凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part25

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877日本@名無史さん:2014/06/19(木) 20:41:27.20
裃の上から着るものってなかったの?
だだっ広い御殿じゃ暖房の効きも悪かっただろうに
878日本@名無史さん:2014/06/19(木) 20:52:39.10
そりゃ中奥の御殿やら側近の詰所やらのバックアップ部分、連結部分を撤去して
表の部分しか現存してないからそう見えるだけなんじゃ。
879日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:06:46.13
>>876
慶喜滞在時には二の丸じゃなくて本丸に本丸御殿というのがあったんだよ
慶喜はそこに住んでた
二の丸御殿は大政奉還したり使者と会ったりするときの表御殿
慶喜退去後本丸御殿は取り壊されて現在の本丸御殿は京都御苑から桂宮邸が移されたものだけど
ちなみに家茂がしばらく二条城に滞在したときにも本丸に仮御殿が建てられて
家茂はそこに住んでた
880日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:08:23.08
>>873
江戸城の模型
881日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:43:40.72
>>873
1903年に開催された内国勧業博覧会の愛知県パビリオンであると言わせたいのだな
ttp://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/06_01/images/11.jpg
882日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:49:21.01
熊本城炎上の原因は自焼・失火・放火説があってまだ決着がついてないんだよね。
でも自焼だと宇土櫓が残っているというのが腑に落ちない。証言もなんかあやしいし…
883日本@名無史さん:2014/06/20(金) 00:14:49.94
自焼って言うのは逃げ込む場所としての心の逃げ場所をなくすのが目的だから天守を焼く。

櫓を焼いたのは砲台等として使ったからと言う事だったと何かで読んで記憶しているが。

天守と櫓じゃそれだけ存在感が違うって事だと思うけどね。
884日本@名無史さん:2014/06/20(金) 00:22:53.86
いや、高層建築物は大砲の的(正確には着弾地点を測る目安)になるからじゃない?
885日本@名無史さん:2014/06/20(金) 00:28:58.96
>>866
なぜそんな例を挙げる必要がる。
お前が自分に都合がいい誘導をしているだけだろう
全然すり替えじゃない。
俺が言っているのは終始、層塔型と天守台の因果関係は無いと言う事。
だから天守台が無くても成立するし、鶴ヶ城の様に天守台より小さな平面で建てられた天守もある。

だいたいにおいて層塔型が矩形の天守台が出来たことで成立したという根拠はなぜ示されない。
示すことが出来るはずはないよな。
そんなことはあり得ないんだから。

そもそも建築物の基本は矩形なんだよ。
層塔型に限らず望楼型だって矩形の天守は存在する。

層塔型の特徴は平面形状じゃなくて、各階の部材の規格を同じにすることによる工期と費用を抑えられることだ。
886日本@名無史さん:2014/06/20(金) 00:32:48.24
>>884
いや、それだと宇土櫓を残した理由が成り立たないと言うか・・・
887日本@名無史さん:2014/06/20(金) 00:41:54.47
>>886
だから自焼説には疑問がある気がするんだが…
ちなみに火を付けたという従兵の証言では
城は必ず落ちるから敵に利用されない為だと司令官が言ったそうだが
戦闘が始まる前に部下にそんな発言をするとは思えないし…
888日本@名無史さん:2014/06/20(金) 00:59:22.10
>>887
それは、司令官が詭弁を使ったんじゃないの。

これから戦う兵士に対して心の支えがったのでは死ぬ気で戦えないだろと言うわけにはいかないだろ。

仮に自分たちが不利な状況と言う共通認識があったのなら、その理由なら天守を焼くのに反対する人は少ないかも。
889日本@名無史さん:2014/06/20(金) 01:05:54.56
>>888
指揮官が戦う前に絶対言ってはいけない言葉なんだよ
士気が壊滅的に低下しちゃうからね
890日本@名無史さん:2014/06/20(金) 01:20:59.50
>>889
君はどの説だとおもってる?
891日本@名無史さん:2014/06/20(金) 01:29:42.57
失火じゃないの
はっきりとは分からないけど
892日本@名無史さん:2014/06/20(金) 01:48:22.15
普通自焼というのは城を捨てて逃げる時にするもの
893日本@名無史さん:2014/06/20(金) 03:19:11.25
内部の裏切り者によるもの
894日本@名無史さん:2014/06/20(金) 04:22:10.13
>>876
つい先日行ってきたけど、居間と寝室にあたる部屋に気持ち程度に女中の人形置いてあるよ
まあ、調度品や甲冑その他の何にも置いてないのは確かに寂しいな
100円で見られる倉庫の博物展示部分には虎の襖絵と割れた瓦ぐらいしかないしw
895日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:06:41.51
二条城は暗いのが良くないな。扉を閉めたら夜と同じじゃないのか
これじゃ立派な障壁画もよく見えない、電気がないのだから仕方ないが
江戸時代の連中は天井からの採光とかそういう発想はしなかったのか
896日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:14:30.62
大政奉還の時も
真っ暗で誰がそこにいるか分からん状況の中執り行われたのだろうな
897日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:43:06.55
>>885
会津城の場合は震災で破損したのを、再建する時に縮小した
天守は石垣一杯か張り出して造らないと、下に来た敵が死角で
攻撃出来ない
天守だけで籠城した例は少ないが柴田勝家の北ノ庄城は
天守だけになっても籠城を続け、自焼により落城
898日本@名無史さん:2014/06/20(金) 06:56:27.22
>>895
こういうのって採光じゃないのか?
全然足りてないけど、まさか大屋根の真ん中に穴開けるわけにもいくまい
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5137635.jpg
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5137634.jpg
899日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:29:01.37
>>898
その写真のは屋根の飾りだろ
天井よりも上の場所にあって屋内に光は届かない

あの時代の建物は基本どれも扉を閉めれば中が真っ暗
時代劇などでは現代的な照明を当てているから中がキラキラ明るいだけ
基本的に扉は空けておくんだよ、風通しと採光のために
室町時代以降の建物はまだ採光のために障子戸があるだけマシ
900日本@名無史さん:2014/06/20(金) 18:15:24.40
10年ぐらい前、非破壊検査の二条城特番でやってたけど
金碧障壁画はろうそくや灯明の光に対する反射板、間接照明の役割も結果的に果たしてたらしいね。
901日本@名無史さん:2014/06/20(金) 19:01:57.20
>>876
江戸城本丸御座の間≒大坂城本丸銅御殿≒>名古屋城本丸上洛殿>二条城二の丸白書院>江戸城本丸御休息の間

各城の中奥部分の広さを比べてみるとこうなる。
それらの中では小ぶりとはいえ将軍の宿所としては必要十分でしょ。
二の丸の中では唯一将軍が日常生活できるように造られてる御殿だから使い勝手もいいだろうし。
902日本@名無史さん:2014/06/20(金) 20:53:35.55
903日本@名無史さん:2014/06/21(土) 09:11:21.11
本当に二条城の二の丸御殿で日常生活は可能だったのだろうか?
白書院が起居のスペースだったとして、独立した離れになってる台所からいちいち料理やお茶を運んでたのか?
904日本@名無史さん:2014/06/21(土) 09:39:46.08
正直、外見だけなら層塔型の天守を建てることは早くから可能であったはずで、にも関わらず望楼型から層塔型へという推移を見たのは、
偏に天守の起源が御殿などの低層建築に望楼を載せたものにあったからと考えられ、不整形の天守台云々は二次的要因であり、
大入母屋を重ね上げた意匠には豪壮観もあり、初期の天守はひたすらその大型化の方向に進んでいったとみられる。
層塔型はそれを古式なものと捉えそれに代わる新様式として採用されたものであり、その背景にはやはり豊臣から徳川へという政権移行があり、
技術的発展というよりも視覚的な要因(要求)が大きかったと考えられる。
905日本@名無史さん:2014/06/21(土) 09:47:39.47
層塔型への移行は地震と大砲対策だな
906日本@名無史さん:2014/06/21(土) 10:27:09.79
層塔型は大屋根を葺く必要が無いので金と時間の節約になる
907日本@名無史さん:2014/06/21(土) 11:32:19.65
>>903 二條御城中絵図を見よ
908日本@名無史さん:2014/06/21(土) 12:26:20.55
>>904
外観だけなら、って、層塔型とか望楼型とかは外見の違いで分けているだけだから。

慶長五年(1600)の日出城は層塔型天守。それ以前の慶長3年(1598)の広島城
大天守の三重目から上は層塔型。
なので、層塔型の構造自体は層塔型の始まりとされる慶長十年(1605)以前か
らあった。当時のジンクスか何かで三重までは可能とされていたとかかな?

>>905
巨大天守でしかも、望楼型の構造が基本に残っている名古屋城は例外として
丹波亀岡城や津山城などの時期の層塔型の柱割は階の上下で位置がそろわな
いので、同時期の柱がそろう望楼型に比べて強度が劣っていた。
層塔型はより高くするための技術であって、津山城とかの当時は地震などへ
の強度は二の次になっていたとおもわれる。
第2代江戸城天守や備後福山城とかのあたりで柱がそろうようになってきたの
で、耐震と望楼型から層塔型への移行過程には直接関係はないと思う。
909日本@名無史さん:2014/06/21(土) 19:12:20.85
>>903
お茶は白書院で点てられるだろうし、料理にしても
仮に百歩譲って今現在の二の丸の姿がそのまま幕末の姿だったと仮定して
屋根が無くて離れてても、自分なら「小姓が岡持で運んだんだろうな」って思うけど。

寛永の頃には白書院の奥にもうひとつ御殿があってこれには台所が付属してた。
天皇行幸の後に御殿は台所含めて親王の住居として移築されてる。
今後の二の丸内の賄いは今、現存してる台所ですべて賄える、差し支えなさそうだということでもあると思う。
往時は白書院と台所は伺公之間、御座之間江廊下とかで繋がってたようだけど、
もし不都合、不便という判断があれば家茂上洛の前に突貫工事で仮台所を造ってるでしょ。
910日本@名無史さん:2014/06/22(日) 02:08:10.92
>>908
元々望楼型の発想が入母屋造りの積み重ねで、望楼型の派生として広島城の様な形式が出てきたと考えれば、初重から層塔型の構造を用いると言う発想自体が無かったと考えるのが自然なのでは?

天守と言う建物は金がかかる代物なので簡便に造れる構造を求められたとか、新たな築城をする上で早く造る必要があったとか、何らかの要求から必要に迫られた結果、初重から積み上げると言う発想に至ったのではないか。

いづれにしても、それまでの望楼型に対して、均整のとれた層塔型は新しくて美しい姿が今までにないものとして見る者を魅了したことは間違いないと思う。
911日本@名無史さん:2014/06/22(日) 02:28:56.95
明らかに層塔型のほうがダサい。福山城なんて冗談かと思うほどセンス無い
912日本@名無史さん:2014/06/22(日) 04:47:01.55
ダサイお前にいわれてもなあ
913日本@名無史さん:2014/06/22(日) 07:42:49.73
望楼型の途中にある大入母屋屋根に実用的な意味は無いからな
914日本@名無史さん:2014/06/22(日) 12:42:49.22
水戸の偕楽園の好文亭は、天守の一種と考えていいのだろうか?
915日本@名無史さん:2014/06/22(日) 13:35:06.67
なんでこんな馬鹿はかりなんだろうここ
916日本@名無史さん:2014/06/22(日) 14:00:05.50
>>911
鉄覆い山久松城は戦災で焼けて鉄筋コンクリート製の福山城となった。
城の建築法じゃないのでダサイのは勘弁しろ。
917日本@名無史さん:2014/06/22(日) 14:20:29.73
バサラで個性が噴出した戦国が終焉して、簡素質朴で行こうとした江戸武家文化からすると
層塔型のシンプルな姿が美しく見えたと思われる。結局は四角い同じ逓減の仏塔のような
形状に収斂して行った訳だ。個性的な姿が好まれる現代とは感性が隔絶してる。
918日本@名無史さん:2014/06/22(日) 15:13:57.60
>>914
偕楽園は出城の役目も兼ねていただろうから、天守というより居室を備えた物見の意味もあったかもしれないな
919日本@名無史さん:2014/06/22(日) 15:37:46.44
>>910
発想がなかったというのは、少し言いすぎでは?
広島城から2年後に初重から層塔型の日出城の層塔型天守が完成するので、
その発想自体はとうに出来上がっていたと考えるのが自然だと思う。
逆に、この葺き下ろしの階を重ねるだけと言える層塔型の発想がなかった
ら典型的な望楼型天守初重・二重目によく用いられる総二階・重箱櫓の構
造もない。
また、何らかの要求で層塔型が開発されたのであったとしても、早く作ら
せるためというのは無意味だと思う。その頃天守という建物の位置づけは
もう外観を見せるだけのものになっていたので、天守を安く高く造ろうと
するのならまだしも、城自体を早く安く完成させたいなら天守は建てない
だろう。
920日本@名無史さん:2014/06/22(日) 15:40:11.00
西本願寺が飛雲閣のような三階櫓的建造物を建てるのは、
当時の武家に対して不謹慎と思われなかったのだろうか?
921日本@名無史さん:2014/06/22(日) 15:55:11.67
武家の御殿建築そのものの西本願寺書院も不謹慎だと思われなかったのだろうか?
922日本@名無史さん:2014/06/22(日) 16:20:46.70
本願寺は、東西に分割する前は大名を脅かす勢力だったから、それなりの気遣いを
受けていて、他の宗派とは別扱いじゃないのか
923日本@名無史さん:2014/06/22(日) 16:34:26.10
西本願寺の白書院には葵に因んだ紋様が随所に使われてて
そんなことから将軍上洛時の御成御殿としても使えるように整備され、というかさせられてた
なんて説もあるくらい。

目立つ御殿持ってりゃそういうことにもなるわな。
924日本@名無史さん:2014/06/22(日) 17:54:13.50
隅櫓は天守より先に層塔型があったようだから、
当初は簡易型と見なされていたんじゃない
925日本@名無史さん:2014/06/22(日) 18:39:44.74
本願寺などの寺院は並の大名より強い力を持ってたからな
大阪城の元地に石山本願寺を建て
鉄砲も三千丁も持っていたらしい
城と言っていい存在
926日本@名無史さん
天端いっぱいに建てるというのは、今でいう構造計算上の強度が考慮されていたためで
天守台石垣天端と天守台内側の基礎では、巨大化した天守が不等沈下するおそれがあったんじゅあ
ないのかと想像する。当時の技術者はそれを心配していたのだろうと
そして、切込みハギの完成で矩形の天守台が完成を見たと思う。ただし、逆にハラミの
問題を抱えることになった。