南北朝時代を語れ

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1日本@名無史さん
語れ
2日本@名無史さん:2011/12/12(月) 19:43:20.21
大楠公
3日本@名無史さん:2011/12/12(月) 23:41:27.47
4日本@名無史さん:2011/12/12(月) 23:56:58.57
足利基氏は何の病気で早世したの?
5日本@名無史さん:2011/12/13(火) 00:24:07.52
尊氏 背中の腫れ物
義詮 結核
基氏 結核
6日本@名無史さん:2011/12/13(火) 00:44:11.21
度重なる近親婚の遺伝子異常
7日本@名無史さん:2011/12/13(火) 01:50:10.71
尊氏公は北朝の忠臣です
8日本@名無史さん:2011/12/13(火) 02:36:32.31
新田義貞が倒幕に加わったのは
名前を間違えられたから
9日本@名無史さん:2011/12/13(火) 09:44:38.29
>>6
尊氏・義詮・基氏は近親婚は関係ないだろ
鎌倉時代の足利家は多くの場合代々北条氏から正室を娶っていたが
尊氏は父の正室北条氏の子ではなく側室上杉氏の子だから
義詮・基氏の母は北条氏だが尊氏が北条の血が薄いため
やはりそれほど近親婚ではない
10日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:44:26.79
重複誘導

南北朝時代を研究するスレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1305978417/l50
11日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:48:35.66
バサラ
生き残ったのは高氏のみか
12日本@名無史さん:2012/01/12(木) 14:49:11.22
13日本@名無史さん:2012/01/12(木) 23:06:25.47
で、なんで南朝が正当なの?

意味が良く分からないんだけど…
14日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:57:07.16
>>13
表向き南北朝合一まで三種の神器は南朝にあり
後亀山天皇が後小松天皇に返還しているからな
水戸学あたりで南朝正統論が出た
15日本@名無史さん:2012/01/19(木) 11:28:35.30
完全な神学だがこれのせいで20世紀になってバッシングされた人間がいるんだよな。
16日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:37:24.29
後醍醐→光厳→後醍醐(重)→光明→崇光→後村上→長慶→後村上→後小松
が正当とか大学の講師が昔言ってたがどう?
17日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:55:04.97
>>16
後村上が長慶の前と後に2回出てきてるが、
長慶即位前に後村上は死んでるぞ?
18日本@名無史さん:2012/01/19(木) 20:58:49.83
後醍醐→光厳→後醍醐(重)→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松

おそらくこうだろう。後醍醐が吉野に持っていった神器が本物かどうかが焦点。
それが偽物なら、北朝が本物を持ってたことになるが、正平一統でその神器も
後村上が回収してるから、以降は南朝が正統だ、ということではないかと思う。
19日本@名無史さん:2012/01/19(木) 22:32:32.63
>>17
間違えた。
尊氏と後醍醐のいい加減が遠因言ってたから後光厳認めてないんだろな
20日本@名無史さん:2012/02/22(水) 01:09:10.06
>>16-18
おおよそそれでいいと思うけど後醍醐は実際問題として重祚してないよ。
21日本@名無史さん:2012/02/22(水) 10:56:27.01
>>20
重祚してないというのは後醍醐側の主張
後醍醐は隠岐にいる間三種の神器を奪われ正当な手続きのもと都で光厳天皇が即位
しかし、入京した後醍醐は三種の神器を奪い返し光厳の即位を否定(院号だけを授与)
隠岐にいる間もずっと天皇は後醍醐だったとして重祚を否定した
もっとも三種の神器は後醍醐→光厳→後醍醐と渡っていてこれに従えば重祚ということになる
2220:2012/02/25(土) 00:01:10.18
>>21
後醍醐側の主張だっていうけどさ、光厳在位期間を除きその前後は
後醍醐が作った形式がリアルタイムでの現実じゃん。
最後の1行は単なる事実じゃなくて「解釈」(〜に従えば〜となる)。
重祚というからには践祚の儀を執行しなければならないのに
後醍醐は重祚じゃないという形式をとり年号も最初から継続させた。

念のためにいっておくけど、
これは「俺が」光厳の在位を認めないってことではないよ。
光厳の在位は、これはこれとして厳然たる事実、消せないと思ってるよ。
即位の手続きも正当だし、おそらく保持していた神器も本物だろうね。

ただ、だからって後醍醐を重祚扱いにするのは
事実に背いた北朝側の後付け(後醍醐が吉野遷幸した後で)の解釈だってこと。
23日本@名無史さん:2012/02/27(月) 19:43:43.45
>>22
「三種の神器」という基準で考えれば後醍醐の重祚だといえるということ。
北朝側はこの主張だ。

で、後醍醐は重祚ではないというのは南朝方の意見であり、
こちらが正しいというのはおたくの個人的意見でしかない。
定説であるはずもないということ。
24井戸魔神F ◆Yyby928XKw :2012/02/28(火) 00:32:42.21
「修羅の刻」でやらないかなー
25日本@名無史さん:2012/02/28(火) 03:26:14.86
>>23
定説じゃなくて事実だっつの。
北朝側の歴史書でも後醍醐を重祚とするものとそうでないものがある、
つまり見解は定まってない。北朝の主張は〜〜だ、なんて言えないね。
26日本@名無史さん:2012/02/28(火) 09:54:36.89
>>25
北朝の歴史書で光厳天皇の在位を否定したものなんてあるの?
隠岐に行っている間も後醍醐が天皇であり続けたって?
まずはその史料を挙げてから。
27日本@名無史さん:2012/03/03(土) 03:49:34.98
>>26
違う、違う、光厳天皇の在位を否定してはいないっていってるでしょうが。
隠岐にいってる間は後醍醐は天皇ではなかったけど、だからって重祚でもない。
重祚ってのは「践祚の儀」を二度することなんだよ厳密には。

同じ北朝を正統とする歴史書であっても後醍醐天皇を
重祚として二代に数えるものと重祚ではなく一代と数えるものとがある。
『続神皇正統記』は重祚したとみなし二代と数えるのに対し、
『本朝皇胤紹運録』は重祚したとは認めず
光厳天皇在位期間の前後を通じて後醍醐天皇を一代と数えている。
後醍醐天皇は実際に重祚してないのだからこれは本朝皇胤紹運録が正しい。
このことは光厳天皇の在位を否定するものではなく
本朝皇胤紹運録は北朝を正統としている歴史書。
28日本@名無史さん:2012/03/03(土) 04:06:32.02
重祚したとする『続神皇正統記』は北畠親房の『神皇正統記』に
反論・抗弁するための書であるから、勢い理屈に走ったにすぎない。

『本朝皇胤紹運録』は重祚とはせず、
後醍醐天皇の治世年数は「前と後」で分けて数えているが
これは客観的事実に即したものでなんら矛盾ではない。

代数の入っていない年代記として『皇代記』や『皇年代略記』があるが
これらもまた「後醍醐−光厳−後醍醐−光明」という順番で並べているが
重祚したとはいってない。事実してないのだから当然。
29日本@名無史さん:2012/03/03(土) 21:53:23.77
『神明鏡』『人王百代具名記』は「重祚」としてるよ
30日本@名無史さん:2012/03/05(月) 23:54:27.72
後醍醐天皇は歴史的「事実」として「重祚していない」。

重祚したというのは、概念上、そういう扱いにしてるってだけ。
これは歴史の捏造の一種。
31日本@名無史さん:2012/04/23(月) 04:43:55.91
四海を太平ならしめ・・
32日本@名無史さん:2012/10/10(水) 00:01:34.49
保守
33日本@名無史さん:2012/10/10(水) 11:29:06.77
>>28>>30
三種の神器が後醍醐→光厳→後醍醐と渡っている

後醍醐が「三種の神器などなくても隠岐時代の天皇は私だ!
光厳は三種の神器を持っていても天皇ではない!」と言ってるから
天皇号を変えなかったというだけ(通常重祚すれば天皇号が変わる)
34日本@名無史さん:2012/10/10(水) 14:28:15.44
後醍醐天皇が「重祚ではない」と強弁しただけで、実態としては重祚だよな。

後醍醐帝が隠岐に流されていた間は光厳帝が天皇として職務を行って、その状態で政治が動いていたってのが実態だ。


それでも、後醍醐帝が樹立した政権が勝ち残って光厳帝の系譜が敗北・消滅したならば、
後醍醐帝による強弁が公式化してもいいんだが、現実には後醍醐帝は敗北して光厳帝の系譜が生き残った。

となると、光厳系による公式の立場こそが正式採用されるべきであって、
勝ち残ったはずの光厳系による主張を廃棄するなんて正気の沙汰じゃない。
少なくとも「当時の建前」「当時の公式記録」として、光厳系の主張の方を優先的に採用しなければ、イデオロギー汚染された歴史認識に成り下がってしまうだろ。
35日本@名無史さん:2012/10/10(水) 22:44:38.84
「国宝神護寺三像とは何か」を読みましたか?
36日本@名無史さん:2012/10/12(金) 15:38:12.48
>>27
「践祚の儀」って何か儀式があるわけじゃなくて
内侍司の女官たちが賢所にしまってある三種の神器を出してきて
新帝のもとへ運ぶだけなんだよ

後醍醐は三種の神器を二度受け取っているわけで践祚といえるんだけどね
37日本@名無史さん:2012/10/14(日) 08:48:16.03
太平記の現代語訳がほとんどないのは残念だ
38日本@名無史さん:2012/10/14(日) 10:27:51.17
>>37
あんなもん現代語訳なしで読めるだろうが
39日本@名無史さん:2012/10/14(日) 17:42:00.34
太平記は面白いが、中国の故事がうざいな。現代語訳だけでなく中身の整理が必要だろ。
でないとなかなか手を出そうという読者は現れない。
40日本@名無史さん:2012/10/14(日) 18:45:14.84
諸本で人名に出入りが多い
やはり整理は必要だ
41日本@名無史さん:2012/12/01(土) 11:07:12.52
42日本@名無史さん:2013/01/28(月) 17:17:02.28
>>34
だからこそこのスレで語られてきたように
正平の一統までは北朝が正統でいいんじゃないの。
その後の後光厳天皇以下はそもそも光厳天皇とはアンチな関係なんだし
正平の一統からは南朝正統ですべてがうまく説明つくじゃん。

もめてるのは後醍醐が重祚かどうかだけで、これは
光厳天皇の在位を認めたからこそ発生する議論だし。
43日本@名無史さん:2013/01/28(月) 17:47:11.06
>>42
このスレでそんなこと語られてないw
通史レベルでは後醍醐から後小松までが南北朝時代で
どちらが正統だという結論は出てないから。

正平の一統以降も後村上天皇は都に入れぬまま。
正当なはずの後亀山天皇が正統ではない後小松天皇に神器引き渡し。
44日本@名無史さん:2013/01/28(月) 23:19:20.09
>>42
いや、南北合一時に、後に残った北朝側は
「合一以前からずっと、こちらが正統だった」と言った、
勝ち残った側で南朝の皇位を僭称と言い切ったんだから、
南朝正統説は成立しない。

正平一統の期間に関しては、南朝側と北朝側のどちらもが正統性を不完全にしか保ってないから、
この時期は空位時代と考えるしかない。
(あえていえば南朝後村上は在京する以外の要件を満たしているが北朝側は適合者がいないから、
この期間だけを後村上の時代と考えてもいい)

>>43
うん。
スレで多くの人の支持を取り付けた意見じゃなくて、オレが言って一人か二人ぐらいが(たぶん、部分的に)賛同しただけで、
反対意見が主流だったんだよな。
45日本@名無史さん:2013/01/29(火) 02:06:55.00
>>43
通史レベルのことなんて、そこらで売ってる本でも読めばいいことで
わざわざここで主張することかよw

都に入ったかどうかは正統云々は関係ないし。
在京云々は事実上の政権ってことだろうがそんな価値基準なら
正統論自体が観念的で虚しいだろう。
そもそも近代史学以前にそれを根拠として名分論なりたつの?
46日本@名無史さん:2013/01/29(火) 02:07:48.84
>>44
いや、「北朝側がその当時はそう宣言した」ってのは
単なる事実としては最初から理解してるよ?
おまえは北朝がいえば何でも正しいの?
おまえがなにをいいたいいのかよくわからないよ。

正平一統についてはあれは神器が北から南に移ったって点
北朝に正統性について擁護可能な天皇が存在しなくなったってこと。
京都を制してるかどうかは正統性と関係ない。
47日本@名無史さん:2013/01/29(火) 09:47:28.07
>>45
じゃあ聞くが、

>正平の一統までは北朝が正統
>正平の一統からは南朝正統

ってお前以外のこのスレの誰が同意しているの?
「だからこそこのスレで語られてきた」
とこのスレ住人の総意のようなふりして虚言を振りまいてるのお前じゃんw
「俺の個人的見解では」に訂正しろよ。
48日本@名無史さん:2013/01/29(火) 16:57:18.91
>>46
勝者が歴史を作るという原則に従うなら、南朝の主張は掛け声だけ、威勢だけと考えるしかない。

原理原則を追究していくなら、幕府が勝手に擁立した後嵯峨帝以後の皇統そのものが正統性を欠いているなんて主張だってできてしまう。


そもそもだ、世間からの広範な支持を受けたから勝った、支持されなかったから負けたって側面がある。
南朝が主張した自己の正統性は、世間からの支持がほとんど無かったんだよ。
49日本@名無史さん:2013/01/29(火) 18:54:29.20
>>46
南朝の主張では正平の一統以前から神器は南朝にあったといってるんだよ。
後醍醐天皇が尊氏に偽物を渡して正式なものを吉野へ持ち込んだことになってるから。
だから、神器のありかのみで正統かどうかを判断するならずっと南朝が正統だったことになる。
でもそんな単純な話じゃないだろ。
50日本@名無史さん:2013/01/30(水) 00:00:21.51
南北朝どっちが正統かなんて個人の信仰の問題だろ
論ずる意味がない
51日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:35:54.76
真実は歴史の闇の中
52日本@名無史さん:2013/03/15(金) 21:34:41.53
今一度大河を
53日本@名無史さん:2013/03/15(金) 23:34:50.23
>>52
こんどは後醍醐天皇を主人公にして、貴台の怪物っぽい雰囲気をうまく作って欲しいもんだよなあ。

尊氏は、たしかに勝利者側だけど、主人公としてはイマイチ面白くない人物像だから難しかったんだろう、大滑りしたよなあ。

聖人君子的な要素を持ち合わせない後醍醐天皇の方がよほど主人公向きだ。
54日本@名無史さん:2013/03/17(日) 00:22:51.89
後醍醐の母親が祖父の亀山とヤってるとかそんな話無理すぎるw
55日本@名無史さん:2013/04/02(火) 06:39:21.05
北朝と南朝はどちらも正統
56日本@名無史さん:2013/04/02(火) 20:32:52.17
敗れて消滅し、それを継承する者がいなくなった時点で正統性が失われる。

三国時代の例なら、魏から禅譲された西晋が存在するからこそ、漢から禅譲を受けた魏が正統とされた

東晋から禅譲を受ける形で続いたであろう南朝は北朝により征服され消滅したわけで、放伐により消えた形だから、
こちらの北朝系である隋唐は晋や魏を正統と認定する必然性はなかったが、とりあえず蜀を正統とするわけでもなく、魏晋正統説を踏襲したんじゃなかったかな。

帯するに、日本の南北朝に関しては、北朝側が南朝の正統性を否定し、正統は自分たち北朝側だと主張したから、
幕府は南朝と北朝の両方を正統と見なしたけど、幕府が消えて北朝だけが残った時点で南朝の正統性は完全に消え去った。

ただ---
明治維新で倒幕を主導した人たちの多くが南朝正統説を信じていて、
南北合一以前の北朝を正統と考えていなかった上、それを明治天皇に公認させて今に至っているだけ。
57日本@名無史さん:2013/04/28(日) 12:59:47.39
なぜ後小松帝は後崇光院を猶子に迎えようとしたのですか?
年齢的に称光帝よりずっと年上じゃないですか
58日本@名無史さん:2013/04/28(日) 13:19:23.77
後小松が猶子に迎えたのは彦仁(後花園)だろう?
59日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN
語りにくい時代
60日本@名無史さん:2013/10/07(月) 10:13:28.03
鎌倉末期に間に幕府が入って仲裁しなかったら実力でさっさと
ケリが付いてたってだけじゃねえの?
61日本@名無史さん:2013/10/07(月) 12:16:28.95
>>60
北条時宗が朝廷を二分させてお互い争わせ双方とも共倒れで権力を失わせようとして
あえて両統迭立を指示したと言われているね

結局そのおかげで朝廷二分には成功したものの
肝心の鎌倉幕府が滅んだんだが
62日本@名無史さん:2013/10/07(月) 16:22:02.21
幕府は朝廷内の揉め事に深入りしない方針で、勝手にしろ状態だぞ

まあ、元軍の侵攻が起こりうる時期には敗者に復活の余地を残す方針があったかもしれんけど。

幕府が強く干渉したのって、承久の再現を恐れた一件だけだったろ
63日本@名無史さん:2013/10/07(月) 18:39:13.28
承久の乱で正統派は既に…
64日本@名無史さん:2013/10/07(月) 19:21:40.27
>>62
いや、後嵯峨上皇が没したとき、鎌倉幕府はその妃・大宮院に
後深草上皇と亀山天皇のどちらを治天の君にすべきか聞いた。
大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ、すでに亀山の皇子が皇太子になっていたため、
朝廷の意思に従えば亀山の系統(大覚寺統)で統一されるはずだった。

しかし、亀山と不仲だった西園寺実兼(亀山妃だった妹が亀山に寵愛されず不仲になったという)
が関東申次の立場を利用して北条時宗に後深草皇子の立太子を提案し、
これに北条時宗が乗ったことが両統迭立の始まり。
西園寺実兼は西園寺家興隆のため、時宗は朝廷二分のため、両者の利害が一致した。
65日本@名無史さん:2013/10/07(月) 19:50:19.61
そもそも承久の乱後の朝廷には既に自分たちの運命を決断する力も
なかったんじゃ?
66日本@名無史さん:2013/10/07(月) 21:28:08.35
>>63
四辻宮だね、正統な子孫は

>>64
朝廷二分のためっていうか単に後深草に同情しただけじゃ?
むろん御公儀の御政道に私情は禁物だが
五摂家のトップにたらしこまれたら田舎っぺの時宗なんか
「やっぱそうだよな」と簡単に納得するだろ
67日本@名無史さん:2013/10/07(月) 21:34:31.46
>>66
五摂家はこの当時鎌倉幕府に対する発言権はない
この時代、関東申次を世襲し天皇の外戚として力を持っていたのは公家の西園寺家
時宗に皇位継承の相談をしたのは西園寺家当主の実兼

時宗は後深草と面識ないし別に同情する必要もないんだがなあ
時宗自身、庶兄の時輔を殺して得宗の地位を安泰にしているし
後深草の皇子を立太子させれば朝廷が二分することなどわかってたはず
68日本@名無史さん:2013/10/07(月) 21:36:19.94
どうせ長崎高資あたりが双方から賄賂でももらってたんだろ
69日本@名無史さん:2013/10/07(月) 21:39:31.03
亀山方は出る芽がないで、世を儚んで出家するって騒いで世間の
同情買ってたんでなかったかな?

黒田俊雄って骨のある人だな〜
昔はこういう御仁が沢山いたんだな。
70日本@名無史さん:2013/10/07(月) 21:55:27.28
そんなボクは足利の末裔。
71日本@名無史さん:2013/10/07(月) 23:19:57.70
壇ノ浦まで平家
鎌倉実朝まで源家
鎌倉北条は平家
室町足利は源家
72日本@名無史さん:2013/10/07(月) 23:31:39.96
北条が平氏ってのは仮冒くさいけど。
73日本@名無史さん:2013/10/07(月) 23:32:16.45
北条、足利は平氏、源氏ではあるが平家、源家ではないだろ
74日本@名無史さん:2013/10/08(火) 00:10:18.44
北条の本姓が平氏と言うのは、松平家が清和源氏新田氏流を仮冒したのと同じようなもん。
なんせ頼朝決起以前は坂東武者の中では雑魚中の雑魚だったから、時政以前の系図がはっきりしないし、単なる自称の域を出ないもん。
頼朝没後の徹底した他氏排斥ぶりは、権力闘争に加えて元の出自の低さに対するコンプレックスもあったと思う。
一方で同じく出自の低かった安達家を優遇したのは、こいつなら俺らを馬鹿にしないと言う安心感からだろう。
75日本@名無史さん:2013/10/08(火) 07:50:12.50
武家世界では平家源家平家と来たからには、次は源家足利だと
いう声があったんだと。
76日本@名無史さん:2013/10/08(火) 08:40:25.46
>>69
息子が即位できないなら出家するといって同情買おうとしたのは
後深草上皇だよ

亀山天皇のほうは後嵯峨在世中に息子が皇太子にたって
鎌倉幕府介入までは圧倒的優位にいた
77日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:19:16.40
亀山と折が合わなかった西園寺が幕府に通じてひっくり返したんだったな。
どっちにしろ幕府の陰謀という雰囲気は薄いんじゃ?
78日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:25:45.86
で、源平二大党派制の政権交代論が背景にあって、それが朝廷の
皇位継承問題にも影を落とした可能性もありそうだと。
79日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:31:30.55
>>77
天皇家の内紛に北条時宗が乗じたというのはある
西園寺実兼の言い分を認めて後深草皇子を立太子させながら必ずしも実兼に迎合するわけでなく
一方で亀山上皇を治天の君と定めて院政を認めるなど朝廷の「ねじれ」を行っている
80日本@名無史さん:2013/10/08(火) 15:08:04.29
幕府は内紛にうんざりして花園天皇の頃に朝廷に調停を図ってるだろ?
81日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:44:51.30
>>80
幕府が10年ごとに天皇を交代しろという両統迭立を定めたのは
後二条天皇のときだよ
そのときの得宗は北条貞時(時宗の息子)
このときも皇統をどちらか一系統に統一しろとは言ってない
82日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:54:44.57
>>64,66-67
かつての
>大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ

の遺志が、でっち上げだったという説が朝廷内に広まったから後深草に肩入れせざるを得なくなった、
という情勢判断を(事実だか勘違いだか誤情報だかは別にして)受け取ってしまった結果じゃないのかなあ

>>75
それはデマ
83日本@名無史さん:2013/10/08(火) 17:30:48.02
>>82
デマもクソも自称平家の北条得宗の専制体制が元寇後に、頼朝
以来の御家人一同を締め付けてた状況で、御家人筆頭の足利が
期待されんのは当たり前だろ〜
84日本@名無史さん:2013/10/08(火) 17:39:46.04
北条の平家由来が仮冒というのは決定的な問題じゃない。北条が
平家の旗を掲げて、壇ノ浦に批判的で平家への同情的な空気を
北条が上手に利用したという状況が重要だろ。
85日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:05:49.13
暴露主義では歴史は読み取れない。小林秀雄なんかは時々、
この点を強調したな。その時代の、生きた人間的条件を無視
して歴史は語れない。
86日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:14:34.82
自分が歴史空間の中で呼吸してないせいか知らん?

進歩主義の科学的世界に安住してるだけじゃ歴史感覚なんて
もんはゼロだからなw
87日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:38:13.64
>>82
後嵯峨の遺志が亀山にあったことに対するでっち上げ説は出てないよ

だいたい、後嵯峨は院政をとっていた生前に亀山天皇の皇子を皇太子に立てている
加えて後深草・亀山両天皇の実母である大宮院がそう証言しているのだから
覆しようがない
88日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:40:25.59
>>83
足利が期待されたことじゃなくて、

>平家源家平家と来たからには、次は源家足利
という事情の方がデマ
89日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:03:10.42
源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
乃至、議論の経緯くらい示してから何か言えよ。
90日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:10:30.55
資料、典拠を示せ。

大威張りで「デマ」と決めつけるからにはそれなりに有名な
問題だろう。
91日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:12:29.95
専制政治ってなこんな時代でも嫌がられるもんだね。
92日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:17:25.86
高氏(尊氏)はハーメルンの笛吹だな。

鎌倉で冷遇→離反して皆が後を追って鎌倉を潰す
建武の新政で冷遇→離反して皆が後を追って潰す
93日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:56:55.86
1度裏切った男は2度裏切る
94日本@名無史さん:2013/10/09(水) 17:36:43.44
実力もプライドもある。ダシにされるのは御免。別に信用に値
しないという程でもなかろう。

俺はごく若い頃は当たり前に合理主義の子で根無し草的現代人
だったから、普通の奴らってのは手に取るように分かるよ。
95日本@名無史さん:2013/10/09(水) 18:57:41.13
世に背を向けて生きるようになってからは、幽暗の世界が居心地が
良くなったよ。

現代人てな自分がサルの子孫なことを鼻にかけて昔の人より
立派そうな顔をするな。
96日本@名無史さん:2013/10/09(水) 22:12:44.56
一休さんも南北朝の頃か?

「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と
詠んでるが、黒田俊雄がこの時代の宗教世界の分析で面白そうな
話を展開してんな。
97日本@名無史さん:2013/10/09(水) 23:03:27.85
南北朝の末期から室町中期の人だよな

南北合一の時の後小松帝の次子だから、合一の頃には未成年かな?
記憶がはっきりしないが、ちょっとググって調べたらすぐ分かることだよな
98日本@名無史さん:2013/10/10(木) 00:39:04.08
> 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
源平交代論が当時あった、という説の根拠を出す方が先じゃないのかな。
99日本@名無史さん:2013/10/10(木) 02:47:29.77
なかったことを証明するって、典型的な悪魔の証明だよなあ
100日本@名無史さん:2013/10/10(木) 07:44:09.19
>>98
黒田がそんな話してたぞ。
俺たちの世代が子供時代にアニメで一休さん見せられたのは
この人のお陰かな? 世の中も薄ぺらくなったな。
101日本@名無史さん:2013/10/10(木) 07:49:47.83
デマって言うのは風説に対する物言いだろ?

東西王権独立論からすると源平交代論はあんまり歓迎されない
わけだな。
102日本@名無史さん:2013/10/10(木) 08:19:47.99
東西王権独立論は割と古い学説だな。戦後になって、東大閥が
邪馬台国九州学説を公言し始めたのと同じ流れではないか?
103日本@名無史さん:2013/10/10(木) 10:02:59.55
団塊よりも、今の主力世代の四〜五十代がポパイ君オリーブちゃんで
アタマふやけてて始末に負えんw

俺の同世代だけどな。
104日本@名無史さん:2013/10/10(木) 18:29:36.73
源平交代論があったと確実に言えるのは江戸時代以後ではなかったか
105日本@名無史さん:2013/10/10(木) 18:32:39.13
>>102
え?
>東大閥が邪馬台国九州学説を公言

東大閥が邪馬台国九州説を推したのは戦前からと言うか、江戸時代後半以後の学統の延長だろ
明治維新で中心的だった一部武士もその学統に属してたから、明治政府の公式見解の延長のはずだが

戦後になってからなんてことはありえないだろ
106日本@名無史さん:2013/11/13(水) 18:26:57.85
源平交代論はどんなに古くても信長が台頭してきてからじゃないの?

べつに「東大(関東独立王国)vs京大(権門体制論)」の話は関係ないと思う
107日本@名無史さん:2013/12/05(木) 22:23:05.40
鎌倉末から言われてるんだって。もともと源平合い並びて天下を
収める云々とか。

足利尊氏ってやる気なさそうで好きだな。
108日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:02:02.46
一族の天下取りの予言を背負わされて、宿命は呪いに似たりで
性格は複雑になるし、信心も自ずと深くなる。

上宮太子に倣って十七条の式目を立てる。頭の中では常に祇園精舎の
鐘が鳴り響いてるタイプかな?
109日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:04:08.69
何かと親しみを感じやすい人柄。
110日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:13:59.99
おまいらオーメン。
111日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:21:20.63
上宮太子(格好付けて聖徳太子とは呼ばない)は院政の元祖だからな。
後醍醐帝の目指した親政とは対照的だとも言える。
112日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:28:04.70
世阿弥も能の起源を上宮太子に帰させてるようだし、この時代は
それが当たり前だな。

交代論は黒田でなかったわ。今の歴史学会で最長老やってる人?
113日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:22:57.07
>>105
万世一系の皇統の始祖が九州国にいただと? 貴様は足利尊氏かあ!

というのが戦前の雰囲気だろ。
114日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:25:01.87
尊氏が悪者扱いされ始めたのも明治末頃かららしいが。
115日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:45:17.82
明治の末に南北朝の正閏問題が持ち上がって、明治天皇の勅裁で
南朝を吉野朝と呼び換えてこれを正統と定めたわけだな。ここから
尊氏の評価が悪化した。昭和ファシズム時期の建武朝600年を機会に
尊氏バッシングがあって悪者の代名詞に使う流行りが起きたらしいな。

明治も今も皇室は北朝だろ。矛盾しまくりな世界。
116日本@名無史さん:2013/12/07(土) 17:05:21.18
昭和戦後に書かれた日本通史にはこういう話は当たり前に書かれ
てる。

元はと言えば家永三郎の『太平洋戦争』読んだら、戦時中の小学生の
思い出話に、日本神話のことを歴史として教えられたから「先生、
そんなの嘘だっぺ?」と子供らしい正直な感想をぶつけたら、教師に
「貴様は足利尊氏か!」と怒鳴られてゲンコツを食ったという
今にしてみたら笑い話みたいな逸話があった。この話を俺が単に
面白がって持ち出したのは90年代終わり頃で、そんな戦前のいかれた
風景はまだ遠い世界だった。つくる会のキチガイどもは既にうるさ
かったけど。
117日本@名無史さん:2013/12/07(土) 17:19:55.09
既に幕末には木像の首が獄門にされたりしてるが。
118日本@名無史さん:2013/12/07(土) 18:20:24.81
既に江戸初期の「太平記秘伝理尽鈔」では尊氏は無能な俗物扱いだからな
119日本@名無史さん:2013/12/07(土) 20:40:56.01
東洋文庫の「太平記秘伝理尽鈔」、続きはいつ出るの?
120日本@名無史さん:2013/12/08(日) 08:53:16.75
今・・・じゃないでしょ
121日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:27:52.44
>>118
日蓮宗の書いたものかよ…

土着御家人で地道だが兄弟揃って御歳暮嫌いで実直な高潔漢だろ。
尊氏は戦場では穏やかな自信に満ちた笑みを絶やすことがなかった。
夢窓国師と弟直義の禅問答集「夢中問答」は併せて読みたい。
122日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:38:17.41
直義は最初に朝廷一の儒学者を幕府に取り立ててるな。
家康もこの例に倣ったのか知らん。
123日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:06:49.70
>>117
明治維新で耶蘇解禁になって徳川期には暴君扱いだった信長が
忠君として持ち上げられ始めた時期だからな。

それでも維新以前の世界観というのは急激に何もかも変わるもの
でもない。
124日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:53:08.41
>>123
明治維新の中心的な立場を占めていた志士たちの大半は、国学系の新興思想を奉じていた
その関係で、志士たちの頭の中では「尊氏=逆賊」だったんだ

庶民はそういう人が多数派になったわけではないが、志士たちの間に限っては、尊氏逆俗説が主流だった

まあ、幕末に限って言うなら、尊氏の木造を徳川幕府に見立てたとみなす余地もあるが。

民間まで尊氏逆俗説が普及したのは明治以後の教育の結果だろ
本格的に広まったのはたぶん大正期
125日本@名無史さん:2013/12/08(日) 16:28:11.09
幕末の志士にも農民階級から開明派になった方は足利と縁組みしたり
してたらしいな。
126日本@名無史さん:2013/12/08(日) 16:33:21.02
これは死んだ婆さんの思い出話。

伊藤博文も農民出でリベラル穏健派だろ。
127日本@名無史さん:2013/12/08(日) 16:51:55.21
反動派の志士しかいなかったら首都が京都になってた。
その農民出の志士氏が大久保に東京を首都にするように進言した。
128日本@名無史さん:2013/12/08(日) 18:13:39.78
林羅山を中核にした徳川初期の儒学導入と足利一門の取り立ては
同時進行だな。

信長→秀吉→家康という継承関係ばかり注目されて、家康が
室町幕府を体制の雛型としたという観点は言われないな。
129日本@名無史さん:2013/12/08(日) 18:17:27.96
信長も秀吉も覇道ばかりな暴君で王道文治に欠けるから続かなかった。
130日本@名無史さん:2013/12/08(日) 18:41:07.67
家康の関東支配も鎌倉公方の正統的後継者の位置づけという面倒な作業があってのものだしな
131日本@名無史さん:2013/12/08(日) 20:28:11.83
江戸城作った太田道灌も室町幕府の武蔵守護だな。
132日本@名無史さん:2013/12/08(日) 23:11:50.25
>>131
守護? 守護代だろ
武蔵の守護は上杉じゃんか
133日本@名無史さん:2013/12/08(日) 23:20:39.71
そうそう、守護代理。家康の成功は室町体制を継承したことに
あったのでは?
134日本@名無史さん:2013/12/08(日) 23:28:04.28
乱世が好きな支配者なんてのは民衆からすりゃ単なる糞野郎だ。
135日本@名無史さん:2013/12/14(土) 15:17:52.81
後醍醐の失敗は、対外侵略を国内統一の手段にしなかったことだな。
136日本@名無史さん:2013/12/14(土) 20:34:38.78
>>135
皇統が実子に継がれたから満足、満足。てな感じだろう
137日本@名無史さん:2013/12/15(日) 22:47:55.63
後醍醐帝て建武の元号つかうあたり
光武帝の治世に憧れてたんだろうけど
結果的は王莽みたいになっちゃたな
138日本@名無史さん:2013/12/16(月) 00:22:05.97
神武にも天武にも被せてあるんではないか?

しかし、朝廷の繁栄の礎となったのは上宮太子にございます。
(-人-)
139日本@名無史さん:2013/12/16(月) 01:48:20.71
>>137
王莽よりは、どっちかって言うと劉備のほうが少し近い気がする
140日本@名無史さん:2013/12/19(木) 02:44:01.95
劉備ならむしろ尊氏の方だろう
141日本@名無史さん:2013/12/19(木) 17:33:34.59
出自血統の面で言えば、
後醍醐>尊氏>劉備 なんだよなあ。どっちになぞらえても、劉備よりは高貴の生まれ。

成果という面で言うなら、

尊氏>劉備>後醍醐 と言った方がいいんじゃないかな
劉備と後醍醐は逆か

尊氏は帝位に就いたわけじゃないけど(幕府の長であって、人臣たる征夷大将軍にすぎない)
それなりの期間にわたって安定する政権を打ち立てた。
後醍醐も政権は取ったけど、自分の一代の間すら保持しきれなかった。
劉備は帝位には就いたけど、天下を統一できなかったし、二代目のなかばで早くも消滅した

期間は短くとも数代にわたって存続できた点を重く見たら劉備より後醍醐の業績(出世度じゃなく、残した遺産の規模)の方が勝るとも言えるな
142日本@名無史さん:2013/12/29(日) 18:49:09.45
残した遺産は債務超過だったけどな
143日本@名無史さん:2014/04/14(月) 01:13:10.19
>>141
室町幕府が「それなりの期間にわたって安定」?
もまえは何をいってるんだ
144日本@名無史さん:2014/05/01(木) 22:08:32.79
>>100
あー、一休さんいいな。『少年徳川家康』とか歴史に題材とったもの
もっとたくさん作って欲しいわ
145日本@名無史さん:2014/05/08(木) 19:31:30.68
この時代はピクニック気分で戦争してるよな
補給線なんてマジで考えてなさそう
北畠顕家なんて奥州から上洛して畿内で転戦してて草
しかも万単位の兵で
146日本@名無史さん:2014/05/10(土) 10:59:06.38
>>145
顕家はかなり短期間で奥州から京にまで進撃しているから補給が苦しいのは
無理もない話だが、それ以上に問題化したのは守護による乱坊、横領など
戦争を理由にした組織的な行為が幕府内部の権力抗争につながった点で
特異と言えるだろう。
147日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:33:14.23
調べたけど、なんか後醍醐天皇って昭和天皇とは丸っきり正反対だな
あくまでの立憲君主に徹し、現実主義だった昭和天皇と比べて
自分が権力を握った政治を行うとして徹底抗戦した後醍醐天皇

そりゃ近代以降の天皇と
中世の天皇を比べれば違うのは当たり前なんだろうけど

仮にこの二人が親子関係で
第2次大戦を迎えていたら相当険悪な仲に成りそうなんだよな・・・
と言うか性格合わなさそう
148日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:46:58.49
それ以前に日本が滅んでそう
149日本@名無史さん:2014/11/14(金) 23:09:32.45
>>147
立憲君主に徹していたことが確認できるのは戦後の現憲法下だけだぞ
戦前戦中は立憲君主に徹していたってわけではない。まあ、政治権限自体は法律上はゼロに近いんだけど。
150日本@名無史さん:2014/11/15(土) 00:22:12.27
>>143
建武政権にくらぶれば、「それなり所でない期間にわたって安定」したと言える
151日本@名無史さん:2014/11/15(土) 00:54:45.40
昭和天皇って北朝系天皇の象徴みたいなもんだから
152日本@名無史さん:2014/11/15(土) 14:06:00.29
>>147
歌舞伎界の後醍醐天皇と昭和天皇は親子だな
153日本@名無史さん:2014/11/17(月) 03:04:58.87
>>146
南朝だけで幾つ
【幕府】があったのやら
154日本@名無史さん:2014/11/19(水) 01:57:44.64
奥州は南朝支持が多かったのは何故?
155日本@名無史さん:2014/11/19(水) 02:20:41.55
そうでもないはず

北畠顕家が滞在した短期間を除けば、さほど差はない
顕家が西上したあと、こんどは幕府がわの斯波氏が勢力を伸ばしただろ
斯波氏の子孫は出羽の最上氏と陸奥の大崎氏。

もう少し経つと、こんどは鎌倉公方家の分かれの稲村公方・篠川公方が東北で勢力を伸ばし始めたことや、
この両公方家が滅んだ後、戦国時代には伊達氏などと争って大崎氏は滅亡してしまったが、それまではけっこう強い勢力だったしな。
156日本@名無史さん:2014/11/21(金) 02:07:44.21
鎌倉の奥州探題葛西氏といい
室町柵の上大崎氏といい
広すぎて守護がいない陸奥の国
157日本@名無史さん:2014/11/21(金) 06:53:25.20
>>153
そもそも「幕府」は左右近衛などの大将の家政機関の名称にすぎん。
統治機構なら幕府ではなく「公儀」と呼ぶべき。
158日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:01:19.08
>>156
出羽や陸奥の探題って他の地方だと守護を束ねる地方統率機関だよな
鎮西探題あらため九州探題と中国探題ってさ。

陸奥に関しては、室町時代末頃に伊達種宗だったか、陸奥守護職就任の例はある。
戦国時代ゆえの例外措置で間違いないな
159日本@名無史さん:2014/11/21(金) 20:18:36.12
他スレで聞いた内容なのですが、専門板があったのでこちらでもお願いします

南北朝に関して疑問があるのでお願いします
北朝第1代の光厳天皇がなぜ北朝第1代になるのか分かりません
南北朝とは同じ時代に天皇が二人存在した特異性を表すのだと思います
後醍醐天皇が存在するのに足利尊氏が光明天皇を擁立した、
あるいは光明天皇が擁立されたにも拘らず、後醍醐天皇が三種の神器を奉じて
自身の正統性を示した、つまり北朝第1代が光明天皇、南朝第1代が後醍醐天皇に
なるのではないでしょうか?

光厳天皇は後醍醐天皇が隠岐に流された後に鎌倉幕府の推戴によって即位、
この時は当時の慣習であった「両統迭立」によって、後醍醐天皇の次に
後醍醐天皇と違う系統の持明院統から光厳天皇が即位したわけで、
同時代に正統(だと主張する)天皇が並立したわけじゃないですよね

誰か解説を願います
160日本@名無史さん:2014/11/21(金) 23:59:36.03
南朝の創始者たる後醍醐帝が光厳の即位を無効としたのが契機かな?

南朝正統論によって歴代からはじき出されたという意味での最初が光厳だから。

南北朝時代が始まったのは明らかに光明からなんだけど、そうすると光厳の立場が宙に浮いてしまうって理屈じゃないかなあ。




それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、退位したことはないと強弁してるから、
光厳天皇在位時代も二人の天皇がいたことになってるしな。
ただ、隠岐配流時代に後醍醐帝が光厳は偽帝で正統な天皇は自分だと言い続けていたと認定するのは困難だと思うんだけどなあ。
(少なくとも、後醍醐帝が隠岐にいたときにも大覚寺統系の指揮系統が崩壊したわけではない……んだが、少なくとも後醍醐帝の手からは離れてるはず……)
161日本@名無史さん:2014/11/22(土) 00:41:10.09
>>160
ありがとうございます

>>それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、
退位したことはないと強弁してるから、

他スレで質問した時もそのような返答を頂き、「なるほど」と思いましたが、
幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
という解釈の方が合点が行くような気がします
ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
後醍醐天皇としては即位以降一度も廃位も譲位もしていないという意識
だったのでしょうね

南北朝の名前の発端は北朝(京都)と南朝(吉野)に同時に天皇が並立した
ことを指しているので北朝(京都:光厳天皇)と南朝(隠岐:後醍醐天皇)
の時代を含むとおかしいと思いますが、そうなると仰るように光厳天皇
だけが浮いてしまうので難しい問題ですね

ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
三種の神器の他に何か根拠があったんでしょうか?
162日本@名無史さん:2014/11/22(土) 00:41:49.00
幕府とは、征夷大将軍の現地軍政を司る政庁を指す名称のことだから家政機関ではない。
たとえてみれば、GHQみたいなもの。
163日本@名無史さん:2014/11/22(土) 10:16:21.56
明治天皇は北朝なのになぜか南朝が正統になっているのが最大の謎
164日本@名無史さん:2014/11/22(土) 12:06:18.04
>>163南朝正当論なんて、太閤秀吉や家康の頃から言われてることだぞ
それで足利や近衛や細川が罰せられた試しはないし
翻って永享の乱の時 南朝はどっち派だったか言うと 喜連川藩主足利古河公方家祖 鎌倉公方足利持氏の傘下だしな
165日本@名無史さん:2014/11/22(土) 13:22:41.47
>>161
>幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
>あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
>という解釈の方が合点が行くような気がします

幕府からの強圧で島流しになったんじゃなく、
先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。

>ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、

このあと何度も繰り返した、「明け渡した神器は偽物だ。オレは退位してなどいない!」の初回だっただけでしょ。
公的には退位してたのを、退位してないと強弁しただけと思う。
生涯で五回ぐらい? 退位してない詐欺を繰り返した人だからね。

>ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?

討幕運動の精神的支柱となってた学派の共通理解が南朝正統論だっただけで、論拠というよりかむしろ信仰に近いと思う
そもそも室町時代後半から江戸時代初期までは南朝正統論なんて誰も信じてなかったぐらいだから、物証とか論拠とかは実在しないだろうと思うよ。
166日本@名無史さん:2014/11/22(土) 19:04:38.11
>>165
ありがとうございます

>>先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
形はそうでも、実際は幕府の圧力の影響は大きいと思います

>>ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?

後醍醐天皇は何度か三種の神器のやり取りをしてますが、その時は現物3つを
やり取りしてたのですか?本物かどうかは別にして

仮に南朝が正統としても、北朝系の歴代天皇は神武以来の男系で繋がってるんですよね?
167日本@名無史さん
>>166
>承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
責任者である後鳥羽上皇だけじゃなく、天皇も退位した。三上皇配流だぞ