其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。
前スレ
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1337252884/
2 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/05(木) 20:31:23.51
青谷上寺地遺跡の概要ですが、位置は、現在の鳥取県の中央部の青谷にあります。弥生前
期後半(AD2世紀中頃)から後期後半(3世紀中頃)まで存続していました。
伊勢遺跡はおそらく近江の弥生時代を代表するクニであったはずなの ですが、何故か倭国
大乱の時期からすっかり消えてしまう。
説明の人 の言葉をはっきり聞いたわけではないので正確ではないかもしれませ んが、
今回の「首長の館」は朽ちて潰れたわけではなくて、中心の四 本の柱は抜き取られ、中の
遺物の大半は外に出されて見当たらず、最 後は焼かれて捨てられたらしい。
唐古・鍵遺跡 • 大環濠の消滅。
• 環濠の一部再掘削。弥生時代を通しての環濠集落を放棄したにもかかわらず、
古墳時代の初めに再度環濠集落をも形成する。
長野県 佐久地域では広い台地上に形成された弥生時代後期の大規模集落が、古
墳時代に継続せず、河川や田切りの縁などに分散・小規模化することが知られてい
て、近津遺跡群や隣接する小諸市鎌田原遺跡群はこうした状況を示す遺跡といえます。
弥生後期後半、およそ2世紀末何があった?
それは、ちょうど纒向の勃興期にあたる。
3 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:15:17.16
4 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:51:46.01
5 :
橙犬者:2012/07/07(土) 19:00:12.86
>>899 唐松山さん投稿(2012/06/27(水) 22:09:13.57)謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66
唐松山さん有難うございます。
>つまり、この日食は、時と場所が書かれていない、●差込記事●である。(●を私が追加)
仰るとおり、時は、唐松山さんが主張されている「阿豆那比之罪=日食」の記事自体に具体的には書かれていません。
「阿豆那比之罪」の文章の前に有る「新羅之明年春二月」と、後に有る「三月丙申朔庚子、命武内宿禰」からの類推に過ぎません。
しかし、場所は~功紀から「紀伊國小竹宮」と読めると思います。皇后が問いかけている相手も「紀直祖豊耳」です。
場所が書かれていないようには、私には解釈し難いのです。
>この日食は、計算値によると、北陸で全食が見られたと思われる。
>神功の出発地だ。神功に近い筋が持っていた情報ということだろうと思う。
273年に天体現象として「日食」が神功の出発地である北陸で観測された可能性は十分に有ると思います。
この「阿豆那比之罪=日食」を、「新羅之明年春二月」と、「三月丙申朔庚子、命武内宿禰」の間に差し込んだとのご意見ですね。
仲哀紀の二年に次の文が有ります。
「夏六月辛巳朔庚寅天皇泊于豊浦津且●皇后従角鹿発●」(●を私が追加)
~功皇后が北陸の角鹿を出発したのは仲哀二年です。
仲哀二年に北陸を出発する前の~功皇后が「皇后問●紀直祖豊耳●」と質問をしたことになり、時が矛盾します。(●を私が追加)
誰が誰に何を質問したのかが、明確に文面に残っています。情報の信頼性は高いと考えます。
それとも、273年には~功皇后が北陸に戻り、その時「紀直祖豊耳」が同行したのでしょうか。
●差込に創作(時も場所も違う)を加えたと仰るのでしょうか、となると、「阿豆那比之罪=日食」の記事全体の信憑性も低くなります。
唐松山さんのご意見の理解が進まず、納得仕切れずにおります。
●唐松山さんが、275年は、~功皇后元年であるという論理が少し判って来ました。
>神宮52年 七支刀。七支刀もその銘から容認できる位置(年月)は限られる。>861 唐松山さん投稿:2012/06/26
>七支刀から逆算すれば神功元年は275年になる。>861 唐松山さん投稿:2012/06/26
七支刀が拠り所なのでしょう。
6 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:53:31.13
空白の4世紀は日本で大戦争が繰り広げられて記録ができなかった
7 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/08(日) 22:08:34.79
太陰暦が存在した。とした場合の太陰暦が下記である。
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?
増しは1章こと19年7潤=6940日が基本で4章につき1日(調整)を減ずる。
潤月は古記に従い、仲哀元年閏11月から逆算する。
西暦 年号元旦朔 増し調整 暦日
42年 神武元年庚辰朔 3章1日 0日 西元42年2月9日辛卯朔
途中省略 この間の増し 16章5日
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔 85106日 344年 応神元年
313年 神功39年丁巳朔 太歳 98986日
313年 仁徳元年丁丑朔 98986日 神功39年太歳を元年とする。
400年 履中元年壬子朔 130761日
8 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/08(日) 22:18:06.81
続き
その場合の、歴史との接点を下記に示す。崇神時代
年輪降水量
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi 新羅本紀の192年や後漢書の183,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。
193年=崇神5年=新羅本紀192年。新羅193年倭人大餓。
考古:2世紀末、各地の土器が纒向に持ち込まれる。=崇神10年異俗多帰。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
9 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/08(日) 22:20:09.85
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html 纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
仁徳天皇十二年(甲申三二四)七月 高麗國貢鐵盾。鐵的。
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 316年晋滅亡、兵の引き上げ
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 [323年神功49年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
10 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/08(日) 22:27:51.90
私の主張する数字は、百済本紀の百済王家につながらない。
そして、私の主張する数字が正しければ、3国史記の正しい年代を特定する必要がある。
奈勿大圣神帝元年丁丑
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣使责之
奈勿大圣神帝7年水羊=癸未
三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
奈勿大圣神帝8年木神=甲申
夫余谨须殂枕流立其母阿尒执政遣千世吊之
千熊長彦の登場は、倭が背くべき朝廷が存在した数年後の癸未年にあたるが、貴須の即位した前年ではない。
316年西晋滅亡
317年丁丑 まだ楽浪・帯方は滅亡していないが、倭が背く程度には存在している
323年癸未 神功49年己巳 千熊長彦。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年丙戌 5月16日丙午(東晋17日丙午)
神功64年甲申 仇首王即位。
つまり、百済本紀の王家には、書紀の干支が使われている。そのため120年差となる。
奈勿大圣神帝ってもういいよ。
いい加減にしてくれ。
新興宗教の集いかよ。
12 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/08(日) 22:55:24.20
13 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/08(日) 23:36:52.09
>~功皇后が北陸の角鹿を出発したのは仲哀二年です。
240年12月15日日本武尊誕生。この数字から仲哀の誕生を推定すれば、17年後の257年ころ
そこから、17年ほど後の274年に応神が生まれる。
当時の男の元服=結婚可能年齢は15才とするのが妥当である。
仲哀9年に応神が生まれるのであり、仲哀の結婚適齢期は3年前程度が予測される。
仲哀2年に神功が敦賀を出発する。そのまま豊浦では、仲哀が適齢期に達していない。
記事がおかしいのか?
編年に問題があるのか?
まあ、通常編年に問題があるとなるのであるが、神功紀をどういう数字で説明するか?
という問題でもある。
274年神功渡海であれば、晋による冊封体制への参加。
255年日本武尊九州遠征の時点で、倭人伝を読む
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
この1大卒をもって、韓の警察行為をさせる、それが晋の目的であれば、渡海は可能である。
最初から、新羅や百済の上に立てる。
ここから、50年間 韓で警察行為に携われば、それ相応の信頼関係も生まれ、百済とも面識の仲となれる。
つまり、神功49年の記事は、正しい記事であると主張できる。
この正しい記事が、3国史記により捻じ曲げられている。というのが私の主張なのである。
だから、>「奈勿大圣神帝ってもういいよ」 と言われても簡単に引き下がれない。
>>「奈勿大圣神帝ってもういいよ」 と言われても簡単に引き下がれない。
応神天皇110歳と言ってる君は退場すべき。
>273年に天体現象として「日食」が神功の出発地である北陸で観測された可能性は十分に有ると思います。
NASAの日蝕データによると
273年5月4日に北陸地方を通る皆既日蝕があった。
今の上越市附近では、
日蝕開始:15時51分
皆既開始:16時53分
皆既最大:16時55分
皆既終了:16時57分
日蝕終了:17時53分
16 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/09(月) 22:17:43.21
仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅。立八田皇女爲皇后。
仁徳四十年春二月。納雌鳥皇女欲爲妃。以隼別皇子爲媒。時隼別皇子密親娶。
いずれも応神の子供と説明されている。
当時の適齢期なら、女13〜16歳程度だろう。
つまり、仁徳40年で応神の子供が16歳程度におさめなければならない。
まさか40才の婆さんに設定はできない。
17 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/09(月) 22:31:05.25
>応神天皇110歳と言ってる君は退場すべき。
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。
崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。
神功皇后 275年〜343年
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・404年帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・428年? 413年東晋へ朝貢
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済 元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
応神誕生から仁徳崩御までの時空は書紀、古事記で同じになる。
古事記の干支での没年
崇神 318
垂仁
景行
成務 355
仲哀 362
神功
応神 394
仁徳 427
当時の平均寿命高貴な方々で30歳前半。
34歳として世代間隔17年が妥当だろう。
何が応神天皇110歳だよ、お花畑野郎。
19 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 09:44:27.52
応神天皇110歳。たしかに不自然ではある。
しかし江戸時代の学者などは、そう書いてあっても、さほど気にしなかったのである。
ふ〜ん、そんなものか…程度で済ませていたのである。
なにしろ古い時代のことだから、正確な年代など分りようがない。
適当に書いてあるのだろうと思い、適当は適当で済ませていたのである。
実際、記録に残っていない天皇が何人もいたのかもしれず、
110歳はデタラメだろうと考えて年齢を縮めてしまうと、
却って実年代からズレてしまう恐れがあるのである。
だから110歳と書いてあれば一応、ああ、そうか、と思っていればよいし、
神武即位がBC660とされているなら、一応、ああ、そうか、と思っていればよろしい。
>実際、記録に残っていない天皇が何人もいたのかもしれず、
110歳はデタラメだろうと考えて年齢を縮めてしまうと、
却って実年代からズレてしまう恐れがあるのである
なら110歳なんて高齢な天皇より適当な年齢の天皇作り出せばいいではないか。
応神天皇元年390年で何も不都合ない。
何言ってるんだ。
22 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 12:40:24.06
桓檀古記に神武と思われる人物の記事がある。
戊申十年,豆只州濊邑叛,命余守己斬其酋素尸毛犁,自是稱其地曰素尸毛犁,今轉音爲牛首國也。
其後孫有陜野奴者,逃於海上,據三島,僭稱天王 (檀君世紀 三世檀君嘉勒)
戊午五十年,帝遣將彦波弗哈平海上熊襲 (三十五世檀君沙伐)(BC722)
甲寅三十八年,遣陜野侯「幋命往討海上。十二月,三道悉平 (三十六世檀君賣勒)(BC666)
甲寅,命陜野侯率戰船五百艘往討海島,定倭人之叛 (馬韓世家下))(BC666)
神武東征開始も甲寅BC666。
だから神武即位BC660というのはあながち無視できない。
紀の編年は意外と正しい可能性があるのである。
23 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 12:52:56.06
神武は狹野尊と称された。
桓檀古記では陜野侯「幋となっている。
>桓檀古記
消えろ。
25 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 17:40:24.14
>>24 お前は自分を何様だと思ってるんだ。
人に向かって消えろとはよく言えたもんだ。
どんな育ち方をしてるんだ。
まともな学者が、他の学者の説が信じられないからといって、
相手に向かって消えろなどと言うか?
だからここの人間はチンピラだと言われるんだ。
伊作さえ、お前らがチンピラだから辟易して出てこない。
もっと言葉を慎め。
26 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 19:06:29.01
いわゆる偽書と呼ばれているものにも二種類ある。
一つは世人を騙して楽しもうという、愉快犯的な動機で書かれたもので、
江戸時代の偽書などはこういうのが多い。博識の変人奇人がこういうのに手を染めた。
もう一つは桓檀古記や揆園史話のように、愛国心から書かれたものである。
揆園史話などを読むとその感が強い。憂国の士が、
三国史記に書かれていることだけが朝鮮の歴史ではないことを世に示さんとして書いたものである。
実際、揆園史話などは偽書ではない。誤謬はあるかもしれないが、
誤謬があることと偽書であることは別である。
>>24の男は、桓檀古記や奈勿大神帝紀のようなインチキ臭い資料を基に歴史を論じるのはやめてくれ、
と言いたいのだろうが、読んでみるとそれほど偽書臭はしない。
もちろん日本に関する記述などはいかにもインチキ臭いのだが、そういうのはごく一部である。
正史と考古学だけで歴史を語れ、と言われてしまうと、議論が縮小してしまうのである。
27 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/10(火) 22:02:25.33
>>18 神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)九月己卯《十》◆秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)十月辛丑《三》◆冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。
このように、渡海は素人軍団だ。
では、渡海はあったか?
私の答えは、「渡海はあった」である。
それは、365年で可能か?
答えは、不可能である。
事実を事実とするためには、応神273年誕生で384年崩御。
もちろん、允恭4年のクガダチにより世継ぎは書き換えられている。
28 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:27:06.43
飛鳥昭雄説
卑弥呼は渡来したインディアン
インディアンも来てたのか!
>>26 で偉そうにほざいてるが、
おまえは卑弥呼を誰だと思ってんだ?
能書きはいいから答えろ。
31 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/10(火) 23:29:33.62
>>30 分らないとしか答えようがない。
私は、卑弥呼の倭は日本ではない、という可能性を探っているのである。
可能性が高いのは馬韓、百済、加耶あたりだろうが、
吉林省の東部あたりに倭山とか矮山と呼ばれる山があり、
その辺りにも倭人がいた気配がある。
さらに荇人國というのが北朝鮮北部か吉林省あたりに在ったのであり、
これはかなりの大国で遼東と縁が深かったのだが、正史には出てこない。
人が国名に付く珍しい国で、倭だけが倭人と書かれることと何か関係があるのかもしれない。
とにかくいろんな書を読んで情報を集めているのである。
32 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/10(火) 23:30:01.08
>おまえは卑弥呼を誰だと思ってんだ?
倭人伝が読めるのか?まあ、魏志より北史のほうが正確なことも?
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。 卑弥呼は詔書にむくいる朝貢、そこで「親魏倭王卑彌呼」を認められる。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使上表答謝恩詔。 詔書を奉じて倭国を訪れる。
卑弥呼とは別人だ。
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。倭王は、東倭にいる。
ここまで、理解できたか? 倭国は2王体制なのである。
これが理解できなければ、次に進めない。
33 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/10(火) 23:37:53.50
>>30 考古学の知見を正しいとしているか?
崇神=318年?とか言っているようでは、卑弥呼は見つからない。
これまで、卑弥呼が見つからなかった元凶はこの時代齟齬にある。
埴輪は誰の時代から存在するか知っているのか?
纏向1類(前) 弥生X様式土器 後漢193年冷夏凶作 。東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
纏向2類(後)
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
倭奴國卑弥呼はどこにおりましたの?
35 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/11(水) 00:06:54.71
崇神5年飢饉=後漢193年冷夏飢饉
崇神10年 異俗多帰=2世紀末
崇神世(58年)任那建国=210年金官伽耶の建国
垂仁末=ホケノ山=239年伊支馬イクメ、都市牛利(たしうり)
景行12年=九州北部に庄内式土器。 ここに卑弥呼とできる女性が登場する。
仲哀9年=274年 二月,分幽州五郡置平州。
神功渡海とは、大倭が九州に置いた1大卒の行為を半島で行うため、晋の命令による渡海であるから
素人軍でも可能だったのだ。
半島の1大卒(倭の警察軍)が半島を検察する。そのまま新羅などの上に立つ。
これだけのヒントがあれば、卑弥呼が誰か察しはつくはずである。
卑弥呼はだ〜れだ?
>>33 >纏向1類(前) 弥生X様式土器 後漢193年冷夏凶作 。東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
>考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
>纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
>纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
>纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
>纏向2類(後)
>纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
>倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
>前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
>纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
>纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
>纏向4類(前)
>纏向4類(中)
だから何?
石野・豊岡編年でおのれの応神天皇110歳とかいうクソ説をごまかすな。
ブスが化粧してるのと変わんねぇぞw
>崇神10年 異俗多帰=2世紀末
お花畑!www
38 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/11(水) 12:28:21.65
274年 渡海の年に応人は生まれる。
応神のあと313年に仁徳が即位する。
神功・応神を274〜312年までに閉じ込められるか?
当然、百済王家も閉じ込めなければ書紀の記事が認められない。
323年神功49年、半島の領有と領土分与。西晋が滅び、晋の役人が新羅を離れるのが320年
326年 神功52年 七支刀。
ここ以外に半島占拠を正しいとできる時空が存在するか?
369年=七支刀では、すべてが否定されている。
韓国人に聞いてみろ。「半島の占拠と領土分与はここでよろしいでしょうか?」と
神功前紀 載于八十艘船。令從官軍。是以。新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
何のことかわかるか?
晋の命令により半島に1大卒を置く。当然経費がかかる。経費は半島でまかなう。
半島で税の徴収、当然郡の取り分と倭の取り分があり、倭軍が税の取立てにあたる。
この税金のことを言っているのだ、ではその取り立てた税はどこに使われたか?
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、兵の引き上げ
この古墳に副葬された鉄器は皆それにあたる。
>274年 渡海の年に応人は生まれる。
>応神のあと313年に仁徳が即位する。
しないよw
そんな時代感の人間に自分たちの研究結果を出されたら、
石野さんや豊岡さんも迷惑だろうな。
33 :唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/10(火) 23:37:53.50
>>30 考古学の知見を正しいとしているか?
偉そうにね。
石野・豊岡両氏はおまえの知見を正しいとしてねぇよ。
41 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/11(水) 13:16:29.86
>石野・豊岡両氏はおまえの知見を正しいとしてねぇよ。
当然だな。私の主張には百済本紀の書き換えが含まれている。
中国で編纂された百済本紀を書き換える勇気が無い。
ところがだ、韓国考古学は、百済本紀の年代を確認できていない。
百済本紀の年代を引き上げればそれは解決する。
しかし、ここにひとつ問題がある。それは、
七支刀=369年で書紀の記事を否定できる。
その年代を引き上げれば、私の主張となる。
百済は49年の領土分与により建国され、その後百済は倭の属国となる。
韓国人は、倭の属国より未知の4世紀を選択する。
君はそれを認める。
42 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/11(水) 13:23:34.57
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm 4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。
騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・木芯鉄張り輪鐙が出土。初めて殉葬が確認される。
伽耶地域では5世紀前葉あるいは中葉以降、竪穴式石室の内部を立体的にして壮大な円形
封土を盛った支配者の墓が築造されるが、金官伽耶は木槨墓を最後に墳墓が築造されない。
これは狗耶韓国系の集団が他の集団によって解体・吸収されたか他に移ったことを意味する。
「5世紀前葉に金海大成洞の集団が行方知らずになった」と申教授は述べている。
383年(323年神功49年)
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れ
る事が多いのでお吸物である(国人)らが離反してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
文献の年代を引き上げれば、文献と考古学が合致することは理解できるか?
韓国人は、その結果を受け入れるより、未知の4世紀を選択する。
つまり、この時点で学問ではなくなる。
その結果、応神天皇110歳になったなら消えてよし。
三国史記・
二代王南解次次雄の時代
倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。
しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。
さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
あれ?前半の主語である倭人はどうしたの?
正解は倭人に王様を立てられてしまいした…テヘ。
その王様である二代王南解次次雄が倭人。
古事記で神功皇后が新羅王の門に祀った住之江(住吉)大神のナカツツノオが南解次次雄。
時代は仲哀没362年としてその頃。
案の定、南解次次雄は倭人の脱解を娘婿にし4代目王になってるね。
したがって新羅建国は4世紀中ごろ。
45 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/12(木) 13:02:12.98
>ナカツツノオが南解次次雄 ←根拠が書いてない。
>倭人の脱解 ←脱解は昔氏で倭人ではない。
46 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 14:13:48.88
邪馬台と大和って発音が似てるからなあ
卑弥呼は天皇の先祖じゃないのか?
>根拠が書いてない。
偶然とは思えぬ一致だ。悔しいのかい?w
>脱解は昔氏で倭人ではない
タバナ国は列島なんで倭人だろ、ごまかすな。
悔しいのうw
情報過多で迷路にハマってる人ばっかりだね
書紀編纂の意図とか言い出したらきりがない
卑弥呼は神功皇后で決まり。
(だから女帝ではなく女王と記された)
邪馬台国は国家と言うより朝廷と豪族の利権型共同体で
西日本に広がり、機内に国政本部、九州に対外本部があった。
卑弥呼は議長のような立場で畿内と九州を行き来していた。
こう考えるのが合理的で美しい。
>>48 4世紀後半の神功皇后を卑弥呼にしたばかりに、
もう年代がグダグダになって、
どうせならってことで神武を辛酉革命に合わせ紀元前660年にしたのだろう。
神功皇后はありえない。
50 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 17:46:26.28
>>48 神功皇后は近江の豪族息長氏の娘だよ
九州と縁もゆかりもない
51 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/12(木) 17:49:14.69
>>47 プッ 冗談で書いているんだろうと思ったら本気だったのか。
なんというアンポンタン野郎だw
人に向かって消えろ、とか、よそでやれ、と書いているくせに、
自身は古代人の寿命は35歳だとか、ナカツツノオが南解次次雄だとか、
バカ丸出しのことを平気で書いているのだから呆れたものだ。
次はジと訓むのだ、バカタレ。
それにタバナ国は倭の東北と書いてあるのだから倭ではない。
脱解が倭人だとどこかに書いてあるか? 目を皿にしてよく読んでみろ。
二十三年甲子(AD4年) <鵲>太子浮海入<新羅>
こういう所伝の方が遥かに信憑性があるのだ。
こんなアンポンタンが親分気取りで仕切っているのだから、困ったものだ。
52 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:01:26.87
阿達羅紀 (A.D.213 - A.D.243)
(216)四年四月 多婆那以迎烏カ爲君
53 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:17:05.25
声出して読んだりしちゃだめだけど
脱解本多婆那國所生也
其國在倭國東北一千里
初其國王 娶女國王女爲妻
有娠七年 乃生大卵
倭の女國王女が大卵生んで
それが辰韓阿珍浦口に流れ着いて
大卵から出てくるのが脱解だから
脱解のかあちゃんは女國王女だな
54 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 19:02:12.59
ようするに土人の酋長が海峡渡って行ったり来たりで
双方のがこゆい血縁関係にあったとゆうことでしょ
烏カの烏は かささぎ 鵲 カチガラス のでシンボルのがお日様ので
男のかささぎだったら三本脚とかであってもふつうだな
んで「日矛」は「日北孤」で書いてあげても良いのだろ
「いきながたり」女大酋長さんにも母系ので「日北孤」の血が流れていたりするんだよな
>>49-50 別にこのスレに居付くつもりもないし、
>>48に固執するつもりもない
ただ、反証はちゃんと意味を理解してからしてもらわないと、どう反応していいか
判らず困ってしまうw
反論はまともな日本語で論理的に頼む。
56 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:34:32.68
ばかだなあ
卑弥呼と神功皇后は別人にきまるだろ
だいいち使用する武器がちがうだろうが
卑弥呼の武器は鏡で
神功皇后の武器は珠だからね
干満のをつかさどるのは月の女王で
日照のをつかさどるのは日の女王だろ
卑弥呼の女の園の女王國が干満の差のでかい所に立地していたら
卑弥呼は二個のたま使いであったはずだろ
57 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:37:36.94
>>55 卑弥呼には子がいないのに、堂々と子を産みましたなんて
書いてある時点で無いわ、JK
59 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:56:49.85
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
きまった婿さんとかいなくても子は成せたりするでしょ
書いていないとゆうことはなかったとゆうことと直結とかはしないんだよね
有男弟佐治國のひとと
唯有男子一人給飮食 傳辭出入のひととは別人だろ
佐治國とゆうのは身の回りの世話とかするのとはまったくのべつごとだろ
ようは男妾さんとかでねえのかな
そおゆうひとが殉死とかする例は
新羅のルーツの所の伝とかにも残存したりしていたりするけどね
>>59 都合よく考えすぎだね。
巫女、シャーマンで子を成す事は致命的なんだけど、
一般的な認識だと。
61 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 21:29:51.85
巫女と遊女は紙一重とゆうのもあるけど
女王になってからは見るものがほとんどいないんだから妊娠出産してもわからないしね
ねーよw
巫女は処女じゃ無くなった時点で終わり。
要は免許剥奪、モグリの女王になってしまうわ。
でもできちゃったもんはしょーがないからw
65 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:07:17.71
又言有「一國亦在海中 純女無男」
これのは「女の園」すなわち「女王國」のことを謂っているのだろ
>>53 で出てきている「女國」のことだよな
アマゾネスの世界ではホストのがビジターをゲストとして優待して
けっか子を成すと
男はいらないからビジターのところに引き取ってもらう
女の子だけ残して宗族を連綿と維持継続させるみたいな
プラセンタを製造してたんだよ エジプトの技術だよ 始皇帝だって使ってたんだから
>>56>>58 そもそも日本国に信頼に足りる正史が存在せず、神宮皇后の生年も
存在すらも説がバラバラ。
そんなあやふやで断片的な資料に基づいた歴史観でばかだなあとか
卑弥呼には子はいないとかこきおろす奴がバカということ。
実証という観点から考古学、推理という観点から歴史学、心理学、
行動学などが相まって高度な人類史の推論が形成されていくんじゃない?
という歴史観のギミックが
>>48なんだよ。
判んないだろうなw
68 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:21:51.17
>>63なんか卑弥呼は巫女で子どもはいないで思考停止してるw
発展性のない馬鹿の典型だよねw
69 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:23:04.20
ばかだなあ
土人の女酋長の諸類型のこと騙っているのにさ
「卑弥呼と神功皇后は別人」のの真意は
「卑弥呼タイプの女酋長は神功皇后タイプの女酋長とは別の類型」て
読み替えできないとかてほんと未熟だな
卑弥呼の頃は生贄を食ったりしてたけど
神功皇后の頃にはさすがになくなっただろう
71 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/12(木) 22:27:30.44
くだらない話題が続いているので、今日の掘り出し物を挙げておこう。
…以此,<加葉>人聞而益来,巫風大振.巫之観望者,或南或西,<涉羅>‧<倭>‧<韓>之巫風終此始熾.BCE29
九月,<涉羅>女主<奕居知>遣使入貢.<涉羅>,在於<桓那>之東南,依山傍海,世襲女主.
山多野少,民以魚獵為生,冡冢居岩伏,好歌舞鬼神.囯之俊秀者為女主之嬖臣,生女為巫,其最少者継之.
其俗淳,實不等,能為其主而盡忠.上,賜<奕居知>綾緞,命親自入朝 BCE24
この<涉羅>をこのサイトの主は涉羅國{=斯羅=斯盧=新盧=尸羅}と解しているようだが、
そうとは限らない。こういう記事がある。
二月 召羅太守山我卒 以其國屬于所利城 西韓遂絶 上命有司 賜方我族屬一百人 家宅奴婢 于京都
とはいえ涉羅は朝鮮半島の東側の国と思われ、斯羅=斯盧=新盧=尸羅かもしれない。
とすると卑弥呼は斯羅=斯盧=新盧=尸羅にいたのかもしれない。
ただし私は尸羅は斯羅=斯盧=新盧とは別だろうと思っているのだが。
72 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:30:53.69
くだるところに籠もってりゃええのに
楊貴妃も使ったんだよ
ほんとーだよ
74 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:40:55.50
>>69 意味も判らないまま貶すだけw馬鹿丸出し
>>71 怪しいチョン記事と主観だけの方が下らないと思われ
75 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/12(木) 22:51:20.11
ついでに言うと、荇人国も桓那国も女主=女王がいたのである。
涉羅国は女王が世襲で巫女だったと書いてあるし、
とにかく古代は女王がゴロゴロいたのである。
それからこれは無関係だが、山海経にこういう記事がある。
女子国在巫咸北
巫咸国在女丑北
この女子国、女丑というのは粛慎のことである。巫咸とは長白山あたり。
マリー・アントワネットだって使ったんだよ
ほんとーだよ
>>68 君のように足りない知恵で余計な発想をすると
本質から離れて明後日の方向へ行くだけだよw
78 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 23:14:37.73
思考停止よりはマシだろw
79 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/12(木) 23:21:49.90
粛慎と書いたが沃沮と考えてもよい。要するにのちの女真である。
で、この女子国、女丑という名が「一國亦在海中 純女無男」という伝説を生んだのだろう。
で、多婆那國の王が娶った女國王女というのは、女子国、女丑の王女か、
または涉羅国の王女なのだろう。
正解と思うならそこで思考を停止しなきゃw
大体神功皇后は応神天皇を産んでる訳だが。
それでどう卑弥呼の時代と結びつくのかな?
81 :
レス長たらし毘古:2012/07/12(木) 23:54:06.12
>>56 >卑弥呼と神功皇后は別人にきまるだろ だいいち使用する武器がちがう
だろうが 卑弥呼の武器は鏡で 神功皇后の武器は珠だからね 干満のを
つかさどるのは月の女王で 日照のをつかさどるのは日の女王だろ
横槍なので、応レスはこちらは不要なのでおまかせしますが、当方も基本
別人と考えています。(当方は卑弥呼はモモソ世代説)そこは同感。
(但し、イメージは後代重ねられ、だぶらされた)
ただし、古事記上は、月の神(ツクヨミ)は男とされています。そして、
アマテラスは日の神にして女性。
さて、ここで面白いのが、伊勢のアマテラス様は「男かもしれない」と言う
疑惑の余地が生じてしまう点。
これを解決すべく、ひとつの推論があります。つまり、伊勢の神はそもそも
「ツクヨミ」だったのではないか?と言う推論です。これなら、伊勢の神が
「男神」のように祀られている祀り方も矛盾がなくなります。
つまり、伊勢の本神は、ある時期まで「ツクヨミ(=男)」で、ある時期から
「アマテラス(=女)」と言うふうに「上書きされた」と言う推論です。
その時期こそ、沙保の乱の直後の「毘売」の継承に描かれた頃。「毘売」の
役職が、瀬戸内海から伊勢へ強奪(古事記は移譲と主張)されたとなります。
82 :
レス長たらし毘古:2012/07/12(木) 23:56:20.24
>>81続き
上記の推論の上に立つと、不思議な事に、
@大物主神はどの神話体系に属するか?
A古事記神代における「ぶつぶつ断絶感(特にツクヨミ)」はなぜか?
B金毘羅神社はなぜ日本の津々浦々にあるか?
C後に「作られた異人族」エミシとは何者か?
この四つが、スムーズにつながって来るような気もします。
A時代に、ツクヨミはアマテラスに上書きされます
B時代に、ツクヨミの祟りを畏れて上記上書きに漏れた部分を大物主とする
C時代に、上記のうち、スガ氏(俗に言う蘇我氏)関連項目を削除
これにより、いろんなものが、バラバラになり、チリジリになった。と。
つまり、ヤマタノオロチは、ヤマタの主であり、これが指すヤマタこそが
ヤマタイ(国)であり、前ヤマト王朝、となるワケです。
アマテラス=ツクヨミ、でないと困る人が、半分いて、
アマテラス=ツクヨミ、であると困る人が、半分いたのです。
そこで、夜を支配する「ツクヨミ」は、同じく「夜に政治(マツリゴト)を
するのを常」としていた「蘇我氏までの大和政治」と共に、古事記編纂の頃
に、完全に国史から消え去ります。
83 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 23:58:49.62
俺は
>>67説に一切賛成してないが何か?
お前はヤマトタケルは義理の父とか主張してればいいじゃんw
>>51 >次はジと訓むのだ、バカタレ。
読み方など一つに決まるかバカタレ。
>それにタバナ国は倭の東北と書いてあるのだから倭ではない。
>脱解が倭人だとどこかに書いてあるか? 目を皿にしてよく読んでみろ。
倭国(北九州)の東北・丹波だ、バカタレ。
しかも4世紀の慶州に布留式土器もでてるのだ、
どういうことか説明してみろカス。
>二十三年甲子(AD4年) <鵲>太子浮海入<新羅>
こういう所伝の方が遥かに信憑性があるのだ。
おまえAD4年に新羅なんて存在したと思ってるの?
医者に池。
85 :
レス長たらし毘古:2012/07/13(金) 00:17:27.50
>>82続き
さて、この無駄に長い上記の推論を、あえて簡潔にしてみましょう。
・ヒミコはモモソで、ヤマタイはヤマタである。(→それが後代ヤマト)
・ヒミコはイザナギの墓(淡路島)を見守る巫女で、その近辺を本拠。
・ヒミコはアマテラスを崇拝する九州ヤマタと、ツクヨミを崇拝する
近畿ヤマタから共立される。
・ヒミコ外交は九州で行われるが、魏の外交官は「ヤマタイ国の場所」と
「ヤマタイ国の本質」に関しては不確定のまま帰国。(外交戦略)
・ヒミコ没後、崇神大王が(穏便かあるいはクーデターで)次の王権となる。
・沙保の乱で、ヒミコ→イヨの「毘売権威」は、伊勢へ移譲される。
<そして時は流れ>
・天智大王&天武天皇は、蘇我の神話体系を国史から削除する。(これにより
上記のヒミコ=モモソと、崇神王朝(崇神から数代)の記述は、大幅に削除、
改竄、簡略化される事となる。
・大物主・金毘羅等々は、蘇我の祖先神か、あえてその代わりに配置した
代役神。
・崇神大王代以降に西日本大和王権とは「別」とされた、東国の民と神話体系
は、国史神話体系から除外され、「エミシ(奇しくも蘇我の一頭領と同名)」
と呼ばれるようになる。
86 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 00:41:18.41
「拠って立つ王土の立地条件がそこに涌く女王の得意技の種類に影響を与える」
とゆうてーぜを貼っておいてあげよう
珠使いの「神功皇后タイプの女酋長」の「拠って立つ王土」のうちでスポットのあたる領域は
干満差のでかい領域で、そこは、新たに手中にした領域ということになります。
珠使いの「神功皇后タイプの女酋長」のプロパティはもとのが月をシンボルとする女王でございます。兎さんぴょんぴょん
「神功皇后タイプの女酋長」の武器の「満干珠」は「卑弥呼タイプの女酋長」経由で「海神」からの取得になります。
「高木神から一夜の宿で結界を張って云々」のは
「卑弥呼タイプの女酋長」のに「神功皇后タイプの女酋長」のが権限委譲を強いたとゆうことになります。
87 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/13(金) 00:49:35.75
『日本書紀』巻一第四段一書第一◆一書曰。
伊弉諾尊=吾身陽元→男=日子
伊弉冊尊=汝身之陰元→女=月子
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。
ミ03060 クニうみて いかんぞキミを うまんとて ヒノカミをうむ そのミナを ウホヒルギまた
アマテラス オヲンカミとぞ たゝえます
ホ04143 ヲサナナの ウはヲヲヒなり ヒはヒノワ ルはヒのチタマ ギはキネぞ かれウヒルギの
ミコトなり キネはメヲトの オのキミぞ
88 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 01:02:35.04
>>85続き(補足)
・沙保の乱の直後(〜しばらくしてから)、近畿ツクヨミはそのほとんどが
アマテラスに上書きされる。と同時にツクヨミの祟りを畏れて、大物主を
祭る。(代理神、或は鎮魂神として:基本構造は出雲神社と似た構図にて)
・前出雲王朝における「ヤマタノオロチ神話」こそが、その頃、前出雲と
ヤマタイが「対立」してた証。(だが、後代、これを明言されたくない勢力
が大和王権の主流となった時代に、事実性を濁される)→国譲りの一部まで
前出雲王朝は存続(古事記はこれを前倒しし、神代逸話に全てまとめる)
・この頃のヤマタイは九州と九州と同盟したい当時の四国&近畿とから成る
(つまり、現出雲地方を除く西日本一帯)地域の「連合国家」
・その「連合」のお題目こそが「イザナギ」であるので。
・結果として、イザナギ三皇子である、アマテラス(=九州)と、ツクヨミ
(=近畿)と、スサノウ(=出雲)は、イザナギをお題目として「対外同盟」
を組めるワケである。イザナギの墓を代々守ってきた巫女の末えいである、
モモソ(=ヒミコ)が、当時の西日本の名目上の盟主として共立できる条件
がここに全て揃う。(但し、出雲は先述より、この同盟には消極的)
・魏志倭人伝では、結果的に九州だけが邪馬台国で、それより以東の国は
黒歯国かのように表記される。黒歯国が、「ヤマタイ近畿勢力」にあたるか、
「それより東の幻の古代関東王国」にあたるかは、ここでは今は不問。
(但し、九州・出雲・近畿が全部この同盟に参加していた場合は、黒歯国は
幻の古代関東王国あたりと考えた方が妥当となってくる)
89 :
レス長たらし毘古:2012/07/13(金) 01:52:41.99
>>88続き(あ、88もレス長です。しつれいしました(汗))
さて、一息。
>>56さんの仰っていた、「得意技」と言う点が、当方的には共感のポイント
です。ここで、あえて、A:ヒミコさん。B:モモソさん。C:神功さん。
の、得意技(スペック?)や政治手法の比較を当方なりに行っておきます。
A:鬼道(これは原典が中国書物なので仙道等を想わせる)/妖しで人を幻惑
B:蛇使い/夢判断にて謀反者を告発
C:筒使い・球使い/神託にて渡海をミカドに提案
まあ、Aは中国原典なので、門外漢の私なんぞがトヤカク言う気もないです。
当方は、ただただ、B、Cを、再検証・詳細分析して、よりどちらがAに
近そうかの感想を述べるだけとします。
面白いのは基本スペックだけだと「どっちもありそう」となる構図です。
一応、三種の神器になぞらえる方向での分析も同時進行中ですが、今回は
あえて、このモモソさんの「蛇使い」と言う点に注目してみたいと思います。
記紀から「蛇」を探してみます。すると、ヤマタノオロチとモモソヒメが
Hitします。(ヤマトタケルは一応後代とされてるので、ここでは除外)
記紀から「俣(マタ)」を探してみます。すると、ヤマタノオロチと
キノマタヒメ(大国主の妻の一人)と、イスケキヨリヒメ(神武の近畿妻)
と、二代目スイゼイ大王(幼名は名前ど忘れ陳謝)と、モモソヒメが
Hitします。
90 :
レス長たらし毘古:2012/07/13(金) 01:54:34.40
>>89続き
ヘビとは何か?マタとは何か?これが具体的には、諸説や諸感がありそうで
しょうし、その逐一に関して当方が、真偽・是非を言う気もありません。
ここで重要なのは、「蛇」と「俣」にあたる文字や概念が、「前出雲」と
「前近畿大和」との「間でのみ発生している」と言う事実です。もし、先述
のように、「大物主神話体系」が「この(ヒミコの)時代にはツクヨミ」
だった場合、これは
「スサノウ信奉地域とツクヨミ信奉地域との間でのみ発生」と言い換えても、
ほぼ意味は同じです。これは同時に、「当時出雲と当時近畿大和との…」と
言い替えてもほぼ成り立ちます。
さて、いよいよスペック比べですね。
・アマテラス---神功---球で共通項として括れる
・スサノウ(&消されたツクヨミ)---モモソ---蛇・俣で共通項として括れる
・ヒミコ---→括れるとしたら、それはアイテム「鏡」
そこで、不思議ですよね。三種の神器です。球・刀・鏡ですよね?まあ。
球はアマテラス、刀はスサノウとしても、「鏡」はどこから来たんでしょう?
ほらほら、そこに「(消された)ツクヨミ」さんが、いるじゃないですか。
彼が「鏡」だとすると、何故かシックリ来るのは偶然の一致でしょうか?
そう、私個人の感想としては、ヒミコ=モモソ=ツクヨミの巫女。この構図
だと自然に思えるのです。ただ、ツクヨミさんにお隠れあそばして頂きたい
勢力は、当然モモソ=ヒミコさんにもお隠れあそばして頂きたい、となる筈
なんです。ツクヨミさんを消したい時代に、モモソ=ヒミコさんも消され
かける(但し完全にではない)となったと言う架説筋なんです。
信じるか信じないかは、真夏の夜の夢。お月様だけが知っている。
91 :
レス長たらし毘古:2012/07/13(金) 02:10:16.96
>>90続き
「蛇俣と言ったり、鏡と言ったり、じゃあ、モモソさんは、結局前出雲なの?
それとも前近畿大和なの?」と言う、誤解お叱りを防ぐ為に、再度説明。
記紀の編纂の時代に「削除ターゲット」とされたのが「蘇我氏神話体系」
です。これで消された内容は当方は「崇神大王から数代」と想定しています。
それよりだいぶ昔の沙保の乱鎮圧時代(=崇神大王から数代)に「削除
ターゲット」とされたのが「ツクヨミ神話体系」です。これで消されたのの
代表格がモモソであり、結果的に=ヒミコが記紀から拾えなくなります。
なので、モモソの逸話(=特にこれこそが先述の紀での蛇神話等)は、記紀
編集時代には「ツクヨミの話?」である事が既に不明になっていて、むしろ
蘇我の神話体系の話に頻繁に印象的に出現するので、「蘇我の話?」と勘違い
され、少なくとも古事記においては、不可触として放置されます。
(日本書紀で、これが若干復元されるも、故意か過失かによって、卑弥呼とは
特定できない形で表記されてしまう)
つまり、古事記が「蘇我の痕跡」を拭い去った時に、一緒に、蘇我の祖先
(=これを当方は崇神大王以下数代と想定)の「敵対者」であった
「ツクヨミ信奉一族」の逸話も、同時に「完全に消え」てしまった。と、
こうなります。
92 :
レス長たらし毘古:2012/07/13(金) 02:42:28.80
>>91続き
さて、当方がなぜ、このような一見無謀にも思える架説を言えるのか?
ですね。では、この推論の主軸をここで述べて、今日は終わりとします。
少なくとも、古事記から拾える範囲で「蘇我の祖先で一番活躍している人」は
だ〜れ?
そう、武内宿禰さんですね。あの、数百年生きたスーパースター(或は役職
名?)。
彼の名前は、崇神以降数代目から景行〜仲哀〜神功〜仁徳の時代に「出現」
します。つまり、「武内宿禰」さんの影が蠢く時代は、「蘇我の祖先の時代」
と考える考え方も、当然生じ得ます。
「蘇我憎し」の時代なら、尚更ですね。
だがしかし、いくら蘇我憎しでも、「自分の祖先」が大活躍する逸話は
「外せません」なぜなら、ヤマトタケル逸話には倭ヒメが登場大活躍します
し、神功逸話は対中国史・対朝鮮史に関して、強気に行ける武勇伝です。
従って、古事記においては、崇神大王時代の「前半」はほぼ「血脈のみで
逸話無し」となり、「後半(当方はこれを仲哀〜継体已然まで)と想定」
は「ヤマトタケル」と「神功」と言う、古事記編纂を命じた人々にとっても、
描ける・描きたいヒーロー・ヒロインを大活躍させます。
この表記上のマジックにより、本来「綺麗にはつながらない」筈の、崇神大王
の一族史と、倭姫の一族史は、スムーズにつながってしまうのです。
(但し:血脈が途切れていても、これは可能ですが、当方は血脈自体は
「組替え」はあっても、途切れは無いと想定しています)
おつきあい感謝を表しまして、今宵の架説はここまでにします。
誰かがきちんと記録つけててくれれば良かったのに、
みんないい加減なんだから!
そこの中国の使者、お前だよ、お前!!
94 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 05:28:47.17
あ
>>92 葛城には築山(月山)古墳があってだね、この辺から二上山、太子町が鍵。
ここの話を某宮司さんに興味深い話を以前伺っていたのだが、
公言しないでくれと頼まれた事がある。
96 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 08:54:18.17
>>59 卑弥呼が遊女で娘が大勢いたなら男王をたてるまでもなく卑弥呼の娘が即位するでしょう
卑弥呼と男王の血縁は不明
その後女王になった壱与も卑弥呼の同族とされるだけで卑弥呼の娘ではない
とんでも説だとは思うけど卑弥呼が夫のいない未婚の母説はないわ
神職に就く伊勢斎宮や賀茂斎院も夫は持てないけど遊女にはなれるってことだもの
97 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 09:56:48.45
>>84 わはは、迫力のない反論だな。
もう少し頭のいい奴かと思っていたが、やはり馬鹿だな。
では次をツと訓んだ例を出してみろ。
それから新羅は紀元前には建国されてるぞ。
三国史記にそう書いてある。
それが間違いだというなら、それが間違いだという証拠を示せ。
お前が信じているその史観を津田史観というのだ。
記紀の古代の部分は造作だとか、新羅の建国は実際はもっと遅いだろう、
などという史観は津田を始めとする日帝の学者が唱え、それに朝鮮の学者が追従したのだ。
本や教科書やネットに書いてあることだけが真実だと思うな、バカタレ。
どこかのアホな学者が、いいかげんな調査で、古代人の平均寿命は35歳などと書く。
それを読んだお前のような馬鹿が、ああ、そうか、と信じてしまう。
弥生時代の中国の文献を調べてみろ。人間が平均35歳で死んだと書かれているか?
どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ。中国も日本も変わりはない。
巨大古墳を作ったような国力のある国だ。中国と同じように豊かな国だったのだ。
人間も当然70歳くらいは生きていたのだ。考古学に騙されるな。
>>97 >では次をツと訓んだ例を出してみろ。
漢字の当て字はいくらでもある。
思いついた例だが地名の「あだ」を吾田、英多などと表記してる。
その時代地域によって違うのは当たり前だ。
次(つぎ)を「つ」に当てはめてもいいわけだ。
>それから新羅は紀元前には建国されてるぞ。
>三国史記にそう書いてある。
じゃ神武も百歳以上生きた紀元前の人間かwww
>それが間違いだというなら、それが間違いだという証拠を示せ。
4世紀の布留式土器と瓢公・脱解など倭人の記述だ。
考古学と文献が一致だ。
今度はおまえが紀元前の新羅建国の証拠を出せ、クソはげ。
>国勢調査が始まった昭和20年代で50歳代だぞ。
そりゃ大戦後は低いってw
>>100 昭和10〜11年 の男46.9 女49.6 からみても妥当な数字だろ。
この時代の日本に空襲はなかったからな。
102 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/13(金) 12:24:59.30
ホ01036 つきミケの ヒトはモヨロに つきムケの ヒトはフソヨロ
イマのヨは たゞフヨロトシ いきなるゝ ミケかさなれば ヨワイなし
当時の人間の寿命は、フヨロトシだそうである。
フヨロトシをそのまま読めば、2万歳。
暦は、19年7潤の積み重ねであり、20才を「はたち」と言うのは
19年で暦は終わり、新しい暦がたつという意味がある。
そこで、神話時代の先人は、1章(19年7潤)を「ヨロトシ」と表現したのである。
「フヨロトシ」とは、38年になる。
神武を除いて、孫のいるのは、景行だけと言えるほど少ない。
最小単位で世継ぎをした場合、38年生きれば孫はいる。
その孫がほとんど見えないということは、天皇の寿命はそれよりも少ない。
逆に言えば、孫が活躍すれば、その爺さんは50,60歳まで生きている。
つまり、天皇数代に仕えることも可能である。
103 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 12:34:30.75
>>98 ぷはは、バカと話をするのは楽しいなw
吾はアと訓めるし、英はエイだからアと似ているではないか。
次はジかシで、ツとは全然音が違うぞ、アンポンタン。
神武が百歳以上生きた紀元前の人間で何がおかしいのだ。
それをおかしいと思うお前の頭がおかしいのだw
布留式土器? それがどんなもんか知らんが、
それは単にその時代に日本との交流があったことを示すだけだ。
瓢公や脱解や新羅建国とは何の関係もない。
そんなことも分からんのか、アンポンタン。
それに布留式土器が日本の土器で4世紀?のものである証拠を示してみろ。
本に書いてある、とか、学者がそう言っている、だけでは許さん。
明白な、絶対確実な証拠を示してみろ。
104 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/13(金) 13:10:47.43
>瓢公や脱解や新羅建国とは何の関係もない。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 神功渡海。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱 《秋津遺跡》
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
274年 神功渡海、 これが発端となり新羅は調(税)を毎年80艘を収めるようになる(神功前紀)
316年 西晋滅亡
323年 神功49年 半島占拠、領土分与。
新羅からの調の証拠として、この時代の古墳に副葬された鉄器がある。
△ 鏡もこの時代であるが、調との関係はよくわからない。
>>103 >神武が百歳以上生きた紀元前の人間で何がおかしいのだ。
>それをおかしいと思うお前の頭がおかしいのだw
う、うわぁ…
>本に書いてある、とか、学者がそう言っている、だけでは許さん。
>明白な、絶対確実な証拠を示してみろ。
布留式土器はおおよそ3世紀半ばからというは定説。
定説にに文句あるときは、文句ある側が証拠を示す事。
それをしないで相手側に先に証拠を出せというのは悪魔の証明。
まぁ意味さえ分からないだろうから、おまえには無駄だがな。
>>102 >つまり、天皇数代に仕えることも可能である。
武内宿禰の話も可能だったと俺は思うよ。
107 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/13(金) 14:21:36.17
>武内宿禰の話も可能だったと俺は思うよ。
ここは、允恭4年のクガダチによる世継ぎの書き換えも考慮しないとならない部分。
ホ34186 クニむけの オシをこふのみ キミトミと はかればいわく
クニフクの マゴシホノリツ これよしぞ
ホ34192 ミコトのり シホノリヒコを ミマナオシ ゆきとくにむく
ミチツカサ かえればよしと カハネたまひき
クニフクの マゴシホノリツはカバネをたまいシホノリヒコとなり、任那建国に関与する。
クニフクは4道将軍として活躍しているが任那建国時で生きていれば50歳代後半となる。
崇神24年にはまだクニフクは存在していた、崇神58年が任那建国の発端。
>>107 武内宿禰が景行に仕え始めた年をおおよそAD340年。
仁徳に仕えた最後の年をおおよそAD410年。
70年仕えて80数歳で死んだとしたら何とか説明可能だ。
あなたの年代感覚では絶対無理となる。
109 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:12:47.70
110 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 17:37:36.95
>>59 むしかえし
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
生殖能力を備えたむすめになっているくせにきまった婿さんとかいない
111 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 17:46:14.32
>>105 レスする度に迫力が失くなっているぞw
結局お前の言には何の根拠もないわけだ。
ただ単に神武が紀元前なのは信じられない、と言っているだけであり、
布留式土器が日本の土器で4世紀なのは通説だからそれを信じろ、と言っているだけである。
布留式土器が日本の物だとされているからこそ、倭人が新羅の王になったというお前の説が成り立つのだ。
布留式土器が朝鮮に由来するなら、お前の説は忽ち瓦解するのだ。
そういうことを考えてみたことがあるか。
神武が紀元前660の王だと聞いても、世間の人はそれほど驚かない。
それを信じられないと言っているのは、ここにいる、少し古代史を齧った連中だけである。
古代史を勉強するということは、即ち、津田史観に洗脳されるということなのである。
ここにいる人間は、全員、津田史観に洗脳されているのだが、それを自覚していない。
112 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 17:48:30.52
「長大」のの用例
號檀石槐 「長大」勇健 智略絶衆 年十四五 異部大人卜賁邑鈔
其子騫曼小兄子魁頭代立 魁頭既立 後騫曼「長大」 與魁頭爭國 衆遂離散
女父母乃聽使就小屋中宿 傍頓錢帛 至生子已「長大」 乃將婦歸家
其曽祖名宮生能開目視 其國人惡之 及「長大」 果凶虐 數寇鈔 國見殘破
年已「長大」 無夫壻 有男弟佐治國
113 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:01:17.31
>>59 むしかえし
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍
唯有男子一人給飮食 傳辭出入
生殖能力を備えたむすめになっているくせにきまった婿さんとかいない
「きまった婿さんとかいない」それ以上でも以下でもないから
特定ののをゲスト対象にして自分のを餌にしてからに
男を磨くゲーム企画とかしおったのかもしれんよね
女王に就任して以来 「少有見者」
ここのも 少ないだけでゼロであるとは逝っていないよな
>>111 >布留式土器が日本の土器で4世紀なのは通説だからそれを信じろ、と言っているだけである。
>布留式土器が日本の物だとされているからこそ、倭人が新羅の王になったというお前の説が成り立つのだ。
>布留式土器が朝鮮に由来するなら、お前の説は忽ち瓦解するのだ。
だったら布留式土器が朝鮮に由来する事を証明してみろ。
早くやれって言ってるんだ。
>神武が紀元前660の王だと聞いても、世間の人はそれほど驚かない。
>それを信じられないと言っているのは、ここにいる、少し古代史を齧った連中だけである。
皇国史観かよ!
バカじゃねぇのwww
ハンドルネーム「卑弥呼は朝鮮にいた」の永久保存すべきアホレス
【どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ。】
【神武が紀元前660の王だと聞いても、世間の人はそれほど驚かない。】
116 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 19:25:31.82
>>114-115 お前はほんとにアホだなw
私は布留式土器などには何の興味もないのだ。
お前が、所詮、学者の説を無批判に受け入れている馬鹿であることを指摘したのだ。
>皇国史観かよ!
>バカじゃねぇのwww
これがつまりお前が津田史観に洗脳されている最大の証拠である。
お前は津田史観に染まっているからこんなことを書くのである。
お前は統計学の嘘に騙されているのである。
近代の統計学は幼少期に死んだ者もすべてカウントして平均年齢を出している。
そういう人間を除外すれば、大半の人間は60〜70歳くらいまでは生きていたのだ。
戦前の人間なら、神武即位が前660だと聞いても誰も驚かない。
それどころか神武は紀元前後の即位などといえば失笑されたに違いないのだ。
戦前ならお前はアホの中学生扱いだ。分かっているか? このバカタレ。
(まあ、実際、お前はアホの中学生なのだがw)
>>116 >近代の統計学は幼少期に死んだ者もすべてカウントして平均年齢を出している。
>そういう人間を除外すれば、大半の人間は60〜70歳くらいまでは生きていたのだ。
乳幼児死亡まで入れれば縄文時代や古墳時代は平均寿命は15歳程度になるのだが?
古墳時代の30歳というのは15歳以上生きた人の平均なのだが?
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ハンドルネーム「卑弥呼は朝鮮にいた」の永久保存すべきアホレス
【どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ。】
【神武が紀元前660の王だと聞いても、世間の人はそれほど驚かない。】
【近代の統計学は幼少期に死んだ者もすべてカウントして平均年齢を出している。
そういう人間を除外すれば、大半の人間は60〜70歳くらいまでは生きていたのだ。】
120 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 19:54:39.31
>>117-119 なんだ、ネットから拾ってきたのか。
てっきり学術本を読んで言っているのだと思ったのに、そうじゃないんだな。
そういうのをお前ら馬鹿同士の用語で電波というのじゃないのか。
一体これを誰が調べたんだ?
サンプルは何人なんだ?
どこにも書いてないぞ。
>この式による人間の寿命は60kgで26.3歳
こんな馬鹿なことが平然と書かれている。
こんなものを読んでそれを信じているお前のアホさよwww
まあ、卑弥呼が朝鮮半島人じゃないことは、馬鹿以外はわかってるから心配するな。
馬鹿は一人だけで、決して他人には伝染しないから心配するな。
>>120 情けないやつだな。
せめて「昔の平均寿命」で検索くらいすればいい。
「どの時代だって人間は70歳くらいは生きていた」という人は一人もいない。
いれば学者生命の終わり。
はあ この鹿毛と申すは
アホほどageたがるね?
安本美典はアマテラス=卑弥呼説だから、
神武を3世紀後半に持ってきてるが、
平均寿命などを考慮した時代観念は古田よりはよっぽどしっかりしてると思う。
古田って確か継体天皇以前は倍暦とかで、
神武紀元前説だったよね。
127 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 21:04:35.68
>>123に挙げてあるサイトを見てみたら、
縄文時代14.5歳
室町〜江戸38歳
などと書いてある。
君らはこんなことを信じているのか。
大体、そんな次代に統計など取りようがないから、
こんなものに何の信憑性もないことは明白だ。
平安時代以降の文学作品や歴史書を読んでも、
みんな現代人と同じくらい生きているのである。
昔の人は短命だったというのは俗説である。
>>123のようなサイトを見て、それをそのまま信じてしまうのを電波というのだ。
>>127 おまえは近代医学というものを知らないのか。
これのおかげでどれだけ平均寿命が延びたと思ってるんだ。
古代人も70歳くらい生きたって?
いやはや、もう氏ねよ。
130 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 21:13:32.14
江戸時代の文献は大量にある。
江戸時代を舞台にした小説も大量にある。
そういう時代小説作家で、
江戸時代の平均寿命を38歳と設定して書いている作家など一人もいない。
そんなことをしたら笑われるだろう。
この後藤真という学者は、よほど世間知らずの阿呆である。
よほど常識のない人である。
学者とは、えてしてそういうものなのだ。
131 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:19:19.68
まあね骨粗鬆症のすっかすっかのは早期に消えちゃったりするからなあ
132 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 21:20:46.29
>>129 アホはお前だ。
人骨からどうやって年齢を推定するのだ。
何体を調べたのだ。
学者を崇拝しているお前らこそアホだ。
133 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:21:02.03
134 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 21:28:33.50
>>133 だからそういうのを信じるのをアホというのだ。
現在の未開の地の土人でもそんなに早くは死んでいないだろう。
135 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:29:42.77
http://www.ies.or.jp/publicity_j/mini_hyakka/30/mini30.html 最も古い生命表は、ロンドン市民について17世紀中頃に作成されたのもので、
この時の平均寿命は、わずか18.2歳でした。
(略)
日本でも、縄文時代の遺跡(主に貝塚)から出土した人骨を調べて寿命の推定がおこなわれています。
この推定では縄文時代早期から晩期までの遺跡から出土した人骨のうち
死亡時年齢が15歳以上と推定された男女合計235例のデータに基づいて生命表が作成され、
寿命が推定されてます。ここで、15歳以上を対象としたのは、子供の骨の出土数が成人と比較して少なかったためでした。
青森県の三内丸山遺跡でも子供と大人の墓は別な場所に作られていて、
このような区別が子供の骨が少ない原因の一つと考えられています。
作成された生命表で、15歳の縄文人の平均余命は、男女ともに16年となりました。
では、縄文時代の平均寿命は、15+16で31歳でしょうか?いいえ、この中には15歳までに死亡した子供が含まれていません。
このために、15歳までの死亡数については、18世紀前半のヨーロッパの生命表を適用することが試され、縄文人の平均寿命が15歳と推定されました。
ハンドルネーム「卑弥呼は朝鮮にいた」の永久保存すべきアホレス
【どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ。】
【神武が紀元前660の王だと聞いても、世間の人はそれほど驚かない。】
【近代の統計学は幼少期に死んだ者もすべてカウントして平均年齢を出している。
そういう人間を除外すれば、大半の人間は60〜70歳くらいまでは生きていたのだ。】
137 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 21:37:37.74
だからそういうのを信じるのをアホというんだって。
>ロンドン市民について17世紀中頃に作成されたのもので、
>この時の平均寿命は、わずか18.2歳でした。
こんなことをほんとに信じているのか。
17世紀といえばシェークスピアの時代だぞ。お前らはアホか。
ここにいるのが全員電波であることがハッキリした。
19歳が嘲笑するのも無理はない。ここにいるのは全員馬鹿だ。
朝鮮人というのは皆同じような考え方をする
何が影響しているのだろうか
139 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:43:50.48
遺骨の歯や関節の摩滅状態から年齢は正確に割り出せるのだよ。
バカというのは、
【どの時代だって、人間は70歳くらいは生きていたのだ。】
という人です。
魏志倭人伝に 其人壽考或百年或八九十年 って書いてある
100歳や80歳90歳の人「も」いたようだよ
>>141 明史日本伝によると平秀吉は薩摩人の下男だしな。
144 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 22:01:47.88
使い物にならなくなったぢいさんとかは山に遺棄されて猪さんとかがおいしくいただきましたとさ
おとっつぁんはたいがい病気で寝とる
146 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 22:07:19.89
少なくとも律令制になってからは里ごとの記録が集計され
一戸あたりの構成、租庸調、雑役、防人などの兵役の年齢や死亡年齢
など詳しく国府に記録されており、それにより平均年齢等も統計的に
管理されていた。平安時代にはこれらの記録は当時の為政者や武家貴族、
豪族の日記等にも普通にあらわれているものもある。それら
文献と出土した遺骨の調査する場合法医学の専門家らも交えた上で平均年齢
を割り出す調査が行われている。
147 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 22:32:29.87
孔子は72才、陳寿は64歳まで生きている。現代とちっとも変らない。
中国人がそれくらい生きているのに、日本人だけが30歳や40歳で死ぬはずがない。
まして15歳や20歳で死ぬはずはないのだ。
弥生時代という考古学的な響きから、あたかも土人のような暮らしをしていたと想像しがちだが、
そうではないのだ。われわれは考古学によって想像力を狂わされているのである。
日本人も、中国人と同じような暮らしをしていたのだ。
中国人と同じように、60歳、70歳まで生きていたのである。
平安以後の書物を見ても、みんなそれくらい生きている。
古代人は短命だったというのは俗説なのである。
148 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 22:36:57.98
倭人伝に百年、あるいは八、九十年と書いてあるだろう。
>>147 >孔子は72才、陳寿は64歳まで生きている。現代とちっとも変らない。
その何倍、いや何十倍の若年死者がいたと思ってるんだ?
平均とはそういうことなのだよ。
まぁ現代人は予防接種のおかげでどれだけ命を長らえさせてもらってるのか、
それさえ想像できない痛いヤツが恥ずかしげもなくコテハンやってますの巻。
昔は肺炎でも不治の病だ
おとっつぁんもたいがい咳しとる
>>147 >中国人がそれくらい生きているのに、日本人だけが30歳や40歳で死ぬはずがない。
>まして15歳や20歳で死ぬはずはないのだ。
鳥羽天皇1103-1156 53歳
崇徳天皇1119-1164 45歳
近衛天皇1139-1155 16歳
後白河天皇1127-1192 65歳
二条天皇1143-1165 22歳 平均34.45歳
六条天皇1164-1176 12歳
高倉天皇1161-1180 19歳
安徳天皇1178-1185 7歳
後鳥羽天皇1180-1239 59歳
土御門天皇1195-1231 36歳
順徳天皇1197-1242 45歳
153 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 22:52:52.00
どんな書物を読んでも、弥生時代のヨーロッパや中国人が、
30歳や40歳で死んでいたと思えるような記述はない。
予防接種があろうとなかろうと、そんなことは関係ない。
どんな時代にもペストのような流行病はあった。
そんなことは除外すると、普通の人間は60歳くらいは生きていたということだ。
何で除外するんだよw
こいつ、もはやエンターティナーだなw
155 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:01:49.39
>予防接種があろうとなかろうと、そんなことは関係ない。
大 有 り だ よ
日本人や西欧人は朝鮮人みたいにウンコ食べたくらいで病気は治らん
157 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/13(金) 23:15:30.77
君らはほんとにバカだな。
どんな時代にも老人はいた。
白い髭を生やした老人がな。
三十や四十では白い髭は生えんぞ。
弥生時代にもそういう老人はいたのだ。
五十や六十や七十までは生きていたのだ。
何回も言ってるだろ。文学作品などを読めば、
昔の人は短命だった、というのは俗説だと分かるのだ。
そら長生きした人間の記録だろが
平均寿命の意味がわからんのかいな、この朝鮮人は
現在の平均寿命からは98歳以上の男性と103歳以上の女性に関するデータは取り除いている
159 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:21:02.60
昔は平均年齢なんて話はしないんだよ。戸籍制度がないんだから
若死にした奴を計算に入れることは無理。
長生きした奴がいくつぐらいまで生きたかだけが問題なんだ。
160 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:29:10.90
>>99 クソバカはお前、平均寿命で一番大きな要素は乳幼児の死亡率。
江戸の平均寿命などはこの数字が大きく関わっている
もう少し言うと、戦国時代の甲冑は昭和の俳優にはでかすぎて
着れず、肉食を禁じられていた江戸中期の服は小さすぎたことが
ままあった実例として残っている。
各時代の食生活の内容如何で体格と平均寿命は大きく異なるんだよ無知
>>140 お前が恥ずかしくなるくらい馬鹿なのが楽しいw
162 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:35:09.95
>>157 お前が正しいんだよ自信を持て、ボケ
バカ100人に囲まれて小さくなりやがってw
164 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/13(金) 23:36:14.03
>普通の人間は60歳くらいは生きていたということだ。
天皇家の血液の濃さは普通ではない。だから、双子・三つ子が多く生まれる。
そして、血液の濃さは、マイナスに働いても、プラスには働かない。
わたしは、274年応神誕生。313年仁徳即位を主張している。
がんばっても応神40歳崩御。この年齢であれば孫がいたかも?
>>162 専用ブラで調べりゃ判るだろうがバカが、
俺はたった今来たんだよ白痴w
>>164 真性バカはちょっと黙っててねw
今は歴史の妄想ごっこじゃなくて医学と生理学、それと
人口動態統計の話に特化してるからクソでもしてな
>>165 で,能書きたれてるが縄文〜古墳時代の平均寿命を言ってもらおうか。
169 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/13(金) 23:42:56.07
天皇の誕生年を推定。
誕生 天皇 西暦 ホツマ世継ぎ
・・年 神武天皇 42年〜63年 26年カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
52年 綏靖天皇 64年〜77年 ・5年シギヒトタマデミ
68年 安寧天皇 78年〜83年? ・4年ミコイムナヨシヒト ヲヲヤマトヒコスキトモ
73年 懿徳天皇 84年?〜93年 ・ カヱシネの イミナミルヒト
92年 孝昭天皇 94年〜119年 ・45年イムナヲシヒトヤマトタリ ヒコクニノミコ
111年 孝安天皇 120年〜145年 ・51年イムナネコヒコヲヲヤマト フトニノミコ
130年 孝霊天皇 146年〜164年 ・18年ヤマトネコヒコクニクルの イムナモトギネ
149年 孝元天皇 165年〜183年 ・7年イミナフトヒヒワカヤマト ネコヒコノミコ
168年 開化天皇 184年〜187年 ・10年ミコミマキイリヒコの イムナヰソニヱ
186年 崇神天皇 188年〜216年 ・29年イクメイリヒコの イムナヰソサチ
204年 垂仁天皇 217年〜239年 ・20年ヤマトオシロワケ イムナタリヒコ
222年 景行天皇 240年〜261年 ・1年コウス。5年ワカタリヒコ=4年タケウチと同年。
240年 日本武尊誕生
243年 成務天皇 262年〜265年 ・
256年 仲哀天皇 266年〜274年
259年 神功皇后 275年〜343年
294年 仁徳天皇 313年〜399年
応神天皇 343年〜383年 書き換えられている。
世継ぎはこれ以上短くできない。
縄文〜古墳時代の平均寿命を言ってもらおうか。
の答えが
バカ
www
>>169 応神天皇110歳ではなかったのか?
撤回か?
174 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:56:59.34
唐松山さんさ 仁コといえば こゆうのがあったよ 高句麗のとこのだけどね
◎ (403)十三年癸卯
三月 倭主遣其子<麥穗>送女納後宮 曰「臣<仁コ>遠在海上
◎ (404)十四年甲辰
五月 <龍城>反 命<朋連>討之 (慕容)熙(401-407)死守 不拔
時 倭寇<帶方>
命<朋連>移攻倭船 斬獲無算
此皆海賊之徒 <仁コ>之所不知者也
<仁コ>遣使謝罪 上命<胥狗>如倭探其真状
◎ (405)十五年乙巳
四月 <宝金>斬倭寇三百於<獨山> 去年之餘寇也
倭地多大島異類
<仁コ>之化不能盡 及故如是 云
七月 <胥狗>自倭還奏其風俗・山川・水路
是年九月 (阿)莘(392-405)死 秘不發
迎腆支(餘映405-420)于倭
(阿)莘(392-405)之季弟<碟禮>殺其仲兄<訓觧>而自立
腆支(餘映405-420)與倭衛入島待之
<觧忠>等殺<碟>而迎立腆支(餘映405-420)
其妻八須(波多毘能若郎女 長日比賣命 若日下部命?) <仁コ>女也
與<胥狗>妾<同母>
生子于島中 乃<久爾辛>(420-427)也
175 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:03:45.68
いい加減チョン多動説から脱却されたほうが良いのでは
ないでしょうか?
不毛ですよw
176 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 00:05:43.58
>>172 だから、書き換えられている。
応神天皇 343年〜383年 書き換えられている。 ←344〜384年に訂正。
274年生まれの応神の治世は344年から41年間で誉田御廟山になる。
では、神功渡海とできる時代の特定が必要となる
神功皇后摂政前紀秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功皇后摂政前紀冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 是以。新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
9月に素人を集めて、10月に渡海をする。これがもとで、新羅は毎年調(税)を倭に収めるようになった。
その調としてもたらされた鉄器は古墳に副葬される。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、兵の引き上げ
いいか、記事を無視すればどこにでも設定できるが、記事を正しいとした場合
その出来事を証明する時空は少ない。
177 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:08:01.51
いたたたw
178 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:09:26.64
16.大鷦鷯 仁徳 = 讃 = 朝日豊盛命 日良仁光連 の等式が成立しそうなところである
179 :
ローガン:2012/07/14(土) 00:11:37.72
>>175 不毛とはいえ、なんかレスに活気が…(笑)
朝鮮云々とかは プロ固定ですかな。だとしたら、さすが上手なもんですな。
180 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:12:24.34
勝手に時空調整たら全部ずらさなきゃなるけどそれでもじょっぱるのかい
181 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 00:14:46.67
>>174 広開土王碑
404年 倭は帯方界に攻め込むが大敗する。
履中天皇六年(乙巳四〇五)二月 悲哉。吾兄王何處去耶。
この記事は、帯方界で行方不明になった兄王搜索の話。
兄王とは、大兄イザホワケ?かもしれない。
413年 高句麗と倭は東晋に朝貢
允恭天皇三年(甲寅四一四)年春正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。
この記事は、新羅が高句麗の傘下に移ったことをあらわす。
あ、プロ固定だったのか
こりゃおとっつぁんもいっぱい喰わされちまったなw
183 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:20:40.49
184 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:23:15.90
広開土王碑のを騙されないようにして読むべきだな
「倭以耒卯年來」のところで「耒卯年」に来たのは本当は「倭」ではなくって
「倭」が居ついていたところに
摩り替り直後の北魏の傀儡のの談徳が来たんだって気づかにゃだめだろ
186 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 00:24:33.31
>勝手に時空調整たら全部ずらさなきゃなるけどそれでもじょっぱるのかい
百済本紀の百済王家に歴史をつないでも神功以後の説明ができない。
これは、韓国においても同様である。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm E4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。
奈勿大圣神帝纪 7年(AD383)正月里子(水羊=癸未) 熊彦=千熊長彦(神功皇后摂政四九年)
三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相
通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
奈勿を(AD383)に設定しても、扶余(騎馬民族)の南下を文献で説明できない。
考古学と整合させるためには、奈勿を引き上げる必要がある。
187 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 00:28:05.57
>>95 取り急ぎお返事のみ。御陵なんで調べれまへんでしたwまあ、そこらへんも
直の候補かヒントの候補かもね。口外できないんなら仕方無い。
月(筑)山とか、コンピラ山とか、名前は妙にそそるものがあります。
(ま、名前は後付けかもしらんけど)
うぜーな、もう。
奈勿大圣神帝纪なんていいよ、マジで。
189 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:35:23.20
唐松くんだいぶ弱ってきたみたい
扶余は(騎馬民族)とかゆうよりも
亡人の末ので先祖のは濊で濊王の印のとこなのです
高句麗はちびの馬駆使してからにのエセ騎馬民族なのです
とゆうか百済のこといってる扶余のをへんに読み替えるのはおまい独特の学風ではあるがな
190 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:40:17.55
>>187 へんにきょおかんとかしてくれても蛇は武器には決してあたらないからね
むしろ美味しくいただける好物かな
>>186-187 でた、馬鹿の2トップそろい踏み!
大阪生野区の在日と亀山育ちの田舎もんってとこか
レス長と唐松は同一人物なんだが
193 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 00:44:46.98
391年 白兎 辛卯
7月, 高句麗王(麗王) ダムドック(談徳)が扶余を大破したら石硯(石〓)などの 10城が皆降伏した.
つまり、百済が窮地に立つ。だから、倭は軍を送ってそれを阻止しようとした。
この記事が391年で不満はない。しかし、
奈勿聖帝7年[383] 正月, (水羊祭). (323年癸未神功49年己巳)
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善辯
奈勿聖帝8年 [甲申384] (書記338年戊戌・神功64年甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
千熊長彦の翌年が枕流即位である。
この編年で七支刀を説明できるか?
194 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:54:45.10
195 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 00:54:56.93
>>191 縁もゆかりもない処を誤爆するところを見ますと貴殿は三人目あたりかと。。
まあいいや、モモソ=ヒミコで、かつ九州瀬戸内海だと困る方々も多かろう。
当方は別に、どの硬直化した学閥にも、どのおらが町利権にも属していない
ので、フリーランスに対する嘲笑は甘んじて受けよう。
それに当方は別に「学術論」をやってるワケでもなく、あくまでも終始
「架説」幻想話を繰り広げていると前述した上で述べている話。
まあ、その「幻」を振りかざして、「だから掘らせろ」とか言う、どこかの人
ばかり相手にしていると、架空構築自体がお嫌いになると言うお気持ちは
わからんでもありませんがw
まあしかし、当方は当方で、別に何処を掘るでも、どの他説を全否定するでも
なく、無事着々と「邪馬台国に近づいている感」があるので、そんな嘲笑は
気にもならないが。
そう、ツクヨミが「今は」あやしい。アマテラスとツクヨミが、どこでどう
入れ替わったか(あるいは吸収と言うべきか)消されたツクヨミ。消された
蘇我神話。これらが完全否定できない以上、邪馬台国を古事記から探し出す
上で、これらの「想定」は最早不可避なのであーる。(あとタカミムスビ)
196 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 01:03:26.41
長畑馬場遺跡
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も
形成さ れている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは
一衣帯水の地 であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネットワークで結ばれた集団であったことが
推測される。
景行 諸県は玄海町諸津。イズミ媛。(250年ころ)九州北部に庄内式土器(纏向3類後)
倭人伝 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
神功 田油津媛は田平媛。(274年渡海)纏向5類(プレ)
神功渡海とは、大倭が女王国においた1大卒を半島に上陸させ、半島の管理に当てる。
晋の命令であるから、大王仲哀の死に優先する。
とにかく最初は、渡海自体が目的となる。1大卒を半島に駐留させれば経費が発生する。
その経費を半島で徴収する。半島で税の徴収を行い郡の取り分と和の取り分に分ける。
その倭の取り分が80艘の調として毎年倭に収められる。
だから、渡海に軍事力は不要であったからスムースに渡海できたのだ。
198 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 01:07:01.93
>>192 いや、同一はどうだろうか?当方、自分でも疑ってみて、時々唐松山氏の文章
を読んでみるが、どうもよくわからないし、あとヒミコの想定時代も当方とは
100年以上ずれているような気がする。
彼は神功さん(或はその同時代人)あたりをヒミコに比定されているようなの
で、これは崇神以前(遅くても崇神直前)のモモソさん(或はその同時代人)
あたりをヒミコと比定している当方とは、少なくとも古事記上では100年以上
の開きを感じる違いだと当方は考えています。
(まあ、その100年以上単位は、暦の読み方で多少は縮まったりズレたりする
のかもしれませんが。。。)
一応、当方の「神功さん像」を、とりあえずここである程度明確化しておき
ましょう。(当方的には、これはヒミコさんとは別時代人なので、あくまで
も誤解を回避する為の説明ですが)
神功さんは、比較的「蘇我的」政権です。ただし、天智天武と言えども、
神功さんの「遠征ハナシのイイトコロ」は、「書き留めておきたい」筈なの
です。だから、蘇我的な逸話の中では、唯一「消さないでむしろ誇張した」
人物なのです。当方は、こう言う解釈。
199 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 01:10:29.84
仁コの婿が腆支王の餘映で、孫が久爾辛王 ここのところだけはメモしておけよな
200 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 01:15:05.60
当方の解釈としては神功さんは、モモソさんの半分真似をして、半分反面教師
として、「毘売→日売」と言う「新しい権威」を改めて新設した女傑ととらえ
ております。
でー、そこが後代の人にとっても「まぎらわしく難解だった」点だったの
でしょう。
途切れ途切れになった、モモソの逸話と、あまり書きたくない(蘇我の)内容
を大きく含んだ神功の逸話と、見比べ調べなおしている途中で、古事記は
完成し、そして次の日本書紀が編纂される頃には、「モモソ=ヒミコ」を明記
してしまうことの、「現在王権にとっての危険性」に気付くわけです。
ですので、日本書紀では、むしろ神功さんがヒミコ?かのような軽い誘導を
行うようになるワケです。
なぜなら、神功=ヒミコとなった方が、蘇我排除の天智・天武にとっては
外交政治的に「都合がいい」筈なのですから。
201 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 01:16:58.57
274年神功渡海
323年神功49年
326年神功52年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
であれば、書紀の言い分は正しい。しかし
369年神功52年七支刀では、渡海からすべてが否定されている。
なぜか?
それは、韓国の考古学と文献(百済王家)の齟齬に問題がある。
百済の墳墓は円墳が基本であるが近肖古王の墳墓は高句麗の積み石塚だという。
202 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 01:25:23.06
>>197 >気になってるから言い訳してんだろアホ
誤解を正そうとする事と、言い訳とを、ゴッチャにする思考をしていたら、
ご自分でも疲れませんか?まあ、余計なお世話でしょうがw
前述で何度も「これは一つの架説」と話している内容で、何の言い訳をする
必要があるのか、まずそこが疑問。
あと、当方が「関西じゃない」事は、かなりドシロウトな方でもすぐにわかる
話しだとも思われますが。。。(そやから誤爆やゆーとるねん^w)
まず仮に「同一人物」だとされるなら、むしろこの上記の「ヒミコ想定時代」
の「相違」に関してどうお考えかを述べて頂いてからの方が早いでしょう。
100年以上の違いをはらんでいる二説を、あえて同一人が名前を変えてそれぞれ
主張する、果たしてその意味は何か!?(ばばーん!)
この謎があなたが解けたら、当方もある程度、その「同一人物説」に
つきあってあげてもよろしいですw(但し、多分当方的には能力的に無理
だろうけどw)
203 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 01:33:07.56
つまりですな。当方の時代区分を下に簡略図。
@モモソ時代
A崇神時代
B景行(ヤマトタケル)時代
C仲哀(神功)時代
これにおいて、当方は@を、唐松山氏はCを、それぞれ「ヒミコの時代」と
想定していると思われるのだが、そうすると例え、Cが昔でアレ、@がより
最近でアレ、@とCの間はどう考えても記紀上は100年以上が「はさまって」
いるワケですな。
同一人物が、こんな事をする、意義と必要が、まず当方には疑問なんですよ。
204 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 01:39:43.25
でだ!(ばばーん!)
このはさまっているABの時代こそが、蘇我のご先祖様のスーパースターの
武内宿禰さんが大活躍している時代なんです。(ここがミソね)
だから、記紀出版サイドは、当然ココは「書きたくない」。でも、書かないと
「対中国・対朝鮮・対エミシ」の「国境」が定まらない。ここが悩みどころ。
だから、神功さんやヤマトタケルさんが「大活躍」するんです。大活躍させて
武内宿禰さんの影を(少なくとも記紀上は)うっすーくしたいワケですね、
記紀編者は。
AB時代の「領土で得したところ」をより強調し、だがしかし、同時代の
蘇我(のご先祖スーパースター)の活躍はできるだけ書かない。(書いても
脇役キャスト)この構図が、記紀編者には必要だったのですよ。
205 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 01:59:53.71
>>204続き
この「誘導(故意か過失かは不問)」によって、ABの時代の歴史考証を
簡素化します。これが、神功を「昔に遡る事」を可能にしてしまった。
(唐松山氏は応神さんの寿命でそれが説明可能とされているようですが:当方
は別にこれを肯定も否定もする気はありません:なぜなら、最初のハシゴ自体
が彼我ではまったく異なっているので、これを論じるのは野暮と言う物)
むしろ、当方は、そちらにはあまり興味を持たず、この(古事記上は)ABと
「一本につながっているかのように書かれた考証」の方が、「疑える余地」は
高いと感じています。
Aの歴史が一本あった。
Bの歴史が一本あった。
これを後代、A→Bの歴史は一本につながっている(これが記紀解釈)。
これが「疑いの余地」が残る事の方が、当方は俄然興味が有ります。この場合
古事記表記のA→Bの「時間」は、そっくりそのまま信用する事もまかり
ならなくなりますので、「古事記の主張するA→Bの間にかかった時間」は
実際はそれより「短い?」可能性余地も発生してまいります。
なぜ疑問を抱くか?そのポイントの一つはココ。
A景行は「遷都」を行って、北九州から近畿に「お引越しした」。
なのに
B景行はヤマトタケルを遣わせて、九州(クマソ)征伐を実行した。
これは、遷都で引っ越して、手薄になった元首都が、蛮族の脅威にさらされる
ようになったので、あわてて。。。と記紀の主張道理に解釈しても、これは
当然筋は成り立ちます。
206 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 02:05:19.85
>>205続き
だがしかし、同時に、景行は「九州→近畿」に、そして同世代内に
ヤマトタケルが「近畿→九州」に、と考えても、これも筋としては
成り立ちます。
つまり、Aの逸話があってその後半部分が景行の遷都で、そしてそれとは別に
Bの逸話があってその前半部分がヤマトタケルの九州征伐、と考える想定も
成り立ち得る可能性がここに残余浮上するワケです。
※ここで注目すべきは、記における「ヤマトタケルの縁戚表示」の細かい
矛盾(或は不可解さと評しても良いでしょう)
そう、ヤマトタケルが、「誰の子」で「誰の親」で「誰の夫」か?と言う、
ものすごーく大事な事が、古事記では「あれれ???」って感じで書かれて
いるのです。スーパースターな筈なのにこれはものすごーく不自然で不思議。
だが、この一見矛盾にも見えるこの不自然な不思議。こう仮定すると、解消
されるような気もしてきます。
「ヤマトタケルと言う役職」を媒介(接着剤)にして、Aの逸話とBの逸話
を、「くっつけたんじゃなかろーか?」と。
もし、この架説の上に立つと、A→Bの間にかかった時間は、記が主張する
時間より「短く」なる可能性も浮上して来ます。
207 :
レス長たらし毘古:2012/07/14(土) 02:22:10.87
閑話休題
ま、あまりヤマトタケルをやると、それこそヒミコとは遠い話しと思われそう
なりそうなので、とりあえずここまでとして。
(ま、仮にABの時代がヒミコの時代だった場合(自論とは異なりますが)
ヒミコの時代がヤマトタケル、つー筋とかも発生してくるワケですが、その
場合は、ヤマトタケルの叔母さんの倭姫とか、クマソタケル陣営の女酋長
って筋とかも考えられそうですね)
要するに、「それらの時間」をどうしても相違してしまうワケですよ。唐松山
氏と当方では。当方はこれは別に是とも非とも考えません。最初に使うハシゴ
から、ハシゴをかける場所まで、どれも違うのですから、ある意味あたり
まえの考証現象と言えるでしょう。
さてさて、当方の架説のダイナミズムは、まさしくここから生じます。
崇神の時代(上記で言う所のAね)ここで、「九州と近畿の力関係」が
逆転する所に、この記紀解釈法の妙が入っているのです。(と思うのです)
ある時期まで「Aから見たB」が描かれているのに、ある時期からは
「Bから見たA」を描いているのです。都合のいい箇所は「同一人物」
「同一地名」として、そして、都合の悪い人は「別の人物」「別の地名」
として例え読む人が「わからなくなっても良い」と言わんばかりに。
ここで、大筋の分断が、@→Aの間と、B→Cの間との、都合「二度」
行われた。そう架説した場合、「この時代数百年」の謎に、少しづつ迫って
来たような感覚がしてきます。(人はそれを幻想と呼ぶかもしれないw)
208 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 08:51:06.61
邪馬台国とは八幡国、秦の国のことだ。
もちろん、秦の始皇帝をだまし亡命した徐福集団の国だ。
そう考えれば、秦王国こそ邪馬台国の有力候補だということが分かる。
すばり周防こそ邪馬台国だろう。
209 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:18:00.41
八幡社の総本社が宇佐神宮やね。
210 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 10:21:28.76
A景行は「遷都」を行って、北九州から近畿に「お引越しした」。
なのに
B景行はヤマトタケルを遣わせて、九州(クマソ)征伐を実行した。
A庄内式土器は近畿から北九州へ渡った。
B使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
日本武尊の派遣こそ”諸国はこれを畏れ憚る”の部分なのだ。
つまり、日本武尊の九州・関東派遣により、邪馬台国は大倭へと進化するのである。
それがため、日本武尊は賞賛される象徴となるのである。
211 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:35:18.67
肥後国を本拠地とした邪馬台国が、
筑紫国に分断された肥前国に一大率を置いた。
肥前国は貿易港である唐津を持つので、当然ながら、
輸出入の管理を行うことになる。
受付処理を行ったあと、本国の肥後国に船で、物資人員を輸送する。
久留米から大牟田までは、筑紫国に取られていたので。
肥後国に併合されて、まだ日が浅い肥前国の豪族衆は、
まだ完全に従ったとはいえなかった。
代官となる一大率は安定するまで、適宜諸国を検察した。
212 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:55:32.94
景行は博多のとこ巣にしているくせにフェイントかけて山口から来たふりしてた。
213 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 11:04:55.42
景行天皇は久留米、仲哀天皇は北九州、
神功は福岡、このあたりは筑紫国の領域だろう。
後に肥国も筑紫国傘下に入ったが、熊襲国は従わなかったので、
熊襲退治を行なった。
214 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 11:16:53.60
磐井が敗走したとき、筑豊北九州方面に逃げ、
そののち、筑豊に近い糟屋の頓倉の弟が降伏する。
明らかに敵は熊本方向から来ている。
北九州方面から敵が来た場合は、糟屋の弟を先に血祭りに上げなければならない。
そして、磐井が敵がきた北九州方面に逃げるわけはないのである。
215 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 11:27:16.67
南から攻めたからだろう。
何者を景行天皇にしているのか知らないが、
景行天皇は南から筑紫平野方面に向かってる。
>>210 >A景行は「遷都」を行って、北九州から近畿に「お引越しした」。
なのに
>B景行はヤマトタケルを遣わせて、九州(クマソ)征伐を実行した。
>A庄内式土器は近畿から北九州へ渡った。
庄内式土器は物部だ。
景行やヤマトタケルは全然関係ない。
217 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 12:27:03.01
景行天皇十二年(壬午八二)七月。熊襲反之不朝貢。
熊襲は誰に背いて朝貢をしなかったのか?
それは、筑紫であり筑紫の代表は神夏磯媛であった。
景行天皇は、まず豐前國長峽縣を確保し、行宮を構える。ここから、九州東側を南下し宮
崎から隼人までを平定するのであるが、この時点までに神夏磯媛は死亡するのである。
景行18年には、筑紫から西へ進路をとり、そこから南下して熊本方面が最後の戦いの土地となる。
景行天皇廿年春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
ここ。大倭が女王国に1大卒を置いた時点となる。つまり、この時点までに、女王・男王
が死亡していなければ成立しない。
218 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:30:21.44
磐井の岩戸山古墳には、熊本の色が濃い石人石馬が、
後円部に隣接されたひろばに並べられていた。
磐井が熊本の関係が強い人だったのか、
あるいは、熊本勢が磐井を閉じ込め監視するために、
石人石馬を置いて監視させたのか。
と、書くとオカルトっぽいかな。
219 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 12:34:39.59
>庄内式土器は物部だ。
これでいいのか? 布留式を物部で説明する輩もいるが
庄内式は河内陶邑。河内陶邑といえば、大物主の初子タタネコだ。
>庄内式は河内陶邑。河内陶邑といえば、大物主の初子タタネコだ。
はぁ?
陶邑って堺の?
須恵器の生産したから陶邑って呼ばれてるのだろ。
もっと時代が後ではないか。
大阪で庄内式が出土するのは八尾など物部の地盤だ。
221 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 14:31:31.25
崇神7年 布告天下求大田田根子。即於茅渟縣陶邑得大田田根子而貢之。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類から庄内式と呼ばれる。
であるならば、庄内式は任那の影響を受けている可能性がある。
222 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:07:14.01
大雨の被害にあわれた方々には申し訳ないけれど、
今回の大雨の報道で、おやっという地名がたくさん出てきました。
このうち、大分県の日田夜明という地名が気になりました。ここ、もともと「やめい」と呼ばれていたのではないでしょうか?
八女市の矢部川のように充てられる文字は違えど、ここにも旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡が多く、候補地の一つといえます。
>纏向2類から庄内式と呼ばれる。
>であるならば、庄内式は任那の影響を受けている可能性がある。
意味不明。何で?
224 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 16:58:57.89
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国 ここが任那建国で
崇神65年(=68年)任那より朝貢。
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物 (古韓尺)珠城宮。建物は任那の影響を受けているから古韓尺
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する←これを以て纏向2類(前)という、という。
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
ホケノ山の穴あき壺は初期の埴輪になる。そして、任那からの鉄を手にした証拠ともなる。
>日田夜明という地名が気になりました。
日田といえば、アサヒミヤが気になる。
>辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する←これを以て纏向2類(前)という、という。
畿内X様式の流れに小形器台・小形丸底鉢が成立しただけであって、
任那の影響って何だよ。
畿内に先駆けて小形器台・小形丸底鉢が任那で見つかってるのなら教えてくれ。
226 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:33:49.21
夜明は、よあけと読むようですな
227 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 19:11:11.86
豊前・豊後はもともと豊の国と呼ばれていた。
そしてその前は、山国、耶麻渓の地名が残っていることからもわかる。
邪馬台国は、大分辺りにあったのだろう。
そして大水害で滅んだのだ。
228 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 20:34:21.78
>任那の影響って何だよ。
あとは厚さだな。弥生X様式土器と庄内式土器の違いはこの厚さの違いでもある。
ここへ踏み込むのが最も難しいところでもある。だからその後の状況から推定する
部分がある。
ホケノ山の石囲い木槨墓は何処に源流を求めるか?
同じく、 同向式神獣鏡=楽浪鏡。
双方とも、伽耶より楽浪を考えなくてはならない。であるならば、
珠城宮の古韓尺も楽浪を視野に入れたほうが良いのではないか?
であるならば、薄い土器を選択した根源に中国の土器があってもおかしくない。
つまり任那(金冠伽耶)建国の原動力として、後漢183年・193年飢饉による
漢人の流入の影響も無視できない。
ところが、この辺の文献が存在しないため、証明のしようがない部分ではある。
そのあたりは八尾市から纏向までの大和川流域の遺跡を考えることだな
>ホケノ山の石囲い木槨墓は何処に源流を求めるか?
>同じく、 同向式神獣鏡=楽浪鏡。
>双方とも、伽耶より楽浪を考えなくてはならない。であるならば、
>珠城宮の古韓尺も楽浪を視野に入れたほうが良いのではないか?
>であるならば、薄い土器を選択した根源に中国の土器があってもおかしくない。
おいおい、何言ってんだか。
ホケノ山の主体埋葬部の小型丸底土器は布留0式だぞ。
まぁおおよそ250年ぐらいであろうから庄内式土器の始まりとは時期的に関係ない。
それと石囲い木槨墓は楽浪の影響があるかもしれないが伽耶(任那)とは関係ない。
231 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 21:28:33.49
阿波・讃岐は、天日矛と考えることもできる。
ここも伽耶より楽浪を視野に入れたほうが良いのではないか。
232 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 22:03:02.66
>庄内式土器の始まりとは時期的に関係ない。
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中) 石塚 東田土坑3 =庄内大和形甕の登場
纏向2類(後)
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
石塚に埴輪とできる土器は存在しない。
埴輪とできる穴あき壺はホケノ山以降である。
ここに倭人伝を重ねると、邪馬台国官イクメ 都市牛利(たしうり)が重なる。
垂仁を239年崩御とできる。その時のホケノ山は、主体部に垂仁、方部に田道間守の殉葬。
庄内式土器を九州に持ち込むのは、景行だ。
>埴輪とできる穴あき壺はホケノ山以降である。
意味不明。
>ここに倭人伝を重ねると、邪馬台国官イクメ 都市牛利(たしうり)が重なる。
空想乙!
>垂仁を239年崩御とできる。その時のホケノ山は、主体部に垂仁、方部に田道間守の殉葬。
こりゃまた空想乙!
>庄内式土器を九州に持ち込むのは、景行だ。
じゃ何で西都原に庄内式がないのだ?
だいたい年代が100年違う。
物部が地縁のある北九州に持ち込んだんだ。
234 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 22:11:18.00
崇神58年≒209年新羅≒211年任那建国。この数字から崇神末は220年を出ることは無い。
であるならば、220〜239年あたりに垂仁が来る。
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
日本の製鉄遺跡は、541年より後にならなければ存在しない。
では、古墳時代に大量に副葬された鉄器はどのように入手したか?
対価を支払って入手したのであれば、こんな無駄遣いはしない。
235 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:12:45.54
無駄遣いつっても、朱やら銅鏡やらも副葬されてるわけで、
多分、これらも対価を払っていると思うぞ。
236 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:14:30.38
鉄で支払いとかしたんだろ
だまくらかしてとりあげてきたりのもあるだろうが
237 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 22:22:37.04
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。
新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
この記事は、274年渡海とその後を語る事実である。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱 《秋津遺跡》
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
>では、古墳時代に大量に副葬された鉄器はどのように入手したか?
>対価を支払って入手したのであれば、こんな無駄遣いはしない。
釜山・莱城遺跡での出土土器の94%が北九州だ。
つまり倭人の鉄採掘遺跡。
これが物部の祖先たちだろう。
ただこの頃は楽浪の管轄下にあったと思われる。
4世紀にその楽浪を高句麗が滅ぼし、
さらに任那が朝貢してくれた以降、鉄の主権は大和朝廷に移る。
ps・釜山・莱城遺跡は2世紀ね。
240 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:29:25.16
241 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:31:30.88
242 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/14(土) 23:55:42.36
>さらに任那が朝貢してくれた以降、鉄の主権は大和朝廷に移る。
任那建国を西晋の滅んだ316年以降に設定したんでは、纏向5類の説明ができない。
しかも政治の中心地が纒向に存在しない。
箸墓築造を以て纏向はゆるやかな衰退期に入る。
神功磐余若桜宮の指標を桜井茶臼山とすれば、副葬された鉄器は新羅からの調である。
西新町遺跡に存在した半島系の居住区は、晋の郡使の居住区と出来、晋滅亡まで続く。
神功渡海とは、あくまでも
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
素人を軍に編成した軍隊である。
>任那建国を西晋の滅んだ316年以降に設定したんでは、纏向5類の説明ができない。
書き方悪かったが任那建国を316年以降とは思ってない。
祟神没は318年。
244 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 01:06:58.40
祟神没は258年 甘露 3年 戊寅年十二月崩のがお勧め。
「御真木入日子印恵」の「御真」のは「任那」の「みま」なんじゃろ
「入」ってどこからどおでなにに「入」なのかはしらんけどさ
「印恵」のはハンコ恵まれたのだろからおのずと中身はばれてくるけどさ
245 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 01:44:36.30
「御真木入日子印恵」のをちょっと改変して
「難升米 入日子 印恵」
「伊久米 入毘古 伊佐知」 綺麗に揃うな
「伊佐知」の「佐知」のは
「年已長大 無夫壻 有男弟佐治國」
「男弟佐治國」のの「佐治」で良しだな。
246 :
橙犬者:2012/07/15(日) 09:37:03.43
>>13 唐松山さん 有難うございます。
一気にビギナーのレベルを上げようとの唐松山さんのお考えは理解できますが、私の頭がそれを許しません。
申し訳ありませんが、一歩一歩、ゆっくりと理解を進めていく考えでおります。宜しくお願い致します。
>240年12月15日日本武尊誕生 >13 唐松山さん投稿日:2012/07/08
申し訳ありません。この、根拠が判りません。
お教え願います。
卑弥呼の死去=247年頃(魏史倭人伝)ですから、唐松山さんのご説明からは、
景行天皇の前代である垂仁(=伊玖米入日子伊沙知命)天皇と、卑弥呼はほぼ同世代なのでしょうか。
>神宮52年 七支刀。七支刀もその銘から容認できる位置(年月)は限られる。>861 唐松山さん投稿:2012/06/26
ご面倒だと思いますが、その論理と結果を、かいつまんでお教え願います。
>当時の男の元服=結婚可能年齢は15才とするのが妥当である。
子供を作ることが出来る年齢としては納得できます。
>仲哀9年に応神が生まれるのであり、仲哀の結婚適齢期は3年前程度が予測される。
3年以上前に15歳に達していただろうということなら、納得できます。
>仲哀2年に神功が敦賀を出発する。そのまま豊浦では、仲哀が適齢期に達していない。
全く理解できません。適齢期に達していないと、どんな問題がでるのでしょうか。
唐松山さんは、今まで、天皇の治世の始めあたりは信用できると説明されていました。矛盾するように思います。
元年に治天下を始め翌三月癸丑朔丁卯に巡狩南し紀伊国而居于徳勒津宮で熊襲叛之不朝貢を知り、則自徳勒津発之浮海而幸穴門です。
>記事がおかしいのか?
>編年に問題があるのか?
ビギナーの私には判断がつきませんが、編年に何らかの問題があることは江戸時代には既に指摘されていたことだと思います。
何を、仰りたいのか理解に苦しみます。
247 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/15(日) 09:47:21.88
唐松山氏の話は妄想の上に妄想を積み重ねているから、
何を聞いても無駄だと思うよ(笑)
唐松山は100年早く時代を見てるから、
纏向遺跡の東海土器を祟神の四道将軍の行跡だと見る。
違う、あれは物部の祖のウマシマジの行跡だ。
また庄内式土器の九州波及を景行天皇の行跡と重ね合わせてる。
これも違う。少しだが畿内X様式も出土してるので全く時代が合わないし、
景行が宮を建てた西都原には庄内式土器は出てない。
答えを言うと庄内式土器は物部が地縁のある北九州へ持ち込んだのだ。
249 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/15(日) 12:51:40.64
茶話
ネットの朝鮮史を読んでいると、いろいろ面白いことに気付く。
たとえば、舎人、評、荘園などという語が出てくる。
しかも意味は日本のそれとまったく同じである。
してみると日本はこういう語も朝鮮半島から取り入れたのである。
それから密通の話が実に多い。「相通」「蒸」という語がやたら出てくる。
近親相姦さえザラである。古代の王侯貴族というのは密通ばかりしていたようである。
上の方で当時の平均寿命について話題にされてるが、
どっちにしても、昔は短命と長命の差が激しかったと思われる。
卑弥呼は長命だろうから、孫、曾孫どころか、
へたすりゃ玄孫(やしゃご)世代と一緒に存在してた可能性もある。
そういうことも想定して考えねばならないだろうな。
251 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/15(日) 14:04:16.39
年齢の話は蒸し返したくないが、その後読んでいたら、こういう記事があった。
宝凰大母薨 春秋百十歲 A.D.326 味鄒尼今紀
しかしそれより重要なのは次のような記事である。
仙帝命 光明后總執政事 帝出居挑山 仙帝入居花林宮 命大西知行六軍頭上 A.D.359 儒禮尼今紀
阿爾兮神后崩 春秋七十七 后奈解女也 母紅帽后骨正女也
初爲助賁后 聰明善決政事 助賁沈惑神仙 盡以政事委之
后乃樹權內外 歷事沾解味鄒及帝 而皆以己意立之 A.D.362
どうも新羅というのは、政治は后に任せっ放しだったようなのである。
そういえば、新羅の女王が主人公の韓国ドラマやってるな
254 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/15(日) 19:49:23.84
>>246 ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ
垂仁元年 秋太陽に遅れ 冬至日の修正。
太陰暦とは1章(19年7潤)の積み重ねであり、その最後に誤差は修正されるべきものである。
19年7潤の廻しは、古記に書かれている。そして、重要なのは人間の年齢で説明できない
垂仁治世99年などの時代にも太陰暦が使われていたということである。
ここまでは理解していただいたこととして次へ進む。
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/hotumika/hotu00.htm ほつまつたえ
もし、ホツマを読むのであれば、漢字変換されたものはほとんど使い物にならない。
そして、全て平仮名に訳されているから、どんな漢字に変換しても構わない。
ホ37195 コソコホサシヱ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ ミコのモハいり ヨソヤヨル
ハニタテモノし シハスソカ スガラフシミに ミヲクリの タビもかゝやく カミのミユキぞ
あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
垂仁99年 秋文月8日 崩御・・埴輪・・
明くる春 弥生に帰る 田島守 時至9ヶ月24日後←書紀とここが違うが、書紀にこだわる必要は無い。
ホ37210 トコヨとは カミのかくれの をよびなき フリをなじむの トトセぶり
中国では 皇帝の崩御が暦に及ばないのに、(わが国では)振りで 10年が経過した。
つまり、垂仁90年から約10ヶ月後の景行元年弥生までに10年を数える。
ホ38013 フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに
コゾウヅキ はらみてうまず フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして
フタゴうむ ヱのナモチヒト
垂仁90年卯月から21ヶ月後が 景行元年12月15日 オウス・コウス兄弟誕生。
倭人伝 239年 邪馬台国官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
考古学:纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
255 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/15(日) 20:04:59.21
日本武尊 16歳で九州 熊襲
翌年帰郷するも、間を開けずに関東へ遠征。ここで弟橘媛の死亡、翌年には日本武尊も死亡する。
仲哀の誕生は、日本武尊17才か18才の誕生と思われる。
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔 85106日
そうすると、仲哀は256年か257年生まれ。
仲哀2年では、まだ11才か12才にしかならない。
まだ嫁をもらう年に至っていないと考えても良い。
だから、仲哀治世中の空白に疑問が湧くのである。
ただし、オオウスは12才で「かえごとす」とあるから絶対ではないのであるが。
256 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/15(日) 20:10:40.93
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
この記事は、274年渡海とその後を語る事実である。
9月に兵を募集し10月に渡海する。その縁で新羅は、毎年、調(税)を倭に支払うようになる。
これを事実とするにはどのような状況が必要であり、考古学はどうか?
神功四十九年春三月。以荒田別。鹿我別爲將軍。則與久■等共勒兵而度之。半島占拠、領土分与も事実である。
神功五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。
七支刀は、東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)である。
これを事実とする読み方が存在する、それは、書紀に書かれた時空と合致する。
つまり暦は存在した。
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前) 纏向4類(中)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱 《秋津遺跡》
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
257 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 21:11:09.56
壊れたレコードの如きひとだな
この爺さんが頭振ったら壊れたブリキのおもちゃの破片が周囲に
ブチまかれそうだw
一言で言えば精神障害者だがね
259 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/17(火) 12:58:37.87
稗箕狐に先行されていたが、漸く<永楽大帝>(392-413)紀まで読んだ。
403年〜405年に仁徳天皇(313-399) の記事が登場するということは、
書紀の干支は60年ズレている可能性がある。120年はズレていない。
美海と腆支の話も出ているが、それが書紀では神功紀と応神紀に出ているということは、
神功紀は120年ずらしても合わないし、応神紀は120年ずらすとずらし過ぎになる。
要するに記事の挿入時期を間違えているとしか言いようがない。
しかしそんなことより、諸々の記事を検討していくと、
百済は鴨緑江以北にも領土があったと思える。まさかと思われるかもしれないが。
日本に正史たる正史は無い。
魏志倭人伝も邪馬台国の位置を示した壮大な記述の祖語など
呉に対する戦略的編纂があった可能性が高い。
そんな中、西暦170年生誕の一致をみる
卑弥呼=神功皇后説は有力とみて何の不都合があるのか。
261 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 18:15:13.39
神功って戦争扇動してたババアだろ
カスじゃん
腹切って死ねよ
262 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 18:16:25.38
こんなカスババアのことでいつまでも云々するな
くだらなさすぎるww
263 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/17(火) 19:09:27.96
>>260 後漢霊帝の光和中に共立されたとして、184年と仮定すると、14歳で女王になったことになる。
しかし新羅本紀に173年に使いを寄越したとあるから、新羅本紀とは合わない。
しかしネットの文献の阿達羅紀の232年条に、
五月 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘
とあるから、これが新羅本紀の173年条と同じ記事だとすれば、合う。
神功紀の編年は当てにならないのだから、神功が卑弥呼である可能性は大いにある。
というか、畿内説を採用するなら、卑弥呼は神功であるとするのが最も適切。
>>263 成程。
その同一人物という仮定を踏まえて考えると、邪馬台国は貿易上の傀儡国家のような
形態で九州に在し、代表の名は「皇后」では外交上具合が悪いため、倭の女王
「卑弥呼」としたというのが非常に合理的な答として浮かび上がる
つまり神功皇后は畿内で内務大臣をしながら九州で卑弥呼という名の外交の
トップだったというのが私のなんちゃって九州説です
神功は実在しないよ。
朝鮮に渡ったのは葛城襲津彦と言って4世紀後半から5世紀初めの人物だよ
応神の前、崇神なんだけれど、長くするために付けられたのが神功。
葛城は潰れとったし別に文句言う者もおらん。
>265
お前みたいに不確かなものを決めつける奴のことを一般的にバカと言う
いえいえ、神功を存在と事跡を事実と考える人は全くとは言わないけどまずいないので。
モデルになった人物はいると考えられてますけど。
新羅の人物に聞かせたら激怒したのもそれが韓を辱めると感じたか、嘘だったから。
268 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 20:46:45.69
ようは神功とかって月支のところから来た多産系の帰国子女だろ
月支は 筑紫で 竹から紫ビームので かぐやひめのが ちくし
>>267 捏造の達人、チョン公の意見は無用だから。
というかちゃんと日本語書けるようになってから来いよw
270 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:10:55.02
卑弥呼は日がシンボルの女大酋長だけど
神功のは月がシンボルの女大酋長
よって干満のコントロールが得意技なんだけど
一面 息を長く止めて潜水可能なスーパー海女のひとでもあり
かつ
月がシンボルであるからにして
なかみはぴょンぴょんの白兎大女王
倭の帯方界への進入が404年だったな。仁徳の時代であろう。
倭の帯方界への進入を喜んだ国があった。高句麗と戦っていた慕容鮮卑・後燕だ。
後燕への援軍のような形となったため倭国に友好の証として送られたのが
応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘された金銅透彫鞍金具だろう。
http://grnba.com/iiyama/img33/Homuda8man/hou0031.jpg 仁徳が父、応神天皇に捧げたものと思われる。
この一連の行為も後に神功皇后の三韓征伐とされたのだろう。
神功皇后170年とか言ってるポン助は時代を考えろ。
272 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:50:52.94
泥遊び好きのが毛人の美女使用して決済してからに若狭とか穢経由で入手したお宝かもよ
日本書紀とか大真面目に基準としてる歴史バカが結構いるな
>>271 お前の「思われる」とか「〜であろう」「〜だろう」なんて1ミクロンの
信憑性もないよーんw
275 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/17(火) 21:55:39.52
>>271 何の根拠もなくそんなことを空想しても仕方ない。
倭が鮮卑と友好的だったというような資料はないし、
日本の天皇は、父親の天皇が崩御し、陵に葬ってから即位するのだから、
自分の代に貰ったものを親の陵に埋葬するというようなことはない。
276 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:56:26.79
この古墳出土とされる金銅装馬具類が近在の誉田八幡宮に所蔵
これわあがっつしセットでぱくってきたやつだな
>>274 「全く信憑性が無いこと書いても不毛」
というのが反論でなくて何だ?
アホかw
>>275 >何の根拠もなくそんなことを空想しても仕方ない。
じゃこの鮮卑族の鞍が何故日本にあるのか言ってもらおうか。
なにせ国宝だぜ。
>日本の天皇は、父親の天皇が崩御し、陵に葬ってから即位するのだから、
>自分の代に貰ったものを親の陵に埋葬するというようなことはない。
だから丸山古墳は陪塚なので、
応神が死んでから、
捧げる形であっても不思議でない。
279 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 22:08:44.05
>倭の帯方界への進入が404年だったな。
ああ、こてんぱんにやっつけられた戦いだったな。
これ位後に、巨大古墳を造る元気がどこにある?大仙陵が一応最後の巨大古墳だ。
敗戦記念の築陵なのか?
逆に言えば、巨大墳墓を造れなくなったということは、一つの墳墓に複数の大王が葬られているのだ。
>>279 >ああ、こてんぱんにやっつけられた戦いだったな。
相手側の言い分はね。
へぇ、今でも北朝鮮は歴史上不敗の民族を自称してるけど信用するのか?w
>大仙陵が一応最後の巨大古墳だ。
おまえなぁ。
医者に池。
>>278 お前の説に何の信憑性もないのは、決定的証拠でも何でもない
考古学的資料に下らない妄想を加えてるだけだからだよ
>じゃこの鮮卑族の鞍が何故日本にあるのか言ってもらおうか。
本末から転倒した流れを捏造して意気がるなバカ
ガウランドが鼻にもかけなかったゴミじゃねえかw
>本末から転倒した流れを捏造して意気がるなバカ
だから日本に来た時代や流れを説明できないなら黙っておいてくれ。
>ガウランドが鼻にもかけなかったゴミじゃねえかw
今思えばガウランド自体がゴミじゃねぇかww
284 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 22:24:05.69
>神功紀の編年は当てにならないのだから、
百済本紀の百済王家があてにならないのであるから、百済王家を無視して記事を正しいとした場合
274年が神功渡海であり、桜井茶臼山では軍は弓矢が主体である。
メスリ山が槍隊になる。
国内でこの変化を説明できるか? 箸墓=最初の大王墓。これ以前の戦いは、弓矢が主体だ。
次が槍隊。しかし、国内に戦いのあとがない。
槍隊の編成は大量の槍が証明している。そしてこの槍(鉄)はどうやって得たか?
神功渡海と新羅からの調(税)は事実なのだ。
>槍隊の編成は大量の槍が証明している。そしてこの槍(鉄)はどうやって得たか?
>神功渡海と新羅からの調(税)は事実なのだ。
弥生時代、釜山・莱城遺跡で北九州人が鉄を採ってる。
心配すな。
>>283 バカが一匹必死に絡んだいたのにずーっとスル―され続け
コピペしかできなくなったという現実があるね
287 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:33:51.36
>>284 誰もあなたの見解など求めておりませんが
288 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 22:37:17.96
>今でも北朝鮮は歴史上不敗の民族を自称してるけど信用するのか?w
広開土王碑はすべて真実だ。
履中天皇五年(甲辰四〇四) 兄王捜索の話は、前年の帯方界で行方不明になった兄王捜索の話であり
兄王とはオオエイザホワケかもしれない。
百済王家は、この高句麗に占拠された50年の歴史を欠く。
だから、韓国考古学とは同期しない。
>広開土王碑はすべて真実だ。
日本側からいえばヤキを入れてやった程度だろう。
何ともなかったかのように後も大古墳を作り続けてる。
大仙陵が最後っておまえバカだろw
291 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:45:43.37
要は日本の古代史を楽しくハイレベルに語り合うべき場に
何でチョンがぞろぞろ出てきて口出しするんだよ、出てけ
292 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 22:49:37.11
広開土王碑はすべて真実だ。
しかし、高句麗の歴史も前後が狂っている。
342年に前燕に大敗した高句麗は、談徳を迎えるまで弱小国であった。
それからひとつ重要な読み方がある。
長寿王とは、100年の長寿を誇った名前ではない。
”長寿”とは”長老”と訳すのが正しいのだ。
奈勿大圣神帝纪に”長寿”と書かれていれば、それは”長老”と訳す。
好太王安から続く”安”氏系の王であるから高氏から見れば”長老王”になる。
>高句麗の歴史も前後が狂っている。
お 前 が 狂 っ て る ん だ よ
294 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 22:58:38.55
>何ともなかったかのように後も大古墳を作り続けてる。
大仙陵の次の巨大古墳は?
履中天皇は?
反正天皇は?
允恭天皇は?
履中天皇は北の陵、つまりだれかの陵に葬られた可能性がある。
>履中天皇は?
>反正天皇は?
>允恭天皇は?
全部あるじゃん。
あと土師ニサンザイ。
これが真の反正陵って話もあるくらい2重の堀がある巨大墳墓だ。
大阪北部だが今城塚は継体で6世紀前半で間違いないだろう。
ならば巨大墳墓はそのころまで作られ続けたんだよ。
大仙陵が最後って、おまえwww
296 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 23:11:15.06
>お 前 が 狂 っ て る ん だ よ
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
6世紀半ばすぎまで日本に製鉄遺跡は存在しない。
つまり、すべての鉄は伽耶の鉄だ。
しかも伽耶の王墓以上の鉄器を副葬している。
鉄器の副葬は、悪く言えば鉄をゴミ箱に捨てるのと同等の行為だ。
どんなに沢山副葬しても農業の発展には関係ない。
農業を発展させ、その余力で巨大古墳が作られたとしたならば、輸入された鉄の量は膨大になる。
鉄器を輸入した対価はなんだ?
神功紀は新羅からの調(税)と説明している。
神功49年以後はさらに大量の副葬と巨大墳墓築造。
大仙陵築造で一旦の小休止。
おたくとかそういう言葉で人格攻撃するのはやめようよ
人を攻撃するんじゃなくて自説に合わない箇所を指摘しようね
298 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 23:19:40.67
唐松くん
高句麗 高璉 長寿王のは中華の記録から裏がとれてる長寿だからしていぢらないほうがよいよ
>鉄器を輸入した対価はなんだ?
そんなものないよ。
大和王朝が主権を持ってたのだから。
まさか伽耶のような小国が対価を要求したとでも思ってるのか?
300 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 23:30:21.91
唐松くん
高句麗 高璉 長寿王のは碑たててからにとうちゃんのこと表彰した人だけど
かなり凶暴な5世紀のスーパースターで新羅手下にしてこき使ってからに
かなりな程度に九州北部蹂躙しているぽいから
その筋で考えてみると良いよ
近畿のほうは被害とかないから泥遊びするのには影響がないのですよ
とゆうか
むしろ優遇されていたとゆうストーリーも排除できなかったりするよ
301 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/17(火) 23:44:22.94
>高句麗 高l 長寿王のは中華の記録から裏がとれてる長寿だからしていぢらないほうがよいよ
記録は動かない。
その呼び方のみをいじる。
日韓交流の陥穽
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuudai 古代では朝鮮は遅れた日本に文字や仏教、学問を教えてきた。また大土木技術をもって日本
各地を開発し、さまざまな優れた美術工芸や文化財を持ってきた。日本文化というのはすべ
て朝鮮から渡来したものだ。あるいは文明先進国であった朝鮮人が野蛮な日本人に教えてや
ったものだ。日本人が尊敬してやまぬ天皇家や古代貴族は、もともとは朝鮮から来たのだ。
朝鮮というのは日本に文化をもたらした大恩人なのだ。
日本書紀の記述を無視して、書紀に書かれていない歴史を選べるか?
百済王家に歴史を合わせれば、書紀の記事はすべて無視される。
そして年代は、崇神=卑弥呼=箸墓が現在の主流であるが、
箸墓=埴輪≠崇神と半島の歴史と関係ない部分から齟齬を生じている。
だから齟齬を生じない時代に崇神を設定すれば、崇神5年=後漢193年が得られ、
纏向3代は纏向遺跡で説明できる。
纏向遺跡に中心のない垂仁と景行でいいのか?
>まさか伽耶のような小国が対価を要求したとでも思ってるのか?
239年以後、半島は魏・晋の管理下にある。
魏・晋の管理下にある半島でし放題なのか?
箸墓=魏時代
桜井茶臼山〜椿井大塚=晋時代。
晋が滅亡すると巨大古墳時代の幕開け。
239年以後、半島は魏・晋の管理下にある。
>魏・晋の管理下にある半島でし放題なのか?
>箸墓=魏時代
>桜井茶臼山〜椿井大塚=晋時代。
>晋が滅亡すると巨大古墳時代の幕開け。
4世紀になって楽浪が滅んでから、
古墳の全国展開という高度成長期をむかえるだろ。
何が不思議なんだ?
303 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/18(水) 00:11:37.20
>かなりな程度に九州北部蹂躙しているぽいから
無い。
九州の横穴は畿内より先である。
神功が九州で集兵したように、九州は兵站基地として機能している。
つまり、半島の兵は、神功49年以降九州の兵が主流となる。
だから、書紀に登場しないが、半島の歴史書に現れることもある。
岩井でわかるよう、九州に主力を置いても、出身は畿内だ。
畿内と九州では対応に違いが出る。
その最たるものが、百済の南下と伽耶までの侵食。伽耶の言い分を無視した畿内は
伽耶の新羅編入を阻止できなかった。
541年だ。ここで倭は”鉄”を失う。国内生産するも平安時代まで鉄は不足する。
対価を払って鉄を輸入することはなかった。
つまり、神功渡海以後、鉄の輸入に対価は使用していない。
対価も支払わずに入ってくる鉄であるから、大量副葬に罪悪感もない。
305 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/18(水) 00:36:04.72
>4世紀になって楽浪が滅んでから、
高句麗が楽浪を滅ぼしたと言いたいんだろ?
丸都以東に押し込められていた高句麗にはできない。
316年以降の活躍は正しい。しかしそれも342年まで
342年にはまた丸都に押し込められる。占領軍まで置かれる。
その高句麗が369年に楽浪(平壌)を領土として保持している←誤りがある。
くだらを占領した高句麗は占領軍を漢城に配置するのは当然である。
413年倭と高句麗による東晋への朝貢。この時、百済王は高句麗に含まれる。
この百済王を勝手に独立させたのが百済本紀だ、だから広開土王碑と齟齬を生じている。
併合以前の朝鮮の歴史くらい無意味なものは無い
全て捏造だからな
>高句麗が楽浪を滅ぼしたと言いたいんだろ?
スレチだそもそも
307 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 01:19:23.76
そもそも帯方争奪戦は倭國の兵隊が関与したんだからスレチとはいえんよね
百済の王家が倭王のこゆい血筋なんだからスレチとはいえんよね
308 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 01:22:31.94
人質の王子さまが帰国して王位についたとかって逝ってるけど
なかみがすり替わってない証明なんてだれもできっことかないしね
>>307 先人の世迷言は生野の飲み屋でやってろよバカチョン
310 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 01:48:27.00
いっぱんてきに敵国側で残された情報とゆうやつは
自分のところは優秀だから勝ってエロいってぱたああんで書かれがちだからして
相手敵国に攻撃された範囲とか被害とは小さく書きたがるのがふつう
石使用して高句麗側で残された情報だとゆうことを考慮すると
楽浪あたりまで倭の兵隊さんが逝っていたのかもしれない可能性は大なり
ただしタリのオーナーの人とかも分類上倭人なら攻防はよりリアルに嫁たりしちゃう
311 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 01:57:41.33
じつは百済の王家のも
なかみ長期で仕切っていたのが女王蜂系の女大酋長だってわかったんで
ほおこく
383 倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒(阿爾,佳利)相通 多聽其言
ひんと入れといたから調べてちょ
312 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 02:11:25.97
倭臣熊彦は容姿が良くて口も達者、阿?(阿爾,佳利)と情交して、熊彦の言葉を聞き入れる事が多かった?
どこの土人女酋長です?
倭臣熊彦は美しくて話術が善く、子供と相通じて、その言を聞き入れる事が多かった。
314 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 02:20:57.65
379 發康女兄阿尒(阿爾,佳利)爲謹須(近仇首王,餘須375-384)妻 專其國 迎其母兄而去
315 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 02:30:04.14
383 倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒(阿爾,佳利)相通 多聽其言
384 夫余謹須(近仇首王,餘須375-384)殂 枕流(384-385)立 其母(枕流の義母)阿爾執政
392 (枕流)而死 佳利(阿尒,阿爾)乃以枕流(384-385)子(阿)莘(392-405)代之
397 (阿)莘(392-405)質腆支(餘映405-420)于倭 倭以女妻之
316 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/18(水) 22:28:28.94
383 倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒(阿爾,佳利)相通 多聽其言 (323癸未、神功49年己巳)
384 夫余謹須(近仇首王,餘須375-384)殂 (338年 神功64年甲申)
奈勿聖帝10年(火狗 丙戌386), (326ひのえいぬ 神功52年壬申)七支刀
3月, 若旦那(道寧)などが伽揶(加耶)に使臣に行って宣失太后を謁見して来た.
付与(扶余)が官房(関防)を大きく設置して高句麗に備えた.
千熊長彦は神功49年。扶余系遺物は4世紀前半。
近仇首王死亡は、神功64年。
書紀が百済王家の記録を参考にしたとはできない。
七支刀=369年では、神功渡海から事実としては否定されている。
9月に集兵して、10月に渡海。それが縁で新羅は調(税)を納めるようになる。
事実とできる場所は274年渡海である。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm E4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。
「5世紀前葉に金海大成洞の集団が行方知らずになった」と申教授は述べている。
広開土王碑の伽耶への進軍は事実である。しかし伽耶王家は場所を移したであろうが6世紀半ばまで存続している
享廟禮曲,永無違者.
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
317 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/18(水) 22:39:10.53
金官伽耶は木槨墓を最後に墳墓が築造されない。これは狗耶韓国系の集団が他の集団によって解体・吸収されたか他に移ったことを意味する。
「5世紀前葉に金海大成洞の集団が行方知らずになった」と申教授は述べている。西暦532年金官伽耶が滅びた。金柑伽耶始祖の金首露王陵が
北方系の円墳であることを考えると、北方農耕遊牧民が先住の伽耶王族を征服又は合従連衡(がっしょうれんこう)したと思われる。
日本書紀同様、韓国にも詮索不可の史実が有るようだ。
北方農耕遊牧民を倭が受け入れ、伽耶などの都や邑に散置してきた。
百済本紀では、それらの記録を書き変える必要があるということだ。
318 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 23:32:29.90
>>315 × 392 (枕流)而死
○ 392 (辰斯)而死
------------------------------------------------
(367 神功47 丁卯)(基臨尼今)四年 赤兎 以康世女千康妻吉湏
------------------------------------------------
丁卯 = 赤兎
基臨尼今 = 基臨帝(大西知)(364-370-372)
(364)鼠 十二月 副君基臨受禪
(370)金馬 五月 副君訖解受禪
(372)水袁 六月 基臨帝崩
康世女 千康 = 佳利 = 阿爾 = 阿尒
吉湏 = 謹須 = 近仇首王 = 餘須(375-384)
千康 = 佳利 = 阿爾 = 阿尒 は百済王を百済王たらしめる女王です
319 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 23:44:39.26
阿尒(阿爾,佳利,千康)爲謹須(近仇首王,餘須375-384)妻
倭臣熊彦 與阿尒(阿爾,佳利,千康)相通 多聽其言
枕流(384-385)妾佳利(千康,阿尒,阿爾)
枕流(384-385)死 佳利(千康,阿尒,阿爾)継為辰斯(餘暉385-392)妻專政
佳利(千康,阿尒,阿爾)乃以枕流(384-385)子(阿)莘(392-405)代之
320 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 23:49:37.86
おまけのふろく
伊賀迦色許賣 の配偶者
@國玖琉 08.孝元 → 布都押之信 → 味師内宿禰 + 建内宿禰
A大毘古 → 御眞津比賣
B大毘毘 09.開化 → 印惠 10.崇~ + 御眞津比賣
↑
ほんとは大毘古の娘でつれこ
321 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 00:19:05.78
>>316 >千熊長彦は神功49年。
(日本書紀曰)
(神功皇后)五十二年(372)秋九月丁卯朔丙子(9月10日)
久氐等從千熊長彦(職麻那那加比跪)詣之
則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶
(月嬭神經曰)
(383)七年 (水羊=癸未)(383 神功63 癸未) 正月 行水羊祭 光臣伊伐飡 白花稟主
三月 夫余流民三十戸又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒相通 多聽其言 故國人異反 或歸于我 亦歸于麗
if 千熊長彦(職麻那那加比跪)=倭臣熊彦=ちくまななかひこ?
then このひとが七枝刀プレゼントとかで百済王家と絡んでからに結果女王蜂をとりこにした
もすかすたら子を成してその子は王になっているかも あさんとか?
誰も読まない
誰も参考にしない
し か し
必死のコピペは続く、
その先にあるのは・・・
不毛
>>317 >西暦532年金官伽耶が滅びた。金柑伽耶始祖の金首露王陵が
>北方系の円墳であることを考えると
君はあれを昔からある本物だとでも思ってるのか?
後世につくられたものだ。
ましてや北方系の円墳って何だ?
あのおゆな円墳は日本にしか見られないが。
324 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 11:47:05.19
基臨尼今 五年 黄龍(368 神功48 戊辰) 三月 急利女水皇妻倭太子
325 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/19(木) 19:35:46.50
倭と濊貊は何かしら関係がありそうである。
1 隅田八幡宮画像鏡の銘文に濊人とある。
2 桓檀古記に、豆只州濊邑叛とあり、其後孫有陜野奴者,逃於海上,據三島,僭稱天王とある。
3 <永楽大帝>紀 AD403年条に、倭の使者の言葉として「…臣, 惧且喜, 不知所措, 謹從<溈>典, 敢献二女. 不腆媎儀, 實愧島習, 不棄是幸」
上, 問其誰作. 使曰;“<貊君>·<文藏>作也. 盖吾人之入為其師者也.”
上謂<淵鞱>, 曰; “<倭>學于我不過五十年, 其進與此. 我國修文三百年反不如是耶.” とある。
<貊君>·<文藏>が倭の<溈>典を作ったという記事である。
326 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 20:09:28.09
千熊長彦(職麻那那加比跪)=倭臣熊彦=ちくまななかひこ
書紀のいいまわしから嫁るけど、このひとのドメインは半島南部だな
倭臣の「臣」のは韓の國々の酋長の称のの「臣智」の「臣」ぢゃろて
従って
「倭」とゆうのをあたまにつけてよばわっても可な韓の國があったとみるべきですわな
327 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 20:26:07.85
もうね
辰王の実態がまわりの諸王を生み出す女王蜂なんだつうのがばれちゃって
まわりの諸王は馬韓人で女王蜂にむらがって王にしてもらうて構図が見えちゃえば
あれっ
女王蜂さんて馬韓人ではないのは前提で掻かれているんだけど
いったい女王蜂さんて倭の王様とどんな距離にあるの?
328 :
橙犬者:2012/07/19(木) 21:38:33.73
>>254 唐松山さん 有難うございます。
ご説明の内容が深く、ご説明を解釈するのに時間が掛かり申し訳ありません。
>240年12月15日日本武尊誕生 >13 唐松山さん投稿:2012/07/08
申し訳ありません。この、根拠が判りません。>246 橙犬者投稿:2012/07/15
お教え願います。>246 橙犬者投稿:2012/07/15
>ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
>垂仁元年 秋太陽に遅れ 冬至日の修正。>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
ホツマに上の文が有る。フユおさめとは、冬至日の修正のことである。
太陰暦の一ヶ月は約29.53日であり誤差が蓄積され約3年に1日のズレが生じる。
太陰暦の12ヶ月は約354.36日、実際の一年は約365.24日で季節のズレが出てくる
「フユおさめ」から当時は太陰暦(19年7潤)を使っていたと推定できる。
>太陰暦とは1章(19年7潤)の積み重ねであり、その最後に誤差は修正されるべきものである。>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
ここでの太陰暦とは19年を一単位(章)として閏月を19年間に7回入れる19年7潤という暦法で、誤差を修正していた。
1章=19年7潤=6939.55(日)∵19(年)×12(月)×29.53(日)+7(閏月)×29.53(日)=6732.84+206.71=6939.55(日)
太陽暦19年=6939.56(日)∵19(年)×365.24(日)=6939.56(日)
>19年7潤の廻しは、古記に書かれている。>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
「令集解古記」に19年7潤を一単位とする「章」の運用についての説明がある。
>そして、重要なのは人間の年齢で説明できない>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
史料の天皇などの崩御の年齢などから、誕生や即位してからの経過した年数を説明しきれないことが多いことに注意しなければならない。
>垂仁治世99年などの時代にも太陰暦が使われていたということである。>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
垂仁治世99年など信じ難い内容であるが、閏などから同じ19年7潤の暦が使われていたと考えられる。
>ここまでは理解していただいたこととして次へ進む。>254 唐松山さん投稿:2012/07/15
この解釈で宜しいのでしょうか。
以降の部分は暫くお時間を下さるようお願い致します。
329 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/19(木) 22:27:44.89
>あのおゆな円墳は日本にしか見られないが。
百済においては、4世紀末から始まる高句麗系積み石塚の前は、この円墳であった。
そして、嶋王の墳墓もこの円墳である。近肖古王が積み石塚を選択したのであれば、嶋王は何故継承しなかったのか?
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前) 纏向4類(中)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 北部九州に纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱 《秋津遺跡》
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
323年 神功49年
326年 神功52年七支刀。
神功渡海とは、晋の命令による渡海であり、女王国に置いた1大卒の行為を半島で行うためである。
1大卒(倭の警察郡)を維持するためには、経費がかかる。その経費として、新羅からの調がある。
メスり山時代に槍軍が編成されていたことは明白である。
330 :
レス長たらし毘古:2012/07/19(木) 22:37:36.48
今日こそ通り過ぎようぞ。というわけで、以下の各人様へ横槍を投げつつ
ヒット&アウェー。
>>231 >阿波・讃岐は、天日矛と考えることもできる。ここも伽耶より楽浪を視野に
入れたほうが良いのではないか。
阿波・讃岐の領有経緯は、当方は以下のように架説
@ツクヨミ神大系支族とスサノウ神大系支族の領有争い(若しくは競争)
A大倭クニアレ姫→倭トモモソ姫の一族が拝領領有
B吉備津彦系一族が拝領領有(建ハニヤス彦の乱の後に)
C吉備津彦系一族の同盟者の天日矛一族が継承領有(海運技術職として)
こう考えると、古事記におけるクニアレ姫から仲哀大王の時代までの間の、
阿波・讃岐のありようが、比較的スムーズにつながります。
331 :
レス長たらし毘古:2012/07/19(木) 22:40:08.86
>>330続き
>>268 >ようは神功とかって月支のところから来た多産系の帰国子女だろ 月支は
筑紫で 竹から紫ビームので かぐやひめのが ちくし
その事なのですが、本筋からずれるかもしれませんが、当方は、ツクヨミ
と因幡の白兎との関係が気になります。そして、月の宮へ帰られたかぐや姫
とは何者か?ウサギ→ツキ(カグヤヒメ)→ツクシ。。。これらのキーワード
が、「ツクヨミ」の研究によってより明確な物になってくるかもしれません。
>>270 >卑弥呼は日がシンボルの女大酋長だけど 神功のは月がシンボルの女大酋長
間接的に一部同感。但し当方は、モモソが先ず月の女酋長を(ツクヨミから)
継ぎ、しかる後に沙保の乱によって、その権威権益は神功の祖の天日矛の子孫
へ継承(奪取)されたと架説しております。
従って、神功皇后さんは、月と密接で、かつ、朝鮮半島権益とも密接である、
と言う前提条件が、これで兼ね揃えられる事と成ります。
すると、古事記を書こうとする時代に、もし「蘇我」を消去しようとする
ならば、同時に、ツクヨミも消さなければならなくなります。(実際古事記
ではツクヨミ表記は薄し)神功さんまで消せなかったのは、神功さんが対朝鮮
半島戦にて獲得した外交権益を「継承し続けたかった」なら当然となります。
332 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/07/19(木) 22:45:51.19
レス長たらし毘古君へ
稗箕狐の書いてることは半分以上は妄想だから、付き合わないほうがいいよw
333 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 22:58:21.65
334 :
レス長たらし毘古:2012/07/19(木) 22:59:22.52
と言うワケで、本日の当方の締め。
ツクヨミを祀ってた一族がスサノウに葬られた(或は弱体化された)イザナギ
を弔った場所が、淡路。(故に、出雲・九州の両者は淡路に頭が上がらない)
で、その一族の最後の巫女こそがモモソ姫。これが魏志倭人伝にて卑弥呼と
表記される。(外交謁見場所は九州東北部)
ツクヨミ神話体系の語り部にして後継者であったモモソ姫は、しかし没後、
その子孫の一族は権力争いに破れる。
モモソの子等が権力争い(沙保の乱)に破れた後、阿波・讃岐と言う「土地」
は吉備津彦に移管され、そして後代に神功の祖先の天日矛一族に移管される。
モモソの子等が権力争い(沙保の乱)に破れた後、「ツクヨミの巫女」と言う
「権威」は伊勢の天照信仰と八幡の宇佐信仰へ二分相続される。
後代、崇神〜景行〜仲哀の間のどこかで、「ツクヨミ神話体系」は、かなり
封印される(崇神が三輪を祭ったあたりか、景行遷都か、仲哀以前のヤマト
タケル大遠征時代か、いずれにせよどれも前出雲アゲなので、ツクヨミが
下げられる可能性は大)
とどめは、古事記編纂期の、天智天武による「蘇我消去」で、この時に武内
宿禰の「消せる部分」と同時に、ツクヨミの「残ってた部分」も削除される。
335 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 23:02:50.84
336 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 23:04:37.60
337 :
レス長たらし毘古:2012/07/19(木) 23:05:35.39
>>332 ご忠告はありがとうございます。
ただ、あちきは、ジグゾーパズルを楽しんでいるだけの、クルワの中の蝶なの
でありんす。これがレス長の見る蝶の夢なのか、はたまた蝶が見るレス長の夢
なのかは、あちきにはとんとわからないんでありやんす。
また、新しいジグゾーパズルのピースを、見つけるか、思いついた時には、
またやって来るのでありやんす。
338 :
レス長たらし毘古:2012/07/19(木) 23:10:51.26
>>335 趣き深い情報提供感謝です。今度ジックリ調べてみてくるです。
モモソのお母さんは、そう言えば、別名ハエイロネ。(そして叔母さんは
ハエイロト)ひょっとして、姉さんが太陽担当で妹が月担当だったりして。。
(その場合、姉の子のモモソは、何担当になるのだろうか。ふむふむ)
339 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/19(木) 23:14:41.93
>その最後に誤差は修正されるべきものである。
補足 太陰暦
1章を6940日とし、4章につき1日を減ずる。
4章=27759日。
27759/76=365.25日。
27759/29.53059=940.008月
0. 008*29.53059=0.24日
月は76年で0.24日進むから、300年ほどで1日狂う。
4章につき1日を減ずる。この解消法として、38年経過した時点で大の月を1回小に変更すれば
0.5日を修正したことになる。
↑わかりにくいと思うが、29.53日の0.03日の解消方法は、
0. 03*33月≒1日。実際の暦は、16ヶ月程度で大の月が続く。
343年の朔=甲子・癸巳・癸亥・壬辰・壬戌・辛卯・辛酉・庚寅・庚申・己丑・己未・己丑
345年の朔=壬午・辛亥・辛巳・辛亥・庚辰・庚戌・己卯・己酉・戊寅・戊申・丁丑・丁未
大の月を16ヶ月程度で差し込むと0.5日の修正となる。
76年で1日修正するとは、38年で0.5日修正することとかわらない。
340 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 23:24:32.01
341 :
レス長たらし毘古:2012/07/19(木) 23:29:17.83
>>333、
>>335、
>>336、
>>340 うーん、ありがたい物(あるいはありがたくない物か)を貼っていただいた
ような気もするのだが、残念ながら当方のポンコツでは表示できんかったw
従って、返答を期待されてたらあいすみませんが、返答はできないようです。
342 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 23:52:40.87
343 :
レス長たらし毘古:2012/07/20(金) 00:01:02.67
あ、そうそう、ミマツヒメ云々も話題に出てたようですが、これは当方、まだ
固まりきっていないので、もちょっとじっくり考えてみてからにします。
ミマキイリヒコが「任那来入日子」ね。おもしろいっちゃーおもしろそうだけど
まだ当方は旗幟鮮明にできない箇所でもある。。。
ミマキは阿波の美馬だろう。
345 :
レス長たらし毘古:2012/07/20(金) 00:24:25.27
>>344 >ミマキは阿波の美馬だろう。
大毘古さんが紀伊近辺ゆかりの人だから、普通に考えると放射状にソレ近辺
って感じがしますね、現段階では。
346 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 00:24:42.41
御眞津比賣 + 伊賀迦色許賣 と
その先の 内色許男 + 内色許賣 ののコードを使用して
味師内宿禰 + 建内宿禰 のを読むと
「うまし・うつ・しこめ」 + 「たけ・うつ・しこめ」 になります
>>329 >百済においては、4世紀末から始まる高句麗系積み石塚の前は、この円墳であった。
ちょっとソースを頼む。
どっちにしても金首露王陵なんて後世の作。
348 :
レス長たらし毘古:2012/07/20(金) 00:51:52.40
>>346 当方の架説と少し近くなってきますね。まさしくそこら辺が、当方が仮に規定
するところの、前出雲神話大系(スサノウ〜大国主の時代における出雲地方の
神話体系)と言った感じです。
もうコード化まで行ってるのですね?(うーむ、先を越されたような、幻を
越されたような。。)
349 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/20(金) 01:35:02.12
>>347 百済を見よう
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/baegchae.htm 石村洞古墳群
漢江(한강:ハンガン)流域には積石塚が残されている。石村洞(석촌동:ソクチョンドン)は漢江とほぼ同じ高さの微高地に
築かれた古墳群であるが、1916年の時点では23基の積石塚と66基の円墳が残されていた。
夢村土城
中は緩やかな傾斜地である。3-4世紀頃の多くの遺物とともに百済時代の住居址や貯蔵穴などが発見されている。一時慰礼
城にあてる意見もあったが、王宮に関する遺跡が1つも発見されず、戦争のための避難用の城だろうと考えられている。中国
で作った土器なども多く発見されて いる。5世紀以降は高句麗系統の遺物が出てくる。ここは新羅以降廃城になったようで、
その後作られた土坑墓や積石土坑墳が発見されている。
夢村土城は、5世紀前葉からの遺構が確認されているが、遺構以外で4世紀に遡るべき遺物が土城内にみられることも事実であり、土城内
に未知の「4世紀の遺構」が存在した可能性は残っている。5世紀後葉から土城内に高句麗土器が現れ、土城内に小積石塚や土壙墓が造営さ
れ、5世紀前期とは土城の機能に若干の変化があったようである。5世紀前期から中期にかけての墓制の変化ともあわせて,当時の社会変動
を憶測させるが、6世紀半ばまでで土城は廃絶したらしく、土城内で新羅土器はみられなくなる。
http://inoues.net/korea/yumemura_dojyo.html 百済建国は、西晋の滅びた直後である。5世紀以降は高句麗系統の遺物が出てくる。
343年以降 前燕に帰順する百済と高句麗。343年には百済は存在する。
ソウル・夢村土城出土土器編年試案
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/1992a.html#2_3 3) 土器の分類・編年・実年代論に関する問題点
調査で得られた資料に基づき,85年報告は夢村土城の上限年代に触れ,88年報告は土器の分類と編年を扱い,
89年報告で補っている(ソウル大編年と総称)が,疑問も残る。それは遺構での一括性に基づかないためである。
350 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/20(金) 01:48:44.55
はっきりいて、
韓国人は、考古学を信じたくない。
だから、百済本紀に整合するような編年をしたい。
そのためには、出土遺物を種類別に分け、それを編年と重ねる。
それにより、編年をごまかすことができる。
しかし、伽耶については、4世紀末、5世紀初頭に釜山に存在したであろう
狗邪韓国が行方不明になっている。
しかし、高句麗の南下は認めたくない。それが為
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm 金柑伽耶始祖の金首露王陵が北方系の円墳であることを考えると、北方農耕遊牧民が先住の伽耶王族
を征服又は合従連衡(がっしょうれんこう)したと思われる。
などと文献の存在しない事を主張するのである。
金官伽耶は、541年に新羅に降るまで1系で存続すると主張するのが遺事なのである。
安本の説に感化されたのかもしれないが、
北部九州の地名は他地方から移植した物が大半だよ。
>>349 だから「土盛りの円墳」の話が消えてるのだが。
>金首露王陵が北方系の円墳
繰り返すが後世の作だ。
長年考えた結果 邪馬台国は
関東つまり
現在の千葉県にあったと推測する
千葉県には縄文時代から人が住んでいた
痕跡が多くある!
つまりこれでわかるように
千葉県に卑弥呼はいたことになる!
卑弥呼の本名は、市原悦子かな。
うん、そう。
357 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:54:32.50
ほんとは大毘古の娘で女王蜂伊賀迦色許賣のつれこの 御眞津比賣かもね
はんこもらったひとと同母ではんこもらったひとは異父弟とゆうことにはなるが
358 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 23:00:29.60
御眞津比賣とかってちょっとお化粧してあげたら
「彌馬都日目」だしね
「任都姫」のほおがかわゆくみえたりするかもな
359 :
レス長たらし毘古:2012/07/20(金) 23:37:29.50
>>352 >安本の説に感化されたのかもしれないが、北部九州の地名は他地方から移植
した物が大半だよ。
うん、それはそれでわかるし、ある程度納得もできるのだが、すると古事記
における景行遷都(北九州→バビューン→近畿)は、どう見るか?と言う話
にもリンクしてくる。つまり、近畿と北九州に同地名があった場合、どちら
がオリジナルでどちらがコピーか?と言う話が真反対に成り得る。
景行遷都の後に、「ヤマトタケルさんの遠征」と「神功さんの遠征」があり、
景行さん自体が日向から嫁さんをもらっている事などから、景行大王以前の
(しばらくの間)の、実権上の中心地は北九州だったと考えると自然になる。
だがしかし、景行の数代前の大王は近畿にい続けたと古事記は主張する。
どちらも尊重した場合、この時代は「両論併記時代だった」と考えた方が
自然に思えて来る。そして、後代この両論併記を統一論表記にしてしまった
為にアリバイが必要になり、「同地名」を逆に用意せざるをえなくなった。
で、上記の架説の上に立った場合、(つまり景行大王の数代前は北九州中心、
とした場合)「モモソ世代(や、崇神世代)」がここに位置するワケです。
(少なくとも古事記では)
かくして、瀬戸内海の西岸と東岸の二つのお話は後代強制的に統一され、
そしてその波間に、卑弥呼さんが「お隠れに」なってしまうのです。しかし、
ただ隠すと勿論たたられます。そこで、たたり防止のために、一部を天照さん
の要素へ合流させ、一部をモモソさんの逸話に合流させ、最終的なその
権威と威光は、沙保の乱によって穏便にお伊勢様へ移譲された、と古事記は
主張する事となったのです。と言う架説。
何が景行だ小碓尊だw
ここは神話を語り合う糞ジジイどものティールームかよ、あ?
口あけりゃ百済百済と百済ないチョンにもうんざりだが
もしかして67回もこんな百済ないこと繰り返してきたのかw
361 :
レス長たらし毘古:2012/07/20(金) 23:54:51.62
>>357 ミマツ比売が古事記でみごとに「だぶって」います。これは統一論表記化の
際に生じた「ひずみの一つ」と考えると、自然につながってくる気もします。
古事記上だぶり表記現象がある時代の「はんこの所有者」や「かがみの所有
者」は、従って少なくとも古事記ではそこに全く触れていない以上、特定
不可能だった(少なくとも古事記編纂期には)と想定します。
また別に、日本書紀によると、崇神大王はその後「出雲から神宝」を招集させ
ます。これを信用するならば、今度は「なぜ招集させねばならなかったか?」
の動機の部分が気になってきます。
崇神大王が、北九州の神宝を「取り損ねていた」と仮定すると、この動機も
むべなるかなと言い得る政治行動ともとれなくもありません。
そうです、物部系は、神宝を(少なくとも継体大王の時代には)維持保管
しています。崇神大王〜倭の五王の間の時代を、蘇我の時代(正確には蘇我
の先祖武内宿禰の一族が大王にはべっている時代)と考えると、この日本書紀
における崇神大王の「出雲の神宝あつめ」は、割と理に叶った政治行動かも
しれません。
この後代、蘇我と物部が内戦を行うほど「仲が悪い」のも、説明がつきます。
362 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 00:05:59.60
>何が景行だ小碓尊だw
実在した時代と文献がある。
これを否定しないと正しいとできない説に、九州邪馬台国説がある。
纏向3類(前) 庄内3式期末 ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡・鉄器 埴輪(穴あき壺)
倭人伝 邪馬台国官、伊支馬 都市牛利
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(前) 纏向4類(中)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王墓)・燈籠山、布留0の指標、(260±10年程度)
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
景行が九州を平定し、日本武尊が関東・東北を傘下に置く。
この時点で、邪馬台国が大倭となるのだ。
363 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 00:09:10.94
まえにもかいてあげたけど
王家が男系で連綿と繋がっているという発想がそもそものまぬけ
連とか臣とかついているから王家より下とゆう発想も
エディターにむだに誘導されてるだけで非科学的
平安貴族の婚姻形態とかそのまま持ち込んで解析するほうがまだまし
364 :
レス長たらし毘古:2012/07/21(土) 00:13:11.73
>>361続き
つまり継体大王時代以降物部系は(ウマシマジ以来の)近畿の神宝を維持保管
しています。蘇我系は(崇神大王以来の)出雲の神宝を維持保管しています。
と言う構図になります。そして北九州の神宝に関しては、継体以降の知識人に
とっても「特定」ができていないと仮定します。
とした場合、確かに欽明大王世代くらいに、物部VS蘇我の構図になっても
おかしくありません。(これが結果の方)
また遡って、崇神大王ですが、これはライバル(建ハニヤス)を倒して王権に
ついた人物ですので、少しでも多くの「権威」が必要な筈です。近畿諸豪族を
「従わせる為の権威」が。もし、建ハニヤスとの戦いで、「その神宝」を
GETできていれば、日本書紀の言う所の「出雲の神宝」を焦って招集する
必要は薄くなります(無いとまでは言いませんが)
そうです、崇神大王は、北九州系統の神宝はGETできなかった。では、三輪
を祀った時に納めるべき(納めておきたい)神宝をどこに求めるか?
「=出雲」と考えると、日本書紀での出雲の神宝招集の説明がつきます。
(これが原因の方)
※物部が維持保管している(と言われている)近畿(近辺含む)の神宝は、
崇神大王は少なくとも「手が出せなかった」と想定します。手を出していれば
崇拝大王は、近畿在来勢力と、出雲勢力と、建ハニヤスの残党とを「同時」に
敵対せねばならなくなります。これはカナリリスキーで、その後の崇神大王の
「ある程度順風満帆な治世」を担保できなくなってまいります。
365 :
レス長たらし毘古:2012/07/21(土) 00:20:19.32
>>361(の、誤字訂正。訂正してお詫び)
>手を出していれば崇拝大王は、近畿在来勢力と、・・・(誤)
→手を出していれば崇神大王は、近畿在来勢力と、・・・(正)
366 :
レス長たらし毘古:2012/07/21(土) 00:25:29.58
ま、しかし、崇神大王が、イケイケドンドンな性格で、
@謀反をたくらむ建ハニヤスをぶったおしてやったでー!
A三輪にまつるから、出雲、おめーんとこの神宝よこせ!
B無事あつまったよ♪お告げどおり三輪でお祭(崇神物語大団円♪)
って言う、日本書紀の表記そのままでも、面白いっちゃー面白いけどね。
但し、これをそっくりそのまま信じると、崇神大王前後に、卑弥呼さんの影
は見出せなくなる。ここら辺が悩みどころ(^^)
367 :
レス長たらし毘古:2012/07/21(土) 00:31:59.11
>>354 >千葉県には縄文時代から人が住んでいた痕跡が多くある!
つまりこれでわかるように千葉県に卑弥呼はいたことになる!
是非いつか、ここで御高説か、そのヒントでも披露してもらいたい物です。
(いやまじで)(とゆーのは、まだ邪馬台国の東に位置すると言われている
黒歯国の特定が、当方の架説をもってしても宙ぶらりんなので。。;^^A)
幻の関東王国とか、千葉の縄文人とかも、(カテ違いにならない範囲で)検証
をしてみたい物です。うんうん。
>>355 声はえっちゃんでもいいと思うが、ルックスは卑弥呼としてはいやです。。
卑弥呼はゴルフの宮里みてえな顔だぞ たぶん
369 :
レス長たらし毘古:2012/07/21(土) 00:48:31.58
ついでに。
出雲の神宝は両論の「どっちがGETした?」ですね。ここが記紀双方で
食い違います。
・崇神大王の代にGETしている派
・ヤマトタケルの代にGETした派
このだぶり現象も、先述の「両論のちに統一」の架説をもってすれば、説明が
可能になってまいります。今宵も四方山夜話におつきあい下さりまことに
有難うございました。
あああうざかった
371 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 07:59:41.74
架説って変換するワープロソフトもあるのか?
神功皇后の征伐話、ヤマトタケルの遠征話、景行天皇の九州制覇
これらは日本書紀にあるが、古事記にない話である。
これらの輝かしい話が、もし真実なら、古事記で触れていないのはあり得ないし、
天皇家がその発行を許すとは思えん。
したがって、
これらの話は、「でっちあげ」でないなら「他から盗ってきた」話である。
373 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 10:59:42.27
でっち上げだよ。他からとってきたものではない。
日本書紀は唐に読ませるためのものという一つの目的があって書かれた
だから国内統一と半島への進出の記事が加えられているのさ
加えられているというか殆どが脚色、まあでっちあげという
下品な言葉でくくられるべき類のものではないが
376 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 11:55:44.88
記紀のは
エロなまりつつかつわざとまちがいつつさらにはがっつし下品な言葉駆使してからに本物のところを誹謗していたりするが
いっぱんてきに上手に嘘を騙るとゆうのは
かなりな割合で嘘でないやつのなかに微量の虚偽申告混ぜ込んであげるのがうまい嘘を構築する技術
記紀の場合は虚偽申告の割合がでかいからかなり嘘っぽくみえたりする
むだに威張っている神様で言行不一致のをサーチしてあげるときっちりと供述の矛盾が明白化したりするよ
377 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 12:43:34.41
>>376 結局、記紀を肯定したいんかい?
宮 内 庁 職 員 さん
378 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 14:03:40.65
>景行天皇の九州制覇
247年 景行12年から九州遠征、その遠征理由となる「熊襲の不朝貢」とは、九州女王の言い分だ。
ということは、景行は、女王卑弥呼に加担して、熊襲を従える戦争をする。その最中に、女王・男王
の相次ぐ死。 景行は五百野姫を軍隊付きでちくしに派遣する。
>ヤマトタケルの遠征話、
一旦は、景行に従った熊襲ではあったが、ほとぼりが冷めた頃、また独自の行動をとるようになる。
その熊襲を誅伐し、帰郷したとしの秋には、関東遠征。これで全国が統一される。
>神功皇后の征伐話、
長畑馬場遺跡
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成さ れている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地 であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。
景行 諸県は玄海町諸津。イズミ媛。(250年ころ)九州北部に庄内式土器(纏向3類後)
倭人伝 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
神功 田油津媛は田平媛。(274年渡海)纏向5類(プレ)
神功渡海とは、大倭が女王国においた1大卒を半島に上陸させ、半島の管理に当てる。
晋の命令であるから、大王仲哀の死に優先する。
神功皇后は新羅王の血を引く九州王朝の姫である。
大和の天皇家に嫁いでいたのは政略結婚。百済や新羅が王子を九州王朝に人質に出してたように、天皇家も王子を人質に出していた時の婚姻か、九州の姫を皇后として降嫁していたのでは?
それで実家の九州王朝が三韓派兵(390年頃)するから、加勢するため九州に来ていたんだろう。だから夫が死んで空位になっていても、九州王朝は気にせず派兵している。
380 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 16:21:27.18
朝鮮半島の唯一の正史、三国史記には、新羅の四代目の王、
脱解王は倭国から来た倭人であると書いてあります。
そして、昨年(2011年)の夏、韓国歴史学会は第一級の史料を
発見したと記者会見をして、「新羅は倭の属国」とのことが分かり、
今後、任那に関しても再考の必要があるかもしれないとの報道がありました。
韓国はあんな内情なのに考古学は客観に徹そうと頑張ってるな日本よりは。
382 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:02:34.89
⊂⊃
383 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 18:11:44.68
4代 ?解尼師今 57~87。はともかく
17代 奈勿麻立干 356~402 。が問題である。
後漢193年=新羅192年=崇神5年。ここから加羅に援軍の209年あたりでは一年の狂いしかない。
しかし、儒禮や基臨の死亡は、奈勿麻立干 の直前である。
奈勿麻立干 356~402 金氏 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。
新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
新羅本紀の上部を引きずり降ろさないと奈勿麻立干につながらない。
しかし、上部は固定できる。であるならば、奈勿麻立干を引き上げねばならない。
ここで問題となるのが、奈勿麻立干を引き上げれば、百済王家も引き上げられる。
323年 神功49年 領土分与を以て百済建国。ここまで奈勿麻立干を引き上げることができる。
その場合、日本の歴史は、
二世紀末の無人の纒向に崇神が入植することになる。
274年 神功渡海から少し後には、新羅が調(税)を倭国に納めるようになる。
税の使い道の一つに、古墳への鉄器副葬がある。
つまり、以後50年ほどの古墳には、新羅の調(鉄器)が副葬されている。
その墳墓として、桜井茶臼山(神功若桜宮の指標)から椿井大塚まではこの鉄器だ。
ちょうど△鏡とも重なる。△鏡のうち舶載とされのは、3世紀分、308年永嘉の乱以前に収めなければならない。
384 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/21(土) 18:19:43.24
後漢193年=新羅192年≠崇神5年
385 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:24:43.40
奈勿さん
351年3月 生まれ
377年4月 先代の好臨公儒禮帝が「災異重出 不可無善政」だとして「乃決意行禪」で受禪
402年2月 病劇 求藥于神山 帝曰 「天命自在藥能 何爲晏然」 而崩
386 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/21(土) 18:25:47.05
景行は五百野姫を軍隊付きでちくしに派遣しない。
>>ヤマトタケルの遠征話、
>一旦は、景行に従った熊襲ではあったが、ほとぼりが冷めた頃、また独自の行動をとるようになる。
その熊襲を誅伐し、帰郷したとしの秋には、関東遠征。これで全国が統一されてない。 九州王朝が存在しており、景行が九州全部を制覇したのではない。
387 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/21(土) 18:28:48.98
はっきりいて、
宿主は、臭魔伝を信じたい。
だから、臭魔伝に整合するような編年をしたい。
そのためには、景行年代を最重点にして、それを編年と重ねる。
それにより、編年をごまかすことができる。
388 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 18:32:12.48
おっ、太国ドンが復活しとる
389 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/21(土) 18:32:36.29
箸墓=埴輪≠崇神と半島の歴史と関係ない部分から齟齬を生じていない。
だから齟齬を生じない時代に崇神を設定すれば、崇神5年≠後漢193年が得られる。
なぜか? 垂仁での埴輪は先帝の陵に捧げなくては片手落ちだから、別におかしくはない。
390 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/21(土) 18:49:03.16
ホツマツタヱの意味は、漢字で表現すると、「臭・魔・伝」となります。直訳しますと、「ナマぐさ・まもの・つたえ」となります。
なぜ、今、ホツマツタヱが駄目かと云えば、 21世紀の科学的な世の中になったが、古代歴史の世界では、
今だ、そんじょそこらのただのおっさんが、編纂したといわれる「臭魔伝」や「臭魔電」が誤を利かせているのです。
それも上古代におっさんが書き残した「歴史書(神話〜景行天皇)」より、都合の良い個所を勝手に抽出して、
古代文字で編纂している点です。 そのため古代の日本の歴史が、歪められ、「アマテラス神が女神→ 男神」に
されたり、古代より存在はした「富士山(古名:ホウライヤマ)」のことが、神皇紀に記載されているのです。
391 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 19:11:10.47
9 伐休泥師今 184~196 昔 ?解王の孫。昔角干の息子。母は只珍?禮夫人金氏。阿達羅王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
10 奈解泥師今 196~230 昔 伐休王の孫。昔伊買の息子。妃は11代助賁王の姉の娘。
11 助賁尼師今 230~247 昔 伐休王の孫。母は玉帽夫人金氏。妃は10代奈解王の娘阿爾兮。
12 沾解泥師今 247~261 昔 伐休王の孫。助賁王の弟。
13 味鄒泥師今 262~284 金 慶州金氏の始祖金閼智6代孫。母は朴伊?の娘朴氏。妃は光明夫人昔氏。沾解王が息子無しに死んで大臣たちの推戴で王になった。
14 儒禮泥師今 284~298 昔 助賁王の長男。母は朴氏。
15 基臨泥師今 298~310 昔 助賁王の孫や次男という説がある。
16 訖解泥師今 310~356 昔 奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。基臨王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
17 奈勿麻立干 356~402 金 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
味鄒・儒禮と奈勿が乖離していることは事実である。
味鄒・儒禮を引き下げるか、奈勿を引き上げるか? 2択である。
これまでの歴史は、百済王家を正しいとして編年してきた。
その場合、崇神=卑弥呼でおおむね整合する。しかし、現在の考古学は、この数字より50年ほど遡上している。
崇神世を引き上げれば奈勿も引き上げられる。
韓国考古学も奈勿を引き上げる数字を支持している。
奈勿を引き上げた場合、神功49年が323年と百済建国を指すことになる。
七支刀はこの謝礼である。
392 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 19:22:13.05
唐松さんたらまだ気づかないのかな?
古風の支干表記のあるほおがふつうに古い時期に成立した史料だよ
統一新羅の時にエディット受けたやつはもう年代ちょびっとずれてるのとかあるよ
「月嬭神經」ので差し替えてあげるのが正解だろ
どっちの史料が古いのか新しいのかくらい見分けられないと駄目だろ
393 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 19:27:29.16
>箸墓=埴輪≠崇神と半島の歴史と関係ない部分から齟齬を生じていない。
崇神58年任那建国=新羅209年=3国遺事のいう211年。
つまり、この設定を使うと、崇神末は220年を超えることはできない。
ホケノ山(225〜250年)埴輪(穴あき壺)を崇神以前に設定できない。
394 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 19:30:11.48
>>373 でっち上げではないさ。
焚書しても人の口は塞げない。各地に必ず言い伝えがある。
それを消すより主語をすっぽりと入れ替える方が易い。
これをやったのは○でなく△だと言っても固定化された文面に押されてやがて消えていくだろう。
395 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 19:32:32.51
唐松さんさあ
康世(白發)女千康(佳利,阿爾,阿尒) 妻夫余太子吉湏(謹須,近仇首王,餘須375-384)
これのが 367年 神功47 丁卯 のことだから百済に行った阿尒は奈忽よりちょっと年長
誤った年代記載された記事のに「康世」=「白發」のがあるから「白發」=「白髪」なら
百済の酋長を決めるステータスにある女王蜂の千康(佳利,阿爾,阿尒)は奈勿の異母姉だよ
396 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/21(土) 19:40:21.34
倍暦計算で、211年は崇神天皇誕生年。
つまり任那建国が崇神から来てるため、211年となったもので、崇神末が
220年を超えることができる。
397 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 21:09:15.78
>367年 神功47 丁卯 のこと
この数字で、神功渡海は?
神功渡海とは
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
9月に集兵して10月には渡海、それが縁で新羅は80艘の調(税)を納めるようになった。
神功渡海を西晋滅亡後に設定した場合、素人軍団で新羅から税を徴収できるか?
これを正しいとできなければ、時代設定に誤りがある。
私の場合、274年神功渡海。纏向5類。渡海は晋の命令である。
桜井茶臼山から椿井大塚までの鉄器は、この新羅からの調である。
398 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 21:18:30.41
>百済の酋長を決めるステータスにある女王蜂の千康(佳利,阿爾,阿尒)は奈勿の異母姉だよ
奈勿を味鄒・儒禮に繋がるよう引き上げれば?
百済王家に空白が生じるからダメなのか?
好太王の南下を認めれば、積み石塚は、高句麗の遺物である。
399 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 22:45:45.76
唐松山はとりあえず「月嬭神經曰」のをちゃんと読んできたほうが良いな
ココロのボス
「百済ない百済ない」
401 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/21(土) 23:00:38.37
直訳
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)上
他のデータの内容がでたらめにかき混ぜていた文書からのハーブ大聖霊提起の記録だけ別に抜き出して作成してみるとひょっとして間違いがあったのかもしれません。
抜けている部分や解釈が間違ってところがあれば指摘してください。
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)
月内神経(月嬭神经)で話す。 "ファンギェ(黄鸡:油349/289?)
まあ、韓国人でもここに齟齬のあることは認めつつある。
歴史を整合させるとは、考古学を整合させることでもある。だから
>367年 神功47 丁卯 のこと ←これを正しいとできる神功渡海は?
神功渡海を否定して、”367年 神功47”を肯定する読み方は存在意義がない。
402 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:17:24.96
韓国人がどう思おうが関係ない、
何言ってんだ糞ジジイ、祖国でやってろバカ
404 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 23:39:10.32
>>404 存在を許容してふざけてる時点でお前も同罪
406 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:34:25.28
半島の人か?
甕棺墓の分布していた領域は共通文化圏だろ
そこにどんな土人が棲まわっていたのかがただ単に知りたいだけだから安易に境とか持ち出しても無駄だよ
>406
お前が一番のキチガイだってことはここ1週間で判ってるんで、
レス無用だよバカ
408 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:43:44.85
かあいそおなひとだなあ
げんじつはちょくししなきゃな
いつもそうやって逃げまわっているんだろ
ほら、ちょっと罵倒されると日本語がフラフラひらがなになるだろw
無意味に1行開けるからすぐに判るんだよ
何だかこっちが可哀そうになっちゃった、ごめん
410 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/22(日) 01:17:13.26
書紀の記述に間違いが無いのであれば半島の歴史書を書き換える。
書き換えは、考古学の知見を尊重する。
奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ) @323年 7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)
@三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相
通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
Aファシー(火豕=丁亥、AD387) 禁买扶余女为妻先是小民无妻者多买扶余女子扶余怨之至是命禁之仍许加耶民相婚
Bファンシ(黄豕=己亥、AD399)黄豕正月以扶余降民分置南路择其有技者属于各典以通其才
千熊長彦は扶余人が伽耶などに移住した時代の人物である。その時期を韓国考古学は
4世紀に入ったあたりと認識しているから、千熊長彦は323年であり、AD383
にはなりえない。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm 3世紀から4世紀はじめに流入した北方文化の源流は「遼東と高句麗の北方、吉林省北部(現在の黒竜江省)
騎馬農耕民族の扶余」と申教授は推定しているが、流入理由には言及していない。
411 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/22(日) 01:18:01.02
韓国考古学は、北方扶余の南下を3世紀末、4世紀初めからと言っている。
それを受け入れたのは、倭軍であり倭臣熊彦等である。
これを書紀に当てはめれば、神功渡海は3世紀中になる。
神功渡海が274年であれば、晋という受け手があり、素人を集めた軍団でも渡海はできる。
軍を半島に駐留すれば経費がかかる。その経費を辰国(馬韓王)から徴収することを晋が認めれば、
倭国は、神功渡海・軍の派遣を条件に新羅から調(税)を受け取ることができる。
ここから数える、神功52年七支刀は、東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)だ。
369年七支刀では、16日丙午の存在しない年。
5月丙午であれば吉祥句で通るが、存在しない日付が吉祥句になりうるのか?
いずれにせよ、
神功渡海と神功49年半島占拠、同領土分与を事実とできる時空が存在する。
その時空は、百済本紀と整合しない。しかし、今の考古学とは整合する。
昔の考古学は、百済王家に歴史を合わせていたが、この数字を考古学は捨てて、約50年遡上した。
考古学が50年遡上したのであれば、文献も50年遡上せねば、整合させることができない。
この場合、百済王家も50年遡上させる必要がある。
ああハングル変換だろ みんな知ってるよ
このジジイ、昼間書いて夜コピペしてるだけから
殆どリアルタイムでレスしないんだよなあw
おい唐松!
ガキの頃修身で「人様に迷惑かけるな」って教わったろ?
書紀の記述は信用できないと、小一時間(ry
415 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/22(日) 11:03:06.99
千葉県に卑弥呼は実在した!
わかりやすく端的に簡単に説明するが
縄文時代にはすでに人々が
千葉に多くすんでいました
また弥生時代初期には千葉には
すでにお城が建てられていた事が判明!
この時代にお城は朝廷か千葉しかなかった事になる!
また縄文時代の埋葬者も多く発見されている ガチです
なので千葉県に邪馬台国があった
だから千葉県全体を世界遺産にしたほうが
いいとおもいます
世界遺産に登録されると、景観を変えられないし、維持費用も自己負担じゃなかったっけ
>>415 まともな日本語書けないで大国主を標榜するなトド松、
あ〜あ、またうぜえコピペが始まる時間だな
韓国の考古学はまだまだ文献の影響を強く受けすぎだけどな
昔日本の考古学が記紀の影響を受けてたような感じ
考古学なんだからもっと出てきた物をよく見ないと
421 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/23(月) 23:35:49.66
>>419 敗戦を受けて、修身で「朝鮮に逆らうな」と教わったのか?
>>421 よう唐松、
普通にレスしてくれたと思ったら、何とも情けない質問返しだな、おいw
あのな、このスレタイは日本人にとって、東亜人にかき回されたくない
デリケートな問題とアイデンティフィケーションに関わる命題を
図らずも提起し包括しちゃってるわけだ。
言いたいのは一つだよ、
日本人のマジョリティーが是とする確たる証拠もなしに
そうした心情に少しの配慮もせず逆なでするようにかき回すな、ということ。
423 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/24(火) 22:00:37.69
>そうした心情に少しの配慮もせず逆なでするようにかき回すな、ということ。
歴史と言うものは、薄情なもので、現代人の心情など理解していない。
つまり、記事に書かれたことは事実か否か? たったこれだけだ。
3国史記を無視して読めば、
神功渡海は、274年で書紀の記事どおりである。
424 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 22:10:14.08
>>422の「そうした心情に配慮すること」と
>歴史と言うものは薄情なもの、は全く意味が違うし別次元の話だろ
つか、だから嫌味言われてるんじゃねw
>神功渡海は、274年で書紀の記事どおりである。
消えろ
426 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/24(火) 22:38:41.06
崇神 189〜216年
崇神5年=後漢193年=新羅192年
崇神10年 異俗多帰。考古:各地の土器の持ち込み
崇神58年(ホツマ)任那建国=3国遺事211年建国=新羅209年加羅に援軍
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 埴輪(庄内式穴あき壺)
倭人伝 239年 邪馬台国官伊支馬、都市牛利(たしうり)
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行12年以降。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
崇神・垂仁・景行を纏向遺跡で説明すればこういう数字になる。
神功渡海を274年にすれば、書紀の言い分は正しい。
だから、この編年が間違いであるならば、正しいとできる編年を主張すればよい。
聞く耳はある。
427 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/24(火) 22:56:52.42
今韓国サイトを覗くと味鄒・儒禮など新羅本紀の年代を引き下げるのが大流行りだ。
であれば、
崇神5年=後漢193年=新羅192年
崇神58年(ホツマ)任那建国=3国遺事211年建国=新羅209年加羅に援軍
ここから、新羅が消えるが、後漢、3国遺事はついてこない。
つまり、他書により確認できる部分が新羅から消える。
奈勿麻立干 356~402 の記事と韓国考古学には大きな差がある。
奈勿麻立干を味鄒・儒禮に合う位置まで遡上させれば、この誤差は解消する。
それがわかっていても奈勿麻立干に歴史を合わせようとする。
簡単に言えば、書紀に書かれた記事どおりの歴史を受け入れられないということである。
ここに、記事を否定して歪曲した歴史を認めさせようとする力が働いている。
428 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/24(火) 23:37:06.62
上の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。
天津神算木:表面積(右辺の 」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)
4πr**2=113.09733552923255658」46・・・
右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。
大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。
本物は天津金木なのである。 崇神即位年≠188年
429 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/24(火) 23:53:16.18
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務19年 (弘文院記)鐸石別命を河内国高雄に葬る
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻し油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 成務天皇 崩御
430 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/24(火) 23:54:00.84
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)←上から大ウソww
431 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/25(水) 00:06:01.70
[10374] RE:倍年は存在した その4 Name:唐松山 2012/07/02(月) 00:11
東洋の太陰暦は、新月を”朔”と表現する。
朔を基準として数えた日付が10日までしか存在しなくとも、
朔の回数12回を1年とする。この不足分は潤月の注入で太陽と整合させている。
[10376] RE:倍年は存在した その4 Name:太国 2012/07/02(月) 10:18
12回じゃあ、閏月を連続8ヶ月分こさえねばなるまい。
そんな間抜けな朝廷の官はいない。ww
太国倍年は存在できないと主張している。
そこで60年分の記事には60年という時空が必要となる。
そういう主張ね。
432 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 01:00:49.59
「邪馬台国」は「大和の国」に忌まわしい当て字をしたもの
「卑弥呼」は「姫君」に忌まわしい当て字をしたもの
はい終わり
はい、詐欺の語呂合わせはそこまでで終わり。
434 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/25(水) 12:26:16.63
>>424 >「そうした心情に配慮すること」
七支刀が369年であれば、神功渡海は320年以降となる。
であれば、倭軍の渡海を助ける勢力は存在しない、その状況で渡海と新羅から税を
徴収する。340年代には百済は存在する。その百済の存在する半島を、百済を味方に付け
半島占拠をし、半島の西部の土地を分与する。
まあどこまで考えてもそのまま認めることはできない、しかし、5世紀の状況からそれは
ある程度の事実を含んでいる。
そのまま認めることはできないが、ある程度は認めざるを得ない。
だから、デリケートな問題だと主張したいのであろう。
435 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 12:31:24.15
はい終わり
436 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/25(水) 13:16:44.19
274年 神功渡海。晋の命令行為の実行であり、以後1大卒を半島に駐留させる経費と
して、新羅からの調が存在する。
316年 西晋滅亡を受け、一旦は軍を引き上げた大倭であったが、320年には大陸と
切り離された半島の情勢。
320年 神功46年 遣斯摩宿禰于卓淳國。
321年 神功47年 百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
323年 神功49年 再渡海・半島占拠・領土分与。
323年 四十九年春三月。以荒田別。鹿我別爲將軍。則與久■等共勒兵而度之。
324年 五十年春二月。荒田別等還之。 夏五月。千熊長彦。久■等至自百濟。於是皇太后歡之問久曰。海西諸韓既賜汝國。
326年 五十二年秋九月丁卯朔丙子。久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。
321年には、百済王使と新羅調使が共に倭朝廷を訪れる。
百済王使の目的は、晋滅亡後の対処だ。
百済は不耐濊であり、自ら魏の下僕となることを望んだ勢力である。
大倭は、晋の管理下で半島の警察軍として存在していた。
晋の滅亡とともに[仁徳4年課役の停止]軍の引き上げを実行する。
百済王は晋滅亡の対処に苦慮している。大倭としては、今後共新羅の調が欲しい。
322年 神功49年 再渡海とともに半島占拠を実行するが、軍員の不足を百済を誘うこ
とにより補う。領土分与は、現地の千熊長彦の判断だ。その真意を確かめるため、50年に
百済は朝廷を訪ねる。朝廷はその判断を正当であると認める。
つまり、百済建国は323年の領土分与を以てなされる。そのお礼に七支刀がある。
326年東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午または3月16日丙午)。
369年東晉廢帝太和4年 16日丙午の存在しない年。
437 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 14:02:25.32
井沢元彦説は
卑弥呼は隣国との戦争に敗れたため自国民(邪馬台国)に暗殺された。
卑弥呼の霊は宇佐八幡宮の神として祀られた。
神功、応神天皇が宇佐八幡宮に祀られているのは「祖先の墓」がそこにあるから。
ゆえに邪馬台国は南九州にある。
で良いのでしょうか?
説と言えるほどのもんでもない。
妄想の一つ。
439 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 14:44:27.96
>そんな間抜けな朝廷の官はいない。ww
オマエよりはずっとましだろう。
閏といいうのは年が狂うからその調整のために挿入するんだよ。
それが空年なんぞ入れれば、閏なんぞ最初から
440 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 14:47:31.85
>>439 続き 書きこみ分断のため継続。
それが空年なんぞ入れれば、閏なんぞ最初から入れたって意味がない。
ということは、空年なんぞは入れるわけがないんだぜ。ww
官だと〜、ww 官は天皇にはなれない身分。よって
官 伊支馬≠垂仁天皇
と断定できる。
441 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 14:52:41.79
ホツマツタヱの意味は、漢字で表現すると、「臭・魔・伝」となります。直訳しますと、
「ナマぐさ・まもの・つたえ」となります。
なぜ、今、ホツマツタヱが駄目かと云えば、 21世紀の科学的な世の中になったが、
古代歴史の臭魔伝の世界では、 今だ、そんじょそこらのただのおっさんが、編纂したと
いわれる「臭魔伝」や1年が365日でない暦という〜宿主がこの地球上に存在しないと頑張る
1年265日と1年385日の「アスス暦」が幅を利かせているのです。
それも上古代におっさんが書き残した「歴史書(神話〜景行天皇)」より、都合の良い個所を勝手に抽出して、
古代文字で編纂している点です。 そのため古代の日本の歴史が、歪められ、「アマテラス神が女神→ 男神」に
されたり、古代より存在はした「富士山(古名:ホウライヤマ)」のことが、神皇紀に記載されているのです。
442 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 15:09:00.08
真実の古代史と云った訳ですが春夏秋冬の季語のある日本書紀では、季節語の
無いホツマツタヱの文章を端折って書けないため、意味が伝わらない。
その部分を ホツマツタヱ原文で読んでも、古代の真実がより解らず、「古代史への信頼」が増さない。
意味が伝わらないことは臭魔伝が日本書紀の原典ではないということです。
443 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 15:16:25.32
唐松山はまだ漢字で「月嬭神經曰」のやつとか読んでないのか
だめなやつだなあ
仙帝(味鄒)の没年のは「水狗十月」だからな 362年 にあたるよ
「月嬭神經曰」のやつだと帝は同時に複数存在するんだよ
ちゃんとよんだほおがよいぞ
ちなみに362年は仲哀 9年 壬戌 に相当するんだと思うよ
444 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 15:20:59.75
445 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 15:35:17.89
倍暦計算で
仲哀9年=352年(実年代)
446 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 15:55:03.07
362年は仲哀 9年 (ここのは「壬戌年六月十一日崩」から)
363年は神功43年 でスムーズに繋がるのですわな
神功のライフは100歳のをハーフで50歳にしてあげると
嫁に逝ったのが16歳
孕んだのが 23歳 この年田油津媛をやっつけ
生んだのが 24歳
>>444 ▲鏡・箸墓・年輪など、
すべて畿内説は詐欺だったという事実が明らかだけど何か?
448 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 16:47:59.97
仲哀9年=352年(実年代:倍暦計算)は、倍暦干支が壬子。
詳しくて偉い人教えて
卑弥呼の子孫はガチで滅んでしまったの?
卑弥呼って皇族と関係あるの?
卑弥呼の本名は?
卑弥呼は何処で生まれて何歳で死去したの?また死因は?
卑弥呼は現代でいうと立場や役職や職種は
なんだったの?
卑弥呼ってなにか功績ってあるの?
450 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/25(水) 18:30:46.90
>卑弥呼って皇族と関係あるの?
一応無関係ですね。
>卑弥呼は現代でいうと立場や役職や職種は
なんだったの?
鬼道のシャーマンのようなものでしょう。
451 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/25(水) 22:37:25.19
>「月嬭神經曰」
奈勿3年己卯
二月 公兌忽明使夫余 時發康女兄阿 尒 爲謹須妻
奈勿8年甲申 (338年 神功64年甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
近仇首は、奈勿3年に嫁を娶る。
そして、奈勿8年甲申に死亡し、枕流を立てる、
枕流は乙酉年死亡する。六十五年。百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
世継ぎは成立しない。
世継ぎを成立させるためには
奈勿7年癸未 (323年癸未、神功49年己巳)
奈勿8年甲申 (338年 神功64年甲申)
奈勿9年(木鷄: 乙酉), (339己亥 神功65年乙酉)
10月, チムリュ(枕流)が卒(卒)と弟陳謝(辰斯)が立った
つまり、百済王家は差込記事である。
452 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/25(水) 22:45:49.52
>卑弥呼の本名は?
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
卑弥呼は筑紫の神夏磯媛(カンカシヒメ)である。
453 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:13:11.98
351 辛亥 奈勿生まれる
362 仲哀 9 壬戌 十月 仙帝崩(味鄒帝)
367 神功47 丁卯 二月 儒禮(帝)崩 皇(基臨帝)弟好臨公薨
367 神功47 丁卯 康世(白發)女千康(佳利,阿爾,阿尒)妻夫余太子吉湏
375 神功55 乙亥 十一月 近肖古(餘句346-375)殂 謹須(近仇首王,餘須375-384)立
379 神功59 己卯 奈勿3 發康女兄阿尒(阿爾,佳利,千康) 爲謹須(近仇首王,餘須375-384)妻
專其國 迎其母兄而去
383 神功63 癸未 奈勿8 倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒(阿爾,佳利,千康)相通 多聽其言
384 神功64 甲申 謹須(近仇首王,餘須375-384)殂 枕流立 其母★阿爾執政
385 神功65 乙酉 枕流(384-385)死 其弟辰斯(餘暉385-392)継之
枕流妻(阿尒,阿爾,佳利,千康)ス之迎為継父而專政
以其(阿爾)子(阿)莘為嗣
389 神功69 己丑 4月17日息長帶日賣没
玉垂宮史料によれば初代玉垂命は仁徳78年(390)に没
405 談コ14 乙巳 (阿)莘死 秘不發 迎腆支于倭 (阿)莘之季弟碟禮殺其仲兄訓觧而自立
腆支與倭衛入島待之 觧忠等殺碟(禮)而迎立腆支
其妻八須 仁徳(讃)女也 生子于島中 乃久尓辛也
454 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:27:13.32
>>451-452 あ〜あw
こいつら一世代前なら、逮捕監禁拷問致死もんだよ。
当然何らかの覚悟はしてるんだろうな?
お前ら
455 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:29:24.60
456 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:32:26.57
帶方王女の寶果も長寿で元気にレビラト婚を繰り返し次々と王を生み出す
282 壬寅 太子責稽納帶方王女寶果
286 丙午 古爾殂 子責稽立 責稽妻寶果 帶方女 故救帶方(責稽妻寶果)
298 戊午 責稽攻帶方漢貊五部 遇伏兵而死 子汾西立 汾西襲楽浪破之 以其地爲郡
其地 本 汾西母寶果之國都也 汾西 爲其母奪之 (汾西母寶果)
304 甲子 黄(倡カ)刺汾西殺之
寶果立其所比流爲王 仇首之庶子也 古爾之時 避于民間熟知民情(比流妻寶果)
344 甲辰 比流殂 汾西王長子契立(契祖母寶果)
346 丙午 夫余君契暴殂 比流第二子嗣之
近肖古(餘句)(帶方王女)寶果生也 寶果立之(近肖古母寶果)
-------------------------------------------------
(仮称『新羅書紀』誤差込記事)
349 × 夫余入貢請婚 許之 夫余太子 謹須入朝
以白發(白髪?)女阿尒妻之
351 × 夫余内君阿尒生謹須子枕流
356 × 訖觧殂 奈勿嗣之 以味鄒孫女為妃 奈勿之母休禮 味鄒女也 羅濟以兄弟子姑姨為妻
457 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 00:37:00.21
367 神功47 丁卯 康世(白發)女千康(佳利,阿爾,阿尒)妻夫余太子吉湏
奈勿3年己卯 二月 公兌忽明使夫余 時發康女兄阿 尒 爲謹須妻
奈勿3年では整合しないから書き換えたものもあると。
では、383 神功63 癸未 奈勿8 倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒(阿爾,佳利,千康)相通 多聽其言
倭臣熊彦の登場は神功49年であり、52年には帰国している。
そして、倭が受け入れた扶余は、4世紀前半であると韓国考古学が言っている。
さらに、367 神功47 丁卯 二月 儒禮(帝)崩 皇(基臨帝)弟好臨公薨 新羅本紀を書き換えられるか?
崇神 189〜216年
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
新羅192年=後漢193年。新羅209年≒伽耶211年建国。
新羅本紀が1年狂っていれば、新羅210年加羅に援軍=崇神58年であり、建国は翌春正月とする。
動かない。
どこで動かすのか?
458 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:42:15.22
>>453 いっこたしておいたほおが記事があるなあ
368 神功48 戊辰 三月急利女水皇妻倭太子(基臨尼今紀)
459 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:47:09.41
ばかだなあ 帝がダブルとへんにみえるから綺麗に並べてあげて整理したのの
さらに抜書きでメモしたやつが新羅本紀にきまるだろ なにかんがえてるんだかね
460 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:47:32.60
バ カ チ ョ ン
死ね
461 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 00:50:03.60
てかさ
同じ甕棺文化圏の土人の文化圏なんだからさ
列島側の同種の史料とかも
ダブルとへんにみえるから綺麗に並べてあげて整理したのの可能性とか大だろって考えなきゃね
462 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 01:00:18.88
>ダブルとへんにみえるから綺麗に並べてあげて整理した
肖古王と仇首がダブルになったまま整理されていない件。
463 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 01:08:45.01
>>461 何を言ってやがるw笑わせんなよ
このスレで土人はお前とお前の一族だけだバ〜〜カw
464 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 01:25:22.40
346 丙午 夫余君契暴殂 比流第二子嗣之
近肖古(@餘句346-375)(帶方王女)寶果生也 寶果立之(近肖古母寶果)
375 乙亥 十一月 近肖古(@餘句346-375)殂 謹須(A近仇首王,餘須375-384)立
384 甲申 謹須(A近仇首王,餘須375-384)殂 枕流(B384-385)立 其母阿爾執政
385 乙酉 枕流(B384-385)死 其弟辰斯(C餘暉385-392)継之
枕流妻(阿尒,阿爾,佳利,千康)ス之迎為継父而專政
以其(阿爾)子(阿)莘(D392-405)為嗣
392 壬辰 十月(C辰斯385-392)仍不起而死
佳利(阿爾)乃以枕流(B384-385)子莘(D392-405)代之
405 乙巳 (阿)莘(D392-405)死 秘不發 迎E腆支于倭
465 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 01:32:04.11
>368 神功48 戊辰 三月急利女水皇妻倭太子(基臨尼今紀)
基臨泥師今 298~310
奈勿6年壬午 神功48年
2月 與倭和親互市交婚稱其國曰野 野=ヤマト
七月夫余禿山城主布髣ヲ三百人來降命居六部夫余請還之不許
ここで整合するように見えるが七月夫余の説明ができない。
322年神功48年。百済はまだ独立していない、そして郡は消滅状態にある。
扶余(百済)の一部はこの先を考えて逃げ出したのである。
禿山城は漢城の近くである、百済本体は漢城(帯方)に存在したのであろう
その漢城(帯方)を49年に分与するのである。
在日は国外追放すべき
467 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 01:45:28.56
>>456 で指摘した (仮称『新羅書紀』誤差込記事) のがまとめて誤差込だとすると
枕流(B384-385)の生年は
367 神功47 丁卯 の翌々年だから369年とゆうことにはなるが
16歳で王になって17歳で死亡 その間
「西域僧摩羅難陀が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える」とされる
385 神功65 乙酉 二月 枕流創寺于漢山 十月成
468 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 01:59:52.42
基臨帝の外枠
月嬭神經曰
(361)金鷄 七月 蝶凰宮生副君(基臨)女潤凰 聖子(奈勿)奉歌
(364)鼠 十二月 副君基臨受禪
(366)火虎 十月 神后(光明后)生(基臨)女束炭
(372)水袁 六月 基臨帝崩 春秋四十三 帝神后(光明后)胞弟也 父曰 乞淑角干
神后(光明后)乃阿爾兮 繼阿爾兮爲雌皇 四十余年 易夫帝五位 皆有子
基臨帝女曰 束炭(366-)
斤丹(369-)
昔丹(371-)
基臨帝の別名は大西知(330-364-370-372)
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)→神武東征>>瀬戸内海>>大和
....................隼人(鹿児島)
日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王(天皇)
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系「天皇」、筑紫系「天皇」の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
肥後狗奴国はまだしも(後の熊襲)を滅ぼしって何だ?w
熊襲は最後まで滅びなかったし熊本の熊本平野を熊襲とか何説だよ
熊本北部の熊本平野はは邪馬台国の候補地にもなる場所だ
471 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 07:48:40.04
まぁ邪馬台国は畿内だけどね。
そろそろ謎をといてあげるね!
まず邪馬台国は九州にありました!
なぜそういえるかは 魏志倭人伝に
邪馬台国の行き方場所が書いてあります
しかし現在ではその場所はありません
つまり弥生時代に大震災や津波が起こり
邪馬台国は海に水没してしまったんです!なので現在では邪馬台国があった場所は
海の底に沈んで見当たらないのです
ちなみに魏の皇帝から卑弥呼に贈られた金印や五尺刀が志賀の島で発見されています
しかし卑弥呼は酷いです
男性と女性六人も奴隷として
献上しているのです
卑弥呼は逮捕されても文句を言えない
473 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 11:13:07.13
×崇神 189〜216年
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。
天津神算木:表面積(右辺の 」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)
4πr**2=113.09733552923255658」46・・・
右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。
大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」
太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。
本物は天津金木なのである。 崇神即位年≠188年
474 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:35:40.73
>>470 読解力なさ杉
狗奴国が滅ぼされてその残党が熊襲になったってことだろ
>熊本北部の熊本平野はは邪馬台国の候補地にもなる場所だ
ねえよ、基地外伊作じゃあるまいしw
475 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 15:32:42.60
>(372)水袁 六月 基臨帝崩 春秋四十三 帝神后(光明后)胞弟也 父曰 乞淑角干
基臨泥師今 298~310・訖解泥師今 310~356 ・奈勿麻立干 356~402
基臨泥師今から奈勿麻立干へ世継ぎが継がらないことは確かである。
では、正しい基準はどこにあるのか?
百済王家がそれであれば、奈勿麻立干に合わせて基臨泥師今に合わせることはできる。
つまり、奈勿麻立干が正しい位置にあるかを検証する必要がある。
奈勿大聖神帝紀に書かれた扶余(北方扶余))は、考古学の主張より干支1巡の遅れがある。
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪) 月内神経(月嬭神经)で話す。 "ファンギェ(黄鸡:油349/289?)
奈勿麻立干の干支を1巡繰り上げて考えることもできる。
その場合、基臨泥師今以前が正しい位置になければならない。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
200年前後の新羅本紀は1年しか動かせない。
三国遺事による伽耶建国も動かない。
奈勿大圣神帝纪は、干支1巡早めることができる(考古)
基臨泥師今を引き下げる正当性は無い。
476 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 18:28:51.93
新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[≠崇神5年]
腹ペコで千人も渡海なんぞ出来っこな〜い。
つまり等号はデタラメ。
477 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 18:59:39.24
>>468 要削除 --- 「の別名は大西知」
唐松山は帝が順序良く並んでるとかの気の迷いは吹き飛ばしたほうが良いよな
村長さんに毛の生えたような帝が並行して生息していただけだからな
ありもしない統國としての新羅の虚像とかで脳内お花畑にしているから
そおゆうへんなまとめしたがるとゆう構図にはなっているが。
勝手に年代書き換えとかするのはもまいの勝手だが
無駄に自動翻訳で文字化けした嘘情報のこと根気良く貼り付け続けてからに
検索エンジンオーバーヒートさせてからに人様にご迷惑とかかけるべきでは無いよな
最低限 「月内神経(月嬭神经)で話す。」とかはおばかっぽいからやめろよ。
こっちのほおがはずかしくなるわな
478 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 19:02:19.46
ホ伝子組み換えは宿主の得意技。ww
もはや史実ではない。
479 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 19:04:47.54
「邪馬台国」は「大和の国」に忌まわしい当て字をしたもの
「卑弥呼」は「姫君」に忌まわしい当て字をしたもの
はい終わり
480 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 19:12:22.88
「難升米」はちょっと訛っていますが「なひめ」とも発声します
「難升米」はじつは「しこめ」系のシマの大酋長でもあります
481 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 19:15:02.14
卑弥呼の「卑」は大陸の帝から倭側を下に観たわけで、これは東京駅が
大陸の帝にあたり大阪駅が女王のほうだと観たてた記載方法。
だから東京駅から大阪駅行きは下りであって、上りではない。
この『下り』の言い回しが「卑」の文字に相当。
482 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 20:09:26.08
>唐松山は帝が順序良く並んでるとかの気の迷いは吹き飛ばしたほうが良いよな
崇神天皇 189年〜216年 ≒2章+1年 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
とっくに超越しとるがな。
483 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:22:09.68
唐松山はまぬけだから
そおやって順序良く単列で
年代綺麗に整理して
酋長さんのこと並べるのが
趣味なんだよねってこと
ひとのいってることとかも理解できないのも特技
484 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 20:32:41.25
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
神功時代は、新羅から調(税)が納められていた。
七支刀=369年から逆算すれば神功渡海は320年より早まることはない。
西晋滅亡後だ。9月に集兵して10月に渡海し、以後新羅から税を徴収する。
ありえない。
七支刀=326年東晉明帝太寧4年から逆算すれば渡海は274年になる。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
ここで渡海であれば、晋の命令か要請だ。命令の実行であれば渡海は可能である。
半島に1大卒を駐留させたのであれば、その経費として徴税は可能である。
問題は、西晋滅亡にどう対処したかである。
323年 神功49年 まだ半島諸国は独立しきっていない。半島占拠と領土分与。
領土分与をうけ不耐濊(百済)は独立を果たす。
奈勿麻立干を引き上げれば、ここに近肖古王が来る。
はっきり言えば、百済王家は書紀の干支を使った差込記事である。
485 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:37:53.36
唐松山はまぬけだから
息長垂さんが新羅ゆかりの人だとかって忘れちゃってるのね
ばあちゃんのとこにお使いとか送ったら親しくプレゼントくらい返ってきてもふつうだけどね
486 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:59:38.22
あれっ
息長垂さんが新羅ゆかりの人だってことは
次々と5つとか帝のこと生み出して
乳飲ませた奈勿のことまで喰っちゃって子を成した
くだんの女王蜂の女大酋長さんと
DNAの一部がコモンなんだよな
>垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬
見てきたようなウソを言い
488 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/26(木) 21:33:04.71
田道間守の殉死
ホ37221 ハナタチバナは かれがツマ ヲシヤマやりて よばしむる チチモトヒコと
のぼりくる ミコよろこびて モトヒコに ユルシハたまひ モをつとむ
景行がモトヒコに許したのは田道間守の葬儀か?
葬儀に天皇の許可はいらない。
であるならば、なんの許可か?
489 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 21:57:08.25
>見てきたようなウソを言い
ホ伝子組み換え男は 伊支馬=垂仁(←これはデタラメだが・・・)だと
ぬかしてるから、それだと 239年=景初3年 に伊支馬がとたんに死んだと
主張してるわけ。
つまりインチキだから途端に即死となるわけ。w
490 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 22:03:40.60
大祓祝詞の天津金木の段は、大中臣からのインチキ編年を壊滅させよという
〜古代から未来人への下命文面である。天津金木(天津神算木)とは崇神紀
の三輪山の説話の三輪(半径3の円)の球化の 体積=表面積 の数式をいう。
天津神算木
4πr**3/3=113.0973355292・・・ (r=3;**は冪乗)
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335 B.C.3113年 9月7日 マヤ文明元年 始原年月日
右辺の主値は 1/13 B.C97 崇神天皇 即位
右辺第二桁目から 死値 A.D.130 景行没年
崇神即位年の真の年代は右辺の数列を3分して 113 097 335 とする時
113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年 B.C.97(0は 西暦0年 除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引ジョーカー数 335年
335−97=238年 西暦0年を除くから1年分詰まり、以下を得る。
238−1=237年=景初元年=崇神即位元年(実年代)
天津神算木の右辺第二桁から 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
を得る。主値 崇神から仁徳の年代までが一つの区切り
の時代であることを天津神算木は教示している。これ
が三輪王朝年代である。その後は後三輪王朝年代に入る。
491 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/26(木) 22:05:10.38
崇神五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応せず。
492 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/27(金) 18:26:05.68
宿主はホ伝子組み換えで紀を白蟻空洞化させ、景行年代を恣意的に〜臭魔伝
と自己のホ伝あぐら権威化での決めこみで誤理押しの暴走をし、強欲に
満足させようとたくらむインチ紀野郎。
その手口は毎回巧妙化しており、それからの防衛のため、適宜空年のないこと
を表を掲げてその具体性を示し、宿主のインチキ野望を無力化させ、スレ民
各位が奴に騙されないようにして毎度その妄想を撃退している。
493 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 19:32:57.09
頭大丈夫?
もうチョンの起源説はいいから、日本の話してくれ
たのむよ
495 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 05:15:23.84
阿達羅紀 (A.D.213 - A.D.243)
(216)四年四月 多婆那以迎烏カ爲君
烏カの嫁はんは烏女タンでし
くそ婿のくせして烏カの態度がやたらでかいもんだから
愛想つかして逃げて帰国してきた倭の王女さま系のが烏女タンでし
烏女タンのくびにかかてるネームプレートのなかみ乞食から抽出してあげると
なんかいいことあるかもしれんよね
2重の周濠を持つ巨大古墳はなぜ作られたのか考えた。
あれは、堀で何かをするためだったのではないだろうか?
そこで思い当たるのが崇神紀の舟の下りがヒントになる。
巨大古墳の周濠は、ズバリ、船の操縦の技術を争う競艇場だったのだ。
497 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:09:13.78
七支刀の「泰■四年五月十六日」は太和ではない。
太和四年五月十六日は丙午はないから。
「泰和四年五月十六日」であれば丙午で合うのだ。
泰和四年は468年だから、神功皇后は5世紀の人だな。
5世紀後半なら百済は高句麗に追われて扶余に遷都した頃だ。
倭の力を借りて国を再建しようとして苦労していた頃だ。
5世紀末ころには朝鮮半島西南部に前方後円墳がたくさん作られる。
倭人が百済の南部侵攻を助けたのだろう。
その事に対する感謝の意を表すために七支刀は作られた。
裏面に記された
「百済王世子奇生聖音」と言うのは武寧王が九州の島で生まれた事を書いているのではないか?
百済王の世継ぎが筑紫の各羅嶋で生まれたことを「奇しくも神仏の聖音(恩寵)により誕生した」
と表現したと解釈すると納得がいく。
498 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 10:52:50.02
七枝刀。
百済(ペクチェ)側の記述、伝承では近肖古王(百済で数少ない大王と尊崇)の治世末期に同族の七部族へ下賜した云々。
(刀身は本宗家の百済王家、七枝はその枝族を表す云々)
韓国の歴史ドラマ(小中華主義が満載)「近肖古王」では、
倭の某小国(ヤマトの設定)の姫が使節として来朝しホニャラホニャラで太子と恋仲となり、
太子と兄(実は正嫡/お家騒動で出世間もなく隠匿され死亡した事に。成人後にあれこれ悶着のあと帰朝復権)との世継ぎ問題を解決するため倭国某姫と出奔して倭国に渡来した設定。
その後に近肖古王は七枝刀を造り件の仕儀。
前後しますが、朝鮮半島の南部の伽耶地方は小国家(都市国家)が数多乱立していたのを近肖古王の御代(新羅は建国前の地方1勢力)に親征して半島全土を平定。
これに依って特産の鉄の生産と鉄器鍛冶生産を掌握。
499 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 11:27:21.73
>>497 468年 安康 8年 戊申 だと
しまちゃん
7歳だけど
ええの?
墓誌のが「寧東大将軍百済斯麻王 年六十二歳 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」
百済斯麻王(462-523)
500 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 12:12:34.47
南堂遗稿と三国史记に出てくる新罗王、百济王の在位期間の比較
ナムダン(南堂)バクチャンファ(朴昌和)が作ったユーゴ(遗稿)を信奉しているどの信奉者は、自分のサイトに"ギルワン( 己娄王)9 年の調査は絶対年度"というタイトルで、以下のような文を載せた。
ベクジェボンギギルワン9年新羅本紀パサ尼師今6年= AD85年。
パサ取締役今期10年= AD135年。
135 - 85 = 50年変動が正確にされます。
ベクジェボンギギルワン9年の記事は絶対年度AD135年仕事とのです。
上出てきたギルワン( 己娄王)9 年AD 135年という主張は事実であろうか?
結論的に言えば、この主張は、どの購入でも基づいていない嘘である。 それならギルワン9年AD 135年という主張はなぜ嘘なのか?
上記の文を書いた人は三国史記新羅本紀(新罗本纪)パサ尼師今(婆娑尼师今)6年三国史記ベクジェボンギ(百济本纪)ギルワン
( 己娄王)9 年同じ年なのに、三国史記新羅本紀パサ尼師今6年の調査に出てくる "2月にギルウォン(吉元)をアチャンにした。" という
501 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 12:16:32.15
ナムダンバクチャンファユーゴ百済王気を見る
http://cafe.daum.net/sijeong7101に入って ナムダンユーゴスラビア原文データ、投稿1回 順番に 川でpdfにした百済王基をダウンすればされる。
上 記の百済王気(百济王纪)には、超ワン•が2回、香ばしくワン•と安らかにワン•が3回重複して出てくる、これはバクチャンファ(朴昌和)が歴史小説を書
く前に骨組みを作 って三国史記の内容などを参照されたもの1つは、それに加え、あちこち異なる脚色したもの2個を作ってみると、同じ王本機が3回も出てく
るだろう。 司書のような王の本が、それも内容が異なるものが2つ、3つ出たら、それを買ってと見ることができる。 そのさえ世界中の変更の中にある挿入文
が随所に散らばっている。 これを見て買ってと主張する人は、自分の良心を欺く人である。
502 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 12:27:13.93
何故この文を載せたか?
まあ、ラジオ氏の書き込みが流行っているが、そして、歴史と整合するように見えるが大きな誤りがある。
よろしいか、文献の数字は考古学の数字と合致しなくてはならない。
この考古学を無視して、文献どうしでは整合するように編纂したものがラジオ氏の書き込みだ。
>泰和四年は468年だから、神功皇后は5世紀の人だな。
例えばこの主張の何処に考古学の知見がある?ただ数字を合わせただけだろう。
これと同じことをラジオ氏はやっているだけだ。
503 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 12:35:11.51
書紀の記述に間違いが無いのであれば半島の歴史書を書き換える。
書き換えは、考古学の知見を尊重する。
奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ) @323年 7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)
@三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相
通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
Aファシー(火豕=丁亥、AD387) 禁买扶余女为妻先是小民无妻者多买扶余女子扶余怨之至是命禁之仍许加耶民相婚
Bファンシ(黄豕=己亥、AD399)黄豕正月以扶余降民分置南路择其有技者属于各典以通其才
千熊長彦は扶余人が伽耶などに移住した時代の人物である。その時期を韓国考古学は
4世紀に入ったあたりと認識しているから、千熊長彦は323年であり、AD383
にはなりえない。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm 3世紀から4世紀はじめに流入した北方文化の源流は「遼東と高句麗の北方、吉林省北部(現在の黒竜江省)
騎馬農耕民族の扶余」と申教授は推定しているが、流入理由には言及していない。
「5世紀前葉に金海大成洞の集団が行方知らずになった」と申教授は述べている。
5世紀前葉に高句麗が南下(広開土王碑)したことを、考古学は確認できる。
それより半世紀以上前に北方扶余の移住がある。
つまり、考古学と整合させるためには奈勿麻立干を引き上げる必要がある。
もう同じ事ばっかりいいよ。
何なんだよコイツ。
505 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 13:04:53.80
奈勿麻立干を引き上げるとどうなるか? 奈勿麻立干元年317年より。
丁度西晋が滅んで半島が激動の時代にはいる場所だ。
そして、日本書紀の記事とも整合させなければならない。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3) 大量の渡来人〜須恵器
奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ)7年癸未 323年 神功49年 千熊長彦。
この設定の場合
神功渡海は、274年になる。晋の要請または命令の実行がこの渡海である。
その目的は、女王国の1大卒を、半島の警察軍として活用する。その経費として新羅から
調(税)が納められる。
321年 神功四十七年夏四月。百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
魏・晋が半島を管理する時代は、半島に大きな変化はない。当然倭国においても大きな変化はない。
それが纏向5類時代であり、50年ほど続く。その間 新羅國調使は欠けない。
半島の土器(居住区)が消えた時点が西晋の滅亡と重なる。引っ張っても10年以内だ。
506 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 13:13:36.96
>もう同じ事ばっかりいいよ。
>泰和四年は468年だから、神功皇后は5世紀の人だな。
編年ができない。
神功紀の書き換えが必要である。
七支刀=369年でも神功紀を書き変える必要がある。
しかし、まだだれも書き換えた神功紀を発表したことがない。
数字を書き換えても、時代がついてこないということだ。
数字を書き換えたら、その数字で読めるようにしなければならない。
>唐松山
しつこく書き込むのはいいが現代語訳文も書いてくれよ
読んでも分からないからオマエのレスはいつも読み飛ばしてる
508 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/28(土) 13:49:19.34
509 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 15:21:44.98
>>507 直訳はダメだ、原文はダメだ。
現代訳で真意が伝わらない場合もある。逆に曲げることもある。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦 美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長? 子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚
3月, 夫余の 流民30戸がまた 来降した.
夫余と 倭は 相通じており, 毎年その民たちを受けて都邑と田舍に 散置させた.
倭の臣下 熊彦(ウングオン)はハンサムだったし言葉がお上手で, 阿□(子供、民)と 相通じており, 彼の言葉にたくさん従った.
それで 国人らは離反して, あるいは私たち(新羅)に, あるいは高句麗に帰属した.
休礼太后(ヒュリェテフ)は 長? (ザングフン)の息子 勿? (ムルフン)を生んだ.
戸口典(戸口前)を初めて立てた.
民たちの 子母相婚(慈母商魂)を禁止させた。
(火豕=丁亥、AD387) 禁买扶余女为妻先是小民无妻者多买扶余女子扶余怨之至是命禁之仍许加耶民相婚
扶余の女性を娶ると、扶余の男が恨むのでこれを禁止する。
夫余の来降した流民は土地を与えられたといってもまだ貧しい、そこで女性のみ引き抜かれても
流民の行く末の計画が立たない、よって、流民の女性を引き抜く(結婚)ことを禁止する。
子母相婚の禁止とは、同姓婚の禁止はここからである。
(黄豕=己亥、AD399)黄豕正月以扶余降民分置南路择其有技者属于各典以通其才
扶余の降民を南路に分置し、その各自の才能、技術者を各典に配属する。
火豕=丁亥 の記事からは、かなり多くの北方扶余が降来していることがうかがわれる。
つまり、考古学遺物でも確認できるということである。
そして、考古学に数字を合わせれば、323年癸未=神功49年=千熊長彦が視野に入る。
神功渡海とは、纒向5類の初めであり、纒向5類の終焉と西晋滅亡が重なる。
纒向5類の鉄器は、新羅からの調であり神功紀の記事に誤りはない。
510 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/28(土) 16:19:06.06
274甲午 皇860 庚辰 仲哀9年 渡海
275乙未 皇861 辛巳 神功元年
323癸未 皇909 己巳 神功49年 千熊長彦
324甲申 皇910 庚午
326丙戌 皇912 壬申 神功52年 七支刀
329己丑 皇915 乙亥 神功55年 百濟肖古王薨。
338戊戌 皇924 甲申 神功64年 百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
346丙午 皇932 壬辰 応神三年 辰斯王立之失禮
359己未 皇945 乙巳 応神16年 百濟阿花王薨
368戊辰 皇954 甲寅 応神廿五年 百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王
371辛未 皇957 丁巳 応神廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。
380庚辰 皇966 丙寅 応神卅七年春二月戊午朔 得通呉
384甲申 皇970 庚午 応神41年 崩于大隅宮。
書紀の記事を書き換えずに西暦に直せば、
百済王家は書記の干支を使用した差込記事である。
逆に言えば、書記の干支を西暦に整合させた場合、書紀の記事を書き換えねばならない。
511 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 17:50:50.69
ちょん乙www
512 :
ゴジンム:2012/07/28(土) 21:23:09.61
全世界ハ畏レ多クモ 十六菊花御紋章 ニ 帰一セサルヘカラス
記紀はなぜ卑弥呼と倭の五王をスルーしてるのか説明せよ。
話しはそれからだ。
解答例1
卑弥呼も倭の五王も、九州の倭国の王で、奈良の大和の王ではなかったから。
神功皇后の三韓征伐は、完全な捏造の歴史。
倭国が朝鮮半島に領土を持ち、三韓と戦った話を、
大和王権の者が又聞きして、適当に作文したものだから、
広開土王碑とまったく一致しない。
白村江の戦いによって壊滅的打撃を受けた九州の倭国の王族達は、
国の存続を断念して、秦氏と名乗って大和に亡命し、
倭国の財を投じて奈良と京都の湿地帯を治水・干拓して入植。
秦氏が平安京を作った、という伝説を後世に残すに留まった。
九州の倭国の城跡が、古事記・日本書紀に全く登場してこない。
神籠石と呼ばれる、大きな岩を山に数キロ巡らせた強固な城が、
九州に数多く存在するが、これらの記述が記紀にない。
唐・新羅連合軍を迎え撃つための、天智天皇時代の城は、
神籠石を用いた大陸式の山城とは様式が異なる。
つまり、九州には大和王権以外の大勢力が存在した。
倭と大和は異なる王権で、卑弥呼は倭の女王だった。
したがって、纏向遺跡は卑弥呼の神殿跡ではない。
ところで、
卑弥呼の読み方って、もう結論は出てるの?
ヒミコではアリエナイよね?
516 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/28(土) 22:40:30.76
>記紀はなぜ卑弥呼と倭の五王をスルーしてるのか説明せよ。
簡単だよ。
朝廷の書庫にあった多数の日本書紀の原書群の中に、卑弥呼女王が即位
した事実が書かれてないからだな。
即位という重大な出来事が書かれてないということは、畿内にそんな即位
をした事実が存在してないからだ。だから女王卑弥呼は畿内の女ではないと
いうことが分かる。畿内でないということは、卑弥呼の所在が九州のほう
だということだ。
五王も同様に観るべきで、彼らは九州王権王朝の王たち。
517 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:45:21.61
スルーしてると読むのがまちがいだ。
神籠石を説明できない、日本の考古学はクソ
神籠石が守っている領域の中心に
倭国が存在したことほど確実なことはない
519 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/29(日) 00:54:55.94
環濠を捨てた纒向と神籠石に籠る勢力か。
神籠石は結局朝鮮式山城だろ?
本国を追われた百済が逃げてきた地で築いた山城。
日本の歴史に載せるほど重大な出来事ではなかった。あたりだろ。
イタコに頼んで卑弥呼の霊を下ろしてもらえば全ての謎が解決する!
>>520 イタコどころか、
日本最古の皇別氏族、多氏の日女(姫)神を伝承する社家の日の巫女の王、
アカルヒメを襲名した現宗主様は、
日の巫女の王の霊を神降ろしして、心身一体となり、
託宣する神事を担当している巫女だよ。
つまり、最も格式ある巫女様が、
日の巫女の王に神憑りする技術を、二千年間伝承している。
ところが、耀姫(アカルヒメ)とか赤玉依姫と呼ばれる巫女様は、
私立大学の理事をなさっていて、脳の自己組織化といって、
人の脳がどのようにして作られるのか、科学的に研究なさっておられる。
したがって、オカルト現象(霊の存在)を、真っ向から否定。
神憑りの神事は、神社が伝承する神話に基づいて巫女がイメージした、
架空の人格に移行する、自己暗示による催眠現象と、
端的に、平易な言葉で解説なさっておられる。
神憑りして託宣する神事とは、
脳のリミッターを解除した、知能がアップしたトランス状態に移行して、
伝説の知恵者の優れた思考をシミュレーションすることで、
懸案解決の閃きを得るものだそうだ。
この神事を執り行うのに、神の霊の存在を信じる必要はまったくない、
と断言なさっておられる。
神の霊など必要ない証拠に、
漫画やアニメのキャラクターも、同じ方法で自分や他の人に憑依させて、
テレビの催眠ショーと同じようなことが可能だそうだ。
催眠現象として説明できない要素は見当たらないらしい。
生前の日の巫女の王が持っていた、
気質やモノの考え方など、言葉で表現できない要素も社家には伝わるが、
時代を経て深化して、
生前よりも優れた、神の架空の人格が形成されているらしい。
生前のままの状態を保って、霊があの世に存在すると考えるのは迷信だから、
卑弥呼が生前どこに住んで何をしていたかまでは、分からないそうだ。
523 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 05:13:26.84
524 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 05:37:50.37
232年 太和 6年 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘
「こまひこ」だか「くまひこ」だかしらんけど
狛比古が男弟の「那のしこめ」の難升米さんだな
別名のが御真木入日子印恵さんで はんこもろたひとだお
難升米さんとそのあねさんの卑弥呼はかあちゃんがコモンでとおちゃんのはべつだけど
とおちゃん同士はりあるな兄弟だぞ
かあちゃんのひとは兄貴のほうが逝ったからおかわりで弟のこと婿にしたんだよな
ちなみに卑弥呼のとおちゃんのは大毘古(帶古)
難升米のとおちゃんのは大毘毘(帶毘)といいます
かあちゃんの家系が鬱系ので糸島平野が墓域だったりした倭のコアなおひいさまの家系だろ
>>518 同意。
あと、トンカラリン遺跡も重要だよ。
卑弥呼の鬼道については、いろんな解釈があるが、
道教のことを鬼道とする説が有力だと思う。
事実、巫女神道(後のオボ信仰を持つ多氏系の皇室神道)は、
高句麗道教の影響を多く受けていると、
多氏の日女(姫)神を襲名した宗主様が指摘している。
となると、神籠石を用いた大陸式山城は、
高句麗国から伝来した様式を受け継いでいて、
山を囲んだ国という見方も出来るだろう。
トンカラリン遺跡は、高句麗国の洞窟を用いたお祭りと
関係あると見ることも出来るだろう。
トンカラリン遺跡と似たような様式の石組みの地下神殿が、紀州にもあって、
今も、東明聖王を祀る非公開神事が行われているそうだ。
長い間、非公開とされてきたものだから、中身は不明だが、
多氏の日女神様が、重要なヒントをくださっている。
東明聖王は、桃太郎として、日本でも有名で、
葵祭は、桃太郎のお話と対応する神事で構成されているそうだ。
東明聖王(朱蒙)は、オイ、マリ、ヒョッポの三人の家来を持っているし、
卵(桃)から生まれた逸話を持ち、
さらに母親は川の神の娘(お婆さんは川に洗濯(神事)をしに行く)で、
不思議な形で子供を授かっているなど、
同じ系統の神話の伝承が、変化したものに見える。
葵祭のルーツを辿ると、賀茂神社の社家の祖が、
秦氏に入り婿に入って神事を受け継いだとなっている。
渡来民族秦氏を束ねる日女(姫)神の社家が多氏だから、
多氏(神功皇后のモデルとなった息長氏)から神事を受け継いで、
東明の誕生を祝う祭りを、今も葵祭として伝えていることになる。
したがって、卑弥呼の正体は、高句麗国の神宮の流れを汲む、
日の巫女の王(斎王)ってことで良いのではないだろうか。
527 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:20:31.81
帥升(王)・・・スサ(のおう)
灘升米・・・ナガスネ(ヒコ)
528 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 12:04:30.91
登美能那賀須泥毘古
臣 能那珂須泥毘古
淡海の那珂つ根日子
おおみのなかつねびこ
コアなところの酋長
根のはルートのおかみでね
529 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 12:31:25.18
>イタコに頼んで卑弥呼の霊を下ろしてもらえば全ての謎が解決する!
大川隆法先生?は著書で
「ヒムカ ヤマト国」と卑弥呼自身?言ってたとか?
邪馬台国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国で、
その意味は山囲(ヤマイ)という可能性はないだろうか。
山を神籠石でぐるりと取り囲んだ
大陸式山城の都市国家を指していたとすれば、
不自然な呼び方ではないよね。
山囲 山井 山居 山威 山伊 山委
532 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/07/29(日) 17:06:44.05
病膏肓
533 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 19:15:58.46
「邪馬台国」は「大和の国」に忌まわしい当て字をしたもの
「卑弥呼」は「姫君」に忌まわしい当て字をしたもの
はい終わり
534 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/07/29(日) 19:24:39.66
伊邪那伎命 伊邪那美命にもついてる文字があるね。
当時の『邪』は別の意味か?
当時の大陸は自尊心が強く、外国の日本を蛮人のごとき考えがいささか
あったと言えるかな?
奈良のどの格式ある神社よりも早く、
九州の香春神社が、朝廷から正一位を与えられている。
この由緒正しい、皇室が最高位を与えた神社の社伝に、
唐土(大陸)から、息長大姫大目命が里帰りしたとある。
この息長は、高句麗語の天日の音写が転化したもの(敦賀も同じ)と、
最古の皇別氏族多氏の、
当代の日の巫女の王、耀姫(アカルヒメ)様が解説しておられる。
息長氏は天日矛の子孫とされ、
息長氏の神功皇后は、応神王朝の生みの親扱い。
日本に里帰りしたという神話が残る天日矛の妻が赤留姫であり、
息長大姫大目命は赤留姫と同体と香春神社の社殿にあるので、
大王家の祖先が渡来したエピソードが、ここに見え隠れしている。
多氏の日女神の家の当代宗主、耀姫様によると、
御一族の故老の話(長期孤立伝承)として、
赤留姫は東明聖王の妹で、斎王として兄王を精神的に支え、
高句麗国神宮を、紀元前277年に五女山城に創建した、初代日の巫女の王。
その業績を称えて、没後巫女神として祀られた存在。
と、彼女のカフェ・プリマベーラの歴史フォーラムで解説している。
卑弥呼は日の巫女の王の一人で、赤留姫の子孫、
という、故老からの伝承があるという。
537 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 06:22:38.96
天照大神と神功皇后は、
息長氏(多氏)がモデルと思われる痕跡が多くみられる。
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺した頃登場した、
皇祖大兄という人物は、
皇位簒奪を試みた蘇我馬子本人の偽名ではないかという説すら存在する。
この人物の不自然な点は、
敏達天皇第1皇子とされながら、皇祖大兄と称されているところだ。
天皇の皇子がなぜ皇祖と呼ばれるのか?
天皇の暗殺という大事件によって、別の王朝に変わっているのではないか、
という推理が当然のように出てくる。
桓武天皇は、家臣が天皇になっていると激怒して
日本書紀の31巻を焼き捨てさせて、他の部分も書き直させたり、
「昔日本は三韓と同種」と北畠親房が書いた本を焼き捨てさせたという。
これは大きなヒントかもしれない。
高句麗の王族が、百済、新羅、倭、大和などの国々を興したことを、
多氏の日の巫女の王の家は、今も伝承している。
なぜ、皇祖大兄は、
多氏(息長)の一族と関わりを持つことを示す、
押坂彦人大兄皇子を名乗ったのか。
多氏の日の巫女の王の家が、
皇統を生み出す母体となった家系として、古くから信仰の対象だったため、
王権の継承を正当化する目的があったのかもしれない。
王母崇拝は高句麗国の宗教にすでに見られるもので、
建国の王東明の母親は扶余神と呼ばれて、
母子のセットで祀られていたとされる。
神功皇后と応神天皇を祀る宇佐神宮は、
大陸由来のこの信仰形態を、今に受け継いでいる可能性がある。
多氏の日女神の家の名は、
継体天皇の新王朝が誕生した時にも浮上している。
新王朝に切り替わった可能性があるとき、
多氏の一族が登場していることから、
皇祖神の血筋として崇拝されていたと推理するのが妥当だろう。
皇祖の家が、高句麗国の神宮から渡来した巫女集団だとすれば、
天照大神は、神宮の巫女神アカルヒメをモデルに、
日本国の建国に合わせて新たに作り出された女神、
と見ることが出来そうだ。
皇祖神が、渡来した女神のままでは、
高句麗の王族が興した海外の国から攻められる口実にされかねないので、
アカルヒメから天照大神へと名前を変えて、
ルーツを不透明にしてあるのかもしれない。
問題は、
九州への赤留姫(大姫)の渡来から天照大神成立までの流れのどこに、
卑弥呼が入ってくるかだ。
>>526 >トンカラリン遺跡と似たような様式の石組みの地下神殿が、紀州にもあって、
>今も、東明聖王を祀る非公開神事が行われているそうだ。
紀州は近いので場所を詳しく。
卑弥呼って人間じゃなかった気がするんだけど、 だって魔法使えたんでしよ?
絶対に人間じゃないって!
って言うかどうやって魔法なんて
習得したのか気になるんだが
そしてどうして卑弥呼だけが魔法使えたのか?謎だよね?
544 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 02:42:48.75
多婆那
たばな
多遲摩那
たぢまな
たちばな
橘
多遲麻毛理
多遲摩那毛理
卑奴母離 (ひな・もり)(鄙那母離・鄙守=邑守)
たぢまなもり
登岐士玖能 迦玖能木實
登岐玖士能 迦玖能木實
つきくしの かぐのきみ
筑紫の 迦玖の雞彌
月支の 迦玖の雞彌
つきしの かぐのきみ
545 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 05:41:10.38
テレ東 新説日本のミステリー番組で、2回目に卑弥呼について語られていました(ほぼ録画)
卑弥呼は大日霊女(おおひみこ)が有力説とのことです
西暦247年と248年に2回ほど日食になったとか
http://www8.tok2.com/home2/rekishi/himiko.htm 大日霊女(おおひみこ)
別名:大日霊女貴尊(おおひみこむちのみこと)
諡号:撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
日向王国国王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘として151年頃生まれる。
須佐之男命の侵攻により、降伏し彼の妻となり、三女を儲ける。
須佐之男命の死後、跡を継いだ大国主を補佐する。
大国主の死後は、相続人の事代主が幼少だったため、九州王国の女王として君臨する。
相続反対派との間で数年間争いがあったが、武御名方を出雲から追放することによって終結する。
大国主時代に九州統治の責任者だった猿田彦に出雲を統治させた。
末子3人の子には有力な南日向豪族の娘達を娶わせ統治させた。
239年に魏の皇帝に使者を出し、241年には孫の伊波礼彦尊を大和王朝の伊須気依姫の婿として送り込むことに成功する。
247年に西都にて亡くなる。
大日霊女は、弟子を卑弥呼とし何代も就任させ長生きしているように偽装した?
大日霊女以下は各自の空想のひとつだろ
大日霊女を祭神とする神社や伝承は各地にあるよ
日向説とかは鏡100枚なり金印なり出土しない限りマイナー空想の域を出ないぞ
集落遺跡がいくら出ても人を養い得る生産地がそこにあった証明にはなろうがそれと邪馬台国とは別の話だ
奈良からだって鏡も金印も出てないわけだが
わたしは邪馬台国の卑弥呼が大好きなので
これからは卑弥呼と共に生き
卑弥呼と共に死んで行きます
549 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 09:34:26.50
日向からは玉璧が出ている。中国と通交していた王がいた証拠だ。我が国では
それに匹敵する証拠品は金印ぐらいのものだ。
それに日向からは、倭人伝の「屋室あり」に合う住居址が出ている。これも全
国的にみて日向以外には出ていない。
そのコクヘキは史料として志賀島の金印並みかそれ以下の信頼度しかないだろ
穀璧は中国に同じ物があるはずだが金印は同じ物がない点で上
552 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 14:42:28.77
いずれにしろ倭人伝の行程どおりで行けるのは南九州のみ。そこに中国と通交して
いた明白な証拠が残っており、倭人伝の伝える状況に合致した遺跡がある。倭国は
温暖という記事にも合致する。記紀の伝承にも合致。となれば、まあ、決まりだね。
何か反論はあるかな?
553 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 15:43:58.57
だから
ヒムカ(日向) ヤマド国(邪馬台国)
554 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 16:06:46.50
>>552 邪馬台国に合致した遺跡ってどこ?
ついでに中国と通交していた明確な証拠っていうのも
555 :
三河農士 ◆R2srkOAYfTmd :2012/07/31(火) 17:25:06.99
邪馬台国は崇神天皇が居を構えた纏向
卑弥呼はその時代に活躍した倭途途日百襲比賣命
ただし魏志倭人伝の記録の元になったのは垂仁天皇の時代に纏向にやってきた都怒我阿羅欺等の見聞録
また魏に使いに行った難升米は都怒我阿羅欺等の住む任那の人物ではなかろうか。
魏志倭人伝では投馬国以降の行程がデタラメで信用がおけないが
これが都怒我阿羅欺等と同じように(または本人)さ迷った結果だとすれば合点がいく。
また行程から北九州での土地勘はあったようであり、植生についても九州のものを伝聞したのだろう。
おそらく難升米は畿内には行った事が無く、都怒我阿羅欺等から聞いた話を魏でしていたのではないだろうか。
そして倭のいち地方に過ぎない任那が、熊襲との対立の為に倭を名乗って魏に援軍を求めたのではなかろうか。
556 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 17:26:05.46
邪馬台国って大和のことでしょ?
557 :
三河農士 ◆R2srkOAYfTmd :2012/07/31(火) 17:42:25.86
神武天皇の出身地から近いところに住む熊襲が何故何度も逆らうのか?
また神功皇后が新羅攻めを決めると何故熊襲の反乱が収束したのか?
熊襲が、大和が任那や新羅と親交する事に不満を抱き、謀反を企てていたのだとするなら妙に合点がいく。
倭途途日百襲比賣命って名前のどこをどう聞いたらヒミコになるのか…
559 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 19:22:08.91
>>558 比賣命(ひめのみこと)→ヒミコでしょ
高貴な女性は「ひめ」「ひめみこ」などと呼ばれていたから
確か神武天皇なら卑弥呼や
邪馬台国の位置がわかるはずだよ
562 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 20:35:39.84
>>558 別名として「日神、神大市媛、又の名を日女命」と
海部氏系図に記述があるだろ。
えっ?マジっすか?
卑弥呼の苗字って海部さんっていうの?
って事は海部卑弥呼が本名なん?
そうだな。国生み淡路島生まれのかーちゃんの子、
モモソが海部卑弥呼様だよ。
565 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 21:27:26.10
蠅の子ならふつうに蛆娘だけどな
俺も畿内説だが、箸墓古墳を3世紀中頃は無理があるって。
3世紀後半から末だろう。
567 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:26:13.31
そういえば、国産み神話の、ヒルコ、アワシマは、
どういう意味があるんだろ。
消えた島かなにかあったかな
568 :
三河農士 ◆R2srkOAYfTmd :2012/07/31(火) 22:29:45.75
>>566 三世紀後半を中心に前後百五十年の誤差が
戦後修正史観の考古学者にかかると
三世紀後半から百五十年の誤差になっちまうんだもんびっくりだよ。
放射性炭素同位体の測定でも、この辺りで一度放射性炭素が増えてて合致する年代が二回あるのに、古い方は無視だし。
569 :
三河農士 ◆R2srkOAYfTmd :2012/07/31(火) 22:33:53.38
>>567 ヒルコとヒルメで一対という説もあるみたいだな。
天照大神は別名、オオヒルメムチというそうだ。
>>560 倭人が、ヒメミコと言っているのを聞いて
中国人がそう記しただけでしょう?
いついつのヒメミコかなんてまで、中国人は詳しくないだろうし。
たとえば、徳川将軍のことだって、全員、タイクンと読んだりするしな。
571 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/01(水) 03:06:28.69
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
崇神世とは、崇神5年=後漢193年(新羅192年)〜新羅209年=崇神58年であるから、
崇神世 187年〜220年におさまる数字の中にしか存在できない。
そして、“鉄”を求めて、吉備などの国々が垂仁の元へ集合する。
景行は九州へ遠征する←3世紀半ば、北部九州に畿内の庄内式土器が持込まれる。
考古学の年代を正しいとする文献がある。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
倭人伝もヤマトがこの時代に九州までを領土としたと言っている。
>>555 そんなに風には思わない。
卑弥呼の正体が、崇神天皇時代のヤマトトトヒモモソ媛命だとは思うけど
魏志倭人伝の見聞録は、たしかに、崇神天皇時代のものだと思う。
また、難升米は、梨迹臣命のことだと思うけどね。
日本側の文献では、難斗米となっている。
どちらが正しいかは分からないけど、
中国側の現存する文献も12世紀の写本だから
どちらかが誤字なんだろうな。
孝元天皇〜崇神天皇位の貴族で
中臣氏の先祖にあたる。
>>557 ワカミケヌ命、つまり神武天皇の一族は
畿内王権の命令で九州南部の抑えを任されていた家系じゃないの?
574 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/01(水) 03:19:12.02
長畑馬場遺跡
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 景行(纏向3類=庄内式) 神功(纏向5類=布留1式)
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
神功時代は、新羅から調(税)が納められていた。
七支刀=369年から逆算すれば神功渡海は320年より早まることはない。
西晋滅亡後だ。9月に集兵して10月に渡海し、以後新羅から税を徴収する。
ありえない。
七支刀=326年東晉明帝太寧4年から逆算すれば渡海は274年になる。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
ここで渡海であれば、晋の命令か要請だ。命令の実行であれば渡海は可能である。
半島に1大卒を駐留させたのであれば、その経費として徴税は可能である。
575 :
三河農士 ◆R2srkOAYfTmd :2012/08/01(水) 06:42:41.10
>>572 難升米が梨迹臣命だとすると、何故彼は大和についての正確な記録を残さなかったのだろう。
肝心なところは秘密にするにしても、あまりにもデタラメが過ぎるのでないか?
>>570 徳川将軍がタイク−ンと呼ばれるようになったのは、19世紀半ば以降。
それ以前には、存在しない政治術後。
邪馬台国の位置がわからない!
卑弥呼とかはだれだったのか?
謎が謎を呼ぶ
何事も難しく考えてはだめだ!
ならばもう一度邪馬台国を作ればいい
千葉県○○郡 邪馬台国村って感じで!
女性で卑弥呼と名前に改名もしくは
子供に卑弥呼とつければ
邪馬台国が復活するじゃん
村人は村にいる間は弥生時代の
生活しなきゃダメだけどさぁ
今年も夏になったのか
580 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/01(水) 12:03:58.24
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
東倭とは、倭奴国に対する言い回しであり、統一倭国を大倭と表記する魏書。
南に至邪馬臺國,即倭王所都。は、東に書換えねばならない。
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。
考古学はさらに、3世紀半ばに畿内庄内式土器が北部九州に持込まれる、とする。
次の時代、布留式期(纏向5類)には、半島の土器やカマドと共存する。~功渡海はこの時代である。
>>570 >倭人が、ヒメミコと言っているのを聞いて
>中国人がそう記しただけでしょう?
じゃトヨはどう説明するの?
582 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/01(水) 12:45:17.44
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二𠀋、以到。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。
其年十二月 詔書報←詔書に報いる女王卑弥呼
正始元年 梯儁等は詔書をささげて倭国を訪れる。
詔書を受け取った倭王は、倭王因使上表答謝恩詔。←この部分が詔書に報いる倭王になる。
つまり、倭王とは邪馬台国官伊支馬(イクメ)、伊支馬は都市牛利(たしうり)を派遣した。
2王体制を崩さないと、邪馬臺國に女王卑弥呼を住まわすことができない。
同じ場所に2王はない、それ相応に離れた場所である。
九州筑紫に女王卑弥呼、そこから離れた場所に邪馬台国倭王。
そして、この時代に倭国は統一される。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
>>582 「九州筑紫に女王卑弥呼、そこから離れた場所に邪馬台国倭王。」
という仮定に至るまでをもっと分かりやすく説明していただきたい
584 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 13:25:12.50
単なる誤読だ。
585 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/01(水) 13:35:46.27
>仮定に至るまでをもっと分かりやすく説明していただきたい
仮定には、考古学の知見を使う。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.htm l
寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
纏向新偏年
崇神 189〜216年
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年] 辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行12年以降。
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。 新羅からの調(税)
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
586 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/01(水) 14:54:03.56
>成務 262〜265年(基本的に57年の空白)←↓57年空年無〜い。
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
587 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/01(水) 14:56:20.87
↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒等
588 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/01(水) 14:57:27.64
続 ↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
589 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/01(水) 14:59:43.70
新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[≠崇神5年]
畿内の空腹農民が千人も大海を渡って半島に到達は出来な〜い。
590 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/01(水) 15:01:25.46
崇神世とは、崇神5年≠後漢193年(新羅192年)〜新羅209年≠崇神58年であるから、
崇神世 187年〜220年におさまる数字の外にしか存在できない。
>>585 考古学とキミの妄想をドッキングさせるな。
592 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/01(水) 18:27:28.02
>同じ場所に2王はない、それ相応に離れた場所である。
通常はそのとおりだろうが、これも必ずしもそうではない。
千夜一夜での物語始めのシャハリヤール王とシャハザーマン王は同一場所
だ。西遊記という空想小説では金角大王銀角大王は同一場所(蓮花洞)に
すむ設定である。
>>592 それってどっちもフィクションじゃないの?
それよりローマ法王と諸国の王が並び立ってることのほうが
参考になりそうな気がする
594 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 02:08:19.37
595 :
橙犬者:2012/08/02(木) 23:48:37.90
>>339 唐松山さん 有難うございます。
以下の様に解釈しました。
>補足 太陰暦
「令集解古記」で説明してある太陰暦で、補足しておく。
>1章を6940日とし、4章につき1日を減ずる。
現在の知識から十九年七潤法の1章(19年)を計算する。但し一ヶ月は朔から朔まで約29.53(日)
1章=19年=6939.55(日)∵(19(年)×12(ヶ月)+7(十九年間に七ヶ月の閏月))×29.53(日)=6939.55
現太陽暦では 19年=6939.56(日)∵19(年)×365.24(日)=6939.56
この計算で見ると、19年で僅かに0.01日(15分未満)の誤差である。
実際の日付に端数は有り得ないから1日単位に調整し定める事となり、1章=6939.55日間を6940日間と見做している。
4(章)×6940(日)-1(日)=27759(日)
>27759/76=365.25日。
>27759/29.53059=940.008月
>0. 008*29.53059=0.24日
>月は76年で0.24日進むから、300年ほどで1日狂う。
(4(章)×6940(日)-1(日))÷(19(年)×4(章))=365.25(日)。つまり一年は太陽暦の一年にほぼ等しい
(4(章)×6940(日)-1(日))÷29.53029(日)=940.0083(太陰ヶ月)。端数の0.0083(太陰ヶ月)が生じる。
0.0083(ヶ月)×29.53029(日)=0.245(日)。4章(76(年))ごとに0.245(日)の差が生じる
(19(年)×4(章))×1(日)÷0.24(日)=316(年)、十九年七潤法では約300年で一日のズレが発生する。
つづく
596 :
橙犬者:2012/08/02(木) 23:50:14.68
>>339 つづき
>4章につき1日を減ずる。この解消法として、38年経過した時点で大の月を1回小に変更すれば
>0.5日を修正したことになる。
4章につき1日を減す方法は、太陰暦の特性一ヶ月約29.53(日)を活かし、38年ごとに大の月30日を小の月の29日にして-0.5日を調整する。
>↑わかりにくいと思うが、29.53日の0.03日の解消方法は、
>0. 03*33月≒1日。実際の暦は、16ヶ月程度で大の月が続く。
似たような説明になるので、混乱しないで欲しい。
太陰暦一ヶ月は約29.53(日)で大の月30日と小の月29日の2ヶ月を59日とし調整しているが、0.03日/一ヶ月の誤差が累積されてくる。
累積が一日となるのは1(日)÷0.03(日)=33(ヶ月)必要となる。
この半分の16ヶ月程度ごとに、本来は小の月を、大の月とし、大の月を続け、+0.5日を調整している。
>343年の朔=甲子・癸巳・癸亥・壬辰・壬戌・辛卯・辛酉・庚寅・庚申・己丑・己未・己丑
>345年の朔=壬午・辛亥・辛巳・辛亥・庚辰・庚戌・己卯・己酉・戊寅・戊申・丁丑・丁未
>大の月を16ヶ月程度で差し込むと0.5日の修正となる。
すみません。実例での確認はしておりません・・・・
約33ヶ月で+一日を調整するのと、約16ヶ月程度ごとに+0.5日調整することに等しい。
>76年で1日修正するとは、38年で0.5日修正することとかわらない。
繰り返しになるが、76年ごとに-1日修正することは、38年ごとに-0.5日修正することに等しい。
597 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/02(木) 23:57:38.33
「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。
神武元年は16年目 正月元旦庚辰朔=1682014として
1682014=CHOOSE(MOD((C3+12),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD((C3+18),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
1ヶ月を“A!”(29.53059など)とする。
月齢調整のため“A2”をもうける。例A2=0.333など
上記の潤の廻しで、1年を横に(数字と干支の2段がさね)
そして、19年を縦に積み上げる。
これを繰り返せば、BC660年からAD500年でも600年でも一つの表として眺められる。
この潤月固定で異常は出ない。
正月朔の数字を“C3”にいれ、2月D3・3月E3・・・と並べる
C3=1682014+A2, D3=C3+&A&1・D4=D3+&A&1・・・
正月朔の干支を“C4”にいれ、2月D4・3月E4・・・
かなり整合しますよ。
598 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/03(金) 00:04:00.23
訂正
×神武元年は16年目 正月元旦庚辰朔=1682014として
○神武元年は15年目 正月元旦庚辰朔=1682014として (潤8月の次の月)
A2の数字を変えると狂いの出る場所が変わる。
×1ヶ月を“A!”(29.53059など)とする。
○1ヶ月を“A1”(29.53059など)とする。
599 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/03(金) 00:05:08.46
訂正
×神武元年は16年目 正月元旦庚辰朔=1682014として
○神武元年は15年目 正月元旦庚辰朔=1682014として (潤8月の次の月)
A2の数字を変えると狂いの出る場所が変わる。
×1ヶ月を“A!”(29.53059など)とする。
○1ヶ月を“A1”(29.53059など)とする。
600 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 11:40:02.99
1日累積しようとしまいと、編年には効果が無いに等しい。
ところで卑弥呼の両親って誰なの?
邪馬台国ってどんな暮らしをしていたの?
602 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 13:53:01.84
記紀に刺青の風習がほとんど書かれてないのが不思議だ
朝廷内の人間で黥面分身していたのは大久米命ぐらいのもんだ
邪馬台国ではほとんどの人間が黥面分身していたのに
603 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 14:54:05.79
>>601 分かっていなんだろう?
弟は 狛比古 だという。
604 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 15:25:49.95
卑弥呼はヒミコ=日巫女。また、霊(ひ)巫女。
神名の巫女神は、
大日霊女貴命。又の名を天照大日霊女貴命とも。(初代ヒミコ?)
雅日霊女貴命。(共立された第二代ヒミコ)・・・生田大神。丹生都比売大神。若狭比売大神。豊受皇大神/登与媛命。豊依媛命・・・
豊玉比売命も読み替えクサイ。
あといっぱいいる玉依姫命も霊媒巫女。(玉=魂。依=跡取り媛かつ霊媒巫女)
一説に、カーチャンは天宇受売命/天鈿女命こと市杵嶋姫命。
トーチャンは天手力男神こと猿田彦神(櫛玉命/太田命)
トヨになってから、どうなったのか気になる
30歳くらいの時に晋に派遣してるみたいだけど
606 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 16:04:37.66
トヨの邪馬台国はいずれかの国によって滅ぼされたようである
少なくとも大和朝廷は邪馬台国から連続した王朝ではない
やっぱ
日本書紀の神功皇后は卑弥呼+トヨをパクった虚像人物ってことですな
卑弥呼もエライ長生きしてるし、皇后もエライ長い
年代的にも重なる
しかも、その長い期間女性が統治してるし
同時期こんなのが二人も出るかーっちゅう話やんね
邪馬台国が擬人化したのが神功皇后って話だな
608 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 17:46:14.19
記紀を信ずるかぎり、邪馬台国東遷もなければ九州王朝もない。
また神功が魏に朝貢したとも、神功の後に台与が即位したとも書いてないわけだから、
九州説、畿内説、どちらも成立しないのである。
記紀を信じても成立するのは朝鮮説だけである。
609 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 18:02:29.84
卑弥呼の代である崇神の治世では、九州は畿内朝廷の傘下にはない。
崇神の代の朝廷の勢力は畿内くらいに留まり、九州にはその支配の手は
ないし、北九州あたりは朝廷に半島からの遣使からの聞きこみにより北九州
あたりの情勢は入ってくるが、中九州以南の情報など殆ど朝廷には届いて
いない。だから朝廷の書庫には中九州以南の情報は神武はそのへんに
いたから神武のころのそこの情勢はすでに朝廷は把握してるものの、崇神の
頃の奥九州にいた卑弥呼のデータなど朝廷は持っていない。
畿内くらいに留まるから、その外界のデータ、情報が少ないために、四方に
四道将軍を派遣したわけだ。しかしその派遣での中九州以南の情報は、彼ら
はどうやら得てはいない。
だから記紀に卑弥呼の記事がないのである。あるのは倭人伝の借り物たる
神功39年の記事くらいである。
従って九州王朝存在否定は、記紀にないからといって成立しない。
おまけに九州年号は多々存在しており、九州王朝の存在はもう疑うべくも
ない。
>>608 さすがに朝鮮半島は苦しいぞ
対馬→壱岐→末盧どうすんの?
611 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 18:08:45.26
ところで邪馬台国ってなんで滅んだの?
613 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 18:16:30.11
>>609 崇神の代のはずの卑弥呼の記事が倭人伝からの借り物にて神功39年に
書かれたということは、書紀の編者らが皇統に卑弥呼に相当する女性
がいないことでいろいろ討論調べたとかして、似てるのが神功皇后しか
いないということで、彼女ではないかと観て、彼女の年代にその記事を挿入
したものであり、皇紀から(西暦200年相当)が神功年代の始まりとなる
ことで、西暦239年に当たる年代と観てこの記事を代入したものだが、編纂
前の崇神も神功の代も倍暦を行使したいたのにそれを感知してなかった編者
連中が崇神の代だと見抜けなかったということである。
真の卑弥呼の年代は崇神のころである。
614 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 18:37:28.03
>>609 >卑弥呼の代である崇神の治世
これがそもそもの間違い。何の確証もない。現在の日本の史学界の通説に従っているだけ。
>>610 倭人伝は日本紀行、日本伝聞録だから、卑弥呼朝貢とは切り離して考察しなければならない。
>>611 これは面白い。中国東北部、満州、朝鮮からしか出ていないという点が興味深い。
615 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 18:44:11.60
616 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 18:45:00.23
間違いではないね。確証はある。
崇神6年に倭笠縫にそのころの飢饉等の災いをなくすため、天照大御神と
その象徴たる日像鏡を祭祀した。
この祭祀が崇神朝廷から一般に行き届き、日像の鏡の複製が当時の畿内人民
にうんと流れた。だから239年鏡が畿内から多出するのである。つまり
239年は崇神6年近隣に位置するのだ。
さらに畿内の鏡作神社の社伝にも 崇神6年9月3日 に鏡の改鋳を行ったと
いう文がある。崇神6年のころは鏡作の活動が盛んだったのだ。盛んに
なった事由が上の倭笠縫の鏡祭祀にあることは言うまでもない。
617 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 18:51:26.33
618 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 18:57:06.08
>239年鏡が畿内から多出する
こんなのは初耳だ。
239年鏡? そんなものがあるのか?
619 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 18:58:15.36
>>616 続き
おまけに畿内出の239年鏡は中国の王先生が説明してるように舶載鏡では
なく、畿内製造の鏡であるからして、鏡作が畿内にいた事は、この239年鏡
が日本製であることを補強する。
さらに崇神6年とは倍暦では崇神2年に相当する。であるから9月3日とは
崇神2年だということである。月日と年の数字が 9 3 2 と並ぶことは、
←と、逆に読めば239年の239を示している。
このことは崇神6年が影では倍暦崇神2年になることを、朝廷の上層部が
知悉していたことを物語るのだ。
つまり卑弥呼は崇神の年代であり、当時奥九州あたりにいたことになる。
620 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 19:00:11.28
621 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 19:03:45.94
わはは、崇神が作らせたなら景初3年などという銘を入れるはずがないよ。
622 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 19:09:23.74
なにを寝言を言う。w
当時畿内に少数来てた大陸人から、鏡製作の技術を教示されてたかその
逆か〜? つまり239年鏡は当時の日本人と大陸人との合作だよ。
623 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:10:59.69
御真木入日子印恵の崇神ははんこ貰ろたひとだから卑弥呼の異父弟でも良いかとはおもふけどさ
624 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 19:13:54.58
崇神天皇は金印などもらってないと思ったが〜?
625 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:15:34.05
239年鏡が卑弥呼のファクトリーで焼かれていたとしたら
ああゆう稚拙な出来栄えとかにはならんでしょね
卑弥呼のファクトリー系の作品のでは
ばあちゃんの代とかの馬鹿でかい鏡とか出土しているでしょ。
626 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 19:17:20.24
細国の言ってることは細国の妄想だよ。
>この祭祀が崇神朝廷から一般に行き届き、日像の鏡の複製が当時の畿内人民 にうんと流れた。
>239年鏡は当時の日本人と大陸人との合作
こんなのは妄想以外の何物でもない。それにそもそも239年鏡が多出しているわけではない。
>崇神ははんこ貰ろたひとだから
これは稗箕狐の妄想。
627 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:19:30.48
そもそも大型の銅鐸が焼けるレベルの技術があればさ
鏡とか焼くのはさほどむずかしいとか無いだろな。
628 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 19:24:44.58
>>626 妄想はオマエさんのほうだよ。妄想だよだけでは正規の論にはならない。
畿内から王莽銭も出ている。王莽の代は239年よりもっと古いのだ。
つまり畿内は、大陸人との交流は景初3年よりもっと古い。
このことは大陸人が239年当時畿内にいておかしくはないのを物語る。
629 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:26:06.37
>>611のわ
凹面鏡と銅鐸が仲良くご同伴で出てきているのがすごいとこだろ
630 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:34:04.97
>>629 信仰対象の異なるものが同時に出てききちゃまずかろう?
631 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 19:38:00.55
>>628 王莽銭が出ているからといって、中国人が来ているとは限らない。
それにそもそも鏡が一般人民が所有できるようなものだったかは疑問だ。
まして日本製の鏡に中国の年号を入れるはずがない。
細国は倍暦にかぶれている以外はまともな人間だと思っていたが、
そろそろ唐松山の域に近づいてきたようだw
>>629 つまりこの鏡は満州朝鮮製であること、銅鐸の起源は満州朝鮮であることを語っているのであるよ。
632 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:41:21.71
>>630 鏡のほうは戦利品として接収して有効利用してからに
後日墳墓に収容されたで良いかとはおもふが
633 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:44:35.10
>>632 他の部族が信仰したものを墓に納めるなんて汚らわしい。
634 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 19:46:36.12
宿主の域に近いから卑弥呼がアリラン人だとか妄想するわけだ。w
何を言おうと王先生が舶載鏡ではないと言っており権威があるんだから、
景初3年鏡が500枚とも畿内製だと観て間違いない。
それなのに景初3年の銘文があり鏡作が日本に存在してたことは鏡作神社
の存在とその社伝から、もう大陸人も関わっていたと観なければ妥当な
考えは浮かぶべくもない。だから合作したんだよ。舶載でないんだから。
それとも他に畿内出で景初3年の銘文がオマエはできるのか?w
635 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 19:49:36.09
訂正
× がオマエはできるのか?w
○ の事由がオマエは説明できるのか?w
636 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:52:38.10
637 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:54:42.52
638 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 19:57:01.07
>>612 台与のあと邪馬台国がどうなったか研究した本で「邪馬台国はどこへ行った」
という本が有るよ。一読してみたら。
639 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 21:17:18.56
私は記紀の内容も編年も基本的に信じているから、
崇神の時代に鏡作りが始まったということも信じる。
また△鏡が日本製だということも認めてやってもいい。
しかし△鏡が500枚も出ているのは崇神6年の倭笠縫の鏡祭祀と関係しているというのは、
認めるわけにはいかない。なぜなら崇神は紀元前の天皇だから、時代が全然違うのである。
細国が、倍暦説を持ち出さずに、卑弥呼の時代は崇神の時代だと証明してくれるなら、
細国の言い分を認めてやってもいいが、おそらく細国にはできないだろう。
いや、細国だけでなく、専門の史学者にもできないのである。
三国史記と対照して、記紀の実年代はもっと下がるだろうと考えられているが、
それは単に紀の編纂者が国外記事の挿入箇所を間違えただけなのである。
641 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 21:46:48.96
>>640 いや、そんなことはない。
桓檀古記に陜野侯が倭を平定して王を僭称したとあり、それが神武東征と同じ前666年だ。
卑弥呼も、それが神功皇后だとすれば、その年代に大差はない。
ネットの朝鮮史に仁徳が出てくるが、それも紀の仁徳の年代と大差はない。
要するに紀の編年はそれほど大きく狂ってはいないのだ。
仁徳の年代がほぼ正しい以上、崇神が紀元前というのもほぼ正しいわけで、
神武や崇神を紀元以後に持ってくるのはまったく馬鹿げているのである。
642 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 22:03:16.06
朝鮮男よ
朝廷の最重要行事は、天照大御神の祭祀と天皇の即位だ。
この皇祖の祭祀に最重要の象徴の鏡が存在している。だから500枚も鏡が
出て来るわけだ。そうでなければ500枚も造る意味を示す行事が他のどこ
にある? 探してみろ。これしかあるまいが。
崇神は紀元前の天皇というのは1年が365日ではそのとおりだが、倍暦だか
ら紀元後である。年といっても、必ずしも1年が365日ではない。勿論
それもあるが、1年が180余日とか120余日とかいう暦があったのは、例の
ww臭魔伝でもアスス暦といって1年が385日だとか1年が265日だとか
の暦があったというもので、後者なんぞ古代エジプト暦でもこの暦法が
あった。古代マヤ暦だと1年が260日があるし、古代アステカ暦も1年が
260日でこれも1年が365日ではない。
だからオマエの紀元前が西暦換算では大間違いだということである。
643 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 22:08:57.07
>できないだろう。
朝鮮男よ。オマエの朝鮮説も証明できまい。ww
だいたい仁徳以前の天皇がオマエの言う〜ほぼ全員が百数十歳も
生きたとオマエは思っているらしいが、早く宿主と同様松沢病院で診て
もらえ。紀が狂ったか?w
644 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/03(金) 22:24:16.22
隅田八幡鏡銘文の「日十大王」というのも、当時の1ヶ月が十日間しか
なかった天皇の代が存在したことを示唆しており、それで大王名が「鏡」に
書かれているわけだ。扶桑国(日本)には扶桑樹に十個の太陽があるという
神話は、大陸人が暦の 日 の意味を天体の太陽と誤訳して伝説化したもので
あり、真訳は当時の畿内での1ヶ月が十日間だったという意味である。
【紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
1日 0 11日 0 21日 0
2日 1 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 0 17日 0 27日 0
8日 2 18日 0 28日 0
9日 2 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということなのだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがあるまい。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたということを示している。
645 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 22:53:22.94
しかしねここにはカスみたいなのしかいないのか
646 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/03(金) 22:57:31.56
細国よ、鏡というものは祭祀と王の即位のためだけに用いられるものではない。
四月,戊寅,<好>太后,為上,設「三玄龍節」如紀甲時,上献豹皮‧大鏡於太后,大宴七日.BCE34
上賜創業功臣<烏伊>‧<摩离>‧<陜父>‧<扶芬奴>‧<漢素>‧<再思>‧<武骨>‧<黙居>‧
<奧犍>‧<奧命>‧<奧春>‧<于真>‧<扶尉厭>‧<菸狗>‧<鄭共>‧<馬黎>‧<烏干>‧<乙耕>
‧<仇賁>‧<仇都>‧<逸苟>‧<焚永>‧<吉士>‧<都喜>‧<桓福>‧<桓柏>‧<松太>‧<禾黍>等虎皮大鏡二枚香婢七口. BCE24
四月 造太陰神鏡十二面 奉于四山 A.D.359
ネットの朝鮮史から拾った記事だ。いろんな場合に鏡が用いられている。
647 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/03(金) 23:29:16.35
>真訳は当時の畿内での1ヶ月が十日間だったという意味である。
[10376] RE:倍年は存在した その4 Name:太国 2012/07/02(月) 10:18
12回じゃあ、閏月を連続8ヶ月分こさえねばなるまい。
そんな間抜けな朝廷の官はいない。ww
648 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 10:23:28.87
>鏡というものは祭祀と王の即位のためだけに用いられるものではない。
それはそうだろう。鑑賞用のもあるし、コチラは出かける前に鏡に向かって
身だしなみを整えるからな。そんなことなんぞ言うまでもなかろう。その言う
までもなかろうことをガタガタ書きこんでいるところを観ると、オマエは手詰まり
だということだな。w
いまは朝鮮の鏡の話ではないんだよ。そんなの参考までにはなるが、焦点ボケの
提示にしかなるまいが。w
王莽どころでないだろう。さらに古い徐福の銭も和歌山から出ているし、徐福は
日本に来て至るところに事績を残している。これは大陸人が少ないとはいえ日本に
来ていた充分な根拠になっている。
だから景初3年鏡銘文の大陸の年号は、当時日本にいた大陸人が日本の鏡作との
合作、を物語っておる。そうでないなら、なぜ大陸でない畿内に景初の年号が
ついているのが500枚も出てくるのか? それを合理的に返答せい。
649 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 10:26:10.47
>12回じゃあ、閏月を連続8ヶ月分こさえねばなるまい。
これはオマエの話からだぜ。コチラの論では関係ない。
日食が数日間も続くというオマエは、その官が現代にいたら、嘲笑ww・・・w
の軽蔑をオマエに強いる。ww
何をおっしゃる太国氏、鏡は司祭の道具。顔なんか映したら目が潰れる。
朝廷の儀というのは、朝、庭に集まって、三輪山から昇る太陽を鏡に反射させて
その日の吉兆を占う儀式だろう?
曇りや雨の日はお休み。
651 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 14:22:18.28
潰れやしないよ。
そうならば畿内で鏡発掘した連中が、もしさびてなければ目が潰れるというのか?
どこの宗教団体信者が書き込みしてるんろう?
根拠の無い書き込みはキモイばかりで
一般人には全く説得力を持たないと言うのに
それでも書き込みを続ける人々は真性の基地外なのだろうか?
653 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 14:33:54.64
本当に目が潰れるわけではなく、基本的に太陽を反射させる儀式以外では使用しない神器で、
覗き込んだら魂が奪われたり目が潰れたりするという伝承をだれもが信じていた。
鏡が神秘的な力を持っていると信じられていたからこそ、
邪馬台国は鏡を(たぶん巫女ともども)地方の豪族に分け与えることで支配したのだろう。
そのくらいのことは容易に想像できるだろう?
鏡を現在の感覚で姿見だと勘違いしている人がいたなんてちょっと驚いた。
少なくとも、卑弥呼の時代にはそんな事には使用しなかった。貴重品だったのだ。
時代が下って国産鏡が増産されたことで、高貴な婦人が1人1枚持つ姿見になったそうなったということは考えられるが。
655 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 14:41:10.49
そういう話もいいが、500枚も239年鏡が畿内から出るのは何故なのか?
これを合理的に,それがしの以外で説明できるか否か〜? これを今聞いてるのが
本筋の話よ。
その神秘力で500枚もの景初3年号のある鏡が出るからには、その年代付近に
重大な鏡の祭祀があったことを物語る。
つまり崇神6年の倭笠縫に日神と鏡を祭祀したという朝廷の最重要級の行事が、
この 景初3年=239年 の近隣年代だからだということなのだ。
656 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 14:43:17.54
姿見は本来の使用でなかっただろうが、ちょいと姿写しをやってたと思うがね。
纏向の出土品を見るかぎりでは鏡を使った祭祀も太陽信仰も読み取れないんだけどねえ
土坑から出てくるのは籾殻や食器類で、農耕や食事に関する祭祀が推測される
鏡は祭具というより明器、装具としか考えにくい
墳墓に副葬されるためのものだな
658 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 14:53:29.73
おそらく、日神を祭る卑弥呼(これは個人名ではなく、巫女としての育てられた生娘ということ)とセットで豪族に下賜されたのだろう。
そして、鏡は朝廷の儀式以外では、他人に決して見せてはならない秘匿の神器だったのだろう。
邪馬台国は、卑弥呼を使い、神のお告げとして各地の豪族を操った。
これが鬼道の正体だと考える。
そして、鏡の神秘性が失われた時邪馬台国は崩壊した。
それから三角鏡は大量に出ているけど、紀年鏡は景初3年が2枚、景初4年が2枚
正始元年が3枚じゃなかったかな
で、これらの初期のものと思われる三角鏡(一枚は画文)が出土したのは、京都
大阪、群馬、兵庫、宮崎なんだな
つまり鏡は初期段階から各地に配布されていたと考えたほうがよい
畿内を中心として出土する鏡に、なぜ卑弥呼遣使頃の年号が記されているのか
この解釈は難しい
九州説で多いのはメモリアル・イヤー説で、これは後代になってから卑弥呼の遣使を
記念して昔の年号を鏡に刻み込んだというもの
しかしそれだと、存在しない年号といわれる景初4年銘があるのは不都合になる
それから全国に早いペースで広まっていった前方後円墳と鏡の使用法についての
解釈も難しい
前方後円墳と鏡の副葬がセットになって伝わっていったと見るのが最も自然ではないか
663 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 15:44:20.86
>しかしそれだと、存在しない年号といわれる景初4年銘があるのは不都合になる
景初4年号があるということは、なおも239年鏡等が畿内での大陸人と鏡作
との合作で舶載ではないということを物語ろう。
昭和64年の硬貨だってあるし、3月まで作られていたそうだ。
更に制作に日数を要する景初4年の鏡があっておかしいとは思わない。
なぜそんなことを気にするのだろう?
東夷の国への下賜品の年号など、大した意味がないことだ。
665 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 17:19:45.69
細国はどうやら景初3年銘の△鏡が500枚も出ていると勘違いしているようだ。
バッカじゃなかろかw
△鏡なんて何時の時代の物か分らないのだから、
それが崇神が作らせた鏡だというのは認めてやってもいい。
しかし景初や正始の銘のある△鏡は崇神が作らせた鏡ではない。
それはもう絶対確実なことだ。なぜなら崇神は紀元前の天皇だから。
666 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 17:22:27.28
印恵の崇神
はんこめぐまれた酋長
>>664 九州説のメモリアルイヤー説だとおかしなことになる、と書いているんだが。
つまり九州説ではこの年号を実際に鏡が作られた年代とは認めがたく、4世紀に入ったあたりに
昔の卑弥呼の朝貢を記念して鏡に昔の年号を刻んだ、という説がある。
しかしそれだと存在しない年号をわざわざ後世に入れるのはおかしいという考え方。
668 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 18:09:38.56
半島男よ
>景初や正始の銘のある△鏡は崇神が作らせた鏡ではない。
どこにそんな根拠がある? 説明がなってない。
ちゃんと論説で来るんだな。崇神が作ったんではなく、鏡作と大陸人が
造ったんだよ。日本で作ったということは、当時大陸の情勢が畿内に到達
するのがえらく時間がかかるわけで、だから景初4年号鏡が製作されたわけ
だぜ。大陸にいたんなら、こんな年号は銘文に入れまいが。
崇神は1年365日余での暦計算で、百数十歳も生存なんかしていない。
そうだというなら、オマエは松沢病院で脳内を診てもらったほうが
よさそうだ。w
669 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 18:23:19.05
>>668 ぷっ、では聞くが、日本で作るのに何のために魏の年号を入れるのだ?
輸出するためか?
670 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 18:29:28.14
何のため?
簡単だ。造った年代を書いたまでのことよ。ただ少しは時の事情でズレ
があることもある。オマエの書きこみになぜ2012/08/04(土)・・・と
あるのか?w
オマエは崇神年代が紀元前だというなら、半島の任那は紀元前に建国され
たのか? 垂仁紀には崇神の名から任那とつけたとある。紀は、オマエは
正しいと言ってるではないか? ミマナは崇神の名のミマキから採って国名
としたということだな。
.どうだ任那建国は紀元前か〜?? その事由を合理的に答えてみろ。
671 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 18:39:16.95
日本書紀
(崇神)六十五年秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者去筑紫國、
二千餘里。北阻海以在鷄林之西南。
672 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 19:02:44.53
ぷ、分らない奴だなw
だから日本で作った鏡の年代になぜ魏の年号を使うのか、と聞いているんだよ。
日本に年号がなかったから魏の年号を入れたのか? んなあほなw
任那の建国が紀元前で何がおかしいのだ?
中国は何千年も前から建国されている。満州の檀君王険の国も然り。
朝鮮や日本が紀元前に建国されていてどこがおかしいのだ?
それをおかしいと思うおぬしの頭がおかしい。いや、おぬしだけではない。
ここの連中のほとんどがおぬしと同じで頭のおかしい連中なのだw
673 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/04(土) 19:06:12.04
211年 崇神誕生。
崇神65年 建国のお礼として任那より朝貢。
何年経っているんだ。
674 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/04(土) 19:17:53.15
>前方後円墳と鏡の副葬がセットになって伝わっていったと見るのが最も自然ではないか
前方後円墳も三角鏡も纏向5類の時代である。
そして、大量の鉄器副葬もこの時代からとできるであろう。
鉄器の大量流入は、神功渡海後の新羅からの調しかない。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
これ以降は河内、難波へ移る。
675 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 19:45:45.40
>>672 オマエは五輪の見すぎか〜?
なに寝言をたたいてるんだ?w
だからその大陸人が魏と強い関係のある者だったということであろう。w
大陸人が鏡作を教導してたからだろうし、オマエの言うようにだ、当時
日本にそういう年号がないから大陸ので代用したんだろうが。
211年建国なら、倍暦計算で崇神誕生年だ。
つまり建国を崇神の誕生年と定めたと観れば、垂仁紀の記述とうまく合う
こととなる。どこまで行っても、倍暦だと辻褄が合ってくる。
当然だな。古代エジプトもアスス暦も1年が265日では、1年が365日で
ない暦がこの地球上にあったことを意味する。古代マヤと古代アステカは
1年が260日だ。5日違いで共通しておる。つまり当時は倍暦の花盛りだ
ったということだな。
ところでオマエはまだ任那の紀元前の説明が出来てな〜い。
これでは全然駄目だ。それとも宿主と仲良く松沢病院にご厄介となるか?.
2ヶ月位前、松沢病院の棟は新装したそうだから、出向いてみろ。w
676 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/04(土) 20:09:50.05
△鏡は墳墓副葬用の鏡だ。
朝廷内で祀る鏡ではない。
しかもその副葬は、桜井茶臼山(穴あき壺)以後であり、
箸墓(円筒埴輪)よりあと。
だから、崇神の鏡とは関係がない。
677 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/04(土) 20:19:29.50
景行・成務の導入した”屯倉経営”は魏の屯倉手法の導入である。
つまり、領地の領有を認める代わりに兵役の義務を負う。
倭は、半島に1大卒を置く、その経費として、新羅からの調が存在する。
その新羅からの調の時代に
前方後円墳と△鏡の副葬が全国に拡散する。
前方後円墳と△鏡は、この屯倉手法に参加した証拠でもある。
それは、3世紀後半、末からとなる。
前方後円墳の全国拡散は、ヤマトが倭国の盟主となった証拠でもある。
ヤマトが倭国の盟主となったのは景行による九州・関東遠征により達成される。
678 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/04(土) 21:16:52.96
>>675 ほう、そうか。日本に年号がなかったから中国の年号を入れたのか。
それなら△鏡のすべてに中国の年号を入れているはずだが、
実際にはそんな△鏡はごく少数しか出ていないのだがw
それから、おぬしがご丁寧に挙げてくれたように、
(崇神)六十五年秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。
と紀に書いてあるのだから紀元前の建国だ。
これ以上一体何を説明しろというのだ。バッカじゃなかろかw
679 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/04(土) 21:42:58.11
全て入れる必要もあるまい。略式というものはいつの世でもある。
年号が鏡を作るに絶対条件じゃぁないだろう?
紀元前になるわけがあるまい。それとも任那は紀元前に建国したのか?
オマエは半島に詳しいんだろう? これを早く答えろよ。
>しかもその副葬は、桜井茶臼山(穴あき壺)以後であり、
箸墓(円筒埴輪)よりあと。
こんなものは何の根拠もない。
それに松沢病院行きお勧めの日蝕が数日間日を経て継続するなどという野郎
の言うことは常に捏造がちらついていると観て可である。ww
680 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 21:48:10.77
半島男さんにかまわれちゃって太国さんきのどくだなあ
681 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/04(土) 22:09:14.22
>こんなものは何の根拠もない。
211年任那建国
崇神65年任那より朝貢
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
まだ三角鏡はない。
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、
まだ三角鏡はない。
崇神は2世紀末から3世紀はじめの人間だな。
そして、その治世もその程度であり、埴輪を超えることはできない。
なにしろ、埴輪は、垂仁末以降だ。
そこに、
239年邪馬台国官伊支馬が登場する。
その、239年と240年を刻んだものが△鏡である。
3世紀半ばの大型建物(王宮)は誰?
神武天皇の妃が卑弥呼で
天皇になるかわりに卑弥呼には
女王になってもらったんです!
つまり邪馬台国は初代の宮中だったんです
神武「天皇?なにそれ、うまいのか?」
684 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 09:06:33.87
細国は、津田史学を批判しておきながら、
任那の紀元前建国はおかしいと感じているわけで、
そう感じていること自体、戦後史学と考古学に洗脳されているのである。
中国は何千年も前から王がいて覇権を争っているわけだが、
それをおかしいと思う人間は一人もいない。
ところがどういうわけか、朝鮮や日本はずっと遅れていて、
紀元前の建国などあるはずがないと思っているのである。
で、満州にも何千年も前から檀君王険の国があり、
それがちゃんと史書として残っているのに、
そんなのはおかしい、とか、偽書だろう、などと言っているのである。
人間は何万年も前から中国にも満州朝鮮にも日本にも住んでいたのであり、
人が住んでいれば国もできるし王もいるのである。
中国であろうと満州朝鮮であろうと日本であろうとそれは変わらない。
でも日本では武器が無い
石の武器で戦っていたの?
いつの時代のこと言ってるのか
687 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 10:22:19.37
朝鮮男よ
当時の天皇が百数十歳もたくさん生きてたというオマエの脳内こそ、なんらかの
インチキ・カルトに洗脳されているということだ。w
宿主はインチキのホツマ真理教に脳内が洗脳されており、勝手に景行年代を
239年に決めこんだだけで、その根拠は常に抽象的暗ましとか修飾文の糊塗であり、
さも正規に論説してるように見せかけた盲象の羅列である。だから奴の編年には
おかしな個所が所々に散見される。これは奴の論説がインチキ・デタラメだという
ことを証明しているのだ。
例えば日食が日を経て数日間続くとか日本では絶対なれない臣が天皇になるとか
千人もの空腹農民が畿内から軽く渡海するとか、おかしな不合理が多々出ている。
また応神が仁徳の子であり紀に逆らって仁徳が応神より先に即位したとかのホ伝子
組換えで、デタラメをおかしいとも感じずに毎回掲示板に書きこんでいる。
これらインチキ狐の尻尾が見え見であり、いかに臭魔伝が妄想の危険を促進
させる危険な史想の書であることが知らされるのだ。
>紀元前の建国などあるはずがないと思っているのである。
紀元前の建国の国など、世界にいくらでもある。エジプトなどは紀元前5千年
あたりからあるだろうが。古代マヤも紀元前からあるし、オルメカなんぞマヤ
より古いだろう。
だが任那建国が紀元前だという根拠をオマエは出していない。た〜だ紀元後を
否定してるだけで、その根拠をいくつか挙げないんでは暖簾に腕押しである。w
石は武器としたら今でも充分使えるよ。
689 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:30:05.02
>>685 近畿地方なんかは、石の投げ合いをして戦う。子供でも出来る。
九州は鉄器が発達していたから、骨まで達する傷を負ったりしていた。
青谷上寺地遺跡の惨状は、出雲の国譲りとの関連がありそうだと思う。
>>689 その畿内で神武軍は河内湖で負けてるけどな。
691 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:38:00.11
>>690 神武天皇が戦ったのは、高天原から天磐船に乗ってやってきた饒速日命の
一族。まあ、同族同士の争いなので苦戦したんだろう。
竹内宿禰に限らず、天孫族は寿命が長かった。
しかし、藤原氏などの雑民との混血が進んだことにより一般人と変わらなくなってしまった。
693 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 11:12:43.33
倍暦計算から、武内宿禰の寿命は111歳か105歳である。
これは仁徳天皇が彼を日本一の長寿者と詠っているところからウソではない。
現今での日本一はだいたい120歳ばかりなんだろうから、日本一としては妥当な
年齢である。
というのは、朝廷には当時全国からうまいものが多々献上されてるわけだから、
長生きする人物が出ても当然であろう。仁徳以前の天皇は、倍暦換算で現代人と
大差ないごく普通の寿命になる。
エジプトのラメシス二世とか半島の長寿王は90歳以上の寿命だったから、むこう
も旨いものが王廷に貢がれたのだろう。
>>607 神功皇后は邪馬台国を滅ぼした張本人です。
>>642 倭人伝で中国諸韓国で有名になった卑弥呼の邪馬台国しか外国は相手にしなくなつた。
それでは大和朝廷は困るでしょ?
だから
後ろ盾になった魏が滅んでから邪馬台国をぼして
自らが邪馬台国のヤマトを名乗ったんだ。
大倭=ダイワ=大和なのに。
696 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:32:54.13
そそ強引に要求してからに満と干のたまたま2つかつあげしたんだっけね
>>552 南九州は問題外。
あっても狗奴国まで。
邪馬台国の可能性は皆無。
>>697 >邪馬台国の可能性は皆無。
だからなぜそうなのかを説明しろよ
主観と願望お国自慢おらが村精神
お国自慢おらが村精神よりもっと進んで
おらが神社の客寄せしようとするヤツが出てきてるな
香春神社のことだけど
701 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 15:35:28.15
>>695 相手にしてるよ。
卑弥呼の活動年代は崇神の代だ。
その次帝の垂仁紀に崇神の名をつけて任那としたとある。
これは半島が朝廷を相手にしてたということ。
702 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:01:13.55
>>697のような偏見でまったく検討すらなされてこなかったのが南九州説だ。
そのほかの説は、あれこれ検討しても矛盾だらけ。要するに可能性が残って
いるのは南九州説だけだってことよ。
ところで卑弥呼と神武天皇って
どっちがつよかったの?
歴史上 縄文か弥生時代に
互いに戦ったことあったっけ?
どっちが勝ったの?
神武天皇は高天原の神様(無敵)
卑弥呼は魔法使いアンド特殊能力
神武天皇は神様だから
死なないんだっけ?
卑弥呼も負けず凄まじい魔法使って
しかも特殊な能力で応戦した
凄まじい戦いだったイメージがあるんだけど どうだったんだ?
704 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 18:39:38.32
任那というのは加耶とか金官のことだろう。
それが紀元前の建国かどうかは、たとえばネットの高句麗史を見てみればよい。
ただし紀元前の記事に加耶が出てこないとしても、建国されていなかったとは言えない。
ネットの新羅史は婆娑尼師今からしか載っていないので確認しようがない。
それより、細国がなぜ任那の建国が紀元前のはずはないと思うのか、
その理由が私などにはどうしても理解できないのである。
ま、別に理由を聞いても仕方のないことではある。
なぜなら紀元前建国は間違いない事実だろうからw
705 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:45:34.14
任那というのは加耶とか金官とかのことではないだろう。
おくそくするに たぶん たりあたりじゃね。
706 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 19:02:12.47
任那と加羅は別だという説か。
たしかにそういうことも考えられる。
ところが、ネットの朝鮮史だと、新羅の南の国としては、
加耶、金官、月奈くらいしか出てこないのだ。
この月奈というのがもしかしたら任那か。
とにかく今のところ任那というのが出てこない。
月奈はゲツナ、ガツナで、ガツナ→ガッナ→ガナ→カナ→クナ→狗奴か。
707 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:11:05.44
199年 己卯 延優 3年 3月 駕洛(金官)主首露殂 居登立
200年 庚辰 逸聖 9年 5月 (駕洛)金官居登以其妹毗可 妻加耶阿修
ここのところから 駕洛=金官のがわかる
219年 己亥 阿達羅 7年 7月 加耶阿修殂 其妻毗可自立 以庶子宇理爲繼夫
ここのところから 駕洛=金官の女酋長が加耶をのっとっているのがわかる
たぶん
駕洛=金官=狗邪
加耶=高霊=伴跛 だとおもうよ
708 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 19:25:28.16
>>707 最後の一行だけは認めるわけにはいかない。
ネットの新羅史を読む印象では、加耶はそんな小さな国ではない。
実際、ソウルは加耶の版図で、現在の韓国全体が加耶だったとも思われる。
金官もかなりの大国で、その版図は三国史記が書いているような狭小な地域ではない。
おそらく慶州は金官に属していたのである。
新羅の首都鶏林は、吉林か、清津、咸興あたりだろう、というのが目下の私の予想である。
そのネットの朝鮮史サイトのURLを二、三貼ってもらえませんか?
710 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:31:50.48
高霊の女酋長の毗可さんとかは卑弥呼と同時代の人だし
人身御供要求する土人だからしてなんか身近に感じたりするなあ
711 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:37:43.48
712 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 19:44:18.30
朝鮮男よ
崇神6年代が倭笠縫の日像鏡を祭祀したことで、このことから239年鏡が畿内
に多出するのであるから、垂仁紀にある任那の国名が崇神のミマキから
名づけたということは、これは崇神6年が239年の近接年代であることは
もはや疑いない。オマエは任那がなぜ紀元前なのかどこかのサイトを
見ろなどど丸投げしてることから、天皇が1年365日での百数十歳行きて
たという想い同然、単に紀元前だと頑張ってるだけで、その根拠研究は
朝鮮男の名ばかりで無に等しく、全然為していな〜い。w
オマエはこれでは駄目だ。
これでは相手は信じやしない。w
713 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 19:45:34.23
714 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 20:04:24.87
細国よ、上から四行目まで何を言っているのかさっぱり分らんぞww
丸投げしているのは、面倒くさいから読み返そうと思わないからである。
任那が紀元前建国なのは間違いないから、読み返そうとは思わないのである。
天皇の年齢が百数十歳となっていても、ああ、そうか、と思って読んでいればよいのだw
現代の常識で、これはおかしい、と合理的に考えようとすると、却って実年代を見誤ることになるのだ。
なぜなら、記録に残っていない天皇がいたかもしれないからだ。
それに二代続けて同じ天皇名を名乗ったということも考えられる。
いろんなことが考えられるのだ。だからそのまま認めておればよいのである。分ったか、パカタレw
716 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:38:27.21
717 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 21:13:02.43
>>715 芻牟大帝紀-BC37BC20 ←これをコピペしてググればよい。
次の帝紀が読みたいときは、サイトの下の左の番号をクリックすればよい。
ただし途中でポーンと飛んでいる場合もあるから注意を要する。
そのときは二番目に挙げたサイトで次の帝紀を探して、
その中の適当な文章をコピペして、このサイトを見つければよい。
718 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 21:47:11.36
朝鮮男よ ↓ オマエは丸投げを認めた。w これでは駄目だ。><
>丸投げしているのは、面倒くさいから読み返そうと思わないからである。
任那が紀元前建国なのは間違いないから、読み返そうとは思わないのである。
>天皇の年齢が百数十歳となっていても、ああ、そうか、と思って読んでいればよいのだw
ああそうか では駄目だ。
当然おかしいと考えるのが高等教育を受けてきたウチらの正常な脳内だ。
これ ↓ では、オマエは脳の正常な思考まで放棄してると観てオマエは全然駄目だ。
>現代の常識で、これはおかしい、と合理的に考えようとすると、却って実年代を見誤ることになるのだ。
そう考えようとしないほう ↑ が真の年代を得ることが出来ない。
>なぜなら、記録に残っていない天皇がいたかもしれないからだ。
皇祖の記述がある限り、編者らの見落としはない。そんな天皇はいない。
オマエは記紀のいうことを全部信じろとラッパを吹いてたではないか?
全部信じるなら、記紀にない天皇を信じてはいけないとオマエは言ってたも
同然だ。
>それに二代続けて同じ天皇名を名乗ったということも考えられる。
いろんなことが考えられるのだ。だからそのまま認めておればよいのである。
そのまま記紀を信じろとオマエは言ってたんだから、オマエのこれらの
書きこみは矛に盾のふざけた態度だ。消えろ!
任那ってのはその名のとおり、那国に統治を任された地、って意味だろう
>>718 いつの間にか復活してたのか
お前が唐松山の分身だってことはもうバレてしまってるのに
721 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 21:50:07.11
朝鮮人は自分の望む歴史を語ろうとすると
中国や日本の歴史書だけでなく
自国の歴史書である三国史記まで無視しなければならないという
気の毒な人たちなのだよ
722 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 21:53:45.83
>>720 コチラは宿主のように、あんな臭魔伝なんかに脳内を占領されてないぜ。
自問自答乙
唐松=太国=レス長たらし
725 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 22:14:14.02
わはは、細国よ、そんなに激昂するな。お前らしくないぞw
いいか、よく聞け。ニニギというのは神武の祖父だ。
その祖父のニニギが降臨したのは179万年前だと神武自身が言っているのだ。
これは現代の常識から言えば明らかにおかしい。なぜなら、
祖父が179万年前の人物だというのは明らかにおかしいからだ。
ところが神武自身がそう言っているのだ。
つまり古代の文献というのはそういうつもりで読まなければいけないのだ。
歴史時代に入っても同じだ。神武の次が綏靖になっているからといって、
その間に一人も未知の天皇がいなかったと考えてはいけないのだ。
神武も一人だったと即断してはいけない。なぜなら神武は七人いたという伝承があるからだ。
古代においては代々同じ名前を名乗るという習慣があったのだ。
こういうことを考えた上で記紀を読めと私は言っているのだ。分かるか?
一字一句そのまま鵜呑みにしろ、と言っているわけではないのだ。
726 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/05(日) 22:19:41.95
>こういうことを考えた上で記紀を読めと私は言っているのだ
それではオマエの言う 記紀をそのまま信じなさい ではないではないか。ww
むしろオマエは記紀をそのまま信じるなと逆のことを言い出して来たわけ
だ。><
オマエは白と言っていながら、今度は黒だと言い出したも同然だ。
つまりオマエの脳はデタラメを書きこんでスレ民をだまして欺いて
いることとなる。
消えろ!
727 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/05(日) 22:32:26.59
いやに激昂しているなw
そんなに興奮すると、松沢病院に行く前に、
普通の病院に脳溢血で運ばれることになるぞw
728 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:34:26.25
まあ、二人とも読み方はでたらめだ。トンデモ同士がけんかしても笑われるだけだぞ。
729 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:40:20.98
朝鮮さんってアレだよね
中国の歴史書も三国史記も考古学も無視して妙な偽書でもって歴史を語ろうとしてる
変な人だよね
まあ、自分で思い込んでる分にはいいけど
「桓檀古記を読めば書いてあるのである」で他人を説得できると本気で思っているのかな
730 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/05(日) 22:59:27.89
>インチキ・カルトに洗脳されているということだ。w
>勝手に景行年代を 239年に決めこんだだけで、
>卑弥呼の活動年代は崇神の代だ。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
任那建国は211年だ。そのお礼の朝貢は、崇神65年であり、建国からそれほど
時間を経ていない。
そして、邪馬台国伊支馬とホケノ山は同時代である。
魏・晋が半島を管理する時代に、任那建国はない。
△鏡は、
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
晋書正始元年東倭重譚納具。
この年代を、神功渡海以後に刻んでいる。
邪馬台国=東倭=畿内大和。
インチキ・カルトとは、太国倍年のことであろう。
変な宗教勧誘と同じだなw
732 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 23:37:50.70
何か卑弥呼の実在性よりもモモソの実在性のほうが疑わしい気がするわ
モモソ=卑弥呼だよ。
734 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 00:34:47.03
記紀のほうが後付け出来るわけだよな
特に日本書紀のほうがさ
固有名詞を後付け出来る
だから同じ名前の人がちらほらと
けど卑弥呼は固有名詞でも人物名詞ではない
こいつはシマッタ!
いや助かった、と日本書紀の編者は思ったか
モモソは三輪朝の頃の巫女であって
崇神朝の時に直接コミットする必要性が見えないんだよなぁ
735 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/06(月) 01:42:31.13
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
神功時代は、新羅から調(税)が納められていた。
つまり、この”調”は何を意味するか?
当然1大卒の対価である。つまり、新羅からの調の対価として、新羅を外敵から守る対価である。
しかし、
永楽9年(399年)百済が倭と内通した。王は平壌に下り倭の進出に直面した新羅の救援を決定した。
永楽10年(400年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅になどに進み倭を退却させ、また安羅人を撃った。新羅は高句麗に朝貢するようになった。
高句麗の南下を抑えるため、新羅軍をその対処に使用しようとした。
違約である、だから、新羅は高句麗へ傾いたのである。
その新羅に駐留する高句麗軍の意味を知るに及んで、その排除に成功するのである。
それにより、高句麗の占拠した加羅(金官伽耶の東半分)までをも領土とすることに成功する。
魏志倭人伝読んだ当時の中国人さえ、辿り着けないだろコレw
737 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 03:12:50.93
畿内にはたどり着けないよ。
738 :
サガミハラハラ:2012/08/06(月) 07:44:39.89
そうです。中国人にも邪馬台国の位置がわからず、太平御覧ではわかるようにと改ざんしていますが、それでもだめでした。しております。
739 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 07:54:19.07
倭人伝どおりに進めば南九州だ。何の問題もない。
なんで、ずっと後代の太平御覧ではわかるんだよ
中国人がたどり着いてるのは土佐から阿波だね。
目的は鉱山資源なんだから丹の山がある場所へ行きます。
四国、瀬戸内海からが女王国ですよ。
こんなの今の考古学的にも常識ですから。
742 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 09:05:14.52
インチキ・カルトとは、宿主空年のことであろう。
その典型的な宿主の○ンマな事例が、応神と仁徳の即位が逆転している盲象
超デタラメ編年だ。ww
正朔の書紀は応神のほうが仁徳より先に即位したと言っておるそうだな。
逆では、オマエのは不正朔以上の不正のデタラメだ。
こういうのも、教祖が松本某らしいカルト・ホツマ真理教にオマエの脳内
がいかれさせられたということだ。噴飯の応神が仁徳の子だと言うオマエ
は、掲示板での物笑い者。ppp・・・ppp
743 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/06(月) 09:51:17.18
>オマエのは不正朔以上の不正のデタラメだ。
それを、太国倍年と呼ぶ。
「1月が10日程度では、潤月を連続して作らなければならんだろう」
「朝廷はそんなマヌケなことはしない」
まあそういうことだ。
744 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/06(月) 10:18:39.70
古代朝廷は、○月○朔の10日という記録を残した。
しかし、この年数は長すぎ、伸長されている。
これが、2倍・3倍という数字で引き伸ばされている可能性は、ゼロである。
なぜならば“朔”を倍数で得ることはできない。
“月・季節”を倍数で得ることはできない。
よって、現在ではその得られた数字さえ封印して、それに触れないのが太国倍年である。
だから、この状態で“倍年”を主張する太タヌキ殿の説は存在できていない。
崇神58年≒211年任那建国。これを崇神誕生の年としても
崇神65年任那より朝貢 までの時空が長くなりすぎる。
神功49年領土分与。そのお礼が
神功52年である。 この時空を“3倍年”というから、短すぎて七支刀を作る暇がない。
そこで、太タヌキ殿は、
1114甲午 468戊申 石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】
と、記事の位置を勝手に動かしている。
(/ω\)ハズカシーィ
多くの人が漫然と思い込んでいる
真理・真実・現実・事実・史実は一つだけ
怒り・憎悪・悲しみは自然な感情
戦争・テロ・犯罪・虐め・差別は無くならない
躾に体罰は必要
学校を何度変わっても虐められるのは、虐められる側に原因がある証拠
死刑を廃止すると殺人が増える
などの論理的間違いを解説ちう m9(`・ω・)ビシ
義務教育では教えない 感情自己責任論
746 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 14:44:44.20
宿主空年よ
閏は何で入れるのか?
年代が狂わぬためよ。
それなのに年代がメチャクチャにしてしまう空年なんぞ入れるわけがない。
空年というインチキ年数を入れるなら、年をインチキにさせない年調整の
ための閏なんぞ効果がなく、入れる必要はない。
閏調整をやってたということは、調整を大幅に狂わす空年なんぞやって
いるわけがない。所詮オマエの論はデタラメである。
しかも応神の子の仁徳が先に即位してるのに、書紀の記述に逆らい、逆に
するオマエの主客転倒のホ伝子組み換えは、もはや真の古代史から
地球と火星の距離以上にデタラメに逸脱、かけ離れておる。
応神仁徳が逆なのがおかしいと思わぬなら、
早く松沢病院で診てもらうんだな。ww
747 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 14:58:52.68
空腹空年多抜き こと宿主殿
>崇神65年任那より朝貢 までの時空が長くなりすぎる。
別に長すぎはしない。当時は3倍年暦を行使していたから、丁度いい年数に
なる。崇神天皇誕生が211年で任那建国が211年なら、国名が崇神の名から
採ったんで当然だな。ここでも倍暦が整合しておる。
748 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 18:32:53.70
>古代朝廷は、○月○朔の10日という記録を残した。
しかし、この年数は長すぎもせず、伸長されてない。
当然だな。
隅田八幡鏡銘文に3倍暦(1ヶ月が10日間)を行使してたという
「日十大王」が厳然と記されている。
扶桑国(日本)には10個の太陽(天体の太陽→日)とあるのは、大陸人が
日が暦の日数のところ天体の日と誤訳したもので、10日間という意味
だな。つまり1ヶ月が10日間だったということだから、3倍年暦の行使は
崩れやしない。
749 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 18:47:32.38
>現在ではその得られた数字さえ封印して、それに触れないのが太国倍年である。
編年は五輪での長距離レースに相当する。
こういうものは秒まででよい。オマエのはマラソンで秒どころかまるで
100m短距離以上に1円玉数えに相当する小刻み(例えば1/100秒とか、
1/10000・・・0秒とか)に○抜けにも没頭しておる。ww・・・w
しかもオマエは1日増えた減ったに固執しており、利口な奴はス〜グ編年に
は殆ど影響がないことの知恵を働かす。しかしオマエはそれが出来ない。
だから美濃もん太氏にあざけ笑われるわけよ。ヘッヘッヘ・・・ww
短距離(各古文献の事例の一一)には1/100秒は重要だが、現今では編年の
長距離レースにそんな細分は労して功無しだ。それもこんな細分をオマエ
は自慢をしておる。ww オマエは板でクスクスww嘲笑されるのがオチ。pp
そういう細分はボルト選手のようなレースをやるときにするものだ。
ケニア選手のマラソンにはそこまでは不必要!!
○ンマよ、分かったか?
750 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/06(月) 22:12:13.33
>編年は五輪での長距離レースに相当する。
他人に説明を強要するのであれば、まず、自説の説明を優先すべきだ。
太国:1114甲午 468戊申 石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】
説明できるのか?
書紀の記事は勝手に書き換えることができるのか?
751 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/06(月) 22:40:55.77
それはコチラの言うセリフだぜ。
宿主:41年辛丑 215乙未 【神武元年崇神没年】
説明できるのか? ←具体的にだ。抽象的数字の羅列は三文の価値も無い。
書紀の記事は勝手に書き換えることがしてるのはオマエだよ。
その典型が応神と仁徳の父子逆転というインチキのホ伝子組み換えだ。
これを大中臣が知れば、オマエは当時ならタダではすまないぞ。><
752 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/07(火) 22:33:12.44
>書紀の記事は勝手に書き換えることがしてるのはオマエだよ。
書紀の紀年は長すぎる。だからこれを正しい長さに直す。
ここまでは、太国倍年も同じだ。
具体的とは何を意味するか? この”具体的”に考古学を置くと
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html 寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
これ以上具体的に太国倍年で説明できるのか?
神武元年辛酉 庚辰朔、これを西暦元年と説明しても”庚辰朔”の説明をしたことがない。
>応神と仁徳の父子逆転
これは、書紀編纂方針のためであり、允恭4年のクガダチで説明されている。
書紀編纂方針とは、邪馬台国伊支馬と晋書正始元年東倭重譚納具。がヤマトのことであると認識されてはいたが
卑弥呼の記録を持たないヤマトに卑弥呼の時代を設けた。
暦年無主=神功39年までの空白がこれにあたる。
しかし、ここから始まる記事は、神功39年とできる位置からの出来事であり、卑弥呼時代の出来事ではない。
そして、空白を設けたことにより、応神は後ろに追いやられている。
簡単に言えば、239年卑弥呼から20年後に応神即位と主張しているとも見ることができる。
神功49年 千熊長彦=肖古王
神功52年 千熊長彦=七支刀
太国:1114甲午 468戊申 石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】
具体的説明をしてくれ。
太タヌキ殿が書紀の記事を書き換えていることは事実である。
しかし、記事を書き換えてもその内容を説明したことがない。
753 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/07(火) 22:46:36.84
239年 神功39年 ・・・神功69年・・・応神42年・・・313年仁徳即位
この数字で見れば、応神崩御は301年程度であるが
313年 仁徳即位につないでいる。
つまり、実際の出来事としての記事と差込の239年の記事の2重表記であるから
これは仕方ない。
754 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/07(火) 22:49:25.42
どこにも41年、215年の説明の具体的披露が行われていな〜い。
早く言えよ。
41年なんぞ、もうオマエに数年前から数十回も具体的説明をしろと
コチラは口が口裂け女のなるくらい〜〜ジョーカーの口になるくらいオマエ
に質問しておる。いつも抽象的数列での役にも立たない書きこみに終始し、
説明したふりをして誤魔化す。
修飾ばかりの誤魔化し説明だけで、オマエは全然説明できず、コチラに
転化してやろうとしな〜い。つまりオマエは出来ないわけだ。それを隠す
ために、コチラに質問を作ってしないで焦点ズラしをしてるのがオマエな
わけなのだ。騙されないぞ!
755 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/07(火) 22:51:47.05
そして、空白を設けたことにより、応神は後ろに追いやられて書紀に逆らい、
オマエのデタラメがクソのように板にバラまかれる。ww
>空白を設けたことにより、応神は後ろに追いやられている
空白年は ↓ そんなものはな〜い。
崇神元年 崇神天皇 即位:紀
崇神2年 中山神社 この年 創建(埼玉県)
崇神3年 磯城宮に遷:紀
崇神4年 天皇 天下経綸の詔:紀
崇神5年 疾疫 民多く死 :紀
崇神6年 日神を倭笠縫に祀る:紀
崇神7年 天皇 神浅茅原行幸 卜事:紀
崇神8年 大田々根子に大神を祭らしむ:紀
崇神9年 天皇夢で墨坂神等を祠る:紀
崇神10年 群卿を四方に派遣:紀
崇神11年 四道将軍戎夷平定を奏す:紀
崇神12年 調役の詔:紀
崇神13年 生石神社 創建(兵庫県)
崇神15年 阿陀比売神社 創建(奈良県)
崇神17年 始て船舶を造る:紀
崇神18年 国造神社 創建(阿蘇市)
崇神19年 前年から庶万饒いを楽しむ:大成経
崇神20年 一月 善の詔:大成経
崇神21年 本年から21年間 無事:大成経
崇神26年 豊城入彦 誕生:ホツマ
崇神29年 垂仁天皇 誕生:紀
崇神30年 養父神社 創建(兵庫県)
>>756 続き
空白年なんぞ、そんなものは存在しな〜い
崇神38年 チチツク倭姫 誕生;ホツマ
崇神39年 日神 遷座:籠神社略記
崇神40年 千代気根 誕生:ホツマ
崇神41年 英彦山神宮 社殿完成(九州)
崇神43年 磯城厳橿本宮日神を祀る 山口坐神社(天理)
崇神48年 夢見で活目尊を立太子:紀
崇神49年 泉神社 香色雄命 勅命にて鎮祭(茨城県)
崇神50年 大沢神社 相殿神を合祀
崇神51年 日前社遷座(和歌山県)
崇神53年 越前の大彦大臣 明星天子の夢見:嶋廻縁起
崇神54年 穴山門神社 創建(岡山県)
崇神56年 吉志部神社 瑞籬宮から奉遷(紫金山付近)
崇神58年 崇神天皇 ケヒ行幸:ホツマ
崇神59年 崇神49年から本年まで豊饒:大成経
崇神60年 天皇 出雲神宝を見んと欲す:紀
崇神61年 玉置神社 創建(奈良県)
崇神62年 農事を勧む:紀
崇神63年 来年まで市も寛に楽しき:大成経
崇神64年 伊賀隠市守宮 遷幸:倭姫命世記
崇神65年 熊野本宮 社殿創立:皇年代略記
崇神66年 伊賀穴穂宮に遷 :倭姫命世記
崇神67年 熊野奥照神社 勧請(弘前市)
崇神68年 崇神天皇 崩御:紀
夢での下りは方便で、実は、この時期から息長氏系の妃から生まれた子でないと天皇にはなれなかったのは明白。
息長氏というと多々良の神といったイメージが付きまとうが、実は、武内宿禰のように長生き=息長氏なのだ。
息長氏こそ徐福が探し求めていた蓬莱の仙人ということであり、邪馬台国の豊の家系だろう。
結論を言えば、邪馬台国は近江にあったということだ。
759 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 16:38:38.52
激しく同意!!
まえいってた激安中古デザインソフト販売かなり使えるね
760 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/08(水) 21:31:40.01
>空白年は ↓ そんなものはな〜い。
1年≒12ヶ月≒365日
この数字の書き換えに失敗した太タヌキ殿が
68年分の記事を出しても、短くすることができない。
さらに書紀の記事の書き換えもある。
761 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/08(水) 21:43:13.82
神功皇后摂政三九年(己未二三九)◆卅九年是年也。大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。
神功皇后摂政四十年(庚申二四〇)◆四十年。〈魏志云。正始元年。
応神天皇四一年(庚午三一〇)二月是月◆是月。
仁徳天皇元年(癸酉三一三)正月己卯《三》◆元年春正月丁丑朔己卯。
書紀は、神功39年を景初三年として、応神天皇四一年で仁徳につないでいる。
だから、仁徳天皇元年からはそのまま使えるが
神功・応神紀に書かれた記事は庚申二四〇から庚午三一〇年の記事ではない。
神功皇后摂政三九年 大歳己未。は313年である。
つまり、神功・応神紀と仁徳紀は時空が重なる。
そして、この時空であれば、書紀の記事はそのまま認めることができる。
60年分の記事を出して、短くすることができる。しないと百数十歳になる。
しようとすると現代人と大差ない寿命と分かる。つまり短く出来る。
大通り引きでの1円玉集めは○ンマのやること。労して効無し。
景行に ↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒
続 ↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。w
景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
764 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/08(水) 22:01:14.84
>>762 訂正
× 大通り引きでの
○ 大取引きでの
765 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/08(水) 22:06:01.05
>つまり、神功・応神紀と仁徳紀は時空が重なる←松沢病院ご推薦ppp
重なるのは、オマエの論がデタラメだからだ。ww
766 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 23:24:38.17
祟神天皇の長兄である豊城入彦の末、彦狭島王、御諸別王を東国領に命じ、
後に白村江の戦で5万の兵を送ることになる近江毛野氏の故地、近江巡幸
景行天皇は毛野氏の力を借りて政治を行っているというか、毛野氏に操られているとようにも見える。
やはり、邪馬台国は近江、この説は捨てがたい。
767 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/09(木) 02:48:40.50
>60年分の記事を出して、短くすることができる。
じゃあ、1年は何日だ?
365日だろ。
その365日を4分して四季とする。
だから、四季が2巡、3巡する1年はない。
しかも、1年とは地球が太陽を1周する時間である。
この原則を無視して、新たな1年という時間軸を設定しようとしてもそんな
勝手なことはできない。
できな〜い。
できないだろ?
1年は365日だ、この原則は変えられない。
どんなに動かしても、29.53日*12ヶ月か13ヶ月までだ。
書紀の太陰暦は”朔”で保証されている。
19年7潤で6940日。これが基本原則だ。
38年・57年が6940日になることもできない。
768 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 07:56:15.07
>>767 1年間に、2歳も年取れば年号は意味を持たなくなるな ww
769 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/09(木) 10:28:01.27
>じゃあ、1年は何日だ?
>365日だろ。
オマエが1年が365日でないアスス暦という〜1年385日と1年が265日の暦を
解説してるんだから、オマエがオマエ自身に問えばいいことだ。
>その365日を4分して四季とする。
>だから、四季が2巡、3巡する1年はない。
じゃぁ、アスス暦の1年385日暦の場合はどうなんだ?
またアスス暦の1年265日の場合はどうなんだ?
オマエがこれを解説してるんだから、オマエがオマエに聞けばいいことだ。
>しかも、1年とは地球が太陽を1周する時間である。
>この原則を無視して、新たな1年という時間軸を設定しようとしてもそんな
>勝手なことはできない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>1年は365日だ、この原則は変えられない。
変えられないなら、オマエの言う1年385日と1年265日のアスス暦を引っこめろ。
↓
http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG 開けないと、とぼけのウソを言うなよ。ww
770 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/09(木) 10:32:56.53
771 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 10:37:23.36
日本の神代は紀元前一世紀から五世紀ころまで?(歴史上の事象は反映されているけども時系列や名前名称場所などが多々操作された印象)
前漢末期の紀元前一世紀に倭国の師升王(須佐の王。当時二十歳台の血気盛んな頃と見られる)ら来朝し朝貢云々。
中古のある天皇は、素戔嗚尊は我が国の本の主たり。よって津島牛頭天王社(愛知県津島市。伊勢内宮の真北に当たる)を我が国の総社を以て崇め奉る云々。
また、円融天皇の御代、中国に留学した僧チョウネンが提出した日本王年代記(皇統符/日本の朝廷が発給した外交公文書)では、
天御中主尊--略--阿波那岐尊-伊弉諾尊-素戔嗚尊-天照大神尊-天忍穂耳尊---略---円融天皇。
巷間ヒミコと比定される神功皇后は
征西途の砌、淡路島の北端、石屋神社にわざわざ渡海して鎮座地の岩山、三対山上で天地の神に戦勝を祈願。
(三対山の命名もこの際とか。摂津河内、和泉を一望に三対する場所云々)
凱旋の砌は奉賽した云々。
・・・三対山の東北麓の洞窟が伊弉諾尊(天照神、大王)の幽宮の伝承地で
伊弉諾神宮の摂社、岩楠神社が洞内に鎮座。(禁足地。)
この洞窟(岩屋)を覆い隠すように恵比須神社(元エビス神社を標榜)が鎮座。
天照大神(大王)の岩屋戸隠れ(崩御から埋葬)の一つのモデルかと。
伝承では成務天皇の御代、勅命により石屋神(伊弉諾尊)を対岸、赤石(明石)に遷し参らせ明石の岩屋神社を創建。
(「成務天皇」の宮居がこの東西線の東側に有った可能性が有ります。
宮居の真東に天照大神、真西に伊弉諾尊が上古の不文律の模様)
明石の岩屋神社に当時の御神体(ご遺体?)奉迎の様子を今日に伝えると云われるのが特殊神事「オシャタカ祭」
爾来、この南北線が古代都の西結界線を形成。
伊勢久留麻神社(脇殿に伊弉諾尊)ほか寺社が多数整列。また子午線の至近。
(中世には勅定により石屋神社の祭神(国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊)に天地大明神の号を奉る。)
とすると、ご先祖のご神体(ご遺体)が三対山に無い?のに神功皇后がわざわざ渡海する必要性が無くなると思います。
時系列が逆転?
772 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/09(木) 11:06:41.83
240年 景行元年≒神功40年
274年 神功渡海≒纒向5類 応神誕生 神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)
313年 仁徳元年=神功39年
314年 ≒神功40年 神功皇后摂政四十年(庚申二四〇)。
神功紀は、ここで74年の違いのある2重時間軸である。
274年誕生の応神は、310年に崩御し、313年に仁徳が即位する。
しかし、神功・応神紀に書かれた記事は、200年からではなく、74年を加えた274年からである。
だから、
記事の軸上では、応神384年崩御・仁徳399年崩御となる。
応神384年崩御=誉田御廟山と記事と考古学に大きな齟齬はない。
しかし、応神誕生からみれば、これは大きな齟齬である。
仁徳は応神の子供であり、応神崩御後に即位する。
313年仁徳即位〜399年仁徳崩御。大仙陵。
応神384年崩御=誉田御廟山を保証するのは、この74年の齟齬なのである。
399年仁徳=大仙陵を保証するのは、313年仁徳即位なのである。
だから、書紀は「2重時間軸である」と。
773 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/09(木) 13:46:34.54
120年差
320年 神功渡海≒纒向5類 応神誕生 神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)
ここから数えれば、百済王家につながるが、320年に渡海するためには
半島において、武力の行使が必要となる。
しかし、書紀の記事には、実力行使は無い。しかし、これが端緒となり、新羅からの調(税)が納められる。
この徴税の時空を考古学で見る限り、纒向5類と同期する。
纒向5類(△鏡)は、3世紀後半から4世紀前半の時空が割り振られている。
だから、百済本紀の云う百済王家にはつなぐことができない。
そして、広開土王碑の文言も書き換える必要が出てくる。
774 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/09(木) 13:49:14.11
313年 仁徳元年≠神功39年
314年 ≠神功40年 神功皇后摂政四十年
等号、擬似等号は松沢病院ご推薦ハハッハハハ・・・・ww・・・w
「金印紫綬、親魏倭王」は、現在なら天皇陛下から紫綬褒章をもらったということだ。
何の功績もない倭人が遠方から朝貢したからといって贈呈されるシロモノではない。
これは、魏に対する長年の功績をたたえて、魏政府の推薦があったということだろう。
邪馬台国の使者は、魏政府から招待状をもらって、授賞式参列のため魏の都に向かったのだ。
その功績とは何か?倭は、魏の政敵である呉を牽制し、戦いを有利に導いたのだ。
邪馬台国は、呉と海を挟んで接した対岸の国と見るべきだろう。
有明海周辺が有望だ。
776 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/09(木) 22:28:38.95
>>775 すべて想像で、根拠となる資料が一つも提示されていない。
証拠がないから信用できないという姿勢では、記録のない時代の歴史はないいうに等しい。
人類は数千年では進化するということはあり得ない。
卑弥呼の時代の人間も、現代に生きる我々と同じ知的水準にあったと考えるべきだ。
時代を超えた普遍性を卑弥呼の時代に適用しないというのでは、誤った考え方だ。
778 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/09(木) 23:20:30.73
>>777 いや、それはそうだが、
>邪馬台国の使者は、魏政府から招待状をもらって、授賞式参列のため魏の都に向かったのだ。
>その功績とは何か?倭は、魏の政敵である呉を牽制し、戦いを有利に導いたのだ。
こんなことを何の資料も挙げずに述べてもらっても困るのだよ。
779 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/09(木) 23:40:39.74
>その功績とは何か?
残念ではあるが、功績は全くない。
ただ言えることは、倭国内に乱があろうとも、倭人の世界は上下関係がしっかり守られ
訴訟ごとも少なく、治安は守られている。
その時点の高句麗は、強盗、殺人を喜びとする人々だ。
魏としては、近くの高句麗と遠方の倭国、どちらを手にしたいか?
こおで、魏は倭国入手を選択した。
倭奴國女王卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制、そして倭国に関与し、女王国方面の乱の平定。
この平定の最中に女王、男王が相次いで死に、残った邪馬台国倭王体制が出来上がる。
その倭王の墓が、埴輪の存在する箸墓なのである。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。「大倭」は”市”とは関係がない。
では何故?関係のない”市”に組み込まれたか?
これは、編年の問題であり、崇神世に邪馬台国が九州に関与することはない。
だから、切り離されて”市”と合体させられたのであるが、
考古学はこの時代に庄内式土器の九州進出を認めている。
>>775-778 だから、お前ら歴史学と考古学をごっちゃにしてるから、
とっちらかるんだよバ〜カ
(パニックのSE)
>>779 ____ノし
/∧ ∧\ て
/ \ }liil{ / \て
/ ι (__人__) υ \
〈 \ |!!il|!|!l| /υ 〉
.\ ..|ェェェェ| /
_,,ノ|、 / / \、
_,,..r''''" | \__ / /  ̄`''ー
| /(::::::::)\ /
|/ ):::/ \/
| ,r":::ヽ /
| i´:::::::::| /
半島は関係ないアルヨ、バカチョン唐松
. ∧ ∧
./,_ヽ─/. ヽ
/ 支 ヽ
,. ‐'"´_______``'‐.、
 ̄ / ─ ─\ ̄
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_,,ノ|、 / / \、
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| i´:::::::::| /
>>778 あ、ゴメン貴方でしたかm(_ _)m失礼しました
でも、あまりアホにはレスしない方がいいですよ
日本の古代史にウリはおよびでない?
およびでない?
ホントにおよびでない・・ニカ
こりゃまた失礼しまニダ−
:::/\\ / / /ヽ::::::::::::
:::: ヽ \\ ィ▲, / / / /::::::::::::::::
:::: ( \ \\ <`∀´> l 三 / / ):::::::::::::::
:::::::ヽ ヽ . ミヽヽ | | / 二 / /::::::::::::::::::
::::::: ( \ ヽミ ヽヽ | .| + / 二 ___/ヽ ...::::::::::::::
::::... /ヽ ヽ ニ ヽヽ |,,,| ┼ // ニ _______/ ...:::::::::
:::. ヽ____ ニ ヽ`l ヽ__// ニ ____ノ .....::::::::::
ヽ___, ニ l :: ′ ニ ___ノ + + ....:::::::::
ヽニ -‐ ,l :: __ ≡ __ノ+ ┼ * :::::::::
ヽ---'''ヽ、 ,,,;''''='''''__ + ┼ + .::::::::::
:::::... + ┼ + EEi''!Q.Qー-、___~'''''ー-、 :....::::::::::::
:::::::.... + ┼ EEi. Q. Q +~~'''ヽ ..:...::::::::::::::::::::
:::::::::::::::::..... + EEi. Q. Q ┼ :....:::::::::::::::::
::::::::::::::::::::....: + * EEi Q Q .....:::::::::::::::::
::::::::::::::::::::::::::... + EE! Q @.....:::::::
784 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 07:01:33.09
>「大倭」は”市”とは関係がない。
「使」の意味が分かってないな。大倭をして之を監す。之は市だ。
785 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 08:02:05.62
>之は市だ。
市を監督するのは、その地の領主と相場は決まっている。
だから、通常の認識として、「大倭」と「大和」は関係がないと認識されるのであるが
魏の認識としてどうなんだ?
魏は、邪馬台国に倭王位を授与している。
そして、女王国(倭奴國=九州)へ庄内式土器の持ち込みはこの時期だ。
持ち込んだのは、景行である。景行はそののち関東までを勢力下に置く。
この時点で、邪馬台国=倭王=統一倭国=大倭。
「大倭」とは、ヤマト以外にない。
ホ38300フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
大和が壹與を軍隊付きで筑紫へ派遣。
この軍隊が魏志のいう1大卒である。
786 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 08:13:24.68
>お前ら歴史学と考古学をごっちゃにしてるから、
文献が正しければ、その文献の時期を考古学は確認することができる。
崇神 189〜216年
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年] 辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行12年以降。
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、
成務 262〜265年(基本的に57年の空白) 仲哀 266〜274年
どうだ?考古学の認識と書紀の記事は重ねることができる。
しかし、百済本紀を取り込むことはできない。
だから、百済本紀から得た年代では、文献と考古学は合致しない。
唐松山ってヤツは電波だな
788 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 09:29:24.44
>市を監督するのは、その地の領主と相場は決まっている。
その地の領主(王)またはその上の女王が監督するということは問題ないんだよ。
しかし、王または女王が直接に市に出向いて監督することは不可能だ。だから、自
分の代理として大倭に監督させるということ。それが「大倭をして」という言葉の
意味だ。分かったかな?
市=元々は女性の意味だからな。
>>779 中国が「ヤマト」に「大倭」という字を当てるわけが無い
馬鹿じゃなかろか
卑弥呼の使者が周王朝の官職を名乗ってたが、
どうやって日本に輸入されたか、ルートの解明は進んでるの?
>>786 >景行 217〜239年(76年の空白)←大ウソ
景行に ↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒
793 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 10:27:00.90
続 ↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。w
景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
卑弥呼の女王国の大きさ、どのぐらいなんだ?
宇美が魏志倭人伝では不彌国らしいが、
伊都と宇美って数キロしかない。
小さな国がせめぎ合ってる状況が分かるが、
女王国はデカかったのかなあ。
795 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 10:28:10.46
796 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 10:58:13.58
>卑弥呼の使者が周王朝の官職を名乗ってたが、
>どうやって日本に輸入されたか、ルートの解明は進んでるの?
沖縄、奄美大島のルートに決まってるだろ。
>>779 >>790 おおっぴらには言えないが、
ヤマトは、八真人でファイナルアンサーだよ。
社家が管理してきた、紀州の山中の神庫に眠ってた、
飛鳥時代の古文書があるんだが、それにはっきり書いてあるから、
ほぼ確定情報と見ていいだろう。
応仁の乱の時かは不明だが、
その神庫には、京都から戦禍を逃れた大量の宝物が運び込まれたらしい。
尖ったものが当たった跡が付いた泔坏の台など、戦乱の痕跡が残っているらしい。
江戸時代の学者が呼ばれて行って調査して、偽書と断定されて、
一般公開されずにきたらしい。
江戸時代の学者って、十分な根拠もなく、
神庫に保管された書物を、何十冊もまとめて偽書断定するものなのか?
困ったことに、大量の算額も偽書扱いされたそうだ。
高等数学の解法(ピタゴラスの定理とか、円周率を説く方法)
が書かれた絵馬も偽書扱いされたらしいが、
当時の国学者が読んで内容を理解できたのか疑問だ。
私が目を通した限りでは、古事記と日本書紀は紛れもない偽書
(天皇の在位期間にはじまって、その他諸々捏造されすぎている)だが、
この神庫の書物の大半は、そういう奇妙な情報を含んでいないと感じた。
>>779 >>790 大和は日明の神(男の神でどうやら男王が没後神格化されたもの)が、
昔唱えていた国の礎とした精神のことらしい。
日本書紀では、これは聖徳太子(という実在していない人物の)の教えって
大嘘の設定で伝えているが、ぜんぜん違う。
だいたい、中国側の当時の使者が、女性の天皇の存在すら認識してない時点で、
大ウソと丸判りだ。
日本書紀の嘘さ加減が酷いことは、飛鳥時代の古文書に目を通すとよく分かる。
大和は精神で、地名じゃなかったらしいよ。
真人って言葉は、神仙思想から来ているらしくて、
高貴な生まれの人を指す言葉で、神子の子達が八真人らしい。
具体的には、渡来系の高貴な生まれの人達。
八はたくさんの、だから、
つまり大勢の渡来系豪族の高貴な生まれの王子達の連合政権ってことだな。
倭はヤマトと読むが、
渡来系の王子が興した王権だと後世の人間にバレないように、
八真人という文字は伏せて、
大和をヤマトと読ませたり、倭をヤマトと読ませるように工夫したらしい。
高等数学の解法(ピタゴラスの定理とか、円周率を説く方法)
が書かれた算額が、700年以前に存在してもおかしくない根拠として、
当時の測量術の成果を示しておこう。
畿内の大五芒星。
この巨大図形は一緯度長を持つから、
偶然重要な場所を結んだら、お星さまの形になりました、という話とはわけが違う。
当時の日本ではすでに、地球のサイズが分かっていて
一緯度の距離を列島の地形に当てはめる測量術が存在したことを意味する。
つまり、問題の神庫にあった、算木を用いた解法を記した算額や、
測量術に関する書物は、偽書ではない。
>>796 周王朝の官職名が倭国に来たルートが
沖縄、奄美大島のルートとする説を紹介しているサイトなどがあったら教えて。
801 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 11:31:31.57
倭国の位置が分からない連中にそんなルート分かるわけないだろ。
802 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 12:09:42.86
>>799 いや、まあ、その円周率の解法がどの程度のもんかわからんが、
二千年以上前から中国の数学書があるからな。
>>802 中国ではそうだよな。
それが日本に伝わってることを示す、神社に奉納された絵馬が出てきたら、
突然、その算額は偽書だ!って、決めつけられる理屈が分からない。
木の年代を見ても、間違いなく飛鳥時代で、
古墳なども測量と算木の計算結果から作られていたと見ていい史料だ。
江戸時代の国学者達は、寄って集って、
「昔の日本人は円周率が分からない連中だった」とでも主張したかったのか?
いずれにしろ、近畿の五芒星は悪戯ではなく、
陰陽道を駆使して、神社を用いて描かれた、国家安泰を願う巨大図形。
一緯度を正確に算出する、確かな測量技術があったことになる。
卑弥呼の邪馬台国までの距離だって、デタラメではなく、
太陽の運行を念頭に置いて、
三角測量に基づく正確な短里で算出されている、と見たほうが良い。
ある時期までの天皇家は大和と九州に並立していて、
卑弥呼の頃は九州の天皇家から天皇を出し、九州で統治をしていたのだろう。
江戸幕府なら傍流から出た将軍でも江戸城で政務を執ったが、
この頃の大和朝廷は九州の天皇家が即位すれば九州で政務を執ったのかも知れない。
(実際、初期の朝廷は天皇の宮は一箇所に固定されておらず、天皇が変われば宮も移っている)
倭人伝の記述がめちゃくちゃに見えるのは邪馬台国が二箇所にあったからだ。
九州邪馬台国と畿内邪馬台国それぞれに方角と距離を記した資料があったが、
同じ国が二箇所にあるのは変だと陳寿が勝手に一つに纏めてしまったのだ。
>>801 倭国の位置は、九州の伊都国で確定だよ。
至ではなく、ちゃんと到って書いてあるだろう。
至は、中間点だが、到は、目的地に到着したって意味で使われる言葉。
当時の中国語では、この二つは音も意味も違う言葉だったのさ。
朝鮮半島にある倭国の北岸と、伊都国に到着したときの、二回使われている。
つまり、半島側にも倭の領土はあったってことだね。
伊都国から後に書いてある、距離ではなく日付で示された部分は、
女王国への移動に要した日時などではなく、
太陽の運行に照らして、正確な測量に必要な日数。
当時は太陽の運行から、緯度経度を割り出してたからね。
畿内の大五芒星を描くのに使われた算額の解法、
あれを知ってると、日付けの意味は明白だ。
短里で九州にあった女王国までの、正確な距離を算出する方法が書いてある。
天の日鉾の末裔(渡来系)の伊都国王は、王都の平地の城に居住していて、
斎王の卑弥呼は、王都から数キロ以内の、高い山に築かれた山城に住んでいた。
斎王制度は、沖縄とか、今の皇室とか、高句麗にもあった制度だ。
当時の半島の城の構成を見れば明らかだが、
低地に、普段居住するための城を作ったら、
必ずそれとペアで、高い山の上にも、戦争用の山城を築く慣習があった。
伊都国の場合、それは雷山神籠石城跡で、立地条件がピッタリだ。
つまり卑弥呼は雷山に住んでいたのさ。
なぜ、伊都国の神宮が雷山の山城にあったと推理するのか。
その理由は、天の日鉾を祀る一族の日の巫女の神宮は、
今でも標高5百メートル近い山中にあるからだ。
西宮って場所は、京都の御所と並んで、神道界の重要拠点だ。
今では広田神社の境内は狭いが、
社家郷山と呼ばれる土地の広大な領域を見ても分かるように、
かつては六甲山地全体が広田神社の管轄下にあった。
そして、その六甲山中5百メートルの高台にある、
今は豪邸条例が敷かれている、あの奥池の超高級住宅地域が、
かつては西宮の姫(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)が住む、
高天原だったのだ。
この姫は瀬尾律姫(竜宮城の乙姫)としても知られているが、
今の広田神社では、天照大神と名を変えて祀られている。
住所は明かせないが、今も六甲の奥池にある
神籠石山城の石組みの様式で平安末期に建てられたお住まいに、
天照大神に神憑りする神事を伝承する、
天の日鉾の血を引く末裔とされる巫女様が住んでおられる。
七世紀後期の、最古の木簡が九州大宰府から出たが、
木簡を使用しているということは、少なくとも下級役人が文字を使いこなせたことを意味する。
それ以前は、金石文や銘文しか無いわけだが、
書の形が整わず、線を模写しただけのように見えるもの、
一応文章になっているが、文法がでたらめなもの。
使用している言葉が不適切なもの、などがある。
この時代は、中国からきた帰化人や、朝廷の高位のものなど、
一部しか読み書きはできなかったと考えられる。
遠方の役所を統括管理するのに、手紙(木簡)は不可欠である。
そして、出先機関の役所の、下級役人がそれを読み書きできなければならない。
おそらく、それが可能になったのは、6世紀あたりの、
年号が散見されるようになった時代からではないか。
広域支配ができるようになったのは、この時代から、
そんなに前ではないと考える。
天の日鉾を祀る一族の日の巫女様、というより、
はっきり、広田神社に祀られている天照大神の巫女様とお呼びするほうが、
かえって誤解を招かずに済むと思うが、
その天照のお家には、かつて九州のみやこ町付近が京都だったこと、
その地域に高天原があった、という伝承が残っているらしい。
さらに、重要な情報だが、
満州帝国が建国された直後に、
一族のルーツを調査するために、満州の古墳群を発掘しに行って、
今の桓仁の地域から、伝承どおりの古墳を発見して、
五女山城跡が、この一族が高天原と伝承する、日の巫女の王の宮、
つまりは、祖先の巫女が住んでいた高句麗国神宮跡だと、
調査結果をまとめて帰ったらしい。
桓仁の地域は、ずっと後になって調査が進んで、
高句麗国の最初の都だったことが明らかになったような話があるが、
それは、戦前は不用意に皇室のルーツを明かせなかった、かららしい。
昭和天皇の時代に、
騎馬民族征服王朝説を皇室が擁護するかのような対応を幾つか取っていたのも、
皇室の祖先が、大陸のあの地域から渡来した、という伝承が残っていたかららしい。
>>805 >当時は太陽の運行から、緯度経度を割り出してたからね。
なんで測量に要する日数を書かなきゃいけないんだ?
女王国までの、正確な距離を算出する方法を知っているなら
それに基づいて出した正確な距離を書いときゃ済むことだろ?
大阪から東京への行路を記録する時に測量にかかる時間を書いて
東京がどこにあるのかも歩いて何日かかるのかも書かない馬鹿がいるか?
てか、アカルヒメ様はコテ付けろって前々から言ってるんだがな
〜らしい、ばかりなら不要だよ。
キチンとソースは出せないなら論外だな。
>>810 太陽の運行の測量って、一秒でできるとでも思っているのか?
時間が必要だと思わない時点で、現実離れした机上の空論ブンブン回しモードだな。
あと、魏志倭人伝には、
「計算すると」って意味の言葉が出てくる。
だから、測量計算してるんだねって、素直に読もうよ。
五女山城の名前の由来は、この山にかつて5人の神女が、
軍隊を従えて住んでいて、郷に降りてきて人々を救ったからだという。
ズバリ、斎王が住む神宮以外にアリエナイ伝承ではないか。
現在の天照大神様がお住まいの、高天原と判明している六甲山も、
本来は武庫山と呼ばれていた。武庫川のほうは残っているが、
武庫山は理由があって、改名されている。
これは、兵が駐屯し武器庫がある山という意味の地名だ。(兵庫県も同じ)
明治維新のとき、その地名を残しておくと
この御山が海外列強の侵略のターゲットにされかねないというので、
武庫を六甲の字に置き換え、さらに読みもロッコウに変えたらしい。
日の巫女の王が軍隊を駐留させる、天を突くような場所に存在する神宮。
これは、五女山の伝承と、一致する意味合いを持っている。
ここまで共通点があり、伝承ともうまく一致していれば、
偶然が重なっているとは考えにくく、必然と見ていいだろう。
天照大神が渡来前に住んでいた高天原は、
天照大神の巫女様のお家(多氏斎王家)の伝承どおり、現五女山城蹟なのだ。
高句麗国の古い宗教が、日本に来て新嘗祭になるまでの変化は、
纏向遺跡の土坑の分析によって明らかになっている。
だから、アカルヒメの神話や香春神社に残るような、
高句麗国からの巫女集団の渡来があった、と見ていいだろう。
815 :
あ:2012/08/10(金) 14:07:44.68
2倍年とか3倍年とか、その考えからは離れないといけない。
伊都国王の祖先の天の日鉾の一族は、
平地に城を築いて王が住み、それと対になる山城を築いて
巫女の王を住まわせていた。
伊都国と対になる、大陸式の山城は、雷山神籠石城しか見当たらない。
そこは、伊都国から数キロ離れていたから、女王国と呼ばれたのだ。
邪馬台国は邪馬壹国の間違いで、
ヤマイとは、山を神籠石で囲った国、山囲国の意味だったのだ。
今の六甲山中にもこの様式の石組みの神宮が現存しているのだから、
ただの言い伝えレベルではない、確固とした物証が残っていることになる。
さらに面白いのは、
今高天原の六甲にお住まいの、天の日鉾の一族の巫女様は、
周王朝由来の、姫姓を受け継いでおられることだ。
卑弥呼の使者が、周王朝の官職を名乗ったこと、
皇室の姓に関する古い講義の記録として、
天皇の姓は姫だとする史料が残っていること、
などを総合すると、天照大神卑弥呼の姓は、ズバリ姫だったと考えられる。
比売許曽神社とか姫大神といった、
姫の具体的なお名前が示されていないケースがあるから、
いかにも不自然だと思っていたが、
なんのことはない、姫姓を持つ巫女の神が、天照大神に代えられてきているのだ。
またアカルヒメか、アカルヒメは卑弥呼ではないのはハッキリしてるだろ。
あれは丹波から渡った倭人の父を持つ新羅生まれの娘だ。
巻向なんてまだ殆ど発掘されてないのに、
祭祀について何がわかるって?
本当に息するように嘘を吐く連中だな。
>>816 「囲」を「イ」と読むのは中国式の音だろ。
「囲む」ことを日本語で「い」と言ったのかよ?
馬鹿じゃなかろか。
820 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 14:48:33.66
2倍年とか3倍年とか、その考えからは離れてはいけない。
(また、空年とか空白年とか、その考えからは離れないといけない。)
そうでないと、当時の古代天皇のその殆どが百数十歳の超長寿だったという
ことになり、書紀の記載がインチキだとの疑念を祓うことが出来なくなる。
当時において倍暦を行使していたことは、次第に肯定者が増加しよう。
つまりそれら天皇は、現代人と大差ない寿命であったのだ。
かの臭魔伝もアスス暦にて1.4倍暦の1年265日を行使してたとなり、これは
古代エジプト暦の1年265日暦法と奇しくも一致する。
古代マヤの太陰暦(C文字暦)も2倍暦であり、古代日本も倍暦の例外では
なかったのだ。
821 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/10(金) 17:03:03.31
>>797 で、君はその古文書を見たのかw
なぜ君は見ることが出来たんだ?
一般人は見ることが出来ないのか?
それから何回も書くが五女山城は高句麗とは関係ないよ。
遼東半島の長興島が馬韓島と呼ばれていたらしいことが分かっている。
つまり桓仁のあたりは馬韓、のちには百済の版図だったのだ。
ネットの高句麗史を見ても、高句麗の本拠地は思いもよらない処だ。
通説とはまったく違う。君も一度読んで驚いた方がいいよ。
822 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/10(金) 17:25:19.51
>>820 では、倍暦説だけが売り物の太国大先生に聞くが、
おぬしの計算では仁徳の在位はいつからいつまでになるのかな?
それを答えてもらおう。
ネットの高句麗史では403年と404年に仁徳の記事が出てくる。
仁徳の崩御は399年だから、ややずれてはいるが、大差はないぞ。
私は文献を根拠にしてこういうことを書いているのだ。
おぬしの説には根拠がないぞ。人が百歳以上も生きるのは不自然だから、
記紀の記事もおかしい、と言っているだけで、要するにただの想像なのだ。
823 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 18:20:50.70
どこに貴殿の朝鮮説の根拠があるのか?
た〜だ、朝鮮人参が出たからといって朝鮮にいたとはならんだろうが。w
卑弥呼が朝鮮にいたとは、貴殿の妄想だよ。
仁徳元年=391年
仁徳没年=419年
だよ。
繼體の代以降の2倍暦採用にて、繼體元年の時で実年代と14年分の差が
生じている。この状況は、遡れば允恭の代まで14年差が続く。
允恭〜繼體の間が、通説と実年代とが14年差で来ているということだ。
それより以前では、履中〜反正の代での2倍暦で差が拡がり、履中元年時
ではその差が20年になっている。
ここからさらに遡れば、仁徳世は3倍暦行使のため、いよいよ年代差が
生じるのである。
そこで実年代の 仁徳元年=391年 で、見かけの年代の313年は
391−313=78年
の年差になっておる。
根拠は鷲崎さんの旧板で、数年前に50回以上に渡り詳細に解説済みである。
長いので、そんな滅多に細かく書けないから、部分部分個々で説明して
行くほかはない。でないと、こちらは疲れるからだ。
824 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 18:27:17.09
>>823 訂正
× 允恭〜繼體の間が、通説と実年代とが14年差
○ 允恭元年〜繼體元年の間が、通説と実年代とが14年差
ネットの高句麗史、
そんなもん何の価値もねーぞw
826 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 18:40:45.31
>人が百歳以上も生きるのは不自然だから、
>記紀の記事もおかしい、と言っているだけで
下段のようなことは、コチラは主張していない。逆だ。
記紀の記事はおかしくない。
当時の1年が180余日等であるからして、書紀の年代に不合理はない。
ただ卑弥呼の記事の神功39年とか、一部において、倍暦行使を知らなか
った書紀の編纂者がそこの年代に入れたわけだが、これは実年代の位置では
ないから間違いだということになる。こういう彼らの失敗は少しはあるには
あるがね。
>>817 神話と史実を履き違えてはいけない。
神話は何百年も語り継がれた物語だから、正確性を失っていることも多い。
古事記や日本書記といった、「神話の書」に記された、
爺さん婆さんから聞いた昔話を書き留めたレベルの怪しい情報を、
そのまま鵜呑みにしてはいけない。
神話を語り継いできた人々や、記紀に書き留めた人々の、
当時の新羅の概念が、実在した新羅を指していた保証はない。
事実、天日鉾とアカルヒメを祀る一族は、別の箇所には百済から来たと書いてある。
どちらが正しいか、記紀神話の文面からだけでは、判断がつかない状況にある。
したがって、大陸の倭人文化のルーツとなった地域すべてに視野を広げる必要がある。
天日鉾の、角があり鉾を武器とする伝承は、日神と蚩尤との習合を意味し、
漢民族の文化圏と接する山東・遼東半島の地域に注意を向ける必要がある。
日神と蚩尤の習合がどのように進んで、日本に伝わって八幡神の形成に至ったかは、
日本書記よりも正確な社家の伝承と、宗教の専門家の見解に頼るしかない。
他のさまざまな文献や、残っている遺跡の痕跡など、数十項目に目を通せば、
天日鉾とアカルヒメの神話は、人名に天がついた神代から伝わったかなり古い伝承で、
卑弥呼よりも百年も新しい時代の新羅からの渡来を物語っていないと結論が出る。
神話に含まれるフィクションの要素を無視して、すべて本当の事と盲信してはいけない。
間違いと指摘されて終わった知識を、スレッドを跨いでまで執拗に押し付けてくるのは、
「お前もサンタクロースを信じろ」と強制して回るのに似た、異常発想の行動に見える。
見苦しいことを、あちこちのスレッドで繰り返してきた人のようだが、
恥ずかしいことは即座に止めるべきだろう。
>>819 湯桶読み・重箱読みのことを知らずに、音訓の話をしてはいけない。
当時の倭国はすでに中国と交易できる特産品を持ち、漢字文化圏と接触していた。
漢語と倭語を合成した言葉は、幾つも散見される。
その時代の古い漢字の使い方すら、正しく理解していないとは情けない。
時代が下っても、明日香と書いても飛鳥と書いてもアスカと読むような、
当時の言葉は、簡単なルールで成り立っていない。
湯桶読み・重箱読みの存在すら学んだことがない、
判断に必要とされるレベルの基礎教養が欠落した人物が、
暴言を吐いて、突っかかって暴れているわけだ?
>>819「馬鹿じゃなかろか。」
自分で自分を罵ってどうする?
中学校の古典と歴史の授業から、もう一度やり直そう。
卑弥呼を輩出した御一族の偉い巫女様の知能が、自分よりも遥かに低く、
そういった高所から流れてきた情報が、初歩レベルで間違っていると考える時点で、
自分の発想のほうがオカシイことに気付こう。
知識人が持つ情報を素直に受け止める精神態度を持てないと、
何も学ぶことは出来ない。
だから、基礎知識が欠落した状態で足踏みしているのだと思うが、
勉学に必要な基本的な心構えすら出来ていない状態で、
学術板に来て暴言を吐くのは無謀すぎる。非行はやめよう。
>>820 「書紀の記載がインチキ」は、拭いがたい事実だと思うよ。
どうして聖徳太子の時代に、日本の女帝が中国側に認識されてないんだい?
皇帝の使者が日本側に来ているのに、最も重要なことをなぜ知らない?
1.書紀の記載が大インチキ。(蘇我一族が天皇を暗殺して皇位を簒奪したことを隠蔽)
2.中国の皇帝の使者を、騙した。(女の統治者では侮られる、その他の理由イロイロ)
3.倭と大和や日本は違う国。(九州に来たが大和に来ていない。女帝は大和にいた)
ということになるが、私は、1と3の両方が正しく、
中国の皇帝の使者を騙すような、バレたら国際問題になるような無謀なことは、
誰もやってないと思う。
日本書紀は神話の書で、恣意的な嘘の情報も含まれていて、偽書扱いが妥当と思う。
ただし、古代エジプト暦の1年265日暦法と一致するのは当然だと思う。
エジプトからペルシャを経てシルクロードを通って伝わった文化や知識は多い。
測量術も和算の算木を用いた計算方法にも、エジプトやギリシャの影響が見えるし、
仏像は、古代のギリシャ彫刻が、ガンダーラ地域で仏教化して伝わってきたものだし、
奈良の大仏のメッキの技術なども、
エジプトの錬金術が中国を経て伝わったと推測できる十分な史料が残っている。
古代マヤについても、
日本から太平洋を横断して伝わった縄文時代の物がアメリカ大陸に残り、
向こうに定住した人々の子孫の村が特定されているから、暦の一致も不思議ではないね。
830 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 18:59:03.94
>どうして聖徳太子の時代に、日本の女帝が中国側に認識されてないんだい?
これは向こうの話でしょ。認識されないのがコチラの書紀のせいだとは
直ちにならんでしょうが。
>皇帝の使者が日本側に来ているのに、最も重要なことをなぜ知らない?
これは問いが抽象的で意味が判然としませんが?
>(蘇我一族が天皇を暗殺して皇位を簒奪したことを隠蔽)
皇位の簒奪なぞありませんぜ。貴方の妄想だよ。
> 3.倭と大和や日本は違う国。(九州に来たが大和に来ていない。女帝は大和にいた)
これは真の可能性がある。
女帝とはこの場合誰のことか?
書いてないから、コチラはどうのこうの言えない。
831 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 19:09:31.19
>日本書紀は神話の書で、恣意的な嘘の情報も含まれていて、偽書扱いが妥当と思う。
妥当じゃぁないね。
ウソは確かにあるが、故意にやったものではないよ。
もしそうなら、編者らは当時の糾察官に逮捕されて失脚だ。だから大きな
利害もあるとは言えず、 書紀は十二分な参考になる書である。ただ
間違いもあるから、そこは見極めが必要な場合もある。
>日本から太平洋を横断して伝わった縄文時代の物がアメリカ大陸に残り、
>向こうに定住した人々の子孫の村が特定されているから、暦の一致も不思議ではないね。
これは面白い話だねぇ。
詳細の書きこみを願う。
832 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 19:16:58.78
太国さんて良い人なんだなあ ほんと騙されやすいてか
記紀は天皇家歴史。中国史書は倭の歴史。
天皇家は女帝だったけど、倭の国は男だったんだろ。
って思っていたけど、最近は2の可能性が強く感じてきた。
600年ごろってのは、九州王朝を大和朝廷が完全に凌駕していたというか、
磐井以降、九州王朝は大和朝廷の配下・一地方になっていたとおもう。
だから、中国の役人を大和に案内するより、以前から付き合いがあって勝手がわかっている
九州で接待して追い返したほうが、戦争になるかもしれない「対等外交」をする大和朝廷にとったら
情報が漏えいせず都合がよかったんじゃないかなと。
つまり、天足彦尊は聖徳太子とか蘇我馬子じゃなくて、九州王朝の役人あたりが演じた。役者というか、ただのオッサンだったんだと思う。
834 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 19:23:10.55
起請文で使えない神様ってのは信用が無いから使えないんだよな
『虚言ヲ仰ラレル神』だからね
古事記のなかでも言行不一致のとことかぞろぞろだしね
835 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 19:28:10.72
>かの臭魔伝もアスス暦にて1.4倍暦の1年265日を行使してたとなり、これは
>古代エジプト暦の1年265日暦法と奇しくも一致する。
なんだ、1年265日を支持するのは太タヌキ殿か。
1年265日を支持しても、これは太国倍年ではない。
マヤ暦も太国倍年ではない。
いくらかく乱しても、太国倍年の1年に相当する日数はない。
836 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 19:32:40.27
>古代エジプト暦の1年265日暦法と奇しくも一致する。
古代エジプト暦は、春夏秋までの3季と数字を数えない冬季で四季となる。
1年はこの四季が保証している。
837 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/10(金) 19:33:47.20
太国の書いている仁徳の年代が、ネットの高句麗史と整合しているので、少々驚いているのだが、
では、ついでだから、倍暦説では神功皇后の在位はいつになるのか訊いておこう。
因みに三国史記では卑弥呼の使いは173年、ネットの新羅史では232年となっている。
もし太国の倍暦説で神功がこの年代から外れているなら、
倍暦説が正しいと仮定すれば、直ちに、神功は卑弥呼ではないという結論が出るわけだ。
というわけで、体は太いが知恵は細い太国よ、おぬしの説で神功の在位はいつになるのか教えてもらいたい。
弥生時代末期、
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)
筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼす。
その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
※記紀が投馬国王の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(台与の子孫である)大王家の時間軸操作。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
大王 陛下
山東・遼東半島付近の文化が、卑弥呼の邪馬台国にどのような影響を与えたかは、
卑弥呼の正体を暴く重要な鍵になるね。
周の姫姓と官僚の名称『大夫』は、かなりのウエイトを持つと思う。
今の天皇に、無理に姓を付けるとしたら、
旧帝国陸軍が朝鮮半島で金の調査を禁じたことからも、金とする説が有力だと思うが、
古い時代は姫姓の王朝もあった可能性は残る。
周から枝分かれした、周王朝の末裔が、山東・遼東半島付近をうろついたことは、
ある程度見えているのだが、高句麗の巫女との繋がりまでは、結び付けられない。
と思っていたら、こんなのをネット上で見つけた。
「姫氏の山城・神籠石」
ttp://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-1-4.pdf 神籠石の城はほとんど調査が進んでないようだが、
いろいろ調べれば、倭と大和の関係が見えてきそうな話らしい。
>>830 聖徳太子時代の女帝は推古天皇と思う。(違った?)
中国側の使者は、日本側が女帝と認識していない。
御門の前に置かれた、とはどういうことか謎すぎる。
明らかに、トリックを用いて、真相を隠した胡散臭い書き方になっている。
それより重要なのは、
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺して、その後、皇祖大兄が登場していることだ。
天皇の第一子なのに、なぜ皇祖と呼ばれてるんだい?
自分の姉妹を3人も妻にして、オカシイでしょ?(通常は、異母姉妹を一人まで)
突然、皇位継承争いから姿を消しちゃった皇祖君。
でも、その子孫はしっかり天皇に???(あんた蘇我に暗殺されたんじゃなかったの?)
これって、皇位簒奪がバレないように、蘇我馬子が分身として皇祖君をでっちあげて、
自分を皇統図にちゃっかり書き加えて、みんなで口をチャックした、としか思えないよ。
で、この事実がバレバレ状態で書かれていた、
日本書紀最後の巻の皇室の系図に目を通した桓武天皇は大激怒。
家臣が天皇になっているなど正しくない! と焼き捨てさせて、
日本書紀のいろんな所を改ざんさせて、めでたく偽書日本書紀は今日残る形になった。
悪くない推理だよね?
まあ、卑弥呼とあまり関係ない説だから、これ以上突っ込んだことは書かないけど、
中国側の使者が、日本側の女帝を認識していなくて、話が噛み合わないのは、
九州王朝の倭と、奈良の大和の王朝が、なにかしら違う歴史を持っているからだと思う。
841 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 19:49:43.62
いくらかく乱しても、太国倍年の1年に相当する日数はある。
その事例がオマエの言う1年が365日でない〜1年265日のアスス暦法だ
いくらかく乱しても、宿主空年の空年に相当する年数はない。
古代エジプト暦の三季はアケト(増水季)、ペレト(播種季)、シェムウ
(収穫季)と数えて3季である。
朝鮮野郎よ。
これから作業があり、あとでオマエに説明する。
まだ九州王朝とか?
無いよそんなのw
>>828 際限なく頭の悪い女神様だな。
「囲む」という日本語を「い」と言ったことがあるのか?と言ってるんだよ。
邪馬台国の時代には「家を囲む」というのを「家を“い”む」って言ってたのか?って言ってんだよ。
844 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 20:59:24.01
ホ23100 ミチたてゝ ガのミモムソヰ アメノミチ
天(太陽)の道のりは365日。
845 :
日本@名無史さん:2012/08/10(金) 21:08:46.59
九州王朝と大和王朝と二つを考えるから話がどうしても合わないんだよ。九州本社と
大和支店と考えればいいのさ。隋の使者が訪ねたのは九州本店にいた社長だ。
その後、九州本社の社長が亡くなったときに、跡を継ぐ立場の大和支店長が九州に戻
らず大和を本店にしたとしたら? 争いも何もなくすっきりと遷都完了だろ。
>>843 なんのために、アスカの例に言及したと思っているんだ?
飛鳥(明日香)は、高句麗語の日明郷のを音写したもので、
日明が明日に反転しているのは、漢語の表記に切り替えられているからだ。
(「香」と「郷」は同じ発音、「日が明ける」と「飛ぶ鳥」も同じ発音)
なぜわざわざ、日が明けるという高句麗語を、明日という漢語に直したかは、
説明が長くなるから割愛するが、漢語で短縮表現していると思っていい。
このように、漢語と膠着語を組み合わせた地名の例は、他にも多々ある。
一軒「家を囲む」話などまったく関係ない。
わざわざ説明するまでもないと思うが、壹は一と同じ文字でイ。囲むもイ。
邪馬壹国(ヤマイコク)は、山一つをぐるりと神籠石で囲んだ国、
という二重のイの意味を埋め込んだ使い方になっている。
このような表現は、後世の和歌にも引き継がれている。
山口県の口は、本来は国構えの字であり、山を囲んだ国という意味だ。
つまり、邪馬壹国(山囲国&山一国)は、
現在の山口という地名となって残っている、という説だ。
実際九州の地域には、神籠石山城が多く残っている。
卑弥呼をピミヲと解釈する説がある。
魏志倭人伝に使われた漢字を音に分類していくと、
呼をコの音写とするわけにはいかなくなる。
さまざまな説があるが、呼がヲの音写である可能性は、それなりにある。
ではヲとは何か? ヲす国、といった形で、統治を表現することがある。
そこから、卑弥呼は日巫王という解釈も可能になる。
実際に、多氏斎王家の巫女は、日の巫女の王と呼ばれることがある。
伝承どおり、卑弥呼のマトリックスを受け継いでいるなら、正解だろう。
847 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 21:51:00.34
>>837 >太国の書いている仁徳の年代が、ネットの高句麗史と整合しているので、少々驚いているのだが
そうだろう。以前からキッチリ研究して来た。
神功摂政元年=353年
神功崩御年 =375年
だ。
仁徳〜神功の代は3倍年暦を行使していた。
1年が120日余しかなかったんだな。
そして 應神即位元年=376年 となる。
848 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/10(金) 21:53:31.96
>>846 巫はミとは読めないから、そんなのは屁理屈だよ。
言葉というのは最も屁理屈やインチキが混ざりやすいから、
君がどんなに力説しても信用度は薄いよ。
849 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/10(金) 21:57:07.58
>>847 そうか。ではおぬしの倍暦説では、卑弥呼は明らかに神功とは別人だな。
ではまあ、今日はこれくらいにしておいてやろうw
850 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 22:01:35.22
>>840 >中国側の使者は、日本側が女帝と認識していない。
だから九州王朝のことを言ってたんだろう。畿内じゃなかろう。
当時の日本は畿内と九州とのほぼ2極政権だったんだよ。
これは大陸が、例えば卑弥呼の年代なら魏呉蜀と3極に鼎の如く分立して
いた如くだ。だから別に隠してなんかいないね。
>蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺して、その後、皇祖大兄が登場していることだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それは何故かは分からんが、これで別に簒奪だとは言えまい。
言うからには、根拠がもっとなければならん。
所詮貴殿の考えすぎが妄想となったものだね。
改ざんなんかしてないよ。
してるなら、もうとっくに当時の糾察官に逮捕され、死罪軽くて島流し、
蟄居で、身の失脚になる。
とりわけ重大な利害など書いたものにはあるまいし、逮捕以前に書を改竄
したとかで殺されてしまうかも知れない。そんな危険なマネをたかが書紀
くらいで公文書偽造などやろうわけがない。
851 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 22:18:23.95
>ネットの高句麗史と整合しているので、
百済王家の数字に合わせたということだ。
その百済王家を確認できないのが韓国考古学。
南下高句麗軍の積み石塚を近肖古王とするしか無い。
これに、神功紀を合わせた場合、書紀の記事は否定される。
だから、
「1114甲午 468戊申 石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】」
こんなことを言う輩もいるが、これでは、書紀の記事に信頼はおけないとなっても
書紀の記事を信用するということはできない。
「改ざんなんかしてないよ。 」とは何のことか?
先の発言を撤回するのか?
852 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 22:24:51.29
空年多抜きどの
>書紀の記事に信頼はおけないとなっても
書紀の記事を信用するということはできない。
意味不明??
早く松沢病院で診てもらえ。
853 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 22:36:01.69
「暗黒星」 江戸川乱歩原作
いや〜、凄い探偵小説だったな。
乱歩の脳内は計り知れない??
854 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 22:37:46.44
>神功摂政元年=353年
>神功崩御年 =375年
百済王家を書き換えるんだろ?
書紀の書き換えを主張しているんだろ?
どこが、書紀を尊重しているんだ?
855 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 22:38:43.85
オマエ、早く治療して来い。
ひどすぎる。
>>848 巫女をミコと読むな무녀(munyeo)と読め、
いや巫一文字でカンナギだ、とでも言いたいのかな?
そんな特別なルールに従う必要はないと思う。
遠慮することなく、日本語でそのまま堂々と普通に読めばいい。
>>850 >言うからには、根拠がもっとなければならん。
そのとおり。
天智天皇の一見不可解な言動の数々を、この説に沿って細かく説明する必要がある。
天武天皇と天智天皇が本当に兄弟だったのか、についても言及しなくてはならない。
始めれば、本数冊分の量になる。
>改ざんなんかしてないよ。
日本書紀31巻の焚書は、動かぬ事実。
そして、日本書紀の何箇所かを変更・削除したとされている。これも動かぬ事実。
この個所は、主に日本と朝鮮の外交関係部分と言われているが、詳細は不明。
さらに、北畠親房が「昔日本は三韓と同種なり」と書いた本も焚書にしたとされる。
よほど、皇室と日本国の成り立ちを、隠蔽したかったらしい。
応神天皇が三韓の子孫というのは、多氏斎王家ではっきり伝えられている。
神功皇后は多氏の日の巫女の王の分身で、創作された架空の人。
扶余から三韓と倭が生じ、大和は倭から枝分かれしたことになっている。
卑弥呼のルーツも、ここに入っている。
858 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 22:51:35.47
韓国ラジオ氏が、何故高句麗史や新羅本紀を書き換えるか?
百済本紀に歴史を合わせれば、神功紀の記事を否定できるからだ。
だから、その数字を支持する太タヌキ殿は神功紀を書き換えない限り整合させることはできない。
百済王家を百済本紀と整合するよう書き換えて
その他の記事は、この数字ではすべて否定されるから記事も書き換える必要がある。
書紀の記事を無視した編年である。
>>845 後世天照大神と呼ばれるようになった巫女のうち、
姉の大日女(おおひるめ)は、渡来して九州に留まり、
妹の稚日女(わかひるめ)は、紀州に移動した、
という伝承がある。
これは、多氏斎王家に伝わるだけでなく、
多少異なるバリエーションのものが、丹生都姫伝承としても知られている。
呉の太伯の血を嗣いだ美しい姉妹と伝えられるが、どうやら姫氏らしい。
大姫の血を引く倭の本店が九州で、若姫の大和支店が奈良にあったが、
白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に惨敗して、壊滅状態の本店は再起できず閉鎖され、
大和支店長が出世してそのまま本店業務を引き継いだ。
そして、本店があった歴史を隠蔽して、昔からうちが日本の本店ですと名乗った。
倭の本店のメンバーの一部は、奈良・京都に移動して、秦氏を名乗り、
運び込んだ本店の莫大な遺産を活用して、
奈良と京都の盆地の湿地帯を埋め立てて、農耕と居住に適した都を築いた。
そのため、平安京は大和朝廷をしのぐ財産を持っている渡来系?秦氏が建設した、
と言われる、一見奇妙な伝承が残った。
大和の支店長は、新統一国家日本店長の地位を譲られた形だったが、
経済的には、秦氏が裏からぎっちり支配する体制が残った。
秦氏は威信をかけて、日本全国に、八幡系と稲荷系の神社を、数万社建てた。
大姫と稚姫の血を女系継承する巫女集団は一つに統合されて、
卑弥呼の祭祀の伝承を含む、巫女神道を残したが、
すでに神仏混淆の男性優位の社会に移行していたので、すぐに埋没した。
860 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 23:00:30.11
今宵は遅いから、これでいったん終わり。また明日以降に。
>日本書紀31巻の焚書は、動かぬ事実。
そして、日本書紀の何箇所かを変更・削除したとされている。これも動かぬ事実。
焚書〜?? これでは何のことやら分からんね?
こんなんでは、公文書偽造した動かぬ証拠にはなるまい。
だれがいつ焚書したのか?
古代史捜査が尽くされていない。所詮昨今の先行脳の検事同然で、
不十分なら書紀の編者らに無実をつけたまでのこととなる。
その動機は何か? 動機は想像をこうだと言ったんだけでは、ウラが取れ
たとはまだ言えない。
焚書しなくても他の選択肢が当事者にあろう。
神功が〜〜?w
創作すれば、当時の公文書偽造同行使でとっ捕まるが、逮捕された史実が
あるのか? なければ、やはり貴方の妄想の増幅よ。
zzzzzzzzzzz・・・・・
861 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/10(金) 23:04:48.87
おやおや起きてしまった。
空年多抜き殿
早く松沢病院で診てもらわぬと、もう手遅れになるかも知れん?
書きこみが想像を先行させ過ぎて、さらに支離滅裂性がひどい。
真性か〜? こんどこそ寝よう〜zzzzzzzzzz・・・・・・・
862 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/10(金) 23:14:07.94
太タヌキ殿よ
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
神功時代は、新羅から調(税)が納められていた。
これは全て事実だ。しかし、「神功摂政元年=353年 」では否定される。
それは、
慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
343年以後、高句麗も百済も前燕に帰順しているからである。
つまり、半島に神功軍が展開する余地がない。
どうすんだ?
>>862 だから半島は関係ねえだろってマジョリティが形成されつつ
あるのが読めないのかチョン
864 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/11(土) 00:32:27.81
>だから半島は関係ねえだろって
卑弥呼=崇神時代。
この編年はどこから出てきた?
それは、百済王家を整合させた結果だ。
その編年より時代を50年遡上させたのが考古学だ。
しかし、考古学が捨てた編年にいまだにしがみついているのは、百済王家の数字だ。
崇神 189〜216年
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年] 辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
考古学が遡上したのであれば、それを容認する文献もある。
しかし文献編年が動かないのは、百済王家の数字を正しいとするからだ。
百済王家の数字を正しいとするかぎり、書紀の記事は書き変える必要がある。
つーか、そういう神話に即した筋書き、特にチョン系は
もういらねえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と言ってるの
判んねえのか、あ?
>>821 江戸時代に、多氏斎王家管理下の紀州にある神庫の中身を調査した国学者が、
不敬罪を理由に斬首され、
写本を託された人物は、遁甲の研究所を持っていたという理由で、
幕府に捕えられて獄死したとされる。
以後、国学者達が偽書扱いした神庫の中の文書は、
二度と無礼を働く者が出ないように、非公開とされたらしい。
ところが、何年か前から、神庫内の算額を調査している。
算木を算盤(さんばん)上に配置する一定の機械的な操作で高等数学も扱える。
これを応用すれば、カード型データベースを用いた、
数理的(代数的)な情報処理が可能になる。
簡単に言えば、子供の間でカードバトルが流行しているが、
モンスターのカードをアイコンに置き換えれば、実用的なソフトになるってことだ。
私は、算額に書かれている内容から、
実際に使われていたアルゴリズムを推理する作業に携わってきたから、
偽書呼ばわりの封印された、非公開の文書の内容にある程度目を通す機会を得た。
今の時代なら、それら古い文書の中に矛盾を見つけて指摘しても、
斬首されることはないと思うが、昔はそうではなかったらしい。
>>821 韓の文字が、必ずしも朝鮮半島や朝鮮民族を指していたわけではないことぐらいは、
私も少しばかり承知している。
また、遼東半島の人の動きが、朝鮮半島や倭や大和に大きな影響を与えたことも
ある程度は承知している。
漢民族の優れた文化や、シルクロードの西側の文化は、
あの地域の海の民の手で、海路日本まで来ていたのだから。
そうでなければ、倭人文化圏が遼東半島付近まで広がっていると、
当時の中国側が認識することはなかっただろう。
卑弥呼の時代に倭の特産品だった、3眠蚕の超高級シルクなども、
このルートで大陸に輸出されていた。
>つまり桓仁のあたりは馬韓
いつ頃、桓仁の地を、どの文献内で馬韓と呼んでいたのか、
どんな王族が馬韓島から桓仁にかけて、支配下に置いたのか、
具体的な史料名を挙げて頂けないだろうか。そのような史料は発見されてないと思うし、
グーグルで検索しても、馬韓島は一件もヒットしないほど知名度がひくいようだ。
桓仁と通化や集安の関係なら、承知している人も多いが、
桓仁と、大連の長興島では、かなり地理的・文化的な距離がある。
それから、通化や集安の古墳はかなり破壊が進んでしまっているが、
百済と高句麗の古墳や城の跡をどこで区別しているのか、基準を示して頂きたい。
それがはっきり示せないなら、遺跡の分布を時系列で分類して理解する作業抜きで、
高句麗よりじつは百済が古い、という新説?を唱えていると受け取るしかない。
868 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/11(土) 08:55:19.73
>>867 まず馬韓島については「金史 巻八十 列伝第十八」に記述があり、
蘇・復州、王家島、馬韓島などの記述があり、復州と王家島は遼東半島にあるから、
馬韓島は長興島だろうと推測される。詳しくは山形明郷「卑弥呼の正体」p168以下に考証あり。
百済と高句麗の境界についてはネットの高句麗史や新羅史を読むのが一番早い。
漢山とは安図市で、このあたりで百済と高句麗がしばしば衝突している。
高句麗の首都平壌とは奉天すなわち瀋陽で、今の北朝鮮の平壌ではない。
とにかくネットの朝鮮史を読めば、これまでの通説が真っ赤な嘘だと分かる。
君も、いつかは必ず読むべきだ。
869 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 09:08:50.73
信じやすい性格なんだねえ。まともな本を先に読めば良かったのに。
つーかネットの朝鮮史なんて何らかの利害関係のあるやつが
捏造し放題に書いてるとしかいいようがないが
比べるのも何だがホツマのほうがまだまし、といったようなもの
まあ、鈴木某の「金印」話を信じちゃうレベルなんで、仕方ない
出所のさっぱりわからないネット〜をよく信用出来るなw
ネット連呼厨は民団かなんかの関係者としか思えんわ。
874 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 09:53:21.86
一応一番売れてる非専門家の歴史作家の井沢元彦でも
古代史や邪馬台国絡みになると日食で卑弥呼暗殺とか
しょーもない妄想ばっかになるし、素人なんかが
古代史に足突っ込んでも無意味ww
ただの個人的空想で終わるだけ。
つーか井沢でも関でもあれはエンタメだからニヤニヤしながら読んでればいい
書いた本人もほとんど信じちゃいないだろ
朝鮮関係の場合は政治的な意図がありありと見えるからな
過去を捏造して現在を有利にするという非常に間違った考え方があたり前に行われてる
ソウル大学の教授からしてそうだからな
今の朝鮮なんて悪質な国粋主義まんまだろ。
暴走すりゃ何するかわからんぞ。
>.875
好太王碑文が教訓だな
878 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 10:22:16.31
古代史、特に邪馬台国とかいかにも素人の歴史マニアが
泣いて喜ぶような格好のネタだしww
史料豊富な時代じゃ専門家との実力差がありすぎるし、
また邪馬台国のような不透明なネタもあまりないしな。
なので専門家から一番嫌われるネタが邪馬台国。
専門家に邪馬台国の話題ふればみんな嫌な顔するよww
素人マニアは生き生きとした顔で自説をマシンガントークで語るけどね。
>>878 専門家厨がうるさいね
その専門家(=畿内説学者)たちの共通理解である「箸墓=卑弥呼の墓」なんて、
そもそも、大正時代の素人(笠井新也)が提出した仮説だぞ。
880 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/11(土) 10:34:32.69
大祓祝詞の天津金木の段は、大中臣からのインチキ編年を壊滅させよという、古代
から未来人への下命文面である。天津金木(天津神算木)とは崇神紀の三輪山の
説話のある三輪(半径3の円)の球化 体積=表面積 の数式をいう。天津神算木は
4πr**3/3=113.0973355292・・・ (r=3;**は冪乗)
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335 B.C.3113年 9月7日 マヤ文明 始原年月日
右辺の主値は 1/13 B.C97 崇神天皇 即位
右辺第二桁目から 死値 A.D.130 景行没年
崇神即位年の真の年代は右辺の数列を3分して 113 097 335 とする時
113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年 B.C.97(0は 西暦0年 除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引ジョーカー数 335年
335−97=238年 西暦0年を除くから1年分詰まり、以下を得る。
238−1=237年=景初元年=崇神即位元年(実年代)
天津神算木の右辺第二桁から 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位 を得る。
主値 崇神から仁徳の年代までが一つの区切りの時代であることを天津神算木は
教示している。これが三輪王朝年代である。その後は後三輪王朝年代に入る。
つーか前も書いたけど、プロはわからないことはわからないとするのが仕事であって
ここまではほぼ確実だろうということを積み上げていくのが業績になる
わからない部分は後代の研究に託すということができるからな
アマチュアはどうせ楽しみでやってるんだから、自分一代で結論を出さなきゃ面白くない
邪馬台国が四国でもインドネシアでもいいだろうし、義経がジンギスカンでもいい
どうせそれが学会の定説になることはない
882 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 10:57:09.14
アマチュアマニアはいくらなんでも根拠のないこと言いすぎw
胡散臭い文献から自分で勝手に妄想して結論出したりしてるだけ。
それじゃ学問でもなんでもないから。なので素人じゃだめなの。
せめて大学で歴史学か考古学専攻して鍛えられて修士号と歴史の教員免許くらいは
とってからやらないと話にもならんわ。完全素人が首突っ込んでも
くだらん妄想のオンパレードになるだけだし。
NHKの番組で言ってたけど、金印て貰った王が死んだら返さないといけないんだな
てことは志賀島の金印はレプリカか? 親魏倭王の金印もそのうちどこからか
出てくるかもと思ってたけど、その可能性ますます低くなった
問題があるとすれば、半素人的な存在、邪馬台国ゴロと呼ばれるような輩が
どうせ結論が出ないことを見越して商売に結びつけようとするあたりか
井沢や関なんかもそうと言えないこともないだろうが、
面白ければ対価を払う価値があると考える人もいるだろう
あとはそれぞれの見識次第だろう
面白読み物と思って読むか、頭から信じ込んでしまうか
そういえばこのスレにも伊作とかいうゴロがときどき来るけどな
>>864 >景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソ
↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒等
金印はどうなんだろう
原則として冊封された王個人に与えられたものだから返すのが望ましいだろうが
そうできない場合もあるだろう あくまで原則だし
卑弥呼の親魏倭王の場合はいったん返して、台与が親晋倭王をもらったのかもしれない
よくわからんね
>>864←景行38年の空白←大ウソ
景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
889 :
出土地不明:2012/08/11(土) 11:44:09.05
金印は、箸墓古墳の中に眠っているよ。
宮内庁が、発掘許可しないかぎり、
まず、絶望的だな。
890 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 11:59:23.31
箸墓内部などとっくに盗掘されててなんもないだろうにww
たとえ金印が日本に残っていたとしても天皇家の陵墓からは出ない
邪馬台国と大和朝廷は全く関係無いんだから
箸墓=卑弥呼の墓 というのもどうなんだろうね
このスレには考古学者の多くがその説をとってると思い込んでる輩もいるようだが、
実際は280年代以降とみている人が多いだろう
これは土器編年から出た数字で、むろん前後の年代幅はある
現状のc14もそうだが、ピンポイントで実年代をわりだすのは不可能だ
箸墓=倭迹迹日百襲媛命の墓 確かに記紀にはそう書かれているが、
はたして倭迹迹日百襲媛命が実在の人物であるか疑わしいと考えている
考古学者のほうが多いんじゃないか
倭迹迹日百襲媛命は初期ヤマト王権に多くいたであろう巫女像を総合した人物と
とらえてる人が多いという気がする
ただしこの墓がヤマト王権にとってひとつの大きなモニュメントであるのは疑いないだろう
記紀にあれほど詳細に造営の様子が描かれているのはこの墓だけなわけだし
893 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/11(土) 13:56:52.44
卑弥呼が祭祀を行った場所の立地条件について、
高句麗国の神宮由来の、日の巫女の神道を伝承する、
卑弥呼と同族の多氏斎王家の宗主様が、はっきり、纏向は違うと、
重要な指摘をなさっている。
纏向あたりの土坑を年代を追って追跡し、
土坑を用いた祭祀を、纏向型祭祀と名付けた研究者もいるが、
これは、高句麗系の東盟祭と、かなり共通性を持つことが分かってきている。
現在に残る新嘗祭に繋がる祭祀の元型と考えられるようになってきた。
土坑や隧穴を、大地母神のホトに見立てて、大地の恵みに感謝し、
翌年の豊穣を祈願する祭りだった。
幸いにも、祭祀が終わると、
土坑の中に祭りで使ったものを捨てる慣習があったおかげで、
祭祀形態の変化を、かなり明確に追跡できる。
高句麗の東盟祭と同じ系統の祭祀が纏向で行われていたということは、
纏向と高句麗が山東・遼東半島付近の海人の手で、
海路の交易によって一つに繋がった文化圏を持っていた可能性が見えてくる。
そうすると、高句麗国の神宮とほぼ同じ立地条件で
日の巫女の王が祭祀を行う宮を建てていた可能性が高い。
高句麗国の神宮は、桓仁にある現五女山城跡で、天を衝くテーブルマウンテンだ。
これに対応する、高天原の条件に合う近畿地方の日の巫女の祭祀施設と言えば、
紀州山中の標高五百メートルの高台にある、丹生都比売神社ということになる。
もしも卑弥呼が伝承どおり日の巫女の王で、もしも大和の地域で
現在の皇室が行う新嘗祭に繋がる、纏向型祭祀を行っていたとすれば、
その神宮は、丹生都比売神社のような、隔絶した高い場所になければならない。
低地の纏向遺跡では、立地条件に合わないことになるそうだ。
また、滝が重要で、近場に無いと困る、温泉も欲しいとお話だった。
卑弥呼の正体が重要なのは、弥生時代がどのようにして古墳時代に移行したのか、
その鍵を握っているからだよな。
古墳時代に移行した理由は、新しい渡来系氏族による倭国再編だったと思う。
大陸系の王族(朝鮮族じゃないよ、大陸系)が渡来しただけでなく、
稲作用の農地を干拓・開拓したり、治水する土木技術が入植には欠かせない。
国家再編の重要な鍵だった筈だ。
その余剰技術が、巨大古墳の登場に繋がったのだと思う。
当時、これらの人や技術はどこからやって来たか?
治水技術が国を治める要とされてきた中国からだろう。
朝鮮半島は稲作に適さず、そういう技術はまるで未発達。
2百年頃は、まだ朝鮮半島にたいした国家は存在せず、倭国よりも遅れていた。
大陸の遼東半島・山東半島付近の海人が、日本と中国の交易を担っていた点は大きい。
あの付近の人々を、倭人と認識していた中国側の史料も重要だろう。
弥生時代がどのようにして古墳時代に移行したのか。
そして、日本国はどのようにして生まれたのか。
この謎解きをするうえで、
遼東半島・山東半島付近の人と物の動きの追跡は欠かせない。
卑弥呼と大陸のこの地域を繋ぐ接点は何かを見ていく必要がある。
纏向と高句麗の豊穣祭の形式が酷似している点などは、軽視できない。
明らかに、二つの地域の文化は繋がりを持っている。
纏向を見下ろす東の高台に、穴師坐兵主神社がある。
穴師は纏向型祭祀と呼ばれることもある、東盟祭に通じる隧穴の祭りを指しているが、
兵主は遼東半島・山東半島付近の蚩尤のことだ。
その信仰が纏向まで到達していたことを意味する。
隧穴と隧神は一対の存在で、
現在に残る日像鏡と日矛鏡を用いる祭祀にも、その痕跡が見られる。
隧穴の神の化身として、蛇信仰なども、多くの伝承が残っている。
この神社から、兵主神が古い時代は天日鉾神だったことを示す証拠が出て、
渡来神の天日鉾神の正体が、高句麗地域の日神と蚩尤が習合した姿だったことが、
多氏斎王家の長期孤立伝承だけでなく、
纏向の地から出てきた遺物からも裏付けを得た形になっている。
明日香の地名の由来を見ても明らかだが、
後世天照大神とされた、天日鉾神に仕える日の巫女の王、明姫(アカルヒメ)が
日の明ける郷である明日香の女神であり、
飛鳥時代は明姫の多氏斎王家に妻問婚(入り婿)した王朝
と考えるのが妥当と思われる状況になってきている。
妻問婚の時代の男王は、生まれ育った家で即位して宮を構えるから、
あちこち遷都しまくりの、腰が据わらない状態になっているようにも見える。
卑弥呼個人の墓を探すのではなく、
歴代の多氏の日の巫女の王、明姫を襲名した巫女達の奈良盆地での埋葬の変化を
追跡していくことを考えたほうが良いのではないだろうか。
897 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 15:13:28.19
リソースの無駄使いとゆうか
余剰のが生産性の向上に振り向けられずに
こけおどしの古墳ごっこに向かっちゃうのが
とてもむなしいよね
むだにでかいだけでスキルとして革新的なものとか無いし
とりわけ鋳造技術なんかは明らかに劣化していたりするしね
898 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 15:36:01.19
http://www.emuseum.jp/detail/100571/002 この多紐細文鏡が大和湖の湖畔に持ち込まれたのは
ふつうに芻牟以前のことだろうさ
銅鐸とセットであるとゆうところが興味深いとこで
アカル姫さまの御子孫のが高度の青銅鋳造技術を伝承されておるとしたら
銅鐸のこととか聞いてみたいきもするけどな
てか
もしこの多紐細文鏡とア姫さんのが関係者のかたなら
ご先祖征服蹂躙とかかまされてご愁傷
899 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/11(土) 18:58:03.76
>>851 >ネットの高句麗史と整合しているので、
↑
空年多ヌキよ。これは朝鮮男の書きこみだ。あいつに言うんだな。
あいつの書きこみでこちらにどうのこうの言うのはお門違いだ。><
また「真・太国先生」にも読んで戴き、「よく盲象したね」とお駄めの言葉を戴いていた。
このアスス暦の太陰太陽暦の解読結果を見ると「ホツマツタヱ」のインチキ性も
脱帽するのは、私ばかりでしょうか
900 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/11(土) 20:30:23.41
901 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/11(土) 20:42:20.64
長畑馬場遺跡
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 景行 諸県は玄海町諸津。イズミ媛。(250年ころ)九州北部に庄内式土器(纏向3類後)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
神功 田油津媛は田平媛。(274年渡海)纏向5類(プレ)
つまり、考古学に合わせた場合、神功渡海は古墳時代初頭である。
そして、
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。
神功渡海とは、大倭が女王国においた1大卒を半島に上陸させ、半島の管理に当てる。
晋の命令であるから、大王仲哀の死に優先する。
とにかく最初は、渡海自体が目的となる。1大卒を半島に駐留させれば経費が発生する。
その経費を半島で徴収する。半島で税の徴収を行い郡の取り分と和の取り分に分ける。
その倭の取り分が80艘の調として毎年倭に収められる。
だから、渡海に軍事力は不要であったからスムースに渡海できたのだ。
新羅から税が納められていた時代は、纒向5類(△鏡)の時代なのである。
902 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/11(土) 21:13:38.07
神功紀は2重基準である。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。
神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)
神功皇后摂政三九年(己未二三九)◆卅九年是年也。大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年
神功皇后摂政六九年(己丑二六九)冬十月戊午朔壬申。葬狹城盾列陵。
応神天皇元年(庚寅二七〇)
応神天皇四一年(庚午三一〇)
仁徳天皇元年(癸酉三一三)元年春正月丁丑朔己卯。
神功から応神紀には百済王家があり、この数字は短くできない。
そして、(己未二三九)景初三年から、74年後に仁徳(癸酉三一三)は即位する
なお神功紀の記事は、渡海からであり、(庚辰二〇〇)からではない。
となれば、神功・応神紀と仁徳紀は時代が重なる。
つまり、神功皇后摂政三九年大歳が仁徳元年となる。
だから神功紀は、274年渡海からの記事である。
326年 神功52年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
七支刀は、書紀に書かれた通り、領土分与のお礼である。
903 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/11(土) 21:57:07.99
>つまり、神功皇后摂政三九年大歳が仁徳元年となる。←精神病院候補論ww
904 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/11(土) 22:28:55.35
ネットの朝鮮史を、一応、ざっと読み通したが、
どちらも西暦500年代の半ばで終わっているから、
その頃に書かれたものだろうか。
惜しいのは高句麗史では明治大帝紀が欠落していることと、
新羅史では婆娑尼叱今以前が欠落していることだ。
いずれにせよ、これは将来朝鮮民族の聖典となるだろう。
こういう文献が残されていたのは奇跡的なことである。
もちろん君らは読まなくていいよ。
君らが読まないことを心から願っている。
君らに知られてしまうと私が本を書けなくなるからなw
>>904 アホか
そんなに凄いもんならネットに上がる前に聖典になっとるわい
906 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 22:47:55.05
>>905 そおゆうのはめえとおしてからいったほうが良いよ ほんと
歴史は足で稼がなきゃってゆうよね
907 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 22:51:57.63
たぶんね
史料発掘してきたひとがうしろめたい売国奴的な動きしていたから
戦後正規のルートで表に出せなかったのかなとおもうぞ
909 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 23:06:09.79
いさくなんかなら読んでも無駄だけどな
人名の処理とかで頭がオーバーフローするにきまっているからな
910 :
メ(オーバーフロー):2012/08/11(土) 23:19:42.31
どこかで邪馬台国のイベントやらないかな?
で、お盆休みは、みなさんどこか出かけるの?
911 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 00:00:39.09
>903
ケチをつける前に、ご自身の編年で歴史を騙ってみたら?
まず、120日の1年とはどこの暦か?まあ地球上の暦でないことは確かである。
これを地球上の暦に変換できるか?
出来ないことを”売り”の太国倍年でしたっけ。
>これは将来朝鮮民族の聖典となるだろう。
今以上の朝鮮の歴史って、・・・とんでもないものになるんだろうな。
912 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 00:06:10.61
唐松山なんかなら読むちからとか欠落してるしその気も無いから無駄だけどな
913 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 00:57:16.86
>読むちからとか欠落してるしその気も無いから無駄だけどな
ある意味正解。
書紀の記事を書き換えるより、書紀の記事を正しいとできる場所を主張する方が楽だからな。
1年120日の暦を地球の暦に変換できる能力はありません。
914 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 06:18:50.68
>これは将来朝鮮民族の聖典となるだろう。
もうあるよ、原理公論が。
ネットの朝鮮史w
半島の寒流歴史ドラマの捏造精神を総動員して
作り上げた物だよ。
916 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 09:58:14.60
>ネットの朝鮮史w
現在の考古学を無視している。
そして、その思考の中心は、3国史の百済王家をそのまま認めること。
そうすれば、書紀の言い分はすべて否定出来、領土分与も七支刀も書き換えることができる。
当然、高句麗の南下も書き換えられる。
後漢193年6月寒風冬のごとし=新羅192年→新羅193年倭人大餓=崇神5,6年
崇神58年任那=新羅209年=三国遺事211年。
新羅209年の記事は、魏が半島を管理する時代に繰り下げる。
これにより、魏・晋が半島に関与したことも最小限にすることができる
こうして、寒流歴史ドラマは作られてゆくのです。
917 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 10:28:27.12
ケチをつける前に、ご自身の空年で41年からの歴史を<具体的に>騙ってみたら?
まず、285日265日の1年とはどこの暦か?まあ地球上の暦であることは確かである。
これを地球上の季節に変換できるか?
出来ないことを”売り”の宿主空年でしたっけ。
>つまり、神功皇后摂政三九年大歳が仁徳元年となる。←松沢病院候補論ww
つまり、神功皇后摂政三九年大歳が仁徳元年とならない。←正常脳の論ww
918 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 10:30:05.97
崇神58年任那≠新羅209年
919 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 10:30:24.74
Wiki: 加羅はまた加耶とも呼ばれる。たとえば、「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[1]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている。
532年には南部の金官加羅国が新羅に投降。
魏志:伽耶諸国は、元6国、その後次第に分かれて12国となる(239年時点)
その、弁辰を分けて楽浪・帯方郡に与える。
この時点で、辰王は存在しても国としては機能していない。
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
金官加羅国が新羅に投降するのは、書紀・三国遺事では541年である。
そしてその建国は、541年で建国330年と言っているから、建国は211年=「三国史記」同14年(210年)条
=崇神58年。
つまり、崇神世を240年代に繰り下げれば、任那建国も否定できる。
君たちは、新たに編纂した 朝鮮史を盲信しなさいと言っているに過ぎない。
920 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 10:31:20.69
「三国史記」同14年(210年)条 ≠崇神58年。
921 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 10:35:23.74
崇神即位元年=237年
任那建国は崇神の名をつけて崇神の誕生年(211年:倍暦計算)にて
おかしくはない。
倍暦が正しいと、いつまで行っても必ず合理性が出来る。
かたや、空年は大ウソ→
>>885>>887
922 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 10:48:18.52
逆に言えば、
任那建国は211年=「三国史記」同14年(210年)条=崇神58年。
ここを動かさない場合
奈勿麻立干は、60年(317年奈勿麻立干元年)、百済王家は46年遡上させる必要がある。
奈勿麻立干が新羅中興の祖となるのは、この時代に西晋が滅び、そのまま独立体制へ移行したためである。
まあ、独立したとは言え、倭の管理下での出来事である。新羅よりの調(税)納入は続く
この時代が変わるのが、高句麗の南下なのである。
皇紀西暦 倍暦
447 -214 188 孝元天皇 即位 1/14
448 -213 189
・・・・・・・
512 -149 211
513 -148 崇神天皇 誕生 任那建国
514 -147
515 -146 212
・・・・・・・
530 -131 220
531 -130 崇神天皇 立太子 1/5
・・・・・・・
562 -99 236
563 -98 開化天皇 崩御 4/9
564 -97 237 崇神天皇 即位 1/13←天津神算木の数字と一致
・・・・・・・
630 -31 259
631 -30 崇神天皇 崩御 12/5
632 -29 260 垂仁天皇 即位 1/2
924 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 10:59:44.01
>「三国史記」同14年(210年)条≠崇神58年。
925 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 12:07:21.40
ネット朝鮮史にケチをつけるだけではなんだから
それを支持する部分
新羅193年倭人大餓から百済王家の間には、5,60年の齟齬がある。
つまり、奈勿麻立干へ世継ぎができていない。
だから、ここを見直して新羅193年倭人大餓から百済王家へつなげるという認識は正しい。
新羅193年倭人大餓を見直すか?
百済王家を見直すか?
この時空を見直さない限り、正しい数字は得られない。
ここまでは、支持をする。
太タヌキ殿よ
「三国史記」同14年(210年)条≠崇神58年。 ←否定をしたいんだろ?
否定をするんなら、考古学の知見か文献を出して否定できないのか?
まあ出すことはできないだろうな、なぜならば、1年が120日の暦を日本の太陰暦に変換することさえできないんだから
926 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 12:16:59.13
太タヌキ殿よ、纒向には誰が都をおいたか認識しているのか?
崇神 189〜216年(基本は38年の空白であるがこのうちの2年は開化に割り振られている)
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年=後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[垂仁珠城宮]
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行12年以降。
纏向4類(後)箸中山(最初の大王、260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
927 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 12:20:42.19
訂正
×崇神 189〜216年(基本は38年の空白であるがこのうちの2年は開化に割り振られている)
○崇神 189〜216年(基本は38年の空白であるが2年分の空白を開化から割り振られている=40年の空白)
928 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 12:25:39.10
読むちからとか欠落してるしその気も無いんだから
個別の史料のなかみはとんと理解とかできない
個別の史料のを支持するとかしないとかそれ以前の問題
このひとのはご自身の脳内妄想に揃えてイベントを手前勝手にならべるだけのがお仕事。
それと
建国とか無定義で騙っているところからどこぞが少し弱い疑いさえ発生する。
どこぞが少し弱いのが真であればいぢるべきではなかったとゆうことにはなるが。
929 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 12:28:56.99
930 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 12:53:14.16
空年多ヌキ殿よ
「三国史記」同14年(210年)条≠崇神58年。 ←肯定をしたいんだろ?
したいのは、オマエの脳内先行の卑弥呼←→景行年代を合わせたいから
だね。ww 何の根拠もない。ただ卑弥呼の代=景行の代だとしただけ。
これでは駄目だ。
41年を肯定をするんなら、具体的の説明と文献を出して肯定できないのか?
出来ないわけだな。ww こちらは数年もこれをオマエに要求しておる。
まあ説明することはできないだろうな、なぜならば、1年が385日と1年が265日の暦を日本の太陰暦に変換することさえできないんだから
出来るんなら、四季はどうするんだ? オマエが説明するんだよ。ww
また「真・太国先生」にも読んで戴き、「よく盲象したね」とお駄めの言葉を戴いていた。
このアスス暦の太陰太陽暦の解読結果を見ると「ホツマツタヱ」のインチキ性も
脱帽するのは、私ばかりでしょうか
空年多ヌキ殿よ
こんなことはどうでもいい→纒向には誰が都をおいたか認識しているのか?
41年を認識してるのか? それを具体的に言うんだな。ww
>崇神 189〜216年(基本は38年の空白であるがこのうちの2年は開化に割り振られている
↑は大ウソ 空年は ↓ 無い。ww
崇神元年 崇神天皇 即位:紀
崇神2年 中山神社 この年 創建(埼玉県)
崇神3年 磯城宮に遷:紀
崇神4年 天皇 天下経綸の詔:紀
崇神5年 疾疫 民多く死 :紀
崇神6年 日神を倭笠縫に祀る:紀
崇神7年 天皇 神浅茅原行幸 卜事:紀
崇神8年 大田々根子に大神を祭らしむ:紀
崇神9年 天皇夢で墨坂神等を祠る:紀
崇神10年 群卿を四方に派遣:紀
崇神11年 四道将軍戎夷平定を奏す:紀
崇神12年 調役の詔:紀
崇神13年 生石神社 創建(兵庫県)
崇神14年 9月1日 野代宮で奉斎(三重県):倭姫命世記
崇神15年 阿陀比売神社 創建(奈良県)
崇神17年 始て船舶を造る:紀
崇神18年 国造神社 創建(阿蘇市)
崇神19年 前年から庶万饒いを楽しむ:大成経
崇神20年 一月 善の詔:大成経
崇神21年 本年から21年間 無事:大成経
崇神26年 豊城入彦 誕生:ホツマ
崇神29年 垂仁天皇 誕生:紀
崇神30年 養父神社 創建(兵庫県)
空年多抜キよ
38年もの空年 ↓ はな〜い。
崇神38年 チチツク倭姫 誕生;ホツマ
崇神39年 日神 遷座:籠神社略記
崇神40年 千代気根 誕生:ホツマ
崇神41年 英彦山神宮 社殿完成(九州)
崇神43年 磯城厳橿本宮日神を祀る 山口坐神社(天理)
崇神48年 夢見で活目尊を立太子:紀
崇神49年 泉神社 香色雄命 勅命にて鎮祭(茨城県)
崇神50年 大沢神社 相殿神を合祀
崇神51年 日前社遷座(和歌山県)
崇神53年 越前の大彦大臣 明星天子の夢見:嶋廻縁起
崇神54年 穴山門神社 創建(岡山県)
崇神56年 吉志部神社 瑞籬宮から奉遷(紫金山付近)
崇神58年 崇神天皇 ケヒ行幸:ホツマ
崇神59年 崇神49年から本年まで豊饒:大成経
崇神60年 天皇 出雲神宝を見んと欲す:紀
崇神61年 玉置神社 創建(奈良県)
崇神62年 農事を勧む:紀
崇神63年 来年まで市も寛に楽しき:大成経
崇神64年 伊賀隠市守宮 遷幸:倭姫命世記
崇神65年 熊野本宮 社殿創立:皇年代略記
崇神66年 伊賀穴穂宮に遷 :倭姫命世記
崇神67年 熊野奥照神社 勧請(弘前市)
崇神68年 崇神天皇 崩御:紀
933 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 13:04:40.15
太タヌキ殿が ホケノ山の埴輪(庄内式穴あき2重口縁壺)を後の時代に飾ったと主張しているが
それでは、3世紀初めの大型建物とその跡に土盛りと整地をして中期の大型建物。
この建物をどう考える?
3世紀初めの大型建物→ホケノ山(埴輪)→中期の大型建物→庄内式土器の九州持ち込み→箸墓(布留0、埴輪)
後の時代に、庄内式埴輪を作り、布留0の埴輪を作り、それぞれの古墳にたてる?
3世紀初めの大型建物(珠城宮)→ホケノ山(邪馬台国伊支馬の時代)→中期の大型建物(日代宮)→箸墓→
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
古墳時代初頭に神功渡海→桜井茶臼山(新羅からの調)→椿井大塚(新羅からの調は継続している)
神功渡海を古墳時代中期とするのは何故?
やっぱ、倭国を朝鮮の属国とするためか?
>38年もの空年 ↓ はな〜い。
1年120日の暦を、倭の太陰暦に変換してからしゃべってくれ。
934 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 13:08:07.92
>このひとのはご自身の脳内妄想に揃えてイベントを手前勝手にならべるだけのがお仕事。
奴は神武の〜
41年からの具体的説明が出来ない野郎で、た〜だ多々修飾文を付加して
さ〜も説明したふりをしてるだけですよ。
仮に説明してもその具体性がなく抽象的で数字の羅列に終始し、立派に説明
してると誤魔化すだけ。騙されないように。
なお稀代のデ○パを把握されたい。
935 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 13:20:49.04
太国:神武前紀1倍
仲哀:1倍
その間の空白年も1倍
1倍で主張できるのは、そのままの太陰暦である。
であるならば、その間も太陰暦に変換できる。
そいういことでしょ。
936 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 15:08:57.84
空年多ヌキよ
1年385日,1年265日のアスス暦を、オマエの空年と四季に変換してからしゃべってくれ。
また「真・太国先生」にも読んで戴き、「よく盲象したね」とお駄めの言葉を戴いていた。
このアスス暦の太陰太陽暦の解読結果を見ると「ホツマツタヱ」のインチキ性も
脱帽するのは、私ばかりでしょうか。
937 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/12(日) 16:18:56.17
>1年265日のアスス暦
この主張を太タヌキ殿が使っていたな。
使った人間が説明せず、使わない人間が説明するのか?
>脱帽するのは、私ばかりでしょうか。
脱帽すれば、ハゲが目立つだけ。
938 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/12(日) 17:07:34.26
>使った人間が説明せず、使わない人間が説明するのか?
そうだろう。ww
影でコッソリ使っているのはオマエだからな。
オマエは、たま〜にアススがどうのこうの言うがな。ww
また「真・太国先生」にも読んで戴き、「よく盲象したね」とお駄めの言葉を戴いていた。
このアスス暦の太陰太陽暦の解読結果を見ると「ホツマツタヱ」のインチキ性も
脱帽するのは、私ばかりでしょうか。pp
939 :
出土地不明:2012/08/12(日) 22:38:25.19
よく調べてるね。
その真偽のほどは、?
だけどな。
あくなき調査魂には、脱帽!
けど、我々、素人にも理解できる議論頼む。
940 :
メ:2012/08/12(日) 22:38:58.51
>五月 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘
新羅本紀?なんだこれww
941 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 21:18:02.56
>>940 (158)(句麗遂成)十三年 戊戌 三月 倭使至羅
(173)(句麗伯固) 九年 癸丑 五月 倭女主與羅修好
(208)(句麗延優)十二年 戊子 四月 倭犯羅 柰音拒之
(214) 垂仁三年 甲午春三月 新羅王子天日槍 (天之日矛,目頬子)渡来
(216)(羅阿達羅) 四年 丙申 四月 多婆那以迎烏カ爲君
(232)(句麗位宮) 六年 壬子 四月 倭猝至圍金城 助賁躬戰破之追斬千余級
(233)(句麗位宮) 七年 癸丑 五月 倭寇東邊
(233)(句麗位宮) 八年 甲寅 七月 于老與倭戰于沙道 乘風縱火焚舟 賊赴水死盡 是謂嫂河大戦
(233)(句麗位宮)十四年 庚申春正月 帶方人弓遵 自稱魏太守 略邊 通羅倭 生梗甚多
命於灌 率韓臣智等撃殺之 濟古爾侵羅西邊
(238) 景初二年 戊午 六月 戦中遣使 十二月 親魏倭王
942 :
修正で:2012/08/13(月) 21:29:12.23
(158)(句麗遂成)十三年 戊戌 三月 倭使至羅
(173)(句麗伯固) 九年 癸丑 五月 倭女主與羅修好
(208)(句麗延優)十二年 戊子 四月 倭犯羅 柰音拒之
(214) 垂仁三年 甲午春三月 新羅王子天日槍 (天之日矛,目頬子)渡来
(216)(羅阿達羅) 四年 丙申 四月 多婆那以迎烏カ爲君
(232)(句麗位宮) 六年 壬子 四月 倭猝至圍金城 助賁躬戰破之追斬千余級
(232)(羅阿達羅)二十年 壬子 五月 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘
(233)(句麗位宮) 七年 癸丑 五月 倭寇東邊
(233)(句麗位宮) 八年 甲寅 七月 于老與倭戰于沙道 乘風縱火焚舟 賊赴水死盡 是謂嫂河大戦
(238) 景初二年 戊午 六月 戦中遣使 十二月 親魏倭王
(240)(句麗位宮)十四年 庚申春正月 帶方人弓遵 自稱魏太守 略邊 通羅倭 生梗甚多
命於灌 率韓臣智等撃殺之 濟古爾侵羅西邊
943 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 21:55:34.92
偽書か。
>>904 ネットに置かれている韓国の歴史情報は、韓国の軍政の後遺症を背負っている。
軍部がクーデターやって実権を掌握して、
「日韓併合時、朝鮮人は全員日本人として平等に扱われた」
なんて、真実の歴史を話す人は、非国民(北朝鮮のスパイ)として投獄された。
言論の自由など存在しない。
済州島4.3事件では、28万の人口のうち6万人が、韓国政府主導の下で虐殺され、
多くの人が脱出して日本に密入国したため、最終的に3万人に減ってしまった。
最後まで島に残ったのは、虐殺者の集団のみか?
言論の自由がない軍政の洗脳教育が行われている韓国では、
国民の戦意を高揚できる素材と見るや、嘘か真かは関係なく、
とにかく朝鮮民族は素晴らしかった、と流布しまくる行為が慣習化している。
彼ら軍国主義者達にとって、正しい歴史観などたいした価値はない。
これが韓国の歴史ねつ造癖の正体。
韓国の時代劇も考証が不十分で中身が滅茶苦茶。
古代朝鮮の領土? そんなものは大嘘。何一つ考古学と一致しない。
もしも纏向に卑弥呼の神殿があったならば、どのような祭祀が行われていたのか。
纏向型祭祀について、検討してきた人々がいる。
この言葉を最初に用いたのは、橿原考古学研究所の考古学者石野博信氏だったろうか。
昨年、カフェ・プリマベーラの歴史フォーラムで行われた
多氏斎王家現宗主耀姫様による、古代史をテーマとした600本近い講義記録の中に、
纏向で行われていた、隧穴を用いた祭祀に言及したものがあった。
大地の恵みを産出する大地母神の多産の象徴として、
隧穴(土坑)をホトに見立てて、豊穣祭が行われていた。
翌年の豊穣を祈願して、隧神の男性の象徴に見立てた木の棒で、
隧穴を突く神事があったと解説されている。
古い時代の日本では、木の棒はすべてハシと呼ばれていたらしい。
だから、丸木を川に渡したハシに由来する橋などを、今でもハシと呼んでいる。
箸墓古墳には、ホトを箸で突いて死んだ、という伝承が残るが、
この箸は、隧神の男性の象徴として扱われた丸太の棒を指しているそうだ。
多産(豊穣)を願って大地母神の隧穴(土坑)をホトに見立てて箸で突く
神事に関する情報が、誤って墓の埋葬者の死因として伝わってしまっていると、
多氏斎王家現宗主耀姫様は解説しておられる。
多氏斎王家が伝承する、古代祭祀に関する情報を踏まえた講義のなかで、
高句麗の東盟祭と、箸墓古墳信仰として残る纏向型祭祀の比較が行われた部分を
軽く拾い出してみよう。
箸墓古墳の、ホトを箸で突いて死んだ、とされる伝承は、
実際には豊穣を祈願する隧穴を用いた神事が、不正確に伝わっているものだと、
多氏斎王家宗主耀姫様は解説なさっている。
東盟祭を紹介した中国に残る史料によると、
高句麗の東にある隧穴の祭りでは、
「木製の穴の神を神坐(かみくら)に置く」ことになっている。
これが、男神の生殖機能の象徴で、大地母神のホトを突く箸と思われる。
注目に値するのが、今も纏向を見下ろす東の丘に残る、穴師坐兵主神社だ。
穴、坐、兵主(山東・遼東半島の蚩尤という武器の渡来神)のキーワードと
隧穴を用いた箸墓伝承祭祀は、繋がっていた可能性がある。
大陸の武器の神(蚩尤)が隧穴の神坐に祭られ、武器でホトを突くということは、
纏向の地への、遼東半島の海人(後の秦氏)の文化の流入があったことを示す。
高句麗の東盟祭は、遼東半島の神と習合して、纏向に入っている。
この神社で古い時代に、高句麗の日神と蚩尤が習合した、
天日槍が祭られていたことを示すものが、幾つか出土している。
さらに重要なのが、天日槍の妻の赤留姫が、
飛鳥時代の王都だった明日香の女神と多氏斎王家で伝承されている点だ。
明日香は、高句麗語の「日が明ける郷」を音写したもので、飛鳥も同音とされる。
「日が明ける郷」の主祀神であった明姫(アカルヒメ)が、
後世になって神功皇后と天照大神(女神)に転じたと解説されている点だろう。
東盟祭から、箸墓伝承祭祀(纏向型祭祀)を経て、
天日槍&明姫を祀る祭祀へと変化し、新嘗祭に至る流れを追えば、
大和王権誕生の秘密を解き明かすことが可能になる。
纏向型祭祀(箸墓伝承祭祀)では、
隧穴(土坑)が、湧水施設を含んでいたことが分かっている。
多氏斎王家宗主耀姫様の解説によると、
特別な宗教施設を持たない一般の村落では、
簡易的に井戸が使われていた事例が紹介されている。
このような祭祀が行われた井戸の底から、
欠損の見られない祭具が多数発見され、分類されている。
三輪山に祀られている大己貴命は、古事記では大穴牟遅神だが、
この穴の神も、三輪周辺の製鉄や隧穴信仰と関わっていたことが示唆されている。
隧穴に棲む白蛇を隧神(男神)の化身とする、三輪山の信仰の成立過程や、
朱塗りの矢がホトを突く神話に転じてから、葵祭に至る神事の変化の流れ、
穴師坐兵主神社が、遼東半島の海人(後世の秦氏)経由で
高句麗の東盟祭を纏向に伝えたものであること、
今は天照大神荒魂とされている、水神瀬尾律姫の正体が、
河童として知られる東明聖王の母扶余神だったことなどが、
次々と明らかにされている。
箸墓古墳の埋葬者が、卑弥呼かどうかは分からないが、(耀姫様は倭国九州説)
古墳時代に入って行われなくなっていく、
隧穴を用いた祭祀に関する伝承が、今もこの墓に残っていて、
後世の信仰に繋がる流れが追跡できるようになってきた点は興味深い。
卑弥呼の正体は、オボ信仰と太陽信仰が習合した鬼道(祖霊崇拝の神道)の斎王、
で、ファイナル・アンサーだろう。
古墳を用いた祖霊崇拝と並行して、豊穣祭が行われ、
ホトを突く神事は、王統の誕生を祝う葵祭り(桃太郎伝説)へと受け継がれて、
阿礼乎止己と阿礼乎止女がアレする非公開神事になって残っている点も興味深い。
というか、良い子に内緒で子宝(桃太郎)を授かる阿礼の神事をしてないで、
みんなに分かるように、ちゃんとアレの内容を一般公開して欲しいものだ。
>>945 「多産(豊穣)を願って大地母神の隧穴(土坑)をホトに見立てて箸で突く神事」が
なぜモモソ姫の死に関する伝承に化けたのでしょう? もう少し詳しく解説していただけますか?
>>946 天日矛が、高句麗の日神と蚩尤の習合であることは学術的に証明されてますか?
「天日槍が祭られていたことを示すものが、幾つか出土している。」とありますが、
例えばどういうものが出ているのでしょう?
それと、「明日香は、高句麗語の「日が明ける郷」を音写したもの」などというのは、
証明不可能なことで根拠になりません。「多氏斎王家」の伝承だけでは説得力に欠けます。
949 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 19:04:24.27
まあね
『三國志烏丸鮮卑東夷傳』基点にしていっても
「高句麗」なるなにものかのの王家は簒奪によって王家の血筋がチェンジしているんだよね
「本涓奴部爲王 稍微弱 今桂婁部代之」
それにさ
紀元前後に実在した模様の「芻牟さん」のところの流れが「高句麗王家」でござると
「高句麗」なる暴力的ななにものかが成立した時期のひとが
「芻牟さん」のことを自分たちのの始祖であると騙っているだけだからな
芻牟さんのとこの実態がいったいなにものであるのかの検証とか抜きにして
手前勝手なお花畑の妄想ベースにして「高句麗」とか騙られてもね
芻牟さんの跡取りの琉璃光明さんつうのは
実父の芻牟さんの嫁の15歳年上の義理母の召西奴さんのこと嫁にするような土人だからな
ちなみに召西奴さんは卒本の王女さまで17歳の時に旦那の仇台さんに自殺勧告してからに
芻牟さんの嫁になって沸流さんと温祚さんをぽろぽろのひとだね
>>946 わかってないですな。
ホトを突くのは大物主ではなく自ら突くのだよ。
951 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/14(火) 19:41:34.14
952 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/14(火) 20:00:36.61
ネット朝鮮史を読んでいると、倭に対する根本的な疑問が出てくる。
倭人は沿海州あたりにも住んでいたのではないかと思えてくるのだ。
あるいは沃沮とか靺鞨をも倭人と呼んだのではないか。
というのは倭人が盛んに襲っているのは琿春あたりなのだ。
日本や南韓からこんなところを襲うのはどう考えてもおかしい。
それ以外のところを襲っている場合も、どちらへ逃げているかと言えば、北へ逃げているのだ。
倭の五王だけは南韓か日本で間違いないと思っていたが、これも怪しい。
というのは高句麗に邪魔されるなら、渡海して山東省に向かえばいいのである。
これに対し、倭人が沿海州にいたなら、どうしても高句麗国内を通る必要があるのである。
953 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 20:36:06.67
東扶餘多水葬のくせに芻牟さんのかあちゃんは火葬にされたらしい
火葬って異邦人の血筋のなれのはてなんだろうか?
ちなみに聖母と呼ばれる芻牟さんのかあちゃんは「屋柳花」といい
その父親は「屋斗辰」といい彼は「河伯」(河伯)のひとで「金蛙」の叔父さん
(解慕漱)帝叔(解)夫婁 爰自故國移于加葉 のの「加葉」にもとからいたひとで
うらからリモコンしている重要人物ぽいよ
>>945 >古い時代の日本では、木の棒はすべてハシと呼ばれていたらしい。
ハシとは[違う世界の間を取り持つ物]から来ていると思うけど。
箸、端、橋 、そして間人(ハシヒト)
それにモモソの逸話を正確に読んでるか?
三輪の神である大物主との婚姻話、また人と神が昼夜協力して
モモソの墓を作り上げたとわざわざ記紀に記述されてるよ。
1億万分の一お前らのチョンとの関係性を繰り返すのみの説が正しかったとしても
チョンが絡んでる時点で、未来永劫日本人には支持されない
↑変な日本語
957 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 14:39:22.12
大日霊女貴命。
雅日霊女貴命
日霊女は日巫女。
どちら様もヒミコさま。
大日霊女貴命が初代、
雅日霊女貴命が二代。
共立されたヒミコ、トヨ媛は雅日霊女貴命。
叉の御名を、生田大神、豊宇気比売神/豊受皇大神(和魂)。若狭(雅狭、若桜)媛大神、丹生都比売大神・・・
天の羽衣伝説の天女のモデル。
ヒミコが阿波、イヨが紀伊に居た事になるな。
959 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 15:16:40.76
960 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 15:17:23.21
誤爆てかまちがえた・・
箸墓はイヨの墓だな、少し確信的な物を見つけたよ。
962 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 23:13:48.64
イヨが紀伊? え、まじ?
963 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 23:23:24.30
卑弥呼の墓はちっぽけな墓だし、たぶん住宅造成か何かで潰されてしまっているのだろう。
964 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 00:03:08.02
上に千手観音のお堂とかが設置されてからに保全されているかもしれない
卑弥呼の死後、国内は荒れるが
狗奴国(木の国、紀伊半島)にイヨが入る事になる。
葛城山脈より南が狗奴国とすれば対立構図もわかりやすい。
後々に続く南北問題の土壌はこの当時からのものだろう。
967 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/16(木) 15:41:49.98
>狗奴国(木の国、紀伊半島)にイヨが入る事になる。
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行12年以降。
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王、260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
九州へは?
>景行 240〜261年(38年の空白)←大ウソ
↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒等
景行38年の空白←大ウソ
景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
970 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 22:26:20.35
読む奴いるのか? いねえだろうな。
971 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 23:19:57.74
見えないけどね
972 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/16(木) 23:45:13.94
>↓ 38年の空年はな〜い。空年佛は自滅。ww
景行天皇を考古学の知見を交えて、詳細に騙ってみたら?
ちなみに120日の1年は書紀に存在しません。
次回からスレタイ変えろよ
「寂しく老いた朝鮮人による日本神話の研究」
当該スレタイは在日入禁でリニューアル希望
唐松は国外追放
974 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/17(金) 11:01:19.86
>ちなみに120日の1年は書紀に存在しません。
当時は重暦であるから、1年385日265日の暦同様に、この地球上に存在する。
ちなみに38年の空年は書紀に存在しません。
975 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/17(金) 14:49:00.25
書紀 ↓ の8代間の天皇崩御日数表から、120日の1年は書紀に存在する。
【紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
1日 0 11日 0 21日 0
2日 1 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 0 17日 0 27日 0
8日 2 18日 0 28日 0
9日 2 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがない。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたという事である。隅田八幡鏡銘文「日十大王」はこれを裏づける。
上表は1日〜10日までと整然としている。
ということは、舎人親王らは原書群の選択にて、最も信頼おける記述を
選んだに違いないから、このように整然化されてるということは、紀の
八代間の原書群には2倍暦法での記載のものと3倍暦での記載のもの
があって、両者が交錯していたものもあったであろう。その中からこれ
が真であると舎人らが確信、選択をして紀の記述としたものであろう。
八代間の当時、互いに2倍暦、3倍暦を朝廷は使い分けしていたと
受け取れる。だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい。
976 :
卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/17(金) 19:16:33.74
体は太いが知恵は細い太国よ、
倍暦説が成り立たないことは以前私が指摘したから、もう諦めるがよいぞ。
それに日十大王の日十は十日のことだよ、たぶんな。
977 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:25:16.63
たぶんさ日十大王さんも女王蜂みたいなびへいびあしていたんだろうさね
太国をNGワードにすると、このスレはすっきり。
980 :
出土地不明:2012/08/17(金) 22:51:50.70
卑弥呼は、高良山近くにいた女酋
邪馬台国は、そこにあった。
981 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/17(金) 23:31:00.58
朝鮮野郎よ
倍暦説が成り立たつことは以前私が指摘したから、もう諦めるがよいぞ。
>それに日十大王の日十は十日のことだよ、たぶんな。
そのとおりだよ。
当時の1ヶ月が10日間で行使してた時代があったのさ。
だから表では1日〜10日までしかないわけだ。
扶桑国10個の日があった伝説は、当然日数の日を大陸人が太陽と誤訳
したもので、当然1ヶ月が当時は10日間だったということだ。→
>>975 どうだ妄想野郎よ、分かったか?w
草をはやすな
いらつく
しかも単芝
984 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 19:07:15.31
「高良山近くにいた女酋」とかって微妙な表現
985 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 19:09:28.53
お水の中にぽしゃあんって投げ込んだたまたまって
やっぱりあとから回収とかするんだよね
986 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 19:17:16.98
「高良山にいた女酋」は鏡の女王とかでなくって武器がたまたまなんだよね
女王の諸類型からゆうと鏡の女王とは別のタイプの女酋だよね
鏡の女王のところに割り込んだのがたまたま好物の女酋だよ
たまたま好物の女酋の系統のは
鏡を伴う甕棺墓の頂上ちょっぴり掘り起こしてからに
ちゃっかりお墓にしたりしているよな
こいつ○○とか言う病気か
988 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 11:09:03.87
どうも、台湾辺りが臭いな。
高砂族の風俗と類似。
>>982-983 へー、朝鮮じゃw一つで草なんだ、しかも単芝ってw
w一つでイラつかれちゃたまらないなあ、次スレには来ないでね
991 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:10:10.37
10
992 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:11:02.43
9
993 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:26:27.62
994 :
レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 22:23:30.57
そこで一句
とつかにて なぎのはらいし かぐつちの
なれのはてこそ やまたおろちや
おそおろちあ おそおろちや
995 :
レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 22:35:40.59
もしスサノオがヤマタオロチを完全に成敗していたなら前出雲王権の勢力範囲
は、カグツチの死体分布域とカグツチの血の飛び散った散布域とに符号する
筈である。そうした場合、前出雲政権の勢力分布域は、古事記には直接表記は
されていないが、国譲りの戦闘場所やイベント場所の散在する範囲と驚くほど
一致する。この不思議。
つまり、お産の時に母ナミを産褥死させてしまった火の神カグツチが、ナギ
によって切り殺された遺体と血の飛び散った地こそ、前出雲成立直前に倭の
地方にいた大妖怪、ヤマタノオロチの巣喰う場所であり、スサノウはここを
奪い取った。となる。これなら姉様アマテラスにも、どの天孫にも文句を
言われる筋合いのない「スサノウのスガの宮=前出雲」と、こうなる。
この範囲は、具体的には中国地方&近畿&北陸&上信越&関東、とこのような
広範囲になる。国譲り〜神武東征間の全ての疑問は、これで解決可能。
996 :
レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 22:40:39.13
なぜ、この架説になるか?このキーワードは、カグツチの遺体が「いくつに
分かれたか?」と「その血は何箇所に分かれ飛び散ったか?」と言う形で、
古事記には克明に示されている。
そう、カグツチの遺体は八つの遺体が飛び散り、カグツチを屠った剣から滴る
血も八箇所に飛び散るのである。
カグツチ神話体系は、そこ時点から、スサノウによって成敗されるまでの間に
この「分布域」にまたがって、八大勢力として君臨するのである。
そう言えば、大和王権も、大昔から「連合政権」でしたよね???
997 :
レス長たらし毘古レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 22:49:44.95
つまり、初期大和王権が「どこかの属国である」と言う事は、言いたくないし
思いたくもない連中も古代大和王権(記紀編纂期直前まで)には合流して
いた。従って、神武東征以前の「ヤマタ」は、「ヤマト」と同一視したくも
ないし、また同一視されたくもなかったのである、記紀は。
そこで、屈辱の「ヤマタ」の歴史は、ヤマタノオロチと共にスサノウさんに
抹殺してもらい、神武さんの東方移住が「これぞ東征ヤマトオリジナル万歳」
と言う、大スペクタル感動長巨編、となったのではないだろーか?
この作業を記紀編纂までの前の世代までに行われてしまった。だからヤマタイ
国は見つかりにくい。のでは?
998 :
レス長たらし毘古レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 23:08:49.62
さて、この架説のイメージで、卑弥呼の時代(当方はこれをモモソ代と想定)
の勢力範囲を鑑みた場合、どうなるか?
アマテラス勢力圏の九州は、スサノウとは付かず離れずの関係で、警戒はする
けど基本はシカトな筈である。(参照:姉弟の確執から推察)
従って、九州アマテラスから、積極的に出雲や東国に云々と言う事は基本
したくないので、事実暫く放って置いた。
放って置いたら、今度は近畿の所属問題が浮上してきた。
当時近畿は、ヤマタノオロチ(カグツチの死体)の残党や、アマテラスの勅使
が雑居する、(前出雲からしてみれば)東南方辺境の湖沼地帯である。
どちらも「直接支配」までは興味も湧かないし労力も届かないが、どちらも
「相手側」に組まれては困る位置どころ。
古事記にもここは隠す事無く書かれているが、当時の前大和王権(ニギハヤヒ
等々以前)の側も、出雲(スサノウ)にも九州(アマテラス)にも、どちら
にも「良い顔」をしようとした二面外交の性格が、記にも濃厚に描かれて
いる。
その出雲が「国譲り」によって崩壊し、倭国文化域がばらけていた時代に、
「倭」の文化の外より外交官が到来。これが魏晋の外交官である。と架説。
「女王」の拠出はどこの勢力からなされるか?前出雲からの拠出はまず無い。
景行の「遷都」以前であるならば、その拠出の中心地に成るのは、瀬戸内海の
西方と考えるのが自然だろう。
999 :
レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 23:19:53.02
つまり、瀬戸内海西部を拠点とし中華大陸勢力の進出を抑制し九州と韓半島に
対する権威を維持発展したいヒミコグループと、瀬戸内海東部を拠点とし前
出雲の残党や信濃北陸に対する権威を維持発展させたい前大和グループとの
利害がここに完全に「一致」するのである。
従って、どちらも「アマテラス様万歳」なのである。アマテラス様万歳は、
このデロス同盟によって瀬戸内海の東西で完全に共有される事と成る。
逆に言えば、アマテラス様万歳を言う事無しに、このデロス同盟は成り立た
ない、とさえ言えるかもしれない。
九州最有力の女王が、近畿からも賛同推薦を受け、「ヤマタイの総合王」を
名目上名乗ることが、これで可能になり、対外的にも対内的にも自然になる。
1000なら、卑弥呼も邪馬台国も九州
1001 :
1001:
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