邪馬台国は九州にあった36

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952日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:00:21.72
>>947 はあまりにアホすぎる。
読めもしない文をこねくりまわすんじゃないよ。
今までに何回も言われてるだろが。
953日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:34:42.24
>>914
その映画に賛成。宇佐を邪馬台国とし、倭人伝の距離・日数・戸数を10分の
1とすると、十分作れるだろう。ただし、卑弥呼は相当なババアだから大島優
子ちゃんは可愛そう。市原悦子がいい。優子ちゃんを出すなら卑弥呼の若い時
としてダブルキャストにしたら良い。能年玲奈ちゃんの台与は絶。こんな映画
をぜひ見たいなあ。
954大和 田直木:2014/01/02(木) 14:54:29.29
>>947-950
伊都國には「丗有王 皆統屬女王國」、すなわち「伊都国には(元倭王である)代々の王がいた、
(その王たちは)皆、女王国に統属していた」と書かれている。

卑弥呼は女王の都のある邪馬台国にいて(狗奴國を除く)倭全体を支配していた」と書いてある。
卑弥呼の時代には、未だ倭國は成立しておらず、卑弥呼は倭の数ヶ国をたばねる王であった。
女王が直接支配したその数ヶ国(4ヶ国)が女王國である。

伊都國をはじめ残り25ヶ国には一大率を派遣監視して、卑弥呼は統治していた。
大陸交易を握る一大國が一大率を派遣し女王國のパートナーとなっているのである。

一大國三千許家は對海國をも含め対馬海峡を支配していたのである。
一大國が対馬海峡を支配することにより、
旧倭奴國等の福岡平野の勢力は半島への航路を失っていたのである。
955日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:00:08.90
「(元倭王である)」

こういう勝手なことを言うなってのが分らないのか?
畿内節スレに逝け。
956日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:07:54.40
>>950
畿内説の学者がむりやり「丗有」を「代々有り」と訳したのを
用例を調べもせずにそのまま使ったのが間違いのもと
「丗有」を三国志魏書内で調べれば殆どが「魏代に有り」の意味で
「代々有り」の意味と解釈される場でも魏代内で代々2〜3代のこと
調べれば直ぐに分かるよ
「丗有王 皆統屬女王國」さえ正しく訳していれば何の問題も無かったのだ
全ての矛盾の起こりは「丗有王 皆統屬女王國」の誤訳に始まっている。
957日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:27:21.36
三国志魏書内で用例を調べると
「丗有」の多くの意味は「魏代に有り」で単数の場合が多いが
2〜3代の場合もあるので 「代々有り」と訳していい場合もある
「丗有」の基本的な意味は「魏代に有り」です
958日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:54:27.27
>>951
>小国の伊都国が、戸数数十万の邪馬壹國全体を治めていたという書き方はない
>また、小が巨大国を支配するというような統治形態も考え難い

邪馬壹國を日本国とすると伊都国や奴国は山城の国や武蔵の国のようなもの
小が巨大国を支配するというような統治形態ではない
959日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:19:51.88
960日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:46:40.80
文を流れとして読めないなら用例など調べても何の役にも立たない。
961日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:53:37.09
>>960
>文を流れとして読めないなら

何のこっちゃ?
962日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:59:37.70
お前はアホってこと
963帯方郡太守:2014/01/02(木) 18:28:40.80
倭人は大宰府に居て、倭種は大和に居て倭人伝を読もうとするから有らぬ方向へ向う
そもそも糸島なぞに伊都国はなかった、郡使の常駐所もなかった
帯方郡役所の物見台に立ち、
東南大海中の筑紫島を見下しながら倭人伝を読めば、伊都国等は佐賀平野にあったと明白に読みとれるであろう
964日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:01:45.80
伊都國や邪馬壹國ってどこですか?
ttp://up.mugitya.com/img/Lv.1_up35142.jpg
965日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:08:09.25
最後の手段は天皇陵発掘しかなさそうだな
もちろん俺は反日左翼ではないし
必要最小限にすべきだが
966日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:11:27.17
>>953
卑弥呼は晩年まで大島で十分w
壱与については相当な脚色がいるな。
昔読んだ小学舘の歴史漫画では
父を狗奴国に殺されたとか独自解釈が出てきていた。
967帯方郡太守:2014/01/02(木) 19:19:21.83
>>964
こりゃー、九州の水田地帯じゃろもん?
糸島・博多・筑豊周辺がどげんしたつね〜
熊本平野や、人吉盆地や、宮崎平野を見てみんね〜
968日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:41:06.44
重要四国 邪馬壹國 伊都國 奴國 狗奴國
奴国しか定まってなく
熊本の立ち位置がさじ加減ひとつで全然変わるね〜
969日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:10:55.03
実は邪馬台国は東海だったとかになって
九州説、畿内説全員が憤死する姿を見てみたいは
970日本@名無史さん:2014/01/02(木) 23:47:18.46
佐賀から南へ水行してどこへ行くか? そんな単純な話しが分からないとは
不思議だなあ。
971日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:09:00.48
伊都国が佐賀って前提が傍流
伊都国=糸島が本流
佐賀を掘って出先、出張所、っぽい何かを出せばこの界隈は大騒ぎよ
972日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:10:06.38
相変わらず知識もないのに妄想する、トンデモ論ばっかりだね。
973日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:16:14.68
伊都国=糸島はこれまでいくら検討してもその先がうまく行かなかった。
糸島説が成立しないことは証明済みというべきだろう。
佐賀説は倭人伝どおり。しかも、一番合理的だ。末盧国で上陸した理由も
南水行の意味もすっきりと分かる。
974日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:31:07.20
天孫って、



由来の農耕と漁業の水辺の民のことでしょ
灌漑と農業の技術を持っていて、鬼道と結び付いて残土で巨大古墳を作った
975日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:41:41.00
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
976日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:42:14.47
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
977日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:44:11.24
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
978日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:45:04.42
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
979日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:45:49.31
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
980日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:52:49.43
舟には乗り換えないって
981日本@名無史さん:2014/01/03(金) 01:32:40.80
>>924
ありがとう。
資料館もできてるのね。面白い出土品ないかな?
投馬国の官のミミとかミミナリとかは宮崎県の耳川とか関係
ありそうですが?さて、どうかな?
982日本@名無史さん:2014/01/03(金) 02:15:37.00
議論が成り立たず各人が主張を述べ立てるだけの
yahooに似てきたな
983日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:15:09.51
そりゃ基地外の巣窟にかわりがないからなw
984日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:28:29.55
コピペ魔は yahoo からの乗り換え組かい
985日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:45:06.81
コピペ魔はバイトだろ
986日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:54:58.42
九州王朝もバイトの時代か
987日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:59:08.24
邪馬台国とか素人のキチガイヲタばかりのジャンルだしな
988日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:05:10.90
>>986
日本語不自由なのがバレちゃマズいんだろうw
989日本@名無史さん:2014/01/03(金) 14:48:22.12
方角の勘違いだ、距離の勘違いだといえば、邪馬台国をどこにでも比定できる。
しかし、そんな話しは、誰も納得しないね。
990日本@名無史さん:2014/01/03(金) 16:00:32.73
方角だ距離だそんな話は聞きあきたわ。江戸時代から延々してるしアホかと。
991日本@名無史さん:2014/01/03(金) 16:41:49.07
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/hougyonenn.gif

古事記と日本書記の天皇代位の乖離、よそのスレから借りてきました。
古事記のピンクラインをそのまま伸ばすと、初代の天皇は250〜300年頃になります。
992大和 田直木:2014/01/03(金) 16:56:24.30
倭人伝は、方角と距離で読むべし。

方向は八方位であるから、その誤差は最大22.5度(50%)以内。

距離は「里」で表されている。その誤差は最大50%以内。

「水行十日」「水行二十日」「陸行一月」は距離を表すものではない。
993日本@名無史さん:2014/01/03(金) 17:50:47.26
日数は距離を表す一つの方法だ。里数がよく分からないときに日数で表す。
それを否定してはしょせんトンデモに過ぎない。
994日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:07:07.21
倭人伝は、郡から邪馬台国女王之都までの距離里数を確実に把握している
距離不明だから日数を用いているのではない
995大和 田直木:2014/01/03(金) 20:11:01.62
>>994

× 倭人伝は、郡から邪馬台国女王之都までの距離里数を確実に把握している

○ 倭人伝は、郡から女王國までの距離里数を確実に把握している


女王國の中の邪馬台国の中に女王之所都(女王の城柵)があるのだ。
996日本@名無史さん:2014/01/04(土) 05:01:22.99
邪馬台国は九州にあった37
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1388779155/l50
997日本@名無史さん:2014/01/04(土) 08:03:53.07
>女王國の中の邪馬台国の中に女王之所都(女王の城柵)があるのだ。
これはその通り。少し分かってきたか。

あとは伊都国から放射式だということをきちんと理解できればいいのだが。
998日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:00:04.39
だから、女王国の中の邪馬台国の中に女王之所都はどこだ?。東のすぐの所に
海が有り、向こうに裸国・黒歯国が見えそうな所はどーこーだ。
999日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:09:04.43
郡治〜狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜奴国
七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里
1000日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:09:14.72
うめ
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