【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その18
前スレ
その17
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1309908664/ ─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
考古学板
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1309667396/
乙
NHKスペシャル 知られざる大英博物館
ttp://www.nhk.or.jp/britishmuseum/lineup/japan.html 第3集日本巨大古墳の謎
総合 7月8日(日) 総合 午後9時00分〜 放送
再放送 7月12日(木) 総合 午前0時50分〜(※11日深夜) 放送
第3集は、日本。
ピラミッドや始皇帝陵とならぶ世界最大級の墓、巨大古墳。
3世紀から350年に渡る古墳時代は、文字資料がほとんどないため、未だ謎に満ちています。
その謎を解く鍵も、日本から遠く離れた大英博物館にありました。
今から120年前に、一人のイギリス人が日本から持ち帰った膨大な古墳のコレクション。
日英の合同チームは、収蔵庫に眠り続けていたコレクションの本格的な調査を開始しました。
そこからは、日本独自の進化を遂げた巨大古墳の知られざる実像が、浮かび上がってきます。
過疎
5 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:24:44.40
邪馬台国スレが乱立しすぎ
6 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:32:59.03
昨日の二上山博物館の邪馬台国シンポジウムについて
今日もやってたんだよね。なんか面白いことあった?
邪馬台国シンポ、見に行った。なかなか面白かったけど、
それ程目新しいのはなかったような。
以下、記憶に残ってる内容を書くと、
弥生終末期の高知県の遺跡で鉄が大量に出だしており、
太平洋ルートが鉄の伝播で有力となった。
逆に、瀬戸内海は難所が多く、余り機能していなかったと。
瀬戸内海ルートが機能し出すのは古墳時代以降。畿内と吉備が手を結んでから。
瀬戸内ルートが活性化すると、丹後は振るわなくなる。
代わりに越が、ヤマト王権の一員となり、交易拠点として台頭。万行遺跡に巨大倉庫群が作られ、
交易物資が集積されたと推測されている。
沖ノ島で庄内ガメが見つかっていたことが調査で分かる。
朝鮮半島では、残念ながら庄内はまだ見つかっていない。
松木が楯築の被葬者=帥升と空想。
出雲西谷3号のオウらと組んで、107年後漢に遣使したとする。
他の人から楯築から鏡が出てこない、中国との関係が希薄と突っ込まれる。
東海の人と物が関東へ伝播するのは、2世紀、洪水旱魃地震が頻発し、カリスマが求められたから。
朝日遺跡は大河川に近く、洪水やら塩害に悩まされる地形。それに対処する
ノウハウを濃尾勢力が有しており、関東でそれが求められたのではないか?
あと、寺沢が言ってたのは、
マキムク型前方後円墳の周りに、小さな前方後方墳が造られてる地域があるらしく、
赤塚が言うような前方後方vs前方後円のような対立構造は見られない、と。
出来ればこのあたり討論してくれたら面白かったのだが、
赤塚はパネルディスカッションで殆ど喋らず。
沖ノ島や宗像に庄内甕があるみたいだが、筑紫の庄内甕は福岡平野の方が多いし重要じゃないの?
宗像は言うほど出てないし、重要なことは、博多湾岸や糸島みたいに弥生末から古墳前期の朝鮮半島系土器がほとんど無いと思いますけど。
楽浪土器あったかな?確か無いはず。あるの?
博多湾岸に舶載三角縁がたくさんあるが、宗像にはないというのも疑問。
つまり邪馬台国時代については対外交渉では、宗像はそんなに重要な拠点になってないだろうということ。
沖ノ島ルートの重要性が評価できるのは沖ノ島祭祀以後だし、その始まる頃の古墳中期初頭からなら宗像地域にも朝鮮半島系土器がたくさん出てくる訳で。
あと前方後方墳が邪馬台国と対立した狗奴国の墓という説自体、かなり怪しいわな。濃尾で古いとされる狭間の年代根拠は怪しいと言う人も多い。
前方後円墳と後方墳は階層および出自とか、複雑な関係だと思う。
寺沢の指摘の通りで、その場合でも基本的に後方墳が下位に来る。東海狗奴国がヤマト邪馬台国に勝ったとか言う赤塚説は妄想的だわな。
帥升が楯築?中国とのつながりは大量の朱があるが、やはり鏡が全くないというのは致命的だし、中国製の長い大刀も無い。吉備の王だろうが、倭王じゃないな。やはりこの時期はまだ伊都国に倭王がいるでしょう。平原とかもう少し新しい訳だし。
畿内から九州への三角縁の配布はかなり時代が下る。
また近年、配布は地域内でもより新興の地区に行われている可能性も示唆されている。
大陸との外交上の地位が配布に影響を与えたというような証拠はない。
むしろ畿内政権の日本列島への覇権拡大と大きな関係がある。
前方後方墳が狗奴国の墓制というのはそれほど悪くないと思う。
ただ狗奴国と邪馬台国はそれほど対立してなかっただけじゃないかと。
そもそも高地性集落の時代ほど戦の痕跡が見つからないので。
寺沢は、マキムク型前方後円墳が庄内の頃に東海を飛び越えて関東まで伝播していた、
って主張だから、東海以東の狗奴国連合、なんてのは認められる訳ないしな。
関東への東海勢力の侵出は考古学上明らかだし。
狗奴国なんて東海方面にあったとしても東海のみでしょ。
邪馬台国だって畿内のみの連立政権に過ぎないし。
三世紀に限れば。
13 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 18:50:57.99
纏向遺跡で出土された土器は伊勢・尾張系土器が過半数を占める。
伊勢・尾張系土器の代表土器、S字甕(がめ)・パレス壺など。
東海系土器がマキムクに多いのは土木労働者集団が来てたからだろ?
マキムクだけだと分かりにくいが、桜井茶臼山近くの城島遺跡は造営キャンプとされているが、東海系がやたら多いし。
あと、>10のカキコで、九州の三角縁配布は遅いとか言ってるが根拠が分からん。
布留最古段階から古段階併行とされる古墳からいくつも出ている訳だが。
藤崎の三角縁盤龍鏡は確実に古い土器が出ているようだし、布留最古段階の津古生掛は三角縁神獣鏡ではないが、「関連鏡群」とされる(福永氏)訳だが。那珂八幡も築造が庄内式併行に上がる可能性が指摘され、第2主体出土なので、下るとしても布留最古から古段階だろう。
15 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 19:53:48.02
甕や壺に土入れて運ぶの?w
16 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 22:07:16.72
城島遺跡は煮炊きの甕の比率が異常に多い飯場的な遺跡ですよ。これに木製鋤がたくさんでる。しかも大型甕が多い。ちなみにその外来系土器は搬入と在地胎土の両方がある。
マキムクの場合は他の器種も出るが、外来系土器ではの甕の比率がヤマト本来の土器より多いのと、他の農耕集落だと鋤と鍬が半々に近い比率だが、鋤の比率がかなり高いとされている。
当たり前だが甕に土入れて来る訳ではない(笑)
各地から労働動員された集団が、自分たちの食生活を維持して飯場を形成しているということ。
搬入だけでなく、故地の形と技術で作られた在地胎土の外来系土器があるのは、労働者個人ではなく、土器工人を含めた集団単位で土木労働動員(何かとの交換?)されているということだ。
桜井茶臼山ってのは磐余地域だから、初瀬街道での対東海への玄関口として、
東海からの移住者が多かった、程度の認識でいいような。
戸籍もない当時では人はクニに束縛されず、自由に行き来、移住が出来ただろうし。
労働が商品として売り買いされた、ってのは無理がある。
労奴として朝貢、みたいなこと主張している人もいるね。
考古学的な根拠はよくわからないが。
城島遺跡をちゃんと調べろ。
弥生終末〜古墳初はまだまだ部族社会で、当時のクニは律令制での郡程度の広さだろう。
近距離、隣同士のクニグニでも畿内系土器の受容に
大きなバラつきがあるらしい。
松木武彦はそのような状況を
「ローソン、セブンイレブンなどコンビニのフランチャイズみたいに、
畿内とか東海の影響を受けた小さなクニグニがモザイク状に混在していた」
と言っていた。
ある地域に東海系土器が集中的に出たからと言って、
連れてこられた東海の労働者とかの話は論理に飛躍があり過ぎるように思うな。
21 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 10:09:54.06
だからさ、城島遺跡の様相、桜井茶臼山との関係を調べてからにしろって。
鍬が無くて鋤だけだからと言って、それが東海から徴発された労働者のムラ、
って論理に飛躍がないか?冷静に考えて。
単に東海と関係が深くて、東海からの移住者が多かったではダメなの?
23 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 14:49:45.96
二上山シンポジウムを観ての感想。
楯築や、ヤマト王権のような強大な権力が求められた背景は、
「瀬戸内海航路が安全に航行出来るように、安全を保証する権威として、
強大な王権が生まれた」っていう、昔から俺が言ってた説が裏付けられてきてるように思う。
石野や村上が言うように、瀬戸内海が難所が多く、本当に交易路に向かないなら、
後世も利用されることはなかっただろう。
瀬戸内海航路が機能不全を起こしていたのは、沿岸部のクニグニが通行税を
取り過ぎたり、海賊行為が頻発したから。
瀬戸内航路が機能不全を起こし、瀬戸内海航路で利益を得ていた海商小国家群にとって、
自分の首を絞める結果となった。
鉄やら大陸との交易を希求した畿内や東海は連合して大王を推戴する。
その後、東瀬戸内である阿讃播、吉備など瀬戸内沿岸部のクニグニと連合した。
>>24 > 鉄やら大陸との交易を希求した畿内や東海は連合して大王を推戴する。
> その後、東瀬戸内である阿讃播、吉備など瀬戸内沿岸部のクニグニと連合した。
阿讃播は纒向の前から鉄の拠点でしょ。
弥生終末期、瀬戸内海航路はいまいちで、
吉備も出雲経由、中国山地を越えた陸路で鉄を入手してたみたいだ。
実は高知県を経由した太平洋航路で鉄の交易が盛んだったらしい。
私はこの太平洋ルートが狗奴国ではないかと考えている。
昔から言われてる熊野=狗奴説になるが。
五斗長垣内遺跡も太平洋経由だという主張なんだろうか。
28 :
水銀厨:2012/07/23(月) 20:48:15.63
そこで水銀朱という目的がある中国人は、当初大平洋を回る訳です。
阿波東南部を目指すには瀬戸内と大平洋ルートが使えます。
が、大和や紀伊半島を目指すなら、流石に瀬戸内経由が有利ですからね。
「太平洋ルート」でなに妄想してるんだ?
某掲示板によると、博多遺跡でインゴットを作り、高地、愛知へ運んだ、って話らしいぞ。
>>8>>24はもう少し内容をkwsk
某掲示板?似たような連中が出入りしてるってw
ヤマト王権が出来て、交通の安全が保障された結果、交易が活性化したとも言える訳で。
交易が先か?王権が先か?は昔のこのスレでも議論されていたが。
ヤマトに強大な部族連合が出来てオウを共立したのは間違いないが、
交易の安全性を求めて、という理由だけでは若干弱いように思う。
何か強大な敵と立ち向かうために同盟を結んだとか、理解し易いのだが。
伊都国・奴国を両巨頭にした玄海灘沿岸部グループから、鉄ルートを奪取した、
みたいな白石の言説が村上に否定され、ヤマト王権成立プロセスは甚だ分かり難くなった。
大平洋ルートってのは具体的にどういうルート?
纒向まででいいから大陸からのルートを教えてちょうだい。
北部九州から言えば、愛媛を通って高知、阿波、畿内じゃない?
事実、高知県から大量に庄内ガメが出てるらしい。
>>27 従来思われてた程、瀬戸内海ルートは活発ではなかった、ていう意見な訳で。
弥生後期初めには畿内にも鍛冶技術が伝わっているが、
五斗長垣内のはかなり炉が浅く(というか全く掘り下げが無い)
温度が上がらない、簡単な成形やら鍛延程度しか出来なかったようだ。
当初畿内に伝わった技術より退行しているという。
吉備、阿波、河内を主体とした連中が
奈良盆地、巻向にやってきた。
これで殆ど正解だろう。
36 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 09:53:37.22
狗奴国一宮
>>35 寺沢は吉備+東瀬戸内、それに筑紫も足してる。
個人的には、石塚東田大塚勝山矢塚に特殊器台が見られないことから、
当初から吉備勢力が参加してたことには懐疑的だが。
松木は箸墓に特殊器台を並べることで、吉備系、楯築の被葬者の後継であることを
声高に宣言した、みたいなことを言ってた。
>>33 愛媛は鉄が殆ど出てないから、そのルートはありえない。
>>38 > そのルートはありえない
愛媛の文京遺跡では、舶載鉄器のほか、さまざまな鍛造鉄器も出土しており、
鉄素材の供給を受けて鍛冶生産をおこなう工人がいた可能性はきわめて高い(村上恭通 2000)。
高知では西分増井遺跡で複数の鍛冶遺構から鉄器加工の行程を示すような未製品、鉄板裁断片、
そして素材と考えられる板状・塊状鉄製品が大量に検出された(村上 2011)。
土器の類縁関係から豊後水道をはさんだ伊予中部と東北部九州や東九州の沿岸部との間には関連性があったことが指摘されている。
また、高地平野の田村遺跡群は中広形銅矛の分布の東限だが、
中広形銅矛は高地平野西部から幡多地域・伊予南部地域で多く出土しており、
これは銅矛が東九州から伊予南部を経て高地平野に流入するルート上に沿って分布しているものと考えられる。
というわけで、地域間交流からみるとありえないことでもないと思うよ。
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_3.html#1-3-20 ここの後の方に次山淳氏による 吉備型瓶と畿内系の初期布留形甕の分布図があり、これを解析すると、愛媛県大三島の越智(おち)氏の名前が出てきます。
瀬戸内航路開拓のための 陸上から攻撃されない安全な拠点ということなのかな。
「越智」とは もちろん「物部」になる前の氏族名のことで、これには幾つかのバリエーションがあります。
「恩智(八尾・河内三島)」「愛知(えち・滋賀県・後の息長氏?)」「愛智(熱田神宮のあたりなど」。名古屋から伊豆の「三島」にかけても物部系の氏族が散在しているようです【←東海系】。
一方 東山道(後の中山道)を辿り。碓氷峠を越えていくと、物部氏の支族である「中臣」に繋がる「鹿島」「香取」【←関東系】があります。
これで 巻向のメンツは 肝心の“親分”以外は出そろったことになります。"緩やかな首長連合"とは、全く異質な諸部族の連合ではなく、物部系を中心とした"同族意識"のあるもの同士の集合だったようです。
三島≒越智≒物部≒三島≒越智≒物部≒三島≒越智≒物部≒三島≒越智≒物部
鉄などの交易に、海洋民が携わったというのは村上も言ってるが、
安易に物部氏とか出してくるのはどうか?と。
古代史において、物部は鬼門じゃないかな?w
それくらい謎が多くて、興味深い氏族であるのだがw
物部ってのは、ヤマト王権が部民制を地方に拡大していく中、
地方豪族を同族として取り込んでいったんだろう。
で、結果として、地方に広範囲に分布する「謎の」氏族になったのだと思う。
42 :
水銀厨:2012/08/02(木) 00:50:38.75
イマイチ不明な点が多かった、奈良北西部にある上牧町の久渡古墳
(三世紀後半推定)から画文帯環状乳神獣鏡(和泉黄金塚のと同型?)
が出ましたよ。
43 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 04:40:14.66
上牧か、こちらもマキだね。
同型と書いてあるね。
畿内と東海が連合した王権を中心には
後の織田豊臣政権と同じだな。
戦国時代と同じよう統一過程を歩んでいたんだな。
狗奴国は、許乃国(コノ国)。
>>41 > 安易に物部氏とか出してくるのはどうか?と。
> 古代史において、物部は鬼門じゃないかな?w
巻向の成立を考える場合には、当然その背景となる弥生社会の成り立ちについて考察する必要がある。
そこでは当然 物部"系"の氏族を取り扱うことになる。
> 物部ってのは、ヤマト王権が部民制を地方に拡大していく中、
> 地方豪族を同族として取り込んでいったんだろう。
> で、結果として、地方に広範囲に分布する「謎の」氏族になったのだと思う。
これは ずっと後の時代の組織化された支配階級としての物部の概念を 弥生時代に無理矢理当てはめようとするから訳がわからなくなる。
弥生時代の初め頃から 数人から数十人程度の小グループで少しずつ各地に散らばり、
現地の縄文人と混淆を繰り返しながら それぞれの土地で根付いていった弥生人は何に対して帰属意識を持っていたのか? という問題。
小さな括りでは集落に対する帰属意識でしょうが、大きな括りで言えば自己の出自、同じ氏族に対する連帯感だと私は考えます。
現代の視点で物事を語るから滅茶苦茶な解釈が生まれるんだよな。
大坂山に近い上牧辺りで三世紀の中国鏡が出たのは興味深い。
でも墓自体壊しちゃたんだね。
久渡古墳、墓自体は壊してないんじゃないか?重機で鏡を割っただけで。
葛城地域に出現期の古墳が見つかった意義は大きい。
上牧銅鐸とかもあるし、古代、葛下川流通を抑えた有力な勢力が
このあたりにあったのは確かだろう。
寺沢は卑弥呼の鏡を画文帯あたりが妥当と言ってたし、
福永は三角縁前に画文帯を配布してた時代を想定していたよな、確か。
結構広い範囲を壊したらしいが。
>>49が何を持って「墓」と表現しているのか知らんが。
51 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:00:57.20
中の配置がわからなくなったらしいから、
やはり破壊したんじゃないか?
場所的には水運の要所だが、久渡という名だと竈由来でもある。
52 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:41:45.93
壊した時って発掘用のトレンチしてたのかね、それとも普通に工事してたのかね?
九州だと、どこ掘っても何かしら出てくるから、
ある程度は仕方ないとも思えるが、どんなものなん?
久渡古墳群は上牧町のどの辺なんでしょう?
こんどにじの湯(スーパー銭湯)へ行ったときにちょっと見てきたいです。
【朝日新聞 抜粋】
町教委は昨年11〜12月、宅地開発計画に伴って同古墳群を試掘。
遺跡がありそうな層まで重機で掘り下げようとしたところ、古墳の埋葬施設を破壊し、
青銅製の鏡や鉄製のやり、矢じりなどが掘り出された。
確認した結果、古墳時代初め(3世紀後半)の一辺が15メートルほどの方墳か前方後方墳があることが分かり、
久渡3号墳と名づけられた。
銅鏡は二つに割れており、重機で損壊した可能性が高いという。ほかにも2基の古墳の埋葬施設を損壊した。
【読売新聞 抄出】
これまで古墳時代前期の古墳は存在しないと考えられてきた上牧町で発見された同時代の久渡(くど)3号墳。
精巧な画文帯神獣鏡が出土し、3世紀後半の3号墳から7世紀の2号墳まで約400年間、
小さな丘陵に脈々と古墳が築かれていたことも判明した。
1日発表した町教委は今後、国史跡指定を目指して調査を進める。
南北に延びる尾根で古墳7基を確認、久渡古墳群と命名した。
3号墳(3世紀後半)は、のちの4号墳(6世紀後半)と重なっており、
墳丘はほとんどなかったが約15メートル四方の方墳とみられる。
画文帯神獣鏡(直径14.2センチ)のほか、鉄鏃3点、鉄槍2点などが出土した。
鏡は大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳(4世紀後半)で出土した鏡と同型だった。
古墳群は丘陵の南北約150メートル、東西約100メートルの範囲にあり、3号墳は丘陵北端付近の見晴らしのよい場所に立地。
南側には全長約60メートルの前方後円墳とみられる1号墳、さらにその南には7世紀に斜面を削って造った2号墳があった。
今回の発掘は宅地開発に伴って行われたが、古墳群が発見されたことで開発は中止された。
町教委は3、4号墳に加えて1、2、5号墳も2014年度までに調べ、成果を踏まえて国史跡指定を目指す。
◆技術不足で損壊
久渡古墳群の3号墳を含む古墳3基は昨年11〜12月、町教委が重機で試掘調査した際、
技術不足で誤って一部を壊してしまった。
町教委によると、遺構は深さ約10センチと浅い場所にあった。
しかし、土層の識別が難しかったことなどから、重機で幅2メートル、長さ60メートルの試掘溝を深さ約1メートルまで掘削。
その後、調査担当者(37)が掘り出した土の中に土器片を見つけ、古墳の存在がわかったという。
【毎日新聞社 抜粋】
画文帯環状乳神獣鏡は、直径約14.2センチ、約511グラムで、非常に精巧な文様が描かれている。
内側に4匹の神獣が、外側に竜や神仙などが時計回りに配置され、日月の運行を表しているとされる。
和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)で出土した鏡と同型鏡だった。
宅地開発に伴う昨年11月からの調査で、標高約70メートルの丘陵地で発見。
古墳時代前期初頭から終末期の古墳が7基あり、久渡(くど)古墳群と名付けられた。鏡は3号墳から出土した。
埋葬施設をまるごとショベルで掘り上げちゃったんでしょ。
駄目な学芸員/調査員だなあ。
物部氏もそうだが、葛城氏も謎の多い、興味深い氏族。
極楽寺ヒビキ、とか鴨都波とか、葛上郡、葛城南部ではなく、
今回のは葛下郡、葛城北部なんだよな。
大和川水運や二上山のサヌカイト利権で考えれば、
当然葛城北部が力を持っていた筈なのに、
何故か記紀では葛城南部が主体になっている。
馬見古墳群で考えても興味深い。
出現期古墳は、山の尾根の先端部を整形したのが多いからな。
平地の中でぽつんなら見つけ易いが、今回みたいに山と繋がってると
なかなか見つけ難い。
丹後竹野川の大風呂南とか、岐阜県の象鼻山など。
丘陵を整地した王墓が、葛城以外でもこれから見つかっていくんじゃないかな。
ここは実質香芝市との境界に近い場所だね。
あれが古墳だとはちょっと思わない場所だよ。
ガキの頃近所の竹藪で遊んでたし。
真美が丘の近くで少し近所に牧野古墳もある。
なかなか興味深い発見だよ、マジで。
竹内峠で葛城北部と古市百舌鳥古墳群は繋がってるからな。
河内の大王たちとの関係が深いというか、
立役者である武内宿禰は葛城北部の有力者、
竹内街道を押さえていて、名前を峠に残したと妄想w
なのに武内の墓が葛城南部にあるというのが、そもそも違和感があった。
室大墓は武内ではなく、やはり葛城襲津彦で、
葛城北部の馬見古墳群とは別系統の氏族で、高句麗との戦いで活躍したソツヒコにより、
葛城国の主導権が北部から南部に移ったように思う。
葛城南部は紀伊と関係が深く、紀国造の水軍を率いる立場で、
外征で活躍出来たのだろう。
画文帯はどんどん興味深い鏡になっていくな
64 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 22:30:38.45
三角縁に固執するよりは一歩前進かな
65 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 22:50:34.14
正直言って、その古墳のどこに興味を持てるのか不思議でならない。
土師器はどの様式なんだろうね。
マキの名が付くだけでも興味深いよ。
今まで空白地帯的に見られてた場所だからだし。
それに巻向に対しては東西軸で対向する場所でもある。
そうなのよね、その根拠がよく分からない。
「前期初頭」とまでいうには相当の根拠があるのだろうから、
pdfにもそれを書いて欲しいところだ。
五日に説明会があるので確認したらいいかも。
でもあの場所は宅地化が進んでしまったが、
あの森が古墳だったなら、実はまだ周辺に
それらしき林があったりするけど。
71 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 08:13:28.25
新聞では、画文帯神獣鏡を卑弥呼の鏡なんて書いているところもある。
要するに、画文帯が3世紀後半の根拠と言うわけなのだろう。
しかし、6世紀の可能性さえ指摘されている江田船山古墳からも画文帯は
出ている。画文帯を根拠に年代を3世紀まで持っていくことは不可能。
逆に、5世紀後半とか6世紀まで下る可能性もある。
埋葬施設の構造もわからないのかな?
五世紀以降?それは墓の形状からない話。
二上山の近くでカミマキという地名なら
当然何かしらあったと考えるべき場所だな。
>>74 当然何かしらあったと考えるべき場所だな。
そばの馬見が丘で放"牧"をしていました。 以上 終わり。
半年ぶりくらいい このスレ来てみたけど、だいぶレベルが下がったな。
>>75 よくその説を唱える人がいるが大間違い。
馬見が丘の理由なんて後付けだよ。
大体巻向でも放牧してたのかw
>>76 大体巻向でも放牧してたのかw
巻向は人間が住むための都市ではなくて、基本的には
祭祀施設とその築造に係わる人が滞在していただけなので
馬は飼っていなかったと思う。
飼っていたとすれば、かなりの期間にわたって遺跡が検出されない芝運動公園のあたりかな。
78 :
水銀厨:2012/08/03(金) 13:25:47.99
町名の由来は実はあまり参考にならないですよ。
私も古事記の資料等を提供する仕事をしていたのですが、
広報等で由来を調べたりすると結構曖昧なんですよ。
上牧‥周辺の馬見丘陵は飛鳥時代牧場だった、という話からの
説がとられてますが、安易すぎてあまり私は賛同できません。
マキに関する言葉なら高野槇にミマキイリヒコ等もあります。
それに周辺の神社は厳島や貴船神社が多いというのがね。
79 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 13:42:22.58
倭国は現代のアメリカのような国だった
来る者を拒まず
それがあらゆる国の優れた部分を摂り入れることに繋がった
○○氏とは、恐らくその出身国を基に纏まったグループだ
それらが奈良盆地に集結し
利害を調整しながら一つの体制を作った
北九州、日向、出雲、阿波、吉備、越、尾張等等
そしてそれらの国々の中で主導権を握ったのが
日向から来た神武を頭とするグループだったのだ
馬ってスレタイの時代から飼ってた形跡はないだろ。
そもそもこの頃の地名なんて全く分からないも同然だし。
81 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 15:13:26.20
邪馬台国には馬がいなかったのに
記紀では、スサノオが馬を田んぼに放して荒らしたり
馬の皮を剥いで縫製工場の天井から投げ入れたり
明らかに後世の創作だよな
上牧の件は無関係に見えても、巻向とは東西軸上に乗る場所にあるんだよ。
そこに古墳が集中していた点を一応は考慮した方がいい。
上牧やらマキムクっていう地名が三世紀からあった証拠がないから、
余りマキ繋がりとか妄想は膨らませない方がいい、というのが一般的な意見なんだろうな。
しかしハツクニシラスである崇神がミ「マキ」イリヒコとか、
どうにも気になってしまうw
私個人的には、マキは馬関係の牧ではなくて、真木=杉から来ていると思う。
大神神社が杉の御社と後世呼ばれているし。
奈良盆地南東部の勢力が吉野の木材資源=杉を抑え、
瀬戸内海航路で覇を唱えたのが、ヤマト王権の最初だろう。
クセがなく真っ直ぐな杉は、船材に最適とされる。
古代フェニキアは船材に適したレバノン杉によって、
海洋国家として飛躍出来た。そのようなことが三世紀のヤマトでも起こったのではないか?
崇神が初めて船を作ったとかの説話は、そういった経緯を神話的に物語っているのだろう。
真木というのはヤマト王権の本来の主宰神とされる高木神とも通じるものがある。
高木神は葛城の神とも云われているが。
84 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 11:47:27.44
本来の槇(マキ)との関係は?
スレ違い気味だがこの周辺も謎だらけだね。
例えば久渡古墳近くにあるのは牧野(バクヤ)古墳だが、
有力被葬者が彦人大兄王子で、活躍が聖徳太子に隠れて謎なのに
当時石舞台古墳に匹敵する最大級の石室を持つ点とか。
また葛城尼寺か?と騒がれ法隆寺をしのぐ
最大級塔が想定される尼寺廃寺跡の存在とか。
うーん。六七世紀は皇位継承権者の複数の皇子たちが宮を造り、
その宮に中央の豪族たちが奉仕する形が取られたらしい。
忍坂彦人大兄が大和川水運の要地、河合町に宮を造り、
恐らくは川合大塚山古墳群の造墓集団が与力したのはそうだろうが、
それ以上でも以下でもない。
久渡古墳の周辺はかなりの古墳密集地のようだね。
既に開発が進んでるので、もっと存在した可能性もありそう。
88 :
水銀厨:2012/09/01(土) 12:02:32.21
後日談だが馬見丘陵地周辺に古くから土地を持つ知人がいるのだが、
この周辺の宅地化が計画されたのが昭和30年代。
おそらく何かしら出土しそうなのはわかってたらしい。
昔に知人宅も敷地内に離れを増築しようと掘り下げたら、
大規模な石垣が出てきて急遽埋めたりしたそうだ。
箸墓逸話では大坂山から石を人力で運んだ話があるが、
当然この周辺地の勢力が協力しないと出来ない話。
上牧辺りは巻向とはセットで考慮しないといけないだろう。
89 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:38:09.94
馬見丘陵は元々豆山とも言った。
本当の豆知識な。
90 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 06:14:25.20
ミマキイリヒコ(崇神天皇)のマキは牧ではない。
ごく僅かに移入されたものの、
飼育、制御が難しい動物だったから、
牛と同じようにごく一部で運搬か食糧くらいとしてしか利用されていなかっただろう。
本格的に飼育が始めるのは、
朝鮮半島に進出して高句麗の騎馬隊と戦うようになってからだろう。
後世に充てられた漢字は参考にならないよ。
マキは牧場という意味だけではないから。
巻向なんて意味がわからなくなる。
92 :
水銀厨:2012/09/05(水) 12:25:20.17
地名の漢字は騙されちゃいけない、よく検討する必要があります。
例えば話題の馬見近くにある広稜町の三吉、これは今
「みつよし」と読んでるが由来は散吉郷からきている。
つまり元々の読みはさぬきで讃岐の事。近所には讃岐神社も
ある事からわかるだろう。
また三吉赤部という地名からわかるように、この辺りは
赤土のとれる山でもあった訳です。
ミマキイリヒコのマキは真木の意で、杉だと個人的には思うがな。
大神神社が杉の御社と後世呼ばれたり、
崇神が初めて船を作ったとかの伝承からも
(まっすぐな杉は船材として尊ばれた)。
上牧がいつからそう呼ばれているか知らないが、
杉とは縁がなさそうだから、マキムクとは関係ないだろうと思う。
マキという言葉の問題なら、槇(マキ)を考慮しなければならないだろう。
悠仁殿下のお印が高野槇だね。
あと船材ならば、クスノキだね。
比較的柔らかく加工しやすいのと、樹脂が多くて、虫に強く腐りにくい。
クスノキを乾留すると、殺虫剤の樟脳が取れる。
杉は水に強くないので、
雨がかからない建築物には良いが、
船にはあまり向かない。
紀国造家とか、吉野杉を船材に用いて水軍を作り上げたと思うがな。
水軍を率いて外征でも活躍した紀氏の本貫地は木の国だけど、
果たして「木」とは何だったと考えてるんだろう?
杉は確かに腐りやすいけど、船材に使われてないとか無理があり杉
大和三山は人口の山
98 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 23:00:46.91
真木(マキ)てのは、まっすぐな木、杉を御柱に建てて、
その柱に神が宿る(イル)ってのが、ミマキイリヒコの一番納得がいく解釈だろうな。
当初の皇祖神が天照ではなく高木神だったという説とも符牒が合う。
99 :
水銀厨:2012/09/07(金) 00:05:30.21
私は「マキ」の元々の意味はともかく、ミマキイリヒコについては
尊称+マキからやってきた男、という解釈をしてます。
この「マキ」が元々四国の美馬辺りか、現上牧辺りの
事を指すのかまでは断言できませんが。
馬見丘陵地東部で画文帯神獣鏡が出た事は、3世紀中期には
この辺りにも力を持った一族の基盤であった事の証明には
なるでしょう。赤土が出るという事も船にも好都合な土地ですよ。
100 :
日本@名無史さん:2012/09/07(金) 11:13:36.13
101 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 08:50:27.50
巻向周辺は銅鐸出てたかな?
上牧には島根と同種のが出てたはずだが。
大福遺跡
103 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 07:01:36.30
>>94 その可能性は否定できないが、
しかし、いつから「お印」が使われたかが問題。
まだ崇神の時代には成立していなかったのではないか。
104 :
ひとぶた:2012/09/16(日) 10:40:18.89
>>99 > 私は「マキ」の元々の意味はともかく、ミマキイリヒコについては
> 尊称+マキからやってきた男、という解釈をしてます。
> この「マキ」が元々四国の美馬辺りか、現上牧辺りの
> 事を指すのかまでは断言できませんが。
「マキ」の方はさておき、
「イリ」=「やってきた」=「浸入の意」説ですね。
でも、「イリ」は後続の「ヒコ」に架ける方が、意味は同じ「入り」でも通じやすいと思います。
日の入りの入りですね。
「ミ・マキ・イリ・ヒ・コ」の内、「イリヒ」で、日没又は日没後の太陽を表すとみると
太陽神の御子が御隠れになったイメージを率直に表現できていると思います。
つまり、「イリ」は生前の尊称を諡号化する一つの手段で、
生前は「ヒコ」、死後は「イリヒコ」と呼び分けてた時期があったんじゃないかと。
上牧っていうことで、変に巻向やらミマキイリヒコとかと関連させてしまい、
議論が変な方向に行っている気がする。
倭名類従とかで上牧って地名は出てるのか?
上牧って地名がどこまで遡れるのか?
普通に考えて、馬が輸入されて放牧されて以降だろう。
マキムクと関連付けようなんてのは電波
杉なんてボコボコ自生してたのかな
吉野杉や京都の北山杉なんてブランド物は、少なくとも植林されるようになってからじゃない
107 :
水銀厨:2012/09/21(金) 12:35:26.68
>普通に考えて、馬が輸入されて放牧されて以降だろう。
それも根拠に乏しい。じゃマキムクも放牧地だった故の名か?
というとそれもおかしい話。
放牧が後からついて来た意味かもしれないし、現在でも放牧地のある
御所市辺りにそういう地名が残ってないのも変だろう。
高野槙そうだがマキの意味をもっと考察しなければ。
今の所共通する点は上牧周辺も巻向周辺も古墳密集地だという事だ。
マキという文言は本来何らかの支配者的な意味を持っていたのかも。
高野槙に真木、馬に関する牧等、特別なんだろう。
109 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 12:35:40.79
いやまあ、なんというべきか。
上牧の古墳初期にマキムクの協力勢力がいたというだけで。
マキとか、上牧なんて地名がいつまで遡れるのかも分からないのに、
そんな駄洒落、語呂合わせの議論なんて全くの無意味。
学問的ではない。
マキムク王権自体が、大和川水系豪族の連合が第一にあって、唐古鍵の後継だったとすれば、
大和川水運を押さえる以上、葛城の協力は必須。
今まで葛城を無視、通り過ぎて、奈良盆地東南部と中河内が結びついた、
なんて言説があったが、考古学専門馬鹿の一番悪い部分が出ていたように思う。
>>109 ←この人は「大和川水運」とか言い出すだけでDQNだと見なされていることが分かっていない。
協力勢力に「マキ」と同じ名が残っているのは偶然で片付けてはダメだ。
言霊や地名を調べる事を疎かにしてはいけないよ。
>>111 「古奈良湖」と「亀の背」は初心者が必ず引っかかって、専門家は何故こんな簡単なことも知らないのかと有頂天になる問題。
大和川は古代には奈良と大阪の中間の亀の背に巨岩がゴロゴロ積み重なり、船では通行できなかった。
平安時代に かの和気清麻呂が開鑿を試みたが失敗、明治になるまで直接の航行は不可能。
>>113 あはは、
その理屈だと、スエズ運河か開削されるまで、地中海・紅海ルートの水運も存在しなくなるなw
全て直通じゃなきゃ、流通ルートとして成立しないわけではないし、
明治になっても亀の背を運船が通交できたわけでもないのに。
115 :
自己レス:2012/09/22(土) 15:57:46.47
>>114 流通ルートはもちろんある。陸上経路はどこを通っていたかも分かっている。
「水運」と書いてあるから、それはないということ。
途中陸路になったとしても、河川の水運は普通にある。
ないと主張するなら、それを証明しなければならないくらい、全世界で一般的。
>>117 コイツアホ。 舟で通れないから通れないから和気清麻呂が開鑿に挑んで失敗したと書いてあるのに、寝言を並べとる。
オマエ 大和川を見たことないやろ。
全く見当違いの反論。
途中通れないところがあったら何なの?
>>119 ←ついにハッキョウしました。
途中舟で通れないところがあったら、そこは水運ではない。
>>120 >そこは水運ではない
百歩譲ってそうだとしても、それ以外の99%は船行だろw
大和川が東西の水運に利用されていることに違いは無い。
なお子ちゃま脳でのコトバ遊びで反論できたつもりになりなさんなw
>>118 泪目になって書いてるの丸出しの文章だなw
>>121 > それ以外の99%は船行だろ
奈良県王寺町の竜田神社の前の河原から 大阪府柏原市高井田のちょっと上流あたりまでは100%陸上経路。
たとえば 河内三島から巻向まで物を運ぶとすると、この区間の労力は30〜50%くらい。
世界の水系論とかの話をしているのではないぞ。 もっと煮詰まった具体的な話。
>>123 > 奈良県王寺町の竜田神社の前の河原から
龍田大社
龍田神社は大和川支流の竜田川上流にあって斑鳩町。法隆寺のすぐ近く。
>>120 > 途中舟で通れないところがあったら、そこは水運ではない。
船氏も改名しないといけないみたいだな。
>>125 奈良盆地内部の河川の水運を担当していたのは広瀬神社のあたりを拠点とする「広瀬衆」など別の集団。
と言うことで「大和川水運」と言うコトバの定義は確認出来ましたね。
130 :
水銀厨:2012/09/23(日) 13:05:23.77
ただ注意する必要があるのは、大和川の亀の瀬渓谷は
国内有数の地滑り地帯ですからね。
古来河川が常に同じ状態だったかは注意して考察する
必要性があります。何度も土砂災害があったはずです。
鍵唐古が何度か水害に会ってるのは大雨もそうですが、
亀の瀬が地滑りによってせき止められた可能性もありますな。
葛城地方の歴史が軽視されてるのは、
元々蘇我の基盤だからだろうな。
カンマキとマキムクを比べるより、
秋津嶋と磯城嶋、葛木と帥木の比較の方が実りがあるような。
上牧の地名が古くないと意味がない。
133 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 21:11:08.83
>>131 そういう理由ではなくて、葛城山系には
(高)尾張氏と鴨(賀茂)氏が根拠にしていて、
それぞれ移住した経緯がはっきりしないからではないのかな。
尾張氏の葛城先住民説を否定する研究者もいるし。
尾張氏が鴨や物部とかと同族ってのは、個人的に眉唾だと思うけどなあ。
赤塚が言ってるとおり、象鼻山に大王墓のステージが造られたのは、
流石に葛城やら、ましてや物部台頭より前、ってのは覆らない。
葛城台頭は四世紀末、物部は早くて五〜六世紀だからな。
葛城や物部の勢力が台頭した時期に、東海勢力が畿内の宗教的権威と、
同族であろうとした、政治活動の成果だと思う。
135 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 22:20:35.48
>尾張氏が鴨や物部
同族ではないよ。
それとまた葛城氏もそれぞれ別。
尾張氏の本貫地が葛城高尾張だとか、
尾張氏の祖先神の火明命が、物部の祖先神であるニギハヤヒと同一神とされたり、とか。
葛城地域の鴨都波神社、鴨都波遺跡、高鴨神社とか。
かなり関係が深いような気がするが?関係がないと断定する根拠は何?
勿論、最初から血縁関係にあった訳ではなくて、
後世に祖先神を同一化して擬制的血縁関係(クラン)を形成したというのには同意だが。
137 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 17:18:16.60
>>136 時代が下れば下るほど、
それぞれの氏族が祖先を天孫系に結びつけようとして
系譜を書き換えたと考えられる。
物部は天神系。
尾張氏は土着氏族で国津神系。
葛城氏は武内宿禰からの分かれだから天孫(皇別)系。
出自はそれぞれ違う。
138 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 08:40:40.71
季刊考古学別冊18『邪馬台国をめぐる国々』 っていうのが出ましたが、読んだ人いますか?
139 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 10:30:19.93
尾張国一之宮、真清田神社の氏子崇敬者各位には天火明命は
大和・河内の国境に天降られ、逸早く葛城国高尾張邑を開拓の後
天香山命の時、濃尾中島の地に移り開墾に尽力され、この地を旧邑の名に
依り、尾張国と称すと、明確に謳ってあるなぁ。
140 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 16:35:52.40
尾張氏は天孫系だろうがw新撰姓氏録によると。
葛城氏は、皇別系と天神系の二系統があったはず。
もともとは葛城氏は天神系だけど、武内スクネの子孫が婿に入って
その子孫は皇別系葛城氏になり、それ以外は天神系葛城氏。
141 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 16:40:24.01
天火明命の子孫だから、尾張氏は天孫系。
ただし、播磨国風土記によると、火明命は大国主の息子となっており、
そこから、尾張氏は実は地祇系なのでは?という説を言う人がいるのだが
旧事本紀や海部氏系図をみたらわかるけど、
天火明命の正室の父親が大国主となっており、
ようするに、大国主の娘婿(義理の息子)が天火明命だったことがわかる。
その事実から、播磨国風土記では、大国主と火明命を親子という記述になった。
実は、義理の親子だったということになる。
142 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 19:53:46.29
>>134 象鼻山に大王墓のステージ。とあるが誰の墓だと
推測していますの?
>>142 誰の墓?と言われてもw
赤塚さんなら、狗奴国王と即答するところなんでしょうがw
象鼻山は、濃尾の首長連合に推戴されたオウたちの墓なんでしょうけど、
記紀にはそれらしい人物は見当たらないですね。
やはり、どうしても記紀は大和中心で書かれてますので、
大和王権初期に、大和に匹敵するオウが東海にいた、
なんて、なかなか書けないでしょう。
時代は下りますが、五世紀の吉備の造山とか、大王墓級の墓の被葬者でさえ、
記紀にはそれらしい人物が存在しませんし。
記紀では皇統に組み込まれてますが、
神大根王とか八坂入彦とか伝説の人物がもし実在したとすれば、
東海のオウの一人だった可能性はあるかもしれませんね。
144 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 11:29:22.64
>>143 赤塚氏なら濃尾の王は東之宮古墳と思っているだろう。
145 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 11:53:30.02
狗奴国の中心と言われる伊勢湾沿北岸低地部だった萩原、八王子、西上免遺跡群
(現・一宮市萩原町など)などは濃尾の首長連合による交流の場だったかもしれない。
前方後方墳などの発祥の地でもある。
赤塚は標高140メートルの象鼻山山頂に、70×70メートルの方形壇が
造られたのを二世紀前半に想定してたよ。
象鼻山を濃尾王権の嚆矢と見ているのは間違いないと思うが。
147 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 06:12:14.31
あの方形壇、中世の山城や陣城跡っていうことないだろうな?
報告書見ても、方形壇とする区画溝の時期根拠が曖昧だよ。
また廻間SZ01は、くびれ出土壺群などは廻間V式前半と新しく、築造期という土器は周溝の外から流れ込んだ土器破片群や、周溝以前の土坑群の土器だったり、ふつうありえない古墳の時期比定根拠にしている。
廻間は時期が怪しく、これがこけたら、前方後方墳濃尾起源説は根拠がなくなるよ。
それより、自分は邪馬台国畿内説だけど、狗奴国肥後説に興味を持ったね。弥生終末期の肥後地域が凄いことが分かった。
江戸から昭和中期までは邪馬台国畿内説でも狗奴国を肥後や薩摩にする説があったから、あり得ると思うのだが。
赤塚の話では、方形壇に二世紀に起きた大地震の亀裂があって、
その上に墳墓が造られてるので、大体の築造年代が分かるんだとか。
赤塚の新説は勢いがあって、慎重になるのは分かるが、
大体整合性があって、概ね合ってるだろうなという印象。
ただ、赤塚が言ってるのは「東海は凄い」じゃないそうだ。
邪馬台国の時代はまだ各地に多種多様な弥生由来の部族社会が広がっていて、
同じものを有り難がる均質な文化習俗が面的に全国に広がったり、
大和が求心性を持つのは、もっと時代が下ってから
(その萌芽は見られるが)という意見らしい。
寺沢の言うマキムク型前方後円墳仮説への反論なのだろう。
149 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 12:59:33.90
方形壇は2世紀(?)の大地震の上に作られ、ということだが、方形壇はじめ他の一連の古墳群ちも大地震の亀裂痕跡があるから、大地震は古墳群造営終了後のはずだ。
そして、その大地震の時期は明確に特定されていない。
2世紀の地震なら下る時期の古墳にめ亀裂痕跡があることに矛盾する。
あと、赤塚氏はそうは言いつつ、なんでも濃尾起源、濃尾が古いとし、そこから拡散としている。
廻間のように根拠があやふやなのが結構ある訳だが。
>148で言っているのは、後出しのアリバイみたいな気がしますけど。
方形壇が先で、その後に大地震による亀裂→その後、亀裂の上に古墳
(古墳自体に亀裂はない)だったと思うが。
まあ、学者ってのは、赤塚以外にしろ、
自分の研究対象が大層立派なものだと思いたがる傾向があるからw
出来るだけ古くしたくなる誘惑はあるだろうね、確かにw
しかしまあ、寺沢のマキムク型前方後円墳仮説に
かなり無理が出てきてるというのは、共通認識じゃない?
寺沢からすれば、前方後方も畿内発らしいし。
畿内マキムクが突然日本の中心になった理由は、
各地のオウが突然マキムクに集まりw超巨大王権が突然誕生したwという。
まあ説得力がないと言われても仕方がない。
最近言われてるような、緩やかな連合説が妥当だと思うがな。
151 :
諸星あたる:2012/10/03(水) 15:47:21.09
152 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 20:33:23.90
>>150 > 方形壇が先で、その後に大地震による亀裂→その後、亀裂の上に古墳
> (古墳自体に亀裂はない)だったと思うが。
測量図を見ると、象鼻山た4・5号墳は亀裂の影響がありそうですが、、、
また丘陵尾根北西の象鼻山1号墳も、コンターはあまり乱れてませんが、墳頂の最高部が中心からズレているのは地震の影響?とも思えます。
ちょうどその「亀裂」の延長なんですよね、後方部墳頂中心が。
もっとも、1号墳の調査は、知っている人は知ってますが、かなり問題がある調査だったので、再検証は難しいです。
さらに疑問なのは、その「方形壇」の西半分、丘陵斜面に明確な区画はないはずなので、本当に「方形壇」かどうか、少なくとも西側はかなり怪しいですね。
丘陵尾根上の「方形壇」東半分だけは後世ではないと本当に言えるなら可能性はあるでしょうが、方形に線を入れて囲っている西半分の丘陵斜面はおかしいでしょ?
コンターの密度からかなり急斜面みたいですし。
濃尾では、瑞龍寺山でも、測量図を「前方後方」形に恣意的に抜き出して、前方後方のラインを引いて最古の前方後方墳かも、とか言ってますが、
丘陵頂部の長方形台状部分だけが本当の墳丘墓(台状墓)部分で、その下に書き足した「前方後方」は、コンターのあり方から人為的墳端を見出し難く、ただの自然斜面でしょ、あれは。
そういう前例があるので、いまいち信用できないんですよね。象鼻山も。
あと、寺沢氏の何でも「マキムク」論にはかなり問題はありますが、
寺沢氏による赤塚氏の編年や平行関係案、年代論への批判自体は鋭いと思うのですけどね。
一般的にも有名な人は何かしら強引な論を張っている人なわけだけど、
寺沢と比べると、やはり赤塚の強引さの方が上手。
154 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 13:31:25.35
拾い。
前方後円墳≒おもに皇別
前方後方墳≒天火明・饒速日その他を祖とする神別ら
ホタテ型・纏向型≒神別の中でも三輪氏(磯城県主・十市県主)系
という印象があるな。古墳前期についての超大ざっぱな感想ね。
155 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 22:28:49.17
>寺沢と比べると、やはり赤塚の強引さの方が上手。
禿同
156 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:36:38.94
倭国の乱
157 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 20:02:32.49
明日、狗奴国シンポジウムが吉野ヶ里である訳だが、狗奴国東海説は九州に受け入れられるだろうか?
久努とか久度とかで、語呂合わせ出来そうなあたりの遺跡をピックアップしてみる。
159 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 07:01:09.72
でも、それだと濃尾じゃないんだけどね?
160 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 13:03:58.34
161 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 13:48:51.96
>>160 ちょっとスレ違いだけど今狗奴国は何処という説が優勢なんだろう?
やっぱ東海説が優勢(圧倒的?)なのかな?
今時、魏志倭人伝を気にしてる研究者とかいるの?
どうでもいいと思うんだけど
伊達に信長、秀吉、家康と輩出したわけじゃないんだろうな
濃尾をとるってのはそれくらいインパクトがあると
室町時代にも岐阜に流れた弟が結局天皇になったりと
三種の神器の一つも愛知にあるし
164 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 13:43:20.79
中近世の話しが古代に何の関係が?
そういう話しなら熊本だってどうとでもw
165 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 14:06:51.94
福岡、熊本、佐賀、長崎って古代から大勢力が生まれないのよ何故か
166 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 19:36:34.92
濃尾を舞台なら日本古代最大の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)があるじないか。
壬申の乱は、天武天皇元年(672年)に起きた内乱。天智天皇の太子・大友皇子(明治3年(1870年)、
弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである
地方豪族って言うのが天火明命の末裔豪族尾張連の村国氏だなぁ。
167 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 00:16:53.07
福岡には筑紫君磐井が出ただろ?
>>164 弥生時代を通じて、各地の平野部が開拓されていった。
その中で水運に恵まれ、比較的広い平野の勢力が強盛になっていくという流れ。
こういった日本列島の地勢は、中世も古代も一緒だと思うがな。
福岡平野、出雲平野、岡山平野。少し遅れて大阪平野。
最終的に肥沃で広大な濃尾平野、関東平野を抑えている勢力が台頭するという流れ。
>>168 割と近い見方をしているが、
弥生期の初期は陸稲雑穀の比較的標高が高い台地、
中期以降は平地の水稲で、ほぼ同じ見方。
台地だと、熊本、兵庫が視野に入る。
古代の田畑の多くは湿地か扇状地でしょ。
平地は灌漑が大変だから。
扇状地はちょっと掘れば伏流水が出てくるから、
用水を整備するのが簡単。
纏向も纏向川と初瀬川の扇状地。
171 :
168:2012/10/16(火) 23:20:47.93
いやまあ、平野部を抑えた勢力のオウが在地出身である必要はないとは思う。
王権が誕生するには、広くて肥沃な平野部があって、
そこに住む集団の支持が必要というだけで。
初期ヤマト王権の王族たちが、筑紫や吉備などからやって来たというのは妥当な解釈だとは思う。
陸稲は、意外にも相当な水を要求し、夏場の水切れ(地表面の乾燥)を極端に嫌う。
今でも、普通は匍匐性のサツマイモなどと混作する。敢えて雑草を生やす農法すらある。
真正の洪積台地面で作付するのは、かなりの困難を伴うと思うぞ。
地殻変動で、沖積面に半ば埋没しかかったような、低い面なら問題ないけど。
(最初期の稲作地はそんな感じだったはず)
このスレではずっと前から出てるけど、
>>170の言うとおり、巻向のポイントは扇状地だと思う。
それも、小規模で傾斜が緩く、伏流水を得やすいタイプの扇状地。
近畿枢要部(近畿中央低地)と広義の中国地方(西国筋)を、地形上決定的に分けるのが、この扇状地の有無。
本州島は、姫路から西になると、山地がいきなり海に没し、台地も扇状地もなく、いきなり平坦な沖積地になる。
沿岸では、弥生期には確実に海だった。谷底のわずかな平地で稲作は可能だが、
干拓技術が確立する江戸期まで、まとまった農地の獲得は難しかった。これは山陽(吉備・安芸)も山陰(出雲・伯耆)も同じ。
近畿中央低地は、大断層による直線的な崖で切り分けられ、崖の麓が軒並み緩やかな扇状地になっている。
これが、関西の一豪族(=皇室)が、古代日本の覇者となった要因だろうと思われる。
>>172 いやまあ、そんなに稲作に適したマキムクが、何故か弥生時代を通じて振るわず。
終末期に突然大溝が掘られ、石塚王墓が築かれるのをどう考えるかだと思うがな。
畿内の有力なクニであった筈の唐古鍵で、特定首長墓の発展が見られず。
庄内の時に突然マキムク石塚が現れる。
マキムクを稲作の適地だと見抜いた先進地域のリーダー層が、
大挙して移住したのがマキムクではないか?
恐らくは筑紫や吉備、阿波讃播の指導者たちの一部。
モロに寺沢説なんだけどw
その西方からやって来た偉大なオウ、という伝承が、
神武や応神東征伝承として、神話的に繰り返し語られてると思う。
大溝と古墳群が直結するのか疑問があるのなぁ
個人的に大溝は水稲をするために造られたのではないかという気がする
175 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 12:15:56.60
濃尾平野の扇状地、中島遺跡を中心とした尾張平野。
大河木曽川の扇状地。
>>173 百歩譲ってやって来たとしてだ
岡山と徳島、それに対して福岡じゃ全然距離が違うだろ
>>174 しかし庄内の初め、マキムクの最初に大溝が掘削され、
それから石塚が造られるまでに、50年くらい?
余りにも期間が少な過ぎないか?
「王権」という思想が西国から畿内に伝播したと考える方が妥当性があるように思う。
>>176 筑紫を入れたのは、やっぱり鏡を有り難がってるからかな。マキムクで。
寺沢が言ってるように、邪馬台国=大和説なら、筑紫の協力無く、
大陸との交易は不可能だったという判断。
>>177 最初の大溝が、庄内の初めつーよりも、
大溝>大和庄内>大型個人墓と言う順番だと思うけど。
この間が、二世代の出来ごとと言うならそうなのかも知れないが。
何が言いたいのか分からない。
>>173 ちょっと風変わりな問題提起をするんだけど、
「稲作適地としての扇状地」は、アプリオリに争奪戦の対象になった希少な土地資源ではなく、
ある時代に、ある集団により、「農学的適地として、発見されたもの」じゃないか?
というのは、沖積扇状地というのは、近畿以東の日本列島の、
特に中部山岳や東日本の日本海側では、ごくありふれた地形だが、
中四国九州には、ほとんど見られない。特に中国地方には全く無い。
そして、新生代になってからの、かなり激しい新期造山運動がないと形成されにくいので、
古期造山帯の朝鮮半島にもほとんど見られない。同じく造山が古い中華の長江下流域でも珍しい。
西国集団の先住地は、もちろん扇状地を知らないわけだし、
当の奈良盆地でも、例えば唐子鍵の集団は、
まるで、湖に浮かぶアステカ王国首都(現メキシコ市)のような
特異な立地で村落を作っており、巻向とは、農学的思考スタイルがかなり違う。
うーん、どうなんだろ?扇状地とか稲作適地とかは余り詳しくないのでw
ただまあ、あなたの言うように
マキムクが湧き水が多くて、稲作適地が本当なんだとすれば、
別に特別な技術は要らないんじゃない?
私の弥生のイメージは、稲作適地を見つけた人々が、
東方へ数百年かけて漸進していく過程。
弥生末に突然マキムクが稲作適地と発見され、
二世代で王権誕生させるくらいの農耕地を開拓した
なんてのは、流石に幻想だろうと思うがな。
「なんかスゲー稲作向きの場所見つけたんだけど。まだ手つかずの」
とか言って、庄内0に筑備讃播の人々が語らってマキムクに移住。
彼らは土着豪族化し、故郷でやってた古墳祭りをマキムクでも始めた、
みたいな感じですか?
さしずめ初期ヤマト王権は、マキムク開墾プロジェクトだったという。
180です。
俺の仮説イメージは、次のような感じになる。
考古学的な実証研究がされれば、正誤は明らかになる性質の問題だと思う。
(もちろん、間違っている可能性も、俺は全く否定できないけど)
緩い扇状地における水田の開拓には、次のような要素が必要と思われる。
・扇状地に地表水または伏流水を引き込む水利技術
・扇状地面を階段状の水田に仕上げる技術
・その水田の地下に不透水層を作って水を溜める技術
・出来上がった水田に、上から順次水を流下させる灌漑技術
要するに、これは山岳斜面で棚田を作っていく技術と同系統のものなので、
本来は、山岳地帯の斜面に原始的な棚田を作って稲作をやっていた集団が、その技術を転用したと思われる。
奈良盆地の弥生期の遺跡は、唐古鍵が典型であるように、
盆地底部の湿地帯を、そのまま湿地として水田にする形の農法を行っていた。
だが、この農法は、湿田になってしまい、水の管理が難しく生産性があまり高くない。
そこに、棚田技術を持つ、山岳民出身の部族が、(どこかから)やってきて、処女地の扇状地斜面を水田に変えた。
扇状地上の水田は悪水を抜くことができ、生産性が高いので、扇状地上の部族が盆地の政治の主導権を握り、
弥生期には、他の地域と比較してぱっとしなかった、底部の旧部族まで統合するに至った。
扇状地末端湧水を用いて稲作をするのなら分かるが、扇状地上を棚田に?
水はけが良すぎて、稲作に向かないと思うが。
桃の種関連で言えば、菊池川流域の人々を含む集団が、
関西、東海などの人々を徴用して開発した。
巴型銅器が出てくるかだが。
なんかまあ、近藤義郎以降、古墳=首長霊祭祀=王権
みたいな画一的な議論が永らくなされているように思う。
王権の現れの一つとしてマウンドを造るというのは確かにあるだろうが、
古墳が無い=王権が誕生していない、みたいな議論は短絡的ではないか?
例えば、吉備は古墳があるが大型建物は見つかっていない。
逆に大型建物は見つかっているが、古墳が見つかっていない地域もある(伊予みたいに)。
弥生終末期〜古墳時代以降、地域差が無くなっていく
との議論がよくされているが、本当にそうなのか?
もっと長い時間をかけてなされたことではないか?
>>186 なにが言いたいのかわからない。
> 古墳が無い=王権が誕生していない、みたいな議論は短絡的ではないか?
> 大型建物は見つかっているが、古墳が見つかっていない地域もある(伊予みたいに)。
次のように言いたいのか?
「古墳は見つかっていないけど、王権が誕生しているとみられる事例がありますよ。例えば伊予みたいに。
伊予の大型建物は王権が誕生していることを示していますよ。」
> 弥生終末期〜古墳時代以降、地域差が無くなっていくとの議論がよくされているが、本当にそうなのか?
> もっと長い時間をかけてなされたことではないか?
「地域差」とは具体的になんのことなのか示さないと、応えようがない。
そんな議論がほんとうに「よくされている」のか?
推察するに、
いわゆる「定形化した前方後円墳」のひろがりと地域間の連合について議論したいのだろうか?
二三世紀でマウンドが巨大化するのは、高句麗も同じで、
日朝である種の同じムーブメントがあったんだと思う。
恐らくは揚子江由来の神仙思想だし、前方後円形は壺中天を象っているのだろう。
古墳=王権の誕生というのは確かに短絡で、
弥生後期に王権の萌芽があったとする見方が正しいと思う。
弥生後期、共通の祭器や墓制を採用する勢力の団結が見られる。
それが弥生終末期のオウに繋がると見るべきだろう。
一括生産、配布が見られる筑紫の広形銅矛や畿内の見る銅鐸を、
あくまで集落の祭りの段階であるとする寺沢の見方は無理があるよ、やっぱり。
突然、オウが生まれたとかさあ、そんなのは世界の歴史を見ても稀なんであって。
大事な論点の一つに、ヤマト王権が誕生したと思われる時期、
出雲、吉備、越などで大型の墳丘墓が一時的に造られなくなるということ。
この事態をどう捉えたらいいのだろう?
寺沢のように、各地のオウがマキムクに集合して「明治維新」を起こしたからと捉えるか。
福永みたいに、見る銅鐸を共通祭器とした唐古鍵などを中心とした勢力が、
倭王に任じられ、各地に圧力を掛け始めたと捉えるか。
189 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 04:22:24.53
唐古・鍵なんぞ、関西では目立つ遺跡だが、ショボすぎる。
191 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 04:53:46.65
九州で目立つ遺跡や古墳って何?
吉野ヶ里とか?
192 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 07:01:16.69
三雲、井原、平原、須玖岡本、比恵那珂、那珂八幡、中原(唐津)、原の辻、方保田東原などなど
『季刊考古学別冊18』「邪馬台国をめぐる国々」でも嫁
しょぼっ
194 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:20:16.98
弥生の唐子鍵遺跡に匹敵する遺跡は、
九州には無数にあるからな。
無数にあるなら、5〜6こ位簡単に上げてみてよ
196 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:28:02.73
しょぼっ
198 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 09:14:07.10
そのヤマトの母体こそ古代出雲王国らしいよ。
大和朝廷成立の謎っていう本に書いてあった。
唐古鍵の面積を基準にすると、
吉野ヶ里や平塚川添・山の上、室岡、井尻、立明寺、東小田、原の辻、方保田東原、うてな、小野原・下扇原、二子塚などは同じぐらいか、前後する面積がある(やや小さいのを含む)。
三雲・井原は唐古鍵の2倍以上、須玖岡本や比恵那珂は3〜4倍でマキムク級だが?
それがショボいとなると、畿内はもっとショボいことになるよw
面積一覧出してごらん
しょぼっ
202 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 10:04:50.87
>200
自分で調べろw
同一縮尺の平面図並べたらすぐ分かるはずだが。
福岡県の遺跡数は奈良の10倍ちかいからなあ。
佐賀、熊本も数倍あるし、
福岡佐賀熊本は、存在が確認されても、未発掘のところも相当数ある。
調査し切れなくて、マンション建設のような、
確実に遺跡を壊すところ優先で発掘している。
一般家屋は遺跡を壊さないので、記録だけして、
後回し。
畿内周辺なら、弥生遺跡数なら兵庫県が多いだろ。
なんで、そっちを邪馬台国に比定しないの?
弥生中期後半から玄界灘グループで王権が誕生して、かなり強盛だった、
てのは誰もが認めてることだろ。
ただ、弥生終末期に逆転、ていうか、超絶巨大計画的マキムクが生まれてる、
てことが議論の中心なんであって。
特にその時期に画文帯などが畿内を中心に分布し出すのが、
筑紫→大和への転換点を物語っている。
206 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 14:09:00.94
マキムク入りしたのがミマキイリヒコ印恵
追放刑にあってあたまにきてあらぶって
住民の半数を殺戮して疫病のせいにした
所謂これは祟り神のことである
弥生終末期に逆転、というのも怪しいぞ。
逆転があるなら箸墓をまさに造る頃だな。
マキムクの規模は中期末の奴国で達成されているし、鉄器生産の中心は古墳前期前半まで博多にある。
対外交易の主導権もかなり漸移的みたいだし。
日本史研究に最近掲載された下垣氏の論文を読め。
古墳時代初頭頃は、新興国家ができただけでしょ。
さすがに古墳時代中期にもなると相当な勢力になってるけど。
209 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/03(土) 15:15:10.01
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使上表答謝恩詔。
景初3年に女王卑弥呼を認めた魏であるが、その翌年(帰途に同行)
梯儁等は、邪馬台国に倭王位を授ける。
この時点で、九州女王より、畿内邪馬台国の方が魏にとっては、頼りになるということである。
>>207 淡路島の垣内遺跡とかを見る分には弥生末期で全然怪しくない。
弥生末期なら河内や兵庫、阿波の遺跡を無視しちゃダメだな。
丹山もあるのに九州説の人は意図的に知らん顔する人が多い。
212 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 15:34:05.98
その辺が候補になるのは否定しないよ。
奈良よりは前向きな議論になるだろう。
>>211 そいつらに触っちゃだめ。 チョンと一緒で遠の昔に終わったことをいつまでも根に持って、嫌がらせに来ているだけだから。
214 :
207:2012/11/03(土) 23:32:57.46
私は畿内説ですよ。
あと淡路の遺跡、あれは畿内じゃないでしょう。
村上氏の弥生後期までの鍛冶技術が一定ライン以上という山陰播磨阿波のラインにのっています。
大阪湾岸にも鉄器を供給した 可能性は否定しないが、あくまで瀬戸内の鍛冶技術の東限なわけで。
あれが畿内 が逆転した証拠とか、分かってないなあ
村上氏や野島氏の論文著作をよく嫁
今のところ、多数の(900以上)住居跡がある遺跡の規模では、妻木晩田だろう。(まだ、全体の10%程度しか発掘はしていないが)
また、青谷上寺池は、北部九州勢力の進出に対しての凄惨な戦いの跡が残っている。
日本海側は北部九州に対して対抗的であり、一方、瀬戸内やマキムクは、直弧文様の図像の解析すると、中南部九州のほうに類縁性が高い。
216 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 00:38:11.21
>>215 青谷上寺池が、筑紫の進出に対抗して、って何か根拠があって書いてんの?
筑紫が衰退するのは確かに古墳前期以降で、
鉄についてもアドバンテージを維持してるのも事実なんだけどさ。
ただまあ、新しい大陸との交易港である西新町の開発とか、
畿内の庄内カメの受容とか、逆に筑紫の土器がマキムクで殆ど見つからないとか。
畿内の墓制の受容、方形周溝墓や前方後円墳が北部九州で造られるようになるとか。
画文帯が畿内を中心に分布するとか。
明らかに弥生終末期に権力のシフトがあったと思われる。
何故分からないんだろ?
218 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 08:23:09.49
西新町の開発は奴国主導でしょ。
遺跡が大規模化する当初は在地系土器主体という分析がある。
藤崎の最初の首長墓も在地の石棺だし。
画紋帯については、庄内期出土はごくわずか。
ホケノも鉄器の型式や、土器も加飾壺の多様性から言えば庄内3式というのはおかしく、布留0式に下ると思いますがね?
シフトはかなり漸移的ですよ。
庄内期にさえ楽浪土器は畿内に全くないし。伊都国奴国はたくさんあるのに。
>>217 > 筑紫が衰退するのは確かに古墳前期以降で、
> 鉄についてもアドバンテージを維持してるのも事実なんだけどさ。
>
> ただまあ、新しい大陸との交易港である西新町の開発とか、
> 畿内の庄内カメの受容とか、逆に筑紫の土器がマキムクで殆ど見つからないとか。
> 畿内の墓制の受容、方形周溝墓や前方後円墳が北部九州で造られるようになるとか。
> 画文帯が畿内を中心に分布するとか。
>
> 明らかに弥生終末期に権力のシフトがあったと思われる。
>
> 何故分からないんだろ?
筑紫が攻めて来たかは知らないが、青谷上寺地には玄界灘沿岸系石錘がかなり出ているのは確か。
北部九州の海人が交易に関わっているのは認めていいだろうな。
その奴国が、畿内の庄内ガメを受け入れ、
那珂八幡を造り、三角縁を下賜されてるという現実は?
まあ、昔の白石みたいに「ヤマト王権が筑紫の鉄ルートを奪取」
とかは言うつもりはないが。
筑紫は鉄の技術をヤマトに教える代わりに、色々供与されてたんだろう。
>>219 そもそも、遺体に刺さった銅ぞく(北九州系)が残っているだろ。
>220
鉄の技術や、銅鏡を王権の象徴とする思想、都市的な集落設計の思想や技術、段丘上の土木開発技術を筑紫が与えているんじゃないのか?
そうすると、単なる「逆転」ではないんじゃないかと思ったけど。
もちろん畿内による「奪取」なんかじゃないし。
マキムクは筑備播讃阿丹の共立倭政権の計画都市だろ。
それなら漸移的な「逆転」は説明しやすい。
那珂八幡の成立とかは、一度新しい倭王権ができてからのフィードバックと考えたらどうだ?
>221
北部九州系と分かる銅鏃が刺さっているのですか?どのような型式ですか?もしそうなら興味深いですね。
メイドイン北九州って書いてあんじゃね
ヒラバル王墓とか見ても、筑紫の墓制がマキムクのそれに与えた影響は小さそうだが。
マキムクの古墳は、やはり吉備の影響が強くて、
ただ吉備から直接ではなく、
一旦阿波讃岐播磨を経由、変質してマキムクに伝えられたんじゃないか?
平原と楯築が同じくらいの暦年代として、
マキムク石塚って、この2つと何年くらいの間隔が空いてるんだろ?
225 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:15:27.37
淡路島みたいに、隔離された鉄器工房があるところを見ると、
九州との鉄器交易ラインと加工技術を独占した部族が、
畿内にいて、他の勢力よりは優位に立っていただろう。
226 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:23:03.68
淡路の鍛冶工房群が何で畿内のものなのかの説明が全くない。
ああいう鍛冶工房群自体が何で畿内に無いんだ?
あれは、播磨阿波ラインの話でしょ?畿内に製品が流通したとしても、その工房群を畿内がコントロールした証拠が無いw
また性懲りもなくw
あと、ホケノ山の破砕鏡や前期古墳の副葬儀礼の反復性は、確実に平原の系譜影響があるが、
大型内行花文鏡重視というのもそうだ。
副葬儀礼の反復の北部九州からの継続性については、今尾氏が早くから指摘しているよ。
前方後円のコンポーネントの定型は、古いのは徳島になっているはず。
マキムク初期のは、石塚は埋葬主体が発見させておらず、矢塚、勝山、東田大塚は調査していない?
しかし、ホケノ山は埋葬主体が確認されているので、箸墓も多分古墳になるんだろう。
青谷上寺地の銅鏃は、壱岐原の辻と同系列、製造は須玖岡本だろうということですね。
228 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:33:10.23
播磨の西条52号も古いぞ
まあ、マキムクのアレは、
もっと下の底のほうに主体部はある?
戦時中の高射砲が上に設置されていたので主体部は壊された?
墓ではなく聖壇だった?
とか説明されている。
纏向に存在したと思われる政権が、
どのくらいの規模だったのかを話している時に、
安易に「畿内」なんて使わない方がいい。
古代史の在日関西人思想のドグマではある。
日本列島の弥生社会が急速に東方に拡大するに従って、
東西交易の中心、結節点が筑紫→出雲・吉備→大和にシフトしていく、
というのが大きな流れだろう。
東西交易の結節点というと、ヤマトから東海以東への交易が行われたということ?
瀬戸内海を中心とした西日本内とはかなり交易規模に違いがあると思うが。
いや、というか土器の動きを見る限り、マキムクの主要交易先は東海だから。
また弥生後期の東海土器の関東への拡散を見る限り、
倭国内の交易は、東>西で市場が急速に拡大していると見るべきだろう。
あと、万行遺跡の巨大倉庫群。越だけの規模では大き過ぎ、
マキムク王権の息がかかっているのは間違いないだろう。
恐らくは、マキムク王権の最前線の交易拠点と言われている。
弥生終末期以降、ヤマトで王権が生まれたことで
交易路の安全保障がなされ東西交易が活発化した。
弥生文化が希薄だった東方の特需を求めて、
西国の多くの人が進出したのだろう。
236 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 19:48:54.18
纏向のわ まとむく まとむか まとなた くらいにしかよめね 変則の反則読み
東海と交易ってどのくらいの期間よ。
そもそもマキムクの時代なんて非常に短いのに。
東海土器の拡散がマキムクの交易の結果というのも飛躍が大きすぎる。
マキムクには、前方後円型の丘陵を作って祭儀を行う伝統があり、
人々は後に、支配者の古墳作りのための労務者として、全国で労役することになる。
祭祀、神への供物という名目で人や物をめる
ていうのが神権政治の基本だからな。
あと、江戸初期の天下普請のような意味合いもあったかもしれない。
反乱防止とか。
300年の長きにわたって列島各地で古墳が造られ続けるのは、それなりに何らかの理由があったと思う。
一時的な宗教(恐らくは神仙思想)のブームだけでは説明がつかない。
統治する側から見て、何らかの形で役立つ理由がないと。
241 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 06:55:07.32
大規模土木工事技術の習得とかさ。
用水路、灌漑、その他の最新技術を全国に広める研修所の役割。
そうでもなきゃ、あんな手間のかかるものをしょっちゅう作って、誰が
作りにやってくるのか。武力で集めた気配もない。
巨大公共事業って説もあるが。
周濠は溜池になるから、周辺の生産力が一気に上がった可能性もある。
ヤマトも河内も溜池地帯だからな。
242 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 16:45:59.61
マキムクが大和王権の中心地(邪馬台国)であり大和朝廷に直接続くのであれば、
箸墓は卑弥呼の墓であるという記録が残されているはずである。
そうではないということは、マキムクは邪馬台国ではなく、大和朝廷とも
直接はつながらないということだろう。
たくさん発掘しても洞察力が無いと間違った結論が導かれるということ。
243 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 18:12:25.11
>>242 だから倭迹迹日百襲媛命の墓だという伝承があるんでしょう。卑弥呼=ひめみこ、でそれが実名ではないし。
倭迹迹日百襲媛命はたびたび神がかりして崇神天皇の治世に助言を与え、
大物主神という神を夫としていたという女性。
崇神の娘には初代斎宮と記され生涯未婚で天照大神に仕えたという
神女・豊鋤入姫皇女がいて、「トヨ」の名とかぶる。
>>242 > 箸墓は卑弥呼の墓であるという記録が残されているはずである。
いや、直系であることがはっきりしているご先祖さんの墓も記録が失われちゃった人たちなので。
直系といっても継体とかいろいろとごたごたしてから奈良に戻ってるし。
「古墳は語る」を呼んでみたが、石部正志 さんは、
邪馬台国畿内説で、もちろんマキムクが大和政権最初の地、
三角縁神獣鏡は、初期は楽浪郡の辺りで買ってきた鏡、後に国産という説だった。
246 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 21:32:59.45
>>245 残念ながら古墳は語らない。語るのは人間だけ。
>>241 しかしまあ、水はけが良すぎて稲作に向かない扇状地上のマキムクだからな。
むしろ、稲作が不向きではないか長く放置されてて、広大な土地が余っていた。
だからこそ一次産業から切り離された計画都市やら大規模古墳が造れたのではないか?
マキムク大溝は、水はけが良すぎる砂礫部分を掘り進み、粘土層を露出させてたんだろう。
248 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 10:36:31.98
>>243
倭迹迹日百襲媛命の墓だという伝承があるんでしょう
箸墓が卑弥呼の墓であるなら、そこのところで卑弥呼の墓と書かれたはず。
それがわけのわからない倭迹迹日百襲媛命の墓だということにされてしまっている。
すなわち箸墓の本当の被葬者を知られたくなかったということ。
卑弥呼や壹与ではないではないということ。
249 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 12:22:09.23
>>248 244さんも言っているが現在の天皇陵の比定が無茶苦茶なのを見れば
天皇家に先祖の墓の記録など伝わってないことが分かるだろ?
もっと新しい時代の天皇墓すら明治時代に急遽あてはめて
陵墓比定しただけなんだから
250 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 12:23:28.83
>>248 日本側の記録でも卑弥呼という名前だったかは分からないでしょ
たとえば隋書のアメタラシヒコと同じ名前の人物は当時の日本にいないわけだし
倭迹迹日百襲媛命はそれほどわけの分からない記述が行われているわけではない。
記紀の歴史時代の最初の方で皇后以外の女性で
それなりの記述があるのは祭祀に関わった人だけで、その最初の人。
252 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 16:00:48.69
古事記には百襲姫は出てこない。
253 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 17:02:28.29
>>252 出てくるよ。「夜麻登登母母曾毘賣命」表記。
遠の昔に終わった問題を、今頃になって蒸し返そうとか・・・・(笑)
また ケッタイなのがわいてきてますなぁ。
箸墓から伝説のとおり蛇紐の金印が出土したら、倭迹迹日百襲媛命の墓であることは間違いないだろう。
256 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 22:39:24.11
倭迹迹日百襲姫を卑弥呼に比定したのは笠井信也。
もともと築造年代も大きさも形も異なる古墳だった。
要するに、何の根拠もないただの女つながり。
さらに、崇神天皇を男弟に仕立て上げた。弟ではないのに。
>>255 親魏倭王の金印が出たら、どこであろうと卑弥呼の墓に間違いないだろう。
金印って墓に納めるよなものなんかねえ
258 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 10:02:42.29
>>254
とおの昔に終わった問題とのことですが、その経緯を教えてください。
>>257 納めないだろうな
故に何処から出てきても、必ず難癖や妄想するのは出てくる
262 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 16:10:02.62
>>261 倭迹迹日百襲姫を卑弥呼に比定しているようだけど、そこが問題なんだよ。
倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるなら、そしてマキムクが邪馬台国で直接、大和朝廷に
つながっているなら、箸墓は卑弥呼の墓だとはっきりと記すはずだよ。
マキムクが邪馬台国じゃなく、大和朝廷に直接繋がっていないから、箸墓は卑弥呼
の墓じゃないから、倭迹迹日百襲姫という架空の人物の墓ということにしたんだよ。
けれども、とりようによっては卑弥呼の墓かもしれないと想像させる余地を残してね。
>>262 卑弥呼というのは役職名ね。
個人名(おそらく後の時代の贈り名)が倭迹迹日百襲姫
何でそんな初歩的なことで引っかかるのかねえ?
264 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 17:22:06.72
>>262 だから、日本側には卑弥呼という名前での記録がないんだよ
日本側にアメタラシヒコの記録がないのと同じように
まだ大和はマシだよ、他の地域に3世紀の記録なんてあるのかい?
風土記でもなんでもいい、卑弥呼の記録が残る地域があるのかい?
265 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 17:44:21.16
倭迹迹日百襲姫
いと・とび・はく・そ・ひめ
卑弥呼の存在有無には触れないけど
そもそも「ヒミコ」と発音するかどうか不明なんでは?
まず間違いなく「ヒミコ」と発音すんの?
ピミヲ説
>>265 古事記の表記と見比べればそうは読めない
269 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:40:23.24
>>263 >>264 日本書紀では神功皇后を卑弥呼に重ね合わせるように、神功皇后が魏志倭人伝上の
卑弥呼であるかのように記されているよね。
それならば、箸墓は神功皇后の墓であったと記されてもいいのに、そうではない。
それはやっぱり、箸墓は卑弥呼の墓ではないからでしょう。
始祖と言っていい継体のことさえ曖昧なのに、
卑弥呼のこと詳しく記述することなんて無理だろ。
銅鐸とか現在の方が記紀の頃よりはっきりと分かってる事が多いのに。陸墓指定もそう。
>>271 君も 上の
>>270に書いてあるURL見てね。
今まで全然合わないと言われていた古墳の考古年代と、文献年代がほぼ一致しているところ。
最後の年表に書いてある。
あんな愚論読んでる暇はない。
274 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 08:39:13.89
>>270 素晴らしい発見を読ましてもらいました。
なるほど、喪がり期間も在位期間に加えて在位年数が水増しされていたんですね。
すごい発見だと思います。
しかし、日本書紀の編者が単純なミスでそこまで大きな年代のずれを見逃すほど
馬鹿でしょうか?そんな馬鹿ではないでしょう。
やはり意図的に年代をずらすためにもがり期間を在位期間に加えて在位期間を
水増ししたと考える方がよさそうです。
なぜ、そう言うかといえば、最近読んだ本に日本書紀の年代がずらされた意図が
示されていたからです。
275 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 09:06:45.33
その本は「大和朝廷成立の謎」渡部雅史著ですが、「日本書紀時空間操作の法則」
というものが示されています。
「日本書紀の暦年」では応神天皇の治世は西暦270〜310年とされて
いるが、実際の暦年では応神天皇の治世は4世紀後半から5世紀初頭に比定
されている。
この約100年のずれを利用して本来は西暦270年前後に生じた呉の国からの
呉服や呉音の伝来を、4世紀後半から5世紀初頭以降に百済から初めて日本に
伝わったことにしてしまった。というものです。
その目的は呉の国と同盟していた弥生時代最大の国家・古代出雲王国の存在を
消してしまうためだということです。
一度読んでみてください。
ため
276 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 09:13:12.53
270さんはこの大発見を本にされてないですか?
本にされているようでしたら、ぜひ購入したいのですが。
>>274 単純なミスと言うよりは 日本書記を編纂する時代までには 仏教の導入とか、薄墓令とかがあって、
死生観が根底から変わってしまい、そのことに編纂者の思いが至らなかったからではないかと思います。
>>276 べつに本とかにするつもりはありません。もっと詳細に踏み込んで調べる必要もありますし・・・
278 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 00:21:09.56
>>277 本当に興味深いアイデアですね。
あとは、
神功皇后、応神天皇までは程良い年代観になっていると思いますが、
それ以前はまだ少々間延びしてるように思います。
更なるアイデアが必要ではないでしょうか。
いい結果をまた教えてください。
>>278 これまでのように漠然とした年代観ではなく、たとえば倭の五王なんかも
仁徳 → 賛
履中 →
反正 → 珍
允恭 → 済
安康 → 興
雄略 → 武
でほぼきれいに収まります。履中が抜けているのは 遣使の準備をしている間に、
在位2年で死んでしまったからと言うのも想像できます。
同じように安康の1年のずれは使節が出発してすぐに死んでしまったからとも考えられます。
このあたりの年代の精度は±1年程度でしょうか。
日本書紀(帝紀)の数字そのままで、年代が確定している宋書なんかと記述の整合性があり、
しかも考古年代ともそれほど矛盾はないと言うことになると、これまで日本書紀は出鱈目だ
と言われてきたのは なんだったんだと言うことになると思います。
間延びしているとのご指摘は確かにそういう面もあります。垂仁、景行、成務の三代については
再検討が必要です。 が、崇神に関しては即位の年代せいぜい±2年程度ほしか動かせない理由があるのです。
現在の所その理由は”企業秘密”ということでご容赦を。
280 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 00:29:04.36
そうですか。崇神天皇の即位を240年ころと考えるのですね。
僕などは4世紀前半頃と考えていましたから、相当な開きがありますね。
しかし、崇神に関しては即位の年代は240年頃とせざるを得ない理由があるのですね。
その理由を聞けば僕なども納得できるほどのすごい理由なんでしょうか?
>>280 ギェー 日本書紀にはこんなことが書いてあったのか!
そんな凄いことやってたのかというようなの。
282 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 01:10:27.67
え〜、それはぜひ教えてほしい。
卑弥呼の男弟が崇神天皇ってこと?
283 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 08:35:38.77
卑弥呼とモモソヒメをからませたりすると、
物を扱う考古学者からして、
とたんにデンパになってくる。
三国志、魏書、東夷伝、倭人条しか資料がないものはわかりようがない。
そのため三角縁神獣鏡だ、やれ何だといっても、
決定的な資料はない。
かくて、邪馬台国問題は、妄想、デンパのオンパレードとなる。
284 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 10:14:30.32
自国の歴史書と他国の歴史書の記述が合わない
それを考古学でうまくすり合わせる
これがうまくいった例って、諸外国にあるんだろうか?
285 :
sss:2012/12/02(日) 10:35:48.02
以前、都出比呂志は「通常、考古学者は邪馬台国について語らない」と
言っていた。石野博信は「考古学的に邪馬台国は存在しない」と言っていた。
もともと、歴史学の分野である邪馬台国論争に考古学は馴染まない。
しかし、最近は、考古学的には邪馬台国は畿内だ、という声を良く聞く。
考古学者で畿内説でない学者はいないなんて事を言う人もいる。
文献の力を借りずに、弥生時代の遺跡がなんという国かわかったことはない。
古墳が誰の墓かわかったこともない。しかし、畿内説の考古学者には
箸墓が誰の墓か、纏向がなんという国かがわかるらしい。
286 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/02(日) 11:27:18.72
倭の五王は畿内の天皇ではない。
これは九州王朝王権の王たちである。
>>286 反論するならあなたの研究成果をリンクしてくださいね
288 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/02(日) 13:45:38.38
畿内天皇と五王との、そのへんの年代を合わせられた奴は一人もいない。
このことは、倭の五王が畿内の天皇ではない別人だから年代が合わないということである。
また崇神即位が240年代だというのは、若干正確であり評価できる。
崇神即位元年=237年
である。
おかしな荒らしがまぎれこんできましたねぇ。
>もともと、歴史学の分野である邪馬台国論争に考古学は馴染まない。
あーた、記紀には矛が書かれていて銅鐸はない、九州には銅矛がたくさんあるから東遷説っていってたじゃんw
291 :
sss:2012/12/02(日) 21:07:37.08
>>290 そんなことを言った覚えはないが…。
一応言っておくと、素人は何でもOK。
歴史学者が考古学的なことを参考にするのもOK。
考古学者が歴史学的な観点から邪馬台国を論ずるのもOK。
しかし、考古学者が、考古学的には邪馬台国はここだというのはアウト。
ということだと思っている。
>>291 考古学的には邪馬台国はここだという考古学者に「アウト!」という手紙でも書いてもらえんだろうか
ここに書いてもしょうがないので
>>292 ここは邪馬台国スレではないぞ!いつまで 荒らしをするつもりだ。
この ホゲホゲ・ゾンビ・ジジイ共
現在の石野さんは考古学目線で邪馬台国を積極的に語ってるぞ。
最近、考古学の暦年代が大分分かってきてるのに、いつの時代の話やら。
295 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 12:00:05.76
考古学者が積極的に語るのはよくないね。
自分の携わったものをより価値の高いものにしようとするだろうからね。
文献史学だって新資料発見の時はそうだよ。
297 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 12:12:05.01
考古学者の方には是非、逆転の発想をしてもらいたい。
たとえば、「こういう発掘物がでたから、ここは邪馬台国の可能性は
低いですよ。」というのも邪馬台国を発見したのと同じくらい価値が
あると思うのだが。
たとえば、マキムク。大ニュースだ。
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国〔銅鐸祭祀〕も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国〔銅鏡祭祀〕に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死
する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向↑┃ 【神武東征ルート】
...................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で肥後狗奴国
(後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系祖先の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の
首都を筑紫・博多から(先遣隊長ニギハヤヒが拓いた)奈良・纏向へ東遷。大王に即位し、〔道鏡祭祀〕大和朝廷を樹立した。
※古事記・日本書紀が、投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその
姉としたのは、天皇家(♂日向投馬国王♀筑紫邪馬台国女王「台与」夫妻の末裔)の系図操作。
銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)国建国の功績を消され出雲に祀られる。
【大和朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代】
〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂日向(投馬国)系大王
〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王
→(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶への軍事援助で王権強大化
〔後期古墳〕近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王
-継体・安閑・宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→余磐玉穂宮〕
…継体の「大和」入りが河内皇族(筑紫系)の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-欽明〜♀皇極(斉明)=筑紫系大王〔飛鳥板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々皇后に)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-天智・弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益を完全喪失。国費大消耗→「壬申の乱」へ
-天武〜♀考謙(称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京〕
…両系和解の記紀編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」・「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現在=日向系天皇
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都。
オマエら 早く自分の巣穴へ帰れよ。
嫌がられているのが分からないのか?
マキムクは出雲神族が開拓したスサノオ信仰の地
天照大神ですら伊勢に祀らざるを得なかった!
302 :
sss:2012/12/03(月) 22:47:39.93
邪馬台国論争って、江戸時代の文献研究から始まって(それまでは紀編者の「畿内説」しかなかった)。
考古学の進歩で北部九州の先進性が分かり、一気に九州説が台頭。
特に、大陸からの舶載遺物が少なく暦年代を定め難い畿内遺跡で、
倭人伝の「倭国乱」の時期を弥生後期初めの石鏃の大型化に対応させる説(根拠なし)が
主に畿内の学者の定説になり、邪馬台国は弥生後期に収まるというのが有力になった。
で、弥生後期の北部九州なら、邪馬台国に相応しいと。
ただ、その年代観は、当時より、北部九州の舶載遺物と整合性がつかない、
と九州の学者から批判されていたようだが。
近年の考古学の更なる進歩で、それが漸く修正されてきて、邪馬台国の時代が
弥生終末期以降のマキムクの頃というのが優勢となっている。
と、このように、邪馬台国論争に考古学は不可分なんだよ。
考古学抜きで邪馬台国を語るなんて、江戸時代に逆戻りなんであってw
文献がない古代を語る以上、考古学無視は電波と言われても仕方がない。
>>302 だから2chにいるような素人、アマチュア古代史ファンは文献も考古論文も自由に読んでるんだから
お前が考古は役に立たないと考えるなら邪馬台国、卑弥呼が書かれた文献だけ読んどきゃいいし
気に食わない考古学者がいるなら、直接手紙でも書いて抗議でもすりゃいいだろうが
お前が参考にならないと考える学説のことじゃなくて、自分が参考にしてる学説のことを書けよ
>>304 学説もなにも コイツらのはお花畑のウリナラファンタジー満開ニダバッテンタイでゴワスだから。
306 :
sss:2012/12/04(火) 21:03:48.81
>>304 これで最後にしておくが、たとえば吉野ヶ里遺跡。十分に調査されたが、
なんという国なのか全くわからない。時折、彌奴國ではないかという意見も
有るが、何のことはない、ただ倭人伝から名前を借りてきただけの話。
倭人伝がないと国の名前などわからない。これは邪馬台国も同じ。なのに、
倭人伝は信用できない。考古学だけが信用できるなんて話も聞く。
さらにいえば、吉野ヶ里遺跡からは、倭人伝に書かれた「宮室、樓觀、城柵」
の痕跡が出ている。
考古学的には吉野ヶ里遺跡の方が邪馬台国にふさわしいと思える。なのに、
畿内説は纏向が邪馬台国だという。根拠は?と尋ねると、そのうち出てくるとか
言われたりする。ちょっとおかしいんじゃないかな、と。
考古学を物的証拠のように考える人がいるが、実は主観の介入が大きい。
要するに推定する部分ばかりとも言える。
その証拠に、新しい発見があったときに学者の意見を聞くとまさに十人十色、
一人一人意見が異なるのが常。
考古学について言いたいことは年輪年代を含め山ほどあるが、この辺で止めておこう。
>>306 >名前を借りてきただけの話
通常世界中の古代遺跡には〜国という看板はない
>ちょっとおかしいんじゃないかな、と
学者もど素人レベルでも「宮室、樓觀、城柵」だけを見てないからだろ
>新しい発見があったときに学者の意見を聞くとまさに十人十色
当たり前だろ、新しい発見なんだから、考古学に限らない
分野問わず、学者やアマの豊富な知識から、納得できる情報だけ採り入れればいい、素人なんだから誰も強制はしない
古代は文献史料が少なすぎる。だから考古資料も参考にする
初めは地元と近隣が、そのうち西日本、日本全体、中国、朝鮮半島
弥生、古墳だったのが縄文、石器からになる
だんだん遺伝子、民俗、言語、植物、鉱物等々調べるようになる
それでも古代はまだぼんやりとも見えてこない。?が付く情報なら保留にしておく。調べたいことは他に山ほどある
そのころには邪馬台国の比定地なんてどうでもよくなる。その方がおもしろい
くだらないやり取りだから、俺も最後にする
308 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 18:11:04.82
倭人伝どころか記紀も都合よく切り貼りしすぎ。
特にいささが怪しげな倭人伝の評価が高く、
記紀を下げすぎることが、戦後から未だに続いていることが問題。
考古学的な進展からいえば、
稲荷山鉄剣のワカタケル(雄略天皇)銘などでも記紀の
信憑性が高くなっている。
戦後の主流となっているような記紀否定論者の願望に反して。
309 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 22:29:40.28
倭人伝が怪しいとか記紀を下げすぎるとかという問題じゃあないんじゃ
ないかな。
確かに倭人伝も記紀もそれぞれが、全て記述通りに理解しようとしても
無理なところが多々ある。
それはそれぞれが、なんらかの意図を持って故意に曲筆されているからじゃ
ないかな。
その隠された意図を読み解くところがおもしろいんじゃないかな?
邪馬台国の時代から五百年後に書かれた記紀を、
どこまで信用出来るのか?という当たり前の話なんだが。
現在から考えれば、まともな記録もなく、口伝えだけで、戦国時代を覚え書きしたという感じ。
まともな記録がなく口承だから、様々に改変されている。
半ば神話みたいになってしまってるからな。
おそらくは前後関係やらも混乱してて、だから卑弥呼が誰かも伝わっておらず。
紀の編纂者が控え目に神功皇后に比定するという有り様。
各豪族の系図を提出させ破棄、無理やり整合性を持たせようとか、
苦心惨憺して漸く編纂されたのが記紀で、
正確に伝わってたのなら、そんなに苦労する必要はなかった。
311 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 05:53:56.82
その邪馬台国ってのはどの位確証があんの?
卑弥呼にしてもそうだけど
何故、検証不可な魏志倭人伝をそこまで信用出来るの?
すげぇー不思議なんだけど
中国信仰
魏志倭人伝は卑弥呼没後30年〜50年くらいに書かれてて、
支配当事者によって書かれた記紀より客観性も上なので…。
認識そのものを違えた可能性はじゅうぶんあるけど信頼度には雲泥の差がある。
例えば記紀のうち各地の多くの地名を天皇が名付けたことになってるなっているけど、
その各地でも既に相当昔の事で由来を知る者がいないのでそうし得たのだろうと。
記紀記述当時に各地に口承や少々は文字による記録は残っていて、それを無視して
嘘偽を述べることは不可能だったろうけれども、当時既に不明になっていた部分に
記述側に有利な作り話を加えることは可能でメリットがじゅうぶんある。
314 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 11:24:47.24
認識間違ったらそもそも意味ないだろ
>>313 蘇我の持っていた記録は焼かれちゃったけどね。
316 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:16:02.30
>>311 たとえば、
卑弥呼の墓について書かれているのは魏志倭人伝だけ。
径百歩あまり、殉葬者奴婢百人あまり。
なのに、箸墓なんかを卑弥呼の墓にしてしまうから、箸墓の方が
正しいと思い込んで、卑弥呼の墓を巨大前方後円墳にしてしまう。
倭人伝を間違いにしてしまう。畿内説は本末転倒なんだ。
317 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 16:42:43.48
>>316 魏志倭人伝には塚を作るとあるだけで墓の形については何も書かれてないぞ
九州説の奴が勝手に円墳にしているが
奴婢を百人埋めるならそんなに小さい古墳では無理だろ
318 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 16:58:56.63
>>316 だから、自分でも書いてるけど
>>卑弥呼の墓について書かれているのは魏志倭人伝だけ。
検証出来てないんだよ
なのに何でいきなり、古墳の形が分るの?
最初に魏志倭人伝は全く間違ってないってのが前提にあるからなんだよ
箸墓からは埴輪が出ている。
殉葬者がいない、つまり卑弥呼の墓ではない。
320 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:31:33.93
>>319 被葬者がいる古墳からも埴輪は出る
箸墓は前方部と後円部に埴輪が置かれた時期に5〜10年の差がある
後円部には被葬時期に埴輪が置かれたとみられ
その後数年後後円部で祀りが行われ後円部にも置かれたらしい
321 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:34:00.17
>>318 九州説の卑弥呼の墓は円墳だから
前方後円墳の巨大墓・箸墓ではないという主張も
間違いなのに、なぜ畿内説を根拠に挙げる?
結局箸墓が卑弥呼の墓ではない何の証明にもなっていない
322 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:41:28.44
618 :卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 19:57:57.96
おまけに私は倭人伝に書かれているのは日本のことだと前々から言っている。
そこに書かれているのは日本の地理であり日本の風俗なのである、少々南方の資料も混在しているとはいえ。
邪馬台国も大和のことなのである。
ところが後漢時代に倭と呼ばれたのは日本のことではない、と私は言っているのである。
卑弥呼の倭も五王の倭も日本のことではないと主張しているのである。
だから倭人伝の地理や風俗記事をどんなに研究しても無駄ですよ、と言っているのである。
なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。
畿内論者も九州論者も、どんなに記紀その他の文献や考古学を勉強しても無駄である。
百年研究しても無駄である。なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。
>>319 > 埴輪が出ている。殉葬者がいない
「垂仁紀」に出てくる埴輪譚をもとに言ってますね。
殉葬者の代わりなんだから、それは形象埴輪のことです。
箸墓で採集された、特殊器台から発展した円筒状の焼き物を“埴輪”と呼んだのは現代のことであって、
そもそも機能がまったく異なるのなのだから、完全に別物です。
円筒埴輪と殉葬者の有無とはなんの論理的つながりもない。
>>321 逆に聞くが箸墓が卑弥呼の墓って証明でもされてるのか?
325 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 18:11:03.84
>>324 箸墓は卑弥呼の墓として有力だが確定はみていない
というのが正しい。
お前が316で書いたことは明らかに間違い。
箸墓が卑弥呼の墓でないという証拠を出してから316を書け。
326 :
324:2012/12/07(金) 18:27:31.37
>>325 316は俺ではない。
まぁ、畿内説は箸墓を卑弥呼の墓にするため色々ねじ曲げてるような気がする!
考古学的に殉葬は見つかってるの?
328 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 18:57:26.55
>>327 古墳の内部石棺に大事に納められた骨でも残っていないことが多いのに
古墳の外側に生きたまま首だけ出して埋められ
鳥や犬がつつくままに野ざらしにされていた(風葬状態)
遺骨が残ることはまずないよ
329 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 18:58:53.61
>>326 九州説は候補の墓すら見つかっていない
まあ、吉野ヶ里が出てきたときには「幻の邪馬台国!」
と大々的に宣伝して巨額の予算をかけて復元してたものだが
330 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:33:19.06
wikipedia 魏志倭人伝
「卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた」
これが存在する遺跡と規模は、いまのところ吉野ヶ里くらいしかない。
ついでに、倭国大乱とおもわれる戦跡のある遺体もでている。
個人的には、場所が一致してないから、関係の深い別の国だと思うが。
倭人伝の描写と最も一致する遺跡の一つだと言えるだろう。
332 :
サガミハラハラ:2012/12/07(金) 20:55:36.08
まあ条件がわるければ幕末にまいそうされても遺骨はのこりませんからね。
333 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 20:57:39.29
>>317-318 径にどんな意味があるのか知らないのか?
円形・球形などのさしわたしの長さ。直径。(大辞泉)
意味なんか調べる必要はない、箸墓が正しいってか…。
まあ、畿内説らしいな。
ちなみに、魏代の百歩は145m程度。箸墓は280m。大きさも違うな。
箸墓の後円部の径は約150メートル
高さ30mもの塚を造るためには、土を運ぶための緩やかに傾斜した路が必要だね
そして、後で傾斜路の形を整えて祭壇・墓道にするという無駄のない形なわけだね
奥に祭祀スペース(円形・方形)があって、手前にそこに続く参道のようなものがある形は、
柄鏡形敷石住居として、元々縄文時代に中部から関東にかけて存在しているね
神域の入口の鳥居をくぐって、参道を通りながら神前までに心を落ちつかせる日本の神社のつくりや、また茶室にも
日本人の根底にある精神思想の共通性を感じる
卑弥呼の宮室や楼観って、おそらく豪族居館のことだと思うよ。
吉野ヶ里みたいに、庶民と一緒に住んでた環濠集落とは別次元。
337 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 07:03:38.24
>>333 いつまでも魏志倭人伝は正しい間違ってないをやってんじゃなくて
そんなに正しいと思えるなら、立証する方にカジをきった方がいいと思うよ
でないといつまで経っても仮説、妄想の類から抜け出せない
338 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 11:34:56.57
>>337 倭人伝の記述からは、卑弥呼の墓は直径百歩の円墳と考えるのがふつう。
しかし、畿内説は墳長280mの前方後円墳である箸墓を卑弥呼の墓に比定した。
最初から倭人伝の記述を思いっきり無視しておいて、倭人伝は間違っていると
言うのがおかしい。箸墓を卑弥呼の墓にしたのがそもそも間違っているわけで、
こういう方法論を取る限り、倭人伝をいつも無視することになる。
倭人伝が間違っているとの結論が出るのは必然的といえる。
339 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 12:03:39.12
>>338 直系百歩なんて書いてない。
「径百余歩」だ。
意図的に内容をねつ造するな。九州説の馬鹿。
340 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 12:11:03.96
>>338 無視もなにも検証出来ないんだから仕方ないだろ
魏志倭人伝が正しいと言える結果を重ねるしかないと思うよ
あるの?
いや、ていうか、そもそもの話、直径150メートルの円墳なんて日本にないから。
大いに塚を作るだから、巨大古墳のこと。
巨大古墳と言えば日本では大体前方後円墳。
また最近、暦年代が修正され、箸墓築造が三世紀半ばというのが有力になってきてる。
箸墓という確証はないにしても、
卑弥呼の墓が前方後円墳なのはほぼ間違いないと思うがな。
342 :
324:2012/12/08(土) 13:35:18.28
倭人伝が違ってるなら卑弥呼自体も存在してるか怪しいwww
邪馬台国も存在してたのかも怪しいwww
343 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 13:50:00.09
>>341 前方後円墳なら「径百歩余」とか書かないだろう。
形に言及があってもいい。
だいたい倭人伝には、前方後円墳らしきものの記述がない。
勝手に決め付けるようなことをするから、
倭人伝は間違いなんて言わなくてはならないことになる。
>>320 に結論を書いてあるではないか!
前方後円墳と言われるものの基本形は、円墳に祭祀のための土壇を付け足したもの。
したがって 箸墓の基本形は径百余歩の円墳。
土壇(前方部)で祭祀を執り行う形式は、古墳時代のかなり後期になっても存在した(茅原大墓古墳など)。
345 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 14:39:21.66
>>343 だいたい、魏の役人が邪馬台国に来て卑弥呼の墓の形を見て
実測し、計測したわけじゃない。
魏の使者が邪馬台国に来たのは卑弥呼存命中の一回だけ。
径はいくらか、と聞かれて邪馬台国の役人が適当に答えただけだろ。
>>345 × 卑弥呼存命中の一回だけ。
○ 卑弥呼死後数十年たってから一回だけ。
未だに 247年頃に卑弥呼が生きていたとか、かなり恥ずかしいぞ。
347 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 14:53:43.22
魏志倭人伝の解読はスレ違いだから
いい加減該当スレでやってよ
>>343 しかし、倭人伝に「前方後円形と書いてないから」とか言ってもさあ、
実際、日本列島に径百余歩の円墳なんて現存しないんだからw
このあたりは、きちんと認めようよ。
150メートルの円墳が跡形もなく消え去ったとか、
倭人伝だけを頼りに妄想してるの?w
倭人伝原理主義という信仰なら、学問板は相応しくないとは思うw
径百余歩の円墳がないから、短里説とかの苦しい言い訳
(中国では相手にされないような説)を持ち出してた人も過去にはいたが。
そもそも倭人伝を読んで、内容をそのまま信用出来るなら、
邪馬台国論争が江戸時代から現在まで続いてる筈がないんであってさw
倭人伝を無視するつもりはないけど、ある程度考古学との摺り合わせがないと
誰からも相手にされないよ。
まあ考古中心のスレではあろうけど
>>1 にも倭人伝記載の伊都国は書いてるしな
3世紀の纏向遺跡に関するスレで、時折邪馬台国や卑弥呼の墓に話題が及ぶのはいたしかたないだろう
このスレは個人のブログでもないし、日本史板だしな
話題を変えたいなら自分で何かネタを提供すればいいんと思うんだが
352 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 20:28:49.31
だいたい邪馬台国畿内説が間違っているのであって、それを前提にして
魏志倭人伝を読むからおかしなことになる。
倭人伝が間違っているのではなくて、畿内説が間違っているのだよ。
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
其地勢東高西下。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
倭王以天為兄、以日為弟。
氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。
死者斂以棺槨。
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。
度百濟、行至竹島、南望耽羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。
又經十餘國、達於海岸。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也 は自称
卑弥呼の邪馬臺國から350年以上後のことで意図的な偽りが無いとしても
殆ど口承のみでしか残っていない大阪の陣あたりのことを語らせるようなもの。
隋書倭国伝は、当時の倭国が邪馬台国後継と考えてたことを知る貴重な史料だろ。
事実は分からないが、当時の倭人がそう考えてたのは間違いない。
邪馬臺國との断絶を主張したりそう判断されたりが無かったことが知れる貴重な史料だな
マキムクで祭られてたと考えられる神様は誰ですか?
ありがとうございます
八神殿というのは、そうそうたる面々ですね
360 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 07:36:44.79
倭人伝というのは他国の王朝によって書かれた風土記みたいなもの。
他国であるゆえにある程度の客観性はあるが、
またそれゆえにいい加減な伝聞にもとづくものもある。
>>357 縄文以来の日本の蛇信仰、山岳信仰が中国伝来の巫鬼道、神仙思想を取り込んで習合した地でしょう
>>361 巫鬼道って要はシャーマニズムのことでしょ
日本にはもともとなかったの?
363 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 00:03:28.91
>>360 倭人伝はいい加減な伝聞にもとづくものじゃないよ。
末盧国〜伊都国〜奴国〜不弥国の方位は「方位時計まわりのずれの法則」を適用
すれば、ぴたりと一致するし、距離も「旅程距離5倍の法則」を適用すればぴたりと
一致するんだよ。そして、なぜ「方位時計まわりのずれの法則」が生じたかといえば、
「長距離旅程は方位が南の法則」が狗邪韓国〜末盧国間に適用されたから。
狗邪韓国〜末盧国間の方位は実際は東南だけど、長距離旅程であるためにその方位は
南と記された。そのため、末盧国以降の方位も必然的に45度ずらされて記されたんだよ。
倭人伝の狗邪韓国以降の長距離旅程の方位はすべて南と記されてるよね。なぜ長距離旅程の方位はすべて南と記された
か?という理由は・・・「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。
「方位時計まわりのずれの法則」は、帯方郡から松浦までには適用できない。
従って、法則そのものが間違っていると言える。
365 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 17:53:22.61
倭人伝の方位、距離をそのまま取れば海南島あたりに位置する。
魏書にかかれた倭人も南方の風俗を多分に持っている。
その前提でそれらが書かれた、あるいは修正されたという説もなりたつ。
366 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 18:57:47.67
>>長距離旅程は方位が南の法則」が狗邪韓国〜末盧国間に適用されたから。
狗邪韓国〜末盧国間の方位は実際は東南だけど<<
これは間違い。記述で南と書いてあるのは対馬と一大国間だけ。
だから、東南にズレていたとは言えない。
これで、「大和朝廷成立の謎」が方位を改竄して述べてるのであれば、
駄目な本。
>>366 「又南に一海を渡る」とあるから、狗邪韓國〜一大國も「南」。
対馬〜壱岐〜唐津が一直線に並んでいる事実から、
「又一海を渡る」のが同一方向であり、「南」は省略されたことは明白。
368 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 12:36:55.72
>>367 既述には南は一か所、ということは、他の所は分からない。
倭人伝の南は南である。記述は間違いではなく、記述の南を東南に改竄は
出来ないということです。
いい加減な論法で、南という記述を東南に改竄はいけません。
369 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 07:36:00.67
倭人伝を論ずる人間−専門の研究者(考古学者含む)であれ、素人であれ−
自説に都合いいように解釈しすぎ。
当時の日本(倭)らしき国のある地域の政体や風俗を記したもの、
という以上の意味を認めるのは困難。
推測が妄想になる。
仮説を立てるにしては資料が少なすぎる。
倭人伝の行程解釈なんて、皆俺様都合の物しかないからな。
明白とか〜の法則とか言われても苦笑するしかない。
>>368 (「論法」ではなく)対馬〜壱岐〜唐津が東南方向に一直線に並んでいるという事実から、
南という記述は(「改竄」ではなく)間違いだということ。
書いてないから、などというのはそれこそ見苦しい「論法」。
372 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 21:56:31.48
纏向が大和王権の地というのはいいとして、そこから世襲制の天皇となる
家系が誕生していく過程はどのようになっているんだろう。
373 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 15:18:46.56
魏志倭人伝を読んだら分かるけど、
邪馬台国(ヤマト国?)の初代倭王は卑弥呼ではない。
卑弥呼よりも前に男王が続いていたとあり、
魏志倭人伝の作者は、卑弥呼もその前にいた男王たちも
同じ王朝で同族だという風に解釈している。
>>372 巻向は孝霊以後 既に世襲制になってから。
孝昭孝安のあたりが解らない。 詳細はそのうち・・・・・
375 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 08:46:46.84
376 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 19:56:58.09
略倭人伝:
從郡至倭、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海千餘里至對馬國、南渡一海千餘里至一大國、渡一海千餘里至末盧國。
東南陸行五百里到伊都國、東南至奴國百里、東行至不彌國百里、
(南至投馬國水行二十日)←時間的な形容描写の挿入
南至邪馬壹國女王之所都(差引距離は陸行千三百里)
(水行十日、陸行一月)←時間的な形容描写の挿入
自女王国以北其戸数道里可得略載。
自郡至女王国万二千余里。
(始度一海)
この旅の始点はここからである
(南至投馬國水行二十日)←時間的な形容描写の挿入
旅の始点から船二十日で投馬国の港に着く
あえて距離里数を書かないことで、女王国より南にあることを示すものである
(南至邪馬壹國女王之所都水行十日、陸行一月)←時間的な形容描写の挿入
旅の始点から船十日、
そこに船を待たせ、歩いて1月の内陸に、邪馬壹國の女王の都がある
(自郡至女王国万二千余里)
都合合計すれば、郡から女王国まで1万2000余里である
(補足説明)
末盧國から歩いて二千里(約150km)、不彌國からは千三百里(約97.5km)の内陸に女王の都はある
九州でこれに該当する場所はいくつかあるであろう
その中でも北の高千穂(宮崎県高千穂町一帯、いにしえの上高千穂)は最有力候補地の一つである
この町は、天孫降臨にまつわる神話・伝承・史跡に溢れている
女王国以北の山岳陸行ルートに想定されるのは325号線沿いの古道である
途中宿場に想定される沿線上野・田原には多くの古墳も残されている
以上、邪馬台国高千穂説の補足
おまえ正月早々無関係なスレを荒らし回っていないで、はよ棺桶に入っておとなしくしていろ。
孝霊の黒田庵戸宮ってのが唐古鍵のことなら、
欠史八代も意外と大昔からの記憶を正しく伝えてる?
マキムクのトトヒモモソ姫も、木の股から生まれた筈はなく、
孝霊の娘ってことは、唐古鍵に地縁がある巫女だったのかもしれないな。
吉備津彦も孝霊の子だが、マキムクの吉備の影響の強さを考えると、
吉備の支援で唐古鍵の勢力が奈良盆地を支配、
→マキムクに都を造営、みたいな、
現在の考古学で言われてるような説とも整合性が。
>>381 > 孝霊の黒田庵戸宮ってのが唐古鍵のことなら、
唐古鍵そのものではなくて、隣接する宮古・黒田あたりだと思います。嫁はんが磯城(唐古鍵?)の県主の娘だったので”原則として”敵対関係にはなかったと思います。
> 吉備の支援で唐古鍵の勢力が奈良盆地を支配、
> →マキムクに都を造営、みたいな、
巻向を造った勢力は、唐古鍵とは別、と言う結論が既に出ています。それでは どのような勢力が巻向を造ったのかというと・・・・・・
それも解っていますが、今しばらくご猶予をお願いします・・・・・・・
まあ吉備もそのグループの一員ではあります。
唐古鍵がマキムクと別勢力なんて結論、そんなもの出てたっけ?
庄内期に唐古鍵の環濠が再掘削されたとか、そんなくらいしか根拠がなかったような。
田原本町の教育委員会が唐古鍵をマキムクの前身として捉え、
桜井市のそれが否定してるんだっけ、確か。
>>383 巻向からは唐古鍵の土器が一切出ていないんですよ。
追加:
それと、巻向は都市ではない。
基本的には、例の神殿(ちょっとだけバラすと、「瑞殿(みずのみあらか)」)と、箸墓を造るための飯場があるだけ。
唐古鍵の土器って?
X様式が吉備の製造技法を採り入れて、庄内になったんでは?
>>386 巻向では北九州・吉備・河内・阿波・中部・関東系の土器は出ても、すぐ近くの唐古鍵の土器は出土していないと言う意味ね。
うーん
唐古鍵の土器って、そんなにはっきり分かるの?
他の畿内第X様式の土器と比べて「ああ、これは間違いなく唐古鍵の土器だ」とかさw
眉唾っぽいなあ。
マキムクで外来土器が二三割ていうのはよく聞くが、
逆に言えば残りの七割は在地ってことだし。
>>388 私が発掘しているわけではなくて、聞いただけなので、どのように識別しているのかは知りません。
こんど聞いてみます。
唐古鍵の人口は、発掘を担当していた藤田三郎さんによれば「う〜ん、千人いくかな〜?」ということなので、労働人口を半分の500人とみて、
そのうちから、50〜100人とかを長期にわたって供出しつづけるのは無理。
いや、唐古鍵だけでマキムクを造ったとかは流石に言ってないよ。
非常に広範囲の倭国連合みたいなのを想定し、
各地から人と物が集まった
とでも考えないと、マキムクの巨大さは説明出来ない。
ただ、唐古とマキムクの距離の近さ、直線で五キロ
で無関係と考える方が無理があるでしょうと。
で、百襲媛の父親の孝霊が唐古鍵近くに宮を営んでた
という記紀の記述に信憑性が出てくるという話で。
391 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 14:14:23.44
>>387 纏向からは九州の土器はほとんど出ていないんじゃなかったかな。
土器を頼りに連合を言うからには、九州の土器が出ていなくては
困るんだろうが。
しかしまあ、土器くらいしか手掛かりがないというw
九州の土器は外に出ないけど、畿内の土器を受け入れてるから、
マキムク連合に参加してたとしてもおかしくはないだろう。
九州とは逆に、東海は土器を沢山外に出してるが、
外部から土器を余り受け入れてない。
畿内は外にも出すし、受け入れもしてる。
これをどう解釈するか?だけど、
おそらくは東高西低で人口が増加してて、
具体的に言えば、東海が急速に東方に進出して、
倭国社会が東に大きく拡大した。
その結果、筑紫から大和へと政治の中心が移転したと。
単純に、
東海から畿内へ、
畿内から九州へ、
物流があったってことだろ。
特に九州へは、全域から物資が入ってきていたということ。
>>390-392 お正月なので 大サービスでネタばらししますね。
崇神紀七年 「命伊香色雄而以『物部八十手所』作祭神之物」
これは笠縫でのことですが、(たぶん)巻向に引き続いて、笠縫でも『物部八十手所(日本各地の物部系の人々)』を集めて
祭祀に係わる物を造らせた・・・・ということが、いろいろ詮索しなくても、初めから書いてあるのです。
リークはここまで
395 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 18:50:39.38
東海土器ってS字甕(がめ)・パレス壺なぁ。
天孫・尾張物部系の東国への平定か。
>>393 それだと、なんで筑紫が倭国連合の都に選ばれなかったの?
てならないか?例えば西新町とか最適だと思うが。
東海の急速な台頭を抜きにしてマキムクは語れないように思う。
北部九州の庄内式土器は畿内の型式の土器を九州で製作したもの
物資の移動というより人の移動
だな。
昔は搬入土器とか言って物流を想定してたけど、
最近は外来系土器と言って、外部から来た人々が
現地で故郷の土器を作ったことになってる。
399 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 22:58:12.72
西新町遺跡は、近くに鴻臚館があるように、
筑紫の対外交易拠点ですね。
庄内式土器はもとより、朝鮮式土器なども、
多く見つかっているそうです。
また、5世紀中期からとされる須恵器が、
一番最初に見つかっている場所でもあります。
400 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 23:31:58.64
筑紫の首都は大宰府政庁周辺で、いわゆる都府楼跡周辺では、
紀元前から続いているとされる出土物が多く発掘されています。
また、太宰府と同時期からそれ以前には、
現在の香椎付近に、筑紫の拠点があったのではないかと推測されています。
ここは、博多湾の最奥部にあたり、海の中道が近いところです。
この近くを流れる大きめの川を、多々良川と言いますが、
これは製鉄のタタラから来ているそうです。
401 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 11:36:23.26
東海土器(S字甕(がめ)・パレス壺)は尾張で抱え纏向には当然ながら
長野・弘法山古墳や山梨、千葉まで広範囲で出土している。
402 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 21:13:14.34
長野県の弘法山古墳や山梨県の小平沢古墳、千葉県上総・古墳は
共に尾張発祥の前方後方墳で東海土器(S字甕(がめ)・パレス壺)が
出土されているなぁ。
諏訪大明神絵詞などの伝承にある洩矢神と建御名方神の戦いは、いつの時代のことなんだろう?
まあ何と言うか、初代の王とか始祖は輝かしい武勲を立ててから王位に即位する
てのがお定まりであって。
子孫からすれば自分の先祖を出来るだけ飾り立てることで、
自らの血統の高貴さ、王位の正当性を主張するということ。
神武東征伝承はそうして生まれたものだし、スサノヲの八俣大蛇退治やら
吉備津彦の温羅退治、新しい例で言えば徳川吉宗による家康神格化など。
諏訪の伝説も同じ文脈で考えるべきで、
史実と考えるのは余りに安直過ぎるだろ。
諏訪は和田峠の黒曜石のお陰で、かなり新しい時代まで宗教的権威として君臨し、
ヤマトの大王家から危険視され、出雲系のまつろわぬ国津神と同一視されたのだろう。
古代の葛城がサヌカイトで宗教的権威だったのと同じ構造。
マキムク成立期の絵解きをするなら、
おそらくは記紀でいうところの崇神の時に、
吉備から影響を受けたマウンドを造るという新しい宗教が大和にもたらされ、
宗教改革的事態が起きたということだと思う。
画期はやはり卑弥呼が倭王に任命された時で、
それまでにマキムクを中心とした倭国連合に参加してなかった、
出雲や紀伊、諏訪などは国津神とされ、討伐の対象となった歴史があるのだろう。
新体制に乗り遅れた有力者が発言力を失ったということ。
関ヶ原以前と以後で外様か譜代かを峻別した江戸幕府と考え方は同じ。
>>406 それだと隼人はどう解すればいいの?
南九州も倭国連合に参加してたの?
日向三代のこと?
西都原があるし、日向は比較的古くから大和と親密だったと思うが。
新撰姓氏録で天孫にカテゴライズされてるのは、
江戸幕府でいうとどんな感じなのかな?と思って
>>406 へたくそな絵解きやなあ。 まあ全面的に間違っているというわけでもないが。フッフッフッ
>>407-408 この時点では南九州は入ってない。
南九州が入ってくるのは、景行の九州巡幸以降。ちなみに これは景行自身が行ったのではなく、
配下の将軍が行ったという説が良いと思う。そして その残置勢力、たとえば日向襲津彦と言った人たちが
いわゆる日向三代担ったのだと思います。
>>409 日向三代神話がなぜ記紀であれほどのボリュームで語られるか?
は、確かに不思議なんだけど。
記紀編纂当時、隼人の地を服属させることが国家課題だったから、
というのが一つの答えかな。
対隼人の前線基地としての日向が重要視され、
また「隼人も遥か昔は親を同じにする兄弟だった」
と天孫に組み込むことで懐柔しようとしたのだろう。
隼人舞とか服属儀礼を神話で語り、大和の隼人支配を正当化しようとした。
>>411 なぜ蝦夷には同じような手法をとらなかったんだろうか?
記紀で語られる神功三韓征伐の主体が、当時の本当の交戦相手であった高句麗ではなく、
八世紀の敵対国、新羅というのもよく似た説明が出来るだろう。
「新羅王は遥か昔に大和に降伏してる」という話が、当時の支配者層に喜ばれた。
「記紀に書いてるから正しい」みたいなのは思考停止の原理主義、宗教みたいなもので、
記紀編纂時の政治状況などを考慮しつつ、眉に唾をつけて慎重に解釈すべきだろう。
実際、隼人は日向と近隣だし、交易を通じて血縁関係もあったとは思う。
日向神話は隼人と日向の交流の歴史を神話的に物語ったものがベースにあり、
それが記紀に採用された。
日向の物語を取り込んだということは、あえて畿内の伝承を捨てたということ。
それはいかにもやり過ぎと思う。
日向神話と神武東征は、まるで南九州が本家で畿内が分家みたいな話になってる。
本来九州の豪族を畿内出身とするなど相手を持ち上げれば済むだけの話なのに、
逆に皇統の根幹に関わる部分を改ざんして自分らの王をへりくだらせ、天孫より隼人の
血の方が濃いとする。ほどなく隼人を取り込んだ後も、改ざんしたことを忘れ
自らの嘘に騙され続ける。
>>414 別に畿内の伝承を捨てているわけではないが。
イサナミ・イザナギとして根幹に存在しているが、何か問題でも?
>>411-414 おまえら 一見まともそうな論議をしているみたいに見えて、側から見ていると、アホ丸出し。
416 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 17:50:46.46
そういえば、満珠、干珠の話で、
有明海周辺で、豊姫、淀姫、豊玉姫の神社が散在することから、
有明海周辺の伝承と言っている人もいたな。
ついでに、その珠は玉垂宮の神様が譲ったとか。
417 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 17:51:14.59
記紀当時では隼人は蝦夷や熊襲と同一視されるほど落ちぶれた存在。
ヤマトの王権の前身が日向方面にいた時には同根であった、
と書くということはそれなりの根深い伝承がなければならない。
阿多隼人と大隅隼人が畿内に移り住んだことも、
神武東征かかわりが深かったことを窺わせる。
なにより、ただ勇猛果敢でなだけの
赤の他人を親衛隊には任じないだろう。
418 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 17:53:56.08
景行天皇が宮崎で熊襲退治を終えたことからすると、
薩摩、大隅は退治する必要がなかった。
つまり、早めに恭順したってことなのかね?
退治が好きだなオイw
南は土人の巣かよ。
日向三代神話は典型的な話型のオンパレード
国譲りさせられた出雲系の神が全国で祭られ、大和でも祭られ、
越と関東との交通の要所の諏訪にも信濃国一之宮として祭られ
「出雲国造神賀詞」では皇孫の守護神として祭られているという内容まである
日向国一ノ宮は都農神社、御祭神は大己貴命
日向国、大隅国、薩摩国の式内社座数はそれぞれわずか4、5、2座 名神大社もない
いや、勘違いしている輩がいるが、日向はそもそも熊曾国。
そこから大和と親密でなかった地域を、大隅国に分離した。
天皇の徳で、辺境の異民族が恭順、朝貢してきたという体裁を整えるために、
新たに作られた異民族の名称が隼人であって。
そのために大隅国を日向国から分離したのだろう。
>>412>>421 ていうか、鹿児島でも五世紀頃から大和の影響を受けた古墳を造ってる訳で。
墓制=宗教観の共有ってのは神話も共有したってことだろう。
そういった文化的背景がなければ、奈良時代にいきなり「昔は同族だった」
とか言っても通用しないだろう。
東北地方の蝦夷とは大和との関わりの年季が違うというw
日向神話の火闌降命の子孫を称するのは、みんな隼人なのかな?
新撰姓氏録を見る限り、畿内に住んでた氏上は、
坂合部宿祢、坂合部、阿多御手犬養、日下部、二見首、大角隼人、阿多隼人
がいるけど
日本初期にセキレイって鳥が出てくるんだけど
ハクセキレイの事を指してるなら、当時北海道にしか生息してないはずなんだよね
記紀を作る頃にはそれなりに物資の交流はあったんじゃないかな?
しかも、イザナギとイザナミにセックスの仕方を教える大事な役だし
まあ、「日向は、実は宮崎県域とは限らない」と考えることは、十分あり得るんじゃないの?
同様に、「出雲は、実は島根県域とは限らない」と考えることもできる。
日本神話では、日向(天孫の故郷とされる)と出雲(地祇の故郷とされる)は、
緩やかな対となっている。
どちらも、本来は別のところの神話の寄せ集めだったのが、
神話編纂時に、朝廷の机上で、ご指名を受けた、「机上の故郷」とみたほうがいいんじゃないかと思う。
俺の推定では、本来は畿内と東国の異部族の神話が主力となった、被征服民の神話の寄せ集めを、
敢えて逆側の西側に追い出したのが、島根県の出雲。
島根県が指名されたのは、「かつての文化栄えた地」の記憶がかすかに残り、今(奈良時代)は弱小な僻地勢力だから。
他方、この操作を行った上で、奈良盆地や大阪平野において、自部族の出自を誇示することは、
「旧部族の傷に塩を塗る」ことになるから、バランスをとるため、自部族の神話も追い出した先が、宮崎県の日向。
宮崎県が指名されたのは、古くからの畿内と交流があり、安心できる僻地勢力だから。
島根と宮崎は、地政学的ポジションが良く似ている。半孤立で、勢力が自己完結していて、国土軸線から完全に外れている。
427 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 22:44:47.71
428 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 06:09:07.83
机上の空想論なんちゃらは、
戦後の怠惰な学者が津田左右吉の悪しき影響で、
自説に都合の悪いことはすべてそうしただけだから。
考古学的な発掘が進めば進むほど、
空想論者とは真逆な結果が出ている。
ヤマト王権がそんなに遠方まで支配していたのは机上の空論だ、
と念仏を唱えた学者は、稲荷山鉄剣銘が解析されて大慌。
稲の科学的なDNA研究による半島渡来説が否定されても、
未だにこそこそと呟くご老体がいる古代史の学界はレベルが低すぎるし、
誠実ではない。
>>426 ここは神話ファンタジーを垂れ流すスレではないぞ。
>>428>>429 別に、ファンタジーでも全否定でもなく、
神話の示す「地名」と、「日本列島の具体的地理」の関係を、
懐疑的に切断して、「真偽不明レベルまで追い込んだ」だけだよ。
「神話の地理を、鵜呑みにしない考えもあり得る」よ、というだけで、
謎のファンタジーをぶちあげたわけではないし、神話自体を全部ウソだとも、言っていない。
日本人には、奇妙な物神崇拝があって、見えないものは疑うが、見えるものは信じ込む。
目に見えない王統の記述は、操作されてるだろ?と疑うが、目に見える具体的な地理記述は、全く疑わない人が多い。
どんなに出鱈目でも、「こちらの読み違いであって、本当は正確に書いてあるはずだ」と信じて疑わない。
倭人伝の地理記述の出鱈目状態を見れば、一目瞭然であるように、
皇統や皇族貴族の物語と同じくらいには、地理の記述も、十分に疑わしく読むべきと思うのだけどね。
>>430 ここは「巻向スレ」
無関係な話は持ち込まない!よそでやれ
人物の将来を左右するのは度量とおもうけどねえ。。。
西郷信綱が同じようなことを言ってたな。
彼の場合は、東=聖=伊勢と西=穢=出雲という世界観が、
日本神話の根底にあるという。
そういった東西軸が生まれたのはいつか?
と言えば、おそらくはマキムクの頃、倭国連合が誕生した時ではないか?
当時の倭国連合の勢力範囲は西は出雲から東は伊勢までだったということ。
九州は完全には倭国連合に入っていなかった。
崇神紀の時に見える、出雲振根征伐やら、アマテラスを伊勢に祀った記述は、
その頃の記憶が残っていたからだろう。
九州が倭国連合に組み込まれるのは、次代の景行の御世で語られている。
宗教的世界観=前方後円墳の祭りの共有やら、群雄割→拠離合集散の二百年を経て
(崇神、景行、倭建の功績として記紀では神話的に語られている)
四世紀末に倭国は半島に出兵出来る程の強国に成長した。
>>372 卑弥呼が半世紀ほど倭王をやったあと、男王が後継になったが認められずに台代が擁立されたのは、
政権の体制が変わっておらず、相変わらず各勢力の寄り合い所帯だったということだ。
最初の倭王墓が箸墓として、その後の同規模古墳には天皇陵の伝承がない桜井茶臼山とメスリ山がある。
そして佐紀の地へ移動して、また河内へ移動する。
この間は各勢力とその代表者の資質によって、実力者が倭王に推戴されていたんだろう。
河内の倭王墓は古市と百舌鳥に交互に築造されていて、伝承された天皇の系譜は兄弟継承だ。
この間は血統が認められ、各勢力がそのなかから都合のいい御輿をかつぐようになったんじゃないか。
雄略のときに大王に権力を集中させ、継体が政権につくときは前政権と女系でつながる必要があった。
その後ようやく世襲だろ。
世襲制よりも、合議制であることの方が目を引く。> 記紀と倭人伝
>>435 建前上は専制制度でも、それを支える政治組織が合議制であることは多いでしょう。
実際に専制君主の親政が行われるなんて、よっぽどの危急の時期に限られるじゃないのかな?
天皇制は結構後代まで、有力家臣に推戴されるという体裁をとっているからな。
ヤマト王権の中央集権のへの志向は、おそらく高句麗南下に対する国体一致、
大同団結みたいな意味合いから始まって、国内を纏める宗教的権威である女系から、
軍事的指導者である男系への転換期があったのだろう。
雄略〜継体〜聖徳太子の時に中央集権が進み、
最終的に完成させたのが天武持統朝の頃。
ヤマト王権の成立プロセス。
@遠隔地交易の活発化→倭国各地での移住・婚姻を通じた同族化が進む。
A神話や始祖を共有する宗教的連帯がいくつか各地で生まれる。
筑紫、出雲、吉備、丹波、東海、大和+中河内など。
B各地の祭祀王が大王を推戴し倭国連合が成立する。
日本の場合、まず交易が先で、その後にマツリゴト(祭祀政治)を
梃子にして王権が成立していったのではないかと思う。
@〜Aは弥生後期を通じて進展。マキムク建設当初は、まだ大和中河内の都。
庄内の石塚勝山矢塚東田大塚の時代に当たる。
B箸墓の被葬者が倭国の代表=大王に選出される。
出雲のみ祭祀政治が他地域より先行してたのかもね。
畿内はまさにこのスレの時代から始まったという感じ。
軍事については、記紀で息子や嫁のほうが出征が多いのはなんなんだろうね。
王本人の英雄譚がない。
440 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 17:37:36.82
ヤマト王権、連合国家論がはやっているようだが、
邪馬台国=ヤマト王権論者でない人までもが、
邪馬台国=連合国家を投影している。
しかし、歴史上連合体というのは所詮烏合の衆にすぎないので、
すぐに解体する。
邪馬台国もそうだった。
邪馬台国=ヤマト王権はない。
都も点々としているし「ヤマト」王権自体が虚構でしょ。
>>441 オマエのいう「転々としている」都って、なんの都なんだよ。
443 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 19:05:13.57
吉野山の西麓一帯(葛城から御所市周辺)に都を営み東西線の東に天照大神(元伊勢が2つ)。西に伊耶那岐命(淡路島)
三輪山の西麓に都を営み東西線の東に天照大神(元伊勢)。西に伊耶那岐命(淡路島)。
風水を本格的に導入したはずの平城京と平城宮の春日山。
これらはほぼ同じ南北線上に位置。
吉野山、三輪山、春日山ともに霊山。
ヒミコ(葛木高尾張氏出身)の陵墓は巻向ではなく葛木御所市一帯の古墳の一つ。
延喜式には葛木の高天地区がいにしえの高天原と明記。
444 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 19:22:27.65
都(大王/天皇在所の宮居)の東に朝日を神格化した天照大神(異名同神含む)。
西に夕日の神格化した伊耶那岐命/日之少宮(異名同神含む)を奉祭するのが
古代のある時期(風水導入以前)までの不文律だったのかも知れません。
測量専門の役所、日置部も置かれていたようですし
淡路島には伊耶那岐命を祀る所がたくさん有りますがこれが、古代の宮と思しき東西線とよく対比するような場所ばかり。
大王の宮殿が動けば結界している神様も同時に動く理屈。
いかがでしょうか?
レイラインとか日置部とか、まだ推測の域を出ないからな。
ただまあ、古代の日本人が日の出、東の方角を神聖視したのは、
記紀神話とかを見る限りどうやら本当らしい。
昔の聖(日知り)は、東の山のどの地点から日の出があるか?で、
暦を作ってたのだろう。
ゲシノオオダイラとか、観測点が今のマキムクの檜原神社で、
太陽信仰の巫女がそれを司ったと。
揚子江→公孫氏を通じて伝わった神仙思想が倭国に伝わり、
乱反射する鏡=太陽神信仰(土着)と結び付いて生まれたのが前方後円墳の祭り。
伊勢と檜原神社、箸墓、二上山の穴虫峠が同一緯度、ってのは重要だと思う。
これがマキムク王権の時に引かれた世界の東西線だろう、おそらく。
二上山は古くより葬祭に関連深い山で、
アナムシという地名は出雲のオオナムチに通じる。
あとまあ、室町時代の能「三輪」では、三輪神=伊勢神とはっきり書かれてるとか。
伊勢の巫女が蛇のウロコだらけになったとかいう伝承など、
伊勢のアマテラスは元々三輪のヘビ神という言い伝えがかなり後世まで伝わっていたのだろう。
447 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 07:26:09.39
時系列を無視すればどんな妄説でも可能。
>>446 > 檜原神社、箸墓が同一緯度
ねえよ。
いやまあ、伝承の類なんで、嫌う人は嫌うんだろうね。
特に考古学至上主義の人は、邪馬台国やら記紀の記述を毛嫌いする傾向がある。
伝承には事実もあり嘘もある
記紀のような国家的史書編纂事業には、政権内勢力図が影響する
考古は事実の一部分が残っているだけ
どれも客観的な観察力が必要
451 :
ローガン:2013/01/22(火) 23:55:48.57
>>449 考古学上の解釈に、文献を使うのは常套手段では?
例えば天稚彦の話と殯とか…
>>449 記紀とかを毛嫌いしてる訳じゃないよ、
極端に偏った質問しかしない連中を嫌ってるだけだから。
連合王権、連合王権っていうけど、
中央集権と連合王権を明確に区別するものはない。
いかなる中央集権も連合王権的であるし
また、いかなる連合王権も中央集権的である。
それこそ、明治維新まで、日本は連合王権だったともいえる。
倭王権を語る時の「ゆるやかな連合」ってのは、
マキムクを軍事的覇権、日本全体を包摂するような超絶巨大王権
として認識してるような一部東遷説とかの人に対するアンチテーゼだと思うよ。
大和にしろ吉備にしろ、後世の郡レベルのクニの首長連合で、
それらが更に団結するのは4〜6世紀にかけて。
>>449 伝承もいいが、せめて、言語学的な知見に基づく処理をしてから、比較してくれよ。
オホナムチだから、有坂法則でホの母音は潜在的乙として、 öpö namuti
同法則により、オホとナムチは、本来は別の単語。
「オホナモチ」という別名もあり「持」という字も充てられる、これは四段動詞だから、
namoti(oは潜在的甲)という音韻変化もあり、チの母音は甲であって、tiであって tï ではない。
他方、穴虫はそのまま読むとして、anamuchi が森推定音。
最低でも、ここまで処理してから、比較してくれ。
特にアマチュアの神話好きは、遺物より考古学より、言語学的な知見を無視しすぎだ。
出鱈目な語呂合わせに終始して、悦に入っている奴らがたくさんいる。
「『神』の語源は、「火(か)」と「水(み)である。だから、神前に水を供え、火を起こすことで、神は降臨する」
と主張している風水師がいる。言語学的にはギャグでしかないが、広義の宗教家なら、許されるのだろう。
だが、いやしくも歴史を考察するのなら、こんなオカルトはいけない。
>>455 甲類と乙類のちがいについては、現在でも方言として残っているのではないか?と言う疑問があるわけですが・・・・・・・
この辺りの事については、言語学はどう考えているんでしょう?
たとえば、名古屋人が「ミャーミャー」いっているのはよく知られているが、奈良を基準として東ではなく、逆に同じくらい西に行った播州でも同じように「ミャーミャー」言っている。
これは 古代の「乙類の ミ、メ」の発音が「ミャ、メェ」とかで どうしんえんじょうにざんぞんしているとはかんがえられないのでしょうか?
もう一つ例を挙げると、栃木辺りの発音では「木」の音韻は「ki」ではなく、「zhi」に近い鋭い発音になる。これも「乙類 キ」の残存形ではないのか?
上代特殊仮名遣と残存する方言の関係とかは、言語学とかではどのように考えているのかお聞きしたい。
>>456 そのレベルだったのか…
そのレベルの話は、完全に解決しているよ。つうか、高校生向けの学習古語辞典の巻末付録に掲載されるレベルw
「エァ」æという母音は、連母音aiが融合した、近畿以外の方言では、広く見られるもので、
名古屋や岡山に限らず、東北の広い範囲でも、静岡でも見られるものだった。
この融合は、江戸時代になってから起きたもので、東北・東関東方言の母音体系に強い影響を与えている。
名古屋弁のように、母音の長短がハッキリしない東北方面では、
æを短母音として受け入れたため、eとoが、それぞれiとuに近づいてしまい、
行き場を失ったiとuが、中舌になって微妙に隣接するようになった。これがいわゆるズーズー弁の母音だ。
そもそも、8世紀の日本語の和語は、母音連続を持っておらず、母音が繋がるのは漢字音だけだった。
漢字語以外の母音連続は、1020年頃に、語中のハ行の子音が弱くなり、φ(ファフィフフェフォの子音)から、
wに変わり、wがさらに脱落して生まれている。(単語1つだけ例外があるが、それはここでは問題ではないだろう)
これは、歴史的仮名遣いの「読み方」を思い出せば、一目瞭然だわな。
日本語の文献から推測される、歴史上の音韻変化だけで、そのレベルの疑問は、簡単に解決できる。
>>457 なんも解決しとらんや無いか!
文献から推測なんかしたとかいって、どっかに書いてある事を並べ立てているだけ。
こいつ アホ
>>458 日本語史の確定的通説を、単に書いただけで、アホと言われても困るんだけど…
これは、ほぼ確定的な通説。だから、普通の教科書に乗ってる。
どっかに書いてあることなのは、むしろ当然。
「伝承でも地名でも記紀でも、言葉をいじるなら、日本語史の通説くらいは、前提にしておいてね」
というだけの話だよ。特にこれ以上言うことはない。
今の東北方言の「キ」の発音は、「エァ」の出現で調音点が移動し、中舌化した「イ」において、
「ク」との弁別を確保するため、子音の口蓋化がより激しくなったもの。
サ行の口蓋化が不徹底な東日本方言の伝統を引き継ぎ、口蓋化が起きなかったサ行では、シとスは合流してしまった。
>>459 > 伝承でも地名でも記紀でも、言葉をいじるなら、
言葉をいじっているのは DQNな。このスレにはいない。 まともな歴史研究者とDQNの区別ぐらいは付けような。
> サ行の口蓋化が不徹底な東日本方言の伝統を引き継ぎ、
サ行の口蓋化が不徹底な・・・とか言うのは言語学の狭い領域での問題。
東日本方言の伝統を引き継ぎ・・・・何故そのような伝統の差異・地域差が存在するのかを考えるのが歴史学の問題。
まあ これまでこのスレには言語学とかの方面の住人はいなかったので、言っている内容はともかくとして、面白いのは面白い。
461 :
ローガン:2013/01/24(木) 18:25:23.76
>>457 >ファフィフフェフォ
ははには二たびあひたれどもちちには一度もあはず ですなあ。
462 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 18:45:31.91
だから・・・・・
歴史は捏造ありきだと。
今ある文献・古文書(これも、多分に捏造もある)
しかし、歴史は今ある時の権力者の捏造しか手に入らないんだ!君もだ!
真言宗もしかりだ、空海が女人と交わるなとか、殺生はダメだと古文書に載ってるが、
いまでは、「有り難く頂け」と変わってきてるんだ。
僧侶も、SEXすれば、肉も喰う。・・・・歴史は今のいる我々に問い掛けてるんだよ。
好きなように生きろとね!
現天皇も過去の天皇陵の墓から骨を掘り起こし、
DNA鑑定すれば、捏造の歴史とわかるはずだが? 歴史学者も手を出せない。
勝てば官軍の古文書しかないのが残念だ!
>>443 卑弥呼ことモモソ媛命の墓は箸墓古墳で三輪山の麓の纏向遺跡にあるけど、
モモソ媛命の11代前の先祖に当たるオシホミミ命は
現在の御所市高天地区周辺に当たる高天に居を構える豪族だった。
もともと、ヤマト朝廷の先祖は、御所市高天の高天原の豪族。
この周辺には、賀茂氏の発祥地である高鴨など
ヤマト朝廷の親藩や譜代の豪族たちの発祥地が集結している。
ここから、ヤマト朝廷は発祥した。
その後、出雲国譲りを達成し、ヤマト朝廷の先祖の全国支配が確立すると
首都をもっと開けたちに移した。
それが高天のやや北側にある高尾張というところで、
ここは後に葛城と言われたところだった。
ヤマト朝廷の本流は、本来はここの王権だttった。
そこから分派して、三輪山の麓の山処(ヤマト)に居を構えたのが
卑弥呼の王権。ヤマト朝廷と言う名前は、この三輪山の麓の地名からきている。
その前の高尾張王権は、オシホミミ命の嫡男のホアカリ命の男系子孫であり
これらが出雲国譲りを達成した正統な近畿王権だった。
このホアカリ命の兄弟にニニギ命がおり、この皇子は九州高千穂の地方官になっていた。
このニニギ命こそ、現在のヤマト朝廷の祖先であり、
ニニギ命の曾孫がワカミケヌ命であり、後のイワレ彦、神武天皇である。
このイワレ彦の7代後の子孫が、モモソ媛命、卑弥呼のことである。
>>455 まあ確かに、穴虫という地名がどこまで遡れるか?という問題はあるよな。
ただまあ、穴虫、大穴牟遅を比較する時は、虫と牟遅ではなく、穴に着目した方がいいと思う。
穴虫っていう地名は穴帥と類似、山と関連が深い。
出雲の鉱山労働者を考えると興味深い。
で、穴ってのは黄泉への入り口という宗教観が古代倭人にはあって。
西の方角に、死者の国に通じる巨大な穴がぽっかり空いていると。
マキムクの時に後に続くの宗教観が創造されたというのは、通りがいいと思うがな。
東=聖、西=穢という東西線が引かれた。
崇神が東の墨坂と西の大坂に楯と矛を奉ったという伝承がそれ。
>>463 古代の奈良盆地には2つのクニがあって、大和と葛城と呼ばれた。
大和は別名磯城嶋とも呼ばれ、葛城は秋津嶋と呼ばれた。
そのどちらもが倭国全体を指す言葉になったことからも、
倭王権ってのが大和と葛城の連合によって成立したことを物語っている。
奈良盆地で最初に力を持ったのは葛城の方で、サヌカイトを押さえていたのが大きい。
その後、奈良盆地の中央部、低湿地帯が開墾されていくにつれて、
三輪山の麓の大和(山処)が力を持ってくる。
で、葛城と大和は主導権争いをして、
葛城側についたのが、東海、紀伊。
大和側についたのが、近江、丹波、河内、吉備など。
最終的に葛城側が屈服するのだが、
応神の時に力を回復。外征に活躍することでだろう。
雄略以降、対立し、葛城の首長たちが次々に滅されていく。
>>466 というよりも、もともと出雲国譲りをさせた正統な近畿王権は
葛城山の麓の高尾張王権(葛城王権)だったけど、
そこから分派したのが、三輪山の麓の麓のヤマト王権。
両方とも先祖は、高天山の麓の高天に居を構える豪族だった
オシホミミ命の子孫である。
オシホミミ命の皇子のうち、嫡男のホアカリ命の男系子孫が高尾張王権
庶子のニニギ命の男系子孫がヤマト王権。
そして、このニニギ命の男系子孫たちは、宗家である高尾張王権の命令で
一時期は九州高千穂や吉備などの地方官を歴任していたこともあった。
その中で、高尾張王権の櫛玉(御落胤)をなのってクーデーターを起こした
ニギハヤヒ命を討伐するのに貢献したワカミケヌ命が
再び近畿本国で、高尾張王権の執権として権力を振るようになり
やがて宗家をだしぬいて、自らが正統な倭王になった。
それが、モモソ媛命。
>>467 葛城地方でも、権力層は絶えず変わっている。
欠史八代中頃以前は、葛城地方が倭国の中心地で
そこで大倭王と君臨していたのが、ホアカリ命の男系子孫たち。
しかし、かれらは倭国大乱で、ニニギ命の男系子孫(後の神武皇統)にやぶれ
名古屋地方などに追放される。
その後、この葛城地方の統治をまかされたのが
ニニギ命の男系子孫で、臣籍降下した武内スクネの男系子孫たち。
葛城氏であったり、その分家の蘇我氏だったりする。
いやまあ、何と言うか、記紀の記述に引っ張られ過ぎてるんじゃない?
そもそも日本書紀を編纂する前に有力氏族から系図を差し出させ、
天皇家に都合の悪い系図を抹消させたくらいだから。
果たしてどこまで真実を伝えているかは甚だ疑問だな。
弥生後期の首長たちは遠隔地交易の活発化による
地域間競争に勝ち抜くため、連合する必要にかられた。
そのため、共通の始祖を作り、直接血縁のない擬制的な氏族関係、
いわゆるクランを作ったのだと思う。
そういった同族化が繰り返され、最終的に大和王権に至る。
欠史八代の天皇、大彦、彦坐王、吉備津彦、武内宿禰などは
一定地域の豪族たちが結集する時に造られた「共通の始祖たち」の残滓だろう。
隼人が海幸山幸神話で大和朝廷に組み込まれたのと同じ。
地域内競争に勝つためでもあったみたいだぜ。> 連合
近くに勝つために遠くと結ぶのは基本だし。
472 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 20:59:12.56
連合とかいうけど
徳川幕藩体制みたいなもんだろう?
>>470 >欠史八代の天皇、大彦、彦坐王、吉備津彦、武内宿禰などは
>一定地域の豪族たちが結集する時に造られた「共通の始祖たち」の残滓だろう。
そんなおこといったら、記紀編纂時に権力者だった藤原氏の先祖が
記紀では中途半端な存在で描かれているのかな?
葛城蘇我は古いだろうな、勿論物部も。
474 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 12:52:34.40
>>473 古いといっても、西暦4世紀以降ぐらいだろう?
葛城氏と蘇我氏は武内スクネの末裔だから。
物部氏に関しては、崇神時代くらいから、もうちょっと古い。
>>472 不比等は権力者だったのは事実だが、別に最高権力者だった訳ではない。
当時は皇親政治真っ只中。
そう考えれば、中臣関連のタケミカヅチや天児屋命は十分に活躍してるよ。
476 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 07:03:37.09
最高権力者だろが
記のヤマトトモモソヒメと、
紀のヤマトトヒモモソヒメでは、前者の方が古い伝承である。
箸なんぞ使うのは7世紀からだし。
その箸じゃないw
箸=土師なんでしょうか?やっぱり。
しかしまあ昔から言われてる丹塗矢神話と類似してて、
何らかの原型の神話はあったんだろうとは思う。
最初は箸ではなく、他の棒状の何かだったのを、
後世、ハシの墓からの連想で箸に改変された、と。
丹塗矢型神話は普通の場合、神妻が神と交接して子が生まれるという、
神話上の始祖の来歴を語る話になる。
しかし三輪山の場合、結果は悲劇的、神妻は死に至り、
神の子は生まれない。
三輪山祭祀に三輪氏が関わるようになった時に作られた神話だろう。
日本古来からの巫女製造法というのがあって、
幼少期の少女(未通女)を強引に張形で破瓜させることで精神に異常をきたさせ、
気が狂って口走る言葉を神の声として聞いたのだろう。
アポロン神殿の巫女が火山ガスを吸わされて口走る言葉を
神の声として聞いたギリシア人と同じ。
481 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 08:48:10.82
472 :日本@名無史さん:2013/01/25(金) 20:59:12.56
連合とかいうけど
徳川幕藩体制みたいなもんだろう?
そう、ヤマト王権は徳川の体制とよく似ている。
幕藩体制を連合といえないように、
ヤマト王権も連合ではない。
連合論の人は邪馬台国体制を被せているだけ。
482 :
水銀厨:2013/01/31(木) 09:09:02.15
箸で云々というのは後年の脚色でしょう。
恥と箸とも引っ掛けてあるように、あまり媛と
大物主を称える内容ではない感があります。
三輪神が小さな蛇だった、男性の象徴を小物扱いしてますよね。
ハシとはやはり異世界を繋ぐという意味が妥当でしょう。
間人(ハシヒト)、聖徳太子の母もそうです。
橋も対岸を繋ぐ物ですからね。
後代のほうが、いろいろな素材を持ち寄って面白い物語を作れる。
スサノウやオオクニヌシの勇壮な英雄譚なぞ、出雲風土記では素直なもんだ。
484 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 16:26:51.19
豪族の出自を、天孫地祇と区別するあたりは
徳川幕府が、諸大名を親藩譜代外様と区別したのに似ている。
485 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 16:31:29.63
>>479 箸といっても、食事に使う箸と、神事に使う箸があってだな、
どちらも全く別物だが、日本では、どちらもハシと呼ぶようになったので
多くの誤解がある。
箸墓古墳の名前に由来になったハシとは、後者の神事に使うときのハシであり
普通にこの時代からあるもの。
>>485 もとは古代中国だからいずれも箸だろう。
実際に普通に使っていたなんぞ空想でしかない。
神事に使う箸が、そんなに昔から使われてたとする根拠は?
卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/130202/art13020213480002-n1.htm 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した時期にあたる
3世紀前半の小型建物の柱穴が100個以上見つかり、市教委が1日、発表した。約60平方メートルの狭いエリアに集中し、
小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。遺跡の中心部で柱穴が集中して確認されたのは初めてで、専門家は
「年に数回、卑弥呼が特別に執り行った祭祀(さいし)用の建物跡ではないか」とみている。
市教委は過去の調査を踏まえ、遺跡の中心部は、卑弥呼の宮殿とも指摘される3世紀前半の大型建物を含む4棟の建物が
東西に並んでいたと推定。今回、昭和53年に柱穴の一部が確認されていた最も西側の建物の推定地を調査し、この建物に
関連する柱穴は確認されなかったが、周辺で直径10〜60センチの柱穴を100個以上確認した。
市教委によると、建物群の入り口にあたるとみられ、「特別な空間」として利用された可能性が高いという。古代祭祀に詳しい
辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が年に数回、食物の収穫を感謝する祭祀のたびに建てられ、祭祀後に取り
壊された複数の小型建物の痕跡ではないか」と推測している。
一方、今回の調査では、4世紀中頃に整備された豪族居館の周濠(しゅうごう)跡の一部も確認された。過去の調査を踏まえ、
周濠の規模は東西約65メートル、南北約54メートル、幅は最大5・8メートル、深さ最大60センチ以上と判明した。
市教委は「3世紀の宮殿エリアを囲むような周濠で、この周辺のエリアが、世紀をまたいで政治や祭祀の神聖な土地として
利用されていたのではないか」とみている。
現地説明会は3日午前10時から。JR桜井線巻向駅の西方徒歩約5分。
ttp://sankei.jp.msn.com/images/news/130202/art13020213480002-p1.jpg 宮殿エリア西側で出土した100個以上の柱穴群=奈良県桜井市の纒向遺跡
素直に原ヤマト王権、崇神の時代の遺構にしておけば良いのである。
紀では卑弥呼を神功の時代にしているが、後に女帝的な存在はあったので、それと関連づけることとなった。
491 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 07:59:21.21
マスゴミなんてのいうのは、
何でも卑弥呼、邪馬台国にすれば注目を浴びると思っているだけではないかな。
銅鏡にしろ土器編年にしろ、諸説紛々として、
魏志倭人伝しか確実な資料がないのに、
纒向=邪馬台国論者の妄想は甚だしいものがある。
資料が少ない古代史の場合、素人も研究者も妄想に走りすぎ。
産廃ゴミと産ケイゴミには困ったもんだ
卑弥呼に囚われ続ける限り、日本の考古学は次のステージに進めないだろう…
おおかたその柱の先に処刑した人間の生首でも晒したんだろ
我が家の近くにも江戸時代の首晒し棚と伝える場所が残ってるわ
しかし邪馬台国・卑弥呼、狗奴国・卑弥弓呼はどこかに存在したのだ
魏志倭人伝の中には存在するよ
実世界にいたかはわからないけど
>>491 いや、魏志倭人伝自体が確実な資料じゃないだろ
倭人伝が一級史料なのは間違いないが、
倭人伝だけでは「三世紀に存在していた邪馬台国やら」については分からない。
最近の考古学の進展で、マキムクかヒラバルの二者択一に漸くなったようには思う。
文献に関して言えば、考古学は文献を補完するものでしかない。
補完できるか、できないか。それだけにとどまる。
それにしても、柱の穴で邪馬台国が進展と言えるかどうか
世の中、宣伝、結果も大事だから
何も見つかりませんよりはマシだな
今回の件が邪馬台国に結びついてるか否かは別として
502 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:16:19.39
>>496 邪馬台国・卑弥呼、狗奴国・卑弥弓呼は同族だろう!?
503 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:32:23.38
>>502 其國本亦以男子爲王 住七八十年倭國亂
「相攻伐」歴年 乃「共立」一女子爲王
「相攻伐」
「共立」
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩狥葬者奴婢百餘人
更立男王國中不服 更「相誅殺」 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王國中遂定
「相誅殺」
「相」のベースは「相対死」みたいな 一対一の2者関係なのね
王家が2つに割れていたりしていて、もめごと収さまったのでも 「共立」 だよね
卑弥呼と卑弥弓呼ってその字面から近縁性を主張する人もいるけど根拠ないよね。
卑弥呼にしろ、邪馬台国にしろ、当時の中国の人の当て字じゃないの
朝日の特集に寺澤の近景が出てたね。
じっ様になったな、全くの別人に見える。
変に権威化して、自説に固執して、批判を認めず、妙に守りに入ってる気がしますね。
509 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:54:09.60
>>488 もう卑弥呼の名前だすのやめるべき。恥ずかしいから。
纏向は纏向。
これはマスコミが悪いのか、市の発表が悪いのか?
でも桜井市さんは市長からして、「卑弥呼の里」で売り出そうとしているから両方かな?
現場の人間は、本当は困惑していると思うけど。
お前らが悪い。2スレ前まではノリノリだったじゃないか。
512 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 17:42:58.63
2チャンのせいにするなよ(藁)
予算も絡むんだからそうもいかんだろ
又、R4みたいなのに仕分けされんとも限らん
何かアピールは続けないと
514 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:14:52.33
考古学者の先生からしたら、純粋にアカデミックの場だと
邪馬台国は専門外になるよ。
ただし、多くの考古学者の先生は、纏向遺跡=邪馬台国だろうなとは
推測している。
だから、桜井市の宣伝に関しては、自分たちは関係ないと言いながら
内心は、別にそれでかまわないと思っている。
あわよくば予算のむにゃむにゃぐー
516 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:30:56.68
考古学で遺跡の国名がわかるのなら、全部教えて欲しいものだ。
結局、文献から拝借できるものしかわからない。文献の記述のないものなんて
全くわからない。それが考古学。
517 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:35:48.36
よく考古学と歴史学は別物だと考古学者の先生は言う。
しかしながら、その考古学者の先生が、何を頼りに
発掘調査しているのかというと、記紀などの文献をもとに発掘調査している。
纏向遺跡の調査も、結局は日本書紀などの記述をもとに調査しているわけ。
纏向遺跡とかいう名前なんて、もろ日本書紀の記述からの拝借。
>>514 実際、考古学の先生に話を聞いたら、かなり温度差を感じる。
暦年代は専門外と、邪馬台国の話をしたがらない人が多い。
素人からすれば逃げてるように見えるのだが。
519 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:43:26.25
逃げてない人も少なくないですよ
520 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:44:43.05
>>518 それが、純粋な学者としての正しい立場。
逆に言えば、これまでの考古学者の先生の知識では
ほとんど限界があるということ。
彼らが分かることって限られてくるわけで。
>>518 その素人やらがウゼェーからじゃね?
やれ、南の敵国の記述とあってないとか、風俗がとか
魏志倭人伝自体が検証出来てない事をたなに置いて
正直、そんなジジィー誰でも相手にしたくないと思うわ
まぁ考古学者の人々が邪馬台国に関して無関心を装ってるのは
発言が勝手に解釈されて他に流用されるのを嫌う為ですね。
内心は勿論興味あるのは当然です。
私も一応色々立場上発掘現場に立ち会った経験ありますが、
現場では口に出さないだけですね。
524 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:15:56.43
考古学者の先生は、あくまでも考古学の専門家であって、
文献史学の専門家でもなければ、植物学などの理系の専門家でもない。
しかしながら、考古学という学問は、これらの学問とは深くかかわってくる学問。
でも、考古学の先生の知識は、あくまでも考古学に偏るので
そこから導き出される歴史や農耕などに対する考え方は、
おそらく、かなりずれたものになっていると思われる。
525 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:26:23.84
526 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:23:53.75
魏志倭人伝について知らない考古学者は、邪馬台国のことも全く知らないと
思う。邪馬台国は歴史学の範疇であって、考古学的には邪馬台国は存在しない。
>>520 しかしまあ、倭人伝しか同時代の文献史料が無い現状では、
考古学に軸足を置かないと仕方がないわけで。
八世紀の文献で三世紀を語ろうというのは宗教か電波だろw
記紀にも面白い記述はあるにはあるが、あくまで500年後の文献であることを肝に銘じるべき。
まともな文献がなく、語り部が伝えた口承ていうのは、
文学的価値はあっても、それ以上ではない。
後世の改変が入り過ぎている。
安易に史実を見るバカ(ホアカリ馬鹿とか)は学問板には相応しくない。
纏向の近くのどこかに数千戸くらいの居住区跡が埋まっているかも
邪馬台国の都
>>528 マキムクってのはそれまでの弥生由来の環濠集落とかとは一線を画してるんであってさ。
マキムクのオウは吉野ヶ里とかの首長とかとは違って、
民衆とは隔絶した場所、後世の豪族居館みたいな所に住んでたんだよ。
周りを兵士に守られて。
今回見つかった柱跡とかがその痕跡だろう。
では一般の民衆たちはどこに住んでたのかというと、
奈良盆地の衛星集落がそれ。
マキムクの誕生で環濠を埋め立てたのは、マキムクという宗教的権威が生まれたから、
環濠=集団の象徴が必要なくなったから。
マキムクを掘ってもせいぜい、仮設テント跡程度しか見つからないだろう。
>>525 これ見逃したんだよね、おかげでなかなか面白かったわ。
ま、NHKの台本には注文あるな、
魏王朝のお気に入りが邪馬台国と女王であって、それは魏人の心のふるさとのひとつというべきだな。
言い換えれば、魏書東夷伝(魏志倭人伝)が日本人の心のふるさとというのは、基本的におかしいな。
531 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 23:41:33.13
>>525 奴国までは間違いない、というわけでそれまでの行程を無視するのが
問題だったんだよな。
魏志倭人伝は、末蘆国から東南へ行けといってるのに、
なんでNHKは北東へ行きたがるのか・・・、と小一時間。
534 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 07:20:25.49
ほんとだね。
唐津から、狙ったような谷がつづく、
唐津街道があるのに、
みんな道がない糸島に行きたがる。
536 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:12:13.21
卑弥呼はどうみてもモモソ媛命だろうが。
なんで、こんなに天照大神って人気あるんだw
そもそも、天照大神は男だったという説があるぐらいなのに。
7代天皇の皇女モモソ媛命に当てると古墳の年代が合わなくなるぞ
どう勘定してもモモソ媛命より早い古墳が少なくとも14個出てくるから建設年は必ず遅くなる、記紀とはそいう仕組みのものだ
御当地ソングHD節に惑わされ、
糸島に足を向けたのが勇み足、その時歴史は破たんに動いた
正しくは、末蘆国から東南陸行五百里の佐賀平野こそ伊都国だったのだ
539 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 15:31:34.63
箸墓が卑弥呼の墓でないとしたら、百襲姫と卑弥呼の関係も完全に
断たれることになるな。
>>536 3世紀の卑弥呼あるいは台与の記憶が人々に残っていたら、何らかの伝説として
残っているはず。それは記紀に反映されているはず。
なんといっても卑弥呼、台与の女王時代は合わせると百年位にも及ぶ。
卑弥呼=神功皇后説が否定されるとすれば、あとは天照大神くらいしかいない。
>>535 天照大神は極め付きの伊勢神宮に祀られている。
541 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 16:13:29.55
>>540 マスコミがどうして畿内説の肩を持つのかが不思議。
スポンサード バイ ザ シティ
>>543 年代が合わないと困る人達だから。
必死になるのは仕方ないよ。
>>543 「年表上の計算」は合ってるようだから、
あとは「実物古墳」との照らし合わせをしたときに年代の整合性がとれるかどうかだね。
この表では孝安以前の古墳(廟、御陵)が分からないので、いまのところ照らし合わせができない。
はやく、年表−実物の整合性が判断できるといいね。
546 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:29:35.00
>>539 魏志倭人伝から見ると、女王は2人しかいない
(一般人は多分トヨの方は知らんかもしれん)
希少価値からその存在を大きくしてる可能性もあるのでは?
記紀的にはまぁ凄い巫女ではあったけど、巫女の中の1人扱い
故に存在感は薄まる
魏志倭人伝にあと、10人くらい女王の名前が列挙されてたら、ここまで存在感ないのかもよ?
倭人伝に邪馬台国の文字は1回しか登場しない
それ以外の必要な個所はすべて女王、女王国、一女、汝などとしている
書き手の巧妙さによるところも少なくないとおもう。陳寿は偉大というか卑弥呼以上のカリスマ
邪馬台国という普遍的な国として認めたくなかったってことかもね。
鬼道を為す老婆を王とする特殊な(改めるべき)国という意味を込めて女王国を多用。
後世政治のやり方が道理にあらずってことで改めさせたってこともあったしね。
549 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:19:00.28
>>546 記紀的にも女王と呼ぶにふさわしいのは天照大神しかいない。
梁書によると、台与が女王になった後に男王が立っている。
まあ、巫女的な女王では世の中は動かないな。
550 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:32:53.61
流石に天照=卑弥呼はモデルになったかも知れないが後世の創作だろう
卑弥呼を太陽の巫女と崇めていたゆえに、中国への朝貢の事実を消すべく創作された
当時日本は中国と対等の政治を目指していたからな
天照はもとは男神との説もあり、仮説の域を出ることはないだろう
551 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:34:49.25
太陽の巫女とゆうものはみずからてからないのです。
552 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:40:33.98
天照=卑弥呼説は想像を掻き立てられてよいな
スサノオゆかりの出雲とヤマトの関係とか
553 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:41:52.14
太陽の巫女とゆうものは太陽を受け入れる受身の存在なのです。
554 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:44:51.54
巫女が補佐的な役割になったのはずっと後世の話らしいが
555 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:48:21.43
太陽の巫女が使用するエキップメントは太陽のをリフレクトさせるところの銅鏡なのね。
太陽のを鬱してあげててからせたりするのね。
556 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:51:56.72
>>552 天照大神と卑弥呼を同一視するのは東遷説だが、これはこれで一つの完結した
歴史が形作られている。古事記や日本書紀の解釈の通りでよい。
しかし、畿内説的な解釈をすると、その後の歴史が理解不能になる。
畿内説の言うところの邪馬台国から大和政権さらに大和朝廷へのつながりが
全く見えない。
557 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:52:06.13
で、トゥギャザーしてたんだな
558 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:55:22.81
「天照大御~」というのは7,8世紀の造作~だわ
御成敗式目に嘘つきの~さまだってかいてあるでしょ。
559 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:02:48.58
>>556 流石に目から神が生まれたとかを信じるわけにはいかない
創作物なら矛盾が生じて当然なのではと
東還説も想像を掻き立てられてるが、考古学的発掘からは東に移っていった文化が皆無で信憑性に欠けるらしいし
アマチュアの想像力を楽しませる域を脱していないように感じるが浪漫があっていいよね
560 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:07:58.86
561 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:12:36.20
ぢいさんもさ 看板がすげ替えられてるのに気付かないところのが痛い。
562 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:20:44.10
>>559 キリストは処女降誕で、そんな馬鹿なことはないからキリストはいなかった。
キリストは創作だということにはならないだろう。太古の人物にはそれなりの
歴史的な脚色がつくことも多い。
纏向から建物が出てくれば卑弥呼の宮殿。桃の種が出てくれば卑弥呼の祭祀。
さばの骨が出てくれば、卑弥呼への貢物。こんな邪馬台国畿内説べったりの
畿内考古学の方がよっぽど信頼性に欠ける。
563 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:26:19.66
でも3世紀前半に200uを超えるような堀立柱建物って纏向にしかないよね
564 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:28:38.59
>>562 いや脚色の度合いにもよるだろう
日本神話は流石にな
私はちなみに少し前にレスしたが、モデルになった可能性はあると
巻向の話がなんで出たのかはわからないが、発掘調査は続けて貰いたい
565 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:30:44.43
淤母陀流~とか 下照比賣とか 名前参考にすれば 天照大御~とか簡単につくれちゃう
566 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:31:02.59
あ、巻向のスレだからだったな
まあ私に言われてもなんだが
567 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:49:12.15
>>565 伊勢神宮は簡単には作れないけどね。
斎宮の規模もすごいな。創作したものにこれだけのことをするかな。
むしろ、時の権力者が権勢を誇示するために、
自分のところに勧請した神社のほうが立派な気がする。
歴史のある一之宮でも、シンプルなところはシンプル。
569 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:04:35.30
「天照大御~」というのは起請文には使えない~だったのはがち。
立派な有名神社の勧請元の神社が、
寂れて消滅寸前なんてのもよくある話。
そう言うところを訪ねて写真取るのが趣味なんで。
571 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:08:42.38
伊達政宗も、「天照大神」の名が書かれた起請文の受領を拒否していた、という。
伊勢神宮には、明治天皇が皇族としては千年ぶりに、参拝されたそうだが、
何か近寄ってはいけないような、いわれかなにかあるのかね
573 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:22:24.74
なんとゆうても伊勢神宮なんかよりは宇佐八幡宮のほうがえろいんだよね。
574 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:26:56.88
宇佐は6世紀の建立だから伊勢より近代的なんだろ
宇佐八幡宮は全国の八幡神社の総本社で、
そういうふうに、広く勧請されて広がっている神社はいくつもある。
これが総本社を地盤とする、氏族の移動、拡散を表してはいないだろうか?
伊勢神宮はむしろ、愛知、東海地方を本拠とする氏族の神社で、
その氏族が奈良方面に進出したということではなかろうか。
577 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:38:54.67
いまある伊勢神宮のは遷してでっちあげたぶつだよね。
いまのとこにもとのからあったのはふるうい石のかみさまので
ちんまんのぢゃとさ
578 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:44:04.89
>>572 それは崇神天皇のところに詳しく書かれている。
大物主神のたたりを畏れた。
崇神という奴は、もとは本州で生口(奴隷)集めの元締めをやっていた成り上がりもの。
581 :
sss:2013/02/13(水) 14:15:03.39
出雲の国譲りは高天原の時代になる。
天照大神と高皇産霊尊は、孫の瓊瓊杵尊を葦原中国の主にしようとした。
ところが、葦原中国は悪いものが多いので、その前に平らげてしまおうと考えた。
まず、天穂日尊を出雲に派遣したが、三年経っても戻ってこなかった。
次に、天稚彦を派遣したが、やはり帰ってこなかった。
次に、武甕槌神と経津主神を派遣した。出雲の大己貴神とその息子たちは国を譲ることを
約束して消えた。二神は、従わぬ神々をことごとく成敗した。
この出雲の国譲りは出雲征服戦争といえる。かなり残酷な戦いだったらしく、その祟りが
崇神天皇の時代になって起こることになる。
582 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 21:57:49.82
ついに箸墓古墳と西殿塚古墳の立ち入り調査が実現!(ただし発掘せず)
「“卑弥呼の墓”調査を許可 宮内庁、研究者団体に」
2013/02/13 20:14 【共同通信】
宮内庁は13日、邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と、
後継者壱与(台与とも)の墓説がある西殿塚古墳(同県天理市)について、
日本考古学協会など考古・歴史学系の15の研究者団体に立ち入り調査を許可したと発表した。
調査は20日に実施される。
両古墳は最古段階の巨大前方後円墳で、墳丘の詳しい形態など不明な点が多い。
調査は墳丘裾部を歩いて見るだけで、発掘や遺物の採集はできないが、
いずれも著名な古墳だけに研究者らの“観察眼”に注目が集まりそうだ。
http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013021301001912.html
西殿塚が手白香媛の墓に比定されてる時点で、
江戸時代の比定なんてアテにならないことが分かるよな。
今城塚にしろ、いい加減宮内庁も改めるべきところは改めないと。
天皇の権威を逆に下げることになる。
西殿塚がヤマト王権の初期の大王なのは間違いないが、
記紀の記述にそれらしい大王がいないことからも、
古代の大王の系譜が八世紀まで正しく伝わってないことが分かる。
西殿塚の向かいにある西山塚が正しい手白香陵なんだろうけど、
六世紀になって再び三輪山山麓マキムクが聖地として復活するのは面白い。
ホケノ山に横穴式石室が造られるのも六世紀末だし。
異常な皇位継承をした継体が、自らの正当性を主張するために、
マキムク礼讃みたいになったんだろうな。
584 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 08:55:39.19
>>583 >宮内庁も改めるべきところは改めないと。
天皇の権威を逆に下げることになる。
この部分については同感。
個人の墓を暴く、まして皇室の墓を暴くというのはさしさわりがある、
という口実のもとに、デタラメがそのまままかり通っている方がおかしい。
ここら辺りで、全面的な見直し作業に入らないと、
それこそ「不敬」だろう。
内野であれ外野であれバックネット裏であれ、それは同じだな。
大昔の陵墓なんて分からないことが多いんだから、厳密にできないのはやむを得ないだろう。
そうは言っても、墓の発掘なんて本人はされたくないだろ?
例えば自分らの死後墓を暴かれて、たいした物入ってませんねとか言われてみ?
あんまり良い気分はしないだろ
高松塚だかもなんかあったんじゃなかったっけ、雨ざらしなんて非常識、
奈良には任せられんな、まして卑弥呼の墓がどうとかとんでもない。
高松塚はなんかあったというレベルじゃないw
壁画が黴びてしまった。
592 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 07:01:08.54
皇室の墓だから尊重しなければならない、ということはわかるが、
今では貴重な文化遺産でもある。
ブサヨと同じように宮内庁も時代錯誤。
陵墓比定と発掘調査是非は別の問題として論じたほうが良い。
>>593 別の問題なのはそのとおりだけど、論争に加わる連中は同じ顔ぶれだろうね。
卑弥呼の古墳の場所も決まったのか
大きく動きそうだな
目的は調査ではなくニュースにしてもらうこと
誤認されかねないニュアンスでは、先々いかがなものかと
別にぃ
もうほぼ決まってる事だし
今更感じゃね
(畿内じゃないことは)ほぼ決まりだよな、今さらな
邪馬台国問題とはそもそも、三世紀の段階でヤマト王権が北部九州まで
影響力を及ぼしていたかの議論だったんだよな。
で、まあ、庄内ガメが奴国で生産されてて、庄内が三世紀頃と分かってきた。
今から九州説を復活させるのはかなり困難。
邪馬台国問題とは邪馬台国がどこにあったかを論ずる問題。
庶民の交易は別の次元の話。カメで王権がどうのはほぼ妄想の世界。
602 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 07:27:55.64
縄文時代から交易、交流の遺物が出ているんだから、
弥生、古墳時代にどこのものがどこから出ようと
たいした決め手にはならない。
専門の学者を含めて古代史は妄想が酷すぎる。
603 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 07:51:02.06
同じ形式の土器が出る=同じ政治体制の下にある ではないからなあ
604 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 08:10:28.24
邪馬台国畿内説は矛盾が多い。
近畿地方の邪馬台国が三世紀に九州まで支配していたら、八世紀の大和朝廷
顔負けの大勢力になる。それでは困るから何とか連合なんてのを考え出した。
しかし、倭人伝からは、「官」や「一大率」を置き、九州の隅々まで支配して
いる様子がうかがえる。伊都国には代々王がいて皆、女王国に統属するとまで
書かれている。
605 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 08:15:52.87
考古学は土器分析がメインとはいえ、土器で何もかも考えようとするから
無理が出てくる。まあ、土を掘ったら出てくるのは土器だけといっても
いいわけだから、仕方がないと言えなくもないが。
太安万侶の時代ならともかく、
現代において卑弥呼神話の類を編纂・編集・脚色しようとするのは許されない
607 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:17:32.02
単純に混乱期を経て日本の中心が邪馬台国時代に九州から畿内に移っただけの話。
戦国時代を経て畿内から江戸に中心が移ったのと一緒。
608 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 13:51:40.35
個人的には、白村江で筑紫王サツヤマを含め、
天子を擁立した豪族群が潰滅。
天子と側近の非戦闘員が、畿内に看板として、
移り、畿内豪族に擁立されたと見る。
それ以来、天皇は直属軍を持たず、
戦闘とは別の次元にいる。
その直前の聖徳太子でさえ戦ったんだが。
609 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 13:59:19.11
九州王朝説とかキチガイじみたヲタの妄想はたいがいにしろ。
ここ学問でもなんでもないな。ただのヲタが妄想垂れ流してるだけ
急に九州説の連中がファビョり出してるなw
どうも調査されるのが嫌みたいなんだよな
箸墓は畿内説にとっても諸刃の剣
>>608 そんな落ち武者みたいな王統を何で逃亡先の豪族たちが擁立しなきゃならんのだろうか?
逆にとっ捕まえて、首を届け出せば、何か報奨金くらいもらえそうだが。
614 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 20:18:25.18
神武が行った先でも、親戚筋がいたようだから、
先行勢力がいて、受け入れ安かったかもしれないな。
まあ、少なくとも九州勢力と、畿内勢力の大戦争の痕跡はないのと、
旧唐書で、日本国は倭国を併合したそうなので、
平和理な政権移譲からの推測だ。
普通、両勢力が元気なら、そう簡単に併合したりされたりはしない。
衰退した京から、新政府の江戸に、明治天皇を行幸させたのと
同じようなもんだ。
615 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:06:23.96
神武云々とまあほんと妄想だらけ。古代史なんかキチガイヲタしかいないんだな。
>>614 ならば、親戚筋とやらを擁立するのが普通じゃないのか?
なぜ、九州の喰いつめ野郎に拘るのか。
617 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:14:42.75
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩狥葬者奴婢百餘人
【更立男王】國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王國中遂定
【更立男王】のひとがニート化してその後どうしたのかだな
どこぞに追放された?
【誅殺】 ちゅう‐さつ
罪をとがめて殺すこと。
619 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:23:43.23
実際問題として、九州の天子を消してしまってもよさそうだが、
そうなると九州残存勢力との間で戦争になる。
そして、こっちが正当だ、と南北朝のような泥沼になりかねない。
状況を見る限りは、九州残存勢力も、
割とすんなりと大和朝廷に従っているように見えるので、
ある程度は取引だろう。
でなければ、大宰府や九州各地の国庁が置けない。
無理においても、ゲリラ的殺し合いになる。
そして、その形跡はない。
620 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:27:19.12
あとは、大和朝廷の前身が、完全に九州傘下に収まっている可能性くらいだが、
鉄や墓制の違いが大きいので、
個人的には、強い影響下にあるとはおもわない。
>>619 九州を含めた西国への三角縁の配布は結構研究されてきていて、
旧体制を代表する地域に対抗する新興地域に先に配られてる。
もちろん卑弥呼よりずっと後の時代。
だから多くの考古学者は畿内説だが、
卑弥呼の時代に西国を強い支配下に置いていたと考える人はほぼ皆無。
要するに連立説。
>>604の後段のように考えている人はまずいない。
魏志倭人伝の記述を考古学的知見に反するほど狭く解釈しすぎてはいけない。
一大率はいたかもしれないが、影響をおよぼすことの出来る範囲は狭かったのだろう。
622 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:41:04.50
考古学の何をどのように考えれば、支配、被支配の関係がわかるのか
教えて欲しいものだ。
もし土器でわかるというのなら、縄文時代の最初から詳しい歴史を考古学で
構築して欲しい。もちろん、縄文式土器を使ってね。
何も知らないのだな。
>>622 無知すぎるな。
例えば、風葬される人が多い地域でごく一部、
棺に入れて副葬品とともに埋葬されている人がいるとする。
そしたらそこに支配・被支配の関係を見るのが普通だ。
625 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 12:43:02.24
考古学はそれ自体では邪馬台国論争にとって何の役にも立たない。
倭人伝に「銅鏡百枚」の記述があるから、卑弥呼の鏡はあれだ、これだと
言ったりする。倭人伝に「卑弥呼の墓」の記述があるから、卑弥呼の墓は
あれだこれだと言ったりする。
だいたい邪馬台国じたいが倭人伝のもので、考古学的に発見されたものではない。
卑弥呼なんて名前は考古学では絶対出てこないもの。
にもかかわらず、倭人伝は信用できない。考古学の方が重要なんてどんな顔して
言っているのやら。
>>621 素直に、そもそも旧邪馬台国連合とは係わりは無い、というところまでは、
まだまだ時間がかかる。
>>625 そういう倭人伝記述の鏡や墓がどれかという議論とは関係なく、ヤマト政権と西国の首長国との関係が包括的に分かってきてるのですよ。各地でパラレルな関係が。
628 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:23:05.36
>>627 それだって同じだろう。記紀から都合の良いものだけを借りてきて、
記紀は信用できない。考古学のほうが正しいとやっているだけ。
記紀がなかったら、固有名詞のようなものは絶対に出て来ないのだから、
考古学だけでは何もわからない。
結局、考古学の名前で、自分たちに都合の良い考えを主張しているだけ。
纏向から出て来る桃の種も鯖の骨も、信じれば卑弥呼に関係するものばかり、
というようなものだな。政治的な関係を構築するのは朝飯前。
何でもできる。
桃の種は、東夷伝にこじつけるとすると、狗奴国のほうからだろう。
>>628 考古学のこと全然知らないのね。
マスコミに出てくる古代史家兼考古学者みたいな人しか知らなくて。
そういう人を批判してるんだろ
考古学のせいで土人のような扱いになってしまった
考古学が憎い
日本が憎い
633 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 20:36:33.48
考古学がそんなに立派なものなら、邪馬台国なり卑弥呼と書かれた石または木
簡を掘り出してみろ。できてから生意気を言え。
考古学は歴史学ではないことを知らな過ぎるね
いやまあ、こういう考古学アレルギーの人が定期的に現れるんだけどさ。
で決まって「固有名詞は倭人伝や記紀からしか分からない」
と連呼するだけ。
考古学という学問に対して著しく恨みを持つ人みたいだけどw
安本とかは読んでるんだろうけどね、
それなりに考古学の専門の人が書いた本はちゃんと読んでるのか?といつも疑問に思う。
せめて寺沢とかは読んでるんだよね?
636 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 22:46:39.05
安本のはホームページくらいは読んでるよ。
邪馬台国で検索したら上の方で出てくるし。
流石に買う勇気はないがw
安本のは十年在位とかかなり無茶苦茶なのが多いので、学問と言えるかどうか。
638 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 23:05:37.41
石野氏なんかは、昔、考古学的には邪馬台国は存在しない。だから、私は
邪馬台国について語ったことはほとんどない、と言っていた。
いつからか語りっぱなしだけれど。
都出比呂志氏なんかも、通常、考古学者は邪馬台国について語らない、と
言っていた。
本来、邪馬台国について語ってはいけないのが考古学者なのだ。
>>639 そりゃすばらしいことだ
が、それにしちゃレスの中身がよくわからぬ、なにかリンクはないか?
>>638 そもそも小林とか佐原などの畿内の学者が、
弥生後期の石鏃の巨大化を倭国乱に当て嵌めたのが間違い。
その後、弥生後期の九州の先進性が考古学的に分かり、一気に九州説に傾く。
しかし弥生後期=二三世紀、てのが何の根拠もない暦年代観だったというのがバレる。
90年代以降の考古学の新発見等で徐々に覆されていったという流れ。
考古学では九州説は旗色が悪くなり、考古学は出来るだけ無視するようになる。
近年のめざましい考古学の成果、新発見・・・
しかしその内容は・・・
そもそも佐原とか小林の年代観ていうのは、畿内の遺跡に大陸遺物が少なく
暦年代が分からなかったからやむを得ず、
倭国乱とかを不用意に持ってきた訳で。
九州の学者たちは、昔からその年代観に異義を唱えてた。
なぜなら、九州は舶載の出土が多く、佐原や小林の年代観だと百年程のズレが出てくるから。
644 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 00:15:53.62
何度いったらわかるんだろうねこの邪馬台国ボケどもは。
考古学では、スレタイにもあるとおり、ヤマト王権の萌芽を研究するものなんだから。
邪馬台国のことは絶対にわからないし、そもそもそこには興味がないんだってば。
ウソばっかし
いや、この前の二上シンポで寺沢も言ってたけど、
昔は暦年代が根拠薄弱で倭人伝を学問として扱えなかったが、
漸く暦年代が定まってきて、倭人伝が活用出来るようになってきている。
倭人伝の何処を活用しろっての?
あんな同人誌以上に薄い文章で
同人誌扱いとは非礼な!
活用出来るとかそんなこと言ってる人なのか
倭人伝がなければ邪馬台国もない
事実、彼は魏志倭人伝を考古学的に検証するって研究になってしまっているのでは?
邪馬台国がどういう国だったか考古学的資料から妄想するわけでしょ?
地道な発掘フィールドワークもやってるけども。
外国人とは言え、同時代の人が倭国のことを書いてるんだから、超一級史料だろ。
五百年後編纂の記紀と一緒にするのはいかがなものか。
完全な第三者とは言えないまでも第三者によって記されたものだから貴重だ。
654 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 01:21:04.22
>>651 考古学が信用されていないのは、畿内説べったりだから。
吉野ヶ里遺跡の「宮室、樓觀、城柵」を無視する姿勢もそう。
王仲殊氏が三国時代に日本に渡った可能性のあるのは、方格規矩四神鏡と
内行花文鏡と言い、それが妥当なんだろうが、畿内考古学は、畿内で
よく見かけられる(という理由で?)三角縁神獣鏡に注目してしまった。
邪馬台国纏向説だって根拠がないし。
未だに吉野ヶ里が邪馬台国だって妄想してんのがいんだ
研究者でも当初から違うと目されてたのに
656 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 01:30:01.88
資料は検証可能でなければ意味を成さない
IF小説が書かれていたからといって事実と思うのは只のバカ
657 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 01:31:52.77
別に吉野ヶ里が邪馬台国だとは言っていない。
考古学的には倭人伝の記述どおりだから無視ではないだろうと言っているわけ。
それとも、纏向はもっとすごい考古学的根拠があるのかい。
>>652 東夷伝は中華思想、記紀は皇国思想を考慮して、どこまで解釈できるか、
ということだが、部落民の妄想レベルだからな。
吉野ヶ里の環濠は集落の周りに濠を巡らし、濠の外側に土塁を築いて
土塁の上に丸太を打ち込んで柵にしている
つまり、濠の外側のほうが高い位置にあり、外側から柵内を攻撃しやすい構造となっている
朝日遺跡は、三重の濠を巡らせた環濠集落で土塁の外側に濠があり、防御設備としては理にかなっている
吉野ヶ里の甕棺墓数は推定15,000基以上で他の弥生遺跡に比べて桁違いに多い
共同墓地の金隈遺跡で甕棺墓、土坑墓、石棺墓合わせて469基
佐賀県は全国一肝臓がんによる死亡率が高い県で、
その原因はC型肝炎ウイルスに感染している患者が多いためであることがわかっている
日本国内の肝炎ウイルスにはB型遺伝子とC型遺伝子が見られるが、
九州は3/4強がC型、沖縄は3/4がB型、関東は2/3がC型、東北はB型とC型が半々
朝鮮半島はすべてC型、台湾は約半々、インドネシアはほとんどB型
古人骨の遺伝子レベルの研究はまだ歴史が浅く
弥生時代に日本に渡来した病原菌ウイルスはよくわかっていないが
今後技術の進歩と共に研究が進むことに期待したい
660 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 09:08:19.68
いや、吉野ケ里は普通に濠の内側に塀や柵がありますけど?
どこ見たの?
吉野ヶ里に限らず柵は外側一枚じゃないからそりゃあるよ
環濠の外側に小高い土塁を築いて、その上に柵を設置している(ように復元されている)
防御的には濠が役に立っていない、逆に外側の敵に有利な構造の遺跡も他にもある
なるほど、まず弓で狙うためには壕の外に柵を作るといいんだな、信長の馬防柵。
663 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 10:35:53.85
下から弓を放っても当りにくいだろ
上からの弓は当て易いけど
馬鹿なんか?
664 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 10:55:47.70
>>663 柵を乗り越えるときだと的が空にあり良く見える、しかも動きが遅ので、はるかに狙いやすい
あの頃の環濠集落の柵はシースルーじゃねえ?
家屋は家形埴輪みたいに板塀で囲ってあるのがあっただろうけど。
666 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:02:43.16
>>664 色々調べてみるといいよ
自分が卓上の計算で絵空事言ってる事が分かるから
それとも準無防備マンで、柵を越えられたら降伏すんのか?
>>666 なんじゃ、えらいマジだな、
吉野ヶ里じゃ外に柵があるて言うから、そうならそうなんかと思うただけじゃ。
もし外に柵あるならそれ一枚なわけないじゃろ、その次に逆茂木と濠、そのまた次に逆茂木、そのまた次にまた柵柵、三重四重くらいは当然。
で、吉野ヶ里はどうなっとるんか。
668 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 12:14:24.32
要するに、郡使は吉野ヶ里を見たということなのだ。
吉野ヶ里はその時存在していたということなのだ。
さらに、郡使は有明海の方に進路を取ったということなのだ。
669 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 12:22:17.58
672 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 13:00:46.11
熊本県は遺跡の管理がけっこうずさん。
古墳は荒れ放題だし、
>>670のサイトにも書いてあるが、
特に西弥護免遺跡、方保田東原遺跡は多量の鉄製品出土で知られるが、
残念な事に西弥護免遺跡は現在埋め戻され、上には建物が密集しており、
現在ではどこが遺跡かも判らない状態だという。
というようなことになっているらしい。
673 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 13:21:22.30
そんなに今回の調査が気になるのか?
まぁ調査が終わるまでゆっくり待てよ
675 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/19(火) 16:44:01.65
明日は箸墓、西殿塚の調査か?
天候はどうかな?
弁当1800円以上で。あと長いロープも。
みんなで縄跳びすると盛り上がるのよ。
677 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 17:01:48.08
家に帰るまでが調査です
>>604 朝鮮半島から5世紀後半の前方後円墳が出現しているし、広開土王陵碑には、
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の
救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
などの記述がある。
また、仁徳天皇陵などの巨大古墳群は5世紀前半に建てられている。400年前後に朝鮮半島まで
進出していたとなれば整合性がつく。
679 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 21:52:03.87
いよいよ明日か
楽しみだな
箸墓が人々の記憶から消えていく日だな。
681 :
水銀厨:2013/02/19(火) 22:15:38.42
今日の奈良は雪景色でした。箸墓も
三輪山も着雪していて綺麗でしたよ。
明日は晴れるみたいですが。
682 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 23:23:09.03
雪だと?
表層探索は厳しそう?
おおすげえ、ついに箸墓調査するのか
築造当時の表層から1000個くらい試料採取してC14年測すればいいのに
1968年に宮内庁は発掘調査してるんだろ
炭素年代なんかとっくにやってるとおもうよ、いわば自分ちのご主人すじのお墓だから発表してないだけさニヤニヤ
>卑弥呼説の箸墓古墳、頂上は石積み 2012/09/08
>箸墓古墳の後円部最上段の裾部分、
>厚く積まれた石の下から板状の石が出土している=1968年、宮内庁撮影
>後円部頂上部分が、全面に石を厚く積んだ特異な構造とわかった。
>同古墳を管理する宮内庁がこれまで公開していなかった発掘調査の記録を、
>朝日新聞が情報公開請求で入手し、判明した。
http://www.asahi.com/culture/update/0909/OSK201209080179.html
やっぱり阿讃の石積墓の影響が強いんですかね?>箸墓
特殊器台から吉備の影響が強いと従来言われてましたが。
吉備は同時期に箸墓を縮小した相似形の浦間茶臼山を造ってるし、
当時は大和>吉備。吉備が台頭して大和に並ぶのは、伝履中陵、造山の頃か。
箸墓はそれより前の石塚、東田大塚、矢塚、勝山とかと設計構造が違い、
むしろ同時期のホケノ山に近い?
石塚、東田大塚、矢塚、勝山とか、
これは、墓はなく、ただの人造の山。
奈良や吉備の土器や土木労働力を利用して、古墳になったのである。
葺き石=故人を偲ぶ鎧のイメージ?
908 :日本@名無史さん:2013/02/21(木)
>ニュースによれば葺石は全体を覆っていた可能性が大らしい。
>前方部を肥大させ、円筒埴輪を置き、それまでの纒向型とは異質。
ホケノ山が葺き石の施された前方後円墳墳として最古としている根拠のひとつが石囲い木槨。
この木槨というのはホケノ山、阿波(萩原1号墳、積石墓)、吉備(楯築墳丘墓、双方中円墳)、
出雲(西谷2号墳、四隅突出型墳丘墓)、日向(檍1号墳、纒向型前方後円墳)の5例あります。
692 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:24:52.05
円筒埴輪なら、4世紀後期から5世紀といったところか。
693 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:30:15.20
石囲い木棺なら、石室だろうから、
棺有れども槨無く、の倭人伝の記述からは外れるな。
石室があるなら、倭人伝より後世ということだろう。
694 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:32:46.28
まず倭人伝が正しいとする根拠を見つけないと
696 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:39:34.57
埴輪が、通説のような、殉死の代わりのものとして備えられたならば、
埴輪がある時点で、殉死はなく、倭人伝による卑弥呼の墓の描写からは、
外れることになる。
>>693棺有れども槨無く、の倭人伝の記述からは外れるな。
>>693 >棺有れども槨無く、の倭人伝の記述からは外れるな。
そりゃ見聞した倭の一般的な風俗だよ。
大体王族の墓の内部の様子まで、外国の使いに見せるとは
思えないけどね。
699 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:58:09.55
吉野ケ里は、北墳丘墓では甕棺を直接埋めていたから、
一応、棺有れども槨無く、の形式に一致する。
もっとも、甕棺だったら、その特異な形状も書くだろうから、
吉野ケ里ではないと思うが。
>>693 未だに 九州の葬制で畿内を論じようとか。バカ丸出し!
昭和40年代、早々に箸墓説を唱えだしたのは福岡県糸島出身の原田某氏
記紀の上でおおむね時代が合い、女性で、結婚した形跡のない皇女の御陵墓参考地から選べばこれだ、ということだったらしい
古墳の編年など、まるきり考慮されていなかったようだ
当時はただそれだけ
>>699 >其死有棺無槨封土作冢
弥生末期に典型的な方形円形周溝墓の木棺直葬のことだろうと思うけど、
吉野ヶ里は条件には合うと思う。甕棺の特性に触れないのが問題なら、
箸墓みたいな異質な墓を径百余歩で済ませるのはもっと問題。
よその地方の話などは関係ないだろう
>>686 > 阿讃の石積墓の影響
葺石だけをみればそのようにも思えるけど、
埋葬施設の構造が萩原1・2号墓に近似のホケノ山には葺石がない。
そして、箸墓と同様に宮山型特殊器台が採取された中山大塚古墳も箸墓同様に岩山のようだという。
> 設計構造
「設計構造」とはなにを指しているのか不明だが、
墳丘の形態を前方部と後円部の比率からいえば、
石塚・矢塚・ホケノ山と勝山・東田大塚・箸墓に別けられる。
>>696 > 埴輪が、通説のような、殉死の代わりのものとして備えられた
そんな「通説」聞いたことがない。
「殉死の代わりのものとして備えられた」というのは
『日本書紀』垂仁天皇三十二年条にある説話で人物埴輪を指す。
円筒埴輪はそれより以前から存在しているもの。
>>705 でも今までの弥生時代、古墳時代の墓、古墳からは殉死の痕跡は見つかってないんだよね?
スレとは微妙に関係ないけどさ
なぜそんな説話が記載されたんですかね・・・?
記紀の説話の大半は、大王と豪族の関係性を物語るものだからな。
ある氏族の始祖が大王に仕えて手柄を立て、大王から〜の職掌を与えられるというもの。
各々の氏族が伝承していた、自らの氏族の顕彰の物語が記紀に採用された。
垂仁の埴輪は土師氏の伝承。実際は古代日本に殉葬の風習は無かったが、
自らの始祖を飾り立てるため、嘘の功業をでっち上げた。
モモソヒメの伝承も三輪山祭祀を三輪氏が引き継いだことを神話的に物語っている。
殆ど伝説の域だし、安易に記紀の内容を信じてはダメ。
>>706 意外に事実なのかもしれない。日本書紀の年代観は卑弥呼=神功皇后。
倭人伝に卑弥呼の殉葬が書かれていたら、神功皇后の時代になる。
垂仁天皇の時代に殉葬が終わって埴輪になっていたらおかしい。
整合性のないのが事実の証拠のような印象がある。
709 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:08:37.52
卑弥呼=神功皇后は、絶対にありえない。
日本書紀の編纂者は、卑弥呼に該当する人物を見つけられなかったので
卑弥呼、トヨに該当する人物を神功皇后一人に充てるという無理な解釈にしている。
その過程で、年代の水増しをして、無理やり
卑弥呼、トヨの二人と神功皇后一人の年代を合わせる必要にせまられた。
では、なぜ、該当する人物が見つけられなかったのか?というと
おそらく、卑弥呼の時代の倭国では、暦の数を方が大きく違っていたが
(このことは、過去の天皇の年齢が生物学的にありえないことからも明らか。)
日本書紀を編纂する時代には、そのことが忘れ去られていた。
しかしながら、日本書紀の編纂者は、そのことを補正せずに歴史書を記そうとしたので
つじつまが合わないことだらけになった。
710 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:12:46.02
最近では、考古学上の年代観が大きく変わってきている。
水稲農耕の開始時期とされている弥生時代の開始時期を
遅くとも3000年以上前からとされてきているし、
また、縄文時代自体、陸稲などの農耕がおこなわれてきたことになっている。
これらのことから、今から1700年前だった邪馬台国の時代の解釈も
おおきな変更を迫られてきている。
711 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 12:33:53.92
>>709 古代の当時、2倍暦等の行使のためです。
いきなり2倍暦といわれてもわからん。
旧暦の1〜6月、7〜12月を其々1年とでもするのか。
713 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:03:29.62
2倍年暦でも、各時代により行使の方法が違う場合があるようだ。
勿論ほぼ同じ場合もあったと観ている。
714 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:09:10.02
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0
2日 2 16日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
29日 0
30日 0
上表を見ると日数はすべて1日〜14日の2週間に収まっている。その
末日の14日は7回も使用されている。有効数字は表の左半分のこの14日
までであり、右半分は全部0行進である。これは朝廷が14日という日を
強調したいため、14日を多用したのではあるまいか? その強調したか
った事とはいったい何か? 他でもない。当時の1ヶ月は14日間なの
だよ、14日で終りなのだよということを印象付けたいための14日多用
だったのであろうと想う。
これだけ見れば当時の1ヶ月が現今の半月の14日間しかなかったと充分
想定できるのである。
>>713 代々の血縁関係がいちおうの系図になってるのもできすぎてて解せぬ
主だった部族から出してきたリスト上位三名くらいをまとめて一人にしてホッチキスした、
とでも考えた方が手っ取り早くないか
716 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:20:53.35
できすぎてというのは、間違いだということにはなり難く、貴殿の主観的
感覚だろ?
日本書紀の神武以降は年だけでなく月日まで明確にしているから漠然的時間
の記述ではなく、明確にその日に出来事があったということを物語る。
手っ取り早いという単刀直入的考察は分からんわけではないが貴殿の主観的
感覚での受容からであり、もっと他の合理的事由があったと観たほうがいい。
>>714 14日ということは、新月〜満月で一月、満月〜新月で一月だな
では1年は何月?
718 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:25:14.17
当時の1年が180日余だったということだね。これが2倍年暦。
勿論1年365日を行使していた時代も当然あった。
719 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:28:32.17
>>717 1年が6ヶ月でやってた場合と1年が12ヶ月でやってた場合がありうる。
後者だと1ヶ月が現今の半月ばかりだったことになる。
>>716 ほかでもないが当地のある旧家には、
未だに、家督相続すると代々同じ当主名を襲名する習慣が残っている。
例えば神武天皇が実は三代三人であったということもありうるのではないか。
大国主命は7つの幼名を持っていたというが、これも七代襲名したことを示唆するのでははないか?
721 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:49:25.46
神武天皇が7人いたという説を言う奴もいるよ。w
あの七色仮面が嫌うだろう〜朝満ラーメン男だね。
襲名説もかよう以前からあったわけだが、神武の時代は(ただし即位から崩御まで)
3人というより3倍年暦を行使してたんですよ。
ということは、当時の1年が120日余だったものであり、3人世襲というより3倍年暦
行使だったということです。
これは神武紀(即位前ではなく、即位年から崩御年まで)の文が1月〜4月まで
しかないことで裏づけられます。即位のところから見て下さい。5月以降の記事
はありませんよ。但し崩御後の葬は9月になってますから、いったん倍暦を不慣れ
での不便のためいったん廃止したんですよ。
神武の代は1年が現今の4ヶ月だったということです。
外出しますんで、質問を書いててくれれば後で回答します。
>.721
そうするとかんたんにいえば、
神武の時代に3倍暦を利用していたかも知れないし、
あるいは記紀編纂の時に神武の1年を3季に分割して其々1年として記述した。
・・・、のどちらかになるという解釈か。
およそ相わかった。レスはあとからゆっくりで良い。
723 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 15:54:16.99
まあそのへんでしょう。
書紀の編者らは倍暦を知らなかったようで、季節は後つけです。
3季を季節というより3分割とおっしゃってるのでしょうが、これは学制の
1学期2学期3学期のごとく似た実例があります。また古代エジプト暦では
3季暦の行使があります。
>>709 人のおおよその寿命は分ってると思うよ
それでもあえて長くした理由があんだろうけど
>>720 そしたら代数を増やさね?
10代目ってより20代目の方が歴史を感じる気がするけど
まぁその分行跡を書かなければいけなくなるけど
>>725 たぶん古代には、情報伝達にたいへんな時間がかかるので
当主が死んで名前を変えると、全国津づ裏裏までの周知にこまったのではないかとおもう
そういうときは、襲名するほうが権威をスムーズに継承できる
例えば卑弥呼を天照大神に当てた場合、後継の台与も(岩戸から出てきた)天照大神で良いことになる、これも襲名と考えられる
当時、そう言う政治の知恵はごく普通・当然だったのではないか。
727 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 19:23:31.37
>>720 大国主という名前は、のちの鎌倉殿や室町殿と同じ通称なので
何代かにわたってあったかもしれないが
神武天皇に関しては、ないだろう、それは。
これは後世につけられた漢風諡号で、記紀編纂時ですらなかった。
彼の本名は、ワカミケヌで、通称がイワレ彦だった。
>>709 200〜400年は中国、半島の歴史書に倭国との交渉が記されているが、関西で蟄居していた天皇の系譜で対応させることが出来ないので、
九州へ赴いたという神功ひとりで対応させる。
この人物の原型は、香春に祀られている加羅国息長姫だろう。やがて宇佐の比売姫に転じ、応神へ引き継ぐことになる。
729 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 07:47:20.08
ここは記紀妄想スレじゃないぞ
箸墓をいたわるスレだ
淡雪の 化粧寂しき 箸の墓
卑弥呼の箸墓が余程気になるんだねw
まあそういうことだ
あの淡雪姿が永の別れになるやもしれぬ
733 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 12:26:27.81
畿内説の主張が破綻したら、マスコミなどがいっせいに黙る。
主張してきた専門家は知らん顔して、ほかの主張に変える。
やがて消えていく。
>>733 その「畿内説の主張」とやらをちゃんと理解できているのか?
理解したくありません
ボクの邪馬台国だけ聞いてください
ってのが九州説各派だし
では歌います
1番。九州説、短里の熊本墓情
伊作う〜、うまいぞ〜
738 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 12:58:30.71
唐古・鍵が邪馬台国だあ。とか、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だあ。とか、
箸墓が卑弥呼の墓だあ。とか、纏向が邪馬台国だあ。とか、
年輪年代法で畿内の弥生時代は100年古くなったんだぞお。とか、
三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらってから100年近く経ってから古墳に副葬される
ようになったんだぞお、とか。纏向から出てきた建物跡は、卑弥呼の宮殿だぞお、
とか、畿内の鉄は溶けてなくなるんだぞお、とか。まだまだあるが。
>>738 キミの理解力の程度はよく判った。
しかし、あまりにもマンマなんでつっこむ気力が湧かないw
纏向から東国の毛野国系の遺物はどの程度出土しているのでしょうか。
741 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 13:10:42.60
昔の本なんかを図書館などで見てみればいい。
畿内説の考古学者の言っていることがいかにコロコロ変わるかがわかる。
寺澤薫なんか、もろに東遷説のようなことを言っていたんだからなあ。
そもそも箸墓を言いだした人は他県の中学教師二人
考古学に文献資料、今の九州説なんて何も根拠がない。
正直日本語理解出来ない連中しかいないだろw
>>741 釣られてあげるけど
変わると何か不味いの?
小学校の教科書ですら時として変わるんだぞ
>>743 中国の政治体制と一緒で
反日で国を纏めてるように、反畿内説でしか九州説は纏まれないんだよ
745 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 13:57:46.71
結局、箸墓はどうなったのか、その顛末ははっきりさせて欲しい。
新聞などでは、いまだに「卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳」って
やっているわけだから。
せめて○○という理由で、○○という結論に達したくらいの報道がないと。
うやむやで消えていくのはごめんだな。
この世はすべからく淡雪のごとくと思うべし
いつの間にか積り、いつの間にか消えゆく。。。
まだ結論に達してないんだろ
何でそんなに慌ててるの?
発掘なんてしてないよ
ニュースちょんと読んだのか?
宮内省の許可で立ち入り調査できただけ
749 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 01:31:47.08
発掘や土器を取ることは認められませんでしたが、参加した研究者によりますと、多くの土器が散乱している様子や古墳の一部に石敷きが広がっているのが確認できたということです。
調査のあと、奈良県天理市で検討会が開かれ、研究者が調査結果について話し合いました。このなかでは、石敷きは前方部と後円部の間にある「くびれ部」と呼ばれる場所に広がってい
ることや、古墳の周りに置かれることの多い埴輪が確認されなかったことなどが報告されました。
これについて、調査に参加した日本考古学協会の森岡秀人理事は「箸墓古墳は全体が石に覆われていた可能性がでてきた」と話しています。
検討会では、前方部が3段構造との説もある箸墓について、大阪市大の岸本直文准教授が「観察で前方部も後円部も4段と分かった」と指摘。
橿原考古学研究所付属博物館の今尾文昭学芸課長は「くびれ部に石敷きがあった。全面が石で覆われていたかも」と話した。
石で覆われてるってピラミットみたいな感じっていいたいの?
石の巨大な屋根って難しくね?
それとも石をひいた上に土盛?
751 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 01:59:36.53
>>749 昔々、特殊器台形の埴輪があったと聞いたことがあったが。
>>750 土を盛って段々の墳丘を造って
段の斜面には葺石、平坦面には敷石
753 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 05:12:23.44
>>741 それだけ頭の中が柔らかいってことだろう?
一つの思想にこだわってない。
754 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 08:15:14.10
特殊器台が5世紀だっけか。
それまでは平地に立地することから中期古墳との見方もあったが
特殊器台形埴輪の存在が知られたために最古級と認識された
757 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 10:45:40.90
>>755 箸墓を最古にするために古墳の編年も変わった。
この間の新聞では、より新しい円筒埴輪じゃなかったかな
箸墓説は、卑弥呼を七代天皇の皇女ももそ姫に当て、後継の台与を二十四代天皇の皇女たしらか姫に当てる。
これは卑弥呼−台与を一対として取り扱うべき本件において、当初から論理破たんしているのではないか。
そもそも陵墓の比定に問題があったのだろうね
西殿塚は箸墓の次代の大王の墓。
六世紀の手白香媛に比定したのがそもそもの間違いで、
正しい手白香陵は西山塚で確定だろ。
しかし何故西殿塚が記紀で記述されていないのか。
忘れさられた王の墓か。
762 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:42:44.69
畿内説は、あの付近に邪馬台国を想定する以上、どうしても卑弥呼の墓を
設定しなくてはならない宿命を負っているんだろう。
逆に言えば、卑弥呼の墓がないのは、畿内説の破綻を意味するということか。
そもそもの発端を訪ねれば、
卑弥呼はももそ姫なり、されば箸墓こそ卑弥呼の墓なりと相成ったのだ。
では卑弥呼は果たしてももそ姫だったのか、台与は果たしてたしらか姫だったのか、
その点が確固としたものでなければ全体構成は崩れる。
「基点の錯覚」ではないのか。
手白香=台与とか言ってる人なんかいないよ?
765 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:55:23.43
卑弥呼の時代は、倭人伝の記述から間違いなく三世紀前半になる。
その頃の事が人々の記憶に残っていたとすれば、記紀には何らかの形跡が残る。
記紀にはかなり古くからのことが書かれていると思われるので、三世紀の
卑弥呼の事も書かれていると考えるのが普通。しかし、女王がいない。
唯一の希望であった神功皇后はどうも時代が異なる。
そこで、仕方なく百襲姫となったのだろう。
>>764 それが錯覚。
自分達はそう思っていても、マスコミや国民は、たしらか姫が台与だからと理解する。げに恐ろしや。
西殿塚が箸墓の次の王墓で、手白香が西山塚
ってのは考古学的には既に解決済みなんだが?
延喜式とも整合性がある。
要は明治時代の比定が間違いだったということ。
ここまで説明しないと分からない?
そこはよくわかる。
マスコミ・国民的な関心は墓ではなくて、
卑弥呼がももそ姫で、台与がたしらか姫かどうかということ、そこのねじれに気付かないと問題が大きくなる。
769 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:23:23.77
>>767 決定的なことを言うはちゃんと調査されてからのほうがいいんじゃないかな。
箸墓だって、やっと立ち入ることが出来ただけだし。
考古学がコロコロ変わるのは勇み足ってこともあるんだろう。
あまりに変わりすぎるから、今度はいつ変わるんだろうなんて信頼性がなくなる。
手白香陵は三百年違うんだからさ。
で、あの辺りで一つだけ新しいのが西山塚なんだからほぼ確定だろ。
西山塚の埴輪は継体陵とされる今城塚と同じ新池で作られたことも分かっている。
考古学を無視せず、少しは勉強してから書いてくれよ。
江戸末期や明治に無理やり前方後円形に整形されて天皇陵とされた古墳がいくつもあるのにさ。
未だに西殿塚の被葬者を手白香媛とか言ってる人なんて皆無だろ。
地方の古墳はわりと発掘されてるよな
地方豪族の子孫はもういないから
そこが九州説がつけ入れるスキになっている希ガス
仰せの通り、おそらく考古学者で西殿塚を手白香媛はないでしょう。
しかしそうなると、
一部の学者・教師らが、邪馬台国論争で卑弥呼=ももそ姫とした手前、
8代天皇の皇女か9代天皇の皇女あたりに台与を求めることになりますが、
それがどうしてもうまくいかないというジレンマに陥るわけです。
(そこで再び、たしらか姫にもどらざるを得ない苦し紛れに陥るのです。この問題の解決ですね)
いやまあなんと言うか、一般人は記紀をそれ程重視してないんでは?と思うがな。
倭人伝>記紀だろ、一般感覚では。だからすぐに卑弥呼に結びつけたがる。
記紀に書かれてない初期大王墓は西殿塚だけでなく、
磐余の桜井茶臼山・メスリ山もある。
記紀の時代には伝わってない大王が何人もいて、
記紀編纂は結構苦労しただろうな。
777 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 20:50:46.37
で、ゴッドハンドはまだ見せてくれないの?w
豊姫
記紀である程度信用出来そうなのは継体以降。
別に一般人は、卑弥呼や台与が記紀の誰に当たるかなんて気にしてないだろう。
箸墓が卑弥呼の墓っていうのも、有能な巫女が葬られている
という伝承が残ってる程度の認識。
蛇とまぐわったとか神話レベルの崇神紀を全面的に信用しろというのが無理な話で。
単に象徴表現なだけだろ
現代人が読み取れないだけ
>>779 記紀である程度信用出来そうなのは継体以降。
オマエ何年前の話をしとるねん? 無知とは恥ずかしいものやねぇ。
史料的価値があるのはせいぜい継体以降だろ。
それ以前のは説話文学やら神話伝承の類と大差がない。
考古学的に実在が立証された雄略にしても説話的内容ばかり。
顕宗仁賢武烈に至っては実在さえ怪しまれている。
そういうレベルの話なら、推古天皇以降じゃない?
>>783 卑弥呼ってAD150−170年の人なの?
魏ってAD220年 - 265年だろ
推古以降にしてしまうと古事記は全部ダメになってしまうが?w
天皇記・国記が推古の時に編まれて、継体は推古の祖父だから、
流石にある程度確かな伝聞は残っていただろう。
継体以降が妥当。推古以降はやり過ぎw
>>787 なるほど。
じゃあ、魏志の倭国大乱はどの天皇の時代のもの?
>>788 たぶん孝昭・孝安のあたり。この辺りの事は手がかりになるものが少なくて、仮説も立てられない状況。
巻向・笠縫の概略が判ったら、その後で取り組む予定。
強引に持論を展開しないところが、このスレにはめずらしい良識派ですな
考察まとまったらレス期待します
>>786 今でも田舎の伝聞は意外に昔のことまで残っているので軽視できないです。
まして歴史を記録する前の伝聞は相当な精度で残っていたと思います。
>>786 >推古以降にしてしまうと古事記は全部ダメになってしまうが?w
古事記の内容の証明性がない部分は書紀では削られたんじゃないか?
もしくは神代扱い
記紀の話をすると結論の出ない袋小路に入るからな。
記紀だけでなく、考古学も勉強しないとなw
記紀の前の天皇記・国記が何故か蘇我蝦夷宅にあって、
乙巳の変で焼けたりとか無理があり過ぎる。
おそらく中大兄皇子にとって都合の悪いことが書かれてたのだろう。
当時の権力者による改変は当然あったし、
記紀を信仰して考古学を無視する一部の輩は別スレで延々出口のない迷路で苦しめばいいw
魏志倭人伝も同じじゃね
記紀を全て信じてる人は少ないだけまだマシかと
796 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 09:41:27.37
>>794 考古学は基本的に違う分野。歴史ってのは文献を元にするもの。
例えば、土器から見た鎌倉幕府なんてのはジョークとしては面白いかも
しれないが、普通そんなことを言ったらアホかと思われる。
考古学的には戦国時代はこうだ、というような話もありえない。
土を掘って出てきたもので戦国時代を語れるわけがない。
信長、秀吉、信玄、謙信、家康など数多くの武将がキラ星のごとく登場する戦国時代を
土器で語れるわけがない。
ところが、古代史では考古学が万能のように言う人がいる。考古学者自体が
私は何でもわかります、みたいな発言をする。これではあまりにもひどすぎる。
苦言を呈する人がいないと、無責任な考古学者の妄想で歴史が作られてしまう。
なら歴史の範囲は天智天武以降だってちゃんと宣言しろよ。
それ以前は全部創作とかわらんだろ。
考古学者が妄想すると無責任で、歴史学者が妄想すると正しい歴史になるのかよ。
比喩だろ
800 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 13:00:36.57
歴史学=魏志倭人伝?
某天才は何処にも書かれてない短里とか言い出してるけど
妄想でOKで良いんだよね
歴史学なんでしょ
801 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 14:24:41.79
たとえば、紀元前3世紀のことを考古学で語ってくれ、といっても
どんな人がいて、どんな国があって、何をしたかなどは全くわからない。
どことどこが戦ったかなどもわからない。
このように紀元前3世紀あたりの弥生前期についてわかることが考古学の
守備範囲になる。
ところが、卑弥呼時代には魏志倭人伝があることにより、その時代の日本の
営みがはっきりと見えてくる。邪馬台国や卑弥呼や狗奴国を初めとする
固有名詞もたくさん出て来る。倭国の大乱などの出来事も見えてくる。
別に考古学を全面否定するものではないが、歴史においてはやはり考古学は「従」
でなくてはならない。考古学の役割は別のところにあるのに、
文献は間違いで考古学のほうが正しいと言うのはおかしなこと。
魏志倭人伝が正しいという証明は?
803 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 14:46:53.04
>>802 魏志倭人伝が間違っているという前提に立てば、それは文献のない時代と
同じになる。縄文時代と同じで歴史的なことはまずわからない。
考古学でわかるものではない。考古学で縄文時代の歴史はわからないから。
806 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 15:13:08.18
>>805 では、東征が否定される考古学的根拠は何か?
807 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 15:16:31.13
比喩使わずに語れよ。
809 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 15:24:31.40
柵封国家があったという中国側の資料と天から降りて来たという
日本側の資料が矛盾してるだろ。
810 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 15:25:37.51
誰かが言ってなかったか?
土器の流れからすると、東遷は否定されるとか。
土を掘って出てくるのはだいたい土器だしな。
土器ですべてがわかる考古学者。もう妄想の域だな。嘘つきかもしれない。
>>810 九州の土器が機内や山陽四国で見つかってれば逆の事言いそうだね
キミは
812 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 15:42:51.82
>>811 そんなことは言わないよ。
明治政府作るときに、薩摩藩が台所用品を持って東京に行くわけがない。
徳川家康が江戸に幕府を開いたからと言って、江戸に三河の食器があふれる
わけじゃないし。
>>806 ないことを考古学で否定するのは難しい。
間違えたw
証明するのは難しい。
815 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 16:13:51.49
>>813 東遷があったという考古学的根拠は一切ない、と言い切ったのは畿内説の
考古学者じゃなかったかな。
肩書きは考古学者でも実態は古代史家(学者にあらず)ってのが一杯いるからね。
817 :
ローガン:2013/02/26(火) 16:50:35.15
>>810 >誰かが言ってなかったか?土器の流れからすると、東遷は否定されるとか。
立脚出来る資料が無い以上、常識的な見解だろう。
立証責任は「東遷はあった」と主張する側にある。
>土器ですべてがわかる考古学者。もう妄想の域だな。嘘つきかもしれない。
「すべてがわかる」って誰の言? 答えてごらんよ。
子供かよ
819 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 17:22:46.42
820 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 17:57:32.86
>>817 実りのない論争のためだけのレスだな。言葉遊びで茶化すのが畿内説。
821 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:08:35.35
>>817 挙証責任を押し付けようとするだけでなく、まず自分に意見を述べてみる。
少なくとも、畿内説が東遷はなかったとは言うことはできないわけだろう?
822 :
ローガン:2013/02/26(火) 18:23:24.79
>>820 そう。茶化しているだけ。「東遷はなかった」という論証など不要だから。
立証責任は「東遷はあった」と主張する側にある。
仮に東遷があったとしても、物証は瀬戸内辺りとの
関連性を裏付ける物ばかりだし。
九州からの東遷説なんて、今や証明する
ハードルが高すぎで誰も言わないよ。
824 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:52:53.14
記紀には九州から来た独立部隊が吉備の協力でナラの一角を占拠したとある。
記紀はそれでいいんじゃない?
今更修正するまでもないし。
826 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 20:50:31.88
東遷の根拠としては、銅鐸の消滅と巨大古墳の出現が挙げられる。
銅鐸が作られ、それが祭祀の目的だったころは、王のような特権階級の存在が
認められない。古墳はそれと対照的な特権階級の出現を意味する。
墓制も大きく変化している。古墳が作られるようになると、九州系の剣や玉類
あるいは鏡の副葬が見られる。棺の内部を朱で染める習慣も同じ。
記紀では、銅鐸が登場せず、矛や剣が重要な役割を演じる。つまり、皇室の
歴史は矛や剣の文化圏を経ているが、銅鐸の文化圏を経ていないことを意味する。
また、皇室の歴史書である記紀には、神武東征が重要なモチーフになっていて
皇室の祖先が九州からやってきたことを示している。
古事記には、神武天皇に随行して来た大久米命が顔に刺青をしていたことが
書かれている。それを見た五十鈴姫は奇妙に思った。つまり、東征して来た
人は刺青をしており、近畿地方周辺ではその習慣がなかった。
倭人伝からもわかるように、倭人の男は大人も子供も刺青の習慣がある。
これなども邪馬台国東遷あるいはそれに近い出来事の証拠となる。
827 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:03:17.27
神武と邪馬台期とじゃぜんぜん違うだろ
828 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:13:35.64
829 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:20:23.30
神武は創作だろ…
いやまあ、
>>1にも書かれてるように九州単独は流石にないだろう。
倭国各地から寄り集まって造られたのがマキムク。
寺沢なんかは薩長土肥ならぬ筑備讃播がマキムクに集合してヤマト王権が誕生したとする。
で、マキムクで誕生したマキムク型前方後円墳が今度は逆ベクトルで各地に伝播すると。
>>826の記紀の記述以外はどれも九州説の根拠にはなっていない
832 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:38:28.75
833 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:42:13.62
吉野が里は津波で放棄された痕跡ないの?
定期的に安本を読んで書き込む東遷の人が現れてくるなw
過去スレで散々論破されてるのでそれを読んでくれれば。
ただまあ寺沢も昔は東遷論者で、今も筑紫の影響力を大きく見ている。
あながち完全に間違いという訳ではないかもな。
北部九州の青銅剣は朝鮮半島系、玉製品は糸魚川産のヒスイで半島南部からも多く出土している
北部九州の墓に使われている朱は中国産が混合されていると考えられているが
北部九州には弥生時代に高価な水銀朱の対価となるものがない
日本で貴重品とされていた青銅製品や鉄製品は、半島や中国では日本製のものは貴重ではない
ガラス管玉は、倭人伝に記載がないから根拠にならない
836 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:34:22.09
鏡を王権シンボルとする習俗は、天照大神が筑紫生まれであるように、北部九州その発祥地ある。
ついでに言えば、半島にはこの習俗は無い。
中国南部の道教には銅鏡に霊力が有るとするので、これがルーツだろう。
837 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:46:46.87
>>836 天照大神と鏡はかなり縁が深いと思われる。記紀を読むと、八咫鏡が
登場するのは天照大神が天岩戸に隠れた時だし、鏡作部なども登場する。
仮にこれが事実であるとすれば、鏡を作るようになってからが天照大神の
時代ということになる。かなり新しいかも。
ちなみに、鏡を百枚もらった卑弥呼の鬼道もひょっとしたら鏡に関係あるのかも
知れない。
838 :
日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:59:10.90
又特賜汝…銅鏡百枚…故鄭重賜汝好物也
邪馬台国が欲しがっていたように訳されることがある
新たな威信財が欲しいがあまり持っていなかったとも解せる
839 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:02:33.29
まあ、銅鏡百枚はなんかいわくありげだな。
権威の象徴としてもらうんだったら、例の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡なんかの方が
ずっと凄そうだし。
北部九州で鏡を王権のシンボルにしていたと考えるなら
配るほどに大量に所有していたのは須玖岡本と糸島の2ヶ所だけで、その周辺地域は朝鮮半島と同様な状態
佐賀は朝鮮半島の同笵小銅鏡で枚数も遺跡の規模も半島の方が上
遠賀川上流の立岩堀田は三雲と同型鏡と見られている
糸島の平原は畿内のような大規模古墳とは性格が違う
>>836 > 鏡を王権シンボルとする習俗は、天照大神が筑紫生まれであるように、北部九州その発祥地ある。
アマテラスは筑紫生まれじゃないだろうw
さて、確かに記紀神話においては、鏡は、シンボルと言えるだろうが、
筑紫の弥生墓、例えば須久岡本や三雲、平原・・・
これらは、一個体に副葬される枚数が多すぎて一枚当たりのありがたみが少ない。
まあ、通常の威信財であって、まだ、記紀でのようなレガリア的使われ方とまでは言えないだろう。
日本での王権継承で鏡がレガリア化するのは、やはり原記紀が成立した6世紀以降の話じゃなかな?
オマエらアラシはええ加減にせーよ。
ここは巻向スレな。 邪馬台国スレではないぞ。
843 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 02:56:02.82
>>841 >アマテラスは筑紫生まれじゃないだろうw
最低限、古事記、日本書紀を読んでから書き込みましょうね。
筑紫生まれっていっても、イザナキが黄泉国から逃げて来て体を洗ってる時に左目から生まれてるだけだろ
禊祓いの地なだけ
黄泉国が出雲とすれば出雲国から逃げ帰ったっていうどこかで見た話になる
>>843 まともに読んでたら筑紫産まれなんて絶対無いよw
竺紫日向之橘小門之阿波岐原(古事記)
筑紫日向小戸橘之檍原(日本書紀)
筑紫国の中に日向/橘小門/阿波岐原 or 日向/橘/小門/阿波岐原 (記)
日向/小戸橘/檍原 or 日向小戸/橘/檍原 or 日向小戸橘/檍原 (紀)
があったなら筑紫になる
848 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 10:31:44.16
糸島から福岡西区にかけて、
日向峠と小戸港はあるな。
立花山は、油山を立花山と読んでいたとか、
東区のクスノキ北限の立花山かは、意見がわかれている。
阿波岐原はわからない。
一説には海の波の様子だとか、遠浅の干潟はよく言われている。
西区周船寺から今津湾にかけてを阿波岐原と呼ぶ説もあるが、
詳細は不明。
849 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 10:46:48.06
>>812 一緒に行く家臣団の中に土師もいれば織師もいるんだよ
殿様が着のみ着のままで家臣も連れず一人で移住するなんてありえん
皇室など公家も女官も同行させて今でも御所言葉が残ってるんだし
京都の老舗からの献上品も続いている
850 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 11:07:13.34
纏向スレなのに邪馬台国九州説の基地外が書き込むスレ
>日向小戸橘/檍原
>国内最大の木槨発見 宮崎市の檍古墳群
>古墳時代初頭とみられる宮崎市の檍(あおき)古墳群の前方後円墳(檍1号墳)を
>調査している宮崎大学の柳沢一男教授らは26日、
>墳丘内に棺(ひつぎ)を安置する部屋を木の板で囲んだ国内最大の「木槨(もっかく)」が見つかった、と発表した。
>木槨は長さ約7.5メートル、幅約4.5メートル、高さ約1.5メートル。
>これまで最大とされてきた奈良県のホケノ山古墳の木槨(長さ約7メートル、幅約2.7メートル)の規模を上回る。
>九州では初めての発見で、当時のヤマト政権や、同様の遺跡がある瀬戸内地方の勢力とのかかわりが
>うかがえる貴重な成果と言える。
>木槨は幅約25センチの角材を積み重ね外側を砂で固めて支えたとみられ、
>角材が腐食して壁が内部に倒れ込んだらしい跡も認められた。内部は数人が入れる大きさ。
2002/09/26 03:05 【共同通信】
852 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 12:52:08.99
学問版なので筑紫国の日向という可能性も片隅に置きながら
各々肯定や否定に傾けていけば良いのじゃよ
>>850 纏向について話し合うスレであることは承知しているが、
俺のような関東の人間には、纏向の地に王権が成立する過程で、
東国の諸勢力がどのような役割を演じたのかも興味がありますね。
>>847 日向だから日は当然東の事ですよ。
記紀の解釈で高天原は筑紫の東にないと
話は根本的に成立しないから。
855 :
ローガン:2013/02/27(水) 15:44:17.87
>>831 >
>>826の記紀の記述以外はどれも九州説の根拠にはなっていない
いや、記紀の記述すらダメですよ。(笑)
>>826 には
「古事記には、神武天皇に随行して来た大久米命が顔に刺青をしていたことが
書かれている。それを見た五十鈴姫は奇妙に思った。つまり、東征して来た
人は刺青をしており、近畿地方周辺ではその習慣がなかった。
倭人伝からもわかるように、倭人の男は大人も子供も刺青の習慣がある。
これなども邪馬台国東遷あるいはそれに近い出来事の証拠となる。」
とあるが、肝心の神武に刺青無し。神武さんは「大人も子供も刺青の習慣がある」土地からの東遷では無い という笑い話。
その刺青の人「大久米命」は書紀では天クシ津大来目。久米部の分布の中心は中国、四国地方。 九州と関係無し。
>肝心の神武に刺青無し。神武さんは「大人も子供も刺青の習慣がある」土地からの東遷では無い、
だから笑い話とは言い切れない。
誰でもすぐ気がつくような部分だけに、今の我々にはわからない何かかがあり、
神武の時代の人たちや、記紀編纂当時の人達は納得できたのかもしれない。
というのは、そもそも神武は天孫の末裔であり、ド人たちとは違うんだから刺青をしていなくても不思議ではないからね。
857 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 17:32:09.88
>>855 普通はこの文章を見れば、神武天皇も刺青をしていた可能性が高いと推定する。
倭人伝には「倭人の男は大人も子供も刺青をしている」と書かれているわけで、
これが九州である可能性が一番高い。対馬國から一支国、末盧国などの九州の
記述が一番詳しいわけだから。
神武天皇は刺青をしていないと決め付けた上に、大久米命が中国、四国の人間だと
言い切るなんてどういう神経と言うか思考回路をしているのやら。
このコテは、あちこちで決めつけたがるハテナ人
>>853 関東は大和の成立には、鹿島・香取が積極的に一枚噛んでいますよ。茨城・群馬あたり。
現在のように東海道経由だとものすごく遠いが、東山道(中仙道)経由だと、上野国とかは意外に近い。
860 :
ローガン:2013/02/27(水) 19:54:56.10
>>857 >普通はこの文章を見れば、神武天皇も刺青をしていた可能性が高いと推定する。
おや? 私も
>>856氏も「刺青はない」だが。 普通とやらは君一人。(笑)
さておき、ここの歌「誰をし枕かむ」と 大久米が天皇に向けていうなんておかしいだろうが。
この歌は、神武が詠んだ
「倭の 高佐士野を 七行く媛女ども 誰をし枕かむ かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ」 を2つに分けて問答形式に改ざんしたものだ。
元にもどせば「高佐士野」という野で、天皇が刺青をした者を従えていただけの事。
その風景は、まあ、履中五年の淡路島と似たようなもんだ。東遷なんて関係無し。
また、倭名抄に見える久米郡は、出雲、伯耆、伊予だ。本貫地が中国四国と考えるのが妥当。
Yahoo掲示板の古代史の九州王朝説トピのtextreamでの異常な体験の報告です。
私が、空をつかむさんに「ご紹介有難うございます」とだけ返事を書くと、投稿可能になり、
私が、「ご紹介有難うございます」に「九州倭国での説明」を、普通の文言で付けj加えると投稿不能になり、
そして、「九州倭国での説明」を削除して、「ご紹介有難うございます」だけに戻すと、
投稿可能になった、
という事です。
だから、Yahooのtextreamの担当者は、私の「九州倭国での説明」を拒否しているんですよ。
つまり、Yahooのtextreamの担当者は、通説に沿って問題の余りない投稿は黙って見過ごして、
通説を強く否定する説や古田説には、通説に従わせるように、細工や情報操作をしている、という事なんですよ。
862 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 21:10:45.35
>>860 倭人伝の記述は、「男子無大小皆黥面文身」。
男子は、大人も子供もみな黥面文身。
「諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差」。国によって文は異なり、
あるいは左、あるいは右。あるいは大、あるいは小。尊卑によっても差がある。
これからもわかるように、一部だけが刺青をしていたというのは考えられない。
みんなが刺青をしていたわけである。なので、大久米命が刺青をしていたならば、
普通は神武天皇(神日本磐余彦)も含め、みんなが刺青をしていたと考えられる。
刺青を奇妙に思う大和周辺は倭国には入らないだろう。
また、こういうことが古事記に書かれている意味は重要だと思う。
文身の記事は倭人伝だけでなく、韓伝にも出てくる
「其男子時時有文身」「男女近倭,亦 文身」
だから文身だけでは倭人か韓人かわからない
しかし、黥面は後漢書、三国志、晋書で倭人に関する記事だけ
日本は縄文時代から九州〜北海道までの土偶に黥面が見られる
古墳時代の人物埴輪にも顔に刺青をしたものがある
>倭人伝には「倭人の男は大人も子供も刺青をしている」と書かれているわけで、
これが九州である可能性が一番高い
こういうのをたまに見かけるが根拠は何?
Yahooのytexyreamが現在投稿不能状態ですので、
2チャンネルで、返事を継続しておきます。
>>当たり前だ。
初期の前方後円墳では、前方部が小さかったから、
前方部が祭祀や作業の場所や台の役割をしていたのだろう、
というからだ。
・・・はいはい、列島での初元的な九州や瀬戸内にある前方後円墳は、
前方部が小さいから造りだし部も存在しない、
という事からの常識的な推論だ。<
>●この人は初歩の初歩の知識もなく証拠も示さずただ勢いで断定し続けているが
常識のカケラもないことは一見して判かる。
この無知な妄想者の頭の中では
前期古墳と初期古墳発生に繋がる弥生墳丘墓が混然となっているのだ。<
列島で前方後円墳は最も早かった北部九州と瀬戸内 では、
弥生墳丘墓と前期古墳との間が、
断絶しているのではなく、スムーズな移行を示している。
また、それが、列島において最も早い、という事の理由。
そして、それに引き換え、大和などの後発地域では、
前期古墳が(スムーズではなく)突然に断続的に出現しているから、
「後発で伝播的ある」事が強く示唆される。
865 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 21:44:05.67
>>863 倭人伝に書かれている国で、郡使が立ち寄った可能性がある国のうち対馬國、一支国、
末盧国、伊都国、奴国、不弥国は間違いなく九州だろう。投馬国、邪馬台国も
九州だろうが、そうでないという人もいるかもしれない。
つまり、8カ国のうち最低でも6カ国は九州。
近畿地方は刺青の風習がないようなので、倭国には含まれないだろう。
東に海を渡ったところにあるいわゆる倭種の国に含まれる。
だから、邪馬台国は近畿地方ではないだろう。
韓伝の場合は、倭の影響を受けていると受け取れる。倭は九州だから、
その可能性は高い。
>>865 九州の倭人が刺青をしているのはわかる
しかし、日本列島全体に縄文時代から顔に刺青の風習があるから
刺青で九州に限定することはできない
九州には佐賀を中心に有明海沿岸には弥生土器の系統ではない、朝鮮系の土器(擬無紋土器)
を日本で作って使用している、半島からの渡来工人が多く住んでいたことはすでに常識となっている
朝鮮式住居(松菊里型)も筑紫南部から神埼、小城にかけては密集地帯だが
西日本の他の各遺跡では2、3戸程度で集落内の立地環境もあまりよくない場所にある
韓人が多い九州のほうが黥面をしていない人は多いと考えられる
古事記 現代語
イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして
鋭い目に見えるのを見て、変わってるなあと思って、
歌にして、返事をしました。
「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」
イスケヨリ姫は目の周りに入れ墨をしていることに珍しいと感じているが
奈良の古墳の人物埴輪にも顔に刺青がされているので、イスケヨリ姫の一族は目の周りに
刺青をしないのであろう
倭人伝の頃の倭国は刺青が当たり前の時代で、
時代が降るにつれて中国の影響で「刺青は野蛮な風習」と変化したのだろう。
おそらくは五六世紀の頃に神武始祖神話が生まれたからと推測する。
イワレヒコというのは桜井市の磐余地方の王者という意味で、
おそらくは雄略か清寧の頃、磐余に宮が営まれた頃に生まれた神話なんだろうな。
869 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 23:12:07.21
>>866 縄文時代については不明と言うしかないだろう。記録は残っていないし、
刺青の遺体が出てきたわけでもない。土偶の模様については刺青という
説もあるし、ただの模様という説もある。
日本全国にあったというのは言い過ぎ。
刺青は、何のためにするかというと、恐らく、その人の出身や身分を表す
ためだっただろうと思われる。ということになると、顔にあるのが普通と思われる。
倭人伝の黥面もそれを示している。
伊須氣余理比賣はやはり刺青自体を知らなかったのだろう。
870 :
紫敷布:2013/02/27(水) 23:12:46.31
>>868 おじいちゃんの推理は面白そうですが、そのように推理したい下心がちらちら見えてますね。
そんでお伺いしますが、
な〜んで桜井市の磐余地方の王者のイワレヒコを日向から東征させる物語にする必要があったの?
871 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 23:18:00.54
記紀信者やら倭人伝原理主義者が入ってきて、
日本史板で唯一の考古学重視古代史のこのスレも迷走を始め、
混迷の度を深めてきているなw
話を本筋に戻せば、例えば西殿塚は後方部にも埋葬施設があって、
白石なんかは台与と男弟の墓とか断定してしまっているがw
伝仁徳陵である大仙古墳にも後方部に埋葬施設があることが分かっており、
記紀や延喜式が伝えているような大王1人の墓ではないことが分かっている。
記紀信者はこの辺りのことをどう考えてるんだろうね?w
872 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 23:19:40.54
>>868 履中天皇のところには、反逆の罪に対する刑罰として「黥」が出て来る。
刺青の風習は急速に廃れたものとみえる。
>>870 マジレスすれば、倭国全体がある程度ひとつに纏まった時代、
おそらくは五世紀の雄略のころ、
倭国全体の部族が共有する偉大な初代大王の神話を必要としたんだろうね。
呉の太伯の末裔を捨てたのもその頃で、
天から天神の子が降臨したという北アジアに広く分布する伝説が採用されたと。
降臨の地を日向にした理由は諸説あるがな。
聞きたければ書くよ。
>>830 マキムクで誕生したマキムク型前方後円墳??
墓として確認できるのはホケノ山のみで、
それ以前のものは、今のところ人工の山としか言えない。
墓としての基本構造さえ存在していない。
漠然としたイメージのまま、うやむやにしているという手法だね。
おいおい寺沢くらい読めよ。
マキムク石塚とか矢塚、勝山、東田大塚も知らんのか。
確かにマキムク型仮説はどうかと思うが、自然の山はないだろ…
876 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 23:37:29.52
>>875 棺は見つかっていないらしいが、棺の痕跡くらいはあるのかな。
なかったら墓じゃないし。
877 :
紫敷布:2013/02/27(水) 23:40:06.36
>>873 >降臨の地を日向にした理由は諸説あるがな。
>聞きたければ書くよ。
なにをトボケたレスしてんのよ。
「な〜んで桜井市の磐余地方の王者のイワレヒコを日向から東征させる物語にする必要があったの?」
って聞いてんのよ。早く答えてよ。
なんだよ、せっつくなよw
慌てる乞食は貰いが少ないと言うぞw
日向三代神話が記紀に挿入されてるのは昔から謎とされており、
出雲の国譲りがあって、何故かニニギが出雲でも初代天皇の即位の地でもない
日向の地に降臨している。
安本とか原田大六、つい最近では柳田とかの東遷説の人は、
日向を筑紫地方に求めて、弥生中期に成立した筑紫の王権が大和に東遷したとする。
十年くらい前まで有力な説のひとつだったんだけど、
最近は否定的意見が多い。
そもそも九州は古くは筑紫島と呼ばれていて、
筑紫=九州全体の呼称とされていた時代があった。
筑紫の日向は、少なくとも記紀の編纂者は宮崎県近辺を想定している。
筑紫地域にも日向という地名があるのは分かるが、
日向とかいう地名は全国に存在している訳で。
原田大六がヒラバルを発掘して「アマテラスの墓を見つけた」
とかトチ狂ったことを言い出したから有力になったのかもしれない。
しかしまあ日向風土記逸文にも書かれている通り、
光り輝くニニギが稲穂を携えて宮崎近辺に降臨したのは、
少なくとも八世紀には信じられていた神話だったらしい。
筑紫地域に降臨したなんてことは一切考慮されていなかったんだよね。
で、まあ、現在の記紀研究の水準で言えば、
日向神話が記紀に採用された理由は、
記紀編纂当時、八世紀の大和朝廷の政治状況と不可分ではないとされている。
ここまで言えば分かるかな?w
881 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 00:14:51.40
「文身」=「身分」を表すものだろう。入れ墨を見ればどこの部族で
階層か瞬間にわかるシステムだった様だ。
人面土器なら濃尾平野からも出てるぞ。
882 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 03:10:11.53
重要な遺跡なのに邪馬台国フィルターで語られてある意味悲運でもあるな…
邪馬台国なんて追っても時間の無駄やで
>>875 自然の山ではなく、人工の山。
埋葬の主体部の痕跡すら見つからないから、ずっと下の底のほうにあるんだろう?とか、
墓ではなく聖壇だった?とか想像されている。
というレベル。
またYahooでの投稿が不能ですので、ここで投稿しておきます。
またごましおさんへのお返事です。
>勉強嫌いで無知なお前に教えてやる。造り出しは、初期の前方後円墳には見られないんだよ。無知丸出しのデタラメなど口走らないようにね。ま、お前はアホだから、自分がいかに恥ずかしいことを言ったのか気がついていないだろうけど。笑
>造り出しが付属する古墳は、畿内では珍しくない。稲荷山古墳が出来る頃には、すでに様式として確立していたといったんだが。
>あ、そう。ということは、造り出しのある古墳文化のある関東や畿内と、九州、瀬戸内は関係無いってことになるが。お前はアホだから,自分がこれまで主張してきたことを忘れているな。バカくん。
>でも、黙っていればフェアじゃないから言うけど、九州にも瀬戸内にも造り出しのある古墳は存在するよ。その場しのぎのデタラメを吐くのはいい加減止めにして、勉強しな。バカくん。<
列島では、
初期は、前方部が、まだ小さく、前方部が墳頂部の作業や祭祀の登壇台的な役目をしていたが、
その後、前方部が巨大になって来て、前方部にも埋葬がなされるようになったから、その代わりに造り出しが設けられたんだろう、
と、もう何回説明したんだ?。
>ヲワケが大和朝廷に使えた杖刀人首だから、畿内で作られた古墳は実見していたはず。その彼が、地元に帰って古墳を作る以上、その形式を踏襲するのは当然。蝦夷からますます遠くなって行くな。バカくん。笑 <
いや、ヲワケが左治して仕えたのは、粘土槨の「関東の大王」だ。
ヲワケが学んだとすれば、それは九州王朝の文化としてだ。
またYahooのtextreamでの投稿不能レスの、臨時の仮投稿です。
また空をつかむさんへのお返事です。
>:藤原不比等は659年生まれだよね
:そんでもって 藤原不比等の父は藤原鎌足で
藤原不比等の母は毛野氏の車持与志古娘だよね
:車持与志古娘は毛野氏の車持国子の娘だよね
:ってことで車持国子は藤原不比等の外祖父ってことになってるよね
:ってことで7世紀前期には毛野氏は藤原氏と縁戚関係にあったんだけどね <
継体の反乱で、大和は倭国内の大勢力になったんだから、
倭国と対等的であった毛野氏は、大和とも対等的になった、
という事なんだろうね。
また空をつかむさんへのお返事です。
>:7世紀の応仁の乱で活躍した佐味君宿那麻呂は毛野氏だよ
:佐味君宿那麻呂の本拠地は大和の佐味だけど
ルーツは毛野氏ってされてるよ <
また、ご紹介、有難うございます。
しかし、Yahooからは、
「ご覧になろうとしているページは現在表示できません 」
と表示されまして、現在は投稿不能であり、
一応大半のものは、パスして行きますが、
必要があるものは、
2ちゃんねるに「仮投稿」させて頂いております。
また空をつかむさんへのお返事です。
>:藤原鎌足は7世紀の人物だよね
:藤原鎌足の夫人は毛野氏の車持与志古娘で
その子供が藤原不比等(659年生まれ)だよ
:車持与志古娘は毛野氏の車持国子の娘だよ
:ってことで車持国子は藤原不比等の外祖父ってことになってるよ
:毛野氏の車持君の出身地は上毛野国(群馬)だよ
:そんでさー群馬っていう県名は車持の車に由来するってされてるよ <
また情報のご紹介、有難うございます。
しかし、私は、
群馬には馬の飼育が盛んであった筈だから、
「馬が多く群れている」という意味であったのかな?、
と思っておりましたが?。
>>869 それならば日本のどこに刺青の風習があったのかはわからない
日本に刺青の風習自体があったかどうかもいえない
九州だけにあったということはできない
倭人伝の、「男子無大小皆黥面文身」部分は検証できないので
倭国の範囲や邪馬台国を比定する上で資料価値がないことになるだけのこと
古事記の記事からイスケヨリ姫が刺青自体を知らなかったと考えるなら
刺青の風習を知らない日本の地域も限定できない
刺青が日本での出身や身分を表すと想定することも無意味
イワレヒコが異国人を連れていた可能性も出てくる
>>862で倭人伝、古事記の刺青に関する記事を出していること自体がそもそも無意味
また空をつかむさんへのお返事です。
>:4世紀前半の景行天皇時代に
毛野氏の彦狭嶋は
「東山道十五都督」に
任命されてるよ
:毛野国で前方後円墳の造営が始まったんは4世紀初頭とされていて
崇神が息子の豊城入彦を東国に差し向けて
毛野国を作ったってされてる時期と一致してるよ <
白村江以前の列島では、半島や中国や蝦夷との国交や戦争は、
九州の倭国の大王が主体的であったのであり、
倭国の別種で旧小国の附庸国であった大和は、
倭国に従属的であったのであるから、
書紀は、倭国の歴史を大和王の事跡として「盗用」した可能性が十分ある、
云わば「半分偽書」であるので、
全面的には信用出来ない。
そもそも刺青を、現代風の他人を威嚇するとか同族意識を高めるなどの極道ものに限定して考えるのは早計と思う
もしかして人体にたかるマラリア蚊やハエ・アブ・ヒルなどを防ぐ等の実用的な意味があったのかもしれぬ
民族的な調査をしっかりしてから論ずべし
891 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 12:54:12.41
刺青は、沖縄など南西諸島やアイヌでは比較的最近まで見られたらしい。
こちらは女性が多かったらしいが。
892 :
ローガン:2013/02/28(木) 13:31:50.93
894 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 16:21:37.39
>>888 倭人伝と記紀の記述を照らし合わせてみることが一番大切だと思う。
古代日本の歴史を一方は中国から、一方は日本から見たものだから、
より立体的に古代日本が見えてくる。
しかし、畿内説は畿内説に合わないものは間違っているという立場だから
タチが悪い。本来は、文献に合わないものの方が間違っているのだが。
さらにタチが悪いのは、畿内説に合わせて歴史を作ろうとするところだろうな。
これは後々困ったことになる。
895 :
ローガン:2013/02/28(木) 16:23:45.60
>>862 >大久米命が刺青をしていたならば、
黥の記述は 阿曇部 鳥養部 河内飼部 猪甘 いずれも狩猟飼育に関する低層の集団に見える俗。
ちょっと訂正
>>860の
>また、倭名抄に見える久米郡は、出雲、伯耆、伊予だ。本貫地が中国四国と考えるのが妥当。
は、出雲ではなく美作。
2皇子発見の来目部小楯は 伊予の人。
星川皇子反乱に加担した城丘前来目は吉備稚媛の異父兄。
またYahooでの投稿が不能でしたので、
古い投稿は消失するそうですから、
まだ返事を書いていないものがなくなってしまうので、
取り急ぎ、この場所をお借りして「仮投稿」です。
suy*****さんへのお返事です。
>たかが趣味の日本史レベルの話で
ここまで他人を罵倒できるとは恐ろしい。
世も末とはこのことか... <
いえ、趣味の話ではありません。
天誅氏もごましお氏も、学問の世界の現役の人間として投稿しておられ、
彼らから、議論相手に高慢な誹謗の言葉を言い出して、それを連発しておられ、
私は、それに対してその都度、「鸚鵡返し的に」言い返しているだけです。
また、「西北接百濟正北抵新羅」に相当する国を、大和だ、と言ったり、
「南」を「東だ」と言い張るのは、
正常な神経の学者の発言とは、とても思えません。
そのような学者が、掲示板で威張っている事が黙過し難く、
日本のためにも人類のためにもならないから、
批判しているんです。
人面文は設楽博己教授によれば東海の風俗です。
入れ墨を模したものかどうかは材料がないので分からないとしています。
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>いや、やはり「毛人」の部族国家だ。<
>それはお前が決めることではない。バカめ。<
いや、客観性の高い旧唐書の証言だ。
>>大和は、書紀に毛野氏の中の上毛野氏と友好的であった、という主張をしている、という事だ。<
>書紀を作った事務方のトップが上毛野氏。<
白村江の後、九州倭国の別種の旧小国で附庸国であった大和が、九州倭国を併合継承した後の話だ、
>そして上毛野氏は、朝鮮半島とのつながりが濃い。
荒田別、鹿我別の朝鮮出兵伝承。王仁の招来にも関わっており、さらに仁徳天皇紀の竹葉瀬、田道の朝鮮出兵などね。
それを裏付ける百済様式の冠、飾履、鏡も群馬県の古墳から出土している。
現実から遊離したお前の妄想など、一文の価値も無い。<
いや、白村江までは、列島の半島や大陸との国交や戦争は、いずれも九州倭国が主体的に行ったことであり、
だから、キミらの挙げた話は、おそらく大半は、九州倭国内での事件であり、
毛野氏が九州倭国との関係で派遣された事であったのであり、
大和の書紀は、(九州倭国の存在を抹殺して)、
それらを大和が主体として行った事であるかのように、編集した、
という事になる訳だ。
実際には、継体の反乱で、大和は、母国である九州倭国内の大勢力になったのであり、
だから、継体以後であれば、大和が半島や中国と主体的に国交や交易をした可能性があるのだ。
そして、百済との友好的な国交や交易があったのも、九州倭国が中心であったから、
九州倭国を通して関東にも文化や文物が齎された事になり、
「百済様式の冠、飾履、鏡も群馬県の古墳から出土している」
事になるのだ。
>>894 自説に都合がいい仮説を事実であるかのようにして
文献を解釈してもだめだよ
それと君のレスはスレタイに沿ってなさ過ぎる
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】
東遷説ならマキムクと九州の遺物、遺構の比較でこのスレでは論を進めないと
いいかげんここにいる人も迷惑する
君が論点にしてるようなことは、他にスレが立っているんだから
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>大和一元支配に狂った大和の文献よりははるかに客観性が高い「旧唐書」。
>>毛人=蝦夷も、元々沿海州などの大陸からの渡来系だ。<
>渡来したかどうかはともかく、渡来人とは言えないよな。<
いや、人類の列島発生が否定される限り、全て渡来系であり、流民だよ。
>旧唐書に毛人之国とあったんだよな。では毛人の国だったんだろうよ。でも旧唐書を作った中国人から見れば、毛人とは言葉も知らず、穴居多毛の野蛮人。<
いや、旧唐書はそんな事を言っていない。
>一方、蕃別と呼ばれる渡来系氏族は、中国文明を身につけた文明人。毛人を嫌悪し、差別する側の人間。<
毛人蝦夷の中にも、九州倭国に友好的であった部族があったし、敵対的部族もあった、というだけだ。
九州倭国や大和の傘下に入った毛人蝦夷に対しては、蕃別という分類に入れただけだ。
>日本書紀の作成には、上毛野氏が密接に関わっている。その日本書紀に書かれた蝦夷像は、中華の人間から見た北の蛮族毛人感を忠実になぞったものだ。<
上毛野氏は、毛野氏の中でも、特に倭人に友好的になり、
その裏返しとして、他の敵対した毛人蝦夷に対して、ことさら蔑視をしたのだろう。
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>いや、旧唐書に「東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」と書かれた限り、
7世紀末までは、中国からは、関東は毛人=蝦夷人と見られていたのだ。<
>なぜ7世紀?
旧唐書は、10世紀の史書なんだが。
その程度のことも知らんのか?本当にカスだな、お前は。<
いや、日本国伝の中での領域範囲の説明だから、
日本国が倭国を併合した当初の話になるからだ。
10世紀では、大和の毛人蝦夷征伐がかなり進行しているから、
変わってしまっている。
>そして毛人は、中国人から見て北の野蛮人。<
いや、海外東経に分類されているから、どちらかと言えば東アジア。
>上毛野氏やらヲワケとは別物。
彼らは、毛人の地帯に入り、支配した大和朝廷側の人間となる。
お前のバカな頭でも判るように例えると。
北アメリカに白人が入り込み、
ネイティブアメリカン(旧称インディアン)を支配した。
上毛野氏、ヲワケの一族などは、この白人。
これなら解るだろ。<
いや、旧唐書がある限り、関東平野は毛人蝦夷の国。
その大王は、両毛の境の磯城宮に都したのだから、おそらく毛野氏。
902 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 20:02:07.85
マキムク=ゴッドハンドw
また天誅さんへのお返事です。
>Re: 倭国は「西北接百濟正北抵新羅」に
>●いくらウソを重ねても、誰も誤魔化されませんよ。
>>何だ?、唐会要は、列島では、白村江の後、
大和日本国が(母国の)筑紫倭国を併合継承した事を知っているんだから、
日本国は(倭と日本の)両方の立場や呼称を持っていた事になり、
列島からの遣使が「日本国使です」と名乗っても、
「倭国使です」と名乗っても、
そのまま記録された事実の通りに記載しているだけではないか。<
とキミは認めてしまったし
唐会要は平安時代の遣唐使を「倭国伝」に記載しているという史料事実があるのだから
「倭国伝と日本国伝をはっきり書き分けている」
などというウソを何度連呼しても、誰も騙されません。<
白村江の後で日本国が倭国を併合継承した後は、
日本国は、日本国とも倭国ともどちらを名乗ってもよい事になったのだから、
列島からの遣唐使は、「倭国使だ」と名乗ったものもあれば、
「日本国使だ」と名乗ったものもあった、
というだけの事。
>●ズルさんは反論できずに逃げ回っています。
>●ズルさんは反論できずに逃げ回っています。
>●記載通りなら平安朝の日本=倭国だから、古田説は崩壊。
>●これがズルさんのすべてキチンと反論してきたの正体。<
これらも、忙しいし、関心がないから、放置ね。
904 :
水銀厨:2013/02/28(木) 21:06:09.62
記紀の話はスレ違いだとは思いますが、
実質東遷らしきものがあったとすれば、
それは讃岐や香川辺りからの話でしょう。
神武の先導役、ウズヒコ(珍彦)は名からも判るように、
阿波辺りの海人で、九州の人物では無いです。
記紀の記述上、神武周辺の人物に九州の色は希薄ですよ。
またモモソ姫は幼少期から讃岐で過ごしているのも
何故か無視されがちですね。
吉備などに目が行くのだろうけど阿讃は重要地点
906 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 21:22:17.03
>>899 もともと、この論争は、文献はあてにならない、考古学の方が重要だと
誰かが言ったところから始まった。
畿内説の場合、記紀や倭人伝などの文献を否定するからには、ほかに拠り所を
探さなくてはならない。でなければ単なる自説に都合のよい妄想に過ぎない。
その拠り所となったのが、どんな都合のよい解釈でも出来る、便利な
考古学だったわけだ。
しかし、ここも迷惑だろうから、よそに行こっと。
また天誅さんへのお返事です。
>●不明?
キミは唐会要が
「列島では、白村江の後、大和日本国が(母国の)筑紫倭国を併合継承した」
と知っている!と言っている。
つまりキミは、唐会要が「日本国大和説」である!と主張している。<
いや、
「日本、倭國之別種」であり、
「日本舊小國、呑併倭國之地」だと主張している。
>その唐会要の「日本国大和説では、全くの方向誤認になる」のなら
キミは「唐会要の方向誤認」を主張しているわけだ。
キミは自分が何を言っているかわからないのか?<
[正北抵新羅]などは、倭国伝での倭国時代の説明だ、と言っている。
>●キミが反論しない「無意味なもの」とは何だ?
反論する「必要なもの」とは何だ?答えは明かだ。
>●キミの「必要なもの」とはこのように、
なんら証拠のない誹謗中傷をまき散らすことで
キミが「無意味なもの」と切り捨てているのは
証拠を出し、正しい議論をする姿勢だ。
それは人間のクズがすることではないのか?<
私は、キミらの悪口雑言に対して、鸚鵡返し的に言い返しをしただけであり、
それ以上の議論は無意味であり、関心もないから、
放置。
立証責任があるのは歴史書を否定しようとする立場の人だよ
世の全ての歴史書を否定して考古学のみで語ろうという立場なら別
その立場では卑弥呼や天皇など語れないはず
なんで おかしなアラシが大量に湧いてきたのかねぇ?
証拠がないから信じないのは正しい
証拠が無いから証拠を見つけようってのも正しい
どっちも本質は同じ
証拠が無くても気にしないってのは違うけどな
913 :
日本@名無史さん:2013/03/01(金) 00:51:45.09
歴史書ってw
人が蛇とまぐわったりw人が白鳥になって飛び立ったりw
天から人が真床追衾に包まれて降ってきたりw
石を帯に巻いて出産を遅らせたり。
三輪山の神を見たいと言って実際連れて来られると雷にビビったりw
世の中の常識で言えば、これらは歴史書なんかではなく神話や説話文学という。
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>宋書と旧唐書が根拠であり、<
>宋書に書いているのは、倭王武が日本列島の中央部から四方に軍を発して征服したこと。
旧唐書に書いているのは、10世紀の段階で日本の東北部に毛人の国があるということ。
(旧唐書が出来たのは、10世紀のこと)<
いや、旧唐書の証言は、当然「唐代の記録を基にした唐代での実態」の証言である。
だから、唐代の始めから、中部山岳地帯以遠の関東平野は、毛人の国であった事になる!。
そして、旧唐書は、当然九州倭国の倭王武の上表文を知っているのだから、
関東平野以遠に、倭王武が征服し得なかった「毛人の国がある可能性がある事」も証言している事になる。
>>鉄剣銘文の磯城宮の記載や、<
>鉄剣銘文には、ヲワケが皇別(孝元天皇の皇子、大彦命が始祖)を称していたこと、
ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えていたことを書いているだけ。<
めちゃめちゃウソを書くんだね?。
勿論、そもそもワカタケル大王と読めるのか?が怪しいし、
雄略とすれば、磯城宮は雄略の宮の呼称も合わないし、
記紀にも一切「左治したヲワケの話」が出ていないし、
そもそも「大彦」と読めるのか?も怪しいし、
「皇別の孝元天皇の皇子」であれば主筋であるのに、
それを「命」を外して「オフヒコ?」と呼び捨てにするのもおかしい。
>>金銀環や金環や鈴鏡の出土数が西日本の倭人とは全く違うから、<
>まず古田のデータが全くデタラメであることは、すでに論証済みで、お前一言も反論出来なかった。<
いや、キミの論証が、確認不足で全く論証の態をなさないものである、という事は、何度も説明した。
しかし、キミは、いくら説明したって一切判ろうともせず、同じ事をしゃべり続ける人間なんだな?。
大体九州倭国なんぞ根拠もない妄想にすぎないから。
日本の文献資料なら倭の中心=淡路島だとしか読めないだろw
またごましおさんへのお返事の続きです。
>そもそも金環は関東の大古墳の多くには副葬もされていない。なのに、関東の文化?<
万近い?関東の古墳の全てに金銀環や金環が付けられている筈もなく、
問題は、西日本との出土の「頻度の比較」だ。圧倒的に関東が多い事だ。
>そして鈴鏡は、稲荷山古墳、将軍塚古墳(いずれも埼玉古墳群)から出土していない。
それじゃ、お前の理屈から言って、稲荷山古墳の被葬者は蝦夷じゃないよな。
お前は完全に、自分が何を言って来たのか、何を言いたいのか見失っている。(笑)<
鈴鏡は女性の持ち物であったのではないか?、と言っておいた筈だ。
>>何だ?、毛人=蝦夷は、単一部族ではなく、いろんな特徴を持った沢山の部族があるのだ、
と説明しておいた事を隠すのか?。<
>この一文が、一番嗤える。
多賀城付近の蝦夷が漢字を知っていたという証拠だなどと、唐突にお前が稲荷山を言出したんだが。
でも、お前がほざくように「毛人=蝦夷は、単一部族ではなく、いろんな特徴を持った沢山の部族がある」のであれば、
武蔵国の稲荷山古墳をいくら論じても、それが遥か北方の陸奥国の蝦夷が漢字を知っている証拠にはならないよな。
武蔵にいる蝦夷が、陸奥にいる蝦夷と同じ文化を持っているわけではないんだから。<
いや、旧唐書が根拠だ、という事だ。
>お前が苦し紛れに稲荷山を出したんだが、結局、お前は稲荷山古墳に関する議論がどうなろうが、
陸奥の蝦夷が漢字を知っているか否かは陸奥で探さなければならなくなったんだぞ。
バカくん。これは嗤える。
もちろん稲荷山古墳の被葬者が蝦夷だと言うお前の噺も、結局根拠皆無の妄想だったわけで。<
いや、大和の千字文は6世紀中頃になるから、稲荷山の方が漢字が早い事や、
金属環や鈴鏡の頻度が高いという特異な文化圏である事など、
何度も説明した。
またごましおさんへのお返事の続きです。
Yahooで投稿不能にされたので、こちらで返信しておきますが、申し訳ございません。
しかし、Yahooの担当者は、どうなってしまったんでしょうかねえ?。
九州倭国的説明文言の有無に関わらず、投稿不能にして来ますね。
>>仮に、画文帯であったとしても、半島は沿海州からの伝来物であり、大和に特異的なものではない、<
>画文帯環状乳神獣鏡に因縁をつけてもダメ。将軍塚古墳からは、国産の彷製鏡が出ている。
ちなみにこの国産鏡は、関東でも多数出土している。バカくん、現実逃避しても状況は変わらないよ。笑<
画文帯も彷製鏡も、列島に広範囲に分布するだけであり、根拠にならない、という事も何度も説明した。
>>しかし、粘土槨の副葬品などは、盗掘を受けているんだから、毛人蝦夷の大王家の副葬品は、不明だ。<
>でも礫槨のほうは盗掘されていない。将軍塚古墳の石室も盗掘されていない。
毛野国などの関東諸国で盗掘されていない古墳の例を多数挙げたはずだが。
お前は、自分の妄想にあわない事実から、必死に目をそらしているだけ。
傍目からは、非常にみっともない醜態をさらしているんだが。<
さきやま古墳群の将軍塚は「金環」だから、稲荷山の主葬も、(礫床の銀環ではなく)、おそらく「金環」であったのだ。
>>特に、文字に関しては、大和の記録では、6世紀半ば頃の初伝ではなかったのか?<
>追い込まれると、苦し紛れのウソ連発。これも相変わらずだな。
しょせん、チンピラはチンピラ。そんな三流詐欺師ぶりでは、人をダマせないよ。
詐欺師としては、古田親分の足下にも及ばんな。
まあ、お前のように致命的なくらい無知では、どうしようもない。<
何だ?、千字文に対する反論は出来なかったのか?。
>>918 流石にいい加減にしてほしいのだが。
ルールすら守れない奴の戯言なんて誰も信用してくれませんよ。
また天誅さんへのお返事です。
「天の原ふりさけみれば・・・」の歌。
>●ズルさんは古今集収録の和歌が中国人の前で披露されたとか何とかまた、おかしなことを言い始めました。<
勿論、中国で披露された歌だ、という話であった事からの推論。
>●そりゃ当然ならんでしょ?誰がどこで何を見て詩にするかなんて自由だし<
いや、歌を歌うという事は、聴取者に意味や意図が判って感動を与えようとするもの。
意味や意図が判らなくては、感動を受ける筈がない。
>平城京の大部分で見えるなんて(詐欺師以外)誰も言っていないし<
感動が与えることは困難であるだけの事。
>日本語の歌を中国人が感激して聞いたなんてどこの誰が言い出したヨタ話か不明だし馬鹿にされているのはおばかな珍説をまき散らす古田教徒だけです。<
はいはい、申し訳ございません。
どんな場所で披露された歌なのか?の詳しい話は知りません。
>●皆もキミが馬鹿だと思っています。しかし、病的ウソつきのキミを正直とは誰も言わないので馬鹿だけが共通認識です。<
はいはい、私は、馬鹿な素人オジンです。
「稲荷山鉄剣は大和への文字初伝より古い」
またそらをつかむさんへのお返事です。
>:5世紀の倭の五王の上奏文は漢字表記だよ(倭王武の上奏文が有名)<
倭の五王は、松野連家系図などによって、呉王夫差の後裔であり、
火の国山門から筑紫の委奴や大野に広がった東海姫氏国の倭国の姫氏(紀氏)であるようだし、
大和への文字伝来の書紀の記載では、百済から千字文が齎されたという事だが、
千字文は6世紀の梁の時代に作られたものらしいんだよ。
また空をつかむさんへのお返事です。
>:群馬の綿貫観音山古墳の玄室は同時代の欽明天皇陵墓の玄室と同形・同規模なんだよね
:綿貫観音山古墳は100m程度の古墳なんだけど古墳の大きさに比べて玄室が異常にデカイんだよね
:綿貫観音山古墳の玄室は長さは8m・幅は4mで欽明天皇の古墳と同規模・同形式なんだよね<
関東の大豪族であった毛野氏は、
当初は、列島の倭人の最大の権力者であって半島や中国との国交や交易や戦争の主体であった倭国と、友好的にしていたが、
継体の反乱で大和が倭国内での最大の臣下になってからは、
おそらく、大和との友好性も強くしたのでしょうね。
またごましおさんへのお返事です。
>いつものとおり、根拠の無い誹謗だな。<
キミは、礫床も粘土槨も、「棺を完全に包んでいたか?どうか」を確認出来ない、という事だ。
>規模、構造等を比較するなら、同じ形式のものでなければならないだろ。バカか。<
「棺を完全に包んでいた」ら、「槨」と言えるんだよ。
だから、礫床を「礫槨」と名付けた人間が間違っていたんだよ。
>有力者の墓であることは間違いないだろ。<
キミも、「ホケノは大和王の墓ではない」という意見であるようだ、という事で了解。
>お前の虚言のほうが、誰も信用してないけどな。笑 そもかく日本書紀は、上毛野三千が事務方トップで編纂されたもの。そのためか、上毛野氏の活躍が目立つ。そしてそれを認証し、国史の中に組み込んだのは大和朝廷。それは事実だ。<
継体が倭国の一大勢力になった後なら、毛野氏も大和とも友好的になった、という事は十分有り得るから、構わない。
>葺き石って、知らないのかな?小学生向けの百科事典にも出ているが、それでもお前には難しい?笑
<
内部構造にまで「積み石的になった墳墓」と、表面だけの「葺き石」とは、少し違う。
>確認出来たから、礫槨にしている。それより、粗末な粘土槨もどきを、一応粘土槨としているんだから、お前も文句ないだろ。<
何を根拠に確認したんだ?。
>あんなデタラメなデータが?笑
>ちゃんと、具体例を挙げて、古田の表の間違いを指摘しただろ。それに対して、お前は一言も反論出来なかったじゃないか。それじゃ、こっちの指摘に対して、古田の代わりに具体例を挙げて反論してみろよ。できないなら、黙っておけ、バカくん。<
もう、きちんと何度も「キミの論拠」の欠陥を指摘してあるよ。
なんでこのスレに荒らしが沸いてるのん
箸墓に立ち入り調査あったから、それ聞いて病気が再発した人がいたんじゃないかと。
立ち入りして、なにか変わるような話はあったの?
立ち入り調査と聞いただけで、と書けばよかったかな。
929 :
ローガン:2013/03/01(金) 20:18:38.07
円筒埴輪が林立していないことが確認された事とか…
古田信者の托鉢でしょう。
円筒埴輪が無かったとすれば、箸墓=土師の墓説は無理になるな。
箸墓をもって古墳の定型化が始まる。それ以前の庄内の4古墳は弥生終末期の
墳丘墓の後継扱いという仮説も揺らぐというか。
実際はもっと新しい柳本の大王墓あたりから定型化が始まるんでしょうか?
関西や東海の住民を中心に本州の生口(奴隷)がマキムクに集められ、
かつてない規模の土木事業が始められたという意味はあるでしょう。
またごましおさんの九州王朝トピの#26884へのお返事です。
>>いや、ウソを付くな!。
Aは、日本国自体の説明だ。
Bは、倭国が先に名前を(日本国に)変えた情報がある、という説明だ。
Cは、倭国と日本国との関係の説明だ。
だから、三つとも、重複する事のない独立情報の記載だ。<
>アホですか?B、Cの頭に「或」と書かれているのを無視?
B、Cのフレーズの冒頭に或(or)を入れて、三説を並列にしているのに。
自分に都合が悪いと、史料の文章をねつ造ですか?まあ、そういう詐術を使わないと、お前の話なんて全く成り立たないからな。
でも、歴史学的には、絶対にダメ。お前のようなクズは、歴史を語る資格が無い。<
「或」は「and」であり独立情報の追加だ。
「or」として、択一的に解釈して、否認抹殺してよいものではないのだ。
史書は、原則として、存在する(独立的)情報を列記しておくものであり、
否認抹殺するような情報など、始めから書かないものだ。
>>その記載は、「日本国が倭国併合をした事の記載」の前に書かれているんだから、「倭国と日本国が違う国であった時の話」として書かれている事になるんだよ。<
>まったく文章を無視しての、気違い解釈だ。恥を知れよ。<
漢文も史書も、やはり前から「順次式」に記載されているから、前から順番に受け止めて行くものだ。
>「或以倭國自惡其名不雅。改為日本」。倭国が自ら改名したと書いているのに。<
そうだ。
九州の倭国は、「百済本記」に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と書かれたり、
「任那日本府」と書かれたりしたから、その頃には、日本国と名乗っていたのだ。
大和が「日本国」と名乗ったのは、隋の文帝に小野妹子が名乗った頃が最初であり、
新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」と書かれたのだ。
934 :
ローガン:2013/03/02(土) 14:21:05.52
>>931-932 自然発生の集落遺跡ではない纏向。
東海勢参加で作られ、そこに出雲吉備に祖型を持つ大型墳が見られる。
正に東西の結節点。
二世紀後半から始まる東海土器の東方への広範囲の拡散を見る限り、
倭国世界が東方へ大きく拡大。
新しいクニと手広く交易することで一種の特需が生まれた。
で、その莫大な富を古墳造りに消費したと。
四世紀後半、半島権益が重要視されるようになると、水軍を持った
大阪湾周辺の諸豪族に大王位が移る。
936 :
日本@名無史さん:2013/03/02(土) 15:51:04.32
>>934 出雲や吉備を強調して、なぜか九州を意識的に無視する。
古墳が出来てからの大和の墓制は九州の伝統を引き継いでいる。
出雲は異なるし、吉備も楯築で突然変化と考えたほうがよい。
しかし、土を掘って出てくるのはだいたい土器だけ。
纏向の調査発表はまるで唐古・鍵遺跡の時と同じだと思う。唐古・鍵遺跡の時も
各地の土器が見られるから、交流の拠点と言っていた。
鍵唐古どころか、二上山周辺なんて古くから
全国との交流があったのは、縄文期以前からの伝統だろ。
古墳が九州の影響?
うーん、どうなんだろ?
ヒラバルとか、かなり前方後円墳とは違うと思うがな。
もっと言えば、半島も含めた東アジア全体で大きなマウンドを造る流行があって。
それが出雲や吉備に伝わって、大和では前方後円形を採用したという。
昔は何でも九州発とされ、九州の先進性ばかり強調されていたが。
「文字の原意と派生的な意味」
またごましおさんへのお返事です。
>>いや、新しく造ったのなら、「置く」などは書くものか。<
>それはお前が決めることじゃない。お前以外の、世間一般が決めること。
http://cjjc.weblio.jp/content/置 お前は、自分の妄想の世界から外へ出て、他人と関わることを憶えるべき。<
いや、「置く」の原意は、「置ス」であり、
「新しく建設する」というという意味は、「置ス」からの派生的な意味。
これは、人間の常識。
>>724年にようやく多賀城を確保したのだし、それまでは、直ぐ横の遣り水遺構でさえ、蝦夷人の居住地であったらしいし、762年段階でさえ、120里先はまだ蝦夷国の領土であったんだから。<
>笑。10世紀に出来た国司館なのに、現実逃避ばっかり。<
いや、「X層」からは弥生土器が出土していた、とキミが紹介していた。
それは当然蝦夷の居住地。
またごましおさんへのお返事の続きです。
>もちろん一旦は蝦夷の服属が進み、陸奥国においても戸籍がつくられるように統治が行なわれた。それは702年の陸奥国戸口損益帳からもわかる。<
おそらく福島県付近を支配出来たからだろう。
>しかし、和銅2年(709)3月、蝦夷が反乱を起こす。中央では平城京建設が進行中で、事態に驚いた朝廷は陸奥鎮東将軍・左大弁正四位下巨勢麻呂に、遠江など10カ国から徴発した軍を送るはめになった。陸奥は、そういう不安定な地域だった。<
それは、宮城南部での話であったんだろう。
>それに多賀城碑文が建てられた後にも、伊治公砦麻呂の反乱が起こっているじゃないか。一旦平定しても、反乱が起こることは、全然珍しくない。おまえは歴史を知らないか、都合の悪い歴史を無視するわけだよ。チンピラ詐欺師君。<
当然だろ?。762年でも蝦夷は、多賀城から120里先に「国」があったんだから。
>>当然倭国の製鉄技法の伝播があった可能性もあるし、蝦夷では、8世紀前半から、竪型炉が消えて、大和などの横型炉に丁度変化しているんだから、柏木遺跡の竪型炉は、蝦夷のものだ。<
>物なら、持ってくることも可能だが、技術は人が来ないとダメ。<
いや、蝦夷は蕨手刀を持っているから、自前で製鉄が出来た可能性が高い。
>大和朝廷の統治機構が設置され、その維持に必要な治術が持ち込まれてたと言う説はきわめて妥当。<
そうだ。多賀城付近を制圧したから、大和などの横型炉に変わったのだよ。
>大和朝廷の侵攻以前の蝦夷に製鉄能力があったか、証明してからほざけよ。それが出来ない以上、負け犬の遠吠え。笑<
蕨手刀。
>>938 九州は単に中継点だという事なのにね。
それだけで九州発祥とは言わないだろう。
「大和が大勢力になったのは継体以降」
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>
http://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/7iron03.pdf そのサイトは私のPCでは出せなかったんだが、・・<
>ほう?Mac機でもWindows機でも出せるけどな。ま、これも自分に都合の悪い情報は見えないフリじゃないか。お前の姑息な常套手段。笑<
知らんね。
クリックしたが出なかった。
>>蝦夷は蕨手刀を持っているんだから、製鉄の能力もあった可能性が高いし<
>蕨手刀?それなら稲荷山l古墳の鉄剣は大和風の直刀だから、蝦夷じゃないって事になるよ。また将軍塚古墳の副葬品にある蛇行剣は、西日本のものだ。稲荷山古墳を始めとする埼玉古墳群の被葬者は、どんどん蝦夷から遠ざかって行く。笑<
関東の毛人蝦夷と、東北などの毛人蝦夷が違う蝦夷部族であっただけの事だ。
また、関東の蝦夷には、毛野氏のように、早くから倭国と対等的に友好的に国交や交易をした部族もあっただけの事だ。
>さて関東より北の、福島県の会津大塚山古墳(前方後円墳、114m)の副葬品を見てみよう。まず鏡だが、三角縁神獣鏡等3面で、神獣鏡は同范鏡が岡山から出土している。太刀は3本で、鉄製素環頭太刀と鉄直刀。これも西日本のトレンドだ。<
いや、旧唐書の証言の原則は動かせないのだ。
会津にも、倭国や、倭国配下で一附庸国であった大和などの勢力が及んでいて、
早くから倭国と友好的に国交や交易をした地域であった、というだけの事だ。
>会津大塚山古墳が作られたのは4世紀末。大和朝廷の勢力はここまで来ていた。 <
いや、仮に4世紀末であれば、まだ大和は、倭国の別種旧小国の附庸国だ。
大和が倭国と肩を並べる位の大勢力にまでなったのは、継体以降だ。
そういう民族が隣に居るな
バカはやっぱりそういう考えに行き着くのかな
944 :
ローガン:2013/03/02(土) 18:42:21.22
>>936 >出雲や吉備を強調して、なぜか九州を意識的に無視する。古墳が出来てからの大和の墓制は九州の伝統を引き継いでいる。
?ええと、
>>826にある「古墳が作られるようになると、九州系の剣や玉類あるいは鏡の副葬が見られる。棺の内部を朱で染める習慣も同じ。」の事かな?
そりゃ広域倭国なんだから間接的には、某かの関係があるだろうなあ。
赤坂今井の玉類や水銀朱。
南丹市黒田の破砕鏡。
楯築の剣、玉類や水銀朱。
宮山の剣、鏃、玉類、鏡、水銀朱。 などなど。
ただ葺石の祖型は、出雲の貼石や吉備の円礫堆だろう。勿論、墳上祭祀土器もその辺りのもの。
つうか、奈良盆地の前方後方墳は、明らかに濃尾起源だろ?
濃尾の前方後方墳は、独自に発生発展したことが、トレース可能。
結果として同じ形をしていても、これは偶然の一致で、出雲・北陸系とは関係がない。
946 :
日本@名無史さん:2013/03/02(土) 19:13:36.54
巨大墓は楽浪滅亡後の4世紀に漢人技術者が。亡命して来てからのモノだろ。
箸墓はそれ以降だよ。
>>945 前方後方墳 → 方墳に祭祀部を付け足したもの → 基本形は方墳
前方後円墳 → 円墳に祭祀部を付け足したもの → 基本形は円墳
根本的に違うと思うが? まあ 祭祀の様式はどちらかから流入した可能性はあるが。
楽浪郡でつくったこともないものを日本でつくろうと思ったのはなんでなんだろうな
949 :
日本@名無史さん:2013/03/02(土) 20:47:22.41
倭人の権力者が亡命漢人の土木技術者に、「こんな感じのやつを頼むわ」と設計を依頼したに決まってるだろ。
問題は稲荷山の二つの墓のどちらが主葬か?。
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>古田さんの「関東に大王あり」の243頁の全国分布表が根拠だ。<
>でも、その表がデタラメだと言うことは論証したよな。お前が、この表を何かの論拠として使う気なら、この論証に的確な反論をしてみろよ。
デタラメな表から出された結論は、やはりデタラメ。<
これも、もう何度も、キミの論証が確認「不完全であった」事を指摘済みだよ。
>それに「関東が圧倒的に多い、という事だ。特に金銀環は圧倒的に関東だ。」というけど、
関東の古墳の埋葬品をいちいちあたってみれば、金属の環が含まれている古墳は少ない。
とくに大きな古墳には無いことが多い。
こういう点をみれば、古田の受け売りでお前が固執している話は事実から相当逸脱している。<
これも、出土数や頻度の比較で、倭国や大和の倭人とは、全く別項の価値観を持った部族の存在を示しているんだ、と何度も説明済みだ。
>>何だ、おそらくそれは「金銀環」の分類になっているんだろう、と返事した筈だぞ?。<
>金銀環がどの古墳から出土して、その環の製法が何かを調べてからで無いと、そんなことは言えないよな。相変わらず、口からデマカセ。チンピラ詐欺師の苦し紛れの捨て台詞。笑<
それなら、キミも、古田さんが集計された河出書房新社の出版物を調べて確認しなければ、そんな事はいえない筈だ。
>それに鏡や太刀の話が出てこないぞ。この主要な副葬品については、お前は全く反論出来なかったってことだな。
大学時代に、歴史クラブの高校生と話したときのほうが、歯ごたえがあったな。お前など小学生レベルにも及ばない。 <
鏡は、関東に鈴鏡が多い、という事だ。
そして、キミのいう鏡や太刀は、言うならば、列島に平均的に分布しているだけであり、だから、勿論、大和に特定出来る物でもなかったし、
また、問題の稲荷山の二つの墓のどちらが主葬であるのか?の問題にも関係がないものだ。
古田信者が時代遅れの修行中、伊都国は佐賀だ。
またごましおさんへのお返事です。
>>粘土槨が稲荷山の中心線上にあるから、稲荷山の主埋葬者の「大王」だ。<
>ま、どうしても認められないんなら、現地へ行くことだな。そこで現実と向き合えよ。<
キミやhyena氏が提示した図面で十分。
>>「大王を左治した杖刀人だ」と書かれている鉄剣を所持しているんだから、「左治した臣下」だ。<
>でもその「大王」が稲荷山古墳に葬られているって、どこに書いているんだ?<
銘文と発掘の図面に書かれている。
>>「大王」とは、複数以上の「王」を支配する位の「広範囲の王だ」という意味だ。<
>その大王が、中途半端な規模の稲荷山古墳の、他よりも貧相な粘土槨に葬られているのはなぜ?<
盗掘のため貧相かどうか?は不明である。また、さきたま古墳群の大王家にとって、ヲワケが左治してようやく大王になったので、初元的な古墳であった事も、普通のレベルに見える原因なんだろう。
>盗掘されなかった将軍塚古墳の副葬品から推論をしただろ。お前のは推論じゃないよな。自分に都合のいい解釈を言うだけで、それを示す証拠を提示していない。(まあ、お前のはその場の思いつきにすぎないので、証拠など無いんだけどな。)<
礫床は銀環で、将軍塚は金環である事を指摘済み。
>銀環は、畿内にある。磯城宮って、古田は栃木県藤岡町大崎の小字名だといっているが、大和の磯城、河内の志紀とも言われているぞ。<
雄略の都は磯城ではない。
>古田の説を取ったとすれば、「関東の大王」は上毛野氏の誰かに比定した方がいいじゃないのか?それを、子分のお前がかってに稲荷山古墳の被葬者だって断言していいの?まあ、詐欺師同士のことだから、どうでもいいけどね。<
さきやま古墳群の王たちは、おそらく、毛野氏から一時的に大王家を継承した大王であったんだろう。
またごましおさんへのお返事の続きです。
>>大和にはまだ漢文や漢籍が伝わっていなかったらしいが、毛人蝦夷には沿海州や九州倭国から、既に伝わっていた可能性がある<
>当然伝わっていたさ、畿内には渡来人も多いし。<
書紀が「ウソを付いた」、とでも言うのか?。
>それより、中国の史書によれば、毛人は字を知らない連中なんだよ。<
いや、旧唐書も唐会要も、毛人蝦夷は「文字を知らない」、とは書いていない。
きちんと「国」として扱っており、
稲荷山は、漢文も漢籍も知っている。
>ところでバカくん。他と比較するのは良いことだ。ヲワテの同僚で、典曹人のムリテの眠る江田船山古墳だがね。<
ヲワケの同僚ではない。
>杖刀人首のヲワテより明らかに上位にくるよ。江田船山古墳の副葬品は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/江田船山古墳 ということ。どう見ても、「天下を左治」したヲワテより立派なんだよな。<
江田船山は、おそらく久留米の姫氏の王家の人間。
だから、関係がない。
>お前の大好きなものについて言えば、金の耳飾り三対がだからね。銀環一対より豪華。<
稲荷山とは全く関係がない。
>まあ稲荷山鉄剣銘文は、ヲワテの墓誌だから誇張表現は当然なんだよ。くれぐれもヲワテが「天下を左治した」を事実だと思わないように。杖刀人(歩兵)の部隊長よりは、典曹人すなわち役所(=曹)を司る(=典)人の方が上位と考えられる。<
銀象嵌と金象嵌の違いがあるよ。
倭国は「西北接百濟正北抵新羅」に
また天誅さんへのお返事です。
>●じゃあ、西日本を支配する国は大体真北に島伝いに行けば新羅に接触しますね。<
●じゃあ、大和からは大体真北に島伝いに行けないから、新羅に接触しませんね。
>●つまり唐会要も魏志も方位誤認があって正確な地理情報は記載していないし半島南部に倭人の国があったという古田説はこれにて絶滅ですね。<
●つまり唐会要も魏志も方位はほぼあっているから、ほぼ正確な地理情報を記載しているし、
半島南部に倭人がいなかったという通説は、
これにて絶滅ですね。
いやまあ、規制掛かってるなら大人しくしてればよいものを…
よその掲示板まで来て
書き込みするとか異常。
まあ、だからアク禁されるんだろうけどw
957 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 20:15:17.06
古田信者の臨終勤行、あはれ伊都国は糸島でなかった(陳
動詞は「〜ス」とする意味が中心的
また天誅さんへのお返事です。
>>「服する」は、本来は、目的語をもたない「自ら服属する」という自動詞的意味であった。
そして、自動詞に目的語を付けた使用をした場合に、
例えば「服せしめる」という他動詞的意味も発生する事があるのであり、
それは、本来の他動詞の使用よりも他動詞性が弱いのであり、
自動詞的な意味も含んだ意味になっている。
従って、「西服衆夷六十六國」の「服」は、 他動詞的に使われているが、
「衆夷が(既に)服属していた」という意味が強く内在している意味も含むことになる!。
・・・キミは、動詞の本来的な(自動詞か?他動詞か?の)意味が判っていない低脳者だろう、という事だ。<
>●また、知りもしないことを平然とウソつきしてますね。じゃ「征服」ってのは、元々服属していた者たちを征するの?ばかですね。<
「〜を征服する」と、他動詞的に使われる から、その場合の「征」も「服」も他動詞。
ばかですね。
しかし、2チャンネルに投稿しておられた皆さんには、ご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません。
前回の投稿にも、この投稿にも、急に、
「投稿に失敗しました。コメント投稿、スレッド作成を制限しています。しばらくたってからやり直してください。」
と書かれたのですが、
何が失敗なのか?も判らず、
しばらくしてからやり直しても全く投稿出来ません。
また、Yahooは、
大和(一元)説を否定する「列島多元」説の文言が一言でも入っていると、それは一切全て投稿不能処置にしているようです。
管理者や担当者が、大和一元論が負けそうだ、という危機感を持って、
突然、変身したようなのです。
朝日新聞が、以前に変身したのとおなじでしょう。
ジジイいい加減にしないとアク禁にされるぞ。
また空をつかむさんへのお返事です。
>>日本書紀や続日本紀は、造作や都合の悪い事の抹殺や他の史料の盗用改変が多く、 正確な史料批判無しには信用出来ず、<
>:上毛野三千が実質的な実務の最高責任者として日本書紀の元になる古事の選定を行ったよね
:日本書記には上毛野三千に不利益な古事も掲載されてるよ<
毛人蝦夷の毛野氏系は、早くから倭国と友好的であったし、
継体以降は、大和が倭国内の大勢力になったので、毛野氏系も大和とも友好的になった大豪族であったから、
毛野氏に関しては、日本書紀は、全て大和との関係だ、という造作記載をした可能性があるだけだね。
>:日本書記の安閑天皇即位の534年に東国で大規模な動乱があったことが記されてるよね
:東国の武蔵国で小笠原直使主と小笠原小杵が国造の地位を争ったって記されてるよね
:小杵が使主を殺そうとして上毛野小熊に援軍を頼んだってことになってるよね
:使主は大和に逃げて安閑天皇に助けを求めたよね
:朝廷は使主の応援をして小杵を誅殺したってことになってるよね
:使主は武蔵国造を朝廷から認められてお礼に四箇所の所領を屯倉として朝廷に献上したよね
:上毛野小熊は小杵を応援してたことを朝廷に詫びて一箇所の領地を屯倉として朝廷に献上してるよね<
継体後で白村江の前だから、まだ倭国が主体的であったのであり、
その事件も、大和が主体的であったように編集した可能性があるね。
>:行田市にある埼玉古墳群は笠原直の墓群ってされてるよね
小笠原の事か?。また、根拠な何なんだい?。
しかし、ヲワケが左治して頑張って粘土槨の王をせっかく「関東の大王」にまでならせたのに、
数十年後には、早速同士討ちをやった、という事ですか?。
>:ってことは稲荷山古墳のヲワテは笠原直の祖先って感じだよね <
それは無理だね。
ヲワケは大王家の家臣の家柄だ。
またYahooの議論の紹介の続きです。
>:築造開始期の巻向からは関東から九州にかけての広い範囲の遺物が出土するよね<
いや、九州からとされた2点は、いずれも少し曖昧で無根拠的なものであったのであり、そんな2点では、全く根拠にはならない、というのが実態なんだよ。
つまり、「九州から」というのはぺけだ。
むしろ、逆に、筑紫には、半島や瀬戸内や出雲や河内や大和の人的物的な吸収力を示しているから、
筑紫の方が、半島から西日本全域の権力中心だった、という事になるんだよ。
>:巻向に祭都が建設されてから一斉に関東から九州にかけての広い範囲で前方後円墳の築造が開始されたって感じなんだよね <
全然そうはならんし、
倭国の別種の旧小国の附庸国で、地方の市を監督する大倭職であった大和が、倭国本家の文化風習を東国などに広げる手助けをした、という事だ。
またごましおさんへのお返事です。
>さて
>>キミは、動詞の本来的な(自動詞か?他動詞か?の)意味が判っていない低脳者だろう、という事だ。<
それはお前の事だ。
倭王武は、上表文の最初に「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處」つまり倭の王家は、自ら甲冑を付け、山川を跋渉して休むヒマもなかった。
その後、「東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」と続く。そしてその主語は「祖禰」。
「祖禰が、毛人五十五国を征した」「祖禰が、衆夷六十六国を服した」「祖禰が海北九十五国を平らげた」<
何を当たり前の事を書いてんだい?。「西服衆夷六十六國」の「服」は他動詞として使われたのは、当たり前だよ。
>「服」は
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/116987900000/ の他動詞。お前は、国語すら満足に読めない。歴史を語るなんて、百年早い。<
「服」は、「征ス」や「平ス」とは違って、元々は「服ス」という自動詞が文来の意味だ、と言っているんだよ。
だから「西服衆夷六十六國」の「服」には、自動詞的なニュアンスも含まれているんだ、と言っている。
また「投稿に失敗しました」ですから、こちらに投稿しておきます。
>>旧唐書が、「又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」という明確な実態が書けた、という事は、・・<
>どこが明確?<
唐は、中部山岳地帯の「大山」を知っており、それが日本国の北と東の境界である事も知っており、
その大山の外は、「毛人之國」である事も知っている。
そして、「大山」が境界なんだから、その大山の外というのは、関東平野以北である、というしかない。
>旧唐書は10世紀の宋代の書だが。日本とは遣唐使を通じて相当なやり取りがあったにもかかわらず、この程度の曖昧な表現。<
旧唐書の依存資料は、唐代の記録だ。
だから、日本国が成立した7世紀後半(670年頃)以降の情報になるのだ。
>そもそも「毛人之国」だろ。毛人というのは、中国人に取って、ヒトモドキの野蛮人だぞ。そういう野蛮人の住むエリアが日本列島にあったと書いているのに。<
正史である旧唐書は、そんな認識を書いていない。
普通の国であるような書き方だ。
またYahooでのお返事の続きです。
>>毛野氏は毛人である、と認識していた可能性が十分有り得る。そして、毛野氏が毛人=蝦夷の文化的なリーダーであった可能性も高い。<
>上毛野氏は、日本書紀、新撰姓氏録など大和朝廷の由々しき文化事業に関わった文治派の氏族ですが、何か?
天武天皇の代には、朝臣という高位を与えられた氏族ですが何か?
上毛野氏は、関東から畿内にかけて展開する氏族で、朝鮮と関わりのh会氏族ですが、何か?
蝦夷(毛人)を蔑視した日本書紀を作ったのが、上毛野氏ですが、何か?
大和朝廷の北伐事業の先陣を切って蝦夷(毛人)を攻め立て、多賀城を築いたのも上毛野氏ですが、何か?<
毛人蝦夷の中で、毛野氏だけが特に、古くから倭国と友好的であったようで、
継体の後は大権力を持った大和とも友好的になって、
白村江の後に倭国が大和日本国に併合継承された後は、毛野氏は、大和での権力者になり、
逆に、他の毛人蝦夷の討伐に参加するようになった、
というだけの事。
>>キミのイチャモンが、出土頻度の問題でイチャモンになっておらず、・・・<
>その出土頻度の数字の正確性が無いと言ったはずだが。既に7つの質問を出した。いずれもこの古田のデータは使い物にならない事を示す物だ。これに答えられないくせに。<
キミは何故河出書房新社の文献の内容を確認しないんだ?。
やっぱり古田信者は基地外だなw
966 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 15:59:58.84
毛野氏は皇別氏族だろうw?
ちゃんと新撰姓氏録を見ろよ。
書紀が「半分偽書」である事の根拠
またごましおさんへのお返事です。
>>日本書紀や続日本紀は、造作や都合の悪い事の抹殺や他の史料の盗用改変が多く、正確な史料批判無しには信用出来ず、だから「半分偽書」であるものを絶対信奉するキミの話など、始めから関心が殆どないんだよ。<
>だから日本書紀の記述の誤りの箇所を、きちんと証拠を掲げて指摘したらどうだ、と何回も言っている。<
さてねえ?。「何回も」かどうか?は知らんが、
一回なら、長文の返事を書いた記憶がある。
しかし、その頃、「投稿不能」が沢山あったので、残念ながらいくつも「没」処理したものもあり、
そうち、2チャンネルへの返事の投稿を思いついて、
http://awabi.2ch.net/history/index.html の「【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その18」に出来るだけ書くようにしたんだが、
だから、没にした方なのか?、2チャンネルに書いた方なのか?は判らない。
それで、簡単に書くと、
最大の「偽書」の証拠は、中国史書群に書かれた倭国を、「殆ど存在しなかったような書き方」をしている事であり、
だから、金石文に書かれた(持統期の)大化などの年号も孝徳期のものに書き換えたりし、
「長屋親王」を「長屋王」と書いたりし、
卑弥呼と壹與の二人の事跡を神功一人の事跡に書いたり、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html に書かれたように、
『日本書紀』の舒明紀にある。「(舒明三年、六三一)三月の庚申の朔に、百済の王義慈、王子豊章を入れて質とす」。ところが、これは不思議な記事だ。つぎの年表の示すように、三年は義慈王の時代ではないから、右の『日本書紀』舒明三年項の記事は成立不可能なのである。
と書紀はウソを書いた事になるし、
先行した天皇家の史書である古事記との錯誤も見られる事などが、根拠だ。
>でもおまえは、この程度のチンピラの捨て台詞を残して逃走するだけ。そして時間をおいて、また蒸し返す。この繰り返し。自分が哀れとも惨めとも思わないのは、お前が生まれついての詐欺師の証拠。<
投稿不能にしたTahooの管理担当者にでも、文句を言えばいいんだよ。
968 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 20:28:29.32
>>946 おまえらもそうだが、何か古代の技術を特別なものと勘違いしているの
多すぎなんだよw
古代の技術力なんて、ちょっとした知識がある無しで、
国や文明によって大差がない。
Yahooの掲示板からtextreamになって最初の投稿が、即座に「投稿不能」でしたので、
またこちらへ転写投稿しておきます。
また空をつかむさんへの横レスですが。
自由投稿議論の掲示板がなくなって、これからは、Yahooの管理人が、
textreamという訳の判らない公務員的な言い訳や言い逃れを用意して、
「学問」という文言を隠れ蓑にして、
政府や権力学者やマスコミ権力者の意向に沿った歴史像を誘導し、
投稿の意図的選択や意見の誘導をしようとしているようだから、
私も、textreamでは、
これまでの「史料根拠を挙げての真面目な逐一反論」は止めて、
お遊び程度のお返事にしましょうね。
>:大宝律令作成の名目上の最高責任者は行部親王(忍坂部皇子)で実務の最高責任者は藤原不比等ってさらてる
:行部親王・藤原不比等を除くと作成者は17名で渡来人が半数ってことになってる
:倭人は半数だけどその当時の最高峰の学識があるものが選ばれたってされてる
:下毛野古麻呂はその博識で選ばれたみたいだよね
:それと実務の最古責任者の藤原不比等の母は毛野氏の車持与志古娘だよ<
大和では、毛人の毛野氏系も、大和のために働いて、大いに立身出世をしたらしいね。
しかし、律令は、磐井の頃にある程度出来ていたらしいよ。
倭国を併合した大和は、倭国の律令に変わる新しい律令を作る必要が」あった訳だ。
正直、スレ違いなんだから、せめて別スレ立てるとかしたら?
他の人に迷惑かけちゃいけません。
971 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 18:15:36.15
こいつは精神異常者だろw
精神異常者だからアク禁される。
精神異常者だから他人に迷惑を掛けてることに気づかない。
無限ループですな。
また天誅さんの26953へのお返事ですが、26953に返信のボタンがないので、全体のコメント枠を使って返信する。
>>いや、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/inariyama.html の等高線のどこを通っているのか?を見れば、中心線がずらされて粘土槨の端っこ近くを通るように細工された事が、一目瞭然に、判る。また、礫床が追葬されたから、墳頂平坦部が、礫床の方に拡大されてしまっている事も直ぐに判る。<
>こいつ、馬鹿の見本。中心線は、発掘で確定した前方部とくびれ部の裾位置から二等辺三角形を求めて引かれたものだ。<
こいつ、詐欺師の見本。
中心線は、当然、円墳部の等高線の円弧の中心点を基点にして、前方部の頂や底辺の中心を通すもの。
それをしないで、逆に前方部の恣意的な位置から中心線を書けば、当然円墳部の等高線の円弧の中心を外す事が出来、
粘土槨を中心線から少しずらす事が出来る!。
これ、詐欺師のテクニックね。
>だいたい外堀の陸橋部が西側にあるんだから、西側から堤を渡って造り出しに来て上陵するのが正規の参道だ。西が正面なんだから、中心線!中心線!って連呼しても意味ないだろ。ほんと、「口先口数」だけの、足りない奴。<
いや、先に営まれた粘土槨が前方部に正対しているんだから、それが当初の中心方向であり、正面だ。
ほんと、キミは「口先口数」だけの、足りない詐欺師。
また空をつかむさんの26957と26958へのお返事です。
>:稲荷山古墳の築造から半世紀ごに武蔵国造の乱がおこってるよね:笠原氏の使主と小杵は武蔵国造の地位をかけて争ったんが武蔵国造の乱だよね:小杵が上毛野小熊に支援をもとめたら使主は大和に逃げてったよね:使主は大和に逃げて安閑天皇に助けを求めてるよね<
それは、何が根拠なのか?は判らないが、
日本書紀なら、倭国の話を抹殺している可能性があるから、全面的な信用性はないよ。
しかし、安閑天皇なら、磐井を倒して大和が倭国内の大勢力になった後だから、武蔵国の事件にも関与した可能性はあるだろうね。
>:なんかさー武蔵国のトップの笠原氏ってさー大王って感じがしないんだよね:「上毛野小熊の圧力に負けたり 大和の天皇にすがりついたり」ってさー大王のすることじゃないよね <
始めから、ヲワケ自身は「大王」ではないし、
笠原氏が大王だ、という話にも、何の確定的な根拠もないよ。
>:「天皇」って呼称は天武以降でそれ以前の呼称は「大王」だよね<
列島内の巨大部族が「大王」と称するのは自由だが、中国が「大王」と呼んだのは、倭国だけだ。
>:笠原直使主より半世紀前の稲荷山の墓主の使主と同様に大王じゃないと思うけどね<
主葬の脇に追葬された臣下のヲワケが「大王」と呼べるのは、主葬の主しかいないよ。
>:それにさー武蔵国よりも毛野国のほーが古墳の数も多いし規模もデカイんだよね(上毛野国の古墳数は1万基以上で全国最多ってされてる)<
稲荷山の大王は、磯城宮は両毛の境界にあるんだから、それまでの「毛野氏の地域」も支配 した事になるだけだろ?。
頭の中に爆弾が!
古田信者には基地外しかいないのがよく判るなw
977 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:14:47.98
日本側の名称としては
まずは、スメラミコト、その次にオオキミだよ。
またずっと投稿していて、突然投稿拒否されたので、こちらへの転写です。
皆さん、どの内容が、Yahooの管理者の逆鱗に触れたのか?が判りますか?。
>>白村江の後の日本国が成立時点での支配地域の説明であり、
関東平野は、常陸などの海岸付近を除いて、大体毛人(蝦夷)の国であった、と認識していた事は、確実だ。<
>:白村江の戦いの日本側の指揮官は上毛野稚子と安倍比羅夫の2人だよ <
旧唐書が、白村江で戦った相手としては、(日本国ではなく)、「倭国」と「倭衆」とだけしか書いていないんだよ。
そして、日本国に対しては、「東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」だから、「大山=中部山岳地帯」が「限=境界」だ、と書き、
その外は「毛人の国」だ、と書いているんだから、
「上毛野氏」は、当然、「毛人の国」だ、と証言されている事になるんだよ。
>>978 おまえって人を狂人呼ばわりしててさぁ、
自分自身が狂人になってること分かってるのか。
また即座に投稿不能にされましたから、こちらに転写しておきます。
Yahooの管理者は、激越な「大和一元のマキムク」説者のようですねえ。
またごましおさんへのお返事です。
>まず、それはどこ?<
磯城宮は、藤岡市の大前神社。
>稲荷山古墳には、「倭人の祭祀習慣」の跡しか存在しない。つまり倭人。<
いや、前方後円墳自体が大陸初元であり、埋葬習慣も文字文化も倭国や大陸からの伝来であるが、
金銀環や金環や鈴鏡など倭人とは異質な文化圏を持っていた。
>ほう、常陸にね。倭王武の下には、関東から杖刀人としてヲワケ、九州から典曹人としてムリテが出仕していた。つまり統一国家だったとなるよな。<
ならんね。キミは史料根拠を曲解妄想しているだけだな。
倭王武らは、「東征毛人五十五國」の一環として、東海道から常陸まで征服したから、武蔵〜両毛の毛人にも影響を与えただけ。
>礫槨が北頭位だったことは、一目瞭然。そして将軍塚古墳でも北頭位だった。埼玉古墳群では北頭位をとることが主流。<
いや、初元的な稲荷山は、中心線上の主葬者が北枕ではなかった。
また転載の続きです。
>粘土槨の下半分は残っているんでね。それで槨の大きさも、棺を納めた土壙とそれをコーティングした粘土の厚みもきちんと残っている。
その上で、稲荷山古墳の第二主体は、粘土槨とすることがためらわれるほど薄い粘土のコーティングしか施されていなかった。
これでは、地面に穴をほり木棺を納めただけの直葬に毛が生えたようなもの。
じつに簡素な埋葬。稲荷山古墳の第二主体は、関東における他の粘土槨と比較しても貧相。
人頭大の礫を多数積み上げた第一主体と比べても、明らかに貧相。<
勿論盗掘で上半分が破壊されているんだから、何の論拠にもならないんだが、
稲荷山は、さきたま古墳群部族の初元的な「地域制圧大王としての墓」なんだから、
それなりの精一杯の埋葬をしたらしい、というだけであり、
今問題の礫床との比較では、でこぼこした石ころの上におかれるよりは、粘土でのコーティングの方がはるかに丁寧である事は、常識的。
>>現在でも、中心線上の墳頂部の参拝側(方墳側)から正面の見やすい場所に、鳥居や神社や墓を造られることなど、いくらでもある。<
>なぜ当時の、関東の古墳と比較しないんだ?
それは、お前の妄想を否定するものでしかないからだ。
笑またまたお前の現実逃避が始まった。<
参道側から見て、墳頂の裏側の見えない場所になど、普通は埋葬しないのが、常識。
982 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:05:21.01
橿原考古学研の博物館を見ると圧倒される。
>Yahooの管理者は、激越な「大和一元のマキムク」説者のようですねえ。
お前は本当に病院行った方がいいのでは?
>Yahooの管理者は、激越な「大和一元のマキムク」説者のようですねえ。
う、うわぁ…
>纏向は王権の礎の地か
東海と北陸・山陰で出土土器の3分の2を占めるわけだが、
これが何故なのか学者さんたちは説明できてるの?
俺の意見だが、
ニギハヤヒの息子であるウマシマジが、
東海から北陸・山陰まで征してるんだな。
その影響ではないか。
つまり纏向遺跡は物部の幕府のようなもの。
ウマシマジは神武天皇の時期だから、
この頃の王都は南西部の御所・葛城。
全体の三割が外来土器で、その中では東海系が多い。だろ。
>>986 出土「搬入」土器ね。
だから何で東海や北陸・山陰なん?
また投稿不能でしたので、こちらへ転写しておきます。
またごましおさんへのお返事です。
>>いや、旧唐書は、明確に「東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」と「國」と書いており、それ以上の事は書いていない。<
>当たり前だ。毛人といったら、中国人の知識階級にとって、太平御覧の記載は常識的な認識だったんだから。<
いや、中国にとっても太平御覧にとっても、「毛人」と言っても沿海州の北方方面の部族も有り得るから、列島の倭国の大山の外の「毛人」もそのような部族である、と考えたのか?どうかは判らない。
>>出土鉄剣には、左治された大王が両毛の境界の磯城宮に都した事が書かれ、<
>その「両毛の境界の磯城宮」がどこなのか、全然知らないくせに。アホだな。<
藤岡市の大前神社。一度書いたが、投稿不能になった。
>>礫床のヲワケは、金がふんだんにある地域であるのに、銀環しか付けていなかったし、<
>畿内では、いくらでも金環、銀環が出土しているのに。<
金銀環と金環の場所数が、関東が圧倒的に多いままだ、と書いた筈。
>それを古田は隠して、デタラメな表を持ち出していたよな。<
古田さんは、河出書房新社本から引用されただけなのに、何故「隠してデタラメな表を持ち出していた」と誹謗出来るんだ?。
>>付近は、西日本の倭人とは全く異質な「金銀環や金環や鈴鏡など」の文化地域。<
>金環も銀環も鈴鏡も、畿内にいくらも出土するという事実は消えないよ。現実逃避して、トンでも説を呪文のように唱えるだけ。本当に恥知らずのバカだな。 <
おや?、「金銀環」をこっそり外したな?。「金銀環」が最も顕著な例ではないか?。それに、「畿内にいくらも出土する」と言っても、その数量は全く関東に及ばない。キミは詐欺師だなあ。
>>988 おいジジィ、おまえほんといい加減ににしろよ。
990 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:22:50.98
>>890 > もしかして人体にたかるマラリア蚊やハエ・アブ・ヒルなどを防ぐ等の実用的な意味があったのかもしれぬ
それはないはず。
991 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:50:36.35
出雲、西谷3号墓の埋葬施設上の土器の1/3は、吉備や北陸のものらしい。
これはどう説明するんだ。要するに、どこでもよその土器が見つかるのは
よくあることというわけだろうに。
近畿地方で出るものは何でも都合よく解釈するだけのことだろう。
え?よくあること?
>>991 出雲が吉備や北陸と人的交流があったというだけのことでしょ。
近いし何も問題ない。
994 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 21:20:45.49
>>992 よくあることなんだろう。唐古・鍵でも聞いたし、吉野ヶ里でも聞いたし、
熊本県の方保田東原でも聞いた。
995 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 21:23:40.26
吉備主導と考えるのが一般的だろう。
?
俺が1000
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。