1 :
日本@名無史さん :
2012/02/12(日) 13:53:51.69 古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている 日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで 有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である 毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ 毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している 勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、 「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった 坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである ふるってご参加ください
2 :
日本@名無史さん :2012/02/13(月) 17:24:51.57
邪馬台国を脅かしていた強大な狗奴(くぬ)国とは毛野(けぬ)国のことだと言われているね。
狗奴国は、許乃国(コノ国)
4 :
日本@名無史さん :2012/02/13(月) 21:59:28.04
良スレの悪寒
吉美侯部
ヤマトは、関東辺りを日本(ひのもと)と呼んでたよね そして、この地を勢力下に置いた時期に国号を日本にしてる なんで大和国にしなかったんだろう? 日本王国に敬意を払った?
7 :
日本@名無史さん :2012/02/14(火) 01:41:57.94
8 :
日本@名無史さん :2012/02/14(火) 01:48:09.63
10 :
日本@名無史さん :2012/02/14(火) 06:27:18.60
アジアは東に移動する。 日ノ本も、太陽の昇る東のほうと言う意味で、 最初は河内湾岸から見た生駒山「日下」のあたりだったとは 谷川健一説。 それがだいだん東へ移動し、 朝廷から見て最辺境を「日ノ本」と呼んだらしい。 さいごには東北がそう呼ばれた。 「ひのもとヤマト」とき「ヤマト日高見」とか言うのは 美称。
>>6 大和朝廷の関東への東征が、ことのほか上手くいったというのも、理由のひとつじゃない
ほとんど抵抗された形跡が見られない
12 :
日本@名無史さん :2012/02/14(火) 21:27:41.04
>>11 たしかに関東には毛野氏のように豊城入彦の子孫や
大彦の子孫の豪族が多いな
>>12 大和だけでなく、出雲とのつながりも感じる
栃木は出雲と並んで前方後方墳が多い地域だよ
大田原にある日本で一番美しい古墳といわれる下侍塚古墳も前方後方墳
14 :
日本@名無史さん :2012/02/15(水) 20:30:24.45
東国六腹朝臣の本貫地ってどこなんだろ 上毛野氏 下毛野氏は それぞれ その国だろうけど
15 :
日本@名無史さん :2012/02/15(水) 21:40:24.22
666年 百済人2000人を東国に移す 684年 百済人23人を武蔵に移す 687年 高句麗人56人を常陸に移す。 687年 新羅人を下野・武蔵に数十人の単位で随時移す。 716年 甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など7国の高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を置く。 <続日本紀より> 関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す証拠はいくらでもあるが、 縄文系であることを示す証拠は何も無い。 由比ガ浜の鎌倉人骨(長頭、低顔(上下に短い)、扁平な顔、出っ歯)も遺伝子解析の結果、 渡来系と判明した。坂東武者は気持の悪いチョンなんだよ、平和的な日本人らしくない。 チョンの末裔の関東人どもは、捏造をやめて事実を直視しろよ。
16 :
日本@名無史さん :2012/02/15(水) 22:27:54.49
260 本当にあった怖い名無し sage 2012/02/14(火) 08:27:21.20 ID:MvXGidh+0
酒豪マップから見える日本人のルーツと歴史
http://blogos.com/article/4003/ 下戸の比率は近畿東海北陸などが高い。
関東では群馬だけ下戸の比率が高い。
それは古来から群馬は渡来人の集積地だったからだろう↓
古代朝鮮文化訪ねる旅 15周年企画 上野・下野路(群馬、栃木)、随所に古代朝鮮の足跡
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506j1105-00001.htm >群馬県は全国でも有数の「古墳県」で、その数は1万基を上回るといわれる。
>栃木県にも100メートルを超える大型古墳や群集墳が少なくない。
>これらの古墳文化は6〜7世紀頃、古代朝鮮から渡来した新羅、百済、高句麗、伽耶などの
>移住民勢力がもたらしたもので、朝鮮系統の様式と色彩が濃く、武具、馬具、須恵器などの
>副葬品にも朝鮮渡来系のものが数多く見受けられる。
↑なんで今の韓国人は下戸が少ないのか?
今の韓国人はどこから半島に辿りついたのか?
>>14 東国六腹朝臣がみな毛野氏を祖としていることから北関東だな
大野朝臣は下野国那須郡
佐味朝臣は上野国緑野郡佐味郷
車持朝臣は常陸国真壁郡
池田朝臣はよくわからん
それにしても東国六腹の朝臣は不思議だよな 畿内以外のしかも辺境の北関東から 貴族の最高の位置である朝臣を賜る氏族がこんなにまとめて出るとは 他の地方では例がない 何か特別な理由があったんだろうな
>>10 日下も元は「ひのもと」と読んだはず、と唱えてるのが谷川説だよね。
20 :
日本@名無史さん :2012/02/16(木) 17:03:58.11
>>15 武蔵七党などにはネイティブがそれでも多いのではないか?
児玉党の児玉氏の始祖はニギハヤヒであるし、
小野姓横山党の小野氏の先祖は小野妹子であって祭神はアラハバキである。
鎌倉時代以降、このような人々が日本中に広まっていったのだ。
以下wikipedia 児玉惟行の一項目↓
(前略)上記の様に児玉氏の初姓が藤原姓だったと言うのは後世の創作と考えられる。有道(在道)氏は始め、大部氏を称していた。
大部氏が有道氏を賜った事は、『続日本後紀』に見える。従って、
大部氏→有道(在道)氏→遠峰(コダマ・コタマ)氏→児玉氏→庄氏→本庄氏と言うのが本来の流れであり、大部氏から本庄氏に至る。
大部氏の祖神はイキシニキホの命とされる(ニギハヤヒの別名とも伝えられる)。
>>1 中世の藤姓足利氏も、源姓足利氏も、新田氏も、宇都宮氏も母系氏族はみな毛野氏だよ、多分。
>>15 よく言われるのは
関東は縄文3:7弥生 高句麗 馬文化
近畿は縄文1:9弥生 百済 牛文化
>>20 児玉党の有道氏は常陸の豪族
有道の前身は丈部氏だよ
23 :
日本@名無史さん :2012/02/17(金) 00:38:54.02
>>21 それどころか、あの「大魔神」も毛野氏だw
群馬で出土した国宝の武人埴輪がモデルだからね
さらに言えば武人埴輪は現代のガンプラ
つまり、ガンダムも毛野氏を祖としているのだw
24 :
日本@名無史さん :2012/02/17(金) 08:33:18.34
まず、北関東の地に国譲りで国を追われた出雲の人々がやって来て平地を開拓。 山地に住む縄文人と交流、混血した。 やがて、大和の人々が毛野川(現利根川)伝いにこの地に進出し、毛野氏を興す。 この地でも国譲りが行われたということなのか?
アメリカから見た鎌倉:ブレイスのアイヌ−サムライ説 1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。 この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、 鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。 今回、ブレイスの頭蓋骨計測データを新しい統計処理法を使って再分析した。 また、歯の計測データに関しては、ブレイスらは歯の合計面積の平均値のみを使って集団間の血縁関係を議論したが、 今回は、個々の歯のサイズのデータを用いて多変量解析を行い、それらの結果を報告する。
手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離 (山口敏『日本人の顔と身体』より) 0.000…朝鮮半島 0.007…近畿地方 0.012…中部地方 0.035…中国地方 0.035…九州地方 0.038…四国地方 0.048…関東地方 0.068…東北地方 0.092…南西諸島 各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値 (池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い +2.12…畿内 +1.08…四国 +0.76…東中国 +0.70…西中国、北東九州 +0.51…関東、東北 +0.40…北陸 -0.87…西九州、南東九州
27 :
有道氏・後裔 :2012/02/19(日) 02:29:48.30
有道氏の前身は大部氏ではなく丈部(はせつかべ)であって、丈部氏と氏を付けてはいけない。
この丈部は平安期には駆使丁とされてきたが、古王朝においてかなり枢要な役を任じていた
族の後裔であることが、近年分かってきた。そして、その丈部の後裔から"有道"を賜姓され
た族が北条氏や室町幕府を事実上支配した伊勢氏、江戸幕府の主要幕閣を任ずる氏族が派生
していることが論証できるのである!
http://kamakuragokenin.blog.fc2.com/
28 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 03:28:57.86
元の意味が何であろうが、それが氏(うじ)になったってことだろ。 それが駄目なら同様の理由から、物部や大伴や中臣や忌部だって「氏」をつけちゃいけないことになる。 ちなみに、武蔵国造も出雲氏族・丈部氏(のちには武蔵宿禰氏)の出だ。
29 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 11:22:22.43
毛野氏って平氏じゃん?
DNA鑑定してみ、Qとか出るかも。
http://www.familytreedna.com/default.aspx (英語だし高いし、自分はできないけどさ。。)
いわゆる「縄文人」とはちょと違う。
韓国にも、たまーに濃い顔のイケメンいるでしょ。
あれも毛野の遺伝子ね。
あっちには「縄文人」のDNA出てないし。
邪馬台国のライバルだった狗奴国も毛野の国だけど、
北関東の毛野組とは別の一派。
桐生(群馬)と西陣(京都)は日本有数の織物(特に帯)の産地だった。
毛野の女子は織物が得意なんだよ。
田辺史は毛野氏族を称していますが、 どう見ても帰化系です。本当にありがとうございました
31 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 11:51:34.24
だって毛野系の人、韓国(新羅)にもいたから。 だいたい同系の人がいる所に住まわせてるみたいよ。 百済人を東国にってのはよく分からんけど。
32 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 12:28:40.47
>>30 藤原不比等は、幼少期に田辺氏に育てられているね
34 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 13:15:43.14
新撰姓氏録ってうさんくさくねえ? この板ではバイブルみたいに持ち出すやついるけれども
35 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 13:21:34.16
>>34 それを言うなら、古事記や日本書紀はもっと胡散臭くね?
36 :
日本@名無史さん :2012/02/19(日) 13:35:13.02
>>35 特に物部氏のうさんくささは半端ないね
神武天皇が来ました〜ニギハヤヒは服従しました〜
あっ、これ物部氏の祖先だから!
ヤマトトイモモソ姫がレイプされて亡くなりました〜
レイプ犯を奉れば国は安泰でしょう〜
大物主さまバンザイ
な ん だ そ れ は
だいたい大物主って名前からして大国主のパクリなのがみえみえ
38 :
日本@名無史さん :2012/02/20(月) 22:13:44.93
伊達政宗も毛野氏なんでしょ?
39 :
日本@名無史さん :2012/02/20(月) 22:17:06.61
あと奥州藤原氏も
40 :
日本@名無史さん :2012/02/20(月) 22:21:09.54
あー、徳川氏もそうか...
41 :
日本@名無史さん :2012/02/22(水) 02:19:34.61
42 :
日本@名無史さん :2012/02/22(水) 02:23:12.95
>>41 顔が猿に似ている
広く厚い胸と丈夫な息づかい
弓が得意
奥州の厚樫山出身
猿麻呂は間違いなく俘囚だろうな
下毛野氏はその猿麻呂と親戚筋
実際、下戸遺伝子やアクセントの違いを見ても、同じ毛野氏でも群馬は弥生が強く、栃木は縄文が強い
なかなか面白いな
なにが「間違いなく俘囚」だ バカが
45 :
日本@名無史さん :2012/02/22(水) 09:06:37.28
昔話板じゃなくて日本史板なんでね、一応
47 :
日本@名無史さん :2012/02/22(水) 20:11:24.51
たしかに同じ毛野国なのに上野と下野は方言だいぶ違うんだよな
ほうほうそうなのか。 どんな感じ?広島弁に似てたりしない? わしは〜じゃのう。とか言わない?
49 :
日本@名無史さん :2012/02/23(木) 03:44:04.93
群馬県、玉村町ってひょっとしてかなり重要な地点なのかな 古墳が多くあり、竜神を崇めていた伝説や 朝廷から魔物討伐に派遣された武士に倒された魔物が 神として畏れ崇められているし
小野姓横山党との関係は?
54 :
日本@名無史さん :2012/03/08(木) 23:58:12.77
>>54 武蔵国のむさしは、人の住めない、むさ苦しい土地という意味があるらしいね
>>55 他にもアイヌ語で草原を意味する「ムンザシ」など様々な説があるね(※万葉集に「牟射志」=ムンザシとの表記あり)。
>>53 小野横山党は興味深いね。
加えて、小野氏が入り込む前の小野県のあたりの土着豪族にも。
武蔵国一宮と位置付けられる小野神社や、総社になる以前の大國魂神社などを調べているとその思いを強くする。
初代武蔵国造・兄多毛比命は天穂日命後裔で出雲氏族なんだけど、この命は大國魂神社界隈を中心とした多摩川流域で多く祀られている。この大國魂神社が先に述べた小野神社を一宮と位置付けていることから、
武蔵総社である大國魂神社は、延喜式名神大社である氷川神社よりも、延喜式小社である小野神社の方を明らかに大切にしている感が伺える。
国が定めた格式(延喜式)と、現地武蔵国の総社が定める順位に「ねじれ」生じているわけだからね。
そうなると、“原大國魂神社”と小野神社とは元々一体のものであったという推論も成り立ってくるだろう。
そして、総社になる以前の大國魂神社は代々出雲氏族である武蔵国造一族が奉祭を司っていたことから、
やはり小野党も(小野氏が入ってくる前の)さらに前身氏族を辿れば、それは同じ出雲氏だったとするのが妥当ではないか。
加えて、律令時代に名神大社とまで位置付けられる氷川神社を奉祭していた北武蔵勢力は実は武蔵においては後発氏族で、 多摩川(〜鶴見川)流域を支配する南武蔵勢力の方がより先行開発氏族だった。 6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」においてこの多摩川流域勢力は、氷川神社を奉祭する元荒川流域の新興勢力に破れ、国造の地位も元荒川勢力にとって替わられる。 この戦いで、南武蔵の多摩川流域勢力が同盟を結んだのが上毛野氏だった。 一方新興勢力の元荒川流域勢力が結んだのが大和朝廷。 関東における基層覇者勢力である毛野氏と、武蔵国内での先行開発勢力である南武蔵・多摩川流域勢力とが結び、 新興勢力である北武蔵・荒川流域勢力とこれまた出雲に代わる新興勢力であった大和朝廷が結んだというのが面白い。 最も、古参の南武蔵・多摩川流域勢力も、新興の北武蔵・元荒川流域勢力もともに姓は「笠原」で、姓のうえでは両者は同族の出雲系氏族ということになる。 これは多摩川流域と元荒川流域では元々支配勢力は違っていたが、ともに出雲氏から婿を迎えた招婿婚によって「同族化」したものなのだろう。
↑の「名前欄」は 「56つけ足し」 の間違い。
>>57 古墳の年代観としては、多摩川流域とかよりも埼玉古墳群の方が古くないか?
それを多摩川流域の勢力のほうが先行とするのはなんで??
このことを踏まえれば、埼玉古墳群の被葬者層を旧勢力として、多摩川流域
の勢力を新興勢力って位置づけるほうが自然。
それに武蔵国の国府が置かれた場所は大国魂神社付近だから(府中)、律令の時代まで自然に
結びつけることができるよ。
多摩川なんて毛野国から見れば辺境の地だからな
>>52 そこの川よりがBなのと因果関係あるのかね?
62 :
日本@名無史さん :2012/03/12(月) 21:26:24.68
>>59 ☆埼玉古墳群(北武蔵=元荒川勢力)
・稲荷山古墳:5世紀末〜6世紀初頭
・丸墓山古墳:6世紀前半
・二子山古墳:6世紀前半
・将軍山古墳:6世紀末〜7世紀初頭
etc
☆荏原台古墳群(南武蔵=多摩川勢力)
・宝来山古墳:4世紀後半
・亀甲山古墳:4世紀末〜5世紀初頭
・野毛大塚古墳:5世紀前半
etc
ちょうど入れ替わるように武蔵の古墳の築造年代は南武蔵=多摩川エリアから北武蔵=元荒川エリアに移動してるんだよ。
それから武蔵国府が南武蔵=多摩川エリアに置かれたのは、6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」の結果、
勝利者となった北武蔵勢力により、破れた南武蔵勢力の領域が北武蔵の後ろ楯となった大和朝廷に屯倉として献上されたから。つまりは律令制施行時には朝廷の直轄地となって久しくなってたからだよ。
「武蔵国造の乱」の経緯は、『日本書紀』安閑天皇御代元年閏十二月条に載ってるよ。
このテーマに対してレスしてくれるのは嬉しいが、もうちょっと勉強してくれ。
63 :
日本@名無史さん :2012/03/12(月) 21:27:11.19
65 :
日本@名無史さん :2012/03/12(月) 21:35:16.22
>>62 これって甘粕健とかの古い説じゃないの。古墳の年代観は何に拠ってるの?
今までの諸説の経緯とか示して頂けると助かります。
>>65 古墳の規模からそれを造ることができる有力な首長がいたってことは
いえても、本当に国造職ってのはその在地社会の一番の有力者を
任命していたのか、そこまでいえるのかって所に疑問をもってる。
古墳を扱う研究者はみんなそこを自明のものとして扱ってるけど、
現に有力な古墳は武蔵国内の他の地域に色々ある。
例えば埼玉古墳群内の最大級の古墳である稲荷山とか双子山に匹敵する
古墳として、築造年代が同時期にあたる野本将軍塚古墳とかあったり、
単純に古墳の最大規模=国造の墓といえるのかってこと。
これは国造職そのものの任用の問題ともかかわるんだろうけど。
もちろん、示してくれた古墳の築造年代が接続するから国造職の勢力間の
移り変わりがあったんだという考え方は、わかりやすい見解だと思うけど。
68 :
日本@名無史さん :2012/03/12(月) 22:00:17.70
>>66 古いのかどうかは知らんが築造年代は古墳の埋蔵品などからの比定だよ。
逆に、より「新しい」築造年代比定がなされたんだとして、それで南武蔵→北武蔵の権力の移動の順位が逆転するものなのかどうか?そんなソースがあるなら是非示して下さい。
69 :
日本@名無史さん :2012/03/12(月) 22:09:32.77
>>67 武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
因みに、
隣の相模国だと、相武国造、師長国造と並んで「鎌倉別」という勢力が有って、少なくともこの3つの勢力が鼎立していたとされる。
まあ相武と師長は令制前は別の国ではあるが、相模国が成立した後も同国は相模国造が任じられているから(いわゆる「律令国造」)。
>>69 武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味
がある。もちろん、国造云々の時代は、各豪族の縄張りみたいなもので
ある程度線引きしたものであったんだろうけどね。今自分たちが思い描く
国境っていう概念ができたのは天武朝の国境画定事業であって。
>武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
→これは面白い。となると、どういう選定理由で国造職をヤマト王権は決めていたのかとか、
そもそも国造職は一人だけだったのか、とか色んな疑問がわいてくる。
これ以前だと「県」との関係とかどうなんだろ。
71 :
日本@名無史さん :2012/03/13(火) 02:51:39.06
『遊牧騎馬民族と東国武士 』
著者:保坂俊三
出版社:中央公論事業出版
item.rakuten.co.jp/book/1076854/
593 名前: 天之御名無主 投稿日: 01/10/01 19:52
以前図書館で「遊牧騎馬民族と東国武士」という本で興味深い内容を読
んだ。遼東半島に居た倭人が拓跋氏に捕らえられ、海で獲った魚を拓跋
に供給していた。これが禿髪氏。その後拓跋氏は魏を開いたが、禿髪氏
は同じ鮮卑であり、源が同じということで皇帝から「源」の姓を賜り、
将軍職を与えられるなどたいそう出世した。禿髪とはちょんまげの事。
つまり、日本の東国に入植した、出土品から見て異民族に思える騎馬集団、
のちの武士は禿髪氏の事である、というような内容だった。参考までに。
http://mimizun.com/log/2ch/min/989770047/
72 :
日本@名無史さん :2012/03/13(火) 07:44:33.37
>>70 > 武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味がある
氏姓制度時代の北武蔵エリアは本当に元から武蔵国だったのかっていう疑問もあるね。
後発開発地域で5世紀末になるまで大型古墳が存在しなかったっていうことは、当然より強大な先進地域である毛野国のテリトリーであったからということであるのかもしれない。
それから、国造封建については1人が任命される場合もあれば、一国に2人(以上)任命される例などもあったみたいだし、
上で挙げた「武蔵国造の乱」のような覇権戦争その他理由で交代する例もあったみたいだ。
国造封建は成務朝期に多い。やはり日本武尊絡みかな。
国造の任命については元からの在地豪族が任命される場合もあれば、中央朝廷から派遣されて(封をうけて)任命される場合もあったようだ。
つまり、のちの鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の守護地頭や大名の任命の仕方とおんなじ。
ああ、わかりやすく歴史で書くとな。日本史の史実はホントはこうだ。 そして坂東武士そのものは 承久の段階でもう坂東の軍団の合計3割 10万以上は占めてた坂東武士一計そのものだろ
>>62 ならば、5世紀後坂東武士がとりかえすんですな。
76 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:5) 【東電 52.7 %】 :2012/09/13(木) 05:50:00.94
77 :
日本@名無史さん :2012/09/15(土) 10:08:44.18
>>15 >関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す
>証拠はいくらでもあるが、縄文系であることを示す証拠は何も無い。
大嘘。
関東ではD2の比率が高いが、朝鮮にはD2はまずない。
むしろ中国・朝鮮に多いO3の比率は西日本で高い。
78 :
日本@名無史さん :2012/09/15(土) 19:57:51.72
畿内古墳人は 渡来系古墳人の中でも渡来形質が特に際立っている集団である 畿内古墳人は 韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し 縄文人から最も離れている 関東・東北南部古墳人は 渡来系古墳人の中で縄文人グループに最も近い 『日本人のきた道』 (池田次郎・京都大学名誉教授 自然人類学)
三毛野命 若三毛野命
80 :
日本@名無史さん :2012/10/12(金) 21:18:16.84
>>79 神武天皇のことか
けぬってどういう意味なんだろうな
百姓上毛野貞並
83 :
日本@名無史さん :2013/02/06(水) 14:19:45.67
>>80 だから神武天皇の乳母氏族が毛野國の人だったんじゃね?
昔の皇族の名前って母親の氏族名か乳母の氏族名つけるじゃん
中臣=藤原氏も元は軍事貴族で畿内から関東に遠征し通婚して常陸や房総に地盤を得たのかな だから鹿島神宮=春日大社のつながりがある あるいは元々地方の勢力だったのが連合政権を作り、首都周辺に集住し豪族層を形成する 後の室町時代、江戸時代を考えても官僚層は地方に地盤があるね
85 :
日本@名無史さん :2013/02/22(金) 13:49:37.69
>>84 中臣氏は神官の家系で元々軍事貴族ではないだろう
中臣氏の中でも、毛野氏の後ろだてを得た藤原氏が、後々政治的軍事的に突出した力をつける事ができたが
86 :
日本@名無史さん :2013/02/22(金) 21:09:41.94
>>85 藤原はむしろ大伴に近いんじゃね?
中臣鎌足の父中臣御食子辺りまでは神官やってたらしいんだが
中臣鎌足の実母が軍事氏族の大伴氏出身
鎌足が母方の縁で軍事力を身につけてもおかしくない
87 :
日本@名無史さん :2013/02/22(金) 21:38:26.87
>>86 鎌足は生前には藤原姓を名乗っていない
実質的な藤原氏の祖は不比等だろう
不比等の母親は上野国の地方豪族車持氏の出、つまり毛野氏だ
中臣氏も尊卑分脈からだけでは推し測ることの出来ない難しい氏族ですよね。 九州・宇佐津臣(宇佐国造)の一族に仲津臣(なかつのおみ)という氏族がおり、この氏族が常陸に移動して鹿島神宮宮司の多臣(おおののおみ)氏と、 常陸・那賀国造(なかくにのみやつこ)氏とに分かれます。 那賀国造氏は同時に那賀臣(なかのおみ)氏、仲臣(なかのおみ)氏、そして中臣氏とも称しました。 また、那賀国造の「那賀」は、宇佐国造一族である仲津彦の「仲」に由来するものと思われます。 そしてこの宇佐津彦(宇佐国造)、仲津臣氏、多臣氏、那賀国造(=那賀臣、仲臣、中臣)氏の共通先祖に天種子(アマノタネ)命という神がいます。
89 :
日本@名無史さん :2013/02/22(金) 21:59:13.01
>>87 天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたのは鎌足
通例で中臣と呼んでいるだけで藤原鎌足でもあるんだよ
だいたい、藤原が朝廷で重んじられるようになったのは鎌足の軍事行動によってだ
それでは鎌足の軍事力はどこから来ていたと思うのか?
車持氏は名の通り、天皇の輿を担いだ一族だが傑出した大和朝廷の軍事氏族ではない。
90 :
日本@名無史さん :2013/02/22(金) 23:20:22.92
>>89 軍事行動って何を言ってる?
中臣氏は「壬申の乱」でボロ負けしてたろ
近江方の中心人物だった中臣氏族長の連金は乱後に処刑されてる
頼みの大伴氏も大海人皇子側に付いたしな
中臣鎌足は弓削大連・物部守屋の曾孫か玄孫くらいだと思います。
92 :
日本@名無史さん :2013/02/23(土) 15:46:41.79
>>88 へぇ、面白いね。
ところで、中つながりで、天智天皇(中大兄皇子)には、何か氏族的なつながりがないのかな。
93 :
日本@名無史さん :2013/02/24(日) 13:56:28.92
>>89 確かに壬申の乱後の中臣氏・藤原氏の立場はかなり微妙なものになったし
両氏はこのまま歴史の舞台から消えてしまう可能性もあった
大伴氏が天武側についた事がこの乱の勝敗を決めたともいえるから
父を裏切った大伴氏に対する不比等の恨みは相当のものだったろうね
94 :
日本@名無史さん :2013/02/24(日) 14:03:31.82
95 :
日本@名無史さん :2013/02/26(火) 01:12:52.96
天武十三年(684年)の「八種の姓」で毛野一族である「東国六腹」は そろって朝臣の姓を与えられているね 当時、朝臣を与えられた面々を見ると畿内の大豪族ばかりなので、 地方豪族にすぎなかった毛野氏に朝臣が与えられたのはかなり異例な事だね なんでなんだろ?壬申の功臣だった?そんな話は聞いたことないけど
96 :
日本@名無史さん :2013/02/26(火) 01:29:46.43
さらに不思議なのは 毛野氏に朝臣の姓が与えられた時、中臣氏にも同じ朝臣の姓が与えられたが 壬申の功臣であるはずの大伴氏に与えられた姓はワンランク下の宿禰だったという事だ
97 :
日本@名無史さん :2013/02/26(火) 01:49:30.57
神別系で優遇されたのは中臣藤原氏と石上朴井の物部氏だけだから。 同じく神別系の大伴は除外された。
久米、大伴は同族な気がします。 また大伴、物部、中臣は緩やかな同族かと。
>>95-96 おまえはなにをいってるんだ?
不思議でもなんでもないだろ。
上毛野氏も下毛野氏も、北関東と畿内の両方に繁茂してる立派な大豪族だぞ
100 :
日本@名無史さん :2013/02/26(火) 23:00:05.89
>>99 上野、下野、車持だけならまだ分かる
大野、池田、佐味なんてそんなに立派か?
畿内やその周辺にももっと有名豪族がいただろ
大伴とか忌部とか尾張とか吉備とかさ
>>100 毛野氏は一族の結束が強かったから
六氏族すべてに同等の姓を与える必要があったってことだろうね
まあ、それだけ一族の力が強かったってこと
武力については蝦夷と接する土地柄だから言わずもがなだけど
財力についても他の豪族をはるかに凌いでいたようだ
例えば、下野国では持統天皇の病気回復を願って
平城京内の七大寺に比肩されるほどの壮麗な大伽藍を持った
官寺「下野薬師寺」を建立しているし
「公地公民」では率先して奴婢六百人を解放している
普通、奴婢は畿内の大豪族でも十数人程度だったといわれているから
いかに下野一族の勢力が大きいものだったかわかるよね
カバネってのは個人に与えるんじゃなくて 一族全体に与えるんだから何もおかしくないだろ 出世頭が一人いれば一族全体が余沢にあずかるって仕組みじゃん
103 :
日本@名無史さん :2013/02/28(木) 21:50:39.19
オビ=ワン・毛野氏
105 :
日本@名無史さん :2013/03/02(土) 10:21:00.10
下野古麻呂って何者なんだろう? 最終的な冠位と役職は「式部卿大将軍、参議、正四位下」 ・式部卿 ・・・ 文官の人事を担当した式部の長官 ・大将軍 ・・・ 最大で三万人の兵士を統率する指揮官 ・参 議 ・・・ 国の最高決定機関である「朝政の議」に参加できたのは大臣、納言、参議のみ 出世競争で差別されていた地方豪族出身者が、これほどの高位にのぼるのはきわめて異例だ 古麻呂以前には例がないし、古麻呂後でも古麻呂の上を行ったのは吉備真備以外にはいない
106 :
日本@名無史さん :2013/03/04(月) 01:30:08.29
持統天皇即位以前の古麻呂は無名の下級官僚にすぎなかった それが持統朝になると一転めざましい活躍をみせるようになる 既に持統天皇や草壁皇子と親密な関係のあった藤原不比等からの 推挙があったかもしれない 古麻呂は生涯、不比等と行動を共にしている
107 :
日本@名無史さん :2013/03/04(月) 22:41:22.90
大野東人は?
108 :
日本@名無史さん :2013/03/05(火) 00:42:32.11
>>107 おっと、同族の大野東人を忘れてた
ご指摘感謝
109 :
日本@名無史さん :2013/03/05(火) 23:57:55.69
斉明六年(660年)唐・新羅連合軍の侵攻により百済が滅亡。 中大兄皇子は百済の遺臣「鬼室福信(きしつふくしん)」の要請により 人質「余豊璋(よほうしょう)」に織冠を与え、護衛兵5千余人を付けて送り返す。 さらに天智元年(662年)日本より送られた救援軍は余豊璋を国王とし百済を復興。 翌年、二万七千の主力軍が新羅に向けて出撃。 前軍の将軍は「上野稚子(かみつけぬわくご)」。 稚子らは新羅の二城を奪うなど緒戦は優勢であった。 このとき青年となっていた古麻呂はすでに出仕していただろうか、 同族の上野稚子の活躍を誇らしく思いながら見守っていたに違いない。
111 :
日本@名無史さん :2013/03/10(日) 10:45:19.32
ところが、何を血迷ったのか余豊璋が鬼室福信を謀反の罪で殺害。 この内輪もめにより百済軍は空中分解する。 日本軍は指揮系統が不明瞭なまま唐・新羅連合軍に単独で対峙しなくてはならなくなった。 結局、日本史上初の対外戦争であった「白村江の戦い」は惨敗という結果に終わった。 敗戦の原因は、余豊璋の度重なる軽率な行動もあったが、 日本の救援軍が豪族の私兵の寄せ集めに過ぎず、 国家による軍団制が完成していなかったことが大きい。 毛野一族にとっても多くの私兵、そして将軍上野稚子を失うという 大きな痛手を被る戦であった。
余豊璋は無能
113 :
日本@名無史さん :2013/03/11(月) 07:16:38.64
崇神の皇子、トヨスキイリヒコは東国を収めるように命じられる。 トヨスキイリヒコの孫の御諸別の代に、 崇神の孫である景行が、 御諸別に「汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ」 と命じたとある。 時系列的には不自然ではなく、 毛野がヨスキイリヒコ並びにその子孫を始祖とするのもまた不自然ではない。 ご都合主義的に書紀を利用してきた、従来の逆皇国史観はおいといて、 日本書紀の記述は案外正確。
114 :
日本@名無史さん :2013/03/13(水) 01:02:36.53
>>111 の続き
「白村江の戦い」の敗戦処理で国内が混乱する中
唐からの使節団と共に、満を持してあの男が帰ってくる。
学問僧として渡唐していた不比等の兄「定慧(じょうえ)」である。
孝徳天皇の後胤だといわれる定慧を父・鎌足は彼の安全のため唐に留学させていた。
しかし、定慧の外交能力を必要した鎌足が呼び寄せたのだ。
また、年老いた父を持つ若い不比等のためでもあった。
もちろん、定慧の母親は不比等と同じ車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)。
毛野氏である。
115 :
日本@名無史さん :2013/03/16(土) 17:50:25.13
定慧の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」という。 還俗して名を真人に戻したが、今もなお、その命を狙われる身。 そのまま中臣氏でいるわけにはいかなかった。 定慧帰国前のある晩、鎌足は粟田百済(あわたのくだら)を自分の屋敷に招いた。 百済「ところで内臣殿、私に内々の頼みとは何でございましょう?」 鎌足「実は近々、長男の真人が唐から戻ってくる。 その真人を百済殿の子息として迎えてはくださらぬか? 無論、貴殿及び粟田一族の悪いようにはせぬ。 このような事を頼めるのは身内である貴殿しかおらぬのだ。」 粟田氏は中臣氏と関わりの深い春日氏の後裔氏族である。 個人としても粟田百済は大事を共することができる人物であった。
116 :
日本@名無史さん :2013/03/17(日) 05:06:58.74
>>115 面白い話だが、
>粟田氏は中臣氏と関わりの深い
ことを論証できないとただの思いつき、妄説に終わってしまう。
117 :
日本@名無史さん :2013/03/17(日) 05:31:31.34
粟田氏限定というよりも、同氏を含めた和邇・久米氏族と中臣・藤原氏族との結び付きについては確かに注目すべきものがあると思われます。 鹿島神宮宮司家の多氏・仲臣(中臣)氏のルーツである宇佐氏(宇佐国造氏)と神功皇后の出身氏族である息長氏との関係や、 春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。
119 :
日本@名無史さん :2013/03/17(日) 20:20:32.38
>>118 >春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。
考えられるのは、藤原史と粟田真人との関係。
それ以外の結びつきには首をひねってしまうが。
120 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 18:48:55.91
「特に関東地方は朝鮮人の非常に多い所ですからね。 奈良朝以前の大和朝廷の時代から、平安朝初期にかけて何度も大量に集団移住しています。 とりわけ、この武蔵国、今の東京都、埼玉県は朝鮮人の拓いた土地ですから、朝鮮の服装をしていてもいいんじゃないですかね。今のような白い衣装の─」 「僕はいわゆる坂東武士というのは、朝鮮人の血が非常に濃厚に入っていた、ということを最近考え始めたんですけれどね。 従来の日本人と違って坂東武士は、荒々しくて勇敢で強情っ張りでね、そういうところは、やはり朝鮮的性格だと思ってるんです。」 海音寺潮五郎『覇者の條件』より
121 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 19:23:38.63
名の謎は解けたぞ
122 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 19:36:14.24
江戸時代あたりそんなもんを持ち出してロシア辺りと取り引きしてたんだろ ば〜か^_^
123 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 19:40:58.61
北方漁港関連ばれてるぞ
124 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 20:30:53.49
上毛野氏→赤城神社 下毛野氏→二荒山神社 共に豊城入彦命と大己貴命を祀っている不思議
豊城入彦が大物主信仰を関東に持ち込んだんじゃないかな 神話扱いされがちな豊城入彦だけど、普通に関東に来てたと思うんだが
毛野氏の子孫かどうかは、話をすればすぐわがっペ? 茨城:だっぺ 栃木:だべ 群馬:だんべ 東京に長く住んで標準語で話しているつもりでも、 興奮すると尻上がりのイントネーションになるのが毛野氏の子孫。 すぐ、わかんべ?
127 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 21:53:20.37
豊城入彦前後は関東統治のために結構皇族将軍派遣してたと思うんだよな ヤマトタケルもその一人 大きな視点で見ると畿内と関東の分割統治のような形態
129 :
日本@名無史さん :2014/03/26(水) 23:25:46.67
縄文人成りすまし工作スレ
130 :
日本@名無史さん :2014/03/27(木) 01:46:04.08
>>120 山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響を
もっとも多く受けたものの一つですから、
それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで
受けつづけてきたところですから。
そういうことがあって、長州的思考法というのは
ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。
司馬遼太郎
なんか必死だけど今の朝鮮半島民とは DNAレベルでなんの繋がりもないから
132 :
日本@名無史さん :2014/03/27(木) 02:07:38.54
133 :
日本@名無史さん :2014/03/27(木) 09:41:52.36
131 朝鮮半島と関係あったかも疑問 どうみてもいつからかきた朝鮮?系とやらがやたら主張してるのか?
134 :
日本@名無史さん :2014/03/27(木) 09:43:31.32
130 それで影響あるなら倭寇関連だぞ 海賊の話
135 :
日本@名無史さん :2014/03/27(木) 21:24:49.80
>>128 ちなみに下野足利の地名の由来のに日本武尊の御子の足鏡別王がこの地方を治めた縁か、
豊城入彦命の子孫である鹿我別命が治めたので命名されたらしい
136 :
日本@名無史さん :2014/03/27(木) 21:44:43.17
白村江の戦い迄は半島との繋がりは強かった。 大和朝廷の海外領地の任那も有った。 百済や新羅には頻繁に倭軍が進攻し、高句麗とは半島中部で合戦をした。 百済は王子を人質として大和へ送るなど明らかに服属していた。 半島で一生を終えた倭人の有力者も多く、彼らは前方後円墳を築き、今も眠っている。 そんな中では、「韓子」と呼ばれる日鮮混血児も多く誕生した訳だ。
>>135 「日本書紀」によると継体天皇6年(512年)に大伴金村は任那4県(上多利、下多利、娑陀、牟婁)(多利には口篇がつく)を百済に譲渡してしまいます。
任那4県に住んでいた倭人の多くは日本に移住することになりました。
任那3県の一つ多利から日本に帰国した倭人は、東国の足利に代わりの領地を与えられました。
隋書俀国伝には、600年と607年に倭王の阿毎多利思北孤が使者を遣わせて朝貢したと記述されており、
隋の事情にも明るい多利思北孤が隋に派遣されたのです。
この方が、聖徳太子ではないかと思われるわけで、足利将軍の血筋の良さが伺える逸話です。
138 :
日本@名無史さん :2014/03/30(日) 20:58:44.92
足利には毛野町と言う名前の地域が残っているらしいね
> 韓子 なにこれ酷いw
140 :
日本@名無史さん :2014/03/30(日) 21:35:25.20
蘇我韓子 蘇我高麗 蘇我蝦夷
141 :
日本@名無史さん :2014/03/30(日) 21:41:07.70
なんだ変なのみつけてうれしそうだなw まあどっちにしろルーツは半島にないからよ
142 :
日本@名無史さん :2014/03/30(日) 21:46:27.30
新田の地ってか上野は浅間の、火山噴火で壊滅してそのあとに開墾しなおしているんだよな ならその前はどんな勢力があったかといえば信濃全域から上野西部にかけては貞保親王の伝承 なんだね
143 :
日本@名無史さん :2014/03/30(日) 21:51:50.48
菅原道真の話なんかも絡んでくるんだよな
144 :
日本@名無史さん :2014/03/31(月) 19:37:51.22
毛野氏は上野守の中にその名前が見えるな その上に太守というのがいてこれが親王が太守になっている 平将門が親皇を名乗ったときに常陸、上総は介にしたが上野 守を任じてるんだよな なんらかの敵対関係でもあったか?
145 :
日本@名無史さん :2014/03/31(月) 20:30:33.17
桓武天皇以降だが14人が太守になってるな 葛井親王 明日香親王 阿呆親王 葛原親王 秀良親王 仲野親王 本康親王 忠良親王 時康親王 賀陽親王 惟桓親王 惟彦親王 貞保親王 貞元親王
146 :
日本@名無史さん :2014/04/03(木) 20:15:05.09
>>128 ヤマトタケルって架空人物じゃなかったけ?
147 :
日本@名無史さん :2014/04/03(木) 20:24:39.16
148 :
日本@名無史さん :2014/04/03(木) 21:07:11.86
なにを魂消てるんだ?
149 :
日本@名無史さん :2014/04/05(土) 09:21:35.58
『西遊草』
著者:清河八郎(山形県=出羽国東田川郡清川村出身の幕末尊攘派志士。剣は北辰一刀流)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/Kiyokawahatiro.jpg ▽庄内人
他国の者は胸の中がらりとしていて、我が庄内人のような決断のつかぬのと比べものにならない。
▽名古屋
瓦屋根の並んでいる様は京にも大坂にも劣らないが、人々の口のきき方は軽薄である。
▽岡山
東西に開け村々も多く、山にも海にも産物が豊かであるから、よろしい土地である。
▽関東
剛強な気質で心正しく、人を憐れむ。関東に遊ぶものはあっさりとした心で楽しみ、ものを疑う必要がない。
▽江戸
関東の中でも最も清潔な所だから安心してよい。
▽関西
柔弱で事に堪えず、人を欺く。上方に至るものは万事につけて注意に注意を重ね、手落ちのないように心懸けなければならない。
▽播磨
人情が極めて軽薄で、実意のない通り一遍のあしらいで人を欺くことが夥しい。
▽京都・大坂
京都は四方に山を負い綺麗な水が多い。中でも鴨川の水の清らかさは人の知るところである。
京師は口先はうまいが心がねじけているので、買い物は大坂がよい。
大坂は江戸に比べると客が少ないので食物は万事よろしくない。中でも鰻は最もまずい。食わない方がよい。
京・大坂は人にへつらうばかりで意気が上がらず、東方男子の風と異なる。
▽宇都宮
下野の中でも格別気風の荒々しい所だから、万事につけて人に後れを取ることを嫌うという片意地な悪習慣がある。
▽陸奥国
関東とは人の気持ちも違い、かつ言語も思いのほか鈍重である。
▽福島
町家は特に見事だという事もないが、近辺から人の集まる所で、何事につけても上品である。
▽米沢
近辺の国々よりも優れて政治が行き届いているから、人は皆穏やかな気立てで、人情に厚い。
150 :
日本@名無史さん :2014/04/05(土) 23:26:18.94
つうかさ宇都宮氏や小山家はあからさまに毛野氏族の末裔でしょ どう考えても藤原家は自称
宇都宮は。うそ臭いけど 小山は秀郷流でしょ
152 :
日本@名無史さん :2014/04/06(日) 07:11:15.46
寧ろ秀郷流は下向して土着した連中 毛野末裔なら宇都宮じゃね?
大伴や藤原姓の人は、かなりの人数が残っているのに、 毛野姓の氏族は壊滅。 これは何を意味するか、説明できる人はいないだろうな。
現代に残っている毛野の名門は奈良原とかかね。 足利あたりから熊谷あたりにけっこういる。
155 :
日本@名無史さん :2014/04/07(月) 20:57:59.65
>>153 むしろ超簡単だろ
毛野氏族は関東に無数に存在したが、こぞって藤原や板東平氏や大江や源氏を自称 して生き残ったのが関東武士団というたけだろ
岩宿遺跡から遡るべきだと思う
157 :
日本@名無史さん :2014/04/17(木) 21:23:12.08
>>152 藤原秀郷は毛野一族でなんちゃって藤原氏
下向したのは将門の乱を収まった後、ぞろぞろ下向した南家の連中
158 :
日本@名無史さん :2014/04/17(木) 21:25:05.03
153 火山噴火
159 :
日本@名無史さん :2014/04/17(木) 21:28:06.32
日本書記が書かれた年代に火山噴火起こしてる じゃなきゃあれだけの勢力をもってたのが消える わけがない
160 :
日本@名無史さん :2014/04/17(木) 21:31:58.35
ちゃんと信濃あたりの草木全滅とかの言い伝えあるけど 誰も注目しないのなんでだ? 新田にしろ火山噴火後のとこを開墾してるんだが
161 :
日本@名無史さん :2014/04/17(木) 21:39:36.36
157 おいおい その藤原氏自体が車持氏の娘を嫁をもらって成立してるんだが?
>>157 毛野一族の藤原秀郷の末裔が藤性足利氏なんだよな
藤性足利氏は秀郷家系の嫡流・とことん毛野一族
南家は言わばハイブリットで朝廷に毛野の娘を献上していた
163 :
日本@名無史さん :2014/04/22(火) 21:07:35.53
164 :
日本@名無史さん :2014/04/29(火) 10:15:50.20
おれが思うに、 例えば、藤原の分家や家臣は、 阿藤、伊藤、江藤、尾藤、 加藤、木藤、工藤 佐藤、志藤、須藤、瀬藤、 武藤 他に安藤、遠藤、近藤、進藤、 武藤、兵藤、斎藤・・など、「藤」を名乗ったものが多い。 一方、毛野の分家、家臣は、 阿野、井野、宇野、江野、小野、 狩野、紀野、久野、毛野、 佐野、志野、巣の、瀬野、曽野、 田野、茅野、津野、手野、 真野、三野、 矢野、与野、 他に、浅野、上野、大野・・ 日本では、「藤」系より、むしろ、「野」系の方が多いかもしれない。 wikiによれば、 大野氏は毛野氏の支族。一説では下毛野尼古太の子で、下野国那須郡大野邑に居住した若古を祖とする。 小野氏は近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられており、京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人の墓碑がある。とある。 この説は、どうでしょう?
165 :
日本@名無史さん :2014/04/29(火) 11:14:13.23
>>25 その人は歴史的に知識もなしに、組み立てた節
武士は縄文ルーツが多いだろうからそう間違いでもないだろう。
>>126 言われる茨城・栃木・群馬の北関東に限らず、南関東も三河国からの
江戸移住者を除き、西日本と異なるだべ・づら文化圏でしょう。
168 :
日本@名無史さん :2014/05/02(金) 03:12:51.83
武芸、馬術は縄文ルーツだろう
170 :
日本@名無史さん :2014/05/02(金) 06:31:38.81
へえ
171 :
日本@名無史さん :2014/05/03(土) 06:40:53.13
>>167 おまえバカだろ
群馬・栃木の南部はそんな言葉は使わない
埼玉の中北部の言葉の方が近い
172 :
日本@名無史さん :2014/05/03(土) 09:38:14.22
>>171 お前は祖国へ変えれよ
知ったかこいてんじゃねーよ
>>171 >群馬・栃木の南部はそんな言葉は使わない・・・・・・・・・・・・・
ほほう、栃木:だべ
>>126 群馬:だんべ
>>126 でないと?
南部地域は、「だっぺ」圏でしたか?
174 :
日本@名無史さん :2014/05/03(土) 18:01:56.34
▽幕末の剣聖 男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流) ▽幕末三剣士 男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流) 島田虎之助(大分県中津市出身、直心影流) ※比留間与八(埼玉県日高市出身、甲源一刀流) ※大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流) ※伊庭秀業(東京都台東区出身、心形刀流) ▽中西道場三羽烏 寺田宗有(東京都文京区出身、天真一刀流) 白井亨(東京都千代田区出身、天真白井流) 高柳又四郎(東京都出身、戸田流高柳派) ▽天保の六剣士 男谷信友(東京都墨田区、直心影流) 長沼恂郷(東京都港区出身、直心影流) 杉浦源次兵衛(茨城県笠間市出身、香取神道流) 千葉周作(宮城県古川市出身、北辰一刀流) 加藤田平八郎(福岡県久留米市出身、加藤田神蔭流) 大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流) ▽幕末著名流派別最強剣士 男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流) 中西子正(東京都千代田区出身、中西派一刀流) 千葉栄次郎(東京都中央区出身、北辰一刀流) 岡田十松(埼玉県羽生市出身、神道無念流) 桃井直正(静岡県沼津市出身、鏡新明智流) 岡田惣右衛門(埼玉県幸手市出身、柳剛流) ▽明治の剣聖 榊原鍵吉(東京都港区出身、直心影流) 山岡鉄舟(東京都墨田区出身、一刀正伝無刀流) 下江秀太郎(栃木県鹿沼市出身、北辰一刀流)
175 :
日本@名無史さん :2014/05/03(土) 21:28:41.21
>>172 朝鮮人が自爆して火病っているんじゃねーぞ
消えろw
176 :
日本@名無史さん :2014/05/04(日) 11:14:01.92
>167 >南関東もだべ・づら文化圏でしょう。 バカ丸出しだな 無知の間違った知ったか程 恥ずかしい事はねーぞ ってか お前の国には 恥の文化なんてねーだろ
自己紹介乙 息を吐くように見栄をはる民族だなw はやくお前の国で官僚攻撃してこいよwなんでも人のせいw
関東には、新羅人や高句麗人がたくさん入植しているからね。
チョンそのものの奇形関西人
チビ・出っ歯・絶壁・一重まぶた 関西人の特徴
>>178 現在朝鮮半島に住んでる生き物とは違うよ
182 :
日本@名無史さん :2014/05/05(月) 19:22:16.80
発音や語彙的など言語的にも朝鮮半島・朝鮮民族と非常に近いのが 大阪と中心とした関西地域 おまけに生活形態や感情表現など朝鮮人にそっくり 大阪人DNAと最も離れているのはアイヌや沖縄、そして関東・東北地域
歴史捏造民族による妄想はもういいよ 国に帰れ
184 :
日本@名無史さん :2014/05/05(月) 20:14:19.19
現代朝鮮人て本当に頭がおかしい
186 :
日本@名無史さん :2014/05/05(月) 21:05:22.91
と思ってるのは日猿だけ 世界中は日本がおかしいとおもってる
187 :
日本@名無史さん :2014/05/05(月) 21:33:22.75
てか頭が腐っているのは
>>183 みたいな大阪に生息する在日だな
>>187 先祖代々関東だが
在日は関東と関西の分断狙ってるらしいな
おまえみたいに
朝鮮人みたいなパンスト被って引っ張りあげたみたいな顔した日本人なんていないだろ。 そういうことだよ。
190 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 08:34:54.83
朝鮮人は良く日本人のフリをして嘘をつき犯罪を犯し 在日は日本人のフリをして嘘をつき犯罪を犯す この連中は聞きもしないのに自らの出目や国籍を最初に名乗る 普通の日本人ならこんな事は言わない 俺は先祖代々日本人だがとか先祖代々関東だとか そういうことだ
191 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 13:39:07.00
古代や中世を語る以前だわw 現代において在日や朝鮮人の巣窟は京都・大阪など関西地域なのは確か 戦前・戦後にかけて大量に不法入国して寄生している連中は関東の比じゃない ってことは事実
192 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 13:43:57.37
毛野氏が蟠踞していたのは毛野国である。那須国は別である。 坂東武者の鏡は、射てにかけては天下無双の那須与一である。 私は、そう思う。
193 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 14:56:33.88
だからよ、北関東なんて皆毛野だっつーの なんでナスだけなんだよ既違い
194 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 15:59:42.12
(旧湯津上村)大田原市には、国宝である那須国造碑がある。 那須国は、西暦700年頃まであった。那須国の東部にある境明神峠は、陸奥国との境である。 茨城県の大子町が常陸国となったのは太閤検地の時である。
195 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 16:05:36.94
うほ
196 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 16:19:59.58
分国令無視しまくりやね
197 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 16:23:14.51
まず東国は毛野国がありそのあとに武蔵の国とか作られてるんだよな
199 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:16:46.78
手元の古事記もどきの本の倭建の命の東征のところでは、相模、甲斐、常陸、吾妻、 信濃、尾張の国名が載っているよ。 関八州は、一時期に十数か国となり七世紀末ごろまでには八か国に落ち着いたらしいよ。 この場所に毛深いのが多いのは気温が低いからでしょう。寒くてかなわん。
200 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:19:48.01
分国令は7〜8世紀 そんな地名が現実にあったわけないだろ
201 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:31:22.17
国が村ならあるかもしれんがな そもそも高志の国ってのは福井から秋田までの旧北陸道全てを言った 日向ってのも薩摩大隅日向すべて一つで日向の国
202 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:37:40.24
信濃だって古代には信濃なんて字は使ってないぞw
203 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:42:55.40
国が何時できたかは国分寺や役所などの創建日でだいたい分かる。 人のあまり住んでいかった武蔵国は遅いような気がする。 坂東武士の利根越えでも武蔵国は素通りするだけである。かつて利根川は東京湾に注いでいた。 上総・下総のものは、今はどうすればいいんだよ
204 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:52:18.11
毛野は高句麗の拠点だろ
205 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 17:55:23.87
それと新羅
206 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 18:13:51.50
高句麗は長野 新羅は京都 百済は大阪
どっかいけ じゃま
208 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 18:49:04.27
>>188 >>198 >先祖代々関東だが
先祖代々って
それも日本史板で
お前恥ずかしくねーか?
関西在日モロだしだぞw
>>208 おまえが勝手に関西在住認定するからそう書いたのがわからないのか
狂ってるのか?
210 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 19:51:03.15
現在、 両毛(毛野)地区=群馬県+栃木県−(那須郡+その他一部) である。 異論は? 少なくとも日光の人は、自分は両毛地区に住んでいるとは思っていない。
211 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 20:08:52.63
日光ってくらいだから仏教由来なのは分かるわなw 大権現、神の武威を仏教を通して表したもの
212 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 20:10:42.88
天料ってのも仏教由来
213 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 20:23:54.26
毛野氏と関係ないけれど社会科の教科書や県史で古代から中世の茨城県の大子町が 常陸国になってるよ。 誰か、今すぐ東白川郡保内郷に訂正してよ。 太閤検地の関係者は違法なことをしでかしたのかな。 関八州でないのに関八州に入っているのは歴史の冒とくにならないでしょうか。
214 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 21:48:05.36
坂東武者を代表する歌 武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原 実朝
>>210 日光と宇都宮の二荒山神社の関係が謎
宇都宮は古墳時代は鬼怒川の水運で関東各地への移動がそれなりに便利だったとは思うんだが
日光はよく分からん
実朝は坂東武者らしからぬ軟弱な男だったけどな。
217 :
日本@名無史さん :2014/05/06(火) 22:40:22.41
日光は観光地、宇都宮は県都。かつて外国の小さい地図には宇都宮、日光、烏山と栃木県では三つの記載があった。日光は標高が高く軽井沢町と同じ。 日本初の本格的リゾートホテルは日光の金谷ホテルである。那智勝浦の滝、大子町の袋田の滝と合わせて日本三大名瀑と呼ばれる華厳の滝、中禅寺湖、男体山をミックスさせた景観は息をのむ美しさである。 水運で栄えたのは両毛地区の足利と栃木である。宇都宮はもっぱら奥州街道や日光街道の陸路で栄えた。 日光と二荒山神社は密接な関係がある。内容は忘れたけれど。
220 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 09:24:27.30
その前の前の縄文時代、那須は遺跡の宝庫である。伝統を重んじる那須では縄文時代は永かった。 弥生時代は短い。 <そして古墳時代は、いよいよ坂東武者時代の到来である。> 証拠は、上下の侍塚古墳を見よ。埋葬品は全て埋め戻してある。監視カメラも塀も扉もさえぎる物は何もない。 坂東武者のお宝を盗掘するなら早い者勝ちだよ。!!
221 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 09:45:41.81
埋め戻してってお前が盗んだのか〜 はやく自首しろよ?
222 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 10:29:01.39
上侍塚古墳の発掘調査は、水戸黄門によって行われている。坂東武者のお宝が全て埋め戻されたことも事実だ。従って今、目にすることが出来るのはスケッチのみである。これは世界の考古学史上高く評価されている。 那須国造碑の再建のついでに行われた事業だけれども。 国宝の碑文は、永昌元年(689・持統天皇三年)と中国の年号で始まる。この事実を信じて良いのだろうか。
223 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 11:19:19.29
高校球界における両毛(毛野)旋風 昭和37年の作新学院による史上初の春夏連続優勝。それも夏には八木沢投手を初め何人かが赤痢にかかり強制隔離された中での連続優勝である。坂東武者の心意気を今に見るようで感動的ではないか。私は記憶に無いけれども。 昨年夏に優勝したのは前橋育英高校ではなかったか。今年の春は、佐野日大高校が話題をさらった。白鴎大足利高校も奮戦した。100走の中学王者は、いずれかの高校に入学したようである。 今後が楽しみだ。
チョイ前に、群馬の高校球児がレイプ事件おこしたことあったよね。
225 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 11:47:07.78
細かいこと気にすると疲れるよ。
226 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 12:18:55.11
毛野氏について語る方へのお知らせ 水戸から前橋の方に走っているJR東日本の両毛線に乗ったことはありますか。 一度でも乗ってみれば風土というものが身を以て体得できます。 水戸駅 ===========JR東日本広報課より============ 前橋駅
227 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 14:15:06.68
坂東武士の名台詞(藤姓足利) 「坂東武者の習いとして、敵を目に懸け、河を隔つる戦に、淵瀬嫌ふ様やある。此の河の深さ速さ、利根河に幾ほどの劣り優りはよもあらじ。つづけや殿原」
228 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 16:15:40.80
坂東武者全国に散る。 1、源平合戦 戦いすんで日は暮れて、このときは家路についた。 2、奥州征伐 平定後に何人かは土着した。人呼んで東遷御家人という。 3、承久の乱 北条政子一世一代の名演説に坂東武者は奮い立った。この時も西遷御家人が生まれた。毛利氏や吉川氏等である。 毛利氏は分かるけれど吉川氏ってどんな人 ?
229 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 20:11:27.02
毛野氏の嫡流は藤原秀郷 秀郷の嫡流は藤姓足利氏 藤姓足利氏の嫡流は 分からん
230 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 20:20:11.12
藤性足利氏は、源平合戦のあと直ぐに滅亡しているよ。
231 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 20:26:46.39
幕末は長州のあとにイギリスあり 大江氏=土師氏で古墳を造営したとかほんとかよ? フリメだのいってるが安倍氏のルートもこれだろ 長州閥
232 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 20:28:44.36
あ〜安倍首相の話な イギリス訪問とか随分、日本書紀を利用してるな
233 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 20:47:32.88
>>230 頼朝と源姓足利氏に滅ぼされたらしいが
一族郎党・女子供根こそぎ滅亡したのかな?
庶流が確か小山氏や佐野氏だよね
234 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 20:54:15.72
どうにもこうにもみていくと戦国時代が起源の話ばっかりじゃん
235 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 21:38:57.47
おいおい戦国時代が起源ってwww
236 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 21:41:09.51
分からなきゃそれまでw
237 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 21:55:54.62
238 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 21:56:06.47
頼朝や取り巻きの性格から察すべき。遠い庶流の二家は残ったらしいよ。 那須与一と梶原は戦ったらしいけれど反旗を翻しての無罪放免は、空前絶後、那須家だけかな。 小山氏は藤姓足利氏とはかなり遠い。小山氏に近いのは結城氏。結城氏のうち北へ行ったのが白河結城氏。 こここから有名な東北の侍大将結城宗宏が出ている。
239 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 22:04:04.58
戦国時代とは、主に16世紀のこと。関八州は一番遅い。 源平合戦は、12世紀の出来事。 時代感覚が400年近くずれていますよ。
240 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 22:09:53.59
>>234 >>237 ここは日本史板だぞ
いい加減にしろよ
いわゆる戦国時代は室町時代(足利将軍家滅亡あたり)後だぞ
秀郷流系図(抜粋) 毛野氏 ↓ 藤原秀郷 ↓ 千常 ↓ 兼光(足利佐野小山等祖) ↓ 頼行(足利太郎)→行政(太田氏)→政光(小山氏)→朝政(小山氏・長沼氏) ↓ ↓ ↓ →結城氏→ 藤姓足利氏 ↓
242 :
日本@名無史さん :2014/05/07(水) 22:33:58.24
「坂東武士の習いとして--------- つづけや殿原」と叫んだ人の自殺なのか他殺なのかを以て藤姓足利氏は滅亡したと考えるのが一般的。 当時は個人よりも家を重視したので似たようなむDNAは存在しても、家がない以上は滅亡となる。
243 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 09:36:22.79
《藤姓足利又太郎忠綱を慕う方へのお知らせ》 桐生市の皆川という場所に忠綱神社が現存します。 本当かなあ。? 私は訪ねたことがありませんがお詳しい方ご一報ください。
244 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 09:46:27.87
藤原秀郷は、藤原氏の子孫で正解だと思うけどね。 毛野氏説には、そんなに根拠はないと思う。
245 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 09:56:24.09
241 藤原不比等 の 妻 が車持氏(毛野氏)
246 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 10:00:26.06
あ、まちがえた 不比等の母が車持与志古だ
247 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 10:17:12.22
藤原不比等の天智天皇の後胤説って どこまで信憑性あるんだ??
248 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 11:56:35.88
関係者の言動や雰囲気から大方は察しがつくのではないか。 遺骨が残っているのであればDNA鑑定をすれば良い。
249 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 13:03:00.32
藤原氏には和歌の素養がある。
250 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 14:21:38.32
毛野氏には掴みどころのないムー大陸のようなロマンがある。
251 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 15:49:45.24
毛野魂を感じさせる男 拳聖 ピストン堀口 理由1 日本バンタム級のほかにミドル級王座も獲得している。 理由2 KO負けは一度もない。 理由3 不滅の47連勝。
252 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 18:07:57.47
浅間山噴火とみられる過去の記録 685年、白鳳地震(天武天皇期) 信濃の草木が枯れる 1108年、天仁噴火 上野一帯に噴出物が落ちて田畑壊滅 このあと開墾し豪族の荘園私有地化が進む 1783年、天明噴火 火砕流が流れたのはこのときの噴火 浅間の鬼押出し
253 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 18:11:22.57
多胡碑設置、711年 高麗神社などが作られるのもこの後
254 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 18:19:58.11
江戸辺りに流れてた利根川が千葉茨城に向き変えたのもこれ関係してないか? 埼玉や栃木あたりも火山灰土の降り積もった痕跡がでてきてる
255 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 18:49:02.48
隅田川かに流こんていた利根川を常陸と下総の間にもっていったのは江戸を重視した 17世紀中ごろの大規模工事による。従って、日本橋あたり生まれのちゃきちゃきの江戸っ子は、 「茨城とか千葉は湿気が多くてジメジメして絶対に住みたくないなあ」 とかけっして言ってはいけないのである。何度か聞いたことがあるけれども。 原発と同じ構図である。
テスト
257 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 20:53:31.79
あ〜、古墳時代の4世紀にも火山噴火してんだね、、、 300〜800年周期で噴火してるらしい 過去1万年間で13回なんだってさ
258 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 20:55:42.18
最短の300年なら次は2083年か〜
259 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 21:59:40.42
まるで上野は、全国一の危険地帯みたいではないか。 地震・台風・火事・親父・噴火・隕石・航空機落下・流行性疾患等すべて合わせて、 いったい上野は何位だというのか。そんなに悪くはないのではないか。?
つべのどっかのコメントで、将門は関東王国(といわれる存在)を 復活させようとしていたとも言われてるよね、ってコメがあったんだがそんな説あんの?
261 :
日本@名無史さん :2014/05/08(木) 23:28:23.22
うんこ長州土人 大阪の司馬遼太→長州人は朝鮮人w
「武刺国造の祖神・伊勢都彦命」と見ゆ。
265 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 10:32:51.96
ピストン堀口の階級を訂正する。 日本バンタム級→日本フェザー級
266 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 11:09:49.75
都々一坊扇歌の謎かけ 「江戸っ子の喧嘩」とかけて何と解く 「十艘の屋形船に灯りが一つ」と解くわいな。その心は、 「糞食らえ(九艘暗い)」じゃないかいな。 「糞食らえ」と叫ぶのは、坂東武者ではなく町人か ?
267 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 14:56:38.48
源氏本家は、朝。 足利氏は、氏。 佐竹氏は、義。 宇都宮氏は、綱。那須氏は、資。 綱という文字は宇都宮氏の専売特許かと思いきや藤姓足利氏も用いている。何か関係があるのでしょうか。 ?
268 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 17:06:00.57
古代の那須国があった頃に伊王野の先にある陸奥国内の白河関付近や当時は陸奥国であった保内郷(大子町)の堺明神峠付近は誰が管理をしていたのだろう。 那須氏ではない。ましてや毛野国の毛野氏でもない。 古代には、ロマンがある。
269 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 18:28:16.43
だから蘇我氏だろ
270 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 18:51:16.78
蘇の字も聞かない。滅亡しているのでは。お飾り役人と地元有力者数名の集団指導体制ではないかと考える。
要するに、国譲りで敗走して伊勢志摩にやって来たのが、伊勢津彦=出雲健子で 武蔵へは、その親族や同じ出雲族の敗残兵。
各地豪族の中臣氏や蘇我氏が元出雲族。 蘇我氏は百済渡来出雲族で、秦の惟宗氏は、百済・新羅経由渡来の出雲族。
諏訪の健御名方命や千家の祖、天穂日命の一族が出雲宗家や国造家。
伊勢や関東の各地豪族の出雲族の祖は、伊勢津彦=出雲健子=櫛玉命の末代。 伊勢津彦=出雲健子=櫛玉命の本筋は、天穂日命だが 伊勢津彦=出雲健子=櫛玉命の母方が、大国主命の末娘で母系で出雲大国主命の末代。
276 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 19:38:10.76
秦なんて言葉を信じるやつはいねえよ 秦の始皇帝なんてのは仮冒ってのが一般的認識 経典とりにいってますし
278 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 20:01:56.07
次のお飾り役人をご存知ですか。 那須直韋提 那須意志麻呂(上の子)
280 :
日本@名無史さん :2014/05/09(金) 23:46:07.38
毛野氏の嫡流は宇都宮氏でしょ 藤原秀郷は毛野氏の庶流 ついでに秀郷は藤原氏さかな派とも全く関係ない 毛野氏・・・・・・・宇都宮氏 ・ ・・・・・・藤原秀郷・・・足利・小山・佐野 ・ ・・・・・・車持氏など(女子を藤原氏に売り飛ばす専科) ・ ・ 藤原氏
松浦厨のキ○ガイ振りといったら・・・
>>280 毛野氏は、出雲国譲りの出雲側の連合の氏族で、同族とは言ってないよ。
俺がいってる
>>263 は、武蔵国造家が天照大神−天若日子命=天津彦根命・天穂日命筋の出雲健子=伊勢津彦で上毛野国が出てくるから、関係列してるだけなのだがね。
下毛野国の事は、一切触れてないけど・・?
因縁吹っかけないでねっ
出雲健子=伊勢津彦と上毛野国が連合関係だったかなと言いたかっただけです。
下毛野国は、上毛野国を敵視しているのなら、そっちで争ってくれっ
藤原事態が中臣氏の庶流だと認識しているが・・ こっちは、伊勢の中臣氏の親氏族が伊勢志摩国造と言ってる方だが? 藤原氏は、庶流の庶流・・
伊勢志摩国造家、島直氏の参考系譜は、忌部氏系譜と千家系譜・・
これがマジ基地
288 :
日本@名無史さん :2014/05/10(土) 06:28:51.42
>>282 は?おまえにレスも異論もしてないぞw頭大丈夫か?
それに日本史板でwikiを大量に晒すのはみっともないぞw
290 :
日本@名無史さん :2014/05/10(土) 16:52:44.04
次には、あまり異論はないと思われる。 @(八田)宗円(1033-1111) A宇都宮(八田) 宗綱(1086-1162) B宇都宮朝綱(1122-1204) C宇都宮業綱(1156-1192) 朝綱は所要で京都や鎌倉など方々に行っている。今とは違い当時、宗円は何者なのかであるかは多くのものが知っている。そこで、 「下毛野改め、八田宗円の孫の宇都宮朝綱と申します」 と自己紹介したとは、とても思えないのである。
291 :
日本@名無史さん :2014/05/10(土) 17:24:47.81
戦勝祈願について 下野の武茂郷と山田郷について考える 与一が屋島で弓を弾く際に宇都宮の二荒山神社に誓ったのは、見事に命中したならば那珂川東岸の武茂郷を二荒山神社に寄進するというものである。 また、頼朝が奥州征伐で北上する際に二荒山神社に立ち寄り、同様に武茂郷の北側にある大久保村を含む山田郷等の寄進を約束した。堅田郷の南側にあたる。 征伐が済んで武茂郷と山田郷他は、宇都宮氏領になったのである。 これらの三分の一は、私の個人的見解だが間違いないと思われる。
292 :
日本@名無史さん :2014/05/10(土) 17:40:09.87
293 :
日本@名無史さん :2014/05/10(土) 17:59:41.35
一色ではないとは、 足利氏系の一色氏ではないというシャレのつもりか。 ?
294 :
日本@名無史さん :2014/05/11(日) 19:58:47.41
古代の那須国が成立したのは景行天皇年間(71-130)みたいです。 これは早いのでしょうか。遅い方なのでしょうか。
295 :
日本@名無史さん :2014/05/12(月) 13:15:26.07
古代那須国の管轄区域につて 少し前に那須国の他に白河関付近と述べましたが、那須国時代から陸奥国白河郡(国)を管轄区域としており那須国が 下毛野国那須郡になってからも陸奥国白河郡を見ていたようです。こちらの担当者は最終的に芦野氏と思われます。 白河結城氏が跋扈する前までの話です。陸奥国南部には八田氏(宇都宮氏)系の高野氏も入っていますが、その辺は微妙です。 hi
296 :
日本@名無史さん :2014/05/12(月) 17:04:11.46
日本で一番美しいと言われる下侍塚古墳は、我が故郷にある。立ション厳禁。 貴方の街には、どんな古墳がありますか。 ?
297 :
日本@名無史さん :2014/05/13(火) 15:47:34.79
芦野は、那珂川支流の奈良川東岸にある静かな集落である。 道のべに清水流るる蛯ゥげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行 西行は芦野の里に実際には来ていないらしい。私もその見解には賛成します。
298 :
日本@名無史さん :2014/05/13(火) 16:00:35.12
古来、訪人が訪れ歌碑を残していくのは実際にきたときだが? 今の環境と昔を比べてる?
299 :
日本@名無史さん :2014/05/13(火) 16:16:59.15
私の賛成とは、「西行物語」という本の内容に全幅の信頼を置きますということ。
300 :
日本@名無史さん :2014/05/14(水) 11:27:16.78
古代那須国が治めていた古代白河国とは、どこからどこまでか。 陸奥国第94 (白河郡) 大村 丹波 松田 入野 鹿田 石川 長田 白川 小野 駅家 松戸 小田 藤田 屋代 常世 高野 依上 概ね上記は全て入ると思われる。依上とは、今の茨城県大子町のことである。これ等を治めるために白河関付近に白河郡衙という役所が設けられた。 嘉祥元年(847)には、奈(那)須直赤龍が白河郡大領として任ぜられた記録がある。これらの変則的な事例は那須国だけに見られる特徴なのである。 私が、5月6日に「那須国は別である」と述べたのは、これらを指します。つまり古代那須国が出来たころに何もなかった地域とは、明らかに 違うものに思えてしまうのです。 幻の関東王国とは、古代那須国のことかもしれない。
301 :
日本@名無史さん :2014/05/14(水) 11:51:28.96
多賀城跡から奈(那)須直廣成と記された木簡が発見されていました。
302 :
日本@名無史さん :2014/05/14(水) 18:20:43.98
境明神峠の那須国側には、どんな人が住んでいたのか。 ? 残念なことに千年以上前のことは、何もわかりません。ただし峠の西側には、多部田村という古式ゆかしい村がありました。峠から西に一里半程の所には健武山神社があります。水戸藩の名医と呼ばれた原南陽という方の門人となり筆頭扱いれた方は、この多部田村出身です。 その方の次男坊が有名な都々一坊扇歌になります。昭和になってから、旧同村からは東京弁護士会会長も輩出されています。とにかく辺境でありながら、それを感じさせない自由闊達な人物が多く見受けられます。
303 :
日本@名無史さん :2014/05/16(金) 14:31:56.57
那須騎馬軍団の馬蹄音は奥州路に轟く 遅くとも西暦766年までには北方の王者としての地位を那須氏は確立していた。今の西郷村、白河市、棚倉町、塙町、茨城県大子町を疾風迅雷の勢いで疾走していた那須騎馬軍団は、やがて北に向かい縦横無尽に陸奥国府を目指した。間もなく新たに多賀城は竣工した。 ここに那須氏は、那須官衙と白河官衙および多賀城と三か所の覇権を確立して北方の王者としての地位は不動となった。平成24年頃に宮城県多賀城跡調査研究所によって多賀城跡で発見された那須直広成と記された木簡がその証左である。ただしその後朝廷からは、 征夷大将軍坂上田村麻呂や八幡太郎義家が派遣されるなど奥州の政情は決して平和が訪れたと言えるものではなかった。紆余曲折を経て、やがて北方の王者としての地位は藤原清衡に取って代わることになった。そして桓武平氏、清和源氏、奥州藤原氏らの雌雄を決する 三つ巴戦は、佳境をむかえる時代へと突入してゆくのであった。この時すでに那須騎馬軍団の影響を受けた坂東武者達は、その姿を変えていた。
304 :
日本@名無史さん :2014/05/16(金) 14:55:58.93
軍記物好きだねえ、、、
305 :
日本@名無史さん :2014/05/16(金) 15:50:36.83
通信技術の変遷 今日では多くのものが携帯電話を所持している。ところが古代には、そんなものはありもしない。明治十年の西南戦争においては打電という通信技術によって戦争は情報戦ともいえる様相を呈してきたことは皆が知るところである。 それでは奈良朝期には何が変わったのか。のろしを上げたり法螺貝を吹いたりすることに加えて伝書鳩を利用した通信手法が新たに導入されたのである。確証はないけれど奈良時代に伝書鳩を取り入れたのは間違いないようである。 ならば、白河官衙と多賀城間で活用されたと考えるのが自然である。私の生家は境明神峠と同緯度にある。北海道で放たれた鳩が生家の鳩舎に戻って来たのを確認しているで飛行距離は問題ないと思われる。朝廷と多賀城間の飛行も 伝書鳩はできる。ただしこの場合には、朝廷で生まれ育った伝書鳩を事前に多賀城に運ぶ必要があるので現実的ではないかもしれない。しかし少なくとも奈良時代に白河官衙と多賀城間で使用されたであろうことを、私は信じて疑わない。 鳩の足つける紙縒りと小さい文字用の細い筆は既にあったと思われる。この頃から坂東武者たるもの難しい漢字の読み書きは朝飯前の時代になったと思われる。どうしても無理なものは淘汰されていったのかもしれない。抜群の戦術家は 別として。文武両道という考えは、伝書鳩を導入した頃に育まれたのかもしれない。
306 :
日本@名無史さん :2014/05/16(金) 16:13:19.11
私は軍記物は嫌いである。役所で発行された真面目な史書を読んでいる。
307 :
日本@名無史さん :2014/05/18(日) 11:06:46.48
北方の王者について 那須氏の北方の王者と奥州藤原氏の北方の王者とでは、内容が少々異なる。那須氏のそれは朝廷からの命を受けて職務を全うしたものである。一方、奥州藤原氏のものは自らの野心を実現するために独立政権を打ち立てたのではないかと強く感じるのである。 また、両者の地域は殆ど重複しない。那須氏が北方の王者として君臨したのは今の茨城県大子町、福島、山形、宮城であり奥州藤原氏が蟠踞したのは今の岩手、秋田、青森に毛が生えた程度であると思われる。奥州藤原氏の勢力が白河郷まで南下してきた痕跡は全くない。 もしも実際に南下してきたのであれば、あの那須騎馬軍団が黙って見過ごしていることなどありえないと思えるのである。 これは吾妻鑑トリックではないか。奥州全域に広がる藤原氏の勢力を一蹴したという頼朝の功績を美化するための秘策であったと思えるのである。 ただ、そんなことはどうでも良いのかもしれない。いずれにしても武士による確固たる鎌倉政権が樹立されたことは紛れもない事実である。
308 :
日本@名無史さん :2014/05/20(火) 15:35:30.16
縄文人成りすまし工作スレ
309 :
日本@名無史さん :2014/05/20(火) 17:19:42.63
那須騎馬軍団の陸奥国内における活動期間について 古墳時代末期の西暦550年頃から平安時代初頭の1050年頃の約五百年とみる。 理由1 白河国の国造は、那須国の国造が兼務することになった。 理由2 「左経記」長元七年(1035)12月15日の条に白河団 (那須騎馬軍団とは、ほぼ一心同体)の記載がある。 理由3 那須氏側から見れば北からの脅威はなく、陸奥国府側から見れば 南からの脅威は那須氏と岩城氏くらいになったこと。
310 :
日本@名無史さん :2014/05/21(水) 13:59:40.41
陸奥国風土記白河郡 郡家 泉崎村 郡家の南を逢隈川が流れ舟の往来甚だし又南に通る唐山道は下野国と国府多賀城を結ぶ 古より白河大領那須臣の治める地なり川の南に大領の始祖たる白河国造の墓ありて近くに寺あり
311 :
日本@名無史さん :2014/05/22(木) 09:30:34.79
大野東人と白河大領那須臣との共通項 1、 日本三大古碑に縁がある。 2、 多賀城の建設に向けた情熱は波はずていた。 3、 同時期に二人は共に奥州にいて、しかも会っている。 4、 先祖は共に那須国と思われる。 5、 家柄は那須臣の方が遥かに良いと思われるが熱き友情で結ばれていた。 6、 その他数知れず。
312 :
日本@名無史さん :2014/05/22(木) 11:06:56.47
歴代陸奥国士(任期制) 上毛野小足・上毛野安麻呂・上毛野広人・大野東人・百済王敬福・佐伯全成・藤原朝狩・田中多太麻呂・石川名足・石川名足・佐伯美濃・大伴駿河麻呂・紀広純・大伴益立・紀古佐美・内蔵全成 大伴家持・多治比宇美・多治比浜成・坂上田村麻呂・佐伯清岑・佐伯耳麻呂・小野岑守・坂上当道・良岑経世・小野春枝・安倍貞行・平維扶・平貞盛・藤原実方・源満政・源忠重・藤原登任・源頼義 藤原良経・源頼俊・源(八幡太郎)義家−−−−−− このうちの上毛野広人は、養老四年(720)9月28日に蝦夷によって殺害されたという。当時の国府にあった建物は跡形もなく焼け落ちていた。
313 :
日本@名無史さん :2014/05/24(土) 11:48:36.72
陸奥国の発展拡大に非協力的だったと思われる石城国(常陸国菊田郡を含む)浜通りの人々 理由1 養老二年(712)に陸奥国は三分割されて陸奥国・石城国・石背国になっている。 理由2 それは数年で元に戻っている。 理由3 陸奥国に七番目の軍団として、やっと最後に配置されたのが磐城軍団である。 理由4 古に陸奥にいた正式な国造は、白河、安積、石城の三か所である。 理由5 岩城氏は、常陸国北部の国造も兼務していた。 理由6 よって軍団の配備は、もう少し早いことが求められた。
314 :
日本@名無史さん :2014/05/24(土) 14:07:56.63
坂東武者の精神統一 各地から馳せ参じた坂東武者達が一つの目標を定めて奮い立ったことはいく度もあることであろう。 北条政子一世一代の名演説に坂東武者達が奮い立ったのが何度目になるかなど知る由もない。 けだし、上毛野広人の零を弔う際に集まったと思われる坂東武者達が定めた誓いにも奮い立ったに違いない。 それは史上初めて坂東武者達の精神が一致した時てはなかったのかと思えるのである。 そのころの夜空に浮かぶ星々は神々しく三ツ星も北斗七星も鮮やかに輝いていた。赤、青、黄、白、橙と星々の色分けも肉眼で判別できる程であった。
315 :
日本@名無史さん :2014/05/25(日) 16:59:24.24
毛野氏が当初は絶大な力量を発揮したと思われる古代陸奥国とは 北は津軽海峡の方に徐々に伸びていったと思われる。南の白河関跡は固定している。境ノ明神峠については、「特徴のない峠だなあ。標高は低いし、どうしてここが日本名峠100選なのか」と疑問を呈する方が多いようだ。 およそ95%の方は、ここが陸奥国であったことを知らないようだ。今の茨城県大子町である。元の名称は保内郷と言った。それ以前は、依上(保)である。それでは依上(保)の南端部はどこになるのか。 つまりそれは、陸奥国と常陸国の国境になる。ここ最近では有望な見解は出ていない。従って今の茨城県久慈郡大子町頃藤6503番地にある関戸神社の近くにあった焼山(たきやま)関が国境ということで落ち着きそうだ。 東海道の勿来関跡は今の場所で良いのだろうか。どう見ても後から取って付けたようである。 菊田郡とは常陸国にあったはずである。私は国境は鮫川(実際の川)ではなかったかと見る。国境の川である。 それに並び常陸国多珂郡の一部にも不明な点が多い。いずれにしても今の勿来関跡は、観光地として賑わうようにと新しく設けられたと考えた方が良さそうだ。 今の茨城県民はまとまりが悪いとよく言われる。こんなところにも原因があるのだろうか。゜
316 :
日本@名無史さん :2014/05/26(月) 17:19:51.13
かつては、お勤めご苦労様でした。(順不同) 1、 白河軍団 2、 安積軍団 3、 名取軍団 4、 行方軍団 5、 玉作(丹取)軍団 6、 小田軍団 7、 磐城軍団 飛び入り参加 那須騎馬軍団
317 :
日本@名無史さん :2014/05/27(火) 06:46:36.22
毛野氏と奥州藤原氏をごっちゃにしてるのが多い。 毛野氏は古墳時代から勢力を拡げ分派活動がさかんになる。 律令時代にも個々の氏族は勢力を維持する。 藤原氏は、詳しい時代は不明だが、平安京に都が移ってから、 下級の藤原氏の分派が奥州に土着した。 源平氏族の分派が関東、そして東北へ移住したのと同じ。 で、奥州藤原氏は財力(金)をもとにして、 急速に中央貴族(主に同族の藤原上流貴族)と繋がって(取り入って) 一種の治外法権みたいな強大な権力を築いた。 平氏を滅ぼした源頼朝にとっては、 目の上の瘤みたいな奥州藤原氏を滅ぼさなければならなかった。 そのために、「征夷大将軍」の位はどうしても必要だった。
318 :
日本@名無史さん :2014/05/27(火) 12:40:27.12
陸奥国白河領の推移 平安時代中期頃まで 那須氏 白河軍団を置く。 平安時代中期以降 後白河院御領 それを別当である藤原信頼が知行する。 平治の乱(首魁は藤原信頼)の後 平重盛(清盛長男)の領有する荘園となる。(小松内府) 源平合戦を経て奥州征伐後 結城朝光の所領となる。朝光の孫裕広が実際に居住して初代白河結城氏となる。 よって奥州藤原氏の権勢が東北全域に及んだというのは、吾妻鑑トリックであると思われる。 白河領が那須国造家の手から離れたのは、藤原氏系の方が那須国造家に婿入りしたからでしょうか。 あるいは、白河だから後白河院の御領にすべきであるという単純明快な話でもあったのでしょうか。?
319 :
日本@名無史さん :2014/05/27(火) 17:22:26.27
那須家の家紋は、菊一か一菊かの論争にについて 那須家の家紋については、三十二菊に一文字であることを私は信じて疑わない。 まず家紋から那須氏は大臣命を祖とする国造系武将であることを自他ともに認めていた事が分かる。 那須氏は皇室の家紋を知っていたことが分かる。南北朝期に南朝では十六弁菊を採用した。ところが、 その時に那須氏は北朝方についたのである。北朝の紋は三十二弁菊(十六弁八重菊八重菊)である。 従って、江戸時代に作成された那須家系図の見返し部分に描かれている紋は正しいということになる。 三十二菊に一文字で決着がつきそうだ。 なお、那須与一が生まれ育ったのは、今の那珂川町にあった神田城である。那須与一や那須氏をPRするのは、 那珂川町や那須烏山市の仕事であると思われる。大田原市は、大田原氏や大関氏のPRに専念すべきである。
任那と那須氏の関係と論じた人は少ないが、 任那4県が百済に譲渡された後、任那の民は日本に帰国している。 かれらは、渡来人や帰化人ではなく、満州開拓団がロシアの満州侵攻で帰国したのに近い。 そして、任那の代わりに与えられた地が毛野の支配地の北の不毛の大地だ。 彼らは、儒教の教えに従い、那須国造り碑を建て、開拓者たる祖先を称えたのだ。
321 :
日本@名無史さん :2014/05/28(水) 00:05:12.20
相変わらず変なこと言ってんなあ
322 :
日本@名無史さん :2014/05/28(水) 18:57:00.12
那須がゴビ砂漠のような不毛の大地だったとは思えない。また、里帰りについても対馬を含む九州であるならば考えられる。しかし那須は九州ではない。飛鳥時代の那須には、すでに豊かな水田地帯が広がっていたと思われる。 北から黒川、大野、那須、石上、方田、三和、山田、武茂、大筍、熊田、全倉、大井の12郷である。さらに塩谷郡ほかも那須国であったと思われる。那須12郷の北から二番目の大野郷は大野朝臣の何代か前の故郷であろう。 確かに今の那須塩原市や大田原市の一部は農耕に適さなかったかもしれない。しかし代わりに狸、狐、猪、雉、山菜などの山の幸に恵まれていたのである。自然と弓の取り扱いにも長けていったと思われる。 しかし何よりも当時は川の恵みが想像以上であった。天然岩魚、虹鱒、山女、鮎、蟹、川エビ、今では殆んどいなくなった天然ウナギなど食べきれないほどいたのである。昭和の初めごろまでは竹で編んだ罠を仕掛けておくと、 翌日には丸々と太った天然ウナギが二三匹入っていたようである。栃乙女はなくても野イチゴはあったであろう。私はかなり食べている。このような銀シャリに丸々と太った天然ウナギや岩魚を腹いっぱい食べられる場所を、 不毛の大地とは呼ばないであろう。大地が豊かであることは那須地方に住む人々の体格の良さに表れている。体格が良いから警察官になる人が多いらしい。少し前に朝青竜と優勝争いをしたのは黒羽出身の方だったと記憶して いる。十年ぐらい前に那珂川町で縄文時代の食卓を再現したところあまりにも豪勢で驚いたそうである。飛鳥時代は、さらに豊かであったに違いない。
323 :
日本@名無史さん :2014/05/29(木) 10:05:16.30
仮に任那の民が里帰りしたのであれば、彼らに与えられた任務は那須国のことではなく、北に位置する白河のことであったろう。彼らの何代か後のものは、神亀五年(728年)に配置された白河軍団の要員として派遣されたであろう。 その頃の那須氏は、殆ど北の方を見ていたように思える。元任那の民達の子孫は、陸奥国の発展拡大に貢献したことになるのだろうか。
324 :
日本@名無史さん :2014/05/31(土) 12:57:18.37
斬首秘話 平治元年(1159)に藤原信頼の精神構造は奥州藤原氏に近いものになってしまった。結果として12月27日に斬首となった。これは藤原仲成の射殺依頼の死罪で貴族としては349年ぶりの出来事であった。 明治の初頭ごろに初代司法卿(今の法務大臣)の江藤新平は、「晒首は欧米から野蛮であるとの指摘かあるから止めようではなないか。また極悪人の逮捕に有効だから指名手配写真を活用しようではないか」 と提案していたところ佐賀の乱の首魁とされてしまった江藤新平は全国指名手配写真適用第一号になってしまった。そればかりか野蛮な晒首となったのである。その少し前の慶応から明治に年号が切り替わろうと する頃に元新選組の近藤勇も三条河原あたりで晒首になっている。その首級を運んだのは水戸藩士の北島秀朝とされているが、これは誤りである。 下野国那須郡大山田下郷で生まれた北島秀朝は神官である。戊辰戦争の際は東山道軍大監察として板橋宿に入った。その後に北島は江戸鎮台府の判事になるわけですがその前に今後の新政府の方針やら 東京遷都の打ち合わせで上京しなければならない事情があったのである。上京するに際して、たまたま焼酎(火酒)漬けになった近藤の首級があるということから管理をしていた岡田藩士らは北島と同道することになった。 このために岡田藩士らの件が省略されて水戸藩士の北島秀朝が近藤勇の首級を運んだと信じている輩がいるのである。北島は、下野国那須郡大山田下郷の篠尾神社の長子である。藩士でもありません。 もっとも北島は、江戸勘定奉行や評定所の引継ぎを率先垂範して行っているので中々の人物であったと思われる。和歌山県令、佐賀県令、長崎県令を歴任したことは周知の通りである。
325 :
日本@名無史さん :2014/06/03(火) 09:35:00.20
北島秀朝が命名した村名 初富 二和 三咲 豊四季 五香 六実 七栄 八街 九美上 十倉 十余一 十余二 十余三 那須高原を吹き抜ける清らかな風のようではないだろうか。県令時代には、 若き総理大臣候補として伊藤博文等よりも評価の高かったクリーンな北島秀朝にダーティーな仕事を押し付けないでくれ。 武士は幽霊にはなれない。爽やかに散るものである。名前を変えた新撰組を壊滅させるために先陣を切ったのは板垣退助率いる土佐軍であったであろう。 熱狂的新撰組ファンは、板垣退助や大軍艦の香川敬三および大監察の北島秀朝を殺したいと彼らの後裔を訪ねて直接告げればよい。 今現在に至っても、水戸天狗党や薩長土肥を誹謗中傷する人々は、仕切り直しをして今一度国内戦をしたいのだろうか。 ?
326 :
日本@名無史さん :2014/06/03(火) 10:05:49.14
よしやろう
327 :
日本@名無史さん :2014/06/03(火) 13:51:16.82
よしやろうという方へ 宮内庁か貴方につかなければ、貴方は逆賊ということになりますが。 ?
毛野氏と三毛入野命って名前似てるけど、関連性あるのん?
329 :
日本@名無史さん :2014/06/03(火) 17:05:34.11
岡田藩関係者へ 近藤勇の太刀取りの際に賞金を受け取っているのであれば最後まで責任を持って頂きたい。 今のままですと、水戸藩士の北島秀朝が昼夜兼行で京まで運んだことになっています。中には岡田藩士の北島秀朝なるものも見受けられます。 思うに、焼酎(火酒)入りの樽は水分を含んでかなり重い。二人で運んだとしても交代要員を考えれば総勢少なくとも六人はいたであろう。 その後まもなく仇討禁止令も出来たわけですから、早急に岡田藩関係者は事実を告げるべきである。
330 :
日本@名無史さん :2014/06/03(火) 17:17:03.67
毛野氏のなかで三毛猫をペットにしていたものの愛称である。そんなわけないか。 皮を剥がされて三味線にされないよう気を付けてください。
331 :
日本@名無史さん :2014/06/06(金) 17:21:20.03
北島秀朝の奇行 北島秀朝は、花見客で賑わう桜並木の下に純白の浴衣を着て時々現れた。 そこで抜身の大槍をおっびろげて人々を驚かしたそうである。 何となく何処かにピストン堀口に似た毛野魂が感じられないでしょうか。 ? 廃刀令が出る前の北島が東京府大参事(副知事)で、和歌山県令に赴任する前の頃と思われます。
332 :
日本@名無史さん :2014/06/09(月) 09:44:46.89
近代人物側面観 有耶無耶山人著 131頁 北島秀朝 「難行苦行机に齧り付くばかりが、人間の目的ではあるまい、それには気の飢えないように、余裕と言うことガ必要だ、 白い浴衣を着て花を見る、余り褒めた話ではないが、其の意気の爽快なるに至っては、好漢愛すべしだ」
333 :
日本@名無史さん :2014/06/09(月) 23:29:46.96
小山氏って政光の代まで武蔵に住んでいて、 政光が小山に来たってなってますが、 これって本当なんですか。 いきなり来て、そんな勢力もてるんですか。
334 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 00:46:24.19
だから、地元の族がそうかたって自称したんだろ
335 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 01:21:11.34
336 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 17:46:32.48
源氏の棟梁が頼朝なら、藤原秀郷末裔諸氏の棟梁は小山氏。 頼朝の乳母は、宗円(宇都宮氏の祖)の孫娘(宗綱の娘) 彼女は小山政光の後妻となった。 そして小山三兄弟の末っ子となる朝光を生んだ。 初代結城氏である。 小山三兄弟の活躍もさることながら、根底には頼朝、宇都宮氏、小山氏の三者による固い絆があった。 朝光の名付け親は、朝という字から頼朝のような気がする。
337 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 18:31:18.27
地元の英雄秀郷に憧れる無名氏族がでっち上げたのでは
338 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 19:53:49.37
339 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 20:02:15.31
毛野氏も京都あたりには仮称が多いんだってね
340 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 20:19:38.98
小山政光(太田政光)は、自分は藤原秀郷の末裔であると吹聴していた痕跡は全くない。 誇り高き鎌倉武士でも冗談を言うことはあったであろう。しかし真面目に嘘をついたのであれば即断頭をしてもよい時代である。 小山氏以外の鎌倉御家人の目が節穴だったとは思えない。 武蔵国の在庁官人であった太田氏は、すでにかなりの人望があったと思いますが。当然、先祖の墓ぐらいはあったことでしょう。 小山氏を批判したいようですが、身内で誰か問題児でもいたのでしょうか。
341 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 22:33:10.25
藤原秀郷流太田氏については、久喜市史や鷺宮町史に詳しく乗っているらしいですよ。 私は全く関心がありませんが。
342 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 22:35:20.98
343 :
日本@名無史さん :2014/06/10(火) 23:04:53.56
小山氏は何代にもわたり、下野権大介職を相承している。
太田氏は、朝鮮半島の大田から渡来した大胡。大月氏だ。 多胡碑を読めばわかる。
くに(といっても朝鮮ではなく中央アジア)に帰れ。
346 :
日本@名無史さん :2014/06/12(木) 16:12:07.82
誰が何と言おうとも鎌倉時代に小山氏や宇都宮氏は下野の名門になっている。 但し、足利氏の方がワンランク上だったらしい。 その足利氏は、室町時代に終わっていると認識されている方が多いようだ。 ところが江戸時代に足利氏は、喜連川公と名前をかえて人望を集めるのであった。 特に弓道に長けていた方がいたらしい。
小野猿丸大夫、藤原秀郷 昔から両毛の英雄は弓に長けていたんだな。 両毛の英傑は源姓足利氏も含めみんな元は毛野氏なんだろうが。
348 :
日本@名無史さん :2014/06/12(木) 19:05:43.04
毛野氏には都人の香りが漂う。方々の国司を勤めていても任期がくれば都に帰るのである。 庶流が増えるためには平安末期ごろからの地盤に密着した泥臭い田畑の開発が必要だったのである。 那須氏でさえ与一兄弟が分散するまでは600年以上で2氏族しか増えていない。猿田氏と芦野氏。 都人の中央官人である毛野人は、泥臭い開発領主にはなれなかったのではないだろうか。
ところがその太田氏、日本で幅利かせている。 筋肉質のデブだから貫禄のあるやつが多いし、 ワカタケル(雄略)を補佐した大彦、 東日本最大の太田天神山古墳を造った太田氏、 江戸城を造った太田道灌など、関東の土豪として 今もそれなりに勢力を維持している。W
350 :
日本@名無史さん :2014/06/12(木) 21:52:01.13
太田胃散飲みたくなりそうだ。
351 :
日本@名無史さん :2014/06/13(金) 06:28:43.88
北関東に「酒に弱いタイプ」多いのも、 早くに朝廷が進出した結果かな。
352 :
日本@名無史さん :2014/06/13(金) 06:39:10.02
猿田彦とか猿女君とか小野氏が関係ありそうだね
353 :
日本@名無史さん :2014/06/13(金) 07:46:10.93
太田天神山古墳か?w 近くに女体山古墳があるが猿女君の墓か?
354 :
日本@名無史さん :2014/06/13(金) 19:06:05.62
水谷の家号を用いる一族に猿田御所なる名跡を持つ系統ありという。 この方こそ那須氏流猿田氏ではないかと思いませんか。 ? 結城氏とは白河領で結びつきます。 水谷(猿田)氏の家紋は、三頭左巴。芦野氏は、一文字に三頭左巴と思われます。
355 :
日本@名無史さん :2014/06/13(金) 23:01:38.16
168 名無しさん@お腹いっぱい。 X7idwJ7O 2014/06/13 18:44:14.73
--------------------
NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」が放送中のようじゃが、
黒田と言えば、栃木県民なら「鶴姫」の悲運を想わずにはいられないじゃろう。
下野国が本貫の宇都宮氏は鎌倉時代からの名門中の名門。
全国各地に所領を持っておっての。
九州豊前に土着した宇都宮氏が城井(きい)氏じゃ。
黒田官兵衛は豊臣秀吉に城井氏討伐を命じられた。
ときの当主、城井鎮房はめっぽう強くての。
城井谷城で官兵衛率いる黒田勢四千五百を手勢千五百で追い払ったのじゃ。
武力でかなわないとみるや黒田は停戦を申し入れる。
その際、城井氏と黒田氏の和睦の条件として
鎮房の娘「鶴姫」の黒田長政(幼名は松寿丸)への輿入れが決まったのじゃ。
だが黒田は縁戚になって油断した鎮房を謀殺し、城井氏は一族郎党滅ぼされたのじゃ。
「なかなかに きいて果てなん唐衣 わがために織る はたものの音」
これは鶴姫が処刑されるときに詠んだ辞世の句じゃ。
NHKはドラマの中で、この黒田の黒歴史をどうするつもりなのかの?
城井鎮房は眉目秀麗にして大力無双の好人物であったと伝えられておる。
その娘である鶴姫もさぞ美しかったことであろう。こんな感じかの?
城井(宇都宮)鶴
http://files.hangame.co.jp/blog/2013/61/c8408f68/10/31/41398775/c8408f68_1383172607215.jpg
356 :
日本@名無史さん :2014/06/14(土) 10:31:07.42
直ちに宇都宮連合軍を結成して悪者退治に栃乙女や干瓢を持って出かけましょう。 主な参加者 宇都宮氏全員、 八田 茂木 高野 氏家 上条 横田 松野 塩谷 笠間 武茂 芳賀 多功 上三川 狩野 大久保 大山田 鳥子 小田 伊志良 宍戸 田中 今泉 西方 中原 中条 麻生 他。 総勢何名になるのか ? 兵糧米の準備が大変だ。 !! ちょっと待ってください。最近発明された双眼鏡とやらで敵陣を見ましたところ、 戦わずしてほぼ全員が滅亡しています。
千里眼の能力者がおるゆえ、双眼鏡、レーダーは不要じゃ。
358 :
日本@名無史さん :2014/06/14(土) 11:47:16.57
天国にいる宗円も前九年の役のときのように、 祈祷師に変身してもらえるのかな。 ?
太田氏は出自部分の系譜に混乱がありすぎて怪しすぎるなあ
360 :
日本@名無史さん :2014/06/20(金) 18:44:47.71
たとえ太田氏が怪しくとも、後の小山氏、下河辺氏、大河戸氏を怪しいという人は少数である。
太田氏は、韓国大田広域市付近からの渡来人。 でぶがおおいな。
362 :
日本@名無史さん :2014/06/22(日) 13:10:00.14
苗字に太いという字があるからと言って、でぶにはならないであろう。 ならば、細田とは、ガリガリの人物になのか。
363 :
日本@名無史さん :2014/06/24(火) 21:02:57.56
>>361 無知無能の知ったか程
恥ずかしいものはないぞw
てか妄想マスカキは他スレでやってくれw
364 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 00:07:26.37
そもそも宇都宮氏自体藤原とは一切無関係のない毛野氏の末裔たしな
367 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 09:18:47.34
私は次の理由から宇都宮氏は藤原氏で間違いないと考えている。 1、宗円は、両親や弟との間に不自然な点は全くない。 2、宗円が、藤原氏だからこそ紀清両党は運命を共にしたと思われる。 3、頼朝は、那須氏と宇都宮氏を同族扱いしている。 4、京都宇都宮邸は、藤原定家邸の近くにあった。そこから歌会に出席した宇都宮氏に、ほかの参加者である、たとえば冷泉家あたりから、 「宇都宮さんは、少し怪しいですね」という声が全く出ていない。 5、毛野氏邸が、藤原定家邸の近くにあったとすれば、それこそ不自然である。 6、私は、飯村氏を通して益子氏の流れが少しある。宇都宮氏が毛野氏とは、まったく思えない。
368 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 09:32:19.54
那須氏って下野の土豪やんけ
369 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 10:03:26.33
那須氏は、毛野国が無かった頃の古代那須国の国造家である。
>>369 流れ者中央氏族毛野氏って、神武の兄、出雲の敵の三毛野命末代では・・
371 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 12:26:32.34
毛野氏っても詐称が多いじゃん 調べてみれば
372 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 12:29:14.13
370 出雲は瑪瑙の勾玉作りだな 八坂神獣鏡が畿内メインだとしても
373 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 12:33:06.83
銅鐸が終わり銅鏡に移ったってことか?
374 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 12:48:19.80
八坂勾玉と三角縁神獣鏡かw 間違えた
375 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 12:51:32.98
その前の銅鐸時代はビリピンだの東南アジアの辺でも銅鐸でてるから 宗教的、商的取り引きがあったのは感じさせますね
377 :
日本@名無史さん :2014/06/25(水) 22:53:38.73
毛野が出雲と共に戦ったのなら、何故ね敵の名名乗ってんだぁ〜 因みに、三毛野の三は、神武が四男の末っ子で、直ぐ上の兄が三男の三毛野だからだぞ・・ 要するに、毛野命って名なのだよ・・神武の兄の名がねっ
松浦厨…
神武に追撃された出雲建子は、伊勢に逃れて、追撃したのが毛野命。 度会氏もおかしい、この頃の度会氏の祖は神武に従った天日別命で、饒速日命は伊勢側で敵の筈。 出雲建子=饒速日命を倒して、後の伊勢を支配し、成り済ました天照を祀った神武側の支配層って話。
毛野命と度会氏の天日別命は、出雲を討伐した天孫系支配層。
382 :
日本@名無史さん :2014/06/26(木) 11:47:14.17
饒速日が神武に討伐されたとか妄想じゃねーか のちの物部氏はどう説明すんだよ
383 :
日本@名無史さん :2014/06/26(木) 11:54:49.02
神宮皇后なんて見るからに弥生系だしどうすっかね?
>>378 上毛野三千ってのがいるが、
当時は漢数字じゃなくて「ミケ」って猫みたいな名前がつく文化だったんだろ
毛野氏は750以降は詐称だらけだが(金に困って系図を乱発したのか?)
天武期までの毛野氏はガチな純粋の毛野氏
琵琶湖周辺が上毛野氏の拠点だったらしい。オワケの系統?
>両毛の英傑は源姓足利氏も含めみんな元は毛野氏なんだろうが
東北の人間を遠征で殺しまくった人殺しの血統だから
(より多くの人間を殺せた系統のみが種を残せるサラブレッド地区)
サイヤ人みたいに培養実験されてたようなもんだな。
将門すら倒される修羅の国と
まさに未開のグンマーだったんだろうな。
385 :
日本@名無史さん :2014/06/27(金) 10:28:07.49
西暦750年頃には余り貨幣は流通していなかったと思います。 米や衣服に困ったということでしょうか。 漫画の読みすぎではありませんか。
386 :
日本@名無史さん :2014/06/27(金) 16:43:48.42
烈士と殺人者の違いについて 違いの分からない男がいるようだ。井伊直弼の首を取った烈士十八名は殺人者ではない。国のために働いたのだ。 彼らがいたからこそ今の私たちがいるのだ。私たちは彼らを尊敬しなければならない。 Aという暴力団がBという暴力団の組長を射殺したのであれば、これは犯罪行為として処罰しなければならない。 烈士や戦士活躍は、同じ殺人行為であっても、これには該当しないであろう。 織田信長のように敵の大将の頭蓋骨を盃にして酒を飲む所までいかなくとも、敵の大将等の首を手元に置いて祝杯を挙げる ことは武者として正しい立派な行為であることを理解しなければいけない。
毛野氏が経済的に困ったのは赤城の一宮譲りでもでてくる。 700以降に分家が多くなればなるほど、宗家の取り分が減るのも当然 上毛野氏は商業に特化もしてなかったので、新興勢力の金持ちの織物集団がでてきて相対的に衰退したのも史実通り 経済的に困ってないにしろ、時代を経て子供が多くなれば統率してなければ領地がばらばらになりやすく (系図の強力な統一もできてなから、領地の乱発・割譲が増えた=上毛野氏を名乗る別集団に取られただけとも言える) かつ新興の商業集団も出てきたので、地位が相対的に低下したかと =中央の天皇家にしても、毎回織物を献上するかわいい商人の方を、歴史だけの氏族より優遇する場合もあるはず。 挙母市→豊田市の経緯と同じ。豊田氏は新興集団もいいとこだが、ついに市の名前すら乗っ取ってしまった。 「最初は土地所有者=武家が強いが、後は商業集団の方が強くなる」のは江戸時代を見ても言える
388 :
日本@名無史さん :2014/06/27(金) 17:26:48.60
士農工商の役割 トヨタ自動車は、商ではなくて工だと思いますよ。国家が発展するためには汗水たらす農工が上に来て、 食糧自給率をあげ素晴らしい製品を世に送ることが大切だと思いますよ。 商人が農耕の上に来て幅をきたすような社会になったとすれば、その国家は衰退していくでしょう。 幕末期に不労所得を上げる商人を晒首にした烈士がいたけれど、あながち的外れではなかったと思う。
389 :
日本@名無史さん :2014/06/27(金) 20:52:03.90
尾張氏(関西人) 国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ 大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる ダサいダサ過ぎるw
390 :
日本@名無史さん :2014/06/28(土) 09:10:25.56
商人の街大阪にて ヨッ、扇歌。天王寺の塔と掛けて何と解く ? 天王寺の塔と掛けてはワイナワイナ、ハエハエ。それでは申そう、 天王寺の塔と掛けて、虎屋の饅頭と解くわいな。その心は、 十(塔)で五十(五重)じゃないかいな。 大阪名物高麗橋虎屋の饅頭は、当時は十で五十文であった。
391 :
日本@名無史さん :2014/06/29(日) 16:29:21.60
もういっちょっ、都々一坊扇歌。楠木正成と掛けて何と解く ? 楠木正成と掛けては、ハエハエハエ。 それではは申そう、 楠木正成と掛けて、夏の夕涼みと解くわいな。その心は、 足蚊が(足利)攻めるじゃないかいな。
392 :
日本@名無史さん :2014/06/29(日) 16:43:32.59
ヨッ、扇歌天下無双。壇ノ浦の平家と掛けて何と解く ? 壇ノ浦の平家と掛けては、ハエハエカカカ。それでは申そう、 壇ノ浦の平家と掛けて、四文銭を天麩羅に揚げて三文で売ると説くわいな、その心は、 波を揚げて(上げて)一文(門)を損するじゃないかいな。
393 :
日本@名無史さん :2014/06/29(日) 23:26:43.87
尾張氏(関西人) 国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ 大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる ダサいダサ過ぎるw
394 :
日本@名無史さん :2014/06/30(月) 08:44:43.12
関西がダサいのか、名古屋がダサいのか、どちらですか。 ?
395 :
日本@名無史さん :2014/07/01(火) 21:02:12.55
三河バカが言いたいのは愛知県全域がダサいってことだろw 特に岡崎は愛知県のバカの巣窟ってことが言いたいのだろうw 何せ尾張も関西も何も分からない耄碌ジジィだからなw
396 :
日本@名無史さん :2014/07/01(火) 21:04:36.09
ある意味正解だろ 尾張が人が住むようになったのも暴れ川の治水後だろうからな
397 :
日本@名無史さん :2014/07/01(火) 21:17:37.11
毛野氏は早くに関東進出した和人豪族だろうが、代々現地人と交わることで、平安以前に 脱和人化した戦闘集団と思う。
>>397 平安以前?
奈良以前、いや大和政権成立以前だろう
399 :
日本@名無史さん :2014/07/01(火) 22:41:19.66
尾張氏(関西人) 国名が、他国の地名の他国人(関西人)由来は尾張だけ 大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる 尾張(笑)、ダサいダサ過ぎるw
400 :
日本@名無史さん :2014/07/01(火) 23:54:01.85
常陸の国風土記にある、常陸の国を攻めた八刀神って、 邪馬台国配下の毛野、あるいはその別名の物部だよね?
401 :
日本@名無史さん :2014/07/03(木) 21:21:35.91
荒河戸畔は倭王擁立に絶大な力を持っていたんだよ その関係もあって崇神天皇の皇子の豊城入彦が始祖と繋がるんだよ
402 :
日本@名無史さん :2014/07/03(木) 21:46:05.75
豊城入彦は祟神と荒川戸畔の娘だからな 王妃ではなく、次妃の子というのは要するに厄介者。 東国に追いやられたのだろう。 荒川とは、新羅川。戸畔とは、網本、漁師のかしらといった意味だろう。
403 :
日本@名無史さん :2014/07/04(金) 21:54:09.26
主殿を束ねて三輪山信仰との関係を深めたのもすごいよね その後だよね 百済に派遣されて多奇波世君が政治力を発揮したのはね
404 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 07:41:09.56
>荒川とは、新羅川。 妄想乙
和歌山から来たのか?
406 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 17:11:31.44
荒川戸畔は、紀伊国造。 国造は世襲制。 とすれば後の紀氏は、荒川戸畔の後裔か。? 紀氏の後裔である益子氏が宇都宮氏の家臣(紀清両党)であるので気になります。
407 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 20:50:51.62
>>406 ってことは
荒 川 戸 畔 (和歌山)
↓ ↓
娘 = 崇神天皇 紀氏?
| ↓
豊城入彦 ↓
↓
毛野に下向 ↓
↓
毛 野 氏 始 祖 と な る
↓
益子氏
↓
宇都宮氏
???????
う〜ん難しいすぎてニワカには良く分からんw
ニワカは相手にならんよ
409 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 21:38:08.98
紀氏は、70代以上続く超名門。直線道路は果てしなく続く。 その内の征夷大将軍が出た系統からの後裔が益子氏。 豊城入彦は別系統。 但し、荒川戸畔も紀氏も紀伊国造であったことは間違いない。 宇都宮氏と芳賀氏と武茂氏の関係ほど、益子氏は近くはなかったと思いますが。
玉前神社の社伝にあるように、起点は東国。 三毛(上野、下総、常陸(常世))の国が歴史の主役。
411 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 22:01:51.49
三国を選べと言われば、毛野、常陸、総では。
412 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 22:06:15.33
んなこたあいいから左翼とやらの小細工どうなったんだよ
413 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 22:11:32.09
歴史の主役というか坂東武者が飛び出す起点という気はしますが。
414 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 22:50:40.06
紀氏は天道根命の祖先だよ そして神武天皇と天道根命とは 繋がりは深かったんだよね
筑波山周辺は元々は紀の国って呼ばれてたんだよね 関西の紀の国って東国の紀の国の出先機関なんだろうね
416 :
日本@名無史さん :2014/07/05(土) 23:04:01.94
あと和歌山の名草と下野足利の名草も何か繋がりがあるんかも?
毛野氏は関西人。というか紀氏。 毛野は紀野が訛ったもの。 北関東弁で「きの」と言うと「けの」のと聞こえる。 鬼怒川も元は、紀の川と呼ばれていたのだろう。 粉河寺(こかわでら)は、かつて下野国河内郡宇都宮(現在の栃木県宇都宮市本町付近)にあった天台宗の寺院。 下野宇都宮氏第10代当主の宇都宮氏綱が遠征先の紀伊国粉河寺で客死したことから、第12代当主の宇都宮満綱が宇都宮城下に紀の粉河寺千手観音を勧請して当寺を建立したという。恐らく、里帰りだろう。 当寺は宇都宮氏の庇護の下で隆盛し、戦国時代には慈眼大師天海が青年期に当寺の住職であった皇舜僧正に師事し天台宗を学んだと伝えられる(天文19年頃)。
毛野氏は関西人。というか紀氏。 毛野は紀野が訛ったもの。 北関東弁で「きの」と言うと「けの」のと聞こえる。 鬼怒川も元は、紀の川と呼ばれていたのだろう。 粉河寺(こかわでら)は、かつて下野国河内郡宇都宮(現在の栃木県宇都宮市本町付近)にあった天台宗の寺院。 下野宇都宮氏第10代当主の宇都宮氏綱が遠征先の紀伊国粉河寺で客死したことから、第12代当主の宇都宮満綱が宇都宮城下に紀の粉河寺千手観音を勧請して当寺を建立したという。恐らく、里帰りだろう。 当寺は宇都宮氏の庇護の下で隆盛し、戦国時代には慈眼大師天海が青年期に当寺の住職であった皇舜僧正に師事し天台宗を学んだと伝えられる(天文19年頃)。
419 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 00:00:13.73
>>367 豪族として成立してから何代も経てば
誰も事実なんかわからないでしょう
詐称なんかし放題ですよ
奥州藤原氏だって都から来た藤原氏に
「どうせニセモノだろう」と言われている
大事なことでもないのに、2度書いてしまった。すまぬ。
421 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 00:04:20.19
毛野氏といえば群馬ですけどライオン系の女性が非常に多いです 気にいらなきゃ男相手でも殴ります、富岡製紙とか関係ないです
鹿島信仰とか四方拝とか親王任国とか、天皇家の出自に東国が深く関わってるのは明らかなんだが
423 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 00:18:45.05
>>419 都の貴族相手に「下野の土豪・秀郷の子孫」じゃ箔が付かんかw
>>419 >奥州藤原氏だって都から来た藤原氏に
>「どうせニセモノだろう」と言われている
何年ぶりかで来てみれば、かつてと同じ文句が…
数年の時を経て同じセリフを。
「出典お願い」!
425 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:20:44.95
史上初めて武士らしきものである平将門を成敗した藤原秀郷は別格でしょう。 スター誕生。
426 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:30:05.22
どこかのやつら見てるとことごとくパクリに感じるの多いの何でだ? 425 だからその都の貴族とやらの代表の藤原氏からして不比等の母親から して毛野氏なんだよ
427 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:35:16.62
女の代表格多いぞ 新田義重の妻だった新田御前 岩松から由良に新田の宗家の移譲の決定打を 作った由良御前とかな
428 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:38:11.95
歴史的重要事項が記録として残る場合 石碑としてあり碑文が読める場合 お寺の坊さんや神官が文書にしている場合 両者は暇なので書写わ残していることが多い。 前九年の際に、八幡太郎義家と藤原宗円が今の宇都宮の二荒山神社を参詣したのは事実でしょう。 頼朝は、それにならい二荒山神社に戦勝祈願したのである。記録は神社にある。 二荒山神社で否定しない限り宗円は、藤原氏で間違いないでしょう。
429 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:38:57.51
左翼の妄想も酷いもんだな
430 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:43:17.19
428 繋がってくるかい? 赤城神と日光神とかの戦争の話に 赤城神社は毛野氏や新田氏の信仰対象だ
431 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 08:54:29.00
崇神天皇の祟りって名前からして真っ先に思ったのは女性相手にして祟りでも食らったのかな? ってのが正直な感想
432 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 09:00:56.73
那須国造碑から分かろこと 古代那須国は西暦700年近くまであったこと。 その直前に毛野国は上下に分かれて上毛野国と那須郡を含む下毛野国になったこと。 実は毛野国が出来る以前から毛野氏はいたのである。同様に上毛野国や下毛野国が出来る以前から、 上毛野氏や下毛野氏は、いたのである。 結論、場所と人物の関係は薄い。中央官人として国司となり、とんぼ返りしたことはあるようですが。
かかあ天下と空っ風、女王国と言えば毛野国。
434 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 09:56:09.12
今風の女王卑弥呼を探せ。
435 :
日本@名無史さん :2014/07/06(日) 13:50:23.92
私を左翼と呼ぶ方へ 私は自民党以外に投票したことはありませんが、何処かに左寄りの危険に香りがするのでしょうか。 親戚の飯村(益子流れ)というものも、戊辰戦争では旧幕府方で、横山大観の母方の祖父とは、信越、会津、 水戸城への途上まで共に新政府軍と戦っていましたが。
436 :
日本@名無史さん :2014/07/07(月) 20:33:00.54
437 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 14:30:00.05
宇都宮氏の始祖と二代目宗綱について 系図に混乱があると指摘する人が多いらしい。当時は、戦国時代ではないので二人は戦国大名では無いのかもしれない。 但し、それに近い境遇にあったともいえる。ならば今の一夫一婦制ではなく側室が何人かいて当たり前である。 系図の混乱とは、すべての側室が把握しきれていないだけのことである。 宗綱の宗は、初代を継ぐ証である。綱は、以後の宇都宮氏を象徴する文字である。宗綱は、二代目として相応しい名前である。 これは、後から取って付けたものではないであろう。
438 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 14:41:33.10
436 下らない煽りだな 437 封建社会以降の話な あるいは貴族社会
439 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 20:18:40.60
東国六腹朝臣が毛野氏 初期の全盛時代 安閑天皇の時代に 蝦夷に出兵して 大敗後に一時 没落したんだよ
440 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 20:31:09.52
>>435 スレチだが日本の左翼、何がダメだったんでしょうか?
441 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 20:36:19.68
右翼的な私を左翼としたからです。さようなら。
442 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 20:46:32.77
安閑天皇の時代の蝦夷とは、今の関東のことですか。それとも今の、 中部地方のことですか。?
443 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 21:23:24.90
蝦夷に行ったのは武蔵国造の乱の後だったけ?
444 :
日本@名無史さん :2014/07/08(火) 22:06:49.35
蝦夷は今の北関東だよ 蝦夷に行ったのではなく蝦夷と戦ったんだよ 武蔵国造の乱後だよ
445 :
日本@名無史さん :2014/07/09(水) 17:28:48.66
具体的な場所は、戦場ヶ原ですか。 ?
446 :
日本@名無史さん :2014/07/09(水) 17:42:25.94
上毛野氏小熊の乱のことか? 武蔵の国造り関係の争いだよな
いまのカンボジア・ビルマに住む人々(クメール族)、彼らこそ毛野氏の正体だ。
448 :
日本@名無史さん :2014/07/12(土) 11:36:31.04
毛深いのは納得しますが、天然パーマだそうじゃないですか。
449 :
日本@名無史さん :2014/07/12(土) 22:15:07.98
大宝律令の編纂など重要な任務を行った古磨呂など 政権の中枢まで上り詰めた上毛野氏と 下毛野氏の違いは荒河戸畔の時代まで遡る
450 :
日本@名無史さん :2014/07/12(土) 22:50:40.09
古麻呂は、下毛野氏では。
○野と名付けられてる国は、三野(美濃)と科野と毛野だけ
452 :
日本@名無史さん :2014/07/12(土) 22:56:15.67
荒川湖畔は、紀伊国の卑弥呼か。 ?
453 :
日本@名無史さん :2014/07/13(日) 09:04:30.17
実は上毛野と下毛野は最初から分かれたってこと?
454 :
日本@名無史さん :2014/07/13(日) 09:40:37.89
氏族と国域は別でしょう。 さらに、 戦場ヶ原で雌雄を決したのであれば、日光勢と赤城勢は独立した集団。 但し、日光勢が那須国を指すのか、下毛野国なのかは明確ではありません。
455 :
日本@名無史さん :2014/07/13(日) 10:03:50.75
日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社は、どちらも下野国一宮を標榜しています。 下野国一宮が二つもあるのは不自然ですから、日光二荒山神社のある地は古代那須国ではないでしょうか。 私は、そのように考えます。
日光の方はただ単に後世家康の崇敬もあって栄えたために僭称しただけのような気が… それに、日光と那須では国の形がかなりいびつになってしまう。 毛野氏の出自はおそらく孝霊天皇の末裔で越智氏と同祖であると思われる。 孝霊天皇の皇子に彦狭島命という人物がいるが、この名は毛野氏で初めて東国に赴いたとされる御諸別命の父と同名であり、 この時代に同名の人物が現れることはきわめてまれであるので同一人物の可能性が高い。 彦狭島命の兄、吉備津彦命は崇神天皇の頃に四道将軍として活躍しているので、世代的にもこちらの方が近い。
457 :
日本@名無史さん :2014/07/14(月) 15:38:15.98
那須国の形状がいびつとのことですが、当時の那須国を考える場合は白河地方も考慮することになります。 今の福島県の西郷村、白河市、石川町、塙町、茨城県大子町を含む範囲が国造の那須直氏の管轄区域になります。 形は、想像を絶するいびつさになります。 仮に、那須国でないとすれば、中禅寺湖の領有権をめぐり上毛野氏と下毛野氏が争って下毛野氏に軍配が上がったことになります。 これは現実的とは思えません。 那須与一か屋島で矢を放つ前に胸中で戦勝祈願をした場所は、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神(平家物語の記載順) となっています。 平家物語からは那須与一と日光権現は身近な存在であったことが分かります。
458 :
日本@名無史さん :2014/07/15(火) 13:36:50.29
平家物語に一段をたてて、その活躍か一世を風靡した那須与一の様子から、 下野国一宮は、平安時代末期には日光権現であったことが偲ばれます。
二荒(にこう)→日光(にっこう)
460 :
日本@名無史さん :2014/07/15(火) 18:49:42.80
男体山の旧名 補陀洛山(ふだらくさん) → 二荒山 つまり、男体山 = 二荒山
上毛野田道と田道間守って関係あるの?
関係がある、とした資料はないはず 田道の父も対朝鮮外交にかかわったので、朝鮮からの渡来人氏族にあやかって田道と名付けたというのはあり得るかも
非時香菓は筑波山のフクレミカンのことだと思ってるんで どちらもこの地域に縁のある人物だと思ったんでね
464 :
日本@名無史さん :2014/07/16(水) 15:51:07.60
毛野氏族について語るのに毛野国の範囲が分からなくては話になりません。 大雑把にいって鬼怒川(毛野川)の西側ということは少なくとも分かります。 それでは上流の方はどうなるのでしょうか。 途中からいくつかの支流に分かれますが、私は、今の日光市に向かう大谷川を古代那須国と下毛野氏の国境であると考えます。 大谷川の上流には中禅寺湖がありますが、北半分を那須国が南半分を下毛野氏が領有したのではないでしょうか。 西側の峰の先は上毛野氏領となります。 これは、西暦700年近くまで続いたことになります。 それまでの坂東八国とは、北関東に限定すれば、毛野国、那須国、常陸国だったことになります。
465 :
日本@名無史さん :2014/07/16(水) 16:31:51.36
463 イチジクって知ってる?
466 :
日本@名無史さん :2014/07/16(水) 16:34:10.73
ほうずき、どどのめ、蛇イチゴ〜にグミ どれも茶菓子に使えるな〜
>>465 八世紀に中国に伝来して江戸時代に日本へ伝来したとされる無花果がどうした?
何を言いたいのかイミフ
468 :
日本@名無史さん :2014/07/16(水) 17:46:57.70
私は那須の山奥出身なんで、殆ど食べている。 ザクロは、人肉の味がするというので食べなかった。 体には、良いそうだけれども。
469 :
日本@名無史さん :2014/07/20(日) 10:01:21.27
毛野国は、上毛野国と那須郡を含む下毛野国の二国になった。 古代那須国は、那須国造碑が再興されるまで千年近い眠りについたのである。 また、三文字の国名は二文字にせよとの達しがあり、両毛は、上野国と下野国になる。 毛嫌いという言葉がある。 これは毛野氏嫌いという意味なのだろうか。 ?
毛野の大王、プリンスオブ毛野。ハゲと正反対である。
471 :
日本@名無史さん :2014/07/20(日) 10:37:59.17
都の禿集団の妬みが、やがて怨念に変わったのでしょうか。 毛野氏の時代は、奈良時代初頭には終わったようですが。
472 :
日本@名無史さん :2014/07/20(日) 14:19:15.50
猿飛佐助は漫画であるが、小野猿丸は実在の人物らしい。二荒山勢に助太刀して活躍した。 後に日光二荒山神社には、神官として小野氏がいた。苗字の件はこれで一件落着。 それでは、猿という文字から思いつく人は猿飛佐助以外に近隣では誰がいるのだろうか。 国造の那須直氏から初めて分かれた氏族である猿田氏が思い当たる。他にはいない。 陸奥国に住んでいた小野猿丸は、古代白河国の国造でもあった那須直氏の親戚筋のもので間違いないと思えるのである。
473 :
日本@名無史さん :2014/07/21(月) 05:57:02.69
下野・上野の壮大な国分寺や薬師寺は毛野氏の力
474 :
日本@名無史さん :2014/07/21(月) 07:20:17.86
那須郡武茂郷から算出された金を財源としたらしい。 武茂郷からの金の産出量を確認せよ。
475 :
日本@名無史さん :2014/07/21(月) 08:43:43.04
毛野氏が現地にいたのは毛野国時代まで。何故なら国造は世襲制だったから。 その制度は、大化の改新によって徐々になくなっている。 上毛野国・下毛野国時代になってからは、国司は都から派遣される任期制になったのである。 奈良時代になると毛野氏関係者は、殆んど派遣されていない。
476 :
日本@名無史さん :2014/07/21(月) 23:08:33.21
文字修正 小野猿丸 → 小野猿麻呂 理由 特になし 第六感
477 :
日本@名無史さん :2014/07/22(火) 01:49:42.23
>那須郡武茂郷 武茂郷の領地の変遷は面白いよな なんと鎌倉時代まで那須氏の領地だったが 下野宇都宮氏の武茂氏に変わったからな
478 :
日本@名無史さん :2014/07/22(火) 10:26:29.33
健武山神社が中央に鎮座する武茂郷(元々は山田郷と武茂郷か) 時期 領主 事由 古墳時代から平安末期 那須直氏 国造 平安末期から 宇都宮氏 与一と頼朝の戦勝祈願 室町中期から 白河結城氏 宇都宮氏の斜陽 室町末期から 宇都宮氏 白河結城氏の没落 室町末期から 佐竹氏 宇都宮氏との同盟関係(八幡太郎義家以前からか) 江戸初期から 水戸徳川家 佐竹氏秋田へ、御三家登場 明治時代から 水戸県 明治維新の廃藩置県 宇都宮県 栃木県
479 :
日本@名無史さん :
2014/07/22(火) 13:02:26.88 武茂郷の領主を訂正する いつの頃からか、武茂郷は那須氏領から皇室領になっている。 二荒山神社に寄進の際は、さすがに皇室の了承は得ていると思われる。