1 :
日本@名無史さん :
2013/04/21(日) 12:12:22.42 旧唐書日本伝 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。 あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。 この謎を考えてみよう。
2 :
日本@名無史さん :2013/04/21(日) 19:27:00.32
隋書倭国伝と日本書紀を読むと、同じ国とは思えない。
倭国は「日本」に吸収された
4 :
日本@名無史さん :2013/04/22(月) 13:48:53.57
倭国は滅びたが倭人は残った。 そして中世の倭寇につながる。
5 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 13:46:02.91
日本は倭国に附庸していた東の倭種。
6 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 15:28:12.19
は?
7 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 22:00:41.11
ほ?
8 :
日本@名無史さん :2013/04/24(水) 03:13:53.55
田母神俊雄「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」 なんかおかしくない? 「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」ではなくて 「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは倭国だ!」でないと 意味が通じない。 もともと「日本」と云う言葉は半島の人が最初に云い始めた言葉。 日本列島には「倭国」と云う別の国の名前がありました。 田母神俊雄氏にはこれからは「日本」では無くて 「倭国」で発言して欲しい。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
倭国=近江王朝まで 日本=天武朝以降かなあ。 壬申の乱は実は明治維新以上の革命で、 日本書記つうのは、ほとんどその弁明のために 書かれているかも。
10 :
日本@名無史さん :2013/04/24(水) 08:49:56.76
白村江で九州倭国は滅びた。 天智の日本が後を継いだのだろう。
11 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 08:27:50.33
7世紀後半から8世紀前半に国号、年号も含め、 大きな変化が起こっている。 ここで政権が変わった可能性は高い。 ちなみに、最古の木簡は太宰府の周辺で発見されている。
13 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 11:51:21.22
最後の倭王は筑紫君薩夜麻。
14 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 23:10:55.31
大倭国とはいわゆる出雲国デハ? 「日本」の語の初出は確か、、ニギハヤヒ大王(この時点では即位前でオオトシ?)が生駒信貴山系を越え奈良盆地に無血入城する際に云々。 ところで、大国主神/大己貴命の数多ある別称号に「所造天下大神」と言うのがありますが、 ここでイザナギ大神(尊)の別称号に確か、天下修理固成(あめがしたつくりかためなしし)大神 意味するところが殆ど同じなのが気になる年頃。
15 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 23:44:52.74
わかりやすく言えば大和朝廷の「倭国」が、日本列島内の別の小国であった「日本国」を併合し その名前が気に入った為、大和朝廷の「倭国」が改名して「日本国」を名乗ったって事でしょ。
トンキンがまた変なことを言い始めた 歴史コンプレックスは創作で補うてか
17 :
愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2013/04/27(土) 15:46:46.83
旧唐書日本伝の説明は混乱しているように見えるが、すべて正しいと言える。 九州の倭国と本州の日本(日下・天下)は本来は別の国だったが、唐初から 670年まで、日本が「倭国」を名乗って唐に遣使していた時期があった。 この時期だけで見れば、倭国が日本国と改名したという説明も正しい。 また白村江で旧倭国が滅びた後、その地を合併したという説明も正しい。 通訳がうまくいかずに断片的に伝わったため、説明が矛盾していると取られたと思われる。
18 :
愛知県民 ◆/aQLbFNNDU :2013/04/27(土) 15:53:29.41
隋書倭国伝と推古紀の日中通交で共通するのは以下の2点のみ。 @通交の年代はともに607〜608年 A隋使の名前は裴世清 (隋書で裴清とするのは唐の太宗李世民の名前を避けたもの) しかし@は、書紀の年代は天智紀でも疑わしい記事があることを考慮する必要がある。 Aも、裴世清が一度しか列島に来ていないという証拠は無い。 これに比べて、相違点はあまりにも多い。 @隋と唐 書紀では小野妹子は隋ではなく唐に派遣されている。 A倭王と倭皇 隋書は倭王とするが、書紀で唐帝は推古天皇を「倭皇」と呼んでいる。 B倭王の性別 隋書は倭王の字を「多利思北孤」とし、明らかに男性と見られる。 そこで推古女帝ではなく、聖徳太子や蘇我馬子を指すとする説があるが、 書紀の記事では皇太子でも大臣でもなく、推古天皇が前面に立っている。 また隋書では、倭王には太子が(別に)いたとある。 C裴世清の身分 隋書は文林郎、書紀は鴻臚寺の掌客とし、明らかに異なる。 D国書の有無 隋書の裴清は「宣諭」したのみだが、書紀の裴世清は国書を持参している。
これは良スレ
20 :
日本@名無史さん :2013/05/10(金) 21:42:23.92
倭とは朝鮮半島の南の倭系部族国家の総称じゃないかと思う。
21 :
日本@名無史さん :2013/05/10(金) 21:44:53.11
22 :
聖徳太子 :2013/05/10(金) 23:30:37.92
シナ人によれば倭人っていうのはチビで背骨の曲がった人間という意味らしい 倭なんて名乗るの止めてこれからは日本人って名乗ろうぜ
23 :
日本@名無史さん :2013/05/13(月) 11:53:33.73
九州王朝分派「倭国」(大海皇子)が、日本列島内の畿内の小国を支配し(671年)、 その名前が気に入った為、九州王朝分派畿内「倭国」が改名して「日本国」を名乗った。 その後畿内の「日本国」は、九州王朝本流「倭國」を695年から700年の 延べ7年がかりで征服支配した。
24 :
日本@名無史さん :2013/05/13(月) 16:01:52.98
>>23 の訂正
九州王朝分派「倭國」(大海皇子)が、日本列島内の畿内の小国を支配し(671年)、
その名前が気に入った為、九州王朝分派畿内「倭國」を改名して「日本國」を名乗った。
その後畿内の「日本國」は、九州王朝本流「倭國」を695年から700年の
延べ6年がかりで征服支配した。
25 :
日本@名無史さん :2013/05/13(月) 17:04:51.27
日本、日の本(下)の国の謂われはたしか、、 曰わく、ニギハヤヒ(この時点ではオオトシ)が率いる軍団の強力無比な軍事力を背景にしたパワー外交(いきなり軍事侵攻はせず、先ずは外交官を派遣して利害得失を説いて恭順し服属するよう説いて、受け入れれば吉。もし反抗し防戦するなら完膚無きまでに殲滅する戦略)の結果、 奈良盆地の某勢力(王権)がニギハヤヒ側の折衝案を呑んで全面降伏。 それを承けて河内国から生駒信貴山系(斑鳩峰。場所不祥)を越え無血入城するさいに奈良盆地の素晴らしい光景を見て日の本の国云々と感嘆した事による。 とか、、
上下エジプト合体で倭?
27 :
日本@名無史さん :2013/06/14(金) 21:17:30.98
旧唐書日本伝 @ 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。 A あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 B あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。 @ABはすべて合理的に同時成立する。 謎は何も無い。 「倭国の別種」とは「倭国の分種」である。・・・説明終了
>>22 ねーよw
倭人がちびなんてどこにも書いてない
倭とは曲がりくねって遠いとかスゴイとかの意味がある
朝鮮人は漢字無知の低脳なので理解出来ない
29 :
日本@名無史さん :2013/06/15(土) 00:35:33.55
大和朝廷の「倭国」が九州の小国「日本国(日の国)」を併合し その名前を気に入って自ら「日本国」と名乗ったのでは。
古い時代だと何をするにも人力になっちゃうんで、人口がほぼ国力なんですね。 だから百済とか新羅とか、いくつもの国々に分かれた状態の朝鮮から見たら、倭国は大国ってことに 広開土王碑など海外の史料に出てくる「倭」を、倭寇的なものだとか九州あたりの地方勢力とか見るのも、違うと思うんです。 高句麗の正規軍に対抗する兵力を動員できるのは、巨大古墳を継続的に造営する動員力が証明されている、ヤマトを中心とした王権と見るのが一番いい
日本中央って国が東北にあったという伝説。
今も日本国という山が山形と新潟の県境に 日本国という地名が山形の鶴岡に有るぞ
33 :
日本@名無史さん :2013/06/15(土) 21:56:51.05
小国とは金官加羅のこと。 小国金官加羅が倭国を併合した。 ただし金官加羅が日本なのではない。 「現在日本と称している国は小さな金官加羅がもとになっている」の意。
34 :
日本@名無史さん :2013/06/16(日) 11:45:09.70
>>30 普通に考えれば そういう結論しかないんだけど
いまだに九州王朝とか言う人がいるからねw
35 :
日本@名無史さん :2013/06/16(日) 16:18:02.53
>>30 国力がものを言うのはむしろ国民国家が総力戦を行う近代のこと。
古い時代においては総人口よりも戦闘技術がものを言う。
満洲族の一群が明国を倒した例を見ればわかる。
広開土王戦争のときは徒歩戦から騎馬戦に変わる変革期にあったから
そのことがあてはまる。
36 :
日本@名無史さん :2013/06/16(日) 17:32:54.12
>>34 広開土王と九州王朝とは時代が異なる。
九州王朝の時代は、517年〜700年である。
>>35 清が中原へ入ったのは明が滅亡した後
それくらい常識
38 :
日本@名無史さん :2013/06/16(日) 22:35:21.83
>>37 厳密に言えばそうだな。では「明国を倒した」を「中国を征服した」と
言い換えよう。
その他にもいくらでも例はある。モンゴルの征服事業だって巨大な人口によって
なされたわけではない。
>>38 厳密?何処が?凄く大雑把な話だよww
清は、明の復興を掲げて、明から独立した軍閥と戦った
モンゴルなどの遊牧民は人口の1/3が兵士で
兵力は人口に比して巨大
モンゴル帝国の動員数は分裂していた中東諸王国や
欧州の雑魚国家群と比べ文字通り桁が違う程巨大
40 :
日本@名無史さん :2013/06/17(月) 01:59:22.01
モンゴル兵力の強力さは、その移動速度と兵站能力に負う所にある。 一千のモンゴル兵は五万の他国兵に匹敵する。 又、モンゴル兵は、武器(弓)も強力で接近戦を必要としなかった。 現代戦で言えば、砂漠の戦車と誘導ミサイルの戦い。モンゴルがミサイル。 女性子供を除く男性は全員兵士であるから人口の40%は兵士である。
モンゴル帝国は中核部族や身分の高い兵士が 槍や刀を持つ重装備の突撃騎兵だったのだがw
42 :
日本@名無史さん :2013/06/17(月) 08:13:59.31
実際、あんなでかい古墳をポコポコ作れるのって、すごい動員力
43 :
日本@名無史さん :2013/06/17(月) 08:56:28.75
槍や刀を持ち甲冑に身を固めた重装備の突撃騎兵はヨーロッパの騎兵。 モンゴル騎兵は軽量軽装備に強力な短弓。
44 :
日本@名無史さん :2013/06/17(月) 09:33:46.24
モンゴル帝国の重騎兵は案外知られてませんね 学校教育で元寇のときに短弓を強調されるきらいがあるからかな 軽騎兵で釣って、伏兵の重騎兵で突撃するのがモンゴル帝国の戦術
45 :
日本@名無史さん :2013/06/17(月) 10:16:19.48
>>40 >モンゴルなどの遊牧民は人口の1/3が兵士で兵力は人口に比して巨大
全くその通り。モンゴルは国民皆兵制度に近かったから、人口に比して戦力が
大きかった。
戦力は人口のみによらない、という私の主張に賛成してくれて有り難う。
>>44 >軽騎兵で釣って、伏兵の重騎兵で突撃するのがモンゴル帝国の戦術
そうだね。カルカ川の戦いもそのように戦われた。
ただし最初からそうだったのではない。遠征の途中で他民族から学んで
重騎兵を取り入れた。
46 :
日本@名無史さん :2013/06/17(月) 12:07:53.12
モンゴル騎兵一名につき、兵站部には馬5〜6頭いた。 兵站部ぐるみの全部隊の移動速度は一日千里(70km)。 モンゴル騎兵は数十kmも離れた所から波状攻撃を何回も繰り返すことをしたのである。 強大な敵にたいしては、軽装騎兵の波状攻撃による敵の疲弊をまって、 彼ら自身が重装騎兵と変身し、敵の陣営に止めをさしたのである。 ここで重要なのは、波状攻撃用の代え馬と打撃エネルギーの大きな弓矢。
モンゴルスレに帰れ。
>>46 軽騎兵は1人3頭、重騎兵は1人5頭が定め
>>45 蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよww
49 :
46 :2013/06/18(火) 11:49:52.96
兵站の馬が3頭では長距離遠征は不可能。 馬3頭体制は本拠地近隣の部族(邑)との戦闘体制だ。 本拠地(遠征先放牧地域等)から千里(70km)を超える遠征では、馬3頭の兵站では無理。
>>49 誰もオマエの低劣浅薄な思い込みなぞ聞いて無い
事実は事実として受け容れろ
51 :
日本@名無史さん :2013/06/18(火) 19:28:30.00
>>50 >軽騎兵は1人3頭、重騎兵は1人5頭が定め
>蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよ
上記は資料の間違い解釈
近距離弱小敵に対して侵略の場合では兵站体制が馬3頭
遠距離巨大敵に対して遠征の場合では兵站体制が馬5頭
52 :
日本@名無史さん :2013/06/18(火) 22:51:25.93
× 巨大 ○ 強大
>>50 重騎兵への軍令は、替え2頭を加えた5頭でそれ以外は3頭
3頭が基本で馬の損傷が激しい突撃重騎兵は2頭加えて5頭
54 :
日本@名無史さん :2013/06/20(木) 09:53:13.61
55 :
日本@名無史さん :2013/06/20(木) 10:56:41.13
信頼度は0だよwww 遥か以前の柔然時代に騎兵は鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施している これへと繋がったのは鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施していた 4世紀の鮮卑であり、後のモンゴルへと直接繋がっている
57 :
日本@名無史さん :2013/06/20(木) 16:47:51.62
>>56 もうひとつの資料はスルーか? わざわざ出し方まで書いておいたが、読んでないだろうから
さわりの原文を引用しておこう。
"Metal-scale armour and chain mail were introduced to the Mongol armies only after
their war with the Chinese and the West."
>遥か以前の柔然時代に騎兵は鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施している
柔然は5〜6世紀だ。「遙か以前」には違いない。
同じ地域に存在したというだけの理由で、600年も後のモンゴルに「直結」したというのは
無理があるな。
中国の大学副教授が書いた次の論文:
http://www.wretch.cc/blog/guyman5408/8192052 によれば、柔然の重騎兵が突厥の軽騎兵に敗れ、隋の甲騎が唐の軽騎兵に敗れたことに
よって重騎兵は衰微し、軽騎兵の時代が訪れた。恐らくここに断絶がある。
いや、無い。 唐の軍制でも重騎兵と軽騎兵は混在していたし 突厥も重装騎兵による突撃を得意としていた しかも、そのブログにも書かれている通り 一般的に鉄騎は軍戸の負担が重い為に減ったと知られている しかも唐も統制を回復し生産力が増すに連れ重騎兵が増えた 柔然は蒙古族で、匈奴以降清朝蒙旗に至るまで その兵制や武具防具は連綿として継続している
59 :
日本@名無史さん :2013/06/20(木) 21:48:43.76
>>58 >唐の軍制でも重騎兵と軽騎兵は混在していたし
どこの軍隊にも軽騎兵と重騎兵はいる。高句麗壁画にも両方が描かれている。
偵察・遊撃用の兵種と打撃用の兵種は両方必要なのだから当たり前だ。
>その兵制や武具防具は連綿として継続している
私はモンゴル西征軍の重騎兵の装甲が当初からのものではなく、ペルシャなどから取り入れた
ものである(二つ目の資料では『西方」)という資料を示した。
それが鮮卑、柔然以来連綿として続く形式のものであるというのなら、お題目だけでなく、そのように
述べている資料を示さなきゃね。
なお、私が示した中国語の資料によれば、古代の重騎兵の人馬合わせた装甲が最大130kgにも
達し(人間の体重は入っていない)、あまりの重さに馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか
突撃できなかった、とある。
こんなものがカルカ川やリーグニッツで突撃したとは到底思えないね。
いや、何所にもそんな事は書かれていない 息を吐く様に捏造する、それが厚顔無知な在チョンという生物。 しかもそのブログが引用してる教授は完全に異端扱いされてる色物 其処に書かれているのは、宋の時代に中国で重装騎兵が廃れたのは 年々防御力を加重した為に重量が60〜80`に達してしまった為 としか書かれていない、しかも実際には宋、西夏、遼は鉄甲騎兵を盛んに利用した様子が 史書に記されている、また宋の歩兵率が高いのは馬産地を失った為でしかない その電波教授ですら唐初に重騎兵が減ったとしか結論付けていない 盛唐には重騎兵が増加している現実があるのだから当然だがねw モンゴル西征軍の重騎兵は遼や西夏と同じ様に 元から重装備で鋼鉄製の鎧を纏い敵陣へ突撃していたのが現実 この事は、翠微先生北征録7巻、遼史34巻、宋史486巻に載っている 電波ブログと史書及び学者の趨勢、どちらが真実かは誰でも理解出来るね
61 :
日本@名無史さん :2013/06/21(金) 10:54:10.13
>>60 >いや、何所にもそんな事は書かれていない
中国語が読めないようなので、該当部分の引用と訳を載せておこう。
「据考古發現,一件完整的鐵具裝,約重40至50公斤,特製的重鎧可達100公斤。又据《宋史》卷一九七《兵志十一》載,
南宋初年,一領鐵甲的重量是45至50斤(約,26。86―29。84公斤)。可見,戰馬馱載的人甲和馬具裝的重量至少有60―80
公斤,最重者可達130公斤。重鎧揄チ了戰馬的負擔,使其難以持久戰斗,只有高大健壯而又穩重的馬匹才能充當甲騎
具裝的坐騎,即使是這樣的高頭大馬也只能以小跑、慢跑沖鋒。」
考古学の発見によれば、一件の完全な鉄製具装は40ないし50kgの重さがあり、特製の重鎧は100kgにも達した。
また宋史巻197兵志11記載によれば、南宋初年に一領の鉄鎧の重量は45ないし50斤(約27ないし30kg)であった。
これから見て戦馬が載せる人の鎧と馬の具装の重量は少なくとも60-80kg、最大130kgにも達した。重量の増加は
戦馬の負担を増加し、持久戦闘を困難にするので、大型で壮健かつ温順な馬のみが甲騎を載せることができた。
このような大型馬でも小走りかだらだら走りでしか突撃できなかった。
註:「具装」と言っているのが馬鎧のことと思われるが、あれだけの面積を覆うのに人の1.5~3倍でいいの?
とも思える。北方民族の本格的な馬鎧は100kgよりも重かったのでないか?
第一次大戦のタンクのように、しずしずとしか突撃できなかっただろうね。
仕方無いな、歴史用語も中国語駄目な人の為に訂正してあげよう。
発見された考古物によれば、一揃いの鋼鉄馬甲は
40〜50kgの重さがあり、特注の重馬甲は100kgに近い。
又、宋史巻197兵志11にある所によれば
南宋初期の、一揃えの鋼鉄具足の重量は27〜30kg。
戦馬が駄載する具足と馬甲の重量は、最小60kg多くは80`最重は130kgに近い。
重馬甲の増加は戦馬の負担を増加させた。戦闘に持久使用する事は難しく
大型で壮健かつ沈着な馬だけが鉄甲騎の騎馬として充当する事が出来た。
此の様な大型馬も速歩でのみ突撃出来たのではないだろうか。
>>61 の誤訳が無能力の故か悪意の故か、どちらだろうね。
鮮卑の時代から続く遊牧民族の重装騎兵が着た馬甲は
超重武装の宋よりは軽装で40〜50斤より稍軽い程度だったよ。
古代中国の斤て223gじゃないのか?
宋代だと約600c
65 :
日本@名無史さん :2013/06/22(土) 09:06:06.01
>>62 つっこみどころ満載だが発散を避けて要点のみ。
・人甲馬甲の合計重量130kg(最大)
なんだかんだ言いながら結局これが原文中にあることを認めたな。
>>60 では「重量が60〜80`に達してしまった為としか書かれていない」と印象操作
したのだから原文で議論した意味はあった。
・重量の数字のまとめ
馬甲:40~50kg、最大100kg
人甲:27~30kg
人甲馬甲の合計:少なくとも(至少)60~80kg、最大130kg
・馬の走り方
小跑:英語でトロット、繋駕レースの走り方。
慢跑:英語でキャンター、流鏑馬(やぶさめ)の走り方。
「只能」(それしかできない)とはつまるところ、騎兵突撃の華であるギャロップ(普通の
競馬の走り方)ができない、と言っているのだ。
66 :
日本@名無史さん :2013/06/22(土) 09:10:34.57
>>62 >鮮卑の時代から続く遊牧民族の重装騎兵が着た馬甲は
>超重武装の宋よりは軽装で40〜50斤より稍軽い程度だったよ。
これがわからない。重装騎兵が馬甲を着る?
40~50斤(24~30kg)とは人甲、馬甲のどちらのことを言っているのか?
>>65 まちがい→つっこみどころ満載だが発散を避けて要点のみ
正解→突っ込み所が無いけど悔しいので無理繰り些細な反抗をさせて頂きました
つっこみどころ満載だが発散を避けて要点を書くと
この教授の感想は他の学者からは無視されている。
あと、中国語が読め無い様なので訂正しておくと
具足と馬甲の合わせた重さを電波教授は、少なくとも60〜80kgではなく
最小60`平均80`最大は130`に近いと見ているし
指摘されて修正したようだが、電波教授も小走りやだらだら走りwではなく速足としてる
馬甲とは日本語の馬甲を指し馬が着る甲
宋・明の馬甲は飛び抜けて重武装で他の時代や遊牧民のそれと比べ重い
68 :
日本@名無史さん :2013/06/22(土) 20:51:53.57
>>67 >少なくとも60〜80kgではなく最小60`平均80`最大は130`に近いと
「至少」を辞書で引いて見ろ。ちゃんと「少なくとも」と出ている。この至少は60~80公斤ぜんたいにかかっている。
「人甲和馬具裝的重量至少有60―80公斤,最重者可達130公斤」
最小だの平均だのという言葉はどこにもない。存在しない言葉を訳してはいけない。
>小走りやだらだら走りwではなく速足としてる
小跑は一般に「小走り」、馬術用語で「トロット」だ。速歩はトロットだからそれでいいが、もうひとつの慢跑を無視
してはいけないね。慢跑は「やぶさめ走り」なのだ。とととん、とととん、と三拍子に聞こえる、あの走り方だ。
全速力ではないからわかりやすく「だらだら走り」と書いたのだ。実際、一般には慢跑はジョギングの訳語だしね。
(註:ジョギングの訳語はもうひとつ、跑歩がある)
>馬甲とは日本語の馬甲を指し馬が着る甲
ほほう、北方民族の馬甲は40~50斤、すなわち24~30kgなのか。それでは人甲なみではないか。
それでどうやって馬の身体を覆うのか?
ちなみに北方民族の馬甲は馬の前面だけでなく胴体全部をすっぽり覆うのが特徴だ。
人間用なみの重さの鎧でどうやって馬をすっぽり覆うのか教えてくれ。
>>68 馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`で
一般の南北朝期の馬甲は精々25〜30`の物。
具足が30`にもなる全身装甲に為ったのは宋代以降
魏晋時代は脚部の防護も無く、南北朝を経て初唐に至っても
各部の隙間まで覆う具足は普及していない。
そもそも馬甲は将官の乗馬にのみ施されていたが
遊牧民が中原へ流入した後、馬甲を纏った重装騎兵部隊が発達した
つまり鮮卑族など蒙古系民族の突撃重騎兵という思想が産み出した産物
至少で最小。トロットは小走りじゃなく速足、小跑慢跑でトロットを指す
「だらだら走り」という馬術用語も慣用句も存在しない、俺様用語は困るよ
70 :
日本@名無史さん :2013/06/22(土) 23:26:27.99
倭と日本が別種ってのは「統治者の血族が変わった」ってことなんじゃないの で、その交代のときに「倭じゃなくて日本にしようぜ」ってなり、 旧血族の土地も全部併合し終えた、と
古代中国の別種って、同民族別部族くらいの間隔でしょ
72 :
日本@名無史さん :2013/06/23(日) 22:16:03.21
>>69 >つまり鮮卑族など蒙古系民族の突撃重騎兵という思想が産み出した産物
宋代の中国の話はほんの参考で、その鮮卑など古代の北方民族の重装騎兵が本題だった
のだが、古代の北方民族においても馬甲は25~30kgだったと言いたいのか?
>至少で最小
「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。もちろん「少なくとも」しか書いてない。
http://cjjc.weblio.jp/content/%E8%87%B3%E5%B0%91 それはそうと「平均」はどうなった? 「平均」は原文のどの字にあたるの?
>小跑慢跑でトロットを指す
「慢跑」の訳語がないと言われて思いついたの? だが残念ながら原文では
小跑と慢跑の間にコンマが打ってある。つまり二つの走り方は列挙だ。
こうなると本当に原文を自分で読んで訳したのか疑問になって来るな。
あと、慢跑はキャンターすなわち「やぶさめ走り」で、この方がトロットより速いのだ。
「トロットあるいはキャンターでしか走れなかった」のほうが君の説に合うんじゃないか?
73 :
日本@名無史さん :2013/06/23(日) 22:32:50.02
>>71 >古代中国の別種って、同民族別部族くらいの間隔でしょ
『唐会要』百済伝. 百濟者、本扶餘之別種 (百済はもと扶余の別種なり)
この場合は別種は王統の分れのことだな。
中国の概念では国とは民族より王統のことなんじゃないか?
>>72 おいおい、恍けるな。もう一度書いいてやるからよく読め
馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`
一般の南北朝期北朝の馬甲は精々25〜30`の物。
「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。最大小的限度即ち「最小」と書いてる
http://baike.baidu.com/view/1201192.htm そもそも、少なくともなのだから即ち最小であると、日本人には解る。
>>59 では、馬は並足か精々速足とあったが、自ら速足で駆け駆足で突撃すると修正したようだ
何にせよ見解が事実に近づいた事は喜ばしく思う
百済の件は例外で大半は王統ではなく民族や部族に対して使われている
75 :
日本@名無史さん :2013/06/24(月) 10:26:10.75
>>74 >馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`
私が聞いているのは40kgではなくて25~30kgのほうだ。
古代北方民族の馬甲が25~30kg、すなわち人間用なみだったという説の根拠はなにか?
資料で示してね。
>「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。最大小的限度即ち「最小」と書いてる
その同じ資料で英訳を見れば
"at (the) least; at lowest; to the least extent; anyhow; at any rate; in any case"
すなわち「少なくとも」と書いてある。中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる。
まあ「少なくとも」と「最小」は通底するが、それをもって「少なくとも」を誤訳として
斥ける理由にはならない。
いわんや君の場合は「最小〜平均〜最大」という「誤訳」にもとづいているのだからね。
>何にせよ見解が事実に近づいた事は喜ばしく思う
ということは「慢跑=キャンター」と、訳文中の慢跑の欠落を認めたということだな?
「小跑慢跑=トロット」なる珍解釈は引っ込めるのか?
>百済の件は例外で大半は王統ではなく民族や部族に対して使われている
「大半」と統計がとれるほど資料があるのならまずそれを示せ。
76 :
日本@名無史さん :2013/06/24(月) 16:34:26.20
>>75 上古至五代軍事工程技術史は、周りに相手されない電波教授とは
比較にならない程信憑性に富む書籍だ
意味不明な言い逃れをしない様にw
中国語を説明するのに「中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる」とは
詭弁と言わずして何と言おうか、諦めて訂正と謝罪をしなさい
まず君は
>>59 で筆を曲げ自分に都合よく曲解した
>あまりの重さに馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか突撃できなかった
という妄言を訂正しなければ駄目だよ。あと小跑慢跑とはトロットの事
ほら大半だ
高句麗,在遼東之東千里,南与朝鮮、ワイ貊,東与沃沮,北与夫余接。東夷相伝以為夫余別種,故言語法則多同,而跪拜曳一脚,行歩皆走。
先零別種テン零与鐘羌諸種大為寇掠,断隴道。
自索虜破慕容,蛮馬二万余人攻囲義陽,据有中国。ゼイゼイ一号大檀,又号檀檀,亦匈奴別種。
滑国者,車師之別種也。 テイ者,西夷之別種,号曰白馬。 エフタル国,大月氏之種類也,亦曰高車之別種,其原出于塞北。
薛干部,常屯聚于三城之間。〜而率屯山鮮卑別種破多蘭部世伝主部落。 尉遅迥字薄居羅,代人也。其先,魏之別種,号尉遅部,因而姓焉。
突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。 赤土国,扶南之別種也。 ケ至国,居西凉州界,羌別種也。 奚,本曰庫莫奚,其先東部胡宇文之別種也。
尚可孤,東部鮮卑宇文之別種也,代居松、漠之間。 突騎施烏質勒者,西突厥之別種也。 東女国,西羌之別種,以西海中復有女国,故称東女焉。
リョウ者,蓋南蛮之別種,自漢中達于?、?,川洞這間,所在皆有。種類甚多,散居山谷,略无氏族之別。
乾元元年,復為燕州。旧領県一,无?土戸。所領戸出粟皆靺鞨別種,戸五百。天宝,戸二千四十五,口一万一千六百三。両京道里,与幽州同。
党項羌,在古析支之地,漢西羌之別種也。 室韋,契丹別種,東胡之北辺,蓋丁零苗裔也。 南詔,本哀牢夷后,烏蛮別種也。
日本語と中国語が苦手なのはよく解った、日本語教育をあまり受けなかったのかな
78 :
日本@名無史さん :2013/06/24(月) 21:15:51.35
モンゴル馬は小型である。 鉄甲重装騎兵の馬としては体力不足である。 モンゴル馬は、長距離走行の耐久性はあるが重量物は運べない。 モンゴル騎兵が重装騎兵となりうるのは、 ペルシャで大型のアラビア馬を手に入れてからとなる。 ペルシャ戦以前の重装騎兵は短弓に長剣か槍の装備が精々である。
とうとう何の資料も無しに妄想を騙るようになったかw
81 :
日本@名無史さん :2013/06/25(火) 02:11:44.46
モンゴル軽騎兵の伝統は今でも残っている。 モンゴル競馬だ。 数十kmの距離の競馬だ。 モンゴル馬は千里馬なのである。 一日に千里(70〜80km)を駆け続けられる馬、それがモンゴル騎兵の馬なのである。
82 :
日本@名無史さん :2013/06/25(火) 09:01:59.18
>>77 >上古至五代軍事工程技術史は、周りに相手されない電波教授とは比較にならない程信憑性に
富む書籍だ
宣伝文句はいいから、「25~30kgの馬甲」に関する文章を引用してくれ。
>中国語を説明するのに「中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる」とは詭弁
あほらし。「中国語の意味を中国語で説明するのは不正確だ」ということを言ったのだ。
現に「至少」の意味を説明する「最大小的限度」という中国語は君を誤解させたではないか。
>馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか突撃できなかったという妄言を訂正しなければ
これはうろ覚えで書いたから「並足」は間違いだった。しかし「だく足(トロット)」は正しいし、
ちゃんとソースを提示しているからこそ君が反論できたことを認識すべきである。
>あと小跑慢跑とはトロットの事
原文の「コンマ」は無視するのか? 原文を飜訳してくれた人に、「コンマ」をどう解釈するのか
聞いて見たらどうか?
>ほら大半だ
このなかにも王統らしいのはいくつもある。まあ両方あるらしいことはわかったよ。
83 :
日本@名無史さん :2013/06/25(火) 09:26:57.13
>>78 >ペルシャ戦以前の重装騎兵は短弓に長剣か槍の装備が精々である。
その意見に基本的に賛成だ。
征服事業が始まったときのモンゴル騎兵は軽騎兵オンリーであって、そのなかに
作戦上の要求から遊撃用の弓騎兵と、打撃用の槍騎兵とが生じた。
つまり軽騎兵と重騎兵と言うよりは弓騎兵と槍騎兵があった。槍騎兵の武装は
弓騎兵とたいして変わらなかったが、この槍騎兵がペルシャ征服戦の過程で
装甲(あるいは専用の馬も)を取り入れて重騎兵になった、というのが今のところの
私の考え方だ。
ただしこのモンゴル重騎兵が馬まで装甲したかどうかは保留。その理由は、騎士が
鉄札鎧をつけて馬は無装甲、という昔のイラストがあるからだ。
なお、鎌倉時代の大鎧も重いものは27kgぐらいあったというから、鎌倉武士も立派な
重騎兵だ。ただし主武器は弓だけどね。
>>82 頁480至483参照、見つかった鉄片から類推して30`前後と推定している
中国語の意味は中国語で説明するのが最も端的
至少が最小を意味する現実を受け容れたく無くからと屁理屈捏ねるのは止めたまへ
>>61 では更に筆を曲げ字句と文意を改竄した、
>>59 以上に訂正と謝罪を要する
>>75 で自分が何を書いたか思い出そう。小跑慢跑=トロットなる珍解釈とある
而し、小跑慢跑はトロットを指す、複数の話を混ぜて誤誘導しては駄目だよ
別種が王統ではなく部族や民族を指すソースを提示しているのだから
君は具体的な文言を挙げて反論しなければならない
>>83 下らない自演も根拠無い妄言も無意味だから止めようね
85 :
日本@名無史さん :2013/06/26(水) 09:23:00.04
>>84 >頁480至483参照、見つかった鉄片から類推して30`前後と推定している
それはどこの出土品か? 馮素弗墓馬甲の40`との関係は?
小さい方の25kgのソースは? それから前にも言ったが文章で引用してくれ。
>中国語の意味は中国語で説明するのが最も端的/至少が最小を意味する現実を受け容れたく無く
君が
>>74 で: >そもそも、少なくともなのだから即ち最小であると、日本人には解る。
すなわち「日本語では『少なくとも』と『最小』は同じ意味だ」と言っているのを見逃していた。
馬鹿の壁はここにあった。これを放置したままでは議論は無意味だ。
そこで、「少なくとも」と「最小」の違いを改めて考えて見よう。
ここに重さがそれぞれ1、2、3、4、5キロの物体A、B、C、D、Eがある。
「重さが最小の物体を選んで下さい」と言われれば君はもちろん重さ1キロのAを選ぶ。
一方、「重さが少なくとも1キロの物体を選んで下さい」と言われたらどうか?
この場合、A、B、C、D、Eのどれを選んでも正解なのだ。
「少なくとも」と「最小」は一見似ているが、実際にあてはめるとこれだけの差がある。
似たようなものだ、とは言っていられないのだ。
86 :
日本@名無史さん :2013/06/26(水) 09:24:22.85
君に頼まれた翻訳者は中国語の「至少」の意味を知らず、字面から「最小」の意味だと思った。
そこで「至少有60〜80公斤、最重者可達130公斤」の三つの数字のうち、60公斤を
「最小」とした。最大はもちろん130公斤だ。ここで真ん中の80公斤が浮いてしまった。
しかたなく翻訳者は80公斤に「多くは」と、原文にないことをくっつけたのだ。
君が「平均」と言っているのはこれだ。
実は60〜80公斤は、「少なくとも」の下限を、点でなく範囲で示したものだったのだ。
上記のように「少なくとも」は範囲を示す言葉だから、下限が範囲で示されても不都合はない。
原文は60〜80を下限とし、130を上限とする範囲を「少なくとも」で示しているわけだ。
依頼者の君はそんなこととは知らず、翻訳者がくれた訳文を金科玉条と押し頂いた。
そしてあろうことか、その訳文を根拠にして、正しく訳した私の訳文を「誤訳」と決めつけた
のだ。
その後の議論で君が
>>62 の訳文から一歩も出ず、原文に戻って考えることをしない理由は上記
の事情による。当たっているだろう?
87 :
日本@名無史さん :2013/06/26(水) 09:26:33.58
>小跑慢跑はトロットを指す、複数の話を混ぜて誤誘導しては駄目だよ なんども言ったが君はこの解釈についても原文に戻らない。原文を改めて示せば: "即使是這樣的高頭大馬也只能以小跑、慢跑沖鋒。" ごらんの通り、小跑と慢跑の間にはコンマが打ってある。「小跑慢跑」という四字言葉は 「少なくとも」この原文についてはあり得ないのだ。 >別種が王統ではなく部族や民族を指すソースを提示しているのだから >君は具体的な文言を挙げて反論しなければならない ご希望により一例を挙げれば ”突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。” 突厥は蓋し匈奴の別種なり,姓は阿史那氏。 突厥が民族名なら「姓」や「氏」があるわけがなかろう。これは王統だ。 ちなみに匈奴も国家、すなわち王統の呼び名だ。 漢との外交交渉の結果として美女王昭君が匈奴王に贈られた話は京劇にもなっている。
88 :
日本@名無史さん :2013/06/26(水) 20:21:38.91
蒙古馬の様な小型馬では、いずれにせよ重騎兵は無理だよ。 蒙古軍の強さは、その機動速度と小型で強力な弓にある。 長距離高速移動ができる馬、弩のように強力で飛距離のある短弓。
>>85-87 具合が悪くなると無意味な長文で論点を曖昧にするのは
逃げを謀る無知の典型的行動
内容の無い長文をダラダラ書いても何の意味も無い
苦しくなると意味も無く不要な要求を繰り返し逃げを謀るのは
愚昧な老害の典型行動
キミは電波ブログを持ち出したが出土品の具体例など書いて無い。
上古至五代軍事工程技術史頁480至483に
朝陽十二台郷、 長安草廠坡1号墓、敦煌285窟出土とある
鉄甲片重量估算、一套鉄馬鎧、大約重30余公斤。皮革の物は当然更に軽い
至小は中国語で最小を意味する、以下を読み勉強する事
ttp://baike.baidu.com/view/1201192.htm 至小有、「有」には一般的に或いは多くはという字義もある。
最重者可達130公斤、最も重いのは130`に近い。
自らの愚かな書き込みを省みてみよう
>>75 >「小跑慢跑=トロット」なる珍解釈
とあるが、小跑慢跑はトロットを指す。自らの浅墓さを恨み諦めよう
無知蒙昧が歴史を知らずに知った蒙りをするから珍解釈を生む。
突厥の起源を記述するのに興隆後の突厥を持ってくる馬鹿は居ない、これは突厥部の事。
突厥とは彼等の自称であり民族名でもある。帝国となった突厥可汗の姓が阿史那
そもそも突厥が氏族名なら氏姓が阿史那とはなり様が無い、少しは考えてから書く事。
後漢書南匈奴列伝、姓虚連題。為政者の呼称は単于、姓は虚連題又は挛鞮
90 :
日本@名無史さん :2013/06/27(木) 09:25:09.55
モンゴルの優位は武装の優位ではないよw 短弓(笑)
91 :
日本@名無史さん :2013/06/27(木) 09:31:07.11
短弓もってウホウホやってたのは、北ユーラシアに腐るほどいたわけで、 そのなかでチンギスハンが優位に立てたのは、強運と重軽織り交ぜた釣り戦術
92 :
日本@名無史さん :2013/06/27(木) 12:06:28.42
>>89 >小跑慢跑はトロットを指す
「小跑慢跑」って、原文の「小跑、慢跑」のこと?
中国語で「小跑慢跑」と「小跑、慢跑」は同じなの?
議論は結構だがスレタイも読めない奴らの言に説得力は無いな
94 :
日本@名無史さん :2013/06/29(土) 23:04:35.38
>>90-91 モンゴル軍が強力であったのは、
@騎馬軍団を支えた兵站能力(長距離高速移動)
基地(放牧地)から戦闘地まで数百km
敵の探索外の遠方からモンゴル軍の攻撃が始まる。
ある日突然モンゴル軍が現れて攻めてくること。
A常に敵より飛距離の遠い破壊力の大きな短弓
敵の攻撃を受けることがない距離から攻撃し敵に打撃を与えられる
95 :
日本@名無史さん :2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN
>>89 >突厥とは彼等の自称であり民族名でもある。帝国となった突厥可汗の姓が阿史那
>そもそも突厥が氏族名なら氏姓が阿史那とはなり様が無い、少しは考えてから書く事。
違うな。
阿史那氏が係累を率いて移住し、移住先で自らの集団を突厥と号した。
部族国家の成立であり、阿史那氏はその首長氏族。
部族国家が発展して可汗国家となると阿史那氏は可汗氏族となった。
はじめに阿史那氏ありきなのだ。
その通り、突厥は国号。
天智系が倭で、天武系が日本で、壬申の乱が易姓革命という風に認識されて混乱がおきたのではないだろうか?
98 :
日本@名無史さん :2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN
それだと >あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと を説明できない。
日本(旧小国)=やまと 倭国の地=近江宮の支配が及ぶ範囲
やまとってのは律令制の大和国の範囲
101 :
日本@名無史さん :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
やまとって言葉は、記紀以降の国名か人名以外で存在しないんだよね。 筑紫のように、筑紫郡、大字筑紫、筑紫神社、みたいな 固有地がない。 なのに、対外的国名は、倭か日本で、ヤマトは名乗っていない。
102 :
日本@名無史さん :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
つまり、奈良県の旧国名としてしか使われていない。
い〜や 日本書紀の神功皇后の九州で山門県が出て来る そこで土蜘蛛田油津媛を討った どうも女王らしくこれが邪馬台国かも
104 :
日本@名無史さん :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
福岡県山門郡ですね。 和名抄にも載っている古い地名ですね。
105 :
日本@名無史さん :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
畿内には地方の勢力が移住していると考えられます。 もちろん、日向もその一つでしょう。 その移住勢力の一つに、筑後山門の勢力もいたのでしょうか。 記紀編纂時ヤマトの国名を主張できたのは、 その頃筑後大和勢力が実権を握っていたのでしょうかね。
106 :
日本@名無史さん :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
虚見都 山跡乃國
日本神話ってイザナギが死んだ場所が中東だしなぁ ヒノカグツチはスーリヤ 翻訳の仕方が間違ってて地名が日本列島内部とは限らなそう
イザナギじゃなくて イザナミだったか いきなり出番の腐ったイザナミが相談した黄泉の神がブラフマー臭かったりもする
笑
>>101 >記紀以降の国名か人名以外で存在しない・・・・・・・・・
奈良県天理市に坐す式内名神大社「大倭神社」や大倭直氏を、知らぬのか?
111 :
日本@名無史さん :2013/09/22(日) 20:13:47.46
しらぬ
112 :
日本@名無史さん :2013/10/04(金) 17:10:23.80
>>1 そのまま。
倭国が九州王朝のことで日本が近畿のこと。
>>112 なるほどそういうことか
じゃあ卑弥呼は倭国の方か
114 :
日本@名無史さん :2013/10/14(月) 15:54:33.85
倭国というのは日本列島全体を指す言葉で日本はヤマト政権のこと。 ヤマト政権が日本列島を統一したという意味に過ぎない。
完全に ひのもと、東の果て って中国からの視点だよね。 日本って中国語でなんて音なんだ。
日(ひ)は肥の国の肥と同じだろう
117 :
日本@名無史さん :2013/10/15(火) 12:45:14.30
大和勢力は本家。倭国とは九州とかあっちの勢力。
118 :
日本@名無史さん :2013/10/15(火) 12:47:49.99
出雲には秦氏や物部氏もいれば、東北には蝦夷がいた。
119 :
日本@名無史さん :2013/10/18(金) 21:42:09.21
津軽はひのもとだし
東南アジア、インドネシアとかが倭国だったとかじゃね? 米の流れ的に
121 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 08:12:49.47
おそらく新しい日本という国号を使い出したのが天智天皇 その死後、近江(日本)大和(倭)と抗争する壬申の乱があり、 統合された
122 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 20:48:31.40
肥国の別名は、建日向日豊久士比泥別。 肥は日に通じる。 日本の国名は日下に由来する。
123 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 20:51:56.58
テスト
124 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 20:52:41.07
テスト
125 :
日本@名無史さん :2013/12/03(火) 22:23:26.91
倭国は九州。邪馬台国も倭の五王も九州での話だ。 倭国の分家的存在が大和。 倭国は白村江で弱体化し、大和改め日本に呑み込まれた。
126 :
日本@名無史さん :2013/12/04(水) 13:17:41.90
カルト乙
127 :
日本@名無史さん :2013/12/21(土) 11:31:59.42
中世以後の日本は関西・関東の二つの焦点をもつ楕円のような国だが、 古代は九州・関西の楕円だった。 白村江=朝鮮出兵、筑紫君=豊臣秀吉、天皇家=徳川家康にたとえると ずいぶん似ていると思う。
128 :
日本@名無史さん :2013/12/21(土) 11:39:55.44
>>125 惜しい。
倭国は九州と今の韓国。当然ながら倭の五王も九州と韓国の話。日本は本州。
わざわざ海渡って回廊南部を入植、征服してるくらいだから 当然本州の西の方は支配下に収めてたよ
130 :
日本@名無史さん :2013/12/21(土) 22:20:54.72
127 その例え、面白い。
131 :
日本@名無史さん :2013/12/24(火) 06:57:17.83
江田船山古墳のワカタケルこそ倭王武。 大長谷のワカタケ、シキのワカタケルは「田舎のプレスリー」(笑)
132 :
日本@名無史さん :2013/12/24(火) 15:57:56.41
江田船山は欠字があるから分かりません(^-^)
133 :
日本@名無史さん :2013/12/24(火) 20:35:36.65
>>127 日本は現代でも二つの焦点をもつ楕円の国だ。ただし現代の問題は中央
官庁の役人どもに、この認識を持てる人がいなくなっているということ
だ。二つの焦点とは東京と大阪だが、この15年ちかくのデフレ時代、
大阪にもっと公共投資をすれば簡単にデフレを抜け出せるのに、そのこ
とが判る役人が一人もいなかった。官庁の官僚どものマ○ケさ加減よ!
134 :
日本@名無史さん :2013/12/26(木) 20:52:38.02
>>133 栗本慎一郎の信者乙。
シリウス云々はどうなった、蘇我氏はゾロアスター教徒なんだろw
135 :
日本@名無史さん :2014/01/18(土) 19:17:16.93
日本書紀は元明まで書けたのに、なぜ持統で止めたか? それは文武の日本建国を隠し、神武まで遡らせるためだろう。
136 :
日本@名無史さん :2014/01/18(土) 19:55:47.17
137 :
日本@名無史さん :2014/01/18(土) 21:40:33.83
九州王朝説っていつの時代の話だよw
138 :
日本@名無史さん :2014/01/18(土) 22:05:38.16
日本書紀は神代から日本で押し通してるが 続日本紀で建元も改名もさらっと書いてるよね(^-^)
>>137 今時、倭国が畿内にあったと主張してる電波は居らんだろ
140 :
日本@名無史さん :2014/01/19(日) 08:15:59.48
百済系渡来人が朝廷を少数派独裁工作で乗っ取り自分達が原日本人であるかの様に工作した つまり国内では日本=倭国百済起源説をやっていた最中の対外二枚舌示威行動 現在韓国人がやってる対日ネガティブキャンペーンと全く同じ アメリカ人も最近は誰が生粋のインベーダーか察しがついてきたみたいだけどねw
141 :
日本@名無史さん :2014/01/19(日) 08:26:36.27
>>140 補足 尤もアメリカ人は自分達もネイティブアメリカンを虐殺して土地を奪ったから韓国人に強く出られないみたいだねw
142 :
日本@名無史さん :2014/01/19(日) 10:02:05.67
新唐書では倭=日本、大宝は改元とした でも続日本紀では建元なんだな
143 :
日本@名無史さん :2014/01/19(日) 13:16:42.35
倭、百済→日本 高句麗→渤海 比較すると面白そう。
>>139 少なくとも大宝建元以前「倭国」が畿内にあった証拠はある。
藤原宮の木簡だろ。文武即位前とは言い切れないが。
だから、大宝建元以前と書いた。
>>143 特に新鮮味は無いな
倭∈日本
靺鞨≒渤海≠高句麗
148 :
日本@名無史さん :2014/01/20(月) 10:12:49.12
小国は金官加羅。それが倭国を合併して日本になった。
>>148 金官国は旧狗邪韓国で倭人の国
倭国が強大化したので自発的に併合され任那の中核になった
150 :
PC :2014/01/21(火) 09:49:19.67
>>149 狗邪韓国が倭人の国なのはその通り。
しかし3世紀末に北方民族に支配されて金官加羅になった。
こんなとこで何してんのパフォコン爺
152 :
日本@名無史さん :2014/01/22(水) 02:55:29.24
梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」
「頭骨の計測Data分析」133頁
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg ●近畿
●朝鮮人
●中部 ●新潟
●千葉
●東北
近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ
整理すると、
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
(4)オンコロマナイと礼文華の違いから、道内でも道北と道南では小進化の速度が違っているようである。
生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。
周辺部(東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり)は別の特徴を持つ。
すなわち、国内における地域差がはっきりと出ている。
153 :
日本@名無史さん :2014/01/24(金) 19:00:03.07
>>152 近畿は古い時代の人骨が地形と土壌の関係で希少だっただけで
今は緯度と気温の影響を取り除くと
縄文時代と古墳時代の間に有意差は無いと結論出てるよ
155 :
日本@名無史さん :2014/01/25(土) 17:18:04.95
>>154 152は、現代人の調査だろ。
■日本人と韓国人のDNA
『アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった』
(総合研究大学院大学 『日本列島3人類集団の遺伝的近縁性』 2012年)
『(Y染色体のO2bタイプは)中国にはこれらのタイプはほとんどいないが、
系統関係では中国の主流であるOの仲間であり、日本と韓国で共通してみられることから弥生系としてよい』
(『Y染色体からみた日本人』より)
156 :
日本@名無史さん :2014/01/25(土) 21:43:08.47
倭国は朝鮮半島国家。日本は日本列島国家。全然別物だね。
158 :
日本@名無史さん :2014/01/26(日) 09:48:00.72
>>157 それは隋の時代、卑弥呼から数百年後の話だね。
倭は朝鮮半島国家で版図は九州まで伸ばしたこともあるのさ。
大和朝廷とは何の関係もない。
卑弥呼も朝鮮半島の人。
1000年以上経ってから考え出したウリナラファンタジーよりは信頼出来るはw
最近朝鮮人が工作に必死なのが笑えるなw
161 :
日本@名無史さん :2014/01/26(日) 10:48:38.84
朝鮮人が工作だってさ。ははは。 100年経っても邪馬台国が見つからないのは何故? それは朝鮮半島にあったからなんだよ。
「朝鮮半島にあったから見つからない」ってマジモンの馬鹿かよwwww そんなんムー大陸でもアトランティスでも同じじゃねえかw 朝鮮にあったという史料・考古資料を出せよ
163 :
日本@名無史さん :2014/01/26(日) 11:29:33.61
>>162 史料は魏志倭人伝。
東南水行1年に裸国、黒歯国があった。
3世紀には羅針盤が発明されておらず、遠洋航海は不可能。
裸国、黒歯国は日本以外には存在し得ない。
すると邪馬台国は日本から北西方向の海の向こうにしか存在し得ない。
即ち、邪馬台国は朝鮮半島以外に存在し得ないのである。
病院へ行ってこい、即入院だろうがw
>>163 なにバカな事をw
ハワイにポリネシア人が移住したのが3世紀頃なんだけど?
しかも何度も往復してるんだけど
166 :
日本@名無史さん :2014/01/26(日) 13:30:16.99
>>165 バカはお前さ。それは片道切符の航海だよ。
>>166 ハイハイ、無知で馬鹿の赤っ恥くん
ちゃんと往復してたよ
そもそも邪馬台国への道程をガン無視してる時点で…
>>155 相変わらずこの手の誤誘導を謀る工作が痕を絶たないねえ
非O2b1のO2bグループは日本人には少ない
O2b1は日本で発生した系統
170 :
日本@名無史さん :2014/01/27(月) 08:23:38.81
倭は朝鮮半島国家。倭の五王は朝鮮半島の王。記紀に何の記述も無いのがその証拠。
「宋書」倭国伝より 倭国在高麗東南大海中、世修貢職。 (倭国は高麗の東南大海の中にあり、世々貢職を修む。) 順帝昇明二年、遣使上表曰、 「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿。…」 (順帝の昇明二年、使を遣わして上表す。いわく、 「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土をひらき、畿をはるかにす。…」) >倭国在高麗東南大海中 >渡平海北九十五國
172 :
日本@名無史さん :2014/01/27(月) 21:48:26.01
>>171 これこそ倭が朝鮮半島にあった証拠だね。
帆船が普及したのは宋の時代。
流れの速い対馬海峡を超えて兵力を展開できたわけがないのだ。
倭は朝鮮半島南部にあり、海を渡って支配したのは遼東半島の事なのだよ。
173 :
日本@名無史さん :2014/01/27(月) 23:22:12.01
>>172 倭人は船旅1年もしていた
カナヅチで海を渡れない朝鮮人とは違うぞ
174 :
日本@名無史さん :2014/01/27(月) 23:22:54.88
朝鮮人は泳ぎへた へたれ
どの時代の文献でも、倭国は朝鮮半島の東南にある島国なわけで、半島内のわけない 同じ理由で本州(畿内)でもない 奈良はソウルの真東
176 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 03:25:27.12
>>176 それは魏志の「まさに会稽東治の東にあたる」の誤記だよ
会稽東治は「徐福が会稽の東にある国を治めた」の意味
つまり、「徐福が住み着いたという伝説の国は倭国のことに違いない」という内容で地理の話ではない
178 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 04:06:10.17
>>177 後漢書倭人伝
「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同」
『南史』倭国伝 倭國、其先所出及所在、事詳北史。 『北史』倭国伝 倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。 新羅の東南てどこ?
>>178 だからそれが魏志からの引用の誤記なんだよ
誤記というより編者の解釈ミスのほうが正しいかな
後漢書が魏志を参考にしてるのは知ってるだろ?
>>179 百済、新羅の東南なら九州が妥当でしょう
181 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 05:23:29.44
>>179 だから新羅も百済も全部位置が間違っているのさ。
百済は遼東半島にあり、新羅は北朝鮮北部にあった。
その東南の大海中の山島、即ち倭は朝鮮半島にあったのだ。
182 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 05:37:24.10
>>179 『北史』百濟伝
「其國東極新羅,北接高句麗, 西南俱限大海,處小海南」
「其南,海行三月有躭牟羅國」
百済は小海の南に有り、済州島まで三カ月。だから百済は遼東半島だね。
キチガイwww
184 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 07:54:49.46
>>179 『宋書』百濟伝
「百濟國,本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。」
百済は本は高句麗とともに遼東の東千余里に有り、高句麗が遼東を攻略すると百済は遼西を攻略した。
『史記』夏本記
「百濟國西南渤海中有大島十五所,皆邑落有人居,屬百濟。」
百済国西南渤海中には友人の島が15有、皆百済に属す。
百済は誰がどうみても遼東半島国家だね。
倭は遼東半島の東南にあった大海中の山島にあった。
即ち、倭は朝鮮半島国家。卑弥呼も朝鮮半島人。日本史とは関係ない。
百済と倭は友好関係にあっただけじゃないかw
186 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 08:56:30.52
みんな、倭や邪馬台国が日本にあったという固定観念に取りつかれているだけさ。 だからいつまで経っても解けないのだ。
解けないのは満州が受けたカルトの洗脳です。
188 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 16:12:29.55
皆、事実を知るのが怖いから嘘を信じ込んでいるだけ。 邪馬台国は朝鮮半島に、百済は遼東半島に、楽浪郡、帯方郡は満州にあったのさ。 そして畿内は黒歯国。
189 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 16:17:07.15
と現実から目を背けた寒いニートが居ます
>>188 たぶん、お歯黒は、老齢対策。
入れ歯の無かった、時代の虫歯予防。
191 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 17:59:25.32
もう記紀も殆ど内容わかってきたしな。 出雲丹波から畿内にかけての話が神話紀にまとめてある。
192 :
日本@名無史さん :2014/01/28(火) 21:44:39.30
罪チョンの妄想は留まる所を知らないな 精神病院に障害隔離しないと危険なレベル
194 :
日本@名無史さん :2014/01/29(水) 23:22:33.68
漢書地理誌に「樂浪海中有倭人」ってあるよね。 楽浪海って渤海あたりか、せいぜい西朝鮮湾。百歩譲っても黄海あたり。 誰がどうみても倭人は朝鮮半島に住んでいた人達だよ。 邪馬台国は朝鮮半島国家なのさ。
アホの戯言だなw 半島南部は倭国で正しいが。
196 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 05:27:08.50
倭は新羅などを属国にして高句麗と朝鮮半島で覇権を争った軍事大国。 ところが、記紀には高句麗との戦争の記録は無ければ倭の五王も出てこない。 即ち、倭は朝鮮半島国家だっという事だ。 全ての文献は倭が朝鮮半島にあった事を示しているんだよ。
本気なら即入院レベルの馬鹿だw
198 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 09:10:28.49
>>196 それは、倭が大和朝廷と違うことの証明でしかないよ。
大和朝廷が、邪馬台国、倭国と全然別の国というのは同意。
199 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 09:42:37.41
>>198 「倭が九州にあった」という説と「倭が朝鮮半島にあった」という説。
戦いの舞台が朝鮮半島である以上、朝鮮半島にあったと考えるのが自然じゃないか。
流れの速い対馬海峡を越えて兵力を展開するのは現実的ではないのではないか。
そのような強国が九州に存在したのなら、半島ではなく近畿を征服するだろう。
200 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 09:51:42.49
半島南部は倭国に支配されていたからな。
昔は国境線はないわけで、半島南部から日本列島にかけていた倭が、半島から追い出された というのが正しい見方だろう。
>>201 当時の朝鮮半島に倭を追い出せるような勢力は無いよ
新羅の始祖も倭から来たとある
済州島の始祖も倭から来た
半島南部は倭の領土
203 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 12:14:52.96
自分は倭国と大和朝廷は別種だと思う。 その点、唐の見方に同意。 日本書紀見ると、新羅憎し、新羅憎しだよね。 新羅に領土を奪われだのが、大和朝廷の先祖の国だろうな。
204 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 12:17:58.69
倭は北部九州から起こり 朝鮮半島南部や南九州、関西方面へ勢力を広げて行った 関西方面へ進出した勢力が大和朝廷へ発展し日本国となり 朝鮮半島南部での戦いで力を消耗した倭から政権を奪った
205 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 12:19:22.79
>>201 その通り。倭は基本的には朝鮮半島国家で九州にも手を伸ばした。
邪馬台国も倭の五王も朝鮮半島の人達。
半島からは新羅によって追い出され、列島では大和政権に滅ぼされ消滅。
もっとも大和政権自体が、倭人の末裔が東征して開始した政権かもしれないが。
206 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 12:24:42.92
後漢書にもある通り倭が博多近郊から興ったのは間違いない その後同心円状に勢力を広げて行き半島南部にも進出した 古代においては日本と朝鮮の国境線は無かった。
207 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 13:13:09.07
>>205 朝鮮半島中心では倭の風俗、気候風土とは全く合わないのだが。
あれは南方系の話、朝鮮には丹山もない。
208 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 13:58:01.85
>>206 後漢書には倭の極南界に倭奴国があり、その金印が博多から出てきたんだ。
だから後漢書の示す倭の中心はそこより北、即ち朝鮮半島。
>>207 朝鮮半島南岸は暖流の影響で暖かく、倭の風俗にピッタリ。
209 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 14:53:29.10
金印が出土した博多湾沿岸が倭の政治的中心地 漢代には領土は博多から北に向かって発展してたんだろう。
210 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 15:06:58.13
北京 上海 京城 釜山 福岡 佐賀 熊本 宮崎 岡山 松江 奈良 平均気温(年) 12.3 17.1 12.5 14.7 17.0 16.5 16.9 17.4 16.2 14.9 14.9 平均気温(8月) 24.9 27.7 25.7 25.9 28.1 27.8 28.2 27.2 28.3 26.8 26.9 平均気温(1月) -3.6 4.3 -2.4 3.2 6.6 5.4 5.7 7.5 4.9 4.3 3.9
九州は大和より朝鮮半島に近いし、昔は行き来もしやすかったろうね。
212 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 15:14:34.79
倭の別種は倭に含まれる
213 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 16:06:52.79
>>211 黒潮や対馬海流は地球の自転と地形が原因で発生している現象であり、3世紀と現在の条件は変わらない。
昔は羅針盤や帆船も無く、技術も低かったので昔の方が行き来がしやすかったという事はあり得ない。
214 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 16:10:55.00
>>209 対馬海峡は北から南に進出はしやすいが、南から北へ向かうのは困難。
生きてたどり着くのがやっとであり、兵力の展開など古代人には不可能。
倭人は半島から九州に向かって発展したと考える方が合理的ではないか。
215 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 16:19:07.26
>>214 対馬海峡の海流は季節や時間によって変わるので
『対馬海峡は北から南に進出はしやすいが、南から北へ向かうのは困難。』
等といった事実はない。
対馬海峡の海流を熟知した倭人が壱岐、対馬、伽耶と進出したと考える方が合理的。
>>208 >金印が博多から出てきたんだ。
あれは採取状況が怪しいから当てにならんよ。
それに丹山に青玉、真珠で冬温暖なら阿波周辺しかないけどな。
>>214 倭人伝じゃ対馬の人々は日常往き来してるとあるけど。
218 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 18:14:58.29
>>215 文化も人も朝鮮半島から来てるんだから、国家権力だけ日本列島から半島に進出した
と考えるのは無理があるよ。
219 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 19:03:58.21
文化度と権力は別っていうね。 人を動かすのは技術ではなく人である。 技術や文化を持っている者を武力によって配下とする。 まずその技術や文化を欲しいと思うことが必要だが、 良く言えば理想家で悪く言えば自己中な正義感のような気質も必要。 アレクサンドロスやチンギスハンやヌルハチの如く世界史的にそう。 ローマのような高い技術や思想文化を持つ帝国がゲルマン土人にあのようにされるとは。 あの時代の戦の強弱は戦意と身体能力に大きく左右される。 鉄製武器は有利に働きはするが石製の鏃斧や竹槍でも効し得る範疇。
220 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 20:22:44.01
>>218 考古学的には半島にも倭系遺物がたくさん出てきてるよ。
特に土器なんか生活必需品だから、当然人もいっている。
一昔前みたいに、半島→列島といった一方通行的な関係じゃないよ。
筒形銅器、前方後円墳… あと何があったっけ
ヒスイも日本でしか産出しなかったな
223 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 21:02:37.28
朝鮮半島より九州の方が温暖で農業生産性が良く人口密度も高い 多くの兵力が得られるから日本列島から半島に進出した と考えるのが自然だな。
224 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 21:04:08.15
>>217 あれは対海国の間違い。対馬は倭を日本と勘違いした後世の誤記だろう。
対馬の住民が対馬海峡を往来して穀物を買いに行くわけがないからな。
間抜けな理由で都合よく解釈するなよw
226 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 21:32:43.64
>>225 「対海国」の方が版が古く、「対馬国」を「対海国」と間違える可能性は少ない。
即ち、どちらが間違っているかと言えば、「対馬国」の方が間違いだ。
227 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 21:38:22.00
古代朝鮮半島は倭の属国 これは確定だ
228 :
日本@名無史さん :2014/01/30(木) 21:38:47.53
>>224 対馬の住民は後の時代でも対馬海峡を往来して
九州本土や朝鮮半島に穀物を買いに行ってるよ。
古代半島の南部は倭国の直轄領 その北にあった百済国や新羅地方が属国
230 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 04:58:39.60
>>228 帆船が使われるようになった後の時代の話をしているよね。
231 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 05:03:47.68
>>229 倭国は基本的に朝鮮半島国家だからそれは正しい。
高句麗との死闘は半島国家であってこそ必要な戦いだ。
毛利も島津も誰も半島で戦争しようなどと考えなかっただろう。
232 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 08:29:46.30
倭人の本国は日本列島だが 朝鮮半島南部にも倭人が多く住んでいたんだ 高句麗の南下で朝鮮半島南部の倭人居住地が脅かされるようになったんで 本国の九州からも応援が来たんだ
小さな日本が、大きな倭国を征服したそうだから、改名までは倭人の国でない倭国たった んだろうね。
234 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 10:01:46.67
倭と書いてヤマトと読む
235 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 15:03:26.01
倭と書いてヤマトと読むのは後世の故事付だね
236 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 15:22:08.73
>>232 何か証拠でもあるの?対馬海峡を越えて半島に兵力を展開できたの?
237 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 15:53:38.46
>>235 >倭と書いてヤマトと読むのは後世の故事付だね
だね。
そんなこじつけまでしてるところが哀れ。倭と連続していないからこそのこじつけ。
倭国に成りすました朝鮮人の国が日本。チョンがやりそうなことだ。
238 :
筑紫倭皇帝 :2014/01/31(金) 15:59:59.12
新羅の王は倭国の東北1000里のたまな国から来た人物。 倭国の都中心地=博多湾沿岸 その東北のおおよそ1000里 宗像一族の宗像市の田熊(たぐま)から渡った(赤ちゃんの頃流された)人物だろうな。
239 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 16:20:00.97
240 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 16:25:51.72
白村江の戦いでも倭は4万以上の兵力を展開してたな。
>宗像一族の宗像市の田熊(たぐま)から渡った タバナのはずだが?何の共通点もないじゃんw
242 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 16:57:56.07
手前勝手にものすごい短里設定してからに田熊ですと
243 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 16:59:30.88
かろうじてただけがかぶっている。
244 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 18:43:38.31
普通に丹波だよな。籠神社にも半島に渡った王の伝承が残ってるのに。 田熊?なにそれw
245 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 18:53:01.21
くまぬか耳酋長の子の玉手見酋長のは浦島子とかぶる。
>>236 他でもない三国史記に
倭人が船***艘を駈って攻め寄せたって記述が
散見されるんだけどw
247 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 21:36:57.07
いや、タマナじゃなくてタバナ
249 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 22:06:15.41
250 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 22:09:11.38
玉名なら倭国は天草灘の海中だなww
>>249 海を渡って新羅族を攻めた倭は日本列島の国
そして半島南部も領土とし、百済国や新羅を従えていた
252 :
日本@名無史さん :2014/01/31(金) 23:20:31.12
梁書新羅伝には新羅に文字無しと書かれている
253 :
日本@名無史さん :2014/02/01(土) 05:08:00.98
>>251 対馬海峡は流れが速く古代船で軍事作戦など不可能。
半島内から海上作戦をしたと考えるのが自然。
列島国家が半島国家を属国にするなど不可能なのだ。
それ故にその記述は倭が半島にあったという証拠となる。
254 :
日本@名無史さん :2014/02/01(土) 08:53:59.58
>>254 この手の奴を相手してもしょうがないと思われ
256 :
日本@名無史さん :2014/02/01(土) 11:48:49.71
>>253 世界一のバカだなw
朝鮮学校だったしょうがない
257 :
日本@名無史さん :2014/02/01(土) 15:22:52.36
>>240 アマテラスの故郷を守るために必死だったね。
慰安婦捏造朝日新聞と変態毎日新聞は日本から出ていけ
259 :
日本@名無史さん :2014/02/01(土) 18:41:24.75
>>254 もちろん、倭が朝鮮半島にあった事の証明だよ。
卑弥呼や倭の五王の時代からはかなり経った話で単純に同じ国とは言えないが。
ライフスペースの定説オジサンみたいになって来たな、この基地外
261 :
日本@名無史さん :2014/02/01(土) 22:18:20.83
古代人が対馬海峡を越えて兵力を展開するなんて、技術的に不可能な話さ。
儒禮尼師今 十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 百姓不得安居 吾欲與百濟謀 一時浮海 入撃其國 如何 舒弗邯弘權對曰 吾人不習水戰 冒險遠征 恐有不測之危 況百濟多詐 常有呑噬我國之心 亦恐難與同謀 王曰 善 新羅本紀からだが、大雑把にいうと新羅王儒禮尼師今が倭国を攻撃しようとしたが、臣下に「我が国は海戦が出来ないからやめれ」と言われたと言う話。 当然、倭国は渡海しないと攻撃できない所にある、と言うことである。 (そして、逆に倭国には新羅を渡海して攻撃する能力がある。)
264 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 07:01:52.38
>>263 半島南部は地形や潮流を熟知していないと海戦はできない。
対馬海峡を越えての攻撃など不可能だから、それはやはり倭が半島にあった証拠。
それに同じ新羅本紀には倭が5道から侵入した記事がある。
まさに倭が半島にあった証拠だ。
265 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 07:10:40.44
659-661 第4次遣唐使 (日本国) 663年 白村江の戦い (唐と倭国の戦闘) 665-667 第5次遣唐使 (日本国) 倭国と日本国が異なるとの記述があるのは旧唐書だけ。 それは倭国と日本国が異なる国である国である事を唐は認識する必要があったからだ。 この時代、九州には大和政権に対抗するような勢力は存在しない。 即ち、倭国は朝鮮半島にあったという証拠である。
266 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 10:39:23.96
変死体:内閣府の職員、ボートで漂流か 北九州沖
http://mainichi.jp/select/news/20140201k0000e040264000c.html 残念なニュースだ・・・
ハングルから流され倭国の都、中心地の博多湾沿岸の東北およそ1000里の地に漂着したのだろう・・
ハングルで新羅の王になった倭人の脱解王の逆になってしまったな・・
しかし、ハングル人や畿内節の自分の所に倭国や邪馬台国を必死にもってこようとする姿が滑稽だw
よほど、歴史書の記述を素直に理解できないアホばっかだなw
「三国史記」:子供の頃、倭(博多湾沿岸)の東北1000里のところから海に流された。
「三国遺事」:賀洛国(任那日本府)の海岸に船が漂着し、その中から出てきた少年が後の新羅の王脱解だった。
脱解王「私はもと龍城国の者で・・(龍城国では)不吉と言われ
船に乗せられここにつきましたが・・それが私です。」
龍城国と言えば、竜宮城→→志賀海神社の別名、龍の都・龍の宮→→安曇氏の本拠地→→君が代→→
→→安曇氏の祖先神を称える→→つまり博多湾沿岸で権力のあった大国主=倭奴国王
倭奴国と言えば倭国の極南界。 つまり倭国の本拠地は博多湾沿岸ってことだ。
ハングルも畿内節もあきらめろ。
>>264 朝鮮半島に有ったら陸路で攻めるだろ。加羅だって百済だって陸路で攻めてる。
自分で書いてて頭おかしいと思わんのかね。
268 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 10:47:02.78
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg 綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」本宮:神崎(筑紫平野)櫛田宮
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg 卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野又は筑紫平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
269 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 10:49:12.99
国譲りとは・・・ 一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため 出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。 しかし真実はなんの事はない。 大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。 倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」 大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。 もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。 国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。 筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は 「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」 といい出雲に移住(追放)された。 だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、 後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。 何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。 この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。 ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。 魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」 また天孫族が元々いたのは志摩国、 倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い) その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。 その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」 このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
270 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 10:51:45.37
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。 倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」 元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。 「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・ 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」 旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」 隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」 新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。 日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。 筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」 旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」 宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」 このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。 倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。 それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に 九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。 この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。 「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」 等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。 西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても 神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
271 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 10:56:50.98
>>267 日本国内でも源平の合戦では水軍が活躍しただろう。
特に半島南部は地形が入り組んでおり、陸からの攻撃ができない場所が多々あるよ。
272 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 11:18:02.29
倭国は朝鮮半島国家。しかし極南界は九州まで進出した。 天孫降臨は倭人の九州への上陸時の記録。 筑紫の日向の高千穂は唐津に上陸した後、脊振山地を超えて博多を目指した時の記録。 神武東征は半島から来た倭人の子孫が大和を制圧した時の記録。 大和朝廷の祖先は朝鮮半島から来た。
273 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 11:24:47.93
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。
魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
参考資料:
http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北に向かうという概念が無かった証拠。
(九州島は正に(当に)会稽郡東治(紹興市)の東にある。)
魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。
大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
274 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 11:27:20.92
倭国の覇者の変遷 大国主→卑弥呼→大国主→天孫族 へ 倭国はざっと 大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族 へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れるなよ。 卑弥呼が女王となった倭国は魏志倭人伝の頃の 一時的 にという事だ。 倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国・邪馬台国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。 そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。 つまり奴国までが倭国だ。 何故卑弥呼が斯馬国〜奴国までかというと伊都国は倭国にとって代々大国主が治める特別な存在(聖地)である。 天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に 倭国を形成する一国の王、豪族として暮らしてたわけだ。 これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。 朝鮮の文化は支配下だった朝鮮半島から流入したもの。半島人が伊都国や斯馬国やその他の 倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。 証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。 もし、天孫族が半島人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。 「筑紫」はことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。 もちろん家来や普通の一般人として半島人が混ざってたのは否定しない。
275 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 11:29:56.63
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。 これを、 「天孫降臨」 として記紀に記したのだろう。 (これは小大名だった織田信長が大国美濃を攻略し尾張美濃を領する大名になった時に 天下に知らしめした 「天下布武」 と同じ境遇だろう。) 記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。 つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。 その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、 「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と 感激したのだろう。 ちなみに俺はこの「笠沙の御前を真来通り」という表現。 これは倭国の「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。 実際に伊都国には古代より王墓と呼ばれる副葬品も素晴らしく豪華な古墳が多数存在する。 そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は 「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」 といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。 ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。 そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや 筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために筑紫神話や古事記があるという事だ。 日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよくもじっただけなんだよ。 ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、 交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。 要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。 君が代は大国主を称えるものだが伊都を通り最終的には志摩の桜谷神社につながる。 現代の聖地も伊勢志摩という事実もなんとも感慨ぶかいな。
276 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 11:50:33.65
>>272 旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
ハングル??ハングルの南部は倭国の領土。
新羅の王も倭人。
ちなみに倭国から渡った元倭人の新羅の王脱解はハングルの倭地を攻めたみたいだな。
しかし敗れて新羅の方へ逃げていった。
まあハングルは大昔から北朝鮮(高句麗)や中国、日本の国家のいずれかの支配下なんだよw
277 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/02(日) 11:54:20.03
大古より南ハングルはずっ〜と北朝鮮(高句麗)や中国(大陸)、日本(列島)のいずれかの国家の 支配下にあったのはガチ。 だから今のあの国民性が生まれた。
>>271 そんな場所があるならそもそも倭国が半島への橋頭堡を失陥するような事になってねーよバーカ
余談だがに新羅は後代までまともな水軍がなかったようで、白村江の戦いの時も唐水軍を率いたのは唐将と、よりによって降伏した百済王子(扶余隆)だった。
新羅はなにをやってたかと言うと「騎兵隊を出して百済軍の陸上支援部隊を蹴散らしました(キリッ」だそうで…
>>271 南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸
奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當
實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我
大倭国はわざわざ対馬に拠点を置いてから新羅を成敗する位置に在った
はい、完全論破。
志摩から三雲って年寄の散歩程度の距離じゃないか 幼稚園生でももうちょっと遠くまで遠足に行くぞ
281 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 17:20:03.66
>>276 倭奴国は朝鮮半島国家である倭の極南界にあり、倭国に連なっていた。
だから倭は朝鮮半島国家で何の間違いも無い。
282 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 17:22:49.72
倭の都は日本に有ったから 半島の倭はその領土である事が確定した
283 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 17:32:43.61
>>282 では記紀に倭の五王がいないのは何故?
高句麗との激戦の記録も無いのも何故?
答えは簡単。倭は朝鮮半島国家で大和朝廷とは何の関係も無いから。
284 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 17:35:39.85
>>283 倭は九州を中心とした国家で大和朝廷は当時まだ成立していなかったから
>>281 南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸
奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當
實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我
大倭軍は海軍を駈って海岸沿いを襲った。
大倭国はわざわざ対馬に拠点を置いてから新羅を成敗する位置に在った。
はい、超絶完全論破。
>>283 九州の王が中国に朝貢してたからさ
北史と隋書には、倭には阿蘇山が有り火を噴くと書いてある
半島に火山有るか?
半島占領なら記紀に三韓成敗がある
大業三年(607年)の朝貢は明らかに畿内の王権で間違いない 新唐書には多利思比孤は用明天皇と書いてあり しかも初めて中国と通じたと書いてある 「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。」 つまりそれ以前の倭とは別の王権と考えられる だから「日出ずる所の天子」と堂々と名乗った 倭に都、邪馬台国が有ったのは九州 畿内の王権が徐々に九州を飲み込み倭を統一した
大和王権は倭を統一し大倭を名乗った これが正解 ついでに半島も成敗していた
289 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 20:27:09.73
>>287 700年までが九州の倭で701年からが大和の日本だな
290 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 21:05:54.30
>>286 倭国は朝鮮半島国家で九州にも勢力を伸ばした事があったのだよ。
三韓成敗って、何の戦いもせずにひれ伏したという話だっけ。
291 :
日本@名無史さん :2014/02/02(日) 21:08:13.96
>>288 大和政権は九州に残された朝鮮半島国家倭国の残党を成敗しただけさ。
>>290-291 >>261 >古代人が対馬海峡を越えて兵力を展開するなんて、技術的に不可能な話さ。
>>264 >対馬海峡を越えての攻撃など不可能だから、
おーい、自分で書いたこと忘れてんぞw
>>290 南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸
奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當
實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我
大倭軍は海軍を駈って海岸沿いを襲った。
大倭国はわざわざ対馬に拠点を置いてから新羅を成敗する位置に在った。
はい、超絶完全論破。
>>290 隋書倭人伝
>有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。
倭には阿蘇山が有り火を上げている
>新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
新羅も百済も倭を尊敬し従っている
住みたくない町 新大久保 大阪生野区
296 :
日本@名無史さん :2014/02/03(月) 16:30:21.43
>>294 >
>>290 >隋書倭人伝
>新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
>新羅も百済も倭を尊敬し従っている
倭国を尊敬してるとか従っているとは書かれてないな。
珍しいものが多いので尊重し、常に往来していると書かれてる。
しかも、その倭国は、秦王国(※朝鮮半島にあった国)で、婚姻制度は同じ姓では結婚しない
という朝鮮式だったと書かれてる。
女が家に入る時は犬を跨がなければいけないとも書かれている。これも朝鮮半島の習俗。
隋書に出てくる倭国は、九州にあるけれども(阿蘇山の近く)、その実態は朝鮮王朝だ。
ここで倭と日本は別国家とか、多利思比孤は別王朝の王とか言ってる人は、 中国の明史に記録された日本国王「良懐」や「源道義」も日本に別の国家が 存在し、その国に王が存在したという認識なのかい?
倭国は日本に征服されたというのは、唐書に書いてあるぞ。
倭国伝と日本伝を別条で立てた旧唐書の「或曰、倭國自惡其名不雅、改為日本。」の方が確からしかったので新唐書では一本化された。 それだけのこと。
300 :
日本@名無史さん :2014/02/03(月) 21:05:34.70
「雖有兵、無征戰」『隋書』
鉄資源が国内で確保できるようになると、任那の重要性が以前ほどではなくなったからねえ
>>296 南解次次雄立
十一年 倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸
倭人が100艘余りの船で兵を遣わし、海辺の家々を略奪した
奈勿尼師今立
三十八年夏五月 倭人來圍金城、五日不解、將士皆請出戰、王曰、今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當
首都を囲む倭軍は船を捨てて深く侵入して来ている
實聖尼師今立
七年春二月 王聞、倭人於對馬島置營、貯以兵革資粮、以謀襲我
倭人は対馬に軍営を置いて武器防具兵糧を貯え、新羅を襲おうと図っている
どう読んでも海を隔てた日本列島だね
「大国となし」「敬仰」を見えないニダ聞こえないニダしてるところでお里が知れるな。
305 :
日本@名無史さん :2014/02/03(月) 23:50:46.60
朝鮮半島が倭より優位に立った事は 過去1万年の歴史で一度も無い
306 :
日本@名無史さん :2014/02/04(火) 09:02:06.20
>>306 日本国王「良懐」も九州の大宰府にいたんだが。
朝鮮半島にいたと言ってるとは違う書き込みに見えるな。 朝鮮人が日本列島を支配したと読めるが。
309 :
日本@名無史さん :2014/02/04(火) 10:42:30.41
まず、当時の人口や国土概念を考えろと。 現代から見れば緩やかな領域、言葉も通ずる一部の往来、戦。 要は半島南部、列島西日本が倭で後に継承される日本。 当然後の朝鮮国家とは関係ないと。
昔は国境なんてないわ。 九州は、畿内より半島の方が近い。
>>309 羅連合国家だろう。
新羅・加羅=伽耶・多羅=百済・耽羅・阿羅=安羅=済州島・末羅=倭国の邪馬台国・大羅=倭国の下関。
同時期の京都の太秦にも着目。
あれだろ、天孫降臨したニニギが、ここは韓国が見えるヤホーイ!と言ったというあれだろ。 天照大神は朝鮮人。
>>313 高天原から来た天照大神出すなら、高天原から新羅経由の素戔嗚尊のセリフがセットなのに、無視とかぁ
お里がしれてるよ・・君。
315 :
PC :2014/02/04(火) 13:56:53.77
「辛国の城に始めて八流の幡を天降だして、吾は日本の神になれり」 by八幡大菩薩 満洲から八旗勢力を率いて任那加羅に侵入し、更に日本を支配した。
>>315 騎馬民族神話か。案外、本当なのかもな。
317 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/04(火) 17:20:44.76
>>313 ば〜か
「ここは(大国主倭奴国王・倭国王が治めてた)ハングルを治めるのにも適してる、やっぱよかとこ〜」(博多弁)
っていって喜んだところだよ。
318 :
日本@名無史さん :2014/02/04(火) 19:13:16.14
>>315 なにこれ?
辛国って、カラクニか。天孫降臨と同じだ。
あえて言おう、自演乙と。
>>316 無知な馬鹿チョンの為に心優しい日本人様が教えてやろう
満洲で八旗の祖型が出来たのは契丹の時代で
紀元5世紀以降だ間抜け
>>312 の訂正。
倭連合国家だろう。
大倭国の領土としては任那となった元の狗邪韓国と馬韓と辰韓と耽羅
加羅と百済と新羅が大国である大和国に属国として付き従った
新羅経由の徐福秦氏の氏神は、素戔嗚尊の子神の宇迦之御魂神だよ。
宇迦之御魂神は 伊勢と伏見稲荷神社に祭られてるのが有名。
深夜アニメのいなり、こんこんの女神さま。
記紀編纂者が魏志倭人伝を読んでいる可能性は高いが、 卑弥呼についてはっきり書くことはできなかった。 日本での伝承が失われていたのだろう。 別種の国なら、伝承が失われていても仕方がない。
まーそもそも「別種」の他の用例を見ると「ウリナラファンタジーがひろがりんぐwwwww」 な用語でないことはすぐに分かる訳だがなw
327 :
日本@名無史さん :2014/02/05(水) 00:54:53.37
倭の別種だから日本は倭に含まれる
328 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/05(水) 01:40:15.85
俺がウィキの九州王朝説に更に追加しよう。(ウィキの編集はしないが) 大国主は「漢委奴國王の金印」をもらった倭奴国王だと。 記紀に時代を超えて度々出てくる大国主は 漢委奴國王 の子孫であり 博多湾沿岸を中心、都としてた倭国の代々の中心人物。 卑弥呼の時は、この大国主を中心とした王たちの共立で卑弥呼が女王として 共立され倭国の聖地 伊都国=倭奴国 で君臨した。 天孫族はそのころはまだ倭国内の斯馬国(糸島志摩)程度を治めるぐらいの小国の王、豪族だった。 大国主=倭奴国の子孫 は倭国内では卑弥呼共立時代も絶対的な存在であり 筑紫内の神々(豪族・安曇氏宗像氏等々の始祖神)であるが、 天孫族の台頭で筑紫を追われる。 これこそが 天孫族と大国主の 「国譲り」 である。 大国主は 「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」 といい倭国外の出雲へ追放された。 天孫降臨は天孫族による 伊都国 攻略。 伊都国を攻略した天孫族は、小国尾張の小大名から大国美濃を攻略し成功させた織田信長の 「天下布武」 と同じような心境から 「天孫降臨」 を知らしめ天孫族の筑紫の支配を正当化するために「国産み」や「アマテラスとスサノオ」の契約等々の話を作り、 筑紫の豪族(王・神々)は天孫族に従うよう創造神話を作ったのだろう、と。 しかしながら、我ながらよくできた説だな。
329 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/05(水) 01:41:13.37
「空白の4世紀」 天孫族は斯馬国にいて、大国主や卑弥呼の時代の政治をみてきたからこそ、 中国との交流はしなかったのだろう。 中国の後ろ盾を使っても国はまとまらない。 狗奴国との戦いや卑弥呼共立等々で実証された。 だから天孫族は自分たちが筑紫を支配しても中国を必要としなかった。 これが「空白の4世紀」だろう。 もし天孫族が半島人なら決まって中国との交流はしただろうな。
330 :
日本@名無史さん :2014/02/05(水) 07:18:31.56
瓊瓊杵尊のY染色体はハプログループD2であると推測される。 これは瓊瓊杵尊の子孫によるデータに基づくものであり、 瓊瓊杵尊の御陵である可愛の山陵(宮内庁所管)の学術調査が 出来ないため確定的な結果ではない。
梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」
「頭骨の計測Data分析」133頁
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg ●近畿
●朝鮮人
●中部 ●新潟
●千葉
●東北
近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ
整理すると、
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
(4)オンコロマナイと礼文華の違いから、道内でも道北と道南では小進化の速度が違っているようである。
生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。
周辺部(東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり)は別の特徴を持つ。
すなわち、国内における地域差がはっきりと出ている。
溝口優司「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」 縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的勾配の原因は気温差か 縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的変異パターンと、 現代の気温、湿度、降水量などの環境変数の地理的変異パターンを、マンテルの行列順列検定法を使って比較した。 その結果、以下のようなことが示された。 ・頭蓋の変異パターン ・縄文・古墳間に関連なし ・縄文・古墳ともに緯度と関連 (緯度を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし) ・古墳で年平均湿度と関連 ・頭蓋+四肢骨の変異パターン ・縄文・古墳間に関連あり ・縄文・古墳ともに年平均気温と関連 (気温を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし) 以上の結果は、骨の計測値が縄文時代から古墳時代にかけて地域ごとにバラバラに時代的変化をしてきたことを示唆する。 これ(骨計測値の地理的変異パターンに時代間の類似性がないこと)が、今回の分析により、 縄文・古墳時代のそれぞれで、骨の計測値が緯度あるいは気温と関連していることを示唆するが、 古墳頭蓋のみ湿度と関連することに意味はあるのか?といった新たな問題が出てきた。 すなわち、国内に於いて気温と湿度の影響を取り除くと差異は認められない。
>>331 その朝鮮韓国人ってぇ・・二重にしたり、エラ切り取って、日本人顔に成形してんだけどぉ・・
>>331 >かなり朝鮮系に似ている。
ワザと、とぼけてるよねぇ・・
336 :
日本@名無史さん :2014/02/05(水) 21:47:49.01
神武天皇のY染色体はハプログループD2であると推測される。
337 :
日本@名無史さん :2014/02/05(水) 21:55:01.10
>>330 忍穂耳までD2だが、Y染色体は父親から息子に継がれるものであるから、
天照大神が♀なら、そのタイプD2は系図に記されないいずれかの男親に由来する。
スサノオ、大国主、イザナギに比定される遺骨の染色体を調べれば彼らとの血縁の有無が明らかになる。
忍穂耳尊までD2でなければ、系図に偽りがあったことになる。
>>337 一時代前の古代史研究者な。
最近の学者さんたちは概ね連続制を認めてる。
340 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/06(木) 11:25:03.90
ウィキの九州王朝説の中に「漢倭奴国王」の金印を埋めた(捨てた)所が
卑弥呼の墓の可能性があると書いてあったが・・・
となると、志賀島自体が径百余歩の卑弥呼の墓か??
金印は元々は細石(さざれいし)神社の御神体という話もあるが、
志賀島で発見された場所は、見事に志賀島の糸島方面というのはなんとも興味深い。
博多湾を挟んで見事に糸島半島と向かい合った場所から発見された。
これは興味深いな。
総数254基ある福岡県新宮町の相島の相島積石塚群は対岸が安曇氏の志賀島ではなく宗像だから
宗像一族の遺跡だろう。
http://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E5%B3%B6%E7%A9%8D%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E7%BE%A4 同じように対岸に糸島半島を見渡せる場所から発見された金印。
立花山がもし筑紫の日向の高千穂のクジフルタケなら
志賀島からまさに海ノ中道が一直線に伸びる「笠沙の御前を真来通り」もぴったり。
その場合は天孫降臨は斯馬国糸島半島からの天孫族による福岡平野の侵攻だろうな。
341 :
筑紫倭皇帝 :2014/02/06(木) 11:26:08.53
まあ、西(糸島志摩)の天孫族が志賀島から海ノ中道を回り込んで 東の立花山方面から、千代堅粕(かたかす)潟州(かたす)の大国主を攻めたかもな。 その時の立花山からの眺望が「天孫降臨」であり、東から回り込む作戦が「神武東征」の東から攻めるモデルになった。 そしてまた、イザナギが西の天孫族であり、東から天孫族(イザナギ)を助けた国が博多湾岸の東にあるイザナミの国であり、 イザナギとイザナギが協力して大国主を筑紫から追い出した(国譲り)。 国譲りを成功させれば、次は筑紫の支配だ。 博多湾を挟んでイザナギ(西)とイザナミ(東)のちょうど真ん中には能古島がある。 この島をまず一番初めに共同で生んだ島(国産み)として天孫族による筑紫支配がスタート。 イザナギとイザナミは喧嘩をして最終的に西の天孫族が覇者になったわけだ。 実に今日も、福岡王朝は絶好調!
342 :
日本@名無史さん :2014/02/06(木) 22:01:15.03
九州か出雲に有った日本国を大和朝廷の大倭国が征服して併合し 「日本」って国名が気に入って「俺らの国名を日本にしよう」って成ったんだろ。
343 :
日本@名無史さん :2014/02/06(木) 23:54:12.86
344 :
日本@名無史さん :2014/02/07(金) 13:32:08.50
九州に在った倭を奈良地方の豪族が征服して併合し大倭を名乗り 国名を日本国とした。
345 :
日本@名無史さん :2014/02/07(金) 13:48:45.05
中学生スレ
いや、幼児化した棺桶前老人スレ
大和朝廷が「日本」を使う前に、任那日本府があったらしい。 任那日本府の方が、日本の首都だったってことか。
348 :
日本@名無史さん :2014/02/07(金) 17:09:21.75
>>347 任那日本府は日本と云う国号が出来た後に任那日本府と命名されたもの
当時は任那倭府であろう
>>347 しばらく前に、百済の将軍の碑で、朝鮮半島に最古の「日本」表記があることが
ニュースになぅてたね。
350 :
日本@名無史さん :2014/02/10(月) 09:42:22.10
溝口優司「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」 縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的勾配の原因は気温差か 縄文・古墳時代の頭蓋・四肢骨計測値における地理的変異パターンと、 現代の気温、湿度、降水量などの環境変数の地理的変異パターンを、マンテルの行列順列検定法を使って比較した。 その結果、以下のようなことが示された。 ・頭蓋の変異パターン ・縄文・古墳間に関連なし ・縄文・古墳ともに緯度と関連 (緯度を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし) ・古墳で年平均湿度と関連 ・頭蓋+四肢骨の変異パターン ・縄文・古墳間に関連あり ・縄文・古墳ともに年平均気温と関連 (気温を固定して偏相関をとると、縄文・古墳間に関連なし) 以上の結果は、骨の計測値が縄文時代から古墳時代にかけて地域ごとにバラバラに時代的変化をしてきたことを示唆する。 これ(骨計測値の地理的変異パターンに時代間の類似性がないこと)が、今回の分析により、 縄文・古墳時代のそれぞれで、骨の計測値が緯度あるいは気温と関連していることを示唆するが、 古墳頭蓋のみ湿度と関連することに意味はあるのか?といった新たな問題が出てきた。 すなわち、国内地域間に於いて気温と湿度の影響を取り除くと差異は認められない。
353 :
日本@名無史さん :2014/05/02(金) 20:28:39.31
>>340 >「漢倭奴国王」の金印を埋めた(捨てた)所が卑弥呼の墓
そんなわけないだろw 時代が違うやんけ
三韓征伐
355 :
日本@名無史さん :2014/09/17(水) 04:39:11.57
倭国ってのは大友皇子の近江朝廷、日本は天武軍だろ