前スレの面白かったレスコピペ
940 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 07:52:25.48
@平面の逓減だけでなく、各階軒高の逓減率にも注目すると、完成度や他天守の例からしてその成立順序は、
「中井家指図」→「津軽家古図」 となる。
A上下分離した名古屋城天守
>>862完成以降に成立したことが確実な、上下一体化を果たしている「中井家指図」を、
名古屋城5年前の慶長度江戸城天守に比定することは不合理。
→徳川大坂城へ移築するには、慶長度天守解体から大量の天守部材を9年間も放置したことになり不自然。
B津軽家古図は寛永度天守に非常に良く似た破風配置だが、洗練度は下がる。
これらを整合する技術系譜的な成立順序は、以下のようになる。
慶長度天守→名古屋城→【上下一体化】→「中井家指図」→【軒高逓減】→「津軽家古図」→寛永度天守
※【】内は天守建築における重要な技術革新
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941 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 07:53:40.06
よって導き出される結論は以下のようになる。
「中井家指図」=元和度天守
「津軽家古図」=寛永度天守のボツ案
元和度から寛永度への建替えの理由としては、元和度天守が上下一体化を果たしたモノコック構造ではあっても、
「慶長度を越える高さ」を最優先したため、最上階の軒高は高く、軒出しは浅く、無骨で安定感に欠けるフォルムであったところに、
各藩から提出される、元和度江戸城天守より安定した美しいフォルムを持つ当世天守の数々を目の当たりにした天下人家光が、
築19年経ち、破風など各所に傷みの目立ってきた元和度天守の代替として、自らの覇城に求めた結果と考えられる。
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956 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:38:05.72
>>24-25 同感です。ここに拙考を変更させていただきたく存じます。
故・宮上氏のように「津軽家指図=元和度天守」とした場合、
平側の千鳥破風と唐破風が半階上がったり下がったり、隅櫓にて単独で使う分には問題はないやに思われますが、
整って落ち着いた妻側と組み合わせると、それぞれ印象の全く異なる意匠で、天守全体としての気品や風格にやや欠ける、
アンバランスな造形となります。
幕府造営の他天守の意匠と比較しても異形の相を呈することは明らかであり、
元和度天守を描いたと見られる江戸の屏風絵のいずれにも、その下の張り出しが全く描かれていないことから、
隅櫓とは比較にならない天守描写の重要性、各大大名屋敷の克明な描写を考慮しても、不自然であるやに思われます。
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942 :日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:09:19.03
>>24-25 うむ
宮上氏はおそらく「津軽家古図(東照宮)=元和度天守」と短絡したのだろうが、
自らの霊廟である日光大猷院を日光東照宮よりも豪華にするなと遺言し、
「二世権現」を自称した家光の寛永度天守に東照宮があっても不思議じゃないし、最上階から「関八州」の聖なる国見を行う際、
そこに家康の遺髪や遺品を奉納した「東照」宮があることは御参拝を兼ね、むしろ相応しいと言える
徳川家光の大伯父(祖母「市」の兄)織田信長の安土城天主内書院に安置された自らの聖なる化身「盆山」にも通じる考え方であろう
秀忠から本格化した「家康神格化」の総仕上げとして、「二世権現」家光は「江戸城天守=巨大東照宮」を他のいかなる天守にも
見劣りしないよう、美々しく建て直したことは想像に難くない
28 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 18:36:54.66
江戸城も?
やっぱり柱が有るんか天守にも
通し柱の位置と床面積が同じ点を何故、混同する…
>>23 うっほほ〜い!即レス、コピぺありがとうございます!
なるほどですね。
3年連続で建てられた三つ子?の慶長度二条城(1606)慶長度江戸城(1607)駿府城(1608)の内、慶長度二条城も駿府城も揃って、
@小天守+A天守丸+B環立式+C下層部同大+D後期望楼型(最上階軒唐破風) ということは、
よく言われている「権現様お好み」というのは、まさしくそのこと(@+A+B+C+D)かもしれませんね!
すると、こんな疑問が湧いてきたりします。
秀忠公の元和度天守、家光公の寛永度天守は共に黒壁ですが、慶長度天守が白壁だと、
家康公の縁起担ぎで始めたであろう神格化政策に大きく矛盾してしまう気が、、、
だとすると内藤先生のように黒壁だったのか、、、
また、名古屋城は下層部同大の前期(なんちゃって)層塔型ですが、
当初の計画では、もう一つの小天守を大天守西側の堀に突き出して建てる予定だったとか。とすると、
@小天守A天守丸B環立式天守C下層部同大の「権現様お好み」を、駿府城のように雨漏りしないように白漆喰で塗り込めたとか、、、
ますます慶長度江戸城天守や計画当初の名古屋城にも興味が湧いてきました!
みなさん、いろいろ情報やご意見よろしくです!
愚子見記
江戸御殿守 七尺間十六間十八間 物見五間五尺七間五尺
高石ヨリ棟迄二十二間半是権現山御好也
尾張御殿守 七尺間十五間十七間 物見六間八間
下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル故物見大キ也
つまり、名古屋城は一・二階が同面積なので一重の面積が江戸城より
小さいのに物見は大きくなったとあり、慶長度江戸城天守は逓減している
ことになる
>>31 3年連続となると、その3天守の設計はほぼ同時並行で、互いに変奏曲(相似形)だろうね
確かに中井家指図は「なんちゃって」層塔型じゃない
明らかに最下階から最上階まできれいに柱筋が通る、完成期層塔型だ
>>32 >名古屋城は一・二階が同面積なので、一重の面積が江戸城より小さいのに物見は大きくなった
イミフ
下層が同面積なので最上階は大きくなった(できた)ってどういうこと?
解説plz!
たしかに慶長度江戸城、名古屋城ともに、石垣上第一層→最上階の柱間数が、偶数→奇数、奇数→偶数に変化しており、
途中で上下層の分然がある後期望楼型もしくは前期層塔型であったことまでは読み取ってよいやに思われますが、
その行間推定から「慶長度江戸城が初層から逓減していた」とまで断じるのはいささか慎重さを欠く態度であるやに存じます。
もちろん、初層から逓減していた可能性はありますが、やはりここは情報量の限られた文献資料にのみ依拠するのではなく、
中井正清によって3年連続して建てられた二条城や駿府城U期の例を考え合わせ、総合的に判断する必要があるやに存知ます。
逓減してる江戸城に軍杯がある
>>35 うん
最上階と第一層の規模しか載ってない文献だけでいきなり基本構造や破風配置を断定しちゃう立て板君の悪い癖、またしても根拠ゼロだね!
遺構を発掘せずに岐阜城山麓居館や豊臣大坂城を外観復元した宮上説のステマやるだけあるわw
38 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 23:33:51.41
別スレ立ててやれって言ってんだろ
40 :
39:2013/02/19(火) 23:39:56.43
念のために断っておきますけど
>>35 とは無関係です。
42 :
39:2013/02/20(水) 00:15:08.25
>>41レスありがとう
1585年築という割りには、三重目以上が層塔型になっていたりと後期望楼型に見られる逓減率の低い構造(東西が6・5・4間、南北が5・4・3間と逓減)は、改築されたからではないかと
移築のさらに移築であるのはわかっていますが、移すというのは部材を転用することも含む事だってあるのですから、はたして郡山城天守をそのまま移築した姿だといえるのでしょうか。
>>34 そうだよ、詳しく言うと「下重側ノ柱ヲ二重目迄立上ル」が
一・二階が同面積と言う意味になる
44 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 00:39:52.45
遠江掛川、横須賀、浜松
>>35 うむ
確実な遺構調査結果を待たず、建設技術の前後関係を一切考慮しないで、文献の行間読みによる「思い込み」を基に
都合のいい断定を重ねていき、ひたすら素人受けのする「上物の華やかさ」だけを追求し続けた宮上茂隆氏
宮上氏の間違いだらけの安直な復元作業の数々を完全に払拭すべき時が来たようである
岐阜城山頂天守・・・遺構調査なしに、池田輝政城主時代以降の築城と考えられる、移築後の加納城御三階をそのまま比定
岐阜城山麓天主・・・同じく遺構調査をしないまま、フロイスの記述を鵜呑みにし、加納城御三階を基にに4層天主で外観復元
安土城・・・内藤氏作成の天守台実測図データを借定、正否不明なまま自らの東山殿常御所復元案、岐阜山麓4層天主を基に復元
秀吉大坂城・・・遺構調査のないまま、明らかに慶長期を下る特徴を持つ「夏の陣図」天守を基に外観復元
慶長度江戸城・・・慶長期を明らかに下る後期層塔型である「中井家指図」の技術革新を無視した比定(宮上氏以外全員否定)
元和度江戸城・・・東照宮の短絡から、寛永度と同じ破風配置、軒高逓減率を持つ「津軽家古図」の、絵画資料を無視した比定
一抹の天守の柱的な研究と歴史の着目だから発想的な?
49 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 08:13:47.46
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
>>31 駿府城は慶長度江戸城の完成直後に焼失し、その翌年には再建されている。
雨漏りの原因はそれが原因とも考えられるが、再建された駿府城の天守台は慶長度江戸城以上に大規模で、
中井正清は慶長度江戸城の指図を基に、細部に変更を加えて設計したと見て間違いないだろう。
つまり駿府城(1608)は慶長度江戸城(1607)の双子的な存在であることは、
方20間を越える天守台規模、施工期間の異様な短さから、ほぼ間違いないものと考えられる。
>>35>>39 毛利家文書では(慶長度)江戸城天守は七重とあり、これが必ずしも正確とは限らないが、
前期層塔型なら外観5層内部6階(六重)となるはずで、後期望楼型なら外観5層内部7階(七重)となり、一応合致する、
と指摘するに留めておきたい。