邪馬台国は九州にあった18

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1日本@名無史さん
それでも邪馬台国は九州にあったの続きです。
聞けば「それでも・・・」は九州説を小ばかにした人物がつくったタイトルということなので改名しました。ナンバーは継続してつけました。

                 コレトッテー
         ∧_∧
        ( ´∀`)ヨーシ ∧∧
        ( 丶y/. つ  (゚ー゚*)
      /| ̄ ̄ ̄ ̄ζ ̄ ̄ν ̄ ̄ ̄|\
     /,*~|~~~~~~~~~τ,.~~~,~~~~~~~|~*,\
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 |  一回300dj                   |
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2日本@名無史さん:2012/08/09(木) 08:57:45.29
邪馬台国が九州に?
無いですよw
3出土地不明:2012/08/09(木) 09:40:27.28
邪馬台国は、確かに、九州にあった。
高良山のふもとにね。
卑弥呼は、そこで殺された。
墓は、平原墓にあるよ。
その後を、襲った台与が、魏の張政の勧めにより
ヤマトに遷都したわけ。
4佐賀原住民:2012/08/09(木) 10:09:09.87
スレ立て乙です。
5日本@名無史さん:2012/08/09(木) 10:31:57.64
魏志倭人伝にはちゃんと邪馬台国は伊都国や奴国の「南」にあると書いてある。
また、戸数・道里を略載出来るのは、女王国より「以北」の国々だけと書いてある。
一大率が置かれたのも女王国より「以北」と書いてある。
いくら支那人が馬鹿だからと言って、こんなに何度も「東」を「南」と間違えるはずも無く、
東を南と書き間違えたのでは決して無いことは明らか。
邪馬台国が北九州から見て南方向にあるのは間違いないのである。

みたいな比定地探しには皆飽きてるだろうから、ボクはアカルヒメ様の降臨を願います。
アカルヒメ様の書きこみを裏取りしてみると、これまでの学説と符号するところも多く、
フィクションにしてはかなり緻密だと思います。
突っ込まれるとファビョるところも面白いし、再降臨されることを希望します。
願わくばコテを付けて欲しいです。
6日本@名無史さん:2012/08/09(木) 10:40:55.53
ここはキムチ臭いな。
7日本@名無史さん:2012/08/09(木) 11:58:06.22
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)

日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。

大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代

【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王


-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」を誘発
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」を誘発
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都

一白
大王 陛下
8日本@名無史さん:2012/08/09(木) 19:43:33.48
魏使が松浦から佐賀を通ったとすれば、肥前肥後の旧肥国しか通ってないことになる。
肥国内の小国が30カ国の連立した少国家群。

そして、到着地点も肥国の南の境界である人吉盆地。
ここまでが肥国の領域で、此処から先は熊襲国の領域となる。
9日本@名無史さん:2012/08/09(木) 19:46:40.07
筑紫国が行き先ならば、松浦に行かず、糸島や博多湾に行けばいいのである。
または、松浦で停泊した跡、再び出港して糸島に向かってもいい。
そう遠くもない。

そうしていないのは、筑紫国は目的地ではないということである。
10日本@名無史さん:2012/08/09(木) 21:09:29.60
>>8
被告の南の境界である人吉盆地で止まる理由はない。
陸行一月だ。日向に入るんだよ。
11日本@名無史さん:2012/08/09(木) 21:53:09.16
被告→肥国
12日本@名無史さん:2012/08/10(金) 19:11:41.75
倭國は何処だ

倭奴國::筑前北部・・福岡平野

倭面土國(倭米多國:帥升王倭國の本拠地)::肥前・・佐賀平野(吉野ヶ里京)

邪馬壹國::筑前南部・筑後北部・・北野平野・筑後平野北部(久留米京)

投馬國;;筑後・・筑後平野海岸部

奴國::肥前・・佐賀平野

奴國(旧倭奴國)::筑前北部・・福岡平野

旨王倭國の本拠地::筑後中部・・筑後平野北部(久留米京)

倭五王の倭國の本拠地::筑後中部・・筑後平野北部(久留米京)

磐井王倭國::筑後中部・・筑後平野北部(久留米京)

多利思北孤王倭國::筑後中部・・筑後平野北部 ⇒ 筑前南部・・北野平野北部(太宰府倭京)

薩夜馬王倭國::筑前南部・・北野平野北部(太宰府倭京)
13日本@名無史さん:2012/08/10(金) 20:12:39.21
まぁ全部大和に飲み込まれた

元国王が氏族になっていったんだね
14日本@名無史さん:2012/08/11(土) 06:57:18.54
           【現実】

        ×九州(東遷)説
.            ↑
【左翼】(非国民)←┼→【右翼】(無知蒙昧)
 ×九州(王朝)説 ↓  ×畿内説

           【妄想】
15日本@名無史さん:2012/08/13(月) 07:55:21.24
          現実的
           ☆九州説(東遷)
           ↑
           |
左翼的(非国民)←――+――→右翼的(無知蒙昧)
  ☆九州王朝    |
           ↓ ☆畿内説
               ☆ヤマト自生説&卑弥呼は女酋長説
          妄想的
16修正:2012/08/13(月) 07:56:47.23
             現実的
              ☆九州説(東遷)
              ↑
              |
左翼的(非国民)←――+――→右翼的(無知蒙昧)
  ☆九州王朝     |
             ↓ ☆畿内説
                 ☆ヤマト自生説&卑弥呼は女酋長説
            妄想的
17さらに修正:2012/08/13(月) 07:57:58.96
  現実的
               ☆九州説(東遷)
               ↑
               |
左翼的(非国民)←――+――→右翼的(無知蒙昧)
   ☆九州王朝     |
               ↓ ☆畿内説
                  ☆ヤマト自生説&卑弥呼は女酋長説
             妄想的

18日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:07:21.01
Wikipediaのこの記事は極めて興味深い

>最近、遺伝子分析技術の発達(DNA分析など、一種の分子単位次元の形質人類学)によって、
>筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた。[1][2]

[1] ^ 1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって
「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の
頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と
縄文人の人骨と比較。結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、
福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」という発表がされた。
つまり現代の江蘇省(春秋時代の呉)で発掘された百越人の一部族である「呉」人の人骨が、
隈西小田遺跡(大宰府一帯)で発掘された人骨と同じ部族のものであることが証明された。

[2]^ また、志賀島一帯の地域名である「香椎」は元明天皇の時代、「百越人」(長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意。
春秋時代の「呉」、「越」も含む。ここで言う「呉」は現在の江蘇省一帯)の住む地帯を『古事記』などでは「コシ(越)」と読んだことから、
北九州でも百越人の一部族である「(春秋時代の)呉人の住み着いた場所」という意味である蓋然性が極めて高いことが明らかになってきた。
「越」は山陰地方名として『日本書紀』の「国生み」で登場する。
「越人」も「呉人」も、どちらももともとは「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本のもたらした弥生人の一種といえる

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#cite_note-0
19日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:20:58.23
地震の次は何をお見舞いしましょうか?
http://www.youtube.com/watch?v=AKeH9lRIG4M
20日本@名無史さん:2012/08/14(火) 20:29:13.78
畿内説の弱点は邪馬台国の南にある傍国がどこにあるのかわからないところだね
21日本@名無史さん:2012/08/14(火) 21:13:06.85
>>20
高地性集落の分布から、瀬戸内海を挟んで南北で争ってたことは明らか。
北勢力から見れば、南に敵勢力がある。
南勢力から見れば、北を検察する必要がある。
中国も分裂してたし、それぞれ斜交いに交流があったとしたらどうだろう?
中国は併合した相手の歴史も自国の歴史として誇る習性がある。
22日本@名無史さん:2012/08/15(水) 18:54:34.56
>高地性集落の分布から、瀬戸内海を挟んで南北で争ってたことは明らか。

なんでや? ちみが勝手に思っていることを論拠にしてもダメだろが。
23日本@名無史さん:2012/08/15(水) 19:10:34.18
大体邪馬台国の南は傍国じゃねーだろw
24日本@名無史さん:2012/08/15(水) 20:57:59.11
@ 畿内説の弱点は邪馬台国の南にある狗奴國がどこにあるのかわからないところだね

A 畿内説の弱点は邪馬台国の東にある拘奴國もどこにあるのかわからないところだね
25日本@名無史さん:2012/08/15(水) 21:29:12.83
>>24
畿内説は、もともと倭人伝無視だからね

邪馬台国の唯一の依拠文献なんだけどね
26日本@名無史さん:2012/08/15(水) 21:30:44.06
九州説の弱点は決定的な比定地が無い事に尽きる。
27日本@名無史さん:2012/08/15(水) 21:41:18.22
あるよ。高千穂の宮だ。
28日本@名無史さん:2012/08/15(水) 21:48:20.14
諸県に決まっているだろう?
29日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:13:42.32
畿内説の弱点は、主な根拠がみな詐欺だという点に尽きる。
30日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:24:25.54
あるよ。久留米高良宮だ。
31日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:47:48.35
   
A 邪馬台国九州説

B 邪馬台国詐欺説(邪馬台国畿内説)
32日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:55:32.61
>>26
畿内説の強みは、決定的な比定地が定まっている事に尽きる。
(倭人伝の記述がどうなってようと、結論は既に決まってる)

反論は許さない
33日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:56:03.94
やっぱ九州説は見事にバラバラだw
34日本@名無史さん:2012/08/16(木) 00:14:08.75
畿内説はさすが詐欺団だけあって、共同謀議の結託が強いなw
35日本@名無史さん:2012/08/16(木) 09:32:54.66
>>32
>畿内説の強みは、決定的な比定地が定まっている事に尽きる。

そんな、大外れな場所を比定されてもねー、強みにはならんなー
畿内説の強みは、「聞く耳持たない」「頑固に拒否」「大声で比定」だろ?
36日本@名無史さん:2012/08/16(木) 11:49:53.83
掘っても掘っても桃の種ぐらいしか出てこない。外れだってことが分かって
良かったね。
37日本@名無史さん:2012/08/16(木) 12:06:54.54
>>35
「聞く耳持たない」「頑固に拒否」「大声で比定」だろ?

実際は「何とかの会」の年寄り連中に沢山いるなw


38日本@名無史さん:2012/08/16(木) 13:31:39.74
いや邪馬台国は
尖閣諸島にあったのだよ。きっと。
さあ遺跡掘りにみんなで行こう。もち日本の旗持って。
39日本@名無史さん:2012/08/16(木) 21:24:45.88
北九州にあった卑弥呼の国は大和朝廷に滅ぼされてしまったのです
だから卑弥呼の墓が見つからなくてもおかしくないのです
むしろ見つかるほうがおかしい

墓が残っているということは大和朝廷と関係があるということです
そして大和朝廷が自分で書いた歴史書には卑弥呼は出てこない
卑弥呼の墓が出てくるのは理屈に合わないことなのです
40日本@名無史さん:2012/08/16(木) 21:29:51.46
それじゃ必然的に東遷説も成立しないけどね。
41日本@名無史さん:2012/08/16(木) 22:24:58.02
邪馬台国が早いうちに東遷していたら隋使が訪ねた大王は女性だったはずだろ。
しかし、実際は男王だった。ということは、東遷はしていなかったんだよ。
42日本@名無史さん:2012/08/16(木) 23:13:50.49
畿内説も東遷説も九州王朝説も成立しない
神武天皇は日向の出身なので北九州の卑弥呼の国とは関係ない
大和朝廷が北九州を支配下におさめたのは4世紀だから九州王朝説も成立しない
43日本@名無史さん:2012/08/16(木) 23:16:16.48
>41

またわけの分からんことを!
44日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:00:51.19
分からんかな? 東遷していたとすれば、それは隋使が訪ねてきたとき都は
大和だったということだ。となれば、倭王は推古天皇でなければならん。
推古と違う人物を倭王と思い込んだ? そんな馬鹿な話があるものか。大和
まできて大王を見間違えるはずはない。
しかし、隋使は倭王を男王と伝える。ということは、大和へは来ていないっ
てこと。当然、倭国王朝は東遷せず、まだ九州にいたということだ。
45日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:17:43.65
>倭国王朝は東遷せず、まだ九州にいたということだ。

それは隋史の記述からは無理な話。
確実に九州からは出てるよ。

46日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:42:38.85
思い込みだな。隋使にとって本州は倭国に附庸する国々、つまりは植民地に
すぎない。そう明記されているだろ。
隋使は倭国を訪ねたのであって、倭国の植民地を訪ねたわけではない。
47日本@名無史さん:2012/08/17(金) 01:03:26.66
>隋使にとって本州は倭国に附庸する国々、つまりは植民地に
すぎない。そう明記されているだろ。

それこそ思い込みだなw
東西に五カ月、南北に三カ月の行程
これはどう読んでも九州ではない。
48日本@名無史さん:2012/08/17(金) 01:07:31.68
九州だよ。それが分からんのは理解力不足。
49日本@名無史さん:2012/08/17(金) 01:16:53.52
本居宣長のせいでこんなややこしい事になってんだよ
50日本@名無史さん:2012/08/17(金) 01:21:11.99
宣長はまともだよ。一月を一日とごまかしたけどな。
それ以外はまあまあまともに読んでいる。
51日本@名無史さん:2012/08/17(金) 01:23:55.75
オレも隋書の倭国は九州だと思う
秦王国が豊前だとすれば、裴世清は九州から出ていない
倭人の風俗についての記述が魏志倭人伝よりかなり詳しくなってるけど
相変わらず多くの人間がイレズミをしているのも大和っぽくない
冠位十二階の記述があるのは多少気になるが
52日本@名無史さん:2012/08/17(金) 02:08:05.28
>>48
地形が全く合わないのに?
どうみても北部九州は筑紫で、秦王国は
大分から四国西部=波多国です。
53日本@名無史さん:2012/08/17(金) 02:19:27.86
東西に長くて東高西低の地形が九州な訳ないですw
54日本@名無史さん:2012/08/17(金) 02:20:32.42
東遷しようがしまいが、本国が東遷で消え去ってしまうことはない。
むしろ、東遷先は分家扱い。

特別に住みにくくならない限り、本国を捨てて、全員が引っ越すなどはありえない。

ただ、それに近いことが一度だけあったかもしれない。

白村江の大敗北による壊滅と、唐軍の進駐である。
唐軍の捕虜になるのを避けるため、より大陸から遠い方へ
移動することはあり得る。
55日本@名無史さん:2012/08/17(金) 04:38:15.07
いや邪馬台国は
竹島にあったのだよ。きっと。
さあ遺跡掘りにみんなで行こう。もち日本の旗持って。
56日本@名無史さん:2012/08/17(金) 06:31:41.23
>東西に長くて東高西低の地形が九州な訳ないですw
頭が固いね。東西に長いなんてどこにも書いてない。日数がかかるだけだ。
九州の場合、南北は比較的単純にコースが決まる。唐津から薩摩半島南端かな。
しかし、東西は宮崎から長崎となれば大分、福岡を経由して行くことになる。
歩く距離は長くなり日数はかかるぜ。
57日本@名無史さん:2012/08/17(金) 08:23:16.26
>>56
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。

地勢東高西下は??
まあ君は一生九州から出なくていいと思うよw
58日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:18:41.96
要するに、西日本(九州〜中央アルプス)が倭国という認識だろ
東西を海で限るとは書いてない
59日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:45:07.60
>地勢東高西下は??
九重連山から九州山地が続き、霧島連山に至る。これは九州島の東半分を
覆っている形だ。まさに東は高く西は低い。
倭が本州、四国、九州を含むというならば、島がいくつとか書くべきことは
いろいろある。東高西下なんて一言ですむものではない。

>東西を海で限るとは書いてない
旧唐書に「四面小島五十餘國」とあるだろう。四面は海だということだ。
60日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:56:24.40
>>59
だからそれでどうやって東西移動に五月もかかるんだw
自力で泳いだのか?
四面が海と解かってるなら船で巡るのにww
61日本@名無史さん:2012/08/17(金) 10:28:16.77
ずっと歩くんだよ。
62日本@名無史さん:2012/08/17(金) 10:28:51.06
そんなに外洋を長距離行く危険を犯すこともあるまい。

内海ならだいぶ楽だろうけど。
63日本@名無史さん:2012/08/17(金) 10:36:54.67
東西は、九州から沖縄あたりまでじゃまいか
64日本@名無史さん:2012/08/17(金) 11:00:01.00
60 名前:日本@名無史さん :2012/08/17(金) 09:56:24.40
>>59
>だからそれでどうやって東西移動に五月もかかるんだw
>自力で泳いだのか?
>四面が海と解かってるなら船で巡るのにww

周禮:距國五百里爲都。て知ってる?

それが解れば、
「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」
の「水行十日陸行一月」は 千里ということになる。

従って、
「其國境東西五月行南北三月行各至於海」の「五月行」は
5ヶ月×30日÷20日÷2=3,750里≒1,620km

只、それだけのことだ。

気仙沼〜久米島間が約1,645kmぐらいかな。
65日本@名無史さん:2012/08/17(金) 11:38:49.73
邪馬台国=隼人、熊襲
66日本@名無史さん:2012/08/17(金) 11:43:29.26
草生やした文章と言うのは
実にむかつくし頭が悪く見えるな
67日本@名無史さん:2012/08/17(金) 12:10:27.32
倭国の領域については、まあ>>58が正解なのだろう
ただ、「隋書」の「自竹斯國以東、皆附庸於倭」をどう解釈するかだな
自然に読めば、倭国を支配していたのは北九州ってことになるが
68日本@名無史さん:2012/08/17(金) 13:05:02.00
倭人は里数を知らない、日で数えるという点も忘れちゃいけない。
69日本@名無史さん:2012/08/17(金) 13:24:31.34
>>68 名前:日本@名無史さん :2012/08/17(金) 13:05:02.00
倭人は里数を知らない、日で数えるという点も忘れちゃいけない。

尺貫法もメートル法で換算できる。

里数も日数で換算可能だろう。
其の換算法が見つけられないでいただけ。

周禮:距國五百里爲都。

換算法のきほんだ。

70日本@名無史さん:2012/08/17(金) 13:39:45.31
大和朝廷
魏史に言うところの邪馬台国なり
71日本@名無史さん:2012/08/17(金) 13:48:56.04
邪馬台国=大和だという論は最早宗教の類だな
72日本@名無史さん:2012/08/17(金) 13:58:56.51
「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」俀國伝
「其南海行三月、有耽[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里」百済伝

➀ 其南海行三月≒240km
   海行一月=一月行≒千里餘里≒80km

➁ 南北千餘里=南北の国境線間が千餘里≒東西距離80km
   東西數百里=東西の国境線間が數百里≒南北距離50km
   上記は済州島のおよその大きさを示している。

➂ 南北三月行=南北の国境線間が三月行≒東西距離240km・・(五島〜豊後)
   東西五月行=東西の国境線間が五月行≒南北距離400km・・(対馬〜大隅)
   上記は九州本島と周辺諸島を含めたおよその大きさを示している。
73日本@名無史さん:2012/08/17(金) 14:30:00.90
>>72
いい加減他の九州説論者に迷惑だわ。
7472:2012/08/17(金) 14:41:17.98
>>73
言い掛かりを書くのなら、反論で応えよ。

反論ができないのなら、素直に肯定せよ。
75日本@名無史さん:2012/08/17(金) 15:12:46.61
>南北の国境線間が千餘里
済州島に国境線なんかあるもんか。
76日本@名無史さん:2012/08/17(金) 15:42:48.60
>>72 に概ね賛成。

縦横が逆なのが、以前から理解に苦しむところだが、
それ以外では数値的に非常に正確に一致する。

済州島でも九州でも、済州島から釜山までの距離でも、かなり正確に整合する。

そして、この距離単位、一月行約80キロを魏志倭人伝に当てはめても、
地勢と方向と距離と総距離の万二千余里が、すべて正確に一致する。

従って、国境線の読み方なのかはわからないが、縦横を逆に読む読み方であろうと推測する。


短里7〜80mは、公里の約1/6であることは周知のとおりだが、
公里での一月行4〜500キロも1/6すれば、7〜80キロである。

つまり、隋書倭国伝、百済伝、そして魏志倭人伝は、
何らかの理由で公里の1/6された単位を使用しているはずである。
77日本@名無史さん:2012/08/17(金) 16:19:03.78
>>74
反論の何も‥他と整合性がない。
何でそこまで九州単独に拘るかが理解出来ないんだけどね。
単なるご都合主義の数字合わせはうんざり。
7872:2012/08/17(金) 16:28:20.75
➀隋書時代の省略表現方法
其國境 東西五月行 南北三月行=其國境 東西(長)五月行 南北(長)三月行

➁現代の省略表現方法
其國境 東西五月行 南北三月行=其國境 (南北間)五月行 (東西間)三月行

➂隋書時代の省略表現方法
 其南海行三月 有耽[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里
=其南海行三月 有耽[身冉]牟羅國 (其國境)南北(長)千餘里 東西(長)數百里
79日本@名無史さん:2012/08/17(金) 16:31:10.91
魏の頃はひとまず置いておくとしてもだ、
隋の頃なんて普通に中国人は奈良辺りなんて余裕で来てるだろw

中国人の興味があるのは鉱山資源だってアホでもわかるだろ。
何でずっと九州だけグルグル廻る必要性があるんだよw
未だに九州王朝なんて主張するのはカルト位だぞ。
80日本@名無史さん:2012/08/17(金) 16:33:30.42
>>77

短里と一月行80キロで、すべてが整合する。
ある程度の誤差はあるが、少なくとも倭人伝で整合しない部分はない。

数字合わせではあるが、数字合わせの範囲においては、
この読み方以上に整合する読み方は存在しない。
81日本@名無史さん:2012/08/17(金) 17:13:01.12
一ヶ月で80kmって、お笑いだろ
どう考えてもダメ
8272:2012/08/17(金) 17:32:25.49
一ヶ月で80kmではない。
一月行が80kmである。

>隋の頃なんて普通に中国人は奈良辺りなんて余裕で来てるだろw
隋は屋久島種子島の北にある九州にしか関心がなかった。
隋は四国、紀州も知らなかったので、紀州の内陸の奈良なんて知るはずがない。

隋は沖縄、屋久島、種子島の情勢調査が終わってから、九州に使者を派遣しているのだ。
83日本@名無史さん:2012/08/17(金) 17:43:28.38
隋書の天多利思比孤の記述の部分で、返答使が
筑紫から、東へ東へ十余国移動する記述があるので、
その十余国が、筑紫国と同じサイズなら、
畿内までいける程度の距離かもしれない。

もっとも、聖徳太子はそもそも、倭国王ではないし、
何をどう読んでも、厩戸皇子を天多利思比孤とは読めない。

また、記紀の遣隋使の日時と、隋書の日時が全く合わず、
使者の名前も合わないので、
他所の記述から取ってきたとしても、どこをどう混ぜ込んでいるのか
検討もつかず、完全にカオス状態である。

それでしばしば聖徳太子非実在説なんてのが現れる。
84日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:00:00.35
今は九州王朝説なんかより阿波王朝説だろ。
東遷話も考古学的には全部繋がるし。
85日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:14:36.71
は?
86日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:29:49.58
プッ
87日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:33:05.58
でっ
88日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:33:39.45
日本書紀読んどるか?
裴世清はちゃんと、難波の港経由で奈良まで来てるぞ
89日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:38:48.64
十六年夏四月
小野臣妹子至自大唐
唐国号妹子臣曰蘇因高
即大唐使人裴世清 下客十二人
従妹子臣至於筑紫
遣難波吉士雄成
召大唐客裴世清等 為唐客
更造新館於難波高麗館之上

記紀のは遣隋使ぢゃなくて遣唐使だろ
90日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:44:18.27
煬帝が殺害され李淵が恭帝から禅譲をうけたのが618年
紀のエディタがわざとへんなとこに記事挿入しているだけだな
91日本@名無史さん:2012/08/17(金) 18:56:48.33
そういや、大唐って文字入ってたな。
記紀の飛鳥時代って、どう混ぜ込んでるのか、
カオスだ。
92日本@名無史さん:2012/08/17(金) 19:04:20.60
記紀に書かれている小野妹子は、遣唐使をコピペしたもので、
隋書に書かれている多利思比孤はまた、別の時代か。
93日本@名無史さん:2012/08/17(金) 19:06:05.28
日本書紀の編纂者って、
唐と隋の区別もつかない奴らなのかな?
それとも確信犯?
94日本@名無史さん:2012/08/17(金) 19:38:24.35
リアルなトップ → 「王妻號雞彌(きみ) 後宮有女六七百人」
    「俀王以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政跏趺座 日出便停理務云委我弟」

内官有十二等
一曰 @大徳 →兄「俀王(たゐ)姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌(あはきみ)
次  A小徳 →弟「俀王遣小徳阿輩臺(あはたゐ) 従數百人 設儀仗鳴鼓角來迎」
         →  「名太子爲利 歌彌多弗利」
次  B大仁
次  C小仁
次  D大義
次  E小義
次  F大禮 → 「又遣大禮哥多毘 従二百余騎郊勞 既至彼都其王與(裴)清相見」
次  G小禮
次  H大智
次  I小智
次  J大信
次  K小信 員無定數
95日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:59:08.76
邪馬台国=熊襲
96日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:44:20.62
その視点がとれると
熊襲に分類されている田油津媛が
鏡の女王だったりするのも理解可能になったりする
97日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:50:52.62
・其國境東西五月行 南北三月行 各至於海
・其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 
・人頗恬靜 罕爭訟 少盜賊
・男女多黥臂點面文身 沒水捕魚
・毎至正月一日 必射戲飲酒
・氣候温暖 草木冬青 土地膏腴 水多陸少
・死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服
・有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行祷祭
・度百濟 行至竹島 南望?羅國 經都斯麻國 迥在大海中
・又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國
・又經十餘國 達於海岸
98日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:52:51.66
邪馬台国=熊本
99日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:10:22.63
>>97
「度百濟 行至竹島」 の竹島は

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%B3%B6

ここだといっているひともいたりするよな
100日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:11:43.01
邪馬台国の中心地は諸県。
高千穂こそ高天原。
101日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:16:39.34
百済って百花斉放から来てるんかな
あるいは逆か!
102日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:19:40.53
竹島から南に望む?羅國って済州島のことかな?
103日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:22:55.03
   
邪馬台国=北野平野+北部筑後平野

卑弥呼之所都=久留米高良宮
104日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:31:19.87
竹島(珍島)の後で、南に望む耽[身冉]羅國は済州島のことである。
105日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:38:06.50
邪馬台国=隼人
106日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:42:51.15
熊襲が自国を超えて広域に及ぼしたものといえば免田式土器くらいか
107日本@名無史さん:2012/08/17(金) 23:25:33.89
本居宣長
「卑弥呼は女酋長であり大和朝廷とは関係ない」
108日本@名無史さん:2012/08/18(土) 10:18:06.31
邪馬台国の風俗はどう見ても縄文系のものだよな。
弥生人に対抗するために魏に援軍を頼んだのだろう。
109日本@名無史さん:2012/08/18(土) 11:39:52.54
結局は銅鐸が倭のエリアを証明する物だ。
中国由来の物で北部九州において造られ始めて、
その後出雲、吉備や阿波を中心に各地に分布する。
それが三世紀頃には消滅してしまうのだからな。
110日本@名無史さん:2012/08/18(土) 11:45:16.79
>82 :72:2012/08/17(金) 17:32:25.49
>一ヶ月で80kmではない。
>一月行が80kmである

「一月行」の「行」の意を理解してるの?


「其南海行三月 有耽[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里」は現台湾で間違いない


「其南海行三月 」は、現済州島から現台湾北端までだろう。
短里とかの発明は必要なし。

一里=1800尺 一尺=24cm 千里=432km

千里=四十日=432km。で
何も問題なし。

111日本@名無史さん:2012/08/18(土) 11:51:53.59
>>記紀のは遣隋使ぢゃなくて遣唐使だろ



国号の「唐」は
もともとは晋の古名であり、
もとは山西省を中心とする地域を指した。
112日本@名無史さん:2012/08/18(土) 18:29:06.79
>>110
>「一月行」の「行」の意を理解してるの?

1日行(水行1日)の1日は、日(Sun)が一回転する時間(24時間)
1月行(海行1月)の1月は、月(Moon)が一回転する時間(24時間50分)

内水では月による潮の影響なく船は移動できる。
海洋では月による潮の影響を受けて船は移動する。

1日行(水行1日)は内水を潮の影響を受けずに24時間で移動できる距離。
1月行(海行1日)は海洋を潮の影響を受けて24時間50分で移動できる距離。

1日行(水行1日)≒1000餘里≒75km
1月行(海行1日)≒1000餘里≒80km
(1000里≒70kmとして)

潮流を利用する1月行が、内水の1日行より距離が長い。

余談
船行1年=海行12月=12000餘里≒960km
113日本@名無史さん:2012/08/18(土) 18:55:41.69
じゃ、参考までに
「一ヶ月かかって船で行ける距離」は何ていうの?
114日本@名無史さん:2012/08/18(土) 19:58:44.28
>>113

参考までに、現代ではなんていうの?
115日本@名無史さん:2012/08/18(土) 20:10:03.01
船行一ヶ月
あまり使わないが、意味は通じるだろ
116日本@名無史さん:2012/08/18(土) 21:15:11.82
>>115

それから先のツッコミも想像できるだろうが、

>船行一ヶ月

これが記録に残っていた場合、どのくらいの距離を指すの?
117日本@名無史さん:2012/08/18(土) 21:24:31.55
オレ(113)は112に聞いてるんだぞ
118日本@名無史さん:2012/08/18(土) 21:41:17.36
>>117

>>116の問いから想像は出来るだろうが、船行一月でも水行一月でも、
それに距離の数値を求めても、それ自体は距離の値を持たない。

従って、「水行一月はxxの距離を指す」と定義しなければ、
距離情報としては使えない。

>>113は、>>112が、この「定義」を示していることを理解せねばならない。


個人的には >>112 と違って、水行も陸行も、
一月行は73キロ(千里435キロの1/6)で推定しているが、
それはまた別の話。
119卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/18(土) 21:55:41.18
>>110
まともなのはこの人。
120112:2012/08/18(土) 22:48:18.43
>>112の下記間違いの修正
× 1月行(海行1日)
○ 1月行(海行1月)
121112:2012/08/18(土) 23:11:31.65
>>113
>「一ヶ月かかって船で行ける距離」は何ていうの?

知りません。

1月行(海行1月)は距離の単位で約80km。
12月行(海行12月)なら約960km
船行1年は12月行(海行12月)に相当するから、
船行の日数一ヶ月が30日(太陽が30回転)であるなら、
船行の日数一ヶ月は29月(月が29回転)と計算できる。
よって、
船行29月と表現できる。
29月は2年5月であるから、
敢て表現するとすれば、船行2年5月と書けないことはないかと思います。
122日本@名無史さん:2012/08/19(日) 09:05:27.66
またここは無駄な行程パズルごっこかw
123日本@名無史さん:2012/08/19(日) 09:21:19.67
畿内にはどうやってもたどり着かないことがわかってるから、
無駄と言いたいのは仕方がない。
124日本@名無史さん:2012/08/19(日) 11:03:40.07
だから、朝鮮半島から南へ3000里といったら、ジャワ島。
邪馬台国はジャワ大国、何度言ったらわかるんだよ?
125日本@名無史さん:2012/08/19(日) 11:15:18.79
112 :日本@名無史さん:2012/08/18(土) 18:29:06.79
>>110
>>「一月行」の「行」の意を理解してるの?

>1日行(水行1日)の1日は、日(Sun)が一回転する時間(24時間)
>1月行(海行1月)の1月は、月(Moon)が一回転する時間(24時間50分)

「行」の意を理解してるの?
を答えた訳ではないようですな。
それでは、

『1日行(水行1日)の1日は、日(Sun)が一回転する時間(24時間)
1月行(海行1月)の1月は、月(Moon)が一回転する時間(24時間50分)』
と言う解釈をした西暦200年でも有効な中国辞書が存在するなら
それを教えて。

もし、上記の様な解釈をした事例の辞書が存在しないのなら
それは、貴方だけに有効なの只の妄想です。

126日本@名無史さん:2012/08/19(日) 11:31:53.67
>>116 名前:日本@名無史さん :2012/08/18(土) 21:15:11.82
>船行一ヶ月
>これが記録に残っていた場合、どのくらいの距離を指すの?

二十日=五百里=216km、四十日(十日+三十日)=千里。
従って、

一ヶ月=三十日は、
三十日÷四十日×432km=324km。

周禮:距國五百里爲都。から
「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」の

「水行十日陸行一月」の距離は千里です。
千里は約432kmです。
127卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/19(日) 18:34:58.96
目下、中田薫「古代日韓交渉史断片考」を読んでいるのだが、
非常に面白い記事を見出したので紹介しておく。
九州論者にとっては非常な朗報である。

延喜兵部式によると日向国駅名に救弐(クニ)というのがあった。
また延喜民部式によると日向南那珂郡というのがあった。
和漢三才図会に「日向郡 児湯 臼杵 那珂 諸県」とあり、
本注に「或加救弐為六郡」とあるらしい。

この那珂を女王境界尽きるところの奴国、救弐を狗奴国と見なすと、
倭人伝の記述とピッタリ一致するのである(!)
128日本@名無史さん:2012/08/19(日) 23:49:08.52
邪馬台国が畿内だとすれば土蜘蛛
邪馬台国が九州だとすれば熊襲
129卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/20(月) 09:09:58.41
ところで、この中田氏の本には巻末に昔の朝鮮地図が付いていて、これがなかなか参考になる。
たとえばネット三国史に出てくる召文、召羅(渉羅)、居施、伊西、史勿(四勿)、阿尸良、于山、
泥河、竹嶺、奈己…という地名が書いてある。全体としては大きく狂っているのだが、参考になる。

ところでこの図で涜蘆国が巨済島に書かれている。これが正しいとすれば、
涜蘆国は南で倭と界を接する、というのは、陸地で接していたのではないということになり、
界を接するというのは海を隔てて接することだと主張していた男が正しいことになる。

物事、何でも決めつけるのは良くない。あらゆる意見に耳を貸すべきだと反省した。
130日本@名無史さん:2012/08/20(月) 10:58:17.37
韓国には日本のような恥の文化がないんだよ

例えばスポーツなら審判を買収してでも勝つとか
ビジネスなら前からの契約を破棄して新規の有利なほうと結ぶとか
自国の歴史についても捏造するとか

ただそういった姿勢は世界に知られつつある
韓国人は汚い、何をやるかわからない、信頼できないといった評価が高まっている
これは長い目でみればもちろん損になる

日本人ならスポーツで審判を買収しようといった発想は持たないだろう
それで勝っても本当の勝ちではないし恥ずかしいと考えるからだ
しかし韓国人にはそういった感覚はまったくない
顔かたちは似ているものの実は欧米人以上に異なる文化を持つ民族なのだ

今回の李明博発言にしても
他国の元首を辱めるなど諸外国の信用を失うだけだが
後のことは考えず今さえよければと平然とやってしまう
131日本@名無史さん:2012/08/20(月) 12:28:42.23
今さえ良ければいいのだ。

来年、大統領任期明けには、兄に連座して逮捕重罪になることが確定しているからだ。

李明博も死刑もしくは自殺(暗殺)でその人生を終えることは明白である。
132日本@名無史さん:2012/08/20(月) 15:53:38.50
ネットの朝鮮史なんて信用度は韓流捏造ドラマと大差ないぞw
やっぱり半島人ネット工作活動の一環だな。
133日本@名無史さん:2012/08/20(月) 16:58:41.52
政権末期で大変なんですな、民団から檄がとんだか?
134日本@名無史さん:2012/08/20(月) 16:58:50.00
ネット工作なんて陰謀論
それこそ捏造ドラマと大差ない
それを信じるなんて
135卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/20(月) 17:07:20.50
勝手に話題を変えるが、広志所引倭人伝に、倭に伊邪国というのがあり、
それとは別に、倭の西南海行一日に伊邪分(久?)国というのがあり、「蓋伊耶国也」とある。
蓋伊耶国也とあることは、伊耶国という国が中国人にかなりよく知られていたと考えなければならぬ。
そこでイヤという地名が北九州近辺にないかと探してみると、
出雲に島根県八束郡東出雲町揖屋町、松江市東出雲町揖屋駅というのがある。

そこでふと思ったのだが、この伊邪、伊耶は、桓檀古記の伊倭の属、
播磨風土記の伊和大神の伊和と関係あるのではないかということである。

とにかくイヤ、イワという国が倭にあることが、
中国や半島に早くから知られていたと思われる。
136卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/20(月) 17:22:06.71
ところで薩摩に伊作郡というのがあったようだぞ(笑)

現、鹿児島県日置郡だとさw
137日本@名無史さん:2012/08/20(月) 18:20:54.72
>>134
今更だがネット工作は普通にあるで。
138日本@名無史さん:2012/08/20(月) 18:26:56.93
つか英文Wiikiで韓国人の編集したやつは嘘ばっかだ
139日本@名無史さん:2012/08/20(月) 18:43:01.98
結局どこにあるの?
140卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/20(月) 18:51:46.57
行程論争大好きな君らの喜びそうな文献を紹介しておこう。

「対馬島至釜山約五百里(日本道五十里)風順一日可到 対馬到一岐島六百里 一岐島至名護屋島九百余里
(名護屋者肥前地壹岐凡十六里許 唐謂九百里日本道可九十里 以為相違)」(和漢三才図会)
141日本@名無史さん:2012/08/20(月) 18:58:55.72
「和漢三才図会」は18世紀の書物だね
今から、たかだか300年前の書物
142日本@名無史さん:2012/08/20(月) 19:30:36.80
143日本@名無史さん:2012/08/20(月) 19:31:56.70
「度百濟 行至竹島 南望[身冉]羅國」

>>102
>竹島から南に望む[身冉]羅國って済州島のことかな?

6世紀初頭に済州島はタンラtamra(耽羅)國と呼ばれていた。
7世紀初頭の隋書の[身冉]羅國の発音はタンラtamra国である。

故に、[身冉]羅國は耽羅國のことである。

>>99
>「度百濟 行至竹島」 の竹島は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E5%B3%B6
>ここだといっているひともいたりするよな

竹島の発音はチクchik島である。
珍島の発音はチンchin島である。
発音が似ている。

竹島の南方に[身冉]羅國が望める。
珍島の南方に済州島が望める。

故に竹島は珍島である。

144日本@名無史さん:2012/08/20(月) 19:32:59.57
>>110
>「其南海行三月 有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里」は現台湾で間違いない。
>「其南海行三月 」は、現済州島から現台湾北端までだろう。
>短里とかの発明は必要なし。

[身冉]牟羅(tamraタンラ)國は [身冉]羅(tamraタンラ)國のことである。
発音が同じである。
[身冉]牟羅國は済州島のことである。

済州島から980km離れた台湾を望むことは出来ない。
145卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/20(月) 21:01:30.71
>>143-144
なるほど、一見正論だが、即断は禁物。
なぜなら、隋書百済伝は、百済の西は海を隔てて越州だと書いてある。
ということは、台湾のことを[身冉]牟羅國と書いている可能性がある。

それに、百済の首都は今の平壌だったと私は思っているが、
平壌から済州島まで海行三月もかからないと思う。
百済の版図が遼西まで及んでいたとして、渤海湾から出発したとしても、
三月もかからないと思う。

更に、済州島の形状が、[身冉]牟羅國のそれと合わない。
[身冉]牟羅國は南北に長い島だが、済州島は東西に長い島である。
台湾は南北に長い。
146日本@名無史さん:2012/08/20(月) 21:34:47.00
[身冉]  羅國 たら
[身冉]牟羅國 たむら
147日本@名無史さん:2012/08/20(月) 21:44:06.06
テスト
𨈭羅國
148日本@名無史さん:2012/08/20(月) 22:12:54.52
『舊唐書』東夷傳
百濟國
本亦扶餘之別種
嘗爲馬韓故地
在京師東六千二百里


大海 之 北
小海 之 南

東北   至 新羅
西 渡海 至 越州
南 渡海 至 倭國
北 渡海 至 高麗
   ┌┬┐
   ├┼┤
  ┌┼┼┘
  ├┼┤
  ┝┿┿┰┐
  └┼┼╂┤
高麗├┼╂┼┐
   ┝┿╋┿┥
   ├┼╂┼┤
   ├┼╂┼┤
   ├┼╂┼┤新羅
   └┴┸┴┘
     小海
     ┌┐
   ← └┘
越州   大海
      倭國
149日本@名無史さん:2012/08/20(月) 22:21:22.56
死亡する際の百濟國が任那のコアなところまで後退した時の描写かもしれない

そしたらもすかして白村江とかも半島の南岸にあったのかもしれない
150日本@名無史さん:2012/08/21(火) 00:16:31.98
>>145

>百済の首都は今の平壌だった
>百済の版図が遼西まで及んでいたとして
>隋書百済伝は、百済の西は海を隔てて越州だと書いてある。

百済の首都は錦江中流域です。
百済の版図は錦江中下流域で東西900(63km)里南北450里(32km)です。
錦江河口の西(南西)は越州です。(正史東夷伝の方位は約35°反時計回りにずれている。)

>済州島の形状が、[身冉]牟羅國のそれと合わない。
>[身冉]牟羅國は南北に長い島だが、済州島は東西に長い島である。

[身冉]牟羅國の形状は東西1000里(70km)南北数百(500)里(35km)。
済州島の形状は東西80km南北40km)。
形大きさがほぼ同じです。

>>146
>[身冉]  羅國 たら
>[身冉]牟羅國 たむら

[身冉] tam
牟 mu
羅 ra

[身冉]羅國 tamra タンラ
[身冉]牟羅國 tammura タンゥラ→タンラ

6世紀の済州島の名前:耽羅國 タンラ
151日本@名無史さん:2012/08/21(火) 00:28:50.66
>>149
>白村江とかも半島の南岸にあったのかもしれない

白村江は錦江河口(郡山付近)だと思われます。
百済は滅亡直前に錦江流域から栄山江流域にその都が移動して、
白村江は栄山江河口(木浦付近)とも考えられます。
152日本@名無史さん:2012/08/21(火) 01:42:52.89
>白村江とかも半島の南岸にあったのかもしれない

少なくとも、半島南岸の島部と全羅南道沿岸部は倭。
白村江戦の2年前に倭軍が半島に渡っている。
百済滅亡後の百済難民と倭人を救出する為の派兵と思われる。

白村江戦は百済難民救出の為の陽動作戦か?
だが、陽動作戦に失敗。
153日本@名無史さん:2012/08/21(火) 05:49:33.88
九州のどこにあった
154卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/21(火) 08:51:11.80
>>150-151
君の書いていることは、すべて教科書のコピペで、根拠が示されていない。
それから島の形については君の完全な誤読で、[身冉]牟羅國は、南北千餘里 東西數百里と書かれている。

百済の首都は平壌で、白村江(白江、白江口)は漢江である。それはネット三国史に書かれている。

二月, <斯摩>至<漢城(通溝)>, 命佐平<{國}友>·達率<沙烏>等發<漢>北州郡民十五以上築<雙城(狄踰ュ)>,
納<沙烏>妻<苩>氏為其妻, 三月還都(今平壤 ).

斯摩は百済の斯摩王=武寧王。斯摩王が三月還都(今平壤 )と書かれている。
白村江=白江口については、

(白江口) 漢江下流、沿岸山東間の海に入るところ。
155日本@名無史さん:2012/08/21(火) 14:42:56.29
>>144 :日本@名無史さん:2012/08/20(月) 19:32:59.57
> [身冉]牟羅(tamraタンラ)國は [身冉]羅(tamraタンラ)國のことである。
発音が同じである。
>[身冉]牟羅國は済州島のことである。

[身冉]牟羅(tamraタンラ)國は  台湾
[身冉]羅(tamraタンラ)國は  狗邪韓國、所謂、現八重山諸島。
都斯麻國は  沖縄本島。
身冉]牟羅(tamraタンラ)國・身冉]羅(tamraタンラ)國・都斯麻國を合わせて、
琉球國です。
竹島は現済州島。
156日本@名無史さん:2012/08/21(火) 15:06:35.12
「[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里」
@ [身冉]牟羅國 (其國境長)南北千餘里 東西數百里
A [身冉]牟羅國 (其國境間)南北千餘里 東西數百里

卑弥呼は朝鮮にいたの解釈はAである。間違っている。

「其國東西四百五十里 南北九百餘里」
@ 其國(境長)東西四百五十里 南北九百餘里
A 其國(境間)東西四百五十里 南北九百餘里

@が正しい、Aは間違い。
百濟は、居抜城に都を置く、東西に長く南北に短い形状の国である。

「其國東西二千里 南北千餘里」
@ 其國(境長)東西二千里 南北千餘里
A 其國(境間)東西二千里 南北千餘里

高麗は平壌に都を置く、東西に短く南北に長い形状の国である。
157日本@名無史さん:2012/08/21(火) 15:14:43.08
高麗 コマ 唐新羅に滅ぼされた国 高句麗ではない。
百濟 クダラ 
158卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/21(火) 17:01:06.27
>>156
君は頭がおかしいんジャマイカ(苦笑)東西南北の意味を理解しているのかな?

其國東西四百五十里 南北九百餘里 南接新羅、北拒高麗
これは百済の説明で、百済は南北に長い。

其南 海行三月有耽牟羅國 南北千餘里、東西數百里 土多獐鹿 附庸於百濟
これは耽牟羅國の説明で、これも南北の方が長い。
159日本@名無史さん:2012/08/21(火) 17:09:44.00
済州島は真ん中に山があるんだよ。それを避けて海岸線を歩くと
南北の方が長くなる。東西は直線的に行けるから短い。
160卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/21(火) 17:35:14.49
九州スレには変な理屈をこねる人が多いな(笑)

それはそれとして、勝手に話題を変えるが、今日、ふと、
伊邪国の伊邪は、イザナギ、イザナミのイザと関係あるのではないか、と思った。

また話は変わるが、中田薫という人は、卑弥弓呼と狗古智卑狗の弓呼と狗古は同一人物だと書いている。
昔の学者は発想がユニークだ。それから、七支刀の銘文は、

百済王世子 奉王聖旨 敬為倭王君造

と読むべきだと説いている。これは説得力があった。
161日本@名無史さん:2012/08/21(火) 19:35:04.26
>>157
なぜか            「高  麗」 は「こ ま」
このルールで読むと    「高句麗」 は「こくま」
162日本@名無史さん:2012/08/21(火) 19:52:59.76
「こま」ので変換してあげると

「駒」 「高麗」 「狛」 「独楽」 なんかの候補がでてくる

「独楽」のは理解しがたいけど

「駒」 「高麗」 「狛」 は いめえじ的には共通のグループであるぽい

「麗」 は 「韓」 「馬」 「瀚」 あたりと意味上は共通ので

「伯濟」 「百濟」 の 「伯」 「百」 は 「狛」 と意味上は共通なのかもしれない

「伯濟」 「百濟」 の 「濟」 の 「だら」 読みに関しては

似たのが島の名称として残っておる

すなはち 「馬渡島」 の 「まだら」 がこれである
163日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:46:24.38
農家のことをお百姓さんというけど、百済を調べると
百済=百姓(非王族な逃亡渡来人)もありなんじゃね?的なお話ですか?
164日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:59:09.79
たしか、はじめは「十済」と称していて
後に「百済」と称したんじゃなかったか

十の部族を済(すく)ったとか、なんとか
165日本@名無史さん:2012/08/21(火) 21:51:01.35
百越、百済・・対になる言葉だろう?
沿海州から朝鮮半島東岸、九州南部から山陰や上越にかけて
百越人と百済人の拠点となる漁村が点在していたのだ。
166日本@名無史さん:2012/08/22(水) 10:51:45.11
百々と書いてドドとも読むからな。
167日本@名無史さん:2012/08/22(水) 16:20:15.88
>>158
>「其國東西四百五十里 南北九百餘里 南接新羅、北拒高麗」
>これは百済の説明で、百済は南北に長い。

これは百済の説明で、百済は東西に長い。
百済の領域は錦江中下流域であると書いてあるのである。

北は高麗が百済から離れてある。
百済の北に接する地域(京畿道・忠清南道北部)は、新羅、高麗、隋が影響力を持つ空白地帯。
又、新羅の唐との接触する窓口地域。
百済の故地は京畿道であるが、度重なる高麗の南下攻撃によって、
南へ南へとその居城を移している記事がある。

>>163-166
百済の因われ
『百家濟海』⇒『百濟』

「初以百家濟海 因號百濟」

東の山間地帯は、百済でも新羅でもない空白地域。

南は内陸部(全羅南道北部と全羅北道南部は新羅勢力圏)で新羅と接する。
この地域では、百済と新羅の攻防があった地域。
なお、全羅南道沿岸部は倭の勢力地域。
168156:2012/08/22(水) 16:31:11.93
>>158
>其南 海行三月有耽牟羅國 南北千餘里、東西數百里 土多獐鹿 附庸於百濟
>これは耽牟羅國の説明で、これも南北の方が長い。

百済の海は錦江河口付近。
錦江河口付近の海から南へ250km(海行三月)は済州島。
済州島(即ち耽牟羅國)は、東西の方が長い。
169卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/22(水) 16:59:40.34
>>167-168
君はどう考えても頭がおかしい(苦笑)

東西四百五十里 南北九百餘里
南北千餘里、東西數百里

これを読んで、東西の方が長いと解釈するのは、日本広しといえども君くらいのものだ(笑)
それに百済は高句麗に圧迫されて南遷しているが、最終的な南遷地は所夫里だ。
この所夫里がどこかといえば、(豊コ)と書いてある。
これは京畿道豊コで、今のソウルあたりである。つまり所夫里とはソウルである。

武寧王の墓誌が公州から出土したから、それではおかしいと思うだろうが、
公州から出土したというのは、たぶん嘘である。というのは未盗掘の古墳だったというが、
棺の中は空っぽだったそうである。
170日本@名無史さん:2012/08/22(水) 18:25:04.66
人質にとられていた血筋の人が戻ってきたと言い訳すると乗っ取られたのを隠蔽できるかものテスト
171日本@名無史さん:2012/08/22(水) 18:30:18.31
公州から出土したのが こおやまき の棺おkだったのだけのでおなかいっぱい
172卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/23(木) 09:26:42.88
こういう話題はこのスレに書いておこう。

中田薫という人は九州説なのだが、その根拠の一つとして、
邪馬台国は城柵を構えていたが、大和からはそれらしき遺跡出土がない、と書いている。
そして仁徳紀の宮のみすぼらしい描写を挙げて、倭人伝の記述と合わない、と。
これはなかなか説得力があった。
ちなみに中田氏の本の刊行は昭和三十一年で、吉野ケ里の発見されるずっと以前のことである。

話変わって、これは私の意見だが、田油津媛などの話はいかにも小さな事件のように書かれているが、
大和王権がわざわざ征討に乗り出したのだから、かなりな大事件だったと見なければならぬ。
ちょうど、磐井の乱が大事件だったのにもかかわらず、記ではさらっと書かれているだけ、のように。
してみれば、卑弥呼などはこの田油津媛の国の王だったのかもしれぬ。
173日本@名無史さん:2012/08/23(木) 11:38:29.12
>>169
>君はどう考えても頭がおかしい(苦笑)
>「東西四百五十里 南北九百餘里」「南北千餘里、東西數百里」
>これを読んで、東西の方が長いと解釈するのは、日本広しといえども君くらいのものだ(笑)

君の頭は、君が最も嫌う教科書的だ。
だから、東西の方が長いと理解できないのだ。

君は「(國境間)東西四百五十里 南北九百餘里」と思い込んでいるだけだ。
君の脳味噌は、「(國境長)東西四百五十里 南北九百餘里」であることの理解不能状態に陥っているのだ。

君の脳味噌は思い込みが溜まり過ぎて破裂しそうになっているのだ。


>それに百済は高句麗に圧迫されて南遷しているが、最終的な南遷地は所夫里だ。

高麗が設置した所夫里は、百済最後の都の泗沘である、即ち忠清南道扶餘郡のこと。
174日本@名無史さん:2012/08/23(木) 17:10:58.40
漢書の西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余里」と
書いているね。
175卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/23(木) 17:47:59.76
>>173
君は松沢病院に行ったほうがいいぞw
唐松山と太国はすでに入院しているそうだから、
君も入って世間話でもしてきたまえw

所夫里は泗沘であると書いているが、根拠は?
教科書やネットにそう書いてある、ではダメだぞ。
なるべく古い、典拠となる書物を上げて御覧。
176太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/23(木) 18:01:13.76
当時の各天皇がみな百数十歳だという朝鮮野郎よ。

オマエこそ松沢病院で診てもらえ。ww

2ヶ月位前か、松沢病院は新棟を落成したから、オマエは気持ちよう
入院dけいるぞ。pp
177卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/23(木) 19:34:31.18
体はぶくぶく肥えてるが知恵は細い太国よ、天皇の年齢なんてどうでもいいのだ。
内外の諸文献の記述と一致していればそれでよいのだ。
ネット高句麗史の仁徳の記事が、記紀の伝える仁徳の年代とほぼ一致している。

それがお前の倍暦説の仁徳年代と一致しているのは偶然だ。
仁徳の年代だけ偶然に一致しているのだ。
仁徳から離れれば離れるほど、以前も以後も、年代は狂ってくる。
お前は神武即位は西暦ゼロ年だというが、そんなのは内外の諸文献と合わない。

分ったか、パカタレwww
178太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/23(木) 22:07:25.34
朝鮮野郎よ

オマエの盲象が、卑弥呼がアリランにいたとかいうA級のデタラメだ。ww

オマエも早く松沢病院で宿泊してろ!
179173:2012/08/23(木) 22:31:25.27
朝鮮パカ

共通語で書け。松沢病院なんて知らん。
松沢病院は朝鮮パカが入院するに相応しい病院だったのか。
180卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/23(木) 23:31:07.44
君らは私の朝鮮説を冗談だと思っているなw
ではこれはどうだ。倭王武の上表文だ。

而句驪無道 図欲見呑 掠抄辺隷 虔劉不已

高句麗が日本を見呑しようと図ったり、日本の辺隷を掠抄虔劉しようとしたことがあるかね。
そんなことは一度もない。だから倭とは日本ではない。高句麗の近辺の国だ。
高句麗の近くにあったのは百済と新羅だけではない。他にもあった。これがヒントだ。
ここから先は、書くのが惜しいから、書かない。

上の文を、これは高句麗の百済に対する行為だと解釈している人もいるようだが、
文脈からすれば、やはり日本に対する行為だ。
倭が高句麗の近くにあるはずがない、という先入観から、そういう無理な解釈をしているのだ。

倭の五王が献じた品が貂皮と人参だったということ。これを軽く見てはいかんぞw   
181卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/23(木) 23:48:17.97
但し上の行為は、倭が百済を経て朝貢しようとするときの、
高句麗の、倭人に対する妨害行為と解釈することもできる。
むしろそう解釈するほうが正解かもしれない。

しかしそれならそれでもいいのだ。私にはまだ奥の手があるw
いろいろとアイデアがあるのだ。
182日本@名無史さん:2012/08/23(木) 23:54:46.39
貂皮と人参の産地が「渡平海北 九十五國」の中に含まれていただけだろ

「渡平海北 九十五國」のはずれの方は倭王のシマの「邊隷」といいつべしだな

取ったり取られたりとかダイナミックに思考できなきゃだめじゃん
183日本@名無史さん:2012/08/24(金) 00:24:01.22
>>180
貂は日本にも広く分布しているし、薬用人参もたとえば島根県の大根島とかで産するし
184日本@名無史さん:2012/08/24(金) 00:26:59.28
>君らは私の朝鮮説を冗談だと思っているなw

冗談じゃなくただのバカの戯言だと思ってるよ。
朝鮮人は文献解釈能力がまるでダメ。
185卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/24(金) 08:56:43.39
ここにいる連中は特殊な人間ばかりだから、君らの意見は参考にならない。

上の文のキーワードは辺隷だ。
虔劉を漢和辞典で調べたら、次のような用例が載っていた。

虔劉我辺陲 (左伝)

要するに辺境を侵犯するという意味だ。辺隷も辺陲と同じような意味だろう。
ということは、やはり倭は高句麗の近処にあったと見なければならない。
もちろん、倭とは加耶で、その頃加耶は日本が支配していたから、
倭とは日本だ、という見方も成り立つが、それはあくまでひねった見方で、
常識的に考えれば、倭の五王の倭は、日本でもなければ南韓でもない。
満州か北朝鮮あたりのどこかである。それがどこかは今後の研究課題である。

要するに卑弥呼の倭も、五王の倭も、日本ではないのだ。
卑弥呼は、高句麗や帯方郡のすぐ近くにいたのである(!)
186日本@名無史さん:2012/08/24(金) 14:31:18.74
>辺隷も辺陲と同じような意味だろう。
>ということは、やはり倭は高句麗の近処にあったと見なければならない。
辺隷は倭には関係ない。自国の国境を侵されて辺隷などと言うことはない。
掠抄辺隷 虔劉不已は、単に周りに悪さをしているというだけ。
つまりは、倭が高句麗の近所にあったと解するのは誤りだ。
187太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/24(金) 14:46:32.81
>>180 朝鮮野郎よ

そんな文くらいじゃぁ五王、卑弥呼がアリランにいたことにはならない。
いくらでも無理な解釈が出来るからな。
無理な解釈の天才が宿主だ。オマエもそういう真似をするとは呆れとる。

誤理押ししてては、松沢病院ご推薦だ。w
188卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/24(金) 16:47:15.60
なんだ、反響はたった二通か、つまらないなw
>>186
それはあくまで君の解釈で、世間には私のように解釈する人はいくらでもいるよ。
第一、辺隷も辺陲も同じような意味で、不自然な用法ではない。
自国の国境、辺境を辺隷とか辺陲と謂うのである。他国の国境ではない。

>>187
腹周りは太いが知恵は細い太国よ、お前ももっと人参を食べて痩せろ(爆笑)
189太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/24(金) 17:56:03.66
朝鮮男よ

米国にはサクラがあるから、ここが原産地になるのか?

オマエも相当な盲象野郎だな。
190卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/24(金) 18:49:14.27
知恵は細いが腹はメタボの太国よ、
朝貢品の人参といえば朝鮮人参に決まっている。
朝鮮人参と言うくらいだから朝鮮の人参だw

それはさておきお前と伊作には共通点があるぞ。
一つは誤字が多いこと。盲象は妄想だろが。
そんなせっかちではまともな推理はできんぞ。

もう一つは、どちらも熊襲の末裔の蛮人であること(失笑)
191日本@名無史さん:2012/08/24(金) 19:01:09.51
卑弥呼コリア説もいい加減、この辺でやめとけよ。
192日本@名無史さん:2012/08/24(金) 19:20:37.25
卑弥呼コリア説もいい加減で、一ヶ所にしろよ。

どうせ、誰も読んでないんだから。
193太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/24(金) 19:46:51.57
>>190 朝鮮野郎よ
>朝貢品の人参といえば朝鮮人参に決まっている

ハハッ、昨今朝鮮人参入りのドリンクをけっこう飲んでるが、ここは
朝鮮じゃぁねえぞ。日本だ。決まっている根拠などあるまい。
あるんなら、書きこんでみるんだな。

コチラはジム通いだ。メタボはオマエのほうだろう?ww

誤字の多いのは目が悪いからだ。オマエはいいんだろう?
194卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/24(金) 22:26:59.17
知恵は細いが首は太い太国よ、
朝鮮に日本人参があったという話は聞いたことがないが(苦笑)

しかしおぬし、朝鮮人参入りのドリンク呑んで、ジム通いして、
一体何をやっているんだ(ウヒヒヒヒ…)


195太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/24(金) 22:41:20.64
朝鮮野郎よ

埼玉県だったか、過去に行ったことがあるが、高麗という所がある。
そこは日本の中だ。半島ではない。

朝鮮人参があった場所が朝鮮とは限らない。

所詮オマエの暴走論の盲象だ。
196太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/24(金) 22:50:37.68
朝鮮野郎よ
>朝鮮に日本人参があったという話は聞いたことがないが

西遊記での説話、五荘観には人参果の樹がある。

孫悟空は倒した人参果を癒しに蓬莱山(日本)に飛ぶのだ。
197日本@名無史さん:2012/08/24(金) 22:55:25.78
キムチに入れる唐辛子は日本から渡った物。サツマイモもやはり
日本から朝鮮半島に渡っている。稲もそう考えたほうが妥当だろうな。

隋書には、「新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」
とある。流れは南から北なのだろう。
198日本@名無史さん:2012/08/24(金) 23:18:30.14
百済難民が住み着いたところが大阪の百済。
その後、
高麗難民が住み着いたところが埼玉の高麗

彼らは、通訳を必要としないほど、日本語(倭語)に近い言葉を話していた。
199日本@名無史さん:2012/08/24(金) 23:20:27.16
てか しつこく「楽浪浮海」と記述される「楽浪」は九州にあったのかもしれないのだ
200日本@名無史さん:2012/08/25(土) 07:08:32.55
邪馬台国は九州にあった
そして大和朝廷に熊襲としてポアされた
201日本@名無史さん:2012/08/25(土) 07:49:00.41
神武東征の初代天皇であるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)
が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話否定ですね

202日本@名無史さん:2012/08/25(土) 11:24:41.23
熊とは高麗と同祖だろう。
朝鮮半島南部の熊川。熊川 - 百済の都の名。
錦江のほとりにあった。現在の忠清南道公州市。
203卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 16:56:27.30
>>202
熊川は能成江。能成江は大同江上流。
熊津は臨津江。

熊川柵(三登 以能成江爲熊川) 三登は江東の南 平安道三登
熊津(臨津) 

↑ネット三国史
204卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 17:09:47.88
今日は藤貞幹「衝口発」を読んだ。

奄美島を古くは恵平也、恵平屋、伊平屋と呼んだらしい。
これは倭の西南海行一日の伊邪国、伊耶国になんとなく似ている。
だとすれば倭人伝の国々は九州より遥かに広い範囲の国々を指している可能性がある。

また君らが九州年号と称している「異年号」に関する考察もある。
法興という年号は、その年に法興寺が落成しているから、それに因んだのだろう、と解釈。
応神帝の璽至は、卑弥呼が親魏倭王の印璽を貰ったことと関係あるか、と考証している。
もしそうなら、君らが九州王朝の根拠としている九州年号が、逆に大和説の根拠となるわけである(憫笑)
205日本@名無史さん:2012/08/25(土) 17:27:43.48
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
206日本@名無史さん:2012/08/25(土) 19:45:15.19
法興という年号は、その年に法興寺が落成しているから、それに因んだのだろう、と解釈

おこちゃまかよ
207日本@名無史さん:2012/08/25(土) 19:49:36.61
関東あたりとかまでから発掘されているくせに「九州年号」とはこれまぬけなネーミング

「倭王朝年号」といいつべし
208卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 21:41:32.94
>>206
この男は名無しの中でも一番のアホだなw
209卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 21:58:50.13
かよ、つーか、じゃね…

こんな言葉を平気で使っているような奴に、ろくな奴はいない。
名前を入れて書いている人はこんな言葉を使っていない。
こんな言葉を使っているのは、例外なく、名無しの奴だ。
名無しの奴にろくな男はいない。低能のゴロツキどもだ。
しかもそういうゴロツキに限って、2chに長い間滞在しているのだ。
というのも、結局はそういうゴロツキが勝つようにできているからだ。
真面目で、良心的で、気の弱い奴はみんな去っていくのである。
210卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 22:03:50.61
おこちゃまかよ

と書いているそこのお前、では法興という年号の由来を書いてみろ。
自分を何様だと思ってやがる。馬鹿かお前は。
211日本@名無史さん:2012/08/25(土) 22:39:56.36
591年 端政3年 辛亥 法興元年
622年 倭京5年 壬午 法興32年

元号はこの間二系列で途切れなく継続しておる

法興年号とはある人物がある地位を占有していた時間のスケールであろうて

法興元卅一年 歳次辛巳十二月 鬼前太后崩
(法興元卅二年)二月廿一日癸酉 王后即世 翌日法皇登遐

ある人物とはそれは「法皇」さんのことですよ しらんかったの?
212日本@名無史さん:2012/08/25(土) 22:59:33.67
「法皇」さんの相棒のひとがおつかい出したときのが

大業三年(607) 其王多利思北孤遣使朝貢

使者曰:「(海東法皇興佛法)

      聞海西菩薩天子【重】興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法 」
213卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 22:59:52.38
>>211
パカ稗箕狐よ、そんな時代に法皇はいないぞ。
ネットでちょこちょこと調べたくらいでいいかげんなことを書くな。

>しらんかったの?

これが余計だ。こういうことを書かれるだけでカチンと来る奴はカチンと来るのだ。
お前ももっと文章や対人関係に気を使え。
214日本@名無史さん:2012/08/25(土) 23:09:48.09
「翌日法皇登遐」のは所謂金石文ので伝えられてるのですよ しらんかったの?
215日本@名無史さん:2012/08/25(土) 23:36:53.51
216日本@名無史さん:2012/08/25(土) 23:56:12.56
>>215の全文は下記

法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩
明年正月廿二日上宮法皇枕病弗余
干食王后仍以勞疾並著於床
時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願
仰依三寶當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間
若是定業以背世者往登浄土早昇妙果
二月廿一日癸酉王后即世
翌日法皇登遐
癸未年三月中如願敬造釋迦尊像並侠侍及荘嚴具竟
斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三寶遂共彼岸
普遍六道法界含識得脱九縁同趣菩提
使司馬鞍首止利佛師造
217日本@名無史さん:2012/08/26(日) 07:54:29.88
>>212
>「法皇」さんの相棒のひとがおつかい出したときのが

「法皇」さん=相棒のひと、じゃないの?
即ち
上宮法皇=多利思北孤
218卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 09:03:29.32
>>214-216
それを知っているなら最初から上宮法皇と書け。
お前が法皇とだけ書くからこちらは誤解するのだ。

お前の書き込みはいつもこうだ。
短刀直入に書けばいいものを、わざと意味不明な文章に仕立てて書くから、
読む者は困惑するのだ。
人をからかって楽しんでいるのか? タチの悪い野郎だ。
219日本@名無史さん:2012/08/26(日) 09:19:50.28
>>216-217 どもね コテやめちゃったの?

法皇さんの相棒のひとが帝を騙ったのかとはおもふが
220日本@名無史さん:2012/08/26(日) 17:33:07.21
>>172
仮説なら誰でも言える。まともな研究者なら、その考証を書きなさい。
221卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 18:14:36.48
>>220
中田薫に言っているのか私に言っているのかは知らんが、ちゃんと根拠は書いている。
私のは想像だから、考証などしようとは思わない。もともと私は朝鮮説だから。

中田薫も専門は法制史で、古代史は余技である。
私家版として自費で製本して友人に配ったらしいが、
出版社から要望が絶えなかったので出版したらしい。
読む価値はある本である。君も読んでみたまえ。昔の学者の本は面白いぞ。
222日本@名無史さん:2012/08/26(日) 22:08:35.68
>>219
コテで書くと直にアク禁になるので、コテを止めています。

帝は二人いますね。
兄帝(天帝)と弟帝(日帝)
政務役割分担から外交は、弟帝の仕事になります。
多利思北孤は、外交を司っているので弟帝と見なせます。
又、遣隋使に佛法について語らせていることは、
多利思北孤が佛法

又、利歌彌多弗利太子が上宮法皇であるとする見方もあります。

223日本@名無史さん:2012/08/26(日) 23:27:18.88
「名太子爲利 歌彌多弗利」の

「歌彌多弗」が「上塔」で「上宮」のことかと

「上宮」は 高良山か 飛ぶ鳥の森の城山 あたりがふさわしいかもと
224卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 08:45:51.86
上宮法皇といえば聖徳太子に決まっているのに。
没年もちゃんと一致しているだろ?
パカだね、君らは。
小学生の書き込みと変わらないぞ。
頼むからもう少しまともなことを書いてくれ。
225日本@名無史さん:2012/08/27(月) 09:42:28.31
>上宮法皇といえば聖徳太子に決まっているのに。
単純だなあ。それこそ小学生。
釈迦三尊像の後背銘には没年が法興三十二(622)年二月二十二日とある。ところが『日本書紀』には
聖徳太子の没年は、推古二十九(621)年二月五日とある。それで通説は、『日本書紀』の誤りとみな
すが、『日本書紀』が僅か100年前の聖徳太子の没年や死亡の月日を間違って記す筈はあるまい。
上宮法皇と聖徳太子は別人だよ。
226日本@名無史さん:2012/08/27(月) 10:13:20.26
しかも聖徳太子は皇太子のまま死亡している
決して「法皇・上皇」には成れない

でないと律令制度の根幹を犯す
227日本@名無史さん:2012/08/27(月) 10:20:28.74
九州王朝なんて存在しない、あるのは倭王朝だ。
そしてその中心は淡路島周辺に決まってるだろ。
228日本@名無史さん:2012/08/27(月) 14:02:43.53
それが九州王朝なんだよ。
229日本@名無史さん:2012/08/27(月) 17:36:29.30
>>224
それも221で書いてるとおり、想像ね。邪馬台国を論じる資格は無いよ。
230日本@名無史さん:2012/08/27(月) 18:02:00.12
まああれだわ

記紀のなかみちゅうのは

大和に設置された倭王朝テーマパークのカタログ程度にとらえておくのが良いよね

したがって

「聖徳太子」つうのはテーマパークに展示された泥人形みたいなもんで

実際に過去に生息していた「上宮法皇」さんつうのはたんなるモデルであってからに

「聖徳太子」と「上宮法皇」とは別物だっつうのは当然だわな
231日本@名無史さん:2012/08/27(月) 18:27:20.28
>>228
いや、九州はただの支社で中継点ですよ。
232卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 18:33:04.41
>>225-226>>230
パカだね、君らは。
没年が異なるといってもたった一年じゃないか。
それに法皇というのは後の時代の法皇とは意味が異なる。
仏教を興隆させた王という意味だ。
どうしてそんなに何でもかんでも怪しいとして妄想を膨らますかね。
稗箕狐なんて、例によって、聖徳太子と上宮法皇は別物で決まり、みたいな書き方をしている。
こういう書き方をされると、知らない者は、ああ、そうなのか、と思ってしまうのである。
ここの読者に言っておくが、稗箕狐という男は常にこういう書き方をするから注意すること。
この男は、自分の書いていることは確定的事実であるような書き方をしているが、そうではない。
殆んどが、この男の単なる妄想なのである。
233日本@名無史さん:2012/08/27(月) 18:43:27.76
一番怪しいのは朝鮮人だけどな。
234卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 18:46:46.40
いや、一番怪しいのは南解次次雄だ(爆笑)
235日本@名無史さん:2012/08/27(月) 19:16:37.17
だから、聖徳太子は「王」じゃねえっての
推古天皇という絶対的存在があるのに、聖徳太子を「王」と呼べるか?

推古天皇こそ、仏教を興隆させた「女王」と称されるべきだろ
天皇に比べたら、皇太子なんて「屁」のような存在。
それが律令天皇制というもんだ。
236日本@名無史さん:2012/08/27(月) 19:19:54.29
ばかだなあ 雞彌さんのところは雞彌さんの俺様ルールの律令雞彌制とゆうやつだわ
237卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 19:33:19.83
聖徳太子はペンギンだよ(笑)
238日本@名無史さん:2012/08/27(月) 19:51:46.84
聖徳太子は偽物

小徳太子が本物
239日本@名無史さん:2012/08/27(月) 20:17:11.11
淡路島周辺にあったのは、蛭子國(環大阪湾連合國)
240日本@名無史さん:2012/08/27(月) 20:18:41.92
アマタリシヒコでアワノキミ、瀬戸内東部に基盤を持つ彦人王子だよ。
241日本@名無史さん:2012/08/27(月) 20:59:38.20
讃岐、阿波、淡路、東部播磨、西部攝津、和泉、南部河内が連合蛭子国の範囲。

蛭子文化圏としたほうが良いかも。
242日本@名無史さん:2012/08/28(火) 05:08:42.71
埼玉(サキタマ)王朝はどうなった?
243日本@名無史さん:2012/08/29(水) 07:36:57.65
太伯の子孫のひとで王位継承者にあたるひとが

亡命生活してて正式な継承の儀式とかできなかったもんだから

仕方が無くって「太子」をなのっていたのかもしれない
244日本@名無史さん:2012/08/29(水) 07:51:58.49
魏志倭人伝は適当で、実は対馬か壱岐あたりで使者がたら腹酒飲んで飯を喰い
魏に適当に報告をしたと言った論は崩れた?
流石に九州は筑紫王国の存在が在り、これもまた謎だが
245日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:01:30.23
よくはしらんけど

ご飯のおかずの王様の明太子

こいつがシンボルのタラコ王だったのかもしれない
246日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:10:43.51
おお!
新説ですね!明太子製造はこの頃からですか!これは凄い
247日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:20:15.29
真面目な話。
異国の使者が接待され、そこで聞いた話を纏め国に帰ったことはよくあるみたいだな
248日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:21:38.71
なんかしらんけど

ここらあたりのローカルルールでは辛くないのも「明太子」っていうらしいよ
249日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:42:17.04
この使者みたいな報告者って卑弥呼に会ったの?
大体の本を読んだけど疑問だらけ
250卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:06:00.58
だから日本に魏使は来ていないって。
何度言えば分かるんだ、君らは。

中田薫も倭人伝は魏志の報告によるものではないと書いている。
そういうふうに考える学者は昔はいくらもいたんだ。
昔の学者の方が、想像力もあり理解力もある。
戦後の学者はみんなダメになった。
そのダメ学者の本しか読まずに君らはワイワイガヤガヤ議論しているのだよ。

戦後の学者の本や考古学の本など一切読まなくていいよ。
251日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:14:38.60
んで?なに?
魏が朝鮮半島ごときを眼中に入れていたなど何もないけどねw
252卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:17:28.76
>>251
お前は馬鹿だから書いてることもイミフだな。
では魏は朝鮮半島より日本を重視していたというのか。

馬鹿か、お前は。
253日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:28:10.79
倭人伝なんだから朝鮮半島なんか当然スルーだよ。
半島について伝聞でも南方系の気候風土なんか書くわけない。
朝鮮人じゃあるまいしそこまでバカじゃないw
254日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:28:27.00
>>252
オモシロイのがいるんだw
>>春窮期に穀物を貸し与え、秋の収穫後返済する賑貸法実施
この頃、平和だねwwwwwwwwwww
255卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:44:11.62
>>253
お前はそんなこと書いてるから19歳からバカにされるんだよ。
そんなレベルでは19歳から嘲笑されて当然だ。
19歳も最近は出て来ないが、もっと出てきてここの奴らを嘲笑してほしいものだ。

>>254
お前はまったくド低能だな。
それが魏の日本重視と何の関係があるのだ。
まったくお前のようなド低能を相手にしてると疲れる。
伊作の気持ちがつくつぐと理解できるぞw
256日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:50:37.14
じゃあ朝鮮人に聞きたいのだが
この頃の朝鮮人は何をしていたの?
257日本@名無史さん:2012/08/29(水) 10:05:12.05
┐(-。ー;)┌
ド低能とか言って散々罵倒した朝鮮人は逃げ足も早いんだなw
258日本@名無史さん:2012/08/29(水) 10:28:41.77
昔の朝鮮なんて中国や倭の属国扱いされてる記述しか無いだろw
259日本@名無史さん:2012/08/29(水) 17:43:28.59
>>255
>まったくお前のようなド低能を相手にしてると疲れる。
伊作の気持ちがつくつぐと理解できるぞw

目糞、鼻糞を嗤う。
所詮お前も伊作と同じレベルだ。
260日本@名無史さん:2012/08/29(水) 18:15:07.10
朝鮮説自体を信じてないから、フォローは出来ないが、
中身の無い罵倒や、アホな言いがかりは無視しとけ。
面倒くさいから、相手するだけ無駄だ。

俺は面倒で相手したくない時があるから、コテつけない。
「言い返せない」などといわれても無視する。
興が乗ったときは相手するけど。

伊作は内容は悪くはないのだが、丁寧に罵倒し返すから、
盛り上がった時にはへとへとになっちまうだろ。
元気だねえ。
261日本@名無史さん:2012/08/29(水) 19:39:49.37
つーか客呼べないやつがコテつけてもなあ
どんどん人が離れていくし
新規参入もなくなったわ
262日本@名無史さん:2012/08/29(水) 19:52:24.10
それもあるねえ。
人様に余り与えられる情報持ってるわけじゃないんで、
わざわざコテ付けるほどのこともない。
263日本@名無史さん:2012/08/29(水) 20:35:09.44
おまいらってなにけなしあいとかしているの

けんかとかしないでなかよくしてみてわ
264日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:05:16.14
トンデモ説をいくら繰り返しても何にもならん。邪馬台国がどこにあったのかは
倭人伝を正しく読んでいけば明らかになる。それしかないんだよ。
265日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:31:37.79
倭人伝を正しく読んだら、畿内説で飯を食ってる人が路頭に迷うでしょ。
だから正しく読んじゃいけないんだよ。
266日本@名無史さん:2012/08/30(木) 00:18:03.25
既に九州説の人は路頭どころか人生に迷ってるけどな。
267日本@名無史さん:2012/08/30(木) 00:53:41.63
詐欺じゃないから迷うんだよな。
268日本@名無史さん:2012/08/30(木) 02:04:03.77
正直九州説なんてもう八方塞がりなんだけどね。
なので東遷とか神功に殺された女酋長とか妄想語るしか無い。
269日本@名無史さん:2012/08/30(木) 07:13:13.99
末盧国から東南陸行五百里の伊都国を玄界灘沿岸としないかぎり成立しない
説なんてその時点でジエンドだね。倭人伝どおり進んで有明海沿岸に行けば
いいのさ。
270日本@名無史さん:2012/08/30(木) 07:50:30.63
倭人伝どおりじゃ有明海方面へは行かないけどな。
271日本@名無史さん:2012/08/30(木) 07:53:46.54
>>269
そうだ。
遂行二十日遂行十日陸行一月を所用日数と考えるから混乱する。
自女王国以北其戸数道里可略載其餘旁國遠絶不可得とあるから
勅使は対馬国一大国末盧国伊都国奴国投馬国邪馬台国市街の国へは行っていない。
しかも
有明海沿岸は人口の大密集地帯だ。
海岸沿いに人のいない地域もなく国と国の距離は百里程度だ。
人口は
対馬国一大国末盧国を基準に考えなければならない。
邪馬台国があったのは山門郡〜熊本県北部だ。
272日本@名無史さん:2012/08/30(木) 08:37:42.58
唐津から糸島へ陸路を進んだことになっていますが、
当時道はあったのでしょうかね。
273日本@名無史さん:2012/08/30(木) 08:52:26.48
阿蘇の火山記述が無いから熊本はねーな。
274日本@名無史さん:2012/08/30(木) 09:37:43.17
当時、唐津から糸島には、道はない。
今でも海にはみ出る崖っぷちの道か、
山の中をとおる高架の有料道路があるだけ。
あ、あと背振山系に山登りしてまた降りてくる山岳ルートはある。

江戸時代に唐津糸島を結んだ唐津往還といわれたルートは、
三箇所ほど船で渡るルートである。
275日本@名無史さん:2012/08/30(木) 10:09:55.63
>阿蘇の火山記述が無いから熊本はねーな。
有明海は水行だ。火口を覗きに行ったりはしない。


276日本@名無史さん:2012/08/30(木) 10:20:36.00
外輪山があるから、聞かされなければ、
有明海からはただの山脈があるようにしか見えない。

また、結構距離があるから、天気がいい日に、かなり遠方にうっすら見える程度。

海岸から外輪山まで約三十キロ、中岳まで45キロ。
また、海側にも山があるから、見える場所もあまりない。
277日本@名無史さん:2012/08/30(木) 10:31:11.50
糸島は庶民の家と墓場だ。水田も狭小だ。大国の首都があったとは思えない。
一方、佐賀市付近は広大な水田をもち、山際に環濠集落が形成されていた。
有明海も目の前。伊都国にふさわしいね。
278日本@名無史さん:2012/08/30(木) 10:35:15.96
伊都国は糸島にあったというのがほぼ定説となっている。
しかし、
それが原因で倭人伝の行程記事の信頼性は失墜し、
「倭人伝の行程記事では邪馬台国の場所は判らない。」とまで言われている。

方角が違う、
距離が合わない、
伊都国の人口が違う、
船で楽に行けるのにわざわざ別の場所に上陸して道無き難所を陸行する、
揚げ句の果てには
不弥国から南へ山へ向かって陸地を水行するはめになる。

記載とは違う方角へ進んでおきながら
これだけの矛盾があるからと言って 
「倭人伝の行程記事では邪馬台国の場所は判らない。」とは随分勝手な言い分である。
一般人からすれば
当然
「これほどの矛盾があるのは
記載された方角とは違う方角へ進んだのが原因ではないか?」
と考えるべき所である。

邪馬台国論争の世界は一般常識の通用しない世界ではある
279日本@名無史さん:2012/08/30(木) 10:59:57.07
奴国は九州で最大級の貝塚があるほどの
人口密集地帯だった佐賀市北部。

伊都国と不弥国は奴国から百里しか無いから
佐賀市北部から東と北西へ道なりに7〜8q程度。
だから
伊都国は佐賀大和都渡城
不弥国は吉野ヶ里が有望。

其餘旁國遠絶不可得詳とあるから
不弥国の次で南にある国、八女津姫がいて下妻上妻と呼ばれていた
筑後八女が投馬国。

投馬国の南で最初にある国が邪馬台国だから
ヤマトの名前がある山門郡以南から大牟田荒尾が邪馬台国。

簡単明瞭な話だ。
280日本@名無史さん:2012/08/30(木) 11:38:37.31
>>271 名前:日本@名無史さん
1.洛陽から倭迄の行程。
洛陽 郡→郡〜帯方→韓國       ・・・・・第一行程
   郡→郡〜帯方→倭の北岸・狗邪韓國 七千余里 ・・・・第二行程(目的地)。

2.倭の北岸から伊都國迄の行程。
狗邪韓國→對海【馬】國→一大國→末廬國→伊都國 ・・・最終目的地への行程。
末廬國→奴國→不彌國。  ・・・ 奴國と不彌國への行程
末廬國→ 投馬國 。    ・・・ 投馬國へ。
末廬國→ 邪馬壹【臺】國 ・・・  邪馬壹【臺】國へ。

と言う行程地図として記述されている。
勅使の道程として記述されてはいない。
 
281日本@名無史さん:2012/08/30(木) 11:42:26.93
唐津から佐賀は、ちょうど谷が続いていて、
天然の間道になっている。
標高も低くて、移動しやすい。

古くからこの道は唐津街道として使われてきていた。
282日本@名無史さん:2012/08/30(木) 11:48:21.21
>>275
雲仙、阿蘇、そして南には桜島と
有明湾周囲は火山だらけなのに一切記述がない。
水行、陸行問わずこれは変だろ、あれだけ動植物関係
wo調査してるのにな。

この時点でこの方面には進んでいないのは明白だ。
283日本@名無史さん:2012/08/30(木) 11:54:43.30
>>282

桜島が有明海の周囲とは…
土地勘無さそうだねえ
284日本@名無史さん:2012/08/30(木) 11:56:18.95
>>280
>と言う行程地図として記述されている。

何処に国があるのか皆目検討のつかない行程地図など何の意味もない。
つまり
行程地図なんかではない。
285日本@名無史さん:2012/08/30(木) 12:04:18.49
>>283
揚げ足とりはみっともないですな。
当然隣接してる訳でもないが、
熊本周辺を語る上で火山の記述が無いのは
結構致命的だと思うけどね。

丹山があると述べられてるなら、当然
周囲の山も調べるものだろう。
286日本@名無史さん:2012/08/30(木) 12:38:04.59
>>284 名前:日本@名無史さん
>>280
>>と言う行程地図として記述されている。

>何処に国があるのか皆目検討のつかない行程地図など何の意味もない。
>
そんなことはない。

>つまり
>行程地図なんかではない。
>
行程地図です。

>1.洛陽から倭迄の行程。
>
狗邪韓國は現与那国島

>2.倭の北岸から伊都國迄の行程。
對海【馬】國は現沖縄本島。
一大國は現口之島から種屋久島。
末廬國は現下関。
伊都國は現出雲。
奴國は現秋吉台あたりが末廬國と奴國の境界。
不彌國は、現山口県萩市に属する島々。。 
投馬國 は現四国。
邪馬壹【臺】國 は、????

287日本@名無史さん:2012/08/30(木) 14:44:54.55
>>279
不弥国まではよさそうだけど、その先がちがうな。
放射式に書かれていることを理解しないとね。
288日本@名無史さん:2012/08/30(木) 15:32:22.33
>>279
伊都国まではよさそうだけど、その先がちがうな。
伊都国からは、放射式に書かれていることを理解しないとね。

「到」〜「到」で、行程は終わっている。
伊都国は、邪馬台国の入り口の国で隣接しているはずだ。
だから、検閲が生きてくる。
奴国以下は、伊都国で得た別史料。
289日本@名無史さん:2012/08/30(木) 15:41:12.95
>>288
「自郡至女王國、萬二千餘里」は、女王国の境目を表している。
卑弥呼と戦った狗奴國の位置の始まりを示している。
「簡素を宗」とする陳寿の技なり。
290日本@名無史さん:2012/08/30(木) 16:53:41.92
>「自郡至女王國、萬二千餘里」は、女王国の境目を表している。
そのとおり。しかし、それは女王国の始まりだ。狗奴国の位置とは関係ない。
291日本@名無史さん:2012/08/30(木) 16:58:13.72
>>286>>290

無視。
292日本@名無史さん:2012/08/30(木) 17:00:58.43
>>286>>290  無視。
あなたにはちょっと高度な話だったかな。

293日本@名無史さん:2012/08/30(木) 18:38:31.94
>>290
>それは女王国の始まりだ。狗奴国の位置とは関係ない。

狗奴国は卑弥呼と戦った国だ。 
張政が派遣された重要な事跡だ。 
狗奴国の位置表記は必要と思う。
294日本@名無史さん:2012/08/30(木) 18:59:06.96
>>280
1.洛陽を基点として、帯方郡から倭迄の文章地図。
  洛陽〜帯方郡→諸韓国→帶方東南大海の北岸・狗邪韓國 七千余里 ・・・・第一目的地への行程地図)。

2.帶方東南大海の北岸から伊都國迄の文章地図。
  狗邪韓國→對海(馬)國→一大國→末廬國→伊都國 四千二百余里・・・第二目的地への行程地図。

3.伊都國―奴國 百里。  ・・・ 伊都國と奴國の位置関係を示す地図

4.伊都國→不彌國 百里。 ・・・ 伊都國から不彌國への行程地図。

5.不彌國―投馬國。 ・・・ 不彌國と投馬國の位置関係を示す地図。
  不彌國―邪馬壹(臺)國。 ・・・ 不彌國と邪馬壹(臺)國の位置関係を示す地図。

6.帯方郡―投馬國 水行二十日(≒二万余里)  
  帯方郡ー邪馬壹(臺)國 水行十日(≒万余里)陸行一月(≒千余里)
  (1日=24時間、1月=24時間50分)

と言う文章地図として記述されている。
勅使の道程として記述されてはいない。
行程となっているのは、帯方郡より不彌國の部分で合計里数は万二千餘里。
295日本@名無史さん:2012/08/30(木) 19:03:31.23
誤>狗邪韓國→對海(馬)國→一大國→末廬國→伊都國 四千二百余里・・・第二目的地への行程地図。
正>狗邪韓國→對海(馬)國→一大國→末廬國→伊都國 四千九百余里・・・第二目的地への行程地図。
296日本@名無史さん:2012/08/30(木) 19:28:58.74
前方後円墳の前方部の上で何らかの儀式が行われていた。
どういう主旨の儀式が行われていたのか?
それに気づけば九州説なんてあり得ないとわかる。
297日本@名無史さん:2012/08/30(木) 19:59:09.89
まちがえた。

前方後円墳の前方部の上で何らかの儀式が行われていた。
どういう主旨の儀式が行われていたのか?
それに気づけば畿内説なんてあり得ないとわかる。

298日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:04:50.97
↑朝鮮人みたいな成りすまし、根拠のない妄言でワロタ
299日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:05:48.10
円部を高千穂に見立てて天神に祈っていたんだろう。
300日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:07:36.92
>>298

中身が無いから、違和感ないだろ?www
301日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:08:21.23
>張政が派遣された重要な事跡だ。狗奴国の位置表記は必要と思う。
魏使は邪馬台国までしか行っていない。狗奴国には行ってないから道里は
書かれていないんだよ。
302日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:13:10.60
>>299
確かに前方部から望むと後円部越しに山の頂がある。
だがしかし、それだけでは本質は見えていない。
303日本@名無史さん:2012/08/31(金) 07:29:16.96
>>301
>狗奴国には行ってないから道里は 書かれていないんだよ。

史書は天子に対する報告書だ。読者は官僚達だ。
張政を派遣し、黄幢まで与えている。
その戦争相手が、何処にあるの書かれてない訳がない。
「萬二千餘里」は、女王国と狗奴国の境目だ。
狗奴国の始まりである。
304日本@名無史さん:2012/08/31(金) 07:57:02.59
何処にも境目なんか記載してない。
305日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:41:40.96
>>301
>狗奴国には行ってないから道里は 書かれていないんだよ。

史書は天子に対する報告書だ。読者は官僚達だ。
張政を派遣し、黄幢まで与えている。
その戦争相手が、何処にあるの書かれてない訳がない。
女王國と狗奴國の紛争地が書かれている。
郡から水行二十日の投馬國と水行十日陸行一月の邪馬壹國である。

「萬二千餘里」は、女王国に含まれる最初の国々(奴國と不彌國)までの距離である。
306日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:29:23.67
>女王國と狗奴國の紛争地が書かれている。
>郡から水行二十日の投馬國と水行十日陸行一月の邪馬壹國である。
これが紛争地の表示だってのかい? 誰も理解できんだろう。
天子に対する報告書でそんなひどい文章を書いていたら即刻左遷だ。
307父@卑弥呼:2012/08/31(金) 10:45:56.30
>> 1 邪馬台国は南九州です。卑弥呼の出身国です. その後伊都国に上京したため、
邪馬台国には役人しかいなくなりました。
「魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をむすぶ糸」にはそう書いてありました.
308日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:13:39.66
>誰も理解できんだろう。

理解できない理解したくないのは>>306だけだ。
309日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:24:28.69
>>307
魏志倭人伝・卑弥呼と日本書紀をむすぶ糸は全くありません。
魏志倭人伝の倭と日本書紀の大和政権は全く別の社会です。
310父@卑弥呼:2012/08/31(金) 11:30:07.23
>>309 さん  「魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をむすぶ糸」は
最近出た本の書名です
311日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:31:48.97
>>287 :日本@名無史さん
>>288 :日本@名無史さん:2012/08/30(木) 15:32:22.33
>>279
>伊都国まではよさそうだけど、その先がちがうな。
>伊都国からは、放射式に書かれていることを理解しないとね。

>「到」〜「到」で、行程は終わっている。
行程の終わりではなく。
最終目的地の表記が「到」で最初の「到」は倭の玄関の狗邪韓國。
次の「到」は倭の最終目的地である伊都國と言う表記に成っている。
『一連の行程の終わりの記号は「行」の一字だ。
清代の段玉裁・『說文解字注』を拾うと「乍行乍止也。」とある。
「乍行乍止也。」は『即行即止也』だから、「行」は「止」の記号。

>伊都国は、邪馬台国の入り口の国で隣接しているはずだ。
>だから、検閲が生きてくる。
>奴国以下は、伊都国で得た別史料。
「伊都國」の周囲は海と奴國です。
邪馬壹【臺】國と陸で接しているのは奴國です。
海でしているのは投馬國と言える。
312日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:40:02.53
>>289 :日本@名無史さん
>>288
>「自郡至女王國、萬二千餘里」は、女王国の境目を表している。
>卑弥呼と戦った狗奴國の位置の始まりを示している。

「自郡至女王國、萬二千餘里」の「萬二千餘里」の着点は「倭」の一方の境界で、
他の一方の倭の境界は狗邪韓國です。


313日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:47:34.76
>>305
>女王国に含まれる最初の国々(奴國と不彌國)

根拠無し。

>までの距離である。

根拠無し。=出鱈目
314日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:49:53.88
>>308
いや、俺もそんなアホな理解はしない。
315日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:53:00.58
>>311
>最終目的地の表記が「到」で最初の「到」は倭の玄関の狗邪韓國。
次の「到」は倭の最終目的地である伊都國と言う表記に成っている

到にそんな用法は無い。
316日本@名無史さん:2012/08/31(金) 12:33:02.36

>>315 名前:日本@名無史さん
>>311
>>最終目的地の表記が「到」で最初の「到」は倭の玄関の狗邪韓國。
>>次の「到」は倭の最終目的地である伊都國と言う表記に成っている

>到にそんな用法は無い。
有る。
魏志で「到」とあるのは5箇所。
水行・・・到其北岸狗邪韓國 ・・・@
東南陸行五百里 到伊都國   ・・・A
帶方太守劉夏・・・・以到。・・・・・B
還到           ・・・・C
其八年 太守王頎到官。  ・・・・D

@ とAの前文には「行」が置かれているいるからその先は無い。
あるのは反転行程のみ。
故に、最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。



317日本@名無史さん:2012/08/31(金) 12:50:22.54
>あるのは反転行程のみ
狗邪韓国から使者は戻っていった、倭国へは来なかったと言うことかな?
318日本@名無史さん:2012/08/31(金) 12:57:48.68
>>317 名前:日本@名無史さん
>>あるのは反転行程のみ
>狗邪韓国から使者は戻っていった、倭国へは来なかったと言うことかな?


違います。
郡から倭迄と
倭の
2行程記述になっている。
と言うことです。

使者の行程と魏志の行程地図は直接的関係はありません。
319日本@名無史さん:2012/08/31(金) 13:50:13.65
至と到の違いは傍らに人が立っているのか否か。
中国の人間が実際に行ったことがある場所には到、話しに聞いただけの場所には至。
320日本@名無史さん:2012/08/31(金) 14:07:17.41
>>319 名前:日本@名無史さん :
>至と到の違いは傍らに人が立っているのか否か。
>中国の人間が実際に行ったことがある場所には到、話しに聞いただけの場所には至。

到としての動詞用法に
颠倒。通“倒” [put upside down;reverse]

ある。

位置・方向・順序・性質を反対にする
と言う用法がある。
321305:2012/08/31(金) 14:11:51.58
>>318の補足説明
>郡から倭迄と
狗邪韓國は韓地にある倭と言うことです。

>倭の
>2行程記述になっている。
>と言うことです。
伊都國(イトコク)は、卑弥呼共立以前の倭の都の国である倭都國(イトコク)です。
*伊都國には世有王(旧倭王)皆統屬女王國が居る。
*伊都國では郡使往來常所駐
*伊都國は今では女王國の支配下。
322305:2012/08/31(金) 14:28:33.27
>>313
>>女王国に含まれる最初の国々(奴國と不彌國)までの距離である。
>根拠無し。=出鱈目

@ 郡―狗邪韓國⇔對海國半周⇔一大國半周⇔末盧國⇔伊都國⇔奴國
  万二千餘里
A 郡―狗邪韓國⇔對海國半周⇔一大國半周⇔末盧國⇔伊都國⇔不彌國
  万二千餘里
B 自郡至女王國萬二千餘里

∴奴國と不彌國は女王國の入り口の国である。
伊都國は女王國に入る直前に入国許可が出るまで駐在する所。
323日本@名無史さん:2012/08/31(金) 18:09:17.56
>>316
>最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。

誤読。妄想。
324日本@名無史さん:2012/08/31(金) 18:11:28.66
>>322

誤読。妄想。
325日本@名無史さん:2012/08/31(金) 18:16:37.55
>>323-324
「至」と「到」の使い分けを辞書で学べ。例文の多い諸橋が良い。
326日本@名無史さん:2012/08/31(金) 18:58:00.81
>>325
そんな意味があるなら辞書の意味と例文を提示すればよい。
無いから。
327日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:30:22.08
「至」と「到」はほとんど同じだが、ちょっと違うところもあるんだな。
「到」は「刂」が付いているからね。超えて至るという意味があるとされる。
まあ、区切りのところで使う字としては「至」よりは「到」が適当という
ことになる。
328日本@名無史さん:2012/08/31(金) 22:24:35.74
到 
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%B0
「刂」は人の立つ形
329日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:06:14.62
>>327
だから
そんな意味があるなら辞書の意味と例文を提示すればよい。
具体的に文をあげて。
無いからできないだろうが。
330日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:16:07.63
【到】学研漢和大辞典
《解字》
会意兼形声。到は「至+音符刀」。至は、矢が一線に届くさま。
刀は、弓なりにそったかたな。まっすぐ行き届くのを至といい、
弓なりの曲折をへて届くのを到という。⇒至

到と至は用法に特別な違いがないが、
倭人伝では《解字》にあるように
弓なりの曲折をへて(迂回して)到着した場合に到を使用している。
331日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:23:23.77
>>329
自分で辞典ぐらいみるもんだ。
332日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:15:56.38
>>311
みっともない。
辞書くらいとっくに調べ尽くしている。
だから、そんなアホな意味が無いことも知っている。
333日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:16:37.37
>>331
みっともない。
辞書くらいとっくに調べ尽くしている。
だから、そんなアホな意味が無いことも知っている。
334日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:54:49.83
調べても意味のちがいが理解できんのか。重症だな。
335日本@名無史さん:2012/09/01(土) 09:54:06.37
違いも説明できないほどに理解していないし
第一
途中の狗邪韓国、伊都国に到を使用して
最終目的地の邪馬台国に至をしていることから
【最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。】にんて
アホな主張は成立しないんだよ。

いつまで生き恥を晒すつもりだ?
336日本@名無史さん:2012/09/01(土) 11:55:42.75
>【最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。】にんて
>アホな主張は成立しないんだよ。
最終目的地なんて言ってないぜ。区切りに使うと言っただけだ。
韓地の終わりに到、連続式に読む行程の終わりである伊都国に到だ。
その先は放射式だから、それぞれに至を使っているんだよ。
337日本@名無史さん:2012/09/01(土) 13:51:32.59
>>308
>理解できない理解したくないのは>>306だけだ。

私もわからないねぇ。
伊都国〜邪馬台国〜狗奴国は、殆んど縦に連なってるんだよ。

郡より倭に至るには、 〜 万二千餘里。
郡より邪馬台国に至るには、 〜 水行十日陸行一月。  だべ!
338日本@名無史さん:2012/09/01(土) 14:21:47.01
>理解できない理解したくないのは>>306だけだ。
と、言われても、学説にまったくない話なんだから、君以外には誰もそんな読み方は
してないってことだよ。

>>337
北九州の諸国は女王に統属する国々であって女王国ではないんだよ。
万二千里で女王国が始まるけれど、女王国は広大だ。投馬国も邪馬台国も
旁国も女王国の構成国。
伊都国から水行二十日で投馬国。伊都国から水行十日陸行一月で邪馬台国。
万二千里には自郡とあるけど、水行二十日、水行十日陸行一月には自郡が
ないのだから、いきなり郡に戻るというのはトンデモ読みだよ。
339日本@名無史さん:2012/09/01(土) 15:46:12.83
女王国なんて概念を考えるのはトンデモ。
じゃあ、男王だったら、男王国になるのか?

女王国は、倭国(あるいは邪馬台国)の単なる言い換え、
と考えるのが正当である。
340日本@名無史さん:2012/09/01(土) 16:01:40.11
>男王だったら、男王国になるのか?
名前をどうつけるかはそのときしだいさ。倭国の側では北九州と戦った国々の連合体について
特に名前はつけていなかったんだろう。女王国というのは魏がかってにそう呼んだまでのこと
だ。倭国乱の勝者グループだよ。

>女王国は、倭国(あるいは邪馬台国)の単なる言い換え、
倭国の言い換えならば、倭国は対馬から始まるんだから、郡から八千里のはずだ。
邪馬台国の言い換えならば北九州から水行十日陸行一月のはずだが、末盧国から
二千里の距離にそんな日数がかかるとはとうてい思えない。それに邪馬台国を女
王国と言い換え理由もない。陳寿はそんな馬鹿な言い換えはしないよ。
341日本@名無史さん:2012/09/01(土) 16:04:57.92
>>339
女の王がとても珍しかったから、陳ちゃんが「女王国」と書いた。
読者は、中国の天子と官僚だ。
>>339 に同意。
342日本@名無史さん:2012/09/01(土) 16:50:49.68
文脈から判断するに「女王國」は邪馬台国のことでしょ
343日本@名無史さん:2012/09/01(土) 16:58:53.30
伊都国から女王国まで千五百里に水行十日陸行一月もかかるというのがおかしいと
思わないのかな?
344日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:14:26.05
>>339
>女王国は、倭国(あるいは邪馬台国)の単なる言い換え、

倭國≠女王國≠邪馬壹國
345日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:42:21.37
>>343
その「陸行一月」の間に、他のいかなる国にも立ち寄って
いないことを、おかしいと思わないのかな?
346卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/01(土) 17:45:06.97
女王国 ←邪馬台国
狗奴国以外の国々 ←女王に支配される倭の国々
狗奴国 ←女王に支配されない倭の国
347日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:48:40.52
>>338
>万二千里には自郡とあるけど、水行二十日、水行十日陸行一月には自郡が
ないのだから、いきなり郡に戻るというのはトンデモ読みだよ。

目は常に洛陽にある。
郡に命令して、「郡〜倭国」の事が書かれている。
洛陽からみて、郡から邪馬台国の事は分かりきったことだ。
漢文では、省くことはザラだろ?
348日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:55:06.00
>>336
>最終目的地なんて言ってないぜ。区切りに使うと言っただけだ。


>>316
【故に、最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。】

クズ。
349日本@名無史さん:2012/09/01(土) 18:52:27.27
他人の言葉まで責任はとれん。
350344:2012/09/01(土) 20:33:35.54
>>347
誤>「郡〜倭国」の事が書かれている。

正>「郡〜倭」の事が書かれている。
351344:2012/09/01(土) 20:57:21.92
女王国 ☜邪馬台国+投馬國+奴國+不彌國
邪馬台国 ☜女王國の都がある国
狗奴国以外の国々 ☜女王國に支配される倭の国々
狗奴国 ☜女王國に支配されない倭の国

邪馬台国 ☜長官1名と次官3名で治めており女王がいる国 ☜4ヶ国が合併した国
伊都國 ☜長官1名と副官1名以外に王も居る国
末盧國 ☜長官も副官も居ない国
狗奴國 ☜長官と男王が居る国
上記以外の国々 ☜長官1名と副官1名で治めている国々、及びに不明である21ヶ国
352日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:03:48.23
>>351
だから、じゃあ男王だったら「男王国」となるのか?
353日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:09:54.27
女王の国だったから男尊女卑の支那は卑弥呼の卑とか邪馬台国の邪とかの蔑字を当てたんかな?
354日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:27:58.00
>>345
>その「陸行一月」の間に、他のいかなる国にも立ち寄っていないことを、
>おかしいと思わないのかな?
女王国の中を通っているだけなんだよ。だから何もおかしくはない。
355354:2012/09/01(土) 21:32:45.48
女王国 =邪馬台国+投馬國+旁國
邪馬台国 =女王國の都がある国
倭国 =女王國とそれに統属した北九州の国々
狗奴国 =女王の支配下にない倭の国
356日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:54:29.19
女王境界 ☜(邪馬台国+投馬國+奴國+不彌國)のひろがりを示す外枠
357日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:59:25.68
女王境界 ☜その北側のラインについては明示的には記録されていない
358日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:07:35.21
狗奴國 ☜女王境界所盡の其南に有るところの、
       その存在自体は魏から咎められる謂れの無い王がおわしますところの、
       女王に敵対した時期が存在したところの土人のコロニー
359日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:14:05.95
>女王境界 ☜(邪馬台国+投馬國+奴國+不彌國)のひろがりを示す外枠
奴国、不彌國は万六百里。女王国には入らんよ。
島巡りなどトンデモにすぎん。
360日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:14:42.13
>>354
ほんとかよ
播磨国とか但馬国とか摂津国とか・・・
あっただろよ
361日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:23:22.52
「女王境界」のことを「女王國境界」と読み替えるレベルのやつはまぬけ
362日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:27:40.82
漢の時代から日本と中国の交流はあった。
その時代の中国側の窓口は会稽、日本側の窓口は伊都国。
その後中国は分裂し、会稽を押さえた呉が日本との交流を続け、魏は蚊帳の外。
ところが日本も倭国大乱によって分裂し、さらに魏が帶方を押さえたことにより、
日本の新興勢力側と魏が朝鮮半島経由で交流することが可能になったわけ。
363日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:28:56.19
>>360
そんな大国があったら書いてるだろうが。
364日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:28:56.92
>>360
畿内説には関係ないお話
365日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:33:42.38
>>361
そうだね。「女王境界」とは「女王の支配権が及んでいる範囲」のことだね。
このスレにも唐松山をはじめとして漢文の読めぬ者のアホ論が多いね。
366日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:37:35.48
>>365
それなら「倭国境界」と書くだろうが。それとも倭国とは範囲がちがうのかな?
367日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:43:50.34
制度史上からいえば

少なくとも「國」つうやつには2通りのがある

ひとつは大量に陪葬者を要求した土人の時からの流れで使用される「國」で

あとひとつは「郡縣制」が導入されて発生した行政単位の「國」だわ

後者のは基本

地名とかの後ろに「縣」とか「邑」とか「城」とか付加してからに行政単位をでっちあげ

尻に「縣」とか「邑」とか「城」みたいなのが付くのは建前直接支配ののところの謂い

そうでなくって多少お知り合いの外延部のところのは

直接支配もできていないくせに 同規模の土人の巣のサイズのに「國」の看板付加してからに

おことわりもしないでてめえ勝手にでっちあげ

ちなみに「縣」の基本ユニットサイズのは成長したりしてでかくなることもある

すなはち「縣」の基本ユニットサイズのが何個かまとまってなかよししておるのだ

そおゆうのを「統縣」よばわりするのも良くあったケース

土人が強すぎて支配いきとどかなくって寂れてしまったので寂れたのをかき集めて「統縣」ののケースもままあったぽい
368日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:58:47.83
さああ、妄想の「女王国」が一人歩きを始めました
369日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:03:29.03
「女王国」
或る時は小さく
また或る時は大きく
はたしてその実態や、いかに!
370卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/01(土) 23:16:00.52
一行で書けることを、稗箕狐という男は十行費やして書く。しかも一行開けて。
勿体ないという気持ちは無いのだろうか。
無料だから、どれだけスペースを使おうと自分の勝手だ、と思っているのだろうか。
371日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:43:01.68
漢文を読めない奴はつじつまが合わなくなるから女王国を大きくしたり
小さくしたりするんだよ。
372344:2012/09/02(日) 00:39:33.19
   
女王境界 ☜(邪馬台国+投馬國+奴國+不彌國)のひろがりを示す外枠

 南境界 ☜邪馬台国と投馬国の南限 ☜福岡県と熊本県の県境

 東境界 ☜邪馬台国の東限 ☜福岡県と大分県の県境

 北境界 ☜邪馬台国と不彌國の北限 ☜北野平野と筑豊の境界尾根と背振山地

 西境界 ☜奴国の西端 ☜嘉瀬川 or 佐賀平野西端?
373日本@名無史さん:2012/09/02(日) 10:58:50.51
>邪馬台国と投馬国の南限 ☜福岡県と熊本県の県境
邪馬台国と投馬国が北九州にあったとするなら、九州全体で300万ぐらいの
人口を想定しなければいかんね。とても、とてもだろう。
374日本@名無史さん:2012/09/02(日) 11:07:33.56
>>335 :日本@名無史さん:
>違いも説明できないほどに理解していないし
>第一
>途中の狗邪韓国、伊都国に到を使用して
到が最終目的地だから狗邪韓国と伊都国に「到」が使われて当然です。
郡から倭の狗邪韓国迄と倭の狗邪韓国から伊都国迄と
倭で無い領域と倭の領域の2領域を区別して記述されている。
>最終目的地の邪馬台国に至をしていることから
最終目的地を邪馬台国においての記述にはなっていない。

>【最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。】にんて
>アホな主張は成立しないんだよ。
>いつまで生き恥を晒すつもりだ?


375日本@名無史さん:2012/09/02(日) 11:08:27.06
>>348 :日本@名無史さん:
>>336
>最終目的地なんて言ってないぜ。区切りに使うと言っただけだ。
↓は俺の記述だが↑はおれではない。
>>316
【故に、最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。】
最終目的地と意は、「到」から先は反転行程として記述されているからだ。
「到」とあればそれより先への行程はない。
有るのは反転行程だけ。
つまり、「到」の起点迄戻って次の行程がある。
「至」はあくまでも、二点間の行程だけに使われる。
>クズ。

376日本@名無史さん:2012/09/02(日) 11:26:49.90
>>329 :日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:06:14.62
>>327
>だから
>そんな意味があるなら辞書の意味と例文を提示すればよい。
>具体的に文をあげて。
>無いからできないだろうが。
>
http://www.hydcd.com/zidian/hz/1992.htm に
颠倒。通“倒”〖putupsidedown;reverse〗との用法があるな。
377336:2012/09/02(日) 11:33:24.42
>>375
読解力がないみたいだな。316も俺ではないよ。
378日本@名無史さん:2012/09/02(日) 11:56:17.86
>>377 :336:2012/09/02(日) 11:33:24.42
読解力がないみたいだな。

>>336 :日本@名無史さん:
>【最終目的地として「到」を使い「至」と使い分けている。】にんて
>アホな主張は成立しないんだよ。
>最終目的地なんて言ってないぜ。区切りに使うと言っただけだ。

↓は救いようがない誤読だろう。
>韓地の終わりに到、連続式に読む行程の終わりである伊都国に到だ。
>その先は放射式だから、それぞれに至を使っているんだよ。
『その先は放射式だから、』の起点が末廬國ならた多少救われるが、『その先は放射式だから、それぞれに至を使っているんだよ。 』は救いようがないな。
「行」を無視しちゃいかんよ。

救いようがない誤読だ。

379日本@名無史さん:2012/09/02(日) 12:04:31.54
>『その先は放射式だから、』の起点が末廬國ならた多少救われるが、『その先は放射式だから、それぞれに至を使っているんだよ。 』
>は救いようがないな。 「行」を無視しちゃいかんよ。救いようがない誤読だ。
残念ながら、君の読み方はまちがい。放射式で読む学者のほとんどが伊都国を起点に読んでいる。
「行」にこだわり屁理屈を述べても通用しないよ。



380344:2012/09/02(日) 12:09:30.92
>>373
>>邪馬台国と投馬国の南限 ☜福岡県と熊本県の県境
>邪馬台国と投馬国が北九州にあったとするなら、九州全体で300万ぐらいの
>人口を想定しなければいかんね。とても、とてもだろう。

熊本平野+筑紫平野+福岡平野の人口で30万戸150万です。
熊本平野(狗奴國) 5万戸25万人
筑紫平野(邪馬台国+投馬国+奴国) 7万戸+5万戸+2万戸=14万戸70万人
福岡平野(奴国) 4万戸20万人
その他諸国(25ヶ国)合計  7万戸35万人(平均3千戸1.5万人/国)
381日本@名無史さん:2012/09/02(日) 12:09:34.72
>>379 名前:日本@名無史さん :2012/09/02(日) 12:04:31.54
>『その先は放射式だから、』の起点が末廬國ならた多少救われるが、『その先は放射式だから、それぞれに至を使っているんだよ。 』
>は救いようがないな。 「行」を無視しちゃいかんよ。救いようがない誤読だ。
残念ながら、君の読み方はまちがい。放射式で読む学者のほとんどが伊都国を起点に読んでいる。
「行」にこだわり屁理屈を述べても通用しないよ。

学者の論が正しいなら一般大衆は何の苦労もせず
邪馬台国に行き着ける。

『放射式で読む学者のほとんどが伊都国を起点に読んでいる。』
と言ってる学者をここに引っ張り出しておいで。

俺が、彼の間違いをただしてやるから。

学者の太鼓で踊る猿にはなるな。
382日本@名無史さん:2012/09/02(日) 12:16:42.86
>俺が、彼の間違いをただしてやるから。
君にそれだけの理屈があるなら書いてみたらいい。ただ大声で俺の読み方が
正しいって騒ぐだけでは何にもならんよ。
383日本@名無史さん:2012/09/02(日) 12:19:47.14
>>380
300万にすればいいって言うわけではない。九州は今でも1000万ぐらいのものだ。
3世紀に300万の人口はとうてい考えられないと言っているんだよ。
384日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:01:23.91
>>382 名前:日本@名無史さん :2012/09/02(日) 12:16:42.86
>俺が、彼の間違いをただしてやるから。
君にそれだけの理屈があるなら書いてみたらいい。ただ大声で俺の読み方が
正しいって騒ぐだけでは何にもならんよ。

理屈じゃないの。
何を根拠として「行」をどのように解釈するか
という問題です。

その学者は「行」の解釈を怠っているから
伊都国からの放射式うを提案しているのだろう。



385日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:04:14.16
で、君はどう考えてるの?
386日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:13:15.64
>>384
>何を根拠として「行」をどのように解釈するか という問題です。

自説を主張したら良いのに・・・
評論だけ?
だったら外野だ。
387日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:14:11.94
乍行乍止也。——説文解字

廣雅に乍,暂也。とある。亦
暂,不久也。と説文解字にある。
清代段玉裁『說文解字注』ぬは
不久也。今俗語云霎時閨C卽此字也。と。
故に

乍行乍止也。は即行即止也。であるから、
「行」は「止」という記号的語の解釈でいいだろう。


388日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:27:59.66
行くと言うのは日本語。だから、
行くの反語は来る。
中華の去の『反語が来』
日本語の『行く』に相当する語は『去』か『往』です。
389日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:45:10.50
>>366
>それなら「倭国境界」と書くだろうが。それとも倭国とは範囲がちがうのかな?

違うに決まってるだろ。
狗奴国は女王に属していないが倭国。
390日本@名無史さん:2012/09/02(日) 13:51:53.71
>>379
誰が放射式に読んだとしても
放射式は誤読、
391日本@名無史さん:2012/09/02(日) 14:06:17.34
>>390 名前:日本@名無史さ
>>379
誰が放射式に読んだとしても
放射式は誤読、

↓が魏志の正しい行程順序です。
末廬國→伊都國
末廬國→奴國→不彌國
末廬國→投馬國
末廬國→邪馬壹【臺】國
392日本@名無史さん:2012/09/02(日) 15:15:38.34
誤読誤読
393344:2012/09/02(日) 16:19:38.70
>>392
洛陽―從帯方郡
    ⇊(循海岸水行)
   韓国(韓地の倭人小国)
    ⇊(水行到)
   狗邪韓國(韓地倭人の大国 狗邪国)
    ⇊(度至)
   對海國
    ⇊(渡至)
   一大國
    ⇊(渡至)
   末盧國
    ⇊(陸行到)
   伊都國―至奴国
    ⇊(行至)
   不彌國―至投馬國
     └―至邪馬台国
394日本@名無史さん:2012/09/02(日) 17:34:58.04
なんだ? 不彌國起点説かい? 末盧国って言ってなかったか?
395344:2012/09/02(日) 17:38:09.80
>>394
この部分は古田氏と同じだ。
396344:2012/09/02(日) 17:41:13.61
>>394
比定地は古田氏とは異なる。
397日本@名無史さん:2012/09/02(日) 17:54:13.03
漢文の読み方知らん奴のまねをしたって駄目だろが・・・
398344:2012/09/02(日) 18:55:15.65
>>397
7世紀初頭以前の漢文の読み方を知らないのはオマエである。
399日本@名無史さん:2012/09/02(日) 19:09:31.85
この時代の漢文の読み方は、もうすでに失われてしまってるわけだが…
400日本@名無史さん:2012/09/02(日) 19:30:32.72
漢文の読み方は、さほど変化してない。
漢字の読み(発音)は、かなり失われた。
401日本@名無史さん:2012/09/02(日) 21:03:44.30
>>395
古田と同じって古田は末盧国からの放射式だっけか?
402日本@名無史さん:2012/09/02(日) 22:41:25.94
九州説は弱いだろうな
考古学的資料が弱すぎる、とくに南九州説は

倭人伝的には沖縄説になるだろうけど信憑性が、ね

総合的に近畿説優位は変わらなさそうだね
403日本@名無史さん:2012/09/02(日) 22:47:06.72
倭人伝に嘘が在るんだろ。
血統の南誘導は意図的なもんを感じる。
404日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:17:37.06
うん、総合的に見て詐欺の確信犯度は畿内説の圧勝だ。
405日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:24:25.31
畿内説が最も弱いだろ。
船を持っているのにどうして水行を十日でやめて陸行一月もしなきゃならないのか。
水行十日or陸行一月としても畿内説の根拠に使う遺跡所在地まで水行十日だけでは着けないだろ。
陸行二日は要る。
406日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:32:52.99
末盧国から陸行に変えただけで畿内説は困難になる。
東を南に取り違えるか?
畿内説のために伊都国を糸島半島に比定しても沿岸水行なら北寄りになる。
南と取り違えることはかなり困難じゃないか。
407日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:38:05.73
827 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:42:04.65
阿菩大神
>出雲系神話の神。大和(やまと)三山の妻争い神話で、仲裁に出雲から大和へ行く途中、いさかいが終わったことを聞き、播磨(はりま)国揖保(いいぼ)郡上岡の里に鎮座したという。「播磨国風土記」に見える。
http://www.weblio.jp/content/%E9%98%BF%E8%8F%A9%E5%A4%A7%E7%A5%9E

>大和三山(香山、耳成山、畝傍山)があり、その香山と耳成山が畝傍山を巡って恋の争いを始めた。
出雲の阿菩大神は、この三山相争うことを聞き、「これは自分が行って諫めて止めよう」と出向かれた。はるばる播磨の揖保郡に到着の時、
争いは収まったと聞き、大神はせっかくやって来たのにと、「いぼをふった。(不満を言うこと)」。乗ってきた船をそこに覆せ、その上に座ってしまわれた。
http://kamnavi.jp/it/izumo/isaga.htm

これって国譲りの前の話?後の話?
この争いが倭国大乱だったのかな?
408日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:45:28.46
何でもいいから、証拠をでっち上げて自説を押し切ろうとする畿内説。
畿内説を知ることは、詐欺の研究にしかならない。
409日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:47:04.71
末盧國への到着は大友遺跡のあるところの登望駅のところだよ

ここなら古来実績のあるところだし

「濱山海居」で「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之」のの観察に便利だし

出発時には「東南陸行」で「草木茂盛 行不見前人」みたいなルートだし

近くに狼煙上げて出発とかの連絡できる基地とか整備されているし

坂を下りたらこわい狗奴國かすめて船便だせるポートとかあったりするからな

イルカさんが鼻血だしたりのとこのあたりのだぞ
410日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:01:13.76
邪馬台国時代の畿内は何もなかったみたいだな。銅鐸の消滅は3世紀の後半じゃないかな。
銅鐸の消滅時期をはっきりさせる証拠は何かないかな?
411日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:26:13.49
>>銅鐸の消滅時期をはっきりさせる証拠は何かないかな?

畿内の銅鐸消滅の証拠は奈良遺跡
412日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:37:54.17
413日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:47:40.96
奈良が率先して銅鐸が消えてる
414日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:55:48.78
畿内説は難波あたりに邪馬台国を持ってくるべく遺跡遺物を出土させた方が良い。
415日本@名無史さん:2012/09/03(月) 01:14:36.83
>>413
奈良は奈良でも奈良盆地ではない。
畿内で最後に銅鐸が消えたのは、大阪府茨木市の奈良遺跡だ。
それが3世紀の末頃と研究がある。

畿内で最初に銅鐸が消えたのは和泉で、次いで消えたのが奈良盆地である。
畿内では無いが、紀ノ川河口流域はもっと早期に消えたようだ。
近畿で銅鐸が最後4世紀まで残ったのが滋賀県である。
416日本@名無史さん:2012/09/03(月) 07:20:41.12
東奈良遺跡の銅鐸鋳型は前1世紀とか、古いんじゃないか?
3世紀の末頃というのはどんな資料?
417サガミハラハラ:2012/09/03(月) 07:32:58.84
滋賀県の大岩山の銅鐸は、開化天皇の代(256年から271年)に埋納されています。
大岩山は南近江であるから、滋賀県全土で銅鐸が埋納されたのはその後となるが、崇神天皇の代で東日本は
大和の支配下にはいったのであるから、3世紀の末ということになるでしょう。(崇神天皇崩御288年)
418卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/03(月) 09:09:58.51
>開化天皇の代(256年から271年)
>(崇神天皇崩御288年)

この根拠や如何に。
ただの通説か?
419日本@名無史さん:2012/09/03(月) 09:35:02.78
>>410
>邪馬台国時代の畿内は何もなかったみたいだな。

鍵・唐古や池上曽根遺跡のような大規模弥生集落の存在とかはスルー?
420日本@名無史さん:2012/09/03(月) 10:04:03.47
そりゃ、ある程度の人は住んでたろうよ。ただ、それだけのことだ。
421日本@名無史さん:2012/09/03(月) 10:41:31.55
畿内で後漢鏡や貨泉が出土してる時点で
倭国=九州単独説は既に終了してるけどな。
422日本@名無史さん:2012/09/03(月) 11:23:07.51
銅鐸の銅は朝鮮から買ってたんだろう。その時に後漢鏡や貨泉ぐらい手にいれるだろう。
倭国=九州単独説と何も矛盾するところはないよ。
423日本@名無史さん:2012/09/03(月) 11:47:50.53
>>422
これが九州脳炎か、可哀想に‥
424日本@名無史さん:2012/09/03(月) 11:48:54.99
あれ、銅は国内で産出していたとか?
425日本@名無史さん:2012/09/03(月) 12:33:12.60
弥生当時の水銀鉱山は徳島と宇陀だけだし。
426日本@名無史さん:2012/09/03(月) 13:10:26.65
まあ、金印や阿蘇山だけでも九州に決まりだ。
427日本@名無史さん:2012/09/03(月) 14:02:04.47
>>416
東奈良遺跡の銅鐸鋳型が出土した環濠集落内の終焉が3世紀末頃

神戸の高地見張り台が消滅し銅鐸消滅した時期(2世紀)の後に、
東奈良遺跡の終焉が来ている。

東奈良遺跡と会下山遺跡の調査報告書。
畿内の銅鐸消滅時期についての研究があるが、
研究者について今思い出せない。
428日本@名無史さん:2012/09/03(月) 15:00:00.64
>>426
倭人伝には火山の記述がないじゃん。
429日本@名無史さん:2012/09/03(月) 18:07:35.13
隋書が書く倭国は倭人伝と同じだよ。隋書には阿蘇山ありとある。
430日本@名無史さん:2012/09/03(月) 18:11:16.02
銅鐸の最後は突線紐銅鐸が埋められたときでなければならんな。
431日本@名無史さん:2012/09/03(月) 18:12:40.72
隋書
夷人不知里數、但計以日

水行十日陸行一月の伝聞確定だな
432日本@名無史さん:2012/09/03(月) 19:11:00.54
>>429
隋書以前に倭王武の上表文に西の衆夷を成敗したとあるからな。
九州勢力を抑えたからこそ記述できる内容だろう。
433日本@名無史さん:2012/09/03(月) 19:34:46.72
九州西南の国だろ。
近畿などはとっくに九州の配下だ。
434日本@名無史さん:2012/09/03(月) 19:35:47.99
阿蘇山の西つったら、島原か天草か?
435日本@名無史さん:2012/09/03(月) 19:50:21.35
倭王が畿内にいれば何の問題点も無い訳だろw
436日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:09:34.26
記紀に、阿蘇山の国家行事は載ってないなあ。畿内説では説明が無理。
437日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:14:44.13
まあ、山は2000m超えない西日本に対して3000m級がばんばんある畿内以東のほうが高いな
438日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:22:32.33
>>431
倭人伝の記述は実体験だよ。使者は卑弥呼に会っている。
439日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:25:04.32
>>432
衆夷の夷は東夷の夷だよ。自分たちと同じ倭人だということ。
東のことは毛人と言ってるだろ。
440日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:32:20.55
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國

「征」には「(旅をして)行く」という意味もある
441日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:55:45.29
>>438
なら略すはずがない。使者は秀吉の朝鮮征伐のときと同じく、自分が罰されないように
お互いの顔を立てながら、さも仕事を果たしたような書き方をしただけでは?
442日本@名無史さん:2012/09/03(月) 20:57:14.43
秦王国て信濃国かね
443日本@名無史さん:2012/09/03(月) 21:32:28.10
阿蘇山だって熊本の阿蘇とは限らないしな。
浅間山、富士山の可能性があるだろ。
444日本@名無史さん:2012/09/03(月) 21:57:01.62
は?
445日本@名無史さん:2012/09/03(月) 22:01:09.80
例えば丹後にも阿蘇の地名がある。
阿蘇の意味をよく考える事だな。
446日本@名無史さん:2012/09/03(月) 22:54:32.60
>>430
>銅鐸の最後は突線紐銅鐸が埋められたときでなければならんな。

沙穂彦の本拠地にある東奈良遺跡の銅鐸は、埋められること無しに、
垂仁軍の略奪に遭い、鋳潰され、△鏡に再生されたようです。
447日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:02:36.99
>>441
何も略していないよ。詳細に書いているだろ。
448日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:04:28.74
まあ、阿蘇は九州でいんじゃないか?
竹斯国の解釈の難しさからそうした推論をしたのかもしれんが
単純な齟齬だと考えた方が無難だと思う
裴世清らは百済から竹島、耽羅、対馬を経て、東へ壱岐に行ったとあるけど
正確には東南だ。魏志は南と書いてある。感覚的な叙述だったのであり
現代のような地球儀を想定した正確さは期されていなかったと考えた方がよいと思う
竹斯は筑紫だろうけど、壱岐の次はどこへ行くか聞いて、筑紫と答えられたあと
そこは誰が支配しているかとでも聞いたのだろう。
当然当時は大和政権が支配していたのだろうけど、このころはまだ中央集権体制じゃない
連合国家なので、大和政権が支配しているとともに筑紫国の支配下でもある。
そのへんの通訳ミスから記載の誤りがおこったのではないかな
そもそもこの時代は聖徳太子の時代で飛鳥に都があって当然のはずだし
449日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:07:37.03
>>447
略載すとあるけど?
450日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:11:13.85
そう。それが当然のはず。
皆が教科書で習った歴史では。
教科書が当然で思考停止しないのが日本史板。
その当然が覆るかもしれない材料は転がってる。
451日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:13:30.95
その前に可得とあるだろ。
452日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:24:26.70
記紀の伝承のほうが参考に値すると思う
正歳を知らないとしたのも、歴史というものが口承伝話に頼ったものだったからだろう
口承はあてにならないという人がいるかもしれないが、本や筆記のできた後の口承とそれは異なる
インドのバラモン階級や旧約聖書の説話、ケルトのドルイドの民話など昔は特定の階級のものが
口承をすべて暗記して過去の先祖の偉業、伝説を伝えていた。
暦にしても、冬が年に一度だけというのは分かるのだから一年の周期くらいは認識していただろうが
どの草が生えたころにたねもみを水流にさらしてなどの感覚に頼った慣習であったならば
太陽暦や太陰暦に基づいた正確な暦を用いないでもよい。
その感覚的な伝承、習俗を国家体制の変更で、シナに習って書にしたためることにしたとき
正確な年代を記述しなければなくなった。それゆえのゆがみなのだと思うのだが。
453日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:28:37.18
>>451
なら里程で書けばよかったじゃない
454日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:31:39.13
一度歩いただけで里程を書けるわけがない
その当時なりの簡易な測量でもしながら歩いていたならまだしも
455日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:43:35.28
ふつう、里程というのは自分の足で換算するもんだろ
456サガミハラハラ:2012/09/04(火) 00:07:15.15
>>418
この年代は私が見つけ出した日本書紀紀年法によって、編み出しました。
倍暦と虚構年(年代を調整するために、実年代に虚構年を加減したもの)をくみあわせて、年代がしるされていたのです。
よって普通年に換算するのに、単純に2分の1にすればとはならなかったのです。
457太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/04(火) 11:02:06.41
宿主空年とサガミハラハラ虚構年とはどう違うんだ?
458日本@名無史さん:2012/09/04(火) 18:18:05.44
>>449
略載ってどういう意味か知ってる?
459日本@名無史さん:2012/09/04(火) 21:37:45.32
460日本@名無史さん:2012/09/04(火) 21:39:34.51
経路上の主だった国を記載したってことになるな
461名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/04(火) 22:00:35.78
九州説でも奴国は博多ではなく、佐賀平野に位置づけ、その後
有明海を水行し、九州中部を横断し宮崎に至る邪馬台国宮崎平野説。
この地は神話天照大神があり西暦240年頃の卑弥呼に比定できる
との推論には、今までの邪馬台国九州説にはない目新しさがある。
462日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:28:38.08
そこまではいい線行っているんだが、西都原馬鹿がすべてを壊す。
463日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:36:34.23
水行のあと、どこに上陸するかによっても変わるが、
宇土半島あたりだと、陸行が水行の倍くらいになる。

水行の距離解釈がかなり恣意的になるな。
まあ、理屈をつけようとおもえば、どううにでも付けられるが。
464日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:26:18.48
略載

要点だけを記載すること。簡略に書き記すこと。
465日本@名無史さん:2012/09/05(水) 06:50:43.76
要するに省いてるんだろ
466日本@名無史さん:2012/09/05(水) 10:09:07.28
逆だろ
467日本@名無史さん:2012/09/05(水) 11:33:44.42
略載できたと略載するに止めたとは意味が全くちがってくるのだよ。
そこが分からず、略の文字にだけ飛びつくのは浅はかということだ。
468日本@名無史さん:2012/09/05(水) 11:38:07.69
抽象するというのは同時に捨象しているのだよ、そんな当たり前の事も理解できないのかこのスレは
469日本@名無史さん:2012/09/05(水) 11:51:03.86
自女王國以北其戸數道里可得略載

「戸数・道里を省きました」ではなく「戸数・道里を記載できました」って意味だね
470日本@名無史さん:2012/09/05(水) 11:55:08.53
略したのは陳寿か使者か
陳寿であっても使者であっても、なぜ不彌国からを略したのかその理由が不明
考えられるのが、使者が卑弥呼に会わなかったのを口を合わせて会ったことにしたため
471日本@名無史さん:2012/09/05(水) 12:33:54.70
邪馬台国までは略して無いじゃん
472日本@名無史さん:2012/09/05(水) 13:55:18.95
>>470
2ch以下
473日本@名無史さん:2012/09/05(水) 18:12:51.79
>>470
2chデビューが早過ぎだ。
474日本@名無史さん:2012/09/05(水) 18:34:36.56
>>470
>なぜ不彌国からを略したのかその理由が不明

理由は不明でない。

郡から不彌國までの行程距離合計が万二千餘里。
郡から女王國まで万二千餘里。
郡から女王國までの行程は不彌國で終わる。
故に、不彌國が女王國の中の一国。

行程であることを示す文には、「移動の動詞+至(到)」の構文が必ずある。
移動の動詞がなく「至」のみの文は、位置関係を示す文である。

不彌國の先にある投馬國も邪馬壹國も女王國の中の一国。
卑弥呼は女王國の中の邪馬壹國に都しているのだ。
475日本@名無史さん:2012/09/05(水) 18:45:00.40
のこりの七千里は?
476日本@名無史さん:2012/09/05(水) 18:51:35.09
てゆうか「不彌国からを略した」って意味不明
不彌国以降も邪馬台国までは戸数や道程の記載があるのだが
477日本@名無史さん:2012/09/05(水) 19:15:41.12
不彌国から南へ水行十日陸行一月で邪馬台国
その後、邪馬台国以北の数十か国の名前が挙げられているだろ
その方角里程が省略されている
478日本@名無史さん:2012/09/05(水) 19:28:16.36
「略載」を「記載を省略した」(つまり記載してない)って意味だと勘違いしてない?
「略載」は「簡略に書き書き記した」(つまり記載した)って意味だよ
479日本@名無史さん:2012/09/05(水) 20:33:24.15
何んか、邪馬台国基礎講座って感じ! (大笑)
480日本@名無史さん:2012/09/05(水) 22:42:47.20
>>478
いっしょなんだよ、馬鹿が
要は重要部分が捨象されてんだからよ
481日本@名無史さん:2012/09/05(水) 23:16:59.23
>>480
いっしょじゃないよ
「略載した」とあるのは「戸數道里」
「戸數道里を記載しなかった」と「戸數道里を記載した」では意味が正反対になってしまうでしょ
482名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/05(水) 23:33:58.63
邪馬台国の宮崎・日向説で面白いと思うのは、
魏志倭人伝の奴国を佐賀平野とし、博多近辺に
比定されている奴国は金印の時代の奴と推定し、
伊都国、奴国の福岡近辺を否定したことと、
倭人伝記述を曲解することなく数理考古学、
宇宙考古学をベースに邪馬台国までの旅程を
素直に推定した思われることだ。

483日本@名無史さん:2012/09/06(木) 00:00:00.69
>博多近辺に比定されている奴国は金印の時代の奴と推定し、
いろいろな可能性が考えられるよ。筑後川流域の奴国の領土が玄界灘沿岸まで
及んでいたと考えることもできる。また、奴国が他の国と戦って劣勢になった
ときに奴国外へ金印等を持ち出して敵が迫ってきたために隠したとも考えられる。
484日本@名無史さん:2012/09/06(木) 00:14:29.88
金印が志賀島から出土したのは事実。
その金印は、西暦57年に光武帝が与えたと後漢書に書かれているもので
あることもまずは間違いない。

となると、後漢書の倭奴国は、福岡市近辺である可能性が高い?
ならば、倭人伝の奴国を佐賀平野に比定すると、後漢書の倭奴国とは別の国?

倭奴国を佐賀平野とし、帥升の国に攻められて北へ逃げ、志賀島に辿り着いたと
考えることも可能かも。

と書いて、ふと>>483を見ると、似たようなことが書いてあるのに気づいた。
485日本@名無史さん:2012/09/06(木) 00:52:56.89
ああだこうだと想像を巡らしても永遠に同じところを巡るだけ
江戸時代から変わらない
486日本@名無史さん:2012/09/06(木) 01:07:30.41
隋書によれば、対馬壱岐間を東といい、魏志によれば、南という
どっちかが誤りであるにしても、史書は天文学の知見のある中国人が書いたから間違うはずがない、という思い込みが
嘘だったことは明白だ。
487日本@名無史さん:2012/09/06(木) 04:09:06.92
>どっちかが誤りであるにしても、
どちらを誤りとすべきか、決められないようだね。
言い換えれば、どちらも正しいと言えるということだ。
488日本@名無史さん:2012/09/06(木) 08:14:41.07
>>486
>どっちかが誤りであるにしても
>嘘だったことは明白だ。
>>487
>言い換えれば、どちらも正しいと言えるということだ。

嘘をつかなくても、言い換えなくても、魏志も隋書も正しい。

釜山、巨済島方面(狗邪韓國)から来ると、壱岐は対馬の南(南東)になるが、
珍島(竹島)、済州島(耽羅國)方面から来ると、壱岐は対馬の東(南東)になる。
489卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 08:46:35.90
>金印が志賀島から出土したのは事実。

そんな事実は何処にもない。
490日本@名無史さん:2012/09/06(木) 11:31:24.09
畿内説で飯を食っている人間以外にとっては、事実だろ。
491日本@名無史さん:2012/09/06(木) 11:39:36.91
九州説でも、「なんであんなところに?」って首をひねる場所だが、
卑弥呼以前の時代だから、逃走して隠さなければならない
政変みたいなものがあったんだろうな。
492日本@名無史さん:2012/09/06(木) 17:32:56.75
そういうのをご都合主義という
493卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 18:22:38.29
君らは無知だな。
奉行所の役人が、志賀島からこんなのが出ました、と藩に届けただけだ。
その役人と、藩校教授と、奉行所に届けるよう勧めたとされる大商人は友人で、
役人と藩校教授は親戚だったのだ。

福岡藩は出土地を調査した形跡すらないそうだ。
昭和以降、何回か本格的な調査が行われているが、
どこから金印が出土したのかは結局分らずじまいだったのだ。
分らないが、記念館を建てれば観光客が呼べるというので、記念館を建てたのだろう。
494日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:27:16.34
金印って要するに、交易の時の時に誤魔化されないように目録が本物だって証明するために押すものでしょ?
そうなると金印は積出港で管理するのが当然だと思うんだが
495日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:27:41.30
でっ
496日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:49:02.83
>>493
じゃあ、支那から出た金印との一致は偶然、あるいは不逞支那人が日本の金印をまねて偽造した疑いがでてくるな
497卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 18:49:47.33
中国の金印はいざ知らず、ネット三国史を読むと、
単なるお祝いの品として妃などに金印を与えている。

中国の場合も、学者が想定しているような実用品ではなく、
単なる贈答品だった可能性がある。
498日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:55:08.82
>>494
目録ではなく、親書に押すものだと思われ
貿易というのは、10年に一度でもすればよいほうで民間なら以前からされている
おそらく、向こうに留学したり、高度な技術をとりいれるためにされる公的な使者につけた
親書に押される印だった。
それにしても、文字をよむことも書けない王がもってても意味ないし
簡便のため窓口だった博多に金印があったと考えても不思議じゃない
499卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 18:56:30.94
>>496
私をからかって書いているのだろうが、支那人がそんなものを偽造する必要はない。
上の三人の共謀である。

中国の印鑑の見本帳が出回っていたから、サイズなどは分かる。
鈕の形が分らずに苦労したようで、蛇なのか何なのか分らない不細工な仕上げになったようだ。
500日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:56:39.35
可能性か・・・
可能性だけならどんな突っ頓狂な仮説もあり得ることになるからなw
明確に否定できなければ事実とみなす、こんな朝鮮脳にはほんと困る
501日本@名無史さん:2012/09/06(木) 19:01:21.75
>>497
印綬にそれぞれ等級があって、それがステータスの役割を果たしている
贈答という名のランク付け
しかも、内臣の場合、封じられていないかぎり、嫡男をとどけていないと自分我死んだら
身分とりあげられる
502日本@名無史さん:2012/09/06(木) 22:13:11.02
支那から出た金印て、ごく最近発見された有名な奴だろ?
503日本@名無史さん:2012/09/06(木) 22:22:53.62
最近といえば最近だが、1956年だな
504卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 22:48:12.00
その金印も、実は怪しいのだ。というのは、
遺跡の中心から遥かに離れた、何にもないところで、
作業員がひょっくり土の中から見つけた、ということになっているのだそうだ。
しかも、土の中に埋もれていたにしては、
志賀島の金印と同じで、傷も摩耗も殆んどないのだ。
505日本@名無史さん:2012/09/06(木) 22:58:51.60
こんなもんわざわざ偽造するかよ
506卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 23:03:12.94
そんなことはない。観光資源になる。
中国が偽造大国であることは君らも認めている通りだ。
なにしろ遺跡そのものも偽造する国だ。
507日本@名無史さん:2012/09/06(木) 23:03:27.98
朝鮮は、紛い物の読みすぎ
学術書を読みなさい
508日本@名無史さん:2012/09/06(木) 23:05:15.70
純金であの大きさなら、、偽造なんてする金持ちはそういない。
それに、金の成分を分析すれば、最近鋳造された18金だとわかってしまうではないか。
慶長小判とかも同じだ。
アルキメデスの法則で、純金だと分かれば、まず、本物だと見ていい。
509卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 23:09:59.35
>>508
どちらのことを言っているのかな? 志賀島の金印か?
志賀島の金印なら、今の価格で25万円くらいでできるそうだ。
大商人にとってははした金みたいなもの。
510日本@名無史さん:2012/09/07(金) 00:21:50.93
当時の農民や藩士に、今日の真贋判定に耐える金印の偽造などできない。
511日本@名無史さん:2012/09/07(金) 00:24:33.78
金印は封泥に押すんだろ
アホばっか
512日本@名無史さん:2012/09/07(金) 00:40:18.04
>>504>>506
ネットでこういう書き込みしてるやつってチョンだとしか思えん
頭悪いし、勉強もしてない
人間のクズみたいなやつらが議論をさせないようにしてやがる
513日本@名無史さん:2012/09/07(金) 01:33:51.06
うーん、九州説はロマンあるけどなぁ

やっぱ畿内じゃね
倭人伝では、当時畿内では九州を遥かに上回る都市があったのに触れないわけないよな
随書でも東倭・大和を、魏書で言う邪馬台国なりといってるわけだし
北九州にあったクニは卑弥呼の頃はすでに畿内統治下にあって外国との交流の窓口になってたと見るべき

ただマキムク遺跡は突如現れた計画都市と見られるらしいな
九州のやつらが畿内に移動し、霊力のある三輪山付近に邪馬台国を造ったと
史実性は全くないが、ロマンがある…
ただ畿内から全国に広がっていった例は出土品から確認されてるわけで、やっぱ畿内説かな
514日本@名無史さん:2012/09/07(金) 02:38:17.00
畿内は銅鐸人の国で、3世紀に滅んでるでしょ。
515日本@名無史さん:2012/09/07(金) 06:00:05.43
>随書でも東倭・大和を、魏書で言う邪馬台国なりといってるわけだし
全くの誤読。隋書がいうのは、隋使が訪ねた先は魏書で言う邪馬台国だというだけ。
訪ねた先が大和ではない。
@ 倭王は推古天皇ではなく男王。
A 日本書紀が隋使訪問を裏付けているようにみえるが、わざと大唐の使者と書き、
 出迎えの飾り馬の頭数をちがえるなどずい、よく見ると隋書と異なることを書く。
B 隋書は九州よりも東は倭の付庸国
まる


516日本@名無史さん:2012/09/07(金) 06:01:38.45
>随書でも東倭・大和を、魏書で言う邪馬台国なりといってるわけだし
全くの誤読。隋書がいうのは、隋使が訪ねた先は魏書で言う邪馬台国だというだけ。
訪ねた先が大和ではない。
@ 倭王は推古天皇ではなく男王。
A 日本書紀が隋使訪問を裏付けているようにみえるが、わざと大唐の使者と書き、
 出迎えの飾り馬の頭数をちがえるなどずい、よく見ると隋書と異なることを書く。
B 隋書は九州よりも東は倭の付庸国(植民地)と明記している。

517日本@名無史さん:2012/09/07(金) 06:37:11.50
>>514
>畿内は銅鐸人の国で、3世紀に滅んでるでしょ。

畿内の銅鐸人の国は、3世紀後期、崇仁、垂仁によって滅ぼされました。

@山城祝園の埴安彦、埴安姫
A東部摂津奈良の沙穂彦、沙穂姫 
518卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 08:48:54.11
>>510-512
君は何も知らないな。当時日本一の金細工師といわれた男とコンタクトがあったのだ。
金印なんて、金さえ出せば、簡単に作れるのである。
農民や藩士が作るわけではない。
>>511
>金印は封泥に押すんだろ
そんな証拠がどこかにあるか?
学者がそう言っているからといって簡単に信じちゃいかんよ。
君らは学者の本に書いてあることはみんな真実だとでも思っているのか。
>>512
よく考えてみなさい。千年以上前の金印が、古墳でもなく遺跡でもないところの土の中から、
ひょっくり現れるなんてことが、あるわけないのだ。
志賀島の金印は偽物で、中国は、それをヒントにして、自分たちも偽造したのだろう。
ろくに金印のことも調べないで、素人意見を述べない方がいいぞ。

大体、君らは考古学にはやたら強い興味を示し、知識もあるのに、
どうして金印にそう無関心なのか、それが解せない。
あの金印は偽物だと説いた学者はたくさんいるのに。
519日本@名無史さん:2012/09/07(金) 08:49:42.47
>>516
ずいの頃は磐井の乱以降だろ
シラギと組んでいたという
こいつらの勢力が邪馬台国とは考えにくいな
謀反が起きたらびっくりするくらい北九州は大和の支配下にあったんじゃないの?

しかもじゃあどこが魏書の言う邪馬台国なんだよって話
素直にずい書よむのが自然なんじゃね?

ガラケーがずい変換してくれなくてスマン
520日本@名無史さん:2012/09/07(金) 08:50:50.88
>>516
倭国の中心が九州ではなく畿内、阿波なだけですよ。
521日本@名無史さん:2012/09/07(金) 09:04:57.66
>>518
紫綬は王朝が変わる度に返還されていたとか
奴が所持中に滅ぼされたなら合点がいくよ
しんぎわおう印も返還された可能性が高いとのことだ
かんのなのわこくおう印はじつは委奴=イト国なんて説もありロマンだわ
522日本@名無史さん:2012/09/07(金) 09:13:22.77
江戸時代に金印を偽造する必要性が全くない
ファンタジーと学問をごっちゃにしちゃいかんよ
523卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 09:20:46.04
>>522
それを素人意見というのだ。
当時の福岡藩は藩校が二校もあるという特殊な藩だったのだ。
企んだのは藩校教授。名誉と立身出世が得られる。

三浦祐之「金印偽造事件」を読めば分かる。
ごちゃごちゃ言わずに読めばいいのだ。
524卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 09:27:45.93
君らは知らないだろうが、金印は二つ作られていたようなのだ。
ある学者が別の学者に、こういう金印が出た、と押印した文書を送っているのだが、
その押印された印影が、現在知られているものとは、少し違っているのだ。
525日本@名無史さん:2012/09/07(金) 09:59:26.97
ダボハゼのように与太話に食い付くのもどうかと
526名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/07(金) 10:00:57.99
ここで話題にしている、金印の件は月への有人着陸を、あれはやらせで
NASAの陰謀説と同類の発想だね。
東京スポーツ的だよな。
527日本@名無史さん:2012/09/07(金) 10:18:58.41
卑弥呼=日巫女、日御子=天照の使い、天照の子
日の使いだの、日の子だのだと良い気分しないから中国では卑弥呼って字を使われた。
こんな妄想が頭から離れない。
528日本@名無史さん:2012/09/07(金) 16:07:45.32
>>523-524

オカルト談義や小説談義はそこまでだ。
529卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 16:50:59.48
>>525-528(527は除く)
君らは歴史を論じる資格はまったくない。
いますぐ邪馬台国論争から手を引くべきだ。
金印偽物説は昔からあるのに、それを検証しようともしないで、
一方的にあれは本物だと決めつけている、
ちょうど、楽浪郡や帯方郡が朝鮮半島にあったと決めつけているのと同じ態度だ。
君らには真面目さがない。ふざけている。チンピラ、ゴロツキと変わりがない。
530日本@名無史さん:2012/09/07(金) 16:55:19.78
>金印偽物説は昔からあるのに、
いつの時代でも変な奴はいるよ。
531卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 17:22:05.28
>>530
どうして君はそんなに自信があるんだ?
金印が本物か偽物かについて徹底的に調べたことがあるのか?

君らと話して感じるのは、君らが、楽浪郡や帯方郡の位置について、
また、金印の真贋について、これまで何の関心もなく、たいして調べたこともない、ということだ。
それは君らの投稿を読めはすぐに分かるのだ。

私が要求しているのは、金印偽造説の正しさを信じろということではない。
もう少し真面目に、真剣に、この問題と取り組んでくれ、ということだ。
もう少し真面目になってほしいのである。
こちらが真剣に書いているのに、一言の下に否定されると腹が立つのである。
532日本@名無史さん:2012/09/07(金) 17:23:57.29
マジレスすると
あの金印は考古学的な出土物としては扱うのが難しいものだ
なぜなら出土した場所も遺跡も厳密には確定できていないし
発見者などの出土状況も不確かな部分があるからだ
これは近代の日田の伝ダンワラ古墳出土とされる金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡などと同じ
だから印そのものの外形や成分、刻印法などをみて
後漢代のものといえるかを判断しなくてはならない

533日本@名無史さん:2012/09/07(金) 18:16:30.90
出土した場所とか不明にしちゃうのは佐賀県の得意技みたいな
534日本@名無史さん:2012/09/07(金) 18:38:15.48
福岡県じゃね?
535日本@名無史さん:2012/09/07(金) 18:42:55.20
出土状況が不確かなものは、極端なことを言えば
日清・日華・日中戦争のどさくさの間に大陸から持ち出されたとか
好事家が金で買ったとかの疑いをぬぐい去れんのだな
536日本@名無史さん:2012/09/07(金) 18:43:47.42
つーか、江戸時代で、後漢時代の寸法や印綬の形状を想像することは不可能
537ローガン:2012/09/07(金) 18:49:43.49
>>518:卑弥呼は朝鮮にいた
横失礼。
>>511
>金印は封泥に押すんだろ
そんな証拠がどこかにあるか?」

貴方が書類に捺す印は陽刻でしょ? 金印は陰刻。書簡をしばる紐に付けた封泥に捺すもの。常識。
538卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 19:03:30.09
>>536
そんなことはない。ちゃんと中国の印の見本帳が出回っていて、サイズも分かっていたのだ。
獣の鈕を付けることも分かっていた。ただ具体的な形状が分らなかったので苦労したようだ。
とにかく江戸時代の文化水準をバカにしてはいかんぞ。
>>537
封泥に陰刻の印を押すのは常識かもしれないが、
金印をそんな事務的な実用品として使ったかは疑問なのである。
封泥に押せば汚れるだろう。金印をそんなことに使って汚すとは思えない。
539日本@名無史さん:2012/09/07(金) 19:09:20.50
「集古印譜」などを見て漢代の一寸を推定することができる可能性は
江戸時代でもあったかもな
ただ蛇鈕の形を推定するのはかなり難しそうだが

倭国側から封泥に印を押して中国や帯方郡に送ったことがあるか
どうかは疑問があるな
540日本@名無史さん:2012/09/07(金) 20:54:24.87
金印の成分分析を、どうして江戸時代の農家や藩士が知ってるんだ?
541日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:10:15.61
本居宣長が絡んだ事象は全て疑っている。
きっかけは「つぎのう山背」の「つぎのう」の解釈。
彼からは現在の韓国人のようなウリナラファンタジーを感じる。
542日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:11:25.72
三浦佑之の金印偽造事件は読んだが、面白読み物といった体裁だな
偽造についての決定的証拠があるわけでもなく
すべて反論ができそうな状況証拠ばかりだな
543日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:14:32.94
本居ら国学者のやったことは現在の九州王朝説と深いつながりがあるんだな
皮肉なことに
544日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:31:14.09
まあ檀君神話も後世の偽造だけどな
帝釈天が出てくるからな
545日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:44:27.96
>>538
そんなものがあるなら出してみろよw
真贋はどうやって確かめたw
つっこみどころが多すぎるわけだが
546卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 22:07:41.15
>>545
>そんなもの
が何を指しているのか不明だから答えようがない。
中国の印の見本帳のことか?
>>539が上げている「集古印譜」のようなものだよ。

そんなことより、前にも書いたが、奴国は倭の極南界ではないし、
倭王ではない倭奴国の王に金印を与えるはずはないのだから、
偽物に決まっているのである。第一、金印を与えたとはどこにも書かれていない。

もしあの金印を本物と認めるなら、博多は日本の極南界だと認めるのだな?
そうなると邪馬台国福岡説しか成立しないが、それでもいいのだな?
547日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:22:10.18
>>546
だから、それを江戸時代の庶民が手に入れてる確証は?
当然、日本からそういう資料がふつうにでてきてるんだよな?
548卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 22:27:27.86
>>547
>それ
とは「集古印譜」のようなものか?
出回っていたんだよ。学者だから簡単に入手できるよ。
549日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:36:57.44
藤貞幹が著書でふれている「宣和集古印史」は見てた可能性があるだろうな
ちなみにこれは偽書で「親魏倭王」の印影まであるwww

550日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:42:35.15
いずれ金印は考古学的な出土物とは認めにくいという
レスの意味を理解してないやつが多いな
金印は遺跡に密封されて長期間を経ていることが確認されたものではないから
その真偽はともかくいつの時代に誰が志賀島に置いたのかもわからない
551日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:43:08.99
へー、じゃあ今どこに所蔵されてんだよ
552日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:44:09.16
>>551
何が?
553日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:47:05.22
>>550
隠されていたという意味で考古学の研究対象として限界にあるのは致し方ないが
蓋然性として疑うのは穿った見方だ
554日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:48:17.63
>>552
出回ってたららしいからさ
555日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:56:43.71
>>554
大庭脩の親魏倭王」という本によれば
寛政の期にに出た、藤貞幹の「好古日録」に「親魏倭王」印の印影が「漢委奴国王」に並べて
載ってあり、これはは「宣伝和集古印史」からの転載で大庭によればこれは偽書で偽印
金印関係者の亀井南冥が見た可能性はある

>蓋然性として疑うのは穿った見方だ

これは考古学の範囲ではなく篆刻史とか印章史の分野というしかないな
真偽に関しては俺は本物だと思うけどね


556日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:01:54.35
三浦佑之の本は面白読み物の域を出ない
本人もそのつもりで書いてるんじゃないか
あれを読んでまにうけるやつはどうかしている
557日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:01:55.89
>>546 出鱈目野郎
>もしあの金印を本物と認めるなら、博多は日本の極南界だと認めるのだな?

言葉をすりかえるな。すりかえると意味が変わる。
博多は日本の極南界ではなく、
博多は倭の極南界である。

ちなみに、
半島南岸は倭の極北界である。
558卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 23:09:10.96
>>557
プッ、そうか、博多は倭の極南界で、半島南岸は倭の極北界なのだな。
そうすると倭とは半島南岸から博多まで、なのだな。
そうするとそこに邪馬台国を始めとする三十か国が犇めいていたのだなw

初めて聞く新説だ。いや〜、このスレは勉強になるな〜www
559日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:10:50.38
>>546 思い込み野郎
>そうなると邪馬台国福岡説しか成立しないが、それでもいいのだな?

倭奴國福岡平野説が成立するが、
邪馬台国筑紫平野説は成立するぞ。
560日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:21:01.69
>>558 頓珍漢野郎

博多が倭の極南界だったのは後漢代である。原文をよく読め!
561日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:26:06.71
>>558 朝鮮
>初めて聞く新説だ。

一般的な解釈だろう。
渤海湾〜韓国南部〜博多湾沿岸〜筑紫平野と
中国側の「倭」に対する、認識の広がりの変化だろう。
頭、相当悪いな。
562日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:41:51.61
偽造印だったら「漢委奴國王」じゃなく後漢書の記述通りに「漢倭奴國王」にするだろう
563卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 23:43:23.73
>>559
奴国が筑紫平野だとは知らなかったw
>>560-561
そうか、後漢代には博多が極南界だったのに、
魏代には倭が九州一体や大和にまで広がったのか。
えらい広がりようだなw
あっ、君らにとっては大和は倭ではなかったのだな、ごめんごめんwww
564日本@名無史さん:2012/09/07(金) 23:46:39.51
>>562
素晴らしい
明快なお答え
2chには、勿体ない
565卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/08(土) 00:12:42.82
>>564
君はよほどの初心者だな。
>>562
の書いてることなどとっくの昔から議論されてるよ。
566卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/08(土) 00:18:03.44
大体、倭奴国の位置など中国の皇帝が知るはずはないから、
倭奴国が奴国の極南界だということは、倭奴国の使者が、
「倭奴国は倭の極南界にあります」と答えたから分ったことなのである。

だから中国の、倭に対する認識の変遷などとは何の関係もないのだ。
>>561の書いてることは論理のすりかえである。
567日本@名無史さん:2012/09/08(土) 00:22:19.24
これは三段読み問題ともからんでいるからな
568日本@名無史さん:2012/09/08(土) 00:26:47.78
>>565
で、偽造するに当たり「倭」を「委」にした理由は?
569日本@名無史さん:2012/09/08(土) 00:35:30.52
【委する】
1 まかせる。委任する。「処理は会長に―・する」
2 かまわないで、そのままにしておき、成り行きにまかせる。「わが身を運命に―・する」
3 捨てる。「栄光を泥土に―・する」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/11684/m0u/

この場合の意味はどれだろう?

委した土地に人(中国人)が足を踏み入れたから倭
570日本@名無史さん:2012/09/08(土) 00:40:34.52
大和は倭ではないよ倭種の国だよ
571日本@名無史さん:2012/09/08(土) 01:00:08.71
つーかこれ
ホントに漢の委(倭)の奴国と読むんかいな
572日本@名無史さん:2012/09/08(土) 01:00:10.50
「漢委奴國王」の「委」は「如墨委面」の「委」だよ。
573日本@名無史さん:2012/09/08(土) 01:11:32.27
「委奴國」は「イト國」=「倭都」「伊覩」「伊斗」「怡土」「逸都」國
574日本@名無史さん:2012/09/08(土) 08:08:06.63
「委奴國」は磐井国とみるべきなんじゃないのか?
有明海周辺こそ邪馬台国だろう?
575日本@名無史さん:2012/09/08(土) 08:43:43.85
>>674
時代が違う
「委奴國」は1C〜2C
磐井の倭國は6C
576日本@名無史さん:2012/09/08(土) 17:03:47.71
どう考えても奈良時代以前の京都は豊前の京都のことだよね
こんなこと素人の俺でも記紀と中国歴史書と偽書()のホツマツタエと万葉集を合わせて読めば分かるわ
つーか邪馬台国とかいう国はどこに記述されてんだよ
勝手に作りだしてんじゃねーぞマジデ
学会だかなんだか知らんけど、ちゃんと教育しろよ
韓国の糞みたいな歴史教育と変わらんぞ
577日本@名無史さん:2012/09/08(土) 19:40:57.33
そもそも畿内の「ヤマト」地名はが、6世紀以前には存在しないし。
578日本@名無史さん:2012/09/08(土) 22:05:16.29
奈良盆地にあるだろ東南部
579日本@名無史さん:2012/09/08(土) 22:40:24.75
弥生時代の奈良盆地東南部に「ヤマト」地名があったって、どこに証拠があるんだよ。
580日本@名無史さん:2012/09/08(土) 23:49:49.83
その一帯はヤマトとよばれていたらしぞ、で、古墳時代、漢字の流入があって倭(わ)を(やまと)とあてられた
次第に広がりを持たせながらだ

ソースはWikiてへぺろ
581日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:24:13.80
>ソースはWikiてへぺろ
根拠がないもんだからメロメロになってるな。
582日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:40:29.12
ソースは魏志倭人伝ってのも胡散臭くはある
583ローガン:2012/09/09(日) 01:09:58.59
>>579
>弥生時代の奈良盆地東南部に「ヤマト」地名があったって、どこに証拠があるんだよ。

弥生時代の地名の証拠かあ。証拠はないなあ。どこであれ証拠なんか無いように思うが…
では参考までに、貴方の比定地に纏わる「弥生時代の証拠」を教えて。
地名の「弥生時代の証拠」とか、興味深いし。是非教えて貰いたい。

ただ、証拠の明示無ければ>>579を書いた本人が、笑いものになるのは忘れないでね。

追加で…
その「証拠」と共に、>>579云うところの「弥生時代」とは西暦何年頃までを云うのか、を付け加えて貰うと理解し易いかもしれない。


584日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:35:05.39
徹底的に知名にこだわっているな。地名にこだわったって無駄だと言ってるのだが
理解できないらしい。
585日本@名無史さん:2012/09/09(日) 08:21:33.79
畿内のヤマトが七世紀以降の地名だと断定するのも
結局妄想でしかないのにw
当然九州からの地名移転説なんて全く根拠がない妄言。
586日本@名無史さん:2012/09/09(日) 08:35:29.78

ひとのまとまった移動に伴って地名が移動しちゃうってのは

こいつは古今東西よくあるどこでもみられるイベントだ罠


我を張って無駄に山門って表示しないで

読めるわけもない大和の表示部使用してからに

無理やりヤマトって読ませてもとのと区別しているところのが

ちょこっと良心的でややエロかったよな
587日本@名無史さん:2012/09/09(日) 08:41:47.62
邪馬台は大和ではなく山田に転換しとるけどな。
588日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:00:31.08
>>585 奈良県のヤマトは最初の移住者であるイワレヒコの命の故郷だったのです。かれは、新天地に故郷のナをつけたのです。
このようなことは古今東西一般におこなわれていたことであり、北海道にいくと、本土地名がわんさかとあります。
アメリカやオーストラリアでも、故郷の地名だらけですよ。
ちなみに神武の故郷は福岡県福岡市西区の室見川流域であり、そこは、中世には山門庄がおかれたところであり、現在でも下山門という駅があります。
神武が宮崎県出身というのは書紀の編者の誤解です。
589日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:07:51.93
>>583

こりゃまた、ローガンらしい屁理屈。
畿内の地名に和とか倭とあれば、ぜんぶヤマトと読ませたい
詐欺畿内説らしい言いぐさだ。
大きな変化のない場所で、8世紀あたりの字地名等にみられる
地名は、古来からある地名だと推定できるわけさ。
これは、弥生時代を西暦何年何月何日何時何秒までと決める
筋合いのものではないことが分かるよね。
590日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:14:55.54
豊の国とは今の豊前・豊後だろう?
女王のが暮らす邪馬台国は、別府あたりじゃないのか?
591日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:16:58.53
イヨなら伊予になるんじゃね?
592日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:19:05.49
>>589
>大きな変化のない場所で、8世紀あたりの字地名等にみられる
地名は、古来からある地名だと推定できるわけさ。

じゃ、北部九州は大半後付けの知名だという事になるぞ。
593日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:26:10.13
>>589
福岡は岡山から地名持ってきてるぞw
つまり九州は他地区も中央からの移転だよ。
594ローガン:2012/09/09(日) 10:00:42.65
>>589
>こりゃまた、ローガンらしい屁理屈。

そう。ありがとう。

>畿内の地名に和とか倭とあれば、ぜんぶヤマトと読ませたい詐欺畿内説らしい言いぐさだ。

城下郡 大和(於保夜末斗)倭名抄の編者も「詐欺畿内説」って事か…。

>大きな変化のない場所で、8世紀あたりの字地名等にみられる地名は、古来からある地名だと推定できるわけさ。

そう、にもかかわらず「弥生時代の証拠」とやらを求める、その神経を疑う。

>これは、弥生時代を西暦何年何月何日何時何秒までと決める筋合いのものではない

だから、ひょっとしたら弥生時代と云う区分が 常人とかけ離れてるかもしれないと思い、質問したんだ。
595日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:10:05.86
よくもまあ懲りずに毎日毎日結論など絶対に出ない
不毛なことしてるなwほとんど妄想ばかりだしww
596日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:29:11.69
東漢氏とかいてヤマトのアヤと読ましてるだろ。
ヤマトには東の意味も持たせてある。

これは河内の漢氏に対して東(ヤマト)の漢という意味でもあり、
九州には関係ない話だろう。
597日本@名無史さん:2012/09/09(日) 11:26:12.46
>>596
それは大分あとの話
摂津にいたのを西、大和にいたのを東としたらしい
wikiによるとなw
598日本@名無史さん:2012/09/09(日) 11:27:51.65
西漢と書いてかわちのあや、だった、摂津じゃなくて河内だな
599日本@名無史さん:2012/09/09(日) 12:35:53.98
だから何なの?って話ばっかだな
600日本@名無史さん:2012/09/09(日) 12:56:34.59
>>599
見苦しい奴w
少なくとも七世紀以前にもヤマトは大和だという証明だろ。
601日本@名無史さん:2012/09/09(日) 13:30:44.19
川が大きく蛇行したところに環濠集落を作って住むのは、やはり戦いが絶えなかったためだろう。
この時代の環濠集落と径百歩の古墳と言えば菊池川沿いの江田船山古墳ということにはならないか?
602日本@名無史さん:2012/09/09(日) 13:32:31.80
畿内以外のヤマト地名は結構古いけど、
畿内のヤマト地名は、あまり古くないのだ。

畿内詐欺が邪馬台国=ヤマト=畿内だと思っている根拠が、
ほとんどアテにならないものであることは確かだ。
603日本@名無史さん:2012/09/09(日) 15:11:17.05
>畿内詐欺が邪馬台国=ヤマト=畿内だと思っている根拠が、
ほとんどアテにならないものであることは確かだ。

だから根拠を出せよw

604日本@名無史さん:2012/09/09(日) 15:48:20.81
邪馬台国が近畿にあったら地名クイズはぴったりあうなw

まあ山門比定説自体が貧弱すぎるがw

九州説論者は行程パズルやらやってないで発掘調査に力入れろ
605日本@名無史さん:2012/09/09(日) 15:53:33.37
>>603
畿内説論者は地名の一致をいうが、ヤマトという地名は7世紀以降だと指摘されて
反論すらできない。
606日本@名無史さん:2012/09/09(日) 16:00:13.21
>>605
7世紀以降だというソースはあるの?
607日本@名無史さん:2012/09/09(日) 16:38:53.46
>>588
だいたい合ってる
608日本@名無史さん:2012/09/09(日) 16:53:40.03
2〜3世紀の地名なんて不明なんだからさぁ、不毛な議論にしかならんよ
609日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:05:54.26
>>605
東漢氏は何世紀の人物ですか??
610日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:14:54.84
九州説の連中は結局全てが妄想でしかない。
だから候補地や文献の根拠を持つ畿内説を、
捏造と罵倒するしかやることないんだろう。
611日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:16:28.90
文献の根拠なんか無いじゃん
612日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:18:36.90
>>610
天武天皇の思惑に未だに嵌ってるんですか
遅れてますね
613日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:24:12.20
>>612
天武天皇の思惑ってなに?
614日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:36:41.34
九州説論者はマキムクをどう説明するかだな

九州を遥かに上回る遺跡やどでかい古墳群
外国や全国から物資が集まり交易機能が認められる超巨大都市を

魏志倭人伝で九州を倭国王都とするなら、その巨大都市マキムクをなぜ無視するのか
というわけで九州説論者は発掘作業に勤しみなさい
615日本@名無史さん:2012/09/09(日) 17:50:54.32
神武天皇の両親の墓は鹿児島県鹿屋市吾平山陵。宮崎氏の宮崎神宮は神武天皇を奉っている。
古来、日向の国は現宮崎県から鹿児島県まで広い。その中心は大隅半島肝属川河口から
都城、宮崎へと移動したと思われる。邪馬台国宮崎説はこのことからも推測される。

http://www.jomon-no-mori.jp/jimages/mbn_keihatsu/sekiken_tenjindan_kisyahappyou.pdf
またまた大隅地方から西日本最古の石剣出土。掘ればいくらでも出てくる。
616日本@名無史さん:2012/09/09(日) 18:20:06.08
宮崎神宮の文献上の初見は鎌倉時代。
神武云々は江戸時代にウリナラ思想の本居宣長一派が捏造したものだろう。
617ローガン:2012/09/09(日) 18:59:31.06
>>605
>ヤマトという地名は7世紀以降だと指摘されて反論すらできない。

云いっぱなしなだけで、論の体を成してないから、反論は不可能。
618日本@名無史さん:2012/09/09(日) 21:28:36.74
チョンとしか思えん馬鹿が多いな、きもいわ
619卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 22:00:54.33
>>618
のような奴は人間のクズとしか思えない。
620日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:09:05.61
まあ結局、畿内ヤマト地名は邪馬台国時代に存在した可能性がほとんどないな。
ローガンがいくら屁理屈いっても、このことは本当だから仕方がないな。
621卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 22:18:43.82
そんなことはない。
三世紀をまるで大昔のようにように思っているようだが、
三世記なんて非常に新しい時代だ。
地名なんてものは紀元前からあったに決まっている。
神武が東遷を開始したときから既に大和という地名はあったのだ。
622日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:22:02.13
>畿内ヤマト地名は邪馬台国時代に存在した可能性がほとんどないな。

お前は何一つ反論できないくせにw
大体九州の地名だった可能性はゼロだけどな。
証明出来る資料が皆無だし。
623日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:24:33.95
邪馬台国時代に、九州にヤマト地名があっても無くても、全然九州説には影響しないよ。
畿内説のほうは、「ヤマタイ=ヤマト」が根本的根拠になっているから、崩壊するがね。
624卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 22:30:29.05
九州説だって、ヤマタイという名に近似した地名でないと、
邪馬台国に比定するのは無理があると思うがね。
625日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:30:56.13
そもそも地名が存在の理屈にならないだろw
626卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 22:43:06.89
>>625
そんなことはない。何を言っているのだ、君は。
邪馬台国時代に大和にヤマトという地名がなければ、
邪馬台国は大和ではない、のだ。
627日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:46:22.54
しかし、畿内にヤマトという地名があったのかどうかを検討もしないで、
畿内説を主張してきた連中って本当におめでたいな。
628日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:51:31.32
記紀の中にでてくる名前なら参考にしていいと思うが
それが倭人伝に記載されるほどのものか、それが重要だ
629卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 22:52:52.72
記紀を持っている人は、ヤマトという言葉の初出がいつかを調べてみればよい。
そして、それが後世の後付けかどうかを検討すればいいのである。

で、検討してもおそらくは分らないだろう。
だから、後付けの可能性もあるが、後付けではない可能性もあるのである。
ずっと早くから、大和がヤマトと呼ばれていた可能性があるのである。
630日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:53:38.80
>>614
>九州説論者はマキムクをどう説明するかだな

九州説論者としての見解ではないが、マキムクは4世紀以降の遺跡だと思うね。
発掘現場の土壌は黒色炭質粘土だね。これは湖沼底に堆積する土壌だ。
このマキムクの北に位置する天理市の標高70m(現在の標高)の地点で2000年前は湖沼底であった
と推定される地質調査結果が得られている。
それから見ると、マキムクが陸地化して前方後円墳や建物を築造できるようになるまでは300年ほど
必要だったのではないかな。
631日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:55:34.13
>>629
バカか、「やまと」という地名が「大和(だいわ)」と当てられたのはいつかであって
大和が先にあってやまとと名付けられたのではない
632日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:55:37.31
>>622
「丙申 転至山門縣 則誅 土蜘蛛 ○○○媛」 というのが紀に掲載されてて

武内宿禰と組んで土蜘蛛退治のは360年代なんでしょうが

筑紫の南のはずれに「山門縣」があった痕跡が「紀」の中に残存

ちなみに「山門」はあっても「大和」とゆうのは書紀の中には無しだね。
633日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:57:33.22
>>626
ヤマトの地名がないってソースだせるのか?
634日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:02:41.25
日本書紀の神武東征のところには、倭国というのが出てくる。
倭国磯城邑という風だから、ヤマト国というわけだろう。

頭が混乱するくらい、いろんな考え方があるな。

たとえば、倭を倭人伝などから取ったとすれば、日本の総称である倭国でなく
邪馬台国でよかったはずなのだが、どうして倭国としたのかなど。
635日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:07:20.40
とりあえず銀印青綬をさがそうぜ
636日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:09:27.89
ttp://www11.ocn.ne.jp/~jin/GWAJIN.html

これだな、これでいいよもう
637日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:16:02.80
そういえば、ワコクをヤマトと読んだのはなぜだろう。

記録でも、倭->大倭->大養徳->大倭->大和、で、漢字の発音からは、
ヤマトと呼ぶ理由は全くないんだ。

つまり、ヤマト音とは関係ない言葉を使いながらも、
ヤマトという音を使いたい意志があったということになる。
638日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:18:59.16
いつからヤマトと呼ばせているかはわからんが、
憧れの「ヤマト」は一体どこから来たんだ?
なぜこの言葉をそんなに強く使いたがるんだ?
639日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:33:06.29
そりゃ万葉集や古事記みりゃいやでも分かるよ
640日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:33:26.24
「記」のなかに「夜麻登」氾濫させてからにすり替え騙り企画してくれちゃってるんだよね
641日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:45:15.90
>ヤマトの地名がないってソースだせるのか?
記紀を読め。景行天皇の宮として、纏向の日代宮と書いてあるだろ。
纏向は最初から纏向だ。邪馬台と呼ばれていた形跡はない。
642日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:51:12.71
漢水あたりでおこった小国が帝国領土すべてを意味する言葉になったのと同じだな
643日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:55:18.83
潰されたところの系図買ってからに「ヤマト」名乗るの正当化してくれちゃってる
644日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:57:27.97
>>641
大和朝廷発祥のヤマトはどこから来たのか
邪馬台をやまとと読むなら奈良にあれば地名理論の連続性は当てはまる

てか地名理論で言う九州山門比定説ではあまりにも発掘が貧弱じゃないか?
645日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:02:05.12
九州も金印などから倭(ワ)と推測されるし、
筑紫(チクシ)は記録に残っている。
「山門」がいつから使われたのかは。九州でも不明。

畿内も同様で、一部の狭い地域のヤマト音はあるが、
地名としてのヤマトの使用形跡はない
646日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:05:33.20
647日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:06:45.08
>九州山門比定説ではあまりにも発掘が貧弱じゃないか?
そりゃそうだろう。山門なんて関係ないよ。


648日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:08:18.10
>>647
っていうか九州人ってだけで人間のクズだろ?
人間やめたら?
649日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:14:10.33
福岡県みやま市瀬高町大草老松宮 蜘蛛塚古墳

ここらのでぐぐってみるのがよいよ
650日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:14:53.16
結局一部の九州説論者の主張は、記紀に残る資料上でヤマトの
地名や文字は創作だと言いたいのかね?
さすがにそれを証明するのは無理だと思うが。

例えば二上山の金剛砂は古代より、玉石や金工・木工品などの研磨材として
利用されてるが、崇神の時代に「大和砂玉磨剣」なんて記述も残る。
こういうのも否定するのかな?
651日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:27:34.63
>崇神の時代に「大和砂玉磨剣」なんて記述も残る。
どこに残ってるのかな?
652日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:29:46.40
地名なんて精々傍証程度にしかならんだろうに
653日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:32:27.83
654日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:38:55.99
水銀中毒者の妄説?
655日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:54:13.46
>>630
さあ、そう思うならそれを証明してみよう
2世紀末から4世紀初頭の遺跡を君の手で
もしくは発掘調査の改訂を待つか

まあ無理だと思うけど
656日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:05:21.55
>>655

有名所では、

箸墓古墳の小枝がC14で4世紀から5世紀。
太い木材の場合は、中心部を取れば古い試料となってしまうが
小枝なら、それほど古くならない。

周濠の最下層から出てきた馬具は5世紀より古くはならない。

三世紀と言われる資料は絶対年代で疑問がある、土器編年によるもの。
また、同じく疑問がある年輪年代によるもの。

このあたりは定番だね。


657日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:31:45.93
>>656
ここで言っても始まらないだろう
証明して考古学会に決定打を突き付けてこい
それらは一説に過ぎない
658日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:33:13.04
箸墓のな
659日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:41:01.75
>>657

これくらいは飽きるほど繰り返されてるんだから、
反論ぐらい覚えろよ。

それくらい押さえてないと、足すくわれても仕方ないぜ。
660日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:53:33.76
>>651
二上山博物館の文献資料で見かけた記憶はあるな。
そこからおそらく流用されてるのだろう。
661日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:57:47.69
>>659
反論も出尽くしてるだろうし俺がいっても何もはじまらないだろ?


ちなみに俺は畿内支持者ではない
結論づけるには物的証拠が必要だと言ってる
ただ畿内有利だとは思ってるが
662日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:12:30.16
>>656
特殊器台はどう説明する?
少なくとも周豪よりは年代比定に確かな位置から出てるけど。
663日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:13:15.57
>>661

わかってるんなら、なぜいまさら >>655 を問いたかってことだ。
なんども繰り返したつまらない問いだったってことだな。

まあ、>>630 も幾つかつっ込みどころはあるんだが、
本質じゃないんで、蒸し返しもしないがな。
664日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:18:33.36
>>663
アンカーあってる?

スレタイが邪馬台国論争なら、今後決着を付けるのは考古学的物証だと考えてるから

九州説の不利な点を指摘したかったからだ
665日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:29:56.93
>>656

特殊器台の一種である円筒埴輪は布留1式以降(4世紀以降)で、
円筒埴輪の中には、須恵器(5世紀以降)と出てきてるものがあるが、
年代的にどう思う?

また、どの形式がどの程度続いてると思う?

断定的に3世紀と書いてあるものも何度か見たが、
あまり信用してないんだよな。
666日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:34:27.29
あと、箸墓古墳の特殊器台はほかの特殊器台や円筒埴輪と比べて、
形状が特殊だから、年代が同じではないという書き方も何度か読んだ。

おそらくは、同じではない=もっと古い、と主張したいのだと思うが、
どうかな?

かえって新しかったりして。
わからんけど。
667日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:39:12.09
そもそも、箸墓古墳は、当初はその特殊器台や、土器で
4世紀と判断された。
そして、土器編年をいろいろと百年ほど遡ることで、
3世紀まで持っていった経緯がある。

それほど、土器の絶対年代は信用出来ないものなのである。
相対年代はまあ大丈夫だろうと思うが。
668日本@名無史さん:2012/09/10(月) 02:55:51.43
宮山型特殊器台が確認されて3世紀末とされたと思うが。
669卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 08:09:34.27
ヤマトという呼称について調べたことはまったくないが、
地名と国名は別ではないのか。
大和にヤマトという地名は無くても、大和地方がヤマトと呼ばれた可能性はある。

出雲や筑紫にしても、イズモとかチクシという地名はあるのか?
縣名、郡名、郷名、字名…にそんなものはまったくなくても、
その国が出雲とか筑紫と呼ばれた可能性があるのだ。

邪馬台国というからには、ヤマタイは国名であって、縣名、郡名、郷名、字名…ではない。
で、残念ながら、九州には、国名としてのヤマト国は無いのである。
ヤマト国といえば、古来、奈良の大和国なのである。
670日本@名無史さん:2012/09/10(月) 09:43:21.64
>古来、奈良の大和国なのである。
古来と言っても、しょせん、7世紀以降の話だわな。

671日本@名無史さん:2012/09/10(月) 11:41:30.56
いい加減大和7世紀厨は東漢氏(ヤマトノアヤ)を説明しなきゃな。
河内の漢氏に対して東をヤマトと言ってるけど。
勿論7世紀以前の話だし。
672日本@名無史さん:2012/09/10(月) 13:58:56.87
畿内説は「邪馬台」をヤマトと読み大和である奈良県に当てはめるのに対し、九州説は国名についてはこだわってないのであって、
九州にヤマトに否定される国名がないとしても、だから?で終わる

それに、そもそも「邪馬台」はジャバダイと読むべきじゃないの?
国名を重視するのなら、邪馬台国はジャワ島にあったというのが最有力だが
673日本@名無史さん:2012/09/10(月) 15:07:43.33
3世紀の畿内に「ヤマト」地名がないと、ヤマト≠邪馬台となって崩壊してしまう畿内説。
その証拠は、もちろん皆無。だから△鏡詐欺、箸墓詐欺、年輪詐欺、桃の種詐欺など、
次々と新ネタを繰り出して虚偽を支えている次第。

まあ、畿内説は 初 め か ら 詐 欺 だからなあ。
674日本@名無史さん:2012/09/10(月) 15:16:01.11
>>669

制定された年代は不明だが、筑紫は字まである。
福岡県筑紫野市大字筑紫

そしてその近所に筑紫神社もあり
675日本@名無史さん:2012/09/10(月) 15:16:36.87
>>671
東漢氏も西漢氏ももともとは単なる漢氏と称していた。それが6世紀末ころ、住む
所により東(ひがし)の漢氏と西(にし)の漢氏と分けて呼ばれるようになったんだよ。
そして、7世紀になり、東の漢氏が住むあたりが大和国、西の漢氏が住むあたりが
河内国と定められたことから東漢氏を「ヤマトノアヤ」と呼ぶようになった。
つまり「ヤマトノアヤ」との呼び方は7世紀以降。分かったかな?
676日本@名無史さん:2012/09/10(月) 15:48:37.46
>>674
たぶんさ卑彌呼さんの時には無かったかとはおもふぞ

のちに強力な勢力が入植とかして

あそこらへんの中心勢力になったのかとはおもふよ

広域の地名として糸島周辺のが残らなかったとゆうのが興味深いですわ

山門の鏡の女王のところも息長垂の物部グループにやられちゃっているしね
677ローガン:2012/09/10(月) 16:32:27.03
>>656
>有名所では、箸墓古墳の小枝がC14で4世紀から5世紀。

箸墓のどこで採取したん。

>周濠の最下層から出てきた馬具は5世紀より古くはならない。

最下層…って 嘘ばっかり。若しくは誰かに騙されている。
それに、5世紀より古くはならない にも根拠無し。

>>666
>箸墓古墳の特殊器台はほかの特殊器台や円筒埴輪と比べて、形状が特殊だから、年代が同じではないという書き方も何度か読んだ。
>おそらくは、同じではない=もっと古い、と主張したいのだと思うが、どうかな?

鋸歯文の有無、弧帯文の変遷、脚部の変化と、
共伴特殊壺にある穿孔の後先や、共伴共献土器の減少からみたマツリ形骸化の経年を絡めたタイポロジーとしては妥当。
他のタイプの特殊器台の方が古い。

678日本@名無史さん:2012/09/10(月) 16:41:00.26
>>656
>
> 周濠の最下層から出てきた馬具は5世紀より古くはならない。


最下層でなく布留1と一緒に出た鐙だね。

4世紀前半の秋津遺跡から馬の歯がでてる。
4世紀前半には馬がいたことが確認された。

「馬具は5世紀より古くはならない」などという、
九州説の根拠が崩れたね、残念!!w
679日本@名無史さん:2012/09/10(月) 16:51:01.94
>>675
それじゃただの稚拙な推論だろw
それを証明するなら、当時は東漢氏がどう呼ばれていたかの
文献記録でもださなきゃな。
680日本@名無史さん:2012/09/10(月) 16:58:23.66
>>678
「○○は○世紀より古くはならない」なんてのが九州説の根拠なわけないだろ
東遷説の根拠だというなら話は別だが
681日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:00:01.68
>東漢氏がどう呼ばれていたかの文献記録でもださなきゃな。
そうだね。6世紀以前の文献でも出してみせてくれ。

682日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:00:54.54
東遷説をとったとしても、記紀のようにもともと長脛彦のような強力な国があったと考えるなら、東遷以前の遺跡から何が出ても問題ない
683日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:06:24.70
>4世紀前半の秋津遺跡から馬の歯がでてる。4世紀前半には馬がいたことが確認された。
簡単に確認できたというんだね。遺跡の年代を確認するのはむずかしいんだぜ。

684日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:07:32.59
>>681
いや、東漢氏じゃなくても六世紀以前の文献記録は
ヤマトタケルやヤマトトヒモモソヒメも皆畿内が主の話ですよ。
モモソ母も全く九州には縁の無い話ばかりだ。
わざわざ他地区の名前を持ってくる必要性がどこにある?
685卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 17:15:23.41
群小地名なら、七世紀以降にも付けられている。
たとえば百済人や新羅人が移り住んだところは、それらしき地名が付けられている。

しかし、奈良全体を示す大和というような地名が、
七世紀以降に、自然発生的に、生まれた、とは、まず考えられない。
為政者が強制的に名付けた、或いは改名した、というなら話は別だが、
そういう記録は残っていない。

神武即位前紀に倭国という表記ですでに出ているのだから、
その頃から既にヤマトと呼ばれていたのである。
後世の後付けだという証拠はない。
686日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:15:28.19
三輪山は九州にあったとか言い出しそう。
687卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 17:21:45.34
肥後国菊池郡山門郷説なども、非常に苦しい。
なぜならそこが邪馬台国だったとしたら、
肥国あるいは菊地国と呼ばれたはずで、
山門国などと呼ばれたはずはない。

国>郡>郷だから、国名としては肥国と呼ばれるはずなのである。
筑後国山門郡説、筑前国山門郡(郷?)説も、同様の意味で苦しい。
688日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:26:15.87
邪馬台国は別にして、元々倭の都がヤマト。
国々をまとめて大を付け、倭を良字に変えて和。
それで大和だ、何が九州の名前からとっただよ。
熱中症にでもやられたのか?
689名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/10(月) 17:46:55.70
末盧国の唐津比定は動かせない。その後、南西へ陸行すれば佐賀平野の
伊都国、奴国にたどり着くのは自然の理。自然科学者等はこの分析が多い。
邪馬台国が佐賀以南に存在したことは間違いなく
近畿地方説などありえないと思う。
690日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:49:23.59
「山門縣」というのは日本書紀にでてくる唯一ヶ所の「ヤマト」地名

「筑紫國」の「山門縣」は

「夜麻登登母母曾毘賣命」のかあちゃんの「蠅伊呂泥」のお里

かあちゃんの「ハエ」のは「飯江川」沿いのところなんでしょ

http://maps.google.co.jp/maps?q=33.119941,130.513051

でもさ ご先祖のこと「飯江」でなくて「蠅」で表現しているのはいささか無作法だろ

記のエディターはごめんなさいしたほおがエエよね

てか 滅びた王家のとかのだったらごめんなさいすることとか無い?

「蠅伊呂泥」の別名は「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」なんだけど

なあんかわざとなまって悪戯とかしてくれちゃっているんでしょ

ここらが記紀で企画しているところの「ヤマト」に誘導する犯行の核心部だ罠
691日本@名無史さん:2012/09/10(月) 18:07:44.26
そそ阿禮さんのところから系図買ってきたとか

かつあげしたとかのだったら

ごめんなさいすることとか無いよね

阿禮さん腹癒せにわざと「蠅」が正規表現ですとかってごねたかもね

そして阿禮さんの姓ってもすかしたらほんとは「意富」さんかもね
692日本@名無史さん:2012/09/10(月) 18:17:32.57
>>690
その理屈なら結局瀬戸内海で倭国大乱、
ハエイロネが淡路島で産んだモモソが大和入り。
で、畿内の邪馬台国を都と比定する事になるんだけどね。
時系列もピッタリ、解決するじゃんw
693日本@名無史さん:2012/09/10(月) 18:39:59.29
3世紀以降に鏡が畿内に集中しだす事と合致するしな。
1〜2世紀、淡路島にある垣内遺跡の大規模鉄工房の存在も
それを証明するものの一つ。
大乱の結果畿内に都を設けたという事だな、
そこが邪馬台国だろう。

694日本@名無史さん:2012/09/10(月) 20:24:55.98
>1〜2世紀、淡路島にある垣内遺跡の大規模鉄工房
単なる鍛冶屋の跡じゃなかったかな?
695日本@名無史さん:2012/09/10(月) 20:48:57.50
>神武即位前紀に倭国という表記ですでに出ているのだから、
神武紀には、「日本国」という表記も出ているな。そんな記事を信じろって
いうのかね。
696sss:2012/09/10(月) 20:54:25.80
>>682
日本書紀によると、長髄彦の主である饒速日命と神武天皇は天神の子で同族。
饒速日命は神武天皇よりも一足早く高天原からやってきたわけで、
その場所が纏向と考えることも出来る。これを庄内式と関らせても良い。
となると、神武天皇は布留式土器と関らせるべきかもしれない。
697日本@名無史さん:2012/09/10(月) 21:16:58.77
高天原は多賀
「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
天(アマ)は海人(アマ)からの変化だろう
高いと多賀が掛詞
天と海が掛詞
698卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 22:10:07.77
あまり九州論者を追い詰めるのも可哀想なので黙っているのだが、
七万戸もの戸数を擁する大国邪馬台国が、
山門郡や山門郷であるはずはないのである。

邪馬台国は大和である。
699日本@名無史さん:2012/09/10(月) 22:20:28.16
石野博信って人が言っていた。
近畿地方全部を一国としても到底七万戸には及ばないと。

当時、日本全部の人口が65万人という説もあるわけで、
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html

となると、戸数の数字には誇張があるといわざるを得ない。
700日本@名無史さん:2012/09/10(月) 22:53:16.62
近畿がだめと分かったら、また九州に戻ってみることだ。
701日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:01:17.60
戸数について、オレはどっちかって言うと、

現代の考古学者の説と魏志倭人伝の記述とでは、
倭人伝の方を信じるけどね

考古学の学説は将来変化する可能性が高いので
702卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 23:01:32.84
橋本増吉も倭人伝の戸数は誇大であると書いている。
松本清張も三、五、七という奇数で書いた文飾修辞であると説いた。
それはそうではあるが、それでも九州説が苦しいことに変わりはない。
703ローガン:2012/09/10(月) 23:04:23.27
倭人伝は間違いない事しか書いてない というのが分かればよろしい。
704ローガン:2012/09/10(月) 23:08:41.82
>倭人伝は間違いない事しか書いてない というのが分かればよろしい。

ああ、可笑し
肝心の「幼稚で愚かな事」が抜けた。
いうのが の後へ入れて
705日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:13:36.46
倭人伝は九州のことを書いている。考古学者は畿内の状況をみている。
話が合うわけはないわな。
706日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:18:00.23
ローガンって、文献批判を全然やったことがないとみえて、
錯簡や写し違いなどが脳味噌に入っていないらしい。
707日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:34:30.97
あまり九州論者を追い詰めるのも可哀想なので黙っているのだが、
七万戸もの戸数を擁する大国邪馬台国が、
山門郡や山門郷であるはずはないのである。

邪馬台国は北野平野と筑後平野の内陸部を占める4ヶ国連合国である。
その4ヶ国とは、浮羽、朝倉、久留米、八女をそれぞれの中心とする地域である。
邪馬台国は、平均万七千戸の4ヶ国が合併してできたものである。

山門郡や山門郷は投馬國の中部地域である。
矢部川河口の海に浮かぶ島々を山門の海岸沿いの山から望むことができる。
708日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:38:23.31
中途半端な説だねえ。九州ぐらいまとめる力がなかったら魏が相手にする
わけないじゃないか。
709日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:42:41.23
>>706
>錯簡や写し違いなどが脳味噌に入っていないらしい。
それは邪馬壹国を主張する某氏のことかー
710日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:48:55.75
>>708
むだに僻地とか纏め上げるよりは、鉄のルート制御できるののほおがつおいよ
711日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:50:42.34
魏使がいちいち戸数を数えるわけがないだろ
倭人から聞いた数をそのまま書いただけ
当然誇張もあろう
普通に考えればわかること
712日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:50:58.77
>>704
倭人伝の間違いを前提にしないと成立しない畿内説らしい考えだな。
一つ間違いを見つければ、全部間違いの推定になるらしい。

測量士がやってきて測量したわけではないから、距離には信頼性が薄い。
国中を歩き回って戸数を数えるためにやってきたわけではないから戸数の
信頼性も薄い。というのは、だいたい想像がつく類のものだろう。

ちなみに、わが町には4万戸ほどの家があるらしいが、とてもではないが
数える気にはならない。
713日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:53:53.73
倭人伝通りに進んだら畿内には辿り着かないよなw
714日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:56:45.43
倭人伝を盲信するアホは明史でもよんでこいよw
715日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:01:02.02
>4万戸ほどの家があるらしいが、とてもではないが数える気にはならない。
ただ、ちょっと頭を働かせばだいたいのことは分かる。
十戸から一人兵士をださせている、兵士は7000人いるってことなら計算
はできるだろ。


716日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:02:25.60
>>714
明史は間違いもあるが、大勢としては正しい。

畿内説の人は、明史には秀吉は薩摩の出身なんて嘘が書いてあるから、
信長がいて、その後継者の秀吉が天下を取ったと書いてあることも嘘だ、
というのだろうな。
717日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:04:39.24
>>715
そういうことが実際にあったならね。
718日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:05:07.22
その程度なんだろうな
719日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:06:10.33
もすかすて秀吉さんのご先祖のは薩摩の出身だたのかもしれない

エロエロとやらかしているネーミングがやたらとへんに臭うんだよな
720日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:08:57.37
>>715
その7000人は誰が数えるんだよ
721日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:10:01.39
>>716
その大勢とやらが合っているとなぜおまえは分かったんだよw
722日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:17:25.32
みんな都合の良い記述は信じ、都合の悪い記述は切り捨ててるのだから、いがみ合うのはお止しなさい
723日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:20:46.39
都合の良しあしじゃなく蓋然性です
724日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:25:01.83
「蓋然性」は人によって異なる
所詮は主観
725日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:25:32.08
>>720
隋書でも読んでみな。数え方が書いてあるよ。
726日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:35:02.96
>>725
どうやって数えたのか教えて下さい
727日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:45:38.40
>>724
主観が異なることがあっても、冷静な分析と合理的な推論によってある程度の共通性を見いだすことができる
それが蓋然性
地面にものが落ちるように明らかに知れる
728日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:56:54.68
>>727
共通性があるのはせいぜい九州に上陸する辺りまででしょ
その先はバラバラ
共通性は無い
つまり蓋然性のある説など無い
ある説に「蓋然性がある」と言い張るのは単なる主観だよ
729日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:59:51.69
九州説に立つと、歴史的整合性が合わなくなる
隋書と考えると、いきつくさきが九州王朝説
常識的な判断をすれば九州説はありえない。
ここまでが共通性
730日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:16:22.77
それは「私の推論には蓋然性がある」というあなたの主観に基づくあなたの一見解に過ぎない

九州説も畿内説も蓋然性があるっちゃあるし無いっちゃ無い
ここまでが共通性だよ
だから論争になってる
731日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:19:44.16
隋書よんだことないだろ、おまえw
九州説じゃ朝廷は歴史を改竄したとかトンデモ史観をつくるしかない

別に俺は畿内説が真理だとは言わないが
現状、それが一番常識的な判断、暫定的真理であることはまちがいない
732日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:35:12.64
魏志倭人伝のどこを読んでも九州の風土。
それを詐欺で言いくるめようとするのが畿内説。
733日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:37:08.29
物事を相対的に捉えられないみたいだね
如何ともし難いな
734日本@名無史さん:2012/09/11(火) 01:46:45.68
どのへんが九州の風土なのかイミフ
735日本@名無史さん:2012/09/11(火) 02:18:35.64
ハエイロネが九州出身だと全て説明がつく訳だな。
娘のモモソが淡路島からヤマトに入ったという事で。
記紀を解釈するとそうなる。
これなら九州の山門との整合性もつくし。
736日本@名無史さん:2012/09/11(火) 06:36:45.77
邪馬台国には刺青の習慣があったというが、記紀によると当時刺青の習慣があったのは熊襲じゃねえか
737日本@名無史さん:2012/09/11(火) 07:05:02.46
魏使は九州でしか活動していない、しかも庶民を観察した記録。
南薩文化やアイヌ文化にも刺青の風習は見られる
狩猟漁労採集文化では一般的なものなのではないか
九州の海岸沿いで漁労で生活していた者たちには刺青をしたものがいて
それが記録されたのかもしれない。
稲作・交易文化の発達した村、あるいはその上流階級の者たちに
刺青の風習がない。出雲や畿内では風習が廃れていたとしても不思議ではない。
738日本@名無史さん:2012/09/11(火) 07:17:52.45
そもそも韓伝と倭人伝を比較すれば明らかなように、馬韓、弁韓、辰韓が農耕社会であるのに対し、当時の倭国は漁民社会だ
弥生遺跡から何が出てこようと、農耕社会の遺跡である以上、邪馬台国とは何の関係もない別の国の遺跡だとしか言えない
739日本@名無史さん:2012/09/11(火) 08:21:51.47
海岸沿いを見てきたわけだから、たまたま目に付いた漁撈で生活する者の刺青の風習
をそのまま倭国全体の風習として記してしまったんじゃないの。
九州全域に稲作はとっくに伝わってるのだが。
隋書でもまだ書いてるしそんなに目立ったのか。
740日本@名無史さん:2012/09/11(火) 09:00:18.23
隋書は大宰府を都と勘違いしたんだろう
741日本@名無史さん:2012/09/11(火) 11:53:12.58
>>739の理屈なら馬韓や弁韓の漁撈で生活する者について触れてないことが説明できない
社会全体としてどっちが主であるかを書いたのであって、倭にまったく稲作がなされてないという意味ではない
742日本@名無史さん:2012/09/11(火) 12:38:29.82
面積比で言えば、奴国が旧肥前国に相当し、2万戸
投馬国が、旧筑後国に相当し、5万戸
邪馬台国が肥後国に相当し、7万戸

この巨大国家は今で言う県単位の広域国家。
その中で従っている小国家群で成り立っている。
743卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 12:48:55.73
>>742
もし邪馬台国が肥後国にあったのなら、
邪馬台国とは呼ばれずに、
肥国とか菊池国と呼ばれているよ。
744日本@名無史さん:2012/09/11(火) 13:08:31.22
九州に全て収めるのはもう無理だね。
遺跡や古墳の数がとても足りない。
745日本@名無史さん:2012/09/11(火) 13:21:02.53
日本の地名というのは、地形から来るものが多いといわれる。
というわけで、邪馬台国の邪馬が『山』の意味を持つとすれば、
阿蘇もある熊本あたりが妥当かもしれない。

火の国の地名は、ヒノミコというわけで「卑弥呼」に反映されていたりして…。
746日本@名無史さん:2012/09/11(火) 13:31:41.25
>>743
邪馬台国という呼び名に最も近いのはジャワ島だよ
もし日本に邪馬台国を求めるなら呼び名にこだわるのは矛盾してる
747日本@名無史さん:2012/09/11(火) 14:29:12.91
相変わらず文字遊びしてるバカが居るんだな
748日本@名無史さん:2012/09/11(火) 14:42:41.57
>>745
気候風土はどうみても海洋系だろう。
それに火の国なら尚更倭人伝に火山の記述がないと矛盾する。
749日本@名無史さん:2012/09/11(火) 14:53:41.07
「○○がないと矛盾する」はないな
当時貴重品だった紙を使ってそんなに観光ガイドみたいな無駄なことばかり書くわけには行かない
750日本@名無史さん:2012/09/11(火) 17:15:27.63
地形についての記述をいっぱい書いてるのにw
751卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 18:37:14.20
>>746
邪馬台国

邪はジャと読めるが、馬はワとは読めない。
おまけに台を読んでいない。
752日本@名無史さん:2012/09/11(火) 18:41:41.78
>>741
馬韓弁韓では漁労は行われていなかったか、そこにいた倭人に独占されていたのでは?
753日本@名無史さん:2012/09/11(火) 18:55:27.48
>>751
中国の東晋代の西域インド求法僧・法顕による旅行記である『仏国記』に「耶婆提国」の記述があって、これがジャワ島だと言われている。
ジャバダイ国。邪馬台国の音読みと完全に一致する。
754日本@名無史さん:2012/09/11(火) 20:24:34.29
じゃ、卑弥呼はジャバ島人だったのか
755日本@名無史さん:2012/09/11(火) 21:31:50.69
だから、日本のことをジャパンっていうの
756日本@名無史さん:2012/09/11(火) 21:40:14.18
元々は中国にとって日本は、中国最東端の会稽を船で出発して東へ漕ぎ続けてたどり着く場所だった。
この経路では海流は東北方向に向かってる。
当時の中国は海流というものを認識していない。
中国人の認識では会稽の真東という認識でも、実際には北へずれた地点に到達している。

ところが帯方郡を抑えた事によって、半島経由でも日本へ到達することが可能になった。
それは中国にとっては一大事で、倭人伝で字数が割かれてるのもそのせい。

ところが半島経由の経路では、計算上会稽の真東にはならない。
会稽経由と帯方経由で行き着いた先が同じだということを証明しなければならなかった中国の小役人は、
日本国内での進路を東から南へと置き換えることで辻褄を合わせた。

これが真相。

 
757日本@名無史さん:2012/09/11(火) 22:02:37.80
重要なのは血統だろがよw民俗描写。
「倭」呼称使った時点で北方系民族じゃないんだろ。場所もあんまり北には設定出来ん。
758日本@名無史さん:2012/09/11(火) 23:28:41.32
邪馬台国が、もしもジャワ島や奈良県だったなら、
一大率が伊都国で荷物検査する意味がねーだろよ

そこから先の航海の方が長いってのに
759日本@名無史さん:2012/09/11(火) 23:55:52.65
>当時の中国は海流というものを認識していない。
当時の方がずっと意識しているだろう。海流に逆らったら大変なんだぜ。
760日本@名無史さん:2012/09/12(水) 07:12:33.33
>>755
日本は「じつぽん」(元日のじつ、漢音読み)と読んだ元代のシナ人の発音からじゃぱんになった。
じつぽん
ジパング
ジャパン

Jをヤと読む国から、ヤパン、ヤーパン、ヤポーネ、ハポンが派生
761日本@名無史さん:2012/09/12(水) 07:59:37.55
>>758
先が長いから確認する必要性があると思うが。

関門を取り締まるのが伊都の役目だろう。
762日本@名無史さん:2012/09/12(水) 09:26:52.65
現在でもそうだが、税関は直近の港につくるのがデフォ
763日本@名無史さん:2012/09/12(水) 12:43:44.65
刺青は海岸部に限られた風習ではなくて高位の者も含めて刺青してたんじゃないですか?
死者を埋葬した後に骨に丹を塗ったりしていませんでした?
人型の埴輪の顔に入れ墨があったりしたと思うんですけど
764日本@名無史さん:2012/09/12(水) 14:53:09.93
埴輪がある古墳は畿内のものじゃないのか?
765日本@名無史さん:2012/09/12(水) 15:20:17.33
埴輪はどこにでもある。宮崎にも多いし、関東地方のも有名。

そういえば、きょうの新聞に南九州特有の墓制である地下式横穴墓のことが
書いてあった。副葬品はまるで畿内系だと。
766日本@名無史さん:2012/09/12(水) 19:02:56.01
イラストレーターは刺青をしていると解釈している人が多いようだ
顔に黒や赤の刺青をしている卑弥呼を描いているものが結構多いよ
767日本@名無史さん:2012/09/12(水) 21:09:15.65
>副葬品はまるで畿内系だと。
ということは、逆に言えば畿内の古墳は南九州系だということだ。
768日本@名無史さん:2012/09/12(水) 21:41:06.00
ふつうのそれを畿内系とは言わないだろ
769日本@名無史さん:2012/09/12(水) 22:19:14.99
畿内でも刺青的なものが施された埴輪は出てるんじゃなかったっけ
770日本@名無史さん:2012/09/13(木) 00:12:24.17
古事記によると、神武東征後に刺青が近畿地方に入ったらしい。
771日本@名無史さん:2012/09/13(木) 00:26:17.01
該当箇所うp希望
772日本@名無史さん:2012/09/13(木) 01:03:29.84
>>771
爾大久米命、以天皇之命詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、

阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

爾大久米命、答歌曰、

袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
773日本@名無史さん:2012/09/13(木) 02:09:28.75
どうしてそれが畿内に刺青の風習がなかったことになるのかイミフ
そもそも神武がしていたとも書いていないし
774日本@名無史さん:2012/09/13(木) 07:44:52.19
>>770
妄想も甚だしいだろw
775日本@名無史さん:2012/09/13(木) 08:24:44.82
(神武天皇に随行して来た)大久米命の刺青を見て、(やまとの)伊須氣余理比賣は
奇妙に思い、歌を歌っていわく…。

どうして顔の目のところに鳥のような刺青をしているのですか。

大久米命が答えて読んだ歌は。

乙女に直接会おうと思って目に刺青をしているのです。
776卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/13(木) 09:13:07.19
↑ 正式な現代語訳がどうなっているのかは知らないが、
上のような訳では意味が通じない。
777日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:19:02.82
神武は刺青をしていないというのがミソだな。
それに畿内に入る神武の軍勢は、紀伊半島に入るまでに
壊滅しているのである。
つまり刺青をしていたのは九州からの人物ではないという事だ。
778日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:25:18.86
刺青について書かれているのは大久米命だけだが、顔に刺青をするというのは
だいたい集団的に風習であり、倭人伝にも、男は大人も子供もみんな刺青を
していると書かれている。
神武天皇も刺青をしていたと考えるのが妥当だろうな。

重要なのは、伊須気余理比売が刺青を見て奇妙に思ったところ。
近畿地方では刺青の風習はなかったと解釈するのがふつう。
779日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:32:43.48
>>778
神武がしていたのなら必ずそう描写されるだろう。
神武は瀬戸内や紀伊半島周辺の倭人を引き連れて
ヤマトへ入る事になる。つまり刺青はこの辺りの風習だ。
倭人伝の気候風土描写とも一致する。
780日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:35:18.42
単に大久米が海の民だっただけだろ
山幸以来神武までずっと海の民と懇意だからな
781日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:36:53.28
>>775によれば、刺青を見て奇妙に思ったのは伊須氣余理比賣のほうであって、それに対して大久米命が洒落で答えたもの
しかし、もともと刺青の習慣があったなら、そもそも伊須氣余理比賣が奇妙に思う余地はない
782日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:44:08.97
大体奈良は元々海洋民はいないだろw
神武の一向が入るのは紀元前の話です。
783日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:53:46.81
魏使はフミ国までしか検分していない、
畿内説では、北九州を北上する格好になっていてずっと海岸沿いになっている。

たとえばタイヤル族は焼畑農業と狩猟によって生計を立てていたそうだが
彼らには刺青の風習がある。アイヌも同様な生活スタイルであり同様に刺青をする
人為を飛びぬけた自然の力をとりいれるために、それを象ったものを体に彫るという考えによるのだろうが
そういう切実さは収穫が一定せず自然環境に生活が左右される状況からくるのだろう
交易の発達によって無い物はあるところから得るということが可能になり
また安定した収穫がえられる水田稲作では、陸稲と異なり、天候(太陽)のみが大切になる。
結果、刺青の風習も儀礼的なものになる。
おそらく九州内陸部では刺青の風習が廃れていたとしてもおかしくない
784日本@名無史さん:2012/09/13(木) 10:04:13.07
琉球に刺青の風習がないのは、13世紀に有史となって貿易で生計を立てる人たちがでてきてからだろうな
785日本@名無史さん:2012/09/13(木) 12:25:35.01
出土のガラス玉、古代ローマ帝国製か…広島
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120912-00000473-yom-soci

夢があるなあ
786日本@名無史さん:2012/09/13(木) 20:44:22.88
>>775
>顔の目のところに鳥のような刺青
これは示唆的だな。

大久米命が、白鳥になったヤマトタケルってことなんだろうな。
787日本@名無史さん:2012/09/15(土) 10:27:12.84
邪馬台国九州説ではなく、倭国九州説のようですが、
九州説に強力な根拠が示されています.
http://www006.upp.so-net.ne.jp/mnogami/
を見て議論しよう.
788日本@名無史さん:2012/09/15(土) 11:15:20.43
基礎的な知識がないようだ。
789日本@名無史さん:2012/09/15(土) 14:42:19.97
魏志倭人伝がどこまで真実かもわからないのに
基礎的もなにもないだろ
790日本@名無史さん:2012/09/15(土) 15:10:39.18
倭国は北部九州から瀬戸内にかけてだよ、常識だわ。
791日本@名無史さん:2012/09/15(土) 16:41:36.09
魏志倭人伝を原文で読んだことがないようだ。
792日本@名無史さん:2012/09/15(土) 18:44:00.97
魏志倭人伝を読み下しでなく、当時の漢籍の知識をもって読んだ人がいるのか?
793日本@名無史さん:2012/09/15(土) 19:53:39.42
オレを読んだ?
794日本@名無史さん:2012/09/15(土) 23:13:26.33
倭人伝の基本的な読み方ができてないということだよ。漢文が読めてないんだ。
795日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:09:11.54
漢文を読めたら九州説にはならないけどな。
796日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:12:15.22
漢文の解釈は多くの専門家が綿密な調査を行っており、
素人に毛の生えた程度に漢文を勉強して原文を読んだところで得られるものは何もない。
そんな無駄なことをするくらいなら、現地調査を重視したほうがいい。
邪馬台国への使者の通った道を実際に歩いてみたらどうだ?
それは、多忙な専門家にはできないことだ。
797日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:19:05.07
陸路、地形が変わってるし、海岸線なんてまったく違う
それこそ意味ないだろ
798日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:41:59.95
要は魏志倭人伝から邪馬台国を見つける事は不可能だということだ
799日本@名無史さん:2012/09/16(日) 10:03:47.38
んな、アホな
800日本@名無史さん:2012/09/16(日) 11:39:14.02
>>798
邪馬台国は魏志倭人伝で見つける以外に方法はないのだ。
801日本@名無史さん:2012/09/16(日) 11:53:37.13
邪馬臺國 邪馬壹國

耶馬大倭國 やまだいゐこく

これって

馬韓のとおちゃんの國だろ

馬韓のかあちゃんは月支國の辰王さんね

802日本@名無史さん:2012/09/16(日) 14:14:27.67
ある日突然、九州の工事現場から出てくるか、古墳掘りまくれば
卑弥呼の墓が出てくるのでは。文献だけでは場所の特定は無理。
まあ3世紀でしょう、国道2号線もないし、瀬戸内海もすんなり通
れたかどうか。九州にあったとするのが妥当。
803日本@名無史さん:2012/09/16(日) 14:36:50.89
ここは小学生が紛れてるのかw
804日本@名無史さん:2012/09/16(日) 14:51:04.21
~功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(362)
転至山門縣 則誅土蜘蛛田油津媛 時田油津媛之兄夏羽 興軍而迎来 然聞其妹被誅而逃之

ここにでてくる「山門縣」が「其餘旁國」連合の「邪馬壹(臺)國」の南限で良いだろう。
805134馬鹿:2012/09/16(日) 16:09:16.83
>>798
>>800
>>804
魏志倭人伝だけから邪馬台国を見つける事は不可能である。

「山門縣」が、「女王國」連合の「邪馬壹(臺)國」の南限であり、
又、投馬國の東限でもある。
806日本@名無史さん:2012/09/16(日) 16:33:41.47
「可五萬餘戸」の「投馬國」は五萬なんだから弁辰レベルの広さとか想定できてなきゃ駄目だろ

鉄の独占サプライやらかすのの相棒のところにきまるんだろうからさ
807日本@名無史さん:2012/09/16(日) 16:39:16.34
想定を元に決めちゃうんだ
バカじゃね
808134馬鹿:2012/09/16(日) 17:49:13.70
>>806
弁辰レベルの広さは不要。
投馬國は、佐賀平野みやき町三根から大牟田市までの沿岸平野の半農半漁の国だから。

不足する農産物は、東に鄰接する邪馬台国と魚介たんぱく質(干物)と交換。
内陸の邪馬台国は、投馬國からのたんぱく質で体力国力を整える関係。
809日本@名無史さん:2012/09/17(月) 00:02:21.07
弥生遺跡が微高地から出てくるのが多いのは周知の事実だが、
支石墓など縄文期の遺跡と混ざって出てくる弥生遺跡は、
どちらかと言えば、微山地といいたいような、ちょっと山の中で出てくる。

兵庫県や熊本県で顕著であり、遺跡数も非常に多い。
810日本@名無史さん:2012/09/17(月) 10:38:50.87
魏志倭人伝に對馬國が「無良田、食海物自活、乗船南北市糴」で、一大國が「差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴」で、
末廬國が「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之」で、それ以後の倭国が「今倭水人好沈没捕魚蛤」だったんだから、
基本的に倭人は魚を食ってて、耕作物はそれほど食ってなかったんだから、広い面積がなくても人口を養えたんじゃないかな
811日本@名無史さん:2012/09/18(火) 06:55:30.11
全国で米は生産していたが、それだけでは十分でなかったんだろうな。
山菜、里芋類、野鳥、昆虫、魚介類、腹の足しになるものは何でも食べたって
ことだろう。今の食料事情をもとに人口の推計をするなんぞは無駄なことだ。
812日本@名無史さん:2012/09/18(火) 10:24:19.78
魏志韓伝の記述と倭人伝の記述を比べると分かるが、馬韓、弁韓、辰韓が農耕社会なのと比べて、倭は漁民社会だ
倭にも田があったとしても、実験的なものだったろうから、その面積で人口を養えたとかいう発想自体間違い
813日本@名無史さん:2012/09/18(火) 11:05:25.92
弥生期でも、最初は縄文期の狩猟採集生活に近いものから、
農耕に大きく依存するまで、幾つもの段階があっただろう。

筑後川周辺の遺跡を見る限り、
最初は山すそで始まったクニが、海の方に伸びていくように見える。

佐賀大和も、首都?としては、惣座遺跡や、後に肥前国庁、国分寺が立てられる
旧大和町付近や中心だが、

湿地帯や海を開拓していく過程で、佐賀城のあるあたりに中心が移ったように見える。
佐賀城の近くにある与賀神社は、與止日女神社の下社となっている。
この下社でさえ、かなり古い神社で有り、そのころからこのあたりで農耕が行われていたとすれば、
相当広大な農地が確保できただろう。

というか、いまでも市街地以外は広大な農地である。
814日本@名無史さん:2012/09/18(火) 12:01:51.21
玄界灘沿岸はさしたる農地はなかった。そんなところに伊都国があったはずはない。
やはり広大な農地をバックに強国があったと考えるべきだ。
815日本@名無史さん:2012/09/18(火) 20:12:40.88
個人的には久留米を投馬国としているが、
筑後川で、久留米より下流は海、または湿地帯だっただろう。
しかし、久留米を中心とすると、久留米より上流の、甘木朝倉は、
若干標高が高いこともあって、広大な農地が確保できたとおもわれる。
南側は大牟田荒尾までの広大な領域だが、
当時は海が山に近いところにまで迫っており、それほどではなかったと思われる。

そして、邪馬台国を熊本全域としているが、
熊本は、筑後と違って、熊本平野も台地上の土地が多く、
比較的標高が高い。
従って、当時から利用できる土地はかなり広かったと思われる。

比較的標高の高い土地から、標高の低い土地に降りてくるとすれば、
初期の頃は熊本が巨大な勢力を誇っており、
だんだんと、筑後などの標高の低い土地をもつ勢力が力をつけてくるという、
シナリオを考えている。

従って、熊本を邪馬台国と考えると、
古い超大国と、低地の新興国という構図になるのではないだろうか。
816日本@名無史さん:2012/09/19(水) 13:04:55.57
>>814
「今倭水人好沈没捕魚蛤」の倭人の国に農地がなくても何の問題もないだろ。
817日本@名無史さん:2012/09/19(水) 14:12:49.58
そう思うのはバカだけだろうな
818卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 17:37:31.71
>>816の男が、倭とは南方だと言っている男だろう。
この男は倭人伝しか読んだことがないのか、
弥生期に於いてさえ、米は内陸部で試験的に栽培されていただけだろう、
などとトンチンカンなことを書いている。

人類が農耕を始めたのはペルシャ文化期といわれる紀元前五千年頃からである。
日本とて例外ではない。穀物の生産はその頃から開始されているのである。
819日本@名無史さん:2012/09/19(水) 18:29:00.28
>>815
>古い超大国と、低地の新興国という構図になるのではないだろうか。

扇状地地域の古い国と、低地の新興国という構図になるのではないだろうか。

邪馬台国は、北野平野と筑後平野の扇状地地域の古い国々(4ヶ国)が連合して発展した国。

投馬國は、佐賀平野東部から筑後平野沿岸部(筑後川矢部川河口洲も含む)の
末盧國のような漁労国が低地農地の開発に伴って大国したもの。

奴國は、佐賀平野低地部開発による新興国。
であるから、奴國の城郭は低地農地の中央部である佐賀城付近の
嘉瀬川自然堤防によって形成された微高地に置かれた。
なお、奴國は福岡平野の旧倭奴國の分国と考えられる。
820日本@名無史さん:2012/09/19(水) 18:50:34.04
>>818
>人類が農耕を始めたのはペルシャ文化期といわれる紀元前五千年頃からである。
>日本とて例外ではない。穀物の生産はその頃から開始されているのである。

話のすり替えをするのは、当に朝鮮人そのものだ。
話のすり替えを作為的にしていないのなら、朝鮮卑弥呼はバカそのものだ。

水稲作の米について論じているのに、農耕から麦作の穀物にすり替えているな。
821日本@名無史さん:2012/09/19(水) 18:59:38.98
稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、
土器に残る痕跡などからわかる。 縄文時代中期に、中国から台湾、琉球を経て九州南部に伝わり、その後
九州北部、中国・四国へと伝わったという説がある。 大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩
期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。
822日本@名無史さん:2012/09/19(水) 19:27:03.94
今のところ、一番古い水田の跡は、唐津と福岡。
823卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 19:39:21.84
>>820
縄文時代をWikiで調べると、中期(約5,500 - 4,500年前)とある。
その頃から稲作が行われた、と>>821の男が書いている。
私が>>818で書いたことが合っているぞw
824日本@名無史さん:2012/09/19(水) 19:48:08.92
水稲は水田の跡や、炭化米などから、紀元前10世紀あたりまでさかのぼるとされる。
陸稲はプラントオパールによる間接的な推測だが、5000年前にさかのぼると推測されている。
825日本@名無史さん:2012/09/19(水) 21:38:57.67
>>823
>中期(約5,500 - 4,500年前)とある。
>その頃から稲作が行われた、と>>821の男が書いている。

それは陸稲であって、水稲ではない。
>>821は、縄文晩期に水稲が始まったと書いているのだ。
稲作は曖昧な言葉だと分からないないのか?
おまえは、「稲作」と言う言葉を使って、又も水稲から陸稲に、又も話をすり替えている。

おまえは作為的に話のすり替えをしていない様だから、やはりバカな様だな。
826卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 22:20:14.16
>分からないないのか? ←(爆笑www)
827日本@名無史さん:2012/09/19(水) 22:45:42.80
朝鮮卑弥呼は変換ミスの揚げ足しかとれないバカ。
828日本@名無史さん:2012/09/20(木) 11:15:59.60
829日本@名無史さん:2012/09/20(木) 17:05:56.59
>>818が正しいとして、それは倭人伝の記述とは異なるわけだから
そのことによってむしろ、そこが邪馬台国ではないという証拠になるんだが
830卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 18:53:24.69
>>829
倭人伝に書かれているのは倭の風俗であって、邪馬台国の風俗ではないと思うが。
831日本@名無史さん:2012/09/20(木) 19:57:34.10
それは屁理屈
832卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 20:00:44.10
いや屁理屈じゃないだろう。
君らは倭人伝の風俗記事は邪馬台国のことだと思って読んでいるのか?
833日本@名無史さん:2012/09/20(木) 21:17:23.57
倭国でもない、邪馬台国でもない。女王国の風俗だよ。
834卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 21:53:27.70
まあ実際に描かれているのは北九州の風俗だろう。
あれを読んで大和を連想する人間はまずいまい。

しかしそれと邪馬台国問題は別で、邪馬台国は大和と考えるほうが理に適っているのである。
しかしでは邪馬台国は大和、卑弥呼は神功で決まり、かというとそうとも言えない。
なぜなら記紀には神功が朝貢したという記事もないし、台与が跡を継いだという記事もない。
おまけに狗奴国とか狗古智卑狗というのは明らかに熊襲とか菊池彦を連想させるのである。
それで未だに論争が続いているのであり、第三の新説として朝鮮説が、
早くも大正時代に浜名寛祐によって提出されていたのである。
それに触発されたのか、山形明郷は中国の正史全巻を原文で読破し、
浜名寛祐とほぼ同じような結論に達したのである。
835日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:06:35.64
どこがどういう理にかなっているのか知らないが、

邪馬台国は九州に到着して『南』の方向にある。
東に海を渡るとまた倭種の国がある。
倭の地を訪ねると、周旋可五千餘里。

など、倭人伝には、大和では理にかなわないことばかりが書かれている。
836卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 22:18:27.81
南というのは、日本列島が南北に描かれた地図があるのだから、九州説有利とは言えない。
あとの二点は、まあ九州説有利である。

しかし投馬国と邪馬台国の水行陸行記事は明らかに大和説有利だ。
その他、邪馬台国という名、七万戸という戸数なども大和説有利。
さらに神功皇后という女王がいたのだから、これも大和説有利だ。
837日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:24:04.12
>日本列島が南北に描かれた地図があるのだから
いつの地図だ? どこで作った地図だ? 分かってるのかな?
838卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 22:27:49.14
そんな地図は、ここにいる全員が周知しているはずだが。
その地図が、偽物だとか、大和説を完全に粉砕できるような新事実でもあるなら別だが。
839日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:33:09.83
南北に書かれていたというのは、棍一地図のことだろうが、
使者がそれを見たら、みんな南に行っちゃって、
東にいくやつは、いないやね
840日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:37:27.22
混一疆理歴代国都之図は1402年に李氏朝鮮で作られた地図だ。
邪馬台国時代は3世紀、地図が作られたのは15世紀、しかも中国ではなくて
朝鮮だ。分かるかな? 3世紀の中国人の世界観とはまったく関係ないんだよ。
841日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:40:35.51
もう少し詳しく言おうか?
地図の下段に記される由来によると、朝鮮使として明に派遣された金士衡という官僚が、
1399年に2種類の地図を国へ持ち帰った。それは李沢民の『声教広被図』と、仏僧である
清濬の『混一疆理図』で、それらを合わせ、さらに朝鮮と日本を描き加えたものだ。

つまり中国で手に入れた元の地図には朝鮮も倭国も書かれていなかったんだよ。

842日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:49:26.87
実際に日本にやってきた使者が報告書に『東』と書いたのに、それを見た
陳寿が自分に先入観で『南』に書き換えたというわけだろう。
そんなのはありえない。
地図のない時代に、陳寿が日本の地理を知っているわけがない。
843卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 22:50:48.44
ということは中国人は日本の地理について何も知らなかったということだ。
君らは魏志が日本に来たから方向を間違うはずはない、などと推理しているが、
魏使が日本に来たという証拠はないのだ。

更に朝鮮人が書き加えた地図でさえ日本は南北に描かれていたのだ。
だとしたら中国人も同じように考えていたかもしれないではないか。
中国人が朝鮮人に、「倭とはどんな形だ」と訊いて、
朝鮮人が「南北に長い国です」と答えたかもしれないではないか。
844日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:55:03.24
そして、来訪者はすべて南に向かい、
東に足を向ける者はなかった。
845日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:58:27.21
>魏使が日本に来たという証拠はないのだ。
地図になかったからといって証拠はないなんて言えるものではない。
倭人伝に使者が倭国に来たことは明記されているよ。

>朝鮮人が書き加えた地図でさえ日本は南北に描かれていたのだ。
どうしてそんな地図を作ったのか、考えてみたことはないのかな?

846日本@名無史さん:2012/09/20(木) 22:59:57.11
東のほうの国は、存在を知られていなかったか、
書くほどのことはないと思われていたのだろう。
847日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:05:40.77
九州以外の東の国が中国に認知されたのは、旧唐書からである。

848卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 23:06:00.76
>>845
君は根本的なことを理解していないな。
張政が倭国に来たように書かれているが、
その倭国が日本とは限らないということだ。

ここに盲点があるのだ。
849日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:10:46.71
ちがうな。少しは頭を使えよ。
15世紀初頭に、李氏朝鮮の廷臣が混一疆図を作る際、何を参考にしたと思う?
当然、奴の手元には朝鮮の大まかな地図はあった。それと我が国の「行基図」が
あったらしい。
それを中国の地図にはめ込むときに、参考にするものと言えば、倭人伝なんだよ。
それが最高の参考書だ。ここで、注目すべきは、混一疆図の朝鮮がやたら大きく
書かれているということ。つまり、奴は、倭人伝の里を中国の普通の里と思い込
んだ。短里なんて考えはないから朝鮮を大きく書いたわけだ。
850日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:22:14.25
>>848
君はそう思い込んでいればいいさ。ほかの人はそんなトンデモは無視だ。

>>849の続き。
そして、倭国の地図をはめ込むとき、時はすでに15世紀、我が国の都は近畿の大和
だったんだよ。だから奴は、九州で上陸し南へいったところに近畿があると思って
我が国の地図を90度回転させ、北から南へ列島が延びているようにはめ込んだんだよ。
邪馬台国と大和国を同じだと思い込んであてはめたというわけだ。

我が国が南北に延びてるなんてのがひどい間違いだってことは我が国のことを少しでも
知ってる者がみれば分かることだ。だから、すぐ我が国を東西に延びた形にした修正版
が出たんだね。
851日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:22:46.33
はるか昔の高句麗の時代から、
「朝鮮半島は、中国大陸に比べて非常に小さい国家だ」
ということは、朝鮮人・為政者は身に染みて知っている。
(互いに使者が行き来してるし、冊封体制もあるし)

で、何故「混一疆図」を作ったのかと言えば、
これは倭人伝の世界をマップにしてみたんだよ。
そういう面白いマップなので、後世に残ったというわけ。
852卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 23:28:35.21
>>849
なるほど、倭人伝を参照して地図を書いたというわけか。
発想の転換、コペルニクス的転回だな。それはそれで面白い。

それはさておき、君たちの九州説は二つのことを前提にして成り立っている。
1 魏使が日本に来た。
2 倭人伝は魏志の報告に依拠して書かれた。
ところがどちらも決定的証拠はない。特に2に至っては何の証拠もない。
ところが君らはこの根本的なことを不問に付して議論を重ねているのである。
1と2が崩れれば、君たちの足場はぐらぐらと動揺するのである。
853日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:32:17.43
崩れることはないから問題ないよ。
854日本@名無史さん:2012/09/21(金) 07:32:26.11
そこを疑うくらいなら、もっと疑うとこがあるだろ。
例えば、ネット朝鮮史の由緒とか
855日本@名無史さん:2012/09/21(金) 07:51:34.29
>>852
陳寿の三国志は、魏の朝廷を継承した晋の朝廷によって採用されている。
正史の候補は他にもある中で「三国志」が選ばれたのは、
晋の高級官僚(即ち魏の朝廷の継承者)たちが見て、これで妥当としたからだ。

大局的に上の選定経過は疑えない。

細かい個別の事項は、古代史である以上、疑えば何でも疑えるし
言えば何でも言える。そんな事を言っても仕方ない。
856卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 09:18:15.41
>>854-855
お前の言っていることは私の主張していることと何の関係もない。
1 魏使が日本に来た。
2 倭人伝は魏志の報告に依拠して書かれた。
この二点について、何の確証もない、と私は言っているのだ。

梯儁と張政が倭に行ったことは確かだが、倭に渡ったとも渡海したとも書かれていない。

それに馬韓や弁辰は南で倭と接すると書かれているのであり、
そんなところに倭があったかどうかはともかくとして、
中国側ではそのように認識、想像していたのである。
だから馬韓の南にあった加耶が朝貢すれば「倭が朝貢したきた」と書かれるのであり、
加耶の女王が卑弥呼という名なら「倭の女王卑弥呼が朝貢してきた」と書かれるのである。

だから少なくとも卑弥呼の倭は日本ではなく、朝鮮半島南部のことである可能性があるのだ。
これはトンデモでも何でもなく、倭人伝に依拠すれば当然考えられる推理なのである。
857日本@名無史さん:2012/09/21(金) 10:00:03.95
邪馬台国は、卑弥呼以前には存在していたクニだから、九州というだけなんだが・・・
858日本@名無史さん:2012/09/21(金) 10:04:39.84
朝鮮くんのばあいは読み方がやや粗雑だから

「加耶の女王が卑弥呼」などとゆう大嘘を掻いちゃったりする

ちょっと悲しいかな

にゃんこに小判とかゆわれてしまうのとかがやなら

ちゃんと調べなおしてから股掻いてみようね

あと

「魏使が日本に来た」とゆうのは

そおゆうこと書いたレポートが史料として残っている

それ以上でもそれ以下でもない

手前勝手な確証とか不要だよ

ふううん そおなのか とりあえずそいつを否定するような史料とかみえねえな

当面は嘘書いていないなら本当かもしれない 暗いに思っておくのが良いよ

859日本@名無史さん:2012/09/21(金) 10:57:05.97
>馬韓や弁辰は南で倭と接すると書かれているのであり〜朝鮮半島南部のことである可能性
接という言葉を知らないようだね。接触ばかりではない、接近も接だ。
 @ 比較的近い距離にあること
 A 間に第三国が入っていないこと
この場合に接と言うんだよ。具体的事例を調べてごらん。海を隔てている場合も
接とあるから。
860卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 12:55:19.21
>>858
稗箕狐よ、ちゃんと読め。
私はどこにも加耶の女王が卑弥呼だなどとは書いてないぞ。
仮の話をしているのだ。
仮に加耶の女王が卑弥呼という名で、加耶が朝貢したとしたら、
中国は馬韓の南は倭だと思っているので、
「加耶の女王卑弥呼が朝貢した」とは書かずに、
「倭の女王卑弥呼が朝貢した」と書くだろう、という話をしているのだ。
お前は文章もまともに理解できないのか。
>>859
もちろんそういう読み方もある。それは否定しない。
しかし大多数の人は陸で接していると解釈するだろう。
つまり君の解釈も成り立つが、私の解釈も成り立つのだ。
だから私のように卑弥呼の倭は半島南部だと解しても何ら不自然ではないのである。
861卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 13:06:49.57
もうひとつ稗箕狐に書いておこう。
>「魏使が日本に来た」とゆうのは
>そおゆうこと書いたレポートが史料として残っている

この男はもしかしたら私の言っていることを理解していないかもしれないので書いておくのだが、
「魏使が日本に来た」などという史料は残っていないのである。
「魏使が倭に行った」という史料しか残っていないのである。
で、その倭は日本ではないかもしれない、と私は言っているのである。

こんなこと、再度書くようなことではないのだが、
稗箕狐という男は文意もまともに理解できない男のようなので書いておくのである。
862日本@名無史さん:2012/09/21(金) 13:11:32.01
朝鮮くんのばあいは読み方がエロ粗雑だって確認とれちゃったよな

無駄に「加耶の女王が卑弥呼」などとゆう大嘘の仮定とか掻いちゃったりする

ちょっと悲しいかな

にゃんこに小判とかゆわれてしまってもしょおがないよな


ちなみにこの時期の「加耶」の女酋長さんは「加耶君」と呼ばれる「美理~」さんで
(223)の生まれだから卑彌呼が生めたりできるような世代の人
「加耶君美理~」の旦那は「宇理」とか「河智」とかのがおったけど
「加耶主」の夫と呼ばれていたとゆう
「美理~」さんのかあちゃんのが「毗可」さんで「金官駕洛」から「加耶」に嫁に逝った
その父のは「首露」さんで 兄が「居登」さんでありまする

あと「馬韓」の西に「加耶」があるのであって決して南にあったりするのではないのれす

方向音痴の人に逝ってもしょうがないかとはおもふが

863日本@名無史さん:2012/09/21(金) 13:14:36.80
朝鮮くんのばあいは読み方がエロ粗雑だから

島の間渡ったとかのも嫁ないんだわな

もおあそんであげるのやめたほおが良いかも
864ちょっと掻いておこう:2012/09/21(金) 13:23:12.15
從郡至倭
@循海岸水行
A歴(諸)韓國(川行)
B乍南乍東 到其(倭)北岸狗邪韓國(こぅやはんこく)
七千餘里


Bでとりあえず「倭」には到着しておるのね

「狗邪韓國」 のは
「拘邪韓國」 でも
「狗邪瀚國」 でも良し

ここのところに湧いていた未知のコロニーは
「倭域」と隣接する「弁辰域」にある「狗邪國」と良好な関係にあるだろう
んで「狗邪國」が「金官駕洛」なのは現状あまり疑われていない状況
この時期の「金官駕洛」の酋長さんは「居登(こと)」さん
お父さんのが「惱窒裔 首露」さん
(155)に逃げてきて建国したとゆわれる「惱窒裔 首露」さんの本貫は「伽耶山」の麓

はしょっておおまかにゆうと
この時期「居登(こと)」さんは最低限でも「倭域」を統べる「女王」のサポーターさん
もっとゆうと「女王」の「宗族」に繋がる血縁者である可能性が相当高いかとみられ
865日本@名無史さん:2012/09/21(金) 14:13:04.16
>>860
>もちろんそういう読み方もある。それは否定しない。
そうであるならば、「南で倭と接する」は 朝鮮半島南部に倭があったとする
根拠にはならないんだよ。どちらにでも解釈できる語句で一方に決定すること
はできない。当然のことだろ。
倭が朝鮮半島にあったかどうかは、別の記載で判断するほかはない。となると、
「大海の中」などと記載されていることが決定的な意味を持つ。
866日本@名無史さん:2012/09/21(金) 14:16:32.38
>Bでとりあえず「倭」には到着しておるのね
倭の北にあたるというだけだ。狗邪韓国が倭だと言っているわけではない。

867日本@名無史さん:2012/09/21(金) 14:30:31.33
>>866
其(弁辰)瀆廬國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服巨エ、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。

素直に曲げないで読んだほおが良いかとはおもふが

陳寿の俺様ルールでは「狗邪韓國」は「倭」に分類される領域だろ
868日本@名無史さん:2012/09/21(金) 14:39:10.07
其瀆廬國與倭接界の接も>>859で述べたところと同じだ。
瀆廬國と倭の間には第三国はなかったというだけのことだよ。

>陳寿の俺様ルールでは「狗邪韓國」は「倭」に分類される領域だろ
韓国の領域だから狗邪韓国と念を押しているんだ。倭の領域ならば狗邪倭国
だろうが。
869日本@名無史さん:2012/09/21(金) 14:53:10.09
「韓国」という統国は存在しない
だから「韓國伝」ではなくて「韓伝」で
「韓」の領域にちらばっておるのが「諸韓國」なのだ

「狗邪韓國」 のは
「拘邪韓國」 でも
「狗邪瀚國」 でも良し と書いたのは

「韓」=「瀚」で これはたんなる美称だと理解しておるが

「韓国」という「統国」は存在しない これメモしておけや

「統国」のは定義しないで使用しても ぽまいら理解できるだろ
870日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:00:25.34
諸韓国を統一する王はいなかったということかな。それは何も問題なかろう。
何を言いたいのか分からんね。
871日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:08:00.71
「狗邪韓國」 のは
「狗邪瀚國」 でも良しとなると

意味変換してあげると

「狗邪韓國」 のは
「狗邪彌馬國」 になる

輝ける南にある「狗邪」といふ國だわ

「狗邪彌馬國」は
「狗邪壬國」とか
「狗邪任國」とかに変換可能

「壬國」といふは北にある國とゆう意味だわ
872日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:10:17.66
>「狗邪瀚國」 でも良しとなると
良しとはならんだろう。

873日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:27:02.49
>>864
文の構造を間違えている。
正しくは下記である。

從郡至倭
@循海岸水行
A歴(諸)韓國(水行)
B乍南乍東(水行)
C到其(水行海)北岸狗邪韓國
D七千餘里

主文「從郡至倭」を修飾(説明)しているのが@〜D

韓國:韓地にある国々
三国志の倭人について書かれた部分であるから、@〜Cは(韓地の)倭についての記述である。
D(七千餘里)は帯方郡から倭の拠点である韓地の狗邪國までの距離。
874日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:32:03.27
>主文「從郡至倭」を修飾(説明)しているのが@〜D
そのあとも続くんだよ。

875873:2012/09/21(金) 15:32:25.29
>>867に同意
陳寿の俺様ルールでは「狗邪韓國」は、韓地の狗邪國であるから、
「倭」に分類される領域である。
876873:2012/09/21(金) 15:36:08.98
>>874
>そのあとも続くんだよ。

そのとおり、「南至邪馬壹國・・・・・可七萬餘戸」まで続くのです。
877日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:36:19.71
>韓地の狗邪國であるから、「倭」に分類される領域である。
意味不明だな。倭に分類される領域ならば韓地ではなく倭地だろうが。

878日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:45:36.84
どこから倭が始まるのか、次のことも考えないとな。

今三十国・・対馬国から狗奴国までで三十国だ。狗邪韓国が入る余地はない。

女王国以北その戸数道里を略載できる・・狗邪韓国については戸数の記載がない。

つまり、狗邪韓国は韓国であって倭国ではないんだよ。
879873:2012/09/21(金) 15:49:30.60
>>877
>倭に分類される領域ならば韓地ではなく倭地だろうが。

韓人と倭人の混住地域。
つまり、弁辰人の狗邪國と倭人の狗邪國がある。
「其瀆廬國與倭接界」も、弁辰人の瀆廬國と倭人の瀆廬國が隣り合っている(接界)とある。
これは、瀆廬國には弁辰人界(弁辰社会)と倭人界(倭社会)が隣り合っているの意味。
弁辰人と倭人が混ざり合った社会ではありません。
880873:2012/09/21(金) 15:53:02.58
>>878
>狗邪韓国は韓国であって倭国ではないんだよ。

そのとおり。だが、少し修正する。
狗邪韓国は韓地の国であって倭地の国ではないんだよ。
881日本@名無史さん:2012/09/21(金) 15:58:54.89
苦し紛れだな。

>弁辰人の狗邪國と倭人の狗邪國がある。
だったら、ますます狗邪韓国は弁辰人の狗邪国だろう。倭人の狗邪国を狗邪韓国
などというわけはない。

で、王様は倭人、それとも韓人? 混血だって主張するかな?
882にゅーVer.です:2012/09/21(金) 16:19:15.83
    ┌┬┐
    ├┼┤夫餘 方可二千里 戸八萬
  ┌┼┼┘
  ├┼┤高句麗 方可二千里 戸三萬
  ┝┿┿┰┐
  └┼朝╂┤東沃沮
    ├鮮╂┼┐濊 戸二萬──もうひとつの主要ルート
    ┝┿╋┿┥           │
  郡★帶方┼┤韓 方可四千里  │
    ├馬╂弁┤馬韓 凡五十餘國│總十萬餘戸
    ├韓╂辰┤弁辰 合二十四國│總四五萬戸
    └┴┸┴★狗邪        │
三千許家    ★對海國       ↓
 天ハブセンター一大★ 女  多 ┬┬┬┬┐みみのぴょんぴょん
   二萬戸奴國┏★國★婆┴┴┴┴┘投馬國 五萬餘戸
           ┣┫  ┃ 復有國└─→鉄とかを供給
   神の狗奴國┗┫┏┛
  クマの       .┗┛邪馬臺國
             20ヶ國七萬戸
883日本@名無史さん:2012/09/21(金) 16:51:30.20
(馬韓)其男子時時有文身

今辰韓人皆褊頭男女近倭 亦文身
便歩戰 兵仗與馬韓同其俗 行者相逢 皆住讓路

弁辰與辰韓雜居 亦有城郭
衣服居處與辰韓同
言語法俗相似 祠祭鬼~有異 施竃皆在戸西
其瀆廬國(瀆盧國)與倭接界
十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ 長髮亦作廣幅細布法俗特嚴峻


韓の領域には文身の土人がたくさんおったとちゃんと認識すべきだな

むしろ文身の土人が優勢なところに多数の亡命者が受容されたみたいなのが良いかも

884卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 18:16:30.75
稗箕狐という男はまったくアホな男だな。これほどのアホだとは夢にも思わなかった。

では稗箕狐よ、渡海して日本に来たのは魏使だと証明してみろ。
それができたらお前に一億円やるよ。

それからどこかの大学の研究室に行って、
「馬韓の西に加耶がありました」
と言って来い。そしたら先生は言うだろう。
「君は松沢病院に行きなさい」w
885卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 18:24:33.95
稗箕狐という馬鹿男が誤解するといけないので、念のために書いておこう。

狗邪韓国まで来たのが魏使だと証明してみろ。
それができたらお前に金印紫綬を与えてやるよ。
886873:2012/09/21(金) 19:00:01.60
>>881
>で、王様は倭人、それとも韓人? 混血だって主張するかな?

弁辰十二國の王は自立していない辰人と書いてある。
「其十二國屬辰王 辰王常用馬韓人作之 世世相繼 辰王不得自立爲王」

弁辰十二ヶ国には、倭人が住んでいる国々もある。
狗邪國、瀆廬國と「歴韓國」の韓地の国々は、
辰王に属さない倭人の国々でもあるのだ。

つまり、弁辰と倭の社会が同一国内にモザイク状に存在しているのである。
887日本@名無史さん:2012/09/21(金) 19:15:20.33
朝鮮くんたらお顔真っ赤にしてどおしたの?

金印紫綬とかもろてぽまいの家来になるとかのはまっぴら御免だ罠

方向音痴の人って逝ったのが気に食わなかったのかなあ

てかね無理に北にもって逝きたいとゆうこんたんが理解しがたいよな

おれは少しでも確からしければ何処でも良いのだけどね

伽耶山の麓に加耶があったってふつうのひとにはふつうなんだろうけどさ

さらにその西側に聖父許婁と太君脱解のお里の卞山があったぽいって思えるけふこのごろ。

かあちゃんが女國王女でとおちゃんが多婆那國王の子のなれのはてのが太君脱解でありましたよね
888修正してちょ:2012/09/21(金) 19:21:31.41
さらにその西側 でなくって

さらにその東側 のがほんとう
889日本@名無史さん:2012/09/21(金) 19:24:18.72
×「馬韓の西に加耶がありました」

○「馬韓の東に加耶がありました」

朝鮮くんごめんな タイプミスしちょったわ
890卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 19:43:07.35
>>887
だから稗箕狐よ、お前の書いていることは馬韓とは何の関係もないよ。
馬韓は恐らく遼寧省南部から漢江辺りまでが馬韓の版図だったのだ。
馬韓の西は海であって、そんなところに加耶は無い。

伽倻山(三角山)というのは例の「熊津弁」の比定だが、
一応これを信用すると、加耶というのはソウル近辺にあったのであり、
その辺りで新羅とたびたび衝突している。

ついでに言うと、多婆那國とは済州島ではないかとこの頃思い始めているのだ。
漢江以南は西側も新羅の版図だったかもしれないから、
多婆那國が済州島であってもおかしくないのである。
891卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 19:49:19.90
>>888-889
了解。あまりにもおかしなレスだったので、お前の頭を疑ったのだw

892日本@名無史さん:2012/09/21(金) 19:55:04.69
ごたくならべているひまとかあったらエエから即刻短里採用してから騙れよ

短里のこと知らないやつの落書きとかコレクションしてもものの役には立たないの気付け

おまいの追いかけてる馬韓のはおれの追いかけてる馬韓とは別物

虚像だとまでは言い切らないけど味噌と糞とをごた混ぜにせんといてや

多婆那國は女王國から東北に1000里だからだれでも地図さえ見れば判定できるよ
893卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/21(金) 20:21:25.90
お前はパカだな。短里説など信じているとは。
それに熊津弁の比定は短里説などとは何の関係もない。
さらに多婆那國は倭の東北千里などというのは一伝にすぎない。
ネット史を読めば半島内にあったようにも読めるのだ。

お前がやはりそれほど聡明な人間ではないことはよく分ったよ。
もともとお前や19歳のようにエラソーな文を書く男に聡明な男はいないのだ。
私や唐松山に対してはマヌケと書いてもいいが、名無しの連中には書くなよ。
書けば、そのうち総スカンを食らうぞ。もちろんお前は要領のいい男だから、
今のところ名無しの連中の反感は買っていないようだがな。
894日本@名無史さん:2012/09/22(土) 05:45:06.71
ネット朝鮮史信じる位なら竹内文書も参考にしないとな。
895日本@名無史さん:2012/09/22(土) 07:55:40.45
スレが伸びてると思ったら、朝鮮人が暴れてた
896日本@名無史さん:2012/09/22(土) 10:52:23.82
字は違うが、可也山は糸島(半島)にもあり、
その近くに、末廬国があった、そうだ.
http://www006.upp.so-net.ne.jp/mnogami/ による)
末廬=松浦、伊都=怡土 と思い込んでいたが、1つずれてしまった.
897卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/22(土) 13:06:38.42
行程記事の問題点の一つは不弥国の位置である。
これを定説の宇美と解すると、そこは内陸部だから、水行ができない。

そこで、不弥国は宇美ではない、と考えるか、
伊都国からの放射読みを採用するしかない。

しかしもう一つ盲点がある。それは馬韓にも不弥国があることである。
で、投馬国と邪馬台国への水行陸行記事は、
もしかしたら馬韓の不弥国を起点にしているのではないか、という疑問が生まれる。

陳寿が、いろんな情報をごちゃごちゃにして書いているのではないか、という疑問が生まれるのである。
古田の、帯方郡起点説なども、あながち軽視できないのである。
898日本@名無史さん:2012/09/22(土) 13:47:00.54
>>897
伊都国からの放射読みをしても、伊都国が糸島である限り、南に水行できないし、
千歩譲って東に水行することも不可能。
南に水行可能なのはやはり有明海と考えた方が良さそう。
899日本@名無史さん:2012/09/22(土) 14:13:36.03
纒向遺跡が出てから不利みたいに言われとるけど、纒向に中国との繋がりを示すものはあまりないし
奴国やクマソも九州なのに邪馬台国だけが九州っておかしいよな
やっぱ纒向は纒向で邪馬台国は邪馬台国だと思う
900日本@名無史さん:2012/09/22(土) 14:15:33.34
899だが、まちがい
×邪馬台国だけが九州っておかしいよな

○邪馬台国だけが近畿っておかしいよな
901日本@名無史さん:2012/09/22(土) 14:53:07.99
旧唐書倭国伝と日本伝

日本は元小国だったが、のちに倭国の地を併せたり。


白村江で倭国は壊滅し、唐の駐留を受けて、
一部の人間は畿内に逃亡しただろう。

それからしばらく後に、初の条坊制都市、藤原京が作られる。
ほぼ同時期に大宰府にも条坊制都市の痕跡があることから、
制度を知っている文化人や技術者が畿内に流れたと思われる。

大宰府はおそらくは不完全な条坊制都市である。
古墳時代どころや弥生時代以前から多くの住居遺跡があるため、
豪族の邸宅などもすでに作られていただろう。
そこにあとから都市計画をしても、なかなか進むものではないのだ。

藤原京はあまり人家のない広大な土地を探して作られたものであろう。
ただ、比較的低湿地のため、汚水の排水が悪く、汚染に悩まされたようである。
902日本@名無史さん:2012/09/22(土) 15:01:08.39
>>899
あそこら付近にはもう纏向遺跡しかなかった。
だから強引に年代を合わせ、あとは宣伝しまくった。
903日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:16:02.78
本州や四国は倭国の植民地で、近畿大和が大倭の一大拠点だったんだよ。
白村江で破れた倭国は、九州に立て籠もっても勝ち目はないということで
近畿大和へ逃げたのさ。
904日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:21:54.54
かあいそおな熊襲の酋長さんが追い出されてからに成仏できずに毛人の里に迷い出たのかもしれない
905日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:37:45.19
>>898
伊都国が糸島半島である根拠は何ですか。単に音が似ているという理由ならお
よそ学者に有るまじき論証だよな。
伊都国をもっと別な、水行も可能な比定地を探せばどうですか。
906日本@名無史さん:2012/09/22(土) 18:07:54.12
伊都国は佐賀に決まってるだろ。まあ、畿内説は非常識と言われてもなんでも
怡土にしがみつくしかないがな。
907卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/22(土) 18:24:25.03
変なことを書いている奴がいるな。
伊都国からなら水行できるはずだが。
908日本@名無史さん:2012/09/22(土) 18:28:38.69
>>905
狗邪韓国から対馬まで千余里
対馬から壱岐まで千余里
壱岐から末蘆国(佐賀の東松浦半島)まで千余里
末蘆国から伊都国まで五百里
どう見ても伊都国は佐賀かその辺だろう
909日本@名無史さん:2012/09/22(土) 20:41:36.05
むしろ、糸島半島に行くほうが、根拠がない。
名前が似てるということだけだな
910日本@名無史さん:2012/09/22(土) 21:01:19.35
>>905
伊都国が糸島なら南へも東へも水行できないから放射説は成り立たない。
といっているわけで、暗に伊都国は糸島ではないと言っているわけなのだが…。
911日本@名無史さん:2012/09/22(土) 21:11:47.99
おまいらまぬけだろ

陳寿は列島の土人に読んでもらいたくて作文したわけではないんだよな

到着したみたいなかんじのところで不自然なへんな馬鹿でかい数値とか出てきたら

大陸側の読者はそれなりに処理して矛盾しないように読むのにきまるだろ
912日本@名無史さん:2012/09/23(日) 02:06:11.21
伊都国=怡土説が誤りだってことはみんな異論がないわけだ。
913サガミハラハラ:2012/09/23(日) 08:03:03.74
大陸側の読者はそれなりに処理して矛盾しないように読む、ってこれは最終目的地がどこにあるかという前提がなければ読みなおせないですよね。

伊都国=怡土説が謝りだってことはみんな異論がないわけだ。
そうです異論はありません。もう一度原点にたちかえり考えなおすべきです。
914日本@名無史さん:2012/09/23(日) 08:53:40.80
>>911
別冊の他国の情報、それも数行程度
そんな力入れて読むわけないだろ
915日本@名無史さん:2012/09/23(日) 09:55:10.99
>>905
狗邪韓国から対馬まで千余里
対馬から壱岐まで千余里
壱岐から末蘆国(唐津IC西九州自動車道)まで千余里
末蘆国から伊都国まで五百里
どう見ても伊都国は佐賀平野だ
916日本@名無史さん:2012/09/23(日) 10:20:06.16
>>905
狗邪韓国(巨済島)から對海國(対馬粟島)まで千余里
對海國(対馬神埼)から一大國(壱岐羽奈毛崎)まで千余里
一大國(壱岐鯨島本島)から末蘆国(唐津IC西九州自動車道)まで千余里
末蘆国から伊都国まで五百里
どう見ても伊都国は佐賀平野(佐賀大和町)だ
917日本@名無史さん:2012/09/23(日) 13:04:24.76
そうですね。伊都国は佐賀・大和町付近と考えるのが合理的です。ということは、
その時点で畿内説はありえないということですね。畿内へ向かうのに有明海沿岸
へ出ることはありえません。
918卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/23(日) 19:54:20.99
誰かが書いていたが、伊都国が佐賀なら、そこから奴国や不弥国に向かう必要はない。
また、仮に放射説を採用するにしても、久留米や菊池郡まで、
水行十日陸行一月もかかるわけがない。
どう考えても、行程記事は九州説に不利なのである。
それで古田や伊作は帯方郡起点説を採用しているわけだ。
しかし帯方郡起点説が極めて苦しい説であることは論を俟たない。

これに対し、畿内説は南を東に変えるだけですんなりと成り立つ。
結局、どう贔屓目に見ても、行程論では、九州説不利である。
919日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:17:40.61
>久留米や菊池郡まで、水行十日陸行一月もかかるわけがない。
当たり前だろ。そんなところに比定する説は論外だよ。
九州は広いんだ。
920日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:28:02.81
>>918
>これに対し、畿内説は南を東に変えるだけですんなりと成り立つ。

まず、日本にたどり着かないと思いますが?



921日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:40:31.43
>>918
「南至投馬國、水行二十曰」
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」

ここの南だけ、東に変えるんだよね。
都合が良過ぎない?
922日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:45:52.65
南を東に変えて、公里を使うと、ベーリング海峡ですな。
923卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/23(日) 21:02:15.55
>>919-922
wwwいやー、君らはホントに面白いな(笑)
君らを納得させることは絶対に無理だということが分かったよ。
あとは畿内論者に任せよう。
ジョーカーとかいう男、最近は出てこないが、彼にでも任せよう。
しかしあの男でも無理だろう、この連中を納得させるのは。
924日本@名無史さん:2012/09/23(日) 21:03:14.29
>>918
> これに対し、畿内説は南を東に変えるだけですんなりと成り立つ。
なら、もとから東と書かれている海を隔てた倭種の国々(裸国や黒歯国など)はどっちの方角になるの?
925日本@名無史さん:2012/09/23(日) 21:03:27.04
>>922
卑弥呼は、やっぱりマッキンリー邪馬にいたんだ。
926日本@名無史さん:2012/09/23(日) 21:25:36.19
>>923 朝鮮
敗北宣言

最初っから解っていたけど
もう2度と来るなよ
ついでに「ドン来い」にも来るなよ
927日本@名無史さん:2012/09/23(日) 21:31:55.71
卑弥呼は邪馬台国は会津だの耶麻郡。
古事記には四道将軍として皇族将軍オオヒコとその子タケヌナカワが北陸と東海から遠征して会津で合流したという内容の記述がある。
この戦いで滅ぼされた国こそ邪馬台国だったのだ。

http://www.geocities.jp/rockfish384/map/map2/15yamagunn.jpg
928日本@名無史さん:2012/09/24(月) 01:42:20.39
三国志自体誤字脱字だらけだからな
倭人伝も何かしら誤字があるんだろうな
ゆえに倭人伝の解釈はこれ以上不可能
あとは発掘物証に求められるだろう
929日本@名無史さん:2012/09/24(月) 06:58:54.07
誤字脱字だって分かるならば、そこを正しく訂正すればいいだろ。
分からないならば、誤字脱字だらけだなんて言えないな。単なる思い込みだ。
930日本@名無史さん:2012/09/24(月) 11:32:27.51
分りようがないから魏志倭人伝名からではどうしようもないって事じゃね
931日本@名無史さん:2012/09/24(月) 12:42:51.73
発掘物証とはいっても、何がしかの大国があったことの立証しか出てない
そもそも邪馬台国は、「分かれて百余国」のうちの30カ国をまとめてたにすぎないんだから、発掘物証は「邪馬台国以外の70カ国」の物証にしかならない
932日本@名無史さん:2012/09/24(月) 12:49:28.54
倭王武(雄略天皇)の上奏文によると日本は東国55カ国西国66カ国の計121カ国から成っている。
「分かれて百余国」も正確には121カ国だったろうから、邪馬台国以外は91カ国ってことになる。
どう考えても、物証が出れば出るほど邪馬台国の可能性はなくなっていく。
933日本@名無史さん:2012/09/24(月) 13:53:48.64
>「分かれて百余国」のうちの30カ国をまとめてたにすぎないんだから
倭人伝が書いているのは、古くは百余国に分かれていたけど、今は三十国だという意味だよ。
つまり、七十国は今の三十国の中に統合されて消えたってこと。
934日本@名無史さん:2012/09/24(月) 14:31:49.23
邪馬台国が大和朝廷のお膝元である大和より大きいというのは考えられない。
特に畿内説の場合はそうだろう。
935日本@名無史さん :2012/09/24(月) 15:12:40.26
戸数は首都の洛陽程度、里数はほぼ大月氏国まで、位置は東シナ海ということだから。
936日本@名無史さん:2012/09/24(月) 16:00:29.30
そんな事言ってたら永遠に邪馬台国は分らないだろうな
魏志倭人伝なんて所詮そんなもん
937日本@名無史さん:2012/09/24(月) 16:15:50.81
倭人伝がいけないんじゃないよ。余計なことを言って倭人伝を曲げて読もうとする読者がいけないんだ。
938卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/24(月) 17:26:55.17

けふもまた アホレス読んで 日が暮れて
939日本@名無史さん:2012/09/24(月) 19:59:39.20
曲げて読まないと矛盾すんだから、どう考えても間違いが含まれてるだろうな。全部嘘かもしれんが
そして、その間違いは誰にもわからない
何故なら解答が存在しないから
940日本@名無史さん:2012/09/24(月) 20:10:01.52
曲げて読むみにもエロエロあってさ

文字の植え替えとかするのはレベルのひくい曲げ読みで

ご推奨なのが

複数の読み方が存在する場合において一見無理げな読み方のほうを採用してあげることだわ

もれには陳寿さんのプレゼントはざくざくのお宝にみえたりするけどね

まあ つごうがよいように曲げて書いてあるところもあるのは当然でしょうけど
941日本@名無史さん:2012/09/24(月) 20:22:19.10
陳寿自身が正しい事書いてるとは限らないだろ
本人は知ってる知識をフルに使ったとしても情報量が絶対的に不足してるだろうし
ましてや別冊の他国の紹介、そんなに必死に書く部分でもない
本筋の方に力使うのが普通
942日本@名無史さん:2012/09/24(月) 20:30:38.11
>>939
>曲げて読まないと矛盾すんだから、
まったく矛盾しないよ。素直に読んでみろ。
943日本@名無史さん:2012/09/24(月) 20:34:20.95
はいはい
ボクの素直読み頑張って
944川柳攻撃:2012/09/24(月) 21:27:18.55
>>943
その文で 勝ったつもりか 低脳者
945日本@名無史さん:2012/09/24(月) 21:32:52.75
畿内説の場合は、倭人伝は間違っているというのが前提だから、
素直に読めるはずがない。
部分を議論するときはその都度曲げて読む。
946日本@名無史さん:2012/09/24(月) 21:35:58.25
畿内説は、魏志倭人伝の邪馬台国だけを抜き出してあとは<畿内説に合致しないのはすべて間違い>だって。
947日本@名無史さん:2012/09/24(月) 21:57:42.79
畿内説論者にまともな論客がいないことは分かってるよ。からかってみたところで、
役に立つ話は何も出てこない。

九州説では、伊都国の比定。佐賀の大和で問題ないだろ。
九州説としては、これからそれを徹底的に主張していけばいいんだ。

そして、次は伊都国から先が放射式に読むべきだということの確認。
古田某に引っかき回されて頭がぐじゃぐじゃになっているのがいるからな。

それと水行二十日、水行十日陸行1月を帯方郡からだなんて馬鹿なことをいわないこと。
古田某は漢文の読み方が滅茶苦茶だ。

以上を気をつければ、邪馬台国の所在は明白となる。


948卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/24(月) 22:16:24.56
君たち九州論者がどんなにがむばってみたところで、行程論では畿内説有利だよ。
だからだな、邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后とあっさり認めて、その上で、
「しかし実際に朝貢したのは九州の女王なのだ」という形に持っていけばいいんだよ。

そのために考古学その他諸々のことを援用すればよいのだ。
そうでもしないと畿内説には勝てない。
行程や地理記事で畿内説に勝てると思っているようでは、救いようがない。
949日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:20:13.95
>>948
邪馬台国には文字がなかったわけだし、言葉で意志を伝えるのは苦手だったと推測できる。
そういう観点で邪馬台国の候補地を眺めると、むしろ、邪馬台国は口下手な九州南部にあったという推測が成り立つ。
もし、邪馬台国が畿内にあったとしたら、記紀の中にその痕跡が読み取れないはずがない。
950卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/24(月) 22:24:07.66
大体、方向と地名ではどちらが重要かと言えば、地名だろう。
君らは方向ばかりを重視して伊都国は佐賀だなどと好い加減なことを言っているが、
佐賀にイトなどという地名は無いだろう。
ナとかフミなどという地名もその近辺にないだろう。
ところが君らは地名をまったく無視して論を立てているのである。
九州脳と馬鹿にされても文句は言えまい。
951日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:26:12.38
卑弥呼は神功皇后ではないのね

神功皇后のとくいわざはたまたまなげてなだめることだしさ

卑弥呼のはおひいさまぴかぴかしておろろかしてあげることだもね

てかね神功皇后のろけえしょんてえのは干満の差がでかいとこだしさ

てかね

干満の差がでかいとこが住処なら卑弥呼のもたまたまいぢりが得意なはずなんだけどさ
952日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:30:26.08
ちめいといえば ぴんぽいんとで ちゃんと残ってたりしてる

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.31827777743&latitude=33.53613760969
953日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:34:26.25
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.29444135798&latitude=33.579890475445

不彌國の入り口のの

淡海と呼ばれた汽水湖が海に繋がっている出口がここにあったって読めたよ
954日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:37:23.80
神功皇后は
女王じゃないし、所帯持ちだし、息子いるし、金印もらってないし
あれだけ三韓との関連を書いてる日本書紀が中国との関連は記述ゼロだし

卑弥呼との類似点は、女性というだけかな
955観客その4:2012/09/24(月) 22:42:00.06
>>950 朝鮮
>行程や地理記事で畿内説に勝てると思っているようでは、救いようがない。
>九州脳と馬鹿にされても文句は言えまい。

これは、誹謗中傷というのではないかね?
朝鮮は、資質に欠けてて、自らドツボにはまるようだな、まるで名古屋のはなたれのように。

>大体、方向と地名ではどちらが重要かと言えば、地名だろう。
これは、糸島と伊都を言っているのか?であれば知識のなさを露呈しているものだ。
ということはすでに「朝鮮卑弥呼論は死んでいる」ということだ。

朝鮮よ、もう出てくるなよ。
956日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:42:34.52
熊本を本拠地とし、久留米に進出したとおもわれる景行天皇、
福岡市、糸島市を本拠地とした、神功皇后
北九州、宗像を本拠地とした仲哀天皇。

神功皇后の本拠地と仲哀天皇の本拠地の接点である香椎廟(香椎宮)
ここで、仲哀天皇が亡くなったのはなぜか

彼らは本当に親子関係、夫婦関係があったのか?
これらの関係を借りた、北部九州の勢力の盛衰を表したものではないか?
957日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:43:09.00
>佐賀にイトなどという地名は無いだろう。
>ナとかフミなどという地名もその近辺にないだろう。
国の首都が国名と同じだったという思い込みがあるみたいだな。
日本の首都はと東京であって、日本ではないんだよ。
958卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/24(月) 22:49:12.93
では試しに、世間の一般人を百人集めて、
倭人伝の行程記事と、日本が南北に描かれた地図を見せて、
邪馬台国は何処だと思うか、と質問してみればよい。

どう贔屓目に見ても、6:4で大和説の方が多いだろう。
959日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:53:20.40
日本が南北に書かれた地図があったとして、
倭人伝に南とあれば、誰がどう見ても南に行くしかなかろう。
960日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:53:55.50
>日本が南北に描かれた地図を見せて、
なんで南北に描かれた地図が出てくるんだ?
961日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:56:28.09
どう贔屓目に見ても、東に行く可能性はなかろう。
逆に、どういう情報があれば、東に行く根拠となり得るのか知りたい。
962日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:59:30.49
普通の地図と倭人伝の行程記事だけをみせたらほとんどの人は南九州へ
行くだろうな。
963日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:00:26.71
名古屋はなたれに先祖がえりしちゃだめぽ
964卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/24(月) 23:02:55.02
国名としても郡名としても郷名としても、それ以下の小地名としても残っていないようなものが、
国名として書かれることはない。
伊都国が伊都国と書かれているからには、そして佐賀が伊都国だというからには、
佐賀に、イトという地名が、国名、郡名、郷名、小地名…として存在していなければならない。
ところが佐賀にそんなものは一つもないだろう。
奴国と不弥国に関しても同じである。
佐賀近辺にそんな地名が残っているか?
965日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:12:54.32
凡帶中津日子天皇(14.仲哀)之御年 伍拾貳歳

【壬戌年(362)六月十一日崩也 】

356 仲哀元 丙辰
357 仲哀 2 丁巳
361 仲哀 8 辛酉
362 仲哀 9 壬戌
363 ~功元 癸亥
364 ~功03 甲子
365 ~功05 乙丑
366 ~功46 丙寅
367 ~功47 丁卯
368 ~功48 戊辰
369 ~功49 己巳
966川柳の達人:2012/09/24(月) 23:13:28.78
泣きわめき 聞く耳持たない 朝鮮人
967ローガン:2012/09/24(月) 23:14:05.12
>>964:卑弥呼は朝鮮にいた
>佐賀近辺にそんな地名が残っているか?

位登は?(笑)田川だけどね。
968卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/24(月) 23:26:33.90
大体、地名情報だけから言えば、九州説で成立する場所は一つしかない。筑後山門である。

しかしたかが山門郡に七万戸もの戸数が存在するわけがない。筑後全体なら分かるが。
ところが筑後全体なら、筑後国とか筑紫国と書かれるはずで、邪馬台国などと書かれるはずがない。

ゆえに邪馬台国は大和で決まり、なのである。
969観客その4:2012/09/24(月) 23:28:53.50
>>958 朝鮮
>どう贔屓目に見ても、6:4で大和説の方が多いだろう。
また、微妙な対比を持ち出して(゚Д゚)ハァ? だろが。
970日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:32:11.59
>>964
確かに、地名という点では弱いかもしれないが、伊都国が怡土だった場合、
壱岐から直接行った方がいいと思われる。それをわざわざ末盧国に行き、
船を降りて、陸路で怡土に行くというのはおかしい。しかも、方向も
間違っている。

これらを勘案すると、やはり伊都国は佐賀平野の方に妥当性がある。
971日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:32:58.21
南九州は昔からヤマトと呼ばれてきたんだよ。知らんだろう。
972日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:34:52.24
>>968
菊池郡山門郷もある。
また、消えてしまった地名だが、熊本県には山本郡というがあった。
ちょっと似ているかもしれない。
973日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:43:19.38
>>970
それだけじゃないよ。宇美町あたりから南へ水行なんてできるわけはない。
佐賀平野ならば南水行は当然のことだ。使者はまちがいなく南水行のために
一時陸行したんだよ。
974日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:49:29.22
邪馬台、邪摩堆、どちらも「やまと」より「やまたい」だよな。
975日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:50:08.43
佐賀方面に行けば、方向も距離も完全に一致する。(短里使用時)
陸行、水行の必然性も一致する。

逆にそれ以外の方向では、何もかもが一致しない。
976日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:52:09.55
少なくとも和名抄でのヤマト音は、大和国か、山門郡しかない。
和名抄は10世紀成立だから、それ以前の保証はできないが。
977日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:55:10.01
同様に、 怡土郡も10世紀までは遡れる。
978日本@名無史さん:2012/09/25(火) 01:36:05.80
ここでgdgdしてるよりタイムマシン開発したほうが早いな
979日本@名無史さん:2012/09/25(火) 01:52:30.34
>>954
神功皇后って女王で通じると思うけど
980日本@名無史さん:2012/09/25(火) 01:56:57.83
>>962
南九州どころか、沖縄目指すだろ
981日本@名無史さん:2012/09/25(火) 06:26:16.37
>>979
性格はぜんぜん違うけどね。
神功皇后は、朝鮮半島まで出かけて三韓と戦う。
卑弥呼は、たくさんの婢に囲まれて生活し、
王になって以来見たものは少ない。
982日本@名無史さん:2012/09/25(火) 07:04:03.29
神功皇后の最大の問題点は、日本書紀にあって古事記に記述なしという件。
明らかに、日本書紀で意図的に挿入されたもの(つまり作り話)。

あれだけの功績を載せない古事記って何だ?
天皇家は、そんな古事記を黙って作らせたのか?
ありえないだろ。
983日本@名無史さん:2012/09/25(火) 08:19:04.16
卑弥呼の問題点は魏志倭人伝にしか出てこない
存在有無含めて証明しようがない。つまり作り話

あんま変わらんだろ
984卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/25(火) 09:15:27.55
けふもまた 伊都は佐賀だで 朝が明け
けふもまた 東南だから 伊都は佐賀
けふもまた 南とあるから 九州だ
絶対に 伊都は佐賀だと アホが言ひ

見渡せば まともな論も なかりけり いづこもおなじ アホの顔ぶれ
985日本@名無史さん:2012/09/25(火) 09:21:08.01
いつもながら、朝鮮子には理論がないねえ。
986日本@名無史さん:2012/09/25(火) 09:34:43.83
つーかこの人は生活保護なんかい?
987卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/25(火) 12:37:05.75
さて、私はまたまた奇想天外な新説を思いついた。
多婆那国とは大和ではないだろうか。

君らは笑うだろうが、ネット新羅史を読むと、そう思えるフシがあるのだ。
詳しいことは晩に書くが、もし多婆那国が大和なら、倭とは九州かもしれないぞ。
988日本@名無史さん:2012/09/25(火) 14:24:38.01
朝鮮スレを立ててそこで思う存分御高説を披露してくれよ
989日本@名無史さん:2012/09/25(火) 16:40:21.02
>>988
朝鮮卑弥呼の相手はいい加減にしたら。
990卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/25(火) 21:33:42.90
ネット新羅史の記述を信じるなら、多婆那国とは大和である。
注意深く読んでいれば、そのことが分かる。稗箕狐でも分るw

ところで、よく考えてみれば、多婆那国が大和だというのは意外なことでもない。
九州を倭と仮定して、倭の東北千里とはどこか。
たいていの人は隠岐とか、名前から類推して、丹波但馬を想像するだろう。
しかし本州は九州から見れば東北にある。大和も東北だといっても差支えない。
距離もちょうど千里くらいである。

朝鮮から見て倭は南にあるとばかり観念されていたわけではない。
倭は東にある、とも観念されていた。たとえば訥祗天王紀にこうある。

八月 王崩 于豆乙宮 春秋七十二 王愛人知士 奉神甚勤 東征野人 南伐諸藩 中興神國

東征野人と書かれている。同じような表現がネット高句麗史にもあった。
とまあ、ここまでは予備考察のようなもので、詳しいことは明日にでも書くが、
なんだかここに書くのは勿体ないような気がしてきたw
991日本@名無史さん:2012/09/25(火) 21:40:29.99
>なんだかここに書くのは勿体ないような気がしてきたw

じゃ、書かなくていいよ。
皆同意するだろう。
992日本@名無史さん:2012/09/25(火) 21:54:41.62
993日本@名無史さん:2012/09/26(水) 06:28:35.68
>>964
>国名としても郡名としても郷名としても、それ以下の小地名としても残っていないようなものが、
>国名として書かれることはない。
おめでたい奴だな。倭人伝に書いてある国名が、当時、倭人が発音していた国名を音で写したもの
とは限らんよ。女王国はどうだ? 侏儒国、黒歯国はどうだ? これらは、意味を考えてつけた国
名だろうが。発音が似てる地名を探したって無駄なこともあるんだよ。

それと国の広さだ。伊都国の音が怡土に残っているとしても、当時の怡土がどれだけの広さをもっ
ていたかすら分からん。玄界灘沿岸から有明海沿岸まで全部が怡土国だったかもな。




994日本@名無史さん:2012/09/26(水) 07:37:04.24
995日本@名無史さん:2012/09/26(水) 08:03:37.53
>>993
現在の海岸線で、邪馬台国ジグソーパズル作ったら売れるかな?
996卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/26(水) 09:27:08.59
>>993
いや、それならそれでもいいんだよ。
糸島半島から佐賀市までが怡土国だった、ということは大いにあり得る。
しかしそれならばだ、奴国は北九州市から甘木市までの全域、
不弥国はそれより東の周防灘沿岸地区までの全域ということになろう。

すると魏使は中津あたりから船に乗ったのであり、有明海を航行したのではない。
997日本@名無史さん:2012/09/26(水) 09:46:38.05
>奴国は北九州市から甘木市までの全域、不弥国はそれより東の周防灘沿岸地区ま
>での全域ということになろう。
好き勝手に区分けしたってだめだろうが。連続説を考えているようだが、倭人伝は
伊都国から放射式で書かれているんだ。
伊都国は佐賀市付近(玄界灘まで領域かも知れんが)、不弥国は吉野ヶ里付近、奴
国は筑後川左岸だろう。奴国の領域は有明海沿岸から玄界灘沿岸までたっしていた
かもな。女王国以北は戸数道里が略載できるとあるから、筑紫、肥前は不弥国までの
国々でほぼ埋めることになるんだよ。

998日本@名無史さん:2012/09/26(水) 09:50:58.69
>>993
>倭人伝に書いてある国名が、当時、倭人が発音していた国名を音で写したものとは限らんよ。
>女王国はどうだ? 侏儒国、黒歯国はどうだ? 
>これらは、意味を考えてつけた国名だろうが。発音が似てる地名を探したって無駄なこともあるんだよ。

実に慧眼! しごく当たり前ながら、こういう指摘はとても大事だと思う。

裏を返せば、女王国、侏儒(=小人)国、黒歯(=お歯黒)国、という意味や特徴を考えて付けた国名以外は、
特に表立った特徴や差異がなく、倭人の発音(地名)によって名付けるしかなかった国々ということがいえるかもしれないからだ。

さらに、邪馬台国、奴国、狗奴国、不弥国、卑弥呼、卑弥弓呼など、
非漢民族(中国国外)であることを示す卑字(邪・倭・奴・卑など)を当てられていない国々は
倭国の政治に大きな影響を与えない弱小な周辺国であったことが窺われ、より地名によって名付けるしかなかったものと考えられる。

タイプ1 意味や特長による国名…女王国、侏儒国、黒歯国など
タイプ2 卑字が当てられている国名…邪馬台国、奴国、狗度国など
タイプ3 倭の地名による国名…伊都国、末廬国、投馬国など
999日本@名無史さん :2012/09/26(水) 13:00:21.17
固有名を筆写する場合と、音写の場合はあるだろう。
1000卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/26(水) 13:00:50.14
>>997
お前はまったく頭がどうかしてるな。
佐賀市と吉野ヶ里なんて、ほとんど同一地区ではないか。
それに奴国が筑後川左岸なら、久留米も八女も筑後山門郡も筑後川左岸だぞ。
お前は奴国に筑後山門郡があったというのか。
それなら、お前は邪馬台国はどこに比定しているんだ?

もしかしてお前は左岸の意味を間違えていないか?
左岸とは、上流から下ってくるときの、左手の岸だぞ。分かっているか?
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