祭祀制度、鉄器流通、土器様式など地域的に多様な基盤が存在した弥生時代が終わり、
前方後円墳、布留式土器など画一的要素が北部九州から関東までを席巻する古墳時代。
この西日本をほぼ統一する規模の古代王権が、どのようにして成立したかを語るスレです。
前スレ
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1362833017/l50 【注意事項】
・邪馬台国の所在地論争を楽しむためのスレではありません。
それを語りたい方々は、それ用のスレでお願いします。
・文献史学と実証史学の優劣、主従関係を語るスレでもありません。
それを語りたい方々は、それ用のスレを立てて、そちらでお楽しみください。
・社会の発展と特定個人の実在性は別問題です。
古代ヤマトの地に突如として花開いた王権成立のメカニズムについて語り合いましょう。
今日昼一時から、奈良県香芝市のふたかみ文化センターで「古代の飛鳥と葛城」というテーマで
シンポジウムがあるみたいだが、誰か参加しないかなあ?
参加した人の報告を聞きたい。
3 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:13:44.94
神武東征は史実。ごく少数の独立部隊が記紀の通り吉備の協力で成し遂げた。
傍から見て(考古学的に見て)ヤマトに吉備の影響がみえるのは実動部隊が
吉備の勢力だったため。
神武の話は、根拠が記紀しかないので、これ以上話に発展がないw
このスレは考古学重視なんだから、久渡古墳とか最新の考古学の知見も絡めることw
5 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:47:27.38
畿内説的考古学は奴隷貿易船をメイフラワー号と勘違いしてるんじゃないか。
なんかまあ、相変わらずの考古学アレルギーでw
記紀を信じろ!と言う割に、勝手に御所市の柏原に読み替えたりw
やりたい放題w
>>4 だからそういうチョロ出しをせずに、
久渡古墳の何がどうなのか言えよ。
>>8 ていうかさーw知らないの?
考古学を一丁前に批判はするけど、最近の研究やら発見とかは全部無視?w
呆れて言葉にもならんよ
>>9 偉そうに自分だけが知ってるという自慢したいのだろうが、
久渡古墳の何がどうなのかを言えよ。
11 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 12:07:41.28
チョロ出しというか、出し惜しみというか、
自分の考えていることは他人はすべて知っているはずと思いこんでると言うか、
説明不足に陥るお人をたくさん見かける。このスレの一大特徴だね。
はいはい、それでいいからお前はw
記紀を勝手に改変しときながら、「記紀、嘘つかない」だからな〜w
考古学を排除して君なりの記紀の妄想を開陳したいなら、
他に相応しいスレがある筈なのにさw
なんでこのスレに取り憑くの?w
他のスレでも馬鹿なこと書いて追い出された?
>記紀を勝手に改変しときながら、「記紀、嘘つかない」だからな〜w
記紀の記述のとおりの地名があると言ってるのに、何で改変なんだ?
きみは日本語自体がアレだな。
14 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 12:17:29.34
歴史研究の基本的な方法論を全く理解できておらず、
その割りに自分の古い知識やそれに基づく考え方を絶対視し、
自分のものと異なる新しい知識や新しい考え方を陰謀呼ばわりする、
ビョーキの人はいるようだがなw
アンチ考古学の東遷くんと違って、
柏原くんは記紀の内容は考古学で検証の必要がある、
って書いてなかったっけ?
肝心の「考古学の検証」がお留守で、「地名が同じ」しか言わないからw
さっそく、考古学の検証を書いてみてよw
>>13 横するけど、記紀のとおりの地名があるから何なの?
お二人さん以外には、既にもとの論点が何だったのかわからんのだが。
神武の存在を考古学的に検証なんてできるわけなかろう。
祟神も無理だが、寺澤は箸墓について祟神陵墓もありえると言ってるぞ。
考古学者でもそれくらい思考に幅がある。
それに比べド素人のおまえは何なんだ。
>>17 固有名詞に拘らないでさ、実際に宮崎県から奈良県まで、どうやって来て、王様になれたのか、検証みたら。
>>13 神武はやはり実在し、宮は橿原神宮ではなく、
御所の柏原ではないかという話。
近くにホホマ丘、掖上、国見山、秋津という地名が存在してる。
だからいいかげん崇神を祟神にするのは止めようぜ
>>18 好色家で知られた仁徳の后が日向から来てるが普通に船で来たのだろう。
だから?
柏原くんは、橿原市から御所市までの地域について、
「八世紀の記紀編纂の頃には畝傍地域と呼ばれていた」
と新珍説を発表したんだよw前スレで。
>>22 じゃカシハラ宮はどこなんだ言え。
言っておくが橿原神宮のある場所は全然関係ないぞ。
あ、それと久渡古墳の何がどうなのかを早く言えよ。
そもそも神武を実在と考えてる時点でかなりアレな人だからなw
語尾にwをつける人は全員同一人物とか、パラノイア的性向が強い。
「そういうところは直した方がいいよ」とか
周囲の人から言われたことない?w
>>25 柏原氏にトドメを刺すためにも、
ここで一発、久渡古墳の歴史的意味について、言っちゃいなよ!
>そもそも神武を実在と考えてる時点でかなりアレな人だからなw
考古学者の寺澤が崇神を語ってるのに何で神武を語るのがおかしいのだ?
崇神陵墓が西殿塚であれ行燈山であれ、4世紀前半なんだから、
ホケノや勝山や纏向石塚など、それ以前の古墳が複数あるわけだろ。
ならば神武の時代まで遡れるわけだ。
(もっとも俺はそれらを皇統の墓とは思ってないが。)
崇神は史実だが神武はそうでないという根拠を示せ。
おいおいw
崇神が実在の可能性があれば、イコール神武もって…
「記紀は正しい」って原理主義者なら、一字一句信じなよw
変に自分なりに解釈せずにw
>神武の時代まで遡れる
あなたの想定する神武の時代っていつごろ?
暦年代観は人によって揺れがあれから土器の様式名でよろしく
>>28 崇神(おおよそ布留1式)以前の古墳をどう説明するのか聞いてるのだ。
何なりかの王統があったとみるのが自然だろ。
時代的には欠史八代の時代だ。
>あなたの想定する神武の時代っていつごろ?
崇神より5〜6世代前で年代的には2世紀後半〜3世紀初頭あたり。
>>30 記紀原理主義でなければ古墳の築造状況と王統の伝承とが完全に一致しなければならないという妄想には囚われる必要はないから
33 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:21:08.58
神武は東征の記述があまりに克明だから、間違いなく8世紀にかなり近い年代だよ
卑弥呼のことすら何にもわかってなかった連中が、なんで神武だけはあそこまで詳しく書けるのか?
このことをちょっと考えてみるといい
>>31 土器様式でって訪ねられているのに暦年で答えるって…
暦年をあわせるという結論先にありきの主張なんだw
それとも日本語が不自由なのかなw
>>19 >
>>13 > 神武はやはり実在し、宮は橿原神宮ではなく、
> 御所の柏原ではないかという話。
> 近くにホホマ丘、掖上、国見山、秋津という地名が存在してる。
神武の実在はどうでもよいけど、「白檮原」は具体的な地名じゃないのかも知れんよ。
最初の高千穂宮の高千穂だって抽象名詞なんだからさ、具象名詞は畝傍だけで、「白檮原」はただの美称。
宮名だけじゃなくて陵名にも使われているんだからさ、そっちの可能性の方が高いと考えるべきじゃないの。
諡号だって現桜井市内の磐余を冠されてるわけだし、盆地入りも宇陀側からなんだし、
盆地南西部よりはどちらかと言うと南東部に関係が深そうじゃん。
中間にある畝傍と言うのは、西と東の(南部の飛鳥からみても)接合点なのかもしれない。
>>34 おおよそ庄内0あたりに決まってるだろうが。
そんな事に何の意味があるんだ。
格好つけるな。
37 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:30:25.71
地名ガーを繰り返すだけだが
・記紀編纂時にその当時の地名を採用した
・近世や近代に記紀の所伝地であることを主張するために地名を改変した
なんて可能性も充分あるのだけれど思いもつかないんだろうなw
38 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:32:14.05
で、式内社の現状については調べてみたのかな?
>>33 それは単に「始祖」だから詳しく作文しただけじゃないの?
その後、実質上の「始祖」まで9代記事無しなんだから。
>>36 庄内0式期って言うと、筑紫等と畿内を結びつけるものはほとんど無いな。
ヤマト王権の成立に九州勢力は何の役目も果たしていないと言うことか。
>>41 北九州のどこかに畿内Xが出てたはずだが。
43 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:38:25.93
神武東征を支援した将軍たちを欠史八代に挙げて処遇したとか、あれはあれで重要と思うけどね
たとえば2代は筑紫宮の王または将軍、3代・4代は奈良地方の豪族、
孝の付く天皇は中国地方から応援に加わった将軍等々・・・、
それに比べ高天原のことは、御簾の向こうにおぼろげに見える程度に書いて神懸かりにしたのかと・・。
44 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:38:31.40
>>40 論拠にしてるのはそちらだよ
だから、庄内0から地名が変わっていないことを貴方が論証しなきゃいけないの
記紀に書かれているってのは8世紀にそうした地名が記録されたってだけだから論証にはならないよ
>だから、庄内0から地名が変わっていないことを貴方が論証しなきゃいけないの
それ悪魔の証明。
君が「変わった」と言う事を論証するのが先。
46 :
44:2013/05/06(月) 13:42:09.80
あ、それから、記紀に書かれている地名が間違いなく、現代に繋がっているということも論証の必要があるよ
48 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:42:59.55
神武は応神で確定だろ
崇神はニニギだろな
>>40 稲荷山鉄剣の銘みたいに直系譜は八代前くらいまで伝承されてたんだろうからね。
玉手看の子、その子耜友、その子香殖稲、その子国押、その子太瓊、その子国牽、その子大日日、
その子瓊殖、御肇國に皇らぎしし、とかかな。
51 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:46:24.19
52 :
44:2013/05/06(月) 13:49:10.90
>>47 すいません、アンカー間違えてました
正しくは
>>38 ですね
>>45 悪魔の証明って誤解してますね
あなたは地名があったと主張していて、こちらはその存在の論証を求めているのだから
悪魔の証明を求めているのは貴方の方になります
>>51 少なくとも、誰が誰と同一人物、とかってのは無い。
ニニギ・神武・崇神・応神、みな別人。
54 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 13:50:34.23
>>52 新説を出したのは君。
ならば論証義務は君にある。
普通に考えると、神武東征の中身は、大和川水系の水運利権の簒奪話だよね。
瀬戸内の勢力が、周りの紀州や宇陀を巻きこんで、東海への通路を通せんぼ状態だった河内に勝った話。
58 :
44:2013/05/06(月) 13:57:53.03
>>55 あれ?
神武東征は史実!御所市周辺の地名が一致するのが根拠!
ってのは貴方の新説ではなかったのですか?
先行研究があるのならばご紹介ください
是非とも読んでみたいので
>>57 くだらねぇw
そんな小さな事を考えてて何が楽しいんだよ。
60 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 14:00:05.59
ヤマタノオロチも現実にいたんだろな
すごいよな、ジパング
そう言う意味での東征は誰も否定せんだろう。
墳丘型個人墓や吉備系土器の流入とも矛盾しない。
そんな「東征」を100年以上の期間と考えるか、特定個人の一代の業績と信じるか、
信じたい奴には信じさせておくしかないが。
>>59 少なくともキミが考えてることよりは大きいと思うよ。
脳の容量の少ない人には入りきらない大きさだ。
>>27 マキムク大溝建設がまずあって、
石塚→勝山→矢塚→東田大塚と続いて箸墓。
せめて、欠史八代の陵墓の伝承地に近ければ、
少しは崇神以前の記紀の記述にも信憑性も出てくるのだが。
あと箸墓の後の大王墓である西殿塚にまったく言及してないのもなあ>記紀
伝承にかなり混乱が見られる。
>>61 ま、家康も「一代」で天下取ったわけじゃないしな。
義元がいて信玄がいて信長がいて秀吉がいて……
65 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 14:07:43.97
>>57が歴史の教科書に書いてあったら
日本の子供は100人中100人が「ああ、日本の歴史ってしょべえな」と思うだろうな
神武も噴飯ものではあるが、このスケールの小ささには負けるな
>>58 >貴方の新説ではなかったのですか?
>先行研究があるのならばご紹介ください
俺の新説ではないよ。
ネットで最近言われ始めてる事。
もちろん証明なんてできないが蓋然性が高いと俺は思う。
67 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 14:10:15.05
ぶっちゃけ日本の歴史に一番貢献してるのはナルトだろな
最強系の術名が全部日本神話の神だからな
しかも何千万部と売れて読まれているからな。学者がいくらしょうもない本を書いても無駄無駄
子供はそんなもんじゃ興味もたんよ。10年後には邪馬台国論争なんて陰も形もないだろな
>>63 マキムク大溝とか纏向型古墳が、箸墓以降のヤマト王統(天皇家)とは別氏族によるもの、
っ意見は、これまでにも出てるよ。
記紀には「天皇以前」のヤマトの権力者の存在も示唆されてるし。
西殿塚は古事記の崇神陵の表現「山辺道勾の岡上」って表現にしっくり来るし。
>>65 特定のキャラに頼らなければ何のイマジネーションもわかないキミにはツマらん話かもしれんが、
ある程度の知的レベルに達したものにとっては、具象も抽象化した考えた方もどっちも面白いことなんだよ。
>>69 何自慢してるんだよ、こいつw
水運利権をどうこう言うなら鉄の利権の話をしてみろ。
弥生時代に圧倒してた北九州勢の大和入りを考える以外にないのだが。
71 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 14:18:54.62
>>69 それを小学生、中学生、高校生に言ってあげるといい
君みたいなスケールの人間が牛耳ってるから、日本古代史は
爺が抹茶すすりながらぶつぶつ言うだけの状況になってしまっているんだよ
ここ数年で一挙に盛り上がった戦国時代と比較にもならんわ
72 :
44:2013/05/06(月) 14:22:29.82
>>66 証明できない、ものですか…
蓋然性が高いというのは貴方個人の感想でしかありませんね
論拠を提示できないものは学説ではなく妄想です
無駄な時間を費やしてしまいました
>>72 当たり前だろう。
証明できれば話は終わってる。
>>68 マキムク型と箸墓以降を完全に分けることは無理だと思うがな。
あんなに近場でよく似た古墳造ってるのにw
あと、昔は崇神と景行陵が逆だったという話は聞いたことがあるが、
西殿塚は知らんな。場所、結構離れてるんだが、知らないのか?
あとまあ、西殿塚は埋葬施設が2つあることも知ってる?
人文系の学問ではコツコツと論証を積み上げていくんだよ
そうした過程をすっ飛ばしてるのがトンデモって呼ばれるんだ
そういうた研究の基本や最低限自分が言及する事柄の研究状況くらいは調べてから出直してこいや
>>柏原くん
で、現代に式内社といわれているものの実態くらいは調べたのかいw
77 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 14:34:48.17
>トンデモ
つまりアマテラスは卑弥呼とか言い出す学者のことか
>>74 いくつか案は提示できる。
私は、マキムク型古墳の造主は、のちの三輪氏族だと思ってる。(4世紀の茅原大墓も)
しかし、当時「共立」されていた卑弥呼(百襲姫)はこの氏族の出ではなく、
のちのヤマト王家(天皇家)の出で、三輪の神と「結婚」した縁が、
箸墓以降の前方後円墳体制(いわゆるヤマト王権)に繋がっていくものと考えている。
西殿塚に2つの埋葬施設があるとすれば、崇神と娘の豊鍬入姫(台与)というのも一案であろう。
それと、人の感覚の違いなのかもしれんが、マキムクと西殿塚って、私からしたらそんなに離れていない。
>>水利利権君。
ホホマ神社が式内社であるというのは俺の勘違いかもしれんが、
面倒くさいんでおまえが調べろ。
>>78 崇神の宮が桜井だから、
崇神の母や祖母の氏族の勢力範囲であることも考えられる。
ならば物部氏だ。
>>74 ごめん、離れてるのは、西殿塚と柳本の二墳が離れてる、ってことだったね。
じゃあ尚更、私からしたら距離近いじゃんw
「山辺道勾の岡上」については、延喜式についての指摘が出来る。
手白香皇女陵の墓守を「山辺道勾の岡上」の陵戸に兼務させる、って記事がある。
周辺の後期古墳(手白香の時代)は西山塚古墳しか無いから、
「山辺道勾の岡上陵」は西殿塚古墳のことだろうと。
>>80 私は物部氏(あるいは穂積氏)は前方後方墳の造主主体だと思ってる。
83 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 14:45:57.53
モモソヒメは残念ながら卑弥呼ではないんだよね
古代における箸の意味がわからないとこのへんは理解できないだろね
スサノオが川を流れていく箸をみたというのが、ある種のヒントにはなるかな
私的には簡単な謎解きだったけどね
>>82 面白いね。
ただ奈良東部に前方後方墳は一つくらいしかなかったはずだ。
古墳名は忘れたが。
これはいくらなんでも少なすぎる。
>>74 >
>>68 > マキムク型と箸墓以降を完全に分けることは無理だと思うがな。
> あんなに近場でよく似た古墳造ってるのにw
墳形の様式化の有無、および築造年代が違うことにして呼び分けているだけ。
> あと、昔は崇神と景行陵が逆だったという話は聞いたことがあるが、
> 西殿塚は知らんな。場所、結構離れてるんだが、知らないのか?
箸中山と行燈山よりは近いが、「結構離れている」ことを強調する主旨は何だろうか。
> あとまあ、西殿塚は埋葬施設が2つあることも知ってる?
そう言う噂(二つの方形壇の下は当然未調査)があることは皆知ってるんじゃないかな。
だから何なのか?
>>70 うん、ヤマト王権は、布留0あたりに為ると三雲・平原から鉄の利権を簒奪してるね。
だから何?
>>84 いやいや、結構あるよ前方後方墳。
とくにオオヤマト・柳本・纏向の古墳群でも、オオヤマトに集中してるので、
西殿塚=崇神陵説と前方後方墳=物部氏族説を考える一つのキーになっている。
ちょっと北に行った石上には、日本最大の前方後方墳(西山古墳)もあるし。
もっともこれは、前方後方墳の上に前方後円墳がのっかるという特異な古墳でもあって、
そんなことから物部氏族と大王族の間を取り持つ4世紀初頭の人物、
ってことで、西山古墳=物部十千根墓説を私は採っている。
>>86 九州勢が大和入りしたと考えるが君はどうだ?
>>87 なるほど面白い。
ただ物部の本拠とも言われる北部九州に前方後方墳がさほどないはずだ。
90 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 15:03:25.12
九州勢が大和入りしたこと自体は否定しないよ
問題はそれが実際にはいつだったか、ということだね
>>90 2世紀後半辺りだと思ってる。
ニギハヤヒの時代ではないかと。
ただこんな名前を出すと、
またゴチャゴチャ言うやつがいるから困る。
>>89 私も「物部氏族」って書き方したけど、
のちに饒速日命や天火明命とかを祖神としている氏族、といった方がいいかな。
穂積氏とか尾張氏とかも含めて。
ついでをいうと、饒速日や天火明のみならず、前方後方墳の造営には、
もっと広くある種の「神別氏族」が関わっている、とした方がいいかも。
ちなみに、私は「ホアカリ君」ではないので、あしからず。
>>91 うん。賛成。私的にも2C後半は妥当な線だと思う
キーワードは「景」だね。
ここをわかると一気に古代史の景観が開けてくるんだよ。
>>88 >
>>86 > 九州勢が大和入りしたと考えるが君はどうだ?
鉄利権だけが動いた、
>>86に書いたとおりなんだが・・・
三雲・平原が鉄利権(銅鏡嗜好もかな)だけもって移転したきたと言うことかな?
壱岐・原の辻交易の権益は捨てて、わざわざ遠隔地へ転居ですか。
そして、祭祀土器も含めた墳丘墓葬制は、ヤマトのをそのまま戴くわけだ。
鉄利権云々を言うなら王権の所在地を動かす理由もないと思うけどね。
纏向古墳群が三輪氏の墓というのは面白いが、
同族の鴨氏が事城主の時代に葛城あたりに移転してるのだが、
このあたりに古い前方後円墳がないわけだ。
ちょっとどうかと思うな。
>>95 ”事代主の時代”とやらが、ずーっと後世のことなのかも知れんよw
>鉄利権云々を言うなら王権の所在地を動かす理由もないと思うけどね。
いやいや大陸からの防衛上、北九州に王権を置いておくのは危険だ。
その事を分かってたと思う。
天然の要塞である大和入りは必然だったと思う。
98 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 15:27:43.27
>>94 君、何もわかってないね
当時の歴史背景をまったく知らないでしょ
帯方群が落とされて卑弥呼が速攻で魏に媚びを売りにいった理由を考えてみなさい
>>97 防衛。
大陸のどう言う勢力から防衛するんだろうか?
黄海沿岸の海賊集団かな?
だとしたら、守るべきは王宮じゃなくて交易ルートの方だと思うけどね。
結局妄想のオンパレードかよw
>>96 それか「古墳時代以前」の話か。
南葛城も、前期の秋津遺跡などと中期の宮山古墳などとを、
連続して扱って考えるのが普通だけど、古墳(前方後円墳)の築造という
観点からするとなんか両者には隔絶感がある。
私はそれを、前期=葛城直、中期=葛城臣の違いではないかと考えている。
>>98 速攻かどうかは別にして(私は偶然説)、交易に外交は付きものですな。
で、どう言う歴史的背景が理由なの?
公孫氏政権が崩壊したから、あわててヤマトに東遷したと言いたいわけですか?
>>101 >それか「古墳時代以前」の話か。
だとしたら、前期古墳が無いのは当然だね。
”ちょっとどうかと”思う理由が無くなるだけだ。
>南葛城も、前期の秋津遺跡などと中期の宮山古墳などとを・・・
それ、よく聞く説です。
>>99 半島南部に鉄資源を求めて進出してたわけだから、
大陸人の残忍性は分かってたと思う。
穢だかなんだか知らないが人尿洗顔してたようなのもいたはずだ。
ところで白村江の敗戦後、瀬戸内にあっと言う間に城が建ったね。
古代人は充分、地理を理解してたという事だろう。
公孫氏が居なくなり帯方郡の力が弱まったと考えるなら(実際、魏による韓の制圧はずっと先の話)、
利権の所在地から逃げ出すんじゃなくて、進出する方にベクトルは向かうと思うんだけどね。
実際のところ、平原が凋落した原因の第一は、後ろ盾だった公孫氏が居なくなったからとも思っちゃうね。
>>104 で、防衛する相手って何時の事だかわからないけど、「人尿洗顔」勢力ってことでなんでしょうか?
その人たちが、襲ってくる可能性が高くなったので、王権が東遷したわけですね。
ちなみに布留0以降になると、瀬戸内でも韓系遺物が出てくるようになるので、
大陸文化が、北部九州で通せんぼ状態になる事実は、逆に解消されていきます。
朝鮮式山城については諸説ありますが、従来の防御性高地集落の時代も終わってるし。
107 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 16:08:33.75
ふう。
ま、高句麗ーーという国があってだね
一般的にかなり過小評価されている国なんだが実は古代においては
圧倒的な存在感を持っていた国だったんだわ、これが
中国と高句麗の戦いが背景にないと古代日本史の謎は解けないのよね
108 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 16:31:44.41
もうハッキリ言っていいかね?
日本=中国、倭=高句麗。最終的に日本=中国が勝った。終わり。
109 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 16:53:13.46
纏向が邪馬台国だという考古学的根拠は何なのでしょうね。
どこか知らないところから金印が見つかる可能性はないのでしょうかね。
箸墓の築造年代は結局どうなるんでしょうね。
卑弥呼の時代は北部九州と畿内はあまり関係がない。
もともとある程度関係があったのは、
瀬戸内海豊後水道つながりの、大分、宮崎。
そのなかの小豪族がうまく潜り込んで移民したかも
しれないという程度。
北部九州と畿内との政治的なつながりは、7世紀の
白村江以降
>>106 古代から大陸や半島からの先進文化を受け入れてはきたが、
反面、日本人には理解しがたい残忍性という面も大陸にはあったはずだ。
うまく言えないがその大陸への恐怖心というのは、
これは遺伝子レベルで語られるべきものだろう。
したがって都を北九州に置いとくなんてありえないって。
例えとして適切かどうか分からんが、
元寇の時、鎌倉幕府でなく博多幕府だったら日本は終わってたよね。
まぁそういうことだ。
個人的な意見なんで強弁するつもりはないがね。
>>111 わかりました。
でも、最後のレスだけ読んだ人は、東遷した大和朝廷の開祖(神武か?)と言うのは、
小便半島人が怖くて東へ逃げたと言うチキン野郎だと言うことで終わっちゃうかもよ。
神功の時代には、逆に征伐しに行けるまで精神力を鍛えなおしたんだろうけど。
>>110 ホケノ山古墳を3世紀中頃としたら、
卑弥呼の時代を生きた人の墓だろう。
ホケノ山古墳から大量の鉄器が出土して以降、
鉄の出土で畿内が北九州を上回る。
これは鉄の供給システムの頂点にある人物が北九州から大和入りしたということだろう。
また福岡の那珂八幡古墳もトヨの時代あたりだろうから、
「卑弥呼の時代は北部九州と畿内はあまり関係がない。」と言う事はない。
114 :
ローガン:2013/05/06(月) 20:38:14.38
>>113 >ホケノ山古墳から大量の鉄器が出土して以降、鉄の出土で畿内が北九州を上回る。
厚葬が始まり、残りが良くなっただけでしょう。
>>114 ん?
残りが良くなったとはどういう意味?
116 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 21:01:31.45
ホケノ山の鉄の出土物でググったら、
素環頭大刀がでてるね。
これは、あとの埋葬施設のものかね?
117 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 21:03:11.99
ホケノ山は三つの埋葬施設があって、
一番新しいのは6世紀だそうなので、
鉄がどの埋葬施設から出たか考慮する必要があるね。
刀鍛冶や鉄砲鍛冶の親父には天下はとれない
>>117 6世紀と言うのは、今は橿原考古研にある横穴式石室?
鉄器は主体埋葬部出土でしょ。
布留0式と庄内の境目あたりの時期。
120 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 21:16:20.53
結局、三角縁神獣鏡はどうなったんでしょうね。
三角縁神獣鏡が国産だとしたら、畿内説的に卑弥呼の鏡は何なんでしょうね。
121 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 21:20:52.69
>>119 素環頭大刀は4世紀後半から6世紀だけど、
これは新しいほうかね?
122 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 21:51:59.91
>>120 魏は卑弥呼のために同じ鏡を量産して新造したとも考え難いから
色々な種類の中国産の鏡を集めて贈ったと考えるのが自然
個人的には三角縁でもいいと思うが。
踏み返しで大量コピーして畿内王権が配りまくったと。
唐古鍵近くの鏡作神社あたりで大量コピー、贋作作りまくっていたw
ただまあ学者でも意見が別れてて。卑弥呼の鏡>画文帯とする人もいる。
黒塚を見る限り、扱われ方は画文>>>三角だ。
画文帯は久渡古墳からも出てるし、
前方後円墳のプロトタイプの阿波萩原でも出てくる。
舶載品で初めて九州ではなく畿内を中心に出土する画文帯は重要で、
筑紫から畿内に対外交易の主体に変化が見られたのだろう。
西新町遺跡が新たな貿易港に選ばれた。
ただまあ、福永の画文帯を公孫氏の鏡と考えるのが妥当だと、
個人的には思っている。
124 :
ローガン:2013/05/06(月) 22:26:48.79
>>115 >残りが良くなったとはどういう意味?
普通に、厚葬により、土壌の影響が軽減されるようになったと云う意味ですが…
「厚葬」つーか、「豪華葬」化。
王権の移転により、富の蓄積がはじまり、畿内でも副葬品が増えるようなったんでしょ。
いや、楯築の薄葬を見る限り、王権イコール副葬品の豪華さではないだろう。
文化の違い。
まあ、単純に玄界灘グループのオウが商売で成功して金持ちだったのかもしれないがw
127 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 22:56:40.12
>>91 九州勢が畿内入りした(九州文化が畿内にもたらされた)形跡がない。
しかも、九州から畿内に攻め込む理由が不透明。
九州から畿内に至るには多くの国を滅ぼす+従順させる必要があるが、
九州にそれだけの力を持った大王国が1〜2世紀頃にあった形跡がない。
1世紀といえば倭国は小国に分離、北九州の小豪族奴国王が朝貢してた時代だ。
布留は縄文時代からの遺跡がある地域で2世紀に九州勢が攻め込み支配者になったなら
文化の断絶や戦乱の跡があるはずだがそれもない。
厚葬、薄葬の違いって、墓自体の長大さだけのことで、
副葬品の多寡まで含めて考えるかは、人それぞれだろうね。
須玖岡本、三雲、平原(国産多)の鏡は中国でも出土が少ないサイズが大きいものが集められている
玄界灘沿岸で中継商売している程度では、朝鮮半島経由で集めるのは難しい
委奴国王ではなかろう
>>85 いや、西殿塚を崇神陵にしてしまうと、
柳本の大王墓、行燈山と渋谷向山のどっちかが景行陵としても、
結局一つ余るよね?その余った前方後円墳は誰の墓なの?って話。
あとまあ、記紀には陵に二人埋葬されてるとか一切書かれてないのは何故だと思う?
伝仁徳の大山古墳も埋葬施設が二つあるのは知ってた?
記紀には書かれてないけど、かなり後世まで、
卑弥呼−男弟、ヒコ−ヒメ制度が存続していたように思う。
>>78 マキムク古墳群が三輪氏の墓とかさー。また適当なほらを吹くw
マキムク石塚って、畿内で最初に造られた王墓で、
吉備の楯築や出雲の西谷に遅れるけど、
当時、日本最大の墓なんだよ?
マキムク型前方後円墳は吉備や阿讃播とかの影響が考えられているんだけど、
三輪氏って一体全体どんな氏族だったと考えてるの?
君の好きな記紀には、何かそのあたりのヒントが書いてありますか?
あ、あと、三輪氏の始祖って、崇神の時、河内の陶邑で見つかった
太田田根子だったよな、確か。
記紀に書いてないことを勝手に妄想するのは良くないよw
134 :
ローガン:2013/05/07(火) 00:01:03.37
>>128 >厚葬、薄葬の違いって、墓自体の長大さだけのことで、
いや、そういうニュアンスで「厚葬」と言ったのではなくて
石室や石槨と呼ばれるものになり、旧来の埋葬方法よりは、遺物として残存する割合が増えたわけです。
>>127 君、海を隔てたら外敵は絶対襲ってこないと思ってる?
大陸〜半島にひしめいていた遊牧騎馬民族の習性を知らなすぎでしょあなた
中華に攻め込めなくなったらヨーロッパ席巻してヴァイキングにまでなるような連中ですぜ
日本なんてすぐ目の前の土地にはやってこないと? どんだけ平和ボケなんすか
君の論法でいうと、ありとあらゆる戦争に理由はなくなるな
「あそこに資源がある。商業ルートもある。じゃ、攻めるか」ってなるのが人間でっせ
そもそも大規模な古墳は圧倒的な支配者が、膨大な人員を駆り出さないことには作り得ない
それは戦争によって勝者と敗者が分かたれることで成立する図式
商業ルートを開拓しただけで古墳なんて作れませんて(苦笑)
九州が畿内に攻め込んだ?
動員力がなかろ、出身地が違うから
そもそも古代における商易は海上交易。
古代における海上交易はすなわち海賊と表裏一体。これ歴史の常識ね
そして日本なんて細長〜い全包囲を海に囲まれた島国はありとあらゆる場所から
ありとあらゆる種類の人間が次から次ぎへと渡ってくる。積極的にエリアを広げていくのは当然商人たち。
当然、利益と利益のぶつかり合いが必ずでてくる。
すると、剣を抜くのが人間の歴史。
商業ルートは血によって地均しされる、これも歴史の常識。
白人文明なんてまさにこれ。現地人と仲良くやりましたかあ? 最初に戦争でしょ。そして労働力確保
嘘臭い除福でさえ、現地部族の抵抗に合い処刑覚悟で武力調達に始皇帝に泣きつきに帰ってる
商業は武力に裏打ちされてはじめて成立する。
「戦争をする理由がない!商業ルートが広がっただけ!」←どんだけちんけな歴史観に生きてんすか
いやまあ、東遷って言葉に語弊がある。
単純に倭国世界が東日本に大きく拡大して、
倭国の物流の中心が大きく東にシフトしただけ。
東西交易の結節点として奈良盆地マキムクが都として選ばれた。
河内、摂津、山城、近江でも良かったんだろうが、たまたま大和が選ばれただけなのか。
当時、唐古鍵の首長が発言権が強かったからかもしれない。
>>136 九州エリアから、東に攻め込んでいった、ね
まあ邪馬台国時点で70年近く、百以上の国々が互いに伐攻する戦国時代を経て
女王国が成立してるから、そこである程度の勢力がまず基盤としてできあがっていたからな
それが基盤になったんだろう。九州を支配して、はいめでたしめでたしーでは終わらんよ、人間はな
三国志の時代に直結してることを考えれば、黄巾族が中原を席巻したケースを見るに
宗教的な基盤を持つ武力集団の威力をむげにも否定できんだろうな
ましてや、XXXXXXがあれば・・・・
ここを伏せ字にするのは、最後の良心だな。ま、人は人を殺さずには生きていけない動物じゃて
戦争に理由はいりまへん。というより、どんな理由でもひねり出しますて
考古学からだけでは人間は見えてきないということ
考古も文献も無視した妄想だな
>>138 ちんけだねえ
異なる人間集団と人間集団が接触すれば、かならず摩擦が起きるーー
摩擦は、血によって潤滑される。これが人の歴史な。
考古学者ってさー。マヤ文明とかも平和で温厚な人間たちだった!ってのたまってたよね?
それで次から次に陰惨な生け贄の痕跡が発見されて顔面蒼白になってた連中。
その程度の学問で歴史のなにがわかる?
「たまたま山和が選ばれただけ」
これも噴飯ものなんだがw まさにあの地域は川を使った交易に理想郷でしょうが。
おまけにご丁寧に四方は山々で天然の要塞ときた。徹底した合理性であの地が選ばれたのは当然
むしろ、あの地を巡って幾多の血が流れた歴史が連綿とあるだろうな。
九州なんぞ山と痩せ地だらけの土地にいつまでも居座りませんて
最新の鉄器文明を手に、次から次へと東に向かってきたろうよ。
>>140 だから、考古学自体がカスってことよ
考古学でみた歴史なんてしょせんこんなもんって実証でもあるな
そもそも考古学視点を重視するならスレ違い。
>>132で好きなだけ語りなさいな
>最新の鉄器文明を手に、次から次へと東に向かってきたろうよ。
小学生みたいな妄想だなw
>だから、考古学自体がカスってことよ
考古なしで、どこが鉄器をもっているとわかる?
脊髄反射ではなく、
>>135>>137>>139>>141にきちんとした反証しましょうや?
そもそも歴史の大きな流れさえ見えてない人間が、必死に虫眼鏡で米粒観察しても意味がないのよ
>病的なまでに四方の異族の皆殺しを行った大和朝廷
>百済滅亡時に、マッハで負け戦必至の海外遠征に人員をかり出した大和朝廷
>その敗戦後、異常ともとれる防衛体制をとった大和朝廷
他数えきれないほどだが、
これらから裏打ちされる大和朝廷の姿は、彼らこそが先住国家を滅ぼして大和に君臨した武力集団であるということ
自分たちが西から東へと進出したからこそ、また自分たちも滅ぼされるという「絶対的な恐れ」があった
これは妄想でもなんでもなく歴史の流れであり、記紀にも東征の伝承を伝えている
東遷ではなく、東征だとハッキリと記している
ま、考古学だけでは歴史も人間も見えませんてや
いやまあ、王権の大事な役割のひとつに交易路の安全保障ってのがあって。
特に弥生後期、鉄器を入手するために遠隔地交易が必要になってくると、
交易路の安全は強く望まれるようになった。
瀬戸内海沿岸部の勢力が各々に通行税を取って、時には海賊行為などもしただろうから、
弥生後期、瀬戸内海航路が機能不全になってしまっていた。
畿内に舶載品が流入が激減したのもこれが原因。
畿内や吉備の首長たちが連合し、宗教的権威を祭り上げ、
ヤマト王権が誕生し、瀬戸内海航路が再生した。
ヤマト王権は瀬戸内海航路の安全保障の権威として始まったのではないか?
>>131 > いや、西殿塚を崇神陵にしてしまうと、
> 柳本の大王墓、行燈山と渋谷向山のどっちかが景行陵としても、
> 結局一つ余るよね?その余った前方後円墳は誰の墓なの?って話。
柳本と大和と鳥見山、それに箸中山を含めると盆地南東部の初期古墳で大王墓級候補は7つ。
箸中山、西殿塚、外山茶臼山、波多子塚、メスリ山、行燈山、渋谷向山の順だとして、
渋谷向山以降には佐紀盾列も混じってくるので、誰をどれにあてがうかは難しい。
垂仁から仲哀までの皇統も記紀では日本武噂、武内宿禰、神功皇后の事跡ばかりで、
これらを除いた天皇についての記述は欠史八代と大差は無い。
どうやったって、皇統譜どおりにはいかないよ。
> あとまあ、記紀には陵に二人埋葬されてるとか一切書かれてないのは何故だと思う?
推古以降は合葬事例の記録も多いよ(野口王墓、押坂陵とか)。
日本書紀では、一部の例外を除いて天皇陵以外の墓所の記述が無されていないのだからしかたなかろう。
> 伝仁徳の大山古墳も埋葬施設が二つあるのは知ってた?
前方部の崩落時に露出した石室のことだろう、。
だとしたら、修復時の記録によれば埋葬施設かどうか判断できなかったことになっているが。
149 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 02:33:15.62
反論できないとレッテル張り
さすが人間を”丸太”と読んで人体実験を繰り返していた老害のみなさんですなあ
記紀に書かれてある以上、「東征」はあったと考えるのが当然なのよねぇ
日本が世界にしらしめる正真正銘の文書に嘘八百並び立てるかよ
知りうる限りの事実は記したろうさ。当然、自分たちの出自くらいは十分に知り得ていたろ
150 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 02:43:14.34
さらに言うならば、邪馬台国を記録から抹消したのは
彼らが中国に媚びを売ったことがあちらの歴史書に記されていたから
日本という国家が自らの足で立ち上がるために、涙ながらに切り捨てざるをえなかった
それが悲劇の女王・卑弥呼なのよね。我々日本人は血のうちにそうした記憶を刻んでいるからこそ、
果てしなく邪馬台国に惹かれるの・・・・・さ。
151 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 03:38:36.33
結局はヤコブの息子達の末裔同士だろうに、信じ続けた神の救いもなく斬首し合い幼い子も道連れに自決し血で血を洗う悠久の歴史に気が滅入る。
GWは終わったよ
>>127 >九州勢が畿内入りした(九州文化が畿内にもたらされた)形跡がない。
鏡、玉、剣の副葬は九州が先ではないのか。
>しかも、九州から畿内に攻め込む理由が不透明。
上でも言ったが地理を把握していた上での首都移転ならありうる。
>九州から畿内に至るには多くの国を滅ぼす+従順させる必要があるが、
神武は地元の大物主の娘と結婚したが。
>布留は縄文時代からの遺跡がある地域で2世紀に九州勢が攻め込み支配者になったなら
文化の断絶や戦乱の跡があるはずだがそれもない。
環濠集落や銅鐸の消滅、古墳の誕生は前文化の断絶ではないか。
>>134 >石室や石槨と呼ばれるものになり、旧来の埋葬方法よりは、遺物として残存する割合が増えたわけです。
弥生時代は鉄の出土量で北九州が圧倒してるけど、遺物として残存しやすい厚葬だったか?
東征もあるが日本海側からの半島勢力の波状渡来も大きいだろうな
同一人物と見られていた都怒我阿羅斯人と天日槍が別の勢力という説も出てきた
出雲を開いた須佐之王ともども海上交易は渡来人に握られていたのだろう
考古学はピンポイントで正確なデータを実証するが大局を見失うという弊害がある
古代エジプト文明などとどのつまり、いまだ何もわかっていないに等しい
ましてや住宅地に地表を埋め尽くされた日本では限界があろうな
>>153>>154 まあ、あんまり相手しない方がいいぞ
皇国史観の亡霊だろう。生きている人間というよりも、ゾンビに近い
この手の爺共が死ぬまで日本の古代史は前には進まぬであろうな
>>147 いや、明治時代、考古学好きの堺県令税所篤が
清掃という名目で大山古墳に立ち入らせ、
前方部にはっきり竪穴式石室を確認しているよ。
そして考古学におけるデータなど、言ってしまえば一部の学者の説にすぎない
どうでもいいような細々とした情報で理論武装した人間に
なにかしらの権威を感じてしまうのが凡人の悲しさであろうな。
ま、このスレのおかげで年寄りはことごとく皆死すべしという結論に至りましたわ
ありがとな、労害は生きていても空気が腐るだけだ。爺は死ね
>>155 >考古学はピンポイントで正確なデータを実証するが大局を見失うという弊害がある
データは、自分に都合のいいものだけを選べば、どうとでも言える問題がある。
こうした人たちは、自分の考え方やものの視点もないので、教科書を朗読してるだけだ。
>>147 皇統譜通りにいかないのを一歩進んでどう考えるか?だと思うがな。
有力豪族の連合政権で、大王位が持ち回りされてたとか。
記紀に記載されてない王や女王の存在なども想定出来る。
>>159 ま、考古学といえばゴッドハンドだからねえ
どうでもいいような考古学上の視点からではなく民俗学や神社や祭られている神・伝承といった
視点からでないと古代史は紐解けないだろうな。発見されたものだけが現実の歴史というスタンスでは
日本ではもう無理だよ。この国はねえ、ま、しょぼいんだわ
>>161 考古学、文献史、民俗学など総合的に判断できれば理想。
ところが考古バカはニギハヤヒや神武の話をすると、たちまち嫌悪感を示す。
163 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 12:29:47.17
脳みその中の考古学ファイルしか稼働させてないんだろな。
その他の文献史とか民俗学の脳内ファイルを立ち上げるのがおっくう、というかそのファイル内はカラッポなのさ。
いや、神武実在って方がどうかしてるだろw一般的に考えてw
モデルはいたかもしれないが、記紀の神武の記述をそのまま信じることは出来ない
(普通の頭をしていればなw)
あとまあ、ホアカリとか物部も出してもいいけど、控え目に、が基本。
延々妄想を垂れ流しされることに辟易している。
このスレは考古学重視の立場なんだから、考古学の知見と少しは絡める努力をしないと。
バカじゃいかんな
考古も文献も必要だな、日本だけじゃなくアジア全体のな
考古は縄文時代からの連続で見ないといかんし、文献も史書だけじゃなく
アジアの民族がもつ神話、伝承も比較しないといかんし
それだけじゃなく、鉱物、植物、製鉄技術の知識もかなり重要だよな
じゃないと神名、地名の意味がわからんからな
時間がいくらあってもたらんな、あたりまえだがw
166 :
ローガン:2013/05/07(火) 14:20:26.08
>>154 >弥生時代は鉄の出土量で北九州が圧倒してるけど、遺物として残存しやすい厚葬だったか?
土壌の影響を受けにくい甕棺なんて 残りがいいだろうに。
で、因みに君の云う「弥生時代」とやらは何時までを指すの?
土器様式での回答を望む。
>>164 >いや、神武実在って方がどうかしてるだろw一般的に考えてw
モデルはいたかもしれないが、記紀の神武の記述をそのまま信じることは出来ない
一般的とは何だ。
津田学派あたりが作った下らない空気に流されるな。
「モデルはいたかもしれない」と言うのなら、
そのモデルの話をしていいだろうし、
その名前は神武でいいではないか。
だいたい記紀の神武の記述をそのまま信じてるやつなんて一人もいないよ。
>あとまあ、ホアカリとか物部も出してもいいけど、控え目に、が基本。
君はスレ立て人か?
古代豪族・物部氏の話を控えめになんて言うが、
その物部の祖のニギハヤヒの話もするなってか?
もしニギハヤヒの時代と纏向遺跡が重なってたらどうすればいいんだ。
俺はそう思ってるわけだが。
いったいどこまでがよくてどこまでがダメなのか、線引きをはっきりしてくれ。
>>166 >土壌の影響を受けにくい甕棺なんて 残りがいいだろうに。
マジで知らなかったのだが、
甕棺の中に鉄製品が入ってたのか?
俺はてっきり外だと思ってた。
>で、因みに君の云う「弥生時代」とやらは何時までを指すの?
土器様式での回答を望む。
寺澤編年で畿内Yまで。
九州では土師器が出る以前。
169 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 14:45:21.71
170 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:07:05.45
ローガンは詐欺を働くから気をつけてね。
171 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:08:02.09
ローガンが情報を流すときは、誤誘導させる場合が多い。
相手をしないのが一番。
>このスレは考古学重視の立場なんだから
こんなこと誰も決めてないけどね
単に連投でスレを牛耳ってる奇形児が考古学マンセーってだけだろ
どうせ3〜4人しかいないしな
ローガンは粘着質が身上
ただし大局は見えないようだ
またYahooのtextreamで「投稿不能」にされましたので、こちらに転写記録しておきます。
またごまかしさんへのお返事です。
>>倭王武は、日本書紀私記の「問:此國稱姫氏國,若有其説乎? 師説:梁時寶志和尚識云:「東海姫氏國.」
又本朝僧-善○推紀云:「東海姫氏國者,倭國之名也.」」によって、
東海姫氏国の王だよ。<
>「東海」というのは、日本列島画中国から見て東の海にあるということ。
姫氏国というのは「則名国曰姫氏・・姫婦人美称、而天照大神始祖之陰霊、神功皇后中興之女主」(日本書紀纂疏)。
つまり東海姫氏国というのは、天照大神を始祖とする日本国の事だといっていますが、それが何か?<
いや、記紀神話による主観的な主張など、根拠にならない。
客観的な中国史書群には、大和日本國王は、(九州の金印の倭奴國王や、タリシホコと同じく)、「阿毎」氏だ、と記録しており、
「姫氏」とは書かれていない。
「阿毎」とは、おそらく「天(アマ、海、海人)の伊(委、井)」氏の意味で、天孫族のイ氏の意味。
それから神武らが別れて「日本國者、倭國之別種也」となったんだよ。
それに対して、「姫氏」は、「聞其舊語、自謂太伯之後」の太伯が姫氏なのであり、
新撰姓氏録の中で、姫氏になるのは松野連家だけであり、
その松野連家系図伝承では、火の国山門に上陸した姫氏である事をまず証言しており、
倭王武が載っており、その次の倭王哲を最後にして、(天孫族系の)臣下になった事が記録されている。
すると、哲=磐井である可能性が非常に高く、
継体の反乱によって、「日本天皇及太子皇子 倶崩薨」であった可能性が非常に高い事になる。
>ということで倭王武は、雄略天皇と言う事になりますが、それが何か?<
梁の寶志和尚は、当然梁の倭王武への授爵を知っており、
寶志和尚の書いた「野馬臺詩」には、倭国の亡国と千人位の倭の娘らの流浪が記されており、
「日本天皇及太子皇子 倶崩薨」事件も知っていた可能性が高い。
雄略など、全く関係がない。
>当時天下人だった豊臣秀吉が安南国と通信した記録はなく、陳梁山や隆巌という人物も知られていない。
>当時は日本人商人が東南アジアで積極的に交易を展開しており、交易を円滑に進めるため将軍などの使節を詐称する事例があった。
>同館の藤田励夫(れいお)保存修復室長は「この書簡も、日本国王使節を装って来航した商人に、安南国側が託した可能性もある」と話している。
古田御大は桃山時代にも多元史観を適用すのかな?w
>当時天下人だった豊臣秀吉が安南国と通信した記録はなく、陳梁山や隆巌という人物も知られていない。
>当時は日本人商人が東南アジアで積極的に交易を展開しており、交易を円滑に進めるため将軍などの使節を詐称する事例があった。
>同館の藤田励夫(れいお)保存修復室長は「この書簡も、日本国王使節を装って来航した商人に、安南国側が託した可能性もある」と話している。
古田御大は桃山時代にも多元史観を適用すのかな?w
>当時天下人だった豊臣秀吉が安南国と通信した記録はなく、陳梁山や隆巌という人物も知られていない。
>当時は日本人商人が東南アジアで積極的に交易を展開しており、交易を円滑に進めるため将軍などの使節を詐称する事例があった。
>同館の藤田励夫(れいお)保存修復室長は「この書簡も、日本国王使節を装って来航した商人に、安南国側が託した可能性もある」と話している。
古田御大は桃山時代にも多元史観を適用すのかな?w
>当時天下人だった豊臣秀吉が安南国と通信した記録はなく、陳梁山や隆巌という人物も知られていない。
>当時は日本人商人が東南アジアで積極的に交易を展開しており、交易を円滑に進めるため将軍などの使節を詐称する事例があった。
>同館の藤田励夫(れいお)保存修復室長は「この書簡も、日本国王使節を装って来航した商人に、安南国側が託した可能性もある」と話している。
古田御大は桃山時代にも多元史観を適用すのかな?w
そもそも、当時列島の盟主は大和ではなく○国だし、
楽浪付近からの直接伝来鏡であるか?、呉系鏡師の列島各地の部族での製作したのか?、という位にしかならない。
>そして、埼玉古墳群や同じ埼玉県美里町の長坂聖天塚古墳の例でもわかるように、舶載鏡だけでなく、同じ一族に仿製鏡も配っている。<
部族単位に必要な鏡を手に入れたんなら、普通は同一鏡を手に入れる筈。
だから、鏡の種類が違った、という事は、(部族単位ではなく)氏族単位の購入であったらしい、という事になる。
>ああ、古田本では、そうなんだ。でもマニアなら、普通の古墳から、普通の鏡と同じく出土するなんてことはだれでも知っているけど。古田本って、全然使えないな。<
鏡を、副葬品しか使わない部族ではいざ知らず、
実際の祭祀や生活での使用鏡であれば、戦争やトラブルによって、当然生活遺跡からも出土する可能性もある。
またYahooからこちらへの転写の続きです。
>なんで?大陸から大和朝廷に渡り、それを全国に配分しただけのこと。<
「大和が画文帯を配布した」なんて、何の根拠もないこと。
そもそも、当時列島の盟主は大和ではなく○国だし、
楽浪付近からの直接伝来鏡であるか?、呉系鏡師の列島各地の部族での製作したのか?、という位にしかならない。
>そして、埼玉古墳群や同じ埼玉県美里町の長坂聖天塚古墳の例でもわかるように、舶載鏡だけでなく、同じ一族に仿製鏡も配っている。<
部族単位に必要な鏡を手に入れたんなら、普通は同一鏡を手に入れる筈。
だから、鏡の種類が違った、という事は、(部族単位ではなく)氏族単位の購入であったらしい、という事になる。
>ああ、古田本では、そうなんだ。でもマニアなら、普通の古墳から、普通の鏡と同じく出土するなんてことはだれでも知っているけど。古田本って、全然使えないな。<
鏡を、副葬品しか使わない部族ではいざ知らず、
実際の祭祀や生活での使用鏡であれば、戦争やトラブルによって、当然生活遺跡からも出土する可能性もある。
九州勢が畿内入りした(九州文化が畿内にもたらされた)形跡がない。
しかも、九州から畿内に攻め込む理由が不透明。
九州から畿内に至るには多くの国を滅ぼす+従順させる必要があるが、
九州にそれだけの力を持った大王国が1〜2世紀頃にあった形跡がない。
1世紀といえば倭国は小国に分離、北九州の小豪族奴国王が朝貢してた時代だ。
布留は縄文時代からの遺跡がある地域で2世紀に九州勢が攻め込み支配者になったなら
文化の断絶や戦乱の跡があるはずだがそれもない。
九州勢が畿内入りした(九州文化が畿内にもたらされた)形跡がない。
しかも、九州から畿内に攻め込む理由が不透明。
九州から畿内に至るには多くの国を滅ぼす+従順させる必要があるが、
九州にそれだけの力を持った大王国が1〜2世紀頃にあった形跡がない。
1世紀といえば倭国は小国に分離、北九州の小豪族奴国王が朝貢してた時代だ。
布留は縄文時代からの遺跡がある地域で2世紀に九州勢が攻め込み支配者になったなら
文化の断絶や戦乱の跡があるはずだがそれもない。
178 :
ローガン:2013/05/07(火) 15:54:29.58 ID:2Y7VoROQO
>>168 >寺澤編年で畿内Yまで。九州では土師器が出る以前。
私は、小型精製三種の定型以降が古墳時代と捉える者。つまりホケノ山は、弥生時代。
たかだか100mに満たない弥生時代の古墳から、80個体もの鉄器が出た訳だ。
そこから寸法取りした上で、未調査を含めた布留0期相当の墳墓からの出土量を考えれば、
弥生時代、畿内には鉄器が普及していないとは、言えない。弥生時代の小古墳からまとまって出る訳だから。
加えて、X期での石器の激減は、鉄器普及を考えないと説明出来ない。
「弥生時代は…」って話は、注意が必要ですな。
>>169 >外にもある以上、「ホケノ山は厚葬だから鉄製品が残ってた」は通じないと思うが。
外には無いなんて言って無いのに…
上で書いたのは「厚葬になれば、土壌の影響を受けにくく残りがいい」
179 :
ローガン:2013/05/07(火) 15:57:38.89 ID:2Y7VoROQO
おや? ついに日本史板にID?
そもそも古代における商易は海上交易。
古代における海上交易はすなわち海賊と表裏一体。これ歴史の常識ね
そして日本なんて細長〜い全包囲を海に囲まれた島国はありとあらゆる場所から
ありとあらゆる種類の人間が次から次ぎへと渡ってくる。積極的にエリアを広げていくのは当然商人たち。
当然、利益と利益のぶつかり合いが必ずでてくる。
すると、剣を抜くのが人間の歴史。
商業ルートは血によって地均しされる、これも歴史の常識。
白人文明なんてまさにこれ。現地人と仲良くやりましたかあ? 最初に戦争でしょ。そして労働力確保
嘘臭い除福でさえ、現地部族の抵抗に合い処刑覚悟で武力調達に始皇帝に泣きつきに帰ってる
商業は武力に裏打ちされてはじめて成立する。
「戦争をする理由がない!商業ルートが広がっただけ!」←どんだけちんけな歴史観に生きてんすか
そもそも古代における商易は海上交易。
古代における海上交易はすなわち海賊と表裏一体。これ歴史の常識ね
そして日本なんて細長〜い全包囲を海に囲まれた島国はありとあらゆる場所から
ありとあらゆる種類の人間が次から次ぎへと渡ってくる。積極的にエリアを広げていくのは当然商人たち。
当然、利益と利益のぶつかり合いが必ずでてくる。
すると、剣を抜くのが人間の歴史。
商業ルートは血によって地均しされる、これも歴史の常識。
白人文明なんてまさにこれ。現地人と仲良くやりましたかあ? 最初に戦争でしょ。そして労働力確保
嘘臭い除福でさえ、現地部族の抵抗に合い処刑覚悟で武力調達に始皇帝に泣きつきに帰ってる
商業は武力に裏打ちされてはじめて成立する。
「戦争をする理由がない!商業ルートが広がっただけ!」←どんだけちんけな歴史観に生きてんすか
>>178 >私は、小型精製三種の定型以降が古墳時代と捉える者。つまりホケノ山は、弥生時代。
古墳時代とは石野・豊岡纏向新編年で言われるように、
小形器台・小形丸底鉢が成立する段階をもって土師器の始まりとなり、
それ以後が古墳時代だと思うが。
つまり纏向石塚以降が古墳時代ね。
>上で書いたのは「厚葬になれば、土壌の影響を受けにくく残りがいい」
これを紹介します。
「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方で多く出土する事実は変わらない、
鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」
「(弥生時代後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、
(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルートを持っていたというような
近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。」
(寺沢薫「王権誕生」2002年講談社刊)
>>127 >九州勢が畿内入りした(九州文化が畿内にもたらされた)
鏡、玉、剣の副葬は九州が先ではないのか。
上でも言ったが地理を把握していた上での首都移転ならありうる。
>九州から畿内に至るには多くの国を滅ぼす+従順させる必要があるが、
神武は地元の大物主の娘と結婚したが。
>布留は縄文時代からの遺跡がある地域で2世紀に九州勢が攻め込み支配者になったなら
文化の断絶や戦乱の跡があるはずだがそれもない。
環濠集落や銅鐸の消滅、古墳の誕生は前文化の断絶ではないか。
>>127 >九州勢が畿内入りした(九州文化が畿内にもたらされた)形跡がない。
鏡、玉、剣の副葬は九州が先ではないのか。
>しかも、九州から畿内に攻め込む理由が不透明。
上でも言ったが地理を把握していた上での首都移転ならありうる。
神武は地元の大物主の娘と結婚したが。
>布留は縄文時代からの遺跡がある地域で2世紀に九州勢が攻め込み支配者になったなら
環濠集落や銅鐸の消滅、古墳の誕生は前文化の断絶ではないか。
183 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 17:51:59.31
>>182 >鏡、玉、剣の副葬は九州が先ではないのか。
古墳の発生は畿内のほうが早い。
畿内の古墳文化が九州に伝播した。
>上でも言ったが地理を把握していた上での首都移転ならありうる。
九州王が2世紀に畿内までの通り道である山陽・四国を征服してたとか?
九州王が捨て去った九州の遺跡はどこ?
>神武は地元の大物主の娘と結婚したが。
神武よりずっと後の時代の百襲姫が大物主の妻になっているし、
この時代の神との結婚は史実とは認められない 。
>環濠集落や銅鐸の消滅、古墳の誕生は前文化の断絶ではないか。
それは九州からもたらされたものではありません
古墳の出現は畿内のほうが早いです
184 :
ローガン:2013/05/07(火) 18:08:02.33 ID:2Y7VoROQ
>>181 >小形器台・小形丸底鉢が成立する段階をもって土師器の始まりとなり、それ以後が古墳時代だと思うが。
私の知り合いの学芸員氏は、「布留式」からが古墳時代という認識。 ほら、人により違う訳です。だから、「弥生時代は〜」という話はミスリードがチョイチョイ。
例:邪馬台〇の会
>これを紹介します。
その寺澤氏だって、X様式を広く考えいる訳で。森岡氏も同様。
理由は土器量が多いからです。で、増える土器と減る石器。
何かが石器にとって変わったと考える以外に無い。当然、鉄器の普及。
勿論、普及経路にある九州に多いのはあたりまえ。
>>183 >古墳の発生は畿内のほうが早い。
>畿内の古墳文化が九州に伝播した。
そうだよ。
ただその古墳文化を作った人間がどこから来たかという話。
玉、鏡、剣を埋葬する九州だろうね。
あとベンガラ朱も証拠になるかな。
>神武よりずっと後の時代の百襲姫が大物主の妻になっているし、
>この時代の神との結婚は史実とは認められない 。
仮に大物主が百襲姫と結婚するほど長寿であったとしても、
神武の皇后ヒメタタライスズ媛の父、あるいは祖父であった話と矛盾しない。
例えばヒメタタライスズ媛を10代後半あたりで生ませ、
60歳過ぎで百襲姫と結婚したとして何か変なのか?
>それは九州からもたらされたものではありません
>古墳の出現は畿内のほうが早いです
畿内において、玉、鏡、剣の埋葬が九州より早かった遺跡の例をどうぞ言ってください。
>>184 >私の知り合いの学芸員氏は、「布留式」からが古墳時代という認識。 ほら、人により違う訳です。
人により違うたって纏向石塚は古墳という認識がほとんどでしょうに。
>勿論、普及経路にある九州に多いのはあたりまえ。
その経路である北九州の方が鉄の出土量が圧倒的に多いというのはどういうことでしょう?
ちんけだねえ
異なる人間集団と人間集団が接触すれば、かならず摩擦が起きるーー
摩擦は、血によって潤滑される。これが人の歴史な。
考古学者ってさー。マヤ文明とかも平和で温厚な人間たちだった!ってのたまってたよね?
それで次から次に陰惨な生け贄の痕跡が発見されて顔面蒼白になってた連中。
その程度の学問で歴史のなにがわかる?
「たまたま山和が選ばれただけ」
これも噴飯ものなんだがw まさにあの地域は川を使った交易に理想郷でしょうが。
おまけにご丁寧に四方は山々で天然の要塞ときた。徹底した合理性であの地が選ばれたのは当然
むしろ、あの地を巡って幾多の血が流れた歴史が連綿とあるだろうな。
九州なんぞ山と痩せ地だらけの土地にいつまでも居座りませんて
最新の鉄器文明を手に、次から次へと東に向かってきたろうよ。
>>135 全然詳しくないけど、続日本紀以降に出てくる土師氏一族
土師宿禰根麻呂(元土師連:生没年不詳)
土師宿禰(684)→直広四(689時点:従五位下相当)→判事(689)→直広参
(689:正五位下相当:699同)
土師宿禰馬手(元土師連:?〜711)
屯田司舎人(672時点)→小山以上?(672:七位相当以上?)→土師宿禰(684)
直広参(689時点:正五位下相当:699同)→正五位下(703時点)→正五位上(707時点)→
従四位下(709)
この二人の親族関係、年齢関係、官位の上下関係はよくわからない。
二人とも八嶋・身に連なる土師氏嫡流の出で、根麻呂と馬手を兄弟としている系図もあるようだが
実際のところはよくわからない?
あるいは根麻呂が本来の嫡流で、馬手は壬申の乱の功績による特進かも?
馬手は唯一正史で確認できる土師氏の従四位下官人である為か、系図等のみに名が見える菅原宿禰古人や
秋篠朝臣安人の父とされる宇遅・宇庭と同一視されることもあるようだが、年代的にどうだろう?
752年ないし754年生れの安人の父はまず無理、古人の方は785年頃没のようで馬手最晩年の子としてなら
あり得なくはないが。ただそれだと古人の清公(770年生れ)が生まれた時古人は若くても60歳程度となり、
少し不自然か。
なお馬手以後当分の間、土師氏に四位官人どころか正五位下以上は出ていない。
30 :日本@名無史さん:2011/09/11(日) 12:09:24.19
土師宿禰甥(元土師連:生没年不詳)
土師宿禰(684)→大唐学生(684時点)→勤広参(700時点:従六位上相当)→正六位上
(709時点)→従五位下(709)
土師宿禰豊麻呂(元土師連?:生没年不詳)
従六位下(715時点)→従五位下(715:4階昇進)→従五位上(723)→遣新羅大使(724)
土師宿禰大麻呂(元土師連:生没年不詳)
土師宿禰(684)→務広四(697時点:従七位下相当)→正六位上(716時点)→従五位下(716)
→従五位上(724)
以上3人の親族・年齢関係も不明。一応五位昇進の順に並べてみた。
根麻呂・甥が道真に連なる先祖らしいが真偽不明?豊麻呂は馬手の子で甥の従兄弟とも?
これ以後当分の間、土師氏に内五位の官人はでなくなる。
倭の五王と天皇の件ですが〜
いまだかつて五王関係の活動文献と当時の各天皇の記事と年代を合わせられた研究家はいないと思います。
五王が天皇なら、その関係年代が双方一致するはずですよ。
それが合わせられないんだから、両者は別人と観るべきですね。それがしの編年でも合いませんよ。
当時の日本とは二本であり、王権支配において日本は畿内と九州との二本立てだったということを思い知るべきです。
崇神当時なら、畿内は天皇の国、九州は卑弥呼の女王国の2極だったということですね。
これは大陸が呉、魏、蜀の三本立ての鼎の三分支配だったように、その当時の日本は二本立ての2極支配にあったということです。
半島でさえ一国ではなく、分立してたはずですから、日本だけ畿内朝廷の1極だったと考えるのは間違いの元ですよ。
畿内から多数出土の239年鏡が日本製であったことは中国の王先生でしたか、大陸舶来を否定されており、九州に卑弥呼の鏡が贈られたからといって、これらの畿内出土鏡は来日中の畿内にいた大陸人が関わって造った鏡だということです。
畿内のは卑弥呼の鏡ではないですね。それがしは通常にて考古は範疇外ですから勾玉についてはとやかく言う筋合いではありませんが、ここの鏡の件を貴殿が参考にして考えてもらいたいと思います。
通常において舶来なら九州経由で畿内到達と観るのが相当ですが、貴殿のお考えの日本海っていうのは半島から対馬等を渡り九州から畿内で来るというお考えではなくて、
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
日本列島が大陸と地続きの時代には、大陸からの固有の言語をもった種族がこの島へ渡って来た。
一万年をかけて異質の複数言語が、次第に統一された原日本語(東北方言)が定立されたと思われる。
弥生人の渡来により近畿地区に都が出来ると、日本海側からの出入り口が若狭湾に求められ、
その付近では弥生語が使われだした。
そして若狭湾で言語が遮断され、出雲、隠岐が東北方言として独立的に現存している。
このルートを開発したのは阿曇族と思われる。琵琶湖西岸に「安曇川」「志賀町」が残っている。
日本海側からは流れに順行であり、水行時間も短かったと考えられる。
これが、若狭湾付近には四隅突起型古墳が出土しない理由ではないだろうか。
190 :
ローガン:2013/05/07(火) 20:17:27.74
>>186 >人により違うたって纏向石塚は古墳という認識がほとんどでしょうに。
そう。石塚もホケノ山も古墳。弥生時代のね。
その副葬品を弥生時代のものとするか、古墳時代のものとカウントするかは、担当者次第。
さて、弥生時代の終末期(=布留0)大型古墳がそろそろ作られ始める。それに先立つホケノ山で既に、鉄器大量副葬のマインドが存在したと云うこと。
この「マインド」は潤沢な安定供給が無ければ、生まれない。
ホケノ山築造段階で既に、鉄器は普及しているとみるのが妥当。
191 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 20:27:52.40
>>120 画文帯神獣鏡。
三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡を模倣し国内で制作した
オオヤマトの権威の象徴と考えると合理的。
問題は双方南方の系譜であること。
ただし三角縁神獣鏡を想定した時も同じ問題があり、
国内の出土状況を考えれば、画文帯神獣鏡説に分がある。
>>190 >ホケノ山築造段階で既に、鉄器は普及しているとみるのが妥当。
全く賛成ですよ。
だいたい古墳の盛り土自体、鉄具がなければ無理でしょうし。
盛るのは問題無いだろ。問題は掘る方。
>>183 書き忘れたので。
>九州王が2世紀に畿内までの通り道である山陽・四国を征服してたとか?
九州王っていうかニギハヤヒだと思ってる。
ニギハヤヒを祖とする物部が山陽・四国に拠点を持っていたかどうかだが、持っていた。
山陽には吉備物部、播磨物部、讃岐には三野物部が存在する。
>九州王が捨て去った九州の遺跡はどこ?
大陸への玄関口なんで捨て去るわけないよ。
いやさー、九州王がニギハヤヒとか、なんですぐに固有名詞を出そうとするかね?
ニギハヤヒは河内に降臨して奈良盆地に移ったんだろ?
ほんとにまあ、どこにも書いてないことをいい加減に書き散らす態度は改めた方がいい。
そもそも、君の言う九州王なる存在が何なのか?
考古学的にでも、記紀の記述でもいいから、根拠を示せ。
>>195 論旨は全くことなるが、あの芸風は以前に見たことがある。
スルー推奨。
>>195 >そもそも、君の言う九州王なる存在が何なのか?
考古学的にでも、記紀の記述でもいいから、根拠を示せ。
鉄の親方だ。
弥生時代、韓国釜山・莱城遺跡の出土土器の94%が北九州土器だ。
つまり北九州倭人の鉄採掘遺跡だな。
ニギハヤヒというのは彼らの流れを継承してた王であろう。
それが推定2世紀後半ごろ、畿内に降臨した。
ホケノ山古墳から大量の鉄器が出るがおおよそ時代が合う。
つまり畿内勢力が九州を取り込んだなんて珍論が成り立つはずもない。
198 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 22:15:15.50
>>190 石塚ってのは古墳なのか。埋葬施設は発見されていないと聞くが…。
そもそも墓ではない可能性もある。というか、棺などが発見されてこそ墓と
いえる。
ds
200 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 22:29:12.03
>>197 米の技術が伝播するように製鉄の技術が伝播していっただけだよ。
前方後円墳は2世紀の畿内で発生して関東〜九州まで広まった。
九州は遅れている。
だからといって畿内王がいちいち関東や九州に出かけて行って土着したせいで
広まったとはだれも思わんわな。
鉄器が畿内に伝わったからと言って、九州の蛮族の酋長が
いちいち畿内にやってくる必要はないわけだよ。
>>200 >前方後円墳は2世紀の畿内で発生して関東〜九州まで広まった。
>九州は遅れている。
だからそれは認めている。(2世紀はどうかと思うが)
発生は畿内というか正確に言えば阿波讃岐を含めた東部瀬戸内ね。
しかしながら、何度も言うのはしんどいが、
鏡、玉、剣 の副葬は九州が早いし、
鉄については上記のとおり。
>鉄器が畿内に伝わったからと言って、九州の蛮族の酋長が
>いちいち畿内にやってくる必要はないわけだよ。
記紀に九州からやって来たと書かれてるわけだが、
それらは上記のように九州から畿内への鉄の変遷でも説明できるね。
あと巴形銅器も九州から畿内へ伝わったはずだ。
銅鐸もそうだが、巴形銅器のような祭器は文化受容でなく、人の移住であろう。
またホケノヤマ山古墳の前方部の埋葬施設から西部瀬戸内の大壺が見つかってるが、
物部の拠点(赤間物部)と矛盾しない。
にもかかわらずなぜ九州からの影響を頑なに否定しようとするのか不思議だ。
それとも九州の影響などなく畿内で自然発生的に起こったのがヤマト朝廷だと言うのかな?
そんなのは無理だって。
そういう俺は邪馬台国畿内説なんだけどねw
九州は6世紀まで、前方後円墳に匹敵するか、
それ以上の円墳作ったりしてるから、
一部の機内に関係ある一族以外は、各豪族が
昔からの古墳を作り続けていた。
あまり畿内の風習を取り入れる気がない。
いやいや、古墳時代中期には、
九州でも新興勢力がヤマト政権になびいて、
地域によっては旧勢力を圧倒してるよ。
鏡、玉、剣 と 神武じゃ根拠がちぐはぐだな
205 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 00:12:00.33
年代の根拠になる土器はどこから採っているんですか?
年代がどうと言うより真っ先に見なければならない所
うちらでも古墳時代の古墳から弥生時代のものが出てきたりするんですが
封土とするために掘り起こしたものだとされて築造年代には反映されません
祭祀に使ったとされる最も新しい土器による編年を築造年としてますよね?
206 :
ローガン:2013/05/08(水) 01:04:58.87
>>205 >うちらでも古墳時代の古墳から弥生時代のものが出てきたりするんですが
>封土とするために掘り起こしたものだとされて築造年代には反映されません
それ、見方を変えれば、後世の遺構による攪乱。
>祭祀に使ったとされる最も新しい土器による編年を築造年としてますよね?
いや、例えば宮山型と都月坂なら、前者に築造時期の推定を委ねますよ。
207 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 03:06:24.32
>>200 いくらなんでも2世紀はあんまりだろう。今となっては3世紀も怪しい。
近畿地方でできたというのも考え物。
違う土地との年代を比較する基準ってのはあるのかねえ。
三種の神器のセットなら、
福岡、室見川流域の吉武高木遺跡だな。
セットで出ることそのものが滅多にない。
もちろん、セットでは文句なく最古である。
最古は壱岐だろ
ひと海越えたお隣さんだけど、
やはり、海の向こうから来た風習なんだろうか。
>>210 勾玉なんて日本の縄文時代からあるのだから、
海の向こうから来るわけなかろう。
勾玉は日本から半島に伝播したんだな
213 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 12:25:55.10
>>202 日本の巨大古墳を調べると圧倒的に畿内、ついで岡山だ
九州は小さな古墳しかなく強大な王がいなかったことを意味する
各豪族が自然発生した古墳を昔から作り続けたんじゃなくて
大和王権の支配下にはいったことで畿内の風習である古墳づくりを真似したんだよ
214 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 12:30:32.61
>>201 米が伝わるときも北九州から畿内へ、さらに東国や東北へ、王族がいちいち移住したと思ってんの?
鉄の技術など王が知るわけもなく技術者を連れてきたから広まったというほうが分かりやすいよね。
瓦も暦も朝鮮から伝わったが、朝鮮王族を日本に連れてきたわけじゃなくて、
技術者を連れてきただけだよ。
日本書紀によれば三種の神器に剣が加わったのはだいぶ後。
しかも三種の神器は代々大王が相続していくもので
古墳に3つ揃えて入れるものではない。
215 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 12:31:19.17
畿内の古墳自体を調べてみても、
年代が進むに連れ、大きくなっていく傾向がある。
小さい古墳から、大きい古墳に進んでいくのは当然である。
いきなり巨大古墳になることはない。
216 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 12:53:11.43
天孫降臨で奈良盆地に降り立った天孫大倭王が最初にドデカい古墳を作った。
それを見て、国津神、地の神が小さめの古墳を作るようになって各地に波及した・・、みたいに思ってるんだろな。
偉い先生のしぐさを小学生が見習うような感じだな。
>>197 釜山の遺跡で九州の土器が出た、を根拠にするなら、
畿内の庄内式土器が筑紫で出てることはどう解釈するの?
あと、九州のクニが鉄交易に従事してたのは分かるけど、
別に九州に統一王権があった根拠にはならない。
複数のクニが混在してたのは倭人伝でも分かる。
また、ニギハヤヒとかの固有名詞がいきなり出てくる理由は?
論理的思考が出来ない人みたいだな。
ここに寝言を並べ立てている奴らは
自分が3〜40年前の 古くさい 誰も相手にしない考え方を蒸し返しているだけだというのを判っていないんでしょうな。
219 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 14:50:42.75
>>218 歴史を学ぶ意味がわかっていないらしいな。
畿内説の歴史を学ぶことにより、畿内説というものがわかる。
以前の都合の悪いことは全部忘れたい気持ちもわからないではないが。
220 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:24:20.35
どうしても古墳を九州発祥にしたいがために考古学を捏造
唯一鉄器だけは九州のほうが朝鮮半島からの伝播が早かったことを持って
九州王朝が畿内を征服したとねつ造
九州説ってまともな学者は相手にしないだけあって本当に頭が悪いね
>>217 >釜山の遺跡で九州の土器が出た、を根拠にするなら、
>畿内の庄内式土器が筑紫で出てることはどう解釈するの?
2世紀後半ごろには九州から畿内入りしてたわけだから、
畿内の庄内式土器を九州にまで流通させて何か変なのか?
>また、ニギハヤヒとかの固有名詞がいきなり出てくる理由は?
豪族としての物部の存在を認めるのか?
認めるなら物部の祖はニギハヤヒなのでその存在も認めなきゃな。
物部の存在は認めるがニギハヤヒは神話の世界なので恥ずかしいからちょっと…
なんて中途半端な思考はやめろ。
>論理的思考が出来ない人みたいだな。
君の思考のどこが論理的なんだ。
神武やニギハヤヒの名前を出すと恥ずかしいという、
ひたすら女々しくて感情的ではないか。
>>214 >米が伝わるときも北九州から畿内へ、さらに東国や東北へ、王族がいちいち移住したと思ってんの?
>日本書紀によれば三種の神器に剣が加わったのはだいぶ後。
まったく矛盾してるな。
その日本書紀にはニギハヤヒも神武も九州なのだが。
223 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:45:40.88
>>222 神武は天から日向に降り立ったというだけでそこには一切住まず、
キも作らず、即、畿内へ向けて出発。
日本書紀の記述に従っても九州に何代も居を構えていた九州王が
畿内へ来たことにはならない。
224 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:48:14.62
>>222 日向国高千穂宮に邪馬台国があったと思ってる人なんだ。
遺跡が出てこないのはなんで?
>>223 >神武は天から日向に降り立ったというだけでそこには一切住まず
はぁ?
天孫降臨はニニギだね。
そして日向3代なわけだが。
何を言ってるんだ?
九州を相手にするなよ。
コイツラはchonと全く同じで返答すれば、論理なんか無視してますます付け上がるだけ。
228 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:25:27.93
改めてわかったこと。畿内説の人間は無知だな。
畿内説の宣伝書を一冊だけ読んでいるような人が多い。
229 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 22:10:33.91
ここの畿内説者は特に質が低い。
230 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 01:34:34.78
>>211 勾玉=お玉杓子=カンマが表しているのは、ヨッド=イスラエルの神ヤハウェ。
縄文期のアイヌと沖縄とホピ族が天穂日命族で真の太陽神崇拝。
弥生期以降が同じ太陽神崇拝でもバール崇拝のイスラエル。
景初三年の銘の鏡がどうして三世紀終わりの古墳から出土するか解明した説はあるのか?
>>231 解明ってwまだ仮説を立てて研究中だろうよw
233 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 09:34:41.45
>>228 質が低いのは九州説でしょ。
日向国高千穂宮の遺跡は見つかった?
畿内征服(通過地点である西日本征服)できるのだから日本最大級の遺跡ということになる。
巨大古墳は見つかった?
234 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 09:42:27.00
>>233 その遺跡・史跡は立派に護られておる
三世紀は土中に埋まっていと思い込んでる畿内の学者は、目の前にそびえ立っているものに気づかないだけ・・、
235 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 09:49:42.99
古墳時代はすべて古墳か田んぼの土の下にある・・、とはかぎらぬ。
ま、庶民の村だったマキムクはそうらしいがww
纏向に九州は関係が無いってことだな
237 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:14:21.74
神話の国譲りで、いわば敗者として描かれている出雲はどうか。
今年、平成の大遷宮で大賑わいである。
記紀神話は今も出雲大社の神殿として息づいている。今マキムクに生きとし生ける何がある?
238 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:39:33.97
>>234>>235 どこか住所で言ってくれる?
そびえたっているなら目立ってるでしょ。
画像をうPして。
地中に埋まっていないとかw
本当にここの九州説の人は考古学大丈夫なの?
記紀も完全否定しているみたいだし、文献にも根拠がないし。
240 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:25:01.36
>>238 いくらうpしてやっても、見えないやつには見えない。無駄。
神武天皇が日向から大和への東征途上で、
吉備国に営んだ高島宮はあった思う。
ただ候補地が複数あり、それぞれが現在も神社である。
神社だから当然ながら発掘など難しいわけだが、
それを考古学的に認められてないとかどうこう言ってるやつって、
生きてて楽しいのか?
242 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:36:18.17
考古学者は墓の下の死の世界しか扱わないんだな。
別名、黄泉の学者。
記紀に書いてあることは全部正しいという記紀原理主義的立場なら、
まあ、いいんじゃないかな?w学問板ではなく、宗教板に行くべきだが。
ただ始末が悪いのは、正しいか間違ってるのかを
勝手に恣意的に判断してるのに、その事に気づいてない馬鹿。
あまつさえ、学問的立場に立っていると錯覚している。救いようがない。
もう、負け犬の遠吠えだなwwwww
俺も邪馬台国は九州だと思が、決してここの九州説の奴らに味方したいと思わないw
文部省が比定した宮浦の高島神社は、破損が著しく昭和63年頃に移転してるみたいだから
元の場所は発掘調査できなくはないけどな
246 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:47:41.04
負けたのはずっと後のことかもしれないけどな
>>247 言えてるな。
崇神の時代に疫病が流行って、
大物主の祟りではないかということで、
大神神社が建てられたのだったね。
崇神は出雲系の大物主が何で祟ると思ったのだろう?
悪い事をしたという引け目があったのかも。
249 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 13:34:38.59
>>249 最初は皇居内に祭ってあったアマテラスも
何かと都合が悪いってことで最終的には伊勢に鎮座させた。
アマテラスにしろ、大物主にしろ、皇室には合わないのかな?
出雲国造家は大国主ではなく天穂日命を始祖としてるから、
直接出雲が負けたとかの伝承ではないだろう>国譲神話
大国主神に国津神を代表させて、屈服させたという神話に過ぎない。
出雲が大和に屈する話は、崇神の時の出雲振根。
>>248 大神神社が建てられたのだったね。
大神神社に社殿があるという話は初めて聞きました。
ぜひ その写真をupしてください。
252 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 15:21:45.06
崇神のときでもよろしいが、国を譲ったはずの出雲に今大社の栄華あり!
大和のそれに類する社と言えば橿原神宮か?
今の橿原神宮は近世の建立だったかな?
>>251 >大神神社に社殿があるという話は初めて聞きました。
>ぜひ その写真をupしてください。
おまえ本当にアホだなw
神社は本殿と拝殿の二重構造なのだが、
大神神社は本殿が三輪山そのものであり、拝殿は存在する。
社殿がなければ神社自体が存在しないではないかw
こんなアホも珍しいw
>>253 大神神社は本殿が三輪山そのものであり
ご神体が三輪山な。 本殿はない。 こんなアホも珍しいw
255 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:26:30.34
三輪山を借景にして本殿を節約かい、それにつけても質素じゃのう。
>>255 三輪山を借景にして本殿を節約かい
ご神体が三輪山な。借景ではない。
古代史をやろうとすれば、三輪山の由緒は基本中の基本。それも知らないとは このスレがいかにレベルが下がったか・・・・
257 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:50:37.56
>>253 三輪山山麓に拝殿が建てられたのはずっと後の時代だ
崇神天皇の時代は拝殿すらなくただ三輪山を拝んでいたのだよ
それも茅原と呼ばれる三輪山全体が見渡せるだいぶ遠くから
現在大神神社の拝殿がある場所は三輪山が近すぎて全体が見えない
>崇神天皇の時代は拝殿すらなくただ三輪山を拝んでいたのだよ
拝んでいた場所は今どうなってる?
今の場所に神社ができたのはいつだ?
知らないのかボケ。
大神神社に「社殿がない」なんて大笑いだ。w
261 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 21:46:44.81
>>258 今は田んぼと民家だよ。
ただし、「茅原」という地名は今もある。
神社に社殿を作るようになったのは寺の影響で、諸説あるが概ね天武朝以降頃からと言われている。
これは大神神社に限らず、他の神社でもそうね。
それ以前は、神は自然に宿るので、自然にある山や磐そのものを拝んでいたんだよ。
262 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:01:23.48
>>261 >>261 今の神社の形態はその頃からかもしれないが、
神殿なんて縄文や弥生からある。
卑弥呼の時代もあった。
崇神の4世紀にも何らかの神殿(社殿)があったと考える方が合理的。
263 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:24:59.90
>>262 君は、三輪山の祭祀と、大王が先神を拝むための祭祀施設をごちゃまぜにしている。
三輪山の神は土地神であり、この時代に社殿はない。
崇神天皇が三輪山の祭祀を行った茅原は広場ね。
で、三輪王権の祭祀施設は纏向遺跡だ。
こちらは神殿がある。
こちらでは天照大神などの大王家の先祖神を拝んでいた。
落着いて話そうぜw
諏訪大社も本殿がないな
人を祭る神社型式を始めたのが杵築大社か熊野大社(出雲)からとかかもな
265 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:32:11.23
龍崇拝シュメールルーツガド族で、ナーガ(蛇)崇拝っぽいサカ(釈迦)族そして高句麗王族経由っぽいイリ王朝が、
大物主を祀る事で何とかなったというエピソードは大物主は蛇神っぽいのにイリ王朝とは異系統の神である事を窺わせる。
それでは、大物主は元来の天皇族ユダ族の神なのか、それとも大和王朝以前の縄文のアイヌや沖縄、ホピ族の天穂日命系統の神なのか。
はたまたイリ王朝系統であるものの高句麗王祖朱蒙の皇子達のうち、
フル皇子系統でそっちが王位継承正統でイリ王朝はフツ皇子や他の皇子の系統だったのか、
はたして大物主の正体は何なのか。
>>263 >三輪山の神は土地神であり、この時代に社殿はない。
纏向の祭祀施設を認めるなら、
三輪山祭祀の社殿は見つかってないから「ない」では合理的ではないな。
大神神社は太田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりだな。
何もない雨ざらしの所で祀るわけなかろう。
古墳時代の埴輪にも屋根の上部に鰹木がついてて今の神社に通じるものがある。
神殿ではないかと言われてる。
つまり社殿などごく普通にあったのだよ。
267 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:58:12.54
>>231 あのさ、実は霊能...神官系能力...ってたまに姫神様とか直接会いに来られ.能力者..なんだけど...
伊勢神宮とかの怪しい光の珠オーブ写真とかブログにアップしてるのを...特殊...能力...で...見ると、
その怪しい光って実は...ヤタの鏡...とか...銅鏡...なの。
で、そこに何か書いてあるの、知らない言葉で。
そのうち暇できたら、取り敢えずヘブライ語から学んでみて解読試みてみようと思うけど、
分かったら2ちゃんのこういったスレで発表してみるわ。外基地系なるけどW
ヘブライ語で良いのかな、百済語とか?アドバイスよろ。
あと、何でこの何か重要メッセージらしいものが、丸い鏡なんだ?古代の鏡って何を意味してるの?
>>267 >古代の鏡って何を意味してるの?
ヘビ
三輪山だけ違うんだよな
麓の狭井神社の湧水が薬水といわれるだけあって
>>263 > で、三輪王権の祭祀施設は纏向遺跡だ。
> こちらは神殿がある。
ねえよ。
祭祀だとはっきりしているのは古墳と井戸くらい。
272 :
日本@名無史さん:2013/05/10(金) 00:00:22.38
発掘されたものが祭祀に使われたというのは、
ほぼ、判断不能といっていることと同義である。
井戸祭祀はほぼ確実だよ。
トイレ遺構とか訳のわからん部分もあるがな。
274 :
日本@名無史さん:2013/05/10(金) 01:17:29.95
>>269 あー...何か聞いた事ある。眼ね。ありがとう、わざわざ。
でももっと他の意味もある気がす。
カガ=蛇、メ=目だったっけ?ミ=身だったか。
鏡をうつ伏せにすると、蛇がとぐろを巻いてる姿に似てるからとか。
鏡餅も蛇身餅なのかも知れない。
円錐形の山も蛇がとぐろを巻いてる姿との類似から神南備とされ、
三輪山もそうだったようだ。
巨大な蛇がとぐろを巻いて七周り半してるのが三輪山で、
その長く伸びた尻尾の先端が葛城の長尾神社まで伸びてるとか
276 :
日本@名無史さん:2013/05/10(金) 15:01:25.26
>>275 かなりぶっちゃけ...お見えになられた...日本のかなり初期の神社だか祭祀場だかの姫神様...
は...少し声がキンキン声で金属的でらっしゃって...
そういう声質って普通...悪...霊...なんだけど彼女の場合はそうじゃなくて聖らかでお可愛いらしい感じ...で...人間系(哺乳類系)でなくて...蛇系の...人間の姿...を纏われた存在が出している...声だと...感じた。
で、祭祀の秘具のようなものをお教え頂いたようなんだけど、その初耳のものを調べてみたら、
ずばりそのものは一寸言えないんだけれど、アスクレピオスの杖のような何故か蛇モチーフ系で、
カルディア神働術とか蛇儀式だとかに自分なり調査で辿り着いて、
しめ繩とかお祓い棒にも関係ありそうなものだった。
古代の鏡って何?→蛇と見てドキッとした。蛇嫌いだから。この、祭祀や儀式の蛇関係が未だに釈然としない。
3世紀代の纏向古墳群が三輪氏(おそらく大物主以降の意味だろう)の墓だと面白いことを言う人がいたが、
おかげで色々考えてた。
だが俺の結論はやはり物部氏の墓だ。
理由は極めて簡単。
大王家で初めて前方後円墳を採用した確実な天皇は崇神だ。
何故か。
この時代の習慣である「通い婚」という制度は母方の実家の影響が極めて強くなる。
つまり崇神は母方の墓制を採用したのだろう。
では崇神の母方はだれかというと祖母も母も物部氏だ。
ということは崇神陵候補である西殿塚や行燈山以前の3世紀代の纏向古墳群は物部氏の墓ということになる。
簡単な引き算だ。
では奈良では新山古墳や西山古墳に代表される前方後方墳は誰の墓なのだろうか。
前方後方墳が濃尾平野に多いということは、ずばり尾張氏ではないか。
まとめるとニギハヤヒの子であるウマシマジ以降の物部氏本流が前方後円墳。
同じくニギハヤヒの子だが、腹違いの子である天香具山命以降の尾張氏が前方後方墳。
ところで物部神社社伝によると、
このウマシマジと天香具山命の二人が、
東海、北陸、山陰を征伐しに行ってる。
纏向遺跡の外来搬入土器の3分の2が東海・北陸・山陰であることと見事に一致するではないか。
これは偶然ではないだろう。
尿臭いスレになっちまったなw
前方後円墳は北東北以北と薩摩以南を除く全国にあるわけだが、それも全て物部氏に関わるとでもいうつもりかw
>>279 物部の派生氏族と言う意味ではそうかもしれない。
だいたい物部氏ほど全国に散らばってる氏族も珍しい。
>>277 孝安天皇、安閑天皇、宣化天皇の母親は尾張氏の出だけど本当の陵墓は前方後方墳なのか?
つーか記紀を読んでる限りでは天皇家は通い婚だとは思えんわな
崇神以降の大王家は前方後円墳なのだから安閑や宣化が前方後方墳なわけがない。
孝安天皇は古すぎて不明だ。
多分、記紀以外の資料を駆使して
・古墳時代が通い婚であったこと
・墓の形は嫁の実家のものになること
の2点を実証してくれるんだろ
そうでなけりゃ
仮説の上に仮説を重ねて
それをもとにさらに仮説を重ねて
自画自賛して悦に入るという
かなり痛いことになってしまう
>そうでなけりゃ
>仮説の上に仮説を重ねて
>それをもとにさらに仮説を重ねて
>自画自賛して悦に入るという
>かなり痛いことになってしまう
まともな仮説ひとつ出せないおまえは消えろ。
人の仮説にケチばかりつけてるな。
母方の影響で古墳の形が変わったといっておきながら
一度決まれば変わらないともいう
もしかしてアスペ?
>>286 崇神まではヒメヒコ制。
ヒメをヒコがサポートしてたのだろう。
>>285 妄想を妄想と指摘されて逆ギレかよw
あんたがすることは自説が妄想じゃないことを示すことなんじゃないかな
自分は何の仮説も言わず、
人の説の揚げ足取りは楽だよな?
>崇神まではヒメヒコ制
また妄想の上に妄想を積み上げてる
これじゃ妄想スパイラルや〜
291 :
日本@名無史さん:2013/05/10(金) 23:12:17.31
292 :
日本@名無史さん:2013/05/10(金) 23:13:16.98
挙げ足とりって…
自説に問題点があるから指摘されてると謙虚に考えるべきだと思うが…
>>291 いや、「崇神までは」と言い切ってるところが妄想
>>292 前方後方墳は奈良に最大の物があり、
濃尾平野に顕著に見られ、さらに関東、東北にも広がる。
何故なのか、人の意見にケチばかりつけてる君の意見を聞こうか?
何系統(氏族も含め)の墓だと思うのだ?
295 :
292:2013/05/10(金) 23:26:07.80
>>294 あれ?俺ですか?
ま、いいや
古墳の形については
何らかの意味があったとは思うけど
それは現代人が簡単には理解できないものではないかと思ってるよ
ただし、氏族を表してるってのだけはないと思う
氏族の数に比べて古墳の形の種類が少なすぎる。
おまけに一つの地域で前方後方墳と前方後円墳の両方が存在することが多い。
よって氏族と古墳の形状に関連性はないと考えられる。
前方後方墳=物部氏説だと古墳時代の後半には前方後方墳がほとんどみられなくなることを説明できないなぁ
>>296 前方後円墳と後方墳がおおよその地域の違いで、
並存してるのだから何かあるだろう。
もちろん濃尾平野にも関東にも前方後円墳はあるわけだが。
俺は以前、皇別と神別の差かとも思ってたわけだが、
どうもそうとは言い切れない。
>>297 前方後方墳=物部氏でなく尾張氏ね。
物部氏系ではあるのだが。
300 :
297:2013/05/11(土) 00:30:08.52
>>299 素でまちがえました
ごめんなさい
後円墳=物部、後方墳=尾張だと
葛城とか大伴とか他の氏族はどう考えるの?
それに物部氏の本拠地の石上に
尾張氏がバカでっかい墓をつくってることにもなるよ
物部は確かに謎の氏族なんだが、近衛兵的存在の大伴氏と違い外征で活躍した氏族。
外地の豪族を取り込んでいく際に同族化したために、
日本各地に、特に東国に一族が多いことになっている。
物部が力を持っていた五六世紀に帝紀やら旧辞が編纂されたので、
物部が特別扱いになってる。始祖が天から降臨したとか。
奈良盆地のオウで、最初神武に逆らったとか。
>>300 >後円墳=物部、後方墳=尾張だと
>葛城とか大伴とか他の氏族はどう考えるの?
崇神以降の大王家が後円墳を採用したと思ってるから、
皇別の葛城氏も氏族が発祥した頃であるおおよそ4世紀以降は後円墳だろう。
大伴氏だが、だいたい神武〜開化までが後円墳ではないのだから、
当然、彼らも当初は後円墳どころか高塚式の古墳でさえなかったと思う。
せいぜい円形周溝墓程度か。
俺は新沢千塚古墳群が大伴の墓ではないかと思ってるのだが、
ならばおおよそ4世紀以降に高塚になったと言う事かな。
>それに物部氏の本拠地の石上に
>尾張氏がバカでっかい墓をつくってることにもなるよ
別に同族なんでいいんじゃないの。
むしろ物部氏の本拠が崇神あたりまでは桜井にあったと見てる。
というか纏向遺跡自体が物部の遺跡だと思ってるので。
物部氏が少し北の石上に本拠を移すのは4世紀になってからだと思う。
石上は、それまで尾張氏の本拠だった可能性もあるのではないだろうか。
墳形はここ20年くらいに再測量された結果以外は信用出来ないぞ。
後方、後円、円墳の認定変更が結構行われてるから。
ヤマトにも結構前方後方墳があったことが分かってきている。
物部尿
結局根拠は全く語られないまま
>>305 彼は、2年くらい前、邪馬台関連にいた”夢幻如”だよ。
当時とネタは違うけど芸風はいっしょ。
相手にしてもしようがない御方だよ。
>邪馬台関連にいた”夢幻如”だよ。
全然違う。
誰であれ相手にしちゃいけない。
ただの荒らしだから。
マキムク勃興の理由は東海勢力の台頭、ってことで良いのか?
赤塚が言ってるような、元は銅鐸文化圏同士の畿内と東海が対立して、
大阪湾vs伊勢湾、前方後円墳vs前方後方墳の争いが倭国乱の時期。
それが鎮まって、箸墓が築かれるという。
いや、弥生後期の河内の遺跡が吉備色が強く、大和が東海色が強いと考えると、
吉備vs東海が正しいのか?
箸墓が吉備の影響が強いと見て、倭国乱の勝者を吉備と考えるのか。
赤塚が言うように東海土器が増えることから東海の勝ちと見るべきか?
>マキムク勃興の理由は東海勢力の台頭、ってことで良いのか?
東海勢力が台頭したのなら纏向遺跡で前方後方墳が主流となってもいいはずだろ。
79回考古学協会総会で、鷲崎弘明さんが「年輪年代法の問題点」を
一般参加者も多数参加する中(約300人)発表し拍手がありました。
その内容と質疑です。
@ ヒノキの旧標準パターン及び連動するスギは、640年以前の測定値を
示す21事例が全て100年狂っている。
A 弥生中後期と古墳開始期が通説から100年遡上したのは旧標準パターンに
よるもので、この遡上論は成立しない。
質:「狂っている」とよぶのでなく「疑問の多いパターンと呼ぶべきでは」
答:そのような呼び方は聞いたことがない。これでよいと思う。
質:100年とどうしていえるのか?
答:法隆寺心柱試料では文献と100年狂っている。
質:北九州では三世紀半ばに古墳が造られたと研究があるが。
答:年輪年代法の発表後、巻向の箸墓古墳など100年遡ったことに問題がある。
意見:基資料を公開しないことに問題がある。(拍手多数)
宇佐説の人ですね。
>年輪年代法の発表後、巻向の箸墓古墳など100年遡ったことに問題がある。
じゃ箸墓は4世紀後半なのか?
そうとうなポン助だな。
315 :
日本@名無史さん:2013/05/27(月) 16:25:23.14
2008年、方角修正したうえでの宇佐説とネットにあるな。いささか無理なきにしもあらず。
>>314 箸墓の年代が遡ったのは、年輪年代の前。
マスコミでは卑弥呼の墓といわれ続けたが、箸墓の年代については
諸説ある。斉藤忠氏は4世紀後半といっている。
箸墓の年代を遡らせた張本人のような田辺昭三氏も、結局は、4世紀中ごろに
なっていた。当然、布留期もその年代になる。
安本氏も当然そうだし、高島忠平氏もよそ事なので語らないようだが、
気持ちとしてはそうだろう。奥野氏なんかもそうだな。
巻向の埴輪や馬具から見て、4世紀以降は妥当なところだろう。
箸墓が3世紀になったところで、
卑弥呼とは無縁だろ
そこが肝心かなめの部分
>>311 確かにそうだ。
なぜ、前方後方墳がマキムクで主流にならなかったのか?が分からない。
赤塚氏はどう答えてるんだろ?
たしか、卑弥呼在世中の大和がマキムク型前方後円で、
前方後方の狗奴=東海と抗争した後、東海が勝って(東海の土器が急激に増える)
箸墓築造、前方後円墳が定型化するみたいな話だったのでは?
元々後円墳女、後方墳男が被葬者だから
>>231 「景初3年」どころか「この鏡は洛陽で作られた」と言う文字すら出てきているな
324 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 19:46:57.74
325 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 19:56:36.45
326 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 20:00:17.14
>>324 内容はわからんが、この説明を読んだら、すごく胡散臭く感じた。
一部では知られていたトンデモサイトの書籍化だな
掲載写真の許諾とかちゃんと所蔵者から得ているのだろうか
>>324 著者・池田仁三
昭和37年防衛大学校電気工学科卒。陸上自衛隊航空科に入隊。ヘリコプターパイロット(飛行時間5,000時間)。平成4年退官。古代大和を考える会会員。
あのさぁ・・・
329 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 20:43:54.13
鷲崎氏の発表、年代論に関する学史知らな過ぎですよ(*_*)
年輪年代とかAMSの前に、福岡での「通説」に近畿の研究者がすでに歩み寄っていたのを無視していて、考古学研究者の多くは冷ややかに見てたと思います。
都出氏の300年頃説を「通説」としたが、それなら100年ではなく50年遡上のはずだし。
何でも「100年遡上」なら、宇治市街遺跡初期須恵器に伴った板は489年になり、かえっておかしくなるでしょう。
法隆寺にしても、自身の解釈が一解釈に過ぎないと思いました。
ちょっとオイオイ、と思ったのは、福岡の研究者が以前から3世紀中頃説だったという指摘に対し、「そんな少数の説は問題にならない。近畿の古墳の年代が問題だから、九州の古墳の成立年代は関係ない。」という発言で、実年代論の方法論上の無知さを露呈していましたよ。
質問者の「一地域実年代論は成立しない」という指摘の意味が分からなかったようです。
会場の拍手は、前の方に一般の古代史ファンのシンパがいたからで、他の聴衆の空気は引いてました。
二人目の質問者というか意見を述べた方は、発表者と仲間うちのようなので、議論になっていませんでした。
330 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 20:58:39.62
331 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 21:37:47.38
分かりますけど
通説に歩み寄る科学ってのも、
よくわからん世界だ。
まさか、話し合いで年代をずらしたりしてるんじゃなかろうな?
333 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 21:54:55.59
334 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 22:15:27.86
>332-333
勉強汁
箸墓四世紀半ばってw
どんな土器編年なのか興味あるなw
ちょっと誰か書いてみてよw
336 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 23:39:09.57
>>329 福岡の研究者って原田大六か柳田康雄かな。
二人とも伊都国東遷論者。つまり、平原遺跡を卑弥呼の時代かあるいは
その前の時代と考えている。
伊都国が東遷したのを倭国の大乱の時期と考え、結果的に邪馬台国は
畿内説にあったということになる。
しかし、この平原遺跡の年代が問題。原田大六なんかによると、2世紀の終わり頃
とかになるんだろうが、もっと新しいという説もある。
この遺跡の副葬品として出土した耳璫は晋代(265 〜 316年)前後に特徴的な
特殊な形状のものとされる。ということなれば、平原遺跡もこの時代頃になる。
となれば、原田大六や柳田康雄の年代観は100年ほど古いことになる。
なかなか難しいところだな。
337 :
ローガン:2013/05/28(火) 23:50:52.46
>>324 >箸墓古墳周辺からは「倭母母曾毘賣命(やまとももそひめのみこと)」の名前が読み取れています。
懐かしい。だいぶ前に、この件、箸墓大池改修碑前から実況したなあ。
338 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:06:16.73
>>336 平原の耳トウは後漢前期よりは新しく、晋代よりは古い型式だと柳田氏は書いていると思うが。
晋代まで下るなら、確実な三国鏡が40面に一つもないのもおかしいし、素環頭大刀の環頭の接合部も漢代の型式だ。
そもそも、原田や柳田以外の必ずしも東遷説ではない九州の多くの学者も、少なくとも1970年代までには、250年頃には古墳時代になるとそろって書いていた。森貞次郎、岡崎敬、橋口達也などだ。
これは甕棺編年の各型式に伴う最新の中国鏡の時期から推定したものだ。中国系遺物が多く出る北部九州ならではの年代論だったが、その頃は近畿の年代観はかなり遅かったため、「通説」が1980年代まで並び立つことになった。
その後、確か1979年に白石太一郎がそれら年代を考慮して古墳時代の始まりを3世紀後半とした。
さらに1980年代に土器の併行関係の再検討と、数少ない近畿での中国系遺物への着目から、近畿5様式土器の年代が、それまでの3世紀説から1〜2世紀とする説が出され(森岡、寺沢など)、1990年代前半までには都出なども受け入れ、それが新しい定説となった。
つまり談合などではなく、九州の研究者の年代観が追認されたに過ぎない。
ここが分かっていない。同
じ頃、3世紀初めから半ばが庄内式で、庄内式から布留式の過渡期=箸墓が3世紀後半〜末とされた。
しかし最近、AMS年代法により、さらに数十年遡って考えようとしているのだが、そこまですると矛盾があるのでは?(一部中国鏡が中国の時期より古くなりかねない)として問題になっているわけだ。
>
>>329 > 福岡の研究者って原田大六か柳田康雄かな。> 二人とも伊都国東遷論者。つまり、平原遺跡を卑弥呼の時代かあるいは
> その前の時代と考えている。
> 伊都国が東遷したのを倭国の大乱の時期と考え、結果的に邪馬台国は
> 畿内説にあったということになる。
> しかし、この平原遺跡の年代が問題。原田大六なんかによると、2世紀の終わり頃
> とかになるんだろうが、もっと新しいという説もある。
> この遺跡の副葬品として出土した耳は晋代(265 〜 316年)前後に特徴的な
> 特殊な形状のものとされる。ということなれば、平原遺跡もこの時代頃になる。
> となれば、原田大六や柳田康雄の年代観は100年ほど古いことになる。
339 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:08:58.20
>箸墓四世紀半ばってw
>どんな土器編年なのか興味あるなw
彼らに土器そのものを「編年」したり、併行関係を検討するつもりはないし、能力もないと思いますよ。
340 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:22:52.14
>>338 しかし、平原遺跡の大型の国産内行花文鏡は、そんなに古い時代にできるもの
だろうか。また棺に関しては割竹型木棺に粘土槨。
これも年代的にもっと新しいと考えられると思う。
まあ、畿内説にとっては渡りに船の年代観だから、まあ乗るだろうが。
341 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:27:51.61
平原のは、粘土を薄く敷き、棺と蓋の間の目張りに粘土があるが、古墳前期半ばからの「粘土郭」とは全く異なりますよ。
342 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:30:14.49
大型内行花文鏡も、中国鏡という説さえある。
さすがにそれはないとしても、古墳前期前半からの国産内行花文鏡の様式にそのままつながるかというと、かなり違うとしか言いようがないでしょうね。
343 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 00:33:57.31
大型の内行花文鏡は、下池山古墳からも出ていたな。
下池山古墳というのは、そんなに古くなかったはず。
344 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 01:01:00.47
だから、下池山と平原のは全然違うでしょ?
345 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 01:06:15.27
なんかで読んだけど、下池山古墳の大型内行花文鏡はすごく持ち上げられていた。
こういう大型の鏡を作るのはすごい技術力だ。国家的な大事業だと。
もちろん平原のものとは大きさも違うが、こういう鏡を作るのはやはり
もっと新しい時代だろうと思う。
346 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 07:52:18.16
>もっと新しい時代だろうと思う
「思う」根拠が分かりません。
ある時期に列島の対外交易を差配した伊都国の力を見くびっていますね。
逆に言えば、伊都国が対外交易を制した時期、楽浪土器がたくさん出る時期の所産とするなら、布留0式平行期より前の所産になるでしょう。
>>324 一応赤外線で撮影したら文字があったのは事実、だが文字は7世紀ぐらいの物が
ほとんどで7世紀に誰かが書いた物である可能性が高く。
必ずしも実情を表しているとは限らない。
平原広沢遺跡
349 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 22:12:30.61
>>347 >ほとんどで7世紀に誰かが書いた物である可能性が高く。
終末期古墳にほぼ一致するから、建造時に書かれたんじゃないかな?
>>347 なんで7世紀に書かれたって分かるんだよw
ウソっぱちはたいがいにしとけよ
>>350 知らんよ、その本(そのものじゃなくて紹介記事だけど)の考察で書式が7世紀の文字だって書いてあったから。
352 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 06:35:29.46
>>324 事実だとしたらものすごい発見になるが、
この手のものはトンデモ本。
古代史関係はほんとうにこの手のトンデモ本が多すぎる。
もっとも、一応まともな考古学者でも、
トンデモ説を唱えているくらいだから、
もはや何でもありになってしまっている。
もっと実証的な研究が盛んにならないと、
まともな古代史の研究が進まない。
東海の土器なんて纏向の時代の一瞬だけだし、
古墳時代中期には伊勢南部が完全に大和の影響下だろ。
むしろ逆に東海に進出されてる。
伊賀も奈良時代初期は大和。
354 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 14:10:28.59
>>324 この本実際にアマゾンで購入して読んだのだが、
本人は古代史の専門家じゃないね。どちらかといえば技術者
それだけにこの画像解析は本物くさいw
それぞれの古墳とその墓碑の被葬者も筋が一応通ってる
全部が正しいとは思わないが、いくつは本物かもしれない。
とりあえずおまいらも見もしないでトンデモと言わないで、
立ち読みでもいいから検証してみて、意見を聞かせて欲しいんだ
>>354 これは数年前にwebで出ていたやつ。書体は七世紀どころか、現代のPhptpShopで書いたヤツと結論は出ていた。
太安万侶とかも架空人物説があったけど、墓碑のある墓が発見されて覆ったんだよな
358 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 17:44:08.36
この字はまるきり素人、明治くらいの落書きじゃないの
>>355 それだと詐欺罪になるんでは?
>>357 これは怪しいなあ、明治か江戸か、いずれにせよ近世の物であろう
>>355 金品を騙し取っているわけではないから詐欺にはならんだろう
しかし、やっている行為は詐欺に等しい
>>357の画像はカラーなので、いわゆる赤外線写真でもないし、
赤外線を照射して撮影したものでもない
というか、チブサン古墳の石室内部は壁画保護のためガラスで仕切られているし、
見学は隣接博物館の職員同伴なので勝手に撮影はできない
世間に出回っているのはかなり以前に撮影された写真なのだがこの画像はその写真と酷似
画像の荒らさも写真や撮影データそのものではなく、印刷物からのスキャンデータであることを
思わせる
一度印刷された写真を解析して何が分かると思う?
つまりはそういうことだ
361 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 16:53:11.09
362 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 17:05:42.44
太安万侶の墓碑なんかは赤外線で見たら毛筆でも書かれている事が判明したりしたしね
でも
>>357は絶対なんか違う
>360
旧石器時代ねつ造の藤村某や偽IPSの森口某みたいに社会的に制裁受けるべきだな
例え刑事罰に問うのが無理でも
こういう詐欺、インチキのようなのは定期的に現れてくる。
特に文献が多い。
東日流外三郡誌、竹内文書、ホツマツタヱとか。
古くは先代旧事本紀とか。
まあ、日本書紀や古事記にしても正しい歴史を伝えてる訳ではなく、
後世の混乱やら潤色があるから一緒なのだが。
先代旧事本紀は無碍に偽書と決め付けるのはどうかと思うぞ。
学者の中にも注目すべき要素が多々あると言う人もいる。
別に旧事本紀を貶めるつもりはないが。
少なくとも九世紀頃に伝わっていた伝承などが記載されている可能性はある。
それだけでも貴重だろう。
ただ、物部氏が自分たちの先祖を高める意図をもって編纂したのは間違いなく、
それは記紀が皇室氏の都合よく編纂されたのと同じ。
つまり、同時代史料でないと、内容をそのまま鵜呑みにするのは危険ということ。
纏向遺跡には庄内式の時代の前方後方墳(メクリ1号墳)があるらしい。
ということは東田大塚古墳や矢塚古墳などの前方後円墳と並存してたと言う事だ。
つまり後方墳勢力と後円墳勢力は対立してたのではなく、
纏向から派生していったと言う事だ。
後の時代、濃尾平野に後方墳勢力が派生していくということから考えて、
物部傍流の尾張氏だろう。
後円墳勢力は物部本流。
371 :
日本@名無史さん:2013/06/03(月) 06:43:38.28
旧事本紀は序文が偽書というだけで、
内容そのものはそんなにおかしいものではない。
象鼻山の方形壇が造られたのが、赤塚が言うように二世紀なら、
前方後方墳がマキムク由来ってのは成り立たないだろう。
朝日遺跡や三世紀の東海土器の東国拡散を見る限り、
東海が大和に匹敵する勢力だったのは間違いないだろう。
伊勢街道、東海との玄関口にあたる磐余地域に桜井茶臼山、メスリ山が造られた時期、
東海と大和が宥和したと見るべきか。
>>366 飛鳥や奈良の木簡の文字も楷書、現代人でもほぼ初見で読めるよ。
もっといえば律や令の原本も楷書、非常に読みやすい。
東博あたりへいって見てくるといい。藤原朝臣仲麻呂の署名がまさに現代人
が書いたような楷書だった、へたくそな文字だったけどw
画像解析するときは、狭い範囲で範囲指定するのが普通だから、画面全体が色変化
するわけじゃないね
前方後方墳が方形周溝墓由来で先じゃね
>>374 円形周溝墓に陸橋がついた前方後円墳風のものは弥生時代からあるけど、
方形周溝墓にはないだろう。
前方後方墳は西上免古墳(2世紀末)が最古だね。
纏向石塚古墳と同時期か。
>>373 >狭い範囲で範囲指定する
その割には浮かび上がった文字の周辺すら変化していない
ある程度の範囲を指定するのであれば、文字間や字画間は一緒に変化するはず
あ、最初からどんな文字が見えてくるかわかっているだねw
>>376 東海vs大和、前方後方vs前方後円の融合という意味で考えれば、
西山古墳こそが相応しいだろう。
下が前方後方でその上に前方後円が載っているという。
大和古墳群でヒエ塚とかノムギみたいな前方後方や、
双方中円の櫛山が見つかっているが、
箸墓以降暫くの間、吉備や東海のオウたちが乗り込んできたり、
権力争いが盛んだったのかと思う。
ただまあ、大王墓に限って見れば、前方後円墳なのは間違いない。
遺跡や遺物の年代を、樹種を問わず、少量の試料で測定できる画期的な木材の年代測定法を、名古屋大大学院
環境学研究科の中塚武教授(気候学)が考案した。1年単位の高精度で安く短時間に、年代測定ができるという。
論争が続く弥生や古墳時代の開始時期など、考古学や歴史学に多大な影響を与えそうだ。7月に開かれる
日本文化財科学会の年次大会で発表される。【伊藤和史】
新しい測定法は、木材の年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比が、年ごとの降水量に左右される現象を
応用した。
雨が多い年は軽い酸素同位体の比率が高くなり、少ないと重い同位体の比率が高くなる。このためセルロースには、
年輪が成長する夏季の降水量の多寡の情報が1年ずつ保存されている。
中塚教授は現代から2000年前までの木材を測定し、1年ごとの変動パターンを突き止めた。さらに、
北海道などの一部を除き、日本列島の各地域で樹種を問わず、同様の変動パターンが表れる見通しも立った。
これにより、50年ほどの年輪が残る木材の酸素同位体比の変動パターンを測定し、データと照合すれば、
ほぼ100%の確率で年代が特定できるという。
遺跡や遺物の年代測定法としては、樹木年輪の1年ごとの幅を測る年輪年代法があるが、100年以上の
年輪が必要で樹種も杉やヒノキなどに限られる。また、放射性炭素14年代法は測定費が高く、必ず誤差を伴う。
新測定法にはそうした弱点がない。現在、3500年前までの木材を測定しデータを集める作業も進めている。
◇ことば:酸素同位体比
酸素には原子核に含まれる中性子の数により、重さの異なる3種の安定同位体がある(質量数16、17、18)。
地球化学では、質量数18の数量を16の数量で割った数値を「酸素同位体比」として盛んに利用している。
.▽記事引用元 毎日新聞(2013年06月03日 08時25分)
http://mainichi.jp/select/news/20130603k0000e040107000c.html
>>379 やったね、大ニュースだ。
これで決着つくね。
セルロースには誤差がどうたらこうたらと、まだ文句言うかもしれんが。
・・・前に「名古屋19歳」というコテがいたが
やつは名古屋大学年代測定総合研究センターと関わりがあるだろ
あれはタンデトロン加速器によるc14だが
これも年代測定総合研究センターがらみだな
なんか興味深いことになってきた
もちろん皆も知ってるだろうが名大学年代測定総合研究センターは
歴博と深いつながりがある
だけどさ、
「雨の量で酸素同位体の比率が変わる」というなら、
各地域での雨量が異なるのを克服できないだろ
今年は東北で雨が多かったが、九州では少なかった
なんてのはよくあるしな
384 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 23:55:37.13
「雨の量」は一般向けにわかりやすく言い換えている。
なんかむつかしい理屈があるらしい。
385 :
日本@名無史さん:2013/06/06(木) 00:39:40.08
本当に正確な年代がわかることは畿内説にとって不利だろう。
正確な年代が一年単一で分かるとか、かなり眉唾。
結局、データをそのまま使うんじゃなくて、
従来のC14や年輪、土器編年で補正するんだろ?
387 :
日本@名無史さん:2013/06/06(木) 08:55:25.26
「一年単位で分かる」の部分はマスコミ的表現だな
少なくとも前後10年とかを計ってその間の酸素同位体比率の年次傾向を数学的につかみ、
前もって調べておいた標準試料の年次傾向に一致する部分を探しだす。
だから、古材の年輪の一年分だけでは計れないとおもうよ
>>387 新しい測定法
50年ほどの年輪が残る木材の酸素同位体比の変動パターンを測定し、
データと照合すれば、ほぼ100%の確率で年代が特定できるという。
年輪年代法
100年以上の年輪が必要で樹種も杉やヒノキなどに限られる。
放射性炭素14年代法
測定費が高く、必ず誤差を伴う。
北海道の木が計れないのは梅雨がないからだろう。
例えば、セルロースの酸素同位体比とやらが、
75859373827293930275128564992357485245464748292947で、
資料となる木が、
27512856499235748524546なら、
75859373827293930「27512856499235748524546」4748292947
なのだから正確に分かるよな。
そういうことか。
そういうことだろう。
391 :
日本@名無史さん:2013/06/06(木) 18:44:53.36
でも樹皮がないと「いつ切ったか?」はわからないし、
その木を使った建物が「いつ建てられたか」は
そもそも無理だよね。
393 :
日本@名無史さん:2013/06/06(木) 18:57:41.97
木を切ってもすぐに生木を使うわけではない、少なくとも数年は寝かすだろう
伐採年はあくまで伐採年に過ぎぬ
再利用のケースがあるので、最高でも数年しかたたないとは仮定できない。
まあ、再利用の場合は、変な穴やなんかで想像つくだろ
>>392 削りなんてほんの数年でしょ。
充分だよ。
397 :
日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:41:19.56
参考になるかどうかわからないが…。
江戸時代に、東大寺大仏殿が再建された時、虹梁となる赤松の巨木が九州から
運ばれている。切り倒されたのは1703年(元禄16年)9月。
巨木であるために、港までの運搬、鹿児島湾からの運送などに一年ほど要し、
東大寺に搬入されたのは1704年9月。大仏殿に取り付けられたのは1705年3月。
このように見てみると、意外に切り倒してすぐに使用したような印象を受ける。
まあ、何か建てようと思ったら、木材を寝かせておく時間などないだろうし、
ほかの建造物からの再利用は、何となく新築の建物にはそぐわないし。
九州歴史資料館に水城の樋に使われた木材が展示してあるんだが、
まだ、ほんのりと木の香りがしてたな。
>>396 それは希望的な仮定だよね。
原理的にはあくまでも、「少なくともこの時点では生きていた」という
保障でしかない。
>>397 一冬乾かしただけで使ったのか…。
ねじれとか出なかったのかな。
希望的観測っていうか、
伐採年と実際の使用年に隔たりがあるという話の方が
希望的観測だと思うがw
国家的事業、大規模建設ってものの多くは、政治家の思いつきで始まるものだし、
それに備えて材木問屋が巨木を大量に準備してたとか、
少なくとも古代ではないだろう。
>>399 >原理的にはあくまでも、「少なくともこの時点では生きていた」という
>保障でしかない。
だからそれでいいではないか。
纏向石塚あたりを畿内説は3世紀初頭、
一方九州説は4世紀なんてバカな100年違いの論争に決着がつくではないか。
>>393 実家が材木屋だったけど、数年は寝かさないよ。
まぁ木が切り出されてから問屋を経て、
半年くらいで建築現場で使われる感じだな。
403 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 00:33:12.05
松の梁って、日本住宅だとあまり加工せずに、
いびつな形のままで使うよね。
まあ、松だと杉や檜みたいに、
真っ直ぐなものがないせいだろうけど。
あと、木を乾燥させるのは、
水分を飛ばすのと、揮発性の樹脂を飛ばす意味もある。
水につけて、樹脂を溶かしだす行程も乾燥である。
結果的に乾きやすくなるから。
404 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 01:17:20.46
>>402 木の種類、大きさ、使う用途場所、建築手順など、条件次第で寝かす期間は違うだろうな
短いものもあれば長いものもある。高級家具用は二十〜三十年寝かすこともあると聞いた。
法隆寺の心柱は樹齢2000年で直径およそ80cmなんだから4cmも削れば年輪100年分ぐらいはなくなる
まあ実際には周囲全方向削るし木の成長も衰えるから1cmぐらい削っただけでも100年近くずれるかもしれない
406 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 11:22:16.79
>>405 直感的になんか違う、200年で80cmとかではないの?
407 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 11:44:09.27
>>404 家具を作るために、20年も30年も木材を寝かせることはないだろう。
それを言うなら、20年も30年も寝かせた木材を使うということなんだろうが、
大きな家具店で、膨大な木材を持っているならありうるかもしれない。
>>405 年輪年代法は、一番外側の年輪であることが確認されないと、年代を
出さないことになっていたはず。
408 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 13:09:26.54
>>407 >一番外側の年輪であることが確認されないと、
樹木が育った年代とその木が伐採された年、つまり年代と年はべつのこと、
公表しない出さない約束とは、何かの事情が御有りだったのでしょうか。
409 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 13:25:21.94
>>408 木が伐採された年というのは、一番外側の樹皮に面したところの年輪でわかる。
つまり、樹皮に接した年輪であることが確認されないと伐採年代はわからない
から、公表しようにもできないということ。
内側の年輪だと、樹齢しだいでは大きな誤差が出るから、当然といえば当然。
>>405 >4cmも削れば年輪100年分ぐらいはなくなる
年輪は外側ほど幅が広くなるのだし、そんなになくならないよ。
樹皮を削るくらいなものでしょ。
411 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 14:33:48.37
>>409 年輪年代法=伐採年代 の意味ですか。了知。
伐採年と使用年に数十〜百年くらいの開きがある、
てのが最後の拠り所なんだよな。
実際に宮大工とかに聞けば分かるのかもしれん。
確かに宮大工は、木を乾燥させるのに数年かけるみたいだが。
百年は流石にないw
ただまあ、諏訪の御柱祭でも、伐採は祭の1ヶ月前だし、
古代、宮を造るのは同じような感じだったんじゃないかな?
五重塔みたいな超高層建築を造る時には木を数年寝かせるとか、
細心の注意が必要というだけで。
>>410 本論とは関係ない話だが、年輪は外側ほど狭くなる。
年食った木は成長が鈍化するのだ。
415 :
日本@名無史さん:2013/06/07(金) 23:52:41.85
今年は確か式年遷宮の年だが、木材は8年前から切り出すらしい。
まず水中保管した後、乾燥させる。
伊勢とは関係ないが、自然乾燥の場合、普通は半年から一年でいいらしい。
大きなものでも2年から3年ということで、木材によっては1ヶ月から3ヶ月で
水分が抜けてしまうものもあるとか。
乾燥させればいいというわけではなく、それなりの適度な水分も必要と
いうことで、時間が長ければいいということにならない。
10年20年は意味がないと思うな。
乾燥はせいぜい半年程度だと思うが再使用は数十年レベルであるだろ
遺跡で廃棄された建物の柱がわざわざ抜かれてる場合はまず再使用だ
乾かすっていうか、その建物の場所の平均湿度と同じに
調整するってことだよね。目的は経年レベルの歪を抑制することだし。
あんまり関係ないが、正倉院の校倉造の自動調湿機能とか、
絶妙の隙間があってこそだけど、そこを読みきる大工さんすげーなと。
418 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 06:06:06.23
今度のセルロースの酸素同位体比の発見で、
光谷の研究の追試が可能になった事が、
気になって仕方ない連中が喚いてるな。
今まで「追試できない」を主点に批判してたのに、
いつ削ったか分からないなんて論点に逃げるなよ。
柱って樹皮を削るだけだよ。
まあ五重塔の心柱は仏舎利の上に乗る寺で一番重要な柱だからな。
五重塔が倒れてもおいそれと廃棄できるものではないから再利用するかもしれない。
削ったら年代が分からないという人がいるが、
石塚古墳周濠部から出土したヒノキの木製品が、
AD177年プラス辺材部18年のAD195年となってて、
大よそは分かるよ。
紫香楽宮は樹皮まで判明したのでので続日本紀の記述とドンピシャだったよね。
どっちにしても今度の方法で古代史が激変する。
さっそく中塚教授は歴博の仲間なんじゃないかとかネグってるやつがいるが、
全然畑違いの学問なのに関係あるわけないよ。
笑えるな。
>>421 馬鹿か
酸素同位体比クロノロジーシンポジウムの発起人は中塚教授と
愛知県埋蔵文化財センター 赤塚次郎、国立歴史民俗博物館 坂本稔
年代測定の拠点として歴博に予算が下りてはずだ
ただしこの研究は歴博のc14とは違ってあいまいな校正もなく年代幅もないし
他の研究者の追試もあるだろう
ごまかしはできないものだ
それから外側の年輪がない場合の芯材と辺材の比で最外輪を推定する方法は正確なものだ
>>422 おまえが馬鹿か。
そもそも中塚教授の研究自体が歴史にとって極めて有用だからであって、
畑違いである気候学の中塚教授が、
まず結論ありきの「グル」であることを意味しない。
>>425 なんでお前のような低能にまとわりつれなきゃならんのだ
グルでインチキするとかどこにも書いてないだろが
この世界の人の関係とか何も知らんくせに
なんで歴博が弥生年代や箸墓であんな総スカンのパフォーマンスをやったか
どっから予算がおりたか全部つながってる
「歴博の仲間なんじゃないかとかネグってるやつ」
に「馬鹿か」と反論してきて、
そのあげく「グルでインチキするとか言ってない」というなら、
何で最初に反論してきたんだ、アホだろおまえ。
「アホ」とか「馬鹿」とか・・・
とてもじゃないが曲がりなりにも歴史や考古学を学んでる人が使うことばじゃないな
430 :
ローガン:2013/06/08(土) 15:08:48.40
>>400 突然、全焼して すぐに建て替えが決まったとして、適した太さの新材の調達がかなわなければ、ストックや、転用材に頼るだろう。
て云うか、法隆寺は平安時代の火災の後、回廊を大講堂に繋ぐ工事をしたんだが、普通に古材使っているし。
431 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 15:17:10.11
>>430 心柱に適した100年ほども前の木材がどこにあったのかな。
そんなのを探すよりも、新たに切り倒したほうが早いし、新築にふさわしい。
432 :
ローガン:2013/06/08(土) 15:35:46.18
>>431 >心柱に適した100年ほども前の木材がどこにあったのかな。
なんという馬鹿げた質問…
数字に踊らされ過ぎ。
法隆寺の件も今度の方法ではっきりするんじゃないの。
435 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 15:59:18.97
>>432 法隆寺の五重塔心材は100年ほど前の物を使ったと自分でカキコしてたろ
転用してたら、以前使われていたほぞ穴など、
再利用の後があるもの。
それがないから、苦しい言い訳で
100年貯木説なんてのがでてくる。
437 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 16:13:00.71
>>432 普通に考えて御覧なさい。
雨ざらしでは腐ってしまう。
ちゃんと保管していても虫が食うかもしれない。
だいたい100年ほども保管する場所なんてどこにあるのか。
今の法隆寺には、将来の火災に備えて材木が保管してあるのかな。
疑問点だらけだろう。
438 :
ローガン:2013/06/08(土) 16:25:22.62
>>435 >法隆寺の五重塔心材は100年ほど前の物を使ったと自分でカキコしてたろ
そうだ。
B級品ゆえ、敬遠されていたストックと捉えればいい。
だいたい、非再建論を駆逐したのが年輪年代法なんだ。
439 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 16:30:08.57
>>438 言っていることがいちいちおかしいな。
天井板の伐採年は再建に合うんじゃなかったかな。
確かそう言っていたと記憶しているが。
440 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 16:33:10.57
根腐れしてたB級品の木材を、
腐らないように細心の注意で、
おそらくは屋根付きの場所で、
100年貯木していたのか。
442 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 16:41:07.83
r法隆寺は五重の塔は焼失後に再建されたとローガンは言ってるわけだ
ただし心柱は、年輪年代法を信用すれば100年前のものを使ったことになる。
(が、しかしそんなことはないだろう、年輪年代法は怪しい・・、これがローガンの本心か?)
443 :
ローガン:2013/06/08(土) 17:23:26.46
>>442 いや、「年輪年代法は間違いだ」といいつつ、天智九年以後の再建を明らかにした年輪年代法の数字を支持する幼稚な人達を笑っているだけ。
さて、昭和16年の解体修理の折、初重の壁を取り払っている。
すると、壁が取り付いていた柱面に風触の跡が見られたんだ。この風触の程度から柱を立てた後、ある期間 壁を塗らずに放置されたのがわかったんだ。
この「ある期間」とは十数年から数十年といわれている。
ところが、「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳」に711年に初重内部の塑像群を作ったとある。所謂塔本四面具ってヤツだ。
こんなのは当然最後の仕上げ。
てことは、670年に焼け、711年には完成していた。しかし、この40年のうち、数十年放置の期間があるんだな。
施工の実働が20年±αぐらいか?なら焼けてすぐ取り掛かったと考えるのが妥当。
また、この放置期間とは材料調達に苦心したものと考えたい。
よって、「すぐに復興したい。しかし材料調達がおぼつかない」ゆえ、旧法隆寺創建の際に、使用を見送った古材をやむなく使用した。と考える訳だ。
あんな太い檜、簡単に入手出来んだろう。しかも2本要るし。(笑)
ま、年輪年代に頼らなくても古墳時代は3世紀からなんだけどね。
それがいよいよ証明されるわけだ。
九州説は言い訳を考えてた方がいいよ。
気候学なんてものに付け焼刃で向かって行っても撃沈されるだけだよ。
445 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 18:03:44.86
そうするとローガンは年輪年代法は信用できると主張するわけか、
なにやら大学や学会の騒動を引きずってるようだな
ま、いまとちがって昔は巨木だらけ
近場の山へ行けば、巨木はたやすく手に入ったことだろう、
ただし、神社だお寺だと惜しげもなく伐採した報いで、後世のわれわれは貧相な家に住まいしてるけどさ
>>443 とりあえず、風触の跡があったという論文の
URLを教えて下さいな。
それを読んで判断しますので。
今の段階では風触が本当にあったかもわかりませんし、
あったとしても、それがどういう条件で発生したのかもわかりません。
元資料が必要ですね。
>>445 すくなくとも中世以前は なんのためらいもなく巨木を伐採したということはないだろう
古代の宗教観(animism)からして自然には総て神が宿ると考えてた
むしろ滅多やたら伐採したのは近代から現在にいたる人間の仕業
あと、京大目録200番という鏡のURLもよろしくお願いします。
一方的に書かれても、正しいとも間違っているとも
判断できないので、議論が止まってしまいます。
450 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 18:53:04.07
>>446 まあ、ローガンお得意の詐欺だろう。
発掘調査の裏話みたいなものを出して、
根拠があるかのように偽装しているわけだ。
451 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 18:55:49.59
>>443 一般的には、法隆寺の心柱は、年輪年代を信用できない根拠として、
取り上げられることが多いわけだが…。
また、仮に信用できるとしても、伐採年代と使用された年代が
大きく異なることから、年輪年代は年代の決定にはあまり役に
立たないという意味でも使用される。
452 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 19:35:25.75
ローガンは、一度は年輪年代法に助けられ、次には年輪年代法に裏切られる運命さ
んで結局は、浪々のローガン
法隆寺の話なんてどうでもいい。
纏向石塚古墳、勝山古墳の木製品の年代や、
池上曽根遺跡の柱の年代が分かればいい。
あと宇治で見つかった日本最古の須恵器と一緒に出た板の年代。
それだけでも充分。
454 :
ローガン:2013/06/08(土) 20:28:38.99
>>451 >一般的には、法隆寺の心柱は、年輪年代を信用できない根拠として、取り上げられることが多いわけだが…。
それはそれでかまわない。信用してくれとも頼んだ覚えもない。ただ、信用出来ないと云いつつ、金堂天井材や中門の部材の数字を信用するのがお粗末。
>また、仮に信用できるとしても、伐採年代と使用された年代が大きく異なることから、年輪年代は年代の決定にはあまり役に立たないという意味でも使用される。
それは、その通り。判るのはあくまで伐採年。
455 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 20:54:52.82
>>453 法隆寺の話は重要。
石塚や勝山、池上・曽根遺跡の木材の年代にも係わることだから。
100年経ったものを使用したとなると、全然違う年代になる。
まあ、これも年輪年代を信用できるとした場合の話だが。
456 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 21:06:40.90
議論のポイントは、鷲崎さんの、640年以前の年輪年代が、100年間違っているという説。
640年以後が一致するのは否定していないし、
それ以前に100年ずれていることがみとめられれば、
法隆寺で百年貯木する必要もなくなる。
同時にc14炭素年代法の結果とも一致する。
そして、光谷氏の年輪年代法は、他の人間の追試を、
受けていない。
>100年経ったものを使用したとなると、全然違う年代になる。
纏向石塚はAD177年プラス辺材部18年のAD195年だから、
100年経ったものを使用したなんてならない。
あと勝山も祭祀用の木だったと記憶してるが、
そんなものに古材なんて使わないだろう。
>そして、光谷氏の年輪年代法は、他の人間の追試を、
受けていない。
それができるようになるって話だから喜ぼう。
>>456 >議論のポイントは、鷲崎さんの、640年以前の年輪年代が、100年間違っているという説。
100年古く出るということだね。
ということは応神天皇陵の外堤の須恵器は5世紀末〜6世紀前半なのかな。
ふざけた話になってくる。
100年古く出るという鷲崎氏の根拠自体があいまい。
459 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:00:54.89
須恵器が5世紀後半以降というのは、
周知の事実だと思うが。
むしろ、それ以前というのなら
根拠を示して貰いたい。
460 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:05:05.53
須恵器 wikipediaより
考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる[3]。
日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器
生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市、大阪狭山市
、岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈
・山隈・八並窯跡群が知られている。また、吹田市吹田32号窯、岡山県
奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町
山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られる。これらの系譜は、
いずれも伽耶系である。
このうち大阪府の陶邑窯跡群は日本列島最大であり、天皇陵を含むと
考えられている百舌鳥古墳群と地理的に近接しており、やがてヤマト王権
の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになったと
考えられる。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の
深田遺跡や小角田遺跡が挙げられる。
6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られた。これらの須恵器窯で陶邑様式
の須恵器が生産された。このことを陶邑工人の地方拡散とみる説、在地
工人が陶邑様式を受容して生産したとみる説とがある。微妙な地域差が
見出せるものの、列島的規模での規格化の力が働いていることは確か
である。このことから、須恵器生産においてヤマト王権が主導的役割を
果たしていたと考えられる。
461 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:09:39.58
>>458 >ということは応神天皇陵の外堤の須恵器は5世紀末〜6世紀前半なのかな。
>ふざけた話になってくる。
考古学的な他の所見と一致するようになって、
良かったではないか?
むろん、応仁天皇ではない、別の天皇を比定することに
なるだろうが。
462 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:11:09.11
このように、年輪年代を100年ずらすと、
矛盾していた様々な事項が一致するようになるのだ。
>須恵器が5世紀後半以降というのは、
周知の事実だと思うが。
いつの話してるんだよw
4世紀後半だ。
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2011-09-11-8 「平成18年3月、宇治市教育委員会と奈良文化財研究所は、
宇治市街遺跡から出土した須恵器について、
「四世紀後半のもので最古級とみられる」と発表した。
一緒に出た板材の伐採年代が年輪年代測定法と炭素年代測定法により
「389年」と導かれ、須恵器の様式も古い(大庭寺式)ことから判断したという」
>むろん、応仁天皇ではない、別の天皇を比定することに
なるだろうが。
応神天皇だが。
「須恵器のTK73型式に先行するTK232型式(大庭寺式)は
389年に存在したこと、そして、TK73は412年に存在したことは、
既に確認できている。
応神天皇陵の古墳年代を400年以前に確定してもおかしくない資料が増えつつある。」
>このように、年輪年代を100年ずらすと、
矛盾していた様々な事項が一致するようになるのだ。
どこが一致してるんだよw
464 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:37:41.23
実は、年輪年代による木材の年代測定はけっこうたくさん行われていて、
中には相当、年代に差異があるものがあるらしい。
たとえば、秋田県の神社の神楽殿の場合は、年輪年代が967年、文献や建築の
様式による測定年代が1584年ということで600年も異なる。
神楽殿を作るときに600年も前の木材を使うというのはちょっと考えられない。
いくらなんでもボロボロだろうと思われる。
ほかにも、正倉院宝物の木工品の場合は370年違うらしい。
これだけ違うとちょっと問題だと思われる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/bassai.htm
465 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:41:15.76
>>463 年輪年代の真偽を議論しているこの場面で、年輪年代を根拠にされても困る。
それに、C14の場合も誤差はつき物と言われている。
>>465 年輪年代もC14も批判はあるが一応科学的根拠ではある。
逆に聞くが鷲崎の根拠は何なんだ。
鷲崎の根拠は九州説者の気合と根性です。
468 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 23:11:38.04
>>466 私は鷲崎さんではありませ〜ん。
ちなみに、C14では、弥生時代の開始時期が紀元前10世紀と出ている。
>>466 鷲崎の100年ずれてると言う説こそ根拠がないという事でいいね?
ハイ、終了。
470 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 23:45:02.10
100年ずれているというのはその人の独特の説だから、
本人に聞いてみないとなんとも言えないんじゃないだろうか。
471 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 00:11:52.82
百年ズレてれば、法隆寺の再建にも新品の心材を使ったでめでたしめでたし
ハイ、終了。
472 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 00:16:13.25
やっぱり百年くるっているという理由なんてないし、そう言っている人(鷲崎)の根拠もだれも知らんってことじゃねw
根拠もなく百年が独り歩き(藁
473 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 00:24:23.34
データを見ると、木の内部(心材)を測定した場合に100年古いケースが多いな
統計計算するまでもないくらい多い
なんかトラブルを抱えてるようだ
データって何?
475 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 00:54:11.93
>>473 古いほうが言い訳が利く。
1500年に建てられた建物の木材が、1600年伐採ではどうしようもないが、
1400年伐採なら何とかなる。
>>449 とりあえず京大目録がどういうものか自身で確かめてはいかがかな?
さすがにWebにUpされてはいないだろうが
下記の刊行物で更新されながら公表されている
京都大学文学部考古学研究室『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、京都大学文学部、1989年
大阪府立近つ飛鳥博物館『鏡の時代 銅鏡百枚』、1995年
奈良県立橿原考古学研究所・京都大学『大古墳展 ヤマト王権と古墳の鏡』、東京新聞社、2000年
下垣仁志『三角縁神獣鏡研究事典』、吉川弘文館、2010年
とくに『三角縁神獣鏡研究事典』なら今でも書店で入手可能だ
477 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 03:39:06.29
>>463 年輪年代が間違っている議論をしてる時に、
年輪年代で4世紀後半だといわれても、
一緒に間違ってるとされるだけだと思うよ
478 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 07:44:25.76
>>476 とりあえず大学か近所の図書館にでもおいてあればいいんだが、
それまでペンディングだな。
479 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 08:47:09.54
光谷氏の年輪年代の表も、
彼の「作品」であって、科学的なものかどうかは、
本人にしかわからない。
640年以降は一致しているようだから、
それについてはある程度検証されていると言えるかもしれないが、
それ以前は、矛盾が続出し、
検証に耐えるとは言えない。
>>477 ならば学者の勘に頼る古墳時代4世紀説に戻せとはっきり言えばいい。
時代を逆行する方を選択しようとはっきり言えばいい。
どっちにしても中塚教授の研究で白黒はっきりするだろう。
481 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 10:52:06.35
>>480 むしろ時代にあった方をはっきり言ったのが鷲崎さんですな。
応神天皇陵が5世紀後半以降とかになると6世紀前半の仏教伝来で大型前方後円墳が衰退、消滅するまでの
期間があり得ないくらい短くなるなw
応神−敏達16代間の天皇在位期間が平均6.6年!! 社長、工期まに合いませんw
あの古墳の数は、どう考えても、
天皇だけの墓じゃないからねえ。
また、畿内だけでも複数の豪族がいるのは間違いないから、
天皇じゃない古墳も多いだろう。
というか、いま比定されている天皇陵で、
本当の天皇の古墳はいくつあるのかわかったもんじゃない。
他の豪族の事蹟も混じってるだろうから、
適当に間引けば?
>>483 天皇だけではあれだけの数行かないが、
天皇の嫁も息子も娘も古墳つくれば結構な数はいくよ
あの時代の天皇は皇子女の数が20人近くいるのが普通
仏教伝来といえば、
おそらく文字が普及し始めたのは、仏教の影響。
それ以前も金石文などはあったが、
渡来人や王権のごく一部の人間だけの特殊技能。
記録をするためには、ある程度下の位にまで
読み書きができることと、それなりの人数が必要。
聖徳太子の頃がその移行期で、この辺りの記録は、
かなり不完全である。
しかし、寺では経を読み書きする必要があり、
それができる僧の人材が育成され、
文字の普及は寺から広がっていく。
逆に言えば、それ以前の記録は非常に貴重で、
かつ、かなり怪しい後世に書かれたものである可能性がある。
>>481 それは単におまえの希望的観測に合ってるというだけ。
鷲崎が言う。年輪年代が100年狂ってるという根拠はない。
彼が年輪年代の研究家で光谷と100年ずれてるというのなら納得だが、
自分自身は何一つ研究せず、人の研究の批判だけ。
490 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 19:22:12.49
昔から、岡目八目というてな
傍で見てる方が上手ということも少なくない。
箸墓古墳の埴輪や、ホケノ山のc14,堂ノ後古墳など、
100年ずらすと無理なく一致するものが多すぎる。
あと、馬具や須恵器の話もあったな。
どうせ、いくつかの年輪を連結しなきゃ、
2世紀、3世紀までは延長できるはずはないし、
また木材の個々の違いを吸収出来ない。
これらの手法が十分に批判分析されない限り、
科学といえるものではない。
今の段階では光谷氏の「作品」に過ぎない。
そして、法隆寺の100年貯木するという、
変な説も必要なくなる。
これらの問題は、年輪年代の表の間違いによって
引き起こされた「弊害」といって差し支えない。
496 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 03:55:00.98
鷲崎さんはこれを日本考古学協会で発表してるけどね。
いちおう日本最大の考古学系学会。
497 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 07:48:46.30
元々考古学的に決まっていた年代を100年古くしたのは年輪年代。
もっとも、その年代を採用したのは考古学者という皮肉。
光谷さんは利用されたという形になる。
仮に、光谷氏の年輪年代が間違いだということになっても、年代は
変わらないだろうな。
今でさえ、年輪年代で庄内期まで100年古くなったのを認めない連中もいる
くらいだから。
498 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 07:59:33.55
光谷氏のメインフィールドが、仏教、美術畑のようで、
考古学関係にはあまり出していないみたいだから、
たしかに利用されたといえるかも。
新しい計測法も出はじめている。
それで、間違いが確認されたら、
光谷氏におっかぶせて逃走か?
学会って言っても、一定の割合で変なの混じってるからなw
てかまあ、理化学年代ってのは、今までいい加減に決めてた暦年代を、
きちんと根拠付けしていこうという正常な流れだと思うのだが。
無根拠に決めてた暦年代に戻せ、とかナンセンスだよ。根拠出さないと。
501 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 09:47:57.54
他人の理論に、只乗り、悪乗り、
都合が悪くなれば一目散、遠くで高見の野次馬と化す。いずこの学会も同じかww
どうせ適当に年代を決めるなら法隆寺全体で6世紀末か7世紀末に統一すると思うが
503 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 10:09:15.07
そのことよ、
歴史にうといだれかが、法隆寺五重塔の焼失・再建を知らずに年代を発表してしまったということもありうるな。
504 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 14:40:59.72
そういう観点からするならば、創建にあわせるか、再建に合わせるかで
迷った可能性もある。
それ以前にも、法隆寺については再建・非再建の論争があったようだから。
年輪年代の場合は、迷ったら古い方が良い。古木の再利用は
ありえても、伐採していないものは使えない。
505 :
ローガン:2013/06/10(月) 15:49:20.25
>>477 >年輪年代が間違っている議論をしてる時に、年輪年代で4世紀後半だといわれても、一緒に間違ってるとされるだけだと思うよ
>>463氏のレスが読めて無いなあ。(笑)
飛鳥寺出土がTk-43。
岩戸山の須恵器がMT-15からTk-10だ。被葬者の没年は527年。
MT-15とTk-47の稲荷山の被葬者には、471年銘の剣が副葬。
1様式=約30年として、TK-43からTk-232まで遡ってみなさい。大庭寺は普通に4世紀後半だ。
このように年輪年代法が出した数字に無理は無い。
と言う意味のレスなんだ。しっかりするように。
>>497 >元々考古学的に決まっていた年代を100年古くしたのは年輪年代
だからね。
元々考古学的に決まっていた年代って言っても何も根拠がなく、
学者のなんとなくの勘。
507 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 16:25:02.55
>>505 >MT-15とTk-47の稲荷山の被葬者には、471年銘の剣が副葬。
>1様式=約30年として、TK-43からTk-232まで遡ってみなさい。大庭寺は普通に4世紀後半だ。
このTK番号の解説書を示してくれないと、僕にはわからないんだ。ごめんね。
508 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 16:35:39.20
>>505 >1様式=約30年として
どこから出た数字か知らないが、都合の良い数字なんだろうな。
509 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 16:40:07.29
そう、例によって辻褄合わせのホラ数字さ。100年貯木説みたいにね。
510 :
ローガン:2013/06/10(月) 16:42:04.16
>>507 >このTK番号の解説書を示してくれないと、僕にはわからないんだ。ごめんね。
いや、別に謝って貰うこともないが…知らなきゃ結構。
なら、私の間違いだ。本来は
>>465 >年輪年代の真偽を議論しているこの場面で、年輪年代を根拠にされても困る。
にレスを付けるべきでした。
511 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 16:52:22.69
>1様式=約30年として、TK-43からTk-232まで遡ってみなさい。大庭寺は普通に4世紀後半だ。
>このように年輪年代法が出した数字に無理は無い。
1様式30年も年輪年代法で決めたかのような書きぶりだが、
単に逆算しただけで、合った合ったとじまんしてるんだろ。
応援してもらうはいいが、畿内説の学者たちも内心は迷惑しとるじゃろうな。
引用元の個人的な編年かもしれないが、
わかりやすい表がないので、目安としておいておく。
布留4式 478〜490年
TK73 491〜506年
TK216 507〜518年
TK208 519〜531年
TK23 532〜550年
TK47 551〜561年
MT15 562〜571年
TK10 572〜585年
TK43 586〜595年
TK209 596〜610年
ググってみると、
最初期の須恵器とされるTK73でも、5世紀中期で、
4世紀の話は出てこないな。
あとの形式は基本的にこれ以降のものらしい。
514 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 17:33:01.77
最初期のTK-73が5世紀中期というのは、
年輪年代法から算出されている。
従って、これより100年新しくなることはあっても、
これより古くなることはない。
こんなのも見つけた。コピペなんで見難くなって申し訳ない。
田辺昭三氏の著作になる「須恵器大成」をみる。「大阪南部窯跡群」の出土須恵器編年と形式一覧である。
若干の西紀表示ラインに差違が生じるが容赦願いたい。 資料:田辺昭三「須恵器大成」
400|-----| | | |
| | | | 大阪・履中陵 |
| | | | |
| | TK-73 | | 大阪・応神陵 |
| | TK-216 | ON-46 | 大阪・仁徳陵 |
| | TK-208 | MT-84 | |
500|-----| TK-23 | KM-1 | |
| | TK-47 | | 埼玉・稲荷山 |
| | TK-15 | | |
| | | | |
| | TK-10 | | 福岡・岩戸山 |
| | | MT-85 | |
| | TK-43 | | 奈良・飛鳥寺 |
600|-----| | | |
| | TK-209 | | |
| | TK-217 | | |
| | | TK-80 | |
| | TK-46 | | |
| | | | 滋賀・近江京 |
| | TK-48 | | |
700|-----| | | 奈良・藤原京 |
| | MT-21 | | 奈良・平城京 |
| | | KM-16 | |
| | | TK-53 | |
| | | | |
| | TK-7 | | 京都・長岡京 |
800|-----| | | 京都・平安京 |
| | MT-83 | | |
「平成18年3月、宇治市教育委員会と奈良文化財研究所は、
宇治市街遺跡から出土した須恵器について、
「四世紀後半のもので最古級とみられる」と発表した。
一緒に出た板材の伐採年代が年輪年代測定法と炭素年代測定法により
「389年」と導かれ、須恵器の様式も古い(大庭寺式)ことから判断したという」
何度も言わすな。
517 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 18:33:54.74
>>515 田辺昭三氏は須恵器の専門家だが、これから遡って布留期などの年代を
考えているらしい。箸墓古墳の築造年代を4世紀中ごろとしているらしく、
この頃が布留0とかになるのかな。
>>516 年輪年代法は、好意的に解釈しても伐採年代と使用年代が一致しないのは、
今まで散々やってきたことだと思うが。C14は元々誤差が大きい。
518 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 18:36:51.10
>>517 ついでに、
表を見ればわかるように、須恵器の場合は文献との突合せが
可能なので、比較的確かな年代が出るといわれるな。
519 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 18:42:35.65
年輪年代は100年ずれているという疑惑がそもそもの議論の発端。
年輪年代が100年ずれると、幾つもの矛盾が解消する。
TK232もTK73も年輪年代によって年代が決められている。
だから、TK232もTK73もいっしょにずれる可能性があり、
年輪年代が正しいという根拠にはならない。
年輪年代を使わないもので検証しないと、検証したことにならない。
あたりまえのことである。
違うというか理解できないのか?
あるいは理解できないふりをしているのか?
先に日本書紀の記述と須恵器の相対編年から導きだされた暦年代観があり、
その後の古墳時代の開始年代の遡上と従来知られていたものよりも古様の型式が発見されたことによって須恵器の出現年代も遡り、
そのあと年輪年代法によって矛盾しない暦年代観という結果が出されたんだ
何度か指摘されているが、古墳時代開始期の年代観は年輪年代法による池上・曽根ショック以前のことだ
九州説はまず研究史をきちんと把握しろ
522 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 19:27:52.16
説明がわかりやすいということと、
たとえ自説に不利でも、
情報を共有しやすくするということは、
味方を作る上での正義なのですよ。
だから、わかりやすい表をコピペしたのです。
恣意的な捏造や誘導がわかると、たとえ味方でも
離れていくもんですよ。
>>512 どこからの引用なのかわからないと意味がないぞ
>>519 >年輪年代は100年ずれているという疑惑がそもそもの議論の発端。
>年輪年代が100年ずれると、幾つもの矛盾が解消する。
しないよ。
継体天皇陵が6世紀前半の今城塚でこれが定点になる。
100年ずれてると応神陵5世紀後半〜6世紀になるが、
なんでそんな短い期間に大仙陵をはじめとする百舌鳥・古市の大古墳が作れるはずないだろ。
527 :
ローガン:2013/06/10(月) 21:18:13.51
>>511 >1様式30年も年輪年代法で決めたかのような書きぶりだが、
情けないヤツ。そんな事どこに書いてある?(笑)
「飛鳥寺出土がTk-43。
岩戸山の須恵器がMT-15からTk-10だ。被葬者の没年は527年。
MT-15とTk-47の稲荷山の被葬者には、471年銘の剣が副葬。」
とあるだろうに。
それぞれ実年代がある程度おさえられるゆえ、寸法取り出来る。
それにTK-73は応神陵外堤出土。神功紀記載、七支刀の年代も指標になるんだ。5世紀第1四半期が妥当。なら、TK-232は4世紀でいい。
「1様式30年も年輪年代法で決めた」のでは無く、編年を基に考えられる実年代と年輪年代法の数字に「無理がない」訳だ。
何も知らず、根拠もなく否定ばかりしていても笑われるだけだぞ。
あ、根拠はあるんだったかな。「鷲崎某が言ってるから」って言う根拠が。 (爆笑)
また来る。
>>526 じゃ、そもそも応神天皇陵や継体天皇陵ではないのでは?
>>528 記紀を完全無視したらそれもあるだろうね
そしたら東遷説は即死だな
個人的には、東遷説は、名もない小豪族の移住の話と思ってるから、
正直、どうでも良い。
>>527 >MT-15とTk-47の稲荷山の被葬者には、471年銘の剣が副葬。」
>とあるだろうに。
>それぞれ実年代がある程度おさえられるゆえ、寸法取り出来る。
>それにTK-73は応神陵外堤出土。神功紀記載、七支刀の年代も指標になるんだ。
この2つの間に飛躍がありますが、どのように関係するのでしょうか?
また、TK-47とTK-73では、50年から100年離れてますよね?
文献学と考古学がゴッチャになっているような気がしますね。
そもそも、各天皇陵の被葬者がよくわからないですからね。
また、七支刀は神社に保管されていたものと聞いておりますが、
これから考古学的なものがわかるのでしょうか?
532 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 22:46:14.59
畿内説の栄光よ、いずこ。
いまや内乱状態だわ。。。
533 :
ローガン:2013/06/10(月) 23:38:10.44
>>531 >この2つの間に飛躍がありますが、
何も飛躍などないが。
どう飛躍があると言うんだね? ではその飛躍とやらについて君の意見を聞こう。
私からの返信は明日以降だ。
534 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 00:44:32.46
>>533 TK-47など前の部分では年代を推測するものがありますが、
TK-73よりあとの部分では相変わらず、年輪年代法しか
年代を推測するものがありません。
前半のTK-47の情報で、TK-73の年代を補強するには、情報がありません。
>神功紀記載、七支刀の年代
これが情報を補強するのかもしれませんが、
考古学には、現状では関係ないように見えます。
年輪年代法の乖離についての議論をしているのに、
TK-73、TK-232という年輪年代法で決定された年代を持って、
年輪年代法は正しいという主張は、循環論法でしかありません。
わかりやすい表をコピペしたのがきっかけで
有用な議論がするむのなら、
こんなに嬉しいことはない..
わかりやすい、と情報共有は正義。
536 :
ローガン:2013/06/11(火) 15:58:05.71
>>534 >TK-47など前の部分では年代を推測するものがありますが、TK-73よりあとの部分では相変わらず、年輪年代法しか年代を推測するものがありません。
時系列が逆だがまあいい。
さて、いいですか、
TK-47(稲荷山471年)→MT-15→TK-10→TK-43(飛鳥寺下層587年)だ。
バクっと、1様式=約30年として捉えてなんの問題も無い。長過ぎるというなら別に25年でも構わない。
>前半のTK-47の情報で、TK-73の年代を補強するには、情報がありません。
神功紀引用魏志及び、百済肖古王、貴須王、枕流王の記事から、考えて干支2運下げるのは当たり前。
52年の七枝刀も干支2運下げて、372年。泰和4年作刀の七支刀であることは明白。
これが神功紀に書いてある。てことは、つまり、応神朝は4世紀第4四半期辺りと考えて全く無問題。
また、古市誉田山が応神陵なのは言うまでもない。その外堤出土須恵器がTK-73。
5世紀第1四半期辺りと考えて当然。先立つTK-232が4世紀になって当たり前だ。
>考古学には、現状では関係ないように見えます。
いや、考古学をベースに、文献等を考慮し、考古学中心で実年代を推定するんだ。
戦後、小林が、自説を若干トーンダウンさせてまで確立し、補助学から脱却させたものだ。
>年輪年代法の乖離についての議論をしているのに、TK-73、TK-232という年輪年代法で決定された年代を持って、年輪年代法は正しいという主張は、循環論法でしかありません。
いや、普通に考えれば、Tk-232を4世紀として無理は無い。
別のアプローチとしての年輪年代法が、上記のような推定を追認したわけだ。
何も、年輪年代法に引きずられた訳じゃない。勿論、池上曽根も同じ。
537 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 16:52:22.86
>何も、年輪年代法に引きずられた訳じゃない。
ほう、その逆ということですか。なるほど。
538 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 18:27:56.64
>>536 >考えて干支2運下げるのは当たり前。
ほほう、120年後ろにずらしますか?
あとの天皇もまとめて120年ずらせば、
木材を百年寝かす必要はなくなりますな。
539 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 18:48:19.83
>神功紀引用魏志及び、百済肖古王、貴須王、枕流王の記事から、考えて干支2運下げるのは当たり前。
>52年の七枝刀も干支2運下げて、372年。泰和4年作刀の七支刀であることは明白。
>これが神功紀に書いてある。てことは、つまり、応神朝は4世紀第4四半期辺りと考えて全く無問題。
>また、古市誉田山が応神陵なのは言うまでもない。その外堤出土須恵器がTK-73。
>5世紀第1四半期辺りと考えて当然。先立つTK-232が4世紀になって当たり前だ。
年代をいじりまくってますな。
これだけいじれば、そりゃ都合の良い年代に来るだろう。
文献の都合のいい所をとって、年代を都合よくずらしただけだな。
540 :
ローガン:2013/06/11(火) 19:06:36.27
>>
>>538 >あとの天皇もまとめて120年ずらせば、
ところが、中々 君の思うようにはいかんのだよ。
●継体紀十七年(532年癸卯)夏五月百済武寧薨
●武寧王陵墓誌「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
ピッタリなんで120年ずらせないんだ。残念だったねえ。
>>539 >年代をいじりまくってますな。
これだけいじれば、そりゃ都合の良い年代に来るだろう。
しかし君には、具体的に数字を挙げての否定が出来ない。
日本書紀の編者が卑弥呼=神功にして、
近肖古王を百年前の肖古王と取り違えた話は有名だが。
日本書紀の編者も古代の実年代比定には苦労したみたいで、
神武即位年とか卑弥呼=神功にして無理やり定点を決めてる。
ローガンとか言うのも これまでちょこっとはまともそうなことを並べ立てていたけど、とうとう化けの皮をはがしたね。
543 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 19:32:44.94
神功紀と魏志倭人伝、百済記を上げることで、
神功紀を120年ずらすことへの根拠としたいんだろうが、
おそらく記紀編纂時に、神功皇后の資料がほとんどなかったらしく、
神功紀そのものが百済記の引き写しだから、
応神天皇の母が、同一人物である根拠はない。
544 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 19:39:11.58
>ピッタリなんで120年ずらせないんだ。残念だったねえ。
そりゃ残念だ。
応神天皇を120年新しくして、継体はそのままなら、
120年分の天皇をどうにかして消去しなきゃならん。
履中以降は、常識的な年齢の天皇で、在位年数も比較的短い人が多いから、
削るのが難しいな。
誰を削るかね?
545 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 19:41:27.28
応神天皇と仁徳天皇の在位年数が、合計で120年ちょっとだから、
この二人を消すかね?
百済の歴史書自体が、七世紀、亡命してきた百済の人が皇室氏におもねって
書き変えた史料だろうから、かなり眉唾なのは確か。
ただ、四世紀末、倭王権が南下する高句麗と全面衝突し、
百済や新羅を従えたりしてたのは確かだから、
神功三韓征伐を全くの架空にするのはどうかと思うが。
547 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 19:51:42.05
神功皇后に該当する人物がいたことは確かだろう。
広開土王碑もあるからな。
だいたい福岡市周辺を根拠としていたらしく、事跡も多い。
しかし、畿内王権には資料がほとんど存在しなかったのは間違いない。
また、神功皇后一族が東遷して、応神天皇を擁立したのなら、
言い伝え程度は残っていてもおかしくないが、オリジナルの部分は殆ど無いから、
神功皇后一族の東遷も支持しない。
神功が実在したかどうかは確かに疑問。
息長氏による先祖の過飾な気がしないでもない。
ただまあ、記紀だけで見れば、神功三韓征伐の後、
応神仁徳朝で大陸から渡来人が多く来る記述と整合性が取れてるんだよな。
紀編者はある程度自信を持って神功=卑弥呼説を唱えたんじゃないかな。
ここの人たちは、神功皇后4世紀説は、ほぼ決定なのか?
550 :
ローガン:2013/06/11(火) 20:43:29.00
>>541 >日本書紀の編者が卑弥呼=神功にして、
まあ、釋紀や集解はバッサリ切り捨てているけどね。
原注前提で話を進めるなら、引用魏志を定点に干支2運上げているんだから、元に戻せば良いだけ。
七枝刀=七支刀なわけだ。
>>544 >誰を削るかね?
さあね。君の前レスの内容について
「残念でした」
で私と君の話は終わりなんだ。興味があるんなら、自分で調べてみればいい。
>>534 >年輪年代法の乖離についての議論をしているのに、
>TK-73、TK-232という年輪年代法で決定された年代を持って、
>年輪年代法は正しいという主張は、循環論法でしかありません。
だから今度の中塚教授の研究で年輪年代の追試ができるわけだ。
喜んでいい話だよな、これは。
それともまさか今から反論でも考えてるのか?
552 :
ローガン:2013/06/11(火) 21:11:08.89
言っておくが、何も年輪年代法から得られる数字が完璧だと強弁している訳じゃない。
あくまでも補助的扱いが肝要だ。
さて、勘違いしているのがいるかもしれないので書いておくが、
池上曽根の年輪年代が原因で、W様式が上がって訳じゃないんだ。
旧編年で、初期の凹線文の出現をV期新としていたのを、80年代後半に凹線文の出現以降を、W期にしようというように、分け方が変わっただけなんだ。
旧V期新がW期に含まれるようになっただけ。
また来る。
554 :
ローガン:2013/06/11(火) 22:22:05.11
>>551 >だから今度の中塚教授の研究で年輪年代の追試ができるわけだ。
おっと、 横失礼
標準パターン公開されているんだから、追試は可能ですよ。
年輪を読んで、自分でこしらえたパターンを光谷氏のに突き合わせれば良いだけ。
何もしないで640年以前の標準パターンがおかしいなんて、言う馬鹿の気がしれん。
勿論、鷲崎某とやらが、自身で作った標準パターンに基づいて否定しているなら、このレスは謝罪の上、撤回するが、
そうでないなら、出来る追試もサボったにもかかわらず、間違いだ なんて主張したところで、子供も相手にしない。
>>553 まあ、そう云うな。また来る。
555 :
日本@名無史さん:2013/06/11(火) 22:31:29.59
>>554 中塚教授が自分の試料で試したけど、ものさしで年輪幅を計る方法はぜんぜんお呼びでないらしいですよ。
なおこのスレ的にはあなたもお呼びでないようですねえ・・、
556 :
日本@名無史さん:2013/06/12(水) 00:52:13.28
>>547 応神帝や仁徳帝は九州の色合いが濃いな
ところで神功皇后陵をはじめとする5世紀の大型古墳には造り出し構造がある
そんでもって仁徳帝の妃に日向髪長媛ってのがいて、諸県君牛諸井の娘とされている
九州最大の古墳である女狭穂塚って5世紀建造で造り出しを持ってる。
この時期の皇室ってのは日向とのつながりがあったんだろうな
こうした西方の権力者とのつながりが、後世に東遷という脚色をもって記紀に組み込まれたんだろ
のんきな話だな。
畿内王権と日向との繋がりなんてのは、
蛇行剣にみられるように5世紀以前からあるよ。
何を今さら。
西都原とかを見ても、日向が早くから大和王権と繋がってたのは自明な訳で。
九州勢力の中で言えば、日向と宇佐が最初に大和に靡いて、
その後、奴国、伊都国。
最後に熊本南部や宮崎南部、鹿児島が大和の版図に入ったと
なかなか興味深い議論だったが、素人なりに素朴な疑問が生じた。
まず、疑問を述べる前に事実関係を確認する。
間違っていたら教えて欲しい。
>>463(とリンク先)
>>505 >>527 >>536 が正しいとすると
1)須恵器は古い順に TK232 - TK73 - TK47 - MT15 - TK10 - TK43 である。
2) TK232【宇治市街遺跡】389年(板材・年輪年代・炭素年代)
3) TK73【応神天皇陵】412年(ヒノキ材・年輪年代) 302年(笠型木製品・年輪年代)
4) TK47【稲荷山古墳】471年(剣銘)
5) MT15【稲荷山古墳】471年(剣銘)【岩戸山古墳】527年※(被葬者(磐井)没年・日本書紀)
6) TK10【岩戸山古墳】527年(被葬者(磐井)没年・日本書紀)
7) TK43【飛鳥寺】587年(飛鳥寺創建・日本書紀)
※wikiによると磐井の没年は528年らしいがとりあえず
>>527に従った。
(続く)
>>559つづき
これを踏まえていくつか疑問。
a) TK73について412年と302年の2つの年輪年代がある。
412年の板材が発見されていなかったら、あるいは年輪年代で測定していなかったら、
302年という年輪年代しか判断材料がないことになる。
頑健性に欠ける方法といわざるを得ない。
(つまりたまたま測定した木材の違いで100年も年代が異なる。)
b)
>>463では、TK73が412年、TK232が389年だから、応神天皇陵は
400年以前でもおかしくないと主張している。もちろんおかしくないが、
逆に通説(?)の430年頃でもおかしくない。
(430年の遺跡から412年頃に存在した土器と同じ形式のもがでてもおかしくない。)
c) TK47が471年、TK43が587年だから一形式30年又は25年。TK47からさかのぼれば
TK232が389年でもおかしくないとしている。
もちろん、おかしくはないが、5世紀前半といってもおかしくない。
TK47とMT15、MT15とTK10のようにこれらの形式は同時並行していた。
これらの重なり具合や、一形式の長さの標準偏差等がわからなければ
さかのぼり推計などできない。そもそも形式には重なりがあるのに
形式から年代を推計すること自体無理があるのではないか。
d) 細かいことをいえば1)で炭素年代といっているが、炭素年代で
389年などと特定することは原理的に不可能なはず。
(だから事実上年輪年代で決められたのだろう。)
(続く)
>>560つづき
以上を要約すると、須恵器の出現を4世紀後半としてもおかしくない、
という議論は、確かにおかしくはないのだが、同時に、
5世紀前半でもおかしくはないし、あるいはTK73の302年という
年代に従えば3世紀後半といってもおかしくはない。
早い話が年輪年代や土器の編年では何もわからないということになる。
ということで、これらから考えた結論は
ア)年輪年代は(理論上と異なり)測定ミス又は誤差が大きい。
イ)土器で年代を推定するのは無理が多い。
ウ)中塚教授の方法に期待したい。
ということとなったが如何?
ということになるがどうなのだろうか?
>>559-561 > ア)年輪年代は(理論上と異なり)測定ミス又は誤差が大きい。
本来の年輪年代法自体は考え方としては問題ない。
ただし 日本でそれをやっている光谷は、客観的な第三者による追試・再検証が可能な形式でのデータを提出していない。
追試・再検証が不可能なデータは、仮にその数値が正しいとしても、学問的には全く無意味である。
したがって 無意味な光谷年輪法を根拠とするTKとかMTの年代も無意味である。
何でも有り難そうにダボハゼみたいに飛びついたらだめなんよ!
>5世紀前半でもおかしくはないし、あるいはTK73の302年という
>年代に従えば3世紀後半といってもおかしくはない。
302年(笠型木製品・年輪年代) はあくまで木製品だからね。
今でも家に古い木彫りの彫刻があったとして、
その木の切りだされた年代は当然かなり古いわけだから。
あと須恵器は半島と連携してるので3世紀後半はありえない。
>ウ)中塚教授の方法に期待したい。
それはもう全くその通り。
564 :
ローガン:2013/06/13(木) 15:23:24.09
>>561 >以上を要約すると、
では、君の言い分を敷衍してみようか。
60年に一度ある辛亥年が、471年なんて言い切れない。
墓誌の出ていない岩戸山が磐井の墓だとは言い切れない。
結局の何も判らない。
と言う思考停止な訳だ。なら、こういうカテゴリーには手出し無用だな。
さて、私は数日前、蓋然性の多寡と書いた。
元より、実年代といった情報に欠ける古代史においては、「言い切れない」ことは数多くある。
つまり、「そうとは言い切れない」は否定ではないんだ。
示されたたたき台を否定する際には、より蓋然性の高いと考える対案の提示が不可欠。
その対案が多く支持されれば、通説になり、先に示された叩き台が否定されるんだ。
565 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 16:03:31.62
岩戸山古墳については、磐井の乱が528年頃。
敗軍の将が、大きな古墳を作るというのもおかしな話。
生前作ったとなればもっと古いことになる。
なかなか難しいな。
566 :
ローガン:2013/06/13(木) 16:30:01.67
>>565 釋紀引用筑後國風土記逸文
「生平之時 預造此墓」
567 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 17:17:26.28
>>566 岩戸山古墳といえば、石人・石馬が有名で、岩戸山古墳が本場のような
印象があるが、実はこれは熊本県が本場。北部の江田船山古墳のあたりから
八代郡の野津古墳群まで分布している。
勝手な推測だが、岩戸山古墳は筑紫の君のあとに北部に進出したとされる火の君一族の
墓ではなかろうか。後の人にとって磐井はヒーローなので、その地方で一番
大きな古墳と磐井を結び付けたのではないか。
風土記にはそれが反映されているのではないかと思われる。あくまで勝手な推測だが。
ということもありえるとすれば、生前築造説もあり、岩戸山古墳の年代も揺れるな。
磐井の生前に作られたものらしいが磐井はそこに葬られていない。
畿内朝廷軍に斬殺されてどこかに打ち棄てられたか、豊前方面へ逃れて行方不明。
逃げる方角がおかしい。
北から攻められたであろうになぜ北へ行く?
569 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 18:14:12.57
糟屋にいたとされる磐井の弟も、磐井が殺されたあとで降伏している。
北から攻めたのならば、先に弟を攻めるのが当然と思われる。
むしろ、肥国勢が筑紫を攻めた話ではないか?
そして、岩戸山を乗っ取って、あとから取ってつけたような正方形の別区に
肥国の風習の石人石馬をおいたとすべきだろう。
570 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:20:26.85
>朝廷軍は南から・・、
これはおおいにありうるケースだし、そう考えると磐井の岩戸山古墳埋葬説に関する疑念も解消する。
571 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:27:32.94
確かに石人石馬は熊本が本場だが
肥国が何のために攻めるのか不明
岩戸山古墳の石人石馬は破壊されておるのでしょ?
墳丘本体の等高線を見ても崩れすぎな気が…
572 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:36:23.25
>>571 たしか、磐井の恨みで、攻めた兵が石人石馬を破壊したという話を聞いたことがあるが、
岩戸山古墳の資料館では、破壊されていないものもかなりあった。
全部は破壊しないだろうから、無事に残ったものだけを展示しているのかもしれないけどね。
後世の人で、気が付かなかったのか、石人石馬の石を、お地蔵さんに加工しているものがあった。
573 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:44:42.11
肥前と肥後が分断されていることからの推測だが、
湿地帯である久留米から下流の筑後川沿いは、
条件が合えば広大な農地になる。
大牟田から八女、久留米、三養基、神崎、の領域は、
肥国勢と筑紫勢で、取ったり取られたりを繰り返していたのではないか?
その象徴が久留米高良大社で、ここを恒久的に抑えることができたものが、
筑後の覇者になる。
最終的には筑紫勢勝利ということだろう。
574 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 20:08:39.63
とこかで八女の人が、八女は明太子文化圏ではなく、高菜文化圏だと
言っていた。要するに、福岡の文化圏ではなく、熊本の文化圏という意味。
一気に妄想スレと化したな
記紀自体が古代人の妄想なのに何を今更
577 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 20:38:01.73
結局、土器の編年は難しいし、さらに年代を当てはめるのは困難ということ。
何かで、形や文様による土器の編年は決定的なものではなく、説明的なものだ
というのを見たことがある。誰かの説明を納得行くものと受け入れた時に
定説化していくというわけ。
一つの土器の寿命などは定かでないし、年代も推定に推定を重ねるものだから、
結局はなじまないということか。
昔は土器に暦年代は付いていなかった。これをやったのは畿内説の考古学者が
最初じゃなかろうか。三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にするために、あるいは
箸墓古墳を卑弥呼の墓にするために、年代合わせをやっていったような気がする。
いやいやwまったく逆だろw
暦年代が土器編年で分からないのは当たり前で。
かなり大雑把な推定くらいしか出来ない。
だから理化学年代が脚光を浴びた。
そのいい加減な暦年代にしがみついてるのが、
「畿内説が陰謀で百年遡上させた」とか言ってる輩。
ただ、年輪年代は理化学的ではないというだけ。
c14は、理化学的年代法と言えるし、
誤差の範囲も条件も出すことができる。
>>560 >b)
>>463では、TK73が412年、TK232が389年だから、応神天皇陵は
>400年以前でもおかしくないと主張している。もちろんおかしくないが、
>逆に通説(?)の430年頃でもおかしくない。
応神天皇陵が430年頃なんて通説はない。
583 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 22:16:10.61
>>578 畿内説は、年代を100年古くしなかったら死んでいるんだよ。
妥当性の問題ではなく、畿内説にとっては死活問題。
559だが
>>564 なぜローガン氏に怒られるのかわからないが...
>>559-561 では事実関係は、ローガン氏に敬意を表して
すべてローガン氏の言っていることを採用した。
その上で、これらの事実を持ってしても、須恵器の開始は
3世紀後半とも、5世紀前半ともいえるし、
それらについて蓋然性に差はない、ということを示したつもり。
つまり
A)TK73は笠型木製品から302年である可能性があり、
TK232はそれより古いので3世紀後半の可能性がある、
ともいえるし、
B)TK73はヒノキ材から412年の可能性がある一方、
302年の木製品も出土している。ということは
TK232とともに389年の板材が出土していたとしても
数十年前の板なのかもしれない。
よって5世紀前半の可能性もある。
などといくらでもいえる。少なくとも年輪年代と
土器編年だけでは、どの推論が蓋然性が高いかなどといえない。
つまり、このような頑健性のない推計に
頼るのは危険だといっている。
なお、念のため言っておくと、これは年輪年代や
土器編年の有効性についての議論であって、
須恵器の開始年代がいつか、応神天皇陵がいつか
といったことそのものを議論しようというものではない。
>>582 430年が通説かどうかは疑問があるが、
>>463のリンク先にそう書いてあったので
そのまま引用した。
(だから?をつけてある。)
つまり、お世辞にも豊富とは言えない知識で、
というより全く専門知識を持っていないにも関わらず、
自分は専門家の言説の真偽を判定できると?
一度病院に行った方がいいぞ
587 :
ローガン:2013/06/14(金) 00:27:38.14
>>584 >なぜローガン氏に怒られるのかわからないが...
怒っている筈がない。それすら理解出来ないとは、ちょっとなあ…。
自身で調べもしないで、ただの「掲示板の書き込み」に対して反論めいたことを書いて、参加している気分を味わいたいのはわからんでもないが…。
あるはずの反論の答えを準備した上で、意見を述べている人もいることを察してくださいね。(笑)
>それらについて蓋然性に差はない、ということを示したつもり。
なぜ「蓋然性に差が無い 」って言えるの?じゃあ馬具は?って話になるでしょう? なんて答えてくれるの?
>などといくらでもいえる。少なくとも年輪年代と土器編年だけでは、どの推論が蓋然性が高いかなどといえない。
>>564を読んでくれた上でそう述べて頂けるなら、頼もしい。
では、昼間のレスに沿った意見が戴ける訳ですな。
さて、年輪年代は昨日も書いた通り、あくまでも補助的扱い。なので取り敢えず横において。
では、現状の、各種遺物供伴関係並びに、実年代推定可能遺物に基づいた土器編年から考えうる実年代推定と、
蓋然性と言う部分において少なくとも対等である…って事はつまり、首肯し易い対案を述べることは当然可能ですよね?
昼間のレスを読んでくれた上での返信なんだから。
では、よろしく。
畿内説に批判的な書き込みをする連中がいかにものを知らずに吠えているのかわかったよ。
仲哀天皇陵 (私見) 津堂城山古墳 4世紀第3四半期
応神天皇陵 誉田御廟山古墳 5世紀初頭
仁徳天皇陵 大仙陵古墳 5世紀第2四半期
履中天皇陵 上石津ミサンザイ古墳 5世紀中頃
反正天皇陵 (私見) 土師ニサンザイ古墳 5世紀第3四半期
継体天皇陵 今城塚古墳 6世紀第2四半期
>>ローガン氏
あなたが使っている「TK232」が大庭寺遺跡の窯跡出土の初期須恵器のことならば
大庭寺遺跡の所在する地区名の略号は「TG」ですので型式名は「TG232」ですよ
以後、お気をつけください
九州説は穴だらけだからなあ。
そもそも彼らの唯一の拠り所が大陸に近かった分鉄の伝来が早かった、って部分だけだし。
そこが覆ったら精神崩壊しちゃうんじゃなかろうか
>>591 いや、
>>586で指摘されているように既にかなりヤバくなっている
>>589 埴輪の編年観だと上石津ミサンザイが誉田御廟山より新しくなることはないな
百舌鳥三陵の位置関係の所伝は早くに混乱したものと思う
>>592 >埴輪の編年観だと上石津ミサンザイが誉田御廟山より新しくなることはないな
それはそうなんだが須恵器の編年で大仙陵が古いと判断した。
というか天皇が埋葬された時期を基準とした。
これだけの大古墳だと寿陵とそうでない場合があるだろうし非常にややこしい。
>>593 不勉強な九州説教徒は土器編年や年輪年代さえ否定できればいいと思ってるみたいだよな
古墳時代の編年網が半島や大陸とも連動していることなんて思いもよらないのだろう
>>594 上石津ミサンザイに須恵器なんてあったか?
それに陵墓の伝承を優先させるのはアカンやろ
>上石津ミサンザイに須恵器なんてあったか?
上石津ミサンザイにあったなんて言ってない。
大仙陵の須恵器から判断した。
597 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 01:57:27.81
大型古墳は10年単位で築造期間が必要だが、
そもそも、寿陵?、生前築造したものなのか?
それとも、死後に子の代で築造されたものなのか?
598 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 02:02:24.08
生前作られていたものなら、
長期政権になるに連れ、
第一期工事、第二期工事などのように、
拡大していく過程が読み取れると思うのだが、
死後に作られているものなら、
一気に全部作ってしまうだろう。
第一期部分、第二期部分なんて聞いたことがないから、
死後に一気に作ってしまうのが妥当なのかな?
599 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 02:04:41.90
つまり、生前に作られたものなら、
崩御の時期と築造時期が乖離する可能性が高く、
死後に作られたものなら、
近い時期になる可能性が高いといえるだろう。
600 :
ローガン:2013/06/14(金) 02:09:46.07
>>596 七観古墳の埴輪に黒斑があるものが多いので、野焼きと窯焼きの混合と捉え、
ミサンザイは須恵器登場からあまり下らない古墳かなと思う。
>>590 すみません。ではお休みなさい。
601 :
596:2013/06/14(金) 02:16:22.31
死んだあととすると、親の墓なら立派なの作ろうとするのはわかるけど、
兄貴とか場合によっては叔父の墓ってこともありえるわけで、そこまでするかな?
603 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 02:23:20.30
履中天皇陵が、応神天皇陵より古いというのは、
よく言われている話だね。
604 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 02:24:33.76
日本書紀の仁徳天皇紀には、仁徳天皇67年に河内石津原を陵地と定め、
すぐに築陵を始めたとなっている。いつ完成したかは書かれていないが、
仁徳天皇の崩御は87年。このときに葬られている。まあ、20年ほど経っている。
少なくとも、生前に作られたことは確かだろうと思われる。
大仙古墳の場合は、築陵に15年はかかるとされるから、まあこんなものだろう。
>>596 よく読めw
フトイチロー先生は上石津ミサンザイから須恵器が出てるとは言っていない
野焼きの上石津ミサンザイの埴輪が窯で焼いてる誉田御廟山よりも1段階古いから
TG232式期に相当するのだと言っているだけじゃないか
だから、百舌鳥三陵は伝承がこんがらがってるんだよ
三陵に相当するのがビッグ3だとして紀の北・中・南の位置関係を優先させると
北=大仙陵=反正
中=上石津ミサンザイ=仁徳
南=土師ニサンザイ=履中
になるんだけど埴輪は
上石津ミサンザイ→大仙陵→土師ニサンザイ
古市も入れると
上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵→市野山→土師ニサンザイ
になって記紀の墓所の伝承とはどーしても合わないからな
606 :
584:2013/06/14(金) 06:43:59.61
>>587 考古学や古代史には通じているようだが、論理的思考は苦手なのかな?
>なぜ「蓋然性に差が無い 」って言えるの?じゃあ馬具は?って話になるでしょう? なんて答えてくれるの?
>>584の「少なくとも年輪年代と土器編年だけでは、
どの推論が蓋然性が高いかなどといえない。」
という主張に対し馬具を持ち出すと言うことは、何ら反論になっていない、
というより、主張を裏付けているだけなのだが。
そして年輪年代と土器編年に基づく、
>>505以下の主張は
ほとんど根拠がなかったと自ら認めたいうことになる。
まあ、年輪年代は補助的扱いといっているので同意見だと
理解しておく。
ところで
>>564の
>示されたたたき台を否定する際には、より蓋然性の高いと考える対案の提示が不可欠。
は、あえてスルーしたが、こんなのはマイルールであって、学問的態度ではない。
わからないものはわからない、とするのが学問的態度。
まさかこの考えが考古学者の標準的な思考方法だとは思わないが。
607 :
584:2013/06/14(金) 06:50:38.28
もともと年輪年代(と土器編年)の信頼性に対する議論をしていたわけで
須恵器の開始時期や応神天皇陵の時期をいつとするかは
この議論では二次的関心に過ぎない。
ましてや邪馬台国が畿内だ九州だとかは関係ない。
期待していたのは、たとえば
○年輪年代から実年代を推計するにはこのような確固としたやり方がある、
だとか、
○土器編年については、一形式あたりの平均は○○、標準偏差は○○であり、
形式の重なりの問題は○○により、解決済みだ、
という議論を期待したのだが。
須恵器の年代だが、職人の世代に応じて変遷していくという話を読んだ。
職人の親世代から、子世代に移るに従って、
デザインの個性も違ってくるということだろう。
窯によっては、三世代の須恵器が並んでいた例もあるそうだから、
祖父、親、子で同時に作っている雰囲気が伺える。
形状が近い種類の須恵器はそれで世代を推測することができるが、
ここによくでてきた、TK-73やTG-232などは、
直系とされる系統がないため、
緻密に年代を推測することができず、
年輪年代に飛びついたという経緯だったはずだが、
いつから、年輪年代がなくても年代を推測できるようになったのだろうか?
>>608 >いつから、年輪年代がなくても年代を推測できるようになったのだろうか?
>>593の白井さんの編年見てみ。
馬具とも連動してるだろ。
特に鉄板貼りの鐙だが、北燕宰相の馮素弗(414年没)の墓から出たものが基点になってるはずだ。
時代は5世紀前半以降であろう。
この書き方じゃ分からないね。
鐙1期で須恵器ではTK73。
611 :
ローガン:2013/06/14(金) 15:54:34.30
>>606 >「少なくとも年輪年代と土器編年だけでは、どの推論が蓋然性が高いかなどといえない。」
という主張に対し馬具を持ち出すと言うことは、何ら反論になっていない、というより、主張を裏付けているだけなのだが。
まるでわかってないなあ。土器に年号がふってある訳じゃない。層位に基づくタイポロジーなんだ。
これに、推定年代を充てるのに、共伴遺物からの情報が利用されて当然だ。須恵器についての話なのでここで該当するのは、馬具や耳飾りだ。
共伴遺物情報を根拠の一つとして推定される年代観が、現状最も蓋然性が高いと支持されている訳だ。
しかし君の言い分は、「土器編年におけるどのような年代観も その蓋然性の多寡は等価だ」だな。
では、共伴遺物から得られる実年代の推測が、蓋然性の多寡に影響しない理由とは何か?
と問われて当然だろう?「馬具は?」とね。(笑)
時々、君みたいなのを見かける。
「通説とはいえ、所詮仮説に過ぎないゆえ、事実とは言い切れない。他の可能性を排除出来るものではない。」なんてね。
しかし、こんなのは幼稚な印象操作の類。論理的思考が聞いて呆れる。
初戦は ローガン
613 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 16:15:46.83
土器で年代を知るのは難しいよ。
遺物として出土するのは捨てられたときなのだが、土器は作られてすぐに
破棄されるものもあれば、10年も20年も使われるものがあるかもしれない。
共伴する遺物から、といっても耳飾りなんてのは移動するものだから、
上限くらいはわかるかもしれないが、それではあまり役に立たないし。
まあ、蓋然性で括るレベルの、弱い関係でしかない結論は、
強い根拠が出るだけで、すぐにひっくり返ってしまうものである。
いくつかの関係から、なんとなく決まっているいるにすぎない。
つまりはどうとでも言えるというレベルの話である。
「私は別の根拠を採用するから、別の結論になる」
でいいのだ。
616 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:11:04.40
>>616 > 仁徳天皇の。このときに葬られている。まあ、20年ほど経っている。
崩御は即位87年とすると、即位時の年齢を考慮すると、享年100歳以上。今どきまだこんな事を信じているやつがいるのかな?
死んだのは「三十一年春正月癸丑朔丁卯。立大兄去来穂別尊為皇太子」ざいい三十一年目と考えるのが妥当。
この時代の皇太子というのは、現代のような生前の後継者指名ではなく、先帝が死んで、その後継者が即位するまでの期間(次の年の正月の場合が多い)について言うと考えるべき。
ただし、女帝の場合には生前に皇太子が指名されることもある。
仁徳天皇67年 崩御
仁徳天皇87年 埋葬
>>618 日本書紀の前段階の帝紀に立ち返って分析してみると、殆どの天皇(崇神、成務、清寧以外)のの即位と死亡の年齢は明確に記されている。
だいたい20年前とかではないんよ。
>>614 >「私は別の根拠を採用するから、別の結論になる」
>でいいのだ。
別にそれでいいけど誰にも相手にされないなら独り言で終わってしまうよ。
まあね、ローガンの論も、畿内説論者からのフォローも
無いようだしな。
まあ、世の中そんなもんだろ。
モガリが二十年とかw
本気で言ってるんかね?
腐敗して悪臭を放ち、白骨化してる年数w
あとまあ、天皇ってのは天皇霊の器、依り代であって。
天皇霊を引き継ぐのが次代天皇の大事な儀式=日継ヒツギだった。
前方後円墳ってのはそのための装置。
623 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:24:38.31
>>617 そういう見方しかできなかったかな?
天皇陵は生きているうちに場所を探し、築陵をはじめるということを
言いたかったわけだが。
これについて書かれているのは仁徳天皇のところなので、
そういう引用の仕方をせざるを得なかった。
隋書によれば、殯は倭も高句麗も三年みたいだな。
二十年は流石にない。
625 :
ローガン:2013/06/15(土) 00:06:03.44
>>598 >第一期部分、第二期部分なんて聞いたことがないから、死後に一気に作ってしまうのが妥当なのかな?
貴レスの主旨とはズレるので、書こうかどうかちょっと迷ったんだけど…
河内大塚山の前方部に盛り土がない。まあ特殊な例なのかもしれないけど、「古墳の主」の埋葬と、前方部の高まりは切り離して考えることも 有りかなあとか思う。
取り敢えず、前方部の盛り土は二期工事…というか、あと工程であった。
ってことまでは、言っても差し支えないと思う。
>>624 なぜ 隋ずっと後のの時代に合わせる必要があるのかな?
隋の時代は日本では薄葬令がでて、葬儀は簡素になっていた時代だが?
まあ実際、大仙古墳の後方部にも石室が見つかってるしな。
西殿塚や上石津ミサンザイにも後方部に壇があって、
恐らく埋葬施設があるだろう。
二期工事があっても不思議ではない。
>>623 > 天皇陵は生きているうちに場所を探し、築陵をはじめるということを言いたかったわけだが。
書記中期まで
>>624 の古墳については 寿陵かどうかは仁徳以外よく判らない。
後期、清寧辺りから3〜4年と短くなり、継体、安閑、宣化あたりでは死んだ年に埋葬されている。この辺りは完全に寿陵。
いずれにしても これまでは考古系、文献系共に「死んだ年と、埋葬した年は一致しなければならない」みたいな 固定観念というか、
実は根拠のない思い込みみたいな物があったわけで、死んだときと埋葬されたときがかなり時間差があってもかまわないと言う見方が広まると、日本史の研究はだいぶ楽になると思います。
629 :
628:2013/06/15(土) 00:33:28.48
× 書記中期まで
>>624 の古墳については 寿陵かどうかは仁徳以外よく判らない。
○ 書記中期までの古墳については 寿陵かどうかは仁徳以外よく判らない。
薄葬令は唐の時代だろ馬鹿か
隋書編纂の時期と考えても、大化の薄葬令の前。
>>605 >北=大仙陵=反正
>中=上石津ミサンザイ=仁徳
>南=土師ニサンザイ=履中
百舌鳥三陵とは北から
田出井山(反正)、
大仙(仁徳)、
上石津ミサンザイ(履中)。
土師ニサンザイが反正の可能性が言われてる。
天皇が生きてるうちに古墳を造成し始めた。
途中で亡くなった。
小さな古墳に一時期仮埋葬した。
大古墳が完成してから再埋葬した。
こういうのもあっただろうし、
生存中に大古墳が完成してからも、なかなか死なない天皇もいただろう。
自分は何々天皇の古墳と伝わってるものは大方正しいと思ってる。
しかし埴輪や須恵器の編年で時間差が出るのは上記のような理由ではないか?
というか古墳=墓なのは間違いないが、
当時の古墳というのは、ある種の神殿的な役割もあっただろう。
前方部と後円部の2重構造は後の神社建築につながってるという人もいたっけ。
古墳=神殿なら生存中に造るのが通例ではなかっただろうか。
>>633 小さな古墳に仮埋葬とか、何か根拠あって書いてる?
沖縄とかの洗骨のイメージ?
殯屋っていう仮屋を建てて遺体を安置→古墳に埋葬が基本だよ、古代日本では。
いやまあ、仁徳とかの時代の前方後円墳に二人埋葬されてるとかの
伝承すら残されてないんだから。
被葬者が誰か?とか皇統譜とかかなり混乱してて、
ちゃんと伝わっていないと考えた方がいいだろう。
殯の期間が二十年とか無茶苦茶考えて、
無理やり記紀の記述に合わせる必要はない。
637 :
日本@名無史さん:2013/06/15(土) 15:12:26.38
>>635 仮屋を建てて遺体を安置しようがどうでもいいわけで、
古墳完成時と被葬者死亡時のタイムラグの話。
君の話はずれてる。
そのズレを最大で三年くらいと考えるか?二十年以上と考えるか?の違いだろw
当時の平均寿命から考えて、二十年も経てばその間に下手すれば大王が二三代替わってしまうよw
殯の期間を二十年とかw
歴史を知らないナンセンスな想定だと言ってるんであってw
639 :
日本@名無史さん:2013/06/15(土) 15:29:16.08
>>638 大墳墓を造り始めてすぐ亡くなった場合はどうよ。
最大3年なんて話ではなくなるぞ。
当然そういう場合もあるだろう。
ただまあ、在位期間が短い大王は小さくなるんじゃない?
普通に考えて。
今話題に上がってる大王で短そうなのは履中くらいか?
>>639 在位三年以内で崩御したけど、とても三年で造れそうもない大規模古墳に埋葬されてる大王って
具体的に誰を想定してるんだろ?
いや、やはり大王たる者はその時の最大墓に埋葬されると思うな。
在位期間は関係ないだろう。
応神天皇なんて在位期間はかなり短いと思われるが、
世界最大体積墓の誉田御廟山古墳で間違いないだろう。
643 :
日本@名無史さん:2013/06/15(土) 15:54:07.22
誉田御廟山古墳は世界最大体積墓ではなかったな。訂正。
さらっと適当なこと書いてw
応神の在位が短いってどこに書いてるの?
誉田山が上石津より新しいことが分かって、
それでも記紀や延喜式の皇統譜や被葬者の情報を信じたいから、
無理やり殯二十年とかトンチンカンな話を持ち出す。
結果的に信じたい筈の記紀の記述にもない、
「応神の在位は短かった」とか。
信じたかった筈の記紀の内容を自分で否定してしまってるというw哀れw
>>640 > ただまあ、在位期間が短い大王は小さくなるんじゃない?
古墳の規模は築造を担当した母方の部族の勢力(人員動員力に関係する・・・とか言った話もあるわけで・・・)
全国五位の河内大塚山の被葬者が記紀に伝わってない時点で、
記紀の混乱が分かりそうなものだが。
ましてや、欽明真陵とされる見瀬丸山古墳と時代はたいして変わらないのに、
すでに分からなくなっている。
河内大塚は前方部の盛り土が無いから、造営途中で放棄された大王墓だったのかもしれない。
放棄された理由は分からないが。
>>625の言うとおり、後円部を造ってから前方部を造るという
二期工程だったのか?
箸墓建設は、のべ123万人と試算されてた。
1日千人で3年。
生前寿陵じゃなくても、死んでから殯3年で造れる。
寿陵だった河内大塚 被葬者の大王が亡くなった直後天皇の系列が変わる様な大きな政変が起こり
建設中の陵が放棄された
と考えるのが一般的。
もちろん仮説だが記紀にも載らず中世には墳丘に村まで存在したことと整合性がとれる
>>648 箸墓の主の濱宮である例の建物(天皇の大殿(崇神紀)、瑞殿(みずのみあらか 古語拾遺))が建っていた5〜60の期間は無視ですか?
当時近隣の最大の集落である鍵・唐古でも千人行くかどうかと言う時代に、どういう手段で毎日千人もの人間を集めるの?
>>648 それだけの人数を集めれば可能ってだけで、
実際に集めれたかどうかは無理だって誰でもわかる。
652 :
日本@名無史さん:2013/06/15(土) 18:29:22.77
1000人を従事させるためには、
その数十倍の人口と生産性が必要。
戦国時代で一万石あたり250人から400人程度。
>>644 >結果的に信じたい筈の記紀の記述にもない、
>「応神の在位は短かった」とか。
>信じたかった筈の記紀の内容を自分で否定してしまってるというw哀れw
没年干支は基本的に古事記の方が書紀より信憑性が高いと思ってる。
なぜなら人間の記憶力なんて限界があるから、
古事記では記憶できなかった大王の没年干支は素直に書いてない。
逆に言えば没年干支が書かれてる大王はそれだけ強く記憶されてたということだから、
信憑性が高いと思う。
古事記によれば応神天皇の没年干支は甲午なので394年。
仁徳は丁卯で427年。
履中は壬申で432年。
応神天皇の元年は390年だと思うので在位4年となるが、
さすがにどうかと思うので、それはおいといても、
履中の在位はわずか5年だ。
履中の墳墓は百舌鳥古墳群のどれかである可能性は高いが、
どれも5年程度で造れないぞ。
古い時代だと何をするにも人力になっちゃうんで、人口がほぼ国力なんですね。
だから百済とか新羅とか、いくつもの国々に分かれた状態の朝鮮から見たら、倭国は大国ってことに
広開土王碑など海外の史料に出てくる「倭」を、倭寇的なものだとか九州あたりの地方勢力とか見るのも、違うと思うんです。
高句麗の正規軍に対抗する兵力を動員できるのは、巨大古墳を継続的に造営する動員力が証明されている、ヤマトを中心とした王権と見るのが一番いい
>>653 在位5年+殯3年=8年あれば、結構大きな陵が造れそうだがw
そもそも百舌鳥古墳群には比較的中規模の古墳もあるし、
その中の一つを履中陵としてもいいように思う。
そもそも、百舌鳥古墳群と古市古墳群はほぼ同時併行で
大王墓を造ってるし、記紀の記述は信用出来ない、
もしくはかなり混乱していると考えるべきだろう。
無理やり殯二十年とか持ち出さなくて良い。
そろそろ殯二十年の根拠を出してくれないかな?
>>656 いやまあ、履中とか反正みたいに父親の仁徳が長生きで
在位が短く死んだ場合、陵が間に合わず、殯の期間が長くなったとかはあったと思うよ。
玉田宿禰にしても、こんなに長くやってられるか!
って思いもあったのかもしれないw
ところで殯二十年以上の根拠はまだ?
いやまあ、記紀で実年代が復元できるとかは眉唾だろw
どうとでも解釈出来る時点で学問じゃない。
年輪の方が遥かにマシ。
年輪年代と記紀がおおよそ合えばいい。
応神天皇陵の須恵器が記紀の応神天皇の時代にあってるが。
何か不満なのか?
>>655 >そもそも百舌鳥古墳群には比較的中規模の古墳もあるし、
>その中の一つを履中陵としてもいいように思う。
おまえが勝手に決めても意味がないのだよハゲ。
普通、大王の兄弟あたりを想定するだろうが。
あるいは黒姫山古墳が河内王朝で軍事担当だった多治比氏の墓ではないかと言われてたりする。
「秩序」という意味を考えろ。
大王がその時期の最大墓に埋葬されるのは自明の理。
もともと比定されてた履中天皇陵じゃだめなの?
>>662 造られた順番が、伝履中陵→応神→仁徳→土師ニサンザイ(反正?)だからな。
皇統譜や陵の伝承が滅茶苦茶になってるとしか考えられない。
622 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:13:27.11
モガリが二十年とかw
本気で言ってるんかね?
腐敗して悪臭を放ち、白骨化してる年数w
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このスーパーぽん助な書き込みは君だろ?
殯が3年であろうが20年であろうが同じ。
腐敗して悪臭放つのは死後数日〜数週間だろ。
なぜ20年も変だと拘泥してるのか分からない。
20年であってもいいではないか。
>>661 大王墓がその同時の最大規模ってのも、お前の思い込みだろ?w
反正が田出井山古墳と延喜式で比定されてる時点で、
少なくとも同時の人はそのようには考えてなかったようだ。
記紀の伝承では、百舌鳥耳原で最初に造られた大王墓は仁徳陵。
通説通り仁徳陵を大仙古墳とした場合、それより前に造られた上石津ミサンザイは
大王墓ではないことになる。
上石津は同時最大級の古墳だが、記紀の皇統譜から外れる。
まあ、本気で書いてないけどw
それくらい柔軟に考えた方がいいんじゃない?
という提言。
>>664 確かに殯が二十年でもいいのだが、かなり異常な事態ではないかな?
そんな事例聞いたことないし、何か根拠あって書いてるの?と聞いただけなのだが。
滅茶苦茶になってる記紀の皇統譜や陵の伝承が正しいと強弁するために、
お前が無理やり作り出した屁理屈なんだろ?w
>>666 >確かに殯が二十年でもいいのだが、かなり異常な事態ではないかな?
異常な事態だが二十年もありうるということだな。
ならそれでいいではないか。
五世紀の大王位は、記紀が書いてるような一系の世襲ではなく、
佐紀、古市、百舌鳥などの複数の王家があって、
その中から大王が選ばれる形だったのだろう。
選ばれた大王は奈良盆地南東部で即位するが、陵は故郷の地に造られた。
記紀の王統譜が混乱するのは、継体が即位した時に、
大きな戦乱があって、前王朝の文献の多くが失われたから。
宋書に書かれている通り、珍と済には直接の血縁関係はなく、
讃(履中)珍(反正)で百舌鳥王家から古市王家に大王位が移り、
済(允恭)興(安康)武(雄略)へと繋がる。
>百舌鳥王家から古市王家に大王位が移り
初めて聞く王家だw
別々の王家なのに古墳や埴輪や武具などで共通性があるのは何故だ?
>>667 いやさw
ありうる=あったじゃないからw
殯二十年を強弁したいなら、まずその根拠を示さないと。
例えば私が豊臣秀吉が宇宙人だという説を唱えて、
その証明を「宇宙人ではない」説側に
「宇宙人じゃない証明をしろ!」と求めるのは筋違いも甚だしいだろ?
10年単位のもがりで、沖縄の玉陵、タマグスクを思い出した。
あれは風通しの良い建物に10年ほど放置して、
骨を洗い出して、
家型の柩というか、骨壷に収める。
>>670 記紀に大王の没年は書かれてても、
陵の築造年代なんてどこにもかかれてないのに、
根拠も何もないだろう。
屁理屈言うな。
殯二十年、根拠を求められキレるw
年輪年代にはしつこく根拠を求めておきながらw
天に唾するとはこのことw
>>656 陵の築造年代なんてどこにもかかれてないのに
書かれているんですね。それが →
>>672 百数十歳とかいうとんでも年齢をどう思ってるの?
>>674 陵の築造年代なんてどこにもかかれてるのだ?
君は殯二十年はありうると言った。
があったとは言ってない。
俺も殯二十年はありうると言った。
そしてあったとは言ってない。
同じ意見の君は俺に何の質問をしてるのだ?
天皇陵の築造時期について、すごい議論がなされているが、
つまりは、ローガン氏が蓋然性とかいう言葉を使って、
ごまかさなければなかったくらいに、
決定するのが難しい伏魔殿なわけだね。
この辺は考古学、歴史学、文献学で、散々やられていて
未だ明確な結論が出ないならば、
いまさら、そう新しい結論も難しいんじゃないかね?
>>676 >そんなこと私は言ってない。
「確かに殯が二十年でもいいのだが、かなり異常な事態ではないかな?」
は異常な事態だが【ありうる】という意味だろ。
俺も全く同じ意見だ。
>いちいち面倒なやつだ。 最後に出ている年表を見ろ。
HP作者の推測じゃないか、馬鹿かおまえw
>>678 俺も全く同じ意見だ
ぜんぜん同じ意見ではない。
> HP作者の推測じゃないか、馬鹿かおまえw
出ている数字は推測ではなくて、日本書紀の数値そのまま。
書記を前段階の帝紀までに遡って解析すると、かなりまともな皇統譜ガ出てくる。
そこで 百数十歳とかいうとんでも年齢を墳墓に埋葬された年齢と考えると、考古年代とかなり一致する年代が出てくる。
680 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 15:09:40.45
>ぜんぜん同じ意見ではない。
では、
「確かに殯が二十年でもいいのだが、かなり異常な事態ではないかな?」
とはどういう意味なのだ、きちんとした日本語で書き直せ。
>書記を前段階の帝紀までに遡って解析すると、かなりまともな皇統譜ガ出てくる。
現在は散逸して伝わっていない帝紀をどうやって解析したのだ?w
>>677 この辺は考古学、歴史学、文献学で、散々やられていて・・・そう新しい結論も難しいんじゃないかね?
考古学はおいておくとして、歴史学、文献学はいままで年代とかではまともなことは何一つ出来なかった訳よ。
そこへ これまでどうしても合わないとされてきた考古年代と文献年代が一致する考え方が提示されたと言うこと。
>>680 「確かに殯が二十年でもいいのだが、かなり異常な事態ではないかな?
いったい誰と取り違えているのだ?
> 現在は散逸して伝わっていない帝紀をどうやって解析したのだ?w
散逸して伝わっていない・・・・・ へぇ〜 あっそう WWWWWWWWWWWWWWWWWWW
可哀想に壊れたな…
>>660 応神天皇陵からは、年輪年代で412年のヒノキ材と302年の木製品が出ているが、
何をもって年輪年代と記紀が一致しているといえるの?
>>685 412年のヒノキ材と同じ地層の須恵器がTK73で、
4世紀末〜5世紀前半なら古事記の応神天皇没年干支とおおよそ一致してる。
687 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:24:54.01
応神天皇
西暦200年生まれ
71歳で即位。
111歳没
普通じゃないのはだれでもわかるが、
さてどう修正しようか。
688 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:26:42.48
>>687 何を聞いてるのだ。
古事記の没年干支と言ってるのだが。
書紀なんて信用してないし。
689 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:27:54.99
記紀とは古事記と日本書紀のことである。
>>690 木製品だろ。
切り出した時代は大きく違うだろう。
>>691 木製品では年輪年代で遺跡の年代は推計できないということでいいの?
何なら年輪年代で年代を推計できるのかという一般的合意があるの?
>>692 どういう種類の木材が出たかにもよるのだろうね。
たとえば勝山古墳から祭祀に使ったと考えられる木材が出てるが、
普通、祭祀に古材を使わないだろうし、
新材を祭祀のために切り出したと考えられる。
その程度の話なら、なんとでも理屈が立ちそうな...
笠形木製品というのも埴輪みたいに古墳に並べたものだとすれば
100年もたった古材を使うわけない...ともいえちゃうし。
>>694 あのな、応神天皇陵から412年のヒノキ材と302年の木製品が出ているのだろ。
そうすると、考古学の鉄則では「新しい方の年代」を採用するのだ。
412年のヒノキ材も302年の木製品も出土したのは偶然だよね。
当然、302年の木製品は出土したが412年のヒノキ材は出土しない
という可能性もあったわけだ。
その場合は302年と判断することになるの?
新しい発見があるたびに年代推定の精度が上がるというならわかるが、
年代が何十年も変わってしまうというのは
そもそも手法に問題があるんではないか?
>その場合は302年と判断することになるの?
されない。
その木製品が302年に伐採された木で作られた物だと判断されるだけ。
現代でも室町時代や江戸時代の茶碗があるお宅もあるでしょ。
それと同じ。
須恵器の場合は陵が完成された時期のものなので時代がわかる。
須恵器は陵が完成されたも時期のものであり、
笠形木製品が100年も前の古木を使ったものであるというのが、
なぜわかるのですか?
>>698の続き
ついでにいえば須恵器の方が茶碗に近いですが。
この時代は陵が完成されて埴輪で飾られるね。
須恵器も飾られるためか祭祀のためかは分からないが、
陵が完成された時代でしょ。
笠形木製品は、ただ302年の木だと判断されるだけ。
残念だがあきらめろ。
それでもあきらめきれないなら、
橿原考古研でも歴博にでもいいから電話して抗議でも何でも勝手にしてくれ。
>>687 応神天皇
西暦355年生まれ
3歳で即位。
43歳没
464年110歳で埋葬
至って仏運sの波誰でも判る。
>>701 × 至って仏運sの波誰でも判る。
○ 至って普通誰でも判る。
703 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 18:05:09.60
70年後に埋葬か、
よく記録が残っていたもんだな。
>>703 おまえは日本書紀というありがたーい書物があるのをしらんのか。ヴゥワ〜カ
>>700 この笠形木製品も陵に飾られたものだと思いますが。
少なくともその可能性は高いでしょう?
たいした根拠はないけどそう思うということですか?
(要するにほかに証拠はないということですか?)
>>705 笠形木製品も陵に飾られたものかもしれないね。
ただ302年伐採の木を使ってると言う話。
何が疑問なのだ。
707 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 18:22:38.08
>>704 日本書紀って、西暦400年台にあったのか?
>>706 たとえば
>>693は祭祀に古材は使わないだろう、といっています。
笠形木製品も古墳に並べたものなら祭祀みたいなものではないですか。
第一、100年も前の古材をわざわざ古墳に並べるために加工する、
というのが通常考えにくいのですが...
そういう例がほかにもあるのでしょうか?
それとも大部分は新しい木材を使い、ごくまれに古材を使ったのだが、
出土したのがたまたま古材だったというのでしょうか?
非常に確率の低いことがたまたま起きた、ということでしょうか?
年輪年代の推計を間違えました、という方があり得そうにも思います。
>>707 このスレのすぐ上の方でどつき合いの喧嘩をしているのを読んでいないのか?
>>676 ← このスレのURLへジャンプ。
>>708 >第一、100年も前の古材をわざわざ古墳に並べるために加工する、
>というのが通常考えにくいのですが...
そうかもね。
笠形木製品は応神天皇陵の年代特定に意味がないと思ってるのでどうでもいい。
あくまで「年輪とかAMSの手法を使えばこういう年代が出ました」という結果だけ。
ただまあ、百年違っても正直に出すあたり(まあ当たり前だが)
逆に学問的には信用できそうだが。
もし本当に恣意的にデータを操作してるなら、
そんな結果はわざわざ公表しないだろう。
年輪もまだまだ精度の面で疑問符がつくが、
それでも他に実年代を測る方法がないんだから、仕方がない
(最近、新たな方法が発表されたが)。
土器編年はあくまで前後関係しか分からないし。
712 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:30:27.10
ものさし年輪年代法ww
>>710 年輪年代から遺跡の年代を推計する、という方法自体を考える上では、
想定外の結果が出たものこそ精査する必要があると思うんですがね。
>>711 には全面的に同意します。
年輪年代で推計する際には、その精度や信頼性についても
きちんと付記しておく必要があると思います。
その点、炭素年代は信頼できる方法だと思います。
ピンポイントで特定はできませんが。
想定外の結果が出た時の「精査」って、かなり怖い言葉だと思うが。
辻褄が合うように捏造することに繋がりそう。
理屈に則って、出た結果はそのまま出す。
その後、修正するのは他の方法で、だろう。
「精査」というのは、想定外の結果が出た場合に、その原因を究明し、
理論化することです。
たとえば、天王星の説明できない動きから海王星を予測し、発見したように。
逆に言えば、どのような場合に、どの程度年輪年代と遺跡(や同伴土器)の年代が
乖離するかが理論化できない限り、自信を持って年輪年代から
遺跡(や同伴土器)の年代を推定できないことになります。
(その場限りの理屈では、結局恣意的であることから逃れられません。)
716 :
ローガン:2013/06/17(月) 23:20:29.47
>>715 >自信を持って年輪年代から遺跡(や同伴土器)の年代を推定できないことになります。
木の伐採年が判るだけなんだが。なんで木の伐採年しか判らないものに、
「自信を持って遺跡の年代を推定」させなくちゃいけない理由は何?
717 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 03:02:26.63
ローガンとやらの読解力はいささか貧しいようだが、いかがいたしたのか?
718 :
ローガン:2013/06/18(火) 15:58:33.68
>>717 あはは。返答出来ずに中傷かい。見苦しいなあ。
さて
>>708に、
>たとえば
>>693は祭祀に古材は使わないだろう、といっています。笠形木製品も古墳に並べたものなら祭祀みたいなものではないですか。
とある。でその
>>693には
>普通、祭祀に古材を使わないだろうし、新材を祭祀のために切り出したと考えられる。
とあり、これだけに基づいて
>>708は、
「『祭祀みたいなもの』には新材しか使わない」 を真として話を進めている。
しかし、
>>693のは、単なる個人の想像。このようなものは、何の根拠にもならんことは明白。
よって
「『祭祀みたいなもの』には新材しか使わない」 を勝手に真だとして、いくら陵の推定年代と傘形木製品年輪年代の乖離 云々述べた所で、全く意味が無い。
勿論、「『祭祀みたいなもの』には新材しか使わない」 は偽である。
また、再三述べた通り、伐採年しか判らない年輪年代法の数字のみを根拠に、遺跡の年代を確定している訳では無い。ゆえ、
>自信を持って年輪年代から遺跡(や同伴土器)の年代を推定できないことになります。
は、無知からくるトンチンカンと言う以外にない。
719 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 16:41:23.58
>>718 ぬるい反論だが、「推定できる」 とはいわんのね。
720 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 17:01:35.75
>>718 >「新材しか使わないというのは誤りだ、新材も使えば古材も使う」
だから導かれる答えは、
木製品では年代はわからない、だな。
412年のヒノキ材も古材で、実際には百年くらいあとで
築造されたかもしれないからな。
少なくとも木材でわかることは、
300年以降で、あとはいくらでも時代を下れるということ。
おおよその推定はできるだろ。
須恵器の編年もおおよそ整いつつあるわけだし。
>>721 憤頂で埋葬時の祭祀に使われた物であれば新品であると考えやすいが、
周辺部の装飾とかは造られてから時間が経っていると言う考え方もあり得る。
>周辺部の装飾とかは造られてから時間が経っていると言う考え方もあり得る
古墳が完成した時期と被葬者が埋葬された時期にはズレがあるかもしれないが、
周辺部の装飾は古墳が完成した時期だろう。
須恵器がTK73ならおおよそ5世紀前半となる。
724 :
ローガン:2013/06/18(火) 17:42:01.43
>>720 >少なくとも木材でわかることは、
判ることは、あくまでも木の伐採年なんだよ。遺跡や遺構の年代推定を全て、年輪年代法に付託した訳じゃない。
「使用するのは、全て新材」なんて勝手な前提を設けた上で、
「同一遺跡で、年代にバラつきが出るのは年輪年代法の標準パターンに誤りがある。」
「誤りがある以上、年輪年代法では遺跡や遺構の年代推定は出来ない。」
なんてのは、無知以外の何者でもない。
725 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 18:18:37.16
やはりローガンとやらは、他人のカキコの言わんとするところを理解できてない
他人のカキコと同じ趣旨を述べながら、(彼のは)無知以外の何者でもない、とか意味不を叫んでるな
たまにBSで古いドラマが放映されてるが、
画像の鮮明度、俳優の服装や髪型、街を走ってる車、
これらでだいたい時代が分かるね。
考古学もこれと同じで何も木材の年輪だけでどうこう言ってるわけでなく、
須恵器などの土器、鐙や杏葉も含めた馬具、墓制や石室、
これらが相関関係にあるわけで、
これでおおよそ時代が判明する。
昨日から、なんとか古墳の時代をずらそうと粘着してる人がいるが、
いい加減分かってくれ。
727 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 18:38:22.87
でも、4世紀後半と推定されていた古墳が、
3世紀後半になるんですよね?
>>727 4世紀後半と推定していた人が古くて間違ってただけ。
>>723 それを応神について言っているのなら、5世紀前半だと埋葬のかなり以前の制作。
>>729 464年110歳で埋葬なんて信じてるなら君の頭がアレだ。
731 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 18:48:44.89
>>726 だいたい、とか、おおよそ、とか、蓋然性、とかの緩い基準でしか年代を決定できず、
4世紀後半だった古墳が、年輪年代で3世紀後半になったとたんに、
年代を絶対視するのはなぜなの?
3世紀後半という年代もゆるい基準でしかないのではないの?
また、100年くらい平気で変わるんじゃないの?
>>731 変わらない。
上の方で言ったが、中国遼寧省にある馮素弗(415年没)墓から出土した、
木心金銅張輪鐙が、大阪府の七観古墳や滋賀県の新開1号墳から出土している。
須恵器のTK73の時代。
これが定点となる。
733 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 19:00:03.83
>>728 畿内説は延々とそれを言い続けると思う。
つまり、仮説を立てて破綻し、また新しい仮説を立てる。
反省することなく、前の説については、そんな考えは古い、で済ませる。
734 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 19:00:51.26
>>732 でも、もちろん、この木製品は古くなってから、
木製品が作られて数十年後に
周濠に捨てられた可能性もあるよね。
新材とはかぎらないよね?
>>730 宗教ではないので信じるとか、信じないとかの問題では無いと思うが?
>木心金銅張輪鐙
ググればかなり出てくるが、
馮素弗のものと似ているが相違点もあり、
かならずしも同時代とはいえない。
また、古い木製品を捨てた可能性もあるので、
相変わらず、ゆるい基準でしかない。
>>736 >馮素弗のものと似ているが相違点もあり、
>かならずしも同時代とはいえない。
鐙は1期と2期の時代が別けられてる。
いい加減あきらめろ。
ここで言い張ってもなにも変わらない。
738 :
ローガン:2013/06/18(火) 21:21:42.62
>>725 君はまるでわかってないなあ。
私の
>>724の
>「使用するのは、全て新材」なんて勝手な前提を設けた上で、…
以下は明らかに
>>715の
>自信を持って年輪年代から遺跡(や同伴土器)の年代を推定できないことになります。
に対するもの。
年輪年代法だけで遺跡の年代推定をしているというミスリードをした上で、
勝手な新材前提を設け、伐採年が同一でない資料の存在から、年輪年代法に基づく現状の年代観は間違いだ。と云いたい訳だ。
これを私は、恣意的な意見と取らずに、「無知」と善意に解釈してあげたわけさ。
739 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:31:13.16
ローガンにとっては、自分の信じている年代観が絶対的な真実なんだ。
だから、年輪年代の結果がそれと異なれば、年輪年代が間違っている。
土器編年もC14も全部こんな感じ。
年輪年代で年代が変わったなんてことは信じない。
705=708=713=715 です。
ちなみに715以降は私のレスはありません。
これらの一連のレスで言いたかったことは、要するに
年輪年代から遺跡や遺物の年代を推定する方法が
確立していないのではないかということです。
つまり、
>>692で年輪年代から遺跡の年代を知る方法あるかとの問いに対し
>>693が祭祀に使うものなら新材ではないかとの仮説を提起したので、
>>708でそれでは矛盾が出るのではないかと示したわけです。
これはいったん仮説を採択した上で、棄却することで
元の仮説が正しくないことを論証しているわけです。
これ以外に特に年輪年代から遺跡の年代を推定する方法を述べたレスはありません。
ローガン氏は年輪年代だけで遺跡の年代推計はできない、
といっているので、まさに同じことを言っているわけです。
(
>>725氏の言うとおりです。)
まあローガン氏は卓越した知識と常人には理解できない超越した
洞察力がおありのようなので、遺物を見るとたちどころに
蓋然性が最も高い年代推定ができるようですが、
一般人は、年輪年代を、遺跡や遺物の年代推定の決め手ではないか
と考えているわけで、年輪年代で遺跡や遺物の年代推定が
行えるかどうかはきわめて重要なテーマだと思います。
741 :
紫敷布:2013/06/18(火) 23:19:14.08
>まあローガン氏は卓越した知識と常人には理解できない超越した
>洞察力がおありのようなので、遺物を見るとたちどころに
>蓋然性が最も高い年代推定ができるようですが、
ローガン先生ってすごいのね。
規制にあってレスできなかったんだけど、昔の話を蒸し返すけどご免なさいね。
△鏡の件ですけど、
先生は卑弥呼が魏から貰った鏡がコピー鏡のマスター鏡だと言われてましたよね。
マスター鏡が出土しているかどうかお尋ねしたら、コピーとマスターの区別が出来ないのでどれが
マスター鏡であるか言えないみたいなお返事でしたね。なんか変な感じね。
成分組成なり鏡の出来映えなりで分からないの?
それから、
卑弥呼は何処で魏の鏡を受け取ったのでしょうね。畿内で受け取ったと言えるかしら?
>>740 私はけっしてローガンの身方をするわけではありませんが(くたばれクソジジイ)、
この「年輪年代で遺跡や遺物の年代推定」するというのは原理的に無理だと思います。
従来のように、その木製品の外形や様式から判断するしかないと思います。
>>742 年輪年代で遺跡や遺物の年代推定を行うのが困難である、というご意見なら、
私も同意見ですが、それは、通説、あるいは学問的常識なのでしょうか?
たとえば、
>>463のリンク先は、素直に、年輪年代から須恵器の年代を
推定しているようですが。
>>742 >木製品の外形や様式から判断するしかないと思います
木製品の編年なんて聞いた事ないが。
それはともかく時代を判断するには【基点】が必要だね?
それが何かという話でしょ。
須恵器のTK73は年輪年代と馮素弗(415年没)墓と同系の鐙が基点になる。
基点が2つほぼ同時代を示してる。
何も年輪年代だけで時代を計ろうという話ではないのです。
>>743 通説、あるいは学問的常識等ではなく、ある木製品の年代はその伐採年を遡ることはあり得ないという基本原理なのですよ。
>>744 年輪年代と馮素弗(415年没)墓と同系の鐙が基点になる。
これも怪しいという話が既に出ているわけで・・・・
>>746 ただイチャモン付けたい人には何でも怪しく見えるだろうね。
何の基点もない従来の土器編年に戻すなんて大笑い。
「この土器の期間はだいたい100年だろう。
4種類あるから等分に割ってみよう。」
こんな学者の何となくの勘に頼るふざけた話に戻せというなら、
どうぞ勝手に戻ってればいい。
750 :
ローガン:2013/06/19(水) 01:22:52.69
>>739 >だから、年輪年代の結果がそれと異なれば、年輪年代が間違っている。
伐採年の数字が間違いだといつ述べたかね? これだから幼稚な奴の相手は疲れる。
>>740 >年輪年代から遺跡や遺物の年代を推定する方法が確立していないのではないかということです。
誰一人、「出来る」とも「目指す」とも明言していないであろう
「年輪年代から遺跡や遺物の年代を推定する方法の確立」
について、「確立していないのではないか」と問われたら、質問自体が、結論先取りした恣意的なミスリード もしくは無知と判断する以外に無い。
で、私は無知だと善意に解釈してあげたわけだ。
>一般人は、年輪年代を、遺跡や遺物の年代推定の決め手ではないかと考えているわけで、
自分の意見が一般的だと主張したいようだが、残念ながら専門家であれ一般人であれ知り得る数字は同じ。単なる資料の伐採年だ。
君を除くまともな一般人は、勿論周知。
さて「決め手になるはずなのに、同一遺跡で伐採年に乖離がある。よって年輪年代法 自体が疑わしく、使える数字ではないので、それを論拠とする年代観は誤り」と述べたいのはわかるが
残念ながら、否定したい相手が存在しなかった訳だ。 やり直し。
751 :
日本@名無史さん:2013/06/19(水) 01:46:02.11
ローガンとやらは、やや長い文章になると全体を把握できず、とりあえずその一部分だけに反応してるようだ。
もはや。。。
752 :
ローガン:2013/06/19(水) 02:01:17.29
>>741 なぐさちゃん
>コピーとマスターの区別が出来ないのでどれがマスター鏡であるか言えないみたいなお返事でしたね。
踏み返しだと、判る鏡はある。銘の字がズレて二重になってたりとか、
押し付けた粘土を加熱すれば収縮する訳だから、同じ型で面径が違えば、踏み返しと判断出来る。
また、表面の皺(傷)。同型の同じ箇所に同じ皺がある場合も、踏み返しと判断可能。
皺が鋳型に由来するものなら、連続使用すれば、あとの鏡の皺は進行するから、進行していない「同じ皺」なら踏み返しの関係を考えるのが妥当。
コピーの存在は明らか。当然マスターが無きゃコピー出来ない訳だから、マスター鏡の存在は言うまでもない。
どれがマスター鏡か?の特定は意味の無い話。
753 :
日本@名無史さん:2013/06/19(水) 02:21:10.97
ということは、そもそも意味のないネタで堂々巡りとおもいますけどね。。。
754 :
ローガン:2013/06/19(水) 02:49:07.32
>>751 おや、返信のようだ。(笑)
>>740 「つまり、
>>692で年輪年代から遺跡の年代を知る方法あるかとの問いに対し
>>693が祭祀に使うものなら新材ではないかとの仮説を提起したので、
>>708でそれでは矛盾が出るのではないかと示したわけです。
これはいったん仮説を採択した上で、棄却することで
元の仮説が正しくないことを論証しているわけです。」
ここに書かれた「仮説」とは勿論「
>>693が祭祀に使うものなら新材ではないかとの仮説」な訳だ。
さて、
>>708ではその仮説では矛盾が生じるので、棄却。
「元の仮説が正しくないことを論証しているわけです。」
ではその
>>708だ。
『たとえば
>>693は祭祀に古材は使わないだろう、といっています。
笠形木製品も古墳に並べたものなら祭祀みたいなものではないですか。
第一、100年も前の古材をわざわざ古墳に並べるために加工する、
というのが通常考えにくいのですが...
そういう例がほかにもあるのでしょうか?
それとも大部分は新しい木材を使い、ごくまれに古材を使ったのだが、
出土したのがたまたま古材だったというのでしょうか?
非常に確率の低いことがたまたま起きた、ということでしょうか?
年輪年代の推計を間違えました、という方があり得そうにも思います。 』
どこにも「
>>693仮説」の矛盾点を指摘していない。棄却どころか逆に、「
>>693仮説」に乗っかり、
「年輪年代の推計を間違えました、という方があり得そうにも思います。 」と結論付けている。
嘘をつくのはいかん。
>>741 卑弥呼は鏡なんか受け取れません。
卑彌呼以死大作冢
更立男王國中不服
復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王
AD247 政等以檄告喩壹与
卑弥呼が死んで、墓を作り、男王が立ち、国中服せず、宗女壹与が立った。ここまででだいぶ時間が経っているようです
その壹與に張政等が逢ったのが景初八年(AD247)。
つまり卑弥呼が実際に生きていたのは、倭人伝の時代ではなく、かなり以前の時代。
757 :
紫敷布:2013/06/19(水) 23:48:37.03
>>755 なにをおっしゃいますかあなた。
正始元年に梯儁らが卑弥呼に会いに来てるじゃないの。多分その時難升米らも同道してるでしょう。
>>752 ローガン先生
そんなことは分かりますのよ。わざわざ繰り返さなくてもいいのに、そこだけ強調してからに。
「卑弥呼は何処で魏の鏡を受け取ったのでしょうね。畿内で受け取ったと言えるかしら?」には
答えたくないのですか?
答え
>>757 正始元年は「拝仮倭王」であって、卑弥呼にあったとは書いてない。
759 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 01:54:34.29
>>758 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡−中略−
其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼:、帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米−中略−」
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
その年12月に卑弥呼は親魏倭王に任ぜられたので、これ以降は倭王と呼ばれることとなった。
正始元年の倭王とは、まさに卑弥呼の尊称である。
>>759 > その年12月に卑弥呼は親魏倭王に任ぜられたので、これ以降は倭王と呼ばれることとなった。
> 正始元年の倭王とは、まさに卑弥呼の尊称である。
実態をよく理解していない魏の側から見れば、形式的な手続きとしてはそうなるでしょうね。
それでは質問です:
卑弥呼が死んで、墓を作り、男王が立ち、国中服せず、宗女壹与が立った。
これにどのくらいの期間を必要とするのか考えたことがありますか?
761 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 06:11:54.71
>>760 正始元年の魏の皇帝からの証書は卑弥呼宛になっているわけで、
普通に考えれば、このときは生きていたのは間違いない。
梯儁は日本に来ているわけだから、それくらいはわかるはず。
正始八年には、狗奴国との不和で互いに攻撃し合っている状況を説明するために
遣使しており、このときも卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の不和が書かれているので
生きていると考えるのが普通。
で、その報告を受けて帯方郡の太守・王キが張政を派遣したわけだが、
ここで、「卑彌呼以死」の記述となる。だから、卑弥呼が死んだのは
正始八年か九年。西暦でいえば、247年か248年頃。
この正始八年あるいは九年を基準に、それ以外のことは考えなくてはならない。
実は、正始十年には、魏では大異変が起きている。幼帝に代わって実権を
握っていた曹爽が司馬懿のクーデターに遭い、殺されてしまうのである。
台与の使者は、都の洛陽まで行ったと書かれているが、政変については
書かれていない。
762 :
ローガン:2013/06/20(木) 13:58:25.68
>>757 >そんなことは分かりますのよ。
では何故
「コピーとマスターの区別が出来ないのでどれがマスター鏡であるか言えないみたいなお返事でしたね。なんか変な感じね。成分組成なり鏡の出来映えなりで分からないの?」
と、質問したのかね?
>「卑弥呼は何処で魏の鏡を受け取ったのでしょうね。畿内で受け取ったと言えるかしら?」には
答えたくないのですか?
うん。
「どこで受け取ったか」なんて…仮に答えたところで、所詮直接の依拠となる史料の無い話。
つまらないし、だいいち、質問の主旨も不明。答える気にならない。
>>761 まず 日本と中国では政治制度が根本的に違う事を理解しましょう。
日本では”まつりごと”として政治と祭祀が併存していて、このうちどちらが上かというと、当然祭祀が上になる。
これに対して中国では祭祀というものは無い、あるいは道教のような物に変貌していて、政治とは無関係。
この時代 日本で祭祀を担当するのは壹與あるいは前任者の卑弥呼のように女性であるケースも多い。
中国人が「倭国では誰が一番偉い(世俗の王)のか?」のつもりでした質問に、倭国の側はそれよりも”偉い”卑弥呼の名前を挙げる事は当然と言えば当然。
この相互認識の食い違いを理解しないとこの時代の日本の状況は判らない。ちなみに 祭祀の担当者はかならずしも”本当に生きている必要”は無い。
つまり 80〜100歳とかいう年齢は本当に生きていると考える必要はないと言うこと。
> 梯儁は日本に来ているわけだから、それくらいはわかるはず。
正始八年に笠縫邑の磯堅城神籬にやってきた張政等も卑弥呼が既に”鏡の姿”になっていることに気づいていない。
梯儁が面会したのは、年代から考えて崇神の前の開化。
764 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 14:19:30.61
創作畿内劇場
765 :
紫敷布:2013/06/20(木) 20:19:29.95
>>762 ローガン先生
>では何故
「コピーとマスターの区別が出来ないのでどれがマスター鏡であるか言えないみたいなお返事でしたね。なんか変な感じね。成分組成なり鏡の出来映えなりで分からないの?」
と、質問したのかね?
何故って?知りたいからに決まっているでしょ。で、先生のレスが私の質問への答として立派なものだと思っていらっしゃるの?
「コピーがあるからマスターの存在は明白」で答になりますか?成分組成なり出来映えなりでマスター鏡であるかコピーであるかの判別はできるかどうかについては何も答えて
いないじゃないの。「マスター鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡だ」と断定するのなら「これがそのマスター鏡である」と示さなきゃ説得力ないんじゃありません?
>「どこで受け取ったか」なんて…仮に答えたところで、所詮直接の依拠となる史料の無い話。
>つまらないし、だいいち、質問の主旨も不明。答える気にならない。
あらら。畿内説をとられる先生が「卑弥呼は魏からの鏡を畿内で受け取った」とは言えないのですね。それはそうでしょうね。卑弥呼が九州の邪馬台国で受け取った鏡が畿内
へもたらされてそこでコピーされた可能性だって否定できませんからね。それに、△鏡のマスター鏡は卑弥呼が魏から貰った銅鏡百枚のどれでもないという可能性だって否定
できませんものね。
日本の前期古墳から中国製の小札革綴冑が10数点出土してる。
九州からは1点で後は全て畿内。
これは中国と通交してた主体が畿内であることを意味してる。
このように考古学的には九州説は成り立たない。
この小札革綴冑が空白の4世紀に日本に来たとは考えられないので、
3世紀後半の台与の時代だとすれば整合性がある。
767 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 01:21:05.35
>>766 畿内は予算豊富で到るところ掘り返してるからなあ。
それにくらべ、九州の調査済みは10分の1くらいのものだろう。
適当に調査して埋め戻し、今は新興住宅地の下になってる弥生の大鉄工房遺跡もある。
また古墳や古代都市は、中世以降の城や都市になったままのところが意外に多い。
いわば、古代の上に中世〜現代が乗っかったまま。
これも九州の特徴の一つのようだ。
>>767 大阪にもそんなところがあるぞ。
↓ 仁徳の高津の宮
↓ 高津神社
↓ 石山本願寺
↓ 秀吉の大坂城
↓ 家康の大坂城
↓ 現代の大阪城
769 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 03:10:57.11
770 :
ローガン:2013/06/21(金) 15:21:31.04
>>765:防水敷布
>何故って?知りたいからに決まっているでしょ。で、先生のレスが私の質問への答として立派なものだと思っていらっしゃるの?
立派かどうかは知らんが回答としては充分なものだ。
>「コピーがあるからマスターの存在は明白」で答になりますか?
なる。その理屈が判らない方が変。
>「マスター鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡だ」と断定するのなら「これがそのマスター鏡である」と示さなきゃ説得力ないんじゃありません?
理路が理解出来ない人を 説得するつもり無し。
>卑弥呼が九州の邪馬台国で受け取った鏡が畿内へもたらされてそこでコピーされた可能性だって否定できませんからね。
九州も倭国なんだから「どこで受け取った」なんてどうでもいい話。
それに「他の可能性を否定出来ない」なんてのは、最も幼稚な言い草。
極論すればどのような可能性だって完全否定なんて無理。要は蓋然性の多寡なんだ。
しかし、君はどうも「他の可能性を完全に排除出来ない限り、その件に関する事には一切言及すべきではない」 というスタイルのようだ。
よく覚えておくよ。
>>767 >畿内は予算豊富で到るところ掘り返してるからなあ。
>それにくらべ、九州の調査済みは10分の1くらいのものだろう。
そんなことはない。
前期古墳の絶対数が違う事を無視しちゃだめだよ。
772 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 18:31:47.73
いつだって畿内の切り札は前期古墳だな。
考えてもみられよ、前期古墳や中国製の小札革綴冑は天から降ってきたのではない。
九州には、それらの全段階とも言うべき弥生鉄工房という貴重な遺跡がほとんど手つかずで眠っている。
大陸半島からの鉄文化・鉄産業・鉄製品の導入の道こそ、古代ヤマト王権を解き明かすカギであろう。
>>772 >九州には、それらの全段階とも言うべき弥生鉄工房という貴重な遺跡がほとんど手つかずで眠っている。
小札革綴冑はその前段階が日本にないのだ。
やっと木製の甲冑から鉄に移行しはじめた時期に、
あんな精密な冑がいきなり日本に登場した。
だからこそ中国製であろうといわれてる。
774 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 20:24:23.08
>>773 それにつけても北京から航空便で大和へ直送したわけではあるまい
どの道、九州を経由し、途中の関所ではなにがしかの徴税もあったであろう
そのことだ。
>>774 >途中の関所ではなにがしかの徴税
そんなものないよw
776 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 20:33:30.13
>>775 関所が無かったら無かったで、ではどのようにして途中の安全を確保したのか?
支援してくれる沿線の国家群というものが必要であったであろう。
このことを考慮せずして、
九州〜瀬戸内は後進国だ、大和だけ突出の先進国だと言っても、説得力はない。
>>776 あのな、前期古墳は北部九州から関東にまであるだろ。
畿内発祥の土師器が九州にも出るだろ。
つまり同一文化圏だ。
「関所でなにがしかの徴税」って何だよw
>>776 何が言いたいのかわからない。
例えば、須玖岡本王墓の主の手元に集められた前漢鏡も、当然、大陸から飛行機で輸入されたわけじゃない。
対馬、壱岐、玄海灘沿岸諸国を経由してもたらされたものだ。
貴方が当時の社会をどのようにモデリングしているのかわからないけど、
大陸伝来の高級品が、一人の人物の手元に集約されるシステムが、北部九州に成立していたことにはなる。
こういったシステムが、古墳黎明期以降に西日本全体に拡大し、その集約点が畿内大和だと言うだけの話。
貴方が、何を否定して、何を肯定したいのか、はっきり書いて欲しいと思う。
いやまあ、瀬戸内海は海流が早く、水先案内人が必要。
神武伝承にも書かれている。
瀬戸内海航路って、日本史全体を見ても、
物流の大動脈で、ここを抑えた勢力が台頭するを繰り返してる。
で、島も多いから海賊が多く出没した。
瀬戸内海航路の安全を保証できる政治権力があれば大丈夫だが、
その権力が衰退すると、途端に海賊が大量発生し、通行不能になる。
海賊に通行税を払ったり、護衛に雇ったりのコストがかかり、
大陸からの交易路が遮断されてしまう。
弥生後期に畿内や東海で大陸文物が入ってこなくなるが、
そのコストパフォーマンスの高さの所為だろう。
で、弥生終末期になって、それまでせき止められていた瀬戸内海航路が、
畿内王権の誕生によって突然開放され、一気に大陸文物が流入する。
中国の船が瀬戸内海を通過したことなんて歴史上あったか?
2世紀後半には大陸から畿内に来る物資(特に鉄)は北部九州経由ルートから山陰出雲地方経由にシフトしてる
理由は複数あるが弥生末期の北部九州は戦乱が絶えず起こり物流が安定しなかったのが最大の原因
なんで中国の船?
畿内や九州とかの国内の船だろ。
西新町で買い付け、畿内や東海で売る。
日本海航路もおんなじ。
弥生後期、瀬戸内海航路が機能不全になったから、
日本海航路が重要視されるようになった。で出雲や丹後が勃興する。
その後、吉備楯築、畿内巻向のような、広域権力が誕生、
瀬戸内海航路の安全を保証して、同航路が息を吹き返す。
相対的に日本海側の出雲、丹後は没落する。
>>772 九州の鉄の充実は古墳前期を通じてなんだよな。
つまりは畿内王権誕生によって、政治の中心は畿内にシフトしたが、
鉄のそれはシフトしていないということ。
鉄の多寡がそのまま権力とイコールなんてことにはならない。
鉄は九州側の外交カードの一枚に過ぎないということ。
そう。
鉄だけでは商売つーか、富の蓄積に結びつかない。
所詮、輸入品なんだから、交易ルートが複数化し、独占状態が失われれば切り札では無くなる。
で、何で独占が崩れたのか、多分に供給源である半島側の事情が大きいんだろうね。
半島側の理由って、
要は後漢の衰退で、漢委奴国王以来の
玄界灘グループを長とした倭国体制が揺らいだためだよな?
その後、遼東の公孫氏が台頭し、朝鮮半島や倭国がそれに靡く。
畿内は新興の公孫氏と結びつき、筑紫を介さず鉄やら画文帯とかを輸入し出した。
>>786 >九州の鉄の充実は古墳前期を通じてなんだよな。
>つまりは畿内王権誕生によって、政治の中心は畿内にシフトしたが、
>鉄のそれはシフトしていないということ。
>鉄の多寡がそのまま権力とイコールなんてことにはならない。
前期古墳のホケノ山、椿井大塚山の発掘で、
大量の鉄器が出土し、以降、畿内が九州を上回ったはずだ。
やはり権力のあるところに鉄は出る。
今までの発掘実績からいうと弥生時代後期は圧倒的に九州の遺跡が多かったんだが
ここに来て淡路島から鉄器製造群落遺跡の「五斗長垣内遺跡」が発見されて
九州=大量鉄 の概念が崩れ去りつつある
古墳時代に入ると、山陰で製鉄が始まる。
それと同時に九州の鉄の独占は崩れる。
諸説あるが山陰での製鉄はおおよそ5世紀後半あたりだろ。
それまでは半島南部・伽耶と関わらざるを得なかった。
山陰での製鉄の前に、
山陰経由の大陸への航路が確立したかもしれない。
4世紀以降明らかに山陰での鉄の出土が増えている。
はじめはその航路で鉄を輸入し、
さらにその航路を使って、山陰へ製鉄ができる職人が
入ってきた可能性はある。
恐らくは九州が鉄を独占しており、
九州を経由せずに、鉄を入手できる航路が欲しかった。
また、それでも壱岐、対馬航路は九州勢に押さえられた、
危険の大きい航路であり、
国産の鉄を作る方法を手に入れる理由があった。
>>793 何で畿内と九州を分離させ対立までしていたかのような発想するのだ?
古田の影響か?
遺物を見る限り同一文化圏だよ。
同一文化圏かなあ?
少なくとも墓跡なんて、九州内でも結構バラバラなのに・
福岡平野の3世紀の那珂八幡古墳から5世紀の老司古墳まで、
畿内とどこが違うのか逆に聞きたい。
甲冑などの武具までが関東を含めて同一だし。
磐井の墓の石人は畿内にはないが。
細かい地域性の違いをあげたらキリが無いが、概ねは同一文化圏だろ。
九州の文化は、三韓よりは本州のそれに近い。
ただし、九州島内でも場所により濃淡があり、博多湾から日向までの東九州と
西、南、内陸九州とでは、親縁度に開きがある、
と、言うくらいの感じでいかがか。
赤塚や松木の本を読む限り、弥生後期はかなり違う文化が
モザイク状に広がっていたみたいだが。
後世の国郡里でいうところの郡レベルのクニが日本中にあって、
それらが緩やかに連合していき、倭王権になったという。
弥生後期は例えば円形周溝墓、方形周溝墓、台形墓、四隅陸橋周溝墓なんてのもあって、
墓制は地域によってそれぞれ違うみたいだね。
ただ古墳時代以降は前方後円墳によって同一と見なされるだろうね。
熊襲は別としても、畿内と対抗する「九州勢」って何なんだって話だ。
前方後円墳作ってた時代に、
それを超えるような円墳作ってたりしてるんで、
墓制の強制や、文化の均質化は考えにくい。
前方後円墳が良ければそれを作り、
気に入らなければ、先祖代々を作るって程度じゃないかね。
>>800 作れる地位というのはあったと思うよ。
畿内の大王を越える古墳はできないだろう。
吉備の造山古墳は5世紀前半という巨大墓が全盛だった時で、
結果的に大王墓を超えただけ。
そもそも弥生終末期に突然、倭国全体を包摂するような超巨大統一王権が生まれた訳じゃない。
実態は、吉備や筑紫、讃岐、播磨などの首長連合が王を立て、
その王が倭国の代表、倭王に選ばれたということ。
>>802 そもそも弥生終末期に突然、倭国全体を包摂するような超巨大統一王権が生まれた訳じゃない。
それがね〜 突然生まれたみたいなんですよ。
崇神紀七年
命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物・・・・・・
為祭倭大国魂神之主。然後卜祭他神、吉焉。便別祭八十万群神。仍定天社。国社。及神地。神戸
日本各地の物部系の人々を笠縫に集めて大がかりな祭祀の準備をさせた。ここで物部系というのは、吉備や筑紫、讃岐、播磨などの首長連合とほぼ同義。巻向出土の土器の地域ともほぼ同じ。
そして日本中の神々に対する祭祀を行った。つまり祭祀権を掌握したと言うことはその下にある統治権も掌握したという事ね。
この祭祀は大殿祭(おおとのほがい ← 検索)と呼ばれる物のようで、つまりこの祭祀に招請されたのが張政等であり、その様子が倭人伝に記述された邪馬台国での状況と言うことになります。
>>803 面白いけど、それ崇神の時代に疫病が流行って大物主(大国主)の祟りではないかと怖れたって話だね。
3世紀後半から4世紀前半で卑弥呼の時代から少しずれてると思う。
崇神が何故に大物主の祟りを怖れたのかと言えば、
大物主の娘(あるいは孫)のヒメタタライスズ媛と神武が結婚する。
その後も3代天皇まで大物主系の女が皇后となってる。
その大物主系から皇位を簒奪したのが物部氏だ。
そして物部の伊香色謎命から崇神天皇が産まれた。
大物主から皇位を簒奪したという罪意識が大物主を怖れた最大の理由だと思う。
>>804 なんで AD247年の出来事が3世紀後半から4世紀前半になるんだ?
それにここでは大物主なんか関係ないぞ!
>>805 崇神をAD247年だと思ってるならそれでいい。
俺は、崇神陵墓と言われる行燈山や西殿塚が考古学的に4世紀前半だし、
崇神没を古事記干支で318年だと思ってるので時代が合わないと思う。
あなやの見識とは干支の一巡である60年ずれてると思ってる。
古代の年表を復元出来たとか、本気で信じてるなら、
こんなスレには書き込まず、世の中に問うなり何なりすればいい。
全く相手にされないと思うがw
誰が見てもおかしいものをどうして簡単に信じ込んでしまうのか。
>>808 これまで文献年代と、考古年代がどのようにいじくり回しても逢わなかったのが、
主要古墳の築造年代を含めて普通に一致していると言うだけのことで、
世の中に問うとか大きな声を上げて騒ぎ立てることではないでしょう。っっw
価値があると思う人は価値があると思い、無いと思う人は価値がないと思う。 それだけ
普通に一致も何もw
一致するように無理やり適当に合わした、の間違いでは?w
結局のところ、聖書の暗号やノストラダムスの予言と同じで、
古事記や日本書紀には「正しいメッセージが書かれてる」とか、
思考停止、信仰みたいなもの。
実際、記紀は間違いだらけで、その中に正しい記述もあるかも?
ぐらいのスタンスで読まないと。
同時代史料の倭人伝とは自ずと扱いが違う。
昔の事だから、かなり虚飾されたりしてるのは当たり前だとしても、
記紀はおおよその骨格の部分では正しいと思う。
津田学派から否定されたヤマトタケルにしても、
関東の東征の経路沿いに古墳があったりするので実在の可能性が高いと思う。
また崇神の行燈山以前に纏向古墳群が存在することから、
欠史8代も実在の可能性が高いと思う。
(ホケノ山や勝山が欠史8代の墓だと言う意味ではない)
ただ日本書紀の紀年は神功皇后を卑弥呼に当てたために、
時代がもうむちゃくちゃ。
813 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 12:21:47.18
倭国大乱ってのは、考古学的に確認できるの?
814 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 12:47:36.56
欠史八代のうち、「孝」の付くお人達は
いわゆる神武天皇に協力した吉備の大王達ではないかと思う
関連の地方祭祀神社を見れると吉備が多い、だからそんな気がする。
>>813 鏃が刺さってたり、首がなかったりの凄惨な人骨が見つかってるから事実だろうね。
817 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 19:40:23.88
記紀の記述が概ね正しい、て大上段に言われてもなあ。
その根拠は何?って聞いた場合、答えはどうなるんだろう?
わざわざ嘘を書く筈はない、とか、
嘘を書いたら他の豪族の反発、世間か納得しないとかか?
少なくとも同時代史料でないことは大きい。もっと記紀は疑わないとと思う。
邪馬台国の時代とか記紀編纂から五百年前だし、
ろくに文字もない時代なのに正しく歴史が伝承されていると考えられるのは、
祈りにも似た希望的観測だろう。
記紀批判をすると直ぐに左翼思想と結びつけられるが、
文献史学で五百年後に編纂された史料を有り難がるとか普通はないからw
今のように新聞も本も雑誌もネットもなかった時代には、
神話伝承の意味合いははるかに大きかっただろう。
今の時代感覚で昔を語るな。
いなかった人間をいたようには創作できないだろう。
神話ってのは、世界の成り立ちを物語り、
更にはその文化圏のルールやら、タブーなど、
なぜそのようなものが生まれたか?
を構成員に納得させるための装置なんだよ。
神話を安易に史実と考える方がナンセンス。
少なくとも、記紀で史実として考えられるのは神武以降だし、
アマテラスは、とかスサノヲとかは記紀編者ですら、
あくまで神語りで、史実としては捉えてなかっただろう。
まあ、神武以降も出鱈目多いんだけどねw
>記紀で史実として考えられるのは神武以降
ならばそれでいいではないか。
神武にも祖先がいたのだし、
ならばアマテラスやスサノヲを実在と考えてもいいではないか。
821 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 20:35:53.47
>>817 記紀が正しくなかったら、ほかに何を根拠に日本の古代を考えればいいのか、
ということになる。
時々、考古学で古代史を考えるなんて人もいるが、記紀に登場する固有名詞
なしでは考古学は何も出来ない。
記紀に書かれている人物名や出来事を全く使用せずに歴史を考えられるのかということ。
結局、考古学の名の下に都合よく記紀を曲解しているだけ。
私は神武が実在とは思ってないのであしからずw
マキムク王権の誕生を見る限り、元々はローカルな始祖伝承、
三輪山の神の子がマキムクで王朝を開き、初代大王になった。
みたいだったのが、マキムク王権の版図拡大により倭国全体を包摂、
説明出来る各部族共通の始祖が必要になって、
創作されたのが神武。
日向出身とか本気にしてる方がどうかしてる。
西都原の古墳はマキムクをさかのぼらない。
823 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 20:46:42.71
東征が畿内が日本第一の大勢力となった後の出来事と仮定すれば
マキムクを遡る必要は無いですな。
ナガスネヒコの強力な反撃に遭って一時撤退したことからも強大さは分かる。
ニギハヤヒが徹底抗戦を主張していればどうなったか分からない。
>>822 >マキムク王権の版図拡大により倭国全体を包摂、
>説明出来る各部族共通の始祖が必要になって、
>創作されたのが神武。
神武は纏向あたりに痕跡があったか?
奈良西部だろうに。
あと神武と前方後円墳は繋がらない。
したがって西都原が纏向遺跡より後の時代でもだからどうなんだという話。
記紀を信じなかったら、一体何を信じたらいいの?
と不安になる気持ちは分からなくはないw
日本文化の成り立ちを知る上で、記紀が外せないのも分かる。
それでもさ、記紀(特に神話部分)を安易に史実と見るのは
学問的態度ではないと峻別しないと。
特に部族連合、神話や始祖王伝承を共有化して生まれた倭王権を考えるに、
神話部分やら始祖王伝承は何度も作り替えられてると考えるべきだろう。
例えば、隼人を併合した後の大和朝廷が編纂した歴史書の神話部分では、
大和と隼人は弟兄の関係にあるとされる。
日本が日朝同祖論を主張し出したのも、韓国併合への流れと不可分ではない。
むしろ理論的主柱と機能した。
当時の政権の思惑で神話は書き換えられることもあると念頭に置かないと。
826 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 20:57:31.49
念頭には置いておるさ。常に。
朝鮮の件のように同祖で事足りるしそれ以上にしようとはしなかったのに、
東征して大和に侵入して初代天皇となった、などは作為にしてはやりすぎではないか。
>むしろ理論的主柱と機能した。
>当時の政権の思惑で神話は書き換えられることもあると念頭に置かないと。
ならば昔から反乱起こしてる蝦夷も取り入れればいいのにそうしていない。
全く説明になってない。
それと隼人の蛇行剣は畿内からかなり出土してる。
隼人が大和王朝に入り込んでいた証拠だ。
828 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:00:22.35
俗隼同祖説
>>823-4 ただまあ残念ながら、畿内王権の最初がマキムクなのは間違いない。
しかし記紀ではそのマキムク王権の前に、
神武やら欠史八代があったとする。その時点でかなり眉唾になってしまうんだよ、記紀は。
それじゃあ神武東征伝承とは一体何なのか?という話になるんだけどね。
>>827 それは蝦夷と隼人の服属度合いに差があったからだよ。
隼人は八世紀に大規模な反乱があって、その後は着実に同族化が進んでいる。
蝦夷はそこまで服属していない。九世紀以降を待たないといけない。
831 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:11:19.09
>>822 記紀には神武天皇についての詳しい記述がある。
ちょっと見てみたら、崇神天皇や応神天皇よりも多くの紙面を割いている。
これだけ詳しい記述があるのに、架空なんて言うのは理解に苦しむ。
まあ、本当は理解に苦しむなんてことはなくて、畿内説だから当たり前と
思っているわけだが。
九州は西の端で毛野の先にはまだまだ土地が広がっていることくらい知っておろうに。
なぜ毛野が西征した等の話も入れなんだ?
作り話なら東方大勢力の毛野と筑紫か日向が西征東征先の大和で出合って
結婚してその子が初代天皇になったみたいな話にすればよかったのだ。
その初代天皇に畿内人の皇后を入れれば完璧なのにな。
>>829 >ただまあ残念ながら、畿内王権の最初がマキムクなのは間違いない。
そんなことは決まってない。
橿原考古研でもそう考えてる人は半数程度だ。
>しかし記紀ではそのマキムク王権の前に、
>神武やら欠史八代があったとする。その時点でかなり眉唾になってしまうんだよ、記紀は
何で「その前」になるのだ?
崇神を行燈山として4世紀前半とすれば、
欠史八代と、3世紀の纏向古墳群は同時代だろ。
ただ纏向古墳群が欠史八代の墓でないことが話をややこしくしてる。
王都は別にあったとしか考えられないし、
記紀に従えば葛城方面ということになる。
広域から人が集った痕跡を残している纏向がそのあたりの勢力の中心地
その勢力は日本最大だが各地に強制力を発揮するほどではなく各地は独自勢力のテリトリー
古墳でも纏向がパイオニアとなって日本各地の勢力が習って作っていったんだろう
何かが起こったとすれば仲哀天皇の死後からの長い空白期間っぽいな
なんか時代認識のめちゃくちゃな奴らが、メチャクチャなことを垂れ流してますな〜www
神武のころ大阪は海だったと意味することが記紀に書かれてるのは実在を示す強い根拠になるんじゃないか
記紀を編纂した時代の人は陸地になってる状態しか知らないから、伝承を文章にするとき
上陸の場所は半信半疑だったかもしれないが、今ではそれが正しかったと判明したわけだから
海というか草香江、日下江という湖があったよ。
838 :
日本@名無史さん:2013/06/26(水) 20:16:10.26
>>833 それじゃあ一体橿考研の半数は、マキムクの前の奈良盆地に王権はあったとしているんだ?
一体どこなの?
そもそもの立脚点として「記紀は正しい」があるからアウト。
記紀で神武や欠史八代の墓はどこにあると書かれてる?
間違いだらけと認めた上でないと、話が先に進まない。
>>838 時期的3世紀前〜中ならば邪馬台国と重なるよな。
ならば纏向が邪馬台国の王都かといえば、そう思ってる人は半数らしい。
>記紀で神武や欠史八代の墓はどこにあると書かれてる?
おおよそ畝傍山から御所・葛城 だよ。
ところでなんで欠史八代の墓は纏向になってないのだろうね?
纏向なら話は早いのだが。
>間違いだらけと認めた上でないと、話が先に進まない。
間違いとは決まってない。
ホケノは勝山を王墓と決め付ける方がよっぽど間違ってる。
840 :
日本@名無史さん:2013/06/26(水) 20:44:59.71
×ホケノは勝山
○ホケノや勝山
>>839 いやいや、マキムクが邪馬台国かどうかは議論があるが、
畿内王権の最初がマキムクなのは動かないだろ?という意味。
もうちょっとちゃんと読んで書いてよw
記紀を読んでみても、三輪山山麓に宮を営んだのは崇神以降だし、
奈良盆地にその前に王権は存在しない。
だから欠史八代は存在しないか、葛城や蘇我氏の先祖顕彰とされている。
842 :
日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:12:37.05
>>841 >いやいや、マキムクが邪馬台国かどうかは議論があるが、
>畿内王権の最初がマキムクなのは動かないだろ?という意味。
そういう人は多いけど幕府的な遺跡であってもおかしくない。
俺はそう思ってるが。
>記紀を読んでみても、三輪山山麓に宮を営んだのは崇神以降だし、
>奈良盆地にその前に王権は存在しない。
>だから欠史八代は存在しないか、葛城や蘇我氏の先祖顕彰とされている。
崇神以前の奈良盆地に王権は存在しないとはどういうことだ?
神武は橿原宮、綏靖は葛城高丘宮、安寧は片塩浮孔宮だが。
欠史八代はみんな奈良盆地だが。
>>842 幕府的な遺跡の意味が不明w
二重行政の意味だとしたら、百万歩譲って仮にそうだったとして、
朝廷的な遺跡はどこに見つかってるの?
そもそも二重行政なんて記述、君が盲信してる記紀にも書いてないのだが?w
ホントにからかい甲斐があるなあwこのバカ信者。
>幕府的な遺跡の意味が不明w
>そもそも二重行政なんて記述、君が盲信してる記紀にも書いてないのだが?w
ニギハヤヒの末裔の遺跡の可能性大。
崇神を産んだのは物部だろ。
何故物部は纏向にいたのだ?
>朝廷的な遺跡はどこに見つかってるの?
みつかってないから「ない」なら、
纏向遺跡発掘前は「なかった」のか?
845 :
日本@名無史さん:2013/06/26(水) 23:19:50.04
橿原神宮の下には何かが眠っている。
>>845 まあモグラとか蝉の幼虫とかイッパイ眠っているでしょうね。 公園としては素晴らしいところだ。
橿原神宮には何もないよ。
あるとすれば御所市柏原。
少し東に高市郡高取町「薩摩」という地名がある。
さらに東に吉備という地名もある。
偶然では済まされないだろう。
848 :
日本@名無史さん:2013/06/27(木) 00:15:51.15
日本書紀には、畝傍山の東南、橿原の地に宮を築いたと書かれている。
ところが東南と言ってもどれほどの距離感かが不明だ。
今よりはるかに人口が少なかったわけだから、
当然、今よりはるかに広い地域が橿原であったわけだ。
>>848 カシハラという地名はこの辺にたくさんあって、現在残っている樫原という地名に逢わせて明治政府がでっち上げただけ。
厳密な考証によれば 水平社博物館の横の神武天皇社の辺りが有力。
>カシハラという地名はこの辺にたくさんあって
ないよ、嘘言うな。
本居宣長が現地を訪れて柏原村(今の御所市柏原)しかないと言ってる。
852 :
日本@名無史さん:2013/06/27(木) 13:54:50.59
まあ、纏向に情熱を燃やす人は大勢いても、日本書紀に書かれた神武天皇の
橿原宮を掘ろうという人がいないのは確かだな。
橿原は皇紀2600年に掘られとるがな
畝傍山の麓に昔はカシハラという地名があったということ。
先数百年前の地名が江戸時代まで正しく伝えられてると考える方がおかしい。
>先数百年前の地名が江戸時代まで正しく伝えられてると考える方がおかしい。
柏原という地名は東大寺奴婢帳にも出てくる。
柏原でなかった場所が柏原になる理由の方が見つけるのはむつかしい。
地名は変わるだろ。
地名が変わらないとか、まずその訳のわからない思い込みをなんとかしないとw
857 :
日本@名無史さん:2013/06/28(金) 14:22:20.53
>>853 73年も前か。
>>856 日本書紀に書かれた地名は、今でもわかるものが多い。
たとえば、神武天皇が舟で到着したのは河内国草香邑青雲白肩之津。
草香邑というのは現在、日下という地名で残っている。
そのほか、紀伊国とか熊野、吉野、菟田(宇陀)などたくさん残っている。
858 :
日本@名無史さん:2013/06/28(金) 16:12:57.47
和名抄の地名は、現在でもほとんど分かるね。
>>856 訳のわからない思い込みはおまえだよハゲ
860 :
日本@名無史さん:2013/06/28(金) 23:50:37.06
「畝傍のカシハラ」が御所市とかないからw
本居宣長が言ったからとか、権威に簡単に騙されてしまう。
まあ、江戸時代では偉人と呼べるかもしれないが、
その後数百年の科学やら考古学、文献史学の発展を知らずw
江戸時代から思考が止まったままw
バカじゃないの?
>「畝傍のカシハラ」が御所市とかないからw
その御所市って区分は近代にできたものだね。
昔は畝傍ったって範囲は広かったはず。
たとえば今で言えば吉野って広いよね。
君ってアホ?
ほひへ
御所市と橿原市って、昔同じ郡だったこともないし、無理やり過ぎw
そもそもちゃんと地図を見たことあるの?w
高市郡の小山の畝傍を、葛城まで引っ張るとかw
>>863 だからお前がやるべきことは畝傍山の近くのカシハラという地名を、
和名抄でもいいし、古地図でもいいから見つけ出す事。
「ない」のに「あった」とほざくな。
橿原は桜井と葛城の中間にあるから意味があるんだろ
いやだからーw
葛城に「畝傍のカシハラ」は無いだろ?
葛城のカシハラを、「畝傍のカシハラ」とは呼ばねーよw
むしろ、カシハラが河内とかにも複数あるから、わざわざ「畝傍の」とつけたんだろう。
まともな思考ならそう考える。
「カシハラが河内とかにも複数あるから、わざわざ「畝傍の」とつけた」
のに、なんで
「葛城に「畝傍のカシハラ」は無い」
となるんだ?
「ない」のになんで畝傍のカシハラとつけたんだよ。
どこがまともな思考なんだよ。
君は「畝傍山の麓に昔はカシハラという地名があったということ」と
言ってるのだから、まずそれを証明する事。
はよやれやハゲ。
意味不明wwww
「畝傍の」とついてるのに葛城地方とか。普通はないからw
お前こそ、葛城地方に「畝傍」って地名を必死に探さないといけないんじゃないの?w
まあ、すでに今やってるんだろうけどw
なかなか見つからなくって大変なんだろうねw
>>867 地名が失われることもある。
平成の大合併とか現在でも起きてる事実なのに、まったく理解出来ない。
アスペルガーか何かかな?
そう言えば、このやり取り、前にも見た気が。
カシハラくんが逃亡して終わったんだよね、確かw
倭人伝に列挙されてる国名の殆どが失われてるじゃん。
一度地名が決まれば永遠に残るとかw
宗教か何かですか?w
だから「地名が失われることもある。」なら、
失われた事を証明しろって。
簡単だ。
繰り返すが、和名抄でもいいし古地図でもいいから、
畝傍山の近辺のカシハラを見つけ出す事。
出来ないのに偉そうに言うな。
パラノイアかおまえ。
874 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 16:16:57.00
>>874 西生(にしなり)って今の西成?
そんなに古い地名だったのか、驚いた。
じゃあ、倭人伝に大量に書かれてる国名を全部現代の地名に置き換えてみな。
まずはそこからw
何度も言うが、葛城地方を「畝傍の」って呼ぶ筈がないんであって。
御所市の柏原を「畝傍のカシハラ」と強弁するなら、
他にそう呼ばれた実例を示すとか、
他の他の地名でもいいから、葛城地域で「畝傍の」と呼ばれた実例を提示しろということ。
できねーだろ?
>>877 鳥越憲三郎
朝日新聞社
神武天皇は大和を平定したのち、橿原宮で即位された。
『日本書紀』によると、「夫(か)の畝傍山の東南、橿原の地(ところ)は、
蓋し国の墺区(もなか)の可治之(みやこつくるべし)。
すなわち有司(つかさつかさ)に命(ことお)せて、
帝宅(みやこ)をつくり始む」とあり、
『古事記』にも「畝火之白檮原宮に坐しまして天下治しめしき」と記している。
そのため畝傍山の東南麓に橿原神宮が建てられたが、
『日本書紀』の記す東南は西南を誤ったらしく、
実際の橿原の土地は畝傍山から約四キロメートル西南にある柏原村のようである。
本居宣長も明和九(1772)年の『菅笠日記』の中で
うねびやま見ればかしこしかしばらの、ひじりの御世の大宮どころ、
今かしばらてう名はのこらぬかととへば、
さいふ村はこれより一里あまりにしみなみ(西南)の方にこそ侍れ、
このちか(近)き所にはきき侍らず。
とのべているが、その柏原はいまの橿原市域ではなく、
御所市に属し、古くは柏原郷と呼ばれた。
天平10(738)年の『東大寺奴婢帳』に大倭(おおやまと)国柏原郷とあるもので、
そこには柏原造(みやつこ)の名さえみえる。
さらに「続日本紀」によると、その25年前の和銅6(712)年11月の条にも、
柏原村主(すぐり)の名がみえているので、柏原の地名は古い。
879 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 17:22:22.71
まぁおまえに鳥越さんの話を聞かせるなんて豚に真珠だがw
>>877 さぁ今度は君が大倭(おおやまと)国柏原郷以外のカシハラを畝傍山の東南に見つける番だ。
頑張れよ、ポン助。w
鳥越さんも、若い頃は結構無茶苦茶書いてたからなあw
神々の天皇の間で、欠史八代は実在とか書いててw
葛城王朝説とか。最近は全く相手にされてないが、
それがお前のタネ本なわけね。
鳥越さんの倭族の研究とかは割と面白く読んだが。
最近は全く相手にされてないのは津田学派だが。
津田学派によればヤマトタケルの存在なんて話にならない状態だったはず。
ところがヤマトタケルの東征沿いに綺麗に古墳が並んでるのは、
東征が事実であった可能性が極めて高い。
少なくとも日本書紀編纂時点で、御所のカシハラは葛上郡、
畝傍山は高市郡と郡が違う。
日本書紀編纂時かそれ以前でもいいが、
両郡をまたいで「畝傍」と呼ばれる地域が広域に広がっていたとかある?
それなら話は分かるが、残念ながらそんなことはないw
そもそも、日本書紀が間違ったとか、あくまで推測だしなw
本居宣長が畝傍山近辺にカシハラという地名を探してもないから、
仕方なしに遠方の御所市のカシハラを推定しただけ。
日本書紀の時点で、神武即位の地があやふやになっていて、
紀の編者が間違えたと考えた。
ただ、この考え方が危険なのは、自分に都合のいい部分は正しく、
都合の悪い部分は間違いと恣意的に判断できてしまうということ。
「記紀に書いてあることは正しい」「書いてあることが根拠」と主張しながら、
都合の悪い部分は「間違いです」w
記紀は間違いだらけだけど、その中には真実も書かれてるかも?
くらいのスタンスで、記紀と付き合わないと、学問ではなく単なる宗教になる。
>>881 >欠史八代は実在とか書いてて
昨年秋の新潟の城の山古墳の発掘で、
四道将軍の実在の可能性が高くなった。
ならば四道将軍の父親が孝元や開化であるので、
欠史八代も実在の可能性が高くなった。
稲荷山古墳出土鉄剣のオオヒコも証拠になるだろう。
>>884 >本居宣長が畝傍山近辺にカシハラという地名を探してもないから、
>仕方なしに遠方の御所市のカシハラを推定しただけ。
だからおまえが古地図で探し出せって。
見つけたら本居宣長も鳥越さんも間違えてたということだから、
君が大発見したということになる。
頑張れ。
おいおいw
ヤマトタケルのルートに古墳が存在するから実在って、どういう思考回路なんだよw
>>886 まあ、神武自体が伝承、説話文学の類だからw
宣長とか昔の鳥越みたいに、神武とか欠史八代が存在してると信じてたら
血眼になれるのかもしれないがw
ところで畝傍という地名が葛城地域まで広範囲に広がってたという根拠はまだ?w
>>888 何を質問返しでごまかしてるんだ。
書紀は東南と西南を間違えただろうという事だ。
間違えてないと言うなら、おまえが畝傍山東南にカシハラを見つけ出せ。
それで済む話だ。
どさくさに紛れて、欠史八代とかヤマトタケルまで実在と言い出したかw
記紀に書いてあることは正しいという原理主義者。
しかし神武の即位の地は、紀編者が葛城と畝傍を書き間違えたというw
>記紀に書いてあることは正しいという原理主義者。
記紀に東南て書いてるから東南だろうと言ってるのはおまえだがw
おまえが原理主義者じゃねぇかw
地名は絶対に消えないと強弁するバカには、
倭人伝の国名を日本国内の地名に比定する宿題を出した筈だが?
>>892 中国人が聞いた音訳なんて意味ないだろバカw
「記紀に書いてあるから正しい。記紀に書いてあることが根拠」
「でもこの部分は間違いね」
こんな恣意的なのが許されるなら何でもOKじゃない?w
合理的に考えられないバカなのか?
>>894 ゼロサム論のおまえの方がよっぽどバカだがw
神武が紀元前660年なんて誰も信用してないが、
だからと言って記紀を全否定してるのはたいがいバカだ。
信頼性何パーセントって考えられないのか。
>>893 じゃあニギハヤヒが降臨したというタケルガミネはどこ?
>>896 そんな下らないことはどうでもいい。
それよりおまえは崇神の墓をどこだと思ってる?
俺は行燈山か西殿塚だろうと思う。
ならばだ。
それ以前のホケノや勝山などの纏向古墳群は、
ニギハヤヒ以降の物部氏だと思ってる。
おまえはホケノや勝山などの纏向古墳群が誰の墓だと思うのか、
はっきりした意見を聞こうか。
>>895 いや、だから何度も書いてるが、
記紀だけを読んで、どの部分が正しくてどの部分が間違いかを判断するのは、
非常に恣意的になるということ。
複数の史料を比較して信頼性を確認したり、
同時代の文献を重要視するのが本来の文献学なんであって。
記紀を読んで、お前が適当に「この部分は正しい」「この部分は間違い」と
思いつきで言うのは単なる妄想。
>複数の史料を比較して信頼性を確認したり、
>同時代の文献を重要視するのが本来の文献学なんであって。
そんな事が出来たら誰も苦労しないよ。
おまえ真性のバカだなw
>>897 記紀に書いてるので大体信用出来そうなのは継体以降。
せいぜい遡っても応神以降か。
崇神はハツクニシラスとしてマキムク王権の最初の大王として記憶されてたとすれば、
御陵は箸墓が相応しいのだが、残念ながら女性が埋葬されてるという伝承が色濃いw
女性が祭祀王だった時代を記紀が削除したか。
まあ、記紀の登場人物を無理やり前方後円墳に当てはめるとか、児戯に等しい空想w
ある程度、冷静に考えないとなw
「僕、分かった!」とか適当なことを書くのは止めてくれw
>>900 崇神さえ認めないなら新潟の城の山古墳の発掘はどうなんだ。
>まあ、記紀の登場人物を無理やり前方後円墳に当てはめるとか、児戯に等しい空想
格好つけるな。
じゃお前は何が楽しくて古代史に興味持ってるんだ?
>適当なことを書くのは止めてくれw
おまえスレ主か?
纏向古墳群さえ誰の墓か答えられないなら失せろ。
マキムク古墳群の被葬者、僕分かりました!とか言ってる方がキ○ガイだろw
橿原考古研の千賀久さんのような学者さんでさえ、
百舌鳥古市古墳群のこの古墳は何々天皇という自説を持っておられた。
おまえのようなド素人が、
「記紀の登場人物を無理やり前方後円墳に当てはめるとか、児戯に等しい空想」
なんて千賀さんの前で言ってみろやw
言えるのかボケ。
格好つけるな。
まずさあーw
記紀の記述は正しいとか、昔のことが全部書かれてる
とかの妄想を捨てようよw
マキムクから500年も経って、当然失われた記憶もあるだろうし、
脚色改変、捏造もあるだろう。
なんで無根拠に記紀は正しいとか信じられるの?
頭、大丈夫?
あとまあ、天皇陵で言えば、伝履中→応神→仁徳→反正陵という順番で築造されてる。
モガリ20年とかバカな想定を持ち出さない限り(君と同一人物?w)、
説明は不可能。
キチガイが増えたな
満州のようなやつが寄ってくるわけだ
>記紀の記述は正しいとか、昔のことが全部書かれてる
>とかの妄想を捨てようよw
全部書かれるわけないだろ。
誰がいつそんな事言ったんだ?
信憑性がどれくらいかの話だ。
記紀の信憑性を記紀で確認してたらダメだろ?
考古学使わないと。
あと、畝傍という地名が御所市域まで広がってたという根拠はまだ?
おかしいなあ、地名消えちゃったのかなあ?w
>記紀の信憑性を記紀で確認してたらダメだろ?
>考古学使わないと。
だから考古学的に大量の鉄器が出たホケノ山は誰の墓だと思ってるのだという事。
意見を言ったら記紀を信用してるのはおかしいとか言うなボケ。
おまえ何様のつもりだよ。
記紀を読めば全てが分かるってw
宗教か何か?w
記紀にホケノの被葬者のことが書かれてるって、どうして言い切れるんだよ?w
まあ、箸墓は書いてるんだけどね。
>記紀にホケノの被葬者のことが書かれてるって、どうして言い切れるんだよ?w
ホケノの被葬者を記紀以外からどうやって推測できるのだ?
記紀が信用ならないと言うのなら永遠に黙ってろ。
ホケノに関しては阿波の積石塚の影響とか、いくらでも切り口があるだろ?
阿波の商人が水銀朱を土器に詰めて各地で販売しているが、その元締めとか。
阿波や讃岐が前方後円墳のルーツという説もあって、
忌部氏との関連も取り沙汰されている。
記紀に全てが書いてあると盲信して、
「ホケノの被葬者はこの人だ!」とか、どれだけ幼稚なんだよw
>阿波の商人が水銀朱を土器に詰めて各地で販売しているが、その元締めとか。
何で阿波の商人が大量の鉄器を埋葬できるご身分なんだい?
>忌部氏との関連も取り沙汰されている。
忌部も記紀に出てくるよね。
記紀は信用ならないと言ってて何で記紀を引用してるのだ?
それと忌部は畝傍山方面が居住地だったはず。
纏向遺跡とは関係ないよね、残念。
>記紀に全てが書いてあると盲信して
一言も言ってないが。
ごまかすなボケ。
>ホケノ山古墳の被葬者が阿波の商人
_| ̄|_| ̄| | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄| | ̄|_| ̄|_| ̄|
|_ _|| | ̄ | | | | ̄ | |  ̄|
r┘└へ| |二コ ┌'| |二コ ┌| |二コ ┌'| |二コ ┌┘
〈 〈] ゜,、〈| | o ヽ| | o ヽ| | o ヽ| | o └「 ̄\
ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ
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l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | /
記紀を読んで、マキムクが最初ではおかしいから、二重政治。
マキムクは幕府的な立場。
朝廷的立場の葛城はまだ未発見の大遺跡が眠っている。
記紀を読んで、物部の先祖が活躍してるから、マキムク=物部。
神武即位は、本当は葛城の柏原だが、紀が畝傍の橿原と書き間違えた。
記紀の信憑性は考古学を使うのではなく、
僕の読んだ印象で決める。
お前が書いてる内容を俺なりにまとめてみたが、
本当にバカだよな、お前。
>お前が書いてる内容を俺なりにまとめてみたが、
>本当にバカだよな、お前。
なんのなんの。
ホケノ山古墳の被葬者が阿波の商人には負けます。
思いっきり笑わせてもらった!w
あんな締め切りもないものの重要部分をなんで書き間違えるんだ
水銀朱が出るところに丹生神社があるから、
案外丹生氏が、交易で日本中を回っていたのかもしれないな。
商の国の人が交易して回って、商人になったように。
>>916 記紀を読んで僕は考えた、よりは大分マシだと思うがな。
水銀朱は当時それほど貴重だったということ。
記紀ではマキムクが最初ではない。
だから巻向は物部の都ってw
崇神とか垂仁、景行は無視なの?
>記紀を読んで僕は考えた、よりは大分マシだと思うがな
記紀を読んで考えないと何を基準に考えるんだよ。
>水銀朱は当時それほど貴重だったということ。
ホケノ山からは大量の鏃が出てて武人と言われてるのだが。
商人ねぇw
あ〜おもろw
でまた、カシハラハゲくんは、
畝傍のカシハラの理由に答えられず、敵前逃亡するのであったw
上手く誤魔化したつもりかもしれないがw
>>922 3回目だが。
畝傍の東南にカシハラはない。
畝傍の西南に柏原がある。
したがって日本書紀には潤色があった。
君って記紀に東南て書いてあるから東南なのだという、
記紀絶対論者なんだw
また笑わせてもらった。
記紀は最低限読んどくべきだが、眉唾で読まないとなw
考古学に軸足を置くべき。
丹生氏の主力商品が水銀朱で、
日本中を回っているうちに発見した水銀鉱山に丹生神社を建て、
各地で採掘しては、売って回ったということじゃないかね。
>>923 ひとつ確認しておきたいけど、
日本書紀の編纂者は畝傍近辺にカシハラという地名が無いのに、
敢えて「畝傍のカシハラ」って書いたということ?
何故そんなことをしたんだろう?
で、君は何故記紀信者なのに、この部分だけは頑な否定するのか?
なんか妄想にとりつかれてるように思うなw
樫がたくさんあるかどうかだなww
>>926 近辺ってどれだけの範囲なのか、それこそおまえの恣意だろ。
方角を間違えたのは確かだろうが。
畝傍山の東南に柏原はあれば何も問題なくそこに決まりだよ。
ところがそうなってないから方角の間違いだろうという話。
あと本間、秋津、国見山、腋上という記紀にも登場する地名が近くにある以上、
御所の柏原村で決まりだろ。
なんどもクドクドとおまえしつこ過ぎ。
だからさーw
日本書紀を書いた人は、当時カシハラなんて地名も無い所を、
いい加減にカシハラって書いたということで良いの?w
はっきりさせてよw
ここでもちょっと雑知識を披露
皇紀2600年(昭和13年)記念事業として橿原神宮外苑の発掘調査が行われ
その地下から縄文時代後期から晩期の大集落跡と樫の巨木が立ち木のまま
16平方メートルにも根を広げて埋まっているのが発見された(橿原遺跡)
ここで多数の東北地方の影響が強い縄文土器と土偶が発見されたが
c14分析を依頼されたアメリカミシガン大の測定は前600年頃だったと言われる
この遺跡は戦前の発掘だったので出土物は不幸な結果をたどったが今は整理・分類されている
>当時カシハラなんて地名も無い所を
だから西南にあったと何度言えば…
ホケノ山被葬者=阿波の商人で大恥かいたからってしつこすぎ。
方角間違えて潤色とかwwwww
苦しんでるのは分かるけど、もうちょっとマシなこと言おうなw
>>931 本当にカシハゲくんの言ってることが分からなくなってきたのだが。
日本書紀を書いた人は、葛城が畝傍山の南西にあるって、勘違いしてたってことなの?
>葛城が畝傍山の南西にあるって、勘違いしてたってことなの
南西だが?
935 :
933:2013/06/29(土) 21:07:44.91
あ、ごめんごめん。
畝傍山の東南ね。
日本書紀を書いた人は、葛城が畝傍山の東南にあると思ってたと考えてるの?
俺は書いた本人でないのに知らんがな。
カシハゲくんがまた敵前逃亡して、
ほとぼりが冷めた頃にまた現れて、
このやり取りが繰り返されるんだろうなw
カシハゲくんがきちんと論理的に物事を考えられる人間だったら、
こんな不毛な無限ループにはならないのだが。
>>937 鳥越さんの説を支持して変か?
今の橿原宮が本当の神武の宮だと言ってる学者でも紹介してくれよ。
阿波の商人さんよwww
てか、神武実在を信じてる学者が
そもそも皆無に近いのだがwwwww
鳥越も最近は言ってないだろ?
残念ながら、阿波が水銀朱を方々に売り歩いてたのは、
阿波土器が広域に拡散してることからほぼ事実と考えて良い。
で、萩原のオウがその利潤で富裕化したという仮説も当然の成り行き。
ホケノが萩原の影響が強いことも広く言われてる。
記紀読んで考えましたとかの幼稚園児並みの話と一緒にされるのは心外だなあw
結局のところ、カシハゲくんの言いたいことは、
日本書紀を書いた人は、葛城地方を畝傍山の南東と勘違いしてた、ってことなのか?
それとも葛城が畝傍の南西なのは百も承知なのだが、
南西を敢えて南東と「潤色」しちゃったということなのか?
方角を敢えて間違う意味が何故あるのか?も合わせてお答え願いたいw
>>939 >神武実在を信じてる学者がそもそも皆無に近いのだが
学者ったって考古学者は最大公約数しか言わないから神武実在を公に言わないね。
古代史家では安本も古田も堂々と実在を言ってるが、別にいいではないか。
何か不満でもあるのか?
>残念ながら、阿波が水銀朱を方々に売り歩いてたのは、
>阿波土器が広域に拡散してることからほぼ事実と考えて良い。
纏向遺跡の阿波土器の割合なんてたかが知れてる。
それより伊勢・東海。山陰土器の割合を説明しろや。
だいたいなんで商人ごときが地元の首長を差し置いて古墳に埋葬されるんだ?
おまえの頭はどうなってるんだw
>ホケノが萩原の影響が強いことも広く言われてる。
埋葬施設は同系だが同時代なので何も変ではない。
むしろ前方部の端がせせりあがってる讃岐方前方後円墳は箸墓古墳には見られるが、
それ以前のホケノをはじめとする纏向古墳群には見られない。
被葬者に商人しか思いつかない幼稚園児並みの話と一緒にされるのは心外だなあw
942 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:44:29.36
>それとも葛城が畝傍の南西なのは百も承知なのだが、
>南西を敢えて南東と「潤色」しちゃったということなのか?
むしろそっちを想定してる。
東大寺奴婢帖に出てくるくらいだから、
奴婢問題が絡んでるかも。
あまり言いたくはないが。
商人という書き方が気に入らないみたいだなw
商人が嫌なら、遠隔地交易を差配してた人でもいいよ。
まあ、それが各地に誕生してたオウのことなんだが。
言葉を額面通りにしか受け取れないバカを相手にするのは疲れるなw
まあ普通に考えて、日本書紀を読んだ人が、
畝傍の南東にカシハラという地名が無いとしたら
不審に思うだろうな。
信用に傷がつくデタラメを、公的な歴史書に敢えて書く意味が分からんよw
>商人が嫌なら、遠隔地交易を差配してた人でもいいよ。
>まあ、それが各地に誕生してたオウのことなんだが。
その王が祭祀集団・忌部氏だと?
忌部がどれほど偉かったのだ。
もう少し蟹ミソ並の脳みそで考えろ。
>>944 神武が紀元前660年と言うのも誰も信用しないよね。
だからと言って全否定もできないのが記紀だ。
947 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:01:10.76
心配するな、否定せずとも信用する人なし。
いわずもがなは大人の知恵。
神武を移住者とする立場からは欠史八代も実在すると仮定する方が自然なんだがな
遠方から突然やってきて武力で奈良を占拠しそこから畿内を制圧したなんて非現実的な空想に基づいてるから
武勇伝のない2代目から9代目が実在しないと疑ってるだけだろ
移住者の一族がその土地に土着するまで武勇伝なんてないのが普通だし、
地方豪族として勢力を持つようになるまで普通は何代もかかる
>>942 また御所の水平社の問題を持ち出して、
葛城の柏原が忌避されたとか言い出すんだろ?w
前にも書いたけど、橿原神宮も被差別部落の人たちが強制移住させられて
造営されたものだからな。
敢えて御所を橿原市に変更したとかの理由には当たらない。
>>949 意味さっぱり分からない。
記紀に畝傍山にあると言われる神武の墓を守ってた人達の事が書かれてるのか?
>>945 記紀で物部が活躍してる→マキムクの造墓集団は物部
ていう短絡よりはかなりマシだと思うがな。
>>951 物部は崇神を産んで纏向に宮を作ってるが?
だからあのあたりは物部の地盤であり、
崇神以前の纏向遺跡は物部の遺跡という事になるね。
簡単な話だが。
マキムク=物部だったら、
当時の大王の陵はどこにあるの?
てか、物部が当時から大王に匹敵する力を持っていたとして、
マキムク以後はどこに墓を造ってたの?
五世紀ころに台頭した物部が、自らの先祖を賛美するために、
ニギハヤヒやら大物主と結びつけたんだろう。
955 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:27:06.85
ところで、畝傍山周辺の発掘調査とか行われているのかな。
日本書紀には、神武天皇は畝傍山の東南、橿原の地に宮を築いた。
大友氏の祖である道臣命は、築坂邑(つきさかのむら)に居を構えた。
大久米命は畝傍山の西、川辺の地に居した。今来目邑というのはその名残である。
また、弟猾には猛田(たけだ)邑を与えた。
などと書かれているが。
956 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:27:08.96
>当時の大王の陵はどこにあるの?
畝傍山だろう。
カシハゲは記紀信者なのに、何故か橿原の地が畝傍山の東南であることを頑な否定する。
バカだからだろう。
>>957 東南に柏原はないからね。
あればいいのにね、仕方ないね。
ホケノ山が阿波の商人の墓で大恥かいたからってしつこいよ、君。
>>956 またまたーw
記紀のどこにも書いてないことを、いい加減に妄想するw
悪い癖だよw
「日本書紀を書いた人は、畝傍山の南西を敢えて南東と書いて、
当時読んだ人は不思議に思った」ということか。
こんな理屈で納得して、最後まで強弁出来る神経が分からんよ。
まあ引くに引けない状況なのは分かるがw
負けを認めてさっさと退散すればいいんじゃない?
>>960 おまえなんかより鳥越さんの話に納得する。
ネットのおかげで神武天皇御所柏原村即位説者はけっこう多い。
神武の存在自体否定してるくせに口出しするなハゲ。
962 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:44:06.03
だから、発掘調査されているのかな。
調査すればすぐにわかることだろう。
963 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:44:56.26
964 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 22:47:21.23
「鳥越憲三郎 神々と天皇の間」 ← 検索
Amazon で何冊か残っているみたいだぞ 急げ!
口出しするな、とか議論を望まないなら、2ちゃんねるみたいな
掲示板に書かなけりゃいいのにw
まともに反論も出来ないならさー
お前より鳥越さんを信じるとかw
やっぱり宗教なんだねw
>>967 信じると言ってない、納得すると言った。
君は簡単な日本語され理解できないようだな。
奈良に何で薩摩という地名があるのか。
薩摩と縁があるからだろう。
何も縁がないのに薩摩と名付けれれるだろうか。
そんなことはない。
やはり柏原村で神武は即位した。
理屈なくこの人が言うことなら納得する
=信じるってことだよ。
学問ってのは懐疑的立場で行われるもの。
>>970 理屈が通ってるから納得してるんだよ、ハゲ。
おまえはもうすっこんでろ。
973 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 23:15:29.17
>>966 なるほど。
これだけではいま一つよくわからないな。
なんか奈良県の地理に詳しくなりつつある。
柏原村って畝傍山からけっこう遠いな。
とにかく、橿原という地名が日本書紀に書かれているのは事実。
記紀編纂時にあったのか、それとも神武天皇のときにあったのか。
>>971が「攻撃サイトとして報告されています!」だと…
何でだ。
「タギシミミの反逆」で検索してください。
975 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 23:22:33.59
>>974 2ちゃんからリンクを張った時、時々現れる。
特に、2ちゃんでYoutubeのURLを張ると間違いなくその「攻撃サイト」の
表示が出る。
相性が悪いとか言われることも多いけども、他にも理由がありそう。
>>969 奈良の薩摩は新しい(薩摩国が設置されたあとの)地名なんじゃないのか?
>>972 反論できないなら、理屈が通ってないんじゃないの?
なぜ日本書紀の編者は、当時の人がすぐに間違いに気づく
畝傍山の西南を敢えて東南と書き違えたのか?
理屈の通った説明をしてみてよw
>>976 まず薩摩という呼称があって、それが後の薩摩国になったのではないだろうか。
>>977 秋津、本間、腋上、国見山という神武由来の地名が柏原村近辺にある。
それが証拠だ。
おまえって恥をかいたからってしつこすぎ。
パラノイアだろ。
>>978 まず薩摩という呼称があったのは奈良の方?
薩摩国はもともと唱更国だったけど
神武を新規移住者と考えると、一番入り込みやすいのは巨勢谷(現在JRや近鉄吉野線が通っているところ)と言うことになる。
そして当初は敵対する磯城津彦に対して劣勢だったはずで、いきなり現在の橿原市まで進出していたと考えるのはちょっと無理がある。
それよりは いきなり襲撃させたときにも すぐに山に逃げ込める柏原のほうが尤もらしいとは思える。
それと、薩摩とか吉備とか土佐とか言うのはこの時代には無関係、
後の時代、おそらくは古墳時代が始まって、各地の出身者がコロニーを作っていたのだと思う。
>>979 カシハゲくんは、畝傍山の東南にはカシハラって地名がないから
南西の書き間違いで、御所市の柏原が正しいとした。
では日本書紀を書いた人は何故、畝傍の東南と書いたのか?
カシハゲくんの話では、地名は百パーセント失われることはないからw
日本書紀を読んだ人は「畝傍山の東南にカシハラなんて地名なんてないよね?」
と不思議に思った筈では?
それに対するカシハゲくんの答え→
神武ゆかりの地名が葛城地域に多いから、畝傍のカシハラは葛城の柏原のこと。
全然答えになってねーw
>後の時代、おそらくは古墳時代が始まって、各地の出身者がコロニーを作っていたのだと思う
応神天皇元年390年としたら天皇平均在位11年。
ならば神武は3世紀前半で古墳時代前期になる。
何も問題ない。
>>985 今どき”平均11年”とかいう出鱈目な見積もりはないな。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるの正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると在位が短くなると言う事だから(安本説)
おおよそ【11年】が妥当。
応神から神武まで神攻皇后を入れて15代遡れば3世紀前半。
>>987 > 安本 ← wwwwwwwwWWWWWWWW
古墳時代は崇神の時代の箸墓からな(240年頃)。
>古墳時代は崇神の時代の箸墓からな(240年頃)。
おまえの脳ミソは蟹ミソか?
ホケノ、東田大塚、勝山、纏向石塚の方がよっぽど古い。
しかも箸墓が240年頃なんて決まってない。
布留0を240と考える考古学者はきわめて少ないだろうな
>>989 箸墓の築造開始 = 巻向の始まり
ホケノはちょっ置いとくとして、東田大塚、勝山、纏向石塚(築造期間数ヶ月〜数年)は箸墓の築造期間内(数十年)に含まれる。
>東田大塚、勝山、纏向石塚(築造期間数ヶ月〜数年)は箸墓の築造期間内(数十年)に含まれる。
纏向石塚は、南溝黒色粘土3、東田土坑3で最古だ。
箸墓とは数十年の開きが推定される。
いい加減な事を言うな。
>>992 箸墓の築造開始をAD170〜180と見ているのだが、それでも纏向石塚のほうが古いかな?
>>994 >箸墓の築造開始をAD170〜180と見ているのだが
そんな古いわけないよ。
石野・豊岡纏向新編年を見れ。
君の意見より100年は新しい。
AD180はやっと弥生土器VIが終わる頃だろ
というか土器の形式変化もわからないやつがどうやって実年代を決めるんだ
最近は考古学の一部だけを自分で都合のいいようにトンデモ化して使うやつが多すぎる
>>995 AD170〜180 というのは築造開始な。
完成はAD240頃。もっと正確に言えば246年または346年
>>997 × 246年または346年
○ 245年または246年
いやモモソヒメは崇神天皇が在位してるときも生きてたから西暦300年前後だろ
>>999 崇神六年(AD246)にはすでに”鏡の姿”になっている。
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