福原に武家政権樹立?
源氏一門は根絶やし?
歴史にifはないと言わずに気楽に語りましょう。
2 :
1:2012/02/20(月) 01:56:09.83
しまった・・・スレタイ間違えてる…
3 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 13:28:44.20
恐らく鎌倉に武家政権が開かれていただろう。
そして平家一門は根絶やし。
…なんてナンセンスな仮想をしろとでも?
何番煎じなんだかな
頼朝が平家に勝つことはあり得ない。何でまた相模方面に出ちゃったんだかね。
甲斐源氏との合流を遅らせたのがクリティカル。
平家一門の北条家の婿養子になった源氏の子せがれが何だって?
平家を倒せる可能性があるとすればまだ源義仲や頼政じゃないか?
>>5 相模じゃなくて駿河に出て武田信義の軍と合流するのを優先すべきだったな。
手勢わずか三百ではいくら源氏の嫡流でも何もできん。
捨て鉢になっていたんだろうな。
>>4 @もし関ヶ原で東軍が勝っていたら
Aもし源頼朝が義経・義仲ら身内を粛正していたら
覚えてる限りでは三番煎じくらい
>>1の意向を優先するよ。
どっちでやってほしいの?平家勝利バージョンでやってほしかったんでしょ?
もし要望が特にないなら、このまま進めちゃうよ
10 :
1:2012/02/21(火) 11:00:16.54
>>9 dクス。平家が勝利した世界の2ちゃん住人として頼朝が勝った場合を仮想するスレ(それがいかにありえないかを語る)でやってくれ。
三回転二回ひねりだな
まあ頼朝が勝っていたら、金の世宗が北九州に侵攻していたのは確実だろう。
寿永元年に金の使者が越後に上陸し、城氏に捕えられるという大事件が起きてるからな。
>>11 ってか…ifの中でも最も可能性がないと言われている説をわざわざ選ぶ
>>1の神経が分からん。
>>12 城長茂が捕まえて六波羅に送った使者の一行ね。
この手柄で城氏は越後守に任ぜられたんだっけ。
源頼朝って嫡流ってだけで蜂起した源氏では一番しょぼい奴じゃねーか
主戦場の京からはるか遠い関東で暴れまわった挙句、身内の北条氏に
裏切られて暗殺されるヘタレッぷり
もうちょっとマトモな奴が大将じゃないと源氏は勝てない
>>15 山木兼隆の屋敷を襲った時は撃退されて弓を落っことし(拾いに行った家来シボンヌ)
石橋山では大庭景親と梶原景時が手柄を争って切り合い寸前になってるところをやっと脱出
弟の義経が動いたかと思えば目の前を素通りされる(義経は清盛の家臣になりました)
弱い相手にしか勝つことができず平家の正規軍が出てくると戦うたびに負け続け
ここまで揃ってると殺されても仕方ないわな。
×もうちょっとマトモな奴が大将じゃないと源氏は勝てない
○マトモな奴ならそもそも蜂起なんかしない
>>16 義経寝返りに関しては清盛が凄すぎる
義仲に一時京を奪われても、後白河との不和を見抜いて義仲征伐の綸旨を出させ
先発隊の義仲が賊軍になったことで大義を失った義経を義仲征伐軍に任じて成り行き上見方にならざるを得なくする
こんなの普通できないよ
清盛が危篤から復活した時点で源氏に勝ち目はなくなったな
今頃は鎌倉市営地下鉄が走ってるかもな
だいたい義仲に一時京を奪われたのも、清盛が倒れたために知盛以下の主力が自発的に福原に戻ってきただけの話で、
厳密に言えば負けたわけじゃないからね。
21 :
山木弾正:2012/02/25(土) 22:02:41.70
ま、清盛・重盛が健在じゃねぇ。
宗盛以下だけならなんとかなったろうが
>>20 その清盛がぶっ倒れたってのも実は反体制派一掃のための計略だったって説もあるよね
たしかに清盛の病というチャンスがなければ、源氏もあんなに統率のとれていない
一斉蜂起はしなかっただろう
清盛は何度も発病してはよみがえった鉄の男だからね。
ただ、治承4年の熱病に関してはさすがに発病したのは確かだと思われる。
その後に倒れたのは、明らかにタイミングがあやしい。後白河の旧京防衛要請を体よく断るためだった可能性も高い
もう平安京の主要機能がほぼ福原に移ってたので、旧京を取られたと言っても、
困ったのは顔も知らない義仲と組まざるを得なくなった後白河くらいなんだよな。
西国の家人を統率する上では福原のほうが軍都として明らかに適していた
あとは周知の通り院政を停止されて清盛に泣きついたわけだが
もしスレタイ通り頼朝が勝てば150年続いた福原時代が消えちゃうな
代わりに鎌倉時代にでもなるのか?
似合わねーw
よりともは、母方が藤原繋がりだから、京都摂関家などと
コミュとりやすかたから。木曽は勢いあたけど入京してから
女遊びやら後白河院御所をこうげきやら のちに織田ノブりんすら
マナーは上やたから 純情な陽成帝みたいな清和流やな。
あと平家に後白河がきれた本当の理由は、教科書ないけど、
聖武帝東大てらと、藤原氏てら幸福てら焼いた一族処分しなかたからやん。
しかし福原時代じゃなくて、源氏が勝ったらやっぱ元とドンパチやったんかねぇ。
やはり東国の山猿達だと国際問題には対処できんかなぁ
後白河は、朝廷の力を失墜させた大間抜けだからな。
皇位に付く予定などなく、公家連中からはアホボン呼ばわりされて育ったから、
武士を持ち上げて散々やらせたのも、本人の公家社会に対する復讐心だな。
28 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 23:26:02.43
いくら頼朝がバカでも勝てば近畿に本拠を移すだろ。日本全体を支配するには近畿圏内でなければ不可能
伊豆や鎌倉なんかに引きこもっても関東の一部を支配する豪族にしかなれない
で、東国の連中じゃ公家にいいようにいなされて結局ただの警護役だったかつての侍に戻っちゃうんじゃないか?
>>28 と言うことは、源氏が勝ったらポスト摂関政治である平家政権でなく、
院政又は摂関政治が続いて平安時代が続くと。
もしかしてまだ平安京跡が首都だったりして(笑)
30 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 07:12:44.06
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 ( ) パンツ脱いで待ってる
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .| | | 藤原信頼
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ骨は拾ってやるよ . \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 負けたら絶交な
| |ヽ、二⌒) / .|後鳥羽| |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__. / /
藤原隆家
31 :
井戸魔神F ◆Yyby928XKw :2012/02/27(月) 19:58:54.41
親父の方かと思った
>>29 ありえねーw
もともと平安京は守りにくい上に、当時すでに都市機能は限界だったろ
むしろ400年もったのが奇跡
ロッコーテレビのADの人、
福原出発してから今どこだっけ?
瀬戸内海からボスポラス海峡まで、か・・・。
そういや、少し昔に源範頼が重盛を倒す源平倒魔伝とかいうゲームあったけど、
あれも入れ替わって平家の誰かが頼朝を討つような内容になっちゃうのかねw
範頼生存説自体が歌舞伎の中のお話だからなぁ
まずそっから変えらないと
しかし福原京が無くなってたら古都福原市やその港の神戸港は今ごろ寂れた漁村にでもなってたのだろうか?
三都物語が二都物語になっちゃうなw
何番煎じでもいいんだけど
>>2のわざとらしさが萎える
まあ、坂東の武士団ももう少し考えるべきだったよな。
挙兵に浮き足だって国衙を襲ったりしなければ、江戸湊か六浦湊あたりに探題が置かれて発展しただろうに。
水鳥だけがガーガー言ってる荒涼とした湿地帯を見ると、ほんと日本の恥だと思うよ
坂東の構造的貧困はタイやイタリアの南部問題と同じでこれからの課題になるだろうな。
まあ地震はあり噴火はあり地盤は関東ロームなんてどう使うんだ、
開発するだけ無駄だという意見もあるが、東海道への合併も考えていいのではないか
むしろあの豊かな自然は世界遺産に指定すべき……という漏れは左巻きになるのかな?
それはともかく、頼朝が勝ってたら多少は東側も栄えていたかもね
中心地は土地の狭い鎌倉よりも宇都宮か、水運重視なら房総にすべきだと思うが
41 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:21:19.19
頼朝が勝ってたら天皇を東国へ連れ去って
鎌倉京ができてたのだろうか?
頼朝がどう勝つのかが想像が付かないが、天皇って安徳天皇か?
それとも義仲が擁立した後近衛天皇かな?
43 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:42:08.19
空しいスレだなw
個人的な憶測だけど、頼朝は平将門のように
東国の独立を目標にしてたんじゃないかと思う
そう考えれば義仲や義経の動向を無視するかのように
東国でばかり戦をしていたのもうなずける
西から朝廷や平氏が潰しに来ても奥州が連合すれば
追い返せるだろう
>>18 重盛の弟基盛が一門内部に目を光らせてることも忘れちゃいけない。
よく仮想戦記では重盛を早死にさせるために唯一の同母弟、唯一の味方ということで早めに退場させられる基盛だが、史実では兄を助けて宗盛に不穏な行動を取らせず、武の才に乏しい甥の維盛を出家させて資盛を嫡男に立てるよう兄を説得している。
富士川の合戦ではうろたえる維盛を一喝して鎮め、効果的な反撃を行って源範頼の軍団を撃滅している。
>>35 >>45は書いてないけど、史実の範頼は富士川合戦で死んだんだよね。
水鳥の羽音に乗じて襲いかかろうとしたところを基盛に逆襲されて、指揮を取っているところに矢を喉にくらって即死。
大河ドラマでは基盛の見せ場だわ。
>>43 仕方ないだろ。せめて『源義仲が平家に勝っていたら』とかならまだしも可能性があるけど、頼朝には万に一つも清盛に勝つ目はないからな。
空しくもなるわ。
47 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 20:51:43.34
>>45 >史実の範頼は富士川合戦で死んだんだよね。
いくらなんでもこれはあんまりな!
>>45>>47 白糸川の間違いじゃね?
今は非電化私鉄の橋があって撮り鉄の聖地になってる所
49 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 21:08:05.93
多分福原じゃなくて関東のどこかに山手線という環状路線があったと思う
>>47 うむ。確かにあんまりだ。息子の吉見冠者範圓(のりかず)と間違えていると思われ。
大河ドラマだけじゃなく史書もちゃんと見ような。
だが範頼の討ち死には白糸川合戦というのが定説だが、関東逃亡説もあってこれが源平討魔伝の元ネタになっている。
関東には範頼の子孫を自称する武士がかなり多い。
蒲氏、吉見氏、有馬氏などだな。
>>15 北条氏はその後泰時の代で出世したよね。
泰時・重時の兄弟は最初の武家法御成敗式目の成立に尽力。
さらに時代が下がって泰時の曾孫の時輔は日元貿易に大いに活躍した。
元朝と平和的に国交を結べたのは福原平氏政権の賜物だな
多くの国が蒙古や元との接し方を間違えて滅ぼされているのを見るとうまくやったもんだと思う
まあそれが日本が元朝の臣下扱いであること等に不満を持つ後醍醐帝が福原時代を終わらせる遠因でもあるんだけど……
でももし源氏の猪武者どもだったら日本は元に滅ぼされてたんじゃないか?
>>53 違うぞ違うぞ。後醍醐帝が不満に思っていたのは、あくまで平氏の傍流でしかない北条の、さらに一庶流でしかない時輔流が権勢を誇ったこと。
日本国王平道輔(へいどうほ)として元の官位を受けたのはあくまで時輔個人とその家で、日本の国そのものではない。
元々日本は高麗、その前身の高句麗とは敵国なので高麗より下位(高麗国王は元の宗室一門扱い)になることになる元の冊封を受けることには平家一門も朝廷も反対し、高麗より格上にすることと日本ではなく時輔の家が受けるという形にすることにしてようやく話がまとまった。
※時輔の通称赤マフラーはこの時フビライから赤い戦布(ひたたれ)をもらったことに由来するのは今さら言うまでもない。
>>53 むしろ帝よりも日元貿易から締め出された西園寺家や北畠家のほうが不満を持っていたと言うぞ。
彼らが帝を唆したという説が有力だ。
>>54 源氏の猪武者どもなら滅ぼされていたというのは同感。
高麗より格上にするために時輔はフビライの長女を娶って正室を離縁したわけだが、これも不満の元になってる。
正室離縁のとき時輔に意見した武士の名前が残ってるが、阿野某、愛智某、吉見某ほかことごとく源氏系。
奴らなら大陸に攻め込みかねん。
56 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 22:05:20.71
後醍醐の時代には源氏が落ちぶれすぎでワロタ
本来なら源氏の嫡流と言っても良い家系の新田は群馬の田舎の小領主
河内源氏の楠木は完全にただの流通業者
新田に次ぐ家系の足利は鉱山の親方
平氏、特に北条に対抗するためとはいえ、後醍醐もよくこんな奴等を抜擢したもんだ
こいつらももし源氏政権ならそれぞれが大大名だったんだろうな
>>55 ありえる。西園寺家は伊予の所領を時輔に取り上げられているからね。
怨みは深いと思う。
>>42 ありえるとすれば藤原秀衡とつなぎを取って奥州藤原氏を味方につけ、その軍勢を背景に上洛することぐらいだろう。
甲斐源氏の勢力は頼朝なんかメじゃなかったから、甲斐源氏と組んだ場合頼朝のほうが立場は弱くなる。
貴種としてのアドバンテージを有効に活かすためには奥州藤原氏と組む方がいい。
奥州に下った公卿の誰かを窓口にして秀衡を説き伏せることができればまだ勝ち目のある戦いができる。
一番の窓口になったのは弟の義経なんだが…ご存知の通り清盛に降って平知盛や教経たちと和歌仲間飲み友達になっちゃってるからなあ。
>>56 新田はそれなりに大きかったぞ。福原時代中期までは。
一時鎌倉殿の称号を許されて征東大将軍にも任じられてる。
調子に乗って承久の乱起こして没落してるけど。
足利は大きくはならんだろう。
足利は初代当主の義兼が北条義時の妹婿。
源氏政権なら警戒されまくって小領主どまりだったことは間違いない。
それから楠木は源氏の一族じゃなくて悪党の棟梁。
むしろ平氏一門に近い。
こいつらが出世できたのは貿易から締め出されてカネのなくなった西園寺や北畠に献金したから。
西園寺や北畠、日野といった後醍醐側近の公家たちを籠絡して帝に繋がりを持った。
「…楠正成の出自については、さまざまな説が出され、商業活動に従事した隊商集団の頭目という面が強調されている。一方、楠という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから、土着の勢力という通念に疑問が出され始めている。
『吾妻鏡』には、楠氏が玉井・忍・岡部・滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士であった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂津・河内・和泉など北条氏の守護国に移住していた。河内の観心寺や天河など正成の活動拠点は、いづれも得宗領であったところであり、正成は本来得宗被官として河内に移住してきたものとおもわれる
(海津一朗著『楠正成と悪党』)。
>>56 清盛以来の平家一門はどの系統も皇族や摂関家、有力寺社と婚姻・養子縁組などを重ねていてコネも多く、なかなか帝の意のままにはならなかった。
その点ろくなコネもない源氏の連中なら後醍醐帝も自由にできるからじゃないかな。
61 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 03:13:07.79
>>56 まあ源氏も全てが落ちぶれたわけじゃないんだが。
足利の中でも家氏の系統は広大な所領を持って栄えていたぞ。
あと頼朝と喧嘩して平家側についた武田、元から平家派だった佐竹モナー。
62 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 04:05:34.67
>>53 >>54 後醍醐帝の時代にはすでに元の臣下にはないぞ。
時輔の息子の時朝が日本国王の印は返しちまってるから。
ただフビライの息子のドルジとチンキムがハーンの位を巡って争ったときとかに日本に出兵要請が来たり、元の存在がいろいろとウザかったのは事実のようだ。
63 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 05:20:01.70
>>62 お前馬鹿だろ
ここはマスター以上のレベルの日本史プロがチェックしている板・スレッドだ
いい加減なことをしたり顔で書くなよ
チラシの裏でオナニー文を書いて満足してろ
二度と書き込むな
先生、清盛の臣下になった義経は兄の頼朝を捕縛して
京まで連行したまでは良かったけど戦後処理で頼朝の助命
(その前提で頼朝を説得)嘆願が受け入れられず
処刑されたことから清盛に不信感を持って蜂起しようとしたが失敗
奥州まで落ちのびたがそこで討たれたんでしたよね?
>>64 いや頼朝自身は嫁の実家の北条氏に討たれてる
そのおかげで鎌倉から板東は腰砕けになってこぞって平氏に下った
義経が助命嘆願したのは頼朝の遺族についてだよ
66 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 22:35:11.81
>>65 義経が捕縛して京に連行したのは頼朝の嫡男万寿。
出家させるからと助命嘆願したが処刑された。
ちなみに、処刑を主張・実行したのは宗盛。
清盛と重盛は態度保留で、状況が落ちついてから出家を条件に助けるという裁定を下すつもりだったらしい。
それを宗盛が独断で、匿われていた義経の館から騙し打ちのように連れ出した上に名のある武士ではなく身分の低い下人の手で処刑させたから義経が怒ってしばらく館から出てこなくなった。
義経謀反の噂が立ったのは事実。
万寿が殺されてさすがに頭にきた源氏の武者たちが武装して義経の館の周りに集まり出して、京中が騒然となった。
最終的には清盛が宗盛を流罪にし、実行犯の宗盛の家人を斬首することで事態は収まった。
福原といえば世界遺産になった雪見御所の美しさを語らずにはおれぬ。
>>52 これ以外に日下部氏の朝倉、資盛の息子を養子にもらって平氏一門に加わった織田(津田)も福原時代に出世した一族だな。
須磨寺が源氏の手勢に焼き払われて
スマブラDXの略称が違うものになっていた、と妄想。
>>70 あの時平重衡がいなかったらマジで通称変わってたかもね。
襲った源氏の手勢は重衡に叩きのめされて捕縛、寺に引き渡され、頭を丸刈りにされ焼印を押されたあげく斬首されてんだよな。
マジでろくなことしねーよ坂東武者は。
源氏の坂東武者どもには本来なら寺を焼く度胸なんてないよ
神罰や仏罰を信じる迷信深い人種でもあるから
須磨寺焼き討ち事件は平氏嫌いの南都仏教界が源氏をそそのかしたせい
平氏と南都の対立は福原時代には解消されず後の南西朝時代まで持ち越されちゃうんだよな
もし源氏が勝てば南都仏教がもてはやされるのかな?
大仏を復元したりしてw
いやーわからんよ。
野蛮人相手だともしかすると僧侶も大人しくなるかもしれんよ、
野蛮人が教化されて世俗に宗教が抑えこまれるのも世の常だし
流石に僧兵が世俗化して女犯を日常に犯すようになるとは思わんが(笑)
>>72 なるほど、それで資盛の息子の覚盛は日蓮を後援したわけだ。
平氏長者・太政大臣を継ぐやいなや維盛の息子六代を日蓮に託し、寺まで建ててやる大盤振る舞い。
日蓮の破壊力に期待したわけね。
南都は無論、北嶺も京が遠ざかって影響力が低くなったのを恨み平氏を快くは思っていなかったからね
宗教界に味方を作るために新興仏教を支援せざるを得なかったわけだ
>>75 この時期台頭してきたいわゆる福原新仏教はのきなみ、平氏の庇護を受けてるね。
足利政権の次を狙って甲斐の武田や駿河の今川が上洛しようとした時、織田・朝倉といった平氏系の大名と一向衆が手を結んで撃退したのはこの時からの縁によるものなのか。
>>72 臨済宗あたりに丸めこまれてパトロンにされそうなヨカン
史実でも最終的に平氏一門の旧仏教対策の顧問の位置を占めたのは臨済宗の僧だった。
洗練された平氏一門さえも認めた知性の持ち主、坂東武者に御せるとは思わないからおそらく東国に巨大な宗教国家が誕生していたと思われ。
そして鎌倉の地に元・坂東武者の僧兵軍団が集うことになると思う。
>>74 弟の盛綱の時代になっても支援されてる。日蓮宗の王仏冥合思想、仏法絶対思想は天皇の宗教的権威を否定するという面で平氏政権が朝廷から自立した武家政権に脱皮するためには都合が良かった。
>>80 たとえば「鎌倉の大仏」か・・・。
実現したとしたらどのへんになったろうな。
長谷あたりか?
奈良や平安京や福原に対抗するってんなら、
そのくらい造ったかもしれないな。
・・・財源はどこから捻出するのか知らないが。
83 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 10:32:45.22
>>81 奈良仏師を招聘するのでは?
…俺も費用はどうするかまでは知らんけどw
その大仏がまさかの立像だったりして
当時の技術だと立像じゃ丈六仏が精一杯じゃないのかな?
それ以上に、坂東武者どもの趣味だと連中が南都に寄進したのと同じような
マッチョスタイルで大仏作りそうで嫌だなぁ
もし源氏が勝っていたらあのジョジョ立ち仏像が日本中にあふれていたかと
思うと体に寒気が走るよ
>>59の出典で「吾妻鏡」と書いてありますが、これって何ですか?
頼朝側からの平源戦を紐とくってやつだったかな。
独唱法師が関東の荒々しさや野蛮さ、西国の儚さや美しさを語った叙事詩とも呼ばれるんだっけか?
政談である平家物語に対してよく引き合いにだされたかと
>>86 海津先生の引用したのは比較的早く成立した部分だけど、
創作部分が出てくるから史料としてはあんまり役に立たないぞ
やっぱり平家物語が基本中の基本な
89 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 03:18:59.77
>>86 七割創作真実一割、真偽不明が残り四割と言われる偽書。ごくまれにだが、埋もれた人物とか歴史的事件を発掘するのに役に立つことがある。
その程度の本。
大鎧の装着教本、源家の戦の作法を知る教本としては確実に役に立つ。
90 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 20:46:12.81
福原パープルサンガはどうちゃうんだろうね
91 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 22:10:25.28
>>90 意外と別の都市に本拠地構えてやってそう。
92 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 01:58:14.86
>>81 特産品の鉄を西国に売って稼ぐんだろう。
あるいは奥州藤原氏に難癖つけて滅ぼして金山奪うとか。
93 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 02:05:35.81
あまりに放置されすぎワロタ。
まあ入道相国様の築いた日の沈まざる日本帝国が幻になることなんかありえないからなー。
>>92 日元貿易で活用された奥州の金がそんなことに使われちゃうのかorz
北のまほろばと呼ばれた中世東北地方の栄華が幻になってしまいそうだな
95 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 01:38:46.59
>>94 幻じゃなくて全部燃やして灰にするだろ。
平泉なんて影も形もないくらい。
96 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 02:44:10.61
>>74 佐渡を日蓮の知行国として与えているのも忘れちゃいけないぞ。
>>95 いくら東国武士が野蛮だからってそこまで無茶な蛮行はすまい
京阪福・北九州・東海に並ぶ四大都市圏の東北地方がなくなっちまうよ
98 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 02:07:37.22
あの東北地方が何もない田舎になるところなんて想像つかんわ。
代わりに関東が隆盛するかもね
100 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 21:28:24.82
>>92 奥州藤原氏に勝てるのか?
頼朝の軍団なんて藤原国衡一人でもボコボコにできそうなんだが。
ろくな将がいないし、第一頼朝が情けなさすぎる。
>>100 将はいる。というか…いた。頼朝の弟たちは皆、侮りがたい将あるいは文官だったし
関東の武士は実は滅茶苦茶強かった。
だが、頼朝に過度の粛清癖があって…
>>100 その父太郎国衡は関東武士の畠山重忠に討ち取られているわけだが(愚管抄)
吾妻鏡では和田義盛に射られてる
所詮、百戦錬磨の坂東武者とじゃ役者が違うだろう
>>101 弟たちのなかで武勇なら最強と思われるのが清盛についた義経なわけで……
しかも彼は少年期を奥州で世話になってるから例え頼朝についたとしても奥州攻めに従うことはないだろう
むしろ奥州藤原氏の側にいっちゃう可能性もある
もしかして鎌倉が現在の首都だったりして
城塞としては良いけど、現代の都市としては狭いよな
鎌倉幕府の大身御家人と坂東武者をごっちゃにしてないか?
それに奥州藤原氏って屈指の坂東武者、英雄タワラノトウタの末裔だろ?
北条に従うレベルのなんちゃって坂東武者じゃ数で圧殺する以外勝てないんじゃね?
鎌倉幕府ってなんだ?
平氏が東国監視のために置いた鎌倉探題のことか?
107 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 15:21:51.48
なんでもない(ρ_;)
鎌倉は坂東の反乱に備える防波堤として要塞化されたけど
福原時代末、新田義貞にあっさり落とされたからいまいち防御力が信頼できないな
109 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 02:29:15.56
>>103 鎮西将軍九郎三位義経、マジで最強だな。
110 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 01:17:08.70
>>103 >>109 平知盛、重衡兄弟や教経が絶賛してるくらいだからな。
あと笛もうまい。
青葉三位敦盛と競ってわずかの差で負けた逸話がある。
>>103 ありえる。清盛についたのだって、幼年期に養育してくれた池ノ禅尼から手紙をもらったのが決定打だったし。
無理に従軍させようとしたら寝返るか出家するかだな。
義経の家臣は藤原秀衡がつけた奥州の連中が多いし。
もし頼朝が勝っていたら、平家一門は間違いなく衰退しただろう。
安徳帝の后に頼朝の娘が送り込まれて、源氏が繁栄。
頼朝は上皇になれたかも試練。
>>112 源義忠が殺された時為義がただ一人残されたように維盛か資盛がただ一人残されることになるのか…。
むごいな。
>>110-111 京育ちの義経は坂東の武士よりも平家一門との方がウマが合ったみたいだな
その辺も鞍替えの遠因かもねぇ
頼朝の部下とは合わない気がする
>>112 舅が平氏の血をひくらしい北条氏だからわりと温情措置が取られるんじゃないか?
>>114 一方で、中級貴族の養子として同じく京風に育ったであろう範頼は、最後まで頼朝に忠誠を尽くしたな。
頼朝がその忠誠に値しなかったのは周知だが。
義経と兄弟で殺し合うのを躊躇った、人として当然の感情を抱いた事を罪として
いかなる逆境にも耐えて戦い続けてくれた範頼を粛清したのが
頼朝が板東武士達から見捨てられた決定打だったというのは、ロマンを求めすぎだろうか。
>>114 教経とは雪合戦をしたり相撲を取ったりとやたら仲がいいね。
>>115 本当、決定打だったよね。
範頼の家臣団は頼朝の陣を去ってそのまま敵に回った。
白昼堂々去っていったもんだから、多数の一般人が範頼軍団の離脱を目撃してて頼朝は庶民からも見放された。
忘れられがちだけど、義仲討伐は頼朝も義経・範頼に命令してたんだよね
後白河(清盛)側の義仲討伐命令より遅れて届いたと推測されている
平家の清盛が義仲討伐を命じるのは当然だが、人質をもらって和解した頼朝が
単に先を越されたというだけで粛清しようとしたんだから、そこでも人望を失ったんじゃないかな?
同じ内容の命令でも清盛のは言外に「今までのことは水に流そう」と寛容を示しているのに対し
頼朝のは「俺より上に立つ奴は許さん」という狭量さが現れている
寝返った義経はもちろんだけど後も忠義を尽くした範頼も器の違いを思い知ったんじゃないかな?
>>117 しかも人質に脱出される不手際を演じているし。
監視役の熊谷直実まで寝返ったりもう最悪だ。
>>116 通常の感覚で源氏を測っちゃ駄目だよ。
一族が助け合うのは当然というのは、平氏やその他の武士団の感覚。
源氏は親子兄弟で殺し合うのがデフォ。義経だって兄と殺し合ったわけだし。
そんな中で「弟と殺し合うのは気が進みません」ってのは、他所の氏族なら
「無理もない」で通るかもしれないが、「旗幟を違えた親族を殺したくない=敵に回って貴方と殺し合います」
というのが源氏クオリティ。そこの空気を読めないから「和殿も九郎が真似するか!」と処刑される。
一方で上記の理屈は源氏の中だけで通じるものな訳で。源氏じゃない板東武者たちは、最大級の奉公を尽くした
範頼に対して恩賞どころか死で報いた頼朝の評価がストップ安になるのも理の当然。
付随的な要素として範頼の養父は上野介、下野守、陸奥守、鎮守府将軍を歴任し、しかも遥任じゃなくちゃんと
現地に赴いて任国経営に当たった「東国のプロ」だった。
そんな関係で関東の武士団からは「国司殿のところの若いの」的な感覚で、伊豆で引きこもっていた頼朝より
範頼の方が馴染みのある人物だったんだよな。それが関東クオリティで考えても理不尽すぎる殺され方をすれば、ねぇ。
>>119 三浦氏一門は真っ先に離反。
和田義盛は範頼の遺体を弔ってから一族郎党完全武装で離反を宣言してから離反。
上総広常は引き止める頼朝の使者に矢を浴びせて離反。
坂東八平氏の雪崩式の離反は当然のこととしか言えん。
北条時政が最後まで供をすると言いつつ福原に使いを送って平氏によしみを通じても時政本人を除く一族が非難されなかったのも。
叔父の行家も頼朝を速攻で見限って義仲に従ったし、頼朝が勝つためにはまず本人の人格をどうにかしないとな
源氏方も力を総結集させればもうちょっと勝負になったはず
>>120 畠山重忠も忘れちゃいけない。
重忠の弾劾文は「これを読んで怒らず涙しない者はもののふにあらず」とまで言われた名文で、武士が主君から離反する時の文書のお手本として19世紀まで使われ続けた。
観世能「範頼」にはほとんど全文が採用されてて、見た者はこのくだりで必ず泣くっていう。
そもそもこの時代の源氏を平家と同格扱いするのがおかしいんだよ
真面目に考えれば義朝の時代の方がまだ勝ち目がある
後に福原政権を倒した足利氏が源氏だったから源氏嫡流を過大評価してるだけで
実際は、平家がスムーズに山城から福原に京を移したという時代変遷に過ぎない
>>123 だよなー。実戦経験もあれば曲がりなりにも朝廷内に地歩も築いていた義朝が死んでしまっちゃもうどうにもならん。
後継者が範頼だというならまだ少し違ってきたかも知れんが。
そこだ。頼朝が唯一兄弟たちを圧倒したのが「母親の身分」
あいつ、三男なのに嫡子なんだもの。才能とか交友関係以前に
頼朝は生まれた時点で頭領の座が約束されてて、範頼や義経は
ノーチャンスなのが中世。
>>125 母親の身分で勝る宗盛を立嫡せず重盛を嫡男で通した平氏、清盛とは天地の差だな。
この差が19世紀末まで平氏の優位が続いた要因だろうな。
しかしこの場合、頼朝より上の兄は平治の乱で戦死しているわけだし
義朝もこの世にない以上、能力ある者を頭領に選ぶことも出来ない。
義朝が死んだ時点で頼朝13歳。範頼推定8歳、義経に至っては1歳だ。「長子が後継者」を
徹底していても、前頭領が死んだ時点で最も力ある者を後継者にする方式でも
選ばれるのは頼朝に変わりない。
要するに義朝敗死の時点で源氏は詰んでいたと。
ここから盛り返すのはもちろん容易ではない。最善手は源頼政を旗頭に仰ぐ事と考えるが
それでは「源頼朝が」勝つことにはならない。故にハードルはさらに高くなる。もし頼朝が勝つとしたら
1 源氏一門が頼朝のもとに結束する
2 東国武士団を完全に掌握する
3 朝廷の全面的な支持を得る
位は最低条件だろう。清盛と重盛の早い段階での死亡(必要なら暗殺)も重要だろうな。
>>129 関東の支配すらままならないうちに身内に暗殺された頼朝にそこまでしろと?
無理ゲー過ぎるw
嫁の安養院にやらせた方がマシかもしれんな
>>130 >>129は、最も重要な条件を忘れているぞ。
4 頼朝が余計な事をしない。特に、圧倒的な軍事的優位に立つまで味方を粛清しない。
>>129 3と+αの条件はほぼ100%達成不可能だぞ。史実から見て基盛・資盛まで消えないと(消さないと)頼朝の勝利はない。
少なくとも資盛を重盛の後継者にさせず、宗盛ないし頼盛が後継になるように工作しないと平氏の政治力は動揺しないし、朝廷工作も無理。
そして平氏に工作を仕掛けるには朝廷にルートを作っておかないと厳しいわけで…。
頼政・義経(+常磐御前)が敵、義仲が独立勢力で平氏の同盟者という状況ではまず実現不可能。
頼朝がつてを辿って工作しても、実質的な源氏の棟梁の頼政から潰される可能性が大。
>>129 奇跡的に成功するとしても五十年はかかるな。
ここは頼朝としては一旦平氏に頭を下げて許してもらい、所領の一つ二つも返してもらって軍事貴族に復活、息子に全てを託すというのが最善手なんじゃないだろうか。
134 :
129:2012/10/17(水) 22:08:52.49
達成が至難な条件なのは判っているが、これを満たさずに勝つのはもっと無理だろう。
強いて言えば全てを力で叩き伏せて、平家だろうが朝廷だろうが従わせる覇王の道だが、
その力を得るためには、最低でも板東武者全てを手駒にしなければならないから振り出しに戻るわけで…
>>133 最低でも自分が出家するぐらいの交換条件を出さないとそれは無理
頼朝はサラブレッドだけに復活させたら危険度急上昇
清盛がそんな危ない橋を渡ることはありえない
>>134 結局詰みだと…。
もうこれは逃げるしかないね。
常磐御前は平治の乱後に境遇に同情した池ノ禅尼と仲良くなって清盛の側室に入り、常磐御前からの依頼で池ノ禅尼が義経を説いて清盛につかせたんだけど、常磐御前ルートで平氏に降った坂東武者は結構多いんだよね。
頼朝が勝つにはこの常磐御前を何とかする必要もあると思われ。
常磐御前はでかいか小さいが微妙だな。義経が釣れれば、義経が寝返り希望者の窓口になれば済むし。
寝返り後、義経は範頼や全成に頼朝を見限るよう勧める手紙を書いていたようだ。
「関東武士団の完全支配」
これだけでも出来れば、結構なチャンスがあっただろう。蛮人蛮人言うが、板東武者の戦闘力は尋常な代物じゃない。
そして細かい勢力に分かれているから判りにくいが、実は合計すると動員力も化け物じみている。
これを統合し、上方へ行くための支援を備え、適切な将(何も史上屈指の名将である必要は無い)に指揮させれば、
おそらくは義経すら一蹴する戦力になる……のだが、結果は
>>120……これなんて宝の持ち腐れ?
>>139 >>66の時にも頼朝の次男千幡は生きてたのに、誰もかつごうとしなかった(源氏の武者たちは「義経が清盛に抗議するなら一緒に行く」とは言っているが、誰も復讐戦を挑もう、千幡を推戴しようと言った者はいない)ってのが頼朝の人望のなさを物語ってるな。
しかも頼朝長男万寿を殺したのは元 頼 朝 の 家 人 だぞ。
人望がないにもほどがある。
>>123が足利って、わずか三代で同族の斯波に将軍の地位を追われ、さらに斯波三管領の織田に簒奪されてるんだけど…。
足利も血統優先の後継という過ちを犯してるんだよね。
斯波も結局そこが原因で分裂して織田に政権を取られた。
織田は後継も家臣の抜擢も能力主義を貫いたから、1467年に政権を取ってから1868年まで400年続いた。
何回も本家の地位が移動したし時代が下がるにつれてどんどん下の方の家系からの当主就任が増えてくるんだけど全く気にしない。
物凄い差だよね。
>>141 それについては若干の異論があるな。貴殿の論は、組織が確立した段階の話だ。
頼朝と関東武士団の関係を再考していただきたい。自立して生きていける関東人に
兵も財もない頼朝が提供できる、あるいは優位に立てる要素は何か。
それは「貴種」であるという一点だけだ。当時の関東では官位持ちの貴族なんて
国司を除けばほとんどいない。そこに頼朝の存在価値が生じる。
頼朝から見れば血筋にこだわることを止めるのは絶対に出来ないこと。
これは他の源氏でも大差ない。また、頼朝が源氏の頭領であることを保障するのも
血筋だけだ。個人として関東人から得た信頼の量なら、弟たちの方が勝っただろうし。
何が言いたいかというと、血筋にこだわらないなんて言うには100年早い状況だったと。
足利の実権が長持ちしなかったのはそうなんだけど、福原政権を打倒したのは事実な訳で
「平氏を打ち倒すのは源氏」という信仰のようなものが形成された影響は大きいよ
源氏であることが反平氏=反織田の象徴になったからね
織田政権初期にあった甲斐源氏の武田信玄の上京作戦は、今でも「信玄の急死がなければ織田は潰れていた」と言われているし
織田幕府を倒して維新を成し遂げた島津氏も頼朝の子孫を自称している
そして意外にも織田氏の同盟者から東海の大藩となった徳川氏も源氏を名乗っている
実は徳川も下克上の機会をうかがっていたのだろう
徳川って鎌倉探題を滅ぼした新田の子孫なんだよね。
一時期とは言え将軍になった足利じゃなかったから織田も安心して大藩を預けられた面があるんだが、やっぱり狙っていたのかあ。
美濃源氏土岐一族の明智が織田信長に反乱を起こした時も黙っていたのはそういう理由だったのか。
織田家臣の羽柴が山陽道から上洛して信長と合流、明智を粉砕した時、真っ先に駆けつけて賀詞を述べているあたりどうも怪しいと思ってた。
羽柴といえば、早くから織田に従って平姓をもらった古参の家人だわな。
本姓は豊氏(豊臣氏。中臣氏と関係あるのか?)らしいが。
家人で平姓をもらった連中多すぎ。
>>144 徳川氏といえば、後の時代に徳川家家老の徳川光國が大日本史を編纂しているね
大日本史の天皇中心の歴史観が幕末には倒幕運動の理論的支柱のひとつになっている
けっきょく徳川氏自体は幕府が朝敵認定されるまで公武合体派だったわけだが志士には倒幕派も多かった
>>146 一門家老の水戸徳川家の徳川光圀か。
でっかいコロシアムを作って異種格闘技戦をやったりいろいろ派手に遊んでた人だな。
食通としても有名な。
あの人の出した本といえば格闘技と食べ物の本ばかりだと思ってたけどそんな学もあったのか。
壮絶に脱線しているような気もするが
「源頼朝が平家に勝った結果できる社会」の前提となる
「頼朝がどう平家に勝つのか」が想像を絶する以上、致し方ないか
このスレでは異端の見解に属するのでしょうが、私は
「平家が打倒され、東国武士に日本の実権が移る。下手したら鎌倉幕府」
という想定は、それほど無茶な物でもないと考えます。
既出のように東国の軍事力自体は極めて強大であり、統合し組織化することさえ出来れば
軍事面では福原政権に十分対抗できるものだからです。
政治面で見ても朝廷には反平家の貴族もおり、平家の台頭が不利益となる後白河院もいます。
「平家が打倒される歴史」自体は、あり得たのです。
最大の問題は、>>1さんが出した課題が「源頼朝が」勝利することだということです。
例えば早い段階で頼朝が傀儡化し、東国の経営が有力武士団の合議で進むようになったら。
平家には勝てるかも知れませんが、>>1さんはこれを「頼朝の勝利」と認めてくれるでしょうか。
ログを見直す限り「平家打倒のためには、まず頼朝を何とかしないと」以外の結論が見つかりません。
頼朝は一応、源氏嫡流として坂東では顔のきく人だったから他の源氏と坂東武士のパイプ役になれば良かったんじゃないのかな?
実際はパイプ役どころか実力もないくせに自分が一番じゃないと気が済まないという困ったちゃんだったわけだが
>>138 範頼は寝返り拒否して処刑されたけど、全成は寝返って生き延びたんだよな。
>>150 他の源氏が参入したら、関東武士達がその源氏と直接付き合いが出来て
自分の価値が失われるのを恐れたのではなかろうか。実際、甲斐源氏や
もちろん木曽との連係に消極的だったし、志田義広とは普通に殺し合ったし。
>>151 多分そうだろうと。多分というのは、いわゆる頼朝の乱には頼朝の弟4人が
参加しているが、義経を除く3人は史料が乏しく混同も見られるから。
まあ地方叛乱の、しかも首謀者以外なんてそんなものだけど。
一応自分が、最も確度が高いと考えるのは
範頼:頼朝に殺害される 全成:義経に説得されて寝返る 義円:白糸川合戦で戦死
なんだけど、>
>>50で紹介されている白糸川で死んだのが範頼だ説とか、全成も
頼朝に殺された説とかもある。いわゆる範頼生存説も、範頼と全成の混同から始まったのかもしれない。
>>152 >>46で基盛に射殺されたのが義円、白糸川で戦死したのが範頼の息子という説もある。
生存説と落人伝説がたくさんあって分かりにくいことこの上ない。
>>149 × 「平家打倒のためには、まず頼朝を何とかしないと」
○「平家打倒という頼朝の考えを何とかしないと」
源氏が平家を打倒するには頼朝に平家打倒という考えを捨てさせ、最低でも一世代は忍従してほとぼりを冷まさないと絶対に無理。
嫡流の当主が反抗的だと他の源氏までが警戒されて身動きが取れなくなる。
源氏方の最善手は、
1.頼朝をどこかの寺に押し込めるか強制的に隠居させて万寿か千幡を後継にする
2.ひたすら頭を下げて耐える
3.耐えて清盛・重盛・資盛が死ぬのを待つ
4.平家に人材が尽きた所で蜂起する
これしかないと思われ。
「数十年耐えて次世代に賭ける」には、大きな問題点がいくつかある。例えば
1 頼朝の乱自体が20年の雌伏の後に起きた事件であることを失念している。
2 挙兵のきっかけは女の取り合いという、しょうもないが絶対に引けない突発事件であり
「挙兵しない」という選択肢は初めから無かった。
3 あと50年も待ったら、平氏政権の基盤はさらに強固になる。
4 源氏の次世代が、平家のそれより優秀である保障はない。与え得る教育を思えば逆の可能性が高い。
等々有るが、今回はそんなことはどうでも良い。重要なのは「源頼朝が」平家に勝つという前提条件を満たせないことだ。
どれほど有効な策でも、これでは検討に値しない。
>>149 頼朝なんて飾りですよ、エラい人にry)
仮に、お飾りの大将で東国の勢力が独立し得たとする
その場合、目的を達成してしまったら団結し続ける動機が失われる
結局東国を束ねる求心力が皆無では、一時の政変で終わるだろうな
後白河以後の朝廷に軍を率いて蜂起する根性があれば、復古の流れになるの
かも知れないけど、いくらなんでも非現実的過ぎる
平家と源氏嫡流が潰し合って力を落とした後では、よしんば朝廷が残存勢力
の結集に成功しても武士団を統制出来ない
東国における武士団の統制が失われたら、力を削がれた福原と平泉が拮抗して
睨み合いになり、その間に群雄割拠の坂東が挟まる
そのまま日本の歴史上、類を見ない乱世に突入する恐れさえある
>>156 13世紀後半から14世紀初頭の戦国時代が百年早く訪れるわけだな。
おお、恐ろしい。
頼朝がトップに立てば良いと言うのならこういう方法はないかい?
@義朝が清盛に勝利して権力の座に着き、頼朝に後継させる
A頼政のクーデターが成功し、名目上のトップとして源氏嫡流の頼朝がかつがれる
B義仲が平家を打倒し、その勢いを恐れた後白河が頼朝を高位につける
C嫁の実家の北条家の口利きで福原政権に参加、がんばって出世する
@保元の乱の時点で官位は六階級も差があり逆転は難しい、有力な親族はほとんど殺し尽くして助けてくれる縁者が少なく集められる戦力にも限りがある
よって無理ゲー
A頼政のほうが貴族たちからの信頼は厚く、担ぐ理由がない
B義仲のほうが源氏の正統に近いので後白河は義仲を手なづけにかかる可能性が高い
C危険きわまりないので使い倒されて捨てられるか暗殺される可能性が大
どれも無理ゲー
>>158 最も可能性が高いのは3というか、それに近い状況はあったんだよな。
京都を占拠した義仲を討つべく頼朝が組織した遠征軍は、公称6万という中世としては桁違いの大軍
(後年、高麗が「日本全土を制圧する」計画で想定していた動員数が水夫込みで公称4万だったことを想起されたし)
しかもその全員が薩人マシーンのご先祖様たちというべき強兵。率いる将は、一度は相模まで攻め込まれた劣勢を跳ね返した
範頼・義経コンビという鉄壁の布陣。
さらに範頼は、甲斐源氏の提案を入れて「平家を倒してから源氏の長を決めよう」と、義仲と休戦の交渉を進めていた。
この交渉が成立するか、せめて義仲と平家を各個撃破出来れば、京都制圧はまず確実。そこからさらに福原攻防戦に持ち込んで
頼朝が天下を取る目は十分に有っただろう。
だが
>>117-118の事情を踏まえた、あの重盛−義仲会談により義仲は平家寄りの中立に。さらに運命の勢多橋合戦における
義経の寝返りで板東軍は敗走。なんというか…ここが戦局の転換点かなぁ。
>>160 これ以前の頼朝は正規軍が出ると負け続けとはいえ、平家に与した地方の武士団程度には勝てていたし範頼や行家がいたおかげで他の源氏に対して優位を保っていたから、坂東武者も棟梁と仰いで集まってきていた。
が、勢多橋合戦前に熱病から回復した清盛が動いて義経の取り込みを図って成功、さらに合戦後に範頼が頼朝に処刑されて
>>120、
>>122となり頼朝軍団は瓦解。
正しく転換点だね。
というか義経が裏切らずに、作戦通り宇治から京都を強襲していれば義仲は詰んでいただろう。
少なくとも京都は放棄せざるを得ない。そうなれば関東方が院の身柄を抑えることが出来る。
戦術レベルでは、戦うまでもなく関東方の勝利が約束された局面だった。
ここで池禅尼からの手紙が義経に届かなければ…頼朝は勝っていたんじゃないかな。
>>162 池禅尼からの手紙については義経の郎党某と軍監の土佐坊昌俊の渡せ渡さぬの争いさえなければ、だね。
池禅尼の密使が義経の陣にやってきて郎党に手紙を託した、で手紙を義経に届けようとする郎党を土佐坊が見咎めて、手紙を渡せと迫ったらこの郎党が強情者で渡さず、押し問答しているところに義経が現れて手紙が義経の手に渡ってしまう。
で、手紙を読んだ&土佐坊が思いっきりマル禁ワードを口にして地雷を踏んだことの相乗効果で頼朝を見限った義経は…と。
>>162 もしそれで義経・範頼が平安京を押さえたとしても、そこで手詰まりじゃね?
平家を倒すには西に進んで大坂や福原に出なければならないわけだが、義経・範頼も
海軍はもっていないはずだし海戦の経験も無い、さらに兵站も延びきっている
平家側が反撃体制を整えるまでに福原を落とすのは無理
そして反撃が始まれば、守りに向かない平安京などあっさり奪還されるだろう
165 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 14:12:34.19
>>162 同感。
瀬戸内、西国の海賊はみんな清盛に掌握されてる。
西へ行くのは自殺行為。
そして京を守って勝った軍はいない。
後白河が清盛との良好な関係を捨てて頼朝につくとは思われないし、むしろ京を取って院を押さえたことが命取りにもなりかねん。
頼朝が勝ってたら、坂東地方に球団が出来てたりするわけ?w
まさかそんなこと信じる人はいないでしょ
一応、サッカーのJ2のチームならあるよw
鎌倉にあったチームはヴァンフォーレ甲府に吸収されちゃったけどな
168 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 23:00:51.45
ヴァンドーム鎌倉か。
スタジアムの交通アクセスが悪すぎたのと、鳴り物規制がやかましすぎて観客動員が伸びなかったからな。
カンパしてくれてた地元商店街が福原資本のショッピングモールに負けて次々潰れたというのも要因の一つだな。
坂東でも藤原氏の聖地である鹿島と、探題が置かれた鎌倉だけはなんとか町になってるよ
それでも今の若い人はみんな近畿か東北に出ていっちゃうけどね
この状況を見てると「もし頼朝公が勝っていれば坂東ももっと栄えてたんだ」と考える気持ちはわかる
頼朝の勝利なんて贅沢言わないから景気付けに鹿島アントラーズがJ1昇格してくれないかな?
頼朝が平家に負けたのは歴史の常識だろ?
頼朝の嫁は平家で家来は平家だらけ。
3代で絶えた後は平家による執権政治だ。
執権政治。何だそれは?最近はまた教科書が変わったのか?
頼朝一族の処分後にいちおう源氏の名跡だけは立てたんじゃね?どっかの坊主を拾ってきて
そいつの執権に平氏一門を送り込んだんだろう
>>172の言う通り。
頼朝の次男千幡は清盛の末弟忠度に預けられてたんだが、平家一門が勝利を収めたあと軍事関係を除く頼朝の官職をもらって名跡を継いだ。で、その監視役を兼ねた執権に叔父の北条義時がつけられた。
清盛の度量は大きいな。親子2代にわたって逆らった一族の子を助けるとか。
逆に恩を忘れて噛みついたあげく、子まであわれんでもらう頼朝ってどんだけ情けないんだよって話だよなw
>>174 >>60で自分の管理不行き届きで頼朝の長男を死なせてしまったことの責任を取ったという意味があるんだろう。多分。
千幡は忠度の教育が良かったので武事に興味のない歌人になってて、源氏の棟梁は頼政の長男が継いで六波羅に忠勤を励んでいて、配下の武士たちも「大棟梁は三位殿、棟梁は若殿」って認識していたから助けても害がない状況になってたってのも大きな要因じゃないかな。
>>174 源頼朝は朝廷の命令で伊豆に流されたのであって、
直接の処分者は清盛じゃないんだよな。
その証拠に、後に後白河法皇が勝手に頼朝の赦免言い渡して
平家追討せよと命じてただろ。
>>176 仮想戦記と現実を一緒にしてはいかん。
吾妻鏡と言うのは坂東人が捏造したクソ出鱈目な史料だということで決着がついている
>後に後白河法皇が勝手に頼朝の赦免言い渡して
>平家追討せよと命じてただろ。
あの時は、清盛が再度、福原で倒れて(自称、重病w)ちっとも旧京防衛の兵を送ってこないんで、
焦った後白河が諸国の有力者に院宣を連発したけど、その内容はよく分かってないんだよね。
清盛はこれを待っていたかのように軍兵を旧京に発する動きを見せると、後白河は使者に立った教盛と密議して、協調体制を確認してる。
だから実はあべこべで、官軍(平氏)の徴発に協力せよと言う鎮撫の命令じゃないかと言う説が有力化してるんだっけか。
それを吾妻鏡は「宥恕の御恩もだしたがく、やむを得ずに平家追討に立った」とか、平気で前後関係誤魔化して引用してるよな
ほんと悪質な改ざんだよ
>>174 ここは敢えて弁護させてもらうが、義朝も頼朝も野望のために戦い始めたわけじゃない。
義朝は当時の政治事情。頼朝は男として武士として絶対退けない状況。
彼らには「挙兵しない」という選択肢は初めから無かった。
ところで、慣用句とは言えなんでもかんでも仮病を「清盛してる」と言うのは違うよね
平清盛はちゃんと目的や考えがあっての仮病であって凡人のように怠けてるわけじゃないんだよ
サボりの仮病なんて、むしろ平家討伐を名目に挙兵しながら坂東でうだうだしてる頼朝に近い
>>180 なあ…「戦場に出ると負け」な棟梁が前線に出てきたら、現場の連中はどれだけ迷惑だと思う?
率直に言って「実戦は弟たちと板東武者に丸投げ」は、あの人に限っては最善手だ。
頼朝って戦場に愛妾連れ込んで範頼に諌められるようなやつだからね
あわれんだ忠度が詠み人知らずで新古今和歌集に頼朝の後朝の別れの歌を載せたとか載せてないとか
>>181 丸投げならぬ丸禿すなわち伊豆で出家のほうが誰にとっても幸せだったと思う…。
北条政子が落飾の時、その後の隠遁生活の間に詠んだ歌は悲しすぎてとても見られない。
安養院・北条政子か……
夫・頼朝の死後に、悲しい詩を詠む歌人として有名になった人だね
承久の乱の時には未亡人の侘しさを歌って妻子を持つ武士や兵士たちに投降を促したとか
まかり間違って頼朝が天下をとったりしたら、この儚げな尼僧も元気に暮らしてたのかな?
>>184 多分。元気過ぎて困るぐらいに。
でも家庭的には不幸になったんじゃない?
頼朝が勝つとしたら義仲を滅ぼすというファーストステージがまず必要。
そうなると義仲の子義高に嫁いだ大姫はまず生きてはいない。
頼政一族と並ぶ木曾一族の繁栄もない。
大姫の百八歳の長寿もない。
頼朝が勝ったとしたら、北条時政が実権掌握のために頼朝直系の男子を殺しにかかるのは必定。
政子の二人の息子も危ない。
千幡実朝も公家源氏の貴人としてのんびり歌読んだり入宋して本書いたりしてるどころじゃなくなる。
安養院は頼朝が負けたほうが幸せだったと思われ。
実朝の館に引き取られて幸福な後半生を送った後の孫に看取られての大往生だぞ?
政治的勝利者になっても不幸な人生を送っちゃ意味がない。
頼朝が挙兵したきっかけって、嫌いな男に見初められた政子が頼朝の所に逃げ込んだ事なんだよな。
惚れた女に頼られた以上、男の意地に懸けて退くことは出来ない。たとえ相手の男が平氏の被官でも。
……結果的には頼朝を地獄に叩き込んでしまった政子の思いは複雑だっただろうな。
元気すぎる北条政子ってのが想像つかんw
カカァ天下の代名詞の大姫みたいになっちゃうのか?
嫉妬深くて側室を認めず、義高を尻に敷き、領国統治にも活躍し、百八歳の記録的長寿で大往生
公家の日記にも「木曾は女将の治めたる国也」と書かれる始末
でも考えてみたらこの二人母娘なんだよなぁ?
北条政子にも大姫のような激しさが潜んでいたのだろうか?
その辺は木曽という環境に大姫が染まったとか、巴御前のせいだとかいうのが
良く語られるところだな。嫉妬癖を遺伝に求めるなら、安養院よりむしろ頼朝じゃないか?
木曾の環境はもちろんあるだろうね。
それに巴御前は自分の娘たちには息子たち同様武芸を仕込み、嫁ぐ時には嫁入り道具に甲冑まで持たせて送り出すほどの人だったからなあ。
大姫もそれに染まったんだろう。
>>189 有名な話だ。『うしおととら』のスピンオフ作品『巴と駒』にも描かれてるな。
防弾チョッキメーカーとか防犯グッズ開発してるメーカーのトモエが社名をトモエってつけることにしたのも社長夫人がこの話が好きだったかららしい。
経過はすっ飛ばして、政子以外の人物のその後を妄想してみるか。
まずは義経。寝返った後で頼朝が勝ったら、当然のように処刑だろう。
では寝返らず、最後まで頼朝の将として戦って勝った場合はどうなっただろう?
まあ粛清されるわな。
あの武力は脅威だし、奥州藤原氏の支援を受けて独立でもされたら頼朝じゃ太刀打ちできん。
何とかして殺そうとするだろうな。
問題は粛清のタイミングだな
義仲の討伐に成功した場合、源氏方が勝つには義経は必要、さすがに範頼だけでは辛い
そしてもし義経と範頼で平家に勝てたすると、大活躍をした義経周りには当然人が集まる
元から京に縁者がいる義経だから官位も取りやすいだろう
平家に勝利したあとでは、義経は頼朝が粛清しようとしてもできない勢力になっていそうだ
>>192 粛清は無理。殺すとしたら暗殺しかない。
それも凱旋中とか油断してる時を狙うしかない。
>>194 タイミングと持って行き方次第では、戦場で撃破するという手もあるぞ。
孫子曰く、およそ戦いは正をもって合し奇をもって勝つ。たしかに義経は戦史に輝く名将だがそれは「奇」に特化している故だ。
戦場であっと驚くような指揮を見せることでは右に出る物はないがそのために必須の前段階である管理・調整能力はお世辞にも高くない。
頼朝の下にいた頃の源範頼、平家に寝返ってからの平知盛といった「正」の人と組まなければ長期間の作戦に耐える軍を組織なんてできないし
ましてや、自分がトップに立って政治工作するとか無理。
「単独で挙兵させて、呼応者を出さない」という政治工作が出来れば、戦わずして勝つのもそれほど無理ではない。
戦場で撃破には、一つ大きな問題がある。
戦略的条件を整えたとして、最終段階で「誰が」義経と戦うんだ?
範頼か? あり得ん。義経と戦うのを拒否して殺された男だぞ。
北条時政か? 指揮能力、動員力共に厳しい。動員力の方は、
頼朝が天下人になってれば改善されてるかも知れないが。
甲斐源氏の誰かか? 鎌倉に突撃してくるリスクがでかいぞ。
梶原景時がこの時点で生きていれば……いや、彼は暗殺に走るだろうな。
もちろん頼朝自身が出るのは論外だ。負けるだろう。
そもそも頼朝は行家の策動や止むに止まれぬ事情の結果、平家打倒のシンボルとして反平家勢力のトップにいるだけだ
平家と関係のない義経との兄弟喧嘩で頼朝に力を貸す武士がどれほどいるものか
多くの武士には興味関心のない戦だし、恩賞目当てに参戦する武士がいるとしても戦の上手い義経につく
戦が弱いくせに部下が活躍したら粛清するようなダメ人間を好き好んで主君に仰ぐ奴はいないよ
頼朝によほど大きな権力や権限を与えない限りは義経と戦って勝つなんて不可能
同じことは義経にも言えるな。
そして平家をどう倒すかにもよるが、”勝った頼朝"が日本を支配するほどの力を
手に入れるケースは相当に多いだろう。
どうかなぁ?
後白河からすれば坂東で戦ってただけの頼朝に高い官位を与える理由はない
「平家を倒した」範頼や義経は恐れられるが頼朝自身は恐ろしくもなんともない
範頼・義経を飼い慣らしているうちはみんな従うかも知れないが、
彼らには恐らく頼朝より高い官位が与えられ、それと同時に頼朝の求心性が崩壊するんじゃないか?
頼朝より上の官位ってのは容易なことじゃないぞ。
忘れられがちだが、頼朝の極官は従五位上右兵衛権介だ。これを超える官位は地方官には存在しない。
(大国の守でようやく従五位上)
中央の位を与えねばならないが範頼・義経は当然武官だから、頼朝を上回るとなると最低でも近衛少将になる。
義経が武官最高位である従三位右近衛大将を得たのは清盛の猶子という形式をとったからで、
この手が使えない「頼朝が勝った歴史」では義経に頼朝より上の官位を与えるのは至難だろう。
範頼の方は藤原範季の養子だから、鎮守府将軍(従五位上)経由で東宮大夫(従四位下)という方法もありか?
相当な力業だけど。
なるほど、義経の従三位にはそういう裏技を使っていたのか
しかし、平家を倒すほどの武将をまさか七位や八位ですませるわけにもいかないし
やはり史実同様まずは正六位ぐらいを与えるだろう
そして異父弟の一条能成は後に参議になるほどの人物だ、平家ほど優秀なバックボーンには
ならないとしてもその後ツテとしては十分だろう
一方で頼朝は、よほどの取引材料がなければそれ以上官位が上がる理由がない
母方の祖父・藤原季範の熱田神宮神官というのが有力なツテとも思えない
頼朝はせいぜい正五位が上限、義経は六位が下限
そんなところじゃないかな
>>201 今我らが語っているのは、「頼朝が武力で天下を取った歴史」であることを想起されたい。
清盛に出来たことは、概ね頼朝にもできるとするべきだろう。とはいえいきなり太政大臣は多分無い
(位打ちの迷信的に)。一歩譲って右大臣を狙うのが最大限。参議兼征夷大将軍になって、
京都と東国の両方に睨みを利かせるという選択肢もあるな。
一方で、弟たちを出世させる離間策(
>>199)だが、高い位ばかりが能じゃない。
俺が左大臣だったら範頼には武蔵守、義経には左馬頭を与えるな。
どちらも頼朝と同じ従五位下だが、武蔵守は板東最大国司で実利がでかい。東国武士団も
位階が同じなら散位同然の頼朝より最強の国司殿を頼るだろう。
左馬頭はやはり実利があるが、重要なのは義朝の極官だと言うこと。義朝の後継者は
義経だと暗示する除目になるわけだ。
そして僅かに伝わる情報から推測する弟たちの性格……勇敢、誠実で板東人と縁が深い範頼
天才肌で京都志向が強いと共に御曹司であることを強く意識する義経に喜ばれる任官をすることで
彼らを味方に付ける布石になる。
ちょっと待った
平家を倒しても頼朝が清盛と同等の権力を手に入れることなど不可能だ
清盛は戦に強く南都北嶺にも屈しないから皇室に重宝され、政治力も高いから
伏魔殿のような宮廷でもやっていくことができ、貿易を背景にした経済力があるから
地方にも影響力を及ぼせたんだ
頼朝の政治力は未知数としても、戦が弱く坂東の痩せた土地しかもたず、朝廷からの信頼もない
兵力で言うことを聞かせるにしても自分で指揮ができないし、平家を倒した後では兵を集める大義名分もない
平家に勝っても坂東の一領主より上になれる器じゃないよ
南都北嶺を味方に付けるとか、多くの武士が自主的に協力したがるような政策を打ち出すとか
そのぐらいの政治力があれば何とかなりそうな気もするが言うは易し行うは難しだ
>>202 まず位階や官職を極めるより、征夷大将軍の方が独立勢力として都合が良い
あわよくば福原でも京都でもない「政権」を樹立し得る
みたいな発想の転換を、頼朝が出来るとは思えない
「征夷大将軍=武家政権の統率者」は、ずっと後の時代だからこそ通用した
のであって、当時の発想ではまず無理だと思う
しかし近畿と東国の両面に睨みを効かせつつ、自らの権威は誇示したい
義経を始め身内に力を持たせた上で、自分を脅かす存在にしない方策は至難
それを考えると参議兼征夷大将軍というアイデアは凄い、あんたは天才かも
その前に安徳天皇をぶっ殺さないと無理な話だけどw
朝廷そのものをぶっ倒した方が早いかもな
例えばだ、平家の残党や政治犯を捕まえるという名目で全国に兵を置く許可を得るとかどうかな?
後白河ならそれで上手く騙せそうな気がする
>>安徳天皇
とても頼朝のかなう相手ではないかと…。
少年期でさえ老境に入ってスケールと政治力を増した清盛を心服させる器量の持ち主だし。
さらには平家一門の主要メンバーと義経、頼政、義仲にポンと将軍位を発行して、しかも完全に制御してる。
五十五年にわたって院政を敷いたお方を頼朝ごときがどうこうするなど、とても考えられん。
その気配を見せただけで病死させられるだろう。
逆に言えば、安徳帝が幼少のうちに何とかするのが唯一チャンスだな。
歴史から逆算しているせいか、スレの諸兄は板東を過小評価気味だと思う。
その一騎は京武者5人分とも十人分ともいう精強の板東19万騎と義経を
完全に支配下に置いておくことさえ出来れば、当時の日の本に対抗可能な
軍事力は存在しない。そしてこの時代、板東武者は遠征という技術を身につけ
京都まで攻めてこられるようになった。正に無敵の剣だ。制御できれば誰も勝てない。
制御することが出来たら……ね。この無敵の剣を持ち腐れにした原因を取り除く機会があれば…
>>安徳天皇
幼少のうちに何とかするといったら、平家と戦をして勝つ以外にないわけで…。
平家一門にしてみれば帝は生命線なわけだから、どんな状況になってもどこへ行くにしろ絶対手元から離さないで連れて行くだろう。
都でのガードは厳重を極めるだろうし、もし万一平家一門が致命的な大敗を喫したとなれば帝を頼朝の手に渡さない方策を採るだろう。
戦をして帝を奪えるだけの力量はとても頼朝にはない…。
詰んでるじゃん。
側近女房衆の日記によると安徳帝はぬこやぞぬのみならず、海の生き物の個体も識別できたらしい。
福原の海で見かける鮫や蛸に名前を付けて気にかけていたというエピソードがある。
で、そのぬこや名前を付けた海の生き物を「百猫絵図」「蝦蟹絵図」に描いて残している。
和歌の分野でも「新今和歌集」を勅撰しているし、どんだけ超人なんだよって話だよな。
安徳帝の子だくさんも特筆すべき。
臣下に下って平姓を賜った親王・王は18人、子の代で臣籍に下がった王も入れると24人、全部合わせて安徳二十四平氏と言われてる。
福原時代の西国下り衆はほとんどこの安徳平氏の末流。
>>209 逆に考えてみてくれ。
もともと頼朝の手札は関東武士団の武力のみだ。戦をして勝つ以外の選択肢は最初から無い。
次に平家が致命的な大敗をしたとして、安徳帝を渡さないために行う措置は何か?
宋にでも逃がすか、心中するかだろう。いずれにしても日本から安徳帝は消える。
つまり「平家に軍事力で勝ちさえすれば、安徳帝も除ける。しかも大逆の罪は平家が引き受けてくれる」
どうせ戦って勝つしかないんだから、何も考えなくて済む。
>>210 「蝦蟹絵図」に添えられた「浪の下にも都の候ぞ」は
安徳帝の海棲生物への造詣の深さが分る言葉だよな
>>208 19万騎って何の数字だ?
計算にもよるが100万人を超える大軍になりうる
下手したら当時の坂東の全人口を上回るかもしれない
たしか福原時代に坂東の反乱を抑えるために動員した軍が膨らんで
そのぐらいの数になったということがあったが、それは日本全国での動員力だ
>>213 あの一文が「浦島太郎」のネタ元って話もある。
帝にはさらにすごい話もあって、魚を食べて「これは誰誰の一族の者じゃな」とその魚の素性を言い当てた(名前をつけた魚の子供だったらしい)という。
あとどう見ても同じにしか見えない二匹の魚の細かい相違点を列挙して、よく見ろよく見ろと迫るもんだから知盛が辟易して、ちょうど参内してきた叔父の教盛にバトンタッチして大慌てで逃げて行く話は何度聞いても笑う。
さかなくんも尊敬する人物として上げていたな>安徳帝
安徳帝自身は政治的にも活躍をしたけど、彼以来、皇室の文人化が進むんだよね
218 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 00:07:01.50
いずれにしても頼朝も渡来系の可能性がある。結局子供や兄弟のように、
闇に葬られて、結局は史実と大差がないだろうね。
>>216 戦国南北朝時代には甲冑をつけて戦った帝もいたわけだが…
>>219 安徳帝以前にも文人天皇はいたわけだし。
「文人化が進んだ」出会って「文人しかいなくなった」ではないのだろう。
後醍醐の系列はいろいろ例外かと
安徳流じゃないしなー
そういえば、後の織田氏は桓武平氏説と安徳平氏説があるけど、どっちが本当だろう?
>>221 管領の伊勢守家、大和守家は桓武平氏、管領代の信長の家は安徳平氏らしい。
はじめは桓武平氏だったのが後に安徳平氏の家から養子を迎えて安徳平氏に変わったんだとか。
>>214 それは一時期鎌倉殿の称号を許されてた新田が反乱した時だったよね。
何の乱だっけ?
224 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 23:48:15.96
坂東19万騎
奥州17万騎
西国二十四万騎
226 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 00:13:28.13
『田吉房定奏状』
「戦士の勇、奥州の民一にして二十四万に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、北東蛮夷の勇健に対せんやwwwww」
後醍醐の系列といえば、尊治源氏と後醍醐源氏があるわけだが。
どっちがどっちよ?
>>221 甲冑をつけて戦った帝は後醍醐帝の皇子の誰かだった記憶が…。
井沢とかは管領時代の発給文書とかから安徳平氏説を取ってるね。
あと異端として、堂上平氏説もあったような気ガス
>>226 戦士の勇、すなわち個人の戦闘力で言えば、東国武士から見れば京武者は正に嬰児。
その嬰児の群れを率いた方が勝利したのが、戦と喧嘩の差なのだろうな。
>>223 承久の乱だよ
安徳の院政の傀儡として立てられた後鳥羽が、安徳を排除しようとして失敗、譲位させられて坂東に逃亡
そこで新田氏を頼って挙兵して起こした反乱
新田氏は平泉を降伏させるのに功があって源氏の中では優遇されていたが、やはり平氏政権には不満があったみたいだね
>>230 坂東武者が強いといっても本当に強いのは領主の子弟やその側近クラスだけの話で雑兵はそこまで畿内と変わらない
一方、京や畿内の武士は坂東武者が弓矢を射て訓練を積んでいる間、軍記や兵法を学んでいた
232 :
日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:19:37.16
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、
(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
>>231 鎌倉探題に任じられたのは在地勢力としては新田が初だったのになー。
それまでは初代教経以来教盛系が独占してたポストをもらっておきながら、何が不満だったんだろう?
しかも居館として与えられた館は元・頼朝の館だぞ。
何が不満だったんだろう?
>>1 「源頼朝」って誰かと思って調べたら、平治の乱で平清盛と戦って敗死した源義朝の子で伊豆に流された奴らしいな。
何でそんな一介の流人ふぜいが「平家に勝つ」なんて発想が出てくるんだ ?
妄想スレにしても、もう少し尤もらしい設定を考えろ。
一応御曹司として担がれ挙兵まではしたんだから
名前くらい覚えとけ、中学校で習っただろ
>>235 「金塊入宋記」の源実朝は知ってるけどその人は知らない。
頼朝って誰よ。
南宋から陶工や僧侶、儒者を大量に連れ帰った実朝の方が遥かに凄いと思うんだが。
源頼朝は義朝の息子、義経の兄、実朝の父親だ……と書くと、この一族の真空地帯みたいな立ち位置だな。
治承寿永の板東大反乱における関東方の主将を源範頼だと誤解している人は結構多い。
実際に官軍と死闘を演じたのは範頼で、しかも彼の死と共に関東方は瓦解したので
そう思うのも無理はないのだが、建前上関東方の旗頭は頼朝で範頼は頼朝の一部将に過ぎない。
ええと、つまり…治承寿永叛乱を描くドラマで、なぜか大将軍のはずの範頼に命令するおっさんがいるだろ?
アレが頼朝。
>>237 日本に青磁の技術を伝えたのは大きいな。
その後大陸では絶えてしまったし。
>>234 頼朝は平家追討に関しては弟たちにまかせっきりだったが
鎌倉幕府の内政はしっかりやってただろ
頼朝は武人というよりどちらかと言えば文人
>>238 そうそう、なんか良く分らない奴なんだけど生まれついた位置のせいで
意外とキーマンなんだよな
八幡太郎義家の嫡流と言うだけで、氏長者として担ぐ神輿にはなり得る
無能だろうが無名だろうがね
>>242 大河なら『平清盛』とか何回も出てるでしょ?
>>239 で、工房を設けて改良した結果『実朝翡翠』って新しい陶器を生み出したのはもっと大きい。
本物の翡翠とまるで変わらない焼き色、音の良さ、最高級のものだと億の値がつくっていう。
500円マグカップを使ってる俺にゃ届かない世界だが。
>>243 実際の頼朝はいい年したおっさんなんだけど、大河とかだと若手が演じることが多いな、頼朝。
ジャニーズの時代劇組とか。
1994年の『源義経』の時は内海だっけか、20そこそこの奴が無理して老け役まで演じて、義経の方が年上に見えると評判だった。
>>215 関連して瀧孫平次の話がある。
ある日、福原の検非違使勤めだった孫平次の元に赤い服を着た親子が訴え出てくる。
その親子は蛸の化身で、帝の命令と称して近海のエビやカニを乱獲している者がいて、食べるものがなくなり一族が飢えているので不届き者を召し取ってほしいという訴状を携えていた。
で、身の証に帝から授かった名前と『章魚絵図』の自分の姿が描かれた頁を置いていった。
半信半疑だった孫平次、上司の平教経に相談。教経が帝に事の次第を申し上げると、そういう名前の蛸が確かにいることが判明。
帝が『章魚絵図』の頁をめくると頁が一枚欠けており訴えが真実であると分かった。
で、孫平次が部下を率いて出動すると魚好きの帝に取り入ろうとした土豪がエビやカニを乱獲していた。
孫平次は土豪を成敗し、飢えから救われた蛸の一族は宝剣をお礼に差し出して、孫平次の子孫が危機に陥った時は必ず助けると言って去っていった。
で、後に城持ち大名に出世した孫平次の子孫が城を敵に囲まれ絶体絶命になった時、宝剣を取りだして願うと数千の蛸が海から現れて敵を追い払い城は救われたという。
ええ話や。
246 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 00:23:31.91
>>244 1994年に源義経なんてやってないぞ
2005年の大河「義経」のときは40代の中井貴一が頼朝役だったし
>>437 その連れ帰った儒者の中に朱子学者がいたことが後の後醍醐帝の決起に繋がるわけで、そういう意味でも歴史に与えた影響は大きいな。
>>247 少林寺の僧を連れ帰って京武者、味方の僧兵たちに十八般兵器を教授したのも忘れちゃいけないぞ。
福原には実朝が連れてきた少林寺の僧やその弟子の僧兵で構成された僧兵団が治安維持に協力してて、「平家の禿」と呼ばれて恐れられていた。
赤い衣のハゲの集団を見たら足利や新田の武者たちですら道を譲ったという。
>>248 その少林寺の僧に師事した僧兵の中で一番の達人が甥の公暁だな。
伊東祐親の娘八重姫との間に生まれた頼朝庶長子千鶴丸こと伊予守三浦祐朝の子。
三浦祐朝って、義経の監視役として義経の元につけられてたけど、義経が平家に降伏した時一緒についていったんだよな。
自分がじいさんに殺されかけた時守ってくれずに逃げた頼朝を嫌ってたとかで。
>>235 最近の教科書だと載ってないこともあるらしい。
うちの弟が使ってる帝都書院は載ってるのは系図と治承寿永の乱という反乱名だけ。
頼朝の名前は本文にはない。
なんと言うゆとり教育
余り知られてはいないが清盛晩年の頃、実は源義朝の嫡男は流人としひっそりと生存していた
しかしあの源氏嫡流源義朝の嫡男でありながら凡庸であり、遂に源氏再興が果される事は無かった
と言った程度の事は書いておくべきだろう、特筆すべき事が無いなら無いなりにさ
傍流は幾つか生き残っているのに嫡流は名も忘れられ、後世の教科書からも抜け落ちるとは情けない
満を持して挙兵した筈が身内に裏切られ歴史の闇に葬られるとは、これ諸行無常の響きあり
つうか、寿永の乱は内戦としては中世日本最大級の大乱で
京都陥落寸前まで行ってるんだから、もう少し扱い大きくても良いと思う。
>>252 君が後世の武将で、源氏の子孫を称する場合を考えてみてくれ。
頼朝、範頼、全成、行家。誰の子孫を名乗る?
仮に君が頼朝の子孫だったとして「我が祖は源頼朝なり」と名乗りを上げたいか?
嫡流を称する者がいないのは、そんな事情もあるのではないかと。
>>252 その説明文横山光輝の『平家物語』かよw
あれって最晩年の頼朝の顔『三国志』の縻芳に似すぎなんだよな。
255 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 00:29:22.22
なにこの夢想スレ?
>>252 自称子孫が一番多いのは頼政流、次いで義経流だよな。
自称平家末流だと重盛流、知盛流、重衡流を称する家が多い。
頼朝流を名乗っていたのは島津ぐらいだな。
何故島津は頼朝流を?
257 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:04:24.07
258 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:00:55.23
夢精スレw
>>254 悲惨な死に方繋がりで顔を選んだのか…。
裏切る側と裏切られる側の違いはあれど死に方が悲惨なのは一緒だよな…。
誰か教えてくれ。
平敦盛流の青葉家って、公家の羽林家の扱いなのか武家の扱いなのか分からん。
一体どっちなんだ。
そういえば経正の子孫の生嶋家もどっちか不明だよね。
>>253 俺なら絶対に名乗りたくない。
頼朝の敗死以降『頼』の字が源氏一門の通字から外れたのも頼朝の死に方が悲惨だったから嫌われたんだろうな、やっぱり。
●中学歴史教科書での頼朝の扱い
帝都書院…本文中に名前なし、系図に名前あり、肖像なし
山海書房…本文中に名前あり、治承寿永反乱を起こしたことだけが簡潔に書かれている、系図あり、肖像なし
大和社…本文中に名前なし、北条泰時の人物説明内で「祖父は源頼朝に仕えた北条時政」とあるのみ。系図あり、肖像なし
五山図書…本文中に名前なし。系図あり、肖像なし。
国学館…本文中に名前あり太字、系図あり、肖像あり。人物事典に他の源氏一族共々詳細な記述あり。
●番外
wikipedia…節なしスタブ
ニコニコ大百科…ひどい書かれよう
●その他
大河ドラマ…ジャニが演じる場合未熟、それ以外の場合悪役設定。1987年『竜胆は残った』の谷隼人を除きほとんど悪役俳優が演じている
●その他その2
ヤッターマン(初代アニメ)…ゲストキャラで登場、顔がボヤッキーと同じ。声優も同じ。
平家物語(光栄シミュレーションゲーム)…第1シナリオ『平治の乱』と第3シナリオ『平家包囲網』に登場。
能力は第1シナリオで内政20、外交30、戦闘35、謀略10。第3シナリオで内政65、外交20、戦闘28、謀略55。第1シナリオでのみ朝廷コマンドを使用できる。一騎討ちになった場合、90%以上の確率で死亡する。
266 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 04:11:44.22
「たけし城も落とせないような奴に平家を倒せるわけがない」
>>263 外れてたっけ?
『頼』の字を使ってる武将結構いたような気がするが。
海外ではそれなりに知名度があるんだけどねえ、頼朝。
一番詳しい研究書を出してるのがアメリカの作家スティーブ・ジャクソン。
中世日本をモデルにしたゲーム世界「ランド・オブ・サムライ」を作るために誇張じゃなしに世界中から資料をかき集めた。
遠くモンゴル、ソ連やフィンランドからも集めたらしい。
で、その過程で「これほどの重要人物が何故埋もれているんだ」って疑問に思ってさらに頼朝を深く研究。
で、書き上がったのが30年たった現在でも頼朝研究書の最高峰とされる「ホワイト・バナー」。
頼朝の復顔図まで載っているこだわりの一品。
270 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:17:20.15
別に頼朝は世界的な重要人物ではないだろ
確かに朝廷とは別に、朝廷が公認するサムライの政権を作ったというのは
画期的だが
271 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:29:54.00
ユネスコ認定の世界の偉人に日本人で初めて入った人物は紫式部
シェイクスピアより400年前にあの長編小説は世界を探しても稀に見ること
というわけで文学界では世界的評価を受けている、
というわけで海外にも認められる日本人一位は紫式部だ
源頼朝など世界がどう評価すべきか分からん
有名な将校や軍人はそこら中の国にいる
>>231 >新田氏は平泉を降伏させるのに功があって源氏の中では優遇されていた
頼朝の挙兵に応じなかったってことで時流、物事を見る目がある具眼の士として京での評価も高く、それで平泉攻めの総大将を任されたんだよな。
二十万ともいう軍勢を与えられてこれで攻めるも話をつけるも全て和殿に任す、って全権を預けられた。
結果は奥州藤原氏の面子を立てるため一合戦したうえで和談に入り見事に交渉をまとめた。
これ、一番すごいのは誰だろうな?
新田を信じて任せた清盛?
総大将に手を上げた宗盛を押さえて新田を推した重盛?
それとも新田本人?
甲乙つけがたいのう。
この頃は清盛もかなり高齢になっている
全体の筋書きは安徳帝が書いていた説でFA
>>273 安徳帝が義経から平泉の栄華を伝え聞いて、北方経営に関心を持ってたところに新田が軍事と造作の再開を安徳帝に上奏して、清盛の口添えで許されたんだったっけ?
平泉の降伏後、蝦夷地開拓が一気に進んで福原時代中期には北海道の設置になるんだよな。
あげ
>>228 後醍醐の即位前に臣籍に下がったのが尊治源氏。
即位後に臣籍に下がったのが後醍醐源氏。
>>261 >>262 青葉、生嶋家とも公家の羽林家。
まあ織田幕府のころになるとどっちも大名化して武家と変わらなくなるわけだが。
ってか「家」と言ってる時点で公家だと気付けと。
277 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 04:09:49.26
世界のYORITOMO
278 :
栗林正明:2012/12/23(日) 04:22:48.24
創価諸君よ!
田浦本部横須賀桜山支部の高橋裕之氏が年末ジャンボで6億円当たるようにまた女子部と結婚成就と障害者年金1級受給と健康とご長寿を15分でよいので高橋裕之氏に題目を送って行こうではありませんか!
280 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 16:33:10.97
(@ω@)ウンコウマー♪
弓削型、頼朝型と言えば……頼朝が最も歴史に名を刻んだのはこの分野じゃないか?
>>282 写経用紙の切り方だ。墨のすりかただったかも。
>>274 琉球征伐&西海道設置が先。
平知盛を総大将に西国の水軍二十万で尚氏を攻めて降伏させた。
この戦で特筆すべきなのが、源実朝が初陣を許されていること。
装束姿の美麗さは平家一門ですら息を飲んだと言われる。
実戦には参加しなかったけどね。
そういや現在モーニングでかわぐちかいじが
このテーマで連載を描いてるな
現在頼朝が平治の乱で負けて清盛に捕らえられた
とこまでいったからここまでは史実通りだな?
>>285 微妙に違ってる。
朝長が殺される直前に僧が止めに入って朝長出家。
義平は京に上らず行方不明のまま。
287 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 10:19:29.71
>>286 トンクス
頼朝も朝長のように出家してれば…
これ以降のかわぐちかいじが「頼朝を中心に
どうイマジネーションを膨らますか」が興味深い
289 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 00:16:42.91
>>288 いくらかわぐちでも大逆転の結末にまで持っていくのは難しいだろう。
重盛・基盛兄弟を義平より弱く描くのに四苦八苦してたからな。
史実では義平をしてさすがと褒め称えられた重盛を殺さずに義平より弱く見せるために逃げ回らせるとか。
290 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 00:38:34.80
>>253 黒歴史が多くて教科書に詳しく書けないとかだったりして。
>>266 たけし城、未だに落とせないね・・・頼朝の谷隊長。
>>288 モーニングには弘兼も頼朝もの描いてたね。
寿永の乱の時代に平成25年の日本海軍・陸軍がタイムスリップしてくるって奴。
セーラー服の少女がサニー千葉を撃ち「か・い・か・ん」と呟く
そこにサジタリウスの矢が兵糧に突き刺さり、トマホークが鉄甲船を撃沈
サンゴーズダウン、もう日が暮れるから家へお帰りよ
292 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 04:28:55.16
いきなり何言ってんの?
>>289 …そうすね…
自分も正直「自衛隊がタイムスリップして頼朝に味方する」って
展開しか逆転のシナリオが思い浮かばないw
(まぁこれ以上はスレ違いになるんで
そんな主張はするつもりはないけど…)
ちなみにこの間に常盤御前が清盛とセクロスして
牛若達3兄弟が助命された
そして牛若が徳子にツバを付けていたw
自衛隊がタイムスリップしたとしても頼朝は勝てないと思うな
自衛隊の戦力を維持するための資源調達を考えた場合、国際的な交易網を持つ
平氏方を敵に回して坂東ローカルで農耕牧畜してる頼朝方につくメリットがない
自衛隊に縛り上げられた頼朝が清盛の前に引き出されるのがオチだろう
「板東vs畿内」の構図を完全に確立する、つまり関東武士団と最低でも関東にいる一門を
完全に統御できれば、そこまで勝てない戦でもなかったはずだと思う。実際、勢多の大逆転がなければ
平安京陥落は確実って所まで行ってたわけだし。
個人レベルの戦闘力では板東が圧倒的に勝っていたと考えられるし、前線指揮官も優秀と言って良いと思う。
(余談だが勢多橋敗戦の後、平家一門、義仲、義経が束になっての追撃を断ち切って、鎌倉まで東に400キロ撤退という
地獄の退却戦を成し遂げた源範頼の統率力と根性はもっと評価されても良いと思う)
ただ、「政治的な統一の確立」は、前線指揮官や個々の武士団の努力ではいかんともし難い事項だ。それが出来るのは
貴種である源氏の棟梁のみ。そして…鎌倉で棟梁の座に座っていたのは……。
296 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 08:22:39.81
>>295 >鎌倉まで東に400キロ撤退という地獄の退却戦
脱落者続出、しかもその脱落者は次の戦からは敵として襲ってくるんだから地獄なんてもんじゃないでしょ。
当時の最高権力者の平政子を倒すとか、そりゃ無理だろw
西国の伊勢平家は簡単だろうけど。自分の嫁を倒すとかwww
政子は関東と東海北陸と寺社家、莫大な知行をもってる女房衆と東国の
御家人などの行政権と徴税権、軍事権など全部を抑えてるし。
頼朝は知行も小さく権限も無い、源氏棟梁と元征夷大将軍ってだけで
行政権限がなくご恩と奉公さえ単独ではできない。家人も少数で
馬引きでさえ政子傘下。
味方は義経だけだったのに追放したから一人もいないだろ。
298 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 02:23:37.04
299 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:36:57.66
>>296 平家物語にこの時京側が討ち取った坂東武者の名前が列挙されてるな。
為義の息子とか甲斐源氏の武田・板垣とか。
これだけやられりゃもう再起は無理だろってレベルのやられ方してる。
そりゃ北条時政も裏切りたくなるわなー。
300 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 02:21:15.45
>>294 >>298 ってか、そのオチこち亀にあっただろ。
タイムスリップしてきた両津が頼朝と手を組んで天下を取ろうとして、最後には部長と自衛隊にやられてぐるぐる巻きにされて清盛の前に引き出される。
確かこの後におしおきがあったはずなんだけど内容が思い出せん。
誰か覚えてない?
>>294>>298 マシンガンやロケットランチャーは無理としても、小銃の弾薬程度の物なら
製造出来るかどうか
また航空機や船舶の燃料として高度に精製された灯油を生産可能かどうか
(昭和の戦国自衛隊ならディーゼルだから軽油)
近代装備は最初に余程の物量が無いと、意外とすぐに無力化するかもね
800年前の人々が一番感心するのは、ライターと飯盒の性能かも
>>295 範頼を一番評価してたのは頼朝なんじゃないの?
評価っていうより恐怖か。
統率力と根性に恐怖してたから速攻で粛清したと。
東国に入る前に三河で衣服、武装を全部新調して見苦しくないようにしてから東国入りしたとか、大負けして疲労困憊のはずなのに全然元気そうだったとか、範頼の力量並じゃなさすぎる。
305 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 22:17:00.50
このスレってナニ?
パラレルワールド?
>>304 和田義盛の手紙に、義経が敵に向かって突撃すると見せてそのまま敵陣に駆け込んだ時の範頼の態度が書かれてるが、実に武士らしく堂々と、情のある対応をしてしかも軍を乱さなかったと大絶賛してる。
ちなみに後世の武士の評価も高くて、範頼の行動はいろんなところでお手本にされてる。
織田幕府を覆そうとして負けた武田の重臣高坂弾正は範頼にならって敗軍の主君に衣服を改めさせ、見苦しくないようにさせて求心力の瓦解を防いでいる。
無能な主君なら絶対殺したくなるだろうな。
>>306 上の方で出てたヤッターマンのボヤッキー顔の頼朝がまさにそれだった。
「いつかぎゃふんと言わせてやるからな」とかそういうセリフばっかり。
で、ドロンボーもろともオシオキされたりするわけだが…。
>>306 立派な人物と言うより、蛮頭武者との相性が良かっただけじゃないか?
少なくとも時節を見る目や、味方を勝利に導く知略は義経に比べて雲泥の差だし、
何より主君を見る目がなさ過ぎる。
源範頼は藤原範季の養子だった訳だが藤原範季の正室、つまり育ての母は
平教盛の娘なんだぜ。
そのまま「藤原範頼」として福原政権に仕官することだって出来ただろうに。
あるいは蛮頭武士団からの信頼がそこまで厚いなら、頼朝なんか寺にでも押し込めて
自分が首魁になれば、寿永叛乱はもう少しうまく行ったかもしれん。
だがどちらもやらず、血がつながっているだけの兄とやらに従い続けた挙げ句
その兄に裏切られて殺されるなんて、道化じゃないか。
範頼の「範」は藤原南家の、「頼」は源氏の通字だ。
だが源氏の通字を使うなら、何故実父義朝の「義」を付けなかったのか。
ここからは想像だが、お前はもはや義朝の子ではない、藤原家の一員だという
養父範季の親心だったのではあるまいか。
皆さん、高橋昌明氏の研究の集大成ともいうべき「平家と六波羅幕府」(東京大学出版会)は購読されていますか?
>>308 勢多で負けた直後、千葉常胤が寝返る時範頼を誘ったのに乗っていればね…。
「このままお帰りとあらば、もうお会いすることはござるまい」って、殺されるぞって言ってるのに。
>>309 >>310の本にもそれが指摘されてたな。
実際範季は安徳帝に範頼遺児の藤原への改姓・養子縁組を奏上して勅許されてる。
そしてその子は平教経の娘婿だ。
本人も投降してたら生き残れた可能性は高い。
同族の頼政がこの前後に従二位に昇進して大将になっていることも考えたら、そっちからも助命嘆願はあっただろうし清盛は絶対に許しただろうし、惜しみても余りある。
>>312 藤原経範か。阿佐御前を正室に迎えて彼女の四国の所領を継承したんだっけな。
>>312 平家の最強軍団を源氏随一のまともな武将の子が相続したんだから、琉球遠征での活躍は当然だな。
長田父子の変節漢っぷりには呆れるしかない。
頼朝が旗揚げすると血祭りにされるの恐れて降参したくせに源氏方が負けると範頼を裏切って平家に戻ろうとするし。
こいつら趣味で裏切りやってんじゃないかとすら思えてくるわ。
>>315 同意。
結局拒否されて処刑。
しかも首を源氏方に送られて晒し物にされた挙句家名断絶は当然の結末だと思う。
>>316 その時義朝の髑髏も一緒に鎌倉に送られてるんだよね。
>>317 首と一緒に頼朝本人の流罪赦免と子弟の出仕の確約、どこだったか忘れたけど受領職も与える、一部だが義朝の領地を返すという破格の条件を携えた和睦の使者も行ってるんだけど…。
殺されてるんだよね。
平家より格下になるとはいえ、源氏正嫡が中央で復権するチャンスを棒に振った頼朝って…
>>317 首だけじゃない。
ちゃんと木像で胴体を作って鎧を着せ、義朝の顔を模した面までつけて罪人の首ではなく戦死した武将の遺体という扱いで返してる。
平家の公式の歴史書に上等の香木で胴体を作り、長田から没収した義朝の武具をきちんと修復した上で装着させたという記述がある。
のみならず従者もつけてこれ以上ないという礼を尽くしている。
>>317 小さいのは頼朝公ご幼少のみぎりの髑髏
隣の少し大きいのが元服の頃
大きいのが平氏に討たれた時の首です
間違えたけど、親子でほぼ同じ伝承があるのでイイか
「義経は 母をされたで 娘をし」って川柳があるけど
義経と徳子って「関係を持った仲」なの?
…でも冷静に考えれば清盛在命中は
清盛の目が光っていただろうし清盛が死んだ後も
安徳帝の母という立場の人に手を出すとも考えられないし…
>>317 だが、裏切りを非難した義経に「お前が言うな」と反論したのは判らないでもない。
>>323 もう処刑は免れないと悟って開き直って捕まえた義経を罵倒したんだっけ。
あまりのあさましい言い条に、誰もが呆れたとか。
その割に口上の全文が残っているのはどうしてなんだ?
>>322 そのへんを題材にした恋愛物語は多いよね。
>>318 頼朝の死後、実朝に対して伊豆守が与えられて約束は履行されたわけだが、受領の中では地位の低い伊豆守どまり。
頼朝が使者に立った時忠の息子を斬らなければ相応の官途をもらえていただろうになあ。
久しぶりにスレタイに戻って、旗揚げ直後に頼朝が重傷(死んじゃ駄目よ)で戦争にも政治にも口出しできなくなれば、勝てたかな?
頼朝の同母弟希義が史実通り蜂起に失敗して死んだなら、源氏の実質的な長子は範頼になる。ただ、政治面では
無位無冠の上に血筋にも難があるから棟梁にはなれんだろう。あくまでも旗頭は頼朝で、政治面は豪族たちの合議、
軍事面では源氏の範頼・義経が指揮を執る体制になる。つまり…義経寝返りの原因になった諍いも、範頼粛清も発生しない。
軍事面では平氏と互角以上に持って行けるかもしれん。これで勝てば、豪族合議機関がそのまま一種の元老院として
共和制もどきの社会を作ったかも。
……やっぱり駄目だ。この体制じゃ、平安京占拠の後で平氏と和睦しちゃう。実質関東武士団連邦だから
「関東の不受不入及び国司指名権」あたりで妥結しちゃうだろう。頼朝以外のほぼ全員が平氏の支配から
逃れて関東で好き勝手出来れば満足できる立場なんだから。
平氏の方も関東への関心は薄いし、奥州に対する防壁にもなる。皇室を押さえている以上、必要なら勅命をもって
関東に干渉する道も残るし。
妙にバランス感覚を発揮して、四道将軍勢揃い+非力な朝廷の並立
「平泉幕府、鎌倉幕府、福原幕府、鎮西の自治独立」
なんて事になると、半端に安定してしまい統一国家の体を成すのは
相当先になるかもね
再統一は後の群雄割拠時代より、更に難しくなる可能性さえある
権威だけが半端に残って、実効権力と軍事力を失った朝廷は返って
長い混乱の尾を引く要因になりかねない
もしかしたら朝廷が割れるとか、異常な事態が起きたりして!?
一歩間違えれば、国の枠組みが現代に至るまで変わっていたかも
近世以降に人の移動と交流が増えたら
千島樺太北海道東北王国/関東甲信越連邦/近畿中央王国/九州沖縄台湾連合国
の成立とか想像してしまう
近代になっても緩く広範囲な連合体のままだと、中ロとぶつかりまくりだろうし
日露戦争にも勝てそうにないな
>>328 朝廷をローマ法皇に見立てると、欧州の歴史に重なる展開ですな。
>>319 官爵の追贈もあった。正三位を追贈されてる。
ここまでの土産を持って行って和議蹴られたら、そりゃ清盛も怒るわな。
331 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:42:08.51
頼朝に範頼や義経に匹敵する武勇があればなんとかなりそうな
それでもあの粛清癖だと危機感をもった部下たちによる反乱が起きまくって落ち着かないだろうな
項羽のように一度取った天下がひっくり返される危険性も……
頼朝・範頼・義経の3人で、武勇最強は頼朝かも知れないぞ…個人の武力なら。
いわゆる武人の強さには
A 本人が弓矢や刀を取って戦う個人武勇
B 指揮官として、敵をあっと驚かせるような機略を振るう能力
C 組織管理者として、自軍を強く保つ能力
の3つがある。この3兄弟を比べると
Aは 頼朝≧義経≧範頼
Bは 義経>範頼>頼朝
Cは 範頼>頼朝>義経
と、ある意味バランスの取れた兄弟だったようだ。
>>330 正三位鎮東将軍って破格の大盤振る舞いじゃないか?
「東国の半独立を認めます」って言ってるようなものだよ。
それを何故蹴るのかが理解できん。
使者の平宗親が殺される理由もないはずだ。
>>332で言っているように頼朝には自軍を強く保つ能力が決定的に不足していたと言わざるをえん。
この義朝への官位追贈、直接の息子である頼朝の立場をも格段に強化するものなのに。
334 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 02:39:11.73
>>332 いくらバランスが良くても、協力できないんじゃあねえ。
頼朝の粛清癖を押さえられる池禅尼のような存在はいなかったのか?
無理じゃないか?
嫁を取り戻すためにやむなく蜂起した頼朝に対して、嫁やその実家は文句を言えるはずがないし
ずっと軟禁状態だった浪人の頼朝にはそれら以上に強い人間関係は無かったんじゃないの?
そうでもない。
板東には頼朝の乳母(武蔵の有力豪族出身)が住んでいて、
流罪になってからも20年にわたって援助を続けている。
ただ、住んでいたのは武蔵の北の方だから頻繁に会うというわけにはいかなかっただろうし、
手紙のやりとりでも情報は遅れただろう。
それと最末期には彼女も頼朝を見限った可能性は否定できない。
郷御前(一度誓ったからには何があろうと御身の妻ですと、単身関東脱出して京都の義経の下に来た話の人)と
範頼の正室(名は不詳)の両方が、彼女の孫娘だと言えば後はお察しいただけると思う。
>>336 見限ったのは確実。比企尼は義経縁者として最後の方軟禁されてた。勢多で義経に同行した比企義員が郎党五人を決死隊として関東に潜入させて救出してる。
頼朝の死後墓を建立し、方々に嘆願して官位の剥奪を阻止するなどの動きがあるけどそれはあくまでも死後のこと。
頼朝生前には見限っていただろうね。頼朝は娘婿範頼の仇でもあるわけだから。
福原雪之御所のライトアップ終了。
4月15日からは博多の花之御所のライトアップが始まります。
てか誰か助けてください。
勤労奉仕で清掃作業にやってきて雪之御所邸内で迷子になりました。
現在地安徳上皇像の前です。
大理卿屋敷の前を通って九郎三位館の裏を通過して…。
もうどこを通ったか分かりません。
>>14番
お前まだ脱出できてなかったのか。
秀吉松が近付くように歩け。
門外に出られたらあとは最寄りの派出所か交番に駆けこめ。
早く帰りたければ交番の方がいいぞ。
交番は地理に精通した地元の警察補助員が配置されてるから。
てか、転校して半年も経つのにまだ地理に慣れないのか。
まったくこれだから坂東者は…(笑)
340 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 02:00:38.62
去年の高校生クイズ神戸府大会と同じ光景が展開されているとはw
341 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 02:15:10.55
>>349 半年ぐらいじゃ慣れるの無理。
雪之御所は御所と言いつつ一個の都市だから。
重盛資盛と代々拡張していって縮小したことがないんだもの。
織田信長の摂津錦城、近江安土城でさえ規模で負ける。
>>342 地方史も良いところなんで、信頼できる史料が乏しい。故にこのレベルでも自信が無い。
上の方で語られてるように主要合戦における戦死者とか、頼朝の弟たちの最期すら
情報が矛盾してる有様だから。
>>343 最期がはっきりしてるのは福原側についた義経ぐらいか…。
>>338 東洋のモン・サン・ミッシェルと言われた厳島の月之御所はもっと広いし迷いやすいぞ。
次は迷わないように気をつけろよ。
>>343 実家がどこなのかはもちろん名前すら分かってないしね。
俺もいろんな書籍をさんざん探したけどそれらしい人名、手がかりになる記述すら見つからなかった。
珍説噂レベルの話トンデモ何でも載せる徳間書店やたま出版の本ですら載せてない。
義経従二位昇進説って信憑性あるの?
俺は義経の位階は正三位って説のほうに説得力を感じるんだが。
追贈じゃないの?
二位となると、武官の官職思いつかないし。
>>348 だよな。
二位となると正官の官職は右近衛大将。
何らかの令外官を設けたというなら分かるが、それらしい記録はない。
生前に二位になったのは頼政だけ、義経の極官は正三位鎮西将軍というのが正しそうだな。
350 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:15:01.99
>>349 時代が下がると生前に二位になるケースも頻出するけどな。
特に頼政流、義経流、藤原姓になった範頼流、福原時代中期までにみんな生前に二位をもらう人物を輩出してる。
351 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 15:38:04.48
え2位まで昇進したの?まじ?
源頼家っていなかったっけ?
誰だそりゃ?山川の日本史には載ってないぞ
>>350 源氏の重用は、平家専制という批難をかわしつつ武家vs公家の構図の中で武家の優位を確立する意図があったみたいだね
まあそれが、福原末の後醍醐&新田そして足利による政権簒奪や、織田幕府時代の今川や武田の大反乱、そして幕末の動乱に繋がるわけだが
>>352-353 俺が読んだ書物(ただしトンデモ系w)だと頼朝処刑後に
妻と称した政子が自分の息子を
総大将に仕立てたと書いてあった
(さらに弟なる存在もいたらしい)
>>354 だが新田は織田幕府成立の時戻ってきたぞ。
山名、徳川、揃って織田についた。
>>350 その辺は琉球征伐での昇進を考慮に入れるべきじゃないか?
代表例が
>>313氏ご紹介の藤原経範。こいつが一代で三位まで
駆け登っちゃって、孫の代に二位ゲットと。
彼以外も源氏系武将の強さは異常としか思えぬ。なんで寿永反乱が
失敗の終わったんだか不思議になってくるぞ。
>>354 その目論見は見事成功したな。福原中期以降公家は朝政からも離れ、ほとんど祭祀階級に変化していった。
代わりに平氏一門と源氏の一部が戦士貴族として公家のいた位置を占めたと。
>>313 宋の書籍に言うところの「連環将軍藤経範」か。
大船を鎖と板で繋ぎ合わせて要塞化し、台風をなんなく乗り切って琉球に上陸。
このおかげで船酔いにかからずに済んだ坂東武者&馬は上陸戦で存分に戦闘力を発揮でき、敵をボコボコにした。
>>356 同じ源氏の足利についたらさんざん冷や飯を食わされたから、平氏についてたほうがましだったと思い直したんだろう。
徳川の今川に対する態度を見てたら冷遇された怒り、源氏一族への怒りが良く分かる。
なぜか武田に対しては優しいけど。
>>359 講談では海戦で琉球水軍を叩きのめした義経の子義宗に完全に食われちまってるけどな。
>>359 台風時に連環計は、衝突が怖いので疑問だな。
上手く嵐を避けたんじゃないかな?
>>360 その辺は仕方ない。「経」範の名乗りから判る通り、烏帽子親が義経だし
巷説なら義経から六韜三略を学んだ弟子でもある。
義経の実子と混同されれば、そりゃ実子が主役になるわな。
>>361 まあそれでも坂東八万騎と馬を船酔い患者も病死者もなく渡海させたのは事実なわけで。
琉球征伐といえば山岳戦での木曾党の活躍を忘れちゃいけない。
木曾義高の大活躍は唱歌にもなったぐらい有名だ。
>>360 武田に対して優しいのは頼朝にべったりだったほうの足利へのあてつけでしょ。
頼朝と仲が悪かった同士の繋がりってのもあるし。
>>244 チーーーン
マ・クベ 「いい音色だろ?」
ウラガン「は・・・。いい物なのでありますか?」
マ・クベ 「実朝だな。」
>>360 副将に教経の次男教長と梶原景季がついて補佐したことも大きいぞ。
特に梶原景季は軍船に逆櫓をつけて機動性をアップさせることを提案して採用された。
戦後は艦隊戦勝利の戦功第一と激賞され、「伏波」(ふくは)という名前の名剣をもらった。
教長とその郎党で教経の代から仕えてる経清(菊王丸)は指揮のみならず、船の上を飛び回って敵将を射落として回るという人間離れした働きもしている。
>>363 俺が子供の頃うちのじいちゃんの地元に琵琶法師がいて夏休みに帰省した時はよく平家物語を聞かせてもらったんだが、木曾党の山岳戦での大活躍と
>>367の教長八艘飛びの段を唄うときはいつもヒートアップしてたな。
そこだけバチの動きが倍ぐらい早くなるの。
よっぽど好きなんだろうなって思って聴いてた。
>>244>>366 本来硬玉、軟玉を使うところで代わりに実朝翡翠を使って作られた道具とかもあるらしいね。
あんまり出来が良すぎて20世紀まで陶器じゃなくて本物の翡翠だと思われて「キンカイ」って名前がついてたのは武内直子姫のファンならみんな知ってる話。
セーラームーンの敵キャラ(第一部)にも四天王に次ぐ地位の幹部としてキンカイが登場している。
キンカイトじゃなかったっけ?
>>354や
>>358の視点に立ってみると一世一代の大反乱を起こしたもののそれも平氏の掌の上だったってのはみんな同じはずなのに
武田信玄が名将扱いされて源頼朝が愚将扱いされる理由って何だろうな?
部下からの信望の差か?
そういえば、鎮西八郎為朝の子 義龍はどうしたんだ?
琉球で国作ったんだっけ?
あれ使えば良かったんじゃね?
>>372 まあ、一島の支配者にすぎず統治能力が不十分だから琉球一国を任せるのは無理でしょ。
主要合戦にも全て参加したとはいえ途中での参陣だし。戦後支配していた島の領有権を認められ、さらに海上権益も認められたしこのへんがいいとこでしょ。
それ以上の恩賞を与えると他の武将と釣り合わない。
>>371 武田信玄は頼朝の先例を引いて部下や一族を極力殺さないようにしてる。
父信虎を排除した時は出家させ、嫡男義信の謀反の時も原因となった側室を磔にするだけで本人は所領に幽閉ですませてる。
飯富虎昌が切腹しようとしたのも止めて、義信の息子の守役を命じてる。
ここまで違うのに一緒にはできないと思われ。
376 :
日本@名無史さん:2013/06/30(日) 14:34:03.52
源頼朝は後世の悪い意味での見本になったからな
どんな暴君も頼朝を例に出せばなだめられてしまう
その点では頼朝は間違いなく歴史を動かした人間だと言える
よく紂王と並べて語られるよね。
『寿永封神演義』に描かれた所業とか、相当誇張が入ってるのは確実なのにそれでも全部事実として語られてる。
こんなのと一緒にされたら、誰だって行状を改めたくなるだろ。
子らよ心せよ。忠孝の徳は仁義に及ばず。
故に忠孝を貫きし蒲冠者は天命尽き、仁義に舵切ったる判官は栄えたり…か。
誰が一番可哀想って、頼家が一番かわいそうだよね
>>378 この教えを忠実に守った織田弾正忠家の信定が崩壊寸前の織田本家を見限って下剋上したおかげで、織田幕府は続いたんだよな。
暗君放伐のいい見本だよ。
>仁義に舵切ったる判官は栄えたり
栄えたよね、義経流。
織田幕府時代には守護を多数輩出して一時は「六分の一殿」と呼ばれたぐらい。
畿内と東北で源氏と言えば義経流というのが織田時代府からの常識
あえて頼朝流を名乗った島津は何を考えていたんだろう?
一応嫡流だからか?
>>381 嘉吉の乱か。
って将軍様ぶち殺したのは親父の良信じゃなかった?
信定は跡目に据えられたお飾りでしょ。この時点では。
>>384 本当に頼朝の子孫だった位しか思いつかないな。
387 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 13:19:52.52
一瞬何の事かと頭が混乱したけど
ここはネタスレだったな
389 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 22:20:01.26
今度の木曜日、真鶴にある「しとどの窟」に行ってみるつもりです。
>>381 織田弾正忠家が弱体化した時には執権が迷わず政権を奪ってるしな。
ダメな主君は切るという伝統が織田を長続きさせたと言える。
391 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 05:55:17.40
島津氏は秦氏系の惟宗氏。
惟宗氏の中で、摂家につかえる武人の家系があって
それが島津氏の先祖。
>>384 つきあいのあった実朝の家が孫、曾孫の代で公家源氏として勢力を拡大して大臣家の家格を世襲にするところまで行ったから、コネクションを繋ぐためってのが一番大きいらしい。
源氏最高位の清華家を張った正統の頼政流につかなかった理由はその他大勢になるのがいやだったから、と言われているな。
>>390 暗愚放伐は資盛が富士川でうろたえまくった維盛を追い出して嫡子の座を取り返して以来の伝統だからな。
織田の政権を簒奪した羽柴も平氏だから、政権につく資格はあるし。
>>367 俺が聞いた話だと郎党三人引き連れて船の上飛び回ってたが…
>>384 >畿内と東北で源氏と言えば義経流
いくらなんでも下国の樺太の守護まで独占しなくてもいいだろうに
398 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 08:24:21.20
「藤原にふじんずば、百済藤の病」とか言ってたんじゃない?
>>397 義経流以外が守護では樺太人は納得しなかったのよ。
平家の家人を任命したら反乱を起こす、義経流の守護に交代させたらぴたりとおさまる、この繰り返しで義経流しか任命されなくなった。
蝦夷や樺太は義経の働きで文明化したという意識があり、一方で平氏や藤原氏は後からやって来て税だけ取っていくと思われているからなぁ
蝦夷の要地は平氏が押さえていたが義経の子孫たちが本気を出して結束したら蝦夷と樺太で独立国家形成もできたと思う
現実は義経流も所詮は源氏だからか一族で足並みは揃わず、平氏側もうまく対立を作り出して結束させなかったがね
>>400 自然条件の厳しさもあるけどね。
それを有効活用して分断したのはさすが平氏。
>>400 「北海道」設置の建言をしたのは義経の子孫だしな。
>>393 >>394 簒奪の時点では平氏。秀吉は本姓豊氏だが、秀吉の後を継いだ於次丸は信長の四男で生まれながらの平氏。
だから三法師の子を押しのけて政権を取っても批判されなかった。
頼朝の没年と、実朝の生年を教えて下さい。
>>400 こうアクの強そうな面子が揃ってたら足並み揃う方がおかしいだろ。
義経本人でもない限りまとめられん。
131 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 03:18:16.82
鎌倉中期の守護は、推定ではこんな感じだと言われてるね
渡島守護…経朝(義経流、京流…有名な静との間の子)
江差守護…新田経重(義経の女婿の子)
天塩守護…経義(義経流、時忠流)
十勝守護…義家(※八幡太郎とは別人。義経流本家、河越流)
406 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 01:21:54.93
誰か平治の乱以降の年表を作ってくれない?
407 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 04:37:20.25
1159年(平治元年)12月 平治の乱
1160年(永暦元年)2月9日頼朝捕まり六波羅に送られる
1180年(治承4年)8月 頼朝挙兵、山木館を襲って敗走、石橋山でも大敗
〃 10月 富士川の戦い 頼朝大敗 源範頼の軍が潰滅
まずはこんなところだな。
408 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:35:55.36 BE:1095657034-PLT(14000)
409 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:36:40.31 BE:1643485829-PLT(14000)
410 :
日本@名無史さん:
あげ