1 :
日本@名無史さん:
>郡治〜狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜奴国
>七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里
問題はこの部分(四百里×2)、(三百里×2) につきる
4 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 11:01:16.62
それを加えることはできない。加えるなどという論者は、方四百里、方三百里の
意味を理解していないんだな。例えば方四百里の二片の和は必ずしも八百里ではない。
千里もあるしそのほかいくらでもあり得る。
5 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 11:10:43.34
方四百里、方三百里の意味は四百里四方の土地、三百里の土地で
二通りに解釈できる
面積が四百里四方の土地、三百里の土地・・・この場合は二片の和は必ずしも八百里、六百里ではない
一辺が四百里四方の土地、三百里の土地・・・この場合は二片の和は必ず八百里、六百里
どちらの用例もある
>七千里 + 千里 +(方可四百余里)+ 千里 +(方可三百里)+ 千里 + 五百里 + 百里
このうち、次の部分は距離(里数)を示した数字である
七千里 + 千里 + 千里 + 千里 + 五百里 + 百里
又、次の部分は方里、すなわち面積を記した文章(句)である
(方可四百余里)+(方可三百里)
ご承知の通り、長さの1000mに、面積の1000平方メートルを加えることはできない。
千里(距離)に千坪(面積)を加えることもできない
同様に、
帯方郡〜奴国の万六百里(里数)に、方四百余里(面積)や方三百里(面積)を加えることもできない相談である。
7 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:06:46.11
>>6 >すなわち面積を記した文章(句)である
面積と断定した根拠が示されていない「すなわち」とは何?
方 = タテ×ヨコ
方○○里 =(すなわち)タテヨコを里で示した場合の面積
例:方寸、方丈
9 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:45:28.05
@「到其北岸狗邪韓國」
A「始度一海千餘里 至對海國」
B「南渡一海千餘里 至一大國」
C「又渡一海千餘里 至末盧國」
@到着したのは北岸が狗邪韓國である海。即ち狗邪韓國の南岸の海。
到着したのは狗邪韓國の中心部ではない。
A〜C幅千餘里の海を渡ると、對海國、一大國、及び末盧國に至る。
至ったのは、對海國、一大國、及び末盧國の海岸で中心部ではない。
では、對海國と一大國はどのように通過したのであろうか?
魏使や郡使は、對海國と一大國の海岸沿いに循海岸水行したのである。
對海國は方可四百餘里の北辺東辺の二辺八百餘里を、
一大國は方可三百里の北辺東辺の二辺六百里を循海岸水行したのである。
対馬海峡の潮流は上記の渡海水行方法が早くて安全であることを示している。
郡治〜狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜不彌国
七千里[循海岸水行] + 千里[渡海] + 八百里[方四百里循海岸水行] + 千里[渡海] + 六百里[方六百里海岸水行] + 千里[渡海] + 五百里[陸行] + 百里[陸行]
10 :
大和 田直木:2014/01/04(土) 15:51:40.02
帯方郡〜狗邪韓國までの循海岸水行は、水行七千里に含まれている。
A「始度一海千餘里 至對海國」
B「南渡一海千餘里 至一大國」
C「又渡一海千餘里 至末盧國」、
この途中における循海岸水行の航路は、ときどきの潮の都合で千変万化する、
まして[方四百里における循海岸水行]の部分を追加する如きは、古田の我田引水こじつけ強弁。
当然ながら循海岸水行部分も、帯方郡〜狗邪韓國までのように、渡海三千里に含まれる。
方四百余里と方三百里は島の面積(広さ)のことであってって、人が旅する行程里数(長さ)ではない。
12 :
大和 田直木:2014/01/04(土) 17:38:20.68
>>11 >この途中における循海岸水行の航路は、ときどきの潮の都合で千変万化する、
潮の都合で千変万化する結果が、対馬と壱岐の北岸東岸循海岸水行ルートしか選択余地がない。
末盧國から狗邪韓國へのルートは、
末盧国 〜 [渡海] 〜 一大國南岸 〜 一大國南岸[循海岸水行] 〜 一大國西岸沖[渡海] 〜 (對海國南岸点) 〜 [渡海] 〜 岸狗邪韓國南岸
倭から韓に渡るルートは、太閤秀吉の時代の名護屋からの渡海と同じ。
対馬海峡東部の沖ノ島中継ルートは潮流の制約が大きく、季節を問わず常時渡海できるルートではない。
>当然ながら循海岸水行部分も、帯方郡〜狗邪韓國までのように、渡海三千里に含まれる。
A「始度一海千餘里 至對海國」
B「南渡一海千餘里 至一大國」
C「又渡一海千餘里 至末盧國」
渡海部分の一海が千餘里と書いてある。
3回の渡海部分の一海の合計が三千餘里である。
当然島の周囲の循海岸水行はA〜Cの距離に含まれていない。
13 :
大和 田直木:2014/01/04(土) 17:48:14.93
>>11 私の読み方は古田式読みとは全く異なります。
結果が古田式読み方と偶然の一致を見ただけですね。
14 :
大和 田直木:2014/01/04(土) 18:06:57.67
古田式読みと全く異なる例のひとつ。
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
郡より倭へいたるには(從郡至倭)、海岸に沿っての水行(循海岸水行)で、
途中韓地の倭人の国々に寄りながら(歴韓國)、
2回大きく方向を変えて、1回目は南方向へ2回目は東方向へ進み(乍南乍東)、
七千餘里にて狗邪韓國の南岸の海(其北岸狗邪韓國)に到着する。
>A「始度一海千餘里 至對海國」
>B「南渡一海千餘里 至一大國」
>C「又渡一海千餘里 至末盧國」
>渡海部分の一海が千餘里と書いてある
一海の幅が千余里なのか、一海を渡るのに千余里なのか、読み方は一つではなかろう
16 :
大和 田直木:2014/01/04(土) 20:00:38.93
>一海の幅が千余里なのか、一海を渡るのに千余里なのか
同じ意味である。
渡る一海が千餘里。
渡るのは岸から岸まで。
片岸からもうひとつ岸の先まで行く時は、渡る【渡】ではない。渡って行く【渡行】である。
17 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:40:43.84
>>11 >>12 >>11氏の説明のとおり。距離に面積を加えるなんて馬鹿な話しはない。
対馬も一大も島の周りを回る必要はない。それらの国の首都に近い港に入り、
その港から出港すればよい。仮に対馬で二つの港に入ったにしろ、主たる港
のみを考えて行程を書く。
18 :
大和 田直木:2014/01/05(日) 02:38:01.98
>>17 「方可四百餘里」「方可三百里」
両者は島の概形を示すことにより概算面積を示しているのである。
概形は外周の概算距離を示しているのである。
>>11氏同様に
>>17氏も、形と面積を本末転倒で間違えている。
距離に面積を加えているのではなく、距離に距離を加えているのである。
19 :
日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:23:28.90
方四百里というのはあくまでも面積。形は一切無関係。対馬の場合ならば八百里×二百里だろう。
四百里×四百里の形をいうならば四百里四方だな。
>概形は外周の概算距離を示しているのである。
おおせのごとく、外周の概算距離を示すのであれば、
前スレの九州王朝説等でも登場した「倭国は周旋五千余里」のように、
両島概形も、それぞれ周旋千六百余里、周旋千二百里などと記されたことであろう。
方一寸、方一丈の如く、方可四百餘里、方可三百里も両島の概略面積(広さ、大きさ)を示す記述と解するのが妥当。
21 :
大和 田直木:2014/01/05(日) 12:10:42.93
>>20 「周旋」は端から端までの意味。始点と終点が異なる。
始点と終点が一致する外周の意味ではない。又、形状はわからない。
「方一寸」は一辺1寸の四辺形。「方一丈」は一辺1丈の四辺形。
「方一里」は一辺1里の四辺形。
いずれも形状を示すことにより、副次的に面積がわかるもの。
「方可○里」は概形を優先する表記方法。
方形から程遠い形状を示す例。三辺形を示す例。
東沃沮「其地形東北狹 西南長 可千里」
方形を可とする形状を示す例。
夫餘「方可二千里」、高句麗「方可二千里」、韓「方可四千里」
>いずれも形状を示すことにより、副次的に面積がわかるもの。
すなわち、方可四百餘里、方可三百里 は、島の形状を示しただけであるというならば、
当然のこととして航路に言及したものではないので、これらを無条件で行程里に参入するのはいかがなものか??
23 :
日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:01:18.54
不彌国から邪馬台国までは水行30日、225km。
1里450mとすると約500里。
1里80mとすると約2800里。
狗邪韓国から不彌国までは3700余里。
1000+1000+1000+500+100+100
上とたすと500+3700=約4200里
2800+3700=約6500里
倭は5000里で表示してもよさそうではあるが。
24 :
大和 田直木:2014/01/05(日) 13:35:31.99
>>22 A「始度一海千餘里 至對海國」
B「南渡一海千餘里 至一大國」
C「又渡一海千餘里 至末盧國」
渡海部分即ち海岸から対岸までの一海が千餘里と書いてある。
島の北岸(北西端海岸)から南岸(南東端海岸)までの距離が抜けているので、
この部分も総道程に加算しなければならない。
25 :
日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:43:04.17
俺が満州をはじめとするお前らキチガイ三国人どもに教えてやろう。
倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族
へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れてくんなよ。
卑弥呼が女王となった倭国は 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。
天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の首長(王)として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。
朝鮮の文化は奴隷だった朝鮮半島から流入したもの。朝鮮人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。
証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が朝鮮人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」ことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や舎弟には朝鮮人は混ざってたのは否定せんがな。
26 :
日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:45:03.00
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、
倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 天孫降臨 として記紀に記したのだろう。
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前」という表現。
これは「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。
そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。
ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。
そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために
筑紫神話や古事記があるという事だ。 日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよく
もじっただけなんだよ。
ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。
要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代も最終的には志摩の桜谷神社につながる。なんとも感慨ぶかいな。
三国人どもは日本古代史の誘導あきらめろ、ボケがw
>>24 >従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国、七千余里
この部分では、水行歴、、、七千余里 となっている、
これは海の幅や陸地の長さでなく、歴行程つまり船の航路は七千里であったと書かれている
A「始度一海千餘里 至對海國」、B「南渡一海千餘里 至一大國」、C「又渡一海千餘里 至末盧國」の部分も、
読み方はいくつかあるであろうが、
上の例に従えば、千余里とは海峡の幅でなく、一海を渡るに要する航路の長さは千余里であったと読むのがよいのではないか。
このことは上陸後にも言えよう。
東南陸行五百里とは、地図上をコンパスで計っての五百里ではない。
末盧国からテクテクと五百里ほどを歩いて伊都国に達する、と読むべきと思う。
良き地図の無かりし時代、地図上でAB 間の正確な距離を求めることはできなかった。
ゆえに倭人伝に書かれた里数とは、人間が移動すべきAB間の距離、
言いかえれば、人間の行動を基準にした数字表現だったと理解すべきと考えるのである。
また安定のパズルスレw
29 :
九州王:2014/01/05(日) 21:24:34.58
>>14>>16>>18>>24この辺は同意見だな
>>21「周旋」は周るの意味。始点と終点が同じ。くるくる回る意味の場合もある。
『「周旋」は端から端までの意味。始点と終点が異なる。』これは誤りだな。
>>19 使者は対馬や壱岐の横を通過しただけで回りを周っていない
実際に回りを周っていれば現実の比率と違いすぎる「方可四百餘里」「方可三百里」とは書かない
島の横を通過しただの使者に島の面積など予想することは出来ない
航路を基に島の外寸の概算距離を示すことしかできんでしょ
使者がわざわざ遠回りして対馬や壱岐の回りを周るはずもないな
志摩とは多島海のことだ。
32 :
大和 田直木:2014/01/06(月) 00:04:12.02
>>29 >「周旋」は周るの意味。始点と終点が同じ。くるくる回る意味の場合もある。
「旋」はくるくる回っても始点と終点が異なる。ネジ山の如し。
>実際に回りを周っていれば現実の比率と違いすぎる
まわるのは、北辺と東辺の二辺だけ。一周するのではない。
>島の横を通過しただの使者に島の面積など予想することは出来ない
島に関する情報を得たのは、魏使だけでない。郡使が何回も倭に派遣されている。
郡使は常に2島の2辺を水行しているので島の形にも詳しくなる。
>航路を基に島の外寸の概算距離を示すことしかできんでしょ
2島の周辺潮流の変動から、魏使郡使は2島の海岸を
循海岸水行せざるを得ないので、島の様子も詳しく観察できたのです。
彼らが島の概形を知るのは朝飯前。
>使者がわざわざ遠回りして対馬や壱岐の回りを周るはずもないな
対馬と壱岐の北辺と南辺を通るルートが、最も速くて安全なのです。
両島周辺の潮流は、韓から倭に向かう船にとって順方向で船速が速くなるのです。
潮流の速度と方向は九州大学の電波観測データで公開されています。
なお、魏使郡使が対馬と壱岐で立ち寄ったとすれば、それらは厳原と原の辻です。
33 :
大和 田直木:2014/01/06(月) 01:04:06.44
>>32の間違い修正
× 対馬と壱岐の北辺と南辺を通るルートが、最も速くて安全なのです。
○ 対馬と壱岐の北辺と東辺を通るルートが、最も速くて安全なのです。
大和 田直木 の脳内回路は、周旋しながら天にのぼっている
古田を全否定するところからやり直すべき
>古田を全否定
古田を罵倒している連中はみな、古田説を参考に自説を立てているから、
古田を全否定すると、邪馬台国研究自体が崩壊する。
37 :
帯方郡太守:2014/01/06(月) 11:39:11.72
>36
これは古田信者の過信である
倭人伝は古田が書いたものではない
帯方郡役所の資料をもとに、晋王朝の者が取りまとめたのだ、そこのところを正しく理解されたい
38 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:17:48.04
ほら、お前らの為にまとめてやったぞ
倭国の覇者の変遷 大国主→卑弥呼→大国主→天孫族 へ
倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族
へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れるなよ。
卑弥呼が女王となった倭国は魏志倭人伝の頃の 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国・邪馬台国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。
何故卑弥呼が斯馬国〜奴国までかというと伊都国は倭国にとって代々大国主が治める特別な存在(聖地)である。
天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の王、豪族として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。
朝鮮の文化は支配下だった朝鮮半島から流入したもの。半島人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。
証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が半島人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」はことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や普通の一般人として半島人が混ざってたのは否定しない。
39 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:18:58.41
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 「天孫降臨」 として記紀に記したのだろう。
(これは小大名だった織田信長が大国美濃を攻略し尾張美濃を領する大名になった時に
天下に知らしめした 「天下布武」 と同じ境遇だろう。)
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前を真来通り」という表現。
これは倭国の「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。
実際に伊都国には古代より王墓と呼ばれる副葬品も素晴らしく豪華な古墳が多数存在する。
そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。
ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。
そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために筑紫神話や古事記があるという事だ。
日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよくもじっただけなんだよ。
ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。
要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代も最終的には志摩の桜谷神社につながる。現代の聖地も伊勢志摩という事実もなんとも感慨ぶかいな。
40 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:55:27.78
長文
博多湾岸教徒 乙
41 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 13:37:46.19
いつか
>>38-39を含む
俺が書いてきた説をパクった本が
他人の名前で出版されそうな予感www
その時はお前らがその説は俺が唱えてた説だと証人になるんだぞw
42 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 13:46:02.29
別スレで拾ってきたレス
まさに俺が唱えてた説だなwww
ほんと俺の説には全く矛盾が発生しない。
ほんとに誰かが俺の説をパクって本にしそうだなw
672 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 23:43:29.49
>>609 昨日「ナゾ解き卑弥呼 邪馬台国」という番組でやってたが、当時の大陸の人は、日本が南に伸びた島だと思ってたらしい。
当時の南=>現在の東
イト国から出雲に行って、山陰の天橋立あたりで舟を降りて陸路で奈良に到着。
こう考えると行程がほぼ一致するらしい。
瀬戸内海より日本海沿岸の方が海賊に襲われず容易に行き来できるし、
山陰から奈良までの陸路は峠がほとんどなくて楽にたどり着けるとのこと。
小路田教授の説。
43 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 13:48:35.33
@国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。
しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。
だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。
この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。
ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」
また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
>>42 当時の大陸の人は畿内に行った事が無かった
九州を南下した事しか無かった
よって倭を南に長いと思ってただけかもしれんぞ
45 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 13:50:18.05
A
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg 綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg 卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
毎日太陽は昇り沈む
天気が良ければ星も毎晩見える
古代の人間が方角を誤っていたという説はあまりにも古代の人を馬鹿にしすぎ
47 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 14:10:31.55
B倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
48 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 14:35:49.80
>神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
32世も前に魏はなかった
福岡の都は親魏であった卑弥呼の都とは別物、ただそれだけのことさ
49 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:03:44.81
C〜まとめ〜
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。
魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。
大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
50 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:05:28.65
D伊都国(倭奴国)と位置関係
☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。
それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。
☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。
☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
(北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
51 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:07:04.41
E古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
(今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)
つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
52 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:09:20.49
F倭国の覇者の変遷 大国主→卑弥呼→大国主→天孫族 へ
倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族
へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れるなよ。
卑弥呼が女王となった倭国は魏志倭人伝の頃の 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国・邪馬台国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。
何故卑弥呼が斯馬国〜奴国までかというと伊都国は倭国にとって代々大国主が治める特別な存在(聖地)である。
天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の王、豪族として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。
朝鮮の文化は支配下だった朝鮮半島から流入したもの。半島人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。
証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が半島人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」はことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や普通の一般人として半島人が混ざってたのは否定しない。
53 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:10:36.51
G
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 「天孫降臨」 として記紀に記したのだろう。
(これは小大名だった織田信長が大国美濃を攻略し尾張美濃を領する大名になった時に
天下に知らしめした 「天下布武」 と同じ境遇だろう。)
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前を真来通り」という表現。
これは倭国の「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。
実際に伊都国には古代より王墓と呼ばれる副葬品も素晴らしく豪華な古墳が多数存在する。
そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。
ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。
そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために筑紫神話や古事記があるという事だ。
日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよくもじっただけなんだよ。
ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。
要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代も最終的には志摩の桜谷神社につながる。現代の聖地も伊勢志摩という事実もなんとも感慨ぶかいな。
54 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:17:59.24
重要なのは国家の血統描写民俗学的な記述
そこに嘘があれば全てがでっち上げ中国は朝鮮と違い煽り呼称に「倭」を日本人に使って来ない
55 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 18:01:26.32
九州王朝もバイトにコピペを任せるようになったか
熱が冷めたようだ
56 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:49:44.36
面白いものを畿内説スレで拾ったぞw
これも俺の説をさらに正解へと導くものだ。
>>51のEに追加、改訂しておこう。
E古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
(今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)
つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。
参考資料:
http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北という概念が無かった証拠。
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
57 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:54:09.39
こっちだな。
C〜まとめ〜
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。
魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
参考資料:
http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北に向かうという概念が無かった証拠。
魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。
大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
58 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:10:52.48
更にこうだ。 しかしほんと出てくるものは、俺の説を正解へと導くものばかりだな。
C〜まとめ〜
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。
魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
参考資料:
http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北に向かうという概念が無かった証拠。
(九州島は正に(当に)会稽郡東治(紹興市)の東にある。)
魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。
大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
59 :
サガミハラハラ:2014/01/06(月) 22:24:59.83
佐賀県からの年賀状に「旧小城町役場跡の文化財調査で、弥生後期の住居跡が重なって出ています」
とありました。ここはわたしが倭人伝の不彌国の都であったところとみておるところです。
この南に邪馬台国の後期の都があります。
邪馬台国発見もいよいよですね。
小城が不彌国なら多久が伊都国ということですか。
多久市で何か出ていないのでしょうか。
61 :
筑紫倭皇帝:2014/01/06(月) 22:55:58.65
さあ、そろそろ俺も他のやつが俺の説をパクる前に
コテでもつけるか。 なんにするか。
「筑紫倭皇帝」にでもするかな。
よろしくな。
小城から大量の羊羹が発掘されました。
63 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:23:33.38
おそらく役場あとは彼の時代の中心地に近い
私的には伊都国に五百票
ともあれ大いに期待
卑弥呼の伝承が「おてもやん」の歌謡に反映されている
雑魚に相応しいコテだなwww
66 :
日本@名無史さん:2014/01/07(火) 05:45:06.95
筑紫が九州王朝の母体であり、記紀神話の元になったことは賛同できるが、
倭人伝の南水行は明らかに有明海だから、やはり、邪馬台国は熊本だろうな。
旧大国の肥国邪馬台国と、新大国の筑紫国。
有明海湾岸を握る肥国連合に、筑紫国が筑後で切り込んだ。
筑紫王磐井の岩戸山古墳が、肥後の色が濃い出土物であるのが、
この辺りが筑紫と肥の入り混じった境界であることを示している。
小城、多久あたりは千戸の伊都国、二万戸の奴国は、佐賀市、大和町
の肥前国ルート。
大川城島が不弥国。
それ以外に、距離方向と水行陸行が一致するルートはない。
67 :
日本@名無史さん:2014/01/07(火) 06:15:26.59
白村江の筑紫王サツヤマは、筑紫国の一人の王にすぎない。
白村江の前線司令官というだけの存在。
皇帝に該当するアメタリシヒコの系譜を次ぐ天子は太宰府にいる。
白村江敗北直後に、畿内へ疎開したが、
当然、受け入れ派と反発派がもめたのが壬申の乱。
天智天皇が水城の整備などを行っているので、
天智天皇が九州で、天武が畿内だろうか。
両方にアメタリシヒコのアメに該当する「天」の文字が入っているのが、
両方共「アメ氏」の正統を主張しているのかもしれない。
どちらが勝ったのかは不明だが、同時に官僚も疎開してきており、
その直後から、年号制定や律令の整備、記紀編纂など、
国家整備が一気に始まる。
68 :
日本@名無史さん:2014/01/07(火) 09:46:01.89
>66
小城町に伊都国、佐賀市に奴国、ここまでは同意
大川に不彌国ももちろん有力あるが、三瀦(水沼)も不彌国の可能性あり
三潴からは旧道で八女福島(斯馬?)に向い、ここで右折すると南関へ至る
>>66 小城、多久あたりは千戸の伊都国、
二万戸の奴国は、佐賀市、大和町の肥前国ルート。
で
大川城島が不弥国。
じゃ
距離方向も水行陸行も全然何一つ一致してない。
70 :
筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 16:06:54.62
スサノオの神崎平定
クシナダ姫は神崎櫛田宮は無いことは無いと実は俺は思ってる。
筑紫博多湾岸のアマテラスに追放されたスサノオは
筑後(肥中)に流れ、筑後を歩く。
そこでクシナダヒメと父に会い事情を聴く。
スサノオの話に出てくるヤワタノオロチは実は筑後川なんじゃないかと思う説だ。
甕棺墓の分布も糸島→福岡平野→神崎と広がったと推測できなくもない。
イザナギイザナミがオロコロ島を生むときに使った銅矛。
スサノオのヤワタノオロチ平定(筑後(肥中)平定)で持ち帰った剣。
これらが天孫族の三種の神器の剣であるといわれてる。
鏡は天孫族の伊都国攻略(天孫降臨)で手に入れた銅鏡だろう。
まあ様々な勢力が入り乱れたであろう筑後、
スサノオが平定したこともある「筑紫」の後ろの筑後。
普通に考えられる事だな。
71 :
筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 16:15:25.46
暴れ川「筑後川」で娘を次々と亡くしたクシナダヒメの父。
信玄堤じゃないが、スサノオが治水して「筑後の王」になったかもしれんし、
まあ、このぐらいの妄想をして歴史上の事実をひとつずつ当てはめていく。
これが俺のやり方だ。
そして@〜Gの結果が導かれたわけだ。
スサノオの筑後平定。これを土産にアマテラスに褒められたスサノオ。
神崎のクシナダ姫とスサノオの筑後平定(ヤワタノオロチ退治)は無いことは無いと思っている。
73 :
日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:44:19.53
>>67 日本書紀「天智称制元年」(662年)夏5月の記事に次のような記述があるが「勅」するあるいはその「勅」を「宣する」、「継がせる」「撫でる」「褒める」「賜う」などは、至高の存在(天皇)の行為であり、
安曇比羅夫と共に天皇が百済に親征していたからである。
大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘送豐璋等於百濟國宣勅以豐璋等使繼其位又予金策於福信而撫其背褒賜爵祿(大将軍大錦中の安曇連比羅夫等が船170隻を率い扶余豊璋を百済まで送った。
勅を宣し豐璋に百済国王の位を継がせた。また鬼室福信に金を与えた。それに加え、その背を撫で褒めて爵位と禄を賜った。)
旧唐書には麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際に劉仁軌が、新羅・百済・耽羅・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。
このとき唐にいたのは筑紫君薩夜麻だけであり、薩夜麻が封禅に参加した倭の酋長(天皇)である。
バカはアホーに帰れよw
75 :
筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 16:46:17.31
>>72 ところがどうだ。
全国の櫛田宮はクシナダヒメとスサノオを祀ってるが、
博多の櫛田神社は天照大神とスサノオだ。
これは博多だけのこと。
博多湾岸が天孫族の地だったというまた一つの根拠になるな。
元寇の時に神崎の霊剣を博多に移した。
博多湾岸の天孫族にとってはスサノオは重要だがクシナダ姫はあまり重要ではない。
しかし、神崎ではある意味スサノオよりもクシナダヒメの方が重要である。
元々はクシナダヒメは地元神崎の姫(神)、スサノオは博多湾岸からやってきた部外者だからだ。
このように博多湾岸の天孫族からすれば、スサノオは自分たちの身内だが、
クシナダヒメは神崎の姫(神)であるから
天孫族にとってはクシナダヒメを祀る事はそんなに重要ではないという事だ。
なんとも面白いな。 実に我ながら鋭い意見だ。
76 :
日本@名無史さん:2014/01/07(火) 18:12:11.05
読んでも実に面白い。
他に例を見ない鋭い意見である。
一度お薬貰う必要なレベルだろ。
78 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 09:22:01.10
>>59 そうですか
古代国庁もあったという小城町で発掘開始ですか
しかも弥生後期の住居跡に当たったとは! 今年は佐賀説の年になりそうですね
79 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:27:34.02
小城国府って何かで読んだが、
佐賀大和の肥前国庁の前身に相当するのか、
小城という国の国府って意味なのか?
80 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:43:35.05
>>79 何かの説明文では、
小城に佐賀大和国庁(奈良〜平安期の肥前国庁)の前身に当たるもの
(もしくはそれに相当する古い役所)があったらしいということだった
81 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 14:25:32.12
>国府について、『肥前国風土記』には記録がない。
>和名抄に「乎岐国府」(おぎ)[2]とある。
>しかし、奈良時代には久池井に置かれていたので、移転したと考えられるが、明らかになっていない。
>脚注
> 2.^ 乎岐は嘉瀬川西方にあたる現在の小城。
82 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 05:40:54.36
奴国は福岡で決まりでしょう。これをくつがえすのは無理だと
思う。ここから東の海岸が不彌国で、そこから南に行くと
邪馬台国。
佐賀説、吉野ヶ里説、熊本、福岡説、近畿説は、明らかに無理。
でも、あいかわらず威勢いいですね。
>>82 >奴国は福岡で決まりでしょう。これをくつがえすのは無理だと思う。
一つの奴国は福岡市周辺だろう。
しかし
倭人伝には奴国が二つあったことが記されている。
戸数道里可略載の奴国はもう一つの奴国だろう。
なぜ゜なら
戸数道里可略載の奴国が福岡市周辺だとすれば
方角と距離が違うし
不弥国から南へ水行ができないから。
有明海をぐるりと一周
始度一海千余里至對馬國
又南渡一海千余里名曰瀚海至一大國
又渡一海千余里至末廬國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國
南至邪馬台國
と
其餘旁國遠絶不可得詳だけが
邪馬台国の場所を示す情報だ。
人口とか日数を考えるから分からなくなる。
どうしても人口を考えたいなら
対馬国+一支国=末盧国=四千を基準にすべき。
奴国はわずか五倍。
邪馬台国ですら十八倍もない。
86 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:14:06.28
邪馬台国は・・・
福岡説:唐津(末廬國)から数十キロメートルの範囲、福岡佐賀の2県
熊本説:唐津(末廬國)から百数十キロメートルの範囲、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本の6県
畿内説:唐津(末廬國)から五百数十キロメートルの範囲、福岡、佐賀、中国地方、近畿地方の十数県
やはり福岡説の数十キロの範囲では狭すぎる、畿内説の五百数十キロでは広すぎる
最適・妥当な範囲は熊本説だねえ
熊本は狗奴国が妥当。
88 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:45:49.53
熊本は比較的新しい命名だよ
熊襲は球磨(くま)地方の人吉だろうな、球磨=人吉市は田畑も広い、
ちょうど大和盆地くらいの広さがある、古代には一大勢力を成していたことであろう
89 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 19:11:00.51
熊本ほどの適地はそうはありません。
平野は広いし大量の鉄器が出土し、全国唯一の鉄器化した石包丁も出土。
邪馬台国以北に一大率を置き福岡諸国を檢察した。
90 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 19:15:57.65
>>88氏のおっしゃる通り、人吉盆地は奈良盆地並みの広さがある。
そして奈良盆地より遥かに周囲が険しく、独立勢力を築く適地。
クナ国。球磨郡。
邪馬台国に鉄が豊富なんて記述ないのに…
92 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 19:48:59.56
時代背景を読めない男、いや女?
古代において邪馬台国が勢力を伸ばしたのにはワケがあったと見るべき
それまでの弥生勢力の青銅剣は重くて脆くて折れやすかった
しかし卑弥呼の時代に相前後して大陸から持ち込まれた鉄剣は軽くて強くて良く切れた
切りあいになっては、とうてい銅剣に勝ち目は無かったであろう
魏王朝も卑弥呼に五尺刀二振りを与えている
その鉄製武器にからむ遺物が、弥生後期の卑弥呼の時代の遺跡からたくさん出る、しかも熊本平野にだ、、、
93 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 20:23:08.26
率善中郎將 大夫難升米
率善校尉 都市牛利
この2人が
鉄の流通をコントロールする海峡域の制海権を掌握しておった
と嫁ないおばかさんがおったとさ
熊本が邪馬台国の可能性なんて皆無だよ。
95 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:27:04.75
奈良盆地にならぶ広さの球磨盆地には古墳が少ない、有っても6〜7世紀の横穴30ほどらしい、
他には三ツ塚といって小さな円墳が三つ、驚くほどだ
あの広さなのにこれはおかしい、
邪馬台国や大和国のような古墳文化は無かったに等しいといえる、やはり対立していたという狗奴国文化だったのか?
96 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:33:55.68
卑弥呼の墓も怩セろ。
>>94 そうだ。
狗奴国が勢力のある熊本だったから
最大人口の筑紫平野と
人口が多く実力のある福岡平野の
邪馬台国の勢力に対抗できた。
98 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 22:15:20.22
>政等以檄告諭壹與
>壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、献上・・・
このように台与は率善中郎将掖邪狗等二十人を以って軍師張政らの還るを送らせ、
はるばる洛陽まで上っ(て勝利を報告し)た。
狗奴国はわずか13歳の台与に制される程度の弱小国だったのだ。
99 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 22:17:53.85
掖邪狗のと狗奴国のと狗が共用されておるのがきになる
>(て勝利を報告し)た。
事実誤認
>狗奴国はわずか13歳の台与に制され
事実誤認
邪馬台国は行き止まりの孤立した場所に感じる
102 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 22:37:27.15
「狗」は「くま」と読んで「久米」表記のとコモン。
「伊久米入毘古伊佐治命」は狗奴國王の掖の子で
父親方に引き取られないで母親の元で育った男弟王だとしたら
おはなしのストーリーがスムーズ
103 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 22:45:55.76
104 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 22:51:21.37
105 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 09:25:47.80
熊襲の由来を推定すれば:
・肥後の球磨地方+大隅の曾於地方 = 球磨+曾於 = 球磨曾 = くまそ
106 :
筑紫倭皇帝:2014/01/10(金) 11:13:44.79
半島系の陰謀@
ほら見てみろ、俺が以前からここには、
おらが村にどうしても邪馬台国や倭国、大国主や天孫族を持ってきたい可愛いバカども=日本人の地元愛が強い畿内、宮崎熊本佐賀大分の必死厨と
日本古代史をあらぬ方に誘導しようとする半島の朝鮮の濃い血が流れる満州等々の
やからが入り乱れてると指摘したが、やっぱりそのようだな。
上の日本人による地元愛厨はただ単に地元愛からくる必死キチガイどもだからまだいいが、
下の半島系はちょっとやっかいだぞ。
半島系の狙いはこうだ。
半島系は自分たちの歴史には詳しいので、朝鮮半島南部から九州北部(筑紫福岡県域)は倭国であると認めている。
そしてその倭国に度々半島を支配されその事実は否定できない史実として半島に残っている。
しかしどうだ。半島からすれば倭国は日本ではないのだ。
朝鮮は倭国(倭人)に支配されたのであって日本ではないのだ。
そして、その倭国を滅亡させたのはどこか?? そう元々小国だった日本だ。
日本こそ半島人、つまり朝鮮が作った国家なのだと。
このことは、俺が度々述べてる日本国家の成り立ちで述べてるが、当たり前の事なのだが、
日本は、筑紫博多湾岸に都があった倭国、大国主、邪馬台国、天孫族の勢力が東征をして
大和を征服し、大和朝廷を築き後に本家の倭国、筑紫福岡と九州を支配した。
つまり、日本の祖は朝鮮をもしはいした博多湾岸の倭国であり、つまり日本なのだ。
しかし、この事実をよく思わない、学会や畿内宮崎佐賀大分熊本のキチガイどもが
妄想に妄想を並べ必死に福岡を飛ばして自分の地元に倭国や邪馬台国や天孫族を引き込もうとする愚かな行為。
これは、「倭国は倭人」、「日本は朝鮮が作った国家」としたい朝鮮からすれば格好の構図であり
言葉巧みに、反福岡勢力に近づき直接半島とその地域を結び付け「やっぱり日本は朝鮮が作った国家でしょ」
という構図に持ち込みたいのが半島系の狙いだ。
107 :
筑紫倭皇帝:2014/01/10(金) 11:14:36.46
半島系の陰謀A
これはこの動画からも見てとれる。
http://www.youtube.com/watch?v=JvIpRFz2eK4 この動画の15秒ぐらいのところで見れる地図。
つまり、半島人は自分の国の歴史は強いから、自分たちを支配していた倭国の範囲もある程度研究している。
中韓に残る歴史書や遺跡の分布等々客観的に判断すれば倭国の範囲はココだろうというのは
お隣の半島人でさえ理解しているのである。
しかし、畿内や宮崎佐賀熊本大分といった必死厨←これははっきり言ってトンデモ説にトンデモをかぶせるキチガイ説だが、
反福岡ということで一致してキチガイ説が威勢がいいのが現実。
この事実が日本の国家発祥を朝鮮に持っていきたい半島系をも巻き込んでより複雑化させている。
そして半島系が言葉巧みに時に畿内説や、時に宮崎説へと加担し、
最終的に半島へと導こうとする、半島系を容易に受け入れさせようとする罠をばら撒かされている現実へとつながっている。
畿内、宮崎佐賀熊本大分等々の郷土愛信者はもっと客観的に判断できる力を身に着けることが重要だろう。
倭は博多湾岸に都を持つ半島南岸より九州北岸。
その倭国で大国主をはじめとして邪馬台国、天孫族が活躍した舞台であり、
博多湾岸より全国に広がっていったのだ。
このことは記紀にも中韓に残る記述にも、遺跡、出土品の広がり、その他諸々
すべてに矛盾のない事実だ。
畿内、宮崎佐賀大分熊本の諸君はもっと頭を柔らかくし、客観的に判断できる力を身に付けることだ。
お前らは視野がせますぎる。 だから半島系につけこまれるのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=JvIpRFz2eK4 もう一度この動画をみて、こういうことが容易にできる地域はどこか??
様々なことを容易に説明できる力を身に付けることだ。
108 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 11:32:36.69
新羅シンパのコピペ乙
109 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 19:21:50.82
遷都もしていないのに首都とか言ってる東京(東京は現在でも首都じゃない)
意図的に東京一極集中を何十年にもわたり行い他都市を壊してきた東京
おかげで日本の企業そのものや技術者などが海外移転も事実ある
アメリカや中国が同じ用にすると世界一の都市圏東京なんてのは無くなる
他国はそんな事をすると国がおかしくなる事は承知の上そんなことはしない
それを分かっていてやっているのが日本の東京
110 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 19:23:00.70
事の発端、もめごとを起こしボヤくのはニートの都 東京
そのボヤきを聞いてやってるのが東京以外の他都市
お も て な し
112 :
日本@名無史さん:2014/01/11(土) 08:51:32.90
佐賀ルートの入り口では旧小城役場跡の発掘始まる、
出口にあたる宮崎では生目古墳群の学術調査開始か、
いよいよ佐賀説のルートに沿ってうごきが出てきたようだ、今年は激動の午になる予感。
113 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 16:16:33.01
激動の午年、年頭から箸墓も真っ青
宮崎:生目古墳に階段状の葺石
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyazaki/news/20140109-OYT8T01372.htm >宮崎市教委は9日、発掘調査中の国指定史跡・生目古墳群(宮崎市跡江)にある前方後円墳(1号墳)の後円部で、
>表面を覆う「葺石(ふきいし)」と呼ばれる石が階段状に積み上げられているのが見つかった、と発表した。
>葺石は斜面を覆うように置かれるのが一般的。階段状のものは全国でも珍しいといい、
>「前方後円墳の造り方を考える上で重要な調査事例」としている。
>1号墳は全長120メートル。51基ある古墳群の中で最も古く、古墳時代前期(約1700年前)に造られた。
>南九州で最初に100メートルを超える規模で造られた前方後円墳とみられている。
>昨年8月から初の発掘調査に入り、後円部の一部で、葺石がほぼ築造当時のままの状態で見つかった。
>後円部は直径約60メートル、高さ約12メートル。斜面に沿って1メートルほど石を積み上げた後、
>幅約20センチの平らな面を造り、再び斜面に沿って石を積み上げる構造になっていた。
>>113 アレンジとか勝手なことをしたことを問題視した畿内政権は遠征することにした。
これが景行天皇の九州巡幸である。
九州内の畿内式古墳を受け入れない勢力を討伐して回った。
日向には6年留まり、威勢を見せつけ、嫁を娶り、教化に努めて帰還した。
九州説完全終了の始まりだな。
瓜生野って宇佐神宮の荘園瓜生野別府だったんたね
>1メートルほど石を積み上げた後、 幅約20センチの平らな面を造り、
>再び斜面に沿って石を積み上げる構造
これって段なんじゃないの
4段5段てこと
118 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 17:49:06.55
>>114 景行天皇の九州巡幸は卑弥呼時代から150〜200年くらいのちのことだろう。
邪馬台国や卑弥呼にまつわる人脈、伝承、史跡、地名など、自らの足跡を消し去って、
高天原・天孫降臨神話に置き換える地ならしをした。
南九州から東遷した神武末裔勢力のいわば自作自演だったわけだ。
119 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 18:09:19.50
景行記は、北九州から始まって大分宮崎と撃破していき、
宮崎にしばらくとどまって、
熊本側をゆったりと巡幸して筑後へ帰る。
そして、畿内へワープする。
120 :
筑紫倭皇帝:2014/01/12(日) 20:27:07.68
ほんとお前らトンデモばっかの妄想してバカ丸出しだな
きちんとした根拠も全く示せないバカばっかしだw
おまえらってそんなトンデモばっか主張して恥ずかしくないのかねww
121 :
筑紫倭皇帝:2014/01/12(日) 20:59:10.27
まあ朝鮮の歴史書によると、新羅4代王は倭国の東北一千里の地から半島に流れ着いたとのこと。
このことからもどう考えても 倭国の都・中心地=博多湾岸 は当たり前だな。
まあ中韓に残る歴史書や、遺跡や分布図、記紀をことごとく無視するお前らには
この事実もきっと「何にも見えません」と現実逃避するしかないのだろうww
倭国にある邪馬台国。 俺の@〜Gや半島人の陰謀@Aや今まで述べてきた
こと全てトータルのに判断しても 博多湾岸 から全て始まった事はお前らにとっても耐え難い事実だな。
122 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 21:01:32.47
ちょっとまて その新羅は うそ新羅
123 :
筑紫倭皇帝:2014/01/12(日) 21:13:53.65
>>122 どちらにしろ、朝鮮の古代史にそういった地理関係が書いてあるという事。
対馬海峡には温暖な対馬海流が流れている。
博多湾岸の東北一千里はおそらく北九州付近だとおもわれる。
北九州付近なら対馬海流に乗って朝鮮にたどり着くことも可能という事だ。
とにかくお前らは視野が狭すぎる。
全ての歴史書の記述や、遺跡、分布を冷静に判断することだな。
それから半島人なら、新羅の王が倭国から来たというのはどうしても否定したい事実だしなw
博多湾岸の倭国が朝鮮を支配したのはこれまでも明白。
そしてさらに、それを裏付けるどころか朝鮮の王自体が倭人だという記述の事実。
これは半島人にとっては受け入れがたい事実だろうな。
124 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 21:19:18.41
倭人の酋長がぱくられてありもしない「新羅」のボスに化けちゃってるだけだし。
125 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 21:28:51.90
12世紀に成立した『三国史記』のなかみで出てくる
「脱解本多婆那国所生也 其國在倭国東北一千里」の
「一千里」のは
やつらの12世紀の地理感覚で理解してあげるのがふつう。
若狭湾とか丹後半島あたりでわ。
126 :
筑紫倭皇帝:2014/01/12(日) 21:29:56.36
まあ記述を読むに、
この新羅の4代王は倭国にいた時はその国では歓迎されない子どもだったんだろう。
だからこの子は 不吉 として倭国の東北一千里から流された。
そして半島で老婆に拾われ育てられ新羅の4代目の王に上り詰めたという事だ。
まあそんなことよりも、こういった地理関係も重要だな。
もちろん宮崎や畿内が倭国なら、その東北一千里から半島に流れ着く事はまず無理。
お前らには耐え難いが、やはり倭国に中心地・都は博多湾岸だって事実だよ。
もちろん天孫族の筑紫や邪馬台国もそのまま博多湾岸なんだよ。
127 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 21:37:54.96
(135)【多波那君】薨 而無嗣 其妃請奉【彡尼今】爲夫 惠后(阿惠)許之
128 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 21:48:26.40
婆娑尼師今五年(130) 八月 太君以暑疾崩 于日知宅
太君=脱解
邪馬台国は大和ではないよ
どう読んでも、ヤマタイコク、ヤバダイコク、ジャマタイコク、ジャバダイコク
全然違うじゃん
130 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 00:42:45.55
新羅の始祖は倭人
済州島の始祖も倭人
132 :
筑紫倭皇帝:2014/01/13(月) 02:03:12.95
博多湾岸から広まった大国主、倭国、邪馬台国や天孫族、
これらを自分の歴史に取り込み歪曲した大和の日本書紀。
現代でも博多湾岸が総ての起源だったことを認めたくない学会や畿内、宮崎佐賀大分熊本説
等々の視野の狭いバカチンたち。
博多湾岸に全ての起源を比定すれば日本の古代史は全てを何の矛盾もなく説明できる。
博多湾岸の倭国が朝鮮をも支配し、博多湾岸勢力の東征、後の大和による本家博多湾岸勢力の支配。
全てが何の矛盾もないが、いかんせん 学会 や おらが村に邪馬台国を勢力 がトンデモ説を連発するので、
結局半島の研究者からもこんな事を言われてしまう。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/01/12/2014011200176.html >日本は新羅にコンプレックスを抱いている。
日本書紀の歪曲は新羅にコンプレックスがあったからだと。
まともな歴史を主張する俺の説では、日本書紀の歪曲は、分家の大和が
本家の筑紫福岡・倭国を支配しその歴史を大和のものにしたがために矛盾(歪曲)が発生するが、
日本書紀が正しいと主張する宮崎派や、何としても発祥を畿内にもってきたい勢力が
声を大にすれば大にするほど、半島からすれば、
「日本書紀の歪曲は半島コンプレックスによるもの」として半島人にすれば都合のいいものになるだけである。
畿内派も宮崎派もきちんと真の博多湾岸から広がった歴史と向き合う事だ。
>>132 バカなの死ぬの?
『隋書倭国伝』
新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
>新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
>真の博多湾岸から広がった歴史と向き合う事だ。
まだこんなアホな事言ってるのかw
博多湾岸には各地から海人が集中しただけの事。
135 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 02:14:15.07
まあ韓国朝鮮人は捏造された歴史を教わっているから
歴史無知なのはしかたない
136 :
筑紫倭皇帝:2014/01/13(月) 02:20:40.10
>>133 おれが教えてやった情報でいちいち喜ぶな キチガイ。
>>134 おまえもまともな自論がないくせに調子こくな。
トンデモ説しか展開できんキチガイが。
お前らも俺の説のように中韓に残る歴史書や遺跡、出土品、それらの分布等々
すべてに矛盾が発生しないような説を唱えれるようになれよ。
何か一つだけハマればバカサルのように「ここが邪馬台国だ」とかいうお前らのあほっぷりには
あきれるばっかなんだよ。 ちったーまともな説をもってこい。 ハゲども
まぁ元々半島南部まで倭人の国だったのは事実だしな。
コンプレックスがあるのは朝鮮人だよ。
これを解消するには日本の歴史を否定するしかないからな。
熊襲ってどこ?
豊後国風土記で球磨贈於、筑前国風土記・肥前国風土記・肥後国風土記で球磨噌唹と書いているんですが…
川上梟帥(取石鹿文)の本拠は鹿児島県姶良郡か熊本県球磨郡に比定されることが多いようですが、
日本書紀を読んでても悪事を為したとは思えないし可哀想になるのは自分だけだろうか…。
景行天皇のとこでは、熊縣では帰順した兄熊津彦と討伐された弟熊津彦で必ずしも叛意一枚岩でなく、
襲国では市乾鹿文を手篭めにして厚鹿文を暗殺させた後に市乾鹿文を不孝として誅殺した。
すぐ叛いて取石鹿文(川上梟帥)は景行天皇の皇子の小碓命に誅殺された。
弥生時代の免田式土器の出土はほとんどが熊本県内と北薩だが宮崎県福岡県でも出土してる。
鏡も剣も勾玉も出土しているのにどうしてこうなった。
139 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 02:37:18.84
>>136 ば〜か
そんな情報は普通に知ってる
オマエが無知なだけw
江戸時代以前に知られていた情報を
「おれが教えた」と言う超キチガイが居るなw
きっと半島の生まれだな
141 :
筑紫倭皇帝:2014/01/13(月) 02:41:41.36
>>141 なにも悔しく無いが
おなかでも痛いの?
それとも『隋書倭国伝』を最近知った人?
修羅の国
144 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 03:04:30.51
私は筑紫が後の九州王朝につながる重要国家と思っている。
しかし、邪馬台国の卑弥呼は、直接つながっておらず、
後に吸収合併され、北部九州連合に連なるものであろう。
旧大国の熊本邪馬台国と、新大国の福岡筑紫。
この2つの合併は、筑後久留米を握った、
景行天皇のモデルとなった豪族が、
主導したものだろう。
広大な耕作可能地を握った筑後久留米は、
神功皇后のモデルとなる豪族の本拠地である福岡平野を傘下に入れ、
仲哀天皇のモデルとなる豪族の北九州を傘下に入れた。
熊本はその広大な領域から、相当な力を持っていたのは間違いないが、
景行記では、とくに戦闘は起こっていない。
景行天皇の本拠地が、熊本の可能性もあると考えている。
熊本は狗奴国、邪馬台国はその北。
146 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 03:56:49.97
古事記の熊襲国は、宮崎鹿児島。
熊本は肥国。
147 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 04:24:47.22
福岡は、奴国なのにな。
無駄なことたくさん書いてるな。
148 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 09:33:42.58
当時、筑紫倭皇帝を戴く福岡をはじめとして、超大国はいくつかあった。
邪馬台国は大きめの国の一つに過ぎなかった。
しかし魏王朝曹操一族との縁が深かったので朝貢し、親魏倭王の金印をもらい、東夷伝にも記載された
ただそれだけのことさ。
>>113 アレンジならその前にも後にもやり続けてるよバカタレ
土器も埴輪も住居も古墳も
馬子の石舞台とかの時代の西都原の最後の方の古墳もあんなのは他に無いだろ
勝手にアレンジし続けてたし何もいちいち咎められなかったからだよ
4世紀前半台まではまだ古墳も試行錯誤が残っているし
ヤマト王権が地方文化まで支配してるわけではないからアレンジというか
地元の独自解釈は当然
151 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 11:00:09.34
>>149 宮崎生目古墳群の学術調査の進展をえらく気にしてるようだ
殿、血圧は大丈夫ですかな
152 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 11:33:22.84
当時は地域統合が進んだ時代で投馬國、邪馬壹國、狗奴國などは国邑の連合体で
投馬國は朝鮮半島南岸、邪馬壹國は北部九州、狗奴國は南部九州に在り
又、中国地方などにも倭種の国が在った。
末廬國、伊都國、奴國などの国邑と邪馬壹國の様な国邑の連合体と分けて考えなければならない。
153 :
筑紫倭皇帝:2014/01/13(月) 14:46:24.37
中韓の歴史書では 倭国=倭奴国=伊都国
倭奴国は金印でも分かるように 博多湾岸 にあったんだよね。
伊都(倭奴国)や志摩(斯馬国)や不彌国や奴国の名残も現在でも残るしね。
そして倭人伝に 「伊都国 の北の 斯馬国〜奴国 まではあえて戸数や距離は省略する」とある。
これは 斯馬国〜奴国 までが密集してるということ。
そしてその 「斯馬国〜奴国までが女王が直接治めるところ」 とある。
つまりこれは 伊都国の北の志摩〜奴国の主に福岡平野又は福岡県域が女王の国であるという事。
これは 「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」 にも表れてる。
その南、「奴国の南に狗奴国あり」はつまり久留米付近の事。
「その他の国は遠絶にしてあえて詳しく書かない」←つまり南九州の事
「倭国の東、海を渡りそこにも国はある。それも倭種である」←つまり畿内等々
これは遺跡や出土品や様々な記述に全く矛盾しないという事実。
しかも新羅の4代王は半島の歴史書によると
「倭国の東北一千里の地から海に流され半島に辿りついた」とのこと。
倭国=博多湾岸の東北東北一千里は北九州市付近。 正に記述通りである。
更に、天孫族の筑紫は福岡であり、福岡には天孫族にかかわる寺社の総本宮や総本社
や天孫族の象徴が多数残ること。
記紀の記述でも筑紫国=福岡であることは容易にわかる事。
大国主は元々博多湾岸を治める、つまり倭奴国王からつながる筑紫の神々(豪族)の祖先神であること。
天孫族に筑紫の覇権争いに敗れ筑紫を追われ(国譲り)出雲に追放された事。
筑紫と出雲は大国主が祭事や天孫族が国産みで使った銅矛と同じ銅矛文化である事。
大国主が建てた出雲大社の本殿がなぜか西(筑紫)を向いてる事等々。
全てに矛盾が発生しないのはやはり博多湾岸が総ての答えだったという事実だろうね。
154 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 15:25:23.87
それでは福岡県は満員電車並みの混み具合
九州王朝説はスケールが小せえ
155 :
筑紫倭皇帝:2014/01/13(月) 15:47:37.31
>>154 そうだね。
スケールが小せえと思うのはお前が勝手に妄想を膨らませすぎてるだけなんだよ。
「おらが村に邪馬台国を!」ってなw
中国の歴史書
「倭奴国が倭国の極南界」
「倭国の北限は半島南岸であり、南限は奴国」
つまりこういうことだ。
156 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 15:57:00.15
邪馬壹國は北部九州一帯であり福岡、佐賀、長崎、熊本、大分を含む地域で
九州王朝へとつながる日本国の基となった国
王朝交代はあっただろうが邪馬壹國が九州王朝へと発展したと考えていい。
157 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 16:30:40.91
>「倭奴国が倭国の極南界」
倭人伝に出てくる奴国は二つある
一つは伊都国の東南100里の奴国、もう一つは傍国の最後に出てくる里数なき奴国だ、これが極南界の奴国。
158 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 16:41:25.87
>>157 倭人伝に出てくる奴国は一つだけ
伊都国の東南100里の奴国と傍国の最後に出てくる奴国は同じ国邑
倭地を一周して奴国に戻って来る
極南界の奴国なんて無い。
159 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 17:03:57.97
二つの奴国は違う国だ
至る里数の書き方に明らかな違いがある、一方は里数あり、他方は里数なし
160 :
大和 田直木:2014/01/13(月) 17:17:52.28
「倭國之極南海」
=倭國はこれ極南海なり
=倭國は東夷の極南海にある
=倭國は東夷の南の海の端にある
161 :
大和 田直木:2014/01/13(月) 17:23:03.67
奴國は二つある。
ひとつは佐賀平野の奴國 戸2万
もうひとつは福岡平野の奴國 戸不明
162 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 17:28:17.76
>>159 二つの奴国は同じ国だ
傍国の国々を巡って元の奴国に戻って来る
傍国の国々を巡るのに里数が無いのは伝聞による情報だから
163 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 17:33:51.90
ゐぬぬな狗奴國王は正統なゐぬの委奴國王の末裔ので
唐津に引籠ってからにけなげに耐えているというかたち。
164 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 17:43:38.71
ゐぬの委奴國王の王墓は甕棺ので前漢鏡が多出で鉄製武器を欠くのがそうだす。
165 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 17:47:07.35
>>162 そもそも傍国は遠絶にして不可得詳と定義されている。
関係者に良く知られ、幹線道にも面している伊都国のすぐとなりの奴国に戻るのはおかしい。
遠方なので地理関係を把握してないだけの話だろ。
遠=疎遠の遠
絶=断絶の絶
遠絶で、疎遠で断絶した関係の国々っていう意味
邪馬台国本国は南九州だろ
熊本が狗奴国
倭は
連周旋可五千餘里だから
南九州は倭の範囲であったかすら疑わしい。
やはり邪馬台国は九州にあって
畿内大和政権と並存していたと考えるのが自然だよな
171 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 08:56:32.84
奴国が2つあるというのは確かに学者でもいるが、
トンデモ説である。
帯方郡から狗邪韓国までが7000里、倭は端から端までが
5000里。別記事で帯方郡から邪馬台国までが1万2千里。
つまり、邪馬台国は倭の端にある。21か国が邪馬台国の先、
南では倭からはみ出す。21か国は、邪馬台国でUターンして、
戻るのが正しい。旁国の旁とは わき の意味である。東、南、南
ときたので、邪馬台国からみて北、北、西と奴国に戻る。
何故、今まで21か国を邪馬台国の南にしたかというと、魏志の文は
そう解釈できるから。ここは、陳寿が21か国が邪馬台国の南にあると
誤解して文をそう読めるように文を加筆してしまったからである。
自女王国以北、特置一大率、 なども何故、邪馬台国の北だけに置いたか
難問だったが、邪馬台国が最南端なら、すべての国に置いたことになり、
容易に理解できる。
邪馬台国問題を解決するには、次の2つのことで解決すると思う。
1つは、21か国を邪馬台国の南でなく北に置く。
もう1つは、狗奴国を邪馬台国の南でなく、奴国の南とする。
である。
172 :
満州一等兵:2014/01/14(火) 09:19:50.57
173 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 09:33:33.03
>>169 クマソは、球磨地方(熊本の人吉)から曾於地方(鹿児島の曾於)にかけてのこと
>律令時代の行政区画には、クマに当たるものとして肥後国球磨郡(くまぐん、今、熊本県球磨郡・人吉市)の名があり、
>ソについても、大隈国贈於郡(そおぐん、和銅6年〈713〉日向国から分れる。
>今、鹿児島県囎唹〈そお〉郡西部・姶良〈あいら〉郡東部・国分市)の名がある。
>西海道風土記に、クマソのことを『球磨贈於(くまそお)』などと4字に記していることは、
>奈良時代の人々がクマソを肥後の球磨・大隈の贈於と理解していたことを示すものである
滑笏g書店発行「日本古典文学大系新装版 日本書紀」より
174 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 09:42:52.41
>帯方郡から狗邪韓国までが7000里、倭は端から端までが
>5000里。別記事で帯方郡から邪馬台国までが1万2千里。
>つまり、邪馬台国は倭の端にある。
くだんの参問倭地の記述以前に、対海国は方四百余里、一大国は方三百里と面積を記載している
ここでいう参問倭地の範囲は対海国・一大国を除く九州本島の大まかな大きさのことで、
唐津(末蘆)から薩摩大隅までを意味する
175 :
大和 田直木:2014/01/14(火) 12:12:11.88
帯方郡から狗邪韓國までが7000里。
狗邪韓國から對海國までが1000里。
帯方郡から女王國までが12000里。
別記事で、倭地の端から端までが5000里。
倭地の北端の對海國から女王國は4000里となり、
女王國から倭地の南端までが1000里となる。
不彌國吉野ヶ里が女王國の入口の国であるから、
倭地の南端は、吉野ヶ里の南1000里であるから、
熊本平野緑川の北岸となる。
176 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 12:45:44.38
なるほど、そう言うことか
>倭地の南端は、吉野ヶ里の南1000里であるから、
>熊本平野緑川の北岸となる。
安定のバカパズルだなw
おおまかに言えば熊本、福岡南部がクマソ。
鹿児島は隼人だ。
179 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 15:41:59.75
中国人が適当に盛った数字の帳尻合わせに、必死な日本人…
邪馬台国といい南京虐殺といい、日本人は本当に勤勉だな
180 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 15:54:24.28
熊本市の南千余里(約75km)にある人吉(球磨)盆地地方をクマ、
さらに東南行五百余里、えびの市、小林市、都城市、曾於市と連なる国邑群、
つまり現在の熊本・鹿児島県境の山間につらなる盆地群をソー、
合わせてクマ・ソ−
隼人はその南の薩摩地方の住人であり、記紀や風土記に残るクマソーとは違う
181 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 16:24:48.65
wikipedia
肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から
大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、
曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。また5世紀ごろ
までに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。
なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、
熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する
美称であるとの説を唱えている。
182 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 18:54:26.03
スリ かっぱらい ひったくり 全国ワースト1位の東京
犯罪率 全国ワースト1位の東京
借金全国ワースト1位の東京
第三セクター破綻の東京
犯罪件数全国ワースト1位の東京
事の発端、もめごとを起こしボヤくのは遷都もしていないの首都とか言ってるニートの都 東京(現在でも首都は東京じゃない)
そのボヤきを聞いてやってるのが東京以外の他都市
意図的に東京一極集中を何十年にもわたり行い他都市を壊してきた東京
おかげで日本の企業そのものや技術者などが海外移転も事実ある
アメリカや中国が同じ用にすると世界一の都市圏東京なんてのは無くなる
他国はそんな事をすると国がおかしくなる事は承知の上そんなことはしない
それを分かっていてやっているのが日本の東京
殺人、重要犯罪、性犯罪は大阪が一位
184 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 01:41:28.96
>>174 或絶或連 とは九州本島のことですか。
なるほどね。
185 :
大和 田直木:2014/01/15(水) 08:36:59.55
>>184 「或絶或連」は、対馬東岸から壱岐東岸玄界灘を通って唐津湾に入るとよくわかります。
地図にも載せていない小島が点々と壱岐東岸の玄界灘にみられます。
倭地は対馬から九州本島であることがよくわかりますよ。
アンテナが林立する烏帽子島等が地図に載っていないのは軍事上保安上の理由からなんでしょうかね。
ここの九州脳は本当にどうしょうもないなw
187 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 12:50:01.67
>参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。
これをどのように読むべきかとなれば、島々が或絶或連里では、文章の前後からして不自然ではないのか
むしろ次のごとし:
(倭地は)絶在(にして)海中洲島之上(に在り)、(その国邑は)或絶或連(って在り)周旋可五千余里
188 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 14:03:32.32
>>185 「周旋可五千余里」可とあるから五千余里は実測値ではなく推測値
「対馬東岸から壱岐東岸玄界灘を通って唐津湾」は通って来た道だから可とは書かない
「周旋可五千余里」は有明海岸一周ルート
「参問倭地」・・・倭地について情報(問)を集(参)める
189 :
大和 田直木:2014/01/15(水) 14:43:29.01
>>187 ×「参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。」
○「参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里」
(倭地は、)
@(大陸から)絶在(にして)海中洲島之上(に在り)、A或絶或連(って在り)、B周旋可五千余里(である)
190 :
大和 田直木:2014/01/15(水) 14:56:12.82
>>88 >「対馬東岸から壱岐東岸玄界灘を通って唐津湾」は通って来た道だから可とは書かない
對海國から女王國までの四千餘里は実測であっても、
女王國から狗奴國までの千里は推測であるから、
合計距離五千余里も推測となり可五千余里となる。
191 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 15:21:25.09
192 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 15:23:37.38
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
--------------------------------------------
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
--------------------------------------------
景初二年(238)六月倭女王遣大夫難升米等詣郡
女王國から侏儒國までの列島内観光の記事だし。
193 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 20:00:30.77
邪馬台国論争なんて、前提として関西史観と関西皇国史観から、
日本人が思想的に脱却しなけりゃ、いつまでも解決しないぞ
関西史観と関西皇国史観とは「日本の歴史で畿内以外で権威や権力が存在した事はないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「日本の歴史で畿内以外が日本の中心になった事はないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「日本の歴史で畿内以外の地域が日本の中心にあった時期は全て暗黒期だよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「邪馬台国は畿内以外にはありえないよ、九州説とか論外、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「熊襲、琉球人、蝦夷、アイヌは土人で日本人じゃないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「縄文人は日本民族じゃないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「縄文時代にも縄文人にも文化なんて存在しないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「縄文時代は、日本史として認めないよ、存在しないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「日本人が日本人を差別するという究極の反日醜悪史観」
関西史観と関西皇国史観の本質は「畿内の起源ルーツが命で全てであり、畿内以外の日本史、日本列島史、日本文化史、日本列島文化史、日本民族史、日本列島民族史は、存在しないもの、価値が無いもの、低俗なもの、土人のもの、暗黒なものと定義する究極の反日思想である」
関西史観と関西皇国史観が、本質的に究極の反日売国思想である事は、疑いようのない事実
関西史観と関西皇国史観は「起源とルーツが命!」と思えばわかりやすい
194 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 23:40:19.43
>>193 国家の大和民族史観っつうのはそう云うもんだよもう修正出来ない。
その対局の動きとして東シナ海での中国の動きがある。
195 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 01:17:40.33
>>194 学術や研究やの分野に「関西史観」とか「関西皇国史観」とか「大和民族史観」という、
「イデオロギーや思想というフィルター」が邪馬台国論争においては、
以前として、幅を利かせているのが問題なんだよ
本当に歴史や考古学の真実を追求するのならば、
「関西史観」とか「関西皇国史観」とか「大和民族史観」という、
特定思想や特定イデオロギーは、雑音として排除しなければならない
一般歴史趣味人や歴史小説家が、それらを排除するのは難しいだろう
問題なのは、関西系の歴史や考古学の研究者はプロであるにも関わらず、
>>193のような関西史観と関西皇国史観を排除できていないのが大きな問題
とりあえず、右も左も関係なく、真実と思想はわけようぜ?という事
196 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 01:28:32.40
>>193 私もこれに同意する。
邪馬台国は宮崎だと思うが、いくら説明しても聞く耳もたずの
原因はこれだと思う。
宮崎説って戦前ではあたりまえだったけど戦後は変わった。
戦前に勅撰の書物の否定は出来なかったろうし、
考古学上の発見も現在には全然及ばないし、
何処説と立てるための材料がなさすぎたからね。
原点に立ち返って作為性か真実性を考えると、
どうせ作為をするなら全国各地の、重要な土地も、
東西辺境も、皇室と縁作りをしようと考えそうなもの。
作為でどうしてああいうふうに書くかな。
コピペの荒らしに賛同とかw
関西皇国史観なんてこれっぽっちも無いわ。
むしろ戦後はずっと九州説の方が有力視されてたのにな。
九州説の方が余程九州内に凝り固まってるぞ。
199 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 09:16:43.46
戦後の九州説は
九州説というより視野のせま〜いがんこ福岡説だ、そこんとこお間違えなく
大体ここ最近九州説が劣勢になったのは、
考古学関連の発掘が進んだだけの話だぞ。
特に出雲地方で銅鐸が大量に発見された事が大きい。
鉄剣類だって今や丹波だって北部九州に迫るような勢いだ。
201 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 09:35:49.05
ガンコ福岡説では発掘も議論もすすまぬ
そのうち中〜南九州から新たな発見が報告されるだろう
宮崎生目古墳群の調査は其の始まりだ
大和や河内も未発掘な遺跡が山程あるからね。
特に葛城地方なんて必ず何かあるだろう。
大体巻向や鍵唐古ですら、まだ一割に満たないんだからなw
203 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 10:22:26.91
纒向遺跡で176次調査までやってるが、
掘っ立て柱やモモの種や鯖の骨だからなあ。
纒向遺跡の調査はあと30年以上かかると言われてるよw
しかも周囲に大福や芝遺跡もあるしな。
205 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 10:40:44.86
逆にいえば、
わずかな纒向遺跡の調査結果をもって「卑弥呼の宮決定だー!」などと大言壮語していただきたくないものだ
熊本説もお忘れなく
九州北部にあった奴国と伊都国は邪馬台国にとっては北の端にあった国です
208 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 18:55:33.67
確かに南至、以北、と複数回使っているが
それが魏の人間の推測なのか聞き伝なのか何なのか
その時代に邪馬壹國本国に確実に行った魏の人間はいないのか
倭王に任じる時くらい都に案内しろ王に会わせろと言えよ
ズボラ魏使のせいで何万人が邪馬台国を巡って無為な問答を繰り返してきたことか
歴史好きにネタを提供してくれたと言えば聞こえは良いが
魏使は邪馬台国に行ったが
倭人伝の地理は帯方郡使の記録を参考にしてると考えたほうがいいと思うがなあ
210 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 19:22:40.25
帯方郡の人間は南至馬韓、南至弁辰、南至倭、南至投馬国、南至邪馬台国…
みたいに適当やってたんじゃないか。
帯方郡を出発する時点で向かう方向しか見ていないというね。
211 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 19:29:19.35
>>208 何をおっしゃる、魏・郡と邪馬台国女王之都との間には複数の人間によるたびたびの交流があったと書いてある。
もちろん郡の役人はその詳細を確かめ記録したであろうし、
(それをもとに)魏側の者も少なくとも都まで二往復している。
南を東などと方角を誤るわけはないではないか!!!
誤ったのは畿内説・福岡説を唱えたトンデモ学者ズボラ諸氏の方であることは明白である。
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。
・其年十二月、詔書報倭女王曰、、、難升米、牛利還到?受。
・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
・倭王、因使上表答謝恩詔。
・其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上献、、、
・其六年、詔賜倭難升米?幢、付郡假授。
・其八年、太守王?到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻?状。
・復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定、政等以檄告諭壹與。
・壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、
>>208 分からないのはズボラ魏使のせいではなく、
方角や距離を無視したり、伊都国起点とか郡起点とか
勝手な読み方をするから。
>>113の記事にあるように、3世紀の終わり頃には巨大な古墳を造ることができた勢力が南九州に存在したことが、
分かってるからあとは大隅半島と宮崎辺りで証拠を集めれば九州説派が勝利するわけだ
214 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 08:22:15.80
金印は、卑彌呼に直接使いがわたしてるはず。
代理になど頼んだら、その人がネコババするかもしれないので。
1回は確実にあってると考えていい。
>>211 畿内説では伊都が北部九州にあれば充分成立するだろ。
それに倭王と倭の女王がはっきり別として記述されてるからな。
倭王が九州、倭の女王が東(畿内)に存在するという事だ。
これは伊都津彦の主張と全く一致している。
216 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 09:10:14.18
>>215: それに倭王と倭の女王がはっきり別として記述されてるからな。
「倭の女王」とは景初二年(三年?)以前の卑弥呼を指す
「倭王」とは、其の年十二月に詔書印綬が発せられ、卑弥呼が親魏倭王に任ぜられてからを言う
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献
>其年十二月、詔書報倭女王曰
>制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、今以汝為親魏倭王、
>正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
>倭王、因使上表答謝恩詔
>其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上献生口、倭錦、
>其八年、太守王?到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和 (←倭女王時代に於いて不和であったとの意味)
>>215 伊都国には「南」から役人が派遣されてるって書いてあるぞ
方角が間違ってることが大前提のトンデモ畿内説
まあ実際方角を間違えてる古地図多いしなw
219 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 12:32:07.05
方角を誤った地図を作ったということは、その者が倭国に来ることなく製図作業をしたことのあかし
実地にあたっていればそのようなことは無かったであろう
事実、魏の使いは迷うことなく九州の女王之都を往復している
実際頻繁に行ってりゃ日数表記なんてしないだろう。
後年百済からの使いでさえ、場所が判らないから
迎えが欲しいと言ってる位だからな。
その為迎賓館として存在してるのが伊都という事。
221 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 12:56:25.99
郡〜投馬国 = 水行20日
郡〜邪馬台国 = 水行10日+陸行1月
里数も大事であるが、中国大陸の馬旅とは違って、
聞きなれぬ大海中の倭国への船行、陸行にどれほどの日数を要するかも重要な予備知識
日数次第で旅支度にも違いができるからな、
読む人には親切な日数記事であったことであろう。
その為の大使館(領事館)として存在していたのが佐賀伊都国の常駐所だったということであろう。
郡から計算でいいのなら、水行10日+陸行1月は畿内で全く問題ないな。
出雲からそのまま南下していけばいい。
冒頭に東または南と書かれるしなw
投馬国も宮崎辺り、郡から水行20日でピッタリ。
狗奴国との争いの調停は邪馬台国の首都でやっただろうからな
ある程度地理は把握してたんだろうね
225 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 15:44:20.93
郡〜邪馬台国の行程の中に出雲も登場するのか
こりゃ世紀の大発見・偉大な新説、大したものだぁ〜
鉄といえば今や出雲・丹波だしな。
国引き神話や海流を考えてもあり得る話。
228 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 16:39:58.43
そもそも東夷ないし倭人の監視は帯方郡太守の役目なり
ゆえに東夷伝(倭人条=倭人伝を含む)は、帯方郡太守の認識(調査資料)を基礎に書かれた書物と知るべし
因って魏志倭人伝を読む者は、帯方郡太守の立場(目線)で読解すべし
これ王朝の科挙・役人の初歩なり
229 :
大和 田直木:2014/01/17(金) 18:57:39.56
>>221 その通り。
> 郡〜投馬国 = 水行20日
> 郡〜邪馬台国 = 水行10日+陸行1月
>
> 里数も大事であるが、中国大陸の馬旅とは違って、
> 聞きなれぬ大海中の倭国への船行、陸行にどれほどの日数を要するかも重要な予備知識
> 日数次第で旅支度にも違いができるからな、
> 読む人には親切な日数記事であったことであろう。
> その為の大使館(領事館)として存在していたのが佐賀伊都国の常駐所だったということであろう。
佐賀伊都國が郡使常駐所となったのは、
2世紀(130〜190)の帥升王統倭國の首都があったからである。
230 :
大和 田直木:2014/01/17(金) 19:14:06.91
>>228 その通り。
> そもそも東夷ないし倭人の監視は帯方郡太守の役目なり
> ゆえに東夷伝(倭人条=倭人伝を含む)は、
> 帯方郡太守の認識(調査資料)を基礎に書かれた書物と知るべし
> 因って魏志倭人伝を読む者は、帯方郡太守の立場(目線)で読解すべし
帯方郡太守の認識範囲は、東夷伝の韓と倭人の条だけですね。
231 :
サガミハラハラ:2014/01/17(金) 19:15:51.76
わたしは、そもそも邪馬台国発祥の地は佐賀伊都国であったと思っております。
つまり、江戸時代にオランダや朝鮮の使節がわざわざ京都に寄ったようなものだと思います。
232 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 19:42:23.39
大宰府天満宮に伝世された翰苑に曰く、「邪(邪馬台国)は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる」
@これを、「邪馬台国女王卑弥呼の血脈は伊都国に届き、かたわら斯馬国にも連なる」と読めば・・・、
また、東南陸行五百里到伊都国、有千余戸、世有王皆統属女王国 、
Aこれを一統(血統)を以って女王国に属する(統属する)と読めば・・・
共立女王の後ろ盾(黒幕)は、じつは前の伊都国王であったと思われます。
つまり倭国の乱を治めるために伊都国王は身を引き、身内の姪?娘?孫娘?の卑弥呼にあとを託したのではないか・・・、
言いかえれば、邪馬台国の実質上の前身は佐賀伊都国だったのではないか?
そう言う意味で、サガミハラハラ師のお考えにはうなづけるところありと思っています。
233 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 19:54:04.62
「根拠」
物事が存在するための理由となるもの。存在の理由。
「論理」
思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法。
A 認識対象の間に存在する脈絡・構造。
234 :
大和 田直木:2014/01/17(金) 19:59:26.81
>>231 邪馬台国発祥の地は佐賀伊都国だとは思いません。
邪馬台国発祥は、筑紫平野東部の内陸地の4ヶ国連合です。
その邪馬台国に攻められて、吉野ヶ里倭都から惣座倭都に遷都したのが伊都國です。
235 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 20:35:37.41
相変わらずお前らアホだな。
素直に様々な記述や遺跡や出土品を検証しろ。
ひねくれて佐賀とか言ってんじゃねーよw
どこまでひねくれればいいんだお前らはw
236 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 20:38:24.22
全て素直に検証すれば
博多湾岸が総ての発祥だとわかるんだよ。
そして倭国自体面積はそんなに大きくないこともな。
倭国の強さは強大だがなw
まあ手こずった狗奴国は元は倭国から分裂したクニだろうがな。
237 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 21:24:57.22
ええとお
狗奴国は本家奴国だす
狗奴国のは素環頭大刀とか鉄製の鏃で武装した海賊さんに乗っ取られたんだす
狗奴国は「ゐぬぬ」とかに近い発声なんだろ
「くまの」とかにも化けたりするけど。
狗奴国のコアなところは唐津ぢゃ。
武装した海賊さんの初期に入植したところは糸島の西側の天降神社のあるあたりだろ。
ニニギを祭神とするおやしろが糸島の西側には集中しておるのをばらしたえろいこもおったりしている。
238 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 21:29:21.62
>>234 「客観的」
個々の主観の恣意を離れて,普遍妥当性をもっているさま。
>邪馬台国発祥の地は佐賀伊都国だとは思いません。
それ「所感」
事に触れて心に感じた事柄。感想。
239 :
大和 田直木:2014/01/17(金) 21:42:14.65
>>235-236 to筑紫倭皇帝
>全て素直に検証すれば博多湾岸が総ての発祥だとわかるんだよ。
君の思考は、現象ばかりを捉えるだけで、時間軸がめちゃくちゃだ。
君に必要なのは時間軸にそって考え直すことだ。
>狗奴国は元は倭国から分裂したクニだろうがな。
狗奴國は、會稽海外の東鯷人の二十餘國の一部(1〜3ヶ国)である。
ちなみに、會稽海中は舟山群島、帶方東南大海之中は倭。
240 :
大和 田直木:2014/01/17(金) 21:47:00.73
>>238 邪馬台国発祥の地は佐賀伊都国ではない。
邪馬台国は筑紫平野東部内陸の4ヶ国が連合したもの。
241 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 21:55:47.03
邪馬台国は畿内にあった。
論拠は以下の通り
1)魏志倭人伝の方位記載の誤りは明らかである。
九州上陸後の末盧国、伊都国、奴国(このあたりは九州説畿内説ともに比定地は変わらない) の位置関係を見れば歴然とする。
「東南〜東南」と記載しているにも拘らず実際は北東への連続移動。90度とは言わないまでも70度ほどの角度の錯誤がある。
従って、投馬国、邪馬台国への方角を「南」と記載したのはその錯誤の延長と考えるべきである。
2)魏志倭人伝では邪馬台国もしくは狗奴国を「会稽東治の東」としており、水行20日+水行10日はそれに相応の距離する距離だと認識していたと思われる。とても九州に収まる距離ではない。そして陸行1月できるような土地・・・
1)と合わせ本州の方位を誤認していたと考えるのが極めて常識的である。
3)3世紀半ばの日本においては畿内の勢力が九州勢力を凌駕しており、狗奴国を含めて九州にあったと仮定すると、魏史が畿内勢力に触れなかったことに関して説明がつかない。
それなりの人的交流があったと思われる当時に九州勢力が畿内勢力を知らないはずはなく、よって九州勢力と接触した魏あるいは郡吏にその情報が入らないのはおかしい。
隠蔽偽践というのもしっくりこない。
4)記紀が卑弥呼をスルーしている点を畿内説の矛盾としているがこれは逆。むしろ神功皇后の時代の異説として記載している所が邪馬台国=畿内の証左となる。
日本書紀上の暦年では238年は神功皇后の治世(実際は4世紀後半)となっているので仕方なくそこに異説として挿入した。加えて実際の卑弥呼は皇統(天孫族)が王権を簒奪する前の別氏族のリーダーと思われる。
つまり、中国の史書に倣って編纂する日本書紀が魏志の記述を全く無視するわけにいかないのでやむなく挿入したものと言える。一方で他の史書も読んでいると思われる編者が「漢書」や「後漢書」を無視している所のも注目。
これらが明らかに九州のことであるということも理解していたからに他ならない。
つまり、邪馬台国が九州であるという認識ならば編者は同様にそれを無視して異説として盛り込む必要はなかった。
8世紀の人々には畿内の邪馬台国の記憶が残っていたからこそ矛盾を承知で異説を挿入せざるを得なかったと解すべき。
異論反論があればどうぞ!
242 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 21:56:55.30
>>240 「憑山負海、鎮馬臺以建都」
海はあるのか
243 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 21:59:31.92
ニニギの陵かもしれない糸島(志摩側)の可也山。
可也山の西側の麓は「御床」←ニニギが眠る。
可也山の北側は弥生期最大級の大型建築物2棟を含む大規模集落「一ノ町遺跡」。
可也山の東側は「初」←すべての最初。
南側は弥生期の海(デルタ地帯で糸島の怡土側と志摩側は隔たれていた)を挟んで伊都国。
可也山付近に散らばる、「芥屋の大門」や「志摩夫婦岩(二見が浦)」等々の天孫族の象徴。
元々の実力者(強国だった)がいた証 支石墓。
俺が天孫族の故郷に比定する 「志摩」 なだけなことはある。
244 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:08:38.59
245 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 22:09:55.01
>>239 君みたいな地理(地名)がめちゃくちゃな妄想君に言われたくないよw
もっと素直になって考え直す事だな。 妄想君。
君、そして「時間軸」とかほざいてるが、
例えば天孫族の「天孫降臨」と「国譲り」、どっちが先か証明してみなさい。
お前の独断と偏見による 「妄想」 じゃなくてな。
時間軸なんてそんなもんさ。
過去の古事記等々の記述は言い伝えによるものがほとんど。
前後が入れ替わってる可能性だって否定はできないんだよ。
お前が 「妄想」 で勝手にそう思ってるだけなんだよ。
お前の 地理地名 めちゃくちゃのキチガイトンデモ説の方を考え直せ。
お前の説はただのキチガイトンデモ説なんだよ。
246 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:14:33.98
銅鐸さえまともに出土しない最も遅れた土地は移住するには適しているけど
そうそう前漢鏡とかはまるで出てこないところのことだけどさ
それでも多紐細文鏡は出ていたりするから
それなりには王家もどきのはおったのだろうけどさ
247 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 22:16:48.94
だいたいな
大和 田直木の 「佐賀伊都国」ってww
ギャグで言ってんの?? レベルのアホトンデモ説。
何にも現代にも名残が残ってない(元々全然違うという事)ものを
唱えてるお前は、ただの「キチガイ」でしかないんだよ。
そこからやり直せ。
佐賀佐賀言って「空想」で盛り上がっているいるお前らは実に気持ち悪い。
>>237 ちょっと違う
倭国大乱で倭国が瀬戸内海を挟んで南北に分裂した
その証拠は高地性集落の分布
分裂した対立勢力のことを、その片割れが狗(これは蔑称)那(支那的記述では奴)国と記されただけの話
249 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:33:34.30
250 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 22:37:06.72
大体な、大和 田直木よ
「伊都」や「志摩」、「那」や「宇美」等々の名前が全く名残すら残ってない
(名残すらない=元々全然関係ない)、ような土地に伊都国とかww
お前が言ってる事は基本中の基本から間違ってんだよ。
それすら気づいてないお前は「視野が狭くなっているキチガイ」でしかないという現実に気付け。
これが本物の世間ってことだ。
佐賀にそれらの根拠が少しでも残っているのならまだまともだが、
「全くない」ものを「ある」と言っているお前は単に「キチガイ」なんだよ。
そのことをお前は自覚するのが「先」だな。
「邪馬台国や天孫族が自分の地元だったらどんなに誇らしいことか」
おまえらのそういった願望は理解できるが、もはやお前らの主張はトンデモのキチガイでしかない。
251 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:45:52.58
252 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:47:21.43
とはゆうてもおっさん
卑彌呼のころよりもっと前あたりのが佐賀のはもっとお盛ん
根之堅州國なんかは石動のあたりだろし
253 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:48:19.54
「憑山負海」
山際にあり、前面に海が広がっている
その海に負うところが大きい
だろ?
>「伊都」や「志摩」、「那」
なんだ、紀伊半島の事か。
そういえばここには高天もあるなw
255 :
筑紫倭皇帝:2014/01/17(金) 22:55:24.11
>>254 そうだな(笑) 君は賢いなww
つまり現代の皇族の聖地、紀伊半島の志摩一帯の地名や象徴等々は
俺が天孫族の故郷・聖地と比定する糸島半島(志摩)から移したんだろうな。
256 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 22:56:44.65
>>251 あれが別に「論」でなくてもいいから否定してみてね。
もしくは・・・そんな遠吠えしてないであなたの素晴らしい「理論」をご披露くださいね。
>>256 はいはい
>女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。
ここどこだよ
258 :
朝鮮日報の満州:2014/01/17(金) 23:01:43.54
筑紫倭皇帝の言はまったく正しい。
大和田直木は方向と距離だけで比定地を探しているだけであり、
そんなことは小学生でもできるのである。
地名。この重要な要素を完全に無視している。
投馬国なら投馬という音に似ている地名を探すことがまず大切であって、
投馬という音がまったくないところを投馬国に比定しても仕方ないのである。
九州説者は伊都国を佐賀に比定しようとしているが、
佐賀にイトという地名は一つもない(?)のだから、そんな説は所詮空想にすぎない。
方向や距離は無視して、まず類似の地名を探すべきである。
259 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:01:52.40
「憑山負海」(山により、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる)
山の幸(鉄など)、海の幸(塩など)を元手に、馬臺(邪馬台)を支配し、都を建てる
こんな感じだろうな
260 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:02:28.41
261 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:04:46.80
>>258 そうか、それは耳寄りな意見
投馬国は、都万国又は妻国のことで、宮崎県西都市都万(妻)で決まりだな
262 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:04:54.67
263 :
262:2014/01/17(金) 23:06:34.50
いや間違ったw
南が東だと言い張るから、東は北だなw
264 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:09:24.25
>>259 ウッ! イイ感じ。
あたしゃー、鉄と船。
>241
>畿内の勢力が九州勢力を凌駕しており
何が凌駕してるの
七世紀までの近畿は、片田舎だべさ。
265 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:12:48.65
なまりがすごいと伊都が江戸に化けちゃったりしがち
>>262 瀬戸内海を挟んで倭国が南北に分裂した
その情報を得ていた陳寿は
北側の勢力の南に南側勢力があるんだから南に進むんだろうと思い込んでしまった
実際は東で、東へ進むと記述した記録も残ってる
現在の中国人を見てもわかる通り、奴らは思い込みが激しいからなぁw
邪馬台国はじつは東海だったとか判明して
九州説、近畿説ともに憤死したりすれば愉快だが
268 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:15:11.78
>>263 んだ・・・
書いた瞬間に言い方が誤解を招くと思ったよ。信州や越も含めて考え直してね。
あと奈良と関東地方を地図で確認してみなよ。単純に東じゃないよ。
>>267 それは兎も角、倭国大乱前の倭国の都が東海であったことは間違いない
土器をみても銅鐸をみても東海のレベルは近畿と変わらない
こんなの拾った
プロ固定(運営スタッフ)の報酬システム
>まず、プロ固定として採用が決定されると、専属の板が与えられる。
大体最初はあまり人気のない板になる。まずはそこの板で盛り上げ役をやるのである。
(これでうまく行けば自分の希望する板に晴れて配属されることになる。
人気のある板は当然報酬も高くなるからである。)
ここでの書きこみ、立てたスレッドのレスの数、アクセス数などで
いわば基本給的な要素は決定される。
> また、プロ固定は自分の板以外の書きこみを禁止されるわけではない。
当然いち2ちゃんねらーとして発言することはあることであるし、
自分が狙っている板やスレッドで他のプロ固定をアシストすることもある。
前者と後者をどう区別しているかは西村博之の裁量に任せられる所が大きいので
そこが不透明なところであるが、ともかくアシストなどによって盛り上げたと
判断されればボーナスポイントとなる。またこのアシストは自分のアピールになる。
アシストで入っていた人間がいつのまにかその板の専属プロ固定になるというのも
珍しいことではない。
夢幻如なんてのは正にこれだったな
272 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:24:15.78
近畿のうちでも奈良湖の湖岸はレベルが低かったくせに
突然後漢鏡の超良質なやつのが破砕されて朱にまみれて出現する
お棺はなぜか船底形木棺と最近は言い直されがちな割竹形木棺
海人が鮑の無い盆地の湖周辺に出現する
>>271 満州は判断に悩む
天然のような気がしないでもない
前にいた改めはプロ固定だろ
おそらくジョーカーも
投馬国はすなわち薩摩だろ
狗奴国は肥後北部
276 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 23:55:25.34
邪馬の南側の入り口のが山門
277 :
筑紫倭皇帝:2014/01/18(土) 00:18:04.09
雷山千如寺が伊都国(倭国の名門、一大卒の伊都国)の王、大国主らに擁立された卑弥呼の出身地だったりしてw
この板には優秀なプロコテは来てないんだなぁ
279 :
筑紫倭皇帝:2014/01/18(土) 01:20:57.51
糸島は古代(邪馬台国から数百年とたっていないまだ記憶が新しい)より
南北の弥生期の海を隔ててイト郡とシマ郡と呼ばれた地域。
「耶は伊都に届き傍ら斯馬(シマ)へと連なる」とうたわれたのも
邪馬台国から数百年とたっていないまだ記憶が新しい古代に詠われた詩。
博多湾岸説以外の奴らはいい加減この事実を受け入れてあきらめろ。
280 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 01:40:37.64
>>255 君はあまり賢くないな。
勿論地名は本州から九州へ移した物だよw
281 :
大和 田直木:2014/01/18(土) 05:13:56.01
>>279 添削と補講
糸島は古代より、南北の弥生期の海を隔ててイト郡とシマ郡と呼ばれた地域。
「耶は伊都に届き傍ら斯馬(シマ)へと連なる」とうたわれたのも
2世紀初頭から数百年とたっていないまだ記憶が新しい古代に詠われた詩。
博多湾岸が復活したのは、対半島政策の窓口拠点として5世紀に入ってから。
博多湾岸が倭のトップに復権したのは6世紀岩井の乱後。
岩井の乱の事実は逆。
岩井の半島政策に耐えかねた博多湾岸勢力が反乱し筑紫平野の岩井を滅ぼしたもの。
2世紀から4世紀の博多湾岸は倭の権力の中枢から外れてた片田舎であった。
282 :
筑紫倭皇帝:2014/01/18(土) 05:34:17.51
>>281 >2世紀から4世紀の博多湾岸は倭の権力の中枢から外れてた片田舎であった。
あらら、倭人伝に伊都国が一大卒と書いてあるのにww
もうここまできたら 大和 田直木 は本物の「視野の狭いキチガイ」でしかないなw
博多湾岸の考古学的資料すら全く知らない(無視せざるおえないトンデモ佐賀キチガイ説)大和 田直木 であったww
今流行りの威勢のいいキチガイ説は佐賀説である。←これはガチだな。
伊都国が現在の糸島である可能性は低い
あと伊都国に役人を置いてるのは邪馬台国にとっては北に離れてる属国みたいなもんだからだよ
284 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 07:18:03.42
>>282 筑紫倭皇帝
>>2世紀から4世紀の博多湾岸は倭の権力の中枢から外れてた片田舎であった。
>あらら、倭人伝に伊都国が一大卒と書いてあるのにww
あれれ? 立岩遺跡築からは、素環頭太刀が17本も出土していて
隆盛を極めていたはずなんだが・・・
曖昧な記憶だが、佐賀・近畿地域は1本じゃなかったかな。
285 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 07:21:30.38
286 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 07:38:58.58
もう、宮崎説に確定打っていいと思う。
生目古墳から臼珠でてる。魏志にある白珠5000では?
白は臼の誤記でいいでしょう。
287 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 08:27:40.90
中国に贈った白珠がなんで生目古墳から出てくるの?
288 :
大和 田直木:2014/01/18(土) 08:28:59.30
>倭人伝に伊都国が一大卒と書いてある
ほう?
脳内創造がすばらしい。
どこが、伊都国=一大卒なのでしょうか?
博多湾岸の考古学的資料を羅列しても何の意味も持たない。
時間軸を指標に考古学的資料を整理することが肝要ですね。
>>281の付加修正
岩井の半島政策による負担に耐えかねた博多湾岸勢力が反乱し、筑紫平野の岩井を滅ぼしたもの。
289 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 08:56:07.29
>貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹
宮崎はこのような名品を多く産したので、中国へも贈り、地元の古墳にも埋葬された。
>>286 それ位で確定うてるなら誰も苦労しないよw
丹山は紀伊半島だしな。
丹生都姫神社は高野山と天野山の間にあるんだよ。まさに高天原だな。
292 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 09:25:52.41
>>290 確定しないまでも有力候補には残ったわけだ
三重志摩ならともかく、奈良盆地で白珠五千孔は難しかろ
宮下文書に、霧島と書いてあるんだから、
294 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 11:00:42.72
>>288 >岩井の半島政策による負担に耐えかねた博多湾岸勢力が反乱し、筑紫平野の岩井を滅ぼしたもの。
根拠は?
判断材料は?
295 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 11:12:41.04
根拠?
直木賞めざして執筆中のアレだろ
邪馬台国の首都があったのは大隅半島
九州北部にはない
九州論者はなぜフィールドワークをしないのか?
文献や地図で、これはという候補地を見つけたら現地に行って痕跡を探そう。
鑑の破片、土器の一部・・・外濠の跡、ゆかりの神社、いろいろある。
物証なくして邪馬台国問題に出口なし。
センター試験に出題されるような男になれ。
フイールドワークといっても、畿内説みたいに詐欺を補強するためだったら、全然意味が無い。
299 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 12:54:17.54
>>297 卑弥呼の墓は、
古代杉の原生林に覆われた広大な某神社の神域と見ている
もちろん立ち入りも写真撮影も禁止、学術調査さえ拒否、
何より神官たちや地元町村長・県知事までもが卑弥呼の墓と名指されることを快く思っていない、さてどうする???
300 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 13:25:21.86
卑弥呼の都は伊都國(前原市)
邪馬壹國は北部九州一帯(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)
狗奴國は鹿児島、宮崎
投馬國は朝鮮半島南岸
これで全ての問題が解決する(方位、里数、日数、戸数)
何の矛盾もない
>>299 簡単な話だ、卑弥呼の墓と勝手に思いこんでるだけw
302 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 13:55:48.30
>>301 フィールドワークが出来ない事情を理解したわけだな
ま、この神域に限らず、九州は人口過密で持ち主の無い土地、自由に立ち入れる区域なんてまず見当たらぬ
他人の土地であれこれすると通報されるからな
303 :
筑紫倭皇帝:2014/01/18(土) 14:26:50.74
そこまで言って委員会を見て思った
田嶋○子=大和 田直木
性格が全く一緒の社会不適合者w
ハマコー=満州
>>302 フィールドワーク以前に九州にまともな候補すらないじゃんw
>>300 福岡説や佐賀説なんか唱えるから論理が破綻してる畿内説に付け入る隙を与えるんだよ
南九州に絞るべき
307 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 15:35:04.82
あれは去年のいまごろだったなあ
雪の箸墓立ち入り調査のあと、それらしきコメントが出なかった時点で畿内説は再起不能
三輪山の 淡雪に似て 箸の墓 。。。
308 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 20:38:11.27
>>307 箸墓の立ち入りって古墳の表面を歩くだけで発掘さえ許されていないのに
箸墓が卑弥呼の墓なら立ち入れば即「親魏倭王」の金印が発見される、
発見されなきゃ卑弥呼は九州にいたで間違いなし
と騒ぎ立てる九州説って馬鹿なの?
何だなかぁ…
みんな複次藻とかって知らいのかなぁ?
よっぽど箸墓が気になるんだなw
どうやら盗掘はされてないという話。
311 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 21:39:02.79
立ち入り調査で分かるのは散らばってる土器破片くらいのものだろう
実際、足の踏み場もないほどだったと言うし、
立ち入り調査以前から、そういう状態であることは知られていたようだ
2ちゃんにもそういうカキコはあった。
子供のころ、箸墓は出入自由だったので、土器の破片をひろっては秘密のお宝にしていたらしい
だから今回、しかるべき考古学者が見ればいつの時代のものかは一目で見当着いたのだろう
こりゃ、どうみても三世紀の代物ではないなと、、、、
312 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 21:41:16.08
313 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 21:47:33.39
不思議発見で宗像3女神
314 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 22:28:08.05
>>311 俺も子供の頃遊んでたよ、周辺なら割と気にせず入れた。
でも最近の調査でも三世紀末だという話が一番多かったよ。
315 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 07:55:21.15
箸墓は台与の墓だな。
卑弥呼の墓はもう少し小さい円墳だ。
316 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 08:53:18.56
>>241(244氏による初心者の卵殿)
@については松浦半島上陸説を採っているようだが、神湊上陸説も有り、その
場合、あなたの論理は破綻する。ハイ論破。
Aについては陳寿は晋の役人で、晋の皇帝の先祖が偉大に見えるよう倭人伝の
数字については6倍〜10倍に水増しをしたと言われている。実際の数字は6
分の1〜10分の1であり距離・日数では九州しか有りえない。ランケの実証主
義史学を信奉する者には邪馬台国は見えないよ。ハイ論破。
Bについては、倭人伝に畿内がが出てこないから、当時、九州勢力が倭国最大
勢力で畿内勢力は弱かった、あるいは無かったと解すべき。ハイ論破。
Cについては自分自身、何を言っているのか理解できているのか。どこかの大
学の史学生か?。ランケを信じてはすぐれた歴史家にはなれないぞ。
317 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 12:10:26.47
主要8国 + 旁國21 = 29国
倭人伝の冒頭に30国とあるのに、これでは1国足りない、そこで従来は、
「次有華奴蘇奴国」の所を 「次有華奴国、次有蘇奴国」 の誤写かもしれないとする説があった。
これも一理ある仮説。
ただそれではあまりにもありふれたお話し。
そこで思うのだが、当時の中国で「華奴蘇奴国」のように書かれていれば、
ははん、これは本家分家の国(兄弟国、姉妹国)で、2国の簡略表記なのだな・・・と、だれしも理解し得たのではないか。
このように想定すれば、倭国は30国になる。
問題は、古代中国語で華と蘇が対をなす漢字(言葉)で在ったかどうかなのだが、、、、
どうだ、手作りモモンガアだぞ、参ったか?
319 :
大和 田直木:2014/01/20(月) 11:05:09.36
>>317 × 主要8国 + 旁國21 = 29国
○ 主要8国 + 旁國21 + 狗奴國 = 30国
320 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 14:01:32.88
○ 主要8国 + 旁國21 + 狗奴國 = 30国 ←このように考えることもできるだろうなあ
しかしそうなると直木説では
おおむね佐賀+福岡の29国 対 熊本+宮崎+鹿児島の狗奴国1国という図式になる。
いかにもアンバランス。
321 :
大和 田直木:2014/01/20(月) 14:28:23.77
>>320 × 佐賀+福岡の29国 対 熊本+宮崎+鹿児島の狗奴国1国という図式になる。
○ (長崎+佐賀+福岡)の29国 対 熊本北部の狗奴国1国という図式になる。
三国志では、熊本緑川以南は倭としての認識外地域。「周旋可五千餘里」以外の地域。
322 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 14:32:17.77
>>319 >>320 ○ 主要8国 + 旁國21 + 狗奴國 = 30国
私も、これを支持します。ただ、陳寿は、21か国を邪馬台国の
南に解釈してたので奴国を2つにしてるため、30国という記述に
なっただけです。
30だから奴国が2つあったとはならない。
323 :
大和 田直木:2014/01/20(月) 14:50:33.31
>>320 「周旋可五千餘里」は、対馬(對海國北端)から緑川北岸(狗奴國南端)まで。
3世紀の緑川北岸は、上江津湖(水前寺公園)付近。
上江津湖下江津湖以南は古熊本湾。
324 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 16:34:38.42
>>322 >其余旁国遠?不可得詳
倭人伝には、21国は遠絶にして国名の他はよくわからぬと書かれている。
もちろん東西南北どこにあったかは書かれていないし、示唆されてもいないけどなあ。
遠くて内容もよくわからないければ30カ国と書いていても不思議ではない
つまり30カ国くらい
326 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:01:57.21
○ (長崎+佐賀+福岡)の29国 対 熊本北部の狗奴国1国という図式になる。
直木賞受賞の三国志では、熊本緑川以南は倭としての認識外地域。「周旋可五千餘里」以外の地域。
327 :
大和 田直木:2014/01/20(月) 17:37:30.88
伊都国に関する記述見ると北部九州説はかなり可能性が低い
伊都国から離れた場所に邪馬台国が存在したことが示唆されてる
329 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 21:36:02.27
邪馬台国は熊本の阿蘇山
俺の感だけどな。
漢字のとおりだよ。
あそこらへんは古墳とか沢山ある。調べられないけどな。
330 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:06:25.54
全九州のどこへ行くにも便利、
九州島のほぼ中心の阿蘇山周辺に同意。
331 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 02:25:05.38
>>324 自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶、
邪馬台国より北は、戸数などかけるとしている。21か国は戸数など
ないので北以外。普通には、21か国は邪馬台国の南としてる。
こんなのいちいちかかないといけないのかな?
邪馬台国の構成国は南から順に羅列してるはずだぞ
だからもっとも北が奴国になる
333 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 09:00:08.76
>>331 多分それは「其余国遠絶」と読むから、そのような解釈になるんだろうねえ
たしかに「其余国遠絶」と書けば、全ての国を同等に扱うことになり、仰せのとおりとなる。
しかし「其余旁国遠絶」の場合は、邪馬台国へ至る主街道上にある「主要国」と、
この街道に面さず、魏や郡の使いは通過することの無い「其の余の傍国(本文の主旨に直接関係ないその他の国々)」があって、
これを区別して記述している
つまり「自女王国以北、其戸数道里可得略載」の段は、
戸数などを記載した主要国についてのみ位置関係を述べており、
其余傍国は「自女王国以北」の適用外にして詳細は一切分からないといっているわけだ。
334 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 13:37:46.31
〜都道府県の居住意欲ランキング〜
1位は『 京都 』
「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。
京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。
年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。
335 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 17:07:41.39
>>333 以北は主要国も旁国も全部書けるんだよ。以北以外のところは旁国はかけない。つまり以北ではない地域についても、主要国は書けるということ。
そんな単純なことが読み取れないとは情けないね。
336 :
大和 田直木:2014/01/21(火) 19:24:29.45
>>335 「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳」
「其」は何を指しているのか考えよう。
「其」は「自女王國以北」を指しているのではないのかな。
「其」が「自女王國以北」を指すなら、
「其餘旁國」は「女王國」の東側西側北側の地域にあり、南側にはない。
「女王國」の南側にあるのは「狗奴國」だけである。
又、「戸數道里」の両方が略載できているのは、
對海國・一大國・末盧國・伊都國・奴國・不彌國の6ヶ国である。
一方、邪馬台国には女王が居るから、邪馬台国は女王國に含まれる。
ゆえに「自女王國以北」は、對海國から邪馬台国までの8ヶ国を指すことになる。
337 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:18:57.89
「其」は女王国以北、其の余となれば女王国以北ではないところ。
338 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:28:04.26
「其」は「女王国以北の国々」、其の余となれば主要8国以外の国々のこと。
339 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:40:55.37
新説・日本三国志8の1【古代の日本】
九州北部から畿内までの範囲に広がる複数の国の集合体=倭=「葦原中津国」
西の九州北部の勢力の「狗奴国」は、地の利を生かした大陸との交易で繁栄し、後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かって
軍事力的にも、経済力的にも、倭=「葦原中津国」の国力の主体をしめていた
一方、東の畿内の勢力の「邪馬台国」は、内陸国であるが故に海路の確保が出来ないため、大陸との交易は少なかったものの
豊かさでは、西の九州北部の勢力の「狗奴国」には及ばないまでも、負けない國であった
しかし、西の「狗奴国」と、東の「邪馬台国」の間には、広大な荒れ地が広がる貧しい地域になっており、
そのことによりこの2大国は軍事的にも経済的にも隔絶され、衝突することはなく、倭=「葦原中津国」のなかで各々が繁栄を極めていた
340 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:41:27.33
新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
ある時、東の畿内の勢力の邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオが、政争に敗れて畿内を追われ、
敵国である西の九州北部の勢力の狗奴国との国境の、荒涼とした出雲にたどり着く
そして盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始め、稲田姫との間に須世理姫が産まれる
須世理姫はその後、地元の豪族の大国主命と結婚し、スサノオから出雲を託された大国主命は、九州北部・狗奴国から来たスクナビコナの援助を受けて、
新興国・出雲を、北九州狗奴国・畿内邪馬台国と並ぶ大国にまで成長させる
倭=「葦原中津国」は、西の九州北部の勢力の【狗奴国】と、東の畿内の勢力の【邪馬台国】、その中間に位置する【出雲】の3大勢力となり
軍事的、経済的に隔絶されていた【狗奴国】と【邪馬台国】は、中間に【出雲】が出来たことにより、安全保障の上では隣接してしまうようになる
341 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:42:02.23
新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
そこで畿内勢力の邪馬台国は、九州北部・狗奴国のスクナビコナの庇護の元、大国にまで成長した出雲を、
もともとはアマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオか造った国として北九州・狗奴国から引き離し、手に入れようとし始め、
出雲に、アマテラス(=卑弥呼)の息子であるアメノホヒを派遣して、スサノオの娘婿である大国主命に、出雲を禅譲することを求める
しかし、父から相談を受けた長男のコトシロヌシは、祖父であるスサノオが、アマテラス(=卑弥呼)の弟であることから同意したモノの、
次男のタケミナカタは、北九州・狗奴国勢力とともに邪馬台国に果敢に抵抗し、「葦原中津国」=日本は新興国・出雲を巡って争乱状態となる。
次男のタケミナカタと北九州・狗奴国勢力の連合軍は善戦するが、結局、畿内の邪馬台国勢力に破れ、大国主命は、
戦いに敗れた次男のタケミナカタの延命と出雲大社の建設を条件に、出雲を邪馬台国に委譲することを認める
邪馬台国はアマテラス(=卑弥呼)の孫のニニギを出雲に派遣して、北九州・狗奴国勢力とともに武力抵抗した次男タケミナカタを、
北九州から東に遠く離れた諏訪の地に幽閉し、出雲に残した大国主命の長男コトシロヌシを傀儡として、
倭国に、「漢委奴國王」の北九州・狗奴国勢力に対抗しうる【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】が誕生する
342 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:42:34.27
新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
出雲を併合し、北九州・狗奴国勢力を凌駕しうる大国となった畿内の邪馬台国は、伊都國(出雲)に天にも届くほどの大社を建設して
一大率という派遣官を在駐させ、末廬国(松江)伊都國(出雲)を基点として大陸との交易の海路を開き
独自に大陸との交流を始め、さらなる一大勢力に発展する
ちょうどそのころ大陸では、北九州・狗奴国勢力に「漢委奴國王」の金印を授けた後漢が、魏に権力を禅譲して滅び
後漢との関係が深かった北九州・狗奴国勢力に激震が走る
後漢から権力を引き継いだ魏は、後漢が倭国の王と定めた北九州・狗奴国勢力を嫌い、【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】を倭国の王とし
邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)に「親魏倭王」の金印を授けて、帯方郡から伊都國(出雲)に魏の役人を常駐させる
こうして邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)は、「漢委奴國王」の北九州・狗奴国勢力にかわり、「親魏倭王」として倭国の王となり
大陸との交易をほぼ独占することに成功した
343 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:43:06.17
新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
一方、出雲を巡る闘いで邪馬台国に敗れ、倭国の王の座も失った北九州・狗奴国勢力は、それでも【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】の破壊
の機会を虎視眈々とねらい続け、アマテラス(=卑弥呼)の死という邪馬台国の混乱に乗じて、諏訪に流されたタケミナカタの子孫の男王を
次の伊都國(出雲)の国王に立てようと画策する
一方、混乱状態からかろうじてアマテラス(=卑弥呼)の宗女、壱与を女王とした邪馬台国勢は、それまで出雲を治めていた傀儡の
コトシロヌシの子孫を伊都國(出雲)の王にして、諏訪に流罪になったタケミナカタの子孫である男王の正統制のなさを提唱することで、
北九州・狗奴国勢力の破壊工作の阻止を図り、出雲で再び、畿内・邪馬台国勢力と北九州・狗奴国勢力間の緊張が高まる
それにより、出雲に派遣されていたニニギの二人の子、海幸彦と山幸彦も、出雲後継の座をめぐり、
海幸彦が畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ派、山幸彦が北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派、に分断され、
伊都國(出雲)内でのニニギの二人の子の争いは次第に、
中間干渉地域である出雲を巡る、畿内・邪馬台国勢力と北九州・狗奴国勢力の代理戦争の様相を呈していく
344 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 21:51:50.17
>>338 あまり文章を読んだことがないようだね。
345 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 22:00:31.40
一回読んで分からん者は、百回よんでも分からん
346 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 22:25:04.61
新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
出雲後継の座をめぐり、畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ派と北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派に分かれ牽制し合っていた
ニニギの二人の子のうち、戦力で劣勢であった北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派の山幸彦が、北九州狗奴国の手引きの元に、
狗奴国の「漢委奴國王」の金印を携えて、伊都國(出雲)ではなく、北九州の竹斯国(筑紫)から、密かに海神=魏に赴いて
事態を告げるが、金印は北九州から一支国に脱出する際の戦闘によって行方知れずになってしまう
倭国からの使者が、誰にも知られずに、帯方郡にこつ然と現れたことに、魏はとても驚くが
一支國から遠い不便な伊都國(出雲)を倭の基点とするよりも、一支國に近い便利な北九州の竹斯国(筑紫)を基点とするほうが有利
と考えた魏は、倭国に張政を派遣し、檄文で畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ勢の壱与を告諭して、
畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ勢力による北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ勢力に対しての、一方的な迫害とも言える攻撃は終止符をうつ
結果、畿内邪馬台国勢に滅亡・消滅させられそうになっていた北九州狗奴国勢は、魏の擁護の元、倭国に存続することとなり、
それにより北九州・狗奴国勢は、竹斯国(筑紫)を、大陸との交易の基点として復活させ、魏の要人の娘と婚姻関係を結ぶなど、
それまでの後漢色を廃して、畿内・邪馬台国勢に追いつくように、どんどん魏との関係が密になっていく
347 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 23:27:15.70
新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】
魏の後ろ盾を背景に、北九州・狗奴国勢の権力が拡大していく中、魏との交易の中心も必然的に、一支國から遠い伊都國(出雲)から、
一支國に近い北九州の竹斯国(筑紫)に次第に戻りはじめ、それに危機感を覚えた出雲は、巻き返しを図りたい畿内・邪馬台国勢と共に、
北九州・狗奴国勢を牽制しようとする
出雲の申し出を受けた畿内・邪馬台国勢は、「親魏倭王」の名にかけて、今度こそ北九州・狗奴国勢力の排除に乗り出すが、狗奴国勢は、
畿内の邪馬台国を追われ、北九州・狗奴国に身を寄せていた、魏とも深い関係をもつ邪馬台国の王族カムヤマトイワレヒコを担ぎ出し、
魏による密かな援軍の元、邪馬台国に対する軍事クーデターを起して、
畿内の邪馬台国は逆に、邪馬台国の王族のひとりであるカムヤマトイワレヒコ率いる北九州・狗奴国勢に、武力制圧されてしまうことになる
畿内・邪馬台国を武力制圧した北九州・狗奴国勢は、好機とばかりに邪馬台国を解体一新して、新しく大和国とすることに決め、
武力制圧の将軍であったカムヤマトイワレヒコを、その新しい国の新しい王『天皇』として駐留させて、
北九州・狗奴国勢は、出雲と畿内邪馬台国を完全に押さえ込むことに成功する
348 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 23:28:40.46
新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
しかし、初代の天皇カムヤマトイワレヒコの死後、次の天皇を誰にするかで、もともとは邪馬台国の流れを汲む新しい大和国・天皇勢は
初代天皇が大和国で出雲のコトシロヌシの娘との間に作った子カムヌナカワミミを推し、
北九州・狗奴国勢は、初代天皇が北九州狗奴国にいたときに狗奴国の豪族の娘との間に作った子タギシミミを推したことで意見が分かれ、
両者の蜜月は終了する。
そこに再び、捲土重来を図る出雲の残党が加わり、事態は今度は、大和国内での
北九州狗奴国勢 vs【「 畿内の新しい大和・天皇勢と出雲の残党」連合 】の戦いの様相を呈していく
結局、【「 畿内の新しい大和・天皇勢と出雲の残党」連合 】が推していた、
初代天皇が大和国で出雲のコトシロヌシの娘との間に作った子カムヌナカワミミ(後の綏靖天皇)が、
北九州狗奴国勢が推していた、
初代天皇が北九州狗奴国にいたときに狗奴国の豪族の娘との間に作った子タギシミミに勝利して
「大和」の次の天皇となる
349 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 23:29:18.26
新説・日本三国志【外伝・その後の日本】
しかし混乱はおさまらず、それ以降『天皇』は、出雲・邪馬台国の流れを汲む系統と、魏を後ろ盾に持つ北九州狗奴国の流れを汲む系統の間での
血なまぐさい政争が8代続き、「大和」は「親魏倭王」でありながらも次第に、大陸の影響を外夷として嫌って「日本国」へと変貌し、
その後『天皇』が、出雲・邪馬台国の流れを汲む系統から代々輩出されていくようになって、やっと安定する(欠史8代)
一方、北九州狗奴国はその間「魏」が想像以上の早さで衰退して「晋」となった後も、「倭国」として、大陸の代々の南朝と独自の交流を続け、
それはその後「宋」「斉」「梁」と、大陸の南朝が消滅するまで続く(倭の五王)
しかし「梁」が滅亡し、大陸が北朝の「隋」に統一され、南朝が消滅したことにより、南朝と関係の深かった北九州狗奴国の国力も衰退して、
北九州狗奴国はついに、大和の「日本国」に併合される(ヤマトタケルの西征)
そして「倭国」は、「日本国」という統一国家として北九州から、大陸を統一した北朝「隋」に、遣隋使を送ることになる
また、この期間の、北九州狗奴国の流れを汲む話と大陸が関係する話は、
出雲・邪馬台国の流れを汲む系統から『天皇』が常に代々輩出されていくようになったことと、
後に古事記を編纂する第43代元明天皇が、国内の、極度の大陸かぶれを嫌ったことなどから
古事記を編纂する際に日本書紀から削除され、邪馬台国や卑弥呼などの記述も、天孫降臨神話に書き換えられたりしてしまうこととなる
350 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 23:31:41.41
「新説・日本三国志」の肝
・倭は、「漢委奴國王」であった北九州の狗奴国と、畿内の邪馬台国の、大きく分けて2国だった
・国力は「漢委奴國王」であった北九州の狗奴国のほうが強く、畿内の邪馬台国は弱かったが、その中間に「出雲」という新興国が出来た
・畿内の邪馬台国が出雲を手中に収め、後漢が滅び魏になったことで倭国の王は、北九州の「漢委奴國王」狗奴国から、畿内の「親魏倭王」邪馬台国に移行した
・魏志倭人伝で「王」がいると記されているのは伊都國と女王國と狗奴國の3っつで、伊都國は「王」の伝説が残る【出雲】
・魏志倭人伝に出てくる末廬国・伊都国は出雲地方、隋書倭国伝に出てくる竹斯国・秦王国は北九州で、全く別の地域
・出雲を手に入れたモノの邪馬台国は、敵対する北九州の狗奴国の竹斯国・秦王国を利用せず、できず、畿内により近い出雲に新港を開いたため「魏志に記載」
・出雲大社は、新港である末廬国・伊都国の灯台変わりでもあり、大陸に対して国力を見せつけるための迎賓館
・2大国に挟まれた「出雲」は、ある時は北九州の狗奴国勢を味方に付け、ある時は畿内の邪馬台国勢を味方に付けることで、生き残りを図った
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
・欠史8代は、その後の、出雲・邪馬台国の流れを汲む系統と、北九州狗奴国の流れを汲む系統の間での血なまぐさい政争
・その間も北九州の狗奴国は「倭国」として、大陸の代々の南朝と独自の交流を続けていた「倭の五王」
・その北九州狗奴国が、大陸の南朝の消滅と共に、大和の「日本国」に併合された「ヤマトタケルの西征」
・その結果、大和の「日本国」は、出雲地方の末廬国・伊都国からではなく、北九州の竹斯国・秦王国から大陸に遣隋使を送れるようになったため「隋書に記載」
・しかし天皇は、北九州狗奴国の娘と作られた系統ではなく、出雲の娘と作られた系統が引き継いだため、記紀に狗奴国の名前は出てこない
・大陸との関係も、第43代元明天皇が国内の、極度の大陸かぶれを嫌ったことで、古事記を編纂する際に天孫降臨神話に書き換えられた
ぜんぶどうしようも無いよ
チラ裏レベル
352 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 00:29:37.18
まぁ、当時の日本はすでに、日本海側のどこの海岸からだって大陸と行き来出来ていたのに
大陸と行き来出来ていたのは、大陸に一番近い北九州だけ、だから邪馬台国も九州
なーーんて考えている人にとっては、チラ裏にしか思えないだろうねぇ
邪馬台国は近畿で、末廬国・伊都国は、九州じゃなくて出雲地方・・・なーんて
魏志倭人伝すらまともに読んでなさそうな連中が邪馬台国がどこにあったかなんて語る現状はどうにかしないとな
354 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 04:12:35.08
訂正:
新説 → 新小説・日本三国志8
355 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 06:49:38.55
だけど、邪馬台国を九州・・で考えると、
ツジツマが合わずに
その「小説」すら書けなくなる・・・・
356 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 07:39:56.82
新説・日本三国志【外伝2・さらにその後の日本】
その後、第40代天武天皇が、日本国の正史として「日本書紀」の編纂を命じ、
自身の文字を持たなかった日本は中国の学者を雇用して「漢文」で「日本書紀」を書き始める
その後、第43代元明天皇が、「漢文」ではなく日本独自の「やまと言葉」を用いた古事記の編纂を開始して、太朝臣安萬侶が命を受け、
もうすでに古代中国語による「漢文」で、中国の学者によって第二十七巻天智天皇まで書かれていた「日本書紀」を参考に、古事記の執筆を開始する
国内の、極度の大陸かぶれを嫌っていた元明天皇は、古事記が「漢文」ではなく「やまと言葉」で綴られることに大変執着したため、
太朝臣安萬侶は、当て字を用いるなど「漢文」を「やまと言葉」に変えることに大変苦労する
しかし太朝臣安萬侶は、その都度、元明天皇に伺いをたてながら筆を進め、
その時はもう『天皇』が、常に代々出雲・邪馬台国の流れを汲む系統から輩出されているようになっていたことなどから、その際に、元明天皇の命により、
中国の学者によって書かれていた日本書紀の、すでに書き終えていた第一巻から第十三巻第20代安康天皇までの、
北九州狗奴国の流れを汲む話と大陸が関係する話は、邪馬台国や卑弥呼などの記述と併せて、日本書紀から削除され、
天孫降臨神話に書き換えられたりしてしまうこととなる
そうして「やまと言葉」で書かれた古事記は、後から執筆が開始されたモノの、712年に完成して献上され、
先に執筆が開始されていた「漢文」で書かれていた日本書紀は
すでに書き終えていた第一巻から第十三巻第20代安康天皇までを、日本の学者によって「漢文に似たようなモノ」に書き換えられ
まだ書かれていなかった、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇も、日本の学者によって「漢文に似たようなモノ」で書かれて
古事記に遅れること8年後の、720年に、全三十巻すべてが完成し、献上され、
日本の記紀からは、邪馬台国や卑弥呼などの記述も、大陸との関係も、北九州狗奴国の流れを汲む話も、姿を消すことになった
357 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 08:39:12.00
畿内説亡者が書いた「新小説・日本三国志」−終わり−
358 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 10:25:39.52
>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳
すなわち、ここまで戸數道里は国ごとに略載されていることから、次のように考えられる。
自女王國以北(の主要国)は、其の(国別の)戸數道里を略載した。
(ただし投馬国については戸数は書いたが里数を省略した、これは投馬国は主要国だが、邪馬台国より南にあったからである)
其の餘のあれこれの国々(旁國)については、遠絶にして不可得詳(ぶっちゃけ、詳しく書くほどのことではなかった)
359 :
大和 田直木:2014/01/22(水) 16:17:07.88
>>337 >>358 誤読しているようだからちょっと解説
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳」
其=自女王國以北 女王國の東側、西側、北側で、南側以外の方向。南側には狗奴國がある。
餘=残り 女王國以北の8ヶ国を除いた残りの国々。
旁=傍ら 女王國以北の8ヶ国に近接した国々。 遠方の意味はない。
遠絶=情報が切れて得られていない 距離が遠いの意味ではない
不可得詳=詳しい情報(戸數道里等)が得られない
360 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 17:22:55.05
其=自女王國以北の全地域・・、という解釈はおかしい
其=自女王國以北の国々・・・、であろう。
なぜなら戸數道里は、魏使・郡使が旅した国ごとに記述しており、この場合の其は国々という概念を含むからだ。
言いかえれば、
女王國から北の(魏使・郡使が旅した8ヶ国、もしくは7ヶ国について)は、(其の国ごとの)戸數道里を略載できたが・・・、と
直接体験した8ケ国(同)に限定して述べているのであるから、
この8ヶ国(同)以外に、
魏使・郡使が旅することのなかった国々が、以北、以東・以西・以南のいずれにあっても差し支えないではないか。
361 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 17:39:09.15
大和 田直木はあれだろ。
女王国は、邪馬台国・投馬国・傍21国・不彌国・奴国からなり、
その北に女王国でない伊都国・末蘆国・一大国・対海国の4つがある。
そして女王国の南境界に接して狗奴国があるという例の説な。
>>361 投馬国は邪馬台国の構成国じゃないよ
あと狗奴国は邪馬台国の本国の南にあるわけではない
魏志倭人伝にある地理や行程の記述は分かりづらいね
それが間違ってるかは全く別問題だが
364 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 18:40:42.30
>>362 大和 田直木の言うことにゃ
女王国は、邪馬台国・投馬国・傍21国・不彌国・奴国で構成されるらしい。
いうなれば女王連合国だな。
だから、狗奴国は女王(連合)国の境界の南にあるが、邪馬台国のすぐ南に接しているのではないという言い分らしい。
そして仮に狗奴国が熊本北部だとなれば、
女王(連合)国の境界はそのすぐ北隣の八女筑後まで北上させるし、
球磨地方だと確定すれば、八代・出水辺りまで南下させるつもりだろう。
365 :
大和 田直木:2014/01/22(水) 20:17:11.78
>>360 >其=自女王國以北の全地域・・、という解釈はおかしい
>其=自女王國以北の国々・・・、であろう。
言葉足らずでした。「其=自女王國以北の国々」です。
>魏使・郡使が旅することのなかった国々が、以北、以東・以西・以南のいずれにあっても差し支えないではないか。
これは間違っている。「自女王國以北の国々」であるから、
東側と西側は入るが、南側は入らない。
「以北」には、女王國の緯度の地域は含まれるが、
女王國より南の緯度の地域は含まれない。
366 :
大和 田直木:2014/01/22(水) 20:25:16.26
>>361 >女王国は、邪馬台国・投馬国・傍21国・不彌国・奴国からなり、
>その北に女王国でない伊都国・末蘆国・一大国・対海国の4つがある。
違うでしょ。
女王国は、邪馬台国・投馬国・不彌国・奴国からなり、
その北及び同緯度地域には、女王国でない傍21国・伊都国・末蘆国・一大国・対海国の25ヶ国がある。
>そして女王国の南境界に接して狗奴国があるという例の説な。
そうです。女王國の南には狗奴國です。
367 :
大和 田直木:2014/01/22(水) 20:40:32.62
>>362 >投馬国は邪馬台国の構成国じゃないよ
投馬国は女王國の構成国です。
>あと狗奴国は邪馬台国の本国の南にあるわけではない
違うよ。女王國の南だよ。
「此女王境界所盡 其南有狗奴國」
狗奴國は、「女王境界所盡」即ち「女王國」の南です。
368 :
大和 田直木:2014/01/22(水) 20:50:31.94
>>364 >大和 田直木の言うことにゃ
>女王国は、邪馬台国・投馬国・傍21国・不彌国・奴国で構成されるらしい。
>いうなれば女王連合国だな。
女王国は、邪馬台国・投馬国・不彌国・奴国で構成する女王連合国です。
因みに、邪馬台国は1人の長官と3人の次官で治める連合國です。
女王は彼らの城柵とは別の所で都しています。
369 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 21:08:40.20
>>367 >>あと狗奴国は邪馬台国の本国の南にあるわけではない
>違うよ。女王國の南だよ。
女王(連合)国の南に狗奴国があるのは分かったが、女王連合のどの国の南にあるのかねえ??
もしかして傍奴国の南?? それとも投馬国の南??
370 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 22:21:38.41
>>365 昔の以北は基準国を含まないことがある。倭人伝はその使い方だ。
371 :
大和 田直木:2014/01/22(水) 22:24:50.08
>>369 >女王(連合)国の南に狗奴国があるのは分かったが、
>女王連合のどの国の南にあるのかねえ??
>もしかして傍奴国の南?? それとも投馬国の南??
不彌國の南に女王國を構成する投馬國と邪馬台国があるから、
狗奴國があるのは、投馬國と邪馬台国の南となる。
傍奴国は「自女王國以北」にある。
すなわち、傍奴国は女王國の北か西か東にあることになる。
372 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 22:41:25.23
>>370 以北の件、まことに重要なご指摘であります。
普通、我々は基準値の150%を1.5倍という。
しかし今でも中国では、基準値を超える部分だけをさして0.5倍という。
実は我が田舎でも、老人はいまだに中国式に0.5倍と表現する。
以上・以下、以北・以南などの場合についても、
果たして古代中国では基準値を含めたのか含めなかったのか、古文献にあたって確認の要がある。
373 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 22:46:05.32
>>371:大和 田直木
>狗奴國があるのは、投馬國と邪馬台国の南となる。
>傍奴国は「自女王國以北」、すなわち女王國の北か西か東にあることになる。
しっかり確認しました。
374 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 09:47:29.61
奇跡の解法●森村伊作邪馬台国を語る●(抜粋)
○『倭人伝』を読むための必須条件(6)
[やってはならない行程読み]
●順次読みの落とし穴
「女王国よりも北の国々については……」という文章は・・・、
投馬国に関しては道里の略載がないことから「魏の使節たちは投馬国を訪問していない」とする解釈のほうが妥当だろう。
訪問していないのに特筆しているという点では狗奴国も同じで、
投馬国と狗奴国は倭国30カ国の中でも別格の大国だったらしい。
両者に距離を記載してないのは「行ったことがない・通過したことのない(女王国の南方の)国」だったからとみなされる。
375 :
大和 田直木:2014/01/23(木) 10:29:46.17
>>370 >昔の以北は基準国を含まないことがある。倭人伝はその使い方だ。
>>372 >果たして古代中国では基準値を含めたのか含めなかったのか、古文献にあたって確認の要がある。
書かれたのが3世紀以前の古文献にあたって確認するのもよいことです。
しかし、以北に基準国を含めないと倭人伝の記述内容が破綻します。
「自女王國以北の国々」は邪馬台国から對海國の詳述8ヶ国です。
以北に對海國を含めないとするならば、
倭の傍國21ヶ国は對海國の北の韓地にあることになります。
以北に8ヶ国を含めるとするならば、
倭の傍國21ヶ国は詳述8ヶ国の東西と北に在ることになります。
不彌國が筑紫平野に在ったとすると、傍國21ヶ国の一部は、
筑紫平野の北に在る福岡平野に在ったことになります。
傍國21ヶ国が何処にあったのかを比定するのは別の議論です。
傍國21ヶ国が在ったのは、筑前と肥前と筑後の範囲と考えます。
376 :
十鬼比古:2014/01/23(木) 10:50:52.35
邪馬台国は一時九州を本拠地としていた事は確かだろう。
個人的には、琉球沖縄から九州へ、そして九州から現山口へ上陸後畿内へと、北遷や東遷しつつ都と言う本拠地を移して行ったのだろうと私は推察しています。
だから邪馬台国九州説も間違いではないのかも知れません。
377 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 11:50:02.19
>しかし、以北に基準国を含めないと倭人伝の記述内容が破綻します。
「女王国以北」≠「自女王国以北」
この場合の基準国は(自)のついている女王国のことです
なお仮に、古代中国における「以北」の用例が基準国の女王国を含まないとしても、
この倭人伝の場合は女王国に(自)がつけてあるので、女王国も以北のうちに含まれるでしょう。
378 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 12:56:18.80
女王国以北に女王国を含めると、とんでもない話しになるよ。女王国曰くは一大率が検察し、
諸国は一大率を畏憚していた。女王国まで一大率に検察されて震え上がっていたことに
なる。女王や官の立場ないねえ。
379 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 12:57:20.79
曰く→以北
380 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 13:05:37.52
381 :
大和 田直木:2014/01/23(木) 14:22:27.14
>>377-378 >「女王国以北」≠「自女王国以北」
同意。
しかし、
「女王国以北」は、以北の地域を指すのか以北の国々を指すのかが曖昧。一般には地域を指す。
「自女王国以北」は、以北の国々を指すのであって以北の地域を指さない。
>女王国まで一大率に検察されて震え上がっていたことになる。女王や官の立場ないねえ。
女王國も幾つかの国々の集合体。
女王國内の其々の国々に対して一大率を特置するのは当然。
共立された女王は邪馬台国に居ても、直接統治する国は無いのです。
直接統治しているのは、其々の国の「官」達である。
382 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 15:19:57.21
>>381 >@自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠?不可得詳。
>A自女王国以北、特置一大率、檢察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国
>>378氏によれば、
Aの書き方および内容から、「自女王国以北」は女王国(4ケ国連合)を含まないことが明らか。
これは@にも言える。
たしかにその通りですね。
(なお女王国が単独国(邪馬台国)であっても、以北に含まれないことになります。)
383 :
大和 田直木:2014/01/24(金) 17:04:02.32
>>378 >女王国まで一大率に検察されて震え上がっていたことになる。
>女王や官の立場ないねえ。
>>382 >Aの書き方および内容から、「自女王国以北」は女王国(4ケ国連合)を含まないことが明らか。
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。」
魏晋朝の「刺史」がどの様なものか調べ直したら?
狗奴國を除く29ヶ国は「官(太守)」と「一大率(刺史)」体制であったのである。
「自女王国以北」とは、狗奴國を除く29ヶ国の意味でもあるのだ。
なお、末盧國では「官」不在であるから、「一大率」が「領兵刺史」の役割を果たしていたと考えられる。
何故なら「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」であるからである。
邪馬台国の本国が九州の南端、つまり今の鹿児島付近にあったとすれば南から北へ、
一直線に邪馬台国の構成国を表記した理由も説明できる
385 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 18:45:24.11
素直に南九州だろう
386 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 00:50:49.85
>「自女王国以北」とは、狗奴國を除く29ヶ国の意味でもあるのだ。
ちがうな。女王国以北とは対馬国から不彌國までの国々だ。
伊都国からはるか遠いところにある投馬国や邪馬台国は一大率の検察など受けない。
387 :
大和 田直木:2014/01/25(土) 06:18:15.68
>>386 × 伊都国からはるか遠いところにある投馬国や邪馬台国
○ 伊都国は佐賀平野 投馬国と邪馬台国の一部は筑後平野
× 女王国以北とは対馬国から不彌國までの国々だ。
○ 自女王国以北とは対馬国から投馬国と邪馬台国までの29ヶ国だ。
>伊都国からはるか遠いところにある投馬国や邪馬台国は一大率の検察など受けない。
「特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 ・・・・・ 於國中有如刺史」
倭の「官」と「一大率」の関係は、魏晋の「郡太守」と「刺史」の関係によく似ていると書いてある。
魏晋の「郡太守」と「刺史」の関係を知った上で書き込んで下さいね。
388 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 08:08:38.39
>>387 「自女王国以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 ・・・・・ 於國中有如刺史」
於國中有如刺史の部分は、あくまで以北の国々に於いての振るまいのことである
またそれも「刺史の如し」であるから、彼の国の刺史制度と同一ではない
文章の前後関係を知った上で書き込んで下さいね
389 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 08:38:44.99
大和 田直木 の一連の書きぶりには、不自然さを感じるな
一見、女王共立29国は福岡・佐賀・長崎にあったと力説しているようにみえる
しかし本心では、
其の南の狗奴国は熊本平野だったので、(我が)熊本県は卑弥呼とは一切関係なかった・・、と言いたいのではないか
390 :
大和 田直木:2014/01/25(土) 08:59:06.46
>>388 >於國中有如刺史の部分は、あくまで以北の国々に於いての振るまいのことである
自女王國以北の国々=狗奴國を除く29ヶ国
「其南有狗奴國」 其=女王境界所盡
何故なら女王の南にあるのは狗奴國だけであるから。
>またそれも「刺史の如し」であるから、彼の国の刺史制度と同一ではない
そうですよ。誰も同一だと言っていませんよ。似ていると書いたのですよ。
「倭の「官」と「一大率」の関係は、魏晋の「郡太守」と「刺史」の関係によく似ていると書いてある。」
391 :
大和 田直木:2014/01/25(土) 09:13:58.09
>>389 >大和 田直木 の一連の書きぶりには、不自然さを感じるな
>一見、女王共立29国は福岡・佐賀・長崎にあったと力説しているようにみえる
>しかし本心では、其の南の狗奴国は熊本平野だったので、
>(我が)熊本県は卑弥呼とは一切関係なかった・・、と言いたいのではないか
私は奈良県人ですが!
熊本県も九州も我が県地域じゃないのですよ。
392 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 09:30:02.70
大和 田直木の以北論議は
女王国が4カ国連合国であっても、単独国であっても言えることだし、
また女王国が福岡にあっても、熊本にあっても、宮崎にあっても言えることである。
広く知られている古田説や安本説の筋書きを借りたうえで、
「女王4カ国連合国は筑後平野辺りにあった、(我が)熊本県は(従属外交の)卑弥呼とは一切関係ない・・」と言うだけに聞こえる。
393 :
大和 田直木:2014/01/25(土) 10:15:35.85
>>392 >(我が)熊本県は
「(我が)奈良県は」です。 私は奈良の者
「女王4ヶ国連合国は筑紫平野(佐賀平野、北野地域、筑後平野、(白石平野?))に在った。
狗奴國は、熊本平野(菊地盆地)にあり、元東鯷人二十餘國の一部である。
394 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 10:26:33.75
>>393 >323 :大和 田直木:2014/01/20(月) 14:50:33.31
>「周旋可五千餘里」は、対馬(對海國北端)から緑川北岸(狗奴國南端)まで。
>3世紀の緑川北岸は、上江津湖(水前寺公園)付近。
>上江津湖下江津湖以南は古熊本湾。
奈良県人にしては、えらく熊本の地元ネタにお詳しいようですが
もしかして熊本にお住まいだったことも、、、、??
395 :
大和 田直木:2014/01/25(土) 10:42:43.97
邪馬台国も5地域連合国
@久留米三瀦
A甘木朝倉
B浮羽
C小郡
D八女
邪馬台国の「官」は5人。
邪馬台国の、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮 と 女王國(倭國)の難升米。
卑弥呼は女王國(倭國)の兄王(祭祀担当)
難升米は女王國(倭國)の弟王(外交軍事担当)
396 :
大和 田直木:2014/01/25(土) 11:08:47.35
>>394 >もしかして熊本にお住まいだったことも、、、、??
現役の頃出張で熊本にもよく行きました。
昨秋も対馬から人吉まで遺跡訪問のドライブ旅行をしました。
昨秋通過のついでに吉武高木遺跡にちょっと寄った時には、
私の様なおっさん?に、2組も遺跡説明パネルの前で鉢合わしせましたね。
397 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 11:34:18.53
>>396 それはそれは遠路お疲れさまでした。
道理で博識と思いました。
ところで、おそらく阿蘇〜高千穂方面もおいでになったご経験おありでしょう。
阿蘇神社は神武天皇の親族十数名をお祀りし、その先の高千穂は天孫降臨神話の里でもあります。
しかも天岩戸は皇室のご紋章である十六八重表菊を掲げているようです。
あのあたりの神社史跡はどのように評価していらっしゃいますか、、、??
近世、明治以降のでっち上げ。
王政復古、尊皇思想にあやかろうと画策した。
信用ならんやつらだ。
399 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 10:31:49.72
>>398 明治以降のでっち上げといえば、それは多分、鹿児島県にある活火山の薩摩・高千穂之峰のことじゃないのかなあ
>>397 の高千穂は
熊本・大分・宮崎の三県県境にある阿蘇・高知保郷で、今は観光名所になってる日向の高千穂峡のことだね
明治以降は薩長主導なんだからな。
一地方の神話だった高千穂降臨話は以降強調されたにすぎない。
そういえば本居宣長の熊襲の女酋説に基づいて
天皇家が中国に朝貢したことを認めたくないために作られた
九州の偽系図とかあるんだよな
当時の国学者の情熱はすごかった
で、それを現代、九州王朝説を広めるために古田一派が利用してるという
わけのわからんことが起きている
403 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:02:07.39
>>400 島津は地場豪族じゃ無いからよ積極的に血統的に繋がらない土地を装飾する必然が無い。西郷神格化と同じく薩摩ハヤト騙りも外部連中の近代後付けだろ。
404 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:04:06.68
『日向風土記』の逸文を読んでみよう。
>「ニニギノミコトは天の八重雲を押し分けて日向の二上の峯に天降ってきたが、
>ときに天は真っ暗で昼も夜も分からなかった。天つ神が困っていると、忠告する土蜘蛛があった。
>名をオオクワ、コクワというこの土着の民が、稲の霊力によってこの闇は晴れるというので、
>千穂の稲を籾として投げたところ、天は晴れ、日月も輝いた」という記述である。
>『風土記』は和銅六年(七一三)の詔に応じてできたものである。
>とすれば奈良時代において、ニニギノミコトが降臨されたのは日向臼杵郡内の智鋪の里(阿蘇・高智鋪郷)、
>すなわち今の宮崎県西臼杵郡高千穂町であると考えられていたことはまず間違いない。
(梅原猛著: 天皇家の"ふるさと“ 日向をゆく ・新潮社刊)
明治以降、薩長によって強調されたのは、薩摩の活火山である「高千穂之峰」。
ここは今も火を吹く山だから、神々といえど煙たくて降臨するはずもない。
阿蘇・高知保郷(後の日向国・臼杵郡内の智鋪の里)のほうは、
古代の日向風土記にも記録された天孫降臨で高名な郷里。
ここの天岩戸神社には、皇室のご紋章である十六八重表菊が掲げられているらしい。
405 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 15:17:03.93
天から人が降りるはずがない。ありあえない。神話は事実を神話に置き換えて隠した話。
天孫降臨の話は渡来人が大陸から渡って来た話しで、宮崎の高千穂でも鹿児島の高千穂でもない。
笠沙の岬のある近辺。高千穂の峰とは後世付けられた名で、細く高い峰のこと。
海からか上陸した時に見えた山だろうから、薩摩半島なら金峰山、大隅半島なら内之浦の国見だ岳か
鹿屋の高隈山。
高隈山を仰ぎ見る串良町には本家霧島神社があり、その中間からは様々な遺跡が出土。中でも天神段
遺跡からは西日本最古、5000年前の祭祀用石剣が出土。精巧さでは日本最古。
神代三山陵が鹿児島県内にあるが、鹿屋の吾平山陵、霧島市の高屋山陵、薩摩川内市の可愛山陵がある。
高屋山陵は明治初までは内之浦の国見岳にあり明治天皇も巡幸している。明治6年だったか、
薩摩の国学者が政府の命を受けて高屋山陵を霧島市に比定して変えた。可愛山陵も国見岳近くの
甫与志岳との説あり。
神武東征の碑が肝属川河口横の柏原(かしわばる:大阪の柏原、奈良の橿原と同じか)にあり。
スサノオを奉る神社もあり。そこからすぐ近くが唐仁古墳群、塚崎古墳、横瀬古墳とあり。
407 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:17:23.25
408 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:20:55.11
だからよ長州も朝鮮にルーツ史観持ってた藩だろがよ。薩長になんの得が有るんだよ?
409 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:59:13.25
そうだな、さしたる特にもならないことを。。。。
空から降臨した事が史実だったら
オマエらどうする?
太国や満州などのムー民はよろこぶだろ
412 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:20:33.63
噴火口に尻もちついて、お尻をやけどしたんじゃないかと心配してる
413 :
満州少尉:2014/01/26(日) 18:24:57.05
人間の本質は霊魂であり、霊魂は人間が生まれるときに天から下ってくるのだから、
われわれはみんな天から降臨したのである。
そんな霊的な話ではなく、現実的な話として考えても、
アトランティス時代は空飛ぶ船があったのだから、
飛行船に乗って日本に降臨したということは十分あり得ることである。
とくに、降臨伝説がすべて高山になっているところを見ると、
アトランティスを沈没させた大洪水時代の話ではないかと思えるのである。
その頃海面上に現れていたのは高山だけだったのだから。
はい はい
415 :
満州少尉:2014/01/26(日) 19:07:21.30
オノコロ島はおそらく出雲と朝鮮半島の間にあったのである。
アトランティスの大異変によって海中に没した。
空想で言っているのではなく、証拠文献あり。
416 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:13:32.05
少尉が生まれた竹島だろ
417 :
満州少尉:2014/01/26(日) 19:17:57.71
長白山と医巫閭山に降った満州朝鮮族が中国にも広まって住んでいた。
そこにアトランティスの沈没から逃れてきた中国人がやってきて、
満州朝鮮族を制圧した。
それが周王朝である。
周以前の中国の王朝は満州朝鮮族である。
418 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:31:00.78
中国人に追われて半島から対馬へ、そして壱岐へ、末蘆国へ、伊都国へ
つまり南へ南へと下ってきたわけか・・・・
>そこにアトランティスの沈没から逃れてきた骨の無い中国人がやってきて、
>満州朝鮮族を制圧した。
>それが周王朝である。周王朝の人間には骨が無かったのだ。
満州オカルト中国史
420 :
満州少尉:2014/01/26(日) 21:54:01.69
伏羲、神農、蚩尤などは満州朝鮮族である。
桓檀古記にも揆園史話にもそう書いてある。
蚩尤と戦ったという軒轅などは中国民族かもしれない。
とにかく満州朝鮮族が西征して中国に広がっていた。
そこにアトランティスから逃れてきた民族が侵入してきたのである。
満州朝鮮族が日本に渡来したというわけでもなく、
日本は日本で日本民族が降った。
ただし満州朝鮮に降った民族と日本に降った民族は同じ民族なのである。
満州朝鮮に降ったのがスサノオである。
現代の日本人と在日は厳然として違う
もう九州説は末期症状だな。
423 :
風の中のゴキブリ:2014/01/26(日) 23:16:53.55
謎の女王スレはキチガイに占拠され、ドン来いスレでは日本海に太刀打ち出来ず、九州スレに逃げてきた落武者夢幻如満州
満州はせめてどっか一箇所でやってくれよ
満州は、朝鮮総連の工作員でした、って白状しろよ。
426 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 09:50:51.97
満州が「満州・朝鮮・半島」と書いてる部分を
「九州島」とよみかえると面白い。
満州の本心が透けて見える。
俺のチンコも骨はない
夢幻如満州は骨のない男だな
逃げ回ってないで出てこい!
429 :
骨のない満州:2014/01/28(火) 09:08:51.60
ポクは昨日からパソコンのメモ帳の整理をしていて、
ピミらにかまっている暇はないのだ。
それに基本的に九州スレには出ないことにしている。
で、これといって書くこともないが(いや、書こうと思えばいくらでもあるが)、
何か書くとすれば、二三日前、七千万年前の海亀の化石が見つかった、と報じられていたが、
あんなのは真っ赤な嘘である。なぜなら七千万年前といえばレムリア時代より前で、
そんな時代に海亀のような堅い骨格を持った生物がいたわけがない。
せいぜい七千年前の海亀の化石である。地質学などにごまかされないように。
古墳の年代なども同じで、副葬品などから判断するならともかくとして、
「○○世紀の地層だから」云々を信じてはいけない。
副葬品から判断する方が間違い易いだろ
一世紀の物品を先祖代々受け継いでて、三世紀の
王の墓に一緒に埋めてたらどうなるよ?
431 :
骨のない満州:2014/01/28(火) 12:30:24.70
そんなのは畿内説の学者のトンデモ説だよ。
先祖代々受け継ぐような宝物なら副葬したりはしない。
先祖代々の家宝としていつまでも保存するだろう。
と思うがね、ポクは。
思うだけで、証明しようとは思わない(笑)
考古学なんて、話半分で聞いていればよいのだ。
そんなものを全部信じるのはパカである。
満州は骨がないだけじゃなくて、正常な判断力もなさそうだな。
進化論を認めず、すべての生物は同時に神がつくりたもうたとする原理主義宗教の一員なのだろう
怖ろしい
はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 エベンキ〜〜〜〜〜〜
2005年にイ・ホンギュ 韓国ソウル大医大教授は「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」で
「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」と主張した。
この主張は実に正しく、歴史の真実である。
438 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 09:36:43.27
>>436 韓国人=妄想人 朴大統領以下ヒステリー性妄想人の集団
439 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 09:37:27.74
>>435 +5mはデマにして根拠なし。全地球の氷が解けても+1.5mどまり
佐賀・筑後平野は1800年のうちに河川の氾濫で埋まり、今のレベルになった。
この地図で見るなら、せいぜい+1mではないか。
+1mにすれば、以下の陸行ルートが浮き彫りになるであろう。
末蘆国−
−東南五百里−小城伊都国−
−東南100里−佐賀市奴国−
−東行100里〜吉野ヶ里南の神埼市〜六五郎橋渡る〜城島町不彌国−
−東南東陸行〜犬塚〜西牟田〜八女古墳群傍〜八女福島正福寺(次有斯馬国?)−
−ここから南下して熊本南関へ至る
440 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 10:00:24.26
>>439 南関は女王國(投馬國)と狗奴國の境界
>佐賀・筑後平野は1800年のうちに河川の氾濫で埋まり、今のレベルになった。
佐賀・筑後平野の低地部は河川の氾濫で埋まっているのは間違いではない。
しかし一方で、低地部は沈下が続いているので、3世紀の陸地部は現在とは全く異なり、
現在陸の部分が海であったり、現在海の部分が陸であったのである。
441 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 10:24:31.60
>>437 >当時日本に、国がちょうど30国しかなかったってのはおかしな話だな
>国造がまだ統治権をもっていたはずだ
3世紀の魏は、倭地についての認識が30ヶ国であったのだ。
認識していた範囲は、「周旋可五千餘里(道程400km)」であるから、
壱岐対馬、福岡平野周辺、筑紫平野周辺、熊本平野北半である。
長崎県地域(壱岐対馬を除く)と筑豊が、魏の倭地認識範囲に入っていたかどうかは不明。
442 :
九州王:2014/01/29(水) 10:30:40.89
「今使譯所通三十國」
倭に30か国しかないとは書かれていない
魏が知っている国邑が30か国
他にも知られていない多くの国邑が在った
443 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 11:12:43.65
>>442 「今使譯所通三十國」
倭地についての認識が30ヶ国≠倭に30か国しかない
倭地についての認識が30ヶ国=魏が知っている国邑が30か国
「他にも知られていない多くの国邑が在った」 とは書かれていない。
444 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 11:36:41.44
倭、倭国、倭地、倭人、倭種、倭王、倭女王
倭人伝においてはそれぞれ意図するところを変えている。厳に区別して引用すべし。
>>439 デマでもなんでもなくつい最近(1700年くらい)まであのへんは広大な干潟だった。
江戸時代だから記録が残っている。
干潟に国が立てられるわけがない。満潮時の陸に家を立てるからな。
だから、九州説であそこの平野に伊都国はない。
あるとすれば、伊都国は大村あたり。奴国は諫早あたり。
だが該当地名がない。
446 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:19:25.43
>デマでもなんでもなくつい最近(1700年くらい)まで「あのへん」は広大な干潟だった
5mがデマだと言ってるのだ
ついで聞くが佐賀筑後平野には結構起伏高低差があって、一律均平ではない。
「あのへん」とはどのへんか??
港町は天然の波止場である入江、湾部に作られるが、干潟は嫌われる。
よって有明海沿いに採集でなりたっていた国はあっても、港町はない。
よって長崎県に伊都、奴がなければいけない。
しかも有明海の広大な干潟を見れば一言くらいあってもよいが何もないから
大村湾沿いに歩いたと思われ。しかもその方が壱岐から松浦、松浦から大村と
きちんと同じ方向へ東南行しているのが分かる。
449 :
落武者満州:2014/01/29(水) 12:55:07.82
だから、魏使がとことこ東南の方向に歩きました、
とはどこにも書かれていないのに(憫笑)
450 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 13:00:00.86
>>447 >当時の海岸線は、海抜4mの等高線、現在の国道264号線とほぼ一致しており、
>国道に沿った一帯ではたくさんの貝塚が見つかっています。
貝塚は海岸線にできるものではない。
渚で貝を集め、背負ってえっちらおっちら湿地帯を横切って集落まで持ち帰り、
茹でて貝殻だけを傍に捨てたのが貝塚。
貝塚は定住集落線を意味する。海岸線ではない。九州農政局の解説は安直過ぎる。
>>435 この地図の海抜ゼロは満潮時、だから+5mの地図で見るのは過大
また、今は排水機械があるので、ゼロメートル以下を含めて干拓というが、
昔(明治以前)は排水ポンプがなかったのでそれはできなかった。
九州農政局がここで干拓と言っているのは、自然排水可能なある程度の海抜を有する半湿地帯の耕地化のこと。
佐賀筑後平野特有のいわゆるクリーク式の干拓(より正確には半湿地=牟田の開拓)であったのであろう。
451 :
九州王:2014/01/29(水) 13:04:55.89
魏使は帯方郡から船で直接倭を目指したので大型の船でも付ける天然の良港である呼子に上陸した
当時、唐津付近では砂地で大型の船の付ける港が未整備
そこから南に向かい東に折れ前原付近の伊都国に付く。
縄文中期は海岸線が5メートルぐらい高かったけど
弥生時代は今と同じ
よって邪馬台国の時期の海岸線も今と同じ
>>450 別に海岸線に貝塚があるとは書かれていないけど?
貝の採集をして暮らしていた人たちが海岸沿いに住むことはおかしくないし
その集落に貝捨て場があったとしてもまったく問題ない。
地図はふつう満潮時の海岸線を書くから、干潟は地図にかかれてある海岸線からプラスして
考えなければならないよ。つまり、干満差は土地によって異なるが、
干満差6mの土地ってのは地図の海岸線から6m下った土地が干潟として存在することを意味している。
つまり、かつて有明海には広大な干潟が存在していて、そこでたくさんの貝がとれていたということ。
海抜セロm地帯をご存知だろうか?佐賀平野は濃尾平野に次いで広いということを
承知しておいてください。
454 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 13:47:04.64
>>451 >魏使は帯方郡から船で直接倭を目指したので大型の船でも付ける天然の良港である呼子に上陸した
>当時、唐津付近では砂地で大型の船の付ける港が未整備
3世紀の唐津では、松浦川河口には天然の良港となる古松浦湾があった。
元寇の頃でも未だ古松浦湾が残っていたのである。
元寇の頃でも中原遺跡が津であったことを示している。
中原遺跡で上陸した魏使は、東南方向500里にある伊都國に陸路歩んだのである。
>>453 干満差6mってのは有り得ない
せいぜい2メートル
457 :
九州王:2014/01/29(水) 14:24:59.05
>>455 呼子より更に東端に位置する唐津付近が中心地であった可能性は極めて低いってことですね
>>454 中原付近は砂浜で小さな漁船ならいざ知らず大きな船は入港できそうになく
天然の良港である呼子が古代から大型船が入港できそうな唯一の港だな。
458 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 14:29:07.86
宮崎大学跡地の遺跡は、どうなのかな?
宮崎大学って全国の報告書電子化してるの?
よくわからないな。国会図書館行ってみるか?
460 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 14:56:51.81
>>453 繰り返すが、海岸線=貝塚と読める記述である
>当時の海岸線は、海抜4mの等高線、現在の国道264号線とほぼ一致しており、
>国道に沿った一帯ではたくさんの貝塚が見つかっています。
居住線と満潮時の海岸線との間には、ゼロ〜4メートルくらいの葦原のような地帯(地元の言葉で牟田)があったのであろう
そしてその地帯は、クリーク方式(排水路掘削)によって比較的簡単に乾陸・水田化できたのであろう
これは主として
>>447の干拓の歴史図の黄色の部分
ゼロメートル以下の本当の海面下地帯が
オランダ方式で農耕地にできたのは近代的な電気/エンジン揚水ポンプが導入されてからのことで、
同じ佐賀平野と云っても古代定住線からはかなり沖合のこと
(概ね 同上447図のピンクより沖合)
すなわちこの図をもって、古代には、
現在の国道264号線とほぼ一致する貝塚の線まで満潮時の波が打ち寄せていたとは言えない
此処の黄色とピンクのちがいははっきり区別しなくてはならぬ
461 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 14:57:11.02
>>450-453 佐賀・筑後平野の低地部は河川の氾濫で埋まっているのは間違いではない。
しかし一方で、有明海沿岸に近い低地部は沈下が続いているので、
3世紀の陸地と海の境界は、現在とは全く異なっており、
現在陸の部分が海であったり、現在海の部分が陸であったりしたのである。
ttp://flood.firetree.net/ これで弥生時代の佐賀の地勢を見れば分かるが
佐賀が海岸からつきでた半島の先にある感じになっている
干潟が天然の堀になって攻め込みにくい地勢をつくりだしているのが分かる
ここに肥前国の国衙がおかれた理由が分かるというものだ
ちょうどモンサントミシェルのような都市だったのだろうな佐賀は
だが、そう考えればここが港になりえないということも分かる。
つまり、伊都国ではありえないということだ。
463 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 15:16:28.30
>>462 佐賀が半島の先にあると見るには、海抜何メートルで読めばよいのかなあ。
それと、
>つまり、伊都国ではありえないということだ。
ここは放射説↑で読む場合の伊都国という意味であろうなあ
ま、順次読みなら佐賀(伊都国)に良港はなくても差し支えないであろう、記事の状況からして佐賀は奴国か?、
464 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 15:23:54.76
465 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 15:28:23.64
>>462 伊都國に港があったとは魏志倭人伝の何処にも書いていない。
「伊都國に港があった」は君の妄想。
港があったのは末盧國である。
ttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2703 >また肥前風土記の佐嘉郡の条には、「昔者、樟の樹一株この村に生いたり。幹枝も秀高く、茎も繋茂れり。
>朝日の影には、杵島郡の蒲川山を覆い、暮日の影には、養父郡の草横山を覆えり」と書いてある。
>なお本町北部方面は往昔渺茫たる海原であり、日本武尊川上梟討伐の折、上陸した地点が蛎殻が
>特に多かったそうで、それに因んで蛎久と呼ばれその地名が今もなお残っている。
この記述が的確だな
杵島郡は佐賀市の西にある郡、養父郡は佐賀市の東にある郡。
佐賀市は杵島郡と養父郡の中間にあり、朝は西の杵島郡に日が差すのを臨み、
暮れは東の養父郡に日が差すのを臨むことができた。中間に何もないということで干潟が広がっていたと言える。
しかも本町(鍋島町)の北は海が広がっていてるとあるから、
佐賀市は満潮時は陸地から孤立していた島であったことが窺える。
467 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 15:36:57.72
福岡の方が海抜は低いぞ
>>465 伊都国から東南に不弥国じゃないのか?
干潮時に渡るにしても、100里先も海の中だぞ
順次読み
伊都国から東南百里に奴国、奴国から東に百里に不弥国
放射読み
伊都国から東南百里に奴国、伊都国から東に百里に不弥国
伊都国を佐賀に比定するなら、どちらも無理だ。
だから九州説に立つならば、伊都国は長崎になければならない。
グッバイ佐賀県民。ようこそ長崎県民。
470 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 15:47:40.31
>>464 +1mの航空図はビューデイフル
これを見ると、佐賀・伊都国−大川・奴国−筑後・不彌国もありかな
いずれにせよ佐賀市モンサンミシェルはキーポイントだなあ
471 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 15:54:55.80
>>466 肥前風土記の記述は8世紀。
少なくとも7世紀の記述、古く見ても6世紀までは遡れない。
3世紀の状況説明に7世紀の資料は使えない。
「佐賀市は満潮時は陸地から孤立していた島であったことが窺える。」
これも君の妄想。
佐賀市(現中心部)の北を嘉瀬川が流れていた時代はあるが、
3世紀に何処が海だったかは判らない。
ボーリングデータから3世紀頃の佐賀市(現中心部)の東が海だったことは判っているが。
472 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 16:01:17.99
>>469 >放射読み
>伊都国から東南百里に奴国、伊都国から東に百里に不弥国
伊都國は佐賀市大和町(肥前国庁跡付近)である。
>>471 いや、地質学からのアプローチも文献学からのアプローチも
俺が正しいことを証明しているわけだが・・・
しかも有明海は干潟があるために港町に向いていないと既に述べた
奴国が大川市ということはありえない。
しかもこれほどの干潟は世界でも珍しいわけで言及しないのはおかしい
474 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 16:15:20.58
>>473 伊都國は佐賀市大和町(肥前国庁跡付近)であるから、
奴國は佐賀市(現中心部)となる。
福岡だって巨大な干潟だぞ
今よりずっと内陸部まで海だった
佐賀平野が無理ならもっと無理
476 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 16:18:03.31
>>474 違うと思うな
伊都国が吉野ヶ里辺りで
奴国は久留米から八女に掛けてだろう
477 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 16:29:00.71
>>474 あら・・。国衙は佐賀城からは離れていたのか
ということは、やはり佐賀城はいざというときの守りの砦的な立場だったのね
少なくともそういう立ち位置で沿革がはじまっているということ。
で国衙は平地に築いたと。まあ合理的だな。
まあ、それでも残念ながら佐賀城が奴国にはならないな。
伊都国に千余戸、奴国に二万余戸ねえ・・・
ふつー逆だろうな
博多が良港なのは理由があるってこったな
地形的に波は穏やかだろうし、干潟ができない分、大きな船も乗り入れやすい
480 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 16:52:59.75
>>474 >伊都國は佐賀市大和町(肥前国庁跡付近)であるから、
>奴國は佐賀市(現中心部)となる。
伊都国東南100里に奴国だから、佐賀大和の南にあたる佐賀市が奴国はちとキツイ
481 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 17:39:35.73
佐賀の東名遺跡が、縄文時代の海岸遺跡。
いまでも低地で、大雨で水害が起こるため、
川の流量を超えた水を一時的に貯める
大規模貯水施設を作っている時に見つかった遺跡。
482 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 17:44:01.32
福岡市の西区、今の早良区の生まれだが、
西新のすぐ向こうは海だった。
散歩して、砂浜に小さなカブトガニがぽつんぽつんといたのが、
子供の時の記憶だ。
483 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 17:51:54.54
佐賀城横の与賀神社には、樹齢1400年のクスノキがある。
その頃には集落が存在したということだろう。
484 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 18:03:00.85
海抜2mで見ても、佐賀は有明海に突き出た半島状態
古代からの優良居住地だったのだろう。
また、久留米市城島町も東から有明海に突き出た岬状態。
この両者の間には筑後川があるので渡河に必ず船がいる、
それを考慮すると、もしかして佐賀(奴国)−城島(不彌国)間は川船行だったのかもしれない。
485 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 18:21:03.53
嘉瀬川上流の與止日女神社と与賀神社は、
上社、下社の関係にある。
與止日女神社の大和町と与賀神社の佐賀市、
(今では両方共佐賀市だが)
同じ国と思って良いと考える。
486 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 19:08:34.89
>>485 與止日女神社と与賀神社は、ある時期の嘉瀬川の上流と下流の位置関係。
>>481 佐賀の東名遺跡は嘉瀬川の流路であった時期(紀元後)もある。
>>480 >佐賀大和の南にあたる佐賀市が奴国はちとキツイ
佐賀大和惣座肥前国庁跡の伊都國城柵は佐賀城の奴國城柵の南南東であるから、
八方位表現では南東である。
487 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 19:20:55.31
>佐賀大和惣座肥前国庁跡の伊都國城柵は佐賀城の奴國城柵の南南東であるから、
>>486 まあ、落ち着いてお書きなされ
正:佐賀城の奴國城柵は、佐賀大和惣座肥前国庁跡の伊都國城柵の南南東であるから、、、
奴国は福岡の大部分だろ
人口2万戸ならそれぐらいが妥当
489 :
大和 田直木:2014/01/29(水) 23:01:06.84
>>487 修正ありがとう。
>>488 奴國は佐賀平野中部西部。
佐賀平野東部の南部は有明海、
その北部背振山地山麓にへばりついているは不彌國千家。
佐賀平野中部背振山地山麓にへばりついているのは伊都國千戸。
490 :
筑紫倭皇帝:2014/01/30(木) 18:37:04.69
今年一月の最低気温 1日〜30日までの実気温
宮崎
6 3 3 6 3 2 1 10 7 −1
−2 4 2 3 0 −1 1 1 −1 0
7 0 −1 0 4 9 −1 1 3 9
佐賀
5 3 3 4 2 1 1 7 5 1
1 −1 0 1 3 −1 0 1 1 1
3 −1 −3 0 7 8 1 2 2 9
福岡
10 5 3 5 6 5 5 8 6 2
2 2 3 2 6 1 2 4 5 2
3 1 1 2 8 10 2 3 4 9
福岡だけ安定して温暖すぎ。
そして佐賀宮崎は寒すぎww
福岡の冬はほんとに温暖だな。
491 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 18:49:18.44
昼間は曇って寒いけどな
492 :
風の中のゴキブリ:2014/01/30(木) 18:53:25.34
>>490 おい、チンカス
何またコテつけてんだよ
オマエみたいな雑魚はコテなんかつけなくていいから
どうせすぐに逃亡して名無しに戻るくせに
493 :
筑紫倭皇帝:2014/01/30(木) 19:04:22.83
>>492 ば〜か。
もう答えは出てるのに長居する意味はね〜だろw
お前らみたいな佐賀や宮崎のアホどもは必死だろうがなw
いい加減おまえらのキチガイ説佐賀宮崎説はあきらめろよボケw
たまに俺がお前らのようなキチガイ矛盾だらけのアホ説以外の説を書いてやるよ。
まあ必死に博多湾岸説にからんでもお前らには何の説得力も勝ち目はないがなw
あんまりアホにならずにがんばれキチガイw
直感的に福岡がそんなに温かいはずがないんだよな。
宮崎や鹿児島より福岡が温かいのは変だ。
佐賀と宮崎で一度しか違わないのに、
佐賀と福岡で三度以上違う。
福岡の観測地点が町中で、
ヒートアイランド現象を観測してるのでは?
福岡はチャカ持ったやつが闊歩する
熱い修羅の街
496 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 19:39:03.27
福岡のデータは、ところどころマイナスが抜けてるんだろ
497 :
筑紫倭皇帝:2014/01/30(木) 19:46:49.19
>>494 >福岡の観測地点が町中で、
ヒートアイランド現象を観測してるのでは?
それを言うなら、福岡の観測点は広大な大濠公園を挟んで
街(天神や博多)と反対側にある。
街は暖かいが広大な大濠公園という緩衝帯があるため
実際の中心部より低いと考えるのが妥当。
498 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 19:47:40.59
雲があるんで放射冷却等がないからと思う。
最高気温は当然南九州の方が高いと思うし
昼の体感温度は福岡と宮崎では全く違う。
499 :
筑紫倭皇帝:2014/01/30(木) 19:54:36.32
500 :
筑紫倭皇帝:2014/01/30(木) 20:12:45.44
>>498 違う違うw 君たちに本当の事教えてやろうか?
福岡の北側には対馬海流という暖流が流れてるからなんだよ。
そして福岡に雪が降らない(積もらない)理由もきちんとあるんだよ。
それは大陸からの雪雲が朝鮮半島にぶつかり雪を降らす。
そしてその後は大陸と福岡が近いため雪雲が海から十分に水分を吸収できず
福岡に到達するため雪を降らす力がない。
さらには福岡は気温が温暖な為その力の弱い雪雲に大雪を降らせる力がないんだよ。
そういうカラクリさ。
それと、宮崎や大分熊本有明では度々震度4程度の地震が起きる。
そういった記述も過去の文献に載ってないのも宮崎等は無い根拠にもなるな。
ちなみに、福岡は全く地震が来ない。震度1程度の地震でもだ。
日本でも一番地震がない地域といってもいい。
ちなみにあの西方沖地震は数万年〜数千年(4〜8千年)単位で起きた極々まれな地震だ。
ちなみに邪馬台国等の時代は2千年前。
もちろん地震は皆無であったろうな。
数年ごとに起きる地震なら過去の文献に「誰々が死に大地が怒る不思議なことが繰り返された」等々
の記述があってもおかしくない。
そういった記述がないという事は邪馬台国や天孫族は福岡のような全く地震が無いような
所で興ってた事実だろうな。
501 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:20:29.40
>>500 ハハハ、そうかい
んじゃ、このような日本神話の舞台に福岡は縁遠〜いんだなwww
>古事記天照大~と須佐之男命冒頭
>「故於是速須佐之男命言、然者請天照大御~將罷、乃參上天時、山川悉動、國土皆震。」
>ゆえに、ここにおいて、はやすさのおのみこともうさく、しかればあまてらすおおみかみまさにまからんことをこう
>すなわち天に参上する時、山川ことごとく動き、国土みな震える。
502 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:32:01.38
>>500 で、最高気温や平均気温は福岡の方が高いのか?
福岡の雪日数は奈良とたいして変わらない。
あと潮満珠は太平洋岸の津波を思わせるな
暖流の対馬海流の風下に位置する福岡は緯度の割りに温暖。
佐賀や熊本より福岡の方が冬暖かいという逆転現象を起こしてるね。
二日市や大宰府は九州の中では、
豪雪地帯です。
両方から山に挟まれてるせいかね。
505 :
大和 田直木:2014/01/31(金) 00:21:46.78
両方から山に挟まれてるからではないが、雪を降らす気流が発生しやすい。
海から吹き寄せる風が山にぶつかって上昇気流になるとき、雪雲が発生して雪を降らす。
506 :
大和 田直木:2014/01/31(金) 00:37:55.61
竪穴式住居の穴の深さと冬の気温は反比例する。
穴の深さ
壱岐 > 福岡平野 > 筑紫平野
冬の気温
壱岐 < 福岡平野 < 筑紫平野
507 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 03:00:18.02
魏志を読むと、卑彌呼の時代まで、王が血でつながるということは
ないようだ。トヨは中国が後ろ盾でたてたので、宗女とあるように
血がつながってる。当時の中国での考えだと思う。
卑彌呼は夫壻なし、と書いてるのは、中国では王は血がつながるのが
普通なので気になったのであろう。
記紀などで天皇が万世一系になってるが、卑彌呼以前の部分の天皇は
創作と考えていいと思う。
508 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 05:26:12.91
>>506 大和 田直木は視野の狭い精神異常者キチガイであることがまた証明されたなww
>>490のデータを見て佐賀のある筑紫平野が福岡平野より温暖とはww
大和 田直木は視野の狭い必死なキチガイ。
矛盾だらけのアホ自説を必死に展開するキチガイアホ確定。
509 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 05:33:56.93
低能 大和 田直木 仕様
今年一月の最低気温 1日〜30日までの実気温
宮崎 (宮崎平野)
6 3 3 6 3 2 1 10 7 −1
−2 4 2 3 0 −1 1 1 −1 0
7 0 −1 0 4 9 −1 1 3 9
佐賀 (筑紫平野西部)
5 3 3 4 2 1 1 7 5 1
1 −1 0 1 3 −1 0 1 1 1
3 −1 −3 0 7 8 1 2 2 9
福岡 (福岡平野)
10 5 3 5 6 5 5 8 6 2
2 2 3 2 6 1 2 4 5 2
3 1 1 2 8 10 2 3 4 9
福岡(福岡平野)は安定して温暖すぎ。
そして佐賀(筑紫平野)宮崎(宮崎平野)は寒すぎww
福岡(福岡平野)の冬はほんとに温暖だな。
510 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 05:48:37.33
>>507 いや、卑弥呼と天皇とは何の関係も無いと考えるべき。
511 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 07:37:56.54
筑紫平野は九州の平地の中で一番雪が降る所。
それより北で、日本海側の博多湾沿岸や糸島の方はあまり雪が降らない。
何でかなぁ、と不思議に思ってたが、対 馬海流のおかげだったんだ
>>511 八女や久留米、佐賀はほとんど雪振らないよ。
降るのは二日市、太宰府くらい。
あとは日田など山間部くらいかな。
513 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 09:59:32.55
久留米は降るでしょう。
まあ、しょせん九州だから、どっちが多く降るか?といった違いでしかないが。
佐賀も脊振山北側よりは南側の方が多く積もってる。
514 :
大和 田直木:2014/01/31(金) 10:30:26.74
>>509の今年1月の気候は異常気象と言う。
>>512 八女や久留米、佐賀はほとんど雪振らないね。
冬の福岡平野はどんより曇っていたり雪がチラついたりして肌寒いことが多いが、
基山(背振山地南麓)より南の筑紫平野では雲間から日も照りポカポカ暖かくなる。
桜の開花時期も違うね。
福岡平野は五分咲き、筑紫平野は満開、熊本市では桜の花は散ってしまっている。
背振山地の北と南では野生の植物相が異なる。
野生サザンカの北限も背振山地南麓の筑紫平野。
千石山サザンカ自生北限地帯は、東背振トンネル有料道路南出入口の
道の駅吉野ヶ里の近く。
515 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 11:22:12.29
>>514 こいつまじバカじゃね??ww
キチガイが必死こいてんじゃね〜よw 精神異常者がw
久留米佐賀朝倉をはじめ筑紫平野は雪が降るとき一番あぶね〜平野だろうがww
そして筑紫平野は冷え込みもハンパない寒い所。
桜の開花??
お前マジでキチガイだなw
福岡をはじめとする博多湾岸は日本でも一番に開花する(毎年3位以内に入るような)
地域だろうがww
こいつはマジキチの低能野郎だなww
こいつ 大和 田直木 の佐賀キチガイ説がいかに適当かよくわかるレスだなww
こいつの佐賀説が俺が普段から適当だと言っているのを証明するような 大和 田直木 のキチガイレスだなw
516 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 11:33:13.97
筑紫倭皇帝 と 大和 田直木 は仲良し兄弟!!
517 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 11:34:36.71
大和 田直木は自身の佐賀説をはじめ
平気で嘘を真(まこと)かのようにレスするキチガイ野郎。
オオカミ少年であることがよくわかる。
518 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 12:03:18.74
>>514 >今年1月の気候は異常気象と言う。
2012年1月の最低気温 1日〜31日の実気温
佐賀(筑紫平野西部)
5 2 2 1 −2 −1 0 0 5 1
1 0 1 0 4 7 0 2 8 8
5 6 3 1 1 −1 0 2 3 1 −2
宮崎(宮崎平野)
4 2 4 5 −2 1 −1 0 5 4
5 −2 3 0 6 5 3 2 9 10
6 6 5 −1 2 −4 0 5 4 1 0
福岡(福岡平野)
8 4 4 3 4 2 3 2 8 4
5 2 5 4 5 6 2 5 8 9
5 7 4 2 2 2 2 4 3 3 1
また 大和 田直木 のホラが立証されました・・・
しかし福岡の冬はほんと安定して温暖だな。
2014年も2012年も冬日なし。
冷え込みがなく弥生期も住みやすい土地だったことに間違いはない。
しかし佐賀(筑紫平野)も宮崎(宮崎平野)も寒すぎ。
しかしこの 大和 田直木 のキチガイはどうしたらいいものかww
こういう 大和 田直木 のようなホラ吹きは永久追放だな。
519 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 12:21:14.96
2012〜2014 のわずか一月分だけを取り出して、三世紀数十年の気象を論じてどうなるものか
豊葦原の葦の髄から天を覗くが如し
兄弟仲良く消えてくれ!!
520 :
満州中尉:2014/01/31(金) 12:30:25.37
大和田直木タンは方向と距離だけで比定している小学生。
筑紫倭皇帝ドンは古田の福岡説にかぶれているだけの古田信者。
どっちもどっちでどっこいどっこいの同レベル(笑)
521 :
満州中尉:2014/01/31(金) 12:41:25.92
昔の九州論者は倭人伝に出てくる倭の旁国の地名を一生懸命探したものである。
ポクも「地名で読み解く邪馬台国」とかなんとかいう本を読んだことがある。
しかし結局、九州説にしろ畿内説にしろ、明解は得られていないのである。
そうすると、これらの旁国は日本ではない、と考えるのも一案である。
たとえば満州朝鮮の国ではないか、とか、フィリピン方面ではないか、とか。
522 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 12:49:54.03
>>521 土の中をみろ。
博多湾沿岸にもう答えが出てるだろ。
おまえみたいなバカ半島工作員はお呼びでない。
523 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 12:52:16.29
まあ半島も博多湾沿岸に都(中心地)があった倭国が作ってやった国だがな。
524 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 13:40:25.48
邪馬台国論争の中に割り込んでひっかきまわしただけ、
今となってみれば、古田の福岡説はそんな位置づけに過ぎぬな(涙。。。
525 :
大和 田直木:2014/01/31(金) 14:29:55.43
>>518 2012年も今年以上に異常気象と云われた。
西部日本太平洋岸の桜満開が3月だったところが多かったな。
20世紀末頃からやたら温暖化し、開花満開時期と地域の変動が著しい。
526 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 15:39:51.98
>>525 おいおい、異常気象って地球規模の・・・・wwww
このキチガイにはつける薬がないw
博多湾沿岸が気温が高いとわかると異常気象とかwww
あのな、福岡は沿岸に対馬海流が流れるから冬も温暖湿潤が保たれてんだよ。
佐賀が福岡より寒いと生まれて初めて分かると異常気象と連呼する精神異常佐賀説論者 大和 田直木 。
異常はお前の脳みそだけなんだよ。 知識の薄い低能かなw
毎年全国トップを争う桜の開花の博多湾沿岸を
佐賀が満開になった時博多は5分咲きとか平気で嘘をこいたり、
隣同士の自治体福岡と佐賀が異常気象で気温が違うと低能丸出しで必死に自論を展開したり、
佐賀説や宮崎説を唱えるやつらが普段どれだけインチキで根拠のないキチガイ説を
展開しているということがよくわかる一連のやり取りだったな。
佐賀説宮崎説は精神異常者が唱えるインチキキチガイトンデモ説って事だな。
527 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 15:45:18.74
大和 田直木 のキチガイ低能脳では
異常気象=博多湾沿岸だけの気温 らしいww
このようなとんでもない視野の狭いバカが佐賀説や宮崎説の実態である。
ほんとに佐賀説や宮崎説を唱えるやつって自分の田舎しか見えていない視野の狭いバカばっかだなw
528 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 15:54:25.38
新羅の王は倭国の北東1000里のたまな国から来た人物。
倭国の都中心地=博多湾沿岸 その東北のおおよそ1000里
宗像一族の宗像市の田熊(たぐま)から渡った(赤ちゃんの頃流された)人物だろうな。
529 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 15:58:09.30
古田の下僕だった者が自称・筑紫倭皇帝に躍り出たか
下剋上、世も末じゃな
530 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:08:27.57
1981年〜2010年(30年) 1月
平均 最高 最低 日照時間 雪日数
福岡 6.6 *9.9 3.5 102.1 6.9
博多 6.2 *9.9 2.3 no data
佐賀 5.4 *9.8 1.3 124.3 6.4
宮崎 7.5 12.7 2.6 182.8 0.5
九州や四国など暖かい地方では、秋から冬にかけての期間が
暖かく経過した年は、春先の気温が高く経過しても開花が
遅れる現象が起きることが経験的に知られていた。これは
休眠打破が不十分であったために生じる現象で、暖地の
開花予想を難しくしている要因である。
--気象庁 新しいサクラの開花予想--
単純に開花が早い方が暖かいというわけではない。
531 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:17:50.30
宮崎、熊本に比べれば、福岡は北極並みの寒さではないかw
気象データから見ても、邪馬台国は熊本、投馬国は宮崎に決まりだな
532 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 16:18:31.55
>>530 そんな単純な知識は俺の知識の中にもうとっくの昔(子どもの頃)に入ってるよw
佐賀説宮崎説のキチガイどもに言え。
とくに 大和 田直木 というキチガイにな。
>>514 >桜の開花時期も違うね。
福岡平野は五分咲き、筑紫平野は満開、熊本市では桜の花は散ってしまっている。
>>530 そのお前のデータも俺が言ってる事を見事に立証しているデータだな。
しかし、なんだその福岡と博多の区別はww
そんな区別はいらね〜よ。
福岡のデータは北九州や久留米とか書いてない限り基本は気象台のある福岡平野だろw
533 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 16:25:22.14
>>531 ぷw
ほんと佐賀宮崎熊本説のやつらってなんの知識もない(自分の田舎しかしらない)
低能ばっかだなww
そんなやつらが邪馬台国とか語るなっての。
お前らの薄い知識でただ「邪馬台国や天孫族が地元だったらいいな」程度の憧れで
必死にアホどもが邪馬台国を語るな。
熊本みたいな盆地は宮崎や佐賀以上に連日氷点下連発で九州の県庁所在地じゃ
冬は極端に寒く夏は暑い最悪の土地だろw
おまえらってそんな基礎知識すらしらね〜低能なんだな。
お前らのようなアホは消えろ。 邪馬台国を語るな。 時間の無駄だ。
534 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 16:26:25.41
2012年1月の最低気温 1日〜31日の実気温
佐賀(筑紫平野西部)
5 2 2 1 −2 −1 0 0 5 1
1 0 1 0 4 7 0 2 8 8
5 6 3 1 1 −1 0 2 3 1 −2
宮崎(宮崎平野)
4 2 4 5 −2 1 −1 0 5 4
5 −2 3 0 6 5 3 2 9 10
6 6 5 −1 2 −4 0 5 4 1 0
福岡(福岡平野)
8 4 4 3 4 2 3 2 8 4
5 2 5 4 5 6 2 5 8 9
5 7 4 2 2 2 2 4 3 3 1
また 大和 田直木 のホラが立証されました・・・
しかし福岡の冬はほんと安定して温暖だな。
2014年も2012年も冬日なし。
冷え込みがなく弥生期も住みやすい土地だったことに間違いはない。
しかし佐賀(筑紫平野)も宮崎(宮崎平野)も寒すぎ。
しかしこの 大和 田直木 のキチガイはどうしたらいいものかww
こういう 大和 田直木 のようなホラ吹きは永久追放だな。
筑紫倭皇帝は、なかなかイイ線いってると思うが、
怒りっぽいのが短所だなあ
もう少し、穏やかにやれんかの
536 :
筑紫倭皇帝:2014/01/31(金) 16:43:37.51
>>535 いや、頭が悪すぎる人たちを相手にするとダメなんだよね。
俺の悪い所だよ。
悪い。
537 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 16:53:34.76
中九州・南九州の台頭で近畿説がせっかく戦意喪失しかけてるのに
北部九州説は九州説の足を引っ張ることはしないでもらいたい。
538 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 17:06:52.20
古田と信長の血筋は、どうして気が短く怒りっぽいんだろな
どうせ血圧も高いんだろしな
539 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 17:44:53.54
例えば、後の大和朝廷の遣唐使のように
権力者が九州を利用出来るのであれば、九州を利用するのは当たり前
しかし問題は、権力者が九州を利用出来ない場合に、その権力者は大陸との行き来が断たれるのかどうか
権力者が九州を利用出来ないと、大陸との行き来が出来ない・・なら、九州は邪馬台国だっただろうが
九州なんか利用出来なくても、権力者は大陸との行き来が出来る・・なら、別に九州は邪馬台国じゃなくても良い
540 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 18:00:13.67
魏志倭人伝で「王」がいると記されているのは伊都國と女王國と狗奴國の3っつ
しかし『隋書』倭国伝では
三国魏の時代(220年 - 265年)は、通訳を伴って中国と通じた倭国は三十余国あって、皆が王を自称した
とある
それ以前の話として、後漢の
光武帝の時(25−57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。
安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
とあり、
後漢書倭伝にも、
建武中元2年(57年)、倭奴国の使者が、貢ぎ物を奉げて光武帝のもとに挨拶にきた。
使者は大夫と自称した。倭奴国は倭国の一番南の地である。
光武帝は倭奴国王に印章と下げひもを賜った。
安帝の永初元年(107年)、倭国王の帥升は奴隷160人を献上して、皇帝の謁見を願ってきた。
とある
これらの国々は、すべて、北部九州を利用して、大陸との行き来をしたのか
>>537 確かに畿内説は戦意がない。
既に九州説をまともな相手とは思ってないからなw
542 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 18:49:55.41
畿内説の本音を( )で補いました。
>確かに畿内説は戦意がない。
>既に九州説をまとも(に当たって勝てるよう)な相手とは思ってないからなw
543 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:00:24.77
後漢の時代では、漢に朝献した倭国は、九州の倭奴国一国だけで、漢はその国を倭国王とした・・・けど
三国魏の時代には、邪馬台国と同じように、通訳を伴い、魏に朝献したのは三十余国。皆が王を自称した・・・
つまり、邪馬台国の他に30ヶ国以上の倭の国が、入れ替わり立ち替わり魏の皇帝に使いを送り、
皆が「自分が倭国の王様だ」と言っていたわけだ
魏は220年 - 265年だから、その間わずか45年
その中から魏は、対馬国から奴国まで、二十国弱を支配下にしていた邪馬台国を倭国王とした
しかし、その邪馬台国連合にいる王様は、卑弥呼と伊都國の2人だけ
残りの28人以上が魏に通訳を伴い朝献して、オレは王だと自称している
邪馬台国が対馬を押さえているのに、28人は、どうやって魏に渡った????
28ヶ国もが王様だと魏に通訳を伴い朝献するのに、邪馬台国はそれらの国々に対馬を使わせた????
544 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:07:05.28
去年の今ごろ、宮内庁から立ち入り調査を許可されて、
マスコミはじめ畿内説の面々は、今にも箸墓が卑弥呼の墓と決まりそうな勢いだったものなあ。
それが何かのきっかけで一気に逆風に見舞われ、一年後には戦意喪失ときたもんだ。
一説には宮内庁が仕掛けた2ちゃん工作の成功とも言われたが、
さてどこが節目だったのか!?
△鏡、箸墓、年輪、桃の種、鯖の骨など、畿内説は詐欺の新ネタ繰り出して勝負するしかないんだよ。
勝手にありもしない状況を妄想して
それが否定されたって喜んでるのって滑稽だね
547 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:27:07.42
>>546 よくわからないカキコだ
それって、畿内説なんて最初からなかったと読めるけどな
549 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:34:54.96
ここで興味深いのは、大陸の史書の、各年代によるルート記述の変異だ
大陸の史書によれば、大陸から日本に取り付く拠点は
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝では、対馬國→一大国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬壱國
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝では、一支国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬臺国
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→十余国を経て奈良
と変遷している
ここで2つの問題が生じる
ひとつは、一大国と一支国は、果たして同じ島なのか
邪馬台国は当初、大陸から海を渡る場合、対馬→一大国という2島をルートを使用していたが、その後、一支国という別の島を使うルートを開拓したのではないか
もうひとつは、日本本土である末廬国・伊都国と竹斯国・秦王国は、果たして同じ地域だったのか
奈良から九州まで平定した大和朝廷は九州(竹斯国・秦王国)を利用したが、邪馬台国は九州は使用していなかった(末廬国・伊都国)のではないか
これらの疑問は、
九州を勢力下に置いていなかった畿内の邪馬台国は、魏との行き来のために当初、対馬→一大国という2島をルートを使用して、九州ではない本州に上陸していたが、
その後、対馬・一大国という2島を使えなくなり・・あるいは、九州ではない本州に上陸するのにもっと便利な
別の島、一支国のみを使用するルートに変更した
そして奈良から九州まで平定した大和朝廷の時代になり、一支国はそのままに、日本本土としてより近い九州を利用して、対馬利用も復活した
で解決出来る
550 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:38:54.06
こっちの頭は大丈夫さ。
わけわからんカキコの畿内説脳の方が心配だよ
551 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:51:07.45
>>549 日本の地理歴史に詳しくないようだ。外国のかたでしょうか。
『魏志』倭人伝の、対馬國(対馬)→一大国(壱岐)→末廬国(古松浦の唐津)→伊都国(佐賀平野)→奴国→不弥国→ 問題なし
『梁書』倭人伝の、一支国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→ 上と同じで、問題なし
『隋書』倭国伝の、都斯麻国(対馬)→一支国(壱岐)→竹斯国(福岡)→秦王国(田川香春)→十余国(大分〜中国)を経て奈良
・・・これも問題なし
552 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:54:30.42
>>551 えーーーっと
『魏志』倭人伝の、対馬國(対馬)→一大国(壱岐)→末廬国
『梁書』倭人伝の、一支国→末廬国
これの2つが、どうして同じなの?????
553 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 19:59:07.36
九州説は、そういうところを無視して主張するからバカにされる(笑)
問題無けりゃとっくに論争終わってるよw
所詮はパズルしかやること無いのが虚しいな。
555 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:00:46.02
>>552 半島の釜山から、対馬を経由して一大国(壱岐)
半島の釜山から、潮の都合で対馬をパスして一支国(壱岐)、
あるいは潮の都合で半島の西の別港から船出し、対馬をパスして一支国(壱岐)、
ただそれだけのこと
556 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:10:16.40
そう、つまり、
大陸に行く場合、一番近いのは北部九州
だから、日本列島に取り付く上陸地点、末廬国・伊都国は北部九州だ
なんて思い込みから、全ては始まっている
先入観を捨てて、日本列島に取り付く上陸地点、末廬国・伊都国は北部九州以外と考えれば
魏志の記述でとっちらかっちゃう九州に邪馬台国よりも、
もっととっちらかない邪馬台国の場所がある・・はず
557 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:14:13.91
558 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:21:27.50
邪馬台国に行ったとき(146−189年)の魏志倭人伝では、「伊都国」から
東南に100里→東へ100里→南へ水行20日→南に水行10日と陸行1月
で邪馬台国
「伊都国」が北九州・・なら海の上
「伊都国」が出雲周辺・・なら紀伊半島
559 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:23:14.72
>>557 半島−北部九州間に港となりうる島は対馬と壱岐の2島しかない
魏志倭人伝の行程から見ても一大国は壱岐以外に有り得ない
また一支国も、他にこれという候補が見つからないので壱岐でまず間違いなかろう
他に提案があるなら教えてくれぬか??
560 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:24:22.52
倭人伝の時期には鉄だって出雲方面の方が多くなってるしな。
妻木晩田遺跡なんて吉野ヶ里を上回る規模だ。
561 :
大和 田直木:2014/01/31(金) 20:27:32.69
>>535 >>538 >筑紫倭皇帝は、怒りっぽいのが短所だなあ
>もう少し、穏やかにやれんかの
筑紫倭皇帝氏は壊れたようです。
筑紫倭皇帝氏を壊したのは私の言葉のようです。
>>527 >ほんとに佐賀説や宮崎説を唱えるやつって自分の田舎しか見えていない視野の狭いバカばっかだなw
何度も書いているが、伊都國佐賀説の大和 田直木は奈良の者ですよ。
562 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:28:38.43
>>559 >半島−北部九州間に港となりうる島は対馬と壱岐の2島しかない
どうして、半島−日本列島間じゃなく、半島−「北部九州」間なの????
同時代の関東からは文字が書かれている土器が発掘されているし
東北でも、大陸と交易していた痕跡が見つかっているよ????????
563 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:32:32.34
>>562 誰も他の案を述べていません。
またとないチャンスです、あなたの一大国と一支国提案を述べてください。
564 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:33:57.85
>>562 古代史の基礎知識を身に付けてからにしてくれ
2ch以下
まともな古代史の基礎知識ある奴が九州説を主張する訳ないよw
566 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:46:39.47
567 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:53:36.27
>>565 おお、畿内説のまとも厨よ、
>>541 もチミじゃろ、卑弥呼が去ってしもうてお気の毒よのう
568 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 20:56:37.93
例えばね、邪馬台国が「親魏倭王」になる前、大陸から王とされた「漢委奴國王」は
金印などから北九州を勢力下に置いていて、
北九州を勢力下に置いているならば、大陸との行き来に、対馬・壱岐を当然使うだろう
そしてその次ぎに大陸から王とされた「親魏倭王」の邪馬台国も「当初は」対馬・壱岐を使ったはずだから
邪馬台国の一大国も壱岐であることに異存は無い
しかしその後、梁(502年 - 557年)の時代の邪馬台国の一支国が、壱岐だったのか・・というと疑問が残る
当時の交通は、陸を移動するよりも、船で海上を移動した方が、よっぽど便利で時間も早い
水上はいわば高速道路であり、邪馬台国の他に30ヶ国以上の倭の国が、入れ替わり立ち替わり魏の皇帝に使いを送り、
皆が「自分が倭国の王だ」と言っていた、東北でも、大陸と交易していた痕跡が見つかっているように
当時は大陸と行き来するのに、別にどこから船を出してもかまわないほど航海術もそれなりにあった
となると別に、対馬や壱岐利用に邪馬台国が拘る必要はどこにもない
むしろ邪馬台国が本州だった場合、本州の邪馬台国が大陸と行き来する場合、対馬や壱岐を利用するのは
あまりに不便すぎる
もしも邪馬台国が九州を勢力下に置いていたとしても・・だ
となると、君の言うとおり、その為の一支国はどの島だ・・・果たして、対馬や壱岐以外に利用出来る島は存在しないのか
と言うことになる
569 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:04:51.29
>その為の一支国はどの島だ・・・
>果たして、対馬や壱岐以外に利用出来る島は存在しないのかと言うことになる
激しい対馬海流を横切るとなれば、地元の人間の脳裏には対馬や壱岐以外はなかなか浮かばない
その点、視野の広い地元以外の人に教えを乞いたいわけだ
570 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:06:39.79
で、一支国はどの島なのだ
コメンテイター
実際△が畿内周辺から大量に出土、しかも大半が国産という時点で
畿内にそれを製作出来る技術と技術者がいる訳だ。
少なくとも九州説論者はこの事を前提に話しなきゃな。
いつまでも閉じた九州論じゃもう話にならないよw
572 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:15:10.11
△鏡ねえ、
残念ながら、卑弥呼や台与の葬式には間に合わなかったそうじゃないかww
573 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:17:43.96
574 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:20:33.75
時代錯誤だって?
正に未だに何の進展もなくパズルに興ずる九州説の事ではないかw
575 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:21:12.78
北朝鮮でも日本の中古車は走っておりメンテナンスする者もいる 以上。
もっとも最近は規制されているようだが
576 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:22:00.21
そして、次は一支国の規模だ
一大国は壱岐で、「漢委奴國王」の時も、邪馬台国が「親魏倭王」になった当初(220年 - 265年)も
栄えていた、それなりの海上の貿易島だったことは間違いはない
それでは一支国はどうか
邪馬台国の後期、梁(502年 - 557年)の時代は、大陸と行き来するのに確かに一支国という島を邪馬台国は使用している
しかし、その一支国という島に国に、壱岐・一大国と同じ規模が必要であったのか
一「大」国が担っていた役割は、本土の末廬国・伊都国に引き継がれ、一「支」国はただの中継地の島・・・であれば
一支国は、小さな島でも、本土との距離も、どうでも良くなる
候補は、沖ノ島、見島、隠岐のみならず、もっと本土に近い島でも良い
577 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:24:22.39
おい
>>547 待てど暮らせど、畿内スレが立たないねえ。 可哀そうにのう。
578 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:25:43.19
機内説の人も伊都国は北九州説が多いと思っていたが?
畿内説では△は国産説でいいのだからな。
鍵唐古周辺で作った、日の巫女が配布するに正に相応しい物だろう。
魔鏡は神仙を映し出す、正に抱朴子の記述を裏付けるものだ。
580 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:28:10.70
>>576 >候補は、沖ノ島、見島、隠岐のみならず、もっと本土に近い島でも良い
どうぞどうぞ、お好きな島にお寄りくだせえ。
その後の →末廬国→伊都国→奴国→不弥国→ もお好きなように辿ってくらはい。
581 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:30:21.30
582 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:33:14.74
>>579 >畿内説では△は国産説でいいのだからな。
なんせ卑弥呼より100年ほどのちの日の巫女だから、国産で十分だわな。
>>582 卑弥呼が二世紀の人物だったのか?初耳だ。
584 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:43:29.94
>>576 >当時の交通は、、、、水上はいわば高速道路であり、
当時の船にエンジンはついていない。
しかも海峡は琵琶湖みたいな静水でなく、鳴門海峡に見るような激流が渦巻いている。
その海流を漕ぎ渡るには季節的・時間的・方角的に大きな制約があり、
潮の満ち引きに関する高度な天文知識も必要だった。
それを高速道路だなどと、見当違いもはなはだしい。
585 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 21:57:37.04
そしてもうひとつ、
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝の、対馬國(対馬)→一大国(壱岐)→末廬国
梁(502年 - 557年)『梁書』倭人伝の、一支国→末廬国
で、
邪馬台国が後期、対馬國(対馬)・一大国(壱岐)を使えなくなって、
変わりに一支国という別の島を使ったと推測される理由に
倭の五王(413年 - 478年)讃、珍、済、興、武、がある
晋の安帝時(396−418年)倭王讃がいた。
讃が死に、弟の彌が立った(438年)
彌が死に、子の済が立ち(443年)
済が死に、子の興が立った(462年)
興が死に、弟の武が立って号を征東大将軍に進めた。
この「倭の五王」が、邪馬台国の王ではなかったので
邪馬台国は後期、対馬國(対馬)・一大国(壱岐)を使えなくなって、
変わりに一支国という別の島を使った
586 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:05:23.74
>>581 海流(笑)
当時はもう、海流なんかに影響されないよ
どんな海流が流れていようと、どんな季節風が吹いていようと
ここから目的地に着くための、航海術があった
>>584 当時の船にエンジンはついていない・・だが
当時の日本は馬はなく、徒歩だ
結局、九州説は【大陸に一番近いから九州だ】という思考回路から抜け出せていない
つまり、邪馬台国九州説の根拠は【大陸に一番近いから】だけ
587 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:10:24.80
>>586 航海術とは季節風や潮流を熟知して利用するものだよ。
588 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:13:08.49
>>586 おい、そこの夢想家
遣唐使の成功率はどの位なのか?
大阪から京阪フェリーで、博多からビートル号か?
589 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:17:20.82
>>585 梁(502年 - 557年)『梁書』倭人伝の、「一支国→末廬国」の部分を五〜六世紀のことと解するところに混乱の元あり。
これは三世紀の卑弥呼当時のことに関する記述であるな。
ザンネーン。
590 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:20:21.67
>>586 待てど暮らせど畿内スレが立たないので、
暇つぶしにアマノジャクをカキコしとるのか、可哀そうじゃのう(笑々
591 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:22:51.69
確かに地理的な優位性というのは大切なことだろう
しかし、現代において、日本の権力者が大陸と行き来する場合、地理的な問題にはどれほどの優位性があるか
例えば、江戸時代ですら、権力者の大陸との行き来の窓口は出島の長崎である
その前も、その前も、大和朝廷の時代ですら「大陸に一番近い所」では無い、都は奈良だ
では、権力者が大陸に一番近い所を都とせねばならない時代、
大陸に一番近い所が権力者の時代は、いつ終わったのか
「漢委奴國王」の時・・光武帝の時(25−57年)は、確かに、大陸に一番近い所が権力者であったであろう
しかし、それから200年もたった「親魏倭王」のときも、果たして大陸に一番近い所が権力者
権力者が大陸に一番近い所を都とせねばならない時代だったのか
592 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:25:08.38
>>589 ならば当然、最初は対馬のはず、なぜ最初が対馬でもなく、一大国でもなく、一支国???
593 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:25:13.90
594 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:27:29.63
>>592 他に代替になる島がないのだから、対馬が書いてなくても間違えることは無い。
ザンネーン
595 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:27:45.53
出土したものを鑑みれば、倭人伝に記載された風土、生活、墓の形等の内容に合致してるのは九州説。
機内は女王国とは別の文化圏とみる。
ただ、その後は機内に集権化された。
三角の鏡は基本4世紀の墓から多く出る。
時代が違う。それに基本呉の鏡の写しでしょ。
魏から贈られた鏡なのだから、それらが出ないと意味が無い。
596 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:29:02.58
>>587 はいはい
航海術とは季節風や潮流を熟知して利用するものですから
季節風や潮流を熟知してれば、別に、九州からじゃなくても大陸に行けますね
597 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:33:58.90
>>596 ゴクロー
どうぞどうぞ、お好きなところから出港してくれ、
そして竜宮城にいくなり、魚のえさになるなりして、二度と邪馬台国に帰らなくて結構。
598 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:36:27.90
>>593 魏志倭人伝には「倭国には文字がない」と書かれているけど
同時代の関東からは文字が書かれている土器が発掘されている
東北でも、大陸と交易していた痕跡が見つかっている
邪馬台国は、大陸に船が行く時、大陸から船が来る時
積み荷があっているかどうか、書簡と付け合わせてちゃんとチェックしているほど
役人がバイリンガル
税金もあって、邪馬台国の他に30ヶ国以上の倭の国が、入れ替わり立ち替わり魏の皇帝に使いを送り、
皆が「自分が倭国の王だ」と言っていた
のに、ルートが【邪馬台国の一大国・対馬だけ???】
邪馬台国が一大国・対馬を押さえているのに、28人は、どうやって魏に渡った????
28ヶ国もが王様だと魏に通訳を伴い朝献するのに、どうして邪馬台国はそれらの国々に一大国・対馬を使わせた????
599 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:42:01.11
結局、九州説は【大陸に一番近いから九州だ】という思考回路から抜け出せていない
つまり、邪馬台国九州説の根拠は【大陸に一番近いから】だけ(笑)
600 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:49:30.26
>>593 魏志倭人伝には「倭国には文字がない」と書かれているけど
同時代の関東からは文字が書かれている土器が発掘されている
東北でも、大陸と交易していた痕跡が見つかっている
邪馬台国は税金もあって、大陸に船が行く時、大陸から船が来る時
積み荷があっているかどうか、書簡と付け合わせてちゃんとチェックしているほど
役人がバイリンガル
邪馬台国の他に30ヶ国以上の倭の国が、たった45年間に入れ替わり立ち替わり魏の皇帝に使いを送り、
皆が「自分が倭国の王だ」と言っていた
のに、ルートが【邪馬台国の一大国・対馬だけ???】で【理由は大陸に一番近いから???】
邪馬台国が一大国・対馬を押さえているのに、28人は、どうやって魏に渡った????
28ヶ国もが王様だと魏に通訳を伴い朝献するのに、どうして邪馬台国はそれらの国々に一大国・対馬を使わせた????
結局、九州説は【大陸に一番近いから九州だ】という思考回路から抜け出せていない
邪馬台国九州説の根拠は全部【大陸に一番近いから】だけ(笑)
601 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 22:57:52.04
>>598 倭人伝の原文を目を凝らして読んだか????
景初二年六月、「倭女王」遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献、、、、
其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏「倭王」卑弥呼、、、、
倭の女王連合国を構成する小国が28国あった。この28国の王は、いうまでもなく卑弥呼の部下たる王であった。
そして倭の女王連合28国の大王であった卑弥呼は、国王でなく、「倭女王」もしくは「倭王」と呼ばれ、
そこいらの部下たる国王たちより一段偉かった。
であるから倭王(倭女王)の下の28の部下たる王が、一大国・対馬国経由で帯方郡太守を訪問することに何の問題もなかった。
602 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:13:21.97
かつて古墳時代の前期を4世紀にあてたから三角縁を出土する古墳の多くが4世紀とされただけ
古墳時代前期が3世紀後半からになれば三角縁を出土する古墳も3世紀後半になるものがあることになる
こうした学説の構造に関する最低限の常識は身につけておくべき
603 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:16:59.84
三世紀の後半まで繰り上げても
卑弥呼の葬儀に△は間に合わなかったろうな
>>595 >三角の鏡は基本4世紀の墓から多く出る。
こういう発言がアホだってことだろw
605 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:22:41.30
>>602 >古墳時代前期が3世紀後半からになれば
タラ、レバは止めとけ
ここで指摘されていることの本質を理解することができないようでw
607 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:27:05.93
>>605 そもそも古墳時代前期が4世紀だってのもタラレバなのだが
608 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:40:38.22
>>600 >邪馬台国の他に30ヶ国以上の倭の国が、たった45年間に入れ替わり立ち替わり魏の皇帝に使いを送り、
皆が「自分が倭国の王だ」と言っていた
初心者見習い
丸出し
「事実を捻じ曲げても畿内説を勝たせるためには」という、
話の前提をちゃんと書かないから、意味が通じないのだ。
それを書けば、タラレバでもなんでも可w
610 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:45:54.38
>>601 おまえこそ、倭人伝の原文を目を凝らして読んだかよ(笑)
王がいると記されているのは伊都國と女王國と狗奴國の3っつ
伊都國の他の邪馬台国にいるのは「官」つまり【役人だ】
611 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:46:32.52
卑弥呼時代に行われていた生身の奴隷を墓に埋めるなどという残忍・無慈悲な葬送儀式は、
平和な畿内では受け入れられず、激しく嫌われたのであろう
伝統的な諸侯からの供物であった殉死奴隷は、まもなく廃止されて埴輪に代わった。
そして埴輪を飾るため、広く長い前方部を持つ後円墳がつくられるようになったに違いない。
この革命的で新しい葬送儀式は畿内の人々の信頼を集め、大和王権はじわじわと強大な権力を手にしていった。
もちろん新しい前方後円墳は急速に各地に広まって行った。
畿内の人々は、慈悲溢れる平和な王権が大和の地で誕生したことに誇りを抱くべきである。
箸墓に残忍至極の殉葬は無かったのであろう。
612 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:58:30.03
考古学否定すりゃ九州説にもブーメランで帰ってくるだけなのにな。
こんな事すら理解出来ないのが九州脳w
613 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 23:59:46.27
古代中国の日用品なのに報道陣にドヤ顔で鏡の反射を見せる様は滑稽にさえ見える
どの時代を通してもこれほど鏡を信仰している人たちはいないだろう
614 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 00:01:41.75
>>610 『隋書』倭国伝には、三十餘國、皆自稱王、と書いてある。
オレと
>>598は、この部分についてやりとりしてるのだ。
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。
まぁ鏡を国産できて水銀朱もあれば普通に神仙思想どっぷりだ。
鏡作神社に囲まれた、桃の里に生まれたモモソが
中国かぶれしてるのは間違いない。
616 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 00:06:16.10
>>608 魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝
漢の霊帝の光和中(178−184年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。
魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝
三国魏の時代(220年 - 265年)、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。
後漢の光武帝の時(25−57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。
安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
桓帝と霊帝の間(146−189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。
卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。
617 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 00:15:43.57
>>614 そうですよ
『隋書』では、
三国魏の時代(220年 - 265年)、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国で皆が王を自称した。
『魏志』では
漢(紀元前206年 - 220年)の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國
618 :
大和 田直木:2014/02/01(土) 00:22:50.61
>>611 >殉死、殉葬
殉葬≠徇葬
原文は「徇葬」
619 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 00:30:43.25
つまり、邪馬台国が親魏倭王になったのは、238年か239年、魏が出来て18年、19年後のことで、
邪馬台国は魏か出来る前、178−184年には、もう既に存在していた
178−184年にはもう既に、邪馬台国が一大国・対馬を押さえているのに、卑弥呼と伊都國の王以外の28人は、どうやって魏に渡った????
28ヶ国もが王様だと魏に通訳を伴い朝献するのに、どうして邪馬台国はそれらの国々に一大国・対馬を使わせた????
620 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 01:35:19.25
しかも、
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝で、
魏の景初三年(239年)に卑彌呼が初めて遣使を以て朝貢する切欠になったとされているのは
公孫淵が誅殺されたこと
公孫淵は228年、父の後を継いで太守となっていた叔父・公孫恭を脅迫して、遼東太守の座を継ぎ
233年、呉から【燕王】に任じられ、心変わりして呉の使者を殺害し、その首を魏に差し出した人
古代中国語で「燕国」は、第43代元明天皇のやまと言葉・・・つまり日本語では「常世」
『古事記』や『日本書紀』で、大国主命とともに国造りを行なった少彦名神が国造りを終えた後に
海の彼方にある常世の国に行ったというあの常世だ
621 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 01:44:11.64
つまり
九州を勢力下に置いていなかった畿内の邪馬台国は、魏との行き来のために
当初は対馬→一大国という2島をルートを使用して、九州ではない本州(末廬国・伊都国)に上陸していたが、
その後、対馬・一大国という2島を使えなくなり・・あるいは、九州ではない本州(末廬国・伊都国)に上陸するのにもっと便利な・・・あるいは、その両方の理由で
別の島、一支国のみを使用するルートに変更した
そして奈良から九州まで平定した大和朝廷の時代になり、一支国はそのままに、日本本土としてより近い九州(竹斯国・秦王国)を利用して、対馬利用も復活した
倭国大乱で邪馬台国の権威が無かったからだろ
その場合対馬壱岐はどこにも付かない中立だったろうな
623 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 02:02:38.87
>>622 漢の霊帝の光和中(178−184年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。
邪馬台国が親魏倭王になったのは、238年か239年、魏が出来て18年、19年後のことで、
後漢の初代光武帝が57年に九州勢力を漢委奴国王にしてから121−127年後の、178−184年、
魏が出来る22から16年前にはもう、卑弥呼をトップとする邪馬台国連合国自体は、既に存在していた
つまり、邪馬台国は『魏志』で言う、「漢(紀元前206年 - 220年)の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國」の中の一国
倭国大乱は、魏が出来る22から16年前にはもう終わってますが?????
それでも、178−184年にはもう既に、邪馬台国が一大国・対馬を押さえて、238年か239年には親魏倭王になっているのに、
三国魏の時代(220年 - 265年)、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称している
魏志に皆王を自認するとは書いて無いよ
後漢書に「自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。」
だから前漢から倭の諸国の使者が行ってた
つまり紀元前からだよ
625 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 02:25:19.85
そうですよ
邪馬台国は『魏志』で言う、「漢(紀元前206年 - 220年)の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國」の中の一国
で『隋書』では、178−184年にはもう既に、邪馬台国が一大国・対馬を押さえて、238年か239年には親魏倭王になっているのに、
三国魏の時代(220年 - 265年)、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称していると記されている
626 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 02:29:23.77
だから「皆が王を自称している」というのはもっと昔からの伝承
魏の時代限定じゃない
627 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 02:33:56.97
>>626 魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。
魏の時代限定です
漢の時代のことは、次項にきちんと記載されています
後漢書
>國皆稱王、世世傳統
>その国では皆が王を称することが代々の伝統である。
隋書は一部を省略してるだけ
629 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 02:55:00.98
ヤクザ組織の構成を知ってるか?
組長(王)なんて何人もいるんだぞ
組長(王)の上にも組長(王)がいて、その上にも組長(王)がいる
630 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 02:56:29.56
・倭は「漢委奴國王」であった北九州の狗奴国と、畿内の邪馬台国の、大きく分けて2国だった
・「漢委奴國王」であった狗奴国のほうが強く、畿内の邪馬台国は弱かったが、その中間に「出雲」という新興国が出来た
・畿内の邪馬台国が出雲を手中に収め、後漢が滅び魏になったことで倭国の王は、北九州の「漢委奴國王」狗奴国から、畿内の「親魏倭王」邪馬台国に移行した
・魏志倭人伝で「王」がいるのは伊都國と女王國と狗奴國の3っつ、伊都國は「王」の伝説が残る【出雲】
・魏志倭人伝に出てくる末廬国・伊都国は出雲地方、隋書倭国伝に出てくる竹斯国・秦王国は北九州で、全く別の地域
・邪馬台国は、敵対する北九州の狗奴国の竹斯国・秦王国を利用せず、できず、畿内により近い出雲に新港を開いたため「魏志にルート記載」
・出雲大社は、新港である末廬国・伊都国の灯台変わり、大陸に対して国力を見せつけるための迎賓館
・邪馬台国は当初は一大国・対馬を利用したものの、後期になって一支国を利用した「梁書にルート記載」
・「出雲」は、ある時は北九州の狗奴国勢を味方に付け、ある時は畿内の邪馬台国勢を味方に付けることで、生き残りを図った
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
・欠史8代は、その後の、出雲・邪馬台国の流れを汲む系統と、北九州狗奴国の流れを汲む系統の間での血なまぐさい政争
・その間北九州の狗奴国は「倭国王」として、一大国・対馬を利用して、大陸の代々の南朝と独自の交流を続けていた「倭の五王」
・大陸の南朝の消滅と共に北九州狗奴国が、大和の「日本国」に併合された「ヤマトタケルの西征」
・その結果、大和の「日本国」は、末廬国・伊都国からではなく、竹斯国・秦王国から遣隋使を送れるようになったため「隋書にルート記載」
・しかし天皇は、北九州狗奴国の娘と作られた系統ではなく、出雲の娘と作られた系統が引き継いだため、記紀に狗奴国の名前は出てこない
・大陸との関係も、第43代元明天皇が国内の、極度の大陸かぶれを嫌ったことで、古事記を編纂する際に天孫降臨神話に書き換えられた
631 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 03:05:54.74
その他
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝で、
魏の景初三年(239年)に卑彌呼が初めて遣使を以て朝貢する切欠になったとされているのは
公孫淵が誅殺されたこと
公孫淵は228年、父の後を継いで太守となっていた叔父・公孫恭を脅迫して、遼東太守の座を継ぎ
233年、呉から【燕王】に任じられ、心変わりして呉の使者を殺害し、その首を魏に差し出した人
古代中国語で「燕国」は、第43代元明天皇のやまと言葉・・・つまり日本語では「常世」
『古事記』や『日本書紀』で、大国主命とともに国造りを行なった少彦名神が国造りを終えた後に
海の彼方にある常世の国に行ったというあの常世
などなどなど
邪馬台国は九州では、絶対にムリ
632 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 03:10:37.95
邪馬台国九州説の根拠は全部【大陸に一番近いから】だけ(笑)
【大陸に一番近いから】邪馬台国は九州だと言う人は、当時の日本が、
松明の周りをウホウホ言いながらグルグル廻っているだけの
未開の土人の国と勘違いでもしているのだろう
畿内説詐欺師が、凄い勘違いしていて、こりゃ大笑い
634 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 08:48:17.61
21世紀の感覚で3世紀を論じて何になる。ドア○ウども。3世紀の文化文明
の中にいる自分を想像して、邪馬台国を考えてみろ。畿内説などは絶対に有り
得ないぞ。
635 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 08:51:05.09
自称畿内学者、、、こりゃ大笑い
636 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 09:03:53.21
九州と畿内は関係が薄いという方向になりつつあるのがありがたい。
持論だが、自然交易を別にすれば、九州勢力と畿内勢力は関係がない。
神武東征も、組織的な動きではなく、小豪族が畿内方面に移動、移住した程度。
638 :
満州中尉:2014/02/01(土) 09:20:18.13
>古代中国語で「燕国」は、第43代元明天皇のやまと言葉・・・つまり日本語では「常世」
これは例のオウム森教徒が書いているのだろうが、その根拠を説明してもらいたい。
別にからかってやろうと思うからではなく、興味があるのだ。
>國皆稱王、世世傳統
これは世々王統を伝えているという意味で、
同じ一つの家系がずっと王になっているという意味である。
639 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 09:49:31.94
三流の神獣鏡作れるのは余裕で畿内だろw
三角は大量生産なのだから仕方ないからな。
だが一部に高品質な物があるのも事実だ。
これからは国内での製作地論争が重要になってくるがろう。
貨泉以上に確実な漢人との関連性を表す痕跡になるからな。
641 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 11:19:11.70
名曰卑弥呼、事鬼道能惑衆。
卑弥呼以死、大作冢。系百余?。殉葬者奴婢百余人。
倭人伝を編集した陳寿は、一方的に卑弥呼王権を賞賛しているわけではない。
衆を惑わしたり、残忍・無慈悲な葬送をおこなったりと、非難もしている。
それに比べれば、三流の鏡しかつくれなくても畿内の王権はずっとましだったのだろう。
>>616 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす」
この部分だけで魏の人間は基本的に九州しか認識していないことが推測できる
今の東海地方です
>>642 九州と本州なんて殆ど隣接してるだろw
関門が海なら琵琶湖は完全に大海だよ。
645 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 13:15:49.93
>>642 本州だと半島なのか島なのか判別できないですね
山島と断言できるのは九州ですね。
646 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 13:27:41.85
そんな数学的な厳密性なんて、ねぇよ!
ただ三国志には
「自○以北」に「○」を含めない用法が実在する
という厳然たる事実があるだけ。
これは動かせない。
だから「絶対含むんだ」という説が間違いであることだけが
確定している。
647 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 13:47:41.16
「本州だと半島なのか島なのか判別できないですね 」
それ、どこの白痴?
648 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 14:05:44.22
もし本州畿内辺りが女王国なら、
「自女王国以北」に畿内は含まれないが、山陰北陸東北は含まれることになる。
んなこたぁー不自然だ、女王国は九州。
649 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 14:19:56.24
>>638 平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』に
「常世連 燕国王公孫淵之後也」
ちなみに、元明天皇が、国内の公文書を、古代中国語ではなく、やまと言葉という、
日本独自の音を漢字で表したモノに変更した、古事記を編纂したのは712年
650 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 14:26:50.50
>>647 7世紀以前津軽海峡は知られていなかった。
651 :
満州中尉:2014/02/01(土) 15:29:41.25
>>649 なんだ、それかw そんなことはとっくに知っているw
その資料があるからポクも常世とは遼東ではないかと考えていたのだ。
森某は燕と考えたのだろう。
そんなのは面白い仮説というべきものであって、それ以上のものではない。
ところがピミはそれを絶対的真実であるかのように思っているわけで、
そんな調子だと学者の唱える面白い説はみんな信じてしまうことになるだろう。
652 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:29:49.99
>>650 それはどうだろうか
倭国と大陸の繋がりを調べてみると、
東周(BC8世紀〜BC3世紀)時代の地理書の山海経の
「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
紀元前8世紀〜3世紀だぜ?????
653 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:57:51.89
>>651 絶対的真実?????
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置図で考えると、日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事まで、矛盾無く、ほぼ全部説明出来る
だから、九州に邪馬台国は、絶対にあり得ない・・というのが絶対的真実であり
>古代中国語で「燕国」は、第43代元明天皇のやまと言葉・・・つまり日本語では「常世」
というのも、九州に邪馬台国は、絶対にあり得ない・・というのが絶対的真実を覆せる矛盾ではないどころか
補足すらする・・・というだけ
654 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 16:03:41.12
東周(BC8世紀〜BC3世紀)時代の地理書の山海経の
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す」
ですら
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国・・・紀元前8世紀〜3世紀は蓋国
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国・・・紀元前8世紀〜3世紀は倭
その後中間に出来た「新興国」出雲
で、説明出来る
邪馬台国は広島が起源
656 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 16:49:17.14
九州説は、ちえおくれの巣窟だな
657 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 17:07:58.52
まぁ、紀元前8世紀〜3世紀には、もう、大陸との行き来が出来ていたのに
3世紀の邪馬台国になってもなお、九州説の根拠は全部【大陸に一番近いから】だけ(笑)
稚拙この上ない
【大陸に一番近いから】邪馬台国は九州だと言う人は、当時の日本が、
松明の周りをウホウホ言いながらグルグル廻っているだけの
未開の土人の国だとでも、勘違いでもしているのだろうねぇ・・・
658 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 17:17:30.38
先日、鏡に光を反射させてウホウホやってる未開人がいたな
659 :
満州中尉:2014/02/01(土) 17:20:40.33
>>653-654 あいかわらず意味不明な文面だw
常世が燕ならなぜ九州説は不可能なのか。説明してもらわないと誰も理解できない。
また山海経の倭の記事がなぜピミの書いているようなことで説明できるのか、
それも説明してもらわなければ誰も理解できない。
ヒマなときでいいから説明してもらおうじゃないか。
どうせ森の受売りだろうがw
>>657 そもそも邪馬台国は奴国や伊都国から見て南にある国だよ?
畿内はまずない
661 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 17:32:44.60
そうだな、佐賀〜福岡の南にあると解読されたからな。
畿内は 99.99% 無い。
あぼーん
663 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 17:59:51.49
664 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 18:06:01.86
貴人が死ぬと配下の豪族・将軍たちは、
手のうちの奴隷のなかから、貴人のお伴に適した者を見つくろってお供えした。殉葬である。
665 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 18:13:42.84
隋書・倭国伝とは、とうぜん隋(581年 - 618年)のころの倭国であり、
隋王朝当時の邪馬台国はすでに東の邪靡堆に遷っていた
ただそれだけのこと
666 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 18:39:47.37
まぁ文献でも考古学的にもヤマトの前は吉備か阿波だけどね。
九州説はどうあがいても無理。
667 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 18:58:39.43
南至投馬国、水行二十日、、可五万余戸 ←(里数なし)
南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、可七万余戸 ←(里数なし)
自女王国以北、其戸数道里可得略載
其南有狗奴国、男子為王 ←(里数なし)
自郡至女王国万二千余里 ←(最後に女王までの里数を書き入れて締める)
たったこれだけのことを読みこなせないとは、悲しいかぎりの貧畿内論者。
ガキでも信用しないようなパズルに一縷の望みを託す、
哀れな九州説ですなw
669 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:18:41.66
はいはい
ガキでもできるパズルを畿内の学者はできなかったってことで、、、
670 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:18:53.52
女王国まで万二千なら、愛媛あたりでピッタリだな。
方角も矛盾が少なく、やはり瀬戸内が女王国という事だね。
671 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:20:33.78
瀬戸内からが女王国という事で、パズルも終了。
モモソの伝承地でもあるな。
672 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:23:18.53
死国
四国や畿内にある国がなぜわざわざ中国に助けを求めるのか理解不能だな
邪馬台国も狗奴国も九州の国だと考えるべきだろ
死国なら正に記紀に消された邪馬台国に相応しい。
香久山は大和と二つに別れたという伝承もあるからな。
675 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:49:30.89
理解不能なのはあたりまえ。
「助けを求めた」ってあんたの意見に根拠がないからじゃん。
九州説人って本当に間抜け。
676 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:03:11.50
周知の通り、永久の繁栄を手にしたかにみえたインカ帝国は、僅かな人数のスペイン人に簡単に滅ぼされた。
そこには、太陽神に生け贄を捧げるという残忍な儀式に熱心だった王権に対する国民の反感があったという。
倭人伝を編集した陳寿も、一方的に卑弥呼王権を賞賛したわけではなかった。
鬼道ごときで衆を惑わしたり、残忍・無慈悲な生け贄葬送をおこなったりと、やんわり批判もしている。
それら国に比べれば、三流の鏡しかつくれずとも、温和な性格の畿内王権ははるかにましであった。
だからこそ、21世紀までつづく我が大和朝廷の礎となりえたのであろう。
677 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:08:01.59
678 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:20:12.51
死国説だと、伊都国・奴国・不彌国はどこか? そして投馬国は? 狗奴国は?
ま、どうあがいても、方角と里数が足りぬ、
せいぜい吉備の桃太郎に征伐された赤鬼・青鬼たちだろ。
679 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:51:53.01
伊都は北部九州、奴国は山口(長門)。
投馬が宮崎でパズルは完成しました。
投馬、邪馬台国の日数は郡からのものだね。
680 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 22:40:03.06
>>679 >投馬、邪馬台国の日数は郡からのものだね。
倭人伝の原文をどう読めばそんなねじ曲がった解釈になるんだ?
末節とはいえ一応正史だぞ。誤りはあるにしてもそんな判りにくい書き方するはずないだろ。
あの表現は素直に読めば不彌国からの距離。
で・・・九州論者に聞きたいんだが、邪馬台国が九州にあるとして、女王国へ向かうのに何故海岸沿いを東上するのか?
久留米、佐賀、そして熊本、菊池あたりなら当然南へ陸行だろう。
そしてその途中にあるクニ、例えば吉野ヶ里なんかは当然記述があるはずだろ?
にもかかわらずまさかの東行(すでにこの時点で方向は違っているが)。
こうなると九州説に残されるのは日向方面だけ! で日向灘に入って陸行1月って狐にでも化かされたのか?
もちろん、魏(帯方)の使者は行ってないにせよ宗主国への道のりを説明するにしては杜撰すぎる。
で、日数の間違いでもっと近かったとするなら「なら伊都国で済ませずに足を延ばせよ!」と突っ込まれる。
だから九州説には無理があるんだよ。
もっと素直に考えようね。方向の誤認だと考えればすべてが片付くんだよ!
681 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 22:49:51.09
佐賀や福岡から熊本や宮崎や大分まで歩いてどのくらいかかるの?
道でないところor獣道、最低限未舗装道路を歩いて。
こんなのやった物好きなんて一人もいなさそうだけど、
短距離で参考になることやった人とかいないかなあ。
そもそも道が無かったと思う
しかも狼が居たぞ
飯の匂いなんかさせたらヤバそう
684 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 23:26:29.36
>>680 その通りだね。小学生でもこう考えることを捻じ曲げてどうする???
>>682 >>佐賀や福岡から熊本や宮崎や大分まで歩いてどのくらいかかるの?
おいおい・・なんで佐賀から???倭人伝には佐賀方面のことは一言も書いてないけど?
邪馬台国が熊本方面だと佐賀経由の陸行の方がはるかに合理的、その間にクニが連なっていたはずだしね。
むしろこれが書いてないのがおかしいって言っている。ま・・・明治になるまでは多分未舗装だけどね(w)
そして宮崎(日向方面)は海路を取る可能性が残るって書いてるつもりだけど・・・ちゃんと読み取ってね。
小学生ならではの低次元
686 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 23:47:59.56
陸路も海路も可なら絶対海路を選びますよ。
水行十日陸行一月はandでなくorだ。
陸行一月でしか行けないところはない。
陸行となると護衛やら運搬やら食事の確保や仮宿設営で大部隊になるし遅いしでメリットがない。
強力な海賊が出没するとか特殊事情がなければ水行。
てことで邪馬台国は水行十日。
方角なんか太陽の昇る方角や星座見れば把握可能
688 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:35:29.00
ORがいきなり出てくるとは・・・
前にも書いたように末節とはいえ「国史」。
伝聞による事実誤認は間違いなくあるし、一部誤伝もありそうだが、文章としては筋が通っていないとおかしい。
だから素直に読めばいい。だから「or]の意味を持たす場合には必ず「或」を入れるよね。
あと、放射説も然り。「あえて意図的にそう読まないと判読できない」表現なんて正史では使わないと思うが・・。
初めに結論ありきの解読は止めてもっと素直に原文を読もうね。
あと、2〜3世紀の最先進地「九州」で久留米経由佐賀方面行きが陸路を取れない??
(未開地の)山陰〜近畿とグーグルマップで地形を比べてみてね。
689 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:45:32.21
>>687 それが不思議なことに末蘆〜伊都(東南と記載)の時点でずれてるんだよね。
ここは東北と書いてもおかしくない位置関係なんだけどね。奴国も然り。
690 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:56:28.05
弥生時代に街道なんかねーよ
691 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 03:10:46.01
魏志倭人伝では、日本上陸点の末盧国から
東南へ500里→東南に100里→東へ100里→南へ水行20日→南に水行10日と陸行1月で邪馬台国
末盧国が九州だと、邪馬台国は海の中(笑)
692 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 03:30:31.67
>>659 >常世が燕ならなぜ九州説は不可能なのか
大和朝廷と出雲の記紀だから
九州説をとるならば、邪馬台国は大和朝廷と出雲とは、全く関係がない
邪馬台国は一時的に日本列島に出現し、大陸から王とされたが、大和朝廷と出雲に滅ぼされた国
大和朝廷と出雲は、邪馬台国と敵対してた狗奴国としなければならない
つまり、日本書紀の天孫降臨と出雲神話は、狗奴国に伝わっていた独自の伝承ということになる
しかし狗奴国は男王国であり、アマテラスの弟のスサノオが、出雲にたどり着き
盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始め、稲田姫との間に須世理姫が産まれる
という、ごくごく初期の段階で、記紀との整合性がなくなり、全く説明がつかなくなる
正史、正史と言ってる人がいるけど正史として認定されたのはずっと後代のことで
三国志はあくまで陳寿の私撰の歴史書だったんだけどな
現在、正史三国志と言われることが多いのは三国志演義と区別するための方便だな
晋朝にはまともな史官の制がなく、前代の歴史の編纂能力がなかったと言われていて、
晋書には、陳寿の死後に晋の臣のすすめで陳寿の家に使がおもむいて遺稿を筆写したとある
694 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 03:41:49.27
また、日本書紀の天孫降臨と出雲神話は、九州の邪馬台国に伝承されていた神話・・・とすると
邪馬台国が九州から畿内に遷都した・・にせよ
九州の一部勢力が畿内で別の国を造り、邪馬台国を打ち負かした・・にせよ
畿内の文化の主流は九州の文化で、畿内の土着文化はほんの少しの痕跡しか残っていないはずであり
今度は、畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけという【現実】が説明出来ない
695 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 03:45:51.37
つまり
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置図で考えると、日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事まで、矛盾無く、ほぼ全部説明出来る
・・というのは、絶対的真実であり
だから、九州に邪馬台国は、絶対にあり得ない
696 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 04:05:14.52
初期ヤマト王権は、イギリス連邦におけるオーストラリアやニュージーランドではなく
インド・パキスタン・アフリカ諸国のようなもの
697 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 04:13:25.12
>>696 だから、それだと
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけという【現実】が説明出来ないって
邪馬台国が九州から畿内に遷都した・・にせよ
九州の一部勢力が畿内で別の国を造り、邪馬台国を打ち負かした・・にせよ
庶民の文化はどうだかわからんが、その王がそこで建てる王宮、政府機関、墓、使用する土器は、すべて九州様式のはず
インド・パキスタン・アフリカ諸国でも、その時代のイギリス連邦が、そこで建てる王宮、政府機関、墓、はイギリス様式であるし
古代ローマにしても、その時代の古代ローマが、そこで建てる王宮、政府機関、墓、は古代ローマ様式
698 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 05:24:16.71
征服者はより良いものがあれば現地のものを使うだろう。
文化レベルに違いが無ければなおのこと。
使わない理由もない。彼らは商人でも宣教師でも文化の伝道師でもない。
征服の手段などもどうでもいい。
征服者はそこの人々を自らが支配できればそれでいいのだから。
少なくとも記紀の神武はそのように見える。
699 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 07:30:09.05
九州は、幕末の長崎と言うべきか。
横浜・神戸が開港されると、地位を失う。
あぼーん
701 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 08:46:43.18
>>697 >邪馬台国が九州から畿内に遷都した・・にせよ
>九州の一部勢力が畿内で別の国を造り、邪馬台国を打ち負かした・・にせよ
「神武皇軍による征服王朝であった・・」と言う固定観念を自分で構築しておいて、
それには適合しないから否定されると言ってるようだな
一種の自作自演
702 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 09:00:48.33
神武のは東征といっても単なる後付け話だろう。
トヨタマヒメはワニ(サメ)の一族。
瀬戸内海方面の海人だったからな。
704 :
満州中尉:2014/02/02(日) 09:38:15.85
>>692 だからピミの言っていることと常世は燕であるということとは
何の関係も無いじゃないか。
どうもこの子は相当イカレテいる。
質問の意味さえ分っていないようだ。
この子の書いていることを森が唱えているのだとしたら、
森という学者は相当頭のイカレタ学者であるw
頭のイカレタ学者が書く本を頭のイカレタ人間が読んで心酔する。
それがここの連中のパターン(笑)
705 :
筑紫倭皇帝:2014/02/02(日) 10:40:34.58
変死体:内閣府の職員、ボートで漂流か 北九州沖
http://mainichi.jp/select/news/20140201k0000e040264000c.html 残念なニュースだ・・・
ハングルから流され倭国の都、中心地の博多湾沿岸の東北およそ1000里の地に漂着したのだろう・・
ハングルで新羅の王になった倭人の脱解王の逆になってしまったな・・
しかし、ハングル人や畿内節の自分の所に倭国や邪馬台国を必死にもってこようとする姿が滑稽だw
よほど、歴史書の記述を素直に理解できないアホばっかだなw
「三国史記」:子供の頃、倭(博多湾沿岸)の東北1000里のところから海に流された。
「三国遺事」:賀洛国(任那日本府)の海岸に船が漂着し、その中から出てきた少年が後の新羅の王脱解だった。
脱解王「私はもと龍城国の者で・・(龍城国では)不吉と言われ
船に乗せられここにつきましたが・・それが私です。」
龍城国と言えば、竜宮城→→志賀海神社の別名、龍の都・龍の宮→→安曇氏の本拠地→→君が代→→
→→安曇氏の祖先神を称える→→つまり博多湾沿岸で権力のあった大国主=倭奴国王
倭奴国と言えば倭国の極南界。 つまり倭国の本拠地は博多湾沿岸ってことだ。
ハングルも畿内節も佐賀も宮崎もくまもとんこつもあきらめろ。
自説の為に九州説は殺人事件まで利用するのか…
正直反吐が出るわ。
707 :
満州中尉:2014/02/02(日) 12:27:21.96
四国説にも反吐が出ます(笑)
やはり満州は福岡厨の自演かよw
709 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:57:08.65
>>701 >>702 全然違うよ
・邪馬台国が九州で
・邪馬台国が九州から畿内に遷都した・・にせよ
・九州の一部勢力が畿内で別の国を造り、邪馬台国を打ち負かした・・にせよ
その場合の権力者は九州人
庶民の文化はどうだかわからんが、その王がそこで建てる王宮、政府機関、墓、使用する土器は、すべて九州様式のはず
だから、それだと
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけという【現実】が説明出来ない
しかし
・邪馬台国は畿内で
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
だと、権力者は畿内人
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけという【現実】にバッチリ符合する
なんか、九州説のやつって【あまり、きちんと考えられないんだね】(笑)
っていうか、半島からの輸入文化は九州の文化じゃないしな
711 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:06:57.06
>>704 畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置図で考えると、日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事まで、矛盾無く、ほぼ全部説明出来る
・・という、絶対的真実は
常世は燕である・・・でも、矛盾無く、説明出来ますよ(笑)
邪馬台国は九州を、矛盾無く説明出来るものは、何も無いけどね(笑)
まぁ、そりゃあ当たり前だよな
邪馬台国は九州説は、紀元前8世紀〜3世紀にはもう大陸と行き来出来ているのに
【大陸に一番近いから九州】(笑)だけだもんね
712 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:11:47.67
>>709 >その場合の権力者は九州人
>その王がそこで建てる王宮、政府機関、墓、使用する土器は、すべて九州様式のはず
そもそもこの前提が正しいかどうか確認されていない
倭人伝を読むにつけ、九州土着人が権力支配者層に成長したのでなく、
後漢辺りの支配慣れした貴人一行が、文字と鉄剣と国家支配のノウハウをたづさえて渡来したということもありうる、
そのケースの想定がかけている
713 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:17:42.40
>>712 うーーんとね、そういうことを言っているんじゃないのよ
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけという【現実】は、
神武東征ですら、【畿内の権力者による権力の継承】じゃないと説明がつかない
と言っているの
714 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:19:33.11
詳しくないから分からないけど、九州の王宮と畿内の王宮に明確な違いはあるのかな?
それと実家から、わざわざ空の重い土器をもってくるかな?
現地に良いものがあれば現地の人間に作らせるだろう。
現地の人間に作らせるなら当然現地の仕様になるはず。
せっかく支配層になったのに、ちまちま土器を作るわけもなく。
715 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:22:02.74
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけという【現実】は、
神武東征ですら、【畿内の権力者による権力の継承】だったという物的証拠
だから
・邪馬台国が九州で
・邪馬台国が九州から畿内に遷都した・・にせよ
・九州の一部勢力が畿内で別の国を造り、邪馬台国を打ち負かした・・にせよ
その場合の権力者は九州人なので、あり得ない
716 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:29:15.85
ほんの少し混ざっているという九州の文化とは何だろう。
生活用品などどうでもいい文化ではなく、
皇統に関わる祭祀にまつわるものではないのかな
717 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:32:25.05
>>714 ・邪馬台国が九州で
・邪馬台国が九州から畿内に遷都した・・にせよ
・九州の一部勢力が畿内で別の国を造り、邪馬台国を打ち負かした・・にせよ
その場合の権力者は九州人なんだから
現地の人に、九州様式の土器を作らせる・・だろうね
ローマ人がアフリカで、アフリカ人に、ローマ様式のモノを作らせたように
その場合出来上がるモノは、アフリカテイストのローマ様式のモノ
イギリス人がインド・パキスタン・アフリカ諸国で、インド・パキスタン・アフリカ諸国人に、イギリス様式のモノを作らせたように
その場合出来上がるモノは、インド・パキスタン・アフリカテイストのイギリス様式のモノ
九州人の権力者が畿内に侵攻し、畿内の人に九州のモノを作らせたら・・・
その場合出来上がるモノは、畿内テイストの九州様式のモノ
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけ・・つまり
九州テイストの畿内様式のモノという【現実】と、全く矛盾して説明がつかない
つまり、
・邪馬台国は畿内で
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
で、権力者は畿内人
神武東征ですら【畿内の権力者による権力の継承】
718 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:39:50.56
むしろ
・邪馬台国は畿内で
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
で、神武東征ですら【畿内の権力者による権力の継承】 権力者は畿内人で変わらず・・・だったから
畿内で出てくるモノは、九州テイストの畿内様式のモノ・・・で【現実とピッタリ一致】
719 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:58:21.26
文化レベルに余程違いがなければ生活用品は極力現地のものを使うだろうね
実家の枕じゃないと寝れないというわけでもないだろう。
720 :
満州中尉:2014/02/02(日) 15:04:10.84
この森オウム教徒はほんとにパカだなw
地方色があるのは当り前である。
九州には九州の、出雲には出雲の、北陸には北陸の…地方色があるのだ。
天皇がどこから来てどこに住んでいようと、そんなことは関係ない。
おまけに神武東遷は紀元前七世紀の話だ。
卑弥呼の時代とは一千年近く経過しているのだ。九州色が薄れるのは当り前だ。
森がそんな説を唱えているのだとしたら、森は大馬鹿学者である。
ま、そんなことはどうでもいいから、常世が燕ならなぜピミの説が成立するのか、
それを早く説明してくれよ。
721 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:08:56.36
で、 神武東征ですら【畿内の権力者による権力の継承】 権力者は畿内人で変わらず・・・で、邪馬台国九州説をとるならば、
邪馬台国は一時的に日本列島に出現し、大陸から王とされたが、狗奴国の後継の大和朝廷と出雲に滅ぼされた九州の国・・・
神武東征ですら【狗奴国の後継の権力者による権力の継承】 権力者は狗奴国の後継で変わらず・・・
としなければならない
つまり、日本書紀の天孫降臨と出雲神話は、狗奴国に伝わっていた独自の伝承ということになる
しかし狗奴国は男王国であり、女王アマテラスの弟のスサノオが、出雲にたどり着き
盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始め、稲田姫との間に須世理姫が産まれる
という、ごくごく初期の段階で、記紀との整合性がなくなり、全く説明がつかなくなる
722 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:11:57.04
>>719 【権力者が九州人】なら、権力者は、自分が使う生活用品ですら、畿内人に九州様式のモノを作らせるだろうね
ましてや、王宮、政府機関、墓、使用する土器は、すべて九州様式のはず
723 :
満州中尉:2014/02/02(日) 15:17:29.61
森オウム教徒よ、お前がどんなに力説しても誰も聞いてはいないのである。
まず、たとえば狗奴国は北九州だと証明してから物を言いなさい。
で、狗奴国は北九州だなんて誰も信じないのである。
724 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:19:26.27
つまりだ
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事まで、記紀の伝承
と
実際に出土している【現実】
を
矛盾無く、ほぼ全部説明出来る、結びつけられるのは
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置図以外に無い・・・・・というのが、絶対的真実
九州に邪馬台国だと、記紀を立てれば現実が立たず、現実を立てれば記紀が立たず
725 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:21:18.27
>>722 九州〜関東の広域的に緩やかながらある程度共通の文化で定まった
その後の東征なのでその必要はないと思いますよ。
726 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:21:51.61
実を言うとね、新説・日本三国志も最初は、邪馬台国は九州・・で書き始めたの
オレも最初
727 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:28:15.44
>>772 権力者は後漢から来た
そして九州では九州土着の文化を利用し、畿内へ下ってからは畿内の土着文化を利用したのだ
昔の文化を未練がましく持ち歩いたのでは、支配はいつまでもゴタつく、
秦の始皇帝は国を征服するや、支配を円滑に進めるため、古々代中華帝国の夏の末裔を名乗ったそうだ
わが国でも、中世以降の支配者はたいてい源氏か平氏を自称した。
郷に入っては郷に従え、これこそ最高の支配のノウハウなのだ。
728 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:43:32.38
秦氏ってのが居るよ
秦の末裔とされている
>>714 九州も畿内も王宮なんて残ってねえだろww
当時の建物なんて神社で窺えるだけだ
狗奴は毛野のこと
731 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 16:11:28.26
しいて言えば、出雲大社の社殿かな
732 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 16:31:17.69
>>726 実を言うとね、新説・日本三国志も最初は、邪馬台国は九州・・で書き始めたの
オレも最初 【九州邪馬台国説】だったから(^_^;
でもね、そうすると、
記紀を立てれば現実が立たず、現実を立てれば記紀が立たず・・・で
どうにもこうにも行き詰まる
んである時、思い切って、全く逆の配置にしてみたんだよ
したらばもう、
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事、
実際に出土している【現実】まで
すらすらと、矛盾無く繋がる繋がる・・・「繋げることができる」ことばかり
九州邪馬台国説のように、
説を維持するために否定しなきゃならない現実や記紀の出来ごとなんて
ほとんど無いんだ
それで「あー、こりゃ畿内だわ」と確信したんだ
つまり、おまえらの言うことは、1年ぐらい前にオレが自分で考えていたこと
九州に邪馬台国だと、記紀を立てれば現実が立たず、現実を立てれば記紀が立たず
記紀も無視、現実も無視・・・でしか、九州に邪馬台国は成り立たない
それは説じゃ無い、ただの空想だ
733 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 16:43:59.62
734 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:09:31.89
>九州に邪馬台国だと、記紀を立てれば現実が立たず、現実を立てれば記紀が立たず
わらかすな、どこが立たないのか書いてみせろww
ほんとは自分が立たないんじゃないのかww
新羅王子アマノヒボコは赤玉の女性を追って日本にきた。
その子孫にタジマモリがいる。赤といえば、丹。であろう。
タジマといえば、但馬である。
また、三国史記によれば、新羅王は日本にあったタバナ国の人。
タバナとは丹波のことであろう。
令制国では初期、但馬、丹波、丹後は丹波国に含められており、
この地域が一体性をもっていたことが窺える。
とすれば、当時の新羅と丹波地域の交易関係が見えてくる。
タジマモリであるが、常世の国に薬を求めにいったことで有名である。
タジマモリのいった常世がどこかは限定できないとしても
丹波地域の交易の広さを表す出来事の現れとは言えよう。
そして、タジマモリの娘が葛城に嫁ぎ、その娘が近江に嫁ぎ、
そうしてできた娘が卑弥呼に比定されるところの神功皇后である。
神功皇后と言えば三韓征伐。古事記でアマノヒボコのエピソードが応神天皇の段で
触れられているのはつまり、神功皇后の新羅征伐の正当性であろう。
大和の力を借りて、新羅王族として新羅を懲罰したという体裁を整えたというべきである。
736 :
満州中尉:2014/02/02(日) 17:20:17.47
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置図以外に無い・・・・・というのが、絶対的真実
それは説じゃ無い、ただの空想だ
九州に有った邪馬台国は
畿内の天皇勢力によって滅ぼされた
垂仁ー景行ー成務ー仲哀ー応神であるが
景行の息子の日本武尊が全日本を行脚して統一事業に活躍したことは
みなが知るところである。
出雲、熊襲、そして最後に東国へと出征するのである。
父の景行、兄の成務の国家統一事業への、日本武尊の貢献は大きい。
しかし、日本武尊は兄弟にさんざん利用されたあげく、その兄弟に殺される。
兄弟も兄弟で子孫がなく、結局、日本武尊の家に皇位のお鉢がまわってくるのだが
日本武尊の息子、仲哀もその名が示す通り、登極後すぐ神の怒りをかって夭折するのであり、
日本武尊の家族はまったく不幸である。
ところで、こうした流れを見ていくと
仲哀の嫁である神功皇后が政治の実権をにぎるまで
倭国が安定していたのは、その名が示すとおり垂仁まで遡らなければ
いけないのであり、まさに魏志が説明するところの男王がたって
まったく安定しない時期だったと言えるのではないだろうか?
とくに、九州は景行から国が荒れており、筑紫国造が置かれるのは成務からである。
そして仲哀に至っては九州で倒れる。
一大卒が置かれなければ九州が安定しない理由も分かるというものである。
倭国大乱は魏志によれば桓帝・霊帝(146年 - 189年)の時期にあったとされ、
その時期、倭からの訪問者は途絶え、記録が残らなかったと言われる。
日本書紀の記述をそのまま当てはめるならば
成務の在位は(131年 - 190年)であり、ちょうどその時期に大乱があったと見るべきである。
740 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:01:50.50
作大室於忍坂邑 盛設宴饗 誘虜而取之
↓
倶拔其頭椎劒 一時(もろともに)殺虜 々無復[ロ焦](のこる)類者 皇軍大悦
今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ
愛瀰詩を 一人 百な人 人は云へども たむかひもせず
日本書紀 卷第三 神武天皇
兄貴殺されたからな
742 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:12:18.25
>倭国大乱は魏志によれば桓帝・霊帝(146年 - 189年)の時期にあったとされ、
そんなことは書いてないぞ。
後漢書か、こまけーことはいいんだよ
倭奴国は倭の奴国で奴国に同じ。博多にあった国と見てよいと思う
おそらく大阪の堺と同じように、日本全国の船を拒まず受け入れて儲けていた国で
半島への必須の中継地であり、また古くは倭を代表して
歴代大陸王朝と関係を結んでいた倭の代表国。
アマテラスとスサノオの誓約で
アマテラスの勾玉から生まれた宗像三女神は
高天原を表すと思われる九州にありながら、海を治めるスサノオに近い存在を意味しており
出雲を代表とする貿易国が宗像三女神をまつる地域つまり北九州と親交を深めていたことを表す。
つまり、奴国もそのような性格を有していただろう。
また誓約で、スサノオの剣から生まれた五柱の神は
長男オシホミミと次男アマノホヒは国譲りに関係があり、アマノホヒはそのエピソードの中で
オシホミミの子孫は神武東征の話の中で、芦原中津国への移住を試みていく
残り三人もそれぞれ安芸や紀伊、熊野へと移住していっただろう神であり
いずれも瀬戸内海沿いに子孫が国をもつようになっている。
つまり、もともと九州にいた人たちでありながら、
スサノオの子大国主が統治していた芦原中津国へ移住していった人々を表していると思われる。
745 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:57:50.57
古代日本は、九州北部の高天原(=邪馬台国)から畿内(=大和)までの範囲に広がる複数の国の集合体=倭国=「葦原中津国」=日本で
その中の一国である高天原(=邪馬台国)は女王(=アマテラス)が率いる国であった
ある時、高天原(=邪馬台国)の覇権をめぐり、女王(=アマテラス)とその弟(=スサノオ)との戦いとなり、弟は敗れて高天原(=邪馬台国)を追われ逃れる
スサノオは逃げ延びた地で、住民を苦しめていた8っつの豪族達(=ヤマタノオロチ)を倒し、地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始め、
スサノオと稲田姫との間に須世理姫が産まれる
須世理姫はその後、地元の豪族の大国主命と結婚し、スサノオから出雲を託された大国主命は、大陸から来たスクナビコナの援助を受けて、
新興国・出雲を、北九州の邪馬台国や、畿内と並ぶ大国にまで成長させる
↑これが出雲の国作りとヤマタノオロチ伝承
※ここで早くも、3世紀の
・方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していない
・九州の土器が近畿および吉備に移動した例はない、
・近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い、
という現実と、早くも乖離してしまう
出雲の男子王大国主命は、スクナビコナとともに、「葦原中津国」=倭国=日本を平定しようとし始め、
それに対し、出雲の国の祖はアマテラスの弟だったと主張するアマテラス(=卑弥呼)率いる北九州勢力=邪馬台国が抵抗して、
「葦原中津国」=倭国=日本は争乱状態となる。
↑これが三国志に記された「倭国争乱」
746 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:59:45.27
結局、アマテラス=卑弥呼は、大国主命の長男コトシロヌシを取り込み、出雲に次男のアメノホヒを派遣して大国主命に出雲の権力譲渡を迫り
それに対して大国主命の次男タケミナカタは、スクナビコナとともに果敢に抵抗して戦うが敗れ、次男タケミナカタは諏訪に逃れ、スクナビコナは大陸に戻り
大国主命はアマテラスに、出雲大社の建設と引き替えに、出雲の権力を委譲することを認め、
アマテラスは長男アメノオシホミミの子である、孫のニニギを出雲に派遣して、高天原(=邪馬台国)が「葦原中津国」=倭国=日本の実質的な覇権国となる
↑国譲りと覇権国邪馬台国の誕生
※ここで、スクナビコナは大陸に帰った・・と記紀ではされているのに、九州は敵対する邪馬台国にもかかわらずどうやって帰ったのか・・・の説明がつかなくなる
アマテラス=卑弥呼の死後、「葦原中津国」=倭国=日本の次の王に、諏訪にいた大国主命の次男タケミナカタの子孫の男王が立とうとしたが、
北九州勢は、過去に戦いに敗れ、諏訪に逃れた大国主命の次男タケミナカタの子孫の正統制のなさを提唱して、卑弥呼の宗女、壱与を女王としようとし、
再び、北九州勢力と畿内タケミナカタ勢力の間で緊張が高まり、出雲に派遣されていたニニギの二人の子海幸彦と山幸彦も、
海幸彦が北九州壱与派、山幸彦が畿内タケミナカタ派と、二つに分かれ、互いを牽制し出す。
↑
つまり、海幸彦と山幸彦は、卑弥呼のひ孫。
結局、山幸彦で表される畿内タケミナカタ勢力が、海神=魏に赴いて事態を告げて、魏は張政を派遣し、檄文で畿内勢力を弾圧する北九州壱与を告諭し、
北九州壱与派勢力による畿内勢力タケミナカタ派に対しての弾圧は終止符をうつ。
北九州壱与派の海幸彦は畿内タケミナカタ派の山幸彦に服従し、山幸彦は、九州日向に高千穂宮を作り、魏との関係が密になり、
魏の要人の娘トヨタマビメと結婚して、ウガヤフキアエズという子をなし、
邪馬台国は北九州から畿内まで、畿内タケミナカタ派勢力が実権を握るエリアとなり、それとともに、
「葦原中津国」=日本の中枢も次第に畿内勢が占めるようになって、北九州壱与勢力は一地方勢力へと衰退していく。
※ここで、九州は敵対する壱与派勢力にもかかわらず、タケミナカタ派の山幸彦はどうやって、大陸に行ったのか・・・の説明がつかなくなる
>>741 神武天皇は兄を殺されたし自殺したしで皇軍という名は形で実は相当な泥沼模様で
敵勢多数の地の野に入って戦った神武はその時点で天皇ではないいつ討たれるか分からぬ身。
ナグサトベ、ニシキトベ、ニイキトベ、コセハフリ、イハフリ、エクラジ、オトクラジ、
ヤソタケル、エウカシ、オトウカシ、エシキ、オトシキ、ナガスネヒコ…殆ど敵ばかり。
討たれた彼らにとっては皇軍こそ賊軍であったに違いない。
748 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:03:07.07
ウガヤフキアエズを産んだ後、魏の要人の娘トヨタマビメは魏に帰ってしまい、ウガヤフキアエズは変わりに渡来してきた妹のタマヨリビメ(玉依毘売)に育てられる。
のちにウガヤフキアエズは育ての親のタマヨリビメ(玉依毘売)と結婚し、カムヤマトイワレヒコを産み・・・
そのカムヤマトイワレヒコが東征をするわけだが、
・カムヤマトイワレヒコは、畿内タケミナカタ派勢力の山幸彦の直系であり、その畿内タケミナカタ派勢力の直系が、なぜ畿内を攻める必要があるのか
・畿内を征した後、なぜ、わざわざ、畿内タケミナカタ派勢力の高千穂宮もあり、山幸彦の大陸との窓口の九州から畿内に都を遷都する必要があるのか
の説明がつかなくなる
記紀も無視、現実も無視・・・でしか、九州に邪馬台国は成り立たない
749 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:09:15.70
>>739 日本書紀の年号は完全にデタラメだから
史実ととことん合わない
750 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:11:26.57
・畿内を征した後、なぜ、わざわざ、畿内タケミナカタ派勢力の高千穂宮もあり、山幸彦の大陸との窓口の九州から畿内に都を遷都する必要があるのか
↓
・畿内を征した後、なぜ、わざわざ、畿内タケミナカタ派勢力の山幸彦が作った本拠地の高千穂宮もあり、大陸との窓口でもある九州から、遠い畿内に都を遷都する必要があるのか
751 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:16:39.94
それらの疑問や現実は
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置からスタートすると
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事まで、記紀の伝承
と
そうしなければならなかったその動機
実際に出土している【現実】まで
全部説明出来る
752 :
満州中尉:2014/02/02(日) 19:26:34.30
ひとつも説明できない(笑)
ピミが書いていることは、ピミがいかにパカかを全部説明している(笑)
>つまり、海幸彦と山幸彦は、卑弥呼のひ孫。
苦笑の連続w
753 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:28:44.50
・倭は「漢委奴國王」であった北九州の狗奴国と、畿内の邪馬台国の、大きく分けて2国だった
・「漢委奴國王」であった狗奴国のほうが強く、畿内の邪馬台国は弱かったが、その中間に「出雲」という新興国が出来た
・畿内の邪馬台国が出雲を手中に収め、後漢が滅び魏になったことで倭国の王は、北九州の「漢委奴國王」狗奴国から、畿内の「親魏倭王」邪馬台国に移行した
・魏志倭人伝で「王」がいるのは伊都國と女王國と狗奴國の3っつ、伊都國は「王」の伝説が残る【出雲】
・魏志倭人伝に出てくる末廬国・伊都国は出雲地方、隋書倭国伝に出てくる竹斯国・秦王国は北九州で、全く別の地域
・邪馬台国は、敵対する北九州の狗奴国の竹斯国・秦王国を利用せず、できず、畿内により近い出雲に新港を開いた「魏志にルート記載」
・出雲大社は、新港である末廬国・伊都国の灯台、大陸に対して国力を見せつけるための迎賓館
・邪馬台国は当初は一大国・対馬を利用したものの、後期になって一支国を利用した「梁書にルート記載」
・「出雲」は、ある時は北九州の狗奴国勢を味方に付け、ある時は畿内の邪馬台国勢を味方に付けることで、生き残りを図った
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
・欠史8代は、その後の、出雲・邪馬台国の流れを汲む系統と、北九州狗奴国の流れを汲む系統の間での血なまぐさい政争
・その間北九州の狗奴国は「倭国王」として、再び一大国・対馬を利用して、大陸の代々の南朝と独自の交流を続けていた「倭の五王」
・大陸の南朝の消滅と共に北九州狗奴国が、大和の「日本国」に併合された「ヤマトタケルの西征」
・その結果、大和の「日本国」は、末廬国・伊都国からではなく、竹斯国・秦王国から遣隋使を送れるようになった「隋書にルート記載」
・しかし天皇は、北九州狗奴国の娘と作られた系統ではなく、出雲の娘と作られた系統が引き継いだため、記紀に狗奴国の名前は出てこない
・大陸との関係も、第43代元明天皇が国内の、極度の大陸かぶれを嫌ったことで、古事記を編纂する際に天孫降臨神話に書き換えられた
754 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:30:50.68
>>753で
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事まで、記紀の伝承
と
そうしなければならなかったその動機
実際に出土している【現実】まで
全て矛盾無くクリアです
755 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:38:28.03
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事、
その動機
実際に出土している【現実】まで
矛盾無く、ほぼ全部説明出来る、結びつけられるのは
畿内に、のちに「親魏倭王」になる邪馬台国
九州に邪馬台国と敵対する「漢委奴國王」の狗奴国
その中間に出来た「新興国」出雲
という配置以外に無い・・・・・
九州に邪馬台国だと、記紀を立てれば現実が立たず、現実を立てれば記紀が立たず
記紀も無視、現実も無視・・・でしか、九州に邪馬台国は成り立たない
というのが、絶対的真実
756 :
満州中尉:2014/02/02(日) 19:40:57.68
ピミはパカだというのが絶対的真実
757 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:43:05.41
>>756 可哀想に、もうそんなことしか言えないんだねぇ(笑)
758 :
満州中尉:2014/02/02(日) 19:55:23.27
>狗奴国は九州
>アマテラス=卑弥呼
>海幸彦と山幸彦は、卑弥呼のひ孫
こんなことを書いている子は誰にも相手にされないよ(笑)
そんなに自信があるなら本に書いて出版社に持ち込んで御覧(笑)
どこの出版社も相手にしてくれないから(笑)
ほんとだよ、嘘だと思うならやって御覧(笑)
2chでさえピミを相手にしている者はひとりもいない(笑)
759 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:02:36.20
>>758 そうさ
「九州に邪馬台国」を主張するならば、記紀も無視、現実も無視・・・するしか無いの
単純に
「大陸に近いから」とか、「似たような地名が残っているから」を根拠にして主張するしか【方法が無い】
760 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:07:27.53
そこが、「九州に邪馬台国」の最大のネック
「大陸に近いから」とか、
「似たような地名が残っているから」とかのみで
「九州に邪馬台国」と主張しなければならないんだから
そりゃあ、そんな学者は、バカにされて当たり前
>>753みたいなことを書いてる人って
三十年くらい前からいっぱいいるからな。
762 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:10:35.73
四隅突出型墳丘墓が大型化するのはやはり2〜3世紀にかけてであり
大型古墳の先駆けである吉備、大和からはじまる前方後円墳と並んで日本全国的な流れであり、
その流れの中で出雲の四隅突出型墳丘墓の巨大化も位置づけられる。
しかし、四隅突出型墳丘墓の淵源は弥生中期、つまり紀元前1世紀前後に求められ
安芸や備後地域、ここは古来山陰と山陽をつなぐ回廊であり
ちょうど山陰に流れる江の川と山陽に流れる太田川が交錯する場所にあたるのであるが
この地域から起こってゆく。もちろん、全国には他の埋葬方法は見られるが
この埋葬方法が、とくにのちに出雲を中心とした交易国家群に共通して見られるようになるのが
その特徴であると言える。
出雲国造はアマノホイの後裔であり、記紀においては大国主の娘婿となる子孫である。
これが崇神天皇の時代に国造に任じられたのが出雲国造のはじまりである。
崇神の和名ハツクニシラスとは芦原中津国の統一という意味でとるべきであろう
よって、この時点で九州は大和に服従していないし、崇神以前において出雲地域は
独立性を維持していたことが分かる。
また、日本武尊においてまた、大和が出雲猛と争うところを考えると
崇神期から景行期にかけて、大乱をまねく要因を抱える不安定な支配がつづいていたと言える
そもそも、日本は律令まで連合国家体制をとっているのであり
国造は封建体制以上にその国内における行政権が強かったと思われる。
その現れとして、四隅突出型墳丘墓のような日本海文化の独自性があると言えるのではなかろうか。
764 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:15:06.61
>>761 そっ、記紀や現実と関連づけられたら、完全にアウト
それが「九州に邪馬台国」
学者さんが、「なんで???」って質問されて
「大陸に近いから」とか、
「似たような地名が残っているから」とか
しか答えられないんだから
そりゃあ弱いはずだよね
765 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:28:20.28
>>753 こう言ってる根拠がまったくわからん
其南有狗奴国。
女王国境界より南にないといかんだろ・・・
魏志も梁書も隋書もルートいっしょだろ
まあ、漢文が読めないから分からんかな
768 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:07:45.28
九州スレは一番人気、たしかに早い!
769 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:13:11.28
>>766 >>753と言ってる根拠は
それで
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事、
その動機
実際に出土している【現実】まで
矛盾無く、ほぼ全部説明出来る、結びつけられる
から
770 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:17:52.04
>>769 つまり、オレさまの妄想はすべて正しい・・、かww
771 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:34:47.66
>>769 だから、中国の史書に書かれている「邪馬台国へのルート」を
その説の中で「矛盾なく」説明してみてくれ。
772 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:41:02.60
>>771 大陸の史書によれば、大陸から日本に取り付く拠点は
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝では、対馬國→一大国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬壱國
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝では、一支国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬臺国
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→十余国を経て奈良
と変遷している
ここで2つの問題が生じる
ひとつは、一大国と一支国は、果たして同じ島なのか
邪馬台国は当初、大陸から海を渡る場合、対馬→一大国という2島をルートを使用していたが、その後、一支国という別の島を使うルートを開拓したのではないか
もうひとつは、日本本土である末廬国・伊都国と竹斯国・秦王国は、果たして同じ地域だったのか
奈良から九州まで平定した大和朝廷は九州(竹斯国・秦王国)を利用したが、邪馬台国は九州は使用していなかった(末廬国・伊都国)のではないか
これらの疑問は、
九州を勢力下に置いていなかった畿内の邪馬台国は、魏との行き来のために当初、対馬→一大国という2島をルートを使用して、九州ではない本州(末廬国・伊都国)に上陸していたが、
その後、対馬・一大国という2島を使えなくなり・・あるいは、九州ではない本州(末廬国・伊都国)に上陸するのにもっと便利な・・・あるいは、その両方の理由で
別の島、一支国のみを使用するルートに変更した
そして奈良から九州まで平定した大和朝廷の時代になり、一支国はそのままに、日本本土としてより近い九州(竹斯国・秦王国)を利用して、対馬利用も復活した
で解決
773 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:43:42.56
774 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:48:35.79
なっ
>>772と言われちゃうと
>>773みたいなことしか言えなくなる(笑)
だから
「九州に邪馬台国」を主張するならば、
記紀や現実と関連づけられたら、完全にアウト
記紀も無視、現実も無視・・・するしか無い
単純に「大陸に近いから」とか、「似たような地名が残っているから」を根拠にして主張するしか【方法が無い】
775 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:58:54.66
>>772 >隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→十余国を経て奈良
奈良ってどこに記載されてるの?
776 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 21:59:48.64
>>774 結局は、記紀と現実を尊重して組み立てるとこうなると言ってるわけだ
邪馬台国を語るのに、倭人伝は無視かww
めずらしい人間だww
777 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:01:52.21
>>776 倭人伝と違ってる所、なにかある????
778 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:02:27.05
毎年春一番が吹くころになると、こういう愉快なお人が現れる
恒例行事だなw
779 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:07:52.06
780 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:09:57.96
うん、なるほどね、
それで遣隋使の渡海ルートは?
781 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:10:27.82
恒例ねぇ
面白いならいいけど
地頭悪そう>772
782 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:12:19.47
>>780 遣隋使出していた大和朝廷はもう、奈良から九州まで平定してたから、一支国はそのままに、
日本本土としてより近い九州(竹斯国・秦王国)を利用して、対馬利用も復活した
783 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:13:35.80
784 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:14:32.11
はいはい
奈良から九州まで平定してれば
そりゃあ九州使いますよーーーーー(笑)
>>780 隋書は「東」に行った
魏志は「南」に行った
よって邪馬台国は南
786 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:17:18.80
凄い勢いでレベルダウンしてるーーー!
787 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:21:10.09
>>788 そっ
奈良から九州まで平定した大和朝廷は、九州(竹斯国・秦王国)を利用した
だから
隋書は「東」に行った
九州は平定していなかった邪馬台国は、本州の末廬国・伊都国を利用した
だから
魏志は「南」に行った
新唐書には多利思比孤は用明天皇と書いてあり 、しかも初めて中国と通じたと書いてある
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。」
隋書には朝貢の理由が書いてある。
「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。」
これらから分かる事は、大和王権は昔から継続して朝貢していない
隋の時代が初めての朝貢だ
何も知らないから「日出ずる所の天子」と堂々と名乗った
礼儀を失する事も多々有った
つまりそれ以前の倭王は別の勢力と考えられる
789 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:24:40.56
さてと、
春一番は明日かな、それとも明後日かな???
790 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:26:41.74
>>788 そっ
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
で、前の倭王とは別の勢力
791 :
満州中尉:2014/02/02(日) 22:29:22.15
792 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:30:39.53
>>788 新唐書???
やっぱい卵だべ
誰も参考にしてない書
793 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:35:23.45
>>788 なかなかのカキコ、たしかに別勢力と読める!
794 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:36:43.03
>>791 そっ
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
で、前の倭王とは別の勢力
邪馬台国の非主流派の朝貢は、隋の時代が初めて
なんてったって密かに海神(=魏)に赴いて事態を告げたあとは、
畿内・邪馬台国勢に戻らず、北九州・狗奴国の日向に高千穂の宮を立てて、日向に留まってた
邪馬台国の非主流派の山幸彦の孫だからね、神武は
魏志
郡→狗邪韓國(水行東南七千里)→対馬國(水行千余里)→
瀚海を渡って一大国(水行南千余里)→
末廬国(水行千余里)→伊都国(陸行東南五百里)→奴国(陸行東南百里)→
不弥国(陸行東百里)→投馬国(水行二十日)
梁書
帯方郡→東南七千里の地(七千里)→瀚海を渡って一支国(水行千余里)→
末廬国(水行千余里)→伊都国(陸行東南五百里)→奴国(陸行東南百里)→
不弥国(陸行東百里)→投馬国(水行南二十日)
※()内は矢印の前の地からの行程
末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国までの行程が方角、距離ともにまるで変わってないのに、
魏志と梁書のちがい、一支と一大、そのたった一文字のちがいで
同じ名前のちがう国と断言できるその心根が信じられない。
通常の感覚だと同じ名前なら同じ国とみなす。
だから、ちがうと主張するのなら、それ相応の根拠を上げなければならないはずだ。
しかし、
>>772はあくまで「支」「大」の一字のちがい以上の根拠を呈示できていない。
基本的に自分の推理を正しいと思い込んで、その思い込みの上に理論を組み立てている。
彼は、自分の理論が完全に否定されない限り、正しいとみなす思考様式をもっており
よって、「支」「大」の一字のちがいが、邪馬台国の地を比定する上において
いったいどれほどのウエイトをもった問題なのか、全体を俯瞰した上で決定するほどの
理性的な判断力をもたない。だから、「支」と「大」がささいな行き違いから起こったものであると
証明できない限り自説を覆すことはない。
しかし、考古学において、「支」「大」の一字のちがいが全体から見てどれほどの重要さをもっているか
常識的な判断をすることはできても、「支」「大」の一字のちがいがささいな間違いであることを
証明することはできない。人は疑おうと思えばいくらでも疑えるものなのだから。
よって、彼を無視することはできても、説得することは不可能なのである。彼が成長しないかぎり。
796 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:44:12.63
>>795 そりゃあ当たり前でしょ(笑)
「支」「大」の一字のちがい
「水行南千余里」と「水行千余里」のちがい
というのは【現実】なんだから【無視しない】
一大国と一支国は「例え隣の島でも別の島」
一大国と
797 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:48:15.38
日本の記紀に書かれている出来事はおろか、
中国の史書に書かれている出来事、
その動機
実際に出土している【現実】まで
矛盾無く、ほぼ全部説明する、結びつる・・・というのは、そういうこと
「九州に邪馬台国」を主張するならば、
記紀や現実と関連づけられたら、完全にアウト
記紀も無視、現実も無視・・・するしか無い
というのは、そういうこと
798 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:52:23.97
>>779 日本書紀には遣唐使の記事はあっても遣隋使の記事はない。
799 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:52:29.71
現実というが、巻向から周辺地域の土器が出てくるのは事実だが
それを権力者たちの移動とみるか、単なる労働力や物資の移動とみるか
解釈するのは現代の人間。
支配の正統性を主張する記紀にどのように記されているのかは分からないが
特に記述がないのであれば単なる労働力の移動とみるべきではないか
まあ畿内説は、倭人伝にまったく不一致だから、まず排除して考えよう。
801 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:54:14.46
>>798 しかし
遣隋使出してたのは奈良・・というのは【現実】
だから
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→十余国を経て奈良
802 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 22:58:29.92
>>799 ローマ人がアフリカで、アフリカ人に、ローマ様式のモノを作らせたように
その場合出来上がるモノは、アフリカテイストのローマ様式のモノ
イギリス人がインド・パキスタン・アフリカ諸国で、インド・パキスタン・アフリカ諸国人に、イギリス様式のモノを作らせたように
その場合出来上がるモノは、インド・パキスタン・アフリカテイストのイギリス様式のモノ
九州人の権力者が畿内に侵攻し、畿内の人に九州のモノを作らせたら・・・
その場合出来上がるモノは、畿内テイストの九州様式のモノ
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し混ざっているだけ・・つまり
九州テイストの畿内様式のモノという【現実】と、全く矛盾して説明がつかない
低脳ども失せろ!てめえらの来るところじゃない!
804 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:01:28.28
なっ
こう言われちゃうと
>>803みたいなことしか言えなくなる(笑)
だから
「九州に邪馬台国」を主張するならば、
記紀や現実と関連づけられたら、完全にアウト
記紀も無視、現実も無視・・・するしか無い
単純に「大陸に近いから」とか、「似たような地名が残っているから」を根拠にして主張するしか【方法が無い】
しかし、
>>772はあくまで「支」「大」の一字のちがい以上の根拠を呈示できていない。
806 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:05:24.26
>>805 おやおや
九州邪馬台国だと、支」「大」の一字のちがい以上の根拠を呈示できるの????
807 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:06:22.35
>>802 仮に1代目が故郷の土器にこだわりがあったとしても
2代目、3代目にはその辺のこだわりは全く残ってないだろう。
神武一行が愛用した土器があったとしてピンポイントで出土するわけもない。
ローマや大英帝国とは規模が違う。
808 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:15:25.74
>>807 えーーーっと
神武一行が愛用した土器があったとしてピンポイントで出土するわけもない
宮殿・神殿・祭事用など「大切にされていたモノしか出土しない」
・・・から
>>802なんすけど(^_^;
809 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:21:40.77
倭人伝の中だけに邪馬台国が書かれているのだから、
倭人伝の中だけで完結すればよろしい。
邪馬台国について一言も書かれていない記紀は考える要なし、無視。
810 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:29:58.98
>>808 では
>>709 の「九州様式の王宮、政府機関」「畿内様式の王宮、政府機関」とは何のこと?
811 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:30:49.60
>>801 現実ではない虚構
日本書紀は事実を隠ぺいしている。
>>806 九州に邪馬台国があると証明できないからと言って
君の説が正しいと言えるわけではないよ。
>魏志と梁書の共通部分
>末廬国(水行千余里)→伊都国(陸行東南五百里)→奴国(陸行東南百里)→
>不弥国(陸行東百里)→投馬国(水行南二十日)
通常ここまで共通した行程があれば同名は同地とみなす。
よって、同名同地と扱った説は正しく、同名異地と扱った説は間違っているとみなされる。
よって、君が魏志と梁書で共通した上の地名について、同名異地である根拠を
たった一文字のちがいの他に挙げられないのであれば、
通常の感覚であれば、君の説は間違っていることになる。
813 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:42:24.29
春先になると決まってこういうのが現れる、どこの掲示板でもそうだ
そして、フッと消える
だ〜か〜ら〜、粱書は魏書を元にして書いてあるから。
隋使は倭国まで来てるから、隋書はキチンと音を取ってくれてるでしょ。
中国の古代の書物では博多に「覇家台」「八角島」「花旭塔」などの字が当てられており、
朝鮮の古い地理誌には覇家台のほか「石城府」「冷泉津」「筥崎津」などの名で呼ばれていたことが記されている。
「博多」の語源は、『石城志』には「むかし、飛騨内匠という者、もろこしに渡らんとて、木にて鳶を作り、
これに乗りて筑前を過ぎけるが、これを憎む者ありて、矢を放ちしが、内匠にはあたらず木鳶の片羽を射きれり、
其羽の落ちたる処を羽形と号す、後に博多に改むといえり。此説は児童のむかし語りにして、笑ふべきの甚しき也」と、ある。
港湾が博(ひろ)く物資が多いからや鳥の羽を広げた形であるという羽形からなどいくつかの説がありますが、その中でも有力なのが、 内外船の「泊」まる「潟」がなまって「泊潟→博多」となったという説で博多が古くから対外交渉の場として栄え、
博多商人の多くが船を操り、貿易取引で財をなしたという史実からきているようです。
<音訓>
博多 ばぁとぁ はかた
覇家台 ぱじぇたい はかた
八角島 ぱじぇたぉ はかた
花旭塔 ふぁしぇたぁ はかた
<和訓>
羽形 ふーしー はかた
泊潟 ばーしー はかた
すべて「はかた」と読む。
「台」の字が「た」と同じに扱われているのが分かる。
邪馬台がやまとと読まれた可能性は十分ある。
なお、朝鮮の地理誌にある石城府、冷泉津、筥崎津であるが
石城、冷泉、筥崎はともに博多にある地名であるからそこから取ったものであろう。
現代中国語の発音からの見解だが
邪は 「シェ」「イェ」。武蔵が无射志、無邪志と当てられたので、「シャ」。
S音が残っていたのではあるまいか
馬は 「マ」「メ」
台は 「タィ」「ト」
よって邪馬台は「sヤマタィ」
まあ正確を期して
古い時代の発音を調べてみた。ここ参考。
ttp://www.eastling.org/oc/oldage.aspx 上古、中古音が調べられる。
上古音はだいたい説文解字。なので1〜2世紀ごろの中原の発音だと思われる。
中古音は出典が書かれていないが、辞典を出している方の名前が書かれてある。
反切もあるがローマ字で発音が書かれているのでそれをそのままならべて見ようと思う。
複数の辞典が表示されるが独断と偏見で近いと思われる音をピックアップした。
邪馬台
上古[ljaa・phed・th?] ィヤピァタ
中古[zia・ma・th?i] ジャマティ
というところだろうか。
日本には上古に濁音はないはずだが、博多の件で見られたように
当時の中国人にはそう聞こえたのかもしれない。
ヤ行まあ当時の日本に整理された五十音図はないので、ヤ行で統一されていたか分からないが
ヤは濁音を含んだジャだった可能性はある。
819 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 01:06:15.57
820 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 01:15:19.85
だから、九州の糸島に魏の使者が来て、たらふく酒接待を受けて帰っただけ
魏に帰って遊んだのがバレてはやばいから適当な話を報告したのだ
821 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 01:21:26.18
「邪」のが「じゃ」なら
伊邪那岐 伊邪那美 の「邪」の発声が
変則的に「ざ」になっているのがわかりやすい
「じゃまゐ」とか「ざまゐ」とか
「じゃめゐ」とか「ざめゐ」のが解ですねえ
邪の道は蛇
へびのはんこもろてらっきいだった。
822 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 12:01:58.54
>>812 そうだよ、魏志と梁書で末廬国からは一緒
だからといって、末廬国の前の国、
魏志の一大国と、梁書の一支国が同じ国である・・
魏志の時と同じように対馬も使っていた
一支国は一大国の書き間違えで、対馬は書き漏らし・・というのは、書かれている現実を無視している
現実に沿った
邪馬台国は当初、大陸から海を渡る場合、対馬→一大国という2島をルートを使用していたが、その後、
一支国という別の島を使うルートを開拓した
という説明で、梁書で一大国が一支国に変わり、対馬の記載が無いことは、十分説明が出来き
なぜそうしなければならなかったのか・・という理由も
その方が、後期の畿内の邪馬台国にとっては便利だったから・・・で動機付けが出来る
823 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 12:23:11.52
>>806 そして、
>九州に邪馬台国があると証明できない
じゃ無いんだよ
書き間違えだ、書き漏らしだ・・と言えば済むことなんだから
問題は
畿内に邪馬台国だと、書かれていることが違っている、書かれていない・・という【現実】を否定せずに、説明出来る
九州に邪馬台国だと、書き間違えだ、書き漏らしだ・・と、【現実】を否定しなきゃならない
こと
これは例えば、○○という出土品が出たのに
畿内に邪馬台国だと、その【現実】を否定せずに、○○だったからね・・・と説明出来
九州に邪馬台国だと、いや、そこからその出土品が出たのは「何かの間違いだ」と主張しなければならないということで
ここに「もの凄く大きな壁がある」んだよ
824 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 12:28:17.33
>>823 訂正
>>812 >九州に邪馬台国があると証明できない
じゃ無いんだよ
書き間違えだ、書き漏らしだ・・と言えば済むことなんだから
○○だったからねーーー・・・と、書き間違えだ、書き漏らしだ・・・
どっちも推測で大差ないだろ????
しかし、問題は
畿内に邪馬台国だと、書かれていることが違っている、書かれていない・・という【現実】を否定せずに、説明出来るが
九州に邪馬台国だと、書き間違えだ、書き漏らしだ・・と、【書かれている現実】を否定しなきゃならないこと
これは例えば、○○という出土品が出たのに
畿内に邪馬台国だと、その【現実】を否定せずに、○○だったからね・・・と説明出来
九州に邪馬台国だと、いや、そこからその出土品が出たのは「何かの間違いだ」と出土自体を否定しなければならないということ
ここに「もの凄く大きな壁がある」んだよ
825 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 12:31:22.93
再訂正
これは例えば、○○という出土品が出たのに
畿内に邪馬台国だと、その【現実】を否定せずに、○○だったからね・・・と説明出来
九州に邪馬台国だと、いや、そこからその出土品が出たのは「何かの間違いだ」と出土自体を否定しなければならないということ
↓
これは例えば、○○という出土品が出たのに
畿内に邪馬台国だと、その【現実】を否定せずに、○○だったからね・・・と【推測で】説明出来
九州に邪馬台国だと、いや、そこからその出土品が出たのは「何かの間違いだ」と【推測で】出土自体を否定しなければならないということ
同じ【推測】でも大違いなんだ
826 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 16:30:47.78
「魔鏡」は畿内で出土するが九州では出土しない。つまり、邪馬台国は九州ではなかった。残念です。
当時の技術で磨いたら、大なり小なり魔鏡になるだろ。
むしろ、模様が出ないようにする方が難しい。
磨かなければ模様は出ないが。
828 :
国会選挙改正案:2014/02/03(月) 19:30:41.15
>>826 へぇー、あんたの頭の中では魔鏡=邪馬台国の証明、なの?。へぇー、新説だ
ねー。スカイツリーから頭を下にして飛び降りたほうがいいねー。
829 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 20:04:48.64
このスレに参加する者は、ここが九州説スレであることをよーーく考えなされ。
九州説を否定するために論議しているわけではなく、「九州説を証明する」ため
に意見をよせあっているのだ。このことがわからない人は他スレへ行きなされ。
>>822 イマイチよく分からんのだが
書き漏らしと漢字のちがいに特別な意味があるはずって思ってるのね
末盧国以降の行程が同じなのも大和朝廷が梁をあざむくためにつくったものだと。
すべては大和朝廷の陰謀だったってわけね。
まあ、宇宙人だとか古代文明とか信じている人たちの間でなら
そういうロマンあふれる話も通じると思うんだけど、通常の感覚からだとありえないとしか
思えないね。そもそも漢文に絶対の信頼性を置くという価値観そのものが宗教じみている。
少しでも漢籍に触れたことがあれば、写しの誤りが起こることくらい当然であると考えるし
外国人だから客観的に書けるとも考えない。明史日本伝を読めばわかる。
明史によれば、秀吉は九州薩摩から京都山城にでてきて日本を支配した奴隷あがりだ。
それが本当なら、今の日本史は秀吉の陰謀の上になりたっていると言えよう。
だが、中世からの膨大な日本の書物と合わせて鑑み、俺には明史が正しいとは思えん。
まあ、日本の書物がすべて嘘をついている可能性は否定することはできんがな。
漢籍に触れれば、国史であっても経典類であっても写し間違えなど腐る程ある。
むしろ写し間違えがあるから、校訂で原本を限定していくことができると言える。
とにかく、君の論拠があまりにも薄弱なのは客観的に明らかだと思うよ
もちろん、完全に否定することは考古学上不可能であろうがさ。
>>823 根拠として、出土品の分布を追加してくるわけね。
だが、具体的な内容が書かれていないので正しいか判断しかねる。
是非、なぜ君の説でしかうまく説明できないか、その推論を聞かせてくれ
831 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 20:51:35.50
832 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:30:00.35
まさか!
とても中学出てるとは信じられない。
833 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:38:22.82
九州説は中卒以下
単純に考えて
畿内に行くのにさ
九州をわざわざ陸行する必要無いから
やれやれ
トルファン市で発掘された晋代の写本と考えられる三国志古本では、姚李農の研究によれば
「三国志巻五七虞翻伝・陸績伝・張温伝」の1192字中、「紹煕本」と画数の同じでないものが416字で
全体の1/3を越える。また、用語から見て「紹煕本」と異なるものが40句ある。
836 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 00:41:20.78
機内の文化は倭人伝の記述に合わない。
これが決定的かな。
九州の文化の方が記述にあってる。
平原とか大きさが小さいだけで、そのものじゃない。
周りには殉死者の跡もある。
鏡の重要性、おまけにシャーマンの女性の墓なのは確実。
>>836 あの辺りに7万戸の国がある訳ないだろw
他に奴国もあるんだからな。
書かないうちに送信されちまった。失礼。
>>836は平原が邪馬台国だと主張してるわけでもないだろ?
倭人伝のイメージに近いものがあるということだと俺は思うが。
倭人伝は魏書の最終巻の最後にあって、詳細でもなく包括的でもない。
平原遺跡はむしろ卑弥呼ほどでなくても似たような女王のたぐいがまだまだ
いても不思議じゃないことを示すものだろう。
>>836の言う通り、九州の方が倭人伝のイメージに合う。
このくらい似ていると「候補、候補」と騒ぐ畿内ブシの連中なら、すぐ「これで決まり」と言いそうだが、
なぜか黙ってるなw その代わりにイワシの頭を持ってくるってのも変ってるwww
841 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 04:16:01.78
>>828 そうさ、「九州説を証明する」ためには
畿内に邪馬台国だと、○○だったからねぇ・・・と【書かれている現実】を、【推測】で否定せずに説明出来るが
九州に邪馬台国だと、書き間違えだ、書き漏らしだ・・と【書かれている現実】を、【推測】で否定しなきゃならないこと
○○という出土品が出たのに
畿内に邪馬台国だと、「○○だったからね」・・と、【推測で】その【出土した現実】を否定せずに、説明出来るが
九州に邪馬台国だと、「何かの間違いだ」・・・と、【推測で】その【出土した現実】を否定しなければ、説明出来ないということ
これを打開しない限りムリ
書き間違えだ、書き漏らしだ、「何かの間違いだ」なんて、最大のご都合主義だ
842 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 04:25:02.80
>>830 書き漏らしと漢字のちがいに特別な意味は無い・・での理論展開は
史記を根本的に否定して、理論展開していることになるけど???
843 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 04:25:57.36
>>830 書き漏らしと漢字のちがいに特別な意味は無い・・での理論展開は
史記を、【推測】で根本的に否定して、理論展開していることになるけど???
844 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 05:34:28.53
>>840 マヌケな奴だな、畿内説でも北部九州は重要地に変わりないんだよw
別に倭の条件にピッタリでも何の問題もないんだが。
845 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 09:14:39.85
むかし江戸と言っていた地も、時がたてば東京と呼ぶ
むかし京の都と呼ばれていた町も、いつしか京都になる
むかし大和であった地も、今は奈良県になっている
魏のとき一大国であった邑島が、梁時に一支国と名を変えてもなんら不思議ではない
846 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 11:38:27.36
まあ今どき九州説なんて信じてる奴は相当頭が悪いから
九州は合ってる(とオレ様が思う)
畿内は合ってない(に決まってる)
しか言えないんだよ。
ばかだからな。
847 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 11:42:15.13
まあ今どき畿内説なんて信じてる奴は相当頭が悪いから
畿内は合ってる(とオレ様が思う)
九州は合ってない(に決まってる)
しか言えないんだよ。
ばかだからな
848 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 13:05:47.67
849 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 17:34:38.06
>>845 他の国は名前が変わっていないのに????
なぜ一大国だけ名前を変える必要があった????
対馬はどうする???
850 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 17:39:58.37
>>847 九州説は「大陸に近いから」
九州は合ってる(とオレ様が思う)
畿内は合ってない(に決まってる)
畿内説は
畿内に邪馬台国だと【推測で】【現実】を、「○○だったからね」・・と、否定せずに、説明出来るが
九州に邪馬台国だと【推測で】【現実】を、「何かの間違いだ」・・・と、否定しなければ、説明出来ないから
畿内は合ってる(とオレ様が思う)
九州は合ってない(に決まってる)
で、畿内説の勝ち
851 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 17:47:45.50
魏志倭人伝を読んで邪馬台国が畿内に在ったとか云う奴は漢文が読めない奴。
おまえ、読めるの? ww
853 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 18:03:02.32
畿内説は古ネタになったなあ
854 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 18:53:58.99
855 :
筑紫倭皇帝:2014/02/04(火) 19:46:13.99
>>848 俺がここに更に追加しよう。(ウィキの編集はしないが)
大国主は「漢委奴國王の金印」をもらった倭奴国王だと。
記紀に時代を超えて度々出てくる大国主は 漢委奴國王 の子孫であり
博多湾沿岸を中心、都としてた倭国の代々の中心人物。
卑弥呼の時は、この大国主を中心とした王たちの共立で卑弥呼が女王として
共立され倭国の聖地 伊都国=倭奴国 で君臨した。
天孫族はそのころはまだ倭国内の斯馬国(糸島志摩)程度を治めるぐらいの小国の王、豪族だった。
大国主=倭奴国の子孫 は倭国内では卑弥呼共立時代も絶対的な存在であり
筑紫内の神々(豪族・安曇氏宗像氏等々の始祖神)であるが、
天孫族の台頭で筑紫を追われる。
これこそが 天孫族と大国主の 「国譲り」 である。
大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国外の出雲へ追放された。
天孫降臨は天孫族による 伊都国 攻略。
伊都国を攻略した天孫族は、小国尾張の小大名から大国美濃を攻略し成功させた織田信長の 「天下布武」 と同じような心境から
「天孫降臨」
を知らしめ天孫族の筑紫の支配を正当化するために「国産み」や「アマテラスとスサノオ」の契約等々の話を作り、
筑紫の豪族(王・神々)は天孫族に従うよう創造神話を作ったのだろう、と。
しかしながら、我ながらよくできた説だな。
もちろん、そんなんでwikiを編集すれば「要出典」の嵐が確実
弥生時代と戦国時代の千数百年の違いを越えて
比較している時点で何の歴史センスもなし
858 :
筑紫倭皇帝:2014/02/05(水) 00:11:33.76
>>857 千数百年の時を経ても人間の感情は変わらない。
そんな壮大な(歴史のロマン)にも気づかないお前は 「人としてのセンス」 のかけらもない
知識の薄い、博学やセンスのある人物に対して嫉妬と憎悪にまみれた劣等感丸出しの低能人種なのだろう(笑)
佐賀説や宮崎説を唱え続けるやつらのような視野の狭いアホなのだろう。
859 :
筑紫倭皇帝:2014/02/05(水) 00:29:17.67
やはり思う事は、
佐賀説や宮崎説、畿内説を唱えるやつらってのは
>>857のように
「そこ」しか見えてない視野の狭い低能である。
まず思うのは、俺の考えている(見ている視野)レベルと、佐賀説宮崎説畿内説を唱えてる
やつらの見ているレベルの違う事違う事w
が総じて低いこと(視野が狭い)が
決定的な違いだろう。
邪馬台国や天孫族を語るなら、まず最低限俺レベルの壮大さ視野を持ってから
邪馬台国や天孫族の研究に挑んでもらいたい。
君たち佐賀説や宮崎説畿内説を唱えるやつらのレベル、視野の狭さなら
いつまでたっても本当の答えは導かれないだろうな。
860 :
筑紫倭皇帝:2014/02/05(水) 00:31:09.77
やはり思う事は、
佐賀説や宮崎説、畿内説を唱えるやつらってのは
>>857のように
「そこ」しか見えてない視野の狭い低能である。
まず思うのは、俺の考えている(見ている視野)レベルと、佐賀説宮崎説畿内説を唱えてる
やつらの見ているレベルの違う事違う事w
佐賀説や宮崎説畿内説を唱えるやつらのレベルが総じて低いこと(視野が狭い)が
決定的な違いだろう。
邪馬台国や天孫族を語るなら、まず最低限俺レベルの壮大さ視野を持ってから
邪馬台国や天孫族の研究に挑んでもらいたい。
君たち佐賀説や宮崎説畿内説を唱えるやつらのレベル、視野の狭さなら
いつまでたっても本当の答えは導かれないだろうな。
無限尿か?
そして珍説皇帝のレベルは赤子以下
理由:根拠が述べられないから
863 :
筑紫倭皇帝:2014/02/05(水) 01:38:47.99
>>855の続き
「空白の4世紀」
天孫族は斯馬国にいて、大国主や卑弥呼の時代の政治をみてきたからこそ、
中国との交流はしなかったのだろう。
中国の後ろ盾を使っても国はまとまらない。
狗奴国との戦いや卑弥呼共立等々で実証された。
だから天孫族は自分たちが筑紫を支配しても中国を必要としなかった。
これが「空白の4世紀」だろう。
もし天孫族が半島人なら決まって中国との交流はしただろうな。
864 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 06:32:20.79
>>855 大国主は「出雲で」ヤマタノオロチを倒して、アマテラスの弟のスサノオの娘と結婚して
そのあと「出雲を」国譲りしているから、伊都国=倭奴国は筑紫じゃなく出雲だな
865 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 06:39:20.10
>>848 ・「壬申の乱」(672年)は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に・・・・・・・・・・
スゲーなー、こんな事言わなきゃ、九州説って説明出来ねーのかよ
九州説はトンデモじゃんw
866 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 16:24:57.07
>>339新説・日本三国志8の1【古代の日本】
>>340新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
>>341新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
>>342新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
>>343新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
>>346新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
>>347新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】
>>348新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
↑ここまでは、
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝のとおり、対馬國→一大国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬壱國
一大国は壱岐であり、初期の邪馬台国は北九州は利用出来なかったので、朝鮮半島−対馬−壱岐−島根−奈良のルートを使用した
新説・日本三国志8−8までの「一支国」記述は、すべて「一大国」に訂正
867 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 16:31:43.86
>>349新説・日本三国志【外伝・その後の日本】
(倭の五王)まで
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝では、一支国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬臺国
一支国は五島列島であり、畿内邪馬台国勢力下、あるいは国力を増していた新羅勢力下の対馬・壱岐を使用出来ない北九州狗奴国(倭の五王)は、
対馬・壱岐を使用しない朝鮮半島−五島列島のルートを開拓し、畿内邪馬台国の王と偽って、南朝に朝献した
(ヤマトタケルの西征)後
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て奈良
朝鮮半島−済州島−対馬−五島列島−筑紫−奈良のルートを使用したが、
『隋書』に「竹斯国(筑紫)より以東は、いずれも倭に附庸している。」と書かれているとおり、隋は対馬を「倭」とは認めていない。
日本が再び対馬を占領下におくのは645年の大化改新ののちの「唐」の時代こと
しかし、遣唐使も当初は対馬を使用していたモノの
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、
676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため、
日本は対馬を使用しての遣唐使の派遣が出来なくなり、
今度は五島列島(一支国)から半島を経由すること無く、直接大陸に渡ることとなる
これで
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝では、対馬國→一大国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬壱國
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝では、一支国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬臺国
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→十余国を経て奈良
も説明がついちゃった(^_^;
868 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 16:42:24.86
むかし江戸と言われて地も、時がたてば東京と呼ばれる
むかし京の都と呼ばれていた町も、いつしか京都になる
むかし出雲国は今は島根県となり、大和であった地も今は奈良県になっている
魏のとき一大国であった邑島が、梁時に一支国と名を変えていてもなんら不思議ではない
てへ、説明がついちゃった(^_^;
869 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 16:47:24.85
「一支」のはあちらふうに発声すると「いち」なんだけどなんか問題とかありますか?
870 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 20:36:38.39
フン族の王だろう。
872 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 20:50:17.56
ふ〜ん
873 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:32:08.84
新説・日本三国志【外伝4−1・その後の日本】
しかし混乱はおさまらず、それ以降『天皇』は、
出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統と、魏を後ろ盾に持つ北九州狗奴国の流れを汲む正室系統の間での
血なまぐさい政争が8代続き、
その後『天皇』が、出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統から、恒常的に代々輩出されていくようになって、やっと安定する(欠史8代)
が、「大和国」は「親魏倭王」でありながらも次第に、大陸の影響を外夷として嫌って「日本国」へと変貌する
一方、北九州狗奴国はその間、
「魏」が想像以上の早さで衰退して「晋」となった後も、
畿内邪馬台国・初期大和王権勢力下、あるいは国力を増していた新羅勢力下の
対馬・壱岐を使用せずに、大陸と行き来する
朝鮮半島帯方郡(百済)−五島列島(一支国)の直通ルートを開拓し、
畿内邪馬台国の王と偽り「倭国」として、大陸の代々の南朝と独自の交流を続け、
それはその後「宋」「斉」「梁」と、大陸の南朝が消滅するまで続く(倭の五王)
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝では、帯方郡−一支国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て邪馬臺国
874 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:32:40.90
新説・日本三国志【外伝4−2・大陸の統一と日本の統一】
しかし「梁」が滅亡し、大陸が北朝の「隋」に統一され、南朝が消滅すると、南朝と関係の深かった北九州狗奴国の国力も衰退して、
北九州狗奴国はついに、大和の「日本国」に併合される(ヤマトタケルの西征)
そして「倭国」は、「日本国」という統一国家として大和から北九州を利用して、第33代推古天皇の時代に
朝鮮半島帯方郡(百済)−済州島−対馬−五島列島−筑紫−大阪−奈良のルートをたどり、
607年に遣隋使・小野妹子を大陸を統一した北朝「隋」に送ることになるが、
『隋書』に「竹斯国(筑紫)より以東は、いずれも倭に附庸している。」と書かれているとおり、
562年に任那日本府が新羅によって滅ばされて以降、隋は対馬を「倭」とは認めていない。
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
その後、日本が再び対馬を占領下におくのは、645年の大化改新前後の「唐」の時代となるが、
遣唐使も当初は対馬を使用していたモノの
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅び
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、
676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため、
日本は対馬を使用しての遣唐使派遣が出来なくなり、
今度は五島列島(旧・一支国)から東シナ海を横断し蘇州に渡り、半島を経由すること無く、直接大陸と行き来することとなる
875 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 21:49:51.68
新説・日本三国志
しょーもない説だ
>十余国を経て難波津−奈良
着いたのは海岸だ
>隋は対馬を「倭」とは認めていない
対馬、壱岐は独立してると言うことだ。
876 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 21:55:31.85
>>836 >平原とか大きさが小さいだけで、そのものじゃない。
江戸時代の地名は「ツカバタケ」だ
大きな塚があったんだよ
ミカン畑で削られて、平地になって発掘したんだ
877 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:02:49.37
>>875 『日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。
その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。
難波高麗館の上に館を新しく建てた。
6月15日難波津に泊まった。
船30艘で歓迎、新館に泊めた。
8月3日に京に入った。
「鴻臚寺の掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の上においた。
9月5日に難波大都に、11日に帰った。
隋は対馬を「倭」とは認めていない
562年に任那日本府が新羅によって滅ばされて以降、対馬は、
新羅と日本で、獲ったり獲られたりの紛争地域
878 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 22:07:42.58
>>877 日本書紀に記載されている事跡は正しいのか
じゃ、問題は何もないな
>新羅と日本で、獲ったり獲られたりの紛争地域
根拠を聞こうか
879 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 22:18:24.96
>>877 推古の本名は「姓阿毎、字多利思北孤」って言うのか
天下りし彦
彦は男の美称
推古天皇は男だった
881 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:21:21.28
>>878 562年に任那日本府が新羅によって滅ばされて以降、
対馬は、日本と新羅との紛争の最前線
初期大和朝廷は長引く紛争解決のため600年、北朝・隋にはじめて遣隋使を派遣する
しかし、北朝の隋にとって
倭国は、「魏」「晋」「宋」「斉」「梁」と、代々南朝に朝献していた国であり
新羅は、建国以来いち早く、毎年毎年「隋」に朝献してくる属国
当然、倭国からの使者は、改めるよう訓令とともに、けんもほろろに追い返される
882 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 22:28:57.21
>>881 >対馬は、日本と新羅との紛争の最前線
紛争記事のソースは
蘇我馬子は阿曇を法頭に起用した。
阿曇は新羅弥勒信仰だからな
対馬には阿曇族の綿津見系神社が77社ある
阿曇のシマだ。紛争の理由はない
883 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:33:05.85
しかし新羅の度重なる対馬へのちょっかいを、なんとしても解決したい初期大和朝廷は
その7年後の607年、国書を持たせ、再び遣隋使(小野妹子)を派遣する
隋は、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と
一度は激怒したモノの、新羅との調整役をかねて、裴世清らを倭国に派遣する
884 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 22:35:24.70
>>881 白村江敗戦後、「671年」 阿曇連頬垂(ツラタリ)新羅へ派遣
885 :
寿限無長助:2014/02/05(水) 22:38:37.75
どいつもこいつも根拠のない妄想ばかりだ
糞して寝ろ
886 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:44:09.91
>>882 日本書紀によれば
西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。
これを回復するための「征討軍」が推古朝に3度、計画されている
1度目600年は新羅へ侵攻し、倭国に朝貢を約させたが、
倭国が引き上げると再び、新羅は任那に侵攻した
2度目は602年、聖徳太子の弟来目皇子が新羅征討将軍として軍2万5千を授けられ
筑紫国に進軍するモノの、対馬に渡れず、新羅への進軍を延期
3度目は603年、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されるも
播磨で朝廷に帰還し、計画は頓挫
・・・で607年の小野妹子
887 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:53:11.96
>>886 訂正
日本書紀によれば
西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。
これを回復するための「征討軍」が推古朝に3度、計画されている
1度目600年は新羅へ侵攻し、倭国に朝貢を約させ、
勢いに任せて日本は、新羅の親玉の隋にまで使者を派遣
しかし、北朝の隋にとって
倭国は、「魏」「晋」「宋」「斉」「梁」と、代々南朝に朝献していた国であり
新羅は、建国以来いち早く、毎年毎年「隋」に朝献してくる属国
当然、倭国からの使者は、改めるよう訓令とともに、けんもほろろに追い返され
倭国が引き上げると再び、新羅は任那に侵攻した
2度目は602年、聖徳太子の弟来目皇子が新羅征討将軍として軍2万5千を授けられ
筑紫国に進軍するモノの、対馬に渡れず、新羅への進軍を延期
3度目は603年、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されるも
播磨で朝廷に帰還し、計画は頓挫
・・・で、607年の小野妹子
隋は、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と
一度は激怒したモノの、新羅との調整役をかねて、裴世清らを倭国に派遣する
888 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 23:17:28.43
半島南部は倭だった
889 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 23:18:08.63
その後日本は、608年、610年、614年と、3回「対馬を使わせて貰って」隋に遣隋使を送るが
618年に隋が滅んで、619年に唐になり、630年に始めて「対馬を使わせて貰って」遣唐使を派遣
その後、642年頃に危機感を募らせた高句麗が緊急軍事態勢を敷き、百済と連携(麗済同盟)して事態は急変、
新羅は国際的に孤立し、それにより日本は対馬を奪還、
645年の大化改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、
対馬を大宰府の管轄下に入れる
しかし
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅び
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、
676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため、
日本は五島列島−対馬ー朝鮮半島を使用しての遣唐使派遣が出来なくなり、
今度は五島列島(旧・一支国)から東シナ海を横断し蘇州に渡り、半島を経由すること無く、直接大陸と行き来することとなる
対馬を使って遣唐使を送れるようになる
890 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 23:20:41.99
>>889の
対馬を使って遣唐使を送れるようになる
は、削除し忘れです
半島南部は倭だった
だから当然対馬も倭
892 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 23:34:06.56
大陸とのルートから外された対馬には防人と烽が置かれ、
山城も築かれて外寇の防備としたが、
8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、
11世紀の刀伊の入寇、
13世紀の元寇
15世紀の李氏朝鮮による応永の外寇
などしばしば戦火をこうむった。
古代から
朝鮮半島から日本に攻める時 対馬は蹂躙される
日本から朝鮮半島に攻める時 対馬は協力する
対馬は古代から倭の勢力下である
894 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 23:47:37.21
>>889 >>892 訂正
その後日本は、608年、610年、614年と、3回「対馬を使わせて貰って」隋に遣隋使を送るが
618年に隋が滅んで、619年に唐になり、630年に始めて「対馬を使わせて貰って」遣唐使を派遣
その後、642年頃に危機感を募らせた高句麗が緊急軍事態勢を敷き、百済と連携(麗済同盟)して事態は急変、
新羅は国際的に孤立し、それにより日本は対馬を奪還、
645年の大化改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府を置き、
日本は対馬を大宰府の管轄下に入れて、653年から大手を振って対馬から遣唐使を派遣するようになる
しかし
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅び
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、
676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため、
日本は五島列島−対馬ー朝鮮半島を使用しての遣唐使派遣が出来なくなり、大陸と行き来は対馬−半島を経由すること無く、
五島列島(旧・一支国)から東シナ海を横断し直接、蘇州に渡ることとなる
大陸とのルートから外された対馬には防人と烽が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、その後も
8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、
11世紀の刀伊の入寇、
13世紀の元寇
15世紀の李氏朝鮮による応永の外寇
などしばしば戦火をこうむった。
895 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 23:58:14.18
んで
新説・日本三国志【外伝4−3・壬申の乱と日本書紀の編纂】
第38代天智天皇の死後、天皇自ら後継にした太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が
地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、朝廷軍を打ち破って、無理やり天皇の座に就いてしまうという、
初代神武の軍事クーデターとそっくりの、国を2分する大内乱戦争が再び起きてしまう(672年壬申の乱)
勝利した皇弟・大海人皇子は第40代天武天皇に即位後、その内乱の正当性を固めるため、日本国の正史として「日本書紀」の編纂を命じ、
まだ自身の文字を持たなかった当時の日本は、中国の学者を雇用して、「中国語による漢文」で「日本書紀」を書き始め
さらに第42代文武天皇が大宝律令を制定し、唐を模倣した官僚制への国内改革を急速に推し進め、
都も、唐の長安にそっくりの、それまでの藤原京より、もっと中国式の平城京への遷都が計画される
しかし、文武天皇は遷都の前に死去してしまい、次ぎに天皇になった母の第43代元明天皇は、
藤原京から、中国式の平城京への遷都に猛反対し、藤原京に留まることを強く希望するが
それにもかかわらず、唐に追いつき追い越せの王公大臣達は天皇の言うことを聞かずに、遷都は強行されてしまう
邪馬台国の話をしませう
897 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 00:51:50.93
>>339新説・日本三国志8の1【古代の日本】
>>340新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
>>341新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
>>342新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
>>343新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
>>346新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
>>347新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】
>>348新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
↑ここまでは、
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝のとおり、対馬國→一大国(壱岐)→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国を経て邪馬壱國
一大国は壱岐であり、初期の邪馬台国は北九州は利用出来なかったので、朝鮮半島−対馬−壱岐−島根−奈良のルートを使用した
新説・日本三国志8−8までの「一支国」記述は、すべて「一大国」に訂正
で
>>873新説・日本三国志【外伝4−1・その後の日本】
>>874新説・日本三国志【外伝4−2・大陸の統一と日本の統一】
>>894 の補記を経て
>>895新説・日本三国志【外伝4−3・壬申の乱と日本書紀の編纂】
898 :
筑紫倭皇帝:2014/02/06(木) 09:12:15.79
本日の最低気温(今シーズン最強クラス寒波の朝のニュース速報値)
東京大阪名古屋は全部氷点下でアイスバーンだが、
福岡はなんと3.9度
福岡の安定感(温暖さ)がハンパない。
佐賀宮崎もまず氷点下は間違いない。
899 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 10:06:34.43
さすが
福岡王朝はいい場所を選んだものだ
900 :
筑紫倭皇帝:2014/02/06(木) 10:38:07.47
ウィキの九州王朝説の中に「漢倭奴国王」の金印を埋めた(捨てた)所が
卑弥呼の墓の可能性があると書いてあったが・・・
となると、志賀島自体が径百余歩の卑弥呼の墓か??
金印は元々は細石(さざれいし)神社の御神体という話もあるが、
志賀島で発見された場所は、見事に志賀島の糸島方面というのはなんとも興味深い。
博多湾を挟んで見事に糸島半島と向かい合った場所から発見された。
これは興味深いな。
総数254基ある福岡県新宮町の相島の相島積石塚群は対岸が安曇氏の志賀島ではなく宗像だから
宗像一族の遺跡だろう。
http://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E5%B3%B6%E7%A9%8D%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E7%BE%A4 同じように対岸に糸島半島を見渡せる場所から発見された金印。
立花山がもし筑紫の日向の高千穂のクジフルタケなら
志賀島からまさに海ノ中道が一直線に伸びる「笠沙の御前を真来通り」もぴったり。
その場合は天孫降臨は斯馬国糸島半島からの天孫族による福岡平野の侵攻だろうな。
901 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 10:44:07.13
今日も、福岡王朝は絶好調!
902 :
筑紫倭皇帝:2014/02/06(木) 11:23:33.72
まあ、西(糸島志摩)の天孫族が志賀島から海ノ中道を回り込んで
東の立花山方面から、千代堅粕(かたかす)潟州(かたす)の大国主を攻めたかもな。
その時の立花山からの眺望が「天孫降臨」であり、東から回り込む作戦が「神武東征」の東から攻めるモデルになった。
そしてまた、イザナギが西の天孫族であり、東から天孫族(イザナギ)を助けた国が博多湾岸の東にあるイザナミの国であり、
イザナギとイザナギが協力して大国主を筑紫から追い出した(国譲り)。
国譲りを成功させれば、次は筑紫の支配だ。
博多湾を挟んでイザナギ(西)とイザナミ(東)のちょうど真ん中には能古島がある。
この島をまず一番初めに共同で生んだ島(国産み)として天孫族による筑紫支配がスタート。
イザナギとイザナミは喧嘩をして最終的に西の天孫族が覇者になったわけだ。
実に今日も、福岡王朝は絶好調! (
>>901より抜粋)
903 :
済州島出身満州:2014/02/06(木) 12:22:24.48
実に今日も、福岡王朝(の妄想)は絶好調!(笑)
金印は偽物なのに、それを知らないとは何と○○な奴よw
日向も日向峠ではないぞ。それを証す資料をまたひとつ発見した。
まあ、またヒマなときに書いてやる。
君は邪馬台国を論じられるレベルではないよ。自覚したまえ。
「人類の共通祖先は、アトランティスの骨無し人間」
満州のオカルト妄想に付き合える奇人変人など、どこにもいない。
906 :
済州島出身満州:2014/02/06(木) 17:21:47.68
>>904 この男はたぶん金印は本物だと信じているのである。
世間知らずのお坊ちゃまw
日本の金印も中国の金印も偽物なのである。
出土状況が極めて不自然。そんなものが土の中からひょっくり現れるわけがない。
おまけに博多は日本の極南界ではない。
また金印を与えたとも書かれていない。
常識的に考えて偽物に決まっているのである。
福岡藩の儒者と豪商と役人が仕組んだことなのである。
彼らは友人で親戚関係にさえあったのだ。
これまで再三力説してきたが、誰も耳を貸さない。
ここの奴らは本当に勉強しようという気があるのか。
907 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 17:26:33.23
九州は雪が積もってるなw
満州脳も永久凍土の下だ
909 :
大和 田直木:2014/02/06(木) 20:15:40.14
1世紀::筑前王国の時代
2世紀::筑前王国は滅び、肥前王国の時代となった。
3世紀〜6世紀::筑後王国の時代であった。
6世紀〜7世紀::筑前王朝の再興と滅亡の時代であった。
8世紀::畿内王朝の成立。
大和 田直木さん、いいこと言いますね〜。
911 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/06(木) 21:24:35.08
満蒙巣コングは稀代のデ○パ!
ルパシカ山田とチワワ舟
913 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 23:28:31.94
こんな具合だから九州説が世間から見捨てられるんだよ。
914 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 23:47:32.00
ロマンの九州説
ロマンの無い邪馬台国は骨の無い人のようなもの
九州説は既に遺骨
916 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 10:14:32.54
かって少年時代に古田尊師の福岡説に心酔した者は、
中年高年になってもそれを捨てきれない、
たぶん遺骨になってもそうだろな。
917 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 10:41:14.82
最近はまともな九州説があきれて投稿していないようだ。
918 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 10:54:21.15
>>917 それは言えてるね
筑紫倭皇帝、大和 田直木みたな根拠、判断材料も示せない夢物語家や
初心者未満のひやかしどものせいだよ
だいたい論戦にならないだもんね
畿内説が完全自滅しちゃったので、九州説の一人勝ちのため、争わず。
920 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 10:57:04.07
921 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 17:11:57.60
魏志倭人伝を読めば邪馬台国が北部九州であることは明快に分かる
>>919や
>>921みたいな妄想に耽って自滅し果てちゃったわけだね、根拠に基づく習慣を持たなかった九州説はついに・・・
923 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 18:45:24.01
霊を見ちゃう人なみの「おれには分かる」止まりばっかりだからな
924 :
大和 田直木:2014/02/07(金) 18:46:33.36
1世紀::筑前王国の成立(倭奴國[倭都國])
2世紀::筑前王国は滅び、肥前王国に交代するが、倭國乱となる。
(倭面土國帥升〜倭都國王[伊都國王])
3世紀::前期筑後王国の成立。(卑弥呼共立〜壹與)
4世紀〜6世紀前葉::後期筑後王国の時代。(倭王旨〜岩井死亡)
6世紀中葉〜7世紀::筑前王朝の再興と滅亡。(岩井死亡後〜薩末比売)
8世紀::畿内王朝の成立。(文武〜)
925 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 18:51:27.23
九州説名物「妄想連呼」
理由をひとことも言えない九州説って、脳死状態?
927 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 19:09:50.03
>>926 今夜も924の妄想劇か
902と二人だけでやってくれ
伊作と論戦してた人達はどうしてるんだろうね
まだ見てると思うんだけど
928 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 19:23:47.69
今夜も古田尊師に帰依した人たちの自作妄想劇、はじまり、はじまり〜〜
929 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 19:44:08.44
後の時代の遣唐使ですら、1/4は遭難している状況であるが、
数値は信用出来ないかもしれないが、白村江に5万人近い兵士を投入したのは、
遣唐使を送り込んだ勢力と、明らかに航海、造船の技術レベルが違うというべきである。
したがって、白村江は九州勢力が送り込んだものと考える。
白村江の総司令官であるサツヤマが捕らえられるほどの大敗退による壊滅で、
ほとんど無傷の畿内勢力に政権が移った。
そののち、大陸からの侵攻を危惧して、防人が置かれているが、
同時に九州勢力の再起を防ぐためでもあっただろう。
防人は、最初は東国から徴兵されており、8世紀中期になって、九州から徴用されるようになる。
最初はある程度畿内が統制できる東国兵士を使い、九州を把握し終わって、
反攻の可能性がなくなってから、比較的負担が少なくて済む、近場の九州勢を徴兵したと
いうことだろう。
930 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 20:00:02.00
あと、可能性としては、壊滅した九州勢力にも、まだ権威が残っていて、
九州から東国に、壊滅した代わりの兵士を送るように要請した可能性もある。
もっとも、8世紀初頭には、名実ともに畿内に政権が移るのは確実だが。
931 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 20:14:13.58
>>929 九州での徴兵、特に日向国での徴兵は苛烈を極め、
あまりに徴兵するものだから家族親戚の生活が成り立たない、
従って薩摩国に逃亡して日向は人がまばらになってしまった、と一書にあるが、
それが目的でもあるので改められなかった。
真偽はともかく確かに記され伝わっている東征をやらかしたようなところは
基盤から潰しておく必要があると考えるのは、権力主体として当然のことであろう。
畿内説利権関係者以外、みんな九州説だから、争う必要などなし。
933 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 23:26:29.45
九州説さんは皆なおばかさんだから妄想ばかりだねえ。
遣唐使のルートも知らなきゃ、サッちゃんが勝手に総司令官に就任しちゃうし・・
もう世間からは失笑浴びるだけだね。
934 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 00:41:38.35
近畿はしょせん九州倭国の出先だったのだよ。だから、白村江で敗北した倭国は
九州から奧野深い近畿へと都を遷して戦おうとしたんだ。
935 :
大和 田直木:2014/02/08(土) 01:07:36.31
>>929 >数値は信用出来ないかもしれないが、白村江に5万人近い兵士を投入したのは、
>遣唐使を送り込んだ勢力と、明らかに航海、造船の技術レベルが違うというべきである。
航海技術と造船技術以上に劣っていたのは航海ルート
★8世紀初頭までのルート 博多発着 渡航ほぼ成功
★8世紀初頭以降のルート 薩摩坊津発着 渡航ほぼ失敗
博多ルートから坊津ルートへの変更は、
九州残存勢力討伐令(九州残党狩り)が出たことによる、
九州残存海上勢力の渡航妨害を避けるの為。
坊津からの唐への渡航は、温帯性低気圧と黒潮による暴風雨を避けるが困難である。
坊津への帰着は、北上する黒潮で北に流され九州西部海岸に流されるため、九州残存海上勢力の餌食となる。
南にルートを取ると太平洋側の黒潮により東へ流され北アメリカ大陸へ。
936 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 13:09:26.87
航海ルートが劣悪だったことを認めたら、航海技術や造船技術が劣化したと主張する根拠が消えるのにね。
まぬけな敗北主義者だこと。
航海ルートを選択するのも腕のうち。
九州の人間は、南路を通る遣唐使船を見て、
ムチャシヤガッテ、って思ってたかもね。
938 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 15:33:54.99
日向(ひむか)の国から薩摩国が分国くしたのが702年。阿多隼人の中心、加世田には国分寺を置かず、
人の住まぬ川内(現薩摩川内)に置いた。前年大宝律令が制定。
713年、大隅国が分国、これも大隅隼人の中心鹿屋に国分寺を置かず、人も住まぬ霧島山の麓の国分に
国分寺を置いた。
これによりひむかの中心、大隅(元は大住)が日向神話の中心から外され、今の宮崎県が日向神話の中心と
されてしまった。
939 :
大和 田直木:2014/02/08(土) 21:00:35.88
>>937 >航海ルートを選択するのも腕のうち。
>九州の人間は、南路を通る遣唐使船を見て、
>ムチャシヤガッテ、って思ってたかもね。
遣唐使は坊津ルートしか選択肢がなかったのである。
後の渤海ルートの遣唐使は失敗。
倭國残党狩りをして日本書紀も編纂しても、
畿内王朝は、肥前海岸の海洋民倭國残党にまで支配が及ばなかったのある。
海洋民倭國残党は海賊(後世の倭寇)となって遣唐使を襲ったのである。
海洋倭國残党の勢力が手薄な薩摩坊津からの東シナ海南路しかルートは無かったのである。
940 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 21:19:51.88
>>939 今夜も根拠なしでっか
海洋民倭國残党ねぇ
941 :
大和 田直木:2014/02/08(土) 23:02:16.88
>>940 根拠を知りたければ何が疑問かを具体的に質問することですね。
そうすれば応えましょう。
942 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 23:15:25.59
おや
ついに大和田尊師に昇華しつつあるな
944 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 12:54:33.72
>>941 :大和 田直木
>924 3世紀::前期筑後王国の成立。(卑弥呼共立〜壹與)
根拠は何?
945 :
大和 田直木:2014/02/10(月) 11:37:18.47
>>944 根拠を示すには命題が大きすぎるので、
3世紀の倭の状況について述べます。
190年頃に卑弥呼を共立して出来た国が女王國。
卑弥呼共立に中心となったのは久留米南部三瀦の勢力。
北野地域と筑後平野(後の邪馬台国と投馬國)の勢力をまとめ、
福岡平野(旧倭奴國)の卑弥呼を王として祭り上げることによって、
福岡平野の勢力を抱き込み、佐賀平野の倭國(倭面土國)を押さえ込んだ。
旧倭奴國の分国である奴國が倭面土國(伊都國)の周辺佐賀平野を支配。
帥升倭國の旧都である吉野ヶ里城柵には不彌國を置く。
女王國は筑紫平野の伊都國を除く4ヶ国で構成される。
なお、餘傍國の奴國は旧倭奴國
「更立男王」は三潴勢力出身。難升米も三潴勢力出身か?
壹與は265年の記録はあるが、それ以降いつまで続いたかは不明。
266年から367年までは倭の状況が不明。
946 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 11:42:27.28
「根拠」
物事が存在するための理由となるもの。存在の理由
どうしても理解出来ない様だね
947 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 11:47:14.62
まぁ根拠となるものは、古田のお告げか、
もしくはこの偉大なオレ様であ〜る、てなところだろうな
948 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 12:09:37.60
大和 田直木 は、ついに 神 になった
949 :
満州ゴン太郎:2014/02/10(月) 15:34:33.25
さてポクは台をトと読む例を見つけた。
清史稿/卷522
金稱厄魯特,即明時所謂阿魯台也。←特=台
九州論者にとってはショックだろうが諦めてもらうしかない。
今後は九州説を主張するより畿内説を攻撃することに全力を上げるように(笑)
950 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 16:05:21.61
昔の豊国
宇佐が邪馬台国のあった場所だ
九州説者が「根拠」って言葉の意味まったく知らねえのは、心底クソワラタ
畿内説では、詐欺のネタを「根拠」呼んでますが何か?
953 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 10:54:01.83
そう呼んでると称する「根拠」は?
そう質問して畿内説を擁護しなければならない根拠は?
ほら、九州説人は「根拠」という言葉の意味を知らないから
動機と区別がついてない。
956 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 14:26:25.07
ほう、動機ならあるのか。
959 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 15:37:45.87
動機なき擁護とか糞藁
960 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 17:39:12.14
これは確実なことだが、根拠とは何だか知らない人間の唱える説を世間が受容することはない。
961 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 17:43:45.00
つまり畿内説を世間が受容することはないってことだな。
という根拠は?
△鏡も箸墓も年輪も桃種も鯖骨も、ぜんぶ畿内説詐欺だったと告白する勇気を持とう。
詐欺と言い張る根拠は?
965 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 20:05:54.12
根拠はあなたの胸のうちに納められていることでしょう
結局、九州論者は根拠という言葉の意味を知らない。
詐欺ばかりやってきた畿内説は、イカサマ根拠の構築ばかりやってきたから、
敵を見ると「根拠根拠」と念仏を唱えるが、自説の根拠は全部詐欺。
はい!九州の罵倒男は自分の言葉が根拠なき言い掛かりだと証明しました。
畿内説の唱える根拠とは、結局、詐欺のネタですから。
根拠を聞かれると必ず回答不能になり、相手を罵るだけ
って、九州説人のダメさを物語りますね。
971 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:15:12.71
>>963 打ち上げ花火で何時のまにか消えて亡くなるものばかり。
九州説って基本的に妄想垂れ流しの世界だから、根拠を言うって習慣が無いんだよね
973 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:38:48.39
囲碁で言う千日手になっとるなw
まあ、これで1000取りまで行くこったww
千日手は将棋だろうがw
975 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:58:46.18
そうかそうか、将棋だったか
うん、畿内と九州の論争は、囲碁と将棋で争ってるような感じだw
いくら聞かれても自分の主張の根拠を言わない時点で、詰んでるよ九州説。
△鏡も箸墓も年輪も桃種も鯖骨も、ぜんぶ畿内説詐欺だった。大騒ぎして、全部、詐欺。
畿内説が根拠をいくらたくさん積み上げても、畿内説お手盛りの詐欺を重ねるばかりです。
978 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 14:31:05.37
恥の上塗りだな九州説。
もう諦めろよ。
自説を言おうとすれば妄想垂れ流し。
反論されれば対応できず罵倒返すだけ。
それが九州説。
980 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 14:54:11.50
>>973 一方的にボロ負けなのを取り繕おうと互角ふうにダブハン演出しても、手口モロ見え無残
981 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 15:05:37.91
そのとおり、敵は前から来るとは限らない
横からも、後ろからも、上からも、下からも、そして昼も、夜も、絶え間なくやってくるからな
まぁ、1000取りめざしてがむばれや
982 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 15:09:49.70
まもなくここは 乂1000取り合戦場乂 となります。
\∧_ヘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,,、,、,,, / \〇ノゝ∩ < 1000取り合戦、いくぞゴルァ!! ,,、,、,,,
/三√ ゚Д゚) / \____________ ,,、,、,,,
/三/| ゚U゚|\ ,,、,、,,, ,,、,、,,,
,,、,、,,, U (:::::::::::) ,,、,、,,, \オーーーーーーーッ!!/
//三/|三|\ ∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
∪ ∪ ( ) ( ) ( ) )
,,、,、,,, ,,、,、,,, ∧_∧∧_∧∧_∧ ∧_∧∧_∧∧_∧∧_∧
,,、,、,,, ( ) ( ) ( ) ( )
九州説は、いつも自分の中にある敵に敗れておるな
もう1000行ったのか、ざーねん
985 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 15:35:28.41
とにかく一旦前方後円墳で登記されると助成金とか引っ張りやすいからずってもはっても今日も頑張りますのじゃ
今日も利権としがらみの中で、詐欺を吹聴する畿内説。
九州説の方が町おこしができるかどうかの瀬戸際で切実だろ
んだな
奈良県は観光で食ってます。畿内説で生活してます。
990 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 18:28:41.84
990
991 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 18:39:44.69
先日のTVで、桜井市辺りの山辺の道とか言う所のお散歩番組を見たけど、
田舎なんだねえ、畑と田んぼと農家と無人の直売所らしいのがぽつんぽつん、
九州の熊本・宮崎の田舎風景と変わらん、あれではモモソに頼りたくもなるな、同情したわ
992 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 18:40:36.72
前方後円墳詐欺のも強調しておかねばならぬ。
僻地の弥生人がごつい土木のプロジェクトやらかすとか小学生未満だな。
埋め埋め
994 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 19:31:50.15
中傷しか出来ない九州説に弔鐘
畿内説で食っている学閥、官僚、ホテル・旅館、みやげ物屋が立ち行かず、
食えなくなったらどうするんですか?
だからいろんな詐欺を画策して、畿内説=生活を守ることが大事なんです。
996 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 20:02:03.89
中傷しか出来ない九州説を嘲笑
997 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 20:16:16.13
997
生め
999 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 20:22:40.32
大和に大和王権が誕生し、やがて巨大な大和朝廷へ発展していったわけだが、
なぜ大和だけでそうなったのか、それは大和にはそれだけの底力があったからだろう
その偉大さに気付かず、卑弥呼の名声だけに頼ろうとするのが間違っている
畿内信者が成すべきは、古代奈良盆地の底力の由縁を明らかにすることだ
オレは九州説だが、その1,2を挙げるなら以下のようなことであったのであろう
・大和王権が王族葬送における、残虐・無慈悲な殉葬習慣の廃止に踏み切ったこと
・巨大古墳を作る時にできた大穴をため池に利用し、水田の開墾および生産力の向上につなげたこと
・(他にもいくつかあるであろう)
こうした、かってない善政が人民の支持を得たからに違いない
古墳を眺めて吹聴するだけでは、奈良県民の自慢話過ぎない。観光客はバカにされたと思う。
しかし、上のような背景を説明すれば、必ずや多くの人々の共感を呼ぶであろう
修学旅行の団体客も増える
奈良の考古学者も、桜井市役所の役人も、桜井小学校の先生生徒も、ホテルや土産物屋の主人・従業員も尊敬されるであろう
桜井市民にはもっと誇りを持っていただきたいのだ、、、
1000 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 20:25:30.41
1000
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