1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 01:59:03.73
尾張名古屋の田舎猿は、出入り禁止な
お前ら無関係の部外者だろ
暇があるなら、金のシャチホコを、つるんつるんに磨いとけ
3 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 02:24:02.49
煽るなよ
本当に何もない田舎なんだから、昔話しかできないんだよ。
4 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 07:34:37.59
名古屋は出入り禁止と言っただろ
入りたければ、みゃ〜と泣け
5 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 11:25:57.45
尾張はよし、三河はだめ
6 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 12:30:17.06
7 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 13:38:30.53
数万?!
あのビンボー御家人の新田が?!
8 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 20:14:33.36
フランクキー堺
9 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 20:38:31.85
おいコラ、万年パシリの猿
文句があるなら、太平記から三河関係を全部黒塗りにしろ
部外者の尾張名古屋の猿が、みゃ〜みゃ〜しゃしゃり出てきやがって
以下、尾張馬鹿と三河阿呆の罵り合いスレです
11 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 22:50:27.62
万年パシリの名古屋猿、ソースがどーのこーのぶっこきゃがって、単純に部外者で理解不能なだけだろ
くだらないセンゴクの三英傑とやらに巻き込みゃがって
えーか万年パシリの尾張猿、西三河の三英傑は源頼朝、足利尊氏、徳川家康
とっとと尾張名古屋共和国(笑)で出ていけ、文化不毛の糞カッペ猿め
12 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 23:50:24.11
だから三河は昔話しかできないんでしょ?
今は何もないじゃない(笑)
13 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 00:09:48.67
ここは日本史板だ、高卒
つーか尾張というのは、何かとりえがあるのか?
常に恥をかかせ、国民から馬鹿にされれば、すがり付いてきやがる
先祖代々百姓のゴミめ
14 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 00:22:32.41
「日本史で最も存在感の薄い都道府県は?」スレで暴れていた
岡崎市在住の三河阿呆がこっちでも暴れてるw
新田義貞スレで暴れるのはスレチだよ
新田義貞の何百年も前の先祖の一人の母方の外祖父が三河出身っていう無駄なネタを
あちこちに投下するんじゃねえw
15 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 00:23:51.42
>>13 高卒って自己紹介乙、いや、三河阿呆は中卒だったか
16 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 00:29:12.08
お前の返しレスは糞つまらんな
http://toppy.net/special/dubai0.html 「名古屋が元気」
こんな言葉をよく耳にします。名古屋以外の大半の日本人は、この言葉の裏に「トヨタが元気なだけで名古屋自体がなんぼのもんじゃい」という意味を込めて使っているにもかかわらず、
ほとんどの名古屋っ子は何を勘違いしているのか、名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。
>名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。
どこの田舎モンだよw
名古屋は万年不況だろがw
17 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 00:41:35.40
三河三河って掲示板で騒がないと三河の事なんか誰も話にしないからね。
良かったね、掲示板があって。
黙ってても三河の事が話題に挙がるようになればいいね。
18 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 00:59:03.43
アホか?w
お前が話題にしとるがなw
19 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 02:07:47.73
20 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 02:30:58.92
21 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 20:56:26.97
>>14 新田義貞って南だよwお前は初歩的な事すら間違えているだろ
名古屋は部外者、理解不能なんだから来んなよ
22 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 23:32:19.43
>>21 つまり君の今までの書き込みはスレ違いということ
23 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 00:03:53.86
>>20 「こちらから数千の兵を繰り出せば収まる騒ぎじゃ。
それよりも京において謀反いたしたにっくき足利、近江の佐々木、こたびの新田、皆源氏ぞ。
他にもおるかもしれん、諸国の源氏が揃うて寝返るかもしれん。
案じられるはこのことぞ。」
24 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 01:17:24.50
25 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 01:43:34.82
>つまり君の今までの書き込みはスレ違いということ
誰かコイツの言っていることを翻訳してくれ
26 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 15:38:05.85
>>25 「新田義貞の話をしろ」
以上
ここはお国自慢スレではない
27 :
サダアキ:2013/09/08(日) 18:24:34.70
28 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:05:43.29
「それ故足利は外へ出すなと申したのじゃ、野に放った虎だわえ。」
29 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:40:32.17
ちょっと戻ろうか
「たったこれだけか…」
30 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 21:09:05.24
「岩松を呼べ」
このシーンが二番目に好き
31 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 22:10:27.69
>それ故足利
>岩松を呼べ
そこのチミ、このスレは新田義貞以外は禁止れすよw
32 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 00:31:48.30
義助!もはや 我慢ならん!!
33 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 01:23:09.50
明日にも守護の兵が攻めてくる!
迎え撃っては勝ち目がない!こちらから夜陰に乗じて国府を襲う!
34 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 01:43:27.85
鶴「高時はそうは思わぬ」
「え!?」
35 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 19:52:13.27
もりよしぃーっ!
36 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 12:33:25.26
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(三河武士団)■
【岡崎市】
・足利宗家、屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)、城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)、3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・上地氏(足利一族、細川氏分家)、城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)、高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )、屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆、屋敷(便寺屋敷)
・粟生氏(足利被官)、2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
・鹿島氏(足利被官)
【豊田市】
・上野氏(足利一族、奉公衆)
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)、城(金谷城)
【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)、城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)、城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)、城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職、奉公衆)、城(戸ヶ崎城)
・饗庭氏(足利被官、奉公衆)、城(饗庭城)、饗庭氏直(花一揆総大将)
【豊橋市・新城市】
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)
・設楽氏(足利被官、奉公衆)
・富永氏(足利被官、奉公衆)
37 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 14:49:46.71
六万貫なんて理不尽な臨時徴税かけるから暴発しちゃった
黒沼「査察よーん♪」
新田一族「もう、国家転覆を図るしか…っ!」
39 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 00:10:09.66
■日光山
源頼朝がその母方の三河の藤姓熱田大宮司家(愛知県岡崎市)の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の三河の藤姓熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
三河厨は避難の準備しろ
41 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:40:34.34
42 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:43:47.53
97 名前:名刺は切らしておりまして[] 投稿日:2013/09/15(日) 22:45:13.24 ID:ZsYFkwly
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
125 名前:名刺は切らしておりまして[] 投稿日:2013/09/16(月) 12:06:52.38 ID:NB7Dlliq
>>107 毎度毎度、足を引っぱっているのは尾張百姓だろ
平成22年度生活保護率(主要自治体)
5.30% 大阪市 141,026人
4.33% 函館市 12,187人
3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人
2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人
1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、
0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 豊橋市 2,278人←三河国
0.54% 豊田市 2,287人←三河国
0.46% 岡崎市 1,734人←三河国
44 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 19:23:29.16
45 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 19:25:19.86
三河や名古屋の話はスレ違いだからそっちでやれよ
47 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 19:13:41.96
http://toppy.net/special/dubai0.html 「名古屋が元気」
こんな言葉をよく耳にします。名古屋以外の大半の日本人は、この言葉の裏に「トヨタが元気なだけで名古屋自体がなんぼのもんじゃい」という意味を込めて使っているにもかかわらず、
ほとんどの名古屋っ子は何を勘違いしているのか、名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。
>名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。
どこの田舎モンだよw
48 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 22:18:48.74
上野の守護代長崎孫四郎アホすぎだろ
たかだか100足らずの兵に国府を奪われるとか
100騎だろ?
50 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 09:05:48.13
兵数はもっといたよね。
52 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 19:28:29.62
まあたかだか150騎程度の軍勢に一晩で国府を奪われるなんて失態がなければあんなにあっけなく鎌倉が滅ぶこともなかったわけで
53 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 19:35:32.03
「もはや・・・我慢ならぬッ!」
54 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 00:21:43.64
鎌倉攻めまでの義貞と尊氏ってどの程度面識あんの?
顔合わせたことあんのかな?
顔は知ってるけどしゃべったことはないレベル?
55 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 00:24:43.23
少年の頃渡良瀬川のほとりで会ったことある…わけないか
56 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 00:42:31.79
>>54 葬式のときにかろうじて会うか会わないかの親戚いるだろ
きっとあのレベルじゃないか?
外様御家人筆頭と無位無官の没落御家人だからね。
公的な場での対面はないだろ。
プライベートでも、新田の方から足を運んで頭下げないと会うこともないだろ。
58 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:02:00.19
>>57 足利も北条の嫁を貰っていたが無位無官だよ。
新田家4代目政義の妻が足利3代目義氏の娘。
新田家5代目政氏の妻がおそらく北条一門の娘(平秀時の娘)。
また、新田政氏の娘は足利家時の妻(家時は北条から正室を娶っているため
おそらく新田氏は側室)になっている。
>>58 >足利も北条の嫁を貰っていたが無位無官
歴代の当主は従五位下はもらってるが
正室、側室の概念て、その頃には既に武士レベルで明確に意識されてたのかな?
61 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 18:33:41.44
やっぱ天下とらないとダメなんだな
足利の勝ち 新田の負け
>>60 義氏は最初名越からもらってたが、後に得宗からもらって、その子の頼氏が嫡男になってるから
あったんじゃないかな
63 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:27:43.99
足利貞氏…讃岐守
足利高氏…治部大輔
>>60 はっきりとされていた。それも鎌倉時代初期に。
その証拠だが、比企能員の変で、比企氏が三族皆殺しになったとき、北条義時の
正室が比企一族だったため、正室とその間に産まれた子も皆殺しにされ、側室の
産んだ子の北条泰時が後を継いだ、とある。
65 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 13:21:07.89
>>64 何に書いてあるの?
義時の妻比企氏は比企能員の変で殺されていないし
(それどころか比企能員の変後、都で公家と再婚している)
義時が比企氏との間に儲けた朝時、重時も生きてるんだが。
>>64 >>65 妻や子供の嫡庶の別は曖昧で、政治的要因によりその立場が変動するものだったことがわかる
67 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 14:06:21.80
>>66 嫡庶の別がはっきりあった近世でも、政治的要因があれば
正室が側室に格下げになったり、廃嫡されたりなんて普通にあったけどね
最初に嫁いできた嫁がまず、正室になり、後から格上の家から嫁いで来たのが正室になるも、子が無いために正室の座から外されることもあった
>>68 政治的要因ではなく、子の有無で正室から降ろされた例なんてあった?
格上の家から来た正室が、子がないという理由で正室から外された例を挙げてごらん。
ごらん高原www
72 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 14:51:02.30
新田義貞が鎌倉を攻めたのは千早攻城に参加したからだろ
幕府軍は補給路を野武士に脅かされ苦境に陥った
新田義貞は大塔宮方と取引し、鎌倉攻めの密約をして、
野武士たちの道案内で脱出し、関東へ帰った
73 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 20:05:37.32
新田氏は源氏でも二流だしな。
新田義貞の悲劇はそこにあるね。
武将としても重みがなくて二流だ。
というのは、鎌倉討入り以外の戦争はぜんぶ負けている。
早とちりをやるか遅すぎるかのどちらかだな。
京都で尊氏と戦ったときも、これはオレとお前の争いだから
一騎打ちで勝負しようなんて子供っぽいことをいう。
もちろん尊氏は相手にしない。
最後の藤島の戦いでも、出て行かなくていいものを
チョコチョコ出て行ってやられちゃうしな。
ただ一つの救いは勾当内侍との熱烈な恋くらいか。
「太平記」で唯一のロマンスでもあるな。
あんまりのめり込んじゃったもんだから、大事な尊氏との
戦争でしくじってしまう。
新田義貞というのは大局のみえない武士だな。
74 :
sage:2013/12/02(月) 21:19:48.41
豊島河原や矢作川を知らん奴がいるな
75 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 22:44:33.43
>>73 幕府の有力御家人だった尊氏は、寝込んでいても武士は集まるし皆が何でもやってくれる。
血筋だけは良かったが無名なので、常に最前線で模範を示していないとついてきてくれない。
血筋も無い奴、例えば三カ国守護だった楠木某とかいう全く無名の輩なんか、任国で動員かけても一族郎党しか集まらなかった。
当時は血筋も実力の内だし、実績があった尊氏が圧倒的に信望を集めていた。
尊氏は自ら光る太陽。義貞は後醍醐の光を受けて光る月。
76 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 18:38:10.96
>>75 足利が鎌倉幕府で大きな顔をできたのも代々北条の娘を娶り北条の血がかなり濃く
北条一門のような顔をしていたから
尊氏が寝込んでも勝手に武士が集まってきてやってくれるわけないじゃん
尊氏は味方を集めるために所領を大奮発してお蔭で室町幕府は極貧だったし
尊氏自身、なかなか都を制圧できず九州に逃亡したり南朝にゴマ擦ったりさんざんじゃん
77 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 18:41:33.20
ウチの真ん前が新田鎌倉攻めの道
78 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:51:45.28
もう少し鎌倉で粘れればなあ
新田は越前に落ちる前に尊氏とガチで一騎打ちしたの?
81 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 06:36:08.38
一騎打ち云々がフィクションだとしても
東寺がいまだに義貞勢を振り切って逃げた尊氏が閉めたとされる東大門を「開かずの門」として
ほとんど開けることがないってのが伝承の物質的継続として面白いわな
たぶん新田さんは勝てる自信があったんだろうな。
単純武力だけでなく、小部隊を直接率いて引っ掻き回すのが得意だったんだろう
83 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 18:33:49.18
義貞にはそうやるしか手は無かった。
尊氏が無視するのも見越していたろう。
それでも落ち目の南軍の士気を鼓舞できるからね。
左様。新田など論外。
帝の政と我らが求る政の戦でござりまする。
新田と足利では最初から排気量の違うエンジンでレースをしてた様なもの
そのハンディを考えれば新田義貞はむしろ奮闘したと言えるのでは?
86 :
日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:06:04.53
血筋は源氏の名門だったからじゃないの?
87 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 03:03:16.81
新田家は北条と婚姻関係を結んだことあるの?
88 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 06:59:07.30
堀口が史料にも残っていない北条庶子家と婚姻結んで美濃守になれた。
>>87 新田義貞の曽祖父新田政氏の正室は平政秀女
平姓であった北条氏出身と考えられている
政義の件で新田が即死しなかったのは、この政氏正室の働きかけもあったのかもしれないね
もちろん足利義氏のフォローが大であることは間違いないが
91 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 23:48:53.01
新田本宗家は御家人役を解かれ、惣領家も剥奪されたから死亡も同然
その状態からの基氏の再興は半分惣領職を獲得した世良田氏の没落と上野国の得宗領国化が大きかった
足利が手を貸した事実は皆無
新田政義は京都大番役で在京中に無断任官要求、職務放棄、無断出家のコンボをやらかしてる。
一つだけでも所領没収になる違反を3つもだ。
かつて源義経が無断任官だけで頼朝の逆鱗に触れたことを考えると、事の重大さがわかるかと思う。
政義は以前にも預かった囚人を逃がす失態をやらかしてるわけで、もはや弁解のしようがない。
はっきり言って新田本宗家に所領が残っただけでも奇跡。しかも政義生きてるし。
ではなぜ首の皮一枚で生き残ったかというと、最も可能性が高いのは有力な庇護者の存在。
新田の縁戚、処罰内容を鑑みると足利氏が関与している可能性が濃厚。
93 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 08:29:42.81
足利は新田から所領を奪って岩松に与えた
94 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 12:13:54.31
>>92 源義経の無断任官は頼朝に取って代わり武家源氏の棟梁となる可能性があったから頼朝も機敏だったけど
新田政義程度どうでもいいよね。
実際には義経の件で懲りた朝廷が官位を与えなかったし。
95 :
92:2014/01/10(金) 16:30:25.98
>>94 うん。
義経は有名な例だから引き合いに出した。
このときの新田に幕府に反逆する力はないし、あまり深く考えずに任官請求したんだと思うわ。
新田は政治センスが微妙な当主多いけど
政義のダメっぷりは突出してる
97 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 19:19:35.41
足利泰氏もな
98 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 20:28:27.85
足利尊氏
梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。
今川了俊
難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
新田と同族どころか、本当は足利ではないと言っているようですが
下野に冷淡なのも、裏の事情があるようですな
梅松論や難太平記のほうが東国武士としての新田を評価していて、
盛り上がらんからラブシーンを創作しようとかつまらんこと考える太平記のほうが
新田にあんまり関心ないように見える。
100 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 20:48:14.48
>>99 太平記は専ら人の感情を扱う読み物だからだろ
男女の恋愛なんてその最たるもの
平家物語も恋愛が多数取り入れられている
101 :
日本@名無史さん:2014/01/10(金) 21:44:34.95
新田義貞は政治家ではなく軍司令官
しかし中先代の後の尊氏とのチクリあいで義貞は圧勝してるしな
もし護良殺害の情報を提出したというのが事実なら政治的にもなかなか才能がある
後醍醐の皇子をしっかり持っていったり、北条残党の謀反では連携も疑われてるし、
決して政治的に無能という印象は受けないな。
南朝内部でも北畠や楠木と対立しつつ総大将格で生き残ってるわけだし
むしろ怪しい軍事的能力を政治能力でカバーしていた感じか?
105 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 08:08:53.40
南朝の反北畠派に担がれてた
106 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 20:36:24.85
鎌倉を落として上洛した1333年8月から足利討伐に東下する1335年秋まで
なにやってたのかよくわからんのよね
107 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 20:55:32.45
武者所
108 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 09:15:14.23
左兵衛督と武者頭ってどっちがえらいのよ?
109 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 19:42:58.39
鎌倉攻めがフロックに過ぎぬ愚将とも言われるが、そうであれば中先代の乱以降の
対足利戦争であそこまで重用はされんだろう。源氏系統でも代わりが居ないわけではないんだから。
>>103 湊川でろくに動員できない楠木は義貞と張り合うどころか他の三木と変わらん
一部将に過ぎんよ。北畠は、顕家の奥州は遠すぎるし、伊勢で味方するのは度会郡と多気郡だから
こちらも兵力的にアテにはならんだろ。
新田と北畠と仲悪い説って憶測に過ぎないね
越前から合流するったって大変だもの
112 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 05:08:32.22
義貞が真正面からの戦をする癖があるような愚直のような言われ方をしてるけど、鎌倉攻めの時なんていきなり国府を夜襲してるし、そんな事はないと思うんだけどね。
むしろ官軍としてのプライドで公家側が口挟んで義貞の戦の仕方に色々注文付けてたから、機内での旗色を悪くしたんだと思う。
事実、口挟まれなかった北陸方面では優位に戦ってたしさ。
113 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 08:00:30.35
義貞は相当奇襲好きだよ
まあ「太平記」なんかでは義助や家臣の注進を聴いて「じゃあそうしよう」という場面がやたらと多くて
真偽はともかく独断型ではなさそうな
そこがまた「新田殿の長詮議」と揶揄される所以かも
114 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 08:25:02.24
そうしようってのは部下に華を持たせるためじゃないかな?
しかし藤島の件では誰も止めなかったのかな?
115 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 12:16:18.02
あれは双方とも全く想定していなかった遭遇せんだからね。
義貞が日常的にやっていた前線視察と移動中の敵がたまたま出会った。
討ち取った方も誰だか知らなかったけど、やたら立派な甲冑を着ていたから、首実検したら義貞だったのでビックリしてるし。
国府襲撃も実弟義助の提案で固まったのは義貞の支持とも考えられるんだよな
事態の進展に慌てた一族は退守防衛以外アイデアなかったから弱小な宗家は様子見に周り、
強硬策は義助が言い出して焚き付けるという役割分担
117 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 17:22:56.91
新田兄弟って仲いいね。足利兄弟とどっちがいいのかな。
118 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 18:02:26.12
足利兄弟は喧嘩するほどだからな
>>117 義貞が死ぬ頃は、足利兄弟は仲が良かった。だから、義貞がもし勝ち組になったら、
弟と争った可能性は否定できない。足利も勝ち組をほぼ確実にした途端、喧嘩始めたからな。
120 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 04:05:52.81
直義と義助ってどっちが優秀なんだろ。
121 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:17:20.73
戦ー義助
政治ー直義
122 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 00:40:24.77
足利の執事は高だけど新田って誰なの?
新田と足利の兄弟は得意分野が逆の組合せか
125 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 01:15:26.26
新田とは同族ではないとハッキリ言われているのに、絡み付かれて迷惑しているだろう
新田と足利とか、クダラナイことは止めよ
足利尊氏
梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。
今川了俊
難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
126 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 12:45:11.49
六破羅と鎌倉だと攻略難易度ってどっちが上だったのかね。兵力云々抜きにしてさ
127 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 20:05:40.25
京都は攻めるに易く守るに難い
128 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 20:33:10.99
難攻不落と思われた鎌倉も、新田義貞の攻略後、次々と何回も落とされまくりだけどな。
129 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 23:33:27.03
頼朝公もあの世でお嘆きであろうよ…
130 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 02:31:39.25
ドリフだと稲村ヶ崎は
「我をここより通し給え」
って言ったら水がザバーンって来てみんなずぶ濡れになるのかね。
本宗家なのに小新田
>>128 本拠で戦う
って段階まで追い詰められてる時点で戦略的に負けかなと。
後北条の場合は対上杉では武田の陽動が効いて防衛に成功
対武田では、武田は小田原を落とす事よりも示威→駿河占領が主目的だったからすぐ撤退
133 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 05:40:19.24
>>131 その頃はまだ惣領制が確立していなかった
鎌倉攻めの時、なんで義貞が総大将になれたんだろう
あの時点なら岩松とか堀口とかの方が格上っぽいけど
135 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:51:39.76
鎌倉攻めの功労者なのに、足利の家臣にすぎない細川兄弟に鎌倉を追い出された新田ってなんなの?
136 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 22:05:27.59
だって西国の謀反鎮圧のために幕府軍の主力は京周辺にいたんだから
その幕府軍の主力が壊滅したという知らせが来れば御家人たちも次々に寝返るだろうよ
西国?
138 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 20:08:44.57
>>135 新田は別に鎌倉から追い出されたのではなく
キで後醍醐天皇から北条追討の褒美に官位を受ける尊氏に先を越されてはならんと
上洛しただけでしょ
139 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 20:33:35.46
いや、できれば北条の後継として関東で自立したかったでしょ。
140 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 21:52:29.39
>>138 義貞が鎌倉を掌握していたのなら頼朝のように鎌倉に居座り、弟の脇屋義助を
都に派遣すればよかった。
それができる状況になかったから鎌倉を足利に明け渡し、都に移るしかなかった。
>>136 利根川を渡って武蔵に侵入して、その緒戦に勝利した段階では六波羅陥落の報は届いてない
泰家が出張ってきた段階では既に伝わっていただろうが、その段階では坂東情勢は既に新田方有利に雪崩れていた
六波羅陥落の影響を過大視すべきではない
六波羅はどうでもよい!京は遠すぎる!
143 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 23:41:21.24
>>141 重要なのは京周辺に大軍を派遣してしまったために鎌倉が手薄になっちゃったことでしょ
鎌倉が手薄になれば御家人たちが自動的に寝返るのなら、
幕府軍出発直後に挙兵が頻発していないとおかしいね。
145 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 17:28:46.26
尊氏って鎌倉幕府存命当時で、自前でどんくらい兵力集められんの?
146 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 17:49:32.52
>>140 頼朝は朝廷から離れ鎌倉に幕府を開く気でいたから動かなかったけど
新田には鎌倉に幕府を開く気なかっただろ
キで後醍醐天皇中心の政権に参加したいと思っていたのだから
147 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 21:25:05.35
>>146 没落御家人、無位無官、知名度なしの新田が、ばっ幕府?!
プップップッwww6万貫払えなくて反乱起こしただけだろ?
148 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 22:04:53.48
>>141 足利、佐々木が謀反して六波羅軍が苦戦してるって情報はもっと早くに関東に伝わってるだろ
その段階で関東の御家人は相当動揺したはず
149 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:19:17.37
>>147 無位無官の流人の頼朝が幕府開けたくらいだからね
尊氏贔屓な人は鎌倉幕府を過大評価しすぎ
武家は皆鎌倉幕府が大好きで、鎌倉幕府のそのままの官位秩序の継承を希望
ほとんど北条氏一門と言っていい尊氏のもとに集まってきたってそればっかり
参考までに
4月27日 名越高家が討死
4月29日 足利尊氏が丹波で反幕府の兵を挙げる
5月7日 六波羅が陥落
5月8日 新田義貞が上野で挙兵
151 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:24:01.41
鎌倉幕府を倒す必要ってあったの?
新田の挙兵は幕使を斬ってなされたものだから、六波羅の苦戦を知って予定日に挙兵したわけではないよ
153 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 06:24:33.20
義貞の挙兵直後に越後新田党が合流したところを見ると、
蜂起は4月中から計画されたものとみてよい。
もっと言えば、足利・新田および関東の諸豪族の間で情報が共有されていたと思うよ
154 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 07:04:54.45
だよね。六波羅攻撃と鎌倉攻撃のタイミングが同じじゃないと意味ないし、六波羅攻撃を知らないで新田だけで鎌倉攻めるぞって言っても…と思う。
しかし、六波羅攻撃は誰レベルまで知ってたのかな?越後新田党が合流してくるけど、六波羅攻撃知らなきゃわざわざ勝てる見込みもない戦に参陣しないよね。
155 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 10:09:34.06
稲村ヶ崎の干潮のタイミングもな
>>151 頼朝の時と一緒で恩賞や本領安堵のための戦い
だから北条を潰して所領をぶんどらないとどうしようもない。
>>153 足利高氏の教御書や護良の令旨で西国の情勢は伝わったのだろう。
157 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 13:27:21.58
338 :名無しさん@13周年:2014/01/29(水) 13:19:42.83 ID:SKAkm8dE0
田母神候補も時々変なこといってるが、
田母神の他が中韓人なので、
田母神しかいない件
挙兵は予定されていたが、当初の予定より繰り上がったのだろ。
だから足利と新田がのちに論争することになった。
幕府の督促使の一件まで予測できるわけではないからな。
新田・足利の一族だけが挙兵の気配を示していたわけではないので、早い者勝ち。
159 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:44:20.23
仮に六波羅攻撃も、陥落もしてない状況で新田が立ち上がったとしたらどうなったのかね。
名越高家が討たれたという情報が伝われば
史実通り鎌倉攻略は可能じゃろな
161 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:04:47.79
>>160 名越討死だけじゃ足りんだろ
足利謀反が決定的だった
162 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:23:04.29
実際には様々な流言飛語が飛び交ってたと思うんだよね
5月8日 挙兵
5月11日 小手指
5月12日 久米川
5月15日 分倍河原
5月16日 関戸
5月18日 鎌倉
関東に土地勘のある人間なら分かると思うが、
時の勢いとしか言いようのない怒涛の進撃。
わずか150騎に国府を攻め落とされた無能長崎孫四郎のせい
164 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 22:56:34.07
でも新田系だけで7000も兵が集まれば、六波羅云々関係なく関東の御家人
は何となく新田の軍に加わりそうだけどね。
165 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 04:48:17.26
足利千寿王がいたから関東の御家人が新田軍に加わったんだろ
>>161 名越討死で足りる。その場合、高氏の謀反がかなり高い確率で予想されるか、
最低でも積極的な攻勢に出ず、様子見に回り救援軍の動きが鈍るのは容易に予想できる
グンマーが挙兵後五日目に所沢東村山の防衛線突破して、
分倍河原に押し寄せてくる情勢で鎌倉方に素直に行くやつはいないな
親鎌倉の人間でも、とりあえず日和見
アクション起こす前に下総武蔵から東が分断されてる
>>164 新田義貞だけでは神輿にするにしてもちょっと弱すぎだな
鎌倉期の新田はなかば忘れられた存在であるし
169 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 12:45:37.70
千寿王が加わってから討幕軍が一気に膨れ上がったんだろ
いくら手薄とはいえ7000の兵では鎌倉は攻められない
170 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 13:06:49.78
旗印が義貞か千寿王か以前に、
小山、千葉、武田なんかの動きを見てると関東の諸豪族はもう「バスに乗り遅れるな」モードだな
171 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 14:24:18.99
義貞って秀吉レベルの大栄転だよね?
172 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:05:28.55
新田氏一門って、新田宗家の
新田分家諸家への統制力が弱すぎる。
宗家が何代もヘマしたからしょうがない
174 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:34:48.73
義貞が何もしないままだったらどうなってたのかね?
尊氏が六波羅から攻めてきたのかな?
つーか鎌倉街道に以前からたくさん見張り小屋を配置してたのが鎌倉攻めの時に役立ったんだろ。
ただその見張り小屋の連中の子孫が・・・(以下ry)
>>174 義貞挙兵のすぐ後に小山、千葉も鎌倉へ進軍してるから、
義貞が何もしなくても鎌倉は侵攻されたと思う。
どこの家も多かれ少なかれ領地や権限を北条に侵食されてるからね
幕府が決定的に弱れば、取られたものを取り返そうと動くのも無理はない
幕府は足利と新田がつるんでると看破してたんだろうよ
足利に手出すわけにもいかないから、新田を叩きつぶして一罰百戒とする予定が
逆に新田に先手を打たれて坂東の南北を分断されてしまった
179 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 19:31:11.39
看破してた割には後手後手じゃないか。
看破してた割には千寿王に逃げられてるじゃないか。
看破してた割には足利に大軍預けてるじゃないか
監視役に名越高家をつけたとしても迂闊すぎやしないか
182 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 20:08:37.27
そこまで確信があったのなら足利を西国へ出陣させないって
千寿王って人質じゃなかったっけ
184 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:59:16.09
守時は何がしたかったの?
ドラマの太平記では新しい世の中を作るために尊氏の六波羅攻めを
止めようとしなかったし、千寿王や妹逃がしちゃってるし。
なのに幕府の為って言って鎌倉の守りの為に出陣したり。
板ばさみですなあ
>>184 永の別れに参ったのじゃ。生きて帰らんつもりぞ
>>182 そこまで確証がないから足利氏を出陣させたことと
与党になり得て軍役を懈怠してた新田氏を標的に強硬姿勢を示すのは別に矛盾しない
>>187 護良の令旨がばら撒かれた状態で火種を作るとは危険極まりないな。
令旨を受け取った武士たちに比べ鎌倉は情報が足りていないんじゃないか。
チャンスを生かした男。
190 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 18:23:02.36
足利と血筋が一緒なのに軽視されすぎなのかな?新田一門ってくくりを考えたときに無視は出来ないよね。新田一門で5000は集められるんだから。
>>190 ということは、鎌倉の有力者の考えでは、新田本宗家の一族の範疇は里見、山名、世良田、岩松の系統を含まないものだったんだろう
鎌倉末期の斯波や畠山の扱いはどんなもんだったんだろう
194 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 20:22:05.44
>足利と血筋が一緒なのに軽視されすぎなのかな?
足利尊氏
梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。
今川了俊
難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
>>193 斯波=庶流というよりは足利氏の別流扱いであった。
家氏の子孫は代々尾張守に叙任され、足利尾張家と呼ばれる。
畠山=義純の家系(足利系畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の家臣筋分家の中で斯波家に次いで高い序列に列せられ、
細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。
そもそも御家人として独立してる連中を一門扱いはしないんじゃないの?
得宗一門は別格だろうけどさ
足利頼氏が死んだあと、
足利家時が大人になるまで斯波家氏が家督代行を務めてたぐらいだから、
むしろ一門意識が強いんじゃない?
198 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 02:38:35.59
一門意識が低いと見せかけてたとしたら、義貞は希代の天才だよね。
意識低かったら、越後新田一族がすぐに参陣してこないんじゃないの?
199 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 02:49:28.26
そのまま関東に留まって頼朝の真似してりゃ稀代の英雄だったのにな。千寿王は人質で使えるし
200 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 06:09:42.22
鎌倉で政争に負けたんだからしょうがない
201 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 07:25:29.14
当時の新田一門の中で誰も官位持ってなかったの?
202 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 09:36:17.05
堀口美濃守
203 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 16:47:37.19
>堀口貞義
なんと従四位下
官位だけみると北条一門に勝るとも劣らぬ高待遇
204 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 17:39:48.31
北条一門の血縁による
205 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 22:25:57.61
尊氏より位高いね
207 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 23:24:19.22
相模守と武蔵守は独占
堀口貞義に偏諱を与えたと思しき北条貞時(従四位上)の1ランク下、しかも任国が美濃
どんな魔法を使ったんだ?
この手のスレで堀口の話題が出て、「美濃守だって→どんな手を使ったんだ?」
この展開デジャヴになってきたなw
たしかにw
本宗家を差し置いてこれだけ高い官位もらってるけど、新田から独立したわけではないのね
北条の場合は昇る前に死んでしまったのも多いのでは
212 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 06:54:12.32
当時、美濃は一等国だな。
213 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:05:13.21
貞義は何かしら北条が利するような働きをしたに違いあるまい
214 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 22:10:37.25
母親が北条一門なんだっけ?
215 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 19:54:53.20
佐村 河内守
216 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 00:41:25.96
楠木河内守殿が黄泉でお嘆きであろう
楠木と同じく正体不明の輩
比べるのもおこがましい小人物だが
218 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 19:02:50.64
新田義貞は一代の英傑
義貞亡き後の新田なぞ、炭酸の抜けたビールのようなもの
219 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 21:15:29.02
苦くて飲めません
岩松を呼べ…
>>120-121 大河「太平記」で散々惨敗しまくっていたあの直義が
湊川の戦いの前哨戦で義助を瞬殺したせいで
義助はさらに噛ませ犬のイメージだわw
222 :
日本@名無史さん:2014/02/15(土) 19:16:19.31
義助は四国に渡ってすぐ死んだからなあ。どうも実力は未知数で。
個人的には、その息子・義治の生涯が興味深い。
ところで義貞の首って本物はどこに葬られてんですかね。
群馬のあちこちに首塚があって困るんですがw
224 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 07:42:33.75
首実検してどこに送り返したかによるが。
225 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 14:37:18.59
堀口氏って、里見氏、山名氏、世良田氏などよりも
新田宗家に近い家柄だったんだな。
室町時代に活躍した大舘氏と同じくらい新田宗家に近い。
226 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 23:55:38.75
新田一門の得川ってのはよっぽどマイナーだったのかね?
じゃないと詐称し辛かろうて
228 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 00:21:10.59
>>225 里見、山名、世良田、岩松は郷単位で分与され、御家人役を務めたりして自立したが、新田政義出家後は村単位で分与されたから零細なために、本宗家への依存度が比較的高い時期もあった
>>226 女系相続を介して新田岩松氏に吸収された
229 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 06:15:08.08
太田市には、世良田、大館、脇屋、徳川、江田、岩松等の地名が残っていて面白いな
(山名、里見は高崎市)
230 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 07:10:46.47
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::::::::::::::: あぁ・・・なんて愛らしいんだ :::::::::::::::
::::::::::::::: ジャムリン、ジャムリン・・・ :::::::::::::::
::::::::::::::: ジャムリン・・・・あぁぁぁあああ :::::::::::::::
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リ,;;;;;;:: ;;;;;:: ;;;;; ::;;;;;; \ 人 从
(彡ノり/リノ" ミ;;;;;;,,,.. ゝ ) あ (
);;; ヾ、;;;;...__,, );;;;;;;; ヾ ) お (
i:::) ` ;;ー--、` 〈;;;;;;;::;;; i ) お (
i i::/ ^:::::::.. i ,ll/ニi ;; l ) / (
i l ヾヽ'' ゚ ))ノ;; / ) っ (
i | | iにニ`i, (_/i;;; | ) !! (
| | ! `ー‐'" / ゞ:l つ (⌒
i l| ! " ̄ ,,,. /,; ミi |l
| |i ヾ二--;‐' ,;; ,; ミ ||i il i|
| ll _|彡" ,' ; /' ̄^ ̄''''\ ||
l ,..-'" 〈 ; / ヽ
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` ミー,;;' ,l l
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ヾ/ ,i' ト |
'i ' /゙` イ !
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,;;人,,_ ハ / , /
>>229 >新田政義出家後は村単位で分与
分与する領地もなくなってきたんだろうね
新田はただでさえ新恩ないから
232 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 21:08:03.28
233 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 23:06:38.55
234 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 23:15:17.32
最強の武家はもはや最強の地域を全部包括した地域名を苗字にもつ板東英治だろ
お前らな武士団の聖地、板東を名前に持った棟梁だろ
板東英治さんは関東武士団の棟梁だかんな
英治さんなめテンじゃねえかんな(*´・д・)
板東武者の棟梁苗字だべ?
235 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 00:10:36.61
まあ、板東は、徳島の地名だがな
236 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 01:56:53.86
坂東もタイーホされただろ
隠田はマズイよな
徹子もはや我慢がならん…野々村を呼べ
239 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 05:25:42.18
みな頭がどうかしておるのではないか?
240 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 07:02:36.61
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|::::::=ロ -=・=- |, | -=・=- ロ=::::::| ←女装趣味のあるジャムリン
|::::::::/ヽ /ノ ヽ /ヽ:::::::|
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|:::ノ (●_●) |::|
|::| l l |::| ウフフ・・・
|::| __-- ̄`´ ̄--__ |::|
|::| -二二二二- |::|
|::::\ /::::| 私ジャムリンよ
\::::::\ _- ̄ ̄ ̄-_ /::::::/
|Ξ|~ \ / ~|Ξ|
/::::::ヽ/|\_______/|\ /:::::::ヽ
|::::::::::| \ / |::::::::::::|
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>>226 新田一門でマイナーといえば、額戸氏もよくわからないらしいね
242 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 00:21:51.26
綿打も超絶マイナー武将
243 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 01:53:06.09
なんというマイナーw
得川氏は家康がその後裔を称したから有名になったわけで
そうでなければ日の目を見ることは無かっただろうね
244 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 03:28:13.95
義助「我が一門の得川が軍勢を引き連れて馳せ参じて参りましたが」
義貞「得川…?そんなのいたっけ?割とガチで。」
245 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 04:33:10.48
義貞時代には徳川氏は岩松に吸収されてたから存在しない
246 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 21:16:20.87
なら義貞が正しいじゃん
247 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 10:15:08.24
大舘氏、堀口氏は新田氏系の中では
足利氏における吉良氏、斯波氏のような宗家に近い家柄。
一方、里見氏、山名氏、世良田氏は、新田氏系の中では
足利氏における仁木氏、細川氏、畠山氏くらい宗家に遠い家柄。
248 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 15:07:13.01
鎌倉までは
里見、山名、世良田、岩松は独自に鎌倉御家人に勤める同族
それ以外は新田本宗家の統制下に属する被官
249 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 18:00:18.59
世良田って名前だけはよく聞くけど活躍は聞かないっていう
250 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 18:17:50.06
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟ i
`. `Y.. / ー-' ヽ '.
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
`Y´ /::::::://:::/:::::| >< /:::丁´:::::::::::::V゚}∩ * ボク、ジャムリンは
/::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
. /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::} っ ウィキペディアをヤリタイ放題編集・加筆してます♪
//:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧ , ィ´
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世良田のwikiの半分は徳川がらみ
252 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 23:14:59.63
そらそうだろ捏造しまくったんだから
253 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 23:29:47.26
なんかこの時代も保元平治の乱にそっくりだな。
保元平治の乱は源氏と平氏が手を結んで公家政権を倒そうと一緒に戦う。
恩賞の少なさで不満を持ってた所に、上皇側にそそのかされて平家
打倒の軍をあげて源氏は失脚。
元弘の乱は北条を倒すために足利と新田が手を結び一緒に戦う。
鎌倉幕府を倒したのに足利ばっかり持ち上げられて不満を持ってるところ
に宮派にそそのかされて足利討伐軍に組み込まれて結果敗北。
254 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 00:11:42.69
そらそうなるわ。両雄並び立たずって言葉があるだろ。いつの時代も覇者はただ一人
256 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 03:20:17.73
もう新田系のマイナー武将挙げてけ
257 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 00:57:20.78
田中義清
258 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 06:11:39.02
宮方ではない義貞を見てみたい。
完全な宮方の駒となってから楠木も新田もいいとこなし。
北陸で好き放題やれた時の新田は強かったのを見れば分かるように。
259 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 17:07:55.61
尊氏と組んでいれば、足利政権下で軍事部門のトップ・侍所所司の世襲家くらいにはなれただろうに。
>>259 源氏は過去の例を見ても殺し合う運命にあるから
組むとか有り得ない
261 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 03:15:33.72
その通り
一族内でも争ってるしね
河内源氏の血がそうさせる
>>259 足利政権に組み込まれちゃったら常時京都在住で応仁の乱以降に
守護任国の守護代に国乗っ取られて戦国大名になれずに終了だろ
で、運がよく家系が残ってたら徳川幕府に高家認定で家名存続と
史実と大差なくね?
263 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 01:28:34.36
無理w
足利尊氏
梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。
今川了俊
難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
264 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 01:38:15.13
義貞が官軍を率いて下向して、箱根竹之下の直前に総大将だけ抜け出して足利方に寝返ったら、
日本史上初の官軍総大将の寝返りが見られて面白かったのに。
>>262 新田歴代の政治力をみると幕政の中枢で生き残れない気がする
そして早々に失脚し領地に引きこもったとしても、岩松と同じ運命をたどりそう
どちらにせよ史実と大差ないな
義貞は尊氏との誹謗中傷合戦に護良殺害という切り札を出して勝ってるわけだから、
政治的にも決して侮れないけどな。
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269 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 16:21:15.02
顕家「義貞とは合流したくない」
正成「義貞切るべし」
尊氏「義貞の首だけ狙え」
後醍醐「北陸へ行け」
これでどうしろと(笑)
270 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 21:01:56.57
義貞「僕は生きてちゃいけないの?」
271 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 15:29:35.16
南北朝舞台のアクションゲーム出ないかなあ
鬼切り・鬼丸抱えた左中将がいちばん見栄えがいいはずw
272 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 15:55:28.80
とりあえずオナってればwww
反射馬鹿は見下されるだけだからよ
273 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 17:29:10.62
堀口氏は何気に
鎌倉時代に北条得宗や足利家も顔負けの官位を貰っている。
274 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 18:45:25.67
そのネタ散々出尽くしたから
そのネタ何回ループするんだよw
276 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 22:56:39.84
新田家執事・船田ノ入道
277 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 17:56:56.68
なぜ没落御家人新田氏に徳川家康は擦り寄ったのか
なぜ源氏嫡流の足利氏に擦り寄らなかったのか
その後家康の政権が安定するにつれて新田から足利へ鞍替えし擦り寄り、
三河源氏創作が露骨展開されるようになったのか
278 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 18:08:20.45
足利将軍家存在してるじゃん
277
つか新田源氏の力侮り好き
ほとんどの有力源氏は新田に繋がる
義賢、義仲、義国、足利系でも新田に
ついたの多いってか頼朝に冷遇される
まえは義重は源氏の最長老格
279 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 18:12:23.34
つか古代の新田関連みればほとんどの古代の源氏関連そのものと言ってもいいくらい
280 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 18:14:53.77
氏族数でいえば頼朝の方ってほんとに小規模
281 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 18:21:22.99
まあ、新田義重という人の知名度よね
この時代は新田氏はまだ足利家の保護者的立場
逆転するのは泰時のころか?
282 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 18:28:11.07
義国派と義光派は争ってるんだよなあ
甲斐源氏武田信玄が有名だから信玄の知名度が
上がればまた歴史的に消される運命でもあるん
だよね
283 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 19:38:26.33
まず頼朝のときにケチがついてるだろwww
そんで足利尊氏のときにもケチがついてる
そんで徳川家康のときにもケチがついてる
そりゃ歴史的に抹殺されるわ
284 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 18:18:05.04
分倍河原の義貞像かっこいいよな
285 :
日本@名無史さん:2014/04/17(木) 10:51:25.06
286 :
御家人斬彩芽:2014/04/29(火) 20:23:43.76
>>1 .|ヽ∧_ やめなよ!
.ゝ __\
________________________ ||´・ω・`| > やめなきゃ斬る
\ | | /  ̄ ̄ , ヽ
\ ───────────────────| |∩====⊂ノ
\ | | ~.l /ーヽ l ・・・やめても斬る
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `´ ̄ ̄`´ ̄
御家人斬り彩芽
287 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 12:43:04.47
慰安婦捏造朝日新聞と変態毎日新聞は日本から出ていけ
288 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 13:44:40.69
相変わらずなにやってんだ?お前らwww
700年前の今ごろ、黒沼さんと金沢さんが取り立てに行って切られました
シーズン入りです
神奈川で一番人気のあるグンマー。
稲村ケ崎の説明する時に「ここを新田義貞が渡ったんだよ!」
って自慢げに説明する鎌倉市民。
291 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 17:03:04.33
古典『太平記』岩波文庫から刊行開始記念age
292 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 20:04:21.09
まさか、北条が貧乏御家人新田に負けるとはだれも思わなかっただろう
新田は予想以上に戦に強かったと思う
足利がいなかったら、恐らく天下を獲っていた
悪党楠木は間違いなく新田源氏に負けていた
293 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 20:42:52.87
天皇の威信を示すためです。天皇に都合の悪い奴は滅びるのだ。
平家しかり天皇より力を持つと源氏、足利・・・・
維新の錦の御旗って何?
天皇は渡来人で、大陸(朝鮮も含む)から大逃げてきたかヤクザか、末端の戦闘員かも。
歴史板は学問・
教科書の子供の教育じゃないんだからさ。
294 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 21:11:47.02
北条は天皇家に弓を弾いた
天皇家から実権を奪った
滅亡前に物凄く驕りがあった
だから滅ぼされた
必然的に
足利は北朝を立てて天皇家を敬った
鎌倉から王都京都に政権を戻した
だから足利が天下を任された
295 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 22:06:32.26
首都圏では今だに名古屋県と言われるね
愛知県?って豊田だっけ?と言われる始末
296 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 22:36:23.27
>首都圏では今だに名古屋県と言われるね
馬鹿自慢するなよw
さては先祖が百姓の上京田舎モンだなw
297 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 22:40:32.23
先祖がドン百姓、高卒乙w
■有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
平安時代〜鎌倉時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
■家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖に源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
298 :
日本@名無史さん:2014/06/28(土) 03:31:18.05
299 :
日本@名無史さん:2014/06/28(土) 11:56:38.91
新田義貞は総大将ではなかった
300 :
日本@名無史さん:2014/06/28(土) 21:57:35.25
どう考えても箱根竹の下のほうが応仁の乱よりも前だろう。
鎌倉が落ちたのは、今ごろだね。梅雨の真っ最中。
302 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 13:42:07.58
金村義明と堂島ロール 卑しい糞朝鮮人ネットワーク
303 :
日本@名無史さん:2014/08/05(火) 00:36:10.12
やはりグンマーは恐ろしい。39度の暑さに耐え抜いた猛者ばかりだからな。
暑くても30度ちょっとの湘南民なんて、戦ってるうちにバテて蹴散らされてしまうよ。
305 :
日本@名無史さん:2014/08/08(金) 22:16:01.22
鎌倉市民の新田義貞イメージって正直どうなんだと気になるわ
英雄なのか闖入者なのか
306 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 00:58:50.24
足利家っていうのは尊氏の2代前くらいから北条家転覆を狙ってたようだが、新田家って何をしようとしてたのかな?何しようとしてたか分からない新田家が義貞の代になって「黒沼を斬っちゃったから、どうせ潰されるなら打って出るか」
と博打に出て鎌倉落としたんでしょ?
それとも尊氏と前々から談合があって、鎌倉周辺の武士団を味方につけると確約済みだったのかな?
確約済みだったら、脇屋義助の大演説なんてなかったと思うから、やっぱり博打的が感じで打って出たのかな?
談合済みだったら、鎌倉陥落後はとっとと領有権を放棄して足利側に主導権渡してたよね?
307 :
日本@名無史さん:2014/08/11(月) 07:13:22.49
>>306 義貞は千早城攻城に参陣していたが、病気を理由に新田に帰ってたん
じゃない。ばくちじゃないんじゃない?
戦も知らない京都の公家さん達が戦に口をはさむもんだから、
新田義貞は結構翻弄されていたらしいね。
>>305 鎌倉市民なんてバカだから 稲村ヶ崎すげー それだけ
義貞のプレゼンスは尊氏追討後は実態以上に大きくなっていて、
義貞や顕家ほどの戦果のない楠木正成あたりは必死に足引っ張ってたからな
>>305 鎌倉は神奈川県民に嫌われているから気にしなくてよい
鎌倉を滅ぼしたら藤沢から感謝状が届くレベル
312 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 21:57:19.98
義貞が黒沼を斬っちゃって、幕府が新田を攻めて来るってあったけど、鎌倉に
新田ごときで軍勢を仕向けてくるのかね?
313 :
日本@名無史さん:2014/08/13(水) 22:26:52.78
プレゼンスか〜www
まあそういう考え方も面白いかもなw
湊川も楠木が新田の指揮下に入るのをいやがって自爆したようなもんだからな
315 :
日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:20:00.04
>>314 しかし、楠木 逃れようと思えば逃げられたのに。逃げて千早城に篭れば
面白かった。あそこで、死ぬには早すぎる。
316 :
日本@名無史さん:2014/08/14(木) 22:58:56.27
湊川の戦いは新田が敵の作戦に乗って勝手に動いたって言われてるけど、
新田軍の誰かが遠くにいた足利の船に矢を射て、尊氏がお前ら誰かやり返せるヤツいないの?と
言ったら誰も出てこないから、佐々木なんちゃらって人に「じゃあお前やれ」って言って
佐々木がブルブル震えちゃってなかなか矢を放たないから足利軍の誰かが変わりに矢を放ったら全然飛ばなくて
恥かしい!ってことで自暴自棄になって船を動かしたのがきっかけでしょ?
読みにくい
句読点をつけような
318 :
日本@名無史さん:2014/08/15(金) 20:55:07.80
新田氏は、誰の指示を受けていたのだろう。
関東の影の支配者、多胡碑にある放光寺がなぞを解く鍵だろう。
319 :
日本@名無史さん:2014/08/15(金) 22:04:53.85
鎌倉落とした後の新田と足利の動きを見れば、両者が鎌倉攻めを示し合わせて
たかは疑わしいね。
すなわち新田軍の単独で倒幕の兵を挙げた(親王の綸旨を受けて)ってことか。
親王の綸旨ってどんな内容だったんだろうか?
貴殿が立てば関東諸国の武士はそなたにつくよう申し付けてあるとか?
320 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 02:16:11.37
そもそもなんで尊氏は幕府を攻めたの?
足利家ってなんか制裁くらってたっけ?むしろ超優遇されてたんじゃないの?
321 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 07:24:29.75
>>320 得宗高時や得宗の家臣の内官領に軽んじられていたから。
322 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 08:19:35.28
お前らはマジで言ってるのか?w
北条が滅んだのは自業自得、所領の乗っ取りや
御家人株の売買で勢力を広げてきたのが北条家
だからな
323 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 11:57:11.41
>>322 そいつらが鎌倉幕府で北条一門のような顔してた
御家人の足利を担ぐのも変な話
324 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 17:45:56.91
足利一門は、引付衆や評定衆など幕府中央の役職にはついておらず、幕府内での立場的には外様。
代々婚姻関係を結んではいるけど、この点で北条一門とは明確に一線が引かれている。
325 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 17:48:42.50
尊氏が上洛する時の状況は、
かねてから楠木正成が千早城に籠城中、
1月に播磨で赤松円心が挙兵、京都まで進軍
2月に四国で土居通増、得能通綱が挙兵、長門探題北条時直軍を撃破、
同月に伯耆で名和長年が挙兵、佐々木清高軍を撃破、
3月に九州で菊地武時が挙兵、
3月〜4月にかけて赤松円心が京都を数回攻撃、
という感じで続々と反幕府勢力が挙兵していて、
流れは完全に後醍醐側にあり、西日本はすでに火の車だった。
こんな状況なので上洛する時点で選択肢の一つとして裏切りが頭の中にあって、
名越高家の討死で決断、という感じではないかと思われる。
明確な動機があるのではなく、その場の流れでの判断。
326 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 18:07:13.44
323
ちょっと北条氏の新田一族に対するそれまでの処遇を考えてみようか?
越後にいる新田系里見一族も新田氏に呼応すべく軍勢を発している
足利は知らん、山名時氏が足利についたのは尊氏、直義の母(扇谷上杉)
が時氏の従兄弟だからだ
327 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 18:11:41.29
上杉景勝の親父がいて拠点とした地域は元は新田一族の勢力圏
328 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 18:21:41.39
足利一門でも縁戚関係の近い桃井本家は新田義貞についているしな
この辺の関係は当時の縁戚の近さが関係してる
畠山、斯波ってのは足利庶流から別れたわけじゃないからな
どちらも分家だが足利を継がないで分家してる
329 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 19:00:40.10
とくに畠山に関しては元は新田氏の入り婿になって分家してるんだが
ここで子供を成したのが後世の岩松一族
新田が滅んだあとは岩松新田家として新田氏の家名をついでいるな
北条氏から平氏の畠山氏の当主が死んだのでその未亡人と結婚し畠山氏
を継がないか?って話があって成立したのが源姓畠山氏だ
330 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 21:07:04.12
尊氏は六波羅落とした後はどうするつもりだったのかね。
331 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 21:18:30.14
直義の考えはま〜だ分かるんだけど尊氏だけは本当に謎
まあぶっちゃけあの転戦ぶりは生き抜くことだけに必死
だったとしか思えない
尊氏は将軍になったけどはっきり味方についてるの細川
高、吉良くらいでしょ
山名、斯波はいつ尊氏にとって変わっても不思議でない
332 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 21:26:00.54
まあぶっちゃけifがあれば南北朝の時代に足利氏が滅んでたとしても不思議じゃないわ
333 :
日本@名無史さん:2014/08/16(土) 23:59:00.90
そもそも南北朝なんかになってないかもしれん。
千早城の戦いで北条側がとっとと城を落としてたら尊氏は畿内へ遠征
する機会なんぞなかっただろうに。
親戚の金沢なんちゃらが尊氏は外に放つなと猛反対するくらい、幕府に取っちゃ切羽つまった
状況だったんだな。
しかし平野部の戦いでは幕府軍はやはり強かったようだけどね
かりに幕府軍が一枚岩だったら畿内勢力も決め手を欠く感じじゃないの
335 :
日本@名無史さん:2014/08/17(日) 07:02:31.34
>>331 一色 仁木 今川 は?
>>334 赤松 名和 千種 あたりじゃパンチがないな。やはり尊氏の叛乱
がなければ。
高氏だってあの時点だからキーパーソンになり得たけど、
それ以前はお話にならず、それ以降になると雪崩れ挙兵組の筆頭くらいの扱いだろう
新田はある程度共同戦線が可能として、それ以外の関東御家人の挙兵もあり得るから、
タイミングは結構難しかっただろうな
337 :
日本@名無史さん:2014/08/28(木) 00:43:18.70
鎌倉陥落と六波羅陥落のタイミングが絶妙すぎて震える。
後醍醐はただのラッキーマン
338 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 01:53:56.91
なぜか竹ノ下の戦い前の三河駿河方面での大勝については触れられない義貞かわいそう
だって直義相手だろ?
340 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 14:55:26.12
>>333 楠木がやたら持ち上げられているが。赤松が挙兵しなきゃなんにもならなか
ったんじゃない。
341 :
日本@名無史さん:2014/08/29(金) 21:13:27.15
>>338 まあ、矢矧川の戦上手は毛利元就も評価してるから許してやれ。まあ、伝承だけど。
342 :
日本@名無史さん:2014/08/30(土) 01:26:17.60
北条残党狩りの評価もしてやれよ。
中先代の乱の時も天皇は意固地にならずに
「行ってもいいが、せめて脇屋義助も軍監で同行してけ」とすれば良かったのにね。
どうして郵便も電話もない時代に、同時多発的に各地の豪族が挙兵したのか?
当時の情報網について調べている人はいないの?
344 :
日本@名無史さん:2014/08/30(土) 11:41:25.59
なんたって左中将は日本史上、100人くらいしかいない正一位(追贈)のひとりだからな
345 :
日本@名無史さん:2014/08/30(土) 23:20:18.50
根津甚八「たった150騎でか」
片岡鶴太郎「高時はそうは思わぬ」
は大河ドラマ史上に残る名言。
「岩松を呼べ…」
347 :
日本@名無史さん:2014/08/31(日) 01:22:23.37
「良いお子じゃのう」
>>339 直義は些細なことで意気消沈して腹を切るだの出家すると言い出す人と違うから手ごわいよ
349 :
日本@名無史さん:2014/08/31(日) 13:31:03.06
>>348 尊氏 義貞 正成 の弟のうち 直義が一番切れるな。義助もそれなりなん
だろうが、スケールは直義が上。正季は「七生報国」で有名なだけ。
350 :
日本@名無史さん:2014/08/31(日) 15:41:19.65
足利・新田・楠木兄弟6人とも最期が哀れだな。
尊氏と義助は畳の上だろうが、戦乱の途中の無念と空しさの中での死去だし。
351 :
日本@名無史さん:2014/08/31(日) 20:10:01.35
352 :
日本@名無史さん:2014/08/31(日) 22:13:48.17
北条って凄くないか?
尊氏の長男は殺されて、北条の血筋を引いてる千寿王はこっそり鎌倉
を抜け出す。
そんで北条の親戚であった足利が結局天下を掌握する。
北条氏すげーわ。
353 :
日本@名無史さん:2014/09/01(月) 09:01:21.09
秀忠の実母が北条だったら完璧だったな
354 :
日本@名無史さん:2014/09/01(月) 11:04:15.96
>>350 義助も客死じゃないか? 伊予って本拠? そりゃ、河野氏が勢力
を持っていたから、苦戦続きということもなかっただろうが。
355 :
日本@名無史さん:2014/09/01(月) 18:26:32.95
>>349 みんなで自害するときの「えんき-、これでよろしいくゎ〜」
フランキー「太守お見事でござります」も追加で。
子供心にぞーっと来たわ。
1219年頼朝一家全滅のあとは
八幡太郎義家の嫡流のはずなのに貧乏御家人に成り下がるとは情けなや
357 :
日本@名無史さん:2014/09/01(月) 18:42:21.76
>>294 しかし、どちらが優れた支配者だったかと言うと圧倒的に北条
358 :
日本@名無史さん:2014/09/02(火) 01:57:59.13
>>356 新田義重が頼朝の下にはせ参じなくて自立して旗を揚げたから。
359 :
日本@名無史さん:2014/09/02(火) 04:43:05.99
義貞「藤島城へ救援に駆けつけるぞ!」
部下「敵じゃ!」
義貞「アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!」
頼朝の同盟国で富士川の殊勲賞の武田氏ですら鎌倉期は恵まれていたとは言えない
新田は上信越の一族が集まってみたら結構な兵数になったんだからまだ良いほう
361 :
日本@名無史さん:2014/09/02(火) 19:49:23.94
>>345>>349 姉さん事件です「これで良かったのじゃ。これで兄上は天下の大将軍じゃ。」
高校教師「弟を殺したあっー」
鎌倉って難攻不落な立地だったのに、新田の鎌倉攻め以降安々と攻められ
その都度陥落してるのなwひでー時代だわ
楠木なんて戦後の反乱では何の戦功もないのによく讒言ができたもんだ
左中将は負けてもかなりの武勇を見せつけてるし連携が取れた時は尊氏追い込んでるのに
いや、だからこそ讒言したのか。一蹴されたのも当たり前だろうな
365 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 19:23:15.38
>>363 >鎌倉って難攻不落な立地だったのに
よく聞くネタ話だが、鎌倉が攻められて落ちなかったという具体例の方が思い当たらない。
全くのガセだね。
366 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 20:11:04.74
金ヶ崎城は再び義貞が奪還した事はあんまり知られてないよね。
2人の親王と長男が捕らえられて死んだって最初の戦いしかあまり知られてない。
義貞って本当勝ち戦はあんまり語られないなあ。
宮方と半ば手を切ってからの義貞の北陸の戦いはまさに北陸無双状態だった。
なぜ最後にあんな小勢で出発してしまったのか…。
367 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 20:19:42.63
さあなあ
368 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 21:21:18.08
湊川での正成見殺し、金ヶ崎での親王&嫡男放置で脱出のイメージが義貞の評価を相当下げてるわなあ。
369 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 22:58:02.81
湊川での正成見殺しって実際は足利勢が新田の挑発に乗ったんじゃなかったっけ?
湊川は楠木の布陣の意図がはかりかねる。相手は水軍持ってるし、兵力も倍。
陽動もクソも、少数の迎撃側の正面からわざわざ強行上陸する馬鹿もないもんで
東に回りこまれて簡単に囲まれるのは目に見えてるではないか
(だから生田に移った新田は楠木勢の壊滅後も残存兵を吸収して戦えてるのに)
足場を選んだ新田ですら、その後の激戦で囲まれる前に逃げないと討死しかねなかった
結局、楠木ほどの有力武将と意見が食い違って、それ以上喧嘩すると内紛になるから
お互いやりやすい場所でやりましょうと引き下がっちゃったのかもな。何か総大将としては情けないけど…
372 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 01:43:59.57
見殺しにしてないよね、実際に。仲も悪かったのかな?
本当に悪かったら一目散に逃げてるでしょ。でも義貞は逃げずに引き返し
て足利と一戦交えた。
373 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 09:43:40.36
新田はなんで北陸じゃ強かったんだ?
374 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 10:23:49.63
>>370 というか、楠木は馬鹿正直にも17回も攻撃をかけている。逃げよう
と思えば、逃げれた。
375 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 12:38:46.57
>>373 北陸には新田を、というよりも南朝を支援した土豪がいたからだと思うよ
尊氏だって一度は敗れて九州にまで逃亡しているのだし
北朝を担いで錦の御旗を掲げたらそれに集まってきた連中がいたわけで
ゲリラ戦が得意な楠木と騎馬戦が得意な新田の違いはあるだろう
新田が北陸で強いのは横から口を出す公家がいなく納得から?
377 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 15:13:43.21
>>375 尊氏は、信長の桶狭間以上のことをやっている。多々良浜で6万の
菊池武敏にわずか1千の軍で勝っている。本当に危ないところだった。武光
だったらあの世に逝っていたはず。
楠木は京の放棄を薦めたりした手前、
最前線で奮闘してみせないと通敵疑惑や、面子の問題があったのだろうかなあ
379 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 20:40:59.75
義貞の越前経営を語るには瓜生氏の活躍を外せないわな。
瓜生保(たもつ)、義鑑坊、重(しげし)、照(てらし)の瓜生兄弟、一文字名がかっこいい。
380 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 20:46:24.91
湊川での新田楠木の連携の不具合の実情はわからんが、
負けるのは必至なのに、天皇または公家連中にこんなところで戦線構築を命じられたことへのやりきれなさは共有してる感じはする。
381 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 20:59:10.55
なら戦わずして逃げるとかすれば良かったのに。
382 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 22:40:41.99
>>381 正成が赤坂城でやったように消えてしまったらおもしろい。
本当は尊氏が九州にいる間に北陸を抑えたかったんだろうな
それをさせなかったのはお公家さんたち
地方制圧よりも、犬に餌を与えるように適当な女を与えて都で飼い慣らすことを企んだ
385 :
日本@名無史さん:2014/09/04(木) 23:23:38.65
義貞が至上最悪な梟雄になれたかもしれんよね。親王二人を拉致して、北陸から突然反転して京都を制圧するっていうことも出来たよね。
386 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 00:43:01.76
公家が武士を嫌ってたので、楠木や新田を信じていないのだろうね
天皇だけが頼りにしてるけど取り巻きに追い出された格好。
>>384 左中将があれで女好きだったら可愛いけど、匂当内侍の話は義貞の戦死があまりにあっけなかったので
太平記が想像でくっつけた話のようだな 色恋沙汰にも縁がないなんて気の毒な左中将やw
388 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 02:16:25.07
>>377 菊池と互角以上の勢力を持った少弐頼尚が尊氏の味方についていたのに、その戦力差はありえないだろw
389 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 05:59:44.25
>>388 桑田博士の「日本の合戦」による。太平記や梅松論をそのまま使用し
たのかもしれないが。
畏れ多くも足利総帥の尊氏と菊池・阿蘇がガチバトルしてる時点で、
個人的武勇って軍の統率に重要なのかね、中世の兵なんて寄り集まってはすぐ逃げちゃうし
足利より小勢の新田が前線飛び出してたのも同じ理由か
391 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 07:41:55.18
>>390 その割には、楠木の兵は直義を探して17回も殴りこみをかけたらしいぞ。
言ったら悪いが、楠木の兵はけっして由緒がある兵じゃない。伊予のサンカ
とか賎民が多数参加していたんだから。
392 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 08:02:36.43
>>387 新田次郎の「新田義貞」には純情な男に書いていた。それに比して、北方謙三
の菊池武光は女好きに書かれていた。
393 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 14:05:44.31
>>387 巴御前にも非実在説があるらしいし
匂当内侍も非実在説があるんだっけ
394 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 19:22:40.87
匂当内侍に溺れてたとされる時期は瘧に罹ってたと言うのが峰岸説
395 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 20:21:02.55
匂当内侍じゃなくたって側室くらい何人かいたでしょ?義貞に限らず。
そんだったら尊氏の方がもっと駄目だろ?
直冬を認知しないで恨まれて、それが将来自分の首を絞めることになってるんだから。
396 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 21:09:25.70
天皇に親王を差し出せと言ってる時点で凄いよね。そんな人歴史上他に
いたか?
397 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 22:31:34.65
家康が言ってなかった?大坂の陣後に親王に東下を請うとか?
398 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 23:04:30.19
後醍醐、足利の和睦時の比叡山の一件は義貞のクーデタと見て間違いないだろうね
その後、越前〜越後〜上野ラインの北陸朝廷が形成されれば、まさかの三帝鼎立も有り得たんだが、
北陸に蟠踞した武将はいつも天下とれないねえ。
399 :
日本@名無史さん:2014/09/05(金) 23:46:29.35
>>397 人質と猶子とじゃ全然違うだろ
義貞の場合は人質だよ。
400 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 00:48:06.00
後醍醐も足利を頭から信用するほど単純じゃないだろうし、
新田を外して和議進めたりするのかなあ
太平記以外にソースないからクーデタってやや誇張じゃないかと…
401 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 02:21:54.14
>>398 北陸に落ちた時点では三種の神器が偽モンだと知る間まで三人の天皇
がいた事になるよね。
北畠の東北追討にどうして皇子を付けたの?
皇軍だと鎮守しやすいのかな?
403 :
64:2014/09/06(土) 11:17:54.57
>>402 兼良親王なんか徒手空拳だよ。武家もおらず、北畠や千種みたいな武家貴族もおらず。付き従った
のは文官の五条一族だけ。菊池武光が惣領を継ぐまで、薩摩の小豪族の谷山氏の元で
苦労した。
天皇ー皇子将軍ー公卿ー武家という支配体制確立のために各地に将軍府を設置
405 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 12:39:08.58
北陸には義貞とともに洞院実世という大足利強硬派の曲者公家が下向してるところが興味深い
406 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 12:40:15.02
大足利→対足利ね
407 :
64:2014/09/06(土) 13:09:05.65
しかし、兼良の東征も中央で楠木正儀があのていたらくじゃ頓挫するわな。
408 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 19:43:30.26
全国津々浦々戦乱だったんだなあ
409 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 21:11:58.47
脇屋義助と洞院実世は越前で喧嘩でもしてたんか
義貞の戦没後は吉野に戻って、義助が参内した時もむちゃくちゃ仲悪そうだけど
410 :
日本@名無史さん:2014/09/06(土) 21:18:41.11
ああ、例の「負けて逃げてきた奴を昇進させるのおかしくね?」の件かw
411 :
日本@名無史さん:2014/09/07(日) 05:56:30.68
四条隆資が「義助が悪いんじゃない、帝にお伺い立てて大将の権威が軽い体制のが悪いんだ」と反論してるね。
後醍醐への批判になり得る反論だけど。洞院が口を出して義貞の統率権が確立できないので、義助と事ごとに対立して、
最後に義助が彼を締め出して統率権を握るような形になったのかしらね。
顕家は陸奥から越後に進んで、北陸勢と合流して越前・美濃・尾張あたり抑えればよかった
北畠にとってみれば新田も敵なんですが?
北畠軍には義貞の子の義興もいるし、後醍醐から上洛要請を受けた時に脇屋と協議してたのだろ。
義貞のほうが気を使う立場だよ。
1月に美濃に来ても、越前は難路ですぐに動けないようだし、とりあえず新田は越前で足利を引きつけておいて、
北畠軍は兵糧もないしとりあえず速戦即決して無理なら伊勢に行くわ的な展開では。
親房が東国、顕家が奥羽、新田が北陸
これを同時にやってればどうなった
416 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 21:50:11.25
親房って戦に出たことあるの?
417 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 23:37:42.47
親房は野戦の経験はないような。
関東に下向して小田城とかを転々としてた時は何度も城攻めにあってるから、
籠城戦の指揮くらいしてたんじゃねえの?
418 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 02:48:29.20
むしろ奥州藤原氏みたいに一帝国築いちゃえば良かったんじゃないの?
南朝も京や奈良じゃなくて、奥州に後醍醐天皇を移しちゃえば良かった
んじゃないかな?奥州じゃ足利一門の威光なんか全然だろ?
むしろ北陸の新田一門と奥州が仲良くやってれば良かったんじゃね?
新田の勢力の強い越後で両勢力をドッキングさせれば面白かった。
けど後醍醐の吉野との連絡が伊勢−美濃−越前の線で断たれてたら厳しいだろうな
420 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 08:10:26.34
421 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 08:11:00.35
>>418 そのうち、懐良親王と菊池武光の勢力とで挟み撃ちだ。
422 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 09:48:28.79
新田一族も、足利一族もそうだし、宇都宮も結城もそうだろうが、
地域内、同族内の所領争いが南北朝の争乱の基本構図だとすると、
後の戦国時代のような地域ブロック化、領国化という戦略はうまくいかないんだろうなあ、とは思う。
九州南朝勢などはそれでも比較的、勢力圏を維持したけれども。
423 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 10:26:54.23
424 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 10:50:23.02
まあこの時代の公家=文化人=歌人(アーティスト)って面が大きいからな
もともと物語りとかは女性作家が書いていたが男性作家も現れ始めた時代だ
425 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:02:48.11
九州はアンチ中央だから、建武政権みたいに有力三氏が反発すると尊氏に雪崩れるが、
今川了俊みたいに彼らをある程度立てつつ分断工作すると、相手を孤立させられる
どの地域もそうだけど
426 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:08:36.46
了俊は失敗してるけどな
427 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:23:30.16
ほんとだ、勘違いしてた。何か島津に土下座して帰参を頼んだとこだけ覚えてた
了俊は少弐を懐柔したのに殺害して島津の離反まで招いてんだから失敗だ
428 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:26:23.41
へー、そんな説があるんだw
聞いたことないがま〜た作ったのかお前なwww
429 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:47:41.03
了俊は島津の所領安堵をそのまま幕府に伝えさせてる
結果、不信感を持った幕府から代官斎藤兵庫を召し出されて事情を聴取された
これだけやれば島津も帰服するだろうみたいな手紙は書いてるよ
430 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 12:09:43.21
>>426 一色範氏は九州に基盤を築けなかったんでしょう。
431 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 16:32:27.31
代々、九州で苦労しまくりの渋川さんちよりはマシかと。
432 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:13:28.85
>>431 やはり、了俊さんで駄目だったら一時的に懐良親王国だ。
433 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:28:18.49
432
肥後に菊池氏の勢力をバックにそれに近いのはあったんだけどな
434 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:32:06.15
けっこうこの時代は各地に逃れた親王を立ててのプチ親王政権とでも言うものはあったのさ
435 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:33:57.67
南北朝が終わって歴史の中に消えていったけどな
436 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 18:03:34.26
>>433 正平23年には7万の兵で東征を試みた。そのころは大宰府が本拠
になっていた。
437 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 18:33:12.34
明も公認した日本国王 良懐が、北九州にいたな。
438 :
日本@名無史さん:2014/09/14(日) 18:58:20.73
>>422 懐良の東征も松浦水軍や瀬戸内水軍が纏らなかったから頓挫したのです。
楠木の最終奥義、ウンコ攻撃とかいう非人道的兵器
440 :
日本@名無史さん:2014/09/17(水) 18:39:27.82
どうして皇居に楠公の騎馬像あるのに
新田だけないの?
坂東武者だったから?
442 :
日本@名無史さん:2014/09/18(木) 21:19:45.10
分倍河原駅前に超かっこいい義貞像があるからそれで我慢しろ
443 :
日本@名無史さん:2014/09/18(木) 21:50:45.39
うるせえよ屑
福井県なら新田義貞だらけだがな
楠さんは足利王朝からも慕われたが
新田は睨まれたから?
七生報国っていうスローガンを近代国家が利用したからだろ
太平記の作者からしてあんまり義貞に好意的じゃないから
でも鎌倉市民はすげーと思ってるよ(たぶん)
447 :
日本@名無史さん:2014/09/19(金) 23:24:42.59
でも、太平記の義貞登場頻度はかなり多いし、京都攻防戦の記述も北畠をはるか後景に押しやって活躍を描いてる。
しかも、北陸戦線での事績は細微にわたる。
ナレーション「新田義貞は燈明寺畷のぬかるみの中であっけなく死んだ」
449 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 10:41:44.64
>>448 「にわかに没す。」か? 神皇正統記でも、正成が湊川でそう書かれていた
ね。
中体連や高校総体での織田くんや新田くんの苗字強そうなのが不思議w
徳川家康は足利や豊臣に対抗して
新田義貞の子孫を名乗ったが
その子 光圀は楠木正成オタ
しかも徳川幕府自体は室町幕府の制度の拡大版を踏襲
452 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 18:27:41.21
徳川時代は徳川=新田が「最後の勝者」というのが自明の図式となっていた。
その立場から、あえて徳川光圀は悲運の楠木正成に脚光をあてたにすぎないともいえる。
453 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 19:44:28.11
>松平長親
母親は鈴木重勝の娘
加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→重員(母親は楠木正成の娘)→重勝
源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子in
454 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 19:46:11.94
漫画やアニメに出てくる「新田くん」はだいたい主人公のライバルだが負ける。
455 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 20:01:12.81
456 :
日本@名無史さん:2014/09/20(土) 23:09:36.40
457 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 08:25:54.32
>>453 >>456 源平藤橘の4大姓のうち 平のDNAが入ってないと言われる
んですね。源平交代論ですか?
458 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 18:53:07.49
伊勢平氏←短期すぎる
北条←幕府の頭になっていない
豊臣←完全に天下をとっていない
交代論って何よ
459 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 19:54:40.76
完全に天下を取ってないなら鎌倉幕府だってそうだろ
460 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 21:19:33.46
天下取ってないなら霜月騒動も起きないしw
461 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 21:38:37.65
源平交代論なんか信じてる馬鹿まだいるのか?
信じないけど否定の仕方がなんか違う
463 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 08:35:56.37
464 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 17:19:03.44
サンゴKYカメラマンの近況
http://i.imgur.com/ihZG9qc.jpg 「七五三や入学式の記念写真専門店として地元では人気です。近辺に3店舗もあるから商売繁盛だよね」
(近所の住民)。1989年4月20日付の朝日新聞夕刊に『サンゴ汚したK.Yってだれだ』という見出しの
記事が掲載された。沖縄県西表島の世界最大級のサンゴに“K.Y”という文字が落書きされていたと告発。
日本人のモラルが低下したと嘆いているが、この落書きが当の朝日新聞カメラマンによる自作自演だった
ことが判明、当時の一柳東一郎社長が引責辞任する一大虚報事件となった。
サンゴ事件を捏造した元カメラマンの現在の自宅は、経営する写真館から歩いていける距離にあった。
朝8時。パジャマ姿で新聞を取りに出てきたところを直撃すると、元カメラマンの表情が変わった。「もう
勘弁してください。あれから25年、必死で頑張ってきたんです。以前、週刊誌に書かれて近所に知られて
しまったので、写真館の名前まで変えたんですよ。(写真館は)今は息子が後を継いで私は引退状態です。
また外を歩けなくなる。勘弁してくださいよ」。ちなみに元カメラマンが読んでいたのは『毎日新聞』。
もう『朝日』は思い出したくもないということか。
465 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 18:42:12.16
平家政権が約25年、織豊(笑)が約30年、短すぎるだろうw
平家政権はともかく織豊(笑)とか言うくだらない時代は教科書から省けw
466 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 19:47:53.06
幕末に新田義貞の挙兵を倣って尊攘運動を起こそうとした幕府おひざ元関東の志士、
あるいは官軍の手引きをした上州の無宿・博徒が出たことを考えたら、近代への影響は多少はある。
西園寺公宗、北条泰家、護良親王の3人の捕縛のうち1回欠席して謀反を疑われたりしている
469 :
日本@名無史さん:2014/09/26(金) 21:16:35.64
正成って和泉河内の領国運営はどうだったの?
いつも動員兵力少ないと思ってたんだが、最大に動員してこの二カ国でどれくらい
集まるのかね?
>>469 最低でも1万は集まるだろ。河内和泉は平地が多いから、石高は半端じゃない。
471 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 17:24:07.92
>>470 吉川英治の「私本太平記」には 湊川出陣前1200しか兵が集まらない
のを正成が嘆いている旨書かれていた。両国の国守が1万兵があるところ、1200
しか集められないだろうか?
472 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 20:59:15.01
>>471 血筋的には足利と河内源氏嫡流を争える石川氏とかが、何の土産もなしに河内の悪党出身の楠木に従うとは思えんけどな。
473 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 22:15:17.19
>>472 たぶん、植村清二氏の本だったと思うが、正成の軍の中に 大和 伊賀
の一族 菊池氏 丹波の蜂谷氏 伊予の杉本氏 の兵が混じっていた と書かれて
あった。余程、正成が見捨てられていたんだなと思う。国守でない一地頭、赤松氏
が白旗城に2000集めていたのと大違いですね。
474 :
日本@名無史さん:2014/09/29(月) 12:44:17.66
まあ、見捨てられていたのは後醍醐なんだろうけどな
475 :
日本@名無史さん:2014/09/29(月) 15:29:07.21
>>474 楠木の勢力は、児島高徳みたいな小勢力だったのかもしれませんな。
結構な勢力だったと思うよ
しかし建武新政以降はあの活躍がウソのように上手くいかない
477 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 01:33:10.04
護良の与党として失脚してるし
478 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 08:09:00.54
>>476 というか、千早城や赤坂城に立てこもった中に 平野将監とか
湯浅定仏とか一族以外の軍勢が500もいる。それで、総軍勢700から
500を引くと200程しか楠木の兵はいない。
479 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 18:37:08.56
>>469 正成の湊川時の兵力は、菊池武吉150 伊予の杉本党100 丹後の蜂谷党100と
あわせて、700.楠木勢は350 それに楠木一族は 大和 伊賀 遠くは 常陸から
参加している。桜井でいくらか返しているが、あまりにもひどい参集具合。
480 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:35:49.17
足利>>>>>新田>>>>赤松>>>越えられない壁>>>楠木
でよござんすか?
堺 伊勢 比叡山まで 南朝を離脱して 尊氏たち 足利派に寝返ってるからな
楠木さんも お手上げだったろう
482 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:52:41.67
新田を切って足利につけと進言したのは先見の明でも何でもなく、
後醍醐の錦の御旗が国人たちに見向きもされなくなった現実を突きつけられた結果だな
483 :
日本@名無史さん:2014/10/01(水) 23:19:54.63
>>480 菊池とか名和もお願いします。
菊池も武敏ではなくて武光なら尊氏は九州の地で散っていたかも知れない。
太平記を読んでると、正成は義貞の性格をよく把握してて、責任を感じすぎるほうを懸念してるのだよな。
新田を切り捨てて和睦なんて官軍を自壊させる提案するとも思えないんだが。。。
出陣前に激論に及んで、自分の意見が容れられないならこうしたほうがマシだ!とか失言しちゃったのでは
485 :
日本@名無史さん:2014/10/02(木) 06:51:20.84
しかし、多々良浜で 尊氏と直義が討たれていたらどうなるだろう。
尊氏の瞬発的な軍事政治能力と、武光の名代的立ち位置+官軍の威光では、
九州諸将の切り崩しはギリギリ可能だった。でも危なかった。
関ヶ原の家康的な意味で勝利の蓋然性高かったと思う。南朝で尊氏はオワコンと思ってた公卿が多いのも分かる
487 :
日本@名無史さん:2014/10/02(木) 20:41:18.24
そもそも太平記は、物語 半分フィクションです
488 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 02:43:48.82
>>482 そうなの?単に正成が領国運営の失敗に見えるけど…
国人がついてこない、思うように兵が集まらんって言ってるけど、北陸落ちて
親王二人までやられても新田軍は錦の旗を振りかざして北陸無双しかけるくらいの
軍力を保持してるんだが…。
489 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 02:50:45.49
>>484 逆なんじゃね?新田がいつまでも楠木の夢云々と言ってる後醍醐の目を覚まそう
としてたんじゃないの?
叡山に落ちるのはいいとして、ある程度の兵力を保持してる新田軍を切り離してどうやって
その後京を取り戻すの?って感じなんだが。
義貞だって「え?2千も集まらない楠木軍と結んで、その気になれば万単位は動員出来る
力がある我が軍を切る??」と思ったんじゃないの?
>>487 挙兵の日時なんかは太平記の5月8日(か、それ以前)のほうが信頼できる気がする
峰岸本でも匂当内侍関係はフィクション扱いだが、
義貞と正成の湊川での関係や同時代人の評価は太平記をわりと下敷きにしてたりする
491 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 19:14:47.73
>>490 ありもしない匂当内侍を登場させて、その女とイチャついてたせいで足利に
負けたとか書かれて、ちょっと酷いよね。
湊川の戦いで全然兵が集まらなかった楠木が悪いと思うが。
石田三成が関が原で島津に「たった1500か…」と言ったのを思い出したわ。
楠木もせめて5千くらいあれば直義を撃破出来たんじゃないかね。
492 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 19:23:51.64
490
越後の里見一族と連絡を取り合ってる文章は手紙みたいので残ってるからな
軍勢発したのは合流してから、それだけじゃなく奥州の方とも北条はなにかで
もめてる
確か金銭絡み、恩賞関連から端を発した荘園乗っ取りなんかこの時代は凄かった
らしいからな
どんどん何とか騒動が起こって荘園を北条に乗っ取られていた時代
493 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 19:38:54.69
元寇があった九州はまだよく分からん時代だな
大友、島津、少弐が荘園を広げていた時代だからな
大内が勢力を伸ばしたのはどういう経緯なんだろ?
吉野絡みの熊野水軍はこのころ瓦解したらしいが
494 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 19:43:50.21
あ〜、平安末期にはもう縮小してるくさいな
村上水軍だの河野水軍はその末裔
495 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 19:48:28.90
豊後なんて秦氏だのなんだの言ってたのいるが勢力張ったのは
ほとんど大友氏の一族ばっかりだけどな
496 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 20:36:52.42
それ以前になんらかの勢力の痕跡でてるの?
大友も島津も一族を広げていき荘園をつくり勢力を伸ばしている
わりかし謎なんだよな〜
497 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 11:11:01.51
西征府が勢力を張ってられたのも、菊池氏の内紛がなかったからですな。(友党
の阿蘇は除く)
498 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 01:23:29.81
兵が集まらなかった段階で、やっぱり楠木って湊川で討死覚悟だったのかなって気がする。
新田も官軍総大将なのに敗戦続きでは面目ないからと、討死と一騎打ちしたがって周囲を困らせた
下手したら、湊川の段階で義貞と正成の2人とも戦死なんて惨状になりかねなかった
499 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 16:59:25.73
尊氏が西に敗走した時、官軍が追いかけたらどうなっていただろうね?
>>499まず、官軍前衛部隊の寝返りは 覚悟せねばならん
501 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 19:55:59.79
しかし、湊川のあとも、石見とか伊予で南朝が優勢だとは面白い。
502 :
日本@名無史さん:2014/10/10(金) 21:00:08.47
尊氏にどこまで勝算があったかわからないが、
第一次京都攻防戦、豊島河原、兵庫あたりで負けたあと、
九州までいったん落ちる思い切りの良さは日本史上でも稀有な戦略だよな
尊氏も何でわざわざ九州まで逃げたんだ?
九州は多々良浜の前までほとんど敵だらけなのに
細川の四国や赤松の播磨あたりで巻き返せなかったのか?
>>502 平家も九州の与党頼ったよ
失敗して屋島に戻ってきたけど
落ちる時は中央の統制が及ばない鎮西まで行くってわりと常識的かも知らん
506 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 07:55:20.72
>>502 >>503 >>505 しかし、尊氏の勝利も薄氷ものだった。少弐の大部分が味方
してくれて、菊池の大将が留守居の武敏だったというラッキーもあって多々良の浜
で勝ち。日和見だった、大友 大内 も味方につき、反攻ののろしをあげたんだが。
官軍も、菊池の留守居の大将に6万も集まった時には、尊氏ももはやこれまでと
思ったに違いない。
507 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 11:16:50.49
短期の反攻よりも溜めの時間を作るほうが得策だとの判断だろうな。
おそらく上皇からの院宣確保の工作にかかる時間も含めて。
一方、新田方は白旗城で手をこまねいてとよく言われるが、
先鋒隊は備中、美作あたりまで進軍してるんだよね。
508 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 12:01:01.49
509 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 17:15:09.02
九州は魅惑の地なんだな。船で大陸に逃げることも可
510 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 17:24:56.38
班田法以降の話でも追ってみるか?
朝廷の盆クズが田を耕して〜ってのが荘園やなんやかの始まりだからな
511 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 17:29:38.19
初めは国有地名義として収奪しようとしても脱走するやつが多かったんだあな
んじゃあってんで永年墾田方でやるかってのが始まりじゃなかったか?
年貢取り立てなんかはこのころからあった話だ
512 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 17:36:24.80
どうも藤原利仁とかみてれば年貢米の運び人くさいからな、もとわな
山賊となんやらやらかしてる描写はでてくる
こいつらの衣装って白衣の服とか着ていなかった?
九州の官軍6万と言っても菊池さんの後ろについてった感じの武士が多かったからな。
尊氏が鬱モード抜けてスイッチ入ったら関ヶ原の家康に近いくらいには成功率高かったんじゃないかな。
尊氏の力量をよく知ってる義貞は復活を念頭に置いて北陸構想を温めてたようにも見える。
514 :
日本@名無史さん:2014/10/12(日) 06:48:17.00
>>513 菊池の留守居の武敏がよく6万も集めたもんだと感心していたが、もともと
九州の軍事力は膨大だったのではないかと思うようなってきた。菊池の軍は九州3
家なしでのものであるし、尊氏も上洛にあたって20万集めたが、少弐こそ一族
あげて従軍だけど、大友はそれほどでもないし、島津はほんのお付き合い程度じゃ
ない。もともと、軍事力がなければそんだけ、集まらない。 ちょっと、話は、
変わるが、島津と対峙していた 大隅の肝属や薩摩の谷山なんかが、肝属は赤松
谷山は楠木より兵を集めているのにはおどろいた。歴史は中央にいなきゃいけま
せんね。
515 :
日本@名無史さん:2014/10/14(火) 01:03:27.30
516 :
日本@名無史さん:2014/10/14(火) 20:15:19.65
九州はよく分からんな。
尊氏が九州で勢力盛り返した地ではあるが、後々直冬が九州で勢力を持って
脅かされる存在になるとはね。
517 :
日本@名無史さん:2014/10/14(火) 23:00:06.89
九州つか全国津々浦々だろ。どいつもこいつも勝ち馬に乗るのに右往左往。一途だったのは義貞と正成のみ
518 :
日本@名無史さん:2014/10/15(水) 18:16:10.81
義貞が尊氏の敗走を九州までおいかけて足利一族を滅ぼしたら、歴史はどう変わった
ろうか?
519 :
日本@名無史さん:2014/10/16(木) 00:49:30.69
義貞が将軍を望んで後醍醐と反目するのは目に見えている。誰かが武家の棟梁にならないと混乱は収まらない。
520 :
日本@名無史さん:2014/10/16(木) 07:29:46.17
結局、後醍醐の所為
521 :
日本@名無史さん:2014/10/16(木) 07:31:52.03
>>519 後醍醐は、義貞のカウンターパートナーとして誰を使うかですな。
適当な人物がいない。北畠顕家を神輿にした親房? それに、そもそも北朝
って尊氏がいなくなったら成立してただろうか? 北朝が存在せず、、後醍醐
が延元4年に亡くなれば、後継者は後醍醐の意志を継いだであろうか?
522 :
日本@名無史さん:2014/10/16(木) 21:10:34.51
まあ、新田が足利を滅ぼして武家の棟梁になっても、
足利・新田の傍流か、或いは、坂東武者の名家出身で有能な人物が官軍の旗頭に担がれるだろうな。
>>521 後白河のころの源氏のように
足利一族の誰かでしょ
524 :
日本@名無史さん:2014/10/16(木) 22:26:32.20
足利宗家が滅んでも、吉良、石橋、渋川、斯波、細川あたりで調達できるわな。
新田系でも山名、里見がいるし。
525 :
日本@名無史さん:2014/10/17(金) 00:19:31.24
526 :
日本@名無史さん:2014/10/17(金) 00:21:02.96
いやいやおまいら、千寿王さんを忘れていないか?直冬さんも。
直冬さんはおやじと対決するために上洛した後、何もせず過ごしてた紙一重な人らしいからな。。。
そういう人を輩出するのは尊氏の血統なのか
528 :
日本@名無史さん:2014/10/17(金) 06:33:28.69
でも、北朝が立ってなく、後醍醐が亡くなったら、大覚寺統と持明院統が
和解するんじゃないかな。そして、幕府なき戦国時代に突入。
>>528 後醍醐Jrと愉快な仲間たちが大人しく和解するかな
現に、親父の死後も抵抗止めてないし
530 :
日本@名無史さん:2014/10/17(金) 14:56:26.52
>>528 南朝に 負け戦を収拾する、天皇 公家 有力武将 がいなかっただけでしょう。
楠木正儀は南北朝の合一を図ったが、一族に総すかんを食い、千早城すら保つこと
ができず。細川頼之の助けを借り勢力を回復したくらいだから。
531 :
日本@名無史さん:2014/10/18(土) 00:57:32.97
義満は偉大だよな
532 :
日本@名無史さん:2014/10/18(土) 10:14:50.81
>>531 いや、義満が頼之を支えれていたら、合一は早かったはず。それより、南朝
が、超穏健派の後亀山が即位していたら25年合一は早かった。超タカ派の長慶が
即位したから、合一は相当遅れることになった。
負け続けで新田楠木顕家を失っても敵失で正平の一統みたいな事態があり得るから、
逆に和睦しづらいんだろうな
534 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 01:57:42.48
北陸に行った後の義貞だと北畠と仲良く南朝運営するとは思えんけどなあ。
535 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 10:26:51.29
青野原の合戦に(当時まだ幼少の)新田義興が従軍してるし、
一定の連携意識はあるんだろう。
まあ、「仲良く」運営するイメージはないけどw
536 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 14:02:53.06
>>534 優勢な南朝方もいないのに義貞も北陸にいったもんだ。兵站のことも考えれば
そうなんだが、信濃で駄目だったかな?
537 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 15:27:41.32
信濃は親北条だしなあ
越後新田党との連携を考えれば越前落ちもやむをえん
ほんとうは関東を抑えたいんだろうけど
538 :
日本@名無史さん:2014/10/19(日) 20:54:07.81
上手くいくはずがないのは目に見えてるでしょう。
南朝の総大将として義貞がトップに君臨。
でも官位は北畠顕家ですら正二位の権大納言なんだから、正四位の義貞とじゃあ
雲泥の差。
まあ義貞が一生涯公家の下でも別にいいやって考えならまとまるんだろうけど。
義貞は案外、一生涯公家の下でも満足な人かも知れないが、
脇屋義助や堀口貞満たちリアリストはそれを許さない気がする
とくに義助。
540 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 02:03:52.71
まとまるわけがない。なぜ建武新政が頓挫したか?
541 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 04:44:52.40
鎌倉時代の後期、新田家は足利家の庇護の下にあった。
これ、意外に知られていない。
だから、足利家からしたら、新田家は足利家の分家的な位置づけだった。
新田義貞が武者所の長官になれたのも足利家の意向もあった。
でも、新田家の中では、もともとは足利家とは対等
いや、自分たちのほうが、足利家を配下にしていたという思いがあった。
実際に当初は、足利義兼は伯父の源義重(新田義重)の庇護の下にあった。
542 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 08:06:25.13
>>541 新田義重は長子であったが、頼朝の挙兵に呼応せず、独立して兵
を挙げたから、冷や飯を食わされた。
543 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 15:39:30.74
庇護し庇護され、片方は没落していくと…
544 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 16:38:34.36
>足利義兼は伯父の源義重(新田義重)の庇護の下
そんな事実はないw
545 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 16:51:45.61
546 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 17:49:13.10
とーちゃんかーちゃんが死んでおじさんならわかるが、かーちゃん生きてんだけど
しかもかーちゃんのバックはおじさんが足元にも及ばないほど強力なんだが
■源頼朝・足利義兼と三河の藤姓熱田大宮司家
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数
547 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 17:50:05.58
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
548 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 17:50:45.09
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)
549 :
日本@名無史さん:2014/10/20(月) 23:42:01.89
政子が頼家を諌める際に新田義重は長老なんだからと言う場面があるから、
新田も内紛で小さくなる前はそれなりに敬意払われてたと思う
挙兵の際も足利と新田は連携しようと言うことである程度合意があったんでは
550 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 08:02:14.25
551 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 09:14:54.36
>>549 尊氏は新田より羽振りが良かった甲斐源氏に声をかけなかったのかな?
やはり、甲斐源氏より血が濃い新田ということになったのかな? 尊氏じゃ
なくても、義家の血が義貞に大軍勢を集めたのかな?
552 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 12:23:55.72
尊氏の嫡子、千寿王が新田軍に合流してから大軍勢になったんですがそれは…
553 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 14:40:44.78
>>552 別に千寿王のために集まったわけではないだろ
尊氏が先に六波羅探題を攻めて京都を制圧したため
北条についててはまずいと思った関東の連中が
新田軍に集まっただけで
554 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:08:30.40
>>550 三河の藤姓熱田大宮司な
三河を付けんと、何で義氏が三河守護になれたか見えてこんだろう
平治の乱は義朝に加担しなかっだが、全力圧力をかけて頼朝を救っただろうが
伊豆時代は、東三河出身の家人の安達盛長を世話係としてつけてやり
毎月一回の支援係は由良御前の弟、祐範(三河法橋祐範)だった
思いっきり面倒みとるがな
555 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:18:18.71
>>553 じゃ早いもん勝ちで義貞が総大将ということですね? 新田より
羽振りがよい 甲斐源氏の 武田とか小笠原は後手を踏んだということで。
しかし、義貞が兵をあげた時150.正成や赤松より少ないんですよ。
556 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:18:22.09
三河っすか、、、
まあ、松平氏や足利氏の分国でもあったからな
歴史的な優位性はあるだろうなあ
松平氏自体は賀茂氏なんだってな
婿に入った親氏が相模で僧籍に入った世良田氏だとか
557 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:21:21.46
155
それは新田庄でのときなw
そのあとに越後の新田一族が合流してる
558 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:28:08.85
>>556 分国ってw逆だろ
源頼朝が藤姓足利氏を滅ぼして、足利荘を従兄弟の源義兼に与えて足利氏の誕生だ
足利荘は、三河の藤姓熱田大宮司の血を引く2人に乗っ取られたのw
559 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 18:30:17.55
>>556 松平徳川はニセ源氏じゃねーのかよw
どっちなんだよw
560 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:04:59.99
>>555 足利尊氏がたまたま後醍醐追討のために
鎌倉幕府の命令で幕府軍を率いて上洛したため大軍を率いてただけで
尊氏だって幕府の命なしでの単独挙兵なら大した兵力ないよ
561 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 22:34:34.94
>>560 分国の三河の兵と合わせて3000で上洛で反旗を翻した丹波で23000、
3000が尊氏の手勢でしょう。
>>557 本家と越後新田党の軍勢より岩松の軍勢が多かったらしい。この岩松という
のがよくわからん存在で一族ようなじゃないような?
562 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 23:05:36.22
559
松平氏自体は賀茂氏
徳川姓ってのは藤原氏の一族で徳川氏ってのがいるの
そのあとは新田氏の中の得川氏に引っ掛け
だが祖父の清康が世良田氏を名乗ってるの
ややこしい話
563 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 23:08:45.60
561
岩松氏は女系新田氏
男系なら足利一門の畠山氏とは異母系の同族
564 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 23:20:52.96
つまり伝承を信じるなら徳川氏は
男系は新田源氏、女系賀茂氏
三河守になるときに従五位下が必要だから藤原氏から
一門の徳川氏の名跡をもらったということになるね
565 :
日本@名無史さん:2014/10/21(火) 23:55:10.85
さすがに千寿王がいなかったら大軍勢にならなかったと思うわ新田軍。ガキだと思って舐めてるっしょ?
566 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 00:11:27.21
さてねえ?
どうなったか?
ひとつ事実をいうと関東においては新田一門の方が多かったんだぞ
足利一門は関東外に一門が多かったの
567 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 00:15:05.53
下野にもほとんど足利一門て足利だけに限られて広がってなかったろ
あとは下総あたりに荘園を持ってたくらい
新田氏系のやつでも足利についたの多いからなあ
568 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 00:29:09.48
北条は徹底してそれまでに新田一門の分裂工作をやってんだよな
言ってみりゃ宗主権の破壊行動、一族としてまとまる力を奪おうとしてんの
まあ150人てのがその時代での力だったってのは確かだ
569 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 00:48:42.02
>>566 真面目に言ってんのか?
そもそも太平記に足利荘は出てこんだろうが
殆どが三河だ
570 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 00:51:40.81
つうか反旗を翻す前に北条から恩賞として出すための金銭だか要求されてなかったっけ?
旗揚げしなきゃ新田氏自体が滅んでいたわなw
571 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 00:57:20.29
569
守護代、吉良氏が管理していた三河ね
そんなの主張されなくても知ってるよw
それとは別に陸奥において勢力を伸ばしていた
斯波(足利)氏もあるけどな
最初は足利宗家に従うのは好まなかったとか
つうか斯波氏もある意味、宗家みたいなもんだからな
572 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:00:41.39
三河守護と下総守護
三河守護になったのが尊氏の家系で下総守護になったのが斯波(足利)氏だからな
573 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:11:43.99
>>571 全然わかってない、斯波も三河だ、鎌倉期は家人の彦部つーのが代官やっていて東北に行った事すらない
斯波氏
足利氏一門の武士。泰氏の庶長子家氏を家祖とし、霜月騒動(1285)では安達氏に与して危機に陥った。
家氏から3代後の高経・家兼兄弟が南北朝時代に各地の戦いで活躍し、高経の子義将は幕府管領となった。
細川・畠山とともに三管領と称され、越前・尾張・遠江などの守護を兼ねた。
三河国碧海荘地頭職は足利義氏が承久の乱の功績で獲得したものだが、孫の家氏が相伝知行した。
家氏は三河国滝山寺法華堂に荘内青野・宇祢部の土地を寄進した。
三河国碧海荘は熊野山領とされた時期もあったが、先祖ゆかりの地ということで、室町時代にも斯波氏の知行となったことがある。
足利家氏(斯波氏家祖)
生没年不詳。鎌倉時代の武将。足利泰氏の長子であるが庶子として遇された。母は北条朝時の娘。左衛門尉、中務権大輔、尾張守。従五位下。寛元元年(1243)より幕府に出仕。
三河国碧海荘地頭職を祖父義氏から譲られて知行し、建長7年(1255)前年亡くなった義氏の菩提所として創建された三河国滝山寺法華堂に荘内の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進した。
またこの堂に法花経2部、鈴杵・閼伽なども寄進した。某年正月18日没。
斯波義将
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文
新田がまっすぐ武蔵に侵入してくるとは思ってなかっただろうな
千寿王も最初は与党に匿われるつもりが、
新田軍の素早い侵攻を見て急きょ合流を決めたんだろう
575 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:19:07.01
573
やけに三河にこだわるねwww
斯波氏が勢力を伸ばしていたのは陸奥だぞw
576 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:19:58.27
斯波義将の代で、碧海荘をまだ持っていたなら、斯波じゃなく碧海さんだっただろう
義詮に足利姓を禁止された時、碧海荘は将軍家に取り上げられていて、東北の所領しかなかったのさ
それでしかたなく斯波氏だ
577 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:22:18.50
まあ越前尾張遠江にも守護になったんだからそっちにも進出したんだろうが
>>575 この板には三河キチガイが生息しているが、まさかな・・・
579 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:24:44.68
>>575 冗談はヨセ
本格的に東北に進出したのは、斯波義将のおじさん、足利家兼が奥州管領として赴任した南北朝時代からだ
足利と新田は挙兵前の段階で何らかの連携はあっただろうな
しかし義貞の挙兵が(幕府の強硬策と、本人らの意向で)繰り上がったのだろう
581 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:27:52.74
576
やっぱり争ってんだろ
斯波氏が奥州管領になったあとも畠山氏も奥州管領で赴任してきて
争ってるからな
582 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:29:24.79
583 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:32:23.39
579
鎌倉時代にはすでに陸奥に荘園持ってんだよ
584 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 01:42:00.22
太平記以外の情報ばっかりだから太平記しか読まない人にはチンプンカンプンだろうな
桃井なんてのもドラマじゃ聞いたこともないとかあったけど上野に土着した足利一門
やけどね
宗家は新田につき分家が直義についたの
585 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 07:11:24.59
私もスレ違いのことけっこう書いてきたけど、この尊氏と義貞の連携が本題
だと思うから、もう一度書いてみる。 なんで、義貞なんだということ?
甲斐源氏の武田や小笠原の方が人数集められると思うんだが。それとも、
義家流と言うのがそんなに価値があるのかなー。
586 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 07:13:22.90
三河厨をスルーしないとスレが荒れます
587 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 11:11:47.92
話が理解出来ないからスルーするはみっともないわなw
588 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 12:35:51.18
589 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 14:04:38.34
590 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 17:23:36.09
>>561 後醍醐に反旗をひるがえして九州に落ちた時の尊氏の手勢は300だったけど
尊氏が個人支配する私兵がもともと3000いたならなんで10分の1になったの?
591 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 17:55:37.22
>>561 戦争に負けた時はこのようになります。関が原時の島津氏の兵は
初め1500でしたが、負けて鹿児島に逃げ帰ったのは80人です。
592 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:26:19.45
>>591 いやいや、島津は関が原で徳川本隊と当たってゲリラ戦をやったからでしょう
足利軍は九州へ落ちた時言うほど痛手を負っていない
すぐに上洛して都を奪回している
593 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:55:24.91
592
大宰府ですね
昔から政争に敗れた人が流されてきたところだから
そういう下地はあり
594 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 19:12:12.73
いちおう、関が原でまともに戦った西軍の兵力は壊滅しているはず。宇喜多
石田 小西 大谷 。島津が関が原で白旗あげていたらしらんけど。あそこ
にいて逃げようがない。小早川が翻った後に逃げたら逃げ切れるかな?
足利の二引両を塗り潰して新田の大中黒に
596 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 20:30:01.70
597 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 20:34:57.61
598 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 20:43:39.30
八幡太郎義家は太平記時代にはすでに神格化されていた?頼朝が将軍になったことで神格化が進んだのか?
599 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 21:37:45.46
>>598 神格化されてたよ。
当時から源氏の軍神というイメージだろ。
源氏の中でも雲の上の人だよ。
義家の直系だからこそ義貞は尊氏の対抗馬になり得たわけだよ。
600 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 22:06:10.13
尊氏は源為朝の子孫と言っていたがなw
そーすると頭の中では、新田など源氏一門の一つでしかない認識だったんだろう
601 :
日本@名無史さん:2014/10/22(水) 22:21:16.22
そのへんは、武家⇔公家、東国⇔西国といった軸の中でのシンボル形成過程のような気がするんだよね。
東国の武家という枠組みの中では当時はまだまだ坂東平氏や秀郷流藤原氏もじゅうぶんシンボルなんじゃないの?
602 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 06:30:53.45
603 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 09:07:51.70
604 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 12:22:19.36
なんで、為朝の子孫みたいなデマを言っていたんだ、足利氏は?
でも、その後の足利氏の公式発表では
それは認めてなかったんでしょう?
605 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 12:53:18.32
公式発表とかw
一門以外に口外していないと難太平記に書いてある
為朝の息子とすると、義兼は父系でも頼朝と従兄弟、姉妹の娘が頼家の正室と言う事になる
鎌倉将軍家により近いわけだな
606 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 13:16:19.77
>>605 そんな、こといったら、頼朝と一番近いのは阿野全成。その流がほそぼそと
続いていて、新田より没落している。
607 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 13:25:08.17
なるほどな。義家は軍神でもやはり頼朝に血筋の近しい奴が武家の棟梁格か。初代鎌倉殿は偉大よのう
608 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 13:47:25.60
北条は仏教勢力
それで分かりそうなもんだが
609 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 13:47:28.16
北条は仏教勢力
それで分かりそうなもんだが
>>585 落ちぶれた新田「本宗家」と連携したわけではなくて、新田「一族有志」と連携したんでしょ
もちろん本宗家も含まれるが、念頭にあった有力者は岩松あたり?
だけど宗家が挙兵に成功して主導権を握ってしまった
新田荘は世良田宿を抑えた者が金持ち
612 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 19:58:11.23
足利と新田は元は同格ていうか最初は新田のほうが上だったんじゃないの?
将軍家に取り入った足利が勢力を伸ばし将軍家に取り入らなかった新田家は
没落していったということだろう。
613 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:06:05.55
>>612 取り入れられないような事をしてきたんだよ。幕府側に相談もなく朝廷側に対して任官を求めたり。
614 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:13:48.32
いわゆる室町時代前期ころまでは都武士って呼ばれたのが祖先の
やつが多いんだよ
その武士団も元をたどれば組織したのは天皇や上皇や藤原摂関家
南北朝終わって残ったのはほとんどのそういった氏族の没落
まあある意味、中世の終わり
615 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:15:37.75
新田のほうが潔いと思うがな。
将軍家に色目使ったりしない分。
616 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:18:09.73
ただの時代が読めないたわけだろw
617 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:19:59.17
ある種の貴種信仰があるなら都武士出身か?国司上がりの武士出身か?ってとこ
618 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:30:35.45
>>612 京生まれ三河育ちの源義兼が足利義兼になったのは、1190年前後だよ
それから30年後には、義氏が、父と祖母ゆかりの地である三河に軸足移しちゃったんだから、上下関係も糞もないだろ
619 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:31:17.51
616
お前は今の時代読めてんの?
その割りには苦労してるやつが多いが
620 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:38:19.56
足利は下野の足利荘くらいだもんな
あとは渋川、桃井、あとは熊谷の畠山家を継いだ
畠山氏くらいか
千寿王って足利荘にいたんだろ
621 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:40:46.15
千寿王動いて影響力あるなら源氏というより国司から発展した武士団の方だろうなあ
622 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:45:34.66
源姓畠山氏も初代の所領は岐阜なんだぜ、恐らく義兼が母方から貰ったものを相伝したんだろう
623 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 20:48:13.76
畠山姓は受け継いだが、重忠の所領は相伝していない
624 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 21:03:40.02
そもそも古代の蝦夷あたりとの戦いなんてのはとっくの昔に終わっていて
中世武士団の創設はこのころ力を持っていた地方の国司層の反乱や仏教勢力
による僧兵の強大化で京あたりも僧兵に攻め込まれたりしてんだよなw
その対策あたりから始まった都武士の出現だから全然別物なんだよなw
新田義重、義兼、義房辺りは院や女院に仕えてたんだっけ?
626 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 21:22:39.38
義重の時代は完全に土着していたから仕えていないだろ
足利荘を開いたのも義国と義重なんだけどな
足利義康に譲ってどっちも新田荘の方に移ってる
藤姓足利氏との争いのときには援軍も送っている
高階姓の始まった高氏あたりも足利氏の家裁につ
いてかなりの荘園を受け継いでる
627 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 21:22:49.29
そもそも、義貞はどのタイミングで幕府を攻めようと思ったのかね?
義貞以外の御家人にも倒幕の綸旨やら手紙が来てたんだろう?
なんで義貞が動いたのかね?東日本で明確に幕府に対して兵を挙げたのって
足利(出兵前に六波羅攻めるのを決めてたとして)と新田だけだろ?
やっぱ足利と新田ってこの頃は何らかの形で情報共有は蜜にしてたのかな?
俺は六波羅攻めるからそっちは幕府攻めてくれと。
それだとして、没落気味の新田に頼むかなー?上野という立地が鎌倉からちょうど
いい距離だったからなのかな?
628 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 21:48:09.31
さあ?
どうなんだろね?
資料がないから分からない
629 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 21:50:45.59
>>626 高氏の所領は義兼に譲ったよ
代わりに頼朝から陸奥国信太郡の所領を貰った
実は、足利荘の複雑な権利関係を解決したのは頼朝
630 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:03:26.99
太平記だと、代官みたいのが押し寄せてきて、横暴な態度を取られたから
義貞が切れて代官を斬って、こんな事したら幕府が攻めてくるから、どうせ
攻められるならこっちから攻めてしまえって感じだったような…
でもそれが理由だと越後新田党との連携が取れないと思うんだよな。
631 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:18:58.47
鎌倉幕府が滅亡したってより北条氏が皆殺しにされた!って面の方が大きいでしょ
国司層上がりからの武士団で北条に味方したのいるけ?
632 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:40:23.49
偶然が偶然を呼び神がかり的なタイミングになった
キーマンは岩松
633 :
日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:41:12.80
北条時行は尊氏が後醍醐天皇と対立する理由を作ったんだけど、それが後々南朝につくんだぜ?おかしな話だ。
634 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 01:22:23.34
632
岩松はほとんど足利方だぞ
新田についたことあったっけ?
635 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 01:26:12.92
633
信濃勢を率いての鎌倉占拠の話か?
義国が義家から譲られたのは八幡荘
義国は八幡荘を義重が相続し、新規開発した簗田御厨を義康に与えた
ついで、新田荘の開発を義重とともに開始
八幡荘は里見、山名氏らに分割、新田荘は世良田、里見、新田本宗家に分割された
簗田御厨は義康から義清に相続され、義清は義重から八幡荘内の矢田郷を相続する
足利は源氏惣領の私領で源氏郎党の藤姓足利氏の管理にあったものを頼朝が足利義兼に与えた
以後、義康の流を源姓足利氏という
>>626 義重は在京活動して九条院判官代になってるが?
638 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 06:45:39.71
>>634 尊氏が後醍醐に叛して、関東を席巻したあとに義貞の残された家族を庇護したのは岩松だろ。
639 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 13:01:26.12
>>629 ×信太郡
○信夫郡
高階惟長つーのが、三河国菅生郷の郷司をやっていて、足利荘に所領があった
頼朝がこの足利荘の所領を取り上げる代わりに、陸奥国信夫郡の地頭職を与えたらしい
そしてこの高階惟長の嫁は大江広元の娘、名実ともにこの時代の高氏は足利氏の家人ではなく御家人だったわけだ
640 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 17:11:22.76
641 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 17:14:47.36
武田は終始、足利尊氏派じゃねえか
642 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 18:10:49.74
643 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 18:31:36.42
>>636 何で梁田御厨や矢田郷に、義清の子供がいた伝承すらないの?
答えは、実は北関東に居なかったからだろ
頼朝異母弟の範頼や義経の面倒をみていた頼朝の母方だ、当然、義兼の異母兄の義清も三河の藤姓熱田大宮司一族に庇護されていたと考えるのが自然だろが
と言うことは、義清の孫達は、三河守護になった義氏を三河でお出迎えしたわけだわな
644 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 18:40:05.79
643
矢田義清って木曽義仲についていって出奔したやつじゃないか
その子供だか子孫が三河の方に住み着いて細川氏の祖先になった
645 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 18:47:24.42
嫡子だったとかいう話もあったが足利宗家継ぐ資格失ってんだよな
でその子供だかどこにも行くとこなくなって新たな三河の地にいっ
てある意味、肩身の狭い思いをしたとか?
そこから足利一門というより足利家家臣て立場になったんだよな
646 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 18:49:57.04
647 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 18:55:31.50
はいはい、武田にも二派あるんだよな確かな
安芸と若狭は同系
648 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 19:00:07.91
>>644 違う、そもそも源頼政に近いんだが、すぐ死んじゃただろが、それで義仲だ
546-548←この系図の頼政の所をみよ
実は、頼政の母方は三河の藤姓熱田大宮司一族に近く、頼政に近かった矢田義清は、この複雑な人間関係の一員でもあったのさ
649 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 19:12:44.21
へー、そぉなんダ
650 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 20:30:54.05
651 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 20:36:46.24
>>646 じゃ新田に倒幕の大将頼むんだ? 甲斐源氏に頼んだらいいじゃない。
新田と違って守護にもなっている家ですよ?
652 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 21:10:48.16
新田と足利だけじゃなくて、おそらく足利家が中心となって倒幕スケジュール
を皆で決めていたんじゃないの?
佐々木判官だって足利にこっそり寝返ってるんだから、多分色んな所でスケジュール
合わせてたんじゃないのかね?
義貞としては黒沼が来た事は本当に想定外で早く解決したかったから斬っちゃったんじゃないの?
時間かけちゃうと、せっかく組み立てた倒幕スケジュールが崩れちゃうからね。
他の御家人達とスケジュールの組み立てしてなかったら、わざわざ尊氏が京都まで
行って寝返るなんて博打な事はしないでしょう?
653 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 21:27:19.84
全員かは知らんが佐々木4兄弟は頼朝と従兄弟だから、そりや子孫達は隠れ鎌倉将軍家足利側でしょ
654 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 22:26:01.14
>>653 その理屈だと源氏のほとんどは足利を中心として倒幕談合がなされて
いたって事になるね。
こんな大規模な談合があって北条側に露呈しなかったのは凄いね。
むしろ北条側に内通者がいて、尊氏を六波羅へ出兵させるように強く進言
した者が黒幕なのでは?
655 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 22:33:16.58
4等身くらいで頼朝と繋がっている源氏はメチャクチャ多くないだろう
新田など頼朝と繋がっていない
656 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 22:40:47.85
>>655 悪源太義平の妻は新田義重の娘だったんじゃないか?
657 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 22:46:52.03
なんで4等身っていう括りにするの?
658 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 23:14:28.48
大体4等身か5等身くらいだろ
頼朝縁故で登用された二階堂行政も頼朝と4等身だ
もちろん天竜寺供養参列しているよね
不思議だ
659 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 23:19:57.57
>>656 それは異母兄弟の義平と繋がっていると言うのでわ
660 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 23:33:48.18
親等じゃないの?
661 :
日本@名無史さん:2014/10/24(金) 23:54:59.67
義家って平将門の首を打ち取った藤原秀郷の孫娘を娶っているんだね。
そしてその二人の子供が源義国、さらにその子どもが新田義重だ。
なかなかのサラブレッドですな。
>>630 督促使を斬ったらどうなるか気づかないほど鈍くないはず
守備固め論もあった一族を決起に引っ張ってくために斬ったんだろうね
天狗を走らせてたのは、もちろん決起に備えて
斬った後の軍議で義貞と義助は役割分担ヤラセをやったと思う
斬った張本人の義貞は遠慮して意見を皆に委ね、義助が強硬論で引っ張る
>>652 想定外というか、幕府もさすが=やっぱり俺らに目を付けてきたなという感じだろうね
ただ、すべてが申し合わせた通りに動くほど幕府軍も甘くなかった
新田的には高氏の内意を知らされつつ共同行動=上州越後あたりでの蟠踞を承諾した程度かと
でも新田本宗家はサボタージュの件などでたぶん幕府は先手打ってくるだろうと覚悟してたはず
尊氏も、義貞も、挙兵の最初はリスク冒してるよ
664 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 06:48:32.39
>>661 それに、平良文あたりの血が流れていれば超良血だ。
665 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 07:51:35.45
六波羅は落ちたけど、鎌倉はもちこたえた場合はどうなるだろう? 平氏系列は
北条支持ということで。
666 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 08:59:01.22
河内楠木攻めから仮病を使って上野に帰ったのが3月中旬くらい。その後すぐ例の徴税使の件があって、5月上旬には挙兵。
このあたりの動きには無駄が感じられない。
上方からの帰りの道中で既に越後および関東の諸豪族とは連絡とりはじめてるんじゃないか?
667 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 09:03:45.79
662
天狗か?w
密教に関連するならその正体は修験道だな
役の小角とか武蔵坊弁慶とか、あれだ
668 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 09:05:26.71
いってみりゃ昔、全国を歩き回った僧兵のやつらだ
669 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 11:59:49.74
670 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 12:04:00.22
>>667 >>668 読めた、名和だ。名和の弟は大山寺の僧兵。大山は天狗信仰
の言わばメッカ。天狗回状の話とも辻褄があう。
671 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 14:14:07.50
正室じゃないじゃん、義家の正室は源隆長(三河守)の娘
義兼の母親が頼朝母と姉妹でなかったら、足利も源氏のその他大勢の一つだったな
ちなみに頼朝が選んだ嫡男の正室は、賀茂(足助)重長(祖母は源義家の娘、三河国賀茂郡足助)と源為朝の娘の子供、辻殿だ
672 :
日本@名無史さん:2014/10/25(土) 14:29:07.53
いい加減アピッ!は飽きたな
673 :
日本@名無史さん:2014/10/26(日) 19:51:03.59
674 :
日本@名無史さん:2014/10/26(日) 19:57:16.96
でどんな関連があるの?w
在日教師とかが潜り込んでるんだったら笑うぞw
もう笑い話にしかならないわそいつらはよ
あるいは変な信仰絡みかなそいつは?
675 :
日本@名無史さん:2014/10/26(日) 20:11:39.52
676 :
日本@名無史さん:2014/10/27(月) 03:45:03.69
後から代わっただろ
677 :
日本@名無史さん:2014/10/27(月) 09:07:05.59
源義家の正室って藤原有綱女だろ
源親長よりも身分いいじゃん
義朝の父為義なんて母親不明なのに嫡子面しているのだから
源氏は正室から生まれたから嫡子ってわけでもない
678 :
日本@名無史さん:2014/10/27(月) 09:29:16.29
まあ本来の流れからいけば河内源氏宗家は源義忠の子孫てなりますし
679 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 00:24:30.48
実力あるものが棟梁になるのものよ
680 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 01:08:19.72
為義って、本当に義親の四男なのか?
これって、室町期から、そういう文献が登場し
それ以前の文献では、為義は義家の五男で
義忠、義国の同母弟という文献ばかりだぞ。
だとしたら、ますます、為義の子孫である頼朝らって、
別に河内源氏の嫡流ではなかったことになるな。
義重らが、不満に思うのも分かる。
まあ、仮に義親の子孫だとしても、
義親自体、義忠よりも年長でも庶子だったみたいだし、
その義親の4男で庶子が為義だったみたいだからな。
義男の長男でしかも正室の子供が義信で、為義よりも官位は上だから。
あと、義忠と義国の兄弟の順番も文献によって異なる。
足利氏らは先祖の義国のほうを年長にしたいみたいだけど
その後の子孫の生年月日をみたら、義忠のほうが年長に思える。
だとしたら、やはり、義忠の子孫こそが真の河内源氏の嫡流だったんだな。
髭切持ってるのが棟梁でいいよ
682 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 17:49:18.10
683 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:28:33.67
>>680 源頼政が挙兵に成功すれば、摂津源氏が清和源氏の嫡流になったんだなー。
頼光は頼信の兄だからなー。
684 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:37:03.49
683
ならねえよ
摂津源氏っていったって部下はいいとこ200人くらいだぞ
美濃にも勢力伸ばしたが土岐氏は滅んだからな
685 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:41:35.55
頼朝だってな伊豆で挙兵したときは部下は北条氏くらいで1000人いりゃいい方だろ
一人の御家人になった人間だってこの時代は一人あたり直接の部下は100人くらい
686 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:46:24.25
北条将門が一万人集められたのは奇跡に近いわな
昔の朝廷の蝦夷討伐だって諸国から集められるだけ
集めてやっと2万人いくかいかないからだからな
687 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 19:47:28.44
688 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 19:56:11.94
687
それどうみてもオーバーだと思うがな
そんな広範囲から集められたのか?
平家、義仲、鎌倉、奥州の4勢力時代でも
頼朝の旗下が3万人て言われていた時代だぞ
689 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 20:04:42.71
平家討伐でも尾張にいたときの範頼の軍勢が一万で義経は2000くらいだろ確か
690 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 20:10:27.54
何十万なんて数になるのは戦国時代の話だ
691 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 20:56:06.19
>>690 南北朝で、千早で幕府軍が30万。 新田義貞が鎌倉を攻めた時
60万 尊氏が九州で兵を立て直して20万 征西軍が全九州の兵を連れて
上洛しようとした時が10数万。
692 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 21:32:49.48
なお誇大表記の太平記が出典との事
693 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 22:12:59.10
戦国時代は農民兵を雑兵として無理やり召集。
だから、動員兵力は多くなった。
694 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 22:16:58.27
>>691 南北朝時代にはラザール・カルノーでもいたのかよw
696 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 00:04:23.68
60万もどうやって数えたのかね。
当時の関東の人口はどれくらいなんだよ??
698 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 02:16:23.07
1200年代でだいたい150万人くらい
ただし男女合わせた数だから、男子の数は75万人前後ではないだろうか。
あくまで年齢抜きだから、戦に参加できる人数は75万人よりはるか下の人数
だと思うが。
699 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 02:23:32.65
また、いつも動員兵力が少ないといわれてる楠木だが、河内、和泉の
両国で大体10万人の国人がいたと推測されている。
義貞の領地上野、播磨、越後は合わせて50万なので単純に動員出来る兵力は
正成は少なくても仕方ない。
700 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 02:26:18.79
>>689 関東の人口などどーでもいいだろう
主役は東海地方なんだからよ
701 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 07:33:58.56
>>698 関東以外にも 陸奥南部 越後 甲斐 信濃 あたりからも参加し
ているが。
702 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 11:51:46.17
そいつらを太平記から省いても、太平記は成立する
703 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 12:10:26.43
693
その代わり戦ができる期間は稲刈りが終わってから次の年にタネを蒔く
までの期間に限られた
698
人口?
戦国時代が2000万人〜3000万人だからな
704 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 12:14:36.25
699
高師直が京都を占拠したときの軍勢が畿内から集められるだけ集めてやっと5万だぞ
705 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 12:19:19.61
大内義隆が上洛して義視を将軍に立てたときが2万
応仁の乱で中国、四国、近畿、中部、北九州から
応勢、参加してやっと両軍合わせて25万だ
706 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 12:30:16.95
699
関東全域で室町時代に動員できるだろうって言われていたのが8万人
707 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 14:52:04.08
708 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 15:13:00.17
上杉謙信のときが11万人て言われてんだが
そんで実数は越後からきた軍勢も合わせて5〜6万人
709 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 15:17:42.94
こりゃどこそこに到着したときに集まった人数の記録が
その場所ごとに残ってるから確か
710 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 19:04:12.64
第4次川中島の時は18000なんだけど?
711 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 19:59:11.31
まあ60万はありえないって事だけは分かった
712 :
日本@名無史さん:2014/10/30(木) 21:58:57.64
>>711 戊辰戦争の時の政府軍 鳥羽伏見 5000 甲州 3000 会津
戦争 75000 函館戦争 10000 なんで 義貞60万なの?
戊辰戦争は動員数少ない
714 :
日本@名無史さん:2014/10/31(金) 00:48:48.12
これさ、もしも尊氏が六波羅攻略失敗したらどうなったのかね?
@六波羅攻略失敗。戦死しなかったとして、一族はどこに逃げるの?
A尊氏と談合がなかったとして、新田義貞が挙兵した後はどうなってたか?(同じように関東の武士がつくのか)
Bしばらく北条政権のまま?
どうだったんだろう。
実際には高氏蜂起時には、
・後醍醐が既に隠岐脱出、船上山でやる気満々待機中
・楠木は河内で健在
・赤松は播磨から摂津を抑え京都をうかがう
という状況だから攻略失敗も考えにくいが・・・
ただし、高氏がもたもたと攻略に手こずって丹波に引き上げたりしたら、
功一等とは言えず信望は多少下がるだろうな。
716 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 00:55:05.54
>一族はどこに逃げるの?
ボケ老人か?
三河に決まってんだろ
土岐、佐々木もいるし、あの時点で六波羅はすでに詰んでたろう
718 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 11:24:15.59
鎌倉はまだわからんかったが?
719 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 11:30:00.81
60万か
北条の楠正成の河内攻めが100万人だからな
720 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 11:34:18.25
715
おー、隠岐って言えば源義親が流されたのも隠岐だな
為朝が流されたのが太宰府だったな
為朝の九州平定説の真相とかどうなってる?
721 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 11:35:56.30
こりゃすでに過去にでた説話だぞ
722 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 14:31:54.06
>>719 千早赤阪城の周囲にどうすれば100万人を配置できるのか、100万回問い詰めたい。
723 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 14:39:29.21
別に一揆と連動してるなら不思議な話ではないな
一揆というのはその地の住人全てが攻め寄せる話だからな
いわゆる武士以外も参加してるならな
大塩平八郎の乱のあとに畿内にインチキ宗教みたいのが
できたのどういった理由かね?
724 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 14:39:28.47
別に一揆と連動してるなら不思議な話ではないな
一揆というのはその地の住人全てが攻め寄せる話だからな
いわゆる武士以外も参加してるならな
大塩平八郎の乱のあとに畿内にインチキ宗教みたいのが
できたのどういった理由かね?
725 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 16:35:09.65
>>722 太平記は 楠木方の軍勢は少数で細かい。降伏した平野将監以下の
数が282人。四条畷で兵をあげた時の兵数が143人。
太平記は大雑把すぎる記述とやけに細かい記述が入り乱れて面白いよな
727 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 19:23:05.90
なぜか北陸無双してた義貞の記載が太平記には少ないね。
728 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 19:32:10.55
だって足利政権下で新田氏族狩りが行われていたのって
嘘でもなんでもないよ
岩松って女系新田氏だけど男系足利氏だから生き残った
ようなもんだもんよ
729 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 19:39:47.87
もうすでに時が経ちすぎて別の氏族って意識になってたろうからな
第一、足利家と斯波家だって敵対していたし義満は山名氏潰したり
鎌倉公方家も潰そうと画策したりしてるしな
今川ってのはある意味で鎌倉公方を抑える役割りで駿河に配置され
たの
京都での主な懐刀だったのが細川氏
まあ後に細川氏に下克上されんだけどね
730 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 19:59:26.90
鎌倉公方がな、古賀に移った事件自体、今川勢が鎌倉に攻め込んだからだしな
いわゆる小田原北条氏ってのは今川方の武将としての参戦だからね初めはな
この結果、管領の上杉氏と敵対するようにもなり主に古賀公方についたのは
どっちかっていうと室町より前の関東諸家が古賀方となった
731 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:22:00.45
>>728 山名は、わかるけど、里見 大島 も新田氏狩りにあったの?
732 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:45:11.18
大島氏は知らん
里見氏や脇屋氏は最後まで新田方だったの
どうなったのかね?
越後の新田党は南北朝が終わったら越後の上杉氏の被官となった
主に勢力圏としていたのは魚沼地方
里見氏の名前が残ってそうなのは美濃と最上氏と争った天堂氏が
里見氏だからそっちに広がったのかな?
新田一門でも大館氏のように室町幕府中枢エリートに入り込んだ一族もいるで。
734 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 21:07:21.48
大舘氏なんて、幕閣に入っただろう?
大舘氏は、山名氏や里見氏なんかよりも遥かに、
新田氏嫡流に近い親戚なのに。
735 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 21:29:34.20
>もうすでに時が経ちすぎて別の氏族って意識になってたろうからな
時間は関係なし、はっきり言われているだろう
足利尊氏
梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。
今川了俊
難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
737 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 22:05:26.32
http://ameblo.jp/8omote/entry-11419404404.html 足利一門については「どこまでが一門か明確に示しているものは確認できない」
とされていたようですが、「実はそれを示す中世史料が存在する」そうです。
『公武大体略記』『見聞諸家紋』『三議一統大双紙』などから、
「畠山・桃井・吉良・今川・斯波・石橋・渋川・石塔・一色・上野・
小俣・加子・新田・山名・里見・仁木・細川・大館・大島・大井田・
竹林・牛沢・鳥山・堀口・一井・得川・世良田・江田・荒川・田中・
戸賀崎・岩松・吉見・明石」らを足利一門としています。
足利一門とそうでない武家との間には大きな格差があったそうです。
何が違うのでしょうか。谷口さんが拾った中世史料の記述によると、
足利一門だと、武家御旗(公方御旗・御所御旗)を授かることが許され、
奉公衆を相手に下馬する必要はなく、名前を書く場合は下に「殿」が入るのだそうです。
例えば、将軍が大名に送る文書でも、宛名は今川氏に対して「殿」を付け、
武田氏には「とのへ」と区別しています。
これ以外についても足利一門を特別視し、全国の武家もそのことに
疑問を差し挟まなかったということです。
738 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 22:09:00.12
735
www
参考にならねえw
736
ノーコメにさせてもらう
739 :
日本@名無史さん:2014/11/01(土) 23:58:15.06
いや、そのまんまだろ
二人とも為朝の子孫だと明言している
新田など数多くいる源氏一族の一つでしかない
740 :
日本@名無史さん:2014/11/02(日) 07:08:33.17
>>737 なんとなく、家康が清和源氏の河内源氏義家流に拘ったのかわかりました。
741 :
日本@名無史さん:2014/11/02(日) 22:07:19.97
家康拘ったのは頼朝、三河は頼朝だらけだからな
源頼朝関連史跡
■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する
一覧
【西尾市】光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂【豊橋市】赤岩寺/弥陀堂、普門寺/観音堂【蒲郡市】長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり、全福寺/現在は廃寺、丹野御堂【豊川市】財賀寺/観音堂【新城市】鳳来寺/弥陀堂
■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨
■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進
【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築
【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請
【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建
【幸田町】
・浄土寺/寺領700石寄進
742 :
日本@名無史さん:2014/11/02(日) 22:07:59.42
【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納
・石巻神社/病気平癒の祈願を行い、念願成就し鬼面を奉納
【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領1000町歩寄進
【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営
【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進
743 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 00:22:48.61
尊氏らが、源為朝の子孫だと言いたかったのは、新田氏との闘争があったからだろう?
互いに、鎌倉幕府を討伐した時の功績について
どっちが上かどうかで文面にしてまで争ったのが、文献にも残っていたはず。
新田は、俺たちが主力で鎌倉幕府を滅ぼしたんだというし
足利は、新田は役立たずで、息子を総大将にして、討幕派の勝利が決まったというし。
たぶん、最初は、足利も新田も親戚同士って感じで、
当時の勢力関係から、新田が足利に事実上、従属するのを認め
それに対して、足利は新田が武者所の長官になるように後押ししたりしていたけど。
後醍醐天皇に、うまく乗せられて、新田が祭り上げられたから
足利も余裕なくなっただろう?
その時、新田としては、義重時代は、俺たちのほうが、足利を傘下に
治めていたと言いたかったはず。
744 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 07:54:41.68
>>743 足利が六波羅で負けて、新田が鎌倉で勝っていたらどうなったでしょうね?
745 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 13:05:47.68
尊氏「鎌倉攻めには千寿王がいたよ♪」
746 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 13:37:29.42
足利家などの家柄にまあ不満というか羨望を持っていたのは結城氏みたいな
それより古い家系のやつらばっかりだからな
千寿王が動いたから源氏一族が動いたというのは間違い
むしろ千寿王はそういったやつらの旗頭
747 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 13:43:11.23
これはその後の古賀公方時代にもその特徴が現れるな
どちらかといえば新興の山内や扇谷上杉氏などは室町
幕府と結びついたりあるいは関東管領として独自に支配
しようとしたり
関東は源氏以外の名門武家がなかなかうるさいからな
749 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 17:45:57.54
>>748 藤原秀郷流 坂東八平氏 武蔵七党 少しお聞きしたいが、長野業正の長野氏
であるが、ごまかすだったら在原氏なんかつけず、秀郷流か桓武平氏か義家流以外
の清和源氏 また、宇多や嵯峨等々源氏もあったのに。
「業」を通字としてるんだから仮冒としても年季が入ってるんじゃねえの
時行軍の鎌倉乱入の時に、進路にあたる新田党は積極的に抵抗したのかな
何かサボった臭い感じが…
新田荘は進路ともいえないし岩松経家が前線で討死してるし、
この時点でのサボタージュはないような。
本格的な対立は尊氏東下後の新田所領の接収後からかと。
753 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:24:10.67
>>750 本姓が石上だからあまりメリットがなさそうに思われ。
754 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:29:51.14
>>739 為朝の母親って単なる遊女だろう。
血筋が良くない。
やはり源氏は義家とその直系が本筋と決まっている。
しかも嫡流は新田の方だったのは事実。
>>754 義国が義家から受け継いだ八幡荘は義重が相続→つまり義国の嫡男は、義重
義康の嫡男義清は義重から矢田郷を与えられる→つまり、義重は義国流の棟梁
義清が早世し、義重が頼朝への帰参が遅れて冷遇されたから頼朝に近く、北条氏の縁戚になった足利義兼流に義国流の棟梁が移転
756 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 22:01:52.80
757 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 22:14:15.54
義康の子孫の中でも、義兼以降に分家したかどうかで、扱い違う。
よく、義康を足利初代とみる動きあるけど
源氏という姓よりも足利家という苗字を大々的に名乗るのは
源頼朝の政策によるところが大きいから、実質的に足利初代は、足利義兼から。
よって、義兼の兄の義清の子孫である仁木氏や細川氏は
足利一門というよりも、家臣同然の扱いだった。
でも、本当に義康の嫡男だったのは、義清のほうで
結局、義康や義清が早く死んだり、義兼の母方と頼朝の母方が親族だったことから
義兼が義康流の嫡流を受け継いだ。
しかも、伯父の義重が頼朝との関係が悪かったから、
さらに、本来の義国流の嫡流は義重流だったのに、
いつしか、義兼流がその嫡流を受け継ぐ、
次々と源氏門葉が勢力落としたおかげで、
最終的には、義家流の嫡流と、清和源氏の嫡流
室町期になると、村上源氏から、源氏長者を奪うまでになった
758 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 22:16:56.01
足利氏は、一応、八幡太郎義家を崇拝していたから
その直系である新田氏流や吉見氏流も同族扱いだった。
759 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 23:15:15.82
>吉見氏流も同族扱い
三河つながりだから優遇されたんだろ
範頼の嫡男範円は、義氏が三河守護になったとき、三河で坊さんやっていたんだからよ
義清の孫たちも義氏が三河守護になったとき、三河でプラプラしていて、家来になったわけだ
760 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 23:26:26.32
>やはり源氏は義家とその直系が本筋と決まっている。
直系云々関係なく、為朝の子孫で嬉しい気持ちが感じられるけど
頼朝も嫡男の嫁に為朝のひ孫を選んだ
足利尊氏
梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。
今川了俊
難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
761 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 06:29:41.57
>>759 南北朝時、石見吉見氏は義家流でも単独で兵をあげただろう。でも、
吉見氏や阿野氏が頼朝に近いんじゃないか?
762 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 07:31:59.91
義貞の直筆の書を見たことあるけど文章の最後に「源義貞」とあったな。
18歳の時の文章に。
文字も達筆だったよ。
763 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 12:32:00.66
尊氏は花押も祐筆任せw
765 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 12:48:03.99
それからそれから?
766 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 14:52:01.19
>>761 単独なわけないだろう、吉見氏は三河縁者なんだからよ
三河縁者でなければ吉見氏嫡流が断絶する事もなかった
767 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 19:28:35.29
768 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 19:59:11.36
南北朝時代なんてあんたバカ?あるわけないでしょう。
落ち武者=朝鮮人の白装束なんだよ。何このスレ基地外がいっぱい。
>>765 尊氏は田楽大好き
高時のほうは遊びより禅僧と問答するのが何より好きだった模様
770 :
日本@名無史さん:2014/11/06(木) 06:43:24.76
>>769 大河の鶴太郎のイメージじゃないんだなー。
小寺政職が北条高時に見えるのは テレビのせいだ。
772 :
日本@名無史さん:2014/11/06(木) 09:33:03.43
773 :
日本@名無史さん:2014/11/06(木) 22:19:43.16
>>770 鶴太郎の高時はあれはあれで良い。
鶴太郎にしか出来ない怪演だったよ。
あれはあれで支持する。
むしろキャラの立たない地味な俳優が高時を演じたらあそこまで印象に残る
北条氏滅亡にはならなかったと思う。
774 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 09:16:56.83
片岡鶴太郎の北条高塒は変だったけど
まあ、最後のシーンは印象に残っているわ。
基本、名家の坊ちゃんキャラだったけど
最期、赤橋守時とのシーンは印象深い。
775 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 16:41:47.91
>>774 守時は尊氏の義兄でしたね。大河では 勝野洋。
776 :
日本@名無史さん:2014/11/07(金) 21:10:28.39
高塒と守時の今生の別れのシーンにはグっときたなぁ。
守時の武士としての矜持を守ってやろうとするあの高塒には別人みたいだった。
どうしようもないバカ殿と思っていたイメージが一挙に吹きとばされた。
どのフィクション作品でも、高時は暗愚だが誰よりも善性を保つという描かれ方が多い。
恐らく死に際が立派だからだろう。平宗盛とそこが違う。
尊氏が九州から攻め上がった時、京奪還に拘りすぎたんじゃないか
楠木や名和ら有力武将を悉く失い総大将格の義貞自身も何回も討死しかけたし
一体誰の指示なんだ…
779 :
日本@名無史さん:2014/11/08(土) 06:48:03.23
>>778 坊門清忠
天皇の比叡山臨幸を献策した楠木正成に対し、清忠は「義貞が一戦も交えぬまま、
帝が年に二度まで京を捨てるとは、帝位を軽んじ官軍の面目を失わせるもの」
との大義名分論を振りかざし反対。
>>779 坊門のその後の動向を見ればこの発言も後醍醐の意向を代弁したように感じるがな。
きついこと言うと
後醍醐様 建武王朝を設立してからセンス鈍った?
鈍ったって言うと元々センスがあった、みたいな錯覚を起こしちゃいそうだな
783 :
日本@名無史さん:2014/11/08(土) 22:39:46.51
ゴダイゴ様の狂気が時代のウェーブにたまたま波長が合って大きな力が働いたんだよ
784 :
日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:11:09.58
後醍醐はあれは典型的な破壊王だな
785 :
日本@名無史さん:2014/11/09(日) 10:33:08.85
ゴダイゴ様は「武士に牛耳られた日本」というものを破壊したかったのだよ。
そして天皇と公家中心の世を作りたかったのだ。
それ故、島流しに遭ってもめげなかった。
強い精神力をお持ちなのだ。
786 :
日本@名無史さん:2014/11/09(日) 10:40:47.35
妄想終わった?
787 :
日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:54:44.31
ところで新田義貞公は身長180p以上ある大男だったらしいな。
腕っぷしも相当強かったらしい。
一対一ならナヨナヨした尊氏など瞬時に蹴散らしたのではないか?
788 :
日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:59:32.60
>>787 尊氏はご先祖筋の義経っていうわけでもないし。
789 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 08:16:23.95
後醍醐天皇の野望は、自分の子孫に皇統を独占させること。
当時、持明院統と大覚寺統で皇位を交合に継承していたが、
後醍醐天皇の地位は、あくまでも大覚寺統の中でも傍流であり、
大覚寺統の嫡流である兄の後二条天皇の皇統のほうに
皇位が継承されることになっていた。
つまり、甥っ子が若いので、その中継ぎのための即位であり、
後醍醐天皇の皇統は彼一代限りの即位だった。
それが嫌だ。でも、皇位には鎌倉殿が介入している。
なんとかしないと、そうだ、自分が皇位にあるうちに鎌倉を倒して
自分が皇位を独占するようにしてやる!
ってのが真相。
790 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 08:54:20.80
>>789 それって当然じゃね?
政争に敗れた皇統は嫡流でも断絶しているよ
・薬子の変で平城太上天皇が同母弟嵯峨天皇に敗れる
兄である平城太上天皇の皇統は断たれ、弟の嵯峨天皇の皇統に代わる
・保元の乱で崇徳上皇が同母弟後白河天皇に敗れる
兄である崇徳天皇の皇統は断たれ、弟の後白河天皇の皇統に代わる
791 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 09:31:17.94
>>790 大覚寺統の多くが、北朝になった持明院統側についている。
それが、南北朝の動乱の真相。
公家社会でも、本家筋は北朝側。
後醍醐天皇時代に源氏長者になった北畠氏は
村上源氏の中でも庶流の庶流ぐらい。
792 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 09:39:55.69
大河『風と雲と虹と』の吉永小百合演じた嵯峨の曾孫貴子のことを思い出した。
嫡流じゃなければ姫君も4−5代で遊女に身を落とす。
793 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 09:52:26.90
>>791 五摂家筆頭の近衛家も
歴代天皇の外戚だった西園寺家も
兄弟で南朝北朝に別れるなどしてバラバラじゃなかったか
大覚寺統の多くが持明院統についたという事実はない
>>793それって
近衛家や西園寺家でも非嫡統でない
家門を継げそうにない末っ子が大覚寺統に参加したとか
しかも、大覚寺統の嫡流にではなく、傍流の後醍醐にな
最も、持明院統も家督争いがあって伏見宮家が創設されたりしたわけだから、後醍醐が先例を無視して新儀を立てたことが公家の嫡流から疎まれた原因だろう
796 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 20:00:55.50
新田義貞は身長180p以上の美丈夫だったのか。
女にモテるわけだよね・・。
797 :
日本@名無史さん:2014/11/10(月) 20:51:47.83
>>796 政略かどうか知らんが、尊氏もきれいな妻を迎えている。赤橋守時の
妹登子、尊氏は直義に「美人だろう。」とのろけている。 スレ違いだが、
ご容赦願いたいが、毛利元就は熊谷信直を味方に引入れようとして、元春の
妻に信直の娘を望んだ。信直は娘が醜いのを非常に気にしていたのを逆手に
取った元就の心理戦である。
>>787 尊氏が160センチくらいだとしても、あの人もハイテンションの時は
武勇に優れた左中将相手に本気で一騎打ちに応じそうな人ではあるな
逆に大男の左中将が意外と小心というか、責任感じやすいタイプなのだよなあ
799 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 04:19:46.43
大覚寺統嫡流だった木寺宮家や、
傍流の常盤井宮家は、北朝についただろう?
後醍醐天皇の家系を特別視しすぎなんだよ、明治以降の
国学思想や皇国史観の連中はw
あんなの、ただ単に、後醍醐天皇がこのままでは自分の家系は
自分一代限りの天皇だったから、自分の家系が皇位を独占するために
しかけたにすぎない。
両統迭立といっても、持明院統も大覚寺統も、それぞれ一統に絞られるわけだから。
大覚寺統の主流は、あくまでも、後醍醐天皇の兄の家系に絞られることが決まっていた
800 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 07:21:09.60
岩波文庫の古典太平記第二分冊をゲット。はやく全巻刊行してくれないかなあ。
801 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 07:26:06.30
>>797 赤橋登子が美人だったって何に載ってるの?
802 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 09:58:03.83
803 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 19:02:45.67
何となくイメージ的に
足利尊氏=田中康夫
新田義貞=細川茂樹
いや、外見のイメージだけだけどね。
外見つってもあの時代の肖像画って当てにならんぞ
尊氏の肖像からして別人とか言われ取るし
805 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 20:00:26.75
背が高くて筋肉質で腕っぷしも強くて書も上手い。
おまけに女性には優しい。
いい男の条件を満たしているんじゃないかな、新田殿は。
806 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 20:01:30.43
>>797 >>802 「太平記」にはそんなこと書いてないよ
尊氏が直義に登子のことを美人だろうとのろけているのは
吉川英治原作の「私本太平記」
勿論、吉川英治の創作
807 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 21:53:53.92
義貞と尊氏は、しばしば項羽と劉邦に擬せられるところだからな
義貞が剛毅な東夷だが、人たらしの尊氏のほうが結局もてるんじゃないかw
808 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 23:42:39.95
司馬遼太郎だったり、吉川英治だったり、
小説家が書いた作り話が
いつのまにか、本当の歴史みたいに錯覚するやつの多いことw
809 :
日本@名無史さん:2014/11/11(火) 23:43:41.85
尊氏はうすらあばたの不細工顔だったって
810 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 00:14:57.19
横山まさみちの「太平記」では義貞は美丈夫に、尊氏は垂れ目のさえない
おっさんに描かれていたな。
尊氏は人たらしだろう
812 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 08:38:15.61
淫乱な後醍醐天皇
淫乱なのは皆一緒
814 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 21:22:50.02
どうでも良いが、新田が後醍醐様の忠臣って怪しくない
その割には北陸で後醍醐Jr勝手に祭り上げて 盤踞してるし
815 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 21:51:37.36
その割に、フィクションとは言え、「太平記」では、後醍醐が
「義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし」
と遺言する新田への信頼っぷり。
>>815 後醍醐様の方は新田を信頼していたとか (楠木や尊氏の諫言には耳も貸さなかったくせに)
或いは高氏に尊氏を名乗らせた時みたいな 家臣煽てか
義貞の性格を見る限り後醍醐に信頼されたのも当然にみえるけど
北陸落ちクーデタの件って太平記以外に記されてるのかしら
818 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 23:28:49.19
尊氏も将軍をねだる前までは信頼されてたよね尊治サンに
足利も新田も弟が優秀で兄に忠実なんて羨ましい限り
820 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 07:39:01.85
だな。長男は絶対だったのだよ。
821 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 07:41:03.42
>>819 楠木もその二人程じゃないが悪くはない。
楠木正義
上層部がオヤジの献策を無視し続けたの根に持ってたのか
「京奪回だけなら私だけでできますけど、日本中が足利支持してんのに維持できるんすか」
823 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 17:43:25.67
824 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 20:55:33.84
足利と新田ってそもそも仲悪かったの?
仲悪かったら千寿王なんか保護しなかったろうに。
鎌倉の要所攻めの大将は全部新田側の武将だったんだから、後に騒動になるのは
予見してたんだろうね。
825 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 21:43:16.87
お互い源氏なだけ、無関心だったろ
足利一族の仲間は霜月騒動の負け組と吉見氏
826 :
日本@名無史さん:2014/11/13(木) 21:53:28.13
>>824 倒幕当時は従属同盟な感じ。
関東の戦いでの新田の圧倒的な勝利で無視できぬ存在になり、
中先代の乱以降の足利の謀反で、対足利の旗印に担がれ・・・という流れ。
827 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 07:02:29.26
>>824 新田は没落時から足利に泣きついて助けてもらっている。
胸中は穏やかではなかったのでは?
おそらく新田が一方的にコンプレックスを持っていたと思う。
足利は、新田を一族とみなしていたと思う。
828 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 10:11:37.92
そもそも足利が源氏の棟梁とみなしていたのは後醍醐天皇だからな
827
そもそも新田氏は分裂しすぎていて新田朝氏の養子にはいった
里見小太郎義貞さんに何か御用で?
829 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 10:17:31.30
足利は次男の次男の血統というセリフがあったが間違いではない
義国の子、義重の弟が義康
義康の子、義清の弟が義兼
足利がまともに成立したのは義兼の子、義氏のとき
830 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 10:26:56.13
はいはい、ここで桃井義助と畠山義澄という兄弟がでてきますね
このうち桃井は上野に入って荘園を持っていました
畠山は新田義重の孫娘と結婚し二人の子供をもうけます
後に北条氏から畠山氏の後家さんとの結婚話が持ち上がり離縁して
畠山氏の家督を継ぎます
残された二人の子供らが名乗ったのが岩松氏です
831 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 10:32:25.06
足利尊氏の母親が上杉氏、でこの上杉氏(尊氏の母親)の従兄弟が山名氏
血縁からいけば山名は足利の方が近いんだよな
山名は一度も新田についたことはない
832 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 10:50:29.45
三河に広がったのは全て足利義氏以降の子孫
足利氏がまともに親戚筋と見なしていたのは
まあ義氏以降だろうなあ
833 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 11:12:57.61
言わしてもらっちゃあなんだが
新田本宗家というのはすでに存在していたか疑問
新田の主流はすでに山名と里見に分裂していた
山名は終生、足利方として活動し山陰方面に一大
勢力を築いた
いわゆる新田方として終生活動し運命を共にした
のはいわゆる里見一門
常に新田方として活動し消えていった
834 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 11:22:08.55
ちゃんと正史としても記録としても残ってるから
この辺は誤魔化しは効かないよ
835 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 15:12:30.69
>>833 それさ間違い
新田本宗家、岩松、世良田に三分裂が正解
里見だ山名だ足利だっていうのはそれ以前の話
837 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 15:30:33.91
うん、だからその三者にはすでに旗揚げする力はなかった
だから新田方として活躍した氏族はほとんど里見一門
838 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 15:43:26.59
越後に勢力を伸ばしたのもほとんど新田義重の庶長子、里見太郎義俊の子孫
839 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 17:53:19.16
畠山義純の本領は美濃国ですよ、恐らく義兼が母方から受け継いた所領でしょう
義兼の母方の曽祖父の弟の息子が美濃国土岐多良荘の地頭であり
曽祖父の姉妹の息子である二階堂行政が岐阜城の前身を築城した伝承をみても、美濃国は、母方一族の影響下にあったんです
840 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 18:01:24.79
義兼は頼朝に足利荘を安堵されるまで北関東に行った事すらない
自身が創建した法界寺も、母親を菩提する為に作られた
841 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 18:15:51.99
確か矢田義清は傍流じゃなくて嫡流だったとかって説が出てなかったっけ?
で義清が出奔したから義兼が足利を継いだとかなんとかで揉めたんかね?
842 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 18:28:37.65
それで義兼があとを継いで残された義清の遺児が後に足利宗家に仕えるようになり
三河に入って勢力持つようになったんだよな
細川氏、仁木氏の祖先
843 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 19:01:04.95
義清の孫達が義氏に連れて来られた記録はないでしょ
連れて来られたはただの思い込み
義清の息子の広沢は三河国賀茂郡広沢の広沢だろ
つー事は、義氏が三河守護になる前から三河にいたという事
細川氏の菩提寺が豊田にある事や戸賀崎義宗が村積神社の神官だった事実は、足利氏とは違う土着性を伺わせる
844 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 19:18:15.58
そなの?
845 :
日本@名無史さん:2014/11/14(金) 19:29:32.57
世良田は霜月騒動で味噌つけて自滅し、本宗家が権威を復活しつつあった。
それにしても解せないのは、しばしば話に上がる堀口の美濃守叙任だね。
なんで、堀口ごときがみんな憧れ垂涎の一等国美濃守になれたのか。
縁組ぐらいじゃ絶対になれないよ。
堀口の親父がどうやって美濃守ゲットしたんだって話題、
しばらくループが止まったなと思ったら、ついに出たねw
847 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:08:54.65
歴史から抹殺された抜群の軍功を挙げたのかな?
霜月騒動か平禅門の乱とかで。
848 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:12:35.09
新田四天王は山名、岩松、堀口、里見でおk?
849 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:17:30.31
有名所はその辺だよね
850 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:24:37.82
つうか新田一族でも大勢、足利氏に従ってるからね
反足利派ってので探す方が早いかもしれないね
足利氏の一族でも新田についたのはいるしな
851 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:25:44.30
つうか新田一族でも大勢、足利氏に従ってるからね
反足利派ってので探す方が早いかもしれないね
足利氏の一族でも新田についたのはいるしな
852 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:27:35.75
まあ上野(群馬)じゃ室町時代は足利氏による新田氏というのは監視対象だったのは間違いない
853 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:56:16.71
新田四天王いうたら講談の世界では4人の忠臣のことを指すからまああれだな
854 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:03:24.51
つかさ南北朝以降の時代って南朝の天皇や地方下向した親王なんかも
みんな武士化してるでしょw
院政時代が謀略メインならこの時代の皇室は武士と変わらんw
公家から武士に転向して戦国武将になったのもいんのよ
>>843 義清死後にその子孫は義兼の郎党になり三河に所領を得た
義清子孫が足利の一門の扱いを受けた事実はない
>>848 世良田、岩松、堀口、大館
山名、里見は早い段階に独立して新田の範疇にはない
857 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:48:55.01
>>854 それを言っちゃあお終いよw元を辿れば公家か皇孫なのにw
公家の戦国大名っていったら北畠、姉小路、一条あたりか
858 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 16:36:07.94
859 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 16:48:04.82
ほー、ほー、ほー、昔の国司なんてみんな皇孫か公家で?w
858
必死だなwww
そこまでいくと何に拘ってるのか見えてくるわw
860 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 16:50:17.71
まあ従五位以上が公家の定義だからそうなんのかねえ?
861 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 20:34:04.00
しかし大塔宮は宮様なのに征夷大将軍になるなんてすごいよね。
だから尊氏に憎まれちゃったんだろうけど。
862 :
日本@名無史さん:2014/11/15(土) 20:45:21.11
どーみても義清の孫たちが関東から来たとは思えんな
菩提寺が違うわ独自に守護神はあるわ、物部氏系の神社の神官だったりと、土着性が伺える
義清が戦死して、寿永年間に義兼を頼って三河にやってきた話は説得力があるね
村積神社
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/aichi/okazakisi/muradumi/muradumi.html 村積山は、花園山とか、その麗姿から三河富士とか呼ばれているが、山頂に、真福寺(天台宗)の開祖物部真福が、同寺の守護神として大山祇命(おおやまづみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)、木花咲耶姫命の三神を勧請したという村積神社がある。
鎌倉時代には細川氏の守護神となったと伝え、近世には奥殿藩主大給松平家の祈願所となった。この神社正面左側の一段低い所、石の玉垣の中には、しめなわの張ってある「毒石」と呼ばれる2つの岩(右が約1メートル、左が1.3〜1.4メートル)が立っている。
これにさわると病気になるといって村人に怖がられ、玉垣にすら触れる者がないという。
細川氏の祖細川義季(右)と、一族の村積神社神官である弟義宗(左)の墓とも言われており、村人に大切にさせるために毒石と称したとの説もある。
豊田市隣松寺に所蔵されている『細川家御由緒』には、この毒石は「神霊石」とか「石神」とか書かれ、細川氏の守りの石塔であることが書かれており、墓とは書かれていない。
なお細川町蓮性院にも、類似の伝承をもつ石がある。権水(ごんずい)城(3つの細川城のひとつ)のすそ(イタチの道)にあったもので、三本石塔と言われる石碑と共に蓮性院に移された。
供養塚との説もあるが、不完全な五輪の塔である。動かしたり、さわったり、不浄にすると祟るといわれるが、けが程度かあるいはオコリを震うという。これが細川頼之の墓ではないかとの説もある。
矢田義清の名字の地は丹波の国八(矢)田郷
ここでの活動の痕跡があるといい、「北酒出本源氏系図」には
はっきりと「住丹波矢田郷」の傍書がある
八田郷の領主は源三位頼政であり以仁王、源義仲への与同はこれが
原因か?
義清戦死後矢田郷は没収され、鎌倉期には足利本宗領として見える
なので
>>855氏に一票
義清母が義兼と同母乃至同じ熱田大宮司一族なら
子孫がこんな扱いを受けないだろう
865 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 00:23:19.05
なんで義貞の官位ってもう少し上げてあげなかったの?
義貞の性格だったら正一位あげたって、天皇に忠誠誓うだろう?
866 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 00:48:58.80
この時代の武家なら十分だろう
867 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 08:28:53.50
正一位ってw歴史上、生前に与えられた人物は数人しかおらん
もう一度京都を奪回したら、従三位には行けたかもな
>>861 すでに鎌倉時代に親王将軍なんてたくさんいただろう。
869 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 17:46:56.97
>>867 楠木正儀が参議になったが、従三位か正四位上か正四位下か従四位上か
従四位下か?でも、正四位上か正四位下か従四位上ってあんまり見たことないですね。
870 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 17:53:39.15
従五位以上は公家だぞお前らwww
義貞は追贈正一位だが、
徳川将軍家を除いて武家で追贈正一位をもらってるのは信長・秀吉・元就・正成・義貞等、
歴史上10人未満なんだから、それで誉とすればよい。
872 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 17:56:13.12
868
将軍というのは制度外の官位
正一位〜従○位までどれにも当てはまらん
873 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 18:00:03.02
官位がついてくるのは右大将とかそっちの方だ
併任で公家職の官位や役職ももらってるだろ
従2位なら右大臣か
874 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 21:27:28.35
正一位・・・凄いことだね。
南北朝時代では他に大楠公と北畠親房卿のみが正一位を授与されているね。
875 :
日本@名無史さん:2014/11/16(日) 21:36:59.63
さむいね〜
恩賞として与える領地がないから代わりに官位を叩き売りしただけだろう。
877 :
日本@名無史さん:2014/11/17(月) 02:57:10.73
878 :
日本@名無史さん:2014/11/17(月) 04:45:59.03
>>871 元就がもらってるのは、長州と薩摩の力関係かな? もしくは、義久
と義弘二人どっちにやろうか迷ったのか? それとも、島津は秀吉にまけたから。
元就は石見銀山取ってから朝廷にかなり献金してるからじゃないか?
あと、薩摩隼人は「命もいらず、名もいらず、官位もないもいりもはん」っちゅうこつで
880 :
日本@名無史さん:2014/11/17(月) 17:50:31.71
>>879 そういえば、『 島津奔る』のなかでこういうシーンがあったなー。「おーい
豊久 叙位があったぞ。おまえは中務大輔。俺は参議だけどこんなのは無用の長物
だ。」というふうな感じ。
881 :
日本@名無史さん:2014/11/19(水) 13:18:44.43
>>878 明治維新後なら長州閥のゴリ押しだろうな
>>881 なら、元就を喧伝するだろ
秀吉はまだしも信長や武田信玄と同格って
883 :
日本@名無史さん:2014/11/20(木) 18:54:49.47
>>878 毛利元就に正一位が贈られたのは明治41年
ちなみに豊臣秀吉に正一位が贈られたのは大正4年
織田信長に正一位が贈られたのは大正6年でこれよりも元就のほうが早い
884 :
日本@名無史さん:2014/11/20(木) 19:19:42.63
>>883 同じ毛利に授与するなら正成に兵法を伝授した毛利時親に。
15年前の本だけど「太平記読みの時代」に、
楠木正成が名将というより仁政を行う名君として描き出されてると指摘されてる
大楠公信仰は順逆論というより泰平の時代の読み替え方面から素地があったんではないか
幕末に義貞の末裔を自称した尊皇攘夷隊があった。
武蔵だったかな。蜂起前に密告されたけど
887 :
日本@名無史さん:2014/12/06(土) 18:25:41.10
新田官軍のことではなくて?
岩松の殿さまて文久年間の慷慨組のときに1回逃げてなかった?
あの時に真忠組や渋沢栄一みたいな関東一円の尊攘蜂起があって、それがバレたはず
桃井姓の人が何人も参加してたやつ
岩松さんの猟官運動のおかげで義貞関連の史跡が進んだのかも知れないけど
889 :
日本@名無史さん:2014/12/23(火) 12:05:52.92
>>883 生前に正一位って正成の先祖橘諸兄くらいのもんだろう。
イトコでマブダチで、別荘を借りて恐妻とその舅から匿ってもらっていたから
891 :
日本@名無史さん:2015/01/04(日) 04:23:56.34
892 :
日本@名無史さん:2015/01/23(金) 21:50:38.66
江戸時代の頃は新田四天王とか菊池千本槍とかメジャーだったんだよな
死後数百年経ってからの正一位に何の意味があんのやら・・・
まあ徳川将軍の死ねば自動的に与えられる正一位っていうのもなんだが
894 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 02:26:35.80
義貞が叙位されたのは明治15年(1882年)
その明治時代の政治背景を考えれば納得
ちなみに足利尊氏は従一位で没後100年後の1457年太政大臣になった
895 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 13:15:48.24
>>889 最初に生前正一位になったのは藤原宮子
他に橘諸兄、藤原仲麻呂、藤原永手
生前正一位は奈良時代に集中していて
それ以降は平安末期の源方子、明治時代の三条実美のみ
896 :
日本@名無史さん:2015/01/28(水) 15:40:55.43
>>895 藤原仲麻呂って名誉回復してもらってないの?
>>896 永遠に無理。そりゃ、朝廷に反乱をおこしたからね。
藤原南家は不仲な兄、豊成も含め三族皆殺しになって族滅した。
豊成、仲麻呂兄弟は供養も許されぬ廃墓という極刑を課され、南家の復活は未来永劫不許可とされ、
仲麻呂の官位もなかったことにされている。
余談だが、仲麻呂の娘婿の北家の真楯は反乱前に暗殺され、内麻呂−冬嗣(良房の父)と
暗黒時代を逼塞している。
豊成は族滅してないだろ
弟の仲麻呂の乱以後右大臣に復帰してるしその子息も桓武朝でも重職に就いている
前九年の役、始まりの時の陸奥守藤原登任が南家じゃなかった
900 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 06:41:53.15
藤原信西も南家
901 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 09:04:27.45
>>896 政変で死んだ橘奈良麻呂は孫に檀林皇后が出たため
従一位太政大臣が贈られたが仲麻呂の名誉回復はされていない
国母が出るか菅原道真みたいに祟りにならないと無理なんじゃないの
902 :
日本@名無史さん:2015/02/02(月) 15:41:53.05
ビッ●カメラの佐藤伸弦が暴行事件を起こしていた
903 :
日本@名無史さん:2015/02/05(木) 10:40:24.89
他の外国人は、国籍を堂々と公表してるのに
在日だけが、国籍を隠してコソコソ生きてる
日本人に成りすまして活動してる在日芸能人も
人を騙して金儲けしてる、詐欺師と同じ
なんで新田が大河ドラマ化しないんだ?
歴史的な重要性ゼロな戦国時代のザコばかり映像化してんじゃん
そういえば、新田義貞の末裔(自称だけど)の岩松、由良、中村さんの
末裔は何をやっているの?(´・ω・`)
まがりなりにも、交代寄合や高家、伊達家の重臣だったのに、
この人達全然出来ないよね
百姓の地主や御家人株を買った自称新田義貞の末裔の方々はネットで情報が少し出ているけどさ
>>905だけど、
×出来ないよね
◯出てこないよね
由良家が明治時代になって没落したことぐらいしか分からないわ
907 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 18:40:01.13
我が家も自称新田義貞の子孫。
なんでそうなったのかというと、戦国時代に仕えていた足利一門守護がめつぼうする時に参陣せずに見殺しにしたんだよ。
その時の言い訳が「ウチは新田義貞の子孫だからあんなのに尽くす義理は無い」
908 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 18:43:40.15
あほくせえ
そもそもが冴えない先祖の嘘八百の妄想だろ
なにがさんじんだ足軽風情が
909 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 18:45:37.21
そもそも先祖の出自をホラ吹いてる時点で、糞みたいな家計だな
当時の渡来人じゃねーの?
910 :
日本@名無史さん:2015/02/07(土) 20:27:35.07
>>908 地侍→代々村役人だよ、名も無き水呑の倅よ。
今でも我が屋敷の周りには昔の小作人どもの狭い家が並んでいる。
由良の直系子孫は福井県の藤島神社の宮司(代務者)やってるよ
>>911 あの人って由良家の人間なの?
てっきり、石川県の新田さんとかの人だと思っていたわ
そういえば、今の岩松家の当主は女性だよな。
一方の由良家って没落してどーしていたんだろ?
屋敷とか財産を無くしたんだろ?
地元・茨城県にでも引っ越していたんかね?
近頃の小説や雑学本を読むと、
楠木正成は智将では無く、卑劣なやり方でのし上がったインチキ野郎みたいだね
新田義貞は戦の現場を知らない京都のお公家さん達の命令を馬鹿正直に守ったために
散々な目にあった可哀そうな人と言うイメージしかないぜ
新田義貞は鎌倉幕府攻略までが華だったね
緒戦で華々しい戦果を挙げながら、その後は主人公のライバルとして敗退・転進しつづける姿が
義貞=シャア・アズナブルと言われる所以だ
箱根竹の下合戦で佐々木道誉は新田義貞を裏切ったけど、
もともと新田義貞は佐々木道誉を戦陣に入れるのには反対だったらしいね
「こいつは絶対裏切る」と言っていたらしいけど、予想どおりでワロタわ
>>904 表舞台に立ってる時間凄い少なくないか
若い頃北条に虐められてるシーン延々と流すのか?
木枯らし紋次郎は上州新田郡三日月村生まれ
>>914 楠木正成は究極の化学兵器であるウンコを用いた武将だからな。
まあ、故意に用いたというより籠城戦で始末に困って投げ捨てたら
運の悪い幕府軍の誰かに当たったんだろう