出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世★3

このエントリーをはてなブックマークに追加
952日本@名無史さん:2013/03/06(水) 13:54:02.76
視野の狭い日本史ばかにありがちなこと

上代日本語の知識を前提とせず語呂合わせレベルの発想で土地比定
953日本@名無史さん:2013/03/06(水) 15:22:01.57
読みの問題なら、そもそも、大和も大倭も、
ヤマトとは読めない。

記紀で無理に音を当てて、読み替えた形跡がある。
954日本@名無史さん:2013/03/06(水) 15:51:43.47
大倭とは数ある倭の中でもっとも高位にある国という意味。
(治天下)大王や(天照)大神と同じ。
もっとも高位の国がヤマトだったから、ヤマトにふさわしい漢字として大倭があてられた。
955日本@名無史さん:2013/03/06(水) 18:26:06.97
大和朝廷のヤマトは、山門や山戸ではなくて
山処のほうが正しいって感じになりつつある。
三輪山の麓の山処(やまと)から来ているのだと思う。
ただし、この地名は一般名詞でもあるので、全国各地にそういう地名があったと思う。
956日本@名無史さん:2013/03/06(水) 18:29:47.53
倭に大をつけて大和とか大倭と読ましたのは
対外関係でのメッセージだよ。

この時代、自分の国の名前に大をつけるのは、中国の中央王朝だけな。
大漢、大宋、大隋、大唐などといった。
それに対して、倭国も自らを大倭といった。
それだけのこと。

日本国内的には、三輪山の麓の山処(やまと)を王朝の名前とした。
957日本@名無史さん:2013/03/06(水) 18:32:24.52
そんな原始人がつけたような、どこにでもある地名を
日本を統治するようになってからも使うかいな
958日本@名無史さん:2013/03/06(水) 20:04:43.39
江戸も大した名前ではないな。
海の玄関口って意味だから。
でも、そこが徳川幕府の首都の名前になり
大江戸というふうになった。
959日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:09:45.00
ヤマトって山への入口っていう意味だったんじゃね?
山地から川が流れ出してくるあたりの事。
例えば佐賀の大和町は嘉瀬川が背振山系から流れ出してくる所にあり、
熊本の山門郡は諏訪川が山地から流れ出してくるあたりにあった。
ちなみにミナトは川が海に流れ込むあたりの事を言ってたらしく、
記紀では「水門」と書かれてるらしい。
960日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:15:39.02
>>936
>ヤマト名は、定説では三輪山周辺ってことらしいが、
>古地名としては残ってないんだよなあ。

そうらしいね。という事はやっぱり邪馬台国は畿内には無かったんだよ。
もし邪馬台国が畿内ならヤマトが古地名として残っていないというのはいかにも奇妙。
961日本@名無史さん:2013/03/06(水) 22:01:17.28
江戸は徳川が入る前から鎌倉時代の文献にも見られるし、
江戸氏もいて江戸っていう地名が定着してるけど
山処じゃどこの山処かわからない程度の地名だろ
962日本@名無史さん:2013/03/07(木) 00:02:59.42
まじめにヘブライ語の「神の民」でいいんじゃない。
963日本@名無史さん:2013/03/07(木) 01:26:39.22
ハヤトもよろしく
964日本@名無史さん:2013/03/07(木) 08:37:29.71
倭の衰亡は祭祀器具である銅鐸と銅矛の分布から推論できるな。

紀元前1世紀頃まで広く近畿一円に広がっていた銅鐸文化圏は、
出雲を中心とした銅矛文化圏と後に対立し、2世紀頃から急速に衰退、銅矛地域が拡大する。
やがて銅鐸は消滅するが、同時に銅戈文化圏も九州に生まれた幅広銅戈文化圏に浸食され、
以後、四国、吉備が幅広銅戈文化圏になったのち、銅戈は銅鏡へ変化する。

つまり、神武天皇率いる天孫族は3世紀頃に九州に現れた「出雲勢力の親戚」ということになるのだろう。

一方の銅鐸文化は、消滅手前が尤も巨大な鐸を作っているが、
これは勢力が大きかったからと考えるべきではない。むしろ逆で危機感の現れであったといえるだろう。
銅鐸はそもそも破壊して境界の地中に埋める霊的な封印と呪詛であったからだ。
大きいということは、すなわちより強大な呪詛の必要に迫られていたというとだ。
965日本@名無史さん:2013/03/07(木) 08:48:35.87
ただ、ここで重要なのは、銅矛、銅戈ともに、銅鐸と同じように地中に埋めるのだが
対馬にのみ70数本も埋められていたということ。

これは前述のように境界の呪詛であるから、当然、呪った相手は半島である。
要するに、出雲文化圏は半島を敵と認識していたということになる。
これは、記紀が新羅王子、天日矛に非常に好意的である記述と考え合わせると実に興味深い。
966日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:10:17.17
近畿には秦氏系を中心にウシ祭りがある。
意味不明な祭りだが、銅鐸がウシの首飾りであることを考えれば、無関係であるとは思えない。
967日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:42:17.41
つまりこういうことではないか。
銅鐸近畿勢力=邪馬台国(ヤマト)。燕王の流れを汲む江南系海人族。姫姓。
近畿銅矛勢力=北方系、魏王の流れを汲む中原以北の山人族。同じく姫姓。
つまり、大陸では親戚同士。

2世紀→出雲伸張、近畿政権没落、離散。伊勢と尾張に女系の王族が残る。
    北陸、関東まで出雲文化圏の拡大。
    
3世紀→筑紫平野に広型銅戈勢力(天孫族)出現。出雲の分家。
    熊襲(久米族)と同盟し、伊予、吉備を攻め陥落させる。  
    そのまま北上、伊勢勢力の女系旧王族と婚姻。
    墓制が前方後円墳に。
    地元勢力物部氏と連合し、本家出雲をしのぐ勢力に成長→国ゆずり。
    
7世紀→近畿姫姓の末裔が蜂起。クーデター、壬申の乱。
    天武天皇が即位し、出雲姫姓の勢力が衰退。
    伊勢勢力が発言力を増し、血統が女系であることから、天照が女性に。現代に至る。
968日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:46:24.41
>近畿銅矛勢力=北方系、魏王の流れを汲む中原以北の山人族。同じく姫姓。
 出雲銅矛勢力、の間違い。
969日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:49:14.92
>>964
それなんども論破されたやん
クニ草創期において、そういった文明物がそのままクニの勢力圏図に反映されることはないと思う。
銅鐸は寺の鐘のように、時を告げる道具であろうし銅矛は武器であろう
それが交易品として売買されていった結果が出土範囲の分布になっているにすぎない。
970日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:50:24.87
なんで同じ話ばっかしてんのかね、誰も過去スレを見てないとでも思ってるのか
971日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:00:14.20
>>969
銅戈も銅鐸も、実用上の意味はない。それは間違いない。
明らかに祭器であり、呪具だよ。

銅鐸は初期でこそ「聞く」祭具だったが、やがて「見る」祭具に変わり、
同時に「破壊する」呪具に変わる。
銅鐸の多くは耳がないが、それは首飾りとして別の場所から出土する。
耳がなければ吊るせないから、つまり鳴らせない。

銅戈も幅が何十センチもあり、実用上は何の役にも立たない。
太陽の光を反射させるために幅がひろくなっていったと考えられる。
銅鏡も、初期に輸入されたのは全部凸面で、顔が映らない。
やはり、これも実用ではなく、太陽光を反射させるためだったと考えられる。
972日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:02:18.73
銅器を埋めるにしても理由はいろいろあって全国一律の理由では
ないと思う。たとえば、不要になったけど、大切にしてきたものだから、
始末に困って結局、埋めるしか処分方法が見つからなかったというのもあるだろう。

銅鐸は纏向で破片が見つかっていたな。
普通はこんな破片は出来ない、というわけで石野さんが作り方をテレビで
披露していた。銅鐸を焼いて、大きなハンマーで叩くとそういう割れ方を
するんだとか。
これは相当に悪意のある処分の仕方だな。異教徒の処分方法と言えるかも。
あるいは、溶かしてほかの物(鏡)を作る工程の一環かもしれない。
973日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:20:15.38
ちょっと油断すると、トンデモ満載になるなw
974日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:43:12.69
道具としての面を考慮しないほうがおかしい
凸面鏡であるからといって呪具とはならない
光の反射は合図を予め決めておけば遠距離間での交信が可能だし
耳なし銅鐸とて、壊れたから捨てられたのかもしれないし、
寿造過程でのできそこないだから忌避されて壊され捨てられたのかもしれない
そもそも飾り耳がないからと言って鳴らないということがありうるとは思わない。
青銅は、本来赤銅色の金属であって、外見を重視された形状のものであっても
それがまったく実用物たりえないわけではない。
刀だって人は三人程度しか殺せない、当時圧倒的に弓矢での攻防の方が主力であったが
貴人には刀剣が長く宝物として武家で伝授されたように
主力としては非実用品でもあっても、実用物として長く形をとどめて今に残っているものはある。
また、一見それだけでは実用に適さない、しかもそれのみが長く形をとどめていることをもって、
当時それが祭器で呪物であったとはならない。
また、どんどん実用的でなくなるとの意見も同様。
戦国期に作られた当世風兜のほとんどは数寄者が流行と威風を好んでつくったもので、実用上の意味はない
財力の象徴であり、特権階級の象徴であった。また兜という実用も加味しつつ、その威風を見せつけるものでもあった
また実用物を利用するからこそ、逆にそのようなものさえ使える傑物と相手に思わせる力もあるのだろう
実用に耐えないから呪物ということにはならない。
975日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:51:54.63
壊して埋めるのはちゃんとした理由があるんだよ。
土偶と同じ。
説明すると長いんで、また後で。
976日本@名無史さん:2013/03/07(木) 18:16:10.78
次スレ

出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世★4
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1362647012/l50
977日本@名無史さん:2013/03/08(金) 02:04:46.74
松野連系図 
呉の後裔(姫氏・委奴国)→楚の後裔(熊襲)
http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-1-3.pdf
978日本@名無史さん:2013/03/08(金) 02:25:45.34
{イズモ ヤマト ハヤト} って
同族な感じがするんだけどやっぱ違うんかな
979日本@名無史さん:2013/03/08(金) 05:02:51.52
名前を見る限り同言語を使ってるようには見える
980日本@名無史さん:2013/03/08(金) 08:31:18.54
どうみても、出雲、大和、隼人は、ほとんど同族。
少し違うのは、蝦夷、熊襲だろう?
981日本@名無史さん:2013/03/08(金) 08:33:04.35
記紀を読めばわかるけど、高天原には
天香久山、天岩戸、天安川があった。
これが全部、そろっている地域って、
大和盆地の南部。
982日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:42:26.79
もう君の説は聞き飽きた
新しいことを思いついたらまた来なさい
983日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:44:44.37
出雲平野部の方言は特殊で古代の名残と思う、驚くことに新潟方言に通ず(出雲崎
隼人、ヤマトとは違うな
いっぽう出雲山間部の方言には沖縄語に通ずる単語が残る
984日本@名無史さん:2013/03/08(金) 11:52:28.24
(・∀・)アマツヒコヒコホノニニギノミコトは天智天武持統文武の4種のDNAを組み込んだ皇統のiPS細胞!!
985日本@名無史さん:2013/03/08(金) 12:09:08.87
(・∀・)天津彦彦火弥弥杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、一部活字が足りないスマソ)を分解してみると、

 天津彦彦=天智&天武
 火弥=女陰=持統
 弥杵=男陽=文武
 尊=命人

であり、

 天津の彦彦火弥弥杵尊



 天津彦彦の火弥弥杵尊

では無く

 天津彦彦火の弥弥杵尊

となっているのは世代や序列を示す為。
986日本@名無史さん:2013/03/08(金) 12:20:24.50
(・∀・)あっ崇神まで?こりゃまたどーも失礼しました!
987日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:14:25.40
>>974
まず、銅鐸などは何故埋められているか?
それを理解するには病気・厄災が地下からやってくるという、
根源的な「ケガレ」思想があったことをまず、理解せねばならない。

土偶はほとんどが意図的に破壊されて見つかる。
これは「身代わり」であって、人間に取り付いた悪霊を土偶に憑依させ
土に埋めることで、病気などを根治し「根の国に返す」という意味だった。
そのため土偶はあえて巨大な目をしてるにもかかわらず、すべて「閉じている」つまり、死んでいる。
つまり、土は死者の国のモ世界であり、ケガレであった。
だから、五穀の創世神話は死んだ神から生まれる。

この発想そのものは、埋葬した場所から植物が生えたり
あるいは病気が発生したりという経験則から来ているのだろう。
だがそれは数万年前からのモノで、縄文時代には既に、太陽信仰と結びついていた。
988日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:36:03.64
太陽は海から生まれて地に潜って死ぬ。(根の国に行く)
太陽は死と再生の神だった。

いっぽう、銅鐸は、その初期から「見る」という要素が大きい。
例えば、半島から直接もたらされた個体でも、あえて、文様が削り取られ
つるつるにしたあったりする。
また、その銅組成は他の銅清貧と異なり、黄金色に輝くようになっている。
さらに、波形の文様が刻まれている。

これは、いずれも太陽の光をより美しく反射させる工夫で
いわば銅鐸は地上の太陽だったと考えられる。
そのことを裏付けるのは、銅鐸を埋める際にあきらかに法則性があることだ。
そのほとんどが上を東に向け、そして意図的に破壊されている。

ではなぜ、破壊されているのか。
それが前述の土偶と同じ、死と再生の思想から来ている。
祭器は地霊を治める間、その地霊の力を一新に浴びて魔が蓄えられてきたと考えられてきた。
そのため、「ハレ」であるべき神も、いずれは「ケガレ」となる。
そのため、一度死に、ケガレを全て土に帰して、ふたたび生まれ変わる必要がある。
だから、壊して、埋める。
この思想は現代の神道にも継承されていて、正月の人形焼などはこれが元になっている。
989日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:53:50.50
同時に、ケガレた神はその魔力故に、大きな厄災の力を持つと考えれてきた。
その力を呪術に用いて他国からの厄災の侵入を防ごうと考えていた。
それが境界のかみの概念で、前述のように厄は「地下からくる」ので国境に埋めるのだ。

境界の神は非常に強大な者であると考えられていたらしい。
代表例は猿田彦だ。「八達(ちまた)の神」とは境界神のことだが、
猿田彦は序文、「天のちまたにいる神」と紹介される。
神武東征のおり、猿田彦が出迎えるのはそういう理由だ。

では、何故にその猿田彦の話をしたか。
じつは、猿田彦は銅鐸の擬人化ではないか、と言われているからだ。
「口、尻、赤く輝けり。目は八咫鏡のようで、照り輝くことあかかがち(ほおずき)のようである。」
口とは、銅鐸の内側のことだ。銅鐸は内側もきれいに磨かれている。
目、は、普通に、銅鐸には目の文様が描かれていることが多い。
ほうずきは夕日の比喩で、古代には用例が多い。

つまり、猿田彦は境界におかれてある元始太陽信仰の道祖神で、その神体が銅鐸であった可能性がある。
990日本@名無史さん:2013/03/08(金) 17:04:13.38
へー(∵`)
991日本@名無史さん:2013/03/08(金) 17:07:03.11
普通に見て、高天原とは、現在の御所市を中心とした地域。
狭義には、御所市高天を中心とした地域。
広義には、御所市、葛城市、橿原市などを含む地域。

一方、その当時の大和盆地には、大和湖があった可能性が高く、
御所市、葛城市、橿原市からみて対岸の地域が、桜井市、天理市などで
これらの地域の事を協議に山処(やまと)といった。
992日本@名無史さん:2013/03/08(金) 17:08:51.64
あいかわらず声がでかいだけのバカしかいねえな
993日本@名無史さん:2013/03/08(金) 18:05:49.68
普通に見て、土蜘蛛の巣とは、現在の御所市を中心とし た地域。
狭義には、御所市高天を中心とした地域。
広義には、御所市、葛城市、橿原市などを含む地 域。
994日本@名無史さん:2013/03/08(金) 18:45:10.06
古事記の特集本が出ていたけど
高天彦神社の事でていたな。
995日本@名無史さん:2013/03/08(金) 18:47:52.60
高天原って、高天山(金剛山)の山麓の名称で
古代、大和盆地には、水深10m未満の大和湖が存在し
その南岸を高天原といい、その東岸をヤマトといった。
996日本@名無史さん:2013/03/08(金) 19:02:27.46
昔は御所市高天が高天原だと普通に言われていたようだ
997日本@名無史さん:2013/03/08(金) 19:06:12.03
もう君の説は聞き飽きた
新しいことを思いついたらまた来なさい
998日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:16:52.72
土蜘蛛の子孫が頑張ってるねw
999日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:18:18.73
御所市高天が高天原って無理があるでしょ?
そこからどうやって九州高千穂に降臨するのよ?
1000日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:20:47.84
1000なら邪馬台国は九州甘木地方
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。