1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 21:28:21.05
1乙
4 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 02:32:05.61
前スレの「大陸系の方が評判が低かった」というのがよくわからないんだが。
ハク付けるために始皇帝や後漢の皇帝の子孫を名乗ったんじゃないの?
ぽまえら今度こそ継体天皇の話しろよ
6 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:09:07.75
神武と欠史八代は架空。
崇神・垂仁・景行は実在の可能性がある。
成務・仲哀・神功は架空。
応神と仁徳は同一人物の可能性がある。
履中以降は、事績はともかく、系譜は一応信用できるが、
履中系と允恭系が別の家系だった可能性もある。
継体は北陸から近江にかけて勢力をもっていた地方豪族で、
河内王権の大王とは他人。
継体時代って半島に負けすぎ
9 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 09:50:12.64
王仁が和邇表記なのは、
単に音しかわからなかっただけでは?
だが、王仁“キシ”とか付いてるから
日常会話は韓語でやるくらいには
韓化してそう。
10 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 11:23:18.51
>995 :日本@名無史さん:2013/11/15(金) 18:08:58.79 曹達とか張安とか司馬達等は、まちがいなく中国系だろうが、
>王仁(実在か伝説上の人物かはさておいて)は、ちょっと怪しいと思う。
>というのも、「王仁」という表記だけ見ると、王姓の中国人のように見えるが、
>その表記は日本書紀のものであって、古事記では「和爾」と表記されている。
>古事記の方が書紀に先行する史書で、比較的潤色が少ないことを考えると、
>「王仁」という表記は、「和爾」を中国人風に書き換えた可能性も否定できない。
結局、ワニキシという人名から、称号にあたるキシの部分を取り除いた固有名詞部分に、
紀の編者が中国人風の当て字をしただけで、本当に王姓だったわけではない。
継体天皇は、ほんまけったいな天皇やで。
12 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 14:34:09.20
うむ
今城塚古墳いってきた。
地震で墳丘ぐしゃぐしゃだね。
>>10 またヒガミ鮮人の在日認定か。ごくろうなこった
王仁は近肖古王の時だろ。おまえの祖国の歴史書にどう書いてあるか知ってるのか
三国史記百済本紀のいうところでは
「百済には昔、文字がなかった。近肖古王の時、高興という博士がきて
初めて書記がおこった」←朝鮮人のくせにこれ知らないのか
この書記ってのは「百済書記」って書物のことじゃなくて「書き記すこと」なw
この時代に百済で漢字の読み書きできたら中国人しかいない
高興と王仁は同時代人の中国人、普通に考えて楽浪郡の移民
ましてや楽浪郡には王姓の中国人が大量にいて「楽浪王氏」って有名だしな
ごく普通に考えて、いやどう考えても中国系で決まりだろう
あと王仁を和邇と書く件だけどね、中国人の名前を日本語で同発音の別の字で
かくことは新撰姓氏録にもあるけど
あれを実は朝鮮人だったニダなんて学説は存在しないからw
もう朝鮮人の電波説はジャマなばかりで用がないんで
出てってくれないか。ここは学問板であって政治宣伝の場じゃないのよ
15 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 22:19:01.19
アチキというのはなんなの?
やはり文章かけるから中国系?
>>15 阿智王のことかな、倭漢氏の祖。
東(やまと)の漢(あや)…阿智王の子孫
西(かわち)の史(ふびと)…王仁の子孫
↑初期のヤマト朝廷の書記官階級の二大派閥じゃないのこれ
どっちも中国系だけど朝鮮を経由してないってことはないな
いや、流石にフリガナはいらんわなwww
18 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 11:07:21.06
是非に及ばず
19 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:05:27.16
先ず以て
◆
今日山の辺の道を歩いてきたけど
奥さんと何十kmもはなれて眠ってんの
↑何であんなに離れてるの?
って事です
22 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 09:03:18.57
23 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 09:18:22.57
仁徳さんも離れてるな。
>>3 スレ基本資料
≪釈日本紀「上宮記一云」系図≫
伊自牟良君──久留比売命
│
中斯知命 ├─汙斯王(彦主人王)
洷俣那加都比古─弟比売麻和加 ├──乎非王 │
├───若野毛二俣王 ┌太郎子(意富富等王) │
凡牟都和希王(応神). ├────┼践坂大中比弥王 .│
母々恩己麻和加中比売 ├田宮中比弥 .│
└布遅波良己等布斯郎女 │
├─乎富等大公王
伊久牟尼利比古大王(垂仁)─伊波都久和希─伊波智和希┐ .│ (継体天皇)
┌────────────────────────┘ .│
└伊波己里和気─麻和加介─阿加波智君─乎波智君 │
├──┬都奴牟斯君 │
阿那爾比弥 └布利比弥命────┘
(振媛)
... _.._...
_イlll!lllllllllllllll爪lllll入_
イ!llllllllllllllllllllllllllllllll∧s 、
イllll夕千宀⌒^^弋巛llll!{!lll∧ 、.. l皿l
イ什 〔llllllllllll/∧.. l皿l
イ廴 -=///a_ !llllllllllllll∧.. l皿l
彳ヘ'' _/"""´ ヾlllllllllllllllllllレ. l皿l
/ftア.) ...イtオフ''' 'llllll弋llllllllllレ l皿l
イl / ` ̄´ ...''llllワ 丁llllllllレ.... l皿l
イ! / 彡 l6夂lllllllll辷,. l皿l
/彳(..... ヽ 彡彡_上llllllll巛彡彡l皿l
,,..,彡_ノ 彡iiillliiiiミヾ,, l彡lllllllllllllli!!llll彡ルl.. l皿l
彡彡.lllllllll彡⊂ニ⊃ミミ、... ,'lllllllllllllll巛彡ル l皿l
/彡.彡.lllllllliii人∩っ _/卅llllllll|lイl'´彡、.. l皿l
!/^ ̄ ̄ ,巛川,川l,川〆》´  ̄ ̄千U.  ̄、 ( ̄ ̄ ̄\
/ 〈lllllllllllllllllllll!イ .‖ ( ̄ ̄ ̄\
./ |l ''lllllllllllllllllllllイ ‖/ ( ̄ ̄ ̄..)
´ |l .辷!llllllllllllイ ノ‖ , .( ̄ ̄}
...|l 辷llllll广 、 ‖ ノ' ..... ̄
` レ┘ ‖゙
継体天皇=男大迹大王(507-531年在位)
>>985 >ところが実際には朝鮮系のほうが中国系より重用されてるんだよね
>にもかかわらず無名のどうでもいい連中が
>わざわざウケのよくない大陸系を名乗るのはおかしい・・・・・・・・・・・・・・・・・
重用された朝鮮系というのは、何氏のことなの?
27 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 17:49:46.90
保守
28 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 18:18:44.56
29 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 18:24:52.49
>>28 「継体天皇について執拗に語ろう 皇太子5人目」スレッドを立ててもいいし、立てなくてもいい。
>>28 に一任したい。
なんで、いきなり13なの?
>>29 そこは「5世孫」だろ
いや、たてなくていいけどね
つまり、整理統合した訳ね
仕切り屋か
34 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 08:18:49.42
というか、アワビ鯖はしょっちゅう吹っ飛ぶから。
ふとんがふっとんだ
36 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:30:28.24
淀川水系をガチガチに押さえて
ヤマトに入る気があればいつでも入れたろうに
38 :
日本@名無史さん:2013/12/31(火) 08:08:04.53
大晦日保守
過疎るということは
五世孫はガチなんだろうな
越の国って地方豪族というレベルじゃなくて半独立国だったんじゃね?
それくらいの規模じゃなきゃ王に迎えないだろ?
もちろん中央集権的な国家ではないと思います
この時代の宮には環濠とかあるのか?
なぜないと思うのか
だって、平城京とか平安京には無いじゃん。
中国をお手本にして都を作ったって言うなら当然都の周りに同じものを作るだろ。
それがないってことは、中国とは別の参考にした前例があるってことじゃん。
まあ独自の習慣ってやつだな。
卑弥呼の時代には環濠があったわけだから、あきらかにそこの系統とは別の
宮とか都を作り始めた集団がいたはず。
つまり、それがどの辺の時代まで辿れるかってっていうのに興味が湧くじゃん。
46 :
日本@名無史さん:2014/02/15(土) 19:24:51.48
>>45 政情がすっかり安定していた時代と
いつ寝首をかかれるかわからない時代は違う。
ただ、当時は皇居といっても「大きな神社」程度の建築だったのではないか?
皇居の周囲を木の柵で囲って警備兵を置いていたとは思うが、
まわりに堀をめぐらしていたかというと「わからない」のひとことに尽きる。
47 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 21:16:35.43
そろそろ保守
48 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 04:26:53.11
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟ i
`. `Y.. / ー-' ヽ '.
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
`Y´ /::::::://:::/:::::| >< /:::丁´:::::::::::::V゚}∩ * ボク、ジャムリンは
/::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
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/⌒〈:::::::::::::::::::::::::::::::::::イ::::::::/ `ー‐' *
49 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 19:17:42.71
保守
50 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 21:34:11.93
継体大王は男系では前王朝=倭王武(ワカタケル大王)の王朝とは関係ない。
親戚のおばさんが倭王済(允恭大王)の奥さんだったというだけの田舎の豪族。
下手したら、海の向こうからやってきた渡来系、つまり北陸の在日オヤジだった可能性も高い。
ほんと倭人の朝鮮コンプレックスはハンパねえな
有象無象の妄言より記紀の方が遙かに信頼性高いわな
>>50 まあ前王朝の祖応神がすでに渡来系ですからwww
54 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 12:11:07.60
応神は普通に考えて、あっちの人だよなあ・・・
55 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 19:02:43.05
応神は金官加羅からやってきた傭兵隊長。
56 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 19:59:19.30
それ言っちゃうと、高天原から来日したニニギも渡来系だよな。
国津神は縄文時代に渡来した古モンゴロイド
58 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 13:23:46.02
手塚の「火の鳥」黎明編でもニニギは半島からやってきた騎馬民族の首領設定。
59 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 15:14:47.62
ただ、当時の半島(特に任那)には倭人も住んでいたので、
「朝鮮半島から来た倭人」
という可能性もある。
>>55 またお前か
で、出自を隠す理由については説明出来るの?
61 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 23:52:31.54
おまいら、天皇家の血筋へのこだわりに無頓着すぎる。崇神天皇よりまえはどうかしらんけど。
62 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 23:55:38.10
山賊だろ?胡散臭い刑体って
>>62 ただの山賊が大和王権に認められて天皇になれた理由は?
強いて無理付けすると
何がしらの出来事で過疎地に隠れて疎開してた
天皇家と血が繋がって傍流が何がしらの理由で
史実的に不明瞭だと云われるますが
ピンチヒッターに立っただけどしょうね
65 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 04:54:51.74
平将門も天皇と薄いながらも血はつながっていた。
66 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:02:33.58
継体の越前の実家は名門の家なんだよ。天皇家から嫁がいくぐらいな。だから山賊とか無いよ。
67 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:54:31.12
〜都道府県の居住意欲ランキング〜
1位は『 京都 』
「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。
京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。
年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。
69 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 21:38:09.58
5世紀は讃系の王家と済系の王家の2王家が並立してたと考えれば、
イチヘノオシハ王の殺害や牛飼いの2王子の説話も理解できるな。
5世紀は、まだヤマト王権内で有力氏族での盟主=大王の座が持ち回りで、
世襲王権は確立していなかったと見るべき。
まがりなりにも世襲王権が確立するのは6世紀中頃の欽明大王から。
それは欽明大王の「天国排開広庭(アメクニオシハルキヒロニハ)」という、
王朝の始祖にふさわしい諡号が証明している。
70 :
日本@名無史さん:2014/03/18(火) 00:44:03.59
五王は九州の王が勝手に中国と取引していたんだろ。
九州に王なんかいないよ
72 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 21:44:03.57
磐井さんだってそうだし、神武天皇の実家も宮崎の王様だろ。
73 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 10:07:40.60
74 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 15:54:45.71
山賊ねえ
戦国時代以前なんてみんな山賊みたいなもんだろ
王とか言ってるがいつからそいつら住み着いたんだ?
75 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 16:00:33.01
69
わりいけど追悼号って金をだして坊さんが名前を考えてやったってイメージ
蘇我氏のときに仏教伝来してんだよな、まあ実力者だったのは間違いないだろうけど
いい加減アンカーの打ち方覚えろや
77 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 19:26:23.31
78 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 00:23:41.10
九州の武王など磐井さん系が、大王家。
近畿の天皇さんちは、皇家。すめらみこと。
79 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 04:46:04.56
高天の原とは、高野山と天野山の山間の地域を
高天と言っていて、そこからきた地名。
よって、現在の奈良県南部から和歌山県北部にかけての地域名。
80 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 04:47:31.57
継体の家は、近江の王族の家。
越前の王族ではない。
81 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 05:15:45.69
現在の日本の古代史がトンデモ説が横行したのは
本居宣長による国学思想の影響。
あれのせいで、トンデモ説が横行した。
皇国史観も反皇国史観もトンデモ説。
どちらも歴史を純粋にみようとしていない、
全部、無関係なイデオロギーに基づいて歴史を語ろうとしているのが問題。
また、専門外の学者が、やたら、空想で歴史を語ろうとするのも問題。
考古学者が、文献史学も知らずに歴史推理しまくったり
地理学者や経済学者がそれをやったり。
82 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 05:29:44.64
継体天皇の即位の前も後も
大和王権の内部の権力構造に何の変化もない。
トップの継体天皇だけが担がれただけ。
ココに注目すべきである。
83 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 12:30:27.54
>>79 それって平安時代くらいに外国が穢れているという考えとともに出来た説じゃないの?
高天原を中国や朝鮮に比定するわけにはいかないからな
84 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 14:06:32.72
>>83 というか、記紀神話を分析したら、どう考えても
高天原って近畿地方だけどな。
間違っても外国のわけないぞ、西暦8世紀に編纂された記紀を読んでも。
日本の古代史の肝はそこ。
高天原が近畿ならば、なぜ、わざわざ、天皇家の先祖のニニギは
出雲との戦いに勝った後、近畿本国から、はるか辺境の南九州に移住して
この家系は日向で三代も暮さなければいけなかったのか?となる。
また、その日向三代の時には、近畿ではどうなっていたのか?となる。
そこが肝なんだよ。
かんの良いやつらならば、誰でも分かるだろう?
85 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 16:16:24.64
高天原は高句麗だろ。
86 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 17:19:55.42
継体が河内王朝初代、対立候補が三輪王朝の仲哀の子孫というのが
「作り」という感じがする。
崇神〜仲哀を「三輪王朝」で括るのは違和感が。
後半の成務・仲哀は三輪と何ら関係ない訳だし
88 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 22:22:02.43
>>80 近江と越前は山一つ隔てた隣国
近江北部と越前南部は勢力圏も被る
90 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 22:33:34.77
今でも、山科のトンネル抜けたら北陸って感じがする。特に冬。
91 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 22:47:11.30
ずばり東北だな北陸っーか
地盤が同種のものを感じる
93 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 07:03:28.52
もう、トンデモ言う奴、多すぎw
関東も埼玉の大宮より北行ったら東北の雰囲気
95 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 07:20:00.51
な〜にを戦後に発展してその気になっちゃったのが多すぎるのか?www
馬鹿だね〜自分が都会にいるからその気になってるのが多すぎ^o^
96 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 07:22:13.66
もう一言でいいよな
ばーか^o^
ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
98 :
日本@名無史さん:2014/04/09(水) 22:13:36.47
>>82 それって本当なのか?
普通に考えて、継体が大和に入れなかった20年、
大和では政争に明け暮れていたんじゃなかろうか。
で、継体を推す一派が勝利したと。
99 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 17:45:03.62
>>98 >
>>82 後醍醐さんが吉野にいた時、京都にも「天皇」がいた件について。
でも支持した豪族達は大和にいたんだろ?
入れなかったんじゃなく
入らなかったぽいよね
>>98 内乱とか謀反とか皇位争いなんて隠すことなく
記紀にはたくさんあるのに、なんで継体天皇のとこだけ隠すんだよ
そんなのは無かったから書いてないんだろ
系統が違うから書けなかったんだろ。
出自が確かなら安心して書ける。
系統が違うなら前王朝を悪くいうか
正統を引き継いだ論拠(婿入りとかなんでもいいが)を主張すれば十分だろ
なんで系図を捏造するんだよ
ポッと出てそんなの誰が信用するんだよ、豪族対策としては逆効果やん
105 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:46:36.56
>>84 >高天原って近畿地方だ・・・・・・・・・
ほほう、分析されたとおっしゃる記または紀のどの段に、そう記されとるのかね?
>ニニギは出雲との戦いに勝った後・・・・・・・・・
ほほう、邇邇芸が出雲と交戦し戦勝とは初耳なんだが、記または紀のどの
段にそう記されとるのかね?
106 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 00:08:19.37
>>104 金村が上に立つのはさすがに抵抗感があるが、
見ず知らずの人を「この人は王族なのだ」というのなら
まだ許せるってところだろうな。
>>106 だから「許せる」って誰が許すんだよ?金村が?
金村に関係者全員の意志を決めるほどの権限があるんなら
金村自身が新王朝建国して自分で即位すればいいじゃん
108 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 02:03:16.32
最有力者が立てた傀儡を崇めるのと
最有力者自身を崇めるのとでは
相当な差がある。
109 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 08:24:13.77
播磨国風土記を読めばわかるけど
出雲と戦った高天(高野山と天野山の山間の地域のことを高天といった)の元首は
皇祖ニニギではなく、ニニギの兄とされるホアカリのほうだろう?
あた、ホアカリは妃が天道日女といって、出雲の大国主の娘だった。
出雲国譲りとは、大国主が、義理の息子(娘婿)のホアカリに降伏した話だった。
110 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 08:30:50.53
継体天皇に関しては、彼は越前にいた皇族だけど
彼の出生地や彼の父親までは、
大和に近かった近江の出身。
近江は飛鳥時代でも、天智天皇が首都をもってきた場所であり
継体は皇室本家に近い場所にいた傍系皇族だった。
また、継体の即位前も即位後も、大和朝廷の臣下たちの権力構成に
殆ど変化はなかった。
つまり、継体だけが担がれたという形。
継体の周囲の家臣たちは、継体以前の天皇の時代からの権力者たちのままだった。
本当に継体が新王朝の侵略者たちなら、家臣団も殆どそっくり入れ替わるだろう・
でも、トップの継体だけが担がれ、そんなんだから、継体が傀儡なのを嫌がって
なかなか都に入りたがらなかった。
111 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 22:21:03.98
よく漢でも民間人の子供を皇族ということにして
皇帝にしていた
その手のはチベット最強
113 :
日本@名無史さん:2014/04/17(木) 06:28:02.49
>>110 継体皇統になってから突如活躍しだした蘇我稲目が、継体が同道した
家来だったんだろ?
新羅の人だろ。
115 :
日本@名無史さん:2014/04/22(火) 09:28:53.05
>>56 高天原って、どう考えても日本じゃないよな。
天照大神の墓がないし。
森羅万象
>>114 蘇我稲目の祖父の名は韓子とされておる。この時代の韓子というのは、
倭人と伽羅人との混血児を意味する。つまり新羅系でなく伽羅系だよ。
118 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 13:06:21.58
新羅にしても加羅にしても朝鮮だわ。倭人じゃない。
120 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 22:03:22.03
そういえば越前にはツヌガアラシトとかいう渡来人もいたな
継体本人はともかく、
何代か前に渡来したりしたんかな?
121 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 23:11:02.46
蘇我氏は父系で見たら、皇別氏族だけど、
母系には、渡来系が混じっていたかもね。
この時代の名門豪族は母方まで記してあるけど
蘇我氏は、皇別氏族の武内氏系の傍流で
母方まで記載されてないので、そういう出自の生母がいたかもしれない。
てか、皇室自体が渡来だろ。倭人を征服してるし。
124 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 12:33:55.02
>>123 古事記とか日本書紀とか読んだことないの?
皇室は高天原というところからやってきて、先住民を征服した話ばかりだぞ。
125 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 13:09:25.49
122
倭人なんてのはいない
倭国造ってのができたのならそれの開始を持って倭国って呼ばれるようになったの
事実、宋伝において該当しそうなのは毛人と衆夷
126 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 13:16:15.68
言ってることが理解できますかな?
128 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:13:38.48
高天原は高句麗だろ。
紛い物
こないだ遠山美都男の本読んだけど、蘇我の渡来人説は完全に否定されてたな。
132 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 10:09:02.56
>>122 ヤマトでは、先に来た渡来人が縄文人が
共生してたな。
諏訪みたいな感じだと思う。
そこに神武が入ってきて
縄文人を追放した。
古代なんて証拠がないからなんとでも言える
天 を まが と読むのは何で?
天=まが じゃない
高=たか 天=あま が→の 原=はら
「たか あま が はら」が音便化して「たかまがはら」
縄文人を駆逐したも何も、縄文末期に西日本に縄文人なんて殆ど住んでない。
138 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:06:15.64
「倭人」というのがそもそも渡来系弥生人なんじゃないの
倭人の風習を見ると、入れ墨して魚とって食べてて、縄文の名残があるね。
141 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 01:47:23.42
>>136 福井はこないだ観光旅行してきたけど、いいところだった
足羽神社もすごくよかった
継体天皇の本拠は越前じゃなくて近江だと思うけど
越前にも予想以上に縁が深そうに感じたな
都になかなか入らなかったのは、慎重な警戒天皇だからだよ。
143 :
日本@名無史さん:2014/05/03(土) 12:01:22.37
越前は母方のそのまた母方の縁で短期滞在しただけのようなのを、昔何かで読んだ。
記紀のストーリは南九州人征服王朝説じゃん
高句麗とか全然想定していない
145 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 21:38:05.69
>>144 >記紀のストーリは南九州人征服王朝説・・・・・・・・・・・・
記紀では継体天皇の出身地は、近江とされておるぞ。
記紀で九州出身とされておるのは、神武天皇。
神武天皇の先祖の生地が高句麗ではないかという論議スレだと
誤解していないか?
146 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 21:43:34.84
そういや、九州王朝年号の最初が継体なんだよね。
>>139 渡来人が入れ墨して魚とって食べてた可能性もある
148 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 12:56:18.71
>>147 紀元前代の稲作を舶来した江南からの渡来人ならありうるが、
3世紀代の渡来人は、吊り眼北方系新モンゴロイドなので、
文身も潜水もしません。
形質人類学のデータ
http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html 第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、
東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、
部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。
とし、
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
と書き、さらに、
大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。
おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。
と述べている(図2参照)。
http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg 重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、
中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。
つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
>>148 おれが言ってる渡来人というのは、北九州でみつかるのっぺり面長中頭の弥生時代人のこと
江南から来たかどうかは知らんが、連中は、分身して魚とっていた可能性もあるだろ
>>124 記紀では日本の国土を作ったのが天皇家の先祖なんだが。
自分で作った国を侵略するっていうのかい?
ビックカメラ札幌店 副店長
佐藤伸弦が天皇の悪口をフェイスブックに書く
その後削除
「アジア人の人類史から見た日本人の二重構造」
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html 2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。
北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。また西日本の人達は
渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
な日本人のデーターと全く違う数値を示します。
100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われ
ます。
梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg ●近畿
●朝鮮人
●中部 ●新潟
●千葉
●東北
近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。
154 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 14:48:20.12
「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、
『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。
資料1.
愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと)
比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)
訓読
えみしを 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人(ひと)は云(い)
へども 抵抗(たむかひ)もせず (岩波古典文学大系本による)
歌の大意は、「えみしを人は一人で百人にも相当する強者(つわもの)だと言っているが、
俺たち皇軍には抵抗もせずにやられてしまった」というほどのことである。これは道臣命
(みちのおみのみこと)が大久米部(おおくめべ)をひきいる神武の軍が、ヤマトに入る前に、
忍坂(おしさか)(=現桜井市忍阪。奈良盆地の南東隅)で敵を宴会に招き、敵が酔いつぶれた
ところで一気に剣を抜いて殺してしまった後、戦勝を悦んで久米の子ら(=久米部の祖ら)が
歌った歌である。思いもかけぬ強敵を倒せたことの悦楽が歌われている、と言えるであろう。
「皇軍(みいくさ)大きに悦びて、天を仰ぎて咲(わら)ふ」と言われているのである。
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/emisi.htm
ここにいる皆さんは専門家ですか?
色んなことにすごく博識で驚いてます
自分は化学が専門の研究者ですが,歴史が好きで独学してます
今後もいろいろ教えてください
156 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 23:30:27.49
>>151 さすがに国生み神話とかは完全な神話じゃないの?
出雲の国譲りや神武東征とかは史実が混じってるんだろうが
>>155 たぶん、理系のあなたが一番この板で頭いいと思うw
んなこたあない
159 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 06:19:15.81
>>119 >
>>118 > 半島に居ただけで現在の朝鮮人ではない
朝鮮半島にいた倭人もたくさんいるからね。
160 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 06:21:26.40
>>155 > 自分は化学が専門の研究者ですが,歴史が好きで独学してます
戦前のことになるが、数学の分野で日本有数の業績をあげた学者が
還暦過ぎてから東大に入学して歴史を専攻したことがあった。
>>156 >さすがに国生み神話・・・・・・・・・・・・
これも鉾で掻き回してヒルコができたというあたりが、男女交合の
生理学的事実ですよ。
162 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 06:56:24.88
酒を造っていたことにしよう
または海水から塩作り
>>151 朝鮮半島にいながら日本列島を作ったのかな。
そこを異民族が占領しているから、天照の子孫が征服する正当性があるということなんだろう。
165 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 09:18:14.72
>>157 そんなことはないです
というより,皆さんどこでこんなに勉強されてるのですか?
本業の方が忙しくてなかなか論文なんかを読み込む時間が無いのですが,その分この板で勉強させて頂きます
>>160 自分は放送大学で歴史を勉強していたのですが,やっぱり本業の忙しさにかまけて途中止めになってます
出身校なら聴講できるだろ
168 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 17:27:54.58
>>167 出身校でなくても金払えば聴講できるが。
出身校に史学科がないということもありうる。
>>167>>168 それはあるんですが,研究者ですので出身とは全く違う地域で働いてるので難しいんですよ
勉強の仕方についてもいろいろ考えてみます
170 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:14:20.43
164
なんで朝鮮半島がでてくるんだ?
半島のやつらは高麗のときにやっと統一言語ができたのになにいってんの?
171 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:19:42.33
コリアンて呼ばれるのそれが原因だろ?
今の朝鮮語は新羅系の言語なんでしょうか
173 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 22:07:19.09
>>154 >敵を宴会に招き、敵が酔いつぶれた
>ところで一気に剣を抜いて殺し・・・・・・・・・・・・・・・
他にも天皇家の戦法は、川上梟帥を女装姿で不意に、出雲建を刀交換で
騙し討ちと、且つ騙し討ち戦法を何ら恥じず堂々と記紀に書いておる。
平安末期源平戦以降の邪道忌避との縣隔は、民族が違うのじゃないか
と思える。
少なくとも皇統14代以前の天皇家は、騙し討ちを邪道としない匈奴らと
同系なのではないか?
174 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 06:06:39.82
>>173 動機が清らかで、私利私欲がないのなら、手段は汚くてもかまわないと考えるのが日本の伝統。
515事件の時も「決起した兵たちは私利私欲がなかった」と擁護する世論が湧き上がった。
2000年前なんて今と道徳基準が違うでしょ
176 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 08:55:44.09
蘇我入鹿の頃までは、悪いやつなら騙し打ちされても仕方ないと思われていたんだろうな。
>>176 先住民を騙し討ちにする皇軍の方が悪くない?
178 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:50:33.46
>>177 アメリカも似たようなことをやっている。気にするな。
>>178 古くは布告なき真珠湾奇襲、近くは貿易交渉で公正さ・フェアーを持ち
出す米国が、フェアーとは対極の騙し討ちなんぞやってないだろ。
現役大統領さえ違法行為を行うと弾劾する国だぞ。
大正義アメリカ
アメリカの先住民に対する仕打ちを知らんのか
風土記を読むと、土蜘蛛を騙し討した話が自慢話として
いっぱい出てくる。常陸の国茨城の話なんて、土蜘蛛があまりにもかわいそう。
何も悪いことしてなくても、ただ先住してたというだけで殺される理由になった時代だった。
風土記の時代から約1000年後の世界
米国は戦意のない先住民が大事にしている聖地を踏みにじったりして民族の尊厳
を傷つけ怒らせ、無理やり戦うように仕向けては一方的に惨殺するという卑劣極まりない行為を
続けて民族浄化を計った。土蜘蛛の時代よりずっと後なので、殺すには口実であっても
一応理由付けが必要だった。
醜い真実を背負った人類の歴史だけど、それでも少しずつ、
人類が作る社会全体の倫理観は向上しているようだ。
ほす
184 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 09:00:09.49
>>184 またよくあるような糞みたいな電波説かよw
>>178>>181 他人もやっていたから云々論は、日本維新橋下徹代表が2013年に
従軍慰安婦発言で批難轟々惨禍となったばかり。
歴史に学ばず、事の正邪を考えぬ政治家を見習ってはいけない。
>>186 アホかw
誰が相手にされたからやって良いなどと言ってるんだ?
>古くは布告なき真珠湾奇襲、近くは貿易交渉で公正さ・フェアーを持ち
>出す米国が、フェアーとは対極の騙し討ちなんぞやってないだろ
これに対する反論に決まってんだろカス
アメリカに逆らう事は許されない
かつての国造達が天皇に逆らえなかったのと同じ様にな
>>174-188 騙し討ち・アンフェア・卑怯、こういうのは目的ではなく手段にすぎない。
「武士の嘘は軍略、坊主の嘘は方便」
こういう知恵の要素を卑怯だアンフェアだといって全否定すれば
勝負は単純に強い者が勝つに決まってしまう。
歴史の展開において、弱者がごくまれに強者をやぶるというロマンがなくなる
190 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 23:59:33.76
191 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 00:22:54.60
肝心なこと忘れてるようだが
新羅の脱解王は明らかに倭人だけどなw
今の朝鮮人の祖先は中国人やモンゴル、女真族が先祖だ。
>>191 あほ、釣られてんじゃねょw
そもそも「三尾氏が新羅系」ってとこからすでに朝鮮電波だぞ
193 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 01:39:53.08
三尾氏は白髭神社祀ってると書いてあった
あと多分息長氏も
>>193 だから? 白髭=新羅ですって、いつもの朝鮮電波か?
195 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:19:32.55
継体天皇・雄略天皇が異母兄弟説発見。父は允恭天皇ではない?
[321] 邇波言壱直伝 2007/11/08 11:50
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倭継{継体天皇・傲慢で、
私が治めてみせると豪語。異母兄弟の武が、弓矢で暗殺されもがり宮で、
彼の妻親族に見間違われ怒りもがリ宮を倒す人物である。}を息子安共々
暗殺し、武の子幼武を大王に立て信頼を得る、垂見の子は馬背で、
息長真手又の名蘇我稲目と記紀。
天皇家のルーツを考えてみませんか
http://thebbs.fc2.com/thread/23011?start=320&end=419
196 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:23:36.69
191
過去の倭人域は調べてみれば九州あたりでとまりだがな
北限が狗邪韓国とある
197 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:26:29.13
関東住みだがな
日本じゃ縄文時代から弥生、古墳時代途切れることなく移籍はでてんだw
199 :
日本@名無史さん:2014/06/29(日) 09:10:41.06
>>191 >今の朝鮮人の祖先は中国人やモンゴル、女真族が先祖・・・・・・・・・・・・
これらの過去侵攻してきた種族の血も入っておるだろうが、主流は
古代に半島東北部にいたとされる濊族の後裔だろ?
200 :
日本@名無史さん:2014/07/01(火) 05:54:46.57
>>174 226の際には昭和天皇は決して赦さなかったけどな>動機は正しい論。
201 :
日本@名無史さん:2014/07/01(火) 07:47:13.01
198
見て分からねえか
倭人圏の話だよ
狗邪韓国は朝鮮半島南部なんだから九州辺りで止まりってのは間違いだろ
>>199 朝鮮人の主流は穢じゃなくて韓だろ、三国志による限り
>>201 倭人圏?なんだそれは。おまえの定義では倭国とどう違うんだ?
まさか九州の外に倭人がいないとかいう白痴じゃあるまいな
コミュ障みたいにブツ切りでしゃべんないでちゃんと説明しろ。
継体は宮を転々としていたんじゃなくて転戦してた?
倭王磐井を倒して倭王となった?
207 :
日本@名無史さん:2014/07/02(水) 22:23:56.96
継体が倒したのは丹波出身の王だろ
倭彦とかいう奴
208 :
日本@名無史さん:2014/07/04(金) 19:50:18.01
>>207 紀では、丹波在住倭彦王は、打倒されたのでなく大伴金村軍勢に
驚き逃散。
継体が倒した磐井が、倭王
>>206だったというのは斬新な視点だね。
九州王朝はお腹いっぱい
210 :
日本@名無史さん:2014/07/04(金) 20:43:01.46
>>208 普通に考えたら継体に打倒されて畿内から追放されたんだろうな。
紀での記述はヘタレに見せるためだろう。
磐井こそ真の日本王
213 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:46:16.17
神武天皇の敵の縄文人の長の長脛彦、
応神天皇の敵の前王朝の君主の忍熊王と麛坂王、
継体王朝の敵の対立候補の倭彦
この三種が似てたと前スレにあった。
九州王朝電波は(゚听)イラネー
215 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 14:22:47.44
丹波の倭彦王が住んでいたあたりには、それなりの規模の古墳群があるらしいではないか。
216 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 18:59:35.84
ヤマトヒコなんて、名前からして抽象的すぎて架空のキャラっぽいな。
しかも架空の天皇である仲哀の子孫という時点で実在性が乏しい。
>>215 千歳車塚古墳だな。二重周濠のうえ、「片直角型」という
古市古墳群の野中ボケ山や高屋築山と関連するような形状を持っている。
ボケ山・高屋築山は、仁賢とその婿である安閑が被葬者として有力だが、
倭彦王はもともと仁賢朝と近しい関係にあったのかもしれない。
この古墳から西に二十数キロ行ったところにある中期初頭の雲部車塚古墳は、
仲哀皇子で倭彦王の先祖であろう誉屋別皇子の墓とも考えられる。
218 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 20:18:27.71
仲哀が架空の天皇なのは定説だが。
219 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 20:41:01.22
>>217 仁賢天皇もなんとなく怪しい人だよね。
実在していた人なんだろうけど、経歴がごまかされているような雰囲気がある。
>>218 最近はそうでもない。
むろん架空だといって取り合わない学者も多いだろうが、
古市古墳群の初期の古墳(津堂城山古墳・仲津山古墳)の被葬者として、
仲哀天皇を当てる人も出て来ている。
>>219 顕宗・仁賢の即位前の物語は、史料によって異同があったり説話的であったりするものの、
その詳細さから意外と重大な出来事として認識されていたという意見もあるようだ。
221 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 23:35:12.58
仲哀の子孫というのは、
応神天皇が仲哀の子を倒したことからとった架空の設定だろうな。
ただ、
丹波出身というのは本当かもしれない。
ちゃんとした根拠をもって、血縁がないことを示すのは、実在性を示すのより難しそう
いろんな説話に出てくる地域や地名は、発掘の成果なんかと矛盾があまりないんだよね。
というよりも、掘れば掘るほど近づいてるというか。
顕宗・仁賢が真っ先に逃げたのが丹波だからね。同じ雄略の代に、アマテラスが
旅をし、真っ先に向かったのが丹波。昔は丹後も丹波も但馬も丹波だった。
大きな前方後円墳もあるし、海部氏系図のように、天皇家の一族だしなあ。
なんていうか、壬申の乱の大海人といい、何か危機があるとホアカリ族を
頼っているような気がするね。
224 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 19:14:53.13
なんか、2chでは従来の史学への反発なのか反動なのか、
やたら記紀のキャラクターの実在性を信じる「記紀原理主義者」が多いな。
俺が古代史に興味持ち始めた頃は、継体より前のキャラクターなんて、
倭の五王とサチヒコ(ソツヒコ)以外はのきなみ実在が疑問視されてたのに。
清寧、顕宗、仁賢あたりでも実在性が稀薄な説話上の天皇扱いだったし、
まして成務、仲哀、神功なんて、完全に虚構のキャララクター扱いだったのに、
おまいら、記紀の説話を信用しすぎだろ。
あんなの話半分かそれ以下くらいに考えておくべきシロモノだぞ。
>>224 成務、仲哀、神功あたりは疑うのもまあわかるけど
清寧、顕宗、仁賢を疑うのはちょっと厳しいと俺は思うぞ
227 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 11:19:53.51
戦後史学への反動でウヨが勢いづいてるだけだけどな。
228 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 11:30:11.65
左翼の利権はおちまい!ってことだろ
ウヨだのなんだの騒いでくだらないんだよ
ウヨがどんなに強弁しても、教科書じゃ継体以前のほとんどの天皇は実在扱いされてないけどな。
唯一、雄略天皇が倭王武、ワカタケル大王と同一人物の可能性が高いとされていることを除いたら、
大山古墳が「伝仁徳天皇陵」、誉田御廟山古墳が「伝応神天皇陵」と紹介されているくらいで、
基本的に5世紀代のヤマト政権の大王が倭の五王以外の固有名詞でよばれることはない。
それ以前の天皇は完全スルー。それが現実だ。
古代天皇の実在とか、ウヨサヨとか関係なく、歴史の新しい流れが教科書に取り上げられるまでは時間がかかるよね
記紀自体蘇我氏を貶めるために書かれたものだからな
神代〜用名までは序文に過ぎない
もちろん都合の良いことしか書かれていない
だがあまりにも長い序文のため所々が辻褄の合っていない
>>224 雄略以降は、年代も含めてほぼ確定。
埼玉稲荷山古墳の金象嵌の剣で、かなり空気が変わった模様。
公に口に出して言わないかもしれんけど、記紀って結構いい線伝えてるじゃん?
というのが偉い先生たちとの雑談での印象。
234 :
日本@名無史さん:2014/07/17(木) 22:17:24.26
ロシアでもリューリク朝が絶えたら怪しいのがぼこぼこ出てたし、
顕宗仁賢とかもそういう馬の骨みたいな存在だろうな
ロマノフ王朝はリューリク朝や馬の骨を先祖に繋げていないから
それとは別物だろうな
>>224 実在したという確実な証拠はないから、歴史書としては書けない。
だけど、捏造だという確実な証拠もまた存在しない。
中国や朝鮮の資料は頭から信用し、日本の記紀は頭から捏造だとする立場は、
科学的ではない。
100%一字一句が正しいという立場を取るのは正しくないが、およその伝承と
考古学的成果が整合するか矛盾がない場合は、捏造とするのは正しくない。
記紀の説話は年代とか事績などは史実そのものではないけど結構リアルを反映してると思うよ。
正嫡ではないものが後を継いだときは一所懸命、正当性を主張してる辺りね。
238 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 22:02:55.81
「仲哀天皇」という諡号を考えた奴も気づいていたんだろうな、
こいつで王朝が一回断絶しているということを。
息長氏系って応神の系統につながるように記載されているけど
実際は神功皇后の実家(彦坐王系)の流れだったんじゃねえかな
神功皇后という権力者が出たから彦坐王系がお零れにあずかった感じ
仲哀+神功→応神の系統が途絶えちゃったから「じゃあ母方の彦坐王系から迎えるしかないか」
的な流れがあったのでは
240 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 09:16:48.78
まあ、神功皇后自体は創作上のキャラだけどな。旦那の仲哀も。
242 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 10:01:00.62
神功皇后の事績が多く残る福岡湾岸の
豪族の話を記紀が取り込んだんだろう。
>>241 記紀=ファンタジー派はそうでないと困るんだろう。
妊婦が神様のお告げ聞いただの、旦那が信用しなかったら神罰でコロッとしんだだの、
妊婦が男装して渡海して戦争しただの、そのときの軍船を海のお魚たちが後押ししただの、
どこのファンタジーノベルかアニメの話ですか?
もうジブリにアニメ化してもらえよw
実在の可能性が高いといわれるミマキイリヒコ、イクメイリヒコの記事ですら、
前者はヘビの神様が夜這いしてきて、びっくりした姫が箸で陰部をついてしんだだの、
後者はおしの皇子がいい年扱いたオッサンになってから口がきけるようになっただの、
説話以外の何物でもないよな。
オシロワケの時代のヤマトタケルにいたっては、女装してクマソ退治だの、草薙剣だの、
オトタチバナヒメの入水で嵐がおさまっただの、神の怒りにふれてしんだら白鳥になっただの、
もうスサノオとかオオクニヌシとか神代の神話と同レベルのおとぎ話だろ。
>>244 神様部分除くと単純に「朝鮮半島政策の対立」による慎重派であった仲哀天皇排除という記事に
落ち着くと思うんだが
神功皇后にしてみれば、本人は皇統に連なる名族(一応新羅の王族の血も引く)、そこそこの
貴種ではあるから「簒奪」すらハードルは低かった(ただしさすがに本人は皇位には就けなかった)という印象だな
ぶっちゃけ継体天皇より酷い話
>>246 いや、仲哀天皇・神功皇后関連の説話の肝は、仲哀天皇の血を引くと思われない応神天皇を、神功皇后らが仲哀天皇の子を伐って天皇位を継がせた点。
要するに筋の通らない反乱・クーデター話を成功した側が無理やりな正当化を行ったということ。
綏靖天皇がタギシミミを討ったことを正当化した経緯とほぼ同じであり、説話を全部が全部を史実と捉えるのは滑稽であるとしても各天皇の存在はある程度リアルを反映してると見るべきだと思う。
少なくとも古事記や日本書紀を編むに当って、その時点で創作したというのはちょっと考えづらい。
>>247 仲哀が半島出兵に躊躇したことと、新羅の王族の血を引く神功皇后との間に感情的対立が
あったことはある程度史実を反映しているだろ
神功があれほど半島政策に積極的だったのは血の為せる業だと思う
創作した人物というには神功皇后は異質すぎる
仲哀の寿命伸ばして応神を適時に即位させ、応神期に半島に出兵したと書けばいい記事なのに
なぜ仲哀急死を挿入する必要があったのか合理的な説明ができないんだよな>>創作説
倭国内で勢力を伸ばした景行天皇−ヤマトタケル−仲哀天皇 VS 神功皇后・武内宿禰・応神天皇の勢力争いで
半島寄りの神功皇后側が勝利して倭の実権握ったって話だと思う
250 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:54:52.53
>>247 >創作したというのはちょっと考えづらい
おまえ自身が完全に創作説じゃねえか、自覚できてないとはねw
>>250 100%実在説以外は創作説だというなら創作説だと言われても別に構わんよ。
252 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 23:49:21.91
>>247 一応、応神天皇の妃は景行天皇の娘らしいので、
全くの他人である応神天皇がヤマトの非主流派から引き入れられて
大和の王になり、前王朝の妃を迎えた感じか。
>>252 継体天皇が仁賢天皇の娘の手白香皇女を皇后とした図とほぼ一緒で正統性の強化の匂いがするんだよね。
クサカ朝創始者。
応神の王朝には積極的に毛野氏や尾張国造等が参画しているのを見ると
東国との関係は悪くなかった、と言うか良好だったっぽいのが引っかかる
それまでの皇統から離れていた遠縁の出自(父親が仲哀天皇ではないほかの誰かとする場合)
であるなら、ヤマトタケルー仲哀天皇という東国との縁が深い皇統と対立した神功ー応神ラインに
東国勢がそうやすやすと軍門に降るはずがない
しかし皇位継承の内乱はサクっと終了、その上畿内豪族は抵抗らしい抵抗もしていない
畢竟、建前だけでも応神が仲哀の子息というのは結構重要だったのではないのだろうか
王朝交代説と言うよりは血統摩り替え説と言うべきか
応神が畿内の前王権を建前上、継承したことには異論はないが、
ヤマトタケルとか仲哀とか神功は架空のキャラだからね。
王権を形成していた集団の存在と、記紀の固有名詞や人格は区別して考えるべきであり、
記紀の王統譜や説話の安易な利用には禁欲的であるべき。
>>256 そのつもりで使用している
ヤマトタケルの一つの人格として関東王、特に南関東の皇別氏族というものがあるけれども
そこを出自とする皇族がヤマト王権のトップに立った(=仲哀的人格の大王)という事績の
存在があればこそ、4世紀以降関東がヤマト王権の支配下に徐々に組み込まれていったという
考古学的成果との整合性を容易に受け入れることができるのである
一応没年干支から仲哀・神功期が4世紀に相当するという前提ではありますが
>>255 >皇統から離れていた遠縁の出自・・・・である・・・・・・・
この主語は、誰?応神?応神がイリ王朝の遠縁出自というのは、
どの記録に記されてあるの?
260 :
日本@名無史さん:2014/07/26(土) 17:21:59.81
神武と欠史八代は架空。
崇神・垂仁・景行は実在の可能性がある。
成務・仲哀・神功は架空。
応神と仁徳は同一人物の可能性がある。
履中以降は、事績はともかく、系譜は一応信用できるが、
履中系と允恭系が別の家系だった可能性もある。
継体は北陸から近江にかけて勢力をもっていた地方豪族で、
河内王権の大王とは他人。
妄想乙
継体は男系では前王朝=倭王武(ワカタケル大王)の王朝とは関係ない。
親戚のおばさんが倭王済(允恭)の后だったというだけの地方豪族。
5世紀は讃系の王家と済系の王家の2王家が並立してたと考えれば、
イチヘノオシハ王の殺害や播磨の牛飼いの2王子の説話も理解できるな。
5世紀は、まだヤマト王権内で有力氏族での盟主=大王の座が持ち回りで、
世襲王権は確立していなかったと見るべき。
まがりなりにも世襲王権が確立するのは6世紀中頃の欽明大王から。
それは欽明大王の「天国排開広庭(アメクニオシハルキヒロニハ)」という、
王朝の始祖にふさわしい諡号が証明している。
>>246 記紀ではわざわざ「神功皇后何年」と記事になってる。
江戸時代以前は、神功皇后は帝だったんだよ。
264 :
日本@名無史さん:2014/07/30(水) 08:56:47.36
その辺は持統天皇の称制あたりがモデルなんだろうな。
神功皇后というキャラは、古代のシャーマンと母神・海神信仰をベースに、
実在の斉明天皇(九州まで親征)、持統天皇(夫の死後、数年間、称制)などをモデルに、
創作されたキャラなんだろう。
265 :
日本@名無史さん:2014/07/30(水) 09:08:39.49
>>263 それも微妙
「吾妻鏡」ではタイトルの将軍一覧に「北条政子」という章があり
北条政子の尼将軍時代が一代記になっている
しかし北条政子はこんにちでは将軍であったとはみなされていない
266 :
日本@名無史さん:2014/07/30(水) 22:19:02.48
神武,崇神の王朝と応神をつなげるために造りだされたんだろうな。
応神が従来の朝廷の関係者であるのか、
そもそも日本人なのかもわからんが
少なくとも神功皇后は応神の母をモデルにしたとかではなさそうだ。
>>266 系図を捏造するのは構わんが、別に間に神功皇后挟まなくていいだろ
仲哀と大中姫命の間の末っ子でも問題はなかったはずだ
どちらかと言えば「応神系」であることが重要なのではなくて「神功系」であることの方が重要だという証左にならんかね?
>>267 > 系図を捏造するのは構わんが、別に間に神功皇后挟まなくていいだろ
そうだね。
さらに言えば仲哀天皇死後、一般常識では考えられないほど遅れて仲哀天皇の子が生まれたという説話をわざわざ捏造するのもなんだかなあって感じ。
まあ理由をつけようと思えば付けられるけど、神功皇后が仲哀天皇の子を伐って仲哀天皇の血を引いてないと思われる子に後を継がせた構造になっちゃってるんだよねえ。
269 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 07:16:40.19
説話とか神話ってのは、盛りに盛って面白おかしくするもんだろ。
合理的で常識的でなければならないというのは、それこそ現代人の発想。
所詮、神功皇后なんて、ありえない虚構の英雄譚、ファンタジーなんだから、
非合理で非常識な内容の説話で何の問題もない。
>>269 普通の脳みそあったら応神の功績にするわ、三韓征伐
英雄譚としてこれ以上のファンタジーは無い
神功皇后関連の神話は誰が得するのかよく分からん
応神の出自の怪しさ、仲哀の非業の死、武内宿禰・葛城氏の台頭
疑惑を生じさせるだけ生じさせて何だかなー
何から何まで全部が事実とは思わんが変なメッセージ性はあるわ
271 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 09:03:44.37
それは時代背景だな。
記紀編集当時は、元明・元正といった女帝の時代。
元明女帝の母持統天皇や、持統の祖母斉明天皇の存在が神功皇后のモデルにされている。
応神出産後も神功皇后が執政していたのは、天武没後、持統がしばらく称制していた史実を、
神功が自ら遠征をおこなったのは、斉明が百済救援のため筑紫まで親征した史実がモデル。
これに、海神・母神・シャーマンなどの要素をくっつけて創作されたのが神功皇后。
>>271 斉明の九州までの御幸って本人は病死するわ戦争は負けるわで散々だったろ
それをモデルにフィクション創作して「神功皇后の時代は新羅に勝ってたんですよ」なんて主張したら
新羅や唐に「馬鹿じゃね、そんな見え見えのライトノベルで新羅への優位性主張するつもり?」と
馬鹿にされるのは必定
そんな虚構を創作しなくても、応神系の時代には積極的に半島出兵していたからそれを根拠に優位性
主張すりゃいいだけだし、皇后による称制なんて推古帝がいる事実に比べたらどうでもいい話
斉明の憂さ晴らし説ほど滑稽な説もないと思うわ
273 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 09:48:03.79
そこまで深く考えてないだろ。
単に女帝が多かった時代に記紀が編纂されて、斉明とか持統の記憶が鮮明だったから、
そのシチュエーションがモデルの一部として使われたというだけのことだろう。
274 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 09:52:08.79
>馬鹿じゃね、そんな見え見えのライトノベルで新羅への優位性主張するつもり?
記紀の説話のバカバカしさを考えたら、「見え見えのライトノベル」というのは、まさに的確な形容だな。
275 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 10:17:24.41
斉明天皇は67歳という当時としては高齢で出陣したので
筑紫で亡くなったのは寿命じゃね?
古代日本では女性の地位は高く女帝も何人も出たが
祭祀の主催者とはなっても軍隊を率いた女帝は多くない
斉明天皇は軍隊を自ら率いて出陣した数少ない女帝
新羅や唐にもいないんじゃね
>>273 それだったら開化天皇五世の孫に当たる神功皇后を女帝に即位させるのが一番効果的だな
継体もいる、推古もいる、決してハードルは高くない
どうせフィクションなんだから行けるところまで行ったれじ
継体天皇も無茶あるけど、個人的には臣籍降下したのに皇位継承しちゃった宇多天皇が無茶度ではトップだと思う
あれがその後の先例と化してたら平安期はかなりカオスになってたと思う
278 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 10:53:25.82
>>276 だから、記紀は女帝がいない中国の史書を底本にしてるからだろ
飯豊皇女も即位した説が根強いのに記紀で天皇扱いされていない
推古は年代が近すぎて即位の事実を隠しようがなかったのだろう
それでも「女が政治に携わってはいけない」と聖徳太子に政治を丸投げしたことにされた
古事記で女帝が出てくるのは推古天皇が唯一(推古天皇の代までで終わっているため)
>>278 書紀は普通に女帝の事績載ってね?
唐に提出されたと思われるのも書記の方でしょ
神功皇后はあれか、史記における呂后本紀みたいなもんか
呂后に擬されたと考えると確かにしっくり行く部分は多いなwww
280 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 11:22:59.72
>>279 天武天皇の時までに成立した「帝紀」「旧辞」は推古天皇の代までだったと思われる
(古事記と日本書紀の一致から底本は同じだったと思われるため)
おそらく当初の国史編纂はここまでの予定だったのだろう
日本書紀に皇極(斉明)持統などの女帝が追加されたのはそれ以降だと思われる
これは持統・元明天皇は勿論、「日本書紀」が献上されたときの天皇である
元正天皇の意向が強く反映されたと思われる
281 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 11:31:26.94
だがしか〜し
現実に実在が見てとれるのは桓武天皇以降なんだよな
源氏も平氏もすべて桓武天皇以降
源頼信起請文、応神天皇何世孫の記述は気になるところだわ
282 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 11:34:23.05
源経基の六孫王ってのはどうみても桓武天皇から六世目って意味だしな
283 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 11:40:11.86
まあぶっちゃけ清和源氏の祖たる源満仲と経基の年齢が合わないのは昔から言われていること
源氏の名跡を買ったんじゃないかってのは言われていたわな
284 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 12:31:05.05
やはり応神は新羅に遠征していた武将っぽいな
で、その軍勢でヤマトを征服したと。
285 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 12:47:05.20
さあどうでしょうね
新羅だのなんだの海外に結びつけるのが多いね
286 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 12:58:15.74
ただ源氏の初期の勢力扶植は大和、摂津、河内だね
武家源氏でこの系統だけが突出した謎もある
287 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 16:16:21.29
応神大王の正体は新羅人。
半島からやって来て武力で畿内王権を征服したのではなかろうか?
288 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 18:19:17.14
鮮人乙
征服されたのが新羅百済だから。
289 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 18:45:00.93
神功皇后が新羅人の血を引いてたり、
応神が新羅の神と同一視されたのは
確かにくさい
290 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 21:34:40.40
渡来系氏族だった可能性はあるな
291 :
日本@名無史さん:2014/07/31(木) 21:44:33.82
三韓に出兵する際、
三韓の事情に詳しい奴を将軍にするのは別に不思議でもなんでもないからね。
結局そいつに裏切られたわけだが。
卑弥呼っぽいやつがいないと困るからいれたんだろ。
書紀って、中国人に読ませるためのものなんだから、
中国の史書に出てくる奴を入れとか無いと不味いだろ。
>>292 倭の五王も多利思比孤も出てこないから
不味いもなにもないだろ
南朝の歴史書とか、隋書って、
日本書紀が編集されていた頃に、中国朝廷の外や外国に公開されていたのかな?
そして、日本にまで伝わっていたのかな?
っていう疑問があるんだけど。
いつ頃に日本に伝わったんだろ?
296 :
日本@名無史さん:2014/08/01(金) 07:19:32.67
宋書は宋の滅亡直後に、隋書は唐の太宗から高宗の時代にかけて編纂されてるから、
どちらも日本書紀の編纂時点には存在している。
時期的に、隋書が書紀の編纂段階で日本に伝わっていたかどうかはわからない。
見てるよ。隋書による語句表現の潤色がある
『古事記』『日本書紀』の解明: 作成の動機と作成の方法
books.google.co.jp/books?isbn=4286017303
>日本書紀』には、『史記』『漢書』『三国志』『梁書』『隋書』などの正&や『淮南子』などの文章や語句が引用されているが、引用文のほとんどは古典からの直接の引用ではなく、
>古典の名文や名語句などを項目別に分類した『芸文類聚』から引用されているという。
検索してたら、こんなのあった。
案外、史書のオリジナルは見てないのかもw
引用集に、倭国の記述部分が使われるとは思えないが。
まあ、微妙なところだな。
(リンク先のURL長すぎで貼れなかった。 日本書紀 隋書 潤色 芸文 でgoogle検索した時の一番上)
299 :
日本@名無史さん:2014/08/01(金) 22:36:53.52
>>255 良く考えたら、
この頃のヤマト朝廷って
崇神天皇から6代くらいしか経ってないし、
あまり権威も無かったんでないの。
300 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 05:25:36.07
>>255 >応神の王朝には積極的に毛野氏や尾張国造等が参画している・・・・・・・・・
応神朝の誰大王の朝廷に参画していたと?そもそも応神朝時代には未だ
国造制は布かれていなかったというのが定説なんだが。
301 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 08:17:04.09
そもそも応神自体架空の人物で、仁徳と同一人物説もあるくらいだし。
302 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 11:39:52.77
架空とは思えないが。
何のためにあんな王朝交代のエピソードを入れる必要があるのか。
303 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 11:46:45.18
書いた人に聞かなきゃわからないよね
>>302 実際に王朝の交代があったから。
少なくとも記紀編纂時にはそれなりに周知の事実だった(実際に事実かどうかはともかくとして)。
でも交代を認めると自己の正統性がやばくなるし、無かったことには出来ないので別の意味付けをしたその結果。
王朝というか統治者の変遷は埋葬品・埋葬方法の変化で大体予想つくと思うんだけどね
>>305 宮内庁に立ち入りが禁止されてて埋葬品・埋葬方法が分からなくなってることも多いかと
307 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 20:03:25.10
応神にしろ、継体にしろ、
建前上前王朝を引き継いでるから
墓を作るスタッフとかも基本的に同じなんじゃないの
後世には、孝明天皇と明治天皇の間に王朝交代が起こった、って言われそう。
309 :
日本@名無史さん:2014/08/04(月) 17:57:03.13
徳川王朝から明治王朝への王朝交代はあったよ。
310 :
日本@名無史さん:2014/08/04(月) 18:00:49.17
徳川は王朝じゃない
311 :
日本@名無史さん:2014/08/04(月) 18:13:17.56
細かいこと言うな。
継体が即位しても、大臣等は変わっていない。
国中が争った記録もないし、考古学的にも証拠は出ていない。
誰もが認める王だったということになる。継体の前に逃げられた王も、
今で言う宮家のような王族だったんだろう。
313 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:02:33.47
オホト王(継体)は、倭王済(允恭)の嫁さんの実家(外戚)の子孫。
済(允恭)→武(雄略)→武の娘と仁賢の夫妻→武烈 と続いた大王が断絶したから、
済や武の外戚にあたるオホト王が引っ張り出された。
前王統と男系につながってたからではない。
314 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:09:02.63
308
言われてるよ^o^
過去世の落ち人関係なんかいくらでもあるわ
秀頼の遺児の薩摩落ち、平家の四国落ち、義経の蝦夷落ち、
南朝の落ち人説じゃなかったかい
こう書くとまた誰か引用するかな?
315 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:11:05.20
平氏の沖縄落ち説はだれだっけ?言ってたよな?
そういう風聞が存在したんだっけ?
316 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:31:56.75
>>312 じゃあ20年ヤマト入りできなかったのはなぜ
応神五世を否定する根拠に書記の記述を持ち出すのは論理として滅茶苦茶
318 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:53:45.70
国が争っておさまらないから継体大王に白羽が立ったんだよね?
319 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:57:25.91
継体天皇って漢風諡号だもんな
オホドオオキミが正確だし
320 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:59:17.54
そもそもリアルタイムで「応神の五世孫」って言ってたのかどうか
倭人伝に出てくる男弟をオホドを読むのは無理だろうか?
>>316 ヤマト入りできなかったんじゃなくて、しなかったとも考えられる。
淀川・木津川流域が継体朝の本拠地だが、
この地域からは6世紀前期(継体朝)モデルとでも言うべき石見型埴輪が出ていて、
このタイプに属するものが、当時ヤマトの最大埴輪工房である菅原東遺跡とその周辺でも見つかっている。
すなわち、この時期の埴輪モードの発信基地はヤマト北部なので、
継体王権はヤマトに入らなくともヤマトの要所は押さえていたとも言える。
もっとも、ヤマトの北部と南部で円筒埴輪の型とか胎土に差があるようで、一見対立の様相にも見えるが、
「型」に限って言えば南部に目立つタイプは明らかに下位ランクと認識でき、
一方でこの下位ランクの技法は当時広範囲に影響を及ぼした尾張系埴輪との関連性が見て取れ、
尾張といえば継体姻戚のいわばトップだから、むしろこちらも継体が押さえていたとも考えられる。
それと20年というのは確かに日本書紀の本文にある年数だが、或本では7年とあり、
これを百済王暦との比較などから523年(武寧王没年)のことではないかという考えもある。
323 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 20:53:08.94
>>322 なんで次の欽明で大和に戻ってるの?
継体の奥さんだった前王権の姫・
手白香皇女の陵墓も大和にあるよね。
324 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 21:03:52.03
今の天理市とかあの辺の関係は過去となんにも関係ないぞ
一種の宗教改革の結果といえば分かるだろ
>>323 ふつうに考えて欽明は大和生まれ(育ち)だからじゃね?
326 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 21:30:28.86
当時、継体を擁立する派と
丹波王を擁立する派でヤマトが二つに分かれていたと見ればいいな。
巨勢氏、蘇我氏は継体擁立派か。
327 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 21:32:52.57
まあどちらも適当に選んだ、
畿内の事情を知らない人物を連れて来たんだろうな。
328 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 22:04:49.71
>>325 継体が大和入りできなかったのだから
欽明は大和で生まれてないだろ
手白香皇女は欽明懐妊後、継体と別居して一人で大和に帰り
欽明を産んだってことか?
329 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 22:07:56.22
別にそこいらを歩いているおっさんを適当にスカウトした、
という可能性もゼロじゃない。
ま、さすがに王として見栄えがし
金持ってる人物を選ぶとは思うが。
金属の技術持ってる新羅系の渡来人なんかが最適か。
330 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 22:17:53.52
>>324 天理市には縄文時代から古墳時代に至る巨大遺跡・布留遺跡があるのを知らないの?
331 :
日本@名無史さん:2014/08/07(木) 09:14:47.21
天理教と古代の信仰が無関係ってことだろ。
332 :
日本@名無史さん:2014/08/10(日) 16:09:41.61
>>289 北海道以外の列島全域に八万社あると云われる応神天皇
こと八幡神って、新羅人の信仰する神だったの?
333 :
日本@名無史さん:2014/08/10(日) 16:23:39.62
遺跡を利用してるってのが正解だろ
>>332 要は、八幡=秦=新羅って連想だけだよ。
新羅人の信仰というのはわかってない。
335 :
日本@名無史さん:2014/08/10(日) 23:54:20.79
>>334 豊前国風土記の逸文だったかに
八幡神が新羅から香春の地に来たと書かれてる
336 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 18:10:40.19
自称源氏の領主が多かっただけ
いつの間にか祭神が八幡に代わってる神社も多い
>大妃を一族から迎え、女系により正統を得るのは古代エジプトと同じ風習である。
エジプトのようにそもそもが女系で、河内王朝あたりが男系への移行期という気がする。
越の継体、播磨の仁賢はフツウに婿入りだったのでは。
その婿さんも、赤の他人ではなく親戚筋
339 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 22:45:51.81
>>338 男系扱いするために親戚ということにした気がする。
あ、別に現代の女系天皇を論じる気はないぞ。
340 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 23:02:01.05
女系は言い過ぎでも双系制だったとか。
だから系譜か不自然。
>>322 継体天皇の動きというのは、
天智朝で(再び)試みられ、最終的には嵯峨天皇で完成する
「畿内の枢要部を、大和川水系から、淀川水系に北遷させよう」
という発想の、最初の萌芽なのかもしれないな。
なぜ?といえば、河川の利便性の問題だろうと思われる。
すでに、継体朝の段階で、崇神朝(弥生後期か古墳草創期)とは、舟運の技術レベルが違っていて、
細くて流量安定しない大和川を、しかもやっかいな亀の瀬を越えて大和盆地入りするより、
淀川水系を上手に使って、広義の山城盆地(木津まで)に入るほうが、
すでに便利な状況になっていて、全国政権としても利便性が高かったのだろう。
ただ、土地のカリスマ性は依然として神武・崇神以来の大和盆地南端部にあって、
一度は戻ることになる。ただ、問題は徐々に顕在化していく。孝徳天皇は再び難波につんのめる。
平城京は奈良盆地最後の首都になるが、真の交通網は木津に接続していて、
大和川水系からは、半分足を洗っている。
いくらでも親戚がいるのにわざわざ赤の他人を連れてこなくちゃいけないんだ?
徳川将軍家が家康5世孫の徳川家継が僅か8歳で早世し断絶した時
家康4世孫尾張家継友と3世孫紀州家吉宗で後継者が争われ吉宗が8代将軍になった
この時上杉家や伊達家から養子を取ることが考慮された?
なんで天皇家だけは赤の他人を養子に取ると考えるんだ?
343 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 23:21:43.23
>>342 血統より実力
このころの血統は後代のような神聖不可侵じゃないのでは?
その実力の中でも、一族の力ってのは無視できないとおもうよ
346 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 00:30:26.58
うんこ
>>343 無能の極みのような発想ですな。
君は史学に向いてないよ
348 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 08:21:54.08
>>347 とんでもない馬鹿がいるなw
当時の日本の天皇家は三輪王朝、河内王朝と王朝交代が当たり前だった
継体の前の河内王朝はたかだか150年ほど続いたにすぎない
なぜ日本の征夷大将軍は初代の坂上田村麻呂の系統が世襲しなかったんだ?
なんで徳川家康が征夷大将軍になれたんだ?
まだ当時はたくさんいた足利家末裔を担いでこなかったんだ?
と言っているのに等しい
349 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 14:09:52.08
河内王朝ですら、実際には葛城氏と組んだ讃系と、
大伴氏・物部氏と組んだ済系、そして播磨王朝の3家系があるからな。
後世の織田→羽柴→家康の頃みたいに、まだ世襲王権が確立しておらず、
実力者や影の実力者に擁立された傀儡による回り持ち状態。
妄想乙
351 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 17:40:38.17
>>349 もうちょっと詳しく、論理的に教えてくれないかな
三王朝交代説が、君の書き方だと単なるトンデモにみえる
「○○という史料に□□という根拠があるので、△△と考えられる」という書き方にしてくれ
353 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:24:53.28
>>351 宴席の歌で太子に見出されたというのが
いかにもお伽話ですね
妻子無しで実在が怪しい清寧帝、
名も不明の夫と一度だけ契ったという飯豊皇女と、
この辺りの系譜は謎だらけ
その前の雄略帝の事績が比較的はっきりしている分、何があったのかと妄想してしまいます
354 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:43:49.87
神武天皇から開化天皇までは地方豪族だったということなんだろうが、
実際は父子相続じゃなく、
非世襲の長老か村長だったんだろうな。
355 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:46:39.94
>>337だけどさ、言いたかったのは
女系または双系が普通だったっていう前提に立てば、継体の即位は言うほど
インパクトあるものじゃなかったんじゃないかなーと
現代の史観から見ると、どこぞの馬の骨に王朝簒奪されたとか
万世一系を貶めるとは許せん!とかいう
話になるけど
例えるなら、光明子の立后程度のインパクトだったのでは?
このときも人心乱れて遷都を繰り返したしね
なので継体が赤の他人だったとしても、王朝交代というのが妥当かは分からない
356 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:54:36.73
357 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:57:44.80
>>355 東ローマ帝国なみに「王朝」という概念が薄そう。
358 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:58:13.46
垢抜け出来ない福井w
テレビ見ててよく思うのですが
@全国ニュース等で画面に映る子供達
A福井のローカルニュースで画面に映る子供達
明らかに違う気がしませんか?
言葉が違うのもひとつ。
着てる服のセンスが違うのもまたひとつ。
あと・・・
やっぱ都会の子は顔のレベルが高い。
あ〜この子イケメンになるなー
あーこの子べっぴんさんになるなー
と思う子の率が東京とかの子の方が圧倒的に高い。
何てゆーか、垢抜けてるんですよね。
顔が。
遺伝子レベルで。
クソ田舎の狭い県内で交配を繰り返し出来た子供と
色んな地方の混血でいいとこ取りの子供
顔だけでなくあらゆる点で都会の子の方が秀でていると思わずにはいられません。
と、ある晩のニュースを見て思ったのでした。
http://blog.livedoor.jp/rin0418r24-kusofukui/archives/cat_221424.html
359 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 00:38:45.65
継体さんの本拠地disってんじゃねーぞ
360 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 02:10:15.57
>>355 三輪王朝でも河内王朝でも、
男系での継承が連続したことなんてあまりなかったんだろうな
一応、学問板なんだから、もっと知的にやろうぜ。
362 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 06:57:38.23
>>353 そういえば、行方不明になった時子供で
見つけた時も子供だった
作り話にしても稚拙。
日本書紀の雄略帝のエピソード自体お伽噺的。
大物主を捕まえさせる話とか。
口伝の限界。
お伽話というか作り話も多いだろう
しかしそれぞれにその話をその場所に載せる意味があるのだろう
荒唐無稽と言って切り捨てるわけにもいくまい
365 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 08:41:07.17
浦島太郎(浦島子という名)の話は雄略天皇紀に載ってるんだよな
366 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 09:36:25.61
>>364 当然、播磨の二王子のエピソードは意味があるだろうな
>>348 そういう実力主義で権力者がコロコロ変わるのがデフォだったんなら、
過去の王様を全部自分のご先祖にして系図を作るなんてことも考えづらい。
岸・安倍家、福田家、吉田・麻生家、鳩山家…の後にあなたがこの国を治めるとして、
それらを自分の(政権の)ご先祖にするか?
>>349 つまり、徳川幕府も家治の頃になって歴史書を編纂しようという時、
織田も羽柴も全部自分の(王権の)ご先祖にした、みたいなことになるわな。
368 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 15:31:47.21
>>367 長い歴史があるということがいいたいんだろ
また当初は緩やかな豪族連合体であったために
大王家と大豪族間でさかんに婚姻が行われ皆親類だった
天皇家の祖先神は天照大神であり、
また婚姻によって大物主神の血も引くことになっているが
当時の大豪族もまたほとんど天照大神か
大物主神のどちらかの子孫になってるぞ
>>364 作り話とお伽噺の違いって何?
違いをどうやって証明する?
王朝交代説なんて所詮戦後左翼学者の妄想でしかなかったな
371 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 16:47:45.43
>>367 一応、応神、仁賢、継体とも
入り婿として前王朝を継いでるからね
372 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 17:14:39.04
所詮大王って呼ばれてたぐらいだから
天皇家の手下に入った寒村集落の村長の話が
尾鰭爬鰭話が広がってるだけだろ
373 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 17:43:38.72
そもそも、母方との結びつきの方が父方より遥かに強かった時代、
父系の氏族制度なんかあったのかね
>母方との結びつきの方が父方より遥かに強かった時代
そんな時代など存在しない
375 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 20:44:22.35
そもそももともと「親子」だと記載されていたのかも怪しいよな
名前だけがズラズラと記憶されていたんじゃなかろうか
インドネシアのスラウェシ島にいるマカッサルやブギスやトラジャといった民族の貴族は、
最初に降臨した天孫の血の濃さで位が決まるそうだ。
彼らも双系らしいし、古代の日本もそんな感じなんかねえ。
377 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:32:55.05
系譜が明らかに変わったと言えるのは国津神と天孫系の交代なんだが、
それさえ国譲りといって曖昧にしてるからな
378 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:40:46.58
三輪王朝が国津神系だったという俗説はけっこう納得感あるんだよね
天孫族が後で系譜をくっつけたから事績が空っぽだと
記紀上では一皇女に過ぎないモモソヒメの墓が、何であれだけ巨大なのかとか
379 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:44:51.65
継体天皇に対し鎌倉が応神天皇を祀ってるとこも面白いとこなw
幕府は伝統的に応神天皇の伝承にあやかろうとしてるところが伺える
380 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:46:45.90
神功皇后に該当するようなキーポイントとなる女性が必ず現れるw
381 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:50:39.99
>>363 雄略は宋書と稲荷山の鉄剣銘で少なくとも実在はしてそうですからね
これに対し清寧から武烈まではお伽話感が強くなる印象です
382 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:52:51.70
>>379 応神天皇の伝承ではなく、
道鏡の件で、八幡神が朝廷の権威を超えたからだろう
384 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:55:32.94
単に先祖は八幡太郎義家だからだろ
>>381 雄略紀を読んだことある?
雄略天皇の実在性が強いのは、記紀とは別史料から確認できるからであって、
記紀だけだったらお伽噺扱いだっただろうよ
清寧や飯豊、顕宗・仁賢は
白髪山や北花内大塚や狐井城山や野中ボケ山の被葬者だろうな
388 :
日本@名無史さん:2014/08/14(木) 20:46:39.27
ロムルスとレムス
389 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 03:52:11.82
体制を引き継ぐで継体天皇
390 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 04:00:56.21
>>386 変なエピソードがあるから非実在だ、という決めつけはおかしいよな。
水戸黄門も暴れん坊将軍も実在はしてたんだぜ。エピソードは嘘だけど。
御伽噺的な非現実的なエピソードが入ってるから実在しない!かぁ・・・ふ〜ん随分
極端な主張だねw
392 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 21:32:51.32
とはいえ、虚構を素直に虚構と認めないのも、狂信者だしな。
393 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 21:34:09.80
つまりここから南北朝が終わった時代の武家にとっては皇室が監視対象になったってのは
簡単に推測できるんだよな
綸旨が発行されればまた内乱の世の中ってな具合いでな
事実、このあと武家と公家もある意味において結びついている
1000年後どういうわけか、徳川吉宗に関する史料が「暴れん坊将軍」しかなかったら、
徳川吉宗が実在するか否かを論じることが無意味だろ。
本来史学の対象外だ。
逆に、「江戸時代の治世者ショーグンは城下のとび職などアウトロー集団と日常的に
生活し、鎖国体制にも関わらず町人を含め近代英語を始終口に出来るほど英米の
動向に詳しい云々」とかいう論評がわんさか出てくる事態を想像してみろよ。
あげくに、「吉宗は仮面ライダーなる仮面の戦士とともに、
異形の怪物どもと戦った云々」などと後世の史書に書かれるのか・・・
396 :
日本@名無史さん:2014/08/17(日) 02:35:17.38
それはそれで胸熱
397 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 19:12:30.70
むしろ、記紀の荒唐無稽さは桃太郎侍とか必殺仕事人みたいな虚構のヒーローに、
水戸黄門やら暴れん坊将軍やら遠山の金さんやらをパッチワーク的につなげて、
でっちあげた江戸時代史なんじゃないか?
398 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 19:34:07.61
ちょい記紀からのつまみ食いで自分の好きな解釈がって話だな
昔の人は良いネタを提供してくれたもんだ
400 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 21:32:16.14
>>383 、
>道鏡の件で、八幡神が朝廷の権威を超えた・・・・・・・・・・・・
称徳帝の願いを却下したことで、新羅からの渡来神が、称徳帝朝廷の
権勢を凌駕したということですか?
401 :
日本@名無史さん:2014/08/19(火) 22:08:58.54
>>400 応神のみならず、
継体も出身地からみて新羅系くさい
越前、若狭、近江は新羅系のたまり場
402 :
日本@名無史さん:2014/08/20(水) 22:07:55.42
>>394 なるほど。
だが日本の文献が「暴れん坊将軍」以外全滅でも、中国や朝鮮やオランダの資料が残ってれば、話は少し違ってくるぜ。
あのドラマにも「分家から将軍位を継承した」「朝鮮人参の国産化に取り組んだ」「目安箱を設置した」みたいな史実は含まれてるわけで、用心しながら資料として使うことになるだろうな。
>>394 wwwww
それ何という邪馬台国論争wwwwwwww
卑弥呼とか魏志倭人伝とか、そのまんまwwwwww
しかも、魏志は数十年も離れてない記述なのに、そのまんま暴れん坊将軍wwwwww
しかも、暴れん坊将軍を史料としてクソ真面目に論ずる馬鹿が、日本国内に確実に百万人は存在するwwww
草をはやしてしまった。不愉快に思う方には謝罪する。
もちろん、卑弥呼だの何だのはスレチなので、ここでは論じないが、
史料というものの扱い方について、重大な問題を提起してると言えるはず。
記紀もそうだけど、宋書もかなり危険な書物だ。
何しろ、準リアルタイムで「松平健の殺陣」まがいのお伽話を
堂々と書いた倭人伝という「前科」がある。
中国史書と記紀の、特に天皇の同定については、慎重になるべきだと思う。
>>368 戦国時代の政略結婚みたいだよな。
みんなが親戚だから、でっち上げるのはかえって困難だと思うね。
うちのばあちゃんとお前のじいさんは兄妹なのに、なんで嘘を書くんだとか。
あの土地はお前の一族からうちに婿入りした先祖が開いたんだとか。
違うのは、弥生時代は今より人口も少なかったこと。
弥生初期や中期のリーダー層の数がそんなに多かったとは思えないから、
弥生末期のリーダー層の多くが特定の系譜を引いていてもおかしくないと思う。
はるか昔の「ゴッドマザー」一族の伝承があったとか。
それでも国津神や出雲やらが残ってるわけだから。
記紀を読むと天皇家や豪族は母系も重要視されていることがわかる。
江戸時代の大名のような「女は借り腹」という感覚ではない。
今につながる男系の初代ということでいいんじゃないの
別に。
それでも十分に古い
学問的ではないな
ハプスブルク家ってのは、他の王家や名族が戦争で滅びていく中、
結婚戦略だけでキリスト圏に属する欧州各地の王位を継承していった。
現在は王位についている者はいないが、欧州の3カ国でハプスブルク家の
ゆかりある者が王位継承権を保有している。
越の王だった継体ってのも、ハプスブルク家と同じ戦略でその地位を得たものだろう。
皇位につく前にも数か国の姫を嫁にしていて、無視できない勢力を誇っていたはずだ。
「越」って名称が今でもあちこちに残っているわけだし、当時はそれほど栄えていたんだろう。
皇位継承者がいなくなった時点で、遠縁とはいえこういう人物に白羽の矢が立つのは
自然の成り行きではないかと思う。
宗家が断絶した徳川家が一族の中の有力者継友、吉宗の二人から吉宗を選んだように
天皇家も一族から後継者を選んだ
例えるなら継体は紀州徳川家であって伊達家や前田家ではない
越国 男大迹王 紀州徳川家 徳川吉宗
丹波国 倭彦王 尾張徳川家 徳川継友
5世の孫ってのが、常識的に考えて遠すぎるだろ
410 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 17:42:07.51
15代将軍慶喜は家康9世孫
慶喜と比べたら継体の応神5世孫なんてたいしたことない
>>409 5世ってのは自分を中心に置けば、祖父⇔孫の範囲でそれほど遠いものではない。
「5世の孫」だからプラス1世代だが。
明治天皇に弟がいたとして、その系統が今の皇太子世代まで続いてる、ほどでしかない。
412 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 18:29:16.90
結局王朝交代はあったの?
ていうか、その頃の体制が王朝と呼べるのかって話がある。
王朝と呼べるのは律令国家になってからではないかと。
そもそも「王朝」という概念自体が後付けでは
継体の頃は、族長とかエリアの長とかいうレベルじゃないだろ
なんだかんだいって世界で一番広い墳墓を作れるような連中だかんな。
動員力はすごい。
417 :
日本@名無史さん:2014/08/30(土) 16:08:47.27
「王朝」という言葉の使用には、もっと禁欲的になった方がいいかもな。
倭王権(ヤマト王権、ヤマト政権)の時期の権力者は、男系による世襲王権が確立していなかったし、
豪族の連合政権にすぎなかったわけだから、大和朝廷などという表現も廃れたわけだし。
>>417 王朝以外でいい表現が思い浮かばないわ
ヤマト連合とかか
暴走族みたい
419 :
日本@名無史さん:2014/08/30(土) 18:36:38.31
神武、武烈 とかは暴走族っぽいな
>>417 >男系による世襲王権が確立していなかったし
これって、どうやって証明するの?
5世代前のご先祖の名前判る人いる?
うちは4代前までしか判らなかった
爺さんに聞いておくべきだった
その5世の孫が何人居るのかって事
普通は、わざわざそこまで遡らないだろ
「きちがい部落周遊紀行」によると、
関東の糞田舎に疎開した作者の世話をしてくれた人は、十九代前までの先祖の名前と戒名を暗記していて、
碌に先祖の名前を憶えていない作者のことを馬鹿にしてきたらしい。
近現代の話ではあるけれど、ちゃんと先祖崇拝している家は、ご先祖さまのことを覚えているようだ。
大伴金村が任那問題で失脚したからだろ
426 :
日本@名無史さん:2014/09/01(月) 04:12:26.86
>>411 アンリ4世とかルイ=フィリップとかの例を考えても、五世孫ならそんなに突飛ではないよね。
>>421 庶民の家だけど分かるよ。200年位ははっきり分かる。
それ以前は読めないのがある。
五代前の爺さんの話が今でも酒の肴に出てくるw
戦国末期の先祖のこともたまに。
親戚(戦国以降に分家した家)と今でも付き合いがある。
>>422 普通じゃないから分家から呼んできたんだろ。
吉宗と一緒さ。
記紀の系譜を読むと、分家でも格が違うような感じだね。
宮家の扱いと臣籍降下したようなのと。
>>408の例えがうまい。
宮家扱いが継体の家系の息長氏と丹波氏(後の尾張氏と海部氏)
徳川氏もそうだけど、初期の一族が重視されてる感じ。
初期の分家で有力な一族の婿になった家系。毛利の小早川とか吉川みたいだな。
物部は一貫して臣下だな。
丹波氏は、分家というより、そっちが元々の本家じゃないかと思えるけどね。
信長が分家から棟梁になったように、神武か崇神がそうなったか。
ずっと後世の事例をあてはめて、妄想するのはいただけないな。
431 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 23:01:00.87
>>430 言いたいことは解るんだけどね。
「継体天皇と彼以前に血縁は無い。『五世孫』なんて遠縁過ぎるから嘘に決まってる」みたいな言い方する人がプロの歴史学者にすら混じってるわけよ。
だから「じゃあアンリ4世や徳川慶喜も先代までと血縁無いんですか」と反問されてるんだよ。
なぜ5代も遡ったのでしょうか
433 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 11:38:16.31
>>431 徳川慶喜は御三家の紀伊家に生まれ御三卿の一橋に養子入りと徳川一門として
生まれた時から厚遇されてきただろ
母は宮家出身で正室も五摂家の出
継体天皇は大王家一族として強い血縁を持ちながら大和で暮らしてきたわけでもなく
近江の豪族息長氏に生まれ母方の越前で育ち元妃は尾張の豪族の娘
一緒にするのに無理がある
待遇も時代が変われば
同一に語るのはいくないわな
>>433 俺には一緒にしても違和感がないよ
違和感があるのは君だけでは?
血が繋がっていることを示すのも難しいし、
血が繋がってないことを示すのも難しい。
そういやデューカリオン、アルドノアドライブ以外に艦内予備電源積んでるのか
手白香皇女が忘れずに載せとくって言ってた
439 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 04:24:04.19
手白香皇女て血統の割に存在感がないね。なんか事績あったっけ?
播磨国風土記ではオオド、ヲオド兄弟の母になってるのが謎
440 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 04:34:11.36
まちがえた。オケ・ヲケ兄弟でした
441 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 14:10:39.34
>>435 継体が大王の血ならせめて大和に住んで
大和王権の一員としてやってるはずだわ
442 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 14:21:45.39
どうみても豪族同士の連合政権なわけだが
物部、蘇我滅んでってこの辺にヒントがあるのかな?
血だのいってるがそれを証明する手立てはないの〜
お前らはこだわりたいみたいだがな
443 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 14:24:10.75
新羅だ唐だのクソ韓とチンクの話に繋がるわけか?
>>441 なんでそう思うのか純粋に不思議なんだが?いやマジで
後継者ではない子供らに地方の土地やらを与えるというのはわりと普通の考えだよ?
そしてその子孫が本家が途絶えたから中央から大王として迎え入れられた
これがわりと常識的なオホド王が即位した経緯の説明なんだが・・・
ほんとにひねくれた考えしかできない人っているもんだなぁ・・・たまげたなぁ・・・
馬鹿もいいとこのミステリー作家のうがった解釈の真似事が多い。
別に歴史は陰謀ではない
447 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 08:22:26.45
5世という数字がキリがよすぎて、かえって怪しい。
系譜も上宮記逸文なんていうわけのわからないものが、釈日本紀に引用されてなかったら、
永遠に不明のままだったし。
記紀編纂当時の天皇家の直接の始祖のわりに、謎が多すぎる。
故意に出自をごまかしているとしか思えない。
やっぱり、男系では河内王権(倭の五王の系統)とつながらない北陸・近江の渡来系豪族だろうな。
とにかく信じられない、ってのは伝わってくるけど、
感情的過ぎて、訳が分からない結論の人が多い
五世孫は確度が高いはずだよ
論点はそこではなくて
なぜそんなに遠いのを引っ張り出したか
確度が高いかどうかは知らんが
そういうこと
候補は、もっと身近にいっぱい居るだろと
>五世孫は確度が高いはず
ラノベ読んで、人間はみな魔法が使える!と思い込むレベルの池沼さん
継体が地方豪族から身を起こし大和に攻め上り王位を簒奪して継体王朝を開いたと言う王朝交替説をは成立しがたい。
理由としては、継体が簒奪者だとしたら、
新王朝の開祖ということになる彼の出身母体である息長氏が
たかだか疎遠な皇族と言う位置づけで684年に八色の姓で、
息長真人の姓をもらっているに過ぎないこと。
また、6世紀の倭王権の氏族構成から見ても継体天皇以降の倭王権が地方豪族出身者の開いた新王朝だとは考えがたい。
というのは継体・欽明朝にもっとも有力であった氏族は大連の地位にあった大伴氏と物部氏や大臣を出した蘇我氏なでであるが、
前二者は雄略朝以来の有力氏族であり、大王権力と密着しその軍事的基盤を構成していた。
後者は没落した葛城氏に替わって6世紀に台頭してくるが、ヤマトを拠点とする氏族である。
つまり、継体即位の前後で大王権力をささえる軍事氏族に変化が見られず、新たに有力化したのもヤマトの氏族であり、王権内のヤマトの優位は揺るがないのである。
考古学的知見もこれを裏付けている。滋賀県近河町一帯には息長氏が残したと見られる墳墓群が点在しており、
息長古墳群と呼ばれている。しかし主要なものとしては、塚の越古墳や山津照神社古墳など五世紀から六世紀代の
40から50メートルクラスの後期古墳が数基知られている程度である。
大王墓に匹敵する巨大古墳を造営した吉備氏や
200メートルクラスの前方後円墳を複数含む馬見古墳群を残した葛城氏などとの格差は歴然としている。
考古学的に見ても息長氏は5から6世紀にかけて湖東の有力勢力の一つであっても、
ヤマトに攻め上って大王家を妥当するほどの勢力を保有していたとは考えがたいのである。
要するに息長氏が大王家を妥当しうるような勢力を持っていた地方豪族とは文献的にも考古学的にも考えられない。
王朝交代説は応神五世孫という曖昧な系譜に着目して出てきた説だが説得力は無い。
男大迹王は記紀ともに応神五世孫としながら、その中間の系譜を書いていたところ信憑性に疑問をもたれたが、
釈日本紀に引用された上宮記という書記よりも古い文献に、
凡牟都和希王と男大迹王の間の系譜全てがしるされていることがわかった。
息長氏を大王家の末裔とする系譜は確実に記紀よりも遡るのである。
>>452 >後者は没落した葛城氏に替わって6世紀に台頭してくるが、ヤマトを拠点とする氏族である。
まったく無意味なことを言っとるね。
蘇我は継体晩期までは出自も何も不明。
継体以降に当該の土地を占拠したんだよ。
未だに新王朝とかいってるアホがいるんだなw
何の根拠もないのに
ちゃんと、論じようと思ったらこれぐらい長文になっちゃうんだな
でも、根拠立てて書いてくれるのは有り難い
最近のY染色体ハプロの研究によると、皇室はどうもD2タイプ(縄文タイプ)らしい。
一方天神系の藤原氏はO2で渡来タイプ
一般に天孫・天神系は渡来系のO2タイプで、天孫たる皇室も藤原氏と同系統のY染色体を持っても良さそうなのに、
そうなっていないのは、やはり継体天皇がそれ以前の倭の五王とは染色体が異なり、
越の豪族上がりだからではないか。
妄想君元気だね
458 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 21:42:30.16
>>447 アンリ4世なんかルイ9世の十世孫だからもっと怪しいな。
ましてナヴァールとかいう僻地の王だしプロテスタントだし、ルイ9世の血なんか引いてないよ、きっと。
>>458 中世フランスと継体天皇時代の日本戸を同一視することはできない。
中世フランスはすでに盛んに文書、記録が作られ、正確な編年による歴史を書くことができる。
継体天皇やそれ以前は正確な編年ができなということは、「文字による記録」がなかったことをうかがわせる。
継体天皇時代の日本は、文化的にアフリカあたりの無文字首長制国家相当であり、
5代の子孫など詐称でいくらでも名乗ることが可能。
何しろ誰も反証できなないのだから。
江戸時代の大名の家系図なんかも怪しいの多いしな。
ただ古事記成立時点において継体の子孫であるはずの連中が継体を始祖としなかったということは、アマテラスの子孫であることの権威がいかに大きかったを示すものではあるな。
徳川が源氏を僭称したようなもんだろ
>>459 文字なんて5世紀にはすでにあった
系譜等の記録も行っていた
あくまで参考例として中世フランスと日本を挙げただけで同一視していない
はい論破な
ロンパーウゼー
464 :
日本@名無史さん:2014/09/08(月) 00:05:58.61
五世紀って文献あるかね?
金石文程度しか残ってなかったと思うが
宋書倭国伝
>>461 違う。徳川が足利将軍家の5世孫を名乗ったようなもの
>>466 違う。前田が徳川家康の5世孫を名乗って8代将軍になったようなもの
468 :
日本@名無史さん:2014/09/08(月) 18:43:43.77
大伴金村が任那割譲による外交問題で失脚したように、
イワレヒコ(神武)から受け継がれた血を引いていない者を
大王として連れてくることはありえない。
蘇我氏あたりは金村の失脚を願っていたはずだから、
偽王の血筋の者を大王に仕立てたならば、
それこそ好都合だったに違いない。
実情は軍事的にも経済的にも有力な豪族化した王族の継体天皇
を大王にいただかなければ、ヤマト朝廷そのものが瓦解し、
主要な豪族でさえ存亡の危機にあったためだろう。
469 :
日本@名無史さん:2014/09/08(月) 19:45:29.98
継体天皇が自ら名乗りだしたわけではなく、家来のほうから「天皇やらへん?」ってお願いしたわけだしな。
百名以上いるであろう天皇家の男系血筋のなかから2番目に選び出された人だし、
わざわざ血筋違いを選んで揉め事起こすわけない。
>>469 頭が糞悪いやつだな。
権力の正統性を示すために文書書いてるのに、わざわざ乗っとりましたと記すわけねーだろ。
陰謀論乙
472 :
日本@名無史さん:2014/09/09(火) 06:24:05.76
>>470 何でさ。当時既に易姓革命については知られてたんだから「旧王朝に徳が無くなったから継体天皇が帝位に就きました」で済んじゃう話じゃん。
五世孫と称したのは本当に五世孫だからというのが一番素直な理解だと思うんだけど。
権力を正しくない手段で簒奪したとすれば、「継体」なんて絶対つけないと思うね。
じゃ、継体持統の持統天皇も別王朝、皇位簒奪者なんですかねえ・・・
475 :
日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:35:29.23
>>473 継体天皇は手白香皇女に入り婿したのだから
正統な方法で継いでいるよ
女系相続だけど
476 :
日本@名無史さん:2014/09/09(火) 18:11:47.21
>>472 記紀編纂が命じられたのは天武の時代なんだからさ
継体から始まった王朝ならたかだか200年足らずにすぎない
だから前王朝と繋げて長く編纂したんだろ
婿入りしているから前王朝と繋がっていなくはないのだし
その天武自体、本当に天智の実弟なのか?っつう疑問が残るけどな。
記紀編纂の頃(8世紀はじめ)、天智・天武が実は兄弟じゃないのに
兄弟ということにしていた、ってほうがよっぽど疑問だけどな。
>>476 君は感覚がマヒしている。200年てのは存外大した長さだよ。
鎌倉幕府ならもう滅亡。
室町幕府なら11代将軍義澄、江戸幕府なら10代将軍家治の頃で、
いずれも体制の「後期」に足を突っ込み始めてる頃。
あのさぁ・・・
継体天皇が前王朝の血を引かない、簒奪王朝だと言うのなら根拠が書かれている史料をもってこいよ
継体天皇は前王朝の血を引いていませんと証明できるものを
煽りではなく紳士に、純粋にそう思っているのよ俺は
ぐだぐだぐだ・・・言いがかりじみた仮説ばかり・・・やれやれお里が知れるね ┐(´-`)┌
482 :
日本@名無史さん:2014/09/09(火) 21:30:55.76
>>480 自分も同感だね。確実な証拠は無理でも、せめて強力な状況証拠くらいは欲しいところ。
世界的に見ても五世くらいの傍系相続なら珍しくないんだから「こいつ王孫を僣称したな」とは到底断言できない。
血統とかどうでも良いんだよ
その時に何があったの?
>>480 5行目に紳士らしさを微塵も感じられないんだが
真摯の誤変換かと
真摯の誤変換かと
いずれにしてもアレだけど
>>462 だって、現実に「正確な年月日」の記録がないのだから、
当時の日本に「記録を留める習慣がなかった」のは明白w
当時の日本は、せいぜい渡来人にたまに「文字を書いてもらう程度」で、
日本人は文字を使いこなす能力はなかったw
隋書倭国伝に
「その国文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏教伝来後初めて文字有り」と書いてあることからもわかる。
携帯天皇
>>487 一行目と二行目は論理として成り立っていない。
三行目以降はお前の妄想。
オワケの鉄剣等から倭国伝の記事が捏造なのも自明。
つかその稲荷山の鉄剣って作成者の7世祖まで書いてあるよな。
>>489 ば〜か
じゃあ、「継体以前の日本なみ」に「正確な編年による歴史が書けない国w」
にもかかわらず「正確な記録をとっている社会」を挙げてみろや。このバカ。
>>490 アフリカの無文字社会でも王の系譜を何十代も口頭で伝えている例はいくらでもありますがw
ただし正しくないw
>>491 論理として成立してない以上ただの妄想、終わり
494 :
日本@名無史さん:2014/09/10(水) 23:14:06.18
495 :
日本@名無史さん:2014/09/10(水) 23:51:55.42
継体天皇の系譜が残ってないのは、系譜を書いた巻物が途中で紛失したからであって、記載時はちゃんと書いていたんだよ。
他書籍で引用される。
496 :
日本@名無史さん:2014/09/11(木) 11:56:18.66
徳川家康の系譜が残ってないのは、系譜を書いた巻物が途中で紛失したからであって、記載時はちゃんと書いていたんだよ。
他書籍で引用される。
と思ってる?
497 :
日本@名無史さん:2014/09/11(木) 12:54:17.10
>>496 少なくとも日本書紀には系図がついてたんだよ、元々は。
結果が似たような物であっても原因は様々
バカですかwww
実年代化チラ裏=朝貢記録+古事記の没年情報(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+同時代人
◆邪馬台国…狗奴国との争い
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(大使…難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら)
台与(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋武帝・司馬炎へ)
◆三輪(佐紀)朝…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)
10祟神(〜318年)…四道将軍派遣310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の征西・東征340年頃? 大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置
14仲哀(〜362年)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆河内朝…半島派兵(高句麗との争い&百済支援)本格化
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢?
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆近江朝…中央集権強化
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
高句麗と韓半島の覇権を争った「倭の五王」は「倭の七王」だった。〜隠れていた履中17と武烈25〜
(412年、高句麗・広開土王33歳で死去)
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
(475年、高句麗・長寿王により百済の首都「漢城」陥落、蓋鹵王斬殺される↓)
477年/478年「武」@…雄略(高句麗の無(非)道を非難する上表文)
502年☆「武」A…武烈
★430年の「倭国王」は履中。→ 438年「讃死して弟の珍立つ」の真相
430年に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく「讃の子」で、8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の大使が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王「讃」のイメージが強かった中国側にしてみれば、 名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、
先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
つまり【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、記紀の天皇系譜と一致する。
☆倭王「武」は2人いた。
502年梁の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王武が、477年/478年の倭王武(興の弟)とは別人で、 雄略(幼武)の孫の「武」烈とすれば、
雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)と整合する。
よって 、@讃…仁徳、A倭国王…履中、B珍…反正、C済…允恭、D興…安康、E武1…雄略、F武2…武烈 の「倭の七王」となる。
501 :
日本@名無史さん:2014/09/11(木) 18:43:20.01
そもそも継体の前に王朝など存在しない。
継体前の権威の象徴であった大古墳が各地に分散しているのがその証左。
それともあんたら河内王朝説なんかね?
>>502 何言ってるんだ、中学生にしては、なかなか良くかけてるじゃないか!w
506 :
日本@名無史さん:2014/09/15(月) 09:25:47.35
継体以前の倭王権は「王朝」なんて言えたシロモノではない。
推古朝より前は歴史とすら言えない。
それは言い過ぎ
検証できていない物は、分からないが正解
誰のことか分からないし、誰の墓かもわからない
史学的にも考古学的にも、雄略朝は王朝といってもいいと思う
510 :
日本@名無史さん:2014/09/15(月) 22:15:27.10
いやいや、必要不可欠でない古墳にあれだけ金をかけることができるってことが豊かで文化的で安定した王朝の存在を示しているよ。
学界の定説はこんな感じ
時代を経るごとに実在の天皇が増えていく
1960〜 継体以降は史実
1980〜 応神以降は史実
2000〜 崇神以降は史実
予測
2020〜 神武以降は史実
確かに文献、考古学的な考証も含めて系譜がほぼ正しいんじゃないかという結論に至るのは理解できる
ただもう少し物証たとえば、金石文とか記紀以前に書かれた書物の発見とか欲しいな〜
>512
ホントにそうだよね。
あと数十年いや平成三十年までに発見されないかなー
所謂皇紀っていつ頃からあるの?
そしてその根拠は?
記紀以前の記録や伝承は神社本庁が全て抹消しました
宮内庁が隠し持ってるハズ
517 :
日本@名無史さん:2014/09/18(木) 00:41:13.80
日本書紀に引用されている文献で、雄略天皇の日本紀があるね。でも、太安万侶は読めなかったんだろ。
>崇神以降は史実
誰だよ。こんなこと言ってるの
ヤマトタケルも実在したと信じてるの?
信じるも何も普通に実在の人物
複数の武人をモデルにして創作した的なものは完全な妄想
で、本当はどこの誰?
小碓命?
522 :
日本@名無史さん:2014/09/19(金) 06:24:09.07
また神話厨が寝言をほざいてるな。
崇神天皇時代の四道将軍説話の将軍の派遣された地方にはそれぞれの将軍の後裔が多くいる。
日本武尊は景行天皇の皇子小碓命が類比ない業績を成し遂げたために呼ばれた尊号に他ならない。
多くいる景行天皇の子孫から仲哀天皇が即位できたのも親が日本武尊だからだろ。
かつて神功皇后を非実在としていた某有名大教授も今では実在を認める。
継体天皇の王朝交代論者もではどこの出自だったのか等という質問に答えられる学究はいない。
そうであれば上宮記の記述を認めるべきであろう。
モバイル天皇?
某有名大教授って誰?
>>523 > 多くいる景行天皇の子孫から仲哀天皇が即位できたのも親が日本武尊だからだろ。
逆だよ。成務の子を差し置いて中愛が即位したため。
あまり正統な後継じゃなかったんだろうな。
だから持ち上げられたんだよ。
ただ実際に仲哀が即位したのかこの辺は微妙。
528 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 08:35:31.08
>>528 天皇の長子が後継とならなかった場合、記紀でどういう書かれ方されてるか考えればわかる。
530 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 12:11:16.80
成務も仲哀もヤマトタケルも架空のキャラにすぎない。
それをきちんと論立てて言えばいいんだよ
実在した証拠を出してくればいいんだよ
533 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 22:19:31.81
同人誌
534 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 01:12:05.66
過去の人物が実在した証拠なんて、ミイラにでもしてなきゃムリだわな
具体的に何を出せば証拠になるんだ?まずそれを書いてみぃ
そんなこと言い出したら、聖書に書かれていることもすべて史実って事になるよ
物証
538 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 16:29:17.19
太安万侶の墓
>>535 他国の史書に名前が出てれば証拠になるんじゃない?
ただし、現在のように比定じゃダメだけど。
540 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 19:04:04.42
記紀なんて神話とおとぎ話だらけの説話集だよ。
一寸法師や桃太郎と同じレベル。
古墳でいいじゃん。
最近の年代観では、現応神陵(誉田御廟山古墳・425m)が
4世紀後期から5世紀初頭にかけての大王(記紀の記事内容からすなわち応神)
の墓である可能性が高くなってきた。
応神陵がある河内の志紀には、誉田御廟山古墳よりも前に、
津堂城山古墳(208m)・仲津山古墳(290m)の2代の大型古墳が築かれており、
文献上は日本武尊の"空墓"と仲哀天皇の陵が、この地に造られたとある。
>>541 せめて墓誌に天皇の名前が書かれてないと。
比定だけじゃ限度があるよ。
ところで稲荷山の鉄剣は本当に「わかたける」って読めるのか?
記紀と合わせるために無理やりこじつけてるだけなんじゃねえの?
>>542 ↑まあ結局このように、
何が発掘されても都合の良いように解釈するのは可能なんですよ。
大和から親魏倭王印が出ても、国自体は九州にあったんだとか、九州の王から奪い取ったものだとか、
むろん大和・九州の逆バージョンもしかり。
544 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 21:23:28.32
>>542 前段はまあ言いたいことはわかるよ
後段は言いがかりレベル
合計で-114514点
>>542 ワカタケルの読みはガチだろ。他はともかく
開けて調べればいい
ワカッタ
548 :
日本@名無史さん:2014/09/25(木) 14:24:56.85
>>500 倭の七王? 七王どころじゃなくたくさんいるぞw
倭王與(倭與)倭王禰(倭禰)倭王騰(倭騰)倭王旨(倭旨)
倭王哲(倭哲)倭王薈(倭薈)倭王満(倭満)
倭の十二王だな
山田く〜ん、
>>547の座布団1枚持ってっちゃいなさい
550 :
日本@名無史さん:2014/09/26(金) 20:08:43.89
蹴る
でっち上げ説とか王朝交代説とか、言ってみただけ、記紀を批判しただけって
かんじだよな。
神功皇后はでっち上げとか、じゃあ朝鮮へ攻めて行ったり七支刀をもらったのは
誰なのさ。ヤマトタケルは架空説、じゃあ今に至る天皇は架空の人間なのか、
熱田神宮は架空のものなのか。
アホは、すぐに極端な事を言う
分からない物は分からないが正解
神武は鮫から生まれた鮫太郎だと大書きしてあるんだからちゃんと信じろよw
熱田神宮の御神体を見てみたい。
三種の神器で原形を留めているのはこれだけだよね。
天ちゃんでも見た事ないから無理
多分、伊勢神宮にある七支刀よりはるかにお粗末なものだから
誰にも見せられないんだよ
七支刀が伊勢神宮!?
古代史好きなら常識レベルのことをしらない方は祖国へお帰りください
しらないのは君だがな
伊勢神宮に七支刀あることは歴史好きなら誰でも知ってるだろ
しかも国宝指定されている。
www
>>560 あなたのいう伊勢神宮とはどこの国にあるのですか?
少なくとも我が日本国にある伊勢神宮にはそんな国宝はありませんが
書き込む前に「七支刀 国宝」でググるくらいのことはした方がいいですよ
>>506 >推古朝より前は歴史とすら言えない・・・・・・・・・・・・・
浅学無学くん、歴史時代・先史時代の術語定義から学び直したまえ。
564 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 06:51:51.96
『古事記』『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫━━とある。
この前 オイラの父親が亡くなったんで、
相続の関係で父方の戸籍を調べたんだが、
昭和11年生まれの戸籍は、当然 手書きで非常に読みづらい。
しかも、祖父が分家をしたとのことで、父親が5歳以前の戸籍も必要となるみたい。
文字として一応 しっかり記録が残っているモノでも、
調べたりするには仲々骨が折れるのに、
記録が残っておらず、口伝承だけで五代前以前のコトが正統な皇統である証明ができるとはとても思えないんだが・・・・・
566 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 11:46:30.70
他人の注目を受けず、親戚同士ですら関係が希薄な現代の一庶民と
豪族間で縁戚関係を結び、動向が衆目にさらされてる大王家とを同等に語るなやw
ちなみに俺ん家は一般庶民だけど、俺のじいさんの葬式には
じいさんの祖母(つまり俺の高祖母)の実家の当主が来てたぜ。
俺とは9親等離れてる。
567 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 19:18:54.46
皇太子と高円宮を顕宗と仁賢に当てると……
皇太子が即位後数年で崩御して高円宮が即位
高円宮も兄と同じく十年後には崩御
唯一の男子悠仁君が十代前半で即位、ハタチ前に早逝。
明治天皇四世孫の竹田恒秦を引っ張りだしてきて眞子様とくっつける
そりゃ揉めるわけだわ
だいたいモラルも今とは全く違う時代のこと
誰の子かなんて分からないし端から問題じゃない
応神5世の孫を自称できた実力者で良い
>>567 東宮の弟宮を間違えるなんて
あんた、日本人じゃないだろ
>>569 単純に無知なだけなんじゃないの?
でもそんな知識でわざわざこんなスレにくるのには驚くけどw
古代だから血統なんて適当だ、という考え方は70年代から文化人類学が普及し始めて、衰退したような気がするな
日本古代史でも70年代くらいまではその手の説が盛んだったのが、以降は考古学の発見もあって段々減ってきている印象だ
>>568 >だいたいモラルも今とは全く違う時代のこと
>誰の子かなんて分からないし端から問題じゃ・・・・・・・・・・・・
おいおい社会規範が違うのと血統無視とに何ら起承転結はないぞ。
当時の支配層が氏姓制なのも、稲荷山古墳出土鉄剣に己れの血脈系譜が
彫られていたのも知らぬ御仁とみえる。それだけ血統が重要だった。
>応神5世の孫・・・・・・・・・
ルイ14世みたく書くなよ。5世の孫でなく子孫だ。
本当のところは誰も分からないだろ
言った者勝ちだよ
そして学問の敗北でもある
576 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 15:04:07.16
>>472 記紀を編纂した人たちにとっては日本で易姓革命が起きては困るのだよ。
易姓革命の前例を作るのはまずかった。
577 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 16:19:32.12
無意味でこのスレ飽きた
わざと話題作りしてるだけだもん
ケータイの出自なんかより、大伴氏の方がよっぽど興味深い
579 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 23:05:13.51
『日本の歴史 03 大王から天皇へ』
熊谷公男 著 講談社学術文庫
息長氏の重要な役割
ではなぜ男大迹王に白羽の矢がたてられたのであろうか。
男大迹王の出身氏族である息長氏は、ただの地方豪族ではなかった。
記紀ともに男大迹王を応神五世孫としながら、その中間の系譜を欠いて
いたところから、信憑性に疑問がもたれたが、その後、『釈日本紀』(
鎌倉時代の『日本書紀』の注釈書)に引用された『上宮記』という『書
紀』より古い文献に、凡牟都和希王(ホムタワケ王=応神の誤記か)と
男大迹王の間の系譜がすべて記されていることがわかった。息長氏を大
王家の末裔とする系譜は、確実に記紀以前に遡るのである。(後略)
血脈なんて、どうでも良いって
なぜ、そんな遠いところから連れて来たの?
581 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 09:36:25.26
>>580 そんなに遠くないからじゃないの?
五世孫って現代でいうと、明治天皇の五世孫が悠仁親王になる。
しかも継体まで音信不通だった訳じゃなく、雄略の母は息長氏から来てる。
継体と継体妃は爺さん同志がいとこになる。
現実にはいないけど、いたと仮定すれば、明治天皇にもう一人息子がいて、
その子に男と女の子どもがいて、女の子は昭和天皇の妃になって雄略を産んだ。
代で言うと今上陛下。その孫の代に子孫が絶え、明治天皇の次男系の子孫が
あとを継いだ。こういう関係だよ。
違うのは、応神にはもっとたくさんの息子がいて、あちこちの王族(今で言えば
宮家)に婿入りし、それらに婚姻関係があり、数人の継体妃もそれらの王族
出身だったこと。伏見宮家が600年もたって今も宮家なのに、200年経つかどうか
の王族が他人扱いってことはないだろ。徳川だって250年たっても一族なんだし。
582 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 10:38:51.20
>>581 そんなに大王家からあちこちの大豪族に婿入りできるほど
断絶続かないんじゃないの
それ自体、女系継承を否定していないことになるし
息長氏って若野毛二俣王を祖とする家ということになってるけど
若野毛二俣王の母親も息長姓だしどう考えてもそれ以前からある家
神功皇后も息長姓
息長氏が天皇家の女系だったというよりも
継体が出た後で息長氏の女性が代々天皇家に嫁入りしていた系譜を付けたんでしょ
系図そのものを否定されると反論はできんわな
若野毛二俣王の母と神功皇后が「息長姓」ってのには異論がある。
まず若野毛二俣王の母については、「上宮記逸文」「日本書紀」には息長という言葉は出て来ない。
息長が付いているのは「古事記」だけで、その祖父を息長田別王とするものの、「息長姓(氏)」ではない。
本貫は近江息長(坂田)にあったかもしれないが、若野毛二俣王から分かれる「息長氏(息長公)」とは区別して考えた方が良い。
現に5世紀中期以降の息長(坂田)の古墳には、段築・葺石・埴輪・周濠という畿内大古墳に通じる変化が現れる。
あと神功皇后は非実在論も根強いが、いたとすれば、若野毛二俣王母につながる近江の一族ではなく、南山城(木津川)の豪族と考えられる。
585 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 16:31:39.46
当時は息長姓じゃないと思うよ。王族なんだし。
丹波、尾張と同様、近江は古墳以前から栄えていた形跡がある。
初めて現れるのは、開化の子の彦坐王の后。
系譜では彦坐王は近江・山城・丹波等と婚姻関係を結び、それらの子がその地の
始祖になったものもいる。それが全部広い地域を支配したというよりも、その土地の
未開拓の土地の開拓者にでもなったんだろう。
治める氏族の
586 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 16:37:40.45
しかし、遠すぎるとかそんなの他人とかいう人がいるんだね。
じいちゃんの従兄弟って、遠いけど親戚だよ。
300年位前に分家した家だって、まだ親戚づきあいしてるのに。
587 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 17:23:51.21
応神とそれ以前は繋がってないだろ
神功皇后は実在したと思ってんのw
>>587 もう諦めろ。古市古墳群は「応神以前」から造営が始まってるんだよ。
記紀の伝承もそうなってる。
応神が、記紀の言うように百済肖古王の頃から在位していたなら、
実際にその頃は「幼帝」であった可能性があり、母の後見があったとしてもおかしくは無い。
本来は妾的な立場だったろうし、子供を即位させるなどかなりの荒療治だが、
だからこそ伝説化されるほどの女傑だったともいえる。
589 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:07:49.96
>>588 応神以前に日本を支配した大王の墓であることが考古学的に確定している
古市古墳群の古墳ってどこ?
あと神功皇后は記紀によれば大和国磐余で政治を執って大和国に葬られてるんだが
お前の説だと古市古墳群のある河内でないとおかしいよな?
>>589 前段:大王陵なら仲津山古墳。準大王陵なら津堂城山古墳
後段:この頃の后妃陵は(全部が網羅されてるわけではないが)、佐紀古墳群にあるとされている。
墓の場所と政務の場所とは必ずしも一致しないだろう。
今のところ大和からも河内からも5世紀の王宮が見つかっていないのは御承知のとおり。
一つの示唆として、雄略の朝倉宮は大和泊瀬の脇本遺跡が有力候補だが、その王墓はといえば、
やはり記紀の伝承どおり河内に求めることになるだろう。なんせ同時代の大和東南部に王墓は無いから。
588じゃないけど津堂城山古墳がそうだろ
592 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:00:44.12
>>590 仲津山古墳も津堂城山古墳も比定は5世紀で応神の時代より遡らない
593 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:02:48.74
>>591 津堂城山古墳で応神の親父かお袋ぐらいの酋長の墓だろう
>>592 君は今でも須恵器到来・窖窯焼成が5世紀になってからと思ってるの?
だったらしゃあない、年代観の不一致だ。
595 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:13:28.40
須恵器って5世紀半ばからだろ
>>595 ああ、だったら合わないはずだわw
その場合、どの古墳が応神陵になるんだか
どの古墳が応神陵になるんだか、と書いたが、
>>592>>595氏流に考えていけば、古市古墳群の嚆矢たる津堂城山古墳が応神陵となるのかもしれんな。
まあ私は年輪年代法をさほど疑ってはいないので、その意見には賛同できない。
598 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:42:29.92
>>587 実在したと思うよ。でっち上げる意味がないじゃん。
でっち上げ説がよくいう「天皇家に都合のいいように」なら女の話なんか作らずに
仲哀が朝鮮を攻めたほうがよほど都合が良かろう。
なんであんなダメダメな天皇の話をでっち上げるのさ。
あ、全部真実だって言ってるんじゃないよ、念のため。
まあ、長く伝えられるほどの女傑がいたんだろうね。
アマテラスも、そういうゴッドマザーがいたんだろう。
599 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 20:56:57.83
>>598 日本書紀によれば神功皇后が女王卑弥呼だから
どうしても女性統治者の話を入れざるを得なかった
>>599 それ逆かも。
もともと朝廷に神功伝承が伝わっていて、
記紀編纂の頃中国正史を紐解いてみたところ「女王卑弥呼(及び台与)」の話が載っていた。
ところが記紀編纂者たちはそれが日本(倭国)史上の誰であるか分からなかった。
そこで女傑伝説のあった神功を卑弥呼(及び台与)に比定した。
なので、本来4世紀後半の人物である神功が(記紀の記事内容から)、3世紀中期に繰り上げられ、
その影響で前後の天皇も年代の引き延ばしが行われた……とも考えられる。
記紀編纂者が最初から卑弥呼に相当させる女帝を「創る」なら、間に架空天皇を数人計上しちゃえばいい話だから。
あともっと大胆な説だと、日本書紀における卑弥呼関連の記事がみな本文無しで分注開始となってることから(甚だ異例)、
オリジナルの日本書紀には魏志倭人伝の引用は無かったのではないか、なんてのもある。
601 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 04:49:16.38
>>600 神功「称制」のほうが無理あるでしょ
なぜ神功は即位しなかったのか
5世紀の日本には女王の伝承がなかった
だから皇后が政治を執った話を入れざるを得なかった
当時は女性天皇がダメだと言うことは勿論ない
神功実在なら即位してないというほうがおかしい
神功は記紀の系譜が正しければ
即位可能な皇族女性
602 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 06:16:09.78
>>601 明治以前は神功皇后は即位していたと認識されたたんだろ。
>5世紀の日本には女王の伝承がなかった
>だから皇后が政治を執った話を入れざるを得なかった
「皇后執政」のお話を「創作・挿入」出来るなら、
「卑弥呼」に合致する魏と通交した未婚の女性、さらには晋に遣使した266年の別の女王を創作・挿入することも出来る。
神功紀の中心は朝鮮半島との軍事的・文化的接触であり、とても魏志倭人伝の女王をモチーフにしたとは思われない。
そしてその実年代は4世紀後半に相当する出来事が書かれている。
あるいは
>>600の文末のように、魏志倭人伝に全く触れないことだって出来た。
604 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 13:08:18.23
>>599 分注なのに何で日本書紀が卑弥呼=神功皇后と主張してると思い込んでるの?
605 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 16:17:00.91
>>604 日本書紀が卑弥呼は神功皇后ではないと
主張してなかったなんて初めて聞いたw
なんで分注入れたの?
日本書紀の編集部が自信なかったからだろ
「一応、卑弥呼参考にこういう編年してみましたがどうでっしゃろ」
ってメッセージ
基本的に解明できない謎は後世に託すってのが正常なパターン
607 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 11:55:02.04
>>601 皇后を皇后とするのはその皇子が即位した後の世にそう言われたからさ
夫に先立たれ、他の妃が生んだ皇子たちとの継承権争いを勝ち抜かねばならないのに、皇子は年少で当然政治能力が無い
こういう状況では即位も何もない
即位したとされる女帝だって、実は政治的実権を握っていた長老、つまり称制だったのを後世に誤解して即位としたのかもしれない
608 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 12:10:41.30
風土記なんかに天皇とあるのは、地方に執政してた記録なり伝承があったからじゃないの。
609 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 16:45:37.73
>>607 持統天皇は自分が即位することで側室たちが産んだ皇子たちを出し抜き
直孫の文武天皇擁立を容易にした
神功皇后だって自分が即位すれば自分の皇子への皇位継承を圧倒的優位にする
皇位継承争いがあるなら即位したほうが勝ちなんだよ
とくに古代は母親の身分も最重視された
610 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 16:54:07.97
605
つうか卑弥呼の話は2世紀
日本書紀が書かれたのは8世紀
卑弥呼の存在を知っていたのか?
611 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 16:58:08.27
飛鳥時代に聖徳太子など主導で寺院が建てられ始めたのが645年
日本書紀の完成は720年
612 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 17:03:28.27
卑弥呼の活躍期間てのは180年から230年ころだろ
645年としても400年以上の開きがあるんだがな
文字とか存在してないならそんな昔のことを伝え
るのはほとんど無理
参考文献として中国の史書を参考にしたならあり
えるが
613 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 17:15:10.77
>>610 卑弥呼の存在は知らんだろ
ただし日本では別の名前で伝わっている可能性はあって
崇神天皇に神のお告げを知らせていた百襲媛をそれに宛てる説がある
日本書紀編纂に当たって中国・朝鮮の史書を読みまくって
倭に関する記述の引用したがとりあえず日本書紀編者が卑弥呼に宛てたのが神功皇后
神功皇后が隋書にある卑弥呼だとか
葛城襲津彦が百済記にある葛城沙至比跪だとか言う分注がそれ
614 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 20:06:40.86
>>610 日本側の伝承の名前とは違うんだろうな。
卑弥呼って日巫女で、固有名詞じゃないし。
日本側では、誰のことか特定できなかったんだろ。
615 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 20:28:48.99
垂仁・景行の后妃に関する伝承が色濃いことや
佐紀古墳群に女性の被葬者の伝承が多いのは
古代女王制の名残じゃないかなと思ったりする。
>>614 古代日本にはh音がなかったようで、漢字音の受容にそれが表れている。
一番分かりやすいのが漢で、中国ではhanなのが、日本ではkanと受け入れている。
同じように、「呼」は当時の中国ではhuoとかhoという発音なので、
現代日本人の感覚で、卑弥呼を日巫女とらえるのはマズイ。
617 :
日本@名無史さん:2014/10/26(日) 12:00:14.66
当時の倭語の発音と同じ音の漢字を、正確に当てている保証はあるの?
現代も英語や日本語を漢字に当ててるけど、元の発音を正確に再現出来てるかな?
コカコーラとかカラオケとかさ
魏志倭人伝の内容の正しさと同じで、
ダブルチェックできない以上、保証はできないだろうね。
森博達的な話題だな
620 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 11:07:20.81
癸未年八月日 十大王年 男弟王在意紫沙加宮時 斯麻念長寿 遣開中費直穢人今州利……
503年の時点で百済武寧王は
494年に即位した大王の治世が続いていると考えていて
男弟王を一国の君主が外交関係を結ぶ程の有力皇族の一人と認識している
癸未年男弟王は允恭だろ
>>616 「呼」は「を(wo)」という発音なので
卑弥呼はピミヲないしピミウォと読まれる
623 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 07:39:52.50
>>616 古代中国の人は意味が分からずに倭人の使う言葉を音だけで表現したのが
「卑弥呼」だろうから「日巫女」が的外れだとも思わん
隣りの男王が名が類似の「卑弥弓呼」だったり、何らかの王の称号だった可能性が高い
>>616,
>>622 「呼」の音は[ho]だろ。当時の倭人は[h]音をカ行だと認識してたし、
倭人語には有気音と無気音の区別がなく、
弱く発音するときは無自覚に無気音になってた可能性が高い。
[k]音の無気音は[h]音に近いから
中国人が倭人語の[ko]に「呼」の字あてる可能性は十分あるよ
>>623 それだと難升米さんや壱与(台与)さんの立場がありませんがな。
卑弥呼は個人名の可能性のほうが高いと思うぞ。
626 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 17:17:16.32
>>625 向こうの文献に従えば6世紀初頭の日本の大王の名は
姓アメ、名タリシヒコ、字オホキミ
ってぐらいだからそのうちどれを記録したか分からんだろ
>>626 それならフルで採択すんだろ。
なんで無秩序に一部を切り取るんだよ?
6世紀?
7世紀初頭ではなくて?
二中歴によると、継体年号は6世紀頭。
>>624 現代中国人でも、日本人の[k]音を[h]音に取り違ってしまう例とかあるのかな?
そうだったら、説得力が増すね
632 :
日本@名無史さん:2014/10/31(金) 14:09:15.69
ひみこは個人名ではなく身分・称号だよ
昔は身分高い家の女はひめみこって呼ぶから
それを名前だとおもって採録した
633 :
日本@名無史さん:2014/10/31(金) 15:06:11.21
>>627 遣使の使者はその都度ごとに選ばれただろうから
フルネームで伝えていない可能性
>>632 じゃあ難升米や壱(台)与も身分や称号なのか?
>>633 張政が長いことおるし、おそらく漢人の力を借りていたのだろうが上表もしてる。
たまたま一回こっきりの交流じゃない。
ヒメミコにしろ、上で出てるようなk音の問題がひっかかる
>>634 難升米は「奴国の升米」で世襲名みたいなもんだろうな。パーソナルネームではない。
637 :
日本@名無史さん:2014/10/31(金) 22:30:38.92
そもそもヒミコってのは名前でも身分称号でもないし実在しない
なぜならヒミコってのはあくまで現代日本語読みだから
じゃあ当時の魏の発音ではなんだったのか?当時表音文字がない以上永遠に不明のままだろう
>>637 かなりの程度しぼれるだろ。
その絞った狭い範囲から日本語として可能性のある言葉を模索するんだよ
639 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 00:49:31.70
だがしかし、魏の役人が倭語をきちんと聞き取って、漢字で音写してなきゃ意味がない。
ラジオとレディオくらいの違いなのか、はたまたレモネードとラムネくらい違うのか、定かではない。
641 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 21:03:39.63
うちの爺さんは菓子をクゥァシて発音してたぜ
「カ」は「kwa」だったかも
だとすると「呼」の音は[kwo] クゥオ 日本人はコと認識してたんだろうが当時の中国人は「呼」と聞き取り文字にした
天皇陛下のことを明仁様なんて普通は呼ばないな、まして古代に王の名前を呼ぶ人などいるわけがない
卑弥呼は称号だな
巫女はなぜ「miko」で「fujyo」じゃあないんだ 元は神に仕える「御子」だったと思う
642 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 21:14:22.45
卑弥呼はピミホ または ピミヲ だといわれているが
日とか火の音は今では「ヒ」だが古代ではのピと発音されていた
だから当時、ピミホ、ピミヲと発音されていたとしても意味的には日御子
で違うものを意味している訳ではない
643 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 21:36:41.85
たとえば日本は現代日本語読みだとにほんだが現代中国語読みだとりいべん
ましてや古代魏の発音なんていったいどうだったんだかわかるわけない
上古音や中古音の研究はあるから、ある程度の推定は可能
万葉仮名は違和感なく読めるんだよな
646 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 22:55:59.60
>>643 日本:ニッポン 中国:ジーベン 福建:ジップン 韓国:イルボン ベトナム:ニャットバン だから、古くはnit bon.jit pon辺りだろうとなる
失礼
>>642 日本語自体にk音はあった。
日巫女という意味でピミコという言葉を使ってた可能性はあるが、
それを当時の中国人が書き取っても「卑弥呼」にはならないという話。
ピミコという言葉があったとしたら、卑弥狗と書き取っただろう。
魏志倭人伝では、ヒコは卑狗と書き取ってるからね。
>>642 ピミヲの「ヲ」はスサノヲの「ヲ」と同じ「王(ワゥ)」
>>648 ヒミコの「コ」とヒコの「コ」は日本人が意識してなくても違う発音だった可能性はある
現代日本語の「ん」は実際には[n],[m],[ng]の三種類あるが日本人は意識の上では区別してない
しかし外国人が聞くとちゃんと三種類に聞こえる
ヒミコの「コ」は日本人は意識してないけどおそらく無気音で中国人には「ホ」に近く聞こえたんだろう
ヒコの「コ」は有気音ではっきりした[k]だが母音意識が弱くてヒクに近く聞こえたと思われ
現代日本語だと「〜です」の末尾の「す」が子音だけになってることがある
実際にどう発音していたのか?ということと「卑弥呼」が称号なのか個人名なのか?ということは別の話。
>>650 日本人のk音を、中国人が無気音で聞き取った実例ってあるの?
まずそこからじゃない?
すごく特別なケースを無理に考えなくても、卑弥呼称号説を取りたいなら、
卑弥呼=ピミヲ=姫王
でいい気がする
継体「ここはわしのスレなんですが…」
>>653 倭人伝みる限り「卑弥呼」を称号として扱ってる節は見られない。
> 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
> 復立卑彌呼宗女壹與
など。
また官職名、「卑狗」「卑奴母離」「多模」など、は官職名であると記述されている。
語源はどうあれ卑弥呼は女王の個人名と考えるしか無い。
656 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 10:41:19.07
実名を知られることがその人に支配されるという観念を持っていた古代人は
個人名を晒さない あだ名で呼ばれている
中大兄(同母兄弟の大兄、父系では中)、間人皇女(土師氏が仕えている皇女)、大海皇子(凡海連が仕えている皇子)
卑弥呼(日御子)ではないか
657 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 10:49:57.74
656
実名を持っていたかどうかの議論をまずしようか?
658 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 10:56:39.46
なんせ文献は朝廷絡みしか残ってないからな〜
要約、正史っぽくなるのは平安以降だからな
日巫女や日御子からは離れた方がいい
>>652 あるかも知れないってだけ。実際に日本人はチンギス「ハン」とジンギス「カン」の両様にきいてて
モンゴル史の学界でも共通の見解ないらしい。中国人だって同じことはありうるだろ。
少なくとも「絶対ありえない」って論証はできないね。
>>654 同意。おまえら継体天皇の話しろよ
>>657 実名がなかったとは考えにくいような気がするが、百歩譲って実名がなかったとして、
でもそれで何か議論の方向性やオチがかわるとは思えないけど…
>>651,
>>665 半ば同意。ピミヲ説はダメダメだけど
読み方がどうなのかと固有名詞なのか称号なのかの議論はわけないといけないね。
>>653 >倭人伝みる限り「卑弥呼」を称号として扱ってる節は見られない。
それは違うな
「卑弥呼」職名説の根拠の一つは
> 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
という原文そのものにある「立卑弥呼為王」じゃなく
「立一女子爲王、名曰卑彌呼」だから王になった後に卑弥呼とよばれたことが明白
これは俺の個人的な意見がどうこうじゃなくてな。
662 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 07:25:30.01
ここまでのまとめ
・神武と欠史八代は架空。
・崇神・垂仁・景行は実在の可能性がある。
・成務・仲哀・神功は架空。
・応神と仁徳は同一人物の可能性がある。
・履中以降は、事績はともかく、系譜は一応信用できるが、履中系と允恭系が別家系だった可能性あり。
・継体は北陸から近江にかけて勢力をもっていた地方豪族で、河内王権の大王とは他人。
663 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 07:27:32.11
継体大王は男系では前王朝=倭王武(ワカタケル大王)の王朝とは関係ない。
親戚のおばさんが倭王済(允恭大王)の奥さんだったというだけの田舎の豪族。
下手したら、海の向こうからやってきた渡来系、つまり北陸の在日オヤジだった可能性も高い。
664 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 11:01:31.35
大阪府茨木市太田にある太田茶臼山古墳が宮内庁により継体陵にされているが
定説では1.5km東にある今城塚古墳が真の継体天皇陵である
なぜ継体はこの場所に墓所に選んだのか
それは太田茶臼山古墳が継体の曽祖父大郎子(意冨本杼王)の墓所だったからであろう
665 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 11:12:20.55
太郎子は忍坂大中姫の兄であり、安康、雄略の伯父になる
太郎子の本拠地は近江であり淀川水系の水運を支配する大勢力であったと思われ
妹が允恭の皇后となったのも、その勢力故であろう
666 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 11:28:14.40
太郎子は太郎子(ふとのいらつこ)、意富々杼王、意富富等王、大大迹王と史料に書かれ
継体はヲホド、男大迹王(をほどのおほきみ)、袁本杼命(をほどのみこと)雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)、乎富等大公王(をほどのおほきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)と書かれている
太郎子は大太王(おおふとおう)。継体は小太王(をふとおう)と云うことになる
継体が即位するにあたって太郎子のひ孫であると云うことを強調する必要があったのだ
667 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 11:29:24.50
太郎子は太郎子(ふとのいらつこ)、意富々杼王、意富富等王、大大迹王と史料に書かれ
継体はヲホド、男大迹王(をほどのおほきみ)、袁本杼命(をほどのみこと)雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)、乎富等大公王(をほどのおほきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)と書かれている
太郎子は大太王(おおふとおう)。継体は小太王(をふとおう)と云うことになる
継体が即位するにあたって太郎子のひ孫であると云うことを強調する必要があったのだ
妄想君登場
669 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 21:38:47.87
>>668 でたー 無意味なレッテル貼、自分の意見がなくて反論もできない奴
670 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 22:06:34.24
>>662 謎の人物→崇神→垂仁→景行→応神であり仁徳
スカスカな気がするが
当時記紀を読むもしくは記述を聞く人間にとっても信じられない話は、
あくまで「そういうもの」として見るべきだと思うよ。
つまり、それはむしろ当時の時点で史実ではないということを示す符牒となっている。
史実っぽくみせる必要など元々なかったと。
672 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 22:29:36.04
応神て継体の先祖として皇統に付けくわえられた人物じゃあないの
和気清麻呂が神託を聞きに行ったのが伊勢神宮ではなく応神天皇を祭神とする宇佐八幡だったの云うのが
もう、どっちが皇祖だったのか分かるよね
673 :
日本@名無史さん:2014/11/05(水) 22:55:55.28
さてねえ
和気清麻呂は宇佐が勝手に出した神託の内容の真偽を確認に行ったんだけどな
>>669 妄想であることを否定できない馬鹿の典型
八幡神は元々夷神だろ、応神になったのは後世で
継体の系譜伝承は
どうしても疑問を抱かざるをえないような格別な矛盾は発見できないし
珍説たれてる連中の言い分にも「俺はこう思う」ってだけで
証拠らしい証拠がなにもない。
別に記紀のままでいいんじゃないの?
>>663 当時の王の正妃は王族なんだが。
正妃を出した家の当主イコール王族
>>677 クロスチェックができない時点で信用できないという人もいる。
ただ、王統にはむちゃくちゃ厳しいのに、渡来人の記述は一行だけで信じちゃう専門家もいるけど。
秦氏は始皇帝の子孫とかまで信じちゃうのか
681 :
日本@名無史さん:2014/11/08(土) 12:23:35.42
>>679 そういう人って他の時代、他の事象でも二重、三重にチェックできないと捏造乙!とか陰謀ガー
言っちゃうのかね
いや、言うわけないよなw
>>679 そんなやつは古代史を扱う時のパラダイムに無知だと思うね
「(いざとなったら)信用できないが」と「一応史料のいう前提で考える」は両立する。
でないと古代ペルシアや古代エジプトなんかの専門家と話かみあわんぞ
日本では学界のプロの学者が実証史学の名の下に
史料はとりあえず捏造と決めつけるところから入って
段階踏んだ歴史像なしにあれもこれもいきなり無いことにしちゃったから
在野の古代史ファンが妄想ふくらますのが古代史の考察だと勘違いしたまま現在にいたる
>>664 >それは太田茶臼山古墳が継体の曽祖父大郎子(意冨本杼王)の墓所・・・・・・
摂津太田茶臼山古墳が、本拠地は近江
>>665の大郎子の墓というのは、
何に基づき特定されたの?
685 :
日本@名無史さん:2014/11/09(日) 17:45:12.80
継体天皇って普通に応神天皇五世の子孫だよ
貴族の感覚がわからない平民学者が血縁が遠いとか謎とか馬鹿なこと言ってるだけ
徳川慶喜なんて家康十世の子孫で将軍になってるし
いくつか宮家作って男系保存していたと考えて然るべきですわな。
傀儡を立てて正当化できるのは血縁があればこそ。
武烈天皇で断絶と言うことにしたいから、そう言ってるだけでしょう。
証拠も無しに良く言えた物だと感心しますわ。
「五代も遡っておけば、覚えてる人も少ないしいいよね」
「そうだな、皆に見せる訳でもないしな。適当でいいよ」
688 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 12:30:46.81
少し気になってたんだが允恭天皇の代から雄略天皇あたりまで後継者争いで
血が流れすぎる気がする。なぜなんだろう
思いつきだけど大王の権力が拡大してうまみが増していった果ての結果じゃなかろうかと
考えてるんだけど
690 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 20:40:46.61
>>685 徳川慶喜は母親が皇族だから将軍になれたんだろw
691 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 21:12:27.85
将軍だ何だって話だってなw
元は国司レベル以上のやつらの話だからなw
一般には関係ない話だわな
693 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:22:42.95
世襲王権が成立したのが、継体帝もしくは欽明帝以降、という説の明確な根拠って何?
連合政権から世襲政権へのストーリーみたいな説明はよく見るんだけど、
それって小説と何が違うの?
694 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:38:01.64
>>693 欽明天皇以前は王朝交代が疑われる事例が幾つかある→連合政権だった
って主張したいだけじゃない?
有力な諸侯が世襲王家の皇子から大王を推戴するだとか、皇子が自ら諸侯を纏めあげ即位する、なんてケースは以前も以後もあったわけで
>>693 万系一世を否定する
上古の天皇の非実在性を証明する
編年はできる限り新しく見積もる
これが政治的に正しい学者のあり方だから
>>694 >有力な諸侯が世襲王家の皇子から大王を推戴するだとか、
>皇子が自ら諸侯を纏めあげ即位する、なんてケースは以前も以後もあったわけで
そんなケースあったか? 漢文の文飾レベルじゃなくて具体的な記事ある?
そもそも大臣大連にしろ国造ににしろ
「諸侯」っていうほど独立性あったか疑わしいんだが。
697 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 23:22:23.99
冷静に考えると今の日本の歴史学者はおかしいことばっかり
日本書紀にせよ古事記にせよ文献には神武以来世襲王朝と書いてあるのに、
文献的根拠もなしに実際には継体からだ天武からだとか言いたい放題
おそらく世襲=悪という戦後民主主義的価値観や階級闘争=王朝交代=善というマルクス主義的価値観のせいだろうが
698 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 23:27:34.16
>>690 母親の身分が他の将軍候補と比較で有利に作用したのはその通りだろうけど、
貴族の感覚では将軍の十世子孫は将軍に問題なくなれたのは事実でしょう
そこから応神天皇五世子孫の継体天皇に何の不自然さもない
それなのに祖父母より以前のことはろくにわからないのが普通の現代の学者が自己の感覚で継体天皇を貶めて
皇族の血筋じゃなかったとか新王朝とか言ってるのは間違いであり異常なこと
>>677-698の部分だけ急に初期の2chみたいな空気になってるなw
昔は団塊ブサヨ爺がいなくてよかったなぁ
> 昔は団塊ブサヨ爺がいなくてよかったなぁ
バカ丸出しの文章だな
三王朝交代説は、「誰それが言ってた!」というのは簡単だけど、
自分で説得力のある論を組み立てるのは難しいよな。
文章にすると、やっぱり根拠がないのが際立つ。
有ったとしても一族の中での話
703 :
日本@名無史さん:2014/11/18(火) 00:11:46.52
江戸時代も家康朝、吉宗朝、慶喜朝と三交代している
吉宗
家康の曾孫とされる吉宗の生年は1684年
家康の本当の曾孫家綱、綱吉の生年は1641年、1646年
彼らより40年、1世代〜2世代後に生まれているので家康の曾孫ではない
慶喜
応神5世孫の継体を仮冒率50%とすると慶喜は家康10世孫だから仮冒率100%やね
記紀なんて編纂直前のことまでは御伽噺の続きだろ
葛城の発掘調査が進んで、記紀の通り、4世紀に葛城氏が強大だったことがわかってきてる。
じゃあ、一番ときめいていた一族が王家だったんや、と言えるかというと言えんだろう。
歴史上、反例が多いし。
意味不明
王朝交代説って、物語としては面白いけど証拠もないし説得力もないんだよな。
遺跡や氏族の伝承とか、記紀が一番近く見えるもんね。
掘れば掘るほど記紀に近づいていく。
未だに欠史八代を唱えている輩はいい加減観念しないと。
決めつけてるおかげで、仮説さえ出せない。
>>700 えw そんなに悔しかった?w
イッチョカミの吐き捨ては2chでは最低の悪手なんですよ、先輩w
掘れば掘るほど何がどう記紀に近づいていってるのか具体的に
710 :
日本@名無史さん:2014/11/21(金) 17:32:22.36
雄略天皇のなんか典型でしょ古墳の剣からわかたけるの諱がでてきたとか
だから何?って話だよな
>>685 >継体天皇って普通に応神天皇五世の子孫・・・・・・・・・・・・・・・
記紀を鵜呑みにしてすますなら、史学は必要ないぞ。
即位後も大和入りできぬとか諸々不審点があるから、
学者連以下好事家が、研究しているわけで。
史書は、勝者に都合よく記録されるものだという定説も否定かね?
貴殿の「普通に?」ホムツワケ五世孫肯定の根拠は、何なのかね?
そもそもホムツワケ大王の実在も、記紀鵜呑みなのかね?
>>712 > 即位後も大和入りできぬとか諸々不審点があるから、
記紀以外にも記録があるんですか?
記紀を否定する根拠に記紀を持ち出す
トンデモ陰謀論が所謂王朝交代説
捏造だらけの記紀ですら隠し切れなかった事実が有ると言うだけの事
隠し切れなかった事実って何?
>>713 貴方は、初学者なのか?無学なのか?
上宮記といった典籍以外にも、記録には金石文や木簡等があるんだが。
自身の由緒を記した稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣や墓誌のような
遺物が、今後発見されるかもしれない。
記紀を批判的に読むのはいいんだけど、そこから導き出す新説がどれもこれも
トンデモで、今生き残ってるのって何だろ?
欠史八代の亡霊くらいか
それさえも生き残れるかどうか怪しい。
なんせ考古学によれば、纏向に集住する勢力は吉備や尾張など、欠史八代の
妃の出身部族の本拠地が多数。
批判的に読んで明らかに事実に反すると断定するのは、神武の母がワニだと
いうあたりからにした方がいいと思うな。
>>714 それだw
ある高名らしい学者先生の本を読んでいたら、
「これは欠史八代だからありえない」
と書いたすぐ後に、
「記紀によれば・・・」
と書いてあって吹いたことがある。何度もそういうのが出てきた。
その本からすると、欠史八代は疑ってはならない聖書らしい。
以来、その学者先生の本は読まないことにしている。
721 :
日本@名無史さん:2014/11/26(水) 06:56:05.20
百済本記にいう531年に崩じた天皇は安閑だろう
欽明を太子に立てず自らの子を立てた安閑は群臣に謀られて太子諸共殺された
722 :
日本@名無史さん:2014/11/26(水) 07:08:37.03
捏造だらけの記紀ねえ
>>722 記紀に限らず聖書だろうが史記だろうが
仏典だろうがヘロドトスだろうがコーランだろうが
「捏造だらけ」なんて評価は「ぜんぶ事実」と同じぐらいナンセンス!
中傷したいならもっとうまくやれw
724 :
日本@名無史さん:2014/12/03(水) 00:21:34.26
清寧没による応神朝本宗家の断絶後、顕宗即位に反対する勢力が継体を擁立。
顕宗仁賢武烈が南北朝時代でいうところの北朝側で、継体が京都(河内)に入れず行宮を転々とした南朝側。
武烈時代に継体が勝ってしまったものだから、河内で正統だった顕宗朝三代の記録と後日正統とされた継体朝の記録が併存することになって、この辺りの記録が混乱する原因になったんじゃね?
725 :
日本@名無史さん:2014/12/03(水) 00:45:50.93
継体即位時に応神と仲哀以前が伝承としてでも実在し、継体が全くの別系譜で簒奪したなら、継体本人が自身を前王朝始祖の応神には繋ぐのはなんとなく不自然に思える
前々王朝の景行成務仲哀辺りに繋ぐのが普通なような
応神が、万世一系を主張する天武により継体を皇統に繋げる為のでっち上げられた存在だってなら、まぁわからないでもないけど
727 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 11:41:40.05
現存する古代日本の系譜で最も古いものは稲荷山古墳出土の鉄剣銘文。
「上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。…」
この系譜の「其の児」の解釈も、父系直系ではなく、族長の地位継承の順番に過ぎないって言ってる学者もいるな。
根拠は、通い婚制から推察できる父系継承の否定。
728 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 11:44:13.16
義江明子とか、ジェンダー論を古代史に持ち込む連中もいるということ。
729 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 11:46:59.80
まったく馬鹿な説だよな。
古墳時代に父系系譜が存在したら都合が悪い、とでも言いたげ。
だったら平安中期までの貴族の父系系譜も否定されるのかと。
>>721 安閑の子というのは、名は何と?そもそも6世紀中葉に、既に皇太子
制度があったのかね?
欽明を立てずにというが、531年当時欽明は何歳だったと?
8世紀以前には、少年を次代大王に指名する習いもなかったろう。
>>727 遠山美都男がたしかこんな主張してたな
しかしいくらなんでも無理のある主張に見えるんだよな〜
稲荷山の鉄剣は普通に読んだまま解釈すれば良いと思うのになんでこんな説を・・・
父系相続があった例になってしまうと、記紀の天皇の系譜の批判がやりづらくなる。
遠山美都男は大化改新の説は面白かったが(中大兄は首謀者じゃない)
なんか無理のある説も多いね
水谷千秋は遠回しに稲荷山鉄剣前の世代と後の世代で研究者の考えが違ってると書いてたな
>>730 応神の時代にはあった
皇太子の菟道稚郎子は兄の仁徳に皇位を譲って自殺
735 :
日本@名無史さん:2014/12/09(火) 16:39:28.78
それは記紀が編纂されるときに儒教思想によって潤色された説話だから。
736 :
日本@名無史さん:2014/12/09(火) 16:46:37.19
だからさ
稲荷山鉄剣の痕跡は東は武蔵から西は熊本まで残ってるんだろ
735
儒教の影響は江戸時代に主に武家の式典やら礼儀作法として幕府
の学者らによって取り入れられたのが始まり
日本に儒教の影響があるわけないだろ
737 :
日本@名無史さん:2014/12/09(火) 16:48:43.86
海外のやつらが勘違いしてんのはこの武家に取り入れられた儒学
これを格式だ〜の日本人の精神だのに勘違いしてんだよ
738 :
日本@名無史さん:2014/12/09(火) 16:51:50.13
儒教ってものを取り入れるときに学者らによって儒教の中身を徹底的に調査してるの
日本に入ってきたのはあくまで儒学
>>735 仁徳まで長男(第一子)が継いだ例はない
第一子が継ぐ以外のルールで決められた跡取り=皇太子でしょ
つ 王仁
741 :
日本@名無史さん:2014/12/10(水) 20:20:18.13
応神は金官加羅からやってきた傭兵隊長
継体は北陸の在日オヤジ
742 :
日本@名無史さん:2014/12/11(木) 08:00:43.78
記紀の皇統譜なんて、徳川家康が新田の子孫とか、織田信長が平家の子孫とかいうのと同じレベル。
そんなもの本気にして、大真面目に論ずる価値はない。
継体以前は、記紀の固有名詞を使ってあれこれ論ずることには禁欲的でなければならない。
妄想君ずっといるな
正史と呼べるような代物じゃないことは確かだろ
確かでも何でもない
史料批判は書かれた背景をも含めて考えるものだろうに
意味不明
正史であることと史料批判は何の関係もない
もしかして正史を正しい歴史と勘違いしてないか
漢字って便利だけど、気を付けよう!
750 :
日本@名無史さん:2014/12/12(金) 06:41:10.98
継体以前の記紀の記述は、あくまで造作・潤色された説話であるので、
その利用には禁欲的でなければならない。
妄想乙
752 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 12:29:56.63
記紀の説話は妄想と捏造の寄せ集め。
どっちでもいいけど、もっと知的にやろうぜ。
ソース出しながらさ。
ネットで拾ってきただけのソースね
中身のない罵り合いよりマシだな
756 :
日本@名無史さん:2014/12/15(月) 23:15:24.61
事実上王朝交代していようが何だろうが関係無い。
“公式に”万世一系、皇統は途絶えていないと宣言している。ここが大事。
中国や朝鮮は“公式に”王朝が途切れていることを宣言している。
だから彼らの神話なんて滅びた王朝の残骸、ということになる。
顧みられなくて当然、ということだ。
日本の記紀神話は、現在に繋がっているから価値があるんだよ。
“公式に”繋がっていることを宣言しているんだから。
事実がどうかって?事実なんてわりかしどうでもいいんですよ。特に神話ではね。
建前、宣言の方がずっと大事。
実際王朝交代説なんてただのトンデモだし
>>756 つまり琉球では第一尚氏・第二尚氏などなく
“公式に”繋がってると
懐良親王と足利将軍も公式に繋がってるな
761 :
日本@名無史さん:2014/12/16(火) 07:28:23.10
どっちも明の皇帝から冊封された日本国王だから。
懐良は明からの使節に強気の態度とったものの、おのれの非力を悟って臣従し冊封を受け、
京都の北朝方(明からみると「持明」)に対抗した。
そのため、義満が明との通交を望んでも「持明」の臣下として相手にされなかった。
そこで義満は「征夷将軍」ではなく、「日本准三后」として入貢し、ようやく冊封された。
形の上では、明から冊封された日本国王としてつながっている。
というより、明史だけを読むなら、
義満は日本国王良懐の将軍と解釈できる、
血統の話ではないのね
765 :
日本@名無史さん:2015/01/03(土) 22:50:41.20
継体天皇は穢族出身
もうこの人が初めての天皇ってことでいいよ
それでも万世一系には変わりないんだし
ほんと王朝交代説が好きなんだなw
神に繋がっていないと納得しない人が居るんだよ
769 :
日本@名無史さん:2015/01/05(月) 17:42:52.75
播磨朝の二皇子の頃から継体は対立王として立てられてるような希ガス
そうだとして、誰が擁立してたの?
その時から大伴金村?
王朝交替説のほうがよっぽどトンデモに思えるね。
武力で王権を奪取するほどの王なら、自分の系統を正統と伝えたらいいじゃん。
何で他人の子孫のふりをするのか訳わからんね
それに、大臣はそのままで、それ以外の有力者も同じなのにさ。
>>768 別に繋がってなくたっていいじゃんね
実在した歴史で繋がっていればそれで万世一系になるわけなんだし
なぜそこまで神話にこだわるのか分からないよ
773 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 08:06:23.52
建前の話か史実の話か明確にしよう
ここは文系科学カテゴリだから
明らかに史実の話をしている
皇統の建前も史実だが
継体スレで建前を甘受したら
そこでスレ終了である
すなわち継体の史実を語るスレだよ
しかし注意したいのは三国人に漏れると
国の公式見解として万世一系を否定しかねん
>>773 このスレの見解が国の公式見解になるのかー
すげー
775 :
日本@名無史さん:2015/02/04(水) 20:01:24.89
靖国問題も当初は国会の中のゴッコ遊びだったのに
国際問題に昇格したからな
体良く、中韓には帝や王が居ないしな
776 :
日本@名無史さん:2015/02/05(木) 14:07:22.62
>>771 前にも出てきた話だけど「継体天皇が応神五世孫なんて嘘だ。遠縁過ぎる」という学者は、徳川慶喜やアンリ4世のことも「先代までと血縁の無い簒奪者だ」と思ってるのかね。
777 :
日本@名無史さん:2015/02/05(木) 17:36:21.96
>>771 アケメネス朝のダレイオス一世みたいなもんじゃね
778 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 15:45:46.21
アンリ4世と慶喜しかないのかよ
779 :
日本@名無史さん:2015/02/09(月) 19:04:19.44
>>778 というかそんな違う時代の人物を例に出すのがおかしい
それほど特殊ってことだな
781 :
日本@名無史さん:2015/02/11(水) 02:00:51.66
ダレイオス一世は
系図つなぎ合わせ&婿入りということで
継体天皇の先駆者かな
782 :
日本@名無史さん:2015/02/11(水) 12:05:17.62
>>780 南宋の孝宗は太祖6世孫だな。理宗も遠縁。
遠縁の人が後継いだ例は探せば結構あるよ。
783 :
日本@名無史さん:2015/02/11(水) 12:30:53.16
南明の皇帝たちも崇禎帝から見たら、かなりの遠縁。
後漢の光武帝も蜀漢の劉備も。
784 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 01:54:32.10
>>778 息子が居れば息子が相続人になるわけで、例として少ないのは当たり前。
遠縁継承の例を幾ら挙げても敬体が皇裔だったという根拠にはならない。系図の信憑性はどうかとなると、
どっちとも言えない。
788 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 07:33:05.72
李氏朝鮮の大院君と高宗がけっこう傍系の出だった。
789 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 09:03:03.93
>>787 それ言い出したら「実子」が本当に実子なのかも証拠は無いよ。
まあ、万世一系とか糞マジメに信じているやつは、女を知らん童貞だよねえ。
系図というのは、父とされる男が当該の赤ん坊を自分の種の産物として
承認したかどうか、というものだから、ここではどうでも良いことだけど。
武烈まではほんとうに一系だったのか、継体が応神の子孫という系譜は継体即時のものなのかどうか。疑問は幾らでも湧いてくる。
日本書紀に記されているとおりの皇統譜が継体の時代にあったとは考えられない。
792 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 11:34:09.68
とりあえず父親が実子だと生涯信じてたなら実子
ということにしないとどうしようもないだろ
父子間の遺伝子証明なんてあの時代は不可能なんだし
793 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 11:54:10.24
794 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 12:03:50.77
漢字表記に何か特別な意味があるのか
それとも、ただの当て字なのかw
それが問題なんだよ
795 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 12:15:13.80
息長氏が天皇の傍系なのは間違い無いんだから
>>796 いやそうじゃなくて、その当時にそもそも天皇の系譜があったかどうかが疑問だということなんだよ。
後世の人間がひねくりだした架空の系譜の傍系とか言ったって意味がないだろ。
疑問という妄想
いや願望か
「神武天皇以来の男系継承」と言っても、神武天皇は架空の人物だよw
801 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 17:38:48.16
息長は近江の豪族だろ
応神天皇以前から古墳に一貫性があって
途中で応神天皇が武力征服をして近江の前王を滅ぼし
息子を近江の新たな支配者として置いていったわけではない
継体男系説では息長の跡取り娘のところに
応神の息子が入り婿したと言って躍起だが
そんなこと根拠がない
>>771 >大臣はそのままで、それ以外の有力者も同じ・・・・・・・・・・・・・
蘇我氏の実質的初代蘇我稲目が、継体皇統になってから廟堂に登場したぞ。
803 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 17:48:11.47
>>798 とはいえ、河内王朝の祖の応神天皇とは何らかの関係があったのでは
蘇我と継体朝は明らかにセットなんだよね。
海外の異教を導入し、古墳建造と祖神崇拝を禁止し、反対した豪族を皆殺し。
805 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 18:05:49.76
>>791 あれ以上の遠縁が継承した例が日本にも中国にもフランスにも実在するわけで。
因みに「5世孫」を現代に置き換えると、仮に明治天皇に弟が居た場合、皇太子の世代でちょうど5世孫。
一般庶民ですら、この程度なら「血縁あり」と簡単に判断できるよ。
806 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 19:13:32.52
継体は一般庶民どころか大和の豪族たちにも認識されなかったから
大和に入るのに20年もかかり
前王権の血を引く皇后手白香皇女とその子の欽明天皇の墓は大和にあるのに
継体天皇の墓だけなぜか遠く離れた摂津にあるというw
(継体の墓が摂津にあるということは大和に入れず摂津で亡くなった可能性も)
807 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 19:21:18.78
古代の距離や時間を現代の感覚で語るバカ
808 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 19:41:28.77
継体を応神五世の孫とする系図が継体の時代にあったという根拠は何かね?そもそも武烈までの系譜も
一系だったかどうか疑わしいのだ。
810 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 20:08:44.72
神武天皇の実在を裏付けるものは皆無だから「神武以来の男系継承」など断言するのは恥ずかいしこと。
811 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 22:58:26.64
>>806 そうすると、大して有力な豪族でもなかった訳だよね。
では訊くが、血縁も無く実力も無い人物が何で大王に選ばれたんだ。
812 :
日本@名無史さん:2015/02/12(木) 23:46:23.30
大和に入ることができなかったのではなくて本拠に近いところに都を移そうとしたという解釈もありでは?
813 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 00:37:26.17
>>807 やっぱり古代だとご先祖のことなんか分からないかな?
>>790 それは女系継承のことを言っているの?
それとも間男がいた可能性を言っているの?
815 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 00:57:08.72
>>811 ロマノフ朝の開祖並みの薄い関係はあったんじゃね?
で、強くないのが幸して選ばれたとか
816 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 01:01:17.86
>>815 実は応神天皇と血が繋がっていないことを伺わせる根拠ってあるの?
817 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 01:13:32.09
>>816 無理やり応神天皇(河内王朝の初代)
と重ね合わせようとさせてる
818 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 01:19:08.34
>>817 それだけ?
その論法だと「光格天皇が実権も無いのに君主意識が強かったのも、実は皇族出身ではないコンプレックスの現れ」みたいなことも言えてしまうよね。
そういうのじゃなくて、たとえば「本来無関係なはずの家系の祭祀を行っていた」みたいな例は無いのかな。
820 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 06:23:40.85
日本書紀に書かれているとおりの武烈までの系図が継体時代にすでにあったという根拠はなにか?
821 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 07:44:12.54
上宮記には「ホミツワケ」からの系譜が記載されているが、残念ながら歴代大王の系図がない。
日本書記の天皇系図と上宮記の系図をどう繋げるのか。問題は多い。
822 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 09:50:20.99
>>812 継体が大和に入れなかった期間、大和の中央豪族たちは
継体のいる樟葉に集結していない
中央豪族は大和に住み続けて継体なしで政治をとっていた
継体が大号令をかけて遷都を命じたわけではない
823 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 10:28:32.67
>>822 北河内や南山城は本拠に近く水運の便もよいから都したかったんじゃないかな。大和の豪族が応じなかったので
あきらめてしかたなく大和に入った。と・・・
824 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 12:10:22.57
>>823 だからそれが、継体が大和の豪族を従わせていなかった証拠なんだって
天智天皇のように政権掌握した大王なら
皇族豪族皆引き連れて住み慣れた大和を離れ近江大津遷都ができるのだから
825 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 12:32:40.06
826 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 15:31:29.32
五大の系譜も出処不明の引用だし
827 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 15:38:34.29
828 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 16:17:40.45
別の王が大和にいた痕跡は書記の記載からは見いだせない。
829 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 17:03:14.68
書記の記載が信用できないって話だから
継体は大和に土地持っていないだろ
だから移り住む場所がそもそもない。
天皇家の土地は娘たちが分割相続するだろうから
そいつらと結婚して、その後そいつらが死んだ後に権利を主張するしかないわけで。
だけども、それも出来ないで母親の分は息子が全部相続したって感じ。
832 :
日本@名無史さん:2015/02/13(金) 19:50:44.11
>>825 継体が越前から出てきて大和の王を征服して王になったのなら
それこそ征服王朝
妄想より、書紀の方が信頼できる
大和に敵対勢力がいるなら
それこそそいつを攻め滅ぼして
土地を奪ってそこに宮を建てればいいのであって。
そうじゃなく、敵対勢力がいないからこそ、
戦も出来ず土地も奪えず、もともと土地も持ってないから、
移り住むことも、宮を建てることも出来なかった。
それが真相だろ。
大王のくせに、対価を用意するから所領を少し譲ってほしい、とも言えんのか。
書記に登場する先代までの大王たちとは違ってえらい内気だねえ。
つーか言ったけど大和の豪族全員にシカトされて臍をかんで20年間泣いてたとかw
何回か言ってるけど
大和に入れなかったのか入らなかったのか
837 :
日本@名無史さん:2015/02/14(土) 01:25:24.65
ヤマトヒコは
>>836 おれも何度も言うが、20年間も入るだ入らないだとなどという史実が
そもそも実際にあったのかと。
古事記では継体の没年は527年で40歳で死去。
ところが、日本書紀では531年に大王を息子に譲り、息子の即位当日に息子と同時に死去。
年齢は80歳。
いったい何がどこまで本当なのか?と思わないほうが不思議だろ。
840 :
日本@名無史さん:2015/02/14(土) 05:37:17.78
日本書紀編者は継体の即位を河内の樟葉宮としていて、大和に入ってからとはしていない。大王空位時代を
隠すためかもしれない。
つまみ喰い
842 :
日本@名無史さん:2015/02/14(土) 11:02:18.08
継体が応神の子孫であっても架空の人物である神武天皇の子孫ではない。神武以来の男系一系継承なるものは
妄想。
妄想乙
844 :
日本@名無史さん:2015/02/14(土) 20:43:30.71
>>842 年代は嘘でも「日向出身の豪族」は居たという説もあるぞ。
その人が神武天皇だろう。
>>839 書紀の方は、一貫して2倍歴を採用してた証拠だろ
古事記は、バラバラ
>>845 ほんと小学生並の口からでまかせばかりだね。
日本書紀なんて実際のところ読んでみようと思ったこともないんだろ。
いったいなんでこんなスレを覗いているんかね。
ま〜た倍暦厨が湧いてるのか
倍暦説でてから何年だと思ってんだ?
まともな説ならとっくに学界の通説になってるわ
いまだに電波扱いなのにいつまで目が覚めないのか
848 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 00:18:35.50
>>847 でもさ。
何で日向なのよ。
わざわざ捏造する必要も無い(「大和出身」で差し支え無い)わけで、日向出身の人が大和に移ってきた事実はあるんじゃないの。
で、その日向から大和に越してきた人に後年「神武天皇」という諡号を贈った、ということは無いのかな。
>>848 だから実際に日向出身だったんだろ。それと倍暦のなんの関係があるんだ? 何が問題なんだ?
850 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 01:43:40.44
初期の天皇の活動範囲がやたら狭いのはリアルではある
>>850 おまえが記紀をろくに読んでないことはわかった
852 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 02:26:03.99
853 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 06:10:00.82
神武天皇のモデルに実在の人物を推測することと神武以来の男系一系継承を主張することとは
別だが、「日向出身」とか言ってる人はわかってる?やはり男系厨なの?
854 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 11:07:54.07
>>853 崇神天皇も応神天皇も日向出身じゃないから「日向出身の何者か=神武天皇」が実在したんじゃないかという話と、崇神天皇や応神天皇や継体天皇が神武天皇の子孫か否かというのは、確かに別の話。
でも、もし神武天皇の末裔じゃないなら「初代は日向出身です」なんて話をわざわざするかね。
>>854 まず、前提として、日本書紀は王権の正当性を確立させるために書かれた政治的文章である、というのがあるんだよ。
そう考えると、天武朝が征服王朝だと、反乱の可能性を含むため都合が悪いわけだ。
だから、被征服王朝の話もきちんと取り込んで、一つの物語にしてるんだよ。
史料をそのまま受け取るんじゃなくて、
自分の主観的合理性を大切にしなきゃ。
857 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 12:22:18.76
「初代は日向から」というお話はいつごろ出来たんだろうね。継体の6世紀にすでにあっただろうか?
>>855 856
お前の主観なる妄想などどうでもいい
859 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 13:18:58.52
男系カルトは学問板に来てまで工作するな。ウザイ
860 :
日本@名無史さん:2015/02/15(日) 13:21:08.99
>>851 初期天皇の妃の出身地とかは狭い範囲やろ
861 :
日本@名無史さん:2015/02/16(月) 23:11:11.79
>>855 征服王朝ならなおさら自分の「征服した」って事実の正当性を主張するだろう
あと征服された側のダメさ加減も主張するかもしれない。
征服された側につなげる意味なんてあるのか?
リアルタイムではみんな知ってることなのにデタラメ書いて誰が心服するんだ?
862 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 05:31:17.18
征服王朝じゃないことは考古学的に裏付けられている。
863 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 09:14:58.92
>>861 前王朝最後の武烈天皇は妊婦の腹を割く暴君として描かれ
十分に征服された側のダメさ加減を主張しているよ
ただし畿内に入る条件だった手白香皇女との結婚は省けなかったのだろう
欽明天皇が異母兄2人を退けたのは異母兄たちが前王権の血を引いてなかったから
欽明こそが前王権に女系で繋がる正当な王だというためにも
864 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 13:57:47.94
>>863 あそこまで書いたんなら「という訳で、越前の豪族に天命が革まりました」と書いて問題無いと思うが。
もはや王家の血を引いているか否かなど問題になるレベルじゃないだろう。武烈天皇の暴君ぶりは。
865 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 14:15:49.98
>>864 継体の系譜ができたのは推古朝編纂の「国記」「天皇記」あたりだと思うが
当時の天皇家は新興で大和の諸豪族たちより歴史が短く
中国と交渉していくにも軽く見られない必要があったのだろう
3世紀から中国に遣使していた倭国
5世紀には朝鮮半島の権益まで皇帝から認められていた倭国
そのあたりを全部継承したくて
卑弥呼から倭の五王から、すべて現在の大王の先祖ですという系譜を作り上げた
(日本書紀によれば卑弥呼は神功皇后なので、皇室の先祖にしている)
継体天皇新王朝説の骨子は日本書紀に系譜が書かれてないから偽りありと言うのが元々の発端であり
続日本記上宮記逸文が実際に推古朝までさかのぼれるのではないかという見方が強くなった時点で
本来その根拠を失う説なんだけどな・・・
何の根拠(文献、考古学的な見地)なく別王朝だ〜と繰り返してる時点でねもうね・・・
867 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 15:32:12.42
>>866 継体の系譜については「日本書紀」に「譽田天皇五世孫」ある
系譜不明としていないが?
868 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 18:12:43.37
869 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 18:15:21.60
ぶっちゃけ一部の歴史学者だけだよ
偽系極まりない継体の信憑性を信じているは
870 :
日本@名無史さん:2015/02/17(火) 18:38:51.27
上宮記の逸文だけでは実証のしようがない。
せいぜいが「記紀によると応神5世の孫と伝わる」とか「応神5世の孫と称する」
というの抑制的な表現が限界だろう。
そもそも応神自体が仁徳と同一人物説や架空説がある。
天智と天武が兄弟だと実証されてないから兄弟じゃないと
言ってる連中と同レベルに成り果てたなw
872 :
日本@名無史さん:2015/02/18(水) 07:37:01.27
>>868 推古朝のものらしいが、内容の真偽は未定。日本書紀編纂の資料にはなっただろう。
873 :
日本@名無史さん:2015/02/18(水) 07:39:57.32
日本書紀の天皇系図をそのまま受け入れた上で上宮記の系図を繋げる発想はやめたほうがいい。
>>872 どういう理屈で、上宮記が推古朝のものと示せるの?
875 :
日本@名無史さん:2015/02/20(金) 18:14:08.51
>>874 用字から。推古朝は考えられ得る上限だけど。
>>137 >縄文末期に西日本に縄文人なんて殆ど住んでない・・・・・・・・・・
おいおい弥生人と呼ばれる大陸から渡来する新モンゴロイドは、殆んど
無人の地の九州や四国や本州西半部に上陸したとでも言うのかね?
弥生or古墳時代に侵攻してきた景行天皇に「土蜘蛛」と蔑まれ征討された
北部九州の反抗勢力「鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折・青・白・打猿」諸族は、
先住民縄文人の子孫ではないとでも言うのかね?
878 :
日本@名無史さん:2015/02/24(火) 13:29:54.93
>>661 >「卑弥呼」職名説の根拠の一つは ・・・(以下略)
卑弥呼という職名がその後「台与」という職名に変わったんだよな? www
徳川慶喜の血統の遠さについて何度か出ているけど、あの人は水戸徳川家から一橋徳川家に養子に入った後で将軍になっています。
この「一橋徳川家」というのは8代将軍吉宗が自分の次、三男を封じて興した徳川宗家の分家であり、
一橋徳川家からは慶喜以前にも将軍家に養子が入っている家柄です。
つまり慶喜は一橋家に入った時点で、将軍継承の弱点だった「家康からの血縁の遠さ」はリセットされたと見ていいと思います。
>>879 されてない
慶福に先を越されたのも第一要因は親等
>>880 慶福(紀州藩から宗家相続:後の家茂)は大老井伊直弼が推していたからだよ。
直弼にしたら13歳の幼将軍を担いだ方が都合が良いから。
それよりも重要なことは、家康9世孫が将軍後継候補に上るためには一橋家というフィルターを通す必要があったことは間違いない。
血縁で言えば11代将軍の子や孫は腐るほど健在だったからだ。慶福は11代の孫。
>>881 その大老が推した理由は親等の近さ
少年なら誰でもいいとすれば水戸や高須にごろごろいたわけだが
慶喜の継承時点で親等など構っている状勢でなかったのは遺言で指定された亀之助に先んじたことからも明か
三卿の一橋家に収まっていたのは有利な材料に違いなかったがそうでなかった場合に可能性が全く無かったとは言い切れない