2 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 17:39:32.33
≪天皇系図 1代〜50代≫
1神武天皇─2綏靖天皇─3安寧天皇─4懿徳天皇─5孝昭天皇─6孝安天皇─7孝霊天皇─8孝元天皇┐
┌──────────────────────────────────────────┘
└9開化天皇─10崇神天皇─11垂仁天皇─12景行天皇┬日本武尊─14仲哀天皇─┐
└13成務天皇 │
┌──────────────────-────────────────┘
└.15応神天皇┬16仁徳天皇┬17履中天皇─市辺押磐皇子┬24仁賢天皇─25武烈天皇
│. ├18反正天皇┌20安康天皇 └23顕宗天皇
│. └19允恭天皇┴21雄略天皇─22清寧天皇
│ ▼▼▼▼
└─稚野毛二派皇子─意富富杼王──乎非王──彦主人王──26継体天皇─┐
│
┌───────────────────────────────────────.┘
│┌27安閑天皇┌30敏達天皇─押坂彦人大兄皇子─┬34舒明天皇┬38天智天皇┬41持統天皇
└┼28宣化天皇├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)│ . └40天武天皇├43元明天皇
└29欽明天皇┼33推古天皇 │.. ┌35皇極天皇 ├39弘文天皇
. └32崇峻天皇 └茅渟王┼37斉明天皇 └志貴皇子┐
. └36孝徳天皇 . │
┌───────────────────────────────────────┘
└49光仁天皇─50桓武天皇────(略)───今上天皇
3 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 17:40:25.77
≪釈日本紀「上宮記一云」系図≫
伊自牟良君──久留比売命
│
中斯知命 ├─汙斯王(彦主人王)
洷俣那加都比古─弟比売麻和加 ├──乎非王 │
├───若野毛二俣王 ┌太郎子(意富富等王) │
凡牟都和希王(応神). ├────┼践坂大中比弥王 .│
母々恩己麻和加中比売 ├田宮中比弥 .│
└布遅波良己等布斯郎女 │
├─乎富等大公王
伊久牟尼利比古大王(垂仁)─伊波都久和希─伊波智和希┐ .│ (継体天皇)
┌────────────────────────┘ .│
└伊波己里和気─麻和加介─阿加波智君─乎波智君 │
├──┬都奴牟斯君 │
阿那爾比弥 └布利比弥命────┘
(振媛)
4 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 17:40:59.68
... _.._...
_イlll!lllllllllllllll爪lllll入_
イ!llllllllllllllllllllllllllllllll∧s 、
イllll夕千宀⌒^^弋巛llll!{!lll∧ 、.. l皿l
イ什 〔llllllllllll/∧.. l皿l
イ廴 -=///a_ !llllllllllllll∧.. l皿l
彳ヘ'' _/"""´ ヾlllllllllllllllllllレ. l皿l
/ftア.) ...イtオフ''' 'llllll弋llllllllllレ l皿l
イl / ` ̄´ ...''llllワ 丁llllllllレ.... l皿l
イ! / 彡 l6夂lllllllll辷,. l皿l
/彳(..... ヽ 彡彡_上llllllll巛彡彡l皿l
,,..,彡_ノ 彡iiillliiiiミヾ,, l彡lllllllllllllli!!llll彡ルl.. l皿l
彡彡.lllllllll彡⊂ニ⊃ミミ、... ,'lllllllllllllll巛彡ル l皿l
/彡.彡.lllllllliii人∩っ _/卅llllllll|lイl'´彡、.. l皿l
!/^ ̄ ̄ ,巛川,川l,川〆》´  ̄ ̄千U.  ̄、 ( ̄ ̄ ̄\
/ 〈lllllllllllllllllllll!イ .‖ ( ̄ ̄ ̄\
./ |l ''lllllllllllllllllllllイ ‖/ ( ̄ ̄ ̄..)
´ |l .辷!llllllllllllイ ノ‖ , .( ̄ ̄}
...|l 辷llllll广 、 ‖ ノ' ..... ̄
` レ┘ ‖゙
継体天皇=男大迹大王(507-531年在位)
5 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 17:51:54.23
6 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 18:12:55.61
※『日本書紀』に拠る。
507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
↑
この中では樟葉宮が最も軍事的に守りやすい地形のように思うんだが
なぜここを放棄して筒城宮に移ったのかがわからん。
7 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 06:21:21.69
早朝保守
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。
-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘
卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を
一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、五胡十六国の戦乱の影響から
距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)&
台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。
※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代
4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル九州熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
→(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】
※
-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
…継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
…両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
>>1 もういい加減に諦めろよ
継体天皇は応神天皇の五世孫だし新王朝説もムリだから。
日向系大王とか筑紫系大王とかすごいファンタジーだね
12 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 06:24:29.04
保守
継体以降、中国に使いを送らなくなったのは何で?
14 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 15:34:06.64
>>13 メリットが薄くなったのか。
あるいは中国側のゴタゴタか。
雄略さんなんかは中国大陸の状況もそれなりに知っていたはずだから
南朝ではなく北朝に使者を送れば良かったのだが。
15 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 04:55:30.50
お互い大動乱でそれどころではなかったというのが真相だろうが
晋は司馬氏の政権だから、日本側としては弑逆して天をかすめ取った大罪人として
正式な国家と認めてなかったのかもしれないね。
一応、卑弥呼は魏王の親戚という扱いだから。
16 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 04:59:14.88
もしかしたら、その辺の経緯を国書で糾弾したりしてて
晋としては都合悪いからその辺の記録ごと一切をデリートしてしまってたのかも。
>>14 対高句麗対策で苦労し、利害関係が一致していたのは高句麗と直接隣接する北朝(満族)だから、
北朝(満族)に朝貢すればすぐに安東大将軍でも鎮東大将軍でも好きな称号が貰えただろうにね
雄略の後で南朝(漢族)への遣使が途絶えるのは、それにようやく気が付いたってことかな?
18 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 19:28:18.61
雄略が南朝に使者を送った理由は
前例踏襲主義
に加えて、北朝とのパイプがなかったあるいは細かったのではないか?
おまえらバカばっかりだな
ヤマト王権が卑弥呼邪馬台国の継承者だからに決まってるだろ
魏→晋→宋と中国の正統が継承されてるんだから
ヤマト王権が北朝を認めるはずないじゃん
20 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 06:57:46.12
>>19 強い方、勢いのあるほうにつくのが外交のデフォルトだが。
アメリカに楯突き続けて原爆落とされたり、英仏米の核のゴミ捨て場にされてる今の日本と見事にダブるな>外交音痴
オランダ→イギリスの覇権国交替を無視し続けてたら幕府瓦解。
イギリス→アメリカが理解できずに大東亞戦争。
欽明さんは、海外好きそうだから中国まで使いを出しそうなんだけど無いよね。
24 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 18:37:36.53
>>23 欽明さんの時代は国内と朝鮮半島で手一杯。
なんだかんだ言っても古代史はもう少し資料が欲しいな
上宮記や国記あたりでも発見されないかな〜
そうじゃないと比較検討も推察もままならないよ
出てくればおかしなトンデモ説が跋扈する古代史界も少しはまともになるだろうに・・・
26 :
日本@名無史さん:2013/03/13(水) 14:18:51.34
上宮記や国記が見つかれば
蘇我馬子や厩戸皇子の生涯は分かるかもしれんが
継体天皇の出自まで書いてあるとは限らない
27 :
日本@名無史さん:2013/03/13(水) 23:46:37.00
>>20 強弱にも度合いがあるだろ。差が小さければ合従策のほうが有効だろうがよ
>>24 欽明天皇の頃は余裕だろ。
新羅と百済が日本の利権をチューチュー吸ってるのに
日本の上層部はキレイ事ばかりいって放置してたんだから
戦後の日本と似たようなもん
>>25,
>>26 既存の史料ですら自説のご都合主義まるだしな解釈してる連中ばっかりなのに
(学界も酷いが2chの古代史電波よりはいくらかマシ)
新資料が発見されたところでそいつらのいい玩具にされんのがオチだろ
28 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 00:00:37.92
貧乏極まる寒村集落出って本当ですか?
29 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 03:50:13.19
日本書紀 系図一巻が残っていれば こうまで議論されはしなかったろうな
30 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 05:56:17.60
>>28 気候的にはたしかに寒かったが、交易収入が多かったような感じ。
31 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 09:14:30.94
>>29 日本書紀は継体天皇を応神天皇五世孫としているんだから
系図一巻残っていても一緒だろ
神代のイザナギ・イザナミの頃からの家系図を
ご丁寧につけてるだけだろ
32 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 12:48:21.12
>>31 応神五世孫を疑う主張は上宮記しか系図を伝えていないから疑義があるという論だったはず
それに系図一巻が残っていれば上宮記より詳しかっただろうから系譜の信憑性も議論がしやすかったはず
33 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 13:22:31.31
>>32 日本書紀に上宮記と同じ系図があったとしても
共通の元本からとったというだけで
継体は応神五世孫で決定というわけではないんだが
結局何が出て来たっておんなじなんですよ。
稲荷山鉄剣みたいので継体系譜が出て来ても、
「創作された可能性を否定できない」
記紀より古い史書が出て来ても、
「記紀同様、多分に創作の産物であろう」
35 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 15:17:47.79
稲荷山鉄剣が見つかった時点で津田史観は見直されるべきだった
6世紀に歴史は創作されたって言ってんだから
せめて5世紀に修正すべきだった
まあ普通に考えたら創作なんてないだろうけど
>>23 >欽明さんは、海外好きそうだ・・・・・・・・・・
何から判じられたのですか?そもそも欽明大王時代は、親政だったの?
38 :
日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:02:16.29
>>37 >そもそも欽明大王時代は、親政だったの?
基本は有力豪族たちによる合議制だったが、
大王不執政ではなく、大王にも一定の権限があったということでどうだろ?
>>34,
>>35 おまえらはゆとりなの?
当時の名だたる学者の周章狼狽ぶりは有名な話だが。
そんなこと言われてもなあ〜
現実にたいして研究が進展してないし教科書だと人名が出てくるのはいまだに卑弥呼の次が聖徳太子とか推古天皇で
時代が100年以上飛んでるしいくら狼狽されてもねえ〜
41 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 16:04:14.27
携帯天皇の話も大分忘れたよ。
42 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 23:29:14.22
43 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:52:31.60
あれ、継体系譜のある『上宮記』って、聖徳太子の編纂した
『国記』や『天皇記』とは違うの?
なんか聖徳太子に近い記録らしいけど。
44 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:55:59.30
完全に失われたわけではなかったらしいな。
>『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、
>蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に
>献上されたという。
45 :
日本@名無史さん:2013/03/22(金) 20:01:10.39
それで、応神(おうじん)天皇時代に王仁(わに)が五経を持って
百済から来たとか、応神五代の継体が儒教文化を受容したとか
いう話に繋がるわけ種
稲荷山鉄剣が大和から遠く離れた武蔵国から出たってことは、
畿内の大王陵には当然それ以上の膨大な金石文が副葬されてるってことだよね。
なんで公開しないんだろ?
岡ミサンザイ古墳(仲哀大王陵)は真の雄略大王陵と言われているが、
後円部石室(埋葬施設)や前方部土壇(副葬品埋納室≒石上神宮の禁足地・石饅頭)を掘れば、
稲荷山鉄剣なんかゴミに見えるくらいの大量の金石文が出てきて、それこそ我々の歴史観など全く変わってしまうだろう
中には8世紀の記紀と全く整合しない記述もあったりなんかしてねw
48 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 08:47:40.46
>>44 皇居とか官庁ではなく、蘇我邸に置いてあった理由がわからん。
49 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 08:48:21.96
>>46 既に盗掘されてなくなっているのではないか?
>>48 その当時は、
蘇我氏が天下を支配してたし、
蘇我氏が史料編纂を担当してたから
>>47 そりゃあ200年以上前の口承を文字化し文飾したのが記紀ですからね。
いっぽうで、稲荷山鉄剣のようにオホヒコの孫にテヨカリワケ(阿倍氏族の3代目・豊韓別)
の名がが記されていたように、古代からの系譜伝承を頭からバカには出来ないような発見も期待できる。
>>48 その頃はまだ中央集権国家ではなく、のちの図書寮のような官庁が存在したかは疑問。
天皇記や国記は国家プロジェクトというより、上宮王家(厩戸)と蘇我氏(馬子)という
豪族同士の共同作業であり、完成体であったかも不明。
上宮王家は643年に滅んでしまったが、蘇我邸と同じように斑鳩宮にも原物が存在していた可能性はある。
52 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 22:50:46.88
雄略って大塚山じゃないのかい?
53 :
日本@名無史さん:2013/03/24(日) 23:10:13.63
>『聖徳太子平氏伝雑勘文』には『上宮記』を「太子御作」と
>書いてあるが仮託であろう。
何で?
大塚山は6世紀の可能性が言われてる。
南西数kmに位置する日置荘遺跡から、大型の後期円筒埴輪が多数出てて、
供給先は不明なんだが、その規模から候補として挙げられるのが大塚山らしい。
最終的に古墳は未完成で、供給自体されなかったとも。
ちなみに、似たような特徴の埴輪が、古墳時代から飛鳥時代への移行期の円墳である、
奈良県広陵町の牧野古墳から出ている。これは押坂彦人大兄皇子の墓ではないかと目されている古墳。
そんなこんなで私は、大塚山は欽明天皇の予定陵だったと思ってる。
宮が大和の磯城(磯城嶋)で、最終陵地が同じ大和の高市(檜隈)なのに、モガリが河内の古市で行なわれたとあるし、
大后の石姫が宣化帝の娘で、その弟が丹比氏の祖でもある(大塚山は河内国丹比郡にある)。
丹比郡に陵を築いた雄略帝(岡ミサンザイ?)や仁賢帝(野中ボケ山?)とも母系で繋がる。
余談だが、同じ6世紀の300m級で、やはり前方後円墳としては未完成と考えられる
五条野(見瀬)丸山古墳は、その立地から蘇我稲目の墓ではなかろうかとも思う。
大王陵に匹敵する古墳を築いたという意味では、次代の馬子の墓とおぼしき石舞台古墳も、
河内石川の用明陵や推古陵に準じる規模で造られていることにも通じてくるであろう。
>>25-26 『上宮記』は記紀に登場する『天皇記』に相当するというのは
当たり前の認識か。
記紀神話に五王の朝貢の話がないのは、王権はそういう真似は
しちゃならないことになっているから書かないのは当たり前だな。
記述がないことを理由に倭の五王を応神朝から切り離す必要は
ない。
雄略が五世紀終わり頃、その後、清寧、顕宗、仁賢、武烈と続く。
近江から呼び出された継体はその後になる。即位は六世紀初頭。
ところが継体が大和の地を踏んだのは即位から二十年も経って
のことだ。この二十年の間が清寧、顕宗、仁賢、武烈の時代に相
当するかも知れない。一つの見方だが。
継体が朝鮮出兵を開始したのは大和の地を踏んですぐ。
478年に武が宋に送った上奏文では南朝鮮支配で高句麗に悩ま
されていることを書いている。
日本書紀でも応神朝は五世紀半ばから弱体化が始まって、瀬戸
内海の吉備国造に悩まされるなどしている。
雄略は百済に王を送って高句麗を討ったりしてるが、その後
は朝鮮支配の失敗談も見える。
六世紀初頭には支配下の任那に対する百済の要求が激しくなっ
て来た。応神朝最後の武烈はカリギュラみたいな暴君で、国難
の時代の王朝打倒のうねりが高まっても不思議ではない。
>>56 >継体が朝鮮出兵を開始・・・・・・・・・
初耳なんだが、派遣軍の指揮官は誰だったの?
Wikiの磐井の乱の項にあるだろ。Wikiで勉強しても項目ごとだか
ら駄目だな。虎の巻は一冊確保しているもん。
この頃は日本支配で朝鮮半島諸国のナショナリズムが高まって、
そろそろ朝鮮支配も終わりに向かう頃。300年くらい続いたのか。
>>59 対峙した磐井君に「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」と
詰問された六万の軍を率いたとされる近江毛野臣だね。名は何というのだろう?
客死した対馬には、墓があるのかな?
関東の豪族毛野氏が、近江在住というのも不審だが。
61 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 08:20:39.81
>>60 > 関東の豪族毛野氏が、近江在住というのも不審だが。
そうなんだが、朝廷から「飛び地」を与えられていた可能性もないではない。
62 :
日本@名無史さん:2013/04/27(土) 06:22:18.40
>>27 >日本の上層部はキレイ事ばかりいって放置してた・・・・・・・・・・
欽明朝重臣の誰々のどういう言動のことなの?
欽明大王自身は、任那復興を悲願策動しておったろ。
欽明は、名字に金があるからアッチ系だよな
64 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 05:12:26.51
>>63 そんなことをいったら戦国武将の金森長近もアッチ系になっちゃうよ。
65 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 05:13:13.64
>日本の上層部はキレイ事ばかりいって放置してた
というか、海外の情報にうとかったんだと思うね。
そんなことないだろ
欽明紀の半分は半島情勢の記事だ
67 :
日本@名無史さん:2013/05/07(火) 20:06:51.86
なんで神皇正統記や本朝皇胤紹運録では隼総別皇子の子孫にされたんだろ?
釈日本紀の上宮記逸文は当時知られてなかったのかな?
訂正がなされたのっていつ頃なんだろうか
九州年号最初の年号は、西暦517年 「継体」から。
>>68 平野神社とか水尾神社とかの由緒に隼総別皇子が関係するからかな
水尾神社の縁起は偽書だよ
72 :
日本@名無史さん:2013/05/11(土) 10:39:46.91
>>68 ごめ 過去ログにあったね
古事記には 若野毛二俣王と意富々杼王(大郎子)の親子関係の記述があるのに
隼総別皇子の子も意富々杼王としてるのが変に感じたものだから
出自がよく分からないことが反映されてるだけなのかもね。
74 :
日本@名無史さん:2013/05/13(月) 14:03:41.26
どこの馬の骨ともわからん地方豪族が大和の内紛に乗じて皇位を
乗っ取っちゃった。それが継体天皇。
内紛があったという証拠は?
>>71 水尾神社はなんで隼総別皇子を持ち上げたわけ?
前王朝を引き継ぐ形にしたってことは、
前王朝にそれだけの権威があったということなんだろうけど。
そんな権威を河内王朝は確立していたんだな。
>>77 世界最大級の古墳を造った王朝だからな
多分、継体天皇が河内王朝の末裔である手白香皇女を妻にすることによって
河内王権に婿入りしたというのは事実なんだろうし
継体は天皇時代、結局地理的にも河内寄りの人だったしな。
結局、大和が復活するのは、継体死んでからだよね。
五代前の子孫とかそれもう別人だろw
継体天皇に即位を依頼する前に仲哀天皇の五世孫に依頼しようとしている。
室町時代に枝分かれた伏見宮家の貞敬親王は江戸時代に天皇候補とされた。
占領中の皇籍離脱により旧皇族となるまで、子孫は現皇室典範においても継承資格のある王で皇族だった。
日本皇室の皇統の男系継承は男子相続とは違うものだよ。
>>81 その五代前の応神が、難波に大隅宮を置いた人だしね。
仮に直系というのが創作だとしても、
継体が河内と強い関係があることを裏付ける。
武烈天皇の書かれ方って、中国の王朝交代時の最後の皇帝の書かれ方にそっくりなんだよな
新王朝の正当性を強調する為に、最後の皇帝をあえて暴君にしたてあげたり
と言う事で、やっぱり王朝交代はあったんじゃないかと思う。
>>79 >継体は天皇時代、結局地理的にも河内寄り・・・・・・・
枚方市楠葉の交野天神社の地にあったとされる河内樟葉宮のことを、言って
いるの?楠葉は河内といっても、河内王朝と呼ばれる応神皇統の本拠地とは
違って北河内だから河内王朝系とは云えぬだろ。
陵墓と推定される今城塚古墳は摂津だし、転々とした王宮地樟葉宮→筒城宮
→弟国宮→磐余玉穂宮の磐余以外の地は淀川・宇治川水系だし、河内王朝系とは
別系統の部族出自だね。
86 :
日本@名無史さん:2013/05/26(日) 20:25:43.95
筒城宮よりも樟葉宮のほうが、軍事的には守りやすい地形だと思うんだが。
どうして本拠地を移したんだろうね?
畿内では大きな衝突がほとんどないしねえ。
88 :
日本@名無史さん:2013/05/27(月) 01:11:35.18
>>81 南宋の孝宗とかフランスのアンリ4世とか徳川慶喜とか、凄い遠縁による継承は他にもいっぱいあるんだがね。
「5世孫なんて嘘だ」とは言えないと思うよ。
神功皇后・応神と大王位を争って敗れた仲哀皇子(香坂王・忍熊王)のどちらかの息子が、
臣下である仲哀系の近江国造だった武部君(大津市・膳所大塚古墳の被葬者)と、犬上君(彦根市・荒神山古墳の被葬者)の手配により、
越前に逃れ、その末裔が継体大王。
応神系が雄略大王で途絶えたので大和に迎えられた。ちなみに清寧/顕宗/仁賢/武烈は「雄略=武」を隠すための架空の大王。
応神の5世孫ではなく、仲哀の5世孫だったからこそ、
(香坂・忍熊王ではなく)神功・応神側に味方したことによって当時権力を欲しい儘にしていた国造たちはそれに猛反発。
それが筑紫君磐井の乱や、継体の首都大和入りが即位から20年も遅れた原因。
ヤマト政権の内部抗争に恐れをなして誰も大王になりたくない中(有力候補の倭彦王は逃亡して行方不明)、
大伴金村の捨て身の説得で即位を決めた、継体は相当な高齢だったとか。
91 :
日本@名無史さん:2013/05/27(月) 08:18:40.76
継体は高齢だったとは考えにくい。
もっとも桓武天皇の父は高齢で即位しているし、
外国の例でも
「王位継承が紛糾した場合にはとりあえず高齢者を即位させておくか」
的な生活の知恵は見受けられる。
>>90 即位(507)20年後の大和入り(527)の4年後には暗殺されたらしいね>継体・安閑・宣化
∵百済本記「辛亥(531)三月日本天皇及太子皇子倶崩薨」
>>91 継体だけでなく2人の皇子も相当高齢だったことで、継体が高齢だったことが判る
誰もなり手がないなら、冥土の土産に大王になってやろうかホトトギスという心境だったろう
つまり欽明は高齢な継体の子ではなく、手白香の連れ子だったとするのが自然
その欽明に皇后を出した蘇我氏の全盛時代が始まり、藤原全盛の幕開け「大化の改新」まで続くことになる
>>92 欽明の大王即位によって巨万の利益を得た蘇我氏が、継体・安閑・宣化の暗殺に関与したことはほぼ間違いない。
(cf.玄宗皇帝の愛人・楊貴妃の一族の栄耀栄華)
蘇我氏は応神朝で全盛期を迎える葛城氏の分家(応神の相国=武内宿禰の末裔)。
仲哀の皇子である香坂王/忍熊王の乱の際、神功/応神/武内側に付いてこの世の春を謳歌しながら、
「外戚が権力持ち杉!」として葛城本家を応神曾孫の雄略大王に滅ぼされた上、
継体という(滅ぼしたハズの)仲哀5世孫を迎えられ、鬱屈していた蘇我氏の乾坤一擲が継体親子暗殺だったのだ!
な なんだってー(AA略
95 :
日本@名無史さん:2013/05/27(月) 15:02:06.83
王朝交替説とか、日本書紀でっち上げ説とか陰謀説とか色々あるが、
記紀を素直に読むのが一番無理がないな。
この人が応神の五代後の子孫とか言っちゃったせいで将門が反乱起こしちゃったんだよね。
97 :
日本@名無史さん:2013/05/27(月) 17:27:08.62
>>96 そうなの?
確かに将門は桓武天皇の五世孫だけど。
>>89 >応神系が雄略大王で途絶えたので大和に迎えられた。ちなみに清寧/顕宗/仁賢/武烈は「雄略=武」を隠すための架空の大王。
倭王「武」は478年に宗・順帝から【安】東大将軍、479年に南斉・高帝から【鎮】東大将軍、502年に梁・武帝から【征】東大将軍に叙されている
ということは、雄略大王は502年には生きていたことになる
継体の大王即位は507年だから、雄略の崩年は502年〜507年の5年間に絞られる
その間に4人も大王が即位したとは考えにくいし、実際この4人には(欠史八代同様)ほとんど政治的功績がなく、目立つのは武烈の奇行のみ
史実としては、飯豊王女がカリスマ君主・雄略大王死後の大混乱の中、空位を埋めていたにすぎないのではないか?
99 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 07:48:04.31
>>98 > 史実としては、飯豊王女がカリスマ君主・雄略大王死後の大混乱の中、空位を埋めていた
在位8か月というのが妙にリアルだよな、このかた。
雄略亡き後、身の危険を察知した最有力候補の倭彦王には逃げられ、
雄略≠南朝皇帝の一将軍「武」とし、飯豊王が史上初の女性天皇に即位していた史実を消すために、
清寧・顕宗・仁賢・武烈という4天皇を捏造し、
応神5世孫という系図を捏造してまで、わざわざ越前から迎えた継体を二皇子ともども暗殺した後、
手白香皇女の連れ子(履中の曾孫)である欽明を継体の子ということにして、皇后を出した蘇我氏がこの世の春を謳歌した。
継体とは、まさに葛城氏宗家から蘇我氏分家へという、(武内宿禰を祖とする)紀氏系外戚の陰の政治体制を
継(つな)ぐための天皇という意味であろう。これを断ち切ったのが、中大兄皇子と中臣鎌足の乙巳の変である。
以降藤原氏が外戚として幕末まで実に1200年間も永きに渡り、陰の国政を担当することになる。
天皇の血筋だけでなく、実質的な国政を動かしてきた歴代外戚にも、車の両輪として注意を払う必要があろう。
三輪氏(祟神朝)→和邇氏(垂仁朝)→葛城氏(応神朝)→蘇我氏(欽明朝)→藤原氏(天智朝)
>>97 継体が応神の五世孫で即位した前例があるから、桓武の五世孫である将門も
「俺だって天皇になる資格がある!」
って事で反乱起こしたって事じゃない?
前例があるってのはかなり重要だし。
>>101 古今東西、皇后を輩出した外戚は貴族(公家)と呼ばれる
だからみんな美女と結婚したがる
104 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 03:19:49.79
>>102 少なくとも記紀によれば、継体天皇は反乱起こして皇位を奪ったわけじゃないんだがな。
>>101 皇統じゃなくて紀氏(葛城→蘇我)摂政体制を継(つな)ぐという意味だったのかよっ!?>継体
>>104 そういう意味で言ったんじゃないよ
前例ってのは「反乱を起こして帝位を簒奪した」って事じゃなく「五世孫で即位した」って事
107 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 11:03:47.99
>>106 なるほど。将門の頭の中にはそれはあったかもね。「五世孫でも天皇になれる」と。
でも、それが反乱の一因かな? 藤原純友のほうはどう考える?
将門は新皇と名乗って、西日本は天皇(本皇)のもの、
東日本は自分が統治すると主張した。
京都の朝廷転覆の意図はない。
109 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 00:18:00.42
>>107 平将門は国司に対抗したら朝敵にされたのが直接の反乱の引き金だけど
どうせなら天皇の五世孫だからこっちももう一人の天皇になっちゃえば
朝敵にならないじゃん、ってだけだと思う
>>108 将門の目指した征服地はせいぜい東国のみ
東日本全体なんてそんな広範囲征服するのは無理
無理かどうかって話なら東国も無理だったよ。
111 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:14:58.39
>>110 あくまでも「目指した」範囲ね。
東日本全体なんて最初から目指してすらいない。
112 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:33:55.57
>>107 唐と新羅と渤海が崩壊したのを見聞きし、
心理的ハードルがかなり下がったと思われる。
近藤義郎編『前方後円墳集成』や石野博信編『全国古墳編年集成』を見ると、
国造の存在したとされる地域で、古墳時代が始まってから六世紀に入るころまで、
首長墳の系列が断絶せず、地域内で有力古墳群が変遷もしない地域は非常に稀です
越前の三国国あたりは国内の特定地域でずっと継続していてすごいなと思います。
さすが継体天皇の母方。しかし、こういうのはレアケースだと思います
114 :
日本@名無史さん:2013/06/30(日) 14:38:18.15
>>89 >清寧/顕宗/仁賢/武烈は「雄略=武」を隠すための架空の大王・・・・・・・・・
誰に対して何のために、隠す必要があったのですか?
507年継体天皇即位後も大和入りを阻止した飯豊王女
>>98の称制政権派は、
誰々だったという推論なのですか?
115 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 01:48:55.88
文春HPによると、文春新書から7月19日に水谷千秋の新作『継体天皇と朝鮮半島の謎』が発売されるそうな。
水谷氏の著作は初心者向けの入門書としてはよいけど、
研究としてさほど真新しさがある内容ではない気がする。
117 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 10:05:08.00
新羅と関係あるのは磐井の方だろ
119 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 01:19:35.10
継体が関係あるのは百済でないかい?武寧王と。
120 :
あ:2013/07/14(日) 01:57:35.85
蘇我氏と尾張氏の亡霊が継体
倭彦王と継体ならどっちがより大王に近い存在だったのかな
倭彦王のおた丹波のあのあたりは平安時代も
酒呑童子とか鬼の政権で恐れられてた訳だけど
逃げて王位を蹴っ飛ばした訳ではないような気がしている
倭彦王の子孫の話が知りたいが無い
122 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:55:08.61
いずれにせよ楽しみだな、どんな内容か。水谷新作。
所詮村長レベルの継体大王
日本書紀にわざわざ百済本紀の異説を載せるっていうのは、なんか意味深だよなあ
国内には口伝しかありませんので。
126 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:00:15.86
越の国すら微妙。意見が割れすぎ
>>123 天下一の村長オブ村長を名乗る、超エラい村長なんだぜ
128 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) 18:13:58.10
水谷の新作読んだやつ、おらんの?
即位前の継体が半島に渡っていたかも知れないとさ
130 :
日本@名無史さん:2013/08/10(土) 12:53:10.80
>>119 いや息長氏のほう
神功皇后も新羅人の血を引くし
継体朝の成立過程は興味深いけど、正直血統はどうでも良い気がする
いくら継体の出自が怪しげでも、嫁や子の血筋は応神まで繋がる
「血統が繋がっていると言う建前」が正当性を主張する材料として
重要なだけで、結果的に平定出来たのならそれで十分だと思う
どうでもいいわけないだろうが
后妃や重臣の家系ですら皇別であることを謳われていたりするのに
傍系から入ったとされる継体の血統に無関心なはずがない
133 :
日本@名無史さん:2013/08/11(日) 12:18:49.11
>>132 古代に至るほどそのあたりは曖昧
蘇我氏も葛城氏も平群氏も皇別を称していたが(いずれも系図上は孝元天皇から別れた男系子孫)
本当に天皇の傍系だったかは別問題(事実なら蘇我天皇はありえたわけだ)
継体の前王朝河内王朝は成立百年ほどの王朝なので
そこまでの有難味はなかったと思うぞ
河内王朝では皇后(大后)は皇族に限ると言った規則もなく
葛城氏の大后が立ったりしてた
>>134 「どうでも良い」に対して「どうでも良くない」と言ったわけ
「有難味」が無かったなら何で継体が即位したの?
136 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) 13:58:21.59
>>135 手白香皇女と結婚したからだろ
継体自身が有難味のある血筋だったら皇女との結婚を経なくても
単独で大王になれたはず
継体の血統がどうであれ手白香皇女の血筋が女系で繋がればそれでいい
河内朝と継体の家系図
T世代 応神
├─────────────┐
U世代 仁徳 @稚野毛二派皇子
├──┬──┐ │
V世代 履中 / 反正 / 允恭 A意富富杼王
│ ├─┐ │
W世代 市辺押磐 安康/雄略 B乎非王
├─┬─┐ ┌─┴─┐ │
X世代 飯豊/仁賢/顕宗 清寧/春日大娘 C彦主人王
└──┬──┬──┘ │
Y世代 武烈/手白香皇女┬D継体┬尾張目子媛
. │ ┌┴┐
欽明 安閑/宣化
138 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) 14:41:17.27
河内王朝って考え方はシュールだよなw
>>136 傍系から継承する時に入り婿になる例はいくらでもあるのにどうしても否定したいんだね。
〜応神朝の葛城氏、欽明朝の蘇我氏〜 外戚の栄耀栄華
仲哀 ┬神功皇后 ┌──武内宿禰──┐
│ │ │
応神 葛城襲津彦 蘇我石川宿禰
. │ ┌──┼───┐ │
仁徳────┬────磐之媛 葦田宿禰 玉田宿禰 満智
┌───┬─┴─┬──┬───┐ │ │
履中 住吉仲王 反正 大草香王 允恭 円大臣 韓子
├──┐ │ ┌┴┐ │ │
市辺押磐/飯豊 眉輪王 安康 雄略┬韓媛 高麗
┌┴┐ │ │ │
仁賢 顕宗 春日大娘皇女 清寧 稲目
├────────────────┤ │
武烈 尾張目子媛┬【継体】┬手白香皇女 ┌──┼───┐
宣化. │ │ │ │
石姫┬─欽明──┬───[堅塩媛・小姉君] 馬子
│ ┌┴┐ ┌────┤ ┌┼┬─┐
広姫┬敏達──┬推古 用明 穴穂部皇女/祟俊─♀│蝦夷 倉麻呂
│. │ └─┬─┘ │ │ │
押坂彦人大兄王 ♀─────厩戸王───┬──♀ 入鹿 倉山田石川麻呂
┌┴┐ │
舒明 茅渟王 山背大兄王
┌┴┐ ┌┴┐
天智 天武 皇極 孝徳
141 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) 19:07:10.65
>>139 お前は自分の5代前に分かれた親族全員言える?
継体の出自は近江の豪族・息長氏で母方は越前の豪族・坂田氏
正妃は尾張豪族の娘
大和王朝とは縁がないよ
>>141 全部ではないけど五代前の人全員の曾孫くらいまでならだいたい把握してますが
てか親族を全員知ってないと何がいけないのかね
143 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) 19:59:20.58
大王に連なる血筋と一般人を比較してもねえ・・・
145 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) 23:58:51.06
たいていの人は江戸時代中期までさかのぼれる。寺受け制度があったからね。
もし一族にモノ好きがいたら系譜を作ってくれていると思うよ。
うちも物好きがいて本家まで系譜をつなげてくれたので古墳時代までさかのぼることができる。
古事記や神社の伝承まで入れたら神武天皇より前から日本人。
信じる者は救われる
稲荷山の鉄剣というのがあって
それには埼玉の豪族の系図が書いてあるんだ
埼玉の豪族程度の人でも系図を残しているんだから
皇族や中央の豪族たちも残していたと考えるのが自然だ
継体天皇が応神天皇の五世孫だというのも間違ってはいないだろう
間違っているはずだ万世一系などありえないという
祈りのような希望のほかには何の根拠もないな
大体記紀は創作されたものであるという
単なる仮説を何の検証もせずに信じ込んだ上に
記紀の記述をもとに記紀の記述を否定するという
馬鹿なことをやっているんだから救いようがない
記紀を信用しないならそんな人物がいたということも信じなければいい
>>44 『国記』・『天皇記』類が蘇我蝦夷邸にあったということは、書紀記事」と
違い、当時の大王家が実は蘇我本宗家だった傍証だろうな。
149 :
日本@名無史さん:2013/08/25(日) 16:08:43.73
>>147埼玉の稲荷山の鉄剣を作らせたのも、多胡碑を作ったのも新羅からの渡来人
古代の日本人はなぜ文字を残さなかったのかというのは古代史の大きな謎。
文字さえ残っていれば、邪馬台国も倭の5王の問題も謎ではなかったはず。
村の歴史は、記憶専門の巫女、稗田 阿礼のような女(男かも)が全て口伝で残したのだと推測している。
150 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 01:19:29.93
>>149 >古代の日本人はなぜ文字を残さなかったのか・・・・・・・・・・・・・
古代が5世紀以前を指すなら、江田船山古墳出土の大刀や岡田山1号墳出土の
鉄刀に文字が残されておるよ。これらは金石文だから現代まで遺存されたわけで、
朽ちる材質に書かれた文字がなかったとは言えないね。また古代を8世紀まで
適用とするなら木簡に書かれた文字が多数遺存しておるし。
それとも文意は、古墳時代以前の日本列島在住人が何故文字を発明しなかった
のかが「大きな謎」だというの?
151 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 06:58:13.61
確実に下級役人まで文字が普及したと考えられるのが、
7世紀終末の太宰府の最古の木簡の存在。
実際にはその1〜2世紀前といったところだろう。
その頃にはすでに紙が発明されており、
同時進行で普及している。
保存蓄積には紙、通信、荷物タグには木簡が使われていた例が多い。
152 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 07:00:11.94
それ以前は、帰化した中国人や、ごく一部の高級役人が、
金石文の策定などに限定的に使用する程度
153 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 07:02:57.00
あと、見様見真似で書いたような、
文も書も出来が良くない鏡の文などがある。
出来の良いのもあるから、そういうのは中国人の書だろうか。
鉄剣に銘を書いたのは張安だっけ
まあ中国人だろう
155 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 00:44:27.31
>>141 息長氏って天皇家の一族じゃないか。ただの豪族じゃない。
何人も皇后を出しているし、雄略の母もここの出だ。
つーかよく見たら、崇神の子孫の4代の皇后はこの系統じゃないか。
そんで、皇后の中でもでっかい古墳を作ってるのはこの一族出身多いな。
御三家のようなというか、特別な存在だったんだろ。
>>155 継体即位後の造作だとでも主張するんだろうな
史料を否定しだすと際限がなくなるわい
157 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 09:42:02.28
税を徴収してたんだから、文字をつかってなかったとか思えないな。
紙とか木とか、残りにくかったんだろ。
なんでもかんでも渡来人が・・ってのも信用出来ない。
その都度やって来て、終わったら帰国したのかい?
朝鮮半島がものすごく高度な文明を築いていて、おこぼれが日本に
回って来たってのならそうなんだろうけどさ、当時の朝鮮半島が
それほど高度な文明を持っていたなら痕跡くらいあっても良さそうだが、
中国の史書からも考古学からもそんなことは伺えない。
それぞれの地域を支配する豪族たちから軍事と財政で幾ばくかの物を徴収はしてただろうが、
その度合いを数値化して管理する段階ではなかったんじゃないか。
だから文字が必要じゃなかったと
ごく一部の地域・土地に対してだけ、官僚制の支配があって、
そこだけ例外的に文字が使われてたとかさ。
中国で戦乱を逃れて流出した官僚たちの一部は域外…朝鮮半島やら日本列島にも出たんじゃないかと思う、
ただ日本列島に来た中国系渡来人の人数が少なかったから影響範囲が限定的だっただけだろう
159 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:22:58.63
世界最大級の王墓をボコボコ作れる動員力をもつ王朝が文字を使ってなかったっていうのも面白いな
160 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:43:32.02
記紀編纂の頃に全国から過去の文字資料をかき集め
権力側から見て都合の悪いものはすべて焼却処分
各地の風土記も都合の悪いものは同様に処分
ってこともありうる
ありえないってこともありうる
162 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 21:13:54.32
山賊集落長レベル
でも天下一のお頭オブお頭を名乗る、超エラいお頭なんだぜ
>>159 だが、建造に必要な労働力の規模ではクフ王ピラミッドやら始皇帝陵より一桁は低いだろ
始皇帝陵の関連施設の規模は桁違いだぞ。
墳丘以外のほとんどが地下施設だし、陵墓全体の敷地面積だって大仙古墳の何倍も広い
墳丘の長さ以外は全敗と言えるレベル。
だから数の話をしてるんだと思うが
167 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 19:23:58.18
>>165 秦の始皇帝級の墓が10も20もあったりしないからね。
168 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 18:18:39.14
>>148 > 『国記』・『天皇記』類が蘇我蝦夷邸にあった
ここはよく問題視されるよなあ。
169 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 18:20:49.68
>>155 > 息長氏って天皇家の一族じゃないか。
そうなんだが、酒井家や水野家の当主が徳川家当主を継ぐような事態ならばやはり揉めそうだが。
>>169 水野は縁戚
親藩も十八松平もみんな居ないなら酒井が継ぐほかない
江戸時代の継承と関連づけるなら、吉宗かな
吉宗は4世孫で、ライバルの尾張家藩主徳川継友は5世孫
5世孫ってかなり近いよ。すくなくとも血統を誤魔化せるとは思えないな。
当時の婚姻制度から考えると、
有力な皇族=力のある豪族と婚姻している
だから、有力な皇族なら血筋は余計にはっきりしてるだろう
172 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 11:58:16.97
継体の先祖には、允恭天皇の皇后がいて、安康、雄略の生母になっている。
継体の「血筋の遠さ」をことさらに強調するのは、天皇の権威をとにかく矮小化したい
戦後の学界の「願望」でしかないんだよ。
それを「願望」だという主張もお前の「願望」でしかない訳だが
という願望という願望
>>171 徳川吉宗の場合はそうして断絶に備えていた上での相続だが、
大王家の場合にも当てはめられるか?
継体帝の前の代が徳川御三家のように(とまで行かなくてもいいが)
権力持っていたかは怪しい
176 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 16:55:17.54
名前がグロい
貧困?
>>172 継体の4代前の先祖の姉妹が大王家に嫁いだというだけだからたいして近くならない
母系が近ければ大王相続権があるなら蘇我氏や藤原氏はとっくに天皇になっている
179 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 18:00:27.75
>>175 継体の一つ前の時代から、
「河内王権」的遺物である石見型埴輪が息長で見つかってたり、坂田の円筒埴輪に畿内の影響が見られたりしてる。
また、継体に特徴的な縁戚・縁故地=尾張・近江・越・淀川域などでは、確かに「継体王権」的遺物が見つかっていて、
とても記紀が「後世人の妄想」で書かれたとは考えられない(原資料が存在した)状況を呈している。
さらに、真の継体陵という今城塚古墳の近隣には、中期の太田茶臼山古墳(現継体陵)があって、
この古墳は現応神陵や現允恭陵の相似墳で、陪塚のあり方など非常に河内王権的で、準大王墓の規模を持ち、
継体から数代前の築造であることが分かっていて、この時築かれた埴輪工房から今城塚にも埴輪が供給されている。
これは、継体の遠祖が数代前の大王から分かれたことを象徴的に表しているようにも見える。
そして君が言うとおり、「プレ継体期」にそれほどの権威・権力があったかというとそれは疑問で、
この時期にはむしろ尾張なんかの方が、尾張型埴輪の開発・波及のような成長・影響力を見せている。
すると、そんな中で継体が大王に推戴されたのは、やはり河内王権に繋がる人物だから、と考えるのが自然とも言えてくる。
要は、昔のように、文献で系譜が離れてるからとか、前の王が悪者だからとかいう理由で、
「継体が前の王権とは全く無関係者」というのは、如何なもんでしょうかねってこと。
180 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:10:18.48
>>179 河内王権の埴輪の影響がみられるのなんて同時代の畿内・中国地方一円で見られることで
なにも近江に限ったことじゃないだろ
石見型埴輪なんて京都でも兵庫でも和歌山でも遠く群馬でも見つかっている
近江には4世紀頃から脈々と息長氏のものとみられる酋長の古墳があって
5世紀になって急遽応神天皇の皇子が送り込まれてそれまでの土豪を武力整復して新たな酋長となり
もうもう一つの河内朝廷を近江に開き、御三家よろしく第二王朝として繁栄していたとはとても思えん
181 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:36:12.66
>>179 私が言ってるのは、河内王権と近江が没交渉ではなかったってこと。
つまり両者間には「関係性」があるわけで、そんな中での系譜詐称は難しいでしょうって言ってるの。
近江の古墳は5世紀半ばから様相が変わるよ。
それまではマトモな前方後円墳なんてなかったのが、葺石・段築・埴輪などを兼ね備えた中型墳が出て来る。
前期の古墳はのちの「息長氏」の母系にからむ古墳であって、応神の孫以降がそれらの縁故で地方豪族化したという想定は、
そう荒唐無稽なものではない。
あと、「もう一つの河内朝廷を近江に開き、御三家よろしく第二王朝として繁栄していたとはとても思えん」
というのは、
>>179でも触れているとおり私も同じ意見。
じゃあなんでそんな中規模地方豪族が大王になったんでしょうね、といったら、
後世ふうの言い方をすれば「皇別」(○○君)だったから、という説明だって出来るでしょうってこと。
182 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:39:40.81
大伴金村が担ぐくらいの正当性はあったということか
184 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:56:29.32
>>181 古代豪族の多くが大王家の系譜とつなげられたのだから
継体天皇を出した息長氏が実際は血縁になくとも
天皇の系譜と繋がれ皇別扱いなのは至極妥当だと思われる
蘇我氏も葛城氏も平群氏も紀氏も和気氏も
伊賀国造まで皆天皇の子孫と日本書紀に記されるが史実だとみている?
近世にすら徳川家康が清和天皇から出る系譜につないだくらいだから
古代に系譜詐称が不可能だったいわれなどない
勿論、息長氏の系譜が大王家に繋がれたのは継体天皇が出て以降だ
では皇別ではない継体天皇がなぜ手白香皇女の婿に選ばれ即位できたのか?
継体天皇は大伴金村が連れてきたことは記紀に触れられており
大伴金村との間に何らかの協力関係があったと思っている
継体天皇の宮が樟葉にあったり墓が高槻市にあったり明らかに飛鳥の宮都とは別の場所にいたとみられることからも
誰もが納得する明確な血縁あらたかな皇別などではなかったことが伺える
185 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 20:01:12.34
村起こしスレ
186 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 20:12:35.13
>>184 私は皇別氏族でも、君(キミ)姓と臣(オミ)姓とは別格だと考えている。
資料が少ないから確たることは言えないけどね。
ただ、日本語では「皇(王)」も「君(公)」も同じ「キミ」と発音するでしょ。
「オホキミ」というくらいだから、君姓というのは律令皇族制度の無い時代の、
広い意味での「皇親」的意味を持っていたと考えている。確証は勿論無いけどね。
前のスレにも似たようなことあったけど、
徳川家康は前王朝たる「足利将軍家」なり「織田・豊臣氏」には繋げていない。
系譜詐称を比較するなら、そういうレベルで比べてほしい。
息長氏の系譜が大王家に繋がれたのが継体以降なんてのは、私が前述している論説と同じで
一部の学者さんの仮説にすぎないでしょ。
それと君は、手白香との婚姻、大伴金村による擁立、樟葉宮、高槻市の墓……
こんだけ「記紀」に依拠して論を組み立てておきながら、
なんで「応神天皇の裔孫」というところは、やたら必死に否定したがるの?
187 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 20:22:46.01
>>186 白香との婚姻、大伴金村による擁立、樟葉宮、高槻市の墓の信憑性と
5世孫の信憑性はけして同じではない
日本書紀の手白香との婚姻を信じるなら同じ日本書紀の継体の5世孫という記述も信じろというなら
同じ日本書紀に書いてある蘇我氏は天皇の子孫、和気氏は天皇の子孫だというのも信じるという話になる
君が継体の5世孫は信じるが、臣は違うという説も成り立たない
4世紀以前の息長氏の墓を継体先祖の母方の墓だとするのも(応神の息子が息長氏の跡取り娘に婿入りした)
継体5世説を支持する人によく見られるが応神の息子と息長娘の婚姻の話は何の史料にも出てこず
そちらのほうが信じがたい
近江の豪族であった息長氏が中央豪族大伴金村の支援を受けて挙兵したのが妥当だと思うが?
?
>>187 それじゃ究極なんにも成り立たないじゃんw
逆にあなたが継体の系譜が前王朝に繋がれた経緯=いつ、どのように
をどう考察しておられるのか知りたい。
>>187 前段。まあ堂々巡りになってしまうだろうが、
だから同じ皇別氏族でも「君」と「臣」との差がそこにある、
というのが私の主旨なんだが。
後段。応神皇子(継体の祖)と結婚した女性は坂田(息長)ゆかりだと資料に出て来る。
あと、継体挙兵って言ってる人久々に見た。これこそ資料に無い事柄だが、
根拠はあるんですかね?
>>189 系譜が繋がれたのは記紀成立期だろう。
天武天皇のときに神武天皇からのすべての系譜が完成し、
いくつか存在した古代王朝がすべて一王朝に繋がれた。
>>190 堂々巡りになるなら「君」と「臣」の話題は無意味。
(日本書紀を絶対信奉する君が、日本書紀を否定するわけだからね)
継体挙兵について。内王朝の正統な後継者である継体は無武力で飛鳥に大歓迎で迎え入れられた
という説のほうがありがたく、継体は武力を率いて越前を立ったというのは通説だと思う。
>>191 >系譜が繋がれたのは記紀成立期だろう。
>天武天皇のときに神武天皇からのすべての系譜が完成し、
>いくつか存在した古代王朝がすべて一王朝に繋がれた。
仮に天武天皇が「継体王朝」の王だとするなら、王朝樹立から170年も経ってるのに、
いわば「敵」たる前王朝(いくつもの短命王朝)に今さら系譜を繋げたわけですな。
まあ昭和以来の学説ではありますが。
徳川家治が徳川家康の先に、豊臣・織田・足利・鎌倉……みんな繋げた的た話で、
私はむしろその説を疑ってるんですよ。
私は日本書紀絶対信奉ではありません。確かに一般の学者さんよりは重要視してますがね。
君は何を拠り所にして歴史を見ているのか知らんけど、継体の武力蜂起をうかがわせる資料が
何かあるんですかと訊いたんです。
日本書紀本文の記述としては「応神の五世孫」だけで、
その間の係累は全く表記されていないが、
日本書紀には失われた「系図一巻」がある
もとはその「系図一巻」の中に係累が書かれていたのが、
散逸によって失われたのかもしれん
だから、散逸する以前、平安初期ぐらいまでに書かれた(引用した)書籍の記述は日本書紀に基づいて書かれている可能性はある
具体的には旧事本紀(十巻本)とかな
>>190 そういや、百済王カバネはキミじゃないんだっけ。
>>193 百済王族をキミと称す例は見られますね。
軍君とか加須利君とか嶋君とか出てきます。
だから百済王家と倭王家を同族では? なんて考えもあり得ますが、
それ言ったら、彬子女王とエリザベス女王は同族なのか? なんて話にもなってきますし、
まあ資料に限界がありますから、当時の制度を復元するのは困難でしょうな。
>>194 ただ、うろ覚えだが、百済王族の「君」は倭訓では「きし」とされる例が多かったような
百済が氏で王(こにきし)が姓
197 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 23:14:52.19
>>178 >母系が近ければ
は?誰がそんなこと根拠に論じているの?
>>192 >継体の武力蜂起をうかがわせる資料が何かあるんですかと
資料じゃなくて史料ね
日本書紀には越前を出た継体が樟葉、山城筒城、弟国と転々とする様が描かれ
とても非武力であったとは考え難い
継体5世説を取る人が継体非武装をひたすらに主張する理由は分かるよ
継体が武力による征服王朝であったとすれば前王権との血縁は無関係の非合法相続であったことが裏付けられるからだ
前王権からの正当な血筋を河内王権から高く評価されての即位ならば
継体は武力を一切使わず平和的に誰からも祝福されて大和に丁重に迎え入れられなければならない
誰もが認める正統な王族である継体がなぜすぐに大和に入れなかったと思っている?
ちなみに日本書紀によれば継体は大和国磐余玉穂宮で亡くなっているが、
墓が遠い摂津国高槻にある当たり、怪しいと思っている。
(継体の墓が高槻にあるというのは考古学的に言っている。日本書紀の記述を信用して言っているのではない)
>>198 ああ、根本から考え方が違うんだわ。
私は「継体が大和に入れなかった」じゃなく「大和に入らなかった」という考え。
この時代のヤマトに常設の内裏があったとは思ってないのでね。
基本、記紀が伝えるように、歴代の大王がそれぞれの縁故地に宮を築いたんだと思ってる。
それが難波だったり河内だったりしたこともあったろうと。
確実ではないが、大和泊瀬の脇本遺跡は、やはり雄略の宮関連の遺跡であることが有力視されてきてる。
だけど墓は河内の丹比郡だよね。私は岡ミサンザイ古墳だと思ってるが、
大仙説にしろ土師ニサンザイ説にしろ、大和泊瀬近辺には当時の大王墓と想定される古墳なんて無いんだから、
自ずと遠く離れた河内に候補を求めることになるだろう。
不確実ついでに例を挙げれば、用明や推古も磐余や飛鳥に故地が見いだせるが、
墓は河内石川の磯長だよね。
宮と墓が近くなくっちゃ、なんてのこそ単なる思い込みかもよ。
げんに今のところ百舌鳥や古市の近辺に宮都遺跡なんて見つかってないし。
天皇ごとに宮を建て直すのって何でだろう?
天皇ごと、どころか、
宮って一人一つじゃないし。
やっぱ神社の原型って宮なんかね
魏志倭人伝にでてくる拍手とか最敬礼は、神社での作法を連想するけど、宗教儀礼じゃなく貴人に対する礼としてでてくるし
>>203 日本の神は祖神だったりすることが多いから、どっちが先かというのはナンセンスなんじゃないかな
古代エジプト方式で娘婿が王になる、としたら問題解決
代々娘婿が王になってるんならそれでもいいけどな
建前は本当にそうなんだけど、婿も兄弟か従兄弟だったりするので
結局骨肉の争いになっていたらしい
>>199 言ってねえよw
>>172で言っていることは、継体の家系は、皇后を輩出したこともある「有力皇族」であるということ。「臣下」の蘇我などと同列にあつかう根拠にはならん。
そもそも允恭の皇后となった忍坂大中姫の父親は応神の子だ。男系でしっかりつながっている。
さが
209 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 02:15:03.05
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
政の都と宗教勢力は切り離されるべきである
かつて奈良で宗教勢力の影響が増大、統治に揺らぎが生じた
その後、混乱の末に北方の平安京が造営された事からも分る
これは「南都(710)乱れる時、北都現る」
「北都あらわれし時、哀しみを語る(794)がよい」
等の言葉で現代に伝わっている
>>203 魏志倭人伝にある、倭人の文化風習の記載は四書五経の記述から改編した理念的なものが多いっぽい
史実じゃなく空論の可能性が高く、参考にできない
212 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 12:45:47.31
>>211 柏手が古代の貴人への礼であったことについての記述に問題はないでしょ。
言い掛かりに妥協して即位式での柏手を止めたのは問題。
妻問い恋愛婚で離婚再婚自由、同父異母異父同母兄弟姉妹が普通にいる社会だと、婚姻期間中は愛情があるから妻は夫に優しくしていられるだろうし、子の父を確定するために性的に誠実であることも苦にならない。
外から見れば庶民男子も母の異なる子を持つ多妻で女は貞節で嫉妬しないということになるでしょ。
213 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 17:12:09.56
継体が武力で奪ったってのは無理がある。
資料にないこと。武力で奪い取ったなら考古学的になんらかの形跡が残りそうだが
でていないこと。継体の治世の高官はそれ以前と変わらないこと。
何よりも、もし武力で奪い取ったなら、我が先祖の歴史を連綿と綴ればいいのに
前王朝のものを引き継いでいる。
継体はそれ以前の王と血縁関係があり、それもさほど遠くなく、政権、豪族を
納得させるだけの近さが必要。吉宗のように。
なんで執拗に系譜だけ疑うのかね
特定の願望があるとしか思えない
215 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 17:52:16.83
記紀はでっち上げだとか、編纂時に天皇家を強く見せるために、万世一系を
強調するためにつくった作り話だってやつがあるよな。古墳時代にやって来た
朝鮮人だとかさ。
でっち上げとか欠史八代とかいうくせに、自分の説に都合のいいのは
「記紀によると・・」って引用するんだもんな。
別に100%真実だなんていうわけじゃないさ。だけど、天皇家をごっつい
持ち上げるために創作したなら、もっとましな話を創作するだろ。
親や兄弟と殺し合いをしたり、武烈のような天皇がいたり、兄弟で
結んだ一族がいたり、ろくなもんじゃない。
河内王朝や継体が武力で奪ったなら、自分の先祖のことをありがた〜く
でっちあげればいいことだ。
216 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 19:48:49.63
大伴金村以外は変わってるんじゃ?>政府高官
欽明の代になって突然天王に娘を差し出し
大臣として君臨するようになる蘇我氏とか
正統な後継者が近江辺りでくすぶってるのも不思議
忍坂大中姫を出してきて息長氏は大王家に妃を献上したこともある、
これは大王家の第一の一族として息長氏が大事にされてきた証拠だと強調している奴もいるが
だいたい河内王朝の大王の妃は大和に住み大和王権の政治に携わる王族か豪族の娘だろ
地方豪族の娘が献上品になった例は他にもあるし
だいたい河内王権の初代応神天皇は異母兄2人を武力で攻め殺し即位している
それなのに史料に河内王権が武力で前王権を征服した形跡はないとかw
217 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 19:57:51.13
天皇家は万世一系男系一色1600年主義の人が常駐して連投してるな
男系一色1500年は間違いないだろ
万世一系だと何か困るのかね
系譜だけは絶対に信じたくないんだな
>記紀の創作
聖人君子であることは求められていないって事かな。
系譜さえ正統であれば天皇は悪人でもいいって考えもある。
道徳性を王権の根拠にしたら、自ら手を縛るようなものだろ。
献上つうかよっぽどの家でないと妃にはなれんのでは?
>>220 道徳性を根拠にするって発想がそもそも、簒奪を正当化するために生まれた思想だったんだもんな
欠史八代など初期の天皇が非実在なら真の初代天皇は誰で
例えは10代目から確実に存在していたとするなら彼はなんで10代目と数えるの?
欠史八代は創作だとしても歴史に残ってない初代から9代の天皇にあたる人物はいたの?
>>223 該当人物が居た可能性が否定されたわけではない
ただし。
・事績・業績が残っていない
・在位期間、年数はデタラメ確定
・名前(諡号)が後付け
和風諡号が飛鳥時代以後、漢風諡号は奈良時代に追贈されたものと確定
ってレベルで、まさに、蜃気楼のようなもやっとした存在
道徳が優れているから天子になれるorなっていた。なんてしたら、
易姓革命の根拠になっちゃう。
天皇は良い人も居たが、悪い奴も駄目な奴もいた。
ただ共通しているのは、全部アマテラスに繋がる同じ一族なんだぜ。
ってことにすれば他の出自の奴に取って代わられる事は無くなる。
系譜を重要視するってのはそんなところかな。
問題は神に繋がるまで系譜を作らなきゃいけなかったってことで、
応神ぐらいじゃ神に繋げられなかったんだろうな。
だから古いほうへ延ばして、崇神超えて神武あたりまでいって
やっと、このあたりで降臨したんじゃね?って感覚になれたんだろ。
226 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 07:14:56.06
ヤマト王家の連続性を否定する論があっても当然だが、
否定論者は自説に都合のいいように、
恣意的に「記紀」切り貼りしているだけ。
従来の研究者は、特に戦後間もなくの学者のほとんどが、
精緻な論証をしなくても、
アプリオリに否定されるべきもの、
という小中学生並の頭しか持っていなかったから、
思いつく限りの何とか王朝説とか架空人物説で
お茶を濁すしかなかった。
幼稚な津田説を踏襲するだけで、
否定論者のまともな論考は一つにない。
否定論はありでいい。
ただ、専門家で誰々はきっちり論証している本があれば
それを読んでみよう。
>問題は神に繋がるまで系譜を作らなきゃいけなかったってことで
神の子孫と標榜する始祖伝説なんて、あの時代にはむしろ普遍的だろ
欠史八代の存在も、なのかどうかはともかく、雄略より以前の歴代の年齢とか在位期間が荒唐無稽な理由は、
神の子孫という系譜の必要性とは別の理由を想定するべき
天孫降臨から千年以上という期間を設定したかったのが原因だが、なぜその必要があったかが分からん
守矢神長官家も男系で神の子孫
初代天皇の年代を紀元前660年に定めたかったのなら架空の天皇大量に作って挟んだ方が良かったんじゃないかと思っちゃうよね
>>229 聖書の創世記もそうだけど、なんで中途半端に寿命の方を伸ばしたんだろうね
半神半人な感じが出ると思ったんだろうか?
>>230 単純な造作ではなく史実の核を含んでいることを分からせるためかな
箕子にしろ三国にしろ朝鮮みたいにすると捏造まるわかりだもんね
聖書は伸ばしてないよ
津田も生きていたら考えを変えたと思うよ。
年代が荒唐無稽なのは、当時日本で使われていた暦が、中国の暦のように天文学・数学的に精緻なものでなかったこと、
年齢換算方が異なっていた、というものだと思うよ。いわゆる「倍暦」ね。
農耕民族である以上、中国との交渉がなかった時代から日本にも独自の暦があったはず。仁徳あたりまではそれが使われていたと思う。
「倭の五王」の時代、中国と交渉するようになり次第に中国の暦が使われるようになった。
日本書紀では、仁徳までは、享年も在任期間も「荒唐無稽」。履中・反正・允恭は、生年が不明なため享年はわからないが、在任期間は「まとも」。
安康以降は、享年も在任期間も「まとも」。
これは、中国と外交により中国の暦が次第に取り入れられていったことを表しているのではと思う。しかし、いつ、どのように切り替わったか、
仁徳以前の暦はどのようなものだったか、などは記紀編纂時には不明となってしまい、修正できなかったため、仁徳以前は「伝承どおり」に記述した。
というのが一番自然だと思うがなあ。
>>232 ノアは数百歳、モーゼは百二十歳、事実なのか?w
>>234 倍年だの半年だのそんなもんを自然なことだと考えられる奴の思考回路は不自然
「農耕民族なら暦をもつ」というのは実証されてるの?
雰囲気はわかる主張だけど、反例もありそう
農耕民族にとって、季節の変化をつかむことは死活問題だからね。農耕儀礼を軸とした年中行事が生まれ、春夏秋冬をより細かく区分する
「農事暦」が各地で自然発生的に生まれたはずだ。
仁徳陵などは、完成までに二十年以上かかり、土量の計算から延べ百数十万人が動員されたと考えられている。このような大工事を円滑に実施するには
かなり広範囲の地域の人々に共通の暦があることは不可欠だ。三世紀の箸墓古墳なども同様と考えていい。
古墳時代は、全国あちこちで巨大古墳が作られている。それぞれ「地域暦」があったと思うよ。
無論、天文学的・数学的に精緻なものではない。農耕に不便なものではない、という程度のものだろうけどね。
>>236 じゃあ、より自然な説をご教授して。
>>235 ノア含め、箱船以前の主要人物は常人の寿命より900年ほど長く生きてるぞ
みんな享年九百何十歳
ノアだって九百年以上生きてる。何百どころじゃない
>>234 倍暦ねえ……
数代ごとに倍率が増えていくと考えないと合わないぜ
初期の何代かは5倍以上と考えざるを得ないんだから。
はずだ、じゃあ実証とはいえんな
>>235 時代が下ると次第に現実的な寿命になって行くんだよな
どこかで急にではなく、代を重ねるにつれて少しずつ縮む
実在の可能性が出て来る辺りで、あり得なくはない微妙な
長寿に収まる所に、計算された意図がありそうに思える
>>238 「思う」と「はず」で構成される只の思いつきを批判するのに対案が必要だとは知りませんでした
謝るので許してくださいw
>>242 もちろん許すよ。子供じみた茶々を入れることは2chではよくあるからね。
>>243 ありがとうございます安堵しました
トンデモの学説もどきをまともに相手したのが間違いでした
仏教行事化してるけど、春夏の御彼岸という日本独特の先祖祭祀とか考えると半年暦云々もちょっと考えさせられちゃうんだよ。
農耕民族なら春と秋に重要な祭事が執行されるのは当たり前
祖先崇拝を年に二度行うと年を倍にしなければならないのか
神話時代に人が有していた神性が代を重ねるにつれて薄れて先祖と比べて寿命も短くなったという認識は聖書にもあったと思うな。
ただ、日本の場合、神代の神性がまだ残っていることを思わせる程の長寿でも無いんだよね。神話でも寿命が短い理由を説明してるし、倍年で半分にすれば説明出来る程度の寿命だから飛びつきたくなっちゃうんだよね。
偉大な存在=長寿命とするのはごくごく自然な流れ。
世界の歴史が証明している
暦は鬼門
弥生時代のジャップって、10以上の数字を数えられたのかよ
251 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:04:32.48
ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、この、とお、とお(あ)まりひとつ
>>244 おめでたいね。自分のレスが「まともに相手」をしたと思えるなんてw
>>252 どこがまともでないのでしょう
長々とした駄レスに大して簡要に勉めたつもりですが
>>251 ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ
「オヤジ、何時だ?」「へい、ここのつで」とう
255 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 17:25:40.37
必要性がどうのとか、そんな問題じゃない。
王権の正当性を主張するためにでっち上げたという説に根拠がないんだ。
世界の多くの民族が神話を伝えている。日本だけじゃない。
それがすべて史実というわけでもない。だが、民族がそこに至るまでに出会った、
幾多の苦難と困難と、それを克服してきた話は子孫に長く引き継がれ、今
神話や伝承や民話などとして残っている。
旧約聖書や北欧神話やアメリカ大陸の先住民の神話や東南アジア・・・
多くの伝承を比較すると一定の傾向があると言われている。
日本の神話も、そのように伝えられ、記紀以外にも風土記として残っている。
256 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 17:02:26.32
聖書については、12倍歴、24倍歴で説明がつくはず。
古事記についても2倍歴(半年歴)で充分だろ。
その変換点は雄略天皇、か、それ以前。
説明がつくと思い込んだ奴がそう主張しているだけ
結果を合わせれば論が成立するという単純な発想からは脱却しましょう
258 :
日本@名無史さん:2013/10/01(火) 06:43:33.15
倍歴については専用スレがあるんだからそっちでやれよ
259 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 23:42:58.45
だいたい、1年が約365日ってすごい発見なのに。
教わりもせずに発見できると思うのかね。
中国歴が伝わる前も365日と無批判で考えているお花畑文系まるだしだね。
まあ、天皇家は発見していたかもしれないけど。
倭国は元々中国の属国なんだから知っててもおかしくはないだろう。
261 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 09:27:49.10
どこにそんな記述ごあるんだよ
262 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 09:31:03.46
>>259 一年のサイクルを知らないと田植えも稲刈りもできないよ。
日本の豊かな春夏秋冬を無視して12倍歴だの24倍歴だの言ってる奴はなんなんだ。
金印
265 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 15:10:42.32
テスト
266 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 22:10:39.48
とりあえず、継体がヤマト入りする20年間、
王もしくは王の代理は誰だったのか?
やはり丹波王か
267 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 22:14:29.90
継体が20年間入れなかったことは良く指摘されるのに、
ヤマトがずっと王無しのままだったことは誰も指摘しない不思議、
河内や難波に宮があったりしたんだからどうってことない
>>267 吉野朝時代の京都には天皇は居なかったのかな?
と勝手な妄想を書き連ねてみるテスト
270 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 00:51:25.20
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271 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 01:16:23.50
>>269 そういや南朝に皇族をみんなさらわれても、
北朝では皇族から天皇を選んでたよね。
継体が入ってくる前も、そういう風にして
遠い親族から選んでいたと思うんだ。普通に考えて。
この時代に豪族が次代の天皇を決めるって言うのはありえたの?
天皇氏族の家督を誰が継ぐか、ってことだろ。
他所の氏族が口出しするのかな。
っていうか口出しできるのか。
物部氏とか蘇我氏の代替わりの時に、他の豪族の意向に左右されるとか(たぶん)ないだろ?
273 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 02:05:37.16
一氏族の代表じゃなくて、「王」という公的な存在なんだから、
逆に豪族たちみんなで決めるんじゃないの?
274 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 08:07:08.50
クリルタイなら、天皇家が世襲で続くって事はありえないような気もする。
>>271 南北朝の例はちょっと例としてはずれてる気もするが
普通に考えて傍系継承だったんだろうね
>>272 >>273の言うとおりで即位には臣下の推戴が必要なんだよ
>>275 モンゴルだってクリルタイで君主を決めてたけどチンギス統に限られていたんだから
仮に古代日本でクリルタイみたいのがあったとしても皇室統に限っていたと考えることはおかしくないと思うが
>>272 神聖ローマの選帝侯みたいに有力豪族が皇統に口出しするなんてありふれた話じゃないかな
278 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 17:05:56.71
新王朝説とるなら
わざわざそんな遠いとこから
ひっぱるよりもうちょっと近めで系図繋げば、いいんだし
力で制圧してるならなおさら
将来の歴史のための系図なのに
遠すぎて逆にうさんくさく
よその国にいたわけだし
かえって本当ぽさがあるよね。
新王朝で全くつながりないなら
こんな繋がりしめさないし
仮冒ももうちょっとうまくするんじゃないかなーと逆に思う
やっぱり暗殺されたのかな。暗殺だよね。
>>278 そりゃどうとでも解釈できる。
リアリティを出すために「5代前に別れた」としたのかもしれないし。
さすがに直近の人物の子孫とか名乗ったらバレバレになるに決まっている。
(播磨から王を迎え入れたということは、すでに継承者がいなかったということ)
ただ、「応神」という存在は特別なものであり、
ねつ造する場合でもコレより前にはできなかったんじゃないかなー、と思う。
でも皇別氏族の中には仁徳以降を始祖とする氏族も存在してるんだよね
こいつらが嘘をついているのだとしたら、簡単に嘘がつけるじゃないかという話になる訳だが…
282 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 19:26:41.81
>>281 >皇別氏族の中には仁徳以降を始祖とする氏族も存在してるんだよね
寡聞にして知らず なんてウジ?
新撰姓氏録には存在してなかったと思ったが
283 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 19:34:45.39
自分も初耳だな
284 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 20:46:56.01
けいたいさんは
全く関係ない新王朝なのか
遠縁の傍系だが応仁の子孫であるのか
ここがそろそろはっきりしてきてもいいのにまだ時代が許さないのかな?
先代をぼろくそに中国の故事つかってまで貶してるんだから
やっぱ関係性ないんだろうけど
応仁でひっぱる必要性がわからないんだよね。
応仁じゃなくちゃいけない理由がよくわからんです。
そりゃ応神は新王朝の開祖ではないかと言われていますから。
あんまり新しい天皇の子孫だと、
そんな奴が生き残っているわけないことがバレちゃう。
だからと言って、新王朝の開祖より前の天皇にするわけにはいかない。
武烈をぼろ糞に書いてることを根拠に血縁否定するのは短絡的過ぎる。
書いてあること全部が本当ではないにしても実際に暴君だった可能性は当然あるし、
近縁の皇族が残存していたとすれば、遠縁のオオドが即位したことの正統性を示すために
仁徳系の正統性を低下させるために武烈を貶めるというのも十分に考えられる話。
血が繋がっていない証明(悪魔の証明に近いが)なんて、
継体の父系先祖を応神と同時代まで遡って別人だと証明しなければならないので
実質的には不可能である以上、史書に書いてあることが正しいと取りあえずのところは推定するしかない。
288 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 21:41:59.11
>>286 四代前の天皇子孫だと
あのくらいの時代だと
残ってないこともありそうですけどね。
欠史八代からひくってのも
全然わかんねーからありなきも。
おかしいとかなんとかいうのは
後世の人達だし、武力制圧しての新王朝なら子孫いきてようがなんだろうが、強権でいくらでもひきようがあったきもするけどなぁー
>>287 仁徳系を沈めなきゃいけない理由ってのがよくわかんないんだよねー
結局、血縁があるないにしても
傍系による内部クーデターで
天皇になったって、とこはみんないっちなのかな?
武烈がどうしようもないから
うんとできのいい応神の子孫がいたんでお願いして頼んだってのは怪しいってのは
血縁ありなしどちらでも共通認識としてありえないでいいのかな?
290 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 21:53:49.72
当時の共通認識として
仁徳系くそすぎる横暴すぎるから大人しくて豪族の我々の言うこときく遠縁の奴さがしたら
それが継体でしたって、史書の内容がほぼ事実ってこともありえるよね?
>>289 仁徳系って系図だけ見ても内紛起こしてそうって分かるぐらいにはゴタゴタしてるから
史書の記述の通りにいろいろとやばかった可能性も考慮はすべきかと。
>>289 むしろ、主体は継体を引っ張ってきた奴ら(ヤマトの非主流派?)で、
継体自身は(財力や能力はあったかも知らんが)
あくまで「飾り」のような気も。
畿内出身でなく、結びつきが強すぎないのも都合いいだろうし。
内紛の調停者として外部の有力者を招くって話はよくあるからねえ
ちなみに応神新王朝説にせよ、
応神の素生については九州出身だの韓人だの言われているが、
これも非主流派みたいのが引きこんだのは間違いないと言われている。
(事実前王朝に婿入りしている)
もちろん応神は武力で前王朝を打倒しているが。
295 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 22:08:35.48
おーい 仁徳以降を祖とする皇別氏族 はどうなった?
>>295 例えそんなのがいたとしても、
はるか後の時代になって言いだしたなら
継体の例とは比較できないな。
297 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:03:37.10
>>292 >>293 >>294 御輿は軽くてパーがいいってとこで、さらに遠くても血が少しでも入ってれば正当性も主張できるからなおお得ってなのが
畿内の非主流派の本心だったんかもね。
でも仁徳系が内紛でごたごたしてるからって武烈でとめさすよよなきじゅつしなくても歴代記録で十分じゃないかな?
後世には他所の国の歴史書をいんようしてんじゃんって突っ込まれるから、以前通りのごたごたで身心はなれましただけでよかったのではと。
そこまでくそみそに叩くからこそ
新王朝説もでちゃうわけで。
応神は新王朝ってのも確実なのかな?婿養子だけじゃなくどこかで血が入ってると当時も信じられてるから応神の五世孫となのったって可能性はないのかな?
298 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:08:20.59
でも非主流派が担いだのであれば敵は半分なのになかなか畿内入れなくて足止めくらってるってかかれること多いけど
もっとすんなり、御輿ならはいれそうなんだけど、なぜだろ?
あと生まれは新潟あたりってより普通に畿内にいたんじゃないかな?
あの時代に北陸までいって探してきました!ってあんまりにも
そこ疑ってよ!って後世の人間にいってるようなきがして逆に変なきも。つながってるようにしたいなら、胡散臭さはできるだけ消したいってのが心情だし
新王朝になったよ!って分からせたいなら、系図つなげる必要性ってあるのかな?と。
統治さえできてれば、記録は
新王朝になりましたって書いて問題ないだろうに
299 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:16:10.25
西暦から考えると
応神7世孫にしたほうが信憑性高いような。五世孫だとその間で
その時代だと長生きである
60〜70すぎぐらいまで生きた人がいてなおかつ比較的晩年に次の世代が生まれてないと
長命すぎるし五世孫だと時系列的に長寿になりすぎてあやしいって指摘さるるとこもあるのに、当時で5って数字は8みたいに縁起いいとかって価値観あったのかな?
>>287 史記の紂王とか傑王とかの暴虐記事の引き写しみたいな、
オリジナリティに乏しい「暴君」なんだよなあ……
暴君だったって伝説自体、奈良時代頃になってから新しくつくられた、日本書紀編纂時における最新記事だったんじゃね?
まあ、近縁の親類縁者との間で殺し合う風習が何世代かにわたって続いたのは事実っぽいが。
後代の臣籍降下みたいに中央政治を離れて辺境に逃げてた分家しか生き残ってなかったって程度で充分と思ってる
っつっても、まだ分家って概念が生まれる以前で、地方豪族に婿入りしてた元王族の子孫、
血縁ではあるが分家って言うより地方豪族の一員だった人ら、ってとこでしょ
>>299 応神の年齢とか在位時期そのものがおかしいから。
雄略の初期より以前はすべて在位期間が過剰なんで、それを差し引いたらさほど問題は出なくなるだろ?
302 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 06:18:48.74
継体で新王朝なら継体使って
長生きしすぎてるだろって過去の大王と調整すればできたはずなのにそれもしないし
やっぱり一族の傍系別家なりの
ほされてるが当時からはっきり血の繋がりが認められてたれっきとした子孫の家だったのかもしれないなぁーとも思う。
時代が下ったあとの宮家みたいな概念として継体の家はみとめられてたんじゃないかな?
だからこうでんで伝わってる話には手をつけなかったと。
関係ない家ならそこら辺のおかしなものは全部、武烈の例みたいにぼろくそにしたり、葬り去ることも可能だったと思うから。
もっと歴代大王増やしまくって
寿命で突っ込みはいらないように修正できたんではないかなって疑問があるんだよね。
もしくは応神の子孫は確実だけど本当は8世だが、こうでんの
てんそんこうりん神話から大君の時代のものを残すために繰り上げて五世孫って調整しててもおかしくもない、
はっきりいえば、常識的年齢から考えれば応神を始祖としても
8世〜10世孫にしたほうが
年齢からくる整合性と、
先代の人格横暴性のため、
人心が離れていき、仁徳系統は永らく内部抗争もひどく
一族内の有能な人がいいと意見が多数になり縁遠いが継体をとようしたって部分はのこてるんだしねー
豪族が遠すぎると反対した勢力もあったので、畿内にはいるのが遅れましたってかけば後々
武烈〜継体でとぎれてね?って
後世でけちつけられなくてすんだのにと思うけど。
どういう意図でこんなちぐはぐにして、血統つながってるのか
新王朝なのかなんて邪推されることもなかったのに、あえて
記してる理由がわからんのよね。そこら辺うまくできるのにあえてしない意図がわからん。
継体推戴の前に仲哀五世孫を迎えようとして失敗しているよ。
いまどき紀年をそのまま信じてるのか
>>303 応神が攻め滅ぼした庶兄の子孫なんてそれまで記紀に描かれなかった人物が突然出てくるくらいだから
真偽のほどは分からないしそれなら応神以降の傍系だって継体以外にも大勢いたはずで
履中の孫が突然出てきて怪しまれてないんだから
継体が系図を偽造するなら反正あたりに繋げとけば良かっただけの話で、
応神まで遡るということはむしろ系図が正しいことの証拠になると思うんだが
>>284 薄いながらも、いちおう血はつながっていたと思う。
ただ、それだと平将門も源頼朝も、天皇の子孫であることは間違いないわけで…。
>>289 > 武烈がどうしようもないから
> うんとできのいい応神の子孫がいたんでお願いして頼んだ
佐賀藩の鍋島がそのパターンだな。龍造寺と鍋島のパターン。
>>306 造作するなら先代か先々代の落胤でしたで済むよね
>>309 母親の身分も重要視されるから(大友皇子のケースなど)
庶子ではやはりまずかったんだろうな。
>>306 庶民の出ならどっかの天皇の落胤にしておけばよかっただろうが
継体は何代も続くれっきとした息長氏の王だったからさすがに
父や祖父の名前を嘘は欠けなかったんだろ
5代前なら嘘書いても誰も覚えてないだろうってことだと思う
312 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 13:24:16.33
>>311 じゃ、やはり薄いながらもつながりがあるってのが、色濃くなるけど一昔前にあった新王朝説とはなんだったのか?
313 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 13:26:16.01
>>308 あちらは化け猫なら
こっちは化けヤマタノオロチってか?
314 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 13:30:11.67
>>310 母親も仮冒しようと思えばできたのにあえてしないなら
長年言われた継体新王朝説は
このスレでは否定派が多い感じだね。薄いながらも応神の子孫でつながりもありますって
新しい説だねー
315 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 13:34:10.50
>>312 その根拠を示せといわれたらないんだなーこれが
新王朝説を覆す資料なんてないだろうしな
316 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 13:46:34.04
仁徳も応神も実在したのか?といれたらモデルはいるだろうねとしか言えないよね。どっちも百歳越えてるんだから、それの子孫といってもどっちの系統もまゆつばなきもする
317 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 14:14:32.97
>>312 近江の豪族息長氏が応神から出ているというのが仮冒なんだろ
継体が息長氏出身だというのは間違いない事実だよ
>>314 どこが新しい説なんだ?
記事をそのまま理解してるだけじゃん
>>317 息長氏が皇別でないのに何の戦いも起こらず皇統が変わったとでも?
倭国大乱が起きるほど王位を巡る争いが絶えなかった国で?
神武や応神ですら戦った記録があるのに?
319 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 19:44:02.43
>>305 そういや、
神武と応神と継体の大和入りのエピソードは
共通点が多いらしいな
継体は息長氏の出身ではない。
上宮記の系図は息長氏の手が加わる前の原型だろう。
>>316 仁徳は実在しただろうが、応神はグレーゾーン。
>>314 > 長年言われた継体新王朝説はこのスレでは否定派が多い感じだね。
新王朝というよりは、やはり龍造寺→鍋島のパターンに似ているのではないか?
旧勢力を打ち負かしたというより、旧勢力と妥協して支配したパターン。
323 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 20:53:10.30
>>318 戦いは起こってるじゃん。
継体以外にすんなり大和に入れなかった大王がいるのか。
しかも「元妃」と記される尾張目子媛を格下げにして
前王朝の手白香皇女を大后として娶ることが条件だった。
>>323 継体期って朝鮮や九州で戦ったイメージなんだけど
神武や応神と同レベルに論じるような規模の戦いが大和であったん?
別に大王は大和に居なくたって河内でも難波でも近江でもいいじゃない
入り婿として入るんだから先の妻を格下げするくらいおかしくはない
325 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 22:04:50.99
>>324 越前から大和までは近いもの
九州からはるばる攻め上った神武や応神と同列に扱うほうがおかしい
欽明天皇は大和に都をおいており
入り婿だったなら尚更
継体は大和で即位する必要があったと思うよ
326 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 23:15:25.39
たしか神武のライバルの長脛彦と、
応神の兄の本拠地が同じ、
応神の兄の子孫が、
継体のライバル
>>298 そりゃ継体が武力でヤマトを制圧したのではなく、
ヤマトの非主流派と結んでは言っただけだもの
だから前の王朝と例えつながって無くても、
つながっているように見せるさ。
っていうか、
新王朝立てた奴って自分倒した前の君主自体は否定しても、
王朝そのものは肯定、
ていうか、自分はその王朝の正統な後継者であると主張するパターンが多い。
うわ、神武東征そのまま鵜呑みにしちゃってる人いるのか
話が噛み合わない訳だ
330 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 08:04:04.44
331 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 10:11:41.92
神武応神継体は実は同じ人がモデルで歴史を永くみせるために
あえてわけましたっていう
珍説はあり?
実際のとこ大和の反主流との妥協案で血がつながってない越前の豪族が大和をのっとったが
正統性誇示したいがために
系図つなぎました!ってことだろ?
それが応神の血筋にする理由は仁徳系統からかえるためにってのは弱くない?
武力と反主流との妥協案で大君なったんなら、もっと近いとこの庶子の孫ですでもよかったのでは?
あと上に書いた人いるけど
倭国大乱っていっても九州の
一部地域の、戦国時代でいう
龍造寺対しょうにくらいの近くでもめてただけのかとかもしれんし、関係ないんじゃね?
332 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 11:19:32.24
応神じゃなく別の大王の子孫の可能性はある?
333 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:48:18.58
>>331 倭国大乱の地理的な範囲がどこからどこまでなのかは誰にもわからん。
九州の北部中部だけなのか?
九州全土なのか?
関西地方でも大乱があったのか?
出雲や吉備や四国も戦乱に巻き込まれたのか?
東日本の群馬県あたりはどうだったのか?
(多分、東日本は戦乱がなかったか小規模だったと思う)
334 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:50:34.23
>>331 > 神武応神継体は実は同じ人がモデルで歴史を永くみせるために
意図的なものではなく、記紀編さんの時点で細かいことはわからなくなっていたり
複数の大王の業績がごっちゃになっていたということはあると思う。
ていうか、
当時の認識では応神が始祖だったんじゃないの。
神武とかは天武の頃に作った話だろ。
だから継体は始祖の子孫を名乗っただけの気がする。
応神の子孫っていうのは、高天原出身で天照の子孫でっせ。っていうぐらいの意味。
336 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 15:23:09.70
記紀ができるまでは
全部こうでんで伝わってきたものなんでしょうし
継体が越前出身だとかもこうでんで応神の話と間違ってつたわってたりしてね。
継体が応神に拘る理由はあまりないよね。身内が滅んでる分かんない大王であればどこからひいても問題ないし。
応神からひっぱってるから
新王朝だだんぜつしてるって
よくいうけど、誰かに適当に繋いどいてって任せてたまたま
応神につなげたかもしれないし
337 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 15:27:54.15
そもそも何も意識してなくて
天武の頃に天皇制度がかっちりしたんで、神話や語りで残ってる人をはじからつないでるだけかもよ
だから越前の部族が制圧してしきったってだけで継体の時代には繋がりも何も意識する必要なく
倭国大乱の延長で統一してたのかもね。勝手に後の人たちが
別々の王朝や歴史を繋いだのが天皇制なのかもね
338 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 15:27:58.32
日本が関わってるのは記にでてくる天皇たちに関わる女たちの方だよ
>>336 >記紀ができるまでは
全部こうでんで伝わってきたものなんでしょうし
そんなわけないでしょ聖徳太子のころには天皇記、国記、欽明の時代には帝記、履中天皇の時代には史部
が出来ている。少なくとも5世紀以降は文字記録してたでしょ
340 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 16:20:43.87
>>339 それも口伝まとめただけでは?
あくまでも歴史的根拠というより内外に示すために書いてるだろうし
341 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 16:22:04.62
>>338 実はみんな女系で繋がってましたの方がファンタジー的には
面白そうだけどね
342 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 16:24:06.56
文書の記録は聖徳太子の頃がギリギリ黎明期だろう。
聖徳太子自身が非実在説を疑われる程に、
記録の信憑性が薄い。
残ってたとしても、記録には耐えなかった程度の、
文字記録だっただろう。
343 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 16:27:40.57
よくわかんねーけど
越の国生まれなんでしょ?
畿内にはいって食い物あわねーとかあったりしたの?
海の人が内陸部いったら刺身とか当時くえねーだろうし
344 :
我ら冒険DREAMER:2013/10/19(土) 18:08:07.16
>>331 だから、そんな近い血統にすると
かえって怪しさを増す。
戦国時代の大名はみんな血統を偽ってるけど、
皆何百年も前から名族からわかれたことになっている。
応神は前の前の王の息子ということになっているが、
はなはだ疑わしい。
345 :
我ら冒険DREAMER:2013/10/19(土) 18:10:09.84
無理やりイギリスに例えると、
・神武=チェルディッチ
・崇神=エグバード
・応神=ウィリアム一世
・継体=ヘンリ7世
みたいなもんだろうか。
346 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 18:23:51.18
>>334 呂后、則天武后、西太后なんか、
互いに千年離れてるのに混同されてますな
>>340 どの国も黎明期の書は伝説、口伝を多分に含んでるよ。
だが5世紀までさかのぼれば十分だろ
少なくとも継体天皇新王朝説に対する反証のひとつになりうる
348 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 19:27:34.72
>>345 無理やり巨人軍に例えると、
・神武=沢村栄治
・崇神=川上哲治
・応神=長嶋茂雄
・継体=王貞治
みたいなもんだろうか。
>>344 みんなって誰?確実に偽系譜なのは家康くらいしか思い付かないが
350 :
我ら冒険DREAMER:2013/10/19(土) 21:02:10.38
やっぱヤマトヒコというのは継体を担いだ一派とは違う派閥(主流派)が担いだ王だったんじゃないかなと。
で、非主流派が主流派を倒して継体を王に据えたんじゃないかなと。
当然ヤマトヒコが応神の兄の子孫というのは、
継体を応神をだぶらせようとしたんだろう。
351 :
我ら冒険DREAMER:2013/10/19(土) 21:03:47.77
長脛と忍熊という土地のはすぐ隣同士とか
352 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 22:26:41.18
そもそも継体は存在しなかったよ派ってのはいないの?
353 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 22:31:54.40
寒村山賊の分際で生意気だ
354 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 22:37:13.52
山賊じゃなくて息長氏の関係者なんでしょ?
356 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 23:02:09.24
頭だけでかいなぁー
地元の教科書には
下から見上げると頭が小さく見え威厳に欠けるからと
計画よりどんどん大きくしていきとうとう化物みたいな大きさにしてしまった
という笑うに笑えない話が載っていた
358 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 09:24:42.23
>>357 神話の世界の人物像になっちゃったんだ!
大王じゃなくて仙人だよねこれ!
359 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 18:18:35.79
前、どっかの本に、
継体が本当の皇族である証拠として、
「後継者が本当にいなければ金村が大王になるはずだ!」
って書いてあって、
この人バカじゃね?と思った。
360 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 20:18:46.62
継体なんて名前つけられたから
あやしまれるんだろうね
案体とかならなんの疑問もおきなかったろうに
361 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 20:34:15.90
>>359 金村はともかく
継体がそれなりの血筋でないなら
中央豪族が皇位につくだろうってのはそれなりに説得力がある
皇別氏族は大和に多くいたからね
徳川家に例えると、
・神武=得川義季
・崇神=徳川家康
・応神=徳川頼宣
・継体=徳川吉宗
みたいなもんだろうか。
分かりやすくないなら比喩の意味無し
応神=家康だろう
八幡様と権現様
365 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 10:09:48.13
>>364 初めて日本の王になった奴だから、
やはり家康が崇神では
366 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 11:46:58.12
>>361 地方豪族で大王の落胤を称している怪しい奴はいっぱいいただろうから
そういうなかから継体を連れてきただけじゃね?
中央豪族は血筋が良いぶん家系図がしっかりしていて
家系図を仮冒できない
例はアレだが熊沢天皇みたいな奴が担がれて出てきたてこと
367 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 16:12:57.21
例えがおかしいだろ
>>366 (少なくとも後世において)皇別を自称した氏族で
当時中央豪族として活動していた氏族は存在するはずだが。
369 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 21:07:09.22
>>368 それはみんな葛城・三輪王朝の子孫を名乗ってるからダメだろう
370 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:57:27.28
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
>>368 中央豪族は記紀編纂段階で皇別に加えられたというだけで
継体の時期には皇別でないことははっきりしてただろ
>>371 へー。
「血筋が良いぶん家系図がしっかりしていて家系図を仮冒できない」はずの中央豪族が
記紀編纂段階では家系図仮冒できたんだー。
>>372 中央豪族が記紀編纂段階で犯した仮冒は、
4世紀に滅んだ三輪王朝、もしくはその前の実在不明な神武〜欠史8代の家系図につなぐこと。
継体の時代には河内王朝出身でなければ即位できなかった。
かなりの確立で三輪王朝以前と河内王朝は別の王朝。
>>373 なんで家系図がしっかりしてるはずなのに神武〜欠史八代に繋げられたの?
375 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 21:47:25.49
>>373 天皇家が初めて「王」と呼ぶにふさわしい存在になったのが
崇神代なんだろうな
376 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 22:07:01.36
>>374 伝承がろくに残ってない葛城王朝時代の系図ならごまかせても、
ほんの二、三代前の系図はごまかせれない。
377 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 17:11:27.60
>>362 > ・継体=徳川吉宗
むしろ館林藩主の徳川綱吉が将軍になったようなもんだろうな。
378 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 17:52:32.57
継体は畿内の豪族滅ぼした天武天皇の
先祖の系統でないの
天智天皇は卑弥呼からの倭国王の系統
379 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 18:25:22.92
倭国だけでも多くの王がいて
東日本の王天武系統と倭国王の代表が日本統治するため
天皇創出して東日本には記録ではっきり残ってない
倭国系は歴史に出しゃばれない理由があった
380 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 19:57:51.95
継体は簒奪者で、大伴金村はその手引をした逆臣。
>>380 注目浴びようと思ってとりあえず奇抜な事言うの止めた方がいいよ。
382 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:20:29.92
>>361 > 継体がそれなりの血筋でないなら
野球にたとえるならメジャーではなく3Aの血筋だったのかもしれないな。それならやはり揉めるだろう。
383 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:38:50.34
>>374 記紀編纂段階の飛鳥時代末期の中央豪族は、ほぼ河内王朝からの直臣。
河内王家に臣下として仕え、河内王家の傍系でないことだけは確実だったけれども、
それ以前のことは分からなかったでしょ。
9代目まで”欠史”であることを考えると、
九州から移住してきて9代目までは大した勢力でなく(一大名級)
10代目の一代で急速に拡大したのかねえ。
385 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 00:30:54.46
耳糞ほじくる様な
どうでもいい事なのに
みんな何でそんなに必死なん?
>>385 だったらこのスレ見なきゃいいだけ。
なんで耳糞ほじるようなスレを見て、
見るだけで気が済まなくて時間かけて書き込むの?
388 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 00:47:50.97
血筋の疑わしさなら播磨の二皇子のが上なのに、
あまり語られない
390 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 07:43:48.48
391 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 12:08:13.79
継体は周の武王のようなもんだな。武烈の虐政に苦しむ民を
救うために兵を挙げて天下を平定した。
科学で解明されていないことはたくさんある
だから超能力は存在する
この理屈がおかしいことは分かるだろう
「科学で証明されていないことがある」=「超能力が存在する」ではないからだ
文字がない時代の記述は信用できない
だから記紀は天皇の権威を高めるために創作されたものである
これも同じようにおかしいということがどうして分からないのか実に不思議だ
「本当は何回も王朝が交代しているのに天皇の権威を高めるために
皇統を無理やりつなげて万世一系を創作したのだ」
なぜなら「文字による記録がなかったからだ」
なんてアホな話を何で信じているのか
君らは超能力も信じているのか
ものを考える力がないのかな
394 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 16:48:14.32
>>391 武烈死去後の挙兵ということになっているが。
395 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 16:51:05.30
ところで大友皇子は実際は即位していたようにも思うが、史書からは削除されている。
武烈死去後にも天皇位に即位していた人物はいるかもしれないが、
それも史書から削除されている。
396 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 16:54:26.54
397 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 17:18:06.10
398 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 17:49:29.25
>>397 応神は陵の所在地が記録されていない唯一の天皇。
実在の人物かどうかはグレーゾーンだと思う。
仁徳は実在したと思うが、その業績は水増しされているような気もする。
399 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 17:52:43.63
>>398 仁徳が実在したならその父親はいたでしょう。
応神の事績自体はほとんど作られたものだろうけど。
400 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 19:43:09.35
>>399 >
>>398 > 仁徳が実在したならその父親はいたでしょう。
もちろんいたが、それが応神ではなかった可能性もある。
このスレ「だろう」とか「思う」とか「可能性が」とかばっかだな
まともな議論にならん
仁徳さんはいたのに応神さんはいなかった!・・・とかこれもう失笑ものなんだよなぁ
403 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 19:59:04.29
某スレッドで
応神さんは本当は縄文人だ、と言っていた
405 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:24:31.82
>>402 仁徳の父親はもちろん実在していたが、それは応神とは別人だった可能性もある。
応神は海神を擬人化した存在かもしれない。
とこう考える人は昔からいるのだが。
406 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:49:15.03
>>405 仁徳の父を応神と呼ぶのに問題がある?
大阪府羽曳野市には応神天皇の諱である誉田という地名が今も残り
誉田御廟山古墳という巨大古墳もある。
5世紀初頭頃、あの地に巨大古墳群を築いた大王一族は誰?
仁徳の父系とは別の大王のものだと思ってる?
>>405 何を以って別人とするかだな。
応神の事績が全て創作だったとしても、それは実在した仁徳の父親の事績を100%創作したのか、
全く存在しなかった人物をゼロから作り出して仁徳の父親に設定したのかという線引きは難しい。
408 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:56:34.87
完全な神話ならなんでこのタイミングでそんなのを入れる必要があるの
やはり応神は新王朝の開祖では
海が一番強いと思っていた
が汚染水に弱い。
空は陸地がないと休む事も出来ない
鳥類は体力、飛行機は燃料がつきて墜落。
陸は陸地のみ
でも人は飛行機を作ったり、船を作ることが出来る。
>>409 意味不明を連呼してるだけなのか真面目に意味が理解できないのか
>>412 だって
>>407の挙げる二つの違いって何を言いたいの?
仁徳にだって父は居たわけで、その事績を100%創作するって、名前も系譜も全部造作なの?
全く存在しなかった人物って、仁徳の父というのは居たんだから、そういう造作なら前者となにが違うん?
>>410は誤爆?
415 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 21:35:21.71
このスレでは何度もでてきてるだろうが
上宮記の系譜の信頼性が高い以上
継体が応神の五世孫だと否定する材料はないよな
あの逸文の系譜は色々言われてるが漢字の音への当て方だけでなく
身位の表記が王だったり大王だったり大公王だったりと統一がとれてないのが
逆に 口伝されたのを文字に起こした感じでリアルさがあるんだよな
>>414 だから線引きが難しいって言ってるんだろうがw
>>416 設問の線引き自体に意味が見出せないんだけど…
戦後になっていきなり継体天皇が応神天皇の五世孫であることを根拠に
王朝交代説が主張されたことがあるが、現在では下火となっている。
継体天皇が第24代仁賢天皇の皇女である手白香皇女を皇后としていることからも、
王朝交代を想定することには無理がある。
祖先を同じくする二つの皇統が、この婚姻によって再統合したと考えるべきだろう。
そもそも
・本当に王朝交代があったなら、それなりの戦争の痕跡が出土すべき。
・また、一定の文化の入れ替わりもあるべき。
しかし大規模な合戦の形跡が無く、古墳時代の文化は一定の方向性をもって発展し続けている。
王朝交代は教科書を塗り替える歴史の一大事なので、それなりの「物証」が無くては主張できない。
>>417 事績を創作した人が、実在した「仁徳の父」の本来の事績を少しは知っていなければ
「仁徳の父」の事績を創作したことにはならんよ、流石に。
420 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 21:59:35.00
日本書紀の系図一巻が失われてなければなあ
王朝交代なんてアホらしいこと言われなかったろうに
>>418 王朝交代説には反対の立場だけど、
戦争の痕跡については同意見だが、
文化の入れ替わりについては首肯しかねる。
同一文化圏内での相続争いと見れば、文化の変化を想定しなくてもいい。
継体の父祖の系統を、分かれた皇統というのも引っかかる。
皇別氏族であったことは信じて良いと思うが、
他に有力な者が居なくなったから継承が実現したまでで、
後世の表現を借りるなら、皇親や皇族という性質の地位ではなかったと思う。
>>419 それも何言ってるかわからんし
>>407の例示は両者とも100%の創作を仮定しているんでないの?
>>420 古典というのは価値の無い物が廃れていくんだと仮定すれば
書紀の系図ってのには大したことが書かれていなくて
現存の書物以上の記事が無かったりして
>>422 「私は実は今上天皇の落胤です」と主張するのと
「私の父は実は天皇に即位していました」と主張するのとでは違う
425 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 22:09:27.59
>>423 でも継体の系譜は
上宮記逸文だけだからね
しかも後世には隼別皇子の子孫と間違えられてるし
>>424 >>407の表現には未だに納得できないが、こういうことかな。
・仁徳の父は確かに応神だったけど大王では無かった、後に大王になった仁徳以下によって事績を盛られた。
・仁徳の父は応神ではなかったが、簒奪等によって他人の応神の後釜になった、後に応神を仁徳の父であると仮冒した。
>>426 仮に応神の事績が全て創作だったと仮定した場合、という話だから(そもそも個人的には記紀における応神の事績は真実を含むと思う)
それを前提にすると、「応神」という人物を前提にすること自体が間違い。だから
>>426の理解は微妙に違う。
仁徳天皇の父系を19代遡った人物の母親の父親は無から生まれたと記述されているけど
間違いなく実在した仁徳天皇の21代前の先祖を意図して無から生まれたと記述したのとは違うでしょう?
>>427 あなたのおかげでようやく分かってきたけど、俺も記紀の応神の記事を全くの創作とは思わないから、
もうこの話を掘り下げるのはいいやw
ありがとう
429 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 22:48:57.74
>>426 >・仁徳の父は応神ではなかったが、簒奪等によって他人の応神の後釜になった、後に応神を仁徳の父であると仮冒した。
それって応神自身のことでは…
>>429 実父を偉く見せるでもなく、簒奪した王家の子孫を称するでもなく、
全く架空の人物を創作するって、なんでそんなことするんだよw
>>430 欠史八代が架空だったと主張する説によれば
彼らは全く架空の人物として創作されたことになるわけだから
そんなことをするわけがないという思い込みは排除して考えた方が良い
432 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 23:03:06.63
>>430 ちゃうちゃう、
応神自身が前の王朝の王を父ということにしているのでは、
ということ。
>>433 お前が捏造だと思うかどうかは関係ないぞw
435 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 23:34:52.91
欠史八代が完全に架空だったら、
いきなり崇神が出現したことになり、かえっておかしなことになる。
「九州からやってきて10代くらいで日本の王になったよ」
というくらいが真実では。
>>435 だーかーらー、お前の意見はどうでもいいの。
欠史八代架空説を引き合いに出されることすら不満ならその辺の氏族の系譜でいいよ。
実の先祖とは違う名前を使ってあるのだから実の先祖を偉く見せる目的ではないだろうし
どこかの家系から簒奪したわけでもないから簒奪した王家の子孫を称するという目的でもない。
そのような系譜を創作するということもありえるってことは理解できるかな?
>>436 崇神の先祖として欠史八代を創作したとするなら
どっかの誰かじゃなくて崇神が征服した土地の前の王家なんじゃないの?
崇神の支配領域に先行する支配者が居たからこそその系譜に繋げるというなら話は分かるし
未開の土地を初めて統一したなら何も実の先祖をそれなりに記せばいいだけのこと
創作までして系譜を残すわりに全くの架空のものを拵えるというのは考えにくいと思うが
>>437 欠史八代が創作かどうかの議論なんて興味ないから議論仕掛けてくんなよ気持ち悪い…
>>427 無から生まれたって、土人形に神が鼻から息を吹き込んだアダムさんかえ?
稲荷山古墳出土の鉄剣に「大彦命」とある。
後に第10代崇神天皇が派遣した四道将軍の一人であり、
その父である第8代孝元天皇と、兄弟である第9代開化天皇の存在は確実となった。
これは考古学的な現実。
441 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 06:09:41.60
継体がなかなか大和入りできなかったという事象と、
その期間中も大和にいたはずの大伴金村(しかも最有力者のはず)
の存在が釣り合わないと思うのだが。
つまり継体の大和入りを阻止しようとした
大和政権の最有力者が、継体を擁立した大伴金村だったというのは矛盾していると思うが。
442 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 06:12:38.39
>>418 > 継体天皇が第24代仁賢天皇の皇女である手白香皇女を皇后としていることからも、
継体は大王家とたしかに血縁ではあったが、血が薄かったから「補強」したんだと思う。
443 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 08:59:45.34
>>441 じゃ、もともと別な奴を擁立してたが、
そいつが反抗的なので変わりに継体を擁立した、みたいな。
てか、播磨の二皇子は河内王朝と無関係の庶民?
444 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 09:08:08.42
>>440 稲荷山古墳って河内王朝代だったはず。
河内王朝代にはそういう偽史が既に出来てただけでは。
445 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 09:13:35.23
>>443 > じゃ、もともと別な奴を擁立してたが、
> そいつが反抗的なので変わりに継体を擁立した、みたいな。
信長ははじめは足利義昭を擁立していたが
言うこと聞かなかったので放逐して
右大臣になった
そういう感じならありうる。
446 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 09:19:14.93
447 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 09:23:49.24
>>420 残ってたら残ってたで捏造捏造言うやつが出てくるだけだろ。
そんなもんだ
>>444 雄略天皇の時代に偽史が完成していて
その後継体天皇の時代に更なる歴史の捏造が行われたの
われらがご先祖様はうそつきぞろいだね
450 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 12:58:30.20
口承での伝承なんて胡散臭いのばっかだからな
渡来人で文書かける奴が増えた河内王朝時代より後ならともかく、
それより前って記録なんてほぼないだろう。
451 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 14:24:17.55
>>440 稲荷山古墳出土の鉄剣に「大彦命」とは書いてないよ。
鉄剣を作った「乎獲居臣」の先祖の名前が「意富比垝」であると記されているだけだろ。
「意富比垝」が崇神天皇が遣わした四道将軍の一人大彦命だなんてどこにも書いてない。
あの鉄剣に書かれた銘文の歴史的意義は、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」で、
雄略天皇の存在が歴史的に証明されたことだけだろ。
稲荷山の鉄剣で分かることはいろいろあるよ
ワカタケル大王の実在
大彦の実在
5世紀に埼玉の豪族が文字で系図を残していること
大彦の時代から雄略天皇の時代まで皇統に断絶がないこと
大彦命の可能性はあるけどね。
三代目(つまり孫)に当たる「テヨカリワケ」は、
六国史や新撰姓氏録に記述が無いにもかかわらず、後世の阿倍氏の系図には伝えられた、
大彦命の孫「豊韓別命」のことと考えられる。
両者の間の「タカリノスクネ」は、後世系図では武渟川別命が当てられているが、
その別名であることも否定できず、またこの頃の一族の中には「彦屋主田心命」という者があり、
これは「(ヒコヤヌシ)タコリノミコト」と読める。
雄略の実在だけでなく、後世の豪族系図の中には、
全くの創作物と簡単には切り捨てられないものがあるのを示したことも、
意義としては挙げられる。
454 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:01:44.98
仮にそれが大彦命のことだったとして、
その系図が本当の者であるという保証はどこにあるんだ。
455 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:08:40.44
なんせ各地の豪族の多くが「天皇家の分家」ということになってるからな。
伝承がロクに残っていない、三輪王朝以前の時代の系図はいじりまくれたんだろう。
456 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:12:20.24
>>452 四道将軍の子孫がなぜ鍛冶師になってるの?
そもそも、崇道天皇に仕えた大将軍が先祖なら
まずその先祖の功績を書くと思うんだが。
その当時磯城宮で誰それ大王が政治をしていたとかよりもさ。
鉄剣のオオヒコが記紀の大彦命である証拠はどこにもない。
しかも、鉄剣の系図が史実である保証もどこにもない。
459 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:30:02.58
そういや、継体は「この方は応神天皇の5代目の男系の子孫です」って
当時も言ってたのかね?
せいぜいが「応神天皇の母親の実家の子孫です」とかかもしれんぞ。
460 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:43:48.97
本当に口承伝承はアテにならんからな。
神武と応神と継体の敵が異常に類似しているのも、
新王朝の開祖である三人をワザと重ね合わせてるんじゃなくて、
素で混同していたんだと思う。
結局何が出て来たっておんなじなんですよ。
稲荷山鉄剣みたいので継体系譜が出て来ても、
「創作された可能性を否定できない」
記紀より古い史書が出て来ても、
「記紀同様、多分に創作の産物であろう」
真実である証拠はどこにもない
真実でない証拠もどこにもない
しかし少なくともこれだけはいえるんじゃないか
5世紀に日本人は文字で系図を残すことができた
記紀が7世紀に創作されたって言うのは怪しくなってくるんじゃないか
雄略天皇より後の継体天皇が新王朝を作ったというのも
464 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:51:30.03
>>461 稲荷山鉄剣の「意富比垝」=崇神天皇の四道将軍・大彦命
でないのがそんなに不満なのか
あれだけじゃあ何の証明にもならんだろ
>>464 ていうか、田心命とか豊韓別の件から、
阿倍氏とそれにつらなる丈部氏を思い浮かべれば、
普通は「あの大彦命の可能性がある」というのは自然の流れで、
逆に、なんであの大彦命との関連をそんなに否定したがるのかが分からない。
467 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:58:12.55
>>462 >
>>456 > 鍛冶師ってのもまた斬新な解釈だなw
牡羊座の黄金聖闘士は、聖衣の修復担当を兼任しているぞ。
468 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 16:00:12.37
>>462 あの銘文を入れたのは、鉄剣を製作した人物だよ。
「乎獲居臣」は鉄剣の製作者。
後世でも日本刀に制作者の名前を入れるのは常識なんだが、
それすら知らない?
間違っても製作依頼者の名前は入れないよw
(名刀は所有者がころころ変わるし)
お前は452で埼玉の豪族の家系図だと書いているから、
「乎獲居臣」が鉄剣の製作を依頼した埼玉の豪族だと思ってるんだな。
それは相当な間違い。
469 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 16:01:21.23
>>465 神武天皇の敵の長脛彦の領地と、
応神天皇の"兄"の領地がほとんど同じ場所で、
継体天皇より先の天皇候補の倭彦王は応神天皇の"兄"の子孫
>>469 ぶっちゃけ、こじつけレベル。
源頼朝の敵の平宗盛の姓「平」と、
足利尊氏の敵の北条の姓が「平」で、
徳川家康より先の天下様だった秀吉の前姓が「平」
程度の話。
471 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 16:08:18.83
>>453 その、後世に伝わった安倍氏の家系図って、「本朝皇胤紹運録」記載のものだろ。
「本朝皇胤紹運録」って、室町時代の成立だぞ。
>>468 え? 乎獲居臣は刀剣を「作らせた」って書いてなかったか?
それと、お前は俺を
>>452だと思っているようだが、
それは相当な間違い。
>>471 だから田心命や豊韓別命が室町時代の創作だとしたらそれはもう奇跡。
474 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 16:15:32.01
いやいや、神武天皇と応神天皇は出発地もルートも同じそうな。
475 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 16:21:33.32
河内王朝とか王朝交替説とか、あたかも多くの研究者に認められた学説
のようにいうやつがいるが、そんなことはないからな。
偽史とか誰それがでっち上げたとか記紀は捏造だとかもそうだな。
反対表明はしてないだろうけど、誰も賛成もしていない誰かの
それこそ「でっち上げ」か「仮説」があたかも学会の公式見解かのように
書くやつは自分で本を出せばいい。よそでやれ。
476 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 17:50:02.93
477 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 17:50:56.71
>>473 室町時代の史料に初めて出てくる4世紀の事柄を一次史料と言わない
478 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 17:55:10.56
継体大王は北陸か近江の渡来人の豪族だろ。
480 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:12:58.88
>>475 その説を唱えている学者は多いけどね
ここの連中みたいに記紀を批判してはいけない
欠史8代が史実だと言ってる研究者はみたことがない
481 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:16:02.88
ねらーは、戦前の国定教科書みたいな、
神話や説話と史実を混同したような歴史観の持ち主が多いからな。
記紀は無謬の聖典と思ってるんだろうなw
神武天皇どころか応神天皇下手すれば武列さんあたりまでまで非実在認定する今の古代史界隈
をおそらく事の発端である津田左右吉さんがあの世で見ていたらなんと言うであろうか・・・悲しいなぁ・・・
>>480 極端だな
>記紀を批判してはいけない
そんなこと誰が言ってるんだ?
全部信用しろとは言わないが記紀の記事を否定する奴に限って部分的には鵜呑みにしてたりするんだよな
>欠史8代が史実だ
捏造するならもっとうまくやれるはずだから全くの創作というより何らかの情報は含まれているだろうよ
>>482 いつまでたってもマルクスやフロイトにおんぶにだっこの経済学者とか心理学者みたいなもんね
485 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:28:25.03
いつまでたっても皇国史観を振り回してる狂信者もどっこいどっこいだな。
「記紀は天皇の権威を高めるために捏造されたのだ」
これは証明された事実というわけではなく単なる仮説だ
記紀自体は皇国史観でかかれたものじゃないからな
記紀が書かれた時代には皇国史観も戦後民主主義もないからね
もっと想像力を鍛えないとだめだね
487 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:37:32.98
天武天皇から記紀編纂時までの歴史的経緯というか背景を、
当の日本書紀や後続の続日本紀といった「正史」に即して解釈しても、
当時の国史編纂が天皇の権威を高めるためのものだったのは確実だろう。
天武朝は「大君は神にしませば」と和歌に詠まれるようになった時代。
488 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:40:58.06
>>481 >>485 しかし 記紀から歴史的事実を推察してはならなくなると
海外の史料とか非常に限られてきて まったく何も分からなくなる
489 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:48:02.89
記紀を活用して歴史的史実を推察するのは問題ない。
しかし、一部の人間は、記紀に記された系譜や出来事をすべて史実のように考え、
架空の人物や創作記事も含まれていると言ったら烈火のごとく怒りだす。
推古朝以前は実録というより、不確かな伝承・説話と創作記事と外国史料のパッチワークを、
漢籍の美辞麗句で文飾して、体裁を整えているという事実を無視すべきではない。
記紀の造作を考えるなら普通は
欠史八代とか神功・応神とか継体とか聖徳太子とかよりも
天武前後にこそいじられてると見るべきで正史ってそういうもんなんじゃないの?
古いほど信用できなくて新しいほど信用できるというのは単純すぎる
491 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:53:42.83
比較的近い時代の継体紀ですら、国内記事は即位関係と磐井の乱以外はないに等しく、
その記事も漢籍からの文飾で水増しされている。
たとえば磐井の乱の記事なんて、本当は古事記の一行記事くらいの伝承しかなかったのを、
無理やり漢籍の文章を使って水増しした感じだ。
逆にいうと、6世紀の出来事でも記紀編纂時には、その程度の記憶しかなかったってこと。
架空の人物を何人も創作し
何度も王朝が交代しているのに
無理やりつなげて皇統を古く見せかける
これはとんでもなくユニークなことだよ
日本書紀を書くときに大いに参考にされたに違いない
シナの正史では王朝が滅んだ後次の王朝が歴史を書くということになっている
日本書紀の後に書かれた続日本紀などの「正史」には
架空の人物など一人も登場しない
手本にしていたはずのシナとはまったく違う極めてユニークな方法を考え出し
さらにせっかく考えたユニークなやり方が
子孫たちにまったく受け継がれていないんだ
ひいき目に考えても単なる仮説のひとつとして
確定された事実のように扱うのはやめるべきだ
493 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:57:14.58
>>490 古い時代は、完全に神話とか説話とか述作された創作記事のレベル。
壬申前後は、基本史実だが、歴史的解釈とか意味づけとか史実の隠蔽とかのレベル。
>>489 記紀の全部を史実だとは思わないから大筋は同意だけど
伝承や説話を常に不確かなものと捉えちゃうのはどうかと思うわ
>>493 史書に価値が無いということがわかるなw
496 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 19:12:59.91
>>492 開化度が全く違うのに、
同じやり方が真似できるわけがない
497 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 19:25:56.68
日本と中国では歴史の長さや記録の量が段違いに違うから、
最初の正史である日本書紀を作ったときは、相当苦労したとは思う。
年代や出来事が時系列で確実にわかってる時代だけを実録風にまとめたら、
推古朝以降しか、まともな歴史書にならないからな。
継体紀ですら、国内記事が少なく文飾で水増ししたり、内容の混乱がみられるから、
それ以前は推して知るべし。
498 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 19:42:45.31
記紀を100%信じる国家神道の信者はほとんどいないと思うが、旧約聖書程度には
なんらかの先祖が伝えてきた伝承をそのまま伝えてきたんじゃないかな。
>架空の人物を何人も創作し
>何度も王朝が交代しているのに
これが「事実」だと言うヤツのほうが信用出来ないな。
499 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 20:05:12.24
>>497 中国も夏の時代や殷の時代は何も分からないから同じかな
途中で三回くらい王統が交代しても確認不可
>>499 >中国も夏の時代や殷の時代は何も分からないから
ええっ!?
501 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 22:27:09.97
継体の家系は允恭大王(倭王済)の大后の実家、つまり外戚の一族で、
男系では允恭系と無関係の豪族だろう。
そういう推測もいいけど傍証を挙げて論考してくれよ
503 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 01:23:13.86
もうどっちのご意見も
悪魔の証明に近いぞ
たぶんほぼ史実、確実なのは
推古からだろってのはどっちとも共通認識であって
それ以前は、全部後付け
いや、こうでんで残ってる部分もあるはずでぶつかっても
こればっかりはタイムマシンでみてこなきゃ、今の時点で不明だからね。
ところで継体さんは応神だろうがなんだろうがなんかしら一族の子孫であるってことも
まだまだ確定とはいえないんでしょ?
どの意見も証明することはできないけど
記紀の内容を肯定する意見の方が、記紀という史料に基づく分マシ。
記紀の内容を否定する意見は99%推測憶測で成り立ってるからタチが悪い。
>>503 >ところで継体さんは応神だろうがなんだろうがなんかしら一族の子孫であるってことも
>まだまだ確定とはいえないんでしょ?
どういうことだ?桃から生まれたとでも言うのか?
>>504 その論理だと神話も肯定せざるを得なくなるが
>>506 肯定する意見の方が相対的にマシだと言ってるだけで
常に肯定しろなんて一言も言っとらんわw
>>505 歴代の大王の子孫とのつながりがあるかも、まだわからないんでしょってこと
>>503 勝手に不確定にしてしまったのは20世紀の学者。
文献面でいうと、記紀に伝えられてる継体の姻戚関係は、尾張・三尾・茨田・坂田など、
その後の大王家の姻戚として長続きしないほとんどこの時代限りのもので、
現にこれらのゆかりの地から、継体朝に特徴的な遺物が多く見つかっている。
してみると、継体ファミリーやその周辺に関する情報は、後世の創作などではなく、
ある程度きちんと帝紀のような形で伝えられていたとも考えられる。
つまり、継体の出自についてものちに創作したとは考えにくくなる。
それと、古墳時代だから古墳を用いて考古面の話をすると、
古市の誉田御廟山古墳・市野山古墳、三島の太田茶臼山古墳・今城塚古墳、
この関係性がカギになると思う。
もちろん、被葬者が誰かというのは確定できるわけではないし、
全部無関係と言われればそれまでだが、私の一意見を述べさせていただければ、
それぞれの被葬者を、応神・允恭、稚野毛二派皇子・継体、に想定できることを挙げておく。
以上のことからすれば、なんで継体の出自を「不確定傾向」にしたがるのか、よく分からない。
>>510 そうやって総合的に考えると
記紀の記事ってまんざら造作ばかりじゃないという感じを受けるんだよね
むしろ少ない史料や異伝をより分けて苦心してエッセンスを後世に伝えてくれたんじゃないかと思う
近年の史学や考古の成果で記紀の記事が明らかにおかしいと否定された事例って何かある?
513 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 05:52:41.88
>>501 室町時代でいうと日野家みたいな存在か。
514 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 05:55:38.94
>>503 > たぶんほぼ史実、確実なのは
> 推古からだろってのはどっちとも共通認識であって
中国からの使者が「倭の男王」と言っているだけに、推古時代すらちょっとあやしい。
絶対に確実なのは壬申の乱の後ということになるのではないか。
515 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 06:54:49.88
昔から、推古朝以前は歴史ではないって言われている。
しかし、実録としてほぼ確実な史料として扱われるのは、天武朝以降。
推古〜天智までは、説話的な記事や極端な造作こそないが、怪しい部分がまだある。
継体、欽明あたりは国内記事が極端に乏しい上、漢籍からの引用による文飾が多すぎる。
外交の記事に傾斜しすぎているのは、やはり国内の記録の伝存が不十分だったのだろう。
継体末年の年代の混乱に加え、その後の大王の没年の年代も古事記との誤差が多く、
国内の記録がまだ不十分だったり、口伝に依存していたことは否めない。
516 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 08:46:26.77
渡来系のフヒト(史部)の存在があったとはいえ、
木簡すら天武期にならないと出土しないことを考えると、
6世紀代では口伝中心でマトモな記録はなかったんだろうな。
金石文もごくわずかだし、歴史を文字で記録するって発想まで、
まだ到達してなかったんだろう。
517 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 09:12:53.77
>>516 欠史八代の天皇も
「実在はしていたが、必要最小限のことしか口伝されていなかった」
のかもしれない。
518 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 09:28:59.02
記紀を素直に読んだからこそ、
例えば仲哀と応神が“親子”ということが
変に感じられるわけで
★★★ アメリカ国内で韓国による「日本バッシング」と闘っておられる「クリス・ミヤケ」さんからの「署名の依頼」です。
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目標 25000 現在 20051
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520 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 09:51:55.61
欠史八代が全て実在するというのは、さすがに無理。
口伝でシキ地方の族長の系譜、というより名前が断片的、不完全に伝えられてて、
それに神霊の名前とか創作とか、いろいろつなぎ合わせて造作されたものがいまの系譜だろう。
シキツヒコとかミマツヒコとかは、実在した首長の名の可能性があるし、
シキ県主家との婚姻関係で出てくる女性やその父親も実在した豪族の可能性が高いが、
一方で神霊の名や後世の和風諡号から造作されたキャラも多い。
断片的に伝承されていたシキの豪族の名といろんな要素をパッチワークして造作したのが、
欠史八代の皇統譜なんだろう。
仲哀の絵は今の韓国人
崇神、素戔嗚の目を二重にした顔の人なら
家にいるよ、同じ顔w
Googleで画像検索すると神輿の上にいる
素戔嗚ね
522 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:13:30.82
そもそも仲哀とか架空だし、その絵も設定年代からずっと後世の想像画だし、
早い話、絵師の妄想の産物だろ。
スサノオなんて神話の神様だろw
523 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:27:44.26
仲哀も神功も架空だし、応神も仁徳ともともと同一人物だった可能性が高いが、
記紀の説話を素直に読んでも、応神が仲哀の実子というのは疑わしい。
応神=仁徳=讃というのは、三輪王朝の王権を簒奪した河内の勢力の盟主なんだろうが、
その際、九州の勢力の支持があったのが記紀の系譜や物語に反映されてるんだろう。
昭和の学説まんまですな。
三輪というか纏向遺跡は4世紀初頭には廃絶する。
応神なり倭王讃なりの実年代よりも半世紀以上前に。
渋谷向山古墳という箸墓をも超える大サイズの古墳造営を画竜点睛として。
その後河内の大古墳が築かれる間、大王墓の候補は佐紀にあるが、
この佐紀は河内の古墳群が築かれるようになってからも、大古墳の築造は止まらない。
つまり滅ぼす滅ぼされるの関係性は見えない。
むしろ、河内の大古墳の嚆矢には、佐紀古墳群とくに佐紀陵山古墳の影響が強くみられるのではなかろうか。
そして、造営開始も、応神なり倭王讃なりの年代より1〜2世代前に始まっている。
はからずも、記紀の陵墓伝承はこのことを示唆している。
だから、いつまでも古墳前期→中期の変化を応神の新王朝樹立なんて物語に寄りかかるべきではない。
記紀の記録は確かに説話的・断片的でしかないが、景行朝の「諸国のワケ」、成務朝の「国県説話」、
このあたりが中期への変動のきっかけであり、4世紀後半〜の朝鮮との交流が絡まって、
政治的・文化的革新が進んだと見たほうが良い。
記紀に書かれていることの
何が本当で何が創作かどうやって決めるかというと
結局自分の都合で決めていて何の根拠もない
自分の都合のいいことだけ使って
あとは自由に創作する
創作された物語が正しいかどうか検証されることもない
アホくさくて付き合えないね
527 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:41:18.24
日本の歴史ではっきりわかるようになったのは
645年からってことだろ?
もめてるのはお互いに持論ゆずらん奴だけだが
どっちも証明なんかできんだろ
中国の史書だって眉唾だって
やつがあらわれたら、中国の一次資料元に推古おかしいって奴の根拠も崩れてしまうし
あくまで古代史とは考古学の範囲なんだなと思ってしまう。
日本史って645年からだろ?
528 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:55:50.86
推古朝以前は歴史ではない。その推古朝以降も怪しい点が多い。
実録として扱えるのは天武紀以降。
こういうことだな。
529 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 16:04:54.43
まあそうなんだが、でも継体天皇や大伴金村が実在したことは確か。
530 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 18:44:11.55
じゃー天智天皇も怪しい部分あるんかい?
>>529 いや歴代の天皇陵掘り返すこと許されていない限り
絶対とはいえないと思うよ。
古墳や天皇陵の掘り返しができたら今の定説もひっくり返ることだってでてくるだろうし。
3世紀ごろ纏向には大きな都があったことが分かっている
大和に現れた前方後円墳がその後日本全土に広がっている
仏教が入ってくるころまで前方後円墳が作られ続ける
一地方の名前だった大和が日本全体をさす言葉になっている
前方後円墳を作っていた大和の政権が残した歴史書が現存している
稲荷山の鉄剣と宋書に出てくる倭王武の上奏文
各地の神社に伝わる言い伝え
これらのことから3世紀の崇神天皇あたりから史実であることが確実である
532 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 18:50:02.68
533 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 18:55:51.33
534 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 19:46:38.32
>>530 天智天皇と天武天皇が本物の兄弟だったのか疑う人はいる。
天智天皇は記録通りに病死したのか?と疑う人もいる(暗殺説だな)
535 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 19:49:21.60
聖徳太子が実際には天皇に即位したが、短期間で譲位に追い込まれたのではないかという説とか、
蘇我入鹿は皇位の簒奪に一時的に成功したのだが逆クーデターでやられたと見る人もいる。
536 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 19:56:07.39
国内のマトモな文献史料が日本書紀しかなく、木簡も出土してない時代だから、
書紀の文飾と粉飾だらけの記事を利用するしかないんだよな。
538 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 20:14:31.14
数少ない木簡史料からは、改新の詔に文飾というか書き換えがあったことは実証されてるけどね。
んなもん、俺たちだってやってる。
「○○藩」だの、「室町幕府初代将軍『足利尊氏』」だの。
日本書紀の信憑性は三国志演義と同等。
541 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 01:37:24.28
>>540 それだとただの日本神話集ってことになっちゃうぞ
543 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 05:40:17.06
日本神話はまったくの創作ではなくて、
史実を脚色して話をふくらませたものが多いと考えれば
たとえ神話集であってもそれなりの意味がある。
名字の分布というか世帯数を
調べると面白い
東京にはAさんが百世帯、九州にはAさんが一世帯
九州発祥のAさん一族が、九州に一世帯のみ残して東京に移って来たのか、
それとも、東京のAさん一族の一人が、何らかの都合で九州に移っただけなのか
>>539 「○○藩」が当時の呼称じゃないことは分かるが、
、「室町幕府初代将軍『足利尊氏』」hどこが違うんだっけ?
室町幕府という呼び方が後代のモノって事か
>>543 むしろ他の史料が無いのでそう考えないとお手上げになってしまう
547 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 07:24:48.85
>>545 将軍の御所が室町におかれたのは義満のとき
「幕府」も後代の呼び方だし、「足利尊氏」も後代の呼び方だろ
549 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 09:30:12.57
>>548 尊氏本人が公文書に署名する正式名は「源尊氏」だったろうけど
(これは例えば徳川家康だって「源家康」「藤原家康」「豊臣家康」と署名)
「足利尊氏」という呼び名自体は当時からあった
太平記とかそうなってるだろ
>>541 全くの出鱈目という訳でもないが、史実を元にしたフィクションだろう。
ひょっとして、狂信的南朝正統論者がいう、
「足利尊氏じゃなく足利高氏だろ」ってことかもな
偏諱をうけた後で敵対したから無効とかアホなことを言ってるみたいだな
たぶん太平記中で「足利尊氏」って書かれた箇所は無いんじゃないかなあ
北朝が正統だとか言ってる基地外がまだ存在してる事に驚いた
皇室ですら南朝が正統だと認めてるのに
>>553 その話題は深入りするとスレチなんで続けるなら他所へ誘導してね
555 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 19:40:33.41
継体ことオホト王がヤマトになかなか入れなかったというのは、
やはり南朝みたいな対抗勢力が別の王を擁立していたのだろうか?
直前の大王、ワカササギの都はヤマトにあり、その執権者であった大伴金村が、
オホトの擁立者であったことを考えると、ヤマトに強力な抵抗勢力がいて、
オホトのヤマト入りを妨害したというのは考えにくいのだが。
556 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 20:42:27.75
成務は滋賀 応神・仁徳は大阪に都してることもあるし
継体が大和に都しなかったのか できなかったのかは 議論のわかれるところでしょう
自分の勢力圏にちかいところに都したのは事実だろうが
それだけで 大和に大きな反対勢力がいたという仮定がなるものか微妙
具体的な反対勢力となりうる仁徳以降を祖とする皇別氏族でも存在してればその仮定もなりたつだろうけど
いないしね
継体天皇が応神の傍系でも記紀の系譜を見る限り前代未聞のことだったみたいだね
直径が残らず絶えたんだからさ
なにか対策はその後立てたのかね?知ってる人いない?
継体本人と息子が皇女を娶ったのは有名過ぎるだろ
559 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 21:11:29.24
記紀編纂時の天皇家につながるヤマト政権の実質的な初代大王は、欽明と認識されてたんじゃないかな。
継体の和風諡号がオホトという実名のままなのに、欽明は天国排開広庭(アメクニオシハルキヒロニハ)という、
王朝の開祖にふさわしい諡号だから。(なぜか実名は不詳だが)
560 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 21:17:33.39
やはり、継体以前のヤマトの支配者たちにとってオホトはよそ者だった気がする。
オホトやその息子が前王朝(播磨王家)の王女と結婚し、その間に生まれた子どもたち(欽明と宣化皇女石姫)が、
新王朝の事実上の開祖と位置づけられているのではないだろうか?
事実、欽明と石姫の間に生まれた敏達の子孫が大王家の嫡流となり、現天皇家まで続いているわけだから。
561 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 21:46:00.44
>>555 > 直前の大王、ワカササギの都はヤマトにあり、その執権者であった大伴金村が、
> オホトの擁立者であったことを考えると、ヤマトに強力な抵抗勢力がいて、
> オホトのヤマト入りを妨害したというのは考えにくいのだが。
そこがよくわからないのだが、大伴金村が権力を掌握したのは継体の大和入り前後であって
継体の大和入りに反対していた、ヤマト暫定政権の長は歴史書から削除されたのではないか?
562 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 21:51:46.23
>>556 > 継体が大和に都しなかったのか できなかったのかは 議論のわかれるところでしょう
本拠地を樟葉宮から筒城宮に移した時期があったが、
水路・陸路ともに交通の便が良い場所から、やや悪い場所に移った理由がわからない。
経済的・交通的には大和に入る必要はなかったが、
政治的・宗教的には大和に入る必要があったのかもしれない。
563 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 23:28:18.67
564 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 05:10:35.92
>>563 故・黒岩重吾さんは「蘇我氏は百済王族である」説を採っていた。
565 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 05:13:40.22
566 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 18:43:17.72
蘇我氏って欽明朝に突然現れた印象が強いし、渡来系の東漢氏をパシリにしてたから、
渡来系の親玉って説も説得力がある。
一方で葛城氏の支流というか傍系って説もあるし、よくわからん一族だな。
567 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 19:50:50.43
568 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 19:56:00.93
ヤマトヒコの説話は、丹波の有力豪族がオホトの対抗馬だったことの反映だろうが、
ヤマトヒコという固有名詞や仲哀の子孫という設定は、あくまで書紀編者の造作だろうな。
もう実在の丹波「王」の名前も実態も不明になってたから、伝承に基づいて創作したんだろう。
また何の史料にも基づかない妄想か
570 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:03:55.74
仲哀が架空の存在なんだから仕方ない。
ヤマトヒコって名前も、いかにもな抽象的な無個性な名前だし。
571 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:19:58.18
故・井上光貞によれば、大王家の家系は、
ミマキイリヒコ→イクメイリヒコ→オシロワケ→イホキイリヒコ→ホムタマワカ
と受け継がれ、ホムタマワカの娘に、おそらく九州出身のホムタワケが入り婿して、
倭の五王の時代になったと考えられている。
井上の考えだと、神武や欠史八代は架空、虚構の存在で、
ミマキイリヒコ(崇神)が実質的な初代大王=畿内に限定された大和政権の盟主で、
その家系にホムタワケが入り婿して応神・仁徳の王朝になったということらしい。
そして、仁徳の子孫が断絶したあと、オホトが擁立され、現天皇家の祖になったが、
オホトが応神の子孫ということには懐疑的だったようだ。
572 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:30:49.41
欠史八代だと神武が入らないから、
“前九代”とかのがいいな。
573 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:50:41.58
574 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:52:04.48
ちなみに大伴金村の兵を見て逃げ出した丹波王の本拠地は
それなりに規模の古墳があるので、それなりの権勢があった土地ではあると思う。
575 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 20:53:52.48
オシロワケ(景行天皇)ってのは、名前が実在者っぽい雰囲気。
576 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:05:09.70
先祖を仲哀にした理由は、
応神より前というだけなのか、
それとも応神のライバルである“兄”の子孫という意味か。
577 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:45:53.62
欠史八代前九代が全部フィクションと考えるのもまた不自然だな。
崇神にも先祖がいたはずで、
秀吉みたいにいきなり成りあがったわけじゃなければ、
数代にわたって地域の長みたいなポジションにあっただろうし。
適当に美辞麗句みたいの入れとけばいいのにそれをやらないということも
婚姻関係がやたら狭くてローカルなのもリアリティがあるといえばある。
578 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:55:02.28
欠史八代は
>>520で言っているように、実在らしきローカルな首長も含まれているにせよ、
それは断片的に名前だけ伝わってるレベルで系譜関係も不明な曖昧な存在だろう。
それに神霊名や和風諡号に用いられる後世風の美称などをプラスして造作した存在だろうな。
579 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:55:52.24
>>577 > 婚姻関係がやたら狭くてローカルなのもリアリティがあるといえばある。
そこは同意。
フィクションなら景気のいい法螺話を混じえているはずだが
妙に地味で堅実な記述ばかりで、なんとなく本当くさい。
580 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:58:58.21
7代〜9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ
(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)8代はヒコクニクル
(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。
こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世創作の架空の天皇であると一概には言えない。
むしろ13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、
欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。
2代、3代、5代の天皇の名は明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。
和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E5%8F%B2%E5%85%AB%E4%BB%A3
581 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:03:40.89
>>578 つまり、「ミマキイリヒコ王より前に9代存在した」のが本当だったとして
(名前が失われた分は適当に後で補って付けた)、
それがミマキイリヒコ王の先祖がヤマトに定着してからずっと続いてきたのか、
同族の首長が9代続いたという意味なのかは分からないと。
582 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 05:08:05.62
結局この時代は
漫画日本の神話とか
そーいうレベルを今のとここえられないからね。
天武天皇から実質日本スタートしてて、色々な伝承を中国の書物なんかを引用してまとめてみましたって息でないし。
倭の五王がだれかもはっきししないし、伝承口伝で誰が誰の話かはっきりしないのや、いたらしいよってのは伝わってるけど、どんな人でなにしてたかわからないとか、帳尻あわせないとで、取り合えず並べたのが
天武以前なんじゃないかな?
蘇我だって渡来系だけど昔からって話になってるけど表に
つよくでてくるのは推古時代だし。
583 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 05:13:06.42
けっし八代がおかしいしね
帳尻あわせなのか、いたらしいことは伝わってるけど資料ないしで、本当は三人しかいないの水増ししてたりとかもあるだろうし。
なんせ紙どころか木簡すらないし。そもそも文章かけれる人が限られてただろうし。この時代漢文だろうから、やっぱ口伝でずっときてるからなー
何をどう論じても仮説だ!って言われたらお手上げだよね。
そもそも継体なんていなかった!っていうのもありだし
モデルになった人はいたけどってこともあるし。武烈さんなんていない方がいいぐらいだしね。あんなさも悪くて直系たえたんで継体つれてきたってだしにされるぐらいなら
チラ裏
ヤマトの長だったのか族長だったのか
ただの家長だったかはべつとして
居たんだろ
586 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 18:26:04.17
まあ、口伝でのあやふやな伝承だから、断片的に名前が伝わってる程度だろうな。
年代までわからないから、いつの人かもわからない。
正確な系譜も伝わってないから、大昔にそんな族長がいたけど誰の先祖かもわからない。
そういう人名(シキツヒコとかミマツヒコ)と神霊名(オオヒヒとかフトニとか)を、
後世風の美称(クニオシヒトとかヤマトネコとかクニクルとか)とパッチワークして、
もっともらしい系譜をでっちあげて、崇神以前にもってきたんだろう。
587 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 18:54:27.92
現代でも庶民は4代前ぐらいのご先祖の生涯はだいたい知っているが
それ以前のご先祖の生涯はほとんど知らないでしょ。
名前とかは知っていても。
8代全てが一度に架上された訳ではないだろう。
綏靖〜孝昭と孝霊〜開化の2段階で造作されて、
タラシ名の孝安を後から割り込ませたように思う。
決史八代は実在したとしても弥生時代ど真ん中
はたしてこの時代に自身の系譜というものをどこまで意識できたかな?
さっきから「欠史八代」くらいちゃんと変換してやれよw
弥生時代といえば、まだ男系世襲王権の確立する以前だしな。
男王じゃ国が治まらないって時代だ。
しかも、半裸で入れ墨してウホウホ言ってる時代だし・・・
592 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:17:42.12
>>589 崇神の直系先祖でなく、
一族の長が九代続いたというだけかもよ
九代という代数はあてにならん。
シキツヒコとかミマツヒコとか数名に実在の可能性はあるが、
それ以外は神の名や美称などから思いついた創作キャラだろう。
年代も系譜もわからない、名前だけ記憶されてた実在の大昔のシキの族長に、
いろんな要素をくっつけて9代の系譜を創作したんだろう。
しかも、時系列でミマキイリヒコ以前の確証はない。
あの時代、父子相続のみで10代以上も続くことはありえないから、
欠史8代の系譜は史実らしきものが部分的に含まれていたとしても、
崇神以前に8代も9代も首長の家系が存在していたとは思えない。
594 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:35:03.36
>>593 実際には兄弟相続であっても、天武時代にはそういう細かい部分までは記録が伝わっていなかったので
父子相続ということにしてしまったのかもしれない。
>>593 何故有り得ないと決め付ける?
歴史は有り得ない事の連続だぞ。
根拠も無く決め付けるのは軽率が過ぎる。
596 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:42:25.26
ま、名前が伝わらずに代数だけが伝わっていた可能性もあるな
ただ非世襲だったかもね
597 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:42:45.49
いずれにせよ、記紀編纂の時点で捏造されたことに変わりはない。
598 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:48:45.21
>>596 > ただ非世襲だったかもね
兄弟相続も世襲の変形だと思う。
変形っつーか世襲そのものだろ兄弟相続は。
だからさ、決め付けるならまずは先に根拠を述べろと言っているんだが。
「俺がこう思うからこうなんだ!間違いない!!」じゃお話にならないよ。
601 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 23:12:16.07
>>587 そうだね!
地方で代々百姓でどっかの代で兄弟にゆずってまだその地域に定住してないと曾祖父それも父方ぐらいしかわからんだろうね
祖父母が東京でてきて知り合ってるケースだとそれ以上わからんお宅もおおいでしょうし。
602 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 23:19:12.79
貧困臭〜
604 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 05:46:37.45
まともな文献資料が後世に編纂された記紀しかなく、
しかもそれが神話、伝説、説話といった荒唐無稽なお伽噺レベル。
同時代の金石文はごくわずかで断片的、木簡はほとんど出土してない時代。
これでは記紀はまともな史料として活用できない。
605 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 06:21:48.51
上宮記逸文についても、古い部分の人物が実在かどうかの確証はない。
記紀との整合性を考えると、オホトの祖のホムツワケ王はホムタワケ大王ではなく、
垂仁皇子のホムチワケノミコの可能性もある。
606 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 06:49:00.53
>>605 それは言える。
ただしその場合でも、継体は薄いながらも大王家の血をひいていることになる。
>>606 でもその根拠はってとわれると
ファンタジーなお話をまとめただけっていわれるだろうしな
608 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 07:27:03.87
とんでも説になるけど
継体さんってそもそも存在してないって可能性もあるよね?
609 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 08:01:23.00
>>608 「上杉謙信は女性だった」説より可能性は低い。
姓等を変えた可能性は?
豪族達の戦いがあり、他王権に取り込まれる
「あなたは今日から□□という姓です」
611 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 08:41:40.39
>>610 群馬の国造なんかは、平和裏に大和政権に取り込まれたのではないだろうか。
緩やかな支配で。
婿や嫁、政略結婚からの同盟。
資源や物資。
可能性ガール
可能性がある
スティーブン セ ガールにも似ている
615 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 19:55:24.56
>>605 >上宮記逸文についても、古い部分の人物が実在かどうかの確証はない。
>記紀との整合性を考えると
整合性考えたら 従来説どおりだろ
古事記には 応神天皇の皇子 若野毛二俣王に大郎子(意富杼王)という子がいる表記があるし、
日本書紀には継体天皇の父は彦主人王とあり、 母 振媛は垂仁天皇七世の孫とある
上宮記逸文の記述と合ってる
616 :
凍結拳:2013/11/01(金) 01:47:55.70
ガンダム0083とセガールか…
617 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 15:22:48.09
>>577 そうそう。
しかも、婿入りに近いし、長男相続じゃないし。
信長登場以前の戦国時代の東海のようなイメージ。
618 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 16:03:49.24
そもそも継体の存在は曖昧だと言われてる
策略を持った集団が記紀に付け加えた可能性が大きい
目的は?
620 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 18:32:46.37
継体以降は史実ってことになってるけど、
よく考えたら、継体自身も相当謎に包まれた存在だよな。
出自云々はおいといても、継体末期の年代の混乱とか、
安閑・宣化と欽明の二王朝並立説とか、疑えばキリがない。
継体天皇の存在と北陸にいた豪族だって言うことは認めつつ
応神天皇の5世孫ということは認めない
自分に都合のいいことだけ認めて都合の悪いことは認めない
根拠を言えといっても何一つ根拠なんてない
継体天皇は実は武烈天皇の息子で北陸にいた豪族だって言う話がウソだっていう
可能性もあるよね
>>621 記紀の記事の取捨選択する奴ってその基準なり理路なりをちゃんと説明しないからね
そう言うと記紀を盲信する根拠を示せとか逆ギレするんだけど
別に記紀を全面的に信用しているんじゃなくて
積極的に否定したり対立したりする史料が無い限りはとりあえず記紀の記事に従っておこうという態度を理解できないんだよな
623 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 02:00:03.31
>>621 歴史というのは、「自分に都合のいいことだけ認めて都合の悪いことは認めない 」
ものではないのかと。
河内王朝の血を引くというのは「都合の良い」ことであるし、
北陸出身ということはそうでもない。
逆に、
崇神以前の九代が、
全員とは言わないまでも存在した可能性が高いのは
「自分に都合のいいこと」とは思えない、
妙にローカルな婚姻関係
624 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 05:07:22.37
崇神以前の9代は、ローカルな族長数名の名前が断片的に伝承されてたものに、
神霊名や後世風の美称などが加わって水増しされ、父子直系相続の系譜が創作されたものだろう。
シキツヒコやミマツヒコ、シキ県主一族とかの正確な年代や具体的系譜はわからなくなってたが、
大昔の族長として断片的に伝えられていたものが、大王家系譜に取り込まれ、
崇神以前の9代を創作する上で利用されたものと思われる。
数名が実在した可能性はあるが、年代も系譜関係も不明。崇神の先祖とは言い難い。
625 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 06:30:44.16
>>624 >崇神の先祖とは言い難い。
濃い薄いは別として、崇神の血縁者ではあったと思う。
626 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 15:25:04.24
>>623 そうそう。すげえローカルなんだよ。
徒歩で半日かからずに行き来できるくらい近いんだ。
俺は神武も欠史8代も実在派だけどね。
嘘を書いていいなら、8人と言わず、
それなりの年齢の天皇を50人ほど創作して、
紀元前660年の神武に合わせればいいだけ。
そうしてないという事は帝紀の名前をいじくれなかったということだろう。
628 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 19:19:41.57
大和の豪族たちの間で権力争いが続いて、なかなか埒があかなかった、そこで……
豪族A「いっそのこと、どの部族にも属さない中立の奴を王(おおきみ)にしたらどうか?」
豪族B「脱・しがらみですね。わかります」
豪族C「どうせなら、神輿は軽くてパーがいい」
その結果、大陸から亡命してきた王族の子孫と自称する某が即位することになった
初代王「私が死んでも、代わりは居るもの」
………おめでとう(笑)
大体なんで神武天皇が初代天皇なのか
ナガスネヒコを初代天皇にしとけばいいじゃないか
神武天皇はナガスネヒコの息子ってことにしとけば
もっと家系を古くできるじゃないか
三王朝交代説なんてのもあるけど
なんでナガスネヒコと神武天皇の間に断絶を作ったのか
説明できない
630 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 20:39:35.07
>>629 >>359みたいな本に書いてあったが、そのりくつもおかしい。
ナガスネヒコは先住民族?のごく小さな国の長に過ぎない。
しかもイワレヒコはそれを撃ち滅ぼす形で国をのっとっている。
それに比べ、三輪王朝と河内王朝代には(後世から見るとショボくても)
日本でナンバーワンの力と権威を手に入れた、一人前の「国家」となっており、
河内王朝は三輪王朝を引き継いで王だけが変わり、
継体王朝も河内王朝を明確に引き継いでいる。
ぶち壊しているわけではない。
いやいや、このスレ見てても王朝交替論者は、
三輪王朝は応神に滅ぼされ、河内王朝は継体に滅ぼされた(国をのっとった)
って意見が多いでしょう。
632 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 22:02:23.73
国はそのまま引き継いでいますよ
応神を引き入れたのは三輪王朝の豪族だし、
継体を引き入れたのも金村ら河内王朝の豪族
でもねえ、天孫ニニギもオオクニヌシから葦原中国を引き継いでるし、
神武もニギハヤヒから空見つヤマトの国を引き継いでいるんだよねえ
634 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 23:09:48.30
>>633 ニニギの場合は神話、
イワレヒコの場合は村レベル、
全然シチュエーションが違う
それは(考古的知見を持つ)後世の我々の認識。
神話だろうが人代だろうが、国譲り(別系統の支配者からの)であることには違いない。
応神や継体が国を引き継いだ(譲られた)なら、そう書いて差し支えない。
応神以前を「神代」にしたって構わないし、継体が「初代」ならぶっちゃけそこから書き始めても良い
(継体以前のエピソードを全部継体以降の出来事に「脚色」すれば、本のボリュームは減らなくて済む)
636 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:20:21.78
アフリカ起源説
おは養蚕以前にも衣服はある
肖像画も後世に描かれたものばかり
建国の記録を残した、
その結果、歴史が浅いと言う認識になってしまったのだろう。
残念だな〜
神話は歴史ではなく、文化の記録に近い
637 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:50:18.73
日本 衣服 文化
638 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 04:16:04.65
天智天皇は唐に捕虜として連れられて
文化を学んだことがあって
ローマ帝国の国政に影響与えたキリスト教をテキストにした
面も多かった
天地創造はパクリなので
パクリに重き置いた方が解りやすいとは
639 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 07:24:51.43
神武なんて神話レベルの伝説というか説話、もっと言えば作り話。
640 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 08:22:36.40
中国人民解放軍の羅少将が日本に警告
「中国は日本にはもう十分に礼を尽くした。勝手な行動を続けるなら、兵を送る」
崇神の墓が4世紀前半の奈良東部の行燈山か西殿塚が有力なのだが、
そうすると、箸墓はじめそれ以前の数基の古墳は、
崇神以前に王朝が存在してた事を意味する。
神武なんて神話レベルの伝説なんて言ってる人間は、
もう少しそこらあたりを考慮すべきだろうね。
642 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 10:53:21.58
>>641 いや、それは神武みたいな架空の天皇ではなくて、
口伝も伝承も失われた名無しの王の墓だろう。
なにかならにまで口伝で正確に伝わってると思うべきではない。
実際、口伝に誤りが多いから内容を「正した」のが、天武の修史事業であり、
それは口伝自体に謝りが多いという事実と、朝廷による伝承の改変、造作を意味する。
確かにミマキイリヒコに先行する奈良盆地の「王」とか「首長」は存在したであろうが、
それが記紀に登場する天皇というわけではない。
>>642 >名無しの王の墓だろう。
名無しというか首長墓なら賛成だよ。
天皇(大王)墓でないから発掘もされたのだし。
>>642 >神武みたいな架空の天皇ではなくて
最初っから架空と決め付けるなよ。
神武天皇はナガスネヒコの国を奪った
神武天皇がそういう存在として堂々と書かれているんだから
もし継体天皇が王朝交代を成し遂げたのなら
堂々とそう書けばいい
神武天皇が架空の天皇なのだとしたらなおさらだ
皇統がずっと続いていることを大変大事にしている記紀で
なんで初代の天皇がナガスネヒコの国を奪った存在として創作されたのか
分からないじゃないか
欠史8代がすべて父子継承であるはずはない。
当然兄弟継承、あるいは従兄弟継承も混ざってるだろうから、
崇神から神武までは実際100年くらいだろう。
その程度の時代差しかないのに、
崇神と神武の事象を別ける意味が分からない。
したがって崇神と神武は別人であり、
同一人物説は成り立たないだろう。
647 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 11:24:27.65
まあ、古代の首長墓はみんな被葬者が不明=「名無し」だよな。
○○古墳の被葬者としか表現しようがない。
648 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 11:30:08.90
征服王にして新王朝の祖としての神武は、崇神(ミマキイリヒコ)の分身というよりも、
天皇号を初めて用いて、大王の神格化を行った天武天皇の投影として創作されたキャラだろう。
漢風諡号が天武、神武とみごとに対応してるのも、当時の知識人で元皇族だった淡海三船が、
そう認識してたからだろう。
神武って名前(漢風諡号)はその頃考えられたのだろうけどね。
だからと言って何で存在自体を創作と決め付けてるのかさっぱり分からない。
神武の伝承は宮崎はもちろん広島、岡山、大阪、和歌山、奈良など、
西日本各地にあるね。
神武がもし架空の人物だとして、
「さぁみなさん、ご一緒に神武がいたことにしましょう」
なんてさせたってわけか?
そんなこと出来るわけないよ。
651 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 11:44:19.11
その伝承は記紀神話が成立して以降、できていったものだろう。
中央集権で国司が地方に派遣され、記紀の史観が地方の祭祀に取り入れられていく中で、
生まれていったものだろう。
地方の伝承が必ずしも、古くから地元で語り伝えられていたものとは限らない。
文献などから、元ネタを得て創作された伝承も少なくない。
>その伝承は記紀神話が成立して以降、できていったものだろう。
宮崎には記紀が上梓される以前に創建された、
神武の先妻アヒラツ媛や息子のタギシミミを祀る神社がある。
したがってその説は通らない。
653 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 11:54:32.95
>>653 河内王朝代にも神武が認識されてたって事かな?
神武実在派なんで当然賛成だけど。
655 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 11:58:59.44
そもそも神社の創建年代ってどこまで信用できるんだ?神社の縁起だって後世の文献だろ?
それに地方伝承が記紀神話や皇統譜に取り込まれてしまうケースだったあるし。
海幸・山幸の日向神話とか大国主の出雲神話とか、その最たるものだろ?
656 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 12:01:31.92
>>651 そのへんの民間伝承というのは本当にアテにならない
例えば、有名な事件の現場や神社の所在地を称する土地が複数あることは非常に多い
657 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 12:03:42.47
稲荷山鉄剣の系譜の書き方から考えて、
河内王朝時代に、神武実在論者が考えるような古い時代の系譜が伝わってるとは思えない。
上宮記逸文とかから判断するに、せいぜいが三輪王朝の時代がギリギリ限界だろう。
欠史八代で、かろうじて実在の「可能性がある」シキツヒコ、ミマツヒコあたりは、
年代も系譜関係もわからなくなった大昔のローカルな首長名がシキ県主家の伝承で残ってて、
天武期以降の皇統譜編纂段階で現在の形にまとめあげられていったのだろうな。
>そもそも神社の創建年代ってどこまで信用できるんだ?神社の縁起だって後世の文献だろ?
宮崎の神社は和銅2年(709年)あたりだったと思うが、
嘘をつくのならもっと古くしたほうが格好いいのになw
何で古くしなかったのだろうね。
>>657 >稲荷山鉄剣の系譜の書き方から考えて、
>河内王朝時代に、神武実在論者が考えるような古い時代の系譜が伝わってるとは思えない。
単にオオヒコが祖だったからそう書いてるだけで、
もっと古い皇別氏族が祖ならそう書いてただろうね。
口伝を全部信用するな
というのには同意するけど
個々の記事の取捨選択は結局恣意的なんだよな
論者がそう思うだけ
661 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 12:21:36.06
オオヒコって「立派な男子」を意味する、わりと一般的な名前だから、
稲荷山のオオヒコが記紀の大彦命である決め手は何もない。
大阪和泉市って所に男乃宇刀神社というのがあって、
傷を負った神武の兄を当地の豪族が迎え入れ看病したとか言うんだけど、
小さな神社なんで逆に信憑性が高まったな。
>>661 >わりと一般的な名前だから
どこの誰かわからないオオヒコが祖先であることを銘にしたのか?
そんな自慢なんてしないだろ。
664 :
662:2013/11/03(日) 13:20:49.28
神武非実在者にとっては男乃宇刀神社の話も嘘ってことになるよね。
じゃ聞きたいのだが、
こんな小さな嘘をついて誰得なの?
嘘ならもう少し大きな嘘をつけばいいのだし。
665 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 13:32:27.21
>>664 弁慶が持ち上げた石のある神社が近所にあるが、
そういうのも本当?
人間が到底持ち上げれないほどの石なら嘘だろうね。
667 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 14:12:53.38
人柄の良い天皇ってのも考えものだな
668 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 14:14:18.93
669 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 15:20:18.59
>>661 他のオオヒコって誰がいるだろう?
>一般的な名前
ってよくいわれてるが寡聞にして知らず
670 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 16:36:06.94
318 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2013/09/14(土) 16:12:16.11
黒岩重吾さんが「仁徳天皇陵=実際は雄略の墓」説をとなえていたが
これはどうなのだろう?
319 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 16:48:44.01
最近の考古学の年代観では、大仙陵は5世紀第2四半期中心に築造とのこと。
よって可能性は低し。
↑
微妙にスレ違いですまんが、じゃあ大仙陵の被葬者は誰なんだ?
記紀上の「仁徳天皇」でしょう。
宋書上の「(421年・425年に遣使している)倭王讃」でしょう。
雄略以後は在位時期の狂いはほとんど無いだろ
その上で、「時期的に雄略ぐらい?」と言われたんなら、仁徳と時代が合う可能性は皆無じゃん
673 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 17:29:57.22
みんなが天皇家を祖先にでっち上げてるというけどさ、弥生文化の創始者というか
創始者グループってのは、人数が少ないよな。縄文晩期は全部で10万行かない
という説が有力だ。しかも東日本に多く、西は少ない。近畿以西で1万という説もある。
九州北部の少数のグループを核にして西日本を中心に増えたのと、渡来人を
受け入れた。そういう意味では古墳時代の豪族の先祖が、すべて共通するのも
おかしいとは思えないな。遠賀川土器の故郷は北九州だ。先祖のうち誰かは
遠賀川からやって来ていてもおかしくない。
起源元年でも人口は、せいぜい30万と云われている。
そのうち水稲稲作を受容した集団の、さらに指導層といえば、そんなに多くない。
その後も、鉄や技術の伝播や政略結婚で関わりは続くだろ。
古代人の伝承ってバカに出来ないと思うな。
マオリ族なんか、800年900年も前の伝承を伝えてるんだぜ。
俺達の先祖が500年前のことも伝承できない無能人とは思えんけどな。
イロコイ族は特別かも知れんけどさ。
>>670 やっぱり仁徳でしょ。
昔は5世紀中頃といわれてたけど、
初期須恵器の編年が古くなったからね。
>>672 雄略の在位期間は5世紀の第3四半期〜第4四半期でしょ、日本書紀の紀年が多少狂ってるとしても。
5世紀第2四半期はおそらく雄略の生誕〜幼少期。
で、年輪年代法をからめた須恵器や円筒埴輪の年代観は、(異論もあるだろうが)だいたい次の通り。
埴輪編年V−1(4世紀第3四半期) 主な古墳:津堂城山(古市)
同V−2(4世紀第4四半期) 主な古墳:百舌鳥陵山(百舌鳥)・仲津山(古市)
同W−1(5世紀第1四半期) 主な古墳:誉田御廟山(古市)・墓山(古市)・百舌鳥御廟山(百舌鳥)……造墓期にある王:讃の前王?
同W−2(5世紀第2四半期) 主な古墳:大仙(百舌鳥)……造墓期にある王:讃・珍
同W−3(5世紀第3四半期) 主な古墳:土師ニサンザイ(百舌鳥)・市野山(古市)・軽里大塚(古市)……造墓期にある王:済・興
同X−1(5世紀第4四半期) 主な古墳:岡ミサンザイ(古市)……造墓期にある王:武
同X−2(6世紀第1四半期) 主な古墳:野中ボケ山(古市)・白髪山(古市)
同X−3(6世紀第2四半期) 主な古墳:高屋築山(古市)
676 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 18:52:57.88
>>673 政治的意図により伝承を改変捏造して、天皇家に都合のいい現在の記紀神話や説話にしているんだよ。
天武天皇が国史の編纂を企画したのは、天皇号の使用や天皇の神格化と時期が一致する。
要するに、そういうことだ。
稲荷山の鉄剣には
うちの一族は代々杖刀人首として仕えたとある
大彦の時代から雄略天皇の時代まで変わらず仕えたと自慢しているわけだ
つまり大彦の時代から雄略天皇の時代まで皇統に断絶はないということだ
応神天皇が新王朝を作ったという河内王朝説は成り立たない
>>676 都合の良い話にしたんなら
血統を疑われかねない傍系継承やら
実在を疑われかねない長命の歴代なんて
下手な造作をしたのはなんでなんだろうね
スサノオがうんこ撒き散らしたとか書く意味無いだろ
正史の編纂に政治的意図や都合のいい改変が加えられるのは常識だろ。
実録の続日本紀ですら、いったん完成したものを後から大幅に削除してるくらいだぞ。
逆に天武紀以外は実録的な文献史料がほとんどなく、怪しげな口伝の寄せ集めの書紀なんて、
改変、造作、粉飾だらけと考えるべきだろう。
天武朝の国史編纂事業の開始ってのは、要は偽史編纂プロジェクトの開始ってことだ。
680 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 20:47:40.44
>>677 >大彦の時代から雄略天皇の時代まで変わらず仕えたと自慢しているわけだ
>つまり大彦の時代から雄略天皇の時代まで皇統に断絶はないということだ
>応神天皇が新王朝を作ったという河内王朝説は成り立たない
まったく同意 王朝交代論者は 臣下である大彦の子孫はきっちと繋がっているのに
王朝の方は交代したという不自然さを肯定する材料を見付けないとな
681 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 20:58:37.04
>>678 スサノオが馬を持っていたという記述と
魏志倭人伝の「倭国に馬はいない」
というのが一致しない。
小さいことだろうが、妙に気になっている。
>>680 稲荷山のオオヒコと記紀の大彦命が同一人物だという確証はどこにもないんだが。
683 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 21:23:44.77
>>682 では どのオオヒコ?ということになる
上でのレスにもあるが
たとえば記紀や海外の文献等に 大彦以外のオオヒコが存在していた記述でもあれば
オオヒコは一般的な名前だから 他人と言うことも考えられるだろうが
そんなものないし
しかも系譜の代数的にも不自然さがない
大彦後裔氏族の多さ 分布からいっても これまた 不自然さがない
これで同一人物否定ってのは為にする議論
684 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 21:27:16.99
>>680 例えばヨーロッパとかで、王朝交代してたら貴族も全部変わってたか?
685 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 21:31:06.51
>>679 たくさんの古墳の中まで捏造品と入れ替えすんの大変だね。
埼玉古墳群は入れ替えを忘れたのかな?
全国津々浦の神社も祭神をいれかえないとな。
何万の人間に、これまでのお前らの言い伝えが間違いだった、こっちが本物だと
催眠術をかけて捏造の歴史を信じこませることも大変だ。
地域によってストーリーがあるからたくさんの捏造作家が必要だな。
それに齟齬があってはいかん。整合性を持たせないとな。
偉大なるプロデューサーも必要だ。
686 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 21:55:38.09
>>684 ヨーロッパでの王朝交代といっても 国によってまったく違う
例えば フランスは王朝名が変わっても ユーグ・カペー以後は男系継承だし
女系継承を認める国でも 血筋自体は繋がってるのが殆ど
血筋の正統性が各名族間の秩序を確定するのに重要だということは 古今東西どこでもおなじこと
記紀からは古代の豪族(当然皇室を含む)の女系継承は確認できないから 豪族間の秩序を考えても
大彦の子孫がきちっと繋がっていて 皇室が途切れてるってのはかなり無理がある
記紀原理主義というか記紀は無謬って史観は、正直引くわ。
スカスカの記事を漢籍から引用した美文で文飾しまくって水増ししてること一つとっても、
造作や脚色の多いことはわかるだろうに。
記紀の伝承なんておとぎ話レベルの物語で、そんなもの桃太郎や一寸法師を史実と思うようなものw
>>687 記紀の内容に反対する側が史料出してこないからなあ
689 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 22:08:11.71
>>686 三輪王朝→河内王朝、
河内王朝→継体王朝
の説でも、新しい王が前王朝に婿入りしてるという説
国内のマトモな文献史料がない時代なのに、何を出せと。
他に文献がないからといって、神話やおとぎ話や漢籍を利用した造作、粉飾を史実として扱えとw
>>687 記紀絶対主義ってのはたしかに引くけど(そんな人はいないと思うが?)、
でもあんたってさ、記紀を参考・重視する人にはやたら厳しいけど、
記紀を否定的・逆説的に解釈して、自説(空想)を展開してる人のことは批判しないよねw
692 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 22:23:27.24
>>691 例えば、普通に記紀を見たら応神が仲哀の息子とはとても思えない
>>683にまともな反論がない時点でお里が知れているんだよなぁ・・・
記紀をおもちゃにする自称歴史家は悔い改めて
694 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 22:26:58.00
>>689 >新しい王が前王朝に婿入りしてるという説
>>686 >記紀からは古代の豪族(当然皇室を含む)の女系継承は確認できないから
上のスレにもあったが 仁徳以降を祖とする皇別氏族が確認できないのがその証左
婿入りは男系で遠いのを補完する意味だけ
推古朝以前は歴史ではない。とくに継体以前の使用については、禁欲的であらねばならない。
696 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 22:29:40.34
ひもじい寒村に引っ込んでろ継体なんて血が汚くなるだろ
>>692 実際は仲哀の死後数ヶ月後に生まれたのを脚色して妊娠期間を延ばした可能性もある訳で、
いきなり無根拠に新王朝説を展開しだすのはおかしいんじゃないの?
>>694 >仁徳以降を祖とする皇別氏族が確認できないのがその証左
皇位継承争いで全滅、あるいは雲隠れした。はい論破。
>>692 応神が仲哀の子供とは思えないから、
「応神が新王朝」説(これ記紀を否定的逆説的に解釈した例)には大賛成して、
記紀の陵墓伝承――仲津山や誉田御廟山古墳の存在から、
仲哀−応神の親子関係をそんなに疑う必要ないんじゃない?って意見(記紀参考・重視派)は
バッサリ批判って、ちょっとおかしいと自分で思わないか?
700 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 22:32:26.30
>>693 その時点で系譜の捏造が既に行われてただけじゃないの
701 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 22:33:57.02
仲哀の実在を前提にして発言してる時点で、まともに検討するに値しない。
仲哀は架空の英雄ヤマトタケルの子で、架空の女傑神功の夫。
本人は事績に乏しく、ただ応神の種付けするためだけに出てくる存在。
和風諡号もタラシナカツヒコという抽象的かつ後世風の美称。
その実在を前提にして議論しても、砂上の楼閣と同じで無意味でしかない。
703 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 23:06:47.45
>>698 >皇位継承争いで全滅
それがまさしく証拠でしょう
仁徳系の継承者がいない
遡るしかなくなる
遡れば応神の子孫の豪族がいた
もっと遡れば大彦の子孫(孝元の子孫)もいる
婿入りがまったく男系で縁の無い豪族だったというほうが不自然さが際立つ
>>702 なるほど、「応神が仲哀の子供とは思えない」と言ってる人も、
「仲哀と応神の陵墓伝承が云々」と言ってる人も(私だけど)、
両方批判するってことですな。
まあ、いいでしょう。
あなたの意見を方々で見る限り、「記紀重視・参考派」にばっかり食ってかかっているように見えたものですから、
これからは「記紀に基づきつつ、それを否定・逆説的に解釈して自説(空想)派」にも厳しい意見をお願いします。
705 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 23:48:19.33
>>702 キャラ的には武烈に近いな
次の王の引き立て役
>>696 どういうわけか、「ひもじい"さむそん"」ってみえた
707 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 01:04:14.37
708 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 01:08:10.94
記紀の100%信者ってのはいないと思うが。
王朝交代とか、天武の捏造とかっていうやつは、
>>685とか
>>678には
いっさい反論しないんだね。肯定もしないけどさ。
ただ「捏造だ」といってる。
記紀を全面的に信じている奴はダメで
全面的に否定する奴もダメ。
一部を正しいとすると、都合のいい部分だけを抜き出したと言われ、
一部を否定すると、都合のいいように否定してると言われる。
じゃあどうしろと言うと、根拠を示せと言われる。
根拠を示すと、それは自分の都合のいいように事実を集めていると言われ、
昔の事がすべて正否がわかるほど物事が残っているわけではないから、
根拠が無いと言えば、なら根拠がない根拠を示せと言われる。
どっち向いてるかも大事なんじゃない
最初はアニミズムだから方角なんて関係ない
次に春分を知るための東西軸になり
最後にでて来るのが、暦の中心になる南北軸
711 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 05:16:29.42
>>696 土佐中村の一条氏は明白な貴種だが、嫁さんは地元の有力武家からもらっていたからな。
712 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 05:18:14.19
>>710 > 最初はアニミズムだから方角なんて関係ない
アニミズムの儀式も日の出や日の入りの方角を気にしたり
夏至や冬至には儀式をやっていたところもある。
713 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 05:44:43.34
で、継体さんってどこのどなたよ。非実在説唱えるのもありだよね?
それか複数の人、話や内容を継体として一人にまとめた可能性はありえる?
というか昨年秋の新潟・城の山古墳(畿内系)の発掘で、
四道将軍の実在性が極めて高くなったよね。
オオヒコって四道将軍の一人だよね。
欠史8代を言ってた連中はその事をどう思ってるのかな。
おいらヤマトタケルも神武も実在だと思うけどね。
継体まで非実在を言ってるやつがいるなんて、
津田の悪しき影響は重いのだね。
716 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 09:39:57.70
記紀は天武紀のような実録として使える部分。
推古前後〜天智紀までの、実録ベースだが文飾や粉飾がある部分。
継体〜欽明までの国内記事が乏しく、なお説話的で漢籍による文飾が目立つ部分。
武烈以前の口伝をもとにした説話的記事に漢籍で文飾している部分。
応神生誕以前の、ほとんどファンタジーの世界。
と区別して考えた方がいいと思われる。
>>709 端的な根拠を示すことは無理だろうけど
後代の史料や考古資料を沢山検討して蓋然性を示すことはできるでしょ
>>716 その区別自体が恣意的にならざるを得ないんでないの
718 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 10:01:08.26
漢籍による文飾が多く、一行記事ですむことを漢籍の美文で水増しして、
ほとんど創作のレベルになってる記事も多いからなあ。
有名どころでは磐井の乱関係記事。岩波古典文学大系の脚注(頭注か)読めば、
何という漢籍が出典かちゃんとわかる。
文飾しまくったあげく、書き手が大伴と物部を混同して、ワケワカメになってるしw
文飾文飾三文飾
720 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 10:25:39.43
清寧天皇なんて古事記には白髪部を置いたとか一行ですむ記事しかない。
播磨の二王子伝承は没後の話になってる。
それを書紀では、年月日を創作して、漢籍で修飾した記事をもっともらしく配列した上、
二王子伝承まで清寧の時代に取り込んで、年代記の体裁を整えている。
そのせいで、年代記上の飯豊王女の執政期間が不自然に短期間なものになってしまった。
わかりやすく言えば、「盛りすぎ」ってこと。
「継体天皇は実は北陸の豪族で新王朝を作ったのだ」
という説と
「継体天皇は実は北陸の豪族でもなんでもなく武烈天皇の息子だったのだ」
という説は
まったく価値が同じだということに気がついているのかな
記紀の何が正しくて何が間違っているかまったく根拠を示さずに決めていいんだから
722 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 10:54:12.43
先祖の仮冒とか捏造は、後世の例や諸外国の例でも珍しくない。
戦国武将や近世大名の先祖の系図なんて噴飯物。
記紀だけ史実に忠実って考える方が不自然。
誉田御廟山古墳が応神の墓である事は最近の須恵器の編年からもほぼ間違いない状況になってきた。
そうするとその前時代の大王陵墓は津堂城山古墳であり、
仲哀の墓である可能性が高いと思うわけだ。
書紀に「河内国長野陵」、古事記には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」という記述とも一致する。
>>702 >仲哀の実在を前提にして発言してる時点で、まともに検討するに値しない。
>仲哀は架空の英雄ヤマトタケルの子で、架空の女傑神功の夫。
こんなこと言ってるやつに、こういう記紀の記述と考古学の一致をどう思うのか聞いてみたい。
724 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 11:21:06.41
神功皇后まで架空の女傑などというやつが今だ存在することに驚くわけだが。
なんだか古臭くて懐かしい。
え?実在だと信じてるの?
>>725 神功が実在とか、当然ネタで言ってるんだよね。
本気で言ってたら、ただの狂信者だから。
四道将軍は実在性が高まってるのに神功は創作?
何で創作したのかな?
理由が分からない。
神功は、実在の斉明女帝の百済救援のための出兵の史実をモデルに、
海神信仰、母神信仰をミックス、アレンジして創作されたものだろうな。
新羅の慶州に4世紀の日本の布留式土器が発見されてて
倭人の居住が言われてるわけだ。(熊谷公男)
それと符合するかのように韓国側の三国史記にも瓢公や4代目王・脱解など倭人の記述がある。
あと三韓征伐は、実際には加羅と新羅だけであって、
404年の帯方郡侵入まで、神功の功績に取りいれられたのだろう。
もちろん神功が身重のまま海を渡ったかどうかなんて分からない。
かなり脚色された話だろう。
しかしながら考古学が上記のようにどんどん記紀を証明し始めてるのだ。
従って今だに架空だ創作だなんて言ってるやつが逆に古臭くて懐かしいのだ。
732 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 13:03:36.38
4世紀のころは北陸国 東海関東国 山陽道国 九州に本拠ある倭国
あって倭国の一部の難波国が北陸国に占領されて
占領したのが4道将軍の一人オオ彦で継体天皇で
国が一つと思わせる文書に引っ掛かったか
733 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 13:13:27.98
よくそんだけ一つのネタで引っ張られるなm9(^Д^)
734 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 13:47:32.69
継体なんてケッタイな名前つけたのは
日本史編纂したのが倭国宮廷の藤原氏で
架空創作厨元気ないねw
.
736 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 13:48:55.78
天孫降臨も神武東征も本当かも知れないな
神武がヤマト入りする前に渡来人が入っていたところとか
神功皇后は実在の人物だろう
戦国武将の系図が怪しいといっている人もいるが
さすがに外国にまで攻め込んだ君主の話を
捏造したなんて例
後世にも諸外国にも存在しないだろう
天孫降臨とか神武東征ってのは、高句麗あたりから騎馬民族がやってきて、
倭人どもを征服した事実の反映だろうな。
739 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 15:10:39.89
>>738 初期の渡来系弥生人が畿内に入る(これがニギハヤヒのこと)
その数百年後に高句麗かどっかから新たなる渡来人が来る
(これが神武東征のこと)
740 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 15:14:24.87
>>721 >「継体天皇は実は北陸の豪族で新王朝を作ったのだ」
という説と
「継体天皇は実は北陸の豪族でもなんでもなく武烈天皇の息子だったのだ」
という説は
まったく価値が同じだということに気がついているのかな
いや、先祖を正当化するという意味では
その二つは全く違うと思うんだけど。
北陸の出身ということについては、
ねつ造する必要が無い。
>>740 本当に武烈が暴君だったので、記紀編纂時の皇親たちを
暴君武烈の子孫として位置づけるのが憚られた、とかもあり得る
742 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 15:32:09.57
>>714 > おいらヤマトタケルも神武も実在だと思うけどね。
実在だったとしても、その実際の生涯や業績は
記紀とはかなり違ったものだったのではないかと思う。
743 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 15:33:00.30
>>741 武烈は暴君すぎたので、いまだに実在か非実在か不明となっている。
744 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 15:47:07.66
継体天皇って武烈天皇より年上なんじゃないの?
息子ってありえないと思うんだけど。
>>707 後だし反論だから。
仮に5世紀前半の記紀の記述を裏付ける鉄剣銘文がでても「捏造乙」
4世紀後半のころの鉄剣銘文がでても「捏造乙」
4世紀前半のものが出ても「捏造乙」
そんなんが通じるなら議論に意味なんてないだろ
>>743 あの暴君描写って史記の紂王(殷)・傑王(夏)の盗用だろ
>>746 まあそうだな。
武烈は実際にはハマコー程度の暴れ方だったのかもしれないな。
でもハマコーが倭王ならやっぱりいやだよねw
>>738 >>739 日本の甲冑は日本特有の物で大陸のどこの物でもない。
逆に半島南部にまで分布を拡大させている。
また騎馬用甲冑は5世紀半ばにちょこっと現れ、
5世紀後半にちょこちょこっと現れ、
6世紀継体天皇時代になって一般化する漸次的移行であり、
突然、大陸のどこかの民族に強要されたものではない。
したがって騎馬民族説は成り立たない。
いい加減、古臭いカビの生えた説は放棄したらどうだ?
749 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 18:20:57.33
現行の日本史教科書で記紀をベースにした記述がはじまるのは、
政治史は継体朝以降、文化史は5世紀の渡来人の始祖伝説あたりから。
記紀の登場人物で実在の人物として扱われているのは雄略=ワカタケルから。
逆にいうと、それ以前は信ずるに値しないってことだ。
>>749 だからと言って勝手に新王朝捏造していいわけじゃないぞ
>>749 ま、城の山古墳をどう扱うかだ。
崇神までは実在なんてしてくれたらうれしいが、無理だろうな。
津田ハゲ茶瓶の亡霊がまだ生きてるのかな。
記紀の記述のうち自分の都合のいい記述だけ採用し
都合の悪い記述は捏造と決め付ける
そしてその根拠は一切示さない
そういう意味では
継体天皇が新王朝を作ったのだという説と
継体天皇は武烈天皇の息子だったのだという説は
まったく同じじゃないか
むしろ新王朝のほうが突飛な説じゃないか
天皇以外の豪族は継体天皇の前と後とで一切入れ替わってないんだから
753 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:38:08.34
もう、そのくだりさんざんやったから。
>>752 >天皇以外の豪族は継体天皇の前と後とで一切入れ替わってないんだから
入れ替わってないという証拠もない
と言うか、入れ替わったかどうかを推測できる物証自体もないんじゃないの?
言いたいことはそんなことではない
要するに新王朝を証明するものなど何もないということだ
応神天皇の5世孫というのが怪しい
というだけだったら
新王朝を作ったという説も
武烈天皇の息子だという説も
同レベルだということだ
756 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:46:52.10
なんか不毛なレスだな。
そういう理屈でスレ伸ばさなくていいから。
>>754 >
>>752 > >天皇以外の豪族は継体天皇の前と後とで一切入れ替わってないんだから
大伴金村が大和臨時政府の最有力者になったのは記録に反して
継体の大和入りのちょっと前だと思う。
758 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 21:06:46.73
759 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 22:38:07.10
ちなみに諏訪では先住民族もある程度力を持ち続けていたようね。
モレヤ氏というやつ。
760 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 23:01:33.02
ま藤原の書いた歴史書に悪く書かれたのは
滅ぼされたことを意味するんだろう
仁徳からの難波王が滅ぼされた説は補強された
つうか倭国の主要国 魏志倭人伝の遠馬国が難波で豪華な屋敷
300年以上続いた王家は簡単な記載でオワリですた
761 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 23:07:55.87
古代の冷寒の季節は継体さん動物の毛皮を着て凌いでたのかな?w
762 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 01:42:04.70
ってか後からみても
断絶くさい系図を天武の時代に
むりやり一本につないでしまったのか。けっし8代もさもそれっぽくいたようにどうせなら
話もったりうそでかためて
きっちりいましたよーってすればよかったのに。
ヤマトタケルのモデルになった人はいたんだろうな
各地に伝承や治水の業績として記録のこってるから。
継体を初代として天武につなげるのはなぜやだったんだろ?
初代からして。じゃーぎしわじんでんの卑弥呼はだれの姉妹なのか、嫁なのかよって突っ込まれちゃうわけだし。
763 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 01:48:56.42
神武天皇からはじまってるんだから
邪馬台国や卑弥呼もこの中におさまってしまう歴史だけど
その点系図、ききなどてはスルーしてるから余計うさんくさくなる。
別王朝で継体がいたでもいいし
本当は武烈の系統が続いてて
継体なんて後継にならず
もっとあとの時代にごたごたしたけど生臭いから、世代もどして武烈でごたごたしたから
継体に頼みましたよってことにしてる可能性もなくもないよな
>>758 >なら加羅人あたりか
>弥生時代の。
日本には弥生時代の木製甲冑が10数点出てるが半島にはない。
そういう状況で何で加羅になるんだよ。
北海道、東北と言っても、移り住んで来た人達もいるから
調べると出て来るよ「入植」
記紀編纂で不比等の事はよく言われるが、
俺は石上麻呂の影響が強かったと思うね。
昔の名前は物部麻呂だね。
欠史8代といわれるけど、理由はその時代の記述が極端に少ないからだね。
逆に言えば崇神以降は記述が多いという事だね。
何故崇神以降は多いかといえば、石上麻呂が物部氏なので、
物部氏の伊香色謎命を母として、物部氏の地盤である奈良東部の桜井に宮を構えた崇神の事や、
それ以降の話は詳しかったということだろう。
かなり詳細な伝承も持ってただろう。
だから記紀に多く残ってるだけ。
逆に考えると欠史8代
は実在してた可能性が高い。
政治、武力、宗教、道徳、農業など
先生や指導者。
古代、大昔では武力だったはず。
欠史8代は実在していたが、派手な業績を残さなかったということかもしれない。
徳川秀忠みたいなもんだな。
770 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 06:31:14.05
>>768 ニギハヤヒは大したことはなく(先住民と大差ない)、
神武は大したことがあったようだ
>>770 皆、気づいているはず、神武以前が神の時代
>>771 保守派は「天皇は神」というが、神武以前が神世だからな。
矛盾している。
欠史8代が非実在としたら、二通りのパターンがあるだろ。
一つは、欠史8代は記紀編纂の頃に作った創作の天皇達。
もう一つは、記紀以前から伝承はあったが、実際は存在していなかった天皇たち。
774 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 08:17:13.06
在位期間が10年程度なので神武自体が卑弥呼以降になるとは
欠史は在位期間が短くて歴史に残らなかったとは
>>774 在位期間が短い人もいたかもしれないが
内政に手一杯で目立つことをやっていなかった人もいるだろう。
776 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 08:38:50.00
近年の分子生物学の発展は凄まじいものがある。
Y-DNAは男系遺伝が判明するわけだが、
その中でも、中世以降、特定のハプログループが突出して増加していることが最近判明した。
縄文系D2a1bだ。
ちょうど武家の台頭の時期と重なるわけだ。
武家といえば繁栄順に源平藤橘ともいわれるわけだが、
そのうち源氏、平氏、橘氏は賜姓皇族だ。
ここから何が分るか。
天皇は縄文系遺伝子D2a1bだったのだ。
南九州出自である記紀の記述とも重なる。
記紀は正しかったのだ。
ちなみに武家の台頭以前はO2b1の増加率が高く、
これは藤原氏の台頭と重なる。
記紀を小馬鹿にし、やれ伝説だの創作だの言うのは勝手だが、
最新の分子生物学の前にに敗れ去ったのだ。
あきらめろハゲども。
777 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 09:30:57.19
銅鐸持ってたのがニギハヤヒかね?
縄文人との共存社会
>>777 >銅鐸持ってたのがニギハヤヒかね?
いや、出雲系大物主。
779 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 11:40:03.65
女天狗と天逆鉾
781 :
凍結拳:2013/11/05(火) 21:37:53.92
一度、アイヌラックルの事も調べてみよう
782 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 21:51:13.45
神武〜継体までの間どこの大王が
魏志倭人伝にでてくる邪馬台国の時代になるかによって
欠史8代の実在や、武の王の話しがどの大王かぼんやりみえてくるんじゃないかな?
武のなんとかの一人が継体の可能性がなくもないしさ。
なんか夢がひろがるじゃないですか
>>124 蘇我氏の母系が百済姫だし
後の大勢力源氏平氏の母系も高野氏で百済姫。
>>124 46代:孝謙天皇749-758 / 47代:淳仁天皇758-764 / 48代:称徳天皇764-770の時代に藤原仲麻呂が孝謙天皇の阿部内親王とや吉備真備率いる百済渡来人連合軍に敗退してから
孝謙天皇は百済内親王と呼ばれている。
48代:称徳天皇764-770 / 49代:光仁天皇770-781 / 50代:桓武天皇781-806の母が高野氏で百済姫である。
786 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 00:03:03.14
神話や説話と史実の区別がつかない記紀原理主義者が多いスレだな。
>>487 記紀は、百済人が多く渡来してきた以降の書物だから、蝦夷=東夷的史観を持ち込んだ中国史観の百済人文化が
おそらく、当時、記紀編集時に捏造の工作を多々働いた可能性大だと思う。
蝦夷贔屓の渡来時頼った蘇我氏や藤原南家の仲麻呂・・仲麻呂討伐の吉備真備の祖含み、後の源氏に討伐された奥州安倍氏までの皇統ルーツを欠史八代としたのわね・・。
渡来天津神側が、上位=正義としてきたのも、そういった、百済渡来等の自己愛からだろう。
松浦厨は相変わらず日本語が下手だな
>>789 はいはい
自己愛=エゴイスト
他者蔑視の権化さん
「凍結拳」で例えると
主人公達を殺していると言う意味
>>786 実際記紀の記述と考古学での発見が一致したりしてるからなぁ
あと記紀否定派が捏造とする証拠を出せてないのも問題
神話部分には現実的にありえないことが多いし、記紀相互の矛盾もあるから
信頼できるのは証拠の出た部分だけとするのが適切だと思うけど
結局は記紀ぐらいしか文献がないからその記述をもとに推し量るしかない
794 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 18:49:40.96
天から神様が降りてきたとか、海幸・山幸とか、ワニザメとの間に子どもをつくったとか、
ヤタガラスが道案内したとか、草薙の剣で炎を防いだとか、死んだら魂が白鳥になったとか、
妊婦が遠征したとか、そんな与太話を大真面目で信じてるなら、お前らは相当の大バカ者だな。
武烈までの記紀の内容は神話とファンタジーと説話集なんだよ。
>>794 > 天から神様が降りてきたとか
天=海外なら充分ありうる。
>>794 > ヤタガラスが道案内したとか
現地人が味方して、間道を教えてくれたとかなら史実としてありうる。
797 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 19:35:40.46
>>796 サルタヒコは現地人っぽいイメージ
掘りも深そうだし
>>794 脚色って意味知ってる?
昔は面白おかしくした方が人の心に残りやすかったのだろう。
マジで文句言ってるのはおまえくらいだw
799 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 20:19:54.18
>>794 先祖がワニとか蛇とかクマとか、卵から生まれたとか、神話ってそんなの
ばっかりらしいよw
でも、海人系とか大陸系とかで共通するところがあるそうな。
日本のはどっちもあるから、合体したんだろうって。
801 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 21:02:27.50
・・・・ココだったんよね^^
802 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 00:05:17.57
>>795 天(アマとかアメ)とかが名前に入ってるやつは
渡来人という説もあるな
>>784 それ確定まではいたってないよね?母系が百済筋っての
804 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 02:10:21.63
継体の話からだいぶそれてるレス多すぎ!継体以外の話しは
別スレつくってやりなよ。
>>802 倭人。
アメノヒボコなども倭系渡来人。
806 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 06:54:44.61
>>802 ただし当時は朝鮮半島にも倭人が住んでいたからね。
高天原=朝鮮半島の任那のどこか
だとしても、
大王家=朝鮮系とは断言できない。
このスレッドの流れから考えると
倭建命は神族に殺害されたのかもしれない
ニギハヤヒ「神と人間は違うのだ」倭建命の前に現れた神の化身。
または何かに取りつかれ、自殺した
我思う故に、右と言えば右、左と言えば左
倭建命に巣食う塩G「東へ行きなさい、西へ行きなさい」
>>807 天若日子が高天原の高御産巣や天照から倭国の荒ぶるう神々を掌握せよと派遣され
大国主の娘と恋をし、使命を放棄した罪で刺客に暗殺された、天若日子=七夕伝説の彦星さま
天若日子=七夕伝説の彦星さまで考えると・・
天の川とは、日本海の事で
織姫とは、大国主の娘のアメノサグメの事だろう。
日本側ての七夕伝承だと・・作用姫が大国主の娘のアメノサグメ=織姫にあたる。
作用姫伝説で検索。
殺されなかった天若日子=七夕伝説の彦星さまで考えると・・
天若日子は、スサノオを親とする、天邪鬼に転身している事に成っている。
瓜子姫伝説が後の七夕伝説と言う事に成る。
812 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 11:10:44.83
可能性アリ。
記紀が書かれる以前の日本にも、同じような口承や伝承があった、
聞かされていた話を記録。
先祖の話が偉大すぎた結果、コンプレックスやトラウマ=憧れ。
「私も、このようにしないと」
>>809 おそらく東から西へ(西←東)
まあ口伝の伝承なんて100年度頃か50年程度でも激変する可能性があることが判明してるわけで、
信用できる内容があるとしても固有名詞だけだろうな
業績やら年数どころか続柄さえ信用できん
814 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 14:35:17.13
デカイ墓を作っとけば忘れられないだろ。
816 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 15:47:29.21
>>815 古代の大王や豪族もそう考えたのだろうが
いまだに被葬者が特定できない大きな古墳がいくつもあるのだが。
被葬者の生前の業績を刻印した金属板でも
いっしょに埋めておけば良かったのにと思う。
まだ文字がまともに普及してない時代なら仕方ない
本当に重要な陵墓は宮内庁の管轄だし
818 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 17:43:51.69
>>817 > まだ文字がまともに普及してない時代なら仕方ない
普及はしていなかったが、大王に使える文官の中には読み書きができる中国系渡来人も
いたはずなんだが。
たま〜にニュー即系の板の古代史スレで「仁徳陵早く発掘させろ!そうすれば被葬者がわかるだろ!」
見たいな書き込み見るけど普通に考えたらわかる訳ないんだよなぁ・・・
このころの日本には墓誌の習慣がないんだから・・・
820 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 18:12:40.37
821 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 18:33:53.31
>>818 その代表者である王仁は河内王朝代の人物でしたね
822 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 18:48:55.72
ハータだな
東漢氏
阿知使主
波多氏(古代)
日本武尊
823 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 19:22:00.85
まず武内宿禰は存在しない
824 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 19:33:46.11
「応神も実在しないのかな?」このようになるのは当然。
普通に考えればわかる。
継体も
当然とか普通とか
自分の価値観でしか物を見ていませんよという告白をよくできるよな
後世の記事の全部を否定するのは簡単で学問的な態度に見えるけど
神話や伝説を額面通りに受け取るのは問題だが
史実の核や欠片が残されているかもしれないと探求しないのは妥当というより怠惰だと思う
>>823 長寿とされてる神祖格の歴史上の方々は
ヨハネパウロって存在と思う。
武内宿禰5世とか続いた家柄。
所謂、襲名制だね。
天皇家で言うと・・白河天皇から後白河天皇や嵯峨天皇から後嵯峨天皇、醍醐天皇から後醍醐天皇を各時代の同名の人物を一人の人物と解釈した感じ・・。
827 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 19:56:49.19
河内王朝は朝鮮半島に強い影響力を持ってたから、
王仁もそうやって連れて来たわけか。
そこからようやく文字を一応は手に入れたと。
828 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 19:57:07.42
タカミムスビは陰陽
それとも聖書からの引用
または実在しない
829 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 20:05:06.60
>>826 さあどうだろう
武内宿禰は成務天皇と同日生まれで
景行・成務・仲哀・応神・仁徳に仕えたとされる
記紀の年代は出鱈目としても
100歳前後まで生きれば五代にわたって仕えることも可能なんじゃないかな?
830 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 20:10:02.22
なぜかアニメのおじゃる丸は実在している
という不思議な世界
>>819 日本だと偶然石灰質の土地に葬られてない限り
酸性土壌で被葬体が溶けてしまってることが多い
日本で怪談で死体が動く話が少なく
幽霊話がメインなのもこのせいだとか
だから「天皇 農家」「陰陽 農家」
最近急激にのびてるなと思ったら自演してるやついんのかよ!
836 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 09:20:49.07
>>835 > 堺県令(知事)税所篤
これは薩摩藩出身で大久保利通の友人だな
837 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 09:22:00.62
>>834 このスレには大伴派と平群派と和邇派と脱原発派の工作員が集結して戦っている。
838 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 11:40:07.44
「木の俣」から子供は産まれない
すべて本当の話だったんだな
木俣神〜高木神 須勢理毘売
この辺りの話
840 :
凍結拳:2013/11/08(金) 14:24:12.24
これで大中小トトロの意味もわかったはず
841 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 17:19:11.14
842 :
凍結拳:2013/11/08(金) 17:21:27.37
その前に韓国ってどこなの?
ベッキーにしろローザにしろ、土着民と渡来人の相の子は、神秘性を持って受け入れられるものだ。
844 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 22:23:31.07
>>650 >神武の伝承は宮崎はもちろん広島、岡山、大阪、和歌山、奈良など、
西日本各地にあるね。
神武がもし架空の人物だとして、
「さぁみなさん、ご一緒に神武がいたことにしましょう」
なんてさせたってわけか?
そんなこと出来るわけないよ。
畿内を征服する前の神武は王でもなんでもないわけで、
そいつがそれらの土地によっていたとして、
伝承が後代まで残ると思う?
偽書、架空人物扱いにしないと
現代社会において問題が生じる
全て神代〜皇室に繋げておかないと危険
漫画、アニメ、ゲームetc 説明不要
残らないものが伝わっているんだから、それは作られた嘘に決まっているだろ。
>>846 現物主義な中華思想に通じてるな・・その考え方は・・
無神論者だろう。
848 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 05:09:23.15
神話や説話で歴史を語るのは、正直やめてほしい。
849 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 05:49:21.74
>>848 神話というのはまったくの作り話ではなく
史実を大幅に美化したケースも多いものと思われる。
850 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 05:50:16.86
>>847 現物主義な中華思想なら無神論ではなく、それこそ道教だろう。
851 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 07:24:00.33
葛城王朝→三輪王朝→河内王朝→継体王朝
と言われてるが、
葛城王朝のローカルさを考えると(つなげるような価値は無い)、
三輪王朝が葛城王朝を滅ぼしたとかではなく、
葛城王朝は地方大名でしかなかった時の三輪王朝だろうな。
どんな証拠があったら史実だって認めるんだよ
稲荷山の鉄剣もオオヒコはオオヒコじゃないって言うしさ
纏向に都のあとが見つかったんだから
崇神天皇から後は大体史実だと認めていいんじゃないか
大和に前方後円墳が現れて全国に広がって
特に政権の交代があったとも思えないし
これ日本じゃなくて全然関係ないよその国だったら
絶対お前らだってひとつの王朝が3世紀から500年くらい
続いてたって思うだろ
853 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 10:07:59.17
>>852 > 纏向に都のあとが見つかったんだから
> 崇神天皇から後は大体史実だと認めていいんじゃないか
史実と創作が「飛び石」式に混じっている可能性があるから
そうも言えない。
神武は実在していたが、欠史八代はやっぱり架空と考える人もいる。
854 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 10:31:52.88
神武は、崇神(ミマキイリヒコ)と天武天皇をモデルに創作された。
ミマキイリヒコの分身であるとともに、天武の投影でもある。
欠史八代は、実在の可能性のあるシキ地方の族長レベルの者(シキツヒコとかミマツヒコ)と、
全くの架空の存在(神霊や美称から創作されたもの)が入り混じっている。
実在の族長数名にしても、年代、系譜、続柄など不明で名前だけ伝わっていただけ。
崇神(ミマキイリヒコ)、垂仁(イクメイリヒコ)、景行(オシロワケ)は実在。
成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)は架空。
おそらく、ミマキ→イクメ→オシロワケのあとは、イオキイリヒコ、ホムタマワカを経て、
応神(ホムタワケ)が婿入りしたという井上光貞の説が正しいと思われる。
応神(ホムタワケ)と仁徳(オホササギ)は、よく言われるように同一人物だろう。
記紀における事績の混同やホムタの日の御子オホササギの和歌などから、そう判断できる。
応神=仁徳=倭王讃で、河内王権の初代だろう。
河内王権内部においては、讃・珍の系統と済・興・武の系統の2王家があったと思われる。
これは宋書の記述から、そう推定できる。
讃・珍の王家の子孫とされる播磨の2王子は、ひょっとすると全くの他人だったかもしれない。
播磨王家の断絶のあと、擁立されたオホトも同様に前王家とは他人だったろう。
ただし、オホトの家系は倭王済(ワクゴのスクネ)の大后の実家であり、河内王権の外戚だった。
855 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 10:37:22.68
856 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 11:15:01.80
トトロとテング
アメフラシとウミウシは同族
>>854 1段目
そんなに崇神や天武が「モデル」とされているだろうか。
2段目
シキの族長は「シキ県主」として結構名前が伝わっている。
それとは別で、大王家祖の「シキツヒコ」の名は母方から採ったとも考えられる。
3段目
だったらイオキイリヒコ−ホムタマワカ−ホムタワケという万世一系の系図にし、
ナカツヒメら異母三姉妹を娶ったとでもすれば良い。
4段目
倭王讃の実活動年代は5世紀前期。河内には4世紀後半すでに大王墓が造られ始めている。
讃が王権初代ではない。
5段目
続柄が書いていないだけで別系統とか、あまりにも解釈が単純すぎる。
6段目
そう見ると、王権が並立・分裂したり、他人が割って入ったり、
とても王朝と呼べるようなものではない。
足利→松永→織田→豊臣→徳川みたいなもんで、それを後世一つの系譜にしたというのも
戦後の史観に影響されすぎ。
858 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 11:34:03.09
>>823 どうかな。
東久邇宮 稔彦王みたいな感じだから、そんなにおかしくないと思う。
昭和天皇と今上天皇は長寿だけど、もし40才とかで亡くなっていて、若き
皇太子が即位していたら、86歳で5代の天皇に仕えることになる。
有栖川宮幟仁親王は73才没だが、明治天皇が34才で亡くなったとしたら
5代の天皇に使えていることになる。
兄弟相続じゃなくて親子相続だったとしても、80才まで生きていれば
5世代の天皇に仕えるってのは荒唐無稽ではない。
859 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 13:45:46.25
七支刀に出てくる「倭王旨」というのがオ「シ」ロワケ王のことだという説もある。
百済の「侯王」として、百済王子から刀を下賜された王。
860 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 16:43:39.40
下賜された?
861 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 16:50:11.67
近江とか東海とか丹波とか、なんかすっきりしないんだよな。
そのあたりと彦坐王の系統が、さりげなく特別扱いになってるというかさ。
丹波、息長はいろんな系譜を見ると、身内のような感じがする。
宮家とか御三家みたいというか、派手に表には出ないけどね。
継体はそこの生まれだから身内だったんだろ。
記紀を作った頃は、もう縁が薄くなってたか落ちぶれていたんだろうけどな。
固有名詞は残りやすいけどストーリーは変わりやすいんだよな
伝承の段階で伝えられていた部分は固有名詞ぐらいしか信用できんだろ
863 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 17:52:34.22
雷
↓
高木神
↓
アイヌラックルが誕生したのか!
865 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 19:39:24.55
韓国の言語学者の姜吉云(カン・ギルウン)は、
金官伽倻第10代国王の仇衡王(生没年不詳・在位:521年 - 532年)が
倭国に移住後、志帰嶋大王(欽明天皇)として即位したと唱えている。
日本でも鈴木武樹が同様の主張をしていた。
纏向に現れた前方後円墳がその後日本全国に広がっている
朝鮮半島の南部にまで広がっている
一地方の名前だった大和という名前が日本全体を指す言葉になっている
これらのことから大和に出現した政権が日本を統一し
朝鮮半島の南部にまで支配地域を広げた
前方後円墳というものに変化がない以上王朝の交代もない
ということが分かる
その前方後円墳を作っていた王朝が自分のことを書いた歴史書にも
そう書いてある
纏向に都が現れてから記紀が書かれるまでせいぜい500年
ひとつの王朝が500年続くことは珍しいとはいえ例のないことじゃない
しかし架空の人物をたくさん作って架空の歴史書を創作するようなことは
人類の歴史上きわめて珍しい
ほかに例があるのならあげてみてほしい
そのかわり500年続いた王朝の名前を教えてあげるから
867 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 19:58:40.67
>>866 > 一地方の名前だった大和
これは逆に政権の名前が地名になった可能性もあるのではないか?
スターリングラードみたいな感じで。
架空の歴史書なんて、チョン国にはいっぱいありますが。
869 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 21:47:55.50
本当に王統が変わってたら古墳の形も変わるのか?
継体なんて都合の良い(能力や容姿はあったかもしれんが)神輿だろ。
>>867 スターリンは人名というツッコミはおいといて
だったらその政権の名前はどこから来ているのかと
871 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 21:53:29.10
>>870 そこが問題。
邪馬台国が東遷したのかどうか?ということになるなあ。
>>866 後代に箕子朝鮮の歴代を造作した例くらいしか思い当たらないな
エジプトの王名なんかは考古資料と伝世資料で食い違ったりするね
>>871 おいらは神武東征は史実の反映と見るけど
邪馬台国は畿内にあったと思うので東遷ではないと思うね
地名や家名以外に政権の名前って何から付けるんだろう
874 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 00:18:47.04
近江とか東海とか丹波とか・・アメニヒボコの支配地と同じじゃないか。
継体天皇とは、アメノヒボコの子孫、つまり新羅系王朝。
大和の王朝が、それまでの百済系から新羅系に代わった画期的な事件。
それは既に常識ですよね?
875 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 00:27:36.46
邪馬台国みたいな日本にとって重要な事は
豪雪閉鎖が甚だしい越前地方なんか寄ってないから
876 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 05:46:15.28
継体の本拠地は越前ではなく近江だったのではないかという説は昔からあるよなあ。
その場合、越前にも「飛び地」領土を持っていたということになるのかなあ。
呉の子孫の倭人が、越の国に占領される
まさに作られたかのような話だな。
878 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 09:00:27.76
>>874 そういや「息長」の名を持つ神宮皇后は
アメノヒボコの子孫でしたね。
879 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 09:39:38.76
神功皇后自体は、母神・海神伝承と斉明天皇をミックスした創作上のキャラだが、
倭王権の支配者たちの一部が、実は半島からの渡来系の人々であったことが、
アメノヒボコ伝承が記紀に採用されたり、息長関係の系譜の元ネタになってるんだろう。
証拠と確たる根拠もなく断言する奴の多いこと多いこと
881 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 10:23:21.34
神話や説話をガチで史実と信じるほどバカじゃないからな。
882 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 10:38:46.49
>>878 但馬国一之宮(豊岡ではなく出石)の祭神はアメノヒボコだと記憶。
883 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 10:40:04.93
>>880 天武即位以前の古代史は確かな証拠がないことのほうが多いから仕方ない。
推古天皇の実在すら疑う人がいるんだぞ。
884 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 11:08:06.78
推古紀はおろか、舒明〜天智紀の内容ですら、潤色や書き換えや脚色が多いからな。
とはいえ、その記事の「ウラ」を読んで、あるいは記事を「拡大解釈」して、
妄想の歴史を「創作」してる連中もまた愚の骨頂。
いっぽう、考古学の成果を日本書紀に適合するような解釈をすると、
なぜか怒られる。
886 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 13:19:34.15
推古朝以前は歴史ではない。
記紀を史料として活用することには禁欲的でなければならない。
あくまで中国史料と金石文と考古学の知見によってのみ、歴史を再構成すべき。
というのが、正しい姿勢だな。
>>886 そういう人は、このスレ「継体天皇について……語ろう」に首を突っ込まない方が良い。
なぜなら、継体天皇・オホド大王という存在が記紀や上宮記など日本文献のみの存在であり、
中国史料・金石文・考古学の知見からは追えない存在だから。
隅田八幡鏡の「男(孚)弟王」をオホド王に比定する説もあるが、
だからといってその人が「6世紀前期の大王」と同一人であると直結できるわけもなく、
今城塚古墳の被葬者を「6世紀前期の大王」に比定することはできても、
それと「継体天皇」とがリンクするのは、記紀あってのことだから。
>>874 いやいや・・まーてっ
神話の渡来天津の時代から新羅渡来神ばかりだし
安倍氏自体も新羅倭人渡来系だろう。
厳密には周代の新羅地域からの渡来。
要は、神武以前の祖神がその地域の渡来と言う事・・。
百済は、存在してない時代だし、百済王朝渡来は、西暦300年から500年の間だからね。
大化の改新から藤原仲麻呂の乱で帰化一大勢力として、大和に帰化し高野氏となってる。
>>882 桃太郎伝説の四道将軍とは、崇神天皇に仕えた、吉備津彦命と丹波道主命、大彦命・武淳川別命親子の四人の将軍の事。
丹波道主命や但馬国一之宮は神宮皇后と同じく出石系豪族出身なのだろうね。
関係ない話だが、吉備以外は民話に成らんかったのか?
それぞれ残っていたら面白いのに。
それとも、吉備だけが他と違ってなにかがあったのかな?
>>891 7代の孝霊天皇皇子の吉備津彦命が崇神天皇四道将軍の筆頭だったとか・・
丹波道主命は、出石系豪族で八代の孝元天皇皇子の→大彦命と武淳川別命だからかも・・。
どうしてもね8代だと、7代の伯父筋を立てないとだろうし、丹波さんは叩き揚げイメージ。
894 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 21:12:30.02
三輪王朝代には統一を先に果たした倭が、
ばらばらの状態である三韓を圧迫していたのに、
河内王朝の祖や継体天皇が
新羅との関係が深いのは謎だな。
応神天皇って新羅系?
>>886 天武期って書紀以外の一次史料が豊富にあるのか?
896 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 22:45:22.62
>>888 >隅田八幡鏡の「男(孚)弟王」をオホド王に比定する説もあるが
この当時 人名を訓で読んだりしたのかね?
癸未年は443年だろうね 斯麻は百済王とは別人だろう
897 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 00:28:59.03
898 :
名無し:2013/11/11(月) 00:30:05.06
中央大学の一戸祥ってウザいしキモイよね。
899 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 06:47:40.99
>>895 そう言われればそうなんだが、でも天武天皇の実在を疑う人はいないな。
(天武天皇と天智天皇が兄弟であったことを疑う人はいる)
900 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 09:23:23.33
大王が後の天皇ということは、神武は大王。
>>900 確かに、神武自信の時代は、大王だろう。
祖神の一神のスサノオも牛頭天王だし・・
>>900 関係ないが、
大王
↓
一白
大王
で天皇という説(と言うか与太話だな)を初めて見たとき、思わず意表を突かれたことがあった
903 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 18:40:15.06
>>900 神武なんて実在しないって何度言えば(ry
そういえば、全盛期(というか粗製乱造期)の志茂田カゲキ先生が、
東征中の神武軍団が戦国時代にタイムスリップするって本を書いてたな。
(神武vs信長とか神武vs秀吉とかw)
あげくの果てには、「戦国の長嶋巨人軍」なんて本も書いてた。
所詮、神武東征伝承なんて、そのレベルの与太話と一緒w
>>899 推古にしろ天智にしろ天武にしろ書紀に頼らなくても
外国史料や金石文や考古学の成果だけで歴史を綴れるってんなら話は分かるけど
単に時代が近いというだけで安易に信用するのは問題だよね
古い時代の記事には造作が多くて近い時代の記事には少ないというのは
正史というものの性質を分かってて言ってるとは思えない
当代の王朝にとって都合にいい歴史の記述をするなら
遠い過去よりより近い過去について造作が酷くなると考える方が妥当では
905 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 01:38:42.28
>>891 四道将軍は紀のみ 記の方は吉備津彦命兄弟による吉備征服の記事は孝霊天皇の条に書かれてる
おそらく 記の方が史実に近くて 大和の吉備征服は他の地域より先だって行われており、
大和の統一事業の嚆矢だったからいろいろ脚色されたのかも
906 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 06:51:13.73
>>904 遠い過去に関しては、天武天皇の頃には
すでに断片的な事柄しか伝わっていない事柄も多かったと思われる。
その断片をくっつけて歴史書に仕立てるのだから
相当無理があったと思う。
907 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 06:57:23.23
神武なんて実在しないって
モデルとなったサノの命はいたかも知れない。
「地の果て」日向出身で、子を連れて故国を捨てねばならなかた、
地方弱小豪族。
皇室にとってありがたくない先祖だけど、
決して否定できない始祖だったのでは?
応神4世紀後半、崇神4世紀初頭として、
欠史8代が父子継承であるはずないので、
大よそ5、6世代前としたら神武は2世紀後半〜3世紀前半。
この時代、高地性集落が終わり、環濠集落も終わり、銅鐸祭祀が終わり、
前方後円墳が誕生し、土師器が誕生。
こういう大変革は内部から自主的に行われたと考えるより、
外部からの刺激によってもたらされたものであろう。
つまり神武軍の大和入り以外にない。
神武は実在した。
いまだに津田のボケ話を信用してるやつは去れ。
さらに神武が3世紀あたりとして、
スサノオまで5世代で約100年。
2世紀初頭だろう。
つまりスサノオは倭国王帥升ではないか!
吉備は当時のNo.2の地域だった訳だし、そこから迎え入れた可能性もあるかもね
911 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 13:32:04.78
>>863 彦坐王の系統は丹波から何度も嫁を取ってるしな。
オケ、ヲケ王が丹後(丹波)に身を寄せたり、アマテラスが放浪時に行ったり、
伊勢神宮の外宮の神様は丹波から呼び寄せたり。
四道将軍が攻めたのは別の系統の土地の豪族のようだし。
息長氏が近江から若狭だとしたら、丹波の一族(山城もだけど)と共に
一族で近畿(と海の道)を押さえてる感じだね。丹後は200m級の古墳が
いくつかある。
海部氏系譜によれば、ニニギの兄の子孫ってことになってるが、勝手に
作った系譜とか思えない。後に落ちぶれたんだろうけど。
912 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 13:42:54.50
大物主神 勇倭迹迹
後にドラゴンクエストとなった
913 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 14:11:20.29
>>908 > 大よそ5、6世代前としたら神武は2世紀後半〜3世紀前半。
神武またはそのモデルが実在したとして
それが卑弥呼の前か後かというのも問題。
914 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 14:14:51.79
>>911 室町時代も、幕府は非常事態には若狭や丹後に逃げ出すつもりがあったというな。
薩長も鳥羽伏見の戦いで負けた場合には明治天皇を連れて丹波に逃げ込んで
ゲリラ戦に持ち込む予定だった。
地形的に守りやすいんだろうね。
915 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 14:22:06.88
出雲国 大物主 ニギハヤヒ
ヒミコのような人物がいて、勇者に道具を渡す
>>913 >神武またはそのモデルが実在したとして
>それが卑弥呼の前か後かというのも問題。
問題ではない。
歴史上、もっともヒミコに近い名前の女性が神武近辺にいるから。
初代皇后ヒメタタライスズ媛で、俺は彼女がヒミコだと思ってる。
大物主の娘だから宗教的(巫女)要素も強かっただろう。
「年已長大無夫壻」というのは生涯独身だったという意味ではない。
ただ夫がいなかった状況を書いてるだけ。
彼女は神武に先立たれてるからその時の状況だろう。
漫画なら
主人公側の名前と、敵側の名前を入れ替える。
でも、これが通用するのは文字だけで表現する世界。
なぜ?それは漫画は名前+絵で表現する世界だから、
名前だけを入れ替えても「この人物(キャラ)は□□だろ」となってしまう。
ちなみに任天堂ファン
919 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 17:02:12.81
>>905 >記の方は吉備津彦命兄弟による吉備征服の記事は孝霊天皇の条に書かれてる
「大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口以言向和吉備國也。」←これか
欠史八代といわれるが ここは記述があるんだよな
920 :
凍結拳:2013/11/12(火) 17:05:58.74
ソニーも良いけど、
任天堂のほうが子供に好かれているようなイメージがある
>>919 七代と八代天皇とその皇子が崇神天皇の四道将軍だったからかもな・・。
だから、欠史八代は意図的なのだよ。
正確には、記録が名前だけしかないのが六代までで、
七代以降の記録は、その皇子の記録と共に残っているのに、欠史六代を欠史八代と捏造しているのがおかしい訳。
足利期や徳川期のように、初代以降何事も無く平和だったからこそ、記述が名前だけだと考えるのがベター。
924 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 19:19:18.46
>>919 記述が妙にリアリティがあるからな。
孝霊天皇は実在したような気もする。
925 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 19:41:09.30
キビツヒコって吉備の男子とか吉備の首長って抽象的な名前だからなあ。
吉備の地方政権とヤマト政権が古くから親密な関係だったことを説話的に表現してるだけだろう。
記紀の系譜のままの血縁関係とか人物が実在したということではない。
吉備とヤマトの関係を説話化して、説話上の人物に象徴させていると考えるべき。
926 :
凍結拳:2013/11/12(火) 19:48:03.13
ローカルヒーローというもの必要
927 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 19:59:47.32
928 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:02:15.93
日本には大王が何人いたのか知りたい
>>927 四道将軍はほぼ実在が確定してるじゃないか。
931 :
凍結拳:2013/11/12(火) 20:13:26.85
高レベルのボケ
蛻の殻(モ抜けのから)
932 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:22:10.26
934 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:34:37.13
稲荷山の鉄剣なら、
四道将軍の時代より遥か後の、
河内王朝代じゃん
935 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:38:49.27
>>925 >キビツヒコって吉備の男子とか吉備の首長って抽象的な名前だからなあ
その名しかなければ説話上と言えるかも知れないが
彦五十狭芹彦命、稚武彦命と本名もあるから
征服してその地を領地にしたからその名を名乗ったともいえる
ゲルマニクスとかブリタニクスみたいに
936 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:49:51.39
>>921 日本書紀ではまさにそうなんだけど
古事記ではそれぞれの記述が別々なんだよね
実際四道将軍は 七代天皇の皇子 八代天皇の皇子 皇孫 九代天皇の皇孫と
一緒の時期に征服を行ったと考えるより 時代を追って征服していったと考えるほうが自然
937 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 20:54:26.17
>>925 その親密になった原因があるだろう。
どこの馬の骨か分からん奴に行かせて反逆されることを考えたら、一族のものを
やって支配するほうが現実的だと思うけど。
イスラムなんかの族長国家は、今もそうしてるじゃん。
938 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 21:01:03.42
939 :
凍結拳:2013/11/12(火) 21:05:26.06
その後、どうなったの?
神代〜九州王朝〜125代
941 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 21:54:54.78
>>940 曹操といえば夏候氏から曹操の父が異姓養子に入ったってのは嘘だったらしいね
曹操の子孫の曹氏と夏候氏のY染色体は違ったらしい
942 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 21:54:57.95
中国って面白いなw
真面目な研究なのかトンデモ科学なのか、よくわからんけど、こういう研究は面白いw
943 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 22:36:06.77
日本は無理だろ。源氏の末裔を名乗ってる人が拒否すると思うw
944 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 22:39:42.29
もうどうにもならん
今の天皇をたてるしか日本の未来はない
945 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 22:43:40.17
曹操の子孫の曹氏と夏候氏も
何度も入り婿が入ったか
あるいは、出自を捏造したのがいたかで
とり替わっている可能性あるな。
946 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 22:46:38.96
949 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:23:32.56
要は、曹嵩は同じ曹氏から曹騰への養子ってこと?
951 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:31:13.52
>>950 多分そうでしょう 中国ではそれが普通
曹嵩異姓養子は「曹瞞伝」という曹操を批判する書のみが根拠らしいから
史実としても異姓養子はでっち上げにちかいんじゃないかな
しかし魏での扱いを見る限り夏侯氏って異姓の中では別格じゃないか?
何らかの血縁が無いとこれだけの扱いを受けられるとは思えないが
953 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:39:03.49
中国だって捏造塗れだろ。
極論を言うなら中国人は皆黄帝の子孫であると言われている。
955 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 07:39:25.95
>>952 夏侯氏の一族の女が張飛の妻となり、その娘が蜀の皇帝である劉禅の皇后となっており、
夏侯氏は張氏を通して蜀の劉氏の縁戚でもあった。夏侯淵の子の夏侯覇が政争に敗れ蜀に亡命し、
列侯に封じられている。 (ウィキ)
↑
世渡りがうまい一族なのではないだろうか。
雄略朝の司馬の曹達さんについて話そう(提案)
957 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 18:56:34.50
>>956 この人物が「司馬曹達」(「司馬」が姓)なのか、
司馬の「曹達」(司馬は官職で「曹」が姓)なのか、
前々から疑問に思っている。
後者なら、ヤマト政権に「司馬」という官職があったことになるが、
さすがに5世紀の倭に「司馬」なんて仰々しい官職はないだろう。
蜀に亡命した人がいるんだから
倭に亡命した人がいてもおかしくないかと。
959 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 19:07:07.20
>>957 どっちにしても司馬だの曹だの、皇帝の姓を僭称してるのは、おこがましいな。
倭くんだりに流れてきた一介の渡来人の分際で。
倭王武は自称でも開府儀同三司なんだから
配下に司馬・諮議参軍とあともう一つ忘れたがナンチャラってのが
いなくてはならんだろ
それ考えたら司馬が官職で曹が姓。
百万歩譲って司馬が姓だとすると
「曹達」って名はかなりへんな感じがするの俺だけか…?
後世の『新撰姓氏録』に魏帝の曹氏の子孫がいくつか出てくるが
そいつらの先祖だろうね
961 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 19:32:19.81
司空とかなかった?
962 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 20:25:00.87
渡来人の曹達が「司馬」の職にあったということは、
記紀の雄略天皇の事績は相当歪曲され、真相が隠蔽されていることになる。
まだ大臣・大連は存在せず、葛城・大伴・物部の諸氏もたいした存在ではなかった。
半島系か中華系かわからないが、曹達なる渡来人が「司馬」として重臣だった。
やっぱり記紀の記述なんて信用できんわ。
>>958 亡命ってのは最低でも対抗出来る勢力にやらないと意味がない。
>>963 記紀盲信も大概だけど記紀無視も大概よねえ
966 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 23:13:27.92
まあ、中国史料と金石文を総合して判明する確実な事実は、
ワカタケル大王=倭王武は、関東から九州中部までを支配下におき、
重臣として司馬の曹達という渡来人がいて、埼玉の豪族ヲワケ臣が杖刀人首、
熊本の豪族ムリテが典曹人として大王を補佐していたということだな。
もうちょっと後の時代に司馬達等っていなかったっけ?
>>960 名が「曹」という字が使われてる人物はかなり珍しい。あとこの時代名が漢字二文字の人物もあまり居なかったと思う(全くいない訳じゃないけど)。
元々「曹」は地名から来てる字だからね。
969 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 02:09:51.54
少なくとも漢字書ける奴はたいてい中国人なんでしょう?
970 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 06:16:53.62
>>964 対抗ではなく、政争による粛清をおそれて裸一貫で亡命した可能性もあるだろ。
劉邦の幼なじみのロワン将軍は匈奴に亡命している。
>>967 それは司馬氏で名が達等で問題ないんじゃないの?
>>969 それはかなり初期だけの話じゃないか
途中からは上流階級はみんな漢字読み書きできても
書記官の類(史=ふびと)として仕えるのは帰化人系の中の特定氏族の利権というか
伝統的に認められてきた特権だから「おまえらクビね」とはいかんでしょ
あとしばらくは漢字の読み書きは下級官人の仕事という建前もあったかも
曹達は重要人物だったとは限らんよ
ただの派遣官、現代の大使とか平安期の遣唐使レベルの可能性もある
>>970 裸一貫で逃げてきたやつが貴族に列せられることはないだろ
たとえ下級貴族としてでも。代を経て成り上がるのはなおさら難しいだろうし
もし曹達で名前が確定なら結構すごいな
曹氏の人間が亡命して大和政権の下で奉仕?しているなんて
973 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 08:11:31.43
>>971 > 裸一貫で逃げてきたやつが貴族に列せられることはないだろ
貴族ではなく「客分」的な扱いをされるのではないか?
百済滅亡後に日本に亡命してきた名門の人たちも
貴族ではないが庶民でもないテクノクラート的な扱いをうけていた。
974 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 08:20:37.96
>>970 そういう意味ではなくて、対抗出来るくらいの力関係の国じゃないとあまり意味がないという事。
最悪脅されて引き渡されて終わりって事も考えられる。
>>972 「曹」氏自体はそれほど珍しい名字じゃない、というか割とメジャーな名字なので曹操に連なる人物かどうかは分からんよ。
976 :
米:2013/11/14(木) 14:43:12.58
その後の縁故疎開などもあり
現在:同じ地方や地域に、同姓(名字)が集まっている
可能性あり
977 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 15:11:29.36
>>968 渡来人の中で、中国系は少数派だったんかな
官僚は多そうなイメージあるが
978 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 15:31:44.08
>>977 飯豊女王(天皇代理)の本拠地の近くには中国大陸系帰化人が多かったらしい。
979 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 19:18:46.57
宋書に出てくる司馬の曹達といい、江田船山の鉄刀銘文の筆者の張安といい、
同時代史料では倭で活躍していた渡来人は中国系が多いな。
19世紀のハワイ王国で欧米人が政府の要職についていたような感じなんだろうか。
980 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 19:20:14.94
後世の編纂物に出てくる人名だけど、司馬達等も中国系の名前だな。
古代の日本って、実は華僑王国だったりして。
>>977 新撰姓氏録を信じる限りでだが帰化氏族の数でいうと
中国系(大陸系)が圧倒的で朝鮮系(半島系)はたいしたことない
高句麗系をどっちに入れるかって問題もあるがどっちに入れても
大差にかわりはない
ただ、大陸系か半島系かを問わず帰化系氏族ってのは
せいぜい下級貴族。カバネが造とか史とかでかなり身分が低い
連とかもあるけどその場合は無名無力な弱小氏族
一種の部民というか技能をもって仕える隸属民のような扱いにみえる。
政府の要職とか、華僑王国とかってのは違うんじゃないか
983 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 21:05:50.98
近世のタイとかでも華僑、華人が大きな影響力を持って、
政府の高官になったり、タークシンのように王になったりしてるから、
ヤマト政権での渡来人も、そんな感じじゃないのかな?
984 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 21:38:42.83
>>981 さすがに中国系だという記録は信じがたい
名も無き奴らなら半島系の比率はなお高いだろうし
ところが実際には朝鮮系のほうが中国系より重用されてるんだよね
にもかかわらず無名のどうでもいい連中が
わざわざウケのよくない大陸系を名乗るのはおかしいんでない?
と昔、中国の学界にいった日本人学者が中国人に指摘されて
ぐうのネも出なかったんだよ。学界では有名な話
986 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:05:50.99
相撲の歴史(Wikipedia)
神代、古代、上代。
『日本書紀』には、神ではなく、
人間としての力士同士の戦いで最古のものとして
垂仁天皇7年(紀元前23年)
先代:崇神天皇
987 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:20:01.04
貧乏
騎馬民族征服王朝
4世紀後半〜5世紀
989 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:37:54.63
神武
九州王朝=騎馬民族征服王朝という意味かな?
990 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:57:58.93
相撲の歴史は貧乏の歴史。
勝ち残る以外に食う手段はなかった。
負ければ飢え死に。
能見宿禰も苦労した。
991 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 00:22:35.47
中国系渡来人も、半島で現地人の有力者(村主とか)に仕えていたんだろうか
992 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 02:44:19.65
大昔に渡ってきた人達とは別
と考えたほうが早い
中国や半島の人達にも聞いてみると良い
993 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 05:42:10.88
>>985 > にもかかわらず無名のどうでもいい連中が
> わざわざウケのよくない大陸系を名乗るのはおかしいんでない?
楽浪郡が滅ぼされた時に、赴任していた中国人たちが本国に帰還できなくなり
(交通が遮断された)
仕方なく倭国に逃げてきたケースもあると聞いたことがある。
>>993 聞いたことがあるも何も、普通に考えればそうじゃね?
それなのに、中国人なのはおかしい、それは自称で本当は全部朝鮮人ニダ
って言いたがるアホが昔は多かったんだよ
今でも2chには湧いてでるがね
995 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 18:08:58.79
曹達とか張安とか司馬達等は、まちがいなく中国系だろうが、
王仁(実在か伝説上の人物かはさておいて)は、ちょっと怪しいと思う。
というのも、「王仁」という表記だけ見ると、王姓の中国人のように見えるが、
その表記は日本書紀のものであって、古事記では「和爾」と表記されている。
古事記の方が書紀に先行する史書で、比較的潤色が少ないことを考えると、
「王仁」という表記は、「和爾」を中国人風に書き換えた可能性も否定できない。
996 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 18:26:42.42
ではそろそろ次スレをお願い。
997 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 18:33:51.92
神武と欠史八代は架空。
崇神・垂仁・景行は実在の可能性がある。
成務・仲哀・神功は架空。
応神と仁徳は同一人物の可能性がある。
履中以降は、事績はともかく、系譜は一応信用できるが、
履中系と允恭系が別の家系だった可能性もある。
継体は北陸から近江にかけて勢力をもっていた地方豪族で、
河内王権の大王とは他人。
以上、俺の妄想。
つーか全部昭和に流行した学説だよね。
そこで時間が止まっちゃってるんだ
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。