952 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 01:38:38.51
義貞は尊氏に勝利したとしたら次の策はあるのか?ずっと後醍醐のパシリ?それとも八幡太郎義家の血が目覚める?
何もなかったと思う。
恐らく義家の頃に戻る感じじゃない?
貧乏人が急にあぶく銭を掴むんだから、河内源氏のお家芸、一族内の殺し合いが始まるかもしれないが。
954 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:46:53.97
義貞は最後まで宮方の近臣でがんばったろ。寝返らなかっただけ立派だろ。
武士層のトップなんだし。
むしろ全国の武士層が自分の利益になりやすい尊氏側についたのだろ。
武士の利益に配慮したのは尊氏の政策なんだろうし。
義貞は宮型の利益しか政策になかったっぽい。
>>954 一門にかなり所領を与えることができたから宮方のためだけとも言えない。
北国落ちの際も後醍醐に恒良に譲位させたように単純な忠臣というわけではないよ、
新田一党は。
956 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 11:22:12.49
梅松論には楠木が義貞を捨てて尊氏につけと進言したという話があるんだけど
理尽抄だったか何かでの解釈では、真の忠臣たる正成は、義貞も征夷大将軍となればみずから幕府をつくる野心家だろうし、相手が義貞となると手強いから、今のところはチョロい尊氏と組んでおいた方がよいと考えたのだという
その本はだいたい戦国時代=足利時代後期に成立した本だったようだから、代々の足利将軍なんてろくなもんじゃないという認識が一般的だったんだろうけどな
そもそも足利時代というけど、絶え間なく日本のどこかで地域紛争が起こっているような時代だった訳だからね
957 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 11:30:53.95
こんな負けまくってる義貞に幕府は無理だよ。
一応源氏の北畠が幕府作るんだよ
親王たちを全国各地に派遣しそう。んで群雄割拠になる。一応派遣はしてるけど子供ばっかりだから。成人したら
>>957 親房は頼朝や泰時を評価はしているが職源抄を見てもわかるように
武家になんかなりたくないだろうな。
>>957 成功したのは懐良ぐらいで宗良は放浪を20年ぐらい繰り返し、
恒良、尊良は死ぬ羽目になるなどろくな最最期じゃない。
地方に行っても協力者がいないとどうにもならない。
山陰に派遣された常陸宮という誰だかよくわからない
皇族は恩賞で味方するように文書を出しているがこの空手形発行レベル
ばかりだから割拠などとてもできない。
源氏は皆元を辿れば天皇に行き着く
>>959 懐良が成功したのは現地の武士たちの要望をうまく汲み取れたからだしね
この点で後醍醐の方針とは一線を画するとおもわれる
都から遠く離れた九州で、幼少時から武士に囲まれて育ったからこそできたのだろうね
あとはまぁ、本州から海を隔てた立地条件のおかげかな
963 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:22:53.38
足利軍が九州落ちした時なんで速攻勢力回復できたの?三河みたいに九州にも飛び領地あったの?
964 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:23:45.62
太平記はもちろん源威集、理尽抄などでは義貞は名将扱いなのに
なんで義貞は負けまくっているというイメージなんだ?
家格で圧倒的に不利だったにもかかわらず北条氏を殲滅し足利氏と互角に戦ったわけなんだが
>>964 大局的な敗北が多いからだろう。勝利者としてふさわしいのは鎌倉攻めぐらいで
その後は箱根竹下で敗走し、尊氏の入京を許し、尊氏の西走後に追撃しようとして
赤松に足止めされ湊川、洛中と敗北したなどこれほど頼りにならない大将もいない。
北国で斯波高経を破り、越前の府中を確保したのにその後直ぐに死んだのがな…。
もっともその後高兄弟が出てきたら顕家よりもうまく戦えるとは到底思えないがな。
ていうか義貞は持ち上げられすぎなんじゃないかと。特に鎌倉攻め。
北条系以外の守護家はほとんど残ったし、彼らは足利でも黙過できない実力を持ってたし、
目立たないだけで、下野小山氏や下総千葉氏も鎌倉攻めをやっている。
新田や楠木がどんなに領地をもらっても、2年や3年で支配が安定してたか疑わしいし、
後醍醐が敗勢になったとたん、諸国の武家があぼーんしちゃったのも当然かと。
>>963 通説では、九州で鎌倉以来の守護やってた武藤(少弐)、大友、島津が味方したから。
まあ尊氏に味方したから、その後も生き残れたんだろうとも言えるが。
>>966 ていうか白旗城合戦は義貞の愚劣ではなく赤松円心の名将ぶりを示すものだよなあ?
やったことは正成の千早赤坂城と同じなのだから
あと北畠顕家が何故あんなに強かったのか謎だ
所領があったとか、筑前にちょろっとだろ
範頼軍みてもそうだが、三河武士は九州に負けた事がない
三河武士に不可能はない
971 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:59:58.37
所領一覧みても、本領の三河以外はカスみたいなもんだ
もちろん飛び地の足利や上総など、面積的にゴミ
>>969 鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。
『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」
これは非常に大事なことを語っている。鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄)
>>972 相馬とか芦名が東北に本拠を移したのは事実だが、関東の所領も全く放棄されたわけでもない。
それに、戦国末まで東北の大名・国人はほとんど関東か甲斐にルーツを持つ人たちだった。
974 :
日本@名無史さん:2013/09/04(水) 01:22:17.80
東国はやっぱ荒れるね
西国は比較的平穏だね
>>972 まあ直義が成良を奉じて関東に下向すると元に戻ったけどね。
ただ北畠親房が後醍醐に奥州府は裁判権の独立を約束させた
ことが多くの北関東の武士たちを惹きつけることになったのは事実だろう。
奥州府の式評定衆に地元の武士が多いことからもわかる。
津軽安藤の乱ではアイヌも加わって北条も何年も鎮圧できなかったことから
こういう連中を兵士にすれば強いだろうな。
977 :
日本@名無史さん:2013/09/04(水) 22:19:19.32
このスレも埋まるか、感慨深いな
キートン山田で一時レス止まったのは残念だったがw
三河厨は三河スレ建てて勝手にやれ
980 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 07:51:05.98
源頼朝・源範頼軍は、元祖三河武士団
昔から平成の時代に至るまで負けた事がない
981 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 08:31:33.27
三河の藤姓熱田大宮司家との血縁で、三河守護になれた足利氏()は、先祖の地三河を本拠にしたからこそ、天下を取れた
982 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 11:58:46.65
もう田舎ラブはわかったから
983 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 12:15:04.30
田舎ラブとは、クダラナイ新田と足利とかを語る、北関東の猿の事か?w
三河は未来指向、グローバル指向のリアリストだからな、昔の事は興味がないからな
やろうと思えば威張りちらかせるが、やらないだろう
大体な、新田と足利など源頼朝がと武田氏と同じだ
984 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 12:29:49.28
何故レスしているのか未だに分からないとは、やはり頭が悪いわな
俺は関東が大嫌いなんだよ
勘違いしやがる、万年パシリに、身の程を教えてやる
985 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 13:17:22.85
んじゃ三河に幕府置けよ
986 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 13:48:44.10
万年パシリの高卒め
トヨタグループと言う幕府を開いているだろ
山名大舘里見が、同門だから室町幕府の幹部になったとか、笑い殺すつもりか?
新田に同門意識などあるわけねーだろ
>>972 倉持文書で足利氏の所領として陸奥加美が足利に次いで二番目に来ているのも
東北に所領があるがあるということが大事だったからなんだろうな。
ここも新田と差がついている点か。
山名や里見の独立のみならず、総領権まで奪われちゃったし
最終的に新田宗家のもとに残った所領ってどのくらいなんだろ?
>>988 新田荘以外の所領は確認されてないらしい。
しかし鎌倉期の新田一族は越後方面に進出してたらしく(ただし宗家の権力は不明)
義貞夫人が得宗被官安藤氏なので北条氏の被官になりつつあったのかも。
>>986 山名は破格の厚遇で管領並みと言えるかも知れんが、里見・大館はそこまでじゃないな。
関東の岩松氏は上杉氏と通婚するほどの家ではあった。
新田という単位で同族を意識してたかは非常に疑わしいが、
足利の遠戚でもあるので、血統が全く無意味だったとも思えず。
>>984 >俺は関東が大嫌いなんだよ
関東以外の日本領は全て関東の植民地…
大阪がどうあがいても金融の中枢は東京から動かない…
江戸時代の大阪市も人口は江戸の半分にも達しなかった…
神戸市の人口は横浜市の半分以下…
名古屋など大阪市より更に格下…
植民地の出先都市札幌よりややマシといったところか…
関東と名古屋の植民地に過ぎない三河なんて…単なる交通路?w
992 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 20:48:40.98
すいません、三河って観光するのに何かあるんですか?
馬鹿にしているんじゃなくて、本当に何か観光スポットがあるのか知りたい
のですが。
それか、三河ならではの特産、名産品でもいいです。
>>991 また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。
>吉良殿様
>御籠城
>御命令
力抜けよw万年パシリのトンキン猿w
994 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 21:55:28.02
>>993 「w」を使ってる人って追い込まれてる人の典型なんだよ?
優位勢をアピールしてwを使うんでしょ?
995 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:10:45.49
山名氏
・初代は三河の矢田義清の息子、義範の範の字は三河の熱田大宮司家が関係か?
・時氏の母親は、三河の足利奉公人筆頭の上杉頼重(上杉清子の父)の姉妹
岩松氏
・初代の父親は足利義純
大舘氏が三河の酒井氏の先祖の話は、三河との繋がりを感じさせる
新田に同門意識があって、幹部として登用されたとは言えないわな
結局は三河よ
996 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:42:37.11
三河猿はスレ立てることもできないらしい
だからあちこちのスレに寄生して妄言を垂れ流す
本当に田舎者は「お行儀が悪くて困る」
998 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:03:46.89
999 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:05:36.62
999
1000 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:06:49.55
1000なら征夷大将軍義貞
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。