1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 19:57:30.61
陳寿 乙
『宋書』倭国伝 478年 雄略天皇、
中国に送った使者の大和朝廷の説明。
「東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
まだ九州説とかゆってるのか。
IQ低い証拠。
卑弥呼古墳時代から一系で今の皇室で決まり。
大和国以外にないだろが。
新資料もってこい。
1小津
アマテラスもスサノオも福岡生まれである。
ヤマト朝廷のルーツが九州で
神武が東征したのは間違いない。
6 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 20:51:40.64
宇佐八幡宮が伊勢神宮とほぼ同格のステータス
を持っていたことをどう考えるか?
毛人 = 蝦夷 蝦 = 「鯢の大なる者を之れ蝦と謂ふ」 鯢 = 雌クジラ
衆 = 日の下で奴隷が汗して労働している姿
神武は1世紀〜2世紀の人、卑弥呼は3世紀の人
よって東遷説はありえないという結論に達しました
えびす(ゑびす)
1.日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。
また、初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。
2.外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。
3.神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。
4.寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。
5.蝦夷(えぞ、えみし)の別称。中華思想では、未開の民や東国の民をさし、外国人の蔑称として使っていたこともある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B3%E3%81%99
烏合の衆
規律や統制もなく、ただ寄り集まっただけの群衆・軍勢。役立たずな人々の集まり。
烏合の衆は、中国『後漢書』の出典による。
「烏合」とは、カラスの集団のことで、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで統一性に欠ける
ことから、喩えとしてこの語が生まれた。
11 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 22:02:01.17
箸墓古墳の立ち入り調査が許可されて、今年の2月に日本考古学協会の
人たちが立ち入った様子が大々的に報道されましたが、その後、
何の音沙汰もありません。
どうして考古学協会の人たちは黙ってしまったのでしょうか。
ひょっとして横穴式石室でも見つかったのではないでしょうか。
あらためて畿内説が詐欺だという結論が出たので沈黙した模様。
学会立ち入りまでの経緯とか立ち入り範囲とか成果報告の仕方とか全然分かっていない
こんなレベルの奴が知りもしない学界の内情と称してウソを並べて印象操作
これが現在の九州説信者の一例
14 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 22:47:28.25
>>11 箸墓の内部が侵入者の掘った穴とゴミで悲惨な状態だったから公表を控えた。公表したら宮内庁書陵部の首が飛ぶ。
15 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 22:53:21.91
今までの新聞発表では「卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳」だったので、
これからどうしようかと考え中かもしれないな。
逆に言えば、どういう新聞発表をするかで調査の結果がわかるかも。
16 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 22:55:03.45
>>11 立ち入り調査はまわりを歩くだけだったのでたいした成果はなかったのです。
掘った穴とごみで悲惨な状態だった、これはほんとうでしょう。
箸墓は周囲を掘りにかこまれていないにで、簡単に進入できるのです。
オフレコですが、関西の某大学の考古関係の教室では、新入生の歓迎会を箸墓で行っているということです。夜中に集合してヘッドライトをつけて、箸墓のなかを掘り返しているのだそうです。
これ内緒ですよ。
17 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 23:00:31.51
>>16 宮崎県の西都原古墳群の男狭穂塚古墳を見たことがあるが、あれは昼間でも
入ろうという気にはならない。夜入るというのはすごいな。
一種の肝試しだろう。みんなで入れば怖くないか…。
箸墓なんてすぐ近くが民家じゃねーか
南九州からは、大和の前方後円墳の下から南九州特有の地下式横穴が見つかっている
地下式横穴墓は、南ロシアからスキタイ、その後匈奴に伝わった墓の様式
地下横穴墓は見つかりにくいようにしてある墓なので、まだ新しい年代のものしか見つかっていない
スキタイの神話には、獰猛な犬を従えたワステュルジが海神の娘に懸想していたが、
全く相手にされなかったことをいつまでも根に持っていて、娘の死後、墓に侵入し屍姦し、
さらに自分の馬にも犯させる話がある
満州馬犯しの巻か
吾は満州 馬犯しブコココココココ
>>16 一応地元民だが昔ならともかく、今あんな所夜ウロウロすればすぐわかる。
周辺カメラあったと思うしな。
23 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 02:10:15.09
卑弥呼が使ったという鬼道を神降ろしの神託と考えれば
宇佐は有力だね。宇佐だけだからねそんな神事を行っていたのは。
奈良時代応神を祭ってるというだけで伊勢より権威が上って
いうのも不思議だし。
宇佐なら東に海があるし倭人伝の記述にも合うね。
宇佐は卑弥呼より後の時代に宇佐氏+辛嶋氏(渡来系)+大神氏で経済力、政治力をつけたところだけど
国東半島は縄文信仰の遺跡があるところで、宇佐氏が菟狭族なら神話時代に絡む古さだな
北から来て丹波→吉備→豊かな
このスレのレベルじゃ宇佐の話題無理じゃない?w
25 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 06:50:37.02
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【∩銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼
(アマテラス)の邪馬台国【◎銅鏡祭祀】に国を譲る【∩銅鐸一斉処分→九州=◎銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の張政/狗奴国による暗殺説)。
-分裂した倭「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘
卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を
一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
倭「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国内乱(五胡十六国)の
悪影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・卑弥呼
(アマテラス)/台与由来の【◎銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。
※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、【◎銅鏡祭祀】「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
【∩銅鐸祭祀】をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。
26 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 06:51:28.14
「大和」朝廷における、♂日向(投馬)系大王と♀筑紫(邪馬台)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代
-4世紀〔前期古墳〕三輪朝(10祟神〜14仲哀)=♂日向(投馬)系大王【四道将軍派遣→国造任命→日本武尊東西平定】
→各地の弥生有力首長を国造・県主として傘下に取り込み、国内統一(大王家との婚姻→前方後円墳、三角縁神獣鏡の下賜)
-5世紀〔中期古墳〕河内朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王】
→高句麗の侵略に脅かされた百済支援により金官伽耶(任那日本府)からの「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
-6世紀〔後期古墳〕近江朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】
→任那日本府滅亡(562)白村江敗戦(663)により王権弱体化→律令制・仏教導入で中央集権推進
※
-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
…(×応神5世孫○日本武尊7世孫)継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
…両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
「倭の五王」は「倭の七王」だった。〜隠れていた履中と武烈〜
(412年、高句麗・広開土王33歳で死去)
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
(475年、高句麗・長寿王により百済の首都「漢城」陥落、蓋鹵王斬殺される↓)
477年/478年「武」@…雄略(高句麗の無道ぶりを非難する上表文)
502年☆「武」A…武烈
★430年の「倭国王」は履中。→ 438年「讃死して弟の珍立つ」の真相
430年に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃」の子で、8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、
倭国の大使が「先代の弟」と説明したとすると、 台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王「讃」のイメージが強かった中国側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
つまり【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、記紀の天皇系譜と一致する。
☆倭王「武」は2人いた。
502年梁の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王武が、477年/478年の倭王武(興の弟)とは別人で、 雄略(幼武)の孫の「武」烈とすれば、
雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)と整合する。
よって
@讃…仁徳、A倭国王…履中、B珍…反正、C済…允恭、D興…安康、E武1…雄略、F武2…武烈
「倭の七王」となる。
28 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 07:24:01.86
>>11 応神天皇陵以外はどこも盗掘されているのでロクなものが残っていないのではないだろうか?
実年代化チラ裏=朝貢記録+古事記の没年情報(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+同時代人
邪馬台国…狗奴国との争い
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(大夫…難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら)
台与(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋武帝・司馬炎へ)
大和朝廷
−三輪(佐紀)朝…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)
10祟神(〜318年)…四道将軍派遣310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の征西・東征340年頃? 大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置
14仲哀(〜362年)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
−河内朝…半島派兵(高句麗との争い&百済支援)本格化
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢?
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
−近江朝…中央集権強化
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
30 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 08:33:20.46
>>4 「大和以外に無い」ことを立証せよ。
「資料持って来い」というIQ低脳児よ、資料が無ければ古代を考えることが
できないか。低脳だのう。
アホ、資料は推論を裏付けするのに必要だろw
32 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 12:52:18.26
九州説の人は自分が考えた時点で裏付け取れたと思ってるからな
学問とか研究とか向いてない
少なくとも、根本が詐欺の畿内説とは次元が違うがな。
34 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 13:09:35.66
なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど
考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。
そんな首都が移動した大規模な移動の形跡はないらしい。
ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくて
なぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。
あれは何を意味するのかって。
>>34 あれって首都移転なの?
どっちかって言ったら、少数のグループが各所で間借り、もしくは居候し
何年もかけて畿内にやってきましたと読める気がするけど
それも当初畿内いりは争ったけど、最終的には受け入れられましたみたいな
神武の侵入は、どう考えても数十人程度の盗賊団が、領主殺害して居座った程度の事件。
37 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 13:33:31.66
>>6、23、24
宇佐説にご興味がお有りなら一読をお勧め。内容の真偽はご検討下さい。@高
木彰光著「邪馬台国の秘密」、A井沢元彦著「卑弥呼伝説」、B村雨賢次著「
邪馬台国はどこへ行った」。小説風の部分も有り、非常におもしろいです。
>>36 それだな
一国家が移動するとかあの時代には無理だな
祖先の遠い記憶が東遷説につながったんだろう
記紀は、日本に天皇家と同じくらい古くから住んで、創成期に関わってきた諸豪族を排除するために
一見九州であるかのように表現してるんだよ
橿原は東北、中部山岳、北陸との関係が強いよころ
40 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 14:08:51.60
>>34 考古学の先生の話しはあてにならない。
旧石器の捏造問題からもわかるように、考古学界の体質には非常に
問題がある。
自説に都合の良いように資料を捏造する。恐らく、自説は正しいと信じており、
証拠が出ていないだけだと思っているらしい。だったら、証拠を作れば良いと
いう考えとしか思えない。
さらに、問題が発覚しても、誰一人責任を取らないばかりか反省さえない。
邪馬台国東遷の問題にしても、纏向誕生の頃を境に近畿地方には大変動が見られる。
銅鐸が完全に消滅し、鏡祭祀が始まる。農村集落的な社会から古墳のような
個人墓が登場する完全な階級社会に移行する。
棺の内部の様子は、九州の弥生時代からの形を踏襲する。
こういう文化的、宗教的、社会的大変動を無視するような考古学は
何の意味もないといえる。
一方で、桃の種が出れば、卑弥呼の祭祀に関するものだという。
鯖の骨が出れば卑弥呼への献上品という。
建物の跡が出れば卑弥呼の宮殿という。
桃の種や鯖の骨はどこでも出るだろう。卑弥呼だけのものではない。
中国製でないのに、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡といい、調査されていないのに
箸墓は卑弥呼の墓と言い、根拠がないのに纏向が邪馬台国という。
小林行雄の時代からの畿内説の考古学をちゃんと見てみれば、おかしいと思わないのは
どうかしている。
41 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 14:22:15.51
>>37 邪馬台国宇佐説もある時期、かなり盛り上がった。
恐らく、宇佐神宮が元になっているのだろう。
宇佐神宮の主祭神は応神天皇で一之殿に祀られている。二之殿が比賣大神。
三之殿が神功皇后。しかし、実際に宇佐神宮に行ってみるとわかるが、
明らかに二之殿が主役。中心にあって立派で大きい。
となると、応神天皇と神功皇后を両脇に従えて、中心に鎮座する比賣大神とは
なんだろうということになる。
宇佐神宮の由緒書きを見ると、比賣大神とは宗像の三女神となっている。
天照大神と素戔鳴尊の誓約のときに生まれた神である。
どうも卑弥呼ではないらしい。
ところで、宗像の三女神と言えば、宗像大社が有名だが、実は広島の厳島神社も
宗像の三女神が祭神となっている。くしくも神武天皇が東征の折に立ち寄った
宇佐、筑紫の岡水門、安芸に宗像の三女神を祀る大きな神社があると
いうのが面白い。
ど素人やアマチュアが掘り出した出土状況がはっきりしないものは評価してはいけないという
いい教訓になった事件であったな
宮崎の盗品穀壁なんかは中国からけちがつけられる前に、中国の研究機関に調査依頼したほうがいい
宮崎の大和が造った墓は皆空である
泥棒の庭に造ってしまったようなものだな
43 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 14:56:58.94
その昔、近所の理系少年たちは箸墓で土器片を拾い集めて遊んでいたそうな
今度の立ち入り調査でも、箸墓墳丘は土器片で足の踏み場もないほどだったという
三世紀中葉なんてとてもとても。。。
少年で理系っていつの時代の教育制度なのか知らんが
よほど就職とその後の人生で辛い思いをしたんだろうなw
45 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 15:19:19.52
>>42 盗品って、誰がいつどこで盗んできたわけ。
もらうよりも盗むほうがはるかに難しいと思うが。
誰が盗んだかなんかわかるかw
中国の墳墓で盗まれたものは必ず裏市場で換金される
地元で売るバカなどおらん
まわりまわって入手したものだろうな
47 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 15:27:06.90
神武が畿内に侵入してきたのに
その道案内してくれたのが、神武一族と何代か前に分かれた親戚たち。
つまり、神武一族が日向にいるころから、
神武の親戚たちは畿内に住んでいて、各地で領主をしていた。
>>34 オレは「神話統合」説派
九州を支配権に組み入れる際に祖先神の出身地とか即位前の業績を書き換えて、
もとは近隣の出身だった神武を九州出身に作り替えたんだと思ってる
もとの出身地は、名前の通りのイワレ地域だろう
神武が活動した時代と見なしうる時期の中心地であるオオヤマトが大和川水系で、
イワレはオオヤマト同様に桜井市内だが河川交通では淀川に合流する淀川水系の地域で、
おそらくオオヤマトから見ると隣国だったんだろう
>>40 >考古学の先生の話しはあてにならない。
>旧石器の捏造問題からもわかるように、考古学界の体質には非常に問題がある。
これを繰り返し言い続けることでしか自説を存続させることができなくなった現状は、破綻状態だぞ
>自説に都合の良いように資料を捏造する。恐らく、自説は正しいと信じており
という説明は、今では九州説全般(特に九州王朝説)の特徴になった
49 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 15:52:31.26
>>47 近畿地方では敵が多い。味方もいたが、どういうわけか弟が多い。
たとえば、兄猾は敵で弟猾が味方とか。兄磯城が敵で、弟磯城が味方とか。
ちなみに、道案内をした八咫烏は、高天原の天照大神が派遣してくれたことに
なっている。
主要な説が、どれも詐欺にすぎない畿内説は、
すぐに九州説を攻撃するんだが、
自分が詐欺なのを忘れるのはやめてもらいたい。
51 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:12:27.73
>>48 >九州を支配権に組み入れる際に祖先神の出身地とか即位前の業績を書き換えて、
>もとは近隣の出身だった神武を九州出身に作り替えたんだと思ってる
なんで、そんな面倒くさいことするのか分からないw
九州を取り込むために、わざわざ始祖を九州出身にするって?
なかなか解明できないから、苦しみまぎれに
そんな説を言ってみました感が強い。
52 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:16:00.24
>>49 ヤマトスクネも道案内している。
ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたる
ホアカリの後胤。
つまり、神武の親戚。
あと、高倉下命っても登場。
こいつは、ホアカリの孫rasii.
つまり、神武と親戚。
九州には、神武らニニギの子孫が多くおり
畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。
あと、乱を起こしたニギハヤヒは
自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して
乱を起こした。
53 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:18:45.59
>>41 > となると、応神天皇と神功皇后を両脇に従えて、中心に鎮座する比賣大神とは
> なんだろうということになる。
卑弥呼=天照大御神説をとるならば、やはり卑弥呼ではないだろうか?
54 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:21:32.28
>>41 > となると、応神天皇と神功皇后を両脇に従えて、中心に鎮座する比賣大神とは
> なんだろうということになる。
特定の神名ではなく、神を祀るシャーマン的存在とする説もある。
つまり神の名前ではなく、ポストの名前。
記紀が完成するのは律令による統治を本格的に進めている時だ
歴史ある豪族に関係した地を降臨の地にはできない
九州の真ん中なら、どの豪族が読んでも「九州www」で終る
56 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:23:28.89
>>49 ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。
これもひっかかる。
57 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:26:05.17
>>55 痛い書物「東日流外三郡誌」には
神武天皇の家系は台湾出身だったようにも書かれている。
台湾から来日する場合には、
海流の関係で宮崎県に漂着する可能性が高いらしい。
58 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:26:59.80
占い師の水晶、マント、暗い個室。
雰囲気でるよねー。
59 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:30:17.08
あと、ある地名がさす範囲も歴史によって異なるだろう?
たとえば、現在、岩手といえば、岩手県全域をイメージするが
もともとは、岩手は現在の岩手県の極一部の地方の名前。
大和といえば、奈良県全域をさすけど
おそらく、出雲国譲りとか神武東征の時代は
ヤマトとは、桜井市周辺の狭い範囲の地域で
古代、奈良盆地には、ヤマト湖という大きな湖があったので
その東岸の三輪山の山麓をヤマトといい、
それ以外の地域との間に、ある程度の地域格差もあったと思われる。
天皇は漂着物ではない
61 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:36:19.37
>>56 長髄彦の主である饒速日命は高天原出身。
高天原から天磐船に乗って大和にやってきた。
だから、「天神の子」という。これは神武天皇も同じ。
天羽羽矢と歩靱が同じであり、神武天皇も饒速日命が天神の子であることを
認めている。しかし、神武天皇の場合は、「天孫」という言い方もされている。
饒速日命は、天神が本当にいとおしく思っているのは「天孫」であることを
知っていた。と書かれている。
つまり、天神の子という場合は、高天原の出身を指し、天孫という場合は、
天照大神と高皇産霊尊の直系という意味なんだろう。
62 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:50:30.13
卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは作為を感じるね。
明らかに何者かによって隠されてると思う。
倭人伝はもちろん半島の歴史書までその名が登場してるからね。
書紀では倭人伝の卑弥呼台与の記事を神功皇后にあててるよね。
これと何か関係あるのかな。
63 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 16:58:21.49
不比等の都合も考えろよ。
高天原は国ではなくイメージだ
長い年月の日本の文化を表現している
神々は一人の王のことではなく、長い年月の一族、集団のことだ
国生みは縄文中期くらいまでの中部山岳、関東、東北の文化が地球環境の変化とともに
西日本に下ってきていることを表現している
この地球環境の変化は日本列島に限らず、世界的な規模だ
65 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 17:18:00.07
高野山と天野山で高天原だからな。
記紀の書く高天原とは現葛城、金剛山系一帯の事だよ。
67 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 17:40:51.54
>>53 八幡宮によって比売大神は説明が違っている。宇佐は宗像三女神とし、岩清水
は神武天皇の母君である玉依姫とし、薬師寺は応神天皇の三后妃としている。
このように伝承というか解釈が違っていることが何かを隠しているとする見方
も可能だ。そこから自分は卑弥呼または台与、あるいは二人の合祀ではないか
と考える。
>高天原とは現葛城、金剛山系一帯
そんなちっこい範囲出身の夫婦が西日本全体に国を作れるほど
何人子供生んだんだよ
69 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:03:14.42
>>67 応神天皇も出自があやしいというか、本当に実在の人物だったのかもあやしい。
70 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:04:40.44
>>67 岩戸隠れの前のアマテラス = 卑弥呼
岩戸から出てきた後のアマテラス = トヨ
ですな。
71 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:16:14.56
単に宇佐神宮は、向かって左側から行くのが基本だからじゃね?
配置上難しい
宇佐神宮どうちゃらって言ってる人はその位知ってんだよね?
72 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:17:59.12
>>67 玉依姫は特定の個人名ではなく、
「練達の女性シャーマン」
という役職名または称号のようなものだと思うが、
神武の母または先祖が女性シャーマンだったことを示唆している。
73 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:40:32.80
>>72 神に仕える女性は、身も心も神に捧げるもの。結婚しちゃいかんだろう。
74 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:43:25.03
金剛山は旧葛城山だよ。二上山も葛木神社の存在や、
尼上山と記された資料もあって天野山だろう。
76 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 19:13:35.11
高野と天野で高天
神功皇后の母も葛城高額姫という名で
おそらく二上山麓辺りに基盤がある。
また高野山と天野山とくれば丹生都比命。
天照大神の妹、ワカヒルメなのだから、当然この周辺が高天原を指す。
78 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 19:41:03.95
初期の大和朝廷は、天皇家と葛城氏の連立政権に近かったという見方があるな。
徳川氏と酒井氏のような関係だったのかもしれないな。
79 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 19:43:05.13
関係ないが、一度は葛城一言主神社に参拝してみたいと思っている。
全盛期よりは境内がだいぶ狭くなっているみたいだが。
思考が閉鎖的で排他的
81 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:18:10.90
82 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:22:22.10
>>81 ああ、賀茂氏に関しては、タカミムスビ系の賀茂氏はすぐ断絶したんだな。
賀茂氏で繁栄したのは、カミムスビ系の賀茂氏と
そこに婿入りすることで誕生した三輪氏族系の賀茂氏(陰陽道名家)
元々奈良は土蜘蛛の巣窟だろw
九州もだけどw
85 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 21:50:25.55
そんなこといったら、神武の生まれた九州なんて
熊襲との最前線だろうがw
馬犯しの満州 ブココココココブコ
87 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 23:03:51.34
そもそも日本書紀は隼人征服王朝説に従って書かれている
ここでいう「隼人」ってのは「騎馬民族」ぐらい曖昧に南九州人のことをあらわす
奈良南部高天原説
奈良南部から勢力拡大して、出雲連合に国譲りさせた後、3代の間九州の南で別にたいしたこともせず
4代目が奈良南部高天原に戻ってくると、まだ土蜘蛛ががんばっていました
89 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 00:55:12.33
>>51 支配範囲を広げる際に神話の統合を行う場合、
新しく支配域に組み込んだ地域の神話は古い方に足して嵩上げするという説がある
過剰説ってんだがな。
黄河文明の王朝が朝貢文明を併呑した際に古い方へ足したことで、
禹とか三皇あたりの記述が南方的に見える結果となった、みたいな説
それを神武天皇の神話に援用すると、あんな妄想を造作できるってことさ
奈良南部高天原説
4代目神武天皇は何の罪もない高天原に住む木こりを殺して
頭、胴、足と別々に埋めてやりました
92 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 01:20:25.30
>>90 それはせいぜい、アマテラスとスサノオの話でしょう?
出雲のスサノオの神話と大和のアマテラスの神話の合体。
神武東征のほうは、普通に歴史的事実を言っていると思うがね。
ただし、それは大規模な遷都を意味するものではなかった。
神武軍は少数の軍隊で、畿内にいる親戚(本家筋)のために
援軍として駆けつけただけだろう。
>>92 途中の滞在地で7年とか8年とかのんびり油売ってたのにか?
どう見てもただの食いつめ者の浪人集団が、横取りできそうな土地を探して放浪してたってだけだろ。
94 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 02:24:10.96
7年とか8年とかって、その地に地方官として
赴任していただけだろう?
神武たちは、遠洋航海できない「近海専門の傭兵水軍」だったんだろ。
海賊退治に困ってませんか、と雇用主を転々と渡りあるいたが、
どこも永久就職が困難だったので、自ら領主になる野望を抱いた。
96 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 03:04:19.19
日本書紀を見ると、高天原では鏡がたくさん登場する。
たとえば、天照大神が岩戸に隠れた時に、八咫鏡を作って榊に吊り下げた、
とか。天照大神に鏡を見せて、自分の姿を見た天照大神が不思議に思って
岩戸を少し開けた、とか。
そういえば、伊邪那岐命も白銅鏡を持っていた。天沼矛など矛も出てくる。
鏡と矛と言えば九州の特産品。一方で、銅鐸は全く出てこない。
やっぱり高天原は九州だな。
97 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 03:11:23.52
>>96 鏡も矛も畿内からも出てくるよw
銅鐸に関しては、それほどでもなかったんだろう。
あれは、庶民が祭につかうやつだ。
銅鐸と無数の古墳が記載されていれば畿内。
そうでなければ九州。
99 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 03:48:01.38
あほらしい。
鐸 = さなぎ、ぬりて、ぬで
伊 = 「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。
伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。
「天目一箇命をして雑(くさぐさ)の刀(たち)、斧および鉄の鐸(さなき)を作らしむ」
(『古語拾遺』(807年編)日神岩戸隠れの条)
「さなぎの鈴」 = 諏訪神社には,「さなぎの鈴」と称する鉄製の小型宝鐸が存する。6個を1連としたものが3組存した。
その主たる役割は,神使と称する童子が,管内の3方面(内県,外県,小県)へ巡回するための携行品である。
101 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 07:39:35.12
>>92 > 神武軍は少数の軍隊で、畿内にいる親戚(本家筋)のために
> 援軍として駆けつけただけだろう。
劉備がリュウショウを追い出して蜀を乗っ取ったようなものか。
銅鐸は元々北部九州で造られてもいるし、出土もしてるだろw
それに出土数で言えば島根や吉備、阿波が多いからな。
記紀が高天原を想定してるのは、葛城(金剛山)や高野山周辺の事だろう。
103 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 09:01:31.36
天香久山や天岩戸や天安川が高天原にあったという記述から
高天原はかなり広範囲の地名になるね。
葛城はもちろん、御所市、橿原市など、あのあたり全域。
多分、古代にあった大和湖の南岸の平野部一帯の地名だと思う。
九州からいくつか銅鐸が出たというのは問題じゃないんだよ。
銅鐸の分布やその中心地がどこか、ってのが大事。
銅鐸には一切牛馬が描かれてないのも大事だな。
>>105 魏志倭人伝に「日本には馬はいない」と書いてあるが
魏使が目撃しなかっただけで本当はいたのか、
あるいは当時は馬は日本にいなかったのか?
も問題だな。
107 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 14:03:16.36
馬がどういう使われ方をしていたかも問題。
大陸では、馬は乗るものだが、当時の日本で馬に乗っていたかどうか。
馬に乗っていないとすれば、農耕用か。これも考えにくい。
ひょっとしたら、野生馬を食用にしていたのかもしれない。
そうだとしたら、いたとしても、あまり目立たなく、郡使が目に
しなかった可能性もある。
まあ、弥生時代の遺跡から馬の骨は見つかっているようだが。
108 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 14:03:20.42
当時の日本の交通手段は、
歩くか、船に乗っての移動。
牛馬はいないので、つかうことはない。
が、江戸時代でも、徒歩と船がメインだったね。
109 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 14:05:40.19
>>107 それは鎌倉時代の馬の骨がまじっていただけ。
それでも、卑弥呼のちょいあとぐらいには、馬具が発掘されているので
身分の高い人だけが、中国から輸入してきたのかもしれん。
牛についても、たぶん、馬と同時期に輸入され始めたと思う。
110 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 15:51:58.09
>>107 > まあ、弥生時代の遺跡から馬の骨は見つかっているようだが。
地域的にはどのあたりだろう?
111 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 15:54:59.74
>>109 > 身分の高い人だけが、中国から輸入してきたのかもしれん。
中国にカネを払って輸入してきたのか、
それとも騎馬の軍隊が侵入してきたのか?
の問題もある。
112 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 16:23:04.73
>>111 高貴なの人のお遊び用だろう。
そもそも、軍隊としては、入ってこれない。
ユーラシアの大半を支配した蒙古ですら
歩兵中心で編成くんできたわけだから。
>>112 馬具が威信財になるくらいだからな
レアモノ扱い
114 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 18:42:17.22
日本の交通の中心は水上交通。
江戸時代ですら、そう。
日本では幕末までは馬車は誕生しなかった。
騎馬兵で有名な蒙古軍も日本への遠征は歩兵中心の軍に編成。
牛車があって、馬車が無いってのも不思議だな
116 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 19:30:31.24
馬車があれば日本の古い道ももっと広かっただろうにね。
日本では馬をおんぶして戦いました
畠山重忠の銅像があります
邪馬台国や卑弥呼がそこまで日本史上重要であるなら
記紀に登場しないはずがない
卑弥呼=アマテラスだという主張もあるが
諸々の事件や時系列は都合良く無視してるように思う
卑弥呼が記紀の於けるどの時点で登場してるのかはっきりさせてくれ
記紀をまとめるに記述がないのは不都合だから書かれなかっただけの話。
なんで不都合なの?
>>101 劉備は本家筋じゃないという点で少し違う気がするな
>>115 いや。
騎兵があり牛車があるのに馬車だけがない、と言うべきかと
>>116 古墳時代後半から奈良時代ごろまでの古道は幅広
平安初期ぐらい? に少し細くなったとは言え、それなりの幅があった
だんだんと官道が廃れてからあとは細い道ばっかりになった
我が国は中国の属国でした、とは絶対に書かないのが記紀の方針。
>>124 なにいってんだよ。属国と朝貢国は違う
まあ、年貢あたりなら属国との差は小さいかもしれんが、
10年1貢とか20年1貢ぐらいは属国とは言えんだろ
朝貢するだけで属国なら、「ローマ帝国は中国の属国だった時代もある」ってことになるぞ
126 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 21:22:51.60
お中元、お歳暮ていどだから、属国扱いにはならぬだろ
127 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 21:34:34.04
記紀は朝貢国でも許せない。
日本と中国では受け取り方が違っただろうな
天子から金印紫綬を賜るのは外臣だからな
129 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 22:09:17.41
>>119 高天原の時代には剣がよく登場する。月読尊が剣で保食神を切り殺した話。
素戔鳴尊が天安河の誓約で差し出した剣。武器として常用しているからには
鉄剣だろう。
鏡も出てくる。鏡作り部の祖に鏡を作らせたとか、天照大神が岩戸に
隠れた時に榊に八咫鏡を吊り下げたという話も出てくる。
また、新嘗祭も出てくる。
こういうことから考えると、天照大神の時代はそんなに古くない。
というよりも一般的に考えられているよりもずっと新しい。
天照大神の話が伝承として残っているとすれば、3世紀の卑弥呼時代と重なると
考えたほうが良い。記紀には、倭王と呼ばれた卑弥呼に相当する地位の
女性をほかに見つけることが出来ないからである。
筑紫都督府を置くのは属国の証拠
日本書紀
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。
保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。
古事記
高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。
それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、
オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。
スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。
すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。
古いことも新しめなことも書かれている
132 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:41:03.59
>>132 御所って2、3世紀の大規模集落跡って見つかってるの?
134 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 03:59:37.13
全部が全部、発掘できてないだろうしな。。。
135 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 04:59:49.56
>>129 > こういうことから考えると、天照大神の時代はそんなに古くない。
> というよりも一般的に考えられているよりもずっと新しい。
おおむね同意する。
新しい表現が混じるのは記紀編纂時の知識で描かれてるからだろう。
天照も7世紀頃できたんだろ
神話の元ネタなんて記紀が書かれた少し前に起きたことだろうし、
神様もほぼそのころ作られたんだろうな
神話は神武以前の歴史だと考えてるやつは頭がどうかしてる
>>129 卑弥呼がアマテラスなら
皇族はアマテラスの子孫じゃ無くなるなよな
卑弥呼は巫女で夫はおらず子供も当然居ない
何か勘違いしてるけど女性の天皇は現に居るぞ
子供無いのも居るし
>>140 何言ってるのか分からない
血のつながりがないと言う話だろ
魏志倭人伝が何処まで信用出来るかは置いておくとして
夫や婿が居ない事=過去を通していないのか?
シングルマザーの可能性はないのか?
まぁ、アマテラス=卑弥呼とは思えないけど
143 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 11:17:44.31
たしかにアマテラスの直系子孫は無いことになる。
しかし天津神の一族、つまり皇統はたくさんいたじゃないか。その末裔が今の皇族。
>>142 巫女という立場上それはないだろう
実際、卑弥呼亡き後邪馬台国を継いだのは卑弥呼の子ではないし
145 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 11:23:46.61
そもそも、卑弥呼なんて架空かもしれん人物だろ?
他国の資料の別冊の一部にチョロっと出てるだけなんだから
その他に卑弥呼について記述された資料なり伝承なりがあんの?
>>143 だったら、最初からそう書けば良いだろ
アマテラスの子孫と言うのが後付けだからと考えるのが普通
つか、天津神の一族ってなんだ?
147 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 11:27:14.48
>>139 アマテラスだって血の繋がる子はいないじゃないか、5人の子は養子だw
天照は紀元前だろ。3世紀の卑弥呼と一緒にするな。
織田信長と安倍ゲリゾーを、同一人物だと思うに等しい。
>>147 養子なの?
その論法だともしかすると、アマテラス自身も養子ってならない?
だからアマテラスは空想上の人物なんだよ
151 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 15:24:46.12
>>149 アマテラスは親の体の一部から生まれたと書いてあるので、親と血のつながりありと言える
アマテラスの子は、アマテラスの玉やスサノオの剣から生まれているので血の繋がりなし
よってそれを養子と表現した。
これを実際・現実に置き換えた場合には、アマテラスとスサノオの間で人質を交換したと読める
152 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 16:09:40.89
>>141 上杉謙信〜景勝みたいに「血縁者を養子にする」ケースは今も昔もいくらでもあるのだが。
153 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 16:25:14.82
>>151 殆ど神話の話。
アマテラスやスサノオまでは、性交渉によって子孫が受け継がれたのではない。
しかしながら、忍穂耳や穂日よりのちは、性交渉によって子孫が継承されたことになっている。
ちなみに神社伝承なんか調べても忍穂耳以降が皇室や尾張氏の初代で
それ以前のアマテラスは無視しているか、あるいは、
忍穂耳よりもずっと前の先祖ということにして、
事実上、アマテラスと忍穂耳の関係を否定している。
よって、自分が思うに、もともとアマテラスは畿内地方で崇拝されている神で
スサノオが出雲地方で崇拝されている神様だった。
これを一つの信仰に統一する必要に迫られた。
そこで、皇室や尾張氏は、自分たちの最初の先祖である忍穂耳やその兄弟たちが
大和の神様であるアマテラスの玉とスサノオの剣から生まれたという記述にした。
イザナギとイザナミはセックスした
>>154 逆に言うと、何故か2人の間の子供にしなかったとも読める
別に死ぬ前に作っていても良かったはずだから
156 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 17:17:11.49
卑弥呼=モモソ媛命(崇神天皇の父方の大叔母)
出雲国譲りは、高天原と出雲の合一だとみられているが
実は高天原自体が、ある地域とある地域の合一の結果。
一つは高野であり、もう一つは天野という地域。高野と天野で高天。
高野の王家が、タカミムスビ系の豪族たちで
大伴氏らの祖先。
一方、天野の王家が、天皇家や尾張氏らの祖先。
天の忍穂耳は、タカミムスビ系の娘と結婚し、高野と天野=高天の王になり、
二人の間に、
ホアカリ(尾張氏の先祖)とニニギ(天皇家の先祖)が誕生した。
次に、ホアカリは、天道日女(出雲の大国主の娘)と結婚し
その間にカゴヤマ命(尾張氏の先祖)が誕生した。これが、出雲の国譲りの真相。
そういうふうに考えると、ニニギの子孫の天皇家は、本来の日本の正統から
微妙に外れた存在だということが分かる。
神武東征話も紀伊半島をわざわざ迂回する話を入れる
必要性があったのは、紀伊半島中央部から大和盆地に入るという事が、
重要な意味を持つからなんだろう。
半死半生の状態で紀伊半島で不思議な力を授かるのはそういう事。
158 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 19:05:21.46
まあ名前見たらホアカリが正統ぽいもんな。
天照国照彦だろ、天津彦のニニギとは差かあるよな。
天津彦って天の男って意味しかないんだろ、傍系ぽいよな。
159 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 20:00:33.70
ニニギの後胤である神武皇統は
ホアカリの後胤である尾張氏と同様、
父親が天野の忍穂耳命で、
母親が高野のタカミムスビ系の栲幡千千姫命だから、
高天原の王としては、正当性のある家系であると言える。
しかしながら、倭国全体(高天と出雲の版図の合一)の王の家系か見た場合、
高天のホアカリと出雲の天道日女命が結婚し、
その間に生まれたのがカゴヤマ命であり、その系統が尾張氏なので、
尾張氏は、高天と出雲の合一の出自なので、倭国全体の王としての家系になるが、
ニニギの後胤である天皇家の場合、そうではないので、正当性がない。
そこでニニギの曽孫であるワカミケヌ(神武)が畿内に戻ってきて
そこで三輪山(大物主)の神官の娘と結婚した事実があったので(古事記ではそうである)
この大物主を出雲の大国主と同一視する思想を無理やり作り
日本書紀では、事代主と娘と結婚したという風に書き換えた。
これは、ニニギの後胤である神武皇統が自身の正統性について
自信がなかった現れである。
160 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 20:03:40.67
>>158 天照国照彦=天津と国津の両方の勢力者だもんな。
まさに、出雲国譲りをして、天津と国津の両方を支配した。
161 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 20:38:03.17
だから?。邪馬台国東遷はどうなった?。
162 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 20:43:56.34
卑弥呼を擁する勢力が次々と出現し、新卑弥呼と共に場所を移し、奈良まで雪崩れ込んだ。
信憑性の順序
九州説(邪馬台国はその後消滅)>畿内説>その他の場所説>東遷説
164 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 21:43:25.08
>>157 熊野から大和の宇陀に至ったということになっていて
これは義経の鵯越の逆落としほどではないが、
奇襲になったのではないだろうか?
165 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 22:55:15.01
順番としては、
初代天照大神(天岩戸に隠れる前)の時に、素戔鳴尊との衝突がある。
素戔鳴尊は、天照大神に挨拶するといって高天原に上るが、天照大神は
素戔鳴尊が高天原を奪いに来たに違いないと恐れる。
高天原に上った素戔鳴尊は高天原を荒らしまくる。
二代目天照大神(天岩戸から出てきた後)の誕生と共に、素戔鳴尊は出雲に
追放される。
高皇産霊尊が登場。出雲の国譲りがある。数度にわたる派兵の末、出雲の
大己貴神は高天原に国を譲ることを約束して消え、従わないものは
全て平定される。
そのあとで、天孫・瓊瓊杵尊の日向降臨がある。どうして天照大神の子である
天忍穂耳命ではなく、孫の瓊瓊杵尊なのか。実は、瓊瓊杵尊は高皇産霊尊の
孫でもあるわけである。これが重要。高天原の主宰神である高皇産霊尊と
天照大神の両方の孫であることが大事なのである。
なにかよくわからないけど、和歌山の高野山+天野村が日本で最大勢力だったってこと?
167 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:02:25.15
>>166 和歌山から奈良県南部にかけての地域だろう。
古代は奈良盆地の真ん中に大きな湖があったし
今とは大分、土地勘も違うと思う。
奈良盆地南部は、奈良盆地北部よりも、
五條市とか、和歌山県北部の現在の橋本市とかそっちに近い。
168 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:04:13.80
>高天原の主宰神である高皇産霊尊と
>天照大神の両方の孫であることが大事なのである。
まるきり根拠は無いのだが、
高皇産霊尊は伊都国王の直系一族、天照大神は邪馬台国の女王、なんかそんな気がする
>>167 奈良湖があったのは何世紀くらいのこと?
170 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:12:46.09
>>165 >そのあとで、天孫・瓊瓊杵尊の日向降臨がある。どうして天照大神の子である
>天忍穂耳命ではなく、孫の瓊瓊杵尊なのか。実は、瓊瓊杵尊は高皇産霊尊の
>孫でもあるわけである。これが重要。高天原の主宰神である高皇産霊尊と
>天照大神の両方の孫であることが大事なのである。
良いところに目を付けたわ。実は、父方の系譜だけじゃなくて、母方の系譜も見るべきなんだわな。
ちなみに、瓊瓊杵尊には火明命という兄(弟という説もあるが)がいる。
彼も高皇産霊尊と天照大神の両方の孫にもあたるのだが、
彼は弟みたいに日向に降臨せずに、そのまま高天原にとどまった可能性が高い。
そして、その嫡流の子孫は、高尾張邑(葛城)に存在していた。
この火明命の正室は、天道日女命といって、出雲の大国主の娘である。
この火明命と天道日女命の間に生まれたのが、天香語山命だ。
大和三山の一つの名前にもなっている人物。
彼は、高皇産霊尊と天照大神の両方の曽孫にあたり、出雲の大国主の孫でもある。
この天香語山命の子供にあたるのが、天村雲命だ。
これは三種の神器の天叢雲剣を連想させる名前だ。
171 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:16:47.85
>>168 梁書に「卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王
其後復立男王、並受中國爵命」とある。
台与のあとに、また男王が立っている。これが中国の文献と記紀との一致を
示していると考えられる。つまり、天照大神が岩戸に隠れ、皆が協力して
岩戸から出す。その後、高皇産霊尊が登場するというわけで、
これが、卑弥呼の死、女王・台与の誕生、男王の誕生となって合致する。
そもそも巫女的な女王では、平和ではあるかもしれないが、発展的にことは
何も起こらない。また、戦争の能力には全く欠けている。
そこに、男王が誕生しなくてはならない理由があるわけである。中国の文献では
台与時代のあとの記録はないわけだが、記紀によると、高皇産霊尊が登場して
出雲の国譲りがあり、天孫の日向降臨がある。周囲に勢力を広げていると
考えられる。
日本書紀には、高皇産霊尊が皇祖と書かれている。
172 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:23:47.11
>>171 ちなみに、天照大神と高皇産霊尊は共存している。つまり、巫女的な女王と
実務的な男王の並存である。二人の王がいるわけである。
梁書の「並受中國爵命」もそれを表していると考えられる。
ただ、台与のあとは女王はいなかったのかもしれない。記紀では、瓊瓊杵尊の
日向降臨のあとは日向が舞台になり、高天原は登場しないので、何とも
いえないが、記紀ではその後女王は登場しない。
173 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:24:08.50
>>171 卑弥呼はモモソ媛命。
ニニギは卑弥呼の先祖で、紀元前1世紀から紀元後1世紀くらいの人物。
高天原が奈良南部〜和歌山は飛鳥時代の構想だろうな
渡来人の知識、故郷に伝わる話が入っている
だから馬がちらほら出てくる
考古根拠は皆無だろ
175 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:31:56.29
>>174 はあ?理解不能。
なんで、渡来人が関係あるの?
176 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:33:39.92
>>169 飛鳥時代まであったんじゃね?
まあ、いずれにせよ、卑弥呼の時代は余裕である。
飛鳥時代まで奈良湖があったら、奈良盆地なんか弱小勢力だろw
178 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:36:55.03
だんだん土砂が堆積して、池が残り、
その池もだんだん小さくなっていくようだね。
京都にもその名残の池があったそうだし、
大阪の小椋池ってのもわりと最近まで残ってたそうだね。
179 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 23:56:20.41
不比等の息子の宇合(うまかい)は常陸国司と上総・下総・安房の按察使で常陸風土記に
西海道節度使、大宰府赴任で北九州の風土記に関与してるな
181 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 01:00:28.86
ここの住人にとっては常識かもしれないので、初心者の私が聞くのも何なんですが、
台与はトヨと読むのに、邪馬台をヤマトと素直に読ませずにヤマタイと読ませたのは、
いつの時代の誰なんですかね?
ヤマトとヤマタイは違うものだというイメージ操作をしてあるように感じるの
ですが。
182 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 01:12:55.32
>>177 あほかよw
湖あったら、そのぶん、面積は狭くなるが
一方で水は多くの都市人口を抱えるのに重要なんだよ。
人間にとって水は重要だから。
大和湖の水がかれたので、あの地よりも
琵琶湖の水が豊富に流れている山城に都を移したともいえる。
183 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 01:13:58.35
>>181 畿内説を優位にしようという操作が先にあって、それが作為的すぎるので
おそらく戦後に「やまたい」と呼ぶようになったと思う。
3世紀に畿内をヤマトと呼んでいた様子がないし、大和と書いてヤマトと
いう読み自体がそもそもおかしいよね。
wikiによると
>呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイ
187 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 01:27:42.16
>>181 そうだな。邪馬台国の場合は、ヤマタイコクと読むのが一般的。というか
普通にそうなる。その意味では、台与はタイヨのほうがいいかも。
ちなみに、魏志倭人伝では壹與だが、ほかの歴史書では臺與となっている。
ただ、大和の場合は、普通にヤマトとは読めない。どう見ても当て字。
九州には、山門郡とか山門郷などの地名があって、こちらは普通にヤマト。
なかなか難しいね。
山門 = 山の入口
これが日本を代表する国or連合にふさわしい名前w
ヤマダという地名が邪馬台の名残だろう。
>>174 記紀の成立した頃の認識として、高天原が葛城〜高野辺りを
想定してたのは間違いないだろう。
実際京都の朝廷はずっとそう認識してたからな。
三種の神器
鏡と剣や玉は中国でも天師道、儒教で神宝とされる
剣はまだ他国に誇れるほどのものはない
鏡なら中国で作っていない大鏡
中国、朝鮮半島の玉は軟玉(ネフライト)
日本の玉は硬玉の糸魚川産翡翠か島根産碧玉か佐渡の赤玉
三種の内最も誇れるのは日本産かつ日本の技術かつ日本の伝統的な勾玉
中国から見たら別に珍しくもない舶載品、模倣品、ガラス玉持って喜んでるのは「俺は田舎のプレスリー」
勾玉は仏教伝来後の仏像でも使われている、蘇我氏のころまで
7世紀くらいから勾玉が姿を消す
瓊瓊杵尊の 瓊 = 赤い玉
192 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 02:00:58.40
大和朝廷の大和と
山門は発音が違うだろう、たしか。
高野山の入口、丹生都比命神社の所在地は伊都郡天野なんだよな。
四方山に囲まれた標高450mの盆地にある、中々興味深い環境だよ。
194 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 03:25:47.78
三輪山の麓の山処(やまと)
195 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 05:15:21.66
>>171 > そもそも巫女的な女王では、平和ではあるかもしれないが、発展的にことは
> 何も起こらない。また、戦争の能力には全く欠けている。
エリザベス1世とかビクトリア女王は戦争やって勝っているが。
196 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 05:46:55.65
ふーん
エリザベス1世やビクトリア女王は巫女だったのか・・・
山=崇拝の対象だから意図するのは日の本と同じ
巫女も戦争してるだろ
それこそ軍師みたいなイメージじゃね
この時代は
いくさをするしないでなく、どのような戦果を挙げるかだ、結果あっての王だわな。
200 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 07:56:40.60
ジャンヌ・ダルクも神功皇后みたいなもんだろ。
ただしジャンヌ・ダルクの軍の作戦は男性参謀たちが立案していたらしい。
ジャンヌ・ダルクは張飛みたいに敵軍に突っ込んでいくだけ。
201 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 08:01:20.92
卑弥呼が王になってから顔見た者は殆どいない点や、
普段取り次ぐ一人の男と多くの巫女に囲まれている像からは
宮は戦火からは無縁の場所じゃないとな。
まして戦地に赴く事は皆無のはずだろ。
202 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 08:08:11.57
>>201 ただし
「卑弥呼は戦死した」
説を唱える人もいるが。
203 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 08:13:02.86
邪馬台国ではなく狗奴国が東遷して大和朝廷になったという説もあるな。
この場合、神武天皇は狗奴国の王か王族ということになるが。
>>202 だが高齢で戦地へ赴いて死んだとは考えられない。
>>203 狗奴国がどうなったか情報が皆無だからな。
205 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 08:31:37.82
狗奴国東遷説の弱点
軍事的に強そうなイメージがある狗奴国がナガスネヒコ相手に苦戦するのはなんだかなあ。
206 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 08:35:05.49
ちなみに織田・武田や今川・武田と同様に
邪馬台国の王族と、狗奴国の王族も婚姻を通じていちおうの親戚関係だったという可能性もある。
207 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:05:07.79
>>202 前線に卑弥呼がいても実戦的には役には立たないだろうが、
旗印的なものなんじゃないかな。
はるか後方にいて、負けの責任取らされるってことはなさそうだから、
一応は前線にいたと思う。
208 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:30:28.70
狗奴国の男王は、卑弥弓呼。
これは、許乃国の領主の彦命だった武埴安彦命のこと。
209 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:33:24.08
狗奴国東遷説をとるが、景行天皇期に熊襲を征服する。
これをどうとらえるかが問題。
事実は分家が本家を滅ぼす話しが、歪曲され汚ない手で滅ぼしたとなったのではないか。
こう考えると、タケルの名を承継するのが自然に感じるけどな。
210 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:38:05.26
狗奴国の乱は、武埴安彦命の乱ことで
すぐに鎮圧されている。以上。
211 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:43:59.91
>>207 卑弥呼は「日蝕」の責任を取らされて殺されたという説もある。
ただしこれはスサノオが暴れたからアマテラスが岩戸に入ったというのと整合しないので
自分はこの説はとらない。
212 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:45:45.66
>>209 足利義教が鎌倉公方の足利持氏を滅ぼしたようなものかもしれない。
213 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:53:52.06
卑弥呼=媛命=ヤマトトトヒモモソ媛命
狗奴国の卑弥弓呼=コノ国のひこみこ=許乃国の彦命だった武埴安彦命
狗奴国の副官は拘右智卑狗=こうちひこ=河内彦=武埴安彦の生母や妻の実家は河内彦
狗奴国王の乱=武埴安彦命の乱とは
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)の庶子だった武埴安彦命が、
外戚の河内彦に押されて
三巻イリ彦(崇神天皇)らから最高権力者の地位をうばうために起こした内乱。
214 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 10:22:42.01
>>209 景行天皇は日向に宮を築いて6年かけて熊襲と戦っている。
その息子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)も熊襲征伐に出かける。
その息子の仲哀天皇も熊襲征伐で九州にやってくる。
この三代は妙に熊襲に執着している。
神武天皇が日向だったら、熊襲の圧迫を受けて東征したのかも。
それで、子孫が敵討ちにやってきたというのもありえる。
だいたい、遠すぎる熊襲に執着しすぎだろう。
「神話と完全に整合する史実」なんてそもそも存在するはずもない。
記紀は参考程度に捉えるべきもの。
許乃国って山城の宇治だよな
宇治の北に女王国の境界があったのかな
ヤマトタケル=倭の象徴とすると、
死後に飛来する白鳥伝承のある御所〜古市〜香川が、
本来の倭=ヤマトの範囲となるはずだろう。
218 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 12:22:53.52
素朴な疑問なんだが、籠国(こもりく)の長谷の
コノ国は、奈良にある長谷寺の辺りと違うのかな。伊賀とか
219 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 14:35:43.46
>>214 続きなんだが、仲哀天皇が熊襲征伐で九州にやってきたとき、神功皇后が
神懸りして「何もない熊襲を攻めるよりも、宝の国である新羅を攻めよ」との
神託を告げる。
仲哀天皇は無視して熊襲を攻めるが、敗走。
その上、急病で死んでしまう。
神功皇后は、身重の体で、三韓征伐のために朝鮮半島に渡る。
ということで、これ以降、熊襲は日本書紀に登場しない。
以後、倭の五王の時代になり、今度は朝鮮半島に盛んに進出する。
いったい、朝鮮半島にある宝とはなんだったんだろうか。鉄かな。
220 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 15:01:20.29
>>214 > その息子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)も熊襲征伐に出かける。
> その息子の仲哀天皇も熊襲征伐で九州にやってくる。
ヤマトタケルが熊襲を討伐したのに
なぜその子が再征しているのか?
という疑問がある。
まあこれは「今川義元の首を取っただけでは今川氏は滅亡しなかった」
(今川氏真が利口なら勢力は盛り返したかもしれない)
と反論されれば、ああそうかと言わざるを得ないのだが。
221 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 15:07:00.86
>>218 崇峻天皇の宮殿があった奈良県桜井市倉橋あたりかもしれないと思っている。
222 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 15:09:12.12
>>219 > いったい、朝鮮半島にある宝とはなんだったんだろうか。鉄かな。
鉄そのものもあるし、鉄製兵器や兜などもあったのではないか。
223 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 15:16:14.44
宝が池
血の沼
225 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 16:00:30.04
2 2 御ゲット
実は邪馬台国東遷と最も相性が悪いのが九州王朝説なんだよな
畿内説はもちろん邪馬台国の中心を纏向と考えるのだが
それをどこが主導したかによって吉備東遷説や伊都国東遷説などがある
南九州が東遷して纏向を建設したとは遺物の上からは考えにくいが
九州王朝よりはましということになる
227 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 16:31:00.50
東遷が熊襲の神武、
筑紫が九州王朝、
と考えているんだが。
228 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 16:37:01.32
>>226 > 南九州が東遷して纏向を建設したとは遺物の上からは考えにくいが
ここ同意
229 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 16:40:04.60
>>226 南九州が東遷して纏向を建設ではなく、既に出来上がっていた纏向を軍事占領した
と考えればつじつまは合ってくる。
戦火の痕が必要になるだろ
脳細胞
脳細胞は幼児期に形成され、以後年齢と共にその数は減少していきます
大脳の神経細胞数は約140億個と推定されていますが、1日10万個近くが死滅しています
人間は140億個の神経細胞のうち、天才でも6%ほどしか使わないといわれています
ですから、じじいは欲の皮だけで生きていると言えます
232 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 17:15:59.95
>>230 壬申の乱もそうだが、野戦で敵主力を撃破してしまえば
敵の首都は無血に近い形で占領できる。
皆、逃げ散っているだろうし。
233 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 19:12:20.50
火君や筑紫君の祖先って何だと思いますか?
234 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 21:40:40.63
>>227 熊襲が東遷したわけじゃない。
高天原を熊本を含む北部九州として、記紀にそって考えれば
日向への天孫降臨が、北部から日向への移住を意味する。
宮崎はある意味、奈良とよく似ている。弥生時代には目立ったものはないが、
古墳文化は九州随一である。
日向への移住が高天原の勢力拡大の一環か、それともほかに理由があっての
移住かわからないが、瓊瓊杵尊一族は宮崎平野に拠点を構える。
そうすると、都城を拠点とする熊襲とは当然ぶつかる。大和朝廷でも
苦戦した熊襲だから、瓊瓊杵尊一族も苦労したに違いない。
あるいは劣勢だったことが、神武東征の理由だったのかもしれない。
その報復のために、景行天皇以下が熊襲征伐に出るというわけである。
235 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 21:53:02.59
>>220 記紀は、大和朝廷の歴史書だから、負けたとは書かないだろうが、
実際は熊襲に勝利はしていない。だから、日本武尊の息子である
仲哀天皇も熊襲征伐に向かっている。
この後、熊襲は記紀に登場せず、代わりに隼人が登場するが、隼人が
大和朝廷に完全に屈するのは720年の大規模な遠征のあととなる。
余談ながら、この遠征で大和朝廷側は隼人の首を百ほど持ち帰った。
そのあと、疫病が発生するなど災いが次々に起きた。
これは隼人のたたりに違いないということで、隼人の霊を慰めるために
整備されたのが宇佐神宮である。
238 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 19:10:03.76
余談ばっかりだな。邪馬台国東遷はどうした。
239 :
筑後川:2013/09/01(日) 19:43:48.19
邪馬台国は東遷してないよ。
東遷したのは
倭国大乱で
邪馬台国の勢力と戦った
神功皇后の勢力だよ。
240 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 19:48:13.94
倭国大乱に吉備は巻き込まれていないのではないか?
吉備は東征中の神武にメシを食わせるなど「外交巧者」なイメージがある。
241 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 20:05:14.91
倭国大乱は畿内内部の王位継承争い。
それが全国に飛び火した。
南北朝の動乱や応仁の乱に似ている。
いいや、畿内銅鐸国家は、一気に滅んでしまった。
そんな混乱ぶりではなかった。
銅鐸文化は畿内では大乱よりずっと早い時期に消え去ってるぞ
244 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 21:23:17.91
239
その説、面白い。もう少し教えてもらえませんか。
東遷も何も神功皇后は葛城地方出身と明記してあるだろw
邪馬台国=高天原=北部九州の東遷は無いよ。
古事記日本書紀に書いてあるのは、神武東征だ。
247 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 13:52:47.95
>>246 基本的なことだが、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が
高天原から日向に天降る。
瓊瓊杵尊以下三代が日向で暮らす。瓊瓊杵尊のひ孫が神日本磐余彦、
つまり神武天皇だな。神武天皇が東征の旅に出る。
神武は移住
移住先で子孫がじわじわ勢力を広げて天下をとった
都を移したのではない
249 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 15:04:36.40
高天原とは、御所市、葛城市、橿原市、五條市のあたり。
このあたりは、古代に存在した大和湖の南岸の地にあたる。
もともと、高野と天野と地域があり
それらを統合して、高天野、高天原という風に呼ぶようになった。
天皇家の先祖の忍穂耳は天野の豪族で、
その妻の実家(タカミムスビ系、大伴氏らの先祖)は高野の豪族だった。
忍穂耳の息子には、火明とニニギがおり、
火明は大国の主の娘を正室にしており、やがて彼が出雲国譲りで
天下を取る。
ニニギは、出雲国譲りののち、九州高千穂の統治を任され
地方官としてくだっていく。これを天孫降臨という。
このニニギの曽孫がワカミケヌ(神武)。
250 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 17:13:28.90
>>249 高天原が奈良県では、瓊瓊杵尊が日向の高千穂の峰に降り立ったと
いう表現が不自然なんだよ。
九州山地を越えてやってきたことを高千穂の峰に降り立ったというのは
自然なんだが。
全然自然じゃないけどw
>>247 >基本的なことだが、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が
>高天原から日向に天降る。
その神話が神武の出現よりあとの、後付け設定じゃないかって問題がな
>神日本磐余彦、つまり神武天皇
名前の元になった「磐余」が、同じ桜井市内の淀川水系(淀川に流れ込む河川)がわにある
神武東征神話では通過していないはずの土地だ
古墳時代の地域権力が水系単位で成立したことを考えれば、
オオヤマト周辺、大和川水系の権力とは別系統だ
オレは神武東征神話の原型はオオヤマトに隣接する磐余の豪族がオオヤマト入りしたという内容だったと想定してる
253 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 18:17:05.43
>>252 > 名前の元になった「磐余」が、同じ桜井市内の淀川水系(淀川に流れ込む河川)がわにある
> 神武東征神話では通過していないはずの土地だ
神武が占領してから改名した可能性もある。
ペテルブルグ→スターリングラード
254 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 18:19:52.43
黒岩重吾説では
「磐余=ナガスネヒコ先住集団の本拠地」
255 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 18:44:00.09
神武東征の真実。
当時の倭王家である畿内王家は、ホアカリ命の後胤たちだった。
神武家は、ホアカリ命の弟のニニギ命の後胤で
九州南部へ地方官として派遣されていた一族だった。
畿内でクーデターがおこった。
ホアカリ命のご落胤を名乗るニギハヤヒが
義理の兄のナガスネヒコと一緒に
倭王の位を狙ってクーデターを起こした。
そこでホアカリ命の正統な後胤たちと
ニギハヤヒとの間で戦いが起こった。
その戦いに、宗家への援軍として駆けつけたのが
神武一族だった。
クーデーター当時の神武らは、ちょうど、吉備の高島で
地方官として赴任しているときだった。
256 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 20:43:00.05
アマテラスが福岡生まれなのに、奈良が高天原のわけがないだろ。
奈良は土蜘蛛の巣窟だw
>アマテラスが福岡生まれなのに
はあ?
実在の人間のわけないだろ
258 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 21:59:04.82
俺は火の地にあった狗奴国が筑紫の邪馬台国を滅ぼして、その後大和へ東遷したというという話であって欲しいな。
259 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 02:54:38.36
>>258 記紀における皇祖は高天原の天照大神、つまり女性。
3世紀に限れば、邪馬台国は女王、狗奴国は男王・卑弥弓呼。
というわけで、狗奴国は大和朝廷の源とは思えない。
260 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 04:06:21.38
天照大神は天照国照の一部。太陽の神が女性というケースも世界的に見て異例であり、後の創作の可能性が否定できない。
>>260 >太陽の神が女性というケースも世界的に見て異例であり
その一方、wikipediaの「太陽神」の項目には
>概要
(冒頭部略)
>太陽神といえばギリシア神話やエジプト神話に登場する男神が想像されるが、ブライアン・ブランストンを始めとする神話学者の中には、
>太陽神は男神よりも女神の方が主流であると論ずる向きがある。男神がギリシア神話やエジプト神話などの著名な神話に登場することが
>原因となり、太陽神=男神という解釈が生まれたというのである。
(中略)
>太陽が女神で月が男神となっている北欧神話、バルト神話の存在は注目に値するものである。
とあるな
太陽を人格神じゃなく神獣、鳥獣類のように描く神話だってある。中国じゃ烏だっけ。
262 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 05:12:27.18
アマテラスが太陽神だと言う人に質問。
伊勢神宮の神主が太陽を拝まない理由を述べてくれ。
263 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 06:06:39.08
>>256 土蜘蛛って、木こり程度だぞ。
木こりなんて、平安時代の京都でもいるわw
266 :
河野淳:2013/09/03(火) 14:44:31.91
>>265 九州勢力が共立した卑弥呼が畿内にいたのなら
畿内は九州を征伐つるはずもない。
畿内に共立された卑弥呼の邪馬台国がなかったからこそ
九州を征伐しなければならなかったのだよ。
邪馬台国をを滅ぼしたのは畿内へ東征した勢力の
神功皇后た。
>邪馬台国をを滅ぼしたのは畿内へ東征した勢力の
神功皇后た。
奈良の葛城地方で生まれてる神功皇后なのにw
神功皇后は九州北岸で兵を集め出産し、心からくつろいでいる。
どこで生まれようが
九州北岸の勢力だ。
第一
畿内から来た無関係の人ならば
命に関わる兵が集まる訳がない。
くつろぐも何も、畿内から見て北部九州は
対半島の前線基地なんだから当たり前の話w
第一
畿内から来た無関係の人ならば
命に関わる兵が集まる訳がない。
アホか、神功皇后の父方はヒボコ、伊都国王縁でもあるだろw
新羅に拘る理由もそこにあるのに。
伊都国てどこよ。
北部九州だろう
275 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 21:47:08.07
神功皇后が福岡、
仲哀天皇が北九州、
景行天皇が筑後、
福岡県の範囲はこの三人の勢力範囲。
景行天皇とヤマトタケルが、元々熊本の人で、
大分と宮崎鹿児島を平らげたなら、
これで九州統一。
邪馬台国→倭国(九州王朝) 太陽信仰
のちに大和朝廷といわれる現天皇家の祖先(いわゆる天孫族) クマ信仰
277 :
日本@名無史さん:2013/09/04(水) 07:22:16.02
熊本、肥国=日国が豊と熊襲を平定し、
筑紫を政略結婚で取り込んだ。
福岡でも3世紀には
筑紫野(チクシ)と筑紫平野(ツクシ)は別勢力で
筑紫平野(ツクシ)が邪馬台国の勢力
筑紫野(チクシ)は邪馬台国と倭国大乱をして
後の東征した大和朝廷。
4世紀以降は邪馬台国は神功皇后に滅ぼされ同じ勢力になった。
東征してもしばらくは九州が中心地で
倭の五王の墓は久留米市大善寺町にある。
279 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 21:43:44.97
皆さん、意見をカキコするのは良いが、その意見が正しいとする論証をして下
さいよ。論証の無い意見なんか説得力がまったく有りませんぜ。
スレタイは「邪馬台国の東遷」ですから、記紀の登場人物、つまり神功皇后や
仲哀天皇、ヤマトタケルなどを出すならば、邪馬台国とどういう関係なのか、
ぜひ明確に示していただけますか。
つうかまず邪馬台国が九州(それも南九州)にあったことを証明するのが前提だろうが
そこは置いといてというなら、その後の意見に根拠がないのもいたしかたなくね
南九州にあったことは自明というならそれでも俺はいいけど
畿内説はもちろん北部、中部九州説もその前提が受け入れられず
けっきょく他の邪馬台スレと同じようになるだろ
いろいろと無理がある
282 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 00:32:09.68
詳しく書いてもいいが、長くなるのでとりあえず簡単に。
まず、記紀の解釈として、高天原を熊本を含む北部九州とすれば、
出雲の国譲りも天孫・瓊瓊杵尊の日向降臨もうまく説明できる。
出雲の国譲りにおいて、高天原から派遣された武甕槌神に負けた出雲の
建御名方神が逃げたのは諏訪。当たり前だが、敵の本拠地とは反対方向に
逃げるわけでそれが諏訪だったのは納得できる。
瓊瓊杵尊が高千穂峰に降りてくるというのも九州山地を越えてやってきた
と解釈できる。
つまり、瓊瓊杵尊の天孫降臨は、北部九州から日向への移動を意味している。
しかも、日向降臨後、高天原が全く登場せず、天照大神などがその後どうなったか
記紀に記されていないのは、皇統が高天原に帰っていないことを意味している。
日向神話で有名なのは海幸彦・山幸彦の物語。これは面白いが割愛。
日向の話はいかにも海辺の話で、山に囲まれた大和で作られた話とは思えない。
その意味でも、日向の話は史実の反映と考えられる。
そして、神武東征となる。東征の理由は、南側の勢力(熊襲)との対立も考えられる。
だから、景行天皇以下の大和朝廷はなぜか熊襲征伐に拘っている。
中国の歴史書的には、卑弥呼+台与=天照大神。
岩戸の隠れる前、素戔鳴尊との対立に終始する時代は、狗奴国との対立に
苦しむ卑弥呼の時代に対応する。
岩戸から出た後は台与の時代になる。台与のあとに男王が出現し、
中国の爵命を並び受ける、というのは、記紀における高皇産霊尊の出現と重なる。
高千穂のとなりっつうだけじゃんw 半行で済むw
高千穂のとなりは熊本、熊本が高天原だな、で解決w
熊本に隼人いたっけ?
熊襲隼人は鹿児島・都城、熊本以北は土蜘蛛
287 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 06:25:55.12
記紀のどちらかに、隼人の祖先と皇室の祖先は家系がつながっていると書かれていなかったかな?
288 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 09:18:30.88
高野山と天野山で高天原だよ。
>>287 隼人は天孫族扱いだよ
山幸彦と海幸彦の神話とよくにているといわれる、インドネシアのケイ諸島の神話も、兄弟喧嘩した後に天から降りてきて島民の祖になるという天孫降臨神話だし、妥当
290 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 20:30:23.13
高天原は、古代の大和湖の南岸。
今の御所市、葛城市、橿原市、五條市のあたり。
高天の語源は、高野と天野を合体させてできた地名。
291 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 20:43:24.29
隼人のほうが、ニニギの後胤の本来の嫡流だろう?
神武皇統は、ニニギの後胤の傍流。
また、天孫全体で見ると、ホアカリの後胤の尾張氏が嫡流
ニニギの後胤の隼人や神武皇統は傍流。
292 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 21:15:27.80
九州北部から邪馬台国の物部が大和へ侵入しプレ大和朝廷をつくり、九州南部の狗奴国からイワレヒコがプレ大和朝廷を乗っ取った。
293 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 23:55:16.97
>>292 北部九州から物部氏の祖である饒速日命が先に大和に入った可能性は高い。
しかし、神武天皇と饒速日命は同じ祖先で、ともに天神の子となっている。
このことからすれば、いわゆる天孫は、北部九州から日向を経て大和に入ったと
考えたほうが妥当性がある。
個人的には、纏向は饒速日命系の集落だと思う。神武天皇は記紀の通り橿原。
肝心な記述をスルーしちゃだめだ
ニニギと隼人が分かれたのは180万年前くらいだっけ
ジャワ原人のころだな
>九州北部から邪馬台国の物部が大和へ侵入しプレ大和朝廷をつくり
東征したのは倭国大乱で邪馬台国と戦った九州北岸の勢力だ。
邪馬台国が大和朝廷になったのなら記紀に記載しただろう。
記載しなかったのは邪馬台国が敵対勢力だったから。
もしも
記載したら自分たちが邪馬台国を滅ぼしたことを自白することになる。
>>295 ならばどうせ滅ぼしたのだから、自分たちは邪馬台国の者という方が手っ取り早くて手間が省ける
そうしなかったのは、さんざ悪行を働いてきた嫌われ者だったから出自不明にした。
戦いで勝った方が自己否定して存在を消しさるって世界史史上ほかに例を見ない珍説だな
まともな思考能力を持ってるやつとは思えない
珍説か?
でも良く考えれば高天原神話は地上でないところから現世地上に降臨するわけだから、自己の出自を否定してる。
>>297 モンゴル人が中国を支配して中華皇帝を名乗るのはおかしい事かな?
共産党が中国を継承してるぞ
政権を奪った場合、対外向けに継承してます!と言うのが常識
>ならばどうせ滅ぼしたのだから、
自分たちは邪馬台国の者という方が手っ取り早くて手間が省ける
しかも
邪馬台国は倭人伝は韓国にまで知られる有名国になったから
邪馬台国を名乗らないと諸外国は相手にしてくれなかった。
301 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 11:10:52.53
古い時代に宮崎から小豪族の神武一族が数年かけて移住。
白鳳時代に九州王朝の天氏が、白村江から逃れて疎開。
302 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 14:46:40.35
>>293 > このことからすれば、いわゆる天孫は、北部九州から日向を経て
地理的に日向経由とは思いにくい。
やはり関門海峡を渡って本州に入るコースが無難だったと思う。
303 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 14:48:21.43
>>298 > でも良く考えれば高天原神話は地上でないところから現世地上に降臨するわけだから、自己の出自を否定してる。
外国の王家の神話もそんな感じでしょ。
それが原始的な王権神授説につながる。
304 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 19:32:46.05
東遷をどう考えますか?
1.磐余彦を含む小集団によるか、軍団によるものか。
2.本国と大和との関係はどのように考えますか。
東遷のように見えるだけ。
→壬申の乱で第二の首都=畿内を支配した、九州の天武は、
首都九州の唐軍を避けて、新政権を樹立して畿内に都を置いた。
畿内政権は天武に乗っ取られ、九州残存政権は討伐された。
306 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 20:16:03.66
隋の使いが畿内に来てるのに、九州王朝とかは有り得ないから。
307 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 20:21:35.56
>>303 日向経由といっても、日向では三代が過ごしているからね。
墓も三つある。瓊瓊杵尊の可愛山陵。彦火火出見尊の高屋山上陵。
鵜葺草葺不合命の吾平山上陵。
どうして日向に降ったのかも考える必要があるかも。
従来の年代観では、環濠集落が終焉を迎える時期と重なる。
>>306 幕末にも、外国が幕府と薩長の両方とやり取りして交流している。
外交とはそういうものだ。
309 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 20:30:50.19
>>307 ついでというわけではないが、同じような頃に、大陸でも大きな出来事が
起きている。
280年の呉の滅亡。西晋によって滅ぼされている。命からがら逃げたかなりの
人数の呉人が九州にたどり着いた可能性もある。
310 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 21:08:18.08
>>309 > 280年の呉の滅亡。西晋によって滅ぼされている。命からがら逃げたかなりの
> 人数の呉人が九州にたどり着いた可能性もある。
その場合、海流の関係で宮崎県沿岸に漂着する可能性もあるようだ。
311 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 21:12:01.00
>>304 > 東遷をどう考えますか?
> 1.磐余彦を含む小集団によるか、軍団によるものか。
やはり一定規模の人数はいないと、軍事行動そのものを考えないでしょ。
そうなると兵站が謎
やっぱり本国から援助を受けてたんだろうか?
何百人で居候されたら迷惑だよね
313 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 21:32:22.64
>>312 吉備の場合、出雲が近くにあるから
予備兵力の外人部隊を歓迎したのかもしれない。
ただしこれは想像の域をでない。
314 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 21:34:19.68
>>312 あと、現地滞在中には開墾とか漁業指導とかしたような気もする。
315 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 21:36:52.41
やはり、本国の支援のもと、大和へ軍事侵入し、その後、本国を大和へ遷都させたと考えるのが自然でしょうか。
このスレは神武東征じゃなくて邪馬台国東遷なんだから
国ごと移るんだから大規模軍で補給路ありなんだろ
317 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 21:45:56.30
白村江の後に壬申の乱が発生したほうが、
スッキリするんだがなあ
>>317 なに言ってんの??
壬申の乱 672年
白村江の戦い 663年
>>315 遷都してないから神武が初代なんだとオモ
神武は西暦100年前後
卑弥呼(=モモソヒメ)は西暦200年前後
時系列が逆なんで東遷説はありえません
>>320 結局そこだよね。神武東征を3世紀以降にしたら
その辺の時系列が無茶苦茶なのにね。
322 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 02:13:36.98
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
323 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 02:38:22.39
アマテラス=卑弥呼+台与
アマテラスの生誕地=福岡県→高天原邪馬台国=北部九州
神武=邪馬台国系のタダの豪族
だから、あくまでも神武東征である。
邪馬台国はその後衰退してヤマト朝廷に吸収された。
イワイの乱が残存勢力の最後の抵抗。
324 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 03:02:48.35
>>320 神武天皇は、天照大神から授けられ、受け継がれた鏡・玉・剣の三種の神器を
持って行って、銅鐸文化圏を築いたか。
そして、古墳時代になって、鏡・玉・剣が復活したか。
畿内説は、畿内説を前提に物語を組み立てるからどうにもならん。
>畿内説は、畿内説を前提に物語を組み立てるからどうにもならん。
当たり前だろw
どの〜説も目的地を前提に説を組み立ててる。
普通に解釈したら、なんてのは全くの詭弁だし。
>325
目的地が間違っているのだから話にならん。
327 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 14:18:38.82
アマテラス=卑弥呼ならば、
神武東征は239年以降のことになるが。
>>327 だからアマテラス=卑弥呼じゃないって事だよ。
239年ころには巻向が造られてて天皇家も10代続いてるのにな
そもそもアマテラスなんていう読みが間違ってるだろ。
アマテルが正しい。卑弥呼の数百年前の人だ。
卑弥呼と持統天皇が同一人物、と言っているようなもの。
331 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 17:35:10.59
戦国時代とか明治維新とかは、
一般の日本人にちゃんと歴史観が存在しているのに
出雲国譲りとか神武東征とかは、一般の日本人にちゃんとした歴史感がないからね。
だから、このあたりは、トンデモ史観がまかり通る。
332 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 17:45:04.83
アマテルは、男で
皇祖ニニギの兄。
333 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 19:04:19.24
>>327 239年がどこから出てきたのか知らないが、
神武東遷の時期は300年前後。
恐らく、近畿地方の古墳もそのあたりから始まる。
もちろん、纏向もそれに近い。纏向の年代は従来のほうが正しい。
今の年代は、畿内説が邪馬台国にするために無理やり遡らせたもの。
年輪年代で畿内W期を100年遡らせ、ついでに庄内期まで
繰り上げてしまった。
334 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 19:06:38.05
>>333 科学の進歩を受け入れられない爺さんですか
336 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 19:41:57.45
畿内はゴッドハンドだろwww
年代測定は今後数年間で飛躍的に進歩するだろう
新しい年代測定の方法も次から次へと誕生してきている
1年単位での測定が可能になる
纒向は年輪年代の通り3世紀半ばで確定される可能性が高い
そうなったら真っ先に消えるのがこの東遷説
吠えてられるのもあと数年だ
将来はこんな説を主張してたこと自体が恥だとなるだろう
338 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 20:46:24.67
>>337 可能性ということは逆の可能性も有るということだよね。真っ先に消えるのは
畿内説になるのではないかな。
>>338 可能性だけならな
自然科学での発見や科学的調査の結果は新しい方が正しいケースが圧倒的に多い
これが現実
あとはわかるよな
340 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:00:29.84
本居宣長も罪作りな人だw
あんたが、つまらない根拠を基に
古代史を推測するものだからw
箸墓詐欺を推進するために百年遡上させた年代判定。
つながっていない年輪をつなげて年輪詐欺も援護射撃。
ドンドン墓穴を掘っていることに、早く気づけよ畿内詐欺。
342 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:23:45.25
土器の破片だらけの墳丘、凝りに凝ったバチ形の前方部、西殿塚同様に古墳芸術の極み。
狗奴国とのいくさの最中に、まあ無理だな。
343 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:29:01.21
>>335 ひょっとして光谷さんの年輪年代法が科学だとでも言うのかな。
あれはブラックボックス。検証不可能なものは科学とはいえない。
それにしても、年輪年代で年代が遡ったのは素早かった。
あっという間もなかった。
また、マスコミや出版業界を通じての宣伝もすごかったが、各方面への
圧力のかけ方もすごかった。
しかし、法隆寺の心柱の年代などで年輪年代が問題になっても、考古学会は
知らん顔していた。年代を見直そうという気はさらさらないようだった。
恐らく、光谷さんの年輪年代法が問題になったとしても、考古学会は
我関ぜずの態度だっただろうな。
旧石器捏造事件と似ているな。
344 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:36:31.31
昨日まで吉野ヶ里遺跡は卑弥呼時代を含むと言っていた畿内説の考古学者が
きょうは纏向が邪馬台国だ、というわけだから、何がどうなっているのか
戸惑ったのを覚えているな。
何年前の話だ、既に箸墓抜きにしても
吉野ヶ里最盛期は邪馬台国とは合わないしな。
オマケに銅鐸まで出土して従来の九州説や東征説は
既に終了してるよ
卑弥呼は、宮室・楼観・城柵がある場所にいたのさ。
吉野ヶ里にはそれらが揃っているが、畿内にはない。
時代が合う合わない以前に、畿内は邪馬台国とは異質な文化圏なんだよ。
348 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:16:46.38
吉野ヶ里最盛期つってもな、
波はあるだろうが、9世紀までは何かしら統治機構があったらしく、
木簡が出土している。
肥前国庁の更に出張所みたいなもんだろうかね
人文系学者であるY氏は自身の専門外の分野に興味を持ち、
その分野で主流派であったK氏の学説に全面的に依拠して自説を構築、発表した
ところがY氏が依拠したK氏の説は、
K氏自身が根拠が薄弱であったと告白したほか、
新たに蓄積された事実によって更新を余儀なくされ、
その分野では旧説として顧みられなくなってしまった
さて、専門外ではありながら自説に自信を持っていたY氏が
学者として取るべき態度はどれだと思いますか?
1 依拠した学説がその分野では相手にされなくなったのだから、自説についてはすっぱり撤回する
2 更新された説に基づいて新たに自説を構築し直す
3 旧説となったK氏の説を新たな材料を用いて補強し、更新された説に対抗する
4 ひたすら更新された説を批判し続ける
350 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:19:36.88
だいたい箸墓の年代はどうなっているんだろうか。
近畿地方で最初に出来た古墳はどれで、いつ頃のものだろうか。
長年、最古の古墳といってきた箸墓がそれほど古くないとなれば
これは畿内説にとっても考古学会にとっても重大事件じゃなかろうか。
元々中期といわれた箸墓の年代を無理やり繰り上げて、卑弥呼時代まで
持って行き、年代が合うから卑弥呼の墓だといったわけだから。
今更、すみませんでした、あれは最古の古墳ではありませんでした、では
済まないだろう。だから、立ち入り調査以来、だんまりを決め込んでいると
勘ぐっているわけなのだが。
畿内説支持者は、昔のことは忘れましょう、で済むかもしれないが、
普通は済まないと思う。
畿内説支持者は500枚の三角縁神獣鏡のことはもう忘れたんだろうか?
352 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:27:51.17
年輪年代も、いずれ年輪のパターンを公開するといっていたが、
結局、公開されず、ちゃんとした後継者もいないらしい。
このまま消滅する運命なのかな。
あれはいったいなんだったんだろうか。
353 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:29:38.13
2月の立ち入り調査で、宮内庁から引導を渡されたか。。。
354 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:31:17.34
もともと光谷さんは、仏教古美術から、
法隆寺の木材を研究してたひと。
考古学の中心にいる人ではない。
>>350 箸墓古墳の築造は西暦240〜260年
>>351 レプリカが出土したということは本物がどこかに存在するという何よりの証
あのデザインは日本のオリジナルではない
356 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:37:02.17
あとは、箸墓古墳より古いと言われる、ホケノ山古墳。
ホケノ山古墳は5世紀と推定される堂ノ後古墳の一部を削って、
その上に築造されている。
357 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:46:37.63
358 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:51:44.76
>>356 桜井市教育委員会の調査では、堂ノ後古墳は五世紀後半となっているらしい。
これを削って作られたとすれば、ホケノ山古墳はその後になる。
これを三世紀の古墳にするということは200年以上もサバ読むことになる。
これはすごい。
畿内説としては、どうしても卑弥呼時代の古墳が欲しいところ。
そうでなければ、卑弥呼時代と古墳時代に連続性がないことになる。
畿内説の根拠がなくなる。
だから、箸墓がだめならホケノ山ということになったのだろうが無理だな。
連投w
君たちがするべきことは現在の年代観をひたすら批判することじゃないだろ
360 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:58:34.73
361 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 23:04:18.26
畿内説には人が寄り付かなくなった
2ちゃんを甘く見ると大ごとになる見本だな
362 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 23:04:52.44
九州説に何を言っても無駄。
殆ど宗教だから。
アカデミックの場では勝負になってないのに
在野の愛好家ばかりでの人気しかないしな。
363 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 23:14:57.57
語るに落ちる学閥談合
ゴッドハンド畿内説なら、
△鏡詐欺、箸墓詐欺、年輪詐欺、桃の種詐欺、鯖の骨詐欺、なんでもアリだ。
畿内説を事実化しようと、次から次へと、詐欺ネタを繰り出してくる。
畿内説に限っては、学問ではなく、犯罪捜査の対象にしかならない。
365 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 23:27:08.32
>>362 Wikipediaの「佐原真」のところにこう書かれている。
藤村新一によって捏造された一連の「前期旧石器」については、
疑問を投げかけた小田静夫を名指しで批判し、反対意見を封じ込めた。
これがいわゆるアカデミックにおける畿内説の手法。
九州の年代観は日本が朝鮮半島より先行するはずがないってのが基本だな
類例が少なくてよくわからないものは、朝鮮半島より100年ぐらい後にしとこうでかたずける
理化学的測定法で今後是正されるよ
>>362 いい加減、畿内説は諦めなよ。
200年以上もサバ読んで恥ずかしくないのか?
>>365 その佐原が九州説の希望の星であるところの吉野ヶ里遺跡を保存するために尽力したことはスルーなのな
369 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 23:52:12.81
>>368 そういう話は聞いたことがないな。
まあ、いろんな人が関係していることは確かなのだろうが。
佐原は九州説ですなんて言ってないし、
九州説の中心人物でもないし、
九州説支持者から頼りにもされていませんが何か?
371 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 23:56:23.21
>>368が言ってる意味すらわからないんだよな、感情で反応するからなw
そういや、三内丸山の高層建造物も
屋根は付いていないと毎日県庁に電話した学者が居るらしいな
頭おかしいね
374 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 00:20:30.31
吉野ヶ里遺跡の楼閣は
三内丸山よりずっと小さい柱穴を根拠にしている
頭おかしいね
>九州の年代観は日本が朝鮮半島より先行するはずがないってのが基本だな
基本的に今の九州説が矛盾だらけなのに、間違い認めないのは
これのせいだよな。
>>369 工業団地として造成するために発掘後には破壊される予定だった吉野ヶ里を保存の方向へ傾けさせたのは佐原
これは発掘担当者であり、行き掛かり上吉野ヶ里=邪馬台国の風呂敷を収められなくなった高島忠平が折に触れて語っている
偉そうな主張を繰り返すお前さんが考古学についてまともな知識を持ち合わせていないことがよくわかる事例だな
377 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 00:50:05.50
349 :日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:16:50.92
人文系学者であるY氏は自身の専門外の分野に興味を持ち、
その分野で主流派であったK氏の学説に全面的に依拠して自説を構築、発表した
ところがY氏が依拠したK氏の説は、
K氏自身が根拠が薄弱であったと告白したほか、
新たに蓄積された事実によって更新を余儀なくされ、
その分野では旧説として顧みられなくなってしまった
さて、専門外ではありながら自説に自信を持っていたY氏が
学者として取るべき態度はどれだと思いますか?
1 依拠した学説がその分野では相手にされなくなったのだから、自説についてはすっぱり撤回する
2 更新された説に基づいて新たに自説を構築し直す
3 旧説となったK氏の説を新たな材料を用いて補強し、更新された説に対抗する
4 ひたすら更新された説を批判し続ける
↑
4 自身では新しい材料を提示することなく、
K氏説が主流であった時代の論文・報告を引用してきて
ひたすら更新された説を批判し続ける
ってのが現実に近いかな
378 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 01:09:52.13
>>376 佐原真といえば、弥生時代に豚はいなかったというのが持論だった。
しかし、弥生遺跡から豚の骨が見つかった。そのときの一言。
いやあ、ある時代に○○がいなかったというのは難しいということが
よくわかりました。だから、弥生時代の近畿に鉄がなかったということも
言えないのではないでしょうか。
ちょっと唖然とした。
>>378 >佐原真といえば、弥生時代に豚はいなかったというのが持論だった。
>しかし、弥生遺跡から豚の骨が見つかった。そのときの一言。
>いやあ、ある時代に○○がいなかったというのは難しいということが
>よくわかりました。だから、弥生時代の近畿に鉄がなかったということも
>言えないのではないでしょうか。
ソースちょうだい
なお、上にどや顔で佐原のwikiの記事の一部が貼られてるが、
そのwikiの記事中にも佐原が吉野ヶ里保存に関わったという記述がある
自分に都合の悪い部分は目に入らないらしい
ちなみに旧石器ねつ造事件に関して
「小田静夫を名指しで批判し反対意見を封殺した」
との記述を追加した執筆者はその部分一回こっきりしかwikiに書き込んでおらず
どこでどう批判したかというソースも挙げていない
実態としては佐原が著書で小田が呈した疑問点に反論している程度だし
なにより学問の論争で相手を名指しするのは当たり前である
ようするに、ミスリードを目的とした書き込みである可能性が高い
以上の状況から、wikiのこの部分の記述は、
考古学というか学問を良く知らない輩が
佐原を悪役に仕立てるためにわざわざ書き込んだもの
ってこの板にも考古学者のイメージを悪くするために
必死にウソを書き込んでいる九州説・東遷説信者がいるなw
380 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 02:20:22.88
吉野ヶ里は畿内vs九州という演出に必要だからね
381 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 04:03:11.84
>>379 吉野ヶ里遺跡については多くの考古学者が関係しているからね。
畿内説の考古学者では、金関恕氏が熱心だったのを覚えている。
当然、発掘責任者やほとんど生涯をかけてきたような七田氏もいる。
佐原氏も関係していたんだろうが、立役者のような言い方はどうかと思う。
それに、捏造事件と吉野ヶ里の保存は特に関係ない。
佐原氏は、捏造事件に対する反対意見を封じるような行動を取っておきながら、
何一つ責任をとろうとしない。これも問題。
小田静雄氏については調べればいくらでもでてくる。
たとえば、
小田氏はそうした疑問点を当時指摘しなかったことについて「私の職場も
一つの組織であり、うっかりしゃべったら、とうに辞めさせられていたかも
しれない。今まで二十何年間生きてきたのは、そこで口をつぐんできたから。」
と言っている。
http://miyagi.arcpot.com/arc/paleo/tokyo_frame.htm 続く
382 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 04:04:27.01
383 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 04:24:35.43
ここにはもっと辛らつな意見が書かれている。
25年間、捏造石器に気がつかないというのはおかしい。
縄文時代の石器を埋めたらしいが、考古学者は旧石器時代の石器と区別が
つかないのだろうか。
捏造石器からナウマン象の脂肪酸を検出したという研究結果が、
帯広畜産大学から報告され、捏造石器の信憑性の補強に使われた。
国立歴史民俗博物館館長の佐原眞は、この情報によって、反対意見を
発表した小田静夫氏を名指しで批判し、旧石器発掘に対する反対意見を
封じ込めた。捏造石器にナウマン象の脂肪酸が付くわけがない。
捏造を補強する共犯者といわれても仕方がない学者たちがいたことになる。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku223.htm
384 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 07:52:49.45
佐原は吉野ヶ里の発掘が進んでもさしたる成果なく、
糸島伊都国−畿内説に有利に働くとの打算があっただけ
>>368 吉野ヶ里遺跡を保存するために尽力したから、不正には目をつぶってくれ、ってか?
馬鹿じゃないの?
吉野ヶ里遺跡を保存するために尽力したことと
反対意見を封じ込めて
捏造に協力したことは別問題。
許されることではない。
それと九州説が反科学である事実とも関係ないけどな
科学の名の下に詐欺を働く畿内説。
奥野正男
韓国 蔚山大学客員教授
奥野正男
韓国 蔚山大学客員教授
畿内説を詐欺詐欺と騒ぐのは、賭博でスッテンテンに負けた男の雄叫びに似ている
391 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 10:58:28.06
>>390 ほう、賭博でスッテンテンに負けたことがあるのか
ま、畿内説も賭博みたいなもんだけどな
392 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 11:04:29.21
>>376 有名な話だな。
時期的に邪馬台国ではないんだが、保存のために邪馬台国か?ってのを
宣伝に使い、メディアに取り上げられ、見学者がめちゃめちゃ増えて、
超有名になり、おかげで破壊されなかった。
393 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 11:11:02.59
>>390 それを言うなら、畿内説はサイコロに細工するようなことをしては
いけませんよ、ということだろう。
スッテンテンに負けた九州説が、証拠も出せないまま詐欺だ詐欺だと騒ぐ姿が哀れ
国営で保存するような遺跡じゃないよな、地価がタダ並だからって
396 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 12:22:43.67
学者一人が詐欺をやったなら問題は小さいが、
畿内説は集団詐欺だから問題は深刻だ。
△鏡詐欺、箸墓詐欺、年輪詐欺、桃の種詐欺、鯖の骨詐欺を
学者・マスコミ・観光業界がグルになって打ち上げ花火。
こんな集団詐欺が、学問をダメにし、日本をダメにしていく。
398 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 14:40:57.68
>>397 おまえ、吉野ヶ里のこと知らんのかw?
あの遺跡が発掘された翌年ぐらいに早速
あそこを観光地にしようと動き出したんだぞw
399 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 14:53:46.83
それで邪魔になりそうな三内丸山に
毎日「楼閣を造るな!」と電話攻撃したのかw
400 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 15:29:32.46
吉野ヶ里の頃は酷かったよな、捏造なんて物じゃないよ。
自治体どころかJR九州も社歌にまで卑弥呼を利用してるし。あれは洗脳に近いw
401 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 15:30:48.53
>>342 > 狗奴国とのいくさの最中に、まあ無理だな。
当時のいくさは、農閑期にチョボチョボとやっていたんだろう。
だから余裕がなかったとも言えない。
武田と上杉だって、年中戦闘していたわけではないからな。
402 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 16:14:35.50
>>401 農閑期に狗奴国といくさをチョボチョボやって、農繁期には田植え・草取り・稲刈りやって、夜は夜で夜なべもあるし、
ドデカイ墓なんか作ってる暇なんて、まるきりないじゃないか
じゃあ、本当は墓なんて無いんだよ。
俺らが見ている古墳は全部近代になってから作られた偽物。
吉野ヶ里にあわてた畿内説が、詐欺にまい進しただけだろ。
九州説が集団詐欺にまい進したことなど、一度もない。
405 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 17:04:08.77
>>403 だからよ、
古墳というのはいくさのない平和な時代の産物というわけよ
箸墓や西殿塚の前方バチ部のソリ加減をみてみ、芸術品だよ。暇な武人がたくさんいたということだ。
406 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 17:32:55.53
>>400 JR九州の社歌なんて知っている人はあまりいないだろう。
洗脳というのは、マスコミで毎度のように登場していた
「邪馬台国の最有力候補地・纏向遺跡」「卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳」
こういうのを言うんだよ。
407 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 17:54:45.77
邪馬台国九州説論者の権威 奥野正男 韓国 蔚山大学客員教授
騎馬民族征服王朝説論者でもある。
つまり、卑弥呼が死んだら平和になったってことかよ。
とんだ邪教を奉ずる狂女だな。
409 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 18:18:40.70
卑弥呼をモモソ媛命に比定すれば、ほぼ謎が解ける。
狗奴国王は、許乃国を領国にしていた
武埴安彦命のこと。
あのね
「狗奴国とのいくさ」なんて、倭人伝にはひとことも書いてないんだぜ
知ってるか?
武埴安彦の父考元天皇は、蘇我氏、葛城氏に繋がるから乱の話は藤原が作り変えてるよ
412 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 19:15:24.33
武埴安彦命の乱=狗奴国王の卑弥弓呼の乱。
彦命(ひこみこ)=卑弥弓呼
許乃国(このこく)=狗奴国
狗奴国王の副官は、拘右智卑狗。
武埴安彦命の外戚や妻の実家は、河内彦の一族。
河内彦(かうちひこ=こうちひこ)=拘右智卑狗
武埴安彦命の乱では、彼の領国だった許乃(この)と
外戚の領国の河内から、大和を挟み撃ちにした。
武埴安彦命は孝元天皇の庶長子であり、外戚である河内彦が乱の黒幕だろう。
河内には、武埴安彦命が外戚の下で養育された伝承が多く残っている。
413 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 19:16:15.48
ここは「邪馬台国の東遷」をテーマとするスレだ。スレチはドン来いや終止符
スレへ行け。ドア○ウども。
どアホはどっちかな?
あの反乱の件はあながちスレチとは言えない話なんだが。
415 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:30:46.44
大和王権の創始者はニギハヤヒで、磐余彦は、入り婿のように思えてきた。
ただ、ニギハヤヒがヤマトへやってきた理由が分からん。
>>410 さすがにそれは恥ずかしい
よく見ろ
>其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
>遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。
倭の使者載斯、烏越は帯方郡まで行って双方の戦況を説明した
(耶馬臺國は魏に援軍を頼んだが、帯方郡が皇帝に相談して援軍は無しになった)
しかたないので停戦の使者が帯方郡から倭に向かった
417 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:08:32.48
>>412 武埴安彦命の乱というのは日本書紀に書かれているのだが、これは
崇神天皇10年9月で完結している。
百襲姫が乱を予見してから武埴安彦命が死ぬまで1ヶ月もかかっていない。
卑弥呼のほうはそもそも魏に朝貢した理由が狗奴国問題と考えられる。
だから、黄幢を欲しがり、魏は黄幢を与えている。
争いは非常に長期にわたっている。
互いに攻撃している状態を説明するために使者が派遣されたのは正始八年。
武埴安彦命の乱だったら使者を派遣してすぐに解決している状態だろう。
その要請にこたえて張政がやってきて、「檄を為しこれを告喩する」つまり、
仲裁をしている。武埴安彦命と卑弥弓呼とは似ても似つかない。
418 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:29:25.59
>>398 吉野ヶ里遺跡は非常に人気が高かった。
発表されてからの2ヶ月ちょっとで見学者は100万人を超えた。
ただの発掘現場のようなところに見学者が絶えなかったわけだ。
畿内説の考古学者でさえ、吉野ヶ里に倭人伝の国を見た。
と言っているくらいで、これが邪馬台国だ、という感じでみんなが
見学に出かけた。
遺跡保存の一番の後押しはこの人気だったわけだ。
平成2年に国の史跡になり、翌年には特別史跡に指定。さらに翌年には
国営公園になった。これらの指定には、人気もさることながら、
学術的・歴史的・文化的価値が高いことが評価された。
いわゆる宮室、樓觀、城柵など倭人伝の記述が具体的に出土していること。
当時の国の様子が良くわかることがその理由となる。
纏向とは違うのだよ、纏向とは。
そりゃ田舎のクニじゃ役者が違うわな、纏向みたいな全国的な都とは
420 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:37:50.51
421 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:48:51.10
巻向で出た柱穴は罪人をつるした首柱の跡
それは纏向じゃなくて、卑弥呼の宮殿
弥生集落では居住区域と墓域は別に区分されている
日本人は縄文時代から現代にいたるまでずっとそうしてきた
吉野ヶ里は墓と住居が一緒くたで、平気で墓の上に家を建てて住んでいる
朝鮮半島北部の馬系の集落跡にこうした状況が見られる
前期の小集落の時の住民と、後期の住民は違うかもしれない
国の税金使って子供に見せるような日本の集落じゃない
子供が大きな間違った日本人像を描いてしまう
424 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:54:56.88
425 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:03:21.53
吉野ヶ里でもきっちり甕棺が並べられたところがある。
こういうのは墓域と言っていいだろうが、
戦で大量に亡くなった特例かもしれない。
戦没者顕彰みたいなかんじで。
福岡の金の隈遺跡は、明らかに墓域でかなり大きいな。
2番目の画でわかるが内(右)から外(左)に出にくい構造になっている
あれではまさしく捕虜収容所
やっぱり環濠の中に墓域があるっているのは違和感がある
だいたい、土塁の内側に空堀って、防衛的に意味なくね?
意味ない
復元した人の間違いだと思う
空想で現実を否定しても、それこそ意味がない
>>418 その多数の見学者を呼び込んだのは高島忠平に相談された佐原真が連れてきたマスコミによる報道だという現実
432 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:19:01.23
吉野ヶ里はいらなくなったから墓地になったわけです。
433 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:28:52.47
>邪馬台国九州説論者の権威 奥野正男 韓国 蔚山大学客員教授
騎馬民族征服王朝説論者でもある。
今の九州説なんて結局こういう事だからなw
なんとか歴史認識から半島主導にしたいだけだよ。
吉野ヶ里は内濠の外側に土塁が築かれていた痕跡があった
それに基づいて復元している
柵を乗り越えにくいように外に濠を作る
城は必ず内が高く、上から射、撃下ろすようになっている
436 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:38:56.27
>>417 魏は、倭国でどの王権が誕生しようがどうでも良いんだよ。
西暦240年代は、朝鮮半島では
三韓による反乱があって、帯方郡の太守が殺害される事件が起こっている。
そのために魏が倭に半島への出兵要請をしたというのが本当のところ。
スレチだろ
場所変えてやれ
当時のいちばんの武器は弓矢なわけで
敵が小高いところから柵の陰に隠れつつ一斉射撃してきたら
環濠の中は阿鼻叫喚なわけだが
439 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:44:04.62
>>434 石器捏造事件では、捏造石器からナウマン像の油脂が出てきたと
言われていて、佐原眞は飛び上がって喜んだとか。
そんなの出て来るわけがない。
石器の捏造は、藤村新一個人ではなく、考古学会全体の問題といわれるのは
こういう風に、捏造が細部に及んでいることや、25年間誰も異議を
唱えるものがいなかったことなどがある。
反対意見に圧力をかけた佐原眞を始め、こういう風に捏造石器に係わった、
あるいは見逃した考古学者が畿内説を唱えている。
旧石器は邪馬台国と畑違いだから、重複しているのはオールラウンダーな佐原だけ
作り話印象操作作戦おつかれさん
441 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:53:56.94
佐原は、吉野ヶ里が邪馬台国なんてありえないと信じていた。
だからマスコミの前で恥をかかそうと思ったのが誤算。
しかし多くの人は、吉野ヶ里の前に畿内説こそアヤシイと思ってたわけだ。
442 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:56:57.81
>>440 捏造考古学者が邪馬台国畿内説に関係しているんだから、
関係ないことはない。
考古学的には畿内説と言っているわけだから。
443 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:57:33.19
吉野ヶ里は九州土人の強制収容所だったわけですね。
444 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 00:03:50.24
九州大学ですら、畿内説がほとんど。
九州説で有名な高島先生ですら、もともとは畿内説だったけど
学生時代、大学の教授(むろん、畿内説)に
「おまえ、考古学を盛り上げるために、九州説になれ」
と言われたから、九州説でいくことにしたとカミングアウトとしているのになw
畿内説は、産学官マスコミ共同詐欺だから、逆らったら生活できないからな。
446 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 00:10:13.47
吉野ヶ里は、米多国(メタ国)と言われたところで、
いまでも、そういう地名が多い。目達原とか。。。
これは、西暦107年の倭の面土国(メタ国)の帥升で登場する
447 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 00:19:34.49
>>444 考古学会には妙な体質があって、先輩の言うことには絶対に逆らえない、
ということがあるらしい。
もし、若いうちに逆らうような言動をしたら、組織の中で生きていけない。
つまり、干されてしまうのだそうだ。
捏造事件で、考古学会も何らかの責任を取るべきだった。
普通だったら、捏造石器に基づく説を支持したり、それに基づいて
本を書いたりしたら恥ずかしいはずだが、かなりの厚顔無恥ときている。
あの時、事件調査が完全になされていたら良かったのだが。
ひょっとしたら芋づる式に共犯者が出てきたかもしれない。
しかし、結局、藤村一人の責任になってしまった。
教科書まで、捏造石器に基づいて書かれていたというからなあ。
発覚後は訂正したようだが。
高島氏はすごいな。畿内説の考古学者の圧力に負けずに、吉野ヶ里が
三世紀まで存続したことを貫いている。
吉野ヶ里遺跡のパンフレットやHPなどはそれに基づいている。
448 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 00:22:29.91
<筑志米多国造>
>筑志米多国造は米多国(現・佐賀県三養基郡米多郷周辺)を支配したとされ、
>国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、息長公(おきながのきみ)と同祖の、
>稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたのみこと)の孫にあたる都紀女加命(つきめかのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
筑志米多国はこれだな。
この中で都紀女加命の「都」を「つ」と読ませてる。伊都国も「イツコク」と読むのが正解なのだのだろうな。
2ch戦士には上中古音と呉音の区別がつかないw
450 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 00:46:01.73
考古学者を信じることができないというのであるならば
吉野ヶ里遺跡を発掘して、遺構を確認して、出土遺物から時期を認定したのは考古学者なのだから、
当然、吉野ヶ里遺跡の存在自体を疑わなければならなくなりますよね?
古墳時代が4世紀に始まったという年代観も、考古学者が唱え、ほかの考古学者が支持していたのだから、
当然、そんな年代観は信用することなどできないですよね?
出土品を片端から邪馬台国の年代に無理くり合わせようとする纏向関係者が悪いんじゃないの
「無理くり合わせ」だっていう理由は?
誤差が+-50年ぐらいある測定法で理論値限界ギリギリの所で断定する行為
その誤差の範囲の歴史が争点なのにも関わらず
454 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 02:06:09.14
とりあえず、考古学者の先生に畿内で一番古い古墳を探してもらいましょう。
大和時代を古墳時代にしたわけだから、その最初の年代がわからないこと
には話にならないから。
捏造は無しということで。
>>453 その発想は被害妄想じゃね
そんなこじつけ言うのは畿内説、九州説ともにいるけど、例外的な一部の人だけでしょ
実際、そういう極端な説は通説にはなっていないんだし
歴博のC14測定が高い精度のものではないことは周知で
考古学者の中には非難する者のほうが多い
また土器編年も前後に裁定でも30年の幅をみる必要があると思うが
これは古くなる可能性も新しくなる可能性もあるということだ
457 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 02:34:57.14
高句麗が攻めてきて、楽浪と帯方が滅んだのが三世紀の初め。
その後、王仁博士に象徴される漢人達が亡命してきて、巨大墓を設計したのだよ。
458 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 02:40:20.20
間違えた。
四世紀初めだな。
459 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 03:03:07.40
>>457 あほかw
楽浪郡と帯方郡が滅んだのは西暦4世紀初めだ。
ちなみに、日本に前方後円墳が誕生したのは西暦3世紀初め。
また、前方後円墳の発祥地で纏向都市が誕生したのは西暦2世紀後半。
460 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 03:05:51.22
>>456 歴博のC14よりも信憑性があるのは、稲や人の遺伝子からの
突然変異がおこるおこる一定期間から割り出す方式。
これだと、歴博のC14よりも遡らせる結果になっているよ。
461 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 03:06:42.63
462 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 03:19:15.07
やまと朝廷 より
御眞木朝廷 のが かこ よさげ。
崇神没年258年か318年かで東遷説が成り立つかどうかが決まる
あと数年のうちには結論出ると思うけど
464 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 03:43:40.44
御眞木入日子印惠命 - 【崇~】
印惠 印惠 印惠
はんこめぐまれたひとだって書いてるじゃん
方格規矩鏡 六枚のは取り分としても妥当だし。
だいたい、理化学的方法オンリーで年代決定論をやってる考古学者なんて
いやしない。
遺物で割り出した年代観が理化学的方法の許容範囲に入ってるか見てるだけ。
>>453は本末転倒。
466 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 07:51:33.89
>>463 > 崇神没年258年か318年かで東遷説が成り立つかどうかが決まる
後者のような気がする
467 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 08:03:02.67
そういやホケノ山石室から出てきた小枝がC14で4世紀だったな。
>>466 それただの願望
258年だったら東遷説は一瞬にして消えてなくなるから
469 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 11:49:40.55
武埴安彦の乱のことだが、なぜか妻が出てくる。吾田媛。
この吾田媛の名前を聞いたときになんとなく日向が連想された。
日本書紀では、吾田媛は河内隼人の首領となっている。
河内隼人というのも妙な名前だ。やはり南九州に関連があるように思える。
武埴安彦は、8代・孝元天皇の皇子となっている。吾田媛と供に乱を起こし、
崇神天皇に平定されたわけだが、この乱の意味は何なのだろうか。
時代は遡って、神武天皇には、日向から東征に同行してきた皇子の手研耳命が
いた。一方で、東征後、神武天皇には五十鈴姫との間に3人の息子ができている。
手研耳命はこの異母兄弟を殺そうとしたということで、逆に殺されてしまう。
こじ付けかもしれないが、ひょっとして同じことを言っているのではないかと
連想してしまった。神武・崇神同一人物論と言うわけでもないが。
470 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 12:56:46.76
>>469 > 日本書紀では、吾田媛は河内隼人の首領となっている。
> 河内隼人というのも妙な名前だ。やはり南九州に関連があるように思える。
河内に移住してきた隼人ではないかとの見方もできる。
隼人は武勇に優れているうえに、水軍もできるので軍事的には頼りになったものと思われる。
471 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2013/09/13(金) 14:07:06.11
ホ32202 イキシコメ たてゝウチミヤ これのさき キミめすときに オミケヌシ いさめもふさく・・・
なげきていわく オオンカミ アメノミチなす ヨヨのキミ つぎうけをさむ アメヒツギ ナンヂがマツリ
いさめずて をもねりキミを あなにする ココロきたなし キミいかん わがミオヤカミ はなれんや ケガレはまづと
いゝをはり かえれどキミは これきかず
開化は父親である孝元の妾イキシコメ(イカガシコメ)の産んだ崇神にその位を崇神に譲ろうとする。そこには、これまで天皇を支えてきた
朝廷と軋轢を生む。
だからそれまで天皇を支えてきた朝廷が崇神から離れる。崇神は無人の纏向にしか宮を構えられなかった。
つまり、旧朝廷は、崇神が失敗することを望んだのであるが、崇神5年(後漢193年冷夏)のえやみの時
近江に居住してた大物主の勢力が崇神のもとへ逃げ込む。(崇神6年大物主の初子タタネコを崇神に使えさせる)
つまり 崇神の失敗を心待ちしていたのに、崇神はかえって大きくなってしまう。これに危機を抱いた旧調停派は武埴安彦をたてて
崇神を葬ろうとしたが、それが露見し、滅ぼされることとなった。
この影響は、垂仁の狹穗彦王も同じであり、景行の三年春二月 卜幸于紀伊國。將祭祀群神祇。不吉。まで続くのである。
だから吾田姫の件は東遷について決して無関係じゃないのだよ。
投馬が南九州、宇佐から宮崎にかけての有力国だからな。
邪馬台国は香川から紀伊半島にかけて、東西に長い国なんだよ。
473 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 19:36:21.60
崇神天皇は文字通り、神を敬う心があつかったのではないか。
だから保守派からの支持を得やすかったのではないか?
474 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 20:24:31.10
大物主神との因縁、つまり祟り神が正しいのではないか。
七支刀が石上神社にある事実。
一.倭王は大和朝廷ではなかったということ。
二.物部が倭王であった可能性があること。
>>473 崇神というのは記紀に記述された事蹟をもとに
奈良時代につけられた諡号だぞ
476 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 21:11:59.39
>>475 奈良時代にはまだ記紀に収録されなかった伝承・伝説が残っていたようにも思う。
477 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/13(金) 21:15:40.92
崇神5年(≠後漢193年冷夏)
478 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 22:09:56.94
崇神は、祟り神からきているんだよ。
日本書紀や古事記を読めよ。
479 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/13(金) 22:12:24.73
記紀くらい読んでるよ。
480 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 23:47:26.55
祟り神は大物主神のこと。
崇神天皇の時代に、疫病が流行り、民の半数以上が死に、また反乱する者が
後を絶たないという大災が起こる。
そこで百襲姫が神懸りし、大物主神となって現れ、我を祀れば災いは
収まると神言する。その言葉通りに大物主を祀ると災いは収まった。
これ以来、出雲系の大物主は皇室の守り神となる。同時に宮殿に祀られていた
天照大神と倭大国魂神(恐らく高皇産霊尊)は宮殿を離れることになる。
どうして出雲系の大物主神が祀られるようになり、皇祖が宮殿を離れなくては
ならなかったのか。結局、天照大神は伊勢に祀られることになる。
考えられるのは、高天原による出雲の国譲りである。名前は国譲りと穏やかだが
実は残忍な征服戦争。出雲は無残に征服された。その祟りが崇神天皇の時代に
起こったと考えられたわけである。
だから、出雲の国譲りの張本人である天照大神と高皇産霊尊を出雲の大物主と
同時に祀るわけにはいかなかった。
余談ながら、民の半数以上が死ぬというような致死率の高い伝染病は
まず間違いなく天然痘である。天然痘は閉鎖的な社会では起きない。
恐らく、大陸からかなりの多くの人がやってきたのではないかと推定される。
>>453 誤差がまだ±100年ぐらいだった当時には、
意図的というより恣意的に、-100年で決め打ちしてたんだよな
1800〜2000年前(紀元前後〜2世紀末ごろ)と出たら1800年前、とかいう感じだった。
その当時の決め方よりはマシになってはいるぞ
>>456 土器編年の方がどう考えても誤差が大きい
土器編年の誤差w
土器編年の意味分かってるか?
土器編年は近くに年代的な定点(例えばその土器といっしょに紀年鏡が出たとか)
に近いところでは実年代とのずれが小さいだろうとはいえるだろう
484 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 00:22:39.93
ありえない景初四年鏡か。
485 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 00:56:55.00
明帝の皇后が暦を変更しているから景初四年の鏡が存在しても不思議ではない。
>>483 それは土器編年への実年代観付与の話しであって
土器編年そのものの話しではないな
土器編年自体はこれで実年代を語りたがらない考古学者のほうが多い
ガードが固い
邪馬台国関係の話題しかみてないとそうは思えないだろうが実際はそう
年代比定をも含めて土器編年とも言えるだろ。
490 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 01:15:59.23
土器編年は基本的に相対編年。
出土した土器を古い順番に並べていくもので、実際の年代は
はっきりわからないものだった。
考古学者に尋ねても、だいたい○世紀くらいですかね、
というような答えしか返ってこなかった。
土器で正確な実際の年代(暦年代)を知るのは問題が多くて難しい。
だから、土器で暦年代を語るのは、意図的な面もある。
土器で暦年代を語るようになったのは庄内式土器だったと思う。
つまり、纏向の年代。庄内式土器の暦年代は盛んに議論された。
200年と300年では雲泥の差が出てくるからである。
従来300年あたりといわれていたが、これだと卑弥呼や台与の時代のあとになる。
卑弥呼・台与を天照大神とすれば、その後で神武東征が起きたことになり、
記紀の記述と合うことになる。
つまり、邪馬台国東遷があり、その大和での受け皿が纏向ということが
できるわけである。
逆に200年だったら、卑弥呼時代の初期になる。邪馬台国が九州に
あったとしたら、東遷は考えられないことになる。
卑弥呼時代にはすでに大和で古墳文化が始まっていることになるからである。
実年代と結びつけない土器編年だけってほんと意味ないわな
他分野と交流がない日本人だけでやってるから曖昧のままで済ませてしまう
もし外人が入ってきたらイライラしてブチ切れてしまうだろうな
邪馬台国関連でマスコミが実年代、実年代と騒ぐために学者はしかたなく言ってる面がある
実際は弥生土器から須恵器までを考えれば実年代を出すのは非常に難しい
ただ土器の新古の順がわかれば土器とともに共伴した遺物(釣り針でもザルでも何でも)
の新古に根拠を与えることができ、それぞれの技術変遷の歴史を書くことができる
またそのような土器と共伴した様々な遺物が実年代の定点となることもある
土器編年というのはあくまでもそういった編年の一部であり
様々な遺物全体で縦糸、横糸のある巨大な網を作っているようなものだ
だからまだまだ時間がかかる
一義的には実年代を出すために土器編年があるわけではなく
土器とは何かを問うものである
竪穴式住居がどのように進化してきたか、漁網がどのように進化してきたか
そういう面を明らかにしていくのが考古学であり
さあ何の土器が出たからこの墓は何年ごろというのは本末転倒
土器なら土器の重量や厚み、底面の形状や装飾、そういったことが研究の対象になるべきであり
それが遺物を大切に見るということ
494 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 01:39:34.14
考古学的な遺物で正確な年代を知ることは難しいが、実はかなり正確に
実際の年代を知る方法がある。それは文献との突き合わせ。
文献の場合は年代が書かれている。それに該当する遺物が出れば、
その遺物の正確な年代もわかるというわけである。
邪馬台国関係で言えば、魏志倭人伝が該当する。だから、卑弥呼の時代は
正確にわかる。
その意味からすれば、倭人伝の「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
の記述は重要で、郡使がやってきた240年代に確実に存在したものである。
こういうものの痕跡はなかなか出ないものだが、吉野ヶ里遺跡では
宮室・樓觀・城柵の跡がそろって出土している。
したがって、吉野ヶ里遺跡が240年代に存在したことは考古学的に
間違いないと言うべきではないかと思う。
むろん実年代がわかるならそれにこしたことはないが
土器編年よりも自然科学の進歩のほうが早いだろう
いずれにしてもこの邪馬台国問題のために考古学の本義が3世紀あたりでゆがめられてる
と感じている考古学者もかなりいる
>>494 それはないだろう。九州大学の見方は畿内より精緻。
吉野ヶ里は数ある弥生集落の一つにすぎない
吉野ヶ里は邪馬台国と同一文化圏、同時代を示す遺跡。
畿内纏向は邪馬台国と異質な文化圏で、箸墓などの時代も怪しい。
>>494 不存在の証明は不可能
この場合、その手の遺構が前後の時代に存在していた可能性を否定することはできないから
遺構の存在によって時期を限定することはできない
もっと学問の基本的な考え方をしっかりと学んで欲しい
500 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:31:44.57
>>499 畿内説が纏向を卑弥呼時代にするということは、吉野ヶ里遺跡が
その前の時代ということになる。
しかし、纏向では、宮室・樓觀・城柵の痕跡は出ていない。
一方で、吉野ヶ里遺跡ではその痕跡が出土している。
考古学的には、吉野ヶ里遺跡のほうが卑弥呼時代に重なると考えるのが妥当。
少なくとも、郡使が見たのは吉野ヶ里時代と考えなくてはならない。
それが自然な考えというもの。
だいたい学問的に、纏向が邪馬台国だという根拠が何かあるのかな。
その学問の基本的な考え方で纏向を語ってくれ。
501 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:35:05.33
>>498 箸墓などの纏向の古墳の年代も重要だな。
場合によっては纏向の年代にも影響してくる。
502 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:38:11.98
>>499 纏向から出た桃の種が卑弥呼の祭祀に関係があり、鯖の骨が卑弥呼への
献上品であると考えることが考古学の基本的な考え方か?
マスコミの煽り報道程度が情報源では理解できないよw
邪馬台国を吉野ヶ里にしてしまうとその後が説明できないのが大きな問題になる
遅くとも3世紀後半には纏向には大きな都ができていたわけだから国としても相当大きいことになる
そこに戦争しかけて勝つのは難しいから記紀と矛盾することになる
吉野ケ里の最盛期が邪馬台国時代と重なるとすれば例えば西新式土器は4世紀末頃になり
その後の歴史観がめちゃめちゃになる
506 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:47:46.00
>>504 纏向の年代が問題なのだよ。
年代的には、吉野ヶ里→纏向となる。
吉野ヶ里が卑弥呼時代とすれば、纏向はその後になる。
当然のごとく、纏向は邪馬台国の候補から外れる。
507 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:51:30.14
>>505 さすがに4世紀末はないだろう。
しかし、庄内併行期といわれる西新式が300年頃であっても全然かまわない。
むしろ、そのほうが良い。
508 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:58:36.21
吉野ヶ里は邪馬台国ではない。
ココは筑紫の米多国(メタ国)といって、
西暦107年の倭の面土国(メタ国)の王だった帥升の国だ。
邪馬台国は、大和国である。
纏向が3世紀だと認めたくないという理由だけで反対してるのが現状
年代測定は日進月歩だからあと数年たてば複数の方法で調査した結果がすべて3世紀だという結論になるだろう
科学的調査で新しい結果と従来の結果を比較して、新しい方が間違ってたことはほとんどないのが現実
流れは決まったようなもの
東遷説はあと数年で消えてなくなる
東遷説信者の回答を求む
377 :日本@名無史さん:2013/09/12(木) 00:50:05.50
349 :日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:16:50.92
人文系学者であるY氏は自身の専門外の分野に興味を持ち、
その分野で主流派であったK氏の学説に全面的に依拠して自説を構築、発表した
ところがY氏が依拠したK氏の説は、
K氏自身が根拠が薄弱であったと告白したほか、
新たに蓄積された事実によって更新を余儀なくされ、
その分野では旧説として顧みられなくなってしまった
さて、専門外ではありながら自説に自信を持っていたY氏が
学者として取るべき態度はどれだと思いますか?
1 依拠した学説がその分野では相手にされなくなったのだから、自説についてはすっぱり撤回する
2 更新された説に基づいて新たに自説を構築し直す
3 旧説となったK氏の説を新たな材料を用いて補強し、更新された説に対抗する
4 ひたすら更新された説を批判し続ける
↑
4 自身では新しい材料を提示することなく、
K氏説が主流であった時代の論文・報告を引用してきて
ひたすら更新された説を批判し続ける
ってのが現実に近いかな
511 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:51:07.99
倭人伝をちゃんと読めば
「宮室・樓觀・城柵」というのが村落全体を囲繞する弥生環濠集落ではなく
豪族居館である、ということは誰でも判る。
つまり、古墳時代ということ。
宮室・樓觀・城柵には纏向トリイノ前の大型建物が相当するだろう。
512 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 05:24:50.10
神々たち、「東遷」ルートたどり宮崎PR
2013年09月14日(最終更新 2013年09月14日 00時27分)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/39473 神武天皇が国を治めるため日向から大和(奈良県)に移った「東遷」ルートをたどりながら宮崎観光をPRする
約1200キロのキャラバン隊が15日、同県橿原(かしはら)市に向けて宮崎市を出発する。
宮崎ゆかりの古事記や日本書紀で誘客を図ろうと宮崎市や神武天皇を祭る宮崎神宮など計12団体が参加。
神々を描いたラッピングバスに神などにふんした約25人が乗り込み、天皇が立ち寄ったとされる
各地の神社で創作神楽などを披露する。
神話では何年もかかったとされる「東遷」だが、隊は5泊6日の駆け足行程。
市の担当者は「飛行機で大阪からたった1時間。フェリーでも半日。神話の里は意外と近いと呼び掛けたい」。
=2013/09/14付 西日本新聞朝刊=
513 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 08:30:27.37
>>510 Y氏とK氏が学者バカだっただけのことだよな。
学者どもが本当に学問に真摯に取り組んでいて、学問上の真実を見極めようと
していたら、あるいはとっくに邪馬台国は発見されているのかも知れない。し
かし巷間聞こえるように学者どもは自分の首が可愛くて、指導をうけた教授や
先輩に逆らえないそうだ。これはもはや学者ではない。政治家だ。こんな学者
の言っていること、やっていることを君は立派な学問だと思っているのか。
514 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 09:13:19.62
一度病院にいった方がいいと思う
>>506 吉野ヶ里なんて元々地理的にも邪馬台国の候補地は
あり得ない場所だぞ?
北部九州に70000戸なんてナイナイw
516 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 09:22:13.68
まして纏向に七万戸あるわけもなく、ま、せいぜい七十戸かなw
纏向は邪馬台国の宮だから70戸も要らないよw
>北部九州に70000戸なんてナイナイw
残念ながら違います
吉野ヶ里=邪馬台国王都説は佐賀市を中心にに27カ国、
北部九州の約1/3に約17万戸あったという説です
519 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 09:45:52.77
なんだ纏向は卑弥呼の宮殿のつもりか?
霊園の中に宮殿なんて、そんなトンデモを言うのは誰だい
>>515 筑紫平野や熊本平野より格段に狭い奈良盆地
何を言ってるんだか
521 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 09:48:01.12
纏向霊園
佐賀人が歩いた後はペンペン草も生えないということです
523 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 10:30:39.77
525 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 11:09:10.24
>>512 神武ルートにも謎が多いな。
どうして遠回りして筑紫の岡水門に立ち寄ったんだろうか。
神武や神功神話は複数の伝承をまとめてるだけの話。
527 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 11:41:35.15
>>526 作り話にしてしまったらそれでおしまい。面白くもなんともない。
それよりも、日向を出発した神武天皇がどうして遠回りしてまで
筑紫の岡水門に立ち寄らなくてはならなかったのかを考えるほうが面白い。
ちなみに、岡水門とは、遠賀川下流の岡の湊といわれる。
面白い妄想をしたいだけならそもそも板違いだな。
529 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 12:14:44.14
>>528 文献に書かれていることの意味を考えるのは妄想ではない。
また、それを考えるのが面白いというのが学問的姿勢だろう。
都合が悪いことは全部作り話にしてしまうほうがおかしい。
だから、畿内説は宗教といわれる。
ニニギが約180万年前に降臨なさったのです
以来180万年間語り継がれてきたのです
都合が悪いことは全部作り話にしてしまうほうがおかしいんです
日本書紀に書いてありますから間違いありません、本当のことです
>>530 取り上げているのは魏志倭人伝の方だけど
もしかして違いが理解できてないのか?
>>531 神武や神功神話は複数の伝承をまとめてるだけの話。
↓
>>526 作り話にしてしまったらそれでおしまい。面白くもなんともない。
↓
面白い妄想をしたいだけならそもそも板違いだな。
↓
>>528 文献に書かれていることの意味を考えるのは妄想ではない。
また、それを考えるのが面白いというのが学問的姿勢だろう。
>>530 取り上げているのは魏志倭人伝の方だけど
もしかして違いが理解できてないのか?
???
>>532 だから神話を持ち出して何が言いたいの?
>>533 ん? 神話は歴史じゃないって立場なの?
>>534 ニニギのお爺ちゃんが日本列島を作ったと本気で思ってるの?
>>535 俺、神話は歴史じゃないって立場なんだけどw
537 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 13:36:37.03
>>525 古代から海運で栄えた町。海上交通の要衝。
538 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 14:15:31.96
神武は宇佐にも立ち寄っている。
539 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 15:23:28.05
神話神話と非難しておきながら、その内容については全く知らないらしい。
読んだことないけど、どこかの本にそう書いてあったから間違いないだろう。
くらいにしか思っていないのだろう。
記紀の場合は、世界の誕生から書かれている。聖書なんかもそうだが、
こういう時代のことはわかるわけがなく、古代から伝わってきた考え方が
元になっている。
したがって、記紀神話のイザナギ・イザナミの物語までは、古代日本人の
思想的な面を知る上で重要。国産み物語などは日本独特で非常に面白い。
こういう思想的なものからやがて伝承に基づくものになっていく。
史実に基づいている出来事なのだが、先祖代々受け継がれてきたもので
年代による脚色を受けている。おかしな表現が多かったりする。
やがて、内容は、記録に基づくものになっていく。
記紀の場合はそういう構成になっている。
ただ、古代日本には、年号の考えが普及するのは遅かったために、
その面でかなりあいまいな部分が多い。徳川家康や織田信長、足利尊氏、
源頼朝などは年号とともに覚えるから、生きた時代がわかるが、
年号を知らなかったら、どれくらい前の人物か予測も付かないだろう。
それと同じで、初期の天皇の寿命や在位期間がわからなかったことは
明らか。これを初期の天皇の寿命はおかしいから存在しなかったでは
身も蓋もない。
崇神崩年が258年だから神武はそれより150年前
西暦100年の人だよ
なんとかして邪馬台国と神武東征の両方を手に入れる方法はないものだろうか
ねーよw
だからファンタジーネタだと馬鹿にされるんだよ。
しかし・・・どんげかせんといかん
544 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 16:36:39.11
神武の天皇即位は西暦300年という説あり
これなら両方どげんかなる
東遷説って昔からあるから説としては一応受け入れられてるけど、
もしこれを今の時代に突然唱えたら明らかにトンデモ扱いされているだろうな
何しろ、敵国の中心地に首都を瞬間移動するって説だからな
それか、まず田舎暮らしがいやになった神武が西暦100年に東征して奈良で天皇になる
そして王がいなくなって寂しい宮崎でまいっかい卑弥呼を共立する
完璧w
547 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:14:12.33
七支刀が石上神社から見つかりました。
七支刀は百済王が倭王へ贈ったもの。
なぜ正倉院ではなく、石上神社にあるのか?
私は、大和朝廷の天皇は倭王ではないと思います。
また、なぜ物部が七支刀を持っているのか?
物部が倭王を征服した。
あるいは、物部が倭王であった可能性もあります。
どのように考えますか?
なんで完全に行き詰った東遷説を無理やり押し通そうとするの?
振り上げた拳を降ろせなくなってるの?
本を執筆した人とかなら引くに引けないだろうけど、
一般人ならリセットして最も可能性の高い説はどれかと1から考え直せばいいじゃん
549 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:24:32.99
>>541、543、544
37に紹介されている村雨賢次氏の説はいかが。史実かどうかは別にして可能
性は示しているよ。
史実かどうかが重要な話
551 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 20:11:50.97
何を確認するんだよw
553 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 21:01:47.81
>>548 東遷説は今も昔も一番有力な説。
畿内説の考古学者が、何を敵視しているかを考えればわかる。
まさか、九州王朝説を気にしているわけじゃないだろう。
東大の九州説といった場合は、東遷説を指すわけだから、当然といえば当然。
東遷説が考古学的にも、文献的にも有力だから、畿内説は必死になる。
だから、許されれば誹謗・中傷に走る。許されなければ、東遷説はトンデモ説と
宣伝する。
畿内説の態度を見ればわかるだろうに。
畿内説 「畿内王権は、ゆるやか連合から徐々に全国を支配して大和朝廷になりました」
・纏向に居住者なし
・畿内銅鐸国家が、あっけなく滅亡
・5世紀に、大和国は播磨国すら支配できていない
→畿内説は矛盾百出
556 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 21:28:11.46
遺跡があんだから、そう遠くない所に人は住んでたんだろ
それとも遺跡が勝手に出来たとか思ってるの?
国ってのは強い時期もあれば弱い時期もあるよ
常に一定とか考えてんの?
あと、反乱もあるし
九州説って今時畿内銅鐸国家なんて言ってるような奴ばかりなのかw
島根が多いし吉野ヶ里でも出土しとるのに。
東遷って6世紀以降?
紀元前っぽい
でも
>>554で
>5世紀に、大和国は播磨国すら支配できていない
って書いてあるから、大九州銅矛帝国は6世紀以降に畿内を征服したんだよね?
561 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 21:50:50.46
>>560 神武天皇によって畿内周辺が支配されたということだろうな。
崇神天皇の時代にもっと支配を広げるために四道将軍が派遣される。
東海、越前、丹波、西道(吉備周辺かな)といったあたり。
ところが面白いことに、日本書紀の崇神天皇記には、朝鮮半島の任那が
朝貢してきたとある。以前に、九州を拠点にしていたのではないかと
考えられる一文である。
六十五年秋七月。任那国遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫国二千余里
科学の進歩を最も恐れているのが東遷説
昔の通説のように大和朝廷の成立が4世紀としなければ成り立たない
ところが近年は年代測定の方法も進歩してきて様々な方法が次々と発明されてきて、
3世紀には纒向ができていることも明らかになってきている
今後は科学的調査の方法がますます進歩するから東遷説は風前の灯火といえる
563 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 22:11:34.06
>>562 正確な年代がわかることに危機感を持っているのは畿内説だろう。
今まで自分の好き勝手に年代をいじくってきたわけだから。
とりあえず、纏向あたりの古墳の年代だな。
最古の古墳はどれで、築造はいつ頃かということ。
纏向は200年頃できました。古墳が出来たのは4世紀になってからです、では
いくらなんでも筋が通らない。
考古学会は、箸墓の立ち入り後どうして黙ってしまったんだろうな。
発表したら、詐欺がバレちゃうから、できません。
神武って武装して畿内まで一戦も交えてないんだから
畿内を除く西日本を支配する大帝国の大王でしょう
瀬戸内海を無戦で通過して数年滞在してるから、
丹波、西道に派兵するってことは、崇神の前に一回滅んだんだろうね
>>565 それはいい視点だ
でも遠征なら短期間で畿内を攻めてるはずだから
遠征じゃない何かだな
当時は纏向の方が田舎。
568 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 22:26:43.84
箸墓は宮山土器とばかり思ってたのに、立ち入り調査に行ってみると円筒埴輪の破片で足の踏み場もない。。。
そんなことだったんじゃね、ウエーン。
6世紀半ばには中国、朝鮮半島を征服したインド人が日本を征服してるから
欽明天皇くらいからの天皇はインド人だね
16世紀に種子島帝国のスペイン人の王織田信長が征服するまで続くのかな
570 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 22:38:54.22
仮に、考古学者が、畿内説にとって都合の悪いことは発表しないと
いうような態度だったら非常に困るな。
畿内の考古学者が都合の悪いことを発表するはずもなし。
なんか九州説のファビョりっぷりが半端ないねw
ファビョリルゲ ファビョリの庭に咲く花は今日もホーハイ 明日もホーハイ
574 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:50:54.27
候補地、候補者、伝承資料と何も無いのが九州説。
一応揃ってる畿内説はそれを証明してゆくだけだからな。
九州説なんて本来対抗でも何でもないんだよ。
>>500 家の建て替えとかの機会に、その敷地分だけ発掘するってレベルの事しかできない場所だからな。
ここが怪しいと思われる場所は未だ発掘できてないだけだ
マキムクの発掘って難しいんだよ
あと吉野ヶ里の最盛期は紀元前で、邪馬台国時代には小規模だろ
>>503 うむ。
門外漢の素人さんが適当に読み込んで書いてる記事だから、
要点から外れた部分しか見れてないし、煽りに使えそうな部分しか記事にならん
577 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:22:38.76
>>547 ??
時代が全然違うからね。七支刀が送られた頃は正倉院なんかなかったし、
平城京なんてものもなかったんだよ。
578 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:23:51.96
579 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 01:25:24.08
昔、石上神宮は武器とか神宝を保管する倉庫でした。禁足地を発掘したら凄い遺物が出土します。
580 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 01:53:15.11
たしか全部引っ越したはず
581 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 08:10:42.93
>>576 門外漢の素人って、どんな人?。あんたはくろうとの積り?。
学者の卵だとしたら学者バカの卵だよな。古代史に取り組んだ学者どもが邪馬
台国を発見できたか?。学閥にとらわれたア○ウばかりそろって、くろうとの
積りかい?。この世に要らない者たちだから、スカイツリーの屋上から頭を下
にして飛び降りろ。ドア○ウ!
九州説なんて門外漢の素人が頓珍漢な解釈して、
これで全てわかったとか言ってるだけじゃんw
考古学を否定的に捉えるけど、都合の良い部分は引用するし。
583 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 08:59:37.68
えーと、南は東だ
距離の里はデタラメだ
これより頓珍漢な解釈って何?
まあ方角のズレは陰陽的に日の出る方角=南だからな。
585 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 12:38:49.18
箸墓古墳調査直後のインタビューでの森岡秀人氏のコメント。
前方部と後円部の接続状況や平坦部の長さなど、箸墓古墳の規格を実感できた。
葺石は年代研究に役立つ資料。築造時期に極めて近い弥生最末期の土器もあり、
箸墓古墳に邪馬台国と深く関わる情報がえられた。
森岡氏は、箸墓の築造は卑弥呼時代と決めているみたいだ。
発掘すれば古い土器が出てくるのは常識。年代は一番新しい土器で
決めなくてはならない。考古学者の言葉ではないな。
箸墓古墳が邪馬台国に深く係わる情報とは何だ?
586 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 12:49:42.95
葺石は、墳丘が崩れるのを防ぐ役目といわれ、斜面に施すのが普通。
箸墓の葺石は、斜面の部分だけでなく、平坦なテラスの部分にもびっしりと
敷き詰められていたらしい。
黒塚古墳には葺石はない。埴輪のようなものもない。箸墓では特殊器台形の
埴輪が確認されているらしい。
考古学者によると、一番最初の古墳は、葺石があり埴輪もある。
次に葺石も埴輪もなくなり、さらに新しくなると葺石や埴輪が出てくる。
ということらしいが、なんかしっくり来ないな。
殉葬してないのか?
588 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 13:05:49.12
>築造時期に極めて近い弥生最末期の土器も(採取された経過が)あり、
今回の立ち入り調査は墳丘のすそを歩いた程度なのだから、墳頂付近の発掘も採取も観察も無かった。
けっきょくは()内が省略されたコメントだろ。
>>579 何で武器を保管してたんだろう。
武器みたいな必要不可欠なものは個人個人または氏族内で保管すればいいのに。
>>588 森岡氏は足下に落ちていた土器を拾い上げるてるよ
591 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 14:47:12.71
だいたい古墳なんてのは大きなものが突然できるとは考えにくい。
それなりに技術が必要なものだから、まず小さな物を作って技術力をつけ
その後、大きなものの築造に着手するのが自然というもの。
280mの箸墓が最初にできるというのはやはり不自然。
従来のように、まず円墳から始まり、祭祀場として前方部の初歩的な
物が付けられ、やがて発達していくというのが理解しやすい。
畿内説では、畿内のすべてが「卑弥呼ゆかり」なんだから、不自然なんて関係ない。
>>593 弥生墳丘墓
前方後円形墳丘墓
纒向形前方後円墳
とかでぐぐれ
594 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 15:29:29.50
>>589 崇神天皇の時代には大量の武器を必要とする徴兵された大規模な軍団が存在したと言うことです。
200m級の前方後円墳の築造などの大型公共事業は余裕でできる動員力を持っていたわけです。
595 :
593:2013/09/15(日) 15:30:20.17
596 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 15:40:18.66
>>593 箸墓古墳ってのは、どう見ても纏向型じゃないな。
前方後円墳の完成形。
597 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 15:45:42.13
598 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 15:52:54.56
>>596 >>593で例示しているのは前方後円墳の前段階のものだが・・・
>>597 それはありえない
古墳時代の編年について勉強しろ
どうやら本格的な馬鹿か意図的に誤情報を書き込んでる奴がいるよな
畿内説詐欺などといってる奴が一番の詐欺師だ
九州教徒がな
601 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 16:31:03.94
>>599 古墳の編年も変わっている。
以前の編年がどうだったかを調べてみればいい。
箸墓を卑弥呼の墓にするようになってから、纏向型が一番古くなった。
しかし、箸墓は纏向型とはいえない。ということなのだが。
>>586を見るとわかるように、どうも意図的というか無理やりの
編年になっているように思える。
602 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 16:43:54.67
結局のところ、畿内説の考古学者は、箸墓を卑弥呼の墓とし、また
最古の古墳にしようとした。どうしても卑弥呼時代から古墳時代が始まった
ことにする必要があったわけだ。
しかし、それでは従来の古墳の編年とは全く異なることになる。箸墓の場合、
形や大きさ、それに立地などから中期と見られていた。
今回の調査でも、今尾文昭氏は、箸墓のくびれ部に葺石が敷き詰められていて
中期の古墳から見られる造り出しの兆候が見られるという。
603 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 16:51:51.87
古墳時代前期の古墳には葺石があります。これは古墳が近畿地方独特の方形貼石墓から発達したからです。
604 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 16:53:26.92
>>554 > ・纏向に居住者なし
警備スタッフとかは常駐していたはずだが。
605 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 17:02:56.60
>>603 ところが前期古墳といわれているものにも葺石がないものがある。
黒塚古墳や椿井大塚山古墳あるいは大和天神山古墳には葺石も埴輪もない。
桜井茶臼山古墳には、葺石はあるが埴輪がない。
後の古墳には葺石も埴輪もあるのが普通。一方で、最古とされる箸墓古墳には
葺石も埴輪もある。このあたりが納得できない。
むしろ、最初は葺石も埴輪もなく、時代が下ると葺石が出てくる。
もっと下ると埴輪も出てくると考えたほうが筋が通る。
しかし、それでは箸墓が新しい古墳になってしまう。ということかな。
>>601-602 自説に都合が悪いから学問の進歩を受け入れられないだけだろw
今尾氏の見通し通りなら、造出の出現がはやくなるだけだ
編年観を動かせるもの(この場合造出の出現 早く見るだけで他のものの編年観に影響なし)
そうでないもの(この場合土器と埴輪 動かすと古墳時代の編年網すべてがおかしくなり、大陸や半島とも整合性がとれなくなる)
があることくらい理解してもらいたい
あ、理解できないから九州説なんて続けていられるのか
同情するよw
>>605 椿井大塚山には葺石あるぞ
桜井茶臼山には円筒埴輪はないが別系統の壺形埴輪があるぞ
葺石の有無や埴輪の有無については
時間差という視点だけではなく系統差や階層差という視点を持ち込めば説明できるし
前期の前半においては古墳築造の約束ごとが整備されていくさなかだったとも解釈できる
というか、上で書いた理解が現在の考古学の主流の考え方
608 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 17:33:03.53
609 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 18:34:43.07
610 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 18:44:42.51
<纒向型前方後円墳>
>前方部が低く短く、墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴である。
どう見ても纒向型の3:2:1には合わぬ。
611 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 19:22:17.16
ところで、邪馬台国東遷というテーマはどうなった。
612 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 19:30:35.80
目黒のサンマ、纒向のサバ。
纒向は200年もサバを読んでたらしい。
>>609>>610 いったいどのレスで箸墓が纒向型だといってるのかな?
必死過ぎて現実が見えないのかな?
614 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 20:29:43.12
九州説の人はものごとを論理的に述べることが出来ない、という典型だ
616 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 21:10:45.95
>>607 桜井茶臼山の場合は、壷形埴輪とはあんまり言わない。壷形土器だな。
並べられているのも墳丘ではない。
畿内説の場合は、いろんな証拠を総合的に判断して最終的に結論を下すと
いうわけではなく、最初から箸墓は卑弥呼の墓と決めて、合わないものは
間違いだから、合わせるという態度。論理的とはいえない。
たとえば、箸墓は元々卑弥呼の墓である「径百余歩」には合わない。
径百歩から考えられるのは、直径145m程度の円墳。
これに対し、畿内説は、箸墓は後円部が先に作られ、前方部はあとで
継ぎ足されたと言った。まさに結論が先にある畿内説の典型。
しかし、桜井市教育委員会の調査で、同時に作られたとの結論に達した。
この時点で箸墓は卑弥呼の墓ではありえない。
畿内説は、径百歩を認めたからこそ、後円部が先に作られたといったわけで、
これが否定された以上、箸墓=卑弥呼の墓説は取り下げるべき。
ほかの根拠も、最初に「箸墓=最古の古墳」から出発すべきではない。
617 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 21:12:48.92
>>613 箸墓が纏向型でなかったら、畿内説の言う古墳編年上、最古の古墳には
なりえないのではないかな。
だれが「最古の古墳」って言ってるの?
ふつうは最古の定型化した前方後円古墳と言ってるが?
>>616みたいなのが九州説の典型だな。
「第三者に見せられる証拠→結論」型ではなく
「自分の感想→結論」型なんだよね。
620 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 21:33:37.66
>ふつうは最古の定型化した前方後円古墳と言ってるが?
ま、語るに落ちるの定型化されたセリフ
621 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 21:41:39.81
ホケノ山より後の箸墓のは石囲木槨かもしれない
622 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 21:43:50.03
>>618 畿内説の坊やに畿内説の考え方を説明しなくてはならないのか。
畿内説が箸墓を卑弥呼の墓にしたがる理由がわかるかな。
畿内説は、卑弥呼時代を古墳時代に含めたいのだよ。古墳時代の始まりを
卑弥呼の墓にすることにより、大和朝廷との連続性を主張したいわけだ。
そう考えることにより、邪馬台国畿内説を主張できるばかりか東遷説を否定できる。
つまり、纏向に卑弥呼の墓がないと困るわけだ。しかし、倭人伝には
古墳らしき記述がない。だから径百歩と、大きな墓と書かれていることを根拠に
卑弥呼の墓を最初の古墳にしたいわけだ。
畿内説が畿内説の根拠を否定するようなことを言ってどうする。
>>616 桜井茶臼山のは焼く前に底に孔空けてるから埴輪だぞ
それに並べられているのは埋葬施設上に造られた方形壇の周囲で
こうした並べ方は円筒埴輪と共通なのだがな
どれだけ知ったかぶりすれば気が済むのか?
624 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 22:02:18.21
>>623 そうか、ウィキペディアを見たら、
後円部の頂に高さ2メートル弱、一辺9.75×12.5メートルの貼石のある矩形壇が
あり、また方形に巡る有孔の壺形土器(二重口縁壺形土器)が壇の裾周りに
巡らされているのを別にすると、墳丘に埴輪を使用した痕跡がない。
とあったので、埴輪はないと思った。ウィキペディアのほうが間違いか。
葺石の有無は時期じゃなく系統の違いだね
四隅突出型墳丘墓でも同じことが言える
九州説の無能さは、実在する証拠で物事を語れない、という一点で明瞭だ。
特に程度の低い輩になると、畿内説に反論できないので
『俺様畿内説』を創作して、それを批判し始める。
>>622が典型。
畿内説の証拠は考古学そのものです。
庄内式の年代観により、東遷説は否定されました。
どうやって、その年代観が形成されたかを
ここで一から述べるには紙数の余裕が無いが
ほとんどの学者の見解が大同小異の範囲内に収まっている事実から
その客観性は窺知できるでしょう。
ここはコテハンも殆どいない掲示板なので
あまり真摯な議論が期待できません
我と思わん方がおられれば、texstreamあたりで
コテコテ畿内説の私が存分にお相手しましょう。
ふふふのふ
今の九州説の主流は
邪馬台国滅亡説だぞ
東遷説は九州説でも否定されてる
つまり畿内説は何も証拠が無いってことだな
つまり古代日本で、九州畿内など条件の良い土地に独自に豪族が発展した
九州は水田導入が最も早かったので
もっとも豪族の発展が早かった
九州の大豪族の邪馬台国は中国に使者を送った
目的は豪族間の戦いに勝つためだ
しかし遅れて発展した畿内の豪族に征服された
これで何も矛盾は無い
どうして、東遷説が九州説でも否定されてると
畿内説に何も証拠が無いってことになるのかな?
思考に因果関係がないのも、九州説の特長。
633 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 23:44:49.10
>>628 考古学会の総意がいかにいい加減かは、捏造旧石器問題でわかったはず。
佐原眞氏は、「自らが今回の事件にタッチしていなくても、絶対多数の
考古学の人は成果を認めてきたのではないか」といっている。
考古学会は、捏造を見抜けなかったばかりか、それに乗っかって自分の著書
ばかりか教科書まで書いていた。
庄内式の年代観も、基本は年輪年代法。十分に議論したはずだが。
水田の導入は弥生の初めころ。
豪族の発生は古墳の初めころ。
何世紀もの差があるね。
よって
九州は水田導入が最も早かったので
もっとも豪族の発展が早かった
は説得力なし。
>>632 その証拠なんだよ?
>>628みたいに
>畿内説の証拠は考古学そのものです。
>庄内式の年代観により、東遷説は否定されました。
でもこれで
>>631説を否定できるの?
>>633 そうやって考古学の全否定をしないと保てないのが
九州説の悲しい現状なのだよ。
>>634 1世紀に使者を送った奴国は豪族じゃないの?
だったら何?
>>631 邪馬台国はヤマトと発音するのが通説だから、大和朝廷のヤマトと矛盾するね
ヤマトとヤマトが戦ってヤマトが勝ってヤマトが負けたっていう意味不明な状況になってしまう
しかも最近の調査から畿内のヤマトもほぼ同時期に少なくとも本州の覇権は握っている
639 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 23:52:22.60
>>636 それが考古学会の現状なのだよ。
それに乗っからないと成立しないのが畿内説なのだよ。
豪族が発展したのか集落が発展したのかは議論が分かれるとこだろうな
豪族が何を定義するかは難しいが、はたして世襲で権力を持つ一族はいつころできたのか
>>638 でも九州は征圧してないだろ
それなのに魏の使者は九州でのんびりしてる
変だな
ヤマト朝廷も
邪馬台国を倒した事による継承の可能性が高いぞ
畿内王権がヤマトと名乗り始めたのは何時ごろか?
これが大きな問題だな
>ヤマト朝廷も
>邪馬台国を倒した事による継承の可能性が高いぞ
なんじゃこれ?
これぞトンデモwww
考古学全否定w
この疑問にはどう答えるの?
450: 09/13(金)00:46 AAS
考古学者を信じることができないというのであるならば
吉野ヶ里遺跡を発掘して、遺構を確認して、出土遺物から時期を認定したのは考古学者なのだから、
当然、吉野ヶ里遺跡の存在自体を疑わなければならなくなりますよね?
古墳時代が4世紀に始まったという年代観も、考古学者が唱え、ほかの考古学者が支持していたのだから、
当然、そんな年代観は信用することなどできないですよね?
>>640 それは特定個人墓の発生でおおよそ見当が付く。
語弊を恐れずに言えば
王権の誕生は大規模土地開発が始まった古墳時代だといえるだろう。
>>637に答えると、奴国の遣使は事実上中国側のヤラセである可能性が高い。
あまりにも光武帝死去の直前でタイミングがよすぎるからである。
>>641 そもそも
>>634は完全に間違い
もっと前に倭国王(帥升)が居たし、奴国も朝貢している
後漢書倭人伝
> 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。
>倭国の極南界なり、光武帝は印綬を賜る。
>安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。
これも畿内王権だと言うのか?
それはさすがに無理、
でも九州の豪族なら何も問題ない
「魏の使者は九州でのんびりしてる 」って、どうして?
さすがに師升を畿内豪族という研究者はいないだろ
>>646 誰がどこに朝貢しても、それは豪族がいた証拠にはなりませんよ。
常識的に考える範囲内では、そのころは「国」になる前に「クニ」の時代。
萌芽的な「オウ」を頂く共同体と祭司からなる国邑です。
倭奴国遣使は光武帝氏の数日前。
安帝時はその50周年で東漢最衰退期のひとつ。
どちらも中国側が用意して誘致した政治ショーの可能性大です。
651 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 01:32:55.75
>>644 別に考古学の発掘調査を否定するものじゃない。
それぞれの解釈を否定するものでもない。
要するに総意が一番の問題。旧石器の捏造問題でも、ほとんどの考古学者が
その成果を認めていたということは、認めざるを得ない雰囲気が作られて
いたことを意味している。つまり、反対意見を抑える雰囲気。
邪馬台国畿内説でも、考古学者で畿内説を支持しないものは一人もいないと
豪語する人もいる。これも、同じようなものだろう。
さらに、ここは邪馬台国関係なので、どうしてもその面から見るわけだが、
たとえば、畿内説の考古学的柱といわれた三角縁神獣鏡は結局どうなったのか。
あれほど、熱心に議論しておいて、結末はうやむやになってしまった。
そういう不信感も多い。箸墓については上で述べた通り。
発掘調査を信じるなら、考古学者の全てを信じろというようなのは暴論だと思う。
そもそも考古学的調査で邪馬台国が出てきたわけでもないし、出てくるわけでもない。
邪馬台国は中国の歴史書に登場する文献上の国なのだから。
畿内説の考古学者は、最初は、考古学的に邪馬台国は存在しないといっていた。
それが、近年、「考古学的には畿内説」に変わっているのも納得できない。
三角縁は全中国産説なども呈示されて研究が進んでます
それを曖昧にされたなどといっている時点で
あなたが無知かウソつきであることが確定ですね
これまでも散々指摘されているにも関わらず
知りもしない学界の事情や追いかけてもいない研究の状況について
執拗にウソを書き連ねているからウソつきの方ですね
100回ついてもウソはウソです
あなたこそ詐欺師です
三角鏡はレプリカが大量に出てきてトーンダウンした
完全に勇み足だった
しかしレプリカが出たのは本物がどこかに存在した何よりの証
あのデザインは日本オリジナルではない
中国の年号を知らない人が中国の年号を彫ることはできない
旧石器の捏造事件という1つの例外を理由にして考古学を全否定するのはバランスを欠いた考え方
654 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 02:17:49.00
>>651 捏造事件の際のほとんどの考古学者もキミと同じだよ
旧石器が遺跡から出土したという調査団の発表を信じただけなのさ
なぜ長期間にわたって露見しなかったかといえば
ひとつには、それまで存在が確認されていない時代のものだったということがある
つまり、それまで誰も知らないものだったから、見つかったものが初例となり、基準になった
比較検討の材料がなかったともいえる
ふたつには、研究者の目の前で掘り出されたことがある
かの石器が単に拾われたとかで研究者のもとに持ち込まれたならば
縄文の石器として取り扱われたはずだ
自分たちが掘っている目の前で土から掘り出されたことで、調査団のメンバーは信じたんだ
発掘現場で遺物が盗まれることは往々にしてあるが、
遺物を埋め込んで遺跡や遺構を捏造するなんてそれまで例がなかったからね
で、多くの考古学者は冒頭に記した通り、常識的な対応として調査団の発表を受け入れただけなのさ
また、調査中に出土したかどうかは資料の研究価値を決めるほど重いので、
一部の研究者が型式学的な事実から指摘しても多数の同意を得られなかったってのが実態
>>653 レプリカっていわゆるボウ製鏡のことか?
それなら戦前には存在が知られていたのだから
それが見つかってトーンダウンというのは明らかに間違い
景初4年銘については先日おもしろい新聞記事をみた
大相撲の賜杯には大正16年の年号が刻まれているんだってさ
656 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 02:42:15.08
三角縁は国産だよな。
というか、考古学者も何も、当時の倭国情勢や国際情勢についての認識で
意外に思い込みが多くて、間違っている人、多いんじゃないの?
すぐ、卑弥呼の中国との朝貢外交について
卑弥呼が中国から鏡を貰って国内向けの権威つけにつかったという学者
やたら多いんだけどさ。
当時の倭国内がどういう状態だったか分からないのだから、そういう決めつけは
間違いだと思うけどね。
だいたい、海で離れている中国の権威なんて、倭国内部では通用しないだろう?
だから、卑弥呼が自分の倭国内部での権威については、別に
中国に頼ることなんてないと思う。
むしろ、倭国が中国の権威を頼るとしたら、海外情勢のほうだろう?
少なくとも、倭国は半島へ軍事介入するようになっていたわけだし。
倭国内部では卑弥呼らは倭王でも、半島では、
他国で異民族の王で侵略者でしかないわけだから。
宗主国と属国との接し方を真似たんだろ
邪馬台国の権威の象徴として地方豪族に鏡を配った
考古学には層序と形式が相反した場合は層序を優先するという常識がある。
この常識は「捏造」が入り込まない限り正しい。
だから古物商の持ち込む偽物との戦いを唯一経験したことのない
旧石器という特殊な分野の考古学者たちがノーガードで
何も疑いを持たなかったのは自然なことだ。
659 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 04:36:12.59
とりあえず。
>>653 捏造事件は一つの例外ではなく、考古学会の体質という話がもっぱら。
>>654 考古学者は、25年間も、誰一人、旧石器と縄文式土器の区別がつかなかったのか?
>>658 捏造石器は、ある考古学者の説を裏付けるかのように出土したといわれるな。
660 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 04:54:04.04
考古学って学問で分かることなんて限界があるんだよ、実は。
たとえば、いつ農耕が始まったかなんて、一番、正確に判断できるのは
植物学とか遺伝子学とか言った理系の学問のほうだろう?
でも、なぜか、学校の教科書では、考古学のほうが優先されるわけ。
なぜなら、考古学は歴史学に近い文系の学問だから。
九州説は生き残りのため考古学否定に必死
捨てられたダメ男のように、去った女の悪口を言い続ける九州説あわれ。
663 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 05:50:32.59
>>661 いや、考古学否定して、勢いを増したのは畿内説のほうだから。
むしろ、考古学だけでは限界があったので、
理系に接近することによって、畿内説に確定しだした。
まあ、マッチポンプというやつですな
665 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 07:17:59.18
旧石器を古墳時代の土器破片に置き換えて読むとさらに関心深い
666 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 07:36:02.47
九州説は考古学結構、何ら問題ないよ。正しい考古学ならばね。
>>659 >>654>>658で理解できないのか?
おかしいと思った研究者はいたが、
大多数が学問の約束事に従った結果、
多数派になれなかったということ
>>666 自分たちに都合のいいことを言ってくれる『考古学』が欲しいんですね?
669 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 09:43:36.65
正しい考古学というのは、都合のいいことを言ってくれるかどうかではないよ。
畿内説論者みたいな節操のないことは考えていないんだ。
670 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 09:45:08.34
考古学 → 考顧学
ひねくれ、ねたみ根性丸出し
科学の進歩は一切否定かよw
一般人から見たら、典型的な文系の老害で、百害あって一利なしのやつらだな
じゃ、どういうのが「正しい考古学」なんだい?
ひがみ屋さん!
>>666 問題無いというより無視せざるを得ないだけだなw
674 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 11:54:42.81
「正しい考古学」遺跡遺物のありのままの姿を示すことだろうな。先入観にとらわれた妙な解釈は
やめてな。考古学者が邪馬台国はどこだとか言うものではない。そんなことが分かるほどの資料は
見つけていないのだから。
675 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 11:59:25.47
そもそも学者が マスコミを利用としてやろう などと思うのが思い上がり
畿内のすべてが卑弥呼につながるような考古学が「正しい考古学」なんでしょ。
畿内説は詐欺だから仕方がないな。
677 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 12:52:05.94
柳本古墳群 天神山
内行花文鏡(15.3cm)欠損(×型) 鈕座「長宜□□」
内行花文鏡(19.5cm)完形(×型) 鈕座「長□宜□」
内行花文鏡(23.7cm)完形(×型) 鈕座「長宜子孫」 八花文の間「寿如金石佳且好兮」
---------------------------------------------------------------------
内行花文鏡(20.5cm)欠損(+型) 鈕座「長□子孫」 花文の間「□□□石」
http://www.emuseum.jp/detail/100041/004/001?x=-17&y=60&s=2 ↓
柳本古墳群 柳本大塚
内行花文鏡(39.8cm)完形(+型) 銘文なし (小竪穴式石槨副室)
↓
柳本古墳群 下池山
内行花文鏡(37.6cm)完形(+型) 銘文なし (方部中央に竪穴式石槨+方形副室)
↓
新沢千塚500号墳
内行花文鏡(17.9cm)完形(+型) 銘文なし (小竪穴式石槨副室)
内行花文鏡(15.3cm)
やっぱり、九州説に反するモノは正しい考古学でない、っていう我田引水だけじゃん。
九州説ってダメダメだな。
やめてな。
「考古学者が邪馬台国はどこだとか言うものではない。
そんなことが分かるほどの資料は見つけていないのだから。」
って先入観にとらわれた妙な解釈は。
680 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 13:10:47.10
何かあったかな? 桃の種?
>>675 ほんとに考古学業界に関しての知識がないんだね
例えば、マスコミを利用することで吉野ヶ里遺跡は保存できた訳なのだがね
682 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 13:27:49.21
>>681 たとえばサバの骨でマスコミを釣り上げようと企てるのを利用するという
吉野ヶ里は、クジラを釣り上げたのだ
サバでも鯨でも釣ろうとする行為は同じ
釣った結果で判断しようとするなら、
それは結局ご都合主義でしかないぞ
無知が九州説を作っている
吉野ヶ里は、考古学者にとっては広報活動であったが
政治的には史跡指定の前年1989年から強制着工した国営諫早湾干拓事業の
佐賀、福岡有明海沿岸エリア漁民、住民の自民党に対する不満の緩和策として
有明海周辺の道路、橋建設と同様建設省(旧)の予算で福岡選出の山崎大臣の時に国営化された
自民党のバラマキの一環なんだよ
その昔、九州には弥生遺跡が多いとか銅矛圏がどうとか言って
考古学の女神が自分たちに微笑んでいると思い込んでいた
零落者九州説の悲哀ですな
東遷説は衰退したが
九州説は健在だ
くまもんの出番だw
688 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:07:45.77
>>653 >>654 >>658 旧石器捏造事件は、結局、アマチュア考古学者・藤村新一、一人の責任と
なり、考古学会は誰一人責任を取ることはなかった。
しかし、この事件は、学会に共犯者がいるのではないかといわれることもある。
その理由として、25年間、160もの遺跡で3000点もの捏造石器が出たわけだが、
考古学者が、石器の捏造に気づかなかったのはおかしい。
これに基づいて多数の論文が発表されているが、裏付けの調査はしなかったのか。
出土した石器は、縄文時代の石器といわれるが、これらの石器を藤村一人で
どうやって調達したのかが不明。
旧石器の発掘、しかも3000点にものぼるものに、藤村だけが関係していて、
ほかの発掘者が見つけていないことに疑問を持たなかったのか。
帯広畜産大学の調査でナウマン象の脂肪酸が検出されたということだが、
捏造石器から見つかることがありえるのか。(続く)
689 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:08:31.65
(続き)
批判的な意見を押さえつけている。佐原眞氏は、反対意見を表明した
小田静雄氏を名指しで批判。その後、小田氏は完全に口をつぐむ。
結果、「考古学者の絶対多数は、捏造石器の成果を認めていた」(佐原)
という状況になる。
従来、この時代に日本に人は住んでいなかったとされてきたが、
岡村道雄氏は、異なる説だった。藤村の捏造石器は、この岡村道雄氏の
説を裏付けるように出土したとされる。
結局、藤村の捏造石器によって、日本の旧石器時代は大きく書き換えられた
わけだが、アマチュア考古学者の捏造石器の結果を受け入れ、それを
利用したのは考古学会なのである。
責任をアマチュア一人に押し付けて済む問題ではない。
それで済ませる考古学会の体質も問題である。
こんなとこに書いても賠償金は取れんぞw
691 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:16:16.54
>>658 考古学者は、自分の知らないこと、わからないことなのに、
素人のいうことを完全に信用して自分の業績を作るものなのか?
まあ、アホみたいに何でも信じるわけはないな。自分に都合のようことは
何でも信じるといったほうがいいんだろうな。
九州説必死だな
「自分の知らないこと、わからないこと」って何?
「ここにありました」だけじゃん。
694 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:33:55.64
>>652 ウソという文字が5回。あげくに詐欺師。
そんなこというよりも、
>三角縁は全中国産説なども呈示されて研究が進んでます
について、説明してみたらどうかな。
三角縁神獣鏡については、近年ほとんど議論されていない。
黒塚古墳から30枚を超える三角縁神獣鏡が出てきたが、
発掘責任者の河上邦彦氏は、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではなく葬具
だといっているし、石野博信氏も卑弥呼の鏡ではないと明言している。
どうしてかというと、三角縁神獣鏡は多数の鏡が棺の外にあり、しかも、
未完成品だったから。さらに、棺の中には画文帯神獣鏡が一枚。
三角縁神獣鏡が粗末な扱いを受けていることがわかる。
また、中国の王仲殊氏も、三角縁神獣鏡は日本で作られた鏡といっている。
だいたい神獣鏡は、呉の系統の鏡で魏で作られたとは考えられない。
三角縁神獣鏡は、中国で一枚も出土しておらず、日本では600枚近くも
出ている。盗掘や未発掘を考えればどれだけ多くのものが作られたのやら。
王仲殊氏は、魏の時代に日本に渡った可能性のある鏡は、内行花文鏡や
方格規矩四神鏡だろうといっている。ところが、これらの鏡が出るのは九州。
畿内説は、いろんな根拠を無視して、近畿地方から多く出土することだけに注目し
三角縁神獣鏡に飛びついたとしか思えない。
695 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:36:29.79
>>693 >>658に、
>だから古物商の持ち込む偽物との戦いを唯一経験したことのない
>旧石器という特殊な分野の考古学者たちがノーガードで
>何も疑いを持たなかったのは自然なことだ。
と書いてあることにレスしたわけ。
△鏡詐欺
箸墓詐欺
年輪詐欺
桃の種詐欺
鯖の骨詐欺
学・マスコミ・官・商がグルの詐欺ネタ、どんどん行ってみよう!
所詮、畿内説詐欺だけど・・・
九州説のひとの三角縁についての知識が一世代古いことがよくわかる。
698 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:45:30.10
>>697 だったら一番新しい知識を説明してくれ。
最近の調査研究で九州説がどんどん不利になっていくんで
その憎しみの対象が広がって行ってるな
科学の進歩を受け入れられない文系脳の老いぼれが誹謗中傷に走ってるだけ
無能で社会から脱落した負け組ニートが勝ち組エリートを叩いてる構図と全く同じで笑ったわ
700 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:51:37.89
△鏡詐欺のは、お名前の設定からしてすでに詐欺なんだけど。
>>694あたりでも定年後の人の名前しか出てこないしね。
三角縁をもつ神獣鏡は中国では別に珍しくもない。
日本の古墳で見つかるあれを
普通青銅鏡にするよりも可成りこと細かく定義した「三角縁神獣鏡」そのものは
中国で未発見だが、それは輸出仕様だからあたりまえ。
日本列島に渡来して住み着いている中国人鏡師が、ある日突然仏像のついた鏡を作り始める、なんて状況はありえない。
中国本土における芝草文様の変化と同期して、日本でも最新図柄が流行する、なんてことも考えられない。
ニューモードを習得した鏡師が次々と中国から毎年のように渡来しているか
さもなくば、ぜんぶ輸入品だ。もちろん可能性の高いのは後者。
704 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:14:21.31
705 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:17:33.96
畿内説って、三角縁神獣鏡がすでに終わっていることを知らないような
人間が支えているんだな。
恐らく、こういう人は、箸墓が卑弥呼の墓だというのも信じているんだろう。
散々、宣伝しまくって、顛末について語ろうとしない畿内説の学者に
一番の責任があるわけだが。
理由がひとことも言えない九州脳みじめ
>こういうのをみちゃうと、「三角縁」鏡ってなんなのということにはなる。
なんなのって、魏鏡ですけど?
どうも、九州説のひとというのは
自分の中だけで結論が出ていて
他人に其れを説明する能力に欠けるようですな。
709 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:23:47.78
縁の形状表現に、むだに「三角縁」とかのは不要
縁の形状表現には、共通語の「斜縁」で済ますのが良い。
710 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 15:30:23.76
畿内に鏡作神社があるんだから、確かに畿内で鏡を製造していたという
ことだな。それに来日してた大陸人が一役かっており、協力したとか
製造方法を教えたとか、そのへんだろう。
だから景初年間の銘文があるわけだ。日本にいれば大陸から遠ざかって
いる場所に来てることになるので大陸の情報到来はえらく遅延するため、
景初4年鏡などを工作したということだな。
鏡作神社社伝には 崇神6年9月3日 に鏡の改鋳をした記述が残って
いる。つまり景初年間は崇神の代だということが500枚も出ることから
確実である。
711 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:30:27.70
「斜縁」と「平縁」のは、たんなる縁の形状のオプションにすぎない。
であるからして、
内側まんまの同じデザインを持つ「斜縁の神獣鏡」と「平縁の神獣鏡」とが現実に残存している。
いまどき記紀の紀年論で考古を語ろうとする
>>710こそは
九州説が最低半世紀は時代遅れであることを示す生き証人
713 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 15:46:30.22
鏡作神社社伝から景初年間が崇神の代だということが確実視されるという
ことだ。
すると古事記のいう崇神没年戊寅は258年だということが分かる。
つまり318年説は間違いだということがついでに判明する。
そして景初年間が崇神の代だったというさらなるダメ押し文証が
八幡愚童訓(甲本 上)からの
黄龍2年=230年=開化48年=呉兵沖縄来襲
がある。
この年代から2倍年暦で年代下降を見て行くと
崇神元年=景初元年=237年
が確認出来る。
このことから景所年間が崇神初期であることはもう動かない。
斜縁と三角縁が混同されてたのって初期の頃だろ
715 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:47:45.75
景初年間の銘文とかわざわざ入れたりするのは
おもいをいたしたいとおもうような時期になってから入れるのがふつうだろ
景初年間に近いところで銅鐸職人にやらせた鏡なんかは漢字とか無理だし
銅鐸職人のやつらは常識知らないから
いろんなところではずしたぽかデザインの鏡とかやらかしちゃうんだよな
漢字とかは模様化しちゃったりするしさ
はい、東遷説死去
717 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 15:50:55.11
>>712 オマエの書きこみには史料、根拠、文証が出てない。
これではダメだ。真の批判にならない。
畿内に卑弥呼がいたなら記紀の崇神年代前後の所に女天皇の記事
が載らねばならない。
それがないんだから、畿内に卑弥呼がいるわけがない。
モモソヒメは即位して女王になったという記事はない。
つまりモモソヒメは卑弥呼ではない。
たしかに、ごく初期の「三角縁」神獣鏡は「斜縁」だ。
719 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:02:38.03
「三角縁神獣鏡」という学術用語は無定義で
日本国内で使われ始めたの中国の皆さん知っているから
中国に「三角縁神獣鏡」ありますか? って聞かれたら
魏晋代にはそんなのないし
だけど
中国に「斜縁神獣鏡」ありますか? って聞かれたら
あっちからこっちからぽろぽろなんだ。
てか「三角縁神獣鏡」という学術用語自体のが破綻しているんだ
なかみ「神獣鏡」でないやつがごっそり混ざりこんじゃってるし。
720 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 16:12:58.04
崇神6年に大陸人が関係して△鏡を工作したのなら(鏡作神社社伝の
景初6年9月3日 鏡改鋳 の記述による)、その少し前あたりに向こうの
人らが来日した記述がどこかにあるかも知れない。
これを調べると、弘仁私記 に
開化年代に大伽羅人が来たる
の記述があるからこのことが納得できる。
>>713 >崇神元年=景初元年=237年
基本的な質問だけど、こういう主張をしてる人が何で九州説を唱えてるの?
矛盾してて意味がわからない
722 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 16:16:13.28
>>721 どこが矛盾してるのか?
それを具体的に指摘しなければコチラは答えられない。
723 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 16:18:27.72
>>713 訂正
× このことから景所年間が崇神初期であることはもう動かない。
○ このことから景初年間が崇神初期であることはもう動かない。
724 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:19:00.71
現段階で、他の銅鏡に対する三角縁のアドバンテージは何なの
725 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:25:07.26
おれっちのが
崇~元年=黄初6年=225年
崇~68年=甘露3年=258年
太か爺さんのとちょっと近い
>>722 そうすると、その時期に畿内には崇神天皇がいて、九州には卑弥呼がいるって意味になってしまうから
三角縁のアドバンテージは規格の統一性が高いこと。
100枚下賜するなら、そろいの品だ。
当時の魏は鋳造技術品質がかなり落ちてる時期なので
前代の本場江南製画文帯のほうが高品質なのはあたりまえ。
>>717 ダメだこりゃ。こいつの脳は前世紀だ。
おじいちゃん、昭和10年くらいの生まれ?
729 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 16:32:38.75
>>726 そのとおりだよ。
王先生の主張は権威があり、もう△は日本製とみて間違いはない。
だから当時、畿内には崇神の天皇国、九州には卑弥呼の女王国があったという
ことだ。これが真なのである。
730 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 16:36:23.87
>>728 オマエも早く目を覚ませ。
記紀にその当時壱与も含めて連続的に女天皇が2人も出たという記事は
ない。だから女王国は天皇の国とは全然別の国だったということだ。
これから女王国九州説が正解だと観て間違いはない。
コチラの歳などどうでもいい。
じじいなんだな・・
732 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:42:03.78
年齢のことは触れるなってことか
ジジイであることを知られたくないって心理が透けて見える文だ
734 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:49:24.66
>>732 ある学会が、王仲殊氏を招待し、接待に接待を重ねて何とか三角縁神獣鏡を
魏鏡だと言わせようとしたが、王仲殊氏は、畿内説までは譲ったが、
魏鏡説は頑として譲らなかった。
畿内説と言ったことが事態の経緯を物語っているな。当時は、畿内説も
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だから、邪馬台国は畿内だといっていた。
その三角縁神獣鏡を否定しておいて、畿内説もないもんだ。
735 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 16:50:41.39
>>732 そのことを言ってるのではない。
△が日本製だということよ。
>>733 コチラは以前から歳が言ってることは書きこんでおる。知られたくないなら
そんな書きこみししてるわけがない。
736 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:57:21.87
>>734 ちょっと読みにくかったから、後半の部分を書き直しておこう。
王仲殊氏が、畿内説といったことが事態の経緯を示しているな。
当時は、畿内説の考古学者も、三角縁神獣鏡魏鏡説は邪馬台国畿内説の
考古学的柱であるといっていた。
その考古学的柱を否定しておいて、「畿内説」もないもんだ。
737 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 16:58:08.54
倭人には銅鐸を作れた技術があるんだから
神獣鏡なんか簡単に作れたと思うんだが
739 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 17:18:33.97
銅鐸職人にはそれなりの絵心は備わってはいたけど線刻系のがメイン
画像鏡にみられる浮かせて立体で見せる系のは未熟
740 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 17:18:53.58
技術はあってもデザイン力はないな
743 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 17:25:36.47
画文帯神獣鏡が元になっているんだろう。
画文帯神獣鏡を粘土に押し付けて、それに三角縁を付けて
出来たのが三角縁神獣鏡という人もいる。
744 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 17:25:47.91
つまり三角縁神獣鏡は魏じゃなくて偽造の疑いが有る
746 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 17:42:21.11
>>734がウソであることが一目で判るのは
最初から畿内説である王仲殊氏のことを
「畿内説までは譲ったが」と言っていること。
>>743が馬鹿なのは、わざわざ三角縁にする必然性を考えていないこと
九州説はみんなじじいだから、5年後には2%くらいに減っているだろう。
なむあみだぶつ。
主要説一覧
邪馬台国(3C) 倭の五王(5C) 白村江敗戦(7C)
@畿内(魏鏡)説──┬──大和朝廷───┬大和朝廷
A東遷(倣製)説──┘. │
B九州王朝(倣製)説───九州王朝───┘
750 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:10:36.19
>>748 畿内説の考古学者は年寄りが牛耳っている。
年寄りであればあるほど力がある。
こっちがいなくなるほうが早い。
>>742 森説が世間から全然相手にされていないのは、詩を記載した銅鏡がひとつあったからといって、すべての銅鏡は詩を載せなければいけないなんて、誰も納得しないから。
752 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:14:11.22
>>750 あんたのその仮説が正しいかどうか
5年たてば判るだろう。
あ、すまないね。許してくれよ。
あんたはその頃、もう居ないんだったな。
考古学界では九州説なんて既に皆無だよw
754 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:41:52.20
>>753 そうだな、
続々と熊本説に移りつつある。
熊本からひと山越せば、天孫降臨の日向だ、東遷説にはうってつけ。
755 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:42:26.85
たから、ひとつだろ。
757 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:48:38.24
758 :
ローガン:2013/09/16(月) 18:51:36.92
おや、ざっと読んだところ、お一方、大変詳しい方が参加されているようですね。
是非、常用のHNを書いていただきたいものですね。
759 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:59:37.53
あれっ いっこみえないな 荒しさんかよ
>>757 だから、詩だと決めつけるから韻律を考えて「稚拙」とか思うわけでしょ?
ところが、散文の書かれた中国出土鏡など珍しくもない。
時代も違う1鏡種の、ひとつの詩文に韻律が完備している例を出しても
まるで、なってはいないんだよ。理論には、ね。
761 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:05:56.26
で、何を言いたいわけかね?
763 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:12:23.01
皆さんにお知らせ。ここは邪馬台国の東遷が歴史上の史実だとしたら、どのよ
うないきさつから、どのようなやり方で東遷が行われ、後の歴史に繋がったか
を探求するスレであって、九州説と畿内説がどちらが正しいと論争するスレで
はないのです。参加する人はすべて九州説の人ということになります。キッチ
り、スレタイを確認してカキコしてください。特に畿内説の人、頭に血が上っ
ている人が多いようですが、畿内説ってスレタイも理解できないような、そん
なにレベルが低いのですか?。
負けが込んできて逃げにかかる九ちゃん
楽しくオナヌイしたいから独りにしてくれーってさ。
766 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:18:30.76
王先生は、三角縁は日本国産だといって、
これを自身の主張のために中国産だとしていた一部の畿内説の学者たちに
警笛をならした。
しかしながら、それと同時に、王先生は自分は畿内説だといっている。
だから、九州説の安本らは、必死に王先生を持ち出したのに
途中で口をへの字に曲げてしまったw
王先生は畿内説には異論はないが、だからといって、そのために
日本国産を中国産とする一部の畿内説の学者たちに対しては
はっきりと拒否したわけ。
767 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:21:24.11
あと、やたら、倭王が自身の権威のために
中国を利用した云々するのが多いけど
倭王が中国の権威を欲しいのは、自分の権威が及ばない海外の話であり、
倭国内では、中国の権威など重要ではないのだよ。
実際に西暦5世紀の倭王の上奏文でも分かるように
倭王が中国の権威を欲しがるのは、海外政策の上でだ。
>>763 反対意見不要な訳か?九州説前提で邪馬台国が東遷したと
結論があるなら、自己完結してる話。スレ自体要らないだろ。
>>767 日本は昔からガイアツがないと変わらないんだよ
770 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:38:00.89
崇~さんがガイアツので~夜良比夜良比岐で所知初國之御眞木天皇
771 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:24:34.22
>>769 魏志倭人伝に書いてあることだけみていたら分からない。
魏書東夷伝倭人の条が、魏志倭人伝の正式名称で、
あれは、魏書東夷伝全体で見ないといけな。
魏が倭に関して、関心があったのは、
西暦240年代におこった三韓の反乱で帯方郡の太守が殺されたことで
東夷の冊封体制を盤石にする必要があったこと。
そのために、倭国を完全に冊封に編成して、魏の藩王国として
三韓の反乱の鎮圧に参加させる必要があった。
しかしながら、倭は援軍にかけつけず
訪日して聞いてみたら、狗奴国王の乱があったので、それどころでは
なかったという話だった。
これが真相。
「狗奴国王の乱があった」なんて倭人伝には、ひとことも書いてないんだよ。
卑弥呼側がそう状況説明した、とあるだけ。
これは出兵を断った弁解である可能性がある。
まぁダメ押しになるが「訪日して聞いてみたら」というのも間違いだ。
卑弥呼側がわざわざ使者を送って状況説明している。
これを従来は援軍要請と解釈する人が多かったが
国際情勢を鑑みれば逆だろう。
半島の治安維持に協力しなかったことへの釈明だ。
>>773 張政は何しに倭に来たんだよ
倭人伝を最後まで読め
馬鹿は反論できずに怒鳴るだけ
776 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:16:32.45
>>766 王仲殊氏が何を根拠に畿内説と言ったかが問題。
王氏は、魏の時代に日本に渡った可能性のある鏡として
内行花文鏡と方格規矩鏡を挙げている。
内行花文鏡と方格規矩鏡は、九州に多く分布する鏡。
その意味からすれば当然、九州説になるはず。
ということからすれば、畿内説に気を遣ったとしか言いようがない。
接待が効いたのだろうか。
まだ懲りてないのなw
778 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 21:23:31.69
王先生はあの鑑定には権威あるが、畿内説とかは鑑定ではない。
このほうは説である。
つまり説まで権威とは言いがたい。
779 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:26:17.97
九州説って、ほとんど宗教だな。
つまり
>>776は王仲殊の書いた文章なんかろくに読んだことがなく
おおかた安い本の又聞きでぶつくさ呟いているだけというわけだ。
これが九州クォリティだよ。
>>778 自分が美味しいとこだけ摘まみ食いかよ。これだから・・・
782 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:46:31.11
>>763 東遷説の基本は、やはり卑弥呼+台与=天照大神ということになる。
これは、魏志倭人伝と記紀の記述の類似性から来ている。
まず、卑弥呼も天照大神も、独身の女性であり、最高の地位にある。夫もいない。
卑弥呼は狗奴国との争いに苦しみ、天照大神は素戔鳴尊に苦しめられると
いう状況も酷似している。
その最中に卑弥呼は亡くなり、天照大神は天岩戸に隠れる。
卑弥呼の死後、跡継ぎをめぐって争いが起き、千人あまりが殺される。
天照大神が岩戸に隠れると、高天原も葦原中国も真っ暗になる。悪い神が騒ぎ出す。
台与が王になることにより、国中が定まり、天照大神が岩戸から出ると高天原も
葦原中国も元のように明るくなる。
台与が王になった後、また男王が立ち、中国の爵命を並び受ける。
天照大神が岩戸から出ると、高皇産霊尊が登場し、共にに高天原を治める。
記紀の記述から、その後に神武東征があることになる。
これが邪馬台国東遷を意味することになる。
また、記紀には、矛・剣・玉などが重要な役割を担うが、近畿地方で興隆を
極めた銅鐸は一切登場しない。
これは皇室の歴史が矛的な文化圏を経ていて、銅鐸の文化圏と関係ないことを意味している。
これが文献的な根拠になる。(続く)
783 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:48:13.43
(続き)
東遷の考古学的根拠としては、
近畿地方などで、非常に大型化・精緻化した銅鐸の製造・祭祀が突然終わりを告げ、
古墳時代になって一切登場しないことが挙げられる。
古墳時代になると、代わりに鏡が大量に普及する。鏡、剣、玉は、九州では
弥生時代中期から見られるものであり、これが古墳時代になると近畿地方にも
普及する。朱を棺の内部に塗る宗教的な習慣も普及する。
皇室に伝わる三種の神器もこれを踏襲している。
また、古墳の登場は、階級的な身分制度の存在を意味する。しかし、近畿地方の弥生時代は
銅鐸祭祀の非階級的な農村的社会であり、古墳時代と大きく異なる。
これは、王宮と見られる建物や王族の墓と見られる墳丘墓がある吉野ヶ里遺跡と、
王のような存在が一切確認できない唐古・鍵遺跡を比べると明らか。
こういう社会的・宗教的、文化的な大変化が東遷の根拠と考えられる。
784 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 21:48:14.18
>>781 全部合ってる人物なんていないわけじゃぁないが、そんなにいないだろう。
で、まったく進歩せずに布教活動を再開するのなw
786 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:54:08.14
すいません、初めてです。
邪馬台国と関係あるかどうかわかりませんが、
邪馬台国=大和朝廷でしょうか?
前に、NHKで大和朝廷は中国から来た人々と言ってましたがほんとうですか?
質問スレの流れだと自演が始まる未来しか見えない
788 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:57:17.07
すいません、続けます
日本書紀は中国語(漢文)ですが、古事記は和文もどきと・・・・
「紀」と「記」がちがうとか、
789 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 21:57:25.55
>>781 大相撲だって全勝は至難だろう。あることはあるが、1場所幕内以上で
出来ても1人だけだろうし、稀に全勝対決はあろうが、そんなにざら
ではあるまい。各力士に黒星があるのが殆どだ。
だからこういうことでもその人個人で、合ってる部分と間違いの部分を
保有してると観ていいとするのが、多分にあると考えるべきだな。
790 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:01:08.18
>>768 反対意見不要と言っているわけではない。スレタイのテーマに沿った議論をし
ろと言っている。畿内説のア○ウどもはスレタイそのものが理解できないか。
もはや日本人ではないな。
791 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:05:21.99
>>786 邪馬台国=大和朝廷と考えていいでしょう。
九州説(東遷説)も畿内説もだいたいそうなります。
上に登場する太国さんは違う立場で、邪馬台国は九州で完結すると
いう考えです。そういう説もあることはあります。
大和朝廷が中国からきたということはまず考えられません。
中国の歴史書自体にそのような記述は一切見られないからです。
魏志には、邪馬台国について、その始まりは、107年に後漢に朝貢した帥升と
受け取れる書き方がされています。やはり、邪馬台国の始まりが
中国というのは考えられません。大和朝廷も同じということになります。
792 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 22:09:37.92
邪馬台国っていうのは、そんな国は無いよ。
あったのは 邪馬壹国 よ。
そんな国はないね。ただの誤字だ。
794 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 22:42:36.92
漢字発祥の国の陳寿が国名の 壹 と 壹与 の2回も
間違えるほど彼は間抜けではない。
台 とした文献はヤマトとヤマヒとのみ見分けが大陸人の
ためできなかったため、その半ばをとって邪馬台国とかいう
折衷での 台 にしてお茶を濁しただけのこと。
795 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/16(月) 22:44:22.14
訂正
× とのみ見分けが
〇 との見分けが
邪馬台国をヤバタイとかヤメダイって読むというやつと同じレベル
797 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:51:35.63
卑弥呼=ひめみこ=モモソ媛命
トヨ=豊鋤入姫命
以上。
狗奴国王の乱=許乃国(コノ国)の領主の乱。
許乃国の領主は、武埴安彦命。
っていうか、言ってる奴の頭がヤマヒ
799 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 22:52:22.67
>>794 あなたは間抜けである。異論は認めない。
東遷説なんて事実上死んでるから、跡地は自由に使えばいいんじゃね?
>>782>>783 東遷説って単にイメージで似てるってのが根拠だろ
科学の進歩で年代測定が正確にできるようになってきて最近ではほとんど否定されてる説だわな
803 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 23:05:13.57
畿内スレは、もう更地になっとるぞ
確定なんで、もう余り話すことがありません
反対意見もスレタイに沿ったレスですよ
>>796 お前ほどの低脳になると家の中にいても電車に轢かれたり海に溺れたりできるだろうな。
便利な奴だw
そういうのはヤメタイ
808 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/17(火) 14:27:03.96
>>799 九州はヤマヒ国、畿内はヤマト国でおおよそ間違いない。
ただし時代により大和とは畿内だけの場合と九州も言う場合とか日本全体
で大和という解釈はある。
当時の日本は大陸の呉、蜀、魏の鼎の3極の如く日本も1極ではなく、
日本は畿内、九州の2極であったのだ。これは後代の京の朝廷と鎌倉幕府、
京の朝廷と江戸幕府、畿内に2王の南北朝等々、ことごとくに近く日本は
2極だったということだ。半島も当時多極であり、邪馬臺国だとは小賢しい
盲象国名である。学あろう陳寿が、国名も壹與も、二度も間違えるほど耄碌
はしていな〜い。ppp
卑弥呼の代ころから畿内朝廷と九州王朝の2極の二本立てが断続的に
続き、当分の間こういう状態であった。日本は二本なのである。
邪馬台国とは、そういう日本の情勢が読めず、ヤマトのはずかどうか判然
とせず把握できなかったので、やむをえず半ば的折衷ととり、邪馬臺国と
いう名にしてお茶を濁したということだな。
809 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/09/17(火) 14:29:46.28
>>808 訂正
× 邪馬台国とは、そういう日本の情勢が読めず
○ 他書を書いた大陸人は、そういう日本の情勢が読めず
おまえのお脳がヤマヒ国
811 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 15:20:37.78
邪馬壹國=壹岐國+邪馬國
(嘘名の)壱岐國=(本来は)壹大國=天國=海國 ←北に對海國
(本来の)壹岐國=生松原,一貴山とかに地名が残存
=壹大國,天國,海國の拡張域(占領域)
邪馬壹國=晋代の壹與が女王のときの呼称で
魏代の卑彌呼の時は実はちがう呼称
壹大國類+占領域としての壹岐國(伊都付近) ←難升米=那司馬のシマ
+
邪馬國=那國(奴國)+傍國二十ヶ國 ←卑彌呼のシマ
占領域としての壹岐國(伊都付近)も、もとのが卑彌呼の母親のシマ
難升米=那司馬は卑彌呼の母親が生んだ天日矛血縁の子。
卑彌呼のシマのコアな名は「邪馬」
難升米のシマのコアな名は「阿馬」
これらをまとめちゃっての名が「彌馬」くらいのかんじ
難升米が外圧のせいで追放されてなしたのが「彌馬岐」
難升米さんのが 謂所知初國之御眞木天皇
812 :
ローガン:2013/09/17(火) 15:24:43.28
>>783 >東遷の考古学的根拠としては、(中略)
>こういう社会的・宗教的、文化的な大変化が東遷の根拠と考えられる。
一大変革を行ったであろう九州人達の居た痕跡が皆無である不思議。
813 :
ローガン:2013/09/17(火) 15:26:14.24
おっと訂正。
皆無ではないね。ごくわずか。
814 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 15:32:33.83
三角縁神獣鏡はそれまでの鏡に比べるとかなり大型で、
棺に入れるために作られたと考えられている。葬具だな。
黒塚古墳を見ると、棺の外にあって、棺を囲むように並べてある。
しかも、鏡面は遺体の方を向いている。
これから浮かぶのは包朴子の記述。
「明鏡の九寸以上を用いて自ら照らし思在すること7日7夕、
すなわち神仙を見るべし」
神仙思想とは、不老不死を目指すもの。仙人思想というべきか。
神獣も神仙思想と関係している。
つまり、大きさ、文様、扱われ方などは、包朴子の影響を受けていて、
不老不死、あるいは死者復活の意味があると考えられる。
包朴子が書かれたのは、西暦318年。三角縁神獣鏡が作られたのは
そのあとの可能性があるな。
815 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 15:48:04.87
>>812 日本書紀によると、神武天皇が宮を築いた地は、畝傍山の東南・橿原の地。
宮は、橿原神宮の下に眠っているんだろう。
ほかに、道臣命は築坂邑、大来目命は畝傍山の西、川辺の地に居したと
書かれている。
816 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 16:48:58.77
画文帯神獣鏡のほうがグレードの高い鏡だから刳抜式木棺の内側だな。
もっとグレードの高い鏡2種のが欠けているのがかわいそうだな。
東遷説で神武の存在を認めたら時系列がますます苦しくなるなw
神仙思想と煉丹術の研究家、葛洪が著した『抱朴子』では
四規鏡は「四規者、照之時、前後左右、各施一也」で各一面ずつだから
黒塚古墳が包朴子後の影響ってことはないだろ
葛洪が明照法創めたわけじゃないから
819 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 00:19:47.67
難升米=梨迹臣
語呂合わせ
821 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 18:33:25.17
難升米 なしみ
梨迹臣 なしとみ
822 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 18:34:50.59
梨迹臣は、中臣氏の先祖。
ちょうど、孝霊〜崇神の時代の人物。
823 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 00:20:37.21
吉野ヶ里遺跡のパンフレット(2000年のもの)を見ると、吉野ヶ里の最盛期は
やはり3世紀の卑弥呼時代と書かれている。畿内説が、年代繰上げの
大キャンペーンを行ったのは、1996年あたりだから、その圧力に負けて
いないといえる。
それはともかくとして、吉野ヶ里が終焉を迎えるのは、その後、3世紀後半頃の
事ということになる。繁栄を極めたあと、突然のように人が住まなくなる。
環濠に大量の土器が捨てられ、人はいなくなり前方後円墳が造られる。
吉野ヶ里の人々はどこに行ったのだろうか。前後関係としては、
吉野ヶ里遺跡が廃絶して纏向が出来たと考えられている。
現在も使われている吉野ヶ里の実年代観は九州においても特殊なものだよ
畿内との前後関係を語りたいなら、キミも散々疑っている実年代観ではなく、
土器様式の併行関係で確認していかないと意味がないね
突然住まなくなるとか言われても、広大な邪馬台国文化圏の
一地域に過ぎない吉野ヶ里の人口増減だからなあ。
吉野ヶ里において敵国の脅威が増大したり、消滅したりすれば、
人口が増減するからな。
826 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 02:52:20.65
そこは大勢の人々が棲むに適さず、明治・大正・昭和になってもさして人が住んでいなかった。
だから環濠遺跡は残った。
吉野ヶ里の終焉とは、平和になって、人々が平地の伝統的な農村集落へ戻ったことを意味する。
だから平安京・平城京跡も残った。
828 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 05:02:10.95
>>724 基本的に土器で実際の年代はわからないのだよ。
いわゆる定点、つまり基準となるものがないと。
畿内説はそれを年輪年代に求めた。
池上・曽根遺跡から出た木材を年輪年代で紀元前52年と測定し、
これを畿内W期の始まりとした。
従来よりも100年古くなったわけだが、ついでに庄内期まで
100年古くした。しかし、木材は再利用というか、古い木材を
後の時代で使うケースが多い。実際にあるかどうか知らないが、
年輪年代ではそういう例がたくさんある。
たとえば、法隆寺の心柱は、年輪年代によると100年ほど前の木材を
使っていることになっている。つまり、年輪年代で出た年代は
一番古い時期を示すだけで、それ以前ではありえないことが
わかるに過ぎない。
にもかかわらず、池上・曽根の場合は、一番古い年代をそのまま
採用してしまった。そして、都合よく庄内期も100年古くして、
晴れて纏向は卑弥呼時代に届いたわけだ。
年輪年代を全面的に信頼してもこういうことになる。
まして、年輪年代そのものの信頼性にも疑問がある。
纏向の年代はそういう危うさの上に立っているのだよ。
829 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 06:46:59.80
纏向は王家の谷、つまり墓向
九州説は無知の産物
831 :
ローガン:2013/09/19(木) 16:02:28.68
>>828 定期的に現れるなあ。前回も指摘したんだが。
第V様式の古・新の区別を、凹線文の出現に見た古い編年案(佐原1964)をあらため、
凹線文の出現以降を第W様式と捉えよう(寺澤、1989 1990)と変わったんだ。つまり第W様式が広がっただけ。
勿論、光谷拓実「池上曽根遺跡の大型掘立柱建物の年齢年代」(奈文研1997)は、それより後。
832 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 18:14:05.70
>>831 佐原編年が大勢を占めていたのは明らかで、それを繰り上げようという動きは
古くからあった。要するに卑弥呼時代を古墳時代に含めようということ。
そうすれば、東遷説が成り立たなくなる。
これを見るとわかるように、畿内説は敵として東遷説だけを考えている。
しかし、根拠がない。何の根拠もないのに、都合が良いからといって
古くすることは出来ない。まあ、ご指摘にように、根拠なく古くしようと
する人も一部いたわけだが。
畿内説は、三角縁神獣鏡魏鏡説は破綻しそうだし、吉野ヶ里遺跡が発表されて
邪馬台国の大ブームを起こす。吉野ヶ里遺跡には天皇・皇后両陛下も視察され、
平成八年には累計見学者が1000万人を突破した。
こういう状況の中で、起きたのが年輪年代を根拠にする畿内年代の繰上げ。
1996年のことだ。
834 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 19:46:01.77
畿内には無い、人気のくまモンに聞くがよかろう
835 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 20:22:10.99
832さんに賛成。畿内説学者の悪辣さここにきわまれり。奴らはもう学者じ
ゃない。詐欺師だ。日本の歴史を好き勝手な方に捻じ曲げようとする重罪人だ。
全員逮捕して縛り首がふさわしい。
くまもん?
パトレイバーのクマ五郎のパクリだからなw
837 :
ローガン:2013/09/19(木) 20:45:23.06
>>831の
「凹線文の出現以降を第W様式と捉えよう(寺澤、1989 1990)」に森岡氏の名前が抜けていた。失礼。
>>832 >これを見るとわかるように、畿内説は敵として東遷説だけを考えている。
思い込みがすげーな。(笑)
>まあ、ご指摘にように、根拠なく古くしようとする人も一部いたわけだが。
いや、第V様式新が、第W様式1.2と呼び名が変わっただけ。
>畿内説は、三角縁神獣鏡魏鏡説は破綻しそうだし
君がただ、そう思いたいだけ。
畿内詐欺団は、ローガンみたいなペテン師も養成するし。
839 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 22:12:26.17
ま、ローガンが隠れ切支丹の熊本信者とは知らなんだ
前の佐原編年が明確な根拠があるかというとそんなことはないんだな
ただ小林の古墳時代開始4世紀からに合わせただけで
>畿内説は敵として東遷説だけを考えている
もはや病んでるだろ。こいつw
tes
頭以上に心が病んでいるのが九州説の面々
844 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 21:23:42.52
畿内説は井の中の蛙だよ。
狭い井戸の中の価値観だけで考えている。
要するに無知。広い世界のことを知らない。
846 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 14:01:38.45
九州説と畿内説の論争はドン来いスレや終止符スレへ行け。
847 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 14:16:51.33
>>841 東遷説は畿内説を敵とはみなしていない。
邪魔くさい存在、ただそれだけ。
相手にもされてないクセにw
九州説の中でも見捨てられた、過去の存在。それが東遷説。
850 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:38:01.01
そうね。東遷説は、せっかくの隋書を無視しているんだよね。隋書には「東は倭の附庸国だ」とある。これは
倭ではなく、その植民地にすぎないということ。それに倭地には阿蘇山があるとある。
これは倭地が九州島であることを明確に書いたもの。そして、隋使訪問時の倭王は男王だったということ。
これは記紀が描く大和王朝ではないという明確な証拠だ。
その隋書を無視せざるを得ないというのが東遷説の弱みだよ。
851 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:53:55.78
↑ 隋は聖徳太子が使節を派遣して初めて日本の情報を得た。魏の使節団のよ
うに自分達の目で確認して書いているわけではない。
隋の一向は九州から完全に抜けてるだろw
大体阿蘇山は火山の総称だから。
富士山だって阿祖山だし。
853 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:55:23.04
隋使は我が国を訪問していないって考えかな?
いや、単なる漢文の誤読で
>>850みたいなトンデモ説が出てきてるだけ。
その証拠に、そんな変な主張をしているのは素人だけで
中文系からは嘲笑されている。
妙に偏った解釈しか出来ないのが九州脳。
856 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 10:14:49.44
誤読といいながら、具体的指摘ができないのがつらいねえ。畿内説は。
>阿蘇山は火山の総称だから。
苦しいねえ、どこの火山をみて書いたっていうのかな?
隋の頃だと倭は既に南九州まで制圧してるのだけどw
また東国だって関東平野まで制圧してんだし、
富士や浅間だって情報位入ってるよ。
858 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:37:47.78
阿蘇山自体、邪馬台国時代には存在してないだろ
859 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:39:19.13
>>856 其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、
アホ、誤読どころか全く九州の要素の欠片もないだろw
東西に長く、移動に五ヶ月もかかって東に行くほど高い山が多いのに。
860 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:59:22.15
それこそ九州だろうが。旧唐書を読んでみろ。古代中国人は我が国の本州が島だってことは知らないよ。
九州の中を旅するのに東西五月行、南北三月行かかったのさ。
>それこそ九州だろうが
君がそう思うならいいんじゃないの?
公の場では相手にされないと思うけどねw
862 :
ローガン:2013/09/23(月) 16:45:43.01
>>860 >古代中国人は我が国の本州が島だってことは知らないよ。
本州が大陸と地続きなら、大陸から500m位しか離れていない九州のことを
「倭人在帶方東南大海之中」、「絶在海中洲島之上」と書いたお笑い三国志。ってことね。
863 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 17:20:37.70
>>862 東北のことを陸奥と言った。陸の奥。最北端が知られるのはずっと後だろう。
行基図に、北海道が書かれていないのも北のほうがわかるのはわりと新しい
ことを示している。
一世紀に書かれた漢書・地理志に「楽浪海中に倭人あり」とあるのは、
やはり、倭人が九州限定だったことをうかがわせる。
500mがどこからでてきたのかわからないが。
>>862 860の人ではないが、横レス
かなり論理が飛躍してないか
古代中国人は本州が島なのか、陸続きなのか、先の方はどうなってるか知らないってことで、
陸続きと断定してるわけじゃない
下関から九州を眺めて500mだとか皮肉を言ってるようだが、
どうして本州と朝鮮半島をすり替えて解釈しようとするのかまったく理解できない
とは言え、東西五月行は九州から関東までのことだと思うけど
論理を飛躍させないと九州説はやってられない
現地人に、ここは島かどうかを訊けば、一発でわかるから
>>860は大嘘。
さすがに東西五月行の九州島は無いぞw
868 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 21:05:12.97
隋書によると三月行は240キロ程度。
縦横が逆なのが意味不明だが、
済州島の例に習って縦横を逆にすれば、
ほぼ正確な横幅である。
仮に津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡が塞がれてて陸続きだったとしても
中国から九州に行くルートがシベリアから樺太を経由して本州縦断なんてありえない
隋書のどこをどう読んだら三月行が240キロ程度となるのか判るのは九州脳
>済州島の例に習って縦横を逆にすれば、
ほぼ正確な横幅である。
意味不明なのは
>>868の頭だなw
872 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 22:22:39.19
九州の東西は、どこからどこまでを考えるかで、いろいろ想定できるんだよ。宮崎から
長崎とかなったら5月かかるかもな。
873 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 23:08:55.53
大宰府→京都まで1ヵ月です。年表に書いてあります。
874 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 23:13:04.22
ということは、公里を適用して、方向を北東に変え
やはり、ベーリング海峡あたりが邪馬台国か。
伊都国は糸島三雲で確定だから、そこから2千里弱で畿内OK
876 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 23:52:55.50
伊都まで一万里以上あるので、
糸島じゃないことは明白
877 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 23:55:51.97
南北3ヶ月とはどこからどこまでだ?
隋書は日本列島の事だろ
魏志倭人伝は「周旋五千里」は良く分からない
対馬を「方可四百餘里」
壱岐を「方可三百里」と言ってるから
本州ではないと思う
879 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 00:53:07.89
日本列島で南北といったら北海道北端から薩摩半島南端までになるかな?
青森、鹿児島としたところで3ヶ月ではとうてい無理。
それだと東西五ヶ月でもいいのではw
北は北陸だろ
南は分からん
紀伊あたりか
882 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 01:04:24.35
では、南北3ヶ月とはどこからどこまで?
883 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 01:07:13.33
旧唐書を読んだことはあるかな?
本州の北のことなど何も分からなかったようだ。
>伊都まで一万里以上あるので、
>糸島じゃないことは明白
じゃ、どこだい?
アリューシャン列島か?
885 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 05:08:51.89
855以下、スレチ。
東遷説はもう滅んでるから、跡地を有効に使って上げてるんだよ
887 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 15:32:43.65
里程・日程論は盛り上がるな。
しかし、邪馬台国が一つしかないとすれば、正解も一つしかない。
しかし、邪馬台国の候補地はたくさんある。
大半は間違いを主張しているわけだが、それぞれが譲れないというわけ
なのだろう。
拡散に拡散を重ね、収斂の可能性は全くなさそう。
888 :
ローガン:2013/09/24(火) 16:36:47.99
>>864 まあ、論理も何も軽い冗談だ。
「旧唐書を読んでみろ。古代中国人は我が国の本州が島だってことは知らないよ。」 にマジレスすると
蝦夷。海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭。插箭於首。令人戴瓠而立。數十歩射之。無不中者。顯慶四年十月。隨倭國使至入朝。海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭。插箭於首。令人戴瓠而立。數十歩射之。無不中者。顯慶四年十月。隨倭國使至入朝。(唐會要)
日本書紀も対応しており同年、つまり斉明5年だが、蝦夷の男女2人を天子のもとへ連れて行ったとある。
「国有東北」の蝦夷が、唐會要「海島中小國也」であるという事は、旧唐書編纂の時代、中国は本州を島だと認識していたと見て妥当。
889 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 16:58:08.90
唐会要の設立は10世紀後半
蝦夷地の様子が分かるのは坂上田村麻呂がアテルイを破って陸奥を支配下に置いた以降のこと
891 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 23:41:47.19
>>862 魏使は、関門海峡を知らなかったからな。伊都国=佐賀なんだよ。
関門海峡は無関係。
伊都国に駐在したた魏使が関門海峡まで行ったかどうかは分からないが
行ってなくても倭人に聞けばそのくらいの情報は得られる
倭人がわざと教えず本州の存在を隠す理由もない
>>890 7世紀に阿倍比羅夫が青森・北海道まで行っている
それ以前も交易を通じて情報は有ったと思う
894 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 00:33:58.32
>>892 九州が島かどうかは分かるだろうが、海峡の幅がどのくらいかは通訳が難しい
かもな。説明する倭人が海峡をみていなけりゃ説明もできないだろうし。
895 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 00:48:25.54
阿倍比羅夫は北海道まで遠征したけど
当時は地図が分からないから、
北海道が大陸とつながっていると思ったのかもな。
896 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 00:51:48.97
世界地図見れば本州も小さな島しか見えない
逆くの字型の本州島
海峡の幅は500mだから1里ちょっと
異論は認めない
あの幅じゃ海峡とも認識してないだろう。
899 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 15:35:41.02
古代中国人が本州を島だと知らない
という間抜けがいるから
901 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 18:11:15.71
本州が島かどうかは、古代中国人が北の津軽海峡の存在を知っていたかどうかだろ。
関門海峡にこだわるとは間抜けな話だな。
大陸住まいの中国人に、島という概念はあるのか。
海だって、東にある水溜りぐらいの意識だろ。
少なくとも関門をみても海峡とは思わないよw
俺だって最初海峡と聞いて想像してたのと
あまりに違うので驚いた位だ。
ほうらい【蓬莱】
@ 中国の神仙思想で説かれる想像上の仙境。東方の海上にあって,
仙人が住む,不老不死の地と信じられた。蓬莱山。蓬莱島。よもぎがしま。
俺のシマはフチ、ヨモギだらけだよw
906 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 18:58:22.61
>>903 関門海峡を海峡と思わなかったらどうなるんだ?
本州が島かどうかと関係あるのか?
関門海峡全長27.8Km
昔は穴戸(アナト)って言ったんだな。
彦島とかあるけど、古代の人名のヒコとかに由来するのかな。。
>>906 どうなるって?
島と言えるのは九州までだから邪馬台国は九州だ、と
のたもう男の馬鹿さが解る。
それだけ。
関門海峡は座布団ヒラメが釣れるねぇ
910 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 20:50:54.23
>>908 なるほど、青森から南九州までで5ヶ月×3ヶ月というわけか? 笑えるねえ。
ひとりで何か妄想して笑っているひとがいます。
通報しますか?
南九州?
>>906 何が何でも九州島で完結させたいのは、あり得ない話だろう。
914 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 21:19:54.80
何であり得ない? 万二千里で女王国に至るだよ。伊都国からは千五百里。
朝鮮海峡の僅か半分の距離だ。
朝鮮海峡w
千五百里は博多から巻向までの実距離にほぼ一致
917 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 21:35:26.41
>>916 では、上陸地点から東南五百里の伊都国はどこに比定するのかな?
当然、前原三雲でしょ?
現在の地名に求めることを一旦やめて考えてみることも必要でありましょう。
糸島を末盧國とし、糸島から博多方面へ陸行して伊都國に到る、は分かりますが、
それでも例えば博多湾からの上陸を遠慮してもらった等、理由付けが必要な不自然さが残ります。
唐津から糸島を陸行などは正気を疑われて致し方ないほどの机上の空論。
唐津を末盧國とするなら伊都國は佐賀方面しか無いでしょう。
戦前、敗戦、戦後を経験した方の著作物は読む側として相当な防衛が必要かもしれません。
戦前の論、伝記、伝説等を過剰なまでに否定する方に傾いていますから。
焚書しろとまでは言いませんが、一般の方向けには、そういう気構えを持って呼んでください、
と周知するくらいはあって然るべきでしょう。
唐津に港ができるのは江戸時代後期です。
>>920 本気で逝ってるのか
秀吉の朝鮮出兵が唐津から出航したのに
名護屋城も唐津に有る
それは呼子です。
923 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 08:20:15.08
>>920 そりゃ江戸後期に整備した港湾設備もあったかもしれぬな
しかし、そもそも「唐津」の名の由来は?
それは失礼した
でも唐津市呼子じゃねーかw
桜馬場遺跡は港町
926 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 20:23:51.40
914氏に賛成。朝鮮海峡ではなく対馬海峡だけど。北九州のどこかの上陸地
から対馬海峡のおよそ半分の距離に邪馬台国は有った。陸行・水行・日数など
は解釈の問題。陳寿が皇帝を憚って10倍くらいのかさ上げ数字を書いたとい
う説も有るし。上陸地も唐津より宗像あるいは小倉のほうが可能性が高い。そ
の方が釜山〜対馬〜壱岐〜上陸地の距離(千里)が合いやすい。結論、宇佐説が
一番邪馬台国の可能性が高いのではないか。
927 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 20:28:39.56
>>926 ならば、宗像あるいは小倉から東南五百里先の伊都国はいずこ。
928 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 20:38:07.49
宗像なら伊都国は小倉。
929 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 21:06:49.25
伊都都比古の記述とも合うね。
小倉や山口で、「だっちゃ」という方言を使うのはタタラ氏ですね。
931 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 23:52:49.15
北九州市付近の言葉と福岡市付近の言葉は違うんだろう。
また、福岡市付近では甕棺がどっさり出てくるが、北九州市付近では
甕棺が一個も出てこないんだろう。
どうしてなんだろうな。
>>926 宇佐に70000戸は無理だろう。
おそらく宇佐から河内沿岸まで位は必要だよ。
933 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 09:00:04.38
宗像あるいは小倉では上陸して陸行する意味がない。魏の船でそのまま直行した
方が便利、かつ安全だ。
陸行五百里は倭舟に乗り換えたこと以外にはあるまい。
934 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 13:43:38.96
>>932 だから陳寿は10倍くらいのサバを書いている。まじで7万戸と考える人は学
者バカと同じね。
>>933 邪馬台国ないし倭国は魏使に関門海峡という軍事機密を見せたくなかったし、
伊都国(小倉付近)には一大率が有り、女王の代理機関として魏使を謁見しな
ければならなかった。本当に外交使節か否か、外交官か否か確認する為にね。
935 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 14:28:50.51
あ、里数と日数を1/6するのに加えて、
戸数も1/6したら、ぴったり合ったりしないかな?
妥当な戸数の情報が出てくるとも思えないけど。
936 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 06:33:17.67
フミ国までの戸数は、現在の地形から見ても、だいたい、あっている。
それより先は、水行だから、だいぶん、むこうの地域という印象。
たぶん、日本海沿岸を水行してだから
投馬国=ズモ国=出雲国
邪馬台国=ヤマト国
937 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:01:43.06
邪馬台国東遷はないよ。
考古学的に否定されている。
北九州の邪馬台国は名前だけ近畿勢力に渡して滅んだ。
邪馬台はヤマトだが、近畿のヤマト政権とは無関係。
938 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:03:19.84
ってか、まだ纒向がどうの言ってる遅れたバカいるのな。
939 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:04:30.58
北九州に邪馬台国なんてないわなw
まだ、言っているのか?
940 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:06:11.45
941 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:34:55.51
942 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:35:11.89
九州は弥生の戦の痕跡があるくらいだから、
それ以降も当然かなりの戦力があるだろう。
畿内も大型古墳を作るくらいの人口を抱えているんだから、
かなりの戦力を持っているだろう。
しかし、九州内の熊襲退治や、
出雲の国譲りなどの古伝承に対して、
九州対畿内の戦闘などの痕跡はない。
つまり戦闘は起こっていない可能性が高い。
各地方に軍がある状態で、いきなり「自分が支配者だ」と名乗っても、
戦国時代になるだけだが、それも起きていない。
従って、九州畿内並立で、そこそこの友好的付き合いをやっているところに、
白村江で九州勢力が壊滅して、残党が吸収合併された説を採る。
ただし、それでも完全な平和的吸収は出来ずに、揉めたのが
壬申の乱である。
943 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:37:47.55
>>939 近畿に邪馬台国があったと考えたほうがいい根拠は一つも無い。
あるなら上げてみろ。
944 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:41:28.97
>>934 そうでもないよ。
7万戸ってのは邪馬台国の人口では無くて女王国の人口ね。
当時の日本の人口は以前言われていたよりももっと多い可能性があり、九州に数十万人いた可能性はまだ消えて無い。
945 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:45:03.74
>>937 東遷は考古学的に否定されているというが、それはどういう根拠に
基づいているわけ?
なかったことの証明は「悪魔の証明」といわれる。
考古学には「悪魔の証明」が出来る神様みたいな能力があるのかな。
そういえば、考古学では「神の手」を持った人の捏造事件があったな。
946 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 07:50:48.70
>>945 だって、近畿から九州のものがごく僅かしか出土しないんだから。
九州勢が大挙して近畿に訪れて近畿勢を支配下に置いたなんて痕跡は全く読みとれない。
947 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:02:36.60
>>946 近畿地方では、古墳が出来た頃を境に大変化が起きている。
近畿地方を代表する青銅器である銅鐸が古墳時代になって完全に
消滅する。代わりに鏡が大量に普及する。
古墳が出来たこと自体、社会的な大変化。近畿地方の弥生時代の墓には
特権階級の存在が認められない。それが特定の個人のための巨大な
墓である古墳が作られてるようになる。
棺の内部の様子も弥生中期からの九州のものにガラッと変わる。
これだけの大変化を無視して、東遷はなかったというのは
畿内考古学というのは、無能としか言いようがない。
948 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:05:46.17
>>947 逆。むしろそれだけの変化があったにも関わらず九州のものが出土しないのだから、
九州の人間が近畿に大挙して押し寄せたとは到底考えられない。
949 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:08:58.93
九州から人と文化は部分的に移住したが、
支配関係ではない、ということだろう。
950 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:09:38.45
九州の影響は文化的、精神的な面。
実際に九州から多量の人間が来たのではない。
これは
>>937でしか説明出来ない。
951 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:11:52.54
古墳の棺の副葬品となる鏡、剣、玉類は弥生中期からの九州系。
棺の内部を主で染める習慣も九州のもの。ほかの地域では見られない。
皇室に伝わる三種の神器もそうだろう。
あまり知られていないが、知らされていないのかもしれないが、
纏向にある鉄器鍛冶で使われている鞴(ふいご)も九州のもの。
銅鏡や水銀朱を棺内に入れるのは九州で生まれた習慣じゃないからな
勘違いしないように
953 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:12:57.12
神武は居たが、東征したのでは無く、近畿勢に招かれて行ったのだと思われ。
神武は近畿の雇われ店長。
だから初代の天皇なの。
初代と言うのは近畿から見た立場ね。
954 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:14:20.69
九州では、甕棺に銅鏡が入っている例があるよ。
割と最近、佐賀で発見された。
955 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:22:18.05
近畿で銅鐸が多量に破壊されてるだろ?
あれは、神武を迎え入れた際に、近畿の人間が自分で破壊したんだよ。
なぜかと言うと、無理やり破壊されたのなら宗教的なものだからひどく恨まれたはず。
ところがそう言った形跡が全くなくて、普通に綺麗に忘れさられている。
自分から捨てたわけだからね。
956 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:22:33.76
>>952 九州で生まれたものだよ。弥生中期の棺に朱のついているものが
他にあるかな。
957 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:31:32.66
>>954 鏡の入った甕棺はいくらでも見つかっている。
たとえば、1世紀の須玖岡本遺跡では、中国鏡が30面近く。
三雲南小路遺跡でも、合わせると中国鏡が50面ほど出ている。
>九州で生まれたものだよ
甕棺、水銀朱は東南アジアだよw
鏡は中国
959 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:38:48.30
九州から近畿へ人が多量に行った形跡が全く無い。むしろ逆で、近畿から九州へ人が行っている。
しかし近畿は九州の影響は受けている。
銅鐸の破壊がその典型例。
この事実を上手く説明する方法は、
>>937>>953しかない。
つまり、記紀が書かれた理由は神武東征という捏造をやること。
960 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:39:31.86
多祁理宮の遺跡、高島宮の遺跡がないのだから東遷など茶番劇だね。
961 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:45:04.78
>>957 ついでに書いておこう。
三雲南小路遺跡の出土品。弥生中期のものだが。
ガラス壁(瑠璃壁)破片、8個以上
前漢鏡、35面
銅剣、1
銅矛、2
銅戈、1
ガラス勾玉、3個
瑠璃管玉、60個
金銅製四葉飾金具、8個以上
須玖岡本遺跡の出土品
約30面の中国の前漢時代に造られた銅鏡(前漢鏡)、ガラス璧(へき)、勾玉など。
まるで古墳時代の古墳から出土したみたいだろう。
三雲はガラス勾玉をもってることに注目しないとだめなんだな
ガラスってのは貴石の代用品だからね、ベトナムじゃ山ほどもってる
モース硬度6.5 - 7のヒスイ、モース硬度7の碧玉に細かい穴を空ける技術が
日本なんだよな
963 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 08:56:56.16
鏡、剣、勾玉まさに皇室に伝わる三種の神器だろう。
勾玉も九州発祥みたいだな。
964 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 09:42:31.01
>>959 違うな。
邪馬台国というか、大和は畿内で正解だよ。
2ちゃんで文字だけで説明するのは難しいけど
畿内王権の誕生は、出雲国譲りとの時で、その時に誕生している。
それから、畿内王権は九州高千穂に地方官を派遣した。
それがニニギ命。神武の曽祖父にあたる人物。
965 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 09:47:00.32
畿内王権の誕生は、崇神の伊都から彌馬岐への移住からであろうて。
966 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 09:56:01.12
967 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 09:57:30.85
968 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 11:07:54.40
969 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 11:28:34.27
970 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 15:28:47.88
畿内説の人たちはあまり知らないようだが、九州は遺跡や遺物の
宝庫なのだ。
「畿内説」の考古学者は、九州の遺跡や遺物が重要であればあるほど
目をそらそうとする。「畿内説」だから、九州の重要性を認めたく
ないのは当然ということになる。
だから、考古学者には中立であって欲しいと思うわけ。
971 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 18:58:32.63
>>970 本来、考古学はどのような遺跡・遺物が発掘されたかを研究する学問であって、
それだけをマジでやっていれば良いはず。ところが現在の考古学者は自分の手
柄を誇りたいらしく、遺跡・遺物の解釈までマスコミに言いたがる。しかし、
遺跡・遺物の発掘結果は全学者に公表され、解釈は多くの学者のその後の研究
に託すべきものだ。そこが理解できないバ○学者が蔓延している。特に畿内説
を言いたがる学者にこの傾向が強い。
九州説の高島忠平氏は今は九州説だが、かって奈良に住み、奈良の遺跡発掘
をたくさん手伝っていた。その上での九州説だ。ところが畿内説学者で九州の
遺跡発掘を手伝った者はあまりいない。研究不足と断じられて良い。
小学生のころ通学路に、一日中壁に向かって「このバカが〜」と文句言ってた頭のおかしいおっさんがいたなw
>>970 >畿内説の人たちはあまり知らないようだが、九州は遺跡や遺物の
宝庫なのだ。
畿内説でも北部九州は伊都や奴国想定です。
大陸・半島の入り口なんだから当然ですよ。
でもそれを踏まえた上での畿内説だと認めたくない、
或いは本当に気付かないのが九州説ですね。
974 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 19:33:17.97
>>970 近畿説に中立なんて絵空事だよ。
なにせ、「近畿では卑弥呼の時代の鉄器の出土がとても少ないがどうしてか?」と
学会で聞かれて「近畿では鉄が溶けやすいから残ってない」と真顔で答える連中だからね。
近畿説は第二のゴッドハンド事件だと思うべきね。
975 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 19:36:51.33
近畿説は、間違いというより捏造に近い。
学問的死だと思ったほうがいい。
976 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 19:46:31.55
日本史とか考古学とかの連中って田代まさしみたいなもんだよ。
ゴッドハンド事件を起こしたばっかりなのにまだこんなことをやっている。
近畿説がまかりとおれば、歴史学は学問的に死ぬと思われ。
倭人伝には倭には鉄器が豊富という記述はない、有るのは丹だし。
近畿説は、根源が詐欺。
△鏡詐欺、箸墓詐欺、桃の種詐欺、鯖の骨詐欺。
マスコミ、権威者が畿内説で食っている下々の学者、これで飯を食ってる商売人が、
寄ってたかって卑弥呼卑弥呼の大合唱。単なる詐欺なんだけどね。
結局九州説は「恨」の思考回路そのままなのがよく判るなw
980 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 19:53:30.19
>>977 ↑
な、こんなミニにタコみたいなこと言うだろ?
まぁ九州説なんて今更何言っても虚しいだけだよ。
鮮人ってよく詐欺って言葉使うよな
こいつら虐めたの中国なんだけど、世話になった人に噛付く習性があるからなw
983 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:00:47.79
984 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:03:52.06
近畿説ってのはもうなにも残ってない。
三角=卑弥呼の鏡も、箸墓=卑弥呼の墓も、纒向=邪馬台国も全部ネタだった。
あと残る武器は開き直りだけw
985 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:05:15.42
入植した当初は持ち込んだ鉄器豊富だったけど
まもなく貧鉄症に落ち込んで
銅鏃ぽろぽろとかになってきたりしている。
二世紀には淡路島に鉄器工房もあるし、最古の製鉄も瀬戸内海の広島だよ。
987 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:14:41.42
近畿に製鉄の歴史はあまり無い。
古墳時代になって突然出現する。
卑弥呼の時代では、鉄器「使用」は北部九州が主流。
これで
>>981とか言っちゃうのが近畿説ねw
989 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:21:48.62
畿内説が何言っても無駄。
詐欺しか言ってこなかったからな。
991 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:28:41.03
日本で一番、鉄が出てくるのは、福井県だよ。
992 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:29:50.45
993 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:30:57.57
五世紀以降、製鉄が始まったら、
山陰で、多く出土するようになるな。
しかし見苦しいな、九州説w
995 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:35:03.74
出雲の国譲りは、鉄の確保が目的という説は根強い。
996 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:38:59.27
五世紀以降、山陰で製鉄が可能になってからは、
畿内でも鉄が出土し始める。
それ以前の鉄が消滅というのは、
あまりにもご都合主義である。
997 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:45:08.02
必死だな
999 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:48:22.55
近畿説なんてほとんど第二のゴッドハンドだぞ。
シャレならんよマジで。
1000 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 20:49:13.48
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。