【徳川家】御三家/御三卿/御連枝/御家門【二代目】

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1徳川秀忠/第二代スレ主
徳川一門の話題を扱うスレッドの二代目です。

初代スレ【徳川家】御三家/御三卿/御連枝/御家門
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1380087325/

■御三家■
尾張徳川家/徳川義直(1代家康9男)
紀州徳川家/徳川頼宣(1代家康10男)
水戸徳川家/徳川頼房(1代家康11男)

■御三卿■
田安徳川家/徳川宗武(8代吉宗2男)
一橋徳川家/徳川宗尹(8代吉宗3男)
清水徳川家/徳川重好(9代家重2男)

■御家門■
越前松平家/結城秀康(1代家康2男)
会津松平家/保科正之(2代秀忠4男)
越智松平家/松平清武(3代家光2男の徳川綱重2男)
奥平松平家/松平忠明(1代家康娘の亀姫1男)
久松松平家/康元系・勝俊系・定勝系(1代家康異父弟)
2徳川秀忠/第二代スレ主:2014/04/17(木) 18:54:46.83
■御家門(断絶)■
駿河徳川家/徳川忠長(2代秀忠3男)
甲府徳川家/徳川綱重(3代家光3男)
館林徳川家/綱吉綱吉(3代家光4男)

■御連枝■
尾張徳川家連枝
梁川松平家 - 2代藩主徳川光友の3男(庶長子)松平義昌を分封(陸奥梁川藩)
高須松平家 - 2代藩主徳川光友の2男松平義行を分封(美濃高須藩)
川田久保松平家 - 第2代藩主徳川光友の11男松平友著を内分分知

紀州徳川家連枝
西条松平家 - 1代藩主徳川頼宣の2男松平頼純を分封(伊予西条藩)
丹生松平家 - 2代藩主徳川光貞の3男松平頼職を分封(越前丹生藩)
葛野松平家 - 2代藩主徳川光貞の4男松平頼方を分封(越前葛野藩)

水戸徳川家連枝
高松松平家 - 1代藩主徳川頼房の1男松平頼重を分封(讃岐高松藩)
守山松平家 - 1代藩主徳川頼房の4男松平頼元を分封(陸奥守山藩)
府中松平家 - 1代藩主徳川頼房の5男松平頼隆を分封(常陸府中藩)
宍戸松平家 - 1代藩主徳川頼房の7男松平頼雄を分封(常陸宍戸藩)
3徳川秀忠/第二代スレ主:2014/04/17(木) 18:56:19.89
次のスレ立てをする方は
「徳川家光/第三代スレ主」名義でお願いします
4日本@名無史さん:2014/04/19(土) 08:14:55.25
ほとんど養子で成り立ってた越智松平家って家臣団の出自もカオス状態だったんだろうな。
5日本@名無史さん:2014/04/19(土) 20:54:59.89
甲府藩からの横すべりとかじゃないのかな。
6日本@名無史さん:2014/04/19(土) 21:06:34.71
新規立藩したとこなんてどこもカオスだろ。
7日本@名無史さん:2014/04/26(土) 18:36:15.61
家宣って、よく名君とか人格者とか言われるけど、
同母弟の清武を長らく冷や飯食い状態にして、
大封も御三家なみの格式も徳川姓も与えなかったことを考えると、
あんまり性格よくないね。
8日本@名無史さん:2014/04/26(土) 18:56:09.80
>>7
陪臣越智氏に養子に出ていた清武を大名に取り立て、松平の苗字を許してるわけだが。
9日本@名無史さん:2014/04/26(土) 19:01:06.82
いや清武の出来が悪いんだろ。
八代将軍候補としてあそこまで空気なのは普通に考えてありえない。
あの人じゃまずいって共通認識が幕閣にあったとしか思えない。
まあ本人も表面上不満も言わず従ってるってことは無能者の自覚はあったんだろう。
10日本@名無史さん:2014/04/26(土) 19:40:53.02
越智に堕ちたと言っても血筋は一番近いし甲府時代は家宣の擬似養子?になってなかった?
家宣が早死して甲府藩主になってたら将軍になれたのかな?
11日本@名無史さん:2014/04/27(日) 07:38:46.14
やはり他家を継いでいるという事実が良くなかったのだろう
結城秀康の前例もあるし
12日本@名無史さん:2014/04/27(日) 10:37:54.44
清武は、一揆を起こされたりして評価が低かった。いい家臣がいなかったせいかもしれないが。
13日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:08:30.57
島根県出身だけど、県都松江あたりは松平治郷(不昧公)を結構PRしているな。
戦国時代に治めていた尼子氏や山中鹿之助よりも人気がある感じ。
日本有数の和菓子処にした功績が今に生き続けているのかな。
14日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:16:04.90
まあ徳川のやつらやりすぎだからなwww
15日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:41:46.17
>>13
不昧公は知ってるけど島根県とは結びつかなかった。
尼子氏や山中鹿之助は知ってるけど島根県とは結びつかなかった。
16日本@名無史さん:2014/04/27(日) 12:22:28.22
父世代           子世代          孫世代           曾孫世代         玄孫世代

徳川家康1542〜1616―松平信康1559〜1579―長女登久1576〜1607―次男忠真1596〜1667―三男忠雄1647〜1725
徳川家康1542〜1616―長女亀姫1560〜1625―松平忠明1583〜1644―松平忠弘1631〜1700―松平清照1652〜1686
徳川家康1542〜1616―次女督姫1565〜1615―池田忠雄1602〜1632―池田光仲1630〜1693―池田綱清1648〜1711
徳川家康1542〜1616―結城秀康1574〜1607―松平忠直1595〜1650―松平光長1615〜1707―松平綱賢1634〜1674
徳川家康1542〜1616―徳川秀忠1579〜1632―徳川家光1604〜1651―徳川綱重1644〜1678―徳川家宣1662〜1712
徳川家康1542〜1616―松平忠吉1580〜1607
徳川家康1542〜1616―武田信吉1583〜1603
徳川家康1542〜1616―松平忠輝1592〜1683
徳川家康1542〜1616―徳川義直1600〜1650―徳川光友1625〜1700―徳川綱誠1652〜1699―徳川宗春1696〜1764
徳川家康1542〜1616―徳川頼宣1602〜1671―徳川光貞1626〜1705―徳川吉宗1684〜1751―徳川家重1711〜1761
徳川家康1542〜1616―徳川頼房1603〜1661―徳川光圀1628〜1700―松平頼常1652〜1704
徳川家康1542〜1616―五女市姫1607〜1610
17日本@名無史さん:2014/04/27(日) 12:27:38.60
清武も、後世の重好も、
いい年して子無し
だったから、将軍になれたとしても、すぐに後継者問題が生じる
不可だな
18日本@名無史さん:2014/04/27(日) 12:30:47.88
武田信吉、松平忠輝あたりの家系が大大名として残っても御三家って別格だったのかな?
それとも越前以外の御三家の兄家系が早々と断絶したから御三家だけが別格にされたのかな?
19日本@名無史さん:2014/04/27(日) 12:40:39.57
尾張忠吉、水戸信吉が健在なら、
末の3人が入り込む余地はないだろう
特に忠吉は、秀忠の同母弟だ
20日本@名無史さん:2014/04/27(日) 13:03:05.26
御三家って秀忠後期から家光の代にかけて形作られたから、
家康存命中に忠吉や信吉が死なず忠輝が改易にもならなければ、
彼らが新しい御三家になっていた可能性はある。
もっとも信吉は武田家の名跡を継いでいるから、次男秀康の子孫が
その代りになっているかもよ。
21日本@名無史さん:2014/04/27(日) 20:05:56.28
>>17 清武には嫡子いたじゃん。
唯一の家光男系男子かつ年齢的にも申し分無かったと思うけど
22日本@名無史さん:2014/04/28(月) 01:45:18.06
秀康、忠吉、信吉、忠輝は他家を継いでる
義直、頼宣、頼房は他家を継いでない

これは結構大きな違いだと思うの
23日本@名無史さん:2014/04/28(月) 07:32:04.26
綱豊が家宣として宗家の養子になった時点で、
なんで清武に甲府藩を継承させなかったんだろう?
その時点で悪意を感じる。
24日本@名無史さん:2014/04/28(月) 10:43:48.60
>>23
それは、綱吉当時の幕閣の意向だろう。家宣にはまだ権力がない。
25日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:06:19.18
>>22
そもそも秀康、忠吉、信吉、忠輝は徳川じゃないからね。
26日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:56:03.90
岡崎信康は徳川だったのか松平だったのか、はっきりしてほしい。
徳川でも松平でもなく、そのまんま岡崎姓だったのだろうか?
27日本@名無史さん:2014/04/28(月) 20:35:24.42
秀吉の養子に出された上、結城に押しつけられた秀康。
武田の名跡を継いだ信吉。
この辺は、まあ分かるんだが、忠吉や忠輝はなんで松平のままだったんだろうな。
なんで東条松平だの長沢松平だのの養子に出されたんだろう。
28日本@名無史さん:2014/04/28(月) 20:50:33.52
そんなことを言ったら仙千代なんか、平岩だぞ
11人も息子がいたら、全員本家に残すなんてあり得ない
関ヶ原の年に生まれた義直以下は、家康の地位の安定により、
扱いが特別になったのだろう
29日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:23:46.41
元就も信長も嫡男以外は普通に養子に出してるじゃん。
跡目争いの防止兼勢力拡大で、嫡男以外は養子に出すのが戦国末期では普通でしょ。
>>28が言うように、関ヶ原以降に生まれた3人が特殊なんだよ。
30日本@名無史さん:2014/04/29(火) 01:10:28.03
武田の名跡は名門だし武田家臣団を召し抱えてるから、分からんでもないが、松平一門なんかどうでもいい気がするが。
31日本@名無史さん:2014/04/29(火) 01:55:03.62
岡林信康が松平姓であったか徳川姓であったかはあまり実益ある議論ではない
32日本@名無史さん:2014/04/29(火) 02:01:58.35
岡林ワロタ
33日本@名無史さん:2014/04/29(火) 03:06:07.91
家康が早くに亡くなったり、大病で隠居が必至の状況になったら、
松平康忠が継いだ可能性もあると思う。
カリスマ性のあった清康の外孫で、
今川時代の家康に影響のあった華陽院の外孫でもあり、
家康の従弟にして、妹婿なんだから。

その家を七男松千代・六男忠輝に継がせたんだから、
秀忠に万一のことがあった場合の後継になり得たと思う。
34日本@名無史さん:2014/04/29(火) 09:14:12.58
信康の生きてた頃って、徳川姓は家康個人の専用だったって言われてるね。
他の松平一門と自分を差別化して、家康の主君としての地位を確立させるためとか。
だからといって、嫡男にも徳川姓使わせないなんてやりすぎな気もする。
35日本@名無史さん:2014/04/29(火) 10:45:22.99
松平一族はとにかく庶家も多いし
宗家の地位確立するの広忠も苦労しまくったの思えば
差別化計るのは納得
36日本@名無史さん:2014/04/29(火) 11:10:43.46
三河を平定している頃は松平一族の扱いにも苦労したろうが、関東転封で、一族や家臣団と領地の結びつきを断ち切って鉢植化に成功してからは楽になったんじゃないかな。
37日本@名無史さん:2014/04/29(火) 12:55:16.00
>>36
それもあって、関ヶ原以後に生まれた3人は松平じゃなくて徳川にしたんだろうな。
年取ってからつくった子だからとりわけ可愛くもあっただろうし。
それ以前は、徳川の価値を高める必要もあるし、
有力な松平一門なら息子を送りこんで取り込んでしまう必要もあったろうし。
38日本@名無史さん:2014/04/29(火) 17:03:33.77
若い頃の家康は合戦で忙しくて信康や子供達に禄に構ってやれなかったそうだから
自分の手元で育った3人は別格だったのかもな。
39日本@名無史さん:2014/04/29(火) 20:42:15.23
>>37
頼房は当初からの徳川御三家ではない。
適当なことを書かないように。
40日本@名無史さん:2014/04/29(火) 21:06:11.01
>>39
誰も御三家なんて言ってないが?
ただ、頼房は最初から徳川だよ。
41日本@名無史さん:2014/04/29(火) 21:30:47.85
>>40
前スレは見てた?
あんたのソースは何だ?
42日本@名無史さん:2014/04/29(火) 22:55:59.42
>>34
その説は「信康は徳川を称していなかった」ということを
前提にしているわけだから、そっちの根拠が必要なんじゃ
ないかな。
43日本@名無史さん:2014/04/30(水) 12:27:18.34
福井藩附家老本多富恭はどうして本多家代々の通字「副」が無いのでしょう?
44日本@名無史さん:2014/04/30(水) 18:16:52.84
頼房は、当初、同母兄の頼宣の分家扱いだったと前スレで読んだ記憶がある。
忠長改易前は、尾張・紀伊・駿河が御三家で、頼房は紀伊の分家(連枝)扱いで、
当初は松平姓だったとか。
45日本@名無史さん:2014/04/30(水) 21:13:50.63
>>44
忠長存命中でも、御三家といえば宗家、尾張家、紀伊家の筈だよ
46日本@名無史さん:2014/04/30(水) 21:26:50.15
> 忠長改易前は、尾張・紀伊・駿河が御三家で、
その時期には「御三家」という概念自体が無いはず。
ただ、寛永三年の秀忠上洛時の行列は、はじめは尾張・紀伊・
駿河・水戸の並びで触れだされていたのを、安藤帯刀が、
家康の三子の間に駿河家を交えるとは失当だと主張して並び
を尾紀水駿の順に変えたという逸話もあるとか。
こういうのは、後の三家側がある程度結束して宗家に対応しよ
うとした動きの中の話なんでしょう。
47日本@名無史さん:2014/04/30(水) 21:44:35.88
そう。
抗議したのが紀伊家の付家老である安藤であることが着目点
そのうちに紀伊家も駿河家に抜かされることを危惧したわけだ
48日本@名無史さん:2014/04/30(水) 21:50:38.63
頼宣は、駿河から紀州に転封、その後駿河に忠長が入ってるから面白くない。
49日本@名無史さん:2014/04/30(水) 21:51:12.68
頼宣は、駿河から紀州に転封、その後駿河に忠長が入ってるから面白くない。
50日本@名無史さん:2014/04/30(水) 22:35:36.44
>>47
尾張にその危機感がなかったとは考え難いし、やはり三子の総意を代表してと
考えた方が妥当じゃないでしょうか。
すでに触れだされた列次に異を唱えるとなれば、やはり格からしても駿府時代
の家康の老臣であった成瀬正成か安藤直次ということになるだろうけど、成瀬
隼人正は前年に亡くなっているから。
あくまでも想像ですが。
51日本@名無史さん:2014/04/30(水) 23:21:00.49
安藤帯刀は文字通り戦国の生き残りで、寛永当時だったら彼に反論できるような人間おらんからね。
52日本@名無史さん:2014/05/01(木) 12:31:35.37
でも官位、将軍継承権は駿河が筆頭じゃね?
若年で大納言になってるし
53日本@名無史さん:2014/05/01(木) 14:25:15.77
甲府館林と忠長が松平姓説あるけど本当なのかな?
54日本@名無史さん:2014/05/01(木) 22:19:56.68
信康・・・無官
秀康・・・1603年従三位権中納言            (30歳)、1607年正三位
秀忠・・・1605年正二位征夷大将軍           (27歳)、1626年太政大臣、1632年正一位
忠吉・・・1603年従三位左近衛権中将・薩摩守    (24歳)
信吉・・・無官
忠輝・・・1610年従四位下左近衛権少将        (19歳)
義直・・・1626年従二位権大納言             (27歳)
頼宣・・・1626年従二位権大納言             (25歳)
頼房・・・1626年従三位権中納言             (24歳)、1636年徳川姓下賜、1627年正三位
家光・・・1623年正二位征夷大将軍           (20歳)、1651年正一位太政大臣
忠長・・・1626年従二位権大納言             (21歳)
忠直・・・1615年従三位参議・左近衛権中将・越前守(21歳)
55日本@名無史さん:2014/05/02(金) 20:33:44.65
やっぱり頼房って、最初は松平さんだったのか。
あと気になるのは、忠長、綱重、綱吉が本当に松平さんだったかどうかだな。
館林家が松平だったら、将軍綱吉の実子徳松も「松平徳松」ってことになるな。
56日本@名無史さん:2014/05/02(金) 21:11:46.56
全然気にならないのはおれだけだろうか?
57日本@名無史さん:2014/05/03(土) 01:04:08.16
50万石大納言で松平はないと思う でも水戸は中納言で松平って間違いないの?
58日本@名無史さん:2014/05/03(土) 01:10:21.99
とくせん如きの家来ではないっ!
59日本@名無史さん:2014/05/03(土) 03:43:04.00
今気づいたけど、生駒氏→松平頼重と藩主が代わった高松藩って、
どちらも土井利勝の婿だよね。
60日本@名無史さん:2014/05/03(土) 11:07:54.33
おうよ、綱條は土井利勝と徳川頼房の孫というサラブレッドよ
61日本@名無史さん:2014/05/03(土) 11:46:36.28
土井利勝て結局
家康の隠し子なの?
62日本@名無史さん:2014/05/03(土) 12:03:19.74
そうだとしたら頼重と利勝女は従兄妹婚か。
63日本@名無史さん:2014/05/03(土) 14:17:50.09
松平大膳家は御三家の連枝の連枝という感じなのに、なぜ徳島藩みたいな大藩に養子を送り込めたの?
64日本@名無史さん:2014/05/03(土) 14:27:59.86
1…連枝の中でも高松藩は家格も石高も別格だから。
2…大膳家の祖の父にあたる松平頼芳の母は三好氏で、
  もともと三好氏は阿波国出身の大名だから。

って感じなのでは?
65日本@名無史さん:2014/05/03(土) 18:21:33.59
おまんちょ
66日本@名無史さん:2014/05/03(土) 18:43:31.66
おまん、お万という人名は、やはりそういう意味なのだろうか?
67日本@名無史さん:2014/05/03(土) 19:02:08.87
『殿さま風来坊隠れ旅』(1994年・テレ朝)に登場する徳川連枝・幕閣・その他
※田沼意次は相良藩主就任時

徳川家治(1737〜1786、将軍家第10代、就任時24歳、正二位内・右大臣、浚明院殿、将棋公方)・・・・仲谷昇(当時65歳、172p・72s)
徳川治貞(1728〜1789、紀州藩第*9代、就任時48歳、従三位権中納言、香嚴院殿、紀州の麒麟)・・・三田村邦彦(当時41歳、178p・62s)
徳川宗睦(1733〜1799、尾張藩第*9代、就任時29歳、従二位権大納言、天祥院殿、尾張の中興)・・・西岡徳馬(当時48歳、175p・65s)
徳川治保(1751〜1805、水戸藩第*6代、就任時16歳、従三位権中納言、興徳院殿、水戸の中興)・・・深江卓次(当時27歳、177p・65s)
田沼意次(1719〜1788、相良藩第*1代、就任時40歳、従四位下侍従、隆興院殿、正直の豪傑)・・・・・遠藤太津朗(当時66歳、176p・68s)
平賀源内(1728〜1779、高松藩足軽頭、諱:国倫、字:子彝、雅号:鳩渓、俳号:李山、天竺浪人)・・・・火野正平(当時45歳、168p・56s)

※治貞、宗睦には成人男子がなく養子が家を相続(尾張家はこれで藩祖の血筋断絶)
※治保の曾孫は徳川慶喜、6世孫は高松宮喜久子妃
68日本@名無史さん:2014/05/03(土) 19:15:18.78
娯楽ドラマだからしょうがないけど、家治、治貞、宗睦の年齢が全然合ってないな。
69日本@名無史さん:2014/05/03(土) 19:16:16.27
>>68は、配役と演者の年齢がって意味ね。
70日本@名無史さん:2014/05/03(土) 19:37:59.83
江戸を斬るの水戸斉昭の森繁久弥も老け過ぎ
71日本@名無史さん:2014/05/03(土) 19:41:17.25
実は遠山景元の方が水戸斉昭より年長だったという・・・
72日本@名無史さん:2014/05/03(土) 20:31:12.22
左様。だから金四郎とおゆきは本来なら父と娘くらい年齢差がないとおかしい
73日本@名無史さん:2014/05/04(日) 12:13:12.54
三田村が西岡を「宗さん」と呼んでいた、あれだな
74日本@名無史さん:2014/05/04(日) 20:16:21.43
【将軍家】
徳川家康・・・吝嗇、果物嫌い、浅野長政の囲碁友達、興奮すると拳を床や鞍に叩きつける
徳川家治・・・吝嗇、将棋の負けが込むと台をひっくり返す、将軍家有数の愛妻家、多趣味

【尾張家】
徳川義直・・・吝嗇、儒教一辺倒、目を開けて寝る、側室探し中に醜女を手打ち
徳川宗睦・・・吝嗇、教育熱心で勉強家、思い込みが激しい、四六時中徴税の話

【紀州家】
徳川頼宣・・・頑固、空想大好き、槍と乗馬が得意、目立ちたがり屋
徳川治貞・・・吝嗇、粗食だが食わず嫌い、頑固、冬も暖房を取らず

【水戸家】
徳川頼房・・・吝嗇、息子に刑場から生首を持ってこさせる、甚だしい女色、多趣味
徳川治保・・・喫煙者、執筆好き、お祭り好き、学問好き
75日本@名無史さん:2014/05/04(日) 20:53:17.32
        彡⌒ ミ
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76日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:05:49.62
御三家筆頭の水戸藩主徳川斉脩は、将軍家から正室を迎えたこともあり、幕府に遠慮して側室を持てず、子が残せなかった
77日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:14:36.35
>>76
水戸家は筆頭じゃないだろう。
まあ、大廊下での席次が上のときはあったみたいだが。
78日本@名無史さん:2014/05/06(火) 20:50:03.05
前スレからいるネタ師にマジレスかよ@
79日本@名無史さん:2014/05/06(火) 23:02:18.85
>>76
尾張光友
「そこはそれ、やり方次第なんじゃがね」
80日本@名無史さん:2014/05/07(水) 01:13:32.55
>>76
徳川綱教 「良く分かる。辛いもんだ。」
81日本@名無史さん:2014/05/07(水) 14:07:30.61
将軍の娘は嫁いでも旦那よりも上座なんだよね
旦那もいろいろ大変だよね
82日本@名無史さん:2014/05/07(水) 16:32:30.61
常に騎上位?
83日本@名無史さん:2014/05/07(水) 17:53:19.78
みんな、家光の「二世権現」ってのはどういう意味だと解釈してる?
84日本@名無史さん:2014/05/07(水) 19:36:36.37
字面通り秀忠は空気だと
85日本@名無史さん:2014/05/07(水) 19:57:34.51
家康から一世が秀忠、二世が家光、なんじゃね?
86日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:43:55.82
>>85
そういう数え方は天皇家の数え方だよね、とは思うが
将軍を「上様」などと天皇の呼称と同じもの
使ってるとこみると、もしかして(笑)的な斬新さを感じる

なにげに素晴らしい着眼点だと思う!
87日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:50:45.93
家光は家康の孫ではなく、子であった説はどうよ?
ちょっと眉唾かな。

家康ほど縁起を重んじた男が
光秀と同じ光を、どうして敢えて嫡孫につけたのか?
光秀の縁起の悪い前例が頭をよぎらなかったのだろうか?
なにか光秀に思い入れがあったのか?

そこが春日局に繋がるかどうか、だが。
88日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:57:33.30
>>二世権現

網野の『源氏と日本国王』という本のなかに
秀忠だけ源氏長者になれなかった、という記述があるのだが
もしかして、これが関係してるとかあるかな?

網野は幕府の主権者は実は征夷大将軍ではなく、
源氏長者としての位のほうであった、という説を採ってるそうな。
権現という呼称が将軍ではなく、まさか源氏長者を指している?

しかし「2世」という言葉は、「子」を指すのであって
孫を指すものではない。
89日本@名無史さん:2014/05/07(水) 23:12:01.29
>>88
岡野友彦な
本当に読んだのか?
権現の意味理解してる?
90日本@名無史さん:2014/05/07(水) 23:19:22.57
>>83
家光は秀忠を恨んでた
だから、家光自身の意識では秀忠を代数に含めたくたかった
91日本@名無史さん:2014/05/07(水) 23:43:15.60
源氏長者が日本国王の根拠だなんてのは、トンでも学者が思い付き
ででっち上げた与太話だね。
源氏長者なんてそもそもがそんな御大層な立場でもないうえ、
足利将軍にしても国内向けには「日本国王」を標榜したことはない。
義教に至っては、真の王である天皇ならともかく、「覇王」である将軍
が便宜として「明の臣下としての日本国王」を称しても日本が明の下に
事にはならない(=日本を辱めることにはならない)という論理で勘合
貿易をやっているくらいだし。
92日本@名無史さん:2014/05/08(木) 00:06:34.03
>>88
>しかし「2世」という言葉は、「子」を指すのであって
>孫を指すものではない。

>>85にあるような、つまり「○○二世」で「○○の孫」意味する用例もある
93日本@名無史さん:2014/05/08(木) 01:50:07.18
>>つまり「○○二世」で「○○の孫」意味する用例もある

そんなら何の問題もないじゃないか(笑)
94日本@名無史さん:2014/05/08(木) 05:27:49.01
まあ家光みたいなのが将軍でも政権が盤石だったあたりが徳川幕府の特長だね。
北条時代にはこんなレベル低い奴はトップにはいなかったし、
足利時代だったら容赦なく乱が発生してた。
95日本@名無史さん:2014/05/08(木) 08:07:22.20
>>家光は秀忠を恨んでた
>>だから、家光自身の意識では秀忠を代数に含めたくたかった

そ、そんな解釈が可能なのか…?(汗)
96日本@名無史さん:2014/05/08(木) 08:25:09.50
ここは将軍家のスレではないのだよ、
いい加減にやめろよ
97日本@名無史さん:2014/05/08(木) 09:40:20.73
綱重が死んだ後、うまく京都から皇族を連れてきて
その後、尾張家に将軍家家督を継承されることは可能だったのだろうか?

将軍の弟とはいえ、綱吉は館林15万石の中堅大名に過ぎなかった。
尾張実質100万石のほうが上、という建前を使うのだろうが
どの程度の現実味があったのだろうか。
98日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:05:50.28
幻のタイクーン紀州綱教あげ
99日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:17:56.56
幕府を開くなら右大将で開けるから将軍てのにそんなに意味はないだろ
100日本@名無史さん:2014/05/09(金) 23:24:01.35
変な人が来たぞ…
101日本@名無史さん:2014/05/10(土) 15:52:51.01
尾張家は、義直の血統が絶えて一橋家系の藩主になった時点で、
・付家老他万石以上は独立大名する
・上級家臣まですっかり入れ替えてしまう
これなら、幕末には幕府の味方になってくれたんじゃないか?
102日本@名無史さん:2014/05/10(土) 18:59:36.38
意味不明
103日本@名無史さん:2014/05/10(土) 21:24:05.88
普通に潰して、新規で作り直したほうが早い
104日本@名無史さん:2014/05/10(土) 21:40:26.88
宗春の謹慎で一度取りつぶして、
宗睦が新規取り建ての建前ではなかったかな
105日本@名無史さん:2014/05/10(土) 21:57:12.16
越前藩や筑前藩への処分でも、しばしばその方便を活用している
106日本@名無史さん:2014/05/10(土) 23:36:06.56
>>104
普通には、宗春隠居の時に高須義淳が登城を命じられ
相続、というだけで、取りつぶし・新規取立てという話では
伝わっていないと思う。
紀伊家を残したときの言い分が「三家は権現様お取立て」
だったわけだから、尾張は一般大名並みの扱いとはでき
なかったんじゃないかな。
107日本@名無史さん:2014/05/11(日) 00:24:19.97
福井藩は何回改易されたんだよ
108日本@名無史さん:2014/05/11(日) 00:31:46.11
徳川家康〜徳川宗翰―徳川治保―徳川治紀―徳川斉昭―徳川慶喜―徳川慶久―徳川慶光―徳川慶朝
徳川家康〜徳川宗翰―徳川治保―松平義和―松平義建―松平容保―松平恒雄―松平一郎―徳川恒孝
徳川家康〜徳川宗翰―松平頼救―松平頼位―松平高子―平岡夏子―平岡梓  ―三島由紀夫
109日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:05:00.76
現代の参勤交代=電通
110日本@名無史さん:2014/05/11(日) 15:27:53.81
オワコン
戦後のアメリカの肝いりがなければ実現してねえし
111日本@名無史さん:2014/05/11(日) 17:38:48.33
吉宗が御三卿を創った意図って
ほんとうに将軍位を自分の家系で独占するためだったの?
そんな感じだったら、もっと反発があっても良さそうなものだが。

当時の雰囲気というのをもっと知りたいな。
112日本@名無史さん:2014/05/11(日) 17:45:55.05
家光も分家(甲府、館林)を立藩させた先例もあるしな。
113日本@名無史さん:2014/05/11(日) 18:31:02.32
揚げ足とかじゃないんだけど、
吉宗と家光じゃ、かなり違うんじゃね?

家光はかなり威張れる立場だったでしょ。
将軍の長子なんだから。
吉宗ってもっと相対的な立場だよね。
だからよく図々しく分家というか、それに近いもの創ったよな、って思う。
114日本@名無史さん:2014/05/11(日) 18:32:11.33
まぁ、御三卿は正式な藩じゃないんだから
それが配慮でしょ、って言われればそうなんだけどさ…
115日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:12:40.96
家斉以前の歴代将軍を見てたら、
嫡子以外に成長した男子のいる将軍は、
みんな分家をつくらせてるな。

家康 尾張・紀伊・水戸
秀忠 駿河
家光 甲府・館林
吉宗 田安・一橋
家重 清水
116日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:27:56.03
家光が死んだ時点では綱重、綱吉は幼少でまだ分家してないだろ
117日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:29:17.09
111
知りたいなじゃなくて自分で考えないのかよ
118日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:41:51.31
田安一橋を建てた頃は、尾張宗春の失脚と水戸宗翰が幼少だった事で
御三家文句言えない状態だったことも幸いしたんじゃね?
もしくは、そういう状況を作り上げたか
119日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:47:21.63
将軍の子を分家にした先例はあるから、分家を作ること自体に御三家が口出しはできないだろう。
駿河大納言家はその点で揉めたけどね。
それに石高、官位ともに御三家より下にしたんだし。
120日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:50:01.03
>>119
上下逆に入った。
要するに、駿河大納言家は官位と石高が問題だったんだろう。
忠長が、10ないし20万石で参議程度だったらもめなかっただろうしな。
121日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:56:42.16
>>26
信康に関しちゃ史料だけ見れば松平姓を冠するものは少なく、徳川姓を冠するものの方がかなり多い
ついでに今の研究者も大体「徳川信康」を採用してる
122日本@名無史さん:2014/05/11(日) 21:32:49.97
>>115
なるほど…。

そうなると(逆説的な見方になってしまうけど)
かえって子沢山だった家斉が分家をつくらなかった理由を探ってくと
案外、分家を創設した将軍どもの事情がわかるかもしれんな…。
123日本@名無史さん:2014/05/11(日) 21:41:52.73
将軍の子にふさわしいレベルの分家をつくる余裕がなくなったんだよ
御三家の連枝家も、水戸は初代頼房の子だけ、尾張は2代光友の子だけ、
紀伊だけは初代頼宣と2代光貞の子だけが、藩祖になっている。
124日本@名無史さん:2014/05/11(日) 23:10:01.57
家斉みたいに押し付け養子するよりは、自前で分家を立ててくれたほうが有難いんじゃないか。
125日本@名無史さん:2014/05/11(日) 23:35:12.39
館林はともかく、甲府は吉宗以降はずっと天領だったのだから
そこに一人くらい家斉の御子が入ってもいいような気もするよね。
126日本@名無史さん:2014/05/12(月) 14:46:40.96
吉宗が柳沢吉保の倅を大和に転封したのは
甲府を一種の聖地と考えたからじゃない?
だから奴以降、天領化したのだろう。
127阿部頼母:2014/05/12(月) 15:48:51.53
だと思う。しかしかえすがえすもなんで、聖地なのに不良御家人の左遷地にされたか。
なんともわからん。不可思議じゃ。ううさぶい、寒いなぁ。
128日本@名無史さん:2014/05/12(月) 15:52:10.79
江戸幕府の仕組み自体は武田氏の甲州制度をそのまま踏襲してる
129日本@名無史さん:2014/05/12(月) 15:58:15.56
いわゆる江戸が甲州派で紀伊が越後派で初期は思想的には宗家と紀伊家は対立してたからな
尾張の義直がそんな中、尊皇思想的でのちに水戸家が思想的には踏襲する
130日本@名無史さん:2014/05/12(月) 16:02:47.68
吉宗自体の思想は分からんが
大和は筒井氏のころまで平安時代からずっと仏教国
131日本@名無史さん:2014/05/12(月) 16:54:12.06
結城秀康や頼宣は父親の家康が散々苦杯嘗めた
山県・真田と言った武田家臣尊敬してらしいが
普通逆じゃね?

俺が子供なら「徳川(父上)を苦しめやがって」みたいに恨みそうなもんだが
132日本@名無史さん:2014/05/12(月) 16:59:33.75
家康本人が震源を尊敬してるし、隣に強国があって揉まれてよかったみたいなことを言ってる。
133132:2014/05/12(月) 18:42:19.11
訂正
震源→信玄
134日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:51:07.75
>>吉宗が甲府を一種の聖地と考えた

どうして江戸時代の中期に
そんな反動的な動きが出てきたんだろうな。
なんの実際的な必要性もなかったであろうに。

太平のどうしようもない暇のなかで
戦国への憧憬でも生じたのだろうか。
135日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:58:36.70
>>129
甲州派と越後派とは何のこと?
googleで検索しても出てこないね。

どうして紀州は本家と異なる思想を選んだのかも含めて、
よかったら教えてください。
136日本@名無史さん:2014/05/12(月) 18:59:53.83
甲斐とか伊豆は、丸々じゃなくても家斉の息子たちに所領として与えてもよかったのにな。
137日本@名無史さん:2014/05/12(月) 20:16:38.40
そんなことしたら財政難にあえぐご三家などから反発をうけかねないし、
幕府の収入がその分減るわけだから幕府要人にも怪我人をだしかねないだろ
138日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:57:42.15
家斉の時代って、思ったよりも
幕末に近いよね

つまり財政難でしょ
139日本@名無史さん:2014/05/13(火) 00:00:41.35
家光以降は常に財政難
吉宗は危機意識が強かったが享保改革に失敗
以後、財政悪化は慢性的になる
140日本@名無史さん:2014/05/13(火) 01:19:53.28
そういや御三家や御三卿で綱誠以外に両親ともに徳川氏っていないな
141日本@名無史さん:2014/05/13(火) 06:10:27.77
日本語でおk
142日本@名無史さん:2014/05/13(火) 06:33:29.82
正室腹で成長する公子・公女が激減したからな。
143日本@名無史さん:2014/05/13(火) 07:24:28.03
吉宗の頃はまだ、子供に10万石の賄を出す余裕があった。
家斉の頃はもう、それすら許されなかった。
144日本@名無史さん:2014/05/13(火) 09:11:40.35
押付養子の持参金は結構な負担だったと思う。
オットセイ将軍の子供の数は、半端じゃなかった。
145日本@名無史さん:2014/05/13(火) 09:14:55.65
吉宗の重農主義は、長期的にはまずかったけど、短期的には成果があり、新田開発で米の収穫が増え、年貢の増収もあったから、御三卿創設財源ができた。
146日本@名無史さん:2014/05/13(火) 11:19:05.47
>>145
綱吉〜吉宗の時代の新田開発は丘陵部の畠地開発がほとんど
147日本@名無史さん:2014/05/13(火) 11:23:37.14
御三卿の所領には譜代大名領、旗本領を接収させた好立地を配分
収公させられた譜代大名、旗本の替地は山間部の悪条件の土地が多い
148日本@名無史さん:2014/05/13(火) 12:11:28.97
旗本なんて参勤しないんだから
どこだってよかったんだろw
149日本@名無史さん:2014/05/13(火) 12:36:28.83
所領運営は代官と札差に丸投げ?
150日本@名無史さん:2014/05/13(火) 12:40:53.61
交代寄合
151日本@名無史さん:2014/05/13(火) 14:41:37.65
>>149
大庄屋に丸投げ
152日本@名無史さん:2014/05/13(火) 15:16:27.56
家斉、あれだけ子沢山だったから中には三井や鴻池の養子に出されてもおかしくなかったのだ
とにかく大名家の養子になれたのは水野忠成のおかげかもしれんのだ。有り難く思うのだな。
153日本@名無史さん:2014/05/13(火) 15:26:31.04
商人に養子に出すくらいなら、仏門に入れるだろう。
154日本@名無史さん:2014/05/13(火) 16:28:46.41
もっともだ。
ところで徳川将軍家の子息で仏門に入った人はついぞ出なかったな
155日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:15:34.81
>>152
さすがに商家はありえないが、摂家や宮家に養子に出せばよかったのに。
近衛家とか伏見宮家を家斉の公子で乗っ取れば面白かった。
いや、天皇家に家斉の公子を養子に入れれば、もっとよかった。

>>154
御三家なら隠居してから出家、剃髪した人がいるな。紀伊の重倫とか。
156日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:21:49.29
お!チン◯の話か?
157日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:32:53.34
>>155
将軍家って公家や天皇家とはとことん血の相性悪いからなw
158日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:51:50.37
w
159日本@名無史さん:2014/05/13(火) 20:02:58.80
後桃園天皇が没したとき、閑院宮ではなく徳川家から養子を入れるべきだったな。
家斉の息子を養子に押し込んで、徳川家が帝位と将軍位を兼ねるべきだった。
160日本@名無史さん:2014/05/13(火) 20:13:22.21
そしたら水戸藩の大日本史を信奉する「改革派」が外様大名巻き込んで反乱を起こすかもしれんな
161日本@名無史さん:2014/05/13(火) 20:24:12.61
戊辰戦争で東武皇帝を擁立して失敗した残党が徳川慶喜の母親(登美宮吉子)を擁立しようとしているぞ。
162日本@名無史さん:2014/05/13(火) 20:40:56.59
徳川家斉の公達を近衛、九条、二条、三条、鷹司の各家に押し込むとすれば、どういうせめぎあいが起きたかは興味ある
近衛と親しい島津は妨害工作するかもしれん
163日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:00:31.21
摂家に押し込むのなら、御三卿みたいに10万石も賄い料やる必要はないし、
持参金や加増も大名家より安くつく上、より高い格式を与えられるから、
ローコストハイリターンだな。
164日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:13:31.53
鷹司信平の子孫だかを御三家に准ずる待遇にできたんだから、逆も可なり
165日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:21:34.11
ほー
166日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:22:19.91
>>140
初代松平摂津守も貴種だね
徳川同士の婚姻そのものがないから、どうしようもない
167日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:26:52.61
実際に松平義行は越後家光長の後継候補だったもんな
168日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:27:37.86
ち◯ぽ
169日本@名無史さん:2014/05/13(火) 22:36:18.39
徳川から天皇家への養子なんて
無理に決まってんじゃんw

天皇は別格でしょうが。
170日本@名無史さん:2014/05/13(火) 22:44:26.61
そうです。幕府がこれを強行すれば、御三家筆頭水戸斉昭が、因州鳥取、薩摩、長州、越前、米沢といった雄藩と結んで決起しかねない
171日本@名無史さん:2014/05/13(火) 23:31:37.29
ほざくほざくw
172日本@名無史さん:2014/05/13(火) 23:44:52.61
よってこのスレでは御三家筆頭は水戸藩であります
173日本@名無史さん:2014/05/14(水) 00:47:27.18
水戸家は、公爵に昇爵してるから、最終的には筆頭というか、本家と同格になってるな。
慶喜家も公爵になったし。
174日本@名無史さん:2014/05/14(水) 05:39:35.53
馬鹿じゃんこいつらwww
175日本@名無史さん:2014/05/14(水) 05:57:38.41
今の若い世代は天皇の不可侵性についての
感性をもう持っていないようだね。

だから徳川家と養子の行き来が可能だ、などという
発想が出てくるのだろうね。

つまり天皇家が徳川家と相対化されちゃってるわけ。
天皇の血統の絶対性というものへの無理解。
176日本@名無史さん:2014/05/14(水) 06:15:18.29
ほんとに馬鹿じゃんこいつ
177日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:45:50.78
>>徳川家が帝位と将軍位を兼ねるべきだった。

き、きちがいだ…(´д`;)
178日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:46:44.23
サブカルの影響なんだろうな、
こういう無法者が出てくる背景は
179日本@名無史さん:2014/05/14(水) 12:56:45.37
徳川頼貞、徳川圀斉は両親ともに徳川だお
180日本@名無史さん:2014/05/14(水) 13:40:54.40
天皇家と将軍家を徳川で独占とはな〜んたることじゃ!
これでは逆賊朝敵呼ばわりされても言い逃れができまいが!
181日本@名無史さん:2014/05/14(水) 19:11:44.01
徳川家が将軍位(大君位)と帝位を兼ねるチャンスは、家光のときだったな。
後水尾がブチ切れて帝位を放棄し、徳川の血をひく明正女帝に実子がいなかったのだから、
家綱を明正女帝の養子にして帝位を兼ねさせればよかった。

あと、後桃園が没したとき、閑院宮なんぞに帝位継承させず、家斉が兼任すればよかった。
そうすれば、近代日本は史実より風通しのよい社会になってただろうし、
神国だの天孫だのと戯言をほざいて無謀な戦争をすることはなかっただろう。
182日本@名無史さん:2014/05/14(水) 19:31:13.27
理論上は皇別氏族だし宇多天皇の先例もあるから不可能ではないな。
183日本@名無史さん:2014/05/14(水) 20:03:28.80
徳川氏は、朝廷を実質的にコントロールしようとはしたが、帝位を望もうとはしなかっただろう。
頼朝を模範としたと言うのはそういうこと。
184日本@名無史さん:2014/05/14(水) 20:10:30.36
いかにも。
六波羅探題に代わる京都所司代に監督させたのである
185日本@名無史さん:2014/05/14(水) 20:45:13.84
スレタイ読めないバカばっかり
186日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:31:41.29
逆に将軍家を皇統に持っていかれそうだった
187日本@名無史さん:2014/05/15(木) 06:22:02.08
徳川の力が強かった時期に本当の意味で「公武合体」=帝位と将軍位の合体を実現すべきだった。
家光の頃にそれをやらなかったのが、徳川の詰めの甘さ。将来に禍根を残した。
188日本@名無史さん:2014/05/15(木) 08:38:02.62
日本史板には、徳川本家スレがないようだが、ここは分家限定なのか本家も含むのかどちらなんだろうか。
素直に読めば分家スレなんだろうが、スレタイ冒頭に【徳川家】とあるんで、無理すれば本家込みと読めなくもない。
189日本@名無史さん:2014/05/15(木) 08:56:28.98
サブタイトルは変わるから、スレの内容に本家は含めることを前提としているものではない
つまり、分家と関連しない内容の本家ネタはスレ違いになる
190日本@名無史さん:2014/05/15(木) 09:09:15.05
将軍家だけで単独スレを立てるに不足ない話題がある
このスレはどちらかというと、隙間スレでいい
191日本@名無史さん:2014/05/15(木) 10:04:36.78
かつては徳川家スレ、将軍家スレがあったんだろ
192日本@名無史さん:2014/05/15(木) 10:50:20.25
御三家筆頭の水戸徳川家のスレッドもありましたよ
193日本@名無史さん:2014/05/15(木) 11:59:27.95
話題の進展にしたがって
将軍家の話題を楽しんだって、なんら問題はないよ。
ここはみんなが歓談するサロンなんだからね。

だいたい5代以降の公方は、すべて分家筋の出身者なのであって。
194日本@名無史さん:2014/05/15(木) 14:27:59.28
2chはあくまでも2chなのだから、殺伐としていなければならない
マターリ歓談したければ、馴れ合いカテゴリの板へ行けばいい
195日本@名無史さん:2014/05/15(木) 17:51:10.61
10数年前からタイムスリップしてきた方ですか?
196日本@名無史さん:2014/05/15(木) 21:01:06.85
徳川鏡子
徳川鉄子
徳川英子
197日本@名無史さん:2014/05/15(木) 21:57:34.53
>>193
ゆとり乙
198日本@名無史さん:2014/05/15(木) 22:07:40.60
>>67
将軍家:徳川家康→徳川頼宣→徳川光貞→徳川吉宗→徳川家重→徳川家治(1737年生)
尾張家:徳川家康→徳川義直→徳川光友→松平友著→徳川宗勝→徳川宗睦(1733年生)
紀州家:徳川家康→徳川頼宣→松平頼純→徳川宗直→徳川治貞(1728年生)
水戸家:徳川家康→徳川頼房→松平頼重→松平頼侯→松平頼豊→徳川宗堯→徳川宗翰→徳川治保(1755年生)

家康からの距離で言ったら三田村邦彦演じる治貞侯のほうが一番近いんだな。
元石原軍団の深江卓次演じる水戸の若君にとって、治貞はひい爺さん世代・・・
御三家も将軍家も、この頃は完全に分家筋が何度も当主になってるのね。
199日本@名無史さん:2014/05/15(木) 23:11:43.61
>>67
治貞自身が重倫隠居に伴う中継ぎだから、ある意味では順当なんでしょう。
しかし、宗春の後に入ったのが高須の義淳、重倫の後に西條の頼淳なん
だね。分家に「淳」さんがいると隠居させられるなんていうはずもないが。
200日本@名無史さん:2014/05/16(金) 10:05:26.11
徳川将軍が天皇を兼ねる、というのは
おもしろい着想だと思う。
201日本@名無史さん:2014/05/16(金) 14:19:27.22
天皇になったら将軍を兼ねられないだろう
何言ってるんだこの池沼は
202日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:08:23.51
違う、そういう意味じゃない。

>>155>>181が言ってたように
徳川家から天皇家に養子を入れる、って話だ。
203日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:13:10.37
そんなことやったら蘇我イルカ、弓削ドーキョー以来の朝敵だろうが

せいぜい皇太子に権利者の姫を嫁がせるのがわが古代からの限界だ
204日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:13:32.76
>>202
家綱が死んだとき宮家の子を将軍に貰ってこようとしたことはあったが

天皇家は勿論公家からも大名からも反発くらいそうだしね
日本の将軍って天皇のお墨付きを得たからかろうじてトップを名乗っている
ゆるやかな大名連合であって
将軍家って大名たちの中でそこまで突出した存在じゃないと思うんだ
205日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:24:51.06
わが古代からとかすげえ違和感

倭ってのは紀元前6世紀から名前が見えるらしいが
日本のこととはとても思えんわ
206日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:58:39.99
>>204
その辺は他の国には見られない政治体制だわな。
荒っぽく例えれば、ローマ教皇がボンかベルリンに移住したドイツ帝国みたいなもんか?
天皇=教皇
皇帝=将軍
諸侯=大名って感じで。

>>199
あのドラマに出てくる紀州侯は、もともとは家を継ぐ人間じゃなかったんだよな。
前任の殿様の素行があまりに悪すぎて(この間ジャニを解雇された人みたいに)、
その殿様の子供も若過ぎて急遽代役・・・運が良いのか悪いのか。
でも立派に財政再建をやったんだから、麒麟公と呼ばれるだけある。
207日本@名無史さん:2014/05/16(金) 18:22:44.99
>>203
その限界を突破するところに男のロマンや爽快感があるのでは?
家光のときの後水尾の一方的退位と徳川系の明正女帝の即位は、
無意味な古代的権威の残滓を否定する絶好のチャンスだった。
明正という中継ぎのあとは、家綱が養子に入って帝位につくべきだった。

そうすれば、古代的な呪縛から解放された合理的な社会になっていたはず。
208日本@名無史さん:2014/05/16(金) 19:04:12.73
変なやつが住み着いちゃったな。
209日本@名無史さん:2014/05/16(金) 19:05:58.22
>>207
そんなこと誰も望んでないんだよ

島津や前田だって山内や毛利だって遠い先のいつの日か徳川を滅ぼした暁には
天皇から征夷大将軍に任じられたいという野望はあっただろ

誰も天皇の地位が糞田舎の三河大名徳川の子孫に乗っ取られるなんて望んじゃいない
210日本@名無史さん:2014/05/16(金) 19:11:47.93
征夷大将軍に任ぜられたいなら、徳川宗家の当主が代わるたびに京都に出向くべきだ
わが叔父、信長公にさんざん世話になった三河の田舎大名めが、無礼であろう!
211日本@名無史さん:2014/05/16(金) 19:31:04.47
足利義満なら遠い祖先が陽成天皇から出てるから
次男を天皇にしても、まぁ、先祖がえりみたいなもんだけど
徳川家に狙われたら、天皇家もキツいだろう。
212日本@名無史さん:2014/05/16(金) 19:32:06.02
>>信長公にさんざん世話になった三河の田舎大名

明らかにコキ使われたのは徳川のほうでしょw
213日本@名無史さん:2014/05/16(金) 21:00:07.62
まあ、秀吉は明の皇帝の臣下って自覚はあったけどね。
214日本@名無史さん:2014/05/16(金) 21:04:57.32
言ってることが無茶苦茶になってきたなあ
明と戦争してるのにな
215日本@名無史さん:2014/05/16(金) 21:09:25.27
講和条件に勘合貿易(朝貢貿易)の復活と明の皇女の降嫁を願ってるからな。
ちなみに、これは小西行長が捏造した方じゃなくて、秀吉自身が示した講和条件の方。
216日本@名無史さん:2014/05/16(金) 21:10:51.93
ひょっとして嘘書いて始めて見るような連中の認識とかコントロールしようとしてんのか?

お前ら?
217日本@名無史さん:2014/05/16(金) 21:14:52.95
対馬の宗氏関連の偽書で話が違うってんで二度目の遠征が起こってるのにか?
218日本@名無史さん:2014/05/16(金) 22:01:18.74
順序としては、
秀吉、朝鮮出兵を開始
 ↓
秀吉、講和条件を示す
(明の皇女の降嫁、明の大臣と日本側との誓詞交換、朝鮮南部の割譲、勘合貿易の復活など)
 ↓
小西、これでは拒否されると、勝手に条件を偽造
(秀吉が明に降伏して朝貢・冊封を願うという内容)
 ↓
明、議論の末、小西の偽造した条件を認めて、日本に冊封使を派遣
 ↓
五山の坊主が馬鹿正直に明の国書を朗読し、自分の条件が無視された秀吉が激怒、戦争再開
(秀吉の講和条件の最大の眼目は「勘合貿易」の復活)

勘合貿易とは朝貢形式の貿易。あとはわかるな。
219バカは氏んでも名乗らない:2014/05/16(金) 22:10:40.93
ここは御三家御三卿のスレであって、朝鮮征伐は関係ないから
220日本@名無史さん:2014/05/16(金) 22:49:27.72
秀吉にとって明は南蛮と同様、異国のひとつ、
貿易相手に過ぎん。

勘合貿易を求めたのは朝貢したかったのでもなければ
明臣を志向したわけでもない。

ようするに対等の貿易をさせろ、と主張しただけ。
だから戦争に訴えてんだろ。
朝貢します、なら戦争いらないよね。
221日本@名無史さん:2014/05/16(金) 22:51:46.67
>>秀吉は明の皇帝の臣下って自覚はあったけどね

この発言って、どのレスに対応して出てきたの?
なんか唐突過ぎて、どのレスに対応してるのかわからん。
222日本@名無史さん:2014/05/17(土) 00:17:14.93
自分の思いつきを流れや文脈関係なく言いたいだけの池沼だから
223日本@名無史さん:2014/05/17(土) 03:25:30.83
徳川家が天皇家を兼任するという電波がいるようだけど
真面目な話、明正天皇以降で徳川の血を引く天皇は後桜町天皇まで待たないといけない?
224日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:33:10.37
でも、徳川が帝位を兼ねたほうがよかったと思うね。
225日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:40:57.18
>>224
よいと思える要素が全くない

徳川が源氏を名乗った時点で相当な冒涜
江戸時代の大名など徳川に倣って
勝手に官位もらうときに源平藤橘菅名乗りまくってたからな
徳川が天皇になれるなら誰でもなれるわ
226日本@名無史さん:2014/05/17(土) 08:59:06.90
尾張徳川家の姫が摂関家の九条家に輿入れし、その子孫が続いて九条家から大正天皇の貞明皇后が立后してるので、今の男性皇族は全員家康の女系子孫。
ちなみに九条家は、豊臣完子の血も引いているので、織田、浅井、豊臣の血も皇室に入ってる。
227日本@名無史さん:2014/05/17(土) 09:04:27.53
>>226
今の天皇など前田の血も百姓の血も入っているし
それ自体は凄いことでもなんでもない

1500年の歴史の中では日本人皆兄弟だろw
どっかで繋がってると思うぞ
228日本@名無史さん:2014/05/17(土) 09:11:15.50
まあもともと松平氏だし
229日本@名無史さん:2014/05/17(土) 09:28:34.90
ぶっちゃけ、いまの皇室とかどうでもいい。
230日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:42:44.34
徳川ポナパリズムを遣るには悪謀のプランメーカーが必要
231日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:52:38.78
そもそも大名自体が百姓上がりだしな
232日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:00:15.30
>>230
天海僧正が早死にしたのが悔やまれる。
233日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:09:29.78
>>230
天海僧正が早死にしたのが悔やまれる。
234日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:46:02.31
天海って107歳まで生きたんじゃないのか

しかしその天海も徳川和子を後水尾天皇の中宮にするのが関の山だった
235日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:52:27.67
前田なんてもろ百姓あがりやん
236日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:56:58.49
>>235
織田徳川系の大名は馬の骨だらけだろ。
なんたって織田や徳川が馬の骨なんだからww
織田でも宗家はそこそこ由来がわかってるけど、信長の織田家は素性不明だからなあ。
松平は言うに及ばす。
237日本@名無史さん:2014/05/17(土) 13:57:28.33
浅井も近江の土豪出身
つまり百姓

豊臣は有名すぎるが
238日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:09:14.15
土豪っていってもほとんどが地頭あがりだけどな
守護が任命されたから国主かっていうとそうでなくて国守
戦国大名ってのはこの地頭権も兼ね備えてるってこと
下克上っていっても元は国人だし
239日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:12:43.69
室町時代の争いも鎌倉時代の古い地頭職の連中と室町政権下の守護との争いって面もあるんだよ
240日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:21:04.75
鎌倉時代に守護が握っていた実権はあくまでそういった地頭職の連中からの
訴状の訴えの裁量権とその国における軍事権だけ
241日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:22:18.07
>>227
前田ってどうつながるの?
伏見宮に嫁いだ豪姫の娘の家系も途絶え
二条家に嫁いだ娘の家系も女帝しか産み出さず
他に思い当たるキーパーソンの姫が思い浮かばない
池田数計子のように傍系の娘がひっそり女官を産んだような事例とかがあるの?
242日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:29:48.06
>>238
浅井は鎌倉幕府から地頭職拝命してないだろ

そんな古い時代からの格式高い家柄じゃないよ
243日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:18:10.48
>>238
お前基礎的な歴史知識か皆無にちかいな
244日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:23:41.93
言いがかりつける前に調べてみ
245日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:26:45.19
西国は承久以降だからそれとも地頭職進まなかったか?
246日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:37:45.50
>>244
だから浅井は鎌倉時代の地頭じゃないんだけど

君の論が間違っている証拠ね
247日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:39:37.00
>>244
そもそもお前は地頭や国人を理解していない
そうであるはずという思い込みも混ざってるし
248日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:45:52.09
はいはい信長みたいな神官家からの発展もありますよね
あるいは国司家や寺社からもね
249日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:16:06.41
>>248
お前の言う鎌倉時代の地頭職が室町幕府の守護大名を倒して
戦国大名にのし上がった例は?

調べるも何も、大部分がそうだと言うんだろ?
どこがそうなわけ?
250日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:28:56.52
???
争いっていってんだけど
251日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:32:20.16
>>250
だから
>室町時代の争いも鎌倉時代の古い地頭職の連中と室町政権下の守護との争いって面もあるんだよ
の具体例をあげて?

言葉尻捕えて逃亡すんなよw
252日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:33:34.96
>>250
あと
>土豪っていってもほとんどが地頭あがりだけどな
戦国時代の土豪で鎌倉時代の地頭あがりだった氏族も
253日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:37:51.25
島津に対する伊集院
越後の阿賀北、東北は斯波に対する葛西
出羽の小野寺あたりも頑張ってるね
畿内の小名群は離合集散だから知らん
越後の上杉あたりも初期は中越に入ろうとして
殺されてるが?
254日本@名無史さん:2014/05/17(土) 17:58:09.54
>>253
伊集院なんか島津同族じゃん
小野寺あたりはかろうじて戦国大名にのし上がってるけど
戦国時代の土豪と鎌倉時代の地頭にたいした関係性はない
中央政界が見向きもしない僻地のマイナーな連中ばかり

このスレに出てくる浅井も前田も地頭上がりじゃない
255日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:11:29.39
あの、ここは徳川御三家御三卿のスレだと何度…
256日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:14:15.19
あと、御連枝、御家門の松平もお忘れなく。
257日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:33:45.68
>>238
でも織田や徳川の尾張、三河時代の配下って地頭や国人系はほんと少ないぞ。
松平は流石に国人系だが、信長の織田家はリアルに出自がよくわかんない。
元来が津田で、守護代織田家に仕えて織田の名字をもらったって説があるくらいだからね。
258日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:46:02.41
三河譜代なんて、あんなレベルを国人扱いなら当時でも日本全国で何十万の国人が存在することになる
何を勘違いしてるのか知らないが、三河譜代なんて元は武士ですらない
259日本@名無史さん:2014/05/17(土) 20:07:42.70
さすがにそれは言い過ぎw
260日本@名無史さん:2014/05/17(土) 20:18:49.48
いや、常識的な話してるだけなんだが
261日本@名無史さん:2014/05/17(土) 21:36:03.58
よく維新で成り上がった元老たちは、下級武士の出って馬鹿にされがちだけど
島津庶家の樺山家の樺山資紀や、毛利庶家の桂家出身の桂太郎なんかはさ
知行地は低くとも、どこの馬の骨かも判らない織田豊臣徳川系の大名よりは
出自はっきりしててよっぽど名門な感じするね。
262日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:13:10.47
室町幕府 西三河(由緒正しい武士の国)の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれる
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏


三河国の奉公衆一覧(全53家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和
263日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:19:41.33
>出自はっきりしててよっぽど名門
これのことかい?

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
264日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:21:11.93
>出自はっきりしててよっぽど名門
これのことかい?

室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代・渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)
【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動
265日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:26:49.00
>出自はっきりしててよっぽど名門
これのことかい?



日本の由緒正しい上層部・(金では買えないステイタス)

公家(No.1、No.2)・
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川)からの養子・
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給)からの養子・


武家(No.1、No.2)・
・喜連川家←現当主は細川家(三河国額田郡細川)からの養子・
・細川家(三河国額田郡細川)・



細川家菩提寺・
・隣松寺(豊田市幸町隣松寺126)・
・蓮性院(岡崎市細川町字権水56)・

大給松平家・
・松明院(岡崎市細川町字根古屋123)・
266日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:39:06.57
三河厨は巣に帰れ

「三河」スレッド
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/min/1329974247/
267日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:52:41.66
>三河国の奉公衆一覧(全53家)


うじゃうじゃ居すぎw 寒気がするw



>三河時代の配下って地頭や国人系はほんと少ないぞ
>三河譜代なんて元は武士ですらない


お前はどこ百姓だよ?w
無駄口叩かず、田植えでもしていろw
268日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:01:06.25
溜間詰筆頭・松平容敬は徳川斎粛に対し、
269日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:04:30.96
いや、見方によっては
このスレ、広範な話題が楽しめて
良スレなのかもしれんよ。

スレタイに忠実でもつまらないスレよか
はるかに良い。
270日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:06:16.61
あと、いくらなんでも
松平の初代は怪しすぎるだろ。

流れてきて婿に入ってきました、
それがたまたま源氏でした、というのは…(汗)
271日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:06:36.15
>>262
ちょっと紹介しましょう


饗庭氏(三河国幡豆郡饗庭)

饗庭氏直(饗庭命鶴丸)
・三河の国人
・足利尊氏近習
・三番隊六千人の花一揆武士団総大将


大草氏(三河国額田郡大草)

大草公次
・三河の国人
・足利義満近習
・足利将軍家包丁人(大草流庖丁道)



勝ち組武士だらけw
272日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:09:14.85
幸福実現党広報部 饗庭直道
273日本@名無史さん:2014/05/18(日) 01:04:07.19
>>270
松平氏由緒書だと源氏って書いてないから学会でもそっちを取ってるらしいね

ただそこから「きっと親氏は職人身分だったんだ!」ってなるプロの学者たちの頭の中身がよくわからん
274日本@名無史さん:2014/05/18(日) 03:27:32.85
>>270
松平自体は怪しくない。
ちゃんと奉公衆に入っている由緒正しい家。
葵紋等から賀茂氏系と考えられている。
その名門を親氏という流れ者が乗っ取ったんだよ。
でも、名門で男の子の後継ぎがいなくて優秀な流れ者を入り婿にするってことは他でも少なからずあったろうよ。
たまたま松平の場合ははっきり書き残した人物がいるのでその辺が明確にわかってるだけ。
275日本@名無史さん:2014/05/18(日) 05:55:31.74
松平将之って誰?

未来への手紙プロジェクト:松平将馬へ(松平将之さん) - 毎日新聞
mainichi.jp/shimen/news/20140518ddm018070027000c.html
未来への手紙プロジェクト:松平将馬へ(松平将之さん). 毎日新聞 2014年05月18日 東京朝刊.

将馬にはじめてのお手紙を書きます。 将馬は松平家に生まれ、松平家の系図に松平将馬と
書かれる子になります。水戸徳川からの血、井伊直弼(なおすけ)の血・・・
276日本@名無史さん:2014/05/18(日) 08:27:44.54
旗本大草氏は元後北条家臣だが?
277日本@名無史さん:2014/05/18(日) 10:20:45.90
>>274
由緒正しいというほどの家なの?
司馬遼太郎の小説の印象が強くて
松平というのは武装百姓である、というイメージ
278日本@名無史さん:2014/05/18(日) 10:48:44.61
大草は奉公衆の家柄で一族も少なくない
その内の一流が後北条の家臣になったのだと何故思い至らない?
279日本@名無史さん:2014/05/18(日) 10:50:28.19
司馬遼太郎の小説の印象で論じようと思えるのがすごいな
280日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:11:09.71
親氏が出自も実在性も怪しいというだけで、
3代信光以降の松平氏は三河の国人として伊勢氏の被官なのは確実だし、
近江菅浦の訴訟騒ぎにも松平の誰かが代官として関与している。

>>278
後北条氏自体が、本来伊勢氏で室町幕府官僚の家柄だから、
家臣団にも伊勢、小笠原などの幕臣からの転職組がけっこういるよな。
281日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:24:55.25
>>277
国人で奉公衆なら問題なく由緒正しい家だぞ。
織田、豊臣、徳川大名できちんとここまで確定できる家がどれだけあると思ってんだ?
282日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:40:37.17
三河は鎌倉時代に足利氏の所領があった
だから早期から足利氏直属の部下であった土豪が多く
足利氏が政権を取ると奉公衆に取り立てられたってだけだろ
奉公衆だから由緒正しいとか足利氏と血縁関係にあるとかではないし
283日本@名無史さん:2014/05/18(日) 12:06:03.36
>松平氏が奉公衆
 いつの時代の話ですか?親氏以前?信光あたり?清康?元康?
284日本@名無史さん:2014/05/18(日) 12:31:34.89
>三河は鎌倉時代に足利氏の所領があった

いい加減このように単純に考えるのはやめよ
1219年に実朝が暗殺され、1221年の承久の乱で、三河の藤姓大宮司家の所領が没収されると、鎌倉将軍家と三河の藤姓大宮司家の縁故者として、足利氏は先祖の地三河の権益を継承した

>足利氏と血縁関係にあるとかではないし

思いっきり血縁関係があるがな

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
285日本@名無史さん:2014/05/18(日) 12:46:09.50
>星野
これは義兼の母親の兄貴(系図上)の家系だわな


A藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、熱田大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)   →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・祐範(三河法橋祐範、三河国滝山寺僧、頼朝支援者)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介) →足利義氏(足利氏として初めて三河守護)→吉良氏他一門
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
・他多数


こいつが一族のようだな

星野茂則
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E8%8C%82%E5%89%87
286日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:06:37.42
それじゃ、司馬遼が書いてたほど
低い階級の出身じゃないみたいだね。

奴の明治維新の小説だと
毛利は大江広元の系譜をひく名門で
徳川は山奥の土百姓、みたいな書き方をしていた。

『街道を逝く』でも
「実際に来て見ると、あまりの山奥ぶりに彼らの祖先の弱小ぶりが伺える」
みたいな書き方をしていたはず。
287日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:08:47.83
家康が秀吉によって豊臣姓を名乗らされていた時期があることを
Wikiで初めて知ったほどの初心者ですのでご容赦ください。
288日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:16:45.32
徳川が批判されてるのはそこじゃないぞw
289日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:19:41.24
司馬遼か?
こいつって芸名か?
司馬懿、司馬遷あたりからとったくさい名前とかどうなってんのかねえ
やらせ実験でもたくらんでるのかいなこいつら
290日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:34:03.19
>いつの時代の話ですか?親氏以前?信光あたり?清康?元康?

幕府末期の元康、家康だわな、図書館に行って愛知県史中世(資料)みてこい、一覧が載っているから

>低い階級の出身

菩提寺の高月院の前をは、足助一族の坊さんに作らせているから、唯の木こりじゃないだろう

>山奥ぶりに

その山に武士うじゃうじゃ居たんだろ、どれだけ城があったと思っているんだよ
数と密度は日本一
これで確認してみろ
http://www.geocities.jp/shiro20051212/index.html


司馬遼太郎は南北朝時代を理念がないとか、題材にしたら心労で死人が出るとか言って逃げ回ったクズだ
南北朝を描けば、自分の三河sageと辻褄が合わなくなるからな
291日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:44:35.60
司馬は大阪人だから、アンチ徳川でやたらと徳川をディスりまくってるからな。
創作である小説は論外としても、エッセイとか評論もある程度、割り引いて読まないといけない。

それでも、晩年に徳川忠臣の小栗忠順に一定の高い評価を与えていたのは意外だった。
292日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:47:14.06
こいつ等も三河の山で足利一族と知り合ったわな


伊勢氏(初代・藤原俊継) 滝山寺縁起

■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去

■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋

■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
293日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:48:49.45
司馬が扱った時代

平安初期 空海
平安末期 義経
室町後期 箱根の坂
戦国〜江戸初期 多数
江戸前期 ダッタン
江戸後期 菜の花、北斗
幕末維新 多数
明治 坂の上

こうしてみると、奈良以前と鎌倉〜室町前期がすっぽり抜けてるな。
294日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:53:25.09
>>290
 元康ですか。すると、松平元康は奉公衆で、築山殿の生家関口氏も奉公衆で、
奉公衆としての由緒はともかく、同じ奉公衆どうしの結婚ってことだったわけ
ですね。
295日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:58:22.22
芸名かね?
中国の司馬遷あたりが怒りそうだなw
296日本@名無史さん:2014/05/18(日) 13:59:40.67
三国志を書いたの司馬氏だし
297日本@名無史さん:2014/05/18(日) 14:14:18.49
細川郷と松平郷の直線距離をyahoo地図で測る→9キロ
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.95437892&lon=137.17432900&ac=23202&az=&z=13&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82#


細川氏が三河出自なのを知らん奴は意外と多い
細川郷と松平郷は直線距離でたった9キロにも関わらず、司馬遼太郎は意図的に無視したわな
細川一族に言及すれば、文化程度が低い、農民気質といったレッテルと辻褄が合わなくなる
頼之や鶴岡若宮別当だった定禅・皇海が文化程度が低い、農民気質かつーの
298日本@名無史さん:2014/05/18(日) 14:20:03.16
完全にキチガイスレに成り下がったな
299日本@名無史さん:2014/05/18(日) 14:21:39.12
関口氏(三河国宝飯郡長沢村関口)

関口一族の墓(慶忠院跡)
http://www.net-plaza.org/KANKO/toyokawa/haka/sekiguchi-haka/index.html


あれもこれも三河でわな
家康とやらも、あれもこれも三河だから、全部面倒をみてやらなあかんつー感じだったんだろな
300日本@名無史さん:2014/05/18(日) 14:24:09.93
>>289
マジレスすると、歴史家である司馬遷にはるかに及ばずって意味での司馬遼(太郎)だと。
301日本@名無史さん:2014/05/18(日) 15:14:08.58
遼ってそういう意味の字なのか。
302日本@名無史さん:2014/05/18(日) 15:43:53.01
前途遼遠のような言葉もあるように、「はるか遠く」って意味。

司馬遷>>>>(越えがたい壁)>>>>司馬遼 ってことやね。
303日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:00:41.87
三河厨は巣に帰れ

「三河」スレッド
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/min/1329974247/
304日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:09:39.84
>>290←こいつ願望と妄想が入り交じり過ぎなんだよ。何が山奥に武がいすぎただよ。山賊を武士とか嘗めてるの?
つーかお前の理論なら戦国時代の日本人の二人に一人は武士だわ。それでいいわ。山賊でも海賊でも足軽でもみんな国人、ないし土豪だな。
ハイ決まり。当時の日本人は二人に一人は国人でした
305日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:32:04.49
切り取り強盗は武士のならい

西洋にも盗賊騎士ってのがいたな
306日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:46:40.99
>山賊を武士
三河の山賊とはこれのことかい?w

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
307日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:47:40.81
>山賊を武士
三河の山賊とはこれのことかい?w

室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動
308日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:50:03.45
三河と言えば名門武士だろw



空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」


「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
309日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:50:28.95
>>305
西洋の騎士のヒャッハーぶりも相当なもんだが、
鎌倉御家人=地頭も、有名な阿テ河荘民の訴状なんか読む限りでは、
山賊レベルのヒャッハーぶりだよな。実際、あそこ山だし。
310日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:51:39.69
そもそも平地で居住すらできないやつらが山の中にごろごろいて、そいつらが武装して幅聞かせてたから武士扱いで名門なら、もう武士なんて語る必要ない
徳川の祖チカウジ見たいに諸国漫遊しながら裕福な家乗っ取って、山賊手なずけて平地に降りてきて力だけで席巻し、
自称藤原だの自称源氏と称して一代で武力だけで武力のみで制服したものが真の架空源氏という生粋の武士だわな
そんで三河譜代も架空源氏か架空北家か知らないが、首領の傘をきて架空地頭や架空国人を、その山中から大量に排出した真の武士の産地ってか?
そら三河は天下一の武士の産地だわ
311日本@名無史さん:2014/05/18(日) 16:55:30.48
三河キチガイひつけーよ
ただかっぺが将軍になっただけだろ
そもそも徳川譜代と足利一門の何が関係あんだタコ?
312日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:00:06.62
とりあえず、松平氏が伊勢氏の被官で近江での惣村の訴訟問題にも、
幕臣伊勢氏の配下として関与してるのは事実。
313日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:14:28.79
松平益親は裏松家の直属の家臣だっけ


親氏→泰親→益親
親氏→信光
314日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:14:58.85
>>284
三河馬鹿…

>思いっきり血縁関係があるがな

何を酷い勘違いしているんだ?
ここは徳川御三家・御三卿スレだぞ?
>>282は徳川家と足利家に血縁関係はないと言っているんだが?

熱田神宮家が鎌倉幕府と室町幕府を支配し日本を圧巻したというしつこい妄想とコピペ貼るな。
ここは徳川スレだ。
315日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:26:29.65
松平とやらを語るには、当時、三河の親分だった義満の動向も知る必要があるわなw張っておこう

足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
316日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:27:16.40
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
317日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:30:41.53
三河馬鹿に、徳川家御三家/御三卿/御連枝/御家門
に関する知識はないの?

タイトルを読めない・スレチという言葉も知らない
日本史板の基地外代表にふさわしい相当な頭の悪さだけど出て行ってくれる?
318オウム真理教:2014/05/18(日) 17:32:06.74
このコピペキチガイどうにかしてくれ
319日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:38:21.58
でも、伊勢氏も自分のとこの家来だった松平の子孫が将軍になって、
自分の子孫がその家臣(旗本)になるなんて、夢にも思ってなかっただろうなあ。
ましてや松平の子孫の下で、部下の蜷川氏と同列になるなんて。
320日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:39:48.76
>徳川家と足利家に血縁関係はないと言っているんだが?



282 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:40:37.17
三河は鎌倉時代に足利氏の所領があった
だから早期から足利氏直属の部下であった土豪が多く
足利氏が政権を取ると奉公衆に取り立てられたってだけだろ
奉公衆だから由緒正しいとか足利氏と血縁関係にあるとかではないし



どう読んでも、そうとは理解できまへんw
321日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:41:42.56
>>320
それは相当頭が悪いせい

ここが徳川スレだってこと分かってる?
だったら主語が当然徳川だって分かるよね。

分かってない三河馬鹿だから熱田神宮家の専用スレだと勘違いするんだよ
322日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:43:42.39
>蜷川氏
これかい?w


蜷川氏

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する


宮道氏

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の愛知県豊川市)と推定される。


宮道天神社(愛知県豊川市)

源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
323日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:45:58.87
>>320
前スレ読んでる?
松平家が室町幕府の奉公衆だった理由の続きだろ
松平家と足利家の関係を言っているに決まっている

それがなぜ足利家と熱田神宮家の話になるんだ?
このスレでそんな話は一切出てきてない。
お前は「足利」「室町幕府」で引いてすぐに脈絡もスレタイも読まずに
熱田神宮コピペ貼り続けるから基地外なんだよ
324日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:50:45.23
蜷川氏といえば北陸だが

>>262
長氏

長谷部信連

長氏は、能登守護畠山氏の守護代を務め、清和源氏を称している。
つまり、孝頼が大和国にすんで長谷部氏を称し、季頼の曾孫為連が、三河国長馬(現愛知県岡崎市?)に住んで長馬新太夫を称し、為連の子信連が久安3年(1147)遠江国長村に生まれたことから長氏を称するようになったのだという
長谷部(長)氏は、鎌倉初期に能登国大屋荘の地頭として入部した長谷部信連の子孫と言われ、鎌倉後期には能登各地に発展したことが知られている。
長頼連から室町幕府に奉公衆として仕えた



ことごとく三河が絡んでくるなw
325日本@名無史さん:2014/05/18(日) 17:59:39.84
ついに三河厨に見つかったか。
ここが将軍家の話で盛り上がってしまうことになったのも
他の徳川絡みのスレが軒並み爆撃されてまともに書き込みできなくなったからだ。
ここももうおしまいだよ。
326日本@名無史さん:2014/05/18(日) 18:06:24.91
また、スレが腐海に沈んだ。
327日本@名無史さん:2014/05/18(日) 18:14:49.29
282 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:40:37.17
三河は鎌倉時代に足利氏の所領があった
だから早期から足利氏直属の部下であった土豪が多く       ←松平は直属の部下じゃないから松平は関係なし
足利氏が政権を取ると奉公衆に取り立てられたってだけだろ    ←松平が奉公衆だった認識なし(松平が奉公衆だったのは、幕府が滅ぶ前のたった数年のみ)
奉公衆だから由緒正しいとか足利氏と血縁関係にあるとかではないし  



資料上に、わずかな期間ながら松平の記載があったから一覧に載せたが、松平が早い段階から奉公衆だったと勘違いしたか?w
愛知県の資料では信長(笑)も同時期に奉公衆だったんだがw



流石に読み取るには無理があるw
もっと丁寧にレスしろw
328日本@名無史さん:2014/05/18(日) 18:20:37.03
>>327

へえ?
松平はいつから奉公衆になったんだい?

三河馬鹿なら分かるよね〜
329日本@名無史さん:2014/05/18(日) 18:22:24.04
>>327
>奉公衆だから由緒正しいとか足利氏と血縁関係にあるとかではないし

で、松平と足利の血縁関係は見つかった?
なんで熱田神宮家が出てくるの〜  
330日本@名無史さん:2014/05/18(日) 18:24:29.24
>>327
松平と足利って関係ないってことじゃん

お前がここを足利の親玉だとお前が勝手に信じている
熱田神宮スレだと勘違いした理由は?
331日本@名無史さん:2014/05/18(日) 19:05:05.27
松平氏と足利氏の血縁関係って、それなりにありますよ?

・松平信光の室:一色氏(真浄院殿)(松平親忠の母)
・松平信光の娘は、戸田宗光室(宗光は、守護代一色政照の養子。)
(松平長親の娘は、富永忠安室(富永氏は東条吉良氏家老。足利血縁ではない。))
・松平長親の子、松平義春が、東条吉良義藤の後に吉良持清幼少のため、跡目を嗣ぐ?または後見人との説あり。)・松平信忠の娘は、東条吉良持広室
・松平清康の娘は、吉良義安室(西条・東条の双方の吉良家を統一)
・松平広忠の娘市場殿は、荒川義広(東条吉良氏分家)室
・松平広忠の継室:戸田氏(一色氏養子の子孫)
・松平元康の室:関口氏(今川氏分家)
332日本@名無史さん:2014/05/18(日) 19:10:12.94
いつも思うんだが、愛知って武家のメッカだな。
333日本@名無史さん:2014/05/18(日) 19:24:42.33
室町以前は闇の中、マジ
文学作品とかも江戸時代創作がほとんど
室町の門流とかほとんどほろんでますし
334日本@名無史さん:2014/05/18(日) 20:18:38.64
家康以降の分家スレだぞ。
335日本@名無史さん:2014/05/18(日) 20:53:29.85
何が武家のメッカだ妄想ジジイ

関東より武家のメッカだと理論的に述べて見ろよ粕
336日本@名無史さん:2014/05/18(日) 21:00:21.18
広忠以前は、別スレでやってくれ。ここは江戸時代以降の分家スレだ。
337酒井広親:2014/05/18(日) 21:08:36.72
そうだそうだ!
338日本@名無史さん:2014/05/19(月) 01:45:55.25
最初からそういってるだろ馬鹿
339酒井広親:2014/05/19(月) 13:23:01.21
>>338
うるせーハゲ!

雑魚やろーが!
340日本@名無史さん:2014/05/19(月) 17:45:35.83
>関東

■有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所

平安時代〜鎌倉時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い

室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む

戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む


■家康入城前の江戸城主は富永直勝

三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖に源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼



万年パシリのカントン猿w
341日本@名無史さん:2014/05/19(月) 18:23:58.19
>松平長親

母親は鈴木重勝の娘


加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→重員(母親は楠木正成の娘)→重勝



源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子in
342日本@名無史さん:2014/05/19(月) 18:41:22.92
>富永氏

三河伴氏、設楽氏と同族

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html
設楽氏は、設楽助定、設楽助兼がタカちゃんの真後ろを陣取るほどの一族


富永氏には面白い話があって

日本の饅頭の元祖、塩瀬まんじゅう
http://homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/95kai.html


>三河国設楽郡に塩瀬村(現・愛知県南設楽郡鳳来町塩瀬)がある。土豪の居館だった塩瀬城址があり、塩瀬家の末裔が新城市に旧家として続いている。
>京都の一族が応仁の乱で塩瀬村に疎開し、土地の豪族富永氏の息女を娶った
>のち京都へ戻って塩瀬を姓とした。
>長篠の合戦(1575)で家康に陣中見舞いとして饅頭を献上して喜ばれたという。



な、面白いだろw
343日本@名無史さん:2014/05/19(月) 19:05:17.48
おいオッサン、無理矢理こじつけてんなや
お前がいってんのは日本人みな兄弟ってはなしだろ
なめてんか?
344日本@名無史さん:2014/05/19(月) 19:33:49.25
松平のルーツやりたかったら他スレでやってくれ。ここは分家スレだ。
345日本@名無史さん:2014/05/19(月) 19:51:51.59
コピペ厨って本当に空気読めないよな
福徳様レベル
346日本@名無史さん:2014/05/19(月) 20:09:30.85
松平容保と松平定敬は、なんで維新後、保科姓と久松姓に戻さなかったんだろう?
347日本@名無史さん:2014/05/19(月) 20:48:03.01
未練がましいというか、反省と自覚がないよね>容保・定敬
348日本@名無史さん:2014/05/19(月) 20:48:20.68
どっちも隠居の身なんだが
349日本@名無史さん:2014/05/19(月) 21:26:11.99
>>347
意味がわからん
350日本@名無史さん:2014/05/19(月) 21:51:43.22
347
長州野郎どっかいけ糞
351日本@名無史さん:2014/05/20(火) 06:47:47.48
松平容保は新政府に恭順、謹慎する意志があるのなら、
松平姓を捨てて、初代正之の保科姓に復帰するべきだった。
定敬も、同族の松山藩と同じように久松姓に復すべきだった。

こいつら、全然反省しとらん。
352日本@名無史さん:2014/05/20(火) 06:53:06.72
なんの反省?
日本は儒教は儒学としてしか導入してませんが?
353日本@名無史さん:2014/05/20(火) 06:55:11.45
結局、天皇論と儒教が結びついてんだよなこいつら
354日本@名無史さん:2014/05/20(火) 07:05:13.81
保科家は、保科正貞の子孫の飯野藩があるだろう。
あそこが、会津から保科家伝来の宝物などを返してもらっている。
あの時点で実質的には養子縁組解消だろう。
それと、幕末の会津、桑名ともに高須藩出身で血縁上は水戸系だしな。
355日本@名無史さん:2014/05/20(火) 07:49:10.08
>>351
保科や久松ならなぜ新政府に恭順になるのか分からん
どっちも家康と血縁関係にあったり腹心だったりドロドロ関係にあった家じゃん

皇族や新政府要人たちが徳川や松平の娘を好んで娶り婚姻していたし
明治新政府が徳川・松平を冷遇した事実はないよ
356日本@名無史さん:2014/05/20(火) 08:23:36.34
>>351
お前の屁理屈だと、徳川慶喜も松平に戻すべきだったなw
幼稚な発想だな
357日本@名無史さん:2014/05/20(火) 08:23:38.95
冷遇したのは、佐幕藩や倒幕に加わるのが遅かった藩だな
358日本@名無史さん:2014/05/20(火) 16:48:59.10
徳川から松平貰った奴は元に戻せ
元から松平ならばこの限りではない

という法令は出たけど
解釈が個々の自主性に委ねられていたということだろ
元から松平ってのがどの時点を基準にしてるのか明確でないし
会津も桑名も二百年松平だったわけだから元から松平だもんと言えばそれまでかもしれないし
そもそも松平を返上しなかったからといって罰せられたわけでもない

どちらにせよ滝脇とか桜井とかまで松平を捨てたのは気の回しすぎと言っていい
359日本@名無史さん:2014/05/20(火) 19:40:57.33
豊臣政権下ではほとんどの大名が豊臣・羽柴姓
江戸幕府化ではほとんどの大名が徳川・松平姓
だったことについてはこっちに専スレがあるのになんでこっちでやるの?

【羽柴】武家の臣下への賜姓について【松平】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1379740023/
360日本@名無史さん:2014/05/20(火) 19:58:57.26
本来他人だから復姓または改姓は当然→大河内、松井、久松、吉井

同族なのになぜか改姓→大給、滝脇、桜井

系図上は他家を継いでるのに復姓しなかった→会津松平(保科)、越前松平(結城)

系図上は、本来他人の家なのに復姓しなかった→桑名松平(久松)
361日本@名無史さん:2014/05/20(火) 20:06:24.48
>>360
久松なんて江戸幕府創設以前から、ごく初期からの松平だろ

父方では男兄弟が一人もいなかった家康にとって
父親違いの久松3弟はまさに血を分けた片腕で重宝してたし
362日本@名無史さん:2014/05/20(火) 20:34:05.65
だれだって吉井や松井みたいた超平凡な名前より松平のかいいからだろ
363日本@名無史さん:2014/05/20(火) 20:49:17.67
>>362
その吉井や松井は、あっさり松平姓を捨てて、超平凡な名字に変えたんだが。
もっしかも吉井は本当は鷹司だけど、なぜか鷹司に戻さず、超平凡な吉井にしている。
364日本@名無史さん:2014/05/20(火) 20:51:14.37
>>363を訂正
2行目の冒頭の「もっ」を削除

その吉井や松井は、あっさり松平姓を捨てて、超平凡な名字に変えたんだが。
しかも吉井は本当は鷹司だけど、なぜか鷹司に戻さず、超平凡な吉井にしている。
365日本@名無史さん:2014/05/20(火) 21:17:38.16
頭がうじわいてたんじゃね?
すげー分かりやすい例えで言うと、
ベッカムの顔で生まれたのに、わざわざ東洋人顔に整形したってくらい理解できなくね?
366日本@名無史さん:2014/05/21(水) 08:09:23.51
弟筋から将軍になったといえば、
秀忠が将軍となった経緯も検証が必要じゃないのか?
367日本@名無史さん:2014/05/21(水) 09:07:13.10
不要
正室旭姫の猶子になった時点で嫡子格
368日本@名無史さん:2014/05/21(水) 10:15:03.34
>>367
秀忠は朝日姫の猶子じゃない

だいたい朝日姫が家康に嫁ぐ前から家康の跡取りは秀忠じゃん
369日本@名無史さん:2014/05/21(水) 10:22:44.34
信康の廃嫡が信長のせいにされてるのが腑に落ちないよな。
信長からすれば自分の娘婿の信康に
切腹を命じるとか、ありえないだろ。
370日本@名無史さん:2014/05/21(水) 15:11:53.70
>>369
信康は天正3年に大岡弥四郎を代表とする三河の徳川家臣の大反乱を阻止できなかったから
それで家康と信長の怒りを買ってしまったとも
371日本@名無史さん:2014/05/21(水) 15:35:28.33
それ、何かが違う
372日本@名無史さん:2014/05/21(水) 16:18:44.94
>>370
信康は被害者だし、その件で信長が何か言った形跡はない
>>369
大河で明智光秀が織田から離反しそうな荒木村重にお前の息子に嫁いだ俺の娘(実際は養女)を返せと言っているが、
(実際、荒木家に嫁いだ光秀養女は離縁され明智に返されている)
信長が娘婿に不審を抱き信康切腹を命じたならば、まずその前にわが娘・徳姫を織田に返すよう命じるよな。
反発した松平家家臣が徳姫に危害を加えるやもしれん。
しかし、身内に甘い信長が、信康切腹に関しては、信康死後、ようやく後家となった徳姫を兄の信忠に引き取らせている。
信長は信康切腹を後で知らされたとしか思えず、信長の行動が完全に後手に回っている。
373日本@名無史さん:2014/05/21(水) 16:25:04.84
>>372
松平家忠が天正7年8月4日の日記(信康の岡崎追放の項)で信康を信長と書き間違えていることから、
当時、切腹命令ではなくとも信長からの圧力があった可能性があるという話がある(『家忠日記の原本に付いて』)
374日本@名無史さん:2014/05/21(水) 16:33:42.05
>>373
信康殺害は信長の命というのは同時代史料になく
家忠日記にそういう記述もない
家康死後の江戸幕府の見解を肯定するために「可能性」を指摘しても仕方がない
375日本@名無史さん:2014/05/21(水) 16:42:35.08
>>374
でもプロの学者が言ってる話だからなー
376日本@名無史さん:2014/05/21(水) 16:44:35.68
>>375
そういうことを言ってる人もいるってだけで
一般論じゃない
377日本@名無史さん:2014/05/21(水) 16:49:38.49
>>376
だから「可能性がある」って表現をした
いちいち自分の主張と相いれない話を否定するのは止めておいた方がいいと思うぜ
378日本@名無史さん:2014/05/21(水) 17:55:17.27
信康は徳川姓でも松平姓でもなく、岡崎姓だったの?
379日本@名無史さん:2014/05/21(水) 18:17:32.39
>>378
>>121
あと、岡崎はあくまで通称の一部。岐阜中将信忠や江戸中納言秀忠みたいなもん
380日本@名無史さん:2014/05/21(水) 19:27:13.02
切腹を言い渡す前日に家康と岡林信康の間に口論があったと記録にあり、これを見ても信康処分は信長の指図によるのではなく、
家康の意思に基づき安土の承諾を貰ったとみるべきである。
織田の勢力拡大に伴い、家康は、今川の血を引くこの母子をいずれは始末しなくてはならないと考えたのである
後年、幸若舞を見た家康が、酒井忠次や大久保忠世にあれを見よあれを見よと言ったとか、
酒井にお前にも子の可愛さが分かるかと言ったとか、そういうエピソードも作られたものに過ぎないことが明らかになった
381日本@名無史さん:2014/05/21(水) 19:32:16.75
>>377
お前も「プロの学者が言ってる」と学者が全員お前の説に賛同するような嘘を書くのは止めろ
「中にはそう言っているプロの学者もいる(少数意見)」と書け。
いちいち自分の主張と相いれない話を否定するのは止めておいた方がいいと思うぜ
382377:2014/05/21(水) 19:46:42.69
(俺、誰かの意見を否定したっけ)
383日本@名無史さん:2014/05/21(水) 20:29:44.50
つ岡林信康
384日本@名無史さん:2014/05/21(水) 23:05:39.94
信康の甥
松平忠明が書いたとされる「当代記」にも家康と信康の不仲説が載ってるそうで

この記述から親子の争いだったのでは?説は聞いたことある。
385日本@名無史さん:2014/05/21(水) 23:09:29.29
♪もやし〜続けて〜
386日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:09:05.26
>>384
そんな徳川サイドの史料が当てになるのだろうか?
神格化された家康のとった処置こそ是とする幕府にあって、いくら信康同腹の亀姫の息子と雖も、家康の養子で、大政参与という幕府要職に就くような人物が、会ったこともない信康を肯定するような記述を残すことはないだろう
387日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:11:22.66
親子不仲=信康が家康に反抗
信康が武田に内応=家康の統治能力に疑問
388日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:29:08.37
>>367
秀康と秀忠、秀吉によって徳川を分断させ、後の禍根となるように仕組まれた

秀吉は有力大名の嫡子以外の子弟や庶子家有力家臣に指定して所領を分配させている
389日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:29:54.66
>>386
神君家康が全て正しい
390日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:51:24.19
信康を処分した家康を非情とみる向きもあるようだが
下手したら、家康が武田信虎のように追放されていた可能性だってある。
逆説的な言い方だが、それだけ信康には器量があったということ。

だから平凡地味な秀忠でよかったのよ。
むしろ家康、やはり読む目があったとみるべき。
391日本@名無史さん:2014/05/22(木) 01:04:50.51
>>390
新行、平野、本多辺りは「信康に器がないから切腹させられた」って主張をしてるけどな
392日本@名無史さん:2014/05/22(木) 05:36:24.48
信長(笑)はスレ違いじゃないのか?w
スレが汚れるだろうがw
393日本@名無史さん:2014/05/22(木) 08:10:36.46
信康もスレ違いだろ
394日本@名無史さん:2014/05/22(木) 09:13:04.23
秀忠の話もスレチ
徳川宗家以外の分家スレだろ
395影の軍団:2014/05/22(木) 09:13:49.13
器がなければわざわざ命を奪うまでもないとも思いますがね
396日本@名無史さん:2014/05/22(木) 09:24:27.08
猿の話?
397日本@名無史さん:2014/05/22(木) 09:30:39.51
東日本が猿で九州が犬?
じゃあ近畿は?
398日本@名無史さん:2014/05/22(木) 12:05:45.61
>>386
母の同母兄の事なんで、ある程度信憑性あると思ったんだがな。

亀姫が事件の真相書き残してくれてたら。
家康の亀姫、その息子に対する寵遇からして
なんらかの後ろめたさはあったと妄想してる。
399日本@名無史さん:2014/05/22(木) 12:34:08.99
>>398
>>398
松平忠明なんて当時生まれてさえいなかった奴の話されても
信康切腹は亀姫自身他家へ嫁いだ後なので真相を知っていたとも思えない

家康は亀姫の子に対して女系孫でありながら松平を名乗らせたのは
秀忠元服前のことで松平の血を絶やさないためだろ
徳川名乗らせて御三家に加わらせたとかじゃないし
400日本@名無史さん:2014/05/22(木) 18:19:53.48
>>399
>女系孫でありながら松平を名乗らせたのは
>秀忠元服前のことで松平の血を絶やさないためだろ

言ってる意味がよくわからんのだが・・・
要するに、松平宗家が徳川家になって、宗家での松平の家名が途絶えたから、
外孫の忠明を養子にして松平宗家の名跡を相続させたってことか?
401日本@名無史さん:2014/05/22(木) 19:05:32.49
>>400
少なくともあの時点(家康が亀姫が産んだ外孫3人を養子として松平を名乗らせた時点)
では徳川を名乗ってるのは単独家康一人だけだろ
そもそも徳川「家」というものが存在していなかった
402日本@名無史さん:2014/05/22(木) 19:49:34.64
松平の一族中、家康ただ一人が
「徳川」という苗字を称していましたが。
それがなにか?
403日本@名無史さん:2014/05/22(木) 19:52:23.59
信康は廃嫡されたので、分家扱いで十分。
404日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:12:31.11
>>402
だから、亀姫の子3人は秀忠夭折の場合のスペアだろ
秀康と秀忠の弟たちはどっかの養子に出してたし
405日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:34:26.82
譜代筆頭の奥平藩に伝わるという点を重く見るべきである。
406日本@名無史さん:2014/05/22(木) 21:16:16.15
>>405
えっ?
407日本@名無史さん:2014/05/22(木) 21:47:52.76
>>406
えっ?
408日本@名無史さん:2014/05/23(金) 06:25:39.61
秀忠って、どの時点で徳川姓を称したんだろうか?
「徳川家康」というのは「岡崎信康」というのと同じような本人だけの呼び名なら、
下手したら松平宗家はずっと松平姓のままだったかもしれないな。
409日本@名無史さん:2014/05/23(金) 07:21:59.04
さすがに、そこまであやふやではないと思う。

家康の場合、信康の「岡崎殿」に相当するのは
「三河殿」とか、そのへんじゃないの?

徳川の苗字が揺らぐと、松平のそれまで揺らいでしまうと思うが。
410日本@名無史さん:2014/05/23(金) 07:50:09.39
>>408
秀康は1584年に秀吉の養子に出されて羽柴秀康として元服
1588年 豊臣姓下賜
1589年 結城晴朝の養子となり結城氏家督を相続して結城秀朝と名乗る

秀忠は養子にやられずに元服しているから徳川姓のまま、
1587年 豊臣秀忠として従五位下侍従蔵人頭に任官

忠吉は1581年に東條松平家忠の跡式を相続して松平忠康と名乗る

信吉は1587年に没した武田信治(穴山勝千代)の名跡を相続して松平信義を名乗る
411日本@名無史さん:2014/05/23(金) 07:59:12.90
徳川氏って三河守を名乗るときに藤原氏の名跡を買ったのが始まりじゃないのかい?
412日本@名無史さん:2014/05/23(金) 08:10:36.13
国司職名乗るためにゃ従5位下以上が必要だからね
地方豪族で系図もなけりゃ位階が手にはいらねえだろ
413日本@名無史さん:2014/05/23(金) 09:54:03.51
松平和泉守信光
414日本@名無史さん:2014/05/23(金) 10:05:28.57
従五位下

正一位上〜従五位下

朝廷での立ち位置を指す
415日本@名無史さん:2014/05/23(金) 10:11:12.33
例えば名乗るだけだったらいくらでもいるわな〜
隣のやつも隣のやつも〜ってなったとき俺が正当
だ〜って主張できねえじゃん
416日本@名無史さん:2014/05/23(金) 13:18:06.37
戦国時代に流行った僭称は、上総介とか美濃守はあったが、しかし太政大臣や中納言の僭称はなぜか流行らなかった
417日本@名無史さん:2014/05/23(金) 13:41:33.41
美濃は摂津源氏の後裔、土岐氏の本拠地やね
鎌倉幕府系の八幡神とは違う多田明神の威光か?
418日本@名無史さん:2014/05/23(金) 13:44:28.53
これも使える手やね
419日本@名無史さん:2014/05/23(金) 15:03:31.19
>>太政大臣や中納言の僭称はなぜか流行らなかった

名乗ったら逆に笑いを取れたと思う。
420日本@名無史さん:2014/05/23(金) 15:21:04.30
松平信光  従五位下、和泉守
松平親忠  従五位下、左京亮
松平長親  従五位下、蔵人丞、出雲守
松平信忠  従五位下、越前守、左近蔵人佐
松平清康
松平広忠
421日本@名無史さん:2014/05/23(金) 17:25:22.21
僭称するのは受領名や弾正衛門あたりの4-5位の官職ばかりだよね
やはり武家はその程度っていう自制心があったんだと思う。
422日本@名無史さん:2014/05/23(金) 18:08:59.75
そもそも「岡崎信康」は明治、下手したら戦後にしか使われていない名前なわけだが
423日本@名無史さん:2014/05/23(金) 19:54:16.08
「岡崎信康」って、「水戸光圀」とか「田安宗武」とか「一橋慶喜」とかいうようなものか。
424日本@名無史さん:2014/05/23(金) 20:12:22.24
でも安土信長とか姫路藤吉郎とか浜松家康とかいう呼び方はついぞ聞いたことがありませんよね
425日本@名無史さん:2014/05/23(金) 20:15:52.99
>>424
何が言いたいのかわからん
426日本@名無史さん:2014/05/23(金) 20:17:57.26
岡崎信康があるなら、たとえば、福井秀康とか清須忠吉とか高田忠輝もあり得る
427日本@名無史さん:2014/05/23(金) 20:48:32.04
駿河忠長とか館林綱吉とか甲府綱豊みたいな言い方はあるな。
428日本@名無史さん:2014/05/23(金) 21:02:42.81
>>424
浜松殿はあったんじゃないか。
429日本@名無史さん:2014/05/23(金) 21:07:00.92
>>427
聞いたことないんだが、なんかの本に載ってるの?
430日本@名無史さん:2014/05/23(金) 21:07:34.52
>>427
駿河大納言忠長とか甲府宰相綱豊とか、
官職名が付くんじゃないか?
431日本@名無史さん:2014/05/23(金) 22:03:19.86
たとえば「将軍の座」に「甲府綱重卿の御子綱豊卿や三家の方々も陪席された」と
いうような表現があるね。出典は桃源遺事ということだけれども、書物の性質上
表現は現代語に改められている箇所が多いんで、あくまでも現代の言い方の例
だが。
432日本@名無史さん:2014/05/23(金) 22:17:06.41
秀忠が継いだ最もらしい理由が必要だった
433日本@名無史さん:2014/05/23(金) 22:23:59.15
幕府が信康を分家扱いしたことはないからそれはないかと
434日本@名無史さん:2014/05/24(土) 01:01:03.81
松平郷450石の交代寄合岩松あげ
435日本@名無史さん:2014/05/24(土) 05:18:40.95
>>432
生母の家格で一発だろ。んなもん。
名もない家出身の侍女と守護代もつとめた家系の国人の娘とじゃ差がありすぎて勝負になるかよ。
436日本@名無史さん:2014/05/24(土) 10:20:28.67
と、お前ごときがいうなよ揚げ
437日本@名無史さん:2014/05/24(土) 20:51:52.05
>>守護代もつとめた家系の国人の娘

微妙だよなw
結局、国人レヴェルだろw
438日本@名無史さん:2014/05/24(土) 21:13:58.76
忠吉という同母弟がいたこともひとつの要因らしい。
頼宣も頼房という同母弟がいたから、義直と同時に元服したり、任官したりできた。
439日本@名無史さん:2014/05/24(土) 22:03:43.27
水戸家は将軍家の分家という前にまず
紀州家の分家である。

御三家への昇進は
初代頼房の家光に対するコネである。
440日本@名無史さん:2014/05/24(土) 22:18:38.48
義直、頼宣は家光にとって目の上のタンコブだったが、頼房は家光と1歳違いで仲が良かったらしいな。
441日本@名無史さん:2014/05/24(土) 22:50:55.29
義直に将軍をやらせてやりたかった、と思うのは俺だけか?
442日本@名無史さん:2014/05/25(日) 09:36:52.80
秀忠・江夫婦はなかなか男子ができなかったから
女子ばかりで打ち止めならそうなってただろ
443日本@名無史さん:2014/05/25(日) 10:14:32.51
築山殿(瀬名)→信康、亀姫    両名とも駿府生まれ
西郷局(お愛)→秀忠、忠吉    両名とも浜松生まれ
茶阿局(お茶)→忠輝、松千代   両名とも江戸生まれ
相応院(お亀)→仙千代、義直   両名とも大坂生まれ
養珠院(お万)→頼宣、頼房    両名とも伏見生まれ
444日本@名無史さん:2014/05/25(日) 10:36:32.04
築山殿の名前っていつの間にか瀬名が定着してるけど、これって確か山岡荘八の創作だよね?
瀬名に住んでたから瀬名御前と呼ばれたって記述もどこかの人物事典にあったような気がするけど
445日本@名無史さん:2014/05/25(日) 11:21:50.10
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1393514224/8
   ↑  ↑  ↑  ↑  ↑ 
446日本@名無史さん:2014/05/25(日) 14:14:55.12
完全に
「思いついたことを書き散らすスレ」になったなw
447日本@名無史さん:2014/05/25(日) 18:10:47.05
>>444
瀬名は地名
今川一門の傍系がこの地に住みつき瀬名氏を名乗った
築山殿の父親は瀬名家に生まれたが次男であるため
一族の関口氏に養子入りして関口氏を名乗った
そのため築山殿の父親の生家の氏が瀬名氏ということになる
448日本@名無史さん:2014/05/25(日) 18:27:19.94
449日本@名無史さん:2014/05/25(日) 21:41:06.06
四代将軍家綱の治世、将軍の従兄弟に当たる男が将軍の意向に逆らって野に下り自由闊達に
生きていた。
450日本@名無史さん:2014/05/25(日) 21:57:03.61
それ架空の人物だから
451日本@名無史さん:2014/05/25(日) 22:00:46.63
名古屋猿は出入り禁止な、尾張土着が徳川家を語る資格はない
所詮は被支配層の土人だろうが

何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
452日本@名無史さん:2014/05/25(日) 22:39:09.88
脈絡も考えず誰も読まない熱田コピペをエラーが出るまで貼り続ける
2ちゃんねるの基地外
三河馬鹿は出入り禁止
453日本@名無史さん:2014/05/25(日) 22:52:28.35
どうして松戸徳川家を無視するの?
おまえらのそういうところが浅いの。
454日本@名無史さん:2014/05/25(日) 23:51:23.09
455日本@名無史さん:2014/05/26(月) 01:50:33.38
松戸徳川家?
徳川武定(水戸家分家・子爵)
とか明治以降でいくなら、
徳川厚(将軍家分家・男爵)
徳川慶喜(将軍家別家・公爵)
徳川誠(将軍家別家分家・男爵)
徳川義恕(尾張家分家・男爵)
とかも入るだろう。
ただ、「歴史」的な話題としては、貴族院議員に誰がなってどんな立場
になったとか、限定的な話題しかないだろうな。

松戸関係の話題なら、戸定邸と写真が結構残ってるとかかな。
昭武の使節団の頃の話は、清水徳川家の話題だろ?
456日本@名無史さん:2014/05/27(火) 02:21:21.77
松戸は初代に一人娘しかいないのがあかん
457日本@名無史さん:2014/05/27(火) 08:46:44.91
昭武は水戸家の隠居だった
けっこうな年齢になってから別家しただけ
458日本@名無史さん:2014/05/27(火) 20:30:45.35
松戸駅に行くと、一時、戸定邸の「松戸徳川家」という
宣伝が大々的になされていたが、最近は消えたな…。
459日本@名無史さん:2014/05/27(火) 20:54:13.81
極位極官に到達した年齢(死後追贈は除く、カッコ内は将軍または藩主就任時年齢)

将軍家:家康75歳(62)→秀忠48歳(27)→家光23歳(20)→家綱13歳(11)→綱吉60歳(35)→家宣48歳(48)→家継*4歳(*4)→吉宗59歳(33)→
     家重50歳(35)→家治44歳(24)→家斉55歳(15)→家慶45歳(45)→家定30歳(30)→家茂19歳(13)→慶喜52歳(30)
尾張家:義直27歳(*4)→光友66歳(26)→綱誠42歳(42)→吉通16歳(11)→五郎太×(*3)→継友24歳(22)→宗春38歳(36)→宗勝36歳(35)→
     宗睦49歳(29)→斉朝43歳(*7)→斉温19歳(*9)→斉荘30歳(30)→慶臧13歳(10)→慶勝45歳(26)→茂徳28歳(28)→義宜*7歳(*7)
紀州家:頼宣25歳(*2)→光貞65歳(42)→綱教34歳(34)→頼職17歳(26)→吉宗59歳(33)→宗直60歳(30)→宗将38歳(38)→重倫22歳(22)→
     治貞49歳(48)→治宝67歳(19)→斉順37歳(24)→斉彊27歳(27)→家茂19歳(13)→茂承34歳(15)
水戸家:頼房25歳(*4)→光圀63歳(34)→綱條50歳(35)→宗堯16歳(14)→宗翰13歳(*3)→治保45歳(16)→治紀33歳(33)→斉脩29歳(20)→
     斉昭38歳(30)→慶篤35歳(13)→昭武50歳(16)
460バカは氏んでも名乗らない:2014/05/27(火) 20:55:58.39
そんな見づらいコピペに用ないから
461日本@名無史さん:2014/05/28(水) 02:57:10.59
>>458
大河の篤姫のときな、それに乗っかって
はじめて松戸徳川家という名称を見たとき
町興しのために適当な名前つけたな、と思って
ものすごく嫌悪感を感じたのを覚えている
462日本@名無史さん:2014/05/28(水) 13:54:30.66
>>459
こんなもん早死して極官に上がってない将軍とかの死亡時官位の羅列にすぎないだろ
463日本@名無史さん:2014/05/28(水) 16:50:42.91
極位極官て正一位の事?
464日本@名無史さん:2014/05/28(水) 17:02:51.03
従一位太政大臣だろう。
465日本@名無史さん:2014/05/28(水) 19:05:47.62
家による
将軍家と水戸家では雲泥の差
466日本@名無史さん:2014/05/28(水) 20:25:44.50
なぜ将軍最近親の徳川重好は将軍を継げなかったか?
467日本@名無史さん:2014/05/28(水) 20:35:08.29
>>466
小梨だからだろうね。
468日本@名無史さん:2014/05/28(水) 20:37:59.22
>>464
普通将軍は死後に追贈という形で太政大臣になる。

>>465
尾張と紀州は従二位権大納言、水戸は従三位権中納言。
御三卿は領地はほとんどないけど官位だけは高い。
吉良上野介のような高家に似てる。
469日本@名無史さん:2014/05/28(水) 21:03:52.46
宮内卿重好は自己の意思を持たず、毒にも薬にもならぬ男で、将軍職やる気もなかった
470日本@名無史さん:2014/05/29(木) 02:27:31.57
将軍家以外で、生前に従一位になった紀伊治宝が最強ということか
471日本@名無史さん:2014/05/29(木) 07:48:03.95
>>470
不業績で若隠居させられたけど、押付養子を飲ませるための叙位だったような。
472日本@名無史さん:2014/05/29(木) 09:19:19.09
徳川美術館の宗春展行ったひと、感想聞かせて
473日本@名無史さん:2014/05/30(金) 13:32:54.22
初代御三家は20代で極官に到達したのに後期の当主は家督30年とか経ないと大納言になれなかったよね。
それでも初期は中納言とかに任官できていた越前や外様大藩当主の4位中将少将とか極官そのものを大幅に下げられた家よりはかなりマシだが。
474日本@名無史さん:2014/05/30(金) 19:58:38.32
吉宗が首ーっ!わが君宗春公に捧げるのじゃーっ
475日本@名無史さん:2014/05/30(金) 20:57:05.44
御三家は将軍家と比べて比較的暗君は少ないけど、
代わりに名君扱いされる人とバカ殿扱いされる人の差は大きいと思う。
例えば紀州家。
8代目重倫と10代目治宝は80歳以上生きたものの早くに隠居させられている一方、
その間の9代目治貞は麒麟公と呼ばれる当代きっての名君。

水戸家も家臣事情が事情だったとはいえ、9代斉昭と10代慶篤は後世の評判が大違い。
476日本@名無史さん:2014/05/30(金) 21:08:55.40
9代目は、絶倫で家斉並だったな。
477日本@名無史さん:2014/05/30(金) 21:17:29.92
斉昭は30才くらいで家督を継ぎ、正室を迎えてから本格化するから、
期間を区切れば家斉以上だな。
五郎麿慶徳と七郎麿慶喜は2カ月しか離れてない。
あいだに1人生まれている(早世)
478日本@名無史さん:2014/05/30(金) 22:17:42.09
>>475
早くにというけど、相続後10年で30歳の時に隠居させられた重倫と、30年以上
当主の座にいて50歳過ぎで隠居した治宝は同列に扱えないと思うね。
後継を見ても、重倫の場合は叔父が西條から中継ぎで入ったのに対し、治宝
は養子に入った家斉の子。
治宝隠居の数年後には尾張斉朝も同じく家斉の子に跡を譲って若隠居して
いることからしても、将軍家の押し付け養子がらみでの隠居じゃないかな。
479日本@名無史さん:2014/05/30(金) 22:23:54.60
水戸家は初代からして子沢山、精力旺盛な家柄。
だから今もなお藩祖の血筋は絶えていない。
初代も五代も六代も九代も多くの子が生まれ、他家に行ったり分家したりした。
烈公の息子慶喜もまた子沢山だったし、同じく水戸家の血をひく松平容保も子沢山。

紀州家は江戸後期になると分家も含めて成人男子が乏しくなり、
尾張家に至っては明治以降も養子続きで黒田家や蜂須賀家のようになってしまった。
もっとも徳川一門の中では一番財宝を持っているので、それだけは大いに自慢できる。
480日本@名無史さん:2014/05/30(金) 22:32:55.85
といっても元をたどればどの家も子沢山の家康に行きつくがな
481日本@名無史さん:2014/05/30(金) 23:19:14.75
倉橋とかいう、手を付けてはならない女にまで手を付けたんでしょ水戸裂肛は
482日本@名無史さん:2014/05/31(土) 07:48:37.05
>>480
家康は子沢山って感じもしないがな。
あの当時の大名なら標準的だろ。
秀忠が女ばかり命中させたのと、側室持たなかったのが後々の宗家断絶につながっとる。
483日本@名無史さん:2014/05/31(土) 08:35:58.35
>>480
家康は、中年で作った子が死んでしまったんで、年寄りになってから頑張って御三家の祖を儲けた。
医学書を自分で読んで、オットセイペニス入りの精力剤処方して頑張った。
秀吉の晩年を見て、もうひと頑張りしないとまずいと思ったんだろう。
484日本@名無史さん:2014/05/31(土) 11:11:22.89
交代寄合の松平郷松平氏って、やっぱり徳川松平一門の本宗家になるの?
485日本@名無史さん:2014/05/31(土) 12:07:46.12
分かれた当時はともかく安祥家が大きくなった後は庶宗家だろ。
486日本@名無史さん:2014/05/31(土) 12:24:55.07
庶宗家なんていう言葉はいつからあるのだろうか?
487日本@名無史さん:2014/05/31(土) 12:54:15.22
松平信広は親氏の跡を継いで松平郷に居住したとあるから宗家で間違いないだろうな
488日本@名無史さん:2014/05/31(土) 13:28:30.04
>>482
子供の数は分かっているだけでも16人。これは当時でも十分多い数でしょ。
もっとも、あまり知られていないが織田信長はそれ以上に多い。

>>483
水戸家5代宗翰は39歳で死んだが9男5女を遺した。
尾張家3代綱誠は48年の生涯で22男18女をもうけた。
短い人生の中では一生懸命だっただろう。
489日本@名無史さん:2014/05/31(土) 14:21:57.92
家光がホモでなかなか子供をつくらなかったのが、一番痛いんだよ
次がガキ将軍になってしまったのも痛いな
490日本@名無史さん:2014/05/31(土) 14:42:27.61
水戸家だけが定府となった明確な理由や法令の類はあるのですか?
491日本@名無史さん:2014/05/31(土) 15:25:22.01
秀康のところは、孫が多いイメージだったけど、それぞれの子がそこそこ頑張ったってパターンなんだな。
思ったほど子沢山なわけじゃないのか。
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/hideyasu-keizu.html
492日本@名無史さん:2014/05/31(土) 15:49:34.00
>>489
ガチホモ時代の家光を廃位して、御三家の誰かが将軍位につけばよかったのに。
493日本@名無史さん:2014/05/31(土) 16:43:05.97
>>489
家光は1640年以降、4代家綱、甲府宰相綱重、5代綱吉などいろいろ子供を産ませたが、
やはり早くに亡くなったのは無念だったろう。

家光が亡くなった時、
将軍家家光の子・家綱11歳、綱重8歳、綱吉6歳
尾張家義直の子・光友27歳
紀州家頼宣の子・光貞26歳
水戸家頼房の子・光圀24歳、頼重30歳

もし家光の子3人が成人せずに亡くなっていたら、また時代は変わっていただろう。
494日本@名無史さん:2014/05/31(土) 17:08:07.57
将軍家と尾張家は18世紀に入ると、子無しや早世した子女が多くなる。
将軍家の場合、17世紀中でも家綱・綱重・綱吉は成人男子に恵まれず、
1716年に家宣の子家継がたった8歳で死んでしまい、ここに秀忠血統断絶。

ってか、そう考えると将軍家もさることながら紀州家の幕末・明治以降の家運衰退は哀れなほどだな。
吉宗以降、あれだけの勢力と御三卿をはじめとする血脈拡大を誇りながら、
早くも幕末には跡継ぎに恵まれず、その後は歴代当主の浪費続きで破綻。
495日本@名無史さん:2014/05/31(土) 17:42:19.16
正之の系統が養子無しに続いている頃だったら、実子系を重んじて秀忠子孫の会津家って話もゼロではないかもな。
色んな伝統ができる前ならば。
496日本@名無史さん:2014/05/31(土) 17:49:21.85
保科に養子に入った血統が本家を継げるのなら
それより前に結城に養子に入った秀康が家康の後継ぎになれてるわ
リアル馬鹿なのか?
497日本@名無史さん:2014/05/31(土) 18:05:47.31
秀康も候補にされてるだろ?東条松平の養子の忠吉だって同様に候補。
「政宗が婿の忠輝を担ぎ出して」という謀反の噂も候補にできる存在だからこそ現実味が感じられた。
彼らは権現のチョイスで選ばれなかっただけ。
伝統ができてない流動的な時代は何があっても不思議ない。
498日本@名無史さん:2014/05/31(土) 18:19:17.35
1559年生まれの信康から1603年生まれの頼房まで、
全て家康の息子というメガネ『だけ』で見るべきじゃないのかもね。
社会情勢だってこの時期はどんどん大きく変わっていく頃だし、
ある意味遅くに生まれた子供は得してるといえば得をしてる。
他家に養子にも出されず、早くに所領を与えられ、一方で父親の手元で仲良く大切に育てられた。
ある意味、息子扱いというより孫扱いに近い。


信康→15歳差→秀康→5歳差→秀忠→1歳差→忠吉→3歳差→信吉→9歳差→
忠輝→2歳差→松千代→1歳差→仙千代→5歳差→義直→2歳差→頼宣→1歳差→頼房
499日本@名無史さん:2014/05/31(土) 18:26:26.67
なんの話してんだこいつら
お前たちのやってんの歴史人物の評価って感じだが?
こうやって捏造って作られていくんだろうな
自分らでなにやってんのか晒してんじゃん
500日本@名無史さん:2014/06/01(日) 00:23:55.38
>>332 
名古屋はどん百姓だろw

何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
501日本@名無史さん:2014/06/01(日) 07:03:55.56
>>488
特に多くはないよ。
当時は大名クラスでも戦死が多いことも込みでそのくらいは子づくりする。
そしてほんとにたくさん戦死してんだよね。
502日本@名無史さん:2014/06/01(日) 08:31:29.15
いま思うと、関ヶ原の戦いの直後くらいに、家康が大坂城で秀頼にむかって、
「今日から俺が主君、オマエは臣下ね」とか宣言すればよかったのに。

「秀頼、ひざまづけ。ワシが主君じゃ!!」って感じで、
徳川四天王のような荒武者に荒々しく腕をひっつかまれて、下座に引きずり降ろされて、
内府さまに無理やり平伏させられる秀頼。
想像するだけで胸熱だな。

まあ、同じことを既に秀吉が三法師(秀信)にやってたわけだが。
503日本@名無史さん:2014/06/01(日) 11:04:55.90
秀吉は明の皇帝の臣下って自覚はあったけどね。
504日本@名無史さん:2014/06/01(日) 14:16:34.62
>>502

うむ。その時の光景が目に浮かぶわ
茶々「徳川殿、そなた秀頼様になんという無礼な物言いを…」
家康「茶々女、控えよ!そちは秀頼どのの生母にすぎず、なんら官爵も持たぬ。御所でいえば雑仕女以下じゃ!
かしこくも帝より正二位内丞相を戴く余に対し、無官のそちの物言いこそ無礼であろう!下に居ませい!」
「……」
「これ中務!式部!」
家康は顎をしゃくると、
「はっ」
忠勝と康政は口々に言い、茶々を両脇から抱えて、そのまま廊下へ引きずっていき、庭に突き落とした。
「これ陪臣ども!わらわに何ということを…」
すると今度は、庭を警備していた責任者の成瀬正成と平岩親吉が口々に
「女狐!そろそろ鳴りやめ!」
「雑仕女!控えよ!」
と悪罵を投げつける。
「おのれ…口惜しや……」
とまあ、家康のホンネではこんな展開にしたかったんだろうが、その時点では加藤や福島ら豊臣恩顧大名のチカラも無視しがたく、できなかったと
505日本@名無史さん:2014/06/01(日) 14:26:37.42
豊臣系は関ヶ原の功績で大大名になっちまったし、
東には上杉、西には毛利、島津が健在。
とてもそんな事はできなかったわな。
徳川が真に巨大になったのは家康の大御所時代だからね。
506日本@名無史さん:2014/06/01(日) 16:08:46.92
スレ違いだよ、しつこい低能
歴史難民板へでも逝け
507日本@名無史さん:2014/06/03(火) 19:33:26.37
まあ、家康自身、末っ子の頼宣、頼房に秀頼の偏諱をもらってるくらいだからな。
508日本@名無史さん:2014/06/03(火) 20:01:38.97
頼朝の頼だがな
509日本@名無史さん:2014/06/03(火) 20:45:00.17
豪気にして英邁な南海の龍・紀伊頼宣は、牢人救済問題が遅々として進まぬことに業を煮やし、将軍、幕閣に直言したが、それでも容れられず
「分かり申した。拙者は此れにて退出致す。されど、一言だけ申し上げる。今後如何なることが起きようとも、
その責は上様並びにそれに居並ぶ諸侯にあると知られい!」
こう言い放ち、決然と席を蹴ったのである。
510日本@名無史さん:2014/06/03(火) 20:56:55.55
尾張光友、紀伊頼宣、水戸光圀
が御三家で並んでる様って、なんかすごそう。
光貞はもんもんとしてそう。
511水口鬼三太:2014/06/03(火) 21:10:50.75
影の軍団第一話
512日本@名無史さん:2014/06/03(火) 21:47:55.75
紀州水卜の「頼」て二人の外祖父
正木頼忠からだと思ってた
513日本@名無史さん:2014/06/04(水) 13:03:54.52
外祖父からの命名なんて前例あんの?
まぁ時期的にみて秀頼の諱というのもないだろうが
514日本@名無史さん:2014/06/04(水) 20:38:40.35
2スレ目になって、
急激にレベルが落ちたな
515日本@名無史さん:2014/06/04(水) 21:33:25.11
家康は天下とって清和源氏の子孫と大々的に押し出したわけだろ。
清和源氏の通字は「頼」と「義」だから、
義知(→義利、義俊、義直)、頼将(→頼信、頼宣)、頼房としたんだよ。
516日本@名無史さん:2014/06/05(木) 01:17:01.99
近衛泰子

徳川良子
徳川久子
松平總子

徳川鏡子
徳川鉄子
小笠原登代子

島津正子

徳川米子
島津為子
徳川英子

島津知子
池田幹子
松平千枝子
517日本@名無史さん:2014/06/05(木) 03:50:58.91
明治以降の宗家、御三家、御三卿の夫人か。
慶喜の娘が3人もいるのが目立つな。
518日本@名無史さん:2014/06/05(木) 06:55:03.52
公爵の力は絶大だな
519日本@名無史さん:2014/06/05(木) 19:32:48.08
>>516
こんなオバサンたち、歴史上、何の業績も功績も残してない、ただのオバサンだろ。
ただ○爵夫人だってだけの存在。
江戸時代の姫連中と比べても、語る価値がない。
520日本@名無史さん:2014/06/06(金) 10:09:30.34
>>515
松平氏の通字はもともと『忠』や『親』だったが、徳川氏は『家』『義』『頼』になった。

徳川家・松平家って他家と比べてあまり難しい読み方・希少漢字の諱が多くないと思う。
外様の小大名とか譜代の幕府要職歴任大名家とかは、読み方が難しい人が多い。
521日本@名無史さん:2014/06/06(金) 10:19:12.33
時代による
歴代の上様やその時の将軍や将軍家世嗣の子女、御三家当主、大老・老中と字が被らないようにしないとならなかったのと
時代が下って文化が発達して古典籍から難しい字が引用されやすくなったことにも関係してくる

それが下々になってくるとより面倒なことになってくる

http://kaken.nii.ac.jp/d/p/02J10447
522日本@名無史さん:2014/06/06(金) 16:11:11.73
>>520
近年だと「親」は通字じゃなくて伊勢貞親の偏諱だと説が
523日本@名無史さん:2014/06/06(金) 18:28:11.21
譜代大名の中には康(松井松平、本多)、忠(松平諸家、小笠原、酒井、本多、戸田、牧野など多数)、
光(戸田)の字を通字にしている家があるが、これは家康、秀忠、家光の偏諱を通字にしたのか?
524日本@名無史さん:2014/06/06(金) 19:41:40.01
戸田松平の光は戸田家自体の通字
康・忠を通字としている家は家康以前からその字を使用している
525日本@名無史さん:2014/06/06(金) 22:31:43.20
松平家の中でも大給松平家は「乗」の字を良く使う。
八代将軍吉宗で阿部寛が演じた松平乗邑もその一例。
松平忠輝の養子先・長沢松平家は「親」「正」が通字。
竹谷松平家は通字が一定しない。能見松平家は「重」の字を良く用いる。
526日本@名無史さん:2014/06/06(金) 22:37:25.72
東映系の演出家に松平乗道って人がいるよね。
よく時代劇の演出陣に名前出てた。
大給家の出身なんだろうな。
527日本@名無史さん:2014/06/06(金) 23:42:14.93
松平郷 信
竹谷 守・清
形原 信
福釜 親
桜井 定・忠
青野(東条) 忠
藤井 信
滝脇 乗・正・信
大草 昌・正
五井 忠・伊
深溝 忠
長澤 親・直・忠

津山 長
福井 昌
松江 (直)
大和守 直・矩
明石 直

会津 正・容

越智 武
528日本@名無史さん:2014/06/07(土) 01:10:36.72
大和高取植村家は将軍家と同じ「家」がお通じ
529日本@名無史さん:2014/06/07(土) 08:50:41.42
越智松平家は、実質譜代大名扱いだったのに、維新後、なぜか越智に戻さなかったな。
530日本@名無史さん:2014/06/07(土) 23:57:55.06
しかも戊辰戦争の敗戦組なのに
531日本@名無史さん:2014/06/08(日) 01:23:21.79
>>519
 他のおばさん連中から抜きん出て存在感があるのが、一橋徳川(池田)幹子だな。
532日本@名無史さん:2014/06/08(日) 01:37:13.34
526
東映かw
自分らの祖先史とか持ち上げるのとかやりそうだもんなw
日本の歴史だの何だの語っててもいいとこ江戸時代あたりからの
力関係をそのまま古代史にまで結びつけようとしてるからな
533日本@名無史さん:2014/06/08(日) 11:27:05.20
赤十字発起人の一人、大給恒こと松平乗謨(まつだいら・のりかた)は
奥殿藩(竜口藩)最後の藩主で大給家当主。
文豪・永井荷風や三島由紀夫とも血縁が割と近い。
534日本@名無史さん:2014/06/08(日) 11:37:26.82
>>529
その後、交楽なんていう全く関係ない姓を名乗ったりもした。
535日本@名無史さん:2014/06/08(日) 12:57:58.84
交楽(まずら)というのは松平をもじった芸名みたいなもの。
でも、これを名乗った人は男系では屯田兵の家で、松平はおろか大名でも華族でもない。
母方の伯父に実子がいなかったから、松平家を継いだけど、多分戦後じゃないか。
536日本@名無史さん:2014/06/08(日) 14:49:08.39
松平家はとにかく分家を多く作ろうとする傾向が他家より強いような。
三代信光・五代長親が好例だけど、九代家康やその子秀康、頼房にもその血は受け継がれた。
三河は甲信越方面と違って守護大名が土豪を束ねる統治が早くに終わったから、
一族の血縁というものへの拘りが強かったと思う。
他の家の場合、財政上の都合やお家騒動防止のためかあまり分藩・独立が多くない気がする。
それだけに幕末の島津家(重豪や久光)は良く目立つんだが。
537日本@名無史さん:2014/06/08(日) 15:31:59.43
一揆結合したり征服したりした、元々あるそれぞれの村々の有力者の所に養子に出したり、娘を嫁に出したりして同族に取り込んだんじゃないのかな?

松平日記だと松平の各庶子家同士では地名で区別して呼びあってたのに、それが苗字化しなかったのは、
それぞれの松平家は本来は独立した存在で、その中から偶々安祥家が突出したということなのだろうね
538日本@名無史さん:2014/06/08(日) 21:50:07.93
高須家で生まれた容保が、水戸藩邸で育ったわけは何ですか?
他にもそういう事例はあるですか?
539日本@名無史さん:2014/06/09(月) 18:53:16.39
高須家の先代(容保の祖父)が水戸家の出身だったからでは?
尾張の支店といいつつ、実際には水戸の支店みたいな状態になってたし。
540日本@名無史さん:2014/06/09(月) 18:57:27.61
その解説が一番分かりやすい
541日本@名無史さん:2014/06/09(月) 21:26:53.57
幕末に水戸で育った者たちには特有の
「水戸エリーティズム」ともいうべき感覚がありそうだよね。
542日本@名無史さん:2014/06/12(木) 17:35:32.30
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛

藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
543日本@名無史さん:2014/06/12(木) 17:47:59.56
高橋惟康(三河国高橋荘領主)
・源頼朝の曽祖父の妹の息

藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝



寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。


不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)

平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
544日本@名無史さん:2014/06/12(木) 18:26:32.00
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

葛山氏

大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。


大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」


寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。


不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)

平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
545日本@名無史さん:2014/06/12(木) 19:57:34.88
徳川家斉・・・69歳歿、26男27女 将軍家
徳川家慶・・・61歳歿、14男13女 将軍家
徳川斉昭・・・61歳歿、22男15女 水戸家
徳川綱誠・・・48歳歿、22男19女 尾張家
鍋島斉直・・・60歳歿、29男24女
井伊直中・・・66歳歿、15男10女
島津重豪・・・89歳歿、14男10女
島津忠恒・・・63歳歿、15男18女
546日本@名無史さん:2014/06/13(金) 01:18:01.26
547日本@名無史さん:2014/06/13(金) 03:44:14.21
三河は武家のメッカ。
徳川は武家の王。
548日本@名無史さん:2014/06/13(金) 04:36:39.01
三河馬鹿って大河板の太平記スレでも暴れてるんだが
ニートなの?
http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1395760288/l50
549日本@名無史さん:2014/06/13(金) 19:38:30.71
【周知徹底】

三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

系図
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→娘(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没する(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
・1219年、源実朝暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する  ←足利王国の誕生
550日本@名無史さん:2014/06/13(金) 19:39:39.22
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
551日本@名無史さん:2014/06/13(金) 19:40:23.04
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)


葛山氏

大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。


大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」


寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。


不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)

平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
552日本@名無史さん:2014/06/13(金) 19:40:58.55
金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)

愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html

当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。



滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)

聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。


・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
553日本@名無史さん:2014/06/13(金) 20:30:22.26
554日本@名無史さん:2014/06/13(金) 21:58:42.49
■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)

愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html

当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。


■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)

聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。


・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝


法華堂阿弥陀仏(消失)

建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎えた


・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
555日本@名無史さん:2014/06/13(金) 22:04:38.21
■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)

愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html

当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。


■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)

聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。


・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝


法華堂阿弥陀仏(消失)

建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が
、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎え、義氏の遺骨を胎内に納める


・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
556日本@名無史さん:2014/06/13(金) 22:11:04.15
また三河かよ。
家康の子孫、分家スレだぞ。
557日本@名無史さん:2014/06/13(金) 22:54:02.12
558日本@名無史さん:2014/06/14(土) 05:42:53.33
また三河あらしかよ
該当スレあるんだからそっちでやってくれよ
559日本@名無史さん:2014/06/14(土) 09:37:31.54
>>関連事項

■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)

阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html

鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された
560日本@名無史さん:2014/06/14(土) 09:38:22.77
>>555

関連事項

■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)

阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html

鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された
561日本@名無史さん:2014/06/14(土) 10:41:48.43
562バカは氏んでも名乗らない:2014/06/14(土) 13:03:04.98
>>41
前スレなんかいちいち目を通すわけねえだろがハゲ!
563日本@名無史さん:2014/06/14(土) 13:15:18.31
吉良家と松平家って親戚なの?
564日本@名無史さん:2014/06/14(土) 13:19:18.13
頼房が最初から徳川姓だって
565日本@名無史さん:2014/06/14(土) 13:25:30.76
無知は恐ろしいけど、気楽でうらやましいね
566禁裏御守衛総督兼摂海防御指揮:2014/06/14(土) 13:44:24.90
気楽さこそ身に余る光栄にござる
567日本@名無史さん:2014/06/14(土) 15:48:14.05
戦国時代の松平宗家当主の長親は、曾孫の広忠の代まで生きていて、
広忠の子の竹千代(家康)が生まれたときも存命で、竹千代の名付け親だった。
どれだけ長生きなんだよ・・・
568日本@名無史さん:2014/06/14(土) 16:20:34.09
>>567
広忠はその父清康が満15歳の時に生まれた子
家康はその父広忠が満13歳の時に生まれた子

長親は確かにあの時代にしては長生きだが(数え80歳まで生きた)
それ以上に松平家当主の世代差が短いんだよ
569日本@名無史さん:2014/06/14(土) 16:20:46.13
>>567
家康の母ちゃんも超長生きだよな。
家康は母ちゃん基準なら早死にだよw
570日本@名無史さん:2014/06/14(土) 16:24:04.18
長親ー信忠ー清康ー広忠ー家康
571日本@名無史さん:2014/06/14(土) 16:28:16.26
つか清康も広忠も20代で”殺されてる”じゃん
572日本@名無史さん:2014/06/14(土) 16:42:57.03
>>568
いくら戦国時代とはいえ、満15歳や満13歳で子作りするなんて・・・
573日本@名無史さん:2014/06/14(土) 16:48:06.46
>>572
羨ましい限りだなw
574日本@名無史さん:2014/06/14(土) 17:08:58.03
20代、30代で死ぬことなんてザラ
40越えたら普通に孫がいるしな
575日本@名無史さん:2014/06/14(土) 17:23:42.23
戦国時代ってほんと高級武士でも戦死や不自然死が多いからな。
子はいくらいても足りんくらい。
こういう時代ってのは出生率も上がるんだよねw
生物の本能ってやつだろう。
576日本@名無史さん:2014/06/15(日) 01:29:25.82
松平って子孫にこだわる家風だからね
577日本@名無史さん:2014/06/15(日) 03:56:18.00
家康も存命中に玄孫が生まれてるからな
578日本@名無史さん:2014/06/15(日) 13:53:16.19
・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母、小山政光の後妻)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→娘(初代吉見氏、吉見為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→吉見為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)

■本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)

性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
・小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)

■裕福寺(愛知県愛知郡東郷町大字春木字屋敷)
・創建年:建久2年(1191年)
・開基:宇都宮頼綱

・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
1389年(嘉慶3年)に再興されたと伝えられ、室町時代には足利氏の帰依を受け隆盛を極めた

■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)

・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)

正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
579日本@名無史さん:2014/06/15(日) 15:08:27.28
松平宗家は早く子供作りすぎだなw
家康と祖父の清康は30歳も年が離れてないw
580日本@名無史さん:2014/06/15(日) 22:32:38.79
逆に家康は孫か曾孫くらいの年齢差の子をもうけてるしw
581日本@名無史さん:2014/06/15(日) 22:41:00.96
>20代、30代で死ぬことなんてザラ
>40越えたら普通に孫がいるしな

松平家て北魏みたいだな。
582日本@名無史さん:2014/06/16(月) 08:12:34.31
>>581
というか家康の父も祖父も20代で家臣に殺された
本人はまさか自分が20代で死ぬとは思ってなかっただろう
583日本@名無史さん:2014/06/16(月) 10:51:25.33
いつ死ぬかわからん御時勢だから子は作れる時に作っておくというのが当時の状況だろう。
松平家だけじゃなくて当時のこのクラスの武士の家はだいたい似たようなもんだ。
584日本@名無史さん:2014/06/16(月) 12:50:53.62
於大の方は40代で孫どころかひ孫(登久姫)も生まれた
585日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:06:49.29
>>583
その割に家康には長らく男子が信康一人だけだったな
家康が20代で死んでいたら男子は後に切腹させる信康一人しかいない
女子を含めても信康・亀姫の2人だけだった
586日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:18:51.91
記録では六世孫の昆孫までの記録ならあるよ

本人ー子供ー孫ー曾孫ー玄孫ー来孫ー昆孫
587日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:23:21.59
ここから下になると
昆孫ー仍孫ー雲孫となるんだが記録はないみたい
588日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:31:38.67
>>584
お大は広忠より2歳年上だからな
広忠が生きていればお大より若い曽祖父だろ
589日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:32:36.14
585
つかあれじゃなかったか?
秀康のおっかさんも築山殿に知られるのが怖くて部下に内緒で育てていたはず
家康が手当たり次第に女に手をだすようになったのは築山殿が死んだあとじゃ
なかった?
590日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:36:20.66
家康と信長との遣り取りの手紙も見つかってるが信康と築山殿の死を一番望んでたのは
家康だったという推測もできんだわ
信長の方が実際は相談に乗ってたって内容じゃなかった?
591日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:40:06.26
とまあ疑問の答えになるかは分からないが話をつなげてみました
592日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:47:11.98
家康も、浜松に移ってからは、築山殿の監視から逃れて結構自由にできるようになったんじゃないかね。
593日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:48:03.15
>>589
秀康は家康が出生を疑い家臣に下げ渡して認知しなかった
秀康が家康に認知されたのは他でもない築山殿が産んだ長男信康が
「異母弟がいるらしい」という噂を聞きつけて秀康を城に呼び
強引に父家康と対面させたため

また、秀康以外にも、築山殿が死ぬ前に、督姫と秀忠が生まれている。
つまり、督姫の母である西郡局と秀忠の母である西郷局は、
築山殿存命中に家康の側室になっている。
594バカは氏んでも名乗らない:2014/06/16(月) 15:59:01.78
秀康の場合はですね、なんでこんな女に突発的に欲情しちまったんだろ、っていう家康の後悔みたいのがあったんだと思います
だから実子扱いをためらったと
595日本@名無史さん:2014/06/16(月) 18:30:06.07
>>590
家康が堀久太郎を通じて信長に宛てた手紙は見つかっているが、
信長が家康に出した手紙って見つかってたか?
あと、内容にしても信長が相談に乗ったと言うより「信康処分しました」っていう家康の報告だけだったと思うが
596日本@名無史さん:2014/06/16(月) 18:54:30.30
家康は、晩年に手を付けて懐妊させた側室をそのまま豪商に押しつけたとかあったな
597日本@名無史さん:2014/06/16(月) 19:19:00.73
家康は親族に冷酷だからな。
母方の従兄弟なんて町人になったやつもいる。
598日本@名無史さん:2014/06/16(月) 19:27:34.65
石坂浩二が演じていた納屋なんとか?
599日本@名無史さん:2014/06/16(月) 20:01:09.89
茶屋
600日本@名無史さん:2014/06/16(月) 20:57:43.83
松平民部とは何者?
601日本@名無史さん:2014/06/16(月) 21:06:02.88
架空
602日本@名無史さん:2014/06/16(月) 21:17:33.37
史実だと、家康の従兄弟に当たる水野康忠の子孫が江戸で町年寄やってたってやつか
康忠はまだかろうじて合戦に出て家康の江戸入りに同行し武士身分だったようだが
その子忠元以降は江戸の町年寄
樽屋の称号で3家ある江戸町年寄の1家として幕末まで続いた
身分は町人で、江戸に所有する広大な敷地を貸し出して生計立ててたらしい
603日本@名無史さん:2014/06/16(月) 21:24:49.38
家康の弟という松平家元さんも気になる
604日本@名無史さん:2014/06/16(月) 21:49:55.48
松平康元ではなくて?とおもったら、架空説もありながら一応実在説があるみたいだな松平家元って
605日本@名無史さん:2014/06/16(月) 22:01:29.07
初代将軍家康の治世、将軍の庶弟にあたる男が、将軍の意向に逆らって野に下り、自由闊達に生きていた。
その名は、松平三郎五郎家元。森山崩れで非業の死を遂げた、岡崎大納言広忠の忘れ形見である。
606日本@名無史さん:2014/06/17(火) 00:29:25.44
松平忠政、穎新は本当にいそうだよな
607日本@名無史さん:2014/06/17(火) 01:16:10.75
>>605
大事な部分が間違ってる
608日本@名無史さん:2014/06/17(火) 01:17:07.54
フィクションですからご容赦
609日本@名無史さん:2014/06/17(火) 01:34:06.03
葵三代の津川家康はとんでもない我儘爺で女もよりどりみどりだったが、
若い頃はとんでもなく恐妻家で苦労した末にああなったかと思うと面白いw
楽しくてしょうがない晩年だったろうなw
一番最後は曾孫みたいな女とベタベタ出来たんだからw
610日本@名無史さん:2014/06/17(火) 02:05:19.45
葵徳川三代って小川波乃岩下の浅井三姉妹+西田秀康が爺婆過ぎなイメージしかない
611日本@名無史さん:2014/06/17(火) 02:11:44.97
「松平」家元ってWikipedia編集した奴が勝手に作った人物名じゃねえのと思う
史料にゃはっきり「徳川」家元って書いてあるし
612日本@名無史さん:2014/06/17(火) 03:49:16.88
>>610
岡本富士太な
613日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:40:05.93
>>609
晩年の家康は金と権力を手に入れて煩い女房もおらず性欲処理には事欠かなかっただろうが
妻殺しで糟糠の妻が不在というのはどうなんだろうな?
母親とも赤ん坊の頃に生き別れだし根本的な女性不信があるような気がするよ
江戸幕府の男尊女卑は家康に始まったとか言われるし
614日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:44:00.88
>>613
母親と生き別れたが、婆さんが親身に育ててくれたぞ。
615日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:51:26.75
母親も帰ってきたし
616日本@名無史さん:2014/06/17(火) 08:04:25.66
>>614
家康の祖母華陽院って、家康の母お大の実母でありながら
家康の父方の祖父松平清康とも再婚してるのな
その後も次々と生涯に最低5回は結婚?
最後は今川家領内の寺で暮らしてて人質時代の家康が遊びに来てたみたいだが
617日本@名無史さん:2014/06/17(火) 08:08:23.71
>>615
随分後になってから、家康の異父弟4人連れてな
618日本@名無史さん:2014/06/17(火) 08:30:34.03
家康の側室では、英勝院がすごいよな
松平頼重が世に出られたのも彼女のおかげ
619日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:11:38.73
英勝院は頼房の養母だが、実母の養珠院は頼宣も生んでるから彼女の方がすごいな。
620日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:16:01.38
英勝院は松平忠昌、松平頼房、池田輝政娘の養母
松平忠昌が世に出たのは英勝院のおかげ
621日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:20:52.29
別に英勝院のお蔭じゃないだろ
もともと家康に近い血縁者で大坂の役での功績もあったんだし

家康の側室の中では、大坂の役の和睦交渉を一手に引き受け
徳川和子の入内に付き添って朝廷から従一位を受けた阿茶局は凄いが
他は大したことない
622日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:21:06.79
今に残る家康の男系子孫って一部の越前松平系を除いて漏れなく養珠院の子孫なんだよな。
623日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:22:47.41
>>613
うむ。
戦国時代までの日本は全然男尊女卑じゃないからな。
関西人は今でも男尊女卑とはかけ離れてるしw
624日本@名無史さん:2014/06/18(水) 09:16:34.75
>>621
1607年に英勝院の養子になって姉ヶ崎1万石の大名に取り立てられる
625日本@名無史さん:2014/06/18(水) 09:35:48.86
>>624
松平忠昌が姉ヶ崎1万石を与えられたのは英勝院の養子だからじゃない
忠昌は叔父徳川秀忠に養育されることになりこれ以前から江戸城入りしていたし
将軍の甥が大名になることになんの問題もない
もしかして、頼房が大名になれたのも英勝院のお蔭だと思ってる?
家康は子が早世した英勝院が不憫で自分の子や孫の養母にしてあげてただけ
626日本@名無史さん:2014/06/18(水) 11:22:50.43
>>624
忠昌が秀忠の偏諱を授与されている理由はそこにあるのか
逆にそう考えると不自然な偏諱にも納得できるな
627日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:32:12.68
>>626
忠昌優遇はそこにあるんですね
頼房や振姫の優遇もそこにあるんでしょう
英勝院恐るべしですね
628日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:35:11.04
>>627
頼房、忠昌と繋がっていくのが英勝院の力ということ
629日本@名無史さん:2014/06/18(水) 18:57:59.74
長勝院(秀康母)の実家     永見氏 越前松平家家老
西郷局(秀忠、忠吉母)の実家 西郷氏 会津松平家家老
英勝院(頼房養母)の実家   太田氏 譜代大名
相応院(義直母)の実家  竹腰家 尾張徳川家家老
養珠院(頼宣、頼房母)の実家 三浦家 紀伊徳川家家老
630日本@名無史さん:2014/06/18(水) 19:17:27.16
西郷は大名
631日本@名無史さん:2014/06/18(水) 19:34:27.86
>>629
西郷氏は西郷局の母方で、西郷局の実家は戸塚氏
西郷局の父は討死、弟は寺に入り、戸塚氏は絶えたらしい
西郷局は母方の親類・西郷氏に嫁いで未亡人となった後
母方の叔父西郷清員の養女として家康に差し出されたために西郷局と呼ばれた
西郷氏は東条藩、上田藩などの大名を歴任した
632631:2014/06/18(水) 19:35:28.55
>弟は寺に入り
訂正。寺に入ったのは西郷局の弟ではなく、西郷局の父の弟(叔父)。
633換言すれば:2014/06/18(水) 19:36:07.08
會藩の藩老西郷家も、分家である
634日本@名無史さん:2014/06/18(水) 19:49:43.17
>>633
会津藩家老はもともと保科氏だったのに
家が絶えた時に保科の娘が嫁いでいた西郷家から保科家へ養子に入ったんだよな
(幕末の西郷頼母も本苗字は保科)
635日本@名無史さん:2014/06/18(水) 21:00:30.89
新井白石の藩翰譜による分類では
水野、久松、増山は外戚大名だが
西郷は武功の家
636バカは氏んでも名乗らない:2014/06/18(水) 21:36:38.22
宮津・本庄も外戚ですか
637日本@名無史さん:2014/06/18(水) 22:02:07.40
水野家は武功大名でいいと思うけどね。
そら家康の母ちゃんの実家だけどさ。
638日本@名無史さん:2014/06/18(水) 22:52:07.05
>>636
書いてない
639日本@名無史さん:2014/06/19(木) 01:00:23.41
>>629
お亀の方の実家は石清水八幡宮の志水氏。
竹腰は、お亀の方の前夫の家で、息子の政信(義直の異父兄)が継いだので、「実家」ではない。
なお、お亀の方の母の実家の東竹氏の方が志水氏よりも名門。
640日本@名無史さん:2014/06/19(木) 01:23:29.53
>>639
そんな細かい話はどうでもいい。
側室のおかげで取り立てられた家の話なんだから。
641639:2014/06/19(木) 01:32:51.90
あ、タイプミスしてる。
政信じゃなく正信ね。

実家か前夫の家かが細かい話でどうでも良い?そんなこと良く言えるね。凄すぎて感心するわ。
642日本@名無史さん:2014/06/19(木) 08:28:58.86
>側室のおかげで取り立てられた家の話なんだから。
本質的に、スレ違い
643日本@名無史さん:2014/06/19(木) 08:31:42.83
御三家尾張藩に関係するんだから竹腰の話をしてもいいだろが。
オッサン、舐めんなよ。タココラ!
644日本@名無史さん:2014/06/19(木) 08:43:23.32
>>640
ここは徳川分家スレ

ここの英勝院ageの流れから行くと頼房が徳川を名乗れて
御三家入りで来たのはすべて英勝院のお蔭ということになってるのか
645日本@名無史さん:2014/06/19(木) 08:52:56.28
>>627
養子の太田資宗が幕閣入りするなど、バックアップに余念がない
646日本@名無史さん:2014/06/19(木) 09:18:31.51
>>644
ごく一部の阿呆が唱える珍説だから、スルーしてるだけ
647日本@名無史さん:2014/06/19(木) 09:51:27.99
春日と英勝院のバックアップで本多上野介再興がなされるのは、時間の問題であったが、
648日本@名無史さん:2014/06/19(木) 12:32:04.09
Wikipediaと同様に2chもファンタジーの世界wwwww
649日本@名無史さん:2014/06/19(木) 12:54:07.68
パゴヤはスレが穢れるだろw
尾張百姓は出入り禁止じゃ
650日本@名無史さん:2014/06/19(木) 13:27:51.84
>>649
ニートの三河馬鹿がお昼寝から目覚めたようですw
651日本@名無史さん:2014/06/20(金) 19:18:44.34
>>332
>いつも思うんだが、愛知って武家のメッカだな。

尾張名古屋は除くだなwあいつ等先祖代々骨の髄まで百姓だからw


崇仁親王妃百合子
・旧名、高木百合子
・高木家は河内国丹南藩1万石の大名
・母・邦子は入江為守子爵の娘


寛仁親王 http://blog-imgs-53.fc2.com/t/o/r/toriton/koushitu892b6.jpg
高円宮憲仁親王 http://livedoor.blogimg.jp/yamato26840/imgs/e/3/e352c4c5.jpg


高木氏発祥の地
http://kikakubito.cms.am/modules/gnavi/index.php?lid=60
高木氏は安城市高木町の出身で、三河一向一揆で家康に味方し戦功がありました。天正18(1590)年家康の関東移封の際、相模国に5千石の領地をもらい、
その後加増を経て河内国丹南1万1千石の大名となりました。
三笠宮崇仁王に嫁がれ、ヒゲの殿下・三笠宮寛仁親王の母上である百合子妃はその子孫です。


三河高木氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_takagi.html


高木氏菩提寺
栖岸院(東京都杉並区永福1丁目6−12)
http://www.tesshow.jp/suginami/temple_eifuku_seigan.html
栖岸院はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正19年(1591)麹町八丁目に寺領を拝領して江戸に移り、
寛永16年(1639)に安藤重信の子重長が中興開基となって、父重信を開基、妙誉秀慧を開山に招聘、浄土宗の寺として改めて開創、大正9年に当地へ移転しました。
652日本@名無史さん:2014/06/20(金) 19:29:04.95
徳川分家スレと何の関係があるのか
相変わらず日本語が読めない三河馬鹿
653日本@名無史さん:2014/06/22(日) 11:22:25.39
>>646
確かに、歴史を多面的に捉えられず、後世に決められた内容でしか理解出来ない狭視野な人間が多いよな
654日本@名無史さん:2014/06/24(火) 10:59:08.42
甲府綱重の逸話はある?
655日本@名無史さん:2014/06/24(火) 17:44:19.44
徳川氏が加茂朝臣が正しければ陰陽寮の天文学者の家柄が始まりということになる
656日本@名無史さん:2014/06/24(火) 19:08:10.53
0
657日本@名無史さん:2014/06/26(木) 11:13:24.03
>>655
なに言ってんだよ。
いくら2chだって少しは控えろよ。
658日本@名無史さん:2014/06/29(日) 20:39:34.84
水戸の連枝の守山とか府中の
次男以下の処遇は?
659日本@名無史さん:2014/06/30(月) 08:16:54.44
イラストレーターで収入が少ないからと30代後半で漫画家になろうとする、ひきこもりのバカ発見。
足立区に住んでいるそうだ
http://inumenken.blog.jp/archives/6609090.html
660日本@名無史さん:2014/07/13(日) 19:14:26.82
明治維新の時
日本が植民地にならなかったのは
水戸徳川のおかげだと思うけど
おまいらどうよ?
661日本@名無史さん:2014/07/13(日) 20:02:23.43
>>660
どういう解釈でそうなるのか全く分からない。
普通は肯定するにせよ否定するにせよ言ってることが分かるんだけど。
藩内で血みどろの内戦をやりつつ藩主は治めることもできずに放置。
維新の頃には幼少藩主で幕政にも参与できない。
この状況でどうやって日本に影響を与えられたんだろう?
662日本@名無史さん:2014/07/13(日) 20:06:49.27
「おかげ」って皮肉の時に用いられるよね、知ってる知ってる
663日本@名無史さん:2014/07/13(日) 20:09:10.91
最近、NHKの英雄の選択で、徳川慶喜をやったから、慶喜の出身が水戸なのでそういいたいんじゃないのか。
664日本@名無史さん:2014/07/13(日) 20:33:01.01
斉昭考案の牛を動力とする戦車?なんか
笑い物以外の何ものでもない。
665鎌倉あけひ:2014/07/13(日) 20:35:50.67
斉昭考案の朝日丸という舟も、同じく笑い者以外のなにものでも無かったのである。
666日本@名無史さん:2014/07/14(月) 01:39:01.59
<水戸徳川なかりせば>

水戸徳川は藩祖以来尊王の家

2代光圀による「大日本史」編纂事業は明治39年まで続いた
そしてその事業により「水戸学」が生まれ、明治維新の原動力になった

慶喜は斉昭に徹底的に尊王精神を叩き込まれた

羽伏見の戦いで錦の御旗を見て

江戸に早速帰った。

幕府には十分な兵力があり慶喜が将軍でなければ

血みどろの内戦に発展していただろう。

官軍にはイギリス 幕府にはフランスがついていたし

ロシアやらアメリカやらも日本を狙っていた

内戦が長引けば日本は植民地になっていた可能性が高い。

明治時代になって慶喜の偉大さを認識した明治政府は

慶喜と水戸徳川を公爵に列した。

(徳川本家と同格)
667日本@名無史さん:2014/07/14(月) 01:41:09.79
日本民族は
水戸徳川家と水戸光圀公には感謝してもし足りない。
668日本@名無史さん:2014/07/14(月) 06:33:22.28
水戸徳川家を公爵に陞爵したのは昭和政府な。
えらそうなこと書くならそのくらいの常識は把握しとこうぜ。
669日本@名無史さん:2014/07/14(月) 06:58:35.65
ポカーン
670日本@名無史さん:2014/07/14(月) 10:38:49.19
>>668
そんなことはどうでもいい
俺は水戸徳川を最高にリスペクトしてるぜ!

でもさすがに詳しいな。ここは歴史おたくが多いんだな。
671日本@名無史さん:2014/07/14(月) 10:52:29.63
御三家筆頭水戸家は斉脩に子が無かったから庶弟の斉昭が家督をついだのである。
672日本@名無史さん:2014/07/14(月) 20:41:24.89
水戸藩祖徳川頼房が尊王だったなんて初めて聞いた
光圀の尊王は尾張藩祖徳川義直の影響だ
いつもの病気のひと、治癒しないね
673日本@名無史さん:2014/07/15(火) 17:50:30.53
水戸徳川は藩祖以来
尊王の家だよ。

家康が徳川家の血筋を絶やさないために
仕組んだという説もある。
674日本@名無史さん:2014/07/15(火) 18:04:37.91
朝廷の潜在的権威を飽く迄恐れた家康は、禁裏御領を三万石に加増する一方、皇族を日光東照宮門跡に招き東武皇帝としていつでも擁立可能にし、
代々、摂家から将軍家の正室を貰い、水戸、尾張、会津など、尊王の家勤となす!家々も設けたが、
675日本@名無史さん:2014/07/15(火) 18:07:12.89
会津藩は、家光の代に創設じゃないのか。
676日本@名無史さん:2014/07/15(火) 18:14:54.79
徳川幕閣は、を補足するものとする。
677日本@名無史さん:2014/07/15(火) 20:40:02.39
家康ほどの勤王家だってことは認めても良くってよ。
678日本@名無史さん:2014/07/15(火) 20:46:55.95
>>673
お前、井沢オタだろw
底が浅すぎる
679日本@名無史さん:2014/07/16(水) 02:43:46.64
>>672
 確かに頼房が尊皇のイメージは無いなぁ。
 ただ、光圀と後陽成天皇の孫である近衛尋子の婚姻は頼房存命中だから、頼房が意図してやったんなら尊皇的なのか?と思わなくもない。
680日本@名無史さん:2014/07/16(水) 07:29:53.26
水戸藩の歴史資料の収集は頼房から既に始まっている
681日本@名無史さん:2014/07/16(水) 08:00:23.83
>>678
とはいえ「関東にも皇族を置いておく」という政策には、いざというときの天皇候補という目的もあったんじゃ?
682日本@名無史さん:2014/07/16(水) 08:01:52.00
>>665
笑い者になった割に、実は明治政府にもちゃんと利用されてるけどな>朝日丸。
683日本@名無史さん:2014/07/17(木) 00:24:37.05
舵が重いので厄介丸と仇名されたが船体は頑丈だった。
684日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:15:58.11
>>679
光圀と尋子の婚姻に動いたのは武佐(頼房乳母・光圀の養育にも関わる)という水戸藩の老女
武佐はかつて中和門院(近衛前子)に仕えていた女房で水戸に下った
その縁で近衛家との縁があったらしい
685日本@名無史さん:2014/07/18(金) 21:26:02.91
>>682-683
現代でもあるよね。最初は馬鹿にされてたのに結局ちゃんと役に立ってるもの。
最近だと都営大江戸線とか。
686日本@名無史さん:2014/07/18(金) 21:29:59.90
ツー・バイ・フォー住宅とか
687日本@名無史さん:2014/07/18(金) 21:51:09.26
光圀って子孫絶えたよね?
688日本@名無史さん:2014/07/19(土) 13:37:25.25
藩主のうちに中納言になれなかった光圀はお家の恥
689日本@名無史さん:2014/07/19(土) 13:57:40.39
隠居時になってればいいんじゃないのか中納言に。
690日本@名無史さん:2014/07/22(火) 20:50:54.95
徳川頼房は正三位権中納言
官位ともにワンランク下だ
691日本@名無史さん
光圀は、
天保3年、贈従二位権大納言
明治2年 贈従一位
明治33年 贈正一位
昭和4年の水戸家の公爵昇爵も光圀と斉昭の功績