南北朝時代を研究するスレ

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99日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:03:07.75
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。

100日本@名無史さん:2012/06/04(月) 22:53:23.75
陸奥将軍府の機構がよく分からない。
親王が太守で北畠が陸奥守。
太守って要は陸奥守でしょ?太守がいるんだから北畠は介じゃないのか?
そもそも、多賀城で太守としているのになんで国府じゃなくて将軍府なのか?
101日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:06:43.17
陸奥守 義良親王(神皇正統記)
鎮守府大将軍 北畠顕家(建武年間記)
102日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:10:17.92
顕家は初め陸奥守、後に陸奥大介でしょ
103日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:43:49.44
陸奥将軍府は陸奥国司と鎮守将軍の府(役多賀城から霊山城)
北畠顕家は陸奥守
陸奥は親王任国に変更(親王のみが国守になれる)
北畠顕家は陸奥権守(権守→国守空位時の代理)
義良親王、陸奥守に任官
104日本@名無史さん:2012/06/05(火) 01:59:48.73
14世紀の多賀城ってやっぱり蝦夷征伐の頃のとは大分様変わりしてるんですかね
105 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:07:19.33
いや、南北朝という表現はただしくないんだよね。

あれは純粋な北朝じだいだよね。しかも政治勢力として、

北朝 ただのおかざり
南朝 ←朝でわなくテロ

なため、すでに政治、政体として含むのが異常だよ。
そして
ごだいごクーデターがおきる。←天皇の新政だかを一度みんな期待するんだが守旧的な天皇独裁を開始←みんなマジギレ
←天皇につくものは悪党、悪僧、天皇は国家反逆者の魔王 と日本史最大級の反乱者として予備追討
←追放して、あっという間に北朝に戻る
106 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:18:46.09
しかもそもそもごだいご

内乱←島流し←反乱 天皇の強奪(この時点で違法)前任の天皇いるんだぜ←
数年で追討←前任天皇の信託で新天皇が生まれる

という仮定を取る。そして政治は守旧独裁で一瞬で反乱がおきた。もう成功以前だった。
そのため違法。

そして南朝なんかは
1 天皇でわない
2 そもそも朝政府として機能しない。
ため存在が根底から違法。 リアルタイムで魔王とよぶんだぞ。

そしていわゆるもうこれカオスで
・主権国家でわない(政体上北元属国)
・酋長国家である。
・そもそも朝という制度、仕組みそのものがなく、実質機能していない。
明が(ここまでいえばわかるが、もう明そのものが王朝正当性以前でそんなものはなくめちゃくちゃな酋長国なんだけどね)
明らかに対日本反乱などを意識して、かってに独断専行で王朝認定をやってしまう。
などむちゃくちゃな事態になる。
107 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:22:48.67
結果収集と最盛期であったのに、南朝はおとりつぶし、

そして制裁行為として、暫時天皇地位、権威を剥奪(北朝)して、今上天皇になる。

というGDGDっぷりと制裁行動からわかるように、
違法な反乱南をつぶすだけ。そして南は
・クーデター者の島流し
・天皇じゃないのに、天皇強奪
・守旧独裁やって政治的に失敗
・天皇でもないし、府でもないのに、成立しない南朝とかw(もはやあれは南朝でわなく、すでに南家としての行動でありもはや朝じゃない)
・勝手にシナ工作に利用され、シナ属国にしようとする。
・おとりつぶし
というおかしなやつ。
108 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:26:33.45
そして、
いわゆる南朝説ってのは、

・天皇はシナー
・中華事大説、中華思想説
というカルト儒者集団がつくった。カルト思想をもとにするものであり、

最初から
・時事などを知らぬにせ歴史、主義、つまり時事をしってるわけでもなんでもない。論理、証拠などもない(夢想)
・しなーカルト主義
・叛乱主義
にもとづいた、カルト主義で、もはや時事でもなんでもない。カルト。
よって南朝そのものが物理的に存在しなく、魔王 ないし南家叛乱があっただけである。
109日本@名無史さん:2012/07/03(火) 15:18:24.18
>・主権国家でわない(政体上北元属国)

いつ元の属国に?
懐良親王なんかは明の使者を蒙古と間違えて斬ろうとしているが。
110日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:52:46.52
「てにをは」の使えない日本人が増えたのだなぁ。
と、感慨深くネット時代に生きている。
111日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:51:31.83
いや、後醍醐天皇だけは正式に即位して天皇として活動してるじゃん。

二回即位した、二回も廃位された天皇なだけだ。

吉野に落ち延びて以後は廃帝であって、正式に朝廷と呼べるような存在じゃないけど。
112日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:14:16.49
かくも南北朝の議論には未だにキチガイが沸くのである
113日本@名無史さん:2012/07/07(土) 14:28:39.92
後醍醐自身は、廃位されたこともないし重祚してなんかいないというウソ(というか、建前)をゴリ押ししたけど、
それをそのまま追認してたらおかしいじゃん。

廃位された上に遠島に処されたという事実を無視するのかよ。
114日本@名無史さん:2012/07/19(木) 22:03:53.96
南朝、北朝の両方を認める両統並立論ってのも明治にあったらしいけど
その場合、天皇の代数はどうなるんだろ。
今上天皇が北朝の天皇も数に入れて130代目になっていたんだろうか
115日本@名無史さん:2012/07/20(金) 07:35:41.39
質問です。
今、BSフジの「三国志three-kingdom」にはまってるんですが、「玉璽」が重要な役割を果たす物となってます。最近も漢の献帝が曹丕に上げました。
似たような物で日本では「御璽」があります。昭和天皇の仕事風景で大きなハンコをついてた写真を見たことがあるから多分それだと思う。
さて、南北朝時代。「皇室が2つある」時代と考えればだいたいあってると思うのですが、「御璽」はどっちが所有していたのでしょうか?
116日本@名無史さん:2012/07/20(金) 09:05:50.58
>>114
南朝から数えた代数と北朝から数えた代数を併記
南朝125代・北朝128代みたいに
117日本@名無史さん:2012/07/20(金) 17:18:29.72
>>115
中世には、ハンコをおす文化というものは廃れています。

本来の形式で言えば草案・下書きみたいな位置づけであるべき内々の文書を公文書代わりに使う感じでしょうか。

奈良時代には権力の象徴として、ときに争奪戦まで展開された「御璽」(のようなもの)は、中世にはおそらく利用されていません。

ところで、中国の玉璽は単一じゃないようですね。
118日本@名無史さん:2012/07/20(金) 17:40:59.01
単一になるほうがおかしい
119日本@名無史さん:2012/07/21(土) 02:04:58.11
>>118
いや、交替・変遷って意味じゃなくて、
用途によって使い分ける多種の皇帝印があったって意味で。
たしか10種類ぐらいを使い分けてたとか。

そして、それとは別に、伝国璽ってのがあったと。
120日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:47:13.21
保守
121日本@名無史さん:2013/03/19(火) 18:33:59.56
ほしゅ
122日本@名無史さん:2013/06/03(月) 19:24:48.14
123日本@名無史さん:2013/06/05(水) 13:48:30.22
124日本@名無史さん:2013/06/16(日) 14:51:25.14
建武の新政で置かれた国司の一覧とかってわかりますか?
125日本@名無史さん:2013/06/18(火) 12:25:58.71
このスレみてびっくりした
南朝だと宮様ですら名前すら分からないのか・・・

なら長慶天皇に付き従って一緒に全国行脚した
家臣とか公家か何かがいても、分かるわけないね
126日本@名無史さん:2013/06/18(火) 19:56:56.91
長慶天皇ってたしか、退位以後は消息さえ不明なんだよね

後南朝ってって蜂起した際に担ぎ上げられる皇子にも長慶天皇の子孫はいなかったはず

>>5
日記つけた人はいたはずだよ、たぶん
ただ、後代の廷臣が誰もそれを後世に残そうとしなかったから残らなかっただけだろう。
よほど頑張って積極的な努力をしないと、たいていのものは消滅する

他家に養子入りして跡を継いだ人もいたけど、その人の子孫でさえ、南朝時代の日記を書写したりして残そうとはしなかっただろうしな。
って2年以上前のレスに返答とか、おかしいことしてるよな。
127日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:25:41.40
>>126
森先生の皇子たちの南北朝によると、大乗院日記目録に
「大覚寺法皇崩ず 五十二。長慶院と号す」
という記事があるらしいね。
長慶院の院宣も残っているという話だから、退位後もなに
がしかの活動はしていたんでしょう。
128日本@名無史さん:2013/06/19(水) 10:39:24.01
史料も伝来の物もないので与太話の域を出ないのだが
うちの先祖は南朝の高貴な人に付き従って京都の方から
ド田舎に逃れてきたという言い伝えがある
森嘉兵衛という学者によると、多分公家の末裔だろうと
代々の戒名や伝承等から推測されてた
ロマンはあるけど戒名と抜けのある系図と言い伝えくらい
しかなくて無念
129日本@名無史さん:2013/06/19(水) 14:43:46.33
まあ、そういう伝承のある家は少なくないだろうがな

松平家の始祖伝承も、そのたぐいといっていいし。
130日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN
正虎
131日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN
松平はどうも実際に極初期から新田源氏を名乗っていたようだ。
本当に新田源氏かどうかはともかく、関東から流れてきた新田軍の残党の可能性は高そうだ。
132日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN
分かったんだが、この南北朝なんてのはなくて、実態がうやむやなのは

1 当時の通史は存在せず、間接的な風説の編纂しかない。
2 当時の有力者が多く倒れ、当時ですら、誰も情事をただしく把握してない。
3 その上風説編纂するから余計混乱するが

時系列的に
1 魔王の幽閉
2 足利の反乱
3 新田の鎌倉討ち入り
4 間違いなく、河越の大規模兵力の加担
5 第一次幕府崩壊
6 魔王足利の内ゲバ
7 残党北条と北朝の合併
8 武蔵野合戦、やはり河越の大規模加担、ほぼ南朝崩壊
9 河越対足利
まるで足利の騒乱拡大内戦
133日本@名無史さん:2013/10/07(月) 19:40:27.17
>>124
吉井功兒『建武政権期の国司と守護』
134日本@名無史さん:2013/10/11(金) 12:39:48.00
「太平記」読んでると
たまにそこそこの数の軍勢率いて参戦してくる国司がいたりして驚く
135日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:00:06.85
南朝は、光明、光厳、崇光の三上皇(+萩原前坊)を虜にした時に有利な条件を突き付けて和睦するべきだった。
136日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:46:55.68
先帝後醍醐の遺言が呪縛になってて和睦の余地がなかったからだろな
正平一統の和睦でさえ揉めまくったレベルだろ
137日本@名無史さん:2014/07/20(日) 02:49:40.15
>>125-127
長慶天皇の子孫の玉川宮が信濃に土着して玉川氏になったらしいね
138日本@名無史さん:2014/09/01(月) 14:18:31.46
伊達氏が北朝方になったのっていつ頃だろう
139日本@名無史さん:2014/09/01(月) 14:57:26.20
伊達行朝が死んで伊達宗遠が継いだあたり
表向きは北朝に帰順しつつ、周りの北朝勢力の国人たち戦って勢力拡大して
割と自由気ままに振る舞ってたけど
140日本@名無史さん:2014/09/01(月) 17:34:59.66
>>139
ありがとう
周りと戦ってるのに将軍と縁戚になったりしててよく分かんなかったわ
上手いなあ
141日本@名無史さん:2014/09/03(水) 07:43:59.45
NHKの太平記評判いいので全巻見たけど
最初の倒幕はわかる。けど入京後尊氏は将軍なのに政にノータッチ
次第に、弟と高野師直兄弟に権力やりすぎ

幕府開いたのにここまで、オセロのような動乱になったのは尊氏に責任あるわ
142日本@名無史さん:2014/09/03(水) 22:30:16.61
尊氏は、御家人筆頭足利家のボンボンだからな。
流人、人質で苦労した頼朝、家康みたいな凄みやリアリズムはないんだよ。
143日本@名無史さん:2014/09/06(土) 00:08:06.18
>>96
>ユダヤ人であるイエスを崇めてユダヤ人の名を使いつつ(ジョンとか)
>ユダヤ人を迫害するのに似ている。

イエスを刑死させた連中の末裔だから迫害されてるんだろ
全然おかしくない
144日本@名無史さん:2014/10/06(月) 18:45:43.83
>>141
>>142
正直 後醍醐様抹殺しても 誰も文句は言わなかったのに しなかったあたりは甘いかな

ただ 頼朝も北条に 権力やりすぎだし

だから家康は 頼朝と尊氏の制度は踏襲して
変わりに 永年の部下を大粛清したんだし
145日本@名無史さん:2014/10/06(月) 23:46:58.78
>>144
頼朝の場合はしかたない、最初から直属の部下ゼロで、挙兵当初は北条の部下ぐらいしか兵がいない状態からスタートしてるんだしな

それと比べたら尊氏は甘々だ
相手は尊氏を不倶戴天の敵あつかいして、妥協の余地なしと言ってるのに、それを武力討伐せず話し合おうとか、狂気の沙汰だ
146日本@名無史さん:2014/10/13(月) 09:12:48.62
尊氏は新田の軍勢が迫ってるのに出家しようとしたり一騎打ちに応じようとしたりするあたりのアバウトさと
直義を追いつめて毒殺しちゃうまでの黒さが極端
147日本@名無史さん:2014/10/21(火) 12:31:50.38
肉親を殺せない奴は天下人に非ず
148日本@名無史さん
おまえら南朝の話したいやつらは後南朝スレに来るなよ