1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:08:06.99
3 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:09:52.13
4 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:16:00.85
享和元年(1801)の御触書
領主によって苗字帯刀を許された庶民は
(1)郷士のように由緒あって以前から許されていたもの
(2)奇特な行為によって褒賞として新たに許されたもの
(3)町年寄・庄屋・名主・御用商人・本陣などの役柄によるもの
5 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:16:29.83
6 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:37:32.04
前スレで
>>4に対して異議を申した人が華麗にスルーされていましたが、かわいそうなので相手を
してあげてください。
また、本陣郷士も忘れないで
7 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:43:49.93
庄屋と郷士について教科書的な属性の違いについて
庄屋:開発領主であり地侍と呼ばれた階層が戦国時代に武士に繰り上がったが
豊臣政権あたりから権限を大幅に制限され江戸時代に入り若干の名誉
回復された層。
郷士:領主と主従関係を結んだ土地と切り離されていた武士階級が農村に帰納
つまり市中で浪人と呼ばれる人々。もしくは郷士という制度がある藩に
おいて郷士と認められた者。
なので兵農分離が進まなかった地域で徳川系の領地になった者は庄屋
以前のままの領主な薩摩等は郷士
8 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:46:14.29
庄屋の苗字帯刀については公式な記録においては少なそうだが非公式な記録
では結構な数がいそう。この辺も考察してください
9 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:48:25.71
7月の段階で民主党が2兆円の復興予算を組んだとき
自民党が要請した復興予算は累計17兆円
自民党の17兆が7月時点でに決定されていたのなら
今の日本はもう少し違って居た筈だ
ちなみに関東大震災のときは復興予算として現在の価値にして150兆円以上を組んでいた。
この事実を知れば、予算の規模の小ささ、ましてや増税なんて奇知涯にも程があると思わざる負えない。
庄屋は原則農民身分
実質村落の管理人で農民代表に過ぎない
だから凶作が続いて年貢減免を強訴したり
一揆を引き起こせば真っ先に責任が問われる
その場合 いくら格式があっても切腹できずに百姓として
よくて家財没収の上 追放
最悪な場合は一家全員が磔
一揆発生時の庄屋死亡率は半端ナイ
江戸時代以前は士分で独立的な勢力になれたのに江戸以降の庄屋は
殺され役
現在に残る広壮な屋敷などはイザという時のためのささやかな贅沢といえる
12 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 13:53:24.96
小藩だと上級武士と庄屋・組頭クラスの婚姻があるが
これは、庄屋等の豪農は富裕だったためと
氏素性というか経歴がはっきりしている場合が多かったため
13 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 12:16:09.11
郷士って戦国時代からいるけどね。これと地侍って何が違うの?
14 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 17:59:15.21
今日水戸黄門で名主さまが登場します。
あ庄屋さまご覧になりますか?
今日の黄門は、庄屋が力説する内容に似てたな
庄屋といっても特定郵便局長にならなかったとこは没落したろうな。
17 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 01:05:49.54
中間さまが来たぞ〜あ庄屋さま〜
ドンドン(門を叩く音)
18 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 22:41:40.95
足軽(…あ庄屋さま…)
19 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 23:11:57.21
あ庄屋(…あ、足軽さま…)
20 :
kabu:2011/12/23(金) 04:23:58.64
あのBNF男の交流ある人物はやっぱり金富子らしいね
BNFも負け知らずだし、
金富子もたくさんの情報入って大金持ちだし。
鬼に金棒の株コンビ。
金富子なら「億様レシピ」やら「富子サロン」で探せるよ。
21 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 05:22:44.91
よお舎弟w
俺は毎日忙しすぎて死にそうだ・・・
家に着くのが深夜の0時とかだからな
もう限界だw
肛門拝みたかったぜw
22 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 05:31:18.23
>>11 >>庄屋は原則農民身分
原則こそ農民じゃないんだが?
大体農業なんてやってないだろ?
何が農民なの?
>>一揆を引き起こせば真っ先に責任が問われる
そりゃそうだよ。村の領主だから。
>>その場合 いくら格式があっても切腹できずに百姓として
>>よくて家財没収の上 追放
>>最悪な場合は一家全員が磔
こういうのを言葉のからくりという。
例えば、明治に下士どもが、唯一の心のよりどころ士族を早々に剥奪され
早速暴動起こしたが、これ、侍のように切腹だと思ってるのか?
また、奇兵隊が戊辰後萩の乱などお上や藩に対し起こしてるが、
斬首だが?
藩に対し反乱起こせば、捉えられれば下肢程度も普通に斬首されてるだろ。
何を言ってるの?
>>現在に残る広壮な屋敷などはイザという時のためのささやかな贅沢といえる
不浄役人としょうされるものは、mなんで一例たりとも庄屋クラスの屋敷は御身が反映されてないの?
23 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 06:03:51.90
あ百姓
24 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 06:11:39.23
25 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 06:56:17.51
前スレで庄屋は百姓だと自分でも認めてるクセに何を今さらw
26 :
俺を論破してみろよ:2011/12/24(土) 07:07:34.59
庄屋は百章じゃあないよ
庄屋はね、在地領主だよ。
だって農業なんてやってないもんw
東の庄屋は在地領主だよ!!
27 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 07:25:00.77
百庄屋
28 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 07:38:59.50
庄の御屋形様なw
29 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 07:49:19.64
30 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 08:28:25.56
商社を君の脳内ではコンビにというのならすなのだろうなw
でももう、フリーターでいいわ俺。もうすぐやめるし。こんな生活もうもたねえなー
もう人生あきらめたわ俺wまじで
31 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 08:41:07.06
土百庄屋
32 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 08:47:59.47
自慢のマイカー、中古自転車でコンビニにご出勤あそばされるご多忙なあ庄屋さま。
33 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:04:36.46
>>30 あ庄屋さま
黄門に出てた名主さま始め百姓は藩取り潰しで浪人→帰農のケースでございました
34 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:37:26.12
>>33 じゃろう!!しかも上士クラスじゃろう!!
そおうなんだよな〜〜わしはみれんかったが、ようやく史実にもとづいたものになxってきたか?w
肛門は里美幸太郎が輔さんの時代が一番面白かったな!!
>>32
自己紹介乙 俺はコルベットかおうと思ってたが、もう会社辞めるからあきらめた。
金使いがめちゃ荒いからだめだな。
黒のコルベットをシャコタンにして18インチアルミ転がして海岸通り流したかったぜw
35 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:47:25.95
> 黒のコルベットをシャコタンにして18インチアルミ転がして海岸通り流したかったぜw
↑ド田舎のドン百姓の発想wwww
36 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:57:24.95
カッペの嫉妬乙wwwwww
37 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:01:29.61
お百庄
38 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:12:33.37
在地の一人大名だがなにか?
39 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:21:53.10
今日から五十六映画放映してるよな!?
今日こそ男は黙って五十六!っしょw
山本五十六を見に行って、思いにふける。
最高だぜ。庄屋はやはり真の武家のちが流れてると自覚するね♪
男は黙って五十六!!イルミネーションの中、五十六に思いをふけりながらヴァカドモをかき分け歩く
大日本帝国海軍連合艦隊の雄姿に興奮しそうだぜ!!
40 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 17:06:38.97
あ庄屋さまも今日ケーキ食べる?
41 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 17:39:14.85
うん。コンビニのあまりを貰ってきたんだ。
なにおまえら傷なめあってんだよ ブサメンどもが
44 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 20:00:30.33
♪庄屋さんと足軽さんがむ〜ぎば〜たけ〜、チュッチュッチュッチュッしているむ〜ぎば〜たけ〜
イバちゃんは肥を担いでいる姿の方が様になってるぞ。
>>8 藩御用達の豪商はだいたい苗字帯刀になる。
流れ的に
役を仰せつかる→それに見合う身分が必要→それに見合う身分に特例的に格上げ
町人から藩士、御家人から旗本も仰せつかる役によっては異動があった
47 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 18:33:59.26
幕末だから、あんまり一般化はできないが、百姓医者だった村田蔵六は、
宇和島藩に就職したときは、いきなり百石取りで、藩での扱いは上士待遇。
福沢諭吉が言うほどには、身分制度は固定的ではなくフレキシブルだったんじゃないか?
単に宇和島藩が、有能な奴には大盤振る舞いする藩だったんじゃマイカ?
49 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 19:38:32.78
>>47 大村益次郎は
適塾の塾頭とかしてたし
適塾の優秀層は大名から仕官の話がよくあったらしい
今でいうと、松下政経塾の塾生が県知事に見込まれて、県職員か県議になったみたいな話か。
51 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 23:53:57.05
庄屋の苗字帯刀だが実質世襲してるのは帯刀してるんじゃないの?
>>50 いや 一応 医学校だから
ただオランダ語とかの洋学を学べる一番まともなとこじゃなかったっけ
53 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 02:00:48.12
なんで松下政経塾とか?
適塾は塾長の緒方洪庵自身が幕府の医学所に頭取として移行して当時最高度の医学、西洋科学の教育・研究の場を作った。
さしずめ東大医学部、理学部あたりだろ。
適塾→幕府医学所→明治政府接収(医学校)→東京大学、帝国大学、東京帝国大学医学部。
また大坂にあった適塾そのものは大阪帝国大学の源流のひとつとされている。
大村益次郎は百姓医だったけど、藩での仕事は技術者のそれ。
今でいうなら東大工学部〜院を出て博士号取得、教授推薦によっていきなり主席研究員として入庁あるいは入社した感じ。
あと身分うんぬんの話だけど、桂の推挙で長州に戻ったときは武士ともいえない低い身分。
やはり身分を一気に越えるのは難しいんだよ。
54 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 02:59:20.51
能登の時国家は、平安末期の貴族、平時忠の子孫だが、爾来、ずっと農家。
江戸時代は庄屋をつとめ、当然のことながら名字帯刀御免。
下人は50〜200人ほどいたと言われ、書院造りの一室は大納言の格を持つと言われ、
能登の国主前田侯も入室を躊躇したと伝わる。
下手な武士なんかより、遥かに格上だな。
一代苗字帯刀御免はとくに功績があったとき書付が送られて許されるから
代替わりすればまた新たに功績がないかぎりふつうの庄屋だろう
56 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 14:12:23.67
普通の庄屋ってのが・・・ね。何なの?庄屋のいない村もあるわけで
特権階層である庄屋に普通の庄屋もあるのかね?
57 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 19:33:57.76
庄屋や本陣になるのを嫌がる地元の有力農家、商家もけっこういたろうね。
中期以降の大地主は新田開発の資本を出した商人が多かったはず。
酒田本間家も商人出身だよね。
まあ本間は本陣を請け負ったりしてたようだけど。
58 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 22:40:12.72
一応本陣も庄屋も名誉職なんだけどね。唯、本陣は持ち出しが多い為
色々と問題も多いが
59 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 02:31:50.16
>>54 現職の大納言ならともかく「大納言を出した家」っていうんなら、
前田家も同じなのにな。
60 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 20:27:56.63
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派
VS
橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
様子見:公明
江戸時代は権官ばっかじゃねえか
62 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 05:17:37.38
年末から年明けにかけては
あ庄屋さまVS下士のリアルファイトが見てみたい
庄屋は維新の時はなにしてたの?
庄屋隊とか聞かないけど
殿様と○○
65 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:19:55.00
66 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:57:38.66
中岡慎太郎も庄屋
67 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 01:08:40.82
中岡家は大庄屋。
陸援隊を組織して出撃準備してたな。
その前に暗殺されたけど。
あと庄屋、豪商のなかには自ら活動せずとも資金援助してた人もいた。
大阪の豪商が薩長に資金援助してたのはよく聞くけど、庄屋はどこの誰の話よ?
69 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 02:01:22.05
薩摩は、人口比で武士の割合が異常に高い藩。
通常は、武士は人口の1割以下だが、薩摩だけは3割以上が武士。
一般には、武家奉公人と見なされる連中や、豪農(普通の藩では庄屋に就きそうな農家)も、
薩摩藩では武士に数えられている。
薩摩の維新の原動力は、こういった下層の武士に支えられた。
大阪の豪商が薩長に資金援助してたのはよく聞くって、誰の話よ?
鴻池が幕府側で
三井が薩長って言う話は聞いたことがあるな
ほんとかどうかは知らないが
造幣局が大阪にあるのと関係あるのかね?
74 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 15:01:14.81
自分の高祖母方が中部地方の有名な郷士(鎌倉時代ぐらいから続いている)な家
だけど身分は維新時に平民。太政官公布によると家筋由緒アル郷士ハ士族に編入ス
とあるが、届出を出さなかったか、維新時の功績が無い為か、家筋が認められなかったか
だと思うのだが、やはり薩長土肥で維新時に活躍しないと、それなりの家でも士族編入は
難しそうです。
革嶋家でさえ運動の結果大正時代になってやっと士族と認められたようですので
家筋というのは、OO天皇からや地頭職ぐらいからの血筋が認められないと厳しいかもしれませんね。
>>74 うちは郷士だけど士族だわ
74の場合より家柄がいいからかもしれん
78 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 17:16:01.02
79 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 20:41:50.08
あ庄屋さま家のおせちはどんなのですか?
80 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 21:36:52.18
>>74-77記録を見ると江戸時代初期は知行をもらっています、以後は不明ですが
恐らく貰っていないと思います。領主の交代などで最終的に天領になっている為
制度的に郷士を基本的に持たない幕府から浪人(郷士)と看做されたのではと
>>80 維新のとき討幕の郷士隊として招集されなかったの?
82 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 23:08:13.88
>>81そういう話は聞いた事は無いですね。戦国時代ならあっちこっちから
声が懸かった記録はたくさんあるようですが
>>82 なら明治政府から冷遇されるだろうね。仕方ない
84 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 23:29:33.05
85 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 00:06:51.68
>>43 グロのイカ臭面は黙ってろ!
>>54 立派だよな〜〜時国様は。さすが庄屋だよ
>>55 だから無知はすっこんでろ
>>56 そのとおり
>>57 江戸初期の新田開発層はほとんどが旧武家層だすよ?
>>62 おれは年末年始も俺だけ仕事を押し付けられてる。
間違いなく、黙示で退職しろとの暗号なんだろうなw
>>63 おまいら糞下肢どもとちがい、村政を預かる在地領主なんだよ。わかる?
>>69 外様地と違い、徳川系列は家臣団引き連れての入府なので、
このような一般的な親藩譜代天領地域では下士的意味合いというより、
完全に乖離した意味合いのものですよ庄屋は。
薩摩のような外様は中性以前よりの在地大名ですから、ある意味末端まで含めての一国が成立してる地域ではないですから、
ですから、外様地域と、親藩譜代系の大名地の庄屋はまったく意味合いも属性も基本違いますよ。
86 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 00:38:49.37
ちょっと書き込み呼んでいたら思い出したことがあって、
その小話をひとつ。
87 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 00:44:38.46
昔、学生のとき、家の職業とか話になったとき、
都会出身のやつは、農家というだけで爆笑する。
悔しくて俺は「農家でも豪農だし、元庄屋だ」といっていた。
そうすると「庄屋ってなに?wwww」みたいな感じになる。
そうすると田舎出身のやつは、知ってるやつも多く、
「庄屋って田舎の犬神家の一族みたいな家だよ」
と。都会のやつは豪農をとかくリーマンより格下にみ、小ばかにするが、
田舎のやつは、今までで庄屋を横溝精子の犬神家の一族にたとえた人は4人いた。
田舎出身のやつにとって、庄屋とは映画の犬神家の一族のような家だとたとえる。
これはわかりやすい。
そこで今、とあることを調べてみた。・・・・・
88 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 00:58:05.96
89 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 01:11:15.91
横溝は明治生まれ。
旧本陣の家を題材にした小説もあるね。
90 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 01:16:34.61
これで見れるように、庄屋を題材にsた映画シリーズである、横溝精子の金田一シリーズ
「犬神家の一族」
「悪魔の手まり歌」
ここで描かれていた庄屋村長は、村内のすべての警察機構、財力、村政をすべて一手に掌握していたたという状況。
よって金田一のような村とは縁もゆかりもない第三者に委ねられ事件解決を図るというストーリー。
横溝という、当時の明治に近い時代に生まれたものの庄屋村長のイメージはこうだったということ。
どれほどの在地特権を掌握していたかという、まるで教科書のような映画。
92 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 01:21:23.18
>>89 GJ!!
失敬 横溝精子は明治生まれでしたかw。
明治生まれならなおさら、彼の江戸崩壊直後の世界は、ああ写っていたのでしょうね。
横溝は足軽下肢の長屋事件簿なんて撮ってないのが、当時のパワーバランスのリアル実写かですよね。
あの映画の世界が当時のリアルな明治パワーバランスというのがはっきりいえます。
93 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 02:19:05.42
本百姓「酒うめーwwwww」
下士「…あ…う」指くわえ
お上「ちょww百姓酒飲むの自重wwwww」
こんな感じなん?
>>92 おまえ誤字がひどすぎw
庄屋って馬鹿製造家系?w
>>88 みなさん勘違いしちゃいけませんよ。こいつが例にあげた伊崎家とやらは異常ですから。普通の庄屋は六間間取りの最奥に本床の座敷の設置と門長屋の設置が認められる程度です。
96 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 12:26:31.85
うちは通常の庄屋だったけど、こういった豪壮な家ではないね
長屋門は無く質素な薬慰問と建坪180坪程度の家
97 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 13:10:26.55
太宰治の斜陽館みたいな程度を想像しておけばok?
98 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 18:05:52.99
いや、もっと簡素な純和風住宅。役柄ゆえか広さだけはある
質素な薬医門に黒塀、蔵は4つ、一応書院造だが式台玄関は今は無いな。昔は
あったかも試練。二階はただ広く養蚕の名残らしい
江戸期に書院造の庄屋屋敷なんてないよ。
農家の奥の座敷が書院風なだけ。
□■■■
□■■■
□土間
■室
100 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 21:52:03.49
我が地域の例だと庄屋の家は苔むす門と大きな石垣がある以外は百姓の家と変わらない藁ぶき平屋。
それに先祖の墓で言うと我が家のほうが古い。
>>96 たしか、長屋門より薬医門の方が格上なイメージが
親戚の家では普段は長屋門から出入りしていたが、
正月は母屋脇の小さな薬医門を使ったって聞いたな。
今度の震災・事故で倒壊、敷地にも立ち入れなくなったけど・・・
別の親類の家には式台玄関が残っている。茶室も有って市の文化財になっていたのだけれど
跡継ぎが東京に行ってしまったので、解体して移築されてしまったな、
その家の医薬門は「城に納めるはずだったのが、寸法が一尺ほど足りなかったので
その家に落着いた」と、当主の爺さんから聞いたな。真偽のほどは知らんがw
「お前さんとこで要らないか?」と言われたけどタダで貰う訳にもいかないし、
いくら位払えば良いものか見当が付かないw
まあ、明治出来だけどうちにも自前の門があるので一応遠慮している
______
r〃〃〃 f7⌒ろ)
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|儿儿儿._」⊥厶
〔__o____o_≦ト、
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. / | ̄r少}¨ ̄〃 / /′ ヽ
〃 l | l| | l| 〃 / / └ヽ
/ l |l | |l/″ / ! 厂 \
く, Y ! l」fレト! / | / 1
丿 | | 丿} じ’ / | / |
/ l | `¨ / レ′ |
真の思考停
(在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)
民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
103 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:47:25.19
>>101おそらくイメージしてる薬医門とは違うかも
普通の門(棟木門というのか?)に後方に控柱があって4脚なため
一応薬医門形式をとってる。構造はしっかりしているが見た目を
質素にわざとしているのか、大工の腕が良くないのかは分からん
門の写真うpしてくれると話しやすいんだけど
105 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:09:10.20
>>105 十津川郷士や多田郷士は例外中の例外なのかな?
107 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:16:05.24
>>106落ち着け
十津川郷士は士族
多田郷士は平民
何が聞きたい
山科郷士も士族だろ
110 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:32:02.43
112 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:42:16.82
>>111素晴らしい資料ですね。
>>106そうなると、どうなんでしょうか?
郷士→士族は家柄+維新の功績ということになるのかな?
>>112 多田郷士の家柄は幕府も朝廷も清和源氏の直系だとしぶしぶ認めていた様子、それでも維新後の待遇にかなり不満があったようす、それを考えると並の家柄の郷士ではなかなか厳しいものがあったのではないかな。
115 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 12:10:00.76
>>97 wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
電車の中で読んでてめちゃくちゃ大爆笑ワロタぜwwwwwww
そういう家が上層地主のイエナ
>>95 >>普通の庄屋は六間間取りの最奥に本床の座敷の設置と門長屋の設置が認められる程度です。
お前さ、ほんとなんのソースも出さないで思い込み垂れ流しナ。
だったらそういうお触れ書きだせよ
117 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 12:49:53.12
>>116 お前って、偏差値60以上の高校すら出てなく、四捨五入すればFランに入る大卒だろ?
俺が質問してることわかってる?w
お前の価値観のものさしで、量を語れなんていってないんだが?wわかる?
>>117 ファビョンなよw実例あげてみただけじゃん。お前の返事まともじゃないぞ。読み返してみ。
119 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 12:59:11.03
一例で全体の傾向語ってんの?w
お前論文とか書いたことないだろ?ww
あるわけないよな、自分の主観が世界のスタンダードだという論述してるんだからw
120 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 13:11:19.36
>>119 庄屋屋敷の基本プランは六間から八間間取。これは間違えてないぞ?
玄関、式台、座敷、門、庭、付属屋、刺鴨居で格式高くするのが基本。蔵ででかくみえる場合も多いな。特別でかい庄屋屋敷もあるが例外だな。
建築史の本にも当然載ってるし、文化財になってる庄屋屋敷は二十軒ほど訪ねたことがあるからね。
お前の家が異常なんじゅねーの。お前んちどんな平面プランなんだよ?重文なってないとおかしいぞ。
122 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 13:28:40.16
>>121 だからよ、基本プランってなんなん?ww
江戸時代の建築基準法出せや?なあ?
永遠とお前の妄想憶測とのループじゃねーか世これじゃ。
>>122 日本の農家建築は
□■
□■
↓
□■■
□■■
↓
■□■■
■□■■
↓
■□■■■
■□■■■
って具合に発展してきたんだよ。
□が土間で■が居室な。
んで最後の一番最後に書いた間取りに江戸期に住めたのは主に庄屋クラスだけなの。
妄想とかじゃなくて建築史で体系化されてる話だから。
これは畿内な。
125 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 13:54:41.74
建築史じゃないんだよ・・・・わかる?ww
江戸期の住宅のヒエラルキーは建築学に基づいての基準なの?w
ちがうだろww
俺が言ってるのは、その根源となる基準は、どこにあるの?
幕府が、上記で書いた犬神家の撮影で使われた庄屋屋敷のような基準は許されてないんだろ?
もしくは一般的な基準というものが存在したんだろ?だから断言してるんでしょ?
ならその君が力説するわずか数十件からの統計による私的憶測による推測!!ではなく、
その根源となる幕府のお触れを出してみろといってる。ないんだろ?
わかる?君のは全部推測な?w
126 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:34:44.23
>>120越後の豪農なんて大体は明治以後に金貸しで巨大化したわけで庄屋だった家
もあるが比率的にはどんなもんだい?
127 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:41:41.62
>>126 関東でもいる世こういう豪農などいくらでも。
この映像の最後の碑文よんでみな?
典型的な豪農屋敷と書いてあるだろ?
今現存がされてないだけで、当時はこんなのゴロゴロだよ
今は相続税だの固定資産税で維持不可能だから。
128 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:43:27.01
129 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 21:25:52.12
うちは九州の田舎の小さい村だけど庄屋さんはいたよ
ただこんなすごい屋敷うちの村にはなかったよ
130 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 22:16:33.37
井上真央、松たか子、お父さんが鹿賀丈史でNHKでやってた
宮尾登美子 原作の「蔵」は庄屋かい?
小作が出てたように思うが。
造り酒屋と庄屋の違いって何? 越後だと特産が米なので庄屋が単純に多そうだ
東京に住んでると、岡山や豊後あたりの人でも、うちは造り酒屋で、というんで
まあ地方の名士なんだろうな、と思って、当たり障りなく返している
>>130?
うちもいまだに酒を造っているが、勿論今は庄屋じゃない
普通の百姓でも資力があって、時に売買、貸与される酒造株を持てば酒屋にはなれた。
もっとも、現存の造り酒屋には、明治以降の創業も数多い。
こちらも酒造免許が必要。
小学校の頃、授業で住んでる地区でおおよそ、その人のご先祖の
身分が分かると先生言って、宿題として「我が家のご先祖様」という作文を
書けと言われた。
うちは代々水飲み百姓。
発表日に発表して授業が終わった後、Aが因縁をつけてきた。
彼のご先祖は苗字帯刀を許された庄屋だそうだ。
「お前は今日から俺の手下になれ百姓」としつこかったのでその時は無視
した。
家に帰って機嫌が悪い理由を祖父に聞かれて出来事を正直に話した。
祖父が言うにはAの家は百姓が年貢で苦しく助けを乞うても助けず
一揆の気配があれば藩に御注進する家で我が家のご先祖の伊助も
一揆参加の罪状で磔になったそうだ。
次の日、Aが「おい百姓!貧乏人!」と煽った瞬間
Aの襟を掴んで投げ飛ばして散々殴って最後に腕を折ってやった。
俺は小学校では問題児扱いされ相手方への謝罪も拒否した。
もちろん田舎なので近所に噂が広まった。
なぜかこの年、普段お年玉をくれない近所の人たちが正月にお年玉を
たくさんくれた。
今も殴ったことは後悔していない。
134 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 00:39:50.16
132
絵に描いたような勘違い庄屋だなw
うちの家柄の前では庄屋ごとき平伏すからその場にいたら楽しかっただろうなw
135 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 00:47:13.21
>>132そういう庄屋ってのもいるんだよね。うちは新興住宅街だったが隣接する古い地区に
広大な土地を持った地主がいたが周りから良く思われていないようで娘の結婚で調査員がくると
文句ばかり言って破談にさせたりとか在ったらしい。
ただ、その家族自体も性格的に今市で壁を作って周りとはあんまり交際していない様子だった
136 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 01:55:31.04
水のみ百姓で上等、堂々としてればいい。
しかし部落とか在日のいる地域ではそういう調査はできんだろうな。
解放同盟や民潭がきちがいのようになって文句言ってくるかも。
ほんと迷惑な連中だ。日本の教育を妨げるがん細胞だ。
137 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 03:35:57.20
水呑み百姓こそが、実際に米をつくって、大坂で商い
この国は開国するまで、それでやってきたんだ。偉いぞ
偉民という話があるよな?年貢のとりたてが厳しくて、直訴して、たいがい磔になる。
うちは池上本門寺の近くだが、万灯さっさの日蓮宗のお祭りのとき
かならず、その本門寺から距離はあるのだが、偉民を祀った寺に、踊りながらみんな行くぞ
そして、万灯さっさは住んでる地域によってグルーピングされてるのだが
その偉民の地域のグループが祭りの華だ。うちは日蓮宗ではないので地元だが観光してるw
A庄屋で行こう
139 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:50:35.56
郷士はピンキリだからここに入れるべきではない。
140 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 13:44:34.09
郷士は庄屋と同じ属性だから除外
セロ弾きの郷士
142 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 20:55:34.78
郷士は作り取り、つまり年貢免除。
その代わり有事の際には兵役につく、ゆえに苗字帯刀も許されている。
これが基本、そういう立場だから郷士といわれる。
さむらい(さぶらう、仕える)ではない。
下士のことを郷士というのはおかしい。
百姓は年貢を納める、その代わり原則として兵役がない。
雑役はあるが、多くは農業土木などで自分たちのため、
あるいは御城の御用だと賃金、褒美が出た。
143 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:14:12.32
郷士は小領主
144 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:59:31.84
>>142それは薩摩とかでしょ確かに数的に多いから一般化しがちだが
実際の郷士は旧領主の家臣団が帰農したり何だか良く分からん集団が
昔からいたりして属性的には兵農分離が進まなかった地域の庄屋と変わらん
ほ
庄屋も小領主ってか?んな馬鹿な
147 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 03:56:41.95
畿内を基準にしてるそうだが西日本は割りと兵農分離が早くから進んでいそう
なイメージだけどな。そうならば庄屋は明らかに農民。
島津や武田みたいな兵農一致してる地域の土地の庄屋は武士と同一だろうけどね
薩摩の庄屋ってどんなだったん?総地方知行武士在村制の下で百姓身分の
村役人の在り方はどんなだったん?
149 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 20:09:06.41
農民と百姓を混同しないように。職業と身分は別。らんぼうな分け方をすれば郡奉行や代官の配下にあるのが
百姓で、町奉行の配下にあるのが町人だ。
150 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 21:42:25.99
我が家で一番古い墓に「天和二年
□に十字〜〜〜〜禅定門
十一月○○○○俵○○住」とありました。
○は解読不可能ということです。
十一月以降はどういった意味があるんでしょうか?
151 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 16:44:59.34
先祖スレと間違えた
郷士がいない藩もあったの?
153 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:02:28.89
天領にも郷士はいますよ。
しっかし自称あ庄屋様の子孫は捨てる程いるいけど武家や郷士の子孫はめったに居ないな。なんでじゃろ?
だって全体の7%ぐらいなんだろ?
そりゃみかけねえよ
大部分の武士は
相当生活が苦しくなったからな 明治以後
158 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:18:48.35
>>155 あ庄屋様はやたらと自慢するからな
武家はそんなはしたないことしません
160 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 12:23:28.96
>154郷土史を紐解くと天領には存在するけど代官の黙認や自称程度でどの程度幕府が把握していたかは・・
>158最近は唯の農民と。日光警備の時のみの臨時的なもので身分的には
郷士の範疇に入らないとされるようです。基本的に幕府には郷士という身分は無い。
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩
この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?
162 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 13:54:56.17
あ庄屋さま御侍史
明けましておめでとうございます
by百姓代
>>159 うちは庄屋で祖母は士族だったけど
士族は士族でプライドあるぞw
経済力じゃあ家の方が上だけど
士族は屑
>>163 プライドがあれば自慢しないだろ
俺はお前より家柄いいけどひけらかしたりしないし。聞かれりゃ答える程度
>>165 外では自慢しないよ
でも内ではそうでもないよ
わざわざ言ったりしないな
プライドってのは家柄自慢のことではないっしょ。
169 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:19:27.06
小作人「水呑小作パ〜ンチ」つ
庄屋「ぐはっ」バタッ
士族「うげっ」バタッ
百姓と農民を混同しないこと。村に住んで高を持ってたら鍛冶屋も百姓。豊かな百姓のほとんどは
農地を持つ一方で商工業を営んでた。
農地だけでなく、宅地を持っていて、借家にしていた人は多いよ
高を持ってたら百姓だが、高請地を現実に誰が耕作しているかは別問題。
年貢所役は村単位で負担するから村が各戸に適当に割り振って未進が
ないようにしていた。未進がないかぎり領主は村政に干渉しない。
あ庄屋様は誰と戦っているのか…
175 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:32:06.86
震災前
/::::::::::::::::::::::::::::::;;::ノ ヽ;::\
/::::::::;;;;;;;;;,,,;;...-‐''"~ ヽ:;::l
|:::::::::::| 岡田 異音 |ミ|
|:::::::/ ,,, ヽ,、 '|ミ|
'|:::::::l '''"" ゙゙゙゙` |ミ|
|:::::|. ,,r ‐、 ,, - 、 |/
,/⌒| ノ ・ _), (. ・ `つ|
| ( "''''" |"'''''" |
ヽ,,. ヽ |
| ^-^_,, -、 |
| _,, --‐''~ ) | マニフェストもう守れない。どうしよう・・・・
'ヽ ( ,r''''''‐-‐′ /
震災後
|:::::::::/ |ミ|
|::::::::| ,,,,, ,,,,, |ミ|
|彡|. '''"""'' ''"""'' |/
/⌒| -=・=‐, =・=- |
| ( "''''" | "''''" |
.ヽ,, ヽ .| キリッ
| ^-^ |
. | ‐-===- | 大震災が起こったのだからマニフェストの破綻も致し方ありません
,\. "'''''''" /
朝鮮民主党
おわり
176 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:44:42.32
薩摩では鹿児島の外に住んでるのが郷士で、城下士の下に位置づけられたが、
総地方知行制で、城下士も鹿児島城下に知行地をもらっていた。土佐では郷士は
下級武士の中の一身分に過ぎず、高知城下にも郷士は住んでいた。
大河の平清盛に庄屋のしょの字も出てこなくてワロタw
178 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 09:34:38.13
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している
野田内閣は過半数が帰化人
野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
179 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 18:36:30.42
受講してた日本史(教養科目)の先生が言ってたことだけど
江戸時代は村の百姓のほうが刀槍・火縄銃を城の武士よりも多数所有していたらしい。
百姓一揆のとき、武具ではなく鍬や鎌を持ってるのは
殿様「一揆のときは鉄砲なんか出してきちゃダメだからねっ!」
ってな感じで前もって取り決めがあったかららしい。
正直信じがたい。
>>179 合戦の支度なんてしたら庄屋が生贄だけではすまなくなる
181 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 18:45:32.17
戦国時代に武器は全階層に広まったからね。狩りつくすことは不可能。
アメリカで銃禁止法が成立したとしても民間の銃を無くせないのと同じだ。
一揆で鍬や鎌を持ってるのは「武器を持ってませんよ」という信号だな。
182 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 18:53:56.25
>>180 >>181 なる程。百姓としての外見を崩さなかったから処罰されるのは指導者(庄屋)に限られたんですね。
うちは百姓だったけど2本差しが木箱に入れて残ってた。
天下になにかあったとき城へ駆けつける準備は怠らなかったんだってさ
>>182 一揆といっても建前は 領主や御公儀への訴え
ですからね
185 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 06:48:33.20
186 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 15:11:40.86
日本史板には朝鮮人工作員が居ますので注意
上流庄屋
→郡司や臣籍降下した貴族が土着。元貴族
中流庄屋
→中世は領主。郡司などに由来すると自称
土人庄屋(普通の庄屋)
→土人百姓が年貢の勘定をする為に仕方なく庄屋化
189 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 09:15:11.82
元平百姓の庄屋はともかく、戦国時代の領主の家ならみんな立派な系図を
持ってるよ。あ庄屋が言う"上流庄屋"と"中流庄屋"の違いは系図の信憑性だけだが、
天皇または貴族の子孫であることが証明された"上流庄屋"はどの県のどの家か?
上流庄屋
→土着した貴族に由来
中流庄屋
→中世は領主。郡司などに由来
普通の庄屋
→平百姓が年貢の勘定をする為に仕方なく庄屋化
191 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:43:15.75
反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人
朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。
192 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 18:56:34.73
193 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 19:10:57.66
上流庄屋
→郡司や臣籍降下した貴族が土着。元貴族
中流庄屋
→中世は領主。郡司などに由来すると自称
土人庄屋(普通の庄屋)
→土人百姓が年貢の勘定をする為に仕方なく庄屋化
↑↓
上流庄屋
→土着した貴族に由来
中流庄屋
→中世は領主。郡司などに由来
普通の庄屋
→平百姓が年貢の勘定をする為に仕方なく庄屋化
194 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 19:43:52.01
古い時代の日記でも持ってない限り証明は無理そう。
うちは上流庄屋だったのか。飯がうまい。
196 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 20:55:01.91
このスレまで、あ庄屋粘着キチガイが来てるのか?
どっちもマジで鬱陶しいんでいいかげんで消えてくれんかね。
百姓の子孫だけど庄屋と武士の子孫に会ったら殴ることに決めてる
小作百姓が俺の名前を呼ぶと、汚いからやめろと言うように決めてる
200 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 16:27:36.19
美智子さんちは新田家の家臣だったといういわれがあるけど
婚約の際に、宮内庁が数百年分を洗い出して
その新田家家臣云々は証明できず。
けっきょく
数代前の百姓からしかと確認できたそうだが
上で言う、上流・中流・フツーのどれになるんだい?
ここの定義だとフツー庄屋てか、やがて庄屋から富商になるけど
>>200 実質的な確認はできないとこがほとんどでしょ
松平家(徳川)ですら分かんないだから
202 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:25:36.78
遡れば天皇・貴族に行き着くのが系図のお約束だ。
どうせ日本書紀だか見て家系図ねつ造してるんだろ
渋沢栄一の家が藩に500両を上納することになって、そのときの役人の態度に反発して云々ってのは有名だが
領主の岡部藩は2万石くらいの小藩だったんだよな
そのときは渋沢一族含めて1500両出したそうだ
そういう貧乏藩と1000両程度を出せる豪農との力関係は面白い。
205 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 23:02:18.86
>>204 おいキチガイ答えろよ。天皇の子孫であることが証明された庄屋家とは何県の何という家だ。
208 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 23:50:44.88
>>200ウィキで調べてみたが、このケースは自称を超えないね
田舎だと自称しても裏でまことしやかに「ありゃ、ほらダベ」とか言ってる
やはり、江戸初期からの名主や初中期に新田開発して名主になった家は
名実ともに名主足る家と認められていたからこそ名主になれた訳。
また、田舎では苗字と格式が重要であの辺の家は格式が高いとか親から子へと
伝承されている。家系は失伝しても格式は脈々と伝わってるもんさ
祖先がりっぱでも零落する者は零落する。系図はどうにでも作れる。名家はその地位を世代を超えて伝えることができたから
名家なのだ。先祖で家柄が決まるなら足利将軍家を押しのけて秀吉が天下を取れるはずがない。
210 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 14:14:14.26
あ庄屋さまが本物の武家出身ならば男色のご趣味もあるはず
あ庄屋さまの家は江戸時代には庄屋だったんだから本物の武士です。江戸時代の武士は
武士じゃないんです。(なんのこっちゃwww)
>>211 江戸で町方に取り押さえられ百姓牢に入れられる武士ww
東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
うちの村の庄屋は特別なもんじゃなくて四つの百姓が順番で担当してたみたい
郷士と庄屋の関係がどうもわからん。郷士は百姓身分の庄屋の支配下には入らなかっただろうけど、では
どうなってたのか。郷士と百姓は同じ村に混住してたのか?
郷士>庄屋
217 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 01:37:52.01
あ庄屋さまにありがちなこと
>>217 足軽「こ、こがぁなんは、たたた大したこ、ことあらへ、へんがな」
都会者は庄屋屋敷程度には恐れ入らん。庄屋を敬う理由も皆無だしね。
222 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:13:52.28
223 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:34:35.12
224 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 23:08:11.50
系譜はあくまで自称だからなw
ただの長屋門じゃね
田舎の家は大きいからね。江戸の町で屋敷を持ったらその数分の一の規模しか持てないよ。
一般の百姓の家でも江戸の職人の長屋の一部屋とは比べ物にならないくらい大きい。
地価で言うと庄屋の屋敷<下士の家ですか
足軽「あ庄屋氏、立派なお屋敷でござるなwwwヌポカッwww嫉妬注意報発令中でござるwww」
あ庄屋「ヌホヌホホホwww拙者はこれでもれっきとした上級武家の末裔でござる故www」
基地外氏ね
232 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:39:12.95
>>215藩によって違うが郷士が制度的にあって数が多い場合は庄屋は郷士がやる
天領とかは郷士は基本的に自称だから庄屋やってる、というかそういう階層が庄屋になった。
藩によって違うのだが郷士っていってもピンきりで・・・
初期より郷士と認められてる家(薩摩や土佐を除くが)は武家の内でも名門中の名門なわけで。
もはや別格だろうな、おそらく殿様でも遠慮して特別の待遇を受ける家
>>232 郷士すげぇ
でも殿様がなんで遠慮するの?家臣じゃないの?
>>234 三河では徳川の分かれなんて郷士もいるから
237 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 12:09:52.73
あ郷士さま
あ庄屋とあ郷士はどっちが上なの
239 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 00:55:13.28
>>234本当の初期の郷士は客分扱いとかで特別待遇、革嶋家とかetc
後期の郷士は滓だが
特別顧問みたいな感じだな
242 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 08:01:06.40
あ庄屋さま最近来ないな
来てるよ
244 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 17:16:35.32
今、水戸黄門の再放送で大庄屋さま(戦国時代の上士の子孫)が
家康からのお墨付きを盾に百姓いじめてる。
古代里長の末裔説が一番すっきりする
247 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 15:39:50.51
あ庄屋さま複数説
実はあ庄屋さまが美少女だったら。
249 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 02:31:37.46
俺の家の本家はかなりの土地を持っていて、江戸時代は庄屋だったんだが造り酒屋なんかも営んでいたらしい。
興味があったので、本家に行って過去帳なんかも調べてみると永禄年間にまでは辿り着くんだが、北関東の
某城が武田信玄に攻め落とされた時にまでは遡れたんだ。
そのとき、よほど武田方の残党狩りが厳しかったのかどうかは分からないけど、苗字を一字だけ変えていることが分かった。
でも、たかが軽輩の足軽の大将くらいで名字を変える程の必要性があったのかどうかちょっと疑わしい気もする。
いわゆる戦国時代には足軽大将が敗戦して名字を変える必要まであったのかどうか歴史に詳しい方がいたら教えて下さい。
ここで庄屋の子孫の俺が登場、名誉に思っていいんですか
>>249 苗字変更は残党狩りを逃れるためとは限らないのじゃないか?
252 :
名無しの歌姫:2012/02/28(火) 03:18:00.30
>>251 >苗字変更は残党狩りを逃れるためとは限らないのじゃないか?
そうすると他にどんな理由で苗字を変えたんだろう?
スマンが思いつく限りの理由を書込みしてくれ。
253 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 04:19:21.71
苗字を変えても同じ地に居たら、滅ぼされた大名の遺臣であることは丸わかり。苗字を変える理由がない。
一時逃亡流浪でもしたのかな?
255 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 06:40:28.65
変えたんじゃなくて、適当に使っていたらいつの間にか変わった、という可能性・・
>>252 移った地名若しくは字名を名乗った
本姓に戻した
親戚筋の姓を名乗った
ただの気まぐれ
あたりかな
その地域のお偉いさんに同姓がいて失礼だと思い改称
例 宮本→宮根
庄屋の家系の菅直人より士族の家系の鳩山由紀夫の方が気品がある。
分家の子孫は庄屋の子孫を名乗るなカス
>>259 麻生さんは人はよさそうだが、顔、特に口元が下品。
べらんめえ調も下品。
262 :
名無しの歌姫:2012/02/29(水) 02:34:38.82
252ですが、諸兄のご意見を寄せて頂き心から感謝します。
>>260 >分家の子孫は庄屋の子孫を名乗るなカス
言われてみれば尤もなご意見です。
たしかに分家の俺は本家の庄屋の跡取りではないんだからなぁ。
まぁ、ともかく、みんな本当に有難う。
>>262 祖先に庄屋がいたら庄屋の子孫じゃないか。
>>261 麻生さんは九州の炭鉱王の家だからね。ガラが悪くてあたりまえ。
264 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 11:19:52.29
>>261 >麻生さんは人はよさそうだが、顔、特に口元が下品。
べらんめえ調も下品。
顔はなにかの病気、口調は坊ちゃん的な自分を消すため
わざとああいう風にしているとテレビで誰かが言ってたよ。
口調については、かねがねとってつけたような感じだと思っていたから、
とくに納得した。
265 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 16:16:49.96
>>264 総理になったときに治したけどアレが限度だったねぇ。
麻生さんとこは
庄屋の家なんだが
大庄屋やってた時期もあるはず 確か
麻生ガラ悪いか?よくわからんがマスゴミに対してか?
ちなみに橋下も下品になるとか?
麻生は柄が良い悪い以前にただの馬鹿だから、庄屋の子孫代表みたいに扱われると
他の庄屋の末裔が迷惑する。
269 :
イケメン2号:2012/03/05(月) 21:25:30.05
漏れの先祖は庄屋から武士に転身しますた。
漏れはその分家の子孫の一人ですがどちらの子孫を名乗れば良いのでせう?。
>>269 分家した初代の身分を名乗れカス
分家が本家の身分名乗れる訳ねーだろアホ
庄屋から下級武士に転身した先祖には4人の子供が出来ましたが
嫡男は1人で姉2人に養子を迎え分家を2つ創設しますた。
漏れの方の分家の初代当主は城の近くに有った鉄砲職人が多く住む長屋に居た人物です。
ちゅ〜ことは武士の子孫ちゅ〜ことで宜しいのでせうか?。
273 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 02:58:46.27
>>272 それは下級武士の直系だと主張したいんですか?
養子の分家だとするとそれも厳しそうですね。
その長屋の人物が武士だという根拠が必要なんでしょう。
まあ実際の士族なら江戸期の墓石なんかも
多数保有していたりするんですよね。
うちは村の旧家で江戸中期の墓石が8基ありますし
よく話題になる名主の人も墓を何基も持ってらっしゃるようですよ?
祖先が庄屋なら庄屋の子孫だわなw
今時「漏れ」とか言うなよ気持ち悪い
一族の墓なら腐る程w有りますよ。
廃藩置県後、農地改革や鉄道敷設、市道敷設等で伝来の墓地は
縮小や移設及び分断を繰り返しましたが数は残っています。
277 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 10:40:03.87
そういうカウントだと、嫡流の男系が途絶えたらどんなに子孫をたくさん残していても、家が途絶えたことになるよね。
長男が絶対に子どもを残すなぞありえず、近現代になってくると甥や甥孫や外孫を養子にする人はほとんど皆無だから。
先祖からしてみると、「後世に名を残す」ことを最大のミッションと考えて、多くの子孫も残してきたのに名も云われも残らせず、大いに落胆するんじゃないだろうか。
そう考えると、血をひく先祖のことを先祖と言い続けることは子孫としての孝行の一つだと思う。
本家が残ってても同じことだわな。祖先を共有してこその本家と分家だ。
分家の家祖以後だけが祖先なら本末関係は存在し得ない。
本家を名乗り、分家を名乗らすには食っていけるだけの耕地等の土地、
それに家だって立派なのを建ててやらねばならなかった。
それがうちらの慣習。
勝手に出ていったを理由に何もしてやれなかったでは本家、分家の概念すら成立せん。
現在も大都市、例えば東京や大阪へ出て行った人までも家を建ててやってる。
それから長男が自動的に本家を継ぐとは限らん。
うちは明治期、極道だったので長男なのに分家させられて他家から人を迎えておなごが家を継いだ。
いえ自体は古く、平安末期から活動が見られ、地名(旧村名)がそのまま名字となっていて
他所で大庄屋をやってたり、武家として出世していた系統まで、一応リスペクトしてくれている。
が、発祥の地に比べて新興地の方が豊かだったためか、他所に行った方が資産家になるね。
先祖が分家を創った後に宗家に生まれた娘は分家の息子に嫁ぎ
財産が赤の他人に渡ることを防止したらすぃのですが
漏れの分家の当主に成った先祖は財産を浪費して家督を譲り隠居した父親の
怒りを買い廃嫡に成り残った財産は兄弟に均等に分与されたらすぃです。
281 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 19:04:07.78
本家もそのまた本家も全て先祖には違いない。
歴史は色んなものが重なっているから奥が深いのだよ。
では身分は?ということになると、今は皇族以外はみんな一般人。
江戸時代に武士だった家も、江戸以前に没落した家も
ある時期には○○の身分だったということ。
江戸時代の身分だけを特別視する必要はない。
ただ、江戸時代の身分は証拠を示し易いというだけだ。
282 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 21:29:56.42
まあいずれにしろ現在の立場でかつての
祖先を推測するのはバカげた話です。
うちの宗家は平安時代に村に来た皇族で
それで寺を開いて姓を改めて現在も住職をしていますが
今となっては分家の方が豊かな家もありますし
一見すると旧家とは無縁そうなヤンキーのような者もおります。
明治を迎えるまで寺の住職は本寺から派遣でなかったか?
今は嫁取って世襲が多いけど。
自分のところの坊さんがそんな風に話していたんで、天台宗以外は違うかも知らん。
284 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 22:33:46.44
>>283 その寺は修験宗で聖護院の末寺ですねその昔の平安時代から
皇族が住職となる寺院は院号が許されてその寺は門跡寺院
として建立されてでも皇籍離脱もしてるから
まあ神社の神主でもうちに近い家はある。
285 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 23:56:37.54
そういえば、うちの地区の庄屋さんちは神社の分家だ。
殿様級の別格扱いなのはそれだからかな。
286 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 18:14:39.84
鎌倉期以降なら浄土真宗で世襲のところは少なくないけどね。
287 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 18:34:46.36
江戸時代には浄土真宗を除いて妻帯が許されてない。門跡寺院も同様で、
皇族や貴族の子弟の次男以下が次々に口減らしとして放り込まれていた。
一般の寺は、住職の弟子となって修行を積む。住職で育てられるレベルを超えたら
本寺でより深い修行を積み、ひとかどの僧になれば末寺で空き寺になっているところに
送り込まれて住職になった。僧は建前として子が作れないんだから当然そうなる。
寺の責任者が僧でないケースはあるけどね。
>>258 庄屋の家系のわりには貧乏だと思ってるけどね>管直人
わざわざ父親か祖父が東京に出てきた場合は、庄屋といえど、かなり家が小さかったんでしょう
290 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:33:04.35
庄屋の名字帯刀ってどの程度なの?
諸説あるらしくて・・・戦国期からの痔侍からの庄屋は門、名字帯刀が
認められもしくは黙認され、新たに任命されたものは認められていないってのが
大方の見方?
291 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 23:17:56.57
>>290 室町時代から系譜がある我が地域の庄屋ちゃんは古文書には名字が載ってないよ。
下級武士が武士を名乗るなっていうあ庄屋ちゃんの主張はよくわかる。
大企業のアルバイトか契約社員がドヤ顔で大企業勤務を自称してる感じだし。
>>290 名字帯刀を公式に認められた庄屋は
実際は少ないだろね
大庄屋辺りは名字帯刀が多いみたいだが
293 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 00:09:46.17
公式にってのが味噌だよな・・・
郷土史を調べると不思議なこと多いから調べてみたら?
294 :
九州男児:2012/03/26(月) 20:33:39.53
福岡県の庄屋は脇差しも認められていたとの記述を見たよ。
うちの隣村の庄屋は苗字帯刀認められてる
296 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 02:44:55.55
藩によって違うけど大体長く世襲してる家はOKだろ。小諸藩等
脇差は許可無くてもOKらしいけど慣習的に庄屋等の上層が差してるという場合もある。
昔は庄屋は脇差帯刀って常識に近かったけど最近は聞かないから研究が進んで例外も
多いのかな?
あと、郷士について最近変な論が多いが基本的に農家で名字帯刀している、
字侍からスライドした層も昔は含んでいたけど最近は藩に籍があるかどうかで
区分けしてるぽいが、そりゃ村に居住してる武士との区分けはどうするのかね?
村に居住している武士ってのがまず少数派だろ
298 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:39:38.06
郷士自体も少数派でしょ。薩摩を除く
幕末に食えない下級藩士が村で畑耕して生活してきてるから少数派ともいえないかな?
具体例で教えて
村に住んでる武士は 基本的には役つきの人だから
郡奉行や組頭や手代etc
あと、旗本とかは 領地に管理者として家臣を置いてたろうけど
郷士も制度的なものだし
ちなみに、十津川郷士だと
『大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。』
301 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 04:49:41.99
>>300本人たちが述べてるだけで大した記録は無いとか司馬のおっちゃんが言っていたような
(十津川郷士について)
郷士なんて実際どのぐらいいたんだろ
土佐は長宗我部の家臣等の懐柔のため
薩摩は兵力の温存のため
他にはどんなのがあるんだろ 浪人以外で
>>291 下級武士は士族になれなかったもんね
大体、マトモに門も無いような家に住んでいる場所が多いし
人名ってのもある
塩飽諸島限定かもしれないが
305 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 02:14:27.74
小諸藩の特権商人やら郷士やらウィキに詳しく載ってるが・・
いわゆる庄屋郷士ってやつだが士族編入したのかね??
306 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 02:21:20.97
>>302薩摩は温存というよりも削減できなかったと聞いたことがある。他国は
負けたり又、領地拡大に伴って遠地へ領地変え等で地モティーと縁が切れて兵農分離
しやすかったが薩摩は出来ず、止むを得ず年貢免除と引き換えに郷士を認めたとか
郷士で有名なとこは薩摩長州肥前だが郷士とかっこいいこと言ってるのは維新の功績ゆえ
だろう。おそらく江戸期は百姓と大差無い
大多数は壬生郷士の如く浪人身分とってことだと思う。水戸藩みたく登用していったのって
どの程度だろうな?
>>305普通は郷士は平民。裏技だが紳士録や資産家総覧をみると士族なら記載がある
旧庄屋ぐらいだと資産家総覧に載ってる
308 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 15:11:29.36
うちも北関東の名主なんだ由来はなんだんだ?
帰農した地侍とかが多いのか?
一応脇差と短い槍なら家にある。裏山には古い墓があるがどうなんだ?
309 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 15:32:31.83
>>308 その程度の情報で分かると思い込んでいるお前は間違いなくアホだろう。
郷士は士分だったが平民にされたものが多い。士分の豪農、村役人も
平民になった者が多い。地租改正で地主になった者は秩禄処分の対象に
ならなかったからだろう。
田舎だと、明治期の士族階級の没落が激しいからな。
農工商は、言ってみれば江戸時代と大して変わっていないのに対し、
士族は収入源を完全に失ってしまった輩が多く、大身の武士も普通の農民になってしまっている件が目立つ。
その中で、相対的に地位が向上したのが庄屋や名主と言った階層。
この階層が、地方の素封家となり、子弟を大学にやるなどして、一挙に支配階級にのし上がった。
戦後の官僚出身の政治家の出自はたいていこの階層。
旧士族層は、子弟を大学に入れる資力がなく、陸海軍や師範学校への入学が目立つ(ともに、学費はただで、
生活費が支給される。)
戦後の首相経験者で言えば、
佐藤、岸兄弟 ー 山口県の造り酒屋
福田、中曽根 ー 群馬の地主
官僚出身ではないが、小渕や竹下も地主階級
江戸時代以前の旧支配階級出身なのは細川ぐらいで、
田中、大平は貧農出身
敗戦後は、士族階級の影がきわめて薄い。
312 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 19:48:10.26
士族の大半は人力車夫=都市労働者階級か開拓農民になったからな。
313 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 20:04:26.45
帰農したケースも多い。
314 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 21:45:04.72
>>309 そんなことはないですね。
関東は他の地域と違う。
江戸期まで残った大名などほんの数家、極弱小大名のみ。
あとは大半が戦国中期までに滅びてます。
関東の地は、室町からの守護家が在地の地侍土豪、要は江戸の郷士のような者たちの集合体で軍を編成してる混成集団。
戦国後期の信長貴下の大名たちのような専属軍を常備している大名など関東にはいません。
戦国後期まで生き延びた後北条ですら、戦国前期の室町守護家のような在地郷士たちの混成軍団の色合いが強いんですから。
要は、関東では西国や信長貴下の大名たちのような兵農分離は一切行われていません。
さらに、関東はイニシエより、鎌倉武士団という土地開発領主層が武士。
要は土地を多くもつものが何らかしかで武士という側面がきわめて強い土地です。
そして、全国でも有数に、室町期や戦国前期までの時代の中で、地侍のような郷士層が日本で最も多い土地。
そして、その関東では、戦国後期いや、戦国が終わりと同時に、徳川集団のように、兵農分離化した千属傭兵集団を引き連れての関東入府なため、
それまでの関東のいわゆる地侍等の郷士層は根こそぎ帰農しています。
巻頭に置いて、それなりの土地を持つ農家は、大半、戦国期前半まで何らかしかで武士化してなければ、
中世関東では土地を多くもつことなどできません。
ですから、
>>308はおそらく地侍でしょうね。
315 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 13:13:51.33
「士分」なんて言葉がそもそも武士でないことを表してる。
「名誉白人」なんて言われても白人でないのと同じこと。
316 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 07:02:01.22
組頭で苗字帯刀、組頭で郷士とかいるよね
庄屋だったのが組頭になったりとかで組頭クラスにもなかなかの家がある
317 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 14:12:28.69
■自民党の土下座外交の輝かしい成果(韓国編)
・西九州のEEZを献上
・肥前鳥島を岩と認め、EEZ放棄
・内政の教科書問題で介入させる切っ掛けになった宮沢談話を発表
・慰安婦強制を認める河野談話を発表、小泉首相名義の慰安婦への謝罪手紙でも追認
・竹島提訴を今まで実施したことなし
・竹島にヘリポートや港、住民居住、不法占拠状態を長年に渡り放置
・韓国が一方的に有利な漁業協定
・ODA等の巨額の援助・技術流出(日本企業のライバルを援助し、敵を育成)
・条約締結時4.5兆の事実上賠償
・朝鮮銀行2.7兆献上
・韓国人へのビザ免除を恒久化
・在日生活保護を認める
・在日通名を認める
・パチンコ業界を20兆円超産業に育て上げた
・日韓議員連盟ダントツの1位
・事実上の武器輸出全面禁止を打ち出し(武器輸出三原則)
318 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 17:04:20.46
>>317 それは全て左翼の活動の成果。20年前の世論は本当に狂ってたからな。
319 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 20:14:39.30
自民党を含め協賛、社会、なん妙、ミンシュ・・・・クズだらけですな
320 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 20:48:58.13
>>315 >「士分」なんて言葉がそもそも武士でないことを表してる。
士分は正規の武士身分を表すことばですよ。
徒士は士分で、足軽は士分じゃない。
徒士も士分ではなかったような。士分とは、侍(≒馬上)以上か。
>>320 表
していないから
>士分
という表現なんですよ。
「名誉白人」といっても白色人種を現さないのと同じ。
その伝で言えば謂わば
「名誉士族」
といっていることと同じことなんですよ。
324 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:38:09.45
士分は「武士の身分」の略だろ。
で、士分は騎乗の士である侍と徒士とに分けられる。士分と侍を混同してるから
おかしな議論が発生する。
「身分」、「分際」、「分限」の「分」だな。
士分に取り立てられた者は武士そのものだ。
326 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 20:47:50.77
>表していないから
>>士分
>という表現なんですよ。
こいつは「分」と「格」を混同してるようだな。
>>172 学校で代官とその家来が直接年貢取立てに来ると習うたんだが・・
それは嘘なのか?
>>327 庄屋屋敷に集められた米を検査して持っていく。戸別の割り当てと徴収は庄屋の仕事。
329 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 08:15:46.37
323は士分について調べることをオヌヌメする
330 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 09:07:56.89
>>328 検見やら領内村々の紛争やら巡見やらで村々を回る機会は少なくないけどな。
役人が少ないから庄屋に一任する部分は多い。
172と328と330は矛盾したことを言っていない。
332 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 10:37:45.45
>>331 少なくとも>> 172は「未進がないかぎり領主は村政に干渉しない。 」と書いてるからな。
そこまで庄屋の自治は認められていないよ。平穏な時に限って実質的に放任されているだけだ。
巡見使の仕事とは村々で接待を受けることだったんだ。
昔も今も役人は変わらないね(^^)
島原の乱の解説で年貢収められない農民を代官が
逮捕して拷問にかけたのがげんいんというのは・・
役人が年貢が収められない農民の娘を拉致して売り飛ばしたというのは・・
335 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 14:13:56.60
母方が富山一の庄屋の出で、県史にはそにの家の項目が取られているおり、歴代当主のことが詳しく載せてあった。
代々馬廻り格とに取り立てられてるんだが、それは当主になって、即という事ではないようだった。
あくまで、庄屋は百姓なんだな。
武士のように、家を継ぐことが即、役目には結びつかない。
因みに、その家は鳥取部の末裔を称しており、室町期に新田開発で成り上がったらしい。
旧武家などではない、純然たる農民だな。
藩主も度々泊まりにきていたそうだが、槍を拝領したのは明治になってから。
明治期の当主は国会議員にもなってるし、地元では旧家だろうが、あくまで幕藩体制の下では、
庄屋は百姓、武士ではない。
336 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 19:10:56.24
>>355 うちの曾祖父は庄屋の三男坊だったんだが、持参金付きで徒士だった現在の俺家に婿養子。
曾祖父の弟である四男坊も徒士の家に婿養子。
曾祖父の兄には中士格の家から嫁をもらったりしてる。
明治の中頃のことだけど複雑な思いがあったのかなと・・・
ちなみに宇和島藩
337 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 19:14:19.21
宇和島といえば御霊さま。
338 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 19:26:06.82
>>337 山家さんは政宗公から離れられなかったね。
355に何が書かれるか早く知りたい。
340 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:25:23.08
華族 士族 平民
庄屋は鎌倉室町の名門武家の子孫。下級武士(足軽)は河原者、浮浪者、野盗の子孫。
本来の武士は庄屋階級だ。
342 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 07:22:13.58
オレの両親の実家はともに九州の大分だが、庄屋やそれに準ずる家はたいてい大友氏や
宇都宮氏などの戦国大名の国人被官で、たいていは城(と言っても砦みたいなものだが)を持っていた。
大分南部の方は良く知らないが豊前では、一つの郡に100前後の城(砦)があった。
信長や秀吉のように兵農分離がすすんでなく、土地を守るためには武装するしかなく、
一族だけでは守りきれないから有力大名の被官になると言うのが一般的な流れだった。
徳川時代以降、そこに外部から大名が入って来たが、国人たちを家来にする事はほとんどなく、
大部分の国人は帰農した。
明治以降、士族はほとんどが没落していつの間にかいなくなり、村や町の有力者は大抵が
そう言った地主階級で占められるようになった。
344 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 09:44:46.45
まあ、その辺は司馬遼太郎が散々書いていて既出だろ
出来星大名より庄屋層の方が家柄が古く「名誉」という形では上であるが・・・
その後260年近くを支配階級で過ごしたのと被支配階級で過ごしたので差がついた。
まあ、下級武士風情に見下されるのは許せんが・・・
大分など特定の地域や特定の家はともかく、近世の系図は当てにならないものが多く、
庄屋も例外ではない。武士の系図は仕官の必需品だったが、百姓町人も成り上がれば系図を持ち、
家柄を飾った。
346 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 16:58:40.14
うちの地域は幕末は幕領だったのだが代官所が旧家の系図を調べて、それなりの
家だと判断されると苗字帯刀が許された。江戸期を通じて庶民の系図もそれなりに
調査対象になっていると思われるよ
>>346 「それなりの家」っていうのは戦国武将の子孫かどうかという意味に限定されるわけではないでしょ?
数代にわたって庄屋を勤めてきたというようなのも「それなりの家」になるんじゃないの?
>>345 >大分など特定の地域や特定の家はともかく、近世の系図は当てにならないものが多く、
> 庄屋も例外ではない。武士の系図は仕官の必需品だったが、百姓町人も成り上がれば系図を持ち、
> 家柄を飾った。
まあそうだろうね。
>>343での、
>庄屋やそれに準ずる家はたいてい大友氏や
> 宇都宮氏などの戦国大名の国人被官で、たいていは城(と言っても砦みたいなものだが)を持っていた
というが、大名や国人の被官が多かったのは江戸時代の士族も同じことで、
結局同じ階層の中から支配者階級たる武士階級に残った者と、被支配者階層である農民に転落した者たちとに別れた、というのが本当のところなのだろう。
349 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 20:18:26.57
>>347 庄屋の婚姻は他の庄屋の家と血のつながりができるように上手くするよ
数代にわたって庄屋、組頭を勤めると名家の血が余すことなく流れ込む
なにかしらの戦国武将が先祖にいるんじゃないかな
>>346 由緒ある家は苗字帯刀ってのはよく見られるね
自分のところでも由緒書提出等の調査を何度もやってる
350 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 03:27:12.21
苗字帯刀って言うのも時代によってどうなんだろうか?
江戸初期において所謂地侍の目立つ家は禄を与えられていて(郷士扱い?)
その後大阪の陣以降少しずつ特権が減らされ、又領地変え等頻繁に行われ
新しい領主の元、禄も無くなり唯の庄屋へ、その後幕末になると献金や働き由緒等を理由に
苗字帯刀・・・江戸時代ももう少し続いていたら庄屋層も士分の末端に
組み込まれた可能性が高いかもね。
やっぱり庄屋は下級武士より格上なんだ。
352 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 10:56:14.97
>>351 格は下級武士>庄屋
武士は下級だろうが支配階級で、庄屋は身分上農民でしかありえない
どちらのほうが裕福で権力を持っていたかというのとはまた違う
江戸時代には豪商が続出して大金はたいて遊郭で豪遊したり太夫を見請したりしてたが
所詮商人は士農工商の末端で一番格下でしかない
>>352 下級武士が何を支配してたんだ?村落を支配していたのは庄屋だよ。
庶民は庄屋をお庄屋様と呼び、下級武士をサンピンと呼んでたんだよ。
川柳を見ても下級武士は笑いものだよw
354 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 12:44:31.82
>>352いや身分は下だが格式は上だろう。庄屋は門(時には長屋門)を
許され式台玄関、床の間が存在する。下級武士は門構え自体許されないだろう
355 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 14:17:15.13
>>353 下級武士は農工商を支配してたんだよ
武士階級には切り捨て御免が認められ不届き者なら庄屋さまでも斬ることができる
庄屋さまが武士階級を処分できたのか?
庄屋が威張り散らせたのは自分のところの田畑を餓死寸前で耕作させ
大部分を懐に入れていた貧しい土地を持たない小作にだけだろw
庄屋にもピンキリあり、通婚圏で見ると、
庄屋と下級武士の間で嫁や養子の遣り取りや
一族の関係(下級武士が庄屋の分家)がある下級庄屋もいれば、
大藩の中級武士や小藩の家老階級との親戚親戚付き合いをする中級庄屋もいる。
ただし、いくら大きな庄屋でもそれ以上の付き合いは無い。あっても、それは庄屋としての付き合いではなく
武士としての付き合い。
下級武士の祖先は賤民、奴隷、乞食、浮浪者、野盗だからね。
開拓団長兼自警団長が本来の武士。
359 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 21:34:15.88
村の祭りで庄屋と並んで座るのが足軽。
足軽は対外的には藩士として扱われるので、庄屋も武士に準ずるものなのだろう
そもそも下級武士が農村に来ることはほとんどない。
来る時は、年貢の催促や借金の申し立てのために嫌がらせのために、
荒くれ者を足軽として雇い、庄屋の家に泊まらせるようなことをしている。
庄屋も長くいられては困るから、適度に歓待し袖の下を渡して帰ってもらっている。
下級武士や足軽は社会階層的には庄屋より下なんだが、非人の長吏と同じく役目がら
上に立てているだけ。
361 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 01:24:32.04
髪型からして既に百姓の庄屋ダセw
362 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 07:58:06.72
>>360 >下級武士や足軽は社会階層的には庄屋より下なんだが、非人の長吏と同じく役目がら
>上に立てているだけ。
社会階層は下級武士や足軽は「士」、庄屋は「農」。庄屋が社会階層が上というのはありえないよ。
役目柄上に立てているって何。身分と役目の違いはわかってる?
>>360 検見や年貢徴収のために村に来るよ。代官や領主の権力を負ってるから下役に対しても
庄屋は礼を尽くさなければいけない。
非人の長吏に当たるのが百姓身分においては庄屋じゃないかw
庄屋・名主・本陣は富裕だったが、郷士はピンキリだった、寧ろ貧しい郷士が多かった。
366 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 21:57:01.76
>>365 庄屋ったっていろいろ。
その前に「村」だってその規模は大小様々だったのに、たかだか100〜200石の規模の庄屋が
>富裕
といったって知れてるわけよ。
第一それを言ったら大店の商人は庄屋なんて比較にならんほど富裕だったわけだし。
367 :
366訂正:2012/10/05(金) 21:58:49.66
たかだか100〜200石の規模の庄屋が
>富裕
といったって知れてるわけよ → ×
たかだか100〜200石の規模の村の庄屋が
>富裕
といったって知れてるわけよ → ○
>>366 それも真実だが、村や百姓の豊かさは石高だけではわからないのも真実。
370 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:30:35.26
下級武士が貧乏だったのは事実だろうが、貧富と階級ってのは全く別の概念だからね。
ヨーロッパだって貧乏貴族よりも金持ちの庶民階級(ブルジョア)なんて沢山いたわけだから。
本陣と村毎にいる庄屋・名主とは格が違いすぎる。本陣と並ぶのは大庄屋クラスだろう。
372 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 07:27:29.07
脇本陣は入れ替わり激しいから名家ではない
家は中間だけど庄屋さまと結婚したいです///
374 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:02:48.17
375 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:09:14.34
>>370 そのヨーロッパでは庄屋はジェントリーや土地開発領主という領主層で、
傭兵の下級武士より遥かに身分上だが?
世界で見ても、在地の庄屋クラスが、世襲は保障されてないような下士足軽のような、
傭兵身分より低い国は全世界で日本しか居ない。
それは中世欧州ではもはや主権国家が成立し、内乱というものは存在せず、
対外戦が主になるから、日本のように、中世でも内乱で天下が分断など存在しない。
ドイツにおいても、まさに日本の在地領主層による連邦国家だから、
まさにドイツの在地は庄屋がナイト。
傭兵という存在に過ぎない下士足軽なんぞ、どこの欧州でも庄屋より上なところないが?
376 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:18:02.96
377 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:25:02.80
378 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:34:10.62
http://www.c-hino.org/hino_history/view/386.html ここにも書いてあるが、千人同心組頭はその後村長町長だろ?
なあ、下士足軽のように、政治の主体すら持たない身分が、
いつから政治主体の御身たる庄屋層より上なんていう解釈できるよ?w
いつから在地政治の執行者より、一介の傭兵程度が上なんていう解釈が成り立つ?ww
なあ、下士足軽の出自、よーーーーーーく考えてみ?wwww
元は夜盗や無宿無頼だろ?w
なんで在地旧武家層の庄屋より上だと思えるのよ?w
時代劇がそうさせてるんだろ?wwwwwwww
379 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:43:07.32
なになに?読み書きそろばん?www
幕末名主の偉人
・夏目漱石(東大教授にして世界の文学王)
・伊能忠敬(日本地図を作った関数の達人)
下士でいんの?www
頭まで最強な庄屋層w。勘弁してくれよもうww
キチガイがキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
382 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:58:02.88
>>374たしか多摩地方は幕末に治安が急速に悪化したため庄屋や大百姓層に
苗字帯刀を許して治安維持に当らせた。
その辺で調子付いて武士モドキの真似事をしてたんじゃね?こういうのは
幕末になると結構あるみたい
383 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:01:42.30
>>382 寝言こくなYOww
>>377は長州征討の際のもの。
幕末治安維持のみであてがわれたものなら、なぜ長州征伐の際
下級武士程度より役職上だ?ww
陣笠つけた足軽下士出してくれないか?www
名字帯刀許しただけ?というだけで長州征討に陣笠つけさせて参加させるのか?ww
384 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:07:58.54
しかも関東において、千人同心は一般的な上層農民の典型例。
関八州はこういう庄屋がごろごろ居ますよ?w
これでよく、足軽は庄屋を切り捨てごめんなんていえたもんだなおいwww
涙拭けよ足軽wwwwww
385 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:21:34.84
>>383てか庄屋って危急のときは騎乗一騎役で数人足軽連れて行く階層だろ?
平常時は農民扱いだが頭数と金が足りないときは、お呼びがかかるのは大阪の陣
以来の恒例
386 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:39:57.53
まーそういうことですよ!!
庄屋は外様なので通常は武士としての身の上は、氾濫の危険性から剥奪されてるが、
いざ、戦時にならば、庄屋は騎馬格の武家として認められ、
藩も各々の庄屋の財力と由緒による在地の統率力を当てにしてのもの。
実質的に藩自体も、庄屋を当てにした在地防衛、もしくは軍役を課さなければ話にならないのを自覚してる。
その際、傭兵程度の下級武士足軽など、御庄屋様に単独で指図しようものなら、逆に切り捨てごめんでしょうねww
庄屋と下士じゃ、藩に提供できる力量が違いすぎますからねw
387 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:53:03.99
あ庄屋様の我慢も昨日までが限界でございました。
388 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:27:41.24
多摩がどうのこうの言ってる人は佐藤文明著『未完の多摩共和国』を読んでみるといいよ。
氏は日野の寄場名主(総代名主<=大庄屋>を更に幾つかに束ねたもの。いってみれば“大々庄屋”)を代々務めた上佐藤家の現在のご当主。
同書の中で、幕末に旗本で韮山代官・江川太郎左衛門英龍の手代(代官の下役人)松岡正平が下佐藤家屋敷に所用でやってきた時、下佐藤家の当時の幼当主であった庫太(のちの彦五郎)が前庭に出て、松岡の前に土下座して迎える様子が描かれているから。
庫太の下佐藤家も、日野の多摩川以南ほか30数ヵ村のやはり寄場名主を代々務める家。
そんな家の当主でも代官のそのまた手下に土下座して礼を尽くさなければならなかった様子が分かるから。
389 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:42:05.76
>>388 そんなの説明は簡単。
千人同心は、徳川政権に拾ってもらった集団。
いやいや帰農させられたわけでもなく、徳川に拾ってもらった外様集団。
恩義があると千人同心たちも言ってるだろ。
そういう中ではそうだろうね。
ttp://sog-ghostrecon.net/archives/314 生瀬騒動
見てわかるとおり、江戸初期の庄屋は、下士なんぞたたき切ってるが?w
報復に来た超大藩水戸と、その村の武装庄屋様は全面対決し、
水戸藩に多数の死傷者が出てるが?
この庄屋様は佐竹家旧臣。
下士などにあたまさげたどころか、切り捨ててますよw
千人同心とは事情が全然違うだろw
また馬鹿が語ってんのか
391 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:03:38.19
>>389 上下佐藤家は多摩郡でおそらく最大の庄屋の家だろうけど千人同心系ではないよ。
392 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:27:56.15
>>391 そもそも、政権が旧体制より新政権に移行したわけで、
新体制の末端でも旧体制上位より、対面上の礼儀は江戸中期以降重んじられたのだろうが、
しかし、それと、下士は偉いだのとは違うという話。
あくまで、治安維持のための通過儀礼にすぎないということ。
たとえば土佐藩で、山之内に使えた下肢足軽が、長祖壁上級武士団だった庄屋より上か?
違うでしょ?身分上新体制の足軽が上となってるからと、日本の歴史社会の形成の中で、
総合的に上といえるの?上というなら、もはや江戸期以前の社会は歴史的価値が没落するよね。
393 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:35:55.15
>>389 >江戸初期の庄屋は、下士なんぞたたき切ってるが?w
結局村人は全員皆殺しに合ってるじゃん。もちろんその佐竹旧臣を含めて。
何故そのことだけはいつも言わないんだろうね、この人。
394 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:18:22.15
>>393 その前提として、武田信吉は、近隣の佐竹旧臣に苦しめられてる現状があり気だったということね?
その見せしめのためだろうが、
この武装庄屋も逃げずに一か村フル武装で数ヶ月にも及ぶ合戦してるという事実もね。
要は、江戸初期、超大藩超大大名に、村の、いち庄屋が、逃げることなく武装して戦いを挑んでるということ。
これほどの力を誇示した中世期より続く庄屋層なんですよ?
よりによってなぜ足軽より下だといえます?w
まえにもいったけど、治安維持の目的で、末端の足軽にも反抗を禁じたというだけ。
足軽がなめた態度で庄屋に相対することなどできませんよ。
あくまで庄屋が強大な在地権力を抑制するための法律に過ぎないということ。
足軽は庄屋になめた口など利けません!!
キチガイ、病院に戻れ。
396 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:29:02.16
足軽乙WWW
先祖が泣いてるぞ百姓w
時代と藩によって違うが足軽は下士ではなくて下士より下に位置づけられることが多い。
下士の扱いをうけてもその最下層だ。下士の内部にも複雑な身分があって大雑把には語れない。
また、江戸時代の初期には下士も地方知行だった。
399 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 19:35:49.19
江戸時代では庄屋の身分は農、下士の身分は士
明治以降では庄屋は平民、下士は士族。これが一番わかりやすいだろ
財力と身分は別。
下士からでた偉人なんていくらでもいるだろに伊藤博文、大村益次郎、西郷隆盛、上げ始めたらきりがないよね
公平な歴史観がないと話ができないんでない
400 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 19:45:26.03
>>389 >>394 江戸初期ガー、江戸初期ガーって言ってるけど江戸時代を通して下士を叩き切ったのかな?
屈服して農としての身分をうけいれたんじゃない?
その時点で幕藩体制下では単なる庄屋なんだって。
>>399 明治の士族は特権身分ではない。平民と同権平等だ。
>399
士農工商は明治になって出来た身分区分。
江戸時代の士農工商は、「すべての人々」と言う文脈で使われる言葉。
403 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 21:53:10.12
>>401 権利のはなしではない
江戸時代の身分がどこで分かれていたかの参考に上げてる
明治期にこのように分けられることから庄屋の社会階層は農の域をでないことがわかるだろ
404 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 21:53:37.88
近年はやりの説だね
405 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 21:59:56.66
406 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 22:01:44.04
405追加
工商自体が曖昧という意味。
士と農については区分があるからね
407 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 04:37:33.63
>>403大部分の郷士が平民になったのはどう見る?また、大部分の陪臣も平民。
408 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 07:09:49.41
>>407 庄屋と下士の話をしてるんだろ。論点ずらすなよ
庄屋は鎌倉室町の名門武士の子孫だから戦国成り上がり大名よりも家格が上だ。
410 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 07:40:37.79
>>408反論できないと、論点ずらしで責めるなんて・・・まるで。。。
>>409いや、名門武士とは言えないと思うぞ。大多数の室町期の名門武家は
江戸期においても武士だと思われ。
411 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 07:46:05.46
続き
江戸時代の武士の大多数は三河美濃尾張辺りの地侍で、これらは元々
農家の大きい程度なもので歴史は長いが地方名家って程度だろ。
庄屋層は各地の地侍で上記と同程度歴史は長いけど同様。
まあ、相対的に見れば出来星大名(上記の地侍の家臣程度の家だったと思われる)
よりはいいだろうけど。
名門武士と言えるのは国人クラスまでだな。地侍とは農民の上層が守護や国人の被官となって
武士化したもの。地侍から大名やその上級家臣に成り上がった者もいるが、地侍自体はあくまで
武士の最下層または武士と農民の境界人。
413 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 12:35:16.25
現実的にそうだと思う。ただ、伝承のことなのでどこまで信憑性があるかは
分からないが都落ちした貴族が土着化して地侍になったと称する家も多い。
そもそも名門ってどう定義すべきなんだって問題もあるよ
例えば鎌倉時代の御家人の家系の場合、名門と言えるが、子孫は没落して農民化してる
また名門武家の支流をどう扱うかという問題だってある
その時々の権力や財力だけで行けば、豪農や地侍の方が上という事になるが
血統・家柄だけに着目した場合、やはり名門武家の支流の方に軍配が上がる
この辺の問題って意外と難しいから
江戸時代なんかも郷士に大名級の血統・家柄の名族がいるケースもあったしね
415 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 12:59:04.07
よく話題になるのは革嶋家ね。
武田家の様に非常に中世的な組織の場合は重臣クラスでも江戸期は庄屋だよね。
かなり徳川方に付いたとされるが・・・帰農したのも多い。
416 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 15:01:24.93
甲州は徳川に仕官した連中が侍で、しなかったのが庄屋と郷士だな。
本家が庄屋で分家が旗本とか、武川衆のように主だった人物がみな出て行った例もある。
だから江戸期の天領時代はかつて国を出て行った連中が旗本の知行主として故地に租税していたことになる。
本家が庄屋で分家が旗本になった家もあるから(そんなの全体の比率では極々極々少数の筈だが)、庄屋の方が家格が上だとか言ってる奴がいるが、
そんな家は江戸初期はまだこれからの身分秩序がどうなって行くかよく分かっていなくて、
本家庄屋の方ではまだこれからもそれまでの遺風が続いていくとでも思ってたんだろ。
始まりは本家(庄屋=百姓)と分家(侍)でも、時間が経てば経つほど百姓と侍なんだから、その身分差は開いていったはず。
逆にしとけば良かったと後悔した庄屋本家も多かったんじゃないの?
>>417 江戸期は貨幣経済の発達によって豪農や豪商の財力が士分を凌駕して行った時期でもある
時が経てば経つほど、むしろ逆に、農民や商人になる選択をした家の方が力をつけて行った
明治期に資本家に転身し名実共に支配階級にのし上がっていったわけだから
まあ、トータルで見ると、どっちが良かったのかなんて本当にわからないよ
419 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 17:11:26.94
>>417全体的なパーセンテージは分からないけど、江戸初期頃から地方名族(高家ほど名族ではなく)
を幕府が旗本に取り立てるケースが多いんだけど本家は在地代官で(後に
大体改易になってる)傍流等一族から行ってるからあながち少数とはいえない
戦国後期ぐらいから主家が何度も交代した地域は途中で仕官自体しなくなって行ってる
から何か面倒な事。もしくはメリットが感じられない等事情があるんだろうな
420 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 17:52:46.09
うちの近隣(旧武州多摩郡)でいうと、小道はさんですぐ隣の地区がまさにそう。
江戸前期までは旗本が村を一円知行してたけど江戸後期に改易。
次は2家の旗本になって分割知行してたけど何かあって(知行地召し代えだったかな?)召し上げになってる。
その後はようわからん。
それでうちの地区は今は1つになってるけど江戸時代は2ヵ村だった。
元は旗本領だったがやはり改易。
K家という家が元々の庄屋だったけど旗本が改易になったことで17世紀後半頃からもう片方の庄屋も兼ねて、ついでに百姓代官にもなってる。
いまでも鼻息荒いよこの家。
某都市銀行の設立にも関わっている一族らしい。
421 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:07:03.82
>>420 >某都市銀行の設立にも関わっている一族
庄屋から資本家に転身した典型的なケースですね
こういう家って凄く多いんですよね
>>421 資本家に転身じゃなくて、もとから資本家だったんだよ。
423 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:49:57.47
>>419 あなたかなり詳しいね。確かに家康が定めた甲州4奉行は後に改易、庄屋になっている。
でも名のある家(源姓か三枝姓が多い)の分家傍流の多くは主家滅亡後に家康に臣従して
旗本、御三家、松平家、井伊家に配属されて幕末を迎えている。
一体、江戸期250年のみ限定の士族階級とは何たるや。
424 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:59:18.88
270年でしょ。270年は長いよ。
明治から現在まではまだその半分しか来ていないんだから。
これからどうなるかだってまだわからないしな。
江戸初期に一族郎党そろって帰農して新田開発。
主家は庄屋として利水権を管理してたのが最近まで続いてたなんて話を聞いたな。
426 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 19:16:20.99
>424まあね、士族も次男以下は平民だし、侍でも庄屋でも最後は自分の実力だね。
今の公務員の待遇が永久に続かないのが明らかなようにね。
>>424 >>420だけどいまは違うよ。
その某都市銀の取締役みてもK家のKの字も今はもう無い。
けどうちの周りのちょっと大きな家の表札みると大抵K家。
数年前に地域の住宅調整地区だったところを大々的に新興住宅地として整備して売りに出したんだけど、その中でも4軒分の区画ぶち抜いた一際デカイ大邸宅もK家一族。
分家してもそれなりの大きな家建てて住んではいる。
あとはなんといっても駅(某私鉄)まわりの土地一体の地主なのが大きい。
ビルを幾つも建ててテナント入れるだけでガッポリ儲けになってる。
駅前のその私鉄系のスーパーも、駅の駐車場もすべてK家が地主だから。
古くからある内科外科眼科歯科の各医院のほか上階がホテルになったビルもオーナーはK家。
近所にはテレビ局の大きな撮影所があるから、そこはテレビ局関係者や芸能人がよく利用するホテルでもある。
まあ近年はこんなご時世なのでテレビ局も台所事情が厳しくなって、いっときほど利用はされなくなってるらしいけどね。
やっぱり庄屋は下級武士(=足軽)より格が上なんだ。
まあ、庄屋を馬鹿にしてるのは士族の子孫というより、水呑み百姓の子孫だろうな。
誰も庄屋を馬鹿にしとらん。あ庄屋というキチガイが馬鹿にされてるだけだ。
431 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:42:41.03
>>430 そういえば、あ庄屋を見ないな?婬行条令に引っ掛かったか?
432 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 19:03:11.56
庄屋は土民の代表だよ
さっきNHKの歴史ヒストリア見た人いましたか?
そこで江戸時代の武士のルーツやってましたよ。
徳川幕府に召抱えられた武士の多くに忍者集団があったとやってました。
だから、直参の屋敷街に、伊賀町や甲賀町、雑賀町、百人町などがつけられていたこと。
そしてそれら武士たちの元となった忍者とは、紀伊半島の一般的な農民や山伏集団がほとんどだそうです。
その忍者傭兵集団の首領たる地侍層が旗本として召抱えられているとも。
そして、江戸時代はじめ、その忍者集団で武士に仕官したものとしなかったものがいて、
仕官しなかったものたちはみなその地で農民のままになったそうです。
それら仕官して徳川家中の武士になった者達の本家筋や親類で在地に残ったものの多くは、貧しい農家が多かったそうです。
きちんとやってましたよ?
あ、それから、山伏集団は火器や薬学にたけ、
また紀伊山脈を自在に行脚していたので、
足腰が強く、戦闘能力がたけていたそうです。
ですので、徳川家中の武士にも山伏も多いそうですよ。
某庄屋が語る持論もまんざらではないような感じでやってました。
436 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 00:42:20.15
へぇ〜、忍者ってすごいんだな
>>434 伊賀や甲賀の忍者は土地が小さいか財力が小さかった為
忍者として主君に仕える形でしか、武士として生き延びられなかったんだよ
なんでそんな特殊なケースを持ってきて武士全般を論じるわけ?
438 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 01:16:35.01
忍者はドロンと消えて、あとにはガマガエルが残ってたりするからな。
439 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 07:01:46.68
大部分の郷士は維新後平民籍だが、この郷士って江戸時代の籍は藩なのか?
それとも村にあったのかね?
441 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 08:11:38.13
>>439 平民とか士族とかあれはっきり言って意味ないぞ
どこかに藩に仕えてたら士族、武士でも浪人中なら平民
元は武士でも、帰農や帰商していたら、家系図があっても平民
よく「家老も士族、足軽も士族、だから士族に意味はない」と言うが
士族の無意味さというのは今書いた様な問題もあるんだよ
一旦浪人したら、刀を置く以外の選択肢が事実上ない江戸時代で
帰農や帰商で平民扱いとか正直有り得ん話だから
あ庄屋様キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
443 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 10:46:41.43
>>442 なんでやねんw
441は意外と一般的に話されてる普通の話だぞ?
士族は武士を指すものじゃなく、幕末に藩に仕えてたか否かを示す以上の意味はない
特に武士だったのに浪人の身で勝手に平民にされた人とか堪ったもんじゃないよ
士族身分を設けたのは誰が武士で誰が武士でないかを確定するためではない。
武士身分を廃止するための経過措置だ。武士身分から脱落しかかっている者や
既に脱落してしまった者をを改めて士族指定する理由はない。同様に一代抱えの
卒族も特別対策は不要として平民に編入された。
親戚に借金苦から士分を幕末に売り払った家系の人がいるが、その家もやっぱ平民に編入されてる
武士時代は上士の下と徒歩の上で、そこそこの家柄だったようで
明治時代には売り払う前に家の跡を継いだ代が健在だったが、それでも平民だったらしい
元武士で家の跡を継いだ者、また跡継ぎだった者という事で、戒名は立派なものを貰ったそうだが
446 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 13:45:48.25
>>434 そりゃ皆下級武士に取り立てられた者だよ。本能寺の変の後に命からがら逃げてくる時に
道案内したした忍者の連中を後に取り立てた。でも下級武士だ。家康は
氏素性のいやしい侍はあまり近辺には置かなかった。だから大身の旗本はみな旧家の出身者が多い。
旧家といっても産業は農業なわけだから、大地主、領主でもあなたがいうように「百姓」なんだろうけどね。
448 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 15:37:10.31
そんなの自分で調べてみろ
450 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 16:58:26.83
>>446 × 家康は氏素性のいやしい侍はあまり近辺には置かなかった
○ 家康は古くからの家臣達を近辺に置いた
そもそも徳川家自体が出自が不確かなので、古くからの家臣とてさもありなん
家康が譜代を重んじたのは常識だわな。
140年前の祖先が士族にならなかったことを憤ってるヤツって何?
キチガイ?ヤクザ?ホームレス?
運営によるつまらない煽りは要らないからw
はっきり言って議論の邪魔
454 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 14:08:12.36
士族は男爵の一つ下。
これだけでもわかるよな。平民にしかなれなかった庄屋は悔しいのう
455 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 16:06:31.60
>>419確かにほとんど改易になってるけど、逆に改易にならなかった家、たとえば
伊豆韮山の江川家は何故改易にならなかったのか?源氏の子孫という貴種の為であろうか?
>>454郷士はもっとくやしいのでは
457 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 17:15:24.94
>>456 特権とは書いてないよ。
目が悪いの?
目がああああああああ目があああああwww
ムスカ大佐みたいな方ですね
庄屋でも上層は貴族院議員とか町村長になってるけど貧乏士族は車夫、娘は身売り。
459 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 19:42:26.95
>>458 貧乏士族が爵位もらって貴族とかなってるよ
伊藤博文とか足軽で公爵になったよ
官界、軍人は貧乏士族が多くなってますよ。勲功たてて爵位もらってるよ
そういうとこは見ないんですね
>>459 特殊な例を挙げて一般化されてもねえw
士族の大部分、というかほとんどは庄屋よりも貧乏だったのは事実だろ。
地方に土着もできなくて上手くいっても公務員、下手すりゃ本当に車夫。
461 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 20:59:50.30
車夫どころか自殺したのもけっこういる
士族は、新しい時代に適応できたのはむしろ少数。
今の時代で言うと、公務員が大挙して首になったようなもので、下っ端や若い奴の
中に雄々しく生き伸びた連中が多く、中上級の士族は対応できなかった奴が大半。
うちは上士だったけど明治期の一世目は県庁官吏になってる。
で二世目以降はずっと教師(小〜大学)。
で、うちは明治以降もずっと士族同志で姻戚結んできてるんだけど、他の家(例えば父方母方両方の祖母の家)なんかみても教師畑の家だったりしてだいたいおんなじ。
だから上士の場合、明治以降も生活はそれなりに安定した家が多くて、没落士族というのは以外に当たらない。
ただ、うちの場合、それまでの菩提寺は氏寺でつまり先祖の家自体が寺のオーナーでもあったんだけど、知行地を失った明治以降はとても維持できなくて、宗旨を神道に変えてる。
それまでは二千石の高禄だったから、没落とまではいわなくても明治以降はやはり江戸時代の身代に比べると相当規模は下がったのは事実なんだろうね。
武士は士族の身分を維持できた家系さえ怪しいよ
みな困窮していたので、士族の身分を平民に売り渡して平民になってひっそりと暮らしたり
城下町を離れて、山村で田畑を耕して農民として生きる選択をした者もいて
旧士族でも明治に入ってから金で士族の身分を買った家も結構あるはずだよ
>>463 石高一万石程度の小藩の場合、上士でも300石とかだから、マジで悲惨物語だよ
中級武士でも禄だけじゃまともに食えないし、金を借りないと何もできないような状態
それで生活に困窮し、幕末の時点で士分を町民や農民に売り払う家系すらあった
家老と縁続きの上士出身者でようやく下級官吏とか滅茶苦茶だわ
>>463 2000石なんて家禄持ってた士族なんて全体から見れば1パーセントにも満たないだろうし
それが士族全体の状態ではないよ。
元がそれだけ大きければ金禄公債を銀行に預けて利子だけで食っていくことも可能だろう。
>>466 戊辰役がらみでの慰霊とかが大変だったみたい。
明治以降も士族同志で姻戚結んでいったのも半ば慰霊に関連しての意味もある。
468 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 23:26:05.67
>>463庄屋って明治以後は士族との姻戚が多いじゃないかな?
うちは高祖母方(本陣)曾祖母方(庄屋)祖母方(豪商で祖母の母、祖母とも
士族の家系・・詳しく言うと士族ではない次男以下の娘だから)
と士族系は少ないが入ってる。地域的に小藩しかない地域だからチャンスが少ない
大藩のとこはもっと混じってるんじゃないの?
>>468 それがうちは明治以降戦後に至るまで頑固に士族同志の姻戚続けているんだよね。
娘が何人もいて末子とかには豪農に嫁でるのもいるけどね。
士族会(藩士会)に入ってるからその縁で姻戚関係結んでる。
理由は上で述べた戊辰役の慰霊とかだね。
ただ、自分の姉は北関東の大庄屋(といっても現在は東京在住)の家に嫁いだ。
だから庄屋の家との姻戚は平成になってやっとだね。
ちなみにここの家の北関東の庄屋屋敷は国の重要文化財に指定されてる。
けど放漫がたたって経済的には没落。
今は普通に公務員や会社員だよ。
ただ、士族のうちも姉が嫁いだ大庄屋の家も史料が多く残ってはいるね。
うちはそれを元にして幕末の当主がある小説の主人公になってる。
>>464 士族身分を売ったりできるかよ。何タワごと言ってんだ。
>>463 藩や地域にもよるが、上士といえども没落した者は多い。
471 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 00:20:10.32
>>469昔の屋敷に住んでる?庄屋も家があると同じ階層になりそうだし
都会に出ちゃうと余程の家で無いと庶民に埋もれるからね。
>>471 屋敷は国元(知行地)屋敷と城下屋敷の2つがあったんだけど、とっくに手離しているよ。そのうち国元屋敷は建物自体が残ってもいなくて屋敷跡は神社になってる。
城下屋敷は城内に残ってるんだけど、色々変遷を経て今は県の資料館になってる。
城下屋敷は拝領屋敷じゃなかったの?それだったら廃藩置県でお召し上げだよね。
474 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 07:45:18.19
庄屋と士族が縁続きになるってのはうちでもあるよ
曽祖父が庄屋系、曾祖母が士族。
曽祖父が入婿で入った。曽祖父の家は明治はじめの官選区長、初代村長を歴任。
曽祖父の兄が初代助役と明治になっても村の支配者。
でも最後はマッカーサーにやられたけど。
高祖父の大から大阪に住んでる俺は士族も元庄屋家も自分の生活圏では知らない。
偉い人といったらお金持ちか府会議員のような地位のある人だけだ。
俺の家は中間様→平民だけど、祭のときは地元の庄屋さま始め、
祭に参加してる女の子達が酒をついでくれるから嬉しくも恐縮。
>>477 俺の家が単に地域の皆に甘やかされてるだけなんだけどねw
高祖父(中間さま)が明治10年代からこの地域に住み着いて今に至る。
479 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:35:37.03
>>478 カリスマや
ヒトラーにもなれたんじゃないか
仲間の家柄というものはないから、仲間の子孫がどうのこうのということはないだろう。
高祖父が村に住み着いてから財を成したとか村に貢献したとかいうようなことでも
あったんじゃないの?
>>479 ヒラリーになりたい人なんていないんじゃw
名主でグーグル検索していたら、このスレッドがひっかかったので、記念に書き込みさせていただきます。
私の父方、母方が名主の家系でした。
父と母は恋愛結婚です。
偶然母方も名主家系でした。
似たような境遇で生きてきたということで、わかりあえる何かがあったのでしょうか。
母方の方は詳しくは聞いていないのですが、父方の方は、江戸時代はずっと名主だったとのことです。
父も母も共通している話としては、農地解放で、一気に没落したとのことでした。
特に私の両親の親や親戚たちが、相当苦労したそうです。
騙されてばかりで、自宅すら二束三文で売られそうになったとか。
今現在、父は経営者ですが、倒産するかもしれないのと、私(女)が一人っ子なので、断絶確定です。
近年、旧皇族復帰させるかどうかという議論がなされていますが、旧皇族の方々も、さぞかし大変だっただろうと心が痛みます。
>>482さん名主の娘〜♪
色は黒いが藩内じゃ美人〜♪
酋長の娘って歌を思い出したからつい
地方の有力者には農地解放で没落したものが多いが、没落を免れたものは
財閥解体によって個人資産家としては最高級のものになりおおせた。高度成長と
列島改造もかれらを潤し、肥え太らせた。
>>482 まあうちの親戚もそうだけど、名主っていったって没落した家が多いのは公家や士族と同じなんだな。
それに一ヶ村平均二、三百石程度と言われる江戸時代の村の総石高の内、名主といえどもその取り分は村の総石高の十分の一程度のもの。
つまりは二、三十石程度。
三百石の村っていったって、三百石すべてが名主のものであるわけではもちろん無いからね。
他にも村内には高持ち百姓や本百姓はたくさんいるわけだから。
総代名主・大庄屋になってやっと裕福と言えるんじゃないかな。
それだってうちの姉の嫁いだ家は北関東の大庄屋だけど没落して、家屋敷はすでに公共遺産になってる。
まあ東京23区内に150坪の土地を有してはいてそれが精一杯のところ。
486 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 09:30:42.42
わからんよね、うちの先祖は明治期の地租で30円ぐらいなんだが大正期ぐらい
から自家用車乗り回してるし・・・計算的に合わん気がするけど。副業で儲かったのかね?
石高では量れないものもありそうだよ
487 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 13:41:23.77
>>485>>486 江戸期は貨幣経済が発達して、経済構造・社会構造が劇的に変化していく時代だったと言われてる
その貨幣経済への転換に上手に対応し、富を蓄積して大名貸しになる名主(庄屋さん)達がいて
この人達の子孫が資本家として時の主役となり、明治期には活躍していく事になる
下記のサイトに詳しいことが書いてあるよ
豪農の副業
http://blogs.yahoo.co.jp/titibu212000/33999866.html 以上の副業は小農や零細農民ですが、名主や組頭などの上層農民の中にも副業をする人がいました。
というより江戸時代の豪農はそう広い農地を持っているわけではありませんから、農業経営ではなくこの副業を手広く行うことで富裕化していました。
彼らは実は江戸時代の初期から副業を行っていました。その代表的なのは仲買業と金融業と酒造業です
富農の仲買業者は村の農民から様々な余剰物産を買い集めては転売し利益を得ていました。その主な商品は江戸時代初期には米や麦の穀類で後期になると織物でした。
江戸時代前期には各地で市が盛んで、この市で取引する人たちの多くはこういう村の上層農民でした。
江戸時代後期になると市の機能が衰退します。しかし、彼らは江戸や大阪の問屋制度に組み込まれ、
村の仲買業者→地域の大商人→江戸・大阪の問屋
という流通仕組みの末端を担うようになります。
また、彼らは村の零細農民を相手に質屋もやっていました。質物は農地でした。
当初は田畑永代売買禁止令が出て農地の売買が禁止されたため、農地を担保に金を貸すということでした。
しかし、そのうち利息を取るために金を貸すというように金融業に転化していきます。
豪農が質屋をするのは、彼らの手元にはお金がたまっていたからでした。
先に説明したように、江戸時代の年貢はさほど重くなく、とくに上層農民にとってはあまり負担になりませんでした。
そこで、彼らは米などの農産物を売り、手元には多額の余剰資金が蓄積されました。
そこで、この資金を使って仲買の商業活動をしたり、農民にお金を融資して金利を稼いでいました。
488 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 15:15:05.51
名主は式台玄関が許されてたと云うが関東は玄関付式台だが
地方行くと縁側の並びに一段低く式台が併設されて玄関とは
云いにくいのもあるし各地方の建築様式と格式、時代によりけりかと
>>486 そういう金融業を営んでいた庄屋って本当に元からの庄屋なの?
商人とか土倉業者がその資本力を背景に農地を買収しまくって地主になったものじゃないの?酒田の本間家とか。
ちなみに歴史学者の網野善彦さんの生家も甲斐の庄屋だけど、元は今言ったような感じで、金貸しが転じて庄屋になった家だと自分で著書で書いてるよ。
>>489 アンカー間違いだね。
もちろん庄屋が富豪になるケースと富豪が庄屋になるケースの両方があったはずだ。
たいして豊かじゃない庄屋もいたし庄屋じゃない富豪もいた。
とにかく農業を主にして富豪になった例は稀で、商工業金融運送などを
やってるのが普通だ。「富農」「豪農」という表現は誤解を与えやすい。
要は当時の資本家だ。彼らの資本が、財閥化する商人と並んで銀行、鉄道などの
明治の新産業に動員されていくわけだ。
実家が酒造業やってる著名人が結構多いのは
>>485のような事情があるんだろうな。
庄屋が酒蔵やってて地方名士で育ちがいい。
493 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 11:19:03.83
>>443浪人って武士じゃないだろ。浪人生が大学生で無いように・・・
494 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 13:04:00.31
浪人生は未・大学生だが、浪人は元・武士だろ
浪人はあくまでも現時点で仕えている主家がないってだけで、武士は武士ですよ
496 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 15:14:40.16
いや、藩に籍があるから武士なのであって籍がなければ元武士であるが
武士ではない。
町奉行扱いだろ?
苗字帯刀は許されてたから武士、再仕官もできるから武士。
一方で町奉行支配。
刑法は状況によって武士として扱われたり平民として扱われたり。
武士をやめる場合、その旨を代官所に伝えて、刀を置かないといけないはず
これをしないと農民や町人になることはできない
なので浪人者は身分上は一応武士のまま
500 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:20:12.64
>>485 お前ってホント奇跡的低能だよな?www
二千石が何だって?wwwww
成り上がり遺伝子は、一介の庄屋より圧倒的格下の大学しか出れない分際でwww
よくもまーそこまでアホレスかませんな?ww恥ずかしくないの?www
じゃあ、日本全国の藩邸並の庄屋屋敷や庭どうやって維持できたのかかたってくんね?ww
一般的な関東の豪農屋敷(ごく標準と動画最後に立札に書いてあるよな?)
http://www.youtube.com/watch?v=TmDSqCAxoEk お前の先祖の屋敷はこれより多いくないよな?
で、どうやって維持できてた?まさか、こんな農家はまれとかいうんじゃないよな?
関東はこんな豪農庄屋何ぞざらだ。はよ答えろよおれ程度の百姓にすら学歴で勝てなかった低学歴訓よwww
キチガイは病院へ戻れ
502 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:31:38.26
>>487 君は勘違いしてる面がある。
関東東日本においての庄屋は、そのように商人という部分をあからさまに協調しての兼業はしてない。
しなくても、村内の流通経済のすべては庄屋を介して外部とコンダクトする。
何を介しても庄屋が仲介として入る。おのずとマージンが生まれる。
逆にいえば庄屋のつながりを通して流通を行えば、非常に効率的。
さらに、庄屋は村内の税率を藩が定めた税率以上に自由に上げ、そして私服に知ることも許されてる。
事実上の村は領地。
さらに、村内の祭りごと(行政、警察、司法、等)も一手に独裁なので、
それら権限に付随する富も、吸収できる。
だから、大身の庄屋がごろごろいる。
君のいう、商人的庄屋は西日本に圧倒的に多い。
東日本では、そのような本間家スタイルのような庄屋はごく少数だよ。
503 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:38:29.45
>>495 お前、見え見えの釣り糸垂らしてんなよwww
武士の意味わかってねーだろ?w
武士なんて、単体では独立がされていない、要は存在自体の根拠や意義がすべて直近上位の大名に由来するものをいう。
要は、雇われて初めて武士なんだよボケ。
刀持ってあるいてりゃ、誰でも武士だろそれなら。
そして、庄屋も元は地侍だから、腐ってもサムライ(武家)だろそれなら。
土佐の庄屋も薩摩の庄屋もみんな武士だよなそれなら?
そんなら日本人の半数がみな武士の末裔だわ。
株売ったのも元武士だからもちろん武士だよな?
庄屋は単体で独立してるから、お前らと違い、武家だ!!!
浪人も武士という定義が成り立つなら、日本人の2人に一人が武士だわ。
504 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:47:48.99
505 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:53:11.91
>>414 名門の定義は鎌倉御家人だけじゃない。
中世において、地域のリーダーとして地域に尽力を尽くしてきた在地開発領主層の地侍こそ十分な名門だろ。
>>446 じゃあ、下級武士はそれで認めるんだな?w
◇ ミ ◇
◇◇ / ̄| ◇◇
◇◇ \ |__| ◇◇
彡 O(,,゚Д゚) /
( P `O
/彡#_|ミ\
【ラッキーAA】
このAAを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
507 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:57:28.34
>>459 それからな、下級武士も明治期爵位もらってるとか勘違いしてるが、これは例外だろ。
維新のすさまじい功績を残してやっと爵位だろ。
庄屋はいくらでも貴族院議員など、維新の功績など残してなくてもいるぞ?w
そもそも庄屋は幕末に何の働きなくても村長や貴族院議員など腐るほどいるけどな?ww
下級武士で幕末の功績なく爵位や貴族院議員、村長だったもの教えてくれないかい?ww
太郎は凄杉
509 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 22:19:24.74
>>480 近所のお婆さんから聞いた話だけど
祖父が田んぼが決壊するとすぐに駆けつけて石垣を安い手間賃(?)で直したらしい。
良い話だけではなくこんな話も
お堂の祭で
祖父「祭で出た饅頭で腹下した。もうこの祭やめよ?」
庄屋さま(総代)「ごめんなさい、もうやめるから許してつかあさい」
18年後、祖父が亡くなる
庄屋さま(総代)「お祭、復活します。○○ちゃん(俺)もおいで」
512 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 22:32:58.56
関東のリアル源氏の正統庄屋 彦部家
http://www.hikobeke.jp/ 彦部家は第40代天武天皇の長子“高市親王”を始祖とした 1300年の歴史を刻んでいます。
桐生彦部氏初代信勝は33代 に当り、室町13代足利義輝将軍の側近でした。 永禄3年(1560年)信勝が関白、
近衛前嗣と共に関東にやって きたときの東毛地域は上杉、武田、北条の3つの勢力が交錯 し、これに太田金山城を本拠地とする由良氏、
梅田の桐生城 を本拠地とする桐生氏などの地元の勢力が付きつ離れつ、攻 防を繰り返した戦国時代のまっただ中でした。
信勝が桐生方面に来た目的は当時の関東の情勢を探るためで したが、この時足利将軍に忠誠を誓っていた長尾景虎(上杉謙信)の居城、
越後の春日山経由で桐生に入ったようです。
しかし信勝が関東滞在中に、三好の乱で将軍足利義輝が殺害され、事実上室町幕府が亡びます。
(この後織田信長が足利義昭を擁して一時的に室町幕府を再興しますが、あくまでも信長の傀儡です。)
そして同時にこの時、父の彦部晴直(31代)と兄の輝信(32代)も将軍と共に戦死してしまったため、次男信勝は帰京することなく、
彦部家33代当主となり先祖ゆかりの地でもある桐生に留りました。
こうして彦部氏は地元の豪族として定着したのでした。
{中世から江戸時代へ }
館の作りを見ると後ろにある手臼山を砦とし、 前に堀や石垣、見張りの櫓跡などがあり、文字 通り中世の砦としての機能を持っています。
しかし彦部氏は豊臣秀吉の太閤検知以降、郷士、 名主として当地を治めていたようです
513 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 23:02:37.22
分割相続に基づく分家をせず、身内を奴隷のように使う。
>>511 創作にしてはちょっと年代の設定がおかしくないか?
516 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 23:31:14.53
518 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 23:43:08.43
>>519 途中で送ってしまった。
さすがに高祖父のことはわからずじまいだったからなぁ。
俺と同年代の庄屋の子孫がいるんですよ。
庄屋さま本家…お婆さんをスピードオーバーでひき殺す
分家…お婆さんを過失で車で当てる
分家2…お寺の近くで野焼き→火事
広島県の田舎で新聞沙汰にもなったけど、庄屋か過失か知らねぇけど
人殺して傷つけてのうのうとしてんじゃねぇよ人殺しが!
って皆思ってるけど言ったら逆に村八分だもんな。
>>520のつづき
この件で彼らは、留置場か交通刑務所だかに入ってたらしいから
少しはマシになって欲しいんだけどね。
522 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 00:27:50.96
523 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 00:35:49.78
>>511 庄屋様の温かい慈悲に君も癒されて幸せそうだね!!
よかったな、庄屋様が暖かくて。庄屋様って太陽みたいなもんだよな!!うんうん!!
>>523 俺と同年代の庄屋の子孫はいい逃れしたりで最悪な奴らだから
つい、
>>520で文章が荒くなったけど
総代さんとかは昔、工場の公害に立ち向かったりて住民を守った立派な人。
525 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 00:49:54.09
>>524 そうかそうか。今後もその総代さんをみならってほしいよな!!
君の一族は、その総代さんやらその村内でかなりのVIP待遇だが、どうしてなんだい?
昔盗賊に悩まされてた村を、剣豪の先祖が助けたとか?
>>525 それなんて勇者?
地域への功績と言えば、祖父が田んぼの石垣をスピディーに格安で直したぐらいだから、
上のレスの人が言ってるように高祖父の中間さまは関係ないかもねww
527 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 08:59:41.81
>>522うーん。長屋門自体は格式が高いものだから一般的かと問われれば違うと
答えざるをえないよ。小さめな薬医門や「一般的な」棟門の庄屋でも家柄的には
立派なものよ。
装飾的に家系図を作ったといわれても出来星大名如く無から作ったのではなく
あるものに尾鰭が着いていって大きくなってくものだからね
あ庄屋様、もうお終い?
>>500 うんうん。
君の庄屋の家は江戸時代を通じてうちよりもずっと格上だったんだろうよ。
正直あまり興味ないけどね。
あとうちについて少し述べておくと、一応うちは藩主家とは「御一族」の扱いだったけど実は血縁関係は無い。
地元では藩主家より古くから存立してきた家なのでそのような家格を賜った。
とはいえ藩主家も鎌倉以来だが。
>>529 >地元では藩主家より古くから存立してきた家
>とはいえ藩主家も鎌倉以来だが
何気に凄い話だな
村役人は村毎にいたんだよ。大名屋敷並みの屋敷がすべての村にあったとは凄い妄想だな。
532 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 13:30:17.30
>>531>村毎 庄屋がいない村もあるし多数存在する村もある
大庄屋=大名屋敷並み、庄屋=上級武士屋敷並
なら文句はあるまい。ただ、庄屋屋敷は役儀ゆえの広さだが・・・
>>532 >村毎 庄屋がいない村もあるし多数存在する村もある
おおざっぱに村毎にいると言って間違いではない。
>大庄屋=大名屋敷並み、庄屋=上級武士屋敷並
>なら文句はあるまい。
上級武士にも大きな格差があることを考慮した上でならそれでいいでしょ。
>ただ、庄屋屋敷は役儀ゆえの広さだが・・・
役儀ゆえとは言っても私有財産だから相応の財力があってこそ維持される。
とにかく庄屋を務めるにはある程度の財力は必要だ。
534 :
taka:2012/10/22(月) 16:26:47.25
>>529 自分の浅い知識でもそこまで書くとバレバレかも^^;
鎌倉以来その土地を領有し続けた藩というのは薩摩藩と盛岡藩。つまり島津家や南部家
よりも古い家柄の庄屋という事か。ある意味敬服する。
おそらく荘官から横滑りで庄屋になってそのまま続いてきたんだろうなw
生ける化石なみのしぶとさ。
>>534 かってに
>敬服
してて下さいよ。
あ庄屋って前々々々スレぐらいで実はうちの一族のこと書いてんだよね。
もちろん庄屋自慢の一貫でw
「こんな平安時代から続く庄屋の家だってごろごろ有るんだぞ!」みたいな感じで。
うちは庄屋に「格上げ」しないでそのまま士族として残った家だったからその時は何とも面映ゆかったの覚えてる。
鎌倉時代からの武士で近世大名になった家といえば毛利、佐竹、喜連川、相馬、南部、伊達、
葦名、京極・・・
三浦、秋田はガチとして細川や上杉はどうなんの?
、岩城、諏訪、小笠原、秋月、伊東、相良、宗、松浦、立花
>>537 >>何とも面映ゆかった
灯台もと暗しとは君のことだ罠w
>>534 殿様が外来者だから先住の名家を優遇した、という意味に取れるんだが・・・
屋根つき墓を持つ家ってどんな家柄?
近所にあるんだけど、一番古いのは文政期の墓でその家は所謂豪農や藩士には見えないし…
>>544の屋根は雨よけの屋根ではなく、キノコみたいな墓石のことです。
>>544 豪農や藩士じゃないってどうして分かるの?
農地解放で軒並みやられてるから古くからの豪農がそのまま生き残ってるわけじゃないよ。
庄屋クラスなら地方名士として生き残ってるとこも多いけど、村落に数人いるような小地主は
相当の割合で没落してる。
>>546 その家は家屋も墓も我が家より下にあって、昭和初期の写真を見ると家屋の藁屋根がボサボサで荒れてるからつい…
我が家の先祖は百姓で、古いのが元和期で大禅定門や禅定門が多く、
その家のご先祖の墓の戒名は信士ばかりで一番古いので文政期なのに、屋根つきだからちょっと不思議に思って。
家格不相応の墓を作る人、や〜ね〜!
案外村落共同体のあり方が変わった時期じゃないかな?
享保年間から変化のきざしは見えるようだけど、
世襲によるの一極支配から村役人を本百姓の互選にするムーブメントがあった。
>>550 うちの村ではそんな感じ。本家は名主は勤めて無いけど天明に分家した我家は文化頃から名主になった。
さらに我家の分家が天保頃から名主をやってる。(明治初年、最終的には他の家が勤めた。)
ついでに当時本家は専業農家、うちは農家兼染物屋兼質屋、それから薬屋もして、最後に酒造業。
分家は農家兼味噌・醤油屋だった。
>>551 本家と分家はどのように区別するの?本家と分家で実際の上下関係や
支配関係はあったの?
553 :
551:2012/11/03(土) 21:35:00.71
>>552 元々の家から土地や財産(生活手段)を分けてもらって
一軒前の家として認めてもらえば「分家」と言うことでいいのかな?
うちの場合、名主や献金をしたお蔭で、本家を差し置いて苗字帯刀を許されたからか、
支配関係と言うほどの物は無く、祝儀、不祝儀の時などには進物や席次に多少の配慮をする程度。
また、村の祭礼では格式優先だったみたい。
(勿論、年貢諸役、村がらみの願達などは分家(弟)の名主の指図を受けた。)
554 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:03:40.97
苗字帯刀って藩によってかなり違うみたいね。うちの方のだと功績があっても
本家のみだろうね許されるのは・・・
555 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:18:24.19
うちの村だと墓に名字を刻んでる家でも書類には名だけになってる。
556 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:23:56.22
>>555それは以前に既出。庄屋なら書いてあるものもあるし無いのもある。くまなく
調べないと意味無し。
庶民の墓石の文字は公文書じゃなかったんだね。
558 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 17:52:03.61
墓にも様々な制限が掛けられていたようだが(百姓の院号、居士号使用禁止や墓の
大きさの制限等々)実際には守られていなく豪壮な墓がたくさん立てられたそうな
559 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 12:56:34.03
庄屋ぐらいになると江戸初期ごろから傘突き角柱型墓で院居士かい?
苗字帯刀ぐらいになると戒名も格上げになるかね?
560 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:58:50.95
当家では古い墓は宝筐印塔だけど、時代が下ると普通の板型?あるいは石仏型?とかになってしまう…普通の本百姓です。ちなみに名主さんとこも笠付じゃないから、藩の規制が厳しかったのかも!?逆に名主さんとこは、宝筐印塔は無いみたい。
先祖は土佐の山奥の郷士
政治に翻弄されず山侍としてのほほんと暮らしてたそうだ
なにぶん、人の少ない集落なので
庄屋のようなものも兼ねて畑すら耕し、商いもしていたらしいと聞く
昔の人はたくましい
>>561 お宅は士族?平民?ご先祖様が保有していた農地(郷士なら知行に当たるはず)は
そのままお宅の私有地になったの?
>>560 うちもそうだ。
明治初期まで宝筐印塔だが、島原の乱以降笠付の板版の院号の庄屋。
恐らく元和堰武前後を境にだよ。締め付けは。
>>560 うちもそうだ。
明治初期まで宝筐印塔だが、島原の乱以降笠付の板版の院号の庄屋。
恐らく元和堰武前後を境にだよ。締め付けは。
566 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 23:55:38.22
うちのご先祖は百姓だが江戸時代苗字があった。帯刀まではわからん。
墓が江戸中期あたりからはまともに残っていて、もっと古いのは
場所が足りなくなったのか、片隅にまとめてある。
読めるのは苗字が入ってる。
江戸時代か戦国末期かに造り酒屋を始めたらしい。
分家の一つは江戸末期に庄屋で、一揆の際の打ち壊しの憂き目にあっているw
伝わるところによると、かなり広い地主で、○○まで他人の土地を踏まずに
行けたとか。もしホントなら、江戸時代の村をいくつか持ってたことになる。
いったいどうやってそんな土地を持つ資金や酒屋を始める資金を調達できたのか
不思議でしょうがない。
戦国の土豪或いは小領主或いは滅亡領主の家臣が、
安土桃山から江戸初期に武士に認定されなかったあたりでしょうか。
>>567 そのような家伝や系図がないから本人が不思議がってるんでしょ。
おそらく江戸時代に富裕化した普通の百姓でしょ。江戸時代初期から
庄屋をやってたという話でもないようですし。
569 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 10:57:45.92
>>564江戸初期に院号居士は考えにくい。禅定門とかが一般的だと思われ。
>>566造り酒屋は栄枯盛衰が激しくて2,3村の持分になっても次の代には一文無しとかあるし
>>565 我が家は下総の佐倉藩領内ですが、565様はどの地域でしょうか?江戸前期までは百姓と武士の境界も曖昧だったと聞く事ありますもんね…初期の検地帳は、百官名も結構いたとか…
>>568 >おそらく江戸時代に富裕化した普通の百姓でしょ
ちょっと待ったw
>>566には
>江戸時代か戦国末期かに造り酒屋を始めたらしい
>分家の一つは江戸末期に庄屋
ってあるよ
これって江戸時代や戦国末期に刀を置いて町人になった武家の典型例じゃない?
どこが典型なんだよ。
「先祖が江戸初期に庄屋」じゃなくて「分家の一つが江戸末期に庄屋」だろ?
造り酒屋は元武家でなければやってはいけなかったのか?造り酒屋で
財を成して農地を買い集めたんだろ。兵農未分離の戦国時代に武士だったか
農民だったかはこのケースではどうでもいい。
>>572 まあ、釈迦に説法だとは思うけど
戦国末期から江戸初期に武家をやめた家系って、商家に転じた家系も結構多い
>兵農未分離の戦国時代に武士だったか
>農民だったかはこのケースではどうでもいい。
商家に転じるような武家は、普通、院号居士を貰ってたような家系
経済的にかなり潤ってたとこが多いから
>>573 江戸中期以後の墓しかまともに残ってないと言ってるではないか。
「江戸時代か戦国末期かに造り酒屋を始めたらしい」というだけで
何がわかるか。
>>574 難しいところだね
>もっと古いのは場所が足りなくなったのか、片隅にまとめてある。
とあるので何とも言えない
よくて平侍クラスかな?
造り酒屋って武士がホイホイ始められるものなのか?
武士でもできるかといえば、戦国時代の武士は農業経営者だったから
酒造はできた。但し、中世末近世初の造り酒屋は零細なものばかりだった。
ずっと後代までも酒税法で潰されるまでは零細酒造業者、農家の副業または
自家消費用の酒造は至る所で見られた。
566の先祖は酒造→金貸し→地主と、成長していったんだろう。
578 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 17:49:13.12
鎌倉や室町の要職の家系から江戸期に庄屋っているのかね?
580 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 17:34:42.71
キチガイあ庄屋、一時退院かw
582 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 18:45:02.23
>>581 いえ、わたしはあ庄屋とは違います。常識をいっているだけでつ。
>>578 あなたの興味があるのは、鎌倉より続く名門源氏筋などの武家層の帰農庄屋なのでしょうが、
そうでなくとも、中世よりの在地武家層はみな帰農庄屋名主になってますよ。
http://www2.harimaya.com/hozyo/hz_kasin.html 北条氏家臣団構成図 に書かれているのを見ればわかるとい思いますが、
関東の覇者、後北条家の家臣団は、そこに書かれてるとおり、在地の名主層(地侍衆)の混成軍団です。
関東では、東海出身の大名軍団と違い、戦国末期まで室町応仁武士団を色濃く残す中世大名スタイルです。
ですので、戦国末期の小田原攻めによる後北条氏滅亡後のこれら家臣団は、大半が帰農してます。
583 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 19:00:14.60
徳川の政治ぶりってその役職名なんかから
「三河の庄屋仕立て」
と揶揄されたんだよな。
ってことは武家から百姓である庄屋に転落する家があった一方で、
庄屋から将軍に成り上がった家もあったということか。
585 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 04:18:40.94
庄屋さま付き合って下さい///
by中間
庄屋は公家みたいに日記を残さないの?
>>583司馬なんかも徳川家を大きな庄屋とか言ってたなそういやー
>>580士族になれないのは納得できないね。郷士でも士族になっているのも
いるのに(大部分は平民だが)。血筋という部分で太政官公布で
家筋由緒アル郷士ハ士族トス
>>582同じ中世的な軍政でも武田のほうは結構徳川方に組み込まれているのは
瓦解した時代の違いかね?
因みに先祖は武田家臣からの帰農庄屋組み、近くの村には重臣の帰農庄屋あり
記録は無いが、十中八九血縁はあると思われ
>>589 郷士は大名の家臣で武士だ。平島足利家は武士ですらなくなったので
士族になれなくて当たり前。維新での功績がないから華族になどなれるはずがない。
592 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 21:24:23.42
>>591 平島足利家ほどの名門ですら武士でないのは当たり前というなら、
もはや明治の士族など武士じゃないよね。
非常に偏った一部の領域のみの武士という意味にすぎないでしょ。
大半の武士が、平島足利氏を自らの出自の根拠にしてる家も多いのに、
その本流は武士じゃないのは当たり前なら、なおさら江戸武士なんて武士じゃないでしょう。
>>585 掘り倒しますよわたしw///
↑
なにこのヘリクツ
594 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:10:15.11
595 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:19:11.50
596 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:37:52.97
>>590 素晴らしい質問ですね。
そのとおりです。戦国期以降の関東の歴史を簡単に言うとこうなります。
@武田家は戦国中期、徳川の急成長の前期末位に滅びたので、その後仕官したものもいたようです。
しかし、武田家に代々仕えた旧在地豪族などで帰農したものもも非常に多いです。
武田家の二十四将重臣クラスも、その後帰農庄屋は調べただけで7家存在してます。
↓
Aその後戦国末期、小田原攻めによる後北条家滅亡時には、旗本八万旗を引き連れての関東入府のため、
ごくごく一部以外はほとんどが帰農してます。
↓
Bさらに、戦国の世が終わった時点での佐竹移封時の佐竹家臣団はもっと悲惨でした。
佐竹旧家臣の庄屋の反乱で一村壊滅させてしまうほど、
佐竹旧武士団の帰農は徹底した弾圧をしています。
↓
Cそして、徳川の天下を知らしめた、関東統治の大号令である、元和演武の大号令により、
関東全域、要は関八州の中世よりの戦国大名に仕えていなかった、一般土豪、地侍層も徹底した武装解除により、帰農を徹底されました。
ですので関東には郷士も他地域に比べ極端に少なく、ほとんどいません。
古代豪族クラスの名門武家ですら庄屋格がほとんどです。
今からもっとわかりやすい資料を出しましょう。
597 :
後北条家の重臣の帰農武将たち @:2012/12/04(火) 23:35:38.30
598 :
後北条家の重臣の帰農武将たち A:2012/12/04(火) 23:44:21.65
599 :
後北条家の重臣の帰農武将たち B:2012/12/05(水) 00:03:34.06
600 :
武蔵七騎と呼ばれた、名門関東武士団のその後 @:2012/12/05(水) 01:16:34.42
【】武蔵国の名門豪族 鴻巣七騎 の小田原戦役のその後【】
後北条家は上で述べたように重臣のほとんどが帰農しているが、
実は、武蔵国ではこれら中枢の後北条家重臣と同じくらい有名な在地武将軍団がいる
その名は【鴻巣七騎】またの名を{武蔵七騎}と呼び、関東の那須七騎に並ぶ二大七騎と言われる武蔵豪族衆がいる。
この鴻巣七騎は、古くは鎌倉後期より発し、武蔵国の中部一帯を代々治める7豪族であり、
戦国時代には後北条家に従属し、映画、のボウの城で、忍城攻防戦前後でも出陣している、
武蔵国きっての名門関東武士団衆です。
≪豊臣率いる、戦国下克上成り上り軍団の関東攻めによる北条家滅亡後の鴻巣七騎≫
↓
@★深井対馬守 → 名主、家老藩士、 に別れる
>>1)土着して中山道鴻巣宿の草分名主となった一派
>>2)藤堂家に仕えて藤堂姓を許された一派 (分家は本姓の深井を名乗る)
>>3)松平伊豆守家に仕えて家老職をつとめた一派
>>4)高崎藩(松平信綱の五男・信興を祖とする)に仕えて家老職をつとめた一派
と分かれた。
>>この戦で後北条氏が滅亡した後、名主となった深井景吉は、忍城主となった松平忠吉(徳川家康四男)に仕えている。足立郡箕田に陣屋を構え、周辺の村落の再開発を行ったという。(『論集幕藩体制史6巻「藩体制の形成I」』)
http://hp.vector.co.jp/authors/VA035985/archives/roots/roots01.html
601 :
武蔵七騎と呼ばれた、名門関東武士団のその後 A ラスト:2012/12/05(水) 01:27:31.10
602 :
武蔵七騎と呼ばれた、名門在地関東武士団のその後 B ラスト:2012/12/05(水) 01:39:49.73
【】武蔵国の名門豪族 鴻巣七騎 の小田原戦役のその後【】
≪豊臣率いる、戦国下克上成り上り軍団の関東攻めによる北条家滅亡後の鴻巣七騎≫
↓
C★小池長門守 →本陣庄屋
>>この鴻巣御殿は後北条氏家臣・小池長門守の鴻巣砦跡に構えられました。
>>後北条氏滅亡後、小池氏は家康の家臣・伊奈忠次の配下に属し、自らの砦(館)跡を提供して
>>鴻巣御殿を造営しました。御殿廃止後この地は小池氏に返却されています。
>>そして東照宮社を建立。小池氏は鴻巣本陣主もつとめています
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html D★立川石見守 →名主
>>立川氏は武蔵七党西党出身の武士で、その末裔である立川宮内少輔照重は小田原北条氏に仕え、
>>多摩郡柴崎村(現在の東京都立川市柴崎町)に塁を築き住んでいた。
>>当地に住んだとされる立川石見守はこの照重の一族で、中世期における岩付太田氏の配下である「鴻巣七騎」の一人に挙げられる。
>>天正十八年(1590)に岩付太田氏が没落した時、立川氏は当地に土着し名主
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html E★矢部某 →豪農
>>矢部氏は中世期における岩付太田氏の配下である「鴻巣七騎」に挙げられる矢部某の屋敷である。
>>矢部氏は古くからこの地に住んでいた一族で、この地の開発領主であったが、小田原征伐後帰農
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html F★本木某 → 豪農
>>城主として挙げられる第一候補として、「鴻巣七騎」の一人に数えられる本木某なる武士の存在がある。
>>鴻巣七騎とは戦国末期に岩付城主太田氏に仕えた鴻巣郷周辺に居住していた在地土豪の事であり、
>> 天正十八年(1590)六月一日、豊臣秀吉の部将浅野長吉から鴻巣郷内の在所で帰農するように命ぜられると、
>>本木氏は他の鴻巣七騎の武士らと共に当地に帰農し、江戸期には有力農民となった。
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html
603 :
まとめ:2012/12/05(水) 01:50:44.66
はっきり言うが、このクラスの中世よりの名門武家たる在地関東武士団の帰農組は、
>>596で書いた、徳川の元和演武政策による、関八州の在地に無数に存在する、
中世期より続く在地関東武士団層の徹底した武装解除を行っており、
関東の豪農層は旧名門武家がうじゃうじゃいるから。
というか、関東の豪農は、中世よりの旧武家そうおじゃなくちゃなれてない。
★鎌倉期より続く名門関東武士団は、戦国期以降、旗本の寄合衆や高家衆クラスと庄屋名主層にほとんどが存続してる現実!!
その後入府してきた烏合の衆の戦国の覇者軍団とは、武士は武士でも、まるで意味合いと質が違う。
604 :
まとめ:2012/12/05(水) 02:03:18.27
江戸藩士 と、 旧関東武士団
は全く意味合いも質も、何もかも違うということを、まず前提に置くべき。
本来の武士とは、関東武士団層を担っていた帰農庄屋名主豪農と、旗本層をいう。
士族だか藩士だかしらないが、それらの基準は関東武士団だった近世の豪農層の基準と全く違う。
鎌倉武士より発した中世関東武士の定義を一切無視してるから、平島足利家もたかが士族すら拒否されるんだよ。
どう考えても、後北条家家臣団を構成し、その後帰農した重臣たちや在地の名主層(鴻巣七騎)やたちは、
東海軍団なら大名クラス以上の出自だろ!!!
「やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです」
にも出てこないような、マイナーな家系ばっか
千葉氏や熊谷氏や小山氏は活躍するけど
のちに外様と言われる戦国大名とかは、鎌倉時代から活躍する武士団の末裔だけど、
近世をつくりだした織田羽柴徳川は、鎌倉時代はどこぞの出自かも良く分からない連中
逆にいえば、土地のしがらみが少ない連中だからこそ、日本を近世へとステップアップできた
607 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 04:06:43.96
>>605 それは仕方がないんだよ。
関東は、戦国期を通し、もっとも中世軍団を色濃く残す地域。
小田原攻め見ればわかるだろ。
在地土豪の寄親寄子制度による在地名主層の馳せ参じるスタイルの混成軍団。
だから雑兵や足軽なんて雇ってない。あくまで在地のリーダーたちが、土地を守るために戦ってる。
かたや豊臣率いる戦国の覇者軍団は、どこの馬の骨か知らない何十万という兵隊を動員して、
年がら年じゅう他の地域を荒らして横領しに行き、能力主義で、挙句は天下布武だの、第六店魔王なんていう、
厨2秒が大将の現代の自衛隊と変わらない、職業として武士をやってる軍団だ。
どう考えても東海下克上軍団のほうが、年がら年中全国展開して他の地域に戦争吹っかけてるんだから有名に決まってる。
すばらしい資料ですね。
武田24将のうち帰農した7家と、上州には何故か郷士が多い(新田遺臣かな?)
この辺の事情も説明できませんか??関東は庄屋化してしまったが何故郷士化ではないのか
資料?!
あ庄屋は病院に戻ったな。次の一時退院はいつかな。
611 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 23:07:08.08
中西派一刀流 江戸の浪人
北辰一刀流 陸奥の富農
直心影流 幕臣
神道無念流 武蔵の富農
鏡心明智流 沼津藩士
心形刀流 幕臣
馬庭念流 上野の富農
柳剛流 武蔵の富農
天然理心流 武蔵の富農
甲源一刀流 武蔵の富農
法神流 上野の富農
立身流 佐倉藩士
大石神影流 柳川藩士
加藤田神蔭流 久留米藩士
薬丸示現流 薩摩藩士
>>610 あの庄屋はいま平成は暗黒スレと田沼の時代スレと近代史のバブルスレで暴れてます。
それは別人。
そしてどうも、君の方が庄屋の血統に関しては間違っているように思うんだが。
彼らを見くびるべきではない。
>>613 あんた、あ庄屋だね。他人には別人同人の断定はできないよ。
そして、わざわざ別人と断言するのは全部あんただからだw
ついでに尋ねるが612は庄屋の血統をどのように間違ってるんだ?
612は庄屋の血統については何も書いていないが。
つまり、あんたはあ庄屋なんだw
あ庄屋さん今度の一時退院は長いんだね
618 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 20:24:18.67
>>608 それはいまから説明しますが、
その前に、今現在公開中の、のぼうの城でおなじみ、忍城主、成田氏と同じである、
>>597>>598>>599でのべた、後北条家の最上位に位置する評定衆のその下に位置する城主格層で、
下剋上成り上がり軍団の小田原攻め以降の、帰農庄屋豪農城主格武将一覧を今から出していきます。
【】あの映画の、のぼうの城の城主である成田氏と同列以上の帰農名主武将を出していきます。【】
>>615 テヘペロ///
619 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 @:2012/12/07(金) 21:14:33.34
620 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 A:2012/12/07(金) 21:24:33.65
621 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 B:2012/12/07(金) 21:40:48.98
622 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 C:2012/12/07(金) 22:02:20.43
どうでもいい
624 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 D:2012/12/07(金) 22:17:42.05
625 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 E:2012/12/07(金) 22:55:47.60
626 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 E:2012/12/07(金) 23:10:08.14
627 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:24:27.62
型かあるから 型破り、何も無ければ、型なし(無錫せいきょう?さんだったかな)
{エタ頭 中村勘三郎さんに哀悼の念を込めて・・・・合掌}
628 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 G:2012/12/07(金) 23:27:10.21
629 :
後北条家の城主だった帰農名主豪農城主 H:2012/12/07(金) 23:49:12.17
今現在公開中の、のぼうの城でおなじみ、忍城主、成田氏と同じである、
>>597>>598>>599でのべた、後北条家の最上位に位置する評定衆のその下に位置する城主格層で、
下剋上成り上がり軍団の小田原攻め以降の、帰農庄屋豪農城主格武将一覧を今から出していきます。
【】現在公開中の映画の、のぼうの城の城主である成田氏と同列以上の城主武将の、帰農名主武将を出していきます。【】
★金子城主 金子氏 → 豪農
>>金子城は後北条氏の小机城の支城と見られ、別名篠原城と呼ばれる連郭式の山城である。
>>小田原衆所領役帳には城主として小机衆の篠原代官・金子出雲守の名が見えるの
>>なお後北条氏が滅んだ後は帰農・土着し、現在では同地には多くの金子姓が住んでいるようだ
★安藤因幡守 → 名主
>>安藤家は、戦国時代、小田原城の北条早雲に仕えた安藤因幡守
>>北条氏が豊臣秀吉に敗れると安藤家の祖先は、百姓
>>として小杉に住み着いたとのことです。主家の没落とともに土着帰農
>>し、江戸時代にはこのあたりの「割元名主」を務めていた
>>割元名主とは、近郷の名主たちと代官の間に立ち、法令の伝達や年貢
>>の取りまとめにあたりました。長屋門は、江戸時代の中頃、安藤家へ
>>代官の娘が嫁入りした際、代官屋敷の裏門を移して建てたと言い伝えられています。
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000042871.htm 後北条家の関東全域の、映画のぼうの城の成田氏クラスの城主格の武将は、9割以上帰農し、名主や豪農として江戸期存続してます。
もう疲れたので、ここら辺にしますが・・・
>>625 その秩父氏は児玉党秩父氏だと思う。一族は旗本になってるはず。
今は秩父とは名乗ってないが子孫も残ってる。
毛呂氏は平安末・鎌倉以来の名門だけど、現在も子孫残ってるかな?
申し上げます!
あ庄屋さまにおかれましては赤面疱瘡を患われ現在療養中とのこと。
北条家の家臣団は、保元、平治、平家物語や太平記で活躍してる武士の末裔が、
被官クラスにごろごろいるよね。
毛並みの良さや出自だけで言ったら、
戦国大名随一の家臣団だと思う。
633 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 06:09:26.62
そういうのって、たまたま争乱地帯に居合わせたからニュース映像に映り込んだけ、というところもあるよな。
家康が切り取った今川、武田領と違って国替えで移って来た北条領では新規召抱えの
余地は小さかった。
635 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:30:11.12
大幅加増なのにか
>>632 肝心の後北条家だけが他国の凶徒だけどw
早雲は守護に任命されてもおかしくない出自だ。下克上の典型ではない。
私で45代目の大庄屋ですが、何か質問ありますか?
>>638 どこの精神病院から仮退院してきたのですか?
精神病院には明治天皇のひ孫やら現役陸軍大将やらがいると
聞きましたがほんとうですか?
>>639 もちろん今は大庄屋じゃないよ
普通に働いてる
家は登録有形文化財になってるわ
642 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 20:43:22.89
>>641 ぜひその偉大なる文化財うpよろしくです
俺の家は世界文化遺産だ
644 :
北条家の城主武将で、兄弟で、旗本、と名主、に分かれた武将@:2012/12/09(日) 21:05:08.07
>>630 >>その秩父氏は児玉党秩父氏だと思う。一族は旗本になってるはず。
そのとおりです。ですが、旗本になってる家などは、傍流や庶流の家系です。
本流はこの秩父舘城主の超名門秩父氏で江戸期は一介の庄屋です。
秩父の歴史に紹介されてますから事実です。
要は、一門で、旗本と庄屋のように、差がつきすぎて信じられないと言いたいんでしょ??
わかりました。私が一瞬でひらめいたもので面白いのがあります。次の資料を見てください。
以前、超絶名門、室町五職家筆頭の帰農庄屋一色家を紹介しました。
>>清和源氏の一族で、子孫の丹後国大名一色義定三男、右馬三郎重之(範之)が、
>>天正八年丹後国舞鶴建部山城の落城により天正八年伊予国新居浜に来て
>>一色氏は庄屋となって、一柳、紀州分家西条藩松平と領主は変わっても庄屋職を明治維新まで継続し当地に根をおろしました。
http://dayzi.com/zisyo/syouya.html 今度は武蔵一色家の例をみます。
↓
★★幸手城主 武蔵一色氏 → 兄弟で、旗本、名主、 に分かれる
>>幸手城主の一色直朝には、小田原北条氏に属したため領地を失ったが、徳川家康はあらためてその子義直に幸手領500余石を与えた。
>>その弟政義はこの時渡辺を称し上川崎に土着した。この時に築かれたのが渡辺氏屋敷である。
>>江戸期に入ると、渡辺家はこの地方の名主として栄えた
http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/musashi/watanabe.html
645 :
北条家の城主武将で、兄弟で、旗本、と名主、に分かれた武将A:2012/12/09(日) 21:18:33.70
646 :
後北条家重臣の、戦国期と江戸期の比較:2012/12/09(日) 21:40:58.61
★清水氏
・後北条家時代
伊豆下田城主 清水氏(後北条家の最上位に位置する評定衆の筆頭に名を連ねる最上位の武将) → 名主
>>小田原攻めの際の伊豆下田城主に清水康秀がなり
>>伊豆衆二十九人衆の筆頭とされ、伊豆衆の中でも知行は最も多い829貫700文余であった。
・江戸時代
>>小田原開城後に氏直に同行した後、幕末に至るまで名主や年寄などを務め、明治に入ってからは沼津郵便電信局を営んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%B0%8F ↑ 比較してみましょう
↓
★大草氏
・後北条氏時代
>>大草加賀守は「役帳」によると田方郡南条郷で 221 貫 420 文、伊豆東浦の多賀郷 文、で百貫文など、あわせて 391 貫余を領する
↓
その後
・江戸時代
上級旗本 寄合衆筆頭 3500石
http://hitosugi.web.fc2.com/2400.pdf ≪まとめ≫
旗本大草氏は、後北条家時代、評定衆でもなければ城主格でもないい、一介の上級武士団。
かたや清水家は、後北条家の最上位に位置する、評定衆であり、その中でも筆頭とされる家格。
旗本大草氏など、評定衆筆頭清水家の足元にも及ばないが、
江戸期は、
清水家→名主 大草家→上級旗本 寄合衆筆頭格 3500石知行
となる。
647 :
後北条家重臣の、戦国期と江戸期の比較:2012/12/09(日) 21:59:18.13
今現在、北条家家臣団の城主格、忍城主、成田氏の、下克上成り上り成金軍団の関東攻め攻防をやっていますが、
この忍城主、成田氏よりはるかに、名主となった清水家、上田家、のほうが名門重臣です。
清水家、上田家は、成り上り成金下剋上豊臣軍団でいえば、五奉行ではなく、五大老クラスの大名格武将です。
関東ではこのクラスがごろごろ名主です。
649 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 14:52:46.41
なんで落ちぶれた家を自慢気に話すんだろう?
>>649 ほんと、足軽の子孫が士族を自慢するのは腹が立つね。俥引きにまで
落ちぶれたくせにね。
651 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 18:50:02.13
>>650 そうですね。
足軽と庄屋は釣り合っててお似合いですね。
652 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 23:08:35.14
【青森】笹森順造
【岩手】下斗米秀之進
【山形】依田新八郎
【宮城】上遠野広秀、藤木道満、岡田信忠、千葉周作、千葉定吉、鈴木直之進、萱場照雄
【福島】関戸政七、黒河内伝五郎、佐々木只三郎、武田惣角、国井善弥
【茨城】鵜殿力之助、横川七郎、山本鉄之丞、村上亘、宮本左一郎、島男也、庄治弁吉、芹沢鴨、千賀牧太、門奈正、内藤高治、高野茂義
【栃木】横田豊房、若菜真鏡斎、福井嘉平、小林誠次郎、下江秀太郎
【群馬】藤川近義、樋口定ロ、樋口定伊、本間仙五郎、須田房之助、櫛淵宣根、清水赤城、飯塚臥竜斎、天野八郎、根岸松齢、持田盛二、得能関四郎、田口永八朗、森寅雄、望月正房
【千葉】浅利義信、荒尾光政、飯篠盛重、半沢成恒、逸見宗助、山田次朗吉、加藤久
【埼玉】岡田寄良、戸賀崎暉芳、戸賀崎芳栄、中村万五郎、木村定次郎、岡田吉利、秋山要助、大川平兵衛、逸見義年、逸見長英、比留間与八、比留間半造、比留間良八、強矢良輔、岡田叙吉、高野佐三郎
【東京】平山行蔵、吉里呑敵斎、松浦静山、高木守富、中西子啓、中西子正、浅利義明、寺田宗有、白井亨、高柳又四郎、岡田吉貞、鈴木重明、斎藤新太郎、斎藤歓之助、遠藤勝助、伊庭秀業、伊庭秀俊、伊庭八郎、三橋虎蔵、
山岡静山、高橋泥舟、長沼恂郷、長沼称郷、酒井良祐、藤川整斎、三田左内、窪田清音、赤石郡司兵衛、団野真帆斎、男谷信友、勝小吉、山岡鉄舟、千葉栄次郎、海保帆平、森要蔵、石山孫六、野見錠次郎、今井信郎、
近藤三助、近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、斎藤一、榊原鍵吉、山里忠徳、山崎雪柳軒、上田馬之助、真貝忠篤、柴田衛守、野間恒、高野弘正
【神奈川】宮崎正裕
【静岡】近藤内蔵之助、桃井直正
【愛知】金子健四郎、坂部大作、三橋鑑一郎、柳生厳周
【三重】大月関平、橘正以
【山梨】結城無二三
【長野】遠藤五平太
【新潟】荘田奥三郎、根岸信五郎
653 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 23:09:37.58
【富山】斎藤弥九郎、仏生寺弥助、黒田泰治
【石川】楳本法神、中山博道
【福井】鰐淵幸広
【京都】河田景与
【兵庫】高橋赳太郎
【岡山】吹雪算得、幾田伊俊、幾田伊載、奥村左近太
【山口】宇野金太郎、長谷川藤次郎、桂小五郎、太田市之進、三吉慎蔵
【香川】香川善治郎、藤本薫
【徳島】柏尾馬之助
【愛媛】井上伝兵衛、戸田一心斎、高山峰三郎
【高知】武市瑞山、岡田以蔵、川崎善三郎
【福岡】大石種次、大石種昌、加藤田平八郎、津田正之、直守一、南里紀介、有地元輝、松崎浪四郎、斎村五郎
【佐賀】辻真平
【長崎】中村一心斎、渡辺昇、柴江運八郎、高尾鉄叟、籠手田安定
【熊本】河上彦斎、山東彦右衛門、稲垣定之助、高鍋進
【大分】島田虎之助、玉城織衛
【宮崎】井上八郎
【鹿児島】東郷実乙、薬丸兼武、薬丸兼義、薬丸兼成、大山綱良、中村半次郎、田中新兵衛、有村次左衛門、奈良原喜左衛門、奈良原喜八郎、辺見十郎太、深見有安、隈元実道、篠原国幹、中倉清
今の国会議員って庄屋家系が多いんじゃまいか
>>654 当然。明治以来、金持ってる地方の旧家=庄屋。
庄屋は造り酒屋兼業(関東では醤油製造)したりして元々実業家。明治以降新規に事業興したのもこの階級が多い。元々資本がある唯一の階級だからね。
>>655 「元々資本がある唯一の階級」ではない。三都をはじめとする大都市の
大商人もいたじゃないか。三井を知らない?
657 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 22:37:29.43
阿部ちゃんとこは大庄屋らしいけど大庄屋クラスになるともはや武士とは変らないだろうね
ただ、長州系だから長州藩士系かと思ったが違うのね
郷士の家柄だけど質問ある?
659 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 14:22:00.88
>>658士族編入された?
郷士の扱いについて各藩違いがあるが薩(長)土肥は元々、郷士自体が
武士の枠組みに組み込まれている感じで
他藩の場合は何となく存在していたり自称であったりで平民になったのかな?
といった感じがする。
>>659 士族でした。
戊辰戦争に駆り出された功績かもしれません。
うちは天領郷士だが平民ですね。江戸初期から領主が変っているので
いつの頃からか唯の庄屋になったみたい。郷士と庄屋の違いってのも
教科書的なものではないみたい
郷土史を見ると初期は郷士とあるが後期には庄屋になってる
郷士だけどその地域の殿様だったみたい。
663 :
日本@名無史さん:2013/01/02(水) 03:03:12.91
664 :
日本@名無史さん:2013/01/02(水) 03:12:12.37
>>657 いいですか?関東の大庄屋くらすになると、もはや、国人領主れべるなんですよ。
一介の武士レベルとは、わけが違いすぎる。
上の屋敷画像見てもわかるでしょw。もう出城や藩邸なんですよ、一個人の屋敷が。
わかる?
幕末が内乱で徳川崩壊を招いたとした場合、
一介の旗本どころか、小大名クラス程度が、これら関東在地に無数に存在する、
旧武家庄屋屋敷を、攻め滅ぼすことできると思う?w
関東の庄屋が、本気で戦国期のように再武装し始めたら、もう譜代大名レベルの小大名に一瞬でなれちゃいますよ?
まじでw。
関東の庄屋を勘違いしないでもらいたい。大半が名門の中世武家だしねw出自も上。
みんな武士から百姓に転落して可哀想。
百姓だから一揆とか起こしたらはりつけ獄門でしょ。
>>656 本間家も金融が生業の家だよね。
金融で得た莫大な利益を順序土地に替えていった。
歴史学者の網野善彦氏の家もそう。
土倉業から名主に転じた家。
耕地を質草にした金融で土地集積するのが大地主になる典型的な道だな。
困窮した農民には耕地以外に質に入れるものがないからね。
668 :
667:2013/01/02(水) 17:22:01.91
娘もあったなw
武力なしで金融業ってできるのか?
嫁も質草になるし農機具とかもなるよ。
まあどの程度価値があったかは疑問だけどw
関東は平野なので耕作面積が大きいというのもあるが前時代の名残の城(館)が
そのまま住居(庄屋屋敷)になった感じだね。
これが盆地等になると城は山城なので必然的に平地の住居部分は質素になるのかな?
関東は湿地だらけでその上汽水が多く水田稲作には向かなかったと聞くぞ。
広い平野面積のわりに米の収穫高は少なかったとか。
庄屋屋敷といっても1町屋敷は少数だろ。大体は500〜1000坪程度で
簡素な棟門に式台玄関と書院造で・・・これでも田舎では豪壮な住宅だろうけど
庄屋は一揆の指導者になることもあるが、領主等の権力者の走狗と見做されることもあって、
真っ先に襲われることが多かった。立派な屋敷をこさえても壊されるんだから建てるだけ無駄。
中世の城にそのまま屋敷を建てていることはまず無いね。
そんなもんは大名が許してない。
麓に屋敷を建てているのはあってもな。
既出だな、確か塀は城と看做されるから壊すとかetc以前にでてたぞ
大名の城一つを残して破却されたんじゃないの?
城主が百姓になったら破却を免れるというものでもないでしょ。
678 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:42:14.80
>>673>>675 ぷっはっはっはwwwwwwwwww
いいですか?君は歴史の教科書通りの江戸史観しか持ち合わせないから、そのような答えになる。
逆に関東の庄屋の目を疑うような現実を目にしても、信じたくないが故にそのような拒否反応としての答えになるのだよ。ww
そう、時代劇では、老いぼれ爺が、つぎはぎのぼろ雑巾のような服着て、猫背で杖付きながら、
志村けんのギャグの世界のようないでたちで、武士にこ突かれてるのが時代劇の中の庄屋ですもんねwwww
わかりました。じゃあこれ見てくださいよ。
679 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:53:20.04
>>673>>675 そもそもあなたは、関東の在地豪族のしろってどんなものか知ってますか?
あなたの城というのは、東海下克上成り上がり軍団が築いたものを想像してるんでしょ。
関東の豪族はほとんどが館ですよ。大半の関東武士団は鎌倉より関東の在地で勃興し、現代までその地に住んでるものが多いです。
「のボウの城」という映画見ましたか?
関東には山などほとんど存在しない。武蔵なんて秩父地方以外山などない。
また、江戸は勿論、日立は筑波山以外山などないでしょ。上野国も長野の県境まで行かなきゃ山などないでしょ。
関東に山城なんてほとんど存在しない。だから平地の館、いわゆる鎌倉よりの在地館が、関東の城なんですよ。
甲斐の武田も館でしょ。
そしてこれを見てください。
以前私が出した、のボウの城でおなじみ、忍城攻防戦で、忍城の隣町の豪族衆である、鴻巣七豪族が出陣し秀吉軍とたたかってています。
その七豪族とも、すべて帰農名主となりましたが、そのうちの小池長門守を見てください。
★小池長門守 →本陣庄屋
>>この鴻巣御殿は後北条氏家臣・小池長門守の鴻巣砦跡に構えられました。
>>後北条氏滅亡後、小池氏は家康の家臣・伊奈忠次の配下に属し、自らの砦(館)跡を提供して
>>鴻巣御殿を造営しました。御殿廃止後この地は小池氏に返却されています。
>>そして東照宮社を建立。小池氏は鴻巣本陣主もつとめています
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html 自らの関東型城である砦館に住むこと許されてますから。wwww
関東の庄屋をなめるな!!!!!wwww
680 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:05:36.15
681 :
本当にあった、幕末 藩兵VS庄屋@:2013/01/07(月) 22:31:43.58
次は、実際にあった、【会津藩兵VS庄屋】 を教えましょう。
>>そのため、沿道の人民はみなにげ、会津軍は、人夫さえ求めることができず
>>みずから、兵器や荷物を運ばなければならなかった。新津の近くでは、会津軍が近づいたので
>>【庄屋】はほら貝を鳴らして『農兵』を集め、槍で会津軍の退路をはばんだ。
>>会津軍は、うしろからは政府軍の大軍に迫られ、敗走をつづけている(家永三郎編
いいですか、会津藩は、徳川一門の中で御三家を除けば、審判譜代最強の石高と経済力と、軍事力と政治力を持つ筆頭雄藩ですよ。
会津三十万石の藩兵が、庄屋率いる農兵隊にことごとく、在地の各所で敗退してます。
白川口での戦闘の会津藩が負けると、会津城下に各方面の会津守備隊が退却してきました。
その際、会津各地の在地で、庄屋が反乱をおこし、会津藩兵と合戦を繰り広げていたことが、史実として残されています。
わかりますか?wwww東日本の庄屋が、また戦国時代のように再武装したら、
徳川一門最強を誇る会津三十万石の藩兵の大隊、中隊程度と余裕で互角以上に合戦繰り広げられてるんですよwwww
なになに?庄屋ごときが武装できるわけないって?www
じゃあこれを見てください。
682 :
本当にあった、幕末 藩兵VS庄屋A:2013/01/07(月) 22:43:31.59
683 :
本当にあった、幕末 藩兵VS庄屋B:2013/01/07(月) 22:57:58.97
いいですか、もう一度書きますよ?
【幕末、国家軍たる、徳川一門最強の軍事力と経済力と、組織力とをもった会津三十万石の藩兵と、庄屋の戦い】
会津三十万石の藩兵が、庄屋率いる農兵隊にことごとく、在地の各所で敗退してます。
白川口での戦闘で会津藩が負けると、会津城下に各方面の会津守備隊が退却してきました。
その際、会津各地の在地で、庄屋層が反乱をおこし、退却してくる会津藩兵と合戦を繰り広げていたことが、史実として残されています。
>>そのため、沿道の人民はみなにげ、会津軍は、人夫さえ求めることができず
>>みずから、兵器や荷物を運ばなければならなかった。新津の近くでは、会津軍が近づいたので
>>【庄屋】はほら貝を鳴らして『農兵』を集め、槍で会津軍の退路をはばんだ。
>>会津軍は、うしろからは政府軍の大軍に迫られ、敗走をつづけている(家永三郎編
これがーーーーーーーーーー武装庄屋の、本来の姿なんだよ!!わかるか?www
関東、東日本の庄屋が、本気で再武装し始めたら、小藩大名家レベルが、たった一家の関東旧武家庄屋にすら、勝てる保証あんの?wwww
庄屋は近隣の村々の庄屋はみんな親せき筋だぜ?wwwということは、一戸の庄屋は5戸の庄屋と連携武装と同じ意味だぜ?wwww
★幕末、親方徳川のお墨付きと権威の保証がなくなった独立独歩の孤立化した小藩が、あのまま内乱戦国時代に突入したら、関東のたった一家の関東旧武家庄屋にすら、勝てる保証あんの?wwww
おしえてつかーーさいよwwwwwwwwwww
>家永三郎編
ちゃんと出典を書いて欲しい。
会津の場合は財政難による過酷な年貢等の取り立てが積年の恨みとなって
敗色が決定的になった会津軍に向かって爆発したんじゃなかたっけ?
千人同心の出で立ちだが、そんなに鼻息荒げるほどのものじゃないよ。ごく普通。
こっちは西国だが、由緒のある上層農民は具足を大っぴらに持ってるのは珍しくもなんともない。
槍や刀も当然のようにあるし、なにがしかの武道を嗜むのが当然のようになっている家もある。
由緒ある豪農(別の藩の大名の分家筋)の嫁が藩主家の乳母に上がったり、分家が武士に取り立てられたりもする。
そういう家には藩の借金を依頼した家老の書付が文箱の中に山のように入ってるぞ。
藩主が狩りと称して郷方に遊びに行って、その裏で家老が借金を頼んでるんだよね。
豪農の方も商売の許認可や専売権の獲得など、なにがしかの見返りがあるから悪い話ではないわけ。
うちの地元では、由緒のある武家筋の庄屋は出格子の長屋門を持ってるから判別可能。
いくら豪壮な建物を持っていても、武家筋でないものは長屋門に出格子がない。
出格子付き長屋門は格式が高く武家門とも称されるが、それ故に維新後よく建てられた
ので意味無し。江戸期の絵図でも残ってりゃ別だが・・・
>>686 それも地域による。うちの地元では、
1番手庄屋が両袖出格子長屋門
2番手庄屋が片袖出格子長屋門
分家筋はいくら金持ちでも出格子は付けていない。
1番手庄屋は具足・槍刀の所有が認められてる庄屋筋の中でもまとめ役的存在。
その県に多い苗字の本宗家で、室町期の国人領主層。
2番手庄屋は1番手庄屋の陰の存在で、1番手庄屋の血統が途絶えそうになったら
養子を出すことが暗黙の了解となっていた家。1番手庄屋とは表裏の関係。
688 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 01:10:07.48
>>684 失礼 日本の歴史4だと思った。
それから、あなたは勘違いしてるねw
>>こっちは西国だが、由緒のある上層農民は具足を大っぴらに持ってるのは珍しくもなんともない
関東の庄屋はほとんどが中世室町以前より続く名門武家が、帰農して名主になってる。
甲冑や武具なんぞ持ってるのは当たり前。
私が言いたいのは、第二次長州征伐の際に、あれら軍服を二本刺しの陣笠が許された形で、出陣を許されてるのがすごいと言ってるんですよw
甲冑や武具程度なら、関東の庄屋は一個小隊から一個中隊分の武具甲冑は、普通にどこの関東庄屋の家でも鞍に置いてありますよw
689 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 01:21:37.35
>>688 もう少し付け加えますが、関東の庄屋は
>>594〜
>>629で上げたレベルの武将クラスの庄屋など在地にごろごろしてます。
それどころか、豪農クラスも関東では旧武家の名門だらけなので、
>>682の関東庄屋を見ればわかりますが、幕末、農兵隊を組織したこの庄屋は、
約400弱の農兵隊を組織し、そtれらに武具甲冑を与え、武装してます。
関東はいざ戦争となれば、400弱の兵隊の、具足付でのフル武装武士団を組織化できるクラスですからね。
ですが、第二次長州征伐という、まだまだ幕藩体制ゴリゴリの時代に、
八王子千人同心は、江戸中期は単なる百姓扱いですから、
いざ戦争になれば、あれらの本来の江戸藩士階級にしか許されてないと思われていた装備が許されての出陣がまかり通っていたということを言いたいだけです。
関東の庄屋は最強なんでwwwテヘw
でも、山持ちじゃなかったら、残念ながら戦後の農地開放政策で大打撃を喰らったんじゃないの?
691 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 01:41:18.54
>>684 それからもうひとつ
>>敗色が決定的になった会津軍に向かって爆発したんじゃなかたっけ?
さすが、歴史知ってますね。
ですが、付け加えます。
まーあなたは戊辰戦争詳しそうなので、弘法に説法かもしれませんが。
会津軍は、薩長軍を、まず白川口で迎え撃ってますよね?
その際会津藩兵は国境のあらゆる街道口に藩兵を構えています。
が、それだけではなく。二本松藩やさらには越後口を超えて、長岡藩領にまで藩兵を出陣させています。
その際、白川城が占領され、そのまま薩長は二本松藩や平藩も一瞬にして降伏させており、
最大の激戦地である母成口に薩長がたどり着いたころには、各地で転戦していた会津藩兵が転身するスピードより、
薩長が会津領の国境口にたどり着くよりのが早いという状況が生まれていました。
その結果、母成口を落とされた会津はそのまま薩長軍に、十六橋を超え、会津城下に簡単になだれ込まれました。
結果、転身していた各会津藩兵諸隊は会津城下にすら入れない状態になり、そこに会津領近隣の庄屋率いる農兵隊が襲い、
会津藩諸隊は、敗走を繰り返しています。結局、庄屋率いる農兵隊に敗走した藩兵などで、会津降伏まで会津領内に入れなかったものが多数いました。
唯一、会津城下に戻れた隊は、山川大蔵率いる山川隊と佐川隊くらいです。
それくらい、会津藩兵は庄屋率いる農兵隊に敗走してるはずですよ。
692 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 01:51:40.62
>>690 そのとおりです。私の家は小さな裏山を持ってましたが、すべて、すべて、すべて、戦後の農地解放で奪われました。
8割以上の農地や財産を持っていかれました。
私の親せき一族もみな、大半の土地を奪われ、逆に、借金がかさみ、残った土地もすべて借金のかたに奪われた庄屋の人もいます。
その庄屋は近隣の滅亡した旧室町守護大名家の家臣団に名を連ねる家でしたが、今や生存してるのかしてないのかもわからないほど跡形もなくなっています。
ひどいものですよ。地域のために尽力してきたのに、問答無用で土地の大半を奪われ、逆に生きていくすべまで奪われるなんて。
だから関東の庄屋は自らの屋敷内の土地すら売ってしのぎました。
693 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 02:26:53.78
でも、どれだけ現実は、このように庄屋名主こそが、名門中の名門で、
財力、在地権力、屋敷、由緒が、江戸大名以上にもかかわらず、これらは絶対に現代で語られることはない。
語られるのは、士農工商という明治政府のステマ語呂により、
庄屋豪農含む百姓は、武士からいつでも問答無用に切り捨てられ、生かさずころさずの飼い殺し統治により、
読み書きできず、ツギハギのぼろぼろ服に、ぼさぼさの髪、猫背の栄養失調で、顔は泥だらけ、あばら家に住み、可愛い娘生まれたら即武士に奪われる・・・
というのが、現代の庄屋豪農含む農民像。みんなこう言うよ・・・明治政府以後のステマ教育により、名主含む農民は、みっともない弱き存在として語られ、大半がそう思い込んでる。
時代劇がいい見本。庄屋はいつも、時代劇で、ぼろぼろの服着た爺が杖付きながら、武士にど突かれ、娘を奪われて泣きじゃくってる。
関東のことなど知らんよ。
中世の城が日本一多かったとされる岡山県住みだから肌感覚としてもわかるが、江戸時代になって国人は皆城を降りてる。
俺の祖先も江戸時代に帰農してから大庄屋やってたが、鎌倉時代から住み続けた城は破棄した。
徳川の時代になるまでは住んでいたんだけどな。
因みに庄屋の取りまとめ役で庄屋の頂点に立つ大庄屋頭も平安時代から続いた城を降りている。
まあ、平地にポツンとある古墳を城に改造したようなのもいるだろうから罰が当たらん内に降りてよかったんと違うか。
>>680実態としての庄屋の苗字帯刀ってどんなかんじだろうね?ほとんど無いってのが
最近の2chの主流みたいだけども
696 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:46:49.78
千人頭も千人組頭も槍奉行配下の武官で、代官や庄屋のような行政官ではない。
千人同心職は盛んに売買されたので武田の遺臣や戦国時代の地侍の
子孫ではない者が多くいた。
699 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:22:51.81
>>695 そんな流れはない。庄屋の苗字帯刀はざらにある。
>>700レス嫁よ。庄屋の苗字帯刀の話題が出ると決まって、庄屋は刀なんて刺さない厨
が出没してるから
結局信長以来
>東海下克上成り上がり軍団
とやらに蹂躙されまくって、関東の名門武士の多くは百姓に転落していたということだろう。
そうじゃなきゃどうしてそもそも百姓に転落しているなどという状況が存在する?
日野の佐藤家なんかになるといまだに「佐藤家」とか「佐藤さん」なんて言わないもんな。
俺が「そういや佐藤さんが〜」とか言った時、ソッコーで日野の人に「ああ、お大臣さんの家ね」とやんわり訂正されたw
同じ多摩でも、うちのように南隣の都築郡との境目ぐらいになると「佐藤さん」なんだけど(うちのあたりも姻戚ネットワークで佐藤家の庶流の家が存在する)。
>千人同心
土方家は当主の家先代で絶えちゃったね。
今は庶流が先代当主の妹系統の家と姻戚して新当主になった。
その子供とうちの親戚の子が小学校のクラスメートになってる。
関東の名門武士とやらが西国からのこのこやってきた後北条氏に侵食されている時点で既に名声は地に落ちている。
日野の佐藤といっても下佐藤の方は成り上がりと聞いたが・・・
>>705 それをいうなら、上方一帯を東海からのこのこやってきた猿吉に簡単に侵食されてる西日本は?
>>701 名字帯刀が許されてるという意味と、
だからといって常日頃から帯刀して村政に当たっていたと意味はイコールではないんじゃない?
たとえ許されてても、帯刀してたら反発食うでしょうし。
名字帯刀の大庄屋の家でも、祭りごと以外は帯刀してたという記述見たこと無い。
うちの御先祖は、一時期藤堂高虎と同僚だったが、
あちらは大大名、こちらは大坂夏の陣まで筋目を通して庄屋。
秀長公が長寿だったら世の中は変わっていたかも知らんw
711 :
下級武士:2013/01/10(木) 19:00:37.35
>>710 はっ、お庄屋さま、恐れいりましてございます。これまでの非礼、
ひらにお赦しを・・・。
712 :
710:2013/01/10(木) 20:40:45.83
筒井氏の国替に着いて行かず牢人覚悟で城に籠っていたら
秀長公に召し出されて思いの外かわいがってもらったと伝わっている。
南都の寺社勢力の懐柔や町の支配などに駆り出されたものと思われる。
秀長家が滅んで牢人。関ヶ原はよく伝わっていない。
大坂夏の陣で元々の主家と失地回復を目指すも、成人男子は全員討死。
>>706 庄屋なんてそんなもんでしょ。
所詮百姓なんだから。
私の母方祖父の家の墓には名字と本姓が刻んであり蔵もあって名家っぽいけど
その祖父は教養も無く内弁慶で言動も下品で卑しいから名家でもこんなのがいるんだと思ってた。
先日、叔父に話を聞いたら
本家が途絶えたから遠縁の貧しい曾祖父(私の母方祖父の父)が明治末頃に養子に入ったらしい。
ちょっと納得したのは内緒。
じゃあ小作人の俺がお腹すいたって凍えて泣いてるときに
おにぎりくれるやさしい庄屋様はどなたですか!!
718 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 23:01:19.53
うちは、大阪だけど鹿児島の嶋津家出身らしい。
御墓にも嶋津家って書いてあって、聞いた話によれば、日置嶋津の家老の出で、
薩摩藩の一向宗禁止令が出されたとき御先祖様は一向宗を信仰していて、藩主さんから逃げるように言われて、今の地に来たらしい。
それ以来庄屋兼代官だったとか・・・
稚拙な文章ですみません。
719 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 08:51:16.27
薩州の島津家といえば十文字の家紋が有名だが、埼玉と群馬の県境あたりでも見られる紋だ。
猪俣党の末裔で名主を世襲した某家もこの紋だった気がする。
島津は比企氏の出でもあるな。
母系で比企氏の血入ってますよね。
ただ島津氏自体は秦氏です。
721 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 21:28:18.36
718ですが、家紋は十文字ではなく丸に梅鉢なんです。
なにか、由来でもあるのでしょうか。
>>721 島津家では、丸に十文字の家紋を許されているのは、本家以外では確か佐土原家のみ。
丸に十文字の変わり紋でないなら、母系の謂れのある家紋に変更している可能性はある罠
例外は、人形や島津製作所の島津さん。
島津本家から直々に家名と家紋の使用を許されている。
家名や家紋は、血縁がなくとも縁故で同族意識を持つ者に共有される。
724 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 22:11:58.12
有難うございます
「丸に十文字の家紋を許されているのは、本家以外では確か佐土原家のみ」ってことは知りませんでした。
725 :
日本@名無史さん:2013/03/12(火) 14:40:55.05
学歴板でいえばマーチが威張り散らしてるようなスレですね☆
特別な由緒がある家なら、MARCHをはるかに超えてるでしょ?
727 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 16:58:46.79
大名家や大きめな名主だと家紋を3つぐらい持ってる事が多いがどういう使い分け
するんだろうか?
728 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 18:54:36.13
勉強になった。
関東の庄屋のすごさがわかった。
関東の、江戸になってよそから支配者がやってきた地域と、島津や毛利のような
そのまま支配が継続した地域じゃ、ずいぶん違いがあるんだろうな。
東と西でも大きな違いがあるようだが、外様の国持大名の土地と、
幕府の支配地域(関東+御三家)、近畿周辺、その他、それぞれ
特徴があるんだろうな。
時代劇や教科書から伝わってくるのは、幕府の支配地域の中の、以前は
別の戦国大名の支配地域で、関ヶ原ほかで有力豪族も含めて滅んでしまって
関東の庄屋になる層がいなかった土地なのかな。
近畿は、領主がころころ代わり、実質の村を運営しているのは村そのもので、
年貢さえ収めれば大きな干渉はされなかったと思われる記述が町史から読み取れる。
大阪近郊では、領主が村に借金さえしてたらしい。
滅んだ戦国大名の元家臣が名主になったケースが多いんじゃね?
>728
>近畿は、領主がころころ代わり、実質の村を運営しているのは村そのもので、
ヒント:町内会長
領主として戦争に負けると高確率で家が滅ぶ
本人切腹の上に男子は出家させられるからな
ところが名主なら大抵存続できる
なら普通は領主なんてやらねーだろ?
うちの地域の話だけど
町内会長とか地域の顔役の人って庄屋の本家か近い親戚がなってる。
まあ人を束ねるのには、ある程度の説得力必要だからな
それが会社なら売り上げや年齢や実力だし
>>729 まさについ最近、古代〜中世の地方豪族の家臣が祖先な
元武士の名主の家のこと読みました
733 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 23:37:42.99
町内会長みたいなのに、外様の人がなったら、やっぱり地の人が嫌がるからやらないんだろうとおもう。
特にうちの村にはだんじり祭があるし。
734 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 04:13:00.77
あ、庄屋さま。
735 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 10:21:50.29
そういえば名主の家は1町屋敷(3000坪)といって
めっちゃ豪邸だったときくが
736 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 10:23:55.91
埼玉の与野市(現在さいたま市中央区)の名主といえば
近藤家と辻村家が有名なんだけど
737 :
日本@名無史さん:2013/06/02(日) 02:01:58.83
埼玉の豪農名主って中世の武士の家系ってやたら多いよね
近所の豪農(埼玉秩父)は戦国時代の元城主で山の麓に壮絶な屋敷構えてる
近所の人は江戸時代のすごい武士の家と思ってるようだが、実は江戸時代は単なる百姓(役無)という
738 :
日本@名無史さん:2013/06/02(日) 02:14:42.63
>>736 ちなみに岩槻にも北条家から官途状送られてるほどの武将の家が複数あって資料館にも展示してあるけど、
この方々の家の江戸時代をたずねたら、ただの地主とのこと
739 :
日本@名無史さん:2013/06/02(日) 02:33:16.66
>>737 中世以来の旧家の多い秩父は尚武の気風が強く、剣術が盛んな事にかけては国内でも有数の地域だった。
それと同時に知識層は俳句も嗜んだようで、現代俳句の金子兜太も秩父皆野の旧家出身。
兜太氏のお父さんは京大の剣道部主将だったかな?
金子家の流派は群馬の念流だった気がする。
740 :
日本@名無史さん:2013/06/03(月) 10:24:15.68
島津や毛利のようなのは別として、国中がお殿様を慕って従ってたっていうのは
違うんだろうなあ。
領主がころころ変わったり、幕府領だったりすると、武士は単なるお役人というか、
税務署の役人というだけのような感じ。村を支配するとか有りえない。
税務署と警察と裁判所の役目だけっていうか、許可をするだけというか。
許可をもらわないといけないから、村はいちいちお伺いを立てるけど、
行政機能は村にあるという感じ。
地元の町史を読んでそう思った。
会津も武士は殿様をしたってるだろうけど、庶民の段階では、
「よそからやって来た人」に過ぎないような気もするな。
>>737 もっくんの実家が埼玉の豪農らしいけど元は武家だったのかな
742 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 13:59:19.86
>>740 殿様は「庄屋様をも這いつくばらせるお代官様がごく稀にしか拝むことができない雲の上のお方」だよ。
>>741 モックンの家は群馬県の13代続いた名主の家。
いまでも長屋門付きの屋敷が現存してます。
>>740 毛利もよそ者だと思う。
生え抜きの地元大名って島津以外だと南部、秋月、相良、大田原、大関くらい?
それと古い大名は家臣団も古いからなあ。
島津あたりでは殿様といえば知行持ってる城下士だったり地主の郷士だったりしそう。
745 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 20:21:05.63
モックンの家は遊びに行ったフックンが驚くぐらい
大きくて古い歴史あるものらしいとは聞いたことある
だからヤックンと違って品があるのか…。
748 :
もっくん:2013/06/08(土) 17:16:53.44
【】もっくんの家は、武蔵国の名門豪族 鴻巣七騎の一家 【】
後北条家は在地豪族のほとんどが帰農しているが、
その中に【鴻巣七騎】またの名を{武蔵七騎}と呼び、関東の那須七騎に並ぶ二大七騎と言われる武蔵豪族衆がいる。
この鴻巣七騎は、古くは鎌倉後期より発し、武蔵国の中部一帯を代々治める7豪族であり、
戦国時代には後北条家に従属し、映画、のボウの城で、忍城攻防戦にも出陣し、石田光成率いる軍勢と対峙している。
武蔵国きっての名門関東武士団衆です。
その武蔵鴻巣七騎の詳細を紹介します。 ↓
@★深井対馬守 → 名主、家老藩士、 に別れる
>>1)土着して中山道鴻巣宿の草分名主となった一派
>>2)藤堂家に仕えて藤堂姓を許された一派 (分家は本姓の深井を名乗る)
>>3)松平伊豆守家に仕えて家老職をつとめた一派
>>4)高崎藩(松平信綱の五男・信興を祖とする)に仕えて家老職をつとめた一派
と分かれた。
>>この戦で後北条氏が滅亡した後、名主となった深井景吉は、忍城主となった松平忠吉(徳川家康四男)に仕えている。足立郡箕田に陣屋を構え、周辺の村落の再開発を行ったという。(『論集幕藩体制史6巻「藩体制の形成I」』)
http://hp.vector.co.jp/authors/VA035985/archives/roots/roots01.html
749 :
もっくん:2013/06/08(土) 17:25:33.38
750 :
もっくん:2013/06/08(土) 17:34:50.13
751 :
もっくん:2013/06/08(土) 17:42:20.47
そしてこれが、もっくんとかかわりが深いといわれる、関東在地名門武家出自の豪農である
F★本木某 → 有力豪農地主
>>城主として挙げられる第一候補として、「鴻巣七騎」の一人に数えられる本木某なる武士の存在がある。
>>鴻巣七騎とは戦国末期に岩付城主太田氏に仕えた鴻巣郷周辺に居住していた在地土豪の事であり、
→ → ここ注目>> 天正十八年(1590)六月一日、豊臣秀吉の部将浅野長吉から鴻巣郷内の在所で帰農するように命ぜられると、
→ → ここ注目>>本木氏は他の鴻巣七騎の武士らと共に当地に帰農し、江戸期には有力農民となった。
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-4ko.html まさに、関東豪農層こそ真の日本きっての名門武家層出自。
平安期よりの島津や南部レベルが、関東の在地にはうじゃうじゃ数百家存在してるのと一緒なのが関東在地層ですからね。
にもかかわらず、戦国の成り上がりの化身秀吉一門に、関東名門在地武士団がことごとく帰農を促されるという、
まさに、日本の真の武士の歴史が、ここに終わりを告げたことを意味する。
あの顔立ち、イデタチ、利発さみれば、まさにリアル関東名門在地武家の豪農地主出自とまるっとお見通しですね!!
あれこそが、関東在地武家有力豪農層の顔立ちですよ。まさに関東在地武士団の有力豪農地主のいでたちですね。
関東在地武家有力豪農こそ、真の武家出自なり!!!
関東の在地有力豪農地主層こそ、名門の武家出自なり!!
関東の在地有力豪農地主こそ、血統書つきの在地武士団なり!!
752 :
もっくん:2013/06/08(土) 18:10:14.56
これを見てくださいよ
http://www.youtube.com/watch?v=OAtWLs9WmJo この騎馬武者の一門で馳せ参じている関東在地武士団がことごとく帰農し、
この中の鉄砲足軽やら徒どもが江戸時代武士となり、関東百姓は恥ずかしく雑魚だと抜かす・・・
おまいらやっちゅううねんwwwwwwwwwwwwwwww
いいですか?
【】この忍城攻防戦に出陣た近隣の在地の平安期よりの関東在地城主も見てみましょう 【】
↓
↓
★菖蒲城主 金田氏 → 有力豪農地主
>>城主の金田氏
>>初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き
>>、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。
>>その後子孫は帰農。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E ★本庄城主 本庄氏 → 有力豪農地主
>>平安時代、武蔵七党と呼ばれた武士団の一つである児玉党の庄家弘(しょういえひろ)が庄氏の祖である。
>>本庄氏は、天文年間のはじめ頃には関東管領の山内上杉氏に属し、天文15年(1546年)河越夜戦の敗戦で一族の本庄藤三郎が討死している。
>>天文21年(1552年)山内上杉憲政(のりまさ)が北条氏康(うじやす)に敗れ、越後国に逃亡した後は、小田原北条氏に従った
>>本庄実忠の嫡男である隼人正近朝(ちかとも)に代が替わり、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原の役が起こる。
>>本庄城は前田利家(としいえ)を総大将とする北国軍に攻められ落城した。
>>本庄氏は小田原北条氏の滅亡を機に帰農
http://takayama.tonosama.jp/html/honjo.html わかる?平安期よりの超絶名門関東武家衆まで下克上秀吉によりこのざまだ・・・
753 :
もっくん:2013/06/08(土) 18:46:59.19
さらには、忍城の近くには、さらに鉢形衆と呼ばれる後北条家きっての名門関東武士団が存在するが、
これら忍城や鴻巣衆、本庄衆、鉢形衆を統括する、武蔵国北面武士団の棟梁を務めたのが、
後北条家の最上位武将衆に位置する評定衆の筆頭上田氏である
↓
↓
★上田氏
武蔵松山城主 後北条家評定衆筆頭、 武蔵北面武士団棟梁
>>武蔵七党のうち西党の裔
>>のちに武蔵国に扇谷上杉氏の重臣、のちに小田原北条氏に仕えた。
>>上田朝直は後北条氏に仕えて、武蔵松山城主に。
>>北面衆として相模東郡、武蔵比企郡、四百七十一貫四百七十文を領していた。
>>天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、憲定は小田原に籠城したが、北条氏没落のあと帰農
評定衆たる、関東武士団の最上位たる評定衆筆頭に位置し、
忍城主成田氏をも配下に置き、
さらには武蔵北面武士団の棟梁たる上田氏も、
東海下克上成り上がり傭兵軍団の関東征伐後は帰農・・・・・・
もうこの時点で、真の武士の歴史は終わりを告げてるんだよ。
秀吉軍団は出自も在地も関係ない、傭兵軍団だろ。武士じゃない。
754 :
AKBまゆ:2013/06/08(土) 18:59:43.58
成田方の武将で出てきたグッさんの柴崎和泉も
正木丹波守も酒巻靱負も戦役後は帰農してるが
映画では行方不明となってたな
あ庄屋さま懐かしいww
あ庄屋さまが室町時代の武家なら五輪塔や宝篋印塔があるのけ?
757 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 01:54:21.10
>>756 あるに決まってるでしょう!!しかも数基ね。
宝篋印塔でかなりの高さがある。
江戸の大名家の童女などの墓とまったく同じ形で同じ大きさ。
しかし1670年代あたりから角柱型になってる。
まあ江戸武士だと驚天動地レベルの話だろうw
なんせ江戸初期の墓自体あるかどうかわからんだろうからの〜〜w
地侍参上!!(震え声)
759 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 23:27:15.12
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
一刀正伝無刀流 江戸幕臣(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県)
甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
760 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 09:55:57.36
>>751 だけど、負けちゃったんだからしょうがないだろ。
どの「有力一族」も、その有力になった時点では「武力で成り上がった」訳だ。
天皇家も藤原氏もね。
761 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
>>689 これが上州なんかだと、農兵陣立の為に横浜から洋式装備導入が認められるんだよな。
名主兼生糸輸出産業の実業家だから金もあるし、横浜での外国商人との伝手もあったんだろうな。
横浜銀行も創始者は上州の名主や町人階級だし。
江戸時代の年貢の運搬ってどんな工程で行われたんだろう
百姓→庄屋→代官→大名
という感じだったのかな
763 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 17:02:52.99
土方歳三の実家はいわゆる庄屋・名主階級とは別の
言うなれば江戸近郊の新興ブルジョワジーとでもいうべき家なんだけど
こういう階層は当時どのような扱いを受けてたの?
764 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 06:01:13.33
>>375 庄屋はジェントリじゃないよ。単なる農民頭。中間搾取人。
上士以上の武士がジェントリ。
765 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 11:46:54.04
ご先祖は米沢近郊で伊達家の半農藩士だった。仙台進出の際、土地の提供を受けたが、
湿地に嫌気して帰った。
津波にやられた辺りか、ご先祖ありがとう。
自宅から所有している土地意外見えなかったそうだ。
土地のせいで付いていけない場合もあるね。
766 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:02:57.70
>>762 うちのあたりじゃ、
百姓-庄屋-代官-大阪の蔵屋敷
先生〜!
室町時代は武家なんですが江戸時代は百姓のオラん家は名門に入りますか?
768 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 21:16:58.60
江戸末期は現銀納税も多かったらしいな。
大和の幕府領は全部そうだったとか。
769 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 18:54:36.88
武士の家系ってことを誇りにするというか、自慢にするというか、そういうのって
関東が多いんだな。関西だと一国大名は紀伊くらいだし、あとは中規模、小規模
の大名だ。村によっては寺の領地もあるし、神社もあるし、公家の領地もある。
それらと幕府領が入り混じってる。大名もころころ領地替えがある。
時によって幕府領になったり寺社領になったり大名領になったりしてるよ。
だからか、熊本とか薩摩とか水戸とか尾張とか会津のような「お殿様」を
絶対視するとか、誇りにするとかの習慣はあまりなかったように思える。
近隣の村でも領主が違うからねえ。武士の血を引くからすごいという
感覚もない。和歌山は違うと思うけどね。
江戸時代以前はくげん
滋賀の彦根藩とか今でも井伊さんは力あるんじゃね?
戦後に市長やってなかったっけ?
あと一円支配という意味では藤堂家もある。
藤堂自体人気ないから求心力があるか疑問だけどなw
771 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:29:52.52
和歌山 紀伊御三家
滋賀 彦根藩(井伊家)
奈良 郡山藩(柳澤氏)
京都 ??
兵庫 姫路藩(領主が10回変わる)
大きいのはこれくらいだな。戦国以前からの領主はいない。
地生えの領主になると、摂津地黄の能勢氏とか近江長野の多羅尾氏や朽木谷朽木氏
なんかの地頭に毛が生えたぐらいの領主しか居ないもんなあ。
773 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 02:25:58.63
>>769 水戸はまさしく、おっしゃる通り。
だが、茨城南部は違う。
地元の人に、ここは何藩だったんですか?と聞いても知らないケースが多い。
知らべて見ると、小藩、直轄地、旗本領、大藩の飛び地、神領。
わかる人は歴史愛好家くらい。
774 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 03:52:44.21
775 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 12:25:48.31
うちもそうだな。ある時は藩へ、ある時はちょっと遠い幕府の代官所へ。
幕府領の時は、船で運んだから年貢を納めるのが大変だったと古文書に出てくる。
776 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:11:22.19
岸和田藩・・・。
777 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 19:26:46.12
関西は武士について冷めてんのかも知れんな。
支配者はころころ変わる。江戸時代でさえ大名領は多くなく、あっても小大名。
幕府領や寺社領、公家領も多く、それも入り混じってる。
近隣の村の記録には、大名のことは出てこないが、天皇家の話は出てくるし。
年貢は時々の領主に収めるが、商売の安堵は天皇から貰ってるってw
奈良のある地域は、ず〜と興福寺領だったってじいさんが教えてくれた。
お武家様はどこにいるのか分からないw
778 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 20:35:50.88
かつての荘園領主だったりが庄屋になっているところだからね
武士が何だって感じかも・・・
山奥の村の庄屋になると
仕事も平地の庄屋と比べると大変だったのかな
781 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 23:44:04.04
>>778 荘園領主とかそんなわけない。
身分が違いすぎるでしょ。
大和でいえば有力郷民が該当するだろう。
畿内の在地勢力でいえば、平安時代以前の社家など上層階級は力を失って壊滅、もしくは形骸化してたんじゃないか。
782 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 12:14:22.41
>>781 778じゃないけど、どうかなあ。
個人としての力は衰退してるかもしれないけど、今に至るまで大量の神社仏閣が
残っていることからすると、しぶとく生き延びてると思うな。
荘園に寄進した元領主は、そのまま在地領主で残ってるのもいるんじゃないかね。
鎌倉時代の守護は、江戸時代の大名とは違って警察権だけというか。
応仁の乱以降は変化してるようだけど、それでも大名が田んぼ一枚ずつ確認して
支配するなんてしてないし。在地の有力者ってのは必ずいるよ。
まあ、戦国大名が戦をしていたとして、村は村で平常通り耕作してるわけだしね。
そうでないと戦士の食料がないからね。
奈良なんか特殊だろうけど、守護さえ置けなかったらしい。
恐るべし、興福寺。
>692
越後も同じです
いくつか豪農の館が残ってますが
784 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 20:10:40.07
春日大社の荘園領主だという親戚が奈良にいるけど・・・
やっぱり、嘘なんかなあ・・・・
785 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 20:38:50.47
>>777‐782
奈良の寺社は織豊政権下でボロ雑巾のような扱いを受けたからなあ
786 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 21:01:10.87
あ、784と778は僕です。
書くの忘れてました。
>>784 春日大社の荘園領主って誰を指すんだ?
春日社の社家?摂関家?
788 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 21:11:50.91
いや、本家とか領家とかそういうのんじゃないです。
なんでも、春日大社がもともと滋賀と奈良の間あたりに持ってた荘園領主だったんだけど、
どうも、不便すぎるからって、奈良の法隆寺あたりの土地と交換して、それ以来そこに定住してるってことらしい
789 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 21:12:29.73
あ、荘園領主って言い方が悪いのかな?
>>788-789 言い方が悪い
そういうのは普通は在地領主と言う
とまれ出自が元来の在地の富豪なのか派遣されて土着した荘官・庄司かは知らないけど
けっこう古い家系とお見受けする
791 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 21:37:02.89
ごめんなさい。
うちについては718で書いてますが、
母の実家は、今のご当主さんの代で30何代目だそうです。
いまでも大きな田んぼやら畑やら管理していて、なかなか立派なお家です
>>791 島津の庶流が本当ならかなり古い部類だろうね
島津では近世に他地域の庶流・同族の探索をしたらしいけど
母堂の実家にはそういう調査は及んでないのかな
793 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 22:13:55.61
ご先祖様については、菩提寺に家系図を預けてたらしいのですが、
残念なことに、火事で焼失したとかで、家にあるメモ書きやご位牌程度しか残ってないそうです
794 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 12:08:26.20
>>779そういう人達も庄屋レベルになると苗字帯刀長屋門なのかね
阪本清一郎の生家も確か庄屋だったね
796 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 00:40:08.07
tp://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/SKYSearch.cgi?DEF_
XSL=detail&SUM_KIND=MetaSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=
NOFRAME&IS_KIND=MetaMeta&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&IS
_TYPE=meta&DB_ID=G0000004SKY&GRP_ID=G0000004&IS_EXTSCH=&
IS_NUMBER=1&IS_START=1&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=ac1952004
&IS_CND_S1=ALL
こういった浪人身分っていうのは庄屋層には認められてるのが多いのかね?
この辺が苗字帯刀の分かれ目か?
797 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 21:05:35.56
>>778 最近のY-DNAのデータからすると、近畿は藤原の子孫が27.7%と特出しているらしい。
源氏のDNAとの説があるやつも14.7%。
新興の源氏が近畿で増えたってあまり聞かないから、古い系統なんだろ。
42%もが由緒正しい家柄の子孫ということになる。
恐るべし!荘園領主!
ほんとかどうか分からんがw
参加者が1万人位になったら、もっと細かい系統図が出来るかもしれんな。
>>797 藤原氏と源氏の系統の大部分は被ってるんじゃないか?
799 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 19:44:33.70
>>799 源氏と藤原氏両方のDNAを継いでる人が非常に多いだろうってこと。
そういう人は両方の子孫にカウントされるだろうし、実際両方の子孫なんだろ。
801 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 07:18:05.15
>>800 両方を引き継いでいる人が多いだろうってことは同意するが、
>>797は、Y-DNAのことだから被らないよ。
802 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 22:06:43.50
>>764 江戸時代の武士のことを言ってるならその定義は当てはまらないな。上士といっても禄をもらってるだけのサラリーマン、自分で売り買いできる土地があるわけではない。しかも諸藩の武士は陪臣に過ぎないし。
イギリスのジェントリーは正真正銘の荘園領主で封建的な形式上は国王からの直封者だよ、つまり直臣。荘園は売り買いもできる(できないのもあるが)自分の財産。
体制が違い過ぎて比較にならない。
804 :
日本@名無史さん:2013/12/24(火) 11:09:17.43
ま、でも、こういう家に生まれたら、学がないといかんからな〜
805 :
日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:40:43.27
江戸時代の武士を、中世の荘園領主のようなものと勘違いしてる奴が時々いるね。
農民に土地の所有権がないとか、領主に借りてるとか。
教科書の一部を丸暗記したらそうなるかも知れんな。
まあ、人様のことはあんまり言えん。オレだって教科書と自分ちの現実の
違いに気がついたのはずっと後になってからだ。
あれ?おかしいな。うちは武士じゃなくて百姓だったのに、ご先祖さまの
200年以上前の墓に苗字が書いてあるぞと自覚したのはいつだっけ?
武士に土地所有権が無かったのは事実だけど領主権があったかどうかは微妙。
サラリーマンと言い切ってるレスもあるけど、武士は無役でも禄は原則として支給されるし。
現実問題としては知行取りも中期以降は定免制やら蔵米知行で土地支配権と切り離された武士も多い。
一方で知行地の村落から借金したり、年貢を丸ごと質に入れる武士も散見される。
明治時代に秩禄処分やるときにも論争になってたな。
807 :
日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:07:48.44
>>805 本家の墓には江戸時代からの苗字が大概載ってる気もするが。
808 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 13:09:42.11
>>807 すまん、聞いていい?地域はどちら?関東?関西?
809 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 15:37:34.72
うちも苗字お墓に入ってるな。
ちなみに関西です。
うちの江戸時代の墓は名前すら入ってない。
中国地方
判別できるくらい彫られているのは苗字入りで、なんとか居士。
年号は江戸時代のものだから当時のもんだろう。
うちは苗字=地名だから苗字でなくて、ただの地名かも知れん。
上の人と同じく中国地方になる。
812 :
日本@名無史さん:2013/12/30(月) 02:23:51.22
809です。
うちは「〜〜院 釈〜〜」って書いてあるのんの側面に名前と没年と彫ってある。
万延とか文久とかだから、多分江戸時代だと思うけど・・・
あと真宗です。
813 :
日本@名無史さん:2013/12/30(月) 07:10:37.40
教科書は書きなおすべきだな。
庶民は、藩や幕府への提出書類など、公的な場所で苗字を名乗ることは
禁止されたが、それ以外は特に制限がなかった、ってさ。
昔の教師って、知らなかったのか気にしなかったのか、
もし聞いてたら、お前んちは隠れて違反を犯してたんだって言ったのかなあ。
いやいや、教科書を書いた人にこそ聞きたい。
江戸時代みたいな封建制下では労働者は搾取されて支配者の横暴に耐え忍ぶ存在だからw
ある種のイデオロギーを持った人にはステレオタイプな農民像しか見えてない。
815 :
日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:47:18.09
>>808 東北、日本海側内陸部、伝承では戦国期土着、明治期大地主。
他所の本家筋も苗字はあるらしい。
816 :
日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:58:28.93
817 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 12:44:18.30
>>814 地域差はあるだろうな
東北と西日本は違うだろう
818 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 21:24:02.94
明治時代〜大正までは、その時代を生きた人がいたからそんな間違いを
教科書に載せるようなことはなかったんだろうな。当たり前すぎて。
戦後になり、同時代人はいなくなり、書物だけで勉強したエリートが
幕府の公式文書を読んで、「〜を禁止されていた」「武士が支配していた」
をそのまま書いたような気がする。
当時のエリートは武士階級出身者が多く、「武士が支配していた」ことに
疑問も持たなかったんだろうな。
贅沢の禁止=贅沢をしてるやつがいっぱいいたからこそ出したとは
考えなかったんだろうね。
まあ、教科書って大人は読まないからね。ばれなかったんだろ。
>>818 素晴らしい意見だな
真髄ついてると思う
ただひとつ、エリート層は福沢以外は大半が上士しかおらず
残りは田中肖像や夏目漱石、与謝野鉄幹のような庄屋名主層
下級武士はエリートも社会貢献する層も名主庄屋によおくおよんでないのが現実
>>818 明治以後どころか、江戸時代の人間でさえ、都市部で生まれ育って実情を知らない知識人による勘違い入りの農民像が書物として書き記されてたほどだからなあ
ましてや後代の人ならば、先入観に基づいた勘違いが多くても不思議ではないな
821 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 18:11:10.69
学者によると、江戸時代の資料がたくさん残ってるのは東北というか東日本だそうだ。
東北では、本家ー分家の関係が強固で、下克上があまり起きず、庄屋はずっと
庄屋で、幕末どころか戦前まで続いてるのが多いらしい。
だから、江戸時代の村の資料が庄屋の家からごっそり出てくる。
対して西日本では、そういうのはあまりなく、庄屋も持ち回りや栄枯盛衰が
激しいらしく、良い資料が手に入りにくいそうだ。
だから、江戸時代の研究では、東北のものが多くなり、本家がどうの、庄屋様がどうの
というものになりがちらしい。
西日本、中でも畿内に近いほど、経済活動が活発で、商品作物の生産や、投資や
家内制手工業も多かったようで、投資に失敗して没落する場合も多かったらしい。
ある本に出てくるんだが、今の大阪の農村で、10人以上の人を雇い、織機を
入れ、土地を借り、綿を作り、綿織物を生産していた「小作」の話が出てきて
驚いた。
うちの先祖は江戸時代に造り酒屋だったんだが、何をして資本を作ったのかは
分からない。江戸中期にはかなりの地主にもなってる。何代続いたか知らんが、
数軒の分家を出したあと没落した。本家が没落した後、分家の一つがそれなりに
でかい地主になってる。お前の家は昔はどこそこまで、他人の土地を踏まずに
いけるほどの土地持ちだったとか、あの田んぼもこっちも昔はお前の家のものだったとか
子供の頃に近所の人に言われた。もちろん没落してるがw
近くには、戦国末期の小さな城の城主の末裔がいたけど、普通の百姓だった。
だから、近隣には、「昔の大地主」って家が何軒も存在するw
西日本には国有林があまりない。
個人所有もあるが、地区の所有になってるのも多い。
所謂、「お殿様の山」っていうやつは、あまりないらしい。
822 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 18:45:01.99
>>821 確かに東日本の庄屋のなかには、びっくりするような豪族出身とかいるからなあ
結局中世どころか古代からその地の長や村主みたいなのがそのまま庄屋になって明治迎えてるんだあろう
商家の没落は幕末維新後の貸し倒れだし
西国は領国が細分化され、幕府直轄地・皇室領・寺社領が入り組んでいるだけ
特に西日本の場合は寺社領が幅を利かせていたので維新後の新政府も手を出せなかった
>>805 男のは正面に姓名、横の面には誰の何男でいつ死んだか書いてある(1系統ではなくおそらく全員)。女の人のは正面は仏様のような彫刻があり戒名みたいなのが書いてあるだけで名前は無し。
戦国期は土着の城主で関ヶ原の敗戦後1615年まで京都に潜伏(?)→大阪冬の陣と夏の陣(八尾の合戦)に参加後帰郷し帰農→藩筆頭家老の封地になってたので出仕(出仕までの年月や経緯は不明)、庄屋(幕末時点で管理地は9ヶ村)も兼任。
826 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 07:06:33.06
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県)
甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
香取神刀流 常陸笠間藩士(茨城県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
828 :
日本@名無史さん:2014/04/19(土) 12:39:22.09
名主は名主(みょうしゅ)
庄屋は庄園の屋敷
律令期由来の名前なんだね。
829 :
日本@名無史さん:2014/04/19(土) 13:54:04.59
その通りだ
名主庄屋こそ古来よりの正統な武士朗党の家系
読んで字のごとく!
我らこそ真の武士家系
江戸の武士は武士にあらず
きちんと広めるべき
いや、同祖だろ
農村を離れて大名の足元で働くことを選んだヤツが武士となって、
農村に残ったヤツが庄屋名主のままになった。
太閤検地やら江戸時代初期の政策で武士が農村を離れるよう強要されたとき、
農村を離れられなかった武士は武士扱いされなくなった。それだけ。
ただ、それ以後に村方三役が整備されたとき、村によっては一般農民から三役に入った家もあるし、
その中で役割が入れ替わったりしてたら武家じゃない名主も混じることにはなる。
832 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 01:09:51.57
▽幕末の剣聖
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
▽幕末三剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
島田虎之助(大分県中津市出身、直心影流)
※比留間与八(埼玉県日高市出身、甲源一刀流)
※大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
※伊庭秀業(東京都台東区出身、心形刀流)
▽中西道場三羽烏
寺田宗有(東京都文京区出身、天真一刀流)
白井亨(東京都千代田区出身、天真白井流)
高柳又四郎(東京都出身、戸田流高柳派)
▽天保の六剣士
男谷信友(東京都墨田区、直心影流)
長沼恂郷(東京都港区出身、直心影流)
杉浦源次兵衛(茨城県笠間市出身、香取神道流)
千葉周作(宮城県古川市出身、北辰一刀流)
加藤田平八郎(福岡県久留米市出身、加藤田神蔭流)
大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
▽幕末著名流派別最強剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
中西子正(東京都千代田区出身、中西派一刀流)
千葉栄次郎(東京都中央区出身、北辰一刀流)
岡田十松(埼玉県羽生市出身、神道無念流)
桃井直正(静岡県沼津市出身、鏡新明智流)
岡田惣右衛門(埼玉県幸手市出身、柳剛流)
▽明治の剣聖
榊原鍵吉(東京都港区出身、直心影流)
山岡鉄舟(東京都墨田区出身、一刀正伝無刀流)
下江秀太郎(栃木県鹿沼市出身、北辰一刀流)
833 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 18:05:46.94
>>830 ちがーだろ
その農村から出た名主ごうのうの次男は上士か少なくともどれだけ待遇悪くとも中士
中士や下肢なんて農村から出た豪農家の次男棒じゃなく雑多が戦国時代のどさくさにまぎれて武士化していった秀吉や小飼やその朗等ドもタイプ だろ
しかし損そんな下剋上にすらなれなかった末端のコワッパが現実の江戸藩士の大半だが?
834 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 18:11:11.90
たから江戸時代の武士は上士と下肢にきちんと分けるべき
下肢はもうあからさまに出自不肖の雑多が、雑多階層のスーパースター軍団の東海成り上がり軍団の雑兵として大量に雇われ
元和演舞以降そのまま中級藩士以下になって言っただけだが?
835 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 18:16:52.07
大体、江戸の大名家なんて大半の普代上士なんて家柄なんてあってないようなもんだろが。
逆に中途採用されてるのが一部落ちぶれた名門武家レベルなだけで
大体江戸の大名家衆自体が戦国時代以前は出自不肖じゃんよ
836 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 18:31:54.01
秀吉なんて関白アンド第五の賜姓宮家みたいな、
そんでご存知目薬屋の黒田家は福岡藩5十万石の大大名 とか
蜂須賀は二十万石の大大名
海賊村上九鬼も二十万石前後の大名
秀吉一門浅野家は6十万石
小飼加藤は肥後5十万石
言えば切りないが
かたや 超名門武家の正統にして清和源氏直系、足利将軍家は喜連川家と改称され
挙げ句は三千石の寄合筆頭だがたかが旗本
ありえないだろ
何で秀吉が関白で浅野が60万石の大名で加藤が肥後一国の太守で
かたや将軍家にして武家の最高峰足利家は三千石の旗本やねん
これが糞戦国時代や
もう江戸時代の武士は武士じゃない
武士が血統で処遇されるようになったら単なる世襲貴族。
838 :
日本@名無史さん:2014/04/23(水) 19:56:48.55
秀吉なんて関白アンド第五の賜姓宮家みたいな、
そんでご存知目薬屋の黒田家は福岡藩5十万石の大大名 とか
蜂須賀は二十万石の大大名
海賊村上九鬼も二十万石前後の大名
秀吉一門浅野家は6十万石
小飼加藤は肥後5十万石
言えば切りないが
かたや 超名門武家の正統にして清和源氏直系、足利将軍家は喜連川家と改称され
挙げ句は三千石の寄合筆頭だがたかが旗本
ありえないだろ
何で秀吉が関白で浅野が60万石の大名で加藤が肥後一国の太守で
かたや将軍家にして武家の最高峰足利家は三千石の旗本やねん
これが糞戦国時代や
もう江戸時代の武士は武士じゃない
839 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 09:06:09.37
雑兵上がりに駆逐されたんだから文句ねえだろw
武家と名乗る以上血統だけじゃなくて力も必要なんだよ。
840 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 11:58:54.35
清和源氏や天皇だって大昔はチンコ丸出しでそこら辺走り回ってた原始人だったんだからな。
841 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 12:09:40.41
839
んなわけねえだろw
それで人が纏まるかっていったら絶対まとまらないからよ
それで変な風になってるのが中華主義
中華主義と中華主義のぶつかり合いと考えればよろしい
842 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 12:37:23.19
>>841 実際そうなったから室町期までの上級武家は消え去ったわけだが。
武家は実力の世界だから力がなけりゃ駆逐されるよ。
昔からそうだろ。
843 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 12:44:03.80
そお?
>>842 消え去ったってのは言い過ぎ
小禄で召し抱えられる形で細々と生き残ったのが大半だろ
旗本になったのもいるし、諸藩のお抱えになったのもいる。幕府の元で高家として特別待遇を受けたヤツもいる。
845 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 18:26:01.43
中世武家の名門 清和源氏庶流にして室町幕府最上位五職家筆頭、一色家は庄屋
中世武家の名門 板東武士棟梁 千葉氏 も庄屋
東西の名門武家は庄屋、そして平民
かたや
中世の不肖雑多が成り上がって自称源氏で、江戸時代以降大名、華族
それどころか、そんな成り上がりの使いっぱシリーズどもの雑多層下層民までこぞって武士藩士、士族きどり
ふざけてるわ 江戸時代の藩士を武士と呼ぶべからず
846 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 18:33:08.98
平島公方足利家 足利家唯一の将軍家直系が、成り上がりドも基準で明治は平民にされ
かたや足軽上がりの下肢が士族気取り
おかしすぎだろ
清和源氏の直系にして武家の棟梁が平民で、自称源氏の元雑多の下で隷属されてた傭兵程度の下肢ごときが士族
江戸時代の武士は武士にあらず
847 :
日本@名無史さん:2014/04/24(木) 18:44:58.14
>>839 あれは武力じゃない
ただのテロ
もしくは暴力
秀吉軍団なんてもうただの自衛たいだろ
あれは武士や武力じゃない
軍隊 出自を一切問わない戦国自衛隊
だから一瞬で室町武家衆や在地衆は一瞬で駆逐された
あれは武士でめなければ武力でもない
戦国自衛隊
>>845革嶋家は元武士であるとの主張で大正期に士族になったが一色家ぐらいなら
なれそうだがな・・・どうだったんだろうか?
上州の郷士は新田遺臣つーことで士族になったが身分的に微妙だね
849 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:32:19.86
>>848 明治政府が認定した身分的に士族なんだろ。
身分的にはな。
実際の血統上微妙というのではないからな。
850 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:39:08.32
士族ってのはもうなくなってるけどね
でも財団とかの会長になったり伊勢神宮の神主も
徳川氏の人でしょ
ちょっとひどいね、叩いてくれといわんばかり
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:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな…
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| 氷鷺ごときに殺られるとは │
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…
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海獺 Ks aka 98 池脱兎
>>850田舎いくと表札や墓に士族ってあるけどね。
853 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:40:10.65
ほんとだよな
明治せいふは喜連川家より直系の平島くぼう足利家を断固として士族にせず
さらには足利家の正統な庶流一色家も平民扱いで
木下や蜂須賀、杉原、日野、浅野、
それどころか山形)伊藤、大久保、西郷、見たいなんまで華族扱いなどが華族で、その隷属奴隷の下肢足軽中間までもが士族扱いなんて歴史の侮辱だろ
こんなの 歴史の侮辱だろ
いい加減武士の歴史は戦国時代以前、近現代は江戸時代以降にすべきだろ
854 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:51:47.67
一般素人は一色家なんていっても誰も分からない
みな江戸時代が武士社会の全てと思い込んでるから
士農工商が全てと思い込んでる
歴史の冒涜だろ
江戸の雑多上がりが大半の藩士が士族とか冒涜だわ
なんで公方家、守護大名家筆頭一色家が平民扱いで
下肢足軽が士族扱いで上目線なんだよ
武家社会 は戦国時代により滅び、江戸時代以降は逆に血統主義、在地ヒエラルキーと身分 とが反比例した時代
ようはある意味の固定的ヒエラルキーが崩壊した一発逆転、成り上がりシンドロームの一攫千金時代、
ようは近現代だとすべき
江戸武士藩士は武士にあらず
855 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 18:54:51.65
だから武道になった時代ってことじゃん
道がつくもの、思想学やね
856 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:02:40.87
中世とは室町幕府まで
戦国時代という第一次ジャパニーズドリーム、バブルにより
中世というなの封建的身分制、血統主義、在地ヒエラルキーは崩壊し
旗本以外は血統、封建的主義にこだわらない 近現代に分類すべき
証拠が、今注目の目薬屋出自ですら福岡藩5十万石の大名で
福岡近隣の宇都宮家庶流にして中世封建大名麻生家はその領地で庄屋にされ
名門宇都宮氏も目薬屋のDQN長政に騙し討ちにされ皆殺しにされ断絶
これが封建社会かよ
完全な一攫千金バブル成り上がり平成時代とかわらないだろ
857 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:05:40.90
>>855 それについてもう少し詳しく解説プリーズ
858 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:10:09.97
ん?士族の上から目線とか被害妄想じゃないの?
戸籍に士族と書かれているだけで生活に困ってたんだぞ。
商売に手を出すが士族の商業(笑)のため破産したとか、屯田兵になったけど士族の農業(笑)で飢えに苦しんだとかいう話ばっかだ。
859 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:25:42.16
殺し合いがおわって武士というものが必要なくなった時代ってことでしょ
事実このあと武士は官僚化していく、過去の武技などは精神的な美学として
残り学問的なものに変容した時代
860 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 19:32:06.37
857
んー、官僚の上から目線っていったら分かる?
858
まあそんなもんよねw
商売なんてのは仲間内でどれだけ利権が確保できるかだもんな
結社だのなんだのいってもそんなもん
861 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 20:21:17.15
明治士族は 土地すらない分際で百姓みくだすからなあ
>>854 室町の守護大名筆頭って斯波か細川じゃないの?
三管領家を除くという前提でも、一色より山名の方が盛強だし家柄の面でも一色と山名は大差ないだろ?
室町初期なら一色や山名より京極の方が権威があった気がするが……
863 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 22:51:45.51
三管領四職を除く守護大名筆頭は大内
室町末の五輪塔って基本的には中世の武士のものなの?
>>854 武の時代に実力がなかったんだから、仕方ないじゃん。
実力と人望がなかった先祖を恨むんだな。
>>865 旧守護大名でも島津とか肥後細川とか戦国時代も生き残って
大大名として現代まで貴族の家もあるもんな。
上手く経ち回れなかった一色さんが悪いとしか言えない
867 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 01:04:57.41
一色家が問題ではなく、成り上がりどもがその財力で独占したからだよ
成り上がりの財力独占は名門守護大名層ですら圧倒するからなあ
うん?由緒ある源氏(要は天皇の子孫)である一色その他の旧名門守護大名家が
農民にされ、どん百姓が下克上で大名や武士に成り上がったのがけしからんって事?
869 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 13:35:51.47
いや、徳川さんは約三百年間、日本牛耳ってきたんだしいいんじゃない?
元は百姓って、太閤さん以外は其れなりの血統があると思うが・・・
明治の元勲はしらん
田舎の庄屋屋敷にいくと槍掛け、刀掛けがあるけど、こういうのって装飾的なものなのかね?
刀掛けは代官が来た時に使うだろうけど、槍掛けって・・・
母方の祖父の建て直す前の家には槍掛けがあったって聞いた。
「これが掛かってたんだよ」って刃がない柄だけのものを見せてもらったことがある。
872 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 02:08:15.77
>>754 実家は東大宮みたいだけど豪農の分家なのか
873 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 23:12:10.41
>>873 そうそう
八畳間の鴨居に槍掛けがあったらしい