>地方大名の研究なんて殆ど進んでない
武田なんか、戦国史の中でもかなり進んでる印象だけどな。
北条一族の筆まめの良さは
研究する側としては凄く遣り甲斐あるらしい
>>149 天野氏の論文に三好家が京都から阿波に至る水運に
強い影響力(≒支配力)を有したことが資料を基に丁寧に検証されています。
当時の流通から得られる収入が土地からの収入に比べて莫大であったことは
私が説明するまでもなく調べればすぐにわかることです。
三好の畿内統治の手段やその財力の源泉についても
天野氏がとても誠実な態度で資料にあたって論じられています。
分からないなんて言わないでちょっとは自分で調べてみられてはいかがですか?
家柄も悪く権勢も伯父宗三に奪われた長慶が巧みに新興層の支持を取り付け
並み入る強敵をなぎ倒し遂には畿内の覇者にのし上がるさまは
まさに戦国時代の申し子とよぶにふさわしいカッコ良さです。
むちゃくちゃ面白いですよ。
>>152 釣られてみます
資料もあるし実態もある程度は想像できる程度に
三好家の研究は進展してきています。
あなたが調べるつもりがないから分からないだけです。
三好家が畿内5カ国を含む広大な領国を
「優秀な代官による有効な統治」抜きで
どうやって維持できたのでしょうか?
教えていただけますか?
>地方大名の研究なんて殆ど進んでない
中国地方は毛利が史料的に恵まれてる。毛利が大名家として明治まで続いたおかげで
またこまめに史料を保存・編纂しつづけたおかげで周辺の滅亡した大名・国人に
関する史料もかなり毛利側に残った。隣の岡山の宇喜多とか史料全然ないし。
これからもまとまった史料がでてくる可能性もほぼない。
>>147、148、149、155
具体的にどの程度三好政権が都市から税収があったのか?について
都市史研究の仁木宏氏が長慶時代の堺をはじめとする大阪湾一帯の港町や寺内町について
書かれたものを以前読んだことがあるので紹介しとく。
「商業税や軍事税(矢銭・兵糧米)を徴収することもなく…
たださまざまな機会に礼銭を出させることがあったのではないかと推測され
また軍勢の移動などにあたっては、船や人足を提供させたと思われる」
「長慶は堺などの都市に初めて代官などをおいたようであるが、
代官が何をしていたのかはっきりとしない。私たちの一般的なイメージから
すれば「ゆるい支配」であったといわざるをえない」
つまり全体として三好政権は大阪一帯の流通を重視したが
じゃあそれが直接税収源に結びついたかというと「16世紀後半、都市が
急速に発展してゆく様子をすぐ傍で見つめながら、
長慶は直接その利益に触手をのばさなかった」と否定的
要するに三好政権は全体としてこの地域の商業・流通を活性化させる政策をとったが
税収源としては握って=支配していなかったってことみたい。
天野氏の著書でも具体的な税収にふれる直接的な史料に言及する部分は
なかったと記憶している。
摂津下郡での段銭徴収や兵庫津の御用商人の保護、法華ネットワークの保護など
には触れられているが、それが実際の税収にどこまで結びついたかについては
扱われていない。
ただ付言すると、全体的には仁木氏の論調自体は
信長の政策的な革新性や新たな展開を認めつつ、三好と織田政権の大阪支配に関して
基本的な政策の方向性(流通重視・村落支配の活用)は同じで連続性を認めるものだと
言っておく。
159 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 15:14:02.62
>>155 >当時の流通から得られる収入が土地からの収入に比べて莫大であったことは
>私が説明するまでもなく調べればすぐにわかることです。
>>もし158の説明どおり大阪湾沿岸の諸都市・港湾からコンスタントに徴税していないなら
三好家のその年貢米をはるかに上回る流通による厖大な収入源はなんなのでしょうか?
山城(要するに大都市京都を中心としたこれまでの市場・諸都市)への段銭・関銭などの
徴税が収入の主体だった…ということなんでしょうか?
160 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 19:14:50.34
いくら銭を納めさせたかがポイントなんだが、不定期に金銭を献上させ、役務の供給をさせていたと言われるだけでは論証にならない
所詮、大した量じゃないんじゃないのかね?
161 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 13:38:59.23
史料を踏まえたものでなければ仁木の著もたんなる憶測じゃんかよ。
推測という名の妄想はいいから歴史らしく史料で語ってくれや
162 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:00:53.83
>>161 三好がこの地域に関銭(商業税)・軍事税を徴収したという史料がないんでしょ
ない以上は莫大な関銭そのたのあがりがあったと推測するより
課税していなかったと考えるほうがふつう合理的だと思うわwww
163 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:39:24.97
>>158 149だけど教えてくれてありがとう
その点が個人的に前から気になってたのでうれしいです
>>155 都市や商業圏を影響圏に組み入れて、そこの商人と一定の関係を築き
さまさまな活動に協力させる(御用商人ですね)それは誰でもやる
でも当然都市の商人は自律的な経営活動をしてるんだから
大名のもうけ=税収には直結しない
関銭の徴収にしたって以前からの徴収者がいるんだし
三好がやってきてもそう簡単に手放すわけがない
史料的にわからない、難しいと言ってるのはそういうことで
都市や流通を「掌握」の実態をつかむのは結構たいへんだよ
自分も三好長慶大好きですよ?阿波じゃないど摂津下郡なので
ひそかに地元の殿様だと思ってるくらいだし
三好関係の研究書は天野氏も含めて書籍化された分は
たぶん全部読んでると思う
でも代官おいたら土地も都市も即実効支配できるなんて全然思わないです
>>160 自分もそう思う
ちなみに史料的に裏付けがある分で毛利が港湾都市から徴収できた税収を
参考までにあげておくと
赤間関で500貫、美保関でも500貫程度
2つとも西国屈指の港湾都市だけど、税収的には全然大きなものではない
三好の税制や都市政策は詳しくないが
織田政権でも摂津富田、河内の久宝寺・富田林、大和今井、和泉貝塚あたりの
畿内の寺内町に対して諸公事免除や徳政除外の寺内町特権を否定してゆくのは
天正6年以降、すなわちかなり畿内支配が強まった時期以降はじめて可能だった
それ以前にしかも本願寺と融和的だった三好がこれらの寺内町に課税できたとは思えん
永禄11年の信長上洛後〜天正元年の義昭=織田政権の時代の税収に関しては
幕府御料所の税、京中地子銭・座役の徴収、畿内の関銭徴収権、臨時の税賦課権
寺社領没収の権限
これらは幕府の財源であって織田の懐には入っていない
弘治年間に義輝・晴元ともに京から追放していた5年間はともかくとして
三好時代にはこれらの課税権を幕府じゃなく長慶が握っていたのか?
三好家の収入が莫大であったと想像できる材料はいくつか挙げられます。
まず商業税や軍事税に関しては当然徴集しています。
資料だって天野氏などの著書をあたればでてきます。
三保関からの関銭?が500貫で多くないと言いますが
1貫は個人の年収レベルの金額に当たり決して小さい額ではなく
美保関に関しては最盛期には関銭だけで5000貫を超えたといいます。
さらに商人からの運上もあったでしょうから
そのアガリは土地収入と比べてやはり莫大なものだったといえます。
当時繁栄を極めた堺と強固に結託した三好家の得る収入も推し量れませんか?
礼銭という言葉から過小にとられがちですが
畿内および大阪湾の流通を掌握した三好家が
座特権や都市特権を保証する見返りとして受け取る礼銭や
領海の通商を保証する見返りとしての礼銭は多額だったでしょうし
幕府への礼銭は実務を司る三好方に多くが横領されたでしょうし
訴訟を裁許することの礼銭もバカにならない額だったでしょうから
これらを合わせるとやはり莫大な額になったでしょう。
三好家が支配地域で寺内町や惣村の一部を特権化し自治を任せることもありました。
これは産業振興による領地の富国強兵に有効であったし
行政を相応分担させることでコストを削減しつつ徐々に政権へ取り込むなどの意味もあって
信長を含め他の大名でも普通にやっています。
都市に自治を認めたからとその都市が独立国になるということではなく
領主の保護を受けるために相応の課役に応じるのが普通です。
領内の都市に特権を認めることが権力基盤の弱さの根拠とみなすことは完全に否定はしませんが
それは一面的な見方であってより俯瞰的な視点で時代的背景と畿内の社会的状況と
その中での三好家と個々の都市との関係性から時系列を追って考えられるべきです。
畿内の都市を統治するにあたっては後の信長のように畿内に地縁のない
強大な軍事基盤があれば強権で支配介入することもできたでしょう。
しかし信長は堺では成功しましたが尼崎や大坂・貝塚などでは失敗して大戦になりましたよね?
戦になればその出費は莫大、都市を焼き討ちをすれば悪名を被り統治は難しくなります。
三好家は軍事力一辺倒ではなく堺や尼崎の商人との経済的紐帯や教団コネを活用して
同盟関係を深化させつつ徐々に畿内と東四国沿岸の流通全体に強い影響力を浸透させる方法をとっていました。
ウィンウィンの関係で互いの信頼を高めつつ
権力闘争の勝利から得られる三好家への求心力の増大を活用して
信長政権と比べてはるかに小さい力で短期間で畿内をまとめ上げた実績は
現実的で優れたものと評価できると思います。
167 :
日本@名無史さん:2014/07/01(火) 19:49:01.09
すぐれてダルい
168 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 12:09:19.54
換言すればすべて想像上の理屈の産物にほかならない。
169 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 10:54:38.84
>>169 肖像画に基本的に似てる…なのに微妙に何かが足りないような?
なんだろうな、この長慶眠たそうな感じがする
微妙にそのへんの大阪のおっちゃんっぽい残念長慶っていうか
>>98 それは只の差出検地で何処の大名も例外無くやってる
三好も当然やってる
ならいつどの分国で三好がどの規模で差出検地やったのかソースどうぞ
どんな大名でも例外なく差出検地ならできるとかそんなことあるわけない
毛利は検地したくても本貫の安芸では国人領主の権限が強すぎてずっと
できなかった。周防・長門は征服地だからかえって検地できたくらい
>>173 横からだけど1550年に摂津渡辺庄(大阪市)百姓に
差出を命じている文書などいくつかあるようです。
検地の前から為政者は古くは検田、下って検注と
荘園(領地)の土地把握に努めているわけで
その帳簿を提出させる差出自体はその延長で珍しくないです。
毛利家で安芸の国人領主が差出に抵抗するのは
帳簿を差し出すということはつまり
もともと同格であった国人が毛利に従属臣従することになるんですから
毛利の台頭以前から領地をもつ国人が抵抗するのは当たり前のことです。
これは領主権力の弱さがどうという問題ではなく「道理」の問題です。
175 :
日本@名無史さん:2014/08/10(日) 09:38:11.74
三好か3代にわたる堺との関係は重要だし資金源でもある。
だが統治は室町幕府を踏襲だろうな。一つ戦国大名として大きく違うのは
反旗を翻した領主に寛大であったと言うことだろうね。ほとんど落城させた
領主を殺してない。あだ討ち以外はね。信長とは反対の性格と容易に類推できる。
ところで三好宗家が滅亡で全員死亡だが子孫がいるという疑問で、佐久間信盛の信長
の追放が関係してると見ていいだろう。
三好義継は切腹だが妻子は将軍の妹で逃がした。だがこれが明智光秀の甘言で信長の命令
違反が露呈したが織田家最大の功労者の佐久間を処罰できずに追放と見る。
三好宗家の恩人は佐久間信盛の可能性が高い。
織田家筆頭で最大勢力だったが明智の陰謀で排除され変わりに近畿最大勢力となっ
た明知が本能寺をやらかすんだな。信長の急成長で中央集権制を高めた時に
命令違反は重罰だが新興家臣の手前仕方ない処置。織田家は信盛死後直ぐに息子を
召抱える。
177 :
日本@名無史さん:2014/08/28(木) 23:11:01.13
>>178 阿波の地域的な郷土意識を投影するにはあまりにも畿内志向すぎ
畿内の人間にとっては三好は外からきて比較的短期間に去っていった
数多くい勢力のひとつ。なのでこれまた地元の殿様感はない
というか三好時代はほとんど忘却の彼方
このあたりの半端さが知名度・人気的に三好の難しさだと思う
毛利元就とかお隣の長宗我部元親みたいに国人→地方統一ストーリーの方が
わかりやすいし、地域的な英雄として後世でも人気があるのはよくわかる
畿内地元民だけど三好長慶に関しては
長く治世の名君として語り伝えられて遺徳を偲ぶ事績は
北摂周辺には結構残ってる(た)んだよ。
ただ大坂にはその後太閤秀吉という超弩級の怪物が君臨したので
どうしても目立たなくなってしまうんだわ。
治世の名君っていっても長慶が裁定した水争いで
勝った村が三好に感謝して祀ってた事例くらいだろ
あれ負けた方の村はその後ひどい水不足で苦しむ羽目になったので
勝った村の住民と昭和になっても口聞かないくらい険悪だったんだぞ
勝った村はいいけどさ。別に名裁きじゃないだろ
このスレは経済政策・内政から内在的に三好政権の成立を考察する人が多くて
勉強になるんだけど、そういう中長期的な内政の実効性は別にして
三好が畿内を制覇できた最大の理由は当時の畿内近国の軍事的なバランスから
わりと簡単に説明できるんじゃないかと思ってる
要するに長慶の時代は畿内とその近国に三好同族連合(阿讃淡+摂津)以上に
動員力ある大名家が存在しなかったってことだけど
・北畿の細川京兆家、南畿の畠山家がともに分裂・衰退して中小国人が割拠
畿内に一国単位でまとまった勢力がそもそも存在しない
・周囲も西国に一時上洛志向を強めた尼子がいたくらいで
伝統的に畿内情勢に影響力をもっていた播備作の赤松(浦上)が分裂・内乱
・畿内情勢に関与する力と意思があるのは南近江の六角くらい
と天文〜弘治年間の状況は三好の台頭にとってすごく恵まれた状況だった
それが永禄年間もおわりに近づいて全国各地で地域的な戦国大名の統合が進み
2・3カ国以上の所領をもつ大名が畿内近国でも現われるようになると
だんだん三好のもってたアドバンテージが相対的に失われてしまい
最終的に織田に負けちゃうって流れだと思う
>>179、180
越水城は城址としてもほとんど遺構が残っていないし
いまは完全に住宅街になっているので
小学校に「城があった」という石碑ひとつあるだけで
三好の事跡は時の流れのなかで完全に風化してしまったかんじ
むかし三好長慶がいたことを90%くらいの西宮市民はおそらく知らないと思う
畿内にやってきて以来長慶が一番長い時間を過ごしたのは
芥川でも飯盛でもなく越水だったのに
三好以前のもともとの越水城城主だった国人の瓦林(河原林)さんの方が
まだ地名で残ってるだけ街の記憶にとどまってる
今なら荒木村重の方が大河ドラマ効果で長慶より知名度あるかも
三好好きとしてはかなしい
>>180 でも秀吉が地元の殿様ってかんじもあまりしないかも??
豊臣家の直轄領だから秀吉=殿様であってるし不思議な気もするけど
もしかしたら三好家や豊臣家より、門前町として
西宮戎神社の方が街の発展にずっと影響大&馴染みがあるからかもしれない
>>181 そのことではなくて大阪市には何カ所も長慶の遺徳を偲んで建てられた祠や神社
長慶からの免税特権に感謝して始められたお祭りなんてのも残ってたの。
バブルと関西大震災後の再開発で多くが失われてしまったけれど。
三好長慶はて山城や摂津では為政者とし評判がよかったようです。
根拠の一つとしては三好が都を支配していた間は
それ以前は連年猛威をふるっていた土一揆が起こっていません。
一度だけ土一揆が起こっているのですがこれは久米田の敗戦後に
一時的に都から撤退した三好方の呼び掛けに応じて
三好と入れ替わりに上洛した六角方に襲いかかっています。
そのため六角は摂津へ兵を進めることができずに教興寺の戦いでの逆転を許してしまいました。
三好に代わって畿内の覇者となった信長も摂津の一揆との闘争に10年以上を費やしています。
権威や軍事力にも容易に屈しない摂津・山城の領民が三好には服したという事実から
三好長慶を治世の名君と呼んでも過大評価とはならないかと思います。
いい意味でも悪い意味でも三好は宥和的・漸進的で
いい意味でも悪い意味でも織田の畿内支配はラディカル
長期的には信長は畿内の流通・経済の拡大に大貢献したのは事実
短期的には在地社会の反発は大きいし流血も多かったわけだけど
織田の畿内支配がラディカルって・・・どちらかというと復古主義的だと思うけど。
虐殺=急進派ってイメージなのかな?
三好長慶は大虐殺こそしないけど下剋上の申し子、乱世の梟雄だよ。
逸話ベースで教養人だとか保守的・穏健というイメージがついちゃったみたいだけど。
自勢力よりはるかに強大でヤバい勢力を相手にして20余年で畿内を平らげたんだから
尋常じゃない怪物なのに、ザコを相手にしただけって思ってる人が多いもんなあ。
>>186 「復古主義」「乱世の梟雄」「ヤバい勢力」「ザコ」「尋常じゃない怪物」
とかそれこそまさにイメージとレッテルだけで語ってるじゃん?
意味ないじゃん?
>>187 だからなに?
どのように書くべきか見本を示してくれる?
>>188 上にいっぱいあるじゃないの?
具体的な数字や制度なりをあげつつ論じてるレスなんて
>だからなに?→馬鹿なの?
>>189 それを読んだ上での感想も込みで書き込んでます。
何かおかしいこと書いてる?
反論があるなら具体的にあげてくれない?
「復古主義」的
将軍を擁して上洛してるし幕府との関係がこじれるまでは現状追認主義だったこと。
「乱世の梟雄」
裏切りや謀反を繰り返し将軍や晴元を実力で追放しその領地や権力を奪い取ったことから。
「ヤバい勢力」
将軍家や両管領家や六角・一向宗に国人一揆って十分やばい勢力だと思うんですけど。
長慶自体何度も窮地に立たされてるし。
「ザコ」
ではないって言ってます。
「尋常じゃない怪物」
管領家の一被管から畿内を治めたんだから怪物っていってもいいんじゃない?
江戸時代初期までに成立した書物は、長慶を名将として礼賛しているものが決して少なくなかった。
徳川幕府による統治がが安定して将軍家を頂点とする縦の身分秩序が規定概念化してくると
三好家のように水平的な身分秩序を限定的とはいえ容認していた政権の記憶は
公には忘れられていく運命にあったんでしょう。
194 :
日本@名無史さん:2014/09/23(火) 08:42:52.84
長慶が認められると相対的に信長の評価が落ちそう
長慶が久秀、信長が光秀
似てる部分もあるね
>>194 どういうこと?
久秀は最後まで忠実な部下だったじゃん
197 :
日本@名無史さん:2014/09/25(木) 19:56:01.80
三好孫七郎はどう?のちの関白、豊臣秀次だよ
真田十勇士にも三好兄弟がいるし
もっともっと評価されるべし三好氏
199 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 20:21:53.98
>>198青海入道の事か入道は入道でも三好笑岩入道と被るな
200 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 19:18:24.67
三好政権崩壊で土佐の長宗我部が台頭か
>>198 秀次政権が盤石だった場合、三好一門も大名復帰出来たのだろうか
というか江戸時代には、秀次の娘と真田幸村の末裔は、
秀次を偲んで三好氏を名乗ったらしい。
家紋は真田六文銭の半分で三文銭を使ったらしい。
203 :
日本@名無史さん: