もし源頼朝が義経・義仲ら身内を粛正していたら

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198日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:20:05.72
>>197
それが>>181の事態の遠因か。
上皇軍の京武者から見たら、「お師匠様」が覚悟完了モードで
突撃してきたら、そりゃびびるな。
199日本@名無史さん:2012/11/09(金) 01:19:18.32
>>198
その時師匠と実際に戦って源平合戦の時の斎藤実盛と同じ感想を書き残した弟子がいる。
「坂東武者めちゃくちゃ強い、覚悟が違い過ぎる」的なことを。
200日本@名無史さん:2012/11/09(金) 19:42:37.81
この時範頼は「源三河守」じゃなく、「鎌倉方の大将軍、蒲冠者範頼」と
源平合戦時の名乗りを上げたと伝えられる。
ただ一騎でありながら「大将軍」を名乗った老武者を笑うことが出来た武士は
上皇軍に一人もいなかったという。
201日本@名無史さん:2012/11/12(月) 21:02:39.62
範頼の75才とは、1150年に産まれて、1225年まで生きていたのかいな
202日本@名無史さん:2012/11/13(火) 01:58:55.00
>>196
家康は部落民である徳阿弥の子。
江戸城の作法を決めたのが小笠原氏でこっちは正真正銘の源氏。
203日本@名無史さん:2012/12/06(木) 19:45:20.84
>>162
阿野全成は義経の同母兄の今若のことだぞアホ。
政子の妹の夫そして実朝の乳父にもなった男だし、
頼朝が死んだ後もその後の政争に巻き込まれるまでは生存していた。

ようするに自分にひたすら追従する奴なら生かしておく男なんだよ頼朝は。
204日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:02:16.70
>>201
80歳説もあるけどな。流罪にされた後鳥羽院についていった孫と音信を交わした記録がある。
いずれにしろ長生きだったのは間違いない。

おかげで範頼流は鎌倉後期武家源氏の棟梁格に上り詰めている。
頼朝流が断絶した後は宮将軍というが、その宮将軍の母は範頼流の娘、育った場所は範頼流の領地、実質範頼流だし。
205日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:05:12.02
>>203
その政争でも軽い処分で済み、鎌倉後期には執権家の一つに上ってるよな。
206日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:12:55.71
阿野氏、義円流、義経流をして「常磐三家」と尊称するようになったのっていつからだっけ?
207日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:43:49.50
>>203
全成は頼朝に追随したというより北条氏追随だな
北条政子の妹を正室としたことが吉と出、北条氏から婿として重んじられた
>>205
武家の阿野氏は大して出世してない
全成の娘が公家と結婚して全成の外孫(娘が産んだ女系孫)が外祖父の阿野氏を名乗り
公家の阿野氏が誕生した(男系では藤原南家魚名流)
ここから後醍醐天皇の側室、三位局阿野廉子が出ている
208日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:48:23.23
>>205
公家から迎えた正室の家祖の名前を取って家名にした魚名氏とかが有力分家として出てるよな。
名門ぶりを北条の赤橋氏と競ってた。
209日本@名無史さん:2012/12/09(日) 00:52:21.82
>>204
晩年の範頼は、ある意味鎌倉武士の理想型だからなぁ。そりゃ支持されるだろう。
上皇軍二千を一人でぶち抜いて戦争を始まる前に終わらせたのは
おそらく日本史上最大の個人武勲だろう。
後年、自称を含む源氏系の武将たちが、彼にあやかって三河守の官位を望んだ気持ちはよく解る。

スレタイに従って、もし範頼が源平合戦終わったあたりで粛清されていたら
……多分、承久危機は日本を二分する大戦争になってただろうな。
細かいところでは後年、姉川の合戦で朝倉軍の真柄直隆が一騎当千の強者と聞いた
本田忠勝が言い放った「三河に手向かうには千人ほど足りぬな」の名台詞もなかった訳か。
210日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:32:09.26
>>209
実力もないのに望んで出家させられて奴もいたよな、三河守。
さらに時代が進むと征夷大将軍になるにはまず三河守に任官して京官の左馬頭の兼任を許されて、初めて資格ができたっていうくらいのブランドになった。
211日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:51:47.46
範頼には有能な家人がついていて土地を切り売りしなくても京都大番役を務めあげられるというのも羨ましがられてたよな。
範頼が鎌倉武士の理想形でいられたのはこの家人のおかげ。

義経流本家の家人出身の商人「金売り吉次」(後々まで義経流本家に出入り)とこの家人は他の鎌倉御家人の羨望の的だった。
212日本@名無史さん:2012/12/09(日) 17:01:46.96
>>211
優秀な家臣もさりながら、基礎となる経済力が違うだろう。
範頼に三河があれば義経には伊予がある。
国持ち大名という言い方は後世の物だろうが、事実上一国(それも上国)を
領土にしているのは強すぎる。義経にはその上、藤原秀衡から分与された
奥州の知行もあるし。
213日本@名無史さん:2012/12/16(日) 02:14:07.76
>>212
義経はそのうえ十勝国も手に入れたしな。
結局は畿内・東海地方で繁栄した範頼流が15世紀以降政権を取ることになるわけだが。
214日本@名無史さん:2012/12/21(金) 03:13:49.95
>>197
出世の目がない下級貴族が範頼の家人になりたがって範頼の邸の前に列をなしていたという記録すらあるw
215日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:05:29.20
範頼流も義経流も、頼朝流断絶においてバックアップの役を果たしたけど、
両者の勢力は、一つ間違えば鎌倉にとってもの凄い脅威だった。
考えてみてくれ。奥州藤原氏と全面戦争になり、奥州軍の陣頭に義経が立っていたら。
あるいは承久危機の時、範頼が上皇方についていたら。
どちらも頼朝から見れば十分にあり得た未来だ。未然に防ぐための粛清、一度も考えなかったとは思えない。
216日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:52:17.99
源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表


1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる

・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎

1155年、藤原季範(初代熱田大宮司)死去
1157年、由良御前(源頼朝の母)死去
1159年、父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
1161年、藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝

1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184年、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
217日本@名無史さん:2012/12/22(土) 11:04:11.38
源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表

1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎

1155年、藤原季範(初代熱田大宮司)死去
1157年、由良御前(源頼朝の母)死去
1159年、父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
1161年、藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝

1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184年、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1190年、源頼朝右大将拝賀の前駆を藤原範清と務める(前駆10人の内8人は院が調達)
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清(頼朝の従兄弟)

1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
218日本@名無史さん:2012/12/23(日) 15:40:20.99
「義経=ジンギスカン説」の検証される事実

http://music.geocities.jp/jphope21/0204/46/305.html

元王朝もまた、「源王朝」の語呂合わせと思われる。
219日本@名無史さん:2012/12/31(月) 00:56:09.52
ああ。「元」と言うのは「源」と同義語だからな
220日本@名無史さん:2013/01/14(月) 03:44:51.23
>>215
考えただろうな。
けど、自分の息子がどっちもorzな出来である以上、それをやっちまうと政権そのものが消滅するか乗っ取られる。
有力家臣、外戚の乗っ取りを防ぐためには一門に手をつけるわけにはいかんだろ。
221日本@名無史さん:2013/01/14(月) 15:05:27.00
>>218
西シベリア「ハンチマンシー族民族自治区」の名称の由来は「八幡氏」なんだってね。
222日本@名無史さん:2013/01/15(火) 15:17:09.97
>>220
源氏はこれ以前にも嫡流の座を巡って一族で殺し合いしてるだろ
北条氏に政権簒奪されるくらいなら木曽義仲に政権をやろうとか
源義経に政権やろうとかは考えないさw
223日本@名無史さん:2013/01/18(金) 20:01:33.00
義仲の子の義高と大姫に子供ができればあるいは
ただ頼家とか公暁とかとごたごたになりそうだけど
224日本@名無史さん:2013/01/27(日) 23:28:18.56
>>221 樺太の現地名 サハリン は「笹竜胆」が由来とか・・・
225日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:47:46.09
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を産む
226日本@名無史さん:2013/06/13(木) 21:41:15.33
【衝撃の】やはり義経はチンギス=ハンだった【新事実】
勧進帳で知られている安宅関の時点で義経は別人と入れ替わっていたという説がある。
美談になっているが、義経とは別人だったから弁慶は杖で何度も殴打したのだ。
涙を流しながら(泣きながら)とあるが、季節的に「弁慶」は花粉症だったという説を唱える歴史研究家までいる。
では、安宅関の以前に入れ替わった義経は何処にいったのか?

答えは東尋坊にある。
地図を見ていただければ一目瞭然だが、このあたりだけ地形が突出している。
東尋坊の名前の由来も「東(東北)の位置を訪ねた僧(坊主)」からきているらしいが
方向音痴として知られる弁慶の微笑ましいエピソードである。
この東尋坊で義経は弁慶と別れ船に乗り、能登へ移動(「義経の舟隠し」へ)。
そこから現在の禄剛崎まで徒歩で移動し再び船に乗って一旦、舞鶴に戻ったとされる。

記事詳細
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/river/1356991283/
227日本@名無史さん:2013/06/14(金) 00:02:26.18
>>217
蒲冠者範頼の出生地遠江国蒲村は現浜松市東区蒲地区あたりみたいです
228日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
命は一つ 命かけて戦った者に勝るもの無
頼朝はバカ 頭は良かったかもしれにが小心者では?
源氏の旗あげ時も 他の者の助言によるもの 
弟は何の為に命かけたか・・・・歴史とは 振り替えると
すべてが馬鹿らしい だけど
それが人間の歴史
229日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN
源範義、範とも
230日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN
↑ミス

義範、範朝兄弟も優秀だよな
二人で祖父範頼の代わりをしようとして、義範が武で範朝が文を極め、幕府を補佐したという
正直、4〜6代目あたりの幕府はこの二人がいなきゃ終わってたな
231日本@名無史さん:2013/09/10(火) 01:33:54.14
>>206
八代将軍義宗の時代からだよ。
232日本@名無史さん:2013/09/21(土) 03:06:45.53
>>214
地下家には実際、なった家も多いぞ。
範頼流の家臣の行政能力の高さは多数の地下の実務官僚が武家化して家臣になったからだとか。
233日本@名無史さん:2013/09/26(木) 08:24:20.89
室町時代には範頼衆から公家に戻って武家伝奏に出世した奴とかいたよな。
234日本@名無史さん:2013/09/26(木) 18:58:42.78
>>232
範頼が孫に残した訓話集に、武家といえど事務を軽んじてはならないとあるな。
おそらく源平合戦時に、当時としては桁外れに大規模・長距離な遠征軍の管理に苦労した
経験を反映しているのだろう。
必要な兵糧は一人一日米5合だが運ぶ人夫が食う飯も忘れるなとか、一万の軍勢を
3列に並べると先頭が出発してから最後尾が出発するまで1時間半かかるから、
一日の行動可能時間は一人旅の時より3時間少ないとみて行軍可能距離を計算しろとか、
恐ろしく実戦的な事務手引きも含まれている。
235日本@名無史さん:2013/09/28(土) 03:42:50.06
>>235
一番足の遅い者と一番の駄馬を基準に行軍可能時間を算出しろとも言っている。これは役に立つ。
馬の餌も忘れるなとか馬医者を連れて行けとか馬関係の記述も多いな。
236日本@名無史さん:2013/10/02(水) 02:23:14.40
馬医者は義経流が養成を一手に独占してたんだが、人間相手の医者は範頼流が一手に養成してるよな。
この時代の日本の医者特に外科といえば、範頼に仕えた宋人とその弟子だらけ。
237日本@名無史さん:2013/10/02(水) 02:24:45.73
>>221
義経流の本家争いに負けて逃げた連中が住みついたのがそのあたりだからな。
238日本@名無史さん:2013/10/02(水) 19:37:15.51
>>236
この辺は>>192で紹介された書簡に関連記事があるな。
藤戸の戦いで馬に海を渡らせて勝ったは良いが、その時多くの馬が
脚を痛めて後に苦労したという失敗談が書かれている。これを教訓にしたんじゃないかな。

人間の方は……同じく書簡集に、助からない重傷を負った味方兵を楽にしてやる話がある。
「我が身を刺すより苦しきものなり」と記される。中世としては画期的な軍医の自力養成を
発想した原点はここではないかと想像する。
239日本@名無史さん:2013/10/06(日) 08:18:25.40
>>238
長時間馬に乗る関係上痔になる奴が多くて、痔の手術法が発達したのはさすが東国というところだな。
世界初の痔の手術が行われたのは範頼の息子の時代だったっけ?
240日本@名無史さん:2013/10/06(日) 20:21:04.14
スレタイと合ってるか分かんないけど質問
昔伝記漫画を読んだ時に、戦で義経が奇襲をかけようとした時味方から「不意討ちなんて武士として恥ずかしいですよ」と言われ
「負けるほうが余程恥ずかしいですよ」と返すシーンが有って
後で諸々の資料を読んで、義経って結構そういうルールやマナー無視戦法で有名だったと知りました
が、上記のやり取りって何かの資料に元ネタがあるんでしょうか?
聞き覚えのある人いますかね…
241日本@名無史さん:2013/10/09(水) 23:15:37.29
>>240
その手の話のルーツと言えば、やはり壇ノ浦での水夫射殺じゃないかな?
当時の感覚では奇襲を通り越して非戦闘員の虐殺に該当したらしく、
義経はこの件では生涯後ろ指を指された。英雄義経最大の汚点だな。

で、後年息子が「何故父上はそのような非道を行ったのですか?」
と問うた時の答えが「格好つけて負けていたら、今お前はここにはいない」
だったそうな。
242日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:52:01.59
>>241
静御前が産んで即由比ヶ浜で殺された男子以外に義経の息子なんていたっけ??
243日本@名無史さん:2013/10/10(木) 23:19:05.61
>>242
スレタイ読んで来い
244日本@名無史さん:2013/11/19(火) 02:48:33.29
131 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 03:18:16.82
鎌倉中期の守護は、推定ではこんな感じだと言われてるね
渡島守護…経朝(義経流、京流…有名な静との間の子)
江差守護…新田経重(義経の女婿の子)
天塩守護…経義(義経流、時忠流)
十勝守護…義家(※八幡太郎とは別人。義経流本家、河越流)

ほい義経一族
245日本@名無史さん:2013/12/18(水) 20:56:55.54
もし猪瀬知事が徳洲会から5000万収賄して百条委員会にかけられていたら
246日本@名無史さん:2013/12/25(水) 07:21:20.69
樺太(kar put)って最初「唐太」など適当に充ててたのだが、
中に「蒲太」というのがあって、そこから樺太になったらしい
なぜ蒲 kabaをわざわざ充てたのか考察されるが、植生ではないらしいね
西蝦夷地の守護はおおむね義経流が独占してたが、北蝦夷地の騒乱に際して幕軍が後詰を送った際
範頼が救援隊の大将軍を命じられた伝承(実際は>>230の義範か、父の朝範?)と関係あるとかないとか
247日本@名無史さん
そうだったのか。