1 :
日本@名無史さん:
荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレッド
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326708680/l50
2 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 08:09:49.35
3 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 14:26:33.38
4 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:30:48.60
次スレ早すぎだろボケ>城壁厨
6 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 07:28:46.87
8 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 07:30:30.23
江戸時代、東北諸藩が蝦夷地に築いた陣屋めぐりしてる
いままでに南部藩が築城した長万部陣屋とモロラン陣屋、
仙台藩が築城した白老元陣屋行ってきた
建物の位置は平面復元し、掘りや土塁は残っていた
特に白老陣屋はかなり大規模だった
故郷から遠く離れ、日本国土の北辺を侵略から守った藩士たちの苦労がしのばれる
今後も、他の陣屋跡を訪城していきたいと思う
アイヌからみたら侵略者だけどな
熊襲からみたら侵略者だけどな
>>11 何で?
アイヌ文化成立前から、我ら和人は北海道や樺太にいたぞ?
何もアイヌだけの土地じゃないだろ
歴史をよく調べてみろ
和人がアイヌの土地を侵略してるのは事実じゃねーか
アホか
それなら白人はインディアンの土地を侵略しなかったわけ?
前スレを埋めようぜ
>>15 だ〜か〜ら〜
アイヌ文化成立前から我ら和人は北海道や樺太にいたわけだが
我ら和人との関わりの中で成立したのがアイヌ文化
蝦夷征討・粛慎討伐の阿倍比羅夫や、有珠善光寺を開山した慈覚大師くらい聞いたことあるだろ?
少なくとも、和人の往来は記録に残ってるだけでも飛鳥時代まで遡ることができる
和人とアイヌは鎌倉時代以降、数百年も共存してたしな。
北海道や樺太に和人が城や陣屋造ろうが、侵略でも何でもない。
乙と書いてるのは、
>>1本人=城壁厨だから
このスレを使うのはやめようぜ
嫌城壁厨乙
城壁厨はみんなの嫌われ者
理由:自分勝手でバカだから
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。
>>17 交流があって和人も居たりした場合は、アイヌの文化が無くなる様な事をやっても侵略とは言わない訳か
城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返されることだが、意味不明なレスを正しいレスに変更を加えられる。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てられる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレから正しいテンプレに変えられる。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している
>得意技は鸚鵡返されることだが、
>得意技は鸚鵡返されることだが、
>得意技は鸚鵡返されることだが、
30 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 23:34:25.72
多聞櫓で囲まれていた陣屋ってある?
>>24 時代とともに文化は変わってゆくものだろ
和人だって断髪令で丁髷禁止、帯刀禁止、洋装推奨されとる
和装で生活してる人などほとんどいない
それに、日本は法治国家
法に反することは、和人・アイヌ問わずできない
アイヌだけ特別扱いは、法の下の平等に反する
逆にいえば、法に反しないことは禁止されていない
アイヌが望めば、昔ながらのチセに住み、独特の文様の着物を着て生活することも可能
まあ、今いるアイヌつっても、ほとんどが和人との混血だがな
32 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 23:46:03.22
ていうか、侵略侵略いう阿呆は歴史の勉強しなおした方がいい。
偏った自虐史観は、もうおなかいっぱい。
オススメ図書おしえて
>>31 良く言うよ
周りを見て、自ら変わるのと、押し付けで変わるのとは根本的に違うと思うが。
明治維新の場合は海外に学び生き残りをかけて自分で考えて海外の要素を取り入れたわけだがアイヌも同じだったと言うのか。
コシャマインの戦いは何だったのだ
35 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 03:10:15.79
コシャマインの乱は、和人鍛冶屋と蝦夷少年のイザコザが発端だろう
それも応仁の乱よりも前、室町時代の話
文化云々の話じゃない
領民があるきっかけで蜂起や一揆起こすなんて、よくあることだな。
コシャマインの乱と言えば、道南十二館!
いじめっ子がいじめたつもりはないって開き直ってるのと同じだな
まったく違うだろ、朝鮮人ですか?
飛鳥時代から平安時代前期に築かれた江別古墳群(国指定史跡)や恵庭の古墳群などからは
皇朝十二銭や律令制の位階示すものが出土してるわけだが
これが何を意味しているかというと
北海道などはアイヌ文化成立前から律令制の影響下にあったことを意味している
飛鳥時代といえば、阿倍比羅夫が郡領を置き
平安時代といえば、登別の刈田神社が創建され、慈覚大師が胆振国有珠郡で有珠善光寺を開山している
慈覚大師は日高国様似郡で修業したとも伝わっている
そもそも、蝦夷(エミシ、擦文人)の時代から蝦夷(エゾ、アイヌ)の時代まで彼らは国家すら持っていない
いきなり他国に攻め込んで占領したならともかく
日本の影響下にあり数百年間和人と混住しているところで和人が陣屋や城を作ろうが、それは侵略でも何でもない
また、当時の為政者はアイヌに対する配慮もしてるがな
江戸時代の北海道や樺太などの「場所」の地域分けや
戊辰戦争直後の国郡制定の区分は、おおむねアイヌの漁猟圏(イオル)を踏襲している
また、アイヌに対する商取引や雇用環境がひどい場所請負人は場所経営から外された
オススメ図書おしえて
>>39 おk
日本各地から金印やら銅鏡やら中国貨幣が出土している
日本は中国領
中華人民共和国倭族自治区
これでいいか?
>>44 ぜんぜん違うだろう
日本や支那はそれぞれ別の国
本州も北海道や樺太も日本国内で、国が別れていたわけではない
48 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 22:14:39.29
>>972 > 天守復元希望リスト
> 村上城・・・作っちまえよ。な?
> 高崎城・・・市の中心部の役所とか企業とかブルドーザーで潰して作れよ
> 江戸城・・・皇居(西の丸)なんか見降ろしちゃえ
> 広島城・・・2基の3層小天守と渡り櫓を復元キボン
> 米子城・・・山陰の名城復活キボン
> 鳥取城・・・山頂の2層天守と山麓の2基の3層櫓
> 津山城・・・天守ないとだめだろ
> 萩城・・・・これ復元しないとアホだろ
> 徳島城・・・あったんだよなぁ天守
> 高松城・・・まだかよ? やる気あんのかよ?
> 日出城・・・国が全額だして作れ
>
> 模擬でも想像でもいいから復元してほしい天守リスト
> 佐和山城・・・これ作らないと三成がいつまでたっても成仏できない
> 安土城・・・これはガチ
> 大溝城・・・あまり知られてないけど天守台だけポツンと残ってるのな
> 神戸城・・・5層天守あったんだから作れよ
> 有岡城(伊丹城)・・・異説はあるが日本で最初の天守だし作ったもん勝ちだ
> 竹田城(但馬)・・・外観なんてわからなくても適当にそれらしく作れるだろ
> 福岡城・・・天守あったか?無かったか? 作っちまえばいいだろ
> 佐賀城・・・10数えるうちに作れ 1・2・3・・・
> 竹田城(岡城)・・一部が写った写真が残ってるのだから、あとは適当に楽勝だろ
> 大分城・・・あったんだよなこれが
> 名護屋城・・・作らないと犯罪だ
> 八代城・・・支藩なのにデカかったんだよな
新発田城の石垣発見 旧県立新発田病院の解体工事現場
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/38594.html 県と新発田市は7日、新発田城の外堀跡付近の土中から石垣が見つかったと発表した。
発見されたのは、旧県立新発田病院(同市大手町4)の解体工事現場。市によると、16世紀末の築城開始と同時期に造られた可能性がある。
城の大半は明治維新後に取り壊されており、市は「文化財として非常に価値が高い」としている。
出るべくして出たという場所ではあるが、現地は病院跡と言う事だが全面的に史跡公園になるのかな?
マップで見ると特別養護老人ホームと表記があるが、病院とは別の施設か?
全面的に公園になるのであれば堀も復元さるとだろうから景観が大幅に変わると思うので今後が楽しみだ。
大規模な丸馬出というと諏訪原城・大島城・小山城が思い浮かぶが、
この内の諏訪原城が徳川家のものとすると、他の二者は徳川家のを
真似て、更に二重・三重の堀を穿ったということになる
つまり、
1.防御を主眼とした小規模な武田家の丸馬出
2.1.を参考に大規模化し逆襲を重視した徳川家の丸馬出
3.2.を参考に防御を増すために二重・三重の堀を設けた武田家の丸馬出
になるかと
新発田城見てきたが、既に埋め戻されていた。
お目見えはいつになるやら
自衛隊どっか引っ越してくんねえかな
新潟県は高田城も駐屯地の近くだな。
新発田は城よりも清水園と足軽長屋のほうが見ものだから、
どうでもいいな
高田城の三階櫓、ホントはどんな姿してたんだろね
>>53 1990年代に移転話があった。
交付金の絡みで、云々。
新発田城ってなんであんな形してんの?
ああいう地形なの?
>>58 2本の旧川道に挟まれた微高地上に立地すると
何処かに書いてあったと思ふ。
新発田城は周辺の整備を着実に進めてほしいな。
旧県立新発田病院も、跡地利用は未決でまだ検討中ということだ。
城址公園以外の候補も考えられていると言う事かもしれないが公園に整備してほしいな。
病院跡地が城址として整備されればその範囲は、東櫓や大手中ノ門脇櫓、枡形は無理だが大手中の門も含む広大な範囲。
自衛隊も街の中心地では高速とかへのアクセスも悪いし何れは手妻にもなる。老朽化もいづれ迎える。
周辺が城址として整備されつくされれば移転も考える事になるだろう。
現在僅かに公開されている本丸の一部や三階櫓の南側の広場も以前は自衛隊の敷地だった。
既に移転の話は出ているかもしれないかも・・・
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川/////, '" く三) (三シ',川||
川f 川f´ ,ィ::ラ',川 うわっ…電波少なすぎ…?
川ヘ | 弋て::>  ̄ ',リ
川 ヘ.__ ヽ /7! (29歳 キムさんの場合)
川川 ヘ _,. '-‐''"´y' //
川川リヘ , '´ __,,,/ / /
川川川|/ '"´ , '´ /||
川川川| /川
スマン、誤爆もいいところだ。
>>60 残念ながら自衛隊の移転話は聞かないな。史跡整備をしても
現在のところ、せいぜい土橋門付近の整備で終わりそう。
武家屋敷も解体された部材は、死蔵状態だし、城跡の本格的整備は
市長部局や特に市教育委員会はやる気は無いと思う(最近、民家だった
武家屋敷一棟が解体廃棄されたらしい)。
>>63 城址整備は長い目で見ないとな。
現地に行くと、「新発田城を復元しよう」という登り旗を掲げているし、何処から何名来たかを記録している。
城址整備に前向きに取り組んでいる人がいるのは事実だと思う。
民家だった武家屋敷は状態が悪かったのかもしれないから、一概に後ろ向きな姿勢の表れともいえないと思う。
病院跡地の利用の仕方で今後の動向はある程度予測ができるんじゃないかな。
武家屋敷部材管理が駄目なのは、教育委員会がやる気ないだけ。
文化財保護の観点から見ても駄目だ。状態が悪かろうと立会くらい
はするだろ。
自衛隊が城跡からは出て行かない。新発田市は交付金頼みだもの。
>>65 民家なんだから、住人が建物を改築するのは教育委員会ではどうにもできない。
そりゃそうだ。文化財指定していない段階で教委はアウトだな。
新発田城関連地域ネタはもういいよ。
文化財指定は持ち主の合意が必要
また新発田城復元厨かよ
いい加減秋田
新潟だろ
>>65 民地を公有化すんのにカネがかかるけど、
震災の影響もあって、より獲得しづらくなってるよね
ア・バオア・クーに相当する日本の城はどれになるでしょうか?
江戸に対して駿府城か小田原城
今日はえーせいテレビ見なくっちや。
15時からのやつ。
>>77 途中から第二次世界大戦の話になった。
首里城が大変だったて。
大分県日田市の永山城発掘調査現地説明会が
8月25日(土)のAM10:00(月隈公園駐車場集合)に行われる
永山城は城下の古い町並みが素晴らしかった
>>79は、堀と曲輪石垣遺構の出土および九州地方での玉石垣の城は珍しいって話だった。
山頂付近からは結構なものが出たらしいが北部九州豪雨で本丸付近の道が崩壊して近づけないから上のほうの発掘調査結果については見送られた模様
83 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 01:56:57.64
埼玉三名城
川越城
岩槻城
忍城
84 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 13:41:07.12
日本におけるイゼルローン要塞はどこ?
85 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 16:18:19.52
小倉城。
>>85 トゥール・ハンマーに相当するものが無いから不可
長野の城の絵図展
http://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/1014697771.html >「羽場城絵図」はかつて今の辰野町にあった羽場城の姿を江戸時代中期に描いたものです。
>今は本丸の堀と土の壁の一部しか残されていない羽場城が三の丸までの広さを持つ
>本格的な城郭だったことを示す貴重な資料になっています。
>また明治5年に当時の陸軍省が記した「小諸城郭図」は
>横4メートルあまり縦2メートルあまりの大型の絵図で、
>現在は残されていない小諸市の小諸城の本丸御殿の間取りが正確に記録されています。
>絵図を所有する城郭研究家の富原道晴さんは
>「これまで公開されたことのない県内の貴重な城の絵図を展示しているので
>ぜひ地元の人たちに楽しんでもらいたい」と話していました。
結構珍しいものが展示されてんのかな。
88 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 09:47:46.75
おっと、三センチ足りなかった。
大阪城でモトクロス、橋下市長は乗り気だが…
国の特別史跡・大阪城公園(大阪市中央区)の西の丸庭園(6・5ヘクタール)で、
オートバイのモトクロス大会の開催計画が進んでいる。
外資系飲料メーカーが庭園を管理する大阪市に持ち込んだ企画で、
大阪城の国際的な観光拠点化を目指す橋下徹市長が後押しする。
しかし、特別史跡の現状変更に関する許可権限を持つ文化庁は
「地中の遺構に影響が出るなら許可できない」と慎重姿勢を崩しておらず、
実現は不透明だ。
こうした中、平野文部科学相は7月の記者会見で、
「大阪城でのモトクロスを本当に府民や市民が喜ぶのか」と今回の企画を疑問視。
一方、橋下市長は「都市間競争を勝つためにはこれくらいのことをやらないと。
文科相には申し訳ないが、文化遺産の観点だけではなく、
世界発信をしていく視点で判断した」と反論した。
(2012年8月29日18時00分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120829-OYT1T01039.htm
べつに大坂城じゃなくても・・・
17世紀初頭に各地に建てられた強力な近世城郭が実戦経験せずに終わってるのは残念だな
実戦経験(含微妙)
五稜郭、鶴岡、二本松、会津若松、白河、長岡、桑名、伊予松山、熊本
幕末の戦いでもマトモな攻城砲が使用されたのは艦砲射撃があった北海道の二城のみだな
筑前鷹取城みたいな一国一城令であっという間に廃城になった城ももったいない
大坂城は城というより宮殿として外交の場として使われた脚光を浴びた直後に炎上か。
なんだこの要塞はwww落とせる気がしねえw
藩主黒田長政で城主母里友信なのもきつい
101 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 11:20:15.68
横矢掛りがなく蓄えられる兵糧の量や水の手もいまいちっぽそうだが
放置しても問題なさそうなw
萩城の詰丸もこんなもんだろ。
萩城指月山は143メートル
鷹取山は600メートル越えてる
萩城の詰丸は落書きがひどすぎる
放射状の畝状堅堀がどれくらい効くのか試して欲しかった
細川vs黒田やっとけよ
108 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 20:43:16.13
109 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:14:10.54
漏れが大名だったら富士山の上に城作ったがなぁ。
登り下りで運動するし、毎日バナジウム天然水飲むからメタボになんかならないだろうし、
そして何より、富士山城主として歴史に名を轟かせたに違いない。
>>98 曲輪が100m×80メートルってことだがこれだと兵力的には数百人規模かな
112 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 19:45:52.61
>>109 守るも攻めるも地獄だな。
富士山登った事あるだろ?真夏でも氷点下で爆風吹いてるしw
スレが幼稚化し過ぎている。
ここは歴史難民板ではない。
115 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 19:51:28.70
>>114 >>19のような幼稚なキチガイによって
かなり以前から粘着に荒らされているからな
このキチガイによってまともな城壁議論ができなくなったし
ま た 城 壁 厨 か
今週末は関宿城でも見てくる
119 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 02:22:25.03
>>115 もはや、考証より美的感覚の問題かと・・・
120 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 06:26:41.32
121 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 23:11:50.78
天守や櫓に石落としっていうものがあるけど、大きな石を落とせる幅じゃないし威力あったのかな
・長槍で突く
・鉄砲で撃つ
・熱湯をかける
・うんこを落とす
>>122 あれは石だけじゃなく矢も撃つし銃も撃つ
125 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 09:44:28.78
>大きな石を落とせる幅じゃないし威力あったのかな
大量に落として重みで押しつぶすように剥がす。
実際、石落としを利用した合戦ってあったの?
>>126 戊辰戦争や西南戦争は銃と大砲の戦争だからな。大阪の陣もほとんどが城外や出丸での戦いだし。確かにないかもしれない。
備えあれば憂いなし
まさしく日本人の心だねぇ
狭間も間隔空きすぎだよね
石落しはご存知、狭間の一種。
後にデザイン化されて、専ら建築装飾として付けられるようになったものともいわれる
石落しのような出張がとっても有効なら萩城や熊本城天守のような張り出し形式で全床石落しの城郭建築が主流を占める時期がなきゃならんと思うが
それが見当たらないということは、石落しは登場当時から終始単なる飾りとして付けられたとみるべきでは。
>>130 石落としに限らず、平和な時代を迎えて実戦的から装飾的に変わった
133 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 03:01:58.12
古墳時代の武将・軍事指揮官・将軍・・・
135 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 13:43:32.77
松代城行ってきたけど10万石の居城にしてはしょぼくない?
136 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 13:48:25.28
>>134 ヤマトタケルとか神功皇后とか雄略天皇とか大伴、物部とかのことか。
限りなくファンタジーの世界だな。
物部は別に・・・
奈良行ってみろよ
どんだけ土着のあれやこれやがあるか
139 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 13:22:06.50
NHK「タイムスクープハンター」映画化 謎多き安土城焼失描く
2012年9月23日 06:00
140 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 06:25:32.69
神話の時代から日本は韓国を侵略していたんだな
141 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 06:55:17.25
その頃には韓国なんて国はないよ。一方大和民族は半島にも住んでいて、
侵略されて日本列島に追いやられた。
大韓帝国ww
文化だけある国はフランス・イギリス・イタリア・ドイツと沢山ある
経済だけある国はアメリカや石油産出国など沢山ある
しかし文化・経済両方が世界最高レベルなのは日本しかありません
文化で言えば長い歴史と洗練された文芸や染物、陶器や料理などがあり
今では映画・漫画・アニメ・ゲームあわせると世界で一番芸術家の多い国です、これはアメリカとくらべても2倍、ヨーロッパだと3倍は芸術家が多いです
漫画家は100年そこらの歴史で4000人以上います、アニメは深夜アニメなども豊富で、なんの娯楽もないヨーロッパなどは退屈すぎます
経済でいえば中国に抜かれたとはいえ人口比でいえば日本のほうがまだまだ上です
こんな世界最高の国は他にありませんね?どこにもありません
アメリカ文化ええがな
おい!
何の話だ?
ドイツやフランスの城のほうがいい
日本よりもたくさんの城が残っており
保存状態も周囲の景観もさることながら
生活観を感じさせる。日本の城は文字通り抜け殻という感じ
木造の文化だからしょうがない
日本より保存がいい木造建築は外国には無い
148 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 16:38:55.76
北九州市の黒崎城跡の城山にわけのわからないミニチュア天守閣が、
いつの間にかにできてる。
洲本城並みのミニチュア天守閣だ。
洲本城復興天守も入場禁止にするくらい老朽化してるなら、
取り壊して、忠実に復元しなおせばいいのに。指図が残ってるかしらんが。
ノーマネー
>>149 洲本城の天守は、指図も絵図も残っていません。
江戸時代には天守は無かったのではないかと思います。
徳島藩の本城ですら天守(代用の三層櫓)は藩の規模に比べて小さかったので、
その出張所で家老がいた洲本城には天守は無かったのでは。
天守台の規模からすると、桃山時代に五層の天守が建っていたのではないかと
思いますが、絵図、せめて天守について文章が書いてある古文書が出て来ない
ことには・・・
今となっては想像するしかありません。
一国一城令によって廃城にしたことにして石垣とか実質的な防御構造だけ残した
って案内に書いてあったな
誤爆です・・・
黙ってればわからん誤爆だな
聚楽第は二段石垣らしい
想像図では一段の豊臣大坂城二の丸も二段なんだろうな
つーかフラッシュ焚くなよな…ゆとりは常識がねぃ
なんでフラッシュ焚いちゃ駄目なの?写真が色褪せるとかそういう理由?
「ゆとり」っていう言葉を使う書き込みはだいたい知性を感じさせないことが多いな。
>なんでフラッシュ焚いちゃ駄目なの?写真が色褪せるとかそういう理由?
一義的には(概ね)そういうこと
あと技術的な観点から言うと、シンクロ撮影やバウンスができる機材がなかったり携帯で撮影するときでも、
15分の1秒位なら手振れ補正がなくてもぶれないように撮影できるようにホールド撮影できる技術はあってもいいんじゃない
フラッシュが反射して写り込んでいる写真って見ていて興醒めしないか
で、あと↓は、素直に教えてくださいと言えず、知性が感じられない煽りレスしかできないツンデレ君にw
経験上、屋内で誰かがフラッシュを焚くと、その場に居合わせたオバチャン達が自分もカメラを持っていることを思い出し、そこ等をバシャバシャと撮りはじめる事が多い
159は日本画や油彩画に強い光を当てる事の危険性や、プラスチック・盆栽を問わずジオラマ等へのフラッシュが齎す結果
目に障碍があり屋外ではサングラス必携の人が屋内でサングラスを外している可能性を考慮し、周囲に誰もいないことを完璧に配慮し撮影しているのだろう
159は自己の行為を契機に、オバチャン達がそこ等をバシャバシャと撮りはじめた結果はオバチャン達が責を負うべきだと言い切れる犬畜生並みの道義心の持ち主だとしても
世の中の人間全てが間接責任を感じる必要はないという考え方を他人におしつけるべきではないであろう
>>160 なんだお前、そんな撮影技術や知識もってないとゆとり扱いなの?
あと興醒めとかどうでもいいわ
別にお前に喜んでもらうために撮ってるわけじゃないし、余計なお世話なんだよ
ついでに言うと撮影許可もちゃんといただいてるし、お前が指摘するような場所でもない
その程度も想定して書き込めないで、えらそうに煽りとか・・・
程度が知れるぞ、おじいちゃまw
162 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 22:41:54.98
文章も読めない下品な「ゆとり」乙w
どこがおかしいのかな、下品なぼくにおしえてちょうだいな
知らない間に脱ゆとりのハードルめっちゃ上がってたわ…
まあ俺もシャッターの使用は最低限にするが、上記のような崇高な理由じゃない
以前、動物園の夜行動物のコーナーで高校生っぽい連中が「フラッシュを焚かなければ写真を撮ってもいいんじゃないか」と言い交わしていた時
撮影をはじめたら注意しようと身構えたことはあるけどね
「あのオバチャン達が、フラッシュを焚かない配慮をしたり、君達だけが撮影しているのを黙って見ていると思うかい?」と
高校生がそれを聞いてもゴチャゴチャ言ってきたら「フラッシュを焚かなくてもカメラは距離測光で赤外線を出しているが、
夜行(小)動物が至近距離から赤外線を照射されて平静でいられると思っているのか」と、指摘する心算で
(ゆとりに限らんが)世の中の人間は物事を知らなさすぎるんだよな
>>166 横レスだが、動物種によっては赤外線が見えるヤツもいて、
そいつらにとっては測距用赤外線もフラッシュも大差ないんじゃないかなあ。
だから写真撮影禁止なんじゃねぃ
おっと、すまん。
城郭撮影時のフラッシュの話だったんだな。呆けてるな、おれ。
フラッシュ機材の中には、光が強すぎて、デリケートな被写体にダメージを与えることがあるが、
被写体によるし、カメラ(フラッシュ)によるんだよな。
顔料とか塗料は痛む危険が大きいから、軽微なフラッシュ光であっても、撮影は控えるべきだよな。
あとはーーー
風景撮影を装って観光客を撮影するような迷惑行為を取り締まるための口実とかもあるかもしれん?
>城郭撮影時のフラッシュの話
どんな強い撮影用のライトより常時太陽光に晒されている方がダメージはでかいと思うが
まぁその昔NHKの撮影スタッフが奈良の重文に撮影用ライトを当てて寺から出入り禁止の通達がなされたこともあるが
>風景撮影を装って観光客を撮影するような迷惑行為
昔、彦根城に行ったとき、退いてくれるのを待っている俺がいるのを分かっていて、絶対どこうとしない中国女の集団がいたが
中国人に限らず日本人でも、若い女って何故か他人の撮影の為に場所を譲ろうとしない奴が多い印象がある
・繰り返しになるが、今回は撮影の許可もいただいてるし、被写体は見て判るとおり文化財等でもない
・職員以外に周りに人はいないし、いたとしても皆が撮影を真似するような場所でもない
・生物に対しての影響とかを指摘してくるが、見て判るとおり被写体に生物はいないので、ここで指摘されるいわれはない
ここまで細かく説明しなくても、内容は
>>158,161で理解できるだろ?
いちいち指摘してくる、フラッシュによる色褪せや目などに与える影響は理解してるし、今回は関係ないと何度言わせれば・・・
そんな一般論だったらもうレスしないでくれ それともやっぱり、自分を小利口だと思ってる馬鹿なのか?
まあ、次に訪問予定の城名でも挙げていこうぜ
俺は滝山城
名古屋嬢
>>167,168
やる時はやるな!浜松市
どうせだったら、市役所と学校を移転して、本丸も復元してほしい。
178 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 23:07:40.69
次行くのは丹波黒井城
ストロボ反射してるじゃん
焚かなきゃもう少しましな写真撮れたのでは
↑
どうでもいいことを妄想で責め立てた挙句、一蹴されると個別の事案になぜか一般論(ただし俺流)なるものを
持ち出してきて意味不明の弁解
しかも内容の空っぽな主張を醜悪な文章で大幅に水増し
おまけに「ゆとり能」なる珍妙な単語の開発に成功した
マジ基地
くやしいのうくやしいのう
ああ、180はやっぱりキ○ガイだったか
二度とお前には触らんから、そのまま妄想の世界で悦に入っていてくれ
フラッシュの話なんて誰も興味ないことにいい加減気づけ
長文でスレ汚すなよ
駿府城の坤櫓は結局、1階と2階の間に腰屋根は付けないの?
お金がちょっとだけ足りなかったのじゃ
186 :
184:2012/10/11(木) 11:17:59.88
設計図見ると付けないようだね
まぁ名古屋城の隅櫓もそうだから不思議ではないけど
そうなると駿府城天守も
落縁のある1階を地階とみなし欄干のある2階を1階とすると、
2階(1階)・3階(2階)の間には研究者が何故か付けたがる腰屋根も無さそうだな
187 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 07:51:45.84
>>186 平城三階櫓や川越城御三階も、これに近い形だと聞く
名古屋城天守の当初案も1階と2階の腰屋根がなかったかもしれない
189 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 17:36:47.27
天守や櫓や城門や石垣や土塁なんてつまらないだろ。
ましてや御殿? はぁ? 何だよそれ? 城主一族の家だろ。城の付属品に
すぎないよ。
俺は城と言えば断然に堀だと思う。
堀端を歩くと心が休まり、堀を渡る時は心が躍る。
近世城郭の幅広い水堀で水鳥を見ると幸せになる。
中世山城の堀切や縦掘を見ると勇敢な気分になり、
中世の館(構居)の痕跡を見つけると新鮮な気分になる。
な? この胸のときめきがわかるか?
ぐはっ! 堀、萌え!
堀、好きすぎ!
岡山城へ行った時、彼女を天守に登らせておいて、俺は堀端を歩いたら、別れられた。
なんで? 天守なんか登るやつってアホに決まってるだろ?
せっかく岡山城へ行ったんだから、堀を見て、堀を体験しないと。
堀の良さがわからないなんて人間失格だろ?
190 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 17:41:53.37
>>189 >岡山城へ行った時、彼女を天守に登らせておいて、俺は堀端を歩いたら、別れられた。
>なんで? 天守なんか登るやつってアホに決まってるだろ?
楽しい方を独り占めしたら愛想を尽かされるのは当然だろ。お前は人間失格だ。
水堀に白鳥を見かけることがあるけど
あれ、羽を切って飛べなくしているのかなぁ
小白鳥?
彦根城には両方いるね
194 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 11:52:22.80
福岡城の整備がすすむかな?
無理。福岡城みたいな資料も何もない捏造天守建造など
国が許可するわけないだろ?
どうせ模擬天守なら大阪城や伏見城が格好良い
やはり望楼型で最上階には高覧付きだ
しかし会津の鶴ヶ城が格好良いと思うけど、バランスかな?
現存12天守でも・・・むにゃむにゃ
大阪城は下層の部分がハンパに徳川Verなのがな…
さっさとフル豊臣Verにしちまえばいいのに
天守は難しくても御殿はいけるだろ。俺は天守も作って欲しいけど。
本格的に御殿を再建したのは熊本城だっけ?
201 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 17:40:04.87
>>198 最上階を残して、下は石垣まで組み替えるってのかよw
あれは大阪人が望む天守ですから
>>200佐賀城、小倉城。例外:箱館奉行所(五稜郭)
>>198壁と屋根の間に黒いラインが入っておるだろ
あれは黒塗りの板張りを表しておる
上が豊臣風で下が徳川風など、思い込みじゃ
短縮使え!!
筑前六端城ってちょっとちゃち過ぎませんか?
戦国期の境目の城と比べてもあれはちょっと小規模すぎません?
同時期だと福島正則が芸備に構築した支城と比べたらもうしょぼいなんてもんじゃない。
城砦群による縦深もない小城六個ばかりを境目に線上に置いただけで本気で細川に対抗できると思ってたんでしょうか?
細川って言ったら歴戦の中央権力直轄軍みたいな最精鋭集団っすよ?
言っちゃなんだけど、同じ九州流され組と言ったって石高以外の面じゃ黒田とは格が違うと思う。
まあ確かに兵力は黒田の方が多いかもしれないけど、もし争論に及んで戦になったらみんな細川くんの味方だよ?って感じ。
>>196 福岡城なんて存在が微妙な天守よりも、戦中まで移築現存していて図面も存在する武具櫓と二重多聞櫓とか、
解体保存されてる月見櫓と花見櫓とか先に復元できるもんいっぱいあるだろうに…。
模擬天守で観光客呼ぼうなんて昭和の発想だろ。
天守は無いけどコツコツと復元してる金沢城を見習ってほしいわ。福岡市は。
>>206 国境での防衛でなく直方平野での野戦を想定していたんでしょう>黒田
筑前六端城は野戦用の軍勢が整うまでの時間稼ぎが目的かと
>>207 櫓をいくら再建しても観光客は来てくれない。
観光目的で整備するのだったら天守は絶対必要。
悲しいけれどそれが現実
>>207 金沢は凄過ぎ。調査研究所まであるからな。
>>210 どの程度の集客を期待するかにもよるんじゃないの。
それなりに効果は有るかもしれないけど福岡に天守を建てる場合よりは人は来ないだろうな。
洲本の場合は城址が良い感じに風化しているのが味なんだけどね。
観光として集客する場合は天守だけ建ててもダメだろうね
全体的にもっと奇麗に整備する必要があるんじゃないの。
天守の他にも時間をつぶせる施設も必要。
明石城の本丸のもう2基の三層櫓を復元してほしい。
かつては本丸の4隅に三層櫓があって、今は2基しか残ってない。
姫路に遠慮せず、明石の城をしっかり復元整備するべきだと思う。
天守は最初から無かったので、まずは三層櫓。
その次は櫓門。そして二層櫓・・・
214 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 05:36:27.78
>>213 反対側は住宅地しか見えんからあまり意味があるのかね。
>>207 金沢城は城目当てで来る人よりも兼六園目当ての人が大部分。自治体側もそれは分かっていて兼六園から遠い本丸はジャングル状態で整備していない。同列に論じるべきではない。
でも金沢城は今後もどんどん復元していく予定だし、兼六園頼みではなく城で客呼ぶ気満々じゃん。
本丸は大学あったときは理学部付属植物園で豊富な種類の植物があるからあえて手をつけてないだけだろ。
実際本丸よりも兼六園より遠い玉泉院丸もどんどん整備していくらしいし。
>>209建てさえすれば客が来るなんてこと自体がバブル発想だろ
218 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 13:22:23.40
竹田城は天守どころか櫓さえないけど大人気。
>竹田城
この時期、雲海の写真を撮ろうと早朝に赴くと
「十回は来ないと良い写真は撮れない」とカメ爺さん達から
アリガタイ御言葉を頂戴できます
城の話なら見てやるがどうせ無関係なんだろうな
>>217 バブルの発想とはな。
見当違いな事を良く言うよ。
今だって幾つかの地自体は建物を建てるのに必死になって資料や写真を探しているのを知らないのか?
建物再建は城址整備の到達点だろう。
予算さえあればもっと整備が進めたいと考えている所は多いと思うよ。
もちろん建物があれば観光客が来ると言う訳でもない。
しかし、竹田城の様な特殊な事例を抜きにすれば地面をいくら整備しても、建物が無い城に観光客に興味を持たせる事は難しいだろう。。
建物整備を進めるている。進める予定がある。進めたいと考えられている城
名古屋城 本丸御殿
甲府城 鉄門
駿府城 坤櫓
金沢城 橋詰門他
熊本城 裏五階櫓他櫓等多数
会津若松城、御三階他隅櫓等多数
鳥取城 中ノ御門櫓他多数
高松城 天守
松本城 二の丸御殿
丸亀城 本丸多聞櫓
宇都宮城 清水門
・
・
・
今年の春に会津の鶴ヶ城へ行って来た
瓦がエビ茶色になって最上階の手摺が銀色に変わってたし櫓も増えてたような
何でも幕末の姿に震災前に戻したとか
俺は以前の灰色の瓦に赤い手摺の組み合わせが丹頂鶴のようで好きだな
以前とは藩校の日新館が再建された時で、金沢城再建と同じ頃でnhk利家と松の後だった記憶あり
実際の松はnhkの女優さんと違って可愛くないし一豊の嫁さん並に強い人なんだとガイドが言ってた
飯盛山では白虎隊の踊りを見学した
来年のnhkは八重の桜・・・あの女優さんが鶴ヶ城に来てくれるのだろうか?
新潟の上越へは謙信姿のガクトが祭りに出るのでその日だけは結構な賑わいになるらしい
ついでに野口記念館見て白河城まで足を伸ばしたら震災で石垣が崩れてて中へ入れなかったorz
>>198 大坂城は徳川時代の遺構が多数重要文化財に指定されていて
大きく触れないんだよ
今の天守閣も徳川時代の天守台の上に建てられていて豊臣時代のものとは
天守台の大きさも形も全然違う
全部豊臣時代に復元しようとすると重要文化財を壊すことになるので無理だし
豊臣大坂城は冷たい土の中か…
227 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 14:17:47.93
触れないのは史跡だからだろ。
ぶっちゃけ大阪の陣で旧式だし>豊臣大坂城
福岡城に関しては、天守はなかった可能性さえ少なくないワケだし、そもそも復元根拠資料がない。
これを「復元」するとか論外。
建物復元なら、櫓や門、屋敷のいくつかは根拠資料がある。
また建物復元が城郭整備に必須と言っている香具師がいるが、肥前名護屋城跡などの例もある。
230 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 19:54:26.02
現大阪城は重要文化財だからね。
231 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:02:50.19
もう一度調べなおせw
232 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:18:09.26
>>229 ”論外”なことが実際には論じられているわけだが・・・
>>222建物再建は城址整備の到達点
こういうやつが数々の貴重な城址を破壊してきたわけか
いいかね、たとえ木造復元でも、法規に則って基礎工事はするのだから
結局は地下の遺構は何らかのダメージを受けることになるんだよ
>>229肥前名護屋城
名護屋城は城址としての史料価値以外にも江戸期における破城の例が顕著であることから
そのまま破壊された状態を保存する方針となったそうだな
福岡城の天守復元の件は無視していいと思うよ。許可は絶対に下りないから
>>228 そうだよな。
いまどき豊臣大坂城なんて古いんだよ。
>>234 保存保存も結構だが、第三者は気楽なものだよ。
城址を抱えた自治体にしてみれば、土地は有効活用したいのは当たり前。
また、地元市民の復元を望む声も少なからずある。
保存とj活性化や有効活用の両立を探り頭を悩ませている人たちが実際にいるわけであって、正論を持ち出し”破壊”と言うのは一方面だけ見た意見にすぎない。
237 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 23:55:05.24
別に江戸時代でも地震や火災の度に再建してきたんだから問題ない
>>236 今残ってる城址を破壊してありもしなかった福岡城天守を
建てるのか?
幕末までの土台に謎の天守
文化遺産保護の観点から現状維持が妥当だろうよ
仙台城の捏造櫓がいい例だ
あれも最終的には中止になった
観光目的の為の天守捏造なんて国の許可が出るわけない
夢を見るのもいいが、良くて幕末時の復元が関の山だよ
>>238 福岡城限定の話なのか?
建物の再建が破壊と言っていたんじゃないのか?
福岡城天守に国の許可が下りる化どうかなんてことはこの場で議論しても仕方がない事だ。
高松城ですら出ていないのだkら恐らくそうだろう。
しかし、同じ建物でも武具櫓を建てるよりは天守を建てた方が、一般の人には受けがいいのは想像に難くない。
それが正しい選択かどうかは、ただ傍観している者にとっては極端な言い方をすればどうでもよい事。
それが問題だと思うのなら実際に反対活動に参加するなど行動を起こせばよい。
>>239 それ以前に模擬天守等の歴史の改変は、文化庁の許可が下りない
歴史の改変だあ?違うだろ……歴史ってのは日々作られるもんだろ……
摸擬天守?違うだろ。真造天守だ。俺達が歴史を作るんだ。
242 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 14:44:49.60
じゃああえて城跡に作る必要もない。お前んちの庭に作ってろ。
それじゃ再建ってことにならんだろ
法隆寺も大阪城も、再建を繰り返しながら現在まで生きてる。
244 :
日本@名無史さん:2012/10/23(火) 14:57:59.95
寺や城として本来の機能を持たせるためにな。
チョンみたいに歴史を捏造して何がしたいのか?
大好きだねぇ
247 :
234:2012/10/24(水) 00:00:05.61
>>239誤爆乙
だから、福岡城天守復元の件は無視しろって。福岡市の釣りだから
しかも、ある程度の資料がある高松城と資料の少ない福岡城を同じテーブルに置くこと自体どうかしてる。
>しかし、同じ建物でも武具櫓を建てるよりは天守を建てた方が、一般の人には受けがいいのは想像に難くない。
観光客が来てくれるかどうかは観光課しだい。二の次三の次だ
史跡における建物の整備は、歴史的な景観や史跡が持っていた役割などを実物大の模型(つまり復元建造物)
によって再現し広く伝えるという目的がある。勿論、史跡のプレゼン手段の一つに過ぎない
天守天守言われても、それはないものねだりだろ。
>>240 どこから、何処までが模擬っていう境界はあやふや
平城京大極殿と言う事例が出てきたのは知っているだろう。
あれって、平面配置だけで、上物は全て当時の様式からの想像復元じゃなかったか。
今後、時代と共に国の方針も変わる可能性はある。
福岡城の場合は天守は無かったと言う人もいれば一時きあったと言う人もいる。
現時点ではどちらが正しいかというのは誰もジャッジできない。
俺は福岡城天守を復元してほしいとも、復元するべきでは無いとも思っていないが、
天守は有ったかと問われれば、恐らくあっただろうと考える派。
理由は単純。
現存する石垣を見ると非常に複雑な造りをしていて現在も見学用の鉄橋が掛けてある様に隣の石垣から天守側に渡る様な構造になている。
天守を造る気が無かったらこんな複雑な構造にする必然性が無い。
天守を含め周辺の建物と計画的に設計された構造だっただろうと考えられる。
だから、天守は恐らくあった。
解釈は人それぞれだとは思うけどね。
一時的だったかもしれないけど、天守が有った可能性はゼロでは無い。
>>247 観光客誘致は観光課しだいと言うけど、それが難しいから目玉が欲しいんだろう。
福岡に限らず、観光で集客するのにどこも苦労している割には効果が出ている所は珍しいじゃないの。
まぁ、福岡は何もしなくても再来年になればいやでも注目される事になるから、何らかの整備をする事になるだろうけど。
250 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 12:49:47.24
さ来年に福岡で何かあるの??
お前ら今日歴史秘話ヒストリア見るよな?
史上最強スペックの城を築城した加藤清正の熊本城だよ
252 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:58:45.51
>248
服部英雄による天守存在否定論をちゃんと読んだことあるの?
最初は作る気があったから天守台や天守郭があるのは当たり前だし、天守台作る時はそりゃあ天守を建設するつもりで設定して普請するだろ。
でも途中で諸事情で予定変更しただけだろ。
天守台があっても明石城や仙台城に天守が結局作られなかったのは明らかだ。
また唐津城の最近の天守台周辺の石垣工事の調査から、天守が作られた可能性はきわめて低くなったが。
天守を建てるつもりがないのに天守台を積んだと思われる甲府城や赤穂城、仙台城とは違い、福岡城のばやい、
天守を建てるつもりで天守台を積んだと思われるが、実際に天守が建てられたかどうかはまた別の話だと思われ
おそらく徳川幕府に遠慮する家臣団との間で意見が割れ、工事途中で建設中止になったと思われる
資料の少なさがそれを物語っている
>>251 情報サンクス!
http://www.nhk.or.jp/historia/ 「次回予告を見る」をクリックして、鉄筋コンクリートの熊本城なんかよりも、渡邉あゆみアナの美巨乳にビックリ!
第129回放送予定
魔王が棲(す)む 魅惑の城〜最新研究!織田信長 美しき城づくり〜
平成24年11月14日(水)22:00〜22:43 NHK総合
内藤案か?宮上案か?
安土城って想像天守で城内整備もされてなく、破壊されて荒れ放題だったから熊本城以下やわ
安土城祉は石垣見せるために綺麗に整備されてるだろ
蘭丸邸跡とかは草ぼーぼーだけど
>>256 安土城は廃城されてから全く整備されてなかったから
城としてはそれまでの価値しかない
遺跡としてなら当然価値はあるが、それは
学術的な価値であって城本来の価値ではない
価値があるなら廃城もされてないので、熊本城以下は間違いない
大手道周辺はかなり整備されているyo!
七曲道と百々橋道、搦手も整備してくれたら、竹田城のような相当立派な城跡公園になると思われ
総見寺もくだらない本堂復元コンペなんかに散財してる場合じゃないよね
>>257 君が言う価値と言うのが何を言っているのかさっぱり分からないが廃城する理由はいくつかあって一つではない。
>>259 価値があるなら江戸基から整備されてるだろって事だよ
それが整備もされず荒れ放題なら城としての価値で
熊本城以下と判断されても仕方なかろう
城として存在した期間が熊本城以下なんだからな
と言うか、熊本城よりも価値ある城なんて
片手で数える程もないんだが?
常に三大名城に入ってる熊本城と荒れ放題の安土城
安土城が名城である熊本城に食って掛かっても
意味ないと思うぞ?
君が食って掛かる相手は、安土城を価値のない城と判断し
荒れ放題にさせたご先祖様にやればいい
>>248どこから、何処までが模擬っていう境界はあやふや
復興建築という言い方もあるのよ。どっちにしても正規の復元じゃないんだけど。復元というのは鹿苑寺の金閣や大洲城天守のような例だけ。
日本における復元のほとんどはよっぽど資料がない限り推定復元による。それは時代の流れとかではなく、結構前からやっていることなんだ。
代表的なのが、登呂遺跡とか吉野ヶ里遺跡とかの古代建築物の野外復元な。絵図面とかでも土器や青銅器なんかに描かれた極めて単純な絵だから建物そのものの構造については想像でいくしかない。
その際、近い構造だと思われる建物をモデルに推定復元が行われるというわけだ。城で言うところの一番わかりやすいのが掛川城天守の復元だろう。
江戸時代の絵図(絵画資料といったほうがいいかもしれん)と「掛川のとおり」に造られたといわれる高知城天守を参考に宮上茂隆博士が設計した。これも復元ではなく復興天守に当たるんよ
>福岡城天守
プラン立てまでして計画倒れということもある。例は寛永大坂城の小天守とか、名古屋城の第二の小天守とか、伊賀上野城の天守とか結構ある
福岡城天守の存否はそんなところじゃなくて、細川だったかの「自分の城の天守崩したらしいぞ」の手紙や密偵の描いた天守っぽい落書きが見つかっていることなどから、天守が建てられていた可能性が指摘されているということだ。
でも復元という段階ではないのは確か
1.天守の存否を議論>2.新資料発見で天守存在を確定>3.絵図を発見>4.発掘調査>5.復元考証>6.天守を復元する方針決定
↑いまココ
>>260 安土城の場合、信長の墓として聖地化扱いされて跡地利用を避けたと言う理由だろう。
秀吉としては、信長の後継者と言う立場から、信長を利用する必要があったわけだから、跡地を再整備する事は得策じゃなかった。
>>261 呼び方はどうでもよいが、要は元々の物があったか無かったかと言う違いだろう。
福岡の場合、再来年の大河で観光客増員が期待されているから、その後もその勢いを最大に活かしたいと考えているんだろう。
だから天守の話が話題に上がっているんだろうけど俺としては、再来年に向けて無駄な植栽の整理をして、石垣や現存している建物がきちんと見えるようにしてくれる事に期待したい。
多聞櫓の前に生垣状に木が植えてあって観光客が近づけない様な所は他では見たことが無い。
考えを改めてほしいものだ。
>>262 安土城は権威を誇示するだけの城で、機能性、拠点性が皆無で役に立たないから
廃城にして信長の墓にしたんだよ
265 :
日本@名無史さん:2012/10/25(木) 00:58:19.46
∩_
〈〈〈 ヽ
〈⊃ }
∩___∩ | |
| ノ ヽ ! !
/ ● ● | /
| ( _●_) ミ/ こいつ最高にアホ
彡、 |∪| /
/ __ ヽノ /
(___) /
安土城みたいな汚ならしい寂れた城址とかどうでもいい
>>264 主が変わった際にそのまま利用するのでは無くて改修を繰り返しながら、防御力を上げたり拡張したりして、最終的には近世城郭へと変化した城もある。
安土の場合、近江八幡に引き継がれたわけだが、跡地を改修しても同様な城になった可能性もあると思うがそうしなかったのは信長の居城だったからだろう。
>>253 徳川に遠慮と言う意見は良く聞くけど、時期的どうなの?
関ヶ原直後でまだ豊臣が居る頃じゃなかったっけ?
豊臣時代では当たり前だった天守が徳川もそれ程盤石じゃ無い時期に遠慮と言うのはちょっとどうなのかと前から思っていたが・・・
270 :
日本@名無史さん:2012/10/25(木) 07:57:38.99
>>258 天主台だけでも整備してほしいなw
となりの観音寺城と一緒に石垣だけでも整備したら、近江の竹田城になれるだろう。
272 :
日本@名無史さん:2012/10/25(木) 08:45:01.08
>>271 「その時歴史が動いた」で法螺話やってたのかよ!?w
NHKも宛てにならんの〜
西軍の将に宛てた書状すら東軍よりの内容ですし>如水
>261
まだ1の段階だが
「絵図」と称するやつは、稚拙過ぎて怪しく、他の諸城もいい加減な表現。あれが本当に天守なら、本丸は三の丸より一段というか二段高い場所にあるはずだから、もっと高く表現されるはず。ところが同一平面に書かれる。
細川の書状は、同一ソースの文献が3つぐらいあるが(少しずつ違う)、天守と同時に屋敷(御殿)を壊したことになっている。しかし、本丸御殿も二の丸御殿もその時期に壊された形跡がない。
つまり、かなり怪しい伝聞ということ。
黒田と仲が悪かった細川が、黒田はおかしいやつだという文脈での書状の一部だ。
そもそも黒田家文書で全く裏がとれない話。
文献史学の常識からは、あまり信用できないものだ。
それに福岡市は天守復元など考えていないはず。
資料がある櫓や門についてどれから復元するかという話だと思うが。
安土城祉はブランドあるよやっぱ
直登180mの大手道とかかっこいいし
天主の礎石とか仏塔のあと(そこだけ礎石がない)とか
いい雰囲気でてる
>>274 やはり天守があったという確実な複数の資料なしに「復元」なんてありえないよね。
マトモなレス、さんくす!
駿府城天守ですら四苦八苦という有様だからな
>>269 天守を建てる事が特別な時代じゃなかったと思われる時期に控えると言うのは、ちょっと不自然じゃないのか?
城の規模や縄張り等、強固さの程度が戦闘に備えているかどうかと言う事であって、当時はまだ天守なんてそれ程重要視していなかったのでは?
>>263 >呼び方はどうでもよいが、要は元々の物があったか無かったかと言う違いだろう。
それは模擬の話。元々のものがどういうものだったか具体的にわかっているかどうかということ。
元々のものがあっても、どんな形だったかわからない場合があるだろ
そういう時は推定で造る場合もあるということよ
>>279 スマソ
>>261の最後のやつはスマホで確認したら改行して見にくくなっているようで。俺もまだ1の段階という認識で間違いない。
>それに福岡市は天守復元など考えていないはず。
それ。いくらあれでもそこまで馬鹿であるはずがないと思う。福岡城復元という広報か何かを福岡城天守復元と勘違いした市民が騒いでいるんだろうけど
>あれが本当に天守なら
ソースは「毛利家文書」な。南の丸にあった三階櫓という説もある。
これ以外にも、「西海筋海陸絵図」というのに四重か五重の天守っぽいものが結構はっきり描かれているようだが、妙な姿をしている
>>276 いい結論
280 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 01:34:52.22
>西海筋海陸絵図
の福岡城「天守」は当てにならない。
なぜなら、他の城の天守もスケールを少しずつ変えただけで同じように描いてあるから。
層塔式のはずの小倉城まで望楼式の同じデザインだw
あれを現物をモデルにした絵図とするのは無理だ。
毛利家文書の九州諸城図のやつは、確かに多分南三階櫓でしょうね。
281 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 06:04:17.59
とはいえ、資料に残っていない堀尾氏時代の浜松城天守は
有ったという方向にあるしな。
282 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 07:30:05.98
浜松城は何か史料があるんだろ
県民は建てたくないだろうから大丈夫だと思う
内藤 昌氏亡くなられたんだね。
ご冥福をお祈りします。
内藤先生亡くなったのか。
昔、建築と土木の学生が受講できる内藤先生の選択授業があって、第一回めの授業で内藤先生が「私は
土木は嫌いです。土木の学生は、私の授業を受講しても単位はあげません」って言い放って、本当に建築の
学生は全員単位をもらって、土木の学生は全員単位を落としたことがあった。
俺は土木で、全部の授業に出てレポート書いてテストも勉強して臨んで手ごたえあったけど落とされた。
個性的な先生だったね。ご冥福をお祈りします。
>内藤先生
宮上博士とまた議論するのかな。ご冥福をお祈りします。
>>280そんなことだろうと。制作も1668年なので単純に考えれば創作。
切妻破風と軒唐破風を主要に描いているあたりはまるで尼崎城の天守w
古い絵図なら適当であっても大坂城図の豊臣大坂城や洛中洛外図の伏見城や二条城のように入母屋屋根を平妻交互に重ねた姿を描くだろうから。
>>284市長自爆乙
>>282浜松城は天守台周辺から瓦が出土していることを根拠としているようだ。
福岡城の南二の丸の三重櫓って城内最大規模の櫓だったんだよな。
天守代用って事でこっちを復元すればいいのに。でも古写真も無さそうだし指図も残ってないかもしれんが。
あと、この櫓も武具櫓と同じで天守台の裏だから、復元しても観光客呼びにくいよなぁ。
すぐ近くにビルやマンションあって写真撮影にも不向きの場所だし。
京の伏見城と越前の勝山城
模擬天守でも伏見城は許せるなあ
それらしく見えるし
実際の勝山城が姫路城なみの立派な天守だったら驚きだが
>>288 武具櫓も三階櫓も搦手方向で確かに見えにくい。本丸搦手の穴埋めのために建てられたものだから仕方がないのだが象徴的な建物が全部裏に回っているというのが絶望的だな
大濠公園越しにみえるとせめてもの救いにはなるのだが、考証の結果、裏です。少しだけ三階櫓が見えるのが僅かな希望かな。
単体で復元するとなんやかんやで地味になるようだから、本丸の建物丸ごと復元しなきゃインパクトがない。せめて雑木を伐採して全体が見えるようには整備しなきゃ。
せっかく復元しても建物見えないんじゃ観光客を呼びたいんなら意味がない。
南二の丸の三階櫓は、構造が層塔型というのが本当に構造がわかっての層塔型なのか、なんか怪しい。毛利家文書の落書きが1601年創建当時からの福岡城を描いたもので
それに描かれていたものが三階櫓と武具櫓であったとすると層塔型天守が一般化した1608年ごろ(三階櫓では1601年頃からの例があるが)以前の建築ということになるので
三階櫓が層塔型であった可能性は低くなる(ゼロではなく)
結果、三階櫓の復元も無理ということになるな。
現状で復元できるのは武具櫓、潮見櫓、花見櫓、本丸表御門だろうけど、
全部復元してくれたら城好きとしては嬉しいけど、観光客呼ぶのはちょっと弱いかな。
再来年の大河が官兵衛だけじゃなくて、長政と二代で主役だったら福岡城も人気出たかもしれないのに。
利家とまつの時の金沢城みたいに。
中津城はブームに乗っかるチャンスだが、中津城は模擬天守が痛すぎる
あれは売れたのか?
売れたよ。介護福祉会社か何かがお買い上げ
またNPOか?
税金横領ばかりしてるよ、介護福祉のNPOは。
コリアンが多いし。
>>291 心配ご無用
昨年の大河では小谷城麓に特設展示館が出来て山上の城址も含め大盛況だったらしい
そういう機転が利けばな〜
福岡とか中津とかビジネスチャンスを反故にしそう
別のことでも知名度の高い姫路とか大宰府に持ってかれるぞ
299 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:34:14.81
300 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 20:24:45.98
>>299 近所のアホ大学出身でしたので、早朝ストリップとともに
よう見ましたわ。
A級伏見も無くなったんどすなあ。
302 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 23:47:44.08
豊臣時代の甲府城か。
その頃の城主って誰だったっけ?
304 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 07:14:06.49
1590〜1591 羽柴秀勝(小吉)
1591〜1593 加藤光泰
1593〜1601 浅野長政・幸長
薩摩藩は天守閣をもっていなかったとは真実か?
307 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 18:40:30.80
福岡城フォーラム行って来た。
小和田哲男が福岡城に天守あったかも、という話をしていた。今まで否定説だったが、細川家文書の記述からと言ってたが、徳川大阪城築造のための部材や石材を持ってくためという丸山説そのまま。
黒田如水の大河ドラマでの受容を狙って宗旨替えしたのかと(笑)
細川家文書の記述は、屋敷を壊したとか事実に合わないこともあり、黒田家文書で確認できないのだが。
大河の時代考証、大丈夫かな、と少し不安になった。
むしろ春風亭昇太が、福岡城の天守については直接言及しなかったが、あやしい天守はいらない、許せるのは資料がちゃんとある外観復元天守までだ、と言っていたのが印象に残る。
城=天守ではないですよ、天守がなくても立派な城はたくさんある、福岡城なら石垣を生かしてくださいと言っていたのが印象的です。
ただの城ファンは自分の思いだけで正論を述べられるが、えらい先生は全ての可能性を否定できない。
あったかもは可能性の話としては、言ってもいい範囲では?
309 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 21:15:01.06
>>305 佐土原城は宮崎県だが、本丸三重櫓があったらしいぞ
>308
今はあったと考えているとのリップサービス。
しかし根拠が伝聞の細川家文書だけなら史料批判が足りないと思います。
別の話ですが、肥前名護屋城に淀殿が来たという話も、最近は服部英雄に批判されているし。時代考証とか受け持つと、かえって考証が甘くなるのかも。
竹生島にある、伏見城名残の建物や初代大阪城の門は見たかえ?
>>310 考えが甘くなると言うか、大河の考証を担当しているのなら、NHKの造りたい方向から外れる方向の案を推す事は控えると言うのが大人の振る舞いと言う事だろう。
そもそも講演だって、依頼主がいるわけであって、存在があるとないの両方あるのであれば、地元福岡市民ががっかりする様な話をあえてする必要は無いわけだ。
そういう意味では、話の流れがどんなだったか知らないけど、「夢のある話ですね〜。あったと言う確かな資料が早く見つかると良いですね。」
と言う様な事が言えないのは春風亭昇太の方が大人げないという見方もできる。
313 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 00:50:46.42
314 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 01:23:16.86
昇太師匠は、城といえば天守(だけ)という誤った認識を正そうとしたのだろう。
天守はなくても(建てられなくても、分からなくても)、お城そのもの(縄張りや石垣など)が素晴らしいことに気づいてほしいということだったのだろう。
大人気ないとは思わないな。
むしろ、依頼主の意向や都で学説を簡単に翻したりする方が(そこまでしたかは知らないが)、大人気ないし、学者としての矜持に問題があるんじゃないか?
福岡城に天守があったとは無い、あったと思しき文書もあるが、他で確認できず、なかった可能性もいまだに強い、と言うべきでしょう。
福岡に招かれたからって、初めて福岡城に天守があったかもとそこで言うのは露骨ではないですか?
昇太師匠の講演が先にあったみたいだから、天守がなきゃお城ではない、というのはおかしい、
ということが、おそらく噺家だから分かりやすく楽しく市民に説明されたと思われるのに、下手にそこで天守はあったかもしれないとか言って市民に淡い期待をつなぐのはどうかと思われ。
>>314 言い方の問題だよ
怪しい城はいらないなんて言い方する必要はないだろう。
情報が少ないので天守以外に目を向ける意図があったかは解らないが、天守以外にも魅力が有るんですよくらいの事で十分だろう。
学説を変えるとかのはなしではないだろう
どちらか白黒はっきりしていない状態なのだからあえて無かった事を強調する人はいないと思うけどね。
無かった可能性もまだ”強い”なんて言い方はする必要は無い。
市民に正しい知識を伝えるのは重要な事だけど、淡い期待を持たせるのがなぜいけないのかな。
このまま白黒はっきりしない状態が永遠に続くとしても、それを承知の上で有ったかもしれないと夢をいだく事は自由だ。
いや違うな。
天守があったかもしれないという期待で、とにかく天守を復元、再建しろ、という声が大きいままだと、かえって城跡整備の障害になりかねない、ということよ。史料がちゃんとしてないと作れないのに、あったんだから作れ、という堂々巡りがあるみたいだよ。
少なくとも、あったとは断言できない、なかった可能性もあるんですよ、という話は伝えた方がいい。
その上で、城の魅力や価値は別のところにあると言うのがベターでしょうね。
昇太師匠もその辺りの空気を分かってあえてしたのではと。
「福岡城市民の会」は、元々は、天守再建期成会みたいな市民団体だからね。
だから、彼ら主催の講演会には、天守存在否定派の服部英雄なんかは絶対招かれない。それはでも、偏り過ぎてまずいでしょう。
元々、細川家文書の内容程度で、天守存在が「有力になった」とか、史料批判上、ちょっとあり得ない。天守存在を示唆する文書が出てきたが、検証が必要だ、ぐらいにしとくべきだな。
小和田先生、やはり大丈夫かなと。実際、あったという説に変えたとはっきり言ったみたいだよ。
夢は自由だが、学者は簡単に変なこと言っちゃダメじゃないか?落語家の昇太師匠の方が、当時の歴史全体はともかく、城郭に関してはむしろ詳しいのではないか?
あと、福岡城は天守の存在がはっきりしない以上、仮にあった根拠が出てきても復元整備に足る資料は出てくる可能性はかなり少ないから、そもそも福岡城の「魅力」になりえないことに気づくべきだろうな。
>315
>
>>314 > 言い方の問題だよ
> 怪しい城はいらないなんて言い方する必要はないだろう。
> 情報が少ないので天守以外に目を向ける意図があったかは解らないが、天守以外にも魅力が有るんですよくらいの事で十分だろう。
> 学説を変えるとかのはなしではないだろう
> どちらか白黒はっきりしていない状態なのだからあえて無かった事を強調する人はいないと思うけどね。
> 無かった可能性もまだ”強い”なんて言い方はする必要は無い。
> 市民に正しい知識を伝えるのは重要な事だけど、淡い期待を持たせるのがなぜいけないのかな。
> このまま白黒はっきりしない状態が永遠に続くとしても、それを承知の上で有ったかもしれないと夢をいだく事は自由だ。
317 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:01:44.09
西日本新聞見たが、小和田先生、天守があった可能性が高いと言ったらしいな。
丸山先生の説と同じで、徳川大阪城の築造のために天守を崩して木材を持って行ったとか。
御殿は崩したことになっているのに、その事実は無いことの矛盾はどうする?
それに石垣を崩して石材を大阪城に持って行ったと小和田先生も言ってるみたいだが、築石の規格が福岡城と徳川大阪城では違い過ぎる。小和田先生、城郭分かってるのかな?
いいじゃん、立派な天守建てさせてやれよ。それで集客力アップすれば効果あり。客が増えなければパチもん天守はお城の価値を高めないってわかる。
熊本城復元整備事業計画を意識してんだろうけど
熊本城は史実に忠実な復元で、福岡城は天守が史実に忠実ではなく想像復元
規模も熊本城と比べたら4分の1だし、結局、出来上がっても地味な復元になるんじゃないかな?
321 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 11:09:03.71
まともな天守閣は姫路城と松本城しか残ってないんですね。
322 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 11:17:29.14
323 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 12:32:38.50
一応、現存天守は12あるだろ。中には小さいもの(櫓級)もあるが、姫路、松本、松江、彦根、高知、松山、犬山はまあまあ立派だろ。
>318
>立派な天守建てさせてやれよ。
>パチもん天守はお城の価値を高めないってわかる。
あなたもパチもんを建てちゃダメだろと思っている訳だよね?
丸岡城のことも思い出してあげてくださいな
325 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 12:43:52.37
模擬天守で集客できてる城って大阪城くらいじゃねえの?
まぁ伊賀上野もあるけど、あれは天守というか忍者屋敷で集客してる気がする。
326 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 12:48:16.16
>>323 熊本城三の天守(宇土櫓)も現存天守に含めても良いかも
伝承だと元宇土城天守、最近の説だと一の天守(大天守)二の天守(小天守)を
造る前の熊本城天守、と言われているから
>>323 ん〜、個人的には好意的で無いけど、史跡を壊さない大前提の範囲でやってみれば?多分思ったほど集客しないだろうけど。って感じ。まぁやってみれば少なくとも今の天守台跡の研究は発掘したりで進むでしょ。
>>326 宇土櫓は、上二階は後で載せたもので、当初は二重三階って説もある。そこがはっきりしないと、天守並のものかどうか決められないよ。
>>328 何言ってんだ?
誰が言ったんだそんな説?
初めて聞いたんだけどw
あ、ごめん、中野じゃなく中井均先生の間違い。
福井城は再建できるんだから本丸の庁舎をとっとと移転しろ
あー、再び訂正。中井先生じゃなく加藤理文先生だ。熊本城を極めるとかに載ってるよ。あと歴史群像の2012年2月号。
北野先生の方は論文にもたしか記載があったし、歴史群像の名城シリーズの熊本城ー偉容誇る大小の天守・石垣に記述があるよ。
>>328 天守と櫓の明確な違いはないし、清正が建造した
五基の五階櫓は、全てサブ天守としての機能を備えていたから
宇土櫓も現存天守扱いで問題ないと思うけどね
高さを見ても現存天守の中で4番目の高さだし、見た目からして櫓に見えない
>>334 他の五階櫓の中には、廃城したときの天守を持ってきた可能性が高いものもあるから。宇土櫓建てた時期が特定できれば良いのにな。なんか方法無いのかな?
336 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:40:51.37
宇土櫓は確かに現存天守に含めていいだろうな。
備中松山城、丸岡城、丸亀城に比べたら、、
>327
発掘調査だけならいいが、「パチもん」の天守作るぐらいなら遺構を壊すだろw
337 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:47:28.58
福知山では石垣まで組みなおしちまったからな。墓石とかは全部抜き出して並べてる。
>>336 熊本城の天守みたいな建て方なら遺構へのダメージは最小限じゃ?
339 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:58:41.72
>>337 20年前に行ったけど酷かった
パチモンにあんなに木材使うなんてもったいないと思った
>>316 >かえって城跡整備の障害になりかねない、ということよ
何でもかんでもネガティブに考えるんだな
新たな資料なんてものは意外に普通の民家の奥に眠っていたりするもんだよ
天守については期待はしていないが皆の関心が高まる事で眠っていた資料や写真なんてが出てくるとも限らないぞ
341 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:06:06.83
>340
いやあ、天守にこだわる人が多いと、実際のところ合意形成がしにくいと思うよ。
文化庁の基準とか言っても聞かないような人もいるだろうし、天守さえできれば、他はどうでもいいという人もいたりするからね。
その意味では、学者ではない春風亭昇太師匠が話したという内容はいいと思うけど。
関心引くのに、天守問題にすがるのは何だかね。
>新たな資料なんてものは意外に普通の民家の奥に眠っていたりするもんだよ
福岡城の場合は、建物復元根拠になる資料が出る可能性は、かなり確率低いでしょう。武具櫓が移築された黒田別邸が焼けたのがイタい。黒田家(福岡藩)ゆかりの武家の子孫の集まりがあるはずだが、そういうとこからも出てこないし。
写真とかもう少しあるかもしれんが、、(もちろん天守の写真があるわけないが)
>皆の関心が高まる事で眠っていた資料や写真なんてが出てくるとも限らないぞ
それは一応同意するけど、ちょっと期待薄。
>>341 >文化庁の基準とか言っても聞かないような人もいるだろうし、天守さえできれば、他はどうでもいいという人もいたりするからね。
そこまでバカか?
想像力が暴走しているぞ
市長は怪しいぞ
344 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 07:37:33.04
>341-342
市長はいい意味でも悪い意味でも「市民目線」だからね。
それに、天守再建派(「再建」かどうかそもそも怪しいが)は、確かにとにかく天守が欲しいと思っている人も少なくない。
そういう人たちは、真実性とか、遺構への影響とか考えてないし。コンクリート天守で何が悪いんだと。
でたらめな小倉城の復興天守のでたらめさとか知らないか気にしないし、熊本城天守が外観復元天守で現存天守ではないこともあまり分かっていないし、
唐津城に天守があるのは元からだと思っているし(あったか怪しい模擬天守だが)、同じ黒田の中津城に天守があるのに(位置も違う模擬天守ともあまり分かっていない)福岡城になぜないんだと思っているからね。
城といえば天守、という観念を甘く見ちゃいけない(笑)
だから、それを打ち消すためか、その意味で春風亭昇太が怪しい天守の話をあえてしたのならば偉いと思う。
昇太師匠は、お城で講演する時は、しっかり下調べしてからするらしい。福岡城についても天守の存否が問題になっていることも十分分かってしたのだろう。
『お城あるきのススメ』でも福岡城はオススメの城の一つにされているから、何回か歩いているはず。
聴くところでは、天守のいろんな実態や「怪しい」城郭の復元(?)例についてパワーポイントまで使って説明したらしいぞ。
だいたいなんで平日やるかな、今日明日なら遠征できたのに。
駿府城天守も再建したい!と叫んでいるからなぁ
史跡における建物の再建について、文化庁はヴェニス憲章むに批准しているので、文化庁の一存とかいう話でもないんだなこれが。
348 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 14:23:26.93
天守閣大好きな人たちは「真正性」なんてどうでもよいと思われw
天守専だが、真正性にはうるさいぞ
世の中城=天守閣って人が多いから
史跡の国指定外せばいいんじゃ?簡単に外すわけにはいかないのか?
352 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:57:45.42
>>351 福岡市だったら模擬天守建てたいがために平気で国に指定史跡取り消しの訴えをしそうで怖いわw
>>344 思い込みが強すぎ
一部の人の誤解やその手の誤解を誇張している。
決めつけて物事を大げさに言っているようにしか聞こえない。
一見もっともらしいが、いったいぜんたいどの程度の根拠があってここに書いているのかな
354 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 23:25:02.09
実際そういう人いますよ。
ここで詳しく書けないでしょう。
また、上の方にあるような、だったら国指定を 外せばいい、という意見も本当にあったりして。
真正性を重んじる天守厨もいるでしょうが、ふつうの方々は、お城=天守閣ですし、その素朴な天守観がなかなか変わらない人もいたりするものです。
>>352 実際にそんなことしたら、文化財の維持資金が止まるので
そんなばかなことしないだろうがな
>>354 文化庁とか文科省とかがそんなんじゃなければいい
>>354 いるかもしれないが、市民全体の割合から見れば極々一部だろう。
何でそんな一部を強調して言うのかな
福岡人ってやっぱりチョンに似てるな
?
359 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 19:26:14.84
>356
「一部」っていうのがどれくらいか問題では?
市民団体は本当はやっぱり天守閣を建てたいんでしょ?
見栄だけじゃ天守は建造出来ない
>>359 なんで俺に聞き返すんだよ。
いると言いだした奴に先ずは数を明らかにしてほしいものだ。
だいたいにおいて、決まりごとを無視する様な人がいたとして、何故それが問題なんだ?
何が問題なのか、明らかにしてくれ
捏造天守なんて建てたい奴なんて馬鹿以外いないだろwwww
363 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:30:15.48
素朴な市民は意外にそう思っているんだな
もちろん、「捏造」とは分かっていない
天守が無い、あるいはあったがどうか不明な城郭でも、天守閣があったという説が出ると、学問的な妥当性はともかく、そっちが人気が出る。そういう話をしておけば、また話に呼んでもらえるということもあるのは事実。
春風亭昇太が、福岡城に天守論争があるのを分かっていて、あやしい天守の話をしたのなら、思い切ったことするな、と思ったよ。
もう呼んでもらえないかも(笑)
それも思い込みが入っている。
確かに、普通の人は知識が無い故に誤解をしている人はいるだろう。
しかし、その様な人にはきちんと説明をすればちゃんと理解してくれるだろう。
福岡の場合、2003年ころからお城だよりと言う広報を発行していた。
俺は福岡市民じゃないから解らないけど税金を納めている市民で有れば全員に配布されたんじゃないのか。
今は終了してしまっているようだけど、お城に興味が少しでもある人であれば広報を読むだろうから正しい知識がインプットされていると思う。
読まない様な人は興味が無いわけだから、世間がどんな論争をしようがどちらでもよい人と言える。
その「お城だより」、市民団体会員と、役所の一部や賛助団体(企業)にしか配られていないと思うが。
福岡城に関するシンポジウムとかで配ったりしているのをもらったことがあるけど。
でもその「だより」でも、天守閣を望む声があったりする。
福岡ネタ、しつこい
ここは学問日本史板
そんなにスレチとは思わないが、確かにしつこいな、福岡城関連。
369 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 18:49:14.17
あんまりしつこいから引導を渡してやる。
福岡城の天守なんて、あったかどうかもわからないシロモノだろう。
仮に江戸初期のごく短期間に天守があったとしてもだ。
現役の城だった江戸時代の大半は天守なんて存在しなかったんだ。
結論。
福岡城にインチキ天守なんかいらない。
うざいよ
福岡城ネタ
371 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:50:32.84
利神城の麓の御殿屋敷跡の発掘調査をしてたんだな。もう現地説明会は終わったようだけど。
山上の石垣は崩れたままなんだろうか。
372 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:59:18.11
福岡城天守閣を再建しよう
373 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 14:07:03.60
>>369 きさん福岡市民じゃないやろ?
よそモンが福岡の市政に口出しするなや!
>>373 やはり朝鮮の血は争えんのかのう?
仮に歴史をコリエイトして捏造天守を作ったとして
その後どうするつもりなんじゃ?
捏造を誇るのか?
根拠ない模擬天守は城オタには冷笑されるが少数派だ
多数派の一般人はどう思うんだうな
インチキ天守を建てたら客が集まるんだろうか
376 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 18:25:46.16
模擬天守で一番人気のあるのはどこだろう
377 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 20:57:43.09
そりゃ、熱海城
岐阜城
犬居城
大阪城天守閣とか何だかんだいってもメジャーな所じゃないかね
オタに人気なのは木造の郡上八幡城とか伊賀文化産業城なんじゃない?
大阪城天守閣は相当量の歴史資料を集積している点が評価できる
382 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 15:53:44.22
383 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:48:38.38
模擬天守ならぬ模擬御殿もあるな。
大阪城の大阪迎賓館とか、徳島城博物館とか、小倉城庭園の書院とか。
384 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 17:34:44.88
385 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 18:51:43.53
>>383 彦根城博物館、長崎歴史文化博物館(長崎奉行所)、箱館奉行所は模擬ではなく、
首里城同様、一応、復元だな。
>>385 御殿の復元ってなんか微妙。御殿のような建物って城独特のものじゃないから古い寺の方がよっぽど趣がある。城跡の建物復元は城らしい建築物である櫓や塀、門を優先させてほしいな。首里城御殿は良いと思うけど。
御殿の復元といえば、名古屋城本丸御殿復元事業の話題がそろそろ出てくるころか
どこまでできたの?
客観に頼るなよ
なにを頼れば良い?
他人に頼るな
>>387 自分でライブ画像を確認城
392 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:03:02.84
>>384 何年か前の調査では、天守台を作る意思をうかがわせるかのように
本丸北西部で、大量の石が見つかったという話を聞いた頃がある。
>>391 すまん、せっかくだがライブ画像の所在がわからん
計画どおりなら玄関と表書院はとっくにできておるのだろ?
394 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:33:15.11
大阪はハシゲのやつが国政進出して、市長の座を離れたら、
ぜひ大阪城に紀州御殿を復元してほしい。
>>393 名古屋城本丸御殿復元工事でググれば出てくると思うよ。
ちなみに来年5月29日に第一期工事分は公開予定。
今月3日にイベントがあったのだけど、見たところ玄関が屋根がほぼ終わって
室内を、表書院は屋根と室内を同時進行でやっている感じかな。
396 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:53:22.01
スーパー模擬土塁は宇都宮城でしか見られません!
天守台があっても天守のなかった城でも
御殿とかはあった訳だから御殿の復元をした方が楽じゃないの?
篠山城とかみたいにさ
>>395 重ね重ねすまん早速ググったぜ…でもライブカメラ今日は閉店のごたった
第一次復元工事は造作だけか
事業計画だと公開は2年後だか、計画より早くできそうだな
>>397 土塁までもコンクリで復元するなど、古川重春も想像だにしとらんかったであろうの
400 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 07:52:51.66
旅順要塞でも模倣してみたのか。
御殿を再建して、高級結婚式場とかに供して使用料で儲けよう
402 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:19:58.08
>>398 篠山は昭和19年まで残っていたから資料とかも多かったと思う。
その他の城は明治の初めに取り壊されたのが多いので、室内見取り図が
あればまだましで、本丸等が他に転用されて発掘すら難しくなっているのも
有るんじゃないかな。
赤穂も永井家が資料を持っていたらから、建物こそ無いけど間取りや
庭園等が復元できたらしい。
松本城は、現在二の丸御殿の復元を模索しているが写真が無いのがネックになっている。
写真を持っていたら提供してほしいと広く呼び掛けをしている。
>>401 そういえば、昨日松本城で白無垢に綿帽子をみたな
>>403 二の丸御殿ね・・
松本城は隅櫓や土塀を復元した方が見栄えが良くなると思うんだけどな
篠山城の再建書院は考証できないから壁が真っ白だった
ねつ造しないところは潔くて好感を持てる
>>405 松本の場合、いろいろと復元整備の計画は有るようだけど、建物の復元はハードルが高い。
http://www.oshiro-m.org/quiz/g11_4.pdf#search='%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E6%95%B4%E5%82%99%E8%A8%88%E7%94%BB'
このほかに本丸の多聞櫓と折廻し櫓も候補になっているが、写真があるのは南隅櫓だけ。
ただし、完全なものではなく、一部が映っているだけだ。
南隅櫓の場合、今年計画が具体的になった本丸の南、西外堀の復元の完成後でないと出来ないわけだが外堀に面した土塁は現在失われている。
上記URL先の資料では発掘は△で見込み有りになっているものの、発掘調査をしても遺構は見つからないのは間違いないと思われる。
>>407 愛知在住だが、こういう他城の話を聞くたびに、いかに名古屋城が資料的
に恵まれているかを痛感するな。
資料的には復元しようと思えば、主要部分の完全な復元も可能だろうけど、
せめて戦災焼失した部分は復元して欲しいなぁ…。
問題は木材だろうな。
純金のシャチホコのウロコもカネがかかる。
名古屋城は兎に角、本丸南面と大手馬出の復元を!
あそこだけでも要塞としての一面が強く分かるのだから
>>408 減税名古屋で復元費用を市民は出せるの?
413 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 21:53:14.03
まあ、名古屋市と言えども財政は確かに厳しいが、それ以上に、史跡を
生かす
観光以外には役に立たないんだから、
城の復元なんかやめろ。
今ある状態を維持することに専念しなさい。
415 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 09:03:20.75
↑こいつ最高にバカ
同意
417 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 19:20:26.77
>>412 市民生活に直結しない城の整備なんかに
多額の税金投入してたら河村落とされるだろ
募金でやれよ
419 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 20:40:16.29
ヒストリア見た人いる?
岐阜城の山麓の御殿の話面白かったな。もっと本格的に調査して欲しいわ。
>>417 >市民生活に直結しない城の整備なんかに
多額の税金投入してたら河村落とされるだろ
天守の木造復元を言い出しているのが河村なんだが・・・。
それに、復元で観光資源としての名古屋城の価値が上がり、
観光客が金を落とすのにつながるのなら、あながち市民生活に
直結しないとも言えんだろう。
むしろ、市民生活に直結とか福祉とか口にした挙句、ナマポの
飲み代に消えるくらいなら、そっちに金を使ってくれた方がいい。
実際、公営住宅とかには多いんだよ、働けるのに生活保護で昼間
から酒飲んでいるような奴が・・・。
名古屋なんて名古屋城を覗いたら大した観光資源は無いだろう。
城址としての価値を高める事で、名古屋市民の自己満足も満たす一面もあるのであながち市民の意向にも反したものでもない。
城の再建の前に、史学的開拓が必須
423 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 14:19:41.24
>>422 まあ、それが一番容易な城の一つが名古屋城なのは間違いないだろう。
そういう意味では熊本城のように積極的に往時の姿に戻そうとしている
のは羨ましいよ。
資料はあるのに…て思ってしまう。(逆に復元計画があるのに、資料が
なくて困っている城からすれば、名古屋城は羨ましいのだろうが)
ところで、戦災焼失した岡山城や広島城、福山城などは戦前に実測調査とか
してたのかな?
城郭関係の本を
なんか最近携帯がおかしいな。
続き
城郭関係の本を見ても、あまりその手の図面を見た事が無いのだが。
岡山城はホームページでそれらしい立面図と各階の平面図を見る事が出来るが
福山城というと駅前の遺構の破壊を思いだす・・・
430 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 04:33:11.63
>>414 観光が一番大事なんだよ。
模擬でも何でもデカイ天守を立てれば、バカな観光客が続々とやって来ては
金払って登って、ついでに地元で土産を買って満足して帰っていくだろ。
儲かるジャマイカ。それが全てだよ。
バカな観光客と言うのは言いすぎだろう。
皆さん、千田嘉博先生の最新刊「天下人の城 信長から秀吉・家康へ」を既に買って読み始めていますの?
433 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 22:43:22.39
江戸城天守復元って言ってる候補いるが
今ある天守台ってスケールダウン再建やりかけて止めたやつで元の上物乗らないだろ
どうすんだろ?
木材が調達できないこともわからないおバカさん候補がいるのか!
小牧山城で石垣の角、初出土
2012年11月14日
●信長、城郭初期の技法か
織田信長が築いた小牧山城の発掘調査をしている小牧市教育委員会は13日、
主郭(天守)の南東斜面で、石垣が屈曲する隅角(すみかど)部の石が初めて出土したと発表した。
後の時代から一般的になる石の積み方とは異なる技法で、専門家は「全国的にも貴重な初期石垣」と評価している。
後の時代の石垣で見られる「算木(さんぎ)積み」は、直方体の石を互い違いに積む技法で、
今回出土した隅石は立方体だった。
石垣の屈曲部は本丸西側でも確認されており、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)は、ここに櫓(やぐら)があったと考える。
石垣と天守閣でイメージされる近世城郭の原形は、信長が築いた安土城とされてきた。だが、
その十数年前の小牧山城で大規模な石垣などが見つかり、定説は覆されつつある。
千田教授は「小牧山城の中心部は、石垣で囲んで櫓を複数建てた堅固な城だった。この発見で、
小牧山城が近世城郭への出発点だったことが一層鮮明になった」と話している。
ふもとの大手道付近では、山肌を急角度に削りだして防御性を高める「切岸(きりぎし)」に、
土嚢(どのう)が積まれていたこともわかった。切岸部分は3メートルも盛り土で造成され、
表土が流れ落ちないように積んだとみられる。千田教授は「信長が短期間に次々と城を築けた秘密の一端」とみている。
現地説明会が12月1日の午前11時半、午後1時半からの2回開かれる。
問い合わせは小牧市教委文化財係(0568・76・1189)。
http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000001211140001
安土城のような完成された城郭が突然現れることは考えづらいから
こういう試行錯誤の段階の城が無数にあったんだろうな。
地中の遺構は個人の地表面観察ではわからないのが少しくやしいなぁ…
畿内に勢力を伸ばす前から石垣なのね
千田先生の新刊、近いうちに買います。
ただ、「大久保利通の肖像」など先に読破しなければならない本が2.3冊あります。
>>439 立ち読みしてきた。
とくに目についたのは、清洲城は前期と後期で、違う場所に造られていたという話。あとは、特に気になる話はなかった。
安土城の伝本丸に行幸御殿が有ったという説は否定していた。
安土城の黒鉄門の構造も、宮上、三浦、安土城郭研究所とは異なる解釈をしていた。実測図はめちゃくちゃ小さく、曲輪の高さレベルを読み取るのは無理。
442 :
日本@名無史さん:2012/11/25(日) 02:18:46.77
千田先生の新刊って、風媒社の単行本とPHP文庫のと、11月に2冊出てるのか。
439や441がどちらの話をしてるのか分からん...
>>441 実測図って何の図?
現地の案内板に使われていたり、良く本に掲載されるやつとは違うのか。
>>442 何故わからない
話の流れからして当然わかるだろう
>>442 風媒社の天下人の城郭の本
>>443 実測図は城山全体の測量図で、
城の曲輪を発掘したときの礎石や崩壊や修復石垣とかの測量図や掘などのトレンチの図とかは無かった。
建築の図面やイメージイラストも無し。
岐阜城には山麓の居館を発掘調査した時の測量図があったような気がするけど、
有ったとしてもめちゃくちゃ小さい図だから、礎石などは目で確認できないかも。
例の千田教授というといまさらながらだが、100名城の選定委員だったよな
あと、NHKだったか城の解説番組にも歴女と一緒にでていたのも千田教授じゃなかったっけな
おぼえたしかなら、面長で口ひげのおじさまだよな?
殿様の様な顔だ
449 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 13:09:21.00
東京駅の丸の内駅舎も完全復元されたことだし、
そろそろ江戸城の西の丸仮殿舎も復元したほしいな。
450 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 15:38:25.40
東京駅はなかなかよかったよ
451 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 15:40:40.63
東京には東京駅と旧赤坂離宮のような立派な建物があるから、
もう江戸城なんて必要ない気がしてきた。
某都知事候補が江戸城天守閣復元を公約に掲げてるw
よし一票
東京はもうじき大きな地震がくる
俺は都民だが、江戸城天守復元だけが目当てでは投票したくはないかな・・・
まあ、江戸城天守は復元希望だが・・・
456 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 03:42:05.90
都知事選はドクター中松かマック赤阪か・・・悩ましいね。
457 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 06:23:18.71
江戸時代260年のうち、最初の60年足らずしか存在しなかった天守閣なんていらない。
江戸時代の大部分を通じて、江戸城は天守のない城だった。
綱吉のときも吉宗のときも家斉のときも幕府滅亡のときも、天守はなかった。
だから天守なんかいらない。
>>457 天守より御殿だな。
江戸開城や廃藩置県など、歴史の舞台になった西の丸仮御殿の復元が望まれる。
>>457 家康・秀忠・家光・家綱の時はありましたが?
個人的に言えば、皇室はそろそろ京都に帰ったほうが良いかと
女性しか生まれないのは大気汚染のが原因だろうし
皇居マラソンなんて正気の沙汰とは思えん
ここは日本史板なのか?
>>451 東京都の思惑だけで皇居に手を加えるとか、無理すぎるぜ。
463 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 16:10:34.09
('A`)つフジテレビ
464 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 16:41:09.04
いや、だからこそ自由な発想で天守閣を新造すればいいと思う。
デザインも公募して、例えば釘隠しにミッキーやキティちゃんとか使えば女性や子供たちも楽しめる。
また、あたまの悪い書き込みだな
お役所様の許可が下りないんだよ
おふざけにマジレスする方が・・・
468 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 08:32:50.39
>>460 東京都民の間では女子しか生まれないということはないから
大気汚染は関係ない
471 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 01:36:02.15
>>464 そうだね。
スカイツリーを今のままのデザインで江戸城本丸に建てて、天守閣って名前を
付ければ、新しい電波塔と天守閣復元の両方が達成出来たのにね。
新しい発送のデザインの天守閣として人気が出たのにね。
敷地が足りなければ、堀を埋めたり、石垣を崩したりして二の丸や西の丸や
北の丸も使えばいいんだ。
634mの巨大な天守閣。かっこいいな。
スカイツリーを見るたびに、「あぁ、あれが江戸城の天守閣ならなぁ・・・」と思うよ。
472 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 09:13:26.13
>>468 京都はあらゆる寺社仏閣で常に寄付金募集してるからなー
二条城だけが世界遺産じゃなし
一日城主になるには一口100万からというのも敷居が高い
まずはお前が10口寄付してやれw
二条城は1000円寄付してステッカー貰ったわ
あれだけ観光客が来るのだから、1人当たり100円でも年間で1億5千万になる計算
入場料を払う受付で募金やってますとのアナウンスは確かにあるがもっとうまくやれよという感じだ
修学旅行生は寄付しないだろ
名古屋は凄いな。なんでそんなに集まるんだ?
477 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 18:12:36.25
>>475 他に観光地が皆無に近いからに決まっているだろう。
478 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 19:54:04.77
>>478 なるほど、ちょっとググってみたら企業が9割近く支えてるんだな。偉いな、名古屋の企業。
名古屋の方が大都市だし企業も多いからねぇ
481 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:02:13.98
だから寄附の対象となる文化財が少ないからだって。
企業は節税対策としてだろうが、一般が少ないのは娘を嫁にだすときのために蓄えているからじゃねぃ
徳川美術館一つでお腹いっぱいなのだが
文化財の数とかは関係ないとは言わないが、要は名古屋城がそれだけ市民や県民に愛されていると言う事だろう。
企業だって、金が余っているから寄付するわけではない。
企業にだってそれなりのメリットがある。
社会貢献だって企業PRになるし、収益の一部を寄付とかいって本丸御殿を応援していると製品に書けば拡販になる。
いずれも、市民が名古屋城を愛していないと成り立たない。
485 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 06:47:49.18
ある名古屋人いわく、「名古屋城は三河人徳川家のものだから思い入れはない。
強いて言うなら金の鯱だけ」だそうだ。
そんなことを言ったら、
大阪城も三河人徳川家のものだし、
彦根城は遠江人井伊家のものだし、
姫路城は城主が何度も代わってるし、
だれも思い入れを持てないな。
487 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 08:46:10.84
なぜ、どこの土地もよそ者に対する感情が同じだと思い込んでいるんだ。
名古屋人は特殊です、という結論がほしいのか?
489 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 09:01:05.18
名古屋が商売でさえ排他的な土地であることを知っておいたほうがいい。
さすがにトヨタほどの金には目がくらんだようだけど、落ち目になれば
徳川と同じ扱いになるかもね。
490 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 12:45:28.48
>>472 一日城主の一口の金額減らした方がたくさん金集まるんじゃね?
20〜30万くらいにすればいいのに。
491 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 13:21:50.23
>>490 二条城一日城主になると、
・徳川慶喜が大政奉還した大広間で慶喜と同じ場所に座り記念撮影
・非公開部分への入場
・庭園で茶の接待
・10年間二条城への入場料が無料
・ステッカー・飾り扇子・感謝状の授与
などがある
あまり多くの人数をさばけないせいだと思う
492 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 13:52:46.36
>>485 名古屋城は織田信長が生まれたという説もある那古野城跡に建てられており
城内に那古野城跡の碑もたっている。
名古屋城を宣伝するため城内に出没して武術を披露したり写真撮影に応じたりする
「戦国おもてなし部隊」も部隊率いる筆頭は織田信長。
それほど名古屋城=徳川という意識もないと思うなあ。
大坂城も今残っているのは完全に徳川時代のものだが
大坂の人たちが大坂城を見て徳川の城として大事にしているというより
「太閤さんの城」として愛着を持ってるみたいに。
>>491 一日城主よりランクの低い、一時間城主とかつくったら?
んで、ひとくち10〜20万円ぐらいに
>>492 だが、その太閤さんだって、生まれ育ったのは尾張。愛知県の人だ。
あと、歴史用語として、秀吉時代のことを大坂時代とは呼ばず桃山時代と呼んだりする。
(秀吉時代の伏見城が消滅した跡地に桃が植えられ、それにちなんで桃山と呼ぶようになったってことなんで、
桃山という地名は江戸時代になってから生まれたはずなのに、桃山時代と呼ぶのもおかしいんだよなあ。)
歴史学者の多くが、大坂時代という呼び名を意図的に忌避したとしか思えないような命名なんだが、
これってどうなんだろう。
494 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:14:13.00
どうせ上方コンプの東大史学屋がつけちまったんだろ
495 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:40:51.96
>>493 >その太閤さんだって、生まれ育ったのは尾張
残念ながら愛知時代の秀吉は下っ端過ぎて史跡が何もない。
初めて城持ったのが近江の長浜だからな。
あと、秀吉は大坂城を造りはしたがほとんど住まず、
関白になってからは聚楽第、関白を辞してからは伏見城に住んでいた。
秀吉が大坂城から天下に号令をしたことはないので大坂時代がなくて当たり前。
大坂城が豊臣家の主城となったのは、秀吉死後、遺言により豊臣秀頼が入城してから。
結論としては二条城の募金が集まらないのは地元企業や地元民がケチということだなw
二条城の寄付額の第1位は未だに東京のヨドバシカメラのままかね
498 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:15:24.35
>>495 全くそのとおりで、秀吉が大坂を居城にしてた時期って意外と短いんだよな。
関白となってからは聚楽第が本拠だし、太閤になってから伏見城が本拠(ときどき名護屋城)。
聚楽第破却後、京都に新しい館も作ってるみたいだし、大坂城って単なる持ち城のひとつだよな。
京都は韓国人多いし、行政も巣食われてる。
秀吉が慕われているのは、長く居たとかは関係ないだろう。
大阪の町を発展させる基礎を造ったと思っているからだろう。
何処の町でも大抵は基礎を造った人か、大きく発展させた人が慕われている。
502 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:34:29.33
でも、実際に繁栄したのは徳川様が大坂を復興して「天下の台所」になってからだけどな。
503 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:49:15.45
>>496 金閣寺が焼失したときはすぐに寄付金集まったぞ
(寄付者は京都からだけとは限らんだろうが)
二条城は言うほど地元からの愛着はないんだよ
天皇さんが住んだ京都御所ならともかく徳川の留守城なんて
504 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:49:30.59
秀吉が城下町を作ってなければ堺あたりが代わりを務めてるよ
505 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:52:52.80
城バカは本当に城以外が見えてないからな。
506 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:58:05.02
>>502 大阪の基礎を作ったのは秀吉
大坂城下に堺の商人を呼び集め道路を整備し上水道を引いた
徳川は大坂を復興したが大坂商人の底力のおかげもある
なんたって徳川は大坂夏の陣で天王寺のあたりから大坂城に至るまで大坂の町を完全に焼き切り
恩賞を焦った徳川方大名武将たちが一帯に住んでいた非戦闘要員の町人たちの首を斬り
敵首として届け出る酷いことをしたらしいから
名古屋城天守は当初は福井城天守と同じく四重天守で計画されたと思う
508 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 20:23:39.03
>>503 どっちかと言えば、立ち退いてほしいと言うくらいに往時は思っていたかもね。
>>504 誰も、もしもの話なんてしてないけど。
>>505 sageも出来ない輩が言う事だけは横柄だな
あれ?おれの書き込みもsageられて無いな?
ageてる奴は昼間から一人で何回レスしているんだよw
>>505 色々な意味で、その意見は間違ってるぞ。
二条城も二の丸御殿修復だけじゃなくて、
解体されてる溜櫓再建や、眺望良さそうな幕末の火の見櫓復元とかもセットで募金すれば金集まるんじゃねえの?
火の見櫓なんて外観はアレだけど、二条城内を鳥瞰できるし復元すれば意外に人気になりそうだと思うけど。
513 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 19:12:57.97
大阪城の紀州御殿も戦災で焼失した三重櫓群やその他の城門とセットで復元してほしい。
514 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 22:01:44.28
紀州御殿は和歌山城の物だ!
復元するなら和歌山で!
どこにも復元しないから安心しろ
517 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 08:58:45.30
518 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 18:28:56.22
この御殿ブームに紀州御殿を嫌う輩に気持ちが理解できない。
519 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 18:36:57.80
想定する立地が馬鹿そのものな点が馬鹿にされているんだよ。なんでそんなに知能が低いの?
紀州御殿は、どうゆう経緯で大阪城に移築されたの?
大阪が無理やり持って来ちゃったとか?
そうだ!そうだ!
大阪に紀州御殿復元はあり得ないぞ!
絶対阻止城!
522 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:35:46.01
米軍の失火さえなければ、いまでも現存してたはずだけどな。
仮に現存してても撤去しろとかいうのか?
写真もバッチリ残ってるし、復元しないのはもったいなさすぎる。
移築建築なんて歴史上珍しくもない。
523 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:48:13.69
>仮に現存してても撤去しろとかいうのか?
知能の低い奴はこういう発想をしてのけるから馬鹿にされる
現存してたら、そのまま維持かもとの場所に戻すかの二者択一だヴォケ
紀州御殿だって、明治から戦前まで城内に存在していたのだから、
師団司令部や天臨閣として、立派に近代大阪城の歴史の一部。
大阪城内に復元しても何の問題もない。
名古屋城の正門みたいに、明治に旧江戸城から移築した旧蓮池御門を、
戦災焼失後に復元している例もある。
移築建築だからダメという理屈にはならない。
名古屋城がやってるからOKって理屈にもならない
526 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 14:08:24.54
移築建築だからダメだ。名古屋のクレイジーな行動をわざわざ真似することもない。
日本の木造建築なんて奈良平安の昔から、移築建築や部材の転用だらけだろ。
>>526 そんな事言ってたらきりないぞw
もし福山城伏見櫓が失われたら「移築建築だから福山城に復元するのはダメ。元々あった旧伏見城内の桃山御陵に復元しろ」って事になる。
とはいえ紀州御殿復元については、和歌山城二の丸は市街地化されずに残ってるから、そっちに建てた方がいいけどね。
>>528 >もし福山城伏見櫓が失われたら「移築建築だから福山城に復元するのはダメ。元々あった旧伏見城内の桃山御陵に復元しろ」って事になる。
ならないでしょ
移築した年代を考えろよ
彦根城も寄せ集め
紀州御殿厨は、城壁厨につぐうざさ
531 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 15:28:48.68
古写真見ればわかるけど、紀州御殿って終戦直後まで近世の大名御殿が現存してた希有な例なんだよな。
それが戦災ならまだしも、終戦後の進駐米軍の失火で焼けてるんだ。
復元したいと思うのは当然だろ。
お前の当然が、世間の当然じゃない
同じ話題ばかりでしつこいから、消えろ
>>531 うん
オレも復元したらいいと思う… 和歌山城に
紀州御殿を執拗に毛嫌いする奴もしつこいな。
そもそもなんで紀州御殿の話題になってんの?復元話が出てるわけでもないのに。
今復元中の名古屋城本丸御殿以外で御殿復元計画ある城ってあったっけ?
川越城の本丸御殿は、2年半ほどかけて修理工事をやっていたな。
>>534 IDが出なくからって、恥ずかしい自演するなよ
城の目的、機能等を考えたら、城のあるべき姿としての価値は明治維新までだろう。
維新以降は、廃城による取り壊しが進み跡地の活用に依る遺構の破壊の連続で現在に至る訳だ。
紀州御殿も大坂城の歴史の一部等という輩はいったいどの時点までは歴史的価値と考えているんだ。
単に時間を積み重ねている過程を歴史と言うなら、現在の姿のままでだって同じ話だ。
明治維新以前の移築の場合は現役の城としての機能を充実させるための手段として行われた物であって、維新以降の移築と同列に扱うのは根本的な違いがある事を見落としている。
或いは見落としていると言うよりは何も考えていないだけだ。
大阪城の紀州御殿なんて、何処かの城に市民会館をぶっ建ててあるのと同じという事だな
540 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 18:42:50.42
二条城本丸に移築された桂宮御殿には価値がないとでも?
541 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 18:47:11.89
明治以降の移築なら、二条離宮(旧二条城)に移築された桂宮御殿も、
大阪鎮台→師団司令部(旧大坂城)に移築された和歌山城紀州御殿も同じ。
日光田母沢御用邸に移築された旧赤坂仮皇居(旧紀州藩邸)の一部もな。
そういう近世の御殿建築がどこぞの市民会館と同じわけがない。
誰も本物の紀州御殿に価値がないなんて言ってないだろ
大阪城に復元する価値がないって言ってんの
和歌山城は将来的に二の丸大手門から西に建っていた月見櫓、物見櫓、駿河櫓とその間の塀を復元しようとしているようだけど、
紀州御殿の復元計画ないのかね?
それらの復元が成し遂げられた後になれば候補として上がってくるかもね。
ところで、紀州御殿の内部はどんなだったのかね。
篠山上的な間取りだったのかな。
546 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:20:26.05
現存御殿って、二条城、掛川城、高知城、川越城だけ?
復元御殿は熊本城、佐賀城、篠山城、彦根城、龍野城、飫肥城の他、どこがある?
高松城の本丸にあるのは、厳密にいうと御殿じゃないよね。
547 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 21:12:50.24
ごく一部だけなら他にも移築現存しているところあるけどね
548 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 21:18:33.43
松前城は玄関の唐破風部分のみ残ってる。
川越の喜多院には江戸城大奥の一部が移築されてる。
佐伯城の三の丸御殿も玄関だけどっかの神社に移築されたんじゃなかったっけ。
でもこの御殿、昭和40年代まで残ってたんだよな。市民会館作るから破却ってあまりにもアホ過ぎ。
ちゃんと残していれば十分観光名所になっただろうに。
でも、高松城にある披雲閣とかいう建物は、旧藩主松平伯爵の邸宅だった建物だよね。
>>546 陣屋の御殿ならかなりの数が残ってる
だが城の御殿というより武家屋敷や民家のような物まであるが
因みに俺のお気に入りは若狭野陣屋
>>551 それが何?
だからどうしたって?
高松城には関係ない。
元々は違う建物があった場所に違う場所に建っていた建物を持ってきたわけだ。
元々建っていた建物の礎石などがその時点で残っていたならそれらが撤去された可能性が高い。
移築と言う名の史跡破壊だろう。
大正時代の建物を持ってこられても異物である事は間違いない。
ちょっと訂正
移築と書いてしまったがその部分は思い込みで書いてしまった。
もしかしたら違うかもしれないので、そこは訂正。
新築だとしても、江戸期にの城には関係ないので、跡地利用の改変と言う意味で同じかな。
556 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 02:08:37.93
>>546 下屋敷も含めていいのなら彦根城の現楽々園の槻御殿もあるよ。
一応城郭内の御殿だし。
大坂城は紀州御殿復元するくらいなら
本丸御殿復元すればいいだろう。
赤穂や松山みたいに平面表示でもいい。
下台所は近代の文化財である第四師団庁舎があるから無理だけど。
せめて戦災焼失した伏見櫓などを復元して欲しいな。
でも大阪市民には大坂城は『太閤さんのもの』って人がまだ多そうだし
近世城郭の集大成の徳川大坂城の価値を評価していない気がする。
徳川の櫓復元に税金導入など許さん!ってなりそう。
伝伏見城の御殿も各地に残ってるな
伏見城の建ってた跡地は現在明治天皇陵で
立ち入りできないけどね
旧伏見キャッスルランドに摸擬天守は建ってるが
伏見城址とは別の場所にある
>>556 心配しなくても大多数の大阪府民は
徳川の大坂城と豊臣の大坂城の区別なんてつかん
見栄えのする櫓がぎょうさん建つと知ったら諸手を挙げて賛成するに決まってる
天守閣なら復元されています
>>559 その理屈で言ったら太閤の本丸御殿も徳川も本丸御殿も紀州御殿も区別がつかないから、
名古屋城に張り合って見栄えのする御殿を建ててもいいという理屈に(ry
いくら言っても紀州御殿は間違いなく大阪には建たないから、もういい加減、理解してくれ
紀州御殿の話はもういいわ。復元計画が挙がった時にやってくれ。
564 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 09:43:37.43
熊本城の大々的な復元構想って、いつ誰から持ち上がったの?
莫大な費用はどこから捻出してるの?
佐賀城なんてマイナーな城も、よく御殿が復元できたと思う。
ここ数年の御殿復元ブームって、何がきっかけだったんだろう?
565 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:12:13.42
土建屋さんのもうけになるから?
566 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:29:25.41
二条城の桂宮御殿は京都御苑内の旧桂宮邸(門と塀だけ残ってる)に移築して、
徳川時代の本丸御殿を復元したらいいのに。
あと、天守焼失後に建てられた物見櫓も。
567 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:54:19.96
>>566 二条城は本丸御殿じゃなくて天守を復元したらいい。
遠くからでも見えるシンボルになるしね。
天守を復元すると京都御所や皇族が今も宿泊所として利用する大宮御所が
丸見えになるから駄目らしいが。
569 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 12:43:51.95
徳川幕府の直轄城のうち、一番長持ちしたのが意外にも二条城天守。
駿府城天守 1635年焼失
江戸城天守 1657年焼失
大坂城天守 1665年焼失
二条城天守 1750年焼失
江戸城や徳川大坂城より約1世紀生き延びてるんだな。
皇室関係に遠慮する必要なんかないから、二条城天守を復元しちゃいなよ。
京都府民が先ず賛成しない
>>564 熊本城は大正時代の宇土櫓修復運動からの長い歴史が有るんだが、いまの復元整備計画は昭和57年に決まったものだな。ただ30年前の計画なので、現在の急を要する修復などと順番が合わないため、平成26年に修正案がまとめられる模様。
>>564 続き。本丸御殿なんかの費用は、一口城主みたいな基金のほか、県や文化庁、国土交通省などの補助金制度も利用させてもらってる。
二条城の天守は復元できる程資料があるの?
>>569 さすがに皇室に縁深い京都だし遠慮はするだろうけど、その辺は何とか調整して天守復元実現してほしいよな。
高さの条例に合わないだろう。
二条城は、国宝二の丸御殿という比類なき遺産が現存してるのに、
いまさら天守はいらないでしょう。
578 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 11:41:38.53
淀城天守の方が先でしょ?
>>577 確かにそうだけど、二の丸御殿修復の募金がなかなか集まらないとこを見ると、
天守復元もセットにして募金集めれば、集まり具合も断然違うような気がするんだけどなぁ。
まぁ費用も倍以上になりそうだけど、金出そうという企業も出てきそうだし。
京都では家康は人気ないのかも
それで募金が集まらないんじゃないだろうか
他県からもっと集まってもいいと思うけどな。
京都はコリアンの巣窟だからな、日本の文化なんて滅んで欲しいだけ。
行政も乗っ取られてる
583 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 18:43:55.64
京都って本来の町衆とか京童の末裔は残ってないのかよ。
584 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 19:30:54.58
躑躅ヶ崎館の天守台跡(武田神社裏手)はどうして立ち入り禁止なのでしょうか?
神社の裏手だから
大きな神社の裏手は大抵は立ち入りが出来ない。
586 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 21:18:55.63
>>584 あと亀岡城の本丸。
あそこも某教団の施設だが、30年前には天守台の
至近距離まで近付くことができた。
それはまた別の話だ
あほか
神社は日本の古来からある八百万の神等を祭るものから、特定の個人を神格化したものまであるが、民衆の自然への畏怖や偉人への敬意が基になっている。
大きな神社が裏手の立ち入りを禁じているのは単に私有地の管理上からの理由であって、聖地だからという事は無い。(全てがとは言い切るつもりはないが)
亀岡城は宗教団体が何の言われも無い場所を買い取って信仰上の都合から聖地が必要だったから天守台周辺を聖地にして立ち入り禁止にしている。(と思われる。)
両者は明らかに異なる。
何を指して「あほ」とか「立ち入り禁止の天守台周辺」と言っているのか
さっぱり分からない件
デアゴがまた城でひと儲けしようとしています。
http://deagostini.jp/nns/ 当時の城全体の姿を復元したCG。
というコーナーがが気になるが、紹介している岡山の例では本丸だけだけど大丈夫かデアゴ。
県別古城址一覧は城めぐりをする上で役に立つかな。
592 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 20:31:31.22
>>588 天守台跡は「月宮宝座」というのになっていて、昔それを
見た記憶があるのだわ。
綾部の大本の教団施設も旧綾部陣屋の本曲輪なんだが、その
後ろに立ち入り禁止の小山がある。九鬼氏が来る以前は綾部城の
本丸はその小山の上ではないかと聞いたことがある。
あぁ上野城の方は城跡に入れないのか
情報サンクス
594 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 22:48:55.80
正直、城や陣屋の遺構を新興宗教の団体が独占して非公開にしてるのは、
あまりいい気分がしない。
亀山城多聞櫓で火災、不審火か
2012年12月16日
十四日午後九時十分ごろ、県の史跡に指定されている亀山市の亀山城多聞櫓(やぐら)から煙が出ているのを、
近くの市役所の当直職員が見つけた。消防署員が火を消し止めたが、
床の一部と江戸時代初期の創建当時から残る柱一本の計五〜六平方メートルを焼いた。
市が昨秋から多聞櫓の復元工事を進め、二十五日に完成予定だったが、火災のため完成は延期された。
多聞櫓は、県内で唯一現存する城郭建築物として知られる。工事のため入り口の建具が外されており、外部から人が簡単に侵入できる。
亀山署によると、付近に火の気はなく、不審火とみている。市は十五日、入り口を板で封鎖する再発防止策を取った。警戒を強化する。
工事の完成は、燃えた柱の修理や原因究明のため、年明け以降にずれ込む公算が大きい。
市まちなみ文化財室の嶋村明彦室長は「通報が早かったのがせめてもの救いだが、
多聞櫓は市と市民の貴重な財産。このような事態になって残念」と話す。
(久野賢太郎)
中日新聞亀山城多聞櫓で火災、不審火か三重(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20121216/CK2012121602000014.html
「大坂城跡」モトクロス大会の会場許可
国の特別史跡「大坂城跡10+ 件」(大阪市)の西の丸庭園で外資系の飲料会社が計画しているオートバイのモトクロス競技大会に対し、
地下の遺構への影響がないことが確認できたとして、文化庁が会場の設営を許可したことが17日、
分かった。大会は早ければ来年にも開かれる見通し。
文化庁によると、会場は同庭園内に一時的に土を盛り、その上に競技コースやジャンプ台、
観客席を造る計画。施設の重さで地下にある江戸時代の遺構が損傷しないか確かめるため、
大阪市教育委員会が9月から地盤の強度を調べた結果、
大会中の短期間であれば影響はほとんどないと判断した。
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20121217-1060875.html
>>595 これは、もう一度バラさなきゃイケんのかな?
598 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 18:28:53.21
ハシゲの俗物ぶりも大阪民の民度の低さも軽蔑に値するが、
それにOK出した文化庁も軽蔑に値するな。
599 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 19:28:25.47
>>594 城郭というのが風水を考えて作られている面があるので
神社仏閣を含め、宗教団体が利用するのも致し方がないと思う。
大友宗麟の山城で、今は、猿で有名な高崎山に高崎山城があったらしいのですが、この高崎山城について教えてください。
高崎山か
高崎山城の何を知りたいんだろうね
詳細な記述なんかしたって礼すら言わない典型的な質問投げ捨てパターンの悪寒がするが…
wiki来歴にちょいとだけ付け足すと、1191に大友能直が下向した際に阿南惟家が篭ったのが文献初出
そうだな
何が知りたいのか全くわからない。
ネットで検索掛ければ総統量の情報が得られるご時世に、ここであえて聞き出したい何ががわからない。
聚楽第の石垣か
606 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 00:35:11.27
>>601 高崎山城は「たかさきさんじょう」と読みます。
607 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 15:40:52.60
この3連休、どっかの城に行った人いる?
自分もどっか行こうかと思ったけど、寒いのとめんどくさいのとで、
結局どこも行かず。
自転車で関宿城までw
毎週末行ってるけど
岩村城と苗木城に行きました
大阪城の横通りました
地元なのでチャリで素通りw
地元にある元木山城の前なら頻繁に通る
山城登るなら冬だろ(除、降雪地)jk
613 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 22:02:00.94
小倉城はいつ見ても悲惨な状態。
北九州市には文化財保護とかそれを活かした観光に対する理解がなさすぎる。
あの周辺は、もうどうしようもないくらいカオスな状態になってる。
615 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 23:34:37.11
小倉城庭園としての藩主下屋敷庭園や書院の復元(書院は模擬?)、
本丸の石垣の整備・復元、常盤橋の木造復元などは評価できる。
しかし、リバウォーク建設による天守閣背後の景観の破壊、
およびリバウォーク敷地にあった職人口門跡の巨石撤去(石は行方不明)、
さらに松本清張記念館建設による松の丸西側の堀の跡の破壊、
その他周辺の発掘で出土した石垣の破壊などマイナス面の方が多い。
きわめつけは城内の八坂神社境内。
神社所有のため、史実に関係ない櫓風の社務所などが石垣上に作られている。
616 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 09:06:41.25
小倉城って史跡や文化財に指定されてないから、やりたい放題だな。
617 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 11:07:00.43
年末年始に城めぐりする人はいるのかな?
小倉城、かつてはJRの車窓から見えた
619 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 17:01:44.74
仮にリバーウォークがなかったとしても小倉城復興天守はショボい。
おまけに史実にない破風つきだし。
>>619 改修して破風なくしてほしいよな。それだけでも結構金かかると思うけど…。
あと、松本清張記念館も移転させて堀復活させてほしいわ。
621 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 11:56:44.51
清張記念館は堀の跡じゃなくて、その隣の松の丸の空き地に作ればよかったと思う。
わざわざ堀の遺構を破壊してまで作ることないだろうに。
大垣みたいに窓や破風飾りの改修くらいなら出来そうだが、
鉄筋の構造状、入り母屋の破風そのものを取り払うのは無理じゃないか?
小倉城は外観はでっち上げ。実際はあんな形してなかった。
高欄がないと眺めれないからな
新年あけまして
∧_∧
(´Д`)
/|=宗=|\
(_)LLLLLL(_)
おめでとうござりまする
/⌒⌒丶
/⌒ ⌒丶
(_( )_)
V ̄V
今日の中日新聞夕刊一面に名古屋城天守の木造再建に関する記事があった
627 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 16:29:15.34
要約して
鉄筋コンクリートの天守は総工費六億四千万円で、その内の二億円が寄付、内部にエレベーターなどがあり、違和感を抱く人も多い
市の試算では復元にかかる費用は三百億円で木材の調達方法などの過大も多い。
本丸御殿の総工費百五十億円の内、五十億円を市民の寄付で賄ったので、同じ方法が使えるか問いかけたいとしている。
現在の天守を立て直すにはコンクリ復元時に寄付した者達の理解も必要なので関係者を集めた理解が必要。
名古屋城は史料も資金揃ってそうだから
木造復元は出来るかもな。
まぁ実現までには様々な困難があるみたいだが、出来たら凄いだろうな
630 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 17:37:53.46
>コンクリ復元時に寄付した者達の理解
こんなもんいらんだろ
631 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 17:41:23.68
どこかが木造建て替えに踏み切ったら
追随するところも出てくるだろうな
名古屋には期待している
まだ今のコンクリ天守で大丈夫だろ
わざわざ壊してまで木造で建てる意味が分からん
三百億も使っても所詮、偽物だし
もっと他に櫓やら門を復元すればいいのに
しかし御殿は何度も再建されるが、天守が燃えると再建されない理由に価格の高さもありそうだ
住まないのに倍の値段じゃ、建てる気も失せる
634 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 11:02:40.70
招致できるかどうかもわからん東京オリンピックのために
国立競技場を建て替えるのに1300億円もかけるのにくらべたら安いもんだ
江戸城の桜田門工事で高麗門解体修理してるみたいで、
横の土塀が見えたんだが、なんかコンクリートでできてるように見えた。
ずっと土壁だと思ってた。
熊本もあの五階櫓群を木造復元してもらいたいね
大小天守と五基の五階櫓の壮大な城は画になるだろうな
>>636 熊本はその計画だ。百間櫓と西櫓御門復元したら次は数奇屋丸五階櫓の予定。
常時どこかで木造天守つくることで築城技術が継承される
お札の刷新と同じこと
聯合
>>638 江戸時代初期以外に築城された天守がどれだけあるのか?
その理屈なら江戸時代に技術は途絶えている。
伝統工法は絶えず何らかの作事を続けないと耐えてしまうのは間違いない。
城郭建築以外でも、神社仏閣等が同様の技術が必要なジャンル。
>>632 コンクリート物と伝統工法を用いた木造を一緒にしてはいけない。
現存する神社仏閣等の建物でも消失後に再建されたものが少なくない。
再建だからといって偽物扱いするなら一番最初に立てられた建物以外はすべて偽物という乱暴な言い方も出来てしまう。
伝統的工法を用い、高度な技術で作られた建物は単なる建物では無く、それ自体が工芸品等と同じ。
江戸時代に再建された建物でも重要文化財指定されていたりする物もある。
今から100〜200年程度しかたっていない。
再建天守でも200年、300年後には重要文化財ということも無いとも言い切れない。
コンクリートでも大阪城天守閣は登録有形文化財
城本来の役割を果たしたことのない建物が、何百年も存在し続けるとも思えないし、
存在しても価値は無い。重文とか寝言ととしか思えない。
>>642 伝統工法で建てても偽物でしょ
神社などは現在でも神社として機能してるから問題なし
646 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:06:39.74
>>644 逆に修理もせずに何百年も存在する建物もあり得ない
国宝でも重要文化財でも定期的に修理をし
瓦を新しいものに取り換え柱を新しいものに取り換え板を張り直している
そして新しいものに取り換えたら国宝や重要文化財指定を取り消されるわけではない
647 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:13:18.41
親が歴史もの見てる
さっきBSで城の見てた
>>643 登録有形文化財がいわゆる”文化財”だと思っているようだが、登録有形文化財は正式な文化財じゃない。
選挙で言ったら候補者みたいなもんだ。
>>644 金閣の事例は知らないらしいな。
あれもそのうち無くなると思っているのか
>>645 おかしな理屈だな
今となっては
姫路や、松本も観光地としか機能してないが
>>648 >今となっては
>姫路や、松本も観光地としか機能してないが
昔は城として機能してたってことでしょ
で、今に至る
これから木造で建てても城としてではなく観光用の城として機能してくだけ
だから、偽物ってこと
だからと言ってコンクリとは別物
>>649 昔も今も同じシンボル
天守=城じゃない
>>650 うん。コンクリか木造かなら木造の方がいいけど、名古屋城は現在コンクリ天守が建ってるからそれでいいんじゃないかってこと。
今のコンクリ天守も当時の人の寄付で建てたのに
木造で建て直すからって、わざわざ壊すことないでしょ?
653 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 01:21:09.40
コンクリ天守の耐用年数が来たら木造で建て直そうて話だろ
アホじゃないのか
>>652 川村なんちゃらが木造の話をしているが、時期的にはどう考えても尚早。
今の観光人気なんて天守があるからに他ならない。
現在本丸御殿を再建中だが、全ての御殿が出来るまでにはまだ時間がかかるし、御殿があっても天守が無ければ人では遠のく
先ずは本丸関連の多聞や櫓門を復元して見学できる場所を取り揃えてから、最後に天守をやるのが得策。
まぁ、その時がいつになるかはわからないがコンクリの耐用年数との兼ね合いもあるので一概には順番どうりにならないと思うが。
実用性がまったくないものを新規に建築して
目指せ文化財w
デアゴの城の本を確認したが、
CGを多用した入門者向けの本だった
測量図や復元図は無し
最近の城の本は入門者向けの本ばかりで残念
藤岡博士や城戸博士の論文集のような本がまた出ないだろうか・・・
659 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 08:03:11.78
安土城天主閣が独創的みたいに言われるけど、当時すでに全国あちこちで出来ていた、
物見櫓を載せた中世山城の本丸御殿を、寺院建築(瓦+漆喰壁+五重塔)に仕立て直しただけだったりしてw
それを猿と狸が全国各地に広めて、城オタどもが有り難がって当時の工法で再建しろ!とか喚いてる図式w
>>661 板貼る前の画像
昭和の建売り住宅かと思った
665 :
大滝秀治:2013/01/12(土) 12:16:00.91
石垣かっけえ
668 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 20:36:43.41
徳川の城好きだけどなぁ。名古屋城、徳川大坂城、二条城、江戸城とか。
駿府城も含めてどんどん復元してほしい。
徳川の城といえば加納城三階櫓の復元希望
ドイツとかのヨーロッパの城はホテルに使われていたり、個人宅になっていたりするけど、
日本の城も文化財以外は旅館に利用したりすれば、史跡の説明やシンボルとしての役割だけの無駄ともおもえる物件ではなくなるとおもうのだが
とくに木造建築は使えば使うほど味わい深くなるからおすすめ
>>665 徳川の城というより、藤堂流の城だと思うが
672 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 08:21:55.12
>>671 高虎が関与していない加納城の段階から、方形曲輪や層塔型の導入は行われている
大型馬出となると諏訪原城改修の段階からとなるので高虎流とされた特徴は徳川家
独自の技法と見るべき
>>673 たしかに。
しかし、方形曲輪ということではもっと古い城館が期限ではないかと思うが、層塔型は起源は良くわかっていないというのが事実なのではないかと。
徳川が早く築城できる方法を採用する必要があったので方形、層塔を多用したのは事実ですが、徳川独自ではないでしょう
>>674 層塔型については現状で、天守級で採用されたと確認できるのは加納城御三階なので
隅櫓なんかだと絵画資料ですが倭城や名護屋城に例が見られますね
加納城御三階櫓は信長時代の岐阜城天守移築説が言われていますが、確定的でないから、加納城が初めということ?
>>677 申し訳ない。
この絵を見ても、改造したことが良くわからない。
解説を請う。
美作津山城、越後高田城、長州萩城再建待望論
明治に岐阜城に天守台が改造されてトタン屋根の模擬天守が造られる前に、
陸軍が天守台の測量をしている
その天守台の上に加納城の三階櫓を乗せることは不可能
この陸軍が作成した実測図の存在を知らない人は、
岐阜城の天守台上に加納城の三階櫓が、そのままの平面規模で建っていたと思っているようだが
682 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 17:11:46.95
you tubeで「新唐人テレビ」を検索して見てください。
それを見ると中国人も中国の民主化を望んでいる事がわかります。
新唐人テレビは中国の民主化を望む中国人自身によるテレビ局で、海外に拠点をおき、中国共産党の圧力に屈する情けない日本のマスゴミよりもよっぽどまともなテレビ局です。
日本語による吹き替えも毎日アップしています。
日本では中国共産党の圧力により報道出来ないニュースが沢山取り上げられています。
新唐人テレビのような勇気ある報道機関を広める事で、中共の圧力に屈し、真実を伝えない日本のマスゴミのへなちょこぶりを浮き彫りにする事にもなります。
さらに新唐人テレビを衛生放送を使って中国国内に放送する計画まであります。
これはある意味、中国共産党に対する強力な「兵器」です。
新唐人テレビを日本や在日中国人の間に広めて、中共が日本に戦争をしかけてくる前に中共を内部崩壊させましょう!
>>682 館山城で画像検索したら
ほとんど同じ画像がワンサカ出てきて笑った
ここ模擬天守しかねーのな
インチキ張りぼて城の熱海城、下田城粉砕!
687 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 15:01:44.05
688 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:12:59.48
>>685 そうそう。しかも模擬天守が本丸跡の平地が狭くなった隅にあるから、
模擬天守全体を撮影しようと思ったら、大体同じアングルになってしまう。
山麓の城山公園の碑がある場所から模擬天守を見上げた景色の方がかっこいいと思うのですが、
のですが、なぜかその写真は少ないです。
そこまでして撮影するに足る物ではないと思われているようです。
良く見れば、城山のあちこちに城の遺構らしい地形があるのですが、一般観光客は気付きません。
城郭ファンはと言うと、本丸跡の地形自体が大戦時に砲台にするために
ゴッソリ改変されてしまったために、掘っても遺構が残ってないとかで、
これまた興味を持ってくれません。
館山城模擬天守はあからさまに偽物感が強く出ているからなぁ
柱、破風板、腕木等を黒か茶色で塗ると少しは貫禄が出るかもしれないが
ミニスカ姿の妻や恋人と山城跡巡りしたいな。
昔、山城で出会ったアベックは、女の方は元気よく挨拶してきたが、男は横を向いていた
通りすがり越しに男が女に「ハイキングじゃないんだから挨拶なんかしなくていい」と叱り付けていたのは気分悪かったね
名古屋城清洲櫓や熊本城の五階櫓群もなかなか
江戸城の富士見櫓
696 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 23:59:32.07
宇土櫓じゃね?
熊本城の櫓はどれも小天守みたいで、別格の趣
城全体で天守閣のテーマパークやぁ〜!
よく江戸幕府が許可したもんだ…
縄張としては北から大砲撃ちこめば終わりだからな
北側は敢えてデコイとしてるだけだから、大砲を設置しても反撃されて無効化されるだけだな
湿地帯で機動力を失って、籠城側から蜂の巣にされるのが目に見える
熊本城は、大坂や姫路みたいな山からの砲撃で狙い撃ちされる虚弱な城とは違うんだよ
西郷はそれに気付いて、熊本城から大分離れた花岡山に大砲を設置したんだが
それが熊本城の北側から攻める難しさを表してる
熊本城の宇土櫓に一票
>>700 そこまで大砲運ぶルートに対して両側面から攻撃できるよう作ってある。
>>700 砲撃する側のセオリーは、反撃されなく、しかも一方的に攻撃する事
反撃される様な論理なんて、その時点で単なる馬鹿じゃね?
>>702 井芹川と白川や坪井川のラインで包囲できかは砲撃前の前提条件かと
>>703 欧州の攻城砲は数十メートルまで近接して砲撃しています
熊本城には川を塞き止めて、周囲を水没させるという荒業があるからな
大砲が役に立つ訳がない
欧州の城は城壁を一ヶ所でも破壊されたらお仕舞いで、日本の城以上に大砲に弱い構造なんだけど分かってる?
って言うか、欧州の城は落城寸前じゃね?
大砲を数10m付近まで近付せた時点で終わってるだろ?
大坂冬の陣では大砲が大活躍しましたが
>>705 イタリア築城術採用以後もそういう使用法です
攻城砲は土塁にメートル単位で砲弾をめり込ませることができる
>>707 大砲対策の無いローテク大坂城の例は、近代戦を想定して築城されたハイテク熊本城には当てはまらないと思う
近代戦にも耐えうる中世に築城された熊本城
中世西洋の城で近代戦にも耐えた城はあるのかな?
ま た 城 壁 厨 か ! w
>>711 中世でなく近世の西洋の城、というより要塞ね
他の城が大砲でボコボコにされたり無血開城する中でも、熊本城だけは近世でも普通に通用したんだよな
兵数や装備の差、環境の要因の方が大きいかと
幕末の城で落城してない城って熊本城だけだっけ?
>>716 だと思う
大坂城や江戸城も落城してるから、落城してないのは熊本城だけだね
718 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:21:26.09
忍城がある
>>705 日本の城は内托式の城壁なので、
敵に一旦城内に入られると脆いよ。
欧州や大陸の城の城壁は、夾築式なので
敵が城内に入っても、武者走りからつまり高いところから
攻撃できるので強く合理的構造。
ヨーロッパのヘッポコ城の話なんてどうでもいいわ
戦国時代の日本と比べたら雑魚過ぎて
ヨーロッパなど比較対象にすらならん
赤穂城はヨーロッパの稜堡式要塞の模倣だね
江戸城は戦闘がなく、開城しただけなので、落城したわけではない
大坂も江戸も籠城する意思もなく終わってるから
その程度の城だったって認識なんだろ
熊本城みたいに兵員が多くても少なくても農民が守っても
最強の城であり続けるのって事はそれだけ難しいって事だ
じゃあ、神風連の乱で熊本城は落城したといえるな
鎮台兵に数時間で制圧されなかったか?
最近城に興味持ち始めて、先月初めて熊本城行ったけど、巷の評判通りホント石垣凄かったわ。
あの上に櫓群が載ってた姿を想像すると、ホント凄い威圧感だったと思う。
土産屋が並んでる(名前忘れたw)中に資料館があって当時描かれたらしい城の図があったけど、
これを油圧や電動機械類がない時代に作ったなんて凄いと思った。
それとエライ離れた学校(高校?)にも石垣があったけど、熊本城って城の中でも広いほうなのかな?
ニワカ視点でスマソ
>>722 名古屋城は守備側も大兵力前提すぎて幕末情勢だといまいちなんじゃね
730 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 21:18:57.56
高取城は落城してないな
731 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 21:37:57.75
>>722 ・寄付を集めて建てられた現在の天守閣を壊すべきではない
→コンクリだからといって、いつまでも補修で済むわけはなく、いずれ取り壊して全面的に建て替えなければならない。
・二度と燃えない天守閣とするためにコンクリートで造られた経緯があり、現在の天守閣
を壊すのは名古屋のアイデンティティを失うことになる
→燃えたのは空襲という特殊要因によるもので、それまでは300年以上維持できていた。
・現在の天守閣はベビーカーや車椅子、高齢者の方も多く入場されるが、木造復元すると
バリアフリーにならない
→城のバリアフリー化とかアホか。
ユニバーサルデザインって大事やけん
バリアフリー云々の話はどうもゆとりと被る。
これ何でも権利主張をするような話だろ。名古屋城天守閣に登る権利なんつって
どうしても登らなけりゃまずいなら話はわかるが、どうせ最上階まで上って「絶景絶景」っつって帰るだけだろが
734 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 18:55:13.83
木造はきちんと維持がしないと壊れるのは早えぞ。
それと根本的な問題として、天守等に使う事ができる木材は
もう、神社・仏閣でのご神木ぐらいしかないという話だが、わざと
枯らして安く買いたたく業者がいるらしいから、「木造天守マンセー」と
素直には言えないわ。
>>734 あ、それ聞いたことある
御神木とか大事にされている巨木に除草剤注入したり傷つけたりして枯らして、
「倒れる前に!お安く処理しますよ」的にもちかけて騙し取る罰当たりな業者がいるらしいね
八木博士が設計した白石城復興天守は拝観者の便を顧慮して階段の角度をわざわざ緩やかにしていたな
金沢城の復元櫓もバリアフリーで構造が当時と使用変更されていたはず
今後復元予定の伊予高松城天守は市長がバリアフリーでエレベータを設置しましょうとか提案してるから呆れる
現代に建てる観光用の天守だからバリアフリーとかエレベーターはしょうがないだろ
結局、木造で建てても意味はない
金がかかり過ぎるだけだろ
>>734 そういう弊害もありそうだなぁ
こりゃ気軽に木造再建しろとは言えないな
御神木なんか使ったらバチが当たるわ
でも法隆寺みたいな接ぎ木の技を使えば造れんじゃね?
仮に戦国〜江戸にエレベーターが開発されてたらエレベーターを設置しただろうか
偕楽園の好文亭には小規模な吹き抜けが有って、手動式エレベーターが有る
秀吉の伏見城にエレベーターが有ったという話しを聞いたような気がしたが詳しくは知らない
創作か嘘の可能性もある
741 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 21:33:56.51
どうして城にバリアフリーを導入する必要があるのか?というと、昔どおり
の設計だと入場できない人や、場内の坂道や石段を上り下りできない人や、
櫓や天守に上り下りできない人がいるからです。
そういう人々はお城にとって大切なお客様なので、配慮する必要があります。
つまり、お城が「お客様のためのお城」になっているのが原因です。
お城が昔どおりの目的で使用されていれば、お城は「城主とその一族のための
お城」なわけで、「いざと言う時に籠城するためのお城」なわけです。
そこにはバリアフリーなんて言う概念すら存在しません。
では、お城が昔どおりの目的で使用されるには、どうなればいいのか?
1.日本国内の治安を江戸時代初期レベルまで下げる。
2.都道府県庁と市区町村の役所をお城にする。
3.政治の政党間の争いで、暴力の使用を無制限で許可する。
4.自衛隊を廃止し、日本国内で使用できる武器は江戸時代初期レベルにする。
な?簡単だろ?
天守台と推定の遺構確認〜城郭ラインは弧状〜
西尾城二之丸跡発掘で判明 市教委
西尾市教育委員会はこのほど、西尾市錦城町の西尾城二之丸跡地で発掘調査を実施し、これまで確認されていなかった西尾城天守台の一部と推定される遺構を確認した。
さらに、二之丸跡の城郭ラインが直線ではなく、江戸時代の絵図に描かれているような弧状だったことも明らかとなった。
三河新報1月6日付
ttp://www.katch.ne.jp/~shinpo/kiji_105.html
お城DEバリアフリーって素敵やん
>>727 特別広いというわけではないと思うよ。
熊本城は98ヘクタールだけど、福岡城も80ヘクタールはある。
748 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 06:13:37.38
>>744 体育館も取り壊したし、二の丸の天守も
再建すると良いんですけどねえ。
>>744 天守台の遺構、前回の調査では見つからず、
体育館の造成で完全に破壊されたのかと思っていたけど、
ともあれ確認できて良かった。
人に攻め込まれないために、いかにバリアを設けるかで知恵を絞った築城時、
人を呼び込むために、いかにバリアフリーにするかで知恵を絞る再建時。
ユニヴァーサルデザインって、素敵やん
>>748 市は財政難だから天守台の石垣復元までなら何とかなるかもしれんが、
天守復元は厳しいらしい。
佐賀城御殿に行ったときに感じたのは、天井が高すぎること。現存部位との梁の高さが違いすぎ。外見は復元かもしれないが、内部は寺の集会所みたいで趣なかったな。入場無料だから文句言えないが。
佐賀城御殿は、歴代藩主の紹介とか甲冑や葉隠の展示でもすればいいのに、
幕末ばっかりで興ざめしたなあ。
755 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:08:17.73
西尾はなんで櫓や門なんか再建したんだ?
天守用に資金貯めとけよ
明日千田氏の新刊が出るぞ
岐阜や小牧の最新の発掘データが紹介されてるといいが
758 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:54:00.40
>>755 三階櫓とか門ができた頃は体育館があって
復元可能性がなかったからじゃろう。
今日買ってきた千田氏の新刊信長の城なかなか面白い
安土城天主掛造り説を提案しとる
小牧城の発掘調査後の図面も掲載されてるが小さすぎてわけわからん
>>763 真っ白になったんだね
天守が破却された跡に多門櫓が建てられたときは他の櫓と同じ白漆喰塗籠の外観だったってことになるんだけど、それ確かなの?
古写真に写っている明治期の姿ではすでに下見板が張られているんだが、他の平櫓や三重櫓には張られていないのはどういうわけ?
雨風を凌ぐための後付けだとすると、矛盾してない?
蔵書を調べたが分からなかった
復元鳥瞰イラストでは白壁の櫓と板張の櫓が混在して描かれているから
板張は後から補強した可能性も考えられる
767 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 06:24:16.90
ぶち壊されたという亀山城の天守ってどんな形なんだろう?
今ならCGとかでどっかにあるのだろうか。
宗教法人大本に訪れたら亀山城図くれるけどね
それは不満なのか?
それより約100年前に作られた石垣と比べると滓以下だけど、耐震性の無さと煉瓦だけは向こうの方が上そうだねwwwww
771 :
767:2013/01/26(土) 07:46:03.22
>>772 天主台南西部から発掘されたたくさんの礎石が、
天主台にもたれかかるように柱が燃えた痕跡があるので、
三浦案のキザハシではなく、天主の一層部分を支えた懸造りの可能性がある説明と
その部分に柱を並べた推定図だけで、天主全体の想像図は無かった。
天主を懸造りにすることで安土日記の20間×17間の謎が解けるとかいう話しだった。
ついでに、大坂城本丸図の天守台南西部分の朱線部分も安土に習って懸造りにした可能性があるとか。
>>773 なんか学生が漁ってきたネット情報を、院生が纏めて教授の名前で出した最新お手軽パクリ本って感じだね
三浦正幸の著書よりクオリティー低そう
↑うわっ!!何これ?気持ち悪っ!
>>774 三浦正幸氏の著書ってクオリティ低いの?
せやな
>>777 文学部出身の素人学生・佐藤大規氏に復元を担当させて「真説」を喧伝しちゃってるからねぇ。
個別の小さな木造構築物の復元はブレーンと称する宮大工任せ。
要は他人の手柄に自分の名前を冠してるだけで、千田氏は三浦氏を真似したんだよ。
今、「城郭研究者」は三浦に続けとばかりに、この手のお手軽本を乱発中。
308 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 17:17:05.76
八幡信者=城壁厨
東照宮が描かれている津軽家古図を慶長度江戸城天守の図面と主張してしまう人>三浦
>>782 家康がひれ伏して東照宮(自分)を拝んでいる絵が浮かび、コーヒー噴き出しますた!
キーボードがビチョビチョです…orz
慶長期江戸城天守台の20間四方を天守台の広さでなく、
底辺の広さと解釈してるのも問題だと思う。
そもそも20間四方の正方形の天守台に
17間×18間の正方形の天守が乗るはずがないのに。
宮上氏に張り合った結果がこれなら学者としてどうなのだろうか。
天守が長方形なのに、正方形を天守台を
長方形に改悪しているに訂正
三浦センセは学者じゃなくて業者ですから
徳川幕府の造営による五層天守の千鳥破風は、
平側(長辺)は唐破風+三ツ鱗△、妻側(短辺)は四ツ菱◇(あるいは唐破風+逆三ツ鱗▽)
に配置するのがデザインの定石となっているやに見受けられますが、
特に元和(秀忠)期天守の指図と目される津軽家古図によれば、すべての千鳥(唐)破風下に張り出しを設けており、
千鳥(唐)破風に機能的な必然性を持たせようとしたことが覗え、その立体的で変化に富んだデザインは、
ややもすれば単調になりがちな層塔型天守のデザインに新風を吹き込もうとした棟梁の工夫が感じられます。
その斬新なデザインは、寛永(家光)期天守の第4層の四方唐破風下や、隅櫓の千鳥破風下の張り出しに受け継がれたものと考えます。
788 :
787:2013/01/29(火) 20:01:42.18
名古屋城もそうだね
>>787 裳階屋根が付いて六重塔に見える奈良薬師寺三重塔(三拍子ワルツ)は、「Frozen Music(凍れる音楽)」と評されているが、
秀忠造営の元和度江戸城天守も、現存していれば名建築となったにチマイナイ
層塔型を極めた寛永度天守より、装飾過多のバロック建築のような元和度天守で再建した方が面白いんジャマイカ?
三代の江戸城天守は基本構造は同じでもそれぞれ趣が異なっているのが良い
慶長度天守・元和度天守の基本構造は確定していないけどねw
>>760 岐阜城山麓居館と天主、山頂天守については何か新知見載ってますたか?
>>793 信長時代の山頂に天守が有ったかどうかは不明としか書かれていない。
山麓の四階建ての御殿は、階段状の曲輪に段々に建つ御殿のことだろうと説明している。
山麓の大まかな平面図は掲載されているが、発掘した時の測量図は無し。
二条城は桝形発見とだけ。多聞城から移築されたとされる天守の説明は無い。
二条御新造の記事は無し。
>>795 うむ、
家康存命中の天守の中に東照宮が有ったとか摩訶不思議すぎる
>>793-794 岐阜城って、山麓「天主」と山頂「天守」の使い分けがよく解らないね
信忠の代には、おそらく山頂天守があっただろう(従兄・弟2人の大溝城・松阪城・神戸城天守台から金箔瓦出土)けど、
信長の代には、その家臣達が建てた長尾城や飛騨高山城のように、望楼を乗せた二階建ての本丸御殿だった可能性
>>657-658もありそう
大変刺激的な情報が交換されていることに驚き、また興奮しております。
信長時代の岐阜城山麓居館は、近年の発掘調査により、平屋御殿もしくは望楼を載せた二階建ての御殿が4棟、
段々畑状に連なった各曲輪に分散配置されていた可能性が高まり、
四層天主が単立していたというこれまでのイメージは大きく変更を迫られそうです。
フロイスの記述にある「1階〜4階」という表現についても、2階に「池のある庭」、3階に「茶室への廊下」とあることから、
「1段目〜4段目」と理解するのが適切であるやに思われます。
http://www.nobunaga-kyokan.jp/blog/archives/cat2/
>>802 元和度天守にあった東照宮は後に二の丸東照宮として移築されているので、存在するのは元和度天守となります
後、中井家指図の比定については内藤晶氏(元和説)と宮上茂隆氏(慶長説)のように意見が分かれています、
ただ元和の江戸城普請は主を江戸の鈴木家が行い、高度な技術を要する部分を京の中井家が手がけたと見られ、
その場合、鈴木家が元和度天守を手がけた可能性が高いと思われます
中井家指図に東照宮があった可能性についてはこれ如何に?
福井城天守も似たようなもんだな
>>807 その説はすでに、西ヶ谷恭弘氏が提唱していて、加納城三階櫓が模範となったとしている
黒田本の大坂夏の陣図屏風の豊臣大坂城天守も同じような破風配置なんだよな
この説が正しければ、黒田屏風の大坂城天守は後世の天守をモデルに描かれたものということになるんだが
>>806 寛永度天守にも東照宮があった可能性はないのかな?
家光は「二世権現」を名乗ってたくらいだから
>>809 うむ
出られない飾り高欄(妻側2面のみ?)、最上階軒唐破風、華頭窓、比翼千鳥破風など、彦根城にも相通じる要素があるね
加納城三階櫓の創建年代は天正末期もしくは慶長期に下ると見て間違いないだろう
>>805 正確に言うと現存する平面図にはないが、筆写の過程で省略された可能性はある
ただし、これ以上の詮索は不可能
>>810 史料的に確認されていない
元々、元和度天守の東照宮も家光が秀忠に求めて置かれ、毎月参拝していた
後、宮上氏は慶長度江戸城天守は大坂城天守となったとしている
その点を鑑みて中井家指図と願生寺指図を比較すると縮小移築した後が、
左右非対称の構造や破風配置が同一な点から証明できる
日本城郭史学会の4月のセミナーのテーマが安土城 天主建築と最近の調査成果だぞ
宮上氏のあとをついだ木岡氏も参加するらしい
興味はあるが遠いからどうしようかな・・・
最近の調査成果って、最近何か掘っているのか?
滋賀県は安土は終了して観音寺城を調査してるようだが
816 :
805:2013/02/02(土) 10:24:24.64
>>812 サンクス
中井家指図を慶長度天守のものと断定するのは早計だね
状況証拠の積み重ねで中井家指図は慶長度と認定されるという感じ
伏見城跡(桃山陵墓地)の立入調査 で検索したら伏見城天守台の図面が出てきた。
なんだか平面構成が浜松城天守台や岡崎城天守台に似ている感じがする。
図面から詳細は分からんから、淀城の天守曲輪と同一規模なのかどうかは不明だが
うむ
もし仮に、左右対称に整然と配置された入側通し柱位置が最下階から最上階まできれいに一致し、
寛永度天守(1638)のプロトタイプと言えるほど完成度が高い中井家指図が慶長度天守(1607)の指図だとすると、
約30年も時代を先取りする能力を持っているはずの中井正清?がその5年後に完成させる名古屋城天守(1612)の構造は、
左右非対称に配置された入側通し柱位置が上下で全く揃わず、井楼を単に積層させただけで、あまりにも時代遅れな希ガス
状況証拠の積み重ねと言っても、「結論ありき」で積み重ねた状況証拠では無意味だし、、、
この辺の判断は、なお慎重を要するだろう
名古屋城天守については16間・18間の江戸城に対して、1間小さい15間・17間という条件故にああなったかと
822 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 22:54:24.05
大坂城でモトクロスのイベントやるんだってさ。
遺跡など保存状態が悪化するかもしれないと
危惧されているらしいけど
公園整備の車も、何故か一般車っぽい車も
普段から大阪城内を走りまわってるけどね
名城に天守閣有り日本だから
お城にも?
ありがとうございます
いろんな情報を整理してみますた!
T中井家は、江戸城の相互に矛盾する指図を2つ所蔵している。
A.すっかりおなじみの「中井家指図」
B.↑とは明らかに異なる上二重指図(第五層と第四層のみ)
・・・第四層にA「中井家指図」にはない四方凸状張り出し壁(妻側は唐破風、平側は切妻破風)
→第四層が四方唐破風・張り出しの「津軽家古図」とも、寛永度天守とも異なる。
U中井家は、若狭小浜城の相互に矛盾する指図を2つ所蔵している。
A.当初計画されていたが、実際には施工されなかった5層天守の指図
B.(↑の棟高はそのままに)実際に施工された3層天守の指図
以上、中井家所蔵の指図はすべてが実際に施工されたとは限らず、不採用の計画図が含まれていることが判明。さらに、
V「中井家指図」(16間×18間)は、寛永度(徳川)大坂城「願生寺指図」と、千鳥/唐破風配置や入側通柱位置まで酷似している。
・・・徳川大坂城天守台(15間×17間)に合わせ、縦横それぞれ1間ずつ縮小して建設した可能性あり。
→「慶長度天守(1607)の指図であり、寛永度(徳川)大坂城への移築が証明された」とする宮上説(
>>814さんご紹介)への疑問
>>820さんのご指摘(同じ中井正清設計の名古屋城の5年前、駿府城U期の前年にしては完成度が高すぎる件)に加えて、
@築10年で乾燥し切った最高状態の木材を大量に、解体(1617)から大坂移築(1626)まで「9年間」も保管した後、延々と
江戸から大坂まで膨大な手間隙掛けて送るより、解体してすぐに足元の本丸御殿群に転用してしまった方が合理的では?
A隣接国間、例えば大和郡山城(奈良)→伏見城(京都)、二条城(京都)→淀城(京都)の移築とは事情が違うのでは?
→東海道物流ストップのリスク
>>827 T〜Vを総合すると、こんな説も成り立ち得るのではないでしょうか?
「津軽家指図」・・・元和度天守の金賞(採用)
「中井家指図」・・・元和度天守の銀賞(不採用)≧寛永度(徳川)大坂城「願生寺指図」
【解説】
元和度天守(1617)の設計コンペにおいて、厳正なる審査の結果、甲乙付け難いとして「中井家指図」と「津軽家古図」が最終選考に残る。
秀忠自らの選定により「津軽家古図」が選ばれ、建設された(最上階に「東照宮」が描き込まれる)。
しかし、その9年後、寛永度(徳川)大坂城(1626)建設に当たり、その際立った完成度の高さが買われ、元和度江戸城の銀賞(次点)だけに
江戸(第1位)≧大坂(第2位)となる都市序列にも適い、「東照宮」が描かれなかったことも幸いして、「中井家指図」が原案として採用される。
縮小、修整して建設され、将来の修繕に備えて地元大坂の大工が所蔵していた施工図面が「願生寺指図」として残る。
ダメどすか?
知りまへん
>>827 江戸の天守を大坂に移築というのは政治的アピールかと
後、材木は海路で運ばれる
後、中井家指図と津軽家古図を比較すると桁の形状の違い等、
で後者は寛永度天守との特徴を多く有している
で、中井家は元和度天守が作られる前に慶長度江戸城天守の指図を
含んだ複数の絵図を江戸に送っている
そうなると中井家が慶長度天守の指図を有していたのは確実
>>830 >後、中井家指図と津軽家古図を比較すると桁の形状の違い等、
>で後者は寛永度天守との特徴を多く有している
確かに!!
津軽家古図で建てられた元和度天守の部材が、寛永度天守に転用された可能性もありそうですね!
特定の専門家の説を鵜呑みにして、一方的に押し売りして回る素人営業マンも考えもんだね
>>832 だって内藤晶・宮上茂隆・小和田哲男・三浦正幸の各説で一番なのが宮上説なので
小和田・三浦説は史料を無視しているし、内藤説は前期・後期層塔型という誤った考えが前提だったし
>>833 訂正、小和田説は史料無視でなく内藤説と同じ考えで復元図を描いている
835 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 23:10:07.44
ところで、創建時の高知城天守って下見板張り
かも?って思ったんですが
本丸だけ妙に不自然に漆喰塗りごめだし
836 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 00:43:17.09
大坂城の本丸の盛り土を掘り起こして、豊臣大坂城の石垣を展示するらしいね。
本丸天守台に豊臣大坂城の天守閣を再建しろよ!
ついでに豊臣大坂城西の丸の四重天守と徳川大坂城本丸三重櫓も
中井家から新たに豊臣大坂城や慶長度江戸城天守と思しき指図が出てきたりしてw
840 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 07:04:38.95
>>833 あんた、壊れたCDみたいに毎回同じこと書いてるね。
Wikipediaにもデタラメ書き込んでるでしょ?
まあ、それはともかく、
三浦説・小和田説に関しては同意だけど、内藤氏の層塔型の前期・後期分類が誤っているという論拠はあるの?
まさか、俺様が一番と思い込んでいる宮上説(中井家指図=慶長度天守)から見ると、ということではないよね?
841 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 07:41:23.57
>>835 領主が新しくなったことを強調するため、天守を新築したところは
創建時は漆喰塗りごめだったと言われるところはあるらしいです。
下見板張に比べると風雨や、降雪に弱く維持費もかかるので、後に
下見板張になったところがあるらしいです。
>>840 内藤氏は前期望楼型(犬山城)・後期望楼型(姫路城)・前期層塔型(名古屋城)・後期層塔型(寛永江戸城)
のように天守が進化していったとしている
しかし名古屋城以前の後期層塔型と言える順次逓減する天守級として日出城天守や加納城御三階がある
よってかなり初期から層塔型は完成の域に達していたと見るべき
>>842 >名古屋城以前の後期層塔型と言える順次逓減する天守級として日出城天守や加納城御三階がある
>よってかなり初期から層塔型は完成の域に達していたと見るべき
う〜ん、これはどうでしょう?
サンプル2で、しかも両方とも小規模天守で結論付けちゃうのって、ちょっと短絡的過ぎない?
大学のゼミ、例えば三浦研究室でそんなプレゼンしたら却下されちゃうよw
冗談はともかくw
小規模な三層天守とか三階櫓のばやい、比較的単純な入子細工のような通柱の配合で済むし、
10間を越えるような四層五層天守となって、偶数階(複数)と奇数階(複数)でどう互入させて横入力に対抗させようか、
みたいな話になるんであって、、、
加納城は影が薄いねえ
岐阜城ばかり脚光を浴びる
>>843 加納城は望楼型の岐阜城から移築ですからそれは柱筋が通らないでしょう
私は逓減という点で見ています
そも内藤氏の前期層塔型は欄干・無破風・柱筋・逓減を挙げますが、
その中で何が揃えば前期層塔型となるか示してません
仮に一つでも合致するのなら福山城天守も前期層塔型になるのですが
>>846 >加納城は望楼型の岐阜城から移築ですからそれは柱筋が通らないでしょう
>私は逓減という点で見ています
確認したいんだけど、
柱筋が通らないのに加納城御三階を(後期)層塔型と見なす理由は、逓減率が一定であるから、ということ?
基本的に逓減し大入母屋破風が無いものが層塔型と認識しています
前者はそうでないもの(古河城等)もあるので絶対的な条件ではないけど
後、私はその層塔型に前期・後期の分類は正しくないと見ています
>>847 >そも内藤氏の前期層塔型は欄干・無破風・柱筋・逓減を挙げますが、
>その中で何が揃えば前期層塔型となるか示してません
>仮に一つでも合致するのなら福山城天守も前期層塔型になるのですが
内藤氏が提唱する前期層塔型の定義が、貴方にとって不明である、理解不能であるというだけで、
何であるか理解していない貴方が「層塔型天守は登場した時にすでに、内藤氏が提唱するところの後期望楼型というべき
完成の域に達していた。だから内藤説は誤りである。ゆえにそれを前提とした復元天守も誤りでなる」と完全否定するには、
人によって見解の分かれる(柱筋の通らない層塔型?)移築天守と一地方の三層天守の2例だけじゃマズイよね?
言ってること解るかな?
>>848 >基本的に逓減し大入母屋破風が無いものが層塔型と認識しています
>前者はそうでないもの(古河城等)もあるので絶対的な条件ではないけど
すると、柱筋がどこでどう通り、どう互入されるかは別にどうでもいいと思ってるわけね?
>後、私はその層塔型に前期・後期の分類は正しくないと見ています
なるほど!層塔型を前期・後期に分けるべきではないと言ってるわけね?
するとあなたの上記定義では名古屋城と寛永江戸城を層塔型となるわけだよね?
両者の側柱と入側通柱配合はかなり異なるけど、その区別はどうすべきか教えてくれる?
>>814 中井家指図が慶長度天守の指図であるならば、同一人物がその5年後に築いた名古屋城と、
天守台規模(15間×17間、左右非対称)の似た徳川大坂城への移築縮小で、なぜ躯体の設計思想が全く異なるのかの矛盾もありますし、
中井家所蔵の未公開指図の存在を否定しかねる現時点で、特定の既存説盲信的な断定は危険であるやに思われます。
>>827-828 大変魅力的な御説と存じます。
>>831 津軽家古図と寛永度天守の極めて高い類似性には自分も以前から注目していたところです。
>>839 秀吉大坂城天守台の跡地は現在貯水池になっており、その下層にそのまま埋まっている可能性もあるやに認識しております。
山里丸との関連も含め、今後の発掘成果にも目が離せません。
また、慶長期江戸城天守には、複数の小天守(隅櫓)と「天守丸」を構成した環立式天守との説もあり、
その解明は今後の課題であるやに思われます。
>>840 やはり、みなさん密かに思うところは同じのようですねw
安土城に天守閣有り天守閣無し
江戸城も
>>851 柱筋の一致はそれ以降の問題かと
名古屋城が奇数の柱間で建てられたため
>>854 (柱筋が全く異なる)名古屋城と寛永江戸城が共に層塔型であり、分類の必要はない、ってこと?
だとすると、層塔型はかなり初期から完成の域に達していたとする根拠は何?
>>854 >柱筋の一致はそれ以降の問題かと
登場初期からすでに完成の域に達していた層塔型が、さらにそれ以降も進化している、って矛盾してるだろw
>>844 うむ
宇和島城も弘前城も後期層塔型ではあるが、三層天守と五層天守の技術的な難易度の差は、
真柱を通して積み重ねるだけの三重塔と五重塔とは比較にならないほど大きいはず
宮上説受け売りネット喧伝者(立て板某?)には正直失望した、、、
大阪城天守は再建されています
天守閣も?
>>856 先述のように名古屋城のそれは1階が奇数の柱間故に、
途中でそれを修正することを目的に2階と3階で断絶したのが理由かと
>>861 それなら、中井家が5年前に完成させた慶長度天守(16間×18間)を、
徳川大坂城でしたように(15間×17間)に間引いて建てれば済む話だろ?
>>814 層塔式は当初から完成の域に達していた
>>842というなら、層塔型の名古屋城
>>848では、
あえて最下階から最上階まで入側通柱位置を一体的に計画せずに、
左右非対称の下層部を、通し柱を途中で断絶させて左右対称に修正してから、上層部を乗せるという、
古い望楼式で建てたかを聞いているんだよ?
上層部と下層部の区別のない層塔式は当初から完成の域に達していたんじゃなかったのか?
863 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:22:08.78
とっとと大坂城の本丸と二ノ丸の発掘をして、豊臣大坂城の調査をしろよ!
あと、三ノ丸と総構を復元しろ!
864 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:45:35.79
ついでに、
>>861よ、○○かと、○○かと、って、お前は「かとちゃん」かっ?!
今北産業
藤堂高虎の残した謎。それが層塔型
なんつって
日出城天守をどうやら知らない
>>842さんへ。
明治3年実測記録
1重:8間2尺×7間3尺(東西×南北)
2重:5間×4間
3重:4間×3間
嘉永元年の記録(柱間だと思う)
1重:8間×9間半(東西×南北)
2重:5間×6間
3重:4間×5間
望楼型天守から無理して層塔型に建てようとした頃の試験段階の建て方だったんじゃないかと思うよ。
その証拠っていうわけじゃないけど、日出城天守の天守台は建屋より3尺ほど大きく造られていたらしい
つまり、歪んでいる分のカバーよね。知ってると思うけど、日出城って細川の加勢よ
言わんとせんことわかるでしょ?
それと、思うに加納城三階櫓
移築したとき偶然層塔型になったとかじゃないかと思う
絵図面を見る限りだと、望楼型と同じように柱位置が上下階ともに一致しているじゃない?
これ、望楼型の特徴よね。
完成期(っていわれている)の層塔型天守って、通し柱をなるべく使わずに、柱位置をずらすじゃない。
(でも、幕末頃の天守や江戸後期の再建天守・三階櫓は上下階の柱が一致していることも少なくないんだけどね)
>>866 松本城乾小天守、元々は望楼型だったんだよ
大垣城天守は1596年創建の建築だが層塔型だろ。1620年に改築されてん
南蛮寺の三層部分は人が立ち入れる構造かもわからないので
単純に絵図を根拠に、層塔型の三重建築があったとはいえない
でも、可能性はあるよ。技術も十分にあったんだからさ
幕府の令で図面が今もあるのはいいが、当時、そんな改築とか出来たのか?
>>861 平面図の柱間数が規則的に逓減していて、大入母屋がなければ、
みんな完成の域に達した層塔型!なんだってさw
>>862 >完成期(っていわれている)の層塔型天守って、通し柱をなるべく使わずに、柱位置をずらすじゃない。
それは初耳!上下の通し柱を使わずにどうやって層塔状に建てんだよw 例を挙げて説明してくれ
>>862 平面図の柱間数が規則的に逓減していて、大入母屋がなければ、
みんな完成の域に達した層塔型!なんだってさw
>>865 >完成期(っていわれている)の層塔型天守って、通し柱をなるべく使わずに、柱位置をずらすじゃない。
それは初耳! 通し柱を使わずにどうやって層塔状に建てんだよw 例を挙げて説明してくれ
>>862 慶長度天守とは異なる形状が前提だったんでしょう
だから奇数の柱間を修正するための断絶なんですよ
>>871 そんなことはみんな解ってるんだよ
奇数の柱間を修正するだけなら、構造を全面的に設計変更するより、
5年前に建てた慶長度江戸城である「中井家指図」を引っ張り出してきて、
一層目を縮小して建てた方が簡単だろ?って言ってんだよ
19年後に徳川大坂城に移築できたほど完成度が高いにもかかわらず
なぜそうしなかったんだ?って聞いてるの
やはり同一人物(中井正清)によって手掛けられ、
入側通柱の配合が寛永度天守とほとんど変わらず、後期層塔型として完成の域に達している「中井家指図」を、
入側通柱において上層と下層の断絶がいまだ存在する名古屋城の5年前に建てられた慶長度天守の指図に比定するのは
技術系譜的に見て無理があるやに思われます。
「中井家指図」が実際に建てられたか否かは別にして、中井正清によって慶長度天守の翌年に建てられた駿府城U期天守とも
躯体設計手法が全く異なり、その成立は少なくとも名古屋城以降の元和年間にまで下るものと言わざるを得ません。
当然「慶長度江戸城天守が徳川大坂城に移築された」とする宮上氏の説は誤りであると判定されます。
>>872 >慶長度天守とは異なる形状が前提だったんでしょう
壊れたCDモードになっちゃった立て板の某w
>>874 それは慶長度天守と名古屋城の構造的大幅退化を説明していない
破風形状の変更ならいくらでも「中井家指図」の改変で対応できたはず
>>876 破風形状だけでなく、全般的なデザイン
例えば福井城や駿府城のように低層階が同一規模とか
あえて下層を同大にする小田原や水戸のような例もある
岡崎城は層塔型が一般化した時代に、あえて大入母屋を設けた望楼型にしていた
>>877 また面積と外見だけで語ってるね…ヤレヤレ ┐(´ー`)┌ 。そうじゃなくて内部の通柱位置の全体計画の話をしているの。
おそらくあなたは、「中井家指図」=慶長度天守 という思い込みから、たった2例の三層天守(日出城・加納城)を挙げて、
「名古屋城以前にすでに層塔型は完成の域に達していた
>>842」と結論付けた。
「だから内藤氏が層塔型を前期と後期に分けたのは誤りだ
>>833」と断言している。
でも実際には名古屋城のように、側柱(外側)では上下一体的に通柱位置が計画されて大入母屋がない層塔型になっているのに、
入側(中心部)では上下分断の望楼型になっている、層塔型(外部)と望楼型(内部)の両方の特徴を備えた構造の
プレ(初期)層塔型天守が存在しているわけ。慶長度天守がどんな天守だったかとは無関係に。
ちなみに、あなたが例として挙げた日出城
>>842だけど、Wikipediaにはこう書いてある。
日出城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%87%BA%E5%9F%8E >1602年に建てられた天守は、付櫓を付属する複合式、無破風の層塔型天守で、
>初重が南北9間半×東西8間、2重目が南北6間×東西5間、3重目が南北5間×東西4間あった。
>このように最下階が上階の逓減を逸脱して大きく造られており、小倉城天守や名古屋城大天守などと同じく、
>望楼式から層塔式の天守に移行する時期の特徴を持ったものであったと考えられている。
このような望楼型から層塔型への過渡期的な、でも後期層塔型とまでは言えないプレ(初期)層塔型天守を、
「内藤氏の前期層塔型という分類は誤っている
>>842」と断じるなら、どう位置付けたらいいの?って、みんな聞いてるんだよ。
立て板君にその手の話は無理なんじゃ・・・
もし江戸城天守閣が明暦の大火の後
再築されていたら日本の歴史はどう変わっていただろう
少なくとも各大名家も幕府に遠慮することはなくなるわけで
天守閣を立てる大名もいたのではなかろうか
>>881武家諸法度ですでに禁止されとる
>>870スマソ
例を書き忘れていたね。それと調べなおしたからちょっと訂正するよ
例を挙げると津山城と亀岡城が顕著じゃない?
俺はこの二棟は初期の層塔型といったほうがいいと思うんや
それ以前は草創期でさ
柱間が上下階でそろわないのは、構造上の欠陥であって、外観を重視した結果止むを得ずそうした造りにしたと見たほうがよさそうよ
完成形は柱がそろうということ(訂正)これは建築構造上の改善の証だと思う
柱がそろっていたほうが、地震には強いからね
なので江戸城や大坂城寛永度天守は柱がそろうし幕末の天守も然りってわけだね
16世紀末の建築である広島城天守の3重目から5重目は柱位置こそ望楼型の特徴を持っているけど、外観は層塔型だというのを無視すべきじゃないと思うんだよ
それからの17世紀初頭の日出城や1610年の名古屋城天守の内部構造は何らかの推敲の跡が見えると思うんだが
1610年の竣工とされる小倉城天守も、初重柱間と2重目柱間は一致しないが2重目から御上段までは柱間が一致する
ちなみに通し柱だけど、ほぞ穴だらけの通し柱なんか使うとすぐ折れちまうから耐震性を持たせるなら逆に使わないほうがいい。先人たちはそれを知ってか知らすが、層塔型は基本的に通し柱というものがない。用例は大洲城天守しか知らんな。
>>879 >だから奇数の柱間を修正するための断絶なんですよ
福山城と同時期の徳川大坂城も寛永二条城も柱筋は断絶していますね
>>882 >層塔型は基本的に通し柱というものがない。用例は大洲城天守しか知らんな。
はあ?「中井家指図」「津軽家古図」寛永度江戸城の平面図と立面図もう一回良く見てみろよ
調子に乗っていい加減なことを書くなよ
>>884 だから徳川大坂城が君が言うとおり「中井家指図」≧「願生寺指図」なら柱筋は断絶していないよw
寛永江戸城だけど、まさか中井家所蔵の立面図しか見てないってことはないよね?w
【訂正】
寛永江戸城→寛永二条城
>>885 >だから徳川大坂城が君が言うとおり「中井家指図」≧「願生寺指図」なら柱筋は断絶していないよw
四階と五階のそれは?
>寛永江戸城だけど、まさか中井家所蔵の立面図しか見てないってことはないよね?w
そうですが?
888 :
日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:50:42.61
>>887 4階(入側)と5階(側柱)も9本の荷持柱が通ってるYaO!
寛永二条城は確かに側柱だけ見ると通っていないように見えるけど、
入側でちゃんと通柱が通ってて、「中井家指図」とほぼ変わらない完成度を見せているYao!
(慶長度江戸城の5年後に完成した)名古屋城のように、入側(中心部)の上層(偶数柱間)と下層(奇数柱間)で
ブッツリ柱が断絶してしまうことはないよ
>>883。
「中井家指図」は貴方(立て板の書き込みさん?)や、
>>873さん(某掲示板で有名なTm.さん?)が指摘している通り、
入側(中心部)で通柱位置を一致させた上で、側柱(外部)を敢えて構造的にフリーにして、デザインの自由度を高め、
層塔型としてほぼ完成の域にあり、それを名古屋城天守の5年前の慶長度江戸城天守に比定は無理がある希ガス。
それでも「中井家指図」が慶長度天守の指図だという宮上説を信じる信じないは貴方の自由だれど、自己責任でどぞ。
鶴ヶ城天守のデザインなんだYaO!
有名どころでは最もッつくしくないYaO!
俺と同じソウルを持ったもののふ出てこいYaO!
つまり津軽古図が慶長度江戸城天守ってこと?
なにも謙遜しなくてもいいんだぞw
津軽家古図こそが慶長期江戸城天守の図だって言っちゃいなYo!
>>888 >4階(入側)と5階(側柱)も9本の荷持柱が通ってるYaO
それまでの1階から4階はすべての柱が綺麗に揃っているのと比較すると、
圧倒的な違いがありますね
鶴ヶ城天守のデザインなんだYaO!
有名どころでは最もうつくしくないYaO!
俺と同じソウルを持ったもののふ出てこいYaO!
>>885 層塔型について語っていたら、俺はいつのまにやら江戸城関係に巻き込まれてたんだなww
レスぐらいよく読みなよ。江戸城天守のどこが基本的な天守なの。
ソースは江府御天守図よね。ちなみに立面図立面図って、あれ断面図だから。
それも名城やなあ
>>892 それは微視的な見方
1階〜4階までは確かに大柱が蜜に通されているが、4階〜5階にも
9本の大柱だけじゃなく、細い管柱までちゃんと通ってる
もういっぺん中井家指図見てみてyo!
>>894>>865 >それと、思うに加納城三階櫓
>移築したとき偶然層塔型になったとかじゃないかと思う
>絵図面を見る限りだと、望楼型と同じように柱位置が上下階ともに一致しているじゃない?
>これ、望楼型の特徴よね。
はあ?何言ってるの?
じゃあ、層塔型の特徴は何よ?
>完成期(っていわれている)の層塔型天守って、通し柱をなるべく使わずに、柱位置をずらすじゃない。
>(でも、幕末頃の天守や江戸後期の再建天守・三階櫓は上下階の柱が一致していることも少なくないんだけどね)
>ちなみに通し柱だけど、ほぞ穴だらけの通し柱なんか使うとすぐ折れちまうから耐震性を持たせるなら逆に使わないほうがいい。
>先人たちはそれを知ってか知らすが、層塔型は基本的に通し柱というものがない。用例は大洲城天守しか知らんな。
だから君にとっての基本的な層塔型天守って一体どの天守を言っているの?
この書き方から見ると、君は通柱と通柱位置の一致を完全に混同しているよ
だから、望楼型と層塔型、通柱と通柱位置の区別が付いてないのに、それらしい専門用語を散りばめて
その場の気分でいい加減なデタラメを書き散らすなと言ってるんだよ!
>>892 慶長度天守「中井家指図」から5年後の名古屋城の通柱位置上(偶数)下層(奇数)断絶の例を引き合いに出されて、
だんだんおかしなこと書き出してきたねw
層塔型天守「中井家指図」は初期から最下階から最上階まで一体化してて完成の域にあったんじゃなかったの??
名古屋城天守の復元は完成しています
江戸城も復元すれば天守は完成しますよ
>>873 うむ
岐阜城山頂天守・・・遺構調査なしに、池田輝政城主時代以降の築城と考えられる、移築後の加納城御三階をそのまま比定
岐阜城山麓天主・・・同じく遺構調査をしないまま、フロイスの記述を鵜呑み、加納城御三階をベースに4層天主で外観復元
安土城・・・内藤氏復元の天守台を借定し、正否不明なまま自らの東山殿常御所復元案をベースに復元
秀吉大坂城・・・中井家本丸図を借定し、明らかに慶長期を下る特徴を持つ「夏の陣図」天守をベースに外観復元
慶長度江戸城・・・慶長期を明らかに下る、層塔型天守として完成の域にある「中井家指図」の技術革新を無視した比定
確実な遺構調査結果を待たず、五重以上の木造高層建築における技術革新を考慮せずに、
ひたすら素人受けのする「上物の華やかさ」だけを追求し続けた宮上茂隆氏。。。
宮上氏の間違いだらけの安直な復元作業の数々を完全に払拭すべき時が来たようだな
>>898 立て板君は都合によって柱が通って見えたり、通ってないように見えたりしちゃうんだよ。
ブログ見れば解るけど、彼は 中井家指図=慶長度天守 に合わせてすべての物の見方を変えてっちゃう人だから
彼がこれからも「中井家指図=慶長度天守」を主張し続けるためには、誰の目にも明らかな、
名古屋天守と「中井家指図」の間にある技術革新を、「なかったこと」にしなければ根拠ゼロになっちゃうわけだから。
でもそれは、「中井家指図=慶長度天守」を言うために「名古屋城以前に層塔型は完成の域にあり、内藤氏が言うところの
前期層塔型(外観・層塔型、内部・望楼型の特徴を持つ過渡期的初期層塔型)天守など存在しなかった」とする自らの主張を
全否定してしまう諸刃の剣であることは気付かずにねw
それじゃ、立て板の某の頭の中では、名古屋城は存在しなかった「幻の城」ってこと?
それとも、名古屋城もまた完成の域に達した後期層塔型ってこと?
>>899 ふざけた事言ってないできちんと説明しろよ!
>>900 安土城の現地での測量数値は普遍的なものだから、内藤が現地で測量した数値を宮上が使うのは至極当然。
内藤も宮上も土砂から一部だけ顔を出している石垣をもとにして天主台全体を復元しているだけで、
天主台の勾配の付け方の解釈は両者で全くの別物。
よって、宮上は内藤が復元した安土城天主台を借用しているわけではない。
もっとも最近は現地の天主台に全く符合しない、創作性が高い安土城天主台の復元案もあるようだが。
>>897 分割してお答えしましょう
まず、
>>865は
>>882で訂正したはずなんだが
しかも勝手に丁寧語のやつと同一人物にしやがってんのな
トリップでもつけようか?フシアナしてもいいんやぞ
>>904のすずき
>>897 だいぶ前のカキコ出してきてまでなにをいってん
じゃあだいぶ前から引用するけど
>>870 >通し柱を使わずにどうやって層塔状に建てんだよ
通し柱を使わなければ層塔型は不可能なの?津山城天守とか亀岡城天守を見る限り可能だとおもうけど?
>君は通柱と通柱位置の一致を完全に混同しているよ
それ江戸城の話なんでしょ?俺のは層塔型天守の話よ近藤さん
上下階の柱位置の一致とはいったよ。通し柱は一般的な層塔型天守では、あったとしても十数本も使うことはないので上下で一致とか言う話もなにも。
俺の言ってんのは、層塔型の構造としては、基本的に通し柱は使われないということだけだけど?君の言うとおり江戸城寛永度天守には用例があるよな。「通シ柱」って書いてあるもんな。でもそれは少数派。なんにしても例外処置というものはあるだろ
基本的な例というと、宇和島城、弘前城、松前城、伊予松山城、福山城構造がしれているのはこれだけ。松本城とか大垣城とか望楼型から層塔型に改造したのは除外
>じゃあ、層塔型の特徴は何よ?
ん?ああなるほど。それはだな
>>882 >柱間が上下階でそろわないのは、構造上の欠陥であって、外観を重視した結果止むを得ずそうした造りにしたと見たほうがよさそうよ
>完成形は柱がそろうということ(訂正)これは建築構造上の改善の証だと思う
>柱がそろっていたほうが、地震には強いからね
>なので江戸城や大坂城寛永度天守は柱がそろうし幕末の天守も然りってわけだね
ということだ。完成形が1601年の時点で存在しているのはおかしいと思うでしょ?だったら加納城三階櫓は望楼型の特徴が残った層塔型じゃない?大垣城もよ。そういうのと、それこそ寛永度江戸城のような構造とは一線を画すものだと思うといってんの。
俺のなかでは
1.草創期(望楼型をベースとした層塔型)
広島城大天守の三階以上の構造、加納城、日出城
2.初期層塔型(外観を重視して新しく開発された層塔型)
亀岡城、小倉城、名古屋城、津山城
3.完成形層塔型(外観を重視しつつ構造を改善した層塔型)
寛永度江戸城、福山城…
俺の中ではな。
江戸城には家康、秀忠、家光の三種の天守が有ったんだからそれでいいじゃないか
それでもお前らはもまだ不足なのか?
大阪城天守も江戸城天守にひけをとらないがな
柱もあるし
>>906 >>865←かく言うあんたが
>>842と同一人物なんじゃないの?
挙げてる城が全く一緒じゃん!w
外観三層内部4階の加納城が、階層一致の層塔型とはどういう定義付けしてんだよ!
それともあんたの中で、層塔型の定義はどうなってんの?
>層塔型の構造としては、基本的に通し柱は使われないということだけだけど?
構造的にそんだけ??
手当たり次第に支離滅裂なデタラメ書き散らしてないで、
望楼型と層塔型、初期層塔型と完成期層塔型の通し柱の使われ方の違いについて、
あんたなりの定義をちゃんと考えてから書けよ。
910 :
909:2013/02/09(土) 20:41:34.26
【訂正】
望楼型と草創期層塔型、初期層塔型と完成期層塔型の通し柱の使われ方について
皆さん、小牧山でデートしているのですか?
912 :
865よ:2013/02/09(土) 23:53:37.71
>>909 列挙した城が一緒なら
>>842とか、ビンゴやってんじゃないんだから。しかも、内容、見解まるで違うし
それと、そっちでやってた江戸城の話はもう終わったの?
>外観三層内部4階の加納城が、階層一致の層塔型とはどういう定義付けしてんだよ!
階と層が一致したら層塔型ってたしか西ヶ谷氏の説だっけな
一致しない水戸城三階は望楼型か?一致する広島城天守は層塔型なんか?
>構造的にそんだけ??
イミフ
構造的な特徴がってこと?
外観の最上重屋根以外が寄棟造であることが最大の特徴。それだけ。大体、望楼型層塔型って外観の分類だろ。木構造の柱の並びとかなんか些細な違いが影響してんの?
ほかに何かあるなら、勉強させてもらいましょう
それから通し柱が云々はそんなに重要な特徴じゃないから別に分類に影響するもんでもないよ。望楼型でも多用はしないんだから。
まあなんにしても絶対使わないなんてことはないから、使わなきゃいけない天守には使ったって程度の認識でいいと思うよ。
どうしてもほぞ穴開けなきゃいけないから強度は十分なものではなくなるけど、存在自体はとおの昔からあるんだから天守の成立になにか影響するものでもないしね。
>望楼型と草創期層塔型、初期層塔型と完成期層塔型の通し柱の使われ方について
通し柱の使われかたなんかで分類した覚えなんぞないんだが。どんだけ通し柱に執着してレスしてん
望楼型では、姫路城で有名な例があるし、安土城もおっきいのあるんでしょ?
層塔型では、前にも書いたけど大洲城大天守の心柱とか徳川系天守では寛永度天守の用例があるよね。
あと、小田原城も解体中の古写真を見る限りでは初重(1・2階)部分には使っていたのかもしれんな
思い当たるところはこの程度だけど、ほかに知ってんなら出してくれたら勉強になるわ
ひゃっほ〜い!
みなさん、解りやすく解説してくださって感謝感激ですぅ!
>>873 自分も、名古屋城や、無破風の津山城、何と言っても我が愛しの小倉城などの「前期層塔型などなかった!?」こと
にしないと成立しない、後期層塔型であることが明確な中井家指図の、慶長度江戸城天守への比定は
少し無理があると感じてました。
>>900 なるほどですね。
池田家時代の後期望楼型・加納城御三階を基にした、宮上先生の岐阜城の山頂天守や山麓天主の復元には、
やはり無理があるんですねぇ。
明治大帝の銅像が邪魔で発掘できなかった山麓居館址の遺構とは全く合致しないようですし、
あくまでも想像復元図の域を出ないようですね。
すると宮上先生自らが復元した「山麓天主」を基に復元した(?)宮上案安土城についても、疑問が沸いて来たりします。
例えば、小屋の段に南北破風の間とあるのに、大入母屋の棟を東西にしたり、望楼部の棟もそれに合わせて東西に…
安土城が後期望楼型だとすると、豊臣天守に共通する大入母屋から最上階まで各階の棟を交互に重ねるデザインに
発展していきませんしね。
みなさん、このスレ久々に覗いてみて 本当に 勉強になりました。
また気が向いたらいろいろ教えてくださいね!よろしくです。
>>912 軸組みで積み重ねる3階以上の高層木造建築で、通柱を組み合わせて使わずに、どうやって上下一体化させて、
地震や強風の横入力に対抗させるんだよ?
前期望楼型の安土城だって下層には高さ8間(京間=6尺5寸×8間=)1尺5寸の大通柱使ってるし、
後期望楼型の姫路城だって大通柱2本で串刺しにして、横揺れで3層の望楼が揺り落ちないように串刺ししてあり、
松江城では通柱を2階毎に互入して上下一体化を実現してるでそ??
完成期層塔型の寛永江戸城の入側(中心部)でほぼ完璧に2階分と3階分の通柱を相互に互い違いに組み合わせてて、
単に2階分と3階分の鉄骨通柱を単に積層してるだけの現代の鉄骨構造以上の構造に進化しているんだよ?
立て板君に影響されて(?)通柱をなるべく使わないのが層塔型の特徴だ!とか寝ぼけたこと言ってる場合じゃないだろ?
しっかりしてくれよ、パパ!
天守台残り半分の内側も撹乱されていそうだな
917 :
865よ:2013/02/11(月) 01:24:25.30
>>914 >軸組みで積み重ねる3階以上の高層木造建築で…
強いかどうかともかく、そういう構造でない層塔型天守のほうが多い。
>通柱をなるべく使わないのが層塔型の特徴だ!とか
聞き分けのないお人よね。高層木造建築には必ず通し柱がつかわれてなきゃ納得いかないの?
基本的に層塔型には通し柱というものは使われない(基本的にと言うか滅多にといったほうがいいのかな)
望楼型は多用はしない、よ。ちゃんと読んでレスして
あと
>>912で
>まあなんにしても絶対使わないなんてことはないから、使わなきゃいけない天守(層塔型について)には使ったって程度の認識でいいと思うよ。
っていったんだけど。なにが不満なの?そんなに粘着しても通し柱のない層塔型は実在するどころか一般的だという事実や俺の意見は覆んないし、あるところにはあってないところにはないの。
望楼型には多用はしない。要所には使われるといったほうがいい?松江城にも通し柱はあるでしょうね。高知城天守にもあるよ。
>完成期層塔型の寛永江戸城の入側(中心部)で…
そうだよね、でもそれ江戸城寛永度天守がでしょ?それはわかってるって。通し柱が江戸城寛永度天守なんかにああやって使われているってことは、層塔型において脆弱な構造の改善が行なわれていった証なんじゃないの?完成形状が江戸城寛永天守なんでしょ?
でもそういう構造は一般的でないでしょっていってんだけど。その鉄骨構造を勝る木造高層建築が一般化したって考えているんなら徳川系以外でほかに応用しているところマジで教えて。通し柱が内部に林立している天守を。
地震はわかるが、当時の設計者が横からの荷重を重視していた、そういうことが書かれている文書があるのならそれも教えてほしい。
>後期望楼型の姫路城だって大通柱2本で串刺しにして…
ソースきぼんぬ。その前に初重、二重目がつぶれそうな気がするけど。
918 :
767:2013/02/11(月) 07:06:08.79
>>915 一言で言えば、金ができても天守は再建出来ないということでよろしいか?
少なくとも、現在の鉄骨構造は数層おきに柱と柱を完全溶け込み溶接(または高力ボルトによる保有耐力接合)によって
繋いでいるわけだから、単に積層しただけって表現は的外れかと。
921 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 15:49:24.81
>>920 「天守作ることありき」で整備が進むと考えて良いのでしょうか?
皇紀2673年だな、目出度い目出度い。
>>920 なんで、名護屋城や臼杵城みたいに壊れた状態をそれ以上壊れない状態にして
保存しようとしないんだろう。
924 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:13:15.82
>>923 臼杵は今まで何も再建されていないと思ったか?
>>923 あ発掘された西尾城の天守台の図を見た感じだと、
あの状態で保存展示したら、短期間に風雨の影響で天守台が消滅しそうだが
>>921 現状資金が不足しているので台だけとりあえず作っておいて将来の可能性に期待するという
何ともあやふやな考えみたいですね。
>>923 後世の造成で石垣の高さも形状もわからないほど削平されて、
今回の発掘でも根石も裏込め石すら見つからなかったみたいですし、
そういうことを考える以前の状況と思われます。
>>924 地元です
>>926 そんなんなってんだ・・・
根石とか少しでも残っていれば芝生敷いてってできんかなと思ったんだけど、それも無理なんか・・・(´・ω・`)
まぁ、良いんじゃない。
とりあえずそれらしい痕跡が確認できたことで概ねの位置がわかったわけだね。
本来ならもう少しはっきりとした遺構を確認して事実性を持たせたかったのかもしれないけど、いずれにしても絵図に頼る復元になる事は想定内だったんじゃないかな。
天守台の高さだって元々絵図を元に再現するんだろうし、問題ないだろう。
掛川城だって天守台の一部がのこっていただけで、ほとんどが新しい復元な訳だし、似たり寄ったりだよ。
天守が絵図に基づく復元なら掛川城よりはましだと思うな。
三河國西尾藩主・松平和泉守乗全
小泉陣屋跡の水掘ぎわに聳え立つ華麗な二層櫓には惚れ惚れする
931 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 10:41:57.29
>>92 なんせ住民の寄付が5億集めているから、放置はできないらしい。
>>917 相変わらず、
2階建ての建売住宅の4寸角の通し柱 vs. 5階以上の高層建築における1尺角以上の通し柱、
望楼型に多い大通柱 vs. 層塔型に多い複数の通柱(2階〜3階分)の配合 を勘違いしているね。
プッチンプリンの大と小買ってきて、小を上下に重ねたの(望楼型)と、大きいの(層塔型)を
同じ皿に開けて水平方向にプルプル揺らしてみてよ、棟梁。
話はそれからだ!
>>919 細かい内容はともかく、フォローサンクス。
一体化してる層塔型(側柱のみ一体化しいてる前期→中心部からいきなり一体化する後期)と
上下分離してる望楼型を、それぞれ木材で作った場合の違いを
>>917の文系棟梁に説明してやって。
>>932 このプリン、俺食っていいん?
なんか別のカキコに対するレスとしか思えんのだが
なんか俺に対して寛永度江戸城のような通し柱の建て方最強説をひたすら力説しとるようだがはっきり言ってそれ一体何の話なん?
>2階建ての建売住宅の4寸角の通し柱 vs…を勘違いしているね。
???柱の強度の話なんぞしてたっけか?なんかと勘違いしてない?
一般住宅の通し柱と天守建築の通し柱はどちらが強いかって俺言ってました?
心柱が通った望楼型と通し柱を林立させた層塔型ではどちらが強いかって話をしてましたっけ?
俺は、層塔型天守には通し柱は滅多に使われないっていってんだよ。その構造が強いかどうかなんて話一切してねえ
934 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 14:21:36.23
福岡城天守がタブレットをかざすと見られる様になる!!
しかし、アプリではなく専用タブレットのみの対応、、、
日本には名城が残っている
弘前城、鶴ヶ城、松本城、犬山城、彦根城、丸岡城、姫路城、広島城、熊本城
>>933 >俺は、層塔型天守には通し柱は滅多に使われないっていってんだよ。
中井家指図を見てごらんよw
>>937 中井家指図は不明だね、柱筋は通っているけど
津軽家古図や江府御天守図は確実だけど
>>937まるで層塔型天守のような人だね。江戸城ガ江戸城ガって
百歩譲って中井家指図が通し柱が林立している天守として
江戸城の天守はそうなっているよね。んじゃ徳川系でない大名のお城の層塔型天守は?
まあ、2人とも紅茶でも一杯飲んでもちつけw
これまでのレスを基に情報を整理してみますた!
@平面の逓減だけでなく、各階軒高の逓減率にも注目すると、完成度や他天守の例からしてその成立年代は、
「中井家指図」>「津軽家古図」 となる。
A上下分離した名古屋城天守
>>862完成以降に成立したことが確実な、上下一体化を果たしている「中井家指図」を、
名古屋城5年前の慶長度江戸城天守に比定することは不可能。
→徳川大坂城へ移築するには、慶長度天守解体から大量の天守部材を9年間も放置したことになり不自然
>>827。
B津軽家古図は寛永度天守に非常に良く似た破風配置だが、洗練度は下がる
>>802>>830。
これらを整合する技術系譜的な成立順序は、以下のようになる。
慶長度→名古屋城→【上下一体化】→「中井家指図」→【軒高逓減】→「津軽家古図」→寛永度
※【】内は天守建築における重要な?技術革新
よって導き出される結論は以下のようになる。
「中井家指図」=元和度天守
「津軽家古図」=寛永度天守のボツ案
元和度から寛永度への建替えの理由としては、元和度天守が上下一体化を果たしたモノコック構造ではあっても、
「慶長度を越える高さ」を最優先したため、最上階の軒高は高く、軒出しは浅く、無骨で安定感に欠けるフォルムであったところに、
各藩から提出される、元和度江戸城天守より安定した美しいフォルムを持つ当世天守の数々を目の当たりにした天下人家光が、
築19年経ち、破風など各所に傷みの目立つ元和度天守の代替として、自らの覇城に求めた結果と考えられる。
>>940-941 うむ
宮上氏はおそらく「津軽家古図(東照宮)=元和度天守」と短絡したのだろうが、
自らの霊廟である日光大猷院を日光東照宮よりも豪華にするなと遺言し、
「二世権現」を自称した家光の寛永度天守に東照宮があっても不思議じゃないし、最上階から「関八州」の聖なる国見を行う際、
そこに家康の遺髪や遺品を奉納した「東照」宮があることは御参拝を兼ね、むしろ相応しいと言える
徳川家光の大伯父(祖母「市」の兄)織田信長の安土城天主内書院に安置された自らの聖なる化身「盆山」にも通じる考え方であろう
秀忠から本格化した「家康神格化」の総仕上げとして、「二世権現」家光は「江戸城天守=巨大東照宮」を他のいかなる天守にも
見劣りしないよう、美々しく建て直したことは想像に難くない
そも、名古屋城築城当時の中井正清は禁裏造営に忙しくて、名古屋城天守の設計に携わっていたのか疑問を持っている
なぜかというと名古屋城天守には、正清の特徴である置唐破風でなく軒唐破風や張り出しを多用しているからである
↑毎度お馴染み、立て板君の苦しい言い逃れがまた始まりましたねw
んー、でも中井家文書読むと名古屋城よりは禁裏の方にいたことが多そうなんだよね
>>943 う〜ん、それはものすごく考えにくい。
正清は家康から幕府御大工(建設大臣)として「作事は万事中井大和次第」と言われるほど絶大な信頼を勝ち得ており、
中井家は法隆寺大工で、法隆寺の屋根に上るために朝廷から官位を貰うのが通例だが、正清には御三家並みの従4位下、
大和守を授けて貰っている。肖像画を見ると、家康の正清への寵愛振りと破格の待遇が一見して判る。
息子の中井正知は赤い官位束帯であるのに対し、正清は大御所家康や将軍秀忠、御三家と同じ黒い官位束帯。
http://4.bp.blogspot.com/-SOJ4-qWjsqM/T6d9ekibZHI/AAAAAAAAApU/SfcAS-Fmm2E/s1600/4f73f44c52f4d.jpg 酒に酔っ払った正清が、御殿の打ち合わせに来た時も、「苦しゅうない!」と言ったエピソードも伝わる。
名古屋城天守は慶長度天守の5年後、大坂冬の陣の2年前に、当時まだ大坂城で健在であった豊臣政権に対抗する
江戸幕府の前線基地として、9男義直のために家康自ら城地を選び、清洲城を城下町ごと移転(清洲越し)、
当時の叡智を結集して天下普請で築かれた城である。
さらに名古屋城に先立つ4年前完成の駿府城天守で雨漏りが発生しており、中井大和(正清)不入念の故なり
(駿府記)とあることから、御三家に並ぶ官位を朝廷から貰ってくれた主君・家康の期待に応えるためにも、
子孫が幕府御大工でいられるためにも、名古屋城天守では雨漏りの余地がないように、中井正清自ら
配下の番匠たちとともに、構造意匠を十二分に勘案熟慮の上、入念に設計したと思われる。
成る程、他には名古屋城天守は用材の調達が遅れて、老中より早期の完成を厳命されている
そのため大工の大規模な増員が行われているが、この際に天守の設計変更も行われたと考えてみたが
どうだろうか?
948 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 18:57:30.27
>>946-947 うむ
禁裏の御殿は基本的に平屋であり(2階建ては後の秀忠の娘、徳川和子入内時に築いた女御新殿の望楼くらい)、
作事は比較的簡単で御大工が張り付いてなくても、信頼できる部下に任せて、重要工程でチェックすれば事足りる
しかし、名古屋城のような6層大天守は、設計者自身が仕口や部材の噛み合わせなど細かく工程管理する必要があり、
4年前に建てた大恩人家康の終の棲家・駿府城天守を雨漏りさせてしまうという幕府御大工にあるまじき汚名返上のため、
正清は例え京都にいたにしても、全精力を名古屋城天守の設計に注いだに違いない
実際、前期層塔型の代表例とされる名古屋城天守は、上下分離の後期望楼型を側柱の通し柱を組んで作ったケージ(籠)で
スッポリ覆ったような、「籠の中の鳥」のような斬新な構造を実現している
こういうイノベーションは相当な試行錯誤と模型実験を繰り返し、かつ建築現場に立ち会っていないとできないはず
解りやすく言えば、木造軸組み在来工法の外側だけ、耐震性に優れたツーバイ工法で覆うみたいなもので、
それぞれに長けた番匠、大工の確保や施工管理が必要で、どちらかの工法で建てるよりはるかに複雑で面倒臭いものになるだろう
『愚子見記』には名古屋城が江戸城よりも1重の規模が小さいのに、
物見の規模が大きいのは1・2重が同規模としている
このことから慶長度江戸城天守は規則正しく逓減していると考えられる
>>950 あんたそれ、○○の一つ覚えにみたいにあちこちでそれネット喧伝してるけど、
確かに名古屋城については外観初重と二重に通し柱を立ててあるみたいな記述があって、
それと直接比較すれば、慶長度天守についてはそう思えなくもないというだけで、実際は全く不明なんだよ
これからこういう可能性
>>839や慶長度天守台発掘の可能性もあるんだから、拙速な思い込みを一方的にネット喧伝するのは軽率杉
また慶長度天守の段階は天守丸を構成する環立式であった可能性が高いわけだから、
宮上説(中井家指図を天守単体で比定して終わり)の喧伝はあまりに無責任杉
寛永度江戸城天守は4ヶ月程で完成しています
大入母屋のない層塔型、しかも各重毎に分担して作業が行われた故でしょう
954 :
952:2013/02/15(金) 21:26:44.64
訂正
×慶長度天守についてはそう思えなくもないというだけで
↓
○慶長度天守についてはそうハッキリ書いてないというだけで
>>952 いや、通し柱でなく各重の面積の問題なんだけど
後、慶長度江戸城天守は1重は寛永度と同じで物見は半尺(七尺間)や高さも半間小さいとよく似た規模
宮上氏は天守台の二重構造としているけど、天守丸については特に否定も肯定もしていないかと
まぁ慶長江戸図や大熊氏所蔵の寛永度江戸城本丸図からあった可能性は高いので、その点は内藤氏の
お手柄ですね
>>940-942 同感です。ここに拙考を変更させていただきたく存じます。
故・宮上氏のように「津軽家指図=元和度天守」とした場合、
平側の千鳥破風と唐破風が半階上がったり下がったり、隅櫓にて単独で使う分には問題はないやに思われますが、
整って落ち着いた妻側と組み合わせると、それぞれ印象の全く異なる意匠で、天守全体としての気品や風格にやや欠ける、
アンバランスな造形となります。
幕府造営の他天守の意匠と比較しても異形の相を呈することは明らかであり、
元和度天守を描いたと見られる江戸の屏風絵のいずれにも、その下の張り出しが全く描かれていないことから、
隅櫓とは比較にならない天守描写の重要性、各大大名屋敷の克明な描写を考慮しても、不自然であるやに思われます。
>>952 って優香ここ見て、立て板の某のブログへの支持率の低さに正直、驚きますたw
960 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:35:54.06
同じ話題延々と続けるなら別スレ立ててやれよ
>>960 確かに
おまいら濃すぎるぜ!
まぁ、いろいろ勉強になったからいいけどさ、、、
>>951 それは、名実ともに寛永度江戸城天守が天守閣の王様と言われる所以かと
中井家造営による寛永二条城、寛永(徳川)大坂城をさらに進化させ、
これ以上改善すべき点がなくなった寛永江戸城を以後、天守建築が廃れていくのは歴史の必然だったのでしょう
>>952 現在の中奥西端に位置した慶長度天守台の基部でも発掘されれば、将来的に復元的考察の可能性もあるかと
>>962 >現在の中奥西端に位置した慶長度天守台の基部でも発掘されれば、将来的に復元的考察の可能性もあるかと
安土城のように?w
小天守、隅櫓、多聞櫓を伴った慶長度江戸城と思しき「天守指図」が中井家の蔵書から発見され、
城オタどもの熱く濃ゆい論争が始まる悪寒www
江戸城と言えば深井雅海の「図解江戸城をよむ」は面白かった
なにかと乙です。
>>960禿同
このセンスのないコテハンともおさらばよ。
層塔型天守の件で入って、延々と特に興味ない江戸城天守で絡んでこられた俺は一体…
そして、いきなりかつしつこく絡んできたあん人は一体…
レス読まないし、一つも俺の質問には答えんどころか自分に都合のいい質問ばっかしてきおるわで
ばっくれたんかな。結局質問には一つも答えてくれなかったけど
コテじゃないとごちゃごちゃして誰がどんな主張してるのか端から見たら分からんわw
>>966住人にもわかりません
既出かもしれんが名古屋城の第二の小天守はなぜ建てられなかったの
っていうかなんであんなところに建てようとしたの
御深井丸と連絡することで本丸からの増援を行うためと考えられる
969 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 02:58:55.26
>>967 たぶん、無意味だから建てられなかったのではないかと思います。
なんであんなところに建てようとしたのか?は、
たぶん、作事・普請の諸大名が
「堀の中に小天守があったらカッコいいよなぁ」
「うんうん。カッコいいから大御所も将軍もオッケー出すだろ」
「意味ないけど。まぁ、どうせ自分の城じゃないからいいやww」
というノリで計画されたのではないかと思います。
970 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:03:30.62
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。
971 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:04:07.57
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩隼人】
薩摩地方の男性をさす言葉。転じて、その男らしさを意味する言葉。
薩摩の郷中でホモ行為を拒否すると、
郷中のメンバーたちが家まで押しかけて来て、
その者を集団レイプする。
その者の家族も見て見ぬふりだったそうな。
薩摩では、男らしさとはそういうことを指して言った。
先輩の命令には絶対服従で、皆で同じことをする。
皆で犬を食い、皆でホモる。
それが、男らしいということであった。
一人だけ違うことをする、群れない、
たとえ先輩に対してもおかしなことにはおかしいと異を唱える、
このようなことは薩摩では「女の腐った奴(おなごんくっされ)」のやることとされた。
972 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:04:48.23
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【郷中教育】
薩摩藩の武士階級子弟の教育法
五才くらいから罪人(年貢を払い切れなかった百姓)を斬り殺させて
それを家族が褒める。百姓が結婚式あげると乗り込んで行って親族を斬殺
最後に新郎と花嫁を残し 花嫁レイプで新郎は試し切り。
もちろん百姓側の訴えなど取りあげられない。
973 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:10:31.87
そんなに悪逆非道な連中だったんですか、薩摩って。
ちっとも知りませんでした。
もっともっとこういう情報は広めていくべきですね。
これからもいろいろ教えてください。
ひゃっほ〜い!
みなさん、いろいろな角度から解説されていて、本当に楽しく勉強させていただいてます!
>>940-941 そういうふうに図で整理していただけると、とても解りやすいです!
>>952 ほへ〜、慶長度天守は環立式天守やったんですねぇ。
だとすると、同時期に造営された姫路城、福井城や駿府城同様、後期望楼型である可能性が高いのか?
慶長度天守と言えば、20間四方の天守台と16間×18間の第一層との空き地はどうなっていたのか、、、
二段石垣になっていたとして、下段は、宮上先生のように塀を建てただけなのか?
淀城のように隅櫓を張り出して建て、多聞櫓で結んだのか?
石落としや鉄砲狭間を備えた多聞櫓が鉢巻のように建てられていたのか?
興味は尽きません。
>>956 確かに屏風絵などを見ると元和度天守に張り出しは描かれていないですし、やはり「中井家指図=元和度天守」とするのが、
外観的にも時期的にも構造的にも一番無理がないようですね。ガッテンしましたw
>>975 特定の方の主張を鵜呑みにするのは危険なんですねぇ、、、
いろいろな方の指摘に耳を傾け、360度から見てみて検証することの大切さがよく解りました。
みなさん、たまに覗いてみますので、またいろいろ教えてくださいね!よろしくです。
立て板ってこれのことか
ttp://d.hatena.ne.jp/tateita/ スレ終盤でやっとわかった
>>976無関係の俺(
>>865)が言うのもなんですが、俺もそう思います。
色々絡まれましたが、そのおかげで興味のなかった江戸城の各種天守指図を改めてまじまじと見させていただく機会を得られたので、結果的に俺もいい勉強になりましたよ。
多角的に見たり独自の検証をしたり、自分の支持する説でも時には疑ってみたりすることも自分のあらゆる面での肥やしになるんだと思います。
>>975-977 うむ
要するに、宮上氏は、津軽家古図を元和度に比定するために、中井家指図を慶長度に比定したんだな
宮上茂隆氏の安直な復元作業の数々
>>900を、ひとつひとつきれいさっぱり洗い落とし、
ひとりひとりが遺構発掘成果を基に、自分の頭で考えて、一番無理のない復元作業を志すのは実に良いことだ
>>976 >石落としや鉄砲狭間を備えた多聞櫓が鉢巻のように建てられていたのか?
それ面白い。
慶長度江戸城が天守丸を構成した環立式ということは、豊臣方に攻められた時の戦闘を想定した可能性が高い。
安土城天主第一層には黒漆塗り鉄製の鉄砲狭間が60余りあったという記録があるから、それと同様の機能を、
天守閣第一層から一段下がる形で回した多聞櫓に持たせるという、パッと見六重塔に見えた可能性はどうよ?
>>977 あんた本当に成長したな。これからも情報交換よろしくだぜ!
その男のように、私怨でステマブログやるようじゃ、人間おしまいだよ。
>>978 既存案に縛られずに、各自がそれぞれの着眼点を書き込んで、
>>913>>976のように整合していけば、正解の可能性が高まる(かも)。
次スレもそういう場であればいいNe!
安土日記に狭間戸は60余りと有るが、
第一層の鉄砲狭間が60余りと限定された記録とは限らない
いや、天守閣はなかなかどうして人気もあると思った
>>980 うむ
たしかに国内資料の祖本と言える安土日記ですでに、狭間戸鉄黒漆也《数60余》と書かれているが、
18畳ほどしかない最上階に60人もの火縄銃隊が、1畳あたり約3人も押し込められたとは考えにくいような希ガス
火種の取り扱いを誤って火薬箱の中に引火・爆発した場合、それこそ末代までの語り草になってしまうだろう
60人のスナイパーが揃って火薬と弾込めや火種の準備をして火縄銃を構える、となると相当のスペースが必要で、
敵の先遣隊を狙う高さから考えても、やはり第一層(17間×20間=340間)にあったとするのが自然だろう
外観第一層、外観第二層合わせて60余りならまだ話は解るが、ここは常識的に、
(石垣)上一重(外観第一層)を上一重(最上階)と、村井が取り違えたと考えるのが自然ジャマイカ?
長篠合戦の三段撃ち(60個×3人=180人)ができる武者走りを天主内に作るために第一層17間×20間にしたのでは?
とまでは言わないがw
985 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:57:16.06
>>984 『安土日記』の最上階のそれは行間への追記(補記)であり、一階のそれも<以上>として全体の数を記したものだよ。
追記は後本のそれに基ずくものだろうね。
よく天守閣は籠城時の城主最期の場所というけれど、鉄砲狭間や天守曲輪を造ったところで焼け石に水だ罠。
秘密の抜け穴でも造らない限り、多勢に無勢で切腹するための時間稼ぎくらいしかできない希ガス。
光秀のように竹林を彷徨って恩賞目当ての盗賊の手に掛って無様に殺されるより、野戦で勝ち目がなくなったら、
一目散に居城に帰って籠城し、天守閣で潔く切腹して家臣に介錯させるという名誉の死のための時間稼ぎ。
ひょっとすると、敵に遺体を渡さなかった下克上のカリスマ信長の、本能寺での見事な死に様に戦国武将たちが憧れて、
自らの遺骸を跡形も無く焼き尽くすキャンプファイヤー(焼却炉)として天守閣を造った側面もあるとすれば、
豊臣が滅びて、平和な徳川の天下になって天守閣が不要の長物になってしまったという理屈が成り立つのかも。。。orz
籠城なんて、味方が援軍を連れてきてくれるまでの時間稼ぎ用なんだからさ。
援軍のあてもなく籠城することは、むしろ例外だろ?
と思うんだが、籠城戦と聞いて思い浮かぶものの大半は援軍が駆けつけてない。
>>984で思い出したんだけど、天守の階層の数え方って色々あるよね。
外観は初重・二重・・・。一層・二層
内部は階以外に(下から)三重・二重・一重。下段・二段・上段
これについて詳しく解説してくれる人いないかな・・・。
990 :
986:2013/02/19(火) 08:30:44.78
>>987 なるほど、ナイスフォローサンクス。
納得しますた!
>>989 研究者によってバラバラなのでそういうものとして受け入れるしか無い
?
慶長二条城天守は秀長の天守のリサイクルだから取り扱いには注意が必要かもしれん大工は同じ中井でも徳川の天守には小堀風味を付け加える必要があるかもしれん
>>992 愚子見記では名古屋城天守との比較で慶長度江戸城天守の下部層は
同大でないということが分かります
998
999
1000get!
良スレ終了!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。