古田史学および古田武彦について語るスレ6

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934zarakoku:2013/10/01(火) 09:44:08.54
>>ハイテクって、一体なんという遺跡だ?笑 <
またYahooでの返事の書き込みです。

>>>>何と言ったって、那珂〜春日は、当時列島最大のハイテク工業地域であり、都への道を示す「大道」の土木工事もあった所だからな。
 
>>>ハイテクって、一体なんという遺跡だ?笑 <

>>もう4〜5年前の議論だったろうから、もう忘れて覚えていないねえ。<


>お得意のチンピラの捨て台詞だな。アホは、ハッタリさえ、下手だな。<

 ちょっと検索しても、
 http://history-channel.blog.ocn.ne.jp/blog/cat10993196/
 のような話が書かれているから、
 もう世間では衆知になっている事だよ。
935日本@名無史さん:2013/10/01(火) 14:19:26.72
投稿拒否される頻度が上がったのかね?
だとすると、そろそろ悪質投稿者リスト入りかな

いつ投稿禁止処置が出るか楽しみだ
936日本@名無史さん:2013/10/01(火) 22:25:34.00
ごちゃごちゃと九州王朝の説明をしていますが
おしゃべり(自白)はもう、たくさんです。過去の日本本土に九州王朝が存在したのか?
明快なる物的証拠(物証)が必要です。自白と物証・・・・・
九州王朝の王宮、王都、王墓の3点セットがなければ、ただの妄想です。
937日本@名無史さん:2013/10/01(火) 22:27:25.90
>>936
私見ですか?w
938日本@名無史さん:2013/10/01(火) 22:34:28.92
九州王朝の本拠地は太宰府だろう。
原始的山城の神籠石や5世紀の古水城が、
太宰府を守る配置になっているのは一目瞭然。

特に水城はどう見ても、畿内方面は全く意識されていない。
939日本@名無史さん:2013/10/01(火) 22:35:43.86
そりゃあ太宰府の守衛で九州にあるなら畿内を意識した配置とか意味ないよなw
940日本@名無史さん:2013/10/01(火) 22:49:44.95
磐井の乱で、磐井は大和王権の軍に攻められたことになっているが、
なぜか軍が来た方向である北九州方面に逃げ込んでいる。
その後、あきらかに軍が通過したであろう糟屋の弟が降伏している。

普通、北九州から攻めてきたら、南に逃げるし、
途中の糟屋の弟は、磐井を落とす前に血祭りにあげるもんだ。

でなければ、糟屋の弟と磐井本軍で挟撃されるのは明白。

むしろ熊本の軍が攻め上ってきて、磐井が北へ逃走し、
そのまま福岡に達して、磐井の弟を降伏させるのが妥当。
941日本@名無史さん:2013/10/01(火) 22:52:06.49
半島との連携については無視か
熊本の軍なんて何の記録も無いのは採用w
942日本@名無史さん:2013/10/02(水) 03:00:26.64
正面決戦を避けて迂回したんじゃね?
943大和 田 直木:2013/10/03(木) 19:47:27.20
磐井の乱は、独裁者磐井に対する反乱。
半島政策の負担に耐えかねた玄界灘沿岸勢力が、
肥君のバックアップを得て、北野地域にいた磐井に反乱戦争をしかけた。

玄界灘沿岸勢力が磐井との戦いに勝った。
磐井は肥勢力のいる南と西には敗走できず、東方に敗走せざるを得なかったのである。
磐井は豊前に敗走したが、体制を立て直す前に殺されたのである。

磐井の防戦立てこもり用に準備しつつあった城が御所ヶ谷神籠石でなかろうかと想像する。
944日本@名無史さん:2013/10/04(金) 00:59:36.37
>>936
王墓
http://www.daizenji.kurume.ed.jp/gonngenn2.htm

王宮
高良大社、高良玉垂宮

王都
久留米
945日本@名無史さん:2013/10/04(金) 01:38:33.90
で?
946zarakoku:2013/10/04(金) 08:03:04.69
また「反古田」偽書説派のハイエナへのお返事の続きのYahooからの転写です。

>しかも、口絵には「東日流」「かたりべ草紙より」の文字が書かれてある点が、1987年撮影のものと相違する。<

 当然、1987年直前?に(福士家より?)見出された「津軽諸翁聞取帳」に、
 その後東日流六郡語部録 諸翁聞取帳の編集時までの間に、
 どなたかが自己注釈説明を書き入れられた、という事になるだけだよ。
 何もおかしくない。
947zarakoku:2013/10/04(金) 08:08:34.21
また転写の続きです。

>“両者はよく似ているが、別物である”という主張を為すことも可能であろうが、それならそれで喜八郎氏の本文と齟齬を来す。
 喜八郎氏が、この『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』の編纂について以下のように述べているからである。
 396ページ。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−幸いにして、飯詰小学校の教諭をされていた故・太田文雄先生が地方の伝説を生徒に教える教材としてこれを書写していたものが残っており、
 さらに公民館長をされていた故・開米智鎧(かいまいちがい)和尚(おしよう)が現代風に意訳して写していたものが保存されていた。
 これらを合わせて新たに編集したものが本書の基礎となった。
 そのために訳出のしかたや方針に一定しない部分が出ているが原本が破棄された今日、本書と比較して照合することが出来ないので不統一はそのままとした。
 原本の文章のそのままではないにせよ、内容においては恣意的な改変を行なわれていないことは確かだからである。
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−<

 それなら、喜八郎さんの手元には、
 福士家から見出された「東日流?諸翁聞取帳」(=昭和24年以前に福士氏が和田家より提示された「飯詰町諸翁聞取帳」とは違うもの?)と、
 それ以外に、故・太田文雄先生が書写したものと、故・開米智鎧和尚が意訳書写されたものの、
 3つはあった、というだけであり、何もおかしくない。
948zarakoku:2013/10/04(金) 08:12:30.49
またYahooでのハイエナへのお返事の続きの転写です。

>喜八郎氏が『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』の「おわりに−安倍頼良将軍の大鎧」を書いたのが末尾にある「平成元年七月十三日記す」であり、
 この時点で喜八郎氏は“一冊残った『津軽諸翁聞取帳』原本”に言及していないのであるから、
 「本書の出版直前」が、同年「七月十三日」以降、刊行日「11月24日」までの間と見ることが出来る。<

 いや、「おわりに−安倍頼良将軍の大鎧」が、「津軽諸翁聞取帳」に記載された事ではなく、太田氏や開米氏らからの文献の記載であれば、
 「津軽諸翁聞取帳」に言及しない事など、何もおかしくない。
 それに、福士家よりの「津軽諸翁聞取帳」の「本書の出版直前」の発見は、始めから「1987年の直前」であった可能性が高い。
 要は、精神的に異常なハイエナが、喜八郎さんの説明を「諸翁聞取帳」は一つだけという曲解妄想をして、
 それで喜八郎さんの説明の「言葉尻」を繋いで、矛盾を妄想捏造してでっち上げようとしているだけだな。
 
 皆さん、騙されないように、気を付けましょうね。
949zarakoku:2013/10/04(金) 22:08:56.92
また転写です。

>>いや、阿毎氏と姫氏の委奴の地での「合同政権」は、倭奴國の頃よりも前に出来たようであり、・・・<

>唐会要によれば、倭の王族は「其王姓阿毎氏。」<

 いや、「古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。・・・」だから、
 倭奴國とタリシホコ以後の倭國が阿毎氏である、と言っているだけであり、
 倭國王帥升などや卑弥呼やイヨや倭の五王などの姓は書かれていないんだよ。

>東海姫氏は、中国側の史料には全く出てこない。
 そして、わずかに日本で作られた野馬台詩に出てくる呼称にすぎず、要するに作り話である。<

 いや、日本書紀私記では、梁の宝志和尚が知っているのは、倭王武へ503年の叙勲事件になるのだから、倭王武は姫氏だ、と言う事だ。
950zarakoku:2013/10/08(火) 17:11:25.84
また転写で、ごまかし氏へのお返事の続きです。

>>私は言ったのは、那珂八幡〜春日地域のハイテクの話だ。
>>ハイテク工業地域の那珂〜春日地域には、河内や大和の庄内が搬入されているんだから、逆に、河内や大和の文物を吸収した文明地になるのであり、<

>で、結局、ハイテクって何のこと?自分で意味のわからない話をするんじゃないよ。<

 で、結局、私が検索して探して上げた誰かのサイトの事を、知らん振りするんかね?。
 意味が判らなかったら、自分で検索して、もう一度探してみな。

>>(造り出しの設置)それは前方部の発展形であっただけであり、
 それでも、現在でも前方部側から拝礼するの事が、人類の常識である、という事は変っていない。<

>古墳時代中期には、造り出しから拝礼するのが常識だったんだけどね。
 後期になれば、前方部に埋葬主体が設けられた。つまり墳丘の一部になった。<

 それでも、大仙陵のように、前方後円墳全体の祭礼場所は、前方部からの方向であった。
 それが、人類の常識の「方向」だな。

>>造り出しは、祭祀や作業のために便宜上造られたものだ、というだけだな。<

>根拠は? <

 初期の前方後円墳には付いていなかったからだよ。
 しかし、この話も、もう以前にお前も同意していたぞ?。お前は、その事も隠すんかい?。
951日本@名無史さん:2013/10/08(火) 17:46:04.53
狂気を感じる
952日本@名無史さん:2013/10/08(火) 17:50:02.53
ビンビン感じる。強い電波が来てる。
953日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:41:28.86
もはや、こんなレベルで狂気に侵されてないと古田信者を続けていけなくなってきたんだろうな
954zarakoku:2013/10/09(水) 08:12:33.54
また転写です。
 
>>> 古墳時代に、庶民と一緒の穴に放り込まれる王はいないよな。<

>>その部族の価値観が、「穴に一緒に入れて貰う」埋葬であった、というだけだ。<

>その根拠は?<

 その部族の金環を付けた王的リーダーが埋葬されているからだ。
 金環>銀環>銅環>鉄環の差異が「身分差を示す」事は、(お前の一番不得手で嫌いな)人類の常識だ。
955zarakoku:2013/10/09(水) 09:59:46.19
また転写です。

>>(ワ武天皇の支配地を除いた)北関東の北武蔵〜両毛付近と、大和付近との比較が最も問題なのだよ。<

>その根拠は?<

 その他の周辺地域については、チクシのワ國や半島渡来部族の事も考慮しなければ、比較になり難いからだよ。

>両毛は、畿内出身の皇別氏族たる上毛野氏の支配地だ。<

 いや、大和一元列島支配教の「皇別」記録など、根拠にならないよ。
 上毛野氏も毛人蝦夷だ。

>一方、お前の言う大和は律令時代に作られた分国であって、古墳時代にそんな線引きはない。<

 いや、倭人ですら100余りの国があったんだから、古墳時代でも列島中は部族国家だらけだ。
 そして、大和はワ國の別種旧小国だ。

>古墳時代は、自然の交通路に沿って移動し、定着した。このエリアは大和王権の勢力範囲と、のちの律令時代にできる大和国と重ならない。<

 大阪地域は、銅鐸部族と毛人蝦夷が、ワ國(とその配下の大和)や半島渡来部族にとって変わられただけだな。

>大和王権の中枢は、大和国よりずっと狭い。・・・
 しかし、この狭いエリアに、日本に存在する200m超級の古墳群の9割が集まっている。・・・<

 「日本國者、倭國之別種也」や「或云日本舊小國、併倭國之地」と書かれている限り、それは妄想だ。

>>上毛野氏も、「毛深いという意味の呼称」であるから、「毛人蝦夷」だ。<

>これは、何を根拠に言ってるのかな?笑 <

 毛人蝦夷地域である事と「毛」の呼称を誇っているからだ。
956zarakoku:2013/10/09(水) 11:46:48.36
また転写です。竹島の帰属問題。

>>「他の部族の居住していた地を武力などで征服支配し、」<

>これは、今は、国際法に抵触しますが、 一次、二次の世界大戦以前は、世界で常態化し、人の歴史そのもであり、国際社会も容認していましたね。
 愚かな人間のやることですから詮方なし。<

 いや、やはり、人類は皆、生存と個人の自由と子孫を残す義務を持った共存すべき兄弟であり、
 地球も海も大地も人類の共有財産であったのであり、
 征服殺し合い戦争は、暴力団や「南→東」のような宗教のように、地球と人類に対する唯我独尊支配欲望の破滅的行為にしかならんだろうね。

>しかし、人道に反する行為(見解は時代により異なると思いますが)は、 被害の当事者が生きている間は、 歴史の問題ではなく、倫理の問題であり、
 個人的には、その人や人々に謝りつづけないといけないと思います。<

 「南→東」の右翼国粋国家至上主義的な唯我独尊の曲解捏造をしている限り、無意味な謝罪にしかならんでしょうね。

>>「連合国のつもりになるでしょうね」<

>・・・・つもりじゃ、大人の話しになりませんね。<

 人類の共有財産である海や島を「自分らだけのものだ」という論理を主張するものは、
 韓国であっても日本であっても、「大人」にはなりませんよ。
 「南→東」でも同じですよ。
957zarakoku:2013/10/09(水) 11:48:43.58
また竹島問題の転写の続きです。

>>「日本には、竹島などの法的絶対領有を宣言権利など全くありません。竹島などの支配権は、旧連合国側で話し合えば済む事ですよ。」<

>・・・?「講和条約」や「日韓平和条約」で曖昧な部分は、大人の話し合いが必要ですね。曖昧な領土問題は、一方だけが宣言するものでなく、 周辺国や国際社会の話し合いで決まる問題です。<

 いや、領土問題など、元々は誰のものでもなかったのだから、人類共存の地球にとって、何の本源性も普遍性もありません。
 個人や集団の「暴力団のような所有権争いや縄張り争い」に過ぎません。
 漁業をしたければ、現所有名義国にお願いしたらいいだけです。

>また「旧連合国側」とあなたはしきりに言いますが、「国連加盟国」は「国連憲章」にのっとり行動する。これが国際ルールでしょう。 役割を終えた「旧連合国側」と話し合う云々は、 今は通用しない、時代錯誤ですよ。<

 日本が無条件降伏をして領有を放棄してしまった事は、今更言い訳が聞かないだけ。
 それを、昔は自分のものだったからよこせ、と言い出すのは、時代錯誤ですよ。
958日本@名無史さん:2013/10/09(水) 12:14:08.13
こいつ、竹島は韓国領って言い張ってるの?
959日本@名無史さん:2013/10/09(水) 12:38:37.62
>いや、領土問題など、元々は誰のものでもなかったのだから、人類共存の地球にとって、何の本源性も普遍性もありません。
アホすぎて腹痛いw
960zarakoku:2013/10/09(水) 19:04:10.45
また偽書説のハイエナへのお返事の転写です。

>昭和62年7月20日第一刷発行、山上笙介編『原本和田家蔵 總輯 東日流六郡誌 全』巻末(379〜382ページ)に、和田喜八郎氏が「『東日流六郡誌』と中山の秘洞」という文を寄せている。
 その中から引用する。 −−−
 昭和二十二年の夏、私は、家伝の「東日流誌」関係群書の存在を知ってまもなく、そのなかにあった遣物秘蔵地図を手がかりとして、同志四人とともに、中山連山の山沢の踊査を敢行した。<

 これは、喜八郎さんが明らかに記憶の混乱をしている。
 それは既に同行した藤本さんの証言で、昭和40年頃の話である事が判っている。
 だから「家伝の「東日流誌」関係群書の存在を知ってまもなく」という「まもなく」が、昭和22年から18年後頃の事になる。
 だから、順番は合っている事になる。
 私も同じような記憶混乱があり、
 若い頃の沢山の旅行の記憶など、同伴の子供らがどんな年齢頃であったのか?をよく思い出さないと、
 10年や20年は、簡単に間違えてしまう。
961zarakoku:2013/10/09(水) 19:07:25.26
またハイエナへの横レスの転写です。

>秘洞発見に次いで、翌昭和二十三年夏、中山連山中から、再び古代の埋蔵物が出土をした。
 場所は糠塚山。今回は偶然の発見で、私の父が炭焼釜を造っていたときに、土中から現われたのである。<

 これも喜八郎さんは、記憶の混乱があるようである。
 「翌昭和二十三年夏」というのは、おそらく昭和40年の翌年の事。
 「私の父が炭焼釜を造っていたときに、土中から現われたのである。」というのも、昭和23年頃の元市さんとの土中からの発見話と混乱されているようだ。
962zarakoku:2013/10/09(水) 19:10:19.32
また転写の続きです。

>右に掲げた六枚の写真ほ、秘洞踏査行のスナップであり、同行した藤崎(青森県南津軽郡藤崎町)の写頁館主佐藤喜一郎さんが撮影したものである。<

 「佐藤喜一郎さんが撮影」の年次がやはり不明。

>「『東日流六郡誌大要』について」掲載の写真に添えられたキャプションにも「中山山地遺跡踏査行 昭和22年、人物は筆写」とある。
 昭和61〜62年頃に喜八郎氏が記した文に依れば、この洞窟を踏査したのが「昭和22年」である。<

 「昭和22年」は、喜八郎さんの単なる記憶間違い。

>1965年(昭和40年)和田喜八郎、藤崎摂取院関係者・佐藤末太郎・加福喜一・藤本光幸を洞窟に案内する(水沢の窟、金井城の窟)
 入口より岩戸遮断地までその先は未踏。(藤本光幸談)<

 喜八郎さんには、大量のいろんな出来事があり過ぎたのであるから、日記でも書いておられない限り、当然記憶の混乱はあるのであり、
 少ない体験を記憶された藤本氏の記憶の方が、より信頼出来る。
963日本@名無史さん:2013/10/09(水) 20:45:18.52
ここまで頻繁に投稿拒否されてるんなら、管理者からも悪質投稿者(嵐)と認定されてるんじゃないか?
964zarakoku:2013/10/11(金) 08:22:24.43
また転写です。
「祇園山古墳」

>>いや、四隅が円弧では、「一辺」を歩測や目測で「断定的に計測出来るようなものではない」不定形なのだから、「長径」で表現して適切。<

>上記のとおり、祇園山古墳は正方形であり、断定的に計測できる。<

 張政らが、卑弥呼の墓を「直接メジャーを使って計測する」ような失礼の事が、出来る筈がない。 
 当然、目測ないしは歩測での大体の計測をして記録した。
 そして、四隅が円弧の不定形であるから、おそらく「長径」に記録した。

>ただし、方形であるため、祇園山古墳の大きさは径で表さない。<

 誤魔化すな。不定形であるため、祇園山古墳の大きさは長径で表わした。

>九州にも円形の墳墓はいくらもあるだろうに。
 わざわざ、明らかに方形の祇園山古墳を選ばなくてもね。
 纒向型の前方後円墳でちっこいのは幾つかあるし。そっちの方がまだマシ。<

 張政らが、前方後円墳を見て、その中の円墳部分だけの大きさを記録するような、騙しのウソを書けば、
 もしもばれたら、首が飛ぶ可能性がある。
 それに、そんなウソや矮小化を、わざわざ記録する必要もない。
 だから、(前方後円墳も不定形であるから)当然最大「長径」で記録する筈。
965zarakoku:2013/10/15(火) 11:12:23.64
また転写です。

>>陳寿は、ワ地について「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書いたんだから、285年頃の伽耶への騎馬民族流民の流入建国事件は知らなかった事になり、<

>285年に、何族がどこに流入したんだ?それが乗っているのは、なんという史料のどの下りだ?<

 新井宏さんの説明のあったんだが、それを出せるPCは、今、手元にないから、紹介はお断り。
 伽耶の騎馬部族は、半島の東北部から満州方面での敗残流民で、半島東岸を通ったような話だったよ。

>>そして、285年頃の騎馬民族流民流入以後の伽耶の陶質土器は、河内でも「庄内と共存」しているが、<

>これは、どこの古墳から出た、どんな資料のことだね?<

 古墳ではなく、久宝寺や加美付近の遺跡であった記憶があるし、
 例の明治大学の佐々木氏の話にも書かれていたよ。

>>285年頃以降になる庄内期の(天孫族地域の)那珂八幡は、同じ天孫族地域のホケノや箸墓の「庄内布留混合」よりも古くなる。<

> 畿内、それも大和川淀川水系のエリア内で、弥生式土器、庄内式土器、布留式土器の変遷が見られるわけだが。
  那珂八幡古墳出土の庄内土器って、どの年代のものだ?<

 柳田さんは、那珂八幡付近の庄内をチクシのU期(後期)とされ、
 明治大学の佐々木氏は、那珂八幡で河内や大和の庄内との「共存」を説明され、
 更に那珂八幡では布留も出土する、としておられ、
 河内では、伽耶からの285年以降の陶質土器と庄内が「共存」していたとしておられるんだから、
 「共存」が根拠になって、那珂八幡の年代は285年以降になり、那珂八幡古墳も285年以降になる、
 という推論だよ。
966日本@名無史さん:2013/10/26(土) 07:14:02.38
磐井と新羅連合、大和と百済連合の決戦。日本で前哨戦を制したものの、結局大敗。
967日本@名無史さん:2013/10/26(土) 23:32:35.91
>>965
那珂八幡から布留が出土するのは知ってるが、庄内は初耳だ。
ま、どうせ浅読み曲解してるのだろうが、
どっちにしても庄内や布留という土師器は畿内土器なんだが。

アホなおっさんwww
968日本@名無史さん:2013/10/27(日) 05:39:28.11
たぶん那珂八幡の神社床下にある第一主体(未発掘)を庄内併行とみる識者見解と、発掘された第二主体の布留がごっちゃになって、脳内で両者共伴に化けているのだろう。
969zarakoku:2013/10/28(月) 19:46:38.70
また転写です。

>>土器に年代が書いていない限り、土器だけでは絶対年代は決まらず、大体の順番を推定するだけ。
そして、年代のはっきりした他の出土物との同じ遺跡内や同じ古墳内部などでの共存や、土器の内外の付着炭化物の放射性炭素などからの大体の推論にしかならない。<

>それなら、まず>>「庄内」が285年以降になるんだから< について、
どんな根拠で、絶対年代で何年位に定義しているのか?、を言わなければ、詐欺師だよ。<

 何回も言ってあるよ、右翼国粋人種差別者くん。
 論理の原点は、河内(確か久宝寺遺跡だったか?)での、伽耶由来の陶質土器と庄内(単独)の共存がある事だ。
 伽耶由来の陶質土器は、伽耶にやって来て(チクシ系のワ人を排除して)建国した騎馬民族流民が齎した、とされており、
 その騎馬民族流民国は、陳寿の魏志には全く記載されていないから、3世紀の第4四半世紀頃以降になり、
 新井さんの紹介では、その頃の満州から高句麗付近の動乱による流民発生が原因と考えられ、その動乱が285年頃であった事から、
 285年という絶対年代が発生したんだよ。
 そうすると、河内の庄内(単独)にも285年以降という絶対年代が発生する事になり、
 それは河内から搬入された纏向や西日本各地やチクシなどの「搬入河内庄内」の年代も、285年以降だ、という事になってしまい、
 だから、纏向や那珂八幡の庄内(単独)の年代も、285年以降だ、という事になってしまうんだよ。
970zarakoku:2013/10/29(火) 07:54:02.53
>>大和の「棺内棺外分離方式で頭部包囲」は、明らかに銚子塚から遅れて発生する。<

また転写です。

>仿製三角縁神獣鏡が副葬されているから、銚子塚古墳はそれほど古いものではない。
 副葬品は密封されるから、中身の最も新しい物が、埋葬の年代の決め手となる。<

 呉系楽浪鏡師らの渡来は、列島で「青龍」紀年鏡が出土したようだから、青龍年間の渡来であった可能性が高く、
 三角縁も、列島では、3世紀後半のチクシの志度や藤崎や那珂八幡地区が先行しているんだから、
 300年過ぎ?頃の銚子塚に仿製三角縁神獣鏡があってもおかしくない。
971zarakoku:2013/10/29(火) 07:56:51.80
また転写の続きです。

>さて「明らかに銚子塚から遅れて発生する」と言う根拠は?<

 布留の黒塚が、(銚子塚と同じ頃と考えられる)「庄内布留混合の箸墓」よりも明らかに新しいからだ。

>もっとも、それよりも問題があって、銚子塚古墳の埋葬形式は、畿内で一般的で九州では珍しいということだ。
 銚子塚古墳の被葬者は、畿内人かもしくは畿内文化に傾倒した九州人と言える。<

 いや、銚子塚は怡土の地であるから、アマイ氏である可能性が高く、
 しかし、369年にはワ王旨(キ氏の玉垂命)が既に久留米に遷宮しているんだから、
 銚子塚のアマイの王は、後1〜2代位で終わった可能性も高いから、
 銚子塚の墓祭祀は、1回きりで終わった可能性も高いんだよ。
 そして、同じアマイ氏の田舎の大和は、ドーナツ現象よろしく、銚子塚の墓祭祀の模倣をやり続けた、という事になるんだよ。
972zarakoku:2013/11/02(土) 12:04:24.01
また転写です。

>>釈日本紀の小野妹子や武徳中の話は、新唐書の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の証拠や・・・<

>だから、武徳中の話の根拠史料は?<

 延喜講記の証言。
 どんな思想的な×書であっても、(例え、書紀や通典や新唐書であっても)、
 史料事実の(「ついうっかり」などの)証言内容な根拠になるんだよ。
973日本@名無史さん:2013/11/02(土) 14:04:19.41
「ヅラ酷使」ならぬzarakoku氏はもう書き込みを休んだ方がいい。

どんどん哀れになっていく。
974日本@名無史さん:2013/11/04(月) 08:58:15.42
チクシ・チクシ・・・・・・こん畜生の古田金太郎飴
975zarakoku:2013/11/04(月) 21:11:36.73
また転写です。

>>「ヤマト」の発音は奈良盆地内の初元的一地名だ<

>そして、日本全体を代表する国名でもある。<

 無理だ。
 新唐書:「日本、古倭奴也。・・・其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城」や、
 「 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」によって、奈良盆地の小地域を「ヤマト」という発音で呼ぶ事が始まり、
 「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」や、
 旧唐書:「日本國者倭國之別種也・・・或云日本舊小國併倭國之地」や、
 唐会要ワ國伝:「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」であるから、
 列島盟主は筑紫のワ國であったのであり、
 大和が「日本全体を代表する国名」になったのは、「日本舊小國併倭國之地」以後であり、
 そして、その後「大ワ→大日本」や「大ワ→大和」や「ヤマト→大和」の書き換えがなされたのだよ。
976日本@名無史さん:2013/11/04(月) 21:52:49.85
邪馬壹国→倭国→貴国→倭国→?国→倭国

   九州王朝はコロコロ国名が変わり 或る時は倭国 そのまた或る時は貴国

   其のまた或る時は?国  そして、そのまた実態は・・・・・・妄想による狂信集団
977日本@名無史さん:2013/11/07(木) 08:45:24.66
「そのまた」の使い方が変だ
978日本@名無史さん:2013/11/07(木) 09:20:29.77
そのまた或る時は>>976、そのまた或る時はキチガイザカロク
979日本@名無史さん:2013/11/07(木) 18:43:00.71
また転写です。

>>「或本」では、文書名には余り重要ではないから省く、という意図が感じられるが、
 大量に書かれた「一書」では、文書名は絶対明かせないのだ、という強い拒絶的な意図が感じられる。
 それは、おそらく「ワ国の文書」であったから。<

>お前の妄想など無意味。「ワ国の文書」と言うならきちんと根拠を示せ。<

 「日本、古倭奴也・・・其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」であるから、
 神武の時にチクシから別種として大和に移った、という事は、神武以前はチクシにいたのであり、
 「一書」は、ぴったり、アマイ氏がチクシ(ワ国)にいた時の「書」であった、
 という事になる。
980日本@名無史さん:2013/11/08(金) 03:51:21.70
「アマイ氏がチクシ(ワ国)にいた」という物的証拠・考古学上の発掘による遺跡、遺物が
あるのだろうか?

チクシ、チクシ、コン畜生

古田の金太郎飴になって古田と同じことを言ってる
いまじゃ金太郎飴から古田の体の一物(イチモツ)つまり古田金玉になっている

「古田金玉なり下がり・・・・・ブラ・ブラ」
981日本@名無史さん:2013/11/09(土) 10:20:53.45
また転写です。

>>前方後円的墳丘墓に関しては、那珂八幡(≒大和の初期前方後円墳と同期)の時代よりも古い、 と いう事までしか判らない事になるのであり、<
  
>↑南九州の西都原の前方後円墳も同じくらい古いのだが。<

 宮崎は、元々は東テイ人地域であったんでしょうが、
 天孫族のアマイ氏の神武の父のウガヤフキアエズの赴任地のようであり、
 大和のアマイ氏の神武の後裔の景行の遠征地でもあるから、元々天孫族系の強い地であり、
 東テイ人は、漢最末期に中国に遣使を派遣した後、歴史上から消え、
 その後の卑弥呼の時代には、5万戸の(ワ国内の国として)投馬國が登場しているから、
 糸島や大和の天孫族系の投馬國が、「西都原の前方後円墳」の主であったんでしょう。
 そうすると、「西都原の前方後円墳」は、糸島や大和の影響下である事になりますから、
 糸島や大和の前方後円墳の「後」だ、という事になりますね。

>サイの地名は九州の西都原、大分県の佐伯=サイキと読む、大分市の土佐井、愛媛県の西條と神武の東征の初期のルートにほぼ一致しており<

 大和からの情報としての新唐書には、
 「日本、古倭奴也・・・其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
とはっきり書かれていますから、
 神武東征の出発地は「チクシ城」でしょうね。
982日本@名無史さん:2013/11/09(土) 10:33:30.55
古田説の終焉地は「チクショー」でしょうね。
983日本@名無史さん
古田信者の馬鹿の二つ覚え

一つ、在るものは全て奪われた
    畿内大和に存在するものは九州王朝から奪った、盗んだものだ
    書記、遺跡、遺物 全て盗まれた

二つ、無いものは地中にあるのだ
    九州の地で九州王朝の存在を証明する遺跡、遺物が無いのは
    まだ土の中に眠っているのだ、発掘されないだけなのだ

    発見されたら驚くな

これを古田信者の馬鹿の二つ覚えと言います。この二つだけを言っていれば論破できると信じている