1 :
日本@名無史さん:
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part24
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1389101796/
3 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 19:31:46.12
大和高取城って田舎の山城ってイメージだったけど、津山城みたいに壮大だな。
2万5千石の城じゃないわ
4 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 19:41:33.58
猿岩がチンコ丸出しで可愛い
5 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 19:49:18.93
とりあえず、復元してほしいもの。
・水戸城三階櫓
・大坂城紀州御殿、三階櫓群
・仙台城大手門
・江戸城西の丸仮殿舎
真田丸を復元しよう
8 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 20:32:22.17
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
日本の近世天守は中国式城壁の最終的かつ究極の形態。
それは紫禁城の天安門上の楼閣を見れば、よくわかる。
>>9 日本の近世城郭は政庁としての権威作りのためのもの
囲ってるのはごく中心部のみ
対して中国式城壁ってのは西洋の城郭都市と同じく、街全体を囲ったもの
西安に残ってる城壁を見たらわかる
異民族から街を守る大陸における防御施設だろ
性質としては北条氏の総構えの方が近いと思うがな
>>3 高取城て元々は大和豊臣家の支城として壮大に建てられたもんだと思うけど
秀長死後は所領も分割されて、江戸時代・小藩には過ぎたるものなったんだろうな。
日本は非戦闘員はなるべく殺さない
大陸は街ごと皆殺しにする
この差が城郭に出ている
13 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 22:33:17.88
とっとと豊臣大坂城を全面的に発掘しろよ!
>高取城主・植村家は諱が代々「家」の字を継承しているのが面白い
2代続けて主君殺しの犯人を誅した功からか
譜代の中でも特別て感じだな。
子孫の一人が湘南乃風のメンバーてのも驚きだが
16 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 04:34:53.95
>>12 殺さん代わりに生け捕って南蛮人に奴隷として売るけどな。
単に、武士が民を守るという発想がないだけだろ。特に城下町の町人なんかは。
17 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 04:47:22.84
直系子孫が高取町長をやっていて、「子供に家の字を入れなきゃならないから困る」とか
テレビで言ってたな。
町長の家はかつての家老屋敷で、以前朝早くに行った時にはゴミが家の前の道路の
真ん中に置かれていて呆れた。元殿様で町長っていうのは、田舎ではそんなに
威張ってるものなのか。
18 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 05:29:32.41
1889年にオハイオ州でダン•マクラウドはエド•アサートンに勝って初代世界ミドル級チャンピオンになったニダ
朝鮮族はマクラウド説でダン族ニダ
19 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 05:32:42.87
笑わせるなwww
血筋良すぎて笑ったwww>湘南乃風
植村氏義ー女子(本多忠高室)−本多忠勝ー忠政ー女子(有馬直純室)─康純─清純─一準─孝純─本多忠可─本多忠居ー本多忠鄰ー植村家壺ー家治ー家隆ー家顕ー家浩(SHOCK EYE)
徳川家康-松平信康-登久姫(松平信康の娘)-小笠原忠真-小笠原忠真の娘-松平頼元-松平頼貞-松平頼貞の娘-堀直泰-堀直泰の娘-本多忠鄰-植村家壷-植村家治-植村家隆-植村家顕-植村家浩(SHOCK EYE)
織田信長-徳姫-登久姫(松平信康の娘)-小笠原忠真-小笠原忠真の娘-松平頼元-松平頼貞-松平頼貞の娘-堀直泰-堀直泰の娘-本多忠鄰-植村家壷-植村家治-植村家隆-植村家顕-植村家浩(SHOCK EYE)
有馬晴信ー有馬直純─康純─清純─一準─孝純─本多忠可─本多忠居ー本多忠鄰ー植村家壺ー家治ー家隆ー家顕ー家浩(SHOCK EYE)
>>16 それ九州のキリシタン大名ぐらいだから
秀吉ですら知らなかった
23 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 19:08:30.32
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
24 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 19:13:50.82
>>21 本物のお殿様なんだなw
それが仮面ライダーガイムの主題歌歌ってるのかと思うと胸熱だなw
>>20 正直ガラ悪いね
ファンモンの住職になるっつって辞めた人のように、お家を考えていてもらいたいものだね
実際のところどうか知らないけど、諱の通字も家浩の代で終わりとか悲しいことしないでほしいな
27 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 00:53:23.19
とっとと豊臣大坂城を全面的に発掘しろよ!
よく御殿の一部だけ復元したり残ってたりするけど、なんで中途半端なことをするの?
建物をつくるのにはお金がかかるからですよ、わかってね。
>>22 海外への出荷窓口が九州だってだけで、人を攫って人身売買とか東国でも普通にやってるから
上杉とかね
32 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 08:32:51.88
飫肥藩伊東氏なんて、江戸時代でさえやってたからな。もちろん南蛮人に売るわけじゃないけど。
参勤交代で国許に帰るときに、子供やら知的障害者やらをさらって領内で奴隷として売りさばいていた。
飫肥の人攫いとして有名で、行列が来ると聞くと、親は自分の子が攫われないように隠したとさ。
近所の農民が弁当持ってのんきに合戦観戦してたって話と
直接攻められるわけじゃないが合戦期間中のいらん被害防ぐために
避難する砦作ってたって話と両方あるね
34 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 09:07:04.62
併呑するつもり満々なら農民は生かそうとするし、自家が滅びかねないほどの脅威が相手なら、
相手勢力を弱らせるために農業基盤の破壊行為も辞さないことだろう。
そういう温度差って農民レベルでも事前にわかるんかな
>>33 観戦したのはアジールたる寺社が近くにある場合
37 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 12:37:35.37
>>35 そりゃ分かるだろ。自分の生活に直結する話だし、村からは足軽小者の類がかり出されてるんだから。
38 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 12:43:29.39
合戦のときは住民とかほとんと砦の中に逃げたりとかな
要は合戦て人狩り目的だし奴隷として連れていかれるなんて
普通にあった話
秀吉の関東征伐なんてのも体のいい奴隷狩り
39 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 12:46:34.76
37
つうか村一揆って団結しなきゃ皆殺しにされるだけだし
韓国辺りの迎恩門とかみたいに条件付きでどうたらって
のはなかった時代
>>31 その詳細知らないだろ?
それは捕虜解放のための身代金だよ
し か も 格安だった
分かった?
無知蒙昧くんw
41 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 12:47:37.19
とくに合戦につきものの野盗追い剥ぎがいるからな
42 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 12:49:03.78
40
はいはい、おせえて^o^
一揆が皆殺しとか
とことん無知だなwwww
ファンタジーの教科書を学んだ朝鮮人だろ
朝鮮の伝統を守って道路にウンコしろよ
>>42 身分によって差が有り
安い人は20銭で解放されている
買いに来るのは家族がほとんどだった
理解できた?
45 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 13:00:42.20
馬鹿だわこいつ
46 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 13:02:21.43
な!一揆の目的理解できたろ
日本は奴隷狩り戦争してたのに大名は城下町程度しか堀や壁の内側にいれず人道的に最低だな
48 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 13:11:19.04
>>44 どういう文書にそんな情報が載っているんだ?
朝鮮人がファビョってるなw
なお朝鮮の奴隷制度は日本が廃止してる
奴隷制度を廃止しようとした朝鮮人は民衆に殴り殺された
ウンコと奴隷、これが朝鮮人のルーツである
>>48 上杉 20〜32銭(別本和光院和漢合運) 城を落として現地で取引
武田 2貫〜10貫文(勝山記) 親族が金を集めて買いに来た
奴隷売買なら相場が有り
値段が100倍も違うという事は有り得ない
ところで山城って普段は誰もいなかったのかな
それとも警備や山頂の館の清掃とか数人はいたんだろうか
52 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:11:21.88
>>50 身代金目的だろうが奴隷売買だろうが、上杉が田舎者で商売下手って話にしかならんと思うが。
奴隷商人も、無知な田舎者の足元を見て買い叩くくらいのことはするだろうよ。
53 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:15:53.43
警備付けてないと、ゲリラ兵に放火とかされかねんだろ
54 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:20:30.61
奴隷商売くらいでなで殺しあるわけないでしょ
55 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:38:09.18
>>54 意味がつかめんが、上杉は敵領の民をなで斬りで殺していたのか?
>>52 田舎者ってww
あの時代は京都堺博多くらいだろ、街と呼べるのは
都会も田舎も無かったと思うが
57 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:55:09.51
まじかあwww
そこまでやってたのか?w
58 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 15:00:09.21
>>56 今の感覚で考えちゃいけない。
最先端文化地域は京で、京に近いほど、あるいは京と人的交流がある大名の
城下町ほど文化が高かった。
最後進地域は奥羽で、越後も大して変わらない。
59 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 15:00:19.11
56
都とよばれてたのは京と古賀
奥州管領の大崎氏も御所開いて初期は東北中の
大名が参内していたから東北の京といえる
60 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 15:05:09.34
この中から伊達氏や芦名氏なんて直接、京都の将軍家と
つながるようになったのが東北の動乱の元やからね
>>58 文化ってなによ?
ほとんどの国民がまだどん百姓だった時代で戦国の騒乱期だぞ
京都や明の美術品を持ってたり茶の湯やってたら文化人か?
そういう輩が進んだ考え?を持ってたのか?
金銭的感覚や交渉力とは全く関係ないことをリンクさせんな
62 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 15:29:23.36
>>61 例えば当時は書物が少なくて貴重だった。今みたいに全国均一で教育が受けられて、
どこでも自由に書籍が入手できる状況から発想が離れられなければ、全く当時が
見えてこないことだろう。
63 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 15:57:15.53
劣等感溢れる東国の人も納得したみたいだね。
無知ゆえとはいえ、見苦しく喧嘩を売ってきたことを反省してもらいたいものだ。
64 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:04:00.75
つかほんとに分かってないんだな
信長のとき畿内の統治、室町式で最初はやろうとして
将軍の統治でやろうとしたが失敗してんだよな
権力が錯綜してたから誰が誰に殺されても不思議でない
死の都
:::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな…
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 …
┌──└────────v──┬───────┘
| 氷鷺ごときに殺られるとは │
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='|
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ /
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\
海獺 Ks aka 98 池脱兎
66 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:05:04.82
63
馬鹿さらして楽しい?
67 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:14:13.82
>>66 反論できないから負け惜しみかね。今でも文化水準が低いのかな。
江戸時代に入ると色々史料が残っているから、文化レベルの違いが明瞭に分かる。
庶民の識字率やら、商品作物栽培の伝播の流れとかでね。
東国では江戸という最大の都市があるにも関わらず、あらゆる製品を上方から
購入し、そうでない物は「下らない」として格下に扱われた。江戸末期でさえ、
精々醤油くらいしか地元生産に切り替えられなかったほどだ。
文化度の地域的な違いくらいは常識として覚えておいてね。
68 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:16:56.47
>>64 何に対する反論のつもりで書いているんだろう。
単に京都に対するコンプレックスが強すぎて、反論するつもりが、単なる言い掛かりの
こき下ろしにしかなっていないだけかな。
田舎者はオツムが弱いから扱いが面倒だ。読み書きができるだけでも褒めてあげるべきだろうか。
69 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:22:12.73
なんだこの機械文字くさいやつら?
ところで城が領主の館や陣屋、行政庁も含めるなら
平城京や平安京の宮殿もある意味城になるのかな
もしそうだとすると現在の皇居に当たる江戸城内郭に匹敵する
日本最大の城になるけど
71 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:23:16.43
>権力が錯綜してたから誰が誰に殺されても不思議でない
東国の鎌倉幕府なんて、姻戚の北条氏が自分たちの血を引く主君の将軍を、権力を奪うのに
邪魔だというんでコロコロしちゃってるんだよね。どこまで権力欲の強いクズ集団なんだろう。
72 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:24:54.81
73 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:39:22.83
おもしれえw
言ってることで底がみえてきてるわ
74 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:41:17.27
>>73 何も書かなければ、自分が馬鹿な田舎者だとあげつらわれずに済むのに。
そんな知恵さえ回らないの?
>>72 でも一応周囲を高い塀で囲んでいて
内部には衛士達が武器をもって詰めている衛府という部署もあったし
本格的な城郭ではないにせよ陣屋クラスの防御機構はあったのでは
76 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:51:33.05
ほんとに馬鹿なんだね
田舎者が馬鹿とか愚かとかっていう奴は自称都会者の関東人だからな
関西で田舎者をバカにする言動を聞いたことがない
地元にこれといった文化的遺物が残ってないコンプレックスから東北をバカにする東京もんの浅はかな考え方だな
78 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 16:56:27.24
いや単なる無知
だから馬鹿だっていってるの
お家騒動なんていったら平安時代がら例を全国的にあげてってやろうか?
>>36 「アジール」ってそんなに強力だったん? ケースバイケースだろうが・・・
80 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 17:07:38.18
>>77 >関西で田舎者をバカにする言動を聞いたことがない
経済を東京に持って行かれたために萎縮してる関西人は多いね。
金回りが良かろうと、関東が田舎気質なのは変わらないのに。
>>78 自家の血を引き、自家を引き立ててくれた恩人でもある主筋の人間を
エゴのために殺したようなえげつない例をちゃんとピックアップしてね。
源氏平氏も、東国に関わると途端にやさぐれて反乱とか起こすんだよな。
81 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 17:10:16.88
>>79 中世でもいくさで寺社を軍事拠点にしたり火をかけたりって例は多いよな
83 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 17:23:50.37
78
ほんとに無知なんだな
守護とかになったのは新政権からきたってのが多い
土着してるのはそれ以前からのいわば旧時代からっ
てのがほとんどだぞ
貴族が地方でヤクザ化して武士になり
そして武士の時代になった
85 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 17:26:35.08
組下になってるが初期なんて争ってるしそういうパターンが多いが?
ちょっと東国ばかりいってるが西国も調べてみな
86 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 17:47:47.54
>>83 土着民は文化程度が低くて、自分たちのルールが他所で通用しないことさえ理解できずに
混乱を作るだけの存在だから、守護とかにはなれない。
逆に地元の関東では土着民同士の争いに明け暮れているだけでいいから、薫陶してくれた
主君の恩を忘れて源家を滅ぼしているだけで北条は執権になれたわけだ。
結局、元寇でぼろが出て、西国武士と対立して滅んだけどね。
浅ましい土民だ。
>>84 よほど浅ましい土地だったのだろうね。
>>85 頼家なんて、母親の実家に幽閉された挙句、金玉切り取られたりして惨殺されてるんだよな。
どれだけ鬼畜なんだよ東国土人。
87 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 17:52:50.26
結局のところ、東国土人は「前近代には畿内近辺と東国の文化水準が
あまりにかけ離れていた」という常識的な話は理解できたんだろうか。
土人の知能では、それすら理解できないのかな。
88 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:10:20.46
幸福の科学とかけ?w
89 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:19:15.52
とりあえず、関東では水戸城の三階櫓を、
畿内では大坂城の紀州御殿と三階櫓群を復元してほしい。
できれば、増上寺の徳川霊廟と戦時中疎開で壊された京都御所の建物も。
90 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:37:54.12
>>88 学問と宗教の区別がつかないとしたら、なんとも東国土人らしいね。
91 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:39:56.98
馬鹿だよなあほんとになあwww
ネトウヨだの煽ってたので正体ばれてんのによ
92 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:03:01.68
いくら関西人がほざいても歴史は変わらないw
徳川様の大阪城に向かって毎朝土下座してろ
93 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:04:59.70
京都といえば、二条城の本丸御殿(旧桂宮御殿)を京都御苑内の旧桂宮邸に戻して、
本丸には幕末の古写真に残る慶喜の住居を復元してほしいね。
天守台に幕末あったという物見櫓(火の見櫓みたいなやつ)も。
94 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:06:57.47
豊臣大坂城なんて古くさいショボイ城なんかどうでもいいから、
戦災で焼失するまで残ってた徳川大坂城の三重櫓群をしっかり復元してほしいね。
ついでに紀州御殿も。
95 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:08:51.52
江戸初期そのものを復元するべきだろ、日本中取り壊して
96 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:13:13.69
>>91 なんだ、妄想相手に戦ってたのか。
ドクターに相談した方がいいぞ。精神科だ。
97 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 20:06:32.36
寛永寺と増上寺の徳川家霊廟は、ぜひとも復元してほしい。
98 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 20:17:41.70
復元してほしいと軽々しく言うけど
名古屋城などを除いてはまともな図面は存在しない。
首里城なんて図面どころか写真さえ残ってるのが少なく
復元に相当難航したって話を聞いた。
99 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 20:46:33.10
江戸城の西の丸仮殿舎は図面も襖の下絵もしっかり残ってるから、
ばっちり復元できるな。
復元バカは捨ておけ
またクッサイ日本分断工作員がわいてるのか
本当に鬱陶しいわー
>>98 五稜郭・箱館奉行所も図面残って無かったらしいね
写真から瓦の枚数まで調べて、できるだけ当時の工法を再現したらしい
でも、結構大変だったようだねあそこも
103 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 08:15:03.33
水戸の三階櫓の図面は何かで見たこと
が有るね…
:::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな…
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 …
┌──└────────v──┬───────┘
| ジャムリンめ、氷鷺ごときに殺られるとは │
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…
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海獺 Ks aka 98 池脱兎
105 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 09:18:55.59
>>101 東国人は記憶力がサルなみだから、「前近代には畿内近国と東国では文化程度に極端な差があった」
という日本史上の常識に対して勘違いを振り回し始めたのが発端だとはもう覚えていないのかもしれないね。
文化程度は今も大きな差があるようで、残念至極だ。いつになったら野蛮人の教化が済むんだろう。
東国人は理詰めで追い詰められると、すぐにシナチョンのごとくヒステリーを起こすから厄介だ。
歴史的に見ても、平和な世を乱すのはいつも東国人。またその蛮性をむき出しにさせないために、
時折調教する必要がある。それが文明人たる関西人のつとめだ。
バカめ。
106 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 09:27:53.33
戦後のコンクリ天守よりは台北の故宮博物院や中正紀念堂の方がセンスあるね。
台北の故宮博物院は、ペキンの故宮よりすばらしい。
107 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 10:20:34.78
>>106 北海道石狩国空知郡芦別には「徳川城」があるが、あれはどうよ?
鉄筋コンクリで作って、表面仕上げだけ板張りと漆喰塗りで誤魔化しきればよい
そもそもコンクリに拘る必要もないかと
鉄骨、集成材等、現代は様々な素材があるのだし
鉄骨鉄筋コンクリートが多いのは大阪城の模倣だし
110 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 12:46:08.94
中正紀念堂は写真で見ると
普通の建物っぽいけど実物を見るとめちゃくちゃな巨大さ
>>105 よぉシナテヨンw
俺はシナテヨンなんて一言も言ってないぞ
自分から正体を現すとは流石だなw
112 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 16:39:33.29
>>111 相変わらず、スレで見たこともない単語を見たような気になるあっちの人かね。
閉鎖病棟系かと思ったら、海外の人だとはね。
東国人は、「渡来人のうちで国づくりの役に立たないとして僻地に棄民された
役立たずの末裔」ってな感じの鮮人なわけかね。
実際そうなんだろうけどな。なんであの蛮人どもは、人殺し技術ばかりに
長けているんだろう。
どれだけケモノ臭いんだ。
書きっぷりで、雰囲気は出てるから分かるだろ。
事故でプライド崩壊して、ちゃんとした歴史を持つ日本をけなしたいだけ
スルーしようよ、城のはなしに戻してくれ。
114 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 20:33:20.20
きっぱり断る
はは、いいけどね、日本ではサル呼ばわりは、それほど誹謗中傷にはならない。
感覚がわからないんだろうけど、自然と一体で生きてきたから、猿飛佐助とか
猿田彦とか、豊臣秀吉のあだ名も含め、すばしっこくて知恵も少しあるぐらい
のニュアンスがあった。サル呼ばわりされて、カッカするのは別の国の人の感性。
だからお国が知れてるってもんだ。
あ、忘れてた。日本では海難救助でひっくり返った船から人命を救助できる人たちは
「海猿」って言うんだよ。
このスレの脱線率はJR北海道並
118 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 22:46:49.97
日本猿の自己中な解釈だな
流石は猿民族
半島には猿すら住めない
昆虫や爬虫類の国だw
人類は猿の子孫だぜ
日本猿といいながら、その日本語しか使えないんだろ、哀れな奴、腹が立たないよ。
朝鮮人は「熊」の子孫wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
123 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:35:04.52
猿は視野が狭いからローマ皇帝の祖はどういう経緯か知らないんだろ?
少なくとも糞猿より熊のほうが遥かにまともだしカッコいいけどな
猿はカッコいいなんて思ってる馬鹿は世界中でお前らだけだ
熊なんて神話に出てこない
かなりのゴミ
ローマ皇帝の祖は熊じゃないぞw
狼の乳を貰っただけ
熊知能のバカがw
日本 猿
朝鮮 熊
知能対決で日本圧勝だな
熊から生まれた朝鮮人w
かわいそうに
127 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:54:25.97
世界中で、狼、熊、糞猿、順位付けしたら、間違いなく熊≧狼>>>>>論外の底辺動物糞猿 だが?
脱線脱線
129 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:58:28.61
私は日本人だ。勘違いするな。世界一般的スタンダード言ってるだけ。猿がカッコいいとか日本人としてお前は恥ずかしい痛々しい人間
130 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 00:00:21.61
世界中で猿は笑い者。我々は紳士に自覚したほうがいい
人類の先祖は猿
それを否定する者は人間に有らず
朝鮮人とは
人類と別系統なのか
134 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 00:08:01.59
そういう独りよがり解釈か日本は世界中から嫌われ、バッシングされてるんだ。お前のような都合のいい猿脳解釈がなんだよ。
熊は勇ましく気高い。猿の分際が馬鹿にできるものではない。熊は哺乳類最強なんだよ猿が
言うに事欠いて、世界一般的スタンダード!そんなものがあって、それをご存知の方!国籍取得者でしたか。
それは失礼。で頭の中の思考は日本語ですか?・・つまりあなたの言うサル語で思考されているのですか?
>>134 虎とライオンと象は?
やっぱり熊の子孫は低知能だなw
137 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 00:15:27.24
日本猿は馬鹿だから熊がライオンより弱いと勝手に判断してるんだろ。そもそも熊がライオンに食われた事実はなく、またそもそも生息地も違う。
劣等倭猿は熊にもライオンにも勝てないだろがwww
半島は虎が最強だよな?
日本語使って、猿より熊が強いって必死に言ってるよ。しょうも無い奴がきてるねえ
140 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 00:45:43.06
韓国に生息する動物は客観的に虎や熊など精強なものが多いよな。俺は韓国が好きも嫌いもなく、韓国に住む動物は精強だと思う。
そもそも石垣は確実に韓国から日本に伝わってるしなあ。そういう部分は日本城好きとして韓国を謙虚に尊敬だわ
熊並みの知能がなんか言ってるよなw
朝鮮人なんて猿以下の熊の知能なんだよw
ちなみに猿の本場は「中国」だからなw
朝鮮人は身の程知れよ
もし平城宮や平安宮を城と見立てた場合防御力はどうだろう
堀はないけど周りに高い塀はあり、内部も様々な省庁や塀が入り組んでいて
400人規模の衛士が武器を持って天皇を護っている
144 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 00:52:24.96
俺は朝鮮式石垣を伝えてくれた功績は日本の城文化の根幹だろ。日本人として人として城好きとして感謝してるといってるんだよ。感謝の気持ちも忘れてるような民族だから猿と馬鹿にされてしまうんだろう
145 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 00:56:36.18
背伸びすんなよ倭猿。儒教までパクったくせに兄貴に口答えか?ww口答えだけは人並みか倭猿が
恥ずかしいな
桜は朝鮮起源と言ってる哺乳類以下のゴキブリそのものだなw
桜と秀吉の関係ぐらい知ってるよな?
日本 猿 いちおう人
朝鮮 熊 下等な生き物
神話によれば
日本人は、降臨した神と、現地女性との子孫
朝鮮人は、降臨した神と、野生の熊の子孫
朝鮮人て可哀相・・・・
149 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 01:14:46.24
倭猿は馬鹿だから、返り討ちにされた猿がなんでも朝鮮に伝えたと本気で思ってんだな。武士道も朝鮮の儒教が根幹なのは流石に認めるよな倭猿?
>>149 儒教が朝鮮起源だなんて、どんだけ恥知らずなんだよ
まさしく糞朝鮮人そのもの
反論有る?
朝鮮人 船が沈没すると真っ先に逃げる
日本人 原発が危機でも何とかしようとする
152 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 01:29:50.95
儒教は朝鮮期限だが?人間の歴史も知らないから猿だと言われんだろ倭奴www
153 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 01:38:56.95
それから秀吉は返り討ちにされてんのに、よく恥ずかしくもなく秀吉が伝えたなんて言えるな?猿の惑星の思考は理解できませんわwww返り討ち猿が
盛り上がってるねー!!
ここまで妄言?を吐く朝鮮人って久しぶりに会ったよ!
朝鮮人なのに日本の城に興味あるんだね!
李信恵って知ってる??
火病ったのか、トンスルでも飲んで落ち着け
復元と言う言葉をみると、ナントカいう門を思い出して、火病になるんだよ
しかし、朝鮮人が日本人のこと猿って言うけど、自分らもイエローモンキーだっての知らないのかな
猿に猿って言われてもなあ・・・
白人が聞いたらさらにバカにされるだけなのにな
哀れ
157 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 03:13:12.44
馬鹿なんだなあジャップわ。韓国は白人分類されてるのに。なぜ世界中から猿と言われてるのか鏡の前にたってその土人面見てみろよ倭猿がw
>>157 お前は朝鮮人じゃないな
韓国期限とか、白人分類とかかえって朝鮮人を貶めてるもんな
スレを盛り上げようとしてくれてんだろ
ありがとう
おんなじこと何回も書かれたら流石に飽きてしまうから
もういいよ、別に頑張らなくて
韓国人は猿にしか見えない
それとアニメ?の見過ぎ
自分がヒロインか何かだと勘違いしてる
161 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 05:25:46.18
東国人を教育してたのは俺だけど、いつの間にか鮮人が便乗して日本たたきをやってるな
いくらなんでも東国人が鮮人と同格以下だとは思ってないわな。何しろ鮮人は
人糞を好んで食うことからもわかる通り、イヌやブタと同等の存在だからな。
ユーラシア大陸から出雲か
ひでよしが返り討ちだって?
たった一月で首都が陥落したのにッッw
流石はコリアンファンタジー
秀吉は桜を愛していた
165 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 08:34:40.13
>>163 元が相手のときは、数十年掛けてゲリラ戦を続けた挙句に降伏した。
ベトナム戦争がアメリカの負けとするようなごく常識的な判断基準ならば、
秀吉も明らかに負けてるよ。
166 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:01:11.22
ヒデキチは、何で朝鮮なんか攻めたんだろうね?
倭城たくさん作ったみたいだけど
167 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:10:03.14
浪人対策じゃね。徳川も政権安定のために、大坂の陣や島原の乱などで苦労してる。
ところで古墳時代 大和朝廷が日本各地の豪族を制圧する際
城って築かれたのかな
そんな城があったとして有名なのってある?
169 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:43:41.27
古事記とかには城攻めなんてエピソードはないような気がする。
秀吉?
なにをいってるのか わかりませn
>>168 「立て籠もる」メリットが無ければ城はいらない
日本の石垣は朝鮮式石垣の伝来によるもの
調べてみると…
忌宮神社いみのみやじんじゃ(山口) 仲哀天皇は熊襲討伐のため拠点を穴戸(山口県)に移し宮殿を造った。
その宮殿跡と伝えられている場所。
ただ上記のように天皇が遠征の際の軍事拠点として各地に宮殿を造ったという伝承は
いろいろあるんだよね。実際遠征となると数か月から数年はかかるだろうし
異民族の襲撃にさいし城柵くらいはあっただろうから
175 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:33:18.92
>>174 その神社のすぐ近所に長府毛利邸があるけど、
田舎の金持ちの屋敷って感じで、あんまり大名屋敷っぽくなかった。
176 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:40:55.01
だから今に影響ある話なんて戦国以前が残ってるわけねえだろゴミがよ
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
179 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 14:19:45.41
弥生時代の農耕が富の蓄積と環濠集落の発達に繋がり、それが発展して国が出来る。
180 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 14:19:56.65
国が整備してる唐古鍵遺跡もいわば城だよな
181 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 14:34:16.76
国が整備してるね〜
じゃあ国が整備してないとこは?
いつぞや謎の日本王国だのって話が
でたがどうなった?
とても整備してるなんて言えねえぞwww
もし、朝鮮というか中国王朝の石垣が日本に伝来していたら、中身は土の版築なんかでなくてグスクのように石になる。
もちろん、寺院の基壇などを構築していた石工集団は仏教建築伝来と密接であると考えられ、日本オリジナルとは言わないが。
とりあえず朝鮮の石垣も古来の中国で積まれていた石垣技術を使ったものであって、琉球の「グスク」と同様に「朝鮮式」なる朝鮮半島独特のものではないのは確かだよ。
183 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 17:44:25.60
倭猿の言い訳はそれだけか?wwwパクり民族が
あの日本の神籠石山城の石垣の方が古いぞ
朝鮮はとことん捏造民族だな
185 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 19:34:41.62
おい倭猿 桃太郎伝説の吉備城は間違いなく朝鮮式石垣だがな
伝説の時代の城から朝鮮式石垣が伝わり、パクり猿が真似したんだろ
だから朝鮮の山城が倭の真似なんだってw
187 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 19:42:31.06
白村江で返り討ちの倭猿がその朝鮮式石垣を真似て作ったのが12の城だがな。倭猿は本当に屁理屈糞野郎だな。
188 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 20:00:33.23
太古の昔から倭猿は調子に乗って攻めてきては返り討ちだらけにされてるなあwww本当に倭猿は犬畜生だわwww
>>187 馬鹿かw
白村江の後に作られた城には石垣は無いよ
朝鮮式と言われる神籠石山城は記録に残って無く
かなり昔に作られたのが明白なんだが
古代の朝鮮南部は倭の領土だった事を知らない白痴が
もしかしたら居るの?
可哀相に
触るなよ
分かってて荒らしてんだろ
カンコックに半島南部の返還を要求しよう!
謝罪と賠償を要求するニダ
193 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 04:12:51.99
イラネーよ。
194 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 05:24:45.54
>>191 教育内容でさえ、不都合なことは全て隠して栄光の歴史をでっち上げる国だけどね。
ありのままを教えると国民全体が意気阻喪しかねないからだろうけど。
195 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:06:30.80
いいか、よく聞けよ。
一番大事なことは、歴史的事実がどうであったかということではなく、
日本にとって望ましい歴史とはどうあるべきかってことだ。
愛国心のある日本人なら、そこんとこわかるだろ。
問題なのは事実がどうだったかってことじゃない。
日本人にふさわしい日本に誇りを持てる歴史を書くってこと。
198 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:05:15.10
史観ってのは史実に対する解釈であって、史実そのものの捻じ曲げなんかじゃないけどね
199 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:14:30.93
195
他国史の導入はいらない
200 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:18:08.96
つか天足彦国押彦関係でなんであんなに海外のやつらが騒いでるんだよ
古人大兄皇子だっけ?
201 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:13:26.08
倭猿、石垣文化のパクりも認めないでお前らこそ朝鮮にひたすら文化の恩恵受けといてなに食わぬ面してる外道ぶりはあきれるよ
倭奴とはよくいったもんだなwったく
>>201 『後漢書』馬韓伝
「馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。」
>馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。
「弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。」
>弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。
『隋書』倭国伝
「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。」
>新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
>>201 そろそろ下らない洗脳教育から抜け出して
正しい知識を身につけような
可哀想だな
205 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:38:51.88
華麗なる歴史
古代 白村江で圧勝
中世 倭猿を返り討ち
近代 先勝国
おい倭猿、倭猿がなんだって?www
白村江では百済が負けて消滅したんだよ
百済消滅が華麗な歴史なのか?
馬鹿だなコイツ
城スレって、無駄吠えが多いよな
そのへんの空き地に勝手に穴掘って盛り土して城ごっこしたい
210 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 12:52:27.46
配線国か先勝国様にため口きくんじゃないんだよ倭猿www
韓国の教科書には載ってない三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼
1. 「跪(ホイ)」
∧∧
/ 中\
( `ハ´)
( ~__))__~) ∧ ∧ ,.,、,、ノ ))
| | | <`Д´ >(⌒,)
(__)_) と入__とノ`、」
2. 「一叩頭(イーコートゥ)再叩頭(ツァイコートゥ)三叩頭(サンコートゥ)」
∧∧
/ 中\
( `ハ´) ∧ ∧
( ~__))__~) <`Д´ >,.,、,、ノ ))
| | | (( l|lll|lll| (⌒,)
(__)_) と( とノ`、」
∨ ∨ Σ ガンガンガン
3. 「起!(チー)」
∧∧
/ 中\ ∧_∧
( `ハ´) <`Д´ >
( ~__))__~) ( )
| | | | | |
(__)_) <__<__>
この1から3を3回繰り返す
これが歴史的に正しいシナと韓国の関係www
韓国には、輝かしい歴史の証「迎恩門」や「大清皇帝功徳碑(三田渡碑)」もあるのだ
212 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 13:33:14.00
ここでトリビア。
世界広しといえど、人糞を好んで食うのは犬と豚と鮮人だけ。
>>210 中国に仕返しされるのが怖くて
無理強いされてた事にしていたはずだがなwww
214 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 15:57:17.13
中華にびびったのは倭猿も同じだろ!足利は事実上柵封受け入れた属国の分際で 倭奴が独立国気取るな
太古の昔から中華の文字から文明からパクりまくってる倭猿がいえたぎりなど皆無。古代からの属国風土が
とりあえず、グクポンはこれでも読んでホルホルしてろ。そのかわりウリナラマンセーでもなんでも城の話以外はするな。
ttp://ameblo.jp/s080226/entry-11608998106.html ちなみにブログ主を叩くつもりはないが
ブログ主によると、加藤清正が朝鮮人を強制連行して熊本城を築いたあと、国境で殺されたはずの石工が九州各地の石橋を架けたとか。城の秘密を守るために殺されたんじゃなかったのかw
また、熊本城の武者返しの石垣は朝鮮寺院の軒の反りに似ているので朝鮮技術なのだそう。ひどいww
中国・朝鮮の石垣はほぼ垂直であるのに対して、日本の石垣は地震多発地域の関係からもともと斜面が緩い。
扇の勾配の石垣で朝鮮起源を指摘するなら下部ではなく上部のほうだと思うのだが。
216 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 17:05:53.33
>>214 今や十数億だからな。
在日にしろ本国人にしろ、対策がなければ滅ぶよ。中国も日本も、君たちが目障りだからね。
中途半端なシンパはやがて敵になるからね。経済的には、そろそろそうなりそうだ。
どうする?
217 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 23:11:59.88
いいかげんにしろ
219 :
T腰理事長:2014/04/30(水) 00:38:38.65
>>208 生き埋めにならないよう気を付けて‥。
(;´Д`)
220 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 01:49:25.69
山城に残ってる土塁って50センチとかが多いけど、当時もそのくらいの高さだったの?
221 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 03:37:27.37
名古屋城天守は紫禁城太和殿よりでかい
222 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 07:01:24.31
GWといっても飛び石だから、城を見に行った連中は少なそうだな。
>>220 堀と合わせたら比高としてはもっとある場合が多いだろ
上に板塀とか冊が有ったんでね?
CSで城番組やってて、低い土塁に身を屈めて鉄砲や弓を放って、この高さでも充分機能した みたいなことやってた。
>>220 具体的にどこの山城の事を言っているのか?
当時っていつよ。
一般的には豊織系と言われる城が出現する前の城では土留め程度の役割が多いからそれ程高さは必要なかったからイワユル高石垣の山城は無いよな。
高取城さんがアップをはじめました〜
観音寺城さん涙目
>>220 平地では100年で約10cm埋まると聞いてる
掘り底は枯れ草や土が溜まりやすいから倍のペースで埋まると思うが
>>228 アノウ衆って近江だから
織豊系の原型が観音寺城なんじゃね
信長の城造りは小牧山城の時点で確立されてる印象だけどな
石垣もすでに使われてたみたいだし
穴太衆は石垣の城が作られるようになってから出てきた人たちではなかったかな?
232 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 12:57:55.18
安土城の石垣は場所によって、積み方がバラバラ。
ゆえに穴太積みなんて積み方はあとから名前だけ出てきたものであって、
実際にはどれが穴太積みなのかわからないし、おそらくそんな積み方なかった。
担当した技術者によって違うんかな
234 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 13:54:47.54
大規模工事だから、領内各地から職人を集めた結果なんじゃね
235 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 13:58:49.90
古代建築の変遷を見れば分かることじゃん
たしか初期は高み櫓じゃなかったか?
236 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 14:03:49.06
ちゃったっけ?
237 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 19:51:45.93
238 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 19:53:34.83
朝鮮は城先進国だね
秀吉軍が立派な城を造ったが
それまで朝鮮にまともな城なんて無かった
つーか朝鮮本土にない倭城の石垣を見て
朝鮮北部の石垣を一端崩して倭城の技術を導入して石垣を築きなおしたことは
朝鮮の正史に記述されている事実
朝鮮の城なら他所でやってくれ
242 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 23:56:39.90
なぜ他所なのかわからん
そもそも日本の城の根底は朝鮮技術の推移なんだから。都合いい解釈すんなよ
243 :
日本@名無史さん:2014/05/03(土) 00:01:14.86
日本語でおk
そんなに釣れないだろ
余所でやれ
てか、朝鮮は事実上関係ないよなあw
朝鮮つうか高句麗の伝統として、平時の城塞都市+有事の朝鮮式山城という組み合わせがあるが、
これ、半島への政治的関与と深い関係を持って、古代の西南日本にも導入されたが、
十分に活かすことなく放棄され、由来すらイミフになった。
日本は、一度「城不要の時代」を経て、武士の台頭とともに、城が「き」ではなく「しろ」として復活する。
他方、朝鮮は中途な古拙王国がダラダラと続き、
王都は、「山麓の凹地を使った不整形都市」として、日本とは全く異なる形で、ひな形が確立する(ケソン)
基盤となる社会が違いすぎるので、必要となる権力土木の様相も、全く異なるものとなった。
朝鮮式山城が半島起源と言う考古学的証拠は無い
馬鹿が何でも起源は大陸に有ると考えただけ
その頃は半島南部も日本列島も倭だわな
古代中国の城壁は版築土塁だもんな。版築の城壁を延々と築いた大野城などの築城技術は朝鮮半島(百済)からの技術だと考えられる。
城門部分の石積みは古墳なんかで培われてきた古代日本の技術者によるものだろう。石材の加工技術は百済人の技術かもしれない。
ちなみに神籠石山城や古代山城の石垣は古代日本独自の技術によるものと解釈しているのは西ヶ谷恭弘氏
統万城だったか
土を蒸してセメント固めみたいな作り方だったらしい
城壁厨
落とし格子厨
朝鮮厨
253 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 07:24:12.19
信長岐阜城を始め、安土城はもちろん、豊臣&徳川大坂城も、慶長&元和江戸城も、宮上案は完全に消えたな
江戸城天守は宮上案が一番マシなのだが
>>254 うむ
確実な遺構調査結果を待たずに、建設技術の前後関係を一切考慮しないで、文献の行間読みによる「思い込み」と「知ったか」
を基に、自説に都合のいい断定を重ねていき、ひたすら素人受けのする「上物の華やかさ」だけを追求し続けた宮上茂隆氏
宮上茂隆氏の間違いだらけの安直な捏造作業の数々を完全に払拭すべき時が来たようである
岐阜城山頂天守・・・遺構調査なしに、池田輝政城主時代以降の築城と考えられる加納城御三階をそのまま比定
岐阜城山麓天主・・・同じく遺構調査をしないまま、フロイスの記述を鵜呑みにし、加納城御三階をベースに4層天主で外観捏造
安土城天主・・・内藤氏作成の天守台実測図データを借定、当否不明なまま自らの東山殿常御所復元案と岐阜山麓4層天主を基に捏造
秀吉大坂城・・・遺構調査のないまま、明らかに慶長期を下る特徴を持つ「夏の陣図」天守を基に外観捏造
慶長度江戸城・・・慶長期を明らかに下る後期層塔型である「中井家指図」の技術革新を無視した比定(宮上氏以外全員否定)
元和度江戸城・・・東照宮の短絡から、寛永度天守と同じ破風配置、軒高逓減率を持つ「津軽家古図」の、絵画資料を無視した比定
安土城は図面が残っていたと思ったが
>>256 徳川大阪城…慶長度江戸城(「中井家指図」を比定)を移築したというトンデモ説で顰蹙(当然のことながら、宮上以外全員否定)
層塔型なんてプレハブ建築だからいきなり完成形ができても不思議ではない
260 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 23:05:59.89
島猿の城はダサイ
261 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 02:01:52.56
天守閣の様な木造の高層建築は桧のおかげだろうね。
日本は適材適所の材木に恵まれてたよな。
柱には桧、天井板には杉、書院、床の間には欅とか
因みに島津氏の御殿は屋久杉がふんだんに使われて贅沢の極みだ。
>>262 完成形から縮小を行った結果、歪が生じたとも考えられる
層塔型は少しずつ縮小した同じ建築を重ねるもので、技術的冒険は行われておらず
進化論的な発想は不要かと
後、代案は出しても根拠を挙げて面と宮上案を否定した人はいないかと
後、宮上案だと元和度とする津軽家古図は鈴木長次だから設計が異なるのは当然かと
>>264 修正
後、宮上案だと元和度は鈴木長次ぐが設計したとあるから津軽家古図が中井指図と設計が異なるのは当然かと
>>260 攻撃の際は恰好の標的となる高層木造建築(天守)を、実戦的であるべき城内に建てる非合理性と美的感覚が、
世界史的に見てもあまり例がない、近世日本の城の特徴と言ってもいいだろう
267 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 09:43:11.67
261
島津は惟宗氏で朝鮮系渡来人だぞ
268 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 11:00:44.65
269 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 12:07:05.20
>>263 最下層から最上階まで柱がスッキリ通る後期望楼型の中井家指図を、
最下層から最上階まで柱が通らず、内部において未だ上下の分離を残す前期望楼型が出現する以前の、慶長度江戸城に比定するのは無理!なんて、
小学生にも判る理屈だからねw
>>269 望楼型でなく層塔型で
そして層塔型を前期・後期と分けるのは内藤・三浦氏だけ
>>262 >宮上案のステルス・マーケティングと見做されても致し方なきやに存知ます。
残念過ぎる立て板の思い込みw
いくら暇だからって、江戸城天守指図の議論を蒸し返すのはあまりいい趣味だとは思えんが
273 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 22:04:00.74
佐藤作の大坂城復元案はデコレーションが過ぎないか?
屏風絵は実際にはもっと小さい物を強調したんじゃないの?
復元案の浮き彫りの大きさは直径ニメートルはありそうだ。
カノン砲は兎も角、臼砲と榴弾を投入されたら日本の城は役立たずになるな
一発の核爆弾で崩壊するしな
277 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 06:43:10.64
>>270 じゃあ、2:1で宮上の負けじゃん!w
>>274-275 コーヒー噴いたw
数百年後の武器に耐えられないなんて、そりゃズルいよw
人間の作るものなんて、所詮その時代の産物なんだからさ
>>278 佐藤案は一見まともだが、窓とレリーフを交互に並べると、まるで歯がボロボロ欠けたようでみすぼらしい…
なぁ〜に、智恵一つで天下人にまで成り上がった秀吉のことだ、
@隙間なく菊桐紋の金箔レリーフを並べる見栄え、A開閉の容易さと防御性、を両立するには、上と下でガッチリ固定したレリーフの後ろで、
昔の木製雨戸にあったような、親指と人差し指だけでサッと全体を開閉できる、引戸式のスリット窓になっていたんジャマイカ?
http://www.100percent.co.jp/img/sumai/kouza/013_01_02.png 窓構造を上から見た断面図(ズレたらスマソ)
外側
金箔張り菊紋レリーフ
柱 ┏━━━━━━━━━━┓ 柱
■━─━┻─━━─━━─━━─┻━─━■
内部
佐藤案は二階の唐破風の出窓を省いているな
岡山城や近年発見された伏見城の屏風絵にも唐破風の出窓が描かれているから、
大坂冬の陣図の出窓もあながち空想とはいえないと思う
282 :
279:2014/05/06(火) 18:02:57.96
やっぱりズレた!→
>>279 メモパッドにコピペよろ
>>281 レリーフ裏は連子窓でも大丈夫だろう。一間間隔で立つ(構造用)管柱の間に、
レリーフを金銅(銅板打出し+金メッキ)で軽く作れば、固定するための間柱を3本くらい入れれば何とかなりそうな希ガス
秀吉天守の窓構造復元案(断面図) またズレたら、メモパッドにコピペよろ!
外側
金銅製菊紋レリーフ
管柱 ┏━━━━━┯━━━━━┓ 管柱
■_◆_■_◆_◆_■_◆_◆_■_◆_■
間柱 間柱 間柱
室内側
>>280 「冬の陣図」屏風および近年発見された「伏見城図」屏風に描かれる、第二層の唐破風出窓(前者は妻側、後者は平側)
については、小生も大変興味を持っております。
前者については、「大坂城図」に描かれていない理由として、秀吉が豊臣家の家督を秀頼に譲り伏見城へ移った折、伏見城を真似て、
秀頼大坂城天守に追加したもの、すなわち「秀吉大坂城+唐破風出窓=秀頼大坂城」と考えます。
徳川江戸城において、慶長→元和→寛永と破風配置を整えながら新築されたに照応するやに存じます。
豊臣天守第二層目・唐破風出窓の時系列
「大坂城図」秀吉大坂城新築時→指月山伏見城新築時→「冬の陣図」秀吉大坂城西側に追加後→「伏見城図」木幡山伏見城新築時
>>282 近年発見の「大坂城図」ならびに「伏見城図」に描かれる、
柱間に天皇家の十六菊紋と豊臣家の五七桐紋を連続して交互に配した、秀吉天守の窓構造については謎でした。
格子窓を追加して、菊桐紋を不連続にした佐藤案は、全体の印象が「大坂城図」とはかなり異なる印象ですし、
ましてや一間四方もの重い外壁そのものが、強風に晒される高層天守で衝き上げ窓になっていたとは考えられず、
外壁に直接描かれた菊桐紋が上下2分割の蔀戸(しとみど)となっているのでは、と頭を悩ませておりましたところ、
皆々様の活発な議論の末、大変現実的な復元案が提示され、非常に興奮しております。
スライド式スリット窓/連子窓+金銅製菊桐紋/唐草模様ですと、以下の疑問への答えを、示唆しているやに存じます。
1.そもそも秀吉はなぜこのような複雑な窓構造を持つ、派手な外壁にしたのか?
2.「大坂城図」屏風に描かれた外壁の菊紋桐紋が、なぜ「冬の陣図」屏風には描かれていないか?
1.については、「本能寺の変」の記憶が生々しく残り、未だ天下統一事業最中の築造である大坂城では、
秀吉が狙撃・暗殺されるを恐れ、外壁を派手な金箔の菊桐紋+三つ巴紋+唐草模様で、窓をカモフラージュしたのではないか、
また2.については、その派手さゆえに徳川幕府軍の大砲の標的となるのを恐れた豊臣家が、取り外したのではないか、
と考えます。
284 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 07:56:16.12
冬の陣図屏風は下書きですからね。特に何も描いていないのは普通だと思います
>スライド式スリット窓
無双窓のことですね。雨が振り込みやすいのが欠点です。
なので床下の通気候の開閉や雨戸、欄間の明り採り程度にしか使われないものなのですが。
でも、窓の外側に透彫りの格子をはめるという発想はいいと思います。
僕は、金彩だけではなく極楽橋の廊下のように極彩色を施して、日光や久能山の東照宮のような感じだったと見ていました。
これらは、3重の構造になっていて、内側から明り採りの障子、2枚目は菊桐や唐草の透彫りの格子、三枚目は黒漆塗の突き上げ窓。
こうすることで雨仕舞ができます。雨ざらしになりますからね。
フロイスの日本史では、フロイスたちを天守に案内する際
秀吉は「主城(天守)および財宝を貯蔵してあるトルレの門と窓を急ぎ開くように命じた」とあり、
換気のためのほかに突き上げ窓で隠れている透かし彫りのレリーフを見せるために「急ぎ開かせた」のではないかと思います。
参考になるなぁ〜
両スレ認定!
>>285 三枚目の突き上げ窓閉じたら、真っ黒クロスケ?
288 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 18:44:56.29
>>285 >3重の構造になっていて、内側から明り採りの障子、2枚目は菊桐や唐草の透彫りの格子、三枚目は黒漆塗の突き上げ窓。
「障子+透かし彫り格子+突き上げ窓」の三重窓なら雨仕舞バッチリだけど、「大坂城図」「伏見城図」に共通の外観描写との整合性はどうよ?
スカートめくると花柄のパンツが見える、みたいな構造には見えないんだけど、、
290 :
愛川欣也:2014/05/07(水) 21:15:07.18
ハイ、消えた!
>>287そうなりますね。
>>288 通常の天守や櫓は「障子+連子+突上戸」か「障子+連子+土戸」ですから。そのような例から、そういう構造にしたほうが雨仕舞はよさそうだという仮説です。
確かに、突上窓らしき描写が天守には皆無ですよね。
エッゲンベルグ本の大坂城図屏風でも突上窓か蔀戸のような描写が認められるものの、レリーフが下から覗いているといった描写はなくただの連子窓です。
そもそも、レリーフや壁画を外観に描いてある描写は、大坂城と伏見城を描いたものはそれぞれ1例だけなのですよね?
伏見城にいたっては、真壁造の白壁が多いように思いますし。
>>289 床下通気口は雨仕舞いのための建具は必要ではありませんからね。
また雨戸も雨のめったに降り込まない上部の部分だけであって、通常の窓の建具としては不適合です。
そう言う所にしか使えない建具ということです。
近世の城郭建築の引き戸はほとんどが土戸であって無双窓のような木部丸出しの引き戸などはなく、まして無双窓としているところなどは皆無でしょ?
しかも、城の窓の連子は角を立てるのが主流ですが、この場合、どのようにして無双窓を施工するのですか?
排水管を付けるなら、土戸にしたほうが断然いいと思いますよ。
まあ、そもそも無双窓自体が織豊時代からあったのかを調べたほうがよさそうですが。
>>291の補足です
雨が振り込んだとしても無双窓を締めておく程度でいい雨仕舞であること
つまり生活空間のように少しでも降り込んではまずい箇所では使えないということです。
無双窓では雨風は十分に防げないということには変わりありません。
とっとと豊臣大坂城を全面的に発掘しろよ!
豊公大坂城を妄想するなら
豊国神社 千畳閣
醍醐寺 三宝院
都久夫須麻神社
久々にファビョるバカ淳也w
297 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 08:08:44.61
298 :
↑誤爆スマソ!:2014/05/08(木) 08:12:40.35
300 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 13:25:25.81
外人も日本の城ブームだってさ。
YouTube観てみなよ。
名古屋城でボランティアガイドしてる外人さんが、
ヘリコプター免許まで取って嵌まってるw
>>285 >無双窓のことですね。雨が振り込みやすいのが欠点です。
>なので床下の通気候の開閉や雨戸、欄間の明り採り程度にしか使われないものなのですが。
>>291 >床下通気口は雨仕舞いのための建具は必要ではありませんからね。
自分で書いて自分で否定してるよw
もしかしてお前、基地外なの??
自称理系出身で、バイクの営業マンとかしてたりしないだろうな?w
>>291 頭悪杉…orz
連子窓は飛鳥時代からあるし(実物が丸ごと出土した山田寺東回廊)
安土城では黒漆で防錆処理した鉄で門扉や窓を使ってたよね?黒金門や鉄砲狭間戸など、実例がある以上、
黒漆塗り鉄板を、連子に巻いたり、引戸に鋲留めで貼り付けたり、当時の技術を応用すれば防弾性は高められるじゃん…
>>299 たしかに
妄想の大暴走ブログの安土城・八角の段のように、後世の城郭建築に例がないからあり得ないという理屈で、
その場で現物を見ていないと描けない細部の描写、しかも文献史料にも一致する描写がある第一級史料を恣意的に否定する
>>291の態度は、
築城や屏風制作に関わったすべての先人(故人)達に対して失礼だし、いくない
303 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:02:14.28
世の中には簡単な応用問題ができない香具師っているもんだなぁw
304 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 19:25:58.64
ひゃっほーい!
最近スマホに乗り換えたので、フリック入力の練習も兼ねて、ライトアップされた愛しの小倉城天守を見ながら書き込んでますよ〜!
本当はなかった比翼千鳥破風ですがwあまりに壮麗すぎて惚れ惚れしてま〜す!
みなさん、いろんな大坂城&伏見城天守の窓復元案、ありがとうございました!
スライド式のスリット窓って、無双窓って言うんですねぇ。勉強になります!
でもでも、やっぱり【金銅製菊桐唐草レリーフ+黒漆塗の鉄製無双窓】の二重窓説の方が、屏風絵にも一致しますし、
つまみでサッと閉じれれば、ケネディー大統領暗殺事件のような急な狙撃からの防弾も完璧じゃないスか!
さすがは天下「無双」の秀吉公、知恵と工夫の応用で見事戦国時代を終わらせ、全国統一を成し遂げただけのことはありますね!w
みなさん、これからもお城について楽しく勉強したいと思います。
また情報よろしくです!m(_ _)m
305 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 19:57:46.41
狙撃とか発想がアホすぎる
つ杉谷善住坊
307 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:23:52.32
それは屋外だろ
つ鉄砲狭間of安土城天主
309 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:29:07.12
310 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:41:48.98
天守内にいる人間を外部から狙撃して成功する確率がどれだけあるんだよw
しかも普段住む御殿は無防備w
バカすぎ
バカはお前だ!
>>310 まぁ、もちつけw
天守閣って城壁に囲まれた御殿と違って、多くは高い天守台の上に建ち、周囲から丸見えな位置にあるよね?
見(上げ)られる、見せつけることを目的に建てるわけだしさ...
仰角の大きな最上階ならともかく、安土城の石垣直上階には、内部の防弾を意図したと思しき黒漆塗り鉄板の下見板が張られ、
そこに鉄砲狭間が60個あまり開けられている復元については、多くの研究者の一致しているところだからね
いくら匿名掲示板とはいえ、あまりに冷静さを欠いたカキコは、君自身の今後の精神衛生のためにも良くないと思うよ
なんかわからない人もいるようですので。
人が住むのなら完璧な雨仕舞いは必要です。
床下換気口の内側に住むのなら話は別ですが。
そもそも、どうしてそうも無双窓にこだわるのかが僕にはわかりません。
当たり前に窓に使おうものなら、雨が降ったら窓から漏れるのですよ。どうしても無双窓としたいのであれば、せめて内側に土戸のような丈夫な引き戸がないと。
その上で僕の考えは、「障子+透し彫りの格子+突上戸」ですということです。単純でしょ?
>>299 突上窓を上げた状態を描かせるでしょうね。もし、レリーフが実在して突き上げ窓や蔀戸など最外部の戸があるとすればですよ。
>>302氏誤爆でしょうか。
無双窓では雨漏れするよという指摘をし、いずれにしろ雨仕舞い用の戸が必要だという対案を示したのみ。金属板の使用を否定した覚えは一切ありませんが?
雨漏りしない窓とか有るのか?
>>312 「見せつけるために」作られたのは江戸時代。
もう実戦は想定されていない
帯板以上の広面積の鉄板を作る技術があるのは明治以降
317 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 08:18:58.69
>>314 支離滅裂w
>>316 安土城の黒金門とか鉄甲船なんかどうやって作っていたと思うわけ?
帯板を延々と重ねてたとか?w
盛り上がってるねえ
いい流れだ
319 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 08:26:50.13
フルヘッヘンドしているかね
爆撃されて終わり
>>314 >僕の考えは、「障子+透し彫りの格子+突上戸」ですということです
それはないわ〜w
324 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 16:01:23.51
>>250 このVR安土城は、内部のCGもあるのかね?
>>325 何だこれ?!
鉄筋コンクリートにアルミサッシ??
今まで見た中で一番ヒドい…
327 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:27:48.06
アルミサッシなら雨漏りしないんジャネ?w
328 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:50:14.63
現代建築学で語ってるやつらなにがしたいんだかねえ
>>317 安土城の黒金門って鉄板が発掘されたの?鉄甲船は?
結局、杉の厚板に帯金の補強だろ
まってないかもしれませんけど、おまたせしました。
>>315 完璧にというのは大部言い過ぎましたが
土戸の場合は、窓の隙間(片引き・引き違い)から伝って漏れる程度なら、勾配をつけた窓台から配水管を伝って外に排出(大雨は追い付かずにあふれるのですけど)
します。土戸で多少なり雨漏りはするのですから、しっかり締まるわけでもない無双窓の雨仕舞いの悪さは想像するに易いでしょう。隙間風も吹き込むのです。
大体、無双窓の戸に見えるのは戸ではなく無双連子という連子ですから。どう反論しようと、むかないものはむかない。
だから、内側か外側に戸が必要だと。
>>323 「雨漏りバカ殿」ちゃっかりいただきました。
とりあえずありえない窓をメインの窓として使おうという323氏の発想だけは、賛意を表します。
でも、反論もせず、具体的な指摘もせずに自爆したとは、もうぐうの音も出ないのでしょうか?
ちゃんとした説だと思って発表しているのなら、wっていないで一つくらいマジレスしてほしいですね。
別に、無双窓にしようがいいんだけど、無双窓とするには、古来であろうと現在であろうと、建築学上あのままでは、風雨に対して脆弱であり
強い風の吹くような重層な建築の主要な窓にむかないのは明らか。
それをどう改善するのか僕から対案を示したが、否定一辺倒。なぜ無双窓一枚で窓の体を成す、大丈夫だと考えるのです?
それともオリジナルの改善方法があるのですか?
333 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 08:20:36.43
>>315 ですねw
>>331 たしかにw
天守の窓には、絶対に雨漏りしないアルミサッシが向いていると思うよw
334 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 09:07:36.99
だな、だなwww
西遊記の解釈ってそんな感じかw
335 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 10:57:40.67
いい加減タイトル変えないか?朝鮮半島伝来の日本の城 という風に。
中世だけで語るな。成り立ち変遷の現実受け止めよ
336 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:00:34.49
だからなんで朝鮮半島伝来なんだよwww
いい加減、現実認めたらどうよwww
337 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:03:05.06
なにが受け止めろだこのバカwww
338 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:21:55.51
なぜ日本はなんでも独自の文化だったと思い込みたいのだろうか
その方が恥ずかしい。素直になればいいだけだ
339 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:26:16.51
>>331 お前のあだ名は「雨漏り猪八戒」だwww
340 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:28:39.49
なにいってんだこいつ?www
素直になってるから反発してんだが?
関東ローム層の痕跡から事実は明らかだからね
341 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:38:54.75
>>339 コーヒー噴いたwww やめろバカwww
>>336 文化の無い国がまだ起源主張かw
とことん捏造好きだな
朝鮮人がなんでも起源主張するから笑える
最近だと「1万5千年前の水田が有る。稲作は朝鮮起源」とか言ってる
まさしく逝ってる
朝鮮野郎に釣られんなよ、みんな
この前みたいに荒らすのが目的だから相手にしないのが一番
344 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 14:58:53.57
まあ、台北の故宮博物院の建物が至高だけどな。
345 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 16:34:26.82
荒らすもなにも、じゃあ日本期限なんてあるのか?大陸からの棄民国家のくせに
346 :
ロンブー淳史:2014/05/10(土) 17:11:25.71
348 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:39:27.56
デタラメチョッパリヤロウ
ところで日本の城や陣屋って夜は大体何人くらいで警備とか殿の身の回りの
世話で起きている人がいたんだろう。
江戸城だと100人番所があるから最低でも100人以上が起きて
夜の任務で城に詰めていたことになるけど
城の規模によって違うさ 江戸時代になって平穏になってからは暇だったろうな
武士なんてほとんどがやることなくてタダ飯喰らいの穀潰しだわな
平安貴族と同じようなもんだな
よく大河ドラマで夜に城を警備する人が矢倉から外を
見ていたりするけど何時間交代だったんだろうね
今と違って松明しか明かりがないしまだ妖怪とか幽霊とか信じられていたから
怖いだろうし、冬の警備は得に辛そうだけど
>>346 酒樽に使われてるのは「厚板」じゃないだろ
354 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 02:46:51.64
>>346 >廊下は行灯や和蝋燭を鴨居に引っ掛けて点けときゃいいけど、玄関や階段にはやはり自然光が欲しい希ガス。
さすがはお城好き淳史先生(ホントか?)、読みが深いな
廊下は面一(つらいち)の水平床だから、多少足元が暗くても摺り足で歩けるが、
玄関や階段は垂直段差だから、うっかり八兵衛してると躓くし、物を持って手が塞がっていれば転倒してしまう
だから段差周辺には、自然光を採り入れる窓がある方が自然だとは言える
古墳時代における倭国と百済の友好関係、高句麗との敵対関係から友好関係への大転換を抜きにして、日本の城は語れない。
5世紀古墳時代中期、武勇に優れた高句麗の好太王(広開土王)は、南の豊かな穀倉地帯を持つ百済に侵略を開始。
百済は連戦連敗を重ね、存亡の危機に立たされ、かねてから誼のあった倭国に援軍を要請。
百済王は皇太子を倭国に人質に送り、倭王は百済を保護国とする(倭済同盟)。
高句麗はそれに対抗し新羅を保護国として(高羅同盟)、倭済同盟と激しく敵対する。好太王碑には倭が盛んに新羅を攻めたことが刻まれている。
時の倭王は、関西の巨大前方後円墳によって名を遺している応神→仁徳→履中→反正→允恭→安康→雄略→清寧→飯豊→顕宗→仁賢→武烈天皇。
6世紀古墳時代後期、継体天皇の頃から保護国である百済王室の横穴式石室が導入され、百済・武寧王から倭国に派遣された百済の石工が
その技術指導に当たる。その末裔が安土城の石垣を積んだ近江坂本穴太衆。陰(内部)に用いる横穴石室を陽(外部)に用いれば城壁石垣となる。
それ以来、倭王室と百済王室は親密の度合いを増し、538年、百済の聖明王は欽明天皇(継体天皇の息子)に仏教を公式に伝える。
聖明王が献上してきた百済の大工が仏教寺院の建築指導に当たる。その末裔が世界最古の会社にして、最初の官寺四天王寺を建てた金剛組。
倭国独自の前方後円墳による大王や豪族の祖先祭祀は廃れ、代わって、仏教寺院建設が全盛期を迎える7世紀飛鳥時代に突入。
その頃、中国大陸に誕生した隋→唐と、朝鮮半島における最弱小国だった新羅は、共通の強敵である高句麗を挟み撃つべく、唐羅同盟を成立させる。
その知らせに驚愕した高句麗は、長年の宿敵である倭国に急接近を開始。
570年、高句麗の平原王は突然、欽明天皇の勅願寺院・飛鳥寺の本尊制作に黄金300両を献上、寺を運営するための高僧や建設技術者を派遣する。
因みに、聖徳太子の師である恵慈は、この時平原王から倭国に派遣された高句麗の高僧。
しかし御存知、663年、ついに倭済vs唐羅による最終決戦(白村江の戦い)が行われ、倭済連合艦隊は全滅、百済は滅亡してしまう。
殺されるか奴隷になるかという選択を迫られた百済王族や遺民が、長年の倭済同盟を頼って大挙して倭国の筑紫や難波津に亡命してくる。
唐羅同盟の追撃を恐れた時の倭王(天智天皇)は、新羅との実戦経験がある百済・高句麗の技術者を山城建設に当たらせる(朝鮮式山城・神籠石)。
それまでの倭国に、本格的な石垣城壁で囲った城は存在しなかった。今日、西日本全体に残る、自然石をそのまま積む百済式野面石積みと、
九州を中心に残る、切石(神籠石)を積む高句麗式石積みの2系統が混在するのはそのため。
幸運にも唐・新羅同盟軍は、渡海してまで未知の敵地・倭国に深く侵入するハイリスクより、先に強敵・高句麗を滅ぼした方が得策と判断、
668年高句麗を滅ぼすが、この時にも高句麗遺民が大量に倭国の筑紫や難波に亡命してきた。
今日関東を中心に残る高麗(こま)神社は、大和朝廷によって関東への入植開墾のために送り込まれた高句麗遺民のリーダーたちを
祭神として祀っているのである(東京都狛江(元・高麗江)市、埼玉県日高市など)。
結局、天智天皇が百済/高句麗遺民に築城させた朝鮮式山城(野面積/打ち込みハギ)/神籠石(切り込みハギ)は実戦に使われずに役割を終えた。
その後百済/高句麗の石積み技術は仏教を国策に据えた大和朝廷・聖武天皇の国分寺建設に投入され、再び軍事目的で城壁に採用されるには、
約1000年後の近江佐々木六角氏の観音寺城、そして織田信長の安土築城を待たねばならなかったのである…
しかし弥生時代から古墳時代前期にかけて本当に日本に城はなかったのだろうか
古事記や日本書紀では天皇家や豪族の血みどろの内紛が描かれることが
あるけどそれには宮殿を襲撃して焼き討ちしたりしないといけないわけで
当然宮殿には防御のための柵や土塁が築かれていたのではないだろうか
環濠集落と同じといえばそうかもしれないが
下記の纏向遺跡の宮殿復元を見ると
その環濠集落の中にさらに堀や柵で取り囲んだ宮殿遺構があるわけで
これはまさしく日本における城郭や城といえるものだろう
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/2013_07_28.htm 実際、古事記や日本書紀には巻向珠城宮や泊瀬城宮など
城と名の付く宮殿が見られる訳で
戦時に臨時的な砦は築いていたと思うがなあ
魏志倭人伝にも卑弥呼の宮殿には周り塀 や柵が築かれ
楼閣があり 武装した兵士が宮殿を護っていたと記述される。
日本における城は戦国時代の軍事上の防衛拠点の他に
江戸時代においては各藩の政治中枢もまた城や陣屋と呼ばれており
政治中枢の省庁や宮殿を塀や土塁で囲み、武装した兵士に守らせた
弥生時代から古墳時代にかけての宮殿遺構も日本の城といえると思うが
特に天皇家は九州などに遠征する際、臨時に指令拠点としての
宮殿を造営した伝承も日本書紀や各地の伝承に記されており
これはまさしく軍事のための拠点=日本の城といえる
361 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:22:00.34
362 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 16:09:43.78
つ弥生時代の高地性集落
363 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 16:27:34.35
古墳墓なんて氏族政権の名残り以外の何者でもないからな
364 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 16:30:43.48
適当に資料拾って都合のいい解釈やめたらあ?
刺激が強い方が興味がわくのは分かるけどさ
365 :
百済人:2014/05/11(日) 19:39:50.90
倭国の皆さんには、いろいろとお世話になっております
縄張りで四の丸とか五の丸とかの名称ついてるところってないの?
弘前城に四の丸があるよ
368 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 21:17:30.14
やっぱり朝鮮からの影響か凄いんだな
369 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 21:35:30.32
>>346このスレが高レベルてどんだけ謙虚だww
>>364マジこれ
このスレ自体そういう傾向がある
根拠不明の珍説を真に受けるやつがこのごろよく湧くけど笑って許してww
>>325 森俊弘さんかぁ〜、懐かすぃな…
今、何してんだろ?
まあ百済と新羅は倭国の支配下だしな
372 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:59:13.59
という倭人の勝手な見解
いや中国の正式な歴史書に書いてある
『隋書』倭国伝
新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
>新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
この時代、新羅と百済はまだ中国に朝貢していない
あ、ごめんw
朝貢してた
百済の朝貢は472年、新羅は521年だった
朝貢してないのは魏志倭人伝の時代だった
375 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 02:48:38.03
紫禁城太和殿の柱は直径106センチで
日本で最も極太の柱が使われている
東大寺南大門の柱101センチよりもさらに太い
376 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 02:54:13.64
初代の東大寺大仏殿は
樹齢2000年はくだらない
直径150センチ高さ30メートル以上の
巨大な檜の丸柱が80本近くそそり立っていた。
377 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 03:05:17.60
芯無し節なしの超極上の檜材だけで作られた
名古屋城天守の木造再建には
絶対に樹齢1000年以上の檜の巨木を大量に必要とする
現在、日本には樹齢1000年を超える檜の巨木は一本も存在していない
コンクリ再建でもいいから内装を木造建築風にしてくれればいい
テッコンキンクリートは、なんか安っぽいな
重みが無いというか
どうせ再建するなら、木造で建築当時の工法まで忠実に再現して欲しい
>>380 いや、だからその木材がないっていう話の流れなんじゃないか
スレ読んでみ
とりあえず集成材
後、鉄骨だけでも十分だと思うのだが、何故に鉄骨鉄筋コンクリートに拘るのだろう
今週の出顎の特集は福知山城天守
松岡氏による光秀時代の平面推定図も紹介されていたので光秀ファンは必見
立面図が無いのは相変わらずだったがな
来週も光秀の周山城
総構えや掘の幅を広げるとかなら分かるけど、城内の防御に力を入れてもあんまし意味がないんじゃないの?
実質、天守の石落としとかなんて飾りだよな
落とし穴とか吊り天井とかロマンがあるじゃん
まあ、その頃、現朝鮮人(エベンキ)はシベリアで糞舐めながら熊と獣姦してたんだよな。
>>387 たしかに、築城者のロマンを感じる
見栄えも良くなるし、破風と同じ装飾的な意味では重要だね
安土城みたいな城主のカリスマ性とか天守の壮麗さとかを抜きに考えたばやい、
純粋に軍事要塞として、落とすのに最もマンパワーと時間が必要な城ベスト10オナシャス!
391 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 16:50:38.95
伊丹城
ある程度の規模以上の城は当時の兵力や武器では落とせないよ
最終的には囲んで兵糧攻め
坑道戦術と攻城砲で時間を掛ければ大体の近世城郭は落とせる
榴弾と臼砲があればもっと楽
394 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 17:08:21.13
>>356-357 埼玉県日高市民(旧・武蔵国高麗郡)の先祖は、飛鳥時代、唐と新羅に滅ぼされて倭に亡命してきた高句麗人らしいね
http://ch.i.cmaas.net/news/newsplus/1389247232/ 高句麗の句は狗(犬)と同じ意味で、中国人が周辺蛮夷を馬鹿にした民族名だから、本来の高麗って名乗るようになった
高句麗は広開土王(379〜412)以来、倭軍を散々苦しめてきた経緯があるから、亡命百済人が都周辺(関西)に住まわされたのとは対照的に、
関東の僻地へ行かされた
それでも高麗神社に祀られている亡命高句麗王族は、天皇から高麗王の称号を与えられているそうな
>>393 榴弾、臼砲はヨーロッパでも近世に入ってからの軍備だろ
そんなこと言ったら空爆したら全部一瞬にして落城させられる
中世から近世初頭の日本国内の軍備で大きな城郭を落とそうとしたら調略、外交を用いないと無理だよ
大坂の陣が良い例
397 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 19:34:47.58
縄張りの堅固で攻めとせないのなら
秘密の地下道を掘って本丸に直接襲撃という戦法はなぜ取られないのか。
大阪の陣の場合なら、実質日本の支配者が総力を上げて建てた城なんだから
日本国内の軍備で落ちないのはある意味当然。
幕末に、欧米列強の干渉がなくて、薩長官軍が江戸城総攻撃「江戸の陣」となったら、落とすのにどのくらい掛かったかな?
豊臣を滅ぼしてるくらいだから、外堀を埋めさせることはまずないだろうしw
アームストロング砲で遠くからガンガンやればいいだけで、
250年の歴史の経過、兵器の進歩は考えないわけか?
401 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:14:55.88
402 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:19:29.95
ほんとにキチガイが増えたな
お城好き、という時点で五十歩百歩かと
城を相手に17センチの長さじゃちょっと貧相だな。
ところで前から感じていたのだが、
三浦先生の安土城てハ角階の高さが高すぎるように思うんだが、階段との関連でああなってしまうものなのか
なんか、他の残存天守のバランスなんかと比べると首ながの印象を受けてしまうのだが
>>395 榴弾・臼砲は島原の乱後に導入
また大坂城は本格的な攻城が行われた時点で和睦だから
あのまま攻めても新年開ける頃には落城したんじゃない
たしか武田勝頼が城にトンネルを掘って、
トンネルの中に火薬を仕込んで本丸を爆破する戦法をやってなかったか
>>408 無い
あの頃は穴を掘って水の手を切るとか、櫓を倒壊させるとか、進入路を開削する位
火薬で土塁を吹き飛ばす方法は大坂冬の陣が初出
>>406 トーテムポールって、上手いこと言うね
笑っちゃった
それはそうと、「よみがえる日本の城」を単行本化してもらいたい。
トーテムポールか…なんで最上階のいっこ下で伸びるんだろね
最上階の軒下が広がり過ぎてるせいなんだろうか、
日本建築のバランスとちょっと違うような希ガス
あんな印象の現存建築物だれか教えてくれ
>>413 牛一の信長記は安土日記・補完計画だった希ガス
1/2/3階の柱数(204/146/93)情報を追加したのは有名だけど、1階の大きさについても情報を追加している
安土日記「南北へ20間、東西17間」
信長記「南北へ20間、東西【へ】17間」
もし1階が南北20間×東西17間の矩形(長方形)なら、「南北へ、東西へ」などと「へ」は使わずに、「南北20間、東西17間」と書くはずで、
両者とも1階が矩形ではないことを示唆しているのだが、安土日記が南北にだけ「へ」を使っているのに対し、信長記では東西にも【へ】と書き足し、
更に違和感を際立たせて、まるで牛一は「1階は矩形じゃないよ!」と強調しているかのよう
梅の襖絵についても、安土日記が「墨絵」とだけ書いているのを補足するかのように「悉金」と付け足しているんジャマイカ?
牛一信長記がわざわざ補完してくれた情報を切り捨てるべきではないと思われ
415 :
津田宗及:2014/05/16(金) 20:32:14.92
「御殿守七重、其外ヤウタヰ、難暢筆也」 ※暢(のべ)る
416 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 21:01:38.41
いろんな説がでては消えていったなあ
>>412-414 安土城天主の襖絵って、大徳寺の襖絵のコンプリート全集のような感がある罠w
418 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 00:40:20.89
>>414 『安土日記』本文に「南北へ20間、東西17間」の記述は無く、行間への書き込みに記されているものであり、牛一自身の追加情報というより第三者の注釈だよ。
ちゃんと原文を調べて発言しようよね。
何故行間書き込みが第三者のものだと言えるんだ?
そもそも行間に書き込むという目的は何なのだ?
普通に考えたら、本人が後で編纂するために、読み返した後にわかりにくい部分や書き漏らした事を書き足すとかだよな。
他人が書いた書物に書き足す意味が解らん。
しかも本文にないような情報を。
本文に書いてある事の意味が解りにくいので意味の解釈を書くのなら第三者の書き込みの可能性もあるがな。
420 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 06:04:11.90
だから現物を見ろってことだよ。
写本によって書き込みも違ってるし。
書き込んだのは大名学者の前田綱紀かと推察。
421 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 07:27:26.37
>>414 「北南へ東西へ」ってそういう意味か!!
有名な吹き抜け案か、最新のトーテムポール案かw
おまいらは、どっちよ?www
>>414 なるほどねぇ〜 みんな、読みが深いし、細かいな♪(海は広いな、大きいな♪)
>325の森俊弘氏は安土日記「南北へ20間、東西17間」のみで間取りを復元したから、矩形平面の西側だけ石倉に合わせて変形させちゃったわけね…orz
423 :
福山雅治:2014/05/17(土) 09:13:37.72
>>422 う〜ん、実に面白い!
ガイシュツ復元案
>>325の不自然な箇所がどうして生じたのか検証するのは、意味がある希ガス
金字塔(金の字の形をした塔=ピラミッド)とか、心字池(心の字の形をした池=例:東大構内の三四郎池)という例があるけど、
「南北[へ]20間、東西[へ]17間」も、外壁が「へ」の字の形をした南北20間、東西17間と考えられないかな?
名付けて「へ字壁」w
ttp://castles.chicappa.jp/blog/azuchi-hikibashi-15(400).jpg
村井貞勝も太田牛一も、天守指図の二重目(1階)を見てギョッとして(なんだこの形は!?)と思ったに違いないわけで、
それを文字でどう表現するか悩んだ結果「へ」に落ち着いたと思われw
>>420 なんだよ
全然説明になって無い
書き込みの内容から第三者が書いたと言っているんだろう?
だったらその様に考えられる部分を説明してくれよ
>>414 「へ」が入るとなぜ矩形ではなくて多角形になるんだ?
「へ」が入ろうが無かろうが同じ意味として使っていてもおかしくないだろう?
安土城関係の書物には「変体仮名」は使われていたりする?
426 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:53:07.14
>>424 あんたの言い分ももっともだが、
>>414が言いたかったのは、
「へ」が入ると、矩形だった可能性に加えて、さらに多角形だった可能性も浮かび上がる、ということジャマイカ?
つまり、もし安土城天主1階が、
■矩形→「へ」なし(南北20間×東西17間)
■矩形or◆多角形→「へ」あり(北南へ20間×東西17へ17間) と書いた可能性が加わるということだろ?
現に 矩形+三角形の不等辺五角形
>>325 で復元した森俊弘氏は、安土日記の「南北へ20間、東西17間」に引き摺られた節が見られる
>>422
>>422>>428 森俊弘氏は安土日記以外の資料を一次資料でないという理由で切り捨てずに,
信長記の「北南(へ)20×東西(へ)17」をきちんと読み取っていたら,石倉形状に合わせた不等辺六角形に復元できていたかもしれません.
たとえその復元が正解でなくても,そこから議論に資するヒントを提示することが可能だったのではないでしょうか.
やはり,寛永期江戸城や名古屋城のように,確実な史料や指図が多く残り,建築仕様の詳細まで判明している場合には,
素人があまり手を出すべきではないと思いますが,安土城のように確実な一次史料が少ない城の場合は,
復元者が補って復元しなけらばならないため,素人であっても,互いに知恵や情報を出し合うことで,議論を深めることができると思います.
たとえ行間補記であっても,一次史料を補う貴重な情報には間違いないため,相互補正しながら利用すべきと考えます.
「へ」が多角形を表すという考え方なかなか面白いね。
>信長記
太田牛一著なら「信長公記」の方でいいのね。
2次史料になる甫庵著と混同するからできれば公をつけてほしい。
正確なのかわからんが全文がある。
つ
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_10.pdf >安土日記
太田牛一著だが、天主の記は村井貞勝メモの引用。
両者を比較すると、上から下へ記述している安土日記に対して、信長公記は下から上へ記述しているのがわかる。
つまり、信長公記は一旦整理しなおしていると考えられる。信長公記が安土日記を補足してあるというのはあながち想像の域でないかもしれない。
ただし、柱間などを正確に記してあるとは限らない。
たとえば、上七重めの「狭間戸鉄なり。数六十余あり、皆、黒漆なり。」は安土日記の七重目にある「狭間戸数六十余有。何れも鉄ニ而黒漆也。」
のことで、数からしてはっきり誤りとわかる部分もある。
>>428 安土日記に「南北へ20間、東西17間」ってあったっけ?
皆様の所謂「へ字壁」に関する議論を拝見して、大変興奮しております。
小生も以前は、天守台南西下に出土した礎石群から、天主台周囲を懸造の柱が林立し、天主台にはみ出す形での
総懸造りとした、南北20間×東西17間の矩形(長方形)天主にて間取りと軸組の復元を試みておりました。
http://www.geocities.jp/kakezukuri/ しかし、天守指図支持派の某掲示板での議論を経て、現在では、南北12間×東西10間の矩形天主を、菱形多聞櫓が取り囲む、
敢えて言うなら駿府城U期や寛永期淀城のような、菱崩しの回字環立式天主にて復元を試みております。
天守指図支持派の方々とも議論を重ねることで、部分的にでも真実に近づくことができれば幸いに存じます。
432 :
日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:42:54.75
ひゃっほ〜い! スタバからスマホでスマソでつw
>>346 お城好き淳先生、わが愛しの小倉城にもぜひロケに来てくださいな〜
あの安土城を復元した内藤昌先生の師匠筋にあたられる藤岡通夫先生設計の戦後復興天守は、まさしく壮麗の一言ですよ!
番宣ゲストは、大阪城天守閣を見て「立派なお寺ですね!」と感想を暢べられた綾瀬はるかさん
>>401でオナシャス!w
>>423 ほへ〜、福山雅治さん、「へ字壁」とは考えましたね〜
確かに天守指図も、天主台の石垣も、「へ」の字(鈍角)が8つある不等辺八角形ですもんね。。
安土日記も信長記も、よ〜く読み込んでいけば、まだまだ隠れている情報がたくさんあるのかも知れないですね、、、
>>431 ひょっとして堅牢な論理でお馴染み、Tm.さんでしょうか?
1階だけ菱形の矩形天主の周りを、菱形多聞櫓が囲う回字環立式も面白いかもしれませんね。
完成の暁には、ぜひ画像うpオナシャス!
みなさん、このヌレ、本当に楽しくて勉強になります。また何かアイデアが閃いたら、オナシャスm(_ _)m
小倉城だったら、さすがの綾瀬も「立派なお城!」って言うと思われ…
天主台下の礎石列は懸造りのものでは無いと思うけどね。
じゃ、あれはなんなんだ二の丸に上がる階段室か?
何かと言われると特定はできないが、懸造りじゃないと思うよ。
懸造りじゃないと思う理由
1.懸造りにする意味が無い
一般的に懸造りにする理由としては狭い敷地や、そもそも平坦が無い山の斜面等に建築物を設けたいとか、見晴らしの良い場所に張り出して作ることで眺望を良くしたい等が考えられる。
安土城の場合、天主を建てるのが大きな目的の一つであるわけで、天主台も天主のために築かれた土台だ
上に載せる天主に対して、初めから小さ目の天主台を造るのは考えにくい。
普通だったら天主に合わせて天主台を造ればよいので懸け造りにする意味が無い。
眺望で言えば天主の上層部の方が良いわけですぐ下に狭い曲輪や門しかない様な場所で眺望は考えにくい。
2.懸造りにした場合、天主台の石垣が隠れてしまう
信長は総石垣造りの城を造ることで世の中に新しい時代(支配者)の到来を見せる目的があったと考えられている。
石垣は見せる事が重要な機能であって懸造りで隠してしまうのは目的に沿わない。
その他の何か目的のある建造物が必要な場合なら別だが、わざわざ隠す様な事をするだろうか。
3.礎石列の並びの方向と天主台の礎石列の方向が異なる。
天主の張り出しを支える為の懸造りであれば、礎石列の方向はそろっているのが自然なのではないだろうか。
4.懸造りの天守は美しくない。
信長は天主にその後の天守(大坂城は除く)には無いような装飾を施し、見る者を魅了させていた。
もし、懸造りの天主があったとして、美しい外観だっただろうか?
天主台から上の形がどんなだったかも不明だけど、西側だけ懸造りの天主が美しいとは思えない
>>435お前さんは懸造りだと思っているのか?
連投になるが、補足をしておく。
二ノ丸東溜りと名付けられている天主台西の狭い空間に大きな石が転がっている。
あれは多分天主台の石垣として使われていた鏡石だったものがあの位置に崩れ落ちたのではないかと思っている。
謎の礎石列は天主台のすぐ脇に一列と少し離れた位置に並行してもう一列ある。
少し離れた側の一列は一部が巨石の下になっていて、巨石が元々あの位置には無かったと言う位置関係からしても裏付けられると思う。
もし、鏡石であったのであれば、石垣を隠す様な建造物は無かったと考えるのが良いのではないかと思う。
それではあの礎石は何かと言うと、恐らく、巨石を天主台に組み付ける際の足場の木組みの礎石だったのではないかな。
通常では足場に礎石はいらないのかもしれないけど、巨石の重さに耐えられるように礎石が必要だったとか。
発掘調査の際は礎石の周りに多数の鍬なども出土してる。
また、謎の礎石は、巨石の下側の面より恐らく10cm程度は下の埋まった位置にある。
何かの恒久的な建造物の礎石であれば埋まったような位置にあるのは不自然。
普請中に必要だった礎石を片付けるのではなく、壊れた道具類と一緒に埋めてしまったのではないのかと思われる。
http://fast-uploader.com/file/6955987777048/
千田先生説の受け売りだが、石垣に焼け跡があり木材が掛けてあったと推定されるとされている。
石垣を積むための足場などの礎石ならば他の側面や他の城からも見つかっておかしくない。
掛け作りと断定は出来ないが、基礎を必要とする建物が接していたと考えるのが自然と思う。
階段付きの渡り廊下じゃねーの?
居住空間である天主も御殿に見なして
御殿と御殿を渡り廊下で結ぶのは常道じゃないか?
440 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 06:30:26.82
少なくとも千田氏の言われているようなテラス説は、安土の気候風土を無視した欠陥構造物であり非実在が顕著です。
そう言えば、安土城と小倉城の共通点って、最上階に鐘が吊られてたってことらしいけど、一体何に使ってたの?
443 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 09:21:04.04
>>440 日本みたいに地震の多い国で、レンガ造りの建物なんて建てるわけがないよな
みたいな話?
444 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 09:43:43.88
周囲の狭い敷地に建物が建て込んでいる中、大雨が降れば滝になってそれらの屋根に打ち付けるだろうし、大雪が降った場合、積もった雪の処理が問題となる。
445 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 09:46:21.75
追記・それは天主台一杯に天主本体が建てられていた場合も同じなんだけどね。
447 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 11:26:45.19
安土城のは宝鐸の誤伝だよ。
448 :
千田嘉博:2014/05/19(月) 12:13:02.08
信長公はすばらしい
451 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 17:50:14.50
454 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:06:30.84
懸造りテラスを後から、どっかの寺から移築増築(再利用)したって可能性はないか?
ハ見寺だって天主完成から2年後、滅ぼした甲賀の寺からの移築創建だって説もあるくらいだから。
現実的に考えると、このような場所にあるものとすれば番所なんだけどね。
おそらく信長は、天主台石垣を来客たちに見せて自慢したかっただろう
しかし、あの礎石列の上に建っていた1間幅の構築物は、確実に天主台石垣の見栄えを損なってしまう
ということは、新築当初からあっただろう二の丸の玄関や階段などではありえず、後からやむを得ない事情で増築した構築物であった、
との結論に至らざるを得ない
そこで、あの礎石列の延長線上に何があるかを見てみると、北には二の丸東端、南には本丸南西櫓址がある。
http://inkpot.cocolog-nifty.com/blog/images/2009/12/23/dsc_6389x.jpg そしてこの本丸南西櫓こそ、この1間幅の構築物の性格を明らかにする鍵になっているような希ガス
信長の趣味は茶の湯で、政治的に重要な機密要件を話すときに人払いを兼ねて自ら茶を振舞っていたと思われ、
そのための黄金の茶室が急遽、この見晴らしの良い南西櫓に造られたんジャマイカ?
おそらく、安土築城以来全国統一が進むにつれて、新築時の想定以上に公家や大名、寺家社家、商人などのVIP客との密談が激増し、
この私的な贅沢茶室を持つ櫓に、公的な謁見の間である二の丸御殿から直接行けるように、懸造りの橋を架けたんジャマイカ?
天主台石垣はある程度仕方ないとして、天主本体が隠れることのないように、できるだけ廊下の屋根棟を低く建てたんジャマイカ?
と妄想してみるスレ
460 :
日本@名無史さん:2014/05/20(火) 20:13:03.96
>>458 寺のある山の方も何とかして欲しいでごんす
461 :
日本@名無史さん:2014/05/20(火) 20:46:37.85
462 :
日本@名無史さん:2014/05/21(水) 08:51:36.15
>>457>>459 あの礎石「列」の上に建っていた建物は、本当に東西1間×南北6間か?
西側も全部発掘したら、南北6間×東西7間程度の御殿の礎石「群」だったりすてwww
>>462 遠侍(SP控室)か?
二の丸はあの狭さだから、御殿に入れるのは大名と家老(2)だけと思われ、確かにそれはありそうだな
そうすると、大手道脇に建っていた3軒の屋敷(伝羽柴/伝徳川/伝前田邸)や大手門前広場の使途も自ずと明らかになる希ガス
天主との位置関係や構成から、格式は@伝羽柴邸(西=右京/二段)A伝徳川邸(東=左京/上段)B伝前田邸(東=左京/下段)の順で、
特に@伝羽柴邸の上段本殿には信長御成門と思しき高麗門、軒唐破風が付く復元案があるくらいだから、信長自ら出向いて歓待したと思われ、
http://www.youtube.com/watch?v=JRg_a3-qe_4 それぞれ@朝廷の勅使or遠方からの大大名(100万石〜)AB大名(100万石未満)を官位に応じて、一行の宿舎にしていたんジャマイカ?
したがって大手門前広場は、勅使の牛車や大名一行の馬や輿(巨大駐車場)それを世話する従者や馬子相手の商人でごった返していたと思われ
安土城を起工した天正4(1576)年1月中旬〜天正10(1582)年1月までの丸6年間で、織田家の領地は何カ国増えたんだろう?
>>462 現、信長廟の南側の石垣も高熱を受けた跡があるので、天主台の石垣と同様と言う事を考えると、発掘で出たところだけと言う事ではない可能性が高いと思われる。
471 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 11:58:03.93
確か伝三の丸へは敷地より張り出した建物があり、そこから上る構造であったと推察されているから、二ノ丸も同様の構造であったとも考えられるね。
確か高さ3尺弱の石垣は、城址を修復したときに集まった裏込石を、とりあえず集めて積んだだけだったはず
474 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 16:03:05.72
そう言えば、ローマ法王に贈られた安土屏風の行方調査はもうダメポ?
476 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:44:09.90
477 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 22:16:18.69
岐阜城では麓に御殿を造ってるのに、何故安土は狭い山上なの?
479 :
日本@名無史さん:2014/05/23(金) 08:37:32.59
ひゃっほ〜い! 朝礼前の職場からスマホでスマソでつ!
>>463>>465-466 ほへ〜、二の丸東溜りは遠侍ですか〜
千田センセの懸造りのテラス説も派手な信長公らしいかな?とも思ってましたが、
天主や天主台の美観を損ないそうなんで、やはり平屋の遠侍殿の方が説得力ありますねぇ〜
そこから信長公が待つ二ノ丸御殿に上がるイメージが湧いてきました。
次に安土城址に登城したら、テーブル石に座って想像してみたいと思います。
皆さん、このスレ本当に勉強になります。また何か閃いたら、よろしくオナシャス!
481 :
日本@名無史さん:2014/05/23(金) 12:48:13.69
>>477 岐阜城が建つ稲葉山はかなり標高が高く険しい山道
安土城が建つ安土山は標高が低く
麓から最短ほぼ直線で登れる大手道を通して上り下りしやすくしてた
安土城は周辺からでも天下人の城だと分かるように
また琵琶湖の水運も考えて
あえて少し標高のある山に建てたんじゃないかな
信長の寝室ってまさか天主ですか?
下の階で出火したらどこに逃げるんだろう。
寝室は御殿でも密集してるから危ないかも。
光秀が本能寺で謀反を起こさなくても、誰かが本丸に火をつけて焼き殺してる気がする
>>484 慧眼!
やっぱり江戸城復興天守は、SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造り+木目調耐火ボード内装で決まり!
信長は当然最上階で寝ていたんだろうな
山城の復元図で草木生え放題は止めて欲しいわ。
築山と勘違いしてるのかね?
信長が天下を取ったってのは、最近のタイの軍事クーデター政権みたいなもんか?
信長は天下とってないと思うが・・・
彼の場合はまだ中央を抑えてる有力地方大名にすぎないだろ
官渡の戦いに勝った後の曹操くらいのレベルじゃね?
牛若丸あたりでしょ
それまでの常識を破るデザインと大きさの天守閣を持つ信長の安土城
その安土城を凌いだ秀吉の大阪城
その大阪城を凌いだ江戸幕府の江戸城
その江戸城を凌いだ名古屋城・・
近代の再建とかは外して、戦国〜江戸時代に建てられた天守閣の大きさは、
名古屋城>江戸城>大阪城>安土城>その他〜でFAと考えていいのでしょうか?
間違っていたら教えてください
>>495 高さや一階の面積は江戸城の方が高い
名古屋城の総床面積が江戸城よりも大きいのは、
名古屋城の一階と二階が同規模だからなので、
その辺は割引くべきかと
>>495そういうのは、某知恵袋でやったほうが盛り上がると思うよ
ちなみに話は変わるが
俺は、天守台だけ造って天守建てなかったっていうのが、天守の最終形態だと思っているの
明石城や赤穂城のごとき、天守台造っておいて上物は想像にお任せするタイプの天守台
>>496>>497 ありがとうございます
そういえば、姫路城ってどうなんですか?
国宝だし建て替えじゃなかったと思うんですけどね
姫路城もかなり大きいですよね
大きさで言うなら、天守丸になった最終形駿府城の先代駿府城が最大になる予定だった。
という説があるけどね
まあ、天守閣にしても、江戸城だけは特殊なチートだからねえ。
他の城郭の拡張が、御三家を含めて打ち止めになった後も、
将軍の城として拡張が重ねられた。
この将軍特権チート分を除き、かつ、時代を絞って、
いわゆる「戦国武将」「江戸期の藩祖初代」の守備範囲で見た場合、
機能的な最大城郭は、まさかのまさか、伊達政宗の仙台城なんじゃないかと思う。
青葉城の西側の奥行きは、とんでもない拡張余地を、わざと残してあるように見える。
これとは別に、徳川家康という一人の武将が考える、近世城郭の完成形は、名古屋城だろうなあ。
江戸でも駿府でもない。大阪の陣後の松平忠明作の大坂とも違う。
>>500名古屋城は、小天守もあるからね。
江戸城、大坂城は小天守台はあっても小天守がない。家康創建の江戸城天守は連立式で小天守があったらしいが
でも名古屋城には西側にもう1つ小天守を造るつもりだったから、こっちも未完成といえば未完成かな
>>501 慶長度江戸城天守も対角線上にある二重櫓以外は
塀と多聞櫓だけだと思う
そもそも名古屋城に小天守があるのは徳川系城郭では特殊な例と
考えるべき
>>503家康の江戸城天守がどうであったのかは俺もよくわからんが、小天守か隅櫓を付属させかつ天守曲輪を構成していたらしいから
少なくとも家康自身は小天守やそれ相当の付櫓のある天守を造りたかったのだと思う
>>504いやいや
江戸城にしても大坂城にしても駿府城にしても小天守台があるじゃない
特殊というより造りたくても造れ(ら)なかったというべきでは?
>>505 小天守台に建物が必ず付属していた訳ではない
単なる踊り場として作られた場合も多いわけで
507 :
L特急「踊り場」:2014/05/25(日) 15:32:19.81
萩城、津山城、福井城の天守閣再建待望論
>>506小天守台があるから上物があったんじゃない?とかいってるんじゃなくてさ
「あくまでも小天守台」が付属しているということにしたいんじゃないのかな、と
始めから踊場として造られたのなら絵図にもわざわざ小天守台なんて書き入れしなくていいでしょ?
小天守台があるのに小天守を建てないとは、こりゃあよく考えれば不思議。
天守台を作る上での作法化してて、一応付属させる事になってたと考えるな
天守を建てるつもりがないのに天守台を一応築くのとおんなじ作法であろう。
今は予算が無いから茶室は作らないけど、お金が出来たときの為に
場所だけ用意しとこうみたいな
小天守台は枡形空間みたいなもんじゃね?
左右に行き場が無い小天守台に集まってきた敵を天守上から鉄砲で掃射とか
そら矩形なんだから枡形でいいけど、言ってるのは小天守台と名ずけられてることだよ
例えば五重天守の天守台を築くなら、小天守を建てる予定がなくとも、形式として小天守台を築いた。
三重の御三階櫓なら小天守台は築かない。といった天守台築造の決まりごとがあったんじゃないか
ということ
天守「台」に注目して天守を建てる台を大天守台、それに付属する小さい台を小天守台にしたかと
建築物の寿命とメンテナンスと費用・コスパについても語ってくれ
>>510 天守が建ってないのに天守台だけと言うのは言うまでもなく幕府の許可が無かったり遠慮しての事。
ただ、それとは別に、財政的に後回しと言うケースもあったと思う。
幕府に申請しても許可が下りずに建てられなかったケースがあると言う事は、いつかは建てるつもりだったので天守台だけは用意しておいたと言う事になる。
城を初めに造る際に天守も建てたいと考えていたのなら、許可が下りていなくても、初めから場所だけ確保しておくと言うのは考えてみれば当たり前の話。
たいていの場合は本丸は十分広くは無いし、後からスペースを確保したくても簡単にできるようなものではない。
初めの思惑の際に小天守の構想があったなら、天守台だって小天守のスペースを確保していてもおかしな話ではない。
財政的に一度に建てるのが難しい状況であれば、大天守だけあって、小天守は台のみと言うケースも当然あってもおかしくは無い。
理由は異なるかもしれないが、熊本城の様に初めは大、次に小と言う事例もある。
>>515普通、付櫓台とかいうけどね
>>516武家諸法度だね
福島正則改易がいい見せしめになって、エクストリーム増改築のチャレンジャーはいなくなった
>>517 しかも福島正則は台風で損壊した石垣の修復だもんな
いわんや天守新築をや、だな
江戸時代初期に建られた城のほとんどは大改修とかせずに幕末までそのままだったのかな。
壁の塗り替えぐらいはあっただろうけど、日本の木造建築は凄いな。
江戸末期の江戸城内の写真では城内の屋根の瓦はハゲハゲで所々草が生えてた
松本城もかなり傾いてたみたいだし、あまり修復はされてなかったんじゃないかな
大名って城を修復する金があるんなら菩提寺を整備してるイメージ
江戸中期には天守もそうだが櫓も土塀も、用途的には不要なのが明らかだった。
そんなものに財政難のおり金はかけられず放置状態になってた。
姫路城天守も傾いていて、庶民に揶揄されていたほど
天守の傾きを直すとなると、名古屋城天守の宝暦の大修理みたいになるし
524 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 14:45:52.32
名古屋城は区画がシンプルに大きくて大軍で使いやすそうだ
逆に大軍じゃないとどうにもならん感じもするが
>>491-492 タイ国王、プラユット陸軍司令官の指導者就任を正式に承認する勅令
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140526-00000047-reut-asia 源頼朝以来、北条→足利→徳川と、日本を実効支配していたのは軍事政権だよ
もし正親町天皇が安土城に行幸していたら、信長は晴れて天下人となり、本能寺の変もなかっただろう
しかし、信長には足利宗家の裏事情を知っていたから、将軍で終わる気はさらさらなかった
誠仁親王の5男と信忠の娘を結婚させ、藤原北家に代わり、織田家が外戚として未来永劫日本を統治できる皇位簒奪を狙っていた
だから朝廷は、五摂(藤原北)家の筆頭・近衛前久にノラリクラリ時間稼ぎさせ、丸腰で都におびき寄せて、光秀に信長を始末させた
それを知る秀吉は豊臣(豊受の家来の意)を名乗り、関白に収まることで、信長のような皇位簒奪は図らないことを宣言したため、
晴れて後陽成天皇の聚楽第行幸(朝廷の正式な承認)がなり、天下人となれた
家康も征夷大将軍となることで、家光の代に二条城行幸(朝廷の正式な承認)が実現、以来徳川軍事政権が260年間日本の統治を行えた
526 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 15:32:33.28
大きな価値観のシフトがあったわけか
軍人ほどの現実主義者はいない半面、俗世間との距離もやはり存在してるんだよな
夢を夢と分かる人間は、かの国にはどれくらいいるだろう。投票では、夢と現実の
区別がつかない人間が多すぎるという結果しか出ないのかもね。当面は。
その結果か。
529 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 17:23:52.49
クソ土民からまともな人材が出れば普通にそこに近づくし、
単なるクソ土民が国を支えられるわけもない。
当たり前の話だろ。ジンバブエやらアラブの春やら見てれば、
アホでも分る話だ。
530 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 17:26:52.71
>>529 フロイスやオルガンティーノも戦国日本で同じこと考えてたんだろうなwww
531 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 18:34:15.16
>>530 別に東洋も西洋も中世出は似たようなものだけどね
532 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 21:32:20.61
聞クトコロニヨルト、信長ドノハ、我々宣教師ヲ大事二シテクレタ理由ガ、
534 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 11:29:15.39
>>533 名古屋城本丸御殿玄関は一の間二の間ともに、虎に竹の絵
江戸城本丸御殿の玄関も同じで、そこで控える勅使や大名を威嚇するためだったとか
http://blog.goo.ne.jp/wani1net/e/d604196e65db45ded2fd84f1c4e393bf 昔、家族で上野動物園に行き、虎の檻を見ていた時、突然9歳くらいの男の子が檻に向かって石を投げたら、オスの虎が猛然と立ち上がり、
檻に掴まり立ちしながら怒りに満ちて、地響きするような低い大声で男の子に向かって吠えかかって、周りにいた見物客はみんなビックリ!!
見物客の間を縫うように逃げて行く男の子を、サーチライトのような虎の目がひたすら追いかけているのを見て、ゾッとしたyo!
おそらく信長も、安土城に来た勅使や公家、大名達を威嚇するかのような、デカい虎の襖絵で遠侍を飾っていたと思われ!
536 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 16:47:06.69
>>532 鉄砲ノ起爆剤、硝石ヲ、我々宣教師ガ独自るーとデ密輸シ、信長殿二供給シテイタカラデスネ、
鉄甲船ノ建造技術モ、信長殿二教エタノハ我々デ〜ス
ソレモコレモ、信長殿二天下ヲ取ッテイタダクタメデ〜ス!
537 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 16:58:23.26
信長が同時代的にも相当イノベーションに敏感な人間だったことは疑いがない。
愚物は信長本人の発明じゃないとか茶々入れるけどね。アホの勘違いとは無縁に、
信長は生まれながらのリーダーだからな。
そういう人間にとって、西洋の知的エッセンスが凝集された存在である宣教師どもは
得がたい存在だったことだろう。
だからこそ、坊主と宣教師で討論をさせて、宣教師に軍配を上げたわけだ。
信長が今生きていたら、西洋東洋でどっちに軍配を上げるだろうね。
538 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 17:13:02.07
信長殿二、松永弾正殿ノ大和郡山城二、岐阜城ニハナイ、壮麗ナ天守ガアルコトヲ伝エタノモ、我々宣教師デ〜ス!
負ケズ嫌ヰノ信長殿ハ、ソレヲ真似テ、安土城ニモ立派ナ天守ヲ建テラレマシタ〜、
我々ノ神でうすノ天主堂ヲ真似テ、天主ト命名サレマシタ〜 実二立派ナ御心掛ケデスネ〜!www
「庭師が語るヴェルサイユ」って本の書評で建築家の隈研吾氏が
「ルイ14世が庭を造りながら成長する様子が面白い。
弱い人間が強さに憧れ壮大な庭を造ると、今度は庭が彼を励まし強くしてくれる。
その相互作用は現代人も反復している。
庭が生き物だからそんな共振現象が起きる」てな事を書いてたけど
なるほど各地の城の庭園、大名庭園にもそんな作用があったんだろうなと思った。
541 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 19:05:26.80
>>538 チョット違イマスネ!
松永弾正ドノノ居城ハ、大和信貴山城デシテ、弾正ドノハ、信長ドノに背イテ、最期ハ信貴山城デ爆薬仕掛ケテ派手二散ッタノデス。
笑ヒゴトデハ、有リマセンデシタ
其レデハ皆サン、アテブレーベ
>>538 それってマジ? 天守閣って信長の発明じゃなかったの!?
543 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 19:38:09.61
聞クトコロニヨルト、松永久秀ノ信貴山城ト云フ城ガ、天主ノ最初デス
544 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 19:49:23.45
にっぽんノ戦争、大人シイ。
戦争ノ前二、話シ合イ、ヤリマス。
シカシ、よろっぱノ戦、ナンジュ年モ、ナンジュ年モ続キマス。
>>542 もちろん違う
伊丹城(有岡城)が日本で最初の天守とされている
松永久秀の信貴山城には4層の天守があったことがフロイスによって記録されているが、
この天守は、信長が義昭のために建てた二条城に移築されたらしい
同じく松永久秀の多聞山城にあった廊下櫓が多聞櫓の初出とされ、松永久秀の城が信長に大きな影響を与えていたのは間違いない
なお、信長の代に岐阜城に3層以上の天守があったかどうかは不明らすぃ
546 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 20:09:53.97
そりゃそうだわな
戦国時代は廓制だもん
547 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 20:11:13.57
西近江の拠点において、坂本城→廃城→大津城→廃城→膳所城と、次々と廃城と別の場所に築城を繰り返したのはなんでですかね
548 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 20:13:27.78
研究しなさいよ〜
>>545 THX!
松永久秀って、近世の城に欠かせない高層天守と多聞櫓を発明した城革命家だったんだね。
久秀天守の復元図ってない?
弥助〜ツ!!弥助〜ツ!!ドコイタ〜!!
此処に来る 危険 言たノニ
挿される カクジツ挿される 痛いノニ
前門ティガー 後門ウルフよ
>>545 松永久秀の信貴山城四層天守がなかったら、少なくても信長の安土城に天主はなかっただろうな
当然、信長コピーの秀吉の大坂城にも、家康(秀忠家光)の江戸城にも、あれだけの高層天守はなかったろう...orz
そう考えると、松永久秀は漏れらの恩人!?といえるかもなw
>>549 信貴山城の四層天守のイメージとしては、おそらく犬山城や丸岡城のような感じで、三層大櫓に【一重望楼】を載せた構造だったんジャマイカ?
信長は安土城でそれを上回る【二重望楼】を載せて五層天守とし、秀吉は大坂城で安土城を上回る【三重望楼】を載せて五層天守としたものと思われ
553 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 02:59:49.91
城主がその権威の象徴に住むのは当然の発想。御殿に住むほうがおかしい
554 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 05:34:11.12
>>547 延暦寺を直接監視する狙いから、街道・水運の管理をする狙いに変わったのが
大津城まで、城としての弱さが露呈したことと、徳川氏の新しい時代に
変わったことを示すために作ったのが膳所と聞いたことがありますな。
555 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 05:53:00.50
人は城、人は生け垣
良い言葉だ
馬鹿と煙は高い所に登りたがる
558 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 08:18:12.59
水は低きに流れ、人は易きに流れる。
>>558 ご都合主義で内藤案に宮上案を組み合わせて、完全に信用を失ったAJのように?
560 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 08:49:56.62
>>559 万がいつ、そやつがわが相模に益なく害あるものであれば、その場にて討ち取れば良い。
近寄らねば、首は打てぬ…
561 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 08:51:58.86
なり切り皮切り山椒の木
>>528 特別展情報、誠にありがとう存じます。
伝本丸南東端出土の笏谷石製容器については、小生も写真でしか管見したことがなく、ぜひこの機会に現物を見てきたく存じます。
>>533>>534 名古屋城本丸御殿平面図並びに障壁画情報、ありがとう存じます。
徳川幕府が江戸城・二条城・名古屋城などの遠侍に虎に竹図を採用したということは、
http://www.kyotodeasobo.com/art/column/museum_kikou/10.html#.U4UjuZVZrGg 秀吉・家康は、信長の優れた政策や視覚的演出を上手く利用して、全国支配に生かした節が随所に見られることもあり、
その源泉を、秀吉の大坂城並びに伏見城、さらには信長の安土城に求めてよいやに存知ます。
>>539>>540 本圀寺真如院の枯山水庭園については、おそらく茶頭・千利休が雪舟へのオマージュとして義昭のために作った庭と思われ、
室町時代に大流行した、抽象度の高い「寺院の枯山水」の有終の美を飾る一大傑作であり、
後に秀吉大坂「城郭の池泉式」庭園たる山里丸・芦屋丸で花開き、更に近世「大名屋敷の池泉回遊式」へと発展したものと考えます。
[室町時代]寺院の枯山水(悟る庭)→[安土桃山]城郭の池泉式(見る庭)→[江戸時代]大名屋敷の池泉回遊式(触れる庭)
安土城および岐阜城の庭園に関しては、フロイスの記述を読む限り、枯山水ではなく池泉式と見られ、
最終的に池泉回遊式へと発展した近世大名(武家)庭園の先駆となった信長の面目躍如たるを読み取ってよいやに存じます。
>>539-540 なるほど、名古屋城本丸御殿は細かい寸法入りの図面が残ってるんだね…
安土城二の丸東溜り東端(天主南西下)の礎石列の発掘現場には、焼けた漆喰壁や柱もそのまま出土してるらすぃから、
そこにあったのは建物だった可能性が高い(懸造舞台の可能性は低い)
いずれにしろ明日香淳也氏なら、名古屋城本丸御殿の指図を参考に、信長の居城に相応しい遠侍殿に復元してくれるハズ!
>>552 それ面白い
秀吉は3重望楼にするために下層部を2層櫓にしたのかも
軒丸金箔瓦にしても、安土城では凹部に、秀吉は目立つ凸部に貼っていることから、とにかく目立つ望楼部をできるだけ大きくしたと考えられる
そして家康の駿府城U期では、ついに3層櫓+3重望楼が実現!
全国の諸大名から最高級の太い柱をふんだんに寄進させることができた大御所だからこそ可能になった、究極の望楼型の超巨大天守だといえよう
それに続く秀忠・家光もさらにそれを上回る天守を建てたわけで、
天下統一途上で、畿内周辺しか抑えていなかった織田信長の岐阜城や安土城ではとてもできない芸当だ
567 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 19:59:10.50
>>565 まさしく、天守は天下統一事業の通信簿だな
徳川幕府造営の天守は織豊時代を上回る史上最大級!って、そりゃ当然だろwww
>>465>>565 平城となった豊臣大坂城で早くも天守が書院機能を失い、関東平野のシンボルとして形骸化したからこそ、高層巨大化できたんジャマイカ?
江戸城天守の内部CG見ても、ただの巨大櫓で死ぬほどつまんない…orz
http://www.youtube.com/watch?v=GdDWK-rgQU8 しかも将軍の切腹のためとか、正月など年に数回しか登閣しないなんで無駄の極み…
ということは、外様大名の財力を削ぐ、という徳川幕府発足当時の重要な目的が、徳川幕府天守巨大化の原因で、
久秀や信長など「畿内天下人」の段階では天主は、城主自身の権勢を見せつけることが主な目的だったのが、
秀吉や家康など「全国天下人」の段階になると、民衆の景気対策(公共工事)に軸足が移ったと思われ
569 :
大滝秀治:2014/05/28(水) 21:03:38.32
つまらんっ!徳川の城は、つまらんっ!
570 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 21:05:06.91
571 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 21:10:57.92
>>568 江戸城天守閣の再建運動が全く盛り上がらないのは、内装がつまらなすぎるからだろうwww
>>571 胡散臭さプンプン丸の三浦■幸が監修してるせいだろ
本もペパクラも、三浦正■や佐藤▲規の名前を見ると、買う気失くすのは漏れだけか??
徳川の天守は戦国の再建天守と同じで、基本的に外見だけが重要
574 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 22:31:06.15
松江城のようなしょぼいハリボテ天守小屋とは違って、
名古屋城天守は総尾州檜の節無し極上材だぞ、
むしろ見えないところにこだわりを持っている。
575 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 22:37:02.19
岩国城ってなんで中腹のくびれたような形をしているんですか
徳川式の天守は高さを重要としていたことが、異状に階高が高い特徴から察することができると思う。
それの過渡的なものが広島城大天守だって知ってたかな?
現代でもハルカスが何メートルやら、どこそこのビルが高いやらやってるけど、当時もそんな感じだったのかな
人間は大きな物を崇める習性があるからね。
建造物に限らず巨木や巨石も大好きだから。
>>579 超人(神)の存在の象徴だからな
子孫(人)繁栄の象徴である巨乳や巨根も崇拝の対象→
>>401w
五重天守を維持して大型化するには一重分の高さを高くするしかない
>>474 うむ
遺構調査結果を待たず、建設技術の前後関係も一切考慮せずに、文献の浅はかな行間読みによる「思い込み」と「知ったか」 を基に、
自説に都合のいい無謀な断定を重ねていき、ひたすら素人受けする上物の華やかさを追求し続けた故・宮上茂隆氏。
後学に混乱をもたらしただけの、故・宮上茂隆氏の錯誤に基づく安易な捏造作業の数々を、完全に唾棄すべき時が来たようである。
岐阜城山頂天守・・・遺構調査なしに、池田輝政城主時代の築城と考えられる加納城御三階をそのまま比定。
岐阜城山麓天主・・・同じく遺構調査をしないまま、フロイスの記述を鵜呑みにし、加納城御三階をベースに4層で外観捏造。
安土城天主・・・内藤氏作成の天守台実測図データを借定、当否不明なまま自らの東山殿常御所復元案と岐阜山麓天主を合成して捏造。
豊臣大坂城・・・遺構調査のないまま、明らかに慶長期以降の特徴を持つ「夏の陣図屏風」を基に外観捏造。
慶長度江戸城・・・前期層塔型出現以前にも関わらず、明らかに後期層塔型の特徴を持つ「中井家指図」を比定(宮上氏以外全員否定)。
そこで層塔型を前期と後期に分けるのは誤りとし、層塔型は登場と同時に完成型に到達していたとする詭弁を展開。
5年後に完成した名古屋城(内部に上下の断絶を遺す前期層塔型)の存在を説明できなくなる。
徳川大坂城・・・破風配置の短絡から、天守台のサイズを無視して「中井家指図」を移築したとするトンデモ説(宮上氏以外全員否定)。
元和度江戸城・・・東照宮の短絡から、「江戸図屏風」を無視、寛永度と同じ破風配置の「津軽家古図」を比定(宮上氏以外全員否定)。
>>582 慶長度江戸城…加納城御三階を完全無視
徳川大坂城…縮小移築とあるのが読めないようで
元和度江戸城…張り出しの存在を完全無視
584 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 18:26:36.65
>>582 なるほど、横山解りやすし!
宮上って、安土城も江戸城も二段石垣の天守台の上に建ってたとかほざいた香具師だろ?
そんなインチキしたら、どんな天守台でもやりたい放題に復元できる罠w
まさに、昔・宮上、今・三浦www
福井城という実例がある>二段天守台
お城というと軍事政権下における役所みたいなもんですが、
本丸と天守(閣)は現在の役所で例えると何に相当しますか?
本丸はお殿様の居住地なので、市長室や知事室に当たりますかね?
天守(閣)は何でしょう?
590 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 21:53:32.65
租税法律主義に基づく租税国家体制と、民からの収奪によって成り立っていた戦国時代を比較すること自体ナンセンスなんだが
591 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 22:48:27.53
5重天守に拘る理由がわからないな。
現代建築の20階建てに匹敵する高さを
5階に引き伸ばしてるわけだからむしろ不自然ではないのか
>>589 本丸に殿様の住居があったとは限らない。
>>591 望楼型の五重天守の場合、屋根裏もフロアになっているので階層は五階以上ある。
層塔型だって外観的には引き延ばしなどしていない。
単に天井板が無いだけで各階の天井が上の階の床と言うだけ。
やはり五重塔の影響が大きいかと
それより大きいのは当時でも現存してないし
とっとと豊臣大坂城の天守台を発掘しろよ!
貯水池なんて、今の時代不要だから、とっとと撤去しろよ!
>>565>>582>>592 慶長度江戸城天守(1607年完成)は、外観五層(慶長見聞集)内部七重(毛利家四代記)だったことが知られ、望楼型であることが判る
階層一致の層塔型だったら六重(地上5階地下1階)となり、宮上氏の十八番「その史料は信用できない」と切り捨てざるを得なかった訳だがw
その原因は、寛永度には比定できない津軽家古図を元和度に比定するため、中井家指図を慶長度に比定せざるを得なかったためと思われ
「津軽家古図=元和度」が宮上氏による江戸城復元案のメインで、「中井家指図=慶長度」はその副産物に過ぎないんだよ
もちろん、どっちも間違いだけどねw→
>>262
>>596 日本西教史では九重とある
で、七重・九重は何段も重なるという意味もある
600 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 08:43:18.22
602 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 12:50:26.97
>>602 層塔型天守の創始を慶長初期に引き上げと
元和度江戸城天守が中井家でなく鈴木長次の手によるもの
と考えている者です
>>582 >慶長度江戸城・・・前期層塔型出現以前にも関わらず、明らかに後期層塔型の特徴を持つ「中井家指図」を比定(宮上氏以外全員否定)。
> そこで層塔型を前期と後期に分けるのは誤りとし、層塔型は登場と同時に完成型に到達していたとする詭弁を展開。
> その5年後に完成した名古屋城(内部に上下の断絶を遺す前期層塔型)の存在を説明できなくなる。
なるほど、そういうことか
>>602 Wikipediaの江戸城を書いてたのは、この頭隠して尻隠さず野郎だったのかw
まとめると、
@津軽家古図を元和度江戸城とするために、中井家指図を慶長度江戸城に時代を引き上げる
Aそれを正当化するために、その翌年に建てられた駿府城も層塔型と言い張る
>>566 警察の冤罪捜査みたいなことする香具師だな…
名古屋城は一階の柱間江戸城の柱間を一間づつ縮小したものなので
無理が生じて構造が断絶している
606 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 17:08:05.00
>>605 こだわりの材木を使った「新築」なのにか?
>>574 慶長江戸城を徳川大阪城に解体移築した時も「無理が生じて」上下が断絶したんでつか?www
>>606 構造の完成度から見て、(断絶がある)名古屋城→(断絶がない)中井家指図 の順番。
名古屋城は移築ではなく新築だから、逆には絶対にならない。
よって中井家指図を名古屋城に先立つこと5年前に完成の慶長江戸城に比定するのは誤り。
>>606-607 おそらく最上階にあった東照宮から短絡した宮上氏は、@「津軽家古図=元和度江戸城(1621)」説で止めとけば良かったんだよ
その後、行間から滲み出る「内藤憎し」の一心で、それを強引に付会しようとして、A「中井家指図=慶長度江戸城(1607)」説、
B「それを更に徳川大坂城(1626)に縮小移築」説と二本も蛇足を付け足したから、
家康造営の二条城(1606)-駿府城(1608)-名古屋城(1612)との技術的な矛盾が噴出して、逆に信用を失った
故・宮上茂隆氏と「立て板の書き込み(Tateita)」のSTAP細胞的研究態度
>>582を他山の石とすべき
610 :
↑:2014/05/30(金) 20:30:58.75
こいつ(立て板の書き込み)本物のトンデモだなwww
そもそも中井正清を何度も天守を実際に作らないと、柱位置を一致させることが
できない程度の能力がないとか、正清の能力を舐めすぎていないか
>>611 この「立て板の書き込み」って香具師は、名古屋城(1612)が、上下の断絶がない中井家指図より構造的に劣ることを、
単に外周の間数が違うから上下で断絶させた、と言い逃れるくらいだからな。
おそらく名古屋城天守の本柱や管柱の位置など、まるで考えていないと思われ
名古屋城天守の柱位置を一致させようとすると、三階以上の規模が大幅に小さくなる
正清にとっては苦肉の策だったのだろう
何しろ名古屋城天守と同じ15×17間の大坂城天守も低減率を
2階と3階、3階と4階を2.5間とする無茶を行っている
恐らくは江戸城天守より1間小さくすることを幕府から求められたのであろうが、
施工主の無茶な要求は何時の世も変わらないのであろう
616 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 21:00:45.43
>>615 辻褄の合わない、都合の悪いことは、大工の「苦肉の策」or施主の「無茶な要求」だったってことで片付けるわけねwww
>>616 そりゃそうだろ
上物の辻褄が合わなけりゃ、天主台を二段にして解決しちゃう人だもの
>>584 みつを
天守台で辻褄が合わなくなると、外壁の逓減率だけ見て、上物における「施工者による無茶な要求と大工による苦肉の策」で解決
上物で辻褄が合わなくなると、天主台を二段にして解決…
もうやりたい放題w
この展開、一年前にも見た
と、言うことはもうすぐ、淳也ガーの人が湧くころ
江戸城も名古屋城も大坂城も最上階は八間×六間(大坂城は柱間を変更しているけど)
十八間×十六間の江戸城なら兎も角、十七×十五間の名古屋城・大坂城で最上階八間×六間を
実現するには途中で構造を断絶する必要がある
続けて
八間×六間は8×6=48の縁起担ぎと考えられる
48を縁起が良いとするのは浄土教の四十八願に始まるとされ、
徳川家は浄土宗に帰依しておりその影響と考えられる
明日香淳也って誰?有名な人?
626 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 16:01:06.38
>>622 徳川大阪城は内部で上下が断絶してないんだなぁ、これがw
628 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 16:23:03.05
>>627 それは外壁の柱間数の話な
いい加減構造で考えろよwww
>>619 つい半年くらい前のことのように思っていたが、あれからもう1年になるのか
>>628 いや内部構造もそうだけど
『願生寺指図』を紹介した論文が国立情報学研究所で以前無料で見れたけど、
今は定額アクセスになってしまった
632 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 17:21:47.56
>>631 平面図の各層内陣入側柱をもう一回よく見てごらんwww
入側の小屋梁上に上重入側の外柱を建てる構造は層塔型としては典型的な構造
構造を考証する上では知っておくべき情報だと思うのだが
635 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 18:14:12.74
>>634 層塔型の定義として、下階の入側柱がそのまま直上階の外柱になるってことなら、上下の断絶する余地なんかないじゃん!
2階と3階で柱が断絶している「新築の」名古屋城は層塔型じゃないってことになるよw
なぜ中井家指図の5年も後で「新築の」名古屋城の上下の断絶を容認するわけ?
639 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 18:58:52.45
>>636 名古屋城(1612)は二階と三階だけじゃなくて、三階と四階の間でも断絶している
3年前の姫路城(1609)とほぼ同じ「B1・1F・2F」+「3F」+「4F・5F」の三段構造で、
上下完全一体構造の中井家指図とは別物だがなwww
>>639>>642 ホントだ
確かに3階を挟んでその上下で断絶して三重構造になっとるね
中井家指図と偉い違いだw
646 :
645続:2014/05/31(土) 22:55:55.77
>>642名古屋城は確かに二重目と三重目以上で構造が違う
寛永度大坂城や寛永度江戸城天守と違って、完全な層塔型ではなく
望楼型構造を継承しているとみえる
単純に、大入母屋の入母屋屋根をかけなかった感じで造ってあるようだが
647 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 08:03:11.74
無知を晒してないで「愚子見記」を読みな。
オヌヌメがなんで愚子見記なのか説明してエロい人
>>646 それでは名古屋城望楼型に分類するのでありんすか?
650 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 23:37:16.23
651 :
646:2014/06/01(日) 23:40:27.22
>>649 それはトンボ蝶々も鳥かい?っていっているようなもんだぜ
そんなこといったら、限がない
望楼層塔は外観の分類。大入母屋のうえにあれば望楼型
それだけ
安土、岡山 初期望楼型
姫路、駿府 後期望楼型
名古屋 初期層等型
江戸、岡崎 後期層等型
層等→層塔
654 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 05:26:19.80
総統代理ヘス
>>625 安土城復元案のサイトを運営してる人
宮大工でないという意味で自ら素人と謙遜しているが、かつて内藤昌研究室にいた人らしく、
遺構の測量図に厳格で、鎌倉〜江戸時代の木割(木組みルール)の違いついての造詣が深い
彼の着眼点から学ぶものは実に多い
659 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 16:48:17.86
明日香淳也氏と宮上案江戸城ステマ「立て板の書き込み」、同じ素人でも天と地の違いだな…
664 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 03:07:15.60
戦災焼失天守が今も現存していたら
城郭の研究も大いに進んだだろうし、
城ブームももっと建築物主体で違ったものになったはずだ
665 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 07:58:11.04
少なくとも「愚子見記」の記述からは、慶長度江戸城天守が一、二層同大でなかったことは確かで、
望楼型から一気に後期層塔型を目指した可能性もある。
666 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 08:08:36.44
津軽の図は、張り出しを重ね上げた意匠が現天守に共通することからも、
おそらく江戸城天守の図に旧天守のイメージを重ねた再現図と考えられる。
668 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 14:58:34.95
淀城へ移された二条城天守は大和郡山城からの移築なんだけどね。
669 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 19:51:40.78
なに法螺吹いてんだこの馬鹿
670 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 20:23:53.53
千代田城天守復興は徳川360年の宿願にござる
671 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 20:47:22.10
672 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 22:34:49.89
聚楽第は、分類上城と言えるのかい?
住居兼政庁なのかな
武家は城、公家は屋敷と呼んでいた
675 :
日本@名無史さん:2014/06/05(木) 11:56:31.42
公家は御殿だろ
城の中の大名の居住スペースも御殿
聚楽第は城造りの邸宅。城造りの寺院とかと同じで
城とはいわないけど城の体をなしているというもの
現代人がどう分類するかは自由
名古屋城天守は材木調達の遅延が原因で工期の開始が遅れており、
それを挽回するために着手から半年足らずで完成している
これを実現するため中井正清は工員の増員に併せて、工程の分業化を
行うことで工期の短縮を実現している
同時に設計の簡略も行われたと考えられ、低減せず・四間・三間・三間
という徳川大坂城天守(三間・二間半・二間半・二間)と比較してザックリ
とした低減率はその点にも理由が求められると考えられる
名古屋城天守の三階と四階の柱位置は一致している
>>679 ちなみ一致したとあるのは敷居部分の柱を指すから
部屋内部の柱位置は江戸城天守も一致していない部分があるので
>>681 三階の敷居部分の柱と四階の外壁部分の柱の位置が一致しているという意味
>>686 その「劣るはずの」名古屋城天守は濃尾地震にも持ち堪えていますが?
688 :
日本@名無史さん:2014/06/06(金) 13:38:15.79
>>682 そんなの子供でも判るだろ!www
妻側から見れば、入側柱が3階(左右非対称)と4階(左右対称)で切れてるよwww
>>688 内容を把握している?
三階の「敷居」部分の柱と四階の「外壁」部分の柱の位置が一致しているという意味
外壁柱と平側からの断面図しか見ていない「立て板の書き込み」
>>582 ワロタw
>>692 Wikipediaで宮上案のステマやるくらいだから、おそらく竹林▲の関係者だろう
竹■舎を相続した故・宮上氏の息子かもしれんが
>>685 御土居って聚楽第の外堀みたいだけど、もしかして外側に石垣を積むつもりだったのかな?
物騒杉とか、雅(みやび)でないという理由で土塁のままにされたとか?
弘前城解体するんか。
唐破風か、冬の陣図北側に見られるような入母屋じゃないかな?
職田信長の木能寺→豊巨秀吉の娶楽弟→徳州家康の工条城
709 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 14:41:22.01
要は岡山城天守の最上階に外縁を取り付け(唐破風を置き換え)、中層の張り出しの一方を千鳥破風に置き換え、
総塗籠としたのが聚楽第の天守の姿だよ。
711 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 15:20:41.52
709
なんなのこういう知ったか野郎 全然違うが?
712 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 15:38:34.85
713 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 15:44:08.03
日本の城って大陸で使っても通用すんのかな?
中国や中東や西洋に比べたら明らかに防御力は劣ってそうだけど・・
朝鮮征伐では結構持ち堪えたらしいけど、実際どうなんだろ
大陸の戦いは城下町の住民皆殺しから始まるから・・・
大陸ではだだっ広い平野のど真ん中で大量の騎馬軍団やどでかい野砲に対応しないといけない
日本では山がちな地形を利用できて馬もポニーみたいな小型で野砲も大陸から来た中古品だもんな
城の能力としてはかなわないだろうな
モンゴル騎馬兵もポニーだぞ
堀のある日本の城の方が防御能力は上
ただしそれは大陸の戦法には役に立たない
大陸では街全体を城壁で囲む必要性があった
ポニー千葉
ポニーに乗ったモンゴル兵がヨーロッパまで攻め込み
有史以来最大の国を作った
それなのに武田騎馬軍団をポニーと卑下する日本人て低知能丸出しだよね
日本人を卑下する日本人を低脳と卑下する朝鮮人
721 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 17:13:45.37
日本の城が大陸で役に立つとか中2病かよテイノウ
戦国からやく四百年前の十字軍時代の投石器にすらボコラレ、
挙げ句はクルセーダーにもフルボッコにされるわ
722 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 17:33:51.65
でも元寇は2度も撃退したよ
723 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 17:39:12.39
724 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 17:50:10.23
自己紹介ってことですね?
ポニーに乗っていた日本の武士を笑うなんて
精神性がどうしよもなく愚かだよね
低脳の極み
726 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 18:13:36.85
722
撃退じゃないだろあれ
元寇を武力で撃退できたのは越だが?
いつ日本が撃退した?
博多は丸焼きにされてるのに頭蛆わいてんの?
727 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 18:14:31.45
やっぱりバカが沸いてるw
728 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 18:18:33.21
お前は蛆沸いてるwww
729 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 18:26:10.10
どう考えても十字軍と戦国武士なら百パー十字軍のが強い
十字軍は鉄砲持ってないよwwww
おばかさん
731 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 18:49:40.72
鉄砲なしで、一万パー十字軍のが強い
>中国や中東や西洋に比べたら明らかに防御力は劣ってそうだけど・・
個人の主観というより、全く根拠のない願望にすぎないことを押しつけられても…
>日本の城って大陸で使っても通用すんのかな?
>朝鮮征伐では結構持ち堪えたらしいけど、実際どうなんだろ
朝鮮征伐後の朝鮮では、中華式の城壁は劣っているからと、倭式で石垣を積みなおしているね。
733 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 19:53:22.01
なんか荒れてんだねここ・・・
まぁ根拠はないってか見た感じそう思っただけだけどね
つか城壁を全部石垣にしたの?それがマジならすげー話だな
今も残って・・ないよなぁ
倭城って未完成だった蔚山倭城も含めてほとんど落とされてないな。
慶長末期の順天倭城の戦いで明軍は攻城具使って攻めてるけど
モノの役に立ってない。
島津が撤退した後に泗川倭城に入った董一元が義弘用か太閤が渡海したとき用か知らないけど
置いてあった輿や御殿の様子を見て「こんな精巧なもの使って許されるのはウチの皇帝だけのはず」とショックを受けて
すべて燃やさせたなんてエピソードから倭城は居住施設や風流の面もそれなりにしっかりしてたらしい。
735 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:15:00.89
という倭人の妄想な
736 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:19:40.19
確か倭城はヒデヨシが朝鮮で拉致した朝鮮古来一等建築士の技術で作られた朝鮮式の城なんだぞ
それを自分たちのもののように言うなばかたち
737 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:25:33.07
そういや朝鮮の城ってパッとイメージ思い浮かばないな
まぁ中国っぽいんだろうけど
738 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:26:03.91
>>726
実は鎌倉政府が降伏したので元高麗連合国軍は倭を許し帰国準備がはじまり
そして帰国しようとしたときにハリケーンが来て連合国軍が沈没しただけ
739 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:27:45.10
日本の歴史は法螺ばっかなんだな
740 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:31:16.33
本来日本は連合国軍を救助する義務が生じているのに見殺しにするという非人道行為を働いた
わたくしたち日本人はひとりひとりがこの罪を確実に自覚し償わなければならないの
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
742 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:43:44.97
はいはいわたくし日本人とやらは罪を償ってくださいね
>>738,739
可哀相に
違う世界から来た人なんだねw
元と朝鮮連合軍は2度も全滅したのにwww
744 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 21:19:53.39
じゃあなぜ博多は丸焼きにされてる?
一度目は日本の準備が無かったからな
二度目は元軍は増強していたが鎌倉武士が頑張り上陸させていない
それに博多なんて釜山みたいなもんだぞ
釜山が焼けたら朝鮮の負けなのか?
秀吉軍が朝鮮の首都を陥落させたけど
これは例えれば京都が落ちたのと同じ
元朝鮮連合軍を撃退した日本
秀吉軍に攻められたった一月で首都まで陥落し明に泣きついた朝鮮
天と地ほどの差が有る
746 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 22:29:42.48
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
747 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 22:45:35.12
(広島県福山市)
福山城=久松城
蝙蝠城って無かったかな?
>>736 国家プロジェクトで水車さえろくに造れなかった朝鮮人がか
>>706 新旧の愛人同士が顔を合わせないように天守の後側に秘密の隠し部屋って、世界遺産・マイケル富岡(精子工場)かっ!w
>>708 それだ!
751 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 13:37:32.25
752 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 13:40:07.87
お前らがゴミだったなあ
秀吉の話題になるとスレが荒れる不思議w
>>752 ゴミと言えば、天主も本堂も中途半端なイイトコドリで終わったバイクの営業マンがいたなwww
>>753 ヒント:豊臣秀吉、西郷隆盛、伊藤博文
>>755 当時、日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスも「第一王子(鶴松)も第二王子(秀頼)も、関白(秀吉)の実子と信じる者は、当国には一人としていない」と書いている
そう言えば、聚楽第の壁に書かれた落書きを、たまたま帰城してきた秀吉が見てしまい大激怒
落書きした香具師が直ちに捜し出されて処刑され、当直だった門番も巻き添え喰らって処刑された事件があったと聞いたけど、
その件に関することなのかな?
>>757 800年間、権力者たちの交代劇を日頃から見せつけられている京童は、際どい冗談で新たな権力者をからかう反骨精神が身に付いていた
スキャンダルが表沙汰になれば、挨拶代わりに貴族の邸宅の塀に風刺画や落書きでからかうのが恒例で、からかわれた当の権力者も、京童どもの戯言よと苦笑いで見逃すのが普通だった
ところが、三好家の料理人を斬首しようとした信長も、落書きで犯人と門番もろとも斬首した秀吉も、尾張名古屋の田舎者だから、都独特のノリを理解できず、慢性的な味噌(塩分)の摂り過ぎもあって、キレて処刑してしまった
759 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 16:23:12.02
>>758 信長は女性に乱暴狼藉してたやつを首刎ねただけだろw
新しい権力者としては当然の処置。
>>749 慶念の『朝鮮日々記』によれば様々な職人だけじゃなく、土木作業員といった単純労働力も
日本からわざわざ動員してた。
倭城築城中は結構ゲリラ攻撃みたいなのを受けてたみたい。
>>735 残念ながら明の『両朝平攘録』に董一元が泗川城を検分した様子が記載されてる。
倭城の天守、「金泥」で彩られたという御殿内部の様子が明の資料からもある程度わかる。
762 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 19:12:17.30
763 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 20:55:11.13
朝鮮辺りの建造物なんかもわざわざ日本からいって建ててきたってことか?
>>450 妄想の恥晒しブログの安土城捏造案は、聚楽第の天守には合う希ガスw
769 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 08:30:25.75
福山城の伏見城移築物件は徳川時代のものだけどね
771 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 11:05:03.27
福山城て未完成の城だっけ
>>761 朝鮮に渡って倭城の天守を建て彩っていた御大工や画工もキニナル
中井家と狩野派の分家あたりか?
774 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 12:42:58.10
そんなに変わらんだろ
777 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 16:58:41.42
それは後世の改変
趣味で家の門を櫓門や枡形とかにしている強者はいないのかな
ウリナラマンセー
釘隠し
二条城二の丸御殿 三ツ葉葵
水戸弘道館 三つ葉葵 (城ではないけど)
名古屋城復元御殿 ???
瓦とか釘隠しは家紋を使うのではないのかね?
>>778 個人の邸宅で冠木門なら新らし目のヤツも結構そこらで見かけるけど、さすがに枡形とかは。
趣味じゃなくて明治期の廃城のときお殿様と昵懇だった庄屋さんが城の長屋門を譲り受け
移築し自宅の門として使ってるってのはあるね。さすがに維持費は大変らしい。
田舎に行くと、たまに城郭を意識したような石垣の上に下見板張りの土塀に、
入母屋と切妻屋根を複雑に組み合わせた家を見る。城が好きなんだろうな〜と思う
しかし、三階建は露骨に天守にみえるので恥ずかしいのか、見たことない。それとも
建築基準法でだめなんだろうか?
>>784 ああいう家めっちゃ住みたい
そういう田舎って近所同士家のつくり似てたりするから
城が好きってより余裕のある農家の見栄の張り合いなんじゃないかな
木造三階建は特別な許可がいる
787 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 08:10:48.28
木造だからすごいのであってコンクリを見てもなんの感動もない、
エレベーター付きの恥ずかしい建築物を外国人に見せるな
788 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 09:18:41.79
>>787 自分の趣味が普遍的だと勘違いするのは無教養な証拠。
外国人から見ても大阪城はがっかりするってこの前テレビで言ってたぞ
大阪城の石垣を見てがっかりするなら、その程度の感性なんだろ
木造建築にこだわるならぶっちゃけ天守より寺の方がすごい
復元天守にもそれなりの見所があるのだから安易に馬鹿にしてかかる奴は軽率だ
793 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 17:10:24.81
>>789 姫路と大阪とを回ってそう思うなら、「それぞれが背負う価値を見よ」かな。
ネット知識に惑わされると、価値が見えなくなるのかもよ?
アホか。姫路城と大阪城、双方が今の日本の価値観において文化遺産だからな。
コンクリ天守が何故多いかと問われれば、空襲の怨念という側面もあるな
>外国人から見てもがっかりするってこの前テレビで言ってたぞ
日本人は信号を守らない!規範意識がない野蛮な人種だ〜
日本人は車も人もいないのに信号が赤だからと律儀に守っている。規則に縛られ自分の頭で判断し行動できない日本人はロボットのようで気味がわるい…
ガイジンが何か言ったと有難がる人って、自分に自信がないから他人にたよるの?
俺は「イギリスでは…」「北欧では…」とTVで言っているのをみても鼻で笑うけどね。
異なる文化圏と同一の価値観でなくても問題ないし、ぶっちゃけ外人の感想なんか何の価値判断にもならない。
アフリカ系のアメリカ人はとか、中国人は、という話ならまだしも、ガイジンが〜では何の意味もないレスだよなぁ。
796 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 17:41:54.08
>>794 洲本や郡上や大阪の魂を支える形でね。文化と経済との結晶の一つの形だ。
>>796 関東大震災や空襲で燃えた寺社仏閣もコンクリで再建されているし
不燃というキーワードは昭和まで求めてもやまないものだったのであろう
郡上八幡とかは地元の熱意があるからいいとしても、関東に乱立するなんの根拠もない模擬天守どもは前時代の負の遺産だな
千葉城とか
鳥取の河原城とか、犬山城から外観借りてきた展望台だが、天守風建造物というくくりらしいな
流石にこういうのは行く気しないわ
尾道城、熱海城もひどい
尾道は、知らないが、架空の熱海城は結構、
形がすきなんだけどなあ
模擬を造るなとは言わないがもう少し個性や築城年代を反映させた造りにしてほしいな
全国に犬山城や大垣城を真似した天守を造って何が面白いのかと
昭和に大量生産されたテーマパークの一種ですから
>模擬天守
天守にこだわってる所は現存だろうが復興や模擬だろうがテーマパークだろ
県庁、市役所、大学などに跡地利用してるのが正統進化系
806 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 23:04:54.02
807 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 23:07:25.25
>>805 大多喜城、久留里城、館山城、千葉城、関宿城
関東というか千葉県だな
愛知も結構多いぞ
810 :
日本@名無史さん:2014/06/13(金) 08:10:15.52
>>795 日本文化を語るのに、外人すなわち日本人の外側の視点にはそれなりの意味がある。
個人だろうが集団だろうが独善的になりがちだからな。
思考停止してないかね?
811 :
日本@名無史さん:2014/06/13(金) 09:24:07.87
812 :
日本@名無史さん:2014/06/13(金) 09:29:33.60
なんの負の遺産なんだ?
>>812 学術的な価値なし、史跡を改変して建てられてるものもある、入場者はほとんど見込めず確実に赤字を垂れ流すことになる、採算が取れなくて閉館したとしても老朽化でなんらかの対応が必要
これだけあっても負の遺産ではないと?
あと、今後は一言だけの質問にはレスしない
814 :
日本@名無史さん:2014/06/13(金) 11:18:59.72
>>800 京都の伏見桃山キャッスルランドも酷いな
>>804 伏見城のように天皇陵になるのも
正当進化系かな
>>812 >>797のような事例はともかく、それが雨後のたけのこのようにブームとなり、
どさくさ紛れの町おこしのために、廃城されて久しいような所にまで
怪しげなコンクリ天守ができてしまったからだろ
>>810 だ・か・ら、国・人種が分からない情報はと断り書きをいれているのだが…
まぁ810もだが、ただ文句を言いたいだけで他人に噛み付くハンコウキの坊やとかわらんガイジンが何をいってたかなんて書きこみは無価値だと思うか
ガイジン様からお叱りの言葉を賜ったと涙を流して喜ぶか、人それぞれw
>>816 まあ、どっちにしてもスレチだからどうでもいいよ
お前の長文がうざい
ちなみに、三行以上は長文とみなします
819 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 08:10:16.04
820 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 10:56:15.32
>>816 今の世界は西洋文明である程度価値観が画一化されていて、文明世界共通の
普遍的判断も厳然と存在しているから、国や人種で細かく分けない「外人」という
枠組みもまた「自国自民族以外の視点」という意味があるのに、アホの子である君は
理解できないと指摘してあげているわけだ。
まだ自分がアホだと気付いていないようなので、念を押してあげたよ。
821 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 11:28:32.52
822 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 11:39:50.30
姫路城でさえ一階から三階の平面はいびつな不等辺四角形なのに
名古屋城は一階から完全な四角形なのな。
昭和の解体修理の逸話では
姫路城は土台からしてめちゃくちゃで
場所によって柱の長さや床の高さが違ったりひどいものらしい
建築物としての完成度が圧倒的に違うな。
いま武田神社があるけど、躑躅ヶ崎館を再建しよう!
武田チン玄公の居城を忠実に再現して欲しい
>>820 民族毎に異なる文化的背景を考慮できない低学歴者には都合の良い理屈だね。
あと、背伸びせずに日常で使う言葉で話した方が良いね、君が中学生なら微笑ましいが
高校生だとしたらそういう文章は感心しない。
相手の学力が君より上だから君の意味不明な文章は理解できるが、君と同等以下の学力しかない相手には
正しい日本語で会話できないと、相手に君の真意が伝わらないからね。
まぁ、普段から意味不明な会話で背伸びしあう薄っぺらい知人としか日常で会話がないのかもしれんけどw
>>826 お前、長々書いてるが、なんの論理もないただ単なる悪口の羅列だな
熟語をたくさん使えば頭がいいって思ってんのか?
自分で頭がいいなんて書くんだったらもう少し内容のある文章にしろよ
中央日報の記事みたいだな、ただ長いだけで内容ないってのは
>>821 素晴らしい図面だのう 丑寅櫓もちゃんとあるし、多聞櫓のも欲しかったなあ
図面公開で姫路市が先行していたけど、名古屋市もやっと追いついたか
829 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 14:41:37.23
多門櫓は地震の被害にあったために
実測図を取られる前に取り壊された。なんて馬鹿なことをしたものだ
倒壊した丸岡城天守みたいに部材を保管しておけば後から修復できたかもしれないな
桑名城や福岡城の保管していた櫓の部材は腐ってしまったそうだが
831 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 16:33:48.06
総構えだった有岡城があっけなく落城した件
832 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 03:46:05.30
どんな凝った縄張りも物量には勝てない
833 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 05:51:50.10
>>826 一応書いておくけど、
>>827は横からの茶々入れだ。しかし、その指摘は妥当。
アタマの悪い君に重ねて指摘しておくけど、これだけ指摘されても「民族個別の価値観」と
「文明化された民族全てに普遍的な価値観」の双方が存在することが理解できないというのは
絶望的な知的能力とみなさざるを得ない。
まだ恥の上塗りを繰り返したいかね?
まんが日本昔話で、たまに殿様と城が出てきたけど、イメージ的に高知城がピッタリと思う
835 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 22:53:49.02
島原城は日本じゃない違和感がすごい、中国の楼閣っぽい
836 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 23:04:09.73
日本の近世天守は中国式城壁(北京の天安門とか)の究極の形態だからな。
838 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 23:18:06.03
天守という名称はギリシャ神話のゼウスに由来するという説がある。
信長が白人と交流する中で知った
巨大な西洋の城への対抗感から生まれたんじゃないかと思う。
それ以前に大国主が高い御殿に住みたい!と言ったのだが
秀吉の大坂城本丸御殿と表御殿の間に廊下橋みたいなのあったの?
なかったとしたら、秀吉が雨の中を歩いて移動してたら面白いけど、やっぱカゴだろうな
>>840 大坂城は北へ行くほど土地の高さが高く
秀吉時代の本丸は表御殿と奥御殿の間にかなりの高低差があり
奥御殿は表御殿の北に詰まれた石垣の上にあった
そのためか廊下橋はなかった(当時の縄張り図に描かれていない)
徳川時代に豊臣時代のものを全部埋めたう上に本丸を平たんに整地したため
現在の大坂城本丸に段差はないんだけどね
天守台がいびつな形の甲府城ですね
844 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 22:09:21.21
古い望楼型の天守台は大体歪な形
甲府城だけじゃあないんだよ
層塔型の天守台はほぼ綺麗な長方形や正方形が多い
覚えておいて損はない
天守台石垣を矩形に積めるようになったから層塔型に出来たと考えるべきでしょう。
建築の方々は、石垣みたいな土木技術には関心をむけないなあ
847 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 22:53:44.16
なに妄想はいてんだこの馬鹿わw
おまえがもっと考え直すべきでしょう
>>846 何言ってんの
何も石垣天端いっぱいに建物があるとは限らないし、はみ出している建物も珍しくもない。
そもそも、天守台も必要ない。
今治城には天守台は無い。
>>837 どうせ資料に基づかないんだったら思い切って五層で建てればいいのに。
>>835 島原城て本丸と二の丸の間の橋落としたら、
袋の鼠であとは周り囲むだけで勝手に落ちそうだよな。
850 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 00:38:52.15
本丸は守成の郭だから
851 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:54:52.80
>>830 福岡城の櫓の部材って復元する前に腐ってしまったのかよ。
福岡市、マジで腐ってるな。
なんのために寺から買い取って、保管してたんだよ。
天守台不要論みたいなことを言ってる?石塁を築いて、
なんとか天端いっぱいに建てようとしてきたのが日本の城の特徴。
天守台を矩形に組めるようになった時点で天守建築が発達したことを
歴史的事実として認められない石垣か、いや石頭か
朝鮮の倭城跡にも、天守台あるらしいね
854 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 14:00:19.75
あるらしいね!じゃなくて天守というものがどうやって発展していったかっての見ないのかw
石垣積みが発展していってその先に天守ができたんだろ
パクられたって可能性もあるな
855 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 14:05:03.32
天然要害の山城などは地形を利用して柵などを建てることからはじまるから
石垣積みというのは少ない
石垣積みは威容を誇るために作るのが大半だから平地に建てられその用途として
敵の侵入を防ぐために石垣を積んだのが始まりだ
856 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:21:47.82
山寺で石垣積んでるのも同じだというつもりか
>>848 そもそも天守台は必要無いだとさ どこの国の城の話だよ?
その例が今治城とは、大笑いさせてもらったよ
天守を建てずとも様式として天守台を築いたぐらいだよ。
858 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 19:56:16.15
石造というか石垣で天守を作ったほうがもっと最強なのになぜそうしない。
>>852 >>857 日本語通じないか?
天守台が必要ないなんてどこにも書いてないだろう!
>>846が 「天守台石垣を矩形に積めるようになったから層塔型に出来たと考えるべき」 と言うのは肯定するのか?
>>845が 「層塔型の天守台はほぼ綺麗な長方形や正方形が多い」 との関係から言うと層塔型は天守台が綺麗な石垣が積めるようになった→層塔型天守が誕生したと言う事だろ。
俺は層塔型天守と天守台の因果関係は無いだろう。と言っているんだけど。
天守丸構造でなく、歪な天守台に天守台を余らせた層塔型天守を示せば反論が成立するんでないかい
天守台なんか関係なく層塔型は完成しているのだという あるかどうか知らんが
俺、第三者です
宇和島城の初代天守は望楼型であったが、初重平面形状は正方形で造られている
その構造はまさに大きめの天守台に天守建屋を上げる構造
これから、層塔型の基礎が出来上がった、と三浦正幸博士は論じている。
しかし、三浦説に欠かせない今治城の天守台に相当する天守礎石が見つかっていないから、三浦説は説得力に欠ける
でも俺は、それを補填しうる物件は日出城天守だと勝手に思っている。
実測図から復元すると天守台を大きめに造って、層塔型天守を作り上げているとわかるから。
高石垣を積むと下は綺麗な正方形であったとしても、天端あたりになるとひし形になったりして
高い天守台を綺麗な四角形に積む技術を確立するまでに時間がかかったらしい。
穴太衆が寺院堂塔の基壇を積んでいたように、低くい櫓台なら綺麗な四角形に積みやすい。当たり前かw
>>860 天守台が無くても天守は建てられると言っているのになんで、綺麗な方形天守台→層塔型が成立 の説の否定の為の反論に歪んだ天守台の例が必要なんだよ。
逆だろう。
綺麗な方形天守台→層塔型が成立 の根拠を示す方のが必要じゃないのか。
そもそも櫓だったら綺麗な方形でなくひし形で建てられている例はある。
和歌山城は菱型の天守台に建てられているので方形の必要は無い例。
天守台の形に関係なく建てられている代表は若松城が往時の再建であるけど
天守台がなくても天守は建てられる。そもそも天守台も必要ない。
層塔型の天守台はほぼ長方形や正方形が多い、覚えておいて損はない。
とのたまわったわりには、例も出せないのか アホらしい
わざわざ例を出さずとも城好きなら誰でも知ってるだろう
それとも教えてもらわないとわからないほど無知なのか
今治、水戸、佐倉は天守台は無い層塔型。
望楼型でも天守台は無い例はある
天守に必ずしも天守台がは必要とは限らない
天守台のある所は天守に井戸があることが多いよね
強度の問題があるのかな。
どこの天守も井戸があるならサーセン。
>>864 ほらほらすり替えてるよ
層塔型天守と矩形の天守台の因果関係がないとのたまうから
それなら歪な天守台に層塔型を建てることも出来たはずで
その例を示して見ろと言ったら 無いだろ。日本語理解していないのはお前の方だよ
偉そうにのうがきたれてんじゃねよ
867 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:36:37.29
甲府城天守の想像図ですが、なんとなく福知山城や犬山城に似てますな。
868 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 09:41:08.80
明治時代にタイムスリップしてなんとか熊本城を救出したい。
869 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 09:46:57.31
お前のような優男なんざ、薩摩兵に捕まって散々にカマ掘られてポイだろうよ
870 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 13:58:22.53
松江城に似てない??
871 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 14:22:35.83
想像図は資料がある天守を参考にするのだから当然。
どうせ根拠は薄弱。
872 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 14:25:20.30
外観の意匠は、建築学などのサイエンスが反映されにくい単なる美意識だから、
復元しようにも限界があるのは当然だわな。
例えば池田の岡山城天守の古写真から姫路城天守を復元しようとしたら、
どんなグロテスクなシロモノになるだろうね。
873 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 16:27:57.58
お城のシンボル=特別な存在感=天守ってのは明治の頃からそうなんだね。
使い勝手の悪い天守風建築を
>>873みたいに売店にしたり、
戦後の各地の復興、復元天守のように郷土資料館や歴史博物館にしたり、
今の江戸城を復元する会だかもそうだけど
そこまでしてまでも大多数の人は今も昔も天守の姿を求めてんだな。
875 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 19:49:26.03
>>873 なにこれ?本物じゃなさそう。
博覧会のハリボテでは?
876 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 19:59:03.44
二条城の二の丸御殿って、だだっ広い広間ばっかりで生活感が全然ないよね。
一応、台所の建物がすぐ隣にあるけど、渡り廊下もない独立した建物なのが不可解。
調理した料理を野外を通って御殿まで運んでたんだろうか?
あと、いわゆる表御殿だけで、御殿での雑用を行う女中たちのいる空間がない。
幕末、京都に将軍がいた時期とか、あんな建物で生活できたんだろうか?
877 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 20:41:27.20
裃の上から着るものってなかったの?
だだっ広い御殿じゃ暖房の効きも悪かっただろうに
そりゃ中奥の御殿やら側近の詰所やらのバックアップ部分、連結部分を撤去して
表の部分しか現存してないからそう見えるだけなんじゃ。
879 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:06:46.13
>>876 慶喜滞在時には二の丸じゃなくて本丸に本丸御殿というのがあったんだよ
慶喜はそこに住んでた
二の丸御殿は大政奉還したり使者と会ったりするときの表御殿
慶喜退去後本丸御殿は取り壊されて現在の本丸御殿は京都御苑から桂宮邸が移されたものだけど
ちなみに家茂がしばらく二条城に滞在したときにも本丸に仮御殿が建てられて
家茂はそこに住んでた
880 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:08:23.08
熊本城炎上の原因は自焼・失火・放火説があってまだ決着がついてないんだよね。
でも自焼だと宇土櫓が残っているというのが腑に落ちない。証言もなんかあやしいし…
自焼って言うのは逃げ込む場所としての心の逃げ場所をなくすのが目的だから天守を焼く。
櫓を焼いたのは砲台等として使ったからと言う事だったと何かで読んで記憶しているが。
天守と櫓じゃそれだけ存在感が違うって事だと思うけどね。
いや、高層建築物は大砲の的(正確には着弾地点を測る目安)になるからじゃない?
>>866 なぜそんな例を挙げる必要がる。
お前が自分に都合がいい誘導をしているだけだろう
全然すり替えじゃない。
俺が言っているのは終始、層塔型と天守台の因果関係は無いと言う事。
だから天守台が無くても成立するし、鶴ヶ城の様に天守台より小さな平面で建てられた天守もある。
だいたいにおいて層塔型が矩形の天守台が出来たことで成立したという根拠はなぜ示されない。
示すことが出来るはずはないよな。
そんなことはあり得ないんだから。
そもそも建築物の基本は矩形なんだよ。
層塔型に限らず望楼型だって矩形の天守は存在する。
層塔型の特徴は平面形状じゃなくて、各階の部材の規格を同じにすることによる工期と費用を抑えられることだ。
>>884 いや、それだと宇土櫓を残した理由が成り立たないと言うか・・・
>>886 だから自焼説には疑問がある気がするんだが…
ちなみに火を付けたという従兵の証言では
城は必ず落ちるから敵に利用されない為だと司令官が言ったそうだが
戦闘が始まる前に部下にそんな発言をするとは思えないし…
>>887 それは、司令官が詭弁を使ったんじゃないの。
これから戦う兵士に対して心の支えがったのでは死ぬ気で戦えないだろと言うわけにはいかないだろ。
仮に自分たちが不利な状況と言う共通認識があったのなら、その理由なら天守を焼くのに反対する人は少ないかも。
>>888 指揮官が戦う前に絶対言ってはいけない言葉なんだよ
士気が壊滅的に低下しちゃうからね
失火じゃないの
はっきりとは分からないけど
892 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 01:48:22.15
普通自焼というのは城を捨てて逃げる時にするもの
内部の裏切り者によるもの
>>876 つい先日行ってきたけど、居間と寝室にあたる部屋に気持ち程度に女中の人形置いてあるよ
まあ、調度品や甲冑その他の何にも置いてないのは確かに寂しいな
100円で見られる倉庫の博物展示部分には虎の襖絵と割れた瓦ぐらいしかないしw
895 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:06:41.51
二条城は暗いのが良くないな。扉を閉めたら夜と同じじゃないのか
これじゃ立派な障壁画もよく見えない、電気がないのだから仕方ないが
江戸時代の連中は天井からの採光とかそういう発想はしなかったのか
896 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:14:30.62
大政奉還の時も
真っ暗で誰がそこにいるか分からん状況の中執り行われたのだろうな
897 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:43:06.55
>>885 会津城の場合は震災で破損したのを、再建する時に縮小した
天守は石垣一杯か張り出して造らないと、下に来た敵が死角で
攻撃出来ない
天守だけで籠城した例は少ないが柴田勝家の北ノ庄城は
天守だけになっても籠城を続け、自焼により落城
>>898 その写真のは屋根の飾りだろ
天井よりも上の場所にあって屋内に光は届かない
あの時代の建物は基本どれも扉を閉めれば中が真っ暗
時代劇などでは現代的な照明を当てているから中がキラキラ明るいだけ
基本的に扉は空けておくんだよ、風通しと採光のために
室町時代以降の建物はまだ採光のために障子戸があるだけマシ
10年ぐらい前、非破壊検査の二条城特番でやってたけど
金碧障壁画はろうそくや灯明の光に対する反射板、間接照明の役割も結果的に果たしてたらしいね。
>>876 江戸城本丸御座の間≒大坂城本丸銅御殿≒>名古屋城本丸上洛殿>二条城二の丸白書院>江戸城本丸御休息の間
各城の中奥部分の広さを比べてみるとこうなる。
それらの中では小ぶりとはいえ将軍の宿所としては必要十分でしょ。
二の丸の中では唯一将軍が日常生活できるように造られてる御殿だから使い勝手もいいだろうし。
902 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 20:53:35.55
903 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 09:11:21.11
本当に二条城の二の丸御殿で日常生活は可能だったのだろうか?
白書院が起居のスペースだったとして、独立した離れになってる台所からいちいち料理やお茶を運んでたのか?
904 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 09:39:46.08
正直、外見だけなら層塔型の天守を建てることは早くから可能であったはずで、にも関わらず望楼型から層塔型へという推移を見たのは、
偏に天守の起源が御殿などの低層建築に望楼を載せたものにあったからと考えられ、不整形の天守台云々は二次的要因であり、
大入母屋を重ね上げた意匠には豪壮観もあり、初期の天守はひたすらその大型化の方向に進んでいったとみられる。
層塔型はそれを古式なものと捉えそれに代わる新様式として採用されたものであり、その背景にはやはり豊臣から徳川へという政権移行があり、
技術的発展というよりも視覚的な要因(要求)が大きかったと考えられる。
905 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 09:47:39.47
層塔型への移行は地震と大砲対策だな
層塔型は大屋根を葺く必要が無いので金と時間の節約になる
>>904 外観だけなら、って、層塔型とか望楼型とかは外見の違いで分けているだけだから。
慶長五年(1600)の日出城は層塔型天守。それ以前の慶長3年(1598)の広島城
大天守の三重目から上は層塔型。
なので、層塔型の構造自体は層塔型の始まりとされる慶長十年(1605)以前か
らあった。当時のジンクスか何かで三重までは可能とされていたとかかな?
>>905 巨大天守でしかも、望楼型の構造が基本に残っている名古屋城は例外として
丹波亀岡城や津山城などの時期の層塔型の柱割は階の上下で位置がそろわな
いので、同時期の柱がそろう望楼型に比べて強度が劣っていた。
層塔型はより高くするための技術であって、津山城とかの当時は地震などへ
の強度は二の次になっていたとおもわれる。
第2代江戸城天守や備後福山城とかのあたりで柱がそろうようになってきたの
で、耐震と望楼型から層塔型への移行過程には直接関係はないと思う。
>>903 お茶は白書院で点てられるだろうし、料理にしても
仮に百歩譲って今現在の二の丸の姿がそのまま幕末の姿だったと仮定して
屋根が無くて離れてても、自分なら「小姓が岡持で運んだんだろうな」って思うけど。
寛永の頃には白書院の奥にもうひとつ御殿があってこれには台所が付属してた。
天皇行幸の後に御殿は台所含めて親王の住居として移築されてる。
今後の二の丸内の賄いは今、現存してる台所ですべて賄える、差し支えなさそうだということでもあると思う。
往時は白書院と台所は伺公之間、御座之間江廊下とかで繋がってたようだけど、
もし不都合、不便という判断があれば家茂上洛の前に突貫工事で仮台所を造ってるでしょ。
>>908 元々望楼型の発想が入母屋造りの積み重ねで、望楼型の派生として広島城の様な形式が出てきたと考えれば、初重から層塔型の構造を用いると言う発想自体が無かったと考えるのが自然なのでは?
天守と言う建物は金がかかる代物なので簡便に造れる構造を求められたとか、新たな築城をする上で早く造る必要があったとか、何らかの要求から必要に迫られた結果、初重から積み上げると言う発想に至ったのではないか。
いづれにしても、それまでの望楼型に対して、均整のとれた層塔型は新しくて美しい姿が今までにないものとして見る者を魅了したことは間違いないと思う。
911 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 02:28:56.95
明らかに層塔型のほうがダサい。福山城なんて冗談かと思うほどセンス無い
912 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 04:47:01.55
ダサイお前にいわれてもなあ
望楼型の途中にある大入母屋屋根に実用的な意味は無いからな
914 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 12:42:49.22
水戸の偕楽園の好文亭は、天守の一種と考えていいのだろうか?
915 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 13:35:06.67
なんでこんな馬鹿はかりなんだろうここ
916 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 14:00:05.50
>>911 鉄覆い山久松城は戦災で焼けて鉄筋コンクリート製の福山城となった。
城の建築法じゃないのでダサイのは勘弁しろ。
バサラで個性が噴出した戦国が終焉して、簡素質朴で行こうとした江戸武家文化からすると
層塔型のシンプルな姿が美しく見えたと思われる。結局は四角い同じ逓減の仏塔のような
形状に収斂して行った訳だ。個性的な姿が好まれる現代とは感性が隔絶してる。
>>914 偕楽園は出城の役目も兼ねていただろうから、天守というより居室を備えた物見の意味もあったかもしれないな
>>910 発想がなかったというのは、少し言いすぎでは?
広島城から2年後に初重から層塔型の日出城の層塔型天守が完成するので、
その発想自体はとうに出来上がっていたと考えるのが自然だと思う。
逆に、この葺き下ろしの階を重ねるだけと言える層塔型の発想がなかった
ら典型的な望楼型天守初重・二重目によく用いられる総二階・重箱櫓の構
造もない。
また、何らかの要求で層塔型が開発されたのであったとしても、早く作ら
せるためというのは無意味だと思う。その頃天守という建物の位置づけは
もう外観を見せるだけのものになっていたので、天守を安く高く造ろうと
するのならまだしも、城自体を早く安く完成させたいなら天守は建てない
だろう。
920 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 15:40:11.00
西本願寺が飛雲閣のような三階櫓的建造物を建てるのは、
当時の武家に対して不謹慎と思われなかったのだろうか?
921 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 15:55:11.67
武家の御殿建築そのものの西本願寺書院も不謹慎だと思われなかったのだろうか?
本願寺は、東西に分割する前は大名を脅かす勢力だったから、それなりの気遣いを
受けていて、他の宗派とは別扱いじゃないのか
西本願寺の白書院には葵に因んだ紋様が随所に使われてて
そんなことから将軍上洛時の御成御殿としても使えるように整備され、というかさせられてた
なんて説もあるくらい。
目立つ御殿持ってりゃそういうことにもなるわな。
隅櫓は天守より先に層塔型があったようだから、
当初は簡易型と見なされていたんじゃない
本願寺などの寺院は並の大名より強い力を持ってたからな
大阪城の元地に石山本願寺を建て
鉄砲も三千丁も持っていたらしい
城と言っていい存在
天端いっぱいに建てるというのは、今でいう構造計算上の強度が考慮されていたためで
天守台石垣天端と天守台内側の基礎では、巨大化した天守が不等沈下するおそれがあったんじゅあ
ないのかと想像する。当時の技術者はそれを心配していたのだろうと
そして、切込みハギの完成で矩形の天守台が完成を見たと思う。ただし、逆にハラミの
問題を抱えることになった。