【初心者】スレッド立てる前に質問をPart30【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 15:26:16.64
昔、積雪地で冬季は農業ができない地域に住む農民は、冬季どこで何をして過ごしていたのでしょうか?
出稼ぎが登場したのは交通網が発達してからですよね。江戸時代やもっと前はどうしていたのでしょうか?
4 :
2:2013/02/03(日) 23:36:12.15
ありがとうございます。なるほど。
5 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 00:16:30.17
武士が、刑罰や責任を取るために切腹をする場合、
その切腹人の手が病傷、生まれつき、高齢等のため不自由だった場合はどうしていたのでしょうか?
将軍「何野誰兵衛に切腹申し渡す。」
側近「しかしながら、誰兵衛の手は怪我でもう動かないとの事です。」
みたいな
手が動かなければ切腹できないし、斬首にするには差しさわりがあるし、助命する事もできずと。
短刀の替わりに木刀や扇子を用いる場合でも、それに手を伸ばさなければならないのでどうするのだろうと
疑問に思いました。
知らんけど、別に実際には何もしてなくても切腹したと記録しておけば済む事では?
>>5 「では…」で軽く頭を垂れた時点で"介錯"してもOK
全身麻痺なら無理かもだけど、
>>6のような処理は可能(本人が暴れるとかだとそうなる)
>>5自身も「木刀や扇子」って書いていて、しまいには扇子で切腹の真似しただけで後は
介錯人に任せるのがOKになってることを知ってるわけだし、
そこまで切腹が形骸化した時代なら、本人が何もできなくても問題ないんじゃないの
9 :
5:2013/02/05(火) 23:00:27.38
皆さん、手が動かない人の切腹に関してありがとうございます。納得です。
10 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:12:18.02
質問です。
「寿永・治承の乱は頼朝率いる勢力が平家を打倒した」という前提なのですが、
頼朝が「反平家勢力のトップ」に立つことはできたのには、何か特別な理由があったのでしょうか?
逆に言うと、「甲斐源氏や近江源氏」、「源頼政」、「足利氏・新田氏・佐竹氏」、「義広や行家ら義朝の兄弟」、「範頼や義経ら頼朝の兄弟」。
こういった「他の源氏」ではダメで、「源頼朝」なら良いといった何らかの条件があったのでしょうか?
幕藩体制を山口組に例えた場合、
徳川宗家=山口組本家
雄藩といわれた薩摩藩や長州藩=山口組傘下の有力団体である山建組
この例えはそれなりに妥当なものと言えますか?
>>10 木曾義仲がちゃんとしてれば頼朝の出番は無かった。
>>11 暴力団みたいな個人的忠誠による関係性から脱し、組織的・制度的結合に至ったのが近世幕藩体制であり
それはその「雄藩」も包括される。
つまりそういう例えは実際には非常に間違ってる
>>10 結果論的に、御曹司、というのは旗としてはそれなりに
重要だったとはいえる。
ただ、京を最初に蹂躙したのは義仲だし
実力があれば流れに乗って誰でもトップに立てる
状況で一番上手く時と運をつかんだのが
頼朝で、それを後から「他の源氏ではダメだった」というのは
少し認識が違ってくるだろう。
条件、というとどうしても血統とかが問題になってくるが
「どの時点か」というのも大事で
平家滅亡後は「トップに立つのはそれなりに
万人に受け入れられるモノ」が必要だろうし
それが「頼朝なら血統もオケ」のように
条件に符合してくる。
「特別な理由」も「条件」もあくまで結果論的にしか
語れない、明確には答えにくい、ということなんだな。
>>10 以仁王が諸国源氏に対して平家打倒の令旨を出していることから
源氏が平家に対抗しうる武力保持者と認識されていたことは事実でしょう
だけど源頼朝でなければならない理由はなかったでしょうね
それほど有力なら以仁王は源頼朝に名指しで平家打倒の令旨を出していたでしょうし
実際に以仁王が行動を共にし令旨を出す前提の協力者としていたのは源頼政ですしね
でも、在京武士の頼政や、美濃や甲斐、足利ら田舎源氏、
保元の乱でまともな基盤を失った義朝の兄弟、
平治の乱の時点で官位もなかった頼朝の弟たちでは
坂東武者たちはついてくる気になれなかったんじゃないかな?
我ながら頼朝に肩を入れすぎた意見だとは思うが
鎮西八郎や悪源太が生き延びていたら、
頼朝の対抗馬になったかもしれんが
18 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:57:08.72
家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家に「女歌舞伎」と称して
女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて
騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか?
何卒よしなに頼みいります。
>>16 木曾義仲には坂東武者はついて来なかったけど平家を討つのに何の問題も無かった。
>>16 以仁王を擁立した源頼政や、平家を都から追った木曽義仲、
そして日本最初の武家政権である平家、いずれも坂東武者の兵は使っていない。
源頼朝が鎌倉幕府を開いたことを知っているから坂東武者を味方に付けないと
天下は取れないみたいに思っているだけ。
徳川時代の武士たちは儒学って必須の教養だったんですか?
学問所に行けばとりあえず四書五経の素読から始めるので必須です。
昔から疑問だったのですが、幕末〜維新後の戊辰戦争等で
近代式の鉄砲や大砲で戦う維新軍に対し、刀や旧式の鉄砲の幕府軍が
不利であったと言われてます
なぜ幕府軍はもっと近代式の鉄砲などを揃えていなかったのでしょうか?
幕藩体制とは、地方の内政は地方でやってくれ、幕府は国防や外交などを
担当しますよっていう政治体制ですよね
その幕府が地方の藩(いくら雄藩とは言え)よりもしょぼい武器しか持ってないって
凄く違和感があるんですが、どうなんでしょうか?
鎖国による平和ボケって言葉で片付く話でしょうか?
感想だけど
単に財政難でカネがかけられなかったのでは?
密貿易とかで儲けてた所はカネかけて強力な軍隊持ってたみたいだし
>>23 幕府にも親衛平気の部隊は勿論有った。だが大所帯でそれが全体に行き渡っていたわけではなく軍装がバラバラだった。
端的に言えば旧軍装の弱いところをやられたわけだ
>>24 ありがとうございます
幕府は雄藩と言われる藩が貿易等によって近代式の武器を大量に持っていることを
知らなかったのでしょうか?
知ってはいたけど放置していたのでしょうか?
知らなかったとしたら、幕府の管理体制が不備だったとしか思えないし、
知っていて放置していたなら、危機意識が足りなかったと言わざるを
得ないですよね
幕府は最新装備の舞台作ってるっつーの。組織がでかいうえに、軍制改革していない諸藩も組み込まれていたので
それが上手く機能しなかっただけ。
なので一点集中で整備できた幕府海軍は薩長なんて問題にならないほど近代的で強大なものになっていた
28 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 14:46:17.21
家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家廷内に「女歌舞伎」と称して
女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて
騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか?
何卒よしなに頼みいります。
29 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:35:00.14
江戸時代、江戸城に勤める旗本や御家人って、徳川家の家紋の付いた
羽織を羽織ってたのですか?
>>29 自分の家の家紋だよ。
葵の御紋の付いたのは御拝領の羽織りだろうから、通常家宝として大切に保存される
31 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:49:37.85
>>30 どうもありがとう。
他の藩でもそうなんですかね。
時代劇を見てたとき、街中で主役の侍と、どこかの藩士達がトラブルに
なるシーンがあったんですが、その後に「あの家紋は○○藩だな」って
のがあった記憶があるんです。
時代劇の描写なんてけっこういい加減だし
と思うと昔の黄門様や平次は細かいとこで
正確だったりするんだよね。
西洋文化の流入、社会の西洋化という意味では維新後の文明開化と太平洋戦争の敗戦後、
どちらのほうが大きいでしょうか?
36 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 16:04:01.59
参勤交代で大名とその藩士達が江戸に来た場合、藩士達は江戸の街を
飲み歩いたりしたんですよね。
その場合、どの藩の藩士かは、一般の人にはわからなかったのですか?
>>36 訛りとかである程度は分かるだろうが、江戸には全国から武士が集ってたからいちいち気にしてもおられん
どうもありがとうございました。
39 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:47:54.98
参勤交代の大名行列は、幕府から定められた最低人数があるが、たいていはより多くの人員を連れて行っていた
そうです。
では、本当に最低人数で大名行列を組んだ例はあるでしょうか?
節約志向、うちは貧乏なんだよ、分かっているだろみたいな。
もちろん本当に最低人数きっかりだと途中で誰か一人でも病傷で倒れたとたん定められた人員を割ってしまうので
いくらかは補欠を連れて行かなければならないでしょうが。
40 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:52:37.53
関が原合戦後、西軍諸将の中で捕らえられた人達の処遇に関して。
厳しい沙汰を受けた人達の中でも、切腹と斬首の違いが生じたのは何故でしょうか?
なぜ石田三成や小西行長は切腹でなく斬首なのか?
逆に斬首でなく切腹する機会を与えられた人がいるのはなぜか?
>>39 そもそもちゃんと行列を仕立てるのは宿場などの人目の有るところだけで、その多くは日雇い人足です。
>>40 >なぜ石田三成や小西行長は切腹でなく斬首なのか?
首謀者として罪人扱いにしたから。斬首にならない人は三成に組した共犯者だけど、
現代だって主犯と共犯では罪の重さが違うでしょ。
42 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:50:31.86
落ち武者狩りというのは、時間的にはいつごろまで続けられたのでしょうか?
たとえば大坂夏の陣で大坂方についた浪人(一般兵レベル)たちは、戦後何年間も追いかけられ続けたりしたのでしょうか?
43 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:26:03.47
家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家廷内に「女歌舞伎」と称して
女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて
騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか?
何卒よしなに頼みいります。
また万が一、分からないようでしたら、「不明」とでもお答え下さいましな。
よろしく。
『予章記』に出る「鉄人」やら「白人城」の挿話は
何らかの歴史上の出来事を反映しているのでしょうか?
>>42 戦後間もなくならともかく、しばらくすれば一般兵を落ち武者って判断することがそもそも難しいんじゃないか?
仕事も帰るところもなければ、結果的に山賊や盗賊になって捕まるって運命はあるんだろうけれど。
>>42 明智光秀とか石田光成クラスの重要人物の追跡以外は、数日もしたら終わりでしょ
落ち武者狩りは、勝者側の兵よりも、戦場付近の農民とかが武具や衣服をはぎとって稼ぐためにやる
蛤御門の変で山田顕義が西郷隆盛を撃って
負傷させたってどこまで真実なんですか。
交戦してたのは確かですけど、西郷は他の場所にも援護に行って負傷した
みたいに書かれてるのもあったんですけど。
48 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:00:12.57
武家諸法度って公家侍には関係なかったのですか?
>>35 面白いテーマだが、0〜100と
101〜1000とどっちが影響大か、ってとこかな。
質と量というか、具体的な西洋化の分野、
そういうのにもよるだろうね。
50 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:26:41.68
ウィキペディアの「凡下」の記事には
「鎌倉幕府は御家人を「侍」とし、郎党・郎従をはじめ名主・農民・商人・職人・下人などを一括して「凡下」と呼び、
幕府の職員でも雑色以下の者は凡下として扱われた」
とありますが、そうだとすると非御家人の武士は侍身分として扱われてなかったんですか?
>>50 まあそういうこと。本所一円地住人と呼ばれた非御家人系武士は鎌倉幕府から大きな差別を受けていた。
鎌倉幕府というのはすべての武士を組織した政府ではなく、東国武士中心の東国政権に過ぎないものだった
>>51 幕府と関係ない荘官や名主でも郎党をもって武装した人々がいたようですが
そういった人々はすべて本所一円地住人・非御家人武士のようなカテゴリーで考えていいのでしょうか?
それとも「侍身分ではないけど武士並みの戦力をもった人々」の間でも
あれは武士である、あれは武士ではないといった区別はあるのでしょうか?
戦国時代、戦のついでに町が荒らされて、盗んだり人を殺したり誘拐したり
ってことはやっぱりあったんですか?
勝った際にその荒らした所も自分の領地になるわけで、
恨みを買うだけでいいことなさそうなのですが。
もしあった場合は下っ端の勝手な行動でそうなるのですか?
それとも上から襲って来いと指示されてたり、黙認状態だったりとかだったんですか?
>>52 「武士であるが御家人ではない」層だと考えていい。
武士であるかどうかというのは、代々「武芸の家」として武技を受け継いでいるかどうかによる
>>53 足軽たちにとっては略奪こそが合戦の主目的。
そもそも勝ったから即その土地が切り取れるわけではなく、戦略の一環としての略奪などもおこなわれていた。
そして一義的にはその責任は、そういった自体を防げなかったその土地の領主の能力の無さから来るとされる。
まあ確実にその土地が自分のものになるとわかっているような場所では、戦国大名も略奪などはなるべく控えるようにはする。
要は政治的なもの
>>55 あー、なるほど
理解できました。ありがとうございます
57 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:27:36.85
所謂「武士」と「公家さんの側にいる侍」って、どっちが格上だったのですか?
58 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:34:03.21
>>49 文明開化時は社会インフラと一部上層階級の人の生活習慣に西洋文化が入ってきたって感じであり、
敗戦後はそれが広く大衆にまで入ってきたって感じですね
こういう場合はどちらの影響が大きいと解釈するのが妥当なんでしょう?
>>54 >「武士であるが御家人ではない」層だと考えていい。
>武士であるかどうかというのは、代々「武芸の家」として武技を受け継いでいるかどうかによる
なるほど。分かりやすい解説ありがとうございます。
すっげーどうでもいいことなんだけど
昔の人ってお茶どうやって淹れてたの?
今みたいな茶漉しって作れ無さそうなんだけど
普通に煮て上澄みを取るっ感じ?
煎茶は江戸時代になってからでそれまでは抹茶しか無いと思う。平たく言うと茶道の飲み方だ。
>>60 >>61 一応「煎じ茶」というものがあった。薬みたいに茶葉を煮立てて煎じて飲むもの。
これが後に煎茶に発展した
63 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:31:03.10
横から失礼しますが、小説で、信長は働きの良い家来に対して
茶の湯を許可したってのがあったんですが、昔は許可制だったのですか?
煎じ茶は薬を煎じて飲むのと一緒だから薬缶で煮だして布で濾すかもしれん。
>>63 信長はそうやって茶道の価値を高め、茶道具の価値を高めて恩賞に利用したというね。
あくまで信長の家中での話だと思うけど。
>>58 視点とか何の学問による質問かだろね。
日本史全体だと維新後のゼロのとこに入ってきた
ほうが重大事件とかね。
でも、文化史とか生活庶民一般とかの
「広い影響」という話だと戦後の大衆西洋化のほうが
実感としても大きく感じるし現在形でもあるからね。
最初に面白いテーマと言ったのは
こういった現在形で語れる日本史というのは
なかなか貴重な問題で決して答えの出る
問題ではないでしょう。
テストの解答的ではなく考える日本通史上の
テーマということで、こっから先はものすご〜く
個人的なお返事になってしまうわねぇ。
69 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:20:45.93
「遠山の金さん」や「江戸を斬る」はフィクションですが、
江戸時代の法や慣習で、裁判官である町奉行自身が担当事件の証人になることは可能だったのでしょうか?
奉行自身が直接事件捜査することはなくても、奉行が偶然事件を目撃し、それが自分の担当事件になるかも
知れないなあと。
70 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:46:22.51
奉行が「証人」なんて卑役をつとめるわけが無い。
奉行が、下々の住む町へ出かけるわけも無い。
従って、「目撃」するハズが無い。
法はともかく、
>奉行が"偶然"事件を目撃し、それが自分の担当事件になる"かも知れない"なあと。
慣習になりうる程の事例が積み重ねられた可能性を、自ら低くしてないか?
72 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:01:15.83
江戸時代とかで、街を歩いてるときに、たまたま新鮮な貝のシジミが
売ってあったとします。
それを買った場合は何に入れて持って帰ってたのでしょうか。
現在のようにビニール袋とかはないですよね。
手ぬぐいとかでしょうか。
73 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:03:28.41
竹籤(たけひご)で出来た笊(ざる)。
茶漉しが無いと煎茶を入れられないと思ってるこの人は、
今の世でも使ってる急須を知らんのか。
訊いてる内容は、国史の問題じゃないね。
民俗学風俗学文化学の対象ばかり。
>>72 魚は川沿いの魚河岸に買いに行くか、ボテフリが売りに来るかのどっちかだよ。
貝類は別かなぁ?
てやんでい、手ぬぐいがなけりゃ、煮〆みてえな六尺に包んで帰らあな
77 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 23:52:56.72
↑汚ねえなぁ!
しかし、ま、「良」としよう。
新年度の進級を認める!
春休みして宜しい。
78 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:49:46.11
天皇が着座する前の警蹕の声は、正確には何と発音していたのですか?
誰が声を発することになっていたのですか?
79 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 16:41:40.09
>>78 「枕草子」では帝に食事を運んできた蔵人(天皇の側近の雑務をおこなう官僚)が
足音を高くして「をしをし」と言ったと書かかれてあります。
この声を発するのは帝の側近である蔵人です。
現在でも一部の神社などには警蹕の声が残っており「ヲー」などと発音しているようです。
80 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 17:15:16.76
>>79 ありがとうございます。
天皇に対していつから使われなくなったのですか?
或いは今でも時によっては使われるのですか?
>>80 そういう礼式が変わったのは明治維新だろうな
>>80 現在も毎年11月23日に神嘉殿で行われる宮中行事「新嘗祭」では警蹕の声が出されます。
天皇の前に、神に供えるための神饌が運ばれてくる際、
神饌を運ぶ掌典という女官が「おーしー」という声を出して天皇の前に配膳します。
天皇は運ばれた神饌を一つ一つ箸でとって神に供えるそうです。
83 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 20:31:02.78
大嘗祭では如何なものでしょうか?
岩明均の雪の峠って漫画読んでると、
佐竹ってのが清和源氏云々って出てくるんだけど、
この清和源氏ってのを検索してもイマイチ理解が出来ないです。
誰かどうか教えて下さい。
ちなみに頼朝や義経ってのはこの清和源氏ってのに関係するんですか?
>>84 源氏とは天皇の子孫が皇族から外れて臣下になる時に「源」の姓を与えられた者を言います。
その中で清和天皇の子孫から源氏になった者を清和源氏と呼びます。他にも宇田源氏とか色々有ります。
清和源氏の中でも有名なのが八幡太郎義家です。前九年の役、後三年の役で活躍して
源氏の武名を上げました。源氏が武家の棟梁と見なされるようになるのはこの辺からです。
頼朝や義経はこの義家のひ孫の義朝の子供です。
義家に二人の弟が居て、加茂次郎義綱と新羅三郎義光といいます。この義光の子孫に佐竹氏が居ます。
甲斐の武田とか奥州(岩手)の南部もそうです。
>>84 平安時代の天皇はだいたい子だくさんで、放っておくと皇族がどんどん増えてしまう
皇族が増えて、皇族として贅沢な暮らしをさせていると、養うのも大変になってくるわけだ
そこで、皇子を臣籍降下して自立させ、独立した家を営ませた
その時に、皇室を源流とする家ということで、「源」という姓を与えられたのが源氏
他にも臣籍降下した皇族に与えられた姓には、「平」とか「在原」(在原業平が有名)もあるが
「源」もよくつけられた
自分の子に「源」の姓を与えた天皇は清和天皇だけでなく、他にも何人もいたから、同じ「源」を
姓にする家系がいくつかあった
だから、どの天皇の子を祖先とするかによって、清和源氏とか嵯峨源氏とか村上源氏というように
区別する
で、初期の頃の嵯峨源氏なんかは、源氏と言っても、武士というより都の貴族的なイメージが
強いけど、清和源氏ともなると、どんどん地方に出ていって武士化し、地方での勢力を確立し
ていって各地に土着し、多くの土地に子孫を残しているわけ
>>84 系図には諸説あるが、
清和天皇ー貞純親王ー源経基…源頼朝・義経
源頼朝や源義経は血筋を遡れば清和天皇に行き着くことを称していた
清和天皇から派生した源氏の一族であるから「清和源氏」
「源」姓を受けた元皇族は多かったのでそれぞれ行き着く天皇によって
嵯峨源氏・宇多源氏・村上源氏・後三条源氏などいろいろある
ちなみに、平清盛は「桓武平氏」
桓武天皇ー葛原親王ー平高望…平清盛
元皇族から派生した氏族には、高階氏、在原氏、清原氏などたくさんある。
しかし、特に源氏や平氏を与えられた者が多かったため、他と区別するために
遡った天皇の名を冠している。
>>85 武田も皇族の血をひいてるとは知らなかったです。
>>86 紫式部の「源氏物語」の光源氏はこの場合当てはまるんですか?
>>87 なんか凄いですね。
元をたどればいろんなところが皇族の血をひいてるって。
>>88 光源氏も桐壷帝(もちろん架空の天皇)の第2皇子で、臣籍降下して源姓を与えられている
伝説とか物語じゃなくて実際にいくさで
矢で敵を倒しまくった名人って誰がいますか?
91 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 00:53:43.33
伝説や物語に出て来る侍しか居ない
源為朝などの源平合戦の頃の武将は、伝説や物語だけでなく
おそらく実際にも弓矢でかなり敵を倒してたんじゃね?
93 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 06:00:09.59
その時代は弓が主要兵器だし、もともとが
「いくさ」は「射」「交さう」が語源だからな。
むしろ、弓ではなく取っ組み合いの白兵戦で死んでいた人間の方が少なかっただろう。
というか、鉄砲以前の戦ではあまり戦死者はいなかったようだ。
いろんな戦の記録を見ても、首級3とか5とか、
散を乱して退却中に溺れ死んだとか
農民に狩られたとかそんなんばっかだ。
94 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 10:48:22.64
大嘗祭に於ける警蹕の声に関しては、どなた様もご存じではありませんか?
鉄砲以前はそんなに大規模合戦自体がなかったしね。
戦国でも水増し大げさがかなりで実際は思われてる
よりかは直接死者は少なかったろうが
薬がないからちょろっとどっか切られたり矢が当たったりして
その後になくなった人は多かったろうな。
何千人も一瞬で死んだら伝染病とかもこわいが
あんまりそういう記録は聞かないな。
>>94 大嘗祭では悠紀・主基の国・郡が選ばれ、それぞれから稲穂が献上されます。
悠紀国から献上された稲穂は宮中の悠紀殿で、主基国から献上された稲穂は宮中の主基殿で、
それぞれ御飯、白酒、黒酒といった神饌に造り変えられますが、この最初に稲穂が
悠紀殿や主基殿に運び込まれる際にやはり警蹕の声が出されます。
大嘗祭の当日、天皇は最初に悠紀殿、続いて主基殿に入り、いずれでも、
天皇自身が神前に神饌をささげた後、神饌を食べて五穀豊穣を神に感謝します。
>>94 完全にうろ覚えだけど「よやよや」とかそんな声じゃなかったっけw
太平記のどっかに書いてたような
98 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 22:49:24.57
上杉謙信と武田信玄、よく戦さの天才と書かれてますが、
あの当時、土佐や薩摩や中国地方の大名と比べても、
やはり凄かったのでしょうか?
最強!とか、少年ジャンプで御腹一杯でつ
小説や漫画は勝つ側、負ける側に読者が納得できる理由が必要なんだよ
それができない無能な作家やコメンテーターは、「天才だから」で誤魔化すにすぎない
九州を統一した島津や四国を統一しそうだった長宗我部、中国を統一しそうだった毛利に対して、
信玄は甲信地方と、関東と東海の一部しか盗ってません。
それなのに評価が高いのは、やはり江戸に近い場所だからですかね。
もちろん実力は凄いと思いますが。
信玄は家康がリスペクトしたからです。権現さまが糞を漏らすほど強かった、と持ち上げないと
家康が小物になってしまうし。
(半分ウソ)
103 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 20:30:04.42
質問です
*人々のためにかんがい用水や農地を開墾する、大仏作りを助ける。
これにあてはまる人物が誰かわかる人教えておくれ
行基
だけど、宿題は自分でやれ
スレがとまたってことは今までの
質問は全部宿題だったってことか?
江戸幕府はどうしてオランダには、李氏朝鮮における倭館のように、在外公館のような使節を置かなかったのでしょうか?
現地を実見すれば、フランス革命の意義や、ペリー派遣の危険性も切実に理解できたろうにと思ったので質問しました
>>106 日本人の海外渡航を禁止してるのに出来る訳が無い。
>>106 > 現地を実見すれば、フランス革命の意義や、ペリー派遣の危険性も切実に理解できたろうに
そんなものは行かなくても把握してたっつーの
黒船来航前から黒船を作ろうとしたのは有名な話
110 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 20:37:57.06
>>107 一般の日本人の渡航ではなくて、大使館のような外交交渉の専門家を置いて欲しかったなぁと思ったので
>>108 オランダ風説書を見ても「フランスで下民が反乱したんだ、ふーん」みたいな印象で終わってるみたいだし、
オランダがフランスに占領された頃、どうも国情が怪しいってことで前野良沢が直々に問いただしたそうですが、的外れで結局問い詰められなかった
ってなエピソードを見ると、行かなくて把握ってのにも限界があったように思えるのですが
>>110 幕府の情報収集がオランダだけだと思ってるのか?
中国からもロシアからも入れてる。
幕府はほぼ性格に当時の国際情勢から日本の国力まで把握していた
112 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:46:08.68
>>111 たびたび済みません
情報を仕入れていたのは分かるのですが、どれもアヘン戦争やゴローニン事件のような突発的な事件によって、短期集中で関心も持つだけで、
実際に現地を見た大黒屋光太夫や、漂流して欧米で生活した経験者も、終生軟禁して、幕末まで生きた情報を流布させない姿勢だったのが
つくづく惜しい気持ちなので、清やロシアとは正式国交がないから無理としても、
国交のある朝鮮には倭館を置いてるんだから、同じく国交のあるオランダに焦点を絞って質問した次第です。
質問の本意は、在外公館のような自前の情報収集の必要性と、国際関係という視点の発見が、
西洋に押し付けられる前に、日本単独で芽生える可能性があったのかを聞きたかっただけです。
長文としつこさ失礼しました
現地に日本人を常駐させたところで
情報収集能力は今の外務省と大差ない悪寒
WW2の時は陸軍の駐在武官が正確な情報を入れてるのに、外務省は無視したらしいからなぁ。
>>112 たとえ駐在するとしてもインドネシアだかの東インド会社になるけど、意味あるの?
質問の動機に関しての結論は自分で出てるじゃん
在外公館を置いても意味ないよね
逆に、オランダどころか明・清にも置かないで朝鮮にだけ置いた理由から考えたら答は出ると思うよ
倭館に近代における大使館的役割がどの程度あったのかも含めてさ
なんか的外れというかおかしな
否定レスばかりだからマジレスすると
長い江戸の間に外交センスみたいなものが
なくなって在外公館の持つ意味とか重要性とか
そんなものがわからなくなってたんでしょう。
情報収集についても同様で
把握してたというのとその意味や価値を
理解していたというのはまた違う問題。
106さんが知りたいのはそういうことじゃないのかな。
どうしてそうなったかというと、これは鎖国と国内の平和ボケ
に理由があるから、当時にそういうものを求めるのは
無理でしょうなぁ、とぐらいしか言えないでしょね。
それと初期に相手国はそういうの置かせたくないから
否定的に「意味ないよ」みたいなこと言われてそのまま
260年すぎてしまった、とかね。
朝鮮に関しては個別に例外的に考えるべきで
こっちゃを基本にするとちと本末転倒かもしれないわね。
>>116 アホか。江戸幕府は常に海外情報収集しとるわ。
松尾晋一の「江戸幕府と国防」くらい読め
>>116 >把握してたというのとその意味や価値を理解していたというのはまた違う
この2つはどう違うの?
知識人の書簡なんかを見ると、人材を登用して砲術を習わせて悪賢い異国人の侵略を防ぐのが理想
ってなこと書いてあるけど
危機感は間違いなくあったよ
119 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 23:20:57.60
>>117 たまたままとまった休暇が取れたので江戸時代関係の新書だか文庫だかを続けて読んだので
106みたいな質問をしてしまいました。あわせて「江戸幕府と国防」も買えばよかったですorz
>>114 東インド会社までしかいけなくても、あの辺りの覇権がイギリスに移ったってことを肌で感じられたと思えるので意味はあるかなぁと
>>115 歴史にifはないし、韓国の自生的近代化論みたいで嫌なのですが、気になったので質問しました。
wikiったら倭館は結構大がかりで学生も選抜・留学させてたみたいなので、もし朝鮮で(ありえないでしょうが)市民革命・産業革命が起こったら、
たぶん総合的に分析・応用できたろうと思われるので、同じことを蘭学でもやって欲しかったなぁと思ってしまいました
>>116 読んだ本で、ロンドンの風景やナポレオンのロシア遠征が既に知識層に知られてたり
桃山時代の奉納絵馬に巨大な朱印船が描いてあるのに驚いた商人に対し坊主が
「幕府が禁じるからこうした物が作れなくなってしまったんだ」とか諭していたとかいうエピソードがあったので、
在野のその層を政治に組み込めば、平和ボケが蔓延しなかったではと思った次第です
>>118 「侵略を防ぐのが理想」と分かってるのに林子平を弾圧したり、長崎しか大砲で守らなかったりした幕閣の価値判断が、
判断が遅かったのか、判断が迫られてるのに気づいてなかったのか、どうも見極めづらい気持ちはします
>>117 誰も収集してない、とは言ってないが。
>>118 まさにそこで、理想論や危機感はあっても実行してない
というのがその違いになってるわね。
ちょっと表現が悪かったかもしれないが
ちゃんと勉強すれば東大にだっていけるかも、と
わかっててもつい遊んだりそれが実行できないのが
一般というかね。
理想や危機感はあって情報収集という
行動にもちゃんと出てても、それを実務レベルで
どのぐらい現実に対策とかしているか、というかね。
それと、知識人じゃなくてあくまで幕府側の260年の間の
要人の話なので、まさに「収集までしてたらいざ黒船
騒ぎの時になんで?」みたいな風に話はつながっていくわね。
121 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 23:30:05.01
平安時代にあれだけ隆盛した女性文学が断絶したのはなぜですか?
武家の台頭というレベルのことはわかるんですけど、もっと詳しく直接的なことを知りたいです。
質問の答えにはなってないけど
南北朝時代にも「とはずがたり」とかあるから断絶まではしてないんじゃ・・・
>>122 知名度がないだけで断絶はしてないね。
「うたたね」「十六夜日記」…鎌倉時代、阿仏尼が記した自伝
「とはずがたり」…鎌倉時代、後深草院二条が記した自伝的物語
「竹向くが記」…南北朝時代、日野名子が記した自伝
「お湯殿日記」…室町〜江戸時代まで代々の女官が書き記した日記
創作物語も多くは散逸しているがあるにはある
ただし、「源氏物語」を書いたと書かれてある「紫式部日記」のようなものがないので
物語の多くは誰が書いたか分からない(男が書いたか女が書いたか分からない)
目覚まし時計がない時代、どうやって起きていたのでしょうか?
特に江戸時代の毎日の登城など、遅刻出来ないと思いますが。
毎晩早くに寝てしまうので、必然朝早く目が覚めるといった感じだったのでしょうか
お寺の鐘が鳴ってた。
それで起きたかどうかはともかく
そっからおおまかに判断してたんだろね。
ただ、時計のない暮らしで正確に何時に家を出て
着いたのが何時とかはわからないから
おおらかというか勘というか
どうしてたんだろう、とかいろいろ思うよね。
もちろん江戸どころかもっとずっと
古い時代とか。
明治くらいの人でも体内時計は優秀だったみたいな話を聞いたことあるから、
それより前の人は、なおさら時間感覚が磨かれてたんじゃないかなー。
でも時間を正確に気にしなきゃならない職業自体少なさそう。
明治時代の万石事件について調べたいのですが詳しい本はありますか?
>>124 >毎晩早くに寝てしまうので、必然朝早く目が覚めるといった感じだったのでしょうか
基本的にはその通りでしょ
昔の人と現代人とでは、就寝する時間についての感覚がかなりずれている
おそらく、2〜3時間ぐらいずれてるんじゃないかな
現代と違って、昔は電気もないし、灯り用の油もそれなりに高価で、よほどのことがない限り、
人は晩飯食ったらすぐに寝た
仕事や勉強や娯楽のために遅くまで起きている人なんて少数派だ
人間が1日8時間の睡眠をとるものとして、午後8時に寝つけば、朝の4時には目が覚める
10時間寝ても、あるいは、たまに夜遊びとかして午後10時に寝ても、朝6時には目が覚めるはず
>>124です なるほどやはり、現代人と当時ではそもそも時間に対する概念が違いますよね。
正確な時刻を示す物も無く、またそこまで正確に動く必要がないですものね。
しかし一方で不定時法の時計を作ったりもしたわけで、ガワは緩いが中は固いかもしれない
132 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 23:34:11.93
ウィキペディア 日本の軍事史項の幕末欄を読んでおりますと、
「翌1855年に幕府は長崎海軍伝習所を開き、近代海軍である幕府海軍が設立された。
また1862年には幕府陸軍も設立された。」との事です。
幕府海軍と陸軍で設立の時期に差が出たのは何故でしょうか?
なぜ、陸海軍とも創立が同じ年でなく、陸軍が先、海軍が後でもなく、海軍が先で陸軍が後になったのか。
>>132 想像ですが海防の急があったので海軍が先になったかと。
>>132 海軍については黒船を見るだけで近代化・西洋化の必要を痛感したろうけど、陸軍については
そこまで近代化の必要性を感じてなかったんじゃない?
日本にだって大砲もあれば火縄銃もあったわけで、それが当時の西洋列強のものよりどれだけ
性能が劣るものかは、ほとんどの日本人は、薩英戦争や下関戦争までは実感してなかった
んじゃないの?
>>124 江戸時代、武士たちは城下に集住していましたが、
城に城鐘と呼ばれる時を知らせるための鐘が設置されていて、鐘番がそれを叩いて城下に刻を知らせていました
いつから鐘を叩いて刻を継げるようになったかについては
天智天皇が飛鳥に造った水時計が一番初期のもので、一定の時間で落ちる水の装置によって時の流れを知り、
当時から鐘を叩いて刻を知らせていたそうです。
江戸時代にはすでに城内に機械式時計があり、それで時刻を知って鐘を鳴らしていました。
江戸城には時計之間と呼ばれる時計を設置した部屋があり、鐘を鳴らす役目を持った坊主が詰めていました。
松平勇雄(元)福島県知事
井伊直愛氏 元彦根市長
139 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 16:24:02.04
佐竹敬久
細川護煕
古代~平安の歴史をさらっとおさらいしつつ
文化風俗などを学べる本は無いでしょうか
>>135 何で鐘を鳴らすのは坊主の役目だったんですか?
お坊さんたちが一番規則正しくて
早起き早寝と思われてたんだろなぁ、古代から。
>>141 江戸城内には「坊主」と呼ばれる頭を丸めた人たちが御用掛として詰めていたんです。
(どこかの寺に本当の所属する僧侶ではありません)
なぜ頭を丸めていたかというと、こうすることで性別がなくなると考えられていたからなんです。
江戸城では表・中奥は女性禁制、大奥は男子禁制だったのですが、
坊主はどちらへも行き来して雑用を行うことができたのです。
こうした坊主が、鐘を鳴らす役目も帯びていたということです。
144 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 09:24:36.37
時代劇で茶屋などの軒先に、何か細長い長方形のものが紐に連なって干してある(?)ことがありますが、あれは何なんでしょう?
名前がわからず、いろいろググっても見ましたが検討もつきません。よろしくお願いします。
干し柿じゃないよね。
細長い長方形ってのが浮かばないなぁ。
146 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 10:58:37.16
「縄のれん」のことではないんですか
147 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 12:40:32.71
>>145 干し柿...ではないと思います。封筒のように薄くてかっちりした長方形でした。
>>146 違います。長方形の白っぽい物体が、紐に等間隔に吊るされていました。
↓のような感じです(これは正方形ですが)。
□
|
□
|
□
スクショとか写真取ってうpしてみたらどうだ?
149 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 14:15:19.85
しめ縄の紙垂だろ。
「シデ」と言う。
神社などにあるヤツ。縁起物や。
違うかなあ〜
旗本、御家人の給料って、いつ頃、誰が、何を持っていったのですか?
152 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 19:03:50.79
>>151 旗本・御家人の給料支払は知行取と蔵米取の2種類の支給方法があった
知行取は旗本などに領地が与えられそこの百姓から直接徴税して収入にする方法
蔵米取は旗本や御家人に蔵から出した米で給料が支払われる方法
蔵米取の場合は、2月・5月(それぞれ4分の1ずつ)・10月(2分の1)に米が支給された
米がお金の代わりになったんです
>>151 江戸だと浅草御蔵で給米が毎月支給され、旗本はそれを米商人に販売して現金収入を得た。
>>151 「札差」でググりたまえ
時期に関してははおおよそ2月に1/4、5月に1/4、10月に2/4というように分けて支給される
155 :
日本@名無史さん:2013/03/14(木) 21:43:28.53
遣隋使以来の、日本と中国歴代王朝の付き合いの中で、中国から導入したものも多いでしょうが、逆に
日本の朝廷・幕府が、意図的に導入しなかったものはありますか?
「この手法、中国ではうまくいっているようだが、日本には合わないね。採用は見送りという事で。」みたな。
あるいは、朝廷・幕府は隋・唐・宋・元・明の衰退・滅亡原因を調べ、同じ状況にならないように
予防措置をとったりとかしたのでしょうか?
宦官と革命と科挙はよく言われるよね
つか中国の精度を取り入れたのなんて律令制が最初で最後だろ
その"制度"を定義づけないとなんともいえないが、質問主は制度だけには限定してないし、
徳川幕府は朱子学を制度的に導入してなかったか?
朱子としては中華至上主義なんだけどね
徳川幕府は幕府至上主義を植え付けるために導入したから、都合よく改編してそうなもんだけど、水戸学にはなぜか目を潰ってるんだよね
よく考えたら、家康は「権現様」だけど、伝来仏教に「権現」って発想もないわな
>>155 遣唐使で仏教関係の人や物が欲しいっておねだりして
道教も持ってきなよと言われてそれを有耶無耶にしたりしている 」( ´・ω・)「
>>159 家康の権現は仏教としてじゃなくて神道として祭り上げた神号じゃなかったっけ
>>161 そうだね
言い方が悪かった、
つーか、擦り合わせる側と擦り合わされる方が逆だわな
ゴメン
>>158 幕府が朱子学を公認したのなんて後期も後期、松平定信の時代にやっとだぞ?
俗説だけじゃなくてちゃんと歴史勉強しろ
164 :
日本@名無史さん:2013/03/15(金) 01:15:45.72
亀レス申し訳ありません。
>>148 何度か映像で見たあと調べて見ても出てこなかったので、残念ながら映像は手元にありません...
>>149 ちょっと形状が違うと思います...
>>150 おお!まさにこれです! 私が見たものは、写真のものよりそれぞれの間隔がもう少し空いていましたが、おそらくこの凍り豆腐かと思います。
皆さん、しょうもない質問にお答えいただきありがとうございました!!
凍り豆腐か。謎がとけたね。
何の時代劇だったかがわかるとおもろいが
ちょと気をつけてみよう。
小道具として使いまわしてそうだし。
>>157 大宝律令・養老律令は唐律が規範になってるが
徳川期は明律、明治の新律綱領は清律が参考になってる
くだらない質問で申し訳ありません。
最近日本史に興味を持ちました。
おおまかでいいので、歴史上の人物や出来事が分かりやすくまとめてあり、
持ち運びできるサイズの日本史の本でオススメがあれば教えていただきたいです。
ちなみに興味を持ったのは主に戦国、江戸、明治時代なので、
古代、中世、現代と分かれている本でも構いません。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
後醍醐天皇の健武の親政が失敗した理由
足利尊氏の室町幕府が存命中に全く安定しなかった理由
足利義満が南北朝合一を果たせた理由を構造的な観点から教えてください
官僚機構を整備出来なかったからとか最大勢力の支持基盤を抑えられなかったとかいろいろあると思いますが
構造的な変容を知りたいのです
歴史地図みたいのも楽しいね
171 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 20:06:01.88
江戸幕府の高官達が、日本国の科学技術・軍事力が、欧米に比べてすっかり時代遅れのものになってしまって
いる。こりゃいかんな。ヤバスと
1 薄々気付いた。
2 はっきりと認識した。
のはそれぞれいつ頃で、どのようなきっかけによってでしょうか?
1855年に幕府海軍開設ですので少なくともその時点では、はっきりと危機感を持っていたことにはなりますが、
いつ頃から認識したのでしょうか?
逆に、いつごろまでは自分達の科学技術・軍事力に自信を持っていて、外国から大規模軍事侵略を受けても
充分迎撃可能と思っていたのでしょうか?
>>171 > 1 薄々気付いた。
文化露寇(フヴォストフ事件)
> 2 はっきりと認識した。
アヘン戦争
むしろ、一部をのぞくほとんどの幕閣にとっては、うすうす気づいたのがアヘン戦争で、
はっきり認識したのは黒船来航じゃね?
>>168 まず、後醍醐天皇の親政だが、それは失敗するべくして失敗した
そもそも武士たちが鎌倉幕府打倒に立ち上がってくれたのは、鎌倉幕府が全国の武士たちの不満を
解消できず、武士の不満をますますつのらされたから
その武士の不満の主要なものが土地問題や、経済問題
ところが、武士たちが後醍醐天皇を神輿にすえて鎌倉幕府を倒してみると、後醍醐天皇は土地問題、
経済問題を解決してくれるどころか、前よりひどい状態にされてしまった
後醍醐は、過去の朝廷が支配していた時代の支配こそ正しいと考えて、すべてを平安時代の過去の
状態に戻そうとしたから、現代の土地争いの問題が解決するはずがなく、かえって訴訟が燃え上がり、
武士の不満が高まった
はっきり言って、後醍醐は、現実がまったく見えていないアホだったとしか言いようがない
>>168 次に、足利尊氏存命中に室町幕府がなぜ安定しなかったか
尊氏の優柔不断による
たとえば、もしも非情だが有能な織田信長や徳川家康だったなら、自分が政権をとった時点で、
危険人物の後醍醐天皇を島流しにするか、少なくとも幽閉して厳重な監視下に置いて、南北朝
二朝並立という事態にはしなかったろう
足利尊氏は、人間的にはいい人だったが、それゆえに非情に徹しきれず、恩人でもある後醍醐
天皇への対処が甘くなり、結果的に南北朝っという事態を招いてしまった
南北朝という、朝廷が2つ存在する事態になったことで、現政権(幕府と北朝)に反対する勢力が
南朝を担いで反乱するという図式が出来上がった
これが安定しなかった最大の理由だ
>>168 義満が南北朝合一を果たせた理由
それは、その頃には、南朝が実質的に、落ちぶれた、悲惨な地方政権にすぎなかったから
前述のように初期には幕府に反抗する勢力に名前を利用されてきた南朝だが、この頃には、田舎の
山中でかろうじて存続しているだけの、ボロボロの状態
「南北朝」というと、北朝と南朝が、対等な存在のような印象を受けるが、この頃の南朝はその日その日
食うのもやっとという、滅亡寸前の状態
義満に、もういい加減対立やめようと言われたら、それにとびつくしかなかった
尊氏は悩める心優しき青年のまま征夷大将軍になってしまったという印象かな
その辺りの政治的決断力や事務能力の不足を弟が補ってた筈なんだが、その関係が瓦解すると同時にやはり幕府もカオスになってしまったというわけで
わかりやすい、感動した。
>>173 幕府か黒船来航なんて来る前にとっくに存在を認識してたし、ペリーは何も出来ずに湖国した。
黒船来航は幕府の外交的勝利だぞ?
ペリーは幕府が長崎に誘導するのを拒否して浦賀に侵入し、
幕府が拒否したかった国書を押し付けて行ったのにか?
>>180 そうだよ。国書を渡すこと「しか」出来なかった。
カビの生えた古い理解はそろそろ卒業した方がいいぞ
>>181 それは違うぞ。1年後に返書を取りに来ると言ってるし、
実際には一年経たないうちに来て幕府の不意をついて慌てふためかさせている。
それとなぁ。ペリー以前には誰も国書を受け取らす事は出来なかったのを忘れるな!!
>>179 黒船が来る前に存在を知っていたことと、そもそもの質問者である
>>171の言う「科学技術・軍事力が、
欧米に比べてすっかり時代遅れのもの」とちゃんと認識できていたかどうかは、別の問題だろう
実際にそれを見ずに「西洋には鉄でできていて蒸気の力で走るすごい船があるそうだ」という話を
聞いただけで、「わが国の軍事技術は時代遅れだ」と認識できた人間が幕府にいったいどれだけ
いたことやら
まあ、一部の者はわかっていただろうけど、ほとんどの者は実際に黒船がやって来るまではたいして
危機感を持っていたとは思えない
危機感はあったけど、そこまで大事と理解していなかったんだろ?
火事が起きてバケツリレーで対応しようとしたら、予想以上の大火事になったみたいなもの。
その通りだ。時代遅れと認識出来てなかったから先例に習った対応で済むと思っていた。
一方、ぺりーはレザノフなどの先例を良く研究して幕府のやり口を熟知した上で、それには
従わない方針を決めて来航した。
>>175 尊氏が非情な人間だったら武家の頭領として担いで貰えたかね?
担いでもらえた、のではなく政権奪取後の話だろう。
義満がすごいのはいいとして
尊氏の反面教師の部分は多いと思う。
これは三英傑にもいえることで、直接の上司の
至らぬ点をフォローし、さらに新時代に適確に対処した。
こういうのをたまたまとか必然とか言う歴史観もあるが
進歩とか発展というのは前任と後の違う点を
比較しどう克服してたかを考えていくと
その統治者の能力や資質だったことがよくわかる。
尊氏に戻すとあれだけのことをしたのだから
指導者として優れていたのは当然で
足りない部分を義満が補ってそれが足利の
とりあえずは長期政権につながった。
徳川がバケモノだから、足利を評価しない向きも多いが
頼朝、信長、秀吉ですらすぐに途絶えた。
それを考えると尊氏ー義満で構築したものは
それなりの評価が必要だろね。
知識が無いんで質問するけど尊氏の他に担ぐべき御輿は有ったんだろうか?
180が、カビのはえた古いなんとか、って
言ってるけど、もしかして最近は日本がペリーを
追い返した勝利外交、っていうのがあるの?
なんかイマドキのネトウヨ発想でなんだかなぁ・・
>>189 鎌倉倒した武功があるし天皇と対立した
時点では、御輿として担がれるというよりは
自らの危機のために行動を開始したわけで
武士の総意として誰かを担ぐ、というのも
少し違うかな。
>>190 勝利とは言えないまでも徳川幕府が単に黒船に右往左往した無能だったって評価は見直されてるよ
そういう評価は明治政府によって実情よりも悪く宣伝されてる面が大きいからね
それと、ネトウヨの場合、井沢元彦あたりの珍説を真に受けて
「アメリカは日本に対して侵略的な意図は全くなかった。アメリカは太平洋を侵略するつもりはない。侵略の意図があったとするのは共産主義者の陰謀」
「アメリカはただ捕鯨がしたかっただけなのだ」
って言い出す連中が多い。
彼らにはハワイ併合も米西戦争も見えないらしいw
194 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 15:07:59.65
お歯黒をした人骨や埴輪が見つかった最古の古墳は、どこですか?
>>174-176 ごめん
どちらかというと統治機構の変容を知りたかったんだ
でもありがとう
その「統治機構の変容」というのが何を意味してるのか判らんから
意図してるのと違う答えが返ってくるのよ。
>>196 たとえば後醍醐天皇は国司を派遣して地方を統治しようとしてたじゃない
これがなぜ機能しなくて足利尊氏や義満はどういう統治体制でトップに立ち続け制度が機能したのかとかそういうの
足利幕府は国司の代わりに守護を任命した。守護には武力を持った武士を当て、実力で統治させた。
国司はお公家さんだから武力を持っていなかった。その違い。
こんなんで良いのか?
>>198 尊氏と義満で安定度が全く違うけど制度が変わったりしたの?
それは制度の問題ではなくて南北朝の対立で世情自体が安定していなかった所為。
>>192 明治政府というより結果論的解釈での
徳川マイナス主張はわかるのだけど
同時代的解釈でもやっぱりある程度は
マイナスに取るのが普通には思えるので
見直されてる、というあたりを少し
教えてもらえるとうれしいな。
専門家の名前とか本とか教えて
もらえれば後はさがすので。
あのあたりは史観に影響されるから
ちょと遠ざかってるのですよね。
江戸時代の蕎麦はつゆが塩辛かったそうですが理由はありますか?
当時、塩や醤油は効果だったと思いますが
残したつゆを再利用したりしたのでしょうか?
江戸は水の質が良くなかったから味付けが濃くなったのかなぁと思ってます
>>202 江戸時代はどうだか知らないが、終戦後の食糧難の時期には、そばのつゆに限らず
客の残した物を平気で再利用するような屋台は存在した
もちろん、混乱期が終わるにつれてそういう店はなくなっていったが、おそらく
高度経済成長期までは、そういう不衛生な店もまだあったと思う
吉兆…
船場吉兆ね
根っこは一緒でも吉兆とは全然違ったから混同しちゃあかん
一般論として、薄味の関西に対して関東は水の質が良くないから味付けが濃いとは言うよね。
208 :
日本@名無史さん:2013/04/04(木) 17:14:51.19
記紀などでは「日本」を「ヤマト」と訓じていますが、いつから「ニホン」や「ニッポン」と音読みするようになったんですか?
209 :
日本@名無史さん:2013/04/05(金) 09:56:18.53
>>208 気になって調べてみた 「にほんという読み方」「平安時代には」「江戸時代には」をキーワードにした
平安時代の枕草子に「日本紀=にほんぎ」と読んでいる。
室町時代の謡曲に「にほん」と出てくる。
江戸時代後期にfo→poという変化が定着する。
という結果が出てきた。
ありがとうございます
戦国時代に明や李氏朝鮮など海外に亡命した有名人は誰かいますか?
おらん
江戸時代になってからならフィリピンに追放された高山右近とかタイに渡った山田長政とか居るんだけど。
214 :
日本@名無史さん:2013/04/07(日) 19:23:43.71
便乗質問ですが、西海に追われた平氏や安徳天皇に、「中国や朝鮮に逃れる」という発想はあったのでしょうか?
そののち、亡命先に帰化するか、捲土重来を期すかという展望はいろいろあるでしょうけど、
これが西洋……というか日本以外の国だったら普通の発想だとも思えるのですが。
もっとも、もしそれを行っていたら、三種の神器を持っていることもあって日本の皇位の正統性に致命的な傷がついたことは確かだったので、それをしなかったのは幸いだったと思います。
南宋の皇帝も最後は平氏のように入水して死んでるので別に普通
216 :
日本@名無史さん:2013/04/07(日) 21:13:15.64
魏志倭人伝にでてくる対馬國の大官とその他の国の官の違いって何ですか?
>>214 無かった。だって行った事も無いし、どう考えても明るい未来は無いし。
これがヨーロッパなら春秋戦国の頃の中国みたいなもので、国は違っても
同じ世界の内だからそういう事も有るだろうけどね。
平氏全体が宋に亡命ってのはまずありえない(地盤のないところに行っても、捲土重来は無理)と思うが、
個々の武将が、壇ノ浦前後に自分個人の命惜しさに宋に逃げるというのは、まったくありえない話でも
ないんじゃないかな
平氏は宋と貿易していたんだし、平氏一門の中には、源氏に降伏した平頼盛や、わざわざ屋島から
出奔して入水自殺した平維盛みたいに、一族の他の者たちとは別の独自の行動をとったのもいた
わけだし、中には自分だけ宋に逃がれて生き延びようとしたやつがいたとしても、おかしくはないと思う
可能性なら何だって言える
事実があるなら出せばいい
220 :
日本@名無史さん:2013/04/08(月) 12:24:23.65
いい質問ですね。いままで亡命なんて考えたこともなかった。
なんで平家は亡命しなかったんだろうね?
コネクションだってあるはずなのに。
どなたか教えてください、お願いします。
相手が受け入れてくれればいいけど
落ち武者狩みたいに、弱ったところを
襲われたらどうしようもない。
国内なら以前世話したりした人の元で
山中でこっそり生き延びるだけとか
可能かもしれないが、言葉も通じないところに
逃げ出すという発想自体が
少し平和ボケした日本的な発想に思える。
亡命という発想はなかったのですか
という質問には、亡命なんて危険でおそろしいことは
考えても実行できない、ぐらいのほうが一般的かな。
もちろん平氏の中にもいろいろいるから
個人のツテをたよって逃げ出したのはいるかもしれないけど
ジンギスカンになった、のがいるからそりゃ
平氏は襲われたろ〜な〜。
222 :
日本@名無史さん:2013/04/08(月) 22:17:14.14
選択肢として亡命を考えることが平和ボケだとは思いません。
むしろ平和ボケ言いたいだけじゃなかろうか、と。
南宋の皇帝陛下にも安南に亡命する案があったが、それは以前から公的な通商があったから。
平氏の日宋貿易なんて、しょせんは民間レベルの貿易に寄生していた程度のもの。
朝廷が、または平氏自ら交易船団を仕立てて往復していたならともかく、上の例は
欧州某国で王位を追われた人物が、オスマントルコどころかアクスムや唐天竺に逃げるようなものだ。
224 :
日本@名無史さん:2013/04/08(月) 22:54:51.94
一家心中する人たちにとって逃亡生活の危険性なんて関係ないじゃんw
まるで中学生がオレさま理論ふりかざしてるようだぞwww
225 :
日本@名無史さん:2013/04/08(月) 23:22:42.33
>>223 一族の滅亡が目前に迫っているのに「宋を頼りにしたいけど、所詮は民間貿易に
毛がはえた程度だから冷遇されちゃうな」とか言ってられんだろーが。
いいかげんうぜーな
事実があるなら出せっての
227 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 00:09:30.05
答えられないひとはレスしないでね。
>>218 寝返ったやつらとかいるじゃん。
見込みのない逃亡生活するよか
寝返ったほうが
まだ生き残りを期待できたってこと。
>>222 平和ボケとか
軍オタみたいなたわごと言わないでね
初心スレだからマジレスもなんだけど
平和ボケに反応してること自体がね・・
普通に日本史見てれば今の状態がどうかぐらいは
わかるだろうし、明日にもこっち向けてミサイルが来るかもしれないけど
「オレたち平和ボケなんかしてない」という論調が多いのには
さすがにあきれる。
230 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 11:57:54.51
>オレたち平和ボケなんかしてない」という論調が多い
多くないし、ほぼ無い。
平和ボケかどうかは質問の内容とは関係ないってこと。
質問に答えられない人はレスしないでね。
感想だけど
戦争を体験していない人がほとんどの国が平和ボケしていないとかむしろ怖い
232 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 16:47:48.26
今の日本を生きる人間が平和ボケしていようが戦時体制であろうが
平安末期の平一族の行動に何ら影響を与えないのですが。
うぜーなー
軍オタは軍板から出てくるなよ
ここは高尚な学問板なんだ
オタごときの出る幕はないんだよ
分をわきまえろ
と、歴史オタが申しております
軍事板は日本史板に比べて
レベルや住人の精神年齢が圧倒的に低いのはなぜですか?
どんぐりの背比べです
>>235 軍オタを含むネトウヨというのは不勉強な人たちが陥る病気みたいなものだからです。
軍オタにもまともな人はいる、という前置きをした上で説明すると
日本において、軍事の知識や現状を知るためには自衛隊(防衛省)発の情報に触れる以外に選択肢がない
当然それらは自衛隊(防衛省)にとって都合の良い情報ばかりなわけで、そっちに偏ってしまうのはやむを得ない面がある
例1)自衛隊は予算を増やして欲しい→そのために驚異(中国ガー北朝鮮ガー)を過大に喧伝する
例2)東京裁判があったとはいえ太平洋戦争の指導者だった層の遺族は未だ自衛隊に少なからぬ影響力を有している
→自民党の支持団体である日本遺族会は太平洋戦争を正義の戦争と喧伝する
例3)自衛隊から受注を受けている重電・造船・通信業なども自衛隊の意向に反することは言いづらい
歴オタは、一般的に言えば(歴オタにもバカはいっぱいいるけど)こういう発言者の属性や政治的な偏りに対して敏感になりやすい
学んでいけば一つの事実に対する全く異なる見方というものにどこかで出会うわけで、「こういう見方もあるしこういう見方もあるんだな」と相対的に見る訓練を経ているから
軍オタは多くの場合、「憧れ」が出発点なのでそうした相対化に慣れておらず、政治的に偏った意見でもそれが唯一絶対の真理だと思い込んでしまう
→自衛隊にとって都合の良い政治的意見の信者になりがち
240 :
日本@名無史さん:2013/04/10(水) 19:25:39.27
質問です
織田信長は本願寺派以外の親織田の浄土真宗の門徒も「一向門徒」に含めてたんてしょうか?
それとも、本願寺派だけを一向門徒として認識してたんでしょうか?
>>240 本願寺派以外の真宗はむしろ保護されていた
>>241 ありがとうございます
つまり、本願寺門徒=一向門徒で、
なおかつ反織田=一向門徒だと信長は認識してたって事で合ってますか?
>>242 そもそもいわゆる「一向一揆」は、同時代資料では「一揆」「土一揆」としか表現されていない。
それを真宗の門徒による「一向一揆」と定義したのは江戸時代中期以降の東西本願寺であり、
戦国期の一向一揆の実態は、真宗門徒「も」含めて広範な勢力の参加した武力闘争。
>>238-239 軍オタへの偏見に満ち満ちてることだけは分かった
それでよく
>相対的に見る訓練を経ている
などと言えたもんだ
>>237 軍オタ=ネトウヨという決め付けにいたっては論外
家康は子沢山で、その子孫たちも徳川本家分家それぞれ血筋を絶やさないように子供をたくさん作っては
あちこちの藩と政略結婚したり養子に出したりを盛んにやっているだけあって、wikiを見てると「この人も
さかのぼれば家康の血を引いてるんだな」って人がいっぱいいるのを見ているうちに、「そうすると、逆に
江戸末期あたりの大藩で家康の血が一滴も混じってない大名ってどのくらいいるんだろう」と、ふと気になりました
わかる人いたら教えてください
>>244 もちろん多数の軍オタと接して得た結論ではないけど、7,8人ほど(内2人は現役自衛官)と接した結論はそうとしか言えないよ
彼らに「大日本帝国が太平洋戦争を行ったことは間違いだったか?」と尋ねると全員が「間違いとは言い切れない」って答えるんだよね
彼らは「今北朝鮮が韓国に戦争を仕掛けるのは間違いか?」という問いならちゃんと「間違いだ」と正解を導けるんだが
>>244 偏見にまみれた板だと思ったら来なきゃいいんじゃね?
くっさいミリオタなんか来ないほうが
こっちも助かるwww
原発止めたらすぐ核分裂止まると思ってる時点でww
核物理学以前に常識のレベルだろwww
末期あたり、とか、大藩、とか
そのあたりを明確にすれば
個別でググればわかる。
ただ混じってるというのは簡明だけど
混じってない、というのはなかなか
難しいかもね。
260年の間に間接的にどこかで混じってる
なんてのもあるだろうし
養子とか側室腹みたいなのもあるし。
>>246 まあその辺は日本の詰め込み教育の影響だと思うが
>>彼らは「今北朝鮮が韓国に戦争を仕掛けるのは間違いか?」という問いならちゃんと「間違いだ」と正解を導けるんだが
日本人ほど属する組織利益を正当化する民族も珍しいがね。大は原発事故から小は食品偽装まで例が腐る程ある。
幹部でもない平社員が中国産うなぎを国産偽造するのは悪質というより奇妙という他ないよ。
253 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 17:02:20.28
倭寇って明・朝鮮側の呼称ですよね
幕府側の呼称や倭寇の自称って、何だったのですか?
生類憐れみの令について、一般にどのような功と罪があったと言われているのでしょうか?
wikipediaで見ても不確実な記述が多く、どの説が有力であるのかがよく分かりませんでした。
>>254 山室恭子先生の「黄門さまと犬公方」でも読んどけ
256 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 11:29:11.10
大仙古墳の被葬者って、仁徳天皇でなかったら誰が候補に挙がってるんですか?
候補というか可能性としては履中天皇あたりかしら
(日本史板初カキコ) 古文書についての質問 御堂関白記のように現
代でも残存する資料は1000年前のものと考えるとすごいものだと思うの
ですが、こうした貴重な資料は現在どのように保存されているのですか?
またこれだけの期間持つ紙の仕組みなども知りたいです。
以前NHKスペシャルで見た冷泉家(藤原定家の子孫)の文庫は普通に倉に収められていたけど。
昭和56年から公益財団法人冷泉家時雨亭文庫として保存につとめて来たらしい。
仕組みっていうか、紙は今でもあるけど普通の和紙だよ。もちろん上物だけど。和紙自体も長寿命だし、
倉は厚い土壁が温度と湿度を調節して長期保存を可能にする。
倉じゃなくて土蔵ね。
日本は太古から同じ王朝が今も続いているとの説をよく見かけますが、
もしこの説が正しいのなら、2000年前に大和朝廷が約束したことを今の政府(朝廷の執政?)が引き継いで守る義務はあるのでしょうか?
まず2,000年前に朝廷が約束したことというのは具体的に何のことを指しておられるのかな?
そもそも明治維新の時律令制度も廃止されてるから。
2000年前はまだ弥生時代だから大和朝廷は存在しません。
>>259 普通に土蔵に保存されていたのですね。和紙は丈夫らしいけどこれ
だけ長い年月をかけても無事に残っていたということに改めて驚かさ
れます。土蔵というものがそうした資料の保存の目的に向いたもので
あるということも理解できました。ありがとうございました。
正倉院御物だって未だに正倉院に納められているんじゃなかったかな。
と思ったら戦後になって鉄筋コンクリートの倉庫に移されたらしい。
>>266 >正倉院に納められている
未だに正倉院に収められてるのは当然だけど、ここは「正倉」の間違いね。
火事の時にすぐに持ち出せるように
京の公家さんとこでは車に乗せて
保管してあったみたいね。
文車、という単語が出てくるし
火事で三台分の日記が焼けた
みたいな記録も残る。
冷泉家には車自体が残ってないかと
思ってたけどNHKスペシャルの時には
触れられてなかったな。
261です。
古事記や日本書紀を読んでてふと思ったので、あくまでふと思った程度なのですが
神話の時代とは重々承知ですが
日本書紀の方は一応大和朝廷の正史扱いみたいなので、日本政府にとっても正史なのか
政権交代や維新があっても前政府、前朝廷の約束したことは次の政府が引き継ぎことによって政府の正当性をアピールする場合がありますよね。
江戸幕府が結んだ条約を明治政府が正そうと苦労したことはよく言われてますし、
2000年前と漠然と書いてしまいましたが、当時大和朝廷が征服した他の豪族に約束した事柄は、
その人々の子孫も混ざってしまっている今となってはアレなのですが
現実性の有無はともかく理論上有効なのかなーと思っての質問でした。
例えばどんな約束が有ったんだろう?
すぐ思い出せるのは、出雲にでかい神社を建てて云々くらいだけど、いまなお出雲大社が有るんだから有効なのでは
と、思ったけど国譲りの神話だから関係ないよね?
石版に日記書いたら燃えないよ!!!!
そもそも神代文字を信じているのかと小一時間
関が原の島津の退き口って、どう見ても無茶にしか思えないんですが。
普通に撤退したほうが犠牲者が少なかったと思うんですが、
なんで評価されるのか不思議だ。
普通に撤退するとああなったのだ。撤退路が家康本陣の脇だったの。
275 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 19:15:40.37
異性の乳兄弟or乳姉妹が主君と結婚した例はありますか?
秀吉の側室の淀の方なんかは乳兄弟の大野治長とエッチしちゃってたそうですが。
鳥丸知己 いじめ 万引き 非行 ホモ 性格 犯罪者 コーラン燃やし
鳥丸知己 犯罪 不正 侮辱 不敬 非常識 入試
鳥丸知己 キチガイ 卑怯 危険 暴力 家庭内暴力 DV
277 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 22:21:53.78
江戸時代の日本人の民度ってどんな感じだったんですか?
質問が漠然とし過ぎてるだろ
お前は「今の日本人の民度ってどんな感じですか?」って聞かれてどう答えるんだよ
279 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 22:38:24.55
別におかしくないだろ
じゃピンポイントでどこどこの地域の民度は?って聞けばいいのか
そもそも「民度」なんて言葉を使うのが頭悪い
漠然としたレッテルに過ぎないのだから
漠然とした質問には漠然とした回答をしてやろう。
「良かったです」
282 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 22:46:13.95
民度は普通に使うだろ
283 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 22:47:29.96
>>282 じゃあ今からある時代におけるある国の状況を話すから、提示された事実だけを手がかりに「民度」とやらが高いか低いか理由を付けて判定してくれ
・男女ともに生涯多数の相手と交尾し、多くの場合意図せぬ妊娠を伴う。そしてその場合その子を堕胎する
・その結果高齢化の度合いが史上最も高い地域となってしまっている
・そうした極めて少数の若者が多数の老人の生活を支える結果となり、搾取された若者は金銭的問題から結婚できない率が年々上昇している
・これらの結果によって、更に少子高齢化は加速されている
・しかも、若者は激しい選別にさらされ、貴重な労働力を社会に役立てることができない若者が多数存在する
・選別をパスした若者はこの国の史上類を見ない過酷な労働下におかれ(参考:明治初期における官僚の労働時間は1日4時間、睡眠時間は9時間)、しかも将来の保証は与えられない
・それを是正できる指導的地位者の選挙において、若者はこうした問題をより助長する政治家に投票する傾向が見られる
285 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:09:28.93
お前は民度の意味をわかってない
お前が書いたのは社会問題じゃん
民度はもっと生活、文化の話だよ
>>285 あんたの脳内定義を垂れ流されてもナァ……
せめて「民度」の定義を述べたらどうだい?
287 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:24:46.28
人民の生活や文化の程度だよ
その時代の生活レベル、治安とかを平均で知りたいの
288 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:40:35.09
いや、江戸時代の初期と中期と幕末じゃあ、治安状況なんて全く違うと思うから意味がないとしかいいようがないし……
そもそも何をもって「治安の良し悪し」の基準としたいのか?
犯罪発生率一つとっても
江戸時代では内内での「仕置き」が普通なので
表面上は治安執行機関の犯罪認知件数が低く出る。
到底現代と単純比較はできないわけなのだが。
生活レベルって言葉も曖昧だな
たとえばドイツでは個人の交通手段が自動車から自転車に置き換わりつつあるけど
これは生活レベルが低下したと評価すべきだろうか?
291 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 07:15:05.14
いちいち言葉数が多いクズだな
そんなに細かい事は求めてねえんだよ
質問があまりに漠然としているから「どういう価値観に基づいてるのか」「江戸と言ってもその中でどの時代か」「生活水準の意味は何か」って聞いてるのに
それには一切答えずに相手をクズ呼ばわり
歴史スレの住人はあなたのつるっつるな脳みそを読み取れるエスパーじゃないんですが(^_^;
294 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 07:46:46.35
最初の質問で答えようと思えば答えられる
なのに民度って言葉を知らないバカな解答者が答えたからおかしくなった
これは277に同情するわ
変ないちゃもん付けられて可愛そうに
>>294 相手の中傷しかできないチンカスwwww
まぁもう終わりでいいじゃん
まぁそうだな
>>295が答えてくれるだろうから質問者もそれを待てばいいし
299 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 16:11:00.23
275に回答プリーズ
300 :
日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:50:29.55
口答えするじゃねえ
これだから半島人は
古代の土地所有制度が変わることによって農民の生活が変わっていくさまを具体的に表現豊かに論じている書物を教えてください
豪族が土地を所有する段階から朝廷が管理する律令制へ、その崩壊から荘園制へ、さらには中世の土地制度へといく過程で農民の生活はどう変わったんでしょうか
制度が変わったのは名前をみれば分かるけどその中身についてはまったく何が本質的に重要なのかが分かりません
ここは初心者を追い返すスレですか?
解答者も初心者なので察してください
生活、というのは記録に残らないから
他の面からの推定になるけど
基本的には変化はなかったんじゃないかな。
道具が発展すれば多少楽にはなった
というぐらいしか答えようがないかも。
いわゆる農民の生活史なら、江戸時代に入るまで基本酷いもんだぞ、古代から中世の終わりまで自力救済とそれに対応する組織化武装化が
進行拡大する過程だし。
農民の生活は江戸期までは、一部の富農・在地豪族を除けば生きるか死ぬかの段階であって、
農民層の多くに生活文化が生まれるのは、ほぼ江戸時代に入ってからだ。
農民の生活は変化がなかったってあるけど、あるサイトにあまりに労働が過酷なので戸籍を偽ったり逃げたりした農民が
口分田から荘園へ移行したとありました。荘園なら税金を納めなくていいとあるんですがそんなユートピアみたいな制度を朝廷が許したんでしょうか?
隣の芝が青く見えたんじゃないのでしょうか
墾田永年私財法くらい中学校で習ったろうに
いくら初心者といったって
小卒の面倒まで見きれるか
ここは高尚な学問板なんだぞ
そこに書いてあるのが本当かどうかは知らないが、租税を一部または全て納めなくていい権利を不輸の権という。
また国衙からの使者の立ち入りを拒否する権利を不入の権という。それぞれ別々の権利だけどまとめて不輸不入の権という。
荘園の領主が不輸の権を得ていれば朝廷への租税は納めなくていい。しかしそれは領主が納めなくていいのであって
農民にとっては朝廷に納めないで領主に納めるだけの違いと思うけど。
ちなみに不輸とか不入の権は領主単位でまとめて認められる訳じゃなくて、各荘園ごとに認可が必要だった。
2chに高尚も何も
ああ、だからこんなに過疎っているわけですか
>>311 ありがとうございます。つまりは朝廷に収めるよりは地方の豪族や寺社勢力に収める方が愛郷心的にまだましだったというような認識でいいでしょうか?
そして地方が強力になることで中央集権から封建社会へ移り変わる契機になったんでしょうか?それは鎌倉か室町以降と考えてよろしいでしょうか?
愛郷心じゃなくてたぶん朝廷の租税と比較して安く済んだのかもしれません。口分田から逃げた農民を
囲い込む為に荘園領主がそうした可能性はあるかもしれません。
>そして地方が強力になることで中央集権から封建社会へ移り変わる契機になったんでしょうか?
詳しくは荘園でググるか本でも読んで調べ直してください。込み入っていて書ききれません。
>込み入っていて書ききれません
歴史の回答の大半は
これで済んじゃうな
その辺は日本史の教科書を見ると良いと思う
いま、わかりやすいのってどこの教科書なのかな?
>>315 一回書いてみて長文になりそうだからやめたんだよ。
家康はなぜ松平を捨てて徳川を名乗ったの?
天下人になってからなら分かるが、弱小時代に変えてるよね?
今川の手下だった松平が嫌だったの?
wikipediaに書いてあるね
>この改姓に伴い、新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることの公認を図るも
>>318 そもそも家康の祖父の段階で新田源氏支流世良田氏を名乗ってるし。
あと徳川になったのは、三河守叙任の経緯が大きい。結果として「藤原姓徳川」という妥協の産物みたいな形になったけど。
韓国の地名にちなんだと聞いたが?>徳川
中綱僧の中綱ってどういう意味?
325 :
日本@名無史さん:2013/05/01(水) 23:02:41.92
test
>>324 何をどうしたらそんなこと信じられるんだお前は
先祖の出自がはっきりしないんだし
朝鮮出兵の秀吉一族の打倒に執念を燃やしたんだし
帰化人であってもおかしくないと思うけどな
それだったら、秀吉は故郷に自分の力を示すために半島に兵を送った帰化人ということでOKだな。
豊臣なんて地名も
羽柴なんて地名も
韓半島にはないぞ
> 先祖の出自がはっきりしないんだし
お前のはっきりしている出自というのはどういうモノを言うのか
> 朝鮮出兵の秀吉一族の打倒に執念を燃やしたんだし
燃やしてない
> 帰化人であってもおかしくないと思うけどな
お前の頭がおかしい事だけは証明された
>>329 そもそも、木下姓すら、秀吉の本当の姓かどうかはっきりしない。ねねの母方の姓を仮冒した説すらある。
半島の話はどうでもいいので無視するとして
家康が秀吉の系譜を徹底して潰したやり方は私怨でもあるのかと言いたくなるレベルだけどな
秀頼辺りは危険だから仕方ないにしても、秀吉の養子で叛乱の可能性などまず考えられない結城秀康や小早川秀明も潰してる
実子養子傍系女含めて唯一系譜を残せたのは江くらいじゃないか
>>332 > 家康が秀吉の系譜を徹底して潰したやり方は私怨でもあるのかと言いたくなるレベルだけどな
潰してない。江戸期にも「豊臣氏」は普通に存続してるし。
> 秀頼辺りは危険だから仕方ないにしても、秀吉の養子で叛乱の可能性などまず考えられない結城秀康や小早川秀明も潰してる
お前はそこの小説でそんなけったいな歴史観をもらってきたのか?
> 実子養子傍系女含めて唯一系譜を残せたのは江くらいじゃないか
頼むから歴史勉強してから書き込んでくれ
>>333 >江戸期にも「豊臣氏」は普通に存続
それは秀吉の系譜じゃなくて高台院(ねね)の系譜
奥さんの兄弟の子供なんて秀吉の系譜とはもはや呼べないだろ
>けったいな歴史観
二人の不審な死について家康が暗殺者を送り込んで云々などと主張しているわけではない
単に小早川家と北ノ荘藩がお取りつぶしになったという史実の話
>頼むから歴史勉強してから〜
鏡に向かって言うといいよ
>>335 議論で言い返せなくなると人格批判に逃げるお決まりのパターンか
念のためいっとくが
>>327と俺は別人だし、「家康は秀吉に私怨があったに違いない!」とも言っていない
疑わしきはどんな小さな芽も摘むという家康の執拗さは窺えるが
>>336 「史実」語ってくれ「史実」
何と比較してどう執拗なのか。
おまえのは「印象論」に過ぎんよ
>>337 信長の系譜と秀吉の系譜との扱いの差を見れば歴然としてるだろ
家康からすれば信長は過去の人で秀吉は現実の脅威だったからそうなったんだろうが
私怨に見えなくもないってこった
>>338 そもそも秀吉の系譜が極端に少ないことを完全い無視してるな
そして家康が滅ぼしたのは「豊臣宗家」に過ぎないことも。
ちょっとは専門書読んだほうがいいよ?小説ばっかりじゃなくてさ
>>339 数が少ないのは実子で、養子含むとそこそこの数になるんですが(;^_^
家康が取りつぶし、または冷遇した(最終的には改易)小早川氏や北ノ荘藩は豊臣宗家じゃないんですが(;^_^
あなたが333で秀吉の系譜と到底呼べるはずのない「豊臣氏」は普通に存続、とか恥ずかしいこと言っちゃった件はどうなったんでしょうか(;^_^
だいたい結城秀康を潰したって、それは秀康が死んだ後の忠直の代の話しだろ。
>>341 最初から私そう言ってますよね(;^_^
あなた、議論の当初から私の主張を勝手にねじ曲げて、その上でそれを叩いてるのでタチ悪いですよ(;^_^
345 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 22:25:35.87
>>332 >結城秀康や小早川秀明も潰してる
解釈のしかたは違うと思うが、きちんと書かれている。
何度読み返しても書き込みの内容をねじ曲げているのは
>>342としか思えないのだが
おまえらもキャバクラ嬢には気を付けろよ!
348 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 14:03:59.39
いいカモ釣ろう、キャバクラ幕府
色町幕府、エロ幕府
350 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 16:10:49.82
天皇家と同格以上と言われる小石川一族は
鎌倉時代に小石家と石川家に別れたと言われているのだ!
>>350 小石川幕府作りたいって言ってた人ですか 」(・ω・`;)「
『解体新書』以前は、胃が複数あるような解剖図を信じていて、『解体新書』が出たときは衝撃的だった、
と聞いているんですが、このことがどうも信じられません。
死体の解剖が禁止されていた、死体が不浄のものだった、というのはわかるんですが、それでも、日本の長い歴史の間に
体の中身を知るチャンスはいくらでもあったと思うのです。
たとえば、戦いで切り殺されて、内臓が飛び出た死体とか。
それに、医者だったら、体の中を知りたいと思う人は絶対いるはずですよね。
だって漢方では外科手術とかしないんだから体の中を知ってる必要が無い。
パソコンの構造を知らなくても使えるでしょ?
江戸時代の漢方医って
何かあったら「朝鮮人参飲め」って言うイメージしかないな
>胃が複数あるような解剖図を信じていて
戦国時代にキリシタン医学が入ってきてるのに
そこまで退化するのはおかしいだろ
キリシタン医学で需要があったのは外科だし
357 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 21:52:32.41
戦国の男色について質問です。
元服前の小姓はどんな感じで夜のお相手してたのでしょうか?
出来れば具体的にお願いします。
>>356 そのほう、江戸時代には外科は必要なかったと申すか
360 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 09:43:30.66
知恵袋でコイン500枚で以下の質問を立てたのですが、回答が1件もなかったので、削除しました。
(Q)
現在、中公文庫(旧版)の「日本の歴史 7 鎌倉幕府」を読んでいます。当時の武士が「独立心のつよい猛者ぞろい」であったことを示すエピソードとして、以下の記述があります。(p.214)
(引用開始)誠忠無比、鎌倉武士のかがみだと評判の高い畠山重忠さえ「謀反のうわさを立てられるのはかえって武士の名誉だ」と語っており、鎮守府将軍となることを志して屋敷の内に煙を立てなかったとつたえられているほどである。(引用終了)
よくわからないのは、「屋敷の内に煙を立てなかった」の部分です。これが何を意味するのか全くわかりません。どなたか、意味がわかる方はいらっしゃいますか。
宜しくお願いします。
(UQ)
もしかして、2chのほうが詳しい方が多いのでしょうか。どうか、よろしくお願いします。
>>360 それ沙石集に出てる逸話だな。弘安年間の成立だから事実とは思えんが、
煙を立てないというのは火災の起こることを警戒して屋敷の中で食事の煮炊きをしなかった、というくらいの意味だと思うぞ。
>>358 無理やりかと思ってたけど違いました
ありがとう
363 :
sage:2013/05/31(金) 01:18:43.47
>>361 ああ、なるほど。私は、「謀反のうわさ」と何か関係があると思い込んで、それとどう関係するのか悩んでいました。
「鎮守府将軍となることを志して」を受けて、「事故を起こさないようにした」ぐらいの意味だと考えればいいですね。
ありがとうございました。
364 :
名無し募集中。。。:2013/05/31(金) 06:01:00.46
毛利元就で最良の伝記を教えてくださいm(__)m
365 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 18:27:13.82
現代は殺人事件が起きると、捜査では指紋や下足痕の特定にDNAや衣類繊維の鑑定など
色々な科学的手法が用いられますが、そういう事が当然出来なかった江戸時代はどんな風に調べていたんでしょうか?
岡っ引きが怪しいと思ったやつを捕まえる
拷問にかける
自白させたら捜査終了
江戸時代の「治安の良さ」を喧伝するネトウヨがいるけど
数多くの冤罪と引き換えであることを
忘れないで欲しいな
江戸の優位性を言い立てる奴は、同時に明治の極悪さを主張して回る傾向があるので、
ネトウヨと言うよりは、関東東北地域主義(他地域差別)の連中のような気がする。
368 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 11:18:30.88
>>365 まあ、一応、現場に落ちてた物とかあれば、それなりにどこの誰のものかぐらいは調べるけどね
基本的に当時の物は手作りで、特徴のあるものが多いから、どこの店で売ってた物かとか、どこの職人が
作った物かとか、それをどんな奴に売ったかとか、聞き込み捜査はできる
死体も調べるから、傷から、どんな凶器や手段で殺したかはおおむねわかるし、そうなれば、力が強いやつ
でないとできない犯行とか、剣術の心得のある武士の犯行とか、多少は犯人像の絞り込みはできる
でも、最後は結局、
>>366の言う通り
科学捜査が発達していない時代には、最終的に多くの者が納得する形で有罪にするためには、原則、
自白させなきゃならない
当然、たいていの下手人は罪をのがれようとしてしらばっくれる
時には、当時としてはかなりの証拠がそろっているのに、認めない者だっている
それを白状させるには拷問するしかなかった
結果的に、多くの冤罪が作られたのも間違いないが
370 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 21:17:37.21
>>366>>369 成程…そういえば拷問という手段がありましたね
これはむしろ現代の方が決して出来ない手法ですね…
自民党が第36条の文言変えようとしてることを知ってて書いてるだろ
江戸時代に浪人の仕官口がなかった話は良く聞きますが、
内職やったり日雇いやるくらいなら、いっそのこと大名や旗本の
中間になる手はなかったんでしょうか?
あれも一応、軽輩ではありますが士分ですよね?
『多くは百姓の次男以下などが奉公したが、』
士分じゃないようですよ。
イラク帰還兵のPTSDが問題になってますが、
戦いによって、今で言うPTSDになっちゃった歴史上の人物っていますか?
帰還兵のPTSDっていうとブルブル震えが止まらなかったりってことだよね
世を儚んで出家とか政争が嫌になってどうとかじゃないよね
377 :
日本@名無史さん:2013/06/16(日) 23:32:02.41
京都に寺が多いのは、天皇の子供の出家先として建てられたからですか?
歴代権力との結びつきが大きかったから
平安初期の天皇家との関係、院政期における院の信仰、幕府と禅宗との関係などなど
そもそも都だったわけだから宗教と政治が結びついていた時代に宗教施設が多く設けられるのは当然。。
379 :
日本@名無史さん:2013/06/17(月) 13:24:00.38
>>377 もともとは天皇や貴族が出資して僧侶に建てさせたものが多いけどね
天皇の子は本来天皇を継ぐか親王として暮らすか臣籍降下するかで出家は想定されていなかった
しかし次第に臣籍降下してもなかなか中央での官位を与えられなくなってきた
仏教界は奈良時代の僧尼令以来、天皇が僧侶に位を与えることになっており(大僧正だの、阿闍梨だの)
俗世で相応の地位に付けないなら仏教界で出世させてやろうということになった
法親王が登場するのは平安時代後期
大寺院の門主として法親王を送り込み、天皇が資金援助してやることが増えた
比叡山とか高野山とかの僧兵が
好き勝手できたのは
そのせいか
>>379はまったくもって
>>377の回答になってないだろ。
質問者の意図も汲み取れずに一部の大寺院の話をこれ見よがしにされても。
382 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 09:01:30.82
>>381 なってるじゃん
天皇の子供が入ったのは一部の大寺院(門跡寺院)のみ
京都にあるあらゆる寺に天皇の子が入ったと思ってんの?
はい?だったら一部の大寺院のみってはっきり書けばいいだけで、それでも質問の答えになってない。
なんで京都には寺が多いの?それは門跡が多いから?って質問なんだが。
京都の寺院が多いと言うけど鎌倉・室町のころは僧侶とは名ばかりの商工業者ばかりだよ。
自分たちの権利を守るために延暦寺、興福寺、高野山などの大寺院の末寺になった連中ばかりだよ。
京都は中世における物資の集積地であり金融セクターであり、鎌倉幕府を倒したのはこの連中の富であり、
足利が京を本拠にしたのも財政基盤をあてにしたからだ。
385 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 20:52:09.34
門跡寺、結構多いね。
1〜2割くらいはそうかな
386 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:30:10.70
>>383 だから天皇や貴族が出資して僧侶に建てさせたものが多いんだよ
なぜ京都に寺が多いかと言えば京都に朝廷があったから
金を出してくれるスポンサーがいないと寺は建てられないからね
あちこちからの寄進で裕福になった寺は末寺を増やす
その繰り返し
388 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=21,xxxPT】(1+0:5) :2013/06/21(金) 09:44:14.53 BE:2463674966-2BP(333)
質問です。
聖徳太子が書いたといわれる「法華義疏」が残ってるのに、なぜ聖徳太子の実在が疑われるのですか?
聖徳太子被実在説なんてただの極論、というかミスリードだぞ。
>>389 だが聖徳太子(この名前もいつまで呼ばれることやら)の業績
が上宮信仰から盛られたものであることは明らかであり、
古代史における等身大像を評価されるのも遠くないだろう。
聖徳太子非実在説って、つまり「暴れん坊将軍と徳川吉宗は違いますよ」ってことですか?
そう、三国志演義が正史となっているレベルだよ。伝頼朝像などいい例だよ。
これでも江戸時代に大分歴史考証が行われたせいで聖徳太子著作とかいう
先代旧事本紀が偽書とされたように遅々としてだが進歩はしているがね。
その代わり
庶民の知的レベルは退化の一途だから
プラマイでゼロ
よく分かんないけど
社会の分業化が進んで、専門分野でいっぱいいっぱいの人ばっかりになったのでは?
ヒント:年々低下する読書時間数
396 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=22,xxxPT】(1+0:5) :2013/06/22(土) 12:03:56.07 BE:2874287276-2BP(333)
ありがとございました。
聖徳太子が書いたと"いわれる"存在でしかない「法華義疏」があるからといって、
なぜ聖徳太子の実在に結び付くんだろう
河童が開いたとされる温泉があったからといって
河童が実在した証拠にはならないでしょ?
もちろん、河童が不在だと決めつけてるわけではない
「"聖徳太子"とされる人物と河童を一緒にするのか?」と問われれば、
「似たようなもんだ」と思うけど
徳川家康は何故本拠地を岡崎→曳馬→駿府と変えたんですか?
進出したい地域に近いから? 人口が多く豊かだったから?
401 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 09:29:11.94
>>368 >なんか酷い勘違いをしている気がするんですが、こういうとらえ方は主流なんですか
欧米では、むしろ幕府がキリシタンを取り締まっているうちに鎖国に
行き着いた、という捉え方が主流だという気がする。
鎖国を決意した時期にさえ、幕府は、貿易にはかなり未練があったらしいし
最近の日本側のスタンダードな見方では
戦国時代の戦後復興も進まぬうちに
欧州の海洋権益を巡る争いに巻き込まれちゃかなわん
ってことで鎖国したんじゃなかったっけ?
外様の連中が勝手に貿易して武器の輸入なんぞをやられたくはなかったんだろ
海禁策は対スペインポルトガルとの戦争に備えた海防政策だっつーの。
そもそも徳川幕府は対外貿易禁止なんぞ一度もしておらん。
>>405ダウト。オランダ以外の欧州の商船は締め出しているぞ。イギリスは
自発的に店じまいしたけどな。
あとスペインもポルトガルも、日本に交易再開だの不況の許可を要請こそ
すれ、宣戦布告したことはない。
>>406 キリシタン禁制からのスペイン・ポルトガル船打ち払い令も知らんのか
日本側は当然報復があることを予測して海禁策が行われたんだよ。
松尾晋一の「江戸幕府と国防」くらい読め。
時代劇で出てくる堅そうな枕、首が痛くなりそうだし、あんなので安眠出来たんでしょうか。
今のクッションみたいなのはなかったんですか?
あれは高枕と言って髪を結ったまま寝る為らしい。
410 :
日本@名無史さん:2013/06/29(土) 08:56:21.14
足利尊氏が観応の擾乱で息子の義詮と同時期に近江と播磨に出陣した事があったけど
あれは軍事的政治的にどういう意味があるの?
ただ政敵を倒すなら暗殺でもよかったんじゃない?
411 :
日本@名無史さん:2013/06/30(日) 11:41:16.14
お願いします
幕末の薩長の国力とは、今の日本の都道府県の経済力で言うと何処くらいでしょうか
現在のものとは比較できん。現在は東京に一極集中しすぎててほかは全部似たようなものだ
413 :
日本@名無史さん:2013/06/30(日) 15:10:55.18
アメリカで考えたほうがいいな、テキサス州とカルフォルニア州が連合してワシントンに喧嘩売った感じか
415 :
日本@名無史さん:2013/07/02(火) 21:12:42.04
現在の鹿児島県民は山口県民のことをどう思ってますか?
まだ蟠りあるんか、それとも戦友的感情があるのとかそういうことを伺いたいです
417 :
日本@名無史さん:2013/07/02(火) 21:37:22.11
>>416 有難う御座います
鹿児島県民と熊本県民は未だに蟠りあるって何処かで聞いたことがあったんで
長州とはどうなんだろうと気になりました
長野県とか広島県とか無駄に周囲を挑発する県ってのは何処の地方にもあると思うが…>熊本県
で、そういう県って大概は県内部でも三地方なんかに分かれて喧嘩しているんだよな〜
なんなんだろうねw
北陸街道の難所親不知子知らずって旅人が
海岸沿いを歩く時、運が悪いと波に人が浚われるそうだけど
どうしてそんな危険な海岸沿いではなく
山道を作らなかったんだろう
近くの入道山とかは400m代だからそんなに難しいとも思えないんだが
>>419 あのへんの山を流れる川は、すげー深い渓谷なんだよ。
川1本を渡るために、数十mの崖を下って数十mの崖を上らなきゃいけなかったりする。
西側の市振から東側の青海まで人家はないから、ここを1日でクリアするためには、
海岸沿いを行くしかないと。
421 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 15:31:42.58
>>414 やべえすげえ分かりやすい
あなたにはセンスを感じる
戦国時代の日本の鉄砲の数ってどれぐらいなんでしょうか。
どノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」の50万丁はいくらなんでも過大な気がします
政所は「まんどころ」と読むのだから、実は北条政子は「ほうじょうまんこ」。
現代では教育上よろしくないので、「まさこ」に変えられた。
という話がツイッターで流れてたのですが、これはデマでいいんですよね?
デマ
中世の女性は比較的身分が高い女性でもきちんとした諱を持っていないことが珍しくなかった。
そのため、叙位を受けて位記を作る際に諱がないと困るので急遽諱を作成することがあった。
秀吉の妻の御禰(禰々)が禰の同音佳字を用いて「寧子」という諱を作ったのがその典型。
その中でもっとも簡単な諱の作り方は実父の一字に子をつける方法。
つまり、北条政子の“政”は「政所」ではなく、「(北条)時政」に由来している。
425 :
424:2013/07/15(月) 00:03:19.84
一部訂正
>>424で実父の一字と書いたけど、養父の場合もあり得るのでそこは単に父の一字としてください。
426 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:47:31.14
貴族の娘とかが出家すると〜院とかすごく仰々しい名前になるけど
あれはどこからとってるんです?
寺社勢力との癒着が絡んだりするんですか?
得度するお寺の坊さんがつけるんじゃね。
今でも戒名で院殿とか付くと高いお金取られるけどそれと一緒。
院は皇族とか貴族しか使えないから武士は院殿だった。
その後、武士が偉くなって院殿が高級になって今に至るけど。
寺院と貴族が癒着と言うか、昔の寺院の相当部分は貴族が建てたり、寄付して建てさせた寺院ばかりだし。
うん。そもそも権力側と寺社勢力を別個のものと考えているのがね。
現代の政教分離の価値観にとらわれすぎてるんじゃないかな。
ついでに言うと寺社勢力≠宗教勢力だしなあ
17条憲法では
1番目…和の精神
2番目…仏教
3番目…天皇
について触れられている
聖徳太子の時代、すでに仏教>天皇、神道と言う価値観だったのですか?
磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦
ってどういう意味ですか?現代訳が見つけられませんでした
近代化以前の日本で品種改良は行われたんですか?
行われたとしたら、どういう手法ですか?
ソメイヨシノという桜は江戸の染井村で作られた品種です。
具体的な方法は知りませんが、良さげな品種を掛け合わせて品種改良するんでしょう。
朝顔の変種(変化朝顔)ブームというのもあった。
>>434 品種改良なんて人類が農業や牧畜を覚えて以来、ずっとやってきたことだ
>>434 品種改良が現代の技術・知識だと思ってるのかい?
確かに「現代の」品種改良は現代の技術によるものが多いが
品種改良そのものは近代以前から連綿と行われ続けてきたことだよ。
>>431 逆に、それほど重んじられていなかったからこそ、憲法でわざわざ仏教を尊ぶように
強調する必要があった、と見ることもできる
>>435 唐の国から入ってきた手法で、品種改良されています。
それは、接ぎ木キメラやカルスからのクローンといった大胆な方法です。
ソメイヨシノは、サクランボが熟せず実ることはありません。
キメラやクローンによって増殖します。
こういった大胆な技術自体は、唐の内陸部で発展しました。
>>104 東芝REGZAだけど特に不満ないっす 」( ´・ω・)「
442 :
日本@名無史さん:2013/07/30(火) 22:23:24.74
>>442 大正のわけないだろ。最近の白黒写真だよ
何時の時代も何も最近の写真じゃないかw
誰かは知らん
どこで最近の写真って判断できたんだろう
大正時代の写真にしてはピントが合いすぎている。
歴史板なら、「このバッグの紐の装飾は○○年代に流行した様式で…」とか
「ブラウスの裾のレースの編み方は…」とか、そーゆー濃ゆい考察が
欲しいところだな。
いや、俺はぜんぜんわからんがw
これ満島ひかりだろ
イメージ検索したらカラー写真出てきたわ
>>446 自己レスだがピントが合いすぎているじゃなくて銀塩の粒子が細かすぎるだな。
>>439 天皇よりも先に言及すべき事柄だったのだろうか?
当時はまさに天皇中心の国家体制だったはずなのに
>>451 実権は蘇我氏が握っていて、天皇はただのお飾り
そして仏教普及を推進していたのはその蘇我氏
453 :
日本@名無史さん:2013/07/31(水) 10:44:08.66
壇ノ浦のあたりの海底を潜水艦で調べて、泥さらいをして探したら、堆積した泥の奥深くから天叢雲剣が!なんて可能性はあるんですかね?
底引き網にたまたま掛かる可能性は有るかもしれんが探すのは無理。
455 :
日本@名無史さん:2013/07/31(水) 17:42:36.33
平家の人骨や甲冑も掛かったりして
もう腐食されて形をとどめていないだろうし、もしとどめているとしても、その上に八百年分の
堆積物がたまって埋まってるだろうから、網にたまたまかかることもまずないでしょ
そもそも史実なのか・・・
458 :
日本@名無史さん:2013/08/01(木) 15:31:57.12
水深47mしかないらしいから、タイタニック号の調査よりよっぽど簡単なんじゃない?
満潮と干潮で、潮流が一日のうちに変わるのと、水底には対流があるらしい。
海流や水温も毎年変化しているので、同じ動きの繰り返しではない。
現地行ったら分かるけど、関門海峡の潮の流れはメチャ速い
だから、壇之浦合戦の戦死者や遺物は関門海峡の海底ではなく
玄海灘や周防灘ね方へかなり流されていると思う
捜索するには対象範囲が半端ないのでムリポ
そしたらたまたま網にかかっても唯の剣としか判らないな。
元寇の船一隻探すのも大変だったしなあ…
船の往来も激しいから、それも一時通行止めせにゃいけんし
そこまでして錆びた鉄の棒一本探すのもナニだな
伝説は伝説でそっとしとくのが一番さね
そんな時のためのゴッドハンド
瀬戸内海の端っこを全部せき止めて
海を干上がらせたらいいんじゃね?
干上がらせた跡は陸地として活用
467 :
日本@名無史さん:2013/08/06(火) 16:08:36.69
大宰府が主要官庁として実際に機能していたのはいつまで?
福岡・博多に抜かれたのはいつ?
桶狭間の戦いで、今川軍が2万で織田軍が3千ちょいって少なすぎません?
信長は尾張半国だけとはいえ、経済力は豊かだし、信秀の代には
今川を破ったこともあるのに、なんで桶狭間では動員数が少ないんだろう。
>>467 戦国初期くらいまではなんのかんので機能していた感じ。
博多は機能が別。
>>468 兵力を十分に集合させてからの進軍と
緊急対応のための動員の違い
>>470 まさかいきなり奇襲してきたわけでもあるまいし、
今川軍進発の情報は入っていたと思うんですけどね。
あと守る方が地元の農民も動員できるから数が増えないと
おかしいという気はする。
軍勢の人数は目安であって厳密な数字を確定させようとするのは野暮
ちなみに君の言う三千だの二万だのという数字に人夫は含まれているのかな?
473 :
日本@名無史さん:2013/08/07(水) 04:08:50.49
律令制の弩って、現物が残ってるんでしょうか?
確かに今川方2万には織田方に不要な人夫が含まれていた可能性はあるし、
そもそも、大高城などに詰めていた松平兵などもカウントされているのでは?
>地元の農民も動員できるから
「イワンのバカ」じゃあるまいし
そんなに簡単に動員できるか
戦前の日本では清教徒革命とかフランス革命とかのロシア革命とかの
世界史の民衆革命の研究も思想統制で制約を受けてたの?
まあ、ロシア革命に関しては、おそらく肯定的なことを主張しようものなら、共産主義者として警察に
マークされたんじゃね?
ロシア革命に関しては当時は歴史の話じゃないからな。
単純にソ連共産党革命周りの研究学問になる。
従って東大教授を始めとしてそれらの研究者は検挙処罰されている。
なってねえよ。研究の段階なら全然問題なかった。つかマルクス主義経済学の講義もあった。
共産党や左翼運動を組織することは処罰の対象になった
研究の段階では問題なくても論文が発表されることで右派から攻撃されて法的な問題となることはあった。
組織しなきゃ処罰の対象って当時の法律を甘くみてるわ。
京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年(大正14年)12月以降、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた検挙。日本内地では最初の治安維持法適用事件として知られる。
1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。
学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、
1925年7月には第2回全国大会を京都帝大で開催、代議員80名が参加した。
滝川事件(たきがわじけん)は、1933年(昭和8年)に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。京大事件(きょうだいじけん)とも呼ばれる。
事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について
「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。
ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。
この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張、司法試験委員であった滝川を非難した。
483 :
日本@名無史さん:2013/08/08(木) 01:41:09.82
喜連川家は何故5千石だけなんですか?
後北条氏の関東支配と共に、古河公方は北条氏に囲われ、
北条氏への追認しかしない指人形として利用された。
北条氏支配が確立すると、古河公方は存在意義を失い、
直系が絶えても後継は選出されず放置された。
豊臣の介入の結果北条氏は排除され、古河公方が過去に滅ぼした弟筋である小弓公方家が古河公方家の娘を娶り喜連川家と名乗った。
つまり、領主としての歴史は北条氏支配の頃には絶えていて、小弓公方家が豊臣によって代わりに権威化されたものなんですよ。
義昭の子供を優遇しなかったのはなぜだろう
鎌倉幕府はスターリンソビエトばりに粛清の連続だったのに
後醍醐登場までは承久の乱ぐらいしかまとまった反幕運動が無かったのはなぜ?
粛清の効果があったから
宮騒動は北条方が機先を制したから不発に終わっただけだろうが
藤原道長は政治家としては特に何もしなかったと言われているけど
在任中に特筆すべき政策はあったの?
>>489 平安時代というからには何かしなくても平穏だった時代だから…
むしろ文化には貢献してたと思う
・ユネスコの世界文化遺産「御堂関白記」を残した
(1000年以上前の道長自筆日記が今も現存する/文才はないが当時の政治史料としては一級)
・紫式部・和泉式部・赤染衛門らを次々后妃となった娘の教育掛として召し出し
名だたる女流文学者たちの集うサロンのパトロンとなった
ユネスコ世界文化遺産であり世界最古の長編小説「源氏物語」の誕生を経済的に支援した
491 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) 16:18:29.31
西郷隆盛と吉田茂、双方日本史のビッグネームですが、日本史を語る上でより重要なのはどちらと思われますか?
どちらも重要
どっちが上かと比較すること自体に意味がない
>>490 道長が生きていた平安中期というのは、民生の概念が皆無に近かったから地方の疲弊など無関心だった。
>何かしなくても平穏だった時代
まぁ富士山が噴火したり、宋人の移着や九州の北部・南部で来襲ぐらいだな(刀伊の入寇は1019)>左大臣道長
>民生の概念が皆無に近かったから地方の疲弊など無関心
999年には百姓の愁訴で淡路で国主を解任してるし、各地の愁訴や善状なんぞ毎年処理してるがな
あと1008には信濃国に正税の出挙基準数減少を許したり、1012に和泉の荒廃公田開発耕作をゆるしている
>>494 時代の良さに助けられた面は大きいけれど、それなりに名君ではあったと
喩えるなら清朝の康熙雍正乾隆帝みたいな
>>494 刀伊入寇のときは道長はすでに摂政の座を息子の頼通に譲り引退してたよ。
(1016年に道長は摂政を頼通に譲っている。1017年には道長は太政大臣も辞し、
入寇のあった1019年には完全に引退している)
道長の甥・藤原道隆が九州の豪族の協力を得て撃退したが、朝廷は「私闘」とする有様。
基本的に朝廷は地方から愁訴があれば仕方なく朝議にかけるが自分から地方に手を付けることはない
民衆の愁訴で国司が辞めさせられたのは道長の時代より前の尾張国司藤原元命が初めてだが
これ以後各地で地方官解任を求める民衆愁訴が激増した
畿内近隣では朝廷への愁訴で済むからよかったが
東国などは自己解決で戦闘に及ぶことが多く朝廷は「私闘」とするばかりで手が付けられず
道長の時代はたまたま東国での私闘が運よくなかった
>刀伊入寇
何のために並列ではなく括弧書きなのか…わざわざ年号まで併記しているのにorz
>基本的に朝廷は地方から愁訴があれば仕方なく朝議にかけるが自分から地方に手を付けることはない
最低限の知識もなく思い込みで断定できるのは一種の才能だね493のお友達かな?
>民衆の愁訴で国司が辞めさせられたのは道長の時代より前の尾張国司藤原元命が初めてだがこれ以後各地で地方官解任を求める民衆愁訴が激増した
ググっただけの自称モノシリさんへ、激増したとする論拠の提示よろしく
>道長の時代はたまたま東国での私闘が運よくなかった
素人解釈の前にググる努力が足らないよ、君
そもそも受領制度が導入された経緯を無視する薄らトンカチが何を知ったかしているんだか……
>これ以後各地で地方官解任を求める民衆愁訴が激増した
>畿内近隣では朝廷への愁訴で済むからよかったが
>道長の時代はたまたま東国での私闘が運よくなかった
何の知識もないから誰かが投げ捨てた「言葉」をググることでしか対応できないんだからしょうがないw
自分が無知を曝しているという自覚もないのがイタイ
地頭って室町時代もいたの?
>>497=
>>499 494の間違いが痛すぎて指摘されたら逆切れかw
道長の時代の話をしているのに道長の時代ではない刀伊の入寇を持ちだす馬鹿
497も499もどこにも496に対する誹謗中傷だけで反論がない。
つまり、494=497=499が間違いってこと。
国司苛政上訴というのは、中央政府が受領に地方の民政を全部丸投げした結果、受領が任国当地でへまをやらかした結果起きるもので、
それを解決したから中央政府が民政ままともにやっていたなどという原因と結果をすり替えた主張をするのは単なるトンデモさん。
503 :
日本@名無史さん:2013/08/11(日) 19:56:27.59
奈良時代でも農民は竪穴式住居だったらしいけど
竪穴式が消えたのはいつ頃?
何のメリットがあって長らく採用されてたの?
平安から鎌倉くらいでほぼ消える。
地上に壁作って屋根を乗せるより、穴掘って周りの地面に屋根を乗せた方が、
構造は簡単だし、屋根の耐荷重もあるし、倒壊の危険性も低い、排水は悪いが。
>>492 いろんな角度から比較検討して、検討の結果どちらが重要か判断できない、なら分かるけど、
比較検討することに意味がないとは思えません
いろんな角度から比較検討することが学問じゃないのですか?
歴史学なら時代背景や後世への影響、政治的功績や文化的功績、等々・・
>>504 だったら竪穴住居のほうが良かったのでは?
排水ってそんなに重要でしょうか?
>>505 それぞれの事績を詳細に検討することは大切だが、
なぜ任意の二人を比較して優劣を決めねばならないのか意味不明。
それに価値があるとすれば、史上の人物は一々比較して優劣を決めないといけなくなるんだが?
それが学問として大切なことなら、あんた以前に誰かがやっててもいいと思うが、そんな人いる?
そんな面倒な上に意味のないことは勝手に一人でやってればいいと思います。
>>506 カエルなら排水はあまり考えなくてもいいだろうな。
平民でも壁立の住居を建てるのが困難でなくなったなら、同一平面で生活したいと思わないか?
平屋に住めるのに、わざわざ階段や梯子を使わないと出入できない地下室に好んで住む理由があるか?
>>506 >排水ってそんなに重要でしょうか?
君は雨水が流れ込んでびしょびしょになった床で眠れるか?
>>508 >わざわざ階段や梯子を使わないと出入できない地下室に
そんなに深くないだろ。
512 :
日本@名無史さん:2013/08/12(月) 23:48:45.22
日本では鎌倉時代に徳政令を出しました。借主のほとんどは武士だということは
わかるのですが貸主は誰だったのでしょうか?
当時は江戸時代のように、専業商人はいませんよね?そしていたとしても裕福
ではありませんよね?
土倉
いくらなんでももう少し自分で調べたらいいのでは
.
「織田信長の比叡山焼き討ち」についてですが、
それほど大規模なものではなかった、という説がありますね?
大規模な焼き討ちの遺構が発見されなかったとか、
当時 山上には殿舎があまり残ってはいなかったとか
やや興ざめしてしまうようなことなのですが、どんなものでしょう?
信長公記や
当時の公家の日記には、大変に大規模なものであったように書かれておりますが、
あれらは すべて 揃いも揃って ウソを書いたということなのでしょうか?
特に、信長公記の記述が誇大気味ですね?
ウソを書く理由とは?
公家たちに関して言えば、別に焼き討ちしている現場を直接見たわけじゃなく、伝聞や噂で書いている
延暦寺が焼かれたとなれば、京都の町には誇張された大げさな噂が広まっただろうから、それをもとにした
日記の記述が「すべて 揃いも揃って」不正確になるのはむしろ当然だ
『信長公記』は意図的に誇張してるかもしれんが
>ウソを書く理由
1この件で最大の功があると信長から賞された光秀が後に謀反したのは、インテリである光秀は比叡山の焼き討ちに反対していなければならないとする説をとるものが、江戸時代に事実関係を捏造させた
2秋の長雨の時期に焼き討ちを敢行して、成功したかどうかは問題ではなく、成功したと宣伝することが重要
3この月、信長は近畿の社寺と上京・下京に課税し、宮廷の経済立て直しと零落した貴族の救済を実行している。経済的な余禄のある者・(財政に関心の無い)女官と異なり、彼らが全国に信長の威に服せと喧伝することに不思議はない
518 :
日本@名無史さん:2013/08/13(火) 18:19:47.00
>>515 お前マルチポスト禁止だぞ。
戦国板のアチコチにも貼ってるだろ・・・・
519 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) 15:59:10.46
中世城郭の進化論的型式学と言う考え方が一部で有る様なのですが、
今一つ意味が分かりません。
詳しい方、ご教示お願いします。
804 : 日本@名無史さん : 2013/08/12(月) 16:24:00.79
城郭の進化論的型式学と言う用語が一部で出てるんだが、
簡単に誰か解説してくれ。ググってもようわからん。
想像だと、昔のモンテリウスを思い出すんだが。
閑な人、宜しくお願いします。
戦国時代にはイスパニア語の学習者はどれだけいたの?
外国語の学習は江戸幕府に禁止されたの?
禁止されたら通詞もおらんがな
通詞もオランダ語か中国語かじゃね。他は禁止。
524 :
日本@名無史さん:2013/08/15(木) 12:52:46.16
学会誌の「論文」と「研究ノート」「研究余録」はどのような違いが有るのでしょうか?
525 :
日本@名無史さん:2013/08/15(木) 18:14:37.73
中納言の職務として「宣旨を敷奏し、参議に待問す」とありました。
これは前半部分は、太政官が出した宣旨を帝に報告すると思うのですが、
後半部分は、参議にどうさせるのかが意味がわかりません。「待問」の意味はなんでしょうか?
>>524 「論文」には備えるべき形式があるけど、「研究ノート」「研究余録」には特に定まったそれがない。
>>525 その「参議」は官名の参議ではなく、その語源となった「朝政に参議す」の意味でしょう。
「待」は待詔とか待制とかの待と同じような意味で、「問」は天子の下問のこと。
文意としては、朝廷の議政に参列して、下問を待ち、答えられるように備えておく、といった感じかしら。
>>526 補足
原文は「待問参議」という漢文みたいなので、
「参議に待問す」という構文よりも、「待問し参議す」「問に待し議に参す」という構文で解釈してもいいのかも。
平頼綱と桓武平氏は血縁関係あるの?
平姓なのに家が存続できて鎌倉幕府で出世できたのは何故?
(北条氏自体が平家系ではあるが)
>>528 文章がおかしい。
「平頼綱は桓武平氏なの?」とでもしてくれ。
鎌倉幕府が桓武平氏を根絶やしにする政策でも持っていたのならおかしいことになるが、別にそうじゃないけど。
時忠と近かった者を除けば、高棟流は相変わらず官人として続いているし、
高望流を称する武家どもが真実か仮冒かはともかく、それだけを理由にして討伐されたりなんてこともないけど。
関東の平氏だと、常陸の大掾氏なんかは間違いないだろうけど、多気氏が排された後、同族の馬場氏が補されている。
なにか勘違いしとりゃあせんかね。
坂東八平氏は源頼朝の父・義朝の代からの配下だしね
むしろ鎌倉幕府の権力基盤
平頼綱の恐怖政治(霜月騒動以後)って具体的にはどんな政策や弾圧をしたんだろ?
Wikipediaを見てもあまり書いてないけど
室町時代の人が思い出して恐がるとは相当な圧制だったのだろうが
>>526-527 なるほどこういう場合の参議は動詞のようなものですか
ありがとうございます
>>523 19世紀に入るとオランダ語以外の言語(ロシア語や英語)の研究もわずかながら始まっている。
534 :
日本@名無史さん:2013/08/17(土) 13:09:06.10
乃木将軍や東郷元帥を祭った神社はありますが、それより新しい人を祭った神社はありますか?
戦後に活躍した人を祭った神社とか、さらに言えば平成に活躍した人を祭った神社とか
乃木神社は明治天皇桃山御陵の麓(京都市伏見区)、乃木邸跡(東京都港区乃木坂)、
出身藩の自宅近く(山口県下関市長府)、別邸跡(栃木県那須塩原市)にある。
東郷を祀る東郷神社は原宿と福岡の福津市に鎮座する。
現代の人物を祭神としてるのは靖国神社や護国神社でしょ
>>531 御家人にとって一番恐ろしいのは所領の没収だよ。安達泰盛の与党
だった武士が流浪の末内裏に乱入してそこで腹を切った事件があったように
在地から切り離された武士は本当に渡者同然の暮らしをしなければいけないからな。
吉田茂は焼失した旧邸の七賢堂に祀られていた
後はハマの大魔神社とか
539 :
日本@名無史さん:2013/08/17(土) 14:39:57.55
>>535 536 538
ありがとうございます
ハマの大魔神社ってプロ野球の佐々木ですよね?
正式な神社なんでしょうか?
>>539 どちらかと言うと、期間限定のお遊びみたいなもん
でも本来の信仰とはそういうものだと思う
神体は現在は仙台市内の神社にあるとあ
541 :
日本@名無史さん:2013/08/17(土) 21:18:44.40
>>539 あれは期間限定だったよ
と、あの時を知る横浜ファンが言ってみる
今日も負けやがって……
戦後の現代人が祭神に祀られている神社は結構あるけど、
ほぼ新興宗教扱いの一般人立入禁止の所ばかりだろうね
>>542 結構あるという具体的事例をあげてくれないか
松下はんは商売の神さんでっせ
晩年の血への執着はアレだけど…
うちの田舎じゃ敷地内の神社にご先祖祭ってるけどな。
近年無くなった伯父さんも祭られてるわ
神道で葬儀する所は死んだらみな神様
日本史の中で、政体や統治体制の重要な改革を挙げるとすれば、
朝廷から幕府への実権委譲、明治維新、戦後のGHQ改革、この辺が妥当でしょうか?他の選択肢があるでしょうか?
別にここでかまわないと思うけどな
黒田清隆が自分の妻を殺した話って事実なの?
マスコミの捏造
鎖国の時代は漁民はどの辺りの海域まで漁業を許可されたの?
動力船も無いのに冷凍装置も無いのに遠洋漁業が出来たと思うか?
九州って大陸との交易で繁栄しそうなのに地味なのは何故?
それはテレビのキー局が全部東京にあって
全国向けの番組が殆ど東京主体だから
そう感じるだけだよ
渋谷、新宿、六本木、銀座……は日本人の誰もが知っているのに、
名古屋の地名なんて地域住民以外誰も知らないからな
前世紀の話だが車買って、はじめて名古屋駅前に行った時、十九時頃には次々とシャターが下りはじめ、コンビニしか食うものを売っているとこがないのに驚いた
繁華街は栄(?)とかいうとこだと後に教えられたorz
後、古本屋も見当たらず、交番で聞いたら「名古屋大学へ行け」と言われたので、翌日行ったら二件しか古本屋がなくて又驚いた
名古屋って古書店街ないの?
奥州藤原氏滅亡後の平泉って農村に戻ったの?
鎌倉時代くらいから都市としての機能は喪失し始めて、室町時代まで行くと奥州藤氏時代の建造物はほぼ消えたらしいね。
一方で中尊寺など主要な寺院だけは保護されたということだ。
その後の様子は松尾芭蕉の歌の通りなんだろう。
奥州合戦の後は奥州総奉行に任じられた葛西清重が「平泉郡内検非違所」という役所を
設置して奥州全体に睨みを利かせたらしい。やがて奥州が鎮まると清重は鎌倉に帰ったらしい。
その後の葛西氏は石巻(後には登米郡寺池)に本拠を移すので、平泉はいつしか農村になったようだ。
562 :
日本@名無史さん:2013/08/23(金) 16:24:30.07
鉄道などの交通手段の無い江戸時代に徒歩で日本列島を縦断しようとすると何日くらいかかるんでしょう?
>>563 本州だけで言えば単純に距離だけでみれば、下関から青森まで徒歩で毎日12時間歩いておよそ1ヶ月。
実際は地形や天候などで倍ちかくかかると見ていい
参勤交代の大名行列で薩摩から江戸が40〜60日、仙台から江戸が8〜9日だそうな
一例だが、津軽が18日、松前が26日。
一例だが、エミネムが8マイル
瀬戸内が使える薩摩は大阪からは船も使ってたかどっちのが早いんだろ
旗本と馬廻衆に違いはあるのでしょうか?
どちらも殿様の親衛隊であり、単純に時代が変わって呼び方も変わったのでしょうか。
570 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 01:40:01.78
弥生時代、古墳時代は先史時代ですか?
>>570 日本史では推古天皇からが有史だったかな
日本を満州事変〜太平洋戦争に向かうことを主導した勢力というのは軍部や旧内務省の官僚が有名ですが
他にはどんな勢力が(もちろん一枚岩ではないにしても、全体としては)戦争に向かわせたのでしょうか?
「日本人全体がそういう熱狂に包まれたのだ」「本当に望んでいたのは国民だ」という答え以外でお願いします
>>572 徹底して戦争を避けなかった外務省
好戦気分を煽った新聞屋
約束破り上等の蒋介石政権
大陸利権にありつけなかった腹いせからありないほどの経済制裁で暴発に追い込んだ米国
>>569 幕府や諸侯の臣下の呼称や職掌は千差万別なので一概には言えません
現代でも各区市町村で同じような職掌や役名がありますけどまったく同一ではありませんね
>>573 首相殺害、クーデター上等の軍部が抜けているぞ。
統制派は226に無関係なんて言うなよ。226実行犯の皇道派の蜂起時に
戒厳令を敷き首相のクビのすげ替えを計画していたように正しく権力を
暴力で握ろうとしたことを抜くなよ。
蒋介石や米国の行動を批判する連中はワシントン体制を日本が壊した
ことは全く考慮しないな。ルールなんて破ることにどうとも思わず、サシで
話をつければいいというヤクザ志向が日本を破滅に追いやった歴史
に直視して欲しいものだ。
>>575 だって軍部は
>>572にもう書いてあるじゃん
ちゃんと質問読んどくれ
山東での中国の対応に問題はなかったのかね
まあ日本のやったことも後世から見て褒められたものではないけどさ
中国ってどっからどこまでか結局ちゃんと決められなかったじゃん
満洲が中国ならモンゴルもチベットも東トルキスタンもいまだに中国だから
内政問題だとはねつける今日の中国の主張とは合ってるけどね
東三省の漢族よりはるか以前から東方殖民してたドイツ人がみな追い払われたことが正当化されている今日
当時の満洲国建国が傀儡ではあっても民族自決として扱われないと言い切れるのかね
575は近代史板(ID付き)で、そのとき、そのときの感情だけで物事を決めつけ、同一スレの数レス前に自分が何を書いたかも覚えていない
「ネトウヨガー」君だと思われ
>572
>主導した勢力
俺は犯人探しは無意味だと思うよ
日本も米もWWTによる好景気で国内事情が一変した
違いは恐慌後、日本はいち早く危機を脱し、米は失敗した(何をとち狂ったか創価学会はニューディールを礼賛しているがw)
日本人の多くが夢をみたんだよ「戦争は儲かる・国土の増加は国力の増加」
君は総花的な回答より陰謀論的回答が好みのようだけどね
579 :
572:2013/08/27(火) 23:33:51.39
>>578 陰謀というよりは、国民を煽動して参戦意識を盛り上げていった層を知りたいという感じです
色々と資料を見る限り、一般国民は大勢として「一家の働き手を戦争に取られるのは嫌だ」と感じていたように思えます
現に1944年頃にもなると特高などによる引き締め効果も思わしくなくなり、各地で反戦や上層部批判の落書き等もみられましたし
一般的には、日本の首脳が敗戦を決断したのも飢餓によるクーデターを警戒してのことだとされています
国民が好戦的であったとするなら、このような事態は考えづらいことです(国民が戦争を求めているのであれば、敗戦受け入れこそクーデターの元となる)
また、一部の方が仰るような「このままだと中国やアメリカに侵略される」という意識も薄かったように思われます
むしろ当時の日本人はロシアの方を警戒していたのではないかと
以上の理由から、私は「国民みなが当初から戦争を積極的に支持していた」という意見はかなり疑わしいと考えています
強硬に戦争を求める層に国全体が引きずられる形になったのであろうと
質問なのですが、江戸時代における漁師の生活の実態と言うのはどういったものだったのでしょうか?やはり日本は水産資源に恵まれているので、割と豊かな生活ができたのでしょうか?
農民の場合は色々なメディアで取り上げられていて比較的良く目にするのですが漁師の場合は語られない事が多いので気になりました。宜しくお願いします。
>>579 >>573だけど実に損した気分
せっかく幾つか答えを挙げてしかも横から絡まれた俺を全く無視とはね
人に意見を聞いても当初の考えが変わらないような信仰を持ってる人種は初めから質問なんかするなよ
>579
>色々と資料を見る限り、一般国民は大勢として「一家の働き手を戦争に取られるのは嫌だ」と感じていたように思えます
開戦時の読売新聞に書かれた高村光太郎の文が緒戦時の代表的な国民の意見とも言われている
>現に1944年頃にもなると
正に1944年とい年は根こそぎ動員で徴兵が始まった年
>一般的
俺は敗戦を決断したのは原爆とソ連の参戦だと思うよ
>国民が好戦的
国民の移動が禁じられていたわけでなし、都市への空爆に軍が無力なのに本心から戦争継続なんかフツーは望まないんじゃねぃ
まぁ終戦の詔勅が発せられた後も徹底抗戦を叫んだ(市井の)退役軍人グループもいたけどね
>当時の日本人はロシアの方を警戒していた
初耳。直近の文章からは戦時中の日本は軍事独裁・暗黒の専制支配とかイデオロギー剥き出しの可愛そうな史観に毒された人かなと思っていたよw
>強硬に戦争を求める層に国全体が引きずられる形になったのであろうと
あぁ俺とは歴史の見方が真逆なんだね。国民的作家と呼ばれる司馬遼太郎氏の小説のように優れたリーダーが国民を引っ張っていくというイメージなんだろうな
俺は一個人が社会を革新的に変革するという考え方には懐疑的なんだよ、リーダーは「時代の空気」に乗っかり、民の望むほうに誘導することしかできないと考えている
だから双方の意見が重なることはないと思う
>581
582だが腐るなよw
最初に連想したことを残らず先に書かれた俺みたいなのもいるんだから
>>579 残念ながら、1930年代に最も好戦的だったのは、一般の帝国臣民の多数・民権政治家・新聞社のコラボだよ。
人間の感情は移ろいやすい上に、記憶はエピソード記憶としてだれでも書き換わる。
昭和20年段階では、絶望的喪失感と飢餓のもたらす厭戦気分が、強烈な遡及効を持っていただけw
大日本帝国臣民の一般世論と民権政治家は、伝統的に好戦的であって、
これは日露講和時の、「日比谷暴動事件」事件以来の伝統。
東京市民を、あの尾崎行雄が煽り立て、暴動に発展した。あれには、世界中の為政者が静かに戦慄した。
日本の臣民が好戦的だった背景には、国民国家としては異例の、国民動員率の極端な低さがある。
ナポレオン式近代国民国家の「総動員」を、昭和10年代後半になって、史上初めて経験した帝国臣民は、
その過酷さに戦慄してしまい、今度は極端な厭戦主義者になった、というわけだ。
>>581 >>573は一番参考になった意見でした
正論故に何もコメントしなかったのですが、無視されたと感じたのであれば申し訳ない
>>586 あんまりつまらんことで絡むと荒らし扱いされるのでこれでおしまいにするが
一番参考になったならありがとうの一言くらい普通レスつけるだろ
とりあえず当時の国民やら為政者よりもお前の礼儀の感覚が信じられないわw
>>582 総論として意見が合わないであろうという意見は重々承知しましたが一点質問させて下さい
高村の文はいわば「英米の侵略にアジアの代表として我々は屈しない」という内容でしたが
少なくともあの時期英米がアジアに対して殊更に侵略的であったという事実はありませんでした
もちろん英米に人種差別的側面があったことは歴史的事実ですし
日本にそれに対する反発があったからこそ、人種差別撤廃を国際連盟で唱えたことがあったのでしょう
(人種差別撤廃を世界に先駆けて主張したことは、我が国の誇りだと思っています)
しかし「人種差別に反発」であるならばともかく、「侵略に反発」という理由で戦争に至ったというのであれば、微妙に理屈がズレているように思えます
じじつ、日本も日中戦争で中国を侵略していたのですから(これは一応の理屈を立てた満州や朝鮮よりも理がない戦争だと思います)
その辺を国民はどのように捉えていたとお考えでしょうか?
>>588 横からだが
アフリカやカリブに比べて殊更に侵略的でなかったなら高村が頓珍漢になるとでも言うのか?w
フィリピン人やマレーシア人インド人の前でもそう言えるならいいや
>>585 気にかけてくれてありがとう。
まあ、俺の場合、相手の礼儀なんて気にせずに、自己満でネタをふったりするw
初心者スレでやるもんじゃない気もするが、
584の問題提起は、ちょっと俺なりに面白いネタだと思って、
572の存在は頭からディスった上で、本当の名宛人を別の住人としてふってみた、という面があるんだけどね。
大日本帝国は、実は昭和18年にはじめて「国民国家」になったんだよ(それも内地限定)。
それまでは、臣民は国政に対して他人事の中世感覚だった。
そして、国民国家の国民としては、結局2年ももたず、厭戦の極みで属国のほうがマシと思い直した。
今は、本家のフランスも含めて、先進世界はほぼ「ネオ中世化」しているから、
総動員嫌いは特に問題にならないが、だからこそ、歴史を考える際にトンチンカンな議論がまかりとおるw
慰安婦問題なんかも、国内での議論不全の原因の一端は実はここにあるw
>>582 もうひとつ
私は「1人の優れたリーダーが国を引っ張る」という点については3割くらい賛成7割くらい懐疑的です
豊臣秀吉なんかは正直そのリーダーにかなり当てはまるんじゃないかと思っていますが
明治維新直後は寡頭政治状態、元勲が鬼籍に入ってからはむしろ「誰も責任を取らない」状況だったと思ってます
誰も(天皇ですら)責任を取らなかったからこそ、声のデカイ勢力があると(たとえそれが間違いであっても)引きずられるようなことになったのではないかと
ただ、一個人がそれを為すとは思っていませんが、権力者が民意に対してあなたが仰るほどに無力だとは思っていません
もの凄く有名な事例を挙げれば、ただの一度も多数党にならなかったボリシェヴィキが暴力革命をなしえてしまったり
ただの一度も民意の過半数を得ることがなかったナチスが全権委任法を通してしまったようにです
>>589 高村光太郎はハッキリと「東亜」を問題にしているので
ここでアフリカやカリブは問題になりませんし、マレーシアやインドも問題にはなりません
ちょっとフィリピンは微妙ですが……
彼が問題としたのは日本本土、韓国、台湾、満州(+中国)の主権問題じゃないでしょうか?
そして英米共にそこに侵略したわけではないのです
まぁ「満州国を認めないのはけしからん」とは当然当時の国民の大多数が思ってたでしょうが
>587
壷初心者?
セコイ話だと揶揄されるだろうが、値段の高い史料をスキャンして回答しても、「俺がこれだけ手間をかけたのだから礼の一言があってしかるべき」と俺も思ってた時期があるけど
そんなことは一度も無かったぜ(苦笑
だから史料のスキャンなんか二度とやらないと決めているし、幾つかの典籍から引用して長文書いても礼を言ってくれる事なんかまずねいよ
十年ぐらい前、俺が一人で全ての質問に回答していた時期は、使命感のようなものがあったがそれも今はもうない
それでも、質問者ではなくROMっているだけの面面が回答を知りたそうだと思う質問には、回答者ではなく仮想の読み手のために回答していたが、その気力も今は失せた
時間があって、気が向いたときに、自分の考えを再構築する訓練だと割り切らなきゃ、壷で回答者は務まらないよ
今では信じられないだろうが、十年前は学問板という言葉は今よりはるかに重く、三戦板という弾除けが機能していた時期もあるんだよ
恰も中高生が授業で分からないことを職員室の教師に尋ねていくような(微笑ましい)遣り取りが三戦板では行われていた
昔の三戦板で相手にされなかったような素人が、今ではこの板で回答者を任じているのが普通の光景なのだから想像もできないだろうが…
>>590 面白いな
現代の先進国のネオ中世化にはそういうきらいがあっても全面的には同意しかねるが
>>591の趣旨はほぼ賛成
豊臣秀吉は織田信長のように振る舞おうとして失敗した気がするし
明治から昭和にかけての元勲寡頭から無責任時代wへの流れはその通りだろう
政党政治もまだまだ未熟で重臣体制もあまり機能したとはいえず華族も官僚もそれほどイニシアティブをとれない中
政治指導性発揮に意欲を示した先帝を西園寺が抑えてしまったのは果たして吉だったのか凶だったのか
>>593 十年目の初心者ですw
常に回答への謝礼を期待しているなんてわけじゃないけど
今回の場合はまじめに回答した俺をほったらかしにして
質問自体への疑義を呈した奴の相手をしていたから面白くなかっただけですわ
あなたほどまじめに学問板に参加しているわけではありませんが
いまでも学問板という括りにはそれなりの重みを感じてはいるつもりです
しょうもない質問に肩透かしの回答を返すのが最近の楽しみになっていて
板の零落ぶりに枕を涙で濡らすこともしばしばでございますw
596 :
582:2013/08/28(水) 01:35:05.40
>588
>総論として意見が合わないであろうという意見は重々承知しましたが一点質問させて下さい
>少なくともあの時期英米がアジアに対して殊更に侵略的であったという事実はありませんでした
もうここで意見が合わないよ
とりあえず「フィリピン アギナルド」で検索してみてはどうだろうか、映画『市民ケーン』のモデルとされる主人公は(映画ではなく現実の)新聞で
フィリピンの惣村に残った非戦闘員への米軍による虐殺を「弱者に対する強者の権利」と書いているね
それを侵略的でないというのなら、正しく君とは意見が合う事は絶対に無い
>その辺を国民はどのように捉えていたとお考えでしょうか
この話を始めると特定のイデオロギーの持ち主は「そもそも中国に日本人がいることが問題なのだ」と主張する
現在の中国で日本企業が焼き討ちされている現況をどうみるかで方向性がさだまるんじゃないの
多分、幾ら言い合っても話が帰結することはないと思うから話すだけ無駄
近代史の枠を越えた話でもないのにいつまでここでやるのかね
598 :
572:2013/08/28(水) 01:42:14.29
>>596 米比戦争の話でしょうか?
日米開戦から30年近くも時代の異なる話を持ち出されても
現代を語るに冷戦を持ち出すような時代錯誤を感じるのですが・・・
599 :
582:2013/08/28(水) 01:43:00.43
>591
書き漏らしたが、リーダー云云は日本人の国民性の話
>一度も多数党にならなかったボリシェヴィキが暴力革命をなしえてしまったり
ん?血の日曜日事件以降も市民は王制側を支持していたと
>一度も民意の過半数を得ることがなかったナチスが全権委任法を通してしまったようにです
ココ、説明を端折りすぎてないか?
何れにせよ時代の空気は何処にあったのかという認識が俺とはずれているような…
600 :
582:2013/08/28(水) 01:46:14.11
>598
そういう言葉で逃げるのなら「卑怯」という言葉を遣わしてもらう
三十年でフィリピン人民の苦難は改善されたと言っているようにしか聞こえない
それに現代の話に冷戦期の話は無意味だというのなら、君は来るべき板を間違えている
601 :
572:2013/08/28(水) 01:54:20.67
>>600 むろん米国のフィリピンに対する苛烈な態度を是とする気は毛頭ありませんが
30年近く前に獲得した地域に苛烈な態度を取ることは「侵略」という外交問題というよりも内政問題ととるのが普通ではないでしょうか?
「侵略状態が続いているのだ」と見るとしても、1941年当時の「今」立ち上がる理由として弱い
しかも、高村光太郎が問題とした(また国民が問題としている)「東亜」にフィリピンが含まれているか否かはかなり微妙です
高村の認識は、言葉の素直な解釈としては事実誤認のように見えます
30年たつと侵略による取得も合法化されるのか
斬新だわw
603 :
582:2013/08/28(水) 02:02:39.48
このまま日本の中国政策(嫌味として使っているだけで他意はない)を語りあったら破綻しない?
そういう言葉の便利使い…
何れにせよもう寝るから、続けたいならスレを立てて誘導して
スレタイは雑談スレでも何でも良いから
604 :
572:2013/08/28(水) 02:05:38.13
>>602 あれが道義的に正しかったとは私には思えないんですが
残念ながら当時の日本政府は「アメリカのフィリピン植民地支配は正しい」と認めてしまってるんですよね
桂・タフト協定もご存じないので?w
西園寺や天皇が出てきた時点でもう治療不可能だと思った
>>608 なんだ無恥無能のくせに日本語読めるのか
>>609 脳が無いのに良く読み書きできるな偉いぞ
>>594 昭和天皇は満州事変にせよ対米線にせよ、最初は不拡大和平だといいながら
最後は翻意する風見鶏に過ぎない。西園寺は天皇の誤った政治決断が政府の機能不全
を起こすことを一番に恐れていたから親政には断固反対した。敗戦前のような天皇制
維持のために東条を生贄にしたような利己的な保身思想とは違うよ。
>>576 高官が日本人ばかりなんだが満州国を独立国と本気で信じていた
(あるいは自分の私物か)のは石原莞爾ぐらいだよ。
満州産業開発5カ年計画が日本の戦争のアシストであるように
自給もそっちのけでは傀儡国家の評価を覆すことはできないな。
>>578 日本では農村部の状態は高橋財政後も生産指数は回復していない。
農業関係者は度々請願運動で国会を囲んでいる。元凶は小作制度による貧困の構造化
にあることは当時の人間もわかっていたが無産政党のない当時の日本では
制度の解消などとても無理だった。そこで出てきたのが中国への殖民だよ。
当時の文春のような雑誌ではそれを真面目に論ずる評論家がいた。
中国での20年代の軍閥を介した火遊びが30年代に本気になったのはこういう背景からくる
日本世論の不可逆的な流れがある。
「満州開拓移民推進計画」 (1936) は政府が決めたので
日中戦争そのものの開始だわな。
>>612 むしろ石原莞爾が本気で信じてたって意見にビックリしたw
立場上そう振る舞ったっていうんではなくて?
その辺の時代には詳しくないのであなたが仰るならそうかもしれないが
彼が本気でそう思ってたことを窺わせる発言なりエピソードがあったら教えて欲しい
616 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 17:16:58.83
戦前の日本人は共産主義にたいしてどういう感情があったのですか?
暇な金持ちの思想遊び
>>616 今で言うところのオウムみたいなもんじゃね?
主張が世間に全く受け入れられないし
理屈以前に庶民が感情的に全否定するし
権力が弾圧に回っていろいろ政治利用したりしてるし
十代の頃「お前は頭の悪い奴が嫌いだろう」とよく言われたが其の度にうんざりした
俺が嫌いなのは頭の悪い奴じゃなくて、自分が利口だと勘違いしている奴
このスレでいえば>613
高橋財政なんていう言葉はアベノミクスで最近知っただけだろうに、何も知らない素人が学問板で意見する資格があると本気で思い込んでいやがる
構造問題をどうにかすれば冷害に対応できるとか本気で思っているのか、この馬鹿は…
中国への殖民と言っている時点でこの時期の農業問題の本質を全く理解していない
満州における大豆生産は飛躍的に増産したのは事実だが、WWT戦後の活況と欧州の需要増大が何時までだったのかを全く知らないようだ、このダイセンセイは
>軍閥を介した火遊び
斜め下に見下ろす俺、チョウクールとか舞い上がってんだろうな、この馬鹿
この段落、何を言いたいのかサッパリ分からん
オナニーしたけりゃ他所でヤレ
他人が投げ捨てた言葉の拾い食いしかできない乞食が、なれなれしく話しかけるのは止めてくれるかな、お願い。
一つ覚えのキレ芸で煽るのではなく、相手をして欲しければ、今日の朝刊の上に、高橋財政・etc.etc.の書籍と、君の語りたいテーマを扱った論文の冒頭をコピーしたものを載せてくれ
ネットで鍛えた検索テクニックなんかいらないから、どれ程の素養が君にあるのか明示できるなら、やってごらん
>>619 わかるよ、勘違いしてるヤツっているよね
そういうヤツには「頭の悪いヤツが嫌いだろう」って言ってやればいい
多分、本人は気付かないだろうけど
>>619 生産性ではない小作制度が問題なんだよ。だから自作農を作るための
植民計画が出てきた。
昨今の金融緩和と高橋財政を結びつける頓珍漢な619のような人間は一体何が言いたいのかね。
アベノミクスとか馬鹿なワードは+で使っていなよ。
長文の割には本質とやらには何も書かないネトウヨくんは戦前の日本を腐されることだけは
敏感なようで。
>>615 石原の参謀本部時代の宮崎正義に依頼して作成した重要産業五年
計画要綱は対ソビエトを意識した満州国の自給計画であり、中国との戦争に反対だったのは
ここにある。盧溝橋事件後の中国との戦争にのめり込んだ当時の陸軍の大勢とは完全にずれていたこともわかる。
石原の満州国における五族協和や王道楽土のスローガンがプロパガンダに過ぎないことは
満州国の実権が日本人にあることから自明の理だが、日清戦争や段祺瑞や張作霖のような軍閥を相手にしていた
帝国主義の時代と違うのは石原槿製の最終戦争論からくるアメリカとの総力戦を想定した行動にあるところにある。
(満州事変も上の重要産業五年計画も石原の思い通りの結果にはならず中国との戦争を泥沼化させる裏目に出たのだが)
石原が一部カルト的な人気を誇るのも対アメリカという目的なら国籍を無視したり(当然中国のナショナリズムは
無視している)、満州事変時の朝鮮軍の越境問題なと統帥権干犯を引き起こすなど法も常識も関係ない行動力
を見せることにある。中堅官僚の立場でありながら上官だろうが組織外の人間だろうが丸め込む行動力は代したものだが
事の成否を見ると結局竜頭蛇尾の策士の印象が拭えないがね。
>>620 >>581ですけど残念ながら違いますw
正確の悪さは認めますけど
IDの無い板でしょうもない特定ごっこもお止めになった方がよろしいかと
こんな書き込みするとますます嘘くさいけどw
まあ、1920〜30年代の農村の社会問題は、「小作制度の存在自体」ではなくて、
地主と小作農との間の、社会学的な内部関係の問題(広い意味での人権問題)だったんだけどね。
松方デフレ以来、戦前日本はこの土地問題には本当に悩んでいで、
民法典で、地上権や永小作権という制度を作って保護しようとしたのに、何もかも賃貸借になってしまった、
おかげで極端な地主主義を近代法がサポートする状況になった、
しかも、経済状況が変わっても、これだけは、なかなか状況が変わらない、という問題がずっとあった。
自由主義者は、この問題の本質については、当然よくわかっていた。
だが、社会主義者は、全部ひっくり返してしまえ、大土地所有こそが諸悪の根源なのだ、と考えていた。
グラックス兄弟の改革以来の、世界的問題でもある。
この問題の解釈は、今でも良い「左右リトマス試験紙」になるw
まあ、1920〜30年代の農村の社会問題を論じたいなら
大恐慌前後で分けないとね、これは国内も満洲も構造は違うが日本の農政が行き詰った契機だから
宮崎ー岸ー椎名ー星野による満洲での実験がなければ戦後の復興もありえないように
GHQの介入なくして農村問題の本質的改変はありえない
ニューディラーが社会主義者じゃないとかw
マッカーサーはニューディール大嫌いだったろw
だからルーズベルトともトルーマンとも仲が悪かったろうが
631 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 22:37:57.96
質問です。歴史というか歴史用語の読み方なんですが…
「判官贔屓」の「判官」は本によって「はんがん」とか「ほうがん」とかルビが違ってるんですが、
歴史用語としてはどちらの読みが正しいのでしょうか?
632 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 22:56:51.09
質問します。
江戸時代の身分制度の士農工商で各身分ごとの人口分布を参考書で調べると、
武士7% 農民84% 工商7% その他3% となっていたのですが、
江戸時代は長いので、江戸時代初期と後期で分布状態が変動したりはしなかったのでしょうか?
例えば
生活の苦しい農民は人口が減って75%くらいに減って
逆に裕福な商人は子育てがうまくいって10%くらいに増えた。
このような変動はなかったのでしょうか?
>>631 「はんがん」が正解で、義経を呼ぶ時だけ「ほうがん」になるらしい。
ソースはwikipediaだからちゃんと確認した方が良いな。
>>632 >逆に裕福な商人は子育てがうまくいって10%くらいに増えた。
そういう子供はアホボンになるから身代を食いつぶすんで増えたままにはならない。
また農民は娯楽がセックスしか無いのでどんどん増える。(貧乏の子だくさん)
>>625 自由主義者の定義がよくわからんが、戦前の全体主義に抵抗した
政治家で反軍演説で除名された斎藤隆夫は戦前の格差社会での
弱者への配慮は国家を弱めるという思想の人物だったよ。
1932年の救農議会の結果はスローガンだけの自力更生運動というまさに斎藤の考えを代表するもので
戦前の議会のコンセンサスが農村の貧困問題に関心を向けた形跡は伺えないな。
無産政党(社会大衆党だけだが)はこの現状から「挙国体制による革命」を目指すという
論理を持つに至る。議会政治を潰したということに限れば確かに革命だが、協力した
軍部や官僚テクノクラートは結局なにもしてくれなかったがね。
戦後に戦時体制を一掃したGHQという強権が財閥解体のような一過性のものでなく永続的な(今にまで至るJAや自作農優先、
株式会社などの資本の論理を排する)農地改革を行ったのは歴史の皮肉だね。
>>634 あいつの演説は有名だね
引用してみるよ
>一体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。
>しからば進んで何を革新せんとするのであるか、どういう革新を行わんとするのであるかといえばほとんど茫漠として捕捉することはできない。
>畢竟するに、生存競争の落伍者、政界の失意者ないし一知半解の学者等の唱えるところの改造論に耳を傾ける何ものもないのであります。
>>634 それで正解。斎藤は、典型的な自由主義者だったし、昭和7年議会の議論も、自由主義者主体の議論だった。
地主と小作との関係は、あくまで社会学的な内部関係(事実上の力関係)なのだから、
自由主義の観点からは、「小作が、社会学的な力をつけることを応援します」と言うことになる。
財産秩序それ自体の問題ではないので、国家が農地を強制再分配するなんて真似は、絶対に許されないことになる。
ところが、広い意味での社会主義者にとっては、そもそも財産権の偏在こそが問題だ、ということになるから、
国家は率先して農地を没収し再分配すべきだ、それが法の正義に叶うのだ、ということになる。
この場合の社会主義とは、カール・マルクスよりずっと歴史の長いもので、
現代の政治史にまで直結する最古の歴史的実例は、古代ローマのグラックス兄弟のいわゆる「500ユゲラ」ルール。
638 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 10:18:37.66
人口分布の件は回答というよりもチャチャ入れだから本気にしないように。
でも上方(大阪?)商人は息子に店を継がせると潰すから優秀な番頭を婿にして店を継がせるという。
旦那は店の事に口を出さない。むしろ何も知らない
すべて大番頭に任せるってのが老舗の方法だったみたいだよ。
>>636 救農議会やその前の請願運動の要求は土地の再分配など求めていないがな。
求められたのは借金の返済の延期や肥料の補助金支給、税負担の軽減、
中国東北部への殖民などでレジーム変えろのような要求は一切ない。
政府の対応は上の要求に答えるのではなく自力更生運動という貧困対策として実のない
政策だったが一方でこの運動を農村における動揺を抑える思想統制の役割を
持たそうとしたことは農村対策がトピックになった1932年において10月6日の農林省訓令
「農山漁家ノ自醒ヲ促ス」「精神教化運動トノ連絡協調ヲ密ニシ」などの一文や
斎藤実首相の7月6日のラジオ放送や高橋是清蔵相の7月の地方長官会議での「いやしくも
国家社会に及ぼす損失と犠牲とを意とせずして自己救済をのみ要望するの思想が一世を
風靡するにおいては国家は遂に破産に陥るの外ないのであります」からもわかる。
政府は農村をイデオロギー闘争の場として十分に認識しており、請願運動の要求内にあった
中国への進出を戦争肯定への世論形成に利用したのが軍部であり、また戦争遂行のための
挙国体制構築の名分にしたのが近衛や革新官僚たちだよ。斎藤隆夫はこれらに抗して
排除されたのだが見方を変えれば自分の635に見られる自分の思想に出る「落伍者」に足
をすくわれたと言える。
643 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 20:24:09.48
城に立て籠もって戦うのが篭城戦なら、屋敷に立て籠もるのは何戦っているんでしょうか?
篭城戦だろ
篭城戦だな。
ダンボールに立て籠もって戦おうが掘っ立て小屋に立て籠もって戦おうが篭城戦は篭城戦
>屋敷に立て籠もるのは何戦っているんでしょうか?
ヒキコモリは世間と家族相手に戦ってんじゃねぃ
しらんけど
>>646 立て篭もってる側からしたら篭城戦かも知れんが
攻める側は攻城戦とは言い辛いシチュエーションだなw
こうなると屋敷の場合も言い難いが
そういえば映画忠臣蔵で吉良邸に堀があったりと、なんか勘違いしてるような篭城戦があたtな
畳半畳でも居座れば俺の城だしな
まあそもそも質問者が「篭城戦」という言葉の「城」という語に拘泥しちゃってるってところなんだろうな。
城なんて時代によっても環境によっても違うもので定義があってないようなものだし
そもそも「篭城戦」という用語は戦闘において「篭」の要素が主旨だろうしな。
>>648 言いたいことは分かるけどその理屈はどうかな。
攻撃側の立場まで加味したらもはや概念というより実質的な攻撃力、防御力の話になってしまう。
>>648 普通は屋敷の防御力では篭城戦にならないで終わるからな。
2月にやったドラマだけど「上意討ちー拝領妻始末」では田村正和と緒形直人の二人が
討手を迎え撃つ訳だけど、門は開け放ち、襖は外してかがり火を焚いていた。
近代史ネタの次は国語ネタかよ
どっかあっち行け
貧乏な所の子供は女なら遊郭に売られたりしたようですが
男の売られ先はどんな所が多かったんですか?
口減らしで子供を丁稚奉公に出すこともあったと思います
日々食うにも困るような本当の貧乏人の子は手癖も躾も悪そうだしで
受け取り手も居なさそうなイメージがあるのですが実際はどうでしたか?
>>655 食えない農家の次男坊とかは丁稚というより今の派遣みたいに
季節限定の武家の下男とかをやっていた。給料を少しでもケチりたい
武家という需要があるから口入れ屋の保証だけで仕事にはつけた。
まあ真面目に働かない奴は渡世人や強盗になったがな。
江戸後期は北関東や甲斐国では一揆とは違う強盗が跋扈した。
>>656 確かに時代劇でもその辺の治安が悪いイメージですが
なぜその辺りなのでしょうか?
一見、江戸に近いからお上の目が行き届いてそうなイメージですけれども
>>656 ありがとうございます
期間限定で下男なんて仕事もあったんですね
武家って人事とかもそれなりにちゃんとしてる印象あったけど結構セコい雇用してるな…w
>>657 関東は様々な領地が入り組んでいて、その境界を越えて捜査する事が出来ないので、
逃げ易かった。そこで関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)という、境界を越えて
捜査出来るFBIのような役職が設置された。俗に八州廻りと呼ぶ。(関八州を廻るから)
時代劇の「あばれ八州御用旅」はそういう話。
「木枯らし紋次郎」も上州三日月村の貧しい農家の子だな。
>>657 天領は治安がゆるい。単純に警備人員がいないだけの話なんだが。
代官は農政係に過ぎず、治安維持をやる能力はない。
一揆が「世直し」と呼ばれる請願型の時代はそれでも良かったのだろうが
甲州一揆のような暴動型では甲府勤番は全く対応できず、他藩や地元の
豪農の力を借りている。
>>658 旗本は家格や役職のために決まった数の家来を召抱えなければいけなかったが
経済的な事情でそれが難しくなると必要な時にだけ雇う奉公人に頼るようになった。
幕府も最初はこういう事は禁止していたが次第に既成事実化した。
便乗質問です 江戸時代 都市は人口調整機能を持っていたと言われますが
例えば自作農で男子3人成人したとして
1人が親の後を継いで 2人が都市に移住して
商家などに奉公する そして大半は子孫を残さず死んでしまう
こんな感じですか?
コメ以外の綿や絹を作れる農家なら男子3人は農家やれるだろう。
それができないコメだけの農家なら江戸や大阪で商家に奉公どころか
ぼてふりのような行商や工事の人足のその日暮らしのほうがはるかにマシだよ。
特に19世紀には人返しを行っていることからもわかる。
>>649 「47人の刺客」だろ?
他はよくできていたのに
あれだけは残念だった
まあ史実に忠実に再現すると
吉良側の武士がどいつもこいつもヤル気がなかったので
アクションが成立しないんだろうが
>>663 3人はやれるって言っても武家の厄介叔父みたいにはならないの?
江戸時代は究極のワークシェアリング社会だったし、(雇用のため車輪が禁止だったり)
自然発生的な産児制限もしてた
昨日までお腹のおっきかったお隣さんが裏山に行ってスリムになって帰ってきたとか
食事もそれなりに必要なだけ
戦時中育ちを除くと江戸時代が日本人が一番小さい時代だったんじゃなかったか
まぁそれでも仕事のない人も居たわけで
>>666 >(雇用のため車輪が禁止だったり)
時代劇によく出て来る大八車は実際は無かったの?
幕領は、治安もゆるいが、徴税もぬるかったからなあ。
全国的に見れば、幕府領自体は、
低税率のお陰で余剰が生まれた地域が多く、社会は比較的安定していたところが多かった。
日田、倉敷、高山など、今でも文化都市としての遺産を残している所も多い。
北関東の場合、幕府領よりも譜代親藩の統治が、悪い方向だけに無駄に厳しく、
小氷河期と火山爆発が重なって、江戸後期には、つるべ落としの人口崩壊状態になってる。
統計から伺える、下野国と常陸国の、江戸後期の悲惨さは異常w
しかも、地回り経済圏を確立した江戸が、物資も人口も吸い上げまくると来ている。
>>668 幕領が低税率ってのは大名家と違って参勤交代や
お手伝い普請がなかったからでしょうか?
たしかに貧乏な子は手癖悪いから丁稚にはとらないって誰か書いてたなあ
西鶴だったかな違ったかな忘れたけど
それから雇用のための車輪禁止ってのは初めて聞いたよ
火事の避難に邪魔なので車長持ちは禁止ってのはあったけど
大八車はwikiを見ると江戸初期からってあるけど、これも俺の記憶ではもうちょっと時代が下ってからだなあ
>>671 >>666は荷馬車禁止が雇用のためと勘違いしているかしら?
いや私が知らないだけかもしれないけど
>>662 制度が緩かった時代には農村の田畑を継げない次男・三男が都会に出てきて
商家で丁稚奉公しやがてのれん分けということもあったがこれも人数に限りがある
大半は農村で生涯を終える
農家の次男・三男が子のない親類縁者夫婦の養子となって田畑を継いだり
娘しかいないところへ婿入りして田畑を得るケースもそこそこあったと思う
江戸時代には大名や公家でも跡取りの絶えた家に養子に行くというのはよくあったからね
農家の次男・三男もそういうケースは都会に出るケースより多かったと思うよ
江戸時代以前は北東北や蝦夷地といった極寒の地での防寒対策や農業はどうやってたの?
>>674 お前は東北をツンドラかなんかと思っとるのか
縄文時代なら東北最強伝説
>>674 一応赤米と呼ばれる冷害に強い品種はあった。しかし赤米は収量が少ないため
普及が進まなかった。だから東北の農民は他国逃散が多い。江戸に行くのが主だが
中には蝦夷地に渡る者もいた。そこで漁労に従事して現金を得るという道があった。
678 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 02:23:22.60
すみません、昔から疑問に思ってたんですが
平安中期から末期は、租税を地方から中央まで運んでいったのですが
穀物が途中で腐ったり、ロスがすごそうなんですが、本当にこんなことをしてたんですか?
お金を運ぶならともかくなんですが
適度に乾燥した穀物はそう簡単に腐らない
無蓋で赤道を越えるとかならいざしらず
日本列島を徒歩で運搬して凄いロスってどんなんだ
そもそも租で納める稲米は国司の地方財源だから
中央へ運ぶ物資の主体は繊維だし
奈良時代や平安初期も庸米なんか運んでいたわけだが
あえて平安中期以降に限定する理由がよくわからない
近国からは年料租舂米として精米したものを
遠国からは年料別納租穀として籾のまま貢納している
>>679 詳しい説明ありがとうございました
去年の大河で、九州から税の徴収を任された清盛が米を運んでくる場面があったんで
税=米だとおもってました。絹じゃないのかとおもってましたが、そうでしたか。
ありがとうございました。
あとついでに
何で自分が米が腐るかって書いたのは
江戸時代に米が運送中に損耗したと本に書かれてるのを読んだことがあって、じゃあ腐るのかと思っただけです
>>681 その書物の内容が分からないけど
たぶん舟運での輸送中に海で時化にでもあって
海水をかぶってしまったことによる汚損とかではないかと
あと米麦なんかの水分量だと腐るというよりまずはカビる
事故米事件ってのがあってだな
現代でも金持ちの方が高学歴で賢い傾向はあるけど
武士や貴族の中でもそういう傾向はあった?
中級貴族と大貴族、中堅所の武士と名門家の武士でもやはり差は出る?
武士と貴族を比較した時にどちらの方が賢かった?
時代によるだろうから戦国時代ぐらいの場合はどうだったか教えてください
まずは「賢い」を定義せよ
>>684 僧侶に比べたら武士も貴族も目くそ鼻くそ。
有力者が寺院を建て住持を置き
住持が僧侶をスカウトしてくるのは定番。
教育の為に寺院にぶち込むっていうし
>>684 賢いってのは比べようがないので無しにしよう。
それに今のような教育制度・思想がない時代に学歴ってのも意味がないよ。
まあ戦国時代に学芸に没頭できた人といえば、大寺の僧侶と貴族かな
(貴族・皇族から大寺に入って僧籍になる人も多い)
特に僧侶は仏教を通して中国の歴史・思想・文化を直接伝えてきたし、
諸国から情報が集まってくるので全般的に知識人ではあったでしょう。
貴族もそれらの知識を学んだり、自ら担ってきた日本の歴史や文学・芸術、
儀礼の作法や法律・行政などの蓄積された知識があって学べるし、
学芸や祭礼以外にやることもないので、当時の学問とされるような分野での
知識はポイント高い。
丙午(ひのえうま)の年って昭和41年の人口統計でも明らかにその前後より
出生数が減ってますが、縁起を担ぐ傾向が強い昔はもっと大幅に減ってたり
するのでしょうか?
それと、時代はあまり関係ないですが、丙午年に子供を生まないためには、
みんな前年の春頃から意識して、一年近くセクースを我慢してたんでしょうか?
>>691 何故ここで間引きとか殺すって考えがでてこないの?
>>692 そんなのフツウ出てこないでしょ!
でも言われてみれば、江戸時代ならできちゃってから処理したのもだいぶあるんでしょうな
昭和41年の丙午の出生率低下は、その前に「丙午は迷信ですよ」キャンペーンを派手にしたら
かえってその迷信を気にする人(迷信そのものを初めて知る人)が多くなり、
避妊法も確立していた現代だったので
結果出生率を招いたようですよ。
昔は、迷信だから産まないとか間引きではなく、
生まれた女の子が少女や大人になってから、あとから「あの人は丙午だから」と言いがかりをつける根拠に利用してたくらいです。
お后選びの時に対抗勢力がいちゃもんつけたり、和宮が意にそわない結婚を拒否する言い訳にしたりで有名ですが。
丙午の年の生まれの女性というと八百屋お七が有名だな
実際には、違うらしいけど
丙午生まれの乳児殺人事件って都市伝説なかったか
>>691 八百屋お七が歌舞伎や浄瑠璃となった際に丙午生まれだと宣伝されたことから
丙午の女は気性が激しく男を食い潰す、丙午の女は嫁にもらってはいけない
という迷信が生まれたらしい
しかし統計的に丙午の産み控えが立証されているのは昭和41年のときだけじゃないかな
自宅出産が主流で子供の出生届に書く出生日は親の自己申告のみだった明治時代には
娘が将来結婚難にならないよう、わざとその前後の年で出生を届け出たりしたらしい
>>681 一番の問題は、馬の背に乗せて運んでいるうちに、振動で「籾が俵の隙間からこぼれてしまう」ことなんだよ。
陸路で運ぶと、これでかなり減ってしまう。
前近代の日本では、ジュート麻袋のような木目の細かい穀物袋が普及せず(素材がない)
また、馬車などを使う長距離の荷車輸送も全く発達しなかったので、
陸路輸送は、穀物輸送にとっては鬼門だった。
だが、日本は細長い島国で、沿岸を海路で辿れる。更に地域によっては瀬戸内海のような「天然の運河」もある。
だから、穀物は船に乗せて、沿岸沿いに運ぶことになった。こうすれば俵からの遺漏は最小限に留められる。
河村瑞賢の西廻り航路は、秋田や新潟から、大きく下関を迂回して大阪を目指すが、
これは、近畿の日本海側から馬で山越えするより、船で大回りしたほうが、よほど安全確実に輸送できたから。
>>698 目こぼれを防ぐために穀物用の俵は二重にしていたんでないの
やたらに零すくらいなら叺を使って運んだと思うけど
穎稲での輸送はあまり無かったかもしれないが一重の俵からでも漏れないだろう
ただでさえ貴重な穀物なのに手を拱いて街道中に零し歩いたなら
乞食でなくとも群がりそうなものだがね
井原西鶴の日本永代蔵の中に米俵からこぼれた米を集めて生活と言う話があるよ
大人の算数の本で、天領から江戸に送られてくる年貢米の量を計算する計算式が載ってたけど
損耗率とかをパーセンテージにして計算してたとか、江戸時代の算術すげぇ
筒落米だね、輸送中じゃないのはその通り
損耗に関しては代官の不正も多くあったらしいが詳しいことは知らない
発覚が2年後になるためうんたら〜ってのは何かで読んだ
そういえば陸上輸送の振動の問題って、現代でも精密部品の輸送に付き纏うんだよなあ。それは昔から変わらんのか
海上輸送で気をつけるのは赤道を通過する時の湿気と錆びだけでいいって話を聞いた事がある
その関係の仕事してるから言うけど
もう事実上それやってるの一社だけだからな
輸送コストはどこもケチりたいからね
>>700 募金で億万長者になるみたいな話
そんなことより日雇いで稼いだ方が早いんでないの?
それは現代の感覚だ
>>708 全体としては細かいことからコツコツとな話
711 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 23:26:35.23
同じのが並んでる城もあるし、デザインの問題だと思う。
長方形が弓
○は鉄砲
この画像のはすべて鉄砲じゃないかなと思うんだけど
弓のはもっと縦に長い気がする、自信ないけど
それ鉄砲普及の過渡期じゃねぃ
711の時代に前世紀の長いやつを作った、貧乏宣言大名って誰よ?
姫路城
鉄砲の話がでたのであれですが
馬が鉄砲の音に驚かなくなったのっていつごろなんでしょうか?
火薬を爆発させて慣らせる調教をやりだしたのはいつごろなんでしょうか
火薬を爆発させる兵器ができた頃から
719 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 10:32:47.70
日本の古文の授業でならう古文とはいったい
何時の時代のやつなのでしょうか?もしかして
明治以前は全部同じ文法や発声をしてたのですかね。
第二に哲学書などで歴史的仮名遣いというか
文語となっている日本語は、これもいつの
時代の日本語なのでしょうか?平安?鎌倉?
室町?江戸?明治?以上2つお願いします。
>>719 基本的に古文は仮名で書かれているものを指す(漢文と区別)
仮名の成立が平安時代なので基本的には平安時代の文語にのっとっている
尚、口語は時代と共にどんどん変化したが書き言葉はいつまでたっても平安時代のままだった
(室町時代や江戸時代になっても公家や武家の教科書の一つが源氏物語)
それを明治時代の言文一致運動で時代の言葉に書き言葉を近づけた
721 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 11:15:45.28
>>720 言文一致運動は口語風の新たな書記言語を模索したもの
文語を口語に近づける運動ではない
文語は文語として使われていた
722 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 11:37:54.17
なるほど。詳しくありがとうございます。平安時代から
文章が変わっていないのは支那の正字運動の影響でしょうかね?
>>722 文語というのは形式が定まるとあまり変化しない
サンスクリットでもラテン語でも同じこと
支那の正字運動というのが何を指しているのかよくわからんがおそらく全く関係ない
>>719 平安時代の文章を標準として日本の文語は固定化された
発音は京阪式アクセントだったろうと思われていて
源氏物語を京阪式で読んでみた動画がどっかに転がってるはず
歴史的仮名遣いも平安時代のものを基準としている
定家や契沖など各時代に権威とされたものはあったが
国語学的に正確なものは近代になってから
724 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 12:16:29.48
正字とは時代や書体が変わってもこれだけは変えられないという
字の骨格の定義みたいなものだったかな
兵衛や右衛門って名前は武士しか使えないって聞いたけど本当?
よく時代小説で、吉兵衛とかって百姓町民が出てくるけど。
嘘に決まってる。
兵衛や衛門の庶民は幾らでも居るわな
どこかで見たんだが
江戸時代まで○之介は武士で庶民は○助という傾向があるとのことだったけど
そう?
僧侶以外で寺院に出入りを許されていた人間とはどういう職業の人間でしょうか?
寺院をどう定義してるのかしらんが、基本大寺院というものには僧侶の他に在家の国人、
また儀礼のための製品を創りだす各種職人、各地の荘園を管理する奉行集団、
経済活動のための商人集団、またそれら俗人の家族、等々、
むしろ僧侶以外の方が多い
>>728 いつの時代の話?出入りとは参詣のこと?学びに通うこと?僧籍に入ること?
>>729 d
なんとなく僧籍以外立ち入り禁止のイメージがあったがそんな事は無かった
>>730 商業活動とかかな
商業活動って具体的にどういうことかね?
物を売ったり買ったり
大奥と勘違いしてるんじゃないだろか
創作物とかだと聖域に俗界の穢れを持ち込むことまかりならんとか言ってるじゃない
実際の比叡山とか高野山とかそういう事はないの?
別に聖域じゃないし
女人禁制くらい男湯でもやってるし
高野山はともかく、比叡山は都の皇子や貴族の子弟どもの片付け先になってた位に俗界化してました。
名目だけで本人たちは比叡山にも居なかったけど
高野山は女人堂、比叡山は花摘社が有名だね
上で銭湯の話してる人がいるけどこれは風紀の乱れによるものだから別
739 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 08:03:56.86
>>723それでは書き下し文(中途半端な古文みたいな文章)は何時の時代ですかね?
明治時代でしょうか。
742 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 10:51:38.59
ありがとうございました。ところで個人的に
書き下し文の存在理由がまじでわからん
もしも書き下し文が無かったら漢文に返り点を打った物しか無い訳で、
ある漢字を単独で読むのか二文字で読むのかとか、など、いろいろ判りにくくなる。
極端な話、名前とか動詞とか修飾語とか、何の手掛かりも無しでは余程判ってる人でないと読めないよ。
白文ですらすら読めるのかよ
音読したって経文を唱えてるのと同じ
せっかく擬国文にして理解する方法を編み出したのに
>>742 書き下し文=(昔の)日本語訳
だからそれ以上のことはやらないといって
延々と白文を書き下し文にしていたな大学の授業では
>>742 いろんな人が同趣旨のことを書いているけど、簡潔に言えば
「原文に、最低限の記号を振るだけで出来る、【簡易翻訳】」なんですよ>書き下し(読み下し・訓読)
漢文は当然、中国語の漢字の羅列の文章を、正文として入手する。
外国語のしかも文語なので、どこまでも「まず文字ありき」であって、音声言語は二の次。
この文章をいじらずに、ちょっちょっと、記号と最低限の「ヨミガナ」を振る。
これだけで、全面書き換えをせずに、皆が読める日本語翻訳文ができてしまう。
これが逆構成されて、「純然たる日本語文を、漢文風に記す」ことが、大正時代くらいまでは広く行われていた。
中世から近世にかけてば、この「漢文風の書き方」が事実上公文書の正文綴りだった。
この「逆構成のなんちゃって漢文」を、三度、日本語式に再び巻き戻したのが、
漢字カナ混じり文の直系の先祖になる。数年前までは、
民法・商法・民事訴訟法などの日本の主要法律の正文は、これで書かれていたので、
歴史が長く、かつ身近なものだった。
747 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:34:29.87
吉田松陰の七生報国って、仏教の輪廻転生ですよね?
神道ではないですよね?この考え方って
仏教用語としての意味を問うているなら「解脱」でググってみてはどうだろうか
じゃあ七生報国は仏教用語なんですか?
神道の考え方じゃないですよね、これ
元ネタは太平記の楠木正成兄弟でしょ
751 :
スレ主:2013/09/16(月) 21:48:09.48
スレタイは「初心者」です。
ネット初検索心者向けです。
キーワードをたたけば殆ど、回答らしきものが出ます。
>>749 あなたは初心者でないので、スレ主もお手上げです。
>>751 初心者を歓迎しているだけで、初心者に限定したスレではありません。
回答できないなら書き込みは控えてください。
>749
質問にきたというより議論を吹っ掛けにきたかんじだが
吉田松陰は実践的な行動主義の立場である陽明学の徒だよ
>>746 >「原文に、最低限の記号を振るだけで出来る、【簡易翻訳】」なんですよ>書き下し(読み下し・訓読)
記号を振るだけでは白文に返り点を打つだけであって、書き下し文にはならないでしょう。
書き下し文は日本語の文法にそって語順を並べ替えてあるから『文章をいじらずに』という訳ではないし。
>>749 神道か仏教かと分けるなら神道用語でも仏教用語でもない。しかし当時の日本では神仏習合と言って
神も仏も区別は無かったので何の問題も無い。
今日はめんどくせえ奴が多いな
756 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 01:06:19.28
>>754 国家神道体制で「七度も生まれ変われるよ〜」なんていう仏教の教えの四文字熟語っておかしくね?
近代史板に行け
次の質問どうぞ
>>756 国家神道は明治以降だから吉田松陰とは関係ない。
間違えた。国家神道など吉田松陰の知った事では無い。
760 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 03:03:34.15
峠とかにある昔の茶店屋は、今みたいに道も車もないし、ぼろ儲けだったと思うんですけど、実際はどうだったんですか?
>>760 答えられる人が いるのだろうか・・・・・
>>760 道も車もないなら、商品の材料を仕入れるのも大変だし、儲かったとしてもその金で遊びに
街に行くのも大変だぞ
つか、車はともかく、道すらないのなら、そもそも客もほとんど来ないぞ
自衛せにゃならんからでかいババァでも居ないと危ないしな
夜泣きソバとか屋台ものも、当時はどのくらいアツアツなのが出たんだろう。
保温方法とか薪代、炭代が気になる。
江戸時代の屋台で、既に七輪を用いているので熱いのが出る
ただ沸騰はさせず、一度湯掻いた蕎麦を湯にくぐらせる程度のものかと
一昔前の駅前の立ち食いそばみたいなものですな
766 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 12:28:52.81
>>746いやさ、漢文の後に直接現代語訳を書いてはダメなのは
どうして?って話。文語は響きがかっこいいからか?というか
哲学書・歴史書ならそういった権威付けよりもなにが書いてあるかが
大切で、書き下し文なんて必要ないよね、ってことです。
>>766 別にダメなんてことはないけど、
自分が理解しにくいからって権威付けとか適当な理由付けはいかがか。
訓読は原文の体裁を殆ど変えないから、訓点を付け方による差異は小さい。
口語訳には定式が無いから、訳者によって文意が大きく変わることすらある。
訓読はある程度機械的に訳出できるのに対して、口語訳は一々訳出しなければならず労力が大きい。
白文そのままが本来は一番いいのだろうけど、さすがに読むのに手間だし、
訳者のフィルターが強くかかる口語訳で、原文の持ち味を壊されるより、
簡潔な訓読を示してもらって、それでも難解なところは自分なりに補うというのが、一番理想的だと思うけど。
>>766 ああ、そういうことか。それなら、江戸時代に荻生徂徠が提唱した、漢文理解法というものがあるよ。
まさに、漢文を直読音読して、それを一気に日本語に翻訳理解する。
(ただし翻訳先も文語であって、近世江戸弁や近世京言葉ではないけど)
大学レベルだと、漢詩や漢文も、中国語発音で読んで、いきなり翻訳もおk、という対話型の授業もある。
ところが、これ、経験してみるとすぐにわかるが、一つの大問題にぶつかる。
それは「いつの、どんな音で読むんだ?」ということ。
漢字音には歴史があって、しかもいくつかの音は日本語の造語要素として血肉になってる。
現代北京音で読んでも、例えば、
近代になるまで殆ど中国語を知らなかった、欧米の言語文化だったら、それでよいだろう。
だが、日本でこれをやると、非常にマヌケな話になるんだよ。
渡米した占い師が、「最近イーチンにはまってます。イーチン、すばらしい精神文化ですね。
私は、イーチンの、クンウェイチーの、ワンウージーシャンの意味が、何と言っても特に素晴らしい!」
本当にこんなことを言っているのを聞いたことがある。
日本語の文脈では、これでは、餃子の王将の注文wwにしか聞こえない。
「えききょう(易経)の、こんいち(坤為地)の、ばんぶつしせい(万物資生)」と書かなければ、
本当に、これでは、どこまでも、謎の中華料理の注文になってしまう。
「トンチン・インズオ・シーシャンタン」に変えたら、某高級化粧品ブランドは、国内顧客を全員失うだろうw
じゃあ、日本語で音読しますか?と言って、漢音なの?呉音なの?平仄はつけるの?という問題になる。
結局、読み下してしまうのが一番便利だ、ということになる。記号を付けた状態でも良いが、
今の日本語は、山本有三の負の遺産で、文字に記号が纏わりつくことを嫌うため、
どうせなら書き下してしまえ、ということになる。書き下せると、高校レベルの初等古文の素養があれば、意味がわかるから、
現代語は二の次になる、ということ。
続き。つまり、こう考えると分かりやすい。
今の漢文の一般的な三段表記において
【白文】…具体的に読むことを想定しない「原資料」。ヒエログリフや楔形文字の写真資料と同じ
【書き下し文】…実はこれが「読むべき原文」のポジション。破壊された経緯は、前のレスの通り
【現代語訳】…書き下しが読める人にとっては不要な、低学歴&理系向けの注釈解説
770 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 17:04:29.42
>>767原文の持ち味、てなにさ。哲学書(支那の古典など)は
なにが書かれているかが問題であって
「味」は関係ないだろう。それと訳出する者によって意味が変わってしまうほど
漢文ってのは難解なのかな。
>>769発声の統一さえもしてないところが問題なのですね。
>>770 めんどくせえ
漢文が難解じゃないなら白文で脳内で逐語訳してればいいだろ
772 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 17:53:44.81
いや単に書き下し文の無意味さを聞いてるだけなんだよ。
中途半端な古文は必要じゃないだろうに。そのまま現代語訳すればいいだけでさ。
>>772 結局はそんな難解でもない訓読を理解するだけの素養も無いのを屁理屈こねてるだけだな
相手して損した
>>766 例えば英文和訳の時に
英文があってそれを読んで訳すって作業だと思う
その読む作業が漢文だと書き下しに当たる
読まなくていいなら別にいいかな
>>770 漢文て難解だよ 当の中国人でさえ時代が経てば意味がわからなくなってしまう
だからそれを補足したのが「注」でも注がつけられても時代が経つとまたわからなくなってしまう
なのでそれを補足したのが「疏」 1行の本文に対して膨大な注疏がつけられていることも珍しくない
>>770 >それと訳出する者によって意味が変わってしまうほど
>漢文ってのは難解なのかな。
実際の白文には句読点すら無い。つまり文章の区切りが何処なのかさえ判らない代物だ。
論語なんかは長い歴史の中で確定してる訳だけど。
777 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 01:10:19.42
何故7がラッキーなんでしょうか?
日本でも、七本槍とか七手組とかありますけど、7は世界共通で縁起の良い数字ですか?
ピタゴラスに文句言えよ!
日本は7がラッキーという話は過分にして知らない
八の末広がり、中国で8の発音がナンタラ、8を横倒しにすると∞だと欧米人がのたまうというのは知っているが
喜 を 七
七七 と書くことがある。
中国では八、しかし中国の影響を受けている日本では八もあるが、七との話は昔、本で読んだことがある
色々説が載ってたが実家の本棚なので今引っ張り出せん
7がラッキーナンバーとして際立ってきたのは野球の影響
しいていうなら、七福神とか賤ヶ岳の七本槍なんてのがあるけど、これは別に7が縁起がいいってわけじゃなくて
単にたまたま7人だったってだけだろう
野球で「ラッキーセブン」という言葉が使われるのは、先発投手がだいたい7回ぐらいになると疲れてきて崩れて
点が入りやすくなり、7回に試合の流れが変わることがよくあったため
あと、日本で7が縁起のいい数というイメージの元になってるのは、パチンコの「777」だな
なぜ「666」とか「888」でなく「777」なのかは知らん
ラッキー7だからじゃん
陰と陽を好む話で、中国は八で日本古来は七だった
>>782 日本でも「七」は縁起のいい数字だよ
赤ん坊が生まれた時のお祝いは生後七日目の「お七夜」だし
正月を祝うのも七日までだった
でもスリーセブンは日本の文化じゃないでしょ?
あれはなんで「セブン」なの?
七を縁起が良い数とするのは七曜に関係するかと
7はバビロニアの天文の知識から来てるんじゃないかな
兎に角、目視できる太陽・月・惑星の数が7つから来たのは間違いないかと
790 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 19:00:35.19
崇徳上皇が「皇を民に、民を皇に」と言いながら死に怨霊となりましたが
今の憲法では主権在民で末期の昭和天皇も今上天皇も含め実権は国民ですが
これはこの崇徳上皇の呪いの成就と言えますか?
>>790 実権の無かった天皇の方が歴代で多いくらいですが。
民が皇になったとは言えなくもないですが、皇が民になったと言えるかしら。
敬語が書けないのは中学生だからなのか
質問の体をした政治喧伝なのか…
793 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 22:07:41.12
>>774 かりに漢文じゃなくて英語などの
外国語だったとして、原文→書き下し文→現代文に
する理由なんてないでしょ?それを訊いてるだけなんだが。
>>775漢文ってなぜああも難解なのでしょうかね。文法がないから
なにが名詞でなにが動詞でなにが形容詞なのかさっぱりわからない。
私の個人的なゲスパーとしてしょっちゅう支配者となる外国人に
中原の行政・金の流れ等をわからなくするために半ば記号めいた
漢文を用意した、なんて思ってます。
日本史において、リーマンショックはやはり戦前のブラックマンデーを超えられませんか?
>>794 日本においては世界恐慌よりも
それ前に起きた昭和金融恐慌のほうがヤバイ
世界恐慌の影響で生じたのが昭和農業恐慌だけど
リーマンショックがこれを超えたかは正直判断が難しいな
>>793 うん? 英語を和訳するときにとりあえず読んで訳すでしょ
I wam smoker →「アイ ワズ スモーカー」→ 私は喫煙者でした
その読む作業が必要ないと判断するなら別にいいんじゃないってレスだけど
なぜ読むんだという趣旨のレスなの?
失礼 綴りまちがってた…
>>790 現代人のくせに、怨霊とか呪いとか信じてるのかよ
799 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 07:33:59.37
世界史板で質問しましたがスルーされたので
菅原道真は今でこそ学問の神様として信仰を集めていますが
それ以前は左遷されて怨霊になって御所を襲ったそうですが彼は一体なにをやらかしたのですか?
大学生ですらWIKIの丸写しは零点で落第になると知ってるのに
>>800ときたら…
日本はほぼ同時代に日中戦争、太平洋戦争を経験しましたが、
扱いが格段に違うのは、単純に太平洋戦争は日本が負けた側であり、国民、国土に莫大な被害が出たから、
という解釈であっていますか?
日中戦争は殆どの国民にとっては「なんか外地でドンパチやってるなぁ」くらいのものだった
>>802 当時の日本の立場としても中国は宣戦布告のない非戦争の支那事変
太平洋戦争は宣戦布告した大東亜戦争で扱いが違いましたね
それなりに大きな存在、大きな事件や社会現象でも歴史(歴史教科書的な)に残るものと残らないものがあります。
この差を分けるものは一体何なのでしょうか?
歴史教科書に残りやすい要素、残りにくい要素って何なのでしょうか?
まず記録が有るか
次に影響の大きさ、時代が変わった切っ掛けは残りやすい
たとえば江戸幕府の出した大政奉還は当時の影響は無しに等しいが
明治維新の切っ掛けとして注目される
>802
国府の宣戦布告を受けた日本側の対応として、支那事変を含めて大東亜戦争と呼称したから
つまり、大東亜戦争中の対中国戦という位置付け
これは欧米でPacific Warと呼称するのは、1879年から1884年にかけてボリビア共和国およびペルー共和国とチリ共和国の間で行われた戦争であり、
日米戦はWWUにおける太平洋地域の戦いと呼称していることと同じ
で扱いが違うという印象を持つのは太平洋戦争の日本の主敵が米であって、英濠蘭中ではなかったから
大東亜戦争中、支那派遣軍は攻勢を禁じられ(全く攻撃しなかったわけではない)ていたからね
実際には日本の国力のピークは昭和十四年であり、対米戦は惰性で戦争を継続していたようなものだから
対中戦の日本経済への負担は一般の認識よりかなり重い
戦後、技術や記録媒体が飛躍的に進歩し、様々なことが映像や音声で記録され、
それが国民に広く知れ渡る現代では歴史教科書に載る内容にも何か変化はありますか?
>>799 別になにもやらかしていない
出る杭が打たれただけ
宇多天皇のもとで出世していたのが藤原一族にとってジャマだったので、藤原時平が
「道真は娘婿の斉世親王の擁立を謀っている」と讒言し、醍醐天皇により大宰府に左遷された
結果的に彼が左遷先で死亡した後、たまたま時平の親族や関係者の死亡が相次いだり、
清涼殿に落雷があったりしたため、彼の祟りと思われて、怖れられた
良くも悪くも小泉政権の規制緩和によって日本の雇用環境、労働環境は激変したと思われます
小泉元首相は結構大きく残るしょうか?平成の政治家では最右翼と思いますが
また小泉元首相の事績として、内政(構造改革、規制緩和)と外交(北朝鮮拉致問題等)、どちらが評価されるでしょうか?
>>810 郵政民営化選挙は歴史に残るんじゃない?
規制緩和に関しては1990年代半ば以降の不景気で
大卒フリーターが大量出現したから
日本の雇用環境悪化は小泉以前からだよ
>>811 小泉以前の雇用環境悪化は単に不況によるものではないですか?
小泉政権の規制緩和、派遣法の改革という政策によって、派遣社員、非正規雇用が
激増したような気がします。もっとも、その政策がひたすら失敗だったのか、やむを得ない処置だったのか、それとも英断だったのか、
それは分かりません。しかし、大きな歴史の分岐点だったと思います。
最近の高校教科書には小泉政権の記述があるのか?
それとも、相応しい板で発言しようと思わないのは、新手の荒らしか?
平成バブル崩壊後の大不況に、
神戸、東北での大震災、富士山の大噴火と大規模な自然災害が続き、
日本経済は疲弊。財政は破綻し、IMFの管理下に置かれることになった。
相応しい板に誘導しないで相手するのも荒らしの内だろうな
近代の天皇は軍服や背広を着用して、祭司の時だけ衣冠束帯だったと思いますが、
古代〜中世〜近世の天皇は日常的に衣冠束帯だったのですか?
日常の執務などはどんな格好だったのですか?
直衣ではなかろうか。
そういや、将軍や武家大名の肖像画が束帯姿で描かれることが多いのに、
歴代天皇の画像で束帯姿のものってほとんど無いなあ。面白い現象だ。
818 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 01:40:44.16
狩衣ってのが有るよ
外出時に騎乗する前提なの?
>>817 古い天皇の場合は同じ時代に書かれたからそう見えるって事はないかい
十二単着てる女皇とかいる現象と同じ感じで
最大の反社会的組織である山口組も、大規模テロでもしないと歴史教科書には載らないですか?
現状でも相当大きな負の社会的影響を与えていると思うんですけどね
風俗業、金融業、不動産業、興行、的屋業などの元締め的な面もあるしね
教科書に掲載されるかどうかを判断するのは歴史家じゃないよ
反日思想を布教することに熱心な日教組と全教に訊ねるべき
歴史にあまりにも疎いので日本史、世界史を勉強しようと思っているのですが、
日本史、世界史のどちらから先に勉強した方がいいのでしょうか?
両方一緒にしろ
歴史は覚える事が無限だから
興味を持った事から調べるといいよ
年号を暗記しても意味ない
>823
大学の専攻が日本史で受験は世界史の俺の経験から言えば
先に世界史で東アジア史を概括してから、細かい日本史を学んだ方が分かり易いと思う
受験が目的ではなく趣味の延長としてなら、NHKの高校日本史と高校世界史をみて、自分が何に興味をもつのか確認してみてはどうだろうか
放送大学は見ない方がいいよ、間違いなく歴史が嫌いになるから
826 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 09:56:19.02
猪瀬や石原、橋下、安倍、公明山口は老人は老いる前に死ね、病人障害者は自殺しろ、障害児は生まれたら間引け
アメリカに追随して戦争しようという恐ろしい政治勢力・政権ですがこんな悪政が行われた例は
有史以来日本でも世界各国でもないですがなんで中東のアラブの春、フランス革命のような
庶民の怒りの立ち上がりが日本ではないのですか?
>>826 酷い妄想性が顕著です
犯罪行為を犯す前に
直ちに入院した方がイイですね
828 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 10:05:39.55
>>827 あなたのような自民公明維新支持者には来ておりません。
お引き取り下さい。
829 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 10:13:04.21
・老人は介護保険がかさむから年を取る前に死ね
・病人・障害者は医療費がかさむしバリアフリーとか面倒だから自殺しろ
・障害児は保険とか控除とか金がかかるから生まれたら間引け
・アメリカと一緒に戦争したい
・金持ち大好きだから法人税は引き下げ
・庶民は税金払いまくれ重税だ!
たしかに猪瀬石原橋下安倍山口の主張そのままだね
こんな状態でデモすら起こらないのは不思議だね
中国でもデモが起きてもすぐ終わるし、
アラブやフランスとは違うんだよね。
世界史は良く知らんがフランスで庶民が怒り国王まで首跳ねたのは
増税に貴族が反対したからだから今の日本の自公政権とは違うんじゃない?
庶民が本気で怒ってデモやら暴動やら革命やらするのは「パンとサーカス」が供給されなくなった時
この場合のパンとは生活の安定、サーカスとは娯楽の象徴
逆に言えば、(自分の今の)生活の安定と娯楽さえ確保できていれば、庶民はけっして暴れたりしない
>>826 ここは歴史について質問・回答するスレです。
そんなこともわからない人がなにを語っても無意味ですので
お引取りください。
>>826 あなたがデモを起こさないのはなんで?それが答えなんじゃないの?
>>826 >有史以来日本でも世界各国でもないですが
日本史スレだから日本史で行くけど明治以降の日本の歴史を知らんのか?
>>824>>825 教えていただきありがとうございます!
自分は22歳で趣味で歴史を勉強しようとしてるのですが、
観光とかするの好きなので歴史も知ってたら観光もより楽しくなるかなと思いました。
毎日気楽に少しずつ勉強していこうと思ってます。
鎌倉幕府と室町幕府ってどっちが日本に好影響を与えたと思う?
室町幕府は東山文化を生み出したが、もし室町幕府が存在しなくとも
いずれ似たような文化復興を誰か別の知識人がやったかな?
>>838 >いずれ似たような
そんなこと言い出したら質問の意義は無い
840 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 17:50:35.40
日本は明治維新後すぐに文部省を設置し学制公布、教育令公布と
近代義務教育を取り入れたのが数あるアジアアフリカ諸国の中で唯一近代化を完成させた。
当時のアジアの大国である清もオスマントルコも近代化はしたけどそれは軍隊を西洋化するとか
建築物を近代化するなどで教育に関しては一切中世のままだったので人材が育たず
結局は列強に浸食されて国まで滅んだ。
日本はアジアアフリカで唯一近代義務教育を取り入れたのでアジアから列強になれた。
これは学生時代の予備校の日本史の講師が話していたのですがこれは
学問的に真実なのでしょうか?
また本当に他のアジア諸国清やオスマン帝国は近代的な教育制度を
とり入れなかったのでしょうか?
トルコは百年かけて民主化したから、条件付の民主主義国との地位を手にいれたけど、
急進的に従来秩序の変更や“暴力装置”である軍に変革を望むとエジプトのようになる。
その意味では日本のような“大御心”に、軍を含めた全てを委ねられる国家は特別と言える。
多分>840が望んだ回答じゃないだろうけどw
>840が望む回答は別の人がやってくれると思うよ、「誰かの言葉の一部を切り取り批判するのは止めよう」と
民主党政権下においてのみ啓蒙化気取りのマスコミが再三言っていたが、俺も同意する。
予備校の講師による発言全文が>840に書かれているなら、そんな馬鹿の講義は受けるべきじゃないね。
>>840 逆にここじゃなくて世界史板の方がいいんじゃない?
まあ義務教育が強国になった理由じゃないけどねえ
一番大きな理由が武士という教養階級が存在した
職人と言う高度な技能集団が存在した
これらが絡み合って強国になった
義務教育してもダメな国はダメだよ
>>840 >>843 義務教育や武士階級や伝統的職人が日本を強くしたわけでもなくて
やはり明治政府の富国強兵だよ
欧米列強にひけをとらない軍事産業をおこし文明開化をやりとげた
国民皆徴兵制(男子のみ)をとって職業を問わず(武士階級といった特定階級に限定せず)
あらゆる青年を軍隊に組み込むことができるようにした
845 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 20:50:10.23
明治天皇は世界的にはMeiji the Great、日本でも明治大帝と言われていますが
歴代天皇の中で明治天皇以外に大帝と呼ばれている天皇はいますか?
845の期待する模範解答例
はいはいネトウヨネトウヨ
呼ばれてねぃよ〜ネトウヨ乙!
日本中国朝鮮をヨーロッパから守った明治大正昭和はローマの五賢帝にならって三賢帝でいいだろう。
そういうくだらない話題は日本近代史板でやれよ
後白河院はかなり狡猾に立ちまわって権力を維持したので大帝と呼んでもいいかも
尤も、上皇は天皇ではないので大帝というのは違うかもだけど
850 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 22:14:05.18
推古天皇はイギリスでいうエリザベス1世、ヴィクトリア女王かな?
852 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 22:45:21.22
日が変わればキチガイは消える。あと少しの辛抱だ
>>850 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/09/30(月) 22:14:05.18
>>848 自治するなバカ死ね
>>850 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/09/30(月) 22:14:05.18
>>848 自治するなバカ死ね
>>850 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/09/30(月) 22:14:05.18
>>848 自治するなバカ死ね
856 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 23:03:36.29
もうどっちがどっちなんだか。
862 :
日本@名無史さん:2013/10/01(火) 18:32:42.79
帯刀可能で合法的に人斬りをしていた時代の人たちと、
帯刀不可、人斬り不可の時代に生まれた人たちとのジェネレーションギャップを伺わせるような話ってどんなのがありますか?
私の上司は客相手であっても怒るとすぐに刀を持ち出すとか、そんな話は結構あったと思うんです
帯刀不可の時代に刀を持ち出せる訳無いだろ。
>>862 武士は、ちょっと怒ったぐらいですぐに斬りつけるってイメージを持ってるとしたら、時代劇の見すぎだよ
江戸時代の一般的な武士は、人なんて斬る機会はほとんどなかった
初期の、戦国時代の気風が残っていた頃はまだしも、江戸中期以降の武士は官僚化が進み、
刀は持っていてもろくに戦えなくなった(だからこそ吉宗などは必死に文武を奨励した)
いわゆる切り捨て御免にしても、相手が町人や農民でも、よほどのことでなければ、簡単に切り捨てる
わけにはいかなかった
私の上司が刀を持ち出す話ってのが日本史にどう関係するんだ?
>>864 切り捨てれば自分も処分されること覚悟なんだよね
>>862 赤穂浪士見てれば分かると思うが殿中で刀抜いたら切腹とか仇討ちしたら切腹とか
武士だからと言って簡単に刀抜いたり人を斬っちゃいけなかったんだよ
武士相手ではなく庶民相手の場合、確かに切り捨て御免という言葉はあったものの
武士が理由もなしに庶民を自由に斬ってよかったわけがない
江戸幕府も憂さ晴らしや腕試しのために問答無用に道行く人を切り捨てる辻斬りを禁止して
これを行った者は捕えて厳罰に処すとしている
>>863-867 無法状態なイメージを持っていましたが、何かあったら人斬りというような状況じゃなかったんですね
何かあったら斬って解決という時代の人と、それが許されない人との間には大きな価値観の違いが出るだろうと思って質問したのですが、
そもそも刀が単なる所持品になっていたのであれば、そんなに大きな価値観の違いはなかったのでしょうね
しかしその一方で幕末はローニン(浪人)が天誅天誅と刀を振り回す時代でもあった。
>>869 全共闘時代の学生運動みたいなもの
思想的には尊皇攘夷(安保反対)に共鳴している浪人(学生)は少なくなかったが、実際に武力行使にまで及んで
暴れていたのは、その中のごく一部の過激派と、それを取り締まる幕府側(官憲)だけだ
幕末の浪人や全共闘世代の学生が全員ゲバ棒持って暴れまわってたわけじゃない
武士ともあろうものが学生と同程度の実力行使しかできぬとは・・・
こりゃ武士の魂が失われただのなんだの嘆く話が当時多かったわけだよ
869は鞍馬天狗かなにかの通俗小説を語ってるだけだし
870は全共闘という言葉をしっているだけ
871は一寸分からんな…真性の電波さん?
>>871 違うよ、学生が武士並みの実力行使をしたんだよ
学生は雑兵物語を参考にしたという当時の人の証言があったりする
>>868 そもそも「何かあったら斬って解決」なんていうイメージがどこから生まれたのかが知りたい。
そんなカオスがまかり通るような世なら法もまつりごとも要らないだろう。
マンガの時代考証は史実とは異なるということが分かって良かったねw
878 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 00:54:44.70
アジアアフリカ南米の多くの国々が大航海時代に
ヨーロッパから宣教師派遣→布教→商人が来る→布教や商売で現地政権といざこざ→軍隊が来る→植民地
という経過を辿っているのになんで日本は免れたのでしょうか?
日本も鎖国したりキリスト教徒を弾圧したりしましたが・・・。
十六世紀前半なら間に合った鴨しれんが来るのが遅すぎた
少数の欧州人が第三世界を占有できたのは、当該地域間のグループ同士の争いに乗っかれたから
欧州人が日本を知り、現地に赴き、占有する価値があると判断したとき
戦国時代は終わっていたから
〜1570年頃まで晩期倭寇、中国沿海部を襲う 倭寇から朝鮮救援に明が軍を派遣したのが92年
西が比律賓攻めだしたのが1565年、マニラを占拠したのが1571年
葡萄牙が広東貿易を許されたのは1578年
和蘭がジャワに来たのが1595年
>キリスト教徒を弾圧したりしましたが・・・。
島原でキリスト教徒を攻撃したのにポルトガルもスペインもオランダも何故かスルー
これが他のアジアやアフリカだったら目くじら立てて現地政権をボコボコニするのに
戦国時代に、他国を通って京に上った大名がいたけど、他国は手出しすることはなかったんですか?
>倭寇から朝鮮救援に明が軍を派遣したのが92年
↑撤回する
歴史学研究会orz
>>881 大名とその他国との関係による
たとえば津軽為信の上洛は
出羽ルートでは浅利氏に、
陸奥ルートでは南部氏に、
羽後ルートでは秋田氏に邪魔されて失敗
ちなみに比較的仲がよかった最上は通してあげた模様
>>883 おれ
>>881じゃないけど、ちょうど気になってたとこなので参考になります。
直接敵対している隣国を通過できれば、後は仁義で通れた感じですかね。
織田信長も尾張一国時代に京に上りましたが、このときどういうルートで行ったか
興味あります
886 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 09:29:38.47
>>878 もっと近くに魅力的な土地があったから
大航海時代に西洋の植民地になったのはインドぐらいまでだと思う
大航海時代には中国の明はまだ独立を保っていたし
その先にある日本にまで軍隊送る気がなかった
>>886 16世紀にフィリピンが植民地になってる
>>878 東アジアは、ヨーロッパの本国から遠すぎて、帆船では十分な兵力を送り込めない
対して、相手は地元の防衛戦になるので、大兵力を動員できる
相手がフィリピンぐらいならば、人口もたいしたことはないし、鉄砲・大砲という武器で兵力差を
補うことができるが、日本は人口も多い上に、いち早くその鉄砲・大砲の技術を習得し、生産し、
戦術に取り入れてしまったので、技術力による優位もほとんどなく、植民地化は厳しかった
まあ、日本が鎖国している間に再び西洋との技術力の差が開いて、日本は蒸気船や新式の鉄砲・
大砲に驚愕することになるけどね
昭和後半〜平成で後世の歴史教科書に掲載されそうな人物や事件、社会現象は何ですか?
超メジャー級ではなく、マイナー寄りの意見を聞かせて下さい
890 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 14:08:06.27
>>887>>888 大航海時代のフィリピンには統一王朝がなかった。
島ごとに少しずつ征服され、やがて全地域が植民地下に置かれた。
フィリピンと日本の間にある台湾は、17世紀の一時期、オランダの植民地下に入った。
しかし、中国・清の鄭成功が台湾に出兵したことにより、オランダは軍事的に敗れて台湾から撤退した。
つまり、ヨーロッパは東洋で、台湾の取得に失敗している(一時期、領有していたが)。
琉球は形の上で清に服属していたため、清との争いが避けられないし、
その先にある日本にまでは来るはずもない。
891 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 14:23:44.70
892 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 14:25:45.13
>>884 上ポチッてしまった
金のない隣国は、通っていく大名を羨ましそうに指をくわえてたのだろうか
>相手がフィリピンぐらいならば、人口もたいしたことはないし、鉄砲・大砲という武器で兵力差を補うことができるが
つーラプラプとの戦い
>>889 マイナーな人物や事件、社会現象は教科書に載りません
以上
教科書に掲載されるレベルの中でマイナー寄りの事柄です
896 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 16:42:09.32
非常に曖昧で抽象的な事しか覚えてなくて、自分で調べようがなくて…お願いします。
古文書(時代も何の古文書かも分からない、江戸時代以前)にあったんだけど、だいたいの内容を書くと…
「お付き合いしている女性に、口で話すのが恥ずかしいから、『今度どこそこでデートしないですか?』って書いた文を手渡した。返事をどこそこのお寺の仏像の下に敷いといて下さい。」
て書いてあったんだよ。
古文書によると、どうやら男はそこに女性からの返事の文を何らかの事情で、取りに行けなくなったらしい。
って話しなんだが、何年か前に、女性からの返事が1000年ぐらい経った今、お寺の仏像下から発見されたんだよ。
男性はこの返事を見たかったんだろうなぁって話しなんだが…
分かりにくい話しで、申し訳ないけどどちら様か詳しい話しを知りませんか?
古文書の名前とか、誰が書いた文とか時代はいつとか…?
よろしくご教示願います。
日本の気候ではサツマイモ等芋類も栽培できるはずですが
なぜ米が主に食べられるようになり、芋類は従たる地位しか与えられなかったのでしょうか?
実際に毎日サツマイモ食べてみるとお米の方がおいしいと判る。
>>898 実際に芋が主食になってる地域も世界にはあるので……
ジャガイモやタロイモを主食にしている民族は多いが
甘いサツマイモを主食にってどうだろう
他のイモ類と混合で主食にすることはあっても
サツマイモのみ単独主食って厳しいような…
でもウルルン滞在記でパプアニューギニアの先住民に日本人が鳴門金時を持ち込んで感謝されてたぞ。
>>899 そういう所は米が穫れないです。
>>899 米が最も収穫量が多いから
しかも水田だと連作障害もない
水田が出来上がってからイモが入ったので特に変更する理由が無い
>>896 [緑川ゆき] 夏目友人帳 第12巻 47話?
>>897 サツマイモ・ジャガイモはアメリカ大陸原産の植物なので、大航海時代以前の日本にはそもそも存在しません
ヤマイモ、サトイモは米に比べて、それほど生産効率はよくありません
コメの方が保存効くしね
水田の生産性の高さは異常
歴史を変えた作物
907 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 21:54:37.24
変な宗教の人がきているね
きもい
イモ信者が居るようだなw
だいたい、イモなんかで文明が生まれるかw
912 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 03:03:08.05
島津斉彬公や西郷吉之助どんは、文明開化の先駆たい!
>>897 ・日本食は、食物に水分が多いものを好む傾向が強い
・あまりに食糧事情が悪い時期に普及したため、食糧事情が緩和されると「黒歴史」になってしまった
・特にサツマイモはタンパク質が少ないため、沢山のおかずを食べないとタンパク質欠乏になってしまう(特に学童)
2つ目と3つ目はよく言われるが、案外重要なのは1つ目ではないかと思う。
「ホクホクのやきいも」というが、毎日ホクホクのものを食べ続けるのは、日本人には辛いのだ。
前スレ923さん、いらっしゃいます?
今谷の話をぜひしたいのだけど。
前スレ923って、これ?
923 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2013/01/21(月) 02:00:27.04
大商人とかはともかく、一般的な当時の庶民には縁がないだろ>天麩羅・金平糖
前スレというのは博士らスレのことじゃないか?
あっちが自演野郎に荒らされたんで
新スレ立てずにここと統合ってことになってたし
http://www.logsoku.com/r/history/1335857413/ これか
923 : 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/10/07(月) 08:02:59.87
>>916 寺社が避難所=アジールになってったって説は近年よく言われますね。
庶民の味方…とまで断じていいかは疑問だが、封建時代の矛盾を相当部分でフォローしてたのは事実。
宗教関係が難しいのは、無論それ自体の難しさもあるけれど、
日本の学者の宗教観が欧米の影響を受けて、逆に日本の宗教の実態が見えにくくなってる可能性も。
ちょっと一例。
今谷明先生は織田信長がハ見寺を建てたことを「自分自身の神格化」と述べるんだが(講談社新書「信長と天皇」)
このころは上杉謙信、加藤清正、前田利家なども神社に神として祀られた。最たるものは徳川家康。
これと何が違うのか?
今谷先生の「神」観はキリスト教の影響が強いと思われる(氏の家はキリスト教)。
918 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 18:00:34.06
回答してくれるのは、初心者が多いような?????
ネットで調べられる回答はもう、いいのじゃないですか?
回答「ネットで調べろ」で・・・
分かってる人には「ググれば分かる」内容であっても
ネットにある既存の情報は、知らない人には分かりづらい断片的な情報であることも多い
それを整理したり、噛み砕いたりして説明してくれるなら立派に玄人の回答だと思うが
アジールは古代ギリシャの神殿もそうで、キリスト教以前からのことなんだけれどね
それから死んで後に神になるというのは神道にも見られることだし、何より家康の場合は権現か明神かで色々あったでしょ
とにかくこれだけじゃ923さんが何を言わんとしてたかわからない
921 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 18:58:46.53
>>919 あんた偉そうだね?歴史を語るのに浅学の上目目線はいけませんよ。
>>919 >>918は博士らスレを荒らした日本語不自由くんだから相手しても無駄
見分け方としては
・だいたいage
・疑問符連打
・句読点や改行、てにをはの使い方がおかしい
・唐突で何の意味もない字下げ
・日本語を母語としない人っぽい漢字や語句のコピペミス
・史料は勝者の捏造
・天皇と賤民が大好き
・時間帯を選ばないバレバレの自作自演
・基本的に何を言ってるのか何が言いたいのか意味不明
他の方も御注意ください
923 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 19:04:00.89
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ31立ててください。
よろしくお願いします。
初心者が、立ててもいいと思います。回答者がスレ主以外で有能な方もいますので。
924 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 19:20:51.00
>>921 悪いけど、上目目線でなく、上目遣いです。
>>922 NG推奨ワード
・???
・勝てば官軍
・浅学
・私見
・スレ主
・老後の楽しみ
持論
・天皇は渡来人
・日本書紀は中国語、古事記は和文
>寺社が避難所=アジールになってったって説は近年よく言われますね。
四半世紀前に引退した老人なら近年だろうけど
ゆとり世代を代表するような「グンキガー」君だと、俺の生まれる前から言われていることが近年かよーと噛み付いてくる罠
日本語は難しい(苦笑
>>925 意見が集約されたというか、あんた一人だけでみんなスルーした感じだな。
>>928 このスレのリンク貼ったの俺一人じゃないし
そもそも自治関連の議論が成立しにくいところで特に反対が無かったんだけど
なにか問題あるの?
>>928 次スレ不要でと言った内の一人が俺だから少なくとも二人は居たんだろうw
次スレ要らないが厨扱いでスルーされてたんなら今頃誰かが立ててるわな
933 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 21:57:18.47
本気モードで来る荒らしが悪い。
2ちゃんだよ。
某スレで徳川頼房に正室が居なかったことが話題になったんだけど
若死にや妻のことが伝わらない以外で正室の居なかったそれなりの武家っていうと
細川政元と上杉謙信くらいしか思いつかなかったので
他に御存知でしたら教えてちょんまげ
30歳で死んでるから若死にの方かもしれんし、それなりの武家と言えるかどうかもわからんけど、吉田松陰
936 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 18:53:29.16
推古天皇の妃が、百済のブネイ王の末裔と聞いたことがありますが、本当ですか・
また、妃がよくわかりません。明治天皇までは、メカケが多くいたのは知ってますが?
質問として、
1・ブネイ王の末裔が推古天皇の妃は本当ですか
2・妃の定義がよくわかりません。
ggrks
>934
有名所では織田信忠とか。
正妻見繕ってる最中に変があったんだろうけど
939 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 20:23:49.55
940 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 20:30:36.08
>>934 どこのスレですか?貼り付けてくれますか?NO,あたりも・・・
>>936 女帝である推古天皇に妃が居るのはおかしいとは思わないのでしょうか?
レスありがとうございます
>>935 確かに年齢も階層も微妙ですねw
>>938 おおそういえば
甲斐武田との縁談が御破算になっちゃったんですよね
引き続き御存知の方はよろしくです
944 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 22:18:57.79
妃=女子と断定するのは初で的には間違っていると思います。
>>944 男子で妃だった人を外国でもいいから一人でも挙げて見ろw
946 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 22:32:24.74
>>936です 間違えて、混乱を起こしたようでスイマセン。
推古天皇でなく、桓武天皇の間違いです
訂正します
質問として、
1・ブネイ王の末裔が桓武天皇の妃は本当ですか
回答:
本当では有りません。でも桓武天皇の生母の高野新笠が武寧王の10世孫と
続日本紀に書いてあるらしいです。しかし朝鮮側の史料には出てこないので
嘘臭いらしいです。
天皇ネタでスレを消化し終えたら
質問スレは一つじゃないと、同時に複数のスレを一人じゃ荒らせないと
何時もの子が暴れだすのか(ワクワクw
949 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 01:46:12.87
>>948 天皇の歴史を語らないと、日本史が成り立ちません。
んなこたぁーない
>>947 滅亡した王家の亡命した子孫の十代も後の仔細を記す親切な母国の史書
の例を一例でも挙げてみてくれないか
>>951 子孫の代じゃなく、高野新笠の先祖だという武寧王の王子の名が朝鮮側の史書に載ってないの。
>>952 今で言えば在日韓国人が大統領になったようなものだが
滞日中の庶子もちゃんと記載してくれたのかね
954 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 01:47:00.36
百済王は妃が倭人だろ
955 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 06:32:21.41
遷都1300年記念式典で、平成天皇が
陛下は平城京について「父祖の地として深いゆかりを感じる」とし、
「桓武天皇の生母は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫」
と述べ、皇室と古代朝鮮半島との縁にも触れられた。
桓武天皇の妃は、ブネイ王の末裔は間違いで、桓武天皇の生母がブネイ王の末裔。
平成天皇などと存在しないがな
957 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 13:33:52.62
信長は女子供の区別なく平等に日本人数十万人を虐殺した英雄。
秀吉は応永の外寇の報復で朝鮮人を殺しまくったので極悪人。
なんで日本人の歴史観がおかしなことになっているんですか?
文明度によって 命の価値が違うからです。
信長のスレなんていくらでもあるだろ粘着
山形県民伊達政宗に虐殺された宮城県民はアホ池沼
蘇我氏って
聖徳太子の良きパトロンという姿と
中大兄皇子に誅された既得権益者っていう姿の両極端しか
教科書に描かれてないんですが
その間の人達は何をしてたんですか?
どのようにして、能吏から佞臣へと一族転落していったんですか?
能吏と佞臣は背反せず、多くの場合同一だと思うが
中国なら賈似道とか、フランスならタレーランとか
963 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 19:44:28.84
何故天皇は長生きなのですか?応神天皇 あたりから実在したとも聞きましたが。
・天皇
11代 垂仁天皇 /139歳
6代 孝安天皇 /137歳
7代 孝霊天皇 /128歳
初代 神武天皇 /127歳
10代 崇神天皇 /119歳
8代 孝元天皇 /116歳
5代 孝昭天皇 /114歳
9代 開花天皇 /111歳
15代 応神天皇 /111歳
16代 仁徳天皇 /110歳
124代 昭和天皇 / 87歳(1989年没)
108代 後水尾天皇/ 85歳(1680年没)
57代 陽成天皇 / 82歳( 949年没)
965 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 20:19:58.96
ブーーーーーです
屁は屁板でおねがいします
967 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 20:34:42.91
日本の古文書の残存状況とか古文書一般について知りたいのですが。
古文書の読み方についての入門書はたくさん見かけますが、古文書全般についての初心者向けの
書籍があればご教示下さい。
968 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 20:51:46.10
>>963 皇室にとって血統はさほど重要ではないことは、「万世一系」について論じれば明らかだろ?
969 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 20:57:41.27
>>963 長命だったんだろ。長命の要因は説明できても、原因は病理学者にも無理だろ。
自作自演はもっと上手くやってください
>>967 直接の答えにはなりませんけど
「古文書」ではなく「書誌学」で検索してみるとお眼鏡に適う書物があるかもしれません
南方熊楠に位階や勲章などの栄典は授けられていますか?
973 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 21:52:33.32
>>957 理想の上司に信長が選ばれるように捏造工作したりとマスゴミは必死だよね。
犬HKも洗脳に荷担してるし。
974 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 22:31:59.47
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ31を速く、立ててくれませんか?【初心者】スレッド立てる前に質問をPart30【歓迎】
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart30【歓迎】は 30で終わりましょう。
>>972 在野の研究者で終わったからそういうのとは無縁なんじゃね。
976 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 05:19:29.18
質問があります。
徳川家康が大阪城の二の丸に築いた天守閣はどうなったのでしょうか?
関ヶ原の後はさっぱり記録にでていませんが?
978 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 09:16:39.29
日蓮大聖人は国を救いたいという思いから日蓮宗を立ち上げました。
しかしなんでそこから創価学会のような悪の集団が生まれたのですか?
>>978 御両親は健やかに育って欲しいと願い、親として精一杯のことをしたはずです。
しかし残念ながらあなたのような子になってしまったわけです。
それと同じことです。
>>976 大坂夏の陣図屏風の四重櫓がそうではないかと言われています
981 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 11:11:41.24
>>980 ありがとうございました、
家康が築いた、大阪城二の丸天守閣
いつの間にか記録から消えているのだよな
ただ、記録では天守と張り合うように建てたと言われているから
もう少し高さがあったのではと思うのですが
四重櫓だと高さが少し足らないような気がするのですが?
>>942 やっぱ正室を持たなかった武家というのはかなり特殊なんでしょうかね
当然、武士の強さは戦に協力する人が多い事
つまり親戚付き合いが大事
親戚を増やさないバカは滅びる
>>984 増やすのが当然だとするなら
同族と婚姻したり何代にも渡って同じ家系と縁組みしたのはなぜですか?
>>985 それは関係をより堅牢にするため
政略結婚て知ってる?
豊臣秀頼の正室は誰だったろうね
>>986 堅牢にするのと増やすのとは相反しませんかね
増やさないのをバカと仰るなら既存の関係を強固にすることよりも新しい嫁ぎ先を見つけた方がいいのでは?
子供をたくさん作って既存も新規も強固にするのが正解。
>>987 相反しない
自分と兄弟子供全部が駒だから
江戸時代の都市部の犯罪対処は町奉行が担当していましたが農村の犯罪対処はどこが担当していたんですか?
991 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 18:10:08.90
村役人が中心となって自主的に
都市と違い顔見知りしかおらんから、そーゆーかんじで
993 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 23:12:34.19
村役人はどんな方が、任ぜられてましたか?
農民や庄屋かな
古代の農村なんて民主主義だから
何かというと村人が集まって決める
庄屋も農民のうちだし
江戸時代のことを聞いているのに古代って
奈良の今井町に行ったときに聞いたけど今井町では惣年寄の今西家がやってたね
家に簡単な牢みたいなものもあって面白かった
裁いたのは軽犯罪だけとのことだったけど
レスありがとうございました
村はある程度藩からは独立した集団だったんですね
埋め
1000 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 04:23:00.59
埋め
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。