胸を貸してやるんじゃなくて?
3 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 09:19:59.42
九州説は要介護だから
4 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 10:46:12.81
肩を貸すのか。
紳士だなw
肩を貸すという表現は正しいかも。
九州説は村おこしだからね。地域振興の為には謎にしておく方がよいから。
畿内だと当たり前すぎて面白みに欠けるのだろう。
奈良なんて既に遺産だらけなんだし。
頭の修理をしたほうが良い
それを九州説の人に求めるのは酷
8 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 12:48:23.90
畿内説のアホ○ども、1〜7まで見るだけでも底の浅さが丸見えじゃないか。
キッチリ九州説の奴らがグーの音もでないような立証をして見ろ。生意気は
それから言え。
9 :
ローガン:2014/05/09(金) 14:54:09.02
>>8 >九州説の奴らがグーの音もでないような立証をして見ろ。
既にグーの音も出てないやん。前スレ
>>159: [sage] 04/16(水)00:02 AAS
九州の絹は弥生時代どまり
倭人伝に書かれているのは古墳時代だな
>>160: [] 04/16(水)06:46 AAS
そういう学説は聞いたことが無い。邪馬台国は弥生時代後期というのが定説だ。
あたまの中、大丈夫?
>>161: [sage] 04/16(水)08:01 AAS
邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者って誰?
>>163: [sage] 04/16(水)09:12 AAS
はいはい、で?
邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者って誰?
>>165: [sage] 04/16(水)10:23 AAS
はいはい、で?
邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者って誰?
>>168: [] 04/16(水)18:07 AAS
>>165 甘ったれるな。自分で探さんかい。それが研究だ。
これが、九州説者の現状。誠に情けない。
九州説なんてトンデモ妄想話と行程パズルしかないじゃないかw
11 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 15:21:58.99
>>9 164 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2014/04/16(水) 10:20:03.25
wikipedia 魏志倭人伝
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、
皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国
との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。
「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、
100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず
内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女
の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は
檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
wikipedia 古墳時代
古墳時代(250頃--600末頃)
現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの
約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、
前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた
時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
ローガンさん、都合の良い所だけを取り出してまた詐欺ってるんすか?
12 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 15:32:33.28
卑弥呼の墓は円墳
はいはい、で?
邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者って誰?
14 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 16:05:14.04
古墳時代の前なんだから弥生時代だよなあ、、、
15 :
ローガン:2014/05/09(金) 16:21:05.24
>>11 だから、それが定説だという学者って誰なの?
(勿論、そんな人いないのは承知だがね。)
返答できず、自分で調べろ と返す奴は程度が低いと思わないかね。
定義によって変わるだろうが、一般的な時代定義では、
古墳時代の前なんだから、卑弥呼の時代は弥生時代だな。
むろん、別の年代を主張する学者もいるだろうが、
それが一般的になるためには、その学者の論の検証が必要だろうな。
17 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 17:28:36.52
ローガン氏も痴呆老人になったのかな。それは九州説に言い返しているだけで、
畿内説の立証ではないでしょうが。立証しないかぎり、畿内説を確立すること
はできないよ。
18 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 17:30:24.48
日本で一番前方後円墳が多い県は・・・
奈良県の約2.5倍もの前方後円墳を抱えているえろい千葉県です
だから、邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者って誰?
>定義によって変わるだろうが、一般的な時代定義では、
>古墳時代の前なんだから、卑弥呼の時代は弥生時代だな。
だれがそれを「一般的な時代定義」だと言ってるの?
>それが一般的になるためには、その学者の論の検証が必要だろうな。
自分の言ってること、検証した?
自分で「だろうな」って言ってるんだから、してないよね?
21 :
ローガン:2014/05/09(金) 17:56:04.56
「九州説のグーの音」なんて既に出てないということだ。
引用した通り、簡単な質問すら答えられないのが、君たち。
答えられない理由は、根拠がないから。
さて、庄内を弥生とみるか、古墳とみるか?なんて人によって違う。
古墳時代を布留式からだと言っても、庄内式は土師器だとする。
AD240年前後が、弥生時代であるという定説なんかないんだよ。
22 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:03:28.65
>>17 >立証しないかぎり、畿内説を確立することはできないよ。
これはそのまんま今の九州説(実態はほぼゼロ)の現状だなw
俺が学者なら仮に畿内説を積極的に支持することはなくても
九州説を積極的に支持することはありえない
だって材料がないんだからw
畿内説はざっくり言えば邪馬台国=初期ヤマト王権で
それが弥生期大陸との交渉を行ってきた玄界灘周辺地域に代わって魏と交渉を持ったという説だが
【畿内説】
玄界灘周辺地域 → ヤマト王権
【九州説】
玄界灘周辺地域 → 九州邪馬台国 → ヤマト王権
※ただし九州邪馬台国を玄界灘周辺地域に比定する場合はこの形に非ず
また「九州王朝説」とか「東遷説」の与太は除外
九州説の場合「玄界灘周辺地域」と「ヤマト王権」の間に大陸と交渉を持った勢力をもう一つ
想定しなければならないがそれを彷彿させる材料がないが現状
そこに「素直に読んだらピタリとわかる」というオレサマ解釈を持ってくるのは
文献に書かれた邪馬台国のことを聞かれてその文献を根拠にするという循環論法
ここの九州説はほとんどそのパターン
弥生第X様式までを弥生後期というのが定説だね。
24 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:10:23.09
土器偏年と墳墓の編年と木に竹を接ぐ技法じたいのがまぬけ
土師器系の弥生式土器から土師器を選り分けて捻出
土師器をもっとも後進の地のローカル編年のとして庄内布留にわけてちまちま
もっとも後進の地のローカル編年のは全国的な尺にはなりにくい
ちまちまやらかしている背景で二重口デザインのが全国的に流行して
そいつが成長して円筒形とかのおもちゃに化けるというところを見えないように隠蔽するという結果
25 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:11:12.25
まあ古墳時代の始まりを定型化された大型古墳の登場とするなら
「邪馬台国はギリ弥生時代」というのはできるんだろうがwwwwwwwww
それを「定説」とまで言うならそれこそ70年代の佐原の
「ざっくり時代区分」まで遡れって感じだなw
ここの九州説が 邪馬台国=弥生時代 に拘るのは
多分脳内に邪馬台国が吉野ケ里のような環濠集落ってイメージが
あってそれに固執してるんだと思う
ここの畿内説の連中だって昔環濠集落の中心と思しき建物で
杖を持ちあるいは鏡を頭上に掲げた卑弥呼のイラストとか見た記憶あるだろう?
アレですよアレwwwwwwwwww
26 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:17:02.06
だから弥生時代が定説だろ
27 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:19:30.33
wikipedia 土師器
古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。
土師器の土器形式として庄内式とか布留式(奈良県天理市布留遺跡から出土)
などと命名され[2]、庄内式土器の方が古い段階の土師器とされた。この庄内式
土器の段階では定型化した大型の円墳は未だ出現していなかった。つまり庄内式
土器は、古墳出現以前の土器であると推定できる。
土器形式の古さは弥生V期、庄内式、布留式という順序になる。
ということで、庄内式までが古墳時代以前ということのようですね。
28 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:22:33.08
天理市かい
もと部落街があったとこに明治になってから整備されたんだろ
29 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:28:20.10
庄内式土器
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/2013_07_22.htm 庄内式土器は北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、
近畿地方では大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市に
かけての限られた地域にしか分布しないのが特長である。そのため、
近畿の土器に吉備の土器が影響して出来たとする説や、逆に、
庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。
柳田俊雄教授が提唱した九州の柳田編年にしても、畿内の寺澤編年、
あるいは石野・関川編年にしても、庄内式土器の開始時期を実年代で
言えば西暦200年頃、終わりを300年頃ころとしている。庄内式は
さらに細かく、庄内1式、庄内2式、庄内3式と古い順に分類される
(寺沢編年ではの庄内0式を庄内1式の前に設け、200年前後としている)。
>ということで、庄内式までが古墳時代以前ということのようですね。
箸墓築造以降を古墳時代という人は、庄内併行期は古墳時代以前という。
土師器登場以降を古墳時代という人は、庄内併行期は古墳時代という。
しかし庄内併行期を弥生後期とは誰も言わない
31 :
ローガン:2014/05/09(金) 18:53:21.96
例えば寺澤氏は、「布留式の始まり布留0式」(王権誕生p.292)と述べるが、基本的な布留式の定義が小型土器三種の定型化である以上、
布留1からが布留式土器であり、かつ布留式から古墳時代とするなら、
3世紀第4四半期もしくは、3世紀末から古墳時代と考えることになる。
なら当然、3世紀第3四半期辺りまでは弥生時代。布留0を含む庄内式は弥生時代の土器。
で、周濠の堆積土の上から布留0を出した、つまり布留0以前築造のホケノ山は、勿論弥生時代。
そのたいして大きくもない弥生の墓から、大量の鉄器が出ている訳だ。
わかるかな?
「古墳時代は4世紀から。弥生時代に畿内に鉄器はない」というのは、幼稚なダブルスタンダード。
>庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。
ただし学者ではない。
で、結局
邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者って誰?
34 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:18:01.13
弥生V、庄内を弥生時代というのなら
前スレでも出た
「弥生時代の文物は九州から東進するのが常識」
というのも修正する必要が出てくるなw
「後期、弥生V〜庄内(併行)を除く」
という一文を加えるべきか
こんなの,どう考えても九州だろ
魏志倭人伝を読む限り,相当南方系の書き方してるぞ
36 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:24:35.13
>>31 >3世紀第4四半期もしくは、3世紀末から古墳時代と考えることになる。
275年以降が古墳時代ということですね。
特に異論はありませんね。
37 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:25:52.27
35
どうみても”九州”よりもっと南としか思えない
当時は琉球系の人たちもまだ九州に一部残ってたかもしれんからな
いずれにせよ,九州はあり得ても畿内はないわ
39 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:54:56.99
突っ込みたいけどやめとくわw
追い詰められると思考停止するのが九州説人の常
いずれにせよ,魏志の書き方は畿内を指してはいないから
普通に考えれば九州って事になるだろ
42 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:07:29.81
海人系の邪馬壱のやっくん
やっくんのシマのは島の周りの海も含む
これって当然
陸地ぢゃ鮑とか取れ様も無し
陳さんたらきいきかせて海のうえに線引いて方300里とかのメモのサービス
メモしてくれてる数値のこと全部もれなくサムしてあげたら
奴國および不彌國のところまでのでちゃんと12000里になっちゃってるんだよね
43 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:09:43.72
はい、畿内説は証明できないことが明確になりました。畿内説者の怠慢のゆえ
です。畿内説者は自分達の畿内説を証明しようとせず、九州説の悪口をぐちゃ
ぐちゃ言っているだけです。
途中から日数で書かれているのも,格上の国からやってきた使者を一か月間歩かせっぱなしとかどう考えてもあり得ないから
何回ももてなしの宴会を開いて留め置いたりしたに決まってる
45 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:18:07.08
>>43 じゃあ聞くが・・・
ここ数年いや10年でもいい
九州説が何か進展したかね?
相手(畿内説)の失点じゃなくて
九州説の得点の話だぞ?w
吉野ケ里ブームが最後の輝き・・・
47 :
ローガン:2014/05/09(金) 20:35:49.72
>>36 布留1から古墳時代という考え方をするなら、まあその辺りでしょうなあ。
>>29 >庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。
それトンデモ。
庄内式土器はそれまでの畿内弥生土器に、
小形器台・小形丸底鉢が登場して以降の指標。
したがって森岡さんみたいに庄内という名称を使わず、
畿内Y期としてる人もいる。
49 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:47:20.64
えー、業務連絡、業務連絡・・・
以前何処かのスレで(恐らくは例の東遷厨が)
「平原の年代は被葬者を卑弥呼の親として決められた」
とか言ってた元ネタと思しきもの柳田の『伊都国を掘る』にあったわw
P212(この本のほぼ結びの部分)
>平原王墓の被葬者としては(…途中略)
>卑弥呼直系で直前の三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女女王になるだろう。
・・・多分ここらへんかとw
無論柳田も実年代の想定には別のそのお話を根拠にしてるわけでもなくて
出土した漢鏡の様式等から推定してて
上の文もそれを”元にして”結びに書いてるもので
根拠と結論、因果が全く逆の話
分かっててやってる九州説詐欺なのか?
適当につまみ食いして本末転倒しちゃったバカ話なのかは不明だがwwwwwww
50 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:50:00.99
技術の移植というものは得てしてそういうものなのだが
在地の土器のが庄内のに化けるような技術が外部から移植されると
在地の土器の特性がゼロになってしまうのではなくうにゃうにゃ混血するでしょ。
51 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:55:02.91
>>47 まあ、ここでいうところの「通説」通りですね。
52 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:55:30.68
日本の場合は漢字を導入して最初に当て字を作るところから始まってる臭いから
下手な推測は当てにならねえの
>>45 進展も何も、畿内説は筋違いの証拠(とされているもの)を持って「進展」と言ってるんだろ
54 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:58:24.00
漢字一文字で一音、その次の段階にはいり二音以上とるのもでてくる
この辺が漢字と平仮名の分離かな〜?
55 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:59:50.31
>>53 逃げるな、逃げるな、情けないやつw
畿内説が筋違いの証拠出したというのならそりゃ畿内説のチョンボ=失点
俺が聞いてるのは九州説の得点=進展
本当に何も無いのかな?wwww
56 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:00:46.26
漢字使いの土人が避難して来て居ついたにきまるだろ
57 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:02:58.90
つまり初期の段階では文字がなかったってことやね
それ言い出すと,畿内説の進展らしい進展ってあるの?
59 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:05:03.35
56
土人、土人ってなんか恨みでもあるのか?www
経典とりにいってるってなんどもwww
60 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:07:29.66
畿内で語るなら元寇関係の方がよっぽどあやしいわw
61 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:08:58.59
>>58 グダグダ逃げることに終始する本当情けないやつだな
畿内説=(邪馬台国=初期ヤマト王権)
なんだからその初期ヤマト王権の姿を描き出すに資する発見等は全てその進展とみなす立場だ
無論九州説はその構図を認めないんだがそりゃ基本スタンスが違うからもう仕方がない
・・・で
ここ最近の九州説の進展は何もないのか?www
で,畿内説には進展はないの?
>初期ヤマト王権の姿を描き出すに資する発見等は全てその進展とみなす
「邪馬台国=初期ヤマト王権」
が証明されてない段階でこれを証明とするのはミスリードってものじゃないかな。
邪馬台国=初期ヤマト王権が証明されて初めて初期ヤマト王権の姿を描き出すに資する発見等が資料となる。
こんな事も分からずに九州説を攻撃してるとは草不可避www
64 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:39:49.35
「邪馬壱國」の退位した男王が追われて彌馬岐に逃げてきて
「邪馬台国=初期ヤマト王権」 ので良いかなとはおもうよ
「王権」 なんてかんたんに使用しちゃうひとのが多いけど
称王やらかすのは華の土人に朝貢して叙せられてからに
はじめて真性の「王」だからね
65 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:43:08.34
>>62 まあこうやって誤魔化してトンズラするのが九州説w
実際確かに吉野ヶ里が最後の輝きなんだろう
その吉野ヶ里とて例えば池上曽根(位置的には畿内じゃなくてその周辺)のようなものが出て来て
一般にアピールしてたアドバンテージを失うw
(無論弥生時代の環濠集落としてよく保存されてるその価値自体は変わらないが)
日本海側の数々の発見も倭国の範囲を日本全体に
広く少なくとも九州に限定しない畿内説の後押しをする・・等々
本当に吉野ヶ里以後九州説に資する発見とか何かあったのかねえ?
でじゃあお得意の「ぶんけんしがく」と言っても放射読み/連続読みを始め
無数の「ボクだけのオリジナル魏使コース」作るためのカスタマイズパーツ整理できず
収集がつかないまま今に至る(と言うか永遠にグダグダだろうがw)
67 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:50:42.31
>>63 グチャグチャ言う前にせめて対抗馬を用意しなさいおバカさんw
ある時期に大陸と交渉を結んだクニが倭国内にあっったとすれば
そりゃ当時の最大勢力とかをその筆頭に持ってくるのはごく自然の考え方
ただ実際の歴史上にもあるように
地方の一勢力が対外的に日本の王を名乗ったこともあるので
そこに九州説の存在できる可能性もある。
が畿内説側から「そんなことはなかった」という悪魔の証明はできないのだから
証明すべき義務を負うのは九州説側
それを逃げて畿内説にイチャモンつけてるだけが今の九州説の実態
・・・でこうやって畿内説のスレに乗り込んできてる九州説のアホどもの中に一人でも
「これが最近の九州説の進展だ!」
といえる奴はいないのかね?
68 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:51:00.40
64
うん、お前が土人だねw
>>67 >そりゃ当時の最大勢力とかをその筆頭に持ってくるのはごく自然の考え方
横レス。
3世紀前半以降の最大勢力は畿内で間違いないし、
邪馬台国は畿内であろうが、
それならその最大勢力が九州から畿内に移動してる事も事実だ。
70 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 22:26:55.60
>「邪馬台国=初期ヤマト王権」
>が証明されてない段階でこれを証明とするのはミスリードってものじゃないかな。
九州説の言うことは、いつも意味不明だなあ。
だれか「邪馬台国=初期ヤマト王権」が証明されている
とでも言った?
>それならその最大勢力が九州から畿内に移動してる事も事実だ。
という理由は?
73 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 22:39:01.10
250年あたりから庄内式のが始まるとしたらすべてつじつまのが合っちゃう。
75 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 22:50:00.50
>>74 意味不明のことを口走る電波さんはお帰り下さい
>「これが最近の九州説の進展だ!」
インターネットで憂さ晴らししてます
意味不明のことを口走る九州電波さんがぶざまなだけだが
「九州にあった」スレが悲惨なことに。
80 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 03:38:05.82
こっちも大抵悲惨
81 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 04:11:07.98
弥生時代は九州に多い庄内土器の時代である三世紀中期まで。
古墳時代は布留式以降の三世紀後期終末期以降
魏志倭人伝の卑弥呼の没年は三世紀中期
この定説になにか変化はあったのかね?
九州説なんて既に存在時点がネタだよなw
83 :
ローガン:2014/05/10(土) 07:39:44.66
>>81 古墳時代は土師器(庄内式と布留式)から。
九州説は発掘の成果を無視する脳内夢想説だから無視でいいよ。
86 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 08:18:57.09
27 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2014/05/09(金) 18:19:30.33
wikipedia 土師器
古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。
土師器の土器形式として庄内式とか布留式(奈良県天理市布留遺跡から出土)
などと命名され[2]、庄内式土器の方が古い段階の土師器とされた。この庄内式
土器の段階では定型化した大型の円墳は未だ出現していなかった。つまり庄内式
土器は、古墳出現以前の土器であると推定できる。
土器形式の古さは弥生V期、庄内式、布留式という順序になる。
88 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 08:26:23.95
それってなかみぼろぼろだし
wikipedia 「土師器」の記事は
古墳時代が庄内式のころからと読めるけど。
四国の萩原なんて庄内以前の弥生土器さえあったはず。
しかし九州説信奉者ってあたま悪いね
ある日突然時代が変わったりしないって子供でもわかることなのに
「定型化」以後(つまり箸中山以後)のものを「古墳」と呼ぶつー定義の仕方もあるからな。
残念ながら、現状では、それが大勢かとも思う。
寺澤の纏向型や萩原は「墳丘墓」と言うわけ。
「弥生時代」だの「古墳時代」だのは、その使用者の意識でことなるわけだから、
他人の意見を引用するときには、そこら辺を明確にしないと。
庄内を古墳期含める人の「弥生時代」を恰も布留以降古墳時代の人の意見と併置すると
まったくわけのわからんことになる。
例えば、「庄内古墳時代説」をとりたい人が「古墳時代」と言う語を使いたい場合、
面倒だけど「古墳(含む庄内)時代」とか書けばわかりやすいんだけどね。
「古墳」の場合だったら、「萩原1号古墳(定型化前)」とかか。
94 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:05:53.85
>>92 そう、畿内説信奉者も同じくらいあたま悪いね。北九州に芽生えた古代の文化
が突然畿内に移動することは無いってことくらい子供でもわかることなのに。
してないし
>>93 >残念ながら、現状では、それが大勢かとも思う
>寺澤の纏向型や萩原は「墳丘墓」と言うわけ。
大勢では古墳ではないか。
ホケノ山を墳丘墓などと言ってる人はいない。
97 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:16:50.43
後世からみて歴史が変わったように見えることはあるだろ
ある勢力が歴史書きかえちゃえばいいんだからよ
>>94 >北九州に芽生えた古代の文化
>が突然畿内に移動することは無いってことくらい子供でもわかることなのに。
突然ではなくてゆっくりならあっただろね。
福岡の巴形銅器の鋳型で作られた物が
香川から見つかったりしてるしね。
99 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:18:55.84
発掘ってのそれの真偽を確かめるためのものだからよ
>>93 土師器登場で画期をみる学者は庄内から古墳時代といい
古墳出現みる学者は箸墓以降を古墳時代というだけだよね
名称だけのことで、社会の変革がいつ始まってるかという認識に変わりはないから、庄内併行期の評価にも研究者間でブレがあるわけではない。
だから年表はたいがい誰だれでも弥生/古墳の切れ目を斜線でかく。
101 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:23:47.02
そもそも各地の名前を集めた場所があるならそこは一時的にしろ各地から
人が集まった都的なものとして造営されたってことになるの
つまり後世になるってことだな
102 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:25:32.14
逆はないから
時代気分がどうであれ、卑弥呼の時代は弥生後期というのが定説だと言い張る九州論者がトンチキであることには変わりなし
104 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:29:01.53
105 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:29:27.51
時代気分だの何を言おうがそれが事実だからな
しかり、九州説は気分だけ。根拠はない。
108 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:33:41.99
発掘もなしにいろんなこと妄想てフリーハンドで復元したりできる古墳学じたいのが子供未満
「発掘もなしにいろんなこと妄想てフリーハンドで復元したりできる古墳学」
って、九州説のアマチュアがやってるやつ?
110 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:38:40.11
纒向型前方後円墳ので
学校のまわりにでっちあげた3つのは
内部主体とかちゃんと発掘できたのかな
おろかなウソツキの九州説が「発掘もなしに」とウソをついていたと自白しました
結論
邪馬台国は弥生時代後期って「定説」を言ってる学者
はいないと確定
卑弥呼の墓の最有力が箸墓なのは認めるが、
魏志には高さが書いてないので、
大きな円形周溝墓という可能性もある。
そういう場合、埋没して分からなくなる事もあろうが、
でもまぁ卑弥呼くらいの人物なら、何かしらの形で残ってると思う。
で、古代の神社が墳墓の上にあったりする。
古代は死んだ人も神だからな。
そうすると卑弥呼の墓も今では神社になっててもおかしくないと思う。
庄内弥生時代派の人出も「後期」には含めないな、言うなら「弥生終末期」。
>>112 九州説な人の頭の中は、「古墳時代は4世紀から」がデフォだから、
人分の脳内と世間が一緒くたになってるんだろうな。
>>100 > 土師器登場で画期をみる学者
流れからいって、この“土師器”は庄内式土器を指すと思うが、
庄内式の登場に「画期をみる学者」っているのか? 誰のことだ?
布留式は、精製3器種を古墳祭祀用とみて、あるいは斉一性の広がりが政治的中心性の発現だとか、
ということだと理解しているが、庄内式はなんだ?
庄内式土器は第5様式に吉備甕のケズリ技法を採用したもので、
瀬戸内海を交易ルートにした吉備と河内の結びつきを示すんじゃないかな。
あと、阿波にも薄甕があったか。
で、その連中が東海以東の市場を目指してマキムクに拠点を構えたと。
そう考えると中山大塚の特殊器台やホケノの石囲い木槨なんかが腑に落ちる。
石野
文字がない民族の場合、紋様が重要なんだよな
技術は導入や、こっち来とか言って連れて来たりするけども
祭祀用のはふと気づくと、どーしても櫛で流水とか描いたりしてしまうんだなこれが
石野か
>>115 >庄内式はなんだ?
小形器台・小形丸底鉢の登場
庄内式での丸底化は、つまり竈の登場という新たな生活文化の登場。
ケズリによる薄型化で熱効率を向上させている点も新生活に対応している。
纏向石塚古墳が庄内期なので、庄内式の登場が「画期」でしょうに。
古墳の定型化、つまり各地の葬制を盛り込んだ統合の象徴モニュメントを作り首長継承儀礼のステージにする、というシステムが出来たことが、国家形成という点で一番の画期でしょう。
つまり「共立された女王」のような個人的カリスマに依存しない『機関』(=国家)が創られたということです。
換言すれば、血統原理による世襲制度に先立つ、古墳のマツリによる権力継承原理がこの時に出来あがった、ということです。
このへんの概念が共有されてきたから、血統主義である王朝とか律令的イメージの付きまとう朝廷とかいう語彙に代えて、ヤマトの「王権」という言葉が定着したわけです。
丸底w
また無知がwとか言ってる
125 :
ローガン:2014/05/10(土) 14:52:41.21
>>122 マツリの共有=擬制同族化政策の始まり……ですかな。
ただ倭人伝では、3世紀第2四半期で既に、一大率や大倭が存在し、また各国の人口把握がアバウトとはいえ出来ているという、
ある意味「緩やかな連合」という考え方とは整合しない行政のありようが、記録されています。
巨大古墳の誕生に、つまり3世紀後半に王権の画期を見よう とするなら、倭人伝の記事とは整合しないという反論があるかと思うのですが。
今と違ってテレビも新聞も電話もネットもない時代、
庄内期に畿内で産まれた(瀬戸内の影響があるが)古墳祭祀が、
多少のタイムラグを伴いながら布留期の時代に全国に散らばったという解釈で、
何が問題なのか分からない。
127 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:19:38.50
庄内と布留どちらに画期を置くか・・・
飛行のための助走それに含めるか?離陸した瞬間からを言うのか?
・・・みたいな話だなwww
まあこのスレ的に「邪馬台国畿内説」で言うとそういった劣等規模の動きの中に
卑弥呼の共立といった話を見るのが畿内説で
「いやいやいや倭人伝のアレはそんな大袈裟な話じゃなくて九州限定のこぢんまりした話です」
・・・ってのが九州説ってことになるんだろうが
考古学者でもそれをきちんと資料をあげて説明したのを自分は知らないw
128 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:28:14.47
>倭人伝の記事とは整合しないという
これにもチョイ関わる話なんだけど
今纏向って居館の発掘を目指してるんだっけ?
(標高の低い遺跡範囲の中央と標高の高い東側の二つが候補だが
前者が建設開発予定で破壊される恐れがあるのでそっちを優先してるとか・・・)
でもし居館が出てきたら何て報道されるんだろう?
無論公式には「○○地区(アルファベット)建物」という記号的なものになるんだろうが
報道じゃやっぱり「卑弥呼の建物が出た!」とかの文字踊るのか?
それとも「記紀にある垂仁の宮が出た」と報道されるのか?
個人的には後者で報道されて倭人伝に見る崇神と垂仁と思しき人物の
序列が逆になってるかのような記述との不整合の件の
問題提起になってくれたら面白いなとwwwww
>>126 その全国に広がった古墳に見られる装飾古墳は、畿内を除いて九州から東北地方に分布し、
その中心が熊本県である、ということや、畿内より吉備など他地域の古墳が先行している
ことも含めて、すべて権力は畿内からという理屈が、どこから出てくるのかさっぱりわからない。
「西国の大名に国替えが下命された」でも説明出来ちゃうんだけどね
熊本を中心として岩手県に及ぶ全国に装飾古墳の分布(ただし畿内には分布していない)を、
そんな説明では説明になっていないと思う。
132 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:49:05.88
畿内の古墳も前方後円形のにがらっと替わるということでもなし
次次と円墳や方墳からお宝がぞろぞろと出てきて理解に苦しむのが現場
古墳ごっこのお遊びよこめにしつつ、畿内の古墳も多様といわざるをえない
とりわけ尾根先端ピークに構築された弥生の墳墓はきのどく
むだに前方後円形のに看做したいとの希望のをベースに
むりやり古墳にされているのがぞろぞろありそうに観測される
>>129 装飾古墳が大王の墓なわけがないだろう。
したがって権力云々とは程遠い。
また九州と東北では装飾にもかなり違いがあるのではないのか。
それ、反論になってないから
九州の装飾古墳はやけにプリミティブに描いてるよな
あんな洞窟壁画九州にないのにな
136 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 22:01:55.90
>すべて権力は畿内からという理屈が、どこから出てくるのかさっぱりわからない。
権力じゃなくて権力構造の走り
古墳は征服のモニュメントでもないし
三角縁神獣鏡の分配をかっちりとした政治的ヒエラルキーに
直結させる見方する人間も今は少ないんじゃなないかな?
「装飾古墳」とか九州王朝説お得意のネタだが時代が違うし
例えとしても元々のトラックの設計とそれにペイントした「デコトラ」の比較のような話で頂けないな
ということは、邪馬台国より後の時代、権力構造が熊本に移ったっていう理解か。
それとも、日本で一番古墳の多い、兵庫県や千葉県に権力構造が移ったのかね。
理解じゃなくて無理解
140 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 22:14:37.31
>むだに前方後円形のに看做したいとの希望のをベースに
逆に言えば萩原や加古川西条52号等々を単純に「弥生墳丘墓」というのも無理があるだろうって話だが
そもそも「定型化した大型古墳」というのであれば
「定型化されてない中小の古墳」があったといいう話なのだから
呼称をなんとするかは別にしてもその辺きちんと区別しておかないと
弥生墳墓のあとに全長200mを超え300mに届かんとする箸墓が突然現れたなんて馬鹿げた話になりかねない
纏向に定型化されてない100m級の古墳がいくつもあって、それで自然な展開になっているわけで、それを弥生墳丘墓だと厳密に呼称している人はむしろ少数。多くは曖昧な言い回しをする人々ののようだ。
畿内を頂点とする権力構造が、熊本を頂点とする権力構造に移転してのはどういうこと?
「熊本を頂点とする権力構造」ってなにゃそれ?
細川が総理とか?
144 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 23:38:41.26
じゃ、ふなっしーで千葉の覇権が?
146 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 01:14:53.30
ひこにゃんで近江説が天下平定
せんとくんで・・・沈没
>>140 >>132はそういう意味で言っているんではない
墳丘測量図や発掘成果の確認もせずに「前方後円墳がねつ造されてる」と主張してる
日本語も不自由なようだし、キチ認定まったなし
証拠もなしに
「墳丘測量図や発掘成果の確認もせずに
『前方後円墳がねつ造されてる』」
だなんて言いふらせば
そりゃキチ認定ですわな
銅を含まない鉄の緑色顔料(緑土:海緑石またはセラドナイトを主要な鉱物成分とする青緑色の顔料)の使用の最古例は
青谷上寺地遺跡出土の木製盾2点で弥生時代後期(1〜3世紀)、東アジアにおける緑色顔料使用の最古例
青谷上寺地遺跡の盾も、九州の装飾古墳も使用されている緑色顔料はセラドナイト
わが国のセラドナイトの主な産出地は島根県隠岐郡隠岐の島町浜那久、石川県珠洲郡能都町恋路、神奈川県厚木市七沢など
磐井の乱の前後に山陰、北陸、関東で産する顔料を持った豪族が九州に来てるんだな
素直に考えれば鎮圧に来た物部の眷属かな
>>149 同一キチの書き込み
24 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:10:23.09
土器偏年と墳墓の編年と木に竹を接ぐ技法じたいのがまぬけ
土師器系の弥生式土器から土師器を選り分けて捻出
土師器をもっとも後進の地のローカル編年のとして庄内布留にわけてちまちま
もっとも後進の地のローカル編年のは全国的な尺にはなりにくい
ちまちまやらかしている背景で二重口デザインのが全国的に流行して
そいつが成長して円筒形とかのおもちゃに化けるというところを見えないように隠蔽するという結果
110 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:38:40.11
纒向型前方後円墳ので
学校のまわりにでっちあげた3つのは
内部主体とかちゃんと発掘できたのかな
基地の書き込みの典型だな
椿井大塚山や和泉黄金冢が前方後円墳じゃないなんて
あきらかに頭のおかしい人ですね。
156 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 03:44:52.05
>明治三十八年(一九○五)に岩井武俊という人がはじめてこの古墳を学界に紹介したときも「円墳」としています。
>明治一七年(一八八四)、「椿井村村誌」の陵墓の項には次のように書かれました。
その文、どこにも「円墳」と書かれてないけど。
病気の人には、存在しないものが見えちゃってる?
>>156 リンク先は言葉足らずだけど、その構成からを論旨をくみ取ると
・「仏法最初高麗大寺図」(絵図)
→円墳状に描かれる
・「椿井村村誌」:高五間(約9.1M) 、周囲一町(99.17アール)許(ばかり)。
→「周囲1町」(この場合、面積でなく長さと思われるけど)から前方後円墳との認識ではない
・岩井武俊
→「円墳」(文章を引用していないだけ)
・昭和28年3月、国鉄の工事により遺物出土
→周辺の測量調査により、前方後円墳と判明
ということだと思うぞ
リンク先の文章はべつにおかしくない。
引用した人間の文章能力が劣悪というか
頭がおかしいだけ
わざと時系列を原文と逆にした歪曲引用してサギったんじゃなくて、ただのおつむ足りないキティちゃんってこと?
長寿だよな
161 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 12:14:15.14
162 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 12:32:53.04
今後前方後円墳とされてたものが調査の結果
弥生墳墓にされたりその逆があったりとしても
それは修正していけばいいだけの話で
このスレ的にはそれで邪馬台国畿内説がどうにかなるわけじゃなし・・・
多分九州説のような連中にすればそういうのを拾って
溜飲を降すネタにしたいって話なんだろうなw
さらに「東遷説」のような機知害連中にとっては
古墳文化は文字通り
「(神武東遷により)ある日突然現れた」
という話にしたっくて定型化古墳の出現につながる
その前段階の資料が出てくるのは面白く無いというのが本音だろうとw
まあいくら相手のミスをあげつらっても
それで九州説とかが息を吹き返すことはありえないからwww
ある意味、吉野ヶ里が九州説を滅ぼしたようなところが、ありますな。
あれ以来、九州説は新しい知識を取り入れることをやめてしまった。
科学の世界から脱落したんです。
164 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 13:41:33.58
>>162 >>163 なんでそんなに九州説を気にしているの?。そんなに畿内説に自信が無いの?。
畿内説が正しい旨、立証して、九州説者に突きつければ良いことでしょう。
もう一度聞くよ。畿内説にそんなに自信が無いの?。
いくら突きつけても中傷しか返ってこないからなぁ
>>164 自信とかに関係なく、よその説は一応みんな気にかけてあげますよ
167 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:05:03.39
>>164 「自信」とか「信じる/信じない」とかの語彙が好きだなここの九州説の連中w
「科学とは反証可能な仮説に過ぎない」とか言う台詞があるが
(まあ古代史を自然科学に当てはめていいかだが)
その意味で「自信がある/ない」なんかは意味が無い
むしろ自信満々で「これで完璧」とか思ったらもうそこからの進展はなくなる
ここのゴミ九州説は殆どそんな奴ばかり
自説の弱点とか客観的に見ようなんて奴はいない
なんで九州説が今の状態なのかを冷静に捉えてる奴はいない
自信満々の完全完璧の自説が世に認められてないのは
認めない世間のほうが間違ってる
それは「悪のキナイセツ」が学会を支配してるからだというような
キチガイ陰謀論に縋るしかなくなるとw
168 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:21:06.75
169 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:23:19.52
>>167 へえー、「悪のキナイセツ」が学会を支配しているのか。へぇー。
九州説の場合、卑弥呼をアマテラスにするしかないよね。
まぁ無名の女性を卑弥呼にしても仕方ないし。
でもアマテラスを卑弥呼にするのは無理だって。
応神元年390年は文献史でも、須恵器の編年などの考古学でも確実になってきてる。
そこから平均在位11年の計算から、崇神没は古事記の干支から318年。
崇神から皇位9代遡って神武で、そこから親子4代遡ってアマテラスだから、
とても3世紀中頃に亡くなった人物ではない。
171 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:32:23.10
>>167 畿内説は反証を封じ込める仮説だから。
どうして反証をさせないかというと、自信がないから。
どんな反証にも耐える畿内説になって欲しいものだ。
だという根拠は?
173 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:43:50.64
どうでもいいが易関係はどうなってる?
アメリカだか日本だか知らないが地震関係で地方を
狙った理由は?
174 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:44:33.14
大和のは3世紀後半に熟したアドバンスド弥生が持ち込まれて花盛りでいいのでわ
176 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:55:04.96
大和のは3世紀半ばに
はんこめぐまれた印惠さんが
御眞木入日子して知初國ので
3世紀後半からのが邪馬台国ならそれはそれでよし。
海峡域筑紫肥前のあたりのの邪馬壱国のは
陳寿が書いてあるのでそれはそれでよし。
>海峡域筑紫肥前のあたりのの邪馬壱国のは
そんなものは無いがな
178 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:08:09.09
往生際が悪しいな
平原女王墓と大和天神山から姉妹鏡が大量に出ている時点で投了しておるわね
179 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:10:04.66
>>171 >畿内説は反証を封じ込める仮説だから。
反証ねえ・・・
まあ畿内説側から出された個々のものに関しての反証ならともかく
大本の
「いや倭人伝の言う邪馬台国は九州にあった」
という証明材料が無いのが
今の九州説の惨状(と言うか既に過去の遺物だがw)
>どんな反証にも耐える畿内説になって欲しいものだ
だからその「反証」が畿内説と言うか
今の考古学から出てくる個々の説明に対してもの物を言うのなら
そりゃ出されたものが全て正しいものでない限り
時に修正されるのは当たり前
全ての反証に耐えられる完璧なものなんかありはしない
逆に九州説は反証すらできない実態のない仮説未満
そりゃその根拠が「すなお読み」だけなら否定のしようがない
もう少しマシなのを持ってくれば「偽僭説」に類するようなものも同じ
「そういうことはなかった」という悪魔の証明でもできない限り
180 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:12:03.36
つかいいように利用されてるなあ
181 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:20:16.09
>>170 >九州説の場合、卑弥呼をアマテラスにするしかないよね。
まあ九州説にかぎらず
「アマテラス=太陽神=鏡」
のようなイメージに無意識のうちにでも固執してしまってる人間は結構いると思う
無論今に伝わる記紀の中において「アマテラス=太陽神」は間違いないんだろうが
じゃあ最初から「アマテラス=太陽神」だったのか?
もっと言えば太陽神に使える巫女がいつの間にか太陽神自身と習合し
その姿がアマテラスという可能性を考えたほうがいいと思う
(その習合は7・8世紀かもしれない)
「鏡=太陽のシンボル」というのも多分に三種の神器のイメージから来てるもんだろう
そもそも銅鏡に太陽神を彷彿させるモチーフがあるのか?
(ずっと後代神仏習合の時代なら大日如来に関する何かがあるかもしれんがw)
鏡の大量副葬なら棺の中に太陽が一体いくつあるんだ?とw
破鏡にいたっては
「おいおい太陽って分割できるものなのか?
って話になりかねないw
182 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:33:43.39
仮に「科学とは反証可能な仮説に過ぎない」というのを
邪馬台国をめぐる古代史に当てはめられるものとすれば
常に仮説が漸進してる畿内説はまだ学問の体をなしてると言えようが
(例えば三角縁神獣鏡に関する解釈も昔とは大きく変わった)
じゃあ方や九州説はどうだ?
吉野ケ里ブーム終焉以後
九州説の中で仮説がぶつかり合い有力仮説の交代のようなものがあったか?
恐らく何も進展していない
(あるというのなら具体的事例出してくれ)
30年以上も何の進展もないものが果たして学問といえるシロモノなのか?って話だなwww
183 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:53:07.17
ブームだろ
そんなものは一過性
災害記録はちゃんと残ってるから心配するな
185 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:57:00.39
つか「投了」って、誰が「投了」したの?
言葉の意味、しらないんじゃね?
187 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 17:07:35.73
ここは基地の巣窟だな
188 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 17:09:51.61
ぶさよの典型だな
>>187 おいしい料理なので基地バエが寄ってくるのです。
190 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 17:30:31.79
どんどん露見してますし
九州説が詐欺まみれだ!!ってことが?
193 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:34:06.94
>>181 >>182 何度でも言うよ。ここは畿内説板だから九州説など無視して、畿内説の証明に
畿内説ファンこぞってまい進すればよいことだよ。時々チャチを入れる九州説
者がいるようだが、気にすることは無い。それとも畿内説というのは九州説が
無ければ、みずから光り輝くことはできない、情けないものなのかい?
194 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:35:28.27
露見してるのは邪馬一国
195 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 20:38:13.31
てす
>>193 じゃ、九州説批判は九州スレに行くから
「畿内厨は巣に引っ込んで出てくるなよ」
なんて絶対に言うなよ、情けないダブスタ九州説くん!
>時々チャチを入れる九州説者がいるようだが
と、下手な他人のフリ演技に百万人がしらけた
198 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 23:18:26.28
>>193 >それとも畿内説というのは九州説が無ければ、
>みずから光り輝くことはできない、情けないものなのかい?
正直言えば「論争」としては適当な敵役がいないと盛り上がらないw
九州説が雲散霧消今論争なんて無いのが現状…
巷の九州説って言っても実態は「アンチ畿内説」だからな
元がグニャグニャなのにアンチもないだろが
200 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 23:40:53.48
ドブから出た遺物を根拠にして年代推定とかやらかしているいるまぬけさんは
もうさ同業者からもあきられちゃっているしね。
また例のキチ
202 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 00:03:27.75
>例のキチ
昔イサクという馬鹿にくっついてた馬鹿がこんな芸風だったような…
九州説が生き残るには、マキムクと無関係な王権を証明しなければいけない。
例えば、平原王墓の内行花文鏡をどう考えるか?だ。
福永が言っているが、弥生終末期、畿内王権は、鏡の大きさの規制を始めているらしい。
その秩序から明らかにはみ出した超巨大鏡は、畿内に対する反抗と考えられる。
しかし、ヒラバル以降、ヒラバルを受け継いだ王墓が筑紫に続かないことが痛い。
那珂八幡なんかは前方後円墳で、三角縁を下賜されているしな。
紀で言えば、崇神以降の大王が三輪山麓に宮を営む。
これが考古学でいうマキムク王権(その系統)なのは異論がないだろう。
崇神で吉備・東海・越・丹波の四道を制し、出雲も征伐する。
崇神の二代後、景行が漸く九州に遠征する。
つまり、マキムク王権には当初、九州を領域に含めていなかったと、
少なくとも紀が編纂された八世紀には考えられていた。
キーワード“蝦夷”で書記を読み返してみな
書記の時系列がメチャクチャになってることがわかる
景行紀の西征(九州征伐)に登場する神夏磯媛は、榊に三種の神器をぶら下げて、
景行に降伏してくる。彼女を邪馬台国の系譜と見ることは出来ないだろうか?
古くから邪馬台国の候補地とされる筑後国山門郡。
神夏磯媛の後裔の田油津媛は、神功皇后に討伐される。
ここで筑紫は畿内王権に完全に取り込まれたと。
>ドブから出た遺物を根拠にして年代推定とかやらかしているいるまぬけさんは
濠に溜まった泥の中から見つかった鐙で
箸墓の年代を引き下げようとして失笑を買ってる
安物さんのことかな?
208 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 08:00:22.35
>>196 >>197 >>198 畿内説板は畿内説の研究を発表する場。九州説板は九州説の研究を発表する場。
どうしても二者の論争をしたいのなら「畿内説×九州説」という板を新設して、
そちらでやればいいことだろう。他説の邪魔をしようとするア○ウは邪馬台国
の研究の資格が無い者だ。研究者にあらず。
よっぽど批判が怖いんだな・・・
逃げ腰な九州説
211 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 08:50:41.76
子供みたいに言い返したって、現実に逃げ出したのは
>>208だからな
213 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 10:01:35.72
>>203 悪魔の証明か
証明すべきは邪馬台国畿内説がマキムクとヤマト王権の関係だな
狼狽のあまりか、日本語になってないよw
215 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 10:43:09.93
>>208 もしもし?ここ畿内説のスレなんですが・・・
さあお爺ちゃんおうちに戻りましょうね
九州説スレでは九州説を批判するな!!と、珍妙で身勝手な自己保身を主張していたお爺ちゃんがねえ。
こんどは畿内説スレにやってきて、九州説を批判してくれるなとさ。
老い先短い老人の生きがいを潰さんでくれとでも哀願してるんだろうさ。
インチキ説が世間からの批判を免れれるわけもないのにね。
なんだ、畿内説論者って詐欺師だね
218 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 17:08:16.17
>>213 悪魔の証?何言ってるんだ?
先ず「マキムクとヤマト王権」なんて説明要らんだろうに
伝わる垂仁の宮の位置がその遺跡範囲内にあり崇神の宮もすぐ近く
加えて定型化する大型古墳の前段階の古墳がおる
・・・これをヤマト王権に重ねるなという方が無理
(この板の頭おかしいゴクズミ九州説は別にして)
無論順当に見れば北部九州まで影響を及ぼしてるその勢力が
魏と関係を結んだだろうというのが畿内説
無論必ずしもその(邪馬台国=最大勢力)保証はないがじゃあ九州の一勢力が
その役割を行ったというのなら証明の義務を負うのは九州説だ
畿内説が
「そんなことはなかった (順当に後のヤマト王権に繋がる勢力だった)」
と証明するのはそれこそ「悪魔の証明」
九州説がいくら畿内説にイチャモンつけても
それで九州説が浮かび上がってくることはない
永遠に死に体
219 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 17:28:23.33
>>213 >>203・・・の指摘
>しかし、ヒラバル以降、ヒラバルを受け継いだ王墓が筑紫に続かないことが痛い。
これに答えられるのか?
九州説がいくら弥生を通しての隆盛を誇ろうと
平原以後の後衛勢力が見つからないの九州説の致命傷
まして後裔を玄界灘周辺地域以外に持って行けるような材料がない
少なくとも自分は聞いたこともない
(ここで倭人伝持ってくるような循環論法上等の馬鹿は問題外)
ちなみに柳田による弥生王墓の条件として
(1)他の集団墓から独立し一定規模の墳丘を持つ特定個人墓
(2)隔絶した内容の副葬品を持ちなかんずく超大型鏡・大型鏡を含む多数の鏡群をもつこと
(3)王墓とされる背景としてその地域に王が存在する証明があること
…の3点を上げてる(「伊都国を掘る」より)
また立岩堀田・吉武高木は特定集団墓の一員として埋葬されてるので王墓から外すとのこと
後この条件に照らし合わせるなら「吉野ケ里」の弥生中期の北墳丘墓も
甕棺が14基以上埋葬されてるというから伊都国に見られた「王墓」からは外れるだろうか
220 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:12:02.30
弥生期の特定個人墓ってのが、弥生期の北部九州にそぐわないような気がするな。
古墳時代のイメージをむりやり弥生期に持って行っても意味なかろうし。
吉野ヶ里だって、せいぜい二郡程度の王だし、糸島だってそんなもの。
吉武高木だって室見川流域くらいのもんだろ。
その程度の王の親族墓であることは、特に矛盾するものでもない。
北部九州の墓制ってのは、統一感がなくそれぞれの地域で
割とマイペースで、よそから支配された痕跡は特にない。
そりゃ、同時代のご近所さん同士だから、部分的には似ているところもあるけどな。
221 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:28:30.71
銀印青綬を假されて率善中郎將になった
大夫伊聲耆掖邪狗(おぉふぅ・いさち・わきやこぅ)さん
即、男弟王で伊久米伊理毘古伊佐知(いさち)
即、垂仁は難升米さんのこと追放した一味だからして
僻地の湖畔とかに居つくわきゃないよね
テーマパークもどきで一括命名した地名にだまされて
ほんと疑いを知らないってゆうか いいひとだなあ。。。
平原は、やはり後の東漢氏の一派だろう
223 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:51:39.68
平原の女王のは方格規矩鏡かなり広範囲に配分しておるよ。
政治的配分と元締商人とは違う
225 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:58:41.60
配分しておるのは
商方でないよ
尚方の製造所署名入りの鏡だよ
226 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:03:17.01
糸島の墳墓からは方格規矩四神鏡と内行花文鏡が大量に出てくるが、
方格規矩四神鏡が絹の袋に包まれて、畿内の二ヶ所から出ているという話だな。
しかも、古墳形式はいわゆる完全な前方後円墳ではなく、バチ型、手鏡型の特殊な古墳だ。
あまり、畿内の風習には慣れてなかったのかもな。
その程度の移住はあっても問題なかろう。
神武東征譚でも、そう大人数の記述とも思えないし、
一度は地元の豪族に倒される始末。
その先住豪族を倒して、新たな土地を手に入れたとかそんなもんだろ。
舶載品だけもってりゃ民衆が指示するなんてことはない
九州で勢力持つのは本家が臣を賜ってからだろう
228 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:13:41.54
どおせ畿内説騙るなら
破鏡で朱まみれで5枚尚方作方格規矩四神鏡が出ている
大和天神山のが卑弥呼墓だって断言しちゃえばいいのにさ
畿内の墓は調査できないから別の角度から考察するしかない
230 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:17:55.97
>>220 >吉野ヶ里だって、せいぜい二郡程度の王だし、糸島だってそんなもの。
>吉武高木だって室見川流域くらいのもんだろ。
何で九州に九州伊東に巻き起こった埋葬文化・儀礼を共通のものとして形成された
「ローカル首長連合」みたいなのができなかったんだろう?
これも自分が古代日本に持つ根本的疑問の一つ
まあ吉備とか阿讃近畿なら舶載品を入手する通商ネットワークが形成され
大陸半島に近い九州にはその必要がなかった
・・・って解釈もできようが
単独で半島に行って文物持ち帰ることのできる山陰が四隅出現させちゃってるんで
その理屈も通らないとw
個々の九州説の連中てこういう根本的なことを見ずに
必死に古墳文化との共通性を拾い上げて
「九州版ウリナラ起源説」強弁するアホばかり
よほど畿内ヤマトに憧れてるのかコンプレックスもってるのかw
ひらばるのは倭国大乱で本国への輸送経路が寸断されて不良在庫が貯まったタイミングで死んでしまったってだけだろ
232 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:21:52.59
>>231 超大型鏡は原料の銅が余っちゃったからとか?wwwwwwww
あるいは援軍が期待できない籠城戦で敵に渡すくらいなら破砕してしまえと
前時代に土器を破砕して一緒に埋葬する習慣が一部にあるからな
236 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:36:41.67
そういえば、大量の丹をぶち込んだ古墳もあったが、
あれは明らかに余ったんだろうな。
いま余ったとしても将来売れる可能性があるなら、
王様の意向としても、最小限の使用に留めるだろうし。
将来的に売れる見込みもなかったんだろうかねえ?
まあ、ものすごくわがままだっただけかもしれんが。
魏志倭人伝によれば「邪馬台国には古墳文化などない」というのが真相。
倭人伝の中には最低二つ以上の倭国があるんだよなぁ
入れ墨文化と化粧文化
土下座文化と拍手文化
一つの倭国の中にあるんだろう
240 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:51:48.80
そう言えば昔から疑問だんだが・・・
柏手うって縮こまるってやつ
今の神社の作法に繋がる一種「服従儀礼」なのかもしれんが
あれって日本独自なのか?
倭人伝のあそこらは東南アジアの他の地域との混同共通が大昔から指摘されてるが
イーの「縮み志向の日本人」とかに出てきてもよさげなエピソードwww
241 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 19:54:44.50
きまえ良く配分してしもたら自分のところに残ったのが少なかったでござるよ
柏手は台湾原住民もやるな
服従っていうか相撲でもやるよな
で、畿内説の中でも狗奴国がどこにあったかは意見が別れると思うが?
鏡種が一緒なら同じ鏡だと思ってるバカがいるな
鏡の写真すらみたことないのだろう
と、思ったら昨夜から話題のキチじゃないか
さもありなんw
245 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 21:56:13.25
自爆君、きみは鏡の写真みてもいないんだろ 浅いな
ん、今は出先だけど自宅には大和天神山古墳の報告書の鏡の部分をコピーしたものを持ってるけど?
深い君は何か持っているのかい?
247 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:15:17.66
248 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:39:40.42
よく集めてるじゃないかw
これみりゃ鏡種が同じでも、全く同じ鏡はないことは分かるはずだがな
内行花文鏡と方格規矩鏡がいつからある鏡種なのか、
尚方がどのような機関なのかよく考えることだな
あと柳本大塚は前方後円墳とされてるぞ
方墳が削られて現状のようになったものではない
>>247 柳本天神山古墳の方格規矩四神鏡。
この鏡の来歴をどう考えるか。
「平原1号墓の漢鏡にほぼ並行する後1世紀中ごろの鏡群である。
前後の漢鏡4期や漢鏡6期の鏡をふくまない、この10面の型式的なまとまりからみて、
各地からよせあつめたものではなく、まとまった状態でもたらされ、
そのまま伝世した可能性が高い。(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』)」
251 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:46:39.02
>>250 >この鏡の来歴をどう考えるか。
普通に伝世鏡の集積だな
古い要素と新しい要素が認められる場合は新しい要素が基準となる
大和天神山の場合は、人物鳥獣文鏡と前方部から出土している布留1の壺
253 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:02:34.76
岡村秀典は富岡謙蔵継承した梅原末治の持論の死に際の修正無視しているまぬけだからな
254 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:05:22.81
>>252 >大和天神山の場合は、人物鳥獣文鏡と前方部から出土している布留1の壺
それは古墳の年代をその副葬品の中から一番新しいもので測るって話で
それで鏡の年代を決めるって話じゃないよな?
255 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:05:42.32
晩年の梅原は贋作を見抜けないほど耄碌していたと聞くぞ
256 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:10:04.34
大和天神山の場合は楽浪鏡の同行式の画文帯神獣鏡が無いから3世紀でもへんではないよ
257 :
252:2014/05/12(月) 23:12:19.82
おっと、よく読み返したら明後日の方向の返事になってるな
>>250 >この鏡の来歴をどう考えるか。
普通に伝世鏡だな
大和天神山古墳の鏡には伝世鏡と考えられる古い様相のものがあるが
その一方で人物鳥獣文鏡をはじめとする新しい様相のものがある
ひとつの古墳で古い要素と新しい要素が認められる場合は新しい要素が基準となる
大和天神山の場合は、新しい鏡群のほか前方部から出土している布留1の壺もあってそちらが基準となる
古い様相の鏡群がそのまま古墳の被葬者や時期を表すものではない
と訂正
258 :
252:2014/05/12(月) 23:15:47.74
>>254 訂正中にカキコが・・・
おっしゃるとおり
しかし、時代観が近いからというだけで古い鏡群をそのまま卑弥呼に結びつけるのは飛躍がありすぎ
晩年の梅原はみなから老害扱いされて可哀想のようでもあったが
相当実害があったようだ。
260 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:20:07.14
「夔鳳鏡は二世紀後半期以降」
「須玖岡本の王墓の実年代は三世紀前半以降」といってるらしいけど
鉄製の刃物の出土を聞かない須玖岡本の王墓のは3世紀のあたまで
須玖岡本の王さんは鉄製ので武装した越系倭人にがっつしやられて
難升米さんのが海峡域を征するまさに越系倭人の大酋長とみてあげると
理解しやすいかもしれない
261 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:22:06.39
晩年の梅原については雄山閣の『考古学京都学派』が詳しい
須玖岡本の夔鳳鏡だけD地点の大石の下じゃないんだろ
263 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:39:21.09
同一の埋葬施設に画文帯神獣鏡が四枚というのもめずらしい
画文帯神獣鏡は一つの埋葬施設に一枚のケースが多々
外形もそう大きくないので、これのは鏡を使用した祭祀用のではないようにおもわれ
浮き彫り系のが混在していても華人のところに無いわけでもなし理由にならんし
3世紀半ばの埋葬施設だとすると前方後円墳だと思い込んでしまう方がまぬけさん
看做し前方後円墳の前方部から二重口縁壺が出ても主体部の年代とは直接関係とか無し
264 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:44:07.58
さほど遅延無しで持ち込まれてきたとしたら須玖岡本のは2世紀末くらいのでよいかな
おれの感触からしたらそのあたり
古物商から買ったものでしょ?
>>257 > 普通に伝世鏡だな
では伝世鏡。
製作年代は後漢中期(1世紀第4四半期頃)とみると、
『後漢書』東夷伝の「安帝永初元年,倭国王帥升等」記事にみえる通交によるもの、
の可能性もあるな。
267 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 00:05:54.92
高品位の鏡たちが高い頻度で破鏡にされている点は見逃し難い。
さらに
被葬者が不在であるという点も見逃し難い。
割れてしまってるものは中国内とか楽浪ルートじゃ安く買えるだろうな
鉄も破損品が半島から入ってきてるからな
深刻な鏡不足に陥った2世紀末の北部九州では、海外からスクラップ買い集めてペンダントにしてたくらいだから
271 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 00:32:57.37
>>260とか
>>263とか読むと基地であることが明か
ここまでの書き込みと提示したリンク先の記載をまとめると、
こいつは、自説の鏡の年代をそのまま埋葬施設の年代とし、
その埋葬施設が前方後円墳や前方後方墳のものだと自分の年代観と合わなくなるので
前方後円墳や前方後方墳をねつ造だと主張
ということになる
272 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 00:34:43.22
大雑把に言えば九州で
方格規矩四神鏡のピークが1世紀
内行花文鏡のピークが2世紀
3世紀は弥生イ方製鏡
・・・だっけ?
273 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 01:15:56.79
埋葬主体に集中して騙れということ
何の確証も無い墳形など無意味
てきとうに妄想して復元するなや とくに尾根先端墓
妄想してでっち上げた墳サイズ比較するとかのは幼稚園児
今はSIR-3000とか使ってんじゃない
275 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 01:38:28.68
>>273 確証があるかないか確認せずに妄想してでっち上げてるのはどっちだよw
>>273 【翻訳】
埋葬主体部に副葬品の体系にもっと注目して下さい
そこには九州の魂が息づいてるとです!
・・・かな?
まあ無論無視できない要素ではあるがその巨大さや
形を広い地域で共有するというのが古墳文化のキモだからねえ・・・
ある学者は副葬品に「精神性」という言葉を使ってたが
ならば外から見える形や大きさそこに施された装飾(器台・葺石等)は
「政治性」だなwwww
違う違う
奴の主張を集約すると
「俺様年代観を信じろ」
「俺様年代観と合わない説は捏造だ」
だぞ
プラス
「俺様年代観に反する証拠はみな詐欺だ」
279 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 09:32:16.77
九州説の大先生自体が大半詐欺師みたいなモノだよな。
便所紙使って捏造に地名詐欺とかさw
それを信用してる連中なんてリアル池沼レベルだよ。
纏向遺跡・古墳群には筑備讃播の要素があるわけだが、
つまり瀬戸内に拠点を持っていた海洋民の文化であろうから、
宗像、安曇、後の物部などが大きく関わっていると見てよいだろう。
どうせ文字史料は魏志倭人伝だけだから
金印が出ないかぎりは100%確定にはならん。
だから九州説の強弁もかろうじて通る。
金印が出ないことをいちばん望んでいるのは
邪馬台国で村おこしをやってる連中でしょ。
282 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:46:10.87
関西の古代史研究家は畿内説を強調する傾向にある。
私は邪馬台国の場所など、
どっちでもいいと思っているから北九州説だ。
中国の歴史書の端っこにしか出てこない
邪馬台国など地方酋長のようなもの。
畿内にはそれと関係なく大和朝廷があったのだ。
記紀より魏志倭人伝を信じるのは
ある意味自虐史観だ。
283 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 22:40:15.03
まあ万年ループネタもアレなんで・・・
こうやって古墳の内部(埋葬主体部の構造とか銅鏡をはじめとした副葬品等々)
あるいは古墳の外側(形・規模あるいは葺石や器台等々)
・・・は注目されそこから纏向を誕生あるいは発展せしめた勢力を考えるってのはよく目にするんだけど
纏向を纏向たらしめてる重要なファクターの一つに「土木技術」ってのがあると思うんだけど
それについてのルーツは有力な説ってあるのかな?
自分はそれは九州でも瀬戸内でも東日本でもなく山陰北陸の
日本海側のようなイメージ(本当にイメージw)もってるんだが・・・
径百余歩の大塚って時点で完全に古墳だし、弥生墳丘墓じゃ無理があるわな。
>>283 朝鮮半島とか東アジアで巨大なマウンドを造るムーブメントが、
神仙思想とかと一緒に日本にもたらされたんだろう。
古墳文化の最初とされる出雲の西谷や吉備の楯築は大陸からの影響が強いように思う。
それは日本海を通じて日本列島にやって来た文化・宗教で、
恐らくは筑紫を経由していない。
出雲→吉備ときて、その後、東瀬戸内の阿波讃岐播磨に波及。
その後、マキムクで花開くという流れ。
すくなくとも土木で巨大な正円を作る技術は、中国由来とする見方が強い。
ベニバナやバジルの花粉発見でも判るとおり
中国との通交開始に起因する飛躍的発展が特徴であろう。
纏向の土木技術は八尾市あたりに居住した渡来人じゃないかな
大和川水運の確保と纏向の軟弱地盤の利用
287 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 00:19:16.60
>>282みたいな倭国の規模を過小評価する人間は
ろくに漢文よめてないやつに多い
288 :
283:2014/05/14(水) 00:31:53.55
やっぱ土木技術は半島・大陸由来か・・・
まあそれが先ず日本海側にもたらされて纏向にも来た流れなのかな?
纏向の大溝の護岸に使われてる技術で杭の側面に穴開けてそこ板を通すってのは
現代からすりゃどうってこと無いが当時としては地味に結構な技術ッて聞いたことがあるが・・・
ちなみに自分が纏向のその土木工事に勝手にイメージ重ねてる日本海側の遺構って「青谷上寺地」に見る「矢板列」みたいなのw
参考)【 青谷上寺地遺跡 】
http://abe-sin.sakura.ne.jp/kesiki/tottori/aoyakamiziti-1.htm あと出雲神話(記紀の方じゃなくて本家の方)に見る「国引き神話」も干拓工事等の土木工事で耕地を得るような話に見えなくもないとwwwwww
纏向の場合、なんというか個々の技術というより発想が大陸的なんだよな
大溝による水路、同一方向軸をもった建造物とか・・・
画文や三角鏡の図像の嗜好なんかも
それに前方後円墳に見る各地区の葬制の習合
どうしても首長連合に渡来人が混じった姿を想像してしまう
とは言えその渡来人が(それこそ王のような立場で)纏向を仕切る立場
ひいては首長連合の中においてかなり中心的な立場にあれば
「女王共立って発想はないわー」・・・かな?wwwwwwww
おそらく渡来人は頭の中にある技術だけだったろう
ロビンソン・クルーソみたいなもん
日本人にしろ、日本神話、日本語にしろ、
北方系と南方系の混合ってのが有力になってるからな。
南方系=母系が基層にあって、北方系=父系が上層に乗っかった
というのが有力らしい。
これってまさに、縄文から弥生への転換のことだろう。
神話的メタファーで言えばスサノオVSアマテラス、山幸VS海幸。
ただまあ、南方への揺り戻しは複数回あって、
八世紀には女性神を皇祖神にする結論となった。
ただまあ、住居様式を見ると、
縄文がむしろ北方系で、弥生が南方系らしいがな。
前方後円墳に見る各地区の葬制の習合は
やっぱり共立の形跡だよな
都出氏の本を読むと、大規模前方後円墳以前に様々な形式の墓が各地に作られている
ことが出てくるね。よく出てくる吉備・出雲はもちろん、丹後、尾張、関東も。
纏向周辺の古墳って、結構多様なんだよな。
西山古墳は前方後方墳だし、櫛山古墳は双方中円墳だし。
まあ、あの一帯の古墳を見ると国家揺籃期というか、各地の有力者が集まり
国としてまとまり始めた時代ってのを実感できる。
女王を「共立」してこの地域に首都を作り、各地から集まってきた有力者たちの墓域。
さらに、1700年も前の墓が今も多く残っていることに驚く。
>>293 >南方系=母系が基層にあって、北方系=父系が上層に乗っかった
というのが有力らしい。
分子生物学的には逆なんだけどね。
女系のミトコンドリアでは北方系との類似が多く、
男系のY-DNAでは南方系が多い。
単純に弥生人が縄文人を征服したとかではなく、
縄文人の集落の隣に弥生人が新たに集落を作り、
争わず物々交換とか交流があり、数百年かけてゆっくり融合していった。
だと思うが。
神話とか見ても、別に北方系>南方系でもないし。逆でもない。
299 :
ローガン:2014/05/14(水) 16:01:08.46
>>283 それなら、東国との接点を近江辺りとするんじゃない?
奈良盆地南東部なんだから、瀬戸内に主体を求めるべきでしょうなあ。
卑弥呼の生前の宮殿は北部九州→墓は箸墓で、すべて解決!
301 :
283:2014/05/14(水) 16:44:52.90
>>299 老眼翁
地政学的視点かな?www
でもこの場合あくまで「技術のルーツ」で
それこそ纏向をあの位置に興した勢力とかいう話とは別ってことでw
wikipedia 土師器
「土師器の技法は弥生式土器の延長線上にあり、どの形式から土師器かを土器自体から決定することは難しい。
当初は古墳に伴うという時代的特徴が手がかりとなったが、現在では、全国的斉一性が重視されている。
縄文土器、弥生土器は地域色が強かったのに対し、
土師器では、厳密に言えば地方色もあるが、同じような意匠・技法による土器が本州から九州までの規模で分布する。
これは、前代と一線を画すような文化交流の増大を意味し、その裏に政治的統一の進展を見る説が有力である。」
(以上 Wiki)
土師器とはもともと、布留遺跡で検出された土器を古墳祭祀に用いられるものとみて、
古墳時代の土器だから弥生式土器と区別する意味で名付けられたもの、という理解だが。
その後、5様式と布留式の間をうめるものとして庄内式が設定されたのであって。
したがって、古墳時代の土器という本来的な意味からいえば、
庄内式土器を土師器といえるかどうかは古墳時代がどこからになるかと同様の問題だろう。
303 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 16:47:37.30
馬鹿がうろたえるうろたえるw
304 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 16:49:11.88
自分らの求める都合のいい情報がでてきたかい?
大和天神山古墳の方格規矩四神鏡・内行花文鏡は伝世鏡。
後漢中期の頃に畿内から大陸までの交流が認められることから、
「倭人伝」に記載されている
「旧百余国、今使訳通ずるところ三十国」の範囲は、
九州、四国、本州にまたがる西日本一帯である可能性が高い。
この鏡群が『後漢書』に記載された帥升等の通交を反映しているなら、
「其の国、本亦男子をもって王と為す。往すること七八十年。
倭国乱れ相攻伐すること暦年。乃ち共に一女子を立てて王となす。」
という経緯は、西日本を範囲とする倭国の事情であるといえるだろう。
306 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 17:32:17.97
>>302 >当初は古墳に伴うという時代的特徴が手がかりとなったが、現在では、全国的斉一性が重視されている。
その辺Wikiの説明には少し違和感のようなものを覚えるな
当初古墳時代の土器を総称して「土師器」と呼んでたが
弥生時との区別をつけるために「斉一性」が着目された
つまり・・・
土師器の「斉一性」が着目されてる・・・んじゃなくて
元々「斉一性」を持つものを土師器と定義したが実情じゃないのかな?
(土器の物理的特性?としては弥生土器も土師器も同じように野焼きに近く酸化焔焼成という焼き方)
>三宅米吉先生や後藤守一先生が言っていたように
>土師器に関する最初の頃の研究は古墳時代の土器を中心に行われてきました
------------------------------
>古墳時代の土師器と弥生土器の境界を明らかにするということは
>京大の小林行雄先生と明大の杉原壮介先生東西両雄とも言える研究者によって進められてきました
------------------------------
>しかしながらお二人の視点は「斉一性」あるいは「地域性の消失」という点で同じような結論が得られたようです
------------------------------
>弥生土器に見られるような地域性が古墳時代の土師器になると失われてしまうということが
>弥生土器と土師器を峻別する一つの着目点だという結論に達しました
『時の考古学』p81
つまり「斉一性」が認められればそれは「土師器」のカテゴリーになる
まあ古墳時代を土師器の登場に合わせるか定型化古墳の登場に合わせるかとは別の話じゃないかな?wwwwwwwww
307 :
306:2014/05/14(水) 17:35:12.94
>>306訂正
誤)『時の考古学』p81
・・・は無論
正)『土器の考古学』 p81
の誤りなwwwwwwww
308 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 17:37:17.38
へー
空欄AとBに入る説明をしなさい。
弥生土器…地域によってバラバラ
庄内式…[A]
布留式…[B]
土師器…全国均一
310 :
306:2014/05/14(水) 17:43:56.81
つまり自分の理解で言うならwwwwww
まあ「古墳時代」っていうんだから古墳
それも弥生墓と完全に区別できる定型化古墳の登場をその始まりと見るのは妥当だと思うが
その前に「斉一性」をキーワードにした土師器の登場が先行してると・・・
弥生時代 → ( 土師器登場・古墳時代への助走期間 ) → 古墳時代
古墳時代が始まっていきなり「斉一性」をもった土師器が登場したわけではないと・・・
【酸化焔焼成】野焼き
弥生土器…地域によってバラバラ
土師器(庄内式・布留式)…全国均一
【還元焔焼成】窯焼き
陶質土器…半島製
須恵器…倣製
土師器の普及が古墳時代の円筒埴輪を、須恵器の普及が飛鳥時代の瓦を、生んだ経緯に着眼すべきか?
まあそのWikipediaに
#古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。
#土師器の土器形式として庄内式とか布留式(奈良県天理市布留遺跡から出土)などと命名され
と書いてあるわけだが。
所詮ウィキペディアではある。
結局としては、土器の区分で命名されている弥生時代と、古墳の存在から命名されている古墳時代の境目にグラデーションがあるのが当然で、断代論としてはいろいろな見解もあろう。
要は、弥生中期あたりのイメージを庄内併行期に塗りつけようとするトンデモ論者に惑わさなければ、それで善哉。
>弥生中期あたりのイメージを庄内併行期に塗りつけようとするトンデモ論
kwskオナシャス!
>>309 古墳時代の始まりを、A=畿内説 B=九州説。
0点
弥生土器…地域によってバラバラ
庄内式…[広域に拡散し始めた初期の土師器]
布留式…[全国的に拡散した最初の土師器]
土師器…全国均一
列島における、土器の統一(土師器の登場)と墓制の統一は、やはり一体のものであったと見るのが自然であろう
すなわち、庄内式土器(初期土師器)の登場を以て、古墳時代の始まりとしてまず誤りなかろう
発音からの「箸墓=土師墓」説もそれを裏付けてゐる
まあ、社会や政治が古墳時代そのものになったとしても、寿陵を造ろうという発想が無ければ、首長がみんな生きている間は古墳が無いんだよ。
土師=土の師匠 だ・か・ら
焼けば土器(土師器)、盛れば古墳(箸墓) ってことで桶?
322 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 19:28:47.01
前方後円墳が弥生後期として、
その前段階の、畿内の弥生中期
くらいの大規模墳墓って、
どんなのがあるんかね?
吉備には弥生時代終末期の列島最大級の双方中円墳・楯築弥生墳丘墓(2世紀中頃…倭王帥升の墓か?)があるんだが…
324 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 20:29:09.81
楯築弥生墳丘墓
(2世紀中頃)というのが時期が早すぎ
おそらくは4世紀前半あたり
南側の対岸に全長96mとされる猫塚
それに 鏡塚という2つの双方中円墳の積石塚がある
猫塚のは鏡の出方が豊富で
前漢鏡の連弧文精白鏡からはじまって
長宜子孫銘蝙蝠鈕座内行花文鏡
吾作銘の斜縁の獣形鏡が2枚
獣文帯の三神三獣の斜縁神獣鏡もある
さらに 金官から来たくさい筒形銅器もある
積石塚とか木槨墓の流行はたんなる流行で終了しているみたいにみえたりするけど
世間の常識に反して
楯築弥生墳丘墓を
「おそらくは4世紀前半あたり」
という根拠は?
他にも、吉備には古墳時代中期における列島最大級の造山古墳(4位)と作山古墳(9位)がある
大和朝廷の成立(箸墓)や全国統治(韓半島への対外政策)に、吉備の首長が大きく関与していたことは疑いない
>>325 >>324は、
自分の鏡の年代観が一番!それに合わない説はみんな捏造だ!
と主張している基地さんですよ
328 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:08:47.51
吉備(鬼国)の鬼は桃太郎に征伐されたわけで…
鏡ばっかりで他には知恵がまわらないんなろうなw
331 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:23:57.16
鏡のこときになっちゃってるみたいね
250年ころから庄内式のが始まると割りきちゃえば楽になれるのにさ
>>324 >金官から来たくさい筒形銅器もある
筒形銅器は金官からの出土が日本を上回り、
半島起源ではないかも言われたが、
その前身の筒型銅製品が半島から出土していない。
日本では滋賀、岐阜、静岡など後期銅鐸と関わってる地域から出土している。
したがって筒型銅器も日本なのだ。
333 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:33:24.11
「くさい」止まりのトンデモ史観で何をする気?
古墳時代前期後半(4世紀末)築造とされる東大寺山古墳から金象嵌の中平銘鉄刀(184〜189年)が出土したということは、
被葬者の先祖は、吉備で楯築弥生墳丘墓が出現してまもない頃に、後漢との外交に関わった有力者だったということになる
倭国大乱を経て邪馬台国による全国統治が始まるまさに184〜189年が、庄内式出現の実年代と見てもいいのではないだろうか?
筒形銅器も竹細工を模したものだろう。
円筒埴輪も同じく竹細工を模したものだろう。
巴形銅器と同じく九州原産だろうな。
必死に枝葉末節に話を逸らせて本筋を誤魔化そうとしてる人たちw
>>335 ちょうど、董卓が相国(首相)となって猛威を振るってた時期だね>中平年間
コキントーの乱
>>338 幼帝はまだ17歳で世間知らずの飾り物だから、摂政の董卓から貰ったんじゃね?
ってことは、東大寺山古墳の被葬者の先祖は、董卓と会っていたかもしれない!?
竹細工くん、久しぶりに見たw
基地の巣窟だなw
剣道も茶道も九州起源ニダ
香川の猫塚古墳はさ、鉱山試掘を装った計画的な大盗掘のために、中央が大きく変形してしまっていて
正確な石室の数もわからず、盗掘の関係者の話などを参考にした盗掘の際の副葬品の内容
要するに、泥棒から聞いた出土状況
これとの比較で楯築墳丘墓の年代が「おそらくは4世紀前半あたり」かw
こんなもんばっかり拾ってくるなw
344 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 22:40:57.65
>>324 >楯築弥生墳丘墓(2世紀中頃)というのが時期が早すぎ
一体何が基準で「時期が早すぎ」なんだ?
「おらが九州説」基準か?
345 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 22:50:52.95
こんな出土状況のものは何が混入されているかわからない
「猫塚古墳」からの出土品という点では考古資料価値なし
築造年代も他に判断要素がなければ、不明
>>345 そう
この基地の根拠は「俺がそう思うから」
佐賀関の猫塚古墳のことかと思た
近隣の築山古墳も破壊されてるし
自説に都合の悪そうな古墳は盗掘しちゃえば無効化出来るってことか
>>299>>301 マキムクの地勢は、東瀬戸内の海商小国家群が、東国との交易を求めて共同で造った
っぽいが。
参加者は大和・中河内、吉備、阿讃播あたり。
東海は後で参加。筑紫・出雲の参加は更に後だろう。
明治にか?
>>349 ホケノなんて大量の鉄や、鏡、剣の埋葬で筑紫そのものじゃないか。
ピザ起源説と同じw
土師器の「斉一性」とは弥生土器の「地域性」に対してのものであって、
つまり、各地の土器に共通性がみられるようになるということだろ。
では庄内式併行期の各地の土器はどうなのかというと、
北部九州は西新式、出雲は前半的場→後半梶尾、因幡は青木、吉備は前半才ノ町→後半下田所
讃岐は下川津、阿波矢野鉄塔→黒谷川、近畿には庄内式以外に第5様式が残り、東海は廻間式。
これらの土器にどんな共通性があるのかわかる人に教えてほしい。
庄内式土器が土師器だとされるのは布留式土器の直接の祖形だからじゃないのか?
斉一性をいうなら布留式から。
各地の祭祀が統合されて前方後円墳祭祀が生み出され、
儀礼諸式が決められてそのための祭礼具として精製三器種が採用された。
それを使って同じ儀礼を行うんだから、出土する土器も同じになるわけだ。
>これらの土器にどんな共通性があるのかわかる人に教えてほしい。
土師器の「斉一性」なんでしょ?
「土師器の」斉一性なんだから
土師器ではない各地の在来土器の間に共通性がなくても関係なし。
A.酸化焔焼成(野焼き)土器
-弥生土器…地域によってバラバラ
-土師器…全国画一(地域性の喪失)
庄内式(広域)
布留式(全国)
B還元炎焼成(窯焼き)土器
-陶質土器…半島製
-須恵器…列島製
土師器の庄内式から布留式への移行は、徳川幕府で喩えれば、大王家の親藩譜代から外様への支配領域の拡大、と見ることはできないだろうか?
あの世でも大王との主従関係を継続する証として、布留式土師器による前方後円墳祭祀が全国に波及したと。
大王との主従関係というより、親分子分や兄弟分の関係性宣言に近いんじゃないでしょうか。
つまり、大王は、親の場合ばかりじゃなくてオジキの場合など、いろいろなバリエーションがありうる。
>>354 > 「土師器の」斉一性なんだから
トホホ・・。おまえのゆう「土師器の斉一性」っていったい何だよ?
>>355 > 庄内式(広域)
どういう意味で「広域」なんだ?
庄内式土器が瀬戸内海から北部九州で出土するのは畿内の人が移動している結果であって、
それは例えば、東海の土器が各地から出土するのと同じことだろう。
でも東海の土器を土師器とは言わないだろう?
ましてやそれは甕のことだ(だろ?)。
弥生・古墳の時代区分とは次元の違う話だろ。
>>357 旧編年では大和庄内甕の登場で土師器の誕生としていたようだが(旧編年・纏向2式)、
新偏年では小形器台・小形丸底鉢が成立する段階(辻土坑1)をもって、
土師器の始まりとするようだ。(新偏年・纏向2類=旧編年・纏向1式(新))
平底の僅かに残る所謂庄内ゼロが弥生第Xの範疇だね
362 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 15:35:20.73
弥生土器と土師器(庄内/布留)の違いは、地域性の有無と平底vs丸底、他に何かある?
口縁部とか?
Д平底弥生土器…囲炉裏の地面に付け、その周りで火を横から点けて、煮炊きする(低い燃焼効率→長い調理時間=多くの薪が必要)
Ω丸底土師器…竈(かまど)に嵌め込み、火を真下から点けて、一番温度が高い外炎部で煮炊きする(高い燃焼効率→短い調理時間=少ない薪で桶)
つまり「竈(かまど)の普及」という毎日の調理における技術革新の普及こそ、女たちを喜ばせ、全国一斉に広まった土師器の特長と言ってよかろう
古墳時代草創期のΩ丸底土師器とは、現代の調理革命、圧力鍋に似ているw
口縁部については、竈に嵌め込む土師器Ωの燃焼効率が、ついこの間まで使っていた弥生土器Дに比べて、あまりに良すぎるため、
あっという間に噴きこぼれる欠点を補うべく突起を付けたものと思われ!
364 :
ローガン:2014/05/15(木) 16:14:58.25
庄内甕は尖っているけどね。
内面のケズリも重要ポイント
366 :
ローガン:2014/05/15(木) 16:31:18.00
>>353 > 庄内式土器が土師器だとされるのは布留式土器の直接の祖形だからじゃないのか?
単に庄内式を2分割して、後半に前方後円墳が出現するから。
前方後円墳の出現をもって「古墳時代」で、古墳時代の土器が土師器なら、庄内(後半)は土師器。 庄内式土器は、土師器。それくらいのことでしょう。
土師器の作り方をいくら言ってもしょうがないけどね
重要なのは文化の伝播速度が増し、定着の障害が少なくなったこと
368 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 16:33:06.95
>>353 お前…何か壮絶に異次元レベルに勘違いしてるな
>各地の土器に共通性がみられるようになるということだろ。
…は正確には
「各地に共通性がみられるような土器が出るようになる」だ
そもそも土器と言ってもそんな古墳の祭祀に使われたものだけじゃなく
当然人々が日常食べ物を盛ったり水や穀物を貯蔵したり等々の用途のものがあって
数から言えばそっちの方が遥かに多いわけで
ある時期にそれら全てが一斉に同一規格化したという話じゃない
斉一性を持つ土器が在来の物の中に混じって出てくるようになったという話だ
「庄内式併行」と言うのは
(A)(広い地域で斉一性が見られる土師器=)庄内式土器
(B)各地のローカル仕様の土器(西新式等)
この(A)と(B)二つが共伴して出てくるようになるって話だ
「併行」とは併行する二つのものがあっての話で画一化され同一のものになったなら
「併行」なんて言葉はそもそも出てこない
お前の質問は
「斉一性をもつ庄内式と併行して出てくる各地の土器の斉一性を教えてくれ」
と言ってるようなものでもう質問として成り立たない。
一体何処をどうやったらそういう異次元レベルの解釈ができるのか?
ひょっとしてかき回す為にわざとやってるのか?wwww
これだけ懇切丁寧に答えたんだから一つ教えてくれんか?
お前邪馬台国の比定地何処にしてるんだ?(九州なら九州の何処かも含めて)
まあ要するに、エネルギー効率の革命があった。
370 :
368:2014/05/15(木) 16:42:25.31
もう一つ分かりやすくざっくりとしたイメージで…
弥生時代…各地バラバラの仕様の土器
A地方(○○○)
B地方(×××)
C地方(△△△)
土師器登場時期…各地に土師器(■)が見られるようになる
A地方(○○○■)
B地方(×××■)
C地方(△△△■)
…これにより各地の土器編年の相対が取りやすくなる
ちなみにこの”あたり前の事”をやったのが今の考古学の年代観で
実年代の指標たる舶載品の多い九州に合わせたという”あたり前の事”をやった結果のもの
逆にそういうのを無視で九州は九州、近畿は近畿でやったのが昔の年代観
ここのゴミ九州説は自分では「近畿中心主義」「権威主義」のようなものに反抗してるつもりかもしれんが
自分が反抗してるそれが生み出したものにしがみついてるというバカ丸出しwwwwwwww
>>363 なるほど
初めてセブ(T-fal)の圧力鍋でカレーを作った時、わずか10分ですべての具に万遍なく火が入ってて美味しく出来たのでビックリした。
その時、フランス人はネ申だと思たw 大家族だと大量のご飯がすぐ炊けて重宝しそうだぬ。
>>364 天地ひっくり返すと、↓こんな感じ?
Д…弥生土器(平底)
△…庄内式土師器(尖底)
Ω…布留式土師器(丸底)
372 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 16:44:30.06
しかしよく思うのは弥生末〜古墳時代の土器の「斉一性」に着目し
現在の(考古学上の)土師器の概念を生み出した生みの親の一人とも言える小林(
>>306)が
その斉一性を無視したかのような年代観を出したのは
やはり「邪馬台国論争の弊害」とも言えるものなんだろうかとwwwwww
373 :
ローガン:2014/05/15(木) 16:49:02.64
>>368 いや、彼が云いたいのは、
「庄内期はまだ土器に地方色が多く見られるのに、庄内式を土師器と呼ぶのはおかしいんじゃない?」
私はそう読んだが。
374 :
368:2014/05/15(木) 16:59:43.80
>>373 うーんだったら質問は庄内式土器自体の論議になると思うんだが・・・
「斉一性」に関して
「斉一性が見られる土器が出てくる」じゃなくて
「各地の土器が斉一性を持ち出す」と考えてるんだろうな
(無論庄内と在地系は相互に影響しあって長く見れば各地のものもやがて収斂していくんだろうけど・・・)
でないと「各地の土器の共通性」なんてトンチンカンな質問は出てこないかと
375 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 17:01:23.83
>>358 伊作より伊作にいつもくっついてた奴に芸風が似てる気がするw
377 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 17:15:10.43
そうとるか?
九州説はその権威主義の大元が九州で畿内は征服されたという認識に
しようという風にしようと見えるが?
378 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 17:25:48.09
熱効率の良い悪いに着目したような話は好きだな。
ただ、画期的な熱効率を発揮した薄型丸底土器が、
その有効性から早く伝わっただけかも知れない。
鉄なんかはそもそも材料がなければ、
伝わりようがないし。
379 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 17:28:11.59
だから鉄が伝わっただのなんだのの話は5世紀だろうがよ
380 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 17:32:03.11
これは関東に残る古代の武人が着てた鎧関係などの遺跡発掘から明らかだろ
それ以前に鉄製のなにかでてるの?
>>373 いや
>>353は自分で
土師器の「斉一性」
と言っておきながら土師器でないものの斉一性を要求しているという点で完全に支離滅裂であって、なにを考えているのか解からないよ。
「庄内期はまだ土器に地方色が多く見られるのに、庄内式を土師器と呼ぶのはおかしいんじゃない?」
という意味ではないだろう。
久住VA期だって在地系の土器は在地系の土器なんだから。
>>353 は メダパニ をとなえた!
ローガン はこんらんしている!
ジョーカー はこんらんしている!
>>381 はこんらんしている!
「アジア人の人類史から見た日本人の二重構造」
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html 2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。
北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。また西日本の人達は
渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
な日本人のデーターと全く違う数値を示します。
100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われ
ます。
梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg ●近畿
●朝鮮人
●中部 ●新潟
●千葉
●東北
近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。
>>371 Д…弥生土器(平底)
仝…庄内式土師器(尖底)
Ω…布留式土師器(丸底)
385 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 21:38:40.84
庄内式土器が出てくる地域は限られているよなあ。
特に近畿地方では狭い範囲からしか出てこない。
むしろ、九州のほうが広い。
広い範囲で土器に共通性が出て来るのは布留式からだな。
386 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 21:40:17.79
>>385 それでも関西と九州で同じ特徴を持つ物が出るというだけでも弥生土器と一線を画す
387 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 22:03:27.95
北部九州広域から庄内式が出て、
畿内の狭い地域数カ所から庄内式が出るなら、
その畿内の数カ所に、九州から移住したと
するほうが自然だろうな。
方格規矩鏡や内向花紋鏡と絹が出た古墳に近い地域だったら、
九州からの移住の可能性が高くなるかもしれないな。
389 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 22:16:06.47
>>389 「斉一性」で大馬鹿言ってた人の自演ですか?
391 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 22:32:38.81
記紀 出雲
土師 秋篠も時空設定(トンデモ)だと思わない?
>>387 >>389 畿内X様式と庄内式との間の技術的つながりが明瞭
一方、九州の土器の系譜から庄内式が生まれたとするのは困難
>>359 この新編年というのは豊岡だろ?
オレのネタ元も実は豊岡なんだが、
彼によればなにをもって土師器とするのか?
> 小形器台・小形丸底鉢が成立する段階(辻土坑1)をもって
ということは、やはり祭礼具が基準だということだろ?
「辻土坑1」ってわからないな。
オレのメモでは辻土坑4下層が4類(後)で、次が小形精製土器セットの完成・5類(布留1)になってる。
>>366 > 後半に前方後円墳が出現するから。
前方後円墳の出現とは纒向型を指すわけか?
箸墓は布留0だろ。
庄内式の後半とはいつから?
0〜3として2からなのか、1〜布留0として3からなのか。
いずれにしても庄内式後半に出現する前方後円墳とはどれのことだよ。
>>368 www
> 邪馬台国の比定地何処にしてるんだ?
畿内5様式圏。
> 斉一性を持つ土器が在来の物の中に混じって出てくるようになった
おまえのゆう「斉一性」とはいったいなんのことだ?
私的には「斉一性」の対儀は「地域性」で、
各地の土器にみられる「地域性」がうすれ、同じものになることを「斉一性」というと理解している。
つまり、九州・四国・中国・近畿・東海・北陸に同じような土器が出てきて初めて
それを「斉一性をもつ土器」というのだと思うが。
で、そうなるのは布留式土器だろう。
そしてそれは祭礼具である小型精製器種においてみられるものだと思っていたが。
庄内式併行器には全国的に各地の土器は地域性をもっており、
庄内式土器だって、いち地域の土器様式にすぎない。
あと、甕については関係ないだろう? 薄甕が流行したからって、
薄くて熱伝導率が良くて煮炊きに便利だから普及したからといって、
それは時代区分とは別次元の話だ。
> (広い地域で斉一性が見られる土師器=)庄内式土器
確かに出土範囲は広いが割合は僅少だ。
それはこの時期の活発な人の移動によるもので、東海の土器や吉備甕、山陰の土器もおなじことだろう?
移動した人が現地で使用していのだろう。
>>395 > 使用していのだろう
使用していたのだろう。 ・・まあ
はい
土師器の「斉一性」
と言っていた
>>353が「土師器の」を外して再出発しました。
温かい目で見守ってあげて下さい。
>>373 > 庄内式を土師器と呼ぶのはおかしいんじゃない?
それは別にどうでもいい。
祖形として庄内式土器を土師器と呼んだってかまわない。
気になるのは
・庄内式土器に「斉一性」がみられる、とか
・庄内式土器が広域に出てくる、とか
それは違うだろうってはなし。
土師器を重要視すれば、東遷説は苦しくなるよな。
畿内系土器との継続性は明らかだし。
そもそも東遷説は、弥生後期の畿内で首長権力の進展が見られないこと。
前方後円墳の副葬品が、筑紫色が強いことをもって
主張されていたように思うが。
ただまあ、畿内の遺跡が百年ほど遡ったことで、
少なくとも邪馬台国東遷説は消えた。
あと、弥生後期、筑紫一極ではなく、各地で王権が誕生していたことが分かり、
マキムク誕生にしても、筑紫単独は有り得ないだろうという流れ。
そもそもマキムク石塚って、当時日本列島最大の墳墓だった訳で。
で、マキムクってのは、大溝建設から始まり、
それまでに無かった、何もない場所に一から造られた計画都市。
マキムク建設=王権誕生とみて間違いない。
そのマキムクで最初に造られたのが石塚。
弥生の墳丘墓とは一線を画している。
せい‐いつ 【斉一】
[名・形動]物事が一様であること。ととのい、そろっていること。また、そのさま。「―な能力」
(デジタル大辞泉)
応用:庄内式土器に「斉一性」がみられる
=庄内式土器が一様であること。
各種在地系土器にどんな共通性があるのかとは無関係。
>>393 >オレのネタ元も実は豊岡なんだが、
あまり理解できていないようだね
A.酸化焼成(野焼き)土器【赤】
-弥生土器=Д(平底)…地方によってバラバラ(九州、山陰、近畿、北陸、東海…etc)
-土師器…全国画一(地方色の喪失)
庄内式=仝(尖底)…広域普及
布留式=Ω(丸底)…全国普及
B.還元焼成(窯焼き)土器【青】
-陶質土器…半島製
-須恵器…列島製
404 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 08:28:59.67
>>399 「流れ」で立証になると思っているのかい。やはり畿内説はパースケ集団だな。
畿内説は具体的な「醤油」と「らっきょ」に基づいた立証をどうぞ。
負け犬がキャンキャン啼いている
タタキ技法の共通性とか言っても九州脳には理解できないんだろうな
頭蓋をヘラケズリしてもらうのが彼らには、よいだろう
408 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 14:36:38.90
甕棺墓の特徴かな?
409 :
ローガン:2014/05/16(金) 14:53:29.15
>>394 いや、そんなに細分化しないんだ。元ネタは確か岩波講座。30年も前の話。
旧石野編年に置き換えたら、纒向2と3が庄内。
纒向1が弥生Xで、纒向4は布留T。
410 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:24:12.63
纏向2とか庄内3とか土器編年の番号が付いているやつ、
この番号間は同じ年代間距離としていいのだろうか?
たとえば、100年間で庄内1,2,3,4なら、25年づつとか?
411 :
ローガン:2014/05/16(金) 15:40:12.81
>>398 > それは別にどうでもいい。 祖形として庄内式土器を土師器と呼んだってかまわない。
なら、庄内式は土師器で解決だ。
>気になるのは
・庄内式土器に「斉一性」がみられる、とか
・庄内式土器が広域に出てくる、とか
それは違うだろうってはなし。
???
>>353 >土師器の「斉一性」とは弥生土器の「地域性」に対してのものであって、
つまり、各地の土器に共通性がみられるようになるということだろ。
a 土師器とは、斉一性のある土器である。
b 庄内式は土師器と呼んでかまわない。
a.b共に君の言い分なんだから、土師器である庄内式に斉一性をみる というのが君の主張になるはずだが。(笑)
(北部九州と近畿に普及した)庄内式土器に、斉一性を見るべきかどうか?で割れているわけね。
413 :
ローガン:2014/05/16(金) 15:52:09.95
>>410 そこまで細分化したものに幅の強弱はつけられないんじゃない?
もっと大きな括りとしての弥生様式については、均等割りを変えてきたけど。
>>395 そもそも甕と祭祀用とを区別する意味が分からない
土器に斉一性があるかないかは土器を見て判断されるものであって
それが機能性・利便性で普及したものであろうが
新しい文化(古墳文化)の普及でもたらされたものであろうが
政治だろうが宗教だろうが関係ないはずだ
こいつのロジックだと斉一性とは新しく起きた文化=古墳文化の中にのみ見るべき話だということで
最初に年代区分ありき
古墳時代より前の土器には斉一性はないという結果が先に出てしまってるという本末転倒
極端なことを言えば庄内甕が各地でシェア90%以上とってもw
こいつの理屈だと「物流が盛んに成った結果で斉一性とは言わない」というのがまかり通る
本来は土器を分類編年し斉一性の見られるようになる時期を線引して
それを古墳の出現と照らし合わせてみて何らかの結論を得るというのが道筋だろうが
(斉一性の顕著になる時期が古墳の出現より− 先行する/ほぼ同時/遅れる ・・・と理論上はいろいろな可能性がある)
こいつの理屈の場合もう土器を調べるまでもなく先に答えが出てしまってる
415 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 16:57:37.51
>>413 それはNO。
各研究者は出土量など諸般の事情を勘案して、それぞれの年代幅を決めている。
416 :
ローガン:2014/05/16(金) 17:24:12.36
最近の動向は疎いけど、幅が一世代を割るような形式設定なんてねえ…(笑)
以前、弥生Xの量を人口増加で説明すべきか、期間の幅で捉えるか?議論があったのは覚えているが。
やはり、庄内式も布留式も、その形式区分は、大王の在位と連動しているの?
大王の代替わり毎に、形式が変わっていくみたいな
418 :
ローガン:2014/05/16(金) 17:45:02.64
>>417 単に、併行を追いやすい指標土器の名称くらいのものでしょう。
419 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 18:55:07.56
いい加減に気づいたほうがいい
大王は大王
天皇は天皇
420 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 19:05:22.81
>>417 庄内は当時の王様の口癖が「しょーもな」だったのに由来
布留は当時の王が暴君でそれを諌言した臣下を「フルボッコ」したのに由来するらしいよ
中華思想の日本版
畿内や九州から宇宙が始まり、人類が誕生した
「ビッグバン・アタック」
>>419 いい加減に気づいたほうがいい 大王+百=天皇 だと
一白
大王
神=示+申
示は高盃に貢ぎ物が乗ってる様
申は雷
東洋における神ってのは祈祷師的な存在のことで、西洋的な神とは全く異なった存在なんだよなぁ
で、狗奴国はどこよ?
奴国の南
邪馬台国と戦っていたということは、倭国の覇権を争ってたってことだよね?
魏が邪馬台国を特別待遇で応援したってことは、狗奴国の背後には呉が関わっていた希ガス
つまり呉が支援する狗奴国に倭国を取られて、まさかの逆転負けなんてことのないようにしてたんジャマイカ?>魏の皇帝曹叡
>>427 つか「親=邪馬台国」vs「呉=狗奴国」って図式は割りと昔からいわれてる。
反対論も昔からあるが、その図式をどれぐらい過大にみるか過小にみるか
って差はあっても図式そのものには異論はあまりないんじゃないかぬ
逆
狗奴国の北にあった国が呉・公孫氏との交易を独占してた
しかし半島に魏が進出してきて、狗奴国と呼ばれてた国が、
草深き山道を通って僻地の漁村から船を出して魏と繋ぎをつけることに成功したことで形勢が逆転した
430 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 22:09:43.35
やっぱこのスレじゃあ 狗奴国=東海 説が多いんかな?
自分みたいに熊襲(官 狗古智卑狗=菊池彦)とか言うのは異端っすか?wwwwww
狗奴は久努、久能山とか辺りなんだろうな、やっぱり。
赤塚の朝日遺跡やら象鼻山、三遠式銅鐸とか。
個人的には熊本の熊襲や、紀伊の熊野とか
可能性が0ではない気がするが。
卑弥呼説が強いヤマトトトヒモモソヒメノミコトだが。
「トトヒ」に注目して、鳥飛び、つまり脱魂タイプのシャーマンだった可能性がある。
シャーマンには二種類あって、脱魂型と憑依型。
玉依媛やら、豊鋤入媛。更に言えばミマキイリヒコ、イクメイリヒコなどの
ヨリやらイリが付くのは憑依型の祭祀王だと思われる。
434 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 01:44:12.16
>>432 やっぱ 狗奴国=東海 説が優勢なんかね世間一般でもこのスレでもwwww
赤塚次郎の表した濃尾平野の古墳の変遷見ても
4世紀の中頃・後半まで普通に前方後方墳出てて
それが前方後円墳に収束するのが5世紀頃なんだよなあ
つっても白石なんかは当然そんなことは織り込み済みで言ってるようだけど・・・
どういうイメージなんかねえ、付かず離れずの関係が一時仲違いして魏に仲裁を頼んだとか?
435 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 04:54:34.71
邪馬台国畿内説までは賛成だけど、狗奴国濃尾平野説だけは反対だなw
単純すぎるんだよ、考古学の先生とかもw
考古学的に見たらと言いながら、纏向遺跡なんてネーミングからして
専門外の文献史学の範囲である記紀をカンニングしてのネーミングだろう?
だったら、もっと記紀や魏書など文献をちゃんと読めや。
でも纏向駅前だぞ
狗奴国の王は卑弥弓呼、官は狗古智卑狗(くこちひこ)
狗奴国=熊本説なら菊池彦で一発解決だが、尾張説だとすると誰よ?高倉下?www
438 :
孝霊厨:2014/05/17(土) 07:23:07.09
>>435 それは正論だね、畿内説でも中途半端に記紀等
文献資料を引用しすぎるのはよくない。
七万戸で巻向=邪馬台国なんて説が成立出来るはずがないのは
考古学の連中なら判るはずだ。
男王を持つ狗奴国というのは邪馬台国の南だしね。
後に東にあるなんて記述の資料も存在するのが
話をややこしくしていると思うが。
女王国=瀬戸内説ならこの問題も殆ど解決するはずだ。
439 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 07:37:16.42
ハイ、畿内説は具体的な「醤油」と「らっきょ」に基づいた立証をどうぞ。
440 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 07:43:42.81
黄色いバナナを食べるのはサルと日本人だけなんだってさ
本来は緑色のうちに油で炒めたり野菜感覚で使うものらしい
海外のやつらが見ると家畜にやるエサを食ってるように見える
らしい
>>439 醤油→ソース は判るが、「らっきょ」は何のパロディなの?
「根拠」だな。
九州説には根拠がないので、根拠という言葉が怖くて口に出せないから冗談にして誤魔化してるのさ。
443 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:18:24.23
畿内説のア○ウが「ソースと根拠」とバカの一つ覚えをしきりに言うので、か
らかっているのだよ。
なるほど…醤油と巨根の方が判りやすいかもwww
関西人(畿内説)には、毎度お馴染みのやりとり↓
女子アナ「師匠、私に恋人がいてるなんてデマ、何か根拠があってゆうてはるんですか?!」
笑福亭鶴光「わたくし巨根を持っておりますwww」
445 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:34:33.13
446 :
孝霊厨:2014/05/17(土) 08:39:03.82
大半の九州説なんて根拠以前に妄想・願望論でしかないからな。
無に具体的な根拠を求めるのは酷であり、間違いだよ。
447 :
孝霊厨:2014/05/17(土) 08:48:14.42
畿内説で百襲=卑弥呼説だと、結局伝承行動範囲である
東瀬戸内から奈良盆地を主舞台とせざるを得ない訳だからな。
女王国は東西に長い国であっただけの話。
そうすると狗奴国は太平洋側の国でいい。
結局畿内説で方向間違いも何もないんだよ。
448 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:52:47.44
倭人伝で行く方向は南。
東は渡海して倭種がいると書いてある。
日本人は誰でもロシアを北の国だと認識してるが、モスクワは日本から見てぜんぜん北方位じゃないよな。
450 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:55:00.48
大半の九州説論者も、
渡海した東に倭種がいることを
否定はしていない。
451 :
孝霊厨:2014/05/17(土) 09:01:19.84
水行や陸行で延々何日も南に向かう国なんて存在しない。
あれは国土の広さを倭人の記述を元に表したものだろう。
奴国や投馬国のような万単位の戸数を持つ国が、
当時の倭の海人国で比定出来うる場所に、
どれほどの広さが必要か?
という視点が九州説には抜け落ちている。
国は基本的に海岸線沿いにないといけないだろう。
452 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 09:14:12.15
何度も書いてる飽き飽きする仮説だが、
倭人伝に出てくる距離は、公里相当距離の1/6程度になっている。
同様に日数相当距離も1/6すれば、
万二千余里のトータルの距離とも一致する。
人口についても一夫多妻制をイメージする状況から見て、
一戸の人数は2名前後かそれ以下の可能性すらある。
現在の平均世帯は2.5名程度になっている。
それから考えれば、最終的に80万石に近づく肥後国が
弥生時代はその半分以下としても、
7万戸程度は十分に収めることができる。
また、北部九州全域で、弥生時代の遺跡密度は
非常に高く、飽和限界まで開発され尽くしているのに
近い状態と見て良い。
>>409 いや、訊きたかったのは
庄内式後半に出現する前方後円墳とはどれのことなのか、
だったんだが。
箸墓
455 :
孝霊厨:2014/05/17(土) 09:34:06.06
結局既存の九州説では「海人の国」とはかけ離れた倭国像となる。
それ以前に弥生期の各地の大集落を全く無視してる時点でおよそ論外。
西日本だけで出雲や丹後、吉備、松山や高知等、
勿論河内平野や阿波を無視しちゃ話にならんw
>>411 > a 土師器とは、斉一性のある土器である。
> b 庄内式は土師器と呼んでかまわない。
> a.b共に君の言い分なんだから、
そう受けとられると、わけがわからなくなるだろうな。
余計なことを言葉足らずに書いてしまった。
a 土師器とは斉一性のある土器である。
とするなら、庄内式は土師器とよんではいけないことになる。
庄内式期の各地の土器には地域性があり斉一性はみられないからだ。
b 庄内式は土師器と呼んでかまわない。
というのは、
古墳時代の土器を土師器とするならば、
庄内式が古墳時代か弥生時代化というのは人によって意見が違うから、別にかまわない、
ということ。
aとbがごっちゃになってしまった。
言いたいことをもう一度整理すると、
庄内式期に、斉一性をもった土師器が出現した、というのは間違い。
ということになる。
なんで九州説みたいな時代遅れのトンデモにかまけてる人がたくさんいるのだろうか?
それとも、みな平均余命5年以内の老人なのだろうか。
>a 土師器とは斉一性のある土器である。
>とするなら、庄内式は土師器とよんではいけないことになる。
>庄内式期の各地の土器には地域性があり斉一性はみられないからだ。
という理由は?
もしかして 「斉一性」という言葉の定義が他人と違うのでは?
459 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 09:46:56.99
基本的に倭人伝には、
魏使の移動したルートの描写と、
その庶民や王の描写、そして、
傍国名程度しか書かれていない。
東の本州については、倭種あり、
で省略されている。
情報がないか、書く必要がないと
判断されたのだろう。
いかなる根拠があって「東の本州については、倭種あり」と断定するわけ?
461 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 09:59:27.74
そら無理な相談だわ
九州説人間になに聞いても、「倭人伝をよめば邪馬台国は九州としか読めないから」以外の答えは返ってこないわな
>>446 「妄想・願望」ですらないね。
そう装ってはいるが、ここの自称・九州説は、
島内に比定地も持っていないし、想ったり、願ったりもしていない。
ここで、あれこれ弄られた恨みごとを呟きつづけているだけ・・・・
教祖に吹き込まれた結論を拡散する下級伝道係って感じね
知能が足りてないから、ちょっと突っ込まれるとパニクる
>>414 > 庄内甕が各地でシェア90%以上とってもw
> こいつの理屈だと「物流が盛んに成った結果で斉一性とは言わない」
そんな理屈をいったつもりはない。
「各地でシェア90%以上」なら斉一性がみられる、でいい。
> 土器を分類編年し斉一性の見られるようになる時期を線引して
> それを古墳の出現と照らし合わせてみて何らかの結論を得る
そうしているつもりなんだが。
> 古墳時代より前の土器には斉一性はないという結果が先に出てしまってる
出てしまっているだろ。
「土器を分類編年し斉一性の見られるようになる時期を線引してそれを古墳の出現と照らし合わせて」
みれば、
「古墳時代より前の土器には斉一性はないという結果」が。
まあ、庄内式期を古墳時代というかどうかは問題だが、庄内式期には各地の土器に斉一性はみられない。
だから、あなたは「斉一性」をなんだと定義してるの?
>>458 > もしかして 「斉一性」という言葉の定義が他人と違うのでは?
そうなのか?
言っとくが「土師器の斉一性」のことだぞ。
上で「庄内式土器の斉一性」とか書いてた奴がいたが、そういう意味じゃないからな。
「地域的特色が希薄になり、各地の土器に共通性が著しくなる」こと
で、おまえの定義は?
>>398で
>それは別にどうでもいい。
>祖形として庄内式土器を土師器と呼んだってかまわない。
>
>気になるのは
>・庄内式土器に「斉一性」がみられる、とか
>・庄内式土器が広域に出てくる、とか
>
>それは違うだろうってはなし。
って書いたのは、あなたじゃないのね?
せい‐いつ 【斉一】
[名・形動]物事が一様であること。ととのい、そろっていること。また、そのさま。「―な能力」
(デジタル大辞泉)
応用:土師器に「斉一性」がみられる
=土師器が一様であること。
土師器以外の各種在地系土器にどんな共通性があるのかとは無関係。
469 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 10:58:37.79
>>464 >まあ、庄内式期を古墳時代というかどうかは問題だが、庄内式期には各地の土器に斉一性はみられない。
そりゃお前が斉一性を前方後円墳に使われた祭祀用の物の中にしか見ないんだから当たり前だ
>「各地でシェア90%以上」なら斉一性がみられる、でいい。
ん?そもそも甕はその検証対象から外すんじゃなかったのか?
自分のレス読み返してみろ
純粋に地域的広がり方を見て庄内は斉一性と言うのは足らず布留がそれに足るというのなら
その線引の基準は何なんだ?
もう言ってるっことが支離滅裂だな
>>467 それはおれだ。
ややこしい書き方をした。
ローガンあてのレスで説明したが、それを読んでもわからなかったら訊いてくれ。
で、何が言いたい?
471 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:17:14.40
>>435 別に遺跡の名前が現在の地名にもあるものならそれでいい
問題無いと思うが・・・
自分が問題にするとすれば「狗奴国=東海」を導くのに
>『魏使』倭人伝では狗奴国は邪馬台国より南と書いてあるんですが
>これは邪馬台国畿内説をとれば東と読みかえなければならない
『邪馬台国からヤマト王権へ』奈良大ブックレット04 P78
…とか今でも言ってるのに「ヲイヲイダイジョーブカヨー」と心配するわw
(ちなみに上記の冊子は初版14年2月なんでつい最近の話だ)
あとは西日本の首長連合に対抗できるほどの言わば「対抗馬」として見繕った感が強いwww
>で、何が言いたい?
「土師器の斉一性」だったり
「庄内式土器の斉一性」だったりするものを
なんで
庄内式土器でも土師器でもない在地系の
「地域的特色が希薄になり、各地の土器に共通性が著しくなる」こと
と定義するの?
日本語がめちゃくちゃでは?
>>469 > 斉一性を前方後円墳に使われた祭祀用の物の中にしか見ないんだから当たり前だ
そんなことはない。各地の土器が同じようなものになれば斉一性があるということになる。
甕でも同じだと考えている。
例えば、遠賀川式土器といったら斉一性がある、と同じこと。
> ん?そもそも甕はその検証対象から外すんじゃなかったのか?
それは時代区分について考える場合、ということだ。
斉一性のあるなしの話なら別にかまわない。
> 純粋に地域的広がり方を見て庄内は斉一性と言うのは足らず布留がそれに足るというのなら
> その線引の基準は何なんだ?
別に基準はないな。庄内式期には各地に「他地域の土器と共通性が著しい土器」は現れてないだろう、ということ。
おまえは
「(庄内式土器の)地域的広がり方を見て庄内は斉一性(をもつ)」と言っているのか?
>>472 > 土師器でもない在地系
その在地系土器の「地域的特色が希薄になり、各地の土器との共通性が著しくなったもの」を土師器という、んでないかい?
「・・土師器も弥生土器の系譜を引く、同じ赤焼きの土器であるが、
弥生土器にみられた地域的特色が希薄になり、各地の土器に共通性が著しくなるので弥生土器とは区別している。」
(出典不明)
「「土師器」は、『延喜式』など古代文献にみえる名称を用いて、
広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器を指す考古学用語としたものである。」
(福永)
「地域の別を超えてすべての地域を一つの色に塗りつぶすが如き均一性に富んだもの」
(小林)
「関東地方をはじめ広大な東日本各地の【地域性の強い弥生土器が土師器に転換する】のは、
近畿地方の庄内式土器の直接的影響によるものではなく、
まず東海系の土器の影響が及んだ結果であることが次第に明らかになってきた点である。」
(白石)
おれはおまえの言ってることがわからない。
おまえのいう「土師器」とは何か教えてくれないか?
-弥生時代…地方によってバラバラ
九州(○○○)
近畿(×××)
東海(△△△)
-土師器の登場期…従来の弥生土器に加え、複数の地方にまたがって斉一性を持った土師器(Ω)が見られるようになる
九州(○○○Ω)
近畿(×××Ω)
東海(△△△Ω)
これにより各地の土器編年の相対が取りやすくなる
この「当たり前のこと」をやったのが今の考古学の年代観で、
更に実年代の指標となる舶載品の多い九州地方に合わせるという「当たり前のこと」をやった結果のもの
逆にそういうのを無視で、九州は九州、近畿は近畿と個別にやってたのが昔の年代観
>その在地系土器の「地域的特色が希薄になり、各地の土器との共通性が著しくなったもの」を土師器という、んでないかい?
じゃ、地域的特色の強い在地系土器は土師器じゃないんだから
「土師器の斉一性」
とは無関係だね?
>おれはおまえの言ってることがわからない。
理由は?
ばかだから?
「自然の斉一性」と言えば自然が斉一なんだろ?
自然じゃないものは無関係だよな?
わかるか?
それとも、わからないばかか?
>おまえのいう「土師器」とは何か教えてくれないか?
「広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器」
だろ?
>>474 田中琢が庄内式を最初の土師器として提起してからこのかた、庄内式が土師器じゃないという反論を聞いたことが無いんだが、あるなら教えてくれ。
A.酸化焼成(野焼き)土器【赤】
−弥生土器=Д(平底)…地方によってバラバラ(九州、山陰、近畿、北陸、東海…etc)
−土師器…全国画一(地方色の喪失)
庄内式=仝(尖底)…広域普及(九州、近畿)
布留式=Ω(丸底)…全国普及
B.還元焼成(窯焼き)土器【青】
−陶質土器…半島製
−須恵器…列島製
479 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 12:59:37.78
>>476 > 「広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器」
> だろ?
で、
庄内式期に「広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器」が出現しているのか?
>>477 > 田中琢が庄内式を最初の土師器として提起してから
田中琢は土師器をどう定義しているんだ?
庄内式土器を土師器とする理由は?
>庄内式期に「広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器」が出現しているのか?
庄内式土器が出現してるでしょ?
庄内式期なんだから。
斉一性 を 画一性 と言い換えたらどうかな?
自然科学における斉一性とは、他の条件に変化がない限り、今までの状態(弥生土器)がそのまま続くことを意味するから、理系出身の香具師らの誤解を招く
>>476 > じゃ、地域的特色の強い在地系土器は土師器じゃないんだから
> 「土師器の斉一性」
> とは無関係だね?
「土師器の斉一性」とは無関係だな。
> 「広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器」
> だろ?
そうだ。
>>354がおまえの最初のレスだろ。おれは
>>353で
> 土師器の「斉一性」とは弥生土器の「地域性」に対してのものであって、
> つまり、各地の土器に共通性がみられるようになるということだろ。
略
> 斉一性をいうなら布留式から。
と言ってる。それに対して
> 土師器の「斉一性」なんでしょ?
> 「土師器の」斉一性なんだから
> 土師器ではない各地の在来土器の間に共通性がなくても関係なし。
というのだから・・・、庄内式期には各地の在来土器のほかに「広域の斉一性をもつ土師器」が出現している。と言いたいんだろ。
それが庄内式土器というわけだ。
庄内式の分布をもって「広域の斉一性をもつ土師器」としているわけか?
いや、土師器というのは上でコピペしたように
【地域性の強い弥生土器が土師器に転換する】
のだと理解しているが?
−広域の→複数の地方(例:九州、近畿)にまたがって
−斉一性→画一性
を持つ最初の土器。それが庄内式(∵大阪府豊中市庄内で初出土)。
>>482 > 庄内式土器が出現してるでしょ?
かぶった。やっぱりそうか。なるほど。
それならそれで、例えばS字甕はどうなる。広域に分布している点では庄内甕とかわらないんじゃないか。
吉備甕は? 北部九州から纒向遺跡までの範囲で出土しているぞ。
これも土師器か?
@広域の→複数の地方(例:九州、近畿)にまたがって
A斉一性→画一性
B古墳時代の土師器と確定している布留式(丸底甕Ω)と共通で、かつ弥生土器(平底甕Д)とは明らかに異なる技術系譜
を持つ最初の土器。それが庄内式(∵大阪府豊中市庄内で初出土)。 0
>庄内式の分布をもって「広域の斉一性をもつ土師器」としているわけか?
まさか。
どうしてそう考えるの?
庄内式が「広域の斉一性をもつ土師器」なのだから
庄内式の分布は「広域の斉一性をもつ土師器」の分布でしょ?
>いや、土師器というのは上でコピペしたように
>【地域性の強い弥生土器が土師器に転換する】
>のだと理解しているが?
「転換」という言葉の定義は?
常識的には
「地域性の強い弥生土器」があまり使われなくなり
土師器(庄内系や布留系)が大勢を占めるようになる
という意味なんだけど。
>>488 > 「転換」という言葉の定義は?
いや、これは白石のコピーだから、それは答えられないが、上に引用したように
「関東地方をはじめ広大な東日本各地の【地域性の強い弥生土器が土師器に転換する】のは、
近畿地方の庄内式土器の直接的影響によるものではなく、
まず東海系の土器の影響が及んだ結果であることが次第に明らかになってきた点である。」
とあるから、白石のゆう土師器は
「(庄内系や布留系)が大勢を占めるようになる」
こととは関係ないのだと思うが。
>それならそれで、例えばS字甕はどうなる。
日本人は日本語をしゃべるよ。
でも、コンビニで働いてるヤンさんは日本語をしゃべっても日本人にならないよ。
土師器は広域に分布してるよ。
でも、広域に分布したものが土師器だなんて誰も言ってないよ。
>>488 > 庄内式が「広域の斉一性をもつ土師器」なのだから
> 庄内式の分布は「広域の斉一性をもつ土師器」の分布でしょ?
意味がわからん。
質問を言い換えよう。
庄内式が広域に分布していることから「庄内式は広域の斉一性をもつ」としているわけだよね?
だから、庄内式は「広域の斉一性があらわれる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器」=土師器だということだよね?
これでいい? よければ
>>486の質問に答えてくれ。・・・できればでいいけど。
畿内マキムク王権誕生とともに、吉備+大和=庄内が生まれ、
熱伝導の良さから各地に普及した。
↓
卑弥呼共立、倭王となり箸墓に葬られる(吉備出身?)。土器が庄内が布留に発展。
庄内の大王、石塚や東田大塚、勝山、矢塚は卑弥呼共立前の男王の墓。
その後、吉備辺りから巫女が呼ばれ、日巫女として共立された。
古墳の定義が曖昧だから争いが起きる。
楯築や西山が古墳という立場から言えば、
庄内か布留か?はどちらでもいい話。
>>490 > 広域に分布したものが土師器だなんて誰も言ってないよ。
はあ、ではなぜ庄内式土器を土師器というんでしょうか?
同じく広域に分布したS字甕や吉備甕と区分して庄内甕を土師器という理由はなんですか?
>>493 @広域の→相互に隣接しない複数の地方(例:九州、近畿)にまたがって
A斉一性→画一性 と
B古墳時代の土師器と確定している布留式(丸底甕Ω)と共通で、かつ弥生土器(平底甕Д)とは明らかに異なるタタキ&ケズリ技法
を持つ最初の土器。それが庄内式(∵×山形県東田川郡庄内町→○大阪府豊中市庄内町で初出土)土器やよ。
495 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:23:58.00
>>457 NHKのアンケート調査で邪馬台国に関心の有る人のうち、66%は九州説
支持。畿内説はその半分以下。あんたが少数派なんだよ。あんたの認識がい
びつなの。わかった?
< 「転換」という言葉の定義は?
>いや、これは白石のコピーだから、それは答えられないが、
定義できないの?
では
「(博多遺跡の)土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し、在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。方形周溝墓には畿内系二重口縁壺や精製器種群が供献される(久住2004)」
という文章で「転換」という言葉が
「地域性の強い弥生土器」があまり使われなくなり
土師器(庄内系や布留系)が大勢を占めるようになる
という意味だというのは、わかるね?
>>493 で、庄内式が土師器であるっことを認めるの?認めないの?
>>494 > 弥生土器(平底甕Д)とは明らかに異なるタタキ&ケズリ技法を持つ最初の土器。
庄内甕のケズリは吉備甕由来だから、吉備甕の方が早いと思うけど。
「吉備南部と阿波東部で精緻な薄型甕が定着する。叩き締め技法と内面削り成形を組み合わせた、高度な製作技法によるものである。
吉備南部では二重口縁を呈する吉備型甕の祖型が出現し、備前西部から備中東部の比較的限られた範囲で普及する。
阿波東部地域の東阿波型甕は下川津B類甕を模倣したものであるが、しだいに差異を強めてゆく。
いち早く成立している下川津B類甕を含め、東部瀬戸内海諸地域に個性的な薄型甕が出そろう。
いずれも次期以降に主体を占める型式であるが、この段階ではまだ分布域も比較的限られている。」
(『考古資料大観』)
タタキは古くから(先松菊里B式)ある技法だよね。
庄内が土師器と認めない椰子は流石にいないだろ。
要は、煮炊き革命、竈+庄内瓶ってのが各地に普及して、
その最新技術を足掛かりに、全国広範囲に影響を及ぼす大王権力の誕生とみる。
>>501 Д平底弥生土器…囲炉裏の地面に付け、その周りで火を横から点けて、煮炊きする(低い熱効率→長い調理時間=多くの薪が必要)
仝尖底庄内式…竈(かまど)に嵌め込み、火を真下から点けて、一番温度が高い外炎部で煮炊きする(高い熱効率→短い調理時間=少ない薪で桶)
Ω丸底布留式
つまり「竈(かまど)」という毎日の調理におけるエネルギー革命が、女たちを喜ばせ、全国一斉に広まった土師器の特長と言ってよかろう!
古墳時代草創期の庄内式土師器とは、現代の調理革命、圧力鍋に似ているw
口縁部については、竈に嵌め込む庄内式土師器の熱効率が、ついこの間まで使っていた弥生土器Дに比べて、あまりに良すぎたため、
あっという間に噴きこぼれる欠点を補うべく、最外周に突帯を付けたものと思われ!
S字甕に丸底指向は無いよね。
>>496 > 「転換」という言葉が
> 「地域性の強い弥生土器」があまり使われなくなり
> 土師器(庄内系や布留系)が大勢を占めるようになる
> という意味
だとすると、上記の白石の場合は
「関東地方をはじめ広大な東日本各地の地域性の強い弥生土器が
【あまり使われなくなり土師器(東海系の土器)が大勢を占めるようになる】」
でいいのかな。
506 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:17:56.85
「畿内系二重口縁壺」とかぬすとなこといっちゃってるのがおばか
> 「転換」という言葉が
> 「地域性の強い弥生土器」があまり使われなくなり
> 土師器(庄内系や布留系)が大勢を占めるようになる
> という意味
だなんて言ってないけど?
そういう意味で使う実例を示しただけ。
つまり、地域性の強い弥生土器が存在するのと同時期に、同地域に土師器が既に存在することを否定できない。
>「畿内系二重口縁壺」とかぬすとなこといっちゃってるのがおばか
この考古学者がおばかだと?
庄内式という土師器が、広域で斉一性をもつことを、まだ認めないの?
>>504 庄内式土師器を従来の弥生土器のように平底にしなかった理由は、弥生土器と同時並行して用いられていたため
>>475、
誤用を避ける目的で、この甕は今までのように囲炉裏の底に立てて使うのではありません。竈に嵌めて使うのです。
という注意書きを、文字が大衆にまで普及していない弥生時代終末期に、視覚的に表現しようとした努力の賜物なんジャマイカ?
511 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:39:41.55
本来
庄内式のは弥生Wとか弥生Xとかの時期にローカルな範囲で涌いていた弥生系の土器
>>511 九州と近畿、互いに隣接しない複数の地方で出土する庄内式がローカルで湧いた弥生土器だって?www
513 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:52:33.64
九州北部の箱式石棺の分布域からちょこっと出るのがみそ
庄内式の分布中心域は八尾ので大和のは八尾よか薄くね
湾岸の港町とか内陸の交通要衝とかにね
倭人伝に記された時代に既に畿内系の北部九州移住があったわけ。
実は、庄内式を含まない弥生第X様式オンリーの集落もある。
515 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:59:01.73
九州の人間が、畿内に数氏族が移住した痕跡だろ。
畿内の方格規矩鏡や内向花紋鏡のように、
九州主力の遺物が、畿内でぽつんと出土する例がある。
516 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:59:26.75
弥生庄内式併行期
弥生IV期庄内式併行期
弥生V期庄内式併行期
というのは
近畿系の土器偏年と揃える用途での併記だし
弥生の最後のところ
ローカルな呼称で呼びたがって譲らないものだから
全国のほうでいたく迷惑しているんだろ
>>510 せっかく竈対応の新世代甕を入手したのに
あいかわらず囲炉裏の底に立てて使ってた例すくなからず
おとしよりが洋式便器の上に曲芸的にしゃがんじゃうみたいなもんかね
>畿内の方格規矩鏡や内向花紋鏡のように、
>九州主力の遺物が、畿内でぽつんと出土する例がある。
服属のしるしに九州から献上された品だよな
>>517 それだ!
文明開化の時、肉食が解禁されたが、当時の血抜きが不十分で、
甘辛のしぐれ煮にしようとすると強烈な腋臭臭がしたため、
庶民にはなかなか肉食が普及しなかったとか。
520 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:13:09.31
竃については弁辰の条に「施竃皆在戸西」って書いてあるよ
これが200年あたりとかに西新に到着しているんだろうけど
50年遅れで庄内式スタートだと 無理なく編年可能
無理
522 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:24:50.93
いよいよばれてきちゃったみたい
東遷説がチエオクだと
524 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:33:59.08
張政さんの指令の結果大和王権が発生したとはどうしても考えたくないのでしょうが
525 :
ローガン:2014/05/17(土) 16:36:09.47
>> 456
> 庄内式は土師器と呼んでかまわない。
というのは、
古墳時代の土器を土師器とするならば、
庄内式が古墳時代か弥生時代化というのは人によって意見が違うから、別にかまわない、
ということ。
庄内式を土師器と呼ぶことに対しては問題なしと。
>言いたいことをもう一度整理すると、
庄内式期に、斉一性をもった土師器が出現した、というのは間違い。
ということになる。
斉一性ないなら、九州で出た薄甕をなんで、庄内式と呼ぶの?大和や河内と同じ特徴の土器だから庄内式なんじゃない?(笑)
で、庄内式が土師器でかまわないという意見なんだから、斉一性のある土師器=庄内式が各地でみられるようになった訳だ。
>>507 > だなんて言ってないけど?
あのなあ、いい加減にしろ。
おまえのゆう「土師器のもつ斉一性」とは、博多遺跡で在地の土器が庄内式に転換したように、
他の土器にとって代わる要素・優越性、ということだろ?
また、「違う、そんなこと言ってない」というなら、自分から「土師器のもつ斉一性」とはなにか書いてみろよ。
で、おまえのいうとおりに土師器を定義すると、白石のゆう東海の土器も土師器になるんだけど。
それはおかしいだろ?
「土師器の斉一性」についての理解が間違っているからだよ。
<だなんて言ってないけど?
>あのなあ、いい加減にしろ。
いい加減にって、現に言ってないじゃん。
あほ?
>おまえのゆう「土師器のもつ斉一性」とは、博多遺跡で在地の土器が庄内式に転換したように、
>他の土器にとって代わる要素・優越性、ということだろ?
どうしてそうだと思い込むの?
ばかなの?
>また、「違う、そんなこと言ってない」というなら、
言ってないよ。
言ったという証拠でも?
>自分から「土師器のもつ斉一性」とはなにか書いてみろよ。
大和でも河内でも筑紫でも同じ土師器だってことだけど
何か?
>で、おまえのいうとおりに土師器を定義すると、
そんな定義、いつ言った?
証拠は?
>白石のゆう東海の土器も土師器になるんだけど。
どうして、なるの? 理由は?
>それはおかしいだろ?
うん、キミの頭はね。
>「土師器の斉一性」についての理解が間違っているからだよ。
どうして? 理由は?
>>526 あんたさ
「庄内式土器の斉一性」という意味じゃない
って言ったけど
本当は自分の口ではっきり
「庄内式土器に『斉一性』がみられる」
って話してるし
他人が言ってもいないこと言った言ったと言い張るし
頭ボケてね?
>>526 あなた、ちょっと変ですよ。
>また、「違う、そんなこと言ってない」というなら、自分から「土師器のもつ斉一性」とはなにか書いてみろよ。
とか言う前に、相手がそう言ったって証拠出すべきでしょう、普通。
普通の人は「おまえは〇〇と言った(ここで証拠提示)が、それはおかしい」って反論しますよ。
>>525 > 九州で出た薄甕をなんで、庄内式と呼ぶの?
それは例えば九州で出た斉一性のない吉備甕を吉備甕と呼ぶのと同じこと。
> 庄内式が土師器でかまわないという意見なんだから、
「古墳時代の土器を土師器とするならば」という前提でかまわないと言っている。
> 斉一性のある土師器=庄内式が各地でみられるようになった訳だ。
ここがおかしい。庄内式には斉一性はない、と言ってるんだけど。
庄内式はまだ地域性にとどまっている。
各地で見られるといっても、それはこの時期の東海の土器や吉備甕・山陰の土器なども同じこと。
博多遺跡で採用されているといってもそれが斉一性をもつことになるのか?
遠賀川式土器といった場合それには斉一性がみられるというけれど、
祖形である板付1式土器に斉一性がある、とはいわないだろう。
だから「斉一性」の定義を聞かれてるのに、まだわからないのかな
「土師器の斉一性」が
「地域的特色が希薄になり、各地の土器に共通性が著しくなる」
だってメチャクチャじゃん。
主語が混乱している。
534 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:25:55.20
>>473 >例えば、遠賀川式土器といったら斉一性がある、と同じこと。
>別に基準はないな。庄内式期には各地に「他地域の土器と共通性が著しい土器」は現れてないだろう、ということ。
ということはお前の基準・定義だと
「遠賀川式土器には斉一性があるが庄内式には斉一性がない」
となるのかな?流石に生まれて初めて聞く話だわwwwwwwwwww
確かに遠賀川式土器は広く分布し所謂「東進」が認められるが
それはある時代ある地域に外部から土器が入ったということで
それ以後継続的に同じように出続けるわけじゃない
対して庄内は一部在地形の特色を入れ作られ続けた経過が確認でき
まあやがて布留に繋がるわけだ
問題は
【 いつから 】斉一性が見られるようになるか?・・・であって
【 いつ 】斉一性が見られるかではない
○=在地形 ●=外来系
(A)ある時期”に”外来系土器が入ってきた
●→→→→
○→→→→→→→→→
(B)ある時期”から”外来系土器が入ってきた
●→●→●●→
○→→→→→→→→→
まあ我流解釈だが「時間経過」「継続性」を考慮しないと単なる搬入土器でさえ
「斉一性がある」とかおかしい話になってしまう(そりゃ外部からもたらされたものなのだから
その大本と共通なのは当たり前)
>>528 > 大和でも河内でも筑紫でも同じ土師器だ
大和と河内は同じ5様式圏だろ。それも全域じゃない。中河内と大和盆地東南部だけ。
あとは博多遺跡か? まあ、福岡平野だとしてもそれだけで斉一性がある、というのか。
だったら、東海の土器も土師器とよんでいいだろ?
同じくらい広域に分布しているし、在地の土器が影響をうけて転換してるし。
> どうして、なるの? 理由は?
「関東地方をはじめ広大な東日本各地の地域性の強い弥生土器が【土師器に転換】するのは、
近畿地方の庄内式土器の直接的影響によるものではなく、
まず東海系の土器の影響が及んだ結果であることが次第に明らかになってきた点である。」
> 「転換」という言葉が
> 「地域性の強い弥生土器」があまり使われなくなり
> 土師器(庄内系や布留系)が大勢を占めるようになる
> という意味だというのは、わかるね?
↓
「関東地方をはじめ広大な東日本各地の地域性の強い弥生土器が【あまり使われなくなり土師器が大勢を占めるようになる】のは、
近畿地方の庄内式土器の直接的影響によるものではなく、
まず東海系の土器の影響が及んだ結果であることが次第に明らかになってきた点である。」
おまえの<書いた>とおりあてはめるとこうなる。
537 :
ローガン:2014/05/17(土) 17:45:49.93
>>531 >それは例えば九州で出た斉一性のない吉備甕を吉備甕と呼ぶのと同じこと。
斉一でないなら、なぜ吉備甕と認識できるの?九州出土なら九州甕じゃない?(笑)
吉備甕と斉一だから九州で出ても吉備甕なんだけど。
>ここがおかしい。庄内式には斉一性はない、と言ってるんだけど。
九州で出た薄甕が何故、庄内式なのかね?近畿出土の庄内式といわれる土器と同じものつまり、斉一だからだろう?
>>534 基準はないといったが、これが基準だと明示することはできない、線引きできない、に言い換える。
遠賀川式土器に斉一性があるといい、庄内式にはない、といった場合の違いはやはり分布の広さの違いだろう。
庄内式の分布が大和盆地東南部、中河内、播磨、瀬戸内に僅少、福岡平野、だけでは、
吉備甕や東海の土器と大差ないだろ。
したがって、庄内式に斉一性がある、というなら、吉備甕や東海の土器にも斉一性がある、といえるだろう。
で、斉一性があるから土師器だ、とするなら、吉備甕や東海の土器も土師器だ、ということにならないか?
539 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:55:55.35
今の「斉一性」論議のほとぼりが冷めたら
>>471 からの『狗奴国東海説への疑義』を少し続けたいとオマイマスwwwwwwww
540 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 18:01:54.40
>九州で出た薄甕が何故、庄内式なのかね?
畿内ののご先祖だからであろう でてくるのえろ限定的だし。
>>536 ★サギ発見
>> 「転換」という言葉が
>> ・・・・・・・・
>> という意味だというのは、わかるね?
・・・・・・・・
>おまえの<書いた>とおりあてはめるとこうなる。
原文
>>496の
「・・・」という文章で「転換」という言葉が ”
から
「・・・」という文章で ”
の部分がこっそり切除されておる。
したがって改竄されているから
「おまえの<書いた>とおりあてはめると」
はウソ
飛び離れた地から、1個だけ同一様式の甕が出てきたら「同一様式」とは認定できても、
量と面積が伴わず、1個だけじゃ「斉一性がある」とは言わないだろ。
543 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 18:07:56.77
>>538 >斉一性があるから土師器だ、とするなら、吉備甕や東海の土器も土師器だ、ということにならないか?
ならないだろうねえ
先ず話しのスタートは「何処で弥生土器との区別をするか?」・・・だ
斉一性といってもやがて収斂する方向性を持ってないと
ある時は斉一性があったがそれ以後(その外部から持ち込まれたものを取り込んで)独自独特なものになっていったじゃ区別線引にならない
ある地域のある時期に九州や吉備から大量に土器が入り在地系もその影響を受ける
がじゃあその後、九州や吉備のものと徐々に差異がなくなっていく・収斂していく方向性が認められるのか?
それこそ一時的にシェア90%をとってもそこからその地方が独自路線で進化して行ったら両者の斉一性はどんどん薄れていく
>遠賀川式土器に斉一性があるといい、庄内式にはない、といった場合の違いはやはり分布の広さの違いだろう。
すげー我田引水なのw
おれんちの妹とその同級生2人は眉の弾き方に斉一性があるよ。
3人だけだけど。
>>537 あなたがそのレス内ででゆう“斉一性”とは土器様式の“斉一性”でしょ?
土器の様式を指して“斉一性がある”というなら、5様式も“斉一性がある”、となる。
でも5様式は土師器ではない。
「斉一性のない吉備甕」とは(土師器としての斉一性)をもたない吉備甕という意味で書いた。
わかりにくくてすまん。自分でも読んでてわからなかったわ。
で、そうすると正確には「庄内式には土師器としての斉一性はない」となる。
「斉一」というのは「物事が一様であること。ととのい、そろっていること」なんだから、ある集合の中で画一性があるなら「斉一性」があるだろう。
母集団の大きさとか、勝手に我流の意味を付加しても他人には通用しない。
>>544 > 3人だけだけど
ああ、そうか。占拠率、割合のことだというんだな。
そうすると庄内式土器の全土器に対する割合はずいぶんと低いものになるだろう?
>>545 あなた、、、
話が庄内式土器の「斉一性」になったり「土師器の斉一性」になったり、ぐちゃぐちゃですよ。
>>547 あんた、おつむ足りないのか?
どうして突然「全土器」が出てくるの?
その「全土器」って土師器なの?地元の弥生式土器なの?
550 :
ローガン:2014/05/17(土) 18:25:42.89
>>538 >で、斉一性があるから土師器だ、とするなら、吉備甕や東海の土器も土師器だ、ということにならないか?
なるわけがない。
土師器に斉一性がみえたとしても、同一の特徴をもつ土器全てを土師器と呼ぶ訳がない。
「庄内式に斉一性がみえるから土師器である。」
は、そもそも間違いなので、いくら否定しても意味がない。
551 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 18:31:08.51
よこからみてても、論点がよくわからん
552 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 18:35:28.03
あなた、ちょっと頭整理したほうがいいですよ。
共通項があるから、ある一つの様式に分類される んでしょ
>>545 言ってることがわけわかんないんだけど
「庄内式には土師器としての斉一性はない」
と言い張る理由はなに?
554 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 18:45:04.17
>>551 多分本人も分かってないし本人が分かってないのに周りの人間が分かるはずもなくwww
恐らく当初は斉一性とは古墳時代に始まった「新規格」に各地が参入することで現れだしたもの
・・・ってイメージだったんじゃないのかな?
まあ自分テレパシストじゃないんでよく分からんですがwwwwwww
>そうすると庄内式土器の全土器に対する割合はずいぶんと低いものになるだろう?
「土師器としての斉一性」の話じゃなかったの?
コロコロ話が変わるし
>>554 そんなの、首長はルックイーストで畿内式の祖先祭祀はじめちゃうけど民衆の生活は旧態依然の弥生土器炊飯、なんて地域、どこにでもあるよな。
557 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:00:27.20
斉一性ないないの兄さん言ってること支離滅裂じゃね?
558 :
ローガン:2014/05/17(土) 19:03:47.05
彼の主張は、おそらく
土師器には斉一性がなければならない。しかし、庄内式には斉一性がないので、土師器ではない。 でしょう。
当方のそもそもの主張は、
古墳時代の土器を土師器と呼びましょう。とした時、庄内期を古墳時代とすれば、庄内式土器は土師器と呼べば良い。
庄内式土器を土師器と呼ぶか呼ばないと、全国の土器が、画一化して行く事とは、分けて考えましょう。
というもの。
ローガンの解説はありがたいんだが、「 」とか[ ]とか【 】とか、使ったことはないのか?
斉一性なんてどうでもいいことじゃん
もっと大事なことがあるのに
論戦に勝つことばっかり考える奴が癌なんだよな
斉一性って、やたらに含みを持たせた言い方で、人によりさまざまな意味を持つな。
562 :
ローガン:2014/05/17(土) 20:42:26.63
>>560 >もっと大事なことがあるのに
S字甕の拡散形態を文化現象と捉え、それとは異なる庄内式の伝播形態に、政治的な意味合いを見る…とか。
東海の人間が大和を建国したって考えれば幸せになれるのに
脳がお花畑になれば皆んな倖せになれるのに
カルト宗教に騙されてて脊髄反射で反発する奴は幸せになれないな
>>554 > 斉一性とは古墳時代に始まった「新規格」に各地が参入することで現れだしたもの
まあ、そうだったんだよ。・・おれのゆう斉一性とは
弥生後期には、北部九州・山陰・吉備・讃岐・阿波・播磨・畿内・近畿北部・北陸・東海・関東など
各地域で地域性をもつ土器が使われていた。
これが「斉一性のない状態」
それが、古墳前期になると各地の土器に共通性が著しくなる。どの地域の土器も同じようなものになる。
それを「広域の斉一性があらわれる」(福永)とか
「地域の別を超えてすべての地域を一つの色に塗りつぶすが如き均一性」(小林)という。
なんだよ。
その間の庄内式期はどうかというと、まだ各地の土器には地域性がある「斉一性のない状態」だ。
で、各地の土器に斉一性が現れるのは
「古墳時代に始まった「新規格」に各地が参入すること」
によってだと。
そおゆうイメージだ。
567 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 21:13:27.54
幸せか・・・
まあ本人が幸せと思えば幸せ
それが他者から見てどうであろうと・・・
例えば華々しい芸能界に身をおいてる芸能人
かつて石原プロの「西部警察」とかにも出てた「苅谷俊介」なんか
纏向の発掘に手弁当で押しかけて勝手に発掘を手伝って
等々畿内説の本まで出しちゃって
発掘現場の先生からは「九州の裏切り者」(大分出身)とまで言われて
それでもまあ本人は幸せなんだろうとwwwwwwwwwwwww
それがどうして「土師器としての斉一性」なの?
569 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 21:19:10.83
>>566 しかしその場合「 新企画=古墳文化 」が現れる前には斉一性なんか現れないという理屈になるぞw
それこそ各地でどれほど同じものがでてもだ。
まあもう一回整理して出直したほうがええでwwww
>>567 そういう脊髄反射する前に、大脳使って検証してみたのかって問いたい
>で、各地の土器に斉一性が現れるのは
>「古墳時代に始まった「新規格」に各地が参入すること」
>によってだと。
結局また「土師器としての斉一性」の話じゃなかったわけだね?
庄内式土器から規格度が高くなるってことだろ
土器生産専業化…良質胎土採取地での量産、輸送
シェア率のことじゃないだろ
寺沢薫は、青銅器祭祀終焉後、古墳祭祀に移行するのは各地で起きてる現象で、
その早い遅いがあり、時期はバラバラとしている。
青銅器祭祀を先駆的に終結させた先駆は出雲では、
加茂岩倉や荒神谷で青銅祭器を一括埋納。
マキムク石塚にしても、恐らくは「見る銅鐸」を破壊→再利用して、
古墳祭祀に移行したものだろう。
東遷とか征服を考えるより、自主的な古墳文化の受容、内部発展を見るべきだろう。マキムクは。
で、マキムクで誕生した前方後円墳の祭りが全国に波及する。
単純な筑紫東遷→マキムク誕生が成り立たなくなったのは、
マキムクの前方後円墳が各地の葬送儀礼のパッチワークだったから。
各地からマキムクへベクトルが集まり、マキムク型前方後円墳が成立。
成立後、ベクトルが逆になって、それが各地に伝播する。