伝統技術を教わったところ、合戦が上手くなったわけだな それがその氏族の全面的功績か?
技術パクって感謝もなしですか 中国人と同じ発想で俺にはついていけないなー ウリナラ関東武士団の本質というのがよく分かる。
>>233-234 あんまそういう感情論っぽい方向に持ってかない方がいいと思うよ?
技術パクって感謝もなしですか、とか
そこで毛野氏の伝統技術を教わったところ、合戦が上手くなったわけだな
それがその氏族の全面的功績か? とかw
古代関東特に北関東で毛野氏が一頭地を抜きん出てたんは事実だし
だからと言って将門のように毛野氏とはほとんど縁がなくても強い武士もいたし、
大体、あの時代だとまだ大鎧も完成されてないかもだしその他武器、戦術、戦略も
毛野氏と関係なく発展していってんだからさ
感情論に走ると逃げと思われるし何よりみっともないぞ?w
>>235 仰る通り、毛野氏の過剰評価が為される割には、ちゃんとした説明もなく「ウリナラ武士団」やら「右も左も分からない」とか、
何しろ具体的にして明確な答えを出さずに訳の分からない極め付けをされるのが嫌なのです。ですから
『古代氏族制度時の軍事行動と、
近江令を嚆矢とする、所謂「律令体制」下における「軍団制度」、それと後年の「武士団」の違いに
ついて明確にされるべきでしょうね』
と重ね重ね申し上げているのです。
237 :
235 :2014/09/22(月) 14:56:44.59
>>236 まー別にいいんだが、多分
>>233-234 辺りは、おまえさんが言ってる
百姓の意味、多分全然理解してねーと思うぞ?w
説明してやった方がいいんじゃね?
てかあれか、最新研究成果漁るとかそういうクセつける上でも
自分で調べさせた方がいいってアレかww
赤城山で剣術の修行をした上野国の上泉信綱も毛野氏を出自とする。 上野を拠点とした長尾氏も毛野氏だな。 織田信長を手取り川で見事に破った上杉謙信も毛野氏ですね。 信長がガクブルした上杉謙信は毛野氏です。 ・剣術の祖 ・軍術の祖が共に毛野氏の技術です。 違うというなら「毛野国と無関係の新潟なり九州やら四国の武士団」じゃないと話にならない。 東国=毛野氏なんだから毛野国で学んだものは毛野氏の伝統技術だろ。 日本で学んだものは日本人の技術なのが99%なのと同じ。 毛野氏以外では森で栗を取ってた縄文人くらいしかいないので、 毛野氏以外は無理だな。 「東国生まれなのに毛野氏は無関係だーとか、まあそんな言い訳通らない」
毛野氏じゃないのはアテルイと縄文人しかいないもんな え? 縄文人や岩手の蝦夷に弓矢と剣術を教わったの? まあそういった氏族がいるとしても東国の人間じゃないわな。 東国である時点で毛野氏の技術の発展であるし、なんとか氏族なんて亜流にすぎない。 都から来た公家に何ができるというの? 「短歌とか和歌の上手さを誇った氏族」ならそりゃ毛野氏の技術じゃないけどさー
>>238 長尾氏は建御名方命に端を発する古代豪族(相武国造)が母系で村岡氏(良文の息子)
が父系。祭祀関係を見ても毛野氏とは無関係だな。
フランス人が来ようが、南アフリカ人だろうが 東京に来て東京でラーメン食ってそれを参考にしてラーメン作ったなら 東京ラーメンの亜流だろ 「フランスの伝統料理にはならない」。 という、ごく当然のことを言ってるにすぎない。 東国の武術・合戦術は毛野氏が400年かけて海外遠征・東北遠征などで培ったものです。 チャイニーズがフェラーリを上手に乗り回したところで、 「フェラーリを中国人が発明した!」 「フェラーリは中国人の恩恵だ!」ということにはならないのですよ。 やはり毛野氏は偉大ですね。 ネズミをつくったあいつと同じだわ。「似たようなネズミ」をつくってもそれにはならない。 関東武士団の歴代の功績は毛野氏の恩恵が99%で、その他1%といったところだな。 どこの馬の骨が都から来ても東国武士団が強くなるということは、すなわちそういうことだろう。
「東国生まれなのに毛野氏は無関係だーとか、まあそんな言い訳通らない」 これは幾ら何でも極論杉だろjkwwwwwwwwwwwwwwwwww
243 :
226 :2014/09/22(月) 15:25:55.08
>>241 先のハリウッドの例えと何ら変わりませんね。全く以て説得力ゼロです。早く
『古代氏族制度時の軍事行動と、
近江令を嚆矢とする、所謂「律令体制」下における「軍団制度」、それと後年の「武士団」の違いに
ついて明確にされるべきでしょうね』
それと何方かが仰ってましたが、貴方の歴史理解がかなり拙さ気な物に感じられましたのでもう一つ。
私が触れた「百姓」についてお答え下さい。
>>242 そうだな、
コムドは朝鮮勢法の古書を元に朝鮮人が代々受け継いだ伝統武術で
剣道とは無関係ですわ。
テコンドーもまた同じく韓国伝統武術テッキョンを元にする武術。
↓
関東武士団(清和源氏・桓武平氏)のプロセス
1. 良い文化と歴史(毛野国・毛野氏の武術)を見つける!
2. それが関東武士団(清和源氏・桓武平氏)のものだと嘘をつく
3. その嘘を真実だと主張する!
4. それをずっと主張し続ける
>>239 それって東国でなく北関東限定(利根川北東)限定の話じゃんw
あと後の行政区分としての東山道の局所的箇所とかw
>>244 つーかテコンドー関係なくね?
他の毛野氏過剰評価批判派が言ってるのって、
毛野以外の古代豪族等別氏族の話を主にしてたり、
制度の変遷とか道具の向上とか戦術戦略の変化とか、
そういう話のように理解してんだけど……
おまえはなんで急に○○起源説みたいな方向に持ってってんの?w
ざっと一通り流れみたんだけど、何か毛野氏をやたら持ち上げてる
連中、全員感情論てか同じ論調に走ってるんだが^^;
一方で批判派からは良文の名前とか他古代豪族等の名前が出る
くらいで、おまえらが逆に感情的に墓穴掘ってるように見えるぞ?^^;
まぁとにかくおまえら餅搗け(´・ω・`)
毛野氏過剰評価なんて誰もいない 毛野氏過小評価だけだろ。 関東武士団(清和源氏・桓武平氏)のプロセス 1. 良い文化と歴史(毛野国・毛野氏の武術)を見つける! 2. それが関東武士団(清和源氏・桓武平氏)のものだと嘘をつく 3. その嘘を真実だと主張する! 4. それをずっと主張し続ける ↑まさにこれが日本の中世の歴史。
なんとか氏族は関係ないんだよ 毛野国に来て和歌や短歌じゃなくて武術を学んでそれを生かしたら 毛野氏に恩恵あるんだよ。 フランス人が京都に来て懐石料理を学んでフランスに帰って料理で勲章もらっても フランス発祥料理にはならないんだよ ”途中で”パクっても伝統は覆りません。 熊本や博多でとんこつラーメン食って、南アフリカに帰って同じものを作って喜ばれても 南アフリカ人の伝統と技にはならんだろ。 「パクること自体の功績」はたいしてないです。 パクリ礼賛主義は小保方が偉大な学者という説と同じだろ。 伝統技術というのは「正しく学べば誰がやっても同じようになる」のが特徴 まさに東国武士団の活躍は、それこそ毛野氏の技術の集大成だな。
>>248 それ自体嘘じゃんね^^;
まずさ
1. 良い文化と歴史(毛野国・毛野氏の武術他多氏族の各種職能技術)を見つける!
2. それが基礎となり、当時の荘園公領制の関係もあって関東武士団(清和源氏・桓武平氏を代弁者とする)が成立
3. 以下省略(嘘がないため)
おまえさ、例えば一次史料とか何に目を通してる?
あとさ、文献学的に誰の研究に触れてる?
客観的にみて、おまえの1〜4の理解こそ嘘で、その嘘を拡散したいから毛野氏を
過剰評価してるって見えちゃうんだけどw
要はさ、やってる事が感情的で逆効果しか生まないんだよね、おまえらの方法だと^^;
まあ東国武士団は恥知らずなのが多いよね。 上野・下野の武家といいつつ、毛野氏の神社を敬うでもなく・・・ 木の股から生まれたかのように振る舞うのはね。
>>249 あとおまえの場合は単純杉てかお話にならないレベルになってきてるぞ?^^;
壊れたなんちゃらみたいに、ずっと同じこと多少表現変えて繰り返してるだけだから、
過剰評価批判派には何も効いてないと思うぞ?^^;
畿内を時代によって上回る毛野国の巨大古墳群が見えないんですかね? 関東は毛野氏が有史以来開墾したってのが歴史事実なのに敬うでもなく・・ 関東の歴史や豊かな土地や軍事の優勢が沸いて出たかのように振る舞うその仕草 目くらなのかな? まあいいんだけどさ、恥知らずって死なないと直らないっていうからな。
254 :
日本@名無史さん :2014/09/22(月) 16:23:58.89
坂東武者を語るのに北関東に限定してしまう所は、的を得ている。北の旧那須国や下野、常陸を地盤とする那須氏、宇都宮氏、小山氏、足利氏、佐野氏、岩城氏、佐竹氏、江戸氏、結城氏の活躍が目立つ。 南の方の武者は、線香花火のように早々と没落してしまった。 南関東の武者は、理由は何であれ資質に欠けているので論外となっても致し方ない。 不思議なことに上野国を代表する武者は、あまり聞こえてこない。
つまり伊達氏は中村の名もない氏族なら毛野氏でいいし 伊佐氏の分家なら毛野氏になる。 伊達政宗は毛野氏末裔である。 光栄なことだろ。 清和源氏とか藤原なんとかって、あと100年経ったら消えるブランドだよ。 歴史研究が猛烈に進んでいるから、もう「そういう歴史を騙るサギ」は通用しません。
伊勢神宮とか江戸時代になるまで無視されて荒れ果ててたしな。 中世の武士団とかが天皇とかどうでもいいと思ってた=歴史も知らなかった 出雲大社の隆盛も歴史上、今が最高なくらいだろ。 歴史復古ですね。 毛野氏もじきにそうなるよ。どうみてもすさまじい武威を誇る氏族だし。 海外遠征までして関東平野を400年支配した古代豪族って他にいくつあるんだかw 秀吉は失敗してるしな。
もうちょっとウヨクが歴史界教育界を牛耳らないとダメだね 武威とか海外遠征とか支配とか、今の時代では忌避されるキーワードばっかり
258 :
日本@名無史さん :2014/09/22(月) 18:11:54.50
毛野氏の番犬時代は、田道の朝鮮出兵で始まり、雅子の白村江の敗北で終わったのが正解でしょう。従って番犬として活躍した期間は約300年。常陸、武蔵、下総は部分的。また那須と白河は管轄外。 大化の改新により国造が世襲制でなくなった後の僻地への国司としての派遣は、島流しの様なものでしょう。 陸奥の地の果てであったり、ほとんど島に近い上総であったり。
259 :
日本@名無史さん :2014/09/22(月) 19:09:54.86
伊勢神宮も出雲大社も「まさに豊城入彦命の時代=崇神の記録」な。 毛野氏がどうでもいいなら、伊勢神宮も出雲大社もどうでもよくて騒ぎすぎか? 毛野氏の過剰な評価? いままで1300年間過小評価しすぎたもいいとこだ。 あと数十年経ったらこのスレ程度の「毛野氏過剰評価」は「当然の当たり前の評価」に逆転するに1票 というか毛野氏はこれ以上悪くなるはずがないから、もう上がるしかないですね。 関東平野の毛野氏の前は縄文人だから、もう遡れないから「毛野氏が妥当な評価」になる時代も来るな。 邪馬台国だってちょっと前まで国史学のマニア以外には無視されてきたが、今は違う それと同じ動きが毛野氏で来るでしょう。まあ関東平野の歴史を遡ると毛野氏以外に大豪族はないから当然来るわな。
260 :
日本@名無史さん :2014/09/22(月) 19:18:47.13
天皇に明確に刃向かった、どうみても逆賊の将門ですら徳川期や 明治に数度 その後1984年(ついこの前)に再度神田明神になってる。 毛野氏は天皇に完全に従って海外遠征に従った=神功皇后と同時代 わけで、皇室に対して何の問題もないどころか忠臣もいいところ。 畿内の衰退後は前方後円墳を盛んに造営して崇神以来の伝統を維持してる。 今後、毛野氏がとんでもなく礼賛される可能性は大アリだな。 毛野氏否定派は朝日新聞社員になる可能性もあるんだから注意な。 (毛野氏肯定派は大化けする可能性もあるが、毛野氏否定派は今後立場がやばくなると) どちらにしても毛野氏の評価が下がることはないので(もう底もいいところ) 万馬券になる可能性が非常に高い。 桓武平氏は皇室にとって逆賊だし、清和源氏も結局逆賊だしな。 毛野氏の潜在的なポイント高杉だわ。
>>235 えええっ?平将門は毛野とは全く関係ないって?
そんなことはなかろう。
坂東平氏は母系毛野氏そのものではないのか?
>>261 全然関係ないよ。てか長尾氏まで毛野氏関係者にしたがってるレスがあったけど、
別のレスにある建御名方命系=相武国造or鎌倉別=ヤマトタケル系氏族が女系
つまり将門とかその伯父叔父達同様毛野氏とは殆ど関係なし。
坂東八平氏の祖・平良文系でさえ毛野氏絡みの血統はかなーり薄いよ。
毛野氏を女系としてその地を色濃く反映してるのは秀郷流くらい。
>>262 同意。桓武平氏高望王流で毛野氏族と姻戚関係で結ばれたのは平良文だけと考えていい。
毛野国=紀国説に立つ場合、同地に入部したのは御諸別王で、祭祀の対象として直祖である
豊城入彦命を祀り、それを「吾か紀」(あがき)としたのが、毛野氏祭神の一つである赤城神社
とするのが自然。一方で後の下野国一ノ宮(それが転訛しての)宇都宮・二荒山神社と日光の
二荒山神社は祭神も開祖も異なるとされるが、いずれも後に下毛野氏族と所縁を持つように
なる。
ここで面白いのは、一方の二荒山神社(日光)がその御神体として男体山、女体山を比定している
事実で、これは同じく嘗て「紀国」とされていた筑波国の祭神祭祀対象と同様の現象として認め得る
という点。ただし明確に異なるのが祭神で、筑波山の男体峰は伊弉諾尊、女体峰は伊弉冉尊と
明確されているのでる。加えて、これら両峰を日本武尊、弟橘比売とする説もあり、一般には江戸
以降の民俗伝承とされているが、実に平安期よりそのように比定されていた可能性を指摘する声も
ある。
果たして筑波国造は建許呂命(たけころのみこと)を祖とし、古事記やヲシテ等で知られる「おのころ」
の地が筑波なのである。建許呂命を祖とする氏族群は香取海沿岸を押さえ、また他氏族群と連衡合従
しつつ石背国(福島・浜通り)から相武国(相模国西部)に勢力圏を広げている。
平安期、都から下向した一字名源氏の一族と思われる源護一族は、筑波を拠点に牧等大規模開発
事業を展開しているが、彼らの姻戚氏族は筑波国造の一族であろう。依って高望王系平氏で毛野氏と
姻戚関係を複数結んだのは平良文のみと考えて間違いではない。
確かに高望王の息子の大半は源護の婿になってるよな。 なのに将門の父・良将(良持)は橘氏系の県犬養の婿に、 叔父・良文は兄貴共の没落を当事者として見ているから (最近の説では将門討伐軍に参加したとされてる)、毛野 含め複数の氏族に種を蒔くが得策って考えたんだろw
>>263 「常陸の嵯峨仁明系源氏の母系士族は筑波国造」
目から鱗だ。この常陸源氏(嵯峨仁明系)の母系が長らくぼやけていて曖昧な感覚から抜けられないままでいた。
筑波国造→嵯峨仁明系源氏→国香流桓武平氏の変遷を辿っているのだな。
>>265 藤原南家出身で、親王任国たる常陸国事実上の長官=常陸介に受領として赴任、そのまま在地武士化した
藤原惟久は、国府所在地の絡みから茨城国造とも関係性を深めていると思われる。と同時に、古代より連衡合従の
関係にあった筑波国造とも深い関係を築いているが、一方で毛野氏とはそのような痕跡が今のところ認められないのも
興味深い。惟久は高望王へ入婿し、そこで一子・為憲をもうける。
承平天慶の乱で将門討伐に加わった(というより、将門が朝敵官符を受けるに至る張本父子)この親子であるが、息子
為憲のその後の昇進・叙位補任及び開発領主としての姿を追うと、実に興味深い物がある。これも古代以来の他氏族
との連衡合従で築いた地等に、その勢力圏及び子孫が扶植している(遠江〜伊豆、相模西部)。
あるいはこの時代、女系的勢力図においては実質的毛野氏包囲網が形成されつつあるも、承平天慶の乱等、秀郷との
姻戚関係により辛うじて下野国圏内を押さえていたのではないだろうか。更には時代が下るにつれ、下野さえ圧迫され
ながらどうにか死守しつつ、吉弥侯氏(吉彦氏)始め出羽等へ進出するよりない状況にあったように考えられる。
>>266 藤原為憲は承平天慶の乱の論功行賞で、他の秀郷や貞盛や春実らと違い、武官職を望まなかったんだよね。為憲本人も子孫も木工助を望みその職に就いた。
従ってこの為憲流藤原子は、本来の意味では兵の家(=軍事貴族)の範疇には入らないらしい。
それが頼朝の頃にはずらりと幕府の要職に就いているのが興味深い。
頼朝や北条氏の思惑が分かるように思う(自家と肩を並べる軍事貴族の系譜の家を嫌った)。
>>267 確かに伊豆の工藤氏、伊東氏等は、平直方流とされる北條氏(阿多見家)同様、武者としては精々「京武者」
的存在で、どちらかと言えば在庁時は国衙吏僚、荘園の本家下司・公文としての色合いが濃厚。つまり仰る通りで、
例えば工藤祐経は兵の家の者と言うより、京下りの大江中原三善等同様、官僚的色合いをも兼帯しているのが興味深い。
269 :
日本@名無史さん :2014/09/23(火) 20:31:59.90
職人は血統じゃなくて技術の伝承の系図が別にあるから 血族集団だけ追っても分からないよ。 日本刀の刀工集団の血縁関係や系図なんて何の意味もない。 同じ地域で、同じ作風で、同じ集団に技術伝承を受けたかどうかの大きなくくりがあるだけ。 特殊技術を伴った武者集団の話じゃなくて 氏族の厳密なDNAだけ話題にしたいなら、そんなスレがある。
270 :
日本@名無史さん :2014/09/23(火) 20:43:38.43
たんに系図上の武者と言い張ってるだけかもしれず、 それに相応しい技量があるかは合戦してみないと分からない。 厳密な系図が最重要であるならば、それは「セックス」という競技じゃないのかな? 男と女がいればできるし、系図にちゃんと1代ずつ残ります。 そんなの武者ではないな。 那須与一・竹崎季長などの合戦した個人個人の名と、その集団・地域が重要であって、その点と点を繋ぐのが武者の研究。 血族が一切無く、地域も離れていても「戦争してみて相手に実際に身をもって教わる」という技術の伝承もある。 中世な系図絶対主義の延長が、血縁関係だけで威張ってた徳川政権の弓矢も分からない支配層なわけだが 「行った合戦と司令官の名前」が最重要。後はおまけにすぎない。 それが代々ラインでちゃんと繋がっていれば武者集団と言える。 合戦してなければ、ただのセックス集団です。 立派な系図だけではバーベキューしてフェイスブックで日記書いてるのと大差無い。 戦争が最重要。
サッカーチームは監督と選手が親子関係や系図があるわけではない。 別に血縁関係があってもいいが、サッカーで役に立たなければ何の意味もないな。 サッカー選手の書いた小説作品みたいなものだ。 「茨城なら毛野氏と無関係」というわけではない。 戦争は1人じゃできないんであって、敵がいないとゲームにならないからな。 互いに戦争し合うことで、教わることも大量にある。 今の自衛隊は旧日本軍伝統の技術も持つが、アメリカ軍に教わってもいる。 自衛隊とアメリカ軍に血縁関係や先祖代々の系図があるわけではないが、 戦争技術は猛烈に関係している。 そういうことを踏まえた上で系図を見ないとだめだだろ。
さて、問題の平良文=村岡五郎である。 村岡の地は少なくとも三箇所確認されており、一つは現:神奈川県藤沢市、一つは現:埼玉県熊谷市、そして いま一つは茨城県下妻市である。良文が毛野氏族大野氏へ入婿したのは、熊谷に拠点を構えた時期であろうと 考えて間違いなかろう。ただ、最初に拠点としたのは藤沢のそれであろう。下妻の村岡は、比較的晩年に近い 頃に居館等を構えたのだと思う。 ここで問題となるのは、彼の息子らが何処で生まれたかである。おそらく長男〜三男・忠頼までは熊谷時代、 大野氏居館で生まれている可能性が高い。特に忠頼からは千葉介・上総介系(将門娘入婿産出)、秩父氏・河越氏 系(知々夫国造後裔入婿産出)が毛野氏の血統を享け継いで武士団化している。渋谷氏は忠頼系とされているが おそらく忠光系統であろう。またその他の三浦氏、長尾氏、鎌倉氏、梶原氏、長江氏等は建御名方命系=相武国造 または鎌倉別=ヤマトタケル系後裔氏族へと入婿して得た忠光系と考えてしくはないと思われる。 村岡五郎と言えば、今昔物語における蓑田源次(源宛)との矢合わせ勝負でも知られるが、仮に実話とするなら両者の 没年から推していずれも晩年、950年頃であろう。宛は武蔵国司として受領赴任していた源仕の子であり、足立郡の 生まれとなるから武蔵竹芝等武蔵国造系を女系母系とする。また彼は後年、源満仲の娘に入婿して一子・綱(渡邊綱) を得る。同年、二十代にして亡くなり無位無官ではあるが、今昔物語の所載のエピソードからするに、ある一つの事実が 浮かび上がる。 武術・軍事において毛野氏とは無関係な東国武士の存在である。
足利学校 >関東最古の学校 >教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた 下野足利市にあるが、創設者は桓武平氏や源氏が来る前なので こんなめんどくさいものを作って代々教えていたのは中央任官のものではなく 下毛野氏の可能性がある。
>>269-271 出たよw他氏族貶めて無理矢理毛野持ち上げる基地○がww
古代氏族=同時に職能集団なんてのは皆知ってるわ、アホかwww
275 :
日本@名無史さん :2014/09/23(火) 21:07:37.70
なにもややこしいことはないだろ 男系は中央の桓武平氏で女系は土着の豪族(ex:毛野氏とか)だろ それで何の問題があるんだよ
>>273 川上説ですね。律令制下に於ける学生(がくしょう)設置に基づく……これは国策であり、基本的にどの国であれ
どの地方であれ設置されたものではあるが、川上説自体は現在、支持を得ていないようですね。
また、小野篁創立説はほぼ完全に否定されている。信憑性の高い説が現在のところは確定していないようですね。
やはり足利義兼による鑁阿寺創設と時期を同じくする、というのが現時点では穏当な説であろうと考えます。
>>264 その「婿に」というあたり、源護の子供達は既に母系毛野だった証拠だ。
でなければ、他の氏族の婿を容易に受け入れはしない。
平氏から婿を貰うと、誉れ高き源の姓が、息子の代から小汚い平姓に変わってしまうんだよ。男系氏族にとっては切腹ものの恥だ。
ツッコミ希望。
>>280 まず
>>263 と
>>265 のレス内容を理解してない点w
>誉れ高き源の姓
はい、源姓も源護は平国香、吉兼、良正らを婿に迎えてますww
>男系氏族にとっては切腹ものの恥だ
この当時は「切腹」を巡る概念(名誉とかそんなん含め)確立してまへんwww
なあだ、ツッコミどころって、そんなことか。 女系と男系の違いも理解していないようだな。
>>282 無論、招婿婚がどういう形態の物で、それで何がどう相続継承されるか含めて
解説してくれんだよな!www楽しみ〜〜〜〜!wwwww
何時まで経ってもご高説披露してくんねーなーww
そりゃそーだろ、理解してねーの
>>282 自身だもんなwww
この場合、護の有する格式やら栄誉やらを息子の扶らが相続するわけ
尤も護の場合、常陸大掾(常陸の実質的次官)だが、コイツに
叙位補任するには扶ら息子どもは都との伝も必要だし何なりがある
で、貴種またはさらに官位の高い家の格式・栄誉に与る機会を得るのに
高望の息子らを婿に招いて関係を補強すんだよwコネってヤツだなww
同時に、娘の相続分の土地をそれぞれの婿は財産的バックボーンとするわけw
源護と高望の息子らの場合は、若干格式の高い高望の息子らを婿に入れて
同時に財産・利権の拡充を相互補完して担保しよって関係を結んでるんだよwww
当時の招婿婚つうのは公家だろーが地下人だろーが新興武士層含む
百姓(そーいや昨日だかこの話題も出てたようだったなw)だろーが皆
そうやって家と家との関係を緩めに結んでるんだよw
あ、百姓=農民って概念は秀吉の刀狩り以降に出始め、江戸時代に確立した
見解だかんな、憶えとけよ?www
あ、横着モンが多いみてーだから補完すっけど、 下から5行目以読めば分かんだろーがよ、列挙してない 皇族は基本的に全く別だからな?
まるで見てきたようですね。
その系図最優先で血族優先主義の発想がわからないなー だって「そんな集団はザコ」だよ。 単純に弱いもん。 毛野氏というのは東国の(血族+技術伝承集団)なんだが。 俺は父親に何一つ教わってないが、いろんな方に教わってるわけで その門派といえなくもない。 系図最優先だとこれはどうなるの? 「父親から息子へ」というが、その父が武門に何の興味もない酒飲みのアホタレだったらどうなんの?
武芸=流鏑馬とすると 流鏑馬の伝統とか、その地域で伝統として続くもので 流鏑馬のやってた人が引退したり、息子が興味がなければ途絶えるものではない。 系図最優先の間違ったとらえ方は系図すら理解してないんだよ。 地域集団が最初にあるんだが。もちろん系図集団と言い張ることもできるが そんなのリアルでいたらザコです。 道楽息子・放蕩オヤジであっという間に武門が途絶え最弱のザコになってしまいます。 毛野国はそういうことじゃないからな。 血族集団も系図もあるんだが、それが100でその他が0ではないわけ 血族30 地域70くらいの緩いのが数百年続く系統なんだよ。 江戸時代でいうと、家元制度のなんとか砲術流なんてゴミになってたのと同じ。 例外的に通用した家元制度が将棋・囲碁だろうね。 本因坊とかは、20代続くが親子関係なんて一切関係ない別の系図なのが分かってる。 「最強の棋士」を選定して、そいつを養子にすることで系図に銜えてる 毛野氏は若干これに近い形だろうな。かなり緩い血族集団(村単位がいくつか)のなかから、 「道楽の放蕩のアホタレ」じゃない有望なのを跡目を選定してるだけ。 桓武平氏の系図? 笑えるね。 まあそんな制度あったとしても「ザコ武士団」だろうな。 3代経たずに女遊びするのが伝統技術になるのでは?
系図最優先→徳川幕府を代表する無能のザコ集団 能力最優先→旧日本軍を代表する戦争好きの後先考えない暴力団 毛野氏は系図+能力集団だから長続きした。 ギリシャの民主主義に近いものがあるな。あそこまで大規模ではないが 「関東に学校があった」ことからも師弟教育が系統づけられて かつ数百人規模で行われていたことを示している。 →それなりに優秀でなければならず=学校なので客観的に毛野氏集団から、そいつが適性評価される 長男だから自動的に家督を継げるとかいう制度ではない。 東国武士団の強さはこうしたバランスのよさにある。 系図最優先のボンクラ集団でもないし、能力・官位最優先の野蛮な集団でもないのが特徴。
その集団を形作った背景の地域集団の風習・文化を詳しく考えるのなんて 文化人類学じゃ当たり前の作業なんだが いまどき系図だけ(母親止まり)って、頭の中はまだ中世なのかな?
>>291 冷静にスレ追っての結論なんだけれど、君が云う「文化人類学的」見地なんて
君がそう捉える反対派もしっかり抑えた上でレスしているよ、習俗習慣、伝承形態、
系図がどうとかって話に矮小化しているのって君ら毛野氏誇大評価組じゃない?
これまでロムって客観的多面的視野に立っての素直なインプレッションね。
反論すべき点には反論出来ないのに、屁理屈で出た上に罵倒語で平氏とか
源氏とか貶すから余計に支持されなくなったり馬鹿にされるんだと思う。
私は君&君と使う表現とか文体がソックリな意見とそれ以外と、あと毛野氏を冷静に
眺めてる意見、過小評価してる意見全部目を通した上で、君と君に類似してる
意見にだけすっごく違和感。
押し付けがましいのと、歴史にも武術武芸、武具の発展の仕方も表面でしか理解
してない、要するに全てに疎いのを棚に上げて、冷静な人、過小評価してる人含め
皆もとっくに、しかも自然にインプットアウトプットしてる「文化人類学」とかって言葉で
屁理屈かましてで誤魔化すのと、恥知らずとか頭の中は中世?とかって鼬の最後っ屁
みたいな悔し紛れな罵倒で勝ったつもりになってるから、このスレに書き込んでる他の
大多数に馬鹿にされてるんだと思うよ? そろそろ気付いた方がいいと思う。
老婆心まで、ね。
294 :
日本@名無史さん :2014/09/24(水) 12:17:58.04
毛利と吉川です。俺たちも坂東武者だ。忘れないでくれ。 あと、新羅三郎義光だけど、彼は八幡太郎義家の弟。半島の新羅とは無関係。 孫は、佐竹冠者昌義。 ちなみに俺の生家の屋号は、竹ノ花。 カッコいいだろう。力士と間違わないでくれ。
>>292 >>277 、あるいは貴方の指摘する方々が決定的に駄目なのは、おそらく一次史料等に当たらず、
にも拘わらず「文化人類学」云々の品詞等をほぼ無理解な状態で使用しているからだと思われる。
例えば
>>277 は日本紀略等の国史、あるいは貞信公記等、往時日記等の一時史料、及びそれらを
徹底批判しつつ実証研究する文献学的二次史料にすら当たっていないから、例えば
>その「婿に」というあたり、源護の子供達は既に母系毛野だった証拠だ。
と断言してしまう。証拠すらないにも拘わらず。
彼の言う通りであるなら、935年の時点、つまり将門と源扶兄弟が会戦し、揚げ句に護や国香の舘が
焼失、平氏棟梁たる国香横死してしまう時点で秀郷が何らかの介入をしてくるはずである。対将門の
一員として戦闘に加わるか、あるいは両者を調停するために。ところがその痕跡すら認められない。
これはつまり、源護一族や高望王流平氏の一族が、毛野氏とは婚姻等を基盤とする一定の交渉を
殆ど持っていない=毛野氏と無関係であるという、逆の意味における証拠になる。
最早こうなれば、彼らは歴史音痴どころか、の話ではあるまいか?
>>291 それこそさぁ
「いまどき系図だけ(母親止まり)って」
て言うなら、先行する複数のレス読めば解るだろうけど、
軍事技術における職能集団としても毛野氏を過剰評価してる証しじゃんw
久米、大伴の影響を考慮しない「文化人類学」かぁチゴイネwwwwwwww
>>290 とか全然証拠もないのに凄い推理能力だ、へぇーこれが文化人類学か( ´,_ゝ`)プッ
お前さ、「家司」と「家礼≒家来」と「家人」の区別つかないだろw
つくんなら説明してみろよ、文化人類学的に説明可能なら簡単な事だよな?
それさえ出来ないで
>>290 みたいなレスしてるようじゃラノベ作家程度やーそれ以下だぜ?w
要するにこういうことだ。 源氏も平氏も天皇というユダヤ王の男系子孫だから、 源氏を名乗ろうが平氏を名乗ろうが、ユダヤの血を引く同族だった。 源護が高望王の息子を婿養子に迎えたのは、天皇に近い血筋に戻すためだ。 そのために、我が子が養子である高望王の息子の家来とすることを厭わなかった。これは源氏長者とは何かという問題に行き着く。
毛野の諜報機関は、近世に例えれば、満州鉄道の甘粕機関といったところか。 これはと見込んだ子供を引き取って幼少期からスパイとして鍛え上げる。 武術、武器の技術、暗殺術だ。隠密・情報収集に必要な語学、政治情勢等の知識・・ 後の世に忍者と呼ばれる集団も毛野の手の者たちの末裔だった。 表向きは満州鉄道という交通や流通を生業としながら、 裏では阿片を販売して資金を調達し、軍部と結び付いて武器を仕入れる死の商人。 おれの持つ毛野のイメージと最も近い。
>>298 それだけの諜報機関を仮に組織・運営しつつ、六腹の名家は都に吸収され地下人として
辛うじて一部が家を残し、東国に残った氏族も下毛野氏族の一部を除き没落……出羽まで
進出した吉彦氏も没落した有様で仮に諜報網も築き得ても束ねる能力を有する人間がいない。
尤も宇都宮系毛野氏が辛うじて……結城氏と頼朝との関係、源家将軍滅亡後の北條氏と関係、
南北朝動乱期の華麗な情勢分析を考えれば束ね・棟梁に相応しいか。神官としての宇都宮
一族も相応しかろう、そのネットワークを以て。
ただし、諜報のみならず破壊機関的役割りを有する氏族となれば、北條得宗家被官(御内人)=
楠木氏、また服部氏氏やらが後々纏め上げた、奈良期私営田保障制度がやがて疲弊化、初期
荘園制が崩壊する過程で逃散した百姓・有徳人(現代風に言えば経営者)らが私奴婢を用い、
朝廷への抵抗含め諜報活動を本格化されている。それは纏めたのが前出得御内人・楠木そして
服部ら。
彼らのそれは、毛野氏のそれらに比べより大規模かつ破壊的でありまた沈潜している。ただ、
どちらがより優れているという議論には直結しない。毛野氏のそれは風魔だとか乱破等に引き継がれ、
江戸にても採用されている。それは楠木・服部らの流れが伊賀・甲賀を形成した事実に虚実である。
虚実 × 如実 ○
301 :
日本@名無史さん :2014/09/25(木) 08:25:15.99
坂東武者について語る(解説する)のが相応しいのは作家なのか。 ? そうではあるまい。それでは誰が最も相応しいのか。現在の秋田県知事ではないだろうか。決して司馬遼太郎ではない。氏は南北朝以前には関心もないし地縁も血縁もなかった。 野球を語る(解説する)のに相応しいのは二宮清純ではなくプロ野球経験者であろう。今が旬なのは、田中将大や山本昌ではないか。どこからラノベ作家が出てくるのか意味不明。 勇み足か。 宇都宮氏は毛野氏ではない。文章からは二荒山神社を敵に回して今後は生きていくんだという決意表明も感じられない。地に足も付いていない。
>>301 はてさて、秋田県知事(父系は和井内)に一体、坂東武者の何を語り得るというのか? 先ず
その根拠をば。
プロ野球現役選手に何を解説し得るのか? 経験者のみの外は語るに非ずとはとんだ視野狭窄(失笑)
宇都宮氏が毛野氏ではないと!? その根拠をば。
以下の蛇足は主語すら明確でない駄文。日本人とは思えぬ記綴法含め「地に足が付いていない」
のは寧ろ貴君では?
何しろ酷い文章だ。ラノベ以下、や、まともな比喩や暗喩すら伴わぬ抽象文。小学生幼稚園児であれ
より一層具体性に彩られた根拠を以て発言し得るであろう。
303 :
日本@名無史さん :2014/09/25(木) 14:17:47.69
物事には、順番というものがある。まず、立派な職業であるラノベ作家が何故登場したのかの事由を釈明すべきであろう。 表現手法の得意な分野は人それぞれである。私の暇つぶしに描いた作品は第11回日本の自然を描く展のカタログに載っている。機会があったら見てくれ。 文章の方はカラキシ駄目だったなあ。9歳の時に次の短歌で賞状を受け取ったのが一度あるのみだ。 季語がないと批判されたよ。 ここの坂東武者では、登場回数二位だけど。 白い煙もくもく上がれどこまでも雲のそばまで太陽までも
・ラノベ作家を巡り 仰る通り立派な職業である。かつ彼らの多くが扱う世界観は「ファンタジイ」である。 つまりラノベ作家以下とは「ファンタジイ」としてすら成立していない、かような暗喩である。 ご理解頂けであろうか?
所用にて聊か留守をするゆえ小一時間ばかり失礼。
さて、存外早く用も済んだゆえ続きをば。 貴君曰く「物事には、順番というものがある」と言うなら、寧ろ302に答えて猶、問うが本来の筋 というもの。 なればラノベ釈明を求める以前に302への返答をば求める。
>>303 はお忙しいのかな? とまれ一つ申し上げておくなれば、
>>296 等がラノベ程度やそれ以下
という表現を用いるのも、小生極めて得心が行く。律令制下にあって、各国衙乃至国分寺等に設置
された教育機関を足利学校と騙る輩あり、基本的な史学用語を知らずに理解しようとする物だから
齟齬を来す以前に論理破綻を引き起こす輩然り、引いては日ユ同祖論まで持ち出す挙句を眺め
思うは、小生も
>>296 等と同じく、此処には歴史も比較文化学も、況して文化人類学もなく、あるのは
只の「ファンタジイ」のみ。読むに値する声、学ぶに値する声も多々あるが、荒唐無稽に過ぎる声も
少なからず。こと毛野氏をやおら賞賛する類は一層のこと客観的多面的に多くを眺めるが肝要で
あろう。小生これにて、リード・オンリイ・メンバーへと戻らせて頂く。
308 :
日本@名無史さん :2014/09/25(木) 16:31:29.65
「ファンタジィ」としてすらとは何だ。フィクションは、ノンフィクションよりも下等だとでも言いたいのか。坂東武者について語るのは、ノンフィクションの世界である。 思い上がるな。ピカソの抽象画や芥川の蜘蛛の糸が劣るわけではあるまい。ノンフィクションNO1ではないぞ。 今までにレッドカードを出されたことは何度あるんだ。 絵なんか見てもどんな作品が素晴らしいのか分からねえだろうな。
309 :
307 :2014/09/25(木) 16:39:10.31
>>308 貴君は何方かが斯様に表現されていた「鼬の最後っ屁」を吹かすより能がないのかね?
感情論、具体性を一切欠く主観、異なる事象――ピカソや芥川等を引いて話を摩り替えつつ
足許すら危うい自らを省みずただ悦に入る。貴君は愚かだ、余りに愚か過ぎる。答えられず、
此方が所用で落ちた途端にこれでは「坂東武者」を語るに落ちる卑怯者。貴君こそ卑怯者の
鑑と云えよう。さらば、愚者よ。
310 :
日本@名無史さん :2014/09/25(木) 17:20:36.13
志が低すぎる。語る相手ではない。一度、どこかの山寺にでも行って座禅でも組んできた方が良いのではないか。誰が見ても賢者の言葉ではないぞ。自ら最初にラノベ作家を持ち出したいる。
>>310 傍から見てるモンだけどやっぱ順番違わね?
ラノベどうこうの前に質問してるみたいじゃん。302の場合。
てか文体とか違うから別人だと思うけど、あなた308擁護してんの?
だったらやっぱ307っぽい人の書き込みの方が筋通ってんだけど・・・
あなたの方が志低いよ、文体的に301、303っぽいけどおかしくね?
だな、どう見ても
>>301 、
>>303 、
>>310 が同一人物だったら筋違いは相手じゃないだろw
てかもしかして上の3スレと
>>308 って同一人物だったりしてwww
あれだよ、ジサクジエーン(・∀・)ってヤツ?(pgr
オレもそう思うけどさ、
>>301 には悪いけどどっちにしても宇都宮氏は下毛野氏の本流中の
本流だろ結果的にはさ。
北家道兼流は仮冒だろ。尊卑分脈は結構間違い多いし、宗円とこの記述は簡単過ぎるし。
中原氏も違うと思う。元々大谷寺の別当か何かで、前九年の役の功績で一宮の二荒山神社
別当にもなったんだろ?
一宮の方は豊城入彦命を祭ってるし、日光の方は今や出雲系になっちゃってるけど、元は
祭神も違ったんじゃない?
ま〜何だろ…宗円て下毛野氏にとっての良照(安倍頼良→安倍頼任の弟で安倍氏の祭祀
仏事責任者)みたいな存在で、それが頭角を現して名族になったんじゃないかな?
ところで上毛野氏は没落しちゃったん?(´・ω・`)
毛野は諜報活動を任務とする組織だから、毛野の正体がばれそうになれば、スレの流れを妨害、論旨を曲げることなど容易い。 煽られても、冷静に真実のみを追求する態度が大事だ。
>>314 実は、毛野の情報網は今も健在だ。
毛野の工作員は、古代の毛野の支配地域、および、域外の主要拠点に今も住んでいる。
その内どのくらいの人が、自分の出自を理解し、いざ鎌倉と言うときに出仕できるかわからない。
しかし、毛野をまとめる人物が現れれば、事情は変わってくる。
wwwwwww
「いざ鎌倉」 ↓ 「いざ鎌倉を滅ぼせ」だったな。
毛野国って、世界史で見てもとんでもなくすさまじく古い王家だからな。 フランス最古の王室のフランク王国より古い 毛野国は王国なんだよ。王族の末裔がいるはず、今は農民かもしれないがいるはず。 そいつが王国復活の呪文を唱えると・・ リーテラトバリタウルス
321 :
日本@名無史さん :2014/09/26(金) 17:52:15.32
今宵も焼き鳥で一杯といくか。やっぱり飛んでいるは鳥は、身が締まっていて歯ごたえが違うなあ。 流石に古代はカスミ網や鳥もちなど使わずに自前の弓矢で取ってきたんだろうな。 鷹狩が興隆するまでは。 俺は弓矢とか作ったことないなあ。 杉鉄砲はあるけれど。杉鉄砲の原理は紙鉄砲と同じ。空気圧で飛ばす。 直径3,4ミリの杉のみが入る篠を採取する、次に節から4、5センチの所で切断する。節側に竹ひごを一本固定する。 空洞の方は筒になる。筒の方の先端部分に杉の実を押し込めるように竹ひごの長さを確認してから、ひごを切断する。 杉鉄砲の完成である。だけど、これでは百舌鳥さえ捕れねえだろう。 矢という物は、武者が独自に作ったに違いない。先端部分を除いて。先端は、何処かの村の鍛冶屋だろう。 漁具、農具を含めて鍛冶屋に一任だ。だけど、それ以外は武者仕事。 あんた、何処かで篠を採取したことある。 ?
弓矢なんて武者戦闘員に関係なく世界中何処にでもある アホか
323 :
日本@名無史さん :2014/09/26(金) 18:22:47.43
弓矢があるだけでは雉はとれまい。 石が転がっているだけでは、チャボもとれまい。 私の兄は石をぶつけてチャボを取ってきた。 技能技術が重要だ。 白河軍団のホームページを開くと弓矢をかざしているぞ。 弓矢について語るのは、坂東武者の根幹部分になるのではないか。武者の動体視力を含めて。 飛んでいる鳥の飛行曲線から鳥の判別が出来ないようでは、いっぱしの坂東武者にはなれねえだろうな。
>>322 このヘンな書き方のクセある人(ヘンなスペース入れたり、ヘンな場所に?とか入れたり)、
読解力ないんじゃねぇの?
昨日の遣り取り見てても、明らかに自分に非があるのに相手のせいにしてたし。
325 :
日本@名無史さん :2014/09/26(金) 18:48:02.18
読解力のない俺でも、文芸春秋社の企画出版ものパスしたぞ。パスするのは一か月に一人位かなあ。俺のは、200頁の単行本だった。 貴殿も興味があるのであれは頑張ってくれ。
オビシャ行事とは、 年頭に行われる弓神事。各戸の世帯主がムラの氏神や小祠に集まり、神事の後、決められた人、あるいは参加者全員で弓を射る。 ??オビシャは、主として関東地方の各村落で行われる春の行事です。 弓矢で的を射ることにより、その年の吉凶を占う行事で、「歩射」「弓 ぶち」などとも呼ばれ、五穀豊穣、家内安全、無病息災、 厄除開運を祈念するお祭り です。 毛野の支配地域と、このオビシャ行事が行われる地域とは一致する。
常陸から下野にかけての一大丘陵地帯である中村の地は別名≪伊佐の荘園≫と呼ばれていた。
328 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 09:14:31.24
つながってはいねえだろう、下野の方は中村荘。常陸は伊佐荘。共に中村と呼ばれていた。あるいは、かつてはつながっていたのだろうか。 下野中村荘の城館跡は、東西414メートル、南北486メートル。周囲の空堀は、幅8メートルで深さ5乃至9メートルであった。 伊達常陸入道念西という方は確かにいたようである。この方の出自が気になる。子息らは奥州征伐に参戦して活躍したようである。 三軍に別れた一つである東海道軍のトップ2の大将軍は、千葉常胤と八田知家。 念西の子息らは奥州での活躍により伊達郡を与えられた。 はっきりとしないのは、念西の出自だけだな。 それと変な文章だけから人を判断しないでくれ。44、45の東京奠都と81の諸生軍は私の文章。あと前回の光圀による那須国造碑の再建ほか。
藤原北家山蔭流・常陸介藤原実宗の子孫だよ(招婿婚)。 伊達(陸奥)と中村(下野)と伊佐(常陸)は三家ともに南北朝時代に南朝方として北朝勢力と激しく戦っている。 三家の共同歩調ぶりは、“そうするのが当たり前”と言わんばかりで、まるで三つ子の兄弟かのようだ。 三家が同族である証拠だろう。
330 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 10:40:34.45
三家が同族なのは分かる。念西が常陸平氏の出なのか、はたまた毛野氏なのか。様々あって確定していないようだ。その辺が気になるのです。 それと南北朝期の三兄弟であるならば、二対一位にわかれるのが自然でしょう。
自分もそう思うけどね→二対一 けど多くの家が、南朝方だ、武家方だ言ってもその思想面から入れ込んでというわけではあまりなく、政治的判断によって南北それぞれに与しているのに対して、この朝宗流の三家は真から南朝方の思想に一体化して南朝方に与している節が伺えるんだよ。 武士には当たり前な打算的なものより、ある意味、宗教戦争に近いものを感じる。 それから、本当は毛野氏か、常陸平氏かなんて問うのは大して意味のあることとは思わない。 地方豪族というものは、その時々で暫時中央から血を入れていくわけだから、何世代も重ねる内に一門も分かれて、それぞれに招婿していく。 だから敢えて言えば「すべて正しい」。 招婿婚とはそういうもの。
あと三家が堅固に一体化してるのは、本領が陸奥と、常陸、下野ということでそれぞれが「程良い」距離にあるからかもね。 同一地区だと惣領家と庶家とで利権争いが発生して、「惣領家が南朝ならうちは北朝に付く」みたいになるが。 まあ伊佐と中村は至近だけどね…
北条政子も毛野のようだ。 源氏の御曹司頼朝を婿に貰って天下を取ったら、婿の一族はポイ捨て。源氏の正統は、結局は北条氏自身が滅ぼしたのだ。 招婿婚なんてものはいつの時代もこんなものだ。源氏も平家も藤原氏も種馬というより、嫁の実家の会社の雇われ社長でしかなかった。 これは、近江毛野の伝統で、母系社会では、姉が家を継いで、娘がいなかった家に妹が嫁入りする。 すると、妹の家の娘は、母系で繋がった一族で、両家の女酋長同士は姉妹、同じ腹から生まれた女族ということになる。 東国の六腹と呼ばれた豪族も、男系ではなく同じ腹(母方の祖母、祖祖母が同じ)という関係だろう。 毛野にはいにしえの昔から夜這いの風習があり、父は誰かわからない中で、確かな血脈として何万年もの間受け継がれてきた旧石器時代からの狩猟系土着民の伝統だろう。
このスレはたまにウソ情報を尤もらしくしれっと織り込んでくるヤツがいるから困るからなぁ。
北條政子の生年は1157年頃とされるから、その母は伊東氏の娘か足立遠元の娘だろうから、
近江毛野の血は入っていないはず。伊東氏は藤原為憲(母系背景は筑波又は茨城国造)、
その後の血の入り方も近江毛野混入の余地はないし、足立なら武蔵氏(竹芝)系統、
これも毛野氏の血は良文系等知々夫国造経由で上毛野氏の血が僅かに入る程度のはず。
>>333 てことでソースあるなら頼む。時政の場合は直方流ほぼ確定の京武者系だし、地下人化
した毛野(近江毛野氏含め)血が入る余地ゼロでは決してないであろうから、それも結局は
ソース次第だけど。
それと源氏の正統は摂津源氏系統ね。北條も毛野も関係なし。
337 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 13:14:28.31
その、伊東氏も毛野と言うことだろうな。
338 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 13:17:43.14
というより、女族である毛野を男系の論理、つまり、「氏」や「家」で語ろうとすること自体無理があることに気づいていないようだな。
>>338 文化人類学的に日本において「女族」という概念は既に存在していない。
誰かが昨日一昨日辺り書いてたファンタジーもいいとこだわw
>>338 というより、母系制と採っていた古代氏族社会を鎌倉〜室町以降の論理、つまり、「氏」や「家」を無視してで語ろうとすること自体、比較文化学的、文化人類学的に無理があることに気づいていないようだな。
※だからソースを提示出来ずに伊東を毛野と言ったり、北条政子を毛野と言ったりするのだろう。
家系図には男系は記されているが、女系は、直径男子の生母がどこの氏の女かくらいしか記録には残らない。 そういう仕組みを男系氏族である源氏や平家や藤原氏が持ち込んだことで、女系毛野の痕跡はことごとく消えた。 従って、あなたが望むような証拠とやらは残ってはいない。 しかし、坂東平氏や北条氏などの土着の豪族の行動様式を見ると、女系で繋がっているからではないかと考えざるを得ない場面に出くわす。 記録にあるものだけが歴史を動かしているわけではないのではなかろうか?
>>342 ここ数日来の書き込み遡ってさ、改めて読み返した方がいいと思うよ?
此処の毛野氏系に懐疑的な書き手はあんたのその程度の書き込み(認識)なんさ織り込み
済みで様々な可能性に言及したり示唆したりしているから。
※同時に、父系母系双系問わず、毛野氏系と思われる氏族に関しては懐疑的な類でも
毛野氏であるって書いてるから。自分の都合の良い思い込みで判断分析しちゃダメだよw
344 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 17:34:55.18
大陸の方では、矢の鏃に毒を塗り付けていたそうな。しかし日本では、ほとんど聞かない。 もし塗っていれば、かすり傷でも致命傷になる。このような禁じ手を決めるのに毛野氏は関与しているのですか。?
>>342 あと
>土着の豪族の行動様式を見ると、女系で繋がっているからではないかと考えざるを得ない場面
にあっても互いに攻撃試しあい、一方が他方を滅亡に追い遣るなんて枚挙に暇もないからw
行動原理の背景なんて様々だし、社会的変化に伴う要因が大きく作用する場合もあるんだよw
眺め方が単純杉w
>>344 殆ど(というか全く)関係ないと思う、文化人類学的にw
そうする文明文化を持つ種族が来なかったか、居たとしても淘汰されたってだけの話。
347 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 18:09:59.43
元寇の乱で上陸したものが用いている。どっかで読んだような気がするな。その一時は超大国になったモンゴル国は今でもあるよな。 人類による毒の発見は何時ごろか知りませんが、毛野氏は古墳時代初頭には、朝鮮出兵をしている訳ですから気になることでしょう。
>毛野氏は古墳時代初頭には、朝鮮出兵をしている訳ですから気になることでしょう。 しかし結局は用いられなかった。採用されなかったということ。また、古代半島に大王の命で 出兵しているのは別に毛野氏だけではないから、例えば「禁じてを決める」という能動的行動 ではなく、風土や狙いとする禽獣の大きさ等、受動的要因が要請しなかったと考えるのが自然。
349 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 18:34:00.12
他には馬を狙い矢を放ってはいけないという禁じ手がある。 弓矢は駄目でも岩石落としや丸太転がしなら何故よいのか。誰が何時ごろ決めたことなのか。 何となく毛野氏ではないかと思えるのです。
>>349 毛野氏族による「帝政ローマ」並の中央集権体制で西国〜東国が統一されていたならあり得るね(笑)
要するに
>>348 が言う通り。受動的要因がルール収斂に資する果たす役割りは極めて高い。
所謂「自然法」的な慣習・習俗の積み重ね。特定氏族が決める性質の物じゃない。毛野氏に幻想を抱き過ぎ。
毛野氏に幻想など抱いていない。そもそも、毛野に集落はあっても国はなく、氏族としての一体もはない。要するに毛野に住む原住民と言ったところだ。
352 :
日本@名無史さん :2014/09/27(土) 19:52:50.55
国破れて山河在り。河は利根川で山は榛名山ですか、それともやはり名物赤城山ですか。
このスレでも、口達者な男系氏族にやり込められてしまったように、女系毛野は政治や文化の表舞台から消えた。 しかし、一庶民として関東各地でしたたかに女系を継いでいるのであった。 おしまい。
>>352 鶏(かけ)が啼く 吾妻問ひにし榛名越え 吾か柵(あかぎ)に吾妻 笑みし 毛ぬ国
毛野は永遠に不滅です。
>>351 「倭国軍主力」「兵力は最大の1万7000」
という肩書きはお前が何言っても崩せないのです。
本来東国と西国は分割統治なんだよ。
両頭体制
双蛇の紋章が皇室の家紋です。
といっても西は雑魚なのだが。
京都・奈良の兵団が強かったためしはない
358 :
日本@名無史さん :2014/09/28(日) 07:05:09.66
油が切れた機械みてえな文章の人からは坂東武者のにおいが全く感じられないなあ。 人馬一体に成れない人の代表ではないか。 そこのあんた、鉄棒で蹴上がり出来ねえだろう。 走り高跳びも着地が危険だからと正面飛以外は禁止された劣等組にいたのではないか。? 五目並べをしても六つ並べて勝った勝ったと気勢を上げる能無しにしか見えねえわな。
359 :
日本@名無史さん :2014/09/28(日) 07:07:46.88
そこのあんたとは351番
>>357 オレは351じゃないが(逆に反論受けた側)、いい加減なこと書いてんじゃねーぞ?
他氏族侮辱して逆に毛野氏族を辱めている野郎
何だ? その両頭体制とやらは?
双蛇の紋章が皇室の家紋?
西が「雑魚」?
文献学及び考古学双方からソース出せやをいw
西の兵団が強かった例がないのに毛野は何処へ消えちまっただよ、をらw
このスレで一番迷惑がられてるテメェ自身の存在を省みつつソース出せ!
(最初の二行分を要らねーから、そんなん誰でも知ってる話なんで)
>>357 取り敢えず金錯銘文等にある「治天下」の意味を解説してみろよ、傍証等引きながらよw
>>357 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、
吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
簡単だろ? 解釈含め誤りなく訳文解説してみろよw
しっかしどっかの基地外が雑魚とか抜かしている大伴辺りが何だかんだで残ったのに対して、 近江毛野は何処かへ消えちまったな、あ?w
稲荷山鉄剣の主は、渡来人。
渡来人ってソースどこー(棒
368 :
日本@名無史さん :2014/09/28(日) 10:25:24.90
稲荷山鉄剣の「乎獲居臣」は系譜からみて明らかに安倍氏の系統だろ 毛野氏と関係あんの?
>>368 そこはポイントですらねーだろw
裏文全体で捉えて敷衍しろやw
行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘にある「獲加多支鹵大王」ワカタケル大王を雄略天皇と解する説が有力である。 雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。 雄略天皇の母、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。つまり母系は毛野だったのだ。 獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)と 意冨比??は、母系毛野の同腹とする説が有力となった。
てか「上宮記」知ってるかどうか以前に滅茶苦茶解釈だろ途中からwww (都合の良い解釈ってヤツか、お隣の国的なwww)
アレだな、ここってぜんっ全然毛野氏と係わりのない息長氏族まで毛野氏族にしたがるアフォが いるみたいだな(白目
息流氏と毛野は正に同族というか、姫の氏、毛野そのものだ。
>>374 おめーどうやってその「ちょー大嘘」を「証明」すんの?w
取りあえず楽しみに待ってる〜w
履 中 天 皇 が 抹 殺 さ れ て い る 件 に つ い て ( 笑 )
>>360 継体は北陸・近江の兵団が畿内を占拠した事件
だが毛野国は北陸・近江より強大な軍事国家
よって 毛野国>>>>北陸近江>>>>畿内 が成立する。
また畿内は九州地方すら支配できてない。
よって増援も期待できない。
よって毛野国>>>>ザコの壁>>>>奈良が成立する。
OKですか?
毛野国に匹敵したのは応神までだな 「あとはザコ」 畿内は在地豪族の勢力争いで分断されて軍事国家にはなりえない。 壬申の乱で畿内は兵力2000もないとかカスじゃん。 やはり東国毛野国は最強の軍事国家。 畿内と東国は並立王朝だったと考えるのが妥当。 東国がアメリカ・ 畿内が日本 と考えればいいだろう。 「たまに一緒に軍事作戦することもあるが、日本の首相(奈良の酋長)はアメリカ軍(毛野国の軍隊)を指揮する権限がない」 のであります。
>>377 傍証すらねー妄想じゃんw
OKですか?(pgr
>>380 大海の政治力とか司令官の采配とか無視してのお隣の国的「自分に都合のいい解釈」じゃね?w
将門の直属の兵力は1000もない。 それを討った藤原なんとかも1000程度だろ。 一方毛野国の最大勢力はその数百年前に1万数千を超える。 将門の乱というのは実はただの暴走行為みたいなものだろ。 東京で一時期暴走行為があったとして、暴走族が東京を支配したわけではない。 結局 桓武平氏やら源氏は過大評価もいいとこだな。 関東でそれだけの規模を誇った勢力は、北条の最大勢力(兵力3万超え)くらいだな カスが集まって、しょぼいカス同士争乱してたのが中世。 毛野氏の比ではないな。 毛野国がローマ帝国としたら、桓武平氏や源氏はなんとか傭兵団の争いくらいのものだろう。 平氏も源氏もろくに国家すら成立させてないからカスですね。 偉業を成し遂げたのは毛野氏のみ 違うというなら、桓武平氏はどこの外国を攻めたことがあるのか? 清和源氏は海外植民地をもってたの? お笑い芸人がテレビによく出ているからといって、お笑い芸人が武力があるわけではないのと同じ。 自衛隊は宣伝もしないしテレビにもでないがお笑い芸人(桓武平氏・清和源氏)より強いです。 中世の源氏やら平氏はザコのくせに宣伝行為がすぎますね。電通でも雇ってたのか?
ソースソースって、これだから関西人は困る。 何度もいうが、毛野なら醤油なのだ。 反論あれば、自分でソースを用意しろよ。
>>382 お前ヴァカ?
毛野なんて雑魚の雑兵提供した産地に過ぎないだろがw
しかも親父ギャグにもならねーつまんねー戯言抜かす前にソースだせやw
天武帝側の司令官はほぼ全員、毛野と無関係だぜ? 精々紀阿閉麻呂が遠いとお〜い
崇神天皇の御世にちょっとお付き合いがあった程度じゃねーかよ大嘘つきwww
385 :
384 :2014/09/28(日) 12:20:28.46
あ、ちなみにオレ、800年来の上毛人家系なんで(笑)
あと双蛇の家紋のソースまだー(棒
ソースはほしい人が自分で用意しなさい。何度言えばわかるんだよ?
傍証も含めて挙証=証明も出来ねー(要するにソース出せねー)w で、テメェの証明責任棚上げで人にソース出せとかアフォか? この毛野厨はwww 日本書紀も碌に読んでねーだろな、この妄想ファンタジー大嘘吐き毛野厨はよwww あーアフォらしくなってきたわ、このお隣の国の人的テメェに都合の良い解釈はじめよwwwww
ソースねーから出せねーんだろ妄想ファンタジー大嘘つき毛野厨がwwww タヒねやwwwwww
>>385 俺の祖先は、おそらく、旧石器時代から毛野に住んでいると思われるが何か?
だから、俺が毛野なんだから、俺が言うことは毛野そのものなのです。わかんねえかな?w
>>391 あなたは神即ちゴッドですか?(´・ω・`)
ガッデム!w
結論:他氏族をやたらと貶す毛野過剰支持者は○○ー検定実施対象ということでw
>>388 あんたの話は、あとの時代になって毛野に侵入してきた渡来人(奈良時代までに帰化したものを含む)の話でしかない。
そんな与太話に何で毛野の原住民であるおれが答えるなくちゃいけないんだよ?
将門1000 毛野17000 300年前でこれだからな。 関東の支配者が毛野氏とすれば、変なバイク乗った環八の暴走族が板東平氏だったというのが 歴史の真実 板東平氏が何をしたかというと、関東では反乱、畿内では天皇政権略奪と、碌な事をしてない。 ろくでもない連中を褒める必要はないでしょう。 清和源氏も口だけですしね。 まあ清和源氏は「清和源氏の関東での政権などそもそもできなかった」から論外か=北条氏がいただけ。 結局日本を混乱させただけで、評価すべき点は何もないです。 「山賊の群れ」というのが妥当な評価でしょう。
>>395 で、大王の駒で単なる雑魚の毛野氏は何をしたの?w
どっかへ消えちゃったヘタレ毛野氏って何をしたの?w
>>395 毛野が関東の支配者? お前って本当に歴史音痴だなw
大法螺吹きがどの口聞いてんだか(笑)
・歴史を知らない
・文献学を知らない
・考古学的進捗傾向=年代と共に大規模化する傾向を巡っても知らない
・渡来人の概念が滅茶苦茶
・関係のない氏族まで勝手に毛野氏に含めようとする
これだけ嘘に嘘を重ねて揚げ句、与太話以下の印象操作しか出来ないんだもんな(笑)
善悪抜きにして、そもそもスケールがしょぼい。 保元の乱は兵力600 平治の乱は兵力3000程度。 兵力1万数千を動員した毛野氏に比べるとしょぼすぎ。 毛野氏が軍隊としたら、平氏は警備員くらいじゃね? 平氏の統領の平清盛が何したのという印象。 天皇に敵対した悪の親玉でしょ? 「天皇に従って敵を成敗した」というか、自分の利益のためだけじゃん。 >源氏の神話化の原点としての前九年の役 源氏の前九年・後三年なんて 毛野氏が延々とやっていたことの焼き直しにすぎない。 そんなの威張られても困る。奥州遠征こそ、毛野氏は何十回とやっているんですけどもー それを威張るなら毛野氏をもっと敬えと 関東征服・朝鮮征伐・東北遠征してた毛野氏の方が遙かに強大だな。 スケールがでかく(28倍はでかい兵団)・天皇に忠実で、反乱もしないと。 まあ関東全域をまとめないと1万7000は動かせないからな。 後世そんな統率を見せた氏族はいないわけで。 源氏も平氏も「私利私欲の同族争いで関東を破壊した」という印象しかないですね まさに夜盗の群れといったところか。 はいはい、系図をいばってくださいね。とある山賊の系図だけどね。
「いない方がマシだった」のが板東平氏と清和源氏 毛野氏の築いた関東の平定を乱した略奪者ですね。 褒めるところが何もない。
JRのように関東を定時運行させてた毛野氏が無視で=何も起こさないことに価値はないのか? 線路に爆弾しかけただけの平氏やら源氏が評価ってのは納得できないものがある。 「不良を賞賛」ってやつ? なんか理解できないですわ 関東を長年安定させた毛野氏はもっと評価すべきだし 関東を破壊した板東平氏や源氏の評価は今後どんどん下げるべき
>>399 ねぇねぇ雑魚で大王の番犬の毛野氏動員能力一万数千のソースってどれ?w
文献学を知らない 歴 史 音 痴 ク ソ www
>>400 毛野氏が関東を平定したソースが皆無なんですけど(笑)
※考古学と文献学を無視し杉(pgr
>>401 毛野氏のみであれば、各種開発もままならず搾取され、
やがて毛野氏自身より北方に追い遣られたであろうし、あるいは
南方に追放される運命だったろうな、蝦夷同様に。
コイツ、歴史批評というモノがまるで分かってないわ(呆れ笑
>>404 あれだろ?前スレとかでやたら初代征夷大将軍に拘ってたヤツだろソイツw
歴史の「れ」の時も知らないに決まってんじゃんw
「白髪三千丈」真に受けて「毛野氏が関東を平定した」とか「毛野氏が関東の支配者」
とか無根拠に言い出すくらいなんだから察してやれよ、単なる毛野厨二病を拗らせた
可哀相なヤツなんだってw
>毛野氏が関東を平定したソースが皆無 毛野氏が関東を平定しないソースこそ皆無ですけど、何か? 関東平野が畿内発祥の軍隊でまさに崇神以降に急速に支配されたのが 文献学・考古学とも【確定データ】 反論の余地なさすぎ。 そういった当たり前のことすら知らないで批判って頭にウジが沸いてるんだな。 調べもしないで批判するバカはどこにでもいるが、正直迷惑すぎ
毛野氏が関東を平定しなかったって笑える学説だな そのアホ説言ってる学者の名前だれ? 300くらいまでほとんど縄文時代だった関東が 350〜380くらいに最初期古墳の1つの前方後方墳ができてるんだが、 これはどういう原理なの? 垂仁期とほぼ同時代の古墳が関東に同時にできてる。 垂仁期と同時代から活動した毛野氏以外の何がいるのかなw あ、無敵の板東平氏さまが時空を越えて4世紀にやってきて古墳作った説ですか? はいはいすごいすごい。
関東で古墳建てまくってた在地豪族の残党だろうよ
大河ドラマは応神・毛野氏で朝鮮征伐だな。 考古学的に確実なのに、なぜやらんのだろうか。 資料だけたくさんあるゴミみたいな時代よりずっとマシ 資料があれば偉いって・・・ 毎日の資料が豊富な暇な主婦のブログが日本史至上最高に偉い業績になってしまうね。 朝鮮の300年間の長期間平定なんか、 秀吉(2〜3年)・日本軍(35年占領)越えの業績なんだからやりゃいいのに。 神功皇后から白村江までやると。全部毛野氏が出てくるのにな。 (当然どうでもいい・生まれてもない平氏も源氏もでてきませんw) 何したわけでもない官兵衛なんてどうでもいいだろ。
410 :
日本@名無史さん :2014/09/29(月) 18:45:09.98
題名は、「田道が行く」とかですか。
411 :
368 :2014/09/29(月) 18:53:34.38
>>370 >雄略天皇の母、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。つまり母系は毛野だったのだ。
>獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)と 意冨比�は、母系毛野の同腹とする説が有力となった。
おいw ちょとマテやw
「毛野」と「野毛」しか共通点ないやん、どこが血筋やてw
>>406-407 >>409 お前はニートか?好き勝手な時間に無責任な出鱈目よう書けるなw
>毛野氏が関東を平定しないソースこそ皆無ですけど、何か?
>関東平野が畿内発祥の軍隊でまさに崇神以降に急速に支配されたのが
>文献学・考古学とも【確定データ】
↑の件について、その【確定データ】やらを出してみろよ、まぁ出せないだろうけどなw
お前が如何に大嘘吐きか検証してやろうw
>300くらいまでほとんど縄文時代だった関東が
>350〜380くらいに最初期古墳の1つの前方後方墳ができてるんだが、
>これはどういう原理なの?
↑お前本当に何も知らんのな、吃驚したわ(呆)
東国最古の古墳は、お前の触れるソイツより百年以上古い総国(後の上総国圏)の古墳群、それに
師長国=後の相模国(相模川東岸圏)の前方後円墳だよ。垂仁期どころか崇神期、記紀にある所謂
「四道将軍」事蹟と一致している。特に東海圏を傘下に収めた武渟川別は、その後出雲系とも関係を
持ち、その絡みで出雲系や物部等も東海圏から香取海沿岸へと入植している。かつ彼らは漸北、荒川
以南までを傘下に収めている。
一方で北陸を収めた大彦命は白河から那須方面、及び毛野が結局影響を殆ど及ぼせなかった後の上野
(群馬)西部を蚕食、武渟川別らとゆる連合体を形成して関東を平定してんだよ、稲荷山古墳出土剣の金錯
文(裏文)がその文献学的根拠【確定データ】の一つだ。因みに、この大彦命後裔が那須国造たる那須直。
彼らは往時内湾であった香取海沿岸を完全に押さえ、その利得利権を首尾よく調整、結果として後から来た
御諸別王は渡良瀬水系〜毛野水系辺りの平野部(しかも氾濫地域)しか押さえられなかったんだよ。
これの何処が関東平定だ?は?(pgr
毛野なんざ所詮、大王の犬(走狗)、駒、要するに雑魚に過ぎないんだよw
つーかお前読解力なさ杉ww 勝手に「家系」の問題に矮小化してみたり、知識も意味も分からず「文化人類学」
なんて言葉急に持ち出したりw
恥ずかしい存在だよな、お前ってwww
このスレ
>>262 辺り以降から読み直してこいや、脳味噌に蛆の湧いた毛野厨坊やよ(笑)
413 :
412 :2014/09/29(月) 19:26:13.74
>>411 ソイツ、例の他氏族貶めたり出鱈目な法螺吹いてる毛野厨だろw
自分も昨日指摘してるが全然関係ないから、毛野とはw
加えて昨日だか指摘していた方が居たが、金錯文に見るように、後に東北方面(殊に通商ルートとして枢要な日本海側)に 影響を及ぼした阿部氏は大彦及び武渟川別双方の血統を受け継いでいる。他に膳臣等幾つかの氏族を輩出し、奈良期まで 一定程度以上の影響力を及ぼしている。同じ頃には地下に陥りかけている六腹のような雑魚とは違うってこったw ※自分は脳味噌に蛆の湧いた毛野厨坊やとは違うから、実際には毛野氏を雑魚とは思わないがな。
確かに関東で絡んでいるのって所謂「武蔵国造の乱」くらいだもんなw それも立ち位置的には「朝敵扱い」だし、屯倉の類を大王に差し出す事で どうにか命脈保ったって断じて過言じゃないくらいのヘタレっぷりだしなw そん体たらくを以て、マジで何が「関東平定」だかw
まぁいずれにせよ、毛野氏(特に上毛野氏)が過大に評価されているきらいは否めない。 評価し得るとすれば、車持氏と藤原不比等の関係くらいであろうか。 尤も、不比等生母はまた異なるとする説もあるから、この点を以てというのも……。
417 :
日本@名無史さん :2014/09/29(月) 21:41:31.29
ニートって20代から30代でなかったっけ。 毛野氏こそわが命の方は、60代前半に見えるなあ。 普通人は、相手方を同年代と思ってしまうもの、 とは言っても、ニートと指摘した人の目は節穴。坂東武者には、なれねえだろうな。
418 :
日本@名無史さん :2014/09/29(月) 21:49:30.95
415 その朝廷ってのの正体もまた分からないんだけどなw 結局それが分からないからみんなフラフラしてるわけ あ〜でもないこ〜でもないってな 分かってるのは武蔵の勢力は朝廷とやらとは別勢力 古すぎでもう分からない
他人をしてその「目を節穴」などと評する傲慢な人間にはなりたくねえもんだな。
>>418 415には「朝敵扱い」て言葉は出てきているけど「朝廷」なんて表現出てきてないんじゃない?
どっちにしても、上毛野小熊が大王家に屯倉を提供して何ていうかご機嫌取ってる?って感じなのは
確かかもw
国定忠治、フーテンの寅さん、最近では「花子とアン」のおとう、世間に縛られるのが大嫌い。自由にうろうろほっちき回るのが好きなのが毛野の男ってもんよ。そういう意味で将門には共感。 喧嘩は滅法弱いし、政治的な話は空っきしダメ。 家のことはかかあに任せっきり。 物部や藤原氏、源平が入ってきたら負けっぱなし。 しゃーんめ。
そういや花子のおとう、本名は安中逸平だw (安中だから微妙に毛野氏族版図から外れるけどw)
424 :
日本@名無史さん :2014/09/29(月) 22:25:54.20
名前にも流行っていうものがある見てえだな。俺の何代か前は忠治。国定忠治と同年代。
安中や碓氷峠は、早々と物部に取られちまったんだべ?
426 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 07:05:24.49
節穴に不足があるのであれば、あき目くらだな。視力2.0と健全な目を持っていながら何も判別できない。
>>426 貴方の謂う坂東武者とは、そう認められるための条件として「傲慢さ」と「視野狭窄」を求められて
いるのか? そうであるなら、私は七生輪廻しようと貴方の謂う坂東武者にだけはなりたくない。
428 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 09:00:25.47
なりたくないとは何だ。それは坂東武者になれる能力を持った人の台詞。 なりたくてもなれないのではないか。
>>428 為せる人は抑々斯様な物言いはせぬ者。
他者を揶揄する以前に、己の胸に手を当てて顧みる事だな。
それでも猶、であるなら、貴方は武者でも何でもない、賊徒だ。
430 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 09:41:50.67
まあ20世紀に生まれた私は、坂東武者よりも水戸天狗派に近いかもしれない。 天狗党も一度は、賊軍扱いされたものだ。新撰組は、その逆となる。 貴殿は、官軍と賊軍について考えたこともないのではないか。 官軍である白河軍団は、1050年頃まであったわけだから、それに対立する初期の坂東武者は賊徒になるわけだ。 晴れて官軍になったのは鎌倉政権が樹立された時だろうな。 まあ弓矢について語ろうとする衝動が起きないようでは元々資質に欠けると見られるわな。 篠や笹の葉に触れたこともこともないのではないか。
>>430 根本から何ら理解されてらっしゃらぬ方のようだな。
おそらく賊徒という言葉から斯様な連想を浮べられたのであろうが、余りに貧困にして愚か。
なれば言おう、428るいは417なるような揶揄を平気で口にし且つ言葉として刻むは、既に
人として何もかも出来ていない証。それ以上触れよう物なれば、貴方の人品卑しさを只管
強調するのみに終始するぞ? 故に私は
「己の胸に手を当てて顧みる事だな」と申し上げた筈。
物事の理(ことわり)、要諦を知らぬは極められぬ人なり。未熟者に非ず。非熟者。
>>430 非熟者どころではなかろうか、不熟者と断ずるよりなきゆえ、
それ以上明後日なる与太話は為ぬがよかろう。
とまれ
「己の胸に手を当てて顧みる事だな」
433 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 10:18:23.31
上州人の年齢を誤り、対応した。侮辱的な言動もあった。古代でも刑罰の対象になるのではないか。 だから私は、あえて節穴と言ったのである。節穴が坂東武者について語ろうとするところに違和感を覚えるのは私だけではあるまい。
新撰組も秩父一揆も天狗等も水戸藩も 要するに全部北関東だよな。 南関東って何なの? ヘタレのウンコ虫の集団? なんでウンコがしゃべってるの?
>>433 いろんな人が好きなように書いてる中で、あなたがいろんな人達ごっちゃにして勘違い
してるだけじゃないですか?
私にはそう見えるんですけど・・・
だとするとあなたもかなり失礼だし侮辱的だし、坂東武者について語る資格がない人って
なると思うんですよね。
ていうか、結構大人な方だとしたら・・・ごめんなさいね、余りに子供じみた態度ですよ?
多分、私の父くらいのお年かもなんで、ほんとにごめんなさいなんですけど、手本にしたく
ない大人だなって思います。今のまんまのあなただったら。
>>434 全部非計画的行き当たりばったりでポシャっちゃってる集団だけどねw
てことで
っ 鏡
>>434 多摩を北関東に入れんじゃねーよウンコw
つかしゃべんな嘘吐きウンコw
>>433 >>435 要するに「他人の振り見て我が振り直せ」じゃないがさ、オレも
>>435 に同意するよ。
年間違えられたとか侮辱されたとか言ってるけど、だとすっと、あんた反論反駁加えられて
論破されて悔しくて、で話摩り替えたり話題摩り替えたりして誤魔化して〜その繰り返しじゃん。
端から見ててもみっともない事この上ないとしか言えないぜ?
あんたがこの話題とかについて何か書いても、もう恥じの上塗りにしかなんねぇんだから
黙って引き下がった方が武者らしいしカッコいいと思うぜ?
オレもあんたのみっともねぇ姿をこれ以上見たくねーしよ。
つまり赤の他人に難癖つけといて、でぇ自己弁護だけは一人前ってのが 上州人つか毛野の末裔って事かw ウンコ以下の価値しかねーわなそんなん(ノ∀`)アチャー そう思いたくはないわな、おいらもよ(´・ω・`) 坂東武者は引き際も肝腎だろうしな
439 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 13:05:11.34
明治維新は、東京奠都ではなく西南戦争の終結を以て完結したという識者は多い。 明治10年2月12日に北島秀朝長崎県令は大久保内務卿宛に、 「河村大輔その他の電報によれば、鹿児島既に背きたる形跡現れたり、速やかに大軍を出し、 一つは熊本鎮台を助け、一つは当港を守り、一つは鹿児島を衝くを急務と思うなり」 と打電した。やがて西南戦争終結後に九州臨時裁判所は、北島秀朝のいる長崎に置かれた。こうして明治維新は完結したのである。 水戸藩関係者の一部はボシャっていねえだろう。
>>439 詭弁乙!
そんなん言うてたらあらゆる事件出来事に当て嵌まるってのアホか
441 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 13:55:06.75
>>434 ぶっちゃけ、武田や佐竹からなる源氏も清盛等の平家も北関東だよ。
442 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 14:22:45.80
明治維新は、関ヶ原以来の大革命ではないか。細かい事件を引っ張り出していないぞ。 あえて出してくれと言われれば、水戸藩関係者による桜田門外の変だろうな。
日本は革命未経験だぞー(棒 言葉の意味理解してから使えよ能無し未開人
444 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 14:33:07.67
江戸幕府の引継ぎ役として寺社奉行は新田義雄、町奉行は土方久元、勘定奉行と評定所は、水戸藩出身の北島秀朝と江藤新平・島義勇の三羽烏が担当した。
445 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 14:48:08.17
「皆さん私は、江戸鎮台府判事の北島秀朝と申すものです。引継ぎで参りました。皆さんもご存知かと思いますが時代は変わりました。 最後の将軍でありました徳川慶喜侯は、江戸を去って水戸城に向かいました。江戸城には先月21日に東征大の有栖川宮熾仁親王が入られました。 昨日には大総督府布告によって皆様方が長年にわたり喜怒哀楽を共にされた役所もなくなりました。そして本日からは江戸鎮台府が管轄することになりました。 政務に滞りがあると無誰にとってもご利益がありませんから簿書一切の提示を願います」 水戸藩出身の北島秀朝の台詞で私の創作である。おかしな所あるかなあ。?
将軍叙任で正二位へと位階も上がっているので 慶喜侯ではなく慶喜公が正しいかと。それと往時は濫りに諱を用いない慣習の下にあった故、 徳川内府卿とするが最善かと。 他は全体的に猶一層推敲を施されると宜しいかと。
447 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 15:15:34.03
原文は、直ちに徳川内府卿にします。
448 :
日本@名無史さん :2014/09/30(火) 15:36:26.86
北島秀朝が大監察だった東山道軍本隊は上州に入っていませんけれども理由としては、 佐幕寄りは極めて少なかったということでよろしいのでしょうか。
他人の書き込みを一々全否定するのが大好きな変んなのが巣食ってますね。 石田三成に退治してもらわないと。
毛野はモノと読む 毛野(モノ)の出身者が物部(モノノベ)
そして物部の衰退と共に毛野の歴史も抹消された
物部は渡来人。 毛野は旧石器時代からの原住民。全く別物。
渡来人という呼び方は語弊や齟齬を招く虞があるね。 もしもそう仮定するなら、長江域出身の「倭人」とすべきだろうね。 尤も、後の新撰姓氏録編纂をその経緯(編纂せざるを得なかった経過)まで考慮して古代氏族の区分を 見つめるなら、物部は皇統と同様、倭人以前よりの先住民族と捉えるのが常識的見解ではないかと 思われる。
それと、所謂「三韓征伐」と毛野氏族を巡って再考察・再検討を加えるとするなら、先に新撰姓氏録 編纂を巡るエピの存在を示唆したわけであるが(詳細は日本後紀を読めw)、一大国家プロジェクトとしての 「日本書紀」編纂、またそれに先立ち、ある種のエイリアス的意図を以て為された「古事記」編纂が有する であろう意図や恣意性を思えば、「昔氏新羅」の実態を取り巻いても再検討すべき点が多々存在しよう。 ちなみに昔氏とは我が国においては前(さき)氏であり、その名には必ず「タケ」が付随する点は殊に重要で なかろうか? と同時に、先述の通り、記紀編纂は「国家プロジェクト」であり、その必要性ゆえに為されまた 余れた「国史」である。 そう、我々が再検討すべきは、所謂「渡来系」毛野氏と「三韓征伐」を巡る新たな問題である。
余れた × 編まれた ○
456 :
日本@名無史さん :2014/10/03(金) 18:49:12.15
関東には、といってもほぼ北関東になるが、 古代においては、 崇神、豊城入彦系統の毛野氏。 大彦、武渟川別系統の阿部氏が有力な勢力を形成していた。 それくらいしかわからない。
>>456 北関東ではなく、概ね関東全域で捉えてしまっても問題はないように思われる。そのおおまかなラインは、
まず西方より利根川水系南西岸⇒後にさきたま古墳群が形成されるエリア、太日川西岸より南方がより
早く大王勢力が進出した圏内=大彦、武渟川別系統エリアであり、緩衝地帯としての猿島、豊田等香取海
奥湾を経て、毛野川・小貝川水系上流域が豊城入彦後裔たる御諸別=毛野氏支配圏、そして再び香取海を
取り巻く筑波国造、茨城国造支配圏内が大彦、武渟川別系統支配域内に入る。
大彦、武渟川別系統は後に阿部氏等を輩出はしているが、4〜5世紀頃はある種の広域職能氏族連合体であり、
一方、北関東の毛野氏はそれ単体である程度の再生産可能な産業形態を網羅した単独職能&血統氏族集団、
そう眺めて吝かではないかと考えられる。これらは記紀記録等との整合性から導く推測である。
>>457 に追加。さらに北東方面へ那須国造=那須直も大彦、武渟川別系統に属する。
後年、蝦夷俘囚が安倍氏を号した所以はこの辺りにあるのであろう。また出羽方面も初期の時点では
阿部比羅夫等、大彦、武渟川別系統がその海上交通・通商ルートを開拓している。
459 :
日本@名無史さん :2014/10/03(金) 22:06:45.56
>>457 毛野=御諸別説と言うのは興味があります。
そして、関東にある奈良の地名は御諸別の子孫、奈良別と関係があると思うのですが、調べた方はいますか?
奈良別:下毛野君の祖で、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子孫とされる
『日本書紀』では事績は記されていない。また、下記のように記載のある文献においても、四世孫か六世孫かで異同がある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。
『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。
>>459 以下は特に調べて云々という話ではなく、寧ろ直観的インプレッションの類ですので話半分でお願いしますが、
「網」という文字に宛てられた「音」に何かヒントがあるように思います。なぜ斯様に感じたか……毛野君から吉弥侯へと
転訛しているのはおそらくご存知とは思いますが、あ=「吾」=一人称に対し、き=君(吉弥)=二人称と捉えてみたのです。
栃木県には現在でも田名網等「網」の字を用いる名乗りつまり苗字が少なからず存在しておりますが、この「あみ」を「吾身」
と仮定した場合の、姓としての「君もしくは公」を如何に捉えるか……そして「なら」は「汝等」=三人称として比定するのも
可能となるのです。この場合の「奈良=なら」が、御諸別ひいてはその父祖たる豊城入彦の故地たる「奈良」である蓋然性は
当然あるとして、三人称としての「なら=汝等」と捉えた場合、四道将軍事蹟より遅れて入植し割りを喰う恰好となった御諸別
らにとっては「結束」とか「約定」を意味する作用を見出すのも可能な気がするのです。聊か「ファンタジイ」の域を出ない話やも
しれませんが、そのように仮定してみた場合、「真若君」=「わがきみ」という符丁的な命名として解釈するのも容易いでしょうし、
一般名詞として「奈良君」と捉えるなら、つまり「汝らが君」という双方向関係を表象する表現でもあると。
直接「奈良別」とは係わりのない話で恐縮ではありますが、往時の関東における趨勢にあって毛野氏族の位置づけを顧慮する
場合、大和の地とのそれ以上に、集団としての「ある種の仮託」としての意味が付されているような気もします。
与太話失礼。
三人称ではなく二人称複数でしたね^^;
462 :
日本@名無史さん :2014/10/03(金) 23:42:00.47
ウリナラといえば、朝鮮語では我が国。 栃木県鹿沼市には上奈良部と下奈良部という地名が残っている。
>>462 尤も今日朝鮮民族は言語的にも民族的にも、十三世紀中葉〜後半へと至る三十有余年に渡る
「エスニック・クレンジング」の洗礼を受けておりますので、音云々以前に似て非なる物かとw
464 :
日本@名無史さん :2014/10/04(土) 10:22:06.01
>>463 クレンジングクリームで顔を洗って出直せ。
466 :
日本@名無史さん :2014/10/04(土) 20:52:45.16
毛野氏が東国を支配するのは崇神に命じられたからであって 東国支配は崇神に認められた領地であるのに対して 今の皇族が関東にいるのはなんら法的根拠も・皇族としての歴史的根拠も一切無い。 信長は勘違いして一時上野守を名乗ったが、 後に関東平野を支配する根拠がないことをしって改めている。 名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」[5]を僭称し、 江戸時代に入っても、将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官し、 また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官したのも、 名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。 「上野守」と「上野守護」は全然別「守護」はただの武士の赴任先の役職にすぎない 上野守を名乗るのは皇族だが、親王が実際に赴任することはないのでただの名誉職 つまり皇室の歴史では関東平野の支配権は毛野氏にあって、 それ以外が支配することを許さなかったのが 背景にあり、それが後々まで続いてることが分かる。 信長ですら名乗れなかったわけだな。 もちろん皇族すら支配権がなかった。 「毛野氏しか関東平野を支配する権利はなかった」のが日本の歴史 畿内の天皇がなぜ関東平野にいるのかさっぱり分からない。 それは崇神天皇に認められた権利なのか? 毛野氏に許可を取ったのか?
467 :
日本@名無史さん :2014/10/04(土) 20:56:37.24
関東の支配体制に不自然な「空き席」があるように見えるのは もともと関東平野は毛野氏の領有地であり、昔はそれが守られていたことが背景にある。 古代は 「毛野氏→親王(畿内の皇族の子供達)→それ以外」 という支配体制だったんだな。 鎌倉時代も信長の時代も幕末までこれはちゃんと守られていた で、なんで天皇たちが関東にいるわけ? 何の権利があるの? 毛野氏に許可を取ったのか? それとも天皇家は崇神なんてのはどうでもいいと思ってるのか?
468 :
日本@名無史さん :2014/10/04(土) 20:58:22.93
天皇家は崇神以来の関東の支配者の毛野氏の墓参りもしないで関東に居座ってるんだよな。 空き巣強盗みたいな連中に見える。
469 :
日本@名無史さん :2014/10/04(土) 21:00:48.80
天皇家が崇神の末裔であるなら毛野氏を敬うべきだ 赤城神社を毎年皇族は参拝すべきだろ まあ現在の天皇家がハツクニシラススメラミコトの崇神の末裔でもなんでもないどっかよその氏族なら、 別にいいんだけどね
470 :
日本@名無史さん :2014/10/04(土) 21:16:55.99
畿内をないがしろにし(崇神以来の先祖伝来の任地をほったらかして) 関東をないがしろにしているのが天皇家 皇霊殿(神武以来の皇室の祖先をまつる)には何が祀ってあるのか分からないな というマジレスをすると皇室は(実際根拠がなく、皇室の歴史を自分から否定しているから) 自爆するんだろうけどね。 伊勢神宮に参拝して赤城神社を無視するのはそもそも変。 畿内の皇室の神社はそもそも宇佐ではないのか? 畿内の天皇は畿内と宇佐(九州)を管理して 毛野氏は東国を管理して、子供の親王を預かる という良好な地域関係があったのに、 現在は「東京以外は全部無視」という。 (皇室神ではない)豊受神社である伊勢神宮に参拝がそもそもおかしいですよ。 伊勢神宮自体が崇神にとっては「俺の宗教じゃないので近くにあると気にくわないからよそへ行け」的な神社だったんだが。 >伊勢神宮ができたのは約1500年前。しかし1400年近く、天皇は一人もここを参拝しなかった。 突っ込みどころがありすぎ。
>>466-470 お前はバカなの?それとも開き盲目?
崇神帝の命令に絶対性も神性もないのは、ある意味豊城入彦が暗に認め体現してるよw
それ以前に、彼自身が毛野に入らなかったんだからよw
○ 豊城入彦に認められた行動=東山道経由にての関東の鎮撫
× 豊城入彦に認められた行動=関東支配
それ以前に、記紀の記述に拠るなら、崇神の下命すらないと断じて過言ではない
武渟川別が東海道経由で会津へと至っている時点で 豊城入彦後裔による関東支配という「名分」は成立し得ないな
更には、その後のヤマトタケルによる「東征」が豊城入彦血統による関東独立支配を 一切認めていない証左になる 御諸別が豊城入彦裔にせよ、毛野氏の実態は毛野一帯の単なる在地豪族。事実はこれだけ。
>>466 織田信長とか親王任国とか、その手のワードまで入れちゃうと
単なる「お頭の弱い子」の書き込みにしか見えないよ(笑)
476 :
日本@名無史さん :2014/10/05(日) 07:12:25.56
節穴、意気軒昂としているな。 ある時は源氏、別の日には上毛野氏。変幻自在のその姿。唯今、忍者稼業修行中か。 実態は関西系根なし草だろうな。頻繁に登場する方は上州人。私は那須国武茂郷出身。 貴殿も生国を名乗れ。
御主こと先生が言う「節穴」こと我。 生国は上州吉井郷。明治近代化期は士族籍。元安中板倉家中家士。祖は源義康。 故あって寛正〜天正期に逝く度か名乗りを変えるが元は岩松。 剣は無外流、弓は武田流。馬もいなす。但し視力0.02の近眼故、先生の申す通りの「節穴」(笑)
ところで先生、北島秀朝伝の進み具合は如何? その時々により作法調法も異なるゆえ、呼びかけの作法等含めいつでも示唆をば申し出ますw
479 :
日本@名無史さん :2014/10/05(日) 21:10:25.48
ところで先生、松永 久秀と毛野氏の関係も研究されているのでしょうか? 小野妹子―毛人―毛野と毛野氏の関係はわかっているのでしょうか?
481 :
日本@名無史さん :2014/10/05(日) 22:38:59.65
東海道は当時は未整備 数百年後だろ。 記紀には富士山すら表れてないのが「当時のルートじゃないから」 東山道こそが当時の幹線ルート そのレール上に配置するのは強力な皇族です。 徳川幕府が東海道沿いに強力な親藩を置いて、それ以外は外様大名を配置した通り。 >東海道は渡河が困難な大河の下流域を通過するため 東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている 当時の東海道はタヌキも通らないルート。 なんで21世紀の価値観で考えるかな 東山道を支配して東国を監視していた毛野氏が在地豪族? それってものすごく危険なことだよw
>>481 ヒント:香取海と航海術(内海は外洋の下位互換ではないw)
記紀、ちゃんと読もうねw
あ、 >東山道を支配して東国を監視していた これにはまるっと同意w
484 :
日本@名無史さん :2014/10/06(月) 04:34:10.04
>>466-474 豊城入彦はそもそも関東入りしてなくてずっと畿内在住なんだが。
関東入りしたのはヤマトタケルの平定の後、孫だか曾孫の代だぞw
>>484 おいおいw
オレまで一緒に含めんなよww
オレは豊城入彦の関東入部否定派だぞ?w
※彼の後裔たる御諸別入部は肯定しているがw
時代感覚的にも……まぁ暦年法の問題は措いて、ヤマトタケルとほぼ同時期、もしくは若干
遅く東山道経由で御諸別が入部したと考えているぞいw
先に東海道開発・整備に触れるレスもあったが、武渟川別入部やヤマトタケル入部等、 一部東山道経由はあろうものの、東海道筋が例えば十世紀頃まで全く未整備だったと 考える方がムリw 出雲系氏族の存在をよく引き合いに出すが、他にも尾張氏等「海部氏族系」の入部も 無視出来ないのは、総国(後の令制国たる安房国含む)を顧みれば明らか。 しかも崇神帝事蹟「四道将軍」を巡って考察するなら、東海道筋を低評価する見解が そもナンセンスw かつお前らの見識の低さを物語るのかもしれないが、香取海に触れる人間がオレ含め 少数なのがこのスレの質の低さを示してるぞよ?w
あ、考古学的知見無視すっと先生wみたいに頓珍漢な毛の亡者になっちゃうぞ?w ※関東最古の古墳がいずくにあり、その分布と敷衍経過を如何に眺めるかも枢要なヒントw
488 :
日本@名無史さん :2014/10/06(月) 07:55:50.91
整備とか未整備とかって曖昧な議論したって度合いの問題なんだからはっきりしないだろ 開通か不通かって話なら明解だけどさ
>>488 アッピア街道の話と違うんだから当然だろw
箱根の石畳ですら整備されたのは江戸期だぜ?w
かつ、此処で言う場合のそれは、幹線道としてのそれのみならず、広域行政区分としての
それをすら含めて捉える必要を迫られている>東山道、東海道等
崇神帝の御世にせよ次代の垂仁帝の御世にせよ、またヤマトタケルの時代たる景行帝の
御世も所謂「倭の五王」の御世も、それら行政圏内を往来する手段は幾らでもある。
オレが香取海の件とも絡めて「内海は外洋の下位互換ではない」と書いたのも上記意図を
含めてのそれさね。
ちなみに時代は聊か下るが、平安〜鎌倉期に香取海を往来していた船舶の規模を知ってるか?
それすら知らずに「毛野=古代関東支配者」なんぞと与太話を語り出す輩がいるとするなら、
ソイツは歴史を語る場から一度去れ、そして顧慮しろと言ってやるべき。
490 :
日本@名無史さん :2014/10/06(月) 08:24:09.57
>>489 要するにおまえは不通じゃなくて開通してたっていってんだろ
未整備だけど開通してたのか、整備されてた上で開通してたのか、どっちなのよ?
>>490 整備されていたか、その可否を巡っての話に一体どれだけの意味があるんだ?
この時代においてさw
※平安期においてすら整備の程度の議論は無意味だぞ? 東山道ですらw
宿駅等が公により整えられたとされる律令体制化の頃おいに於いてをや、だなw ※我が朝のそれは結局のところ「ナンチャッテ律令制」に過ぎなかったわけだしw
493 :
490=488 :2014/10/06(月) 08:59:51.20
>>491 俺にいうな
>>466-474 ,
>>486 に言えよ
整備が未整備がってこいつらのレスの中でいってることじゃん
俺はそんなの意味ないだろって言ってるがな
おまえは自分の言いたいことばかりで他人のレスは読んでないみたいだな
>>493 お前がレスをつけて来たからお前に返しただけだろうが、
それでその言い草とはもういね、いやはや(苦笑)
※安心しろ、読んでいなけりゃ書き込みなんざしねぇw
495 :
日本@名無史さん :2014/10/06(月) 22:04:50.36
道と言うものは、轍を埋めて、路肩を補修して、橋を架け、排水溝を整備しないと人馬は安心して通れない。 それには相当の労力を必要とするから、無料で通らせるわけにはいかない。 東山道は毛野氏が支配していたし、数キロおきに道の案内人を置いていた。 通行するには手形、馬鈴が必要だったし、それを買えるのは一部の金持ちだけ。 後の世になるが、 説話よれば、赤城忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行ったとある。 忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、最後には関所破りの罪で磔の刑に処せられる。享年41。 この「三室」こそ「毛野」の末裔であり、関八州から東山道の通行権を江戸時代まで世襲していたのではないだろうか。 これを証明できれば、毛野のほとんどのなぞが解けるのだが。 神武を畿内に道案内した猿田彦と同族か?
>>495 ぬかるんで泥田の如くなる「街道」も江戸期初頭においてさえ決して珍しくもない。
駅鈴等の発効は飽くまで律令的法治国家において「帝の名の許」に朝廷が最終的に裁可、
認可する物。毛野の世襲の蓋然性は低い(まったくないという訳でもない)。仮に蓋然性を
是とするのであれば、律令制が機能し得なくなった「荘園公領」期であろうし、それもおそらく
部分的限定的なものであったろう。
おそらくは仰る通り東山道においても特に不破関等近江美濃隣接圏内、また上野中央部以東に
関して言えば、何らかの恰好で交通・流通に係る利権利得を世襲していたようにも思われる。
猿田彦と毛野との係わり……確かに興味深い。
四方拝に東国の三社が入ってることからして皇室のルーツが東国に有ったことは明らかなんだよなぁ 東国出身の現皇室が当時尾張(熱田神宮)に首都があった倭国を簒奪し、 その後大和に遷都した、って考えるのが一番自然な考え方。 四方拝では西方は全く無視してるんだよなぁ
アホ 今の四方拝は天皇が東京に来てからのもんだ
499 :
日本@名無史さん :2014/10/07(火) 21:46:28.43
上州勢多郡百々(どうどう)村 、近江国犬上郡百々(どど)村、三河国額田郡百々(どうど)村 百々氏は、現滋賀県である近江国坂田郡百々村が起源で、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏がある。 宇都宮には、藤原秀郷(田原の藤太)が悪鬼・百目鬼を討ったという「百目鬼伝説」があって、これが宇都宮にある田原街道「百目鬼通り」の由来になったという話がある。 四道将軍が関東に入った東山道ルートととうかい東海道ルートの両方と関係のある百々氏、 よく調べると、おもしろいと思うのだが、今のところ時間がない。 いずれ時間を作って、毛野の全容を解明したい。
東山道は、おそらく崇神期にはある程度押さえられていて、それで実際には所謂「四道将軍」 派遣が同時に実施されなかったのかもしれない。大彦らと同時代人と見てほぼ間違いない 豊城入彦が実際には入部せず、後裔・御諸別が後年、改めて入部したのは何らかの事情が あったのかもしれない。記紀の記述は暗喩的・比喩的な物がどうしても増えてしまうから、実態は そのようなところであろう。そう仮定してみた上で >上州勢多郡百々(どうどう)村 、近江国犬上郡百々(どど)村、三河国額田郡百々(どうど)村 これらの関連を調べるのは中々良いと思われる。殊に近江と毛野国……奇しくも秀郷に絡んでは 近江における「三上山の百足退治」の伝承が「百目鬼伝説」とリンクしていると捉えてしくはないで あろうから、毛野氏を評価する上で非常に興味深いヒントが隠されているかもしれない。
502 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 00:12:28.21
>>481 武渟川別や御諸別が、陸路代わりに遡上したであろう鬼怒川(毛野川)は、
その当時はどの地域を流れ、どの地で太平洋に注いでいたのですか?
>>499 >上州勢多郡百々(どうどう)村 、近江国犬上郡百々(どど)村、三河国額田郡百々(どうど)村・・・・・・・・
この他にも百々という地は、以下の通り各地にあるようだね。
美作国東北条郡百々村
美作国勝南郡百々村
岡山県久米郡美咲町百々
愛知県豊田市九久平町百々
愛知県豊田市百々町
愛知県西尾市刈宿町百々
山梨県旧中巨摩郡白根町百々
新潟県上越市下百々
これらが全て近江国百々氏の入植地なのか?それとも地形由来の地名なのか?
土地鑑のある数ヶ所に共通するのは、川沿いの地なのだが。
>>503 川沿い等、何らかの水系に係わりのある地の場合、その音の様、あるいは音を表す品詞
(この場合であれば轟き)等の転訛の蓋然性が極めて高い。ただし毛野国における毛野氏は、
香取海こそ押さえられはしなかったものの、毛野(鬼怒)・渡良瀬両水系、及び一部利根川
水系の利権等に与りはしているから、各地の地形的特徴とか考古学的な発見等、郷土史料
をも参照しつつ、比較類似点を探せば何らかの答えは出てくると思う。
505 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 12:41:20.90
御諸別王って・・・ 御諸山とはあの三輪山だぞ。巻向古墳の近くの大上神社だぞ。 豊城入彦命の毛野氏はいったい何者? 「王」ってつくのは皇族中でも最上位なんだよな。 通常 そのときの天皇の直接の王子にしかつかない。 「王」って名前がついたやつは皇位継承権の序列最上位とかだろ。 「毛野氏の初期は畿内での皇位継承権を持っていた」説はやはり有力だな。 つまり東西は並列した分国支配体制だったわけだな。 彦坐王と彦狭島王のつながりが分からないが この彦○王ってのは神功皇后につながるんだよな。で、応神になると。 毛野氏は新撰姓氏録で、応神時代には畿内にいたって書いてある。 応神につながるわけだな。応神時代には荒田別と鹿我別がいる。 皇位継承権の上位に食い込むか、そもそも「皇位」とは後の時代の産物なのか=並列王説=天皇が2人いてもいいじゃない。 毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられるな。 豊城入彦命の時代はむしろ継承権の1位だったのではないかと。 「軍の統帥権」は毛野氏が持っていた。統帥権を天皇とすれば、初期の天皇は毛野氏だな。
506 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 12:49:57.74
東国統治とは東西ローマ帝国みたいな「共同統治せよ」という意味ではないかと 皇位継承権では「同着1位」だった? 雄略時代になって並列天皇だった毛野氏が畿内から追い出されたと。 -------------------- 古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、 3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、 複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。 さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、 政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。 395年のテオドシウス1世の死後、 長男アルカディウスは東を、 次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、 帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった ---------------------- 厩戸の皇子はネストリウス派によるキリスト誕生の再現シーンだろう。 西ヨーロッパの話が日本にも伝わっていたということだ。 巨大な日本を統治するのに、「同時代のローマ帝国」を参考にした可能性が高い。 (右も左も分からなかった明治維新政府が帝政ドイツを参考に建国したように) 「395年頃の日本は、東西を分割統治していた」「序列は同着で1位=天皇は2人いた」 畿内で共同統治をして、どこを攻めるかを共に決めていた。 崇神次男の系統の応神は西国統治、長男の毛野氏は東国統治 両方の政治拠点は畿内。 神功皇后と応神が2人も権力者として現れるのは、倭国の並列分割統治を意味している。 秀吉と家康くらいの偏ったパワーバランスじゃなくて、 「かなり並列に近い王権」だったかと思われる。
507 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 12:53:54.79
明治初期時代に日本はビスマルクドイツと同じ帝政だったのを考えると (強烈にドイツにあこがれて、日本の議会・憲法はドイツのクローン的な制度にした 当時のドイツが強かったからだ) 400年頃の日本が最高の国家のローマ帝国と同じ政治体制だったというのは非常に考えられる。 (参考にしまくったはず)
>>502 >>418 ではないが、毛野川は結城郡辺りを南下し、かつ下妻の辺りで子飼(小貝)川水系と
入り混じっている。いずれにせよそれぞれ中流域は時に氾濫地帯であったと推測し得る。
そして河内郡、相馬郡の境(後の下総、常陸国境)で完全に一本の河川としてに交わり、
そのまま現在の小貝川流域を西へ向け流れ、今の龍ヶ崎辺りで香取海に注いでいたものと
思われる。
また、武渟川別は現在の茨城県内地域は溯上していると思われるが、御諸別はこれらの
中流域には達していない蓋然性が高い。
509 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 12:57:16.03
西ローマ帝国=畿内天皇家 は傭兵のオドアケルの反乱により480年に皇統が断絶するのである →以降東ローマ帝国のみが残る 雄略〜継体期に畿内は皇位が一度断絶して東国毛野氏のみが崇神末孫として残ったはずである。 非常におもしろいな。ほとんど時代が一致している。
>>505-507 残念ながら毛野氏に
>毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられるな。
は考えられない。東国における古墳等考古学的発掘物とその伝播、拡散を時間軸的に眺めつつ、
冷静に記紀を読まれるなら簡単に理解し得よう。
毛野氏は聊か語弊を顧みずに言えば、後の賜姓皇族的存在に過ぎない。しかも遅れてやってきた。
>>509 残念ながら皇位は断絶していない。君はどの程度の史料に目を通しかつ、批判批評的に比較しているか?
他所の文明とを無批判的並列的に並べて妄想的推測を凝らしても意味がない。
512 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 15:42:14.80
>>510 じゃあ 「おまえの家族で日本を運営しろ」とか言われてできんの?
「今から自分で自動車作れ」っていうのと同じ作業だぞ。
中国的な効率的な律令制度が整うまでは、分断統治するのが最も楽な政治体制。
「日本は縦に長い」からローマと同じで東西で領地をわけて分割統治するのが楽ですね。
個人的には「西日本の王権が先に滅んだ」ってのがうけますね。
雄略で滅んだのはまったく同時期
500年までに畿内の皇族は残らず滅亡したのだろう<ああ、これは史実だからね!
分断ローマは「東で」1200年まで続いていた、東日本統治を任された毛野氏も同じだろう。
513 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 15:48:35.92
>>511 いろいろ悩むほど400年くらいに世界の政治体制はないのだが・・
「当時世界最大のローマ帝国」を参考にしたとするのは物足りないのだろうか?
ササン朝ペルシアのガラス製品が古墳からも見つかっている。
2014/7/25 11:44
奈良・古墳出土のガラス椀、ペルシャの高級品の可能性
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500M_V20C14A7CC0000/ 奈良県橿原市の新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群の126号墳
(5世紀後半)で出土した円形の切り子ガラス碗が
ササン朝ペルシャ(226〜651年)の遺跡で発見されたガラスのうち、
5〜7世紀に流通した高級品とほぼ同じ化学組成であることが分かった。
東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らが蛍光エックス線分析で明らかにした。
なるほど・・
やはり縦に長い日本というのは中央集権というのは不自然な形態で、
東国毛野氏と西国応神が日本を仲良く分割統治していたのは自然な話だ。
ローマ帝国と同じ体制だったのだろうな。
今の日本もありとあらゆる世界の制度を参考にしている
明治政府も同じだし、ヤマト王権もまた同じ。
2000キロの日本を1つの家族(せいぜい10人くらい)が支配するのは技術的に難しいもんな。
514 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 15:57:52.23
崇神の 「豊城は東国を治めよ」 ってのは、 「垂仁は西国を治めよ」ってのを同時に意味するんだよ。 それが西の畿内が先に滅んでしまっただけ。わけの分からん土着氏族が多くて支配が難しかったのだろう。 中央集権体制が整うのは遙か後の時代です。 崇神からは豊城は日本の半分を支配する権限を担っていた。 大宝律令ができるのは701年 それまでは家族経営的なものだろう。 350〜700くらいまでかな。 名目上も実質も日本の半分は毛野氏のものだったと言える。 上下構造すらなく(東ローマは西ローマの属国ではない) 「広大な領土の共同統治」だろうな 豊城の神社が伊勢神宮で 垂仁の神社が宇佐神宮だな。 今の天皇はチグハグなことをしてるw まあ「豊城の神社を西の皇族がお参りしている」わけで、まあそれでもいいけどなw
なんかちょっと前に 古墳の件とかで論破されまくってた エセ文化人類学な妄想君が暴れてるね
516 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 16:08:27.84
応神・仁徳の古墳が最大化したのは 東国毛野氏の「畿内共同統治」のたまもの。 実際それ以降は畿内の古墳規模がガタ減りしている。 オドアケル雄略で東国とケンカして「西だけでやればー」となった途端縮小するのはまあそういうこったな。 (西の皇族の支配力がそんだけ巨大なら(統一王権論)、応神・仁徳・履中以降は古墳のサイズが急激に縮小するのはおかしくね?) 継体以降また300m古墳ができるものの(継体の子の欽明)、 毛野氏は自分で東国で古墳をつくることにしたんだな。 (これ以降 古墳サイズが畿内と東国で逆転しだす) 日本の半分を支配していた毛野氏の理解なしで初期ヤマト王権の理解はできないね。
そういやあん時、なぜか武茂出身のおじさんがファビョってたね・・・ もしかして妄想君と武茂おじさんって同一人物??? てことはジサクジエーンキャラってことw
518 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 16:13:57.26
毛野氏がぶち切れて納税しないし、人足も出さなくなれば 畿内の古墳サイズが最大化しようがないのは当然。 逆に毛野氏との関係が良好ならば、納税も人足も喜んで出すだろうね。 当然の当たり前のことと(金と人がなければ土木事業はできない) 古墳サイズの変遷の史実を述べたまでだな。 その理由も「毛野氏が畿内政権に加勢したかしなかったか」で説明が簡単につく 「わけのわからない選挙制度で土着豪族からヤマト王権の王が選ばれていた」とかいう論理よりも遙かに妥当だな。 倭国の東西並列統治だな。 やはり毛野氏は重要だな。
519 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 16:19:44.95
豊鍬入姫命
御諸別王=三輪山=大神神社
=伊勢神宮=毛野氏
三輪野山茂呂神社
http://yaplog.jp/yagimitinomise/archive/819 西暦一世紀頃、東国に派遣された御諸別王の子孫の
上毛野君と下毛野君の一族がこの地に来て、
丘陵の景色が大和の三輪山に似ているところから
「三輪の山」と名づけて住みつき、
故郷の三輪神社の分霊として茂侶神社を創建したというもの。
伊勢神宮は毛野氏の神社ですねー
ありとあらゆる史実がそれを意味している。
その伊勢神宮に三種の神器があるとはどういうことだろう?
→豊城入彦命こそが王権の保持者?
畿内の皇族が伊勢神宮を1000年祀らなかったのは当然だな=伊勢神宮は豊城入彦命の氏神神社だから。
520 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 16:24:09.28
豊城入彦命の妹の豊鍬入姫命は伊勢神宮の初代斎宮 伊勢神宮外宮の豊受大神宮は豊城と関係がある。 豊受大神宮は伊勢神宮の2つの正宮のうちの1つ 御諸別王からしても確定だろうな。 やっぱり伊勢神宮は日本の東半分を託された豊城入彦命と関わる氏神神社だったんだなー
521 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 17:11:56.65
夢ばっかり見ているのなw
522 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 18:02:17.00
初期のヤマト王権は倭の五王を見ても 皇位に矛盾があるんだよねー 大論争が続いている これは応神の弟は毛野氏じゃないかなー。 倭の五王は1次方程式だと解けないが=親子関係だけとすると系図が繋がらない 二次方程式=東国と西国の共同統治 だとすると答えがでる。 初期は東国毛野氏が交互に天皇になっていた。 A家とB家が交互に天皇を出すというのはよくあること= (大覚寺統 持明院統は交互に天皇だしてた) 畿内皇族の系図だけだと倭の五王が矛盾して混乱するんだな。
523 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 18:03:06.87
持明院統と大覚寺統とは?
http://1950rekisi.blog.so-net.ne.jp/2014-02-05-9 幕府は、後深草天皇方と亀山天皇方の皇族が
代わる代わる天皇の位につくよう取り決めました。
後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。
両統は幕府の取り決めに、従うことになりました。
幕府=崇神とすると
豊城入彦命の家と畿内皇族の家がかわるがわる交互に皇位を出していたことが
推測できる。
倭の五王からは並列した皇位が伺える。
で、それを雄略以降にそのルールを破ったから毛野氏がぶちきれたんだなー
雄略が東国を支配宣言して崇神以降の絶対則だった「両家並列皇位」のルールを破ったので大乱が起きたと。
神功皇后が「女」とされてるのは「男」とすると
両家並列が分かるが、それを改竄されてるため
つまり応神期は豊城入彦命と垂仁はそれぞれ交互に天皇を出す取り決めで
そのルールが応神・仁徳から雄略まで生きていたと言える。
524 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 18:18:08.55
御諸別王や彦狭島王はどちらかが「天皇だった」んだな。 どれが具体的に倭の五王になるかはまだ難しいが どれかは確実だろ なぜ皇位継承最上位を表す「王」が不自然につくのかが説明できるし 倭の五王の系図混乱も説明が付く。 まさに御諸別王や彦狭島王は倭の五王時代だから いずれかを比定すれば系図混乱がなくなる。 うーん、完璧だな。 愛子の東宮を垂仁家 秋篠宮文仁を豊城家とすると 次の次の天皇は悠仁親王だから秋篠宮に皇位が移る 「王」と名前が付く皇族は皇位継承権があることを示している 倭の五王は不自然だから皇位継承権だけじゃなくて 「皇位そのもの」についていた可能性がありますね 下毛野祖の奈良別も「奈良別王」とされてる=皇位継承権あり? 「皇位継承権が複数あった」のは珍説じゃなくて当然 1人だけのはずがない 毛野氏は皇位を出す宮家だったのも自然<今の天皇家も宮家はいっぱいある 平均的に5〜6人産んだとしても 早世したり女だったりがあるので、複数の宮家がないと数代ももたない。
何この史学の素人w トンデモ学説か何かに犯されちゃったのかしら?w
確かに妄想の羅列で何一つ根拠が挙げられてないねw 多分、末期古墳と終末期古墳の区別とかチンプンカンプンだと思うよw きっとリアルでも思い込みとか激しいタイプなんじゃない?w
527 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 19:57:50.64
明治→まだいる?(うざいのがいるなw) 大正→三笠宮→断絶寸前(女ばっかり) 昭和→断絶寸前 平成→断絶寸前(もう若い男は1人だけ) ---------------- 崇神→まだいる?→豊城入彦命 垂仁→断絶寸前 (景行・成務・仲哀<本当にいたの?) 応神→断絶寸前 仁徳→断絶寸前 と考えると大正以降の系統は断絶寸前と見ると(この前の男の子がでなければマジで終わってた) 仁徳の次に豊城入彦命の宮から天皇が出たとするのはおかしくない。 実在が確実な応神・仁徳・履中のどれかは毛野氏のからでてるっぽい。 応神・仁徳・履中のどれかが彦狭島王・御諸別王のいずれかに該当すると 倭の五王の謎が分かるわけだな
記紀もまもとに読んでないのは確かだなw ローマがどうたら書いてたが、ローマ法とか十二表法も知らないんだろうなw とっととタヒねばいいのに妄想厨w
記紀もまもとに読んでないのは確かだなw ローマがどうたら書いてたが、ローマ法とか十二表法も知らないんだろうなw とっととタヒねばいいのに妄想厨w
530 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 20:55:47.89
その記紀をまともに読んだ学者が倭の五王を2014年になっても比定できてませんけどもw
その記紀をまともに読んでいないと中二病を拗らせた妄想狂になるんですか?w この妄想狂、白壁王践祚でも断絶とか言い出しそうなほど無知を露呈してますけどねw
>>531 あれだよ。一次史料をまともに読めるだけの能力がないから、倭五王が比定出来てないとかアホが
言えちゃうんじゃね?
んで、何故それでアホ扱いされてるかも理解出来てないと思うよ、一連の妄想の展開具合からすっとw>妄想クソw
533 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 21:03:49.30
古代史研究で「妄想」を入れてない学者がいたら見てみたいもんだわ。 それがただの妄想か仮説かは「何らかの妥当性があるかないか」のみだね。 同時代・同地域・活動範囲と事績が重複するから かなり確率が高いなこれは。 直系のみですべて切り捨てたら皇族なんて一瞬で断絶するのが 今の皇族みても分かる=直系だけだともう愛子しかいないよw 宮家制度は古代もあったはず。 「王」を名乗る豊城入彦命の系統が皇位にかかわっていたんだな。 部下とか家臣じゃない、皇位1位を争う中枢皇族として畿内にいたらしい。(雄略・武烈までは)
このスレも武林の先生含め、やっとここんとこマトモに戻ったと思ったら… 妄想野郎が性懲りもなく戻ってきたんか(笑) 今後の展開が楽しみ(笑)
>>533 まぁ比定の根拠と読み込み、一次文献二次文献の索引等データ提示含め、学者は
妄想じゃなくて推測しているから。貴方が妄想氏かどうか知らないけど、妄想氏と学者の
推測とは雲泥の差なんで一緒にしないでねw
>>535 ソイツ妄想野郎その人だよw
悦に入るくらいだから、何らかの病気を発症してんのかもよw
書いてる文読めば発達障害系とか鉄板だろjkw
537 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 21:14:00.94
妄想? 記紀を読んだ学者がそろって倭の五王の比定がぐちゃぐちゃなんだが。 まあ最有力宮家の毛野氏を考えてないから答えが出せないんだろうねこれは。 「応神・仁徳は毛野氏だった」 のかなー 「垂仁には子供がいなかった」とすれば理解できる。 垂仁の子が反乱で断絶したっぽい描写まであるw 皇后の実家が謀反して后をぶっ殺したし断絶したのだろう・・ 垂仁は反乱を見事鎮圧した勇壮な豊城の子の八綱田の家に皇位を譲ったのだ。 (垂仁の子の景行は存在自体が怪しいので垂仁系統はここで断絶したっぽい 一方、豊城入彦命の家は若い男子がいて元気に軍を指揮している 景行の子は日本武尊だしなw もう完全にウソっぽいね) 武に秀でた豊城入彦命の八綱田から応神系統につながるんだな。
妄想が過ぎて日本語までオカシクなっちゃった?wwwww どっちみち、一切根拠らしい根拠提示してないって意味で妄想は妄想w それでも自分が学者と同列かそれ以上だと思ってるみたいだから 触っちゃいけない類かもよ? もしかしたらねwwwww (でも触れば触る程、程度の低さを漂わせてくれるからつい触っちゃうwwwww
539 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 21:19:04.92
他人の説の否定は止めろ。みっともない。 もっと、現実的な自説を唱えることで、妄想説を黙らせれば良いだけだ。 煽り合いは止めよう。 誇り高き毛野氏の末裔(今は、まだ、自称にすぎないけれど)の俺はそう思う。
>>539 よく文章読んでやれよ
例の他氏族侮辱貶め野郎だぞ?
結局ヤキが回って来たって証なんだよ
それに説を補強する根拠出せてねーって
何人から指摘されてんだ?
まともな根拠提示させんのが先だろ、ちゃうか?w
541 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 21:28:13.96
垂仁天皇の子は「口も聞けない精神障害児」だったとある 一方、豊城入彦命の八綱田は軍を率いている男子 障害児に皇位を与えるわけがないから 皇位はここで豊城入彦命の系統に移ったと考えるのが自然。 いつ反乱があるかも分からないときに障害児を天皇にするわけがない。 (景行は生まれてないから垂仁はここで断絶、はした女が子を産んだかもしれないがそんなのは天皇にならない) よほどアホでもない限り、垂仁は兄の豊城入彦命に 「どうぞ今後の皇位は武に秀でた男子がいるあなたの家から出してください」と懇願したでしょ。 反乱が頻発する畿内で障害児やらを皇位にしてたとしたらマヌケだしなー で、「能力は遺伝する」ので毛野氏の応神が武王になるわけだな。
どんどん妄想こじらせていってるね。てか史料の読み解き自体出来てないのは分かった。
もしかして素で本当に武林の人≒この妄想クソ???
544 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 21:41:48.22
司令官はU字
546 :
日本@名無史さん :2014/10/08(水) 22:18:00.48
OK牧場
547 :
日本@名無史さん :2014/10/09(木) 06:34:58.22
>>514 >崇神からは豊城は日本の半分を支配する権限を・・・・・・・・・・・・・・
4世紀の崇神統治時代の日本の範囲を、誤認していないか?記紀の
崇神の四道将軍派遣記事が示唆しているのは、当時のヤマト王権の
統治範囲が畿内から三河かせいぜい駿河あたりまでの本州の中央
部分だけだぞ。
統治範囲外の東国支配権限を任じても、無意味だね。
>豊城の神社が伊勢神宮で
>垂仁の神社が宇佐神宮だ・・・・・・・・・・・
意味不明なんだが。崇神・垂仁時代の記紀に、宇佐神宮は
登場しないし、上記の如く九州は次の景行時代に
征服なんだがね。
>>547 その地図で毛野川と並行して流れるのが小貝川で間違いありません。ただ、この氾濫地帯は
後に筑波国造、茨城国造、更に北東に那須国造が横断的に設置された地域。掲げられた地図では、
より上流域の毛野水系と渡良瀬水系に挟まれた地域が毛野氏版図の中心。氾濫地域は往時、
東海道圏内から入植している尾張氏等海部氏族や、武渟川別との所縁で入植出雲系氏族等、香取海と
それへと注ぐ各水系下流部を版図においた「水の民」との緩衝地帯と考えてしくはないでしょう。
このスレってあれだよね……リュートとウードと琵琶の見分けがつかず、瑠璃を翳して感動を呼ぶ紺碧の美しさだけで 「日ユ同祖論的」陰謀論思考で視野狭窄しちゃう妄想癖で禿げ上がる程度の低い人が元気だよねw
>>550 最近もローマがどうこう言ってる「ローマ史」を知らない類もいるし、ちょっと前にはイングランド史をまともに知らん類が
ヘンな盛り上がりやってたくらいだから推して知るべしでしょうねw
552 :
551 :2014/10/09(木) 18:13:53.99
× イングランド史 ○ イングランド関係史
久米及び久米部、伴及び伴部、大伴及び大伴部を巡って言及し得ない類が何を語っても 説得力皆無なのは当然だろう。
>>553 末期古墳、それとは異なる事象としての終末期古墳を巡って、どの程度「見識」を見出すか。
今回の武林先生の無理推しは笑い話として、いつぞや必ず成果を挙げて下さると信じております。
>>505 >「王」ってつくのは皇族中でも最上位なんだよな。
>通常 そのときの天皇の直接の王子にしかつかない。
>「王」って名前がついたやつは皇位継承権の序列最上位・・・・・・・・・・・・
どの時代の皇族名の話なのかね?毛野氏が記紀に登場する時代だと、
皇位継承序列最上位皇族は、○○大兄皇子で○○王などではない。
天皇の直接の王子って、一世孫という意味かね?
天皇登極皇族の一世孫だけが○○皇子、それ以外が○○王。
>毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられる・・・・・・・・・・・
倭国とは、ヤマト王権のことかね。共同統治というのも意味不明だが、
長門より東は我が治め、西は汝が治めよと分国統治を言った大王はいたが、
その汝は物部氏で毛野氏だった記録はないぞ。
556 :
日本@名無史さん :2014/10/09(木) 20:06:56.17
>>547 良い地図をありがとう。
この地図の太日川の東側のルートを見てくれ。
このルートなら、大きな川を渡らず、舌状台地と呼ばれる微高地伝いに、
毛野の支配地域から房総半島先端まで一続きになることがわかる。
この流通ルートこそ毛野の勢力の根元。
千葉県は、関東最大の古墳地帯だった。
恐らく、干魚や干貝、その他海産物加工品の一大生産地だったのだろう。
>>556 君は今日「各県」行政区分域内圏内含むある地点に遊水地を擁せざるを得ない弱点を知らんのか?
寧ろ今でも存在する五霞周辺の遊水地の存在を知るなら、毛野が房総と分断されている証を
無言のうちに物語るだけなのだが……それでもこんな与太話をするくらいだから、知らないのであろうな。
>>556 君は今日「各県」行政区分域内圏内含むある地点に遊水地を擁せざるを得ない弱点を知らんのか?
寧ろ今でも存在する五霞周辺の遊水地の存在を知るなら、毛野が房総と分断されている証を
無言のうちに物語るだけなのだが……それでもこんな与太話をするくらいだから、知らないのであろうな。
毛野氏の失敗は「香取海」を支配圏内に収められなかった点に集約される。 その証左は初期三世紀〜後期七世紀古墳の分布と形態、及びその傾向から鮮やかに 浮かび上がる。
結果として「名義」としての「毛野氏」の存在が浮上する。田辺史周辺のそれであり、記紀に 司令官各として記載される毛野は全て田辺史に係る。要するに毛野圏内は何たる「人的」 資源供給の場に過ぎなかった蓋然性が高い。
561 :
野田へ :2014/10/09(木) 20:54:13.91
>>557 なるほど。重要な示唆を与えてくありがとう。
その付近で毛野の流通網が途切れているのが気になっていました。
恐らく、春日部から川間、野田へ船で渡ったと思われます。
東武野田線のルートが参考になります。
不思議なことに、東武鉄道の路線と毛野の流通網は重なるのです。
>>556 笠原史、後の武蔵氏とか知々夫国造に勝てなかった毛野さんこんにちわw
>>561 今の野田辺りまで流通網を整備し得るなら、寧ろ太日川を含め江戸湾をも視野に入れつつ
水運網を顧慮するのが「勝ち目」をも極める点かな、と。
ゆえに所謂「毛野」系と東海道を開拓して香取海に至る「水の民」系の分かれ目の見極めに
なるかと。
564 :
野田へ :2014/10/09(木) 21:08:24.04
>>562 いやー、毛野は旧石器時代からの根っからの野人ですから、文明人には勝てませんよ。
現代社会でも、うだつの上がらない風来坊がいいとこ。
第一、組織が嫌いですからね。笑う。
565 :
日本@名無史さん :2014/10/09(木) 21:11:58.42
現代社会がどうとか言ってるとこは笑うとこ?w
>>561 皮肉か否かは措いて、氷川さんまで至ると?w
>>565 多分誰も「現代社会」とは表現してないよw
568 :
日本@名無史さん :2014/10/09(木) 21:18:47.73
ずいぶんと古代史をだしているがお前らが模倣から入っているところは分かっているところ まったく関係ないんだろうが江戸時代の大日本史あたりから参考を得てるんだろ、お前らはw
570 :
日本@名無史さん :2014/10/09(木) 21:20:35.16
567 恥ずかしいねw
>>568 きっと武林先生!w お説拝聴賜ります!w
573 :
野田へ :2014/10/09(木) 21:51:01.23
春日部に程近い埼玉県南埼玉郡宮代町に 大落古利根川の渡し舟というのがありますね。 この渡しがいつの時代まで遡るものなのか調べていませんが、 春日大社と言えば 藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。 とあり、古代から毛野と鹿島、香取両神宮とを結ぶ渡しがあったと見て良さそうですね。野田へ渡る渡しなので醤油はあってもソースはありません。笑う。
574 :
日本@名無史さん :2014/10/09(木) 22:01:35.96
ふーん
575 :
野田へ :2014/10/09(木) 22:02:46.73
それと、毛野は船は苦手、牛か馬を使って荷役をしていたのではないかと思います。 坂道も苦手なので、山間部には連絡員しか置きません。 数日前、百々(どど、どうど、どうどう)という地名について書きましたが、 馬を仕向ける時に、「どうどう」というのは日本だけとわかったからです。 西洋式の騎馬用語のようですが、全くの勘違いらしいです。
毛野は水軍持ってるぞ。 でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送できない 馬と水軍を共に大量に持ってるのが毛野氏 関東平野は「海」だったんだから当然。
577 :
日本@名無史さん :2014/10/10(金) 05:53:48.27
なるほど。
>>576 >毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送できない
弁証法をしても演繹をしても反論は容易である。まず毛野氏が「水軍」を持つ基盤はあったか?
答えはノー。毛野は結局のところ、利根川水系以南西、猿島・大方・下妻等以南東、下妻・結城・真壁
以東への進出は果たせなかった。これは上記地方より以西以南以東における古墳の分布と形態・興隆等
含む経年的変遷を具に眺めれば理解に容易い。以上の地域は常に磯城の大王家や尾張氏等東海、上記
地域とほぼパラレルで連動するように古墳の大規模化〜衰退期=小規模八方形化、祭祀の進化を共有
している。しかも香取海の利権の総元締とも言うべき存在が香取、鹿島の傘下とする中臣氏である点を
顧慮すれば、尾張氏等「海の民、水の民」が香取海権益に深く係っていたのも得心が行く。
一方で毛野氏は南下出来ず、他氏族との緊張状態を最小限に抑える(武蔵国造乱においても、屯倉献上で
事なきを得る)ことで、辛うじて香取海の利得を僅かに得ている体たらく。とても海の民、水の民とは言えない。
(彼らは、例えば長期タームとして眺める三韓征伐においては、飽くまで兵員兵站基地を担う程度。初期こそ
荒田別、鹿我別等司令官を輩出しているが、田道や竹葉瀬のように、後の田辺史等渡来系(帰朝組含む)の
上毛野氏の蓋然性すらある。
いずれにせよ、ある程度の国家的事業において、兵員派兵と兵站供給、船舶造作、航海操船、現地司令官を
単一氏族が請け負うなど常識的にあり得ない。
よって毛野氏は水軍など有していないと考えるのが常識的である。
享ける程度
580 :
日本@名無史さん :2014/10/10(金) 23:30:30.73
なるほど
581 :
日本@名無史さん :2014/10/11(土) 02:05:31.37
>>573 利根川の歴史を調べてくる事だな
渡しの位置が固定だったとか、すごい思い込み
江戸時代に利根川の東遷・荒川の西遷があるまで、あのへんの川は度々洪水を起こして
流れが頻繁に変わっていた所だ
582 :
日本@名無史さん :2014/10/11(土) 07:44:50.88
>>581 関東の川の流れを時系列で特定していくのは至難の業だし、当時(いつの時代を指すかで変わるとすれば)の渡しの位置を特定することは、毛野の全体像を把握するのにそれほど重要ではないので、今は深入りしないことにします。
その辺を詳しく調べた文献でもあれば参考にしたいと思います。
それより、
>>579 の毛野系の古墳の分布、これを先に調べていこうと思います。
まだまだ勉強を始めたばかりで、どこから手をつけていいやら手探りの状態なので、いろいろ参考になります。
>>582 若干示唆を致しますと、環濠(水濠等濠付き)を有する円墳方墳、あるいは前方後円墳等
それらの組み合わせよりなる古墳は、時代を下るにつれ北上、北海道地域まで伝播します。
それがおおよそ七世紀。毛野氏との係わり等をも含め考察しますと、何か面白い知見に
遭遇出来るかもしれません。(尚、毛野氏族係男系の一部は吉彦氏のように出羽等東北に
根拠を移しています。)
その吉弥候部とは何者か?というところで、いきなり壁に当たってしまった。 君子部だったら儒教を思想を持った新羅系の渡来人かもしれないし、 卑弥呼部なら邪馬台国は関東にあった。ということになり、トンデモ説になってしまう。 物部や刑部、杖部、大伴部に春日部、矢田部。 部民とはなんぞや。唸ってしまいます。
>>584 「吉弥候」乃至「吉弥候部」は毛野氏族のうち主に上毛野氏と密接な関係を有する氏族で、
一部はその「部曲」等が「上毛野公」を賜姓され、それがやがて吉弥候、吉彦に転訛したものと
考えてよいでしょう。一般には陸奥の蝦夷等、帰属した「俘囚」にも外位階とともにこれらの姓が
賜られているケースも存在しますが、出羽等多くの地域では、征伐等毛野氏族進出に伴い、
入植・在地化した上毛野公が吉弥候→吉彦へと変化したものと考えられます。前九年・後三年の
役で活躍した吉彦秀武の場合、毛野氏族出身で多くの吉弥候部を束ねる「族長」としての
吉彦氏=毛野氏族出身者と考えられます。
言い換えれば、吉弥候部とは大和朝廷側に従った浮囚に対し賜姓したもので、それがもともと毛野と呼ばれる者なのか、毛野地域に住んでいた土豪なのか、その後に入り込んだ(関東以外から来たという意味で)渡来系なのかすら、はっきりしないことです。 そもそも古墳時代に大和の大王家に次ぐ地位にあったはずの東国の王が、いきなり浮囚ですか? この時期、大きな政権交代があったということでしょうか。
>>586 「浮囚に対し賜姓」が現状独り歩きしていまっている点が問題で、例えば毛野氏は血統集団で
あると同時に職能集団、血のみの繋がりではない氏族、という点が重要で、そのために上記にても
「部曲」(部民)という表現も交えているわけですね。これは中世期、私奴婢と共に「家人」層構成員
となるわけですが、それらを束ねる氏族としては、大元の毛野氏族が当たり、時代の経過と共に
彼らと同じ名乗りを使用した(集団的結束)のケースと言えます。元々、彼らの場合の「吉弥候」は、
上毛野氏の傘下に収められ、その内、一定の財力等を持つ者は主筋たる上毛野朝臣の下の者
という意味で「上毛野公」を賜っているという訳です。ですので、一定の有力氏族が俘囚に成り
下がった訳でもなければ、政権交代があった訳でもありません。
蝦夷等「俘囚」に名誉的浴典としての「外位階」が与えられたのと同様、帰属すればそれなりに
優遇してやる、という朝廷の順撫政策の一環ですね。
その説明では納得できませんね。 やはり、三輪王朝の外戚として中央と繋がっていた毛野が、 三輪、河内王朝が断絶し、男大迹天皇(オオドノスメラミコト) 、つまり継体天皇へ政権交代したことで基盤を失い、新王朝に反抗するまつろわぬ荒蝦夷になってしまったとする方が納得性が高いです。 稲荷山鉄剣の主は、毛野とは系統の異なる文化を持っていたわけだし、毛野の支配地を分断するように入り込んでいます。
589 :
日本@名無史さん :2014/10/12(日) 12:43:16.56
豊城入彦、御諸別も上毛野も下毛野も県犬飼も壬生部も蘇我倉山田石川麻呂の子孫たちも みんな関東に入植した渡来人で、毛野ではない。本当の毛人はどこに消えたんだ?
590 :
日本@名無史さん :2014/10/12(日) 12:51:56.75
さあ?
>>547 氾濫原平野こそが米の栽培適地なわけで。
水田は氾濫を人工的に安全に再現したもの。
>>576 >毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送でき・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、戦時兵站の為に、常時大量の水軍を所有しておったのかね?
で、朝鮮戦役の際には、遠く関東から出航したのかね?
で、その大量の船舶は、平時は何処に係留されていたと?
戦時には、平時に半島・大陸と往来しておる現地の海洋民に案内・
兵站を委嘱するのが合理的というか非海洋民には操船すらできぬだろう。
>>586 >そもそも古墳時代に大和の大王家に次ぐ地位にあったはずの東国の王・・・・・・・・・・・・
そもそも毛野氏がヤマト王権首長家に次ぐ氏族で東国の王だったと
言っておる根拠は、何なの?どの文書・金石に記録されてあるの?
古墳期に次ぐ王家というと記紀に記された吉備か筑紫王家だろう。
関東は古代から特別な地域って意識はあったんだろうね
595 :
日本@名無史さん :2014/10/13(月) 14:55:37.08
毛野は水軍どころか騎馬軍も歩兵ない。 金属器もなく、黒曜石のナイフと小弓と鏃、モリは狩りの道具で武器ではない。 部族同士の争いも話し合いで解決する。代表者はいても決定権を持った首長はいない。 そもそも戦争なんてしたことがなかった。 常世の国と呼ばれる桃源郷だったのです。
597 :
日本@名無史さん :2014/10/13(月) 17:11:41.82
595 5,6世紀には日本刀の原型となった刀剣が出土してる 江戸時代には猟師は火縄銃も所持している
598 :
日本@名無史さん :2014/10/13(月) 17:13:17.75
刀は15世紀近く手放さなかったし銃だって4世紀手放さなかったぞ
599 :
日本@名無史さん :2014/10/13(月) 17:18:11.66
6,7世紀ころには刀剣を制作する施設みたいな跡地もでてきてるんだろ?
600 :
日本@名無史さん :2014/10/13(月) 17:25:28.66
「金属器もなく」とありますから、595は石器時代の話をしているのでしょう。 氏族としての毛野氏族の登場は古墳時代になりますが。
上御殿のオルドス式が日本刀のルーツかね?
602 :
日本@名無史さん :2014/10/13(月) 20:16:34.30
『常陸国風土記』が編纂された時代でさえ、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていました。 タヂマモリ(『古事記』では多遅麻毛理、『日本書紀』では田道間守と表記される。)が行ったという常世の国とは房総半島。 ここに橘、自生のみかんである橘の花が咲いていたのです。 田道間守>県犬飼氏>橘氏は、群馬県の倉賀野から、房総半島に安房国一宮を結ぶ通商ルートを支配していた毛野の一族だったのです。 この橘氏、県犬養三千代以前から女系だったと思われ、女系毛野だったことは間違いないと思います。
603 :
日本@名無史さん :2014/10/14(火) 13:01:37.12
92 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:24:15.57
>>576 >毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送でき・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、戦時兵站の為に、常時大量の水軍を所有しておったのかね?
で、朝鮮戦役の際には、遠く関東から出航したのかね?
で、その大量の船舶は、平時は何処に係留されていたと?
戦時には、平時に半島・大陸と往来しておる現地の海洋民に案内・
兵站を委嘱するのが合理的というか非海洋民には操船すらできぬだろう。
↑
対馬・博多の船が関東まで来るわけ?
それこそ非合理だ。
群馬は船の材料の木がいくらでもある。
船が作れないはずがない、作って米を積んでそのまま流せば房総半島まで兵と米が輸送できる。
そこから朝鮮半島まで移動すればいいだけですね。
「博多の船を利根川上流まで持ってくる」方が遙かに不合理です。
604 :
日本@名無史さん :2014/10/14(火) 20:05:44.96
纏向型の神門古墳群と古河かどっかの遺物が似てるんだよな 下総と大和は纏向型で繋がってて、下総と毛野も繋がってた
606 :
日本@名無史さん :2014/10/14(火) 21:16:58.20
だから、古墳を造ったのは畿内の勢力。 労働者として働かされたのは毛野の先住民。 労役が嫌で逃げ出したのが、まつろわぬ蝦夷。
妄想と事実ははっきり区別しようよ
608 :
日本@名無史さん :2014/10/14(火) 21:46:27.59
独り言はやめなよ。
609 :
日本@名無史さん :2014/10/15(水) 22:33:23.14
清和天皇=大災害天皇 生きてる間中大災害の連続 桓武天皇=女とやりまくっただけ 将門は反乱しただけ 崇神天皇=ハツクニシラススメラミコト〜最初に我が国を平定した天皇〜 うーん、崇神末孫の毛野氏ってランクが明らかに違わないか?
610 :
日本@名無史さん :2014/10/15(水) 23:00:21.19
卑弥呼、神功皇后、斉明天皇、推古天皇、持統天皇、女系天皇は強過ぎます。 そもそも天皇家だけではなく、藤原や源平も男系は何度も断絶しているけれど、実は女系で繋がっているのではないかと思われます。 それが知られていないのは、女系系図が残ってないこと、研究者がいないことが原因。 もしかしたら、組織的に隠しているのかもしれません。 その鍵を握るのが女系氏族の解明。毛野、橘氏、北条氏、浅井、近江との関係が濃厚です。 女系を調べれば、ほんとうの日本の姿が明らかになる。 ただ、ソースが圧倒的に不足しているので、男系至上主義者に荒らされ放題になるのは不可避。 辛抱強く書いていきましょう。
武家の元は蝦夷らしいね。
斬撃主体の蕨手刀が毛抜太刀に変化してるのは確実。
毛抜形太刀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%8A%9C%E5%BD%A2%E5%A4%AA%E5%88%80 >毛抜形太刀の直接的な起源は、古墳時代、東北地方の蝦夷が用いてきた蕨手刀である
直刀から湾刀に移ったのはこれが元
結局武家の技術なんて毛野氏と毛野氏と対立した(共同した)蝦夷なわけで
「源平藤橘ガー」
って笑えるよね
そんな氏族が影も形もなかった時代から戦場の技術は東国で磨かれてきたんだよ。
>出土刀も、神社に奉納されていた伝世刀も、全て関東以西である。
>突き刺す直刀と違い、斬ることに特化していった蕨手刀系統の刀は、
>馬上での疾駆斬撃戦に有利であった。そのため、毛抜形刀は内国の武人にも好まれたものとみられる。
横取りすんなボケ
日本刀が武士の魂なら、日本刀の元は毛抜き太刀=蕨手刀なんだから、
蝦夷と毛野氏にひれ伏せってんだ。
>いずれにしても、日本刀の成立には蝦夷鍛冶の技術力に因があることは確かである。
サムライがどうこう言う割りに、そのルーツを理解しないなんて情けないよな
源平藤橘=朝鮮伝来の忍者 みたいなもんだね。 日本刀の起源すら知らないでサムライがどうこう言ってるアホって なんか朝鮮人みたいなんだが恥ずかしくないのかな・・・ 日本刀の起源を見ても源平藤橘が影も形もなかった時代から戦場で戦ってた毛野氏と蝦夷が発端。 「毛野氏と蝦夷」についてもっと理解を深めるべきだろ。 中世礼賛ってアホだったよな。古代の武装集団の毛野氏をもっと知るべきだね。
613 :
日本@名無史さん :2014/10/16(木) 22:59:46.64
昔の武士のもののふが、馬から落ちて落馬して、頭にケガねでよかあたま 香香背男(かがせお)、つまり、山田の中の一本足のかかしこそ毛野の正体。 体は大きく力は強いが、性格は温厚すぎで戦いには向かない人々。 毛野とは、漫画家の蛭子 能収さん、ギャンブル好きなああいう感じの人たちだったに違いない。
614 :
日本@名無史さん :2014/10/19(日) 23:22:30.07
毛野氏や物部が入り組んだ時代より遥か昔・・・ 和田峠や神津島、那須の高原山の黒曜石の流通を支配し、 黒曜石の性質に合わせて用途の異なる黒曜石製品を仕入れては、関東全域に販売していた古代商社があった。 その流通の基礎となる道、河岸と川舟、下田から神津島への海上ルートとカヌー軽野、 恐らく、旧石器時代と呼ばれる時代から1万年以上かけて、 黒曜石だけではなく、生きるために不可欠な塩、貴重な蛋白源である干貝や魚の干物、 山間部からは毛皮や皮製品、麻などの植物繊維の織物、籠や編み笠 、土器、 ありとあらゆるものの流通と物々交換を行う市の運営を担っていた者達がいた。 それが名もない古代商社である本来の毛野なのだ。
615 :
日本@名無史さん :2014/10/21(火) 13:57:38.90
毛野氏が胎児眺めて笑う蛭子だったとか・・ そこらの土着民とか あんまり毛野氏を侮辱すると不敬罪だぞ 崇神第一子の豊城入彦命をなめんな 関東平野は豊城入彦命末孫が来るまで原っぱだったのが考古学的に明らか。 山麓部での縄文・弥生遺跡しかない 関東で毛野以前に国家なんてありえないんだが。
毛野氏って八十神でしょ
617 :
日本@名無史さん :2014/10/21(火) 21:24:56.93
>>615 関東の旧石器時代の遺跡、縄文・弥生遺跡、特に奈良時代、近世まで続く重畳遺跡を調べれば、毛野の住民に民族的、文化的な断絶はなく、毛野は旧石器時代から続く民族集団だったことがわかります。
豊城入彦やその子孫も、毛野集団と大いに関係がありますが、豊城入彦の系統がはじめて関東平野の住人ではありません。
恐らく、関東平野に灌漑技術を伴った水田稲作、鉄器、養蚕など当時の最先端の文化を持ち込み、神に近い存在として君臨したことは想像に難くありません。
しかし、毛野と呼ばれる地域の住民は、一貫して旧石器時代からの住人だったことは間違いないと思われます。
大化の改新や明治維新以上に新しいもの好きの民族性が発揮された時代だったと思います。
>>612 いやいや、蝦夷はわかるけど毛野氏が格別どうのってあるかね?
安倍氏=丈部
大伴氏=大伴部
毛野氏=吉弥侯部
安倍氏や大伴氏も毛野氏に劣らず奥羽の経営には参与していたようだが。
619 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 17:55:16.51
>>617 群馬の弥生・縄文時代の遺跡密度をマップで調べてからしゃべってな。
土器の分布を見ても国家があり活発な民族がいた形跡も
戦乱の形跡もないです。
考古学で完全否定されてるんだが、「異論なしに300以前の関東平野は縄文時代で国家がなかった」
のが確定。
何度もいわせんなアホが
文句あるなら土器でもなんでも土を掘って見つけろや
620 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 17:59:01.47
621 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 18:01:47.77
阿倍比羅夫はそこそこだが、日本海側で関東平野に関係しないし その最高点ですら毛野氏の方が格が高い=軍勢が多い。 700〜800以降は弱体化するが、 初期は関東平野に毛野氏に並ぶものなしだな。 なのに同格にしたがるザコ氏族うざい。
622 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 18:04:11.42
関東で強かった「桓武平氏」は反乱を起こした朝敵の逆賊が有名ですねー いまだに神田神社に将門を祀るか祀らないかで論争があるくらい。 毛野氏と互角なのは弓矢と刀に長けた蝦夷くらいだわ。 「毛野より蝦夷の方が強かった」「蝦夷と互角だった」は一応認める論争だが それ以外のなんとか氏族は話になんねーからウザイです。
623 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 18:21:20.15
当時の天皇ですら勝てなかった軍団なんだから >>「毛野とそれ以外がほぼ互角 17000 VS 20000」 何とか氏族ガーとか言われても笑えるだけ え? そいつは天皇よりも権力があったのか? 確定してるんだからどうにもならんね、朝鮮人みたいに過去を好きなように捏造したいなら別だがw
624 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 19:44:18.40
権力?
625 :
日本@名無史さん :2014/10/22(水) 21:28:04.23
>>619 オレは、豊城入彦が来る以前に、後に毛野と呼ばれる地域に大きな国があったなどと言っていない。
むしろ、旧石器時代の関東は、富や権力の集中がなく、緩やかな共同体だったと思われます。
御諸別が国に近い支配体制を築いた後も、毛野の住民は自由に暮らしていた。
それは、江戸時代の士農工商に組み込まれなかった穢多や非人と呼ばれた人達に連なる。
中央集権だけが国家の在り方ではないのです。
626 :
日本@名無史さん :2014/10/23(木) 00:54:16.46
>>625 原始共産制の夢まだあきらめてないのかw 団塊ブサヨ乙
とっくに人類学で否定されてるからアキラメロン
自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。 東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、 王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。
628 :
日本@名無史さん :2014/10/23(木) 06:42:56.27
>>626 色褪せた古い学説なんか信じてたのか?ごくろうさん。
629 :
日本@名無史さん :2014/10/23(木) 22:16:32.85
このスレにも、「これが定説です。」みたいな教祖様がいらしたとは驚きです。w
630 :
日本@名無史さん :2014/10/23(木) 22:17:56.46
このスレにも、「これが定説です。」みたいな教祖様がいらしたとは驚きです。w
631 :
日本@名無史さん :2014/10/25(土) 16:28:07.59
>>589 >本当の毛人はどこに消えた・・・・・・・・・・
貴殿は「日本書紀」、「常陸國風土記」を読んだことがないのかね?
侵攻してきた日本武尊や御諸別や建借間に率いられた軍兵に、原住民は
殲滅されたのだよ。服属せぬ男女は虐殺、降伏した男は近畿へ拉致、
女は蹂躙された。
夜尺斯・夜筑斯を酋長とする部族などは、建借間の計略により全員
焚殺したと堂々と記述されておる。
632 :
日本@名無史さん :2014/10/25(土) 17:47:27.37
ふ〜ん、それがいわゆる国府やら荘園やらが成立するときの話か?
633 :
日本@名無史さん :2014/10/25(土) 21:08:31.12
そやがな。 大阪のおばちゃんこそ蝦夷。 これでいいでいい?
>>625 お花畑が目に浮かびますねw
>>629 そもそもこの板からして
ろくな根拠も論証もない、思い込みの垂れ流しみたいなカキコばっかりやん
635 :
日本@名無史さん :2014/10/26(日) 08:02:35.54
妄想でもソースがなくてもお花畑でも構わないから自説を書けよ。 他人の説の批判ばかり子は来なくていい。
めちゃくちゃな妄想垂れ流しでも書いたほうがいいとか既知外沙汰や
637 :
日本@名無史さん :2014/10/27(月) 04:57:43.63
>>634 関西の土人くん、少しは歴史を勉強してくる事だな
関西の自称武士なんて、鳥の羽音に驚いて慌てて逃げ帰ったり、
敵より20倍もの数の兵が居ながら負けるヘタレだけなんだよ
638 :
日本@名無史さん :2014/10/27(月) 07:43:48.31
富士川の戦いのことか。疾風怒濤の身のこなしは那須与一であろう。
639 :
日本@名無史さん :2014/10/28(火) 09:43:42.65
ヤマトタケルのときは原住民は相模にいたっぽいが、 (日本武尊が駿河で野火攻めに遭ってるが、群馬・埼玉ではなんの戦いもない) 毛野は素通りしているので、景行のときはすでに毛野国一体は支配下で目立った抵抗もない。 原住民がいたとか何をいってるのかな。 もちろん先住の縄文人はいたが、毛野がその原住民だとか、 すでに国家があって毛野はその原住民の支配下で、皇族出自は仮冒したものだった!はありえんわ。
640 :
日本@名無史さん :2014/10/28(火) 09:45:11.03
ヤマトタケルの東征は350〜400年代の皇族である毛野氏の軍事行動を示唆するものだろうね。 東山道からはいってるので、どうみてもそうだわ。
『記』では常陸までだけど、 『紀』では陸奥、さらにはその奥の蝦夷領域(日高見国とも表記)まで東征してることになってるね。ヤマトタケル。
642 :
日本@名無史さん :2014/10/28(火) 22:37:22.39
11代垂仁天皇の命により常世の国に渡った田道間守、その子孫の県犬養三千代、葛城系が北関東との繋がりが深い。 この常世の国こそ毛野国。 御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。 祟神の兄の豊城入彦と全く同じ設定だと気づくはず。 毛野国は、神武=祟神の国ヤマトと兄弟国にあたる。
大彦命:新潟市付近から阿賀野川を東へ遡り、会津へ 武渟川別命:常陸西部の筑波から鬼怒川を北に遡り(栃木を縦断し)、山王峠を越え大川沿いに会津へ
東北のエミシの首長たちはほとんど「公」(きみ)のカバネだから 公式には豊城入彦命か倭建命のどちらかの子孫を名乗ってた可能性が高い
645 :
日本@名無史さん :2014/10/31(金) 18:10:05.70
>>643 大彦・武渟川別親子双方の会津坂下までの行路は、紀の祟神天皇段には
何の記載もないが、その経路だとどうして断定しえたのですか?
>>631 建借間が、先住民国栖を七夜歌舞歓楽に誘い、種属尽く一時に
焚滅したと得意気に記す『風土記』のこの記事ですね。
有国栖名曰 夜尺斯夜筑斯二人 自為首帥 堀穴造堡・・・・・・・
建借間命 令騎士閉堡 自後襲撃 尽囚種属 一時焚滅・・・・・・・
風土記に資料的価値など無い
648 :
日本@名無史さん :2014/10/31(金) 23:38:25.76
>>643 >大彦命:新潟市付近から阿賀野川を東へ遡り、会津へ
> 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、 :常陸西部の筑波から鬼怒川を北に遡り(栃木を縦断し)、山王峠を越え大川沿いに会津へ
その道案内をした者達がいる。
ニニギを道案内した猿田彦。
神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をした 八咫烏。
道祖神、馬頭観音、会津遠征でも道案内がいた。
江戸時代になっても、関東取締出役の用いた道案内 がよく知られる。町奉行所では,三回(さんまわり)(隠密回,定(じよう)回,臨時回)の 同心が給金を与えて雇っておく私的な使用人として生き残った。
それが関東平野の原住民。毛野の正体だ。
649 :
日本@名無史さん :2014/11/01(土) 00:20:05.60
>>639 目立った抵抗もないと言われるが、父景行天皇に命じられ東国に赴いた
ヤマトタケルに逆らい略殺された行方郡当麻郷の蝦夷鳥日子、やはり
従わずに斬殺された芸都里の国栖寸津毘古などは、東征軍への先住民
抵抗事件ではないのかね?
アメリカインディアンも、さしたる抵抗もせずに土地を追われ、砂漠の中の居住地に強制的に囲われてしまった。 そして、最後まで白人に立ち向かったのはアパッチ族の酋長ジェロニモ。 このアパッチ族の風習と古代毛野の風習が似ていて、遺伝子的な繋がりもありそうだ。 彼らは馬にも乗るが騎馬戦はせず、降りて戦う。 酋長はいるが絶対的な権力者ではなく、シャーマンのような存在。重要事項は関係者の合議で決まる。 鳥アイテムを信仰し、頭を鳥の羽で飾る。
>>649 639は毛野氏が原住民系ではなく侵略側だったといってんじゃね?
652 :
日本@名無史さん :2014/11/03(月) 10:29:27.48
御諸別が作り上げた第一次毛野王国をヤマトタケルが平らげて、平氏を入植させたのですね? つまり、三輪王朝から河内王朝に代わったヤマトでの政変が東国にも持ち込まれたということではないだろうか。
653 :
日本@名無史さん :2014/11/03(月) 19:00:06.70
末期になると、どっちが蝦夷で、どっちが朝廷か分からんくなるな 「兵士の質が劣化して使い物にならないから警備は蝦夷を使う」 って720くらいから言ってる。
654 :
日本@名無史さん :2014/11/03(月) 19:02:16.01
>>652 御諸別王は三輪王だしな。卑弥呼の拠点の王?
後の豪族じゃなくて邪馬台国からそう経ってない古墳前半時代なのがおもしろい点。
まあいろいろ研究すれば毛野氏はすごいおもしろいと思うよ。
グンマーについて研究する酔狂な研究者が足りないだけ。
655 :
日本@名無史さん :2014/11/03(月) 19:05:43.22
葛城氏と御諸山勢力の関係は謎だらけだが、=近いから敵か同族か、いずれにしろ深い関係があるとは思われる。 ↑ 王朝交代論とかいろいろある。 御諸別王なんて「卑弥呼の拠点ですが何か」で、ずばりそうだしな。 その御諸別王は毛野氏と系図が繋がる。 雄略以降は畿内がぐちゃぐちゃになるが、景行なのであまり乱れてない時代なので 「謎の3〜4世紀が温存」されていると言える。 ニヤニヤ・・
656 :
日本@名無史さん :2014/11/03(月) 19:06:55.62
毛野氏は卑弥呼とヤマト王権初期の全勢力との接点がある。 かつ強力な軍事力と。
>>655 なにが「ニヤニヤ」だ、キモすぎ…。自信あるなら普通に自説を展開しろ
しかし網野義彦先生が足で丹念に調べた結果見つけ出した「大中臣氏略系図(桐村家文書)」は世紀の大発見だったなあ。 あの系図のお蔭で、それまで太田亮博士などによりその可能性が指摘されていた多氏系としての中臣氏の存在がグッと現実味を帯びてきたわけだし、 海道平氏(繁盛流常陸平氏一門)と出羽清原氏との関係や、さらにはそれらと義家〜両毛源氏との相関関係、そしてもちろん上記諸氏と藤原秀郷流との相関関係も明らかにしてくれたわけだ。 他にも、「若狭一宮社務家系図」などの詳細な研究によって、後期王朝国家時代が到来する以前には当たり前の婚姻形態であった母系継承による氏族形態の実態の把握にも大きく貢献することになったわけだし。 ほんとあの頃の網野先生は目の付けどころとかがいちいち神懸かっていたなあ。
659 :
日本@名無史さん :2014/11/08(土) 12:14:04.33
網野先生も古田先生も、自分の足で資料を収集しようとする地場の学者は、例外なく偽書にたどり着いてしまう運命なのです。
660 :
日本@名無史さん :2014/11/08(土) 19:09:03.78
都々一坊扇歌の謎かけの最高傑作は、何気なく天王寺の塔だと思っていたけれど天王寺の由来を知って、その思いがさらに強くなってしまった。 天王寺の塔は、古墳時代末期に聖徳太子が百済から呼んだ宮大工集団が建てたのですね。それこそが世界最古の企業家集団である金剛組。ロマンがあるなあ。 少し前に毛野氏族は総合商社を持っていたという話があったけれど疑わしいなあ。当時は貨幣も流通していない物々交換の時代。決済が迅速に行われたとは思えないのです。
661 :
日本@名無史さん :2014/11/08(土) 21:34:22.86
千葉県の旧東葛飾郡の野田市、流山市、柏市、我孫子市、松戸市、鎌ケ谷市、市川市、船橋市、浦安市に相当する地域、ここが千葉県における毛野の支配地域に相当します。 この辺りの微高地沿いに、毛野の流通網が続いており、その先の、出水市出雲系の鳥海氏や香取、鹿嶋とは明確に住み分けています。 物々交換の時代に、縄文字を商取引に使用し、縄張りを守ってきたのだろう。
662 :
日本@名無史さん :2014/11/08(土) 21:43:04.46
毛野の作った道の両側には縄を張って、一般人の侵入を禁じ、数キロおきに見張り番を配置し、縄張りを巡回していた。 道案内、目明かし、同心。 八色の姓の5番目、道師さ。
663 :
日本@名無史さん :2014/11/08(土) 21:52:34.96
なぜ八色の姓の5番目、道師が賜姓されなかったかといえば、 それは、官製の大道、東山道の整備を進めていたからだ。 これは毛野の利権と真っ向対決する毛野氏最大の危機だったろう。 しかし、大和勢力には歯が立たなかった。 東山道と競合しなかった接続道路が、今でも産業道路、迂回路として残っている。
664 :
日本@名無史さん :2014/11/08(土) 23:01:23.71
物々交換を支障なく行うためには、枡の寸法を決めることや天秤ばかりの普及が不可欠であったと思います。 さらに、おおよその交換比率を決めておくこと。 同じ米でも、旨いものがあれば、まずいものもある。 物々交換もなかなか大変だったでしょうね。
>>662-663 「道師」の道って道路じゃなくて技芸の道のことだろ
旧の造(みやつこ)に該当で伴造、職業部の管掌氏族じゃん
賜姓はされたけど下級貴族(というか貴族ですらない)だから記録が早く散逸したんじゃね?
666 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 11:37:08.59
道路沿いに縄を張るのは物理的に難しいので廃れたけれど、神社の入り口、ご神体山の入口に大鳥居を建てて、侵入を制限、 鳥居に大しめ縄を張るのはその名残。神木、神石、滝などにも進入禁止の縄を張ります。 田んぼに杭を立てて縄を張る習慣は今でも残っているし、案山子と日本神話に登場する星の神、天香香背男( あめのかがせお)は同体。 星の神、天香香背男( あめのかがせお)は、 『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。 本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。 星宮神社の配置は毛野の支配地とは一致しないが、関東平野では毛野とは交流があり、共存していた様子。
667 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 11:44:20.35
ふふんw
668 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 14:17:19.05
今でも、目明し、同心の流れを汲む警察の現場では縄の代わりに黄色いテープを張って現場保存をします。 潜ろうとすれば誰でも通れるのに、心理的バリアーを張って侵入させない。それが結界ですね。
669 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 14:39:51.75
江戸時代の話 そいつらの話とどう結びつくんだ?
670 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 15:05:17.22
鎌倉幕府の頼朝が朱印状で認められたとされる通行権、通商権、興業権などの特権。 江戸に入封した徳川家康もそれを追認した。 江戸は、幕府が支配する士農工商と浅草弾左衛門配下の穢多非人の二重構造だったのです。
671 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 15:11:21.58
日本に良いこわざあるね。 本は急げ!
672 :
日本@名無史さん :2014/11/09(日) 15:30:46.05
その鎌倉幕府の御家人というのは、平安時代から住んでいた土豪で、 古墳時代や奈良時代に渡来した帰化人だったり、 実はその前から住んでいた御諸別、奈良別、犬飼氏、橘、藤原系、ごちゃごぎゃ。 しかし、その本性は石器時代から住んでいた土人。ですよ。
674 :
日本@名無史さん :2014/11/11(火) 22:04:10.23
蝦夷と毛野氏が同時代から 蝦夷は強いが、勝ったり負けたりして結局領地を広げた毛野氏の優勢勝ち もしくは蝦夷が取り込んだか 蝦夷は遠距離も近接も馬術も長けているので 武者の原型だな。対抗した毛野氏が弱いわけではないので、 基本互角の技術か。 修羅の国での楽しい殺し合い=切磋琢磨で生まれたのが日本の戦闘技術 権力者が弱い者をたまに追い回すだけの畿内の戦乱じゃ技術の発展はなかったはず。
675 :
日本@名無史さん :2014/11/12(水) 00:19:03.50
縄張りは古代からあった気がするな
発掘考古学からは日本の古代は、戦争による大規模な殺戮の跡って発見されていないんじゃなかったっけ?
677 :
日本@名無史さん :2014/11/12(水) 23:11:09.68
縄張りは、縄文時代以降だろう?最近の話。 大量の藁がなければ縄が出来ないからな。 縄文時代は、葦の時代。豊葦原、葦舟。
678 :
日本@名無史さん :2014/11/14(金) 12:26:06.07
藁縄の普及は、稲作の盛んになった弥生時代以降のような気がする。 縄文時代以前は、麻、井草、藤を主原料として縄を編んでいたのではないでしょうか。 藁の用途は、縄、コモ、むしろ、俵、その他。 茣蓙は井草か。
>>678 馬は石ころを食うとでも思ってるの?
米を人間が食って、稲藁を馬が食うんだよ。
そんでそれが人馬一体の兵団になるんだわ。
馬は運搬にも使うし、肉も食う(分からんが食ったかも知れない 馬を飼う信州では馬肉食ってる)
すんげーエコだな。
人間が食えない稲藁で馬をつくってそれが自家用車になるわけだし。
他に何にもいらなくね?って感じがする。
680 :
日本@名無史さん :2014/11/14(金) 22:12:36.70
水稲は弥生時代から。また、当時は品種改良もなく水稲は北の方では育たない。 藁縄が沢山使用され始めたのは、どう考えても弥生時代からと思える。 馬って自家用車みたいに誰でも自由にのれたのかなあ。太平洋戦争末期には、 白馬に乗れるのは選ばれし人だけ。古代でも大差ないような気がする。 それと、馬の普及はひずめを保護する金属製の馬蹄が出来てから。それがないと足がもたない。 従って鉄器の登場と馬の活用は同時代からとずぶの素人の私は考える。
681 :
日本@名無史さん :2014/11/14(金) 22:45:13.07
馬を持てたのは庄屋、名主、肝煎といった地域の顔役だけだ。 百姓上がりの足軽は馬は持てない。
682 :
日本@名無史さん :2014/11/14(金) 23:04:02.97
そうなんだよな、馬を持ってたのは、上士と名主層が大半 因みに下士足軽は百姓あがりじゃない。 雑多と呼ばれた非定住民 まじで。 百姓は豪農の郷士クラスも百姓に分類される
684 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 12:45:22.79
鬼怒川と黒川に挟まれた河内地区、栃木県中部を中心に、 高??(たかお/たかおかみ)神社が100社以上集中して残っているらしい。 この神社のうち最も古い神社の一つ高雄神社(茂木町)は景行天皇56年に御諸別王が勧請したという社伝が残る。 しかし、この神社の分布は毛野のうち下毛野地域に限定され、実際には御諸別王の時代よりずっと後の時代に創建されており、毛野全体の神と言うわけではないようだ。 Wikipediaによれば、 5世紀末に新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。 その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「 旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする説もある。 とあり、下毛野の古墳と高??神社は密接な関係がありそうだ。 この高??神社は、奈良の桜井市や大阪河内の茅渟宮との関係が伺える。 高??神社は、応神朝の頃渡来した帰化人の神か?
685 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 12:48:29.42
案の定、文字化けしてしまった。 たかお神社の「お」は、雨冠に口3つ、その下に龍という漢字です。
東京の高尾山とか関係あんの?
687 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 15:45:47.58
茂木の高雄神社の所在地は、那須国なのか毛野国なのか、あやしいなあ。 何故、那須与一の絵馬が宝物のように保管されているのか疑問がわく。 千本氏の領地だったような気がする。 なお付近は宇都宮氏系の茂木氏、益子氏系の飯村氏、那須氏系の千本氏と入り組んだ地域になる。
688 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 17:30:36.03
高尾山との関係はどうだろうな。 位置的にも時代的にも違うので無関係としても良いが、 高麗からの渡来人、雨乞山、龍神、という共通点はあるから、 後の時代に渡来してきた同族かもしれない。 茂木の高尾神社は社伝丸ごと偽装だろう。 御諸別も那須与一も箔を付けるために後付けしたのだろう。 龍を奉る氏族はどこから来たのだろうか。
689 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 18:25:42.04
武蔵南部の大都会江戸の二百石の御旗本は馬を持ってないのに 武蔵北部の秩父あたりの本百姓は普通に馬を飼ってた 江戸時代はそんな時代
690 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 18:38:20.37
首都圏の駅近くに住む我が家には駐車スペースすらないのに、 車持氏の子孫である群馬県民は免許取得年齢に達すれば一人一台が当たり前である。 しかも、100メートル先のコンビニに行くときも車を使うのである。 県民性ってやつだ。
691 :
日本@名無史さん :2014/11/15(土) 18:43:01.86
東京23区と同じ広さに人口2万人ですが車がないとなにもできません 遊楽地にいこうと思ったら100キロメートル先です
さすが車持氏
693 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 12:20:25.19
下毛野の高??神社に相当する上毛野の神社を調べてみると雷電神社ということになる。 この雷電神社といえば、上毛野の板倉雷神神社が有名だが、上毛野を中心にかなりの数がある。 京都の上賀茂神社の賀茂別雷神とも関連があり、賀茂族の上毛野入植にあたり、元からあった雷電信仰と習合したようだ。 ちなみに、下毛野の高??(たかおかみ)の方は下賀茂神社の賀茂建角身命・八咫烏伝承にある高木大神との関係が伺える。 つまり、賀茂族と秦氏の集合体ということになる。 毛野とは、先に関東へ入植を果たしたものの、畿内の政治的混乱によって忘れられた賀茂族のことではないだろうか?
両毛は鉄とれるの? 雷神は元は鉱山探索の神だよ。 奉じてた人達はのちの山師に連なる人達。 お察しの通り氏族は鴨氏。 役小角なんかもその一員。
695 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 15:08:09.08
賀茂氏(三輪氏族) 大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。 大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。 毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族だろう。 秦氏とも関係が深く、大陸から稲作文化をや養蚕、機織りなどの先進文化を持ち込んだ弥生系渡来人だろう。
696 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 15:34:21.88
>>694 鉄は何も鉄鉱石や砂鉄としてしか存在しないわけではありません。
みなさんは、高師小僧というものをご存じでしょうか?
葦の根に溜まった褐鉄鉱の団塊のことです。
下の記事は近江八幡ですが、豊橋市のものが有名で、
関東平野の足利の葦原からも大量の褐鉄鉱が見つかったと思われます。
http://blog.goo.ne.jp/ 高師小僧 /e/b661a1d10070832af785c020f51c5d56
697 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 15:36:40.52
リンクが良くないようです。 すみません、高師小僧で検索してください。
698 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 15:52:41.14
は?
699 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 16:43:08.39
ほうれん草を食べると鉄分を感じるなあ。 ポパイになれるだろうか。
>>695 なんというか、雷(いかづち)神は鴨の神であり、和邇・息長(久米族)の神であり、三輪(大神)の神であり、宗形の神であり…
という感じ。
これらはみなある意味同族っちゃ同族だから(あくまでも「ある意味」ね)。
あと、積羽八重事代主命の系譜や『記紀』での隠喩なんか読むとね。この神は鴨氏の神であると同時に和邇氏の神でもある。
理由は上と同じ。
これもやっぱり「ある意味」同族っちゃ同族だから。
高鴨(上鴨)さんは味鍬高彦根の迦毛大御神さんで間違いないけど、その異母弟である事代主命は鴨都波(下鴨)さんのご祭神だね。
上鴨、下鴨ってのは葛城での話ね。山城ではなくて。
面白いのは、この葛城の各鴨社では下照姫命と高照姫命を別神としていること。
前者は味鍬高彦根命の、後者は積羽八重事代主命の同母妹として、それぞれの神社の相殿神に祀っている。
『記紀』では下照姫、高照姫は同神と記しているけど、『旧事本紀』では異母姉妹と記している。
つまり葛城鴨三社のご祭神は『旧事本紀』の記述に準拠した配神の仕方をしているわけだ。
701 :
日本@名無史さん :2014/11/16(日) 22:55:02.00
豊城入彦も彦狭島王も東国へは行っていないに、 さしたる戦いもなく、御諸別王が東国に行って善政を行う下地があったのか? それも、いくつかヒントを見つけた。 既に前の時代に三輪、賀茂族の祖先は東国入植を果たしていたのだ。 上毛野、下毛野に分かれる前の毛野が少しづつ見えてきた。
702 :
日本@名無史さん :2014/11/18(火) 22:39:54.15
毛野国なんてなかったらしいが。 上毛野、下毛野に別れた後の名前であって 毛野国が別れたわけではない。 そもそも日本書紀に「毛野国」は出てこない。 是上毛野君・下毛野君之始也 といきなり崇神期に700年以降の氏族名ぽんとででてくるが 崇神期の「毛野国」は出てこない。 その後に毛野国ができたかと思えば その後は「近江毛野氏」と「上毛野小熊」の話であり これも「毛野国」を特定するものではない 本に書いてあったが、その通りだと思った。記紀には実は「毛野国」がでてこない。 しいていうなら「東京都知事」「東京都」がいきなりでてきて、その前身の江戸が出てこないのと似てる。 非常に不思議ですが、理由は分かるかな? 東国に毛野氏の祖がいなかった記録はどうみてもない、
703 :
日本@名無史さん :2014/11/19(水) 22:40:28.04
ウィキペディア:上毛野氏 東国統治 豊城入彦命は第10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の女)の間に生まれた皇子で、「上毛野君・下毛野君の祖」と付記されている『古事記』も同様。 崇神天皇48年、天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目命(のちの垂仁天皇)に夢の内容を問うた結果、活目命を皇太子とし豊城命には東国統治を命じたという。 垂仁天皇5年、八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち、「倭日向武日向彦八綱田」の名を与えられた。 『新撰姓氏録』から、八綱田は豊城入彦命の子とされる。景行天皇55年、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。 しかしながら、途中の春日の穴咋邑にて没し、上野国に葬られた。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め、蝦夷を討った。 ---------------------------- 引用終わり ----------------------------------- ここにある、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。というところにあるように、毛野と呼ばれる地域に毛野という国があったかどうかはわからないが、15もの国があったことは確かだ。 豊城入彦は、東国へ行っていないとみられることから、15国はそれ以前から別王朝の支配下、もしくは友好関係のある国だったと見てよかろう。 つまり、崇神天皇以前の欠史八代の時代に、毛野地域(一つの国ではない)と畿内にはつながりがあったことになる。 それはいつの時代のことか、継続して調査中です。 その15国と、たかお神社、雷電神社、鷲神社、氷川神社、香取神社、鳥見神社、久伊豆神社など、神社ごとに住み分けとも関係がありそうだ。 ほかにも、他の神社と領域を棲み分けられている神社があれば教えて欲しい。それが、毛野の15国である可能性が高い。
704 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:08:43.35
>15国はそれ以前から別王朝の支配下 「3世紀以前の関東独立王朝説」は考古学から完全に否定されてる ヤマト王権発祥とともに畿内の文化が流入している。 非常に限定される最初期の古墳の石棺 「長持形石棺」が関東の太田天神古墳から見つかる >畿内の大型古墳で多く見らる形式 >仁徳天皇古墳と同じ形式=応神と同じ ヤマト王権以降の王朝については否定しない。 ヤマト王権以前の関東王朝については、広範囲な国家の痕跡を示すものが 見られない以上否定される。=考古学者でも誰も言ってない。 人口は多かったようだが、山岳部での縄文時代的な暮らしをしていたため 田園地帯で人口発展すると見られる「国家」がないのは人類学的にも頷ける。
705 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:12:05.08
狗奴国東海説を言う学者が関東王朝があったら便利なのだが、 =東海と関東との連合で畿内と十分対抗できる勢力になりうるから。 3世紀以前の国家を示す考古学遺跡が関東平野から見つからないもんだから、 関東勢力との同盟論を諦めてるくらい。 「記紀での記述通りヤマト王権の軍団が関東に進出した」というのを否定する根拠は見つからない 文献学的にも考古学的にも見つからない。ほぼ確定。 まあ見つかってないのだろう。火炎の縄文土器だしな。
706 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:20:54.83
飽きたよ、妄想は 日本書紀や古事記が書かれてからはっきりしてきたのは 火山活動の記録だ
707 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:23:07.72
「関東に独立王朝があって、畿内と対抗した それが畿内邪馬台国と関東狗奴国だ!」 というのは実に都合のいい=めんどくさい九州説を抹殺できるから 論理で、畿内の学者は目を皿にして弥生時代の関東王朝の存在を研究したが 見つからないもんだから=関東平野は遺跡の発見が山岳部に多い=弥生時代に入っても 豊かな縄文時代を満喫してて、それでよかったのが関東平野 「関東王朝」という結論に意図的に持って行こうとした畿内の学者がいたのに 関東に国家があった考古学的形跡がないため断念した というのを知っておくべき。
708 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:29:16.15
関東ローム層の形成は富士山が噴火したから
709 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:31:44.00
記紀には富士山の記述が少ない
関東平野はヤマト王権が4世紀に入り侵入し
南関東と抗争して富士山まで辿り着いたかどうかというのが
三角縁神獣鏡の初期分布からみたヤマトの国々
http://blogs.yahoo.co.jp/ainomori_snow/6782929.html これを見るとだいたい国家の形跡が分かる。
静岡から千葉にかけての南関東は
畿内の勢力との関係が薄いのが分かる。
国家がないという意味ではなく、ヤマト王権・卑弥呼以外の勢力がいたことが分かる。
ヤマトタケルの征伐はこの図から言っても筋が通ってる。
=王権の範囲が及ばない南関東を倒したという記紀通り。
710 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 14:33:46.65
小御岳、古富士、新富士 どれも火山活動で一気にできた山
記紀や風土記には富士山の記述が確かに少ない(少ないどころか記紀神話には記述ゼロ。あれほど目立つ霊峰なのに)が、 反対に日本武尊の関東や日高見(東北地方)までの遠征譚などもっと東方、北方への記述は普通になされている。 これは記紀編纂当時、どうも富士山山麓地域が触れてはならない、あるいは触れにくい(書きにくい)事情があったことが推察される。 『竹取物語』なんか読むと、間接的にそのあたりの“事情”を物語っている可能性があるように思う。
712 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 21:57:39.69
上毛野、下毛野は大和朝廷が小国をまとめて国にしました。 関東には大きな国はなく、小国が分立して共存共栄していたと思われます。 湿地帯には人が住めず、人類学的にも無人地帯でした。 毛野氏の祖先は関東周辺の扇状地や微高地で細々と暮らしていたのです。 遺跡と呼べるものはほとんど残していません。 あなたのおっしゃる通り、未開の荒野だったのです。
713 :
日本@名無史さん :2014/11/21(金) 23:44:16.41
国家というと、国会議事堂があって、衆議院解散して国民に信を問い合うとか、 税制があって国民から租庸調を取っていたとか思っている人ごくろうさんです。 実は、王がいれば国家なのです。社会制度なんてなくても良い。ただそれだけ。
714 :
日本@名無史さん :2014/11/23(日) 14:26:05.43
715 :
日本@名無史さん :2014/11/24(月) 12:26:47.47
会津の山の中、福島県河沼郡柳津町の石生前遺跡(いしゅうまえいせき)という大規模縄文遺跡があることをご存知でしょうか? この地域で出土した火炎式土器は、翡翠の産地 越国姫川上流や宮城県の大木囲貝塚などの縄文集落とも繋がりにあったとされています。 四道将軍大彦命とその子東海道将軍建沼河別命が出会ったのが会津ですが、遠征の目的はこの柳津の縄文国を挟み撃ちにして攻略することにあったと思われます。 この河沼郡という地名は、建沼河別命を連想させる地名です。 それと石生前という地名も、兵庫県高砂市にある巨大な石造物を神体で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)との関係が気になるところです。この神社の祭神は大穴牟遅命、すなわち大国主大神です。 生石神社(おうしこじんじゃ)と大彦(おおひこ)が似ているところも気になるのですが、偶然でかもしれません。
生石神社は物部の祖宇留命を祀るために弓削大連守屋が神殿を建てている最中だったのだが、蘇我との戦いに敗れてしまったため中途で終わってしまった。 本来なら巨大な石の神殿が出来ているはずだった。 石は物部の象徴だから。 石上、石鎚、石切、石作連、そして生石…
大彦命は父がオホヤマトネコヒコクニクル、母がウツシコメだから父方和邇、母方物部だねえ。 物部というのは本来製鉄氏族の総体だから和邇も実は物部。 そこから派生したんだから安倍(オホビコ、タケヌナカワワケ父子)もざっくりいうと和邇だね。
補足を。 オホヤマトネコヒコクニクル 根子+彦+個人名 というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc)。 姫川のヌナカワは、タケミナカタトミの母と言われるヌナカワヒメとの関連が気になるな。 場所柄、渡来系の可能性も考えられる。
訂正 オホヤマトネコヒコクニクル 根子+彦+個人名 というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc) → × オホヤマトネコヒコクニクル 彦+国+個人名 というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc) → 〇
720 :
日本@名無史さん :2014/11/25(火) 16:39:54.75
ワニ氏は分かったけど、関東と何の関係が? 鹿島神宮と関係? ぶっとんだレスされても困るわ。
721 :
日本@名無史さん :2014/11/25(火) 16:47:34.17
物部は独立王朝だったが、AC300くらいにヤマト王権に降伏したから 最初は部下だったんだよな。 だから最初に関東にきた勢力の中にいてもおかしくない。 でもやっぱり部下でしかないので、物部は茨城方面で ヤマト王権の毛野氏は要地の北関東を治めたと。 支配関係はヤマト王権勢力の毛野氏が上位だな。 譜代大名が北関東周辺、外様の物部が茨城あたりってことだな。
722 :
日本@名無史さん :2014/11/25(火) 16:49:29.87
物部の先祖はニギハヤヒで、神武に降伏したとあるので、 支配関係は毛野氏の方が上。 だから、これは俺の仮説じゃなくて事実。毛野氏の北関東が王様で 香取の物部は部下
まぁ〇世孫の御諸別ってのは後年の平氏みてぇなモンだなw 平忠常(笑)
724 :
日本@名無史さん :2014/11/25(火) 17:55:27.80
侵略されてないから温存されてますね、 兵の動員命令もあるから軍事力が形骸化することもない。 そもそも蝦夷は倭国最強の兵なので そいつらと四六時中戦ってた毛野氏がただの官僚集団とか小領主とかねーわー 結局毛野氏最強説は変わらんね。 ろくな反論がない。
725 :
日本@名無史さん :2014/11/25(火) 18:20:22.33
関八州の内の陸奥国ができたのは大化の改新のころになるわけですから、北関東の王様という地位は存在しなかったのではないでしょうか。 那須氏や岩城氏は、陸奥方面の国造も兼務していたわけですから。689年頃まで。 また、何よりも常陸の国の北の境界が分かりません。
まあ一応、日高見は甘し国討ち取らん といった武内宿禰がいたり、日本武尊の東征が『紀』では「日高見国」まで進軍し敵方を降伏させ、とはあるが。
>>720 相模や陸奥牡鹿半島に和邇氏系氏族の丸子連氏が根拠地を築いていたり(牡鹿半島は当時倭人の最北端進出地だったのだろう)、あなたも指摘する環香取海氏族の存在も、陸奥一宮塩竈神社の奉祭氏族も和邇氏の東国への進出によるものの痕跡だと考えている。
728 :
日本@名無史さん :2014/11/26(水) 00:00:28.52
崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫 崇神天皇-ヤマトタケル-神功皇后までの間に皇族が現地に入り入植している 神功皇后の時代には既に坂東武者の祖、毛野氏族らは関東に巨大な都市と軍を形成していた それが源氏の繁栄につながった
>>724 香取海の流通網に掠りもしないで最強説はありえない。これが事実。
731 :
日本@名無史さん :2014/11/26(水) 08:30:56.30
陸奥国一宮神社は、大和政権勢力の北上に伴って次第に北上していった。 最初の元々の陸奥国一宮神社の所在地は、今の福島県棚倉町である。 当時は白河国で国造は那須氏であった。
732 :
日本@名無史さん :2014/11/26(水) 09:55:58.50
宮城県多賀城遺跡研究所による奈須直廣成の解説は続いている。 宮城県の人は最近まで陸奥国における那須氏の治績を知らなかったようだ。 私には、どうでもよいことだけれども。気になる人には、気になるようだ。
そういや山内氏が奥会津に進出してるな。 那須国造→守部(美濃国席田郡司)→佐藤(秀郷流藤原氏嫡流)→首藤(首馬主佐藤氏)→山内首藤(相模国鎌倉郡山内荘荘司首藤氏) の流れ。
734 :
日本@名無史さん :2014/11/26(水) 15:26:24.96
婿養子を取るとは。 猿田氏や芦野氏にも男子がいなかったのかなあ。普通は身内から選ぶような気もするけれども。
735 :
733 :2014/11/26(水) 16:23:18.59
出羽の小野寺氏もこの流れらしい
736 :
日本@名無史さん :2014/11/26(水) 18:18:44.27
寒くなると鍋の中のハタハタも格別だなあ。出羽名物
737 :
日本@名無史さん :2014/11/26(水) 21:35:53.22
この時代、つまり、ヤマトタケルに象徴される大和政権による東国遠征で征服された地域は、縄文文化の中心地。 これが大事。
738 :
日本@名無史さん :2014/11/27(木) 21:49:49.13
方々の弥生文化の中心地ではないでしょうか。平定後には徐々に古墳時代へと移行したと思えます。
739 :
日本@名無史さん :2014/12/01(月) 23:04:34.94
東国遠征は東国弱体化だろ。 なにしに奈良の連中が来るの?って感じだわ。 しいていえば、人様の家の台所にあがって肉を取り出して 焼き肉して食い散らかして、そんで税金を要求するのと同じだな。 東国が勝手に緩い自治してたのに畿内の連中のタカリがおそってきたというのが 東国遠征 毛野氏はすでに東国勢力との話し合いは済んでおり、 ものすごい緩いが、広大な自治区を東日本一帯に構築していたが それをタカリの畿内のハゲタカが襲ってきたという。 そんで兵士を東国の毛野氏に出させるなど、まさにひどい有様。 毛野氏・東国同盟の弱体化政策だろうね。
740 :
日本@名無史さん :2014/12/01(月) 23:07:06.55
ローマの政治技術に 「蛮族は分断して統治せよ」とある。 東国同士で戦乱をさせて、毛野氏に侵略者の兵士をさせて 恨ませて、蝦夷を反発させて共同統治国家の東日本を分断して弱体化させのが 7世紀以降の東国遠征 あとただのタカリ
741 :
日本@名無史さん :2014/12/01(月) 23:12:06.84
天武期に東国勢力=おそらく主力は毛野氏 により畿内がたやすく滅んだのを見て 7世紀以降はすげー警戒されたんだろうな。 「分断して統治する」ことを外国の資料から学んだんだろう まあ見事に成功して蝦夷と結びついてた毛野氏は分断されて弱体化したわ。 そんで皇族の武力の根源であった東国を滅ぼしたことで 畿内も弱体化しておしまいとw
742 :
日本@名無史さん :2014/12/02(火) 01:57:56.25
講武実用流 江戸幕臣(東京都) 中西派一刀流 江戸の浪人(東京都) 天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都) 天真白井流 江戸岡山藩士(東京都) 一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都) 北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県) 浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都) 直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都) 直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都) 直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県) 神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県) 神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県) 神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県) 鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都) 扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県) 不二心流 肥前島原藩士(長崎県) 鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県) 心形刀流 江戸幕臣(東京都) 馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県) 本間念流 上野赤堀の富農(群馬県) 神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県) 柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県) 天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都) 甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県) 甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県) 法神流 上野勢多郡の富農(群馬県) 気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県) 立身流 下総佐倉藩士(千葉県) 香取神刀流 常陸笠間藩士(茨城県) 大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県) 加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県) 薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
この前、会津に調査に行ってきたのだけれど考えがまとまらない。 四道将軍大彦はなぜ会津に遠征したのか? もしかして会津は大彦の故郷なのではないだろうか?という妄想まで湧いてきた。 縄文文化の中心地はみんな盆地で、おそらく九州から青森まで繋がっていたのではないかと思われるのです。 なにせ、縄文時代は1万年もあったわけだし、冒険好きの縄文人が次々と探し当てた盆地に移り住んだはず。 アルピニスト野口健、宇宙飛行士野口聡一、マラソン金メダリスト野口みずき、そして、野口英世博士。 野口、ノロ、下呂(ケロ)、毛野、全部、縄文人のシャーマンのことではないのだろうか?
745 :
日本@名無史さん :2014/12/04(木) 22:13:52.60
>>695 >毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族・・・・・・
新説ですね?根拠文が見当たりませんが、、何なのか追記願えませんか。
賀茂を賜姓と言われるのは、君姓-->朝臣姓賜姓の誤記ですね?
>弥生系渡来人・・・・・・・・
意味不明ですよ。百済系とか伽耶系なら理解できますけれど、弥生系?
>>744 >四道将軍大彦はなぜ会津に遠征したのか・・・・・・・・・・・・・・・・・
紀崇神天皇10年段に目を通していないのかね?「服従せぬ者は、
討伐せよ」という勅命に従ったのだよ。畿内を制圧したので、
畿外を制圧すべく。尤も下命半年後には、帰還しておるがね。
云うまでもなく大彦は、畿内の一画統治王孝元天皇の子と
されるから、会津生まれなどありえない。
九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、
丹波道主命遣丹波。因以詔之曰 若有不受教者、乃舉兵伐之・・・・・・・・・
>>709 >静岡から千葉にかけての南関東は
>畿内の勢力との関係が薄い・・・・・・・・・・・・・・・
薄いどころか関東地方は、稲作文明の伝播が本州で最も遅れた
未開不毛の地だったらしい。
19 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/28(金) 22:02:36.94 ID:9rVO+etL0
・・・・・3000年前の富士山噴火で関東平野の縄文人は激減した。
弥生文明の稲作は北九州→近畿→中部ときてここで日本海経由で
青森まで北上し、太平洋側を南下一番最後に関東平野に到達した。
つまり、弥生文化は関東より東北の方が早かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【歴史】DNA分析で縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明 我々の祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのかc2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1417179097/19-
748 :
日本@名無史さん :2014/12/24(水) 22:47:43.35
あの辺りの人は毛野とは関係が薄い。 毛が薄いってことですね。 わかりますわかります。
いんや。 尾張と毛野の支配地域は関係が深い。 東国の毛野を侵略するための前線基地が岡崎辺りにあった。 宇頭には五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコのみこ)の墓といわれる和志山古墳がある。鷲宮だ。 『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子だ。 景行天皇には、80人の子供がいたといわれており、ヤマトタケルとは異母兄弟。
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
▼札幌医大・松村博文先生(兵庫県出身)
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf 『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』
▼形質学から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・大阪大学教授による)
頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人 76.55 23.65 44.60 55.14
東北人 80.16 23.07 44.46 54.33
畿内人 84.98 22.67 43.99 54.23
朝鮮人 85.16 22.35 43.30 53.48
毛野氏も皇族だが、白村江の戦いで、上毛野君が築紫君やらの他の皇族を配下に している時点で、相当な皇族だし武力もあったよ。
>> 744 大彦命は、そもそも畿内政権とは独立した王権だったと思うね。 胡志王=大彦命で、越の國の王だったというのが正解じゃないかな。 ただし、雄略の時代までに、なんらかの形で畿内政権に取り込まれていると 考えられるので、畿内政権の先駆として、「みちのく」の開発にあたった可能性は否定しない。 こう考える理由は、稲荷山鉄剣銘文で、オワケ臣が、自らの祖先を大彦命としているから。 もし、孝元天皇が実在して、大彦命が、その子だったとしたら、オワケ臣は、自らの出自を 孝元天皇に遡らせるはず。 また、四道将軍の武渟川別が、東海道の将軍となったという点についても史実かどうか 一考すべき点があると思う。 この将軍の「ヌナカワ」というのは、糸魚川あたりの翡翠産地の地名のはずで、やはり越の國 に関わりが深い人物と考えるのが妥当だと思う。 もし、記紀のとおり、この将軍が東海道を支配したとしたら、それも畿内政権から派遣されたというより、 大彦命の配下で東海道を支配したと考えたほうが自然だと思う。 こう考えると、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣が出土したオワケ臣が、大彦命の子孫でありながら 関東にいた理由も理解できる。
753 :
752 :2015/01/25(日) 18:56:12.38
すまん。 そもそも、武渟川別は、大彦命の子と記紀に記されているわけだから、「また、四道将軍の武渟川別が…」 以降の文章は自明だった…。
754 :
日本@名無史さん :2015/02/06(金) 17:55:47.78
田道将軍のお札 人物も兵船も、なかなかかっこいい。ただし今このような図柄を一万円札に施したなら、 半島の方で発狂するだろうな
756 :
日本@名無史さん :2015/02/10(火) 20:12:00.16
蛇穴山古墳は、上毛野田道の墳墓のような気がする。
>>751 君には日本後紀の精読と新選姓氏録成立の背景をキッチリ調べるようお勧めするよ
毛野氏は朝廷に帰順した関東の蝦夷。 東北地方の蝦夷については記録がかなり残っているが、 関東の蝦夷については、景行天皇やヤマトタケルの伝承しか残っていないので詳細不明。 貴族と言うより、上皇の私兵、北面武士といった案配だね。
なんで越前に佐味君氏の郡司がいるの? 佐味朝臣氏も8世紀中たびたび国司になってるし。 なんか縁があるの?
763 :
日本@名無史さん :2015/02/13(金) 18:36:05.10
旧国立銀行の一円札を飾った上毛野田道が下毛野になっている。 奇妙ですね。
764 :
日本@名無史さん :2015/02/13(金) 19:23:53.90
765 :
日本@名無史さん :2015/02/13(金) 19:45:27.28
坂東武者は、朝鮮騎馬軍団
766 :
日本@名無史さん :2015/02/13(金) 20:28:24.56
テレビの見過ぎ
>>764 香取内海域圏内及び周辺河川水系圏内に多く存在する点に留意
>>765 お薬の飲み忘れには気をつけてね 笑
竹葉瀬、田道はおそらく「所謂」毛野氏族じゃない可能性=渡来系(てか半島からUターン系)
氏族の可能性。毛野氏族支配圏内は一次供給地に過ぎない点とか、日本後紀の平城天皇
関連記述、新選姓氏録関連研究(姓氏録自体、編纂中途挫折だったり欠落多かったりで多少
問題抱えているけど)は結構「陥穽」 笑
768 :
日本@名無史さん :2015/02/16(月) 11:39:38.75
一円札を渡来人が飾るのも違和感がありますから引き上げ組と考えますと田道は何度も半島に渡航していた事になります。 また、田道は、生前には上毛野田道で没後には初代に相応しい人物として下毛野田道になるはずであると編者は考えたのではないでしょうか。 もっとも689年までは毛野国だったわけですから必ずしも二人の国造がいる必要もないと思いますが。
>>764 関東の方が草原が多く、馬の飼育に適してるからね。
770 :
日本@名無史さん :2015/02/16(月) 21:32:27.42
(1)日本民族への朝鮮半島人の人種的影響の色濃い
現代日本へとつながる日本人に及ぼす朝鮮半島の文化の影響の色濃さ、朝鮮半島人の人種的影響
の色濃さはかなりのものであることが分かる。大陸、とりわけ中国人、漢民族が及ぼした影響は
人種的というよりも、文化面での方ものであろう。
(2)弥生人は朝鮮半島から渡来
朝鮮半島の人々と日本人の人種的つながりを濃厚に示している地域がある。現代日本人の近畿地方
の人々は、他の地域の人々に較べて特殊な日本人であることが判明している。朝鮮半島から渡来した
と考えられている弥生人は、北方要素を強くもった人々であることが分かっている。現代の近畿地方
に住む人々と朝鮮人とには、他の地域の人々とは比較にならないほど共通項が多い。両者は人種的に
近い間柄である。これに反して、アイヌは古モンゴルの系統に属し寒冷地適応をしていない人種であ
る。縄文時代人もひどい寒冷気候のさらされたことがなかった。
(3)形態学的あるいは遺伝学的方法には大和朝廷は朝鮮半からの島渡来人
弥生人やその後大陸から渡ってきた人々は北方要素を強くもっている。弥生人とおぼしき人々が、
朝鮮半島から九州に渡来し、山陽を経て近畿に達し、その後大和朝廷を形成したのであろうことが、
形態学的あるいは遺伝学的方法による人種の分類から明らかである
。
(4)生体計測値は近畿人=朝鮮、関東・東北人=アイヌ系である地域差は歴然
渡来人の移動の経路は、遺跡や文化的遺産あるいは現代人に残されている形態学的あるいは遺伝
的特徴から推測できるのである。生体計測値からも近畿地方に住む人々が朝鮮系であり、関東地
方あるいは東北地方に住む人々は古モンゴロイドと関係するアイヌ系であるという地域差が歴然としている。
http://www.keiryou-keisoku.co.jp/other/gakkai2.html
俗に弥生系と呼ばれる人々は、半島系ではなく江南系。商の移民等が中心。 半島はストローの役割を果たしたに過ぎない。 それから「呉服」語源の呉等、支那中南西部経由の人々が重要やね。まあ 関東圏は殆ど関係ないが。
773 :
日本@名無史さん :2015/02/17(火) 22:50:09.63
ここ10年くらいで、毛野地域、上毛野氏、下毛野氏について 精力的に論文を書いている方って誰かいますか? それ以前だと群馬県関連の職員の方が、かなりの数の論文を書いていて 読んだ記憶がありますが、お名前を忘れてしまいました。 分かる方いたら教えてください
775 :
日本@名無史さん :2015/02/20(金) 18:17:55.22
勘違いするなよ、万年パシリの北関東猿よ
足利氏は元々は三河
平治の乱後の源氏雌伏期間、源義兼は、母方の三河の藤姓熱田大宮司家に養育され、三河で育ち、旗揚げした従兄弟の源頼朝から足利荘を安堵され足利氏となった
・足利義兼(初代足利氏)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→女(養女)→足利義兼→義氏(足利氏として初めて三河守護)
熱田大宮司千秋家譜について
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf 千秋家は三河国設楽郡千秋を本貫地とする
源義兼は15ページに登場する
776 :
日本@名無史さん :2015/02/21(土) 08:50:17.97
尾張の支配者変遷 尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。 藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。 小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。 中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。 名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。 中条氏 再び
777 :
日本@名無史さん :2015/02/21(土) 09:30:49.66
尾張では坂西武者になるな 大久保氏と下野国那須郡大久保村は関係ねえだろう。 系図偽装の三河武士
小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」 『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号 畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、 東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。 このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、 東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半 島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、 東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に 一致することは興味深い(以上、75頁) (追加)形質人類学的にみた未解放部落 われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調 査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。 (中略) 身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅 は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、 一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国 東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。 畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。 大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持 つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の 分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による) (大阪大学医学部教授)
779 :
日本@名無史さん :2015/02/21(土) 15:27:14.64
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院 東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。 尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。 このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。 佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、 小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。 尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。 上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。 足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。 その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。
大和飛鳥地域を含む高市郡は、別に今来の郡とも呼ばれた。 宝亀三年(七七二)、坂上苅田麻呂が、 高市郡内には朝鮮渡来の人々がみちみちており、 「他姓の者は、十にして一、二」と述べたくらいである。 大和の飛鳥文化がそれらの人々によって推進されたことは、 まぎれもない事実であった。 河内の飛鳥文化もそうである。 (上田正昭・京都大学教授)
うわっ!!!!!!! #歌舞伎俳優 十代目 #坂東三津五郎 ・・俺も、テレビCMでよく見た「五代目 #坂東八十助(バンドウヤソスケ)」が、
俺の誕生日に絶命した!これ!俺のお気に入りの女の誰かとセックス・性交しただろ!!小松菜奈?
https://www.youtube.com/watch?v=XLq0GvyeEDQ 俺は、何度も、色々な所に書いておいたのに。テレビに出ている女優、女性雑誌の表紙のモデルとかは、日本に住んでいる、私、天皇聖帝へのプレゼント・奉仕女が、
陳列代わりに、テレビや雑誌に出ているだけであるので、芸能人男性向けの女ではなく、性行為をすると暗殺や殺害される。
ちなみに、その日は・・・私は「カツユキ」であるのだが、東京には「ユキ〜雪」が降っていた。そして、何か、事故みたいなのが起きたり、色々とあったと思う。
「五代目 #坂東八十助(バンドウヤソスケ)」って、俺の育ての「おかあさん」の知り合いではないみたい。誰かの知り合いみたいだが。
「早川会長では?」という話なんだけど。俺の育ての「お父さん」でもないみたいなんだけど。「お父さん」の偽者が、宗教担当だそうだが。
「ダバダー」は、「田ハハ田〜田・林田」。上質を知る男のくにせ、俺のサポートをしていなく、俺宛の女の代表格である、
女子アナウンサーを自分で抱いていたので、ただの害毒であり無価値という判断で、俺の誕生日に処分されたそうだ。俺は、ちゃんと警告したよ。
天皇陛下を部下・侍従にしている「天皇聖帝」登場(
http://pbs.twimg.com/media/B0cE4HFCcAAEgLO.jpg )。
皇族は、古代の王、神の血筋であり、神の特徴が多く遺伝している存在が、より偉い。私よりも遺伝しているのは不存在と言われる、
明治神宮で祭られている「神」である「明治天皇」の孫が私である。天皇陛下は「陛下」なので、天皇への書簡を渡す連絡係である。
当然だが、愛新覚羅家、李王家、徳川家、天皇陛下よりも偉い。三清であるので。愛新覚羅はロシアや中国に依頼して軍隊を呼べない。
「子供は二人まで」の女は全員、皇帝へのプレゼントの女。約束、〜の人の子供を産め!は全部、皇帝の子の量産用だが、95%騙されている。
曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、創価学会が「日本人ではなくて雑種だったから」と勝手に他の男に渡していて、その結果、女が汚れていたら一人に付き、主犯・実行犯が処罰され〜絶命する。
「Japan Emperar 日本皇帝"Japan High-class king"」「天皇Ten-nOu」「中国皇帝 China Emperar」「天子 Ten-Shi」「天然大カール・イザナギ/ポセイドンの血筋」
同じ血筋Lineage of the same strain。髪質が天然パーマのクセ毛で大カールする NaturallyBigCurlyHair(カール大帝KarlDerGrobe、ルイ15世Louis XV、 George Washingtonと同じ)。
私はこの血筋ですI am this pedigree(lineage)。2014年4月18日現在、39歳 18, April 2014, 39 years old。
Virgin Like 処女が好き。処女と性交したことがない Do not virgin sex。子供がいないNo children。未婚Unmarried。
2001年8月からセックス性交してない From August 2001, and do not sex。所持金は少ししか無い There is only a little money in hand.
http://blog.goo.ne.jp/sho_gun_3
天皇陛下を部下・侍従にしている「天皇聖帝」登場(
http://pbs.twimg.com/media/B0cE4HFCcAAEgLO.jpg )。
皇族は、古代の王、神の血筋であり、神の特徴が多く遺伝している存在が、より偉い。私よりも遺伝しているのは不存在と言われる、
明治神宮で祭られている「神」である「明治天皇」の孫が私である。天皇陛下は「陛下」なので、天皇への書簡を渡す連絡係である。
当然だが、愛新覚羅家、李王家、徳川家、天皇陛下よりも偉い。三清であるので。愛新覚羅はロシアや中国に依頼して軍隊を呼べない。
「子供は二人まで」の女は全員、皇帝へのプレゼントの女。約束、〜の人の子供を産め!は全部、皇帝の子の量産用だが、95%騙されている。
曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、創価学会が「日本人ではなくて雑種だったから」と勝手に他の男に渡していて、その結果、女が汚れていたら一人に付き、主犯・実行犯が処罰され〜絶命する。
「Japan Emperar 日本皇帝"Japan High-class king"」「天皇Ten-nOu」「中国皇帝 China Emperar」「天子 Ten-Shi」「天然大カール・イザナギ/ポセイドンの血筋」
同じ血筋Lineage of the same strain。髪質が天然パーマのクセ毛で大カールする NaturallyBigCurlyHair(カール大帝KarlDerGrobe、ルイ15世Louis XV、 George Washingtonと同じ)。
私はこの血筋ですI am this pedigree(lineage)。2014年4月18日現在、39歳 18, April 2014, 39 years old。
Virgin Like 処女が好き。処女と性交したことがない Do not virgin sex。子供がいないNo children。未婚Unmarried。
2001年8月からセックス性交してない From August 2001, and do not sex。所持金は少ししか無い There is only a little money in hand.
http://blog.goo.ne.jp/sho_gun_3
>>774 群馬女子大のなんとかってのが権威じゃなかったか
続日本紀の訳文書いてるから古代関連の権威になってて
群馬じゃ強い。
http://www.gpwu.ac.jp/guide/info/prof_list/01kitagawa.html 最近の本も出してるはず。
上毛野氏については復古本として
古代東国の王者―上毛野氏の研究 単行本 – 2008/2熊倉 浩靖 (著)
が出てるが、復古本で最近はとくにだしてない作者
古代史関連の本の出版は盛んだが、
上毛野氏から迫った本はあまりないな。
群馬・栃木・埼玉の遺跡発掘の市の教育委員会の調査本の方が資料としてはいいかもね。
群馬大とかも「古代史」というくくりで中央の研究やってる人が多くて
「毛野氏関連はそのおまけ」という扱いだな。
あまり学会で評価されないのかもしれないが、
上毛野氏に特化した学者は最近あまりいませんね。
若手はいないはず。
群馬大はだめで、群馬県立女子大の方がなぜか研究が盛んか
ここの専門の教授が最先端?ではないかと。
興味があるなら問い合わせしてみればいい。