1 :
日本@名無史さん:
淀殿「太閤様がなくなられた・・よってこれより軍議を開く」
豊臣ー関白
徳川ー征夷大将軍
の公武合体しかないな。
>3のいうとおり
公武合体、秀忠→家光前後で・・・
または
太閤死直後に暗殺→北政所・前田をバックに一気に制圧
くらいしか思いつかん。更に失敗・取りこぼしができない綱渡りだが
逆に天下をさっさと家康に明け渡し、西国のどこぞで一大名になるのも手。
秀頼を関ヶ原に出陣させれば良い
東軍についた豊臣恩顧の将は大義も戦意も失うだろうし
西軍からの離反者も少なくなるだろう
7 :
細川忠興:2012/02/14(火) 00:51:36.78
>>6 どうだろうか?
秀頼連れてきても年齢的に傀儡なのは目に見えてるし、却って家康的には美味しいかも。戦場なら三成共々切腹したとか言えそうだし、正則達も高台院に言質とってるやろうし。
秀忠を秀吉の猶子にし、関白の位につける。
豊臣家を存続させる方法は結構ありそうだが、
豊臣家の天下を存続させるとなると、これは難しいなあ。
とりあえず、三成がおとなしく引退してれば何とかなったんじゃないの?
家康は上杉に所替えを命じて、北に追っ払う。会津には親徳川の大名を入れる。
これで上杉征伐は一件落着でしょ。
>>9 豊臣家の存続だけなら秀頼が千姫を孕ませて
男の子を産ませるだけで良かった
秀忠の外孫が豊臣家の三代目になる訳だから
徳川一門として遇されたからな
やっぱり当人にその気が無くても「担ぐ」輩が必ず出て来るからな。
政敵は根絶やしにするしか無い。だから豊臣家の存続さえ不可能だろう。
出家させて寺に入れる手法は、源平時代に破綻した。だから足利義教は
幼い結城の兄弟を斬った。かく言う家康も、秀頼の男児は大阪落城後に斬っている。
唯一可能性があるなら、家康の死より豊臣家が永らえることだろう。
温和な秀忠ならあるいは・・・。
いやそんなことはないよ。それに秀忠は別に温和ではないし
ただし豊臣家は大坂からの転封は承知してもらわないといけない
13 :
巴御前:2012/02/24(金) 18:02:50.59
転封・減封は必須やね。
公家になれば死なずには済むかもしれない
しかし少なくとも家康が死ぬまでか、秀忠側近が安心するまで土下座続けないと殺されるか、挑発されるか、体力削られるよね。
天下云々はそっからの話
織田のように家康・秀忠が同時に死ねば
何とかなるか?
15 :
徳川綱吉:2012/02/25(土) 00:36:40.07
>>14 うーん。その場合結城秀康と松平忠吉次第でなかろうか?
家光が生まれてるがにもよるが、ここが揉めなきゃ内紛が始まらない。
徳川老臣陣はまだ今川統治時代知ってるから織田みたいにはならん気がする。
関東に移れば、徳川将軍家の女婿なんだから厚遇される
あとは家光に対して忠長状態にならないかどうかの問題が残るけど
秀頼がさっさと子づくりして家督を譲り、幕府体制傘下の大名になればおk
しかしそこまで踏ん切りがつかないだろうね。今でも損切りが出来ずに倒産する企業はたくさんある
秀頼が討伐されたのは結局、官位その他から見て幕府体制に入りきらなかったんだから
淀殿を芳春院のように江戸表に質として差出し、家康が死ぬまで時間を稼ぐ。
>>17 淀殿が大阪城のあるじ状態だったのに、人質で江戸下向を受け入れるかなぁ。
>>18 そういう意味では追い出したい連中もいたんじゃなかろうか?
秀頼側近とか、秀頼の意志を上回って淀君がやりたい放題で押し通されたら腹立たしいと思ってないだろうか?
生母の江戸下向、大坂城からの転出
どちらも徳川体制に従う意思表示だから、淀殿がかりに行きますと言っても
豊臣家中の強硬派が阻止しないとも限らない、それはそれで家中内紛と言うことになりかねず
淀殿が懸命に説得すれば可能は可能かも知れないが
家康が死ぬまで時間を稼げばいいのだから、一生江戸表にいるわけでもなし。
やっぱり秀吉が母と妹を人質に家康に差出したくらいのインパクトが無いと
逃げられないと思う。交渉事は相手の意表を突くのが勝ちだから。
秀頼が江戸に淀を送った後挑発して、淀を斬らせるくらいすれば大阪の
士気は上がり滅亡はしないだろう。
22 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 20:37:54.32
豊臣家には大阪冬・夏の陣まで生き残ってもらって
冬・夏の陣は真田幸村に頑張ってもらう。
23 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 21:04:36.45
秀康を羽柴家に戻して、豊臣秀康として、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を与える。
豊臣秀勝の女である完子を忠直の嫁とする。
家康が表だって反対しづらいし、潰しづらい上に、家康の言う通りになるとは限らない勢力になる。
徳川家の家臣団の分裂が起こる可能性もある。
>>11 秀頼の遺児とは言っても側室の子で千姫が産んだ子供じゃないから
家康は千姫の事は非常に気に掛けてたから千姫の子で
自分の曾孫なら殺せないわ
それと家康は信康を切腹させた事を晩年まで苦にしてたから
甥の秀次(姉の子)を切腹させても全然平気だった秀吉より
実は肉親への愛情は深い人物だったと言える
25 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 01:15:00.31
>>24 自分(家康から見て)の血を引く千姫の子と引かない(秀吉から見て)
秀次と同列に語るのはどうかと思う。
秀吉も自分の血を引くものだったら、対応を変えていたかもしれないし
反対に千姫が家康の孫ではなく、叔父の子孫だったら家康は容赦
しなかったかもしれない。
>>実は肉親への愛情は深い人物だったと言える
それはどうだろ?秀康が醜いから幼少時に会わなかったり、本人が
悪いにせよ、自分の危篤時にまで面会を許さなかった、忠輝に
対する対応から見ても、肉親の愛情が深いとは言えないだろ。
26 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 18:32:59.18
家康の提案に従ってとりあえず上総安房の二カ国に大人しくおさまれば…
27 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 18:45:29.52
秀吉は太閤になってからは嫌いだな。
でももし豊臣家存続させたいなら、家康を暗殺すべだった。
>>26 国替えを命ずるとしても安房上総なんて実際にはやらんだろう
江戸湾の入り口を扼する重要すぎる土地だから
地生えの里見も潰されちゃって譜代に置き換えられたもんさ
>>28 大坂城から出たら負けだよ。引き籠っているうちに秀頼が淀殿を殺せばいい。
掘りさえ埋まらなきゃ手は出せん。
>>30 大きい城だから、兵糧も水も十分にありそうなんだけど。
32 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 14:40:26.20
家康を政権の中枢、それも首座に据えたのが間違いの始まりだったのだ
今度はとことん外様として遇することにしよう。
もちろん秀頼と千姫の婚儀も無し。
とりあえず信玄さんに早々と殺ってもらう
>>31 大きな城だから守るのに人がいる。勿論貯蔵量も大きいがね。
小田原攻めが良い例でんな
>>31 大阪冬の陣では、豊臣方は開戦して間もなくで既に一日の弾数制限をしている。
いくら大阪城でも銃弾が無くなればもうアウト。
はっきり言えば大坂の陣は、味方の大名が現れないまま開戦した段階で既に詰んでいた。
36 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 12:29:43.98
111 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 08:31:46
えー?参勤交代も五百石以上の船を大名がつくることを禁じたのも豊臣滅亡後だろ?
そもそも幕府のシステムがまともに形作られたのは家康の死後。
寺社、朝廷への制限も大坂落城以前はまったくと言っていいほど行なわれていなかったはず。
だから、その気になれば従二位右大臣の秀頼を織田信雄あたりが兵を引き連れ上洛させ
天皇に徳川討伐の命令を下させることも出来なくはなかった。
1614年頃の江戸幕府なんてそんなもんだよ。
だから佐竹も国許に「家康が死んだらどうなるかわからんぞ」と手紙を書いて、
前田も家臣を大坂に保険として入城させたんだろ。
だいたい、豊臣の直接治めていた領土を関ヶ原後、家康は取り上げたわけだが
当時は右大臣の秀頼を崇める傾向もあって、旧領主の豊臣へも税が定期的に納められていた記録が残っている。
徳川は見てみぬ振りをしてたんだろ。
なぜ見てみぬ振りをしたかと言うと、結局、当時は寺社も天皇も大名も完璧に抑えるシステムを作れてなかったからだわな。
豊臣を戴いて蜂起する外様が出ることを恐れ、実力を行使できなかったから。
114 :無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 12:32:23
ま、徳川が豊臣に注意を払い、そういったシステムを作れなかったのは事実
1614年の段階では諸大名と豊臣が結びつくことを恐れていたのは確かだわな
なぜ恐れていたかというと、少なくとも幕府が出来た直後の段階で徳川は意外に強固な力を得ていなかったんだろ
関ヶ原の合戦後における前田利長の「秀頼に忠誠を誓いたい」発言は徳川幕府が意外にパワーがなかった証しと俺は考える。
こういう時系列の整理がついてないアホな議論をどうしてしちゃうのかねえ。
38 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 19:00:01.85
普通に秀次が継いでいれば何ら問題は無かったし、逆に家康が滅ぼされていただろうな。
秀吉が自分自身で招いた劇だな。
豊臣秀次を処分したのが原因。秀次は身を引いて秀頼を補佐する、さながら北条政村の術を心得ていたことは明らかでござる
>>39 秀次本人が身を引いたのにも関わらず、
神輿として祭り上げよう勢力が出る恐れがあった・・・とも思えないなぁ。
豊臣氏は成り上がりだから、神輿になるほど貴重な血統というわけじゃない。
41 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 21:59:05.44
秀吉が天下統一後に何らかの理由をつけて徳川を取り潰し
あるいは攻めていたらどうなった?
朝鮮出兵なぞやらずに徳川征伐をしていたら。
北条政村は執権退任後、連署筆頭として若い時宗を補佐したことは、周知の事実でござる。
豊臣秀次も、関白退任後は、豊臣家筆頭年寄として秀頼を輔弼する用意は有ったのである
>>42 北条家の統治システムがほぼ完成した時期と比較しても困るんだが。
鎌倉幕府と比較するなら
秀吉=頼朝 秀次=頼家 秀頼=実朝
ってみたほうがいい。
44 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 02:27:47.96
朝鮮出兵した大名に大阪陣で浪人にばら蒔いた金を功労金名目でばら蒔く
これで安泰
45 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 09:33:31.65
>>42 北条家は得宗と呼ばれる嫡流とそれ以外の傍系が明確化されていて
北条政村は本来執権になるべき得宗時宗が成人するまで
仮に執権の地位を預けられていたに過ぎない。
それに対して豊臣秀次は豊臣秀吉の正式な養子。
豊臣秀頼は生まれた際もただの秀次の弟扱いで、当初、秀吉自身、正室ねねへの手紙で
「我らの子は鶴松だけ(鶴松は豊臣家の嫡子としてねねが養育した)。
お拾(秀頼)は茶々の子とする(秀頼は庶子なので側室の茶々に育てさせる)」
と言わざるを得なかった。
つまり、秀次が死ななければ秀頼は秀吉の嫡子や跡取りとなれなかったということ。
秀吉とねねとの間に嫡男がいたらな
問題なかった
>>46 ねね云々というよりも・・・
鶴松は側室腹だったが、秀次を跡取りとする前だったので豊臣家の跡取りになれた。
秀頼が当初庶子扱いだったのは秀次を正式な跡取りとして秀吉の嫡子決定した後だったため。
応仁の乱のときも、足利義尚は将軍正室の御台所日野富子の実子だったが
すでに将軍足利義政が弟の義視を跡取りと定め嫡子扱いした後だったので
戦争しないと将軍になれなかった。
秀長が継いでたら問題なかったんじゃないの?
>>48 秀吉と秀長は3歳しか違わず、とても次世代の後継者にはできない。
現実に、秀長のほうが秀吉より早く病死してるし。
秀長にも男子がなかったので、やっぱり姉の子である秀次の弟を養子にしているよね。
>>48 秀長が秀吉に忠実に仕えたというのも秀長がただの「弟」だったから。
仮に秀吉が秀長を正式な養子として跡取りに定め、関白まで譲ったのであったのならば、
秀吉に実子が生まれても権利を主張したかもしれない。
嫡子をころころ変えているようではどのみち豊臣政権は混乱しただろうし。
51 :
日本@名無史さん:2012/04/17(火) 08:09:39.06
徳川の子孫共も、いつ政府を転覆して
幕府を開こうとするか予断を許さないところがあるから
今のうちに根絶やしにすべきだな。
52 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 05:35:38.07
徳川の実子であり、豊臣の養子である秀康とその子孫が豊臣の家督と関白位を継承する。
秀頼・秀忠とその子孫は特別な家柄(徳川の世の御三家を上回るような)として
秀頼系は太政大臣位、秀忠系は征夷大将軍位を継いでいく。
ただし、両者に実力を持たせては政権が安定しないので、
権力を持つのは関白のみで、太政大臣や征夷大将軍は
あくまでも名誉職とするようにする。
53 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 07:05:39.41
豊臣秀吉の死により、豊臣勢が分裂したのは、文禄・慶長の役の失敗における確執が原因。
いわゆる5奉行とは、文禄・慶長の役における監軍であり、実戦部隊長(1〜9番隊長)の目付役で、
戦況が苦しくなってくると5奉行と実戦部隊長との責任のなすりつけ合いや作戦の反故などで関係が悪化、
それが後に豊臣軍勢の分裂の主因を招いた。
54 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 07:11:57.82
>>53 追記
その分裂を上手く煽って利用して天下分け目の戦いに持ち込んだのが徳川家康。
55 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 07:39:21.79
そういう時を考えると、
北条征伐中に秀吉が毒殺されたりしたら、どうなってたんだろうな。
秀次・秀勝を中心にまとめあげることができたのかどうか。
北条・徳川が組んで粘って、豊臣への反旗を煽ったら、すぐに瓦解したかもね。
家康に関白を継がせりゃよかったんじゃね?
そしたら豊臣の天下が続かないだろw
ボケたのかと思ったら素だったのか
権力の正統性を「関白」という地位に求めるか、
「征夷大将軍」という地位に求めるかの違いか。
秀吉は当時の朝廷のごたごたを利用して関白になったが、
それがなければ源氏云々を抜きにして征夷大将軍を選んだのかなぁ。
秀吉以外の摂関家の待遇が問題になりそうだから。
源氏か平家じゃないと将軍になれないよ
そして秀吉が源氏でも平家でもないことは全員が知ってた
>>61 そんな決まりはありません。
江戸時代に後付けで言いふらされたことに今でも騙されているのか?
ありましたよ
残念ながらありました
源氏と平家以外の者が将軍になっても世は治まらなかったので
そういった先例を重視して「源氏と平家に限る」となったそうです
67 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 10:45:31.32
>>60 秀吉は、小牧・長久手の戦いで徳川家康に破れ、征夷大将軍へ道が頓挫して、
その代わりとして公家社会の地位である関白という名と土下座外交で家康を臣従させて
天下を統一したのだよ。
当時の徳川家康は、武田軍団をほとんど丸抱えにできたから、非常に強かった。
その実力を小牧・長久手の戦いで悟った秀吉は、合戦で家康を倒すことを諦めた訳だね。
>>67 随分古い時代の史観ですね。
征夷大将軍より上位にいた秀吉がなんで将軍なんぞに成らねばいかんのかと。
69 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 11:00:04.83
>>68 将軍になるならない以前に、天下統一を果たさなくてはいけないというのが秀吉の考えだよ。
天下統一さえ果たせば、将軍になる必要もないから、関白の座を捨てて、太閤と称したわけだよ。
70 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 12:01:42.24
大伴も坂上も紀も文屋も藤原もなれたのが将軍職。
皇族や北畠もなったような…
家康を唯一抑えられた利家が死んだのが痛いんだろ。
72 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 18:28:12.18
秀吉に関して言えば、関東平定をすれば将軍職を得られると朝廷の内諾を得ていた。
その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康連合軍に敗れて、天下統一のための最後の布石として
将軍職を得ることがかなわなくなり、織田政権を乗っ取ったばかりの豊臣秀吉は、内部崩壊を招かないように
別の方法で権威付けを狙う必要があった。それが関白。
その後、秀吉は、天下統一を果たして支配体制をガッチリと固めると、関白の座は必要なくなり、
後継者に譲って、文禄・慶長の役に全力を傾ける。
そしてその文禄・慶長の役で明の征伐どころか、朝鮮の征伐にすら失敗して、豊臣税は内部不和を醸し出し、
秀吉の死によって、朝鮮から引き上げ、醸成した内部不和を利用して、天下を取ったのが徳川家康。
これが大略。
73 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 19:02:03.80
>>1 結論的に言うと、文禄・慶長の役を起こさなければ、配下の大名の不満が醸成されず、
徳川家康に付け入るすきを与えなかった可能性が高まり、豊臣政権が続いた可能性が高い。
しかし、文録・慶長の役も、内政の不満、特に国内での領国拡張が止まったことの不満を、外征でそらす目的があったわけで、やらなかったら、内政上の支障が出たかも。
福島正則の例だと参議就任後五か月で辞任しているから、
結構こまめに辞めていると思う。
ただ先の中納言などと同じ感覚で、過去に就任した人たちに
そのまま敬意を払ってそれまで通りに扱い続けた可能性はあるだろう。
76 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:17:03.87
>>74 たいした支障はでないだろうよ。そもそも「朝鮮に道を借りて、明を征伐する」などという秀吉の誇大妄想は
豊臣家臣団にも不満を持っていた人間が多い。
現実に朝鮮と折衝にあたっていた人間たちは、明の外交担当者と組んで、双方の為政者に嘘の報告をして
戦役を止めようと必死だった。特に日本側は・・・。
また朝鮮の役の最中、明との講和にあたった現地指揮官たちも、秀吉に嘘の報告をして戦役を終わらせようとするなど、
秀吉に対する反発は、戦役中にも醸成されていた。そのことからも、最初から反対だった者もかなりいると思われる。
もともと戦役に反対だった小西行長たちはともかく、好戦的であった加藤清正にしても、後には、秀吉の意に逆らい、
戦線の縮小を求めるようになる。
家康を殺しとけばよかったんだ。
78 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:37:05.58
>>76 訂正
X 現実に朝鮮と折衝にあたっていた人間たちは、
○ 現実に明との折衝にあたっていた人間たちは、
追記
朝鮮との折衝でも、日本側の人間は、なんとか戦役を食い止めようと虚偽の報告を秀吉に上げ続ける。
79 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 08:42:40.54
>>77 家康を殺していても、肝心の豊臣家臣団が事実上、内部分裂していたので、
それに乗じて、毛利氏や上杉氏などが蠢動して、家康の後釜に座った可能性が高い。
あるいは、豊臣家臣団の分裂から、石田三成とかそれに敵対する豊臣重臣の戦いの結果、
勝者が豊臣家を乗っ取った可能性が高い。織田勢力を乗っ取った秀吉のように・・・
とりあえず福島正則を中心とした家臣団の編成を行っておくべきだった
少し頼りないが他の誰よりも納得させられる人物ではある。
朝鮮征伐末期では全羅道討伐を、福島正則に石田三成、増田長盛を付けて行う
計画があったとか。
関ヶ原の戦いでは石田三成は福島正則が味方に付くものと信じて清州帰城を待っていた。
徳川家康は豊臣家臣団切り崩しの一番の標的にしている。
どう考えても豊臣家臣団の中核として皆を納得させられる立場に居たのは福島正則しかいない。
81 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 09:55:02.21
>>79 家康は秀吉の極めて近い親族として秀吉によって豊臣家一門ナンバー2の地位に押し上げられていた
毛利や上杉は秀吉と何の姻戚関係も持たずポスト豊臣たりえたとは考えにくい
家康は秀吉の妹婿、秀忠は秀吉の義理の息子(養女の婿)として
斎藤道三から美濃の譲り状を受けた織田信長の如く
ある意味正統に豊臣家を乗っ取る権利を主張した
それによって秀吉の実の息子(系図上はね)が殺されたのは皮肉だったが
七将が石田三成を討ち果たしていれば、関ヶ原は起きなかった。
多分、徳川家は、鎌倉幕府の北条家のように、執権として権勢を振るったかも知れないが、豊臣家は、形式的にせよ主家として残ったのではと思う。
>>82 北条執権時代の鎌倉幕府将軍は軍事力を持たず
成人になれば京都に送り返されていた
関東にいる徳川家が大坂の豊臣家を
幼関白のみを輩出する傀儡とするのは難しい
豊臣秀康を従三位権大納言にし、併せて石川数正、小笠原を付家老としたうえで、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヶ国の大名にしていたならば、徳川に対する強い楔と為った可能性外山高士
秀康は、当時不治の病だった梅毒にかかっていたから、寿命が問題。跡継ぎも忠直だし。
それと、秀康は、うとまれているとはいえ、家康の息子、それに大封を与えるリスクもある。
>>84 秀康は秀吉に鶴松が生まれた時点で結城家へ養子に出されてるよ
実子(多分)が生まれた時点で養子関係を解消されている
87 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 23:13:10.83
秀次を切腹させたのが最大の失敗だったかも
秀次を秀頼が成人するまでのつなぎとしていれば家康に天下を簡単に
奪われなかったかも
秀頼が生まれなきゃ良かった
>>87 正式な養子にして、関白まで譲った秀次を、秀頼が生まれたからといって、中継ぎにするのは難しい。
だからこそ、秀次が殺された。
秀頼を秀次の養子にして、次を約束させるのが関の山だが、守られるかは、別問題だな。
豊臣の天下を諦め、徳川の一大名になるのが現実的だった。豊臣政権下の織田秀信みたいにね。
先祖帰りして、猿になったつもりで千姫と子作りに励み、家康外孫に家督を承継させる。
大阪城を返上、本領を、常陸、甲府、館林あたりのいずれかとし(あとは領地を分散して合計60万石はキープ)、江戸定府。
関白は返上させ、秀頼の次の代からは、極官を正二位内大臣とする(大臣家並み)。
>>90 秀頼と千姫の間に子が生まれなかったのは運命。
後世の小説で淀殿が千姫を故意に寝所から遠ざけていたというのもあるが
実際にはそのようなことはなかったらしい。
もし・・・と言い出してもね。
>>6 家康を大阪城内で謀殺するいがいでは関が原が一番のポイント。
毛利家主力と豊臣家の主力が大阪城で待機してなきゃ家康は関東で逼塞してた。
関が原の時点で、豊臣方には柱がないからなぁ
家康暗殺できてたとしてもグダグダでしょ
南北朝みたいになる気がする
関ヶ原時点で豊臣秀頼8歳
家康暗殺してあと6,7年ぐだぐだして時間稼ぎできれば豊臣政権は持ったかも
家康は秀頼の成人を待たずに征夷大将軍就任・嫡子秀忠への征夷大将軍委譲を行っている
成人しても豊臣秀頼の能力では天下を保つのは難しい
政権が盤石なら個人の能力は関係ないんだがな
江戸幕府将軍も歯ぎしり将軍やらおもらし将軍やら幼将軍やらいろいろいただろ
西軍の諸将に囲まれ戦時下に育てば
大阪の陣の時よりは頼りになる大将になってたかもな
98 :
日本@名無史さん:2012/05/07(月) 21:28:46.06
秀次を生かしとけばよかった
99 :
日本@名無史さん:2012/05/07(月) 21:36:31.38
淀が遠慮して、北政所を秀頼が成人するまでの豊臣家の代表にして
いれば、加藤、福島、黒田は東軍に組しなかったのが、ほぼ確実
だろうから、徳川の天下はなかったと思う。
100 :
日本@名無史さん:2012/05/07(月) 23:34:19.09
>>98 条件は違うが同意。
むしろ、秀次が「 太閤は自分より年齢が上、おとなしくしていれば直に死ぬ」
と一歩先の思考で、秀頼に関白譲位を進言、自ら吉野か高野山に出家する。
秀吉のマークも緩くなるので、その死後に天武天皇ばりに豹変する。
形は違えど、豊臣の 血は守られると思う。
素直に徳川に禅譲しとけば
家だけは残ったんじゃないかと
102 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 05:29:03.65
>>86 他家に養子に出されても、元々の親子関係が解消されるわけではない。
実子を養子に出しても実親子関係は残るし、養子をさらに他家に養子に出しても
離縁をしない限り元々の養子関係は残る。
もし秀康との養子関係を離縁したとすれば、それは豊臣の徳川に対するあからさまな
宣戦布告に等しく、ありえない。
小早川秀秋にしても、小早川家に養子に出たのちも元々の秀吉との養子関係があるからこそ
「次期関白に」との西軍の調略があったともいわれる。
もしかしたら秀康にも同様の調略の手がのびていたかもしれんし、そうでなくとも
家康がそれを疑っていたかもしれん。
103 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 08:40:11.70
>>102 結城秀康については養父結城晴朝の養女と結婚、結城家の菩提寺も創建している。
しかし、豊臣家の菩提寺を創建したことはない。
また、結城姓のときにおこった関ヶ原の合戦で実父徳川家康に味方し、
それによって越前を拝領、越前にも結城家の菩提寺を建て、
晩年には旧姓の松平に復していたとみられる。
(秀康は大阪の役の前に死んでいるので、存命中、ずっと豊臣家は存続していた)
秀康が生涯秀吉の養子だったとするなら、おかしなことだらけ。
>>100 秀吉は当初、秀次の長女と幼い秀頼を婚約させ、秀次→秀頼への政権移譲を試みた。
しかし、結局将来の遺恨になると考え、秀次を殺してしまった。
出家すると言っても死を免れることができたかどうかは怪しい。
源頼朝が実子源頼家のために弟や従弟など血縁者を残らず粛清し失敗したのに近いが。
>>102 小早川秀秋については初めから秀吉の正室北政所ねねの甥だからな。
秀吉の養子になる前、小早川家に養子に出された後も、
ずっと子のない北政所が実甥として可愛がっていた経緯がある。
一方、結城秀康は初めから豊臣家と血縁関係はなかった。
小早川秀秋に関白就任要請があったというのは一次史料では確認できない。
106 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 10:09:52.92
>>105 正室北政所の甥(秀吉の義甥・小早川秀秋)
妹旭姫の養子(秀吉の義甥・結城秀康)
→秀吉的には、たいして変わらないんだが。
107 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 10:14:59.52
>>106 秀康には秀吉や朝日姫との間に血縁関係はない。
しかし、北政所と小早川秀秋の間には血縁関係がある。
そのことを言っているのであって。
しかも、当の朝日姫は秀吉が死ぬ前に死んでしまっている。
秀次が西軍まとめて徳川と戦えたかな?
無理無理絶対無理
秀次は世間一般で言われてるほど愚将じゃないと思うが
経験豊富な家康に勝てるわけない
小牧長久手の戦い見たらわかるだろ?
それじゃ、秀次派と秀頼派ができて余計に状況が悪くなるな
111 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 23:06:00.80
>>103 言わんとすることは分かるが、
古来から現在に至る養子に関するルールでは
>>102が書いているように
@養子に出ても実親子関係は解消されない
A養子を重ねて他家に養子に出しても元々の養子関係は解消されない、
解消するなら別途離縁の手続きが必要
また、他にも
B養親、養子のどちらかの死後の養子関係の解消はそれなりの手続きが必要
C養親、養子の両方の死後は養子関係の解消は不可
秀康が結城家に養子に出た時点で豊臣との養子関係を解消する理由も無いし
(迎える結城家にしても、徳川に実子、豊臣の養子という値打ちがあるからこそ
養子として迎え入れる)、関ヶ原の時点でも未だ公式に豊臣と徳川が直接敵対しているわけでもない。
そんなこんなで大阪の陣の前に秀康死亡。この時点で養子関係者で生き残っているのは養母の北の政所だけだが、
この時点以降での養子関係を解消できるのは彼女だけだが、例え北の政所との養子関係を解消しても
養父秀吉との解消は不可。
なんだかんだ言って、形式的にではあっても秀康は生涯豊臣の養子であったんじゃあるまいか。
112 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 23:23:29.48
イチかバチかだが黒田官兵衛に頼るしかなかっただろ
113 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 23:32:08.14
信長の子供達もそうだけど
秀吉の子供達も(養子も含めて)天下人の子供の割にはあんまり良い人生送ってないな。
114 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 23:37:16.24
そういや家康の若い時分の子もロクな人生送っていないのが多いような。
晩年の御三家ぐらいだな。
ぬくぬく恵まれて育ったの
大奥がとんでもないことになって
いるでござるが。
117 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 07:48:39.20
>>111 秀康が結城家の菩提寺を建てて豊臣家の菩提寺を建てていないのはどう説明する?
養子に出されてももともともの実親子関係の解消に至らないのは血の縁でその通りだろうが、
結城家の養子になっても豊臣家の養子であり続けたという証拠は?
秀康は関ヶ原でもあっさり実父家康について大きな働きをしているし、
彼に豊臣家一門としての動きは一切見られない。
大坂の役で秀康が生きていれば豊臣についただろうというのも司馬あたりの推測。
118 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 07:53:24.85
>>111 秀康が生涯豊臣の養子だったのならば家康も大封を与えなかっただろうな。
秀頼に隠居を命じて兄秀康に豊臣家家督を譲るように言うことも可能だったはずだ。
秀康は晩年松平姓に復し、その子孫は松平を名乗っているが、
そもそも豊臣家に許可を取っているのか?
秀康が生涯豊臣家の者だったのならば、むしろ、家康は秀康を豊臣家嫡流として
江戸の膝元にでも監視しておいただろう。
119 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 23:28:06.79
>>117 >>118 傍から見ていて思うんですが、
>>102や
>>111の言う
「養子を重ねて他家に養子に出しても元々の養子関係は解消されない」
という古来からの家族法は理解している上で書いているんですよね?
旧民法や現行民法でもA夫妻の実子XがB夫妻の養子に出され、その後C夫妻の養子に出された場合、
XはABCの実親・養親いずれからの相続権もあるし、いずれの実親・養親の扶養義務もあると。
(もちろん旧民法や現行民法は古来の慣習法から違和感無いよう制定されている)
>>111の論が強引と思う一方で、「家族法」の視点から論じる点では頷けるものもあるんですよ。
120 :
119:2012/05/09(水) 23:42:09.00
121 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 01:09:02.40
>>81 毛利は、西軍の大将格ですよ。史実ですら、関が原の戦いで勝っていれば、当然、天下に一番近い存在だったわけだ。
ただ、早々に家康が死んでいたという歴史を、文禄・慶長の役の後まで確度高くシュミレーションするのは、不可能に近いね。
>>112 「徳川さんに従うんで、どーにか豊臣家が大名として生き残る方法を教えて下さい!」
って早めにクロカンや北政所に泣きつけばよかったのに。
123 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 09:03:27.11
>>119 >「養子を重ねて他家に養子に出しても元々の養子関係は解消されない」
>という古来からの家族法
やたらと連投しているが、何の史料に載っているのかな?
複数の家の養子になって同時にそれぞれの跡取りになった例を挙げてくれる?
秀康は結城家の養子になった時点で結城家の菩提寺を建て結城家の跡取りとして結城家の祭祀を行っている。
そこに豊臣家の先祖を合祀した例はない。
つまり、豊臣家の養子は解消されている。
124 :
川合伸旺:2012/05/10(木) 20:33:39.50
クロカンとクリカン、なぜ、差がついたか。
125 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 21:40:51.07
黒田官兵衛なら家康と張り合えただろ
もちろん乗っ取られる危険も大きいが
>>123 なんかあんたら片や法律論並べ立てるだけで証拠収集をしない手抜き弁護士と
片や本人訴訟で状況証拠並べ立てるけど法的反論が全然できないといった
出来の悪い民事訴訟みたいな感があるな。
何年も前になるが、織田家関連のスレで、織田信雄は生涯北畠家の養子であり続けたのか否か、
といった議論で、両派(養子継続派と解消派)とも互いに家族法的根拠と状況証拠を示して
有意義な議論していたこともあったが。
どっちだろうが、豊家の存続にはあまり関係ないしどうでもいいな。
大坂を明け渡して京都御苑付近に屋敷を賜れば、豊臣家は存続したであろうて。
そして四代目あたりで誰かを江戸に下し、豊臣松平秀◯が親藩格、紀州家連枝格、上野吉井一万二百石の大名に
家康と淀殿を結婚させる。
130 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 09:26:25.16
>>126 織田信雄の件とは全く別。
織田ー北畠(養子)−織田ならば、養子は一回。
信康は松平ー豊臣(養子)ー結城(養子)−松平で養子二回。
秀康は結城晴朝を生涯面倒見ているし、結城家との縁は切れていないかもしれない。
しかし、二度目の養子に出される際、一度目の養親の面倒まで背負わされるのかは疑問だ。
131 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 13:49:54.47
家康を暗殺なり、いいがかりをつけて改易なりしたりしても
秀頼が幼年のうちに秀吉が死んでしまえば
前田家の天下となり豊臣が残らない可能性もある
まあ家康自身も豊臣を滅ぼすことまでは当初考えてなく
いろいろな条件が重なった結果滅ぼしたので、前田も豊臣を残す可能性も無くはない。
ただ、それでは万全ではない(毛利や上杉が天下人になる可能性もある)
ので大老を廃止して100石以上の大名は減封してMAXでも70万石程度にし
筆頭奉行(老中)に石田を宛てて近江一国を与えておく
毛利や上杉が天下人はないだろ
秀吉死亡時豊臣宗家の石高は400万石程度だったのに対し
豊臣家親族筆頭である徳川家康の石高は200万石と飛びぬけていた
次位の前田利家と比べても倍だ
秀吉が家康を豊臣家一門として厚遇しすぎ石高を増やしすぎたことに
問題がある
133 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 17:06:02.96
>>132 おいおい、石高でいったら次位は毛利だし
検地尺でも毛利は6尺5寸で一間なのに徳川は6尺で一間
検地尺が短い徳川尺で計算すると毛利は144万石で
別知行の吉川や毛利秀包を加えると170万石以上となり
実際に動員された兵力を見ても「徳川が飛びぬけてる」とは言えない。
前田の場合は秀頼の後見役であり、家康のほうが早死にしてれば天下の可能性は十分。
当時の記録だと日本の金産出量の2/3は上杉領(佐渡など)
米の価格で換算すると80万石以上に相当し、ポテンシャルは劣らないので
5大老の一人でもあり、前田、毛利、徳川がこければ天下の目も無くはない。
(領民からの収奪を増やすためか徳川の検地尺は最も短い)
134 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 17:25:36.45
>>133 家康が秀吉の死後即天下取りを開始したからと言って
他の大名も皆天下取りに動くとは限らないだろ
毛利なんて西軍大将として頑張れば天下も夢ではなかったのに
全く働く気もなく大阪城を無血開城して
戦うことなく徳川家康に明け渡してるし
佐渡は秀吉に押さえられてなかったか?
136 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 18:01:24.26
>>135 上杉は秀吉から佐渡奉行に任じられただけだな(実質的には豊臣家が支配)
家康時代も佐渡は徳川家の天領で上杉に入るのは佐渡奉行料13万石だけだったはず
137 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 18:30:36.16
佐渡は景勝の本間氏征伐のあと与板衆や上田衆に分配されてるので
実質的には豊臣家が支配とはいえない。
毛利の石見銀山と同じように上杉にも金を運上させていたけどね。
石見銀山の場合は豊臣との共同管理だけど
共同管理だと何割程度秀吉に運上させられるのかな?
138 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 20:09:26.31
>>134 確かに秀頼を擁してるので果断に立ち回っていれば天下は毛利
いずれにしてもどちらかの天下になり豊臣の存続は胸先三寸
とは言え、西軍勝利でも上杉を始め浮田や石田等の勢力があるので
独裁的に権力は握れないので存続の可能性は高い
139 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 22:04:50.38
>>138 家康もしくは三成が事前に殺されていれば関ヶ原はなかった
関ヶ原がなければ誰も大阪城の秀頼に手は出せず
豊臣家は天下人として存続しただろう
140 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 03:48:09.52
当主(秀頼)が幼年の時に一人に権力が集中するのが危ないわけで
利家が死んでパワーバランスが崩れるや
前田を屈服させ、次は上杉(石田が西軍構築に失敗した場合)、
次は毛利と競争相手を蹴落とそうとするだろう家康。
(一個一個つぶすと時間がかかるので豊臣が存続するかもしれないけど)
律儀と評判の家康も全くの仮面だったわけで、
家康が利家より早く病死すれば、同じような経過で前田が天下取りに邁進するかもしれず、
やはり秀頼の将来については天にまかせて、関白秀次体制でそのまま言ったほうが良かった。
141 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 08:01:03.81
関白:豊臣秀次
執政:黒田如水
これで問題なかった
142 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 17:42:33.64
>>140 家康は秀吉が死ぬとその直後から片っ端から養女を取り
そこらじゅうの大名たちの正室に送り込んで家康との義親子関係を築いた。
これが関ヶ原に生きたわけでそこまで用意周到ではなかった前田利家に
天下取りの野心があったとは見えない。
秀次が生きていた場合、秀吉が死ぬと秀次VS秀頼で豊臣家が二分された可能性はある。
秀吉もそれを恐れて秀次を殺したわけだが。
譜代も血族も少なくてどうにも無理あるよなぁ
秀吉と比べられる朱元璋は・・・問題多いけど、明は安定政権になったね
144 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 19:08:43.91
黒田官兵衛や蜂須賀小六を遠ざけたのが間違い
そいつら地元無双なだけだったんだろうな
秀吉に、家康並みの節制した生活を送らせ、あと10年長生きさせる。
147 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 22:46:59.63
>>142 秀次vs秀頼で二分てなことにはならんだろう
後継者が確定しないで秀吉が死ぬわけではなく
すでに関白として聚楽第で政務を取り
伊達、最上、毛利、細川なども尻尾をふっていたわけで
後年関ヶ原で家康についた秀次与力の山内なども盤石だ。
秀頼には家康が死んだあとに秀忠には大功がないとして
武蔵と相模を取り上げて与えるといいだろう。
秀吉が、秀次を殺した判断ミスは大きい。
当時は、鶴松の例を出すまでもなく、幼児死亡率も高かった。
秀頼が育たなかったときのことなど、秀吉は、なにも考えてなかったようだ。
かたや、家康は、秀忠より下の子供たちが亡くなってるんで、精力剤を自分で調合して頑張り御三家の初代をつくったのに。
プリンセストヨトミ見ました
少なくともアレは豊臣の天下を続けさせる上策では無い
150 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 11:58:48.59
関ヶ原以後なら、豊臣家を名目上の主としてその下で徳川家が天下を統治する形態で
なんとか手を打って貰えんだろうか
151 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 12:12:05.89
152 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 12:26:29.24
>>150 しばらくはそうだったよ
関ヶ原は徳川vs豊臣の戦いではなく秀頼さまの御為の戦いだし
家康が将軍になってからでも諸大名は大坂にも参勤していた。
家康もいずれは秀頼に政権を譲るというポーズをしてたしw
秀忠に将軍位を譲ってから徳川での独占がはっきりした。
関ヶ原の時点で終わってたよ
東軍の大名は家康に天下を取らせないと関が原での手柄が無駄になっちゃうからね
少なくとも大半の武将が、家臣同士の戦では無く「豊臣vs徳川」と認識していたことが明らかになってる
154 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 13:36:41.29
>>147 嫡男は決まっていても弟を担ぎ出す勢力が現れるように、
秀吉が跡取りは秀次と決めても秀頼を担ぎ出す勢力が現れるということだよ。
しかも、秀次の後は秀頼に、などという取り決めをしていると余計その可能性は高い。
秀次には息子が大勢あり、秀頼ではなく実子に継がせたい気持ちが出てくるだろうから。
155 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 15:21:26.72
>>153 さすがに、福島、加藤、黒田は「VS豊臣」で東軍について
いないだろう。
だから家康への禅譲以外に何があるってのか?
まあ秀吉が主家簒奪したんだし、次自身の家が簒奪されても文句言えないだろって
考えてた他大名も多そうだな。正直、死ぬ前にお頼み申すって言われても正統性は
あまりない気がする。
続かせるのは無理くさいけど残ってたら奪取出来たかもしれんな
159 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 22:16:49.42
>>154 >秀次の後は秀頼
もちろん秀次の後は秀次系で関白だろ
前にも書いたがお情けで大坂から移して二三か国(関東あたり)を宛がえば十分w
大阪からの退去を承知しない場合は難癖をつけて
大阪の陣でも起こせばよい。
お家騒動の元になるのに秀次に禅譲した後も子作りした秀吉って馬鹿なの?
161 :
日本@名無史さん:2012/05/14(月) 00:22:35.64
再び子供ができるとは本人も思ってなかったんだろう多分
できたらできたでなんとかできると思ってたんだろ
唐入りなんかそうじゃねの
>>159 応仁の乱もそうだがたとえ跡取りが決まっていてもその後実子が生まれれば
どのみち火種になるだろ
秀頼が関東に封ぜられてくすぶっていれば秀次も粛清に動いた可能性が高井し
秀吉が自分の死後、秀頼は秀次に殺されても仕方ないと思っていたならともかく
164 :
日本@名無史さん:2012/05/14(月) 12:22:00.70
>>163 >秀頼は秀次に殺されても仕方ない
そういう覚悟で秀次にまかせろを言っているw
>>164 秀頼に残せないなら豊臣がつぶれてもいいと思ってたかもな>秀吉
鶴松が死んだ辺りから急に朝鮮出兵したり
豊臣を自分の代でぶっ潰すようなことしかしてなかっただろ
166 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 15:58:15.87
豊臣の天下は続かなかったとしかおもえないよ
7歳の子供が天下背負えるほど、天下って甘いものでないでしょ?
167 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 19:27:55.27
利家、家康が秀頼成人までバランスよく生きて集団指導出来ればよいが
成人前に秀頼が死ぬ可能性もあるし
家康が早死にすればおまつの娘の婿である宇喜多、嫡男の嫁がおまつの娘の細川家
など勢力を糾合できる利家が天下を取るかもしれないわけで
秀次を殺したのはまずかった
168 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 19:49:39.01
秀次生かしとくのは必須
あとは秀次の器量しだい
169 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 20:00:57.47
ドラマなんか見てると
せっかく江戸の僻地に追いやったんだから
譜代と外様を明確に差別すれば良かったのになとは思うなw
家康に伏見城と天下の政を任せた時点で経験豊富な古狸には勝てないよ
>>167 秀吉は利家・家康信頼しすぎたんだな。
両者が拮抗して秀頼守り立ててくれるの期待してたんだろうが
>利家、家康が秀頼成人までバランスよく生きて集団指導出来ればよいが
>成人前に秀頼が死ぬ可能性もあるし
>家康が早死にすればおまつの娘の婿である宇喜多、嫡男の嫁がおまつの娘の細川家
>など勢力を糾合できる利家が天下を取るかもしれないわけで
どっちらかが簒奪する危険性は頭になかったと
171 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 23:29:10.83
冬の陣で抗戦継続を主張する秀頼や諸将だった一方で和睦待望に固まった淀殿が何者かに暗殺されていれば
夏の陣でさらに兵が集まらず城は機能せず淀は豊臣を圧倒的不利にしただけ
秀吉恩顧の大名の心をがっちり掴む秀頼になることも可能であったのに妨害した淀殿だった結局
172 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 23:48:53.09
家康除いた四大老があのメンバーの時点で終わり
173 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 00:14:01.21
>>169 天下取りに近かったのは利家のほうだよ
秀頼の後見という利家の立場のほうが有利だし
宇喜多の正室、細川忠興の嫡男忠隆の正室は利家とまつの娘
やろうと思えば家康の排除も可能だった。
家康は自分の弱い立場を知っていたので、伊達など多数の大名と縁組して味方を作ろうとした。
利長は利家の死後、大老となり父親と同じく秀頼の傅役となったので
有利な立場は変わらないハズだったのだが、なにを血迷ったのか
家康の勧めにしたがいまつを残して帰国(秀頼の傍を離れ)してしまい
母親を人質に取られたことなどもあり家康に屈服w
174 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 10:44:16.82
>>173 秀吉が五大老筆頭に任じていたのは徳川家康なので家康有利だろ
前田利家は豊臣秀頼の扶役にすぎない
秀頼と千姫の婚礼が本当に秀吉の遺言によるものか家康の作戦によるものかは分からないが
秀吉の意図するところであれば豊臣第一の姻戚として重んじたいのは徳川だったろうし
だいたい細川など本能寺の時も正室の父である明智光秀を裏切ってるw
175 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 16:48:11.29
まぁ実際利家は秀吉亡き後すぐ死ぬわけだ
ただ利家存命中には大老や五奉行、武断派の多くが味方した
無断の婚姻政策が問題になった時点で
京、大阪からなるべく離れた所、一番は江戸に蟄居または隠居させる事ができれば大きく変わったかもしれない
もしくは大老を罷免させる事ができれば大義名分がなくなったはず・・・
やはり家康が中央政界の首座であり続けたことが、豊臣の運の尽きかな
利家はしないと思うが、
禅譲に近い感じで秀頼から天下とってたら
秀吉・家康いじょうの悪名を後世に残してただろうな。
織田→豊臣への政権移譲は成人している織田の息子たちの情けなさで
必ずしも秀吉は悪名を残していない(信長の敵討ちや葬式もしてるしね)
しかし豊臣→徳川は家康が幼児と女をだまして乗っ取りをはかっている上
主家を滅ぼしてしまっているため評判悪い(秀吉の墓までぶっ壊してる)
信長は、秀吉を草履取りから重臣、城主にまで取り立ててくれた秀吉にとっての大恩人、それなのに、息子の信孝を死に追いやっているし、清洲会議で擁立した幼主三法師を家来にしてしまっている。
家康は、秀吉に恩義があるわけではない(関東移封も、要地の東海から遠隔地に遠ざけたもので厚遇とはいいがたい。)。当時の政治情勢を考慮し、秀吉が三顧の礼を取った(母まで人質に送ってきた)ので、臣下の礼を取っただけ。
>>178 信孝に切腹を命じたのは秀吉ではなく信雄。
あくまでも織田家内の内紛。
小牧長久手の後、織田家家督は信雄が継いだので三法師は
秀吉の養子になって救われたにすぎない。
家康は仕方なく秀吉の家臣になったにすぎないので
(本当は秀吉家臣になるつもりなどなく秀吉と生涯戦をするつもりだった)
主君である豊臣を裏切って跡取りを殺し秀吉の墓を破壊してもいいとはならない。
文禄の役で半島を制圧して、徳川を朝鮮に移封してしまえばよかった。
>>180 いっそ関東を取り上げた上で朝鮮を切り取り次第ということで呉れてやれば良かったな
182 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 23:45:23.59
>>178 「秀吉が三顧の礼」w
天正14年1月10日に秀吉は東国出陣(家康征伐)の直書を発し
景勝には自分は2月10日に出陣するので景勝にも信濃への侵攻するようにと指示。
ところが信雄の説得により家康が和議を申し出たので出陣は中止。
和議がなったので秀吉は信長ばりに妹をくれてやった家康がなかなか上洛しない
そこで秀吉は北国衆(上杉、前田)を秀長に率いさせ
自身は三河に出陣することを計画
家康は徳川と北条が連合したとしても、秀吉には勝てないとわかってるので
あわてて上洛して秀吉に臣従。
母親の人質は上洛期間中の家康の生命の保障のためで、
すぐに返されてるが、こうでもしないと家康の家臣どもが納得しないw。
183 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 00:11:16.83
@秀次に秀頼成人の折には関白職を譲る旨誓書を書かせた上で殺さない
A朝鮮出兵しない
たとえ秀次を殺したとしても、単純に本人を切腹させるだけで
いろいろ連座させなければ人心は離れなかったと思う。
木下藤吉郎時代から支えてくれた家臣までイミフな処刑したら、
そりゃ有事の際に誰も助けてくれないわな…。
>>184 どうしても秀次の首を取るなら、本人と男子にとどめるべきだった。
妻、妾、娘は生かしておいて、尼にでもすればよかったろう。
罪の度合いが大きいか見せしめ的なものなら妻子共々処刑していた当時の常識
まず妻子を処刑するところを見せ最後に当主・領主の男を処刑という…
温情をかければ女と女の子供は尼になるか隠棲する条件で命は助けるが男の子供は幼くても処刑する
もっと温情をかければ条件なしで女と女の子供は処罰せず男の子供は僧にする
最初は、高野山で秀次は出家させられた。殺生禁断の高野山での出家を容認した以上、本人の生命を保証するのが当然。
それなのに、本人切腹。しかも切腹は武士としての名誉を重んじた処刑であり、その後に妻妾、女子を公開処刑(斬首)することはありえない。順序が逆。
男子を処刑するにしても、父が切腹なら、連座した子も切腹(まねごとだけで介錯されるとしても)。
しかも、これから秀次にお目見え予定だった最上家の姫まで処刑している。この処刑で親族を奪われた大名は、東軍についた。
まあ秀次を殺した時点で豊臣は詰んでいた訳で、秀頼の出馬があれば徳川が大阪で滅んでたなんて妄想を抱く司馬脳は、当時の大名には1人もいなかったのよ。
189 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 22:34:58.74
いくら福島、加藤が情に流される馬鹿だとしても
一連の関ヶ原の戦いは豊臣と徳川の天下取りの戦いって薄々わかってたはずだもんな
その他も大名もしかり。
ただ関ヶ原に秀頼の馬印があれば状況は変わった可能性は高いと思うが
秀頼の年齢といい、家康は最高の時期に天下分け目の戦いができたな
>>185 秀次の娘は基本的に助命されているよ。
秀頼の婚約者だった長女が殺されているだけで残りは助命。
尼になることも強要されず普通に嫁いでいる。
妻(正室)若御前(池田氏)も助命、実家へ送り返されている。
妾(側室)を殺したのは秀次の男子を身ごもっている可能性があったから、
というがどうなんだろうな。
191 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 01:44:42.05
朝鮮征伐自体は別によかったんだけど
そこで武断派と吏僚派がきっちり分かれちゃったのを
家康に漬け込まれた
あれがなかったら家康に関が原まで持ち込まれなかった
豊臣秀次を廃嫡せず、残したほうがよかった。
秀吉の死後、秀次が関白の地位にあって温存されていれば、
北の政所の支援も得られ、加藤・福島・浅野などの家臣団の団結を図れたのではないか?
193 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 11:13:30.04
ただでさえ身内、一門が少ないのに秀次殺すとか愚の骨頂だろ
朝鮮征伐(唐入り)を成功させ、秀次を明の関白として北京に派遣し、
宇喜多秀家を日本の関白にしていれば、万事うまく収まっていた。
後水尾天皇も秀吉も北京の紫禁城に入り、そこで天寿をまっとうしたことだろう。
唐入り、秀次事件、その他もろもろの秀吉の悪行が豊臣破滅の道を歩ませたわけで、
大阪の陣ではもはや修正不可能な状態だったけれど、最後の引き金を引いたのは
大阪主戦派だったんじゃないかなと思う。戦をしてくれないと困る人たち。
今は主戦派(というか幸村)=絶対正義の風潮なのがちょっと寂しい。
大阪の陣を回避した事によって豊臣の家は続いた可能性はあるが
大阪の陣の時期はもはや豊臣の天下はなく時すでに遅し
>>192 つまりは豊臣秀頼が生まれなければ豊臣家は存続したということだな
秀吉晩年の閨行が滅亡のきっかけ
秀頼が生まれた以上秀吉は甥だろうが邪魔者は皆消しただろうから
198 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 01:04:40.05
秀次の殺し方がまずかったよな。
どうしても殺したいとしても、毒饅頭とかでひっそりと殺して、病死と発表すれば良かったのに。
それで、秀次の息子や娘は全員秀吉の養子にして、豊臣家の強化に務める。
>>198 毒殺は確実性が薄いよ。
毒見もいるし、目の前で食べるように言っても伊達政宗のように生き残ったり。
切腹は武士にとって名誉なことでもあるから。
秀頼を得た秀吉にとっては秀次の血を引く者は秀頼になり替わる可能性のある邪魔者にしか映らなかっただろう。
秀次の子を養子にするくらいなら養子の秀次を殺す必要ないし。
200 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 11:43:18.09
とにかく秀次は殺してはいけなかった
秀頼成人までは関白やっててもらえばよかった
鎌倉末期に得宗が成人するまで分家がつなぎの執権やってたように
201 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:50:43.46
>>200 鎌倉時代は直系は「得宗」と呼ばれて別格扱い。
傍系は傍系のままだった。
しかし秀次は秀吉直系の養子。
豊臣家最高官位の関白まで譲ってしまった以上、
実子の秀頼に用意するべき椅子がない。
秀頼が成人したからと言って秀次は関白を譲る理由がないわけで。
この手の議論は散々され尽くしてきてるから、どうせならもっと本気であり得ないifで考えようぜ。
輝元がいきなり確変して元就並みになる。景勝が確変して謙信並みになる。
秀信がry信長に、秀家がry直家に、他も微妙な当主が最盛期の当主に成り変わったとしたら。
関ヶ原が起きて、もろもろの国替えや改易が済んだ後こうなったら、
とりあえず家康の一人勝ち状態ではなくなる。
とここまで考えて、「秀頼が秀吉に確変したら」でいい気がしてきた。
ifねぇ…
家康が存在しなければ、とか?
204 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 21:04:48.40
秀頼が生まれた時点で豊臣は詰み
205 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 21:35:49.77
秀長が長生きしてれば。
206 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 21:42:09.30
秀長が長生きしてたらどういうシナリオになる?
207 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 21:59:12.67
秀頼が生まれようが秀次を殺す必要はなかった
208 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:16:13.13
まあ豊臣秀長や豊臣秀次がいたとして
それで徳川家康が天下取りをあきらめたかどうかというところだな
豊臣家内紛(豊臣家内の武官派と文官派)の対立を利用して二分し
結局関ヶ原に持ち込んで豊臣家ぶっ潰したかもしれんし
209 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:20:17.06
豊臣の瓦解は要するに、秀吉の老害が招いた自業自得。アフターフェスティバル。
210 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:39:46.56
三成殺せばオールおk
211 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:54:02.94
>>210 三成がいなかったら関ヶ原時点で大坂の役で豊臣家あぼんだったんでは?
家康は秀吉が死んだ直後から片っ端から養女を
そこらじゅうの大名に嫁がせ義父関係を築き上げている
秀長が長命だったら、秀長がワンポイントリリーフで関白継いだだろうし、男の子が居なかったから、秀頼に関白位を継がせただろう。
213 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 23:18:34.92
>>212 秀長は甥の秀保(秀次の弟)を養子にし郡山城主を継がせている
しかし秀保は秀長没の4年後に17歳で事故死
秀長だけ長生きして秀保は史実通り事故死ってことにするのか?
前田利家が重病でも存命な内に・・
石田三成を隠居させる(当座の事だが、少なくとも秀頼成人までは僧体になるなどが必要)
結城秀康を呼び戻し、羽柴秀康豊臣朝臣として中納言の官位を与え、羽柴家執政・秀頼傅役とし本丸へいれる。
その後、執政秀康、五奉行(石田の代わりに加藤清正)によって
宇喜田秀家を徳川家旧領、駿・遠・三・甲に転封させ80万石を与え、東海道を制させる。
上杉景勝を越後に戻し、南信濃まで与える。
会津には伊達政宗を戻し、政宗の後には福島正則を70万石でいれて参議に任じ、奥羽鎮撫を命ずる。
正則の旧領清州には加藤清正を20万石で入れ、羽柴の名字を与え侍従とする。
秀康を説得するのは無理だろうが、もし成功すれば、その性格上秀康は筋目を守って徳川に合力しないだろう。
徳川家には秀康寄りの重臣もいるだろうし、家康も倅相手では勝手がちがう、徳川家に揺さぶりを掛け、合戦起こそうとの備えも邪魔できる。
秀康は、当時不治の病だった梅毒にかかっていたから、長生きできない。彼の死後は?
>>215 史実では秀康は家康より先に死ぬが、慶長十年程度まで彼が活動できたなら、
徳川家の天下へ向かうという一体感を阻害できうると考える。
徳川家に合戦させない事を最優先事項とし、家康自身に関東の精兵が東海道を上るのは非常に困難だと思わせる事。
石橋を叩いて渡る家康なら、またもうしばらくとて時期を待つかもしれない。
秀頼の成長が早いか、徳川の時勢が上を行くか、どちらにせよ家康がまだまだしばらくの間は秀頼に拝謁を受ける身分が続く。
よく言われている話ではあるが、旧後北条領をまるまる家康に与えたのが、間違いだったんだよなあ。
旧後北条領は、上杉と徳川で二分させればよかったんだ。
上野&武蔵北半が上杉景勝領、武蔵南半&相模が徳川家康領。
そして、徳川には、代わりに駿豆を残しておけばよかったわけさ。
まあ、上杉を上野だけにしておいて、宇都宮が吹っ飛んだ後で、下野も上杉領にしてもいい。
里美も、豊臣からすれば、貴重な武将だ。房総ローカル以外に関心が無いのも有り難い。
上杉 佐竹
徳川 里美
で関東四分割。こうすれば、家康は関東正面の対策に忙殺され、畿内に口を挟む余裕が減る。
景勝の会津転封が、関ヶ原の引き金と言われるし、実際そうなんだが、
これ、むしろ会津(福島)では、関東の徳川の牽制に「十分ではない」のだ、とも言える。
家康がさっさと死んでくれていればよかった
要するに秀吉は信長に仕官して手柄を立て信長の子孫の
後見人となり領地を引き継いで、北条、毛利、島津、伊達
等を攻略した訳だが身内に有能な人材が居なかったのだ。
家康には松平家というれっきとした大名や今川がいた。
つまり地縁というものについての地盤ネットワークが
無く。それが生前しか繁栄しなかったのかも知れないが
農民から天下人になるのは並大抵ではない。
松平家は、国人領主で、大名というにははばかられる規模だが、それでも一族郎党が居て、家臣団の中核があったことは大きいな。
あと、子供に恵まれたことも。まあ、晩年まで健康に気を付けて子作りに励んだわけだが。
小牧・長久手の戦いで、秀吉が戦術的勝利をして、徳川を屈服させてれば、展開が大分違っただろうな。
222 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 22:51:09.98
関東諸将を糾合した上杉謙信でさえ倒せなかった北条を、あっさり攻略できたのは
徳川が秀吉の軍門に降ったからだな。
逆に徳川と北条が連合したら天下はどうなっていたかわからぬ。
無論家康も秀吉に降るか北条と組むか計算したろう。
野田も家康の叡智に学び、ここは谷垣に一回負けを献上すべきだな。
223 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:05:07.46
そりゃ一番の上策は家康を暗殺することだろ
224 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:21:45.15
一次史料読めば読むほど三成が諸悪の根源な気がしてきた。
どのタイミングでもいいからこいつ死んどけば豊臣は安泰だった。
ベストなのは秀次事件より前に死亡。
敗軍の将なので勝利側から不当に辱められてる分もあるかもねって考えを頭の隅に置きながら読んだ方がいいよ。
226 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 09:15:40.61
>>216 秀康を過大評価しすぎている気がする。
秀康は関ヶ原のときにも実父家康につき、戦功として越前67万石を与えられている。
(親藩としては最大。御三家よりも石高が高かった)
秀吉没後は一貫して実父家康の命令によって行動しているので
秀康が豊臣家のために動いた保障はない。
227 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 09:19:31.77
>>224 三成がいなければ関ヶ原は起こらなかった可能性が高い
しかし家康が秀吉死後急遽養女を各大名に嫁がせ姻戚関係を急がせたのは
ゆくゆくは義子大名たちを率いて豊臣家を攻める公算のためだろう
大坂の役はどちらにせよ防げなかった(大坂の役が早まった可能性がある)
228 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 13:07:59.28
豊臣家海外亡命政権作れば延命出来たかも。
>>226 史実ではその通り。
万一、説得できたらの話し。
だが、仮に執政となったとしても、あの手この手の謀略をくらって、癇癪を起こして自ら大坂城退去の可能性大だと思う。
だから慶長十年程度まで彼が活動できたならの条件がつく。
蔵入地と金銀山、これを維持する事が先決であり、まず徳川が望むような合戦を起こさせない事。
また起きた場合は、幼少の秀頼では無理だが、秀康なら自ら出陣できる。
その場合、関ヶ原後のような徳川の専横的所領配分とはならないだろう。
>>229 実父を敵として攻めるなんて戦国時代でも例がないことなのに
秀康にそんな策謀ができただろうか
悪知恵に関しては家康が秀康の数段上
関ヶ原で秀頼の処分が不問にされたのは「女子供には関係ないこと(家康談)」
秀頼が幼な子であるためと家康本人が言っており、
仮に秀康が関ヶ原の時執政として大坂城入りしていれば家康の命で切腹は免れなかっただろう。
231 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 16:13:17.89
232 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 17:57:45.79
>>231 道三は専制君主で家臣の信頼を失っていたのもある
義龍は父に勝たなければ斎藤家の家督を失う可能性があった
秀康は父家康と戦っても徳川か豊臣の家督を相続できるわけじゃない
233 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 18:00:45.92
>>232 勝ち方によっては、徳川の家督は相続できそうだけどな。
もともと秀忠より兄で、候補だったわけだから。
234 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:07:50.15
>>233 家康も秀忠も殺せればね
秀忠は関ヶ原以前に中納言に就任し秀吉の娘婿となっていた
秀康との差は歴然
>>230 そういう父子対決の意味ではなくて、
関ヶ原のような合戦を起こさせないためのもの。
秀康の起用は徳川家の分断工作が主たる目的である。
世が世であれば徳川家世嗣であった彼に、夢よもう一度的に高身分となってもらう。
徳川家内部で冷や飯を食らっている家臣も糾合できるかもしれない。
家康は合戦を起こさねば所領配分ができないから、遮二無二それをやろうとしてくる。
関ヶ原のきっかけとなった会津攻めは秀頼が幼少のため、大老筆頭の家康が名代として出陣したが、秀康が執政身分であったなら、いざ似たような事態となったら彼が総大将として出陣する事も可能だ(無論、五奉行のだれかが軍監となる。)。
とにかく、家康の意図する合戦を起こさせず、もし合戦が起こったなら、家康を総大将としない方向に持っていかねばならない。
236 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:50:32.89
>>235 秀康にそれだけのカリスマ制があればね。
生まれてすぐには家康に種違いを疑われてなかなか認知されず
11歳で養子に出されて以降徳川家からずっと遠ざけられ
徳川家家臣と仲良くなる隙を与えられなかった秀康が
徳川家内の反家康勢力に担がれたかが疑問
>>236 >徳川家内の反家康勢力に担がれたかが疑問
それはいえる。実際、後援者はあまり期待できないが、疑心暗鬼をうみだせるだろう。
その時に・・暗躍してもらうのが僧体の三成って事になればおもしろい。
親子の争いだと伊達天文の乱
武田信玄&信虎 信玄&太郎義信
>>224 三成を早めに消してしまうと、唐入り時の兵站を誰も計画できずに、兵站が完全に崩壊してしまい、
頼みの西国大名は、不毛の極貧半島に全軍飢餓状態で取り残されて、著しく体力を消耗する気がするんだけどw
これ、関ヶ原以前に決着が着くパターンだぞ。
毛利も島津もフラフラで、1600年にもなって、
わざわざ滋賀県まで出かけて、天下分け目なんてやってる場合じゃなくなってるというw
三成は、官僚としては明らかに優秀だったんだよ。問題は、三成を使いこなせるシステムの未整備。
これは、やはり秀次惨殺が大きい。秀次は大変に評価の分かれる人物だが、
近江八幡の都市計画などを見る限り、平時の政権トップとしてはかなり有能な人物だったように思える。
近江八幡の町の形は、その後、他でもない家康が採用して、駿府と名古屋を建設することになる。
秀吉が、小牧長久手で家康の首を取るか、屈服させて、勢力をそぎおとしていればよかった。これができなかったんだから、政権自体が内包する不安要員だから、諦めるしかない。
>>240 秀吉も家康が将来秀頼を殺すことが分かってたら
北条征討も朝鮮出兵も投げ打って全兵力をもって家康一人の首を取っていただろうが
なぜだか知らんが信用しちゃったんだよな。
家康も秀吉存命中は秀吉の妹婿・嫡子と秀吉養女を結婚させるなどして
豊臣家最大の姻戚として豊臣家の一員のような顔をしていた。
政略結婚など何の意味もないことだったんだけど。
>>225 三成のような小物をわざわざ貶める必要はない
そもそも本来なら西軍総大将の毛利輝元が責任を取らねばならない所を、それをすると
混乱が長引きかねないので事態を過小評価するため西軍の代表にされたのが三成だからな。
>>243 毛利の処遇は、吉川との取引もあったしね。
あとまあ、下手に毛利を処分すると、豊臣家にまで責任の追求が行く可能性があったしな。
毛利も前線に出て、関ヶ原で負けたとしても、徹底した焦土戦で広島まで粘れば良かったのに。
九州から黒田とかが大喜びで攻め上がるわ
248 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 02:04:39.66
内部分裂するから粘れんよ
249 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 05:40:37.20
豊臣家関係者全部ダブルをたて国外逃亡し (別名山田長政、呂宋 助左衛門)?
家康が豊臣家のダミーを謀略で滅ぼしていくのを高みの見物。
家康、秀忠亡き後「プリンセストヨトミ」として復活。
豊臣政権が尾張派と近江派の両輪の上に成り立っていることを知る秀長が死んでからおかしくなり、
秀頼に目が眩んで、秀次を殺してしまったのが致命的。
以降、近江派が牛耳る豊臣家に、愛想を尽かした尾張派が徳川についたことで豊臣の世は終わった。
秀長が生きていれば、戦国時代が完全に終わるまでは尾張派を疎かにしなかったはず。
>>250 > 豊臣政権が尾張派と近江派の両輪の上に成り立っている
成り立ってません。そんな派閥はありません
> 近江派が牛耳る豊臣家に、愛想を尽かした尾張派が徳川についた
そんなものは小説の中だけの出来事です
【訂正】
×秀長が生きてれば→○秀次が生きてれば
秀次は尾張派に支えられて秀吉の戦いに従軍して戦功を挙げ、自分の失敗も被ってくれる尾張派の有難味を身に染みて知っていた。
関ヶ原の合戦は、家康が煽って仕掛けた近江派と尾張派の豊臣の内ゲバに過ぎない。
家康は万が一に備えて徳川本軍を秀忠に預け、上田城に張り付かせて温存していた。
秀忠にわざと遅刻させたのだ。
絶対的な独裁者だった秀吉の下に派閥など存在しない。
秀吉死後、三成が糾弾されたのは朝鮮役で武将の論考への不公平の元凶とされたため。
そして政治的な対立は巨大な権限を握った徳川家康と、それに反発する反家康派の戦い。
この2つが合わさって関ヶ原
豊臣姓を返上し、「羽柴秀頼」として叔父秀長が建てた大和郡山城に入り、郡山藩主として金魚の養殖に専念していたら、
江戸幕府の一大名として生き長らえた可能性はあるのだろうか?
>>254 封建制度というものが全然解っていない
もう一度、中学の歴史からやり直しておいで
>>256 その前に君は小説以外をもっと詠んだほうがいい
>>254 家康は秀頼をもっと辺境へやらないと納得しなかっただろうね。
晩年、大和宇陀藩5万石を与えられながら任国へ赴任することを許されず、
徳川家康によって京都に生涯軟禁され続けた織田信雄参照。
織田信雄は、小牧長久手で一応徳川家康本人が担ぎたてまつった人なんだけどね。
260 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 09:25:59.44
バカ淳也じゃね?
261 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 09:30:07.31
>「羽柴秀頼」として叔父秀長が建てた大和郡山城に入り
あとで柳沢吉里に追い出されるお
263 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 09:50:51.13
秀吉が茶会に家康を招いて一服盛ればよかっただろ
264 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 09:59:56.67
>>263 秀吉は殺そうと思えばいくらでも家康を殺せたと思うよ
毒殺しなくても武力行使で滅ぼせたはず
しかし秀吉はどういうわけか家康が大好きで
妹を与え家康嫡子に養女を与え豊臣家最大の姻戚として取り立てた
家康には一切その気はなかったんだが
隆景があと十年長生きしていれば、時流を読むのに長けているから
TERU達を家康と対立させないと思う。よって関ヶ原は起きない。
(黒田が何か唆してくるかもしれないが割とスルーしそう)
家康も慎重なのでいきなり大阪の陣をして幼君殺しの反逆者になる真似はしない。
大阪方が勝手に籠城しだして自滅する可能性が一番高いが、
案外ゆるやかに政権交代して、一大名として残れたような気もする。
長浜城主やってた頃にねねに男子が3-4人生まれて、長男が秀吉タイプ、次男以降に秀長タイプが一人二人いれば良かったかもね。
秀吉が死んだ時点で成人した後継がいれば
別にねねが産まなくてもよかったんだけどね
家康など正室も正室が産んだ男子も殺したが
天下とれてるわけだし
秀吉の死後無事成人したのがあのろくでなしだけどなw
269 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 19:04:05.03
秀吉が日秀並に長寿だったらどうなっていただろう?
朝鮮征伐の帰趨も気になるけど。
ぶっちゃけ西日本が外国勢力に取られるくらいの事態になったと思う。秀吉が長生きしてれば。
秀頼が夭逝、もしくは暗殺、家康の暗躍で後継に秀康を豊臣に復帰させて関白就任(関白内大臣)。
家康が後見で太政大臣(一座)、征夷大将軍就任。
272 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 23:45:55.43
>>272 お前本当に気持ち悪いな。日本は秀吉の外征のお陰で農村での逃散が出まくって、
関ヶ原の段階でもフルの軍役が不可能なほどだったというのに。
はっきり言えば秀吉の治世下で日本はどんどん弱体化してたんだよ。
外征失敗したんだからそりゃ国も傾くが
だからって日本まで明が攻めてくるなんて事態にはならんよ
つーか明だって相当傾いたし
>>274 明に限らん。フィリピンからスペイン勢力が九州のキリシタンと呼応して動くことも十分考えられる
276 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 14:52:02.36
>>269 秀吉が家康より長生きだったら家康は恭順し続けただろ
秀吉が日秀のように89歳まで生きてたら
秀吉が死んだとき豊臣秀頼は30代になってるし
277 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 17:01:56.69
前田利家が在世のうちに縁者で秀頼に忠誠心の篤い加藤福島を並立させて秀頼の後見をさせる。こいつらを大阪に張り付かせて家康と引き離しつつ石田以下奉行達が大阪を押さえて政権を担当する。
大老、奉行の連名で朝廷に圧力をかけて秀頼を関白にする。
278 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 17:36:06.20
加藤清正・福島正則なんて秀吉と血が繋がった親戚なのに
(加藤清正は秀吉のはとこ、福島正則は秀吉の従兄弟)
秀吉が死んだとたん嬉しそうに徳川家康の誘いで姻戚になった
(清正は家康養女と結婚、正則は養子と家康養女を結婚させた)
馬鹿どもだからどうしようもないわ
279 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 17:53:34.07
ひとつ言っておくと江戸城は家康の時代すでに大阪城や小田原城に匹敵する巨大城郭になっていた
281 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 19:50:54.51
>>280 家康は関ヶ原勝利後大規模に江戸城を拡大した経緯がある
秀吉存命中はさすがにそんなに派手なことはしてないんだよ
>>281 関ヶ原後さらに拡大してるんだよ。ついでに言うと最終的な江戸城は家光完成期で豊臣大阪城の
10倍以上の規模だが、コレは関が原後の天下普請ですでに計画はスタートしている。
283 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:10:11.81
>>282 江戸城は家光の時代の最大規模で秀吉建造大坂城の2倍程度だよ
現在の大坂城は徳川時代のもので豊臣時代の本丸部分しか残ってないからね
284 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:16:37.24
大坂城は昭和に改築したのではないの?
石山本願寺の遺跡は何もないか?
285 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:27:56.73
>>284 天守は昭和に造った
だけど、堀・石垣・櫓・天守台は徳川時代のものがそのまま残ってる
豊臣時代のものは徳川に埋め立てられ地下にある
>>282 いくらなんでも吹かしすぎwww
城郭はもちろんオーダーメイドなので、単純な比較は難しいが、
それでも」「10倍」という数字が出てくることはあり得ないよ。
徳川大坂城は、本丸の「三次元」が盛られているだけで、平面的には豊臣期のものをそれほどいじってない。
松平忠明&藤堂高虎が一番こだわったのは、本丸の三次元盛り上げと、市街地の「低地側への全面移行」だった。
実は一番顕著なのは後者なんだけどね。
一番、「徳川江戸城が『大きく』見える」比較法が、
T現行大阪城本丸(≒豊臣大坂城の本丸堀)−皇居東御苑
U現行大坂城の外堀内側(≒豊臣大坂城の外堀)−皇居(皇居前広場を除く)
V東横掘川&空堀筋&大阪環状線(≒豊臣期大阪惣構)ー江戸城外堀(ほぼ外堀通り)
この比較で、ほぼ2倍前後になる。でもこの「右側」は、明暦大火後の都市計画によるもので、
家康存命中はこんな設計は想定されていなかった。
今の吹上御所のあたりは、家康期には、西の丸下=皇居前広場と並び、重要な家臣の屋敷地で、本来はV相当。
Uにあたるのは、皇居東御苑および、狭義の西の丸=道灌濠より東側の、今の宮殿の建っているエリア。
また、Tにあたるのは、厳密に本丸だけだ、と解釈すると、豊臣大坂城と、とんとん未満になってしまう。
城郭の敷地としては、近世最大のものは、実は伊達政宗の青葉城ではないかと思われる。
>>283 ん?君はどう計算しているのか知らんが、徳川江戸城は総構の規模で豊臣大阪城の総構の10倍以上あるぞ?
というか豊臣大阪城は完成期の徳川江戸城の本丸とほぼ同じ規模だ。
>>287 だから、豊臣大坂城の惣構は、東横掘川&空堀筋&大阪環状線&寝屋川・大川で囲まれる範囲だっつうの。
見方によっては惣構の外に放り出される神田・日本橋・京橋・銀座を足しても、
大坂の10倍などという数字は決して出てこない。
江戸側を、間違っても、朱引や墨引で計算するなよ?w
ちなみに、上で書いた豊臣大坂城の惣構は、
船場(第1期:現御堂筋以東)と豊臣期平野町(現在の上本町)を除いている。
この2つは、「入っているのか出ているのか分からない微妙な町人町」で、
江戸で言えば日本橋や京橋と位置づけが同じだから、
本来なら、大坂の惣構にこれを含めないなら、江戸の側からもここを差し引かなければならない。
どう頑張っても、精々2倍だ。
289 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:51:56.41
家康みたいな天下構想がなかったのが敗因なんじゃないかと。
秀頼が成人しても大老家が巨大な領地と軍隊持ってたら邪魔じゃないかと思うけどな。
290 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 23:22:41.65
小牧長久手の役で戦後処理に家康を石高を100万石未満に抑えておくべきだった。
小牧長久手の役自体も冷静に見れば、局地線でしか家康は秀吉に勝利していない。
全体的には秀吉の方が有利に展開している。
>>290 小牧長久手の戦後処理ってアホかw
負けた側がどうやって戦後処理するんだよw
負けた側がどうやって戦後処理するんだよってアホかw
小牧長久手は秀吉の勝利なんだがw
> 小牧長久手の役で戦後処理に家康を石高を100万石未満に抑えておくべきだった。
こんなこと、もしできるのなら、してたに決まってるだろ・・・
それができなかったから史実通りになったわけで。
>>293 秀吉はやらなくてもいい関東移封を決行
このときに家康の石高は140万石→250万石にほぼ倍増
先祖伝来の三河の土地を離れさせたのは冷遇策とも言われるが
先祖伝来の土地など持たない秀吉の感覚ではむしろ厚遇策だろう
秀吉は家康の減封ができなかったのではない
関東移封のときに石高を下げることもできたはずだからね
なのにむしろ好んで家康に大封を与えている
>関東移封のときに石高を下げることもできたはずだからね
だから、もし本当にそんなことができたのならしてたに決まってるだろ、、、って言ってるのだが
減封、改易には、大義名分が必要。
小田原攻めの功労者家康を減封は無理。
薄く報いるということで、伊豆1国加増にでもしておけばよかった。
北条征伐のあと家康の領地をそのままに、息子達に100万石を九州や東北でコマ切れにして与えるとか?
関東移封は、北条遺臣やら農民の反乱狙いじゃないの?
北条を、慕ってたとか、北条を裏切った?徳川とか…
いや、唐入り計画していた秀吉にとっては関東で反乱が起きるなんてマイナスにしかならないんじゃないか?
そう考えると警戒しつつも家康を信頼していたりしてな。
俺が秀吉だったら唐入りの基幹部隊は徳川に担当してもらいたいけどな。成功しても他人の領地でしかも外国なんだから関東と引き換えに500万石くらいくれても惜しくないし、失敗しても仮想敵を葬れる。
同じ考えで伊達を送りこんでもいい。
>>295 だからなぜできなかったの?
家康のほうが秀吉より強かったとでも?
小牧長久手は家康の勝ち戦だと言ってる人が粘着してるけど
そんなわけないんだが。
>>300 お前は本当にうすら馬鹿だな。小牧長久手は戦場レベルにおいて家康の勝利だ。
その家康の勝利が規準として秀吉も家康も戦後処理をしてるんだよ。
まあ君は日本史上に残る英雄の秀吉よりも頭がイイと思い込んでいるようだから、もっとすごい戦後処理が出来るんでしょうけどw
302 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:06:46.06
>>301 小牧長久手に勝利した家康が秀吉に人質を差し出すとかw
お前はうすら馬鹿通り越して本物の馬鹿だわw
>>302 お前歴史知らんのだな。
あれは信雄と秀吉の和平の保障措置だ。
まあ自称「オレは秀吉以上の才能」君にはそんな事どうでもいいんだろうけどね。
さぞ現実社会でもお偉いのだろうw
304 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:43:38.50
>>303 馬鹿君、しつこいなあw
信雄が家康めが人質出すと言ってますんで♪と
勝手に秀吉と約束できるわけがないだろ
いいかい、秀吉は朝鮮へすら攻めに行ったんだぞ?
朝鮮より家康のほうが強勝ったと言いたいのかい?
馬鹿もほどほどにしろよ。
>>299 でもさ、反乱起こされて徳川を潰せれば、恩賞の領地として使えるから唐入りはなかったかも
306 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:16:08.99
母親と妹を人質。
息子を人質。
307 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:26:48.51
>>306 順番というものがあってね・・・
@まず、家康が次男を秀吉の人質に差し出す
A秀吉が妹を家康に下げ渡し継室とする(朝日姫は人質ではない・結婚が人質なら徳川は豊臣に千姫を人質として差し出したことになる)
B家康が秀吉のもとへ臣従の挨拶に向かうときの命の担保として大政所を家康に預ける
(家康が戻れば大政所は返される)
結果として家康は秀吉に臣下の礼を取っているから
>>305 関東で反乱起こさせるのが狙いならやりようがあると思うんだよな。
さすがに秀吉が直にやるのはまずいからかつて北条に圧迫されてた連中や徳川の関東入りをよく思わない連中に何個かクッションおいて資金援助したりとか。
家康は、織田家との絶妙な関係を上手に使って、小田原役後は、最大限の果実を得た、というところだろうなあ。
信長存命中は、徳川家は、ぱっとしない「織田グループの外様の系列企業」みたいなもんで、
織田グループ本体の支店ではないが、密接な関係がある、他には同様の企業はない、という立ち位置。
そしてオーナー同士に、不均衡ながらも信頼関係があった。
オーナーが急死したあと、乗っ取った新オーナーとしては、この微妙な系列企業の扱いは実に困っていた。
秀吉は、織田家中の話なら、容赦せず攻め滅ぼすことが出来た。家中の内政問題に過ぎないからだ。
柴田などはもちろん、信雄に対してだって容赦ない。
また、全くの外様だったら、敵国としてガチンコ勝負を挑んで勝てば良かった。
臣従してきても、伊達政宗に行ったように、難癖付けて旧在地との根切りと減封転封は余裕で可能だった。
だが、系列企業、でも外様、不利益を与える大義名分は何も無い、となれば、扱いに困ってしまう。
しょうがないから、精々根切りをするくらいで、大封をまるまる与えることになってしまった。
いっそのこと、織田からみて、徳川が完全にただの外国だったら、上杉と西関東を折半という可能性はあって、
おそらくこれをやっておけば、家康の天下はなかったと思われるが、上杉と徳川は織田との関係が違う。
関東移封→関東に閉じ込め。北条遺臣の反乱などあったらそれを理由に減封狙い。
朝鮮出兵→当然成功前提。家康に新領土はやらぬ。
ところが史実は逆になり家康は関東を上手に治め兵力温存、朝鮮出兵は失敗し
豊臣勢力弱体&対立が起きて関ヶ原でひっくり返される事になってしまった。
家康の関東移封は、秀吉からしても妙策だった。
後年、徳川が政権をとったからこの策は失敗などと言われるが、1590年当時、家康が天下をとるなどとは万に一つも考えられない状況だった。
関東も奥羽も一応平定したが、行政的には手付かずの状態で、奥羽仕置きを行うには関東の安定が必要不可欠。
史実では、奥羽仕置きは武装蜂起を群発させ、結局、秀次を総大将として大軍を送るはめになったが、
これも関東が安定していたからできた。
家康は敵地であった関東に、配下の大名ごと(甲信など)移封してきたが一揆のいの字も起こさせなかったばかりか、
同時進行で超大規模なインフラ投資を行い、江戸の町割り・水路・中山道の整備・神社仏閣建築を急ピッチで進めながら、奥羽に従軍もしている。
秀吉は家康領には太閤検地を実施しなかったが、これは裏をかえせば全て自己責任で処理せよという事で、統治に失敗すれば厳しい咎めを受けることは必至だった。
家康は秀吉の期待に応え関東統治を大成功させたが、更なる東国開発を口実に、文禄五年江戸金座設立を許された。
最高権力者の証である通貨発行ができるようになったのだ(大判は不可)。
これによって関東以東の金は必然的に江戸に集まるようになった。
このあたりから、250万石の大名という以上の家康の巨大化が始まった。
>>311 つーか既に検知の行われていた地域で太閤検地は実施されていないよ。
それに太閤検地はあくまで軍役規準のための数値であり、生産性を把握したものではない。
例えば九州などでは太閤検地の数値が年貢の基準値になっていなかったことが解っている。
北條や今川、それを継承した徳川の生産性把握の検地と太閤検地は、全国検地という以上に性質・目的が全く異なる。
大阪夏の陣で豊臣方が勝つには、家康の首を獲っても不充分。
秀忠に弔い合戦の口実を与えてさらなる猛攻を受ける。
家康を逮捕して、両軍将兵の見ている前で自己批判させて、
謝罪の証として秀頼の草履の裏を舐めさせる。
その様子を版画にして全国にばらまくプロパガンダする。
戦後処理として家康&秀忠くらいは人質に取る。
さらに朝廷からは家康逮捕の感謝状をもらう。
このくらい実現しないと諸大名も受け入れない。
>>313 自己批判とか、どこの左翼?
生け捕りにされるぐらいなら、自害するが。
てか、真田の猛攻で一時大御所が自害覚悟というのもあったような。
大阪夏の陣は幕府軍の完封試合だっつーの。
たしかに大阪方の猛攻で一時的に本陣を移したが、それ以上のことは起こらず
結局圧倒的な幕府軍に数で押されまくって大阪方が壊滅しただけの、展開的には非常につまらない合戦。
それが史料から導かれる大阪夏の陣の実態。
本陣突撃どうのこうのというのは後世の軍記物の創作にすぎない。
戦略面の圧倒的不利を戦術レベルで覆すには、
家康に自害などさせず手足ヘシ折ってでも生け捕りするのが大事。
そして家康は秀頼に屈服したと誰もが直感できるパフォーマンスが必要。
家康にヤラセ芝居させるためには千姫利用するくらいの非情さもいる。
ちなみに日本人がアメリカに負けたと実感したのが、マッカーサーと昭和天皇のツーショット写真見せられた時。
昭和天皇は燕尾服の正装で直立不動なのに対して、マッカーサー大元帥は作業服姿でリラックス。
これ見せられたらどちらが偉いか一目瞭然。
>>316 はいはい。「ボクの考えた超戦略!」はよそでやってくれ
>>311 その説に乗れば、
「秀吉は、西関東の国人気質を、かなり見誤っていた」ということだろうな。
今では多くの研究者が指摘するところではあるが、
古利根川より南西側の西関東は、鎌倉期以来、「強き者にあっさり靡く従順な気質」の地域で、
独立気質の大勢力が割拠し、東北と地域体質の近い東関東(特に茨城)とは全然違う。
この、「強い奴がやって来ると、あっさり臣従してくれる」西関東気質が、
鎌倉幕府(都の源氏→伊豆の北条氏)の基盤でもあり、後北条氏(上方→伊豆→小田原)の基盤でもあり、
上杉(長尾)氏などが遥か彼方の新潟から、ある程度はコントロールできた理由でもあった。
つまり、家康が大大名として権威を以て入れば、西関東では、大規模叛乱など起こりようが無かったのだ。
家康としては、「海道一の弓取りが天正庚寅八朔の日に御入府なされた」と宣伝すれば十分だった。
秀吉は、このことを知らなかったのだろうと思われる。
東国武士の地域ごとの気質をよく知っている上級武士階級なら、直感的に理解は可能だったろうから、
こういうところに、成り上がりの無教養が出てくる。
西関東平定は、家康でなくても、極論すれば大大名の権威付けがあれば、誰でも出来たものだろう。
西関東は、よく見ればずっと余所者支配の地で、しかもそれを在地国人が苦にしない伝統がある。
>>310 朝鮮出兵を成功させるには関東が平穏であることも条件の内だろうからその二つは矛盾してないか?
西日本の諸大名が渡海してるときに関東で反乱が起きたら誰がそれを鎮めるんだよ。仮に家康が鎮圧に成功したとして削封なり転封なり言うこと聞かせるにはやっぱりある程度の軍事力がいるでしょうに。
>>318 それは言える。
家康は外縁部に、本多・榊原・井伊を置いたが、これは外敵防衛と内乱防止両方の意味があったと思われる。
ただ注目すべきは、それまでの長年の支配層が全て没落し、そっくり入れ替わった事。
特に本来は豊臣家臣であった木曽や諏訪、真田(特殊な形だが)など、信濃の全大名が家康の家臣とされ転封させられたが火種にさえさせなかった。
1590年当時、関東を安定させ、かつ豊臣政権の意向どおりに開発と近代化政策を同時進行させえるだけの人材を持つ大名とは、やはり家康以外には考えられなかった。
強いて言えば小早川隆景がいる毛利家ぐらいだろう。
家康は秀吉の期待以上に関東統治、特に江戸の都市開発と領国内の港湾・道路整備において大実績をあげた。
(しかも、わずか5年程度の間)
その結果、商工業者・寺社中心に徳川支持者を増やして、江戸金座の設立に成功する。
日本中どこを探しても、秀吉以外に金座を持つのは家康しかいなかった。
金座を持ち、常時領国の開発を進めて金を動かし、官僚的人材を活かすノウハウを洗練し続けた徳川と、朝鮮攻めに駆り出された他大名・・・
大きすぎる差というしかない。
家康は、元は国人領主で、家臣団が大膨張したわけだが、家臣団中核に譜代が居たから統制がとれていたんだろうか。
家康はごく早い段階で旗本先手組という直属の軍事力を作り上げ、それによる君主権の強化と
組織・仕組みづくりを並行してやっている。それゆえに家康による統制の強い組織が形成された。
「三河者の忠義」というのは、大抵この家康直属部隊のものだ。
豊臣体制が長続きすると100万石級の大大名ばっかりで室町幕府みたいな慢性的な紛争状態を招いたんじゃないかと。そのうちどこかのお調子者がヨーロッパ勢力を招き入れて日本がめちゃくちゃにされたりして。
324 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 03:28:21.43
上記の100万石級に含まれる家って、
豊臣本家、豊臣秀長家、徳川、毛利、上杉が100万石以上で、
前田、蒲生あたりが100万石に準じる家ってことでOK?
>豊臣体制が長続きすると100万石級の大大名ばっかりで室町幕府みたいな慢性的な紛争状態を招いたんじゃないかと
家康はよく家臣に対して大禄を与えないケチて言われるけど
逆に信長秀吉は気前よすぎる。
この二人が長生きしても家康みたいな統治システム作れたかどうか
逆。
家康がケチなのは自分の家臣に対して出、外様に対しては信長秀吉よりもずっと気前がいい。
>>326 家康が外様を味方に取り込むには恩賞をちらつかせるしかなかったんだろ
しかしその後徳川政権が安定するとかなりの数の外様を取り潰してる
>>327 取り潰したのは家康じゃないし。しかも外様だけじゃない。しかも改易には個々に理由があって、やみくもに
潰そうとしたわけではない。
そういう単純化した物の見方は非学問的だぞ
豪華絢爛大阪城築城に何千人雇われたか考えると 周辺部
の雇い人夫たちの不満があったのかも知れない。費用も
だいぶ費やしたはず。それとの因果関係はわからないが。
330 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 17:57:19.39
入部直後に関東大震災が起きたら流石の家康もあぼん。
331 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 17:58:10.82
西郷は、江戸を火の海にすべきだった。
332 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 18:00:00.59
竹千代を京の公卿に預ければ、天下取りには育たなかったろう。
333 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 18:03:40.13
秀吉の妹が峰富士子級の美女だったら、家康も骨抜きにされていたであろう。
豊臣家は大坂城を退去し、大和郡山に移り、併せて家康の隠し子小笠原権之丞を豊臣家家老に起用し、淀殿は江戸に下る。
このように恭順を徹底的に偽装し、家康死後、柘植新八に淀殿を奪還させ、また、多羅尾半蔵に大坂城代・柳沢出羽守を暗殺させて、大坂城を奪還する。
あとは、豊臣家恩顧の大名に檄を飛ばす
以上
335 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 18:58:07.63
>>334 大阪城を退去してどの城に拠って戦うんだよ。
天下一の名城の金看板があればこそ牢人たちも集まったのに。
336 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 19:04:16.01
>>328 しかし、秀吉の血族加藤・福島が取り潰されたのは単なる偶然とは言えないわけで。
石高の高い外様に政治介入権を与えていた織田・豊臣政権と違って
外様に幕政(大老・老中)職を原則与えなかった家康は外様冷遇。
家康がけして外様優遇だったとはいえないだろ。
>>336 アホか藤堂高虎は政府中枢といっていい働きをしていたし、各種施策に外様大名は大きく関わってる。
だいたい二条城会見のお膳立てをしたのはその加藤や福島、浅野たちだぞ。これだけの高等政治に参画してて
外様冷遇とか正気で言ってる?
それと福島の改易は城郭の無断修理という武家諸法度違反。しかも1度は城郭の破却で許されているのに
それが形だけだったことが発覚し、将軍への不服従で改易になった。
肥後加藤家にいたってはよりにもよって家光への代替わりの時期に将軍家への謀反を書いた怪文書を
制作するというタイミング的にも最悪なことをした結果だ。
ついでに言えば清正死後の加藤家は贅沢軟弱と藩内の派閥抗争で、どうしようもないダメ大名として
天下に有名だった。改易の後諸大名は、引く手あまただった福島家と違い加藤家の武士を引き取るのを嫌がったほどだ。
こんなものが脅威だと思うか?
君は徳川が外様を冷遇したに違いないという先入観から物事を見てるからそんなに歪んでるんだよ。
一個一個をちゃんと調べろ。
ついでに天下普請や参勤交代を諸大名の力を削ぐ政策、なんて馬鹿なことを言い出しそうだからいっておくが、
あのへんはそもそも大名が主君たる将軍に果たす軍役であって、身分的義務。
武士が武士であるために必要な行為であって、大名の力の抑制なんてケチな話じゃない。
339 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 23:35:28.24
>>337 阿呆はお前
加藤・福島・浅野は天下を取るまでの捨て駒だろ。
家康だって、豊臣を滅ぼすまでは外様を大事にしてるふりをしてたさ。
外様をこの先もずっと徳川政権に政治参加させるつもりなら、
なぜ、外様は大老・老中になれなかったんだ?
藤堂高虎は城作りの職人としての仕事を任せていたのであって、
老中にして将軍に末永く意見せよなんてことをいつしたの?
>>339 お前本当に歴史知らないのね。
大老や老中なんて役職が出来たのは徳川家光の時代だよ?
存在しないものに家康が彼らを就任させられるとか思ってるんだw
341 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:19:16.41
>>340 家康・秀忠時代には三河の戦国大名だった時代そのままの
譜代中心の政治を続けてたからね。
当然、外様は政治に意見できず。
342 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:24:26.20
老中(当初は年寄)は家康の時代にもあったでしょ
そもそも制度の整備された家光の時代までは、徳川は本質的には「最大最強の大名」だしな
>>339 徳川和子の入内斡旋とかいろいろやってるじゃん。
345 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 06:26:24.94
過渡期なんだから、色んなことがあるに決まってる。
たとえば茶屋四郎次郎とかに当たる人物を、後の将軍周辺で探すのは難しい。
茶屋は家康のお夏の方の親戚だし、樽屋は家康の母方の従兄弟だし、有力商人が近親者って状況は家康の頃しかない。
346 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 12:48:57.51
もし石田派より先に家康とその与党大名はどうなっていたんだろう。
徳川家なんか削封か10人あまりの子供にバラバラに相続させるかだろうか。
日本語で(ry
348 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 14:49:44.79
石田派より「先に家康が死んでいたら」でした。すみません。
349 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 15:00:29.62
多羅尾 半蔵(笑)
徳川の次期当主はお江の旦那で中納言の秀忠だろうけど、
所領の分割はあり得るな
大坂城代柳沢美濃守を追い出して再び豊臣家が大坂城の主になることは十分あり得た
352 :
重要無名文化財:2012/07/17(火) 09:49:07.92
豊臣秀長が生きていればと思う。
秀吉は交感神経、秀長は副交感神経で、秀吉の行きすぎを掣肘できた人物。
この人は、尾張派にも近江派にも信頼され、睨みも効いた。
この人が、生きていれば、朝鮮出兵もなく、豊臣家臣団も分裂せず、
家康にも抑えが利いた。
結局、秀長以外にロクな人物が豊臣家の血縁中枢にいなかったことが、滅亡の
原因。
小早川秀秋なんかは、馬鹿の典型。
豊臣秀長はたまたま秀吉政権の絶好調期に死ねたというだけで
生きていれば朝鮮出兵を止めることができたとかいうのは
「武功夜話」の創作のような気がする(大政所も朝鮮出兵を止められなかった)。
秀吉親族の加藤・福島の行動を見れば小早川を攻められないだろうし。
小早川秀秋は秀吉の養子というだけで、秀吉の血は一切引いていない。
(秀吉の室北政所の甥にすぎない)
朝鮮出兵は関係なくやったろ。秀吉は基本信長路線を引き継いでる。
大阪に本拠置いたのもそうだろうし信長は大陸出兵するつもりだったみたいだから
秀吉もそれを引き継いだだけのように思える。
何故か勘違いされるが(秀吉が大阪を居城にした後に成立した信長公記の影響だろうが)、信長に大阪を
本拠地にしようとした動きは一切ない。そもそも信長は大阪という土地自体に余り興味を持っていなかった。
本願寺の大阪からの退去も、本願寺戦争の再末期になって初めて出てきたものだし。
大陸出兵についても秀吉からの逆算と考えた方がいい。同時代資料に信長が大陸出兵を考えていたという
証拠は一切存在しない。
つーかそもそも九州もまだ平定していないうちに大陸出兵とか考えるほうが頭がオカシイわなw
まず、秀頼を秀吉のコじゃないと認め
血縁による世襲を否定して、議会による民主政治をはじめればいいのではないか
負けたから無能呼ばり。実は有能だったかも知れない。
どの程度の接戦かは 厳密にはわからない。
秀頼を准三宮にしても、ぬっころされた?
359 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 16:41:08.31
>>352 >この人は、尾張派にも近江派にも信頼され、睨みも効いた。
>小早川秀秋なんかは、馬鹿の典型。
典型的な司馬史観にワロタw
今時尾張派とか近江派とか珍奇な言葉使ってるのは天然記念物ものだなw
361 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:36:21.04
正しくは「畿内派」対「濃尾派」が正しい
多少なりとも美化して描くであろう肖像画での秀秋は、
お世辞にも才気活発な顔立ちとは言いかねるな。たれ目という
よりは、魯鈍の相だ。
これでは、中身は多少なりとマシでも周囲に軽んじられただろう。
人は今も昔も外見に左右されるもんだから。
>>361 同じだよ
豊臣政権内の内部抗争は朝鮮役〜秀吉死亡時の配属で陣営が決まっただけで
尾張近江と言った出身は関係ないし、吏僚派と武功派などという色分けもない
364 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 04:10:45.94
もし秀頼が大政奉還したら?どうなったか?
今度は家康は天皇を敵とし?京都夏の陣?始めるかな?
365 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 04:46:48.03
もし「秀頼」が大政奉還したらでなく(家康は実質幕府開いてるので意味がない)
もし「秀吉」が生前大政奉還したらです。
幕末の政治情勢を秀吉の時代に持ってこれると思う不思議な頭の構造の方にむしろ興味がある
367 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 05:27:10.46
秀吉政権は、疑似公家政権だからな。どうやって返すんだ?
幕末に相当する時代まで豊臣政権が続いていたとすれば、
関白職は豊臣家が独占していたろうし、広大な豊臣領を保有
していたろうから、これらを手放すということかな。
他の有力大名家への統制は、史実の徳川体制よか比較優位で
しかないから、もっと早くに失いそうだけど。
369 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:08:44.44
>>363 でも七将襲撃はそんだけ三成が嫌われてたってことだよな?
371 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 13:52:06.62
372 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 13:54:55.48
>>369 三成は秀吉没後すぐ家康の暗殺未遂を起こしている
七将は家康政権支持であり
(七将のうち三将は秀吉が死ぬとすぐ、秀吉が定めた私婚の禁止をやぶって
家康と通婚している。家康の征夷大将軍就任を支持していただろう)
秀頼政権を目指す三成とぶつかったとみられる
373 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 14:36:38.41
七将襲撃時三成は家康の屋敷に逃げ込んだ事件は
史実ですか?家康の暗殺未遂を起こしている のが史実なら
不自然と思いますが?
三成は山田長政に変身した説がありますが何か取引とか
天海(光秀?秀満?)交えてしたのか?
374 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 14:45:48.51
>>372 七将襲撃事件って唐入り(特に蔚山城の一件)での
三成や三成の親戚の処置に対する報復が動機じゃなかった?
>>373 家康邸でなくて、伏見の自宅。
家康邸に逃げたってのは確か明治時代に誰かが史料読み間違えて広まった俗説だったかと。
375 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 14:53:40.22
>>374 時系列としては石田三成の家康暗殺未遂が先
続いて前田利家ら四大老+三成による家康の私婚追及
そして家康に近い七将の三成襲撃
三成憎しだけなら加藤・福島・浅野がなぜ
御恩ある太閤豊臣秀吉の遺命をやぶって
家康と私婚を通じたかの説明ができない
376 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 15:11:36.26
家康との姻戚と三成への遺恨はまた別問題じゃね?
家康との姻戚が無い連中も襲撃してたんだし
377 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:04:24.91
>>376 三成を襲撃した七将
・加藤清正・・・慶長4年(1599年)、家康養女かな姫と結婚
・福島正則・・・慶長4年(1599年)、養子の正之と家康養女満天姫が結婚
・浅野幸長・・・慶長4年(1599年)、家康養女と結婚
・黒田長政・・・慶長5年(1599年)、家康養女栄姫と結婚
・池田輝政・・・文禄3年(1593年)、家康次女督姫と結婚
・細川忠興・・・慶長13年(1608年)、後継者忠利と秀忠養女千代姫が結婚
・加藤嘉明・・・嫡子明成が保科正明娘(家康養女栄姫の妹)と結婚
三成襲撃事件が起きたのは1599年だけど、この前後に家康は七将と次々と婚約・婚礼
嫡子が適齢でないなどの理由で細川忠興と加藤嘉明が徳川家姻戚になるのが遅れたものの
七将の多くと徳川家は姻戚関係が強かったことは事実
でも三成って、利家死んですぐ排除しなきゃと見なされる程の人物なのかな?
奉行衆の中でも序列は低い方だし、ほっといても大して何も出来ないと思うんだが。
そうなるとやっぱ唐入りとかその他諸々の怨恨じゃないかなあって思うんだが
怨恨なら唐入り以外にも秀次事件や蒲生騒動もある。
>>377 これは七将のほうが、家康を後ろ盾にしたいという思惑も存在する
>>378 七将は家康を征夷大将軍に・秀頼は一大名にということで一致していたが
三成が家康暗殺を企んだり茶々入れたからだろ
七将が秀頼の許可も得ず勝手に三成殺せば糾弾されるのは目に見えており
秀頼の意思を超えて決定権を持つ五大老筆頭徳川家康の許可を得ていたものとみられる
唐入りの私怨だけで殺すとかどんだけ肝が小さいんだ
>>380 家康のほうは嫌々だったのに仕方なしに急遽大量の養女を用意したとか?
明らかに家康のほうがノリノリだろ
でも七将の内加藤清正、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長の4人は
家康と利家が一触即発状態になった時には利家方についてますぜ?
>>383 単純な利家方って話じゃないだろ。むしろ両者を和解させようとした一団だと考えた方がいい
385 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 16:07:40.51
秀吉が利休を殺さずにいたら、天下に影響があったのかな?
「内々のことは宗易」といわれていた実力は?
豊臣家の家老格として、政治力で家康の攻勢をカバーしたりとかできたんだろうか?
あるいは三成と他の大名との関係を調整したりとか。
ま、独自の軍事力が無いから、政治的な立ち回りがどれほど出来たかってことだろうけど。
ほでな
そもそも利休切腹のあたりで、堺商人に変わって博多商人が台頭してきてるわけだしなあ。
切腹させられなくても順次影響力をなくしていったと思うよ
388 :
播磨の冠者:2012/08/05(日) 22:27:49.71
頼朝にしろ秀吉にしろ、身内を粛清してしまう武将の天下は長続きしな
い。その点、家康は後々の事を考えて幕府を盤石のものにする手立てを
色々打っています。歴史に学ばない人間の見本みたいなもので、秀吉の
無学は致命的です。秀吉にすれば絶望的な状況があります。家康と違っ
て古参の部下も無く、一族郎党は百姓ばかりだし、関白に成りあがって
も所詮水飲み百姓ですから将来の繁栄を企図する事が出来ません。
自らの分を知っておれば、さっさと別人に天下を譲って小さく家をまと
めておれば豊臣家も残ったのではないでしょうか。譲る相手が問題で徳
川に抗するような前田・伊達あたりに譲ることが出来ればどうだったの
か。
秀吉の実母あたりは、秀吉の分をよく分かっていました。淀君と違って
実母あたりに相談していれば、豊臣家も続いたのかな。
豊臣を滅ぼしたのは、頑なな淀君でしょう。彼女さえ我慢して人質に甘
んじていればよかったのです。秀吉の実母でさえ人質になっているのに、
信長の姪・秀吉の妻という地位・身分にこだわり過ぎました。女の意地
が一族を滅亡させたのです。
今でもそうでしょう。高慢な女は容易に人に頭を下げません。傾国の美
女とはよく言ったもので、淀はそういう女の類です。政治に女を入れて
はいけないのです。
秀吉が毛利と徳川滅ぼしてれば何でもなかった。たやすいことだった。
秀次殺すとか朝鮮の役やるとかに比べれば。
大坂の陣での難癖に比べれば何でもない。
やっちまえばあの時代の豊臣に逆らえる奴はいない。
明日は我が身でみな縮こまる。
して当然ごく当たり前のことをしない秀吉が抜かりすぎ。
敵対勢力削らないで政権引き継ごうとか舐めすぎ。
そうしてりゃ人気はそれほどでもなかったろうが江戸幕府よりは上。
秀吉に、取り潰しの隙を与えなかった家康が偉いまで読んだ。
取り潰しなんてのはやってもいない謀反を企んだって言いがかりを付ければよい
秀吉はまさに画竜点睛を欠くだ
>>391 それを、養子にした甥っ子にやってしまった。
393 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 14:58:13.69
>やっちまえばあの時代の豊臣に逆らえる奴はいない。
>明日は我が身でみな縮こまる。
足利義教や織田信長のパターンか
394 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:16:29.50
>>388 徳川家康は嫡男と正室を殺害したり六男を蟄居させたり
そこそこ身内粛清はしてるんだがな
秀吉や頼朝とは違い家康にはとにかく男子が多く11人もいた
粛清する以上に身内がいたからもったんだろうけど
396 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 19:39:29.00
源実朝がやろうとしたように
秀頼が海外亡命すればよかったかも?
397 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 19:57:02.85
>>397 築山殿はともかく信康の方は信長からの圧力だな。
家康粛清説は史料の一切ない妄想にすぎん。
400 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 21:17:08.19
山田長政(石田三成?真田幸村?)のいるアユタヤ日本人町
呂宋 助左衛門、高山右近のルソンのマニラ
日持真似て?僧侶に変身して満州
築山殿と信康は無実だろうな。
徳姫の讒訴と、それと家康の思惑か…?
築山殿は哀れだな。徳姫はクソ極まりないが。
402 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 21:29:10.61
山田長政はルソンのスペイン艦隊を撃退しているので
足軽とかでなく武将クラスの人物だろう。
呂宋 助左衛門も素性と経歴のほとんどがわかっていない謎の豪商だ。
403 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 00:14:09.25
畏れながら申し上げます。
淀の方様が江戸へ赴くより他に上策は無いと存じます。
>>392 結果論と言われるかもしれないがなんで秀吉は外様の家康をあれ程
信頼したんだろう。
信長が外様の光秀にやられたのに。
自分の信長と、家康は光秀とは違うと思ってたのだろうか。
>>404 そもそも秀吉に身内ってほどの人間が居るか?
妹の婿といえば身内も同然
そもそも家康を味方に引き言えれなきゃ「秀吉の天下」が成立したかどうかすら覚束ない
>>406 秀吉の妹朝日姫は一年半ほどで兄のもとへ逃げ帰ってるからな
その代わりが養女の江なんだろうけど
豊臣家を守るためには全く役に立たなかった
>>407 朝鮮出兵をやる兵力があるなら家康を潰して問題なかったろ
410 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 14:37:06.20
>>398 普通に考えれば信長との同盟を反故にしてでも嫡男を守るだろ
信長も信康を疑っているならばまず愛娘五徳の織田家への返還を求めるだろうに
信長がそれをした形跡はなく家康が信康を殺した後で五徳は徳川のほうから織田家へ帰されている
江戸時代に徳川家寄りの史料にのみ出てくるその内容は矛盾が多い
>>409 逆だ逆。家康が居たから九州征伐も唐入りもできたんだよ。
>>410 > 普通に考えれば信長との同盟を反故にしてでも嫡男を守るだろ
そんな普通は戦国時代には存在しない。家より嫡男を取るような例があるなら教えてくれ
家が滅ぼされれば嫡男もなにも無くなる
信長との同盟を反故にする選択は有り得ないな
>>403 実際淀殿が人質になっても、どれくらいの効果があったんだろうね?
結局豊臣が天下人であろうとする限りあぼんは免れない気がする。
だから淀殿人質&国替受け入れはセットでやる必要がある。
でもそこに行き場のない牢人達が集まってきたら、やっぱりあぼんになると思う。
豊臣の看板がでかすぎて、『誰かの客将となり実行支配をしない&公家と細々と付き合うだけの
ひたすら形を潜める今川氏真コース』に徹してはじめて生きながらえるくらい無理ゲーだわ。
1・秀頼が従弟の徳川国松(忠長)を養子とし、大阪城を譲る。
2・秀頼・淀殿は、秀吉ゆかりの伏見城に移る。
この程度で済むパターンはありえなかったんだろか
>>415 > 1・秀頼が従弟の徳川国松(忠長)を養子とし、大阪城を譲る。
忠長自体、秀忠存命中に改役されてるから、大阪城なんかもらったら、えらいことになりそう。それこそ秀忠=家光に包囲されて大阪の陣になる。
> 2・秀頼・淀殿は、秀吉ゆかりの伏見城に移る。
京に近すぎるな。大和郡山転封ならば存続したかも。
>>411 家康は秀吉の御身内として秀吉の身辺警護の役目を仰せつかり
九州征討でも朝鮮出兵でも全く出撃してなかっただろ
家康の武力など当てにしてなかった
>>417 お前は本当にアタマが悪いんだな。
東の安定がなきゃ西にうかつに遠征できないんだよ?
そんなこともわからない?
秀吉にとっては西の連中のほうが邪魔で危険な存在だったんだよ
421 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 02:55:32.85
前から凄い不思議に思ってたんだけど、家康は秀吉が織田家を
簒奪した手法をそっくり真似ている。
それなのに大阪方は家康が秀頼が成人したら政権を返してくれる
と本当に思っていたのかな。
秀吉自身は秀信が成人しても政権返していないのに。
それに古今東西国家規模レベルで幼児の後見人として政権をまかされた人物が
その後成人した相手に政権を返した例って凄く少ないと思うんだが。
大阪方って凄くおめでたい人達だなと思ってしまう。
勿論その後の歴史を知っている後世の人間の傲慢さなのかもしれないが。
422 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 04:04:28.80
そもそも秀吉って
本当に水のみ百姓の出身なの?
ある劇がでは秀吉はスッパとして描かれ
ある本の説では秀吉の家は神社を根城とする一族の元締めだったとか?
423 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 04:06:15.55
>大和郡山転封ならば存続したかも
後で柳沢吉里が移転してくるお
2000石貰って京都御所傍に住む。これ
実より花を取るって選択はあったよね
>>422 「水呑み百姓」なんてのは後世の作り話にすぎん。仮に百姓だったとしても、織田家の足軽を務めるくらいなので
相当の大きな百姓。
ちなみにこの時代の「百姓」ってのは、村の指導者階級を指す言葉な。「百姓様」とも呼ばれた。
「百姓様ほどもなりたし」という慣用句もあった。
秀吉は20代で既に信長の奉行として文書発給しているし、30代で侍大将。
はっきり言えば織田家の超エリートの一人として記録上は登場している。
彼に悲惨な前半生があったなど到底考えられない。後世の作り話にすぎないだろう。
どうしてそう作為断定的に話せるのか根拠を知りたいわ
秀吉は父母の素性もいまだに断定できない
木下性すら父から継いだものか否か断定できない
エリートとして歩めたのは秀吉に才覚があったからこそで出自とは別の話だろうが
>>427 何が作為断定的なのかわからんが
例えば秀吉が水呑み百姓の出身なんてのを言い出したのは明治からで、近い時代の史料は最低でも「百姓」としている。
そして信長の周りは、明らかに武士身分である乳兄弟の池田恒興ですら氏素性の解らない人物で、
織田家に限らないが当時はそういう存在がわらわらいた。秀吉もそう言った存在の一人だったにすぎん。
そしてそもそも、若い頃からエリートとして歩めたというのは、それ以前から秀吉の家が織田家と相当の関わりがあったと
考えるのが常識的だ。個人の才覚だけで出世できるなんて時代ではない。弾正忠家に対して家の信用があったと
考えてしかるべき。
秀吉の家の素性がわからないのは結局、豊臣家がごく短期で滅亡したためだ。滅亡したため江戸期に本格化した
家譜の編纂が出来ず、よって合理的な出自を作れなかった。それだけの話だよ。
秀吉生家が弾正忠家からの信用があったってのはどうなんだろうな。
最初に、織田家に行ったんじゃなく、今川配下の松下家に仕官してるしな。
でも、日々の生活には困らず、村内での地位はそこそこでも、土豪と呼べる規模
の家じゃなく、ともとその婿にでも村を任せて、自分は浪人者の一人としてどこか
の武家に仕官して出世しよう、ぐらいは考えうる環境だったんだろう。
>>429 分裂時代の織田に仕えてもしょうがなかろう。
織田の状態が安定してから尾張に戻ってきた、って事だろうな。
431 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 20:08:57.49
歴史古い順
難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)
平城京 奈良
平安京 京都
日本仏教初の寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市)
432 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 20:09:45.03
徳川は河内源氏 江戸城をつくったのは摂津源氏
433 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 00:35:44.54
秀次が継いでいれば50年くらいはもった気がする・・・
434 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 07:18:00.65
歴史古い順
難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)
平城京 奈良
平安京 京都
日本仏教初の寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市)
徳川と毛利をとりつぶさなかったのが甘すぎ。基本中の基本。
功臣を殺さないで何が権力者か。権力者の心得を守れない秀吉が馬鹿すぎ。
とりつぶす理由なんかどうにでもなったし反抗なんか大したことなかった。
大坂の陣で十万単位の兵集められるのと比べれば。
信長や義教と比べるとか馬鹿。
そうすりゃ少なくとも百年は持った。
世界的にあらゆる政治家のやってる基本を怠った秀吉が頭おかしい。
常識的に有り得ない。
徳川も毛利も朝廷工作なり、強力なライバルを押さえ込むなり、
手を焼く敵を押さえ込むのに必要だったわけじゃない。
生かしておくとか考えられない。
粛清して何も問題なかったし、秀次粛清や朝鮮征伐は平行して何も問題なかった。
秀吉には子飼いの武将が三成派と反三成派で分裂するとか、
想像できなかったんだろうが、ぬるすぎ。
こんな典型的な講談脳でも書き込みできるんだな日本史板って。
戦国板なら生きるのが恥ずかしくなるほどフルボッコにされるのに。
ああ、だからこっちに逃げてきてるのか
437 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 11:59:29.50
>>435 秀吉が敵というか外様にそこまでしなかったのは信長の最後が
頭にあったからじゃないかな。
秀吉は信長を反面教師にしてサクサクと天下統一したけど
信長を反面教師にし過ぎて豊臣家を滅ぼされたイメージ。
そもそも豊臣家が滅びたのは本質的に秀頼の責任。いくらでも滅亡回避できたのに
そのチャンスを尽く無駄にした。ろくでもない暗君だった。
439 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 12:05:15.92
>>436 あっちはあっちで江戸時代以降に作られた逸話を史実として信じてる奴多いですしお寿司
>>439 >>435はそれ以前の問題なんだが。そこらのサラリーマン向けビジネス戦国本を信じちゃってるタイプ
>>438 秀頼が死んだのが22歳、家康は17歳のときに桶狭間の戦いの結果独立してるしな。
当時からすれば、15歳以上になったら、自分の責任だろうから、最後の7年間は無為無策だった。
しかし、家康が17から後見なしであれだけやったというのも凄いが。
442 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 18:34:10.72
もっと穏やかに没落して、1500石程度の領地と摂家の家格を持つ
公家として落ち着けばよかったのにと思う。
幕末になって、公武合体の仲介役として、活躍できたのではと想像する。
443 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 20:35:42.43
>>441 でも秀頼はボンボンだし、苦労した家康とは経験値が違い過ぎる。
まあ器量が足りなかったんだろうけど。
>>442 何故公家としてでも残れなかったんだろう。
捨てるにはもったいない城と金があったから
もったいないと思っていたらそれのために命まで含めて何もかも無くしました。
一種の教訓譚だわな
徳川と毛利取り潰しときゃいいだけだろ。
責任ある政治家の義務だろ。
皆、功臣取り潰して平和をもたらしてる。
あんな大勢力残しとく方がよっぽどおかしい。
そんな当たり前のことに文句つける馬鹿は何なんだ?
頭沸いてるのか?
まともな人間は出来る事と出来ないことをちゃんと判断できるんだよ。君と違って。
普通に権力者たるもの、自分を脅かす勢力は排除するのが、
平和を確保するための責務だろ。
二百万石超える大名は、パワーバランスとして残すのがおかしい。
自分の部下に因縁つけさして取り潰しに持ち込むのが当たり前。
当然の責務を行わない秀吉がおかしいしそれがわからない人間も馬鹿。
449 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 22:20:36.57
>>446 まあ、秀吉の頭が沸いてたんだよ。
大明国を征服できるとまじで考えてたから、国内の大大名対策がおろそかになった。
それと、徳川、毛利の取り潰し、減封するなら、上杉、島津もやらないとダメだろうし、結構な手間だ。
徳川も、外様の大大名潰したのは、秀忠だし、秀吉の代でそこまで要求するのは無理だろう。
朝鮮出兵なし、秀頼誕生なしの仮定で、秀次が大大名対策に成功したら豊富も長続きしたかもね。
450 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 22:49:46.42
本能寺の変から点か統一までの秀吉は正しく神かがりだけど
そんな彼が本当に大明国を征服できるとまじで考えていたの?
確か朝鮮出兵するとなった時どこぞの坊さんが「稀代の不思議」
と言ってるくらいなのに。
秀吉は九州征伐の時点で既に、大陸出兵基地として名護屋城の建設を始めている。
秀吉にとって大陸出兵は統一前からの規定路線
452 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 00:51:19.89
なんでそんなに大陸出兵にこだわったんだ?
明もそろそろ衰えが目立ってきた時期で、女真も活発化してきた時期だし、
軍事力のレベルでは高いものがあった当時の日本だったら、本気でやれば、
かなりいい線まで行くと本気で思ってたんじゃね?
朝鮮にこだわって戦い続ければ、明も手をひいて朝鮮支配をしばらくできれ
ば、中国の一部支配もできたかも?
まあ、明は衰えても、女真・清とのガチンコ勝負で負けた気はするけど。
454 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 12:03:19.14
へえ〜そうなんだ。
坊さんだけでなくルイス・フロイスも無謀だと書いていたし。
あの頃の秀吉は自身まんまんだったんだろうな。
そもそも唐入りと言いながら中国本土に一歩も踏み込めてないんだから大失敗だっつーの
明国はともかく、朝鮮は完全に征服して、
民族を根絶やしにしておけばよかった。
秀秋が長生きしてたら、何かがなっただろうか。
ならないよ。秀秋が豊臣宗家を継いだ可能性はあるが
1600年9月14日夜、赤坂の陣を夜襲すればよかった。それだけよ。
蒲生氏郷って人が長生きしてもダメかね?
何故蒲生が徳川に反抗すると思うのか
豊臣の天下を続かせるなんて無理だろ。
天下を治める力がなかったのに。
秀吉が生きている間は、秀吉個人の天下であって、豊臣家の天下ではないと思う。
徳川幕府みたいに、トップの力量に関わらず天下を治めれる体制が整えるまでは、優秀な個人の力でなんとかせんと駄目だろ。
463 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 18:47:06.37
三成みたいな無能を奉行にしたのがケチのつき始め
>>463 三成は人間関係はアレだけど、それ以外は優秀だろ。
でも何だかんだ言ったって、最後に人を動かすのは心だからなあ…。
秀次事件&唐入りで人心を離したのが豊臣滅亡の原因だと思う。
石松丸が実在して更に長生きしていれば、かなり盤石になっていたんじゃないかな。
石松丸が実在して更に長生きしていれば、秀吉が亡くなった時に30近くだからな。
秀次と仲が良ければ、かなり磐石だろうな。
467 :
日本@名無史さん:2012/09/03(月) 16:46:40.35
あれだけ見境なく人を殺した秀吉が、当時から淀殿と密通を噂されていた
治長などの者達を手打ちにしなかったのはなぜだろう。
大阪城が燃えなければ沢山の貴重な史料が遺っていただろうね。
どうせトンデモ説を立ち上げるなら、秀吉が率先して淀殿の妊娠相手を
斡旋してたくらいのことを言ってくれなきゃ失笑もんだわ。
470 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 08:11:41.26
秀吉の身内で唯一まともだった秀長が先に死んでしまったのが豊臣家の滅亡の最大の理由
471 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 15:55:09.01
>>470 『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社)
>>467に書いてあるけど、秀長も含めて豊臣家には
子供が生まれず(後に女子が二人生まれた)、どのみち、豊臣家は滅びる運命だった。
472 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:45:44.54
徳川家における宗家と御三家&秀康系松平みたいな秩序を秀吉が
つくり切れなかったのは、二代目の仕事を着実にこなせる人が
いなかったから?
秀吉の子ー秀頼
秀長の子ー娘2人
秀次の子ー仙千代丸ら男子数名、女子数名あり。
秀勝の子ー完子
秀頼以外の子ども世代は少ないにしても、数がいないわけじゃない。
秀吉の姉ともの子である秀次を養子にしてたぐらいだから、
男系・女系含めてみんな養子にして御家門の大名として強化したり、
有力大名に送り込んだりしてもいいはずだった。
(家康は、信康の娘の子とか、亀姫の子たちとかはじめの方の孫は、
ほとんど養子にしていて、政略に使ってたもんな。)
473 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 16:02:22.70
対外戦争とかは枝葉末節
跡継ぎが幼児というのは主家乗っ取りをされやすい
成人まで番頭たちの集団指導を期待しても、番頭の一角が死んでバランスが崩れることもある
やはり秀次に完全に政務を譲って、秀頼には二か国程度にすれば豊臣は200年くらいは続いただろう
474 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 17:32:06.76
>>464 人間関係アレな人に大名との取次だの軍監だのコミュ力求められる仕事任すのってどうなのよ?
475 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 17:38:56.94
人間関係は普通だろうw
ふところ刀的な存在は、不遇と感じる人間には敵意を持たれる
476 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 17:47:31.21
秀長が長生きしてれば…
>>474 確かにそんな気もするな。
藤堂高虎を豊臣政権の中核に入れていたらどうなっていたんだろ?
外様で中核にはし難い人材ではあるが。
具体的には… 分からん。
478 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 12:30:26.32
藤堂は秀吉が死ぬや否や、次の天下人は家康と睨んで
あれだけ豊臣家から恩を受けながら見限り、家康のケツの穴を舐め始めたからな
時勢を見抜く目は抜群だが
如何せん武士の風下にもおけないクズ
>>478 厚遇されてたり自分を重用してくれていたら、きっちり尽くすタイプじゃない?
某ゲームでは義理ワンだけど。
秀長には恩を受けたが、秀吉の豊臣家には思い入れなかった気がする。
480 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 17:56:31.89
>>479 戦国から安土桃山は、忠義は、個人としての主君に対するものであって、主家に対するものじゃなかったろうからね。
家の子、郎党みたいな歴代の譜代(家康帰還を待っていた三河衆とか)なら別だろうが。
秀吉自体、信長、たぶん信忠あたりまでは忠義の対象だったろうが、織田家に対する忠義などはなかたろう。
特に高虎は家柄もなく若い頃から身一つで、自分の能力を買ってくれる主君の下で
精一杯の働きをしてきた人生だからね
自身の家臣に対してもそういうところが表れてるよね
秀吉嫌いやわァ 好きな奴は農民出のヤツ?
秀吉が大返しするまでしか、基本的に知らない人は好きじゃね?
秀吉は詳しく知れば知るほど嫌いになりそう
484 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 11:34:20.66
>>484 豊臣完子の子孫だと、今上天皇もそうだが。
九条家出身の貞明皇后が完子の子孫なので、昭和帝をはじめとする大正帝の親王が豊臣の血を引かれている。
完子のカーチャンである江を通じて織田の血も入ってるんだよな。
天皇家に織田・豊臣の血が入っていて徳川だけ入っていないところに歴史の妙を感じる。
それ以上にそんな大きな家じゃないのに、二人のファーストレディ(?)・二人の天下人(?)・
更には天皇をも輩出した浅井家マジ凄え。人の縁はどう繋がるか分からないものだね。
九条家に尾張徳川家の姫が嫁入りしていて、その血が九条家に入ってるから、皇室には、徳川の血も入ってる。
>>487 そうだったのか。サンクス。
そうかあ、ちゃんと三傑の血が入ってるんだなあ…。
江の血は織田家の血は入ってるけど信長の血は混ざってないし。
いや、市が信長とやってできた可能性は絶対にゼロとは言えんけど。
織田、豊臣、徳川の血≠三傑の血
家康の血は、現皇室に入っているが、織田、豊臣は傍系の血だな。
豊臣秀吉って何で、大阪を拠点にしたんだろう?故郷なぞに
錦を飾るなら東海道。 信長を引き継ぎ自分の活躍した時代
を考えれば近江。あとは京の都には興味が無かったのか?
元々は堺の鉄砲衆や 雑賀で知られる所謂僻地だったはず
何のメリットや縁があったのか。
>>492 瀬戸内海航路の終点で、近畿内陸へ入る北回り神崎川ルート(兵庫から京都へ)と、南回り大和川ルート(堺から奈良へ)の
ちょうど中間点の結節ポイントにあったからだよ。
そして、その地を押さえていた石山本願寺は降伏したから、権力的にがら空きになった。
これで、中世都市町衆が残る堺や兵庫より使いやすい、近畿最強の土地が出現した。
瀬戸内海航路と直結で、しかも終点。唐入り計画にも好都合極まりない。
秀吉は、別に京に興味がなかったわけではない(聚楽第)。
近江は依然として要衝で、世継ぎの秀次を置いた。近江八幡城下町は、後の近世城下町の一つの雛形になる。
だが、秀吉は、権力的には、尾張や東海道筋にはまったく興味がなかった。
これは織田信長もそうだし、徳川家康でさえ、晩年駿府までは「戻った」が、浜松も岡崎もどうでもよかった。
織田豊臣徳川の3家は特に顕著だが、戦国武将は、お国自慢で故郷に執着して郷愁を抱く現代人より、
よほど合理的かつドライに拠点選びをするところがある。
>>492 >>492 493が言うように物流の拠点で、京都に近く交通の便の良いし、プラスして大坂は要害だった。
今の大阪城見るとそんなに要害の地に見えんが、
当時の大坂は西は海、北は大河が流れ、東は湿地帯で、大規模な攻撃は南側からしか無理だった。
織田信長は、大坂の地にあった石山本願寺に石山合戦で苦戦してるし、
秀吉が強化してるのもあるが、大坂冬の陣でも徳川家康が全国から兵を集めても、大坂城を攻めきれなく講和して堀埋めてやっと落としている。
大阪城が本拠地になるのは秀頼以降で、秀吉時代は聚楽第や伏見といった
今日に近い方が本拠地な気がするんだが、間違いかな。
>>495 京都(聚楽第と伏見)と、大坂のダブル本拠地だったんじゃないかな。
政務は京都で、大坂城は非常用の籠城戦用の後詰の城みたいな感じのような。
物資とかは大坂城に集積して
それだと秀次に近江八幡の市街地作りをさせたのが無駄に見えるような気がする。
伏見は大阪と近江八幡によって支えられるはずだった、秀吉が秀次を殺すまでは。
近江、山城、摂津が重要拠点だな。
伏見城は、秀吉の隠居城のはず。
豊臣家の政庁は聚楽弟だったが、秀次事件で破壊され、結果的に伏見城が、豊臣家の政庁になったので、計画的なものではない。
まあ、豊臣が疑似公家政権なので、京都政庁が名目上は本拠地なんだろうね。
秀吉は、最初の段階では、ガチの「大坂への完全遷都」を構想していた。
京都から、天皇皇族&公家政府をまるごと、淀川右岸の天満の一角に移して、内裏を今の大阪天満宮の場所に置く。
大阪平野の自治的経済都市群から商人を引き抜いて、大坂城の南側に集める(現在の上本町。歴史的平野町)。
両者を睥睨する巨大城郭を、石山本願寺跡に建てる(豊臣大坂城)
だが、頓挫したのは、公家の総意による無言のサボタージュだったらしい。
これが頓挫したあとで、聚楽第の本格建設を進めて、京都政権としての地歩を固めていく。
その後の大坂は、「豊臣家の本城」という扱いなんだよなあ。
だが、大坂のポジションが一番微妙なのも事実で、関ヶ原戦における毛利輝元の奇妙な勘違いも、多分ここからきている。
(主家の本城に入れば、自分は主家を守っている正統性を獲得した、と思ってしまった)
ちなみに、近江八幡は、大坂の陣終結以降の「徳川大坂城」ならぬ、「豊臣安土城」と言ってもいい。
存在が大きすぎて完全破却できず、要衝すぎて地政学的に破却すべきでもない、前政権の旧都。
502 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 12:59:35.66
淀君は政治から身を引き、北の政所が秀頼の後見人となって尼将軍になる。
そもそも淀が政治に関わらざるを得なくなったのはそれこそ豊臣再末期だし。
ついでに言えば奥組織が解体していた北政所では復帰しても政治に関わることなど無理
豊臣家には豊臣秀長、豊臣秀次、それなりの人材はいたんだ
秀長は病死にしてもだ、豊臣家結束して次代を担っていくという
ポリシーに欠いたという、秀吉が淀君に振り回されたな
土台楊貴妃が唐を滅ぼしたんだよ、結局ね、傾城とはよく言ったもので
秀次に政権をまわしておけば、少なくとももっと持ったはずなんだ
三成では諸国の戦国大名の統率は無理だ。秀次なら何とかもそっと持たせたはずだ
女はダメだ、自分のガキの事しか頭になかった。それで天下はおさめられねえ
>>504 こんな事をまだ本気で言ってる人がいるんだ。
小説を小説と思う人でないと、歴史をやるのは難しいね。
うっせえ、単にスレのタイトルが「豊臣の天下を続かせる方策」
ってあったから、当たり前の事を言っただけだ。他にねえだろがあ
507 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 01:34:15.00
そもそも戦国武将の正妻が側室の子供といえ育てるしきたり。
秀頼の兄、鶴松は北の政所が育てている。
鶴松が成人していれば関ヶ原のあのような豊臣家臣団の分裂を招かなかった。
かえすがえすも鶴松の早すぎる死は秀吉痛恨の出来ごとでござった。
秀頼も淀君が横やりを入れず、北の政所が育てていればよかったのに・・・
別に横槍じゃねえよ
それに淀殿と京極竜子は、秀吉の生前から正妻と同じ扱いだったことが解っている。
淀殿にいたっては秀吉生前にすでに、公家の日記などには「北の方」とすら呼ばれており、
豊臣家の奥において世間的な権威でも北政所を凌駕していたフシが見受けられる。
秀次を殺した処で豊臣の命運は尽きたんだ
この俺の意見の何処が小説脳なんだよ、アホか
つうか、島津と毛利がまともな働きをしていれば関ヶ原
は勝てたんだ、やっぱ三成のすべては人徳のなさだな
小早川秀秋にしたって朝鮮から帰って何で減封したんだ?
言ってもきりねえけど、ほんとは勝てた戦さを三成が
ふんぞり返っていたせいで負けたんだ
あい
政を知らない百姓が政権とったんだからそら短命だろ
512 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 20:29:07.63
>>507 ねねは秀頼の元服に付き添ったり、秀頼と千姫の婚礼に同席したり
二条城会見で秀頼の後見人を勤めたりと嫡母としての働きをしてたよ
関ヶ原はねねの意思と関わりなかったというのが一般的
(加藤・福島が東軍につく一方、ねねの実甥は西軍につくなど分裂)
>>508 「北の方」は奥方様、程度の意味で正室を表す言葉ではないよ
「源氏物語」で紫の上を北の方と言ってるしね
(源氏の正室は女三宮なので紫の上に使うのはおかしな用例となる)
淀と京極龍子は側室
関白正室の慣例である従一位をねね一人だけが受けていることからもそれは明らか
>>513 北の方などの方角名は正室を表す言葉だぞ。
源氏物語で北の方表記が混乱しているのは、あの時代では未だ「家」が成立していなかったため。
鎌倉後期ごろとされる「家」の成立以降「北の方」などの方角名は正妻のことをいう。
515 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 21:57:12.82
>>514 「北の方」は寝殿造で主人が住む寝殿の北の対に
奥方が住んでいたことからの命名。
鎌倉時代以降、武家は寝殿造などに住んでいないのに、
北の方の用例が変わるなんてことはない。
もともと平安時代の貴族が使ってた言葉だぞ。
516 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 22:01:29.16
>>514 龍子を「北方」と記すものは江戸時代の書物で
秀吉存命中の史料でそう呼んだものはない
>>515 >>516 だから家の成立以降、「向名」ってのは正妻を表す言葉なんだが。
あと向名は別に北の方だけじゃないから、西の方も東の方も南の方もある。
518 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 09:52:37.29
>>517 用例を上げてくれるかな?
豊臣家で北の方、西の方、東の方はそれぞれ誰だったの?
龍子が北の方なら、ねねや茶々、信長五女は何の方?
>>518 君は何もわかってない。家によって正妻を「西の方」「東の方」などと言っていたものもあったということ。
一つの家に東西南北揃ってたわけじゃねーよw
520 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 10:43:28.65
>>519 何もわかっていないのはそっちw
では、正妻を「西の方」「東の方」と言っていた用例をあげて?
521 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 10:46:08.09
>>519 鎌倉時代以降、この呼び名があったというが
鎌倉時代の朝廷では女御になれない典侍クラスの天皇の妾を東の御方、西の御方と言っていた
へえ、あんさあ、東西南北で北の方が上位なの?
源氏物語に春夏秋冬ができてきたよねえ、
春の紫の上がいっちゃん上位だったのかなあ
東西南北の順位付けをおせえて、俺はものを知らないから優しくしてよん〜♪
ついでに陰陽道もさ、四神っているよね、順位ってあんのかな
>>520 「戦国を生きた公家の妻たち」読め。お前の疑問全部でてる
東西南北龍介が行く
525 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 15:09:44.38
>>508 淀殿が「北方」と呼ばれたって何の史料だよw
江戸時代に書かれた書物に「北方」とあるのは京極竜子だろ?
526 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 15:11:52.11
>>523 その本では戦国武将の奥方たちが「南御方」「御南」と呼ばれた例があるだけで
向名(方角を使った呼称)は正室にしか使われなかったとはどこにも書いてないよw
秀吉の長浜時代の側室だか侍女だかに「南御方」がいるし
同時代史料で確認できる竜子の呼称は「松ノ丸殿」だしな
527 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 02:59:25.76
大化の改新(天皇制の始まり)難波京
関ヶ原の采配を島津維新入道に任せておけばよかった
529 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 08:20:35.70
征夷大将軍を兼任すればずっと続いていただろうな
一族普代の有力者がいなくてしかも卑賤の出である豊臣の天下を永続させる可能性など
なかった。
現代でも、淀はその地位があやふやに見える。
正妻なのか、正妻扱いなのか、妾なのか。
ただでさえ家臣が分裂含みなののに、後宮まで分裂していたら、つけ込まれる罠。
>>531 跡取りの母親が正室か側室かというのは関係ないと思うぞ
関ヶ原のときもねねや淀殿がどちらかに肩入れした史料はないし
秀次は姉の子、秀長は継父の子。
秀吉はよくよく一族の男子に恵まれなかったんだね。
>>533 家康も母親が家康一人だけ産んで離縁され再婚したので
弟たちは皆父親が違う異父弟だったんだけどな(父が同じで母が違う異母妹ならいたが)
家康は息子はたくさんいたからだが
加藤清正や福島正則は秀吉の従兄弟だか再従兄弟だからしい
535 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 12:03:18.71
536 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 05:19:26.07
にしても、淀派VS北政所派だの文治派VS武断派だの最初に言い始めたのは誰なんだろうな?
537 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 15:05:50.30
>>530 そんな馬鹿な
秀頼が元服するまで集団指導体制が続いていればよかっただけの話
家康の方が先に死んでたりしたら、また状況は変わる
前田が天下を簒奪してた可能性もあるけどw
>>536 自分が見た中では、最も古いのは明治期の坂口安吾だったけど
多分、少なくとも江戸時代中期までにはそういう図式は出来上がってたんじゃないかな?
「豊臣を滅ぼした悪女淀殿&佞臣石田三成」というテンプレ像と共にね。
坂口安吾は明治じゃなくて昭和だったわw
淀殿が悪女扱いされるようになったのは実は明治から
>>534 家門や譜代がまったくアテにならないのは幕末の事例で明らか
542 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 01:33:22.46
>>541 創業した家康と譜代の関係とそれから250年経った将軍と譜代の関係は密接さや思い入れの差が違うのでは?
密接だからこその良し悪しはまたあるんだけど。
250年の間にあまりにも付き合いに型ができ、型にはまっているより有利となれば型をから外れる選択をする譜代や家門も現れたように思う。
543 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 09:21:34.40
>>541 幕末は徳川慶喜が大政奉還してしまっただろう
慶喜の意見に従えば家門も譜代もそれに応じるしかない
徳川慶喜が新政府軍との徹底抗戦を打ち出して江戸城を枕に切腹する
と言った場合でも家門や譜代が軒並み慶喜を攻めたかという状況ならともかく
幕末の会津や奥羽は慶喜の意見に背いた反逆者だったわけで
544 :
日本@名無史さん:2012/11/24(土) 18:09:28.00
秀長は異父弟ではなく、父親は同じではなかろうか?
仲は弥右衛門存命中に離縁して、日秀、秀吉、秀長、をつれて竹阿弥と再婚したんじゃないかな。
多分竹阿弥の芸術家っぽいとこに仲が惚れちゃったんだと思う。
異父弟説は、離婚なんてしない、あるわけないっていうことから出てる説だと思う。
545 :
日本@名無史さん:2012/11/25(日) 11:50:06.84
>>544 秀吉が義理の父竹阿弥と合わず家を飛び出したことは「太閤記」などで知られるが
秀長は家を飛び出していないことから一般的に竹阿弥の実子と言われてるんじゃないか
これは小説だが司馬遼太郎の太閤記でも竹阿弥が実子の秀長に田畑を譲ろうとしたため
父違いの兄秀吉が家を出ざるを得ない状況になったといったような解釈がなされている
日本:徳川幕府
半島:豊臣王朝
これでOK
547 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 15:35:30.26
私は学者でも何でもないんだけど、秀長も信長に仕えたときに木下を名乗っているし、
実子だと思うんだよなあ。
木下弥右衛門の実子ってことです。日本語おかしいな。すまん。
549 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 17:10:20.06
>>547 竹阿弥には苗字がなかったはず。
先に仕えていた兄秀吉の勧めで同じ苗字を名乗ったとして不思議ではない。
徳川家康の異父弟3人も本来実父の苗字である久松を名乗るところを
父違いの兄家康のもとへ参じて家康の苗字松平を名乗っている。
そういえば秀長は信長に使えていた時代は。秀長を改め長秀にしてるな(信長の諱の問題で)
まず関ヶ原の合戦を起こさないことなんだよな。
戊辰戦争がそうだけど、戦争は体制を非合法的に変革することを可能にするので、発生した時点で終わりですから。
起こさなければ何とか続いた可能性もなくはない。
家の存続だけなら充分に可能だった。徳川家の御家門として
552 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 11:06:51.36
関ヶ原を起こさないというのが条件なら
どのタイミングでもいいから三成がさっさと死ねばおk
>>551 関ヶ原が起きなかった場合、家康は姻戚政策で全国の大名に養女を嫁がせ
同時に臣下の誓紙を執っていき、最終的にはやはり秀頼に対しても臣下の礼を執ること、
領地替え、領地縮小、場合によっては出家隠棲を求めていくことになるが
それに豊臣家が従ったか?
関ヶ原がないと、西軍諸大名の改易、減封が断行できないので、徳川政権が成立しても、かなり弱体で、豊臣に強くは出られなかったのではないかと思う。
遅かれ早かれ家康は武力を使ったでしょう、適当にいちゃもん付けて
家康が秀吉の死の直後から天下取りに動いたことは大名間の私婚からでも明らかだし
武力を使わずに征夷大将軍になれる方法はなかったと思う
逆だ、逆。豊臣家は譜代家臣の武力衝突すら制御できず、徳川家に頼って事態を収拾した時点で統治能力の欠如を露呈した。
家康は豊臣家の内乱の収拾過程で体制を変革していったに過ぎない。
>>556 豊臣家の幼主秀頼は無力で、北政所や淀殿といった秀頼の身内である女性たちは
この時期一切政治に携われなかった。
豊臣家の誰かが家臣の統率がとれないので家康で収束を依頼したわけでもなんでもなく、
秀吉の死と同時に家康が天下取りを高らかに宣言し、
次々と大名と私婚を通じ臣下の誓紙をとらせていくのを豊臣はただ黙ってみてただけ。
ほっといても収まる天下じゃないからな、豊臣がダメならそーなるわな
559 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 20:26:09.19
・秀次を粛清せずに明確に秀次、秀頼と後継者の順番を付ける。
・武断派を政権で優遇する
・代わりに三成達を粛清する
これだけで豊臣家は安泰だったのに逆のことをした秀吉はアホ。
>>558 天下は平和で豊臣がなにか失態をしたから家康が動いたわけじゃない
はじめから家康は武力で天下を取る気だった
前田征討、上杉征討と家康は秀吉の死から関ヶ原が起こるまでに2度も軍事行動を起こし
征夷大将軍就任に邪魔な大名を一つずつ潰していくつもりだった
>>557>>560 秀吉没後に家康が「天下取りを高らかに宣言した」と言うならその証拠を見せてみろよ。
天下取り宣言=反逆宣言であって家康にとっては自滅行為以外の何物でもないわけだが。
朝鮮出兵に失敗したあげくお家騒動が天下の内乱に発展し、そこに豊家のお墨付きを二重に出すと言うグダグダぶりで自滅したのが原因だろ
>>561 上杉征討や前田征討は天下取りのためでしょう。
何のために軍隊動かしたと思ってるの?
上杉や前田が主君豊臣秀頼の命を狙ったとでも?
566 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 08:50:51.61
>>559でFAでしょ。
唐入りがあろうと無かろうと秀吉の人事がマトモならあんなことにはなってない。
567 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 09:39:41.15
>>566 秀吉が秀次跡取りのまま行ったとしても死後、秀頼を担いで戦になってた気はする。
応仁の乱もそうだが、甥や弟を後継者にした後実子が生まれた場合、
必ずうまくいってないよね。
天皇家でも皇太子に定められていた弟早良親王を粛清して実子を皇太子にした桓武天皇、
弟大海人皇子が吉野へ逃れて実子を後継者に据えた天智天皇の例がある。
勿論考え方が重要ですよ!?♪。
>>569 太閤検地など秀吉の文治政策には三成が欠かせなかっただろ
三成を粛清するって…
だいたい、室町幕府でも幕政に参加できる管領や四職はすべて足利一門、
江戸幕府でも幕政に参加できる大老や老中はすべて譜代だったのに
秀吉は外様の徳川家康を大老筆頭にしたのが間違いなんだよ
文治派だけでなく武断派ももっと優遇すべきだったというのならその通りかも
573 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 21:49:39.08
側室をたくさん持って子供をたくさん作ればよかった
574 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:27:18.57
>>572 遠い親族らしい加藤清正や福島正則は
秀吉が下っ端の頃から秀吉の家に厄介になってた連中で譜代みたいなもんだろ
>>573 側室をたくさん持ってもできなかったんだろ
秀吉種無し説がでるほどなんだから
側室は沢山いたんだが、妊娠したのは淀だけ。
家康みたいに、側室に後家などの経産婦を揃えれば、少しは違ったかも(種があればだが)。
576 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 01:25:39.72
巨費を投じて大阪城を作ったのに聚楽第、指月山伏見城、木幡山伏見城、
京都新城、名護屋城と豪壮な城を矢継ぎ早に作りまくった意味が解からない。
おさるの世界におけるマウンティングみたいなもんかな
>>576 簡単に言うと大阪城は大名としての豊臣家の居城にすぎない。
天下の政庁は聚楽第→新旧伏見城。
伏見が天下政治の政庁という慣習は豊臣時代どころか、徳川家光の時代まであったとされる。
名護屋城は大陸出兵の本営。九州征伐の時には既に建設準備が始まっている。
>>578 > 伏見が天下政治の政庁という慣習は豊臣時代どころか、徳川家光の時代まであったとされる。
それは興味深い。
是非参考文献をお願いします。
>>579 徳川将軍は家光まで、将軍宣下式を上洛した上で伏見城で行なっており、また福島正則改易など、重要政策の
発表も伏見で発表していた。
このような政庁機能が江戸に完全に移ったのは家光後期からとされる。
この辺りはもう定説といっていいから、各出版社の通史系の本の、江戸初期の物には必ず出てくると思うよ?
>>575 秀吉が晩年淀殿とともに寵愛した京極竜子は前夫があり経産婦なんだが
秀吉との間に子は産んでいない。
他、宇喜多秀家母にも秀吉側室説があるがやはり秀吉の子は産んでいない。
秀吉の側室だった摩阿姫(前田利家三女)や織田信長六女が公家と再婚して子を産んでいるので
秀吉の大勢いる側室たちが淀殿以外全員不妊だったとは考え難い。
582 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 09:29:09.86
>>574 だからこそその2人は譜代として政治の中枢に関わらせるべきだった
>>582 人には、向き不向きがあるからな。文武両道が望ましいが、そういう奴ばかりではない。
徳川でも、関ヶ原後は武断派は、遠ざけられてる。
加藤はともかく、福島に行政手腕なんかあったか?
福島はむしろ戦場での働きより奉行としての働きのが多いくらい
585 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 02:49:26.97
正直、市松や虎之助だと
何だかんだで取次先の大名とは上手くやってた三成より
いろんなトラブルを起こしそうな予感しかしないのは
きっと司馬遼太郎によるキャラ付けのせいだと思いたい。
まあ政権内で重用されなかったということがすべてを物語ってるわな
>>578 理屈はそうなんだろうけど、どれも豪華にしすぎじゃないって気がして。
豪壮華麗にするのは豊臣家の京都本邸と太閤の居城の二つで十分でしょ。
名護屋城とかもっと簡素でいいじゃない。本人も渡海するつもりなんだし。
それに関白豊臣家の本邸ということでの聚楽第と京都新城はわかるが、
伏見城は別に作らなくてもって気が。大坂城だって京都から近いんだし、
太閤の居城とするのに何の不都合もないと思うし。聚楽第にしたって何も
取り壊して京都新城を作り直さなくても。中身の一部を伏見城に移築する
ぐらいなら壊すのにこだわらなくてもいいじゃん。
588 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 15:15:44.86
>>587 普請にして大名に金使わせて需要喚起で商人ウマー(°Д°)ウマー
大陸進出するにも交易ルートや矢銭・情報やら商人に頼る部分が大きいから、利食いさせ恩を与えておく意味もあったかと。
589 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 15:47:50.23
秀頼千姫夫妻に息子娘ができて
秀頼千姫夫妻が家光より長生きして
千姫が徳川宗家に一定の影響力があったなら
家光死後、家綱に娘を嫁がせ
豊臣宗家=将軍家外戚として京から影響力を行使出来たかも知れん
>>585 でも朝鮮での欺瞞外交と讒言コンボを考えるとどこかで三成を失脚させるべきだったと思う
千姫って、頭がいかれた淫乱女なわけで、
そんなこと期待されてもなぁって感じです。
>>589 千姫に秀頼の男子がありそれが秀忠の外孫だったとしても家康が斬っただろう
豊臣家の嫡男を生かしておくほど家康も馬鹿じゃない
秀頼の子8歳の国松は家康によって処刑されているし
女子の奈阿姫すら許されず尼にされた
千姫は、かなり聡明で家光に信頼されていた。
家光に頼まれて4代将軍綱重を養育している。
また、秀頼と側室の間の娘を養女にして助命し、この娘が東慶寺に入って天秀尼となった。
秀頼、再婚相手の本田忠刻と死別し、男運は悪かったけど、かなりの人物だよ。
594 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 08:14:28.41
秀吉はそのワンマンさから、政権の統治機構を整えなかった。
最後までトップダウン型の中小企業運営をみたいな運営をしたため
死後は政権が続かなかった。
家康もワンマンだったし、江戸幕府の官僚機構が整備されてきたのは家康後だけどね。
秀忠は、軍事は駄目だったが、政治の才はあった。
あと、家康はワンマンだたが、人の話、家臣の意見は良く聞いたし、意見する家臣を大切にした。
596 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 11:37:14.78
>>588 そうは言ってもさ。諸大名に金を使わせるなら渡海遠征だけでも
重すぎるぐらいじゃない。商人達にしてもそれに伴う軍需だけでも
十分な恩でしょ。それに征明の暁には秀吉は寧波に居城を置き、
北京の天皇と関白、京都の天皇と関白の両方を統括するつもり
だったんだし、豪壮な居城は寧波でいいじゃない。適わぬ夢では
あるけど。一応、それを目標に掲げてはいたんだし。九州を統括
する予定の小早川秀秋の居城にするにしろ、秀吉自身の渡海や
天皇の北京渡航と天子即位が適わないうちに豪華な城作りって
どうよ。
>>587 時間軸を追っていくと、それが秀吉の苦悩の跡だということがわかる。
まず、秀吉は「大坂を単一の新首都とする政権」を構想した。この核がいうまでもなく大坂城。
でも、皇室公家の反対で挫折する。旧勢力に、京都を出ることへの恐怖感がある。
そこで、仕方なく「京都洛中」に聚楽第を建て、中央政権政庁を宣言し、秀次を首班に据える。
だが秀次事件となり、聚楽第はまるごと空き家になる。
聚楽第に乗り込むわけにもいかず、再び政庁機能を大坂に集約することも難しい。
そこで京都のすぐ外れの交通の要衝に、伏見城(初代)と城下町を建設して、
ようやく「武家の都」としての一つの完成形を作る。
不思議な事に、家康は大坂には屋敷を作らなかったが、伏見には城下に屋敷を作ってくれた。
初代伏見城は慶長直下型地震で壊滅し、二代目が作られる。
なんつうか、その場その場の政策判断だよ。ものすごく分かりやすい。
>>593 千姫が聡明でも国松は助命されなかったからな。
千姫に男子がいても助命は無理だろう。
千姫は一男一女を産んだが男子は夭折、女子も嫁いでしまい江戸で寂しく暮らしていた。
家光が綱重を千姫に託したのは不遇な姉に対する厚情もあったんだろう。
家光は弟忠長は誅殺したものの、姉妹はかなり厚遇しており
(妹和子の願いで後水尾天皇のいくつかの離宮づくりに多額の負担金を出している)
異母弟の保科正之も登用するなど割と身内思い。
>>598 千姫が秀頼の子を産めば、大阪の役に至らないのではないか?
徳川の血筋の後継者がいれば、適当な時期、例えば淀殿の死去後
秀頼が息子に本丸以外の堀を埋め立てた大阪城を譲り、京都の豊国
社周辺に御殿でも作って千姫とともに楽隠居すれば良い。
千姫との間の息子には、家光の娘の千代姫を嫁がせて徳川の血を
濃くしていけば、御三家とは別格の徳川系豊臣氏として存続できた
可能性もある。
千はどのタイミングで淫乱になったんだろう?
秀頼に開発されたんだろうか?
大坂の陣を経験して、現世の快楽に身を任すのが一番と悟ったのか?
後世の創作
>>599 大坂城の外堀が埋められたのは大坂冬の陣の結果だよ?
一戦交えずして豊臣方が堀を埋めるわけがないじゃん。
秀頼は早く降伏して徳川家の臣下になりたがっていたのに、
淀殿が断固阻止したと信じているみたいだが、秀頼こそが好戦派だったという説もある。
秀頼の大叔父織田信長など14歳で家督を継いで戦地を駆け回っていたのに
秀頼は25歳になっても赤子のように母親の言いなりになっていたと信じてるのか?
秀頼は、公家としての教育を受けたせいか、陣頭に立たなかったからな。
戦争するならするで、大将らしくすべきだろう。
>>603 > 秀頼は、公家としての教育を受けたせいか
とんでもない。秀頼は、室町9代将軍足利義尚が学んだ政治学の書『樵談治要』をテキストとして
講義を受けていたり、むしろ濃厚に「武家の棟梁」として育てられている。
公家として育てられたなんてのは後世の創作。特に司馬遼太郎あたりの。
まともに政治学を学んだのであれば、豊臣の生き残る道は、豊臣政権下の織田家のようになるしかないことぐらい分かりそうだが。
それと、政治学は、武家の棟梁として必須ではあるが、それだけでは足りないだろう。
太平の世ではないのだから、兵法も学び、いざというときには指揮もとれなければだめだろう。
>>605 死んででも名誉を守るというのも一つの生き方だろう。
命が何よりも一番大事だから、長いものに巻かれてでも命と家は守った
織田信雄や徳川慶喜が後世、本当に優秀だったと評価されるわけでなし。
607 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 17:44:43.32
信長も秀吉も兵法なんて学んでないだろ
あんなの知らなくても戦争には勝てる
織田信長はあれで嫡男なのですが。
老臣が付いていた記録もあります。
知識や教養は当時の支配層と比較しても十分あったと思われます。
秀吉は正式に学んではいないかもしれませんが
彼らに伍する実力があったからトップに躍り出たわけです。
しかも最初に活動記録として見えるのは斎藤氏攻略戦における木曽川周辺諸城の調略であり、
城主と渡り合える知識は初期からあったことになります。
そして家康の教育は、実際は今川時代が中心だったのではないかと思います。
>>608 秀吉は、若いときは諸国を放浪して、社会経験を積んだし、武家奉公の経験もある。要するに叩き上げで能力を身に付けた。
秀頼は、城中奥深くで育ており、経験を積む機械はなかった。座学で兵法を学ぶ以外にない。
家康も、少年時代は、兵法を座学で習う以外にはなかったはず。でもそれができてたから、初陣や桶狭間でなんとかなった。
ちなみに、雪斎や大村益次郎は、座学だけで兵法をマスターした天才。
610 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 01:13:59.73
>>609 座学で身に付けられる脳ミソ持ってる人もいれば、体験や耳学問で少しずつ身に付けられる人もいるだろうな。
まあ、20そこそこではそのどちらも難しかっただろうけど。
江戸に屋敷をもらって移住、江戸定府になり、幕府派遣の付家老に藩政を委ねれば、御三家並みの家格で存続できたかもしれない。
さらに、大和郡山に転封すれば、安泰かも。
>>609 家康は初陣の桶狭間でどうにもなってないだろ…
敗走して逃げまどい、本来菩提寺で切腹するところだったんだから
その後思い直して主君今川義元を討った敵将織田信長の配下に下って
命を長らえるんだが
家康の初陣は、寺部城攻め、桶狭間のときは、別動隊で大高城に兵糧を入れたり、鳴海で佐久間盛重を撃ち取ったりして戦果をあげている。
桶狭間で義元が討たれたとの情報を手に入れ、岡崎まで無事に敵地から撤退している。
かなりの能力が必要だが。
>>613 大高城は今川に内通していたという説が有力。
今川配下の武将の一人であった家康が織田方に気づかれることなく
敵の城に無傷で一戦も交えず兵糧を運ぶなど不可能。
あと、桶狭間は圧倒的優位にあった今川義元を、
小大名織田信長が破ったから有名なのであって、
織田方武将佐久間盛重が率いた兵は400人であったのに対して
それを攻めた松平元康(徳川家康)が今川からつけられた兵は
1000人であったと記録されている。
>>614 > 大高城は今川に内通していたという説が有力。
いや、有力も何も今川方の大高城に織田の包囲を突破して兵糧を入れたわけで…
>>615 大高城じゃないわ。砦の一つね。
徳川家康が織田方の守る3つの砦のいずれかを突破して兵糧を入れたが
まったく無傷、一戦も交えなかったという。
砦の一つが今川方によって事前に攻略されていたとしか考えようがない。
じゃ君はここで終了ということで
>>608>>609 すでに中身は指摘されていんだけど、秀吉に致命的に欠けていたのは、
実戦で身につけられる実務的な知識やスキルではなく、
当座は何の役に立つか分からんような、ある種の政治的・歴史的教養だったんじゃなかったのかなあと思う。
秀吉にはもちろん自覚はあったんだろうけど、上洛して京都で文化人に教えを請うても、
表向き出てくるのは、作法の式次第やらお茶の心得やら、歌道やら文学知識やらで、
本当に必要なものは、豊臣家では誰も理解していなかったっぽいね。
本当に致命的だったのは2点ある。本当の問題点は明帝国に戦争を仕掛けたことではない。
一つは、既出だが、相模国の地理的なカリスマを理解できず、家康に丸投げしたこと。
もう一つは、室町期に確立した「公武の線引の常識」を、最後まで理解できなかったこと。
これが公家に恨まれる決定打で、実際に後遺症がひどく、17世紀前半まで官位体系は大混乱する。
>>618 家康は、分かってたろうね。
秀吉死亡時に、内大臣家康が唯一の大臣とか。
公家諸法度で武家の官位を公家と分離してるし。
豊臣政権の武家関白は、武家が朝廷を乗っ取る公家一統政権だしな。
清盛は、太政大臣になったものの摂関にはなれなかたが、秀吉は関白になり、五摂家を排除して関白職の独占を図り、朝廷を公家から乗っ取ろうとし、武家が高位高官を占めた。
公家は、割りを食って、昇進が滞ったからたまったものではない。
その割に、後陽成天皇は豊臣びいき。
秀吉の聚楽第には2度も行幸する一方、家康を毛嫌いしており、
長年秀忠が秀頼の官位を超えることを拒絶していた。
家康が天皇家徳川家融合の柱として孫娘の和子を後水尾天皇にねじ込むことを何度も
後陽成天皇に強要し、晩年ようやく認められたものの宮中では非難殺到だったしな。
秀吉は、正親町帝の仙洞御所を造営したり、後陽成帝の即位費用出したりしてるから、帝としては、満足してるだろう。
問題は、摂関家等の公家衆だろうね。
>>622 しかし、家康時代の禁裏御料はわずか1万石。公家たちはいわずもがな。
秀吉時代には関白就任時や大名たちの叙位のたびに朝廷にも公家たちにも
大量の金銭が流れただろうから公家が家康可、秀吉不可としたかは疑問。
秀吉は後陽成天皇に中宮をたてたもののむろん秀吉に子はいないため近衛家の息女を
養女としただけのものだったが、家康は実の男系孫を後水尾天皇に入れている。
中宮を出すのは公家摂家の役割であったし、徳川出身の天皇が出る可能性があっただけに
公家が家康大歓迎だったはずもない。
>>623 禁裏御料は家康の時代になってから増えてるんですけど
家康が、2年で将軍を秀忠に譲ったんで、朝廷、公家は、臨時収入が続いてかなり潤った。
それ目当てで動いた公家もいた。
>>624 減ってるぞ。
室町幕府以前は天皇の直轄領があり、天皇は直接租税を取り立てることができた
しかし、家康以降幕末まで、天皇も公家も直轄領を持つことを許されず、
徳川家からの施しに頼ることになった。
>>626 室町幕府以前から徳川幕府に時代が飛ぶのか…
頭おかしいんじゃないかお前
>>626 近衛家は、伊丹を直轄領とし、酒造業を保護すると共に銘酒を上納させていたような。
>>627 室町幕府でも天領があったから「以前」は余計だな。
630 :
629:2012/12/17(月) 18:15:16.34
>>627 ん?と思ったが、626は合ってるじゃないか。
室町幕府「以前」ということは室町幕府も含まれる。
頭がおかしいのは627だった。
農民の反乱を押さえるための刀狩り。大仏修理か何かの
名目で執り行われたらしいが。結局太閤統治時代に
大きな一揆はあったの?
太閤になる前の統治時代には東北とか越後であった気がする
一揆をして群県が占拠されたという史実について知らない
が殆ど鎮圧されるのだが。秀吉は足軽になる前百姓であり
その戦闘力について打撃を知っておったのじゃ
634 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 11:29:40.17
将軍でなくて関白になったのが間違いだった。
将軍なら幼い者も問題なく就任できるが、関白はその職務の性質上、
幼い者は就任できない。
だから秀次から秀頼に早急に譲位させたくても出来ずに、その結果
秀次事件を引き起こして家臣の心が豊臣から離れてしまった。
君間違っとるで
近衛基通は7歳で関白になってるわな
637 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 00:09:08.22
譲位の使い方も間違っているよなあ。
皇位とは違い、官職は例え、自分の子孫に伝えるとしても
天皇に任命や補任されるものだから、正式には辞職と言う
手続きがあり、「譲位」と言う言葉を皇位継承以外で使うのは
不適切。
宇喜多秀家、支離滅裂
大阪城はアクセスしやすいから陥落したはず。奈良のよう
な険阻な場所に本拠を構えれば良いはずしかし当時の石高
がわからない。27万石ぐらいか?
640 :
日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:20:57.41
44万石くらいじゃなかったか
豊臣の天下を続かせるには淀と大野を処刑すること
あの連中は秀頼を世継ぎにしたいがゆえに秀吉に讒言して秀次を処刑させた
それか55歳で秀吉がとっとと死ぬこと
どう考えても秀次>秀頼で歴史は変わっていた
55歳以後の秀吉は完全に老害で豊臣滅亡への布石を打っただけだった
秀次を処刑したことが最大の過ち。
歳とるとこうなる人多くて駄目だね。
秀次で体制が安定したら伏見城に呼んだ家康を乱心狼藉等の適当な理由をつけて手討ち。
家康を欠かせた後に反乱を起こす徳川を鎮圧して取り潰し、関東の半分を豊臣直轄、
残り半分に子飼いの将を配して太平の世。
色々抜けとるで
>>641 秀次で体制安定したら秀頼の天下は無くなる。
徳川が秀頼を担いだ場合、というか徳川を頼るのが目に見えている。
>>641 秀次政権でも家康討ったらその時点で詰み
実際問題天下人である根拠を関白に求めている時点で豊臣政権は詰み
幕府が安定する理由ってぶっちゃけ大将軍職が朝廷にとってあげても儀礼的には痛くもかゆくもない職だからだし
大きな話は、逆に出尽くしている感があるね。
ここは、小さな話として、
「上杉景勝を、会津若松に転封『させなければ』良かった」
というのはどうよ?
別に、旧蒲生領を上杉に与えても良いのだが、上杉を越後から引き離す必要は、実はなかった。
さすがに上越からは引き離すにしても、
上杉領が、「中下越+会津+仙道」まで盛って、はじめて、
関東の家康と、十分に対抗できる地力を確保できるように思われる。
上杉征伐は、家康が、公称120万石?の景勝の、地力の弱さの足許を見て、
ハル・ノートまがいの恫喝をしている。これは、1595年には、一つの可能性として予測できたはずだ。
会津は、神話の昔から、関西の中央政権が、東北の押さえとして特に重要視した土地であるが、
畿内政権は、いつも会津地方を過大評価するように思われる。
関東への押さえとしては、会津は生産力もあまり大きくなく、軍事優位に立つための機動性の確保も難しい。
>>646 それ大将軍じゃなくて大将じゃないですかやーだー
>>647 庄内領も上杉領だから、越後+会津+庄内米沢だとデカくなりすぎる。
200万石近くなるよ。旧領を安堵した上にそんな大封を与える理由がない
関東の抑えじゃなくて東北の要だな、会津は
651 :
金吾秀秋:2013/06/28(金) 02:01:41.18
漏れ様が会津に入ってやればよかったんだがなぁ(´・ω・`)
>>649 大封与えすぎて豊臣家続いても
不安定な政権になりそうだな
そもそも成立した当初から秀吉のカリスマだけで保ってた不安定政権なんだが
室町幕府みたいなもんか
家康いなかったとしても前田氏あたりが管領細川氏みたいになったりして
655 :
日本@名無史さん:2013/06/28(金) 09:51:16.09
今川義元の母寿桂尼が夫没後幼い当主を支えて
実質今川家を率いていたのと同様に
秀吉も北政所か淀殿に全権を委譲していればよかった。
同様の事は、毛利元就が幼少で家督を継ぎ、
その継母杉大方が実権を握って元就を守った例もある。
外様の家康などに全権を渡す秀吉が馬鹿だろう。
家康にとって秀頼など殺すのに何の躊躇もいらない輩なのに。
毛利元就が家督を継いだのは27歳のときで、
杉大方が幼い時代の元就を保護していたことはあっても、
家中の実権を握ったことはないと思うが。
室町幕府はカリスマさえ無かったじゃん
なんでや
尊氏や義満はカリスマやろ
義教もある意味
豊臣政権に比べれば室町幕府のほうが未だ仕組みと制度と法律が整っていた分ぶん上だな
尊氏=秀吉
直義=秀長として
秀長は一貫して兄のよき補佐官だったけど
観応の乱がなければ
南北朝のgdgdの混乱も緩やかに解消してたはず
661 :
日本@名無史さん:2013/06/30(日) 23:56:12.72
室町時代てさ
義満とか義教が必死こいて諸侯弱めたり中央集権化してたのに
なんであんなに不安定なの
鎌倉幕府に比べればずっと安定していたことを忘れてはいかん。
世界的に見ても稀有な安定性を作り上げた江戸幕府と比べてもいかん
663 :
日本@名無史さん:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN
歴史古い順
上町台地(大阪市)
住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市)
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成25年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市)(物流の一大拠点)商人が増えだす 商業都市として栄える(大阪市)
石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)商工業が更に発展
奈良
京都
江戸
664 :
日本@名無史さん:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN
江戸城をつくったのは大阪の摂津源氏
徳川征夷大将軍は大阪の河内源氏 征夷大将軍は源氏にしかなれない
江戸時代 梅田 中之島 難波周辺が出来る
665 :
日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN
石田三成みたいなゴミがのさばったのが悪い
666 :
日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN
豊臣政権の運営には必要不可欠だったろ>三成
家康なんかたいして学はないのだし
そもそも三成に学があったという証拠はない。
おそらく家康のほうが高度な教育を受けている
それなりの武家の家に生まれていれば幼少期にきちんと教育を受けるだろ
家康は駿府時代かなり勉強したはず
官僚としてはかなり優秀だろ>三成
学がないのに統一政権を切り盛りできたら逆にその方が化物
豊臣崩壊は毛利輝元はじめとする毛利一族がカスすぎたのと
福島加藤池田浅野藤堂前田ら馬鹿な武功派連中が余りにもふがいなく家康の犬と化したからであって
三成はむしろ豊臣のために全力の限りを尽くした忠臣
毛利がカスじゃないと豊臣の天下が来ねぇじゃん
武力で天下を取った武将の政権運営能力や統治機構を作る能力の差が出たんだろう
家康 > 頼朝 > 尊氏 > 清盛 > 秀吉
>>669 三成は優秀だけど学問が在った感じはないな。
どちらかと言えば叩き上げの印象が強い。
彼の行った検地などもとりあえず形だけ見せればいいというような大雑把で形式的なもので、
精緻さや正確さは全くものめられていない。
674 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
>>672 その中で家康が一番優れてるのは同意するが
幕府が安定したの秀忠の功績も大きいだろう
西軍の蜂起を計画したのが三成だったら忠臣でもなんでもないだろ
あんなんどっちが勝っても豊臣の天下が崩壊するのは確定じゃん
676 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
677 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
豊臣政権をぶち壊したのは福島加藤池田藤堂ら武功派連中と毛利馬鹿元であって
三成じゃない
三成はむしろ豊臣家のために蔵入り地を確保しようと頑張ったり家康の暴走を抑えようと必死だっただけ
678 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
確かにそれはいえてるね
家康は生前の盟約破って私婚すすめまくったり島津の領内問題に介入して恩売りつつちゃっかり
豊臣蔵入り地を減らそうとしたり前田や浅野にいちゃもんつけて攻め込むそぶりみせて降伏させたり
家康への糾弾を武功派連中を使って実力で排除したり好き勝手やりまくってたもんな
家康の横暴に異を唱えて豊臣を守ろうと懸命に努力したが
欲に目のくらんだ武功派諸侯が家康に篭絡され、総大将のアホ毛利がクズすぎて滅んだのが豊臣家。
三成は秀吉生前の大儀や盟約に基づいて賢明に豊臣の体制を守ろうと努力してただけ。西軍諸侯は畿内方面だけで18万も集まったが
これは三成の懸命な努力の結果だろ
679 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
毛利は総勢45000くらいの戦局決定できるのに十分すぎる兵力と
西軍総大将であり畿内方面だけで18万もいる絶好の条件で三成ら奉行衆の要請や作戦無視しまくったあげく大敗。
輝元以外の武将が西軍総大将ならまず間違いなく勝てたのが西軍。
8月上旬の三成書状ごとく三河方面に先手を打って侵攻するもよし。
美濃口に来た所を木曽川筋の防衛ライン利用して伊勢方面と美濃方面から一挙になだれ込むもよし。
押し込まれた関が原本戦でも秀元小早川吉川の総動員で負けるはずもない布陣を三成がお膳立てしたから
三方面から徳川軍を大破するもよし。
まず負けるはずもない兵力・国力・総大将の肩書き・状況で常人ではありえない戦略をとることでまずありえない敗戦を
実際にやらかしたのが輝元。
680 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
歴史古い順
上町台地(大阪市)
住吉大社(大阪市)神功皇后(応神天皇の母)創建
日本仏教初の官寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市)
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成25年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市)(物流の一大拠点)商人が増えだす 商業都市として栄える(大阪市)
石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)商工業が更に発展
奈良
京都
秀吉が織田家に対してやったことを今度は家康が豊臣家に対してやると考えなかったのかな?
状況が全く違うがな
天下取りなんだからななんでもありだろ
俺も大阪で秀吉びいきだけど天下取りに家康が動いた以上誓紙もなんもあったもんじゃないだろ
秀頼本当に生かしたいだけなら
天下捨てて家康か秀次に禅譲する
>>684 それでも秀頼に心を寄せる者がいれば一応念のために殺しておくだろw
大坂城があったせいで秀頼は強硬姿勢を辞めず殺されたと言われる一方で
早期に大坂城を放棄して家康の言うとおり小封の大名に転身したところで
生かすも殺すも家康次第
家康は秀頼・淀殿にとどまらず幼児の国松も殺し豊臣宗家を根絶やしにしているから
秀頼の死が早まっただけかもしれん
まあ、その通りだろ、唯一豊臣家が残れた可能性は北の政所様の元、公家に成るしかなかっただろ
それでも寿命が尽きる家康に殺されたと思う
坊さんになればよかったんじゃね
秀吉は諸侯や家臣に優遇しすぎた
明の洪武帝みたいに徹底的に排除するべきだった
秀吉の場合はそもそも敵対者の対立を利用して得た同盟みたいな天下だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる
それは確かにいえてるね
秀吉の場合敵対勢力の分裂や内訌・離反・漁夫の利を得ただけの100%棚ボタ政権だからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
693 :
金吾秀秋:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
むずかしい文章だな(´・ω・`)
694 :
日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
豊臣家臣時代、家康は徹底的に臣従し、関東移封も受け入れた。しかし、逆の立場になった時、秀頼は移封を受け入れられなかった。それが、家康が生き残り秀頼が生き残れなかった原因と考え、もし、移封を受け入れていれば生き残れたと思える。
今は大阪城引き渡せば豊臣をどうこうするつもりなんか無かった、という考え方のほうが主流だな
696 :
日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
1は秀吉が死んだ処を起点としている訳ね。なら話は簡単だ。
自分が大阪城から出て石田三成の言うとおりにやって西軍の将たる
関ヶ原に立つ、それだけで絶対に勝てたんだ。大阪城を落とされたときの
無様なあり様は末代での笑いもので。
697 :
日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
秀吉は本気で自分の死後を考えていたのか怪しい
俺が死んだら、後はもうどうでもいいや感が見える
家康は何が何でも、生きてる間に絶対的な超長続きする政権を打ち立ててやる!って
執念が丸出しだけど
まあ、実子もないのに必死に強固な政権つくるより、
天下とってから死ぬまでを面白おかしくふんぞり返っていきたいと思っても仕方がない
それが晩年になって、嘘だろうがなんだろうが嫡子ができてあわててあんなことに
698 :
日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
実子はちゃんといるじゃん
鶴松、石松丸、秀頼
淀殿が出しゃばらなければ
秀頼は成人して
家康は勝手に死んだから
そのあとはまた乱世だっ太郎
700 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 13:14:45.22
>>698 石松丸→秀吉の実子だと記す記録なし。幼形のまま死んだらしい
鶴松→幼児で死亡
晩年の秀頼のことは697も言ってるだろ
>>699 織田信長など14歳で家督を継いで合戦三昧だったのに
23歳の秀頼が阿呆だったので淀殿が政務代行説を言う奴がまだいるのかw
701 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:27:07.40
はいはい馬鹿の極地だなお前。
秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか
さすが在日w
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
702 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:28:33.88
>>700 >>石松丸→秀吉の実子だと記す記録なし
竹生島奉加帳にちゃんと記されてる
>>幼形のまま死んだらしい
それこそソースなし。
703 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:30:00.82
陰徳太平記は正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
704 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:31:55.02
秀吉の晩年はただの呆け老人だろ
705 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:33:52.15
>>702 「竹生島奉加帳」読んだことないだろ。
どこにも秀吉の子だなんて書いてない。
幼形のまま死んだは妙法寺の寺伝。
石松丸なる男児が成人するまで生きていたというのは
何の史料に載ってるの?
706 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:34:50.81
千利休の娘の話なんて完全に妄想話じゃん。
古田織部の息子九郎八から長宗我部の旧臣だった十市縫殿助が聞いた話を纏めて
1653年に十市縫殿助物語という物語を作ったとか信憑性ないだろw
秀吉が鷹狩りで山を歩いていたら偶然に30歳ババア利休の娘を見かけるとかありえなぇだろw
秀吉を悪人として描いていて明らかに中立性を欠いた妄想話。
>>705 >>「竹生島奉加帳」読んだことないだろ。
>>どこにも秀吉の子だなんて書いてない。
キッチリ書いてあります。
>>幼形のまま死んだは妙法寺の寺伝
そんな事全く書いてありません。
708 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:36:18.13
>>700 >秀吉が種なしとするデッチ上げからくる妄想話を持ち出すとか
お前は秀吉の精子を入手してDNA鑑定済なのか?
>そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから
誰もそんな話題してないのにどれほどの文盲なのか
709 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:38:47.87
>>707 >キッチリ書いてあります
引用してみよう。
>そんな事全く書いてありません
寺のホームページをまずググろう。
710 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:39:23.98
>>708 秀吉が種なし→根拠なしの妄想
秀吉が種あり→常識的な見解かつ現実的(子供が三人もいる)
711 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:40:04.65
>>708 DNA鑑定とかいうまでもないんだよ馬鹿
そんなトンデモ話一部のアホ学者しか唱えてないから。
712 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:40:24.52
>>708 お前戦国板の家康スレ秀吉スレでも同じ妄想垂れ流しては論破されまくってた馬鹿だな
714 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:42:48.88
>>710 >>711 なんだ、証明できないんじゃん。
崇徳天皇は鳥羽天皇の子で間違いないんだね。
それを常識的な見解かつ現実的というんだ。
715 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:44:25.92
>>713 お前が戦国板で暴れていた誰だかわかったよ
こっちのスレまで荒らしに来るな
戦国板も覗いだことあるけど、秀頼の父親は複数説がある
ということでまとまっていたよ
>>715 まとまったってどこが?スレ内部のレス番引用してくれ。
>>714 まずそんなトンデモ話出すならちゃんとした論拠をそっちが提示する必要があるってだけ。
種あり→普通の人間
種なし→異常体質
なので、子供が三人もいる秀吉が種なしならそっちの証明が不可欠
>>崇徳天皇は鳥羽天皇の子で間違いないんだね
全く関係ない話出して論点ずらし乙
>>戦国板も覗いだことあるけど、秀頼の父親は複数説がある
>>ということでまとまっていたよ
どのスレのどのレスでまとまってたのか書いてみろよアホ
718 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:50:01.12
>>716 2ちゃんねる内「秀頼」でググれ
戦国板で出尽くした話題なのにこっちでやるなよ
文句あるなら戦国板の秀頼スレでやれ
同時代史料も豊富に出てるし論拠あり
719 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:50:57.36
>>717 ほう、史料読んだこともないのにかw
まずは戦国板にいって1番から順番にロムってからにしろ
720 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:53:40.36
>>718 ググレとかじゃなく普通にスレタイで指定してくれ。ちなみに家康スレや秀吉スレでは
お前のような妄想を垂れ流す馬鹿が一人沸いたが、あっという間に論破されて逃げ差ってはまた別のスレで妄想垂れ流すまさにお前みたいな馬鹿が沸いてた。
>>719 史料読んだ事ねーのお前だろバーカ
妙法寺の寺伝に幼形のまま死んだなんて書いてねーよアホが
で、
石松丸が秀吉の実子だと「竹生島奉加帳」にちゃんと書いてあると
嘘書いてた
>>702は引用できずに逃亡したの?
722 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:55:43.98
723 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 22:58:12.85
724 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 23:00:27.44
725 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 23:04:55.38
726 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 02:17:52.82
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
727 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 17:46:15.97
ぐたいてきに、どうたたえればよいのか、教えて。
728 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 20:17:23.56
老後の趣味で中世城郭模型を製作しています。
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
何れみなさんにお見せできる機会があると思います。
http://mirai660.net/castle/
信雄降伏後に徳川を滅ぼしてればよかったんだよ
徳川を潰す口実はいくらでも作れたのに
それをしなかった秀吉が一番悪い
730 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 04:17:34.71
上杉に200万石、佐竹に100万石与え、伊達潰しときゃ少しは違ったかな?
武断派が豊臣の藩屏として全く機能しなかったのが致命的欠陥になった。
武功時代から能吏奉行時代への移行期に幼君秀頼を残し秀吉が死んでしまった為に、
豊臣統御システムが機能しなくなった。
信長は家臣同士が親しく交際することを禁止し、
ただ信長の信頼を武功で繋ぎとめ続けるだけの孤立した家臣たちと言う状況が織田家への忠誠心を生まなかった。
秀吉は逆をやってみた結果、人の和を信じ藩屏を作りまくり、
最終的に利家や家康を信じ託す結果を生む。
しかし秀吉の面前では体面を気にした武断派などは仲が良いように見えても、
水面下では仲違いをしていた。
秀吉は武断派を仲良く徒党を組んで抗議行動できないように、もっと強く制御できる規制をするべきだった。
信長のやり方は家臣の謀反を呼び込む失敗だったが、秀吉の人の和への移行もまだ時期尚早なうちに秀吉が死んだ。
家康の場合は武功家臣がちょうど世代交代し大坂陣では素人三世武将が出陣し始め、
世代交代が進み、武断派と奉行の対立が深刻化しなかった。
また秀忠が本多正純を失脚させるなど指導力を発揮できるだけのオッサンだったので家臣団を統御できた。
732 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 14:14:58.56
>>731 秀吉は子飼いの譜代大名を五奉行にとどめ、
信用のおけない外様大名を五大老として豊臣家の政治の最も重要な基幹部分を
全部任せてしまったのが失敗だったんだよ。
江戸幕府は逆をやっている。
外様大名は武功から大封を得ているが絶対に幕政に口出しさせず、
扶持は少なくても家康子飼いの譜代大名からのみ、老中や大老を選んで幕政に参加させた。
まあ、幕末には虐げられた外様大名が爆発して、江戸幕府を潰しちゃったけどね。
733 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 17:16:06.40
井伊家って武功第一で譜代最大加増されてるけど
井伊直孝の時代になると家光後見役で実質大老になってるんだよ。
それに家康がどんなに野望を抱こうが、武断派と奉行派が一致協力体制で運営できていたら
豊臣家は安泰だったし、正則や清正などの武断派子孫も安泰だった。
結局、家康とつながり、武断派と奉行派を争うように仕向けた黒田や細川の野望と裏切りが家康を調子づかせただけ。
豊臣家がトップってだけなら、関ヶ原みたいな大戦さえ起こさなければ
少なくとも秀頼の代は安泰だろう
ただし実際に政治やるのは徳川だけどな!
735 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 18:38:09.01
>>733 家康は秀吉が死んだその月から、片っ端から家臣の娘を養女にして
豊臣恩顧大名に嫁がせ、義親子関係を結び、天下取りに動いている
これに怒ったのが前田利家
武断派と奉行派の争いと言うがもともとは
家康の養女を正室に迎え家康の天下を支持するか(家康派)・しないか(利家派)の争いだった
武断派・奉行派なんて存在しないよ
そもそも石田三成は関ヶ原の敗北の全責任を一人で追わされたようなものであって
もともと家康の天下を支持する派orしない派の争いだったから
井伊家は譜代の中では遠江支配したころからの新参なのに異例の大出世して
三河以来の古い家から嫉妬とか反発なかったのかな?
737 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 22:40:44.67
北政所様に北条政子ばりの演説をしてもらう
738 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 23:36:34.72
豊臣恩顧の大名をまとめられる可能性があったのは高台院だけ
739 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 09:58:01.04
>>家康の養女を正室に迎え家康の天下を支持するか(家康派)・しないか(利家派)の争いだった
それは違うでしょ。別に家康の天下なんて支持してたわけじゃないでしょ。
武断派は憎むべき政敵を排除するために家康を利用しただけの話で、
前田排除のために三成らは家康を支持していたわけだし。
細川なんて武功をあげて領地を増やしたくて仕方が無かった。
そして武断派の意向を取りまとめる才覚を持っていたのが長政。
長政は蔚山城救援で合戦しなかったことを目付から秀吉に報告され
秀吉から臆病だとして蜂須賀と一緒に激怒されていたので、
いまの奉行たちの政権が気に入らなかった。
(戦の落ち度で所領没収され、それを報告した奉行系吏僚への加増になるため)
それで蔚山表での早川長政の援軍遅延報告は慶長四年閏三月十九日に五大老によって覆されることになり
秀吉が福原長堯の報告を信じて決定した判定を反故にして、早川へ領地返付をした。
また何の功績もないのに福原の跡職を家康の一存で細川へ与えるなども起きた。
家康は黒田と細川におもねったので、ここで武断派の意見は家康を利用して政敵を排除しようとする方向性が定まった。
だから会津征伐中に、三成謀反を聞くと、武断派は家康を放置して上洛して行ったし、
伊勢の毛利軍を無視して三成のいる美濃大垣へ北上したし、
家康に三成を包囲したと大ウソを報告してまで、家康を江戸からひっぱりだしてるのが武断派。
そもそも武断派は三成を敵として仕立て上げただけなのかも知れない。
・秀頼を殺すor生まれないようにする
・秀次を殺さない
おしまい
>>730 佐竹は親族・改易された宇都宮家もあわせたら80万石近く安堵されて
秀吉十分優遇してる方だと思うぞ
742 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 16:36:41.78
関ヶ原の時、家康本隊が宇都宮まで出れば佐竹参戦があったかも?
さすが家康、小山でストップ。
西へ進軍も秀忠がわざと遅れ佐竹の江戸侵攻を牽制。
あと50万石あれば勝負できたかも?
743 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 18:19:12.14
>>739 前田利家排除のために何も家康養女と結婚までする必要ないよね。
秀吉養女と結婚していたのに、離縁・もしくは側室に格下げまでして
家康養女を迎えた大名までいる。
それでもまだ豊臣の天下を望んでいたなんてあまりにも秀吉を冒涜しているし、
徳川家の天下を支持する目的での婚礼でしょ。
744 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 22:47:53.00
豊臣政権で家康を通して自分の意を反映させたかったからじゃね?
あの時点で家康の天下を支持とかあり得無いだろ。
奉行と対立してても、武断派は政権に自分の意見を反映させられないからだろ。
大老と奉行が政権運営してるんだから、そういう動きを武断派が取るのは自然でしょ。
745 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 10:28:40.31
家康の天下を支持してたなんて結果を知ってる者だから
そう発想してるだけでしょ。
北政所や淀や秀頼を廃し豊臣政権の枠組みを完膚なきまでに破壊しようなどと考えてるわけがない。
746 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 10:51:15.80
福島や加藤なんかは絶対に北政所には逆らわないだろ
家康だってその時点では別に天下にこだわってないだろ。獲れる保証なんてないのに。
傀儡政権の実質支配で十分だった。
三成なりが失点重ねた結果現実味が出てきたわけで。
秀吉=尊氏
秀次=直冬
見たいに内乱になってた可能性は?
749 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 16:08:54.48
750 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 08:08:37.00
>>745 家康は関ヶ原が起こらなくても(関ヶ原前に)前田征討や上杉征討を行い
他の大老たちを順番に殺そうとしていた
関ヶ原が起こらなくても結果は同じ
結果、家康は豊臣に対して臣下の礼をとらなくなった
751 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 08:11:49.71
>>747 だから、三成などいなくても、家康は前田や上杉を武力で滅ぼそうとしてただろ
(前田は当主の実母を家康の人質に送って家康の臣下になることを願い出、
家康の孫娘と前田家嫡子の婚姻をお願い申し上げたため武力によることなしに家康の臣下になった)
豊臣関係なしに他の大老を臣従させ&滅ぼそうとしていたのだから
三成なしでも家康の天下は来たよ
752 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 09:43:35.74
>>750 関ヶ原後、家康は豊臣家と和議を結び
秀頼の名で論功行賞をしないとならないくらいで、
あきらかに武断派に対して遠慮してるし、
論功行賞も武断派が大半持っていった。
武断派のシナリオ通りに進んだだけだぞ。
征夷大将軍に任官する活動と、それを世襲化させたこと。
なにより家康が長生きしたことが豊臣と家康の立場逆転をさせただけで、
関ヶ原後の武断派が秀頼を関白に就任させる行動を主体的に運動しないなど無策だったことと、
武断派最有力の清正や浅野親子らが死んだ不幸があった。
つまり官職上での戦いに豊臣方は負けた。
理由は想定外に家康が長生きしたから、死去寸前ギリギリで豊臣を滅ぼせたこと。
また秀頼が幼君スタートだったので位階官職を与えるにも成長待ちの受身になることに甘んじたことだな。
753 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 10:58:14.54
>>752 秀頼の名前で論功行賞行うことによって豊臣の領地を奪うためでしょ
家康の名前で論功行賞を行ったら家康が自分の領地を削って
東軍の武将に分け与えなければならない
秀頼の名前で行ったことで家康は関ヶ原最大の功労者として
豊臣家の所領の大部分をわが物にすることができた
実質、関ヶ原の論功行賞は家康一人の独断で他の大老も奉行も口出しできず
事実上これ以降、家康は二度と大坂城に入らず、秀頼に臣下の礼をとらず、
征夷大将軍となって全国の大名から家康への臣従の書面をとったのだから
天下取りは明らか。
754 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 11:12:23.50
家康は高台院(北政所)を味方につけたのが大きいだろうな
加藤清正や福島正則なんかにとっちゃ母親同然だし
755 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 12:19:05.11
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。
もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
756 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 12:20:09.87
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。
しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
>>750 関が原が起きなきゃ寿命に間に合うわけ無いだろ
758 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 12:55:43.90
>>757 関ヶ原は家康の上杉征討の途上に起きたのだから
関ヶ原がなければ家康は武力でほかの大老を全部滅ぼして
征夷大将軍に就任しただけだよ
まあ、家康は前田征討の時と同様、戦をしなくても
家康が攻めると言えば他の大老たちはこぞって家康に媚びて人質をよこして臣従し
家康の養女を娶って家康の征夷大将軍就任と天下取りを後押しすると楽観してたけどね
家康信者の妄想スレみたいになってるな
戦国板行けばいいのに
760 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 13:45:31.02
>>754 今時ねねが家康に味方したと思ってる男の人って・・・
761 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 18:40:56.89
豊作を願うこと。これに尽きる。
家康が名実ともに天下を取れたのは関ヶ原の役によって豊臣政権が実質的に崩壊したからであって、
それ以前の家康は豊臣家の筆頭大老であることを自分の権威の根拠にしてたんだから
豊臣政権から離脱して自立政権を樹立するなんてことは不可能だろう
763 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 12:51:14.49
>>762 家康は秀吉が禁じた他大名との私婚を堂々と行ったり
他の大老攻めをして秀頼に人質を差し出すのではなく
家康に人質を差し出して家康に臣従することを要求したり
明らかに関ヶ原以前から天下人のふるまいしてるじゃん
764 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 16:13:03.30
秀頼成人まで執権の立場を狙っていた事と天下人のふるまいをごっちゃにしてる。
765 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 16:25:31.38
不可触の存在に触れられるのは、ごく一部だからね。
766 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 22:07:51.29
>>764 秀頼が成人したら、家康が前田家から取った人質は
秀頼の人質として渡すつもりだったの?
執権が他大名から人質を取り
自分を主君とする臣従の書を取るわけないじゃん
767 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 22:49:08.84
>>550 秀長が秀長と名乗るのは天正11年からだから 前名の長秀は信長の片諱を賜ったんだろうね
768 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 11:35:40.42
徒党を作って派閥化することで発言力を高めているだけで
この時点ではまだ家康は簒奪を考えていたわけではない。
そもそも豊臣政権内部での奉行と武断派の内部抗争において
家康を味方につけることで優位に立とうとする行為でしょ。
だから長政などがいう「秀頼を盛り立てて、家康に忠節する」というロジックが生まれる。
実際、武断派の戦力は家康にとって無視できない脅威なので、
それを無視して秀頼を廃して、自分が取って代わるなどという軍事的冒険までは思考外。
福島正則だけで60万石近いし、総合戦力で家康は勝てる可能性はない。
769 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 11:43:01.76
>>768 家康は関ヶ原前に前田征討・上杉征討を行って他の大老を滅ぼそうとしている
家康がやっているのはただ婚姻関係を結んで秀頼の執権としての
発言力を強めたいだけという穏やかなものではない
秀吉が決めた五大老制度を反故にし
前田からは人質をとって家康と直接的な臣従関係すら結んでいる
770 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 14:29:33.37
秀吉の遺命を無視して執権独裁を目指していたが
それは武断派の支持の元で成立するもので、
結果は
>>755>>756になってしまった。
そこで家康は
>>752のように官職任官政策でもうひとつの権力をつくる方向へ変化した。
771 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 19:27:19.49
>>770 家康が他の大老を滅ぼして独裁政権を作ったところで
成人した秀頼に政権を帰すつもりだったとは到底思えん
秀頼が執権家康の操り人形=傀儡政権になることを拒んで
家康を罷免したらどうなるの?
どうせ家康は秀頼を殺すつもりだっただろw
武断派が健在なら家康も秀頼を廃する事は出来なかっただろう。
清正が生きてたら、家康は暴挙に出なかっただろうな。
看羊録にも家康が清正を怖れていたと書いてあるし。
774 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 10:52:15.57
清正も家康に臣従の書を提出して臣下に下っているんだが
武断派が望んだのは秀頼が小封の大名として豊臣の家名を残すことぐらいだろ
最終的に家康が殺してしまっても武断派が秀頼のために家康を滅ぼすことはできなかった
775 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 12:19:09.00
>>771 殺しはしないでしょう。紀伊に引っ込めば。
徐々に上杉氏みたいに骨抜きにはされるだろうけど。
晩年の清正にとって
娘婿の徳川頼宣>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ヒデヨリ
なんですけど
関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されてしまい
日本全土の3分の2は外様系大名と豊臣系大名の領地である。
特に西国はすべて外様系大名で、そのうち8割が豊臣系大名の領地である。
関が原後の論功行賞において家康はあくまで秀頼の政務代行者だったことから
知行あてがいの文書を発給できなかった。
よって家康は豊臣恩顧大名が相次いで亡くなるまで大坂の陣を起すことができなかった。
家康は自分の死ぬ寸前でやっと豊臣家をタイムアップぎりぎりで滅ぼすことができた。
関が原から大阪の陣までに死んだ豊臣恩顧大名ってだれ?
加藤浅野黒田くらいか
そいつらが生きていても、とくに影響なく豊臣は滅んでいたと思うが
関が原で活躍し、豊臣に超恩顧をあるのに、米盗ませただけのやつもいるし
田中吉政や山内一豊や中村一忠や堀尾吉晴や池田輝政などだな。
秀頼の義兄だった結城秀康の死も大きい。
780 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 14:00:22.72
そいつらの大部分は梅毒で死んだらしいね
朝鮮征伐で名護屋在陣中に女遊びでうつされた
781 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 14:40:24.89
>>779 結城秀康なんか関ヶ原の前の家康による上杉征討から家康軍として参加して
関ヶ原でも上杉の抑えとして実父家康から重要任務を与えられ遂行している
関ヶ原後は徳川家親藩として福井藩65万石に封じられている
だいたい秀康は秀吉に鶴松が生まれると同時に結城家の養子にやられているので
秀頼とはほとんど縁がない
>>779 家康の実子秀康は言うまでもなく
田中吉政や山内一豊や中村一忠や堀尾吉晴や池田輝政がたとえ生きていても
秀頼のために家康を討とうとはしないだろ
いずれも徳川家養女と跡取りの縁談をありがたくうけて家康の姻戚になっているし
山内一豊すら跡取りに秀忠から一文字貰って喜んでる
長政などがいう「秀頼を盛り立てて、家康に忠節する」というロジックが大元にあって成立していただけの関係でしょ。
家康と親しくするのは秀頼公の御為であり、秀頼が成長して関白に任じられ、家康は老衰で死ぬだろうと言う現状認識でしょ。
>>783 実際、秀忠が2代将軍に就任し、家康が秀頼に政権を返上する気がないことを明確にしても
長政を含め誰一人文句を言っていないわけだが。
武断派にとっちゃ
乱を起した挙句に失敗し
豊臣家を滅ぼしてしまうリスクより
家康が死ぬ・秀頼が関白になる
この条件が来るまで待っていた方が得策だろ。
>>785 武断派は秀忠の征夷大将軍就任を祝福し、
武家の大将として征夷大将軍徳川秀忠への忠誠を誓ったわけでしょ。
家康が死んでも秀忠が征夷大将軍を返上するわけないよね。
しかも、秀頼が15歳を過ぎても一向に関白就任運動をやっていないw
関ヶ原の結果大きな封土を得て、なおかつ安定した体制によってそれが保証された以上、
関ヶ原勝ち組の『豊臣恩顧』にとってそれを壊す必然性は一切ないわな。
彼らは秀頼がそこそこ名誉ある地位で満足してくれればそれでよかった。
体制を壊すなんてもっての外だわ。
自分のお家に繁栄をもたらしてくれる主君が良い主君
福島さんがもっと早く死んでいれば、
「福島殿さえ生きておられれば、豊臣は・・・・・」と
後世まで言われていたであろう
秀次を殺さない
これで全て解決
「秀頼を盛り立てて、家康に忠節する」
これが行動理念としてあったからこそ
豊臣家はあれほど延命できたんだよな。
二条城での家康と秀頼との会見や、
秀吉との約束を盾に千姫を大坂城に入らせることを実行させたり
秀忠を大坂へ同情させるように誘導してたから
家康が死んでしまえば、関白家豊臣と将軍家徳川が並存する方向で
生きながらえる可能性はあったよな。
>>791 秀頼が関白に就任する気配は一向になかったし、
秀忠も武断派も秀頼の関白就任は阻止しただろ。
家康が秀頼を殺す前に死んだとしても秀忠か家光が殺していた
織田家だって延命はできたからね
秀吉は織田家の息の根を止めるどころか秀信に父秀忠の岐阜城と
大封を与えて遇していた(織田秀信を追放したのは徳川家康)
家康が違ったのは秀頼に父秀吉の大坂城を出て
小封に移れと言ったことと最終的に
8歳の幼児まで斬って豊臣家を根絶やしにしたことだけど
秀次の血を恐れて男児どころか幼女赤ん坊まで虐殺した秀吉公にはとても叶いませんよ
>>792 秀信は秀吉に逆らってないし、
一応、秀吉の『初期』の権力基盤だった時もあるからだろ。
秀頼は家康、秀忠の命に背いたりした。
そして、徳川は、秀頼のおかげで大大名になったわけじゃないからな。
状況がまるで違う。
>>秀頼は家康、秀忠の命に背いたりした
なにそれ?
>>795 幕府の出した武家官位の統制無視して家臣を無断で勝手に任官させるわ
徳川体制の大名である片桐且元を勝手に攻めるわ
はっきり言うけど大坂の陣って秀頼が挑発して起こったって考えるべき戦いだぞ
マジで聞いてる?
799 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 10:50:13.88
>>796 それって家康・秀忠が、秀頼に大坂城を出ろだの、
淀殿を人質によこせだの、武力蜂起しろだの、
さんざん要求した後のことでしょ。
秀吉は秀信から人質をとっていないし、
父信忠の岐阜城にずっと住まわせていた。
勿論、武力蜂起も求めていない。
800 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 10:56:34.85
将軍が大阪城を出ろとか人質を出せって言ってるんだから従わなきゃだめじゃん
>>799 無断任官は例の鐘銘事件でゴタゴタしてた真っ最中のこと。これで幕府側は完全に態度を硬化させた。
あと
> 秀吉は秀信から人質をとっていないし、
秀信は大阪伏見に屋敷があって、そこに母や嫁を置いていたんだけど、お前はこの意味全くわからんだろうね。
バカだから
無断任官は誰に対して行われたの?
803 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 18:39:42.25
>>801 秀頼は家康・秀忠に臣従の書を提出しておらず、
江戸幕府が出す武家統制令に拘束されないんだけどね。
804 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 18:53:04.93
>>794 家康は秀頼に臣従の書を2度も提出しているぞ。
>徳川は、秀頼のおかげで大大名になったわけじゃない
なら、外様大名は徳川家光のおかげで大大名になったわけじゃない
だから家光に背いてもいい、って理屈だなw
>>801 家臣の伏見集住と人質は違うだろ。
秀吉は政治に参加させるために家臣たちを伏見に集住させていた。
都に住んでいる公家たちは天皇の人質で、
江戸に江戸屋敷を持っていた大名は江戸幕府の人質なわけか。
>>803 あほか。秀頼の二条城会見は常識的に家康への臣従の礼だ
>>805 あのさあ、大名などの有力者が君主の城下に家族置くって人質ってことだぞ。そんなことも説明してもらわないとわからないのかお前は。
807 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 19:28:11.86
>>806 あほすぎる。
>秀頼の二条城会見は常識的に家康への臣従の礼
それはおたくの説だわな。
家康が秀頼に対して提出したみたいな、臣従を誓う血判状は?
それがないと意味ないでしょ
808 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 19:31:08.47
>>806 臣従したなら、家康が上段、秀頼が下段に座るよね。
二条城対面は同格だった。
後水尾天皇も二条城に行っているんだけど、これって徳川家光に臣従したの?
秀吉の聚楽第に行った後陽成天皇は、秀吉に臣従したの?
無断任官は誰に対して行われたの?
>>804 そら、そうだよ。
だから、逆らいたい奴は逆らったらいいんだよ。
でも、家光の時代に逆らえるほどの実力がある外様がいないだけの話だろ。
そもそも臣従するもなんも、
秀頼の方が官位は下なんだから、家康の言うことを聞かざるを得ないだろ。
太閤の息子という立場が拠り所であればさ。
812 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 21:40:30.82
官位をよりどころにすると、
1605年4月13日には、
家康:征夷大将軍・源氏長者・前右大臣
秀頼:右大臣
秀忠:権大納言・右近衛大将
1605年4月16日
家康:源氏長者・前右大臣・前征夷大将軍
秀頼:右大臣
秀忠:内大臣・右近衛大将
1605年5月1日
家康:源氏長者・前右大臣・前征夷大将軍
秀頼:右大臣
秀忠:征夷大将軍・内大臣・右近衛大将
こんな感じで推移したはず。
家康と秀頼との序列は微妙な感じの気がする。
・右大臣の現任者、前任者の席次の差をどう考えるか。
・そして、征夷大将軍の現任者、前任者と右大臣との席次の差をどう考えるか。
少なくとも、秀忠よりも秀頼の方が官位は上であり、官位でいくと現職将軍を、
上回る権威を持つ存在ということになってしまっている。
何で秀頼は左大臣にならなかったんだっけ?
公家や家康に邪魔されたんだっけ?
>>811 慶長11年(1606年)以降、徳川家は武家官位だから
豊臣家や公家たちとは無関係
>>811 家康が自分より上位の摂関の言うことを聞かず
臣従の誓いをせず
あまつさえ公家諸法度を押し付けている件
無断任官は誰に対して行われたの?
817 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:05:02.15
無断任官は誰に対して行われたの?
豊臣秀頼は方広寺鐘銘事件直後に片桐孝利以下14名を諸大夫に任命。
これに対し家康は「頻りに御不審の由仰せられる」(駿府記)と、強い不快感を示す。
詳しいところは吉田洋子氏の論文『豊臣秀頼と朝廷』あたりを読め
819 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 09:57:43.80
駿府記は一次史料じゃないだろ
820 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 10:08:04.14
>>820 掲示板では、お前が自分で調べろ=逃亡
と解釈されるわけだが。
どこの解釈だよ
別スレで『信長公記』を一次史料だと思いこんでいた「イチジシリョウガー」君
一次史料でなきゃ駄目っていう「イチジシリョウガー」君は、一次史料なら嘘でも構わないがそれ以外の文献は認めないと言いたいのか
「イチジシリョウガー」と言いたいだけなのか…
あと、池上裕子の本を書き写してドヤ顔なのはリア高なのか高卒なのかw
前者なら暫くすればいなくなるけど、成人しているのに学問板で「イチジシリョウガー」と連呼しているなら
コテを付けて欲しいな
NG登録しておくから
池上裕子の本はちゃんと一次史料を元に考察されてて
非常に良書であり客観的といっていい。小和田とか谷口とか妄想と軍記で埋め尽くされたような
ウンコ本より遥かにまともな。
ようするにお前は自分の知っている文献だけを話題にしろと言っているんだろ
しかも自分で読んだわけじゃなく他人の受け売りができる範囲で
だから何時も支離滅裂で統一されていない文献史料の羅列になるし
何故その史料文献でなければならないのかとの問いかけにも常に逃げる
池上裕子の件なら冒頭50pを読んだ感想は別スレに書いたし誘導もしたよな?
何時までも逃げ回りながら「イチジシリョウガー」とか言ってないで俺の指摘に当該スレで答えてみろよ
遊んでやるから
もっとも『信長公記』に定本があると思い込んでいる池上の信者に
そんな根性があるとは思えんが
おまえにできることは名無しで他人の言葉をコピペするだけ
当該スレに出てくる度胸があるなら、おまえのような他人の言葉を拾い食いするだけの卑しい乞食にご褒美として
『信長公記』の扱い方ぐらいは投げ与えてやるから押し頂いて味わいながら食せよw
素直に一次史料はありませんでしたと
なぜ言えないのか。
逆ギレすれば誤魔化せて
逃げれると思ってんのか。
828 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 14:41:48.54
秀吉だけが信長の葬儀をしてるのに、何を言ってるんだ?
秀吉は葬儀の準備をしつつ、岐阜で監禁されていた三法師の近江安土への移動を催促していたんだぞ。
秀吉は死んだ信長の葬儀を立派なものにしようと、朝廷に掛け合って信長を贈従一位太政大臣にしてもらい、
大徳寺へ贈官宣命使として少納言舟橋国賢が派遣されてしまったために
これ以上、葬儀延引きができず、やむなく三法師を葬儀に招くことを断念して養子秀勝を喪主にして葬儀してる。
これほどの旧主への義理立てがあるかよ。だいたい信雄は秀吉に敵対した男だぞ。
それなのに信雄の官位官職を狂ったように急速に向上させて、甲斐信濃駿河遠江三河の超加増までやろうとしてたんだぞ。
信雄が自分で断ったのに、なんでそれを以って秀吉が批判されなきゃならないんだ?
やむなく信雄の代わりに秀信を取り立てて父の信忠の岐阜城を与えて官位官職につけてやったし、
信長への義理から信雄を許し、信長ですら信雄には従五位下しかくれなかったのに、
秀吉は正二位内大臣にしてやったほど、信雄を引き立ててやったんだぞ。
実力のない信雄に対して、信長への義理立てから秀吉が厚遇していたのに、その恩を忘れて増長し、
家康家臣団が転封準備しているのを知った、信雄家臣団が、転封準備しないとまずいですよって忠告したのに
信雄は、絶対転封はないから、秀吉の命は無視していいなんて言い放って、秀吉の顔を潰してるのが信雄。
結局、信雄も秀信も有楽斎も西軍に付き、大阪陣寸前まで豊臣擁護をしているのだから、
織田家は秀吉に感謝していたのは行動でわかる。
829 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 14:44:51.19
しかし家康は何をした?秀吉や利家らが死ぬやにわかに野望を露骨にむき出し
幼君であることを良いことに、幼君のためと偽る奸臣となって
その地位を奪いたい一心で平時に乱を起こし、
幼君が成長する前に権力と権威を奪い取り独裁し
秀信を高野山で幽閉し22歳で死に至らしめたし、
信雄も公家や寺社に影響力を行使できる五山の僧たちの
全力擁護で家康を説き伏せ助命と領地宛がいをなんとか約束させただけだし
孫娘千姫と夫である秀頼を殺しただけでなく、国松まで殺し、
女子供を含めた大坂20万人大虐殺をして、秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自らは東方を照らす大権現となってる糞老人だろ。
つまり信雄が優秀で旧武田領国を治めて、秀頼の後見役として豊臣の藩塀になってれば安泰だった。
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
>>829 存命中は関東に移って豊臣政権の東の要として政権を支え、
秀吉没後は豊臣公儀の命令を悪用して反乱を起こした不埒者を鎮圧し、
さらに遺訓通り自らの孫娘を大坂に輿入れさせている。
秀頼に対しても冬の陣の講和を主導したように穏健派として行動している
和議を破ったのは牢人が乗っ取って暴走した大坂方、家康としては玉石ともに砕くしか手段がない
しかも冬の陣の和議を破られたことで秀忠の討伐意思を曲げられなくなっている
これ以上家康に何を望むんだお前は
幼君であることをいいことに何だって?
先君の指名した政権構成者筆頭が幼君に成り代わって公儀を安泰たらしめるのは当たり前のことだろう
現実問題として家康以外に誰がやるんだよ。武断派とトラブル起こしてる三成とかいう男か?
10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。
秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。
家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である
佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。
信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
秀次を殺した時点で終わり。詰んでいた。
実子(?)の秀頼が成人するまでは秀次は生かしておくべきだし
秀次が秀頼を害する心配があるならば、秀次の娘を秀頼の妻とする
とかの手を打てば良かった。
秀次殺すのは最悪の選択。しかも殺し方が悪く人心が離れた。
親族を畜生扱いして妻子皆殺しなんて暴君のする事。
豊臣一族の力を削いだ上に、自分の後継者問題まで発生させた。
幼子が政治をしきれる訳無いから、中継ぎで秀次はどうしても必要だった。
あれをやっちゃった以上、どう転んでも秀吉死んだら崩壊しかない。
841 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 11:49:10.61
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。
『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。
文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、
山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。
842 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 11:50:11.36
秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。
信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。
南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
843 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 11:51:27.04
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
844 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 11:52:59.07
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
845 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 12:15:54.51
秀吉は徳川と毛利の力をそぐことに力をいれるべきだった。
本格的な海外進出は20年早かった。
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
延々と長文書いてるバカはスレ違って気づいてる?
849 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:43:55.56
小田原征伐後の関東は、関東管領つながりで上杉を移封すればよかった
代わりに徳川を越後か会津に移せば、徳川は天下を取れなかったに違いない
850 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:51:38.60
そもそも、北条を滅ぼさずに多少の減封に留めて所領安堵すれば、徳川の関東移封250万石もありえなかった
九州征伐後の島津のように北条も存続させるべきだった
誰かが書いていたけど、むしろ地元の三河と駿遠豆4国に抑え込んでおけば良かったのでは?
かつ、後北条家を潰さずに温存し、信州一国や濃尾二国を特定の大名にまるまる与える。
それもできるだけ、家康とそれほど仲の良くない・関係の深くない人間を一定程度の石高に
揃えた上(家康と同じぐらい、例えば大雑把に100万石前後の規模)で家康を囲い込む。
家康には東海道筋だけ、それも境川から箱根までの、「真の東海文化圏」に留まってもらう。
織徳同盟がない状態の青年期家康を想像すれば、これはかなり苦しい状況だと思う。
西にも東にも北にも仮想敵がいっぱい。経済力でも上杉や前田その他と拮抗するか、
むしろやや負けてしまう。
しかも近畿からは極端に近すぎず通すぎず。派手に暴れることは難しい。
おまけに家康は史実にあるような、家臣団を地元から切り離された中立的な官僚集団に
作り変えられないから(信長や秀吉のような事ができない)、体制変革が進まない。
854 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 11:29:39.21
大和郡山に秀次が入ればよかった
855 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 12:22:18.91
素直に正二位内大臣信雄が三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国大幅加増移封に応じていればよかった。
筆頭大老信雄が姪の子である秀頼の後見者として、従二位権中納言家康らを統制すればよかっただけ。
徳川家康・・・三河、遠江、駿河(±伊豆)
北条氏政・・・相模、武蔵(±伊豆)
里見義康・・・上総、下総、安房
織田信雄・・・美濃、飛騨
九鬼嘉隆・・・伊勢、志摩、尾張
前田利家・・・加賀、能登、越前、越中
真田昌幸・・・甲斐、南信5郡(伊那、諏訪、筑摩、佐久、小県)
上杉景勝・・・越後、佐渡、北信5郡(高井、水内、安曇、更科、埴科)
豊臣秀次・・・近江、若狭
蒲生氏郷・・・大和、紀伊
毛利輝元・・・安芸、備後、周防
もし家康の勢力を抑え込みつつ、他の大名の急伸も最小限にするならば
@毛利家に日本海側を与えない
A徳川・毛利・上杉いずれも地元から切り離さない
B織田家の生き残り(信雄・秀信)を美濃周辺に置く(ただし石高を抑え内陸に封じる)→家康を監視し、自らも家康や周囲から監視される
C関東の既存の土豪勢力を活かし、旧態依然の状態に留め置く
これぐらいの事をしないと。でもやはり甥っ子を殺さない事が最大条件になるなやっぱり。
あと東北はともかく、平野の広い関東をある程度政治的・軍事的にコントロールするには
最低でも家康・利家・幽斎クラスが入らないと無理か。
豊臣政権で大した功ない
九鬼嘉隆、真田昌幸。里見義康にそんな大領与えないだろ
仮に何人もの家臣に100万石を与えたら
いつ徳川家康の代わりの脅威になるかわからないじゃん。
可能性がどの程度あるか分からないが、
徳川に味方するかもしれないしな。
江戸幕府みたいに妻子を人質に出させたり、参勤交代で疲弊させたりしないと。誓紙を出させるぐらいじゃダメだった。
>>860 >江戸幕府みたいに妻子を人質に出させたり、
させてた
>参勤交代で疲弊させたりしないと。誓紙を出させるぐらいじゃダメだった。
江戸幕府なんかより過酷な参勤させてた
本気で無知なんだなあお前
秀次を殺した時点で終わり。詰んでいた。手は無い。
スレチだけどさ、豊臣家の崩壊をみると
足利尊氏・義詮がいかに家臣にめぐまれていたかわかるわ
865 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 17:06:09.92
秀吉が死んでからでは遅い。
小牧長久手の前後で多少統一が遅れても家康を殺しておく以外に方法はなかったと思われる。
>>855 そうなんだよなあ。秀吉の移封政策の原則はたった1つで、
「僻地を征服」→「加増と引き換えに有力諸侯を移封」→「平行移動で、畿内から順番に外に押し出す」
実はこれに尽きている。家康の大加増は、この一環に過ぎない。
秀吉の構想としては、坂東制圧と共に、東海の家康を坂東に移して、代わりに濃尾最大の信雄を東海甲信に移し、
「旧織田ワールド」を東海へ、「旧徳川ワールド」を坂東へ、それぞれ移植する構想だった。
これで空いた濃尾伊勢平野は、秀吉の故地として、直轄領と恩顧大名領で固めた
近畿と一体運用する「豊臣政権の鉄板首都圏」とする積もりだったのだろう。
だとすれば、信雄がごねたら利家じゃね?と思うのだが、
前田の当時のポジションからすれば、これは後付け論理だよな。
実際、1590年代には、豊臣政権内で、前田の駿府移封が真剣に検討されていたらしいけどw
鎌倉以来の関東武士の別天地・自立志向が秀吉には理解できてなかったんだな。
家康も関東入りして、意識の違いに感化されたんじゃないかな?
>>867 既出だけど、秀吉の読み違いは「逆方向」だよ。
秀吉は、実は成り上がりなんてばれてる家康は、坂東に飛ばされて、
鎌倉以来の家柄重視で、百年来内乱を繰り返してきた、プライドが高く百戦錬磨の坂東武士相手に、
その統治に難渋するだろう、とほくそ笑みながら、生暖かく見守っていた。
ところが、実際に起きたことは、坂東の武士たちの恐るべき恭順だった。
謀反や反発は、ほぼ全く起きてない。みんな、あっさり新領主の徳川様に従った。
これは、西関東の中世史を紐解けば理解できる。
西関東というのは、武士揺籃の地ではあるが、トップに戴く総司令官は、常に外部からの輸入カリスマだった。
源頼朝、伊豆北条氏、摂家将軍、足利鎌倉府、堀越公方、後北条氏、みんな外来、
それも、大半が箱根より西からの外来勢力だ。
輸入カリスマを戴くことには、全く抵抗の無い土地柄だったのだ。
小田原当時の秀吉は国内を安定化させてとっとと唐入りしたいだろうから、
家康の関東移封はイコール「それだけ家康の統治能力を信用していた」と見た方がいいと思うけど
やっぱり徳川家康に広大な関東をほぼ全て任せてしまったのが失敗だな。
むしろ地元に張り付けておくべきだった。
うまい具合に周辺に監視できそうな武将を配置して、相互牽制ができれば
まだ違ったと思う。
そもそも徳川家康にとって、三河や遠州ってそれほど統治しやすい環境じゃなかった。
三河では一向一揆に遭遇した上、浜松派と岡崎派の対立で長男を死なせなければ
ならなかったことなど、必ずしもいい思い出ばかりではないし、交通の要衝でも
豊かな穀倉地帯でもない。遠州でも今川以来の価値観・勢力の払拭に苦労した。
そこに行くと、関東の南部は確かに他地域からの権力者や概念にさほど抵抗がないね。
露骨な反権力でもないし、極端なまでの排他的でもない。後年、二宮金次郎が出ただけある。
家康の新天地としてはうってつけだわな。
家康を弱体化させても秀吉没後の混乱が拡大長期化するだけかもね
空いた西関東に対して、上杉を入れることを最終的に完全却下したことに、
秀吉なりの算段が、見え隠れするんだよね。
(豊臣政権内の素案としては、景勝関東案は実際にあって、景勝も当然ノリノリだったww)
16世紀段階での越後の石高は、あまり高くないので、250万石まるまるは無理にしても、
上野+武蔵北半を景勝に。以南を家康に。これだと家康は加増にならないから、甲斐は家康に残す。
結果論としては、これくらいのほうが、家康の牽制としてはよほど良かったのだが、
それよりも、まるまる家康にくれてやることを選んだ。
景勝は、血筋はともかく歴史的経緯から、既に上杉・関東管領の系譜を確実に受け継いでいるから、
関東入りさせると、独立政権を作りかねないが、
家康の【世良田新田伝説】なんて、関東武士にとっては噴飯ものの糞ネタ系譜で、
関東入りさせても、笑われてしまい苦労するに違いない、
のように、秀吉はシミュ・理解していたものと思われる。
徳川家康は地元(岡崎や松平)には親藩を置いてないんだよね。
江戸時代以降も時々松平氏は入ったけど、石高は5万石しかなかった。
家康・秀忠存命中も、このあたりには10万石以上の藩は置かれていない。
隣の尾張には大きな大名を置いたのに、三河や遠州は小大名や旗本の
領地ばかりしかない。
駿河と比べても、その優遇の差は歴然としている。
信長や秀吉が地元の尾張を直轄にしたりにそこそこ大きな勢力に
任せていたのと比べると、家康は上に書かれている以上に地元に
さほど強い関心はなかったのかもしれんね。
むしろ関東という新世界で大いに羽を伸ばせてラッキーだったのかもしれない。
家康の心のふるさとは駿府
875 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:35:17.81
秀吉は始皇帝
876 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 23:53:17.27
>>873 家康自体は駿府に葬らせているんだから地元愛は強かっただろ
(家光が日光東照宮に遺体を運んだが)
岡崎や松平は地理的に重要地ではなかったから親藩を置かなかっただけ
最初の親藩である越前は加賀前田家を抑えるための要所だったし
尾張は東国と西国の境目の備え、和歌山は大坂への備えでしょ
877 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 05:19:41.85
いろいろ考えたけど、秀吉が能力維持したままあと30年くらい生きるしか無いと思うわ
>>873 岡崎になんの親しみもないからだろうね。
誰も豊臣政権を崩壊させようと思ってないのに、勝手にお家騒動を繰り返して有力諸侯連合軍が介入
で国連軍代表の徳川さんが政権取ったようにしか見えない
880 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 16:42:50.45
秀次を殺した時点で終わり。詰んでいた。手は無い。
身内の力を削ぎ、後継者問題まで発生させ、殺し方も悪く人心が離れた。
難癖ではないだろ
容疑者に召喚状を発して出頭しなかったら成敗に赴く
裁量権内、当然のこと
884 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 11:44:46.49
>>883 出頭すれば暗殺or幽閉だろ
そもそも家康暗殺計画なんていうのが家康の難癖
885 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 17:16:14.71
>>878 岡崎より浜松にいった期間のほうが長い?
>>884 で、どの史料に「暗殺計画は難癖」って書いてあるの?
887 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 20:13:49.77
>>886 どの史料に家康暗殺計画は実話だと書いてあるの?
後世の徳川方史料はやめてねw
>>887 お前こそまさか明治以降の研究書とか出す気じゃないよなwww?
>>884 …は?
大大名を「出頭すれば暗殺」するという根拠は?
暗殺なんてする必要がない
>>878 親しみがないっていうか、結局あの時代は本拠地なんて領土の拡大や
城下町経済の発展に伴ってどんどん移り変わっていくものだし、
三河自体が全国区の政治上の拠点にはあんまり向いてないと思う。
さして石高は大きくないし、戦略上それほど攻めにくくも守りやすくもないし。
結局、大樹寺に位牌を置いた事以外にはさほど重要視されていない。
でも逆に言うと、移転先の関東にすっかり馴染めたからこそ天下を取れたのかも。
明治維新で活躍した人間がさほど地元を贔屓にしなかったケースと同じだな。
891 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 22:15:40.16
>>888 当時の史料でも家康の難癖だと書いてあるだろ
「君臣豊楽」はマジで豊臣が家康を滅ぼすために呪詛したと思ってる?
>>891 まさか「鐘銘事件は幕府方による難癖」とか言わないよな……?
あとその当時の史料kwsk
>>891 鐘銘事件で幕府はヒトコトも呪詛なんて言っとらんわ!
徹頭徹尾、終始家康の諱の無断使用を問題としている。
少しは勉強してから書き込め
林羅山が呪詛と指摘したことになってるけど、一次資料ではさっぱり確認できないな
林羅山の発言自体、現在では弟子が後世になって、「羅山はこんなに幕府に影響力があったんだ!」という話にするため
捏造した話だ、と言う説が有力
896 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 10:20:05.86
>>893 それが乗ってる同時代史料は何?
まさか後世の徳川史料じゃないよね?
897 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 10:36:12.21
>>881 秀次が謀反をたくらんだんだから仕方ない。
秀次と親い利家すら秀次の弁護をしなかったほど。
シンプルだけど大阪城での家康謀殺。
秀吉存命中はもちろん死後もやってやれないことはなかったとおもうんだけどなあ。
>>896 お前聞いてばっかだな
全て家康の難癖だって主張したいならまずお前が根拠となる史料出してみろよ
>>896 大日本史料くらい読め
つかおまえ基本史料読んだことないだろ
秀次が謀反をたくらんだんだという事にして始末しただけ。
諱は後付け
はっきりわかんだね
後付けにしても舅の諱の分断なんて通常慎むべきことだけどな
鐘銘事件の本質はその前から続いてた大坂方の不穏な動きに起因するけど
家康の謀殺って・・・公私とも最大の保証人の殺害なんて豊臣政権を崩壊させる気ですかよ
>>903 一切三成は家康を滅ぼすために決起してるじゃん
>>904 ごめんちょっと何言ってるかわからないなー
906 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 09:30:08.10
>>901 誰一人として秀次の弁護したやつさえいない時点で、
秀次が黒なのは明白。
907 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 11:48:16.37
>>900 大日本史料のそのあたりの記述って徳川方の後世史料を基にしてるんだが?
同時代史料を出せと言って出せなかったら逆切れって恥ずかしい。
908 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 11:50:06.42
>>899 「国家安康」と聞いて、「ああ、家康さまの諱を勝手に使ったなんて。
豊臣秀頼は死を持って家康さまに償わなければならない。
これは当然のこと」と思うお前のほうが異常。
それを難癖というんだよ。
そもそもあの銘文は秀頼が起草したもんでもないのに。
>>908 鐘銘事件が大坂の陣の直接原因だと思っている人間がまだ存在していたとは……
>>908 いいか薄ら馬鹿?鐘銘事件は徳川と豊臣の関係悪化を作った原因の一つに過ぎん。
お前みたいな無知のために教えてやるが、大阪の陣の原因は豊臣秀頼による片桐且元攻撃だ。
>>906 独裁者で妄執の入った秀吉に逆らえるわけない。
以前の秀吉とは別人。
晩年は酷いもの。
秀次を擁護すれば自分も破滅するから黙っていただけ。
家康は冬の陣では当初から講和を働きかけてるし、大坂の実態を知ったうえで軟着陸を模索してる
どっちが引き起こしたかは明らか
913 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 21:56:32.06
大政所が存命で元気で、孫の秀次をかばって頑張って助命してくれれば、
秀次一族の命ぐらいは助けたのかな?
秀吉も、大政所に泣きつかれたら、どうにか取り計らいそうな気もする
んだが。
>>911 妄想乙w
つかお前さ、別人とか言い出して頭おかしいだろw
915 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 23:00:15.42
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
難癖ぐちぐちつけてた奴の肩もつ片桐を攻撃するのは
>>914 お前がおかしい。
日本語の意味すら理解できない三国人か(笑)
秀吉が晩年は若い頃とは別人のような性格になっていたという事。
バカだから理解出来ないんだね。
ちょっと調べりゃわかるけど、秀吉の性格は若い頃からずっと変わってねえよ
919 :
日本@名無史さん:2013/12/14(土) 08:20:19.76
在日NHKが盛んに秀吉の晩年の性格は別人のようだと世間を洗脳してるだけで、
一次史料など当時の人々の話から探し出そうとしても根拠皆無。
結局、左翼が朝鮮攻撃したことを恨みまくって秀吉貶しをしてるだけの話。
朝鮮を攻撃するやつはみんなキチガイ。
信長や家康みたいに日本人大量虐殺したやつは英雄マンセーって言う意味不明の判断基準で素人歴史好きを、
某国の反日政治的思想を背景に、
秀吉の印象を悪く刷り込みしてるだけの話。
だからNHKは秀吉晩年を描くのにわざわざ必要性もないのに小便垂れ流しまで映像化し徹底的に醜く描き、
日本人が持っている秀吉の英雄観を剥奪しようとする。
920 :
日本@名無史さん:2013/12/14(土) 13:46:41.19
文化を与えて日本を明るく照らしてきた兄の国朝鮮に攻め入ると、
呪われてキチガイな別人になるニダ!!!
朝鮮の立派な仏教建築物が秀吉に破壊され、
仏像を対馬に持ち去られたニダァ!謝罪と賠償したら1000年の恨を999年にしてやるニダ!
>>918 ソースを出せ。
加齢と共に残忍に変質したという見方が大勢だろうに。
美濃攻略で世話になった頃から長年の付き合いの川並衆の前野を殺すとかしてるしよ。
利休に腹を切らせて死体を辱めるわでやりたい放題だろ。
若い頃からこんなに残忍だったという資料は無いだろ。
信長の指示と思われるものを除いて。
>>921 秀吉の若いころの根切りや皆殺しの記録なんてなんぼでも出てくる。秀吉自身が自慢気に根切りを書状で出してるからな。
秀吉の書簡くらい簡単に調べられるから、そのくらい勉強しろ。
お前の言ってるのは小説講談の世界の話だ
>>921 秀吉の若い頃は信長配下で信長の判断以外では人の命は奪えないから
比較しようがないよね。
残忍なことをやったのは全部信長で、秀吉は例え敵でも人の命を奪ってはいけないという考えだったので
主君の命令で泣く泣く処刑していたというのは
922が言っている通り小説の世界だと思う。
924 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 09:53:33.03
下記の話自体がすでに妄想だろうに。
美濃攻略で世話になった頃から長年の付き合いの川並衆の前野
925 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 10:09:41.26
利休は内向きの権力闘争に敗北しただけだろ。
軍事抗争から政治抗争に移行しており、
流通が整備され情報化社会になってるのが豊臣政権。
それにともなって風聞がやたら飛ぶようになってきてる。
秀次にしても伊達最上との謀反が疑われたからだし。
情報の重要性を軽視し対策を考えず、
態度行動を自在に変えないと生き残れない。
政治抗争で命を落とすのは残酷な処置とは言えない。
政治的バランスのセンスがないヤツが妙な色気を出すと失敗する。
それは源頼朝や足利尊氏が弟まで殺したことでもわかる。
また家康も嫡男殺しているからな。
バカみたいに油断してたら信長のように殺されるだけ。
926 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 10:51:21.90
信長みたいに、
降伏したのに虐殺したり、
越中から安土に呼び出しておいて、
国人皆殺しにするようなのを残虐っていうんだろ。
927 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 10:56:53.46
>>925 処刑はともかく、甥の一族を晒し首ってのは当時でも異常だぞ。
928 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:41:09.95
せっかく助命して高野山においたのに、
勝手に自害した秀次が悪い。
しかも秀次は秀吉の母を弔う青厳寺で切腹して血で穢してしまう程のアヘ。
天下人の母を弔う場所を血で穢す禁忌をやっている知識すらない。
そりゃ俺でも逆恨みして呪詛してんじゃねーかと逆上して根絶やしにするわ。
でも秀次の家系は全滅してないんだよな。
>>928 その新説、各地ですっごくフルボッコにされてるけど
フルボッコも何も、
反論する方からしてマトモな根拠を挙げてないじゃんよ。
まあ在日には秀吉は悪逆無道じゃないと困るんだろうけどw
931 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:14:49.17
歴代幕府創業者をみれば、
兄弟だろうがガチで殺す世の中で、
なんで甥を死に追いやった秀吉だけが残虐とか非難されなきゃならないんだw
チョンの恨は1000年っていうから、
あと400年くらい秀吉は許されないのかw
信長だって叔父や兄弟が大量に死んでるんだぞ。
戦死に追いやられた者もいれば、謎の殺され方してるやつもたんまりいる。
「甥を誅殺したから残虐」だと言う話だと思いこんでる時点でお前は話が全くわかってない
あの新説は確信犯か、ネタでやってるのかと思うほどひどかった。
そのうち切腹も「お座敷用意して刀を置いといて引っ込んでたら勝手に自殺してた
たまたま鉢巻した侍が見つけて首を切って楽にしてあげました
殺すつもりはなかったんです」なんて新説が出てくるかもな
朝鮮人必死すぎw
935 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 16:06:29.38
>>927 晒し首になったのは秀次一人だけでは?
秀次の男子が殺されたのは当時の習いで仕方がない
秀次の側室が殺されたのは秀次の男子を懐妊している可能性があったからとも
正室は殺されずに里に返されているし
女子は秀頼の婚約者だった長女以外、助命されている
甥を殺して晒し首 更に妻子を甥の首の前で土下座させてから刺殺。
実質的には側室になっておらず助命嘆願があった最上の娘も殺す。
更に遺体を丁重に葬らず、穴をあけて放り込んで、そこを畜生塚と呼ぶ。
これが残虐と呼ばずにどう呼ぶんだ?
当時の人もあまりに無残と感じただろうし、人心が離れた。
ここまでやるのは秀吉の指示以外にないし、そこまでするのは狂気の沙汰。
老人の妄執で人格が変容したんだよ。
かつて「人たらし」と呼ばれた人物とは思えないほどに。
だから、残虐に変化したと書いてる訳。
若い頃からこういう人格だったら「人たらし」とは呼ばれんでしょ。
若い頃の残虐文献を具体的に書けよ。
ある、探せではソースなしとよ。
次は、若い頃の「人たらし」エピソード自体が嘘と書き出しそうだね。
秀次を殺す前にも有名な「聚楽第落首事件」があった。
落首があった門の番衆(警備担当者)の大名10名は追放処分、
は番衆17名(事件当日夜に実際に門を警備していた者でしょう)の
鼻や耳を削いだ上で磔という厳しい処分を下している。
この頃からおかしくなっていたのでしょう。
権力者の人格が加齢と共に変容するのは現代でもあることだからね。
落首事件で秀吉から追放処分を受けた尾藤道休を匿っていた本願寺は尾藤道休の引き渡しを迫られ、本願寺は彼を自害させ、
秀吉の使者である増田と石田に首を差し出すことで幕引きを図ろうとします。
しかし、秀吉は追放処分を受けた尾藤と武衛ケンユウの家を取りつぶし、2人の家があった町(区画)を焼き払い、
尾藤の妻子を含む66名(彼らが住んでいた町の住民か)を京都六条河原で磔にしました。
>>936を見て「そもそも人たらしのソースってなんだ・・・・・・?」と思った
939 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 16:52:40.26
>>936 いや、だから秀吉が若い頃に「人たらし」だったソースを挙げろよ
それが小説の世界だって言うの
それに愛する我が子秀頼に豊臣政権を全委譲するために
その競争相手を根絶するというのは
若い頃の秀吉には必要なかった話だ
お前、「土下座」って言葉好きだなあ
誰かを思い出させるんだが
940 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 23:15:22.10
なんか軍記の話まで事実のように語る半島人は、
ちゃんと一次史料を読んでから出直せよ。
941 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 23:18:46.33
聚楽第落首事件の一次史料は?
943 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 00:26:36.89
秀次を自害させずに、秀頼の後見人として成人したら関白にして
太閤秀次、関白秀頼だったら豊臣政権のままで江戸時代ならぬ大阪時代として
明治維新を迎えたのでは?
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。
『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。
文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、
山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。
秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。
信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
946 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 08:42:05.67
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。
南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
947 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 08:43:58.71
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
948 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 08:47:07.00
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
秀頼と秀次の娘を婚姻させた秀吉が秀次を殺すというのは讒言があったわけだ。
949 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 17:38:10.84
家康が後3年早く死んでたら秀忠と秀頼の二代目対決はどっちが勝ったかな?
婿が義父に戦い挑めるかよ。親子関係の倫理でもう負けるわ
951 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:47:35.00
秀頼が関白と成り、秀忠が征夷大将軍として補佐するという事には
成らなかったのだろうか??
952 :
日本@名無史さん:2013/12/17(火) 00:17:22.08
>>950 秀忠が娘婿の秀頼を殺して秀頼の子も根絶やしにできるかって話じゃね?
家康は孫娘の一人にすぎない千姫ぐらい大坂城と一緒に燃やすつもりだっただろうが
(実際に大坂城に大砲撃ち込んで千姫のいる奥の女中が死んでいる)
未だに家康が強硬派で秀忠が穏健派だと思っている奴がいるのか……(驚愕)
954 :
日本@名無史さん:2013/12/17(火) 00:34:03.11
>>953 秀忠が強硬派で家康が穏健派というのも家康ヲタが言ってるだけだろ
国松まで殺して千姫を本多にやったのは家康だろ
豊国大明神
>>956 家康ヲタの荒らしはいつもワンパターンだなw
>>954 謀反人の一味に加担して自らも謀反に加わった者の一族が処罰対象になるのは当然だが
とくに秀頼の場合は関ヶ原以来何度も徳川家を危地に陥れているから、
完全なる手切れになり討滅まで戦う方向に移行した夏の陣では何の問題もない
菅沼君は何時まで自演をし続ければ気が済むの・・・?
何故 羽柴を豊臣に変えたのだろう。易学者か何か知らんが
豊臣に変えてから15年あまりでお家断絶。
>>960 変えてねえ。苗字が羽柴で姓が豊臣だ。そんなことも理解してないのか?
賜姓時に豊臣にしたのはなんで?
てか誰が決めたの?
963 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 19:04:44.63
>>962 豊臣という姓は誰が決めたのか(朝廷?秀吉?)
由来は何なのかは一切一次史料になし
ちなみに秀吉は当初藤原秀吉の名で関白となり
藤原から豊臣に改姓している
964 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 19:18:43.59
源平藤橘豊と本来ならなるべきだった第五の姓
965 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 19:22:57.05
さすがにどこの姓氏にも結びつかない足軽上がりだってのは広く世の中に知れ渡っていたからな
新しい氏族としての豊臣朝臣として作られたんだろ
966 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 19:29:07.99
家康も源氏なんて仮冒せずに新姓作ればよかったのに
967 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 19:43:47.14
>>966 そんなことしてたら信長の同盟者としてやっていけねえよ
968 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 20:04:01.07
>>967 三河の田舎大名だった信長同盟者時代ではなく
征夷大将軍になるときにって話でしょ
秀吉だって信長家臣時代は信長に倣って平姓を名乗ってた
>>966 秀吉の場合、根回しが上手く後陽成天皇とも仲が良く
協力者の公家も少なからずいた
そういったことが新姓授与になったのだと思う
一方、徳川は後陽成天皇・後水尾天皇と仲良くない
公家対策も対してやってないから無理だろう
家康は自分を根拠なく源氏だと信じ込んでた節があるから新姓創始とかの可能性はないと思うぞ
>>969 それはない。
家康は藤原姓を名乗っていた時期もあるから。
確かに家康の先祖には源氏を自称していた者がいたのは事実だが
家康自身がそれを覆して他姓を名乗ったりしている。
征夷大将軍になるには源氏のほうが都合が良かったからそうしただけ。
ちなみに苗字だが「徳川」は家康による新苗字だわな。
新田流得川家末裔を称して得川ならぬ徳川とした。
971 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 07:37:00.39
家康の祖父清康は世良田を名乗ってたな
まあ、源氏を称していた方が武士の受けはいいわな。
あと、確かに源氏以外でも征夷大将軍にはなれるけど、
当時の朝廷は、現代以上の先例主義だろ。
源氏系の開幕が続いてんだから
その点でも源氏を称してた方が得だろ。
それ以上の理由なんてなさそうだけど。
973 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 09:56:34.56
971
征夷大将軍て名前が意味を持ってくるのは頼朝以降だからな
頼朝が名称選ぶときに
征夷大将軍
征東大将軍
鎮守府将軍
の中からどれかを選択してんだよ
義仲が名乗ったのは実は征東大将軍とも言われてるしな
過去に使用され廃止されていた征夷大将軍が選ばれたんだよ
974 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 09:58:57.37
事実似たようなので戦国期の池田輝政が征西府将軍名乗ってるの知ってるかね?
975 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 10:07:07.92
武家の棟梁としての将軍が現地に赴き幕を張り独立した軍事権、行政権を有する場所を御所と呼んだんだよ
鎌倉幕府の長としての征夷大将軍という名が意味を持ってくるのは室町幕府も同じ
江戸幕府はその慣例を継いだってことだがね
976 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 10:13:38.56
義朝以前は武家の棟梁を名乗るには嘘か本当かしらないが鎮守府将軍に任命される必要があった記述もあるしな
武家の源氏ってのはこれに任命されたのが多いんだよ
>>970 いや、一回藤原を名乗ったからこそ家康が自分を源氏だと信じ込んでたという説があるわけだよ
別に何の姓でもいいなら藤原のままでもよかったはずなのに、秀吉存命時から源氏に戻し始めてるからね
そもそも藤原姓を称したのは三河守叙任の際に近衛前久に「源氏じゃ無理。藤原ならいけるかも」って言われて
しぶしぶそれに従ったからだし
978 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 17:05:12.06
>>972 酒井忠清が宮将軍擁立を画策してなかったっけ?
979 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 17:40:36.92
>>977 だから家康は官位を受けるためなら別に何の姓でもよかったわけだろ
ちなみに家康は藤原を名乗っている同時期に文書によっては源を名乗っており
藤原と源を併用している
つまり家康は藤原から源に姓を戻したのではなく
場合によって藤原と源を使い分けていただけであり
後に姓を源に統一したというだけにすぎない
そもそも家康だって自分の家系図が親氏以前はっきりしないことは周知だったはず
980 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 17:44:05.84
将軍になるだけなら摂家将軍の例もあるし源氏である必要もないんだよな
981 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 19:19:55.66
>>980 幕府を開幕した初代将軍は全員源氏
あと家康は個人的に源頼朝が好きだった
982 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:17:13.48
>さすがにどこの姓氏にも結びつかない足軽上がりだってのは広く世の中に知れ渡っていたからな
スレの途中で豪農って意見あるけど
やはり世間的には足軽が知れ渡ったのか
984 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:36:13.81
豪農っていってもちゃんとした系図でもあればあれだけど
土豪クラスじゃ任官面ではタカが知れてる
家康は関東行く時に関東を治め易いように
秀吉にお願いして源氏に変えてもらってる
で、その後に豊臣貰ってる
ちなみに秀吉は征夷大将軍を断っている
源氏でない秀吉は征夷大将軍になれなかったとか
源氏でないと征夷大将軍になれないとかは
逆賊の徳川が正統性を保つために作り出した幻想にすぎない
986 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 23:01:10.87
家柄なんて秀吉みたいに名門の養子になるなり、名門の娘を正室にするなりすればどうにでもなる
>秀吉にお願いして源氏に変えてもらってる
ソースはよ
>>978 画策してたよ。
政権が安定した後なら、神輿は御しやすい方が良いでしょ。
989 :
日本@名無史さん:2014/07/11(金) 07:38:37.52
>>980 摂家将軍になぞらえて五摂家出身藤原姓で将軍になろうとすると
存続している既存五摂家から連枝である証明を貰うか秀吉のように養子にならねばならず面倒くさい
家康がかつて名乗っていた藤原姓では家系図らしきものを提出した形跡がなく
藤原秀郷流でも奥州藤原流でもなんでもいいわけだがこれでは摂家将軍の例を踏襲できない
その点源氏ならば足利将軍廃止後は勝手に家系図書き換えで問題なし
信長や秀吉でも将軍になれたんだから家康の源氏詐称を将軍任官に結び付けるのはどうかと