凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part20

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952日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:23:56.35
>>950
あんたそれ、○○の一つ覚えにみたいにあちこちでそれネット喧伝してるけど、
確かに名古屋城については外観初重と二重に通し柱を立ててあるみたいな記述があって、
それと直接比較すれば、慶長度天守についてはそう思えなくもないというだけで、実際は全く不明なんだよ
これからこういう可能性>>839や慶長度天守台発掘の可能性もあるんだから、拙速な思い込みを一方的にネット喧伝するのは軽率杉

また慶長度天守の段階は天守丸を構成する環立式であった可能性が高いわけだから、
宮上説(中井家指図を天守単体で比定して終わり)の喧伝はあまりに無責任杉
953日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:25:02.45
寛永度江戸城天守は4ヶ月程で完成しています
大入母屋のない層塔型、しかも各重毎に分担して作業が行われた故でしょう
954952:2013/02/15(金) 21:26:44.64
訂正
×慶長度天守についてはそう思えなくもないというだけで
              ↓
○慶長度天守についてはそうハッキリ書いてないというだけで
955日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:33:49.29
>>952
いや、通し柱でなく各重の面積の問題なんだけど
後、慶長度江戸城天守は1重は寛永度と同じで物見は半尺(七尺間)や高さも半間小さいとよく似た規模

宮上氏は天守台の二重構造としているけど、天守丸については特に否定も肯定もしていないかと
まぁ慶長江戸図や大熊氏所蔵の寛永度江戸城本丸図からあった可能性は高いので、その点は内藤氏の
お手柄ですね
956日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:38:05.72
>>940-942
同感です。ここに拙考を変更させていただきたく存じます。

故・宮上氏のように「津軽家指図=元和度天守」とした場合、
平側の千鳥破風と唐破風が半階上がったり下がったり、隅櫓にて単独で使う分には問題はないやに思われますが、
整って落ち着いた妻側と組み合わせると、それぞれ印象の全く異なる意匠で、天守全体としての気品や風格にやや欠ける、
アンバランスな造形となります。

幕府造営の他天守の意匠と比較しても異形の相を呈することは明らかであり、
元和度天守を描いたと見られる江戸の屏風絵のいずれにも、その下の張り出しが全く描かれていないことから、
隅櫓とは比較にならない天守描写の重要性、各大大名屋敷の克明な描写を考慮しても、不自然であるやに思われます。
957日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:42:01.84
>>952
って優香ここ見て、立て板の某のブログへの支持率の低さに正直、驚きますたw
958日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:09:44.50
959日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:12:08.31
>>958
960日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:35:54.06
同じ話題延々と続けるなら別スレ立ててやれよ
961日本@名無史さん:2013/02/16(土) 08:15:40.34
>>960
確かに

おまいら濃すぎるぜ!
まぁ、いろいろ勉強になったからいいけどさ、、、
962日本@名無史さん:2013/02/16(土) 09:06:06.43
>>951
それは、名実ともに寛永度江戸城天守が天守閣の王様と言われる所以かと

中井家造営による寛永二条城、寛永(徳川)大坂城をさらに進化させ、
これ以上改善すべき点がなくなった寛永江戸城を以後、天守建築が廃れていくのは歴史の必然だったのでしょう

>>952
現在の中奥西端に位置した慶長度天守台の基部でも発掘されれば、将来的に復元的考察の可能性もあるかと
963日本@名無史さん:2013/02/16(土) 09:16:53.16
>>962
>現在の中奥西端に位置した慶長度天守台の基部でも発掘されれば、将来的に復元的考察の可能性もあるかと

安土城のように?w

小天守、隅櫓、多聞櫓を伴った慶長度江戸城と思しき「天守指図」が中井家の蔵書から発見され、
城オタどもの熱く濃ゆい論争が始まる悪寒www
964日本@名無史さん:2013/02/16(土) 12:32:43.58
江戸城と言えば深井雅海の「図解江戸城をよむ」は面白かった
965865だけど:2013/02/16(土) 14:27:39.41
なにかと乙です。
>>960禿同
このセンスのないコテハンともおさらばよ。
層塔型天守の件で入って、延々と特に興味ない江戸城天守で絡んでこられた俺は一体…
そして、いきなりかつしつこく絡んできたあん人は一体…
レス読まないし、一つも俺の質問には答えんどころか自分に都合のいい質問ばっかしてきおるわで
ばっくれたんかな。結局質問には一つも答えてくれなかったけど
966日本@名無史さん:2013/02/16(土) 17:03:55.29
コテじゃないとごちゃごちゃして誰がどんな主張してるのか端から見たら分からんわw
967日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:18:19.57
>>966住人にもわかりません

既出かもしれんが名古屋城の第二の小天守はなぜ建てられなかったの
っていうかなんであんなところに建てようとしたの
968日本@名無史さん:2013/02/16(土) 21:05:34.90
御深井丸と連絡することで本丸からの増援を行うためと考えられる
969日本@名無史さん:2013/02/17(日) 02:58:55.26
>>967

たぶん、無意味だから建てられなかったのではないかと思います。
なんであんなところに建てようとしたのか?は、
たぶん、作事・普請の諸大名が
「堀の中に小天守があったらカッコいいよなぁ」
「うんうん。カッコいいから大御所も将軍もオッケー出すだろ」
「意味ないけど。まぁ、どうせ自分の城じゃないからいいやww」
というノリで計画されたのではないかと思います。
970日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:03:30.62
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。
971日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:04:07.57
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。

薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。

薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。

一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。
972日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:04:48.23
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式あげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し切り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。
973日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:10:31.87
そんなに悪逆非道な連中だったんですか、薩摩って。
ちっとも知りませんでした。
もっともっとこういう情報は広めていくべきですね。
これからもいろいろ教えてください。
974日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:15:25.24
>>955
内藤への私怨乙w
975日本@名無史さん:2013/02/17(日) 16:02:44.94
>>940-941>>956
今更だけど改めて、立て板の某のステマブログ、根拠ゼロだったな…
976日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:24:20.49
ひゃっほ〜い!
みなさん、いろいろな角度から解説されていて、本当に楽しく勉強させていただいてます!

>>940-941
そういうふうに図で整理していただけると、とても解りやすいです!

>>952
ほへ〜、慶長度天守は環立式天守やったんですねぇ。
だとすると、同時期に造営された姫路城、福井城や駿府城同様、後期望楼型である可能性が高いのか?

慶長度天守と言えば、20間四方の天守台と16間×18間の第一層との空き地はどうなっていたのか、、、
二段石垣になっていたとして、下段は、宮上先生のように塀を建てただけなのか?
淀城のように隅櫓を張り出して建て、多聞櫓で結んだのか?
石落としや鉄砲狭間を備えた多聞櫓が鉢巻のように建てられていたのか?
興味は尽きません。

>>956
確かに屏風絵などを見ると元和度天守に張り出しは描かれていないですし、やはり「中井家指図=元和度天守」とするのが、
外観的にも時期的にも構造的にも一番無理がないようですね。ガッテンしましたw

>>975
特定の方の主張を鵜呑みにするのは危険なんですねぇ、、、
いろいろな方の指摘に耳を傾け、360度から見てみて検証することの大切さがよく解りました。
みなさん、たまに覗いてみますので、またいろいろ教えてくださいね!よろしくです。
977日本@名無史さん:2013/02/17(日) 18:15:23.80
立て板ってこれのことか
ttp://d.hatena.ne.jp/tateita/
スレ終盤でやっとわかった

>>976無関係の俺(>>865)が言うのもなんですが、俺もそう思います。
色々絡まれましたが、そのおかげで興味のなかった江戸城の各種天守指図を改めてまじまじと見させていただく機会を得られたので、結果的に俺もいい勉強になりましたよ。
多角的に見たり独自の検証をしたり、自分の支持する説でも時には疑ってみたりすることも自分のあらゆる面での肥やしになるんだと思います。
978日本@名無史さん:2013/02/17(日) 18:30:40.85
>>975-977
うむ
要するに、宮上氏は、津軽家古図を元和度に比定するために、中井家指図を慶長度に比定したんだな

宮上茂隆氏の安直な復元作業の数々>>900を、ひとつひとつきれいさっぱり洗い落とし、
ひとりひとりが遺構発掘成果を基に、自分の頭で考えて、一番無理のない復元作業を志すのは実に良いことだ
979日本@名無史さん:2013/02/17(日) 19:08:08.63
>>976
>石落としや鉄砲狭間を備えた多聞櫓が鉢巻のように建てられていたのか?

それ面白い。
慶長度江戸城が天守丸を構成した環立式ということは、豊臣方に攻められた時の戦闘を想定した可能性が高い。
安土城天主第一層には黒漆塗り鉄製の鉄砲狭間が60余りあったという記録があるから、それと同様の機能を、
天守閣第一層から一段下がる形で回した多聞櫓に持たせるという、パッと見六重塔に見えた可能性はどうよ?

>>977
あんた本当に成長したな。これからも情報交換よろしくだぜ!
その男のように、私怨でステマブログやるようじゃ、人間おしまいだよ。

>>978
既存案に縛られずに、各自がそれぞれの着眼点を書き込んで、
>>913>>976のように整合していけば、正解の可能性が高まる(かも)。
次スレもそういう場であればいいNe!
980日本@名無史さん:2013/02/17(日) 23:21:52.77
安土日記に狭間戸は60余りと有るが、
第一層の鉄砲狭間が60余りと限定された記録とは限らない
981日本@名無史さん:2013/02/18(月) 08:22:26.18
>>977が深イイコト言った! 
982日本@名無史さん:2013/02/18(月) 09:18:16.98
いや、天守閣はなかなかどうして人気もあると思った
983日本@名無史さん:2013/02/18(月) 09:20:59.03
984日本@名無史さん:2013/02/18(月) 09:31:34.79
>>980
うむ
たしかに国内資料の祖本と言える安土日記ですでに、狭間戸鉄黒漆也《数60余》と書かれているが、
18畳ほどしかない最上階に60人もの火縄銃隊が、1畳あたり約3人も押し込められたとは考えにくいような希ガス
火種の取り扱いを誤って火薬箱の中に引火・爆発した場合、それこそ末代までの語り草になってしまうだろう

60人のスナイパーが揃って火薬と弾込めや火種の準備をして火縄銃を構える、となると相当のスペースが必要で、
敵の先遣隊を狙う高さから考えても、やはり第一層(17間×20間=340間)にあったとするのが自然だろう

外観第一層、外観第二層合わせて60余りならまだ話は解るが、ここは常識的に、
(石垣)上一重(外観第一層)を上一重(最上階)と、村井が取り違えたと考えるのが自然ジャマイカ?

長篠合戦の三段撃ち(60個×3人=180人)ができる武者走りを天主内に作るために第一層17間×20間にしたのでは?
とまでは言わないがw
985日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:57:16.06
>>984
『安土日記』の最上階のそれは行間への追記(補記)であり、一階のそれも<以上>として全体の数を記したものだよ。
追記は後本のそれに基ずくものだろうね。
986日本@名無史さん:2013/02/18(月) 18:45:39.68
よく天守閣は籠城時の城主最期の場所というけれど、鉄砲狭間や天守曲輪を造ったところで焼け石に水だ罠。
秘密の抜け穴でも造らない限り、多勢に無勢で切腹するための時間稼ぎくらいしかできない希ガス。

光秀のように竹林を彷徨って恩賞目当ての盗賊の手に掛って無様に殺されるより、野戦で勝ち目がなくなったら、
一目散に居城に帰って籠城し、天守閣で潔く切腹して家臣に介錯させるという名誉の死のための時間稼ぎ。

ひょっとすると、敵に遺体を渡さなかった下克上のカリスマ信長の、本能寺での見事な死に様に戦国武将たちが憧れて、
自らの遺骸を跡形も無く焼き尽くすキャンプファイヤー(焼却炉)として天守閣を造った側面もあるとすれば、
豊臣が滅びて、平和な徳川の天下になって天守閣が不要の長物になってしまったという理屈が成り立つのかも。。。orz
987日本@名無史さん:2013/02/18(月) 20:21:47.65
籠城なんて、味方が援軍を連れてきてくれるまでの時間稼ぎ用なんだからさ。
援軍のあてもなく籠城することは、むしろ例外だろ?

と思うんだが、籠城戦と聞いて思い浮かぶものの大半は援軍が駆けつけてない。
988日本@名無史さん:2013/02/18(月) 20:39:59.07
989日本@名無史さん:2013/02/18(月) 22:55:37.39
>>984で思い出したんだけど、天守の階層の数え方って色々あるよね。
外観は初重・二重・・・。一層・二層
内部は階以外に(下から)三重・二重・一重。下段・二段・上段
これについて詳しく解説してくれる人いないかな・・・。
990986:2013/02/19(火) 08:30:44.78
>>987
なるほど、ナイスフォローサンクス。
納得しますた!
991日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:12:23.96
>>989
研究者によってバラバラなのでそういうものとして受け入れるしか無い
992日本@名無史さん:2013/02/19(火) 13:04:30.40
>>976
>ほへ〜、慶長度天守は環立式天守やったんですねぇ。
>だとすると、同時期に造営された姫路城、福井城や駿府城同様、後期望楼型である可能性が高いのか?

【家康造営の慶長度天守編年】
慶長度二条城(1606)→慶長度江戸城(1607)→駿府城U期(1608)→名古屋城(1612)

慶長度江戸城天守(1607)の前年に完成した慶長度二条城(1606)も、小天守と渡り廊下が取り付く、
天守丸を構成した環立式天守だったことが知れられる。

この天守は寛永期に淀城に移築され、その時の天守指図が残っており、
面積同大の2層大入母屋の上に、三重望楼を載せた後期望楼型であることが判っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%9F%8E
http://1st.geocities.jp/golden_shiro/10yodo.html
http://castle.atorie-ad.com/yodo.shtml

つまり、慶長期江戸城の前後に完成した二条城(1606)、駿府城U期(1608)はともに下層部の面積が同大で、
小天守とともに天守丸を構成した環立式であり、さらに5年後の名古屋城(1612)がいまだに後期望楼型の内部構造を持つ
前期層塔型であることを考え合わせると、慶長度江戸城(1607)は下層部面積同大の後期望楼型である可能性が高い。
993日本@名無史さん:2013/02/19(火) 14:58:35.46
?
994日本@名無史さん:2013/02/19(火) 16:41:25.67
慶長二条城天守は秀長の天守のリサイクルだから取り扱いには注意が必要かもしれん大工は同じ中井でも徳川の天守には小堀風味を付け加える必要があるかもしれん
995日本@名無史さん:2013/02/19(火) 16:55:16.39
>>992
愚子見記では名古屋城天守との比較で慶長度江戸城天守の下部層は
同大でないということが分かります
996日本@名無史さん:2013/02/19(火) 16:56:22.38
997日本@名無史さん:2013/02/19(火) 17:18:05.13
998日本@名無史さん:2013/02/19(火) 17:39:50.50
998
999日本@名無史さん:2013/02/19(火) 17:40:31.96
999
1000日本@名無史さん:2013/02/19(火) 17:41:37.69
1000get!
良スレ終了!
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