【初心者】スレッド立てる前に質問をPart32【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
>>1乙
>>905 征夷大将軍が持ってるのは軍の指揮権
軍を率いるなら食糧の徴収なども出来るだろうと
どんどん課題解釈していった結果が幕府なので名目上王権は持たない
まあ王権を支える「権門」の一つだわな幕府は
摂政は王権を持ってるかな
関白は決定権が天皇にあるから王権は持ってない
それ王権じゃなくて主権じゃん
個人的立ち位置で王権がどうのこうのなんていうなら王権の定義をちゃんとした方がいいんじゃない?
養子・養女の親は、養父と養母
猶子の親は、何と呼ぶ?
秀吉から見て、近衛殿は何と呼ぶ?
猶女っていませんね。
幕末の頃にアメリカのトップ=プレジデントの言葉が入って来たと思うのですが、
どういう経緯で大統領という言葉に訳された(名付けられた?)のでしょうか?
9 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 13:50:35.73
日本史において、著名、高名な仏教の僧侶は何人もいますが、神道の神主や宮司はあまり思い浮かびません
これは何故ですか?
また、かつて信長は延暦寺や石山本願寺をガンガン攻めましたが、
畿内近辺の大きな神社は攻められなかったのですか?
よく寺社勢力とか寺社奉行のように寺と神社をいっしょくたにする言葉があるので
江戸幕府の関係者で明治以降も政府・政界に残り続けた人物の中で
一番最後まで生きていたのは誰?
>>10 「江戸幕府の関係者」にどの辺までが含まれるのかにもよるけど、幕臣では
榎本武揚が1908年没、大鳥圭介が1911年没、林董が1913年没
この辺かなぁ
もっと遅くまで生きてた人もいるかもしれない
ちなみに函館政府で松前奉行を務めた人見勝太郎って幕臣が1922年まで生きてるけど、
「政府・政界に残り続けた人物」とはちょっと言い難い(一応、茨城県令って経歴もあるけど、
その後は実業家になった)
あと、政界に残り「続けた」とは言えないが、徳川慶喜(1913年没)自身が、1902年〜1910年に
貴族院議員で政界に復帰している
その慶喜から徳川宗家当主を継いだ田安徳川家出身の徳川家達が1940年没
貴族院議長なども務めた人だが、彼は明治維新の時まだ5歳ぐらいだったから、さすがに
幕府関係者と言えるかどうか
あ、あと、幕府の関係者と言えるかどうかわからないが、新撰組の永倉新八と
斎藤一がそれぞれ1915年まで生きてる
9の補足
仏教の場合、新しい宗派を興した僧侶は後世に名を残してるケースが多いですが、
同じ宗派でも、例えば浄土真宗なら親鸞、蓮如、顕如など複数の僧侶が名を
残しています
しかし、神道に関してはあまり名を残した高名な宮司、神主が思い浮かびません
また、古代〜中世においてお寺同様に神社も大きな勢力を持っていましたが、
信長をはじめ大名と揉めたような話はあまり聞いた覚えがありません
この辺、詳しい方ぜひお願いします
116 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2014/02/18(火) 21:22:30.10 ID:Ji9Wjg+M
日本史において、著名、高名な仏教の僧侶は何人もいますが、神道の神主や宮司はあまり思い浮かびません
これは何故ですか?
また、かつて信長は延暦寺や石山本願寺をガンガン攻めましたが、
畿内近辺の大きな神社は攻められなかったのですか?
よく寺社勢力とか寺社奉行のように寺と神社をいっしょくたにする言葉があるので
125 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2014/02/18(火) 21:39:16.30 ID:Ji9Wjg+M
>>120 レス、ありがとうございます
昔は神仏習合で仏教と神道が混ざっていましたが、それでも
延暦寺や本願寺とは別に神社として伊勢神宮や下賀茂神社、
上賀茂神社など有力な神社がありました
でも、信長が神社を攻めたって話は聞かないですね
また、日本史において、著名、高名な神主、宮司って聞かないですよね
僧侶は最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、蓮如、その他いろいろ
思い浮かびますが
>>13 >信長をはじめ大名と揉めたような話はあまり聞いた覚えがありません
諏訪大社(上社)の大祝(おおほうり)の諏訪氏(諏訪頼重)が武田信玄に攻められたり、
阿蘇山にある阿蘇神社の大宮司である阿蘇氏(阿蘇惟豊)が大友氏や相良氏や
その他の豪族と合従連衡して争ったり、宗像大社の大宮司の宗像氏(宗像氏貞)も同様に
戦国大名として活躍したりしている。
>>13 >しかし、神道に関してはあまり名を残した高名な宮司、神主が思い浮かびません
室町時代に吉田神道という宗派を創った吉田兼倶という人がいる。朝廷や幕府に取り入って
吉田家を神道界の家元的な立場に仕立て上げて全国の神社を牛耳っていたらしい。
勝海舟や高杉晋作に比べると榎本武揚の知名度がイマイチなのはなぜでしょうか?
行動のスケールといい、実績といい、榎本の方がずっと凄かったように思えるのですが
>>15 ありがとうございます
神道の存在自体は決して仏教に劣るものではないと思うのですが、
歴史的な部分で見るとどうしても仏教に比べてマイナー感を覚えます
実際はどうなんでしょうか?
18 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 02:00:18.08
ほんちすいじゃく でググれ
>>9 仏教はそもそも外来の宗教で、学問的要素も強いから研究、布教という面で名を残しやすいだろう。
また政治権力に保護されたり、あるいは弾圧されたりといずれにしても政治的側面でも登場しやすいとも言える。
神道はある意味日本が出来た時から存在している、宗教というより信仰、慣習と言ってもいいもので
その世界観はアニミズムや神話信仰から成り立ってる部分が強いから、教義や経典、教祖、開祖といった
他の宗教では一般的な要素がない、あるいは少ない。
また、朝廷の儀礼や祭祀として朝廷が存在した時からその「まつりごと」の重要な要素を占めており、
特定の氏族(中臣氏)や家(白川王家など)や公的な組織がが専門に携わってきたという側面もある。
神社の神職自体基本的に世襲であり、個人よりも家が祭祀を伝えていく、ということに重きが置かれている。
さらに言えば神事、祭礼、儀礼は先述したように朝廷の大事な要素であったから
その研究は神職という神社の管理者だけでなく、天皇や公卿が率先して研究している。
いわゆる有職故実研究だが、順徳天皇や一条兼良、北畠親房などは有名だろう。
したがって個人というレベルで貴殿の仰る「著名、高名」な神職が少ないのも無理は無い。
とは言え、神道を従来の立ち位置ではなく、違った形(反本地垂迹説とか伊勢神道とか)で伝えようとした人物、
例えば渡会家行や吉田兼倶のような著名人もいるし、江戸後期になると国学や尊王思想隆盛を背景に尊王運動に身を投じた真木和泉のような神職もいる。
そもそも貴殿は仏教と神道を同列の宗教的枠組みで捉えられているようなので、
そういう側面で「空海」や「最澄」のような高僧が出現した仏教と、大した有名人のいない神道という見方になるのも無理は無い。
キリスト教を例に出して言えば分かるかもしれないが、外来してわずかで教科書レベルの宣教師が何人もいるし、
キリシタンとなった日本人としてご存知の人物も多いかと思う。
つまりキリスト教も外来の宗教で、その概念を浸透させるには目立った活動が行われるのも当然で、
そういった活動は名に残しやすいものだ。
>>17では「マイナー感」という言葉を用いてるが、それは仏教と神道の性格、歴史によるということだ。
もちろん
>>18の言う「本地垂迹思想」もその背景にはあるだろうが、
そもそも並行した宗教的概念として単純比較することは無理があると思った方がいいのでは。
長崎のオランダ商館館員って本国政府外交官にとって出世コースなの?
それとも太宰権師みたいな左遷先扱いなの?
>>18 本地垂迹説は仏陀(本質)が日本の神として日本に現れた(現象)って話ですよね
本質である仏陀(仏教)のほうが格上だという・・その影響はあるでしょうね
>>19>>20 詳しい説明ありがとうございます
神道は宗教というより農耕儀礼や生活慣習としての側面が強いことは理解してるつもりです
その辺の仏教との差がいろいろと影響してるのでしょうね
ところで、浄土真宗では開祖の親鸞に匹敵するほど中興の祖として蓮如も有名です
たとえば、伊勢神宮の遷宮は古代よりずっと受け続けられてきましたが、
戦国期に中断し、江戸時代に百数十年ぶりに復活をしました
その復活した時の伊勢神宮のトップなんかは中興の祖としてもう少し後世に
名を残してもおかしくないんじゃないかと思ったりするんですが、如何でしょうか?
また、有力神社では戦国期に寺院の僧兵のような存在はいなかったんでしょうか?
神社の武装化とか・・
また、質問ばかりで恐縮ですが、時の権力者のブレーンになった名僧はいますが、
同じようにブレーンとして活躍した神職はいたのでしょうか?
>>22 その本地垂迹説に対抗して、逆に神が本地であるというのが伊勢神道や吉田神道などの
反本地垂迹説です。神道業界では支持されたけど、一般人には知られていない。
つまり一般人はどっちが本質とか気にしてないという事です。
つまり名を残すべき人が居ない訳ではないけど、誰も気にしてないから残らないという事だね。
>>23 ありがとうございます
本地〜の方が日本で多数派になったのは仏教が外来だからですかね?
また、伊勢神道や復活神道など、神道の中で新しい流派(学派?)を興した人は少ないので、
相対的な意味では名を残しやすく感じますが、仏教で流派を興した僧侶に比べて、やはり地味な印象ですよね
明確な教義を持つ仏教に対し、神道は全体的にフワッとした曖昧さが漂うのも理由なのかも
明治ころのお雇い外国人たちは、自分の国の思惑や利害などに関わりなく、
(給与や待遇などの)個人的な理由で日本に来ることができたんでしょうか?
26 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 20:55:45.36
鎌倉時代の僧侶の袈裟って麻ですか?絹ですか?
>>24 >本地〜の方が日本で多数派になったのは仏教が外来だからですかね?
そもそもは仏教側が神道を取り込む為に考えだしたのが本地垂迹説です。
その結果神仏習合と呼ばれる神も仏も一緒くたの信仰形態になった。
その状況で仏教勢力に飲み込まれるのを良しとしない一部の神道勢力が巻き返しを図って
反本地垂迹説を作り上げた。でも大衆にとってはそんな事は既にどうでもいい事でしかなかった。
それは多分、大部分の神職に取っても同様だったので神道側の動きは地味なんじゃないでしょうか。
元々、仏教は理屈を重視するけど神道は曖昧に隠しておくのが流儀という事も影響してるかも?
よく能は時の権力者に保護されたって言われますが、これは権力者が能の従事者に
経済的な支援を行ったり、能を広くアナウンスしたりしたってことでしょうか?
現代でもこれと同じようなニュアンスにおける「時の権力者が保護」してる分野って
何かありますか?
>>22 あなたはどうしても神社と権力者を戦わせたいようだww
先述にもあったがなぜ「賀茂社」や「神宮」を攻める必要があるのか?
と考えればおのずと答えが見えるのでは。
>>22 >有力神社では戦国期に寺院の僧兵のような存在はいなかったんでしょうか?
神社にも神人(じにん、じんにん)という武装した神職がいました。
また、諏訪氏や宗像氏のような神社をルーツとする戦国大名もいくつかあります。
織田家だって織田神社の神官出身だしな
>>25 軍人の場合は、まったく国とかかわりなくってわけでもないだろうが、
民間人の教師や技術者に関してはほぼ自由でしょ
道鏡のちんぽってでかかったの?
あんたのよりは大きかったでしょうな。
秀吉が陪臣に羽柴でなく豊臣の姓を与えたりしてますが、単に面白がって与えただけですか?
姓ではなく氏だね。
手っ取り早く豊臣を増やしたかったんだろ
38 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 01:39:42.12
昔の人はキレやすいタイプが多かったと思う。
食べ物のせい?
39 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 08:10:37.19
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟ i
`. `Y.. / ー-' ヽ '.
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
`Y´ /::::::://:::/:::::| >< /:::丁´:::::::::::::V゚}∩ * ボク、ジャムリンは
/::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
. /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::} っ ウィキペディアに悪意に満ちた編集・加筆してます
//:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧ , ィ´
/:::::::::::::::::::::/::::::::\::! /:::::>'´::::::::/::::/:::い.ノ):〉 日本史板も荒らし回ってます
!:::::::::::::::::::/:::::::::::::::::ヾ厶イ:::::::::::::/:::/:::::::ヽノ:/
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日露辺りの日本軍の陸軍省、海軍省に女性が全体のほんの少しだけ含まれているのですが
事実上の慰安婦だったのでしょうか?
電話交換手、お茶くみ色々仕事あらーな。
特に声を使う仕事は通信性能の悪い当時女性の方が聞こえが良かったし
エロへの興味の止められない思春期みたいな質問が多いな
前に何かで見た先が螺旋状になってる剣(サーベル?)で切った時の殺傷能力より肉をえぐることによって細菌感染させることも目的としてる剣の名前わかる人いますか?
この板で訊いてるってことは、日本の剣?
マンガやゲームに出てくるのじゃなくて?
聞いたことがないな……
「安政の大獄」って言葉がありますが、大獄なんて仰々しいですよね
もっと普通に「安政の弾圧」とかでは駄目だったんですか?
それと、いつ頃から「安政の大獄」と名付けられたのですか?当時からですか?
鎌倉時代と戦国時代を比べると、ずいぶん米や鉄の生産量が変わり、通商網も発達しています
ということは、間の室町時代になにかがあったということになりますが、室町時代に何があったのでしょうか?
室町時代の通商や経済について、かいつまんで教えて下さい
室町幕府は畿内の外への影響力が小さく、脆弱なイメージしかありませんでしたので……
五一五事件とか二二六事件は
もっとわかりやすい、気の利いた名前にできなかったのだろうか?
911テロ、311震災 今も一緒
同時多発テロ
東日本大震災
一緒じゃねえじゃん
100年後にどちらの呼び方が残ってるか確認しないと同じか分からない
>>49 「同時多発テロ」じゃ、911事件のことか、ロンドン同時爆破事件のことか、地下鉄サリン事件のことか
区別つかないじゃないか
東日本大震災
は認めちゃいましたね
も一度来たら変わるさ
どうせ、またすぐ次のが来るし
55 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 21:18:02.98
こんな話ご存知でしょうか?
時の帝が宮中から市街を眺めている。食事時だというのに民家からは炊事の煙が出てこない。食糧難で
炊事ができないのだ。
帝は税の減免を実行した。
何年か後、市街から勢い良く炊事の煙が立ち上るようになった。帝はわが政策が成功したと喜ぶ。
皇后「おかげで国庫はすっからかんですけどね〜。」
天皇「大丈夫、国民が元気になればすぐに国庫も潤うさ。」
大体こんなお話。
史実でしょうか?だとしたらどの天皇の話でしょうか?
天皇が直接政治を取っていた時期の話だとは思いますが。
仁徳天皇
新古今和歌集に収められた仁徳天皇の歌
「高きやに登りて見れば煙立つ、民の釜戸は賑わいにけり」
この歌の話だね
多分中国の故事じゃないのかな。
そっち板の方が詳しいかもよ
>>36 諏訪氏や宗像氏は古代豪族・古代からの領主から由来して近世まで存続した家だからな。
大王家(天皇家)が祭祀を司ると同時に軍事力も持ったのと同じだ。
ゆえに「神社だって武装した」という事例としては特殊と言わざるを得ない。
賀茂社や神宮を攻撃する必要があるのか?という一文とは矛盾することはないと同時に、事例が微妙に違う。
神人なんちゅうのは寺院がおのれの財産を守るために僧兵を抱えたと似たような事例だが
この辺は神社の武装化、と言うより神社に隷属していた人間がその権威を借りて時に狼藉を働いた、と考える方がよくて
戦国期の本願寺などのような権力に対抗できる武力とはとても言い難いものだ。
つまり僧兵のような存在はいなかったのか?という問いに対しては
>>30の言うとおりだが、
質問者が拘泥してる「例えば信長は本願寺や比叡山を攻撃したのになぜ神宮などを攻めることがなかったのか?」
いう問いには
>>29になるわけで、矛盾はしていない。
>>36 諏訪氏や宗像氏は古代豪族・古代からの領主から由来して近世まで存続した家だからな。
大王家(天皇家)が祭祀を司ると同時に軍事力も持ったのと同じだ。
ゆえに「神社だって武装した」という事例としては特殊と言わざるを得ない。
賀茂社や神宮を攻撃する必要があるのか?という一文とは矛盾することはないと同時に、事例が微妙に違う。
神人なんちゅうのは寺院がおのれの財産を守るために僧兵を抱えたと似たような事例だが
この辺は神社の武装化、と言うより神社に隷属していた人間がその権威を借りて時に狼藉を働いた、と考える方がよくて
戦国期の本願寺などのような権力に対抗できる武力とはとても言い難いものだ。
つまり僧兵のような存在はいなかったのか?という問いに対しては
>>30の言うとおりだが、
質問者が拘泥してる「例えば信長は本願寺や比叡山を攻撃したのになぜ神宮などを攻めることがなかったのか?」
いう問いには
>>29になるわけで、矛盾はしていない。
61 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 02:07:40.57
天皇家の菊の御紋はいつから使われてたのですか? 一族は菊紋は使えないのですか?
個人の印として用いたのは後鳥羽院が最初。
その後も鎌倉期の複数の天皇が印として用いたことでそのまま皇室の印として慣習化した。
一族とは?
宮家のことを言っているのであれば菊花紋をモチーフにした独自の家紋を使用していますが。
>>62 逆に言えば、後鳥羽院までは天皇の印は何もなかったということでしょうか。
ありがとうございました。
64 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 05:07:01.68
すいません質問失礼します。
日本の律令国は京都に近い方から備前→備中→備後のように
前(中)後になりますよね。
なぜ陸前→陸中→陸後ではなく陸前→陸中→陸奥になるのでしょうか。
昔は東北一帯が陸奥と呼ばれていたときの名残ですか?
それとも開拓が進み、陸奥エリアがどんどん狭まり、最終的に残った場所を
今まで通り陸奥と呼んだのでしょうか。
自分で調べた限りではわかりませんでした。
よろしくお願いします。
>>55 『古事記』『日本書紀』に記述されてるエピソードだが、史実かどうかというのなら、かなり
うさんくさいとしか……
ちなみに、少年時代の昭和天皇(当時はもちろんまだ天皇ではなく皇太子)が授業でその話を
聞き、そんなに食糧難だった原因は、天皇が戦争ばかりしていたせいではないだろうか?
という可能性を指摘して、先生も返答に困ったそうな(そんな指摘、戦前では皇室の人間しか
肯定できねーわな)
67 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 11:09:37.69
後鳥羽が菊を始めたってのは意外と知られてないから
電波系のサイトが間違えたりしてるのよな
イスラエルには菊の紋章がある。これは皇室と同じものであり
古代日本にユダヤ人が来ていたことの証拠である!みたいな
68 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 19:49:09.84
切腹の武士道って何時代から始まったのですか?
高松城の戦いの折、清水宗治の水上での切腹があまりにカッコよかったから、、、とかの意味じゃなくて?
切腹や武士じゃなくて、武士道が絡んでくるからな
高松や鳥取は(e)わな
太刀を咥えて馬上から逆さ落ちとか、格好良くないし訓練しなきゃ無理そう
72 :
55:2014/02/24(月) 20:48:39.58
皆さん、レスありがとうございました。仁徳天皇でしたか。
かつては将軍や時の権力者、政治リーダーが暗殺されたりすると
「〜の変」「〜事件」と名付けられましたが、いつのころからか
暗殺されても特に「〜の変」「〜事件」という特定の名称は付かなくなった
ような気がします
不謹慎な話ですが、もしいま安倍首相や野田前首相クラスが暗殺されたとしても
「〜の変」「〜事件」というような特定の名称はもう付かないのでしょうか?
事件とは名付けられるだろ普通
原敬首相や浅沼社会党委員長の暗殺って特に「〜事件」って名付けられてないんじゃないですか?
「原敬暗殺事件」や「浅沼稲次郎暗殺事件」と名付けられているじゃないか。
というのは置いといて、殺された人物じゃなく場所や日付で呼ばれるような事件って単独犯じゃなく複数による襲撃で、護衛の人なんかも犠牲になっているようなイメージがあるな。
「〜の変」って、今時だと、本来の暗殺やテロ、クーデターとかの意味ではなく、
比喩表現として、政党や企業、派閥などの組織やグループに対しての裏切りや
離反程度の意味で、週刊誌とかのマスコミが勝手に名付けて使うイメージ
何年か前、加藤の乱なんてものがあったけど、スケールちっちゃ!
79 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:43:10.30
80 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 20:37:36.89
義経ゆかりの地で
今現在行けるちゃんと観光地として存在しているのって
鞍馬、五条大橋、平泉、一の谷(須磨)、壇ノ浦、安宅の関ぐらいでしょうか?
静岡県の黄瀬川八幡神社 (頼朝との対面) 、屋島、鎌倉の満福寺 (腰越状)。
吉野の吉水神社。
北行や、御曹司島渡り等を楽しみ心があれば岩手とか青森北海道にも
五条大橋は位置が違うけどな
観光地ではないけど、滋賀県竜王町にある鏡神社は義経元服の地とされている
>>63 「菊花紋の初出は?」という問いに「後鳥羽院だ」と答えたまで。
五条大橋は特に観光地でもないが
戦前の昭和天皇の位置づけが非常に難しいです
戦前の昭和天皇は現人神として国民の前に君臨されていましたが、
それは国民をまとめる上での役割でもありました
口の悪い人は「天皇はお飾り、権力者たちの操り人形」とか
「優秀な官僚は天皇が実権を持たないお飾りだと知っている」
とか言います
しかし、張作霖爆殺の件で昭和天皇から叱責された田中首相は
総辞職の上、まもなく失意の中で亡くなりました
こういうエピソードを聞くと、昭和天皇はただのお飾りではないし、
権力者の操り人形とも思えません(現職の首相となれば権力者の上位でしょう)
昭和天皇も田中首相が失意の中亡くなったことをずっと気にされていたようで、
その後政治家に強く当たることはなくなったと言います
みなさんは戦前における昭和天皇(明治天皇や大正天皇も含め)の実際の位置づけを
どのようにお考えですか?
また、お飾りや権力者の操り人形という指摘についてはどう思われますか?
>みなさんは戦前における昭和天皇(明治天皇や大正天皇も含め)の実際の位置づけをどのようにお考えですか?
>また、お飾りや権力者の操り人形という指摘についてはどう思われますか?
ベルツは伊藤博文と会見した際、明治帝をマリオネットとする伊藤の仕草を著書に記述しているし
戦後先帝の御発言「軍部の意に沿わなければ退位させられていた」との御発言も恐らく事実だろう
とはいえ先帝は大戦中何度も軍の方針に容喙していることから鑑み単なる「お飾りや権力者の操り人形」ではないことも又事実
単純に他者を分類しラベルを貼ればその対象を理解できるという考え方はやめておいた方がいいね
ついでに言うと戦前の初等教育では神話から国史をはじめていたが、戦争中であっても高等教育では神話と史実を区別して教えていた
ようは、我我下層民の先帝にたいする感想も先帝や軍部の思いも一概には言えないし、ここで結論を求めたり、誰かの感情的なレッテル貼りを他者に押し付けるべきものでもない
まあしかし明らかな誤りってものはやはりあるだろう?
「戦前の日本人は誰も天皇なんて尊敬してなかった」「天皇が絶対的な権勢を振るい国民は妄信的に従っていた」
みたいな意見は明らかにどちらも間違い
答えを一意に決めるのは危険だが、ある程度の幅や広がりをもちつつ「この辺りだろうな」という実体は言えるだろうと思うんだが
前憲法下の天皇を語るには現在は生臭すぎるんだよ
濁ったフィルター越しにみえる「実体」とやらが学問的に何の価値がある
一寸話は変るが、某小説の影響か、元ゼロ戦乗りの証言が一部で持て囃されているが、生存者が僅少な時代になってからの証言より
雑誌『丸』に坂井三郎の記事が載る度に元同僚が「あいつはXXXでXXXな人間だった」と文句がくる時代の証言の方が俺にとっては信憑性がある
戦後半世紀、テニアン島では民間人への自決は強要されなかったと言われ続けてきたのに
関係者が殆ど死亡してからNHKが見つけ出した“市民の証言”なんぞに何の信憑性があるんだってこと
>89は何を根拠に検証可能だと主張するのか、その想いを開陳してくれないか?
>>90 自分で相矛盾する主張をしてることに気づいてないのか?
それは矛盾だというのなら君は君の論を
根拠を添えて述べればいいんじゃねぃ?
何を矛盾だと言っているのか、そんな短い文で君の読解力を読み解けるエスパーだと期待されても困る
吉水神社のHPは今時公式HPには珍しい手作り感に溢れてるな。
ここも不審火で燃えてる
北陸道はなぜ北陸道と名付けられたのですか
東海道、西海道、南海道とあわせて北海道では駄目だったんですか
>>87へのレスありがとうございます
追加ですが、明治の元勲で権力の頂点にいた山県ありともも昭和天皇の婚姻に口出しし、
国民から総すかんを食って晩節を汚したと言われています
このエピソードも一考の価値有りかと思います
97 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 17:14:12.31
64です
>>65さんのおっしゃる通り、調べ方を変えたらすぐ出てきました。
ありがとうございました。
98 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 18:42:13.86
日本には瀬戸内とゆー石産出にも運搬にも優れた大レーンがあったけど、
大陸とかは基本近所の山川からの地産地消?
中国の城址は土壁も多いみたいだし
ああん、まちがえた。
対馬では律令時代からずっと日本語が使われていて、租税も日本民族の領主が徴収していたので
高麗時代に韓民族が統治していたことはないです。
549 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2014/02/27(木) 08:17:56.97
熊本城は朝鮮人が作ったみたいな話はまぁ荒唐無稽だと思うが、戦の時に朝鮮の城壁を見て石垣の積み方なんかに影響を受けなかったということはないだろ
滴水瓦とかも大陸の影響だし、高麗門とかいう名前もあるし
558 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 22:01:57.67
文禄の役以降の日本の築城技術は、石を一様に加工し積み上げる方法へと発展し、その姿も三日月のような曲線をなすものへと変わっていきました。
熊本城がまさにその代表です。
築城に関しては、朝鮮で倭城を作ることによって熟練された手法が、逆輸入されたと言ってもよいとされます。
(鄭在貞(チェン・ジェジョン)ソウル市立大学教授)
熊本城築造は朝鮮技術者という話は、日韓交流事業に参加した韓国人学生が「熊本城は加藤清正の命令で、蔚山倭城の築城技術を持った朝鮮人技術者が築城した」
と歴史教育を受けていると発言した。
日本側にはそのような記録は一切なく根拠不明。韓国の一般学生がこの説に基づいた教育を受けたと証言している。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027562650 朝鮮の城壁が石を垂直に積み上げる手法だったので、上から攻撃可能な日本の石垣に注目が集まった。
朝鮮国王・宣祖(1552?1608年)は北方の城郭改修で、倭城の築城法を知る者の派遣を指示したとされる。太田さんがその具体例に挙げるのが鏡城城(現在の北朝鮮・咸鏡北道)。
1615年に古い城郭を撤去、翌年に石垣を積み上げ改修した。現在の遺構に勾配をつけた石垣を確認できる。竹州山城(韓国・京畿道)は1604年の改修で、史料に「倭制」に倣ったとあり、勾配をつけた石垣が残っている。
http://mainichi.jp/feature/news/20130511ddp014040005000c.html
>>101 ないよ。
その記事を読んでもよく分かるけど、「統轄していた」としているのに「現地の豪族に送った」と言っている。
ではその現地の豪族とはどこの民族なのか?
神社や寺に保存、としている時点で韓民族でないことは確かだが、にもかかわらず「統轄していた」としている。
その根拠も因果関係も必然性も全くなしに、「こうあったらいい→こうだったはずだ」という思考回路で
結論ありきの主張を平気で持ち出すのが韓国の学者の特徴。
学者でさえこの有り様なのだから、行政、司法、マスメディア、大衆が科学的根拠なしにあれこれ言うのも無理はない。
日本にある技術、遺物はすべて朝鮮由来だ、という結論(思い込み)があってそこから話を構築するから
仮に本当に朝鮮由来のものがあったとしても、対馬の話のように辻褄の合わない無茶苦茶な論を呈する
これが日本で言えば東大とかそういったクラスの歴史学者が平気で唱えるんだから
まともに歴史認識の話など韓国と出来るわけがない。
学問という純粋な領域において、嫌韓だの何だのそんなものは持ち出したくないが
中国の学者と違って客観的な分析、それこそ人文科学としての学問のフィールドでは
韓国の学者の殆どはそういう能力を持ちあわせていない。
能力というよりも、そうしないと発言出来ない環境が有る。その記事も好意的に解釈すれば
対馬にある朝鮮由来の文化財が現状ではすべて日本側が盗んだ物だという事になっている
のを否定するのが主眼かも知れない。
110 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 23:51:54.62
何で江戸時代以前の日本はあまり水道が発達しなかったの?
用水路とか上水とかは作ってたけど個々の家庭は井戸頼りだし
鉛害でググると幸せになれるよ
江戸時代当初は一部で木材による導水管も埋設されたが維持管理に幾らかかると思う?
現在でも水道水をそのまま飲める国は日本を除けば数カ国程度だというのに…
そもそも大都市でなければ水道は要らないだろう
114 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 17:36:43.35
鎌倉時代の武士も無礼な農民などに対して切り捨てしていたのですか?
理由もなく人を殺すやつはいない
鎌倉時代の武士は農民と共存してるしな
どんな時代でも無差別殺人なんかしたら、自浄作用が働くさ。
というか、江戸時代でさえ余程のことがなければ切り捨てたりできなかった。
ご老公ー
>>110 いわゆる水道と言ってるのは上水道であって上水と同じものを指してるんだよ??
だから江戸では既に発達していた。水位が地面より低い場所では井戸でくみ上げる
必要が有るだけの事。
女で名字帯刀の許可を得た人間は1人もいなかったの?
名字帯刀って、なに?
1542年以前に白人・黒人が日本に流れ着いた可能性ってあるの?
種子島は中国人の商船に同船していたポルトガル人が鉄砲を積載し販売したから歴史に刻まれただけで別に白人が初めて漂着した訳じゃないぞ
124 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 12:27:52.03
中国に交易で来たヨーロッパの商人が台風で漂着したとかのパターンかな?
鬼とか妖怪と間違われて殺された人間もいただろうし
何とか同化して日本に住み着いた人間もいたかもしれんな。
文献が無いから想像の域を出ないが
居た。。ってだけなら飛鳥時代にもう記録に残ってる。
漂着した記録はない
唐にはソグドが大勢住み着いていたらな。
使節船を使って日本にも来ていたようだ。
「白人」の定義がわからんが、胡人や波斯人なら昔からいたし
蘇我氏にはペルシャ人の血が流れていて、聖徳太子もペルシャ系との説もある
ついでに、「漂着した」記録なら日本書紀にある654年の吐火羅人じゃないかな。
記録に真偽はともかく
その吐火羅人については諸説あって、中国の史書でいう吐火羅人(=トゥハラ人)と同じとは限らないけどな
タイのドヴァラヴァティ王国という解釈が多いようだ
他に、九州のトカラ列島という説や、フィリピンのタガログ人という説も見たことがある
だから真偽はともかくの但し書きなんだ。
自分で調べて納得してほしい
イランやタジクの系統を白人とすれば、8世紀には日本に来ていたろう。
壁画に残っていたりするし。
134 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 22:10:23.22
ママ生きててごめんって感じ
イスラム教徒が日本に来たのはいつ?
戦国時代には来てないの?
136 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 00:27:17.98
徳川吉宗が設置した目安箱は吉宗死後も続いたのでしょうか?
それとも廃止されてしまったのでしょうか?
>>135 室町期に来ていたという説がある。足利義満に仕えた天竺人ヒシリ(聖)というのがイスラム教徒ではないかと言われている
家康なら「大御所」だとか、秀吉なら「豊太閤」、信長なら「上総守」「上総介」みたいに
色々と別称があるらしいことを知りました。
では、死後に彼らを指して別称する場合はなんと呼ぶのでしょうか?
死後数年くらいでも「家康公」みたいに、諱で呼んじゃうものなのでしょうか?
神君
東照大権現
から色々バリエーション。
日本では目上の人の名前を直接呼ぶことは失礼なことなので、お名前は基本呼びません
>>138です。回答ありがとうございます。
では、信長の死後の号は「建勲」でしょうか。無知ゆえに、この名で呼ばれているのを見たことがありません
>>140 ありがとうございます。では、「家康公」という呼び方が定着したのはいつ頃なのでしょうか
>>141 > 「家康公」という呼び方
書面上は家康が公卿成して、おそらく中納言くらいになってから。
言葉で呼ぶのは明治後
143 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 20:19:23.93
>>141 >信長の死後の号は「建勲」でしょうか。
その神号も明治以降みたいですよ。
信長なら死後は「總見院様」なんじゃねーの?
総見院じゃなくて総見院殿じゃね。武家には院号はくれないから院殿号の筈。
諱について質問です
時代劇では登場人物を呼ぶ際、下の者でも上の者の諱を様付きで呼ぶことがよく描かれています
例) 羽柴秀吉が織田信長を「信長様」と呼ぶ
これってありえないですよね?
それともう1つ
本能寺の変に明智軍の一員として参加した者の記録「本城惣右衛門覚書」を見てみると
「信長様」「家康様」という記述が見られますがこんな下っ端が「諱+様」で呼ぶことなんてあったのでしょうか?
>>147 > 例) 羽柴秀吉が織田信長を「信長様」と呼ぶ
> これってありえないですよね?
ありえません。というかそんなことしたらその場で殺されても文句言えません
> 本能寺の変に明智軍の一員として参加した者の記録「本城惣右衛門覚書」を見てみると
> 「信長様」「家康様」という記述が見られますがこんな下っ端が「諱+様」で呼ぶことなんてあったのでしょうか?
この辺りややこしいですが当時、文書で書く場合、諱を書くのは尊敬表現の一つであったとされます。
(信長公記の信長表記、家忠日記の家康表記など)
>>148 なるほどありがとうございます
口語と文語は違うってことですね
時代劇の呼び名なんて視聴者に通じりゃいいと思うので細かいことは言わないけど
中国物歴史ドラマ観てると字諱が字幕で出てるの見て日本時代劇でもあーゆーので見てみたいなと思った
日本だと苗字のほか官や位辺りも字幕で出たら面白そうなんだが
源氏物語でも、諱は全く出て来なかったような
そういうものなんでしょう
>>148 「殺されても文句言えません」
てよくそう言うけど、殺されたら文句なんか言えないしってのはおいといて
なにを根拠にそこまで断定的に言えるのかな。そういう事例があるの?
「諱で呼ぶことはない」という慣習から勝手に昇華させた想像が固定化したイメージということはないの?
忌み名というか、堂兄・堂弟(同じ氏族の同世代の男)以外は、女の本当の名前を知らないという話はあるわな。
下記のメンバーが同時に存在した場合、どういう格付けになるのでしょうか?
・摂政の宮
・天皇の勅使
・天皇の名代
・天皇の臨時代行
・皇太子
てす
家臣が商人から借金してて国替えになる場合、借金はどうしてたんですか?
最近、ようつべにはやし理論がアップされ出している。
それを見た京都国立博物館の職員が焦って卑弥呼の魔鏡を発表し滑ってたなwwww
はやし先生は学会発表や学術誌に投稿せず、いきなり全世界にyoutubeで発表するという新たな手法でセンセーショナルを巻き起こしている。
ロングパスですな
162 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 17:05:31.51
徳川幕府って内部分裂とかあったんですかね?
仕組み的に起きてもおかしくない仕組みですよね。
幕末だと水戸家が反乱みたいの起こしてますけど。
御三家とか御三卿あると応仁の乱みたいのが起きてもおかしくないと思うんですけどね。
先代将軍の直系の跡継ぎがいなかったために誰が次の将軍に就くか争いになったことは何度かあるけど、どれも武力行使には至らず政治的に決着しているね。
徳川光圀が綱吉に犬の毛皮送ったり、尾張の宗春が吉宗の政策に逆らって城下で豪遊したり、
みたいなあてつけをするのがせいぜいだな
そのあてつけでさえ、かなりの危険がともなう(現に宗春は蟄居させられた)
幕末期は別として、幕府の力は強すぎて武力では一藩だけでは対抗できないよ
強いていうなら、由比正雪の乱の裏で紀州藩主徳川頼宣が暗躍していたって説もあるけど、
それ自体かなりあやしいし、もし仮に事実としても、御三家ですら自分の手は汚さない形でしか
幕府転覆の陰謀はできないってことを表わしている
御三家つーても水戸は継子だけどな
166 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 20:27:56.79
吉宗が御三卿作る時って御三家から反発はなかったんですか?
御三家側からすれば自分達の将軍になれる可能性がなくなるのだから
御三卿なんてのは承認できないと思うのですが。
あと家康の祖法にも背く事でしょうし。
>>166 紀州は吉宗が将軍になったおかげで分家から本家の当主に成り上がった立場なので
逆らうような事は無いでしょう。
尾張は宗春の件で吉宗に借りが有るから何も言えないでしょう。
水戸は御三家とは言っても元々ミソッカス扱いなので、他の二家が何も言わなければ
黙ってるでしょう。
>>162 政治的な関係は色々と有るけど武力を使えば叩き潰されるので反乱とかは無い。
御三家を始め、有力な大名には幕政の実権が無いので大した事は出来ない。
>>154 おそらくこんな感じ
摂政の宮>天皇の臨時代行>天皇の名代>天皇の勅使>皇太子
というか、質問おかしいだろ?わかんない?
>>162 継承の原則と、それを支える官僚システムがしっかりしていて、正統性のはっきりしている後継者を
立てられるなら、別に一族の藩や家が何家あろうと問題ない
むしろ宗家を支える藩屏として機能する
徳川幕府の御三家・御三卿は、別にかならずしも「内部分裂が起こっておかしくない仕組み」という
わけではない
また、「応仁の乱みたいのが起きてもおかしくない」というが、応仁の乱は、いったん定めた継承を
将軍自らひっくり返して継承者の正統性をあやふやにしたから起こったのであって、仕組みのせいで
起こったわけではない
171 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 20:27:44.00
日本にとって清が軍事的脅威と認識されたのは、いつ頃、どの様なきっかけからでしょうか?
明治初期になってからでしょうか?
それとも江戸時代には仮想敵国扱いされていたのでしょうか?
J・Fケネディやマーチン・ルーサー・キング、カストロなどが演説している映像を見ると
演説上手いなぁと思ったり、迫力あるなぁと思ったりしますが、
日本で演説が上手いとされている人物、もしくは皆さんが実際に映像で見て演説が上手いなぁと思われた人物を教えてください。
173 :
172:2014/03/07(金) 20:44:43.21
すいませんsageてました
J・Fケネディは演説上手いかなぁ…
「国家が何をしてくれるかではなく国家に何ができるのか」はヒトラーの演説(J・Fケネディの父親は親ナチ)だしワンフレーズは側近に吹き込まれたもの
ニクソンとのTV討論も、ラジオで放送を聞いていたジョンソン(後の副大統領)はケネディの負けだと思った程、討論も下手
TV放送でケネディ優位に見えたのはTV局が態とニクソンにマイクをぶつけてドジなニクソンを演出したり
当時の強烈なスタジオライトをニクソンに集中させることで汗をかかせ、視聴者にニクソンが劣勢だという印象を押し付けている
繰り返すが、大統領選を決定させたと言われるTV討論は、ラジオで聴いていたものとTVを見ていたものとでは勝敗の印象が逆
ワンフレーズが上手な日本人政治家は小泉だな
>>165 は? 水戸徳川家の初代徳川頼房は、家康の11男だぞ
その後の歴代藩主の中には養子による継承もあったが、それを言うなら尾張徳川家も紀州徳川家も
養子に継承されたことはある
御三家の中で水戸だけが継子ってのはどういう理屈?
鬼子と書いたら鬼なんかいるかよとぶちきれるの?
日本語を教えてくれというお願いなら口の利き方を改めなさい
横レスするが、お前が「水戸だけ継子」と書いたのが間違いだから、お前が悪い。
徳川頼房は英勝院の養子だが、実母は養珠院であって父親が家康である事に変わりは無い。
178 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 22:52:08.01
質問があります。
ソチ五輪が終わりましたが「日本人として日本のチームを応援する」みたいな
「日本人だ」みたいなナショナリズムのようなものは日本においていつくらいから
出てきたのでしょうか?
古代中世からあったのでしょうか?
それともまだ歴史は浅いのでしょうか?
世界史板で外国について同じような質問をしたところ
フランス革命ごろと回答されました。
>>178 日本人意識は古代にはもう存在してる。
あとフランス革命うんぬんってのも嘘だナショナルの範囲が違うだけで、ナショナリズムは古代からずっと存在する
>177
日本語が分からないなら分からないでいいんじゃねぃ?
>178
近代的ナショナリズムという意なら明治
郷土愛という意なら近世以前は旧国郡に対してであって日本国ではない
中世では日本国という認識が普遍的であるかという意なら
元寇の際に外交権の所在について、朝廷と幕府は意識したろうという程度
古代は支配者層と一般では素養に差がありすぎるから一概には言えない
つーか揚げ足とることしかできない>177のようなタイプが噛み付いてきてウザイ
>>168 摂政の宮>天皇の臨時代行=天皇の名代>天皇の勅使>皇太子
こうだろ?
自分の間違いを指摘されたら、日本語がわからないとか、揚げ足をとられたとかキレるようなやつが
学問板でなに語ってんだか
>>180の言うことはみんな聞かない方がいい
>>181 衛門系の役所の正四位の役人である勅使が、皇太子よりも格付けが高いというのも違和感あり。
天皇のメッセージを運んできた勅使と皇太子の意向が真っ向からぶつかったら、どうなるの?なんとなく勅使の方が強そう
ちんことまんこってどっちが偉いの?
186 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 21:38:01.04
新羅三郎義光は殺されたとの説がありますが、出典はなんでしょうか。
尊卑分脈には大往生人云々と書かれていますが、これ以前の史料に
義光没の記録が見つからないのですが、何を以て討たれたとするのでしょう。
>>186 義光に殺された源義忠の嫡男河内経国(河内源太)の事績を記した「河源記」という軍記物語に
義光を三井寺に討つと有るようです。
188 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 22:57:43.07
源義光て多くの名門武家の祖だからか美化されて
武勇に秀でた良いイメージあるけど
やってること基地外だな。
武勇に秀でて後三年の役の時は苦戦する長兄義家を助けに駆けつけたりもしているけど、
義家亡き後の棟梁の座を狙ってやらかしたらしい。
>>187 討った経国の事績を記した軍事物語を見落とすとは調べ不足でした、
ありがとうございます。
>>188 義忠義綱義明の他に自分が使った季方や鹿島三郎成幹まで殺していて、
始め調べたときはちょっと何考えてるかわからないという印象でしたね。
>>189 武術に長けて武道の法も伝えて、笙にも秀でてかなり有能なんですけどね。
優秀なDQNか
才能と人格は必ずしも一致しないのだな
吉田茂なんて人格的にはかなり腐ってたからな
伊藤博文の女狂いも相当……
伊藤博文はカタギの娘さんをレイプしてるからなぁ
幕末には英国公使館を焼き討ちしたり、塙忠宝を暗殺したりしたテロリストだし
因果はめぐり暗殺された。と
198 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 11:06:59.12
目安でいいので教えてください。長崎県に行ったことがないのですが、
出島と平戸は、神奈川県で例えると江の島と鎌倉という感じなんで
しょうか?距離では何キロ離れているのでしょうか?出島と平戸の違い
がわからないのです。
お前は地図も見れない環境にあるのか?
2chが出来るのにグーグルマップも広げられないなんてありえないわ。
しょうがないから調べてやったよ
長崎平戸間は直線距離で約75キロ。
このあたりは海岸線が入り組んでるし、実際に移動するには海路でも陸路でも100キロくらいはかかる。
75キロという距離は東京皇居から小田原市の西部くらい。
100キロだと東京から三島、沼津くらいかね。
今川義元の本陣は田楽狭間に置かれ、織田信長軍はその本陣を急襲し、
義元は本陣にて討ち取られました
なのになんで田楽狭間の合戦ではなく、桶狭間の合戦なの?
田楽狭間以外の場所でも戦闘があったのかも知れないけど、
義元は本陣(田楽狭間)で討たれたわけだし、桶狭間よりも田楽狭間が
肝なのではないのですか?
203 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:00:23.44
戦国期の「お家」の考え方として、主に次の2つの考え方があったと思います
@当主に兄弟がたくさんいたほうがお家として強く大きくなるという考え方
→信長は子供を増やすため(次代当主の兄弟)一度に3人の側室を持った
A当主に兄弟がたくさんいると内部崩壊のリスクが高まったり、当主の戦力が削がれる、
という考え方→当主の兄弟は仏門に入れられたり、理由をつけて暗殺されたりした
どちらのほうが主要な考え方だったのでしょうか?
子供は養子に出したり嫁に出したりして他家との縁を結ぶ道具です。
多い方が良いに決まっています。(毛利元就とか伊達家の代々とか)
時代によって違うとしか
戦の時代には元服した息子6人も居ても5人までも戦死するような家もあったくらいだし
>>203 1の方だよ
前近代は、乳幼児の死亡率が高いので、男子が1人生まれればもう大丈夫、というわけにはいかない
せめて長男が少年期ぐらいまで成長するまでは、いつ病死してもいいように「スペア」として次男、三男……を
もうけておく必用がある
成長したら成長したで、戦国乱世ではいつ戦死するかわからないのだから、さらにその子供ができるまでは
やはりスペアとしての兄弟は必要
仏門に入れられるのはともかく、殺されるのは、よほどその兄弟の方が兄にとってかわる野心を見せた
場合(たとえば、織田信行のケース)だけでしょ
どんどん養子に押し付けたおかげで幕末期なんか実質徳川に乗っ取られてる大名家の多い事多いこと
208 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:35:30.66
逆に、普通の大名家で家臣の家を自分の一族の者に継がせまくって、ほとんど一族で有力家臣を占めた家とかあるの?
>>203へのレス、ありがとうございました
やはり@が主要な考え方でしたか
>>202も是非ご教示お願いします
子供の頃からの純粋な疑問です
下の例えは概ねあってますか?
3月9日 卒業式(高校卒業)
4月1日 入社式(社会人スタート)
※3月31日までは高校に在籍
1867年10月14日 大政奉還(幕府が政権を朝廷に返上)
1867年12月9日 王政復古の大号令(幕府を廃して政権を朝廷に移した政変)
※12月8日までは江戸幕府が政権を持ち日本を統治
211 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 00:30:37.87
内大臣と征夷大将軍とではどっちが格上なんですか?
>>202 義元の本陣がどこに置かれていたかは資料によって異なり、「田楽狭間」にあったとも「桶狭間山」にあったとも言われています。更に「桶狭間古戦場」とされる場所は二ヶ所あり、結局どこで合戦が行われたかははっきりしないのです。
>>211 時代によって違います。田村麻呂の時代には征夷大将軍と言ってもしょせんは将軍であって
大臣には及びません。
家康の頃には、豊臣家の家臣としての家康は内大臣ですが、江戸幕府を開いて天下人に
なった家康は征夷大将軍ですから、征夷大将軍の方が格が上という事になります。
>>210 間違ってる
大政奉還の時点で幕府の行政権は消失して朝廷に帰している
王政復古とは摂関を廃して天皇親政を行うという朝廷の機構改革
>>208 パッと思いつくものとしては
毛利家
国人のもとに息子たちを養子入りさせることで同族化。
(吉川、小早川、穂井田、天野など)
大友家
いくつもの他紋衆(大友一族以外の家臣)を養子政策によって同族化。
(戸次、高橋、臼杵など)
それに加えて宗麟が中枢から他紋衆を排除した結果、有力家臣は一族だらけに。
…まぁ同族化しきれなかった有力家臣もいるけどね
子供が多くて困る貧乏天皇だって大勢いただろ
源氏がいっぱいおる
天下りって、本来はそういうことだったんだよね
今は役所が利権共同体=ファミリー化しているけど
>>214 ありがとうございました
しかしながら、王政復古後も天皇親政ではなく、明治政府による政治でしたよね
これは単純に明治天皇が若すぎたからですか?
中世辺りからの皇族は5代までルールは継体天皇が居たからですか?
律令の規定
その規定の根拠が継体天皇なのか?て事じゃないか
>>218 欧米の情勢をそれなりに知る人達は今更天皇親政は無いと思っただろう。
摂政や関白は天皇に代わり政務を執る役職ですが、江戸時代は天皇に代わり
将軍(幕府)が国を統治し政務を執っていました
それなのに、なぜ江戸時代の間も多くの摂政や関白がいたのですか?
いる必要はあったのですか?
>>223 「朝廷」という組織を動かすための機関だった。
天皇が動かしたら駄目なんですか?
役割分担としてきっちり線引きされてたんでしょうか?
>>222 218へのレスとしては的を得ていないと思われるが
>>225 そもそも天皇は朝廷運営を主導する存在ではない。上皇などの院と摂関が協議しながら朝廷を運営した。
>>223 いったん役職ができてしまうと、その役職に特権や権威が付随する
人は特権や権威を失うことに抵抗するから、ひとたびできた役職を廃止するのは容易ではない
まして関白ほどの重要な役職ともなると、その役職自体にさほど意味がない・必要ない時代となっても、
前近代ではそう簡単に、「じゃあ廃止しよう」ってわけにはいかないんだよ
>>226 そうか。じゃぁドラマとかに影響され過ぎてるかも知れんが、「アメリカでは入れ札(選挙)で将軍(大統領)を選ぶ。」と
思ってる幕末の志士たちが、今更天皇親政に甘んじる事は無かろう。
王政復古の名目上は天皇親政だけど現実的には維新にふさわしい新しい制度が求められていた。
天皇が若いからではない。
>>229 >将軍(大統領)を選ぶ。
将軍じゃなくて公方様だな。
231 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 14:01:32.55
信長の最後の言葉「是非に及ばず」
犬養の最後の言葉「話せばわかる」
これらの根拠は何だとされているのですか?
>>231 犬養毅の方は、当事者である襲撃者自身が証言している
「話せばわかる」「問答無用」というやりとりで有名だが、正確には、
「まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか」「問答いらぬ。撃て。撃て」
という会話だったようだ(会話というか、「問答いらぬ。撃て。撃て」は仲間に向けての発言)
また、それが犬養の最期の言葉というのも正確ではない
犬養は撃たれた後もまだしばらくは息があって、女中に「今の若い者をもう一度呼んで来い、
よく話して聞かせる」と言っている
「是非に及ばず」の出典は太田牛一の『信長公記』で、牛一自身が本能寺から逃げてきた女性に聞いた言葉だそうです。ただし、これは光秀の謀反を知った直後の言葉であって、それから死ぬまでの間に何か言ったかどうかはわかりません。
「話せばわかる」の方は実行犯の一人が証言した言葉ですが、別の犯人の証言によるとそれを言ってから実際に話し合おうとして客間に案内し、「靴ぐらい脱いだらどうじゃ」と言った後に撃たれたそうです。
さらに実行犯たちが逃げた後も意識があり、女中に「今の若い者をもう一度呼んで来い。よく話して聞かせる」と言ったそうです。
初歩的な質問ですがなんで天皇の英訳はエンペラー(Emperor)なのですか?
エンペラーと言うと皇帝というのが基本ですが天皇は皇帝なのですか?
英単語にはひとつの単語に複数の意味を持つ例がありますがそんなんですか?
(likeは好きという意味と〜のようなの意味がある様に)
皇帝と言うと古代ローマ皇帝、歴代の中華皇帝からイランとエチオピアには
数十年前まで皇帝がいましたし中央アフリカのボカサみたいに大統領が
皇帝宣言した例ありますが・・・。
>>234 皇帝ですよ だから大日本帝国と言っていました
アメリカは昭和帝のことエンペラーヒロヒトって言ってたと思う
はぁ?大英帝国なんて言ってたけどヴィクトリア女王は女帝なのか?違うだろwww
>中央アフリカのボカサみたいに大統領が皇帝宣言した例ありますが・・・。
ボカサは自分の即位式に「同格」ということでエチオピア皇帝、イラン皇帝の他に天皇に招待状を出したという。
ヴィクトリアはイギリス王兼インド皇帝だったはず
戦国時代は先天性無痛症やアスペが大活躍した時代ですか?
>>234 君はどうも、「エンペラー」は「皇帝」だから、「天皇」を「エンペラー」と訳すと「天皇」イコール「皇帝」と
なってしまう、と思っているようだが、それは違う
歴史上、帝国と呼ばれる国の君主の称号はいくつもある
中華では「皇帝」だし、ドイツやオーストリアなら「カイザー」、ロシアなら「ツァー」、モンゴルなら「ハーン」、
ペルシャでは「シャー」、ムガール帝国なら「パーディシャー」といった具合だ
そういった、国や言語によってさまざまな「帝国の君主」の称号を、英語に訳すとどれも「エンペラー」となる
だからといって、それらが互いにまったく同じ存在か、というと、それぞれ微妙に違うわけで
「天皇」と「皇帝」はどちらも「エンペラー」だからといって、日本の「天皇」と中華の「皇帝」がまったく同じもの
ということにはならない
で、日本の「天皇」についてだが
倭の五王の時代はともかく、聖徳太子が「日出づる国の天子、日没する国の天子に」云々と書き送って
以後は、日本側の主観では(建前上は)天皇は中華王朝の皇帝と同格の君主ということになっている
だから、中華の清の皇帝が英語で「エンペラー」と訳されているのなら、(日本側としては)当然、天皇の
英訳も「エンペラー」でなければならないことになる
だから日本の通訳が「天皇」を「エンペラー」と訳したのだろう
>>236 ヴィクトリア女王をさすHer Majestyを「女王陛下」と訳して
英公使の抗議が来て翻訳した人物が解任された事件とかあるんだがなあ
ここ20年程の間の政治家の名言、名スピーチ、暴言、失言である程度後世
まで語り継がれると思うものは何ですか?
20年よりもうちょっと古いけど、「人の命は地球より重い」は今でも残ってるね
これからも残りそう
ほとんどの質問は同一人物なのでは…
今のはオフレコですから
書いたら、その社は終わりですから
246 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 20:33:56.39
福島正則とか加藤清正って徳川が天下とったら
豊臣派の自分達は排斥されるって全く気付いてなかったのかな?
小説とか読んでたらアホすぎると思っちゃうんだけど。
関が原は三成憎しで住んだけど大阪の陣の時はすでにもう
豊臣を見限ってたのかな。
その時点で既に家康と繋がり深めてたじゃないか
>>246 三成が天下とっても武断派の自分達は排斥されると考えたかも
249 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 20:40:14.83
てことは福島とか加藤家 清正は大阪の陣の時はいないけど。
は大阪の陣で豊臣家に加担しなければ安泰だと思ってたのか。
福島正則とか晩年どう思ってたんだろうなあ。処刑されたわけじゃないから
平民として一生終えたわけでしょ?
X大阪の陣で豊臣家に加担しなければ安泰だと思ってた
○関ヶ原の功が抜群なので何をしても安泰だと思い込んだ
福島正則は調子こいて所領の大半アボーン
↓
学習能力0
↓
福島家旗本へ
加藤家は、一応、冬の陣の時に、準備に手間取ったということにして、徳川に難癖つけられない
程度に着陣を遅らせている
この頃には、心情的に大坂よりでも、徳川に反抗するとお家を潰されるから、反抗はせいぜいその
程度のサボタージュが限度だったんだろう
徳川の方も、どうせまた加藤家は遅れてくるんだろとわかっていたのか、夏の陣の時には、
島津家の動きを警戒して島津の後から来い、と指示を出している
252 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 21:30:27.99
子孫とか明治維新の時どうしてたんだろう。
旗本として300年つづいたかどうかわからんけど。
253 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 10:19:56.84
世界史板から来ました。
某世界史板のスレで「共産党はすばらしい!」とか「日本共産党は選挙で500万票もとっている」ドヤ顔で
言う人がいたのですが日本史においてもやはり共産党は評価が高い政党なのですか?
254 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 19:41:09.36
石田三成は負け戦さ主導したとすればつじつま合う
毛利家中心の西国大名潰し
石田三成の負けっぷりの凄さは家康が朝廷に服従するかわり
朝廷の通牒三成の芝居
255 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 19:42:50.02
石田三成は負け戦さ主導したとすればつじつま合う
毛利家中心の西国大名潰し
石田三成の負けっぷりの凄さは家康が朝廷に服従するかわり
朝廷の通牒三成の芝居
日本史の重要トピックである下記の中で、重要度的にどれかひとつ
削るとしたらどれを削りますか?
@大和王権成立
A大化の改新
B大宝律令(律令の導入)
C鎌倉幕府成立(武家政権開始)
D豊臣秀吉の全国統一
E明治維新
F太平洋戦争
258 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 00:04:58.47
江戸の町って大雪とかの記録あるんですかね?
時代劇で江戸の町に雪が降ってるのを見たことがない。
予算的な事なんでしょうけど。ああけど桜田門外の変は雪の日か。
大雪とかで江戸の交通がストップしたなんて記録はあるんですかね?
交通がストップって…
江戸に鉄道や自動車が走ってたとでも言うのかい?
260 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 00:23:47.01
今でいう所のって事です。
大雪で長屋が倒壊したとか。江戸の生活網がずたずたになった
みたいな雪はあったのでしょうか?
>>258 江戸時代にはさまざまな人の日記で、天気の記録はけっこう残っているので、さがせば大雪の記録もあるはず
滝沢馬琴だったかな、かなり詳細な日記を残していて、その期間の天候の重要な史料となっている
18世紀ぐらいは世界的に寒冷期で、ヨーロッパも日本も冬は今より厳しく、江戸で雪も珍しくはなかった
ただし、交通がストップなんて記録はまずなかろう
徒歩や籠は、必要なら、雪の中でも動ける
大八車や馬での物資の陸上輸送が滞ることはあったかもしれないが、そんなことは関係者以外にはどうでも
いいことなので、別に記録されないだろう
大雪ってほどじゃないけど、忠臣蔵の討ち入りの前日に雪が降った
(フィクションでは当日降ったことになってたりするが、実際に降ったのは前日)
>>260 大雪があったかなかったかという点に関して言えばあった。何度か記録に残っている。
ただあなたは今の東京の大雪=交通マヒ、というイメージがあまりにも強すぎてそのイメージに引きずられ過ぎ。
江戸時代の江戸の物流、交通、生活圏、その規模なんて現代とは比較にならない。
生活網がずたずたというのはむしろどういうものをイメージしているのか?
日常生活が基本徒歩圏内で済むような時代の在り方で生活網がずたずたというのはまあありえないだろう。
むしろ現代人は文明の利器やシステム化した社会(会社勤めやそのための出勤手段、食料の保存手段、生活物資の獲得手段)
の中で生きることが当たり前になってしまっているので、その一部が欠けただけで混乱に陥る。
気象が生活に影響を及ぼすとしたら農産物を生産する農村においてだろう。
都市は大水が出るような野分は別にして、火災の方が街の機能を停止させるという点では最も警戒すべき災害だった。
>>257 Bの大宝律令かな
Aの大化の改新がすなわち律令政治への道程であって、
大宝律令の前にも浄御原令などがあったりするから
>>258 >時代劇で江戸の町に雪が降ってるのを見たことがない。
鬼平犯科帳のエンディングで雪の降る中蕎麦をすすってるシーンが有る。
266 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 03:59:43.65
時代劇で、商人が秀吉や家康等に結構普通の態度で接してるシーンを観ますが、世界が違うからですか?
そばにいる家来の方が平伏してるから家来より商人の方が偉いのかと思ってしまう時があります。
>>264 ありがとうございました
どれも重要トピックスではありますが、次に削るならどれですか?
水運で栄えた街と言うけど、
まだエンジンのなかった時代、
海はともかく川の場合、
船はどうやって上流へ移動したのですか?
堤からロープで引っ張って動かした。
堤が整備されていない時代は、筏を使っていたので、下流で解体して
材木や薪にしていた。
>268
小学生のときに「海風」「陸風」って習わなかった?
淀川だと午前中は京都から大阪湾へ風がふくし
昼過ぎからは海から京都へ風が吹いてる
無論必ずじゃないけど大概はね
大阪市内から高槻までは俺の経験則
多摩川、隅田川、荒川、江戸川などは満潮時に逆方向へ流れるから、
大潮の日の昼間に移動させておく。
もちろん、船は調布や川越、野田あたりまでしか行けない。
>>267 264ではないですが、自分なら次にDの全国統一を外すかな
Dも大事ではあるけど、一応Cの武家政権の延長ではあるわけだし
飲む薬っていつ頃からあったんですか?
ジャングルで暮らす部族の方々でも彼らなりの薬が有るんだから
石器時代からあっただろう。
野生動物だって変なモノを食ったときは泥を食ったりしてるだろ
北京原人でも薬効成分のあるものを知っていたかもしれない
ウチで飼ってた犬(ノラの仔犬を捕まえてきたもの)は、時々草や笹の葉を食べてたな。
もちろんエサはちゃんとあげてたので空腹のあまり口をつけたのとは違うし普段は見向きもしないけど。
犬の事は知らんが、猫は毛玉を吐く為に草を食う必要が有るらしい。
279 :
日本@名無史さん:2014/03/18(火) 01:21:38.18
錠剤や顆粒の薬はいつ頃からあったかって質問じゃないのか?
知らんけど。
日本で丸薬が作られるようになったのは江戸時代と言われてる
粉末状の飲み薬なら、もっと昔から医師や薬師(くすし)が調合してたけどな
お茶も含めて煎じ薬も飲む薬だろう。
富山の観光コースになっている薬屋さんに薬の歴史の展示って
なかったでしたっけ
僧が中国から持ち帰った漢方薬が元祖だと思うが。
日本人の価値観、生活慣習、社会制度等にどちらのほうが大きな変化があったと思いますか
@江戸時代から明治時代へ
A太平洋戦争の前後
286 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 14:52:22.75
ワック社の歴史通は正しい内容ですか?
287 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 15:01:04.40
徳川家重は女性だったのですか?
全部読んだわけじゃないから知らんが読んだ限りでは一応事実をもとにしてるとは思うよ
ただ歴史本ではなくてイデオロギー本だから偏ったトピックに終始しているという面はある
>>288 正しい歴史を学びたいのですがオススメできる書籍があれば教えて下さい。
>>289 「正しい」なんて言ってる時点で主観が入ってる。
客観的な歴史を知りたければ自分で史料に当たれ
>>287 男性だよ
弟たち(田安宗武、一橋宗尹)がいた(しかも父の吉宗は、脳性麻痺の症状のある家重よりも
弟たちの方を気に入っていた)のに、家重が女性なら家重に将軍を継がせる理由がない
吉宗としては、宗武に継がせたかったのに、長幼の序列を無視するのは儒教道徳や徳川家の
慣例に反するので、しょうがなく長男の家重に将軍職を譲ったというのに
女性だったらそれこそ、儒教にも慣例にも反する
なにより、家重には、正室も側室もいるし、側室に子供(徳川家治、清水重好)も産ませている
それらをすべて偽装とするのはあまりに無理がありすぎる
秘密を保つのはほぼ不可能だろう
女性説はただのトンデモ説
294 :
287:2014/03/22(土) 17:04:09.41
>292
ありがとうございます。
発掘された骨盤が女性っぽいとか、身長が吉宗が親の割には低いなどがあったので
気になりました。現在の技術であれば男女はDNA鑑定で直ぐわかると思うので
すが、確か発掘後に他の人と纏めて埋葬されちゃったんですよね。
>>293 どこのどういう部分を間違って教えられたのか?
なぜそれを間違っていると思うのか?
間違ったと分かってるならあなたがいうところの「正しい」歴史を知っているのではないか?
いずれにせよ、意図的に教員の思想で歴史観を植え付ける授業があったとしても
その点においてそれが「間違い」であるかと認識したのかが分からなければアドバイスもできない。
南北朝合一後、南朝の皇族はいつしかいなくなってしまいましたので、
どこかの時点で正式に臣籍降下したということですよね?
いつ正式に臣籍降下したのかはっきりしているのでしょうか?
していれば教えてください
297 :
初心者:2014/03/22(土) 22:53:55.14
歴代天皇のお墓(陵というのでしょうか)の場所は、どのような経緯で
決定されてきたのでしょうか?京都が最も多いようですが。
この前、竹田駅付近にある近衛天皇の陵を見て疑問に思いました。
>>296 南朝系の皇族は室町幕府によって大半が出家させられ、子孫を残せなかった。幕府に反乱を起こした者たち (後南朝) もいたが、最後は滅ぼされている。
>>297 まず近衛天皇陵を見て疑問に思ったのはなぜ?
多宝塔形式だから?
その前提があっての疑問だろうから失礼ながらあえて逆に質問させてもらった。
300 :
初心者:2014/03/23(日) 01:02:01.83
>299
近衛天皇陵を見つけたのは、出張で偶然通りがかっただけです。
失念しましたが、その付近にもう一人の陵があったと思います。
正直な感想として、天皇陵として「小さいな」というのがありました。
様式等は全くわかりません。
>>300 なるほど分かりました。
仰るとおり「大きさ」という点においては中世から近世の天皇陵は古代のそれからすると小さいと思います。
江戸時代の天皇は陵墓、というより菩提寺に葬られてるという形ですから個人の陵墓すらないと言ってもいいです。
で、当初の質問ですが、現在の天皇陵の治定はおよそ江戸時代、18世紀以降の国学者や勤王の徒による陵墓の調査に
端を発して、後追いで水戸藩やその他の藩、幕府が陵墓の確認と修復をしていったものです。
その時代においては学術的な検証を以って治定した陵墓ですが、現状では疑問が呈されているものもあります。
「近衛天皇陵の付近にもう一人の陵があった」と言うのはおそらく白河天皇の御陵だと思います。
ちなみにこの白河天皇の陵は別の陵墓参考地が本来の御陵の有力とされています。
というように江戸時代の学者や政治権力が治定した陵墓の中にも、後々の調査や研究で「それは違うのではないか」
というものもあるのも事実です。とは言え、ほとんどの陵墓がそれなりの根拠で治定されているというのもお忘れなく。
特に京都以降の天皇陵は多少のズレはあれおおよその位置は分かっています。
横レスだが、多分なぜその場所に葬ったのかという疑問なのだろうと思うけど。
天皇が京都 (平安京) に住んでいた時期が一番長いから、墓も京都付近に集中するのは当然だわな。後は天皇自身が場所を決めたり臣下が選んだり、院政期には院御所のあった場所をそのまま陵墓にしたのもいたりとバラバラだったみたい。
>>298 ありがとうございました
南朝の皇族が出家させられたのは、南北朝合一を果たした義満の代に決められたのですか?
室町幕府といっても、実際に力があったのは初期の頃だけですもんね
305 :
初心者:2014/03/23(日) 09:53:19.23
皆様、コメント有難うございました。不謹慎なお話ですが、今上天皇の
火葬に関するニュースが以前ありました。
303の方のコメントで平安京とありますが、これは桓武天皇の京都遷都
から天皇が東京に移り住むまでの期間(794−1868)と考えて
よろしいでしょうか。質問ばかりですいません。
基本そうですよ。
明治天皇は遺志によって京都に葬られましたが。
近衛天皇陵が竹田近辺にあるのはあの辺りが鳥羽院の院政の舞台だったからです。
なので界隈にその時代の天皇陵があるわけです。近衛帝は仏式に寺院に葬られました。
今となっては高速道路と国道に切り取られた変な場所にあるかと思いますが
あの辺りはかつては田畑の広がる郊外の自然豊かな場所で、そういった場所に院を置いていたわけです。
付け加えですが、場所の選定は
>>303の方が仰られている通り、ケースバイケースです。
平安時代の初期はまだ比較的規模の大きいいわゆる山陵を築く流れがあったので
京都の周縁部の山に葬られているケースが多いです。
またこの時代は退位後の隠棲の地に陵墓を設けるケースが多く見られます。
上記の嵯峨院の場合もそうですが、醍醐天皇や清和天皇もその類です。
これが時代が下って摂関期になると規模が小さくなり、山陵よりも平安京に近い郊外に葬られるようになります。
今は住宅街になっているエリア、例えば衣笠とか吉田とかですが、かつては人家の少ないエリアだったわけです。
ですのでこの時期の天皇陵は住宅街の中に突然現れたりします。
また、同時代では仏式に寺院に葬られるケースもでてきます。
その後院政期は先ほど述べたように院政の舞台に葬られたりします。
鎌倉時代になると仏式に寺院に葬られるケースが目立つようになり、後期になると京都の南の郊外である深草に
数多く葬られます。この辺りになってくると陵墓を設けるというより火葬にした後合葬に近い形で葬っていた
(合理的になってきた)と考えるからです。
江戸時代はすべて天皇家の菩提寺である泉涌寺に葬られました。
最後ですが、政変や流罪によって京都以外の地で亡くなった天皇で、その地に陵墓が築かれたケースもあります。
平城京の北辺に葬られた平城天皇や讃岐白峰山に葬られた崇徳天皇などがそうです。
遺骸が見つからなかったため、最期の地とされる下関に祀られた安徳天皇などもあります。
また、後鳥羽天皇や順徳天皇のように配流地で亡くなりながらも
京都に陵墓が築かれたケースもあります。
また崇徳天皇のように陵墓は讃岐ながら、遺歯髪を京都に遷して廟が築かれている場合もあります。
309 :
初心者:2014/03/23(日) 12:07:47.71
非常に勉強になりました。
有難うございました!
明治時代に南朝が正統だとされたが、今の皇室と南朝とは直接の繋がりがないんですよね?
幕末における「尊皇攘夷運動」とは、一体どれくらいの社会運動、ムーブメント
だったのでしょうか?
それをテコに各藩の脱藩浪士とかが人斬りとか天誅とか事件を起こして天下を騒がし、
ずっと後には幕府が揺らぐ位。
>>312 ありがとうございます
かつての「安保反対運動」とか現在の「反原発デモ」と比べて
そのムーブメントの大きさ、強さはどんな感じだったんでしょうか?
反原発デモは死人も出ないし政府が外国に原発を売るのも止められないし、
未だに原発の稼働を止める事も出来ない。
安保の時は死人も出たけど政府が倒れる程の事は無かった。しょせんは学生運動だし。
こじらせてもせいぜい浅間山荘事件とか外国でテロ事件を起こしたりとか、そんなもん。
幕末の時は幕府に口出ししたい有力大名とか、いろんな大人の事情もあった訳だけど。
>>314 ありがとうございます
かつての一揆や打ちこわしを現代に例えたら、一番近いのは西成暴動とかあんな感じですか?
安保知らない人間が語るとこうなるという例だなこれ
確かにその時代には生きてなかったけど当時学生運動に参加してた人達も気が付けば
自分も大人として普通の社会人の仲間入り。振り返ればほろ苦い青春の一ページでしょ!?
真面目に運動して大人に成れなかった人達はよど号事件とか浅間山荘事件とか起こして
バッドエンド。
最近で近いものといえばアラブの春くらいか。
319 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 04:45:18.14
320 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 22:13:06.21
江戸時代の後期には百姓一揆や打ちこわしが頻発したと授業で習ったが
今は違うのか?
まあ歴史の内容や評価は時代によって変わるからな
321 :
日本@名無史さん:2014/03/28(金) 20:45:33.58
人力車って昭和初めでも結構あったらしいけど
観光用を除いて姿を消したのはいつぐらい?
都市部では交通の発達とともに戦前にはもうほとんど見られなくなっていて
戦後の一時的な復活利用はあったにせよ復興とともに消滅した
南朝の都であった奈良県吉野に興味があります
吉野には今でも南朝時代や後醍醐天皇を彷彿とさせる歴史的建造物や遺跡、文化施設、
神社仏閣が残っているのでしょうか?実際に行ったことのある方に
雰囲気等も含めて教えて欲しいです
324 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:13:12.28
年号(和暦?)、西暦、皇紀などを一まとめにして何と言うのでしょうか?
昭和、平成、西暦などを一まとめにして年号と言うと思ったのですが
どうやら違うような。つまり西暦は年号とは言わないようですね?
単に暦と言うと自分なんか太陽暦とか想像してしまいます。
325 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:21:54.48 BE:3195664875-PLT(14000)
>>323 あるよ。
吉野はご存知かと思うけど、南朝以前にも歴史的、宗教的舞台となった場所でもあるので
そういった時代のものもひっくりめて寺社や史跡が点在している。
その中でも吉水神社、金峰山寺などは見応えあると思う。
雰囲気、というのはどういう点について、あるいはどの程度吉野についてご存知なのか分からないが
基本的に政治的に中央を追われた者が一時的に避難するような場所でもあり、
山岳信仰、修験道の発祥地でもあり、山々に囲まれた静かな山中にひっそりと佇んでいるような雰囲気。
春は桜が名所だから人だらけでえらい騒ぎだが。
327 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:47:30.61 BE:1278266827-PLT(14000)
創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ
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328 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:48:16.12 BE:1643484492-PLT(14000)
創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ
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329 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:48:49.25 BE:3195664875-PLT(14000)
創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ
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330 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:49:24.98 BE:547828823-PLT(14000)
夢と希望と未来を奪う創価学会を殺せ
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331 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:49:43.79 BE:2465228039-PLT(14000)
夢と希望と未来を奪う創価学会を殺せ
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>>323 南朝の天皇は吉野から15kmほど離れた賀名生 (あのう、現在の五條市) や大阪の河内長野、住吉などにも行宮を置いたことがある。っていうか吉野にいた時期の方が短い。
>>324 記年法。
333 :
324:2014/03/30(日) 13:58:53.56
334 :
324:2014/03/30(日) 18:10:47.39
>>332 お礼、忘れてました。
ありがとうございます。
>奈良県吉野に興味があります実際に行ったことのある方に雰囲気等も含めて教えて欲しいです
十五年位前に天川村から伊勢街道沿いに三重へ行ったとき、道路沿いに南朝行在所(?)跡という掲示板を見かけたので
小一時間かけて山頂まで登ったけど山頂には礎石っぽいのが数個残っているだけだったorz
あれ何所だったんだろう…
337 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 23:08:33.19
何で世界三大穀物のトウモロコシは
江戸時代以前の日本ではあまり栽培されなかったの?
トウモロコシはアメリカが原産地で文物の伝播には時間がかかるから
アメリカ→欧州→地中海→アフリカ・インド→東南アジア→日本
アメリカに入植した白人は東部に集中していて逆廻りの太平洋越しという伝播はありえない
十徳着た医者や茶人がかぶる帽子って何?
>>338 スペイン人はメキシコから太平洋を渡ってフィリピンを支配し、さらにそこから日本に来てましたし
支倉常長だって太平洋を渡りましたよ
341 :
340:2014/04/04(金) 10:27:18.54
あ、太平洋越しの伝播はありえないというのが気になったので指摘しただけで
別に、支倉常長がトウモロコシを日本にもたらすこともできたはずとか主張する気はないです
(彼は別に農産物の導入のために行ったわけじゃないので)
文物の伝播に時間がかかることは私も否定しません
勘違いされるといけないので、一応、念のため
Wikipediaのトウモロコシの項を見ると1579年に伝来してるようだな。
明治になるまで流行らなかったのは日本人の食感との相性があるのかな
中世(鎌倉・室町)に入ると公家は権中納言や権大納言に任官すると、
すぐに(1年くらい)辞任する人が多いですが何故?
辞任後に本座を聴されている例も多いですが、散位の方が都合がよいことがあったのですか?
>>340-341 何故世界史板で訊ねないのか強い疑問を感じるが、スペインはポルトガルの横槍を嫌ってたろ。
分かってて質問してないか?
で、スペイン本国の計画した4つの遠征隊のうち
メキシコ総督府が編成した2つのうち1つが出航したのは1564年。
目的は戦闘と教化だということも知っているんだろ?
トウモロコシの伝播はそれ以前から始まっているし、十分な知識がある
>>340-341が太平洋経由を
特記すべきだと主張するほど活発な交易路が存在しているのなら、知識の小出しはやめて質問の意図を
明確化してくれると嬉しい。
そんなこと言われても私(
>>340-341)は質問者(
>>337)ではないので
質問の意図や、なぜ世界史板でなくここで訊いてるのかはわかりませんよ
私の意図は
>>341の1行目に書いた通りです
>>337 米があれば十分だったから、では答えにならないかな?
>>345 別人として疑問は氷解したの?
くどくどとサラゴサ条約や130度線の分割や条約の失効年までこちらが明示しないと、
年代を無視した同種のコジツケを繰り返して、他人の揚げ足がとれないか試すのかな?
邪馬台国って出典通りに計算すると海の上だし日本に邪馬台国があったなんて資料も存在しないのに
なんで当然のように日本にあった国だと思われてるの?
日本ではなく自分の国に邪馬台国があったと考えてる外国はないの?
邪馬台国があったとされる時代の遺跡が日本各地にあり、中国製の鏡などが出土していること、唯一の出典である魏志倭人伝の「正しい読み方」がはっきりせず、いくらでも解釈のしようがあることによります。
日本以外では台湾説、朝鮮半島説、ジャワ島説、果てはエジプト説なんてのまでありますが、主張しているのはどれも日本人です。
台湾人の邪馬台国研究者が少なくとも一人いるようですが、彼が主張する邪馬台国の位置は鹿児島県です。
>>347 なにかムキになっているようですが
>>338では
「太平洋越しという伝播はありえない」と断言しておいて、
>>344では
「目的は戦闘と教化」って言ってますよね?
「教化」って、キリスト教を「伝播」させることにほかならないですよ
言ってることが矛盾していますね
間違った知識を質問スレに書きこまれると、知らない人が鵜呑みにします
>>338の「太平洋越しという伝播はありえない」が間違っていたから、ご指摘してさしあげたのに、
それがよっぽど気に入らなかったのでしょうか?
それを揚げ足取りというのであれば、最初からとられるような足をあげないことです
それから、私は
>>337ではないので、彼(もしくは彼女)の疑問が氷解しているかどうかは
存じません
君の揚げ足取りに付き合ってやって、君の疑問は氷解したのかと聞いたのだが
頭に血がのぼったのかえらく長文で噛み付いてきたなw
>>350への回答。350クンというのは、
>「太平洋越しという伝播はありえない」が間違っていたから、ご指摘してさしあげた
という
>>350の文章にたいしてね。誰が何を話しかけてきているのか理解してもらえるのだろうか…
スペインのメキシコ総督府は米大陸からフィリピンへの航路設定にとまどり、十五世紀後半まで確立できなかった。
一方、アジアへのトウモロコシ伝播は十五世紀初頭であり、東南アジアには十五世紀中期には伝わっていた。
ちなみに、スペイン・ポルトガルは、この頃日本にたいして全くアクションを起こしていない。
よって、太平洋越しという伝播はありえないという回答になる。
もしかしたら、日本語能力に相当な問題が350にはあるかも知れないので、無用の補足だが付け加えると、
マゼラン以降、太平洋越しにスペインがフィリピンへ到達していたときには、既に西からトウモロコシは伝わっており、
東からやってくることは当時のスペインの事情からありえないということね。
>「目的は戦闘と教化」って言ってますよね?「教化」って、キリスト教を「伝播」させることにほかならないですよ
マゼランのイザコザがあったから先ず戦闘、その後教化というのがメキシコ総督府の方針。実際には想定とは異なった。
矛盾というなら、伝播には時間がかかるということは否定しないという以前の君の発言と整合性が取れないわけだが?
最早難癖を付け続けることに特化したのかな。
煽る事しかできない幼稚な子に噛みつかれてしまい、いきがかりじょう答えてあげたが、
君の行為は全く建設的ではなく、僅かな知識にしがみつきたくて、往生際悪く子供の口吻を続けることは誰も望んでいないということを
自覚してもらえると嬉しい。
>>351 長文を書くことが頭に血がのぼったことになるのだとすれば、
>>351はさぞ頭に血がのぼったのでしょうねぇ
あなたの健康が心配ですよ
少し落ち着かれてはいかがですか
「目的」が教化すなわちキリスト教の伝播であることと、伝播自体に時間がかかることはなんら矛盾しませんよ
日本語での会話能力が限定されているなら自分の国のBBSに書き込めばいいのに(苦笑
>>348 末廬国とか奴国あたりまでは、魏志倭人伝の記述のルートに従ってたどれるから、そこから先にあって
魏に朝貢するほどの国のあった場所となると、日本列島のどこかと考えるのが自然
台湾やフィリピンその他の島嶼だとすると、大陸と連絡するのに、わざわざ朝鮮半島経由のルートと
とるのは不自然
355 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 09:53:11.03
お城と言えば天守閣と本丸が肝ですが、これを現代にたとえた場合、
お城=会社
天守閣=会議室
本丸=社長室
みたいな感じですか?
もっと適切、妥当なたとえがあれば教えてください
何かに例えるのはそれぞれの自由だと思うけど
会社よりは役所だろうな
会社でいえば二の丸以下が営業部門や工場、社宅など。本丸が本社、管理部門。天守は社のシンボル的モニュメントかなぁ。
>>355 天守閣と本丸が肝というのが間違い。本丸を守る為の防御施設なんだから、
そこに至るまでの堀とか土塁などの縄張りが肝。
難攻不落と思われた大阪城も堀を埋めたら役立たずだった。
愚問に愚答
>>359 質問が無い時くらい遊びがあってもいいじゃん。狭量だなあ。
お城=役所
天守閣=庁舎
本丸=庁舎別館にある市長室
天守はシンボルにすぎんよ。東京で言うとスカイツリーとか東京タワーとか、大阪の通天閣とか、そういうもの。
スカイツリーとか東京タワーは、電波塔という大切な役割があるんだがな
スカイツリーや東京タワーがただのランドマークだと思ってる馬鹿がいた
>>362
関東の人間じゃないからかもしれないがあまりにもお粗末な認識だ
邪馬台国じたいがフィクションの可能性って無いの?
スカイツリー ・・・ シンボル、電波塔
天守閣 ・・・ シンボル、戦の時の櫓
天守閣というのは、梯子のような階段を上っていくので危険。戦の時は標的になる。火事にも弱い。
だから偉い人は一生登ら無い人が多いよ。
368 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 21:13:47.52
認識間違いだったら謝るけど、天守閣って戦の会議とかするところじゃないの?
桶狭間の時も織田家の重臣は天守閣で会議してたけど信長は現れなかったとか
あと、安土城は低層の天皇用の御殿(?)を高層の天守閣から見下ろす構想だったとか
なんとか・・(本当かどうか知らんけど)
なので、天守閣は単なるシンボルって考えには違和感を覚える
>>366 魏志倭人伝(三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条)が書かれたのは、すでに魏にとってかわった晋の時代だ
魏をおとしめるような捏造はありえるかもしれないが、海の向こうの国から朝貢を受けた(ということはそれほど
立派な国だったということになってしまう)と捏造する必然性がない
したがって、朝貢があったことを疑う理由がないし、朝貢があったということは、その国は存在したということ
>>368 桶狭間の時点で、日本の城に天守閣は存在しないよ
天守閣の元祖は、松永久秀の多聞山城、もしくは信長の安土城
632 名前:日本@名無史さん投稿日:2014/03/28(金) 10:43:57
>>623 天守と呼ばれる建物が初めて出来たのは1520年の伊丹城が最初
三層櫓程度なら太田道灌時代の江戸城にもあった
372 :
370:2014/04/06(日) 21:41:24.09
ごめん、訂正
多聞山城の築城は桶狭間より前だったので、「日本の城に天守閣は存在しない」は間違いだった
いずれにせよ、その時点での信長の城には天守はない
以下↓天守と天守閣は違う派の自演がはじまりますw
違うじゃなくて天守閣とは呼ばないだ。天守が正しい。
>>368 >天守閣って戦の会議とかするところじゃないの?
天守の役目は戦で城が落ちる時に最後に立て篭って腹を切る場所。江戸時代には縁起が悪いとして
殿様は登らないのが普通になった。
>桶狭間の時も織田家の重臣は天守閣で会議してたけど信長は現れなかったとか
それは脚本家も含めた一般人がそういうモノだと思ってるから。他のレスに有るように桶狭間当時の城には
天守は無い。
ちなみに暴れん坊将軍吉宗でも吉宗が天守から眺めてる事がよく有るけど、江戸城の天守は4代将軍の
時代に火事で焼けてから再建されなかったので間違い。
>あと、安土城は低層の天皇用の御殿(?)を高層の天守閣から見下ろす構想だったとか
安土城は天守が作られるようになる初期なのでまだ使い方も決まってなかった。信長はそこに住むように
作ったが、それはむしろ例外。
日本と中国が最初に国交を持った時って、どうやって互いにコミュンケーション取ったの?
海の向こうから言葉の通じない変な服着た人間がやってきたら、怖くなって殺すでしょ、常識で考えて?
正式な国交が成立する前から九州と半島南部、半島南部と北部、半島北部と……という風に交易関係はあったはずだから、そこら辺の人たちが通訳しただろう。
あと「常識で考えて」いきなり言葉の通じない人がやってきても殺さないだろ。少なくとも相手が悪意を持っているかどうか、戦って勝てる相手かどうかくらいは知ろうとするはず。
>>375 記録に残る日本と中国の最初の国交は、奴国から後漢への朝貢
その後漢の政府の九卿には「大鴻臚」というポストがあり、異民族との交渉を担当する
すなわち、今でいうなら外務大臣といったところ
異民族から漢への朝貢があれば、それは漢の皇帝に徳があるということになって権威が高まるので
大鴻臚やその部下の担当者たちは異民族にはたらきかけて、朝貢を促す
首尾よく遠くの国に朝貢させることができれば、それはその担当者の手柄にもなる
奴国から後漢への朝貢は、純粋に奴国側が自発的に行なったわけではなく、そういった漢側からの
「朝貢すればそちらの国も見返りにいいことありますよ」といった工作が先にあり、事前に予備的な
交渉があって、どのように朝貢を行うかの打ち合わせもされた上で行われた、とみるのが自然
でなければ、いきなり160人もの生口(奴隷)を送ったりはしない
378 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 01:38:37.36
スペインやポルトガルは17世紀に日本から追放されたけどいつ国交を回復したの?
幕末にもあまり来てなかったよな
卑弥呼が天皇じゃないとして、邪馬台国が中国と国交を持っていた頃、天皇は何をしていたの?
天皇は統一国家日本(後世的にいえば)の君主なので、
地方のクニが群立していたこの頃にはまだ存在してません。
ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
382 :
日本@名無史さん:2014/04/09(水) 22:44:27.05
「伊達政宗」という名前はかの「独眼竜」が二代目で、室町時代に別の「伊達政宗」がいたとのことですが、
このように「一族で同姓同名」という例は他にあるでしょうか?
島津家久が叔父・甥でいるのを思い出しましたが、他にありますか?
市川海老蔵
京都五山は、なぜ臨済宗ばかりなのですか?
385 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 00:09:49.20
江戸幕府があった拠点とはいえ、幕末のころには朝廷の権威が復活して
天皇>将軍になっていたといいます
それなのに、なぜ幕府が倒れた後の新時代も江戸がそのまま首都になったのでしょう
朝廷のある、古来からの古都である京都が首都にならなかったのはなぜですか?
単純に街の大きさ(都市化)の問題ですか?
臨済宗の寺院を序列化したものだからですよ。
幕府は臨済宗を言わばオフィシャルの宗派として保護するとともに管理することで相互関係を築いたのです。
その仕組みの中で特に幕府と関係の強い臨済宗を秩序立てたものが五山十刹の制です。
ですから五山および十刹の寺院は当然臨済宗の寺院だけになります。
>>385 天皇親政(を名目とした)新政権を樹立するにあたってまず京都を離れてという考え方が起こったのです。
仰るように古来からの古都は京都ですが、摂関の制の廃絶を始め事実上古来からの朝廷という組織が瓦解した状況下で
京都に固執する必然性はなかったのです。(公家衆ではなく、維新の中心となった雄藩藩士らの考え方です)
むしろ新政権のシンボルとして諸制度が改革されたように、都についても同様の考え方がありました。
新政府内部では「いきなり江戸」という発想はなく、京都から近く歴史的にも経済的にも、ある意味政治的にも
中心となっていた大坂にとりあえず遷そうという発想がありました。大久保利通はこの案の中心です。
一方で、維新に功のあった一部を除く公家衆は当然その限りではなく、その動きを警戒しました。
しかしその一方で、江戸の情勢が安定すると「江戸をそのまま放置するのはいかがなものか」という意見がでてきます。
それは最もな意見で、江戸は政治の中心都市というだけでなく、開国以降は国際的な環境を目の当たりにした都市でもあり、
都市規模からしても、都市の機能や構造、おっしゃり通り大きさも面からもこの都市から政治権力を奪い、そのまま放置することに
疑念がもたれたというのも当然のことと思います。
という背景があり、その後も東西での綱引きが展開されますが、岩倉や三条のような維新の中心にあった公卿こそが
江戸への遷都に力を注ぎ(京都にいたからこと江戸の影響力を実感していたかと)紆余曲折を経て明治天皇の行幸、
そしてそのまま奠都に到るということです。
389 :
388:2014/04/10(木) 00:34:13.35
酔っ払って書いたので誤字はもちろんのこと内容に意味不明点あればご指摘ください。
地方の有力豪族を束ねた大王の子孫がやがて天皇を名乗るようになりました
大王が有力豪族を束ねる事ができたのは、祭りごと、神事が理由とされていますが、それを示す根拠は何でしょうか?
また、なぜ大王は祭りごと、神事に長けていたのでしょうか?
>>386 横からだけど、
徳川家の菩提寺は、増上寺が浄土宗で、寛永寺が天台宗。
なぜに臨済宗を保護したの?
392 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 15:24:21.00
何で名古屋の伝統芸能は東京大阪に比べて比較にならないほどへぼいの?
相撲や古典落語や浮世絵も名古屋では殆ど発達しなかったし
>>392 江戸時代、江戸は政治の中心だったし、大坂は商業の中心で、それぞれ日本中から人が集まる
大都市だった
人が集まるところには娯楽の需要も生じるし、才能も集まるから、芸能もそれだけ発展する
江戸、大坂に比べれば、当時の名古屋は、単に尾張藩の中心というだけの地方都市にすぎない
それでも徳川宗春が文化都市にしようとがんばったけど、御三家とはいえ一大名の力では
どうしても限界があるよ
394 :
388:2014/04/10(木) 17:48:02.95
>>391 幕府ってのは鎌倉幕府と室町幕府のことね
>>391 江戸幕府は理論的にも実態としても全ての宗派の大旦那
397 :
388:2014/04/11(金) 00:53:08.55
>大王が有力豪族を束ねる事ができたのは、祭りごと、神事が理由とされていますが
まずこの前提の典拠を示していただけますか?
399 :
388:2014/04/11(金) 20:06:55.21
388の時の説明っぷりと全然違うね
401 :
388:2014/04/12(土) 00:12:56.56
まあそうかもしれませんが、
>>390の質問は明らかに前提が何らかの決め付けから始まってるので
(少なくとも私はそのような論拠は知らないのですが)それを何か確認したかったのと、
それが学校の先生であるなら、正にその論拠たる先生に聞くの以外にこの質問の答えはないだろうと思ったからです。
大王が祭祠を司ってたのは定説じゃないの?その流れがあるから今も天皇が
五穀豊穣とか国会安寧を祈ってるんじゃないの?
ある時、急に祭祠が天皇の仕事になったってわけじゃないだろうし
>大王が祭祠を司ってたのは定説
で、例えば誰が何という本に書いてあるの?
どの板が適当なのかわかりませんが、こちらなら詳しい方が
いらっしゃるのではないかと思い、質問します。
板違いでしたら誘導お願いします。
愛媛の親戚宅に、工藤祐経のものと伝わる鎧兜があります。
そちらの原戸籍は確かに士族になっているのですが、工藤祐経の
子孫は静岡、三重、宮崎、東北とされていて、四国が出てきません。
ただ、徳島には、工藤氏のものとされる城があります。
四国の工藤氏のルーツはどうやったら調べられるのでしょうか。
ネット上の検索ではどうやっても出てきません。
またもう一つの疑問点に、家紋があります。
工藤氏の家紋は庵木瓜ですが、墓に掘られていたのは、庵紋ですが、
中が木瓜ではなく違い鷹羽だったと思う、とのことなのです。
そんな家紋探しても出てきません。
(曽我兄弟の工藤に忠臣蔵の浅野の紋が組み合わさってるというのも…)
単に古い石堀だったので、見間違いという可能性もあるのですが。
皇室が国の祭祀を司っている一番古い根拠は何になりますか?
また、それはいつ頃(から)とされているのでしょうか?
天皇に次ぐ地位である太政大臣、左大臣も今で言う政治家ではなくて官僚なんですよね
>>402 大王が祭祀を司っていたことはいたんだろうが、
>>390の文章のように
「大王が有力豪族を束ねる事ができたのは、祭りごと、神事が理由とされています」
という飛躍とはまた別の問題だろ。文章としても少々おかしいと思うが、そこを補正したとしても
学校の先生がどういう風に説明したのかが分からない以上この質問には応えようがない。
410 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 16:03:22.72
明治以降の首都は東京ですが、一部では論争もあります(遷都の勅令がない為)
しかし、少なくとも江戸時代においては国内的にも国外的にも首都は江戸ではなく京都だったという事?
江戸は政治の中心地だったし、街の規模も日本最大でしたが、それでもやはり京都が首都ななるんですか?
首都って何だろう?
政治の中心地、国家元首がいるところ、等
>>410 天皇さんが京に居たからねぇ。今では道路も鉄道も東京に向かって上るけど、
江戸時代は何でもかんでも京に向かって上って、京から江戸へ下って来たんだよ。
だから下り物は上等で、関東の品はクダラナイと言った。
京阪電車は京都から大阪行くのが下り線だとこないだ気づいたヨ
>>413 幕末には朝廷の権威が復活しましたが、江戸時代の大半は幕府>朝廷だったし、
実際の政治を動かすもの(為政者)は幕府でした
街の規模も江戸>京都でした
それでも国内、国外ともに日本の都は京都であるという絶対的な認識があったのでしょうか?
ニューヨークはワシントンよりも有名だし、街の規模も大きいですが、ワシントンが首都なのは
ワシントンが政治の中心地だからです
江戸時代においては、間違いなく政治の中心地は江戸でした
その政治の中心地が首都ではないというのは、世界的に見てもかなり
レアなケースではありませんか?
>>415 >それでも国内、国外ともに日本の都は京都であるという絶対的な認識があったのでしょうか?
国内はそうだけど国外は難しい所ですね。ガリバー旅行記に江戸は出て来るけど京は出てこないから、
その頃のヨーロッパでは江戸が首都だと信じていたと思われます。
ペリー以降、諸外国の人間が入って来て、初めて将軍の他に天皇が居る事を知ったらしいです。
>その政治の中心地が首都ではないというのは、世界的に見てもかなり
>レアなケースではありませんか?
そう思うけど、俺が知らないだけかも知れない。
>レアなケース
とりあえず、俺に思いつくものでは、コートジボワールの首都ヤムスクロがあるな
これは、当時の大統領ウフェ・ボアニが自分の出身地を無理矢理首都にしちゃったもので、
首都機能はほとんどなく、実際の政治的中心は遷都前の旧首都アビジャン
まあ、江戸以外に1つだけではレアなことにかわりはないだろうけど
街の規模は江戸>京都とか言ってるけど
当時の機内と関東じゃ機内の方がずっと経済規模は大きかったぞ
人口を根拠にするなら、今度は新潟が首都になってしまう
まあ、都市の規模とか人口とかは、首都かどうかとは関係ないわな
国で一番大きい都市と首都が別の国なんてたくさんある
ワシントンよりニューヨーク、北京より上海、キャンベラよりシドニーの方が人口は大きい
>>405 士族ならば仕えていた藩が家臣の出自を記した書を編纂していないか、
或いは特に功績のある藩士の事績を纏めた書などにその家の由緒が書かれていないか、
そういったところから調べられないのか。
その家の由緒に一番詳しいであろう子孫が知らないのに、見知らぬ誰かがネットに情報をアップしてると思う方がどうかしてる。
○○地方の○○氏なんて調べ方では、せいぜい大昔の○○時代に○○氏の○○が移住したとか、判ってもその程度でしかないし、
そんな曖昧な情報から出てくる人物を先祖と信じるなんてもはや宗教。
まったく違う地方の家系から主家の移封や江戸屋敷での採用で移ってきた可能性もあるわけだからね。
藩士だったのであればその家がどんな地位でいつから仕えていたのか、それがわからないならいつの時代に加増があって藩士を補充したか、
他の藩士の名字の特定の地方や氏族傾向の有無などからある程度は推測できるかもしれないので、そういった情報を可能な限り集めて探るしかないのでは。
支族が家紋を変形させるのはよくある事で、件の場合はその石彫がなされた時期には既に工藤氏と自認していた事がわかる。
名字が工藤なのか別のものなのか、工藤だとしたら明治に他の名字から工藤に復帰したかどうかなど、全くわからないしこれ以上は何も言えない。
信長も元号を変えてますけど、どのくらいの権力があれば変えられるのですか?
また天皇とかの許可もいるんですか?
>>421 改元できるのは、(建前上は)天皇だけ
たとえばもし仮に、俺が「平成なんて年号はもう終わり、今年から世界史板1年だ!」なんて宣言したって
日本中誰ひとり、そんな改元認めないだろ?
俺ではなく、有名人だったら、中にはシャレや冗談でその年号を使う人もいるかもしれないが、それが
正規の年号として公認されることはありえないよね
つまり、政府が認めなければ、誰かが勝手に年号を決めても、それは正規の年号とはみなされない
それと同様に、昔は、天皇以外の誰かが改元を決めたとしても、それを天皇が承認して宣言しなけりゃ、
それは正規の改元とはみなされなかった
たとえ征夷大将軍が改元を望んだとしても、天皇が「そのような改元、朕は絶対に認めぬぞよ」などと
言い張ったなら、改元はできない
まあ、逆に言えば、朝廷に圧力をかけるなり、見返りを交渉するなりして天皇に言うことをきかせられる
だけの権力があれば、改元はできた、ともいえるが
遷都の勅令をだしてないから、厳密に言うと今でも都は京都、という理屈はどれくらい説得力あるの?
とんでも論なの?
>>423 日本の行政に関する法律用語では首都圏は東京とその周辺地域とされ、
京という語も歴史的に都に用いられるもので、
そもそも現在の都以外の土地に京と名付ける事自体が造京の宣言であり、
その土地に帝と行政機構が移る事自体が主たる都の移転と見なせる。
廃京令が出ていない事を根拠に京都も都であるというのならその可能性はあるが、
東京が都でないという事はありえない。
>世界的に見てもかなりレアなケースではありませんか?
取り敢えず、領邦国家と中央集権国家・国民国家でググってみたら?
態と誤導させているのか思慮が足らんのか知らんけど
江戸時代の日本が国民国家だというのか?
君は物事を考えるという作業を諦めた方が良いと思われ
>>態と誤導させているのか思慮が足らんのか知らんけど
これは蛇足ってやつだな
Wikipediaに↓こうあるんですが、空城の計ってハッタリ作戦って事ですよね?
ハッタリを見破った武田軍がなぜ逃げ帰るんでしょうか?
三方ヶ原の戦いで家康軍は武田信玄軍に大敗し、わずかな兵と共に浜松城に
逃げ帰った。 山県昌景ら信玄軍は追撃したが、浜松城の門が開かれ、
中で篝火が明々と焚かれているのを見ると、指揮官が「待て」と曹操軍の
指揮官と同じように全軍の突入を止めた。武田軍の指揮官は信玄の教えによって、
ほとんどが中国古来の孫子・六韜・三略などの兵法を知り尽くしており、
指揮官は「これは空城の計だ」と叫び、軍を引き揚げさせた。
三河武士団は江戸時代に賞賛されたほど結束が固いわけではなく一向一揆絡みで主従関係がずたずたに綻んでいる
だから家康は織田信長という権威の庇護に入ったわけだが、現在の我我ではなく当時の信玄もこのように考えたと仮定する
この時期の家康は後年の勝頼と同じ国内問題を抱えており、勝頼は結果的に藩屏からも見捨てられたが、
信玄は家康の本城を力攻めしなくても遠江の幾分かは手に入ると期待したので、ついでに三河を攻めれば更に降将が増えるのではないかと欲をかいた
別に逃げ帰ってなどいないが?
>>430 「織田信長という権威」というのがよく分からん
清洲同盟の時点で織田信長ってそんなに権威あったかな?
近くには今川や武田や北条だっているんだぜ?
永禄五年までは東三河に氏真の支配が及んでいることが一次史料で確認でき
桶狭間後西三河で勢力を拡大していた水野を降した頃だぞ?
まともな話がしたいのか、「ノブナガガー」と揶揄するのが目的の一寸前居たキチガイなのか判読できるように
質問があるなら内容を精査して書き直してくれ
江戸時代の庄屋・名主に妾がいたこともあったとされますが、
史料上登場するのでしょうか?
庄屋・名主日記に妾が登場する例を教えて下さい。
XXX国XXX家文書みたいな感じで。
江戸幕府の諸藩取りつぶしは
やはり秀忠と家光の代に多かったのだろうか?
wikipediaによれば3割が秀忠の代だそうだ。幕府の初期には諸大名を潰して幕府の権力を
確実なものにする必要が有るから当然では有る。
4代家綱の頃までは末期養子の禁と言って世嗣(世継ぎ)を幕府に公認してもらわない状態で
大名が死ぬとお取り潰しになった。これを無嗣断絶とか無嗣改易と言う。これが結構多い。
もちろん取り潰しの口実として都合が良かったという事でもある。
家光の代までに取り潰しが多かった反動で慶安の変(由井正雪の乱)が起こる。取り潰しによって
天下には幕府に不満を持つ浪人があふれ、社会不安が広がっていた。
その反省から家綱以降は取り潰しは少なくなり、末期養子の禁も緩められた。
藩という言葉が使われ始める前は、
それに代わる用語は何だったの?
>>436 「◯○家」あるいは一国単位だとその国名
そもそも『藩』という呼称は『鎖国』と同じで同時代より明治以降に頻繁に使用された件
>>435 wikipediaによれば〜
なんて回答するくらいならr「Wikipedia見れば?」でいいんじゃね?
いくら初心者相手だとしてもそんなソースで解説されてもね・・・
「wikipediaによれば」は秀忠の代が3割って所までだよ。
いや、だからその3割ってところがウィキソースなんだろ?
改易の数値なんていくらでも出典あるのにわざわざ「Wikipediaによれば」なんて言う必要ないってことだ
そうか。じゃ、そこは無かった事にしとけよ。
そんな詰まらんツッコミ入れるくらいならお前がちゃんとした数字を上げてみせれば良いものを。
>>439は荒れ放題の世界史板質問スレで、ググれば数秒で回答できる質問をして
「すごい。この板は優秀だ」「日本史板の質問スレは機能していない」と言ってる奴じゃねぃ
この板に何か怨みがあって、いちゃもんつけたいんだろ、放っとけよ
足利義教が復活させた日明貿易は土下座外交と同じですか?
>>445 現代政治で例えると今の日本と中韓の関係が逆の立場になった感じ。
現代中韓(当時の日本)が状況に応じて相手を大国と持ち上げて一見へりくだってるように見えなくもないんだけど、
実際には現代中韓(倭寇)の民間人による日本(当時の中鮮)への犯罪行為が頻発していて、
むしろ大国とされている現代日本(当時の中鮮)の政府が国内では弱腰となじられるという。
更に大国とされている日本(当時の中鮮)が相手と取引する条件に自国と相手国との友好を求め、
現代中韓(当時の日本)も口では応じるんだけど実際には効果があまりない。
ちなみにかつて日本は中韓に悪い事をしたからしょうがないと言う日本人がいるように、
かつて中鮮は元寇で日本に悪い事をしたからしょうがないと言っていた当時の中鮮人もいて、あちらの国の記録に残ってる。
公家が辞任の替わりに嫡子や親交のある者を昇進させている
例が多くありますが、これはいつでも、誰でも譲ることができたのですか?
鎌倉の源氏将軍も室町の足利将軍も江戸の徳川将軍も
初代と三代目は有名で二代目があまり有名じゃないですが、
やはり世代的にそういう風になりやすいんでしょうか?
>>448 藤原氏は二代目の不比等が有名で、初代と三代目はやはり凄い人物なんだが実績・知名度共に劣る
いや初代は名前だけはしられてるんだが、彼を藤原氏の初代だと認識してる人は案外少ない
2代目が影薄くなりがちなのは古今東西の歴史でも共通してる。
実は優秀なんだけど父や息子の存在感に比べると落ちると言うか
>>450 高校を卒業してたら、そんな世迷い言は口が裂けても出てこないものだがな
デューダー朝の2世ヘンリー8世
五賢帝の2代目トラヤヌス
唐王朝の2代目太宗
二代目の歴史的有名人なんていくらでも挙げられるわけだが
>>448 幕府に関して言えば、初代は創業者だから当然目立つ
2代目の頃は幕府の統治を確立する守勢の時期なので、義詮や秀忠は優秀(義家は優秀じゃないが)でも、
やることは比較的地味で、大きな事件もあまりおこらなかった
3代目の頃にもなると幕府の組織も固まってきたので、その上でさらに新しいこと(和歌集の編纂、日明貿易、
南北朝合一、鎖国など)をやろうということになってくる
あるいは、その頃になると、その体制に反発する勢力が現れたり、体制内での幕閣の権力闘争など、比較的
派手な事件も起こる
それで結果的に、初代と3代目が目立ち、2代目はそれほど目立っていないように思えるだけで、それぞれ
2代目もけっこう重要人物
>>448 室町幕府と江戸幕府はたまたまどちらも第15代将軍が最後の将軍となったが、
だからといって、15代目という世代が、14代目や16代目などと比べて特に家を
潰しやすい世代なのだと君は思うかい?
何か例えが変じゃないか?
奥州藤原氏が征夷大将軍を申請すれば、なれる可能性はあったのでしょうか?
贈り物、賄賂が大変だからやらなかったのかな
幾ら朝廷が財政的に困窮し莫大な献金がなされても
当時の社会通念上其の目はないな
実朝が有名なのは歌人として、源氏最後の将軍としてであって、
なにか優れた治績があったわけじゃない。
家光は名君みたいに言われるが、幕閣が有能だっただけで、
本人は阿呆だよ。
先ほどNHKの歴史秘話ヒストリアで、大坂夏の陣の時、鎧姿の騎馬武者が駆けながら発砲する場面が
あったのですが、当時、そのように火縄銃を馬上で撃つという運用はあったのでしょうか?
1発撃ってしまったら、馬上、しかも動きの制限される鎧を着た状態で、次弾を込めるのはけっこう困難
なのではないかと思えるのですが
>>458 西欧の運用でいうところのピストル騎兵ってやつだよ。一撃を与えて離脱
>鎧姿の騎馬武者が駆けながら発砲する場面
騎馬鉄砲隊?
>当時、そのように火縄銃を馬上で撃つという運用はあったのでしょうか?
真田幸村の8連式馬上筒とかいうものがあるとかないとか、軍記では伊達家が大坂の陣で活躍とか…
あったかも知れないが無かったとの断言はできない
信頼できる史料による存在の証明はできない
>>455みたいな感じで、地方豪族が朝廷に献金して官職に就くことを現在に例えれば、
民間企業の経営者が政治家に献金して、産業強化戦略会議のメンバーに選ばれるような
感じですか?
>産業強化戦略会議のメンバーに選ばれる
官僚が作るペーパーを追認するだけの簡単なお仕事です
官職は単なる名誉職ではなくて、ちゃんとそれに相応しい成果が求められるよ
徳川幕府が末期に弱腰外交を続けたのも、万が一外国と紛争になって負けでもしたら(てか戦ったら負けるんだが)、征夷大将軍としての面目を失うから
で、藤原氏がそんな常勝将軍になれるか、なりたいかという話
彼らには他にもっと向いた仕事があった
>>449 藤原不比等は有名だし、実績もある人物だが、
あくまでも一般的な知名度で言ったら
藤原鎌足>>>藤原不比等くらいの差はあるんじゃね?
>>465 (藤原四兄弟も実績も知名度も一応あるんですよ)
太平洋戦争の敗北はよく皇室の危機だったと言われるけど、
当時の日本人にとってはどっちのパターンが恐怖だったのだろう?
@昭和天皇が戦犯として処刑され、皇太子が即位する
A昭和天皇は処刑を免れるが退位し、皇太子も即位せず、
天皇や皇族という地位が廃止される
昭和天皇が処刑された上、天皇や皇族の地位が廃止されるって言う
超最悪なパターンは抜きで
468 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 01:18:49.12
質問させてください
室町時代になると守護は守護大名に成長していきますが、地頭から大名になった人はいるんでしょうか?
やっぱり地頭は守護傘下に組み込まれてしまったのでしょうか?
調べてみても的確な答えが見当たらないので質問させて頂きました。
ご教授よろしくお願い致します。
伊東氏は鎌倉時代初期から宇佐宮領の地頭職
毛利氏は安芸吉田荘の地頭みたいね
そもそ鎌倉室町では、「国人」はほぼ、地頭職を指す身分用語だし
472 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 09:15:30.43
>>469-470 皆様ありがとうございました
大変参考になりました
調べてみたいと思います
473 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 09:17:00.55
>>471 すみません<(_ _)>
抜けてしまいました
ありがとうございました
474 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 09:31:39.04
>>467 近衛文麿は天皇が戦犯追及されることを恐れて、落飾させて仁和寺に押し込めるつもりだった。
戦争末期に仁和寺に行って、当時の門跡と相談している。
敗戦したら、天皇を落飾させて「裕仁(ゆうにん)法皇」として入寺させる手はずを整えてた。
実際は、近衛本人が戦犯指定されて自殺してしまったが。
>>468でふと思ったんだが、伊予の西園寺は領家なのは当然だとして、その場合地頭はどうなってたんだろう。
領家自らが赴任しているのだから地頭は任命されなかったのか、或いは自ら地頭と称していたのか。
476 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 12:59:37.52
柳生十兵衛ってウィキによると三厳となってますが、自分はずっと三巌だと思ってました
ウィキのほうが正しいとは思いますが、どっちが正しいか断言できる方いらっしゃいますかね?
477 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 22:32:11.13
戦国時代では戦いの時百姓は足軽参加したそうだけど
南北朝時代
鎌倉時代の戦いでは
百姓も雑兵として参加したの?
それとも戦いに参加したのは本当に武士だけだったの?
478 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 22:50:06.96
そもそもが百姓は足軽というのが間違えてる
上層農家は武将レベルで参加
よく言う足軽は貧農以下の小作民
479 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 22:55:03.50
じゃあ小作民が鎌倉時代に戦闘に参加することはあったの
足軽という言葉を知っているのだから
足軽でググれば幸せになれると思うぉ
>>478 アホか。「足軽」は軍役を果たせる百姓がなるもの。軍役の提供の代わりに各種特権が付与されるんだよ。
482 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:46:08.62
ないよ
鎌倉時代は一族単位で武装して一門同士での潰し愛
戦国辺りから信長みたいなのが小作やごろつき雑多を大量に専属傭兵として常備化し
それらがきずけば武士となってしまった
483 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:50:40.77
>>481 お前があほだろにわか
戦国時代や応仁辺りで在地の庄屋名主クラスの豪農が足軽徴兵されてた記述なんかねえよぼけ
在地領主階層であった名主庄屋クラスの豪農は普通に騎馬格として召集されてるわかすが
中部地方にあったという「親分子分慣行」とはどのようなものなのでしょうか?
親分が庇護し子分が臣従する関係だということは分かるのですが、
親分は一体何から子分を守ったのか、子分は一体親分の為に何をしたのか、さっぱり分かりません
どのような背景から生まれて、その制度で親分・子分にどんな得があったのか、そして比較的近代まで残ったのはなぜか、その辺を教えて下さると嬉しいです
南北朝というのがいまいちよく分かりません
いくら足利尊氏が武力を背景にしていたとしても、
今すでに正統な天皇が存在しているのに、
「今日からこの人が新しい天皇です」といって擁立しても
そんなものが広く通用するものなのか?
時代背景が違うとはいえ、いま安倍さんが高い支持率や政治力を背景に
「今日から秩父宮が新しい天皇です」といって擁立しても
大衆は「は?安倍、お前何言ってんの?」だと思うんだけどね
>>485 足利尊氏の場合、その時代の全国の武士階級がなにより望んでいたのは、自分たちの経済基盤である土地を
自分のものと政治的に保証してもらうことだった
この時代は、土地争いが深刻だった
彼らが倒幕に協力したのは、北条氏も自分たちの土地拡大に精をあげ、鎌倉幕府が土地争いの調停能力を
失ってしまったからだ
ところが、鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇が制度や土地の権利を平安の昔に戻そうとし、喜ぶのは公家や
彼らに気に入られたごく一部の武士ばかり、多くの武士たちは、そのせいで土地の権利問題で大混乱
建武の新政だの建武の中興だのと美名で呼ばれているが、実際は新政、中興どころか、建武の大悪政だ
全国の武士は、「俺たちが鎌倉幕府を倒してやったのに、今の天皇のせいで土地問題は鎌倉の時よりもっと
ひどいことになりいやがった!」と怒り心頭
そんな時期だよ
源氏の頭領たる足利尊氏は、そんな彼ら全国の武士の期待を一身にになっていた希望の星
一度は九州にまで落ちたのに、多々良浜や湊川で勝利してすぐに勢力を盛り返せたのも、全国の武士に期待
され、支援されていたからだ
その尊氏が、無能・暴虐の暗君御醍醐天皇を退位させて、光明天皇を即位させりゃ、多くの武士たちは
大歓迎だよ
まあ、中には新田や北畠、楠野木正成の子供らみたいにそれでも御醍醐に忠誠をつくす変わり者もいたけど
ただ、本来なら、尊氏は、権力を剥奪した御醍醐を幽閉するなりもう一度島流しにするなりすべきだった
足利尊氏には、そういう信長や家康的な権力者としての非情さに欠けていた
そのため、御醍醐が往生際悪く、「北朝に渡した三種の神器はニセモノだこっちにあるのが本物だ」と言い出して
南朝を興し、混乱が続くことになってしまった
>>485 当時「正統な天皇の家系」が二つあり、鎌倉幕府の仲裁により双方から交互に天皇が出ることになっていた。
後醍醐天皇はその片方の家系の出身だが、本来皇位を継ぐべき甥が成人するまでの中継ぎとされ、思い通りの政治ができなかった。
そこで自分が唯一の「正統な天皇」になるために、幕府に不満を持っていた人たちを味方につけて幕府を滅ぼした (尊氏も幕府から後醍醐側に寝返っている)。あとは
>>486の通り。
488 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 07:23:21.59
豪族ってなんですか?暴走族みたんなもん?
>>486>>487 ありがとうございました
南北朝のときは支配階級の武士の多くが後醍醐天皇(建武の親政)に反発
していたってのが最大の理由ぽっいですね
>>486 全国の武士というよりは地頭、下司クラスの権利欲求だがな。
建武新政の失敗は上記の新恩、安堵への行政処理が遅れたのが大きい。
最もこの裁判事務が遅れていたのは北条も一緒なんだがな。
例外的にこの事態に対処できたのは東北に裁判機構を整えることができた
北畠親房、顕家で新政後の迅速な行政処理がその後の東北における南朝勢力
のしぶとさにつながる。
結局頼朝式の「ご恩と奉公」で短期間に手下を増やした尊氏が後醍醐朝の内紛
の最終的な勝利者となったがこの期間に味方になった連中と本家、領家の板挟みに苦しみ
はじめる。尊氏(直義)も基本的には建武新政と同じ政治スタンスなのは建武式目からも明らかだよ。
観応の擾乱は歴史的必然といっていい。
491 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:24:42.81
「史料の少ない歴史上の有名人物」
ってスレを建てたいんですが。自分は武蔵とか五右衛門
ぐらいしか思い浮かばないんですが。スレがにぎわう程度の
人物の数いますかね。
他にいますか。出雲阿国とかぐらいですか?
上代に遡れば聖徳太子だの卑弥呼だのいっぱいいる
493 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:54:12.16
卑弥呼は三国志の奴にしか記載されてないんだっけ。
聖徳太子は実在すら危ぶまれるレベルだからなあ。
聖徳太子以降になると蘇我入鹿とか史料残ってるのかな。ていうか
古事記とか日本書記で結構史料残ってるほうじゃない?聖徳太子も。
時の権力者はそれなりに史料が残ってると思うけど。坂田金時とかそっち系は
史料あるのかなあ。
>聖徳太子は実在すら危ぶまれるレベルだから
そんなエサで俺様がクマー!
\
\(⌒-⌒)
(・(ェ)・ )
`つ つ (⌒(
ヽ_つつ≡(⌒≡
(⌒(⌒
ズザザザ
江戸時代頃でも、権力者でない有名人なんかには、文献史料は意外に少ない人もけっこういるよ
東洲斎写楽なんて、その正体をめぐっていろんな説があったぐらいだし
最近は斎藤十郎兵衛説が有力だけど
496 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 15:22:28.19
ああ文化人的なのはそうだね。芭蕉とかも史料少なそう。
紫式部とか清少納言とかもかね。
うーん。もっと大河の主役はれるぐらいだけど史料すくないぐらいの有名人いないかな。
>>496 松尾芭蕉はやめてあげて、甥に妾寝取られて隣近所の目が怖くなって
深川に引越ししたとかの黒歴史を晒すのは不憫すぎる。
松尾芭蕉といえば日テレの謎学の旅で何度か取り上げていたな
スタッフに芭蕉好きがいたんだろうか
思えば元号が変る前後の民放には、やや良質なドキュメンタリモドキのバラエティ番組がたくさんあった
NHKはもう少し長く、90年代前半くらいまでは良質のドキュメンタリーがいっぱいだったんだがな
そこからは「その時歴史が動いた」だの「ヒストリエ」だの、転げ落ちるように歴史ドキュメンタリーの質が落ちていった
大河ドラマもひどくなったもんだ
500 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:49:37.05
「江戸時代」とか「平安時代」とかって
いつ頃に命名したのですか?
501 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:56:40.79
499
ネタならあるんだけどな
禁忌に触れるのが怖いんだろ
502 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:59:13.99
まあいいとこ遡っても平の将門あたりが限界だろうなあ
503 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:02:56.91
それ以前に遡るなら皇族同士の殺し合いの歴史になっちまうからな
今のNHKなら大好物じゃないか〜
505 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:12:09.58
知ってるつもり
とか
驚き桃の木20世紀
とかその辺の番組もなくなっちゃったからなあ。
なんだかんだいってヒストリエとタイムスクープハンター
ぐらいしか歴史番組ってやってないんじゃないか?
>>505 マジかよ……その2つだけとかどんな悪夢だよ……
507 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 20:06:00.21
ヒストリエは最近黒田如水と黒田長政
扱ったんだけど。関が原で黒田如水が天下狙ってたという
説を一切扱わなかったのは、大河のネタバレになるから
ストップさせてたのかね
>>499 「堂々日本史」がよかったな
「動いた」は、アンパンとか百貨店とか、アホかバカかの世界に堕落した
511 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:19:24.69
ちょっと前までプロジェクトXとかそのとき歴史が動いた
とかレンタルであったのだけれども。今まったくなくなったな。
その時歴史が動いたで、視聴率のよかった3大ネタが
忠臣蔵と、新撰組と、戦艦大和だっけか
3つとも、たいして歴史を動かしていないという皮肉
その中だと案外忠臣蔵が歴史に影響を与えた気がする
当時から今に至るまで日本人が好む逸話としてずっと語り継がれてるし、
その経済的影響を数値化したら何千億円に達しそう
経済的影響だと
新撰組ネタ・コンテンツで儲けてる人間も多いから
結構大きくないか
>>509 面白そうだね、詳しく
任侠とか寄親制みたいなのかな?
女学校のエスみたいなん?
512の書いてあることが事実として経済効果というなら
戦艦大和だろうな
戦後の造船日本をリードしたのは、戦争中に大艦を建造し実際に大洋で就航したデータを得たことがあるのだから
現在のようなシミュレータが存在しない時代に欧米より先行できた事実は大きい
大和一つにそこまで大きな技術的価値があるわけなかろーが
多分君の存在自体が世の中で一番無価値だと思うよ
ずいぶん安い罵倒だな
言い返せないのがそんなに悔しかった?
一人前扱いして欲しけりゃ内容のある煽りを書けよ
517の脳味噌では詳細な解説をしてやったところで1%も理解できないのは明らか
>>519 >>517の書き込みには言い返す価値すらなかったとおもうよ
これも
>>519への言い返しではなく、
もしかしたらもうちょっと考えて物言ってくれるかもな?だったらうれしいな
という私的希望から書いてるだけで、あなたが罵倒だけのネット人生で満足するなら
それはそれでかまわないよ
>>520 どうせ君が言うこと分かりきってるからなぁw
・世界一大きな主砲ガー
・大和製造に関わった人達が戦後ォー
とかなんとか、実用性皆無のカタログスペック自慢と関わった技術者のその後について語るんだろ?
現実には、主砲は全く命中しなかったし、エンジンはお世辞にも高いレベルだったとはいえなかったし、
製造者はもちろん優秀な人達だったんだろうが、別に大和を作らなくても(大和じゃない別の造船に関わったとしても)優秀は優秀だからなぁ
ま、君がこの程度の批判に対してもまともに言い返せないのは分かってるけどなw
> 戦後の造船日本をリードしたのは、戦争中に大艦を建造し実際に大洋で就航したデータを得たことがある
みたいな頭の悪い発言を見るに、どうせ下らないコンビニ本でも鵜呑みにして大和マンセーしちゃったクチだろw
>>521 いやいや、もちろん大和に技術的価値が皆無だなんて私も思ってませんよ
だけど
>>516が言う
> 戦後の造船日本をリードしたのは、戦争中に大艦を建造し実際に大洋で就航したデータを得たことがある
みたいなトンチキ意見はさすがに「大和信者乙」と一言で切って捨てて構わんでしょうよ
戦後の日本の造船技術に大和の製造なんて何の関係もありません。あっても0.1%とかそんなレベル
516で俺が書いた最後の二行を寸分も理解できず
全く見当違いの大和否定に終始している低脳が同時に二匹出てくることの不思議
>>524 いや、そういうハッタリはもういいからw
高度経済成長期の商船なんて1万トンもあればかなり大きいとされてたのに
6万4000トンの大和を浮かべたデータなんて大した意味があるはずないだろ
3万トンクラスの長門で充分
大和でなければならなかった理屈をきちんと説明できない時点で
>>516は大和信者の妄言なんだよ
30万tのVLCC(原油タンカー)なんかもあるよ。
シーバースにしか着桟できないバケモノだけどなw
バルカーだと30万t級も最近になって現れてきているけど
国内だと大分港ぐらいしか入れない。
大和の主砲が命中しないとか典型的な検索オタに戦後の造船史の一端を紹介してやるとだな(はぁー
↑内容のある煽りが書けるならこれも何を間違えているのか面倒だが解説してやるが正直全く期待していない
第四艦隊事件という事例が示すように波浪の複雑さは技術者の予想を超える
船舶は大型化するほど波浪の抵抗を大きく受る。ある程度までの船舶に対しては外力に応じる船体構造の基本計算ができるが
大型船建造にあたっては計算できない部分は経験の集積で強度を決めざるをえない
その結果が昭和四十年代に相次いだ大型船の沈没事故であり世論の注目を集め国会での(無意味な)俎上にもされた
くだらないことで過剰に興奮しそうなので(一応)訂正しておく
俎上にもされた
↓
俎上にものせられた
>>527 それ、全く「大和の建造経験が戦後に活かされた」というアンタの主張の説明になってないのが自覚できない?
それどころか、
「大和を建造したにも関わらず大型船の沈没事故が昭和四十年代に相次いだ」→大和の建造は無意味だった
と、自説の反証とさえ捉えられかねないことまで言ってるんだがw
ただ煽りたいだけの文盲にこれいじょう時間かさけないし
技術史の話を全く理解できない、知らない事項についてググる気もないということだけを理解した
>>530 結局無関係な知識を披露するだけで、具体的に「大和製造が戦後の造船にどのような影響を与えたか」については全く語れないわけね
りょーかいw
532 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 07:06:30.55
以仁王、長屋王、護良親皇の違いを教えてください。
つか、王って何?日本に王様はおらへんやろ。
日本史で「王」といったら、皇室につらなる人物の称号の一種だ
つーか、以仁王や長屋王を知ってるならそれぐらい察しがつくだろ
むしろ、なんで西洋のKINGの訳語を「王」にしてしまったんだろう
535 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 10:07:13.86
いや徳川家康とかが海外には日本国王を名乗ってたんじゃなかったっけ?
足利義満とかも。
いまでも、日本には女王が5人もいるんだが
>>534 漢字の使い方として、何かの大会のチャンピオンを「王」と呼んでいた。クイズ王みたいな感覚だ。
歴史の話ってよりは政治の話になってしまうけど、できれば答えて欲しい
井伊直弼は強行に開国路線を進めたけれど、井伊直弼本人は攘夷派だった
しかし、江戸幕府大老という重責を担っていた井伊直弼は「攘夷はできない、
現実的対応として開国するしかない」と考えていたようだ
このように、重責にある政治リーダーが自分の政治的信念を捨てて現実的対応を
することの是非をどう考えるのか?
攘夷派であるにも拘らず、日本全体の為に開国路線を推し進めた井伊直弼は
優秀な 政治リーダーだったと評すべきなのか?
それとも、開国こそが現実的な対応だと思うのであれば、開国を政治的信念とする
人間に大老の重責を譲るべきだったのか?
>>538 そういう、政治判断の是非は、人により、立場により、評価が変わるのが当然
自分はこうすべきだったと思う、という主観的な主張はありうるし、そういう議論はおおいにすべきだろう
だが、こうするのが絶対に正しかった、という絶対的な真理など存在しない
「優秀な政治リーダーだったと評すべきなのか?」と言われも、そもそも「優秀な政治リーダー」とは?
それが定義されなければ、自分の政治信念を曲げないのが優秀なリーダーと判断する人もいるだろうし、
現実的な対応をとる人を優秀なリーダーという人もいるだろう
「開国を政治的信念とする 人間に大老の重責を譲るべきだったのか」と言われても、それを肯定する人も
いれば、そんなのは無責任きわまりない、と評価する者もいるだろう
徳川慶喜やゴルバチョフ大統領なんて、ずっと評価が定まらないのかもしれないね
541 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 12:51:40.94
今、評価が低いけど今後評価が上がりそうな人物とかいるかな?
足利尊氏とかそろそろ評価上がるかな?それとも後醍醐天皇とかの評価が
あがるべきなのかな。
後醍醐天皇は革命の志士としては評価するけど、
政治家としては、やっぱり微妙じゃないか?
今以上に評価上がらんと思う
>>534 どの辺に問題があるとお思いですか?
もしそうだとしたら何が適切だったと思われますか?
>>532 君が言う王様って何?
「王」は皇室内の称号。親王宣下を受ければ「親王」となる。
現在は天皇の三世孫までが「親王」、それ以外は「王」
>>538 直弼というよりこの当時の日本人でエスタブリッシュメントで排外主義なのは天皇以下の
公卿ぐらいだよ。烈公と呼ばれた水戸斉昭ですら開国を容認していたのは松平春嶽の記録からもわかる。
不平等条約の日米修好通商条約ですら外国人は居留地の外では自由かつ安全に行動できなかった。
直弼の失政は将軍継嗣問題で改革派幕府官僚を大量粛清したことと、自身がテロで倒れて
幕府権威を失墜させたことだよ。
>>540 慶喜は一会桑時代の外交手腕は見るべきものはあるが将軍時代
はもうどうにもならないだろう。
スレ違いだがゴルビーは将軍時の慶喜同様リーダーとしての
統率力のなさを露呈したから再評価などないよ。
>>541 歴史に絶対はないから面白いな
今は味噌糞の評価である菅直人も
今後静岡近辺を震源地とする地震が
発生したら「首相時に浜岡原発を
強権的に停止させた大英断」として
高く評価されるかも
548 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 16:55:28.45
>>544 王とは、国のトップに君臨する一人の王様のことではあ〜りませんか?
そう思います。
なので、以仁王、長屋王って何の王様?と思うわけです。
なので感覚が…
549 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 17:38:04.48
中国で王ってなると一地方の領主みたいな物なんでしょ?
呉王とか漢中王とか。皇帝以下の存在。
英語のキングだとTOPだけれども。
550 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 18:05:12.57
改元はいつの時代も、朝廷が行っていたのでしょうか?
江戸時代は30回位あったようですが、権力が幕府にあったので
幕府が行っていたようにも思えますが。
551 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 18:25:52.60
いや、信長が朝廷を無視して勝手に決めた事があったような気がする。
ねえよ
553 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 18:50:48.43
質問があります。
NHK朝の連ドラ「花子とアン」についてなのですが
主人公のはなが通っている外人が建てたあのような学校は
第二次大戦が近づき英米などと嫌悪になり戦争勃発の流れで
どうなったのですか?
廃校になったのですか?
あとこれもこの連ドラに関してなのですが
世界史板で明治の早い段階から近代教育が普及しみんな学校に行ってたというのです。
でもこのドラマでは主人公の兄弟は学校に行かずに野良仕事したり
奉公に出されたりしていましたがこれはドラマ上の演出ですか?
それとも世界史板の人が間違っていてこの時代はみんなが学校に行ってたのとは違うのですか?
世界史板の人は「日本は他のアジアの土人どもと違うんです。一緒にするな」と語気強めに言っていました。
554 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 18:59:46.07
学問所なら江戸時代の寺子屋
関東なら室町期の足利学校
ほんとに日本の歴史を知ってるのかよ?
555 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 19:02:23.51
551
信長上洛の時だろ
天正年号
>>553 主人公の父親がキリスト教に入信したので、子供を給費生の試験を受けさせることができました。
だから、主人公は通訳や翻訳の能力を得ただけです。
信仰がなければ、優待条件は示されません。
妹が給費生の試験を受けていない理由はよくわかっていません。
また北米の伝導団体が設立した学校や病院は、戦時中も名前を変えて存続していました。
オーナーが変わっても実利は必要だったので廃止になっていなかったりする。
外国語学校はスパイ活動に必要なので、軍の下請けみたいなことをやっていたのです。
557 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 19:05:13.30
蘭奢待切り取りなんてのもあったな
かなり大騒ぎになったはず
>世界史板の人は「日本は他のアジアの土人どもと違うんです。一緒にするな」と語気強めに言っていました。
ほんとうに世界史板はネトウヨの巣窟だなw
あいつらは世界の国々を落とすために世界の歴史や世界のことを学んでいるのか?
>>554 ここは質問スレなんだからここに書き込む人みんなが日本史を知っているとは限らんよバーカw
560 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 20:50:35.49
2.楠木正成は明治あたりの近世が似合う名前をしてるにも関わらず、鎌倉時代の人間だとは驚きです。
どうでしょうか?
足利義持に実権が全然無くて将軍辞めて
その息子もすぐ死んで、櫛引で足利義教が将軍に〜って流れで
なんで義教は恐るべき権力を振るうことが出来たのですか?
>>553 >世界史板で明治の早い段階から近代教育が普及しみんな学校に行ってたというのです。
>でもこのドラマでは主人公の兄弟は学校に行かずに野良仕事したり
>奉公に出されたりしていましたがこれはドラマ上の演出ですか?
明治5年に学制が発布されて全国民が初等教育を受ける事が決まった。
しかしそのドラマの主人公が行ってるのはもっと上の学校。
>>548 >>549 ヨーロッパの王もキリスト教世界の中の一地域の封建領主でしょ。
国家の親玉は最上級の存在じゃない。
だから皇帝>王という概念はヨーロッパでも中華世界でも当てはまる。
王って概念はつまりそういうことだよ。
564 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 22:57:44.75
王が偉いみたいなのは絵本の世界の影響が強いのかもな。
Kingを王と訳さずに殿ぐらいにしておけばぴったり来るのかも。
565 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 23:49:26.90
そうなんだー そのまま絵本のイメージだけど違うんか〜。
566 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 23:52:31.74
すれ違いかもしれないが流れで質問。
日本の天皇 中国の皇帝
はTOPだけれども欧州のエンペラーと教会の立ち位置でどうなってるの?
教会の方が偉いの?
在位年数
なので一昔前は半世紀も君臨していた独裁者の席次が高くなったりする
昔の写真で黒人が前列中央に近い席次なのはこのパターン
時代による
基本は皇帝に冠を授ける立場にある教皇が上に来るが、世俗権力が力関係で勝った時代もあった。
ただそれでも建前は教皇>皇帝だろうな。立ち位置として。
皇帝は教会あっての存在だし。
ローマ法王はヨーロッパ全体の天皇陛下ですね?
でも超絶した存在でもないから教皇レオ3世はフランク王国のカール(カール大帝)に
ローマ皇帝の冠を授けて後援者に仕立て上げた。教皇が帝冠を授ける存在に
なったのはこの時が初めて。
>>558 同意
世界史板のネトウヨどもが土人と見下すアジアでは
オスマントルコも近代教育を取り入れていた
バカネトウヨにはつける薬がないねぇ〜
572 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 16:06:01.88
鎌倉時代の雑兵や郎党もみんな戦いの際には馬に乗っていたの?
573 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 17:42:40.03
つーかネトウヨは見下す対象は中国や韓国だけではなくアジア全域や白人諸国にまで及ぶのね
なんと、愚かな連中なのかね?ばかなの?しぬの?いやむしろ死ねよ
>日本は他のアジアの土人どもと違うんです。一緒にするな
日本が世界中のどこの国や文明文化よりも優れているって本当に思っているのかね?ネトウヨって?
これがスレを無関係で変な方向に誘導しようとする工作です
>ローマ法王はヨーロッパ全体の
イギリスはヨーロッパじゃないということですね分かります
>鎌倉時代の雑兵や郎党もみんな戦いの際には馬に乗っていたの?
郎党は乗れるが従者はよりけり、下人は乗れない
577 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 19:26:15.46
>>571 >オスマントルコも近代教育を取り入れていた
そのオスマン帝国も最後は反動したけどなw
結局はアジア諸国の中で最後まで近代化を成し遂げて近代国家になったのは日本だけ
578 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 19:43:45.85
日本には江戸時代に近代教育の下地となる寺子屋というものがあった
オスマントルコには学林などはあったがそれは貴族や皇族が通うもので
平民が通う学校のようなものはオスマントルコにも清朝にもなかった
日本国憲法で「天皇は日本国及び日本国民統合の象徴」とされていますが、
天皇=日本国及び日本国民統合の象徴の根拠(理由)として、
神道や国家祭祀は関係あるのでしょうか?
それとも関係ないのでしょうか ?
もし関係ないとすれば、何を根拠(理由)と思えばいいのでしょうか?
国家祭祀って何?
神道が関係あるなら憲法違反になることが分かっていて質問してるの?
そんな偏向した知識は何所で拾えるの?
>>580 憲法解釈上は全く関係ない。
憲法は条文から読み取るのが基本。
それ以外の概念を想像したり、想定したりするのは個々の勝手だが
憲法に「天皇は日本国及び日本国民統合の象徴」と書かれていれば
それ以上の解釈もなければそれ以下の解釈もない。
ありがとうございました
一応念のためなんですが、四方拝や新嘗祭、その他の祭祠は国家祭祠扱いではなく、
全て皇室独自の祭祠という位置付けなんですか?
国家祭祀というものが現行憲法上では存在しない
てかそういう疑問に行き着くなら明治憲法下での天皇や祭祀の在り方と
現行憲法での祭祀と国家の関係くらい知ってるだろうに。知らくてもちょっと考えたら分かるでしょ?
肥えるに富と書いて こいづみ って琉球訛りっぽいな。 こいどぅみ
588 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 12:53:20.00
弥生時代、日本は、百余国に分かれて、その中の何国かは漢や魏、に朝献したそうです。
金印「漢委奴国王印」、 魏志倭人伝。
倭の女王卑弥呼、魏の明帝への奉献し、卑弥呼を親魏倭王とした事 等々
これらの古代日本の諸国がわざわざ漢・魏に使いを送り、金印や称号を頂く理由は何でしょうか?
遠く離れた漢・魏からそういった権威をもらっても、実際的な効果があったのでしょうか?
疑問点としては
・当時の日本人が漢・魏からもらった王の称号や金印をありがたがって、崇め奉ったのか?
・中国に認められた倭の王は漢・魏に何らかの後ろ盾をして貰えたのか?
・仮に援助・援軍を要請したとして、漢や魏はそれに応じる意思があったのか?あったとして日本に援助物資や軍を
当時の輸送力で運ぶことができるできるのか?
です。
実用的な利益がないのなら、それこそ何のために漢・魏に使いを送ったのかという事になりますし。
589 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 13:47:20.84
文献を漁って利益を得ると書いて利権と読みます
590 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 13:49:31.82
588
宋史を信じるなら半島は93国
日本は121国
591 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 13:51:21.53
まあ国=邑=村だが
>>588 貰った本人が個人的に有り難いと思ったというよりも、称号で箔が付くと思って使者を送った。
でも実際に箔が付いたかどうかは不明。現代でも紫綬褒章とか有るけど、それで箔が付くと
思う人も居れば思わない人も居る。
後ろ盾として何かしてもらうには遠すぎて無理。
朝鮮半島の国々で金印・銀印を授かったという記録はありません。
楽浪郡の夫租サイ君墓から銀印が出土していますが、楽浪郡は漢帝国の一部でしたから、これは国王印ではなく諸侯印です。
しかし、倭国王が57年に後漢光武帝から漢委奴国王の金印を授かる前に、高句麗が32年同帝に朝貢しています。
この時金印あるいは銀印を授かったはずと考える人はいます。
>>586 逆説的に言うと、明治期〜の国家神道の頃は
国家神道=国教であり、
皇室の祭祀=国家祭祀
ということでOKなのですか?
現行憲法下でも宮中祭祀は国家のためだがな…
つーか、質問の形を借りた主張の押し付けは止めね?
どんな日常生活を送っているのかしらんが他に考えることないの?
名目上の話と本質的な話を混同してるからな。
そもそも皇室の祭祀というのをどこまで知ってての話かも分からん。
江戸時代以前に行われていた皇室の祭祀、明治から終戦までの皇室の祭祀、戦後の皇室の祭祀、
それぞれ全てとは言わないがどのようなものがあってどのように行われているかを自分の中で明らかにしてから定義付けしてくれ。
>>594 逆説的ってw
どこが逆説的なんだか
むしろあなたに答えを導いてるんでしょ
明治から戦前までの宮中祭祀は国家祭祀という捉え方でいいと思うよ。
「OKなのですか?」ってなぜそこに執拗に拘泥するのかが分からんが
あなたが持つ「国家祭祀」のイメージが全く分からんが、国家が取り決めた法に基いて
国家予算で行われていたという点においては戦前の宮中祭祀は国家の祭祀だ。
戦後の宮中祭祀は「内廷費」で行っているという点において「皇室の私的な祭祀」という解釈だからね。ルール上は。
ただ戦前も戦後も、国民のために天皇、皇室の方々が祭祀を行われている点においての本質はなんら変わりない。
あくまでもGHQ憲法との兼ね合いの問題。
>>598 国民のためでなく中華王朝のバクリとしての自分たちの権威確立のため
だよ。
>>599 /: : : : : : : : : : : : ://: : : : : : : : : : : :ヘ
/: : : : : : : : : :}´`゙´ 彡=‐''^、: : : : : : : |
f: : : : : :/ノ!!´ ゙、 : : : : : |
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.|: : : : / /==ヽノ 、ィ===ヘ \: : : : }
i : : : / ,,, ,,, |: : : ノ
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〈〈《《 r'´ ヽ |ヘ弋
ヽゝト ::. 丶^ー^ー' .:: |r^ソ`
〉o :: _ _ _ :: lo〈
`ー、 <-‐<>‐-> l`ー' チュッ
《、 . `''ー─''´ /ヘヽ
ゞ|、  ̄ ̄ イ》ハ
/| 丶、,, ,, '´| \
r─'´ |  ̄ ̄ ̄ | `''─-、
いつから「京」が「京都」という地名に変わったの?
平安京が出来る前はどんな地名だったの?
平安京以前の都も「京都」と呼ばれることがあった。平安京が建設されたのは当時の山背 (山城) 国葛野郡・愛宕郡。
日本人(特に、武将でない農民や庶民)がヒゲをそる、あるいは抜くようになったのはいつ頃でしょうか?
また、その頃から、それぞれの家に、専用の髭剃りか毛抜きがあったのでしょうか?
それとも、短刀などの別の用途の(または多目的の)刃物で無理矢理剃っていたのでしょうか?
604 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 00:09:05.43
日本中央の牌
の謎に興味があるんだが。どうなんだろ。
坂上田村麻呂が戦ってた相手が「日本」
で倒してヤマト国が日本になったの?どうしてだろ?
何が聞きたいのかよく分からん。
日本中心の碑に対する個人的感想ととしか読めないんだが。
606 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 00:19:12.30
日本中央の牌
でどんな説があるのかが知りたいのです。
今どんな説が主流なんですかね。
どうせどっかのオカルト板かそれ系のまとめサイトで見て気になったってとこだろ?
まず、興味があるなら自分で調べろ。
どんな説があるかについては、オカルトか学術的レベルか何を求めてるか知らないが
Wikipediaくらいで十分じゃないか?
今の主流はってことについては、オカルト界では知らないが学会ではトピックになってないので
主流もへったくれもない。誰も(少なくとも、今はまともな研究者がこれについて論じてない)
従ってあなたがこの碑をどう捉えてるかしらないが、この板で聞いてどうのこうのはないと思う。
あと、「牌」じゃなくて「碑」ね。
麻雀牌じゃないんだから。
陸海軍の大元帥であった天皇の軍服が陸軍のものなのは何故ですか
皇太子も近歩一だし
海軍式の服もあったし、皇太子時代の昭和天皇は近衛歩兵第一連隊と第一艦隊の両方に在籍していた。
かつての左大臣や右大臣は現在でいう政治家と高級官僚、どちらに近いですか?
世襲なので政治家に近いです。
>>610 かつての、というのはいつの時代だろうか
律令制下の大臣のことか(これも実質権力を握っていた時代と形骸化した時代との違いもあるが)
それとも明治政権下における太政官制の大臣のことか
>>611 意味不明。回答になってないし、観点ずれてるし、間違ってるし。
>>608 陸軍の写真しか見つからなかった…
>>610 氏長者だとか前左府だとか前右府だとか
そういうしがらみが多いから三角大福時代の総理大臣のイメージ
614 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:52:59.94
>>607 wikで見て知れることは大体知ってると思います。
この手のスレを立てて
古代東北の謎とかを議論できるようなスレになれば言いと思うんですけど。
情報が少なすぎて無理っぽそうですね。
アテルイがアイヌなのか?エミシとエゾは一緒なのか。
みたいな謎でいろいろな人の考察を聞きたかったのですが。アイヌは文字を持ってなかったから
考察する資料が足りないね。
アテルイの話がしたいんだったら専スレが有ったと思うが、
「日本中央の碑」を軸にしたいんだったら情報がほとんど無いから無理。
616 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 17:13:42.56
江戸時代の改易に際して、幕府に対して武装抵抗を試みた藩は皆無ですか?
赤穂藩
皆無らしいです。
619 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:20:56.24
1543年に種子島にポルトガル船が到着して、以後、ポルトガル・スペイン等欧州との交流が始まる以前の日本人
(まあ、権力者・有識者)は、中国・インド以西の世界をどの様なものと認識していたのでしょうか?
中国経由の知識として、中東や欧州があることをしっていたのか、それとも実際にやってきて初めて「
すげー、世界の西の果てにも国があるんだ、知らんかった、世界は広い」・・・という感覚だったのか
後者の場合、中国・インド以西は、どうなっていると考えられていたのでしょうか?断崖絶壁?
620 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:30:44.97
616
藩じゃなくその動きがあったのは由井正雪の乱
あとは関東の武家が古賀公方を担いでればひっくり返った
可能性あり
潜在的な恐怖感
621 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:31:53.83
ちゃんと歴史に痕跡残ってるわ
稲葉紀通ていう
一人で武装して自殺した奴ならいたが
家紋の名前が分からなくて調べているのですがこちらで質問しても大丈夫ですか?
板違いでしたらすみません
624 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:38:49.48
江戸時代、飢饉対策の一環として、酒・餅・麺類の製造禁止・制限がかけられたことがあるそうです。
酒は分かるのですが、餅や麺類にまで制限がかけられた理由は何でしょうか?
酒は発酵の過程で元の材料よりカロリー量が減るでしょうけど、餅と麺類は製造前と製造後で変わら
ないと思い、不思議に感じました。
餅米じゃなくてうるち米を栽培しろってことかな?
>>614 古代東北の謎って・・・
あなたが「謎」とか「疑問」に思ってることがはっきり見えてこないんだよ。
それが何よりも問題。
テーマ云々じゃなくて、あなたの頭の中での興味が先走ってて、それを他者に伝えきれてない。
なぜ「日本中央の碑」について聞いていたのに、「アテルイが〜」「エミシが〜」となるのか。
ここはあくまでも質問スレなのだから、聞きたいことを端的に質問することが肝要。
それ以外のあなたの考察や意見は正直いらないんだよ。
>>624 加工すると保存に適さなくなるし、餅や麺は嗜好品や間食として食べられる側面が強いから、
今食べない(売らない)分は米のまま置いとけってことじゃないかな
私は
>>624じゃないけど横レス
言われてみりゃ、確かに不思議だ
麺類ってそもそも、もともとは、米があまり取れない地方で、米のかわりに食うために小麦や蕎麦を栽培して、
それを美味しく食べるための工夫として発達したものじゃないのか?
それを考えると、
>>625、
>>627の説明は、ちょっと納得がいかない
明治時代の直接国税(地租と所得税らしいですが)を調べたのですが(第一回
衆議院議員被選挙人名簿に記載)、うちの先祖と近郊の大きな酒造家の国税が
殆ど同じなのですが、家の大きさや当時の記録等をみると、どう考えても10倍
くらいの所得格差がありそう、酒の販売等税金は今ほどかからないのかな?
明治14年に、酒造税改正について一悶着あったとか、なかったとか
酒税でググれば幸せになれるかも
631 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:16:36.29
>>626 大和朝廷と争っていたエミシは全部アイヌなのか?
東北に日本中央の碑があるなら元はエミシが日本なのか?
コロポックルはまた別の種族なのか?
東北が完全に大和になったのはいつなのか?
東北や関東人は大和国の人間だなんて思ってないよね。
飛鳥とか奈良が日本のふるさととか紹介されるとはぁ?って感じになる。
それは自分中心に考えてるからだよ。(考えちゃいけないって言ってるわけじゃない)
国家としての「日本」の源泉が飛鳥・奈良にあるのは自明。
関東国なり九州国なり出雲国なり、仮にそれらが大昔にあったとしても、
それが国家としての「日本」につながるわけではない。
そういう意味で「飛鳥・奈良が日本のふるさと」という形容は格別おかしなものではない。
それと、証明は難しいけど、おそらくあなたにも飛鳥・奈良由来の血は流れていると思うよ。
1千年前のゴマンといるあなたのご先祖に、誰ひとりとして「藤原さん」がいない、とは考えられないでしょ?
もちろん、先祖代々東国住まいなら、そこがふるさと、として大事に思うのは当然。
だけどせっかく日本という国の国民として生きているなら、あまり飛鳥・奈良を白眼視しないでください。
かく言う私は先祖代々南東北人です。
>>632 そう言うのならむしろ、飛鳥時代とか奈良時代には東北は日本じゃなかったという事になる。
江戸時代の日本はものすごい数の「藩」に分割されていました
かつて存在した「近江の国」とか「河内の国」とか「豊後の国」などは
どういう扱いだったのでしょうか?
地名表記に普通に使われてましたよ。例えば時代劇の木枯らし紋次郎のナレーションで
『上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた』と紹介されますが、上州というのは
上野国(こうづけのくに)の事です。「藩」の領域は国をまたぐ事も有るし、飛び地も有ります。
何々藩というだけでは場所を確定する事は出来ません。
国単位の行政機関とかの事なら、それは無いです。大大名の格式としての国主というのは有ります。
でも国主だからと言って他の藩に命令したりは出来ないです。
何度も書いているけど
「藩」という呼称が主に使われたのは明治以降(無論江戸時代にも使用例が散見されるが)
>>637 「藩翰譜」の藩を何だと思ってるんだ。
江戸前期には既に、儒者の間では一般的な呼び方だった
639 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 00:39:35.81
地名とか呼称という意味では「〜国」は残っているけど、
実際の行政機関としては存在しないって事ですか?
ありがとうございます
江戸時代においては、あくまでも帰属意識は藩におかれることが多かったんですよね?
藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。
明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
元々は「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。
あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。
当時の江戸幕府は、大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中(かちゅう)などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の苗字もしくは拠点(城・陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。
今日の歴史学上では、大名領およびその領地の支配組織を藩、藩の領主である大名のことを藩主(はんしゅ)、大名の家臣のことを藩士(はんし)という事が多い。
なお、同じく現代歴史用語として、藩に対して幕府の直轄領のことを天領(てんりょう)と呼ぶ事も多い。
しかし、江戸時代には、たとえば「仙台藩士」とはほとんど言わず、公的には松平陸奥守家来(伊達家は将軍家より松平姓を賜っていた)と称された。また「藩主」より、封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。
例えば「仙台侯」、「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。
江戸時代の「藩の分布図」がわかるようなネットサイト教えてもらえないでしょうか?
ちなみに江戸300藩なんて言葉がありますが、300藩は多すぎですよね
そこまで細切れにしなくてもよかったのにという気持ちがします
>>641 ネットサイトではないが、朝日新書「江戸300藩 殿さまのその後」って本には、大藩の支藩や、廃藩置県後の
明治5年〜12年に存在した琉球藩も含めて、283の藩が扱われ、それぞれの藩の城や陣屋の所在地が地図上に
番号で示されているよ
陣屋って藩じゃないですよね?
都市国家や農村国家みたいな扱い?
644 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:22:36.70
645 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:47:22.22
643
代官の支配地
代官ってことは陣屋主は外様であっても幕府の代官扱いなんですか?
647 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:52:16.40
藩てのは幕府からのいわば独立国家
天領地や小名クラスだと陣屋みたいのが置かれて
代官が実質統治する
648 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 14:55:10.77
あるいは藩なんかでも飛び地の場合なんかもそんな感じ
小規模な大名や旗本、天領や飛び地の代官などが城の代わりに拠点としたのが陣屋。
戦時に軍事拠点となるように作られている建造物が城
そうでなく、大名や旗本や代官の居館および政庁としての機能しかないのが陣屋
まあ、どこまでが陣屋でどこからが城かって区別は、恣意的であいまいだけどね
幕末に、萩藩(長州藩)は山口政治堂を築いて藩庁を萩から山口に移転、長州側としてはこれは
城ではないという見解だったが、幕府からは勝手に城を建てた、武家諸法度違反だと睨まれている
武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて
↑
「文けて」はなんと読むのでしょうか?
もどろけて
山岡鉄舟の思想で卒論は書けるでしょうか?
哲学系の研究室で学んでいます。
指導教官に聞かないの?
称徳天皇って後世からは批判されなかったの?
道鏡の専横や恵美押勝の乱などの混乱の責任は大きいと思うが。
まして女だし
656 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:01:34.52
世界史板にこうありました。
今上天皇>>>フランシスコ1世>>>エリザベス女王>>>オバマ大統領
天皇はローマ法王よりも偉くイギリス王やアメリカ合衆国大統領よりも偉いのですか?
だとしたら、なんで日本の天皇はそんなに偉いのですか?
歴史的にいつぐらいから偉くなったのですか?
>656
世界史板のどのスレ?見当たらないけど?
君のようなレベルの高い住民は、レベルの高い世界史板がお似合いだよ
だから巣に帰って、世界史板で常態化している罵りあいを続けてね
658 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:12:50.46
現在、各国の君主が国際的な式典などに列席する場合、その席次は、肩書きがエンペラーかキングかクイーンか
デュークかアミールか、などといったことはいっさい関係なく、便宜上、即位や就任の早い順となる
したがって、1952年即位のエリザベス2世女王の方が、1989年即位の今上天皇よりも上席に並ぶ
これは退位した君主にも適用されるため、理論上は、存命中の人物で最上席となるのは、1927年に即位した
元ルーマニア国王ミハイ1世となる
岐阜の町、江戸時代はJRの線路の南側に加納城があったのに、
名鉄岐阜駅のエリアが栄えることになったのはなぜですか?
661 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:44:51.53
世界史板ってネトウヨばかりだから仕方ない
>>659 英女王在位60年記念の君主集合写真の並びがまさにそれだな。
女王の右・左・……というように、旧ルーマニア、旧ブルガリア、旧ギリシャ、ブルネイ、
デンマーク、スウェーデン、オランダ、スワジランド、日本、リヒテンシュタイン
の順で並んでる(2列目以下略)
>>608 海軍の服があまりお好きではなかったという説もあるが
それは天皇に聞くしか正解はないんじゃないの
今の天皇が、昭和天皇の意向で軍服を一度も着なかったのは不幸中の幸いだね
着てたら今頃、軍国主義者が天皇になってるとか言われてた
今上天皇と書けよ、低能
>>662 パプアニューギニアの酋長やインドのマハラジャは入らないのかな
幕末といえば、薩長土肥、江戸、会津、京都ばかりが取り上げられるけど、
松平惷嶽、横井小楠、橋本左内、由利公正などの傑物を輩出した福井は
もっと評価されてもいいと思います
この点、どう思われますか?
少なくとも肥前よりもメジャーな存在になっても良いんじゃないかと・・
669 :
日本@名無史さん:2014/05/16(金) 00:35:09.17
うちの住んでる地域に城がないから、なんでかと教師に尋ねたら
天領には城がないということなんですが
天領に城がないと言うのは本当なのですか?
大坂城があるじゃないですか
細かいことを言うと、豊臣氏滅亡直後の数年間だけ、松平忠明が大坂十万石を領分としている。
まぁ今の大阪城は天領になってから再建されたものだけど、それだけ大坂と京都 (二条城がある) が天領の中でも特別な場所だったってことでしょ。
大阪のような要地には城が有るけど、それ以外は
>>649辺りで説明されてる陣屋とか
代官所が置かれた。
すっごくわかりやすい説明ありがとうございました。
便乗質問すみませんでした。
室町時代における前北条氏
織田家における足利氏
江戸時代における豊臣秀吉
明治時代における新撰組
いずれの時代も賞賛するのは禁止されてたの?
>>673 江戸時代に太閤記ブームがあった事もしらんのかアホが
>>667です。肥前は薩長土肥として維新側の四天王に数えられていますが、
具体的にどんな功績があったり、どんな傑物を輩出したのでしょうか?
>>668 そんなレスは殺生です
>>675 薩長(土)みたいに直接、維新の原動力になったって訳じゃないんだけどね
肥前は言ってしまえばハイカラ好みのノンポリで、
どことも付き合わず、イデオロギーも持たず、ひたすらプチ産業革命していただけの妙な藩
戊辰戦争ではどっかの戦線に出てたと思うが、それまで何もしてない
まぁ最後の美味しいとこだけはきっちり参画する、そういう才覚はあったのかも
で、こういうとこの出身者は新政府の技術官僚としては最高なんで、多数重用されたのよ
「薩長土肥」で維新をしたわけじゃないんだが
結果として維新後の新政府での有力閥は「薩長土肥」で形成されたよね、ってお話
大隈重信とか江藤新平とか。
坂本龍馬に大政奉還のヒントを与えたのは松平惷嶽、
明治政府の基本方針である五箇条の御誓文の草案を考えたのは由利公正、
幕末〜明治において当代きっての経済学者と評された横井梢南、
純粋に凄くね?
679 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:16:24.97
応仁の乱って初心者には情勢の推移や勢力関係が複雑に感じるんですが、
わかりやすく解説した本ってないですか?
下北沢暴力団員殺人事件の真犯人って誰ですか?
俺
日本史上の錚々たる戦乱の中で、その重要性やその後の影響において比較的劣ると
思われるものはどれですか?
@壬申の乱
A源平の合戦
B応仁の乱
C関が原の合戦
D戊辰戦争
E西南戦争
西南戦争と答えさせたいだけに見える
>>630うーーん。微妙ですね。
1880年で造石高1石に対して醸造酒2円直接国税が60円として
酒造家(地租で30円と仮定すると酒税が30円で15石の醸造
地租は1石約44円(地価)で3%より1000円(地価)で22石ぐらい
の持分・・・米一石から酒が何石出来るかはわかりませんが。
そうすると、うちは全部地租とすると44石ぐらいの持分で・・となりますが
酒造家のほうが現金収入はあるけど、それほど資産に差が出るとは考えにくいです。
>>682 規模はでかいけど、西南戦争が一番格落ちしそうな感じ
>>678 幕末と言えば薩長土肥ばっかりで
福井藩士の活躍ってほとんど取り上げられないよな
長野主膳が泣いている
>684
まぁ時代が違うから単純な物価(通貨価値)比較は難しいけどね
別件で明治時代の新聞を複数紙通読したことがあるけど、酒造税改正は
かなりのウエイトが割かれ連日報道されていたよ
左利きには重要な話柄でも飲まない人間には酒税なんかどうでもいいことだし
同時に縁のない他家の懐事情も…
左利きじゃなくて左党じゃないの。
当時の国税15円は2町歩弱の耕作面積らしいけど、この規模で大地主なんだね
米の収穫率ってのはかなり高いのね
>>640 「藩士」の自称は家来、他称では御家中とかですかね?
>>639 旗本か何かの領地で、農民がウチの殿様と呼んでたなんて話があったような?
帰属といったら、一般に領主に帰属という意識、で良いのかな?
それぞれの土地でまた事情は違うよ。簡単に一般化は出来ない
694 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 16:44:12.91
イタリア
ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世ムッソリーニに組閣指示→ムッソリーニ開戦→敗戦→ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世、ウンベルト2世退位
日本
昭和天皇東條英機に組閣指示→開戦、開戦の詔→敗戦→昭和天皇退位なし
この差をどのように考えればいいのですか?
イタリア王は退位して天皇は残ったのは何故?
そもそも日本の場合は宮廷が親英米派であり、宮廷勢力以外でまとまった力を持った英米派が存在しなかった
696 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 17:34:02.69
国民投票の結果だよね。
日本は国民投票するまでもなく昭和天皇を支持するような国民性だったからしなかった。
>>693 士ではない百姓について、旗本領でそういう例がある、という限定付きね。
基本的には何々の国何々郷の者とかで全国的に通る、ということで良いかな。
領の区分が凄いツギハギになってたとかいうから、説明的に付け加えるばあいに、
誰それ何々の守の領とかいう具合になるかな。
時代劇だけど木枯らし紋次郎のナレーションでは「上州新田郡(にったごおり)三日月村(みかづきむら)の
貧しい農家の生まれ」と紹介している。
>>624 >飢饉時にコメの加工を禁止する理由
物理的に。米粉麺や餅に加工するさいに、ロスが出る
化学的に。玄米ほど腹持ちしない。米の消費量が増える
文化的な統制。お祭り・冠婚葬祭(ハレ食品)などの無駄遣いするな。じっとしてろ
産業革命前。加工で働いてkcalを使うな。そのまま炊いて食え
こんなとこかなぁ推測
だけど当時のコメって換金目的の商品作物で、
自分で食すkcal用じゃあないんだよね、基本は
「全量、玄米で上方へ送るから、藩内での加工消費禁止」
だけど加工して付加価値つけた製品のほうが高価に売れないかなあ
「いざとなったら、家捜しして没収するから、加工しないで玄米で持ってろ」
飢餓輸出やった東北諸藩だと、これが理由だったりして
ああ、どなたか正解を
700 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 21:28:04.69
質問。上杉景勝が豊臣秀吉の配下になる経緯が良くわからないのですが。
なぜ戦闘もせず秀吉の配下になってしまったのでしょうか?
その前は信長包囲網で対立してるのに。
701 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:27:40.94
>>700 信長包囲網のときには景勝は武田信玄の娘菊姫を正室に迎えて武田と同盟関係にあり
武田が加わる信長包囲網に参加した
信玄が死に、信長も死んだあとの、秀吉VS柴田勝家、秀吉VS徳川家康においては
次の天下人は秀吉であると踏み、秀吉に味方した
上杉は関ヶ原で石田三成と組んであれほど徳川家康を挑発し対立し敗れたのに
その後は縮小こそされたもののちゃっかり江戸幕府下で大名として存続を許されており
色々世渡り上手な大名ではある
702 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:36:54.50
上杉は信長が天下取るのが嫌だから信長包囲網に
加わったわけでしょ?
秀吉とか家康とかの時代になると天下取るのは許しちゃってる態度になってる
感じするけど元から天下狙ってないのかね、
>>702 実際、上杉はもともと天下なんて狙ってないでしょ
少なくとも、上杉謙信の代には狙ってない
もし本当に天下狙ってたら、川中島で信玄と不毛な対峙を5回も繰り返したり、関東に出兵したりしてない
さっさと京に兵を進めとるわ
>>700 謙信が後継者を指名しないで死んだので上杉は後継者争い(御館の乱)で勢力が衰退した。
そこに武田を滅ぼした織田が西と南から攻め寄せて、本能寺の変が無かったら滅んでいたくらいの
危機的状況からギリギリ生き残ったので、秀吉と戦争するよりも味方になった方が良いという判断。
信長が生きていたら許してもらえなかったけど、秀吉は足下を固める必要があってしないで済む戦争は
したくなかったのを見透かした判断でもある。
>>702 将軍義昭から謙信に手紙が来たから信長包囲網に参加した。
しかし時代が変わって、逆に織田に攻め滅ぼされる側になっていた。
天下狙うどころではない。
706 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:46:16.84
>>702 上杉は謙信時代に柴田勝家率いる信長軍と加賀で戦かったことがあるけど
謙信は加賀から信長軍を追い出すとそれ以上後追いしていない
信長の天下は絶対に許さないと徹底抗戦するつもりならそのまま
キめがけて突撃でもするはずなのに
結局は天下をかけたわけではない田舎大名ってこと
707 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:47:47.29
>>705 上杉は織田信長には臣従していないよ
だから>織田に攻め滅ぼされる側になっていた
これはない
上杉は信長の死後、秀吉に対しては臣従した
>>707 君の論理がよくわからんのだが?
上杉が織田に臣従してないのなら、織田に攻め滅ぼされる側でしょ
709 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:55:08.86
>>708 君の理論のほうがわからんな
上杉は対織田戦で勝っている
織田は上杉相手に勝ち戦なし
何を持って上杉は織田に滅ぼされると判断してるの?
710 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 22:57:32.10
ていうか秀吉凄すぎじゃない?
なんで上杉とか臣従させれたんだろう?名家でもなし。
織田の一配下で本能寺の後すぐさま主君裏切ったような男なのに。
毛利とか上杉とか配下にするってどういう事やったんだろ?
>>710 家康さんをてなづける時には、可愛い可愛い妹を差し出したぜ
712 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 23:23:34.36
北条に対しては厳しいのにな。秀吉。どういうこっちゃ。
雑誌 ”週刊 日本の神社 出羽三山”に
蜂子皇子が出羽に来たのは創作フィクションとありますが、
では出羽三山を開いたのは誰なんでしょうか?
>>698 だから、そういうのを真に受けて良いのか?という話。
>>712 北条にも優しいよ>秀吉
何度も外交交渉重ねて一時は北条の面子もたす為に譲渡案もだしてるし
滅ぼした後も氏直が早世しなかったら大名にも復帰させようと考えてた
信長に比べたら甘甘
716 :
713:2014/05/19(月) 23:49:31.83
開山の祖ではなく、蜂子皇子の名を借りただけの仮託だとか。
江戸時代に創作されたとか
出羽の柵で防御するような東国蝦夷の地に
修験道の霊山があるということなんですよね・・。
前北条氏って時行の死で全滅してるの?
後北条氏は前北条氏とどんな繋がりがある(と自称してる)の?
>>709 自分に臣従してる相手は、特に謀反とか起こさない限り、普通は攻め滅ぼさないだろ
臣従していない相手だからこそ、攻め滅ぼす対象となりうる
高家の息子が今川氏の養子になったとされる他、時行の子孫や阿蘇流北条氏の子孫を自称する家があった。
北条早雲こと伊勢盛時 (生前に北条を名乗ったことはない) の姉が今川義忠の妻、氏親の母で、義忠の先祖を辿ると母方で北条氏の血が入っている。
早雲の息子氏綱から北条姓に改め、その子氏康は氏親の娘を妻にしている。
信長が近畿を制圧する時間と、それ以降秀吉が天下統一する時間を考えれば信長はトロかったんですか?
721 :
日本@名無史さん:2014/05/20(火) 07:46:09.98
>>718 上杉は織田に負ける気がしないから臣従しなかったんだよ
負けるとわかれば秀吉にでも家康にでも臣従している
言っている意味が分からない?
上杉なら専用スレがあるだろ
そっちでやれよ
>>721 >上杉は織田に負ける気がしないから臣従しなかったんだよ
その頃は謙信が生きていたからな。
>>721 当事者が主観的に「負ける気がしない」と思っていることと、実際に戦ったとしたらどうなるかは
まったく別問題なのだが
もしも本能寺の変がなかったら、しょせん越後の一地方大名にすぎない上杉家は、武田家と
同様の運命をたどるか、その前に織田に屈服するか、どちらかしかなったろう
725 :
日本@名無史さん:2014/05/20(火) 21:08:13.18
>>724 だから、上杉が織田に屈服した事実はあるの?
してないだろ?
してないのに攻め滅ぼされると断定してもなあ
だから、屈服してないからこそ、攻め滅ぼされる対象になるんだろーが
>>725 たかが越後一国と、その周辺の上野、信濃、越中などの一部を支配していただけの田舎大名上杉が、
尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、山城、丹波、丹後、摂津、和泉、大和、紀伊、播磨、伊賀、若狭、越前
など圧倒的に広域を制圧していた全盛期の織田に対抗できたと本気で思ってるの?
単にその前に本能寺の変が起こったからそうならなかっただけで、もしそれがなかったら、軍事的にも
その軍事力を支える経済力でも、こんな圧倒的な差をつけられてる織田に、屈服するか、滅ぼされるか、
どちらかしかないのは誰にでもわかることでしょ
いや、手際が悪いから滅ぼせなかった。
武田を滅亡させられたのは勝頼のお陰。
>>727 当時の越後の人口、石高を調べた方がいい、今の新潟県とは違う。
最後期の織田には対抗できなかっただろうが、中期くらいまでなら十分できた。
何でカレイは安いのにヒラメは高いの?
>>720 本願寺を潰すまでは、近畿を制圧したといってもその地盤がぜんぜん盤石ではなかたったわけで
その本願寺を信長がまるまる10年かけて潰して地盤を安定させたから、その後は楽になった
732 :
日本@名無史さん:2014/05/21(水) 02:42:04.91
こんばんは。感じの読みに関する事で質問をさせていただきたいのですが、孫子という兵法書は「へいほうしょ」と読むと思うのですが、
五輪の書という兵法書は「ひょうほうしょ」と読むのでしょうか?後者は武術に関する事なので「ひょうほう」ですよね?
「へいほう」と「ひょうほう」は読みが違うだけで内容に区別は無いです。
本来は軍学を指していた言葉を、日本で武術の意味に拡張しただけです。
どっちで読むかは気分とか個人の習慣による。
「孫子の兵法」とかは習慣的に「へいほう」と読むけど、「ひょうほう」でも間違いではないです。
>当時の越後の人口、石高を調べた方がいい、今の新潟県とは違う
所謂戦国時代の取れ高は豊臣期の石高だという悲しい事実
逆に言うと尾張の石高が倍増したのは十六世紀末であり、織田信長勃興期の石高(貫高)換算は
ほぼ全て間違えていたりする
平安時代中期を題材にした小説を見ると
「貴族のせいで俺たちは盗賊をしてるんだ」とか
貴族のせい(支配層のせい)で、くいっぱぐれになったと言う記述が多いんですけど
どういった仕組みで、貴族のせいでくいっぱぐれになるんですかね?
貧困層への支援などは充実してたと、本とかには書いてるんですが
どのようにして、農民が集団盗賊化するんですか?
1) 「救済処置・も・ある」と、「支援が充実している」は、全く違う。
2) 今日的な価値観を古代に持ち込み、現代社会風刺を気取る中二病的な作者の主観。
3) 何時の世にも社会に適合できないアウトローは存在するし、他者と違うことを強調するアウトローが等しく同じ論理を用いるのはお約束だから。
4) 作者がバカ。
お好きなのをどうぞ。
737 :
日本@名無史さん:2014/05/24(土) 20:34:36.06
それまでの常識を破るデザインと大きさの天守閣を持つ信長の安土城
その安土城を凌いだ秀吉の大阪城
その大阪城を凌いだ江戸幕府の江戸城
その江戸城を凌いだ名古屋城・・
近代の再建とかは外して、戦国〜江戸時代に建てられた天守閣の大きさは、
名古屋城>江戸城>大阪城>安土城>その他〜でFAと考えていいのでしょうか?
間違っていたら教えてください
学問というより城オタ向けの質問だが
城オタは城スレ限定で質問スレは見てないんだよね
で、城スレで質問しても「質問スレじゃない」から無視される
これで決まりだ的な上から目線で城スレに書き込めば反応があるかも
石原慎太郎は若い頃から作家として有名であり、その後政治家に転身して
長く活躍しています
将来的に石原慎太郎の知名度、ネームバリューは同じ苗字の石原莞爾、
同じ名前の中岡慎太郎と比較して大きくなるでしょうか?
それとも彼らには届かないでしょうか?
>>740 無理です
石原慎太郎は政治家としての実績が全くありません
作家としての実績もいってみりゃ一過性の芸能人と同等です
アーノルド・シュワルツェネッガー知事を想像してみて下さい
彼を100年後の人物が覚えていると思えるでしょうか?
「ターミネーター」と「太陽の季節」の知名度や評価の差を考えると、石原新太郎はシュワルツネッガー未満です
>>741 詳しい解説ありがとうございます
例えば今活躍している政治家、文化人、スター等で
将来的に石原莞爾、中岡慎太郎クラスの知名度、
ネームバリューを得そうな人物は誰か思い浮かびますか?
横レスだが、少なくとも、現役政治家の中では皆無だろうな
文化人等も難しい
同時代において高く評価される文化人はもちろんいるだろうが、その人が歴史に残るほどの業績をその文化に
残すことは、現代においては容易ではないよ
>>742 戦時と平時で状況がまるで違うから、「ありえない」とするのが公平なところでしょ。
スケールは全然違うけど、ジンギスカンが現代に生まれていたと仮定して、
同じような超巨大な業績を残すことができるか?
状況がまるで違いすぎるから、何をどう間違っても無理難題。
>>743>>744 ありがとうございます
確かに時代状況は違いますが・・
小泉元首相や安倍首相は派遣法の緩和で良くも悪くも労働環境を劇的に変えたし、
北朝鮮外交では一定の実績もあったし、アベノミクス、憲法改正(予定)など
結構大きなことをやったと思いますが、それでも中岡慎太郎に及びませんか?
中岡は幕末という大きな時代の転換期に活躍したので有利といえば有利かな
>>742 おそらく孫正義が一番その位置に近い
単に一代で大きな会社を創りあげたというだけに止まらず
・その会社が営業利益1兆円という、日本史上トヨタ・NTTしかなしえなかったレベルに到達している(既にパナソニックやホンダを遙かに超えている)
・日本から米国の通信業界を侵略し、現在のところ業界シェア3位
・個人資産も2兆円超え
既に松下幸之助や本田宗一郎くらいの人といえる
仮に米国の通信事業でシェアトップに躍り出るか、クリーンエネルギーへの転換を主導できれば、米国でいうところのエジソンやフォードくらいの存在になれるかもしれない
>>745 小泉や安倍は首相としてはかなり実績が少ない方
後世に記憶されるとしたら
小泉:郵政を民営化した
安倍:防衛庁を防衛省に格上げした
程度になる
ところが戦後の政治家に限って見ても、少なくとも吉田茂〜田中角栄までは皆小泉や安倍とはスケールが桁違い
たとえば、あなたは鳩山一郎なんて大した実績がないと思ってるかもしれないし、そもそも名前すら知らないかもしれない
そんな彼ですら
・滝川事件(日本史の教科書に載る事件)の主役の1人
・当時の保守派を統合して自民党を創設し、55年体制を確立する
・日ソ国交回復を成し遂げる
・原子力基本法を成立させ、現在の日本の原子力政策の基礎を作る
程度の「実績」(もちろん功罪ある)があり、小泉や安倍とは比較にならない
>小泉や安倍とは比較にならない
最後の一行で台無しw
俺なんかは安倍を全く評価していなかったが、途中降板の一期目に驚くほど多くの事をなしとげていることに驚いている。
まぁ壷で、小泉・安倍・麻生を肯定しても気違いホイホイにしかならないから何を評価するかは書かないけどw
>おそらく孫正義が一番その位置に近い
実業ではなく虚業にすぎないと批判され続けた、堀江や村上の延長線上に過ぎない希ガス…
何にせよ孫を松下や本田と比肩するとか746は書き捨てではなくコテを使ってくれないか
五年後にこの話題についてもう一度話そうじゃないか
これから名を残すためには、憲法の改正でもしないと無理かな。
748は感情論だけで自説の根拠が一切書かれてないね
経営者としては松下幸之助や本田宗一郎、豊田佐吉、井深、百福、稲盛などが
よく名前を挙げられるが、一代で西武王国を築いた堤康次郎ってあまり名前が出ないよね
文字通り一代で不動産、ホテル、鉄道、百貨店、レジャー産業で西武王国を築き、
後年政治家にもなった堤康次郎はもっと名前が大きく残っても不思議じゃないのに
経営の仕方は強引で辣腕振りを発揮したようで、戦後に皇族の邸宅を買い叩いたり、
人物伝とかエピソード的にももっと語られてもよさそう
二代目の時に世界最大の富豪にまで認定されてるし、実績としては物凄い
>>751 人間性が糞過ぎるからだろう
会社を乗っ取って、乗っ取った会社の社長夫人を犯すとかやってた人間を褒めるのは難しい
褒めたら、褒めた人の人間性まで疑われるからね
>>752 マジでそんなこともやってたの?それは糞だな
でも、そういう負の部分も含めてもっと語られてもよさそう
世間に迷惑掛け捲る山口組組長でも語られるやん
政治家もスターもスポーツ選手も昔に比べて「小粒化」してるって言われ続けてるけど、
この流れって未来に向かって永遠に進んでいくのかな?
50年先の未来で「○○さんは将来小泉を超えるか?」「無理だろ〜」みたいな
>>755 少なくともスポーツ選手に関しては嘘
イチローやまーくんを超えるだけの人材は過去出てなかったでしょ
「茶の間を賑わす」という度合いで図るなら、王長嶋を超える人材はでないのかもしれないけど
それと、実績や記録は別
野球自体がメジャースポーツでなくなったらイチローも田中も埋没するだろうね。
イチローもダルも田中もメジャーという舞台あっての存在だからな。
>>748 その虚業こそがグローバル資本の集約という21世紀のメインストリートなんだがね。
幸之助も総一朗も戦後の高度成長を大衆向けに戯画化しただけの存在にすぎんよ。
正義をホリエモンと同類の存在とみなすのはバブル崩壊後の日本を戯画化する点では正しいが、
双方を戯画化してみることができずに未だに高度成長を神話化するようでは認識は時代錯誤的だと言わざるを得んだろう。
安倍の一期目を評価とかまさしく2chのコピペに踊らされた告白しているよw目立ちたいだけの人は勝手にコテでも
実名でも名乗っていなさいなw
板違い長文バカ
ライブドアのやり方はまんまGoogleのやり方だったわけだが
ライブドアを虚業と揶揄して潰した結果、日本にはGoogleに対抗しうる企業が生まれる気配すらなくなってしまったね
そもそもソフトバンクやライブドアを「虚業」って呼んでるのは誰か
それは彼らに利権を奪われたNTTだったり、買収されそうになった大手マスコミだったりするわけだ
国に保護され、散々国民から高価な通信費を搾取したり低俗な番組を垂れ流してきた連中が、自分たちにとって都合の悪い相手を叩いてるわけだろ
その辺を重々承知した上で、それでもソフトバンクやライブドアを虚業だと考えるなら、それは一つの見識だが
マスコミに躍らされて虚業と揶揄しているのなら、なんていうか、世界史板にいるくせに何にも分かっちゃいないんだなぁと
名前が後世に残るかどうかは実績による部分が一番大きいけど、
それ以外にも本人のキャラやドラマ性もあると思う
後々歴史ドラマや自伝、特集番組などで取り上げられたら、
知名度は残っていきやすい
取り上げられるかどうかは実績+キャラやドラマ性だと思う
80年代にアジアNIEsとか呼ばれていた頃、日本の経営者が韓国に苦言を呈していたのが物造りの心得
物造りに近道はないということを何度諭しても韓国人は理解しない。常に最新の技術を要求すると嘆いていた
ブラウン管から液晶そして4k・8kへとTVは変っていったが、為替操作とダンピングで技術革新を閉ざすこといがいに韓国メーカーが過去三十年間に何を成したのかと問いかけても
>746レベルの認識で韓国マンセーが連呼されるのは流れからいっても自明であろう
そこにあるのはwebに転がっている何時か何所かで読んだ誰かの言葉
鳩山一郎という言葉も転がっているがこれも同じ、他人の言葉のコピペ
当人の言葉ではないから何を間違えているのか指摘しても理解できないし、そもそも理解しようという姿勢が全くない
何も知らない分からないが、他人に押し付けたい言葉を繰り返すことが目的という奴には首相スレで立ち代り現れる新参者を数年間相手にして心底うんざりさせられた…
奇しくも別スレで、スレとは全く関係なく時代も違うのに唐突に古代日本の朝廷は朝鮮からの渡来人に長く支配された
・書紀が明らかに事実誤認をしているがこの箇所は朝鮮人が文明を授けた証拠なので明確な誤りのある箇所を除いて全て歴史的事実
・書紀のこの箇所には説話も併記してあるので朝鮮人を過小評価する記述は関連箇所全てを認めない
という楽しいお客様と、>740という何時ものお客さんに新参者っぽい奴が食いつき、唐突に朝鮮人マンセーを始める偶然
そういう偶然があってもいいと思うw
O
o と
。 ,. -ー冖'⌒'ー-、 思
,ノ \ う
/ ,r‐へへく⌒'¬、 ヽ キ
{ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } ,r=-、 モ
/プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く /,ミ=/ オ
ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} 〃 / タ
/ _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ 〃 / で
,/ └' ノ \ こ¨` ノ{ー--、〃__/ あ
人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\ っ
. / |/ |::::::|、 〃 /:::::/ ヽ た
/ | |::::::|\、_________/' /:::::/〃
>>763 帰化しても日本人とは扱わない、個人の尊厳を軽く扱うのは後進国の証なんだが。
戦前の財閥支配の日本ではグーグルやフェイスブックはおろか総一朗も幸之助
も一生丁稚扱いなのだがな。
4k・8kとか誰も見向きしない技術をありがたがるのは戦前の大艦巨砲主義をおもいださせる。
アメリカでは既にテレビが雑貨扱いされていることがわからず無駄に付加価値を載せる日本メーカーは
旧日本軍のDNAを確実に受け継いでいると言える。
>当人の言葉ではないから何を間違えているのか指摘しても理解できないし、そもそも理解しようという姿勢が全くない
>何も知らない分からないが、他人に押し付けたい言葉を繰り返すことが目的という奴には
>首相スレで立ち代り現れる新参者を数年間相手にして心底うんざりさせられた…
知識皆無のコピペ芸人のネトウヨは安倍のためにニコ動で88888888を流しておればいいのよ。
同じことしか言えな人間がうんざりするなんてするわけないからな。
ネトウヨは自分の身の丈にあったお仲間と群れていればいいのよ。
江戸時代以前はちんちんの包皮を剥いてたの?
>>756 そういうのも、やはり時代背景の問題があるから。
>>761 ここは日本史板だが?
ってのはおいといて、まあ、そういう面もあるかな。
NTTなんかも電電公社時代に散々金を搾り取っておいて、
あたかも自前の資産があるようなでかいツラをするなど図々しい、
ってなもんだし。
>>765 4Kは「あり」だけど、8Kは無理だな。
フルHDはたったの2K≒2MP。前世紀にあり合わせのものででっち上げた過去の遺物だから全く論外。
4K≒8MPだからかなり妥当な線。
だけど、8K≒32MPだからね。
ゴーサインを出したのがいるとかいうけど、酷い物理音痴で、ハイビジョンの2倍の2倍だと思い込んでる臭い。
平安時代の貴族って朝3時に起床していたという事は
平安京の深夜から明方って以外と活気があったんかな
特に内裏に通勤する時間は数千人の官僚が夜道を行く訳で
平安時代中期、927年に制定された「延喜式」によると、
暦や占い・時刻を司どる役所として陰陽寮を規定していました。
それによると、宮城の門は朝開き、夜閉じていましたが、
その時刻に太鼓を打つのが陰陽寮の役目でした。
その規定では、時刻制度は定時法だったといわれます。
また、日の入り,日の出の時刻も同時に掲載されていますが、
当時は太陰太陽暦を採用しているために、月日で表すことができず、
二十四節気で表しています。
時刻は1日を12分割し、十二支をあて、それを4分割したものが刻。
刻を10分割したものが分でした。
そして、基準値としては太陽の南中時刻を午の3刻としていたようです。
安倍など児玉誉士夫邸に軽飛行機で突撃した日活ポルノ男優以下。
古代から日本においては神社の存在が大きかったですが、神社の格付けを教えてください
伊勢神宮が日本で一番なのは知っていますが、それに次ぐ第2台3グループの神社は
どの辺になるのですか?
鹿島神宮や香取神宮、出雲大社や宗像大社、宇佐八幡宮、熊野本宮大社、伏見稲荷大社、
大神神社などなど・・
純粋に観光目的なら初詣の多い順になるし、多少の信仰心はあるというなら
初詣と同じ頃に広まった恵方詣になるが、読んで字の如く質問者が住んでいる場所が基点になるから一概には言えない
マニュアル的回答が望みなら「社格」でググれば幸せになると思われ
広開土王碑が「日本の捏造」だという説が日本国内で広まって
一時期(60年代から70年代の間)、教科書から記述がなくなったというのは本当ですか?
連投すみません。説明不足でした。
1955年生まれの父親が、自分の学生時代は広開土王碑は旧日本軍の捏造だとされていて
教科書には一切記述がなく、日本軍の捏造説が掲載されていたと言うのです
ネットで検索しましたが、一切この情報が出てません
詳しい方教えてください
>>777-778 以前から、好太王碑文は日本軍によって都合のいい部分ばかりが強調されて、大陸侵攻の正当化に利用
されてきたってことは指摘されていたけど
日本軍によって改竄されていたという説は、日本では、在日コリアンの李進煕という人が言い出した
その説が発表されたのが、1972年
>>777さんの父(以下、「父上」と表記)が55年生まれなら、72年の時点で17歳ぐらいの高校生だね
その時点では、改竄説は、一研究者が提唱した説にすぎないし、学界で批判や反論も出ている
少なくとも、学会で定説にはならなかった
だから、文部省とか教育委員会とかが、全国の学校で捏造と教えるように指導したとは思えない
当時の教科書に記述があったかなかったかは私にはわからないけど、もし記述がなかったのだとしても
それは、捏造と判断されたからではないと思うよ
またもし仮に、そう判断されたとしても、説が出てすぐに教科書に反映されるわけがなく、変更には何年か
かかるから、父上が使った高校の教科書の改定には間に合わないはず
高校ではなく大学ならわからないけど
ただ、当時の歴史教師は(今もそうかもしれないけど)、左寄りの人が多かった
日本軍が悪い事をしたなんて説が出れば、それだけで信じちゃうような先生も少なくなかったわけ
父上の高校(もしくは大学)の先生も、たまたまその説を信じた人で、「最近の説では〜」みたいな感じで
自分の授業で生徒に教えたってことは、じゅうぶんありえると思うよ
まあ、あくまで私の推測だけど
ちなみに、捏造説は現在では完全に否定されている
今度リメイクされるガンダムの安彦良和が今連載しているマンガ『天の血脈』では
日本による捏造だけではなく騎馬民族征服説まで持ち出していて
昭和四十年前後に教育を受けた左翼って時代が完全に止まっているんだなと実感できる
しかも『天の血脈』での時代錯誤の認識が叩かれたのが気に入らないのか安彦は
単行本の巻末で全く関係ない新聞記事を載せて「何時の日にか広開土王碑が日本により改竄されたことがあきらかになるだろう」と
未だに固執していたりするw
団塊世代の宿痾ってどうしようもないね
>>779 ミ ∧_∧
ミ ⊂ ヽ(・∀・ ) ヘェーヘェーヘェー
∩⊂~~ ⊂~)
━━━━━━━┓
知らなかった・・・
>>780 騎馬民族征服ってば、広開土王自体がまんま満州辺の騎馬民族なのね。
>>777 99〜01年高校生だったものだけどその時の山川教科書には広開土王は載ってなかったと思うぞ。
784 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 03:20:47.95
二条河原の落書の読み方について質問します。
「路次ノ礼儀辻々ハナシ」
という部分はどう読んだらよいのでしょうか?
なんだかここだけ上手く七五調にならないような気がするのですが、ご教授ください。
平安時代の中央貴族の数は極端に少なかったという話は本当?
同時代に全員で数十〜100人前後しかいなかったと聞いたことがあるけど
>>785 平安時代の貴族は五位以上の人(個人)をさすので、
同時代に全員で数十〜100人前後なら妥当な数字じゃない?
後世の感覚ではこれらの人の家族もまとめて貴族と(一族という意味で)捉えるけど、
それならもっと数は増えるでしょう
787 :
日本@名無史さん:2014/05/30(金) 21:44:28.01
>>784 ろじのれいぎ つじつじはなし
では七五調にならないね
室町時代や戦国時代って、遠隔地の同族同士で
連絡とか取り合っていたんでしょうか?
畠山氏や武田氏みたいな守護大名クラスはともかくとして、
もう何代も前に枝分かれして、本拠とは遠く離れた他国で
小領主になってる系統の子孫が
「うちの本家はどこそこだ」
なんて言い伝えて、本家に時おり使者を送るとかしていたんでしょうか?
畠山の本家は二本松だけど落ちぶれたから相手にされなかったかも。
逆のケースで真里谷武田氏には信玄から書状送られたこともあるね。
里見との同盟に手を貸してくれって
>>789 あそこが本家なんですか?
てっきり河内とか和泉と思っていた。
>>790 何かのときに縁が役立つわけですね。
では敗亡した豪族が、せめて自分の子供だけでも助けようと、
近くの他人より遠国の遠縁を頼ったりもしたんだろうか。
例えば陸前にいた千葉氏が滅亡したとき、若君や姫君を
千葉本家とか十津川にいた一族とかにお供をつけて託すとか。
>>790 割り込みだけど、生まれてこのかた全く音沙汰なしでいていきなり頼み事
ということはないはずだから、近い親戚みたいにまめに贈答し会うということはなくても、
何かと挨拶くらいはして、少なくとも冠婚葬祭とかで贈答はするのが普通だった、
とかいう感じですかね?
>>791 具体的な誰が具体的な誰にということではなくて、そういうばあいの伝手は
確保してたんじゃないですかね。
>>791 >あそこが本家なんですか?
南北朝時代に嫡流である畠山国氏が奥州管領に任命されて父である高国とともに多賀国府に下った。
観応の擾乱の時に同じく奥州管領だった吉良貞家に攻められて親子ともに死んで没落した。
国氏の子・国詮は二本松に落ち延びて細々と命脈を保った。
奥州家が没落した後に高国の弟の子孫が繁栄して、河内畠山氏として本宗家になったようだ。
>>793 >具体的な誰が具体的な誰にということではなくて、そういうばあいの伝手は
>確保してたんじゃないですかね。
まさか滅亡すると思ってなくて手当てもしてなく、いざそのときになって
「そういや九州に一族の分派がいたはずだからそこを頼れ」
なんていきなり送り出したりとかもあったんだろうか。
>>794 なるほど。
由緒正しい名族が思いもよらない土地にポツンと存在してるのは
そういうわけがあるのか。
二本松の畠山以外にも
「なんでこの姓の人がこんなところに?」
ていうのがありますよね。
>>795 あるにはあっても、遠すぎたら行き着くのが不可能に近いすな。
むしろ「頼る先がなくてあえない最後を」という例に事欠かないとかいう感じかな。
まあ、勝頼にしても秀頼にしても、頼みにできるような先は土台からして
存在しえないといってしまえば身も蓋もないけど。
797 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 03:55:35.49
武田勝頼は四国の武田一族頼って落ち延びた説あるけど、
正直眉唾だな。
土佐香宗我部が甲斐源氏の末裔を名乗ったり
信玄の異母弟が三好氏から阿波の支城の城主に取り立てられたり
伝承の元なる下地は、あったのかも知れんけど
いーや ウチに来たからかくまった。義経も来たからジンギスカン鍋にした。
なんて恐ろしい伝承希望。
799 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 04:38:56.34
>承経も来たからジンギスカン鍋にした
人食い人種の伝承かよww
そうそう、人を食ったような話
って何いわせるんですかマッタク
801 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 22:09:25.80
秀吉は、織田一門なんですか?
一門とは何ですか?
>>801 「一門」をどういう意味で使ってるかによる
血族とか親戚という意味でも使われるけど、
たとえば、剣術の道場とかで学んだ人は、その先生と血族関係がなくても「一門」と呼ばれるよね
それは道場で学んだ者は門弟(弟子)だからだ。
武家の家中で親戚でもないのに「一門」とは言わんだろう。
神話の類ではなく、実在した証拠のある天皇となると誰になりますか?
明治における「一世一元の制」を強く提唱した人は誰だったのでしょうか?
明治の大改革の中では地味で目立たないけれど、個人的にはこれはかなり
大きな制度改革だったと思います
>>805 雄略天皇(ワカタケル大王)
稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に獲加多支鹵(ワカタケル)大王の名が刻まれており、その年(辛亥年、471年)は
中国史書の倭王武の南宋への遣使(478年)にも近い
808 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 08:55:08.97
元老になる人9人全員が一同に会したことはありますか?
809 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 23:05:20.51
>>788 オソレスだが
瀬戸内の村上水軍と信州北部の村上氏が同属だといって、
使者のやり取りをかなりの期間続けていた。
>>808 伊藤は別格として、軍人は顔を合わせる機会は多かったはずだけど、
西園寺や松方はどうなのかな?
日清の後とかには何かあったんじゃないのかな?
日露では・・・と思ったら黒田清隆や西郷従道はその前に死んでるのね。
>>809 ほうほう、なるほど。
一般論としても、まめにやりとりするのが当たり前という感じかな。
>>808 黒田内閣の時に桂と西園寺以外の7人が入閣してるけど、桂はまだ政治の世界に進んでいないし西園寺は欧州なんだよな……
>>809 そういう話を聞きたかった。
山の中の豪族と瀬戸内の水軍とが、同族ってことで
連絡しあってるのが面白い。
しかもかなり昔に分かれた家だろうに。
城井宇都宮氏が本家下野宇都宮の内紛に書状送って介入してた話あるが
下野から遠く離れた城井にそんな影響あったのかね?
815 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 14:18:09.49
信長の家でも
越前の織田剣神社の神官出ということはかなり意識していたみたいで、
朝倉市を滅ぼして、越前を支配したとき
織田剣神社は信長のご先祖様の出だから大切にするようにとの
布告を出しているだろう?
おそらく、何かにつけて参拝もしくは代参をしたりしていたとしか
考えられない。
もっとも、神社のほうから、尾張の織田家の方にご先祖様なんだからと
働きかけをしていたのかもしれないが
816 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 14:44:01.40
朝倉市を滅ぼして?
なんかもうわちゃくちゃやね
天皇以外の日本人女性の本名が伝わってるので最古なのは誰?
藤原薬子あたり?
古事記・日本書紀には、それより前の天皇以外の女性(皇妃とか、天皇の娘とか)が何人も登場してる
誰が最古かは、どこまでを実在の人物とするかにもよるけど、少なくとも藤原薬子よりもずっと前の女性が
何人も記録されてるよ
819 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 21:55:59.70
イザナミだろ
821 :
日本@名無史さん:2014/06/03(火) 00:04:49.42
出雲大社世襲宮司の千家家は天皇家に匹敵する古い家柄のようですが、
天皇は現在125代、千家家は確か80何代かだったと思います
天皇家は最初の10〜20人くらい?は実在していないって説もありますが、
千家家は如何なのでしょうか?
また、天皇家は兄弟で皇位を相続していた時代が長くありましたが、
千家家も兄弟で宮司職を相続していた時代があるのでしょうか?
822 :
日本@名無史さん:2014/06/03(火) 02:57:21.47
玉川上水と玉川兄弟について、
順番としては玉川上水→その名前を取って玉川兄弟になったと思うのですが
玉川上水の由来は何なのでしょうか
普通に多摩川、もしくは多摩では?
何で犬のくせに服を着てるの?
日本史の概略
戦国時代
の2つを知りたいんだけどどんな書籍がおすすめだ??
漫画日本の歴史
左翼よりも実は右翼の方が歴史的に韓国と協調路線が多いと聞いたのですが本当ですか?
そういう人の例を教えてくれませんか
歴史的と言われてもWWU終了から民主化する八十年代末の経緯なので日本史というより現代史だな
ちなみに白か黒かの二分割でしか考えられないような文脈だが、軍政韓国は日本にたいして竹島占領から金大中事件まで
大なり小なり好き勝手やっていて、日本の保守も反共の防波堤から個人の利権まで様様な観点から韓国と付き合っていたにすぎない
君が本当だと信じ込みたいなら信じればいいし、否定して欲しいなら否定すればいい
学問版での適切な質問ではないからニュー速とかの板で君は君の主張を展開すればいいと思う
千家家の兄弟相続があったか否かについてはあった。
時代、というより適宜に。
新しいところでは先々々代が兄弟相続。
神話の点については出雲国造家の初代は天穂日命としているので、その辺から考察してみたらいいのでは?
>>814 こらまた随分遠距離なのにやり取りしてたんですね。
贈答品とかも送りあっていたんだろうか。
城井宇都宮からは関サバの干物、宇都宮本家からは
かんぴょうとか。
かんぴょうってそんな昔からあったのか
かんぴょうそのものは古代からあったようだが、栃木県(下野国)での生産が盛んになるのは
江戸時代、正徳2年6月(1711年)に近江国(滋賀県)水口藩の鳥居忠英が壬生に転封された
時に、夕顔の栽培を奨励して以降
ところで俺の特大干瓢を見てくれ、どう思う?
すごく小さいです・・・
836 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 20:04:36.38
鎌倉時代の足利氏と新田氏の姻戚関係について質問です。
系図を見ると、足利義氏の娘が新田政義に嫁ぎ、その間に生まれた子が新田政氏ということになっているのですが、これは本当なのでしょうか?
wikipediaなどの情報だと、足利義氏は1189年生まれ、新田政義は1187年生まれ、新田政氏は1208年生まれとなっています。
足利義氏は自分よりも2歳年上の新田政義に娘を嫁がせたということなのでしょうか?
またその場合、足利義氏とその外孫である新田政氏の年齢差が19歳というのも気になります。
外祖父と外孫の年齢差が19歳というのは現実的にあり得るでしょうか?
あとさらに新田政氏は娘を足利家時の側室にしているようですが、足利家時はwikipediaによると1260年生まれです。
新田政氏は自分の孫世代の足利家時に娘を側室として渡したのでしょうか?
日本の長い長い歴史の中で、国家体制の「最大の転換点」と考えられるのは
どれが一番妥当でしょうか?
@仏教による鎮護国家の始まり
A律令制国家の始まり
B鎌倉幕府による武家政権の始まり
C南北朝による二つの朝廷の始まり
D豊臣秀吉による全国統一(戦国乱世の終焉)
E大政奉還〜明治維新による近代国家の始まり
F太平洋戦争敗戦による民主国家の始まり
Gその他具体例
>>814 城井ってどこかと思ったら豊前・・・
介入というか、本家筋の伯父さんが甥かなんかに、えーかげんにせーよとか諭したとかいう粗筋かな?
不作とかのときに援助してやったとか、前振りがあるんだろうけど。
>>815 その場合は有り体にいうと寄進とかだろうな。
伊勢神宮にけっこう張り込んだとかいうのも、そういう関連なのかな?
>>819 その伝で行くなら、卑弥呼もそうじゃない?
臣従するなら実名を名乗るのが礼儀だったはずだから。
まあ、分かりゃしないだろうってんで、ちゃっかり実名は伏せたとか
知らんから適当に申告したなんて目もあるかもしれんけど。
>>822 普通に多摩川。「玉川」という表記は、そのときの創作ではなくてかなり古くから既存じゃなかったかな?
>>825 学校の教科書・・・は捨てちゃってるならワカリヤスイ系統の参考書の類い。
冗談とかじゃなくて、簡にして要を得てる。「憶えさせられる」のだとウンザリするけど。
>>827 歴史的といっても、先進国としてインテリに尊重された維新以前や、それとガラッと変わって
占領していた戦前は論外として、戦後なら、新興宗教の共産主義にかぶれた連中が
「北」を理想郷のように思い込んで、それと対立する「南」を敵視したという歴史があるな。
具体的な誰がどうとかは興味がないから知らないし調べる気もないけど、「北と対立する
ところの南」という認識で、左翼と対立するところの右翼なら、基本的に「南びいき」じゃないのかね?
「また占領しろ」とか寝言をぶっこいてたのもいたろうけど、少なくとも北と協調ということはありえないはず。
真性なんだろ、イジメるな
ただの数人しか授与されていない位階ってある?
征東大将軍
三浦雄一郎記念日本冒険家大賞
信長と本能寺ってどんな関係があったんですか?ただの宿舎契約だけですか?
回りに堀を掘られたり燃やされたりして、住職はえらい迷惑だと思うんですけど。
>>821 たしか千家がずっと宮司やってたわけじゃないはず。
地元では富家という家と確執があるといわれてるよ。
>>850 堀はおそらく、もともとあったものでしょ
戦国時代の寺は、今のような平和的な宗教団体じゃないよ、本願寺や延暦寺だけが特別なわけじゃない
大きなお寺は、それ自体が1つの武装勢力(僧兵という兵士をかかえている)であり、戦国大名たちに敵対したり、
味方になってくれたりする存在
建物・敷地に防御構造があっても別におかしくはない
口分田から農地改革まで日本の土地制度を概説した本無いですか?
>>827 今もウヨクは統一協会と仲がいいですよね。
統一協会は韓国が共産化しないようにと朴正煕によって庇護されたのであそこまで大きくなったのですよ。
スペインにハポン(日本)姓の人々がいることについて質問します。
この人たちは慶長遣欧使節の末裔と考えて良いのでしょうか。
2chソースのサイトでは「天正遣欧少年使節」の末裔という記事がたくさんヒットするのですが。
NHKの番組(歴史秘話ヒストリアかなんか)でもそう紹介してたな
もちろん、だからといって、それが正しいかどうかは別問題だけど(その手の番組にも間違いはよくある、
まだ長篠の三段撃ちと武田騎馬軍団を信じてたりとか)
>>856 ありがとうございます
慶長? 天正?
どっちですか
>>857 天正少年使節は四人の少年たちだし、日本に帰って来た。
スペインに子孫が居るとは思えない。
>>851 北島家だっけか、でも先祖はおなじで、分裂してからは両家ともそれぞれ国造家として
当主の代数をカウントしている。
歴史とは離れちゃう神話の世界だけど、出雲国造は反正天皇のときに正式に認定された
としているらしい。
このときの当主が祖先の天穂日命から数えて17代目、天穂日命は天照大神の子。
一方、天照大神−天忍穂耳尊−邇邇芸(ににぎ)命−火遠理命−鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命
の子が初代神武天皇で、反正天皇は第18代天皇
以後の代数の差は、天皇は存命中に退位したり病弱なのに政治的に利用されて即位しても若死に
したりいとうことがしばしばあったせいかな。
>>851 本能寺は西日本に結構な勢力を持つ一宗派の総本山であり、火縄銃や硝石の輸入ルートを押さえていました。信長はそれらを調達するために本能寺に帰依したのでしょう。
>>855 「ハポン」姓がスペインの教会の記録に初めて現れるのは慶長遣欧使節団が帰国の途についてから約50年後だとか。使節の中に現地に留まった人たちがいたようだし、彼らの子孫の可能性はあるでしょう。
つい最近日本政府が資金を出してハポンさんたちのDNA鑑定を行ったらしいけど、結果はまだ発表されてません。
866 :
日本@名無史さん:2014/06/06(金) 19:42:35.01
江戸時代の旗本が加増されて大名となった場合、一般の大名
のような藩政を行ったのでしょうか?
柳沢吉保を例にすると、甲府藩主(子が運営)となる以前は
本人や用人が領国経営どころか碌に藩にも行ってないような…
数千石単位で加増されたり、同じ藩なのに石高が全く違ったり
(川越藩だと吉保が7→11 後任の秋元が5万石)
旗本と同じく、実際には幕府から米を渡される生活だったのでしょうか?
>>866 田沼意次は城を建てたりしてます。11年掛かってせっかく建てたのに失脚したら取り壊されました。
>>837をよろしくお願いします
もちろん私見でかまいません
>>837>>868 どれもそれぞれ重要だし、基準や立場によって人それぞれの評価や歴史観もあるだろうし、その中での
最大だの一番だのを決めることにあまり意味があるとは思えないのだが
私見でもいいというのなら、その中では2、3、6、7(順不同)がより重要かな
どうしても一番を選べというなら、俺個人は(あくまで私見として)、日本の近代化を進めた6を推すが、
他の意見を主張する者がいてもそれを否定する気はない
>>866 良く知らんけど、「特定の地域範囲をごっそり領有する」のではなくて、
細切れになってるうちから、複数箇所、合計でどれだけ分の租税徴収権を
与えられるという形が基本ではないのかな?
> 数千石単位で加増されたり、同じ藩なのに石高が全く違ったり
というのがまさに、常に必ず同じ地域範囲を意味するのでは全然ない結果では?
>>868 そういう質問にはレスがつかんよ
ついても根拠は私見に限定されるんで荒れるだけ
潔く撤退したまえ
>>836について詳しい方、ぜひよろしくお願いします。
>>872 よく知らないけど、徴税や徴兵の都合で戸籍がシビアに記録されて保持され続けてる
現代と全然違って、系図なり生年なり自体が間違ってることって珍しくもないみたいね。
名前からして、親子兄弟とかが誤って伝わってるとかもありがちとか。
系図を書いて、確定できるポイントを押さえたときに、こちらの関係は矛盾してるとか
推定して、正しくはこうではないかとか検証すれば良いんじゃない?
>>837 難しいけど、ひとつだけ選ぶとなるとEかな
Bと迷ったけど
大和王権成立から平成26年まで日本国はただの一度も国家の断絶がないとされていますが、
もし国家の断絶に一番近い状態があったとすれば、それはいつのことだと思いますか?
876 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 20:20:53.83
>>836>>872 足利義氏の生没年は間違いないだろうから、新田政義・政氏の生没年が
おかしいような気がする。
>>837 武家政権の始まりは平氏政権からというのが近年の一般的な説では?
>>875 皇室を頂点にしたのは平安末期から絶えて明治まではしていないよ。
外交ひとつとっても元との交渉でも鎌倉にお伺いしている時点でな。
室町殿が日本国王になったことを皇国史観者が憤激したことのように
江戸時代に朝廷が幕府に養ってもらう状態であり、幕末ですら天皇以下の公卿は
幕府に依存することを隠しもしなかった。
国家の断絶がないなどと言うのは明治以降の皇国史観者基準の南朝正閏論なみに
相手にする価値のない論だよ。
>>875 それはやっぱりGHQによる統治時代だろうな
それ以外に有り得んだろ
>>877 >皇室を頂点にしたのは平安末期から絶えて
鎌倉時代も承久の乱までは幕府が上とも言い切れない。
御家人たちも「俺たち朝敵になっちゃうの?」と動揺したんだから。
>>875 主権を基準に考えるなら、アメリカによる占領で途切れてるな。
もっとも、あれは自らが権力を振るうために天皇を持ち上げるシステムが破壊されただけで、
そんな権力とは無縁の国民には何も関係ないから、何も途切れてもいないともいえる。
>>880 いやいや、この国の権力者達は祭り上げる対象として天皇の次に国民を選んだでしょ
「民意」を錦の御旗にして実は自分たちに都合のよい政策を進めてるのは「天皇」を掲げてた時代と同じ
愛知県に「豊」「味」からはじまる地名が多いのはなぜですか?
>>881 信長が義昭を掲げたのとは全然違う、「民意」で首相になっても
法で縛られるように天皇の権威、国体と民主主義は統治形態からして
ちがう。
>>879 地頭職が有名無実化しそうになったのだからな、動揺するわな。
朝敵になったのは頼朝時代もだがな、御家人の行動原理は単純で
「本領安堵」のみで正当性なぞは気にせんから政子の下世話な演説(頼朝が
本領安堵してくれたこと、大番役を減らしてくれたこと)で後鳥羽の
運命は決まってしまった。
さらに時代を下ると天皇の地位を求めて「競馬」と呼ばれるほど鎌倉に運動しまくる
状態になる。もう本人に主権者との自覚なぞ無いだろ。
>>884 この国の権力者って、戦前も戦後も政治家じゃなくて官僚でしょ
選挙で選ばれた政治家よりも、ただの試験エリートの方が強大な権力を握って日本を泥沼の戦争へ導いた
戦後は選挙で選ばれた政治家自体を隠れ蓑に、彼らを説得し、都合の悪い政治家は排除して、やはり国民ではなく官僚がこの国を統治している
その証拠に、自民党も民主党も選挙公約なんて守った試しがないでしょ。官僚に骨抜きにされるから
>地頭職が有名無実化しそうになったのだからな、動揺するわな。
動揺する地権者は国土の半分程度で、この時代の幕府権力が及ぶ範囲も高が知れるけどな
>戦後は選挙で選ばれた政治家自体を隠れ蓑に、彼らを説得し、都合の悪い政治家は排除して、やはり国民ではなく官僚がこの国を統治している
元号が変る頃のニュースステーションは自民党税調を目の仇にして、事あるごとに攻撃していたが
最強を謳われた山中が現役の頃は主税局の官僚なんかは丁稚扱いだったけどね
同じくマスコミが目の仇にしていた族議員が未成熟な民主党が与党時代には政府の対応が後手にまわり続けていたのは記憶に新しい
税調を骨抜き無害化したマスコミは官僚叩きを始め、今や中高生ですら官僚が日本の癌と囀っている
自民党を批判し、官僚を批判し、マスコミはこの国をどういう方向へ誘っていくのか…
889は族議員が大好きらしい
>>889 中高生がガンだと言っているのは(リベラル、左派だと思われている)民主党であり、被爆者のような戦争の負のイメージを
振りまくものだよ。中高生は自民の世襲をアキバで喝采を送り、自衛隊のパレードに歓呼を送っている。
田母神や石原のような憲法へのヘイトを隠さない連中に若年層の支持の高さを見てもよくわかる。
>>890 889は典型的な権威主義者だろう。大本営発表を信じていればいい時代なら幸せなんだが
いまのような海外の情報が入ってきて福島の汚染水漏れがわかってしまう時代は生きにくいのだろう。
イタイ教師の受け売りかと思ったらニュー速あたりから流れてきた頭の可哀相な子かorz
九十年代に俺が官僚批判を書いたら、城山の『官僚たちの夏』を読めと上から目線で叱られたもんだが、
昨今の子供は大人の話の受け売りで「カンリョウガー」と社会批判している現実をちょろっと書いたら
現実の話ではなく、ニュー速で日日戦い続ける「ネット戦士(w)」の仮想空間が俺の現実なんだと叱られちまった
何を言っているのか分からない向きもあるだろうが、俺も何が行われているのかよく分からんw
近代以降の政治家で国政のトップクラスながら国民からの人気が徹底的になかった政治家として
山県有朋や岸信介が有名ですし、小沢一郎もよく言われてました。
数年前の菅元首相もやたら人気がなかった印象なのですが、山県や岸と比較してどうでしょうか?
>>893 その4者の嫌われ方は大きく二分できる
・山県有朋、岸信介
彼らは「何か暗い陰謀に関わってる」「俺たちの国に変な仕組みを作った」という嫌われ方をしてる
山県は日本陸軍や官僚制度の父と呼べる存在で、日本陸軍や官僚制度の欠陥や不満はそのまま彼の責任とされる
岸は戦後から現在に至る極めて独特な日本の労働制度、経済システムを作り上げた存在で、これまた労働制度や経済システムの批判の矛先は彼に向かう
岸の場合、A級戦犯になっておりながら首相まで上り詰めた経歴や変節から「アメリカのスパイではないか」という疑惑も根強い
・小沢一郎、菅直人
彼らは「我が強く、政争ばかり繰り返してる」という嫌われ方をしてる
テレビを点ける度に彼らが口角泡を飛ばして何事か叫んでいたり、政争劇の中心にいたりで
「またこいつらか」と国民はウンザリしてる感じ
時代にもよると思いますが、昔は宮家の次男三男とかは仏門に入れさせられ、
結婚もせず、子孫も残さず一代で終わっていくケースが多かったと聞きます
これは世襲宮家や皇族の範囲を一定にするための処置だったと思いますが、
なにも強制的に仏門に入れ、結婚や子孫を残すことを排除しなくても、
臣籍降下して貴族や一般人になる道もあったと思います
実際に時代によっては臣籍降下しています
この仏門に入れ、結婚や子孫を残すことを許さないという慣例はなぜ始まり、
なぜ罷り通ったのでしょうか?
南北朝や室町時代は、僧籍に入っても還俗することが制度的に可能だった。
暗殺事件で有名な足利義教も、僧籍から還俗した境遇であり
天皇家でも還俗して政治家になった例として、護良親王がある。
僧籍にいれば、公式な子はいないので、外戚の影響もほぼ白紙状態。
担ぎあげて政治の世界に引き込むにはちょうど良い。
>菅元首相もやたら人気がなかった印象なのですが、山県や岸と比較してどうでしょうか?
岸が嫌われているってのは大手マスコミのレッテル付けにすぎない(何故安保反対なのかという問い掛けにまともに答えられた革命世代は現代に至るまで一人もいない)
高度経済成長の礎を構築した岸が本気で国民から嫌われるはずがない。これは欧米の元首も同じ。生活が豊かになりつつあるのに、仮令家族が餓死しようがイデオロギーが優先されるべきなどとは、ま・と・もな人間は考えない。
小沢は「俺はまだ本気だしていないだけ」で終わってしまい酷い小物臭だけが残ってしまった、典型的なマスコミがつくりだした(反自民としての)偶像。
嫌われているというよりキャラが飽きられてしまったという印象。
菅は山縣・岸に遠く及ばず、小沢と比するのも恥かしい小物なのに、自己を過大に評価し且つ全く結果を残せていないのに最後まで大言壮語を止めなかった。
子供のように文句を言うだけ、女のように感情的に他者を攻撃するだけ、こんな人物に好意をよせる理由はない。
>>897 高度成長は、オレらの父母やそのまた父母、そのまた父母の世代が頑張ったから出来たことで、
池田なり岸なりの手柄のように考えるべきではないけど、高度成長路線を堅持したという功績は
大きいというべきだね。
「何故安保反対なのか」といったら、「宗主国のソ連(当時)が侵略してくる邪魔になるので都合が
悪いから」だけど、まあ、そういう風にストレートに答えるようなのはいないだろうな。
>>895 経済的な問題だよ
源氏や平氏を臣籍降下させた頃は、臣籍となり貴族化した親類たちに与える領地や役職があった
が、鎌倉、室町と武家の時代となってくると、朝廷が実質的に支配権を握る土地も次第になくなった
朝廷の収入がないから貴族の役職も増やせない
与えられる領地も仕事もないのに、無責任に臣籍降下して放りだしたら、そいつらは食っていけなくなる
その点、寺に入れて坊主にしちゃえば、とりあえずその寺で食っていけるでしょ