祭祀制度、鉄器流通、土器様式など地域的に多様な基盤が存在した弥生時代が終わり、
前方後円墳、布留式土器など画一的要素が北部九州から関東までを席巻する古墳時代。
この西日本をほぼ統一する規模の古代王権が、どのようにして成立したかを語るスレです。
前スレ
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1367800413/ 【注意事項】
・邪馬台国の所在地論争を楽しむためのスレではありません。
それを語りたい方々は、それ用のスレでお願いします。
・文献史学と実証史学の優劣、主従関係を語るスレでもありません。
それを語りたい方々は、それ用のスレを立てて、そちらでお楽しみください。
・社会の発展と特定個人の実在性は別問題です。
古代ヤマトの地に突如として花開いた王権成立のメカ
ニズムについて語り合いましょう。
どっかからのパクリ
─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね
て
まだやるのか
キチガイ記紀厨が来るだけだぞ
キキキ○ガイは、何故このスレに来るか分からない。
考古学重視のこのスレで、記紀に書いてあることは正しいを前提に、
2〜4世紀を語られても失笑の対象なだけなんだけどw
>>5 >>6 ← たぶん同じやつ
考古学重視なら「考古板」でやればよい。
ここは「日本史板」なので、考古系も文献系も鳥越のような民俗学系も当然あり。
8世紀成立の文献に書かれた2・3世紀の出来事についての信憑性など
頭ごなしに否定しないまでも保留するのが普通の態度だと思うんだが
そこの根本認識は絶対に溝が埋まらないんだな
>>8 突き詰めれば標本の上下関係にしかすぎない土器の個人的な印象による編年の信憑性など
頭ごなしに否定しないまでも保留するのが普通の態度だと思うんだが
そこの根本認識は絶対に溝が埋まらないんだな
土器編年で分かる前後関係はかなり精度が高いと思うがな。
ていうか編年って、そういうものだしw
最近まで暦年代が印象で語られていて、
佐原とか小林が適当に思いつきで書いてた、いい加減な暦年代が
理化学年代で漸く修正されつつあるという。
佐原とかは考古学の大御所だったから、長らく権威として広まってしまって、
未だにそのいい加減な暦年代観を引きずっている輩もいる。
このあたりまでさえ理解出来ない輩と、話していても仕方がないと言うかw
ネウォティ
空気を読まずにレスしてみるw
>>3 冒頭の「2世紀末頃」以外については、たいていの人は同意なんじゃないかな。
この部分は、3世紀半ばと見る人もいれば3世紀末あるいは4世紀初頭だと言う人もいる。
いやまあ、マキムクの実年代に関しては、未だに決定とは言えないのは確か。
しかしほぼ二世紀末から三世紀初頭がマキムク開始で間違いない。
その可能性が高いのは事実。
なんか記紀読んで実年代を復元した!
とかw
畿内説の陰謀で、
とかw言ってるバカが喚いてる印象。
,つうか纏向の開始が2世紀末という根拠は纏向の土器だけでみればないだろう
この根拠をはっきり言えるやつはいるか
東田土坑、辻土坑の土層、あるいは高杯や小型器台の出現から
相対的な年代は間違いないと思われるが
では年輪年代をあてにしない場合で実年代の定点となるものは何なのか
西新や惣座、あるいは廻間との共伴でもいいが
このあたりを詳しく論じられるやつはいるか
16 :
日本@名無史さん:2013/07/05(金) 07:00:35.68
白石とか考古学そのものの研究に関してはすごくまともなのに、
ヤマト王権の確立の問題とかなると、
なんでデンパ説に嵌ってしまうのか。
考古学なんていうのは所詮は傍証研究
ということに堪えられなくなってしまうのかもしれない。
考古学者は発掘調査報告書や論文によって評価されるべきもので
一般向けの新書やシンポジウムは古代史フアンを盛り上げるための要素もあるからねえ
18 :
日本@名無史さん:2013/07/05(金) 10:11:22.00
そもそも一般向けなら、いくらか色を付けて話しても許されると思うのが間違い
いつでもどこでも学者は学者であるべき宿命。
>>15 弥生甕と庄内甕が混在している畿内の実年代は難しい
ただし西新と庄内の共伴例は多くあるので
大陸系の遺物が多い北部」九州のほうが実年代の定点としてはとりやすいだろう
畿内の土器と九州の土器との併行関係からある程度分かるんじゃないの?
そもそも佐原とかが言ってた「古い」実年代観は、大陸遺物が殆ど無い畿内の遺跡で、
倭国乱を弥生後期初めに当て嵌めただけなんであって
古い土器編年の実年代観は小林が崇神没年を当時の文献史学の流れによって
318年としたことでああなった
古墳時代開始が4世紀からというのは実は根拠はない
その当時から畿内編年と北部九州編年のズレは指摘されていた
ただし纏向が2世紀末から、つまり纏向編年の1類がそのあたりというのは
北部九州との並行関係を考えた上でも大きな根拠はない
かなり前後に幅をとって考える必要があると思われる
小林の年代観がどうしてそうなったかは
弟子の都出比呂志がきちんと書いている
>小林は崇神を実在の天皇と考え、かつ伝崇神天皇陵をその墓と考えた
崇神の没年に関する「古事記」の崩御干支を西暦に換算すると318年となる
したがって伝崇神天皇陵は四世紀初めの古墳と考えてよいが、この古墳は
前方後円墳としては非常に整った完成された形式である
このような整った形式の前方後円墳の登場以前に、もう少し形式の整ってない
古い段階の古墳があったに違いない
したがって最古の前方後円墳は四世紀初めよりも一世代くらい古く
三世紀末くらいに考えるべきだ、というものです
都出比呂志 「史話日本の古代二 直木孝次郎編 作品社」
古い実年代観はこのような小林の影響下に編まれ、亡くなるまで変えにくかった
現在の年代観に光谷年輪年代が微妙に影響を与えているのは否定出来ない
これが正しいかどうかはともかく現状では追試がきかないため
考古学者は積極的にこれを活用しにくい
論文に取り入れても光谷こけたら自分もこけたという怖れがあるからだ
かなり難しい状況になっている
そうなんだよな。
考古学者の大半は土器編年で語り、暦年代で語りたがらない。
暦年代無視だから、当然邪馬台国問題にも興味がない。
素人からすれば、それが不満。逃げてるように見える。
土器編年の暦年代は縦から追うか横から追うかだが
横から追うというのは共伴が認められ並行関係にあると確認された土器が実年代の定点を持っているかどうか
縦からというのは庄内の前の弥生土器、あるいは布留の後のTK土師器に定点を求める
さらに縦横の軸は交差している
○TK須恵器
28 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 06:44:09.28
古代は資料が少ないから考古学の占める要素は大きいが、
それをもって、たとえば壬申の乱の時や
はたまた家康の時の「関ヶ原」なんて語ることはできない。
考古学遺物がないからといって、
まだまだ「記紀」は恣意的に自説に都合のいいように
切り貼りされすぎている。
考古学に軸足を置いて、古代ヤマト王権の成り立ちを語る
ってのがこのスレの趣旨。
記紀は間違いが多いが、全部否定するのではなく、
考古学で検証して使えそうなところは使う、くらいかな。
考古学>倭人伝>>>>>記紀になるのは仕方がない。信憑性で言えば。
ひとまず実年代はおいといたほうがいいんじゃね
纏向が2世紀後半とか言い始めるとおかしくなる
実年代を置いとくと、倭人伝が使えないからな。
まあ、記紀の実年代を復元したとかのキ○ガイを相手にするのは疲れるがw
>>29 記紀は間違いが多いが、全部否定するのではなく、
上面だけ読み流して「記紀は間違いが多い」ですまして、気にいらないところを飛ばせば事足りるとか言うのではなく、
”なぜ”記紀の記述はおかしいのか? もっと踏み込んで考える段階に来ていると思いますが。
同じく纏向くを発掘した石野と関川ですら年代観が違うのだし
考古学者の受け売りで実年代を言っても、その根拠を自分のレスで説明できなきゃ
たいして意味がない
もっと言えば土器でも鏡でも自分でどう形式が変化をしてるのか
きちんと見て調べておくことは大切だと思う
そうでないとただの考古学厨と言われかねない
>>32 やはり同時代史料でないからな>記紀
後世の混乱やら錯誤、改変、脚色があったと見るべきだろう。
八世紀で既にかなり混乱していたからこそ、記紀を編纂しようとなった訳だしな。
考古学で分かってきたヤマト王権の成立プロセスとは大分違うし、
天皇陵の比定もかなり混乱している。
>>34 考古学で分かってきたヤマト王権の成立プロセスとは大分違うし、
へぇ〜 どう違うんですかね〜? 私には書記の内容と
>>3 に書いてあることとは概略一致しているように読めるんですけどね〜。
まず、万世一系というのが違う。どうやら複数の王統があったようだ。
これは倭人伝の共立の記述とも合致する。
あと、初代大王の即位の場所が違う。
恐らくヤマト王権の最初の大王は、マキムク近く三輪山付近で即位しているだろう。
記紀にも崇神をハツクニシラスとする伝承が残ってはいるが。
神武伝承にあるような派手な遠征やら軍事的衝突は見られず、
むしろ各地の勢力がマキムクに集まって、比較的穏健に大王権が始まっている。
日向の影響がマキムクに見られない。
むしろ日向の西都原がマキムクの影響を受けている。ベクトルが逆。
38 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 06:46:23.82
近年、益々「記紀」否定論者の願望にかかわらず、
の記述が考古学事実とも合致していることが顕著になってきた。
というよりも戦後の逆皇国史観が未だに根強く残っているし、
遺伝子学が発達してきているのに、
未だに稲作半島渡来説を捨てきれない現在の研究者も多い。
モノを遠方に大量に運ぶより、コトを遠方に大量に運ぶほうが楽
>>37 まだ
>>36の見方はマシな方だよ。
考古学者は記紀を出鱈目として全く相手にしない人が多い。
考古学関係の本を読めば分かる。殆どが記紀には触れていない。
まあ確かに、どうとでも解釈出来てしまう記紀の記述を
安易に史実とみるのは学問的ではないし、むしろ神話学やら民俗学的知識が必要。
41 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 13:53:54.99
口伝えの歴史は神話である
記紀に断片的な真実がぱらぱらと入ってるのは確かだろうが
それだけ選んで取り出すのは不可能に近い
>>42 そうでもない。
たとえば、崇神紀十年となっている「是後倭迹迹日百襲姫命為大物主神之妻・・・・」から十一年の前までの箸墓に関するひとまとまりの記述は、あきらかに差し込み記事。
これは崇神十年だけのことではない。
景行紀の「九州巡幸」「日本武尊西征」「日本武尊西征」もそれぞれ独立した差し込み記事として読める。本来の逐年記事はきわめて少ない。
さらに神功紀十年以降の半島に関する記述も差し込み記事 等々・・・・・・
これまでの「既にできあがった体裁は神聖不可侵にして絶対に崩してはならない、そのまま解釈しなくっちゃあならない」という上面だけをなぞる段階から、それぞれの原典に遡って考察しようと言う段階になってきている。
>>43 ○ 「日本武尊西征」「日本武尊西征」
× 「日本武尊西征」「日本武尊東征」
>>43 「明らかに差し込み記事と分かる」ってのがすでに恣意的なんだよw
他の記事が差し込みで無い保証がないというw
記紀の前に、そのプロトタイプになる歴史書があって、
古くから比較的正しい史実を伝えてる、てのは希望的観測、幻想だろう。
少なくとも八世紀には卑弥呼が誰か分からなくなっていて、
神功皇后に当てられるという混乱ぶりなんだから。
その辺は新約聖書でも議論が尽きないところだね。Q資料とか。
現代の記紀研究の水準で言えば、比較的信用出来そうなのは崇神から、
ということらしい。
神武伝承は、初代大王は華々しい武勲を挙げたから初代大王になったという始祖顕彰の物語。
考古学から見る限り、突然奈良盆地に超巨大中央集権国家が生まれたとは思えない。
西日本の拠点集落の首長たちが談合して共立したのが初代なのだが、
それでは王権の正当化が出来ないから、天孫降臨やら神武東征とかが追加されたと。
>>45 コイツもバカ
記事の内容別に分類して、それぞれについて妥当性を検討しようという考え方のどこが恣意的なのかな?
他の記事が差し込みで無い保証がないというw
書記の記述は各代冒頭の「帝紀」の部分以外全部差し込み記事。
この後もいちいち書き込みをするのもばからしいので省略
論理的に反論出来ないとすぐに馬鹿とか言い出すからなあw
記紀の内容の妥当性を検証するツールが何か?ということなんだよ。
それは本来、考古学であり倭人伝。
記紀を検証するのに記紀を用いるとか、
リアルに書いてるから史実じゃね?とかw
妄想と言われても仕方がないw
>>47 > 神武伝承は、初代大王は華々しい武勲を挙げたから初代大王になったという始祖顕彰の物語。
だから初めから「神日本磐余彦」すなはち「大和が成立する以前に、その先駆けとなることを行った人」という贈り名が付けられているわけで。
> 西日本の拠点集落の首長たちが談合して共立したのが初代なのだが、
それはこの前のスレで既に出ている。以下コピペ
崇神紀七年
命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物・・・・・・
為祭倭大国魂神之主。然後卜祭他神、吉焉。便別祭八十万群神。仍定天社。国社。及神地。神戸
日本各地の物部系の人々を笠縫に集めて大がかりな祭祀の準備をさせた。ここで物部系というのは、吉備や筑紫、讃岐、播磨などの首長連合とほぼ同義。巻向出土の土器の地域ともほぼ同じ。
そして日本中の神々に対する祭祀を行った。つまり祭祀権を掌握したと言うことはその下にある統治権も掌握したという事ね。
この祭祀は大殿祭(おおとのほがい ← 検索)と呼ばれる物のようで、つまりこの祭祀に招請されたのが張政等であり、その様子が倭人伝に記述された邪馬台国での状況と言うことになります。
いやだからさー
崇神紀のその部分が史実とする根拠は何なのよ?w
更には、張政とか勝手に追加してるしw
>>51 更には、張政とか勝手に追加してるしw
まず始めに 宗女壹與十三歳 = 豊鍬入姫 と置く(これは作業仮説で、最終目的ではない)そして崇神六年 天照大神の祭祀が巻向から笠縫へ移行する。
この崇神六年と壹與が張政にあった正始八年(AD247)の関係を考えると、崇神六年は247年以降ではあり得ない。逆に遡りすぎると斎王に就任した年齢が幼くなりすぎる。AD244〜246年頃と考えるのが妥当。(ここで文献上の”仮”定点が出てくる)
そして上にも書いた 崇神紀七年
命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物・・・・・・
為祭倭大国魂神之主。然後卜祭他神、吉焉。便別祭八十万群神。仍定天社。国社。及神地。神戸
張政はこの崇神紀七年に笠縫邑の磯堅城神籬で行われた大がかりな祭祀に招請されたと推測する。
この天照大神を祀る笠縫邑の磯堅城神籬というのがつまり
「名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」
だいたいの所はお分かりかな?
53 :
追加:2013/07/08(月) 22:15:59.33
今まで誰も考えなかった笠縫(未発掘)というのが出てきました。
この時代の出来事は何でもかんでも強引に巻向に結びつけるのではなく、「巻向 → 笠縫」のナガレの中でプロットしていくべきだと思います。
>>47 >考古学から見る限り、突然奈良盆地に超巨大中央集権国家が生まれたとは思えない。
>西日本の拠点集落の首長たちが談合して共立したのが初代なのだが、
これらの根拠は?
>>52 >だいたいの所はお分かりかな?
ゴメン、わからんです。
さらには、何で、このスレで自論を展開することに固執されるのかもわからんです。
貴説の推敲は、別スレ立てて、じっくりと取り組まれた方がよろしいかと思います。
>>55 まあ 笠縫を掘り起こしてみればだいぶ判るでしょうね。
もっとも あそこは古くからの住宅密集地なので、すぐには発掘不可能。100ねんかそれ以上かけて住宅の建て替えの時を狙ってちょこちょこ掘ってみるしかないようですが。
笠縫のすぐ南の多遺跡でもチョコットは出ているみたいですが。
>>52 ていうか、「僕は記紀をこう読み解いた!」ってだけでw
そこから先の議論なんてないんじゃないの?
チラシの裏に書いておけレベル
>>57 そこから先の議論なんてないんじゃないの?
・ 統合国家としての大和は笠縫で成立した。
・ 巻向はそのための準備段階であり、これを実際に仕切っていたのは欝色雄・伊香色雄の父子(物部)。
・ 笠縫を拠点に、後年元伊勢と呼ばれるような抵抗勢力に対して、天照大神の名で討征軍を派遣していた。
というのが大筋かな。
まあ 実際に笠縫を発掘してみて、何か出てきてからの話ではあるが・・・・
視野は広く持った方が良いと思いまあす。
なんだ、カシハゲくんかw
相変わらず頭がおかしいなあ
マキムク=物部王権とか言ってるけど、
その超巨大豪族モノノベは、どのように生まれたんだい?
>>59 >>60 > マキムク=物部王権とか言ってるけど
孝元、開化、崇神の元で、実際に仕切っていたのは欝色雄・伊香色雄の父子に決まってるだろう。 日本書紀を読んだことがないのか?
> 超巨大豪族モノノベ
物部というのは簡単に言えばニギハヤイの尊を祖神とする各地の首長の連合体みたいなもの。単一の豪族名ではないぞ。日本史の基本な
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海とか各地にいる。
全く回答になっていない件
その超巨大豪族モノノベの奥津城、墓域は、マキムク石塚から始まったとして、
どのように変遷してるんだろうか?
思いつきで適当なこと書いてましたと謝るなら今のうちだよw
>>61 俺の住んでる新潟県上越市に、「武士(もののふ)」という地名(大字)があるんだけど、
その近くに物部神社があるんだよな。
最終的な「武士」という字が充てられたのは近世だろうけど、「もののふ」という地名が
ついているあたり、物部の進出はけっこう古い気がする。
物部が大和朝廷の東国経営に携わって、各地の豪族たちを
同族化していったのは事実だろうし、実際、古代史研究でもそう言われているのが通説。
ただ、カシハゲが言うような二世紀三世紀ではなく、
五世紀以降とされてるんだよな。
物部氏は八十物部と言われる位同族が多いと言われているが、
大半は五世紀、ヤマト王権が全国に版図を拡げる中で、
全国各地の豪族たちを取り込んでいって、擬制的氏族関係を結んだ。
全部に血縁があったとか、バカな妄想。
>>62 >>63 ↑ コイツラ日本史の基本的なことを全く理解していない。
物部のルーツは北九州遠賀川の流域(鳥越)、そこから出発して各地に支族を分散させながら河内までやってくる。やがて奈良盆地に侵入し
後からやってきた凶暴な天皇氏の元で、磯城津彦など先住部族と色々悶着があったあげく他の物部系の氏族と共に確立したのが大和。
> その超巨大豪族モノノベの奥津城、墓域は、マキムク石塚から始まったとして、
> どのように変遷してるんだろうか?
布留あたりに本拠地があるのに、なんでマキムク石塚が物部になってしまうの?
>>65 > ただ、天才様が言うような二世紀三世紀ではなく、
> 五世紀以降とされてるんだよな。
「物部」と言う名前ではなく、それ以前の名前である越智(恩智(河内)、愛智(えち 尾張)、愛知(滋賀 息長)など)で考えような。まさか知らなかったりして
地域名としては「三島」というのがある。摂津三島、河内三島、伊予三島などなどたくさん。
これらの名前は当然弥生時代に遡りうる。
いやまあwそれじゃあ
遠賀川から派生した超巨大古代豪族モノノベの
奥津城の変遷を書いてみたら?w六世紀まで。
ホントからかい甲斐があるなあ
70 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 01:02:56.59
モノノベが大王と並ぶ位の大豪族で六世紀まで続くなら、
当然大規模な古墳群を造営してる筈だけどなw
そんな痕跡どこにもないんだけど?
>>70 オマエひつこすぎ。私は一度も物部が大豪族だと言ったことはない。
> 当然大規模な古墳群を造営してる筈だけどなw
> そんな痕跡どこにもないんだけど?
おまえ高井田の横穴古墳群とか見たこと無いのか?
なんでマキムクから何百年も後の高井田が出てくるんだよ?w
あとまあ、三島古墳群にしても三世紀後半の弁天塚はあるが、
同時代の奈良盆地の桜井茶臼山とか西殿塚とかと比べるて明らかに小さい。
山城の椿井大塚やらと同規模なんだが?
論理的に反論出来なくなると、すぐに「お前シツコスギ」
と言うよなw>カシハゲくん。
あとまあ、カシハゲを天才に勝手に脳内変換してるのはワロタwwwww
>>72 それは当然そうなるでしょう。
大王墓の築造に人員を供出して、さらに自分の所でも人民をこき使うとかあり得んわな〜。
>>73 「しつこい」ではなく、正しい大和言葉では「ひつこい」な。
「ひきつく+こい」→「ひつっこい」が正しい。
遠賀川流域の横穴墓群も6世紀以降とされてるんだが
公州丹芝里の横穴墓群も2、3世紀にする気かいな
>>76 鳥越憲三郎 大いなる邪馬台国
内容はかなり古くなっている部分もある。
79 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 07:35:19.02
なんと低レベルなやり取りだこっちゃ。アキレタ。これが畿内説だね、
「ひつこい」は「しつこい」が訛った方言だろw
正しい、間違いとかじゃねーし
何かお前、全体的に考え方がズレてるよ。
81 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 19:54:58.35
宮内庁管理の古墳で盗掘図る 侵入男「地層知りたくて」
宮内庁が陵墓として管理する奈良県天理市の前方後円墳、西殿塚(にしとのづか)古墳(全長約230メートル)で昨年、
考古学愛好家の男が盗掘を図っていたことが分かった。男は巡視中の宮内庁職員に見つかり、被害はほとんどなかったという。
関係者によると、男は昨年8月、宮内庁が第26代継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の墓として管理する同古墳に侵入。
前方部頂上にある一辺約22メートルの遺構「方形壇」の表層をシャベルで掘り返していたところ、書陵部畝傍陵墓監区事務所の職員に見つかり、
天理署に引き渡されたという。
ttp://www.asahi.com/national/update/0710/OSK201307100015.html
>>80 日本史の根幹を成す大和の成立を扱うスレにやってきて、「大和言葉は方言だぁ」とかwwww
ひつこいだろうが、しつこいだろうが、どっちでもいいw
そんなことにこだわる頭がおかしいよ、と折角教えてやってるのにw
ホントお前はズレてるよw
>>81 この「考古学愛好家の男」の職業は何でしょうね?ちょっと気になる。
・・・・・・ひょっとして 職業も考古・・・・だったりして・・・・
ずーっと現代語で書いてて、なんで「ひつこい」だけ大和言葉にするのかわかんないんだけどwww
現代語と本来の自分たちの言葉の間に断絶があるのは、明治維新によって標準語(笑)とかを強制された東京とかだけ。
畿内 とくに大阪は「あなにやし えぇおとこ」以来現代に至るまでずっと断絶のない大和言葉。
「あなにやし」を大阪で使う?
>>87 「あなかしこ」というのは お祓いの言葉として微かに残っているね。「あなおそろし」なんかもある。
89 :
追加:2013/07/11(木) 03:14:38.25
「〜やし」というのは普通に使う。「あなにやし えぇおとこ」を現代で使われている形にすると、「すごいにーちゃんやし えぇおとこ」。
90 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 06:57:09.17
>>67 物部氏の拡がりはヤマト王権の成立する大分以前からあった、
と考えると、
「記紀」や「旧事本紀」の記述が問題となる。
それによると、物部氏の祖ニギハヤヒの河内、ヤマトへの定着は、
神武と同時期か少し前ということになる。
物部氏の勢力拡張についてはまだまだよくわからない。
>「三島」
という地名と物部氏との関連とはどういうこと?
>>90 だからーw
何度も書いてるけど、記紀の記述の内容の真偽は、
考古学で検証しないと駄目だろ?
記紀ってのは皇室氏の正当化という意図と、
豪族と皇室との繋がり、関係性をあらわした書。
豪族たちは自分の祖がいかに古くから、天皇に職掌を与えられ、仕えてきたかを自慢したい。
記紀はそういった豪族の始祖伝承を取り入れている。
物部にしても同じで、五六世紀に台頭し、自分たちの祖先を粉飾したとも考えられる。
93 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 01:36:31.76
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。
94 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 05:44:41.88
95 :
ローガン:2013/07/12(金) 15:21:25.68
>>91 >豪族たちは自分の祖がいかに古くから、天皇に職掌を与えられ、仕えてきたかを自慢したい。
逆。真人と朝臣の優劣は近親か否か。
多くの朝臣の始祖は、欠史八代。
うーん、どうなんだろ?
確かに吉備とか葛城などの皇別は、始祖が昔大王だったと言い、
反乱伝承などが多い。
対して神別の大伴や中臣などは、天孫に随伴したなど、
いかに古くから大王に仕えていたか?を誇っているように思いますが。
おいローガン
>>91 は学校かどっかで習ったことをそのまま受け売りで並べ立てているだけだぞ。
そいつに触っちゃダメ!
98 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 06:51:25.92
>>92 >三島
については、貼ってもらったところをざっと見たが、
やはりよくわからない。
それと確かに物部と中臣は近い関係にあるが、
>同族
といえるかどうか。
「記紀」や「新撰姓氏録」その他を完全に信用するわけではないが、
やはり力関係で(物部は政権中枢、中臣は神官)
中臣はそれなりに独立性は保ちながら、物部の下につくことによって、
地位を上げたのではないか。
「日本書紀」では(神話部を除いても)
昔からかなりの地位にあったような記述があるが、
これは制作主体の藤原史が祖先の中臣氏の過去を潤色したことによるから、
割り引いて考えなければいけないだろう。
日本書紀の製作主体が不比等?w
不比等って凄い名前だよな。くらべて等しからず、か。
大伴旅人=多比等は逆の意味で、凡人という意味?
不比等は元々は史人の意味で、歴史編纂に功を挙げたのが
後世、不比等と当て字されたんじゃなかろうか。
>>100 まず 日本人の名前を理解しようとすると、氏(うじ)と姓(かばね)について理解しような。
例えば 物部守屋という名前は物部朝臣というのが姓、守屋というのが氏、個人名は判らない。現代でたとえてみると、「本田技研の豊田さん」略して「Honda 豊田」というようなもの。
それでは 初めが姓で、二番目が常に氏かというとそうとは限らない、蘇我の馬子、蝦夷、入鹿の場合には養育された乳母方の蘇我配下の氏族名だと思われる。
(まともに日本史を理解できないバータレどもが 蘇我を貶めるためにこんな非道い名前を付けたんだぁ とか騒ぎ廻っているやつな)
入鹿については鞍作大郎と言う呼び方もあるが、これは鞍作(蘇我)の大郎(長男)と言う意味でやっぱり個人名は判らない。
藤原不比等についても不比等が藤原配下の氏族の名前である可能性は大きいが、それを直ちに「歴史編纂の功」とかに結びつけるだけの根拠はない。
俺も氏姓制度は詳しくないが、
物部朝臣とか書いてる時点でこいつが信用できないのは流石に分かったわw
103 :
101:2013/07/13(土) 22:18:11.62
>>102 ゴメン 物部の姓はは連(むらじ)だったね。
そうすると配下の有力氏族が代毎に替わり過ぎな気がするんだが
>>104 子供が生まれたときにお乳の出る女の人がいる氏族に預けると言うことだと思いまふ。変わるのは当然。
有力でもない、お乳の出る女の人がいるだけの氏族名がそんなに重要だったのだろうか
またうまい具合に重なりもせず、順番にお乳の出る女の人がいる氏族が替わったと
記紀厨はおいといてこのあたりのことを考えてみたらどうだろう
・なぜ環濠集落は解体されたか
・前方後円墳はどうしてできたのか
ルーツ、形状、宗教的役割とか
108 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 16:53:02.06
考古学としては面白いかもしれないが、それは「歴史」で語ることか?
>>108 その歴史を語るというのは
他のスレでもできるだろう
>>106 > 有力でもない、お乳の出る女の人がいるだけの氏族名がそんなに重要だったの
重要なわけナイ。 だから馬子、蝦夷、入鹿とか言う名前が付いている。
> 順番にお乳の出る女の人がいる氏族が替わったと
氏族と言うより身の回りにいる使用人な。 甘橿の丘とかについて調べてみよう。
>>107 > ・なぜ環濠集落は解体されたか
・前方後円墳はどうしてできたのか
ルーツ、形状、宗教的役割とか
>>107 > ・なぜ環濠集落は解体されたか ← 戦争が終わったから。
> ・前方後円墳はどうしてできたのか ← 円墳に祭祀部を継ぎ足してできた、
> ルーツ、形状、宗教的役割とか ← 箸墓、解答済み、見せびらかすため
ハイ完了
>蘇我の馬子、蝦夷、入鹿の場合には養育された乳母方の蘇我配下の氏族名だと思われる。
>氏族と言うより身の回りにいる使用人な。
どっちなの
115 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 22:38:02.04
記紀はバカに出来んと思うな。発掘で記紀に書いてあることが出てくるとか。
神武にしても、大和へ入ってすぐ「王になった」という内容じゃない。
記紀が描く大和入り以降は、大和盆地の片隅で近隣の豪族と政略結婚を
繰り返しながら、地盤を固めているすがたにみえる。
奈良盆地の南のはしっこをうろうろ。
ただ、今の地図で見るから端っこなだけで、奈良も大阪平野も今とは違い
もっと狭かった。奈良は中心部は沼か湖か氾濫原。大阪は平野とは言えない。
大掛かりな土木工事が出来る前は、大きな川の下流は耕地にならない。
小河川の扇状地あたりしか耕地に出来ない
奈良で歩いてみると、平群氏や葛城氏や天皇家の地盤の磐余など、弥生遺跡が
分布しているところばかり。
初期の古墳も、纏向周辺、桜井茶臼山、メスリ山古墳とこの地にある。
平群谷いいよ〜
>>107 環濠集落が解体されたのは、やはりそれまでの弥生由来の拠点集落を中心とした政治経済体制が
上手くいかなくなったからだろう。
弥生後期、寒冷化やら地震、洪水などの天変地異が多発していたことが分かっているが、
その中で大陸由来の神仙思想が伝わり、新しい宗教やら政治体制が構築されるようになった。
ヤマト王権の始まりを語るとすれば、
考古学的アプローチか中国文献史料のどちらかになるだろう。
記紀厨には悪いがwwwww
中国文献によれば、倭は呉の太伯の後裔と自称していたとする。
揚子江→山東半島→朝鮮半島南部を経て稲作やら大陸文化が伝播したのは恐らくその通りであり、
呉の末裔というのはあながち無理があるということはない。
考古学的に言えば、吉備と阿讃播に誕生した王権が畿内に伝播し、
中河内・大和の在来勢力がそれに乗っかったということだろう。
記紀が間違いだらけで、当てにならないからだろ?w
記紀を信憑性を確認するには考古学的知見が必要。
もともと呉の太伯の裔を名乗っていた倭人が、
天から降臨した太陽神の子孫に改変したのは、
おそらくは六世紀、継体以降。
神武伝承が生まれたのはおそらくその頃で、
磐余に宮があった継体の頃にイワレヒコの伝承が生まれた。
外部から入り婿した継体は自らの王位の正当性を強調する必要があり、
神武始祖伝承を生み出した。
恐らくは西から来た偉大な征服王、応神の伝承を下敷きにしたのだろうと思う。
雄略天皇が治天下大王と記された剣が見つかってるから、天孫降臨の王権神話は継体以前にさかのぼると思われる。
治天下大王は確かに雄略が名乗っていただろうけど、
倭王武を記載してる梁書で、倭が呉の太伯の後と自称してると書いてるからなあ。
対外的には呉の太伯の裔と言い、国内向けには天子を名乗っていたのか?
どちらにしても治天下大王って呼称自体、そんなに古くまで遡れないだろう。
124 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 00:05:56.77
魏書以来の記述を踏襲しただけじゃね?
雄略帝以降冊封を受けてないんで、中国のお墨付きをもらわなくても、自前で権威を発行できるようになったのは確かだろう
倭の五王の遣使は、中国南朝が勢威を増して山東半島を抑え、
倭国に圧力をかけてきたから、という説があったが。
初期大王墓で言えば、箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山。
西殿塚〜メスリ山は明らかな大王墓なのに、その被葬者の伝承が一切残っていない。
古墳中期で言えば、履中陵→応神陵→仁徳陵→ニサンザイと
順番が記紀とまるで違うし、ニサンザイが誰の墓かも分からない。
記紀の伝える伝承やら皇統譜は明らかにおかしい。
記紀厨はどう考えているんだろう?
>>126 天皇陵がどこだかわからなくなったのは主に中世以降
記紀は8世紀以前の情報だから間違いは少ない
牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵とされるのも「記紀の記述と一致してるから」
履中天皇陵だって「百舌鳥耳原南陵」という名前から記紀の編者はニサンザイ古墳のことを示していた可能性もある
江戸時代の国学者の比定が記紀の編者の考えてたことと完全に一致するとする発想はおかしい
古墳時代初期の古墳の被葬者が誰かなんて全部わかってたらそれこそ創作の証拠だろう
銅鐸も何だかわからない奴らなのにか。
>>126 文献資料(帝紀)の埋葬年と、主要古墳の考古年代はほぼ一致している。最後のほうの表に出ている。
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html 西殿塚〜メスリ山については古代の”まつりごと”の役割分担について考える必要がある。
”まつりごと”を祭祀と政治に分けて考えた場合、祭祀が上に来る。従って 世俗の政治を担当する者の墓よりも大きな、少なくとも同規模の墓があっても不自然でhzない。
隋書にある「倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟」というのは、この時代になってもこの「祭政分離」が行われていたという事かも知れない。
西殿塚は後円部と前方部の両部に方形壇があるようだけどな
>>127 百舌鳥三陵の位置関係が書かれたのは、9世紀の延喜式だろ。
で、その時点で、誰の陵が分からなくなってたということ。
ニサンザイが履中陵なら、それより前に造られた上石津や大仙が誰の古墳?となる。
そもそも上石津が造られた後に、古市古墳群の伝応神陵が造られてんだから。
諦めろw
>>131 ところで伝応神陵の築造時期はいつごろなんだ?
土器編年で前後関係が分かるだけで、実年代は関係ないだろ。
ぐうの音も出ないけど、なんか言い返したかったんだろう。
>>131 延喜式のどこに百舌鳥耳原南陵がニサンザイ古墳だなんて書いてある。
仁徳天皇陵である大仙古墳がその息子の履中天皇陵より古いのは当たり前だろ。
上石津ミサンザイ古墳は誰の墓かわからない。わからないから応神天皇陵より古くても問題ない。皇子や妃の一人の墓がどこかなどわからなくなってしまうぐらいやむを得ないことだ。
記紀の編者がまるっきりの創作をしたのだったら反正天皇陵を田出井山古墳よりも大きな上石津ミサンザイ古墳にしただろう。記紀がデタラメを書いているのならなぜ反正天皇陵をあんなに小さい古墳にしたのか教えていただきたいものだ。
記紀が言うところの反正陵は、あくまでも百舌鳥耳原の北の陵だけであって、
田出井山古墳のことだとしているのは、宮内庁書陵部の公式見解。
記紀編者の見解と言いきるのはどかな。
つーか、ホントに万年ループな展開だね。
往生際が悪いなあw
記紀には百舌鳥耳原には大王の陵が3つあると書いてて。
延喜式ではそれぞれ百舌鳥耳原中(仁徳)、南(履中)、北陵(反正)
としている。
しかし、百舌鳥古墳群で上石津(伝履中)が一番古い大王墓なので、
これを仁徳陵=耳原中陵とした場合、
次に造られた大仙古墳(伝仁徳)は上石津=中陵より北にあることになる。
となると、耳原北陵=反正が大仙古墳となるのか?
しかし、上石津より南で大王墓らしい墓は土師ニサンザイ古墳くらいしかない。
しかしニサンザイは大仙より新しいので、
履中陵としては相応しくない。
まあ、結局は記紀の陵の被葬者なんてあてにならないということだ。
古墳中期の大王墓は、奈良盆地北部の佐紀盾列から古市に移って。
その後に百舌鳥で履中陵、次に古市の応神が造られ、更には百舌鳥で仁徳陵が造られる。
古市と百舌鳥の造墓集団が交互に大王を輩出していた、
というのが最新の考古学の研究で分かってきていること。
「記紀は正しい」とか何度も連呼されても、そんなものは宗教だからw
>>137 延喜式の記載では兆域は百舌鳥耳原中陵、百舌鳥耳原南陵、百舌鳥耳原北陵の順に大きい。
百舌鳥耳原北陵は東西三町、南北二町とあるが、その大きさでは大仙古墳の前方部と後円部の両方を含むことさえ不可能だ。
何度も言うが履中天皇は仁徳天皇の皇子なので履中天皇陵が仁徳天皇陵より新しいのは当たり前だ。全く意味がない。
おそらく百舌鳥三陵とは、大仙、上石津ミサンザイ、土師ニサンザイのこと。
古い順番にならべれば、@上石津A大仙B土師になるので、
@仁徳A履中B反正が正しいのだろう。
しかし9世紀の延喜式の段階ですでに混乱があったのだろうと思う。
高名な仁徳が百舌鳥で一番巨大な大仙古墳だという思い込みがまずあって、
上石津を百舌鳥耳原北陵=反正、土師ニサンザイを百舌鳥耳原南陵=履中とした。
その後、江戸時代に更に思い込みが拡大w
南陵は百舌鳥古墳群の盟主である仁徳陵(大仙古墳)の南になければならないとされ、上石津が履中陵に。
北陵は大仙古墳の北となればめぼしい古墳が無く、やむなく田出井を反正陵とした。
土師ハゼは反正の転訛?wとかあったけど、
百舌鳥古墳群の中であの位置で「北陵」はないよなw
>>137 ↑ この手の古墳の新旧を論じてるつもりのやつは、いつも築造期間の問題を無視してを無視してわめき立てている。
つまり 巨大古墳は時間が掛かるので、築造開始が古くても、その築造期間内に完成してしまう中小古墳よりも完成した時期としては新しいという場合もあり得ることを全く考慮に入れていない。
コイツに一言だけ バカ!
築造期間が長ければ、墳丘に大量に立てられる埴輪に時期差が現れるはずが、実際にはない
ホントに馬鹿だよね
「まず、記紀は正しい」か言う激烈バカにバカと言われる筋合いはないわなw
無根拠に「記紀を信じます」とか宗教だから。
こう書くと、すぐに「記紀を全面的に信じるとか言ってない」
と返ってくるがw
しかしコイツが主張する記紀の記述の真偽を図る基準は
記紀そのものかw、記紀以降に書かれた史書、酷い時には脳内妄想というw
考古学は都合が悪いから完全無視wwww
まあでも考えてみれば、古墳時代って文献史学と考古学との端境期なわけで、
対等にコラボできる幸せな時代だよな。
>>142 古墳の築造に要する期間は盛り土に要する期間が殆どな。
墳丘に埴輪が建てられるのは、盛り土が完成してから、予め準備しておいた埴輪を一気に立てる。
だから 埴輪の制作時期は古墳の最終段階に近い時期に集中してそろっている。
古墳の築造年代を恐ろしく長くしてまで、記紀の記述は正しいと思い込む浅ましさw
なんか被害妄想の考古厨が一匹湧いてるみたいですね。
被害妄想も何もw
被害妄想は、記紀信者の方だろ?
悔しかったら、記紀は正しいの客観的根拠を提示してみたら?wwww
149 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 06:35:32.19
>>137 なかなか詳しいね。
しかし、親子間といったら、一世代25年〜30年としても、
それだけの開きしかない。
それで新しい古いを考古学的に検証できるかどうかが問題。
発掘されているものでも、不確定要素が多い。
まして、基本的には発掘できない遺跡となるとなおさら。
延喜式の内容から言って百舌鳥耳原中陵が大仙古墳、百舌鳥耳原北陵が田出井山古墳、
百舌鳥耳原南陵が上石津ミサンザイ古墳あるいはニサンザイ古墳であることは間違いない。(記紀と延喜式の認識が同じかは別として)
そしたら上石津ミサンザイ古墳→大仙古墳→ニサンザイ古墳→田出井山古墳の順に古かったからニサンザイ古墳が履中天皇陵なら記紀の内容と一致する。
問題点は田出井山古墳が小さいことと上石津ミサンザイ古墳の被葬者がわからないことだが、上石津ミサンザイ古墳は他の古墳より古いから伝承が失われたのだな。
反正天皇陵が小さいのは、それまで親子で継承していた大王位を、履中天皇、反正天皇と兄弟で継承した上に履中天皇と反正天皇が即位後数年で亡くなったのが原因だな。
どこに矛盾がある。
いや、それでいけば、百舌鳥耳原に大王3人で、御陵が4つとなり数が合わない。
それと応神の墓=誉田御廟山が、その孫の履中の墓=上石津ミサンザイより新しいとか
流石におかしくない?
>>150 伝承が失われたとかがあるから、記紀はアテにならないと言っている。
なんにしてもスレチ
154 :
日本@名無史さん:2013/07/22(月) 07:04:31.77
現在の研究レベルでは、
「記紀」完全否定の方が逆皇国史観というカルト思想。
ただ、自説に都合のいいように切り貼りして、
それに合わないところは否定するという恣意的な怠惰な研究が目につく。
ほとんど、何故そういう記述があるのか論証できていない。
紀年についても明治の学者を越えていない。
神武と崇神は同一人物で、
事績を二つに分けたとかというデンパまがいの思いつきの域を出ない妄説が
かつては「真面目」に論じられていた。
今でも神武は非実在が主流だろw
「倭の五王」は「倭の七王」だった!?
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」@…雄略
502年☆「武」A…武烈
★430年の「倭国王」は履中 → 438年「讃の弟珍立つ」
430年に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃」の子で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代王の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王「讃」のイメージが強烈だった中国側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と記録してしまった可能性がある。
つまり【父「讃」→子「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→子(履中/反正)兄弟】となり、大和朝廷の大王統譜と合致する。
☆倭王「武」は2人いた!
502年梁の武帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。
よって
@讃…仁徳、A倭国王…履中、B珍…反正、C済…允恭、D興…安康、E武1…雄略、F武2…武烈 となり、
「倭の七王」となる。
無理に大王系譜と合わせる必要はないと思うがな。
ただまあ、実在確実な継体の即位年に近い以上、
502年の武が武烈の可能性はある。
雄略=倭王武=武烈なら中国史書との整合性が取れるが。
413年と言えば倭・百済連合軍が散々な目に遭った高句麗の広開土王(379-412)が33歳で死んだ翌年だぬ
倭讃が朝貢したのはそれと関係があるのかな?
連合軍(笑)
関係はあるだろ
>>158 倭王讃が大雀大王だとすると、高句麗・好太王死去の知らせは、
(百済・新羅を臣下にした)父・誉田大王がついに果たせなかった高句麗征服も夢ではないと思わせるに十分だったろう。
ここは中国南朝に朝貢しておいて安東大将軍に叙勲され、半島での軍事活動を承認してもらい、南朝の後ろ盾を得て、
(高句麗征服後に対峙することになる)北朝を牽制する必要が出てきた、と判断したのかもしれん。
おそらく長年の半島大遠征で疲弊した民の年貢を1年間免除したのも、
大雀大王が好太王死去でご機嫌だったのかもしれぬw
倭の五王の遣使は「取らぬ狸の皮算用」だったのか…orz
高句麗征服が無理と判ると倭国は途端に遣使を止めてしまったしね…
502年の梁の武帝が一方的に倭王武を征東大将軍に進号したのは、
「倭王武よ、何を弱気になっておる。一刻も早く高句麗王/百済王と共に北朝を倒すべし!」との叱咤激励だろう
南朝が「高句麗王→百済王→倭王」の叙勲序列を最後まで変えなかったのは、北朝への牽制以外の何物でもない(地理的に使える順)
南朝にしてみれば、高句麗/百済/倭に手足(将軍)として北朝を滅ぼしてもらえれば、自分の懐が傷まずに済むし、
高句麗と百済/倭連合を戦わせて弱った時に、最後は新羅と結んで一網打尽にしてしまえば桶で、実際にそうなったしね
外交の世界っていつの時代も狐と狸の化かし合いですNe!
まさに同床異夢w
>>161 ひょっとすると、南朝(宋)が倭王に朝貢を持ち掛けたんジャマイカ?
「貴国の宿敵・好太王が死んだことだし、今後韓半島で活動しやすいように将軍に叙勲してやるから、
貴殿も今のうちに打倒北朝のメンバーに入っておかないか?」って。
170年前の親魏倭王=「邪」馬台国「卑」弥呼の時とは打って変わって、
東夷から朝貢を願い出てたら絶対に貰えないような立派な漢字名(讃珍済興武)を貰ってることからして。。。
「讃の弟、珍立つ」「済の世子、興立つ」「興の弟、武立つ」は、
南朝皇帝による中原再統一(北朝打倒)のために「立つ」ってか!?
代々の大王がまるで南朝の戦争マシーンにされたみたいで気分悪くなってきた。
そりゃ記紀の編者も、卑弥呼、台与、倭の五王の中国皇帝への朝貢は隠したくなる罠…
でも、そのせいで本当の歴史がまるで解らなくなっちゃったってどうよ?
所詮、想像だから、どうとでも
河内(応神)朝の家計図(6世代で男系途絶)
T世代 応神
├─────────────┐
U世代 仁徳 @稚野毛二派皇子
├──┬──┐ │
V世代 履中 / 反正 / 允恭 A意富富杼王
│ ├─┐ │
W世代 市辺押磐 安康/雄略 B乎非王
├─┬─┐ ├──┐ │
X世代 飯豊/仁賢/顕宗 清寧/王女 C彦主人王
└──┬──┬──┘ │
Y世代 武烈/手白香皇女┬D継体┬尾張目子媛
. │ ┌┴┐
欽明 安閑/宣化
どっとはらい
三輪(祟神)朝の家系図(5世代で男系途絶?) /…同母兄弟
開化
├──────────────┐
T世代 祟神 @彦坐王
│ │
U世代 垂仁 A山代大筒木眞若王
│ │
V世代 景行 B迦邇米雷王
┌┴──────┬──┐ │
W世代 五百城入彦皇子 成務/日本武尊 C息長宿禰王
│ │ │
X世代 品陀真若王 仲哀┬D神功┬武内宿禰(葛城氏の祖)
│ │┌?─┘
仲姫─────┬─────応神 【河内朝】
仁徳
170 :
日本@名無史さん:2013/07/24(水) 17:15:26.38
武内宿禰が応神天皇の父である説って何を根拠にしてるの?
外戚の隆盛=河内(応神)朝・葛城氏、飛鳥(欽明)朝・蘇我氏
仲哀 ┬神功皇后 ┌──武内宿禰──┐
│ │ │
【応神】 葛城襲津彦 蘇我石川宿禰
. │ ┌──┼───┐ │
仁徳────┬────磐之媛 葦田宿禰 玉田宿禰 満智
┌───┬─┴─┬──┬───┐ │ │
履中/住吉仲皇子/反正/大草香皇子/允恭 円大臣 韓子
├──┐ │ ┌┴┐ │ │
市辺押磐/飯豊 眉弱王 安康 雄略┬韓媛 高麗
┌┴┐ │ │ │
仁賢 顕宗 春日大娘皇女 清寧 稲目
├──────────────┬─┘ │
武烈 尾張目子媛┬継体┬手白香皇女 ┌──┼───┐
宣化. │ │ │ │
石姫┬【欽明】──┬───[堅塩媛・小姉君] 馬子
│ ┌┴┐ ┌────┤ ┌┴┬─┐
広姫┬敏達──┬推古 用明 穴穂部皇女/祟俊─♀ 蝦夷 倉麻呂
│ │ └─┬─┘ │ │
押坂彦人大兄王 ♀─┬─ 厩戸皇子(聖徳太子) 入鹿 倉山田石川麻呂
┌┴┐ │
舒明 茅渟王 山背大兄王
┌┴┐ ┌┴┐
天智 天武 皇極 孝徳
武内宿禰が応神天皇の父である説って何を根拠にしてるの?
物部は鉄の氏族。
弥生時代には北部九州が圧倒的ではあるものの、
彼らは関東あたりにも鉄を運搬している。
庄内土器の時代に千葉の神門、
布留0式の時代に福島会津の臼ヶ森という初期前方後円墳が誕生してるのも、
これが理由だ。
>>172 夫の仲哀が亡くなってから、ずっと神攻皇后の傍にいるから。
ただ応神天皇は仲哀の子だろうけどね。
夫が亡くなってからの神攻皇后の性生活についてはいろいろあったのだろう。w
応神は住吉大神の子で、前王朝とは繋がらないことを、
記紀は匂わせている書き方だ。
武内との繋がりは不明だが、4世紀末以降の葛城氏の勃興を見る限り、
そのような可能性を類推出来るかもしれない。
176 :
日本@名無史さん:2013/07/28(日) 00:36:43.01
応神は住吉大神の子であることを臭わせてるのは記紀じゃなくて「住吉大
社神代記」だろ
これは自社の権威を高めるためのプロパガンダみたいなものだ
元寇の「八幡愚童訓」にしろ、宗教文献は記紀以上に胡散臭い
住吉大社と葛城氏もあんまり関係ないし
177 :
日本@名無史さん:2013/07/28(日) 06:50:35.20
>>176 わが神(仏)貴し、で「記紀」以上に宣伝臭が強いのは確か。
精査しないと、デンパ説に嵌る。
ただ、記紀の中でも、
仲哀、神功、応神の流れのところは一番ミステリアスなところではある。
「神功記」後注の卑弥呼云々に関しては、
紀年の問題から派生したというそれなりの理由がつくが、
本筋のとことで疑問が多い。
その流れを否定する論もあって当然だが、
研究者も素人も思いつきの域をでない。
チンギスハンの系譜でも、
蒼き狼の直系である夫が死んだ後にうまれた子供が、二人の兄をたおす
ってのがあるから、史実っていうより神話的修辞なんじゃないかねえ。
トヨタの自動車販売台数は再び世界一となった。
トヨタ車をはじめとする日本車は、直接の輸出国以外でも
中古車の流通を通じて、世界中の全ての国に行き渡っているといって間違いない。
もし、仮に、自動車が2千年後にも土に埋もれて残っているとしたら、
未来の歴史学者は、この時期、日本が世界を支配していたと結論付けるのだろうか?
ものの流通と政治的な支配は全く別物。
瀬戸ものが日本中で使われているいからといって瀬戸市が日本の中心ではないのと同じだ。
なお、自動車は数十年で朽ちるので、ガソリンのなくなった2千年後に文化遺産としては残っていないだろう。
タイヤやハンドルだけが大量に掘り出されることはあるかも。
父親が死んだ後に産まれた子、っていうが、
実際は「仲哀が父親では日にちが合わない」子どもな訳で。
記紀の記述をそのまま読めば、応神の父は仲哀ではない。
記紀の編者は意図的に書いてるよ。
モンゴルのアランゴアの話もそうだよ
だから通は、実はチンギスハンは蒼き狼の子孫じゃないんだよ、と語ったりするのさ
まあ、テムジンの場合はモンゴル帝国初代で神格化のため、と理由が分かるが、
先の大王の子である筈の応神が同じように書かれた理由は?
新王朝の始祖と考えられていたのか
>>175 というか神功皇后を無理に卑弥呼の時代に合わせたため、
応神の誕生をお腹に石をあてて遅らせたとか、いろいろと辻褄が合わなくなり、
なんだかわけの分からない記述になってしまったということだろうね。
お腹に石をあてて遅らせたってのは、実際にそんな言い伝えがあったんじゃないの?
勇敢な女、という神話的モチーフに使われてる感がある
正直、奈良時代の人間にとって、神宮皇后の時代の口伝は神話のレベルでしょ
異常出産という尋常にない生まれ方をすることで神性を強調してる
185 :
日本@名無史さん:2013/07/28(日) 22:39:13.17
息長帶比賣命と太子の母子が百済からの貢物を見て喜んだと言う話があります。太子の母子ってだれ?
また息長帶比賣命は応神天皇が生まれた時に47歳だったと言う話もあります。
186 :
日本@名無史さん:2013/07/30(火) 06:00:18.72
>>178 「記紀」一応「万世一系」という観念に貫かれているわけで、
もし本当に疑わしいような事実があれば、削除するなり、
捏造するなりすればいい。
ここはもっと単純に考えて、
神功皇后や応神に神秘性を持たせ、
より権威付けて正当性を持たせたのだろう。
仲哀死後、普通に生まれたというよりも、
出世譚をいろいろ膨らませるというのが神話的発想だから。
いや、異常生誕などで神秘性を持たせるのは、大体王朝の始祖か、
一代の英雄だろう。
要は、始祖やら英雄が普通の父親の子であってはならず、
神の子としたい意図が働いている。
雄略帝の時代ぐらいまで天皇と神の関わりが語られるからなあ
よくある始祖伝説とはレベルが違う感じ
継体即位とそう変わらない時代まで生きてた筈の雄略ですら、
甚だ神話的に語られてるからな。
190 :
日本@名無史さん:2013/07/31(水) 00:37:44.20
継体以上に実在が確認される雄略ですら、記紀での語られ方はファンタジック
実在性と記紀での非現実的描写の間にはあんまり関係ないな
つまりは継体より昔の歴史は、歴史書みたいに客観的に記述する形式ではなくて、
口承や歌謡などの古来からの形式で語り継がれていたということだろう。
雄略とか大王家と葛城、吉備や平群とかとの権力争いも、
恋の鞘当てに読み替えられている。
継体というか推古までそうだろ。
>>189,
>>190 渡来人は古くから通してやってきてたんだけど、雄略帝の頃を境に
それより新しく来た人らを「今来」の漢人として区別してるんだよね。
記紀編纂の頃の人たちにとって、雄略帝の頃までがリアルに現在に
繋がる時代で、それ以前は俺らにとっても江戸時代のような感覚
だったんだろなと。
渡来人の歴史
195 :
稗田朝臣無礼:2013/08/04(日) 05:50:20.22
継体以後、特に欽明天皇あたりから歴史、
王家(天皇家)の歴史というものを強く意識しだしたのだろう。
それを史(記録)として残し始めた。
継体が応神の五世または六世の子孫であるのは間違いないが、
いかにも血が薄い。ゆえに手白香皇女を娶って、
生まれた子、欽明は王家の歴史を強く意識せざるを得なかった。
そのころから宮廷でも、口承ではなく、史を置くようになって、
記録を書き止めるようになったのだろう。
津田説のように歴史書が書かれ始めたとは考えられないが。
継体の五代の系譜が正しく伝わってたのは疑問だが。
三島野古墳群では、継体真陵の今城塚古墳から二世代前に
太田茶臼山古墳が造られている。
継体は記紀が言うような近江や越前出身ではなく、
三島野造墓集団の首長の系譜だろう。
考古学的に見れば。
>>195 よく言われるように、男系母系にこだわっておらず、王家の血さえ流れていれば良かった…ということか
血筋より財産権の方が現実的な興味を引く議題だったのでは?
財産てのはまさしく領地、そしてそこにある人民
この総体こそ倭国なのだからね
継体は男系では五世孫だが、大王家に何人も后を出す家柄・息長系王族
だから、
大王位を継げたのだろう。
当時は女系で大王に繋がっていることも、大王候補者とされた証左だ。
一方、男系を重要視する勢力もあって、
継体が大和入りするのに抵抗したのは、恐らくは物部だろうか。
天孫降臨神話はアマテラス=女系を根幹に置いた神話で、
大伴やら中臣など降臨の五随神を始祖とした氏族が伝承していた。
神武神話は、継体の大和入りを神話的に語っている。
男系側のニギハヤヒ=物部が、女系側のアマテラスの子孫=継体と争って、
最終、女系の王が男系の姫を娶ることで両勢力が宥和する。
物部厨キター(゚∀゚)
男系母系w
>>198 オキナガをクローズアップしてるのは天武天智の母である斎明と関わるからだろ
オキナガ氏の系譜は欠氏八代の頃に起源を持ってきていて怪しいがな
七世紀の倭国王家は3世紀に前方後円墳を作っていた連中とはあまり関係はないだろう
陵墓の認定をしたのは日本書紀だが、雄略天皇陵など決定的な間違いを犯している
(指定された雄略陵は実際は2つの墓で、中心軸もずれている)
王権成長の画期的存在だった雄略を知らないなんておかしい
日本書紀の記述が現在の陵墓治定と一致してると信じてるバカハケーン
しかし、それじゃあ雄略真陵がどれ?といわれたらまるで
分からないという。大仙古墳という説もあったが。
考古学者の間では岡ミサンザイが有力視されている>雄略陵
>>202 江戸時代に再考したものを明治政府が認定し直したが、
基礎になってるのはやはり日本書紀
バカシャイーンw
>>205 また例のバカかよ
>陵墓の認定をしたのは日本書紀だが、雄略天皇陵など決定的な間違いを犯している
>(指定された雄略陵は実際は2つの墓で、中心軸もずれている)
日本書紀のどこをどう読めば、現在、丸山と平塚の2つの古墳とされているものが雄略陵だと分かるのかね?
ぜひ日本書紀の記述を引用してみていただきたいものだw
できるわきゃーねェだろォォォーーーッッ!
>>204 雄略陵は丹比高鷲原って記紀にはっきり書かれてるだろ。
岡ミサンザイは時代は雄略に合うものの、
恵我長野にあって明らかに地域が異なっている。
残念だねw
丹比高鷲原にあることがどうして丸山+平塚と特定できるんだい?
つくづく歴史には向いていない思考回路だなw
>>208 >
>>204 > 雄略陵は丹比高鷲原って記紀にはっきり書かれてるだろ。
どこにあんの?それ
最近の記紀厨は、記紀もろくに読んでないのかw
自分で図書館にでも行って読んできたら?
記紀を読まず「記紀、嘘つかない」とか言うのもどうかと思うがw
いずれにしろ日本書紀が指定してる雄略天皇陵は明らかな誤謬
雄略から天武まではざっと200年の開きがある
10年前の古墳でも苔むしてただろうから指定が難しいのは分かるが、
天武朝(舒明王朝と呼ぼうか)の王統はいわゆる河内王朝とは無関係とみた
雄略以前の陵などなおさら信憑性に欠ける
>>211 おまえはもう少し口の聞き方考えたら?
だから、なんで日本書紀が指定する雄略陵を特定することができるのか聞いているのだけれど…
日本語ワカリマス?
>>209 いや、だからーw
高鷲原にそれらしい古墳が無いから、無理やり円墳と方墳を繋げて雄略陵にしたんだよ。
「記紀は正しい」という思い込みから脱却しないとなw
>>213 日本書紀の雄略天皇陵はでたらめなんだろ
特定はできんだろ
候補は複数あるようだ
>>214 オケ・ヲケの説話にある【父の敵討ちのため陵を少しだけ壊した】という物語を合理化するために、
形状の怪しい前方後円墳を指定したとしたら、日本書紀を編んだ連中も策士だな
>>216 前方後円墳じゃねーよ
測量図もみたことないやつがいい加減なこと言うなって
>>217 日本書紀作成時のあの【前方後円墳】がどんなかは知らんけどな
航空写真が撮られるようになるのは最近の話だ
全然ものを知らないのによくそんなデカイ態度してられるな
・ 丸山の等高線はきれいな円弧を描く
・ 平塚は正方形
・丸山と平塚の間は平坦地
・現在のように丸山と平塚が前方後円形に囲われたのは明治時代
これが事実
丸山と平塚が元は前方後円墳だったなんて主張する考古学者はいない
>>219 考古学者は言わないだろうよ
しかし7世紀の人間はどうかな?
いわないね
7世紀には方墳も円墳も普通に作ってるからな
古墳の形に対する認識は明確だ
で、ようやくこの話題の最初に戻った
7世紀の人間が丸山+平塚を前方後円墳だと言っていた証拠を出してもらおうか
君は知らんかもしれんが学問の世界には論証責任というものがあるんだよ
問題はそこじゃないな
日本書紀で高鷲陵を雄略陵にしたてた連中は、本物の被葬者を知らなかったってことで、
(いわゆる)河内王朝の王統とは異なる連中だったってこと
そこが俺の主旨
高鷲陵が古い古墳だったのは確かだろう
7世紀には草むしてたんではないかと思う
円丘部の外濠がいつ頃できたかによるかもな
あれがなければ【前方後円墳状】に見えたかも知れない
日本書紀は陵の形状まで書いてないからわからん
円墳、方墳が7世紀に造られてるのはその通り。しかしそれだと新し過ぎて雄略天皇陵とぶち上げるのはさすがに無理だ
記紀は雄略の陵を河内大塚山と考えていたのだろう。
前方部が盛り土されていない、築造途中の変な形で放棄されたのが、
顕宗が少し破壊したの伝説を生む。
地元の伝承でも、大塚山を雄略陵とするのがあるらしい。
ただ、河内大塚山築造は雄略崩御と数十年隔たりがあるらしい。
記紀がまた間違えてるんだろう。
継体とそう時代が変わらないのに、正しく伝わっていない。
継体天皇って実在するのか?
ちゃんと実証できてるの?
>>222 >あれがなければ【前方後円墳状】に見えたかも知れない
だから見えないっていってるじゃん
妄想を繰り返す前に図書館に行って現雄略陵の図面を見てきたらいかが?
>日本書紀は陵の形状まで書いてないからわからん
つまり日本書紀がいうところの丹比高鷲原陵は現雄略陵であるという根拠はないわけね
また肝心な部分の論理をひっくり返しましたね
>しかしそれだと新し過ぎて雄略天皇陵とぶち上げるのはさすがに無理だ
ああ、ごめんなさい
日本語読解能力に問題があるのを忘れてました
丸山と平塚が7世紀のものだと言ったのではなくて
“円墳・方墳を意識して築き別けている時代の人間が、円墳である丸山と方墳である平塚を見ても前方後円墳だと思うはずはない”
という意味ですよ
>>225 何がおまえの勘に障ったか知らんが、仁徳反正履中と【前方後円墳】を陵に指定してる日本書紀が、
なんで突如雄略だけ円墳を陵に当てたのか説明つくか?
高鷲陵を前方後円墳に見誤ったと解釈した方が合理的じゃないかね
いずれにせよ、日本書紀の指定はでたらめだろう
この事から、天武(舒明王朝)系の支配階級はいわゆる河内王朝とは無関係の連中だったと結論づけたい
(薄い血縁くらいはあるだろう。そうでなきゃ倭国で貴種にはなれんから)
オレは規模からいって仁徳陵が雄略陵だと考える
>>224 日本書紀、古事記ともに【系図一巻】がセットになっていたようだが、
そちらに詳しく書かれていたかもね
オレも懐疑的に思っているが、全くの土豪が倭国王となるのはかなり難しいとみた
先日フランスのカペー朝の本を読んだが、どんなに王を上回る土豪がいたとしても、
そう簡単にとり潰せるものではなかったようだ
やはり権威というのは政治力を発揮するものらしい
継体も前の王朝の女をめとっている辺り、単に実力で王座を奪ったわけではないのだろうね
>>225 ところで、前方後円墳の設計図ってのは、出土したことあんのか?
高台から眺める以外に全容を知ることはできない
完成直後なら形状は確かだが、百年経つとどーかなぁ
>>227 いや、記紀にのってるだけで実在が証明できるなら、もっと前の天皇もできるだろ
>>226 >何がおまえの勘に障ったか知らんが、
あなたの言説が現在の学問的到達点とあまりにもかけ離れていて支離滅裂なので指摘しているだけですが?
>なんで突如雄略だけ円墳を陵に当てたのか説明つくか?
高鷲陵を前方後円墳に見誤ったと解釈した方が合理的じゃないかね
この発言は、日本書紀に記される丹比高鷲陵がまぎれもなく現在の雄略陵であったことを論証してからでないとできない内容ですが?
ここまでで論証してくれましたっけ?
>オレは規模からいって仁徳陵が雄略陵だと考える
規模で古墳の時期が決まるのですか?
ぜひともその理論を詳しく語ってください
>>228 >完成直後なら形状は確かだが、百年経つとどーかなぁ
前方後円墳は北は岩手県から南は鹿児島県まで、さらには朝鮮半島南部にもありますが、
これらはみんな明治時代に造られたと主張されるのですか?
非常に興味深いですね…あなたの頭の構造がw
231 :
230:2013/08/08(木) 22:53:21.33
>>230で明治時代としたのは大正時代の間違いでした
お詫びして訂正します
>>230 > この発言は、日本書紀に記される丹比高鷲陵がまぎれもなく現在の雄略陵であったことを論証してからでないとできない内容ですが?
> ここまでで論証してくれましたっけ?
一応そういうことになってんじゃねーの?現時点で
認定と証明は学者に任せるしかない
> 規模で古墳の時期が決まるのですか?
> ぜひともその理論を詳しく語ってください
一気に倭国の領土を広げた武王雄略がもっとも多く人夫を徴発できたと考える
仁徳陵は詳しい調査もされてない。厳密な建造時期は不明
いわゆる河内王朝は前方後円墳全盛期に当たるから、さほど大それた推測とも思わんが
> 前方後円墳は北は岩手県から南は鹿児島県まで、さらには朝鮮半島南部にもありますが、
> これらはみんな明治時代に造られたと主張されるのですか?
> 非常に興味深いですね…あなたの頭の構造がw
意味がわからん。最後の言葉はまんま返すぜ♪
もういいよ、おまえは( ´∀`)
高鷲丸山が記紀が伝える雄略の歿年頃に築かれたのはそうなんだが。
ただまあ、ほぼ同時期の埼玉県の丸墓山(日本最大の円墳)が、
雄略の墓より大きいという事態になってしまう。それは流石におかしい。
となれば、近隣の大王墓級なのは岡ミサンザイか大塚山古墳のどちらかが雄略陵になる。
岡ミサンザイは時代が近いとされるが、高鷲ではなく長野にある。
大塚山は時代が異なるという。
記紀が間違ってるのか、考古学が間違ってるのか。
恐らくは記紀の高鷲という伝承が間違ってるのだろう。
岡ミサンザイが雄略陵の可能性が高いと思う。
記紀を編成したときには卑弥呼が誰かわからなくってて神功皇后なんじゃね?的に書いたのか
誰かわかってたけど意図的にうやむやに描いたのかどっちなんですかね?
>>232 >一応そういうことになってんじゃねーの?現時点で
認定と証明は学者に任せるしかない
あなたはご存知ないようですが、現雄略陵を真陵だと考えている研究者は皆無です
つまり、「そういうこと」にはなっていませんので、「そういうこと」を主張するためには新たな論証が必要です
>仁徳陵は詳しい調査もされてない。厳密な建造時期は不明
あなたはご存知ないようですが、現仁徳陵では墳丘本体から埴輪と須恵器が採集されています
いずれの特徴も古墳時代中期の前半から中頃におさまると考えられるものです
実年代観は研究者によって微妙に異なりますが、5世紀の中頃を降るとは考えられていません
つまり、現仁徳陵の築造時期は5世紀末の雄略の没年とは少なくとも30年以上の開きがあることになります
>意味がわからん。
再三指摘しているように、現雄略陵について、研究者達は前方後円墳ではなく円墳と方墳だと考えています
それに対して
>>228で
>完成直後なら形状は確かだが、百年経つとどーかなぁ
との発言がありました
文脈からみて、
「7世紀には築造から100年経っているので、現雄略陵は前方後円墳から現在の研究者が円墳と方墳だと思うほど激しく崩れてしまっていたのだ」
との趣旨であると判断できます
翻って、誰が見ても前方後円墳だと思う古墳はたくさんあります
100年経ったら前方後円墳であるとわからなくなってしまうほど崩れてしまうのであれば
現在美しい姿をとどめている前方後円墳は造られてから100年経っていないことになります
2013年から100年前は1913年、大正2年
つまり、
>>228の発言を正しいとすると、現在残る前方後円墳は大正時代に造られたという結論が論理的に導きだせるのです
わかっていただけました?
横からだがw
実際記紀に陵の場所が書かれてるのに、その辺りにそれらしい前方後円墳がなく、
やむなく自然の丘陵を延喜式で比定してるのとかを見ると、
まだ円墳があるだけ、現雄略陵はマシかと思うのだがw
>>236 >実際記紀に陵の場所が書かれてるのに、その辺りにそれらしい前方後円墳がなく、
>やむなく自然の丘陵を延喜式で比定してるのとかを見ると、
すまんがどこの事だ?
自然の丘陵を前方後円墳に比定したなんて聞いた事ない。
横からです
ちょっとニュアンスが違うかもだけど
古事記・日本書紀・延喜式の記載地付近に適当な前方後円墳がなく
現在の治定地がおかしな感じの天皇陵は
安康天皇菅原伏見東陵
現陵は中世城館跡とされる
顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵
現陵は小さな丘
ただし墳形不明の小古墳があるらしい
武烈天皇傍丘磐坏丘北陵
現陵は自然丘陵
くらいかな
顕宗とか武烈は、継体の直前なのに、
すでに陵の場所が分からなくなっている。
記紀編纂時点で、何となく片岡地方に陵があるらしい、
程度の伝承だったのだろう。
それより前の雄略なら、もっと分からなくなっていてもおかしくないわなw
>>238 仲哀以降の天皇陵は実質、古市・百舌鳥古墳群だと思うが、
その3人の天皇は何故か奈良になってて詳細不明というのが気になるね。
政権争いなのか、何か理由がありそうだ。
ただ実在が疑わしいというのは納得できないけどね。
なんでそんな人物を創作したのかという意味が根本的に分からないし。
継体とほぼ同世代なのに陵がはっきりしない、
ってことからも実在が疑わしいと言われても仕方がないだろう。
平群鮪と女の取り合いをしたのが顕宗だったり武烈だったり、
肝心の伝承にもかなりの混乱が見られる。
記紀を信じたい輩には都合が悪いんだろうけどな。
242 :
日本@名無史さん:2013/08/11(日) 02:17:12.09
>>233 岡ミサンザイは高鷲に隣接してる
問題ないと思うよ
継体は実在性の区切りとして頼りになるもんじゃないがな
本来は雄略が実在を確かめられた最も古い天皇で、
それ以降は実在性が高いとしたいところだが、
その後の清寧飯豊青顕宗仁賢武烈が非実在の可能性が高く、
仕方なく継体が区切りとなる。
>>237 神武天皇陵はエックス線検査だと自然の山だよ
あれが陵墓ってのは大嘘
間違えたんだろうな
>>244 遠山ミツオが言ってたが、日本書紀は雄略から書かれたともいう
倭の五王は実在したはずで、それを仁徳以下のいわゆる河内王朝に比定していい
天武朝の連中にとって最初に辿り着ける伝承のはっきりした王統は雄略が限界だったのかも
しかし、陵墓がどれかまではもはやわからなくなっていた
天武(舒明王朝)の朝廷の連中は河内王朝の、まして邪馬台国の末裔なんかではないだろうね
いや、かといって高句麗や百済に密かに乗っ取られたとか言うつもりはないんだが
>>242 岡ミサンザイは仲哀陵だよね。仲哀は実在の怪しい天皇だ
白石太一郎も君と同じことを言ってた気がする
仁徳以下のいわゆる河内王朝の舞台は大阪だ
大阪地域の巨大古墳を雄略に当てるのが適当だと思う
オレは王朝の最盛期にあった時期こそ最大級の陵墓を造れたと考えて、仁徳陵をこそ雄略陵としたいがね
実際、継体の実在性も疑わしいぞ
>>245 >神武天皇陵はエックス線検査だと自然の山だよ
>あれが陵墓ってのは大嘘
畝傍山のことか?
あの山を神武天皇陵と言ってるやつなんていない。
畝傍山にある丸山という小さな塚が神武の墓ではないかということなのだが。
継体ですら非実在認定するのか・・・
梁書の言う通り、雄略とされる倭王武が502年に健在だったとすれば、
記紀の大王譜はかなりおかしいことになる。
雄略の後、清寧顕宗仁賢武烈の四代、飯豊青皇女を入れての五代を
継体即位507年までの五年間に収めないといけなくなる。
流石にそれは無理だw
試論を言えば、507年に樟葉で即位した継体は大和入りに19年かかっているが、
その間に南北朝のような動乱、大王が並立されるような事態になっていたと思う。
大悪大王=雄略=武烈の後、倭国内が大混乱し、
大和河内側は播磨から王子を迎え、
対抗した摂津など北部近畿側は摂津三島の首長ヲホドを擁立した。
結果的にヲホドが大王位を継いだのだが、その間の混乱を記紀にそのまま記載出来なかった。
南朝側として即位していた大王たちを無視出来ず、
雄略と継体の後に押し込んだと。
雄略陵として築造されていた河内大塚山が途中で放棄されたのも、
内乱勃発が原因なのかもな。
で、顕宗が雄略陵を壊したという伝説を生んだ。
全国五位の陵は雄略が相応しい。
そもそも河内大塚山の年代は、横穴式石室なのと埴輪が無いことから類推されただけで、かなり流動的。
>>249 おまえの理屈だとそれも【完全に神武陵だと証明】されなきゃならないんじゃねーのかw
>>252 別にされてないと思うよ
陵墓の規模は王権の実力に比例すると思う
埴輪(当たり前)やスエキが出たからって雄略の時代ならおかしくない
だいたい古墳は生前に作らせるのが常識
仁徳天皇紀にもそうある
【人民が仁徳の徳を慕って】巨大古墳を作ってあげたなんて話よりは、雄略が強大な権力で造らせたという方が合理的
>>251 津田さんだって継体の実在まで否定はしてないでしょ
流石に5世紀以降は実在しかいないと思うんですけど(名推理)
そもそもが仁徳自体、実在が確かな訳じゃないからなw
オホサザキって名前自体、大きなミササギ=陵に葬られた大王、くらいの意味しかない。
継体が武烈の姉か妹手白香姫を娶って、大王位を継いだ。
手白香姫は今までの王統との繋がり、正当性のよすが。
その手白香が葬られた場所が西殿塚古墳のすぐ向かいの西山塚古墳という点は重要。
当時は西殿塚古墳が崇神陵とされ、崇神=ハツクニシラス、始祖とする大王譜が伝承されていた。
ハツクニシラスの近くに手白香陵を造ったことは意図的。
261 :
日本@名無史さん:2013/08/17(土) 02:04:20.98
>>246 日本書紀の言語学的解析は森博達先生の業績だろ
>>257 「およそ歴史家が史実と認めるのは、確実な証拠があるものだけにするべきだ」というのは
一つのありうるスタンスかもしれない。
しかし、証拠から確実ではないのに、非実在の認定をしてしまった点に彼の知能レベルの
限界を感じる。
一方で、彼は出雲神話の内容から、出雲に有力な勢力がいただろうなどとも、言ったりする。
戦後は天皇に無上の敬愛を表す論文を書いたりもしていた。
戦後左翼史観の人は、彼の本当に面白い部分は無視しようとする。
太安万侶の墓誌が発見されるまで、
太安万侶非実在説というのがあったそうだ。
あの時代にあのような知識人は想定できないとかなんとか言って。
そんな屁理屈言ってたのも津田学派かな。
太安麻呂非実在と言うより、古事記偽書説じゃないか。
太安麻呂は続日本紀に詳しく書かれていて、非実在は流石に有り得んだろ。
日本書紀の信憑性については在野の研究者もどきも含めいろいろなこと言ってくれるけどさ
他の六国史、続日本紀などについてはほとんどスルーなんだよなあ・・・
同じ正史なのに
いや、続日本紀以降はほぼ史実と看做されてるから、信憑性とかの議論にならないだけだろ。
日本書紀は神話とか歴史書が編纂される前の、かなりいい加減な話が採録されているから、
信憑性の議論になっている。
267 :
日本@名無史さん:2013/08/21(水) 05:45:30.18
>>261 古代史関係でまともな実証的な研究というのは
森氏のものくらい。
日本書紀を論ずるのであれば、今後は森氏の研究が出発点になる。
もちろん否定論が出ても構わないし、
それを超える研究なら意味あるものだが、
今のところをそれを補足するものの方が多い。
森博達の言うように、日本書紀が雄略から書かれたとすれば、
雄略以降は信頼出来るが、それより前はかなり内容が怪しいということになるのか。
後回しにされたのは、それだけ参考文献がなかったからで、
叙述するのにそれだけ困難が伴ったということ。
はあ どっとはらい
日本書紀がα群とβ群に別れて、
αが雄略から崇峻、斉明から天智まで。
βが神武から安康までと、推古・舒明。
αが先に書かれたらしい。
雄略から歴史書編纂の意図があって、紙媒体の公文書が残され始めたと思われる。
推古・舒明の22・23巻がβで後に書かれたのは、
蘇我全盛期に実際は馬子やら蝦夷が大王として即位していたのを、後に抹消したため。
あとまあ古事記が書かれたのは日本書紀より前なのは確実だが、
古事記の序文は平安期に書かれたとされている。
元々古事記は多氏関係者によって書かれた私的歴史書で、
日本書紀や続日本紀でも触れられていないように、
平安時代までは重要視されていなかった。
そもそも古事記が書かれた時点では、天皇記国記の体裁で書かれた偽書だったのだが
(推古までなのはそのため)、
平安期に天皇記国記を先代旧事本紀に先に取られてしまったため、
やむなく天武→太安麻呂みたいな序文をつけた。
272 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 23:11:37.32
古事記が非公式にも関わらず、日本書紀と細部はともかく話の展開が同じなのは、
ある程度、神話や歴史の流れは各氏族で共有されていて、不比等やら日本書紀の編纂メンバーが神話を創作したわけではないのな
不比等が改竄したのは、天智以降、実際は大友皇子が即位してたのと、
蘇我馬子〜入鹿の辺りだろう。
天武以下の正当性に一番関わってくるところだしな。
藤原不比等って奴の仕業なんだ
>>270 >蘇我全盛期に実際は馬子やら蝦夷が大王として即位していたのを、後に抹消したため
大王に即位するより裏でコントロールする方が有益だし。
平清盛が実は大王として即位していたって話し並でくだらない。
アホくさい。
隋書倭国伝のアメタリシヒコを無理やり聖徳太子と考えるよりは、
馬子が大王だったと考える方が理解し易いが。
森博達の日本書紀研究では、雄略〜天智までは先に書かれている(α群)が、
推古舒明二代(22、23巻)だけが飛ばされ、後に書かれてる(β群)。
普通はそんな書き方しないから、天武の正当性に都合が悪いので
抹消され加筆訂正されたか?
馬子が大王だったというのも、あながち無理のある設定ではない。
万世一系は後付だからあちこち無理が見える
大王って何だということだろうな。
通い婚の時代は嫁の親側が権力を得る。
それをいいことに天皇の義理の親父が対外的に大王を名乗ったのかもしれない。
今は「嫁に行く」だが昔は「婿が通う」だな。
卑弥呼の時代も同じだろう。
卑弥呼の元に出入りする唯一の男というのは婿かもしれない。
こういう状態って中国人からみれば女王国と言いたくもなる。
卑弥呼の前は70〜80年男王じゃね
3〜4代?
アメノタリシヒコは小野妹子の祖、天足彦国押人命
小野妹子のこととされる蘇因高も蘇我関係者か。
小野臣の先祖がアメタリシヒコなのも、思わせぶりだなw
>>280 >卑弥呼の前は70〜80年男王じゃね
実際はヒメヒコ制だろう。
「ヒメヒコ制とは、弥生時代後期から古墳時代前期(紀元前1世紀から紀元後4世紀)にかけて
日本各地で成立した男女別集団の共立的統治形態をいう。
農耕的女子集団の長を主にヒメ、軍事的男子集団の長を主にヒコといったことから
ヒメヒコ制と名づけられた」(Wikiより)
とはいっても完全に共立的統治というのも難しいだろうから、
戦争状態にはヒメよりヒコが尊ばれたであろう。
それが男王だろう。
ヒミコは戦闘状態が長引いたので国々をまとめる意味で担ぎ上げられたのだろう。
農耕を女がやるのか
今でも婆ちゃんがやってるが?
肥後もっこりす
tes
288 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:05:08.04
>>268 稲荷山鉄剣銘で文字が使われている。
口伝えの伝承ではなく、文字化されたのだろう。
森氏の詳細な研究で明らかにされたように、
「日本書紀」雄略から書き始められた、ということとも一致する。
文字による記録はもっと早く見てもいいんのでは?
290 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:08:24.87
飛鳥時代も、文字の記録が残ってたか疑うくらい
あやふやだからな。
かろうじて使われたのが雄略天皇あたりからなら、
不安定ながら何とか残り始めた時代と
言ったところかな・
291 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 06:04:22.20
古事記、日本書紀のみならず、
平城京遷都、大宝律令ができたのは、史全盛の時代。
アマテラス神話そして天孫降臨(祖母から孫への神権授受)
は持統天皇及び元明天皇の事績と重なる。
ただいくら史(不比等、比べるべき者もいない人)だといっても、
記紀のすべてに手を入れたとひゃ考えられず、
一番力を注いだのは神話、ことにアマテラス神話に関してだろう。
のちに元明天皇の孫であり、史の孫でもある聖武天皇が即位することになる。
多氏の私的歴史書である古事記にもフヒトの魔の手が迫る!!
多氏の私的歴史書だけでなく、物語氏の私的歴史書の先代旧辞本紀も、
基本ベースは日本書紀だからな。
古事記も、日本書紀に合わせて後日加筆訂正されたのだろう。
FUHITOマジ最高
不比等は頼朝に並ぶ偉大な政治家だとは思うが、
不比等より持統の、草壁―文武―聖武の直系相続に拘る強い意思が大きい。
天武死後、不比等が大抜擢されて、都の名前も藤原京になる。
不比等がなぜそこまで持統に気に入られて躍進できたか?は謎だが(天智の落胤だから?)
持統としては他の皇親勢力と対抗するために
手足となって動く有能な臣下が必要だったんだろう。
296 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 06:32:40.10
天智天皇の落胤説は一概に否定できないほど、
史は天智系と密接に結びついている。
しかし、古墳時代から史の時代に来ると、
なんだか近代史みたいな感じになる。
陰謀論満載だからな
おそらくは倭の五王の時、中国南朝との関わりの中、雄略の頃から文字として歴史を残すことが始まったのだろう。
蘇我馬子や聖徳太子が編纂した天皇記・国記で現在に伝わる大王系譜がまとめられ、
その時に吉備は大王から外された。
隋との外交の中、国の成り立ちを示す必要があり、
それまでの有力豪族持ち回りの大王位が一つの血統により世襲されてきたという
「王朝」に書き換えられる。
>それまでの有力豪族持ち回りの大王位
ないないw
毎度毎度思うんだが
>有力豪族持ち回りの大王位
↑2chのみならず、専門書にもたまにさらっと書いてあったりするんだが根拠はなんなんですかね・・・
まさか宋書の五王の系譜や、名前に「ワケ」が入ってるからとか言い出さないよね?
301 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 20:44:32.18
素朴な疑問だけど、古墳はお墓じゃなくて宗教儀式の場所だったということはないのかな?
エジプトのピラミッドでもそういう説がではじめてるが
古墳がお墓と言い切るには文字があった時代に墓誌がみつかってないのが多いんじゃないかな?
>エジプトのピラミッドでもそういう説がではじめてるが
ねいよ
>文字があった時代に墓誌がみつかってないのが多いんじゃないかな
墓誌の習慣が何時中国から伝わったのかぐらいggrks
つうか埋葬施設と遺骸の痕跡があるなら第一義的には墓
宗教施設を兼ねるというのはもちろん言えるが
304 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:38:27.75
wikiが雑誌『ムー』レベルであるということを再確認したからと言って何が言いたいのかな?
306 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:45:27.96
>>300 いやまあ、国の成り立ちって、宗教や交易路を共有する部族連合がまずあって、
そこから大王が選ばれ、やがて一つの血統が大王位を世襲していく
ってのが一般的な流れなんだよな。
で、日本の場合、部族連合から大王権力に移行するのが、
大体四世紀くらいだろうということ。
309 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 04:08:28.65
310 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 06:15:16.97
古墳の上で祭儀を行ったという説は近年一般的に言われている。
祭儀の模様なんかは数点形象埴輪に残されている。
ただそれが古墳上かどうかははっきりしない。
wikiは駄目でもyahooはいいとかそんな話じゃなくてだな、文献資料に基づかない推論に意味はないと言ってんだよ309
あと、ピラミッドが墓じゃないってのは常識だ
そんな時間迄検索を続けた努力に免じて情報を与えてやると
ピラミッドは宇宙人が造ったUFO基地だという説もあるぞw
川の氾濫域に作られたの?
313 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 20:22:33.11
子孫が墓だと認識していて、同じ形の墓を延々と200年以上作り続けているのに
墓でないとしたら何なんだろうねえ。
墓でないなんて誰も言ってない。
墓であることは当然だが、
古墳は神殿の役割もあったと思うよ。
今でも古墳の上に神社がある例なんて全国に多数あるし。
また神社の拝殿と本殿の二重構造は、
前方後円墳の方部と円部の二重構造に通じると思う。
tes
弥生後期、大地震やら地球規模の寒冷化、洪水など自然災害が多発。
倭国の人々が青銅祭器に代わる新しい宗教を求め、
神仙思想と首長霊をミックスさせ、前方後円墳の祭りを創始したということ。
前方後円墳は単なる個人の墓ではなく、
それを信奉する集団を守護する神を祀る宗教的施設として機能していたのだろう。
tes
tes
319 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 00:06:50.67
宗教施設ってのは、そのとおりだろ。
前首長の墓の前で、後継者が魂を引き継ぐ儀式をしたって説がある。
前方=儀式の場、後円=墓
まあ、そうでもなかったら、何のために前方部がくっついているかわからん。
日継ヒツギの儀式な。
しかし、西殿塚にしろ、大仙古墳にしろ、前方部に埋葬施設があるみたいだから、
話はそこまで単純じゃない。
マキムク型前方後円墳に東海の前方後方墳が合体したのが、
箸墓以降の、前方部を高く積んだ前方後円墳の系譜だろう。
前方部が通路ってのは、マキムク型には当てはまるが、
とっぴんぱらり
ここ掘れワンワン♪
>>321 >東海の前方後方墳が合体したのが
後方墳の発祥が東海とは決まってない。
むしろ最大級の後方墳が奈良東部にあることや、
纏向遺跡にメクリ1号墳という最古級の後方墳があることなどから、
大和から東海地方に広がった可能性が高い。
広瀬和雄が言うように後円墳と後方墳の勢力は「対立」してたのではなく、
「首長層の政治的なランク付け」の反映であろう。
325 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 05:44:10.09
>>324 前方後方墳は
東海を含む東国に多い。
広瀬説の方が妥当性が高い。
「対立」説はそれなりの論拠を出さないといけないが、
古代史の専門の研究者でも素人同様、
思いつき程度の妄論が多すぎる。
畿内と東海が対立してたかどうか?は、確かに確証は無いが、
邪馬台国を畿内とした場合、狗奴国に該当しそうなのは東海くらいしか見当たらないからな。
東海の影響が弥生後期に東国へ爆発的に拡大してることから、
それまでの畿内・東海のパワーバランスに変化があり、
赤塚の言うように東海の王が奈良盆地に乗り込んでくる事態もあったかもしれない。
初期ヤマト王権は豪族連合だから十分有り得る話。
327 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 18:14:55.25
東征も東遷もあり得ない。
これらはすでに考古学的に否定されてしまっており、覆る可能性は
ほぼ無い。
つまり言い換えると、記紀は神武東征という捏造をやったことが
明らかになってしまったと言うことだ。
そして容易に分かることだが、記紀がなぜ東征という捏造をわざわざ
やったかと言う疑問に、近畿説で答えることは事実上不可能だ。
無論、不自然な理屈ならなんとでもつけられる。しかし、多くが
納得する自然な説明は絶望的だ。
△=卑弥呼の鏡、箸墓=卑弥呼の墓、どちらもネタだった。
纒向も調査がすでに十分入っており、魏志倭人伝の記述と全く合わ
ないことが確認されている。
つまり、近畿説は現時点ですでに頓死している。
纒向は恐らくはニギハヤヒの祖先が作った都市であり、神武が九州を
捨てて憧れて向かった都市なのだから、壮麗な都市であるのは当た
り前でなのであって、そんなことは邪馬台国であることの証拠に
などなりはしない。
近畿説に可能性はほぼ無い。
近畿説はもう既に死んでいる。
>>327 >纒向は恐らくはニギハヤヒの祖先が作った都市であり、神武が九州を
>捨てて憧れて向かった都市なのだから、壮麗な都市であるのは当た
>り前でなのであって、そんなことは邪馬台国であることの証拠に
>などなりはしない。
問題はそれがいつなのかという話だ。
瀬戸内東部の高地性集落が終わり、
奈良では環状集落が終わり、
銅鐸祭祀が終了し、前方後円墳が誕生し、
土師器が登場する。
これらがすべて2世紀後半あたりである。
つまり神武軍の大和侵入がその頃であろう。
ということは邪馬台国の3世紀前半には神武は大和入りしていたことになり、
王権は九州にはなく、大和にあったことになる。
九州説に可能性はほぼ無い。
九州説はもう既に死んでいる。
×環状集落
○環濠集落
330 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 11:27:31.93
神武が畿内入りしても、九州の本社はそのまま。
畿内に支社が出来るだけの話。
のちに本社が傾いて、畿内本社になるが。
3世紀前半に「九州の本社」らしき痕跡がない。
大和は3世紀中頃に物部系豪族の連合体として成立したのをしらんらしい。 九州は関係ない。
334 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 06:59:55.41
邪馬台国、畿内説も、
豪族連合説もほとんど根拠はない。
畿内であろうが、九州であろうが、他のどこかであろうが、
邪馬台国妄想論が多すぎる。
おまいのそれも妄想じゃ
豪族連合は妄想じゃないだろ。
後世の郡レベルの文化圏がモザイク状に広がってる
ってのが考古学的に分かってる。
画一的な文化が面的に広がっている訳じゃない。
物部系豪族の連合体ということだが、
崇神は物部が生んだ大王だが、
それ以前、なぜニギハヤヒは神武に屈したのか?
西谷と楯築にみられる相互訪問しての共食儀礼などをなんと呼ぶのか
これはどちらかがどちらかを支配していたとは見ることができないし
お友達関係だとあんまりなので出てきたのが豪族連合だろ
ヤクザ社会での組同士の関係を見れば「連合」の仕組みがイメージしやすい。
ごめん、ヤクザには詳しくないもので…。
>>341 ヤクザ社会の仕組み
杯事で結ばれる親分子分、舎弟関係で構成される集団。
親は、子に自己の偉信に基づく保護を与え、子は親に平時での上納、争時での武力提供を与える。
封建制社会など、身分制度、財産制度がある程度確立した社会になると、
擬制親族による結付きでは無く、結婚など姻族関係での結付きに変化する。
大辞林 ぎせい-しんぞく 【擬制親族】
血縁者ではないが、儀礼などを経て実際の親子・兄弟同様
あるいはそれ以上の強い結びつきをもった人々。
烏帽子(えぼし)親・仲人親・ゴッドファーザーなど。
儀礼親族。
草創期の古墳祭祀とは、おそらく擬制親族関係の祭祀で、
古墳とは、その関係のシンボルだったのだと思う。
ヤクザ社会で言えば代紋、豪族連合内でのエンブレムだな。
連合たって出雲系・大物主の孫のヒメタタライスズ媛と神武が結婚し、
ニギハヤヒが神武の臣下のようになってたのだから、
3派の「連合」ではあるよな。
いやまあ、記紀ってのは最終勝利者である天武以降の為政者によって書かれてるんだからさ。
その内容を吟味もせず、そのまま読むのは能がないよ。
ニギハヤヒ好きみたいだけど先代旧事本記は九世紀以降だしな。
聖徳太子や蘇我馬子が編纂した天皇記の体裁をとっているが。
雄略以降、吉備や葛城と大いに揉めて、大王墓級の吉備造山古墳も被葬者不明。
現応神や現仁徳陵も、現履中陵より後に造られてるし、
記紀の記述にはかなりの誤謬、混乱が見られる。
日本書紀は雄略以降から書き始められてるし、
恐らくそれ以前はまともな史料が残っていなかった。
雄略以前はかなり眉唾で読むべきだろう。
その天武以降の為政者によって記紀にニギハヤヒの事が書かれてるわけだよね。
意味不明。
>大王墓級の吉備造山古墳も被葬者不明
仁徳の后・黒媛の父親である吉備海部直だと思ってる。
思っている、とか書かれてもなw
大事なのは、大大墓に匹敵する吉備の造山の被葬者のことが
記紀には全く触れられてないこと。
伝仁徳ではなく、伝履中の方が古く、
吉備で相似形の造山が造られるように伝履中陵が重要視されてたことだろ。
要は記紀の記述は滅茶苦茶。
滅茶苦茶とは思わない。
できるだけ真実を伝えようとはしたが、
なにせ物理的に無理があったという事。
記紀に間違いがあるから全否定しようとするやつがアホ。
事実上の無文字社会を何百年も経てるんだものね。
相応の変容を遂げていて当然だよ。
いや、だから〜w
誤謬や混乱が見られるのに、
「記紀に書かれてるから」だけが根拠では拙いだろ、と言ってるのだが。
記紀を全否定なんかしてないよ。
349 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 13:08:23.67
「記紀に書かれてるから」だけを根拠にするやつに限って
それじゃ拙いだろ、かと言うと
「記紀を全否定するのか!」って
究極の二択を迫ってくるんだよな。
>>348 誤謬や混乱が見られるとわかってるならそれでいいではないか。
記紀の誤謬や混乱のある部分を根拠にしてたら文句言えばいいだけ。
いや、だから〜
記紀のどの部分が正しくて、どの部分が誤りかが判別出来ないのが問題なんだろ。
記紀に書いてるから、って全く根拠になってないよ、ってまだ分からない?
伝・履中陵墓のように考古学的にはおかしいと判明すればそれでいいではないか。
記紀に書いてるから履中陵に間違いないと強弁してるやつがいるのか?
「要は記紀の記述は滅茶苦茶」と書いてるおまえが二択を迫ってるのだろうが。
記紀の一部の記述は滅茶苦茶なら分かるが。
354 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 17:20:37.37
おまえって誰?
「いや、だから〜w 」のキモいやつ
356 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 21:50:31.07
「キモい」には同意。
「二択を迫って」には不同意。
記紀の記述で、どの部分が正しくて、どの部分が間違ってるか?
なんて誰にも分からないよ。
特に雄略より前の古い時代はかなり錯誤があることは異論がないだろう。
はっきり分かる間違い以外、記紀に書いてあることは
正しいと思い込むことに問題がある。いわゆる宗教だな
>>357 年輪年代法からの須恵器の年代で、
伝・応神陵、伝・仁徳陵が、
それぞれ5世紀初頭、5世紀前半となってきた。
どこが宗教なのかな?
359 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 23:52:08.70
箸墓の石が大坂山の石タゴシタゴシだったのが史実でも
彼の正体が白ヘビだったのは宗教
伝応神と伝仁徳陵が、伝履中陵より新しい、ってことだから。
いい加減、言い訳は見苦しいよw
>伝応神と伝仁徳陵が、伝履中陵より新しい、ってことだから。
だから誰が履中陵が応神陵や仁徳陵より新しいと言ってるのだ?
おまえって一人で夢想してるアホ丸出し。
記紀はたしかに錯綜があるが、
仁徳・履中・反正の百舌鳥三陵が、
石津丘(現履中陵)・大仙(現仁徳陵)・土師ニサンザイ(陵参)と言ってるわけではないからな。
延喜式なんかは仁徳を「中陵」、履中陵を「南陵」、反正陵を「北陵」としており、
紀の伝承や兆域から、平安人が仁徳陵を大仙と捉えていたとすれば、
反正の北陵は現陵の田出井山(逆にこれしか無い)、履中の南陵を土師ニサンザイと考えることも可能で、
これなら年代的な問題は解決される。
では石津丘は誰の墓かという疑問は残るが、記紀に載らない大王の存在を想定するのも一案だろうし、
応神などの前陵と考えるのもまた一案であろう。
伝履中、上石津ミサンザイは、百舌鳥古墳群に最初に築かれた盟主古墳。
吉備の造山も相似形だし、当時最大の前方後円墳を、外戚の墓やらにするのは無理やり過ぎるわ。
コイツラ相変わらず 憤上に最終的に並べられた埴輪の年代だけで古いとか新しいとか言ってる。
土盛りをするのは 長さが倍になると、単純計算でも8倍の労力が掛かる(体積は長さの3乘)。 つまりそれだけ時間が掛かると言うこと。
だから 埴輪の年代だけでは古墳の築造開始時期は判らないということ。
書記には仁徳陵は彼の死の20年前に築造が開始されたと書いてある。 これは履中陵の築造開始より前。
365 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 12:18:52.06
どのタイミングで古墳を築造し始めるかってのは、なかなか難しい問題のような気もする。
即位した時点で作り始めるか、亡くなってから作り始めるか?
即位した時点で作り始めていたら、亡くなるまでの時期によって、
数十年ずれてしまう。
作り始めて二十年経って亡くなったら、その古墳は崩御の二十年前のものなのか?
祭祀装飾品はなくなった時期と考えてよいのか?
建設途中で紛れ込んだ木片などは、二十年古いものではないのか?
埴輪や土器はいつの時点で設置されるのか?
人によっては途中で気に入らなくなり、設計変更で、別の形の古墳を作り始めるかもしれない。
その時に使われなくなった建設途中の古墳を、子孫が再利用するかもしれない。
長期間、コストも掛かる建築物は、簡単に年代計測ができるのか。
古事記に応神天皇陵の名前さえ書かれてないくらいなんだからそれより古い古墳の被葬者が誰か分からないぐらい当然だろ。
>>366 古事記には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」
日本書紀に陵名の記載はない
前方後円墳ってのは、前大王の首長霊を現大王が引き継ぐ、
「日継ぎ」の舞台として使用されてたみたいだからな。
前々大王より前に前大王の陵が完成、前大王が前々大王より先に祀られたとかは、
流石にないだろう。寿陵として生前から築かれたのはあっただろうが、
精々十年未満の話。モガリが二十年とか聞いたことがない。
モガリ二十年とかにしがみつかないといけない記紀信者はご愁傷様というか。
369 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 05:22:38.47
畿内であれだけ古墳をつくりまくってるんだから、
建設着手時期はある程度システマチックに決まってても良いように思う。
亡くなってから建設するのでは、子孫の政治支配状況によっては、
後回しにされてそのまま忘れ去られる先王もいそうだ。
忘れられた、と簡単に言うが、都合が悪いので意図的に無視されたのかもしれないぞ。
例えば河内大塚山古墳は全国五位の規模、6世紀と新しいにも関わらず
被葬者がまったく分からない。
歴史時代でも廃帝がいるくらいだからね。
>>368 コイツ 「オラ難しい本さイッペエ読んで、学術専門知識があるだ」とか言いふらす、専門バカ、というかただのバカ。
「首長霊」なぞというものは無い。墳墓の巨大化、築造期間の長期化に伴う葬儀儀礼の繁盛化を見誤ったもの。
「日継ぎ」の儀式は、墳墓が完成するまでは 棺が納められている濱宮において行われる。天武紀とか読め。
棺が納められるまでは墳丘はただの盛り土である。そんな盛り土の上でどんちゃん騒ぎして どこが有り難い?
納棺の後の祭祀は、中小の墳墓においては前方部、巨大なものでは造り出しに於いて行われる。
したがって 憤上で祭祀が行われるのは 納棺の際のたった一度だけ。
判ったか! この憤上祭祀バカ
>>370 雄略以後 天皇制が衰退し、と言うか後継の適任者が殆ど居なくなってしまう。
そこでやむを得ず越前から継体を連れてきたりしているわけだが、これもすんなり受け入れられたとは考えにくい。
河内大塚山古墳はそんな時期に勢力を拡張していた豪族によるものではないか?
顯宗とか武烈とかもまともな墓を作ってもらえなかった。
家制度が成立する以前の話だから、皇后や后の親の力が強かった時代だからな。
それも考慮しないと大古墳の数が合わない。
吉備の造山古墳や西都原の男狭穂塚・女狭穂塚などはその典型だと思うぞ。
河内大塚山は雄略陵の可能性もある。
しかし、当時最大の上石津ミサンザイまで姻族の墓って、流石にないと思うがw
最後に残った可能性として、伝応神より伝履中陵が先に完成してしまった可能性だがw
仁徳が実在すれば在世はかなり長かったみたいだし、
孫の墓が祖父の墓より先に完成するって、どういう状況だよ?w
ましてや伝履中は伝反正と違って全国三位の巨大古墳。
築造にはかなり時間がかかった筈で、じいさんの墓より先に完成したなんて有り得ない。
考古学の発展で、記紀信者の断末魔が聞こえるw
宗教は学問板に相応しくないわなw
>>375 可能性はない。時代が違う。
現仲哀陵治定の岡ミサンザイ古墳でほぼ決まり。
ちなみに真仲哀陵は ご存じの通り津堂城山。
444 反正田出井山古墳
464 応神 誉田御廟山
466 安康
480 允恭 市ノ山古墳
485 履中 53 ミサンザイ
486 雄略 43 1 (岡ミサンザイ古墳)
490 仁徳 56 大山古墳
↑
>>378 途中で書き込んでしまった。上の数字は埋葬された年ね。 かなり前後バラバラ
>>376記紀信者の断末魔が聞こえる
どこのだれが記紀の記述が全て正しいなんていってるの?
聞こえるのはお前の断末魔の叫びだろ。
>>378 仁徳が埋葬されたのが490年って事?
そんなことはない。
大仙陵外堤から5世紀前半の須恵器が出てる。
5世紀前半には完成してた可能性が高い。
>>380 大仙陵外堤から5世紀前半の須恵器が出てる。
>>365 倭の五王は確定しているのでそれに絡めて言うと・・・・・
仁徳
神功皇后には品夜和気(ホムヤワケ)と品陀和気(ホムダワケ=応神天皇)という子がいた。
伝・履中陵が応神陵より古いのは、
被葬者が応神の兄のホムヤワケだからではないか。
>>380 倭の五王は確定しているのでそれに絡めて言うと・・・・・
仁徳陵築造開始 381年
仁徳(讚) 401年 1月3日 〜 431年 1月15日
(履中) 431年 2月1日 〜 433年 3月15日
反正(珍) 434年 1月2日 〜 437年 1月23日
允恭(濟) 438年 12月 〜 460年 3月7日
安康(興) 460年 12月14日 〜 463年 8月9日
雄略(武) 463年 11月13日 〜 485年 8月7日
仁徳崩 490年
殯期間56年(87-在位31=56)(築造期間76年)でこの数字が出てくる。
>>381 倭の五王は確定しているのか?
俺にはさっぱりわからない。
九州の首長が畿内の大王を差し置いて、
勝手に倭王を名乗ってたのかもとも考えてる。
>>385 >>385 438年の反正(珍)の遣使に関しては、まず 宋書の「讚死弟珍立」という記述は、
「仁徳(讚)が死んで"息子の履中が即位したが、すぐに死んでしまったので、
その"弟の反正(珍)が即位した」という元の意味が、通訳・伝達・記録の
どこかの過程で「息子の履中が即位したが、すぐに死んでしまったので、
その」と言う部分が抜け落ちて、「仁徳(讚)が死んで弟の反正(珍)が即位した」になってしまったのでしょう。
この年(438)の1月23日に反正はすでに亡くなっています。そして 安東將軍の称号を
貰うのが同じ年の4月になっていて、一見辻褄が合わないように見えます。
この矛盾はこの使節が何時出発したのかについて考察すると解決します。
冬の玄界灘は荒れていて古代では航海不能です。3月とか4月までに南京に到着し
滞在しようとすると、前年(437)の秋までに出発しなければなりません。
つまり使節が出発したときにはまだ反正は生きていた事になります。
なお この部分の編年"だけ"を見ていると反正の在位期間は 遣使年との比較で
繰り上げる余地は全くありませんが、逆に4年程度までは繰り下げる余地があるように見えます。
今度は 462年3月の安康(興)の遣使について考えてみます。宋書の「以倭國王世子興為安東將軍」
とあるのは、允恭の在位期間の数値が間違っていない限り、安康二年に当たりますので全く問題ありません。
ここでも在位期間の妥当性についてもう一度考えてみます。 先ほどの反正の
遣使についての考察と連動して考えると、在位期間を繰り上げる事は出来ません。
つぎは 仮に1年繰り下げてみます。すると先ほどの反正の遣使と同じように
462年3月に南京に滞在しているためには前年(461)の秋に出発しなければなりません。
安康の即位は(仮に繰り下げて)461年12月14日と言う事になってしまうので、
即位以前に出発した事になり、これはあり得ません。
以上 二つの遣使についての考察を纏めると、年代を繰り上げる事も、繰り下げる事も不可能なので、反正から安康までの編年は確定です。
× 仁徳陵築造開始 381年
○ 仁徳陵築造開始 411年
>>383 こういう書き込みが一番タチが悪いんだよなw
根拠のない思いつきであり、なおかつ記紀は正しいという妄念に取り憑かれている。
百舌鳥耳原に大王墓が三基と書かれてるのに、上石津ミサンザイが大王墓でなければ、
一体どれが大王墓になるのやらw
仁徳(中陵)=大仙、履中(南陵)=土師ニサンザイ、反正(北陵)=田出井山でしょ。
誉屋別墓は雲部車塚古墳ではないかな。
いや、だからさ〜w
「記紀は正しい」っていう呪縛から、そろそろ解放されないか?
伝履中陵が造られた当時、過去最大の墳墓だった訳で、
それが大王の墓でない訳がないだろ、冷静に考えてw
吉備造山なんて、伝履中の相似形なんだし、
そんな政治的に重要な古墳が大王墓でない、とか、は?と言われるよ。
記紀の記述に無理やり合わせようとするから、色々無理が出てくる。
応神と吉備(御友別)との友好の誼で造られ始めたのが伝履中陵・百舌鳥陵山古墳。
後年、倭王(ヤマト王)の墓が吉備王墓と同形同大であることへの異議から、
墳長300歩の大台を指向して造られたのが伝応神陵・誉田御廟山古墳。
>>389 伝履中陵が造られた当時、過去最大の墳墓だった訳で、
伝履中陵が造られた当時、その隣にはそれより遙かにでかい大仙古墳が築造中だったのですが。
なんでオマエは「記紀信者とか言うのが居て、そいつらが伝履中陵は大王墓ではないと言ってるだぁ」とか妄想するの?
もう名前や存在すら忘れ去られた大王もいるんだろうな。
上石津ミサンザイが、大仙古墳と同時期に築造されてたという根拠を示せ。
話はそれからだなw
いやw「記紀にこう書いてるから、僕はこう思った」
とかバカな書き込みが多いからさ〜w
記紀の記述の正誤なんて誰にも分からんし、記紀の記述単独を根拠にされても、
「それも間違いかもしれないよ?」と普通は思うわなw
学問板なら、記紀以外の根拠を絡めて書き込みすべきだろ。
そうしないとチラシの裏レベル。異論はないと思うが?w
>>391 お前文盲か?記紀を信じたい輩が、伝履中を大王墓ではない
みたいな書き込みをしてるのが読めないの?w
まあ、仮にモガリ二十年みたいな異常事態があったとしても、
伝仁徳はともかく、伝応神まで伝履中より新しいのは説明出来まい。
チェックメイトだなw
喧嘩はやめて
ふたりをとめて
履中のために争わないで
もうこれ以上♪
いや、これは大事なポイントだと思うよ。
記紀を無条件に信じ込む信者と、記紀を完全否定する考古学者。
真実はその間にある。
>>389 それは、「進歩的」考古学者・作家などが、記紀をガン無視して
次のような案(一例だが)を出していたことへのアンチテーゼでもあるのだよ。
@昭和の頃、誉田山(応神陵)や大仙(仁徳陵)が5世紀半ばを降るとされ出された案
讃=仲津山、讃珍の間王=石津丘、珍=誉田山、済=大仙、興=世子のため大古墳造られず、武=土師ニサ
記紀は信用できないとされ、世子興墓を百舌鳥に求めれば、讃・珍兄弟と間王・済〜武とを異王統とし、
それぞれが古市古墳群と百舌鳥古墳群の盟主だったいった革新的な論にも繋がるであろう
A「五大陵」をそのまま倭の五王に当てる説
讃=仲津山、珍=石津丘、済=誉田山、興=大仙、武=土師ニサ
Bその他、武王の墓こそ大仙だろう説。これを基に前代墓も想定すれば、
讃=津堂城山、珍=仲津山、済=石津丘、興=誉田山、武=大仙、といったところだろうか。
しかし、最新の考古学の年代観からは、上にもあるが、
誉田山が5C第1四半期、大仙が第2四半期の造営が有力になっている。
そんで次のような案を出す学者さんも出て来て、これはむしろ記紀の伝承に近いもとのなっている。
讃(仁徳?履中?)=大仙、珍(反正)=土師ニサ、済(允恭)=市野山、興(安康)=軽里大塚、武(雄略)=岡ミサ
というもので、私の意見もこれに近い。
>>398 いや、これは大事なポイントだと思ったらあかんよ。
記紀を無条件に信じ込む信者と、記紀を完全否定する考古学者。
真実はそのどちらにもない。
>>389 >吉備造山なんて、伝履中の相似形なんだし、
ならばその巨大な全国4位の造山古墳を誰の墓だと思うのだ?
「思う」ことを書いてはいけないのか。
自分の意見を書く掲示板だろうが。
その間にある、って書いてるじゃん。
ちゃんと読んでから書き込めよバカ
>>400 >記紀を完全否定する考古学者
例えば誰?
例を出せよ。
>「いや、だからさ〜w 」のキモいやつ
考古学者でも神武実在を公言する人もいるよ。
405 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 18:49:06.07
伝履中陵を履中陵にしたのは古事記を書いた者でも延喜式を書いた者でもない
それ以降の学者だ
「百舌鳥耳原南陵」は土師ニサンザイである可能性がある
似たタイプの古墳を 造ってしまう
揺れる男心
よくあるでしょう
だけどどちらとも 少し距離を置いて うまくやってゆける 自信があったの
ごめんなさいね 記紀のせいよ
二人の心 もてあそんで ちょっぴり 楽しんでたの 思わせぶりな態度で
だから けんかをやめて 二人をとめて 古墳のために争わないで
もうこれ以上♪
皆さんだいぶ酒が回ってきたのか、論理もへったくれもない 只のウンコのぶつけあいになってきましたね。
そういうのは どこか他の国へ行ってやってください。
おやすみなさい
不覚にもワロタ
全然おもろない
ちょっとワロタ。
記紀に百舌鳥耳原に三つの大王墓があったとされていて、
大きさから普通に考えれば、大仙(伝仁徳)、
上石津ミサンザイ(伝履中)、土師ニサンザイ(陵墓参考地)になる。
造られた順番は、上石津→大仙→土師ニサンザイ。
土師ニサンザイは百舌鳥古墳群でもかなり後に造られた古墳で、
土師が履中なら、反正が見つからなくなる。
>>401 一応この板は学問板なんでなw適当に思いつきを書かれたら迷惑。
せめて根拠くらいは書きなよ。何度も書いてるが、
記紀単独で根拠にはならないよ?
なんかまあw、記紀は正しいが、後の陵墓比定が間違ったとか言うバカがいるが、
何故そこまで記紀が正しいと言い切れるのか理解不能。
時代とともに記憶・記録は失われ、錯誤・混乱するのは当たり前だが、
記紀も同じく何百年も前の事を記述しているのに、記紀には間違いがない。
考古学で明らかに間違いが分かった以外は、「全面的に正しい」とか思えるアタマは
果たしてどんな構造になっているのやらw
普通の頭をしていれば、「記紀に書かれてるから」を唯一の根拠に書き込めないよw
考古学との整合性を図って初めて、記紀の真実が見えてくる。
>>404 考古学のシンポジウムとか行ったことない?
箸墓築造は西暦何年くらいと考えますか?とかの問いに、
「実年代で考えたことがないから」って人が割と多いよ。
土器編年と実年代をすり合わせて倭人伝を解釈しようとか、完全に諦めている。
いい加減に実年代を決めてた時代が長く、
実年代を語るのは学問的ではないという風潮があった。
それを突き破ったのが、年輪やらC14。まだ完全ではないので、無視してる学者も多いが光明は見えたな。
>>412 一応学問板なんだからバカとか他人のアタマの構造云々という言葉遣いは控えていただきたく。
>>411 いや、だからさ〜w田出井山の可能性があるでしょ。
少なくとも延喜式の平安人は、そう捉えていた可能性大。
>>412 たぶんこのスレで記紀寄りの発言をしてる人で、記紀が全面的に正しいと言ってる人はいないと思う。
「記紀は正しいが、後の陵墓比定が間違った」はそんなバカなことではないだろう。
100%確定ではないが、継体陵や斉明陵はまさにこの例。
御存知だろうが、限りなく100%に近い天武・持統陵も、陵墓治定の過程では五条野(見瀬)丸山古墳が当てられていた。
>>404 しかし、神武実在とか言ってる考古学者って本当にいるの?
てか、考古学的根拠皆無なんだがw
平原を掘った原田大六が「アマテラスの墓を見つけた」とか言ってて、
完全に電波扱いw
まさか、安本とか言い出さないよな?w
橿原には縄文晩期の橿原遺跡が発掘されてて
記紀の年代に意味があるとも思えないがこれは前660年を含む可能性がある
この遺跡は土器なども東北地方の影響が強いが
ここの人々が東から来た人々によって駆逐、または同化され
弥生文化に切り替わっていった
>>412 >なんかまあw、記紀は正しいが、後の陵墓比定が間違ったとか言うバカがいるが、
>何故そこまで記紀が正しいと言い切れるのか理解不能。
じゃ、おまえは崇神、応神、仁徳など大王の名前さえ出すな。
実在したかさえ疑問なんだろ?
このあたりのことは
樋口清之「日本古典の信憑性−神武天皇紀と考古学」に記載されている
そういう意味では神武について口にする考古学者はいるといえばいる
>>415 ない。
延喜式で反正陵は東西に長いとされてるのに、
田出井は南北に長くなっている。
柳田は今時珍しい東遷説だからなw
アマテラスの墓を見つけたw原田大六の弟子だしw
ただ柳田にしても東遷を率いたリーダーとして「神武」的な人物を想定しているだけで、
記紀に書かれてる通りの神武や、それ以降の欠史八代の存在を信じてるわけじゃないだろ。
柳田の東遷は卑弥呼の前だろ
>>422 >東遷を率いたリーダーとして「神武」的な人物を想定しているだけで
ならばその男を神武と呼んでもいいではないか。
>欠史八代の存在を信じてるわけじゃないだろ。
新潟の城の山古墳の発掘で四道将軍の実在性が高まった。
ならば彼らの父親が8代天皇や9代天皇であるので、
欠史ではなく実在しててもおかしくない。
また稲荷山鉄剣のオオヒコの銘もそれを補う。
欠史8代の非実在を言うのはおまえの勝手だが、
実在を言う人を批判するな。
兆域全体でも東西に長いなんて言えないが。
そもそも田出井が造られるほぼ同時期に、三島野や古市で、
田出井よりずっとデカい古墳が次々造られてる。
少し時代が下るが、淡輪ミサンザイの方が遥かに大きい。
残念ながら、田出井は大王墓サイズじゃない。冷静に考えて。
記紀に書かれてるような日向から来た征服王みたいな初代天皇を信じてるのは一部だろ。
卑弥呼みたく、有力豪族連合から推戴される形で初代天皇は生まれたらしい。
マキムクを見る限り。その意味で、倭人伝と考古学は一致している。
ただ、記紀編纂にあたり、初代天皇は偉大な武勲を上げる必要があったから、
東征伝承が創作されたということ。
>>426 陪塚のこと考えれば東西に長くなるよ。
時代が違うところでサイズ比較したってしゃあないだろw
それだったら今城塚だって大王墓じゃなくなっちまう。
あなたは考古学至上主義だから、デカさで大王墓の正否を決めてく主義なんかもしれんが、
私ら記紀その他の「文献参考派」は、反正陵が百舌鳥耳原「北陵」と伝えられていることも重要視するんですよ。
あなたの大好きな百舌鳥三陵(大仙・石津・土師)が平安期にも大王墓として伝わってたなら、
百舌鳥中陵・南西陵・南東陵とか、北陵・西陵・東陵とかで表現されるでしょうに
>>425 反論を拒否して、唯一の根拠は「記紀に書かれてるから」からかw
お前、学問板に向かないから、書き込み止めろよw
>>427 >ただ、記紀編纂にあたり、初代天皇は偉大な武勲を上げる必要があったから、
>東征伝承が創作されたということ。
へぇ、それが何で日向から来た事になるのかな?
日向から来た事が偉大なのか?
創作した、つまり嘘をついたというなら、
中国の皇帝の末裔とでもすればいいのに。
>>429 記紀であれ魏志倭人伝であれ信憑性が何パーセントかという話だ。
その意味が分からずゼロサムで片付けようとするおまえこそ学問板に向かない。
消えろ。
>>427 >卑弥呼みたく、有力豪族連合から推戴される形で初代天皇は生まれたらしい。
豪族連合の氏族名を教えてくれ。
君が思い当たる範囲でかまわないから。
>>430 出た!w「記紀ウソつかない」の人。
記紀を書く人がわざわざ嘘を書く筈がない→記紀の内容は信用出来る、とか言う奴w
記紀には誤りが多く、正誤の判断は考古学に拠らざるを得ない。
何度書いてもこのことが理解出来ないんだなw
日向から東征なんて、記紀以外に根拠無し。西都原を無理やり古くしようとかも結局駄目だったから。
>>433 >出た!w「記紀ウソつかない」の人
記紀の信憑性60%から70%というのが俺の意見。
嘘が書かれてないないなんて一言も言ってない。
勝手に論理を摩り替えるな。
記紀の信憑性が6〜70パーセントって、どうやって割り出したんですか〜?
マジで聞きたいよw
ことごとく学問的思考が出来ない馬鹿だな。
>記紀の信憑性が6〜70パーセントって、どうやって割り出したんですか〜?
俺の直感。
他人にどうこう言われる筋合いはない。
お前は何%だと思ってるのだ。
それと、
>有力豪族連合から推戴される形で初代天皇は生まれたらしい
初代は何天皇で、何と言う有力豪族たちから推戴されたのか、
氏族名をいくつか答えてもらおうか。
>>432 >>1に大体書いてるが。
個人的には大和、中河内、阿讃播が中心。
寺沢は大和の影響を低く見ていて、筑紫、吉備、讃岐、播磨。
薩長土肥になぞらえて、筑備讃播とか言ってる。
赤塚なんかはこれら諸国に最終的に東海が加わり、ヤマト大王権が生まれたとする。
考古学では豪族連合の人ばかりだよ。
>>432 氏族名なのだが。
初代天皇を推戴するなら後々まで豪族であっただろう。
氏族名とか、余り意味がないと思うが?
葛城とか丸邇とか、吉備、こんなのを書けばいいの?w
記紀編纂前に持統が有力氏族に系図と伝承を提出させてるが、
個人的にはこのあたり氏族でいい気はする。
まあ、検証不能だから無意味だけどね。
>>439 豪族連合といっても、そもそも3世紀頃の吉備や河内などに世襲の首長というのがあったのか
>>439 で、各豪族に推戴された初代天皇を誰だと思ってるのだ?
纏向遺跡の出土物の要素から筑備讃播などと言うなら、
初代天皇を誰だと思うのかで豪族も判明しそうなものだが。
たとえば初代を神武だと思うのなら大伴、久米、後の物部、鴨などがいるよね。
>>441 いや、まず、記紀全て書かれてる、みたいな妄想を捨てようなw
聖書の暗号と一緒だからw
>>411-439 今日は朝から香ばしいのがイッパイ湧いてる------wwwww
オマエラ学生か?
おまえらが最新知識のつもりでひけらかしてるのは、手垢が付いて古臭くなったやつばっかし。
同じ所を堂々巡りしているだけなのを 少しぐらいは気づけ ! バカにしか見えんぞ
>いや、まず、記紀全て書かれてる、みたいな妄想を捨てようなw
記紀の信憑性60%から70%というのが俺の意見だと言ってるだろうが。
ごまかすな。
大伴、久米、物部、鴨は後々まで実在の豪族だろうが。
それさえ否定するのか?
「初代天皇を誰だと思ってるのだ?」
というこんな簡単な質問にさえ答えられないのか。
簡単ってw
お前みたいに記紀を盲信出来るなら簡単なんだろうなw
ヤマト王権の成立プロセスはなかなか難しい問題だし、答えなんて出てない。
だからこんなスレも立つ。
まあ、少なくともお前のご本尊の記紀の記述は間違ってるようだよw
>>445 初代天皇さえ答えられないのか。
>答えなんて出てない
自分が思う初代天皇も答えられないのか。
何が楽しくて歴史板にいるんだ?
>記紀の記述は間違ってるようだよw
おまえの好きな寺澤は、
初代と言ってるのかどうかは知らないが、
崇神天皇の名前を出してるが?
つまり記紀を基盤に考えておられるという事だね。
箸墓古墳が崇神の可能性もありえると言ってた。
モモソ媛だって記紀に登場するよね。
プロの考古学者でさえ記紀の登場人物を出しておられるのに、
ド素人のお前が何を躊躇してるんだよ。
ま、今日はこれくらいにしといたろ。
いやさ〜w
記紀を読んで僕はこう思いましたの馬鹿を馬鹿にしてるのに、
安易に初代天皇なんて言える訳ないだろ?wお前ほんっと〜に馬鹿だよなwww
考古学的には箸墓の被葬者、倭王権の初代。
箸墓以降、前方後円墳が定型化する。
古事記の内容は以下の三つに分けられる。
@史実
A稗田阿礼が暗記していた内容(史実とは異なる)
B太安万侶が記録した内容(稗田阿礼の暗記していた内容とは異なる)
これらを分類することに意義がある
百舌鳥古墳群の陵墓治定だが、史実と言うには証拠がなさすぎる。
かと言って奈良時代に作った作り話とも考えにくい。作り話なら「田出井山が反正天皇陵だ」などとわざわざ疑われるような嘘は書かない。
少なくとも稗田阿礼の時代には記紀にあるような認識がされていたということには同意頂けるだろうか。
>>449 オマエ 大仙公園辺りで、自分で古墳を築造して 可及的速やかにそこへ埋葬してもらえ。
451 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 22:51:10.29
初代天皇って天武天皇だろ?
>>451 表面的な文字面の上ではそういうことになっている。現実には半殺しの目に遭いながら何とか奈良盆地にたどり着いた情けないオッサン。
実際には、ほぼ日本の主要地域を版図に収める「大和」が成立したのは、十代目の崇神天皇の時代。
その中間に、部族抗争の結果、大和における主導権を確立したと見られる孝霊天皇なんかもいる。
453 :
452:2013/10/13(日) 23:25:10.09
>>451 アッ ごめん だいぶ目が霞んでいて、天武天皇が神武天皇に見えた。
もう初代天皇は天武天皇ってことで終わりでいいんじゃない?
天武天皇の父親って誰?
>>454 なんで天武以前を抹殺したいの?
>>455 たぶん どこかの男の人 ひょっとしたら女の人かも知れない。
458 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 02:43:50.20
神武東征をそのまま鵜呑みにしてるのなんか、一部の記紀信者だろw
せいぜい天皇家の先祖が西から来たってだけで。
>>458 神武を一旦否定して、ゼロから考え直してみるのも、一つの方法論かもね。
で、次の段階として 3世紀半ばの崇神の時代「巻向・笠縫遺跡」を基盤とする、このスレのタイトルでもある「巨大古墳黎明期」すなわち「統合国家大和の成立」も否定するつもりなのかな? ・・・・wwwwww きちがいや
統合国家大和が成立するためには、その200年ほど前の「上(神)大和」と呼ばれる時代、成立の先駆け「謂われ」となる事績を行った人(達)が居たと考えても別に不合理ではない。
その人(達)は自ら天皇と称したわけでも、巨大墳墓を築造したわけでも、後世に残るような壮麗な遺跡を残した訳でもない。状況証拠はあちこちにあるが、現在の所直接証拠は殆ど無い。まあ どのように考えればよいのか ボチボチでんな
「神武」とか、特定のキャラに自分の思いを仮託して先史時代を語ろうとする行為に違和感。
神武東征からヤマト王権成立、前方後円墳の時代をドラマ化しよう。
記紀は間違いだらけなのに、記紀のみを根拠に妄想を膨らませる。
ほんと、馬鹿だよな〜
>>464 箸墓古墳wiki
>白石太一郎は「卑弥呼の墓であっても不思議ではない」と述べるのに対し、
>石野博信は台与の墓、また、寺沢薫は崇神天皇の墓である可能性も指摘している。
寺澤は記紀を読んで崇神の可能性もあると思いますと妄想を膨らませてるわけだ。
批判してみろ、アホのトピ主。
>>465 白石は古墳の比定に関しては、昔の水準ではともかく、現代の水準から謂えば完全にDQN。レロレロ言っている。
石野については何を言ってるか知らん。
寺沢は巻向‘だけ’しか見えていない。
悪口言っても批判にならない
468 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 15:11:23.53
「寺沢薫は崇神天皇の墓である可能性も指摘している。 」って
いつ、どこで言ったの?
ソースは?
469 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 16:26:13.69
以前から疑問なんだが、纏向っていったい何なんだろうな。
住居跡は見つかっていないようだから、集落とはいえないんだろうし。
>>468 寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』講談社、2000年12月
2世紀後半の倭国大乱と神武軍の大和侵入を同時期だとすれば、
銅鐸の消滅、奈良盆地の環濠集落の消滅、高地性集落の消滅、
土師器の誕生、前方後円墳の誕生という大変革の時期と合致する。
これは有力な説となる。
しかし前方後円墳は神武系の墳墓ではないということになる。
なぜなら千葉県市原市の神門4号墳の説明が出来ない。
この古墳は庄内式だから3世紀前半だろう。
残念ながら神武と関東は全く関係ない。
では関係ある氏族とは何だ。
千葉あたりは弥生時代から鉄の出土量が意外と多い。
つまり鉄と前方後円墳は密接な関係にある。
弥生時代、鉄の量で他地域を圧倒するのは北部九州だ。
ならば北部九州を地盤とした氏族、つまり物部だ。
初期前方後円墳とは物部系墳墓なのだ。
大王家が前方後円墳を採用するのは物部氏の母から産まれた崇神以降なのだ。
>>743 千葉と物部氏の関係が曖昧。
それなら東国遠征により関東の文化を大和が吸収したとした方が納得できる。
>>474 >それなら東国遠征により関東の文化を大和が吸収したとした方が納得できる。
東国遠征って何天皇の時代?
崇神天皇の時代だな
478 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 20:45:41.07
>>473 関東は討征しなくても、大和の成立以前から東山道を通って進出した、
上総、常陸は中臣(鹿島、香取)、上野は阿波の忌部によってずでに大和の版図に組み込まれている、
討伐する必要があるのは韓奈川、埼玉県新羅郡、武蔵野あたりに新羅高句麗からやって来て朝廷に反逆する土人どまだけ。
オマエはどこの土人だ?
>>481 弥生時代から、おそらくわ景行辺りの時代にかけて。半島からやって来た連中を関東南部に捨てたのはもっと後。
物部氏は戦争もないのに関東の情報をどうやって得ていたんだ?
>>483 東山道(後の時代の中仙道)を経由しする交通経路があった。
東海道が関東への主要経路になるのはずっと後の時代。
東山道: 奈良→三重→岐阜→長野→群馬・茨城 途中三県
東海道: 奈良→三重→愛知→静岡→神奈川→埼玉→群馬・茨城 途中五県
東山道経由は途中峠越えが何カ所かあるが、意外に距離は近い。 自分で走破した実感。
とりあえず、その本の何ページになんと書いてあるか訊こうか。
>>478 それは浅茅が原の機能だ。
あっ、浅茅が原も巻向の内に入るんだった。ゴメン
マキムクの機能は、やはり宗教都市だったと思うよ。
天変地異が続き、宗教的権威として三輪山の神官が王に担がれて、
それまで聖域とされて、人が住んでなかったマキムクの地に計画都市が築かれる。
初めに大溝が掘られて、その水運を利用して、次々と大規模古墳が造営されていく。
大陸から伝来した神仙思想を取り入れて国をまとめていこうとしたのだろう。
文字の読めない倭人に王の偉大さを分からせるためには、巨大な古墳が必要だった。
この古墳祭祀ってのが図に当たって、予想以上に人気が出、全国に波及していく。
マキムク王権成立プロセスで、寺沢、近藤とか、大和以外がイニシアチブを取った
という、いわゆる外来主導説もあるが、やはり、何故マキムクの地が選定されたのか?の理由が弱い気がする。
東西交易の結節点?それなら他の場所もあっただろう。
筑紫・吉備から見ると、マキムクの地は東に寄り過ぎている。当時の交通事情を考えれば余計だ。
権力者の思考として、自分の本拠地からわざわざ遠くに都を造ろうとするだろうか?
自身の影響力低下は間違いないのに。
政権の不安定で清盛が福原に都を移したように、
自身の本拠地から速やかに軍隊を送り込める立地こそ、権力者が望むことだろう。
で、私は二段階説を取っている。
マキムク当初は大和=中河内連合で、マキムクを造営し、石塚、矢塚、勝山、東田大塚、いわゆるマキムク型前方後円墳を造った。
ここまでは地方王権レベル。出雲西山や吉備楯築、筑紫平原と同レベル。
ただまあ、人口は一番の国になった。
その後、倭国連合が造られるにあたり、大和王が吉備やら筑紫などから共立されて、
その初代大王が箸墓に葬られたと。
>東西交易の結節点?それなら他の場所もあっただろう。
どこに?
前スレでホケノ山古墳は讃岐の土器商人の墓と言ってた馬鹿がグダグダほざいてるが、
全然面白くないね、このスレ。
>>491 >その初代大王が箸墓に葬られたと
その大王のお名前をどうぞ。
>>490 >権力者の思考として、自分の本拠地からわざわざ遠くに都を造ろうとするだろうか?
>自身の影響力低下は間違いないのに。
おまえ馬鹿か。
当時の日本人は半島や大陸にはおぞましい人間が住んでいることを知ってたんだよ。
したがってニギハヤヒや神武の東征というのも、
奈良という天然の要塞への首都移転なのだよ。
その証拠に白村江の時、瀬戸内にあっという間に迎撃用の城が建ったろ。
これらは地理を充分理解した上での行動だ。
元寇の時でも鎌倉幕府ならぬ博多幕府なら日本は終わってただろ。
496 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 02:45:32.74
497 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 04:52:59.22
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
倭国の大乱、あるいは卑弥呼共立の七十年か八十年前に、その国には男王が
いたと書かれている。倭国の大乱は、その王の系統の継承をめぐる争い。
中国の歴史書では、共立はよく出てくる。やはり皇帝や王の継承の時で、
正当な継承者ではなく、非連続的な場合に使われる。
帥升の築いた体制の後継者が卑弥呼になったということになる。
>>493 徳島の水銀朱の商人ねw
この時期、徳島県の土器が広域に拡散していて、萩原王墓の主は
水銀朱の交易で儲けていただろうというのを商人と書いたのに
理解出来ないみたいだなw
ホケノが阿波讃岐の積石墓の影響が強いのは間違いないし。
墓の被葬者は、記紀に書かれてる人名でないと気が済まないみたいだがw
「記紀に全てが書かれてる」とかいう、ダヴィンチコードみたいな妄想から
早く抜け出した方がいいぞw
>>498 ホケノに阿波讃岐の土器なんてあったかね。
大量の鉄鏃や銅鏃が出てるのだから普通に考えて武人だろ。
初代天皇が誰かさえ想定できない可哀想なお人には理解できないだろうねw
武人ってwどういう意味で書いてるの?w
首長とは当然武人だろ。
商人なのかwww
お前、三世紀に職業軍人がいたとか思ってる馬鹿?
武人と首長は兼ねてたかもしれないけど商人と武人を兼ねてたというのは無理があるなあ
すったらなこったねえだ。
商談決裂したとたん、あきんどが山賊海賊に商売替えするこた、よくあるだ。
瀬戸内海の海賊も普段は商取引してるしな。
遠隔地交易に武力は不可分。
武人とは山賊海賊のことである。
当時の首長層は、農業の指導者でもあり、神官でもあり、
軍事的指導者でもあり、商取引の担い手でもあったということ。
三世紀に分業とか有り得ん。
武人って、そもそもどういう意味で使ってるのかが、全く理解不能。
交易してない領主なんかいないんだから首長の墓はみんな商人の墓だろ
首長=防衛長官=財務長官
>>505 瀬戸内海の海賊→大三島のオチ氏=後の物部(もののふ)→物部系氏族を中核とする首長連合
商人と言えば川で取れた魚を売ってるのも商人だから、
首長を商人などと言うのはおかしい。
>>512 > 商人と言えば川で取れた魚を売ってるのも商人だから、
> 首長を商人などと言うのはおかしい。
商人と言えば取れた魚を売ってるの海神(わたつみ)なども商人だから、
天皇(首長)を海神の末裔である商人などと言うのはおかしい。 というわけですね。
江戸時代の身分制度とゴッチャにしているやつ大杉。
纏向石塚古墳を大よその定説どおり3世紀初頭として、
それ以降の勝山やホケノなど纏向古墳群が時代的に連続してるのだから、
あのあたりを地盤にした可能性が高く、
3世紀初頭から存在してる氏族を想定しないといけない。
これは限られてくる。
515 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 21:50:58.02
>>514 纏向石塚とか纏向勝山については年代も疑問なのだが、それよりも
埋葬施設が確認されていないのに、古墳と言えるのかどうかが問題だな。
三世紀初頭から存在してる氏族ってw
葛城、吉備、和邇くらいじゃないの?確実なのはw
物部とか大伴は遡ってもせいぜい五世紀くらいから。
517 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 05:20:14.09
473 :日本@名無史さん:2013/10/14(月) 18:58:16.16
2世紀後半の倭国大乱と神武軍の大和侵入を同時期だとすれば、
そう想定すると、十代目の崇神の古事記崩年319年という
定説がだいたい当て嵌まる。
しかし、
>銅鐸の消滅、奈良盆地の環濠集落の消滅、高地性集落の消滅、
土師器の誕生、前方後円墳の誕生という大変革の時期と合致する。
これらは複合的な要素だから、
倭国大乱とは密接な関連があるかもしれないが、
神武東征とはそんな大きく結びつかないだろう。
というのも、神武東征というのはヤマトという地方に小さな王権
を確立したに過ぎないのであって、
日本の統一というのは崇神から始められるわけだから、
その時に大きな流れを生んだのは別の要素だろう。
それが何かとなると、現状では不明。
強いて想定しようとすると妄想になる。
>>516 >葛城、吉備、和邇くらいじゃないの?確実なのはw
>物部とか大伴は遡ってもせいぜい五世紀くらいから。
始祖から考える限り葛城、吉備、和邇の方が物部や大伴より遅い。
3世紀前半から存続するのは大伴、久米、物部、尾張、鴨など。
>>517 >日本の統一というのは崇神から始められるわけだから
ところが関東千葉に神門古墳、
東北福島に臼が森古墳が崇神以前に存在する。
神門にいたっては庄内期なので3世紀前半だろう。
これが神武による影響とは言えない。
東北関東と神武は関係ないからな。
これも、3世紀前半から存在し、
纏向古墳群と関係する氏族を想定するべきだろう。
それ以外に解けない。
>>518 記紀を信じるならそうなるが。
ただまあ、ニギハヤキの降臨神話やら、ニニギの天孫降臨とかを
どこまで信用出来るか?というと甚だ難しい。
大伴や物部が隆盛した時に、
いかに自分たちの氏族が古くから天皇に仕えていたかを誇示したくて、
始祖伝承に紛れ込ませたのが真相だろう。
>>520 嘘をついていいなら皇別にしてもらえばいいのに。
神別よりランクが高いのだから。
古事記には、神功皇后は屈服した新羅王の門に住ノ江(住吉)大神を祀ったとある。
日本では崇高な自然現象も神ならば人も神である。
この場合は人を祀った、つまり支配者として置いたということであろう。
それが住吉大神だというのである。
新羅の4代目王・脱解が倭人であることは言うまでもない。
しかしながらこの脱解を娘婿に迎えたという2代目王・南解次次雄に注目だ。
普通、異国人を娘婿に迎えるだろうか?
神攻皇后が祀った(置いた)住吉三神のお一人にナカツツノオ命がおられる。
南解次次雄はナカツツノオと読めるではないか。
つまり新羅2代目王は住吉大神だったのだ。
またこれは新羅の慶州から日本の布留式土器が出土するという考古学とも合致するのだ。
>>521 それはまあ、考え方の違いじゃないか?
大王との血の繋がりに誇りを持つ氏族もいれば、
太古の昔から大王に仕えていたことに自負をもつ氏族もいたということ。
おそらくは皇別の「臣」を賜姓された氏族は、
初期ヤマト王権が首長連合だった頃の構成員で、
大王を輩出する権利があった。反乱伝承が多いのもそのため。
「連」系は大王に仕える職能氏族。大王権が拡大した五世紀以降台頭が妥当な解釈だろう。
事実、彼らの台頭を思わせる墳墓が見つかっていない。
525 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 05:54:01.50
>>519 それが勢力の移動なのか、単純な模倣なのかはともかく、
文化は伝播するから、
前方後円墳という埋葬形式の文化をヤマト王権が取り入れた、
と考えればとくに問題にもならない。
崇神の代に建造された箸墓の特異な点はその巨大さだから。
ヤマト地方にはその前から前方後円墳はある。
さらに前(としても)に、関東に小さな神門古墳があっても、
矛盾するものではない。
ヤマト王権は、どこかの勢力圏で作られていた前方後円墳
を王家の墳墓形式として取り入れ、
それを王権のシンボルとして巨大化していった。
それがまた逆に文化的あるいは勢力圏の拡大にともなって、
日本全国に作られるようになった。
特におかしな流れでもない。
>>523 >事実、彼らの台頭を思わせる墳墓が見つかっていない。
>>525 >崇神の代に建造された箸墓の特異な点はその巨大さだから。
>ヤマト地方にはその前から前方後円墳はある。
纏向古墳群は1つの地層に複数の古墳がないことから、
連続性がある一氏族の首長墓群だろう。
これを何氏族の墓かと見るかだ。
大王家とみるのか勝手だが、俺はそう見ない。
記紀でも崇神以前の大王の墓所は畝傍山およびその近辺だ。
千葉にまで前期初頭の前方後円墳があるのは、それ以前の弥生時代から鉄を供給してた氏族だろう。
・県別に見た鉄器の出土数(寺沢薫氏による)
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu14.jpg 千葉が意外に多い。これが神門古墳に繋がる。
石川も多い。分校マエ山古墳に繋がる。
鉄は北部九州が圧倒的なのだから、北部九州系で千葉や石川などにも鉄を供給してた氏族、
彼らこそが全国にある初期前方後円墳の埋葬者だ。
大王家も彼らに取り込まれた。
そして生まれたのが4世紀初頭の崇神だ。
したがって崇神の墓も前方後円墳になり、それ以降定着する。
纏向石塚から100年後の事だ。
鉄を供給してた氏族?
そんなものは無いよ。
だって、輸入品だもの。
528 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 06:52:32.60
国内で製鉄の痕跡は5世紀以降。
輸入ルートは、博多か唐津。
4世紀初頭あたりには、山陰でも輸入をしていた可能性はある。
>>527 釜山市の萊城(ネソン)遺跡では出土土器の94%が北九州系。
つまり、弥生時代、倭人が半島で鉄の原料を採掘していた。
それを千葉まで供給してた連中がいたのは当たり前。
530 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 07:14:53.04
土器があった→採掘していた
超飛躍
>>530 萊城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡だが?(倭人と鉄の考古学 村上恭通)
魏志弁韓伝にも「国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従いて之を採る」とあるし、
それが萊城遺跡の時代からあったとして何かおかしいのか?
そう書いてある箇所を引用してちょ
>>532 古本屋に売ったので君が本を買うなり検索するなりしろ。
萊城遺跡の事はもはや当たり前だが。
中国史書とも合致してるのに何を文句言ってるのやら。
もっと言えば半島の鉄での利権を守るために任那日本府があったのだろう。
534 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 08:01:35.03
そんなこと書かれてないから追求されていることが判らないらしい
535 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 08:35:09.71
じゃ、原書を出して、書かれていないことを立証したら?
書かれていると主張してる人が、書かれてる証拠を出せない事実だけでOK
そもそも、倭人が半島南部で製鉄を行っていたのなら
日本列島に何百年間も製鉄技術が伝わっていないのは
不合理ですね。
538 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 09:45:15.12
製鉄には酸素一酸化炭素をコントロールできる炉が必要。
開放雰囲気で焼く弥生土器は赤っぽく、
鉄が酸化している。
閉鎖窯の須恵器は青黒っぽく、鉄が還元しているのを
見ることができる。
製鉄には、鉄を還元することが必要なので、
須恵器窯以降に発展した可能性が高い。
大体、村上自身が
「古墳時代前期を通じて、鉄における九州の優位性は変わらない」
「マキムク成立で鉄は重要なファクターではない」と言い切ってる訳だし。
マキムク成立がその、なんだ?鉄を供給する氏族とか何とか?w
が主体者だったとは考えられない。
>>537 製鉄遺跡は弥生時代からあるし纏向遺跡にも製鉄跡はあったはず。
ただあくまでも鍛冶遺跡。
鉄テイなど原料自体は半島に頼ってた。
>>539 >古墳時代前期を通じて、鉄における九州の優位性は変わらない
その通りだろうね。
>「マキムク成立で鉄は重要なファクターではない」と言い切ってる訳だし。
おまえの言い方真似してやろうか。
何と言う本の何ページ?
542 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 16:14:09.90
奥野正男は捏造の前科が有るから信用できないな
奥野が1+1=2と言っても信用するな。
544 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 17:30:51.35
1+1=2は追検証できるが、奥野の想定は証拠が示されてないから。
>>544 おまえが反対しようが釜山・莱城遺跡では倭人が海を渡り、
鉄採掘をしてたのはもはや考古学的定説だ。
反対してる学者なんて一人もいない。
いれば名前出せ。
ド素人のおまえが一人で反対しても滑稽なだけw
さきに定説だって証拠出してね
>>546 卑怯な悪魔の証明はやめろ。
反対者を出すのが先。
いないなら定説になる。
だいたい鍛冶遺跡から弥生土器が94%も発見されるのだから、
倭人の遺跡となるのは当たり前。
それ、遺跡全体で94%じゃなく、一部の遺構で、って限定じゃなかった?
549 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 18:54:09.22
集落全体の94%か?
一部遺構から出てくる土器の94%か?
で、受ける印象はかなり違うが。
あと、製鉄してたか、単なる鍛治遺跡かでも違う。
弥生土器が釜山から出てきて、喜び過ぎ、妄想し過ぎるのはダメだよw
しかし往生際の悪いみみっちいやつだな。
こんな事に拘泥してるのおまえくらいだ、恥を知れ。
日本で韓式土器が大量に出る遺跡は渡来人の集落跡とされる。
じゃぁ逆の事が何で「ない」のだ。
だいたい縄文時代から続く石斧が弥生後期で終わると言われてるから、
鉄の渡来とおおよそ合致してる。
いやだからさ〜w
渡来した倭人が集落の一画に集住し、弁韓の人から鍛治技術を学んでいた、
程度の遺跡ではないか?と言っているのだが?
往生際が悪いのはどっちだよ?w
村上ってのは、白石太一郎の「マキムク王権が、ツクシの鉄供給ルート(朝鮮半島からの)を奪取した」
ってのを明確に否定したんだよ。
古墳時代前期を通じて、鉄では九州>畿内ですよ、と。
鉄供給氏族wがマキムク王権とかないんだよ、残念ながらw
往生際悪いなーw
554 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 20:16:23.95
>卑怯な悪魔の証明はやめろ。
>反対者を出すのが先。
あたま、おかしい?
あんたが「定説」だって言ってんだから
それが定説だって証明するのはあんたの義務じゃん。
幽霊が存在しない証明できなければ、幽霊がいることになるわけ?
それ、悪徳霊媒師の論理だよ。
>渡来した倭人が集落の一画に集住し、弁韓の人から鍛治技術を学んでいた、
>程度の遺跡ではないか?と言っているのだが?
そんな事全然言ってなかったじゃん。
莱城遺跡自体に懐疑的だったくせに困ったからって論点をずらしちゃダメだよ。
>古墳時代前期を通じて、鉄では九州>畿内ですよ、と。
たしか椿井大塚山やホケノ山の発掘で、
畿内の鉄の出土量が九州を逆転するはず。
どちらにしても畿内が最終的には上回る。
これは鉄の支配権をもつ人物が九州から畿内入りしたことを意味する。
自分で自分の墓穴掘っちゃったじゃん、おまぬけさん。
「莱城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡だが?(倭人と鉄の考古学 村上恭通) 」
ってウソだったんでしょ?
自分で
「北部九州の倭人が弁辰地域において鉄素材の仲介を果たしたにちがいない。」
(村上)って引用しちゃった。
>>556 「鉄素材の仲介」とは半島から日本に鉄資源(たとえば鉄塊)を、
日本に持ってくる事なんで、何も矛盾してないが?
莱城遺跡そのものに懐疑的だったおまえが何を言ってるのだ。
558 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 21:14:17.31
ま、今日はこれくらいにしといたろ。
559 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 21:14:36.38
やだ、こいつウソつくの平気だ世!人格どうなってんおー
「倭人の鉄採掘遺跡」が
「鉄資源(たとえば鉄塊)を、日本に持ってくる事」
に化けた。
で?
どっから「莱城遺跡そのものに懐疑的だったおまえ」って捏造してんの?
>「倭人の鉄採掘遺跡」が
>「鉄資源(たとえば鉄塊)を、日本に持ってくる事」
>に化けた。
何も変ではない。
鉄鉱石から鉄塊を取り出し持ち込んだのか、
はたまた鍛冶までして鉄製品を持ち込んだのかは分からない。
どちらにしても半島の鉄資源で出来た物を持ち込んできたのだろう。
どこが変なんだ。
>どっから「莱城遺跡そのものに懐疑的だったおまえ」って捏造してんの?
奥野の発言にに懐疑的だってではないか。
村上や奥野の莱城遺跡の見解に反論してる学者をひとりも出してないが?
どこが変って、おまえさまの頭だよ。
「鉄の採掘」と
「鉄資源(たとえば鉄塊)を、日本に持ってくる事」
が同じだとでも、いうの?
鉄を半島で採掘して日本に持ってきたから、
弥生時代に北九州は圧倒的鉄量を誇ってたのだろうがドアホ。
おまえ本当に馬鹿だな。
証拠でもあんの?
おまえ喧嘩売ってるのか。
今まで何を聞いてきたんだ。
もういっぺん読み返せ。
こいつパラノイアだ、氏ねよ。
おいおいw
感情的にならずさ〜。
結論としては、超巨大鉄供給氏族モノノベがマキムク王権をつくった
なんてことは、まったく根拠のない妄想でした。ってことだよね?
罵って誤魔化そうとしてるけど
きみは
「北部九州の倭人が弁辰地域において
鉄素材の仲介を果たしたにちがいない。」
を
「莱城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡」に
捏造改竄したことが
暴かれたんだよ。
>「北部九州の倭人が弁辰地域において
>鉄素材の仲介を果たしたにちがいない。」
>を
>「莱城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡」に
>捏造改竄したことが
半島で鉄を採掘し、日本に持ってくる事は
採掘者でもあり仲介者だが?
アホ?
>まったく根拠のない妄想でした
崇神の母も祖母も物部だからね。
根拠は大いにあるが?
あ、君は氏族の事はなにも知らないお馬鹿さんだったね。
3世紀初頭の氏族を葛城、吉備、和邇なんて言ってる馬鹿には何を言っても無駄だろうね。
明日早いんで寝るわ、パラノイア君。
おいおい、きちんとした反論が出来ないと、罵ってキレてふて寝かw
記紀が全て正しいという前提の馬鹿にはつける薬がないな〜w
571 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 22:33:46.76
>半島で鉄を採掘し、日本に持ってくる事は
>採掘者でもあり仲介者だが?
仲介したなら、採掘者ではないんだけど、
そこまでミエミエのウソをつき続けるの?
要は、莱城遺跡が本当に倭人の鉄採掘遺跡かどうかが問題であって、
そんな評価はされてないってことだろ。
>そんな評価はされてないってことだろ
されてないソースを。
てか、村上は「倭人は仲介者」って書いてんだろ?
倭人が採掘してたなんてどこにも書いてないんだろ?
涙を拭けよw
「出土土器の94%が北部九州の弥生時代中期前半の土器です。
この鍛冶遺構を含む住居の集まりが、倭人の生活空間と評価
されています。」
>>575 鉄採掘遺跡と評価はされてないソースをといってるのに出せないんだな。
釜山で倭人の鉄採掘遺跡が見つかった!
→鉄交易に携わっていた(仲介)だけだろ。
→鉄採掘遺跡でない根拠を出せ
もう滅茶苦茶wwww
>>578 「この鍛冶遺構を含む住居の集まりが、倭人の生活空間と評価
されています」という村上に反論すれば言いだけ。
反論する学者の意見を探してくればいいだけ。
まぁおまえじゃ無理だがw
村上の意見は、あくまで「仲介者」では?
それに対しては誰も異論なんてないだろ。
ただお前が「倭人の鉄採掘遺跡」なんて誰も書いてないことを主張するから
それに対して反論されてるわけ。
ソースの捏造って、学問板は罪が重い。
根拠もない適当なことを書かれては迷惑だから、
捏造は捏造と指摘しとかないとな。
だからフルボッコにされているだよ、お前は。
>村上の意見は、あくまで「仲介者」では?
「鍛冶遺構を含む住居の集まりが、倭人の生活空間と評価
されています」のどこが「あくまでも仲介者」なんだよ。
仲介というのは半島から日本に鉄を持ってきた仲介者と言う意味だ、
まだ分からないのか。
根拠に反論できないのはおまえだし、フルボッコにされているはお前だ。
倭人の鉄採掘遺跡って根拠はなかったです。読み間違えました。すいませんw
>>582 アホに産まれたのは君のせいではないから謝らなくてもいいよ。
584 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:28:39.10
585 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:35:30.38
最新最古の製鉄は北部九州
◆北部九州の羽口は、
・島根県出雲市古志本郷(こしほんごう)遺跡蒲鉾型羽口(角田2008)
・石川県小松市一針(ひとつはり)B遺跡・古墳時代初頭(4世紀?)の溝・2000年度調査
・徳島市の庄・蔵本遺跡でも弥生終末期後半(3世紀前半)の鞴(ふいご)の羽口発見。2002年調査
庄・蔵本遺跡の西、鮎喰川西岸の矢野遺跡から同時期の鍛冶工房や200gの砂鉄の入った壺。
庄・蔵本遺跡と同時期の類例として、
・博多遺跡群第59次調査(1989年)
・ 博多遺跡群第65次調査(1990年祇園町) 156次調査の報告文中に登場。
・ 纏向勝山古墳1次調査(1997年石野『纏向遺跡』)。
・福岡市西区今宿町大塚遺跡 弥生終末(3世紀)の鍛冶工房・かまど・朝鮮半島系土器など出土(2007)。
586 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:37:07.44
本によっては鉄器加工の鍛冶遺跡と、
鉄鉱石から鉄を作る製鉄を、
ごっちゃにしてることがあるから、
読むときは気をつけてね。
知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1382233495/ ■大陸進出の軍事的要衝立証
本書は、著者が精魂傾けて連続出版した『日本古代史 正解』(全3巻、講談社)に続くものである。
第3巻の「渡海編」では、日韓の古代史学会がその存在を否定する神功(じんぐう)皇后の新羅征伐が、
まぎれもない歴史的事実であることを突き止め、さらに倭国の朝鮮半島進出の橋頭堡(きょうとうほ)として半島南部沿海地域に手を伸ばし、
ここを任那(みまな)日本府とした事実を立証している。碑文や石碑の位置関係、
さらに歴史的文脈からこの事実を初めて証(あか)したことの意味には圧倒的なものがある。
今回の著作は、この任那日本府という、古代日本人の大陸進出の軍事的要衝(ようしょう)が、
これも日韓の古代史学会による否定にもかかわらず、確実に存在し、その存在のありようにまで想像力を働かせた意欲的作品である。
立証の基点は、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道の、任那日本府とその周辺地域で、1980年代に相次いで発見された前方後円墳(14基)である。
これだけの数の発見は、前方後円墳が半島を経て日本に伝わったものであることの証(あかし)だとする説となって流布したものの、
古墳の造営の年代が、全土で多数発見されている日本のものより新しく、この説は受け入れられないという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131020/bks13102009290005-n1.htm
>>586 徳島で200gの砂鉄の入った壺が見つかっているのは面白い。
砂鉄を使った製鉄はもっと後だと思ってた。
589 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 20:18:46.98
>本によっては鉄器加工の鍛冶遺跡と、
>鉄鉱石から鉄を作る製鉄を、
>ごっちゃにしてることがあるから、
ちゃんと「鍛冶遺構」って書いてあっても
「鉄採掘遺跡」だーい!って大騒ぎしちゃう困ったチャンも
実在する
591 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 22:18:29.09
/ ヽ、
ィ i
/ i ヽゝ
//´ / ノ イl 、ヽ
l , ‐ィ ´ir'´〃', トl
{ f三ミ'' アT ー-'ヽ ノ
ヽ !、´ /i ヽ }、 /
ヽ l´ .ノ `ー 'ノ l l
_,. - Jィヘ. `、''__ ヽ'ノノ ,.人、 <朝鮮人だからさ・・・
/ /ヘ ヘ ー `ィ_ / lヽ\
l _,\ /`ー,. ''_,.ゝ' / | \
| r┴―┐' r´-く ハ l
l l_ ! .| ゝ、 / ヽ--
r '´__,.)〜┤ !ーi ヽ / `7
/ /, -‐- 、 l /i | / /
} '´ _, =-く┘' l / /
l '' , ィ ! /
ヽ ‐ ´ ノ | /
まだ製銑と鍛冶の区別が付かないチエオクは・・・
・・・実在する
せっかく代わりに謝ってやったのに、
未だに弥生時代の倭人が弁辰で鉄を採掘してたと強弁するんだなw
594 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 23:24:08.65
>>590 おまえさ、その節穴の目を開いて、その頁を読んでみな
「鍛冶遺構」って書いてあるのが見えない?
まだ「鉄採掘遺跡」だって言い張る?
おまえ、脳になんか欠陥ある?
595 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 00:23:15.37
暇さと粘着力だけは一人前だね。
>未だに弥生時代の倭人が弁辰で鉄を採掘してたと強弁するんだなw
「釜山市の莱城遺跡の鍛冶遺構からは、鉄素材と思われる
長さ6.3 センチ、幅4.4 センチ、厚み1.5 センチの鉄塊が
出土している。」
【鉄素材】が見つかってるのだから鍛冶遺跡であろうがどうでもいいことだ。
文献史学と考古学が整合するのに倭人の鉄採掘を否定してる学者名を言ってもらおうか。
これで3度目だ。
「言えません(泣)」でいいのかな?
597 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 08:18:41.34
村上恭通
村上が遺跡に存在する「鉄素材」から何を作ってた鍛冶遺跡だと言ってるのかな?w
それインゴットだろ?w
ホントにバカの相手は疲れる。
早く、倭人鉄採掘の根拠を示せ。
インゴットならなおさらじゃん。
それから何を作ってた「鍛冶遺跡」だと村上が言ってるのか聞いてるわけだ。
俺が先に聞いてるわけで、おまえはいつも話をそらして卑怯な質問返しで逃げるね。
今から出かけるので蟹ミソ並みの脳みそ使ってはっきり答えるように。
601 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 09:30:23.03
などと、「鉄を採掘してた」かどうかから
必死に話を逸らす知る門返しをする卑怯者がいます
何を作っていたって? だから脱炭鋼だろ。
603 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 10:13:20.85
「莱城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡だが?(倭人と鉄の考古学 村上恭通) 」
と言い張って
ソースを求められたら
「古本屋に売ったので」と言い訳していたが
ネットで中途半端に聞き囓った(しかも読み間違えた)だけだったと判明
>知る門返し
クソワロタwww
予想通り質問返しで逃げてきたな。
ま、俺が先に答える番ではないが、武士の情けで一応答えてやろうか。
莱城遺跡からは鉄素材が出てるわけだな。
ということは、この素材はおそらく鉄鉱石から抽出したのだろう。
@「鉄鉱石または砂鉄→鉄素材」これを製鉄なら、
A「鉄素材→鉄製品」は鍛冶だ。
つまり莱城遺跡は@なのだから製鉄してたと言うわけだ。
おまえが言う鍛冶なら鏃でも農機具でもいいから、鉄製品が出ていないとおかしいよな。
ところが素材は出てても製品は出ていない。
つまり莱城遺跡の状況は製鉄を示してはいるが鍛冶を示していない。
元々俺の言った製鉄とはサッカーやラグビーを「フットボール」というのと同じ例えで、
鍛冶も含むと言う意味だったのだが、
おまえが製鉄でなくて鍛冶に拘泥してきたので、逆におまえに聞こう。
鍛冶というなら何を作ってたのだ?
作られてた製品は何だ?
さぁ逃げずに答えて見ろよ。
夜に書き込める時間があるので、それまでに答えろ、ハゲ。
-------- 先ずはソース ----------------------------
釜山市の莱城遺跡の鍛冶遺構からは、鉄素材と思われる
長さ6.3 センチ、幅4.4 センチ、厚み1.5 センチの鉄塊が
出土している。この遺構からは特異な出土品がある。出土
土器の94%が北部九州の弥生時代中期前半の土器です。こ
の鍛冶遺構を含む住居の集まりが、倭人の生活空間と評価
されています。おそらく鋳造鉄器のリサイクルに加えて鍛
造鉄器生産を開始する時期に、北部九州の倭人が弁辰地域
において鉄素材の仲介を果たしたにちがいない。
------------------------------------------------
>>604 > 莱城遺跡からは鉄素材が出てるわけだな。
> ということは、この素材はおそらく鉄鉱石から抽出したのだろう。
> @「鉄鉱石または砂鉄→鉄素材」これを製鉄なら、
> A「鉄素材→鉄製品」は鍛冶だ。
> つまり莱城遺跡は@なのだから製鉄してたと言うわけだ。
> おまえが言う鍛冶なら鏃でも農機具でもいいから、鉄製品が出ていないとおかしいよな。
> ところが素材は出てても製品は出ていない。
「鉄素材」と言う概念(半製品と言うところでしょうか)が出てきましたが、
微妙に「原料」と言うべき言葉を避けて、言い換えてるように思えます。
まあ、莱城遺跡出土物の「素材」の原料と言えば鉄鉱石か砂鉄とかでしょうが、
「鉄塊」と書かれている以上、それは既に原料を製鉄後の純正品ですね。
莱城遺跡では、鉄器、鉄道具などの出土はありませんが、製鉄前の原材料の出土もありません。
なので、出土した鉄塊が炉遺構で「製鉄」されたものなのか、中古品を融かした再生「素材」か、
どちらの可能性もありますので、結論として製鉄が行われていた証左とはなりえなでしょう。
>鍛冶というなら何を作ってたのだ?
> 作られてた製品は何だ?
私見ですが、魏志韓伝に出てくる「諸市買皆用鐵」に見合うようなもの、例えば「鉄塊」ですかね。
>>605 >製鉄前の原材料の出土もありません
製鉄前の原材料って何?
鉄鉱石なら出土も何もあっちこっちに転がってるでしょうに。
3世紀ころの半島の製鉄は原材料は砂鉄と鉄鉱石
砂鉄の産地は、江原道柄谷・温井里 全羅南道玉山里などが
磁鉄鉱石は三和地方 尉珍地方 金海地方 定州地方(含む赤鉄鉱) 忠州金谷 尉山 瑞山 開慶などだな
普通に考えて、鉄のインゴットを使って鉄製品を作ってたんだろう。
砂鉄やら鉄鉱石があるならいざ知らず。
>>606 論点からズレたこと書かないで。
そのあっちこっち転がってる鉄鉱石が、話題の遺構内には転がって無かったんだろ。
だから、「製鉄遺跡」の証左にならんと言う流れなんだがな。
それにソースでは二度「鍛冶遺跡」って表現されてるのに「製鉄遺跡」の論拠にする神経がわからん。
ていうか、この馬鹿は、
倭人が弁辰の鉄採掘利権を握り、
超巨大鉄供給氏族モノノベが日本列島にくまなく支配した
とかいう基地外だからなw
必死に論点をすり替えてるがらw
612 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:00:26.46
ところで、鉄滓というのは製鉄以外のどんな時に出てくるものかな。
>>610 >そのあっちこっち転がってる鉄鉱石が、話題の遺構内には転がって無かったんだろ。
遺構内に転がってたか転がってないかは分からない。
したがって、あったともないとも言えない。
しかしながら地域柄、釜山近辺は鉄鉱石が豊富にある地域だ。
だからわざわざ海を越えて九州北部の倭人が渡って行ったのだろ。
そういう状況で「製鉄しなかった」と考える方が不自然。
>>612 > ところで、鉄滓というのは製鉄以外のどんな時に出てくるものかな。
「鉄滓」
また、何か別の言葉を持ち出して・・・・
それって、莱城遺跡の鍛冶遺構の今の話題に関係ないよね。
>倭人が弁辰の鉄採掘利権を握り、
>超巨大鉄供給氏族モノノベが日本列島にくまなく支配した
>とかいう基地外だからなw
日本が半島ぼ鉄資源を独占に近い形にするのは4世紀頃だろう。
任那のソナカシチが朝貢してきたのも事実だと思ってる。
あと前方後円墳と鉄と土師器が関連してるのは事実だ。
北部九州、瀬戸内、畿内、千葉の初期前方後円墳と大王家は関係ないから、
関係あるとすれば物部だろう。
>>613 > しかしながら地域柄、釜山近辺は鉄鉱石が豊富にある地域だ。
> だからわざわざ海を越えて九州北部の倭人が渡って行ったのだろ。
>
> そういう状況で「製鉄しなかった」と考える方が不自然。
だったら、その状況証拠こそが貴方の論拠なのであって、
「莱城遺跡の鍛冶遺構」は、関係の無い話(論拠とならない事例)と言うことでしょ。
最初からそう言うことにしておきゃ、戯言に戯言を重ねるような、苦しい思いをせんでよかっただろうに。
617 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:13:51.09
>>614 熊本県の弥生後期の鍛冶遺跡では、大量の鉄滓が出てくるものがある。
これは製鉄の証じゃないかと思うのだが、そうではないという人もいる。
だから、鉄滓は製鉄以外のどんな時に出るのかなと思ったわけで。
>>615 > あと前方後円墳と鉄と土師器が関連してるのは事実だ。
> 北部九州、瀬戸内、畿内、千葉の初期前方後円墳と大王家は関係ないから、
> 関係あるとすれば物部だろう。
布留式土器と墳丘墓祭祀の急速な動きは概ね重なるけど、
鉄の流通は、もう少しゆっくり。
前二者と比べると画一性が伴わない。
ちょっと異なる事情があるんでしょうね。
>>609 >砂鉄やら鉄鉱石があるならいざ知らず。
鉄鉱石があるといってるではないか。
おまえナメてるのか。
>>616 >だったら、その状況証拠こそが貴方の論拠なのであって、
>「莱城遺跡の鍛冶遺構」は、関係の無い話(論拠とならない事例)と言うことでしょ。
莱城遺跡で発見されてる鉄素材が、
あの地域に普通にあった鉄鉱石から抽出したと考える方が自然だろ。
鉄鉱石があるのに使わなかったと考える根拠を言え。
>>618 >布留式土器と墳丘墓祭祀の急速な動きは概ね重なるけど、
>鉄の流通は、もう少しゆっくり。
は?鉄の流通の方が前方後円墳より少し早いね。
寺沢の弥生時代の地域別の鉄の出土量の図を上の方で紹介したが?
>>620 > 鉄鉱石があるのに使わなかったと考える根拠を言え。
逆ギレした振りしてごまかさないでね。
誰もそんな主張をしていない。
論点は、「莱城遺跡の鍛冶遺構」が「製鉄遺跡」かどうか、と言うことだからね。
私たちは、世間一般で使う「鍛冶」と「製鉄」言う言葉の違いをキミにもちゃんと認知して欲しいだけだ。
>>621 早い、遅いの話じゃないよ。
伝播の速度の話、急速かゆっくりか、と言うこと。
鉄はゆっくりと、土器・古墳はあっと言う間に。
>>622 実際、俺は莱城遺跡では製鉄も鍛冶も行われたと思ってる。
フットボールの例えを出したのはそのためだ。
ところがおまえが変質的粘着性で「鍛冶」と「製鉄」は違うと、
反論のための反論であるどうでもいい事を言ってきた。
おまえが言うように莱城遺跡を「鍛冶」だけだとすると、
それじゃぁ実際見つかってる鉄素材の説明ができてないね。
鉄鉱石が普通に存在する地域なのに、
それを使わないで「製鉄しなかった」理由も言えないだろう。
言えるのなら言え。
>>615 >あと前方後円墳と鉄と土師器が関連してるのは事実だ。
そうか?
土師器と前方後円墳は確かにイコールだが。
何度も書いてるが、古墳時代前期では、鉄に関しては筑紫>大和。
前方後円墳と鉄は必ずしも結びつかないだろう。
>北部九州、瀬戸内、畿内、千葉の初期前方後円墳と大王家は関係ないから、
>関係あるとすれば物部だろう。
この辺りになってくると、何を書いてるのか全く理解不能のレベルw
電波過ぎるw
>>625 >前方後円墳と鉄は必ずしも結びつかないだろう。
積石ならともかく、どうやって盛り土古墳を鉄具なしで造成できるんだ?
子供が考えても分かる話だ。
石斧なんてとっくにその役目を終了してるぞ。
>この辺りになってくると、何を書いてるのか全く理解不能のレベルw
>電波過ぎるw
那珂八幡古墳、萩原墳墓、神門古墳が神武やその後の大王墓とは思えないのでな。
マキムク型前方後円墳の広がりは、倭国で神仙思想が流行ったからだろ。
同じような墳墓を造ってるからといって、全部同一氏族とかいう方がどうかしてるだろ。
マキムクが本当に巨大鉄供給氏族モノノベが造ったのなら、
何故古墳前期で筑紫>大和の理由がつかない。
鉄交易で筑紫が中心的な役割を果たしたのは間違いないが、
それがイコールマキムク王権に繋がらないのも間違いない。
あとまあ、ネタレベルだが、
「神武以降の大王墓」って、何を指して言ってるのやらw
製鉄の炉と鍛冶の炉はかなり違うけどな
同じような墓を造るのは、同一氏族だからじゃなく、
複数の部族国家が宗教、神話世界を共有することで、
血縁関係、同一民族を擬制したから。
部族連合を経て、倭国というひとつの国家に収束していく流れ。
倭人の鉄採掘遺跡が、いつのまにやら、
「鉄鉱石はそこらへんにころがっていた」
だからなw
ほんとに適当w
>何故古墳前期で筑紫>大和の理由がつかない。
鉄か?5世紀くらいになれば畿内が九州を圧倒するけど、
そのきっかけになったのが確かホケノ山から大量の鉄鏃が出た事、
椿井大塚山から鉄製短甲が出た事が契機になったと記憶してる。
両方とも前期古墳だ。
>「神武以降の大王墓」って、何を指して言ってるのやらw
神武もその後の8代も実在したと思ってるが何か悪いか?
理由は新潟の城の山古墳の発掘で、四道将軍の実在性が高まった事。
父親が8代、9代天皇だったりするからな。
>同じような墓を造るのは、同一氏族だからじゃなく、
>複数の部族国家が宗教、神話世界を共有することで、
>血縁関係、同一民族を擬制したから。
俺は前方後円墳がすべて一氏族の墓などと言ってるわけではない。
そんな事はあるわけない。
あくまで各地域にある「前期初頭」の古墳。
4世紀に崇神が採用して以降、大王家はもちろん各氏族も前方後円墳を採用したと思ってる。
「同じような墓を造るのは、同一氏族だからじゃなく」というなら、
何で奈良盆地の纏向地域にしか前方後円墳がないのだ?
葛城方面にも遺跡が多くあり、人が住んでたのは確実なのだが。
「血縁関係、同一民族を擬制したから」って、
血筋を偽証してる氏族もあろうが、ちゃんとそれぞれの氏族が始祖を持ってるじゃないか。
まったく意味不明。
>おまえが言うように莱城遺跡を「鍛冶」だけだとすると、
だからお前の挙げたデータソースに「鍛冶遺構」って書いてあるじゃん。
どこをどう叩いて曲げて「倭人の鉄採掘遺跡」に変造するわけ?
634 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 17:07:28.29
>ところで、鉄滓というのは製鉄以外のどんな時に出てくるものかな。
鍛冶
鍛冶を含めての製鉄全般。
鉄鉱石の豊富な地域に倭人がわざわざ住み着いたのはそのためだ。
鍛冶だけなら海を渡らず北九州でやればいいだけのこと。
サッカーもラグビーも「フットボール」に含まれる。
>同じような墓を造るのは、同一氏族だからじゃなく、
>複数の部族国家が宗教、神話世界を共有することで、
>血縁関係、同一民族を擬制したから。
3世紀前半の話しをしよう。
何で奈良盆地の纏向地域にしか前方後円墳がないのだ?
首長墓以外にありえないだろハゲ。
神武以降の大王墓って、具体的にどの古墳を指してるの?
という意味だがw
適当なことばかり書いて、馬鹿は気楽でいいよな?w
>鍛冶を含めての製鉄全般。
じゃ、村上はなんで「鍛冶遺構」と書いたの?
>>637 記紀では神武もそれ以降の大王も纏向近辺に墓は作ってない。
したがって纏向古墳群は大王墓ではないだろう。
では墓の主は誰かという話に戻るわけだ。
あのあたりを地盤にした権力者は物部以外にないのだ。
>>638 鍛冶と製鉄を執拗に別けてるおまえがパラノイアであるというだけ。
サッカーをフットボールと言われてフットボールでなくてサッカーだよ、
と言ってる痛いやつと同じ。
記紀が全て正しいという原理主義者からすればw
マキムク王権は邪魔なんだろうな。
記紀の二人目のハツクニシラスである崇神が倭王権初代と考えるのが自然なのに、
記紀に縛られて、バカなモノノベ幻想を膨らますしかない。始末におえないw
>>641 >記紀が全て正しいという原理主義者からすればw
おまえ本当に頭いかれてるな。
俺は記紀の信憑性60%と何度も言ってるのに、
「全て正しい」と言ってると決め込んで反論してる。
病気だ。
頭が完全にいかれてる。
>>641 >記紀の二人目のハツクニシラスである崇神が倭王権初代と考えるのが自然なのに、
>記紀に縛られて、バカなモノノベ幻想を膨らますしかない。始末におえないw
崇神墓を何古墳だと思うのかな?
大事な部分だから逃げずにはっきり答えろ。
>鍛冶と製鉄を執拗に別けてるおまえがパラノイアであるというだけ。
>サッカーをフットボールと言われてフットボールでなくてサッカーだよ、
>と言ってる痛いやつと同じ。
>>640はアメフトをサッカーだと言い張り続ける痛い椰子
646 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:04:50.35
>記紀では神武もそれ以降の大王も纏向近辺に墓は作ってない。
したがって・・・
>あのあたりを地盤にした権力者は物部以外にないのだ。
↑
自己矛盾
↓
>俺は記紀の信憑性60%と何度も言ってるのに、
>「全て正しい」と言ってると決め込んで反論してる。
いや、ホントにお前、からかい甲斐があるよなあw
なぜ、そんなにカンカンになれるんだよ?w
記紀は正しいという思い込みに洗脳されている。
何故記紀に書いてあることを無条件に正しいと思い込めるのか?
それにきちんと答えてからだなw
楽しみに待ってるよw
>>647 >記紀は正しいという思い込みに洗脳されている。
>何故記紀に書いてあることを無条件に正しいと思い込めるのか?
「全て正しい」から「正しい」に言い換えてやんの、卑怯者。w
無条件じゃねぇわ、豪族としての物部の存在を否定できないだろ。
おまえは否定するのか。
.
崇神墓を何古墳だと思うのかな?
大事な部分だから逃げずにはっきり答えろ。
.
650 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:11:19.69
>>645 アメフト男曰く
「莱城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡だが?(倭人と鉄の考古学 村上恭通)」
事実は『鍛冶遺構』(村上)
>>650 豊富な鉄鉱石があるのに使わなかったとでも?
その理由は何?
652 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:15:50.41
「記紀では神武もそれ以降の大王も纏向近辺に墓は作ってない。 したがって」
「物部以外にないのだ。 ]←記紀が全て正しいという原理主義者
653 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:16:51.85
>豊富な鉄鉱石があるのに・・・
どこに?
>>651 理由? 鍛冶遺構と書いてあるからに決まってんじゃん
記紀は間違いがあるけど概ね正しい。
でw
正しいか間違いの判断はオレが恣意的に決める。とかなーw
いやもう、基地外レベルだろw
記紀に間違いがあると認めながら、何故か正しい部分がオレには分かるとw
正しい部分と間違いの部分はどうやって見分けてるの?
電波を受信してなの?w
>「物部以外にないのだ。 ]←記紀が全て正しいという原理主義者
60%の信憑性のなかに含まれてると思うわけだが?
おまえは何でゼロサムの議論しか出来ないのだ?
ほんと医者いけ。
>正しい部分と間違いの部分はどうやって見分けてるの?
>電波を受信してなの?
崇神の母親は物部であり、崇神は皇居を桜井に構えてるね。
それも大きな証拠。
それよりおまえは古代氏族の事を何も知らないのに何で偉そうに言ってるんだ?
おっと忘れてた。
崇神墓を何古墳だと思うのかな?
大事な部分だから逃げずにはっきり答えろ。
なんかさーw
宗教信じてる人にわざわざ「神様なんていないよ」って言うのもどうかって思うんだよな〜w
660 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:35:15.81
>>659 崇神墓を何古墳だと思うのかな?
大事な部分だから逃げずにはっきり答えろ。
根拠なく、書いてあることが正しいと思える人って、
詐欺紛いの新興宗教の勧誘とか、ネズミ講とかに気をつけた方がいいと思うよw
マジでw
>>661 崇神墓を何古墳だと思うのかな?
大事な部分だから逃げずにはっきり答えろ。
6回目の逃げwww
逃げてないよ。
逃げてるのは「何故無根拠に記紀を信じるのか?」
に答えられない君。
答えたら、答えてやるのにな〜w
大事な部分だって証明がまだだが?
>>655 なんだ。おまえさんが「あっただろう」って想像したことが唯一の証拠かw
理由なく「60%の信憑性のなかに含まれてると思う」と
「物部以外にないのだ ]になるのね。
いやさ〜w
記紀を無根拠に信じてる奴は宗教なんだから、
俺が何言っても頭に入らないだろ?w
ってこと。
不毛なやりとりが無駄。
>>663 ほらまた質問返しで泣きながら逃げたwww
おまえが
「記紀の二人目のハツクニシラスである崇神が倭王権初代と考えるのが自然なのに」
と言ってるのだから、
【庄内】古墳黎明期を語る-参-【布留】
に一番ふさわしいテーマだよな。
まず答える事が重要。
なんで『鍛冶遺構』(村上)と書かれているものが
>「莱城遺跡は倭人の鉄採掘遺跡だが?(倭人と鉄の考古学 村上恭通)」
に化けたんだ?
返答はまだか?
大事な部分だから逃げずにはっきり答えろ。
>>669 鉄素材は鉄鉱石から抽出と何度も答えてるのに
答えてないと言い逃れして、
質問返しで泣きながら逃げたwww
いや、だから〜w
僕は無根拠に記紀を信じてますと認めちゃえよw
そうすればちゃんと答えてやるからさ〜
いやまあ、記紀を無条件に信じる理由を書いてくれてもいいがw
記紀書いた人、ウソつかない、とかダメだよw
672 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:52:12.36
このスレもレベルがグーっと下がったね。もう落ち目スレだね。
>>672 正常な議論に戻すには、馬鹿と狂信者を排除しないといけない。
いまはその通過儀礼なんだよ。
>僕は無根拠に記紀を信じてますと認めちゃえよw
信憑性60%と何度も言ってるが、何を言ってるのかな?
纏向遺跡が物部である根拠は
>>658で答えてるが?
逃げる、ごまかすという卑劣な手法は通じないよ。
おまえが初代王という崇神が何古墳に埋葬されたのかは重要な話だが?
答えるのが怖いのだなwww
676 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:56:57.23
>鉄素材は鉄鉱石から抽出と何度も答えてるのに
だから、それ回答じゃないじゃん。
根拠でもあるの?
オレ様がそう思ったから?
>>676 鉄鉱石以外なら何から鉄素材を抽出したと思うのかな?
俺は鉄鉱石だと思うがお前は?
その鉄素材がその工房で使った材料じゃなくて製品だと言い張る理由は?
村上が『鍛冶遺構』と書いているりゆうは?
まあ、記紀を根拠なく無条件に信じてましたと認めることから始めようw
俺はハツクニシラスの件を言いたくてムズムズしてるのに〜w
残念だな〜w
鉄素材と言ってるわけで「製品」だと言い張ってないのだがw
>俺はハツクニシラスの件を言いたくてムズムズしてるのに〜w
ビビらず言えよ。
なんで遠慮してるのかな?
ヨコだけど
可能性だけなら
砂鉄と隕鉄
隕鉄は稀だろうけど、砂鉄は割りとポピュラーでは?
古代においては
おまえ莱城遺跡で「鉄素材を抽出した」と言い張ってるんだろ?
理由は?
ヤボ用が入った。
崇神の墓はどこなのか11時までに答えろ、ハゲ。
分かったか。
せっかく俺が書いても、
「そんなこと記紀に書いてない」
とか根拠のない反論をされるのが分かってるからさw
馬鹿の相手は疲れるw
言い張るか誤魔化して逃げるしか能のないアメフト男であった
ところでヤツは何で”莱城遺跡”の話題を持ち出したんだろうか?
日本語能力の無さを晒しまくっただけで、
自説の吹聴には、何のメリットも無い話題だったと思うんだけど。
投資先の桶屋が儲けるために、東南の風が吹くように祈祷したのさ
>>685 うわ、やっぱり書いてない。
こいつどんだけビビりなんだよw
>せっかく俺が書いても、
>「そんなこと記紀に書いてない」
>とか根拠のない反論をされるのが分かってるからさ
あのなぁ、金石文が出るわけでもないのに、
何古墳と言ったところで正しいか正しくないかなんて誰も決められないのだ。
しかしながら、おまえは「崇神が倭王権初代と考えるのが自然なのに」と言ってるのだから、
おおよそこれこれくらいの時代の何古墳だくらいは言えるだろ。
何をビビってるんだ?
ちなみに俺は崇神没を4世紀前半だと思うので西殿塚か行燈山だと思うが、
時代さえ合えばいいのでどっちでもいい。
さぁ今度はおまえの番だ答えろ。
わしも忙しいので今日はもう寝るが、明日の夜9時くらいまでには書いておけ。
分かったな、へたれのぼんくら。
690 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 22:56:54.90
お〜い、へたれのぼんくらアワビマン!
その鉄素材がその工房で使った材料じゃなくて製品だと言い張る理由は?
村上が『鍛冶遺構』と書いている理由は?
答えられないのか。何をビビってるんだ?
てか、早く記紀を信じる根拠を書けよw
何故、お前には記紀の正しい部分と間違ってる部分が峻別できるのか?w
根拠なく盲信するを宗教という。
まあ、実際は電波なのに、自分は学問的だと思ってるというw
救えねーなあ、ほんとうにw
聞きたいなら、きちんと自分の馬鹿さ加減を認めなw
692 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 00:09:06.15
>>691 横レスだが、記紀を信じなかったら何を信じるわけ?
693 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 00:10:45.38
箸墓なんて言葉を使っていながら、記紀を信じるなという人がいたりして。
記紀の記述の正誤を判断するのは、残念ながら考古学しかない。
考古学で分かっていない所は判断を保留するくらい謙虚さがないとな。
まあ、ある程度は妄想も仕方ないがw、
「記紀に書いてあるから」とか「わざわざ嘘を書く筈がない」とか言って、
考古学を絡めない妄想を延々と書かれるのは辟易する。
超巨大鉄供給氏族モノノベとかw
少なくとも雄略あたりまでは、考古学重視でいくべきだろ。
裏付けのない文献は何も信じない。
696 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 00:28:27.50
卑弥呼や邪馬台国という言葉を使いながら、
魏志倭人伝は信用出来ない、と主張する白痴は多い。
697 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 00:30:31.59
>>694 考古学じゃ何もわからないよ。
たとえば、唐古・鍵遺跡ってなんていう国?
吉野ヶ里遺跡ってなんていう国。
吉野ヶ里遺跡の王様はなんという名前?
考古学だけで名前のわかった国なんてない。
どういうわけか邪馬台国だけはわかるらしいが。
698 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 00:33:59.83
大きさも形も、もともとは年代も違い、調査もしていないのに、
箸墓古墳が卑弥呼の墓になる。
そんな考古学の何でもありが畿内説にとっては必要なのだ。
無知だのう
文献史学では、当然同時代史料が最重要視される。
ろくに文字もなかった三世紀の倭国の状態を現在に伝える倭人伝は貴重。
ただし二千字しかなく、分かり難いのが欠点。
八世紀に編纂された記紀で五百年前のことを語ろうというのにそもそも無理がある。
ちっ、やっぱり書いてない。
もはや「逃げ道免許皆伝」だなw
自分が思う初代大王・崇神の墓も言えないのかよ、情けない。
>記紀の記述の正誤を判断するのは、残念ながら考古学しかない。
>考古学で分かっていない所は判断を保留するくらい謙虚さがないとな。
>まあ、ある程度は妄想も仕方ないがw
考古学も文献史学も両輪だろが。
両方揃って初めて活きてくるんだよ。
考古学で記紀に書かれてる四道将軍の実在の可能性が高くなったことをどう思うのだ?
ま、古代豪族の名前さえ知らないお前には無理な話だ。
それと考古学が大事なのは物証(証拠)が出るからだが、古くから続く地名や神社も充分物証になる。
例えば、
◎北九州(北の笠置山からはじまって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→
住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉
→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山
◎畿内(北の笠置(笠置山)からはじまって、同じく時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置
山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷
山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田
→山田→田原→笠置山
多少は強引な部分もあるとは思うが、それでもこれはもはや偶然ではなかろう。
「考古学者」はこれをどう考えてるのかな?
俺は九州から畿内に伝播したと思う。
大和から伝播したというなら、他地域にもこのような類似地名がないとおかしいからな。
俺が何度も言ってる北部九州集団の大和(畿内)入りの証拠になると思うが、おまえは?
(神武東征とは関係ないと思う。)
702 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 21:43:49.89
> 「考古学者」はこれをどう考えてるのかな?
トンデモだと
>>702 例えば考古学者の誰がトンデモだと言ってるのかな?
具体的な名前を出して答えてくれ。
てか、お前自身、神武以降、欠史八代の大王墓言えてないのだが?w
考古学と文献が両輪と分かっていながら、なぜ記紀で妄想を膨らませるか理解不能w
あとまあ、安本ですか?今更?w
安本に洗脳されてるなw
てか、四道将軍の存在を信じてる考古学者なんているのか?
せいぜい、大彦命という伝説上の人物を共通の始祖とする氏族が、
五世紀の関東にいた、という程度で。
吉備の御友別が食事の用意を応神に誉められて、
御友別の子や弟が吉備の諸豪族の始祖になったと。
四道将軍はそれに近い伝説で、史実ではないだろうな。
ただまあ、丹波、越、東海、吉備っていう、
三世紀当時の強盛な地域を選んでるあたり、
まったくの嘘ということもないだろう。
708 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:50:12.64
こりゃいつまでたっても堂々巡りだよ
そもそも考古学では、
遺跡の「国名」や古墳の被葬者の「人物名」を比定することなんて目的としていないからな
堂々巡りじゃなくてさ〜w
記紀信者が記紀の正誤をどのように判別してるのか書けばいいだけでw
残念ながら、考古学を使うしかないんだよ。
同時代史料が倭人伝しかないから。
これが結論。
.
結局、ひとの質問に全く答えず、
【質問返しと自演で逃げる】
糞 ト ピ 主 で あ っ たw
.
まあ確かに、何故か「記紀の記述の60パーセントは正しい」とか突然言い出し、
その根拠を求めても、「ハツクニシラスの墓はどこか答えろ!?」とか関係の無い話で誤魔化すw
鉄の採掘遺跡だと早とちりしたりw
商人に噛みつき、逆に自分が日本語に不慣れなだけなのをバラされたりw
散々だなw
確かに「首長は武人だろ」には笑ったw
村上恭通の本読んだフリもワロタ
714 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 18:38:38.55
文献と考古学の大きな違い。
文献は捏造出来ないが、考古学は捏造できる。
>>糞トピ主
>その根拠を求めても、「ハツクニシラスの墓はどこか答えろ!?」とか関係の無い話で誤魔化すw
関係ない話ではない、一番スレタイに沿った話ではないか。
おまえが「記紀の二人目のハツクニシラスである崇神が倭王権初代と考えるのが自然なのに、」
と自分で言ってるのだから、崇神は何世紀頃の人物なのか頭にあるのなら、
纏向地域の古墳群の何古墳だとおおよそ推測できるだろう。
何でそんなにビビってるの?
正解なんかないのだから、自分の意見を言うだけでいいのだ。何も労を厭わない 。
俺は崇神を4世紀前半だと思うので西殿塚か行燈山と答えてるからね。
あとは君。
さてまたこの馬鹿は「質問返し」で逃げますので、ごく少数(推定3人)のROMの方は笑う準備をしてみててくださいよw
あと、畿内と九州の地名の類似も反論できてないぞ。
「安本に洗脳されてる」は何の反論にもなってない。
ぶざまだなぁおまえ。
>>714 偽書とか偽文書とか知ってる?
あと史料批判て言葉を聞いたことないかな?
718 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:21:13.86
盲信者は知らないでしょ
>>715 だからさ〜w
記紀六割信じるの根拠さえ示せば、いつでも答えるって言ってるじゃんw
早く答えを示せw
>>719 予想通り質問返しだなw
最低だなお前。
6割なんて俺の直感なんでおまえにどうこう言われる筋合いはない。
おまえは何%なんだよ。
おまえが答えなきゃいけない質問山積みなのだが?
俺の直感ですか〜w
へ〜w凄いね〜w
ただまあ、そんな基地外相手に語る言葉はないよw俺にはねw
いや、全くの無根拠で、何となく六割くらい当たってるかな〜と思ってました、
ってことまでは認める?w
そこまで認めるなら答えてやってもいいよ?w
全くの無根拠なのに、まるで根拠があるような振りは
今後一切止める約束をしてくれれば、考えてやろーかなーw
直感ってことは、全くの無根拠なのを自分で認めてるんだしなw
流石に認めるんじゃない?
流石のこの馬鹿でもw
725 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:32:35.69
最近、奈良盆地の南部へ良く行くんだが、ヤマトタケルがうたった
「ヤマトは国の〜畳なづく青垣〜」ってやつがふさわしい場所だな。
古代のヤマトは、南部の狭い範囲だったんだろうなあ。
ヤマトのイワレヒコがいた時代は、まだ古墳時代じゃなかった。
日本の王だった訳でもなく、奈良盆地全部の支配者だった訳でもない。
文字通り、「ヤマトの磐余の王」だったんだろうね。
皇国史観の亡霊も困ったものだが、津田史学の亡霊も困ったものだ。
天皇家は存在する。そして彼らは奈良の南部を始祖の地としている。
いつとは断定できないが、どこかからやってきた始祖がいるだろう。
記紀が描く祖先の話は支配を正当化するためのでっち上げとは考えにくい。
捏ち上げるなら、もっとすごい話にすればよかったのにそうじゃない。
数代は近隣の豪族と政略結婚をし、盆地南部で細々と生きながらえた。
三輪の神の娘、師木(磯城)の娘、鴨の娘(葛城地域)、古いほど盆地南部で、
後になると範囲が広くなり、8、9代は丹波や但馬や河内と縁を結んでいる。
唐古鍵遺跡や秋津遺跡、他にも弥生終末期の遺跡はある。
まあ、巻向のメインは、田んぼの下か集落の下に眠っていると思うな。
日向に降臨した天孫が瀬戸内海を遠路はるばる横断し、
地元政権を倒し大王権を築いた。
って、普通に凄い始祖王の伝説だと思うがなw
それほどの偉業を達成したからこそ、
イワレヒコの子孫が代々大王位を世襲していくことに繋がる。
大王位の正当性の根幹なんだから。
>>723 >そこまで認めるなら答えてやってもいいよ?w
格好つけてもおまえ全然すごくないし。
まともな人間ならもっと早く答えてるよ。
アホで小心者が勿体つけてる意見なんてもはやどうでもいい。
>>725 >>726 ここのスレ主はヤマトタケルや、
日向に降臨した天孫が大王権を築いたなんて言ったら、
記紀は信用できないと不機嫌になるポン助だよw
古代氏族の事なんてまったく知らないアホなんだw
それが、あわびマン
730 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:34:03.96
はるばる瀬戸内海ってのはそうだろうけど、神武は大王権を築いていないよ。
「ヤマトの磐余の王」であって、のちの大和政権の始祖だよ。
>>730 神武は大王だったとは思う。
が、大物主の娘・ヒメタタライスズ媛と結婚してるので、
通い婚の時代は嫁とその実家の方が強かったことを考えると、
最大権力者は大物主であっただろう。
>>731 >>726 オッサン オッサン
神武とか言い出すのなら ちょっとぐらいは考古学的な根拠を出そうな。
このスレで 大王だったと思うとか、大物主とか 自分の主観だけ並べてもバカにされるだけ。
「記紀六割は直感で信じる」教の人かw
記紀のこの部分は正しくて、この部分は誤りであるというのは
「直感で」w非常に恣意的に決めてる。学問的根拠なんて全く無いってことでいいんだね?w
>神武とか言い出すのなら ちょっとぐらいは考古学的な根拠を出そうな
崇神の名前出しながら墓の名前も言えない、
小心者の怯えたボンクラスレ主がほざいてますwww
IDでないのでどうでもいいが、
崇神が初代だと言うなら何世紀頃の人物で、
墓は何古墳だろうといのを出してくれればいい。
「古墳黎明期」に一番ふさわしい話だからな。
言えずに逃げ回ってるやつが一匹いるのでなw
何度も誘い水をしてるのにw
いつまで待っても「全く根拠なく記紀を信じてます(六割くらいw)」を認めないからだろw
いい加減に認めろw
認めずに逃げ回るのが低能あわびマン
>>737 おれはおまえの卑怯な質問返しに何度か答えてるが、
おまえは俺の質問にただ逃げるだけの情けないやつw
まぁどうせ、どこかの偉い学者の本を読んでますしか脳のないやつで、
そこから自力で自説を発展できないアホなのは分かってるが。
偉い先達の本を読まず、自分で妄想を膨らますからダメなんだよw
自家中毒を起こしているw
で、記紀が六割が正しいと直感で思った根拠は一体何?w
>で、記紀が六割が正しいと直感で思った根拠は一体何?w
その前に俺が先に質問してたのだから、
一度でいいから先に答えたらどうだ?
心底女々しいやつだなw
「先に答えろよ〜」かwホントに情けない奴w
じゃあ、俺が先に答えたら、お前、ちゃんと答えるんだな?w
逃げるなよw
箸墓が画期で、以降前方後円墳が定型化したことを考えれば、
箸墓の被葬者が記紀で言うところのハツクニシラスか、倭人伝で云う卑弥呼の可能性が高いだろう。
しかしそれ以後の大王墓は、狭義のマキムク地域では造られない。
柳本の西殿塚を経て、磐余地域の桜井茶臼山、メスリ山へ移る。
この2つの大王墓は東海の影響が強いとされる。
東海や関東に進出した大彦(伝説上の人物)を始祖とした部族、
後世の阿倍氏とかの先祖が大王だった時があり、その墓ではないか?という説もある。
その後、大王墓は再び柳本に戻り、行灯山、渋谷向山が造られた。
特定の血筋が大王位を世襲するようになるのは、恐らく四世紀末以降。
高句麗と大規模戦争をする中で、大王の権威が軍事的指導者として飛躍的に高まった結果だろう。
衛生状態が悪く、医療技術が未発達で平均寿命が極端に短かかったであろう古代において、
記紀の神武以降、不自然な父子相続が仁徳あたりまで見られるが(仲哀は除く)、
5世紀以降は急にリアルな兄弟間での相続になる。
軍事的指導者でもなければならない当時の大王が幼児に務まる筈もなく、
父子相続が十代以上脈々と続いたというのは流石に嘘だろう。
それ以前は、連合の中での有力者が次の大王に即位した後、
前大王の息子として、擬制的親子関係を結んだと考えるのが妥当ではないか。
こういった親子関係の擬制は、古代の部族社会でも広く見られ、
現代日本でもヤクザ社会に残っている。
大王位を排出した有力氏族が後に「大王の末裔」を称し、
五世紀以降、皇別氏族として臣を賜姓されたと考えれば、スムーズに飲み込み易い。
箸墓を卑弥呼の墓とした場合、次代の大王墓である西殿塚は、
卑弥呼の男弟と台与が葬られたのだろう。
で、その後に赤塚が言うような東海勢力の侵攻があって、東海との玄関口の磐余地域に大王墓が2基築かれる。
その後、大和と東海が宥和し、柳本の大王墓に戻る。
それでハツクニシラスの問題だがw
747 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 19:11:17.08
>箸墓の被葬者が記紀で言うところのハツクニシラスか、倭人伝で云う卑弥呼の可能性が高いだろう。
卑弥呼か崇神ということは、おまえは崇神を3世紀前半に活躍し、3世紀中頃に亡くなった人物だと認識してるのか?
箸墓は石野豊岡の纏向新偏年でも辻土坑4下層(南溝黒褐色土1)という地層で、
西殿塚・桜井茶臼山の前段階の地層なので、3世紀後半を遡れないわけだが。
箸墓を3世紀中頃と言ってた歴博なんて実にいい加減。
あんなの無視していい。
また、箸墓を崇神だとすると、纏向石塚、ホケノ、勝山矢塚、中山大塚、東田大塚という一連の墓が誰の墓なのか答えれるのかな?
>で、その後に赤塚が言うような東海勢力の侵攻があって、東海との玄関口の磐余地域に大王墓が2基築かれる。
最古の後方墳墓は東海にあるが、
東海制圧に行った尾張氏関連の墓だとすれば問題はない。
以上のことをつらつら考えてみるに、
記紀のミマキイリヒコは東海と大和が宥和後、擁立された大王で、
行灯山か渋谷向山のどちらかに葬られた蓋然性が高い。
しかし崇神前段にかなりの混乱、錯誤?があって、
それ以前に卑弥呼や台与の女王時代があったのだろう。
それら女王は記紀では完全に無視され、箸墓は崇神の大叔母、
西殿塚に至っては誰が被葬者かも伝わらない。
東海の圧力の前に、ミマキイリヒコ以前、女王時代は無かったことにされた。
>東海の圧力
そんなもんあるかアホ。
尾張氏に制圧されてるんだよ。
>>747 自説展開の上での仮定の話に噛みつかれてもなw
ちゃんと最後まで読めば、分かるように書いてるからw
>>751 偉い学者さんの言う事をそのまま垂れ流し、
自分の意見は1つもありませんまでは分かった。
>>751 >箸墓を崇神だとすると、纏向石塚、ホケノ、勝山矢塚、中山大塚、東田大塚という一連の墓が誰の墓なのか答えれるのかな?
とりあえずこれに答えてくれないか。
単純明快にな。
自分の考え、てか〜w
お前のは単なる妄想にしか思えないんだけどなw
>信仰心六割w記紀信者さんへw
記紀の信憑性6割はおれの主観だからおまえにどうこう言われる筋合いはない。
箸墓を崇神だとすると、纏向石塚、ホケノ、勝山矢塚、中山大塚、東田大塚という一連の墓が誰の墓なのか答えれるのかな?
これに答える方がよっぽどこのスレの主旨に沿ってると思うが?
>>750:日本@名無史さん :2013/10/25(金) 19:21:07.31 [sage]
>>東海の圧力
>そんなもんあるかアホ。
>尾張氏に制圧されてるんだよ。
出た〜w
根拠は全く無いが、直感で記紀の正誤が分かるというw記紀信者による脊髄反射的反論w
記紀に書いてないイコール間違い〜w
こんな馬鹿だから書きたくなかったんだよw
>>756 記紀にとりあえず書いて「ある」場合、
反論する側が「そうではない」ことの証明義務が発生する。
さぁやれ。
>>755 >記紀の信憑性6割はおれの主観だからおまえにどうこう言われる筋合いはない。
これ、スゲーなw
最強、いや最狂過ぎるだろw
こんなのがアリなら何でもアリになる。
学問的板より宗教板に行くべきだなw
発生しないけど?
>>757 問題の本質が解ってないな〜w
お前が記紀の一字一句正しいという主張なら一貫してて問題がないが、
妄想で勝手に恣意的に記紀を読み替えてるのに、自分でそれに気づいてないのが問題なんだよ。
もう一度聞くが、なぜ君には記紀の正しい部分と間違ってる部分が正確に理解出来るの?w
ちゃんと答えてね〜w
>>758 ここは日本史板だから神武実在を堂々と言ってもいいわけだ。
ただ金色のトビが止まってどうこうなんて、あんなの脚色なんで無視して良いとして、
トータルで記紀の信憑性6割が俺の意見ね。
7世紀に近づくと信憑性が高くなるのは言うまでもない。
文句あるなら考古学板に行けよ。
ふざけてるのかおまえ。
その前に、
纏向石塚、ホケノ、勝山、矢塚、中山大塚、東田大塚という一連の墓が誰の墓なのか答えてからね?
記紀にとりあえず書いて「ある」場合、
まず「そうである」と史料批判する義務が発生するんだよ。
史料批判を経ない記述はノーカウント。
763 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 19:53:03.60
>・・誰の墓なのか答えてからね?
どれが実在の人物か未確定の段階で答えるのは
馬鹿だけ
史料批判w
何故君が六割信じるに至ったかに興味があるよw
>>762 史料批判なんて充分されたうえで、今現在、実在派も非実在派もいるわけだ。
実在を言って何かおかしいのか?
>>763 >どれが実在の人物か未確定の段階で答えるのは
>馬鹿だけ
石室などは違えども統一した形の古墳が連続してるわけだ。
何ほどかの氏族と考えるのが当然だろう。
おれは物部説だけどね。
お前の意見を聞いてるわけだ。
また答えられないのだなw
馬鹿じゃ無いから答えない
768 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:02:32.28
>史料批判なんて充分されたうえで、今現在、実在派も非実在派もいるわけだ。
>実在を言って何かおかしいのか?
おまえの頭が。
今現在、実在派も非実在派もいるわけだから史料批判は充分されてない。
実在を前提に被葬者を特定するのは
う ま し か
都合の悪い部分→まちがい
都合のいい部分→正しい
僕さ〜wもうちょっと大人になろうよw
ネットで安本のホームページを読むだけでなく、
実際に本屋や図書館で考古学の本を読んで勉強した方がいいよw
ちゃんと読まないから、倭人鉄採掘遺跡とか早とちりしちゃうんだよ?w
>>768 >今現在、実在派も非実在派もいるわけだから史料批判は充分されてない。
津田の時代から何年経つんだよ。
いつになったら資料批判とやらが終るのか答えろ。
考古学者のなかにも神武実在派がいるご時世なんだよ。
>実在を前提に被葬者を特定するのは
>う ま し か
へぇ〜、じゃおまえが、
箸墓の被葬者が記紀で言うところのハツクニシラス=崇神実在を前提に言う根拠は何?
安易に記紀を信じるのは思考停止。まあ、楽しくて楽なんだろうな。
記紀の記述を考古学と照らし合わせて検証することが大事。
厳しいが学問ってそういうもの。
易きに流れては駄目。
「ハツクニシラス」は初代大王を指す普通名詞だから
775 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:13:45.09
>いつになったら資料批判とやらが終るのか答えろ。
科学の進歩に終わり無し
>記紀の記述を考古学と照らし合わせて検証することが大事。
あたりまrじゃないか、誰が違うと言ったんだよw
>「ハツクニシラス」は初代大王を指す普通名詞だから
それを崇神と思ってるのか思ってないのかはっきり言えよ、おかまハゲ。
論破されて泣きながら罵詈雑言の記紀六割(主観w)信者であったwwww
>>777 纏向石塚、ホケノ、勝山、矢塚、中山大塚、東田大塚という一連の墓が誰の墓なのか答えてね。
充分、泣き終わってからでいいから。
俺は答えてるのであしからず。
記紀は六割正しい。ただし俺の主観w
首長は武人だろw
まともに相手にしちゃ駄目な人間なのは分かったw
>>779 首長はおおよそ武人だろ。
神武もニギハヤヒもね。
おまえってそういえばホケノの埋葬者を讃岐の土器商人とか言ってたな。wwwww
>>778に答えるように。
なんだwまだ武人とか言ってるのかw
君の言う武人ってどんな定義?w
首長は武人だからw交易しちゃ駄目なの?w
じゃあ、おまえがどれほど薄馬鹿かを論理的に証明してやろう。
おまえは「今現在、実在派も非実在派もいる」事実を知っている。
しかるにおまえは
非実在派が陵墓被葬者名を記紀登場人物名で特定することは
論理的に不可能である
ということが理解できない。
つえに、おまえは薄馬鹿である。 QED
まあ、「記紀に全てが書かれてる」という狂信者だからなw
仕方ないw
やれやれw
薄馬鹿の追加証明
786 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:58:07.69
無神論者あいてに、どちらが上手に神の栄光を讃えられるか執拗に勝負を挑んでるちえおくれの乞食坊主みてえだな
普通に考えて、「俺の主観」とか言われたら、
議論の仕様なんかないだろうに。
議論が嫌なら、2ちゃんねるなんか書き込まなければいい。
よっぽど、追い詰められたんだねw
自分語りしか出来ないのは九州論者によくある症状だ
結局、
>>778に答えれないのだね、あぁ可哀想。
>>788 俺は畿内説だよ。
ただし纏向遺跡が邪馬台国の都なんて思ってないだけ。
>>761 記紀で天皇の在位年などが異なっている場合があるがその場合は正しいと言えるのか?
>>790 言えるわけないだろ。
そういうのも含めて信憑性60%と言ってるわけだ。
>>791 同型は畿内や他で見つかってるはずだよ。
多分、技法が伝播したのだろう。
「はずだよ」「多分」情報量ゼロ。
普通に考えれば、そのうち出て来るか、出てるけど判明してないだけだと思うよ。
>>790 きちんと記録が残っている安閑までは古事記と日本書紀に差はない。
それ以前については、意外にも古事記の方が実年代に近い。
2〜4年程度の誤差に収まっている。最大の誤差は実在の怪しい成務で9年くらい
古事記ってのがどういう成立か?が問題。
日本書紀より前に編纂されたのは間違いないが、
古事記の存在に注目されるのは九世紀以降。
もともとは天皇記国記に仮託されて書かれてたのが、
先代旧辞本記に先に天皇記国記を取られたから、
仕方なしに、天武のことを書いた序文をつけた。
>>794 >>791の短甲は帯金鋲留短甲だ。
地域によって差異はない同じ物だから、
長い間大和朝廷が配っていたものだと考えられてた。
それが地域が独自に作ってたとなれば、
技法そのものが伝播したと考える以外はないだろ。
車が日本で作られようが東南アジアで作られようが同じ物である場合を考えろ。
>>798 × 技法そのものが伝播した
○ 技法を習得しているやつが移住した
技法を習得しているやつが移住するのは、
技法そのものが伝播するということなのだがw
>>800 古墳の場合は技法を習得しているやつが移住したのではなくて、
日本各地から巨大古墳の築造にかり出されたやつが
その技法を持ち帰った。
色々違いがあるぞ。
>日本各地から巨大古墳の築造にかり出されたやつが
>その技法を持ち帰った
その巨大古墳の築造に「かり出された人間たち」の証拠が、
纏向遺跡にある日本各地の搬入土器というわけかな?
東海土器が一番多かったな。
でも東海に前方後円墳は多くない。
古墳造りの職人は強制労働?
それとも専門職みたいな感じで何かメリットがあったの?
素朴な疑問でした。
>>803 > その巨大古墳の築造に「かり出された人間たち」の証拠が、
それも多少はある。
>>802 古墳造りにかり出されたのは妃の親元の配下のひととか、非戦闘時の関東兵(仲哀紀なんかに記述がある)
とくに関東兵は現在群馬とかに残る古墳の数とかかんがえると、かなりたくさん来ていたみたい。
>>803 いつごろからかは知らないけど土師氏だとも言われてるね。
>とくに関東兵は現在群馬とかに残る古墳の数とかかんがえると、かなりたくさん来ていたみたい。
群馬は古墳が多いね。でもそれは毛野氏の進出によるものではないのか。
エジプトのビラミッドは雨季で農耕ができない農民が自主的に集まって、生活の保証もされていたといわれますが、そこまで優遇されていたわけではないのかな?
>>805 土師氏は土器を焼いてただけでしょう。
毛野氏は崇書紀では神天皇第1皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族と言うことになっているが、源
氏や平氏などと同じように皇孫を取り込んで自分の地位を上げただけと見るべきでしょう。
実態としては ずっと以前から入植していた阿波の忌部氏(古語拾遺)の系統と見るべきではないかと思います。
その他にタ関東からはタケミカズチやフツヌシの系統も来ている。
これらはすべて物部・中臣のグループに入るので、当初から(物部系氏族を中心とした)穏やかな首長連合による大和の成立
に加わっていたと見るべきでしょう。
>>807 皇孫を取り込んで自分の地位を上げただけと見るのはあなたの勝手だが、
(ちなみに俺は全然そう思わない)
群馬に古墳が多いのはその毛野の影響であると見るべきではないのか?
元々が古墳造りに地方から狩り出されてたとか言う話であったので。
>>807 >土師氏は土器を焼いてただけでしょう。
そうは思わない。
元々、土盛り古墳の元祖は出雲の四隅突出墳墓だ。
出雲系土師氏が畿内においてもその役割を果たしてたとして不思議はない。
ただ出雲と同じ形は造らなかったが。
>>806 それは判りませんが、奴隷のように扱われていたと言うことはないと思います。
平安時代になってからですが、米の獲れない飛騨の住民は税金の代わりに都で大工として宮殿の造営に当たっていた。
食事なんかは一日仕事をすれば一日分支給されるが、休むと半日分だけという例があります。
これだけ見るとかなりひどいようですが、手先の器用なものにとっては休みの時に現場に落ちている木っ端なんかを利用して
細工物を造り、これを食い物、着物、その他と交換してかなり”おいしい”余録があったのではないかと考えています。
まあ 「創作 飛騨の巧みの起源物語」です。
>>808 それでは神功紀に出てくる「東国兵」はどういう理由で機内に出てきたのか説明して欲しい。
「神功皇后摂政元年春二月
乃詳為天皇作陵 詣播磨興山陵於赤石 仍編船〓于淡路嶋 運其嶋石而造之 則毎人令取丘
而待皇后 於是犬上君祖倉見別 与吉師祖五十狭茅宿禰 共隷于〓坂王。因以為将軍 令興東国兵」
>>809 巨大古墳を造るのにどれだけの組織動員力が必要か理解した上でいっているとは思えない。
古墳造りは土師氏のようなポッと出の弱小氏族が担当できるような仕事ではない。
>>811 >それでは神功紀に出てくる「東国兵」はどういう理由で機内に出てきたのか説明して欲しい。
時期的に三韓征伐でしょ。
というかいきなり神功の時代に飛躍する意味が分からない。
>>809 >巨大古墳を造るのにどれだけの組織動員力が必要か理解した上でいっているとは思えない。
人員を組織したのは朝廷だろうね。
それを土師氏が指揮したとして不思議ではない。
もちろん埴輪も作ってただろうが。
ポッと出の弱小氏族というのは君の恣意であって、
5世紀になると、朝廷は渡来系の秦氏にも土木事業をさせてるのだから、
秦氏以前には、当時最高の土木技術を持ってた出雲系の土師氏に古墳造りをさせてただろう。
>>813 三韓征伐と言うのは目的だ。
質問の内容はなぜ毛野氏が上野に入っただけで、畿内とは縁もゆかりもないはずの東国兵がホイホイやってくるのか?ということ。
いきなり神功の時代に飛躍するのが不自然と言うのなら、垂仁の時代、笠縫を起点として首長連合(大和)に従わない抵抗勢力(元伊勢と呼ばれる所など)
を相手に暴れまくっていたタケミカヅチの例もある。
>>815 >質問の内容はなぜ毛野氏が上野に入っただけで、畿内とは縁もゆかりもないはずの東国兵がホイホイやってくるのか?ということ。
そんなの簡単、畿内系の毛野氏に制圧されたから。
群馬には3世紀の古墳はない。
これも崇神の第1皇子を祖とする記述とあってるし。
>>814 人員を組織したのは朝廷だろうね。
現在では 古墳の築造は朝廷が直接と言うより、妃を出した氏族が担当したと言う見方がある(水野氏など)。
私もこれに近い考え方をしている。
> 当時最高の土木技術を持ってた出雲系の土師氏
古墳の築造は基本的に土を持って固めるだけだから技術と言うほどのものは要らない。ひたすら土を運ぶだけ。
>>817 >古墳の築造は基本的に土を持って固めるだけだから技術と言うほどのものは要らない。ひたすら土を運ぶだけ
Wikiで悪いが土師氏が古墳を作ったり葬送儀礼にも携わったというのは定説だ。
君がそれに反対と言うならそれでいい。
こちらもあえて反対しない。
>>816 >>815 にもちょっと書いたが、毛野氏が制圧するまでもなく、少なくとも3世紀中頃には東山道(中仙道)を通って、
常陸国からスムーズに畿内に達する経路が存在したと言う事ね。
>>818 古墳の築造全般ではなく、その上に並べる埴輪や祭器などを制作する’専門業者’としての土師氏というのは理解できるが、
築造全体を請け負うゼネコンと言う見方はどこから来るのかな?
喪葬に関しては『日本書紀』垂仁三十二年条「天皇、厚く野見宿禰の功を賞めたまひ、
亦鍛地(かたしところ)を賜ひ、即ち土部職(はじのつかさ)に任けたまふ。
因りて本姓を改めて土部臣と謂ふ。是、土部連等、天皇の喪葬を主る縁なり。」
古墳造りに関してもほとんど土師氏としてるので定説だろうが、
根拠は分からない。興味があるやつが勝手に調べろ。
埴輪も作り葬送もするのに古墳は造らないと言うのも変だ。
822 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 02:02:35.69
土師氏は古墳築造を職掌した氏族なのは間違いないが、
要は古墳築造のカネ、モノ、ヒトは誰が出したのか?って議論か。
824 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 11:52:24.35
紀小弓宿禰は大阪泉南の淡輪に埋葬されてるということなので調べてみると、
宇度墓古墳(5世紀後半)と西陵古墳(5世紀前半)という2つの大きな古墳があるな。
おそらく宇度墓古墳だろう。
西陵古墳の方が大きいし、こっちは五十瓊敷皇子の墓かもしれないが、
しかしながら垂仁天皇の第2皇子ということなので時代が合わない。
826 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:51:59.05
鉄あるっしょ
マキムク以降、何故古墳が造られ続けたのか?
まず、大前提として、朝鮮半島、出雲・越、吉備を含めた東アジアで、
首長をマウンドに葬るというのが流行していたというのがある。
マウンドを造り、天の神から見つけ易くしたのだとか。
しかしそれが日本全国に波及して、なおかつ400年も造られ続けたのは、
それなりの理由があったからだろう。
あるよ
記紀の記述を根拠に話を展開する記紀六割信者の危険なところは、
記紀の大量の記述の中から、自分の好みに合うものだけをピックアップすれば、
どんな自説も構築出来てしまうことだろう。
考古学を用いなければ、単なる妄想、と言われるのもそのため。
旧来の説では、それまで環濠を掘っていた労働力が、首長権威の高まりにより、
個人の墓に転用されたという説。いわゆる首長霊祭祀が創始されたというのに繋がる。
環濠の目的も、防御という意味合いより、ひとつの土木事業を通じて集団の結束力を高めるためという説もある。
少なくとも、後に古墳に葬られる階級層が、環濠掘削のリーダーだったのはそうだろう。
最近の流行りは、公共事業説か?河内の製塩土器が大量に大和に運ばれていて、
古墳築造の労働者にサラリーとして支払われていたという説がある。
あとは、徳川幕藩体制の天下普請のように、外様勢力の力を削ぐためとか。
五世紀、河内地域に巨大古墳が築かれ続けるのはその所為かもしれないが、
本拠地の大和でそれがあっただろうか?(外部主導説なら大和の力を削ぐためにやった?)
単なる強制労働では反乱も起こりかねないでしょうから、やはり何らかの報酬や保証があったとみてよろしいでしょうか?
報酬ってのが、三角縁だったり、鉄製品だったり、大陸交易による入手品だったのは間違いないだろう。
それとまあ、日本列島の中心に巨大倭王権が出来て、
東西交易が活発化したのが大きいと思う。
倭王権は東西交易により莫大な利益を得て、それによって巨大墳墓を築けたと。
考えれば、東海vs畿内の対立は東西交易の利潤を巡る争いで、
東海が関東へ爆発的に勢力を拡大する中、
畿内がそれに横槍を入れてきたのが倭国乱の実相だろう。
中国皇帝から倭王として承認されたヤマトは、三角縁を配布することで、
東国の諸国を手懐けようとし、遂には東海の王と直接武力衝突するに至る。
最終的には東海側が優勢で乱は終結したようだ。
畿内東海が合同することで、倭王権は全国規模の大王権力となる。
あとまあ、「前の大王様の墓を造る」という名目で、広範囲のムラから労働力を自由に徴発できる
という権限を首長にもたらしたのではないか。反乱防止にも繋がるし。
王のもとに速やかにマンパワーが結集出来るシステムが、
四世紀末以降、倭国を高句麗と戦えるまでの軍事国家に成長させたのだろう。
極端な考古学偏重スレの主の危険なところは、
お気に入りの考古学者の中から、自分の好みに合う学者だけをピックアップし、
咀嚼するわけでもなく、学者の意見のままに固まることだろう。
文献史も用いなければ、単なる妄想、と言われるのもそのため
>>834 >東海が関東へ爆発的に勢力を拡大する中、
>畿内がそれに横槍を入れてきたのが倭国乱の実相だろう。
はぁ?
東海が関東へ爆発的に勢力を拡大したって何を根拠に?
東海に多い銅鐸は静岡あたりで止まってるね?
>最終的には東海側が優勢で乱は終結したようだ。
>畿内東海が合同することで、倭王権は全国規模の大王権力となる。
2世紀後半、瀬戸内にあった高地性集落が終了、
奈良盆地の環濠集落も終了、銅鐸祭祀も終了、
そして前方後円墳が誕生し土師器が生まれる。
倭国大乱とその後の証拠だ。
これらは神武軍の進入以外にない。
東海なんて関係ない。
東海は尾張氏に平定された。
前方後方墳墓の最大級のものが奈良東部に集中してるのもその証拠。
東海の土器が東方に広範囲に拡散するのも知らないのか。
やれやれw
あとまあ、直感が根拠の記紀六割+妄想四割馬鹿と議論する気はないのでw
「俺の直感」とか反論して恥ずかしくないの?w
>>839 人の移住くらいはあっただろうが銅鐸が関東に拡散しないのはなんでだろうね?
結局、スレ主は答えられない問題ばかりが増えるね。
纏向古墳群の箸墓より古い一連の数基の古墳の説明は出来ないし、
九州北部と畿内との圧倒的な地名の類似にはまったく答えられない。
誰かの本を丸受けにしてるからダメなんだよ。
色んな情報集めて自分で咀嚼しなきゃな。
ま、今日はこれくらいにしといたろ。
答えないんじゃなくて、答えてあげないだけだよw
てか、高地性集落にしろ、銅鐸にしろ、2〜30年前の議論から抜け出せてないんだが?w
ヒント、本屋や図書館でいいから、最近の考古学の本を読むこと。
義務教育じゃないんだからw頑張れ〜w
>>752 >偉い学者さんの言う事をそのまま垂れ流し、
>自分の意見は1つもありませんまでは分かった。
ていうか〜w
お前は記紀の記述を無批判に鵜呑みにしてるじゃんw直感で六割らしいが〜w
自分の意見とか、ホントにちゃんと考えてる?w
>>842 > 結局、スレ主は
おおおおお!!!!
一日で少し進歩したな。
トピ>スレ
ヤフとの違いにようやくときずいたわけだ。
方墳円墳の違いを考察しているサイトって無い?
そもそも このスレにスレ主とかおったかな?
「・・・ー参ー」を立ち上げたのは私だが、前スレが満杯になっていたので、立ち上げただけ。
>>843 >答えてあげないだけだよw
答えてあげないだけだよw
答えてあげないだけだよw
答えてあげないだけだよw
答えてあげないだけだよw
どうせトンチンカンな答えしかないのだろうから別にいいよ。
記紀批判しながらハツクニシラスなんて言ってるのだからなw
>>847 > 「・・・ー参ー」を立ち上げたのは私だが
あー、壱を立てたのは私です。
とすると、この過疎スレには、最低でもあと一人、弐を立てた人が居るんですね。
もしかしたら、六割クンかもしれませんがw
いやまあ、記紀六割が全くの無根拠なのを認めれば答えてあげるけど?w
てか、君の話って、和辻哲郎の頃、二三十年前の議論なんだよ。
最近の考古学の本、何も読んでないよね?w
>>850 へぇ、お前の話を聞くと最近の考古学は2、30年前から退化したのだな。
違う違うw
発展して、いい加減に決めてた暦年代が覆されて、
君の好きな安本とかの邪馬台国東遷論とかが成り立たなくなった。
おまえの話は十割無根拠
>>852 >君の好きな安本とかの邪馬台国東遷論とかが成り立たなくなった。
俺は畿内説。
855 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 20:28:44.29
なりすまし?
アンカー付けないと誰が誰に話してるのか分からない。
>>852 >発展して、いい加減に決めてた暦年代が覆されて
そんな事は充分承知の上で、
3世紀初頭から始まる纏向石塚、ホケノ、勝山他、
箸墓までの古墳群の被葬者像を聞いたのだが、
まぁ答えられないと言う事で納得。
箸墓が崇神(ハツクニシラス)だということだが、
多分間違ってるが、それはそれで君の意見だ。
尊重しよう。
858 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 22:35:16.35
ホケノ山古墳はすごいよな。
秋津遺跡もすごい。唐古鍵もすごい。
纏向は、広い地域の影響はあるだろうけど、やっぱりメインはヤマトだと思う。
859 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 22:42:51.61
だから、聞きたければ、自分がまったく無根拠に記紀を六割信じてることを表明すればいいw
まあ、直感wとか言ってる自体で表明してるみたいなもんなんだが、
自分の口できちんと言いな。お前が三十年遅れてることを解らせてやるよw
861 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 23:03:28.37
だめ、五十年だから
862 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 23:27:22.22
>>860 横レスだが、かなりの確率で記紀を信じている。というか参考にしている。
ほかに拠り所がないから。
信じなかったら、手がかりが何もない。
>>862 >>829でも書いたが、
記紀を信じると言いながら、結局自分に都合のいい箇所を
恣意的にピックアップしてるだけなんだよね。
>>860 >だから、聞きたければ
何を上から目線でもの言ってるのかな?
おまえの説なんて、
ホケノ被葬者は讃岐の土器商人、
大伴氏は大阪発祥、
倭国大乱は東海が優勢など、
クソ笑うものばかりなのだが?
アホの意見は聞きたくない。
>>863 >結局自分に都合のいい箇所を恣意的にピックアップしてるだけなんだよね。
古代天皇の途方もない年齢や、ありえない脚色など、
明らかに不自然な部分を省いて、
それで信憑性60%だといってるわけだ。
ハツクニシラスという記紀の登場人物を出してた君は、
記紀の信憑性を何パーセントと思ってるのかな?
866 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 00:09:23.40
>古代天皇の途方もない年齢や、ありえない脚色など、
>明らかに不自然な部分を省いて、
そんなことをする編者なら
多少の年齢や続柄変更、不自然にならない程度の脚色など、
あって当たり前じゃん。
867 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 00:11:24.09
>>863 記紀は信頼できないと言いながら、都合の良いところは記紀頼りと
いうのは畿内説のほう。
記紀がなかったら、固有名詞は全く出てこないわけだから。
箸墓も百襲姫も神武天皇も崇神天皇もみんな記紀に書かれているもの。
考古学で、固有名詞がわかった例はない。
>>866 グダグダ言ってるけど、
記紀の信憑性を何パーセントと思ってるのかな?
ていうか、直感で六割とかバカなこと言いましたw
と自分で間違いを認めるなら議論してやってもいいよ、ということw
意固地になって自分の間違いを認めようとしないバカ相手にしても時間の無駄だし。
まあ、記紀を何故六割信じるかの根拠も示さず、
関係のない質問で誤魔化そうとしてる時点で駄目だろw
根拠なく六割とか言いました、すいません
とか言えば可愛げがあるのだがw
もし記紀が消失していたらどうなってたんでしょうね?
もはや古代史は闇の中?
872 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 00:28:07.13
>>871 縄文時代と同じになるね。誰がいて何をしたかなどは全くわからない。
古墳はたくさんあっても、誰の墓かは見当もつかない。
初期の天皇の名前も全く不明。天照大神もいないから伊勢神宮もない。
>>864 お前、ほんとに理解力ゼロだよなw
俺が言ったのは阿波の水銀朱の商人w
あとまあ、早くお前の「首長は武人だろ」wの武人の定義を教えろよw
勿体ぶらずにさあw
さぞやバカな理屈が聞けるのだろうと楽しみにしてるのだがw
>>869 >>870 ありえない年齢や脚色など考慮して60%なのだが?
何か文句ある?
ハツクニシラスという記紀の名前を出してたおまえは記紀の信憑性を何パーセントと思ってるのかな?
>議論してやってもいいよ、ということw
ホケノ被葬者は讃岐の土器商人、
大伴氏は大阪発祥、
倭国大乱は東海が優勢など
おまえはアホなんで議論にならない。
記紀を考古学を使わず、主観や直感で六割とかw解釈しては駄目
という至極当たり前のことを言ってるだけなんだがw
三世紀は、考古学>倭人伝>記紀。
>>873 >俺が言ったのは阿波の水銀朱の商人w
何で商人の墓に大量の鉄鏃や銅鏃が出るのだ?
ホケノの被葬者は武力を備えた首長に決まってるだろ。
こんなアホも珍しいwww
だからさーw
早く、六割と割り出した根拠なり計算式wなりを示せばいいじゃん。
全くの無根拠に適当に六割とか書いたんだろ?
さっさと認めて楽になれw
武人って何?
普通に興味があるw
>>878 >武人って何?
武力を備えた首長。
ヒメヒコ制のヒコ。
逆に聞くが阿波の水銀朱の商人って何?
ホケノから阿波の土器なんて出てたっけ?
ま、寝るので今日はこれくらいにしといたろ。
>記紀は信頼できないと言いながら、都合の良いところは記紀頼りと
>いうのは畿内説のほう。
>記紀がなかったら、固有名詞は全く出てこないわけだから。
キミの思考が全く理解できない。
文献で考古学的裏が取れそうな記述は相応の信頼性を認めるし
裏の取れないものは信じない。
これ、学問的に常識なのだけれど。
倭人伝なんか考古学どころか地理的にも裏が取れやしないのに九州だの畿内だのとこじつけてるわけだが
>>879 武力を備えた首長。
そうすると、推古なんかも即位の時に矛とか盾とか立てているが、彼女も武人と言うことになるのか?
武人とか訳のわからない用語を使ってるあたり、
まったく歴史的センスがないな。
てか、武人は交易したら武人じゃなくなるの?馬鹿馬鹿しい。
てか、古代の首長で、武力を有してないなんて有り得ないだろ。
ほんとコイツ馬鹿だわ。
886 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 09:35:15.20
それは世界史を知らない決めつけ
887 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 09:47:28.33
せっかく良いテーマだったのにさ、つまらんスレになっちまったな。
>>884 >てか、武人は交易したら武人じゃなくなるの?馬鹿馬鹿しい。
古代の首長は武力も交易の利権も兼ね備えてたに決まってるだろ。
こいつまじでアホだ。
思い込みが強いな
交易してた=商人と書いたら、武人だろと噛みつくw
日本語が拙い馬鹿なんだろう。
商人というのは普通、魚を売ったり蓑を売ったりする人のことなんだがな。
日本語が拙い馬鹿なんだろう。
商人とは周の支配下に置かれることを嫌って故郷を離れ、旅して交易に従事した殷の遺民のことです。
それと奈良の吉野には丹生川という川がある。
当然、水銀鉱床の意味だ。
何も「阿波の水銀朱の商人さん」にわざわざ来ていただかなくても自活できましたので。
分かったかね、アホ君。
なんか商人って書いたら、馬鹿みたいに大騒ぎするからさーw
きちんとした反論があるのかと思えば、「首長は武人だろ」とか馬鹿発言ばかり。
阿波の首長が水銀朱で富裕化し、ヤマト王権に影響に関与した
ってことに反論するとかならまだしも。
本当にレベルが低い馬鹿。
>>894 ホケノの石室が阿波の萩原墳墓の系統といわれるが、
そんなのは単に古墳を造った集団の土木技術の話であって、
ホケノから阿波の土器が出てない事をどう思ってるんだ?
>>894 軍事力を伴わずにホケノ山に埋葬されるほどの首長になれたと思うのか?
大量の鉄鏃、銅鏃を説明しろや。
底抜けのアホだなw
手間のかかる真実探求の道を放棄し、安直に記紀の記述を六割信じるのは駄目だよw
898 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 17:05:07.17
しかも自分に都合のいい部分だけな
邪推乙 自分898だが、897は知らぬ人だ。
>>900 ならば纏向石塚、ホケノ、勝山、矢塚、中山大塚、東田大塚という一連の墓が誰の墓なのか答えれるのかな?
>>897のアホは全然答えられないんだ。
902 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:53:34.12
お前が薄馬鹿であることは
>>782で証明されている
904 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:07:50.38
「解なし」という正解があることが分からないのは、おつむが弱いひと
「解なし」という正解
「解なし」という正解
「解なし」という正解
「解なし」という正解
「解なし」という正解
「解なし」という正解
「解なし」という正解
「解なし」という正解
分かりませんの負け惜しみ。
906 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:36:32.10
記紀登場人物非実在派が陵墓被葬者名を記紀登場人物名で特定しないのは
あたりまえ
それが理解できないのは白痴あわび
>>906 >記紀登場人物非実在派が陵墓被葬者名を記紀登場人物名で特定しないのは
>あたりまえ
あれ?じゃ何で箸墓をハツクニシラスなんて「記紀登場人物名で特定」してたの?
アホなの?www
>>906 答えられないよなw
ま、今日はこれくらいにしといたろ。
909 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:34:32.71
>あれ?じゃ何で箸墓をハツクニシラスなんて「記紀登場人物名で特定」してたの?
それは初代大王を指す普通名詞だと回答済みなのに
反論も出来ないまま同じことを連呼する百万石あわびは
アホ。
>>909 >それは初代大王を指す普通名詞だと回答済みなのに
その普通名詞とやらが記紀から来てるのだから、
記紀の大量の記述の中から、
自分の好みに合うものだけを「恣意的にピックアップ」してるのはおまえだね。
どんな自説も構築出来てしまうことだろう
最初の広域首長特定個人墓の被葬者に初代大王を指す古語を用いるのは
自然至極
恣意的でも何でもない
>>911 だからその初代大王を指す古語が記紀からの借用だよね。
>>911 つまり、どれほどかは別にして、記紀を無視したら何も語れないのだよ。
記紀は、考古学的に裏の取れた部分だけ使えばよいのです。
>>914 箸墓を発掘してハツクニシラスの墓である裏を取れたのかい?
ハツクニシラススメラミコトって、初代天皇のことだし、
実際当時使用されてたかどうか分からない。
ていうか、記紀で創作された可能性もある。
考古学で裏が取れてるのは、治天下大王だな。
スメラミコトは折口信夫とかが考察してたが。
記紀に全てが書かれてると思い込むのは勝手だが、単なるカルトだよ?w
それを他人に押し付けるのはどうか?と思うがなw
まあ、物部氏の墓だとか馬鹿を書いて、答えた気になっているのもたいがいだがw
カルトの中でも低レベルw
>>917 >記紀に全てが書かれてると思い込むのは勝手だが、単なるカルトだよ?w
だから「全てが書かれてる」と誰が言ってるのだ?
おまえ何回同じ事言ってるの。
いいかげんにしろよ。
心底アホ?
>>917 アホの一つ覚えってあるけど、
おまえは一つ覚えのアホ。
>物部氏の墓だとか馬鹿を書いて、答えた気になっているのもたいがいだがw
讃岐の水銀商人だとか馬鹿を書いて、答えた気になっているのもたいがいだがw
>>918 >だから「全てが書かれてる」と誰が言ってるのだ?
てか、古墳の被葬者は誰?ってしつこく聞いてるからさw
記紀に記載が無い可能性は?w
そんなこと、考えたこともないだろ?w
>>921 >てか、古墳の被葬者は誰?ってしつこく聞いてるからさw
何を論点ずらししてるんだよ。
どこの誰も記紀に全てが書かれてるなんて言ってない。
ホケノ山古墳には6世紀後半〜末の横穴式石室がある。
主体部埋葬者をおおよそ3世紀中頃として、
3百年以上経過して横穴式石室が造られた事になる。
横穴式石室を作るのは大変な労力であり、
埋葬されたのは首長クラスであろう。
主体部埋葬者と縁も縁もない人物が横穴式石室に埋葬されたとは考えにくい。
一番分かりやすいのは主体部埋葬者の3百年後の子孫であろう。
つまり6世紀に確実に実在した氏族だ。
そして彼らの祖先がホケノ山主体部に埋葬されていたのだ。
924 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 18:42:52.10
前方後円墳形式は、たいてい石室持ってると思うが、
確認できた例で、石室がない例ってあるんかね?
925 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 18:53:16.52
くさるほどある
ホケノ山古墳の前方部だったかの埋葬部分に、
山口県あたりの大型壺があったよな。
あと東海の中型壺。
両地域と縁があり、奈良東部の地盤氏族って限られるよね。
>>922 >何を論点ずらししてるんだよ。
>どこの誰も記紀に全てが書かれてるなんて言ってない。
論点はずれてない。
君は、マキムクの古墳の被葬者は、
みんな記紀に出てくる氏族でないといけないと思い込んでるよね?
>>927 >みんな記紀に出てくる氏族でないといけないと思い込んでるよね?
「いけない」ではなくて、それが自然だろと言ってるだけ。
逆に何故記紀の登場氏族を避けたがるのかが不思議。
だから、記紀の内容は100パーセント信用出来るもんじゃない
ってのは、流石に認めてるんだろ?
なぜマキムク型の被葬者が全部記紀に載ってると言い切れるのか?
自分の主張の理由を聞かれると、自然だ、とか当然だ、とかしか答えられないのが
九州説者の特長
そもそも墓の被葬者は、墓誌でも見つからない限り、
なかなか確定出来ない。余程しっかりした伝承なり文献なりがあれば別だが。
記紀にも記載がないマキムク型前方後円墳の被葬者を、
「僕、記紀を読んでたら分かった!」
とかwwwww
どれだけお目出度いんだよw
>>929 >>930 >なぜマキムク型の被葬者が全部記紀に載ってると言い切れるのか?
>九州説者の特長
俺、畿内説だし。
豪族としての物部氏の成り立ちを何故否定するのかな。
嘘を書いても誰も得しないのに。
否定したい何かがあるのか?
>>931 箸墓の被葬者を
「僕、記紀を読んでたら分かった!」
ハツクニシラスだ!と言ってたのはおまえだが?
おいおいw
ハツクニシラスは初代の意味で固有名詞じゃないだろ?w
まあ、ハツクニシラススメラミコトって言い方自体が、
三世紀まで遡れるかは疑問だが。
>固有名詞じゃないだろ
個人の事だよね。
ハツクニシラスに初代っていう意味以外あるのかね?
「個人だよね?」の質問も意味不明だしw
マキムク王権ってのがあって、箸墓はその初代の墓だろうって書いただけなのにな。
お前もしかして、ハツクニシラスを固有名詞と思ってる?w
>>936 神武を否定してるならハツクニシラスは崇神で固有名詞だね。
おまえと箸墓は崇神と言ってたよな。
何言ってるんだ?
お前、もしかして、知る=治める
って知らないのか?w
ハツクニシラスは「初めて国を統治した」程度の意味。
お前が言うようにハツクニシラスが固有名詞なら、何故記紀に二人登場するんだ?w
>何故記紀に二人登場するんだ?
神武は西部・葛城、崇神は東部・桜井で別人だからだろうね。
おまえは神武否定派なんで崇神1人だろ?
箸墓古墳の被葬者が2人いるのか?
ハツクニシラス・スメラミコトが二人いる
→八世紀の人々は固有名詞とは考えていなかった。
俺が神武を否定しようがしまいが、この事実は変わらない。
お前、本当に日本語が不自由なんだなww
>>940 またごちゃごちゃ屁理屈言い始めてるが、
箸墓はハツクニシラス=崇神でいいんだな?
物事ははっきり言え。
お前みたいな馬鹿にも分かるように分かり易く書いてやろうか?w
箸墓はハツクニシラス=マキムク王権の初代の墓だろう。
崇神の可能性もある。
ただまあ俺は、ミマキイリヒコの墓は行灯山か渋谷向山の方が
可能性が高いように思う。理由は上の方で書いた。
あくまで可能性の問題だから、「僕は記紀読んで分かった!」とか強弁するつもりはないよw
あとまあw当時の阿波の首長が水銀朱交易で力をつけたと思われるから
「商人」と書いた。きちんと読めばわかるのにw
お前、現代国語の点数、かなり悪かっただろ?w
>>905-942 高校の社会科レベルの論議・・・と言うよりは、ボクちゃんこんな事知ってるんだジョ〜 というウンコ投げ大会が続いております。
おまえら 巻向とか実際に見たこと無いだろう〜。
944 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 13:58:38.99
ウンコの早食い大会に出ているのはお前一人だ
>>942 >あとまあw当時の阿波の首長が水銀朱交易で力をつけたと思われるから
>「商人」と書いた。きちんと読めばわかるのにw
水銀は奈良で充分間に合うから阿波なんぞ関係ないことがまだ分からないのか?
お前、現代国語の点数、かなり悪かっただろ?w
ていうか、ホケノが阿波や讃岐の積石墓の影響が強いってことは認めるか?
今時、前方後円墳の成立に阿讃播の影響を考えない人間はいないだろw
この記紀六割君以外はw
「首長は武人だろ」
…三世紀の首長の側面の一つ、交易の担い手というのを「商人」と形容されたことに対し、
急に嬉しそうに騒ぎ出し、「首長は武人だろ」と謎の言葉を残す。
「記紀の六割は正しい。但し根拠は直感」
…三世紀の話をする時に、記紀だけでは根拠薄弱と言われた時に、
反論として「記紀の六割は正しい」と言い、六割の根拠を求められると
自信満々で「直感」と返答。皆を呆れさせる。
「ハツクニシラスは固有名詞」
…ハツクニシラスはマキムク王権の初代という意味で書いたと言われてるのに、
固有名詞だと言い張る。
固有名詞なら、なぜ記紀に二回出てくるの?と訊かれると、
「神武を否定するなら一回」とか、神武肯定派だった自分の立場も忘れ、訳の分からない反論。
ここで問題なのは、ハツクニシラスと書いた記紀の編纂者が固有名詞と考えていたのか?否か?なのだが。
951 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 23:55:30.79
まったくこれだから記紀信者は・・・
>>946 >>947 >ていうか、ホケノが阿波や讃岐の積石墓の影響が強いってことは認めるか?
>今時、前方後円墳の成立に阿讃播の影響を考えない人間はいないだろw
ホケノより萩原の方が古いかもしれないが、纒向石塚が最古だろう。
したがって阿讃播の影響なんて一時的なもの。
>>948-951 ぶざまな負け犬の無駄レスやめろ。
953 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 06:47:10.16
ハツクニシラスは尊称。
神武と崇神では(宛)字が違うし、神武のそれはに書紀にしか出てこない。
同一人物を二人に分けたとか、どういうふうに妄想すれば
そんな中二病的な発想が出てくるか、
幼稚古代史研究者が多かったとしかいえない代物。
歴史的事実はともかく、
神武は大和に建国した最初の王。
崇神は「日本」の統一の基礎を築いた最初の王。
という明瞭な認識を書紀制作者は持っていたということ。
今もまだまだまともな論考を抜きにした、
妄想に耽る古代史(考古学含む)研究者が大すぎる。
記紀の記述を否定する見解もあって当然だが、
すべて幼稚すぎ、まともな論理的思考持っていない学者
の論だから、まったく説得力がない。
だから、専門家からも素人からも次から次に珍説、奇説が沸いてくる。
マキムク石塚より萩原の方が古いよ、残念ながら。
>>954 纒向石塚の石室が発掘されてないのでそこら当たりは不明だし、
議論してもつまらない。
言えるのはホケノより萩原の方が古いだろうという事。
どっちにしても阿波の水銀商人とは全然関係ない。
ハツクニシラスでも、
始馭天下之天皇は神武
御肇国天皇は崇神
萩原がマキムク石塚より古いのは土器編年で確定している。
いい加減に認めれば?w
>>957 拘らないので別にそれでもいい。
だから何?
纒向石塚の吉備系弧紋円盤と阿波は全然関係ないが?
>>953 >神武は大和に建国した最初の王。
>崇神は「日本」の統一の基礎を築いた最初の王。
>という明瞭な認識を書紀制作者は持っていたということ。
>>956 >始馭天下之天皇は神武
>御肇国天皇は崇神
これがまずおかしい。
天下>国。まず神武が天下を統治し、崇神が国を統治したことになる。
神武が崇神の後に創作されたの根拠の一つ。
「天下」自体が5、6世紀頃使われだした用語で、
恐らく神武伝承はこの頃、帝記・旧辞で創作されたと思われる。
>>959 コッラァ クソ爺!
こんな所へ這いずり出てこずに、自分の棺桶でおとなしく寝ていろ!!!!
>>959 宮崎には神武の先妻シラツ媛やタギシミミを祀る神社が
記紀上梓より古い時代から存在するので、
神武が創作されたなんて無理がある。
×シラツ媛
○アヒラツ媛
963 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 15:39:17.95
>>959 ネットも新聞もテレビもなかった古代、
義経の八艘飛びや弁慶の仁王立ちのように、
実際存在した人間の行為が大げさに脚色されたと言うのはあるだろうし、
神武の金色の鵄(とび)の説話などもそうだろう。
が、実際に存在しなかった人間を創作し、
さも存在したかのように話を作り出すなんて無理だ。
まあ一人の事績を無理に二人に分けて減らすのなんて馬鹿らしいわな
神社の由来なんて、記紀が編纂された八世紀に全部書き換えられてるからなw
一番書き替えられたのは記紀の内容が地方の知識層に広まった江戸時代だな
土着の神だった本来の祭神がいたるところで記紀に登場する神にこじつけられた
967 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 22:19:26.51
21世紀にもなって「神武は実在した」なんて誇大妄想は
考古学スレじゃなくて神話スレでやってくれ
持統が三輪氏以下有力氏族の系図やらを提出させたり、
中央から派遣した国司に風土記を編纂させたりとか、
歴史を偽造する気満々だからな。
>>968 ↑ なんでこんな所にチョンが湧いてくるんだ?
>>965 >>八世紀に全部書き換えられてるからなw
ならばそれ以前から存在したんだね。
>>967 ここは日本史板。
考古学の話は考古学板へいけ。
>>923にも書いたが、
6世紀後半にホケノ山古墳のどてっパラに、
横穴式石室を作った連中の祖先が、
3世紀中頃のホケノ山古墳の主。
奈良東部で6世紀後半まで存在し、
そのルーツを3世紀まで遡れるのは物部氏しかいない。
誰も注目しないホケノの横穴式石室が証拠になった。
こんな事気付いたのは俺だけだ。
寺沢や赤塚の本を読んで分かった気になってる、
格好付けのボンクラ考古かぶれが一匹いるが、
このアホが気づくわけない。
橿原考古研さえ気づいてないのだから。
972 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 03:40:34.21
纒向石塚の吉備系弧紋円盤、
ホケノ山の瀬戸内西部(山口県)の大壺、東海の中壺、
大量の鉄や鏡の埋葬は北部九州、
石室は阿波の影響。
つまり北部九州から瀬戸内、そして東海まで網羅してた氏族は物部氏しかいない。
周防あたりは赤間物部、
吉備には物部郷、
播磨物部、
讃岐三野物部、
東海は物部の傍流・尾張氏だ。
寺沢や赤塚の本には出ないよ、l考古バカ君。
常人にはキチの妄想なんて思いもつかないからなw
常人には天才の発想なんて思いもつかないからなw
論理的に説明する能力がないものを天才とはよばないなw
976 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 04:39:09.94
しかし3百年も経過して、突然、祖先の墓に横穴式石室を作るということは、
祖先(始祖に近い人物)と一緒に眠りたいという強い感情があったわけで、
物部氏に何やら異変があったと考えられる。
仏教導入をめぐり蘇我と対立、
物部守屋が敗れ去った587年の丁未の乱(ていびのらん)とピタリ符合するではないか。
妄想暴走
>>975 ホケノ山の横穴式石室を、
「誰が」「何故」作ったのかを論理的に説明できてるのは俺だけ。
反論があるなら論理的に説明せよ。
妄想などとけなしてるうちは論理的反論ではない。
979 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 06:50:07.47
イッちゃった痛いひと・・
可哀想に、もはや呟きしかできなくなったんだね。
ここはツイッターではないのだからね。
●ホケノ山横穴式石室
6世紀末頃に営まれたものと考えられる。
石室全長14メートル以上。玄室に組合式家形石棺。
14メートル以上の長大な石室と家形石棺、
これは、この地域の有力首長以外に考えられない。
つまり物部氏である。
3百年以上前の一族の氏神様との埋葬を願ったのだ。
ここは学問板だよ
結論だけ連呼していればいいわけじゃない
>>981 結論ではなく仮定も説明してるが君には理解できないようだね。
ホケノ山の横穴式石室を「誰が」「何故」作ったのかを論理的に説明してもらおうか。
出来ないだろうから君はそれだけの男。
可能性としては考える人は多いと思う。
物部守屋が存命中に後の運命を悟って…と。
ただの想像として。
想像ではなくて、
6世紀後半〜末の話だから奈良東部の権力者は誰なのか簡単ではないか。
記紀をないがしろにするのは結構だが、
この時代の記紀の話は極めて信憑性が高くなる。
記紀は嘘だで逃げる事はできまい。
>>985 その図では柳本〜纒向を囲う範囲に豪族名はないのだがw
また得意の細か〜い反論か。
ホケノの14メートルの石室は天皇墓でない皇族の墓であろう。
守屋は「3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、
海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、
群衆の目前で鞭打った。:という説話があるので、
天理はもちろん、桜井は守屋の本拠であったろう。
×天皇墓でない皇族の墓であろう
○天皇墓でなく豪族の墓であろう
それと何度も言うが崇神は物部の祖母と母を持ってたから、
当然、物部の地に宮を構え陵墓を作ったことになる。
勝手な論理ですね
1 豪族分布図に表されていない中小豪族の存在は無視ですか
2 海石榴市は現在でいうところの繁華街
大勢の人々の前で晒しものにするために選ばれた場所
さて、箸中古墳群が物部氏のものだとする根拠はもうないのですか?w
991 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:15:56.64
>守屋は・・・
当時の首都圏で最も賑やかなところで公開処罰パフォーマンスやっただけでしょ。
>豪族分布図に表されていない中小豪族の存在は無視ですか
具体的な氏族名をどうぞ。
3世紀中頃のホケノの首長墓に横穴石室作ってるので、
3世紀中頃から存在してる氏族でないとおかしいね。
さぁどうぞ。
>3世紀中頃のホケノの首長墓に横穴石室作ってるので
>3世紀中頃から存在してる氏族でないとおかしいね。
まず↑これを論証してねw
994 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:22:39.81
大神氏とか知らないの?
>>994 ホケノ山の横穴式石室は6世紀末だから
時期的には逆の墓にぴったりだな
物部守屋の墓については河上邦彦氏などは
天理市のハミ塚を推してるな
997 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:37:49.26
>>995 >なんで赤の他人が巨大石室作るのかな?
つまり自分がそう考えてるだけで明確な根拠はないってことね
言っておくけどホケノの横穴を守屋の墓だとは言ってないよ。
守屋の墓は戦死した八尾にあるらしいが、
地元のホケノに再葬した可能性もあるかもしれないが。
>>997 当時、自分の氏族の祖先の墓くらい知ってるよ。
他氏族の墓に自分の墓を作るような気色悪いことするわけねぇよ。
ごく普通に考えても分かるだろ。
1000 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:45:31.32
終了w
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。