【第二十一回】 太平記 part.21 『京都攻略』

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660日曜8時の名無しさん:2014/07/04(金) 20:49:59.46 ID:1Hpl5bvd
暗記しか能のない詩文馬鹿はどっか行って、どうぞ

細かい史実なんて後でいくらでも調べられるんだから
歴史の流れや重大事件の意義のほうがよっぽど大事
661日曜8時の名無しさん:2014/07/04(金) 21:34:10.60 ID:E9H+PjbF
オープニングの魔道の天狗

第一回の祠の件と最終回の直義殺害の時における尊氏の祠の話

これだけでもとっても

死生観、無常観を終始一貫して描ききっている凄さよ
662日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 03:51:08.48 ID:7SEfmkDm
>>660
お前は誰と戦っているんだ?
663日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 04:24:44.87 ID:7SEfmkDm
>>660
こいつには得宗家の専横や後醍醐帝の倒幕計画が詩文に見えるらしい
664日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 04:42:03.08 ID:2PAj5Vvy
>>661
祠の話は「人質」の回の尊氏と登子の会話にも出てくるよ。
665日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 04:50:58.84 ID:2PAj5Vvy
>>659
大河はあくまでドラマだから、すべてが史実というわけではないぞ。
まあ『太平記』の場合、細かい史実はともかく時代の雰囲気みたいのはよく出ていたから、
歴史研究者レベルでもファンが多い名作なんだろうけど。

あとブツ切り暗記云々の件は、歴史教育そのものというより学習者の態度の問題だと思うよ。
666日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 06:01:48.46 ID:vl4MoxJj
>>659 >>662 >>663
お勉強好きな厨房は
NHK Eテレ
高校日本史が
お似合いだぞw
667日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 19:10:03.51 ID:IsA1OolI
葵徳川三代みたいなのを
「これぞ大河ドラマ!」みたいに持て囃す人もいるからなあ
668日曜8時の名無しさん:2014/07/05(土) 22:35:51.20 ID:2PAj5Vvy
>>667
年表大河ってこと?
669日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 00:09:35.37 ID:MW9Mx6iE
葵は三成が死ぬまではこれぞ大河だったと思うけど?
670日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 02:08:35.66 ID:e1tbDnZ5
そもそもあんな年寄り配役の時点で
大河ドラマらしくない
俳優自体は常連ばかりだが
671日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 03:41:58.13 ID:50/YINbq
>>666
厨房に高校講座はレベル高いよw
672日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 03:45:17.50 ID:50/YINbq
>>670
あの大河の配役に関しては、ジェームス三木の拘りが悪い方向に出過ぎた感はある。
673日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 14:12:23.32 ID:7Doxp4Cr
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季兼(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
674日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 14:13:26.75 ID:7Doxp4Cr
12世紀

・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男藤原範雅(由良御前の兄弟)に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・1145年、藤原顕広(後に俊成に改名、養父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘)が三河守になる
・1145年頃、(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・1151年、藤原範忠(由良御前の兄)が、滝山寺の本堂を建替える、10月8日の供養の時に延暦寺より招いた導師に馬3匹を贈る
・1152年頃、季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男範忠))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1155年、範忠(由良御前の兄)が熱田大宮司になる
・1157年、源義康が死去する
・1158年、平頼盛が三河守になる
・1159年、範忠(由良御前の兄)が弟の三河法橋裕範の要請を受け、大檀那として滝山寺の四至を確定し、 田畠1町2反づつを滝山寺へ寄進する
・1159年、由良御前が死去する
・1159年、三河法橋祐範(由良御前の弟)が、姉である由良御前の49日仏事を差配して、その菩提を弔う
・1160年、源義朝が謀殺される
・1160年、三河法橋祐範(由良御前の弟)が、頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出す
・1161年、範雅が熱田大宮司になる(再任)
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
675日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 14:14:20.39 ID:7Doxp4Cr
・1172年、藤原範忠(由良御前の兄)が熱田大宮司になる(再任)
・1178年、藤原忠兼(範忠の孫)が熱田大宮司になる
・1179年、平知盛が三河守になる
・1181年、範雅が熱田大宮司になる(再々任)
・1184年、源範頼が三河守になる
・1185年、185年 頼朝、日本国総追捕使・総地頭となる
・1185年、源頼朝が、三河国竹谷・蒲形両庄(開発領主は藤原顕広(後に俊成に改名、養父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘)を熊野社領とする
・1185年、藤原範経(範雅の息)が熱田大宮司になる
・1185年、藤原範信(由良御前の兄、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))が、勝長寿院納骨堂南御堂を供養する
・1188年、任憲(三河法橋祐範(由良御前の兄)の子)が、頼朝の元を訪れて初めて対面し、親しく語らう
・1189年、源頼朝が亡母の追善のため、鶴岡八幡宮に塔を建立する
・1190年、源頼朝が藤原仲経(藤原憲実(季範(額田冠者)の弟)の息)に、通常の課役である神仏への納税を命ずる
・1190年、鳥居禅尼(源義朝の姉)が紀伊国佐野庄湯橋の地頭になる
・1190年、藤原範清(藤原範信(初代星野氏(三河国宝飯郡星野)の息)が頼朝右大将拝賀行列前駆を務める(頼朝手配は範清と源範頼)
・1190年、坊門姫(頼朝の姉)死去する
・1191年、藤原憲朝(藤原範信(初代星野氏(三河国宝飯郡星野)の息)が駿河守になる
・1191年、任憲(三河法橋祐範(由良御前の兄)の息)が頼朝に、熱田社領の田地を廻る争いの調停を申し入れ、頼朝が口添えをする
・1193年、源範頼(三河前司)が、謀反の疑いをかけられ誅殺される
・1193年、藤原仲経(藤原憲実(季範(額田冠者)の弟)の息)が美濃国土岐多良庄地頭になる
・1193年、憲実(季範(額田冠者)の弟)の未亡人が、、憲実の遺産を安堵される
・1194年、範信(由良御前の兄、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))が、相模国日向山参拝(大姫本複祈願)する
・1194年、範信(由良御前の兄、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))が、義朝と鎌田正清供養に布施を渡す
・1194年、範信(由良御前の兄、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))が、永福寺新造薬師堂供養を供養する
・1194年、鳥居禅尼(源義朝の姉)が、但馬国多々良岐庄地頭になる
・1197年、憲朝(藤原範信(初代星野氏(三河国宝飯郡星野)の息)が尾張国海東荘地頭職になる
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
676日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 14:15:23.27 ID:7Doxp4Cr
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
677日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 14:15:49.88 ID:7Doxp4Cr
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)


葛山氏

大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。


大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」


寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。


不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)

平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
678日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 14:16:36.43 ID:7Doxp4Cr
■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)
愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html
当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。

■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。

・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝

法華堂阿弥陀仏(消失)
建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が
、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎え、義氏の遺骨を胎内に納める

・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))

関連事項
■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)
阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html
鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された
679日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 22:58:01.21 ID:AMjExpG+
>>676

>安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

細川重男氏(『鎌倉政権得宗専制論』2000年吉川弘文館69〜71頁)は盛長が
三河守護となったのは三河国に縁のある三河国宝飫小野田荘の小野田氏庶流で
あるからとする。
また、福島金治氏も、盛長の小野田姓の由来には同荘があるのではないか
とされている(『安達泰盛と鎌倉幕府』2002年有隣堂新書14頁)。

ところで、三河国は頼朝の異母弟範頼の単独国務国司として、
1183(元暦元)年から失脚する1193(建久4)年まで継続していた
(金澤正大氏、「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』第370号1997年4・5・6月)。
そして、範頼は盛長婿(正室は比企尼長女と盛長の間の娘)であり、
両人は比企ファミリーの一員である。
とすれば、『尊卑分脉』の兼盛・盛長の傍註「小野田」から盛長を三河国に
結びつけるよりも、範頼失脚後の三河国を頼朝の伊豆流人時代からの側近で、
比企ファミリーの一員で、かつ範頼舅であった盛長に三河国を任せたのは当然である。

「小野田」地名は三河に限らず、全国各地にあり、関東内でも上総国小野田郷
(千葉県長南町下小野田)があるのであり、『萩藩閥閲録』巻73では、
遠元の養子との傍註のある天野遠景に関して、その曽祖父としての兼広(盛)の
傍註に「上総国小野田郷領之ス」とある
(『萩藩閥閲録』第二巻1968年山口県文書館85頁)。
すなわち、足立氏が上総国小野田郷出身としている。

もし、盛長が三河国小野田氏庶流出身なら、盛長とその子孫が鎌倉幕府での重鎮と
なっている以上、三河国在住の小野田氏は御家人に列せられていよう。
そこで、「六条若宮造営注文」
(海老名尚・福田豊彦氏、「『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第45号1992年12月)を見ると、
三河国御家人として小野田氏は記載されていない。
それのみかその存在を明証する史料所見はおろか、三河国小野田氏の
存在を微証する史料の存在も他に見られないのである。
すなわち、両氏の説には無理があるといわざるをえない。
680日曜8時の名無しさん:2014/07/07(月) 01:33:49.30 ID:ywnS+dPN
小笠原長房 (幡豆小笠原氏)
・足利尊氏の近侍
・天龍寺落慶供養随兵
・若狭国、三河国守護代
・尾張国知多郡の守護代



小笠原氏庶流の幡豆小笠原氏の出身と言われている。
幡豆小笠原氏は小笠原長清の子伴野時長の系統に属し、弘安8年(1285年)11月17日の霜月騒動の際、時長の孫である長泰、その子盛時らが戦死、残された一族が安達氏の領地であった三河国太陽寺荘(元は小野田荘、愛知県豊橋市)に逃れ、
その後、足利氏・吉良氏との結び付きを強めるため、吉良氏領地に隣接する西方の幡豆郡に移り住んで成立した
681日曜8時の名無しさん:2014/07/07(月) 03:31:50.11 ID:x6ZVMfnI
>>679
危痴害には一々反論せず、放置してください。
682日曜8時の名無しさん:2014/07/07(月) 12:30:55.27 ID:WgY/0bZT
>>681
スレ番長か?
レスなど自分の好きにすればいいだろ
683日曜8時の名無しさん:2014/07/07(月) 14:02:55.71 ID:igWnOVSl
673〜680が丸ごとあぼ〜んされてる
どのNGワードに引っかかったのだろうw
684日曜8時の名無しさん:2014/07/07(月) 17:29:09.99 ID:Ul9X0lE9
根性ひんまがった奴と衒学押し売りのアイタタ野郎が多いからな
685日曜8時の名無しさん:2014/07/07(月) 20:24:02.25 ID:mkR5SmLp
なぜ、近江やら相模やら下野やらの歴史オタは
三河バカに対抗して、捏造自慢話を羅列しないの?
歴史ある寺社仏閣を沢山羅列しないの?

なぜ、

京都やら
鎌倉やら
足利やら

の歴史オタは
愛知県岡崎市のバカに対抗して、オラが地域の
歴史ある寺社仏閣を自慢しないの?
686日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 00:08:46.53 ID:u7WSNHa0
岡崎 VS 京都
   VS 鎌倉
   VS 足利

比較するまでもない
687日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 01:18:03.95 ID:DyTGDASS
オラ栃木、オラが貼るだっぺ


■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
688日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 01:19:51.02 ID:DyTGDASS
オラ栃木、オラが貼るだっぺ



■1234年、鑁阿寺建立(大御堂)

(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏

(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘

(大勧進)阿闍梨了心

(雑掌・奉公人)藤原朝氏(野田朝氏、野田大宮司、嫁は足利義氏の姉)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→野田朝氏
(雑掌・奉公人)源季能
(雑掌・奉公人)小俣禅阿(鶏足寺の別当)
(雑掌・奉公人)大平惟行
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→瀧口惟忠→大平惟行(三河国額田郡大平か?)
(雑掌・奉公人)高階義定
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→惟重→義定
(雑掌・奉公人)大進円憲
(雑掌・奉公人)佐野範綱
(雑掌・奉公人)真下広経
(雑掌・奉公人)小野有家
(雑掌・奉公人)藤原兼資

■鑁阿寺 旧多宝塔跡
藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)が、父である野田朝季の供養のために造立した供養塔、多宝塔供養導師は、足利義氏の息子、最信

野田朝季(野田大宮司、朝比奈義秀と戦い戦死)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季

最信(勝長寿院別当)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏→最信
689日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 01:22:05.76 ID:DyTGDASS
オラ栃木、オラが貼るだっぺ



樺崎八幡宮(元は法界寺)
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/023/935/11/N000/000/011/138960094181861421228_s-CIMG3574.jpg

>生母菩提の為


生母

三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→→藤原範忠→女子→足利義兼
690日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 02:01:53.55 ID:sIOC9dPg
基地外の巣だな
691日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 09:03:03.40 ID:QwcdHarw
>>687>>688
>藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)

おいおい、藤原季範を初代熱田大宮司だなんて嘘を書くなw
熱田大宮司は代々尾張氏の世襲
季範は母親が尾張氏であったために外孫であることを持って
尾張氏から熱田大宮司職を奪い取ったに過ぎない

・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範

季範の外孫が源頼朝、季範の外孫の約250年後の子孫が足利尊氏

お前、太平記スレに足利尊氏の250年前の女系先祖のコピペばっかり貼るなよ
尊氏の直近の女系がどれだけいると思ってるんだ
だから2ちゃんねるの有名な荒らし三河馬鹿は基地外だと言われるんだ
692日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 09:07:53.56 ID:uD0xgPwY
>熱田で生誕



303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)





当時、殺伐とした内部対立があった中、頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw
尾張は一切関係なし、ゆかりの物は一切無しw
693日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 09:18:35.96 ID:QwcdHarw
>>692
・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範→女→源頼朝
・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範→女→足利義兼…足利尊氏

三河馬鹿はなんで源頼朝や足利尊氏の女系を最重視しておきながら(男系はなぜか無視)
その女系が古代豪族・尾張氏に繋がることを無視するの?
だから基地外だと言われるんだよ
694日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 14:21:47.95 ID:fWkJZvBX
この板では5行以上の長文はNG入れてる
695日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 20:02:14.37 ID:u7WSNHa0
三河 100点 VS 下野・近江・相模は合計 0点
三河の圧倒ですね

岡崎 100点 VS 足利・京都・鎌倉は合計 0点
これも岡崎の圧倒ですね

岡崎 100点 VS 南朝鮮 100点
両者とも何もかにから何でもアリで良い勝負w
696日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 21:19:45.85 ID:BrQIpkbz
足利尊氏は尾張氏だぎゃ〜はいいが、太平記に尾張は殆ど出てこんだろうがw
強いて言えば、足助重範(三河国賀茂郡足助)に弓で討たれた荒尾兄弟か?w
ほんとパゴヤは昔からダサいなw
697日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 21:22:43.71 ID:o0m3HfPs
???「木太刀の一本でもあればー」

おわり
698日曜8時の名無しさん:2014/07/08(火) 21:33:49.18 ID:BrQIpkbz
それは作り話w
三河にいた鎌田政清の兄貴(天台宗真福寺僧)から情報を得ただろう慈円が正しい

パゴヤは源頼朝足利尊氏と縁もゆかりもなく、故に、鎌倉幕府室町幕府幹部に、尾張は一切無しw
699日曜8時の名無しさん:2014/07/10(木) 20:35:29.05 ID:XmMhd4y5
鎌倉〜室町期を通じて、尾張守の官途はほぼ足利一門だな。
700日曜8時の名無しさん:2014/07/10(木) 23:22:12.94 ID:f6ZpY3Sn
佐々木道誉主役の大河可能性は
どうよ
701日曜8時の名無しさん:2014/07/11(金) 00:21:01.61 ID:zA5oIcGH
>>700
大きく出るな
もちろん陣内だよな
702日曜8時の名無しさん:2014/07/11(金) 06:33:37.50 ID:ZKM8ailp
>尾張守は足利一門

尾張とは縁もゆかりもない
名古屋だぎゃ〜



空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」


「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした


永源寺

中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
703日曜8時の名無しさん:2014/07/11(金) 10:38:50.82 ID:O37ZsoOQ
逃げるな戦え!って味方ぶった斬ったりしてるクソ野郎なのに死ぬ時は哀れに見える不思議。
704日曜8時の名無しさん:2014/07/11(金) 22:09:44.25 ID:8Cu8ePSy
高家って師直兄弟の死以来、没落して歴史の表舞台から消えたの?
705日曜8時の名無しさん:2014/07/12(土) 23:18:55.59 ID:iYAXdOXH
>>702
で、畠山は?
706日曜8時の名無しさん:2014/07/13(日) 07:25:18.25 ID:/iEqyg8G
>>702
斯波氏は足利一門とは縁もゆかりないダラってかwww
707日曜8時の名無しさん:2014/07/13(日) 17:10:15.01 ID:IaC/KpBb
チミはパゴヤ君?太平記とは縁もゆかりもない部外者は出入り禁止だと言っただろう


>斯波氏は足利一門とは縁もゆかりない

部外者は意味不明だから


藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→女子→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利泰氏→足利家氏


・足利義氏は承久の乱の恩賞で、父と祖母縁故地の三河国守護職、額田郡・設楽郡・吉良荘・碧海荘地頭職を獲得する
・足利義氏は、吉良荘を長男長氏に、碧海荘を嫡男泰氏に与える
・無断出家した嫡男泰氏が、幕府に碧海荘を没収される
・没収された碧海荘は足利義氏に返され、義氏より孫の足利家氏に与えられる


足利家氏
生没年不詳。鎌倉時代の武将。足利泰氏の長子であるが庶子として遇された。母は北条朝時の娘。左衛門尉、中務権大輔、尾張守。従五位下。寛元元年(1243)より幕府に出仕。
碧海荘地頭職を祖父義氏から譲られて知行し、建長7年(1255)前年亡くなった義氏の菩提所として創建された滝山寺法華堂に荘内の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進した。
またこの堂に法花経2部、鈴杵・閼伽なども寄進した。某年正月18日没(滝山寺縁起)。
708日曜8時の名無しさん:2014/07/13(日) 17:27:32.91 ID:IaC/KpBb
>畠山


近年以後三条女御々領碧海庄立券之中(兵範記」仁安3年7月6日条)

1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠(足利義兼祖父)か?)


三条局
・父:藤原家政、母:不明
・鳥羽院女房、妍子内親王母
・兄弟の雅教の母は、藤原顕隆(正室は藤原季綱の女(足利義兼曽祖父の従兄弟、鳥羽天皇の乳母)の娘 )


義兼は、祖父(藤原範忠)が寄進したとみられる三条女御々領の管理をやっていた伝承があるから、1175年生まれなら三河生まれの可能性があるわな
断定はしませんけど
709日曜8時の名無しさん
で、それは室町期に畠山氏が尾張守の官途を世襲していることと、どう関係?