神武は畝傍山の麓に宮を造ったんだろ?
明らかに記紀は御所ではなく橿原を想定している。
あとまあ、橿原神宮にも被差別部落があって、強制的に立ち退きさせられたみたいだが。
>「ウネビのカシハラ」言うとるやん記紀とも。
ところが畝傍山の麓にカシハラという地名はなかった。
そこに適当かつ強引に明治政府が橿原神宮を作った。
以降、あのあたりは橿原市になった。
それ以前、カシハラという地名は今の御所市柏原しかなった。
ここが真のカシハラ宮であることは周辺地名から考えても明白だ。
え?どういうこと?
畝傍山は御所市にあった山なの?
地名って何百年経っても必ず残るものなの?
教えて教えてw
×しかなった。
○しかなかった
956 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:08:05.82
神武が今でいう被差別系の出自であった、ということは正直に書いてんだよね>記紀
ただ紀元前云百年なんてのは眉唾だしそんな時点で被差別氏族が認知されてるともいまいち思えない
目にバリバリの入れ墨していたという記述から見ても、邪馬台国くらいの時代の人物やろな
>>954 >畝傍山は御所市にあった山なの?
大昔に「市」なんてあったのかアホ。
神武は実在。
御所の柏原で即位。
っていう結論がまず有りきだから、議論のしようがないよなw
考古学的に無理があるよと言っても「掘ってないだけ」とかw
そんなことを言えばなんでもありになるw
もう少し一般人でも分かる根拠を揃えて出直して来て下さいw
>神武が今でいう被差別系の出自であった、ということは正直に書いてんだよね
ではなくて隼人の一部が被差別になったということだろう。
明治になって畝傍山から降りてきた人達も、
自分たちの祖先は神武天皇と共に九州からやってきて、
ずっと神武の墓守をしていたという伝承を持つ。
被差別民でこんなはっきりした伝承を持つのも珍しい。
960 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:14:06.46
もちろん、神武登場時点では被差別民ではなかったろうけどね
ああいうのは、支配層が政権を覆されることで一気に被差別民に転落するってのがデフォっすから
>もう少し一般人でも分かる根拠を揃えて出直して来て下さいw
地名の一致は客観的事実なんで一般人でも分かる根拠だろ。
おまえが分からないふりしてるだけだろ。
>>957 いや、だから逃げないでさーwちゃんと答えてよw
畝傍山ってどこにあった山なの?
古代でも結構ポピュラーな山だから、普通は橿原市の畝傍山だと思うよね?w
実は違うの?w
>>961 地名が同じだから、てことね。
これ以上訊いてもろくな答えが無さそうだからw
>>953 むしろ宮名が地名として残ってる所ってそう無いでしょう。
上に付くウネビとかマキムクとかイワレとかハツセとかの方は残ってるけど。
>普通は橿原市の畝傍山だと思うよね?
今現在の区別で言えば橿原「市」だが、
当時は市などあったのかと聞いてるのだが。
本居宣長も畝傍山のちかくにカシハラなどない、
もう少し西南にあると書いてるが、
それが御所の柏原村だ。
966 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:20:09.50
神武なんて、言っちゃ悪いけど100%いないよ
ただそれに比定されうる覇者は確実に九州南部から出た
それが誰か、ということが問題。
>ただそれに比定されうる覇者は確実に九州南部から出た
それが誰か、ということが問題。
ならいるんじゃねぇかw
柏原くんは東遷くんと同一人物なの?
まずこのあたりをはっきりさせて欲しいなw
>>968 別人。
君が言うに事欠いて大伴氏大阪発祥説を言った可哀想な人だとは知ってるよw
970 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 23:23:49.02
>>967 崇神・神功・応神
神の名がヒントだろな
ヒントっつーか、多分記紀の編者もわからなかったんだろう
だから比定されうる人物に「神」の文字をつけた。そう考えるべきだろうな
>>960 >ああいうのは、支配層が政権を覆されることで一気に被差別民に転落するってのがデフォっすから
まったくその通り。
おれはタギシミミの反逆でタギシミミ側についた隼人たちが被差別民になったと考えてる。
>>966 いや、(結果的な)覇者は崇神でヤマト出身でしょう。
その御先祖(神武)が、倭国大乱期に北九州〜吉備を経て
ヤマトに入って一家を立てたということ。だから「後進地域」の南九州に、
箸墓期以降(すなわち崇神朝以降)いち早くヤマトと相似の古墳が築かれる。
南九州ってのは、徳川氏でいえば三河、足利氏でいえば下野みたいなもん。
>>966 > 神武なんて、言っちゃ悪いけど100%いないよ
>
> ただそれに比定されうる覇者は確実に九州南部から出た
> それが誰か、ということが問題。
おいおいw
「誰が」よりも「いつ」「何処で」「何故」「どうやって」の方が重大なんだけどね、歴史学では。
>>965 本居宣長を出すなら、卑弥呼=熊襲の女酋ということでw
あとまあ、畝傍山は高市郡にあるから、郡を越えて葛上郡の柏原を
畝傍の橿原なんて記紀は書かないと思うが。
そんな用例あるの?
結構苦しくなってきたんじゃない?大丈夫?
日本書紀では、剣を持って出雲に遣わされた武甕槌に、大己貴が広矛で統治した国は天孫に譲ることを告げる
考古的には出雲は銅剣、銅鐸が大量と銅矛も出土している
銅矛は対馬、北部九州を中心に出土するが、糸島、博多は広矛埋納をしていない、壱岐も少ない
銅鏡の出土は糸島、春日が圧倒的に多く、糸島、壱岐は中国系土器が独占的に出る
銅矛祭祀文化圏に統治権を譲らせることができる勢力は、西日本においては銅鐸祭祀文化圏しかない
出雲には両勢力がいたと考えられる
東夷伝には濊(ワイ)が大きな矛を巧みに使うとある
濊貊(ワイハク)系は中国の討伐対象
九州 対 大和とか、出雲 対 大和というような単純な構図ではない
中国系勢力の思惑も絡んでいるであろう
>>975 畝傍山の近くにカシハラという地名はない。
こういう場合、「近く」という概念をどこまで広げれるかという話だ。
本居宣長が言うように西南の柏原村しかないわけだから、
繰り返すがホホマ丘、秋津、掖上、国見山など周辺地名も含め、
ここである蓋然性が極めて高いだろう。
君にはそうであってほしくないという何かあるのか?
>>969 なんだ〜別人なんだw
思考回路が似てるから、てっきり同一人物かとw
あとこのスレに出没してたホアカリ君とは別人?
ちなみに僕は大伴氏の話はしてないよー
ホアカリ君とやらとは別人だ。
>ちなみに僕は大伴氏の話はしてないよー
嘘付け。
語尾にwをつけるのはおまえしかいない。
>>978 あ、なんか、やばい空気出てきてるなw
自説に反論するのは、左翼的思想に取り憑かれた津田史観の人間だと思い始めてる?w
単純に、記紀編者が畝傍の橿原って書いたのは、畝傍山の麓だろうし、
御所市の柏原は離れ過ぎてると思うだけだよ。
で、考古学的に見ても、葛上郡に王権が誕生したのは、マキムクより新しい。
残念w
>単純に、記紀編者が畝傍の橿原って書いたのは、畝傍山の麓だろうし、
御所市の柏原は離れ過ぎてると思うだけだよ。
畝傍山の麓のカシハラという地名を紹介しろ。
そんなものあれば誰も苦労しない。
>で、考古学的に見ても、葛上郡に王権が誕生したのは、マキムクより新しい。
残念
纏向遺跡はたまたま雇用促進住宅建設の偶然で発掘されただけだろ。
君の意見ならそれ以前は櫻井にそんな遺跡は「なかった」ということだな。
>>978 いや、近くに無いから手近なカシハラで済まそう、ってのはどうなの?
学問的に考えて。一度頭を冷やして冷静に考えてごらん?
地名って未来永劫無くならないものですか?
平成の大合併とか知ってます?w
まあ江戸時代とかならいざ知らず、
考古学の調査がいろいろされてて、ある程度畿内王権の成り立ちが分かってきてる現代なのにw
地名が同じだから!を何度も強弁されても納得出来ないよw
>いや、近くに無いから手近なカシハラで済まそう、ってのはどうなの?
>学問的に考えて。一度頭を冷やして冷静に考えてごらん?
あのな。
何度も言うが周辺に掖上、秋津、ホホマ丘、国見山もあるカシハラだ。
普通はここである蓋然性が高いと思うだろ。
>地名って未来永劫無くならないものですか?
それが今も残ってると言ってるわけだ。
客観的事実さえ見れない君はかわいそうな人だな。
あと神武の先妻アビラツヒメを祀る祠も柏原村にある。
式内社だ。
俺の知る限り宮崎県日南市と御所市にしかない。
どうせまた神社なんて何も関係ないと言うのだろうが、
古代からのマツリの流れだからこれは無視できないぞ。
>>984 まあ、精一杯頑張ったレスだな。
今日はこのへんで。
>>985 警告してやろう。
考古学はしょせん最小公約数しか分からない学問だ。
文献史学と整合できてはじめて生きてくるのだ。
この両輪がないと史実は分からない。
神武は記されている情報の緻密さ、具体的な記述からみても
間違いなく断言してもいいが、かなり後代の人物だよ。
仮に歴代天皇に比定するとすれば、応神あたりでもおかしくないだろうね。
神武実在説って2chぐらいだろ
>>984 まずは現代の式内社を古代から続いていると文献的に論証してもらおうか
990 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 03:46:40.57
他人に検証を要求しないで、
まず自分から、続いていないことを検証してみせるのが先でしょう
宮崎県日南市と御所市柏原のどっちも式内社じゃないだろ
柏原の神武天皇社の摂社のホホマ神社は、ほんだわら社で
ホンダワラとはヒジキのような海藻で万葉では玉藻などと詠われている
神武天皇社は1736年の『大和誌』、1772年の『菅笠日記』の時点で存在してないし
日南市油津のは例によって明治維新に乙姫大明神から吾平津神社に名前変えてるし
>>990 現在の式内社のほとんどは後世に推定したものなのだが
歴史をかじってる者には常識でもあなたは知らないとみえる
来歴が怪しいものであれならば、それを論拠にする側が怪しさを取り払う
これも常識なのだがな
993 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 07:47:53.89
一般的に古代といえば、一番古い文献が残っている時代あたり、
飛鳥、白鳳、奈良、平安あたりとなる。
鎌倉あたりからは中世か?
記紀、風土記、続日本紀、延喜式あたりに乗っているものなら、
古代に存在する根拠があるといえる。
>現在の式内社のほとんどは後世に推定したものなのだが
延喜式神名帳編纂時に存在したと言う事だな。
それ以前からあったわけだが、だから?
神武の宮周辺の地名が記紀と一致してるのにもかかわらず、
頑なに拒否する理由が何かあるのか。
神武実在を否定するなら論証義務はそっちにある。
考古学なんて纏向遺跡に吉備の影響が強いからという理由での、
吉備東遷説程度だ、くだらない。
996 :
日本@名無史さん:2013/05/06(月) 10:25:50.95
考古学は古代の文化を研究する学問と定義される。
ごくわずかな発掘調査から全体的なものを推定するわけで、
そこには限界がある。
誰がいて何をしたかというような歴史学的なものとは本来、異質なもの。
>>996 > 考古学は古代の文化を研究する学問と定義される。
> ごくわずかな発掘調査から全体的なものを推定するわけで、
> そこには限界がある。
> 誰がいて何をしたかというような歴史学的なものとは本来、異質なもの。
ただし、学問の手法は特にかわらない。
Aと言う素材とBと言う素材とCと言う素材について考察し、違いと共通項を見出し、真実に近いものを推定する。
文献で言えば、日本書紀と風土記と古事記を比較考察しするのだろうし、
考古だったら、A遺物とB遺物とC遺物を検証する作業だ。
遺物素材は石ころだの木片だのに特定されるわけでもない。
例えば、鎌倉道の発掘結果からは、ある時期に鎌倉を中心とした非経済物流ネットワークが成立がわかるし、
稲荷山の金象嵌銘鉄剣の研究からは、大王制度の存在を確認できるわけだ。
考古学とは英語の”archaeology”の訳語だ、英語の語源はギリシャ語の「古伝承」で
古えの人類活動の記録を考証する学問だ。
文献史学と言う文字資料に特化したジャンルはあるが、考古の対象は文化だけでは無いし、時期も無文献時代に限らない。
何度も指摘されているはずだが、議論をしたいなら勝手な定義を振りかざすなよ。
相手の言に堅く耳を閉ざし、疳癪じみた己の言を呟きつづけるためだけなら完全なる荒らし行為だ。
次スレに絶対来るなよ。
奈良盆地の2世紀後半というのは革新的時期だ。
環濠集落が終わり、銅鐸祭祀も終了し、古墳時代に入る。
これら劇的な変化は外来の何かでしか説明できない。
俺はそれを神武軍の侵入だと見ているが、
ところが考古バカは神武そのものを認めない。
>>998 神武とか固有名詞を出しただでお茶を濁さないこと。
浸入方法は軍事でも非軍事でもどちらでもよい。
肝心なのは、何時頃のことか、どのような事情でか、と言うことだよ。
それは考える必要が無いと思ってるならそれでもいいけどねw
1001 :
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