1 :
卑弥呼 :
2011/11/01(火) 20:08:14.67
2 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:13:51.18
| | | |∧_∧ |_|´・ω・`) そ〜〜・・・ |桃|o旦 o | ̄|―u' """""""""" | | | |∧∧ |_|・ω・`) |桃|o旦o. | ̄|―u' """""""""" | | | | ∧∧ |_|(´・ω・`) |桃|o ヾ | ̄|―u' 旦 <コトッ """""""""""""""" | | |_| ピャッ! |桃| ミ | ̄| 旦 """"""""""""""""
3 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:15:40.50
(~) , -ー, γ´⌒`ヽ / | {i:i:i:i:i:i:i:i:} ./ .| .(´・ω・`) / .| ( つつ'@. | ゝ,,⌒)⌒). . |  ̄ ̄ ̄し' し' | | | 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜 〜 〜〜〜
4 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:16:46.07
\ ∩─ー、 ==== \/ ● 、_ `ヽ ====== / \( ● ● |つ | X_入__ノ ミ そんなエサで俺様がクマ――!! 、 (_/ ノ /⌒l /\___ノ゙_/ / ===== 〈 __ノ ==== \ \_ \ \___) \ ====== (´⌒ \ ___ \__ (´⌒;;(´⌒;; \___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ (´⌒; (´⌒;;;
5 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:23:56.73
,,、,、、,,,';i;'i,}、,、 ヾ、'i,';||i !} 'i, ゙〃 ゙、';|i,! 'i i"i, 、__人_从_人__/し、_人_入 `、||i |i i l|, 、_)妄想禁止・根拠示せ・ ',||i }i | ;,〃,, _)wwwはこっちくるな・ .}.|||| | ! l-'~、ミ `)稚拙な奴は勉強してこい ,<.}||| il/,‐'liヾ;;ミ '´⌒V^'^Y⌒V^V⌒W^Y⌒ .{/゙'、}|||// .i| };;;ミ Y,;- ー、 .i|,];;彡 iil|||||liill||||||||li!=H;;;ミミ { く;ァソ '';;,;'' ゙};;彡ミ ゙i [`'''~ヾ. ''~ ||^!,彡ミ _,,__ ゙i }~~ } ';;:;li, ゙iミミミ=三=-;;;;;;;;;'' ,,,,-‐‐''''''} ̄~フハ,“二゙´ ,;/;;'_,;,7''~~,-''::;;;;;;;;;;;;;'',,='' ;;;;;;;;''''/_ / | | `ー-‐'´_,,,-',,r'~`ヽ';;:;;;;;;;, '';;;-''' ''''' ,r'~ `V ヽニニニ二、-'{ 十 )__;;;;/
6 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:32:36.34
___ / || ̄ ̄|| ∧_∧ | ||__||( ) ・・・・・ | ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/ | | ( ./ / ___ / || ̄ ̄|| ∧_∧ | ||__||(^ω^) ド・ツ・ボ君まってるよ。 | ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/ | | ( ./ /
7 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:47:58.86
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。 || ○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。 || ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 Λ_Λ || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。 || ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
8 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:56:55.16
前スレ995 :日本@名無史さん(遺作) >「数式」とは何か。おしえてくれよ。 なんだ知らんのか? 数・量を表す数字・文字などを記号で結びつけ、数学的な意味をもつようにしたものを数式と言う。
9 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 20:57:27.07
___________________ ||@ここは九州説の道場です自分の論に磨きをかけましょう ||A畿内説が入ってきたら理路整然と論破しましょう ||B論破できない場合は早めにバトンタッチしましょう || ∧ ∧ 。 || ( ,,゚Д゚)/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ つ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /  ̄ ̄ ̄ ./| lヽ________________ | ̄ ̄ ̄ ̄| | |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|____|/|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ は〜〜〜〜い / ∧ ∧ ∧,,∧ ∧ ∧ (・,, ∧▲ ミ ∧ ∧ ( ∧ ∧ 〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_ミ・д・∧ ∧ @(_(,,・∀・)@ ( *)〜ミ_ ( ,,) @(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ / は〜〜〜い \
10 :
日本@名無史さん :2011/11/01(火) 22:58:31.12
水行二十日、水行十日陸行一月の起点がどこであるかは重要な問題である。 伊作氏は水行二十日および水行十日の起点は帯方郡であるとしている。たしか古田氏も奥野氏もそういう 考えだった(違っていたたら訂正します)。 陸行一月の起点については伊作氏は末盧国であるとしている。古田氏は韓国内陸行説である。 たしか伊作氏は末盧国から熊本に比定する邪馬台国まで陸路をとった理由として有明海への入り口にある 天草の海域を狗奴国に封鎖されていることと、伊都国から有明海を南下するのも狗奴国勢に襲われる危険 があったためこれを避けたというようなことを言っていたと記憶する。 伊作氏は今でも上記のような考えでいるのだろうか?
>>11 そうだそうだ。もっともだ。
狗奴国星のクマソ怪獣呼ぶんじゃない
13 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/02(水) 01:45:57.57
水行陸行が帯方郡からの総日程など納得できかねます。 不弥国から東へ千余里、邪馬台国へ至る。と普通は まず連続式でそう書くでしょう。でもって最後に郡から女王国までの 総日程は水行10日陸行1月、距離は万二千余里であると。
14 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/02(水) 02:32:55.98
女王国=九州で、狗奴国=畿内 なんて可能性はないですよねw
15 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 07:20:48.12
>>10 >伊作氏は水行二十日および水行十日の起点は帯方郡であるとしている。
>陸行一月の起点については伊作氏は末盧国であるとしている。
yes。ofのcourse。
>伊作氏は末盧国から熊本に比定する邪馬台国まで陸路をとった理由として
臨時の陸行だ。だからこそ、官不在の末盧の漁村に上陸している。臨時の寄港地だ。
通常ならば、最寄りの港から陸行で30日もかかるような「陸の孤島」に王都などつくらない。
王都は、海でとれた魚介が腐らないうちに届けられる場所にある。
>天草の海域を狗奴国に封鎖されていることと、
いささが高度になるが。
卑弥呼の朝献に応えて書かれた詔書の内容は、明らかに軍事支援要請承諾宣下である。
決定的な破壊兵器をもたない古代のことだ、紛争はそれ以前から続いていたと思われる。
>伊都国から有明海を南下するのも
末盧国からは陸行だけだ。
ただし、虫食い状の天然の水路が縦横に走る佐賀平野と筑後川河口部は水陸兼用となる。
そのために、伊都国→奴国間、奴国→不弥国間は行程手段を限定せずに省略している。
>狗奴国勢に襲われる危険があったためこれを避けた
大国からの賓客を危険な目にあわせるわけにはいくまい。
>というようなことを言っていたと記憶する。
他人の説を引用して出す場合は失礼のないよう現物を確認して正確に書け。
記憶などと不正確なまま議論の俎上に載せるのは無礼だぞ。
それから、俺と議論したかったらハンドルをつくれ。
名無しでは横ちゃりが入ったら誰が誰だかわからん。それも相手に対する礼儀のうちだ。
遺作って論文とか発表してるの?
17 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 07:36:40.74
>>13 >普通はまず連続式でそう書くでしょう。
ガキのただこねか?
文章というものには起承転結がある。テンポとリズムがある。
図式的に順を追って書かれると限ってはいない。
>最後に郡から女王国までの総日程は水行10日陸行1月、距離は万二千余里であると。
行程説明文章を、郡から女王国まで総距離で結んでいる。
郡から女王国までの行程と日程が不明のままでは説明にならん。
水行10日陸行1月を郡から女王国までの行程と総日程と読むことで、
女王国までの「方角・行程・日程・距離」のすべてが明らかになる。
女王国までの「方角・行程・日程・距離」のうち、
どの要素も欠落しない読みはこれ一つしかない。
女王国までの「方角・行程・日程・距離」のうち、
どこかで・どれかが欠落する読みはすべて間違いだ。
こういうことを明確な論拠に基づいて発言しているのは、日本人では俺一人だ。
なお、きみとの会話はこれまで。掲示板で発言するのは10年ばかり早い。
18 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 07:42:24.49
>>15 >伊都国から有明海を南下
現実無視の机上計算による言説もあるようだが、
広大な遠浅干潟の海は「沿岸航行」はできない。
19 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 07:45:12.22
20 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 07:49:26.10
>>18 沿岸航行出来ない場所は、沿岸航行しなければいいだけの話しで
航行中、岬の出っ張りがあるから航行出来ないわけじゃなく、船は岬を避けながら航行する
21 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 08:00:12.05
>>20 >沿岸航行出来ない場所は、沿岸航行しなければいいだけの話しで
そう。
有明海東沿岸をちょろちょろしたなんてバカげたことをいわなければよい。
てめ。朝゛っぱらから・いったい何をいいに出てきたんだ?
何でもいいから、少しは知性を感じさせる書き込みをしろ。
22 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 08:06:30.42
>>13 そう考えるのが普通だろうな。
例えば、「南至投馬國水行二十日」の起点は、直前に書かれている不弥国と考えられる。
もし、起点が直前の不弥国でなかったら、起点を明示するのが正しい文章。
でなかったら、都合の良い場所を起点にできるわけで、実際、帯方郡だとか伊都国だという意見が
見られる。起点が特に明示されていない場合は、やはり連続的な移動と解すべき。
23 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 08:58:19.55
これで帯方郡や末廬国を起点とする考察は、もろくも崩れ去ったわけで
24 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 08:59:19.49
>>22 そう考えるのが「普通のぼんくら」だろうな。
ほれ。起承転結と明確な文法の違いを提示した。
くだらなへ理屈は、これをボケっと続け読みすることの正当性を論理的に説明してからいえ。
ここまでやっても、ボンクラには分からんのだろうなー。
――――――――――――――――――――――――――――――――
対馬→壱岐(方角・行程・距離・国名) 日程なし
壱岐→末盧(方角・行程・距離・国名) 日程なし
末盧→伊都(方角・行程・距離・国名) 日程なし
――――――――――――――――――――――――――――――――
伊都→奴(方角・行程省略・国名・距離) 日程なし
奴→不弥(方角・行程省略・国名・距離) 日程なし
――――――――――――――――――――――――――――――――
投馬(方角・国名・行程・日程) 距離なし
邪馬台(方角・国名・行程・日程) 距離なし
――――――――――――――――――――――――――――――――
女王国以北はその戸数・道里を略載するを得べきも………
次に斯馬国あり………次に奴国あり。ここが女王の境界の尽きるところ。
――――――――――――――――――――――――――――――――
その南に狗奴国あり。………女王に属せず。
――――――――――――――――――――――――――――――――
郡より女王国に至る万二千余里
――――――――――――――――――――――――――――――――
25 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 09:04:03.61
>>23 >もろくも崩れ去ったわけで
何か一つでも、そういえるだけの論理的反論・論理的解釈を提示したか?
泣き言かじゃりの「だだこね」みたいな声しか聞こえてこんぞ。
負け惜しみの勝利ポーズ発言はいい。
中国語古文の文法として、続け読みが出しいことを証明してみせろ。カス
26 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 09:06:00.25
前回同様。続け読み側からの論理的な反論なし。 何度やっても同じだ。 これで、続け読みが文才の欠落したバカ読みであることが決定した。
27 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 09:19:44.13
帯方郡−狗邪韓国(起点:帯方郡、距離:七千里、方向:東南) 狗邪韓国−対馬(起点:狗邪韓国、距離:千里、方向:なし) 対馬−壱岐(起点:対馬、距離:千里、方向:南) 壱岐−末廬(起点:壱岐、距離:千里、方向:なし) 末廬−伊都(起点:末廬、距離:五百里、方向:東南) 伊都−奴(起点:伊都、距離:百里、方向:東南) 奴−不弥(起点:奴、距離:百里、方向:東) 不弥−投馬(起点:不弥、距離:水行二十日=666里、方向:南) 投馬−邪馬台(起点:投馬、距離:水行十日陸行一月=1333里、方向:南) 総行程満二千余里 合計 12700里 隋書より、一月行=短里千里で換算。 以上
28 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 09:21:29.46
>>22 >そう考えるのが普通だろうな。
こいつそうとうなバカだな。
郡から女王国までの総距離は1万2000余里と書いているが、
郡から女王国までの総行程と総日程は抜かしたのか?
その理由を明確にできるか? 失笑もののきべん抜きで。
時は皇帝を頂点とした絶対専制の中央集権官僚社会だ。
現代においてすら、サラリーマンがそんな出張報告をしたらクビだろう。
そんなこと考えたこともないか。単細胞だから。
>>25 >何か一つでも、そういえるだけの論理的反論・論理的解釈を提示したか?
引かれ者の戯言に、論理的な反論なんて必要もないだろう。
それとも何かな?詐欺師まがいに言葉巧に言いくるめられなければ納得出来ないとでも。そうじゃないだろう。自分の我をちょっと抑えるだけで解決出来る話しだ。
>>25 >中国語古文の文法として、続け読みが出しいことを証明してみせろ。
何とかの一つ覚えのように、中国語古文の文法か
それをいうなら、都合で起点をコロコロ変える中国語古文の文法とやらが
ここ以外に存在するのか
いい加減、小学生並の我が儘はよせ。お里が知れるぞい
>>17 ガキのただこねか?
文章というものには起承転結がある。テンポとリズムがある。
図式的に順を追って書かれると限ってはいない。
天災のじょうしきは一般人と違う。
>>17 女王国までの「方角・行程・日程・距離」のうち、
どこかで・どれかが欠落する読みはすべて間違いだ。
こういうことを明確な論拠に基づいて発言しているのは、日本人では俺一人だ。
世界中で天災だけ。
天災だけに通用するぷ文法とやらで一人で遊んでろ。
33 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 10:02:13.54
>>22 伊都国から先は放射式に読みべきことが示されているんだよ。
>>17 たった一人にしか通じないなんて、そんなの文法とは言いませんよ。
科学技術の発見、発明じゃないんだから、
勝手に文法発明したら駄目でしょ。
>日本人では俺一人だ。 いい加減自爆しているのに気づけよ。
36 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 10:11:38.86
話術と数字を上手く使う詐欺師のように、「中国語古文文法と文才」の言葉だけで 上手く丸め込もうとする目算だったが どうやら2ちゃんでも、それに騙される奴はいなかったと、いうことだな。 そろそろ潮時じゃないか、遺作爺さん。
37 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/02(水) 10:15:46.99
もうやはり女王国と邪馬台国を別物としてみるしかないんじゃないですか、 女王国は郡から万二千余里の距離にある九州の国で、邪馬台国は畿内ヤマトでしょw
38 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 10:24:20.18
>>37 別物ではなく、邪馬台国という概念に内包する女王国。
>女王国は郡から万二千余里の距離にある九州の国で、邪馬台国は畿内ヤマトでしょw 伊作同様「私だけの邪馬台国」だな。 一般常識からは乖離している。
40 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/02(水) 10:58:06.34
魏志倭人伝を読むに女王国=九州 は動かし難いですからねw女王国の東に海がある時点で もう畿内では致命的です。九州でも東の方じゃないと 成り立たないかな。サガミハラさんのいうような小城とかじゃ 東は東でも海まで遠すぎるし不自然な表現でしょw
41 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 11:10:32.30
42 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/02(水) 11:21:25.76
いやいや、しかし考古学的にみたら畿内に邪馬台国があったと 考えるほうが妥当ですw邪馬台=ヤマトでごろも合いますしw 卑弥呼=桃襲姫 なんでしょう。 なので苦肉の策で、女王国と邪馬台国を別物としてとらえ、 女王国=女王卑弥呼の九州での支配領域 と考えるしかなさそうです。 魏の使者が見たのは九州のみだったんでしょう。 不弥国から約1500里程度の距離にあり、東に海がある、 宇佐を中心とした地域の東九州がおそらく卑弥呼の九州での 支配領域である女王国。と仮定するのはやはり無理がありますかねw
43 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 11:28:19.15
考古学からの見立てでは、大阪を見てこれが東京だと言ってるようなもの
44 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/02(水) 11:36:58.44
畿内無視で当時の日本の都が九州にあり、魏から金印もらったとは考えにくいw 福岡が日本の首都ですと言ってるようなものでw
45 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 11:50:36.50
弥生時代の畿内には何もないことを知らないな。
46 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 11:53:24.00
>>44 断片を書き捨てるだけじゃなくて、まとめてみない?
自己矛盾したことを書き連ねてるから、
自分の中だけでも、つじつまを合わせるのは
大変だと思うよ。
47 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 11:59:02.39
●まとめて蹴散らす。
>>30 >何とかの一つ覚えのように、中国語古文の文法か
そうだ。文法が変わっているのは事実だ。
>都合で起点をコロコロ変える中国語古文の文法とやらがここ以外に存在するのか
なことはどうでもいいから、続け読みが正しいという論証をしろ。クズ
>いい加減、小学生並の我が儘はよせ。お里が知れるぞい
俺のボキャブラそのまんまだなら。てめーのお里が知れてるわい。
>>31 文章というものには起承転結がある。テンポとリズムがある。
図式的に順を追って書かれると限ってはいない。
>天災のじょうしきは一般人と違う。
文章読みの無常識だ。てめえが知らないだけ。
恥ずかしい発言だぜ。
>>32 女王国までの「方角・行程・日程・距離」のうち、
どこかで・どれかが欠落する読みはすべて間違いだ。
>天災だけに通用するぷ文法とやらで一人で遊んでろ。
初訪問調査記録の常識を何度も書いたが、
それに対する反論をしてみ。くだらない書き込みなど無用だぜ。がんたれ
48 :
デイビッド別格 :2011/11/02(水) 12:00:59.71
>>34 >たった一人にしか通じないなんて、そんなの文法とは言いませんよ。
何か・またぞろトンチンカンな誤解をしてるな。
文法の違いは明確なのだから、
文法の面から続け読みが正しいこと証明しろといっている。
てめえらにし通じない読みこそ「読み」とはいわんのだ。タコ
そのていたらくで、しゃあしゃあと中国語文献に口出す神経がわからんぜ。
>>35 >いい加減自爆しているのに気づけよ。
何の中身もない板上の駆け引き文言はいいから、
要求したことに回答したらどうだ。できまい。
自爆と゜ころか自縛で詰まっているのはてめえらだ。
>>36 話術と数字を上手く使う詐欺師のように、「中国語古文文法と文才」の言葉だけで
その言葉に詰まって返答もできんだろが。
よりにもよって、口先だけ達者な負け犬どもが。
腰の引けた遠吠えするのがせいぜいじゃないか。
49 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 12:01:23.61
>>37 >もうやはり女王国と邪馬台国を別物としてみるしかないんじゃないですか、
>女王国は郡から万二千余里の距離にある九州の国で、邪馬台国は畿内ヤマトでしょw
女王国と邪馬台国を別物ではなく、別概念のもの。
女王國に含まれる国々の中の一国が邪馬壹國、其処に女王が都を置いている。
女王國は倭30ヶ国のなかの数ヶ国で構成され、
その数ヶ国は、共立にこぎつけた卑弥呼女王を擁立した国々を指す。
女王國の構成国として明らかなのは、邪馬壹國、投馬國。不彌國、奴國の4ヶ国。
なわち、別物ではなく、女王國という概念に内包されるのが邪馬壹國。
>>40 >女王国の東に海がある時点でもう畿内では致命的です。
>九州でも東の方じゃないと成り立たないかな。
「女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種」
女王國の東の千餘里の大きさの海を渡ると、また国がありそれらは全て倭種の国々である。
東の渡る海の大きさが千餘里であって、女王國の東が海に面しているとは書いていない。
「又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里」
@倭種の国の南[X里]に侏儒國がある。
A女王國の東[Y里+1000里]に倭種の国がある。
B女王(女王國)の東南[4000里]に侏儒國がある。
@Aは直角三角形の直角を挟む2辺
Bは直角三角形の斜辺
女王國と千里の海の間には[Y里]の距離で離れている。
50 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 12:01:34.62
高尚な議論になる書き込みでもってかかってこい。
51 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 12:03:34.84
>>22 :
>起点が特に明示されていない場合は、やはり連続的な移動と解すべき。
起点を特に明示しなくても起点を記述することは可能ですよ。
魏志の行程は
洛陽⇒帶方⇒韓国⇒狗邪韓國。
狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒伊都國。
末廬國⇒奴國⇒不彌國。
末廬國⇒投馬國。
末廬國⇒邪馬壹【臺】國。
ですね。
『方位+行』の記述法は、そこの地点を持って一連の行程叙述が終焉することを示している。
魏志で『行と方位』の組み合わせで記述されていない『行』が一箇所ある。
それは、
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」
です。『方位』が記述されていないので行程は連続的移動となっている。
「方位+行」
「東南陸行五百里 到伊都國」
「東行至不彌國」
「南至投馬國水行」
「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」
は、
それぞれ伊都國、不彌國、投馬國、邪馬壹【臺】國でその行程叙述が終焉していると記述されている。
それらの起点は末廬國です。
52 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 12:14:38.18
>>47 >続け読みが正しいという論証をしろ。
文章は続けて読むのが一般常識な。
論証が必要なのは、その常識から外れた奴だけな。
バカでもそのくらいはわかるよな。
それとも詐欺師の世界では、一般常識は非常識なのか。
53 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 12:21:49.89
途中までは続け読みしてきたが、都合が悪くなったので 強引にランダムな読みを採用したってか。 おーい。ボケてないか 爺さん大丈夫かよ。 ボケ爺さん野放しにしちゃ駄目だろう。ちゃんと繋いでおけやい。
54 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 13:23:34.86
>>49 >女王国と邪馬台国を別物ではなく、別概念のもの。
そのとおり。
>女王國の構成国として明らかなのは、邪馬壹國、投馬國。不彌國、奴國の4ヶ国。
不弥国は郡から万600里。したがって、女王国には入らない。
>東の渡る海の大きさが千餘里であって、女王國の東が海に面しているとは書いていない。
苦しいこじつけだ。
55 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 13:29:54.35
>>52 >文章は続けて読むのが一般常識な。
続けて読むからと言って、連続式に解釈することにはならんよ。
続けて読んで、放射式であることを読み取らねば読解力があるとは言えんな。
なぜなら、奴国からは進んだとは書いていないからだ。
56 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 13:41:39.53
>>55 >なぜなら、奴国からは進んだとは書いていないからだ。
それを言うなら、最初から進んでいないし
移動しているのは視線だけ。誰もこれをコース等とは述べてもいない。
ただ読み方として、視線を文に従い移動させれば、当時魏と交流のあった大海之中の島の地勢が把握出来ると
編纂した人達の意図はそこにあると
57 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 13:46:53.58
言ってることが支離滅裂だな。引きこもりは引っ込んでろ。
>>54 ここは人間の場所だ。
狗奴国妖怪爺はう・せ・ろ・
59 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 14:03:24.09
60 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 14:05:39.77
倭人伝文頭の主語と動詞(述語) @倭人在帶方東南大海之中 A(倭人)依山島爲國邑・・・・・三十國 從 (從は接続詞:したがって) B郡至倭 C(郡)循海岸水行&歴韓國&乍南乍東&到其北岸狗邪韓國七千餘里 D(郡)始度一海千餘里&至對海國・・・方可四百餘里・・・・・ E(郡)又南渡一海千餘里名曰瀚海&至一大國・・・方可三百餘里・・・・・ F(郡)又渡一海千餘里&至末盧國・・・・・ G(郡)東南陸行五百里&到伊都國・・・・・ H(郡)東南至奴國百里・・・・・ I(郡)東行&至不彌國百里・・・・・ J(郡)南至投馬國 水行二十日・・・・・ K(郡)南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・・・ 主文の主語は『倭人』と『倭』のみである。 HJKの文には移動動作の動詞がないので「自郡至女王國萬二千餘里」の道程には含まれない。 郡から奴國の部分距離の和は萬二千餘里となり、 郡から不彌國の部分距離の和も萬二千餘里となる。 郡から投馬國の距離は水行二十日 投馬國は臨海国である。 郡から邪馬壹國の距離は水行十日陸行一月 邪馬壹國は内陸国である。 距離は倭人からの伝聞と思われる。 水行1日は舟で移動した場合の距離単位で約1000里に相当 陸行1月は徒歩で移動した場合の距離単位で約2000里に相当(1000里説もあり)
62 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 14:10:53.19
行程に応じて記述に差異があるのはわかるが、 それが、放射読みとなる根拠は薄い。 記述の差異が放射読みとなる根拠を示さなければならない。 特に放射読みと書かれていない限り、 連続読みで読んで矛盾は生じない。
>行程に応じて記述に差異があるのはわかるが、 それが、放射読みとなる根拠は薄い。 その通りで 移動動作の動詞がないと言うもいるが至到が移動の動詞。
>>59 ご無沙汰しております。
アク禁規制のため、約半年ぶりの書き込みになります。
>>60 内陸国というのは有り得ない。
倭人の住まう所の設定は大海之中。つまり、四方を海に囲まれた島という設定上、内陸と言う概念は存在しない。
>>63 動作、移動の動詞ではなく、存在、状態としての動詞。
66 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 15:17:23.37
>しかし考古学的にみたら畿内に邪馬台国があったと 考えるほうが妥当ですw邪馬台=ヤマトでごろも合いますしw 卑弥呼=桃襲姫 なんでしょう。 妥当ではないですね。卑弥呼も壹與も記紀の相当年代即位したとかいう 記述はありません。つまり卑弥呼の国は畿内ではないと観るのが正解 です。 ヤマトは畿内だけでなく、当時日本全体的とか九州あたりのみの言い回し とかいろいろ同じ読み方で大陸側が言ってたと観るべきで、畿内だけの 専売特許ではないことから、邪馬台国=畿内 にはしなくてもよろしいと いうことです。 卑弥呼と百襲媛も別人ですよ。箸墓は卑弥呼の墓ではありません。
67 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 15:17:53.47
>移動動作の動詞がないと言うもいるが至到が移動の動詞。 移動を示す文字があるかどうかではない。その文章が何を言ってるのかを 読み取らなければだめだ。 始度一海千餘里至對海國→始めて一海を渡る、千余里にして対馬国に至る。 これは対馬国に至ったことが明記されているわけだ。 東行至不彌國百里→東行して不弥国に至るには百里。 これは不弥国までの距離を表示しただけで、不弥国に至ったとは書かれていない。 この違いが重要なんだよ。
68 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/11/02(水) 15:36:55.32
>>64 河童虫さんご無沙汰しています。
>>60 は私です。
>内陸国というのは有り得ない。
内陸とは邪馬壹國は海に面していないとの意味です。
>>65 >動作、移動の動詞ではなく、存在、状態としての動詞。
>>63 は私の発言ではありませんが、
>>60 について説明します。
「到」「至」は、動作、移動の動詞ではなく、存在、状態としての動詞。
「行」「歴」「乍」「度」「渡」等の動詞は、動作、移動の動詞。
>>67 >東行至不彌國百里→東行して不弥国に至るには百里。
東へ行く。百里の不彌国に至る。
70 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 15:43:39.04
文章として読む力がないと文字をごちゃごちゃにして勝手な解釈を することになる。↑がその好例だ。
71 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/11/02(水) 15:47:46.96
>>67 河童虫氏の発言は正しい。
>>60 に合わせて
>>68 を読んで下さい。理解していただけると思います。
動作の後に状態になるのです。
>>70 文章を読む力なんてまやかしは必要ありません。
ま、中にはその力を売りとし曲解している人もいますが、短い文です
普通に読めば済む話しです。
73 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/11/02(水) 15:52:56.67
「東行至不彌國百里」の訳は、「東へ行く。百里の不彌国に至る。」で直訳的でより正解。
>>73 王朝さん。ご無沙汰しております。
壹国は海に面していないというお話しですが
魏が帯方郡を統轄し、その南に位置する東夷伝内のテーマは「海」です。
帯方東南大海之中と始まる倭人の住まう場所は海中之中。
壹国が海に面しないなんて概念は存在しません。
75 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 16:17:49.35
>>73 漢文は名詞を後ろから修飾することはないので、
「不彌國百里」は「百里の不彌国」とはならない。
だから直訳的ではない。
直訳は「東行して不彌国に至る。百里。」
言葉を補えば「東行して不彌国に至る。移動距離は百里。」
76 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 16:32:54.84
>>75 >漢文は名詞を後ろから修飾することはないので、「不彌國百里」は「百里の不彌国」とはならない。
これはそのとおり。 だいたい、「百里の不彌国」なんて意味不明の言葉を書いてとくとくとしている
ところがカッパや九州王朝のだめなところだ。
>直訳は「東行して不彌国に至る。百里。」言葉を補えば「東行して不彌国に至る。移動距離は百里。」
一つの文章なんだよ。言葉を補っても、「東行して不彌国に至るべき距離は百里。」だ。
77 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 16:37:23.89
大意が取れりゃいいと思っているから、 なんの議論をしているのかよくわからない。
>>75 @不彌国に至る百里。
A不彌国に至る。百里。
この違い。
私だって、@だったら後ろから修飾する形にはしませんよ。
>>77 曲解するための言葉遊び。
伊作からこの板も終わったな。
>>78 Aだから「東行して不彌国に至る。百里。」になる。
81 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/11/02(水) 17:54:55.48
>>74 倭人は九州島(倭地)に28ヶ国以上に分かれて住んでいます。
その国々中で、今使譯所通國は27ヶ国です。
たとえば日田盆地に国があれば、その国は臨海ではありません。
邪馬壹國もそのように臨海に立地していない国であると考えることが可能です。
私は別の検証から邪馬壹國が臨海でないとの結論を出しました。
82 :
ローガン :2011/11/02(水) 20:11:10.11
>>72 河童さん。お元気でしたか。 御地はまだまだ大変なのでしょう?
どうぞ、お身体にきをつけて。
>>82 ご無沙汰しておりました。
まだまだ地震の爪痕がいたるところに
今年は天災の年らしく、9月には台風が、地震で崩れた屋根を覆うブルーシートを飛ばしていました
こんどは千葉沖でスロースリップ現象が確認され、東関東や南関東は
新たな地震警戒区域に
またアク禁になるまでの短い期間かと思いますが、少しおじゃまします。
>>82 因みに、その百里は移動距離にあらず
東南至奴國百里の「百里」も距離にあらず。
距離だったらそれを裏付ける「陸行」「水行」という数値を導き出した根拠がそこに示されるわけで
しかし、ここにはその数値に対する根拠がなにも示されていない
85 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 20:44:46.18
>>83 もう関東は死の土地になりそうだから今のうちに関西に引越しされた方が良い
ですよ。
低線量の放射能は、免疫力を増進させ、健康の元だから、 引っ越しても、そういう地域に住んだ方がよいと思う。
87 :
日本@名無史さん :2011/11/02(水) 23:09:39.56
88 :
縦目仮面 :2011/11/03(木) 01:58:21.73
>>84 おお、久々に覗いてみたら・・・復活おめでとうございます。
89 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 05:34:49.77
河童も縦目も生きてたのかwww死んだと思っていたぜwww
>因みに、その百里は移動距離にあらず 東南至奴國百里の「百里」も距離にあらず。 アッホー
>>90 人をアッホーと言う前に、己の脳内環境を調べるのが先だろ。
まず、この百里が移動距離だとしたら、そこに書かれる文は
@東陸行(水行)至不彌国。
A東至不彌国陸行(水行)百里
のどちらかで書かれるわな
でも、ここに書かれている百里は移動距離じゃないから、@やAのようには書く必要がないわけだ
92 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/03(木) 10:55:34.68
さすがにもう馬鹿馬鹿しくなりましたw 漢文の言葉じりを自分勝手に解釈する応酬ばかりで 実にあほらしいw さすがに不毛すぎますわ、このようなやり取りは。そうは思わないんですか?
女王国九州、邪馬台国畿内も似たようなもの。
94 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 11:27:30.94
>>92 君は未だ古代漢文を読む力が全くないな。
古代漢文は、中国語でも日本語でもない言語だよ。
96 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/03(木) 11:46:16.49
邪馬台国関連の書物はどれも馬鹿馬鹿しいので数冊読んで辞めましたが、 なんてこたあない、この時代のキーワードは「鉄」ですよ。 鉄の交易ルートは九州が握っており、2世紀の力関係は九州>畿内 で なので鉄の利権をめぐり、倭国の大乱がおこり、その後徐々に鉄が 日本全域に広まり、巻向からも製鉄の跡がでてきてるようなので、 卑弥呼共立で、畿内〜九州の平和的連合国家体制が構築されたとみるべきです。
97 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 12:01:04.99
>>84 :河童虫さん
>東南至奴國百里の「百里」も距離にあらず。
>距離だったらそれを裏付ける「陸行」「水行」という数値を導き出した根拠がそこに示さ>れるわけで
>しかし、ここにはその数値に対する根拠がなにも示されていない
まるで駄々っ子のの書きこですね。
『「百里」も距離にあらず。』
て、意味不明だな。
『里』は『スピードが放射能濃度単位』ですかね?
「自郡至女王國萬二千余里」
の「二千余里」も距離でないということですかね?
勘弁して下さい。
98 :
弩壺割り :2011/11/03(木) 12:10:26.65
>>96 ド・ツ・ボ・君
>鉄の交易ルートは九州が握っており、2世紀の力関係は九州>畿内 で
>なので鉄の利権をめぐり、倭国の大乱がおこり@、その後徐々に鉄が
>日本全域に広まりA、巻向からも製鉄の跡がでてきてるようなので、
>卑弥呼共立で、畿内〜九州の平和的連合国家体制が構築Bされたとみるべきです。
@鉄の武器を持った九州に木製武器(竹槍・こん棒)で立ち向かったてか?
A鉄の武器を持った九州が木製武器軍団に負けて鉄を譲ったてか?
B平和的連合体制ってなんだよ?どちらかが「和睦」を申し立てしたのか?
だいたい2世紀前後に九州勢力と畿内勢力が戦った根拠はあるのかい?
>>97 「里」ってそもそも何だい?
すべて距離の単位として扱うのかい?
漢字って、その置かれた環境で意味も違えば用途も違う。
置かれた環境を無視して、すべて距離単位の量詞として扱う方がよっぽど無謀だわな
東行至不彌国百里や東南至奴国百里の「里」は、移動距離単位量詞として扱うに非ずと
言ってるわけだよ。
では、何?
それはこれらを認識してからの別問題だわな。
この「百里」について何か学問らしい見地を記した論文とかあるのかな? その答はたぶんNOだろう。 その殆どが、先入観だけで無意識に移動距離とし扱い、先入観故に誰ひとり疑問すらも浮かばない。 この百里は言うならば、学問的な場に晒されていないところ 結果、この百里はやっぱり移動距離だったでもいいんだよ。それはちゃんと学問というプロセスを踏んで出た答で 単なる先入観から出たものではないんだから いまこうして疑問を投げ掛けられたんだから、これからは学問として場に晒される可きもんだろ。
102 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 13:38:59.59
まさか、一里=五十戸(二世紀に一里が何戸であたかは私は知らないが)。 その解釈は成立しないとおもうが。 東南至奴國百里・・・・・有二萬余戸 東行至不彌國百里・・・・・ 有千余家 とあるから。 一里=300歩=1800尺でOKでしょう。 一尺は約24cm。 「数字+里」は距離でしょう。
>102 で、その距離は移動しないで測量したの? 中国版戸里制による数値も、後に記載される二万や千があるから 意味を成さない。
105 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 14:00:51.90
>>103 名前:河童虫 さん
>で、その距離は移動しないで測量したの?
福島から東京迄移動しなくてもその距離は河童さんは解るよね。
そうです。
その間の距離の過去の資料があればすむことです。
それを行程叙述として記述した。
>>105 >その間の距離の過去の資料があればすむことです。
それを行程叙述として記述した。
それって物凄い事を言ってる事に気付かないかな?
つまりね、旧後漢書の存在や漢書に倭伝が存在したということとになるんだよ。
107 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 14:33:04.94
「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國 樂郡浪徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里 其地大較在會稽・東冶之東」 における「邪馬臺國」・「拘邪韓國」の位置関係。 説文解字に「徼」は『循(めぐ)るなり』とある。 「去」は『行く』。「其國」とは「邪馬臺國」。 従って 「樂浪郡徼 去其國萬二千里」の起点は後漢の国都・長安で、着点は邪馬臺國。 (長安より)樂浪郡を循り(徼)邪馬臺國へ行く(去)(その距離)萬二千里。 「樂郡浪徼 去其西北界拘邪韓國七千餘里」の「其」は「三十許國」。 (長安より)樂浪郡を循り(徼)「三十許國」(其)の「西北界」へ行く「七千餘里」。 「其地大較在會稽・東冶之東」の「其地」とは「拘邪韓國」。 「拘邪韓國」の地は大較會稽・東冶之東に在る。 所謂、 「拘邪韓國」の北西界は長安より樂浪郡を循る七千餘里になる。 「拘邪韓國」の領域(地)は 「會稽・東冶之東」までである。 との意である。 「會稽・東冶之東」とは北緯26度の沖縄である。 資料は存在したんじゃないの。 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
108 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 15:17:59.45
>>107 >資料は存在したんじゃないの。
何寝とぼけているの?
現存後漢書の倭情報についての記述の大部分は、魏志倭人伝からの引用ですよ。
記述文がカーボンコピーになっています。
>>107 すべての編纂史にその元となる資料は存在したでしょうが、
日の目を見るのは資料じゃなく、編纂史書。
編纂史書に書かれないものは黒子となって、決して表舞台には登場しません。
つまり、資料に書かれているは通用しません。
だから百里に移動距離として「陸行水行」との根拠がないと言ってます。
110 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 15:52:05.59
>>107 >説文解字に「徼」は『循(めぐ)るなり』とある。
>「樂郡浪徼 去其西北界拘邪韓國七千餘里」の「其」は「三十許國」。
>「其地大較在會稽・東冶之東」の「其地」とは「拘邪韓國」。
>「拘邪韓國」の地は大較會稽・東冶之東に在る。
> 「會稽・東冶之東」とは北緯26度の沖縄である。
全く漢文を読む能力がない。
@「徼」は『通(とおる・とおす)なり』
A「樂郡浪徼 去其西北界拘邪韓國七千餘里」の「其」は「倭」。
B「其地大較在會稽・東冶之東」の「其地」とは「邪馬臺國」。
C 「邪馬臺國」の地は大較會稽・東冶之東に在る。
D 「會稽・東冶之東」とは北緯30度の鹿児島県口之島付近となる。
>>109 >編纂史書に書かれないものは黒子となって、決して表舞台には登場しません。
>つまり、資料に書かれているは通用しません。
そんな無茶苦茶な理屈が通用するかw
だいたい、魚豢の魏略だの、王沈の魏書だの、班彪の『後伝』だのと、当時は世にあった史書は山ほどあるわ。
清代になって二十四史として復刻したものしか眼中にない「にわか」の近視眼的迷セリフだなw
>だから百里に移動距離として「陸行水行」との根拠がないと言ってます。
で、戯言はもういいから、さっさとこれのタネあかしをして消えちまいな。
河童が嫌われ馬鹿にされる訳
>>84 因みに、その百里は移動距離にあらず
東南至奴國百里の「百里」も距離にあらず。
と言いながら百里が何なのかを説明して
だから倭人伝をどう解釈すべきなのかの説明も一切無し。
さらには
>>100 「里」ってそもそも何だい?
すべて距離の単位として扱うのかい?
と訳のわからない事を言う。
嘲笑されて当然と言えば当然。
見直して貰いたかったら
100「里がどんな意味でそれが倭人伝の解釈にどう影響するのかを説明すべき。
できないだろうけど。
そうだな、百里は距離じゃないなら何なんだ。 どうせ、自分の考えなんか用意してないのだろう。 オチも考えずにおっぱじめて退けなくなる、ひさびさでも相変わらずのお間抜け河童だなw
しかしだ 河童のは馬鹿話なんだが どうせ伊作や九州王朝がやってるのも馬鹿話だ そう考えれば同じ馬鹿話なら面白い方がいい という考え方もできるだろう 伊作や九州王朝は徹底して人間に徳がないが 河童はそうでもない だから昔は人気もあったんだよ
>>114 河童のは馬鹿話なんだが どうせ伊作や九州王朝がやってるのも馬鹿話だ
伊作は河童の馬鹿話には正しく反応するが
自分が河童に負けないほどの馬鹿話をしていることは判っていない。
>>114 「徳」と言うか、ただの「御人好し」ですな。
伊作のコトバ使いは、ホントにエゲツナイ。
相手を罵倒しまくるが、それ全て、己の脳内の平静を保つための手段だから相手を選ばない。
そんな自分の正当化のため、たまに綺麗ごと(本人的には)も宣給うが、底が浅く薄ら寒い綺麗ごとだ。
それも1時間後にはキレたりしてハチャメチャw
河童も、罵詈雑言に対して、ときたま汚いコトバを返すが、内容は地方都市の中房レベルさで、
まあ、ガキがそのまま(知能も)大人になっちまったって感じだな。
御本人もそれは承知の上で、ここに来ているわけで、それが人気の源でもある。
九州王朝もガンコじいさんではあるが、別に人は悪くないと思う。
>>115 >自分が河童に負けないほどの馬鹿話をしていることは判っていない。
いやこれは深層心理ではわかってると思うぞ
あちこちボロが出まくりじゃないか
しかし認めたくないんだな
やり直すには人生の時間が足りないからな
まあ所詮は2ch ここで邪馬台国の所在が突き止められることなどないだろう 要は不快にならず面白い時間を過ごせればいいわけで ここがわかっている わかっていないは大きな違いだな
>>117 そうそう、バカを自認できるのが河童、出来ないのが伊作。
伊作が憐れなのはそこだったな。
まあ、河童の場合、取り繕いようの無い2ch歴の持ち主だけどなw
120 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 17:02:52.76
河童は、百里は国の広さ、面積、あるいは行政単位としての大きさと言いたいんだろう。 確か、むかしそういう議論をしていたような記憶がある。
屁をひって 尻をすぼめぬ 伊作かな
人はいさ 心も知らず 河童虫 程度は今も 変わらざりけり
珍読も 誤読も昔 河童逝く
おーっ お馴染みの評論家諸氏がにほいを嗅ぎ付け 集まってきたな。 御一同、大義。
125 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 18:17:34.42
ゴミクズども。 お前たちこそ、まともな知識もなければ、まともな議論もできず、 そうやって他人を不当に誹謗することで自己防衛と自己満足してるのだ。 過去ログひっくり返してみてみろ。 論らしい論の出し方をしてるのは俺だけだ。 お前らは、自分の「考え」をいうだたけで、論らしいことは何も述べていない。 結局のところ、続け読みが妥当であるとの論証をできた者は一人もいないだろが。 己の半端さを棚にあげて、バカ同士で井戸端陰口寄り合いで溜飲をさげようって心理か。 どうにもならなねー奴らだぜ。
126 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 18:23:01.66
エラそうに能書き垂れるなら、
てめえで論の一つも構築して発表してみ。できもしないだろが。
そういうが半端者が
こういうところで断片知識をふりかざして断片衒学するんだ。
世が世であれば不特定多数に向かって発言・発信する能のない者までが、
無審査・無試験・無料でできる掲示板だから、
てめえらのようなクズが跋扈する。
ほれ。なんでもいいから、
このように、どこに出しても恥ずかしくない論説・論考を書いて発表してみろ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear 歯ぎしりしかできん「ごまめ」どもが。ちゃんちゃらおかしいぜ。
127 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 18:35:23.18
バカがバカなりに集まって「井戸端寄り合い陰口」。 とめえら、他人のことをいう前に、なんでゲス扱いされるか考えろ。 そのていたらくで、ちゃんと対応してもらおうとし思ってるわけじゃあるまい。 敬意をもって対応してもらえるだけの言動をしてるか? 一人前に対応してもらえるだけの内容のある発言をしているか? 他人のことを批判するだけの「もの」をもってるか? 名無しでしか投稿できんゲス野郎ども。
128 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 19:33:34.84
>>125 >続け読みが妥当であるとの論証をできた者は一人もいないだろが。
続け読みは妥当でないので論証できる者は一人もいない。
129 :
ローガン :2011/11/03(木) 19:35:29.50
>>125 :デイビッド別格
横失礼。
>結局のところ、続け読みが妥当であるとの論証をできた者は一人もいないだろが。
続けて書いてあるんだから、続けて読めばいいんじゃない? 特に論証を必要としないと思うが…
それに、奇跡の解法にこうある。 「『梁書』諸夷伝・倭の条をもほとんど『倭人伝』からの写しである。」
これは職貢図を絡めた梁書批判。秀逸なものだ。
で、その倭人伝を丸写しした梁書とは
「從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。
又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、」
又〜又〜で繋いだ「続け読み」。奇跡の解法の主が、倭人伝の写しだという梁書は、順次ルート。写しである以上 これはテキストに準じたものである
130 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 19:43:19.71
梁書倭伝は、間違いだらけ。 紀伝体の体裁だけをつくろうために、デキの悪い弟子か助手に書かせたもの。 丸写しでは能がないから、デキが悪いなりに脚色してる。 そこを見抜くのも文才のうちだ。バカには分かるまい。 こんな二流記録を濾過居にするのは自論の質を自ら下げるようなものだ。 有利な記録にブラックバスのように食いつく「ご都合主義」・みえみえ。 反論にも異論にもなっていないぞ。 >続けて書いてあるんだから、続けて読めばいいんじゃない? バカ丸だし。梁書倭伝を書いたタコと同じレベルだ。
131 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 19:45:16.48
>倭人伝の写しだという梁書は、順次ルート。 >写しである以上 これはテキストに準じたものである 。 ローガン得意の「揚げ足」論法。つまらん
132 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/03(木) 19:46:22.26
>>129 >奇跡の解法の主が、倭人伝の写しだという梁書は、順次ルート。
姚思廉が魏志倭人伝を誤読して順次ルートにしてしまっただけ。
133 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 19:55:17.09
134 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 19:56:48.15
順次ではなく、放射式かもしれないが、 それを文意からは読み取れない。 記述に差異はあるが、それが放射式の根拠とするためには、 その根拠となる情報が必要である。
135 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 20:00:32.30
>ローガン得意の「揚げ足」論法。つまらん つうか梁書・御覧と言えば先ず「明確な連続読み」だよなw 確か湖南の御覧に対する評価は結構高かったと思うが… 梁書・御覧を引っ張ってくるなら先ずそこに言及するだろう不通www
136 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 20:08:59.17
御覧が何かすばらしいことでもむ書いてるか? 誤字混じりにトレースしてるだけだ。 その御覧の記録(倭人伝読み)が正しいとの検証結果は、 お前の中ででているのか? 例によって「ただの考え」「ただの願望」か。 この手の議論だ論証だは「裁判」のようなものだ。 証拠と論理が何ものにも優先する。証拠と論理で勝負だ。 御覧や梁書が「証拠」になるか? 論理は通るか?
137 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 20:16:30.00
さて観客諸君。 ここに跋扈する「不当な誹謗連中」が、 明らかなウソをついてまで俺を誹謗している証拠として、 俺の真摯かつ緻密で奇跡的な邪馬台国論をみてもらおう。 掲示板にツラだす「知ったふりのかっこマン」とは 別格であるという証拠でもある。 分析力・交渉力・検証力・構成力・著述力・文章力。 これらを含めた総合力において、過去の論者に勝るとも劣らないものだ。 何よりも、不正・まやかし・小細工に頼らない 奇跡的ともいえる正直さにおいて日本でただ一人の存在だ。
138 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 20:17:49.84
そのとき一人の子供が言いました 「王様は裸だ、伊作王はどうして服を着ていないの?」
>>139 子供のお母さんがそっと子供に耳打ちしました
「しっ、そんなことを言ってはいけないよ。それにしても王様のチンコは小さいねえ。
自分の説と同じだわ。」
141 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 20:35:35.03
裏街道のゴロつきども。 自分の真面目なサイトを公開している者で こんな所に顔を出すのは俺ぐらいのものだろう。 極めて特異な例だが、 俺は何度もいうように、半端者の駄論矯正にやってきたのだ。 自分のサイトをもっている者でも、 俺のように82のカテゴリ検索に選ばれているのはごく僅かだ。 wikipediaの外部リンクにも、 wikipedia日本語版が生まれたてのころ、誰かが早々と入れたくれた。 ホームページ時代からの通産で30万件をこえるヒットだ。 連日コンスタントに100件の来訪者がある。閲覧数はその数倍だ。 煮ても焼いても食えないような裏街道のゴロつきよりも、 不偏・中庸な良識がちゃんと評価していくれているんだ。 俺の真価を分かっているからこそ、格が違うと分かっているからこその、 嫉妬まじりの「ごまめの歯ぎしり」めいた誹謗など、見苦しいぜ。 それで自己満足してるのなら、さもしい限りだ。
142 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 20:40:23.20
この手の「議論だ・論証だ」は裁判と同じだ。 証拠と論理が何ものにも優先する。 証拠と論理で勝負だ。正面からかかってこい。 できなければ、ゴミは邪馬台国研究にとって害有り・利なしだ。 とっとと消えろ。
上野動物園のサル山の見物人はもっと多いな ためになるから当然だが
くくく 苦しいか汚物伊作
145 :
ローガン :2011/11/03(木) 20:45:40.54
>>131 >つまらん
それは残念。
>>132 >姚思廉が魏志倭人伝を誤読して順次ルートにしてしまっただけ。
と、いいきれるだけの根拠なんてありませんよ。 だいたい通行本でも、どの程度オリジナルと異同があるかすら不明なのに。
まあ、「通行本魏志倭人伝に、一切の添削を行わない」を前提としたゲーム という訳ですな。
146 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 21:10:56.09
>>145 歴史書編纂の基本は「文章伝世」で、先書を尊重して記録を踏襲する。
(文章丸写しというのではない、記録された内容を踏襲するという意味)。
歴史書編纂者というものは、批評家でもなければ校勘や注釈者でもない。
したがって、先書の訂正をしたり・己の知見を混入させたりはしない。
すなわち、後発歴史書が、資料とした先書と違うことを書いている場合、
ほぼ後発歴史書の誤読・脚色・間違いによる。
さらにいえば、後発歴史書が、資料とした先書よりも新たな事実
詳しい事実を書くこともほぼあり得ない。
自論に都合のいい記録はないかと文献漁りをして、
二流・異聞とされる文献の「部分」に飛びついて、
その文献の資料価値や記録の信憑性の検証・論証もせず、
論拠や反論材料とするのは、いまではWEB上を徘徊する三文素人だけだろう。
147 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/03(木) 21:21:27.77
異策はタマには
>>146 の様に正論を吐くこともあるな。
148 :
日本@名無史さん :2011/11/03(木) 21:30:20.45
正しい部分は正しいし、参考にさせてもらっている部分も多々あるが、 根拠と推論と主張がごっちゃになっていて、使えない部分もある。 その部分は無視させてもらってる。
149 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 21:58:52.02
で、なんかまとまった? 結局いつもの我の張り合いなのね
151 :
デイビッド別格 :2011/11/03(木) 22:04:43.52
>>150 いずこも同じ、「正論をいう者ほど攻撃される」。
これは、お前の師匠のセリフだったかな。
とっくの昔に、互いに別世界の人間だ。俺にかまうな。
152 :
第三者委員会 :2011/11/03(木) 22:18:06.74
>歴史書編纂の基本は「文章伝世」で、先書を尊重して記録を踏襲する。 >(文章丸写しというのではない、記録された内容を踏襲するという意味)。 >歴史書編纂者というものは、批評家でもなければ校勘や注釈者でもない。 >したがって、先書の訂正をしたり・己の知見を混入させたりはしない。 その論によるならば 從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。 又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、」 は唐の時代の姚思廉が魏志倭人伝の記事をそのように理解していたということになる。 仮に弟子などが書いたものであるとしても姚思廉が校閲をしていない筈はない。また、当時の知識人も梁書を読んだ筈だから三国志の倭人伝の誤読であれば 誰かが間違いを指摘した筈である。梁書より後の史料にそういう指摘が見られないのは順次読みが常識だったからであろう。
153 :
メ :2011/11/03(木) 22:51:46.60
こっちが賑わってるので参加させてもらうよ >歴史書編纂の基本は「文章伝世」 ここ、詳しくお聞きしたいですね。 歴史とは常に勝者の歴史であり、敗者の歴史は、勝者によって書き替えられるもの。 たとえば、織田、豊臣時代から徳川時代へと移る中で、天下分け目の戦い、関ヶ原の役が起る。 これは、徳川家康の天下を奪う行為に対し、三成は家康を排除すべく、 石田三成率いる「西軍」を挙兵し徳川家康の「東軍」に挑んだが、東軍が勝利する。 その後の徳川時代では、石田三成は悪者として扱われることになる。
>>117 いやこれは深層心理ではわかってると思うぞ
あちこちボロが出まくりじゃないか
全然判ってないアホだよ。
判っただろう?
>いずこも同じ、「正論をいう者ほど攻撃される」。 これは、お前の師匠のセリフだったかな。 何英雄きどりでいるの? ゲンゴロウも遺作もあまりにも並はずれて馬鹿言うから攻撃されるのよ。
>>151 >とっくの昔に、互いに別世界の人間だ。俺にかまうな。
誰にでも直ぐに噛みつく噛みつき亀は
トンデモ同士二人で仲良く遊んでろ。
ここへは面出すな。
157 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/04(金) 09:28:07.48
ここ数日、邪馬台国に関して考えたおかげで、ようやくうっすらと
真相が見えてきましたよ。ようは我々は、日本の地理を正確に認識してるので
それを前提に魏志倭人伝を読むので邪馬台国の場所が分からないんです。
その先入観をとっぱらわないかぎり真相など見えてはこないということです。
3世紀の始めて日本に来た古代中国人も我々と同じような地理認識など
あったわけがないでしょwなので魏志倭人伝に拘泥して一字一句解釈の仕方など
探るのは愚策だとわかってるので、専門家は邪馬台国問題などタッチしないことも
ようやくわかりました。もはやそのようなものは学問でもなんでもないですからね。
>>98 >だいたい2世紀前後に九州勢力と畿内勢力が戦った根拠はあるのかい?
高地性集落は主に瀬戸内沿岸に多いようですから、鉄の優位性を生かして、
九州側が東征してきたためと考えられます。しかし鉄の優位性があれば
戦いに勝てるというものではないでしょう。ゲリラ戦術で補給路を断つとか
やり方はいくらでもありますし。で戦いが長期化したので和睦して
卑弥呼を共立したのでしょう。
158 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/04(金) 09:40:50.49
魏の使者はおそらく伊都国までしか行っていません。 倭人伝にも伊都国に使者が駐在すると書かれてますし。 つまり伊都国以降の行程分はすべて伝聞です。 実際に魏の使者が実際邪馬台国まで行ったなら水行十日陸行一月といったような きりのいい数字になるのも不自然です。水行十二日陸行三十六日とか 具体的な数字で書かれてればまだ実際行った可能性もありますが。 伊都国で卑弥呼のいる邪馬台国までの行程を聞き、それを日本などいったこともない 中国の史家が、里数に換算して、女王国まで万二千余里と書いたものと思われます。 伊都国から邪馬台国まで約1500里、魏の1里は430mですから、 0.43km×1500=645km、これを投馬国と邪馬台国の行程60日で割れば 約10km。おそらく1日に10km程度進むものとして計算すれば ちょうど1500里になるんです。 で先ほども言いましたが、古代中国人に日本の正確な地理認識など ないんで、倭国=九州だと思ってる節があるので、実際邪馬台国は 畿内にあったけど、倭国=九州 の中にあったと勘違いしたというのが 真相でしょう。具体的に古代中国人が九州をどのような形として認識し、 邪馬台国がどのへんにあったと認識したかはわかりませんが、 我々の常識に照らし合わせて考えても答えなど出てこないんですよ。
159 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 09:50:10.22
ま、畿内説定番の、「信頼できない、正しくない」 パターンですな。
160 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/04(金) 09:56:15.44
魏志倭人伝で信頼できるのは実際走破したであろう伊都国までの行程と あとは日本のどこかに邪馬台国なる国があり、そこに卑弥呼がいた。 その程度ですw それ以外は考古学的知見から、真相を探るべきです。
161 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 10:04:09.64
>>158 >実際に魏の使者が実際邪馬台国まで行ったなら水行十日陸行一月といったような
きりのいい数字になるのも不自然です。水行十二日陸行三十六日とか
具体的な数字で書かれてればまだ実際行った可能性もありますが。
それこそ数字を使った古典的な詐欺師のトリック。
根本に有るのは自分への安心感。史実なんてどうでもいい世界。ザワザワっ
162 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/04(金) 10:08:24.23
裸国、黒歯国まで1年という記述もありますし、 こんなん実際に行ったわけないでしょw伝聞です。 日本から東南に1年航海してたどり着ける国ってどこですか?w 古代の筏で、南米アンデスまで一年かけてたどり着けたとでも いうつもりですか?そこからまた帰ってこなければ 情報が伝わりませんよね。つまり魏志倭人伝など確実に 信頼できそうな文章のみ見ていかないと見誤ります。
163 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 10:13:02.76
>>160 >魏志倭人伝で信頼できるのは実際走破したであろう伊都国までの行程と
あとは日本のどこかに邪馬台国なる国があり、そこに卑弥呼がいた。
その程度ですw
一個人の信頼性か?
164 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 10:47:29.98
>>162 >裸国、黒歯国まで1年という記述もありますし、
こんなん実際に行ったわけないでしょw伝聞です。
行ったとか、行かなかったなんて個人的な考えなんてどうでもいいこと。
ここにそう書かれたと言う史実だけを見ればいい。
君の考えはころころ変える事は出来るが、書かれた史実だけは変える事が出来ない。
165 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 10:51:46.35
一月行=短里千里=77キロとして、 一年なら12倍して、924キロ さて、どこに着くでしょうか。
166 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/04(金) 10:52:53.83
ふらふらと考えが揺れて、ようやくやはり邪馬台国は畿内だという あたりまえの結論に達しましたw そもそも邪馬台国が北九州なら、伊都国に一大卒を置く意味がないし。 邪馬台国自ら管理すればいいし、九州説の大本命の山門郡も、 だったら末櫨国に上陸後、そのまま山門郡に直行したほうが早いのに、 なぜか伊都国に行ってるし。ありえないことがわかるでしょ。
167 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 11:02:11.10
確かに、糸島の伊都国はありえない。 山門郡説ではないが、山門郡に行くのに、 佐賀の伊都国なら、通り道で適切な場所であるのがわかるだろう。 糸島の伊都国と福岡奴国は重要な遺跡のある場所だが、 倭人伝のルート上にはない。
168 :
名古屋大文学部1年生 :2011/11/04(金) 11:24:01.88
まあでは仮に邪馬台国が北九州にあり、 魏の使者も正確な地理認識があったと仮定してみても、女王国の東の海渡り 山口あたり?に到着し、その南の四国にまたシュジュ国なる国があると、 そこまで東のことも書かれてるのに、なぜ畿内ヤマト王権の話は全く出てこないんです? 東南1年で裸国や黒歯国に至るとかそこまで遠くのことは書かれてるのにw 巻向の発掘状況からみても無視できるような規模ではないことくらい明らかでしょ。
169 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 11:28:27.14
倭種がいるとは書いてあるから、 まあ、その程度の村落くらいはあったのだろうが、 特筆すべき大国はなかったということだな。 つまり、長い間の論争になっている、巻向3世紀とか 4世紀とかの話が、裏付けられるということでもある。
170 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 11:40:48.73
名古屋大文学部一年生って、アラタメの別ハンネだろ。
171 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 11:44:42.50
色々と、関係を持って論理が巡り巡ってくるんで、 一箇所都合よく修正すると、他の所で破綻することがある。 修正、捏造は慎重に。 逆に、適切な修正だと、一見関係ないところでも、 うまく収まるようになったりする。 よく言われる表現だと、「ピースがはまる」である。 そういうものを慎重に探さなければならない。 資料の解釈などは、自由にいじり回して良いもの ではないのである。
172 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 12:50:37.09
>>69 :河童虫 さん
>>67 >東行至不彌國百里→東行して不弥国に至るには百里。
>>69 東へ行く。百里の不彌国に至る。
末廬國⇒東南至奴國百里。・・・@
奴國⇒東行至不彌國百里。・・・A
@Aの百里は二点間の距離です。
「東南陸行五百里 到伊都國」の『方位+行』で伊都国に到るで一連の行程叙述が終焉している。
@の奴國の起点は末廬國です、
Aの不彌國の起点は奴國であり
その行程叙述は末廬國⇒奴國⇒不彌國で終焉することをより明確に記述する為に記述方法を変えてあるだけ。
だから、
南至投馬國水行二十日・・・B
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・C
も別記述方法で記述されている、
勿論、Bの起点も末廬國でありその行程は投馬國で終焉し、
Cの起点も末廬國で、その行程は邪馬壹【臺】國で終焉している。
173 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 13:11:58.72
>>162 >そこからまた帰ってこなければ情報が伝わりませんよね。
考えが浅いな。南米アンデスからの漂流者が来ていれば、片道だけでも
書けるよ。
174 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 13:31:39.10
>>110 >全く漢文を読む能力がない。
>@「徼」は『通(とおる・とおす)なり』
て、いつの時代の解釈?
>A「樂郡浪徼 去其西北界拘邪韓國七千餘里」の「其」は「倭」。
倭でOK。
>B「其地大較在會稽・東冶之東」の「其地」とは「邪馬臺國」。
という解釈は成立しない。
「拘邪韓國」の一端は倭(其)の西北界で他の一端は「其地大較在會稽・東冶之東」
と、「拘邪韓國」の領域を明確に記述してある。
C 「邪馬臺國」の地は大較會稽・東冶之東に在る。
×
D 「會稽・東冶之東」とは北緯30度の鹿児島県口之島付近となる。
北緯30度なら「會稽之東」と記述されているだろう。
『會稽郡の東冶』は北緯26度の福州にあった。従って
その東は列島の沖縄にあたる。
>>186 九州説の大本命の山門郡も、
だったら末櫨国に上陸後、そのまま山門郡に直行したほうが早いのに、
なぜか伊都国に行ってるし。ありえないことがわかるでしょ。
伊都国は糸島ではなく佐賀平野ですよ。
勅使が邪馬台国まで行ってないとかの馬鹿な主張ばかりなので
【名古屋大文学部1年生】とは別の名前で投稿した方がいいですよ。
畿内説は、都合の良いところだけ魏志倭人伝を利用し、 都合の悪いところは魏志倭人伝を蔑みあるいは無視し、 「とにかく畿内に邪馬台国が無ければならない」という 証明をしようとする詐欺なのです。 名古屋大文学部1年生も、残念ながら同じ手法だね。
177 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 15:16:22.18
@狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里だから 百里は5〜10qの間として考えます。 A邪馬台国のことを述べた行程記事で一番大切なことは 邪馬台国まで間違いなく案内することだから傍線行程などはなく全て順次式で読みます。 B伊都国〜奴国〜不弥国が百里しかないことからも推定できるように 一つの国は山を越えて広がるような大きなものではありませんでした。 C戸は家族ではなく住む家のことです。 そしで有屋室父母兄弟臥息異處から家には一人で住んでいたと解釈します。 だから例えば二万戸と言うのは二万人+αのことです。 D自女王国以北其戸数道里可略載とあるから末盧国、伊都国、奴国。不弥国。投馬国は 全て邪馬台国以北であり勅使か邪馬台国への途中に通過した国です。 E其餘旁國遠絶不可得詳とあるから勅使はそれ以外の国へは一国たりとも行っていません。 つまり邪馬台国への行程の途中に他の国は一国たりとも無かったのです。
178 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 15:17:48.95
これらをもとに 倭人伝の方角、距離、人口を満たす国々の配置はあり得るのでしょうか? 偶然に倭人伝の方角、距離、人口を満たす国々の配置がある確率はほぼ0のはずです。 ところが何と 倭人伝の記載通りに進んだ場合に限り 倭人伝の方角、距離、人口を満たす国々の配置があり しかも 投馬国のあったことになる場所にはツマの名前が残り 邪馬台国があったことになる場所にはヤマトの名が残っている。 偶然を遙かに超えている。 河童伊作以外の疑問質問受付ます。
179 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 15:18:29.59
末盧国は唐津に比定しています。
東南へ向かうには唐津街道のある唐津へ上陸するのが最善だからです。
楽な道ではありませんが草木茂盛行不見前人には一致します。
船で有明海へ向かわなかったのは
玄海の荒波の流れに逆らって三百q以上も進むのを嫌ったからだと思います。
次は奴国を比定します。
伊都国は千戸と少ないので判りづらいのに比べて
奴国は二万戸もあるので遺跡分布図から比定できるからです。
奴国は唐津から六百里(30q〜60q)の場所です。
佐賀平野には東名遺跡と言う西日本で最大級の貝塚遺跡があります。
最大級の貝塚(ゴミ捨て場)があったということは相当な人口があったと言う事を意味しています。
松浦川河口から東名遺跡まで直線距離で35q余り、
現在の道なりで47q程度です。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG これが弥生時代の遺跡分布図です。
東名遺跡を中心として佐賀大和〜吉野ヶ里が最も遺跡が密集しています。
唐津から六百里(30q〜60q)の場所でこれほど人口が密集している場所は他にはありません。
奴国はここ以外には比定できないと考えます。
180 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 15:18:54.99
奴国の中心地はは東名遺跡から少し北東になる上和泉付近が有力です。 伊都国はそこから直線距離で5.3q余り、現在の幹線道路道なりで8.1q程度の 嘉瀬川沿い都渡城付近。 不弥国は直線距離で5.5q、現在の幹線道路道なりで6.5q程度の 吉野ヶ里遺跡になります。 対馬国+一大国=末盧国(唐津)四千戸とすれば 佐賀大和〜吉野ヶ里の間の人口密集地帯はその五倍の二万戸は妥当だと考えます。
181 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 15:19:44.49
周旋可五千餘里から推定できるように倭の範囲は大きなものではありません。 だから当然、水行陸行も所要日数ではあれません。 水行陸行が所要日数で邪馬台国が広大な領土を持ち、卑弥呼が強大な権力を持っていたと言うのは 予断、潜入観念です。 同様に 水行十日水行二十日陸行一月が到着するための所要日数と言うのも間違いです。 所要日数だとすれば倭地は周旋可五千餘里には収まりません。 【謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】も 「★決して★実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。」 と述べています。 水行陸行の日数はどんな意味を持つのかと言えば、 実はこの記述がさりげなく挿入された倭人伝のキーポイントであり、 倭人伝の謎を解く手掛かりとなるものなのです。 日数は場所問題とは全く関係のない数字なのです。 投馬国、邪馬台国への距離は記載がありません。 距離を記載しなくても邪馬台国の場所は判るし、 距離を記載できない訳(後述)があったので陳寿は記載してないのです。 それでは邪馬台国の場所は特定できないのかと言えば もちろんそんなことはありません。 餘旁國遠絶不可得詳の文を入れることにより、 不弥国の次にある国が投馬国であり、 投馬国の次にある国が邪馬台国であると陳寿は述べているのです。
182 :
ローガン :2011/11/04(金) 15:22:54.25
>>147 王朝さん。
>異策はタマには
>>146 の様に正論を吐くこともあるな。
そんな事言っていいの? 別格氏は
「すなわち、後発歴史書が、資料とした先書と違うことを書いている場合、ほぼ後発歴史書の誤読・脚色・間違いによる。
さらにいえば、後発歴史書が、資料とした先書よりも新たな事実詳しい事実を書くこともほぼあり得ない。」
と言っている。これは正論ゆえ、同意と言う訳ですな? では…
「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」(隋書)
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」(後漢書)
先行の後漢書に拠れば、光武帝時朝貢者は倭奴国、安帝時朝貢者は倭国王帥升等と記録。
後発の隋書はそれをどちらも倭奴国と書いた。上記、別格氏の言を借りれば、
「先書と違うことを書いている場合、ほぼ後発歴史書の誤読・脚色・間違いによる。」 であり、隋書の誤引用である事を認めているに他ならない。
この誤引用した隋書に従えば、倭国(王帥升等)=倭奴国。
更に後発の旧唐書が、後漢書を誤引用した隋書を引いて「倭國者、古倭奴國也。」とした。と。
別格氏のレスが正論だとするなら当然、賛同して貰えますよね。(笑)
183 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 17:18:09.17
不弥国が吉野ヶ里であることは説明しました。
投馬国はここから南へ進んで最初にある国です。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG これを見れば判るように、弥生時代には吉野ヶ里のすぐ南には遺跡がほとんどありません。
多くの人が住んでいた痕跡がないのです。
個人的にはは吉野ヶ里の南側は海だったと考えています。
投馬国の南で最初にある国と言えば筑後平野です。
佐賀平野と同様に山沿いに弥生時代の遺跡はびっしりと密集しています。
吉野ヶ里から南へ進んで最初にある国と言えば
八女郡(上妻と呼ばれていた)、筑後市(下妻と呼ばれていた)、三潴郡(ミヅマ)です。
この地域は四世紀には八女津姫が治めていた一つの国、つまり投馬国だったと考えられ伸す。
邪馬台国は投馬国から南へ進んで最初にある、投馬国とは別の国です。
八女。筑後、三潴から南へ進んで最初にある国と言えば山門郡しかありません。
山門郡は四世紀には田油津姫が治めていた投馬国とは別の国です。
つまり、
邪馬台国は昔から有力候補地としてその名が挙げられている山門郡にあったのです。
奴国(佐賀市北部)の三倍半の人口から推定して、
邪馬台国の領土は山門郡〜大牟田〜熊本県荒尾付近まであったと考えています。
山門郡にある女山神籠石は山頂で標高約200m、
最大で畳一畳程度の大きさの石を加工して
10q以上も離れた別の山から運んできたものです。
卑弥呼の時代から2〜3百年後に作られたものですが
弥生時代遺跡分布からしても
当時ここに大きな国があったことを推定させるものです。
184 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 17:20:38.04
投馬国(八女、筑後。三潴)を治めていたのは八女津姫、 邪馬台国(山門郡、大牟田、荒尾)を治めていたのは田油津姫、 上記のように 四世紀の筑紫平野では判っている限り全ての国は女王が国を治めていたのである。 そして風土記、日本書紀などの古書が伝える限り、戦争の気配はない。 つまり これらの国々はそれぞれの国の女王により戦いのない平和な統治がなされていたのである。 ところが 四世紀になって別の勢力によって支配されてしまう。 別の勢力とは博多湾岸、大和朝廷系列の勢力のことである。 これからそれらの国々どのように大和朝廷の支配下に組み込まれたのかを調べていこう。
旧唐書の編者は、直接、漢書を読んでるだろ。 ローガンは、ややこしい屁理屈をこねて煙に巻くから、 畿内説の中でも特にタチが悪い
>>172 百里が移動距離だとする根拠がないでしょ
陸?海?空?三角測量?
>>186 移動距離ではないとするなら、そっちの根拠の方が必要でしょ。
188 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 18:34:17.41
漢籍に大量の里程表記が記録されているが、 これが距離でないという主張は初めてだ。
189 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 18:34:17.84
>>182 ▲「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」(後漢書)
▲「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。」(隋書)
安帝の時、(朝貢ではなく)朝賀したのは(倭奴国ではなく)倭国だ。
朝賀を朝貢と書いたり、倭国を倭奴国にしてしまったり、『隋書』が安直に間違えている。
>先行の後漢書に拠れば、光武帝時朝貢者は倭奴国、安帝時朝貢者は倭国王帥升等と記録。
ほりほり。突っ込みどころ掘り掘りのローガンが、朝賀(朝献)を「朝貢」などと間違ってるぞ。
(朝献・朝見・朝賀と朝貢の違いは分かるよな)
こんな安直な間違いなんざ・ザラにあるということだ。梁書なんてひどいもんだ。
>後発の隋書はそれをどちらも倭奴国と書いた………
>隋書の誤引用である事を認めているに他ならない。
説明した通りだ。
>この誤引用した隋書に従えば、倭国(王帥升等)=倭奴国。
なんで誤引用した隋書に従う。くだらない
>後発の旧唐書が、後漢書を誤引用した隋書を引いて「倭國者、古倭奴國也。」とした。と。
隋書は倭奴国、倭国の脈絡に言及した文章ではない。安直な間違い。
倭奴国、倭国、日本国の脈絡について明確に区別して言及しているのは旧唐書だが、
旧唐書が隋書を引いたという証拠はない。唐代に得た情報か唐代の人間の判断の可能性もある。
他人の穴をつつくつもりが、毎度まいど、つつく側の穴のほうがデカい。詰めが甘い。
190 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 18:37:25.33
倭国王・帥升の時も「願請見」だから朝見している。 よって朝貢ではなく朝献だ。
191 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 19:06:16.62
>>177 :筑紫痔漏の問題点。
・傍線行程などはなく全て順次式で読みます。
その正当性がきっちり論述されていない。
・戸は家族ではなく住む家のことです。
家族ではなく「世帯」だ。
・家には一人で住んでいたと解釈します。
こういう我流解釈をした時点でボツだ。どこの世界に通用するか。
・二万戸と言うのは二万人+αのことです。
戸の我流解釈からの飛躍にすぎん。
・自女王国以北其戸数道里可略載とあるから……投馬国は邪馬台国以北であり
そのわりには投馬国に至る道里が略載されていない。
・これらをもとに
未解決の問題山積みのまま「それらをもとに」されてもなー。
・投馬国のあったことになる場所にはツマの名前が残り
投馬国を「つま国」とよむのか?
・邪馬台国があったことになる場所にはヤマトの名が残っている。
邪馬台国をヤマトと読むのか? ヤマトの名なら熊本にもあるぞ。
>河童伊作以外の疑問質問受付ます。
これほどにまっとうな異論を避けて通る気か? つづくし。
192 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 19:07:05.54
・佐賀平野には東名遺跡と言う西日本で最大級の貝塚遺跡があります。 熊本平野には、御領貝塚というまさに西日本最大級の貝塚があり、 近くには古墳の数では九州一ともいえる塚原古墳群がある。 良い時代から古墳時代にかけて相当な人口があったとことを物語っているが。 ・不弥国は吉野ヶ里遺跡になります。 1000人規模の環濠集落ということで、1000戸=1000人+αとしたくて、 戸は家で、家には一人しか住んでいなかったという我流解釈が布石なわけだ。 で? 吉野ヶ里に1000もの家があったという事実はあるのか。 ・周旋可五千餘里から推定できるように倭の範囲は大きなものではありません。 「周旋」の意味は何だ? 倭の範囲ではないぞ。 ・水行十日水行二十日陸行一月が所要日数だとすれば倭地は周旋可五千餘里には収まりません。 だから。周旋可五千餘里は倭の範囲ではないぞ。 ・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授 日中ともに、邪馬台国論に口出しする学者にまともな奴はいない。 ・日数は場所問題とは全く関係のない数字なのです。 行程説明記述の中に、「場所問題とは関係のない数字」を書いてどうするか。 ・餘旁國遠絶不可得詳の文を入れることにより不弥国の次にある国が投馬国であり、 「其餘旁國遠絶不可得詳」は、その前の投馬国とは無縁の文章だ。文章構成が転じている。 ・投馬国(八女、筑後。三潴)を治めていたのは八女津姫、 ・邪馬台国(山門郡、大牟田、荒尾)を治めていたのは田油津姫、 どっちも「土蜘蛛」とよばれた少数社会部族だが、これが投馬国と邪馬台国の後身か? ・女山神籠石は、(弥生時代)当時ここに大きな国があったことを推定させるものです。 ぜんぜん関係ない。 ・四世紀の筑紫平野では判っている限り全ての国は女王が国を治めていたのである。 土蜘蛛なんて全国に散在するし、女の土蜘蛛も珍しくないが。
193 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 19:13:27.14
四世紀の筑紫平野では判っている限り全ての国は女王が国を治めていたのである。 「判っている限り」はいい。分かっていない土蜘蛛はどうなんだ? 土蜘蛛の住処は「国」で、その頭目である女土蜘蛛はみな女王か? ぬー?
194 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 19:22:07.32
竪穴式住居の大きさを、考慮したほうが良い。 一般的な竪穴式住居で、20〜30平方メートル。 平均25平方メートルとすると、7.7坪、畳にして15畳。 これにかまどや生活用品を入れると、核家族程度がせいぜいである。 一夫一婦制なら、核家族1つ分。 一夫多妻制なら、妻一人と子一人程度である。 4人も5人も生活できるような大きさではない。
195 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 19:34:56.28
吉野ヶ里で確認された竪穴式住居跡は300以上だそうである。 しかも、まだ発掘は続いており、この総数は更に増えるということである。 おそらく、環壕集落内はかなり身分が高い層だったはずであり、 環濠集落の支配する国全体で見積もれば、数千に達する 可能性は高いだろう。
197 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 19:39:49.16
>>191 〜
>>193 残念だろうが
理解する意志も能力もない基地外脳タリンと論じるつもりはない。
他の人脱鱈同じ質問でもお答えしまする
198 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 19:49:13.75
非生産者一割の法則ってのがあってな、 直接生産活動にかかわらない層は、一割くらいしか 食わせられないそうだ。 江戸時代まで来ると生産効率も上がって、 二割くらいが生産活動に携わらない層ができてくるが、 だいたいそんなものらしい。 環濠集落内の人間が、支配者層であったなら、 その十倍近くは周りの農地周辺にいたことだろう。
199 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 20:10:03.55
>>197 この種の作業は、一つ一つレンガを積みあげて家をつくるのに似ている。
レンガの一つ一つが粗雑で脆弱であれば、
せっかくの家もわずかな振動や外圧で土台から崩壊する。
自分の解釈を宣う前に、たとえば「戸」「周旋」など、
解釈を左右する語句の意味をきっちり詰めて提示することだ。
お前はそれができていない。
漢字は複数の意味をもつが、文意・文脈からどの意味を採用するかが文献解読だ。
どの意味を採用するべきか「確認」の意味で用例などを検証する。
「戸」にしろ「周旋」にしろ、最も確かな確認材料は同じ『三国志』の中でも魏書だ。
俺はそうした確認作業をした上で最も妥当な意味解釈を提示している。
お前の場合、そうした作業が疎かになっている。
ただひたすら、自分が持って行きたい所へ邪馬台国を比定するために、
「戸」などは我流解釈でお角違いの意味を採用している。
それはまさに、中身が粗雑なつくりで脆弱なレンガだ。
矮小ものだから、指摘の有り難みを感じる度量はなさそうだ。
200 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 20:14:24.84
>>195 >>環濠集落の支配する国全体で見積もれば、
思考深度の浅いことをいうな。吉野ヶ里の存続期間は長い。
カメ棺だけでも万は超えるだろう。
当面の話は、3世紀240年頃の戸数だ。
俺の異論の問いかけは、
痔漏のいう「戸=家」が1000もあったか否かだ。
発言するなら、きちんと責任のある発言をしろ。
201 :
ローガン :2011/11/04(金) 20:53:03.48
>>189 :デイビッド別格
>朝賀(朝献)を「朝貢」などと間違ってるぞ。
じゃあ訂正しといて。
>なんで誤引用した隋書に従う。くだらない
いや、それはレスの流れ上、使った言葉であり、他意なし。
>旧唐書が隋書を引いたという証拠はない。唐代に得た情報か唐代の人間の判断の可能性もある。
では、これは?
「其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。」
設官有十二等って、唐代の情報?(笑) そんな訳無いやん。明らかに隋書や北史がテキスト。
202 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 21:42:39.37
先書を下敷きにした記録は、時代が新しくなるにつれて 「複数の先書からのごっちゃ情報の間違いの増幅リレー」。 そもそも、代わり映えのしない言葉尻・揚げ足。 いい加減にしないと見切りをつけるぞ。
203 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 21:51:38.04
>>200 >当面の話は、3世紀240年頃の戸数だ。
>俺の異論の問いかけは、
>痔漏のいう「戸=家」が1000もあったか否かだ。
そこまでピンポイントの戸数は自分には無理だな。
問いかける以上、算出の根拠があるんだろうが、
その手法について教えていただきたい。
その手法に従って算出してみたいと思う。
204 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 21:57:21.27
>>203 吉野ヶ里の概要と復元建造物の配置などから、
1000戸もの住居があったとは思えないから、そう質問したまでのことよ。
本来は、いい出しっぺの痔漏が論証すべき問題だが。
205 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 22:06:56.31
吉野ヶ里の環濠集落の中に千戸以上あるとは思っていないが、 内部と周辺で300戸以上住居跡が確認されているのは 自分でもびっくりした。多数確認されたという話はよく聞いていたけどね。 まあ、長い年代に折り重なって作られたものもあるだろうがね。 それでも、そのオーダーで、吉野ケ里の支配地域に千戸程度では、 むしろ少なすぎるだろ。
>>188 >漢籍に大量の里程表記が記録されているが、
これが距離でないという主張は初めてだ。
初めてだろう。当然のこと
「大海之中」の記録を残したのは倭人伝が初めてだからね
それまでは「海」という概念がない陸地だけの記録
そこに「大海之中」という概念が新たに加わった
だから初めての環境が必要になったのさ
>>187 移動距離には起点と着点を移動して、移動を以て測量とし距離を数値化する
しかしここにはどういう環境で移動測量したかの下地が存在しない
存在しない以上これを移動距離とは到底認められない。
これはしごくまともな道理だと思うがね
207 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 22:35:10.08
>内部と周辺で300戸以上 それじゃ話になるまい。 >長い年代に折り重なって作られたものもあるだろうがね。 当たり前だな。ただ300戸以上といっても論旨の時代のものとは限らん。 >吉野ケ里の支配地域に 今度は「吉野ケ里の支配地域」ときたか。 痔漏から「吉野ケ里の支配地域」について聞いたのか。 それともお前さんの個人的な想定か。 「不弥国は1000家」、「吉野ケ里は1000人規模」。 ここから、痔漏は戸は家で、1戸に一人なんてのを編みだしている。 それに対する異論なのだが、そもそもの論旨は分かってるよな。
208 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 22:45:06.94
>「不弥国は1000家」、「吉野ケ里は1000人規模」。 ここから、痔漏は戸は家で、1戸に一人なんてのを編みだしている。 一言も言ってないことを捏造するな。 くず。
209 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 22:53:34.40
>207
何度か読み返したが、不弥国は吉野ヶ里、という以上で、
不弥国千戸はわかるが、吉野ヶ里環壕集落内に千戸とは読めない。
>>183 のあたりだと思うが、どこをどう読めば、吉野ヶ里が千人規模なのか
該当の位置を示してくれないか。
一戸に一人に近いのはほぼ同意。
>>194 に書いたとおり。
戸が世帯なのか建物なのかは決着がついていないので、
標準的な解釈だと建物だ。
210 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 22:58:17.54
他の人のために説明したい。 戸は @{名詞}と。家やへやの出入り口。また、出入り口にある片開きの一枚とびら。 A人民の住む家。また、民家を数えることば。 B家の意から転じて、大人の男の人。 〓学研漢和大辞典〓 と言う意味があります、 家族の人数を表す意味はありません。 倭人伝では A人民の住む家。また、民家を数えることば。 のことでしょう。 そして倭人伝には 有屋室父母兄弟臥息異處 (家屋があり、父母兄弟は別の場所に居て寝起きする。)とありますから 家族は原則別の家に住んでいたことになります。 ならば家の数=戸がほぼ人口に近い数字になるはずです。 謝銘仁【中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】も 同様のことを述べていますから 遺作の言う我流解釈にはあたりません。
211 :
筑紫次郎 :2011/11/04(金) 23:02:38.55
>>209 基地外脳タリンはレスするなと何度も行っている。
相手してもらえると思っているのなら大間違い。
他の人の質問にはお答えします。
212 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 23:05:37.07
>127 ゴミクズイサク 人のことをいう前に、なんでゲス扱いされるか考えろ。 そのていたらくで、ちゃんと対応してもらおうとし思ってるわけじゃあるまい。 敬意をもって対応してもらえるだけの言動をしてるか? 一人前に対応してもらえるだけの内容のある発言をしているか? 他人のことを批判するだけの「もの」をもってるか?
214 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 23:17:23.43
>>209 >一戸に一人に近いのはほぼ同意。
>戸が世帯なのか建物なのかは決着がついていないので、 標準的な解釈だと建物だ。
>>210 >倭人伝では 人民の住む家。また、民家を数えることば。 のことでしょう。
>家の数=戸がほぼ人口に近い数字になるはずです。
『後漢書』郡国志に掃いて捨てるほどこういう記録がある。
・河南尹。戸二十万八千四百八十六,口百一万八百二十七。
・河內郡。戸十五万九千七百七十,口八十万一千五百五十八。
口は人口だが、戸あたりの人数は何人ぐらいかな。
1戸につき一人だと、口も戸と同じような数字になるはずだが。
前に書いたこと。
三国時代の曹操は、兵士の安定供給をはかるために戸兵制度を導入した。
これは、各戸の男子は兵役、女子は後方支援という具合に、
家族単位で軍事に専従することを決めた制度だった。
従って『三国志』のいう戸とは「家族単位の世帯」と判断して差し支えないものと思われる。
戸が家だろうが家には家族がいる。1軒につき1人にんてバカげた計算があるか。
なんだこれ。
>有屋室父母兄弟臥息異處
>(家屋があり、父母兄弟は別の場所に居て寝起きする。)とありますから
>家族は原則別の家に住んでいたことになります。
別の所とは別の部屋という意味だ。別々の家に住むのではない。失笑
215 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 23:25:28.32
>>213 それは、俺が名無しのお前たちにいったことじゃないか。
ほれ。
>>214 をみろ。
俺は、ちゃんとした論拠を副えて筋の通った説明をしてるぞ。
>>212 了解です。
よく読まないで遺作と早合点していました。
申し訳ありません。
217 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 23:27:43.49
>>214 >『後漢書』郡国志に掃いて捨てるほどこういう記録がある。
>・河南尹。戸二十万八千四百八十六,口百一万八百二十七。
>・河?郡。戸十五万九千七百七十,口八十万一千五百五十八。
>口は人口だが、戸あたりの人数は何人ぐらいかな。
>1戸につき一人だと、口も戸と同じような数字になるはずだが。
このあたりのネタは以前論争やってたから知ってるけどな。
一戸あたり4〜5人となるが、中国の住宅事情で成立する話だ。
竪穴式住居15畳程度に大人4人以上詰め込むつもりかい?
15畳、中央部に炉やかまどを作った状態で、何部屋に区切るつもりかね?
それとも、竪穴式住居数戸を一戸と数えるのかい?
住宅事情が違うことを忘れてはならない。
>215 それは、俺が名無しのお前たちにいったことじゃないか。 まんま、おまいにびたりと当てはまる。
イサクは馬鹿こいて嘲笑されるのがほんまに好きだのう。
220 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 23:34:58.95
>>218 そうかぁ。自分にウソをつくのは体によくないぞ。
221 :
日本@名無史さん :2011/11/04(金) 23:35:49.66
世帯の数え方というのも結構難しい。 一戸に住むのはせいぜい核家族である。 当然、祖父母、父母、兄弟夫婦などある程度近い所が、 集まって竪穴式住居を作るだろう。 一夫多妻制なら、もう少し複雑になる。 そして、この家族集落は、何世帯に相当するのかを、 正確に把握できたかという問題がある。 一番簡単なのは、文字どおり、建物の戸数を数えることである。
222 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 23:43:05.13
>>217 >一戸あたり4〜5人となるが、中国の住宅事情で成立する話だ。
何か大きな考え違いをしているな。中国人がいう「戸」の解釈の話だぜ。
>竪穴式住居15畳程度に大人4人以上詰め込むつもりかい?
>15畳、中央部に炉やかまどを作った状態で、何部屋に区切るつもりかね?
痔漏が持ち出した「屋室がある」とは、身分の高い人間の住居だ。
寝起きをする個々の部屋があるということだ。
竪穴式住居は中級以下の住居で、家族は雑魚寝にひとしかったろう。
>それとも、竪穴式住居数戸を一戸と数えるのかい?
何の話だ?
>住宅事情が違うことを忘れてはならない。
何の話だ?
無駄な小江弁だ。おわりにしよう。
>無駄な小江弁だ。おわりにしよう。 理解力が無いのだから最初から口を出さなければいいのに。
224 :
デイビッド別格 :2011/11/04(金) 23:50:44.35
戸が家だろうが家には家族がいる。 住宅事情が悪かったろう古代において、 1軒につき1人なんてバカげた計算があるか。 ↓↓↓失笑もののバカ読み。 >有屋室父母兄弟臥息異處 >(家屋があり、父母兄弟は別の場所に居て寝起きする。)とありますから >家族は原則別の家に住んでいたことになります。 寝起きする場所が違うとは、別々の家に住むとうわけだ。失笑 「有屋室」は「家屋があり」とよむわけだ。嘲笑
225 :
デイビッド別格 :2011/11/05(土) 00:01:49.95
>>221 >一番簡単なのは、文字どおり、建物の戸数を数えることである。
「建物の戸数を数える」て日本語かい?
1戸を一つの建物(住居)としてもいい。その建物には家族が複数住んでいる。
それが「世帯」だ。1戸を1世帯とする読みのどこがおかしいか。妥当だろが。
しかも、それが妥当である常識的証拠も提示したぞ。
これ以上何をあがくか。
「戸は世帯ではない一つの建物だ」といい張り、
「1戸につき一人住んでいる」といい張る無理解釈を潰してる所だろが。
乳幼児は当然母親と同じ戸に住まうんでしょうが、1戸1人の説の場合何歳から別居が始まるんでしょう?
227 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 00:11:48.35
>>225 >1戸を一つの建物(住居)としてもいい。その建物には家族が複数住んでいる。
>それが「世帯」だ。1戸を1世帯とする読みのどこがおかしいか。妥当だろが。
それが竪穴式住居で可能か?、と言っているのだ。
家族複数というのは現実的に無理で、
せいぜい1家族で、2名+αがせいぜいだろ。
それに一夫多妻制が入ってきたら、いったい何人つめ込むつもりだ?
現実問題として、数戸立てることになるだろうが。
228 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 00:13:32.61
まあ竪穴住居自体、祖父母・親・子と3世代も一緒に住めるほどのスペースは無い。 核家族と言うのは正しいだろうが一戸=一人と言うのは幾らなんでもアレwww
ここまで馬鹿晒して恥ずかしく無いのだろうか?
230 :
デイビッド別格 :2011/11/05(土) 00:23:46.28
竪穴式住居に「屋室」があるか。
「屋室がある」とは身分の高い人間の住居だ。
寝起きをする個々の部屋があるということだ。
邪馬台国時代の弥生後期(吉野ヶ里の集落はほぼ消滅して離散してしまう頃)
の吉野ケ里に「屋室がある」というほどの住居が1000軒もあった理屈は成立するか。
>>227 >それが竪穴式住居で可能か?、と言っているのだ。
「何の話だ?」と書いた理由がわかったか。
竪穴式住居一つに一人住まいだとした場合「屋室あり」の意味が通じまい。
これに続く「寝起きする所を異にする」という文章の意味も不自然だろ。
まして、一人に1戸ならこんな文章は必要ないところだ。わかったか。
勝負あり。今日はおしまいだ。
231 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 00:24:07.05
>>228 核家族と言うのは正しいだろうが一戸=一人と言うのは幾らなんでもアレwww
竪穴式住居でも家族で住んでいる絵とかありました。
私もそう考えていました。
しかし、
有屋室父母兄弟臥息異處は
どう解釈しますか?
1戸1人説の人は労働人口という観点で話してるのかな?人口ではなく
>勝負あり。今日はおしまいだ。 おまいの負け
234 :
デイビッド別格 :2011/11/05(土) 00:28:57.83
それにしても、道理と論理と事実を無視してまで反意を示す奴がいるようだ。 事実がどうこうよりも「反伊作」意識が強いというわけか。 で・なに、 戸は世帯ではなく建物で、一つの建物に一人住んでいたというわけだな。 みあげたもんだぜ日本古代史。
235 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 00:29:22.79
>>232 1戸1人説の人は労働人口という観点で話してるのかな?人口ではなく
原則一人と言うことです。
実際は+αになるのか二人程度になるのかは判りません。
医療の発達していない時代小児までの死亡率は高いと思いますが、子沢山状態でないと人口は激減しますね 子供の人口を+αとしたら人口は大きく違ってくると思いますよ
237 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 00:34:44.68
一夫多妻制といえば、アフリカのある部族では、 中央に父の建物と食料倉庫があり、 周囲を囲むように、10戸くらいの妻と子の家があった。 また、イスラム系遊牧民の一夫多妻制でも、 妻と子のテントは、父とは別にそれぞれ独立して立てられる。 一夫多妻制でも、妻同士は一緒には暮らしにくいもののようである。
238 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 00:46:43.76
>子沢山状態でないと人口は激減しますね 子供の人口を+αとしたら人口は大きく違ってくると思いますよ +α がどれくらいになるのか、倭人伝は何も記載してないので判りません。 父母兄弟が別の家に住んでいると書いているようだが 何歳頃からとも書いてない。 子供が自分の部屋をほしがる頃まで(小学校低学年)かもしれない とは考えています。
239 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 00:48:53.92
240 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 01:09:00.47
>>237 中央に父の建物と食料倉庫があり、
周囲を囲むように、10戸くらいの妻と子の家があった。
吉野ヶ里でも主人の家、妻の家と分かれていたそうです。
また後の時代でも
多妻の場合は同じ部屋ではなく正妻は北の方と呼ばれたりしていたそうです。
弥生時代も別の家に住むとは言っても
遠く離れて別々に暮らすというのではなく、
直ぐ近くにあって別の部屋程度の感覚だったのかもしれません。
倭人伝の戸数と人口はかなり違うということですね?
242 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 01:23:40.99
>子沢山状態でないと人口は激減しますね 子供の人口を+αとしたら人口は大きく違ってくると思いますよ もしかしたら 戸籍とか無くて人口の把握は困難だった。 家の数だったらおおよそ判るから人口ではなく戸数で記載したのかもしれません。
243 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 01:26:51.28
>>241 倭人伝の戸数と人口はかなり違うということですね?
1戸は一家族よりもかなり少なかったと考えています。
>戸籍とか無くて人口の把握は困難だった。 家の数だったらおおよそ判るから人口ではなく戸数で記載したのかもしれません 税の徴収方法はどのように考えていますか?
245 :
筑紫次郎 :2011/11/05(土) 01:38:01.44
>税の徴収方法はどのように考えていますか? 申し訳ありませんが 興味もないし何も考えていません。 判断する資料もないので根拠のないことしか言えません。
246 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 01:56:19.80
>>230 見栄と嘘と知ったかぶりの塊 森村伊作
>邪馬台国時代の弥生後期(吉野ヶ里の集落はほぼ消滅して離散してしまう頃)
おいおいおい、それは庄内併行期かそれ以後って話だろう?
お前の散々言ってきた話と年代観と合わないんじゃないのか?w
それとも畿内と九州の年代は別腹か?www
>>245 確かに收租賦とあるだけで課税対象も書かれてないし、人口も、1戸何人かも、国の広さも書かれてないのでわかりませんね。
248 :
デイビッド別格 :2011/11/05(土) 07:02:14.64
>>231 >竪穴式住居でも家族で住んでいる絵とかありました。
それが普通だ。家族単位で暮らす。
>有屋室父母兄弟臥息異處はどう解釈しますか?
「屋室」とは何だ。竪穴式住居に屋室があるか。
「父母兄弟臥息異處」とは、別々の部屋(屋室)で寝起きするという意味だ。
こうした生活スタイルは、身分の高い者の生活描写だ。
「どう解釈しますか? 」もへったくれもあるか。
249 :
デイビッド別格 :2011/11/05(土) 07:08:19.27
タコのタコな会話。 父母兄弟ごとに1棟ずつ竪穴式住居をもっていたのか、 すごい豊かな住宅事情だな。 その個々の竪穴式住居を「屋室」というのか。 すごい中国語だな。 わらわら
250 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 08:22:35.47
伊作 哀れw
251 :
筑紫の民 :2011/11/05(土) 08:46:27.41
┌─────┐ │お は よ う.│ └∩───∩┘ ヽ(`・ω・´)ノ ドーム応援行ってくるばい。
252 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/05(土) 08:58:49.15
今までの僕の稚拙な発言が恥ずかしくなったので HN変えて再出発しますw 大学受験終わってから気が抜けて頭の中に蜘蛛の巣がはっていたようです。 HNからもわかるように邪馬台国は畿内です。 九州等その他にある可能性は1割未満ってとこですw 僕も昨日少し邪馬台国に関して勉強してやはり畿内であるという 確信に至りました。
253 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 09:13:41.46
畿内説は畿内説スレでやりな ここは九州説スレね
254 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/05(土) 09:15:04.98
最大の問題点である水行十日陸行一月 に関する解釈の仕方について、 九州説の総日程説の場合、水行十日は帯方郡から末櫨国上陸までの一万里。 この距離を十日でクリアーできるかどうか、ぎりぎり可能かもしれません。 では末櫨国から邪馬台国まで陸行一月はどうか?クリアーできませんw 古代の獣道とはいえ、北九州内の移動に一月もかかるはずがありません。 狗奴国の領域を迂回し回り道をしたせいだとか、旁国を巡ってから 邪馬台国にいったためだとか、全部個人レベルの妄想ですw 伊都国からの放射説も同様に陸行一月は無理があります。 では次に畿内説の場合はどうか?投馬国(吉備あたり)から邪馬台国まで、 水行十日で大阪あたりに上陸後、陸行一月、これもありえません。 では水行十日、または陸行一月と読み、吉備からヤマトまで、陸行一月はどうか? 岡山から奈良まで一月もかかりすぎです。これもかろうじてありえなくないけど、 少し厳しい気がいたします。では陸行一月とはなんぞやと? これが邪馬台国の場所を解く一つのカギだと考えます。続く
255 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/05(土) 09:30:23.37
平安時代の「延喜式」の行程表によれば、大宰府〜京まで陸行片道27日となっています。 約一月です。これがぴったりあてはまるのではないでしょうか? 水行の場合、大宰府から投馬国と推定される備中まで片道で約9日です。 備中から京まで水行で片道6日 となっています。なので倭人伝の記述に合いません。 片道ではなく、往復としてみれば、投馬国まで18日、邪馬台国まで12日と 誤差はそれほどなくなります。役所の公的な旅費規定によると、 水行は往復で、陸行は片道で、計算されていたらしいので、倭人伝の記述は 伊都国にて魏の使者が役人から聞いた、旅費規定による行程表のことだった、 これが最も合理的な解釈ではないでしょうか?
256 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 09:39:09.88
往復とか、片道とか数字を合わせるのは大変だね
257 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/05(土) 10:11:12.12
次に、古代中国人の地理認識の問題。 其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。 後漢書に記載されてある文章ですが、朱崖、儋耳とは、 今で言う海南島のことで、倭人と同じ倭族である黎族が住んでいたと されています。風俗に関しても同じ倭族なので酷似していると 考えられていたようです。これが当時の漢民族の地理認識。 つまり倭国は会稽の東にあり、南北に連なり、海南島の近くにあったと 思っていたようです。なので東ではなく、南と勘違いして倭人伝では 記述したようです。
258 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 11:23:29.38
>>214 :デイビッド別格
>>有屋室父母兄弟臥息異處
>>(家屋があり、父母兄弟は別の場所に居て寝起きする。)とありますから
>>家族は原則別の家に住んでいたことになります。
>別の所とは別の部屋という意味だ。別々の家に住むのではない。失笑
子供は部族の共有財産として、部族で育てるという慣習が現在でも残されている少数民族がいる。「有屋室父母兄弟臥息異處」とはそのような環境をいうのであろう。
>>210 :筑紫次郎 さんの解釈に一票だな。
当時の庶民の縦穴式住居がいくつかの部屋に分かれているということはないな。 寝床などに使用した可能性のある出っぱりが作られているものもあるが、中国人なら 部屋とは見なさないだろう。
260 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 11:51:26.64
つーか、この当時の庶民の住居は穴グラだろ 崖に横穴掘って、入口に気休め程度の雨避け囲いした程度の 竪穴式なんて、相当な実力者じゃないと住めないんじゃないの。
「19歳邪馬台国畿内説論者」の根拠はただ一つ。 「邪馬台国だからヤマトに決まってる」 名古屋大学のレベルを偏差値40に落とすなよ。
262 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/05(土) 13:13:00.66
いや、あくまで文献と考古学、両面からの整合性で畿内だと判断したまでです。 邪馬台国関連の書物は7,8冊程度しか読み込んでおりませんが、 その中で合理的な部分を抽出していけば畿内にあったと思わざるをえません。 それに僕は名古屋大にしかいけなかった馬鹿ですが、実質的な偏差値はもう少し上でしたからw 不覚にもこんなとこで甘んじてるだけで。
263 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 13:33:42.90
バカでも入れる大学とは知らなかった。
264 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 13:41:01.33
シナの一戸は成人5〜6人で構成されている。 戸主以外に4〜5人の成人がいることになる。 後漢書だけでなく、三国志蜀書、呉書にも書いてある。 戸には門(扉)中に成人数人の親族が住んでいる。 門を入った中庭の周りに棟続きも含めた数軒の家があり、 戸主の叔父や叔母が住んでいることもある。 この戸制度の残影は現代中国の地方に今だに見ることができる。 同時代のシナの状況に合わせて判断すると、 邪馬臺國の人口は、7万戸即ち成人35万人と見做してよい。
265 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 14:03:37.64
>>262 自ら馬鹿と自己紹介しなくてもいい。
周知の事だから。
266 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 14:07:58.45
吉野ヶ里(不彌國)の人口 1000家×5人=5000人 家≒戸 「戸」は被支配民 「家」は非被支配民 戸制度の国と家制度の国では社会制度が異なるのだ。 すなわち、一大國と不彌國は他の国々と異なり、 支配者に支配された民衆でゃないので、彼等の独立性が高いのだ。 これらの国は共同体社会の国であるため、大規模な国にはならない。 韓伝の国々では、王不在か支配権のない王であるで、 国の人口規模は家で表現されている。
267 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 14:20:15.36
>>254 >では陸行一月とはなんぞやと?
末盧國から邪馬臺國までの距離。
陸行一月は約1000里に相当。
(海行一月も約1000里に相当)
末盧國から投馬國の距離は水行10日。
即ち10000里に相当。
この数値は、魏使(郡使)が体験したものでなく、
倭人からの伝聞と思われる。
268 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 14:37:08.01
>>182 老癌さん
>この誤引用した隋書に従えば、倭国(王帥升等)=倭奴国。
>更に後発の旧唐書が、後漢書を誤引用した隋書を引いて「倭國者、古倭奴國也。」とした。と。
>別格氏のレスが正論だとするなら当然、賛同して貰えますよね。(笑)
当たり前田のクラッカー
俀國は、倭奴國の流れを汲む国だと書いてあるにすぎない。
何が、(笑)なのだ?
269 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 15:51:23.38
>>174 >>@「徼」は『通(とおる・とおす)なり』
>て、いつの時代の解釈?
明治時代に既にあった解釈
>>B「其地大較在會稽・東冶之東」の「其地」とは「邪馬臺國」。
>という解釈は成立しない。
>「拘邪韓國」の一端は倭(其)の西北界で他の一端は「其地大較在會稽・東冶之東」
>と、「拘邪韓國」の領域を明確に記述してある。
君の論理が理解できない。
>>C 「邪馬臺國」の地は大較會稽・東冶之東に在る。
>×
何がXなのか解らない。
>>D 「會稽・東冶之東」とは北緯30度の鹿児島県口之島付近となる。
>北緯30度なら「會稽之東」と記述されているだろう。
>『會稽郡の東冶』は北緯26度の福州にあった。従って
>その東は列島の沖縄にあたる。
「會稽東冶」は會稽の東の支配地の意味。
治水以外の方法で「おさめた」から「冶」の字を使っている。
現在の寧波市や舟山市(舟山群島)付近。
寧波市や舟山市(舟山群島)は、刺青をし水没する人々がいるところ。
帯方郡(ソウル付近)の真南12000里に邪馬臺國(女王國)があると(魏志倭人伝で)勘違いした為、
邪馬臺國が東に振れている距離を真南にしたからである。
帯方郡真南12000里は北緯30度(口之島付近)。
會稽東冶(寧波市や舟山市(舟山群島))も北緯30度。
270 :
ローガン :2011/11/05(土) 16:17:12.21
>>268 >>別格氏のレスが正論だとするなら当然、賛同して貰えますよね。(笑)
>当たり前田のクラッカー
古〜。てなもんや…
同意と言う事は、件の隋書記述は、後漢書を単に誤引用したものであると認めた訳ですな。
後漢書の倭奴国は博多辺りで確定。 しかし倭国(王帥升等)は不明。 この不明の倭国を隋書は、単なる誤引用で「倭奴国」であると書いた。
で、貴方が同意した
>>146 の別格発言
『歴史書編纂の基本は「文章伝世」で、先書を尊重して記録を踏襲する。(文章丸写しというのではない、記録された内容を踏襲するという意味)。』に照らすと
後発の旧唐書は、先書の後漢書に出てくる倭国が、隋書において倭奴国と記載された事を踏襲して書かれた。
つまり、倭国者古倭奴国也…、とは、後漢光武帝時の金印の倭奴国の事。その後のヤマト政権との区別があって当然。
貴方が同意した別格発言は、旧唐書が2朝の同時存在を、主張できるようなものでは無い事を示唆しているんですよ。
271 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 16:19:11.41
>>174 >>>@「徼」は『通(とおる・とおす)なり』
>>て、いつの時代の解釈?
>明治時代に既にあった解釈
大正時代発行の辞書にも書いてある。
272 :
日本@名無史さん :2011/11/05(土) 18:27:40.70
>>262 理解力が欠けているのかな。ここは九州説スレだらここにレスを入れること自
体、自分も九州説を認めていますってことだよ。よーく考えなよ。
それとも素人の仮面を装って九州説をつぶそうという策謀か。畿内説の人間は
そこまで卑怯者か。
>>270 旧唐書の編者は、漢書も読んでいると思うぞ。
漢書はしっかりと伝承されて、今日まで伝わっているからな。
なんで、わざわざ「漢書だけは見ないぞ」と決断するんだよ。
274 :
ローガン :2011/11/05(土) 20:47:13.62
>>273 >旧唐書の編者は、漢書も読んでいると思うぞ。
うん。思う。
>なんで、わざわざ「漢書だけは見ないぞ」と決断するんだよ。
意味わからん。敷衍して。
>>270 >後漢光武帝時の金印の倭奴国の事。
そんな史実ないんだけどな
276 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/05(土) 22:56:26.92
>>270 >この不明の倭国を隋書は、単なる誤引用で「倭奴国」であると書いた。
違う。
隋書では「倭國」ではない。「俀國」である。
現在の俀國となる500年前の新羅東南の国を「倭奴國」をとして引用した。
>>274 旧唐書の編者が、なんで隋書以外の史書情報を
すべて捨てて書かにゃいかんのだ?
278 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/06(日) 08:32:38.87
さすがに畿内が正解だとわかってしまい 馬鹿馬鹿しくなってしまったのでこのへんで邪馬台国はおしまいにしますw 皆さんもそろそろお開きにしたほうがいいですよ。こんなん無駄な作業なのでw
279 :
日本@名無史さん :2011/11/06(日) 08:51:30.24
>>278 余計なお世話だ。黙って消えればいいことだ。
281 :
日本@名無史さん :2011/11/06(日) 12:19:27.05
>>269 :卑弥呼の都は久留米さん
>>174 >>@「徼」は『通(とおる・とおす)なり』
>>明治時代に既にあった解釈
後漢書は 398年〜445年頃で范曄の作ですが、
その時代に明治の解釈と同じ解釈が有効であるとする根拠はなんですか。
因みに、説文解字に「徼」は『循(めぐ)るなり』とあるが、
説文解字は後漢の許慎(きょしん)の作で和帝のとき(紀元100年)に成立している。
「徼」は説文解字による解釈を採用するのが有効でしょう。
>>B「其地大較在會稽・東冶之東」の「其地」とは「邪馬臺國」。
>という解釈は成立しない。
何故なら、「其地」とは「拘邪韓國」のことだからです。
>>C 「邪馬臺國」の地は大較會稽・東冶之東に在る。
>×
何がXなのか解らない。
「樂浪郡徼 去其國萬二千里」の「其國」が「邪馬臺國」ですよ。
>>D 「會稽・東冶之東」とは北緯30度の鹿児島県口之島付近となる。
>「會稽東冶」は會稽の東の支配地の意味。
侯官県でも参考にどうぞ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B6%E7%9C%8C
19歳とか一年生とかいう下司が湧いているが荒らしだから無視すべし
>>278 の訂正
278 名前:19歳邪馬台国畿内説論者[] 投稿日:2011/11/06(日) 08:32:38.87
さすがに畿内説が詐欺だとわかってしまい
馬鹿馬鹿しくなってしまったのでこのへんで邪馬台国はおしまいにしますw
皆さんもそろそろお開きにしたほうがいいですよ。こんなん無駄な作業なのでw
284 :
日本@名無史さん :2011/11/06(日) 21:54:47.93
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。 || ○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。 || ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 Λ_Λ || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。 || ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
285 :
第三者委員会 :2011/11/06(日) 22:44:04.19
19歳邪馬台国畿内説論者 当委員会のメンバーの内の3名が総力を挙げて文体分析を行った結果この19歳氏は名古屋大文学部1年生と名乗った 人物と同一人であると断定された。また、年齢19歳は詐称である。最近の調査によると若者の殆どが自分の年齢を書 く場合には19才、20才、22才と才という文字を使用している。犯人はある程度古文に慣れた人物と見られる。
286 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/07(月) 00:45:10.22
>>281 >D 「會稽・東冶之東」とは北緯30度の鹿児島県口之島付近となる。
東冶は侯官県と何の関係もない。
時代が異なる。
「會稽東冶」は、夏代少康の庶子の頃の話で、
會稽の東方の新しい治(冶)世地。
魏代だから漢代の制度とは何の関係もない。
@BCについては、
>>174 と
>>281 の繰り返しになるだけなので省略。
287 :
日本@名無史さん :2011/11/07(月) 08:22:43.38
288 :
日本@名無史さん :2011/11/07(月) 09:53:17.69
私は19歳畿内説論者の考えを支持するよ。 彼の言うとおり畿内が正解。
289 :
日本@名無史さん :2011/11/07(月) 11:36:48.19
>>286 名前:卑弥呼の都は久留米さん
>>281 >>D 「會稽・東冶之東」とは北緯30度の鹿児島県口之島付近となる。
>東冶は侯官県と何の関係もない。
>時代が異なる。
『漢代に冶県が設置されたのが侯官県の前身である。196年(建安元年)、後漢により冶県西部に侯官県が新設された。』
『冶県西部』に侯官県が新設され、その侯官県に対して『冶県』は
『東冶県』と呼ばれただろう。
>「會稽東冶」は、夏代少康の庶子の頃の話で、
>會稽の東方の新しい治(冶)世地。
そのようなことが何処に記述されていますか?
原文を提示してください。
「東冶」は後漢代のできごとです。
>魏代だから漢代の制度とは何の関係もない。
「東冶」は魏代迄存在したが、
『 秦の征服後、秦の支配下にあった閔越国は、漢代になってから、漢の服属化で、前202年から110年までの間独立を維持していた。この時代、現在の福建省省都である福州に都があったとされている。前110年、漢に征服されて、会稽郡の東治県となり、治所が置かれた。』↓
http://heartland.geocities.jp/zae06141/fukusyuu.html 所謂
夏代少康の庶子の後の「粤」の存在です。
290 :
日本@名無史さん :2011/11/07(月) 11:40:35.47
>>288 >私は19歳畿内説論者の考えを支持するよ。
>彼の言うとおり畿内が正解。
ハハハ....…。
『それでも邪馬台国は九州にあった』
だよ。
邪馬台国が九州にあろうが畿内にあろうが、 5世紀初めには畿内大和がすでに中心なんだし、 どっちにあろうがいいだろ。こんなん気にしてるのは ほんとキモいマニアくらいw
しかも決定的な証拠なんて有り得ないのを知ってて自分のトンデモ説の風呂敷を広げるよな。 どこのヤマタイが有っても卑弥呼が居ても全然かまわんよ。
私は19歳畿内説論者の考えが一番利権に忠実だと思うよ。 彼の言うとおり畿内説支持だと、 名古屋大学の落第生でも就職口が確保できるし、 立身出世するなら畿内説支持が条件だからね。
>>291 鉄ちゃんと同じと思えばいい。
電車の写真撮ってる奴らの横で、そんな写真撮ってるのは、ほんとキモいマニアくらいw
とわざわざ言ってるようなもんだぞ。
>>293 畿内説を支持するだけで落第生でも就職できるなんて、この御時世に便利な魔法だなあw
295 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/07(月) 18:14:44.52
>>289 「會稽東冶」について 「會稽の東方の新しい冶(治)政地」
繰り返します。魏志には魏代のことが書かれています。
秦代や漢代の制度について書かれることはありません。
又、同時代であっても、呉地について書かれることもありません。
では、魏地ではなく呉地につくいて書く時どうしたのでしょう。
魏の直前の漢とも関わりのない事柄を使って表現しているのです。
ここでは、直前の文に「夏后少康之子封於會稽」があることを使い、
夏后少康之子が會稽の近くで新しく開拓した地域があり、
其処が海洋民の住む地域であるとの漢書に書かれた知識を使い、
「會稽東冶」と表現している。
なお、會稽の付近で海洋民が住める地域は、
會稽の東の東冶にあたる地域は、現在の寧波市や舟山市(舟山島)の付近である。
>>293 やっぱ
畿内教信じなきゃ幸福になれないつうことっすね。
「巻向巻向邪馬台国」と念仏唱えただけで
何か、心が安らぎ、全てを理解した気持ちになってきたっす。
すごい御利益すね。
297 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 07:55:48.28
>>293 >名古屋大学の落第生でも就職口が確保できるし、
>立身出世するなら畿内説支持が条件だからね。
世の中なめきってるなサイキバ君wwwwwwwww
298 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 09:47:11.00
ヲタ系ほど九州説のマニアックな個所を邪馬台国だと思いたがるw ヲタの心理として、自分は他人とは違うというくだらないプライドがあるから 他人と同じような個所に邪馬台国をもってきたがらない。 九州説などただそれだけのやつらw関裕二派のキモい歴史オタクの素人集団。 自分で勝手に歴史を構築して、それが正しいと妄想してるだけのオナニーw ヲタらしく自己顕示欲も旺盛だから作家気取りで自費出版で本まで出しちゃうw ほんと痛い奴ら
>>298 と、
実入りが少なくなって
詐欺師が嘆いております。
300 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 11:03:05.32
>>295 の文になっていない部分を修正します。
誤:では、魏地ではなく呉地につくいて書く時どうしたのでしょう。
正:では、魏地ではなく呉地について書く時どうしたのでしょう。
誤:なお、會稽の付近で海洋民が住める地域は、
會稽の東の東冶にあたる地域は、現在の寧波市や舟山市(舟山島)の付近である。
正:なお、會稽の付近で海洋民が住める地域は、
會稽の東の東冶にあたる地域であって、現在の寧波市や舟山市(舟山島)の付近である。
301 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 11:22:57.10
>>295 :卑弥呼の都は久留米:2011/11/07(月) 18:14:44.52
>>107 :日本@名無史さん:2011/11/03(木) 14:33:04.94
「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國
國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
樂郡浪徼 去其國萬二千里
去其西北界拘邪韓國七千餘里
其地大較在會稽・東冶之東」
は、後漢書です。
これで、
あなたの解釈が間違っていることが理解できるでしょう。
以上。此処までとします。
302 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 13:28:02.92
>>301 後漢書「會稽東冶」は、魏志「會稽東冶」を勘違いして引用したもの。
倭が「與朱崖 儋耳相近 故其法俗多同」であるように、
後漢書は北緯26度の會稽東冶を示している。
勘違い史書に記述されたことを根拠に倭の位置を比定するのは間違いである。
303 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 13:45:19.62
>>302 名前:卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 13:28:02.92
>>301 >後漢書「會稽東冶」は、魏志「會稽東冶」を勘違いして引用したもの。
馬鹿なことは書きこしないほうが賢明でしょう。
魏志には
計其道里當在会稽東治【冶】之東
とある。
魏」の時代は会稽東治で、それ以前は、
つまり後漢時は会稽東【冶】又は 会稽【冶】であった
と
ある。
304 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 14:29:10.47
>>303 >魏」の時代は会稽東治で、それ以前は、
>つまり後漢時は会稽東【冶】又は 会稽【冶】であった
>と
>ある。
嘘を書いちゃいかんよ。それとも単なる勘違いですか?
魏志倭人伝でも「會稽東冶」となっている。
呉書にも3箇所記載異されており、それら全て「東冶」となっている。
「東治」とあるのは改竄文書。
305 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 14:50:17.38
>>304 のミス修正
誤:呉書にも3箇所記載異されており、それら全て「東冶」となっている。
正:呉書にも3巻5箇所に記載されており、それら全て「東冶」となっている。
306 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 15:13:32.02
>>305 名前:卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 14:50:17.38
>呉書にも3巻5箇所に記載されており、それら全て「東冶」となっている。
孫策は後漢時の人ですが。
『策為人 ・・・・據會稽,屠東冶』は
後漢時ですから東冶ですよ。
「策」は孫策のことですよ。
孫 策(そん さく、175年 – 200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。
・・・・wiki
307 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 15:48:37.41
>>306 >孫策は後漢時の人ですが。
>『策為人 ・・・・據會稽,屠東冶』は
>後漢時ですから東冶ですよ。
孫策は、呉大帝(孫權)の兄です。
生きた時代が後漢代であっても、呉代の人として描かれます。
ですから、地名も呉の名称となります。
308 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 17:01:36.29
>>307 例えば呂布は魏ができる前に死んでるし、魏の王朝とは関係のない人物だが、
魏志の呂布伝には五原郡九原県の人とある。
魏と関係のない後漢時代の人物の出身地は後漢時代の制度による名称でしかあり得ないけど、
これはどうなってんの?
309 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 17:32:37.94
>>308 魏書に書かれていることは、全て魏の制度による名称。
蜀書に書かれていることは、全て蜀の制度による名称。
呉書に書かれていることは、全て呉の制度による名称。
其々の制度による名称以外は、ことわりを入れて書かれています。
310 :
写楽斎 :2011/11/08(火) 18:26:23.47
「屋室あり、父母兄弟は臥息する処を異にする」か〜。 九州地方にみられる「複数のベッド状遺構をもつ住居」か「花弁型竪穴式住居」か〜。 さもなければ、部屋が幾つもある高床式住居で暮らす身分の高い倭人の生活の様子か〜。 どっちだ。
311 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 18:28:40.38
竪穴式住居にくぼみがあったところで中国人は部屋とは見まい
313 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/08(火) 21:00:18.78
>>311 >呂布伝はどういう断わりが入ってるの?
何も無いから、并州五原郡九原は魏代に使われた地名でしょう。
314 :
写楽斎 :2011/11/08(火) 22:05:11.21
>>312 遺構は土の遺構しか残っていないが、使用した時代には間仕切りがあったはずだ。
考古目くらには土の「くぼみ」だけしか見えんらしいが。
315 :
写楽斎 :2011/11/08(火) 22:23:18.92
>>314 ふちきの見た奴は8個の部屋に分かれているが、
花弁型個室の境目には柱跡がある。
(柱を境に部屋を区切ったとも考えられるが)
それが間仕切りにも利用されていたと思われる。
「屋室あり、父母兄弟は臥息する処を異にする」か〜。
………部屋が8つか。大家族だなー。
316 :
写楽斎 :2011/11/08(火) 22:31:46.28
小ぶりの竪穴式住居の中心に、大ぶりの花弁型竪穴式住居あり……。 中国人がみた倭人の屋室をもつ住居とは、九州のとこかで見たらしい。
317 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 22:43:11.38
大ぶりの花弁型竪穴式住居が主人の家で、 まわりの小ぶりの竪穴式住居が、妻と幼児、 そして、若い結婚前の青年ってところかな。
318 :
日本@名無史さん :2011/11/08(火) 22:46:59.24
あ、以前アフリカの一夫多妻制で、周りが一夫多妻制の妻と幼児の家、 そして中央に主人の家と食物倉庫があったと書いたが、 花弁状の部分が、食物倉庫なら、全く同じパターンだ。
320 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 10:22:46.38
九州説など、学会がほとんど畿内説だから、 俺は学者よりも賢いぜと言いたいがために、 九州説の奴がほとんどだろうw学会が九州説支持してたら きっとここのやつらは畿内説を支持してる。その程度のもんさw
321 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 10:32:29.18
322 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 10:44:45.95
323 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 11:19:29.71
>>307 :卑弥呼の都は久留米
>>306 >>孫策は後漢時の人ですが。
>>『策為人 ・・・・據會稽,屠東冶』は
>>後漢時ですから東冶ですよ。
>孫策は、呉大帝(孫權)の兄です。
>生きた時代が後漢代であっても、呉代の人として描かれます。
>ですから、地名も呉の名称となります。
後漢の時間軸と呉(三国時代)の時間軸。
孫策は後漢時西暦200年で死んでいる。
その人間が三国時代を徘徊するとは呉書はSF小説?
『地名も呉の名称となります。』て、
其れは、孫策(後漢)の時代もその名称だだからだ。
SFこときは勘弁ねがいます。
324 :
筑紫の民 :2011/11/09(水) 16:54:58.98
>>322 2万平米=100m×200m四方程度の面積ですね。
今回発見された以上の水田はそこらじゅうにあったでしょうね。
約2500年前の水田は現在まで先祖代々受け継いだ水田であることが多いわけですから。
さほど大騒ぎするほどでもないですね。
>橿考研は「当時の水田開発の仕方が非常によく分かる発見」
これは、そのとおりだと思います。当時の用水路や農耕具などが発見されるとよいですね。
325 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/09(水) 18:45:11.39
>>323 >SFこときは勘弁ねがいます。
>>323 さんは、史書についてのベーシックな勉強が必要です。
特に十二史について
史書がどのようなものかを知れば、
「SFごとき」との見方をすることはありません。
326 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 19:12:45.31
旁国は邪馬台国以南と読めるから、 邪馬台国が九州にあるとしたら北九州だろう。 伊都国から1500里程度だし、北九州で間違いないはず。 しかし投馬国と邪馬台国合わせて60日はかかりすぎだ。 どこかに立ち寄ったならどこに立ち寄ったから こんなに日数がかかったのか?旁国じゃないんだし、 立ち寄るとこなどないだろう。 また伊都国から邪馬台国まで往復120日もかかっていたら、 魏から援軍よこしても間に合わず戦いが終わっちゃってるぜw
>>325 魏志は魏の制度だけなんて、河童にそそのかされて思い込んでるだけなんじゃないの。
328 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 20:49:20.38
329 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 20:55:06.04
中国の正史だろ
330 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 22:05:20.21
中国の正史の話をしているのはわかってる それで十二史ってなに?ってきいてるの
331 :
九州北部説潰し :2011/11/10(木) 23:03:08.09
末盧国(唐津湾)から東南に500里で、小城町・三日月町・久保多町、 飛んで佐賀市などへ伊都国を比定し、なおかつ投馬国と邪馬台国を北部に比定する説に対して 事実だけを提示して問う。 帯方郡から女王の都する邪馬台国まで1万2000余里。◆事実 帯方郡から末盧国まで1万里を消化しているから残りは2000里。◆事実 末盧国から伊都国まで500里で残りは1500里。◆事実 邪馬台国は末盧国から伊都国までの距離の3倍の距離の所にある。◆事実 小城公園や八女が、唐津から小城までの距離の3倍になるか。 里程・日程の小細工読みに熱中してきた容量不足諸氏よ、 自分の唱えてきた読みの矛盾をどう申し開きするか。テストだ なお、伊都国を前原に比定する九州北部説は論外。 この種の九州北部説は、畿内説の方角の矛盾を批判する資格もない。 なぜならば、 「距離と方角とを無視して」伊都国を前原に比定しているから。◆事実
332 :
日本@名無史さん :2011/11/10(木) 23:08:18.10
>>331 この部分に対してはおおむね同感。
余里の部分があるから、若干の延長もありえる。
333 :
日本@名無史さん :2011/11/10(木) 23:23:32.81
日向大隅薩摩だな
宮崎だろう。
335 :
日本@名無史さん :2011/11/10(木) 23:51:44.89
都としてはそうかもしれないが勢力圏としてはあえて特定することもないと思う
何故距離を書いてないかの説明ができない説は間違いだろう。
337 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 00:05:09.06
>邪馬台国は末盧国から伊都国までの距離の3倍の距離の所にある。◆事実 文章が曖昧である。「末盧国から伊都国までの距離の3倍の距離」とは「何処から邪馬台国までの距離」なのだ?
338 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 00:09:06.94
文盲
カスのカキコばかりだな。
340 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 02:03:06.89
中国の長安のような常設の都が3世紀の日本にあっただろうか。 そのときオオキミの住んでいるところが都で、特定の都市は存在しなかったんじゃないのか。 だとしたら、卑弥呼が即位する以前から邪馬台国の都は転々と移動していたと考えられる。 実際、後代の天皇の宮居は変わっている。 卑弥呼一代のなかでも、戦闘などの状況で転居していた可能性はある。 神宮皇后が畿内にも九州にも住んでいたことがあるように。 すると、「女王の都する所」に関する位置情報が帯方郡に複数報告されることになる。 それを一ヶ所の都市の情報として記述すれば、矛盾が残る。 倭人伝の真相は、こんなところじゃないか。
問題なのは卑弥呼の都なの。 倭人伝の都なの。
342 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 08:45:55.71
(九州北部説潰し)って伊作だよね?なんでハンドル変えてるの?
何度も大恥かかされてるし。
倭人伝に玄界灘の軍事情報が記されていることに気がついていながら、その行程記事の読み方はお子ちゃまレベル。 当時の海岸線や8世紀の怡土城の位置を知っていれば凡人レベルでもわかるはず 戸数もまた然り。 晋の杜預クラスの将軍が見るような資料がもとになっていると思われる。
345 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 10:00:44.09
後代の天皇がとっている、権威、権力の分割手法。 天皇は倭国代表権者(象徴?)という看板。 明治維新の時に、京から、江戸城に移ったように、 九州太宰府から、奈良藤原京に天皇一族だけが移ったと考えれば、 大戦争がなかったことも、説明できる。 九州王朝を擁立していた豪族は衰退し、畿内の豪族が伸長してきたのである。 畿内の豪族が天皇という看板を、九州の豪族に圧力をかけて引き取ったのである。 九州の豪族全体が奈良に行くわけではない。九州の豪族は九州の土地に根を 降ろしているので、すでに他人の土地である奈良に行ってもどうしようもない。 数名程度は、天皇の付き添いという形で奈良に行ったかもしれない。 ヤマト王権の都が度々遷都されたのは、それらの都が、擁立する豪族のものであり、 各時期の強い豪族のもとに移動したと考えてはどうだろうかね。 天皇とその取り巻きが自宅や王宮を移すくらいなら、大したコストも掛からないが、 条坊制を持つ都市をまるごと移すとなると、やはり、コストは大きすぎる。 そのため、平城京などを経て、平安京までくると、遷都をしなくなってくる。
明治維新と奈良時代とで権力の中枢の違いがわかっていない。
347 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 10:19:49.29
権威の由来も不明だわ
>>344 妄想
証拠は
具体的に説明できないはず。
怡土城を出した時点で頓珍漢。
349 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 10:32:40.63
昨日は丸一日奈良にいたので、このスレを見ていませんでした。
>>328-330 >十二史ってなに?
自分語(?)をうっかり書いてすみません。
史記から隋書までの13史のうち、
欠損部分が北史のコピーと見られる周書を除く十二史のことです。
350 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 10:45:04.32
>>331 の間違いを修正しておこう。
誤:帯方郡から女王の都する邪馬台国まで1万2000余里。◆事実
正;帯方郡から女王国まで1万2000余里。◆事実
誤:帯方郡から末盧国まで1万里を消化しているから残りは2000里。◆事実
正:帯方郡から末盧国まで11400里を消化しているから残りは600里。◆事実
誤:末盧国から伊都国まで500里で残りは1500里。◆事実
正:末盧国から伊都国まで500里で残りは100里。◆事実
誤:邪馬台国は末盧国から伊都国までの距離の3倍の距離の所にある。◆事実
正:邪馬臺國の場所は正確にはわからない。◆事実
351 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/11(金) 10:54:06.15
九州王朝の始原は、女王卑弥呼の時代。ただしウガヤ朝は別とする。 九州王朝は卑弥呼の時代から文武のころまでで、滅亡の直後に記紀が 成立し、ここに日本統一(蝦夷は別として)が成ったということだな。 秀魔電の成立のときに日本統一がされたという主張はデタラメである。 日本に九州と畿内とで、二本立ての2極の時代が崇神の代から文武の代ころ までに並行して政権があったということになる。
>>348 お前はそれでいい。
文盲でもないかぎり誰でも楽しめるよう美しい流れで整えてある。
353 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/11(金) 11:02:57.98
いい加減にしてください。 景初4年の三角縁神獣鏡の問題を説明できないかぎり 九州説などありえませんw
354 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/11(金) 11:04:56.54
>>352 文盲でもないかぎり誰でも楽しめるよう美しい流れで整えてある。
何だ。一言の説明もできないカスか。
>>353 何の説明が必要なんだ?
それに
そんなことあほな事より
さっさと邪馬台国論争撤退してまじめに勉強しろよ。
時間の無駄だ。
>>355 掲示板の中だけでいきがんじゃねぇよ クソが
>>357 掲示板の中だけでいきがんじゃねぇよ クソが
すぼし言われてカスが切れている。
>>358 人前じゃびびってろくにものも言えねぇクソだろお前はw
360 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 12:19:39.62
「從郡至倭」:「帶方」(郡)を通り過ぎて(從)「倭」に至る。 起点は洛陽。 行程は 洛陽⇒韓国⇒狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒伊都國⇒奴國⇒不彌國・・・@ 「自郡至女王國萬二千余里」:「帶方」(郡)より「女王國萬二千余里」 ・・・A 起点は「帶方」(郡)。 行程は 「帶方」(郡)⇒○郡⇒○郡・・・・⇒狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒投馬國⇒女王國。 狗邪韓國への @ の行程は洛陽より帶方、帶方から韓国と半島経由。 A の行程は郡=帶方として、帶方より幾つかの郡を経て狗邪韓國に至るという大陸経由。 @ とAの狗邪韓國迄の行程距離は共に七千余里。 狗邪韓國の領域は八重山諸島で「其北岸狗邪韓國」の「其北岸」の「其」=倭の「北岸」とは現与那国島である。
361 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 14:01:41.44
また変なのが湧いて来た。
362 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 14:04:01.18
>>260 を修正する。
「從郡至倭」:(前文を受け)従って、「郡」は「倭」に至る。(直訳)
従って、郡使が倭人の住む地域に行く時の行程を示す。(意訳)
起点は帯方郡。
行程は
帯方郡庁⇒韓国⇒狗邪韓國⇒對海國⇒一大國⇒末廬國⇒伊都國(−奴國)⇒不彌國・・・@
奴國には行っていない。動作移動の動詞「行」がないから。
「自郡至女王國萬二千余里」:「帶方」(郡)より「女王國萬二千余里」・・・・・・・・A
起点は「帶方」(郡)。
行程は
「帶方」(郡)⇒(倭人の住む)韓國⇒狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒伊都國⇒不彌國(女王國)。
狗邪韓國への
@ の行程は、帶方郡から半島沿岸経由、対馬海峡を渡り、対馬島壱岐島と九州島の島内陸行。
A の行程は、帶方より狗邪韓國まで沿岸航行し、対馬海峡を渡り、九州内陸行。
@ とAの狗邪韓國迄の行程距離は共に七千余里(水行7日)。
狗邪韓國は金海付近(伽耶)で「其北岸狗邪韓國」の「其北岸」の「其」は「循海岸水行」の「海」を指す。
@とAの末盧國までの距離は、@が11400里、Aが10000里(水行10日)
@の末盧國から不彌國までの距離は600里、Aの末盧國から邪馬臺國までの距離は1000里(陸行1月)
363 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 14:10:48.79
>>360 「從郡至倭」:「帶方」(郡)を通り過ぎて(從)「倭」に至る。
起点は洛陽。
行程は
洛陽⇒韓国⇒狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒伊都國⇒奴國⇒不彌國・・・@
の
「不彌國」とは現隠岐の島だ。
364 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 14:15:23.11
>奴國には行っていない。 行ってないことはないと思うけどね、邪馬台国への行程には通る必要がないということで。
365 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 14:55:21.91
>>364 >>奴國には行っていない。
>行ってないことはないと思うけどね、邪馬台国への行程には通る必要がないということで。
しかし、
奴國と邪馬壹【臺】國は国境を接す。
366 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 15:05:47.13
>>364 >>奴國には行っていない。
>行ってないことはないと思うけどね、邪馬台国への行程には通る必要がないということで。
そう言うことです。
郡から奴國まで12000餘里で、女王國を構成する一国なので記載されたのです。
伊都國は女王國ではないと記載されているから、
伊都國に隣接する奴國が女王國の一員であることを示す為、記載されたのでしょう。
367 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 15:24:37.85
>>365 >しかし、奴國と邪馬壹【臺】國は国境を接す。
接していないと思う。
不彌國が南に投馬國と邪馬臺國と接する。
邪馬臺國の西側に投馬國が接していると考えられるから(理由省略)、
奴國と接しているのは投馬國であると考えることはできる。
368 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 16:11:12.11
>>362 従は「から」とか「より」と言う意味だ。前文を受けているわけではない。
帯方郡が起点であることはそのとおり。
369 :
日本@名無史さん :2011/11/11(金) 16:21:57.01
周旋五千里 松浦から邪馬台国まで二千里、往復四千里 残りの千里は、福岡の奴国に寄った。 短里千里=77キロより、片道33.5キロ 鳥栖あたりから、福岡に行って帰ってくる程度の距離。
370 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 17:53:42.19
周旋五千里 郡から女王國まで12000里 郡から狗邪韓國まで7000里 ゆえに、狗邪韓國から女王國まで5000里 この5000里が周旋五千里 倭の範囲(倭人が住む範囲):「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連」 狗邪韓國から狗奴國までの範囲 [半島南部沿岸の洲島(到狗邪韓國)から熊本平野(女王境界南有狗奴國)まで]
371 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/11(金) 23:33:34.04
>>368 >従は「から」とか「より」と言う意味だ。
上記の意味は、下記の用法の場合です。
「長安近 不聞人從日邊來 居然可知也」晉書明帝紀
>>363 氏の説::「從郡至倭」:「帶方」(郡)を通り過ぎて(從)「倭」に至る。
の方が説得力があります。
「從」の本字は「从」ですから、「從郡至倭」は「从郡至倭」の意味です。
「郡を通って(郡に従いて)倭に至る」の意味になります。
>>371 洛陽から狗邪韓國まで7000里ってこと?
373 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/12(土) 00:12:19.23
>>372 >洛陽から狗邪韓國まで7000里ってこと?
>>363 氏説の場合には、
文中に洛陽とか都を意味する地名がないので、通過点の郡が起点となります。
ですから、郡から狗邪韓國まで7000里となります。
374 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 00:33:35.90
この時代の船の速度ってどれくらいなんだろ
375 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/12(土) 00:49:57.00
>>374 >この時代の船の速度ってどれくらいなんだろ
水行1日が1000里(約70km)ですから、
1日10〜12時間航行として、
潮の流れと風を利用した平均船速は6〜7km/hでしょう。
夜間の沿岸航行は危険なので、停泊して夜を過ごしたでしょう。
376 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 00:53:19.16
1000里って距離関係なく1航海なんじゃないの?多用されてるからってどっかで見たけど…
377 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 00:53:55.67
毎日進めたとは限らないしなあ
378 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/12(土) 01:15:57.47
一日航海の距離が約1000里。 郡から狗邪韓國は7日航海で7000里 狗邪韓國〜對海國、對海國〜一大國、一大國〜末盧國は、 其々1日航海1000里。 実際の距離は其々800里〜600里。 1日航海(半日航行)では実際の1000里を行き着けないこともあるので、 各7000餘里、1000餘里としたと思われます。
379 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/12(土) 01:36:31.82
潮の干満が12.4時間サイクルであるので、 それに伴う潮の流れを利用して航海したでしょう。 干満に伴う潮の流れも12.4時間でワンサイクルとなるので、 1日航海は12.4時間航行が基本となります。
>久留米氏 丁寧な回答ありがとうございました。
381 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 02:16:08.47
何度でも言う、TPPに関してだけは。 与党も野党も右も左も関係ない。 この国の全てを売り渡すのか、守るのかのどちらかだ。 今の日本の現状を鑑みれば、 TPP参加でより一層困窮するのは、低所得者が大半だ。 一部の金持ちや権力者が得をするTPP参加には、断固反対である。
382 :
日本@名無史さん :2011/11/12(土) 14:01:52.98
>>372 >>371 >洛陽から狗邪韓國まで7000里ってこと?
正確には、洛陽から帶方郡にいたる最初の郡が起点ということです。
その郡は洛陽と接しているので便宜上の起点を洛陽とした。
もし、洛陽を出て最初の郡を起点としての行程記述をする場合、
「自郡」と記述されるだろう。
『洛陽を出て最初の郡』⇒ 「帶方」(郡)⇒韓国 ⇒ 狗邪韓國
が「七千余里」になります。
「七千余里」=432km×7=3024km
一里=1800尺 一尺=24cmで。
383 :
日本@名無史さん :2011/11/13(日) 12:09:39.19
>>382 :
>もし、洛陽を出て最初の郡を起点としての行程記述をする場合、
>「自郡」と記述されるだろう。
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」・・・@
「自郡至女王國萬二千余里」 ・・・A
の「郡」は通説では、@、A共に「帶方」としている。
@、Aの「郡」を「帶方」としてその進行方向を見ると、
@ は洛陽⇒帶方⇒韓国⇒狗邪韓國で ・・・・B
A は帶方⇒郡⇒郡・・・⇒狗邪韓國 ・・・・C
となり、Bは半島経由でCは大陸経由となる。
因みに、「其北岸狗邪韓國」とは現与那国島である。
◎上記の「郡」を共に「帶方」とする通説には誤りがある。
>一部の金持ちや権力者が得をするTPP参加には、断固反対である。 反対しても金持ちや権力者には勝てない。 畿内説低級捏造教授も同様にごり押しするが 決定権が無いのでまだ救われている。
385 :
サガミファン :2011/11/13(日) 14:27:14.24
TPPに参加しようが参加しまいが、自分の家は金持ちだし 絶対安泰だからどうでもいいやw むしろ参加して貧乏人が苦しむ姿見るのも一興。 政治家も自分たちは金持ちだし、貧乏人などどうでもいいと思ってるよ。
387 :
弩壺割 :2011/11/13(日) 22:45:14.46
<久留米の・・卑弥呼>はもっと、確実性のあるものを証拠として発言してくれ。 このままでは九州説を支持している者たちが馬鹿を見る。たのむぜ。
388 :
日本@名無史さん :2011/11/14(月) 11:11:27.64
>通過点の郡が起点となります。 なんじゃ、こりゃ。
389 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/14(月) 13:58:08.81
>>388 >>通過点の郡が起点となります。
>なんじゃ、こりゃ。
>>363 氏の説ですが、私なりの解説をすると。(私は
>>363 氏説とは異なります)
「従郡至倭」以降の文は、文章化した地図になっています。
この地図で描かれている範囲は、帯方郡から狗奴國までです。
この地図で、狗邪韓國までの距離が7000餘里とあるから、
この地図に於ける距離の起点は帯方郡以外に存在し得ません。
北九州にヤマト国を盟主とした女王国があって、 クナ国が瀬戸内以東の畿内連合の盟主ってのはどう?
狗奴国は邪馬台国の南。 瀬戸内以東は倭種の国。
邪馬台国の南???
394 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 12:14:08.60
東アジア史の視点でみないから邪馬台国が九州だとか とんちんかんな考えになるんだよw
395 :
サガミハラハラ :2011/11/17(木) 14:05:48.75
実は倭人伝の狗奴国と後漢書の拘奴国とは別の国なのです。 いままで多くの研究者がおなじ国であると考えたので混乱を巻き起こしたのです。
396 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 17:11:16.62
いろいろ考えるねw
397 :
サガミハラハラ :2011/11/17(木) 20:34:40.68
結果が正しければそれでいいんですよ。
従来から、孫子の兵法で有名な「孫子」について、 実は兵法を著した孫子には二人いるんじゃないか、 という意見があった。しかし、偶然にも同じ孫子という 同じ名前の人物が、著名な兵法書を書くなどというには 偶然にしては出来過ぎで、非常に考えにくかった。 結局1972年に孫?の兵法書が発見されて、 孫武と孫?の二つの兵法書があったことが判明した。 事実の方が奇である、ということは確かにある。
399 :
日本@名無史さん :2011/11/17(木) 22:20:57.04
孫臏兵法
400 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/17(木) 23:03:36.35
>>393 >狗奴国は邪馬台国の南???
女王の都がある邪馬臺國は女王國に含まれる。
女王國の南に狗奴國がある。
餘旁國は、女王國以北の魏使ルートの8ヶ国の餘旁にあるから、
女王國の南端に邪馬臺國があことになる。
故に、邪馬臺國の南に狗奴國がある。
401 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 05:02:14.59
邪馬台国は、稲作を日本に伝えたオッサンの子孫が住んでた所にあったと思いま〜す。 稲作を伝えたオッサンは、みんなから一目置かれて、田んぼも沢山持つようになって、その子孫も崇められ続け、卑弥呼や天皇の起源だったと思いま〜す。
中世でいう畿内に決まってる(`ε´) って学説が明治期に確立してないんじゃ、畿内じゃないどこかにあったって有力な証拠が実はあるのかもしれない。
久留米の水分遺跡から朱が加工用品と一緒にまとまって見つかったのは既出?
405 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/18(金) 10:56:22.79
>>404 久留米田主丸町弥生後期遺跡での、鉄鏃、銅鏃、骨鏃の混在は、
倭人伝「木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」記事と一致する。
倭國乱や卑弥呼から壹與への移行期には、続く戦闘での鉄鏃の不足から、
銅鏃、骨鏃も使われたことを示している。
ん?じゃあ銅鐸や銅鏡ガンガン作ってたとこは倭人伝の記述の埒外か?
407 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/18(金) 14:31:11.29
>>406 そうだ、倭人伝の記述の埒外だ。
銅鐸をガンガン作ったのは3世紀以前の銅鐸文化族
銅鏡をガンガン作ったのは3世紀以降の畿内銅鏡嗜好族
408 :
日本@名無史さん :2011/11/18(金) 16:26:47.52
>>405 倭人伝は銅鏃は書いてないぞ。邪馬台国に銅の鏃はなかったんだよ。
409 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/18(金) 17:12:05.25
>>408 >倭人伝は銅鏃は書いてないぞ。邪馬台国に銅の鏃はなかったんだよ。
本国で鉄鏃時代にいる魏使にとって、見ただけでは鉄鏃と銅鏃の区別ができない。
銅鏃についての予備知識がなければ、鉄鏃か銅鏃かの判別ができない。
故に、「邪馬台国に銅の鏃はなかった」とは断言できない。
これがマスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています
「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット
「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」
「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット
「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット
「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット
「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット
他にもカットシーンがたくさんあるので、元資料で↓確認してください
http://news.nicovideo.jp/watch/nw147415 http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=FtxuPyRNszY
411 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/19(土) 08:42:32.34
九州に邪馬台国があったならいつまで存続したのですか? トヨの後に男王が爵位を受けたらしいので少なくとも270年ごろまでは 存続してたのは確実です。この頃になると巻向政権は早100周年近くになり 最盛期を迎え、鉄もバンバン大陸から輸入してますよね?w つまり北九州経由で大陸と交流結ぶルートを巻向政権が持ってたんですし、 また巻向政権は中国に朝貢しなかったのはなぜでしょう? そう考えるとやはり九州説は間違いだということに気づきませんか?w
412 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 09:24:38.59
低能すぎて付き合いきれんわ
413 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/19(土) 09:27:20.13
>>412 それはたんに反論できないってことでしょwww
巻向政権に筑紫も参加してるんですし、邪馬台国が九州なわけないでしょwww
こんなこともわからないのは非常に知能指数低い低学歴臭いし、
歴史を専攻してた人でもなんでもないでしょ。
ただの歴史好きのリーマンのおじさんか定年退職して暇を持て余してる
おじいさんってとこかw
414 :
サガミハラハラ :2011/11/19(土) 12:15:35.21
九州にあった邪馬台国は290年代にほろんでいます。壱与の死が285年のことです。 その後新王がきめられず、大和の圧力に屈しました。 中国史書の壱与の後の男王は新しい支配者の大和の天皇であったようです。 大和朝廷が中国にしばらく貢献しなかったわけは、邪馬台国は中国から柵封を受けた、 中国の家来みたいな国だったのです。 それを大和はほろぼしたのですから、中国にのこのこと貢献できませんですよね。 あなたの家来の邪馬台国を滅ぼした大和です。今後よろしくと使者をたてても、 へたすりゃ殺されますよね。 以上から、邪馬台国は九州にあり、大和は畿内にあったことがわかります。
415 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 12:18:10.08
416 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/19(土) 12:26:59.84
>>414 サガミさん、えらいマニアックな情報を知ってるようですが
それはどこから仕入れた情報ですか?
290年代に邪馬台国滅亡だの、壱与の死が285年だの
次の男王が大和の王だのどうしたらそのようなことがわかるんですか?
417 :
サガミハラハラ :2011/11/19(土) 17:58:27.95
私のオリジナルです。私自身が長年にわたって多くの資料を検討した結果そのような事象がわかりました。 間違いはないと思います。
418 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 18:07:23.33
>>417 サガミハラハラ
脳内ソースってことですね
419 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 18:50:52.59
>>417 株で大損こいて自宅を売り払わざるを得なくなった元教師が何を言ってるんだか。
420 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 19:48:31.67
>>411 、413、416
何度も同じことを言わせるな。このこと自体が君のウマシカを証明している。
ここは九州説板だ。ここにレスするということは君が自身、九州説者だと告白
していることになる。わからないかな?
19歳詐欺はくだらない粘着してきて邪魔だなあ〜
422 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/19(土) 20:52:30.85
邪魔だと思うなら、かまうな無視すべし。
423 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 21:06:28.27
>九州にあった邪馬台国は290年代にほろんでいます。 年代はわからないが、ある! それが邪馬台国を謎に包んだ原因だ!
424 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/19(土) 21:48:07.86
壹與の朝貢が266年末にあったから、 女王國は266年まであったと言える。 邪馬臺國は、男王が立ち相誅殺當時殺千餘人があったとき、 男王と共に亡んでいたかもしれない。
425 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 23:13:20.90
倭人伝をみてください。ほろんでませんよ。 壱与があとをついだってかいてるでしょ。
426 :
日本@名無史さん :2011/11/19(土) 23:36:01.35
それが邪馬台国であるとは書いてない。 場所か同じとも書いてない。
427 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/19(土) 23:46:35.81
壹與が継いだのは女王國の女王 卑弥呼は、住んでいたのは邪馬臺國で、女王國の女王。 邪馬臺國と女王國は別物 邪馬臺國、投馬國、奴國、不彌國の4ヶ国で構成されていたのが女王國。 女王に統属していた伊都國は女王國に含まれない。 伊都國までの国々4ヶ国も女王国に含まれない。 女王國以北の餘傍國も女王國に含まれない。
428 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 00:32:30.90
九州の邪馬台国(女王国)は神武または大和邪馬台国に滅ぼされ吸収されたのは間違いない。
430 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 01:02:48.21
700年、九州王朝倭國は文武大和朝廷に滅ぼされ吸収されたのは間違いない。
>九州にあった邪馬台国は290年代にほろんでいます。壱与の死が285年のことです。 その後新王がきめられず、大和の圧力に屈しました。 妄想 できの悪い物語 >中国史書の壱与の後の男王は新しい支配者の大和の天皇であったようです。 妄想 できの悪い物語
432 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 08:16:17.32
そうそう真実が面白いストーリーになるとはかぎらんでしょう。
433 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/20(日) 08:55:42.03
サガミハラさん、脳内ソースじゃ誰も信用しませんよw サガミハラさんのいう小城も当時七万戸養えて、九州最大の人口密集地域だったという 証拠はあるんですか?
畿内説の証拠のほうが、もっと無いがなw
435 :
サガミハラハラ :2011/11/20(日) 09:40:57.30
戸七万は女王卑弥呼治下の倭国(ほとんど北部九州)の戸数です。どうやってかぞえたかはわかりませんが。 卑弥呼チョクガイの邪馬台国の戸数はもっと少ないでしょう。 小城はかつて北部九州においてはかなりの人口密集地であったといわれています。 祇園まつり?が小城や博多でおこなわれていたが、「見事みるなら博多の祇園、人をみるなら小城の祇園」といわれるくらい 人出がおおかったようです。
436 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 09:45:10.65
九州王朝は滅ぼされたと言うより、白村江による弱体化による、主権移行。 武力制圧であれば、何らかの戦争が記録に残っているはずである。 九州年号から畿内年号に移り変わるのが、その根拠である。 大化から大宝まで、不安定な時期があるが、この間に 政権移行の工作や圧力が行われていたのであろう。
437 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/20(日) 09:48:46.56
>>435 サガミさん、僕にはどうやっても七万戸が卑弥呼支配下の倭国の戸数だとは
読めないんですがねwだったら投馬国の五万戸とかこれはなんなんです?
奴国が二万戸ですしこれら二カ国合わせただけでも七万戸に達してしまうでしょ。
伊都国王がおそらく107年に朝貢した師升なる人物の可能性が高いし、
その後7,80年の間に小城にあった邪馬台国が伊都国王を従えるまでに
力をつけた理由はなんなんでしょう?
438 :
サガミハラハラ :2011/11/20(日) 09:58:40.78
すまんが、きょうこれから神田での森浩一先生の講演を聞きにでかけるので 帰ってきてからにいたします。
439 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/20(日) 10:07:29.01
そうですか、僕も暇なのは午前中だけで午後からはお出かけしますので。 森浩一先生と言うと結構有名な考古学者ですよね。よく耳にする名前です。 僕は都内在住じゃないのでそういうイベントには顔出せません。
440 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 10:15:44.27
>700年、九州王朝倭國は文武大和朝廷に滅ぼされ吸収されたのは間違いない。 同意 これは正解。700年代始めあたりだ。 ここで日本統一となり、 そして712年古事記、720年日本書紀が成った。
441 :
19歳邪馬台国畿内説論者 :2011/11/20(日) 10:23:01.24
九州王朝とか言ってるのは九州在住の人くらいでしょww そんな詐欺にひっかかるようでは、振り込め詐欺にもひっかかると 警告したでしょ太国さんww 700年代まで九州に王朝があったわけないでしょww早く目を覚ましてください
442 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 10:29:55.03
オマエは本当に19歳か〜? 昨日はジョーカーのマルチ・コテハンかと邪推したが? オマエ、少し生意気な言葉使いに気をつけろ。 あんなやり方で大学にいて、ああいう言い回しをオマエの担当の教授ら にやると、オマエ、本当に教授に葬られてしまうぞ。 いくら試験が出来ても、答えた解答用紙にケチをつけられ、もう単位を もらえなくなるぞ。要するに「不可」をつけられて仇をとられるぞ。 もう少し丁寧に書きこめ。論破って言い出したのはオマエだからな。 少し人生経験を積め。
443 :
名古屋のサガミファン :2011/11/20(日) 10:37:14.37
>>442 19歳なので19歳と言ってるだけなのに、いちいち詐称だと言われるのも
馬鹿馬鹿しいのでもうHN変えますwサガミさんの一ファンになります。
ジョーカーって人は誰なのかもわかりませんし、太国さんが何を言ってるのか
意味が分かりません。
人生経験を積んだほうがいいのは太国さんのほうでしょw
九州王朝説は古田武彦さんが金儲けしたいから考えだしただけの詐欺説ですよ。
まだ19年しか生きていない僕でもそのような詐欺にはひっかかりません。
444 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 10:42:27.69
オマエは本当に大学生か〜? ウソだろう? それにしてはいささか書きこみがえらく生意気すぎる。 オマエは成人だな。餓鬼のふりをして書きこんでいたようだな。>< 九州王朝が存在したことは、もう年号の多出から当然正解だ。 オマエの書きこみなんか当てにはなるまい。 あさってでほえ面かいてろ。
445 :
名古屋のサガミファン :2011/11/20(日) 10:47:43.33
それは僕の精神年齢が成人レベルって誉めてるんですねw まああと1年で成人なのでもうガキではないですよ。 九州王朝が当然正解とか思うほど誰に洗脳されたんですか?w 太国さんこそ何歳で何してる人なんですか? 僕のことばかり聞いてきますがご自身の自己紹介からしたらどうです?
446 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 10:57:57.22
そんなことをする必要はなかろう。 だいたいオマエが自己紹介してるだけで、コチラがなにをしてるかは そんなことは関係ない。 年号が多出してるんだから、それだよ、もう・・・。 つまり九州王朝が存在してたのはオマエのインチキ論より信用度が大だ。 それともオマエもケチつけの私年号とかの糊塗をして来るのか? そんなものは論にもならないデタラメ抗弁だね。
447 :
名古屋のサガミファン :2011/11/20(日) 11:06:43.26
九州在住で、地元愛が強くて、何かカルト宗教にでもはまってて 洗脳されてるとプロファイリングしましたw でないと九州王朝説があたりまえだという異常な思考回路にはなりませんのでw
448 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 11:40:04.56
>>447 処で、
君の邪馬台国は何処に比定しているの。
九州じゃないと否定するなら、
自分の肯定する邪馬台国は何処?
これを明確にしないなら、
君のかきこも、所詮落書きの域を超えないだろう。
449 :
名古屋のサガミファン :2011/11/20(日) 11:50:47.26
邪馬台国は普通に大和国のことですw どっかの馬鹿が勝手にヤマタイ国と読んだために 話がややこしくなっただけです。 ちなみに九州の山門は全く無関係ですw
450 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 12:18:28.10
>>449 だから、邪馬台国は何処?
邪馬台国=大和国なら
大和国の比定地は何処?
451 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 12:18:34.72
大陸の魏蜀呉の鼎の3極支配だったように古代日本も1極ではなく、 畿内と九州との二本立ての2極支配だったことが真なのだ。 マルチコテも1極ではなく多極の書きこみだからな。w
453 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 13:40:59.67
>>436 >九州王朝は滅ぼされたと言うより、白村江による弱体化による、主権移行。
主権移行のきっかけは、天武による天智討伐と九州王朝畿内副都化。
>武力制圧であれば、何らかの戦争が記録に残っているはずである。
698年の九州王朝畿内拠点高安城攻略から始まる、
九州拠点城郭の攻略と700年薩末比売(九州王朝最後の天皇)との交戦捕獲。
>大化から大宝まで、不安定な時期があるが、この間に
>政権移行の工作や圧力が行われていたのであろう。
695年大化より畿内文武が畿内駐在九州王朝から脱却、畿内側に実質権力が移行。
695年までは日本書紀、696年以降は続日本紀に書かれている。
なお683年から695年までの期間は九州王朝畿内派が九州派と並立した時期。
九州王朝ではなく九州の一大豪族は528年で終わってる
455 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 14:20:42.21
>>454 >九州王朝ではなく九州の一大豪族は528年で終わってる
528年に終わったのは九州王朝倭薈(いわい)政権。
倭薈大王(倭天皇と皇子)は玄界灘沿岸勢力の反乱戦に破れ死亡。
53年後、玄界灘沿岸勢力の胸形氏阿毎多利思北孤が法皇と呼ばれる倭王となった。
むしろ520年代から、九州の国力は向上しているでしょう。 大将軍号をもらっているし、連続した元号を公布しているし。
>>455 「ドン来い」でも聞いたけど弥生時代・奈良時代の日本の各地域の人口を我流じゃなくて
専門の研究者の出している数字を把握してるの?
459 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 15:34:09.47
>>456 >むしろ520年代から、九州の国力は向上しているでしょう。
>大将軍号をもらっているし、連続した元号を公布しているし。
520年代から倭の国力が向上したかどうかはわからない。
半島での倭の影響力は、倭武時代よりむしろ低下してきている。
岩井の乱の原因は、倭薈が玄界灘沿岸豪族に半島政策の過度な負担を求めすぎた為と思われる。
倭薈(岩井)は律令政治をし、617年には年号の制定をしている。
倭薈は、倭武の政治体制を引き継いだことから、年号名を「継体」としたのであろう。
しかし実質的な年号制定は522年「善記」からである。
460 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 15:42:46.15
>>458 >弥生時代・奈良時代の日本の各地域の人口を我流じゃなくて
>専門の研究者の出している数字を把握してるの?
専門家と呼ばれる人達の過去の人口積算方法はでたらめです。
私は、弥生後期の筑紫平野の人口は、16世紀の人口の半分程度であったと積算しました。
>>459 もしかして6世紀、中国地方の砂鉄によるたたら製鉄が
九州政権下で始まっている可能性を捨てきれない。
>>460 研究者の数字がでたらめで、自分が積算した数字が正しいというのは
誰が認めてるんです?w
論文発表したらいいじゃない?
463 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 16:19:28.02
>>461 >6世紀、中国地方の砂鉄によるたたら製鉄が
>九州政権下で始まっている可能性を捨てきれない。
熊本平野の製鉄はリモナイトベンガラ製鉄として1世紀には始まっていた。
糸島の製鉄は良質な砂鉄(低チタン砂鉄)からの小規模タタラ製鉄として1世紀には行われていたと思われます。
糸島の製鉄は、倭奴(イト)國繁栄要因のひとつ。
464 :
名古屋のサガミファン :2011/11/20(日) 16:25:49.06
1世紀に九州で製鉄が行われていたのは従いかねます。 韓の)国に鉄を出す。韓、穢(わい※)、倭、皆(みな)従いて之(これ)を取る。諸市買(かうに)、皆(みな)鉄を用う。中国に銭を用うるが如(ごと)し。又、二郡に供給す と三国志の文献にありますし、朝鮮からの鉄の輸入ルートを押さえていたから 伊都国繁栄の一因だと考えます。
465 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 16:27:28.08
>>462 >研究者の数字がでたらめで、自分が積算した数字が正しいというのは
>誰が認めてるんです?w
認められる人が認めれば良い。
3世紀の筑紫平野の人口は70万〜90万人です。
筑紫平野の範囲:北野平野+佐賀平野+白石平野+筑後平野
466 :
名古屋のサガミファン :2011/11/20(日) 16:31:34.59
3世紀の筑紫平野に70万〜90万人もいたのも従いかねますw 8世紀の奈良時代の日本の総人口でも800万人程度なのに、 その500年前の筑紫平野にそれほどの人口がいたとは思えない。 となると日本の総人口は出雲吉備大和等合わせてかなりの数に なってしまいますので。
467 :
日本@名無史さん :2011/11/20(日) 16:34:52.66
糸島元岡遺跡の高炉跡は6世紀以降確実と思われるが、 長垂海岸などの周辺から算出される砂鉄を使った製鉄法 なのはほぼ確実視されている。 また、ここの製法は少量高品質のたたら製法ではなく、 中品質鋼の量産が可能な、高炉式を取っている。
69歳の畿内説因業爺=名古屋のサガミファン=19歳邪馬台国畿内説論者
469 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/20(日) 17:28:21.69
元岡遺跡の高炉は7〜8世紀の溶融法製鉄です。 低チタン原料によるタタラ製鉄法はドラム缶より小さな炉で、 固融法製鉄なので少量生産となります。 この方法は溶融銑鉄の行程がありませんので低チタンの高品質砂鉄でないと製鉄できません。 又、炉温は450℃でも理論的には製鉄可能です。ロータリーキルン炉でも製鉄可。 もちろん、製鋼工程は鍛造で鉄純度を上げます。←中高チタン砂鉄原料では無理。
470 :
名古屋のサガミファン :2011/11/22(火) 09:55:02.66
九州説とか激しく低学歴臭いw そんなもんに騙される知能指数じゃたかがしれてるし。
471 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 10:09:09.42
邪馬台国は九州か畿内大和にあったのだろう。 しかし卑弥呼は朝鮮半島内の倭の女王だったのではあるまいか。 根拠としては、卑弥呼は公孫氏なり、という文献資料があることと、 九州や畿内の女王がわざわざ中国まで朝貢するとは思えないからである。
472 :
名古屋のサガミファン :2011/11/22(火) 10:13:00.70
>>471 またそんなトンデモ説言わんで下さいww
女王卑弥呼のいる都があるところが邪馬台国だと
ちゃんと倭人伝に書かれてますのでww
それに卑弥呼が公孫氏?卑弥呼が魏に朝貢したときに、
ちょうど公孫氏は司馬仲達によって滅ぼされてますのでww
473 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 10:13:49.84
倭の五王も、九州か朝鮮半島内の倭の王だと思う。 記紀に卑弥呼のことも倭の五王のことも記載がないから、 卑弥呼や倭の五王は九州か朝鮮半島内の倭の王だろう。
474 :
名古屋のサガミファン :2011/11/22(火) 10:20:51.61
九州王朝説は勘弁してくださいww 倭の五王も大和朝廷の王です。少なくとも武は雄略でほぼ確定です。 讃と珍は誰だか確定しませんが。
475 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 10:21:36.22
>>472 魏志倭人伝の記事は錯綜しているのである。
1 地理史としての倭の情報。
2 倭の首都はヤマト(畿内大和)にあるという情報。
3 倭の女王卑弥呼が朝貢してきたという情報。
2と3から、陳寿は卑弥呼は邪馬台国にいると解釈したのである。
しかし本当は卑弥呼は九州か朝鮮半島内の倭の女王だったのである。
476 :
名古屋のサガミファン :2011/11/22(火) 10:34:38.11
>>475 トンデモすぎますw
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
とこのとき魏の使者は実際邪馬台国にいる卑弥呼に会ってるはずです。
そのもとで魏志倭人伝は書かれてるので、卑弥呼が九州や朝鮮半島にいた
可能性はほぼないです。
477 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 11:33:33.41
>>472 >女王卑弥呼のいる都があるところが邪馬台国だと
>ちゃんと倭人伝に書かれてますのでww
の原文を挙げてくれんかね?
↓なら
「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都」・・・@
と
「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都」・・・・A
@とAの女王が同一人であるという確証はなに?
478 :
別格 :2011/11/22(火) 11:49:43.55
ん? 九州王朝説、古田某的解釈を展開したいのなら、別にスレッドを立ててやってくれ。 古田説信奉者と古田説亜流で賑わうと思うぞ。 卑弥呼の時代を境目とした日本古代史を1本の大根にたとえると。 下半分は九州にあったとするのが純粋九州説。 上半分しかないのに、1本まるまる畿内で成長したとするのが畿内説。 九州と畿内に各1本ずつあったとするのが九州王朝説。 ともに、大根が1本ずつあったとする意味において、 九州王朝説と畿内説はおなじ。だから仲良くやれや。
479 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 12:27:02.79
>>476 倭國に詣り、と書かれているだけで邪馬台国に詣り、とは書かれていない。
それに、陳寿の記述がそのときの見聞をもとに書かれているという証拠はあるか?
480 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 12:35:59.94
山形明郷という在野の研究家によれば、帯方郡や楽浪郡は鴨緑江以北、現在の遼寧省や吉林省にあったのである。 馬韓、辰韓、弁韓はその南にあり、これら三韓の南に倭があった。 ゆえに朝鮮半島の南半分くらいは倭人国家であった可能性がある。 ゆえに卑弥呼が朝鮮半島の倭の女王であった可能性は捨てきれない。
>>480 >卑弥呼が朝鮮半島の倭の女王
その言い方で言うなら、イギリス女王はインドにいた可能性も高くなるな。
482 :
名古屋のサガミファン :2011/11/22(火) 12:42:36.58
漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑彌呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見
卑弥呼が公孫氏とかおそらくこの文章のことを言ってるのでしょうが、
誤読です。宣帝が公孫氏を平げた、それから卑弥呼が朝貢してきた。
ただそれだけの文章ですw
>>479 倭王である卑弥呼に会うために魏の使者は倭国にきたわけですから
卑弥呼に実際会ってます。卑弥呼がいたのは邪馬台国です。
邪馬台国じゃないならどこにいたと言うんですか?w
伊都国に魏の使者は立ち寄ると書かれてますし、朝鮮にいたなど笑止です。
483 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 12:52:49.73
>>482 宣帝之平公孫氏也
この也を、〜するや、の意と解釈する説もあるが、也にそのような意味はない。
484 :
名古屋のサガミファン :2011/11/22(火) 12:59:55.47
その山形とかいう人もきっと斬新な説提唱して自分の本売りたかっただけですよw 在野の邪馬台国研究者などこんなんばっかですからww 仮に卑弥呼が公孫氏関連の人だったとしても卑弥呼は朝鮮にはいません。 とっくに渡来して畿内にいましたよw
485 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 13:14:54.28
>>484 >仮に卑弥呼が公孫氏関連の人だったとしても卑弥呼は朝鮮にはいません。
とっくに渡来して畿内にいましたよw
て、
君の邪馬台国は畿内にあった
ということだが、
その根拠と成る倭伝の原文は何処?
486 :
別格 :2011/11/22(火) 13:24:21.82
卑弥呼の時代を境目とした日本古代史を1本の大根にたとえると。 ●下半分は九州にあったとするのが純粋九州説。 ●上半分しかないのに、1本まるまる畿内で成長したとするのが畿内説。 ●九州と畿内にまるまる1本ずつあったとするのが九州王朝説。 九州王朝説信奉者・古田説亜流しょくん。新しいスレッドを立てろ。 むろん、タイトルは……… 『それでも邪馬壹国は九州にあった』だ。
これが反日マスコミの編集による矮小化 176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed 【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています 「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット 「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット 心情的に分かち合ってきました。」 「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし 以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット 「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」 「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範 であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット 「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、 不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、 ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット 「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に 日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット 他にもカットシーンがたくさんあるので、ブータン国王の演説 でyoutube検索してください
488 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 13:57:02.88
>>483 はわたしのまちがいであった。也には〜するや、という意味があった。
しかしなぜ宣帝が公孫氏を平定したときに、「其女王遣使至帶方朝見」したのだろうか。
ともかくわたしには九州や畿内の女王が軍事支援要請のためにわざわざ中国まで朝貢したというのがどうしても信じられないのである。
しかし卑弥呼が朝鮮半島内の倭の女王だとすればすんなり信じられるのである。
489 :
サガミハラハラ :2011/11/22(火) 14:53:45.49
当時の卑弥呼は別に軍事支援を仰ぎに長江したわけではありません、 倭の諸国は前漢の時代(または箕子朝鮮)の時代から中国に朝貢しているのです。 単にその流れですよ。
490 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 15:13:50.57
>>489 漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑彌呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見
は、
緊迫した状況の中での朝貢のようですが?
491 :
本物はここまでやる :2011/11/22(火) 17:20:04.87
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」 「宣帝の公孫氏を平げるや、その女王、使を遣わして帯方に至り朝見す」でいいのか?。 ●中国語用法 @之を「の」と読ませて所有格として使った用例 ・夏后少康之子封於会稽…「少康の子」 ・断髮文身以避蛟龍之害…「蛟龍の害」 A之を「の」と読ませて所在格として使った用例 ・帯方東南大海之中...「大海の中」 ・當在会稽東冶之東...「会稽東冶の東」 B之を「これ」という代名詞で使った用例 中国では提示した語句を再度述べる場合に使う。 ・好捕魚鰒、水無深浅皆沈沒取之...「好んで魚鰒を捕るも、水の深浅になく皆沈沒して之(魚鰒)を取る」 ・国有市交易有無、使大倭監之...「国々に市あり有無を交易す、大倭して之(市の交易)を監さしむ」 C也を「なり」と読んで断定助詞に使った用例 ・辰韓者古之辰国也...「辰韓とは古えの辰国なり」 ・如中国用粉也...「中国の粉を用いる如くなり」 ●日本語用法 @中国では人名のあとに「之」をつけて「〜が」という使い方はしない。 ・宣王攻破新城...「宣王、新城を攻めて破る」(之はない) ・司馬宣王遣将軍胡遵等追討...「司馬宣王、将軍胡遵等を遣わして追討す」(之はない) 之を「〜の」と読み、「〜が」という意味に使うのは日本語用法である。 A也を「や」と読む場合の用例 疑問の係助詞「〜や」、詠嘆助詞「〜や」、接続助詞「〜やいなや(〜すると)」。 この読みで「宣帝が公孫氏を平らげると…」と解釈するのは日本語用法である。 ●中国では「之」を「ゆく」という動詞にも使用する。ここに登場する之を「ゆく」と読むと、 「宣帝、公孫氏を平げに之く也。其の女王、使を遣わして帯方に至り朝見す」。 私はこちらの読みを採用するが。
採用した動詞の用例は?
494 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 18:37:11.26
>>491 は伊作氏だと思うが、わたしの持っている角川書店の「新字源」の助字解説には也の用例として
「子之哭也、壱似重有憂者」(論 学而)
「夫子之至於是邦也、必聞其政」
とあり、いずれも、ある人物が〜するや、の意である。
495 :
別格 :2011/11/22(火) 19:21:16.72
>>494 部分的に見せる用例提示はたとえ辞書だろうがアンフェアだ。
前後の様子を把握できるような提示のし方をしろ。
それとも、その辞書が都合のいい部分しか見せていないのか。
どだい。
中国語に「なになするや」なんて用法があるわけがない。
「や」そのものが日本語だ。
496 :
別格 :2011/11/22(火) 19:24:25.49
宣帝之平公孫氏也、 宣帝「の」公孫氏を平げる「や」では、 「の」も「や」も日本語で、 この漢文の読み方語順そのものが日本語読みだ。
497 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 19:44:55.60
たしかに日本語読みだが、原文は漢文である。 そして漢文の之や也を日本人は日本語で意味が通るように「の」とか「や」と読んだのである。 それで意味が通らない場合は「これ」とか「ゆく」とか「なり」と読んだのである。 ゆえに「宣帝の公孫氏を平げるや」と読んでもまちがいではない。
伊作氏は、基本的なこと、つまり 「漢文は(現代)中国語ではない」 ということが、分かってないのでは?
中国語ではこう読む、ではなく、 三国志・陳寿の用例からしてこう読む、でなくちゃいけない。
500 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 21:02:29.94
わたしは読んだことはないのだが、魏志韓伝に 次のような一節があるらしい。 公孫康分屯有縣以南荒地帯方郡。遣公孫模、張敞等収集遺民。興兵伐韓濊、 舊民稍出。是後倭韓遂属帯方 上の文の末尾に、倭と韓がついに帯方郡に服属す、とある。 ところで山形明郷氏の説を信ずれば、帯方郡は現在の遼寧省にあったのである。 ゆえに上の倭は明らかに朝鮮半島の倭である。なぜなら九州や本州の倭がそんな遠方の帯方郡に服属するはずがないからである。 倭が帯方郡に服属したからこそ、公孫氏が平定されたとき、「其女王遣使至帶方朝見」したのである。 その女王とは卑弥呼のことである。ゆえに卑弥呼は朝鮮半島の倭の女王である。
501 :
別格 :2011/11/22(火) 21:18:41.61
>>497 名前:日本@名無史さん :2011/11/22(火) 19:44:55.6
>「宣帝の公孫氏を平げるや」と読んでもまちがいではない。
間違いだ。
中国語に「〜が」というとき、人名のあとに「之」と書いた実例はあるか。
俺は人名だけで何もない実例を提示した。
>>498 >「漢文は(現代)中国語ではない」
何かにつけて「中国語古文」といってきた事実を知らんのか。無礼者。
そんなことはいいから、てめえの中国語古文の解釈を
納得がいくように説明してみろ。横ちゃりだけのクソ野郎。
横からてめえの『 』つけるだけ。俺が一番嫌いなタイプだ。
>>499 >三国志・陳寿の用例からしてこう読む、でなくちゃいけない。
こいつも能書きだけか。てめえでそれをやって見せろ。カス
502 :
別格 :2011/11/22(火) 21:24:39.79
>>497 >>498 >>499 のカスども。これを超える意見を書け。
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」
「宣帝の公孫氏を平げるや、その女王、使を遣わして帯方に至り朝見す」でいいのか?。
●中国語用法
@之を「の」と読ませて所有格として使った用例
・夏后少康之子封於会稽…「少康の子」
・断髮文身以避蛟龍之害…「蛟龍の害」
A之を「の」と読ませて所在格として使った用例
・帯方東南大海之中...「大海の中」
・當在会稽東冶之東...「会稽東冶の東」
B之を「これ」という代名詞で使った用例
中国では提示した語句を再度述べる場合に使う。
・好捕魚鰒、水無深浅皆沈沒取之...「好んで魚鰒を捕るも、水の深浅になく皆沈沒して之(魚鰒)を取る」
・国有市交易有無、使大倭監之...「国々に市あり有無を交易す、大倭して之(市の交易)を監さしむ」
C也を「なり」と読んで断定助詞に使った用例
・辰韓者古之辰国也...「辰韓とは古えの辰国なり」
・如中国用粉也...「中国の粉を用いる如くなり」
●日本語用法
@中国では人名のあとに「之」をつけて「〜が」という使い方はしない。
・宣王攻破新城...「宣王、新城を攻めて破る」(之はない)
・司馬宣王遣将軍胡遵等追討...「司馬宣王、将軍胡遵等を遣わして追討す」(之はない)
之を「〜の」と読み、「〜が」という意味に使うのは日本語用法である。
A也を「や」と読む場合の用例
疑問の係助詞「〜や」、詠嘆助詞「〜や」、接続助詞「〜やいなや(〜すると)」。
この読みで「宣帝が公孫氏を平らげると…」と解釈するのは日本語用法である。
●中国では「之」を「ゆく」という動詞にも使用する。ここに登場する之を「ゆく」と読むと、
「宣帝、公孫氏を平げに之く也。其の女王、使を遣わして帯方に至り朝見す」。
503 :
別格 :2011/11/22(火) 22:24:13.64
最良・かつ最強の批判は、論理的反論だ。 カスどものやることは、 否定したい意思だけを現した文言垂れ。 ガキなみの方便・失笑を誘う詭弁。 我流解釈か無知が故の、お角違いの反論。 そして、小細工・まやかしによる論拠ねつ造による反論。 批判の仕方・反論のし方・議論のし方において、 まともな手順を踏んだ論客はたった一人もいない。 批判の仕方・反論のし方・議論のし方すら知らない。 そんなていたらくだから、むろん論証の仕方も知らない。 知らないくせに、俺がやって見せた手法を倣おうという奴もまた一人もいない。 ……ほんとに・よくやってるぜ。
伊作は脳天ファエラー
505 :
日本@名無史さん :2011/11/22(火) 22:31:37.51
伊作大先生も見苦しいね(爆 子之哭也 夫子之至於是邦也 宣帝之平公孫氏也 いずれも〜之〜也という構文になっていて、子、夫子、宣帝はいずれも人名もしくはそれに類する語だ。
506 :
別格 :2011/11/22(火) 22:50:10.97
>>504 無意味なことだ。
>>505 相手するのもバカバカしいがな。
原文の部分提示しかできんか。
自分が提示した原文をきちんと読んでみせることはできんか。
俺がやって見せたように、理屈で説明できんか。
所有格、所在格、代名詞以外に「之」を「の」と読む用法は中国語にあれば、
事例にはこと欠かないだろうから、ドサっとだせ。
也を「なり」と読む断定助詞以外に、「〜や 」という用法が中国語にあれば、
事例にはこと欠かないだろうから、ドサっとだせ。
疑問の係助詞の「〜や」、詠嘆助詞の「〜や」、接続助詞の「〜や(〜すると)」。
これらはは日本語用法である。
文句があれば明確な論理でもって否定しみせろ。
507 :
別格 :2011/11/22(火) 22:52:55.65
>>502 の問題提起も俺独自のものだ。
問題意識の欠落した付和雷同たちには目新しかろう。ありがたく思え。
ゴミカス投稿しかできんタコとは存在感からして違うわなー。
508 :
別格 :2011/11/22(火) 23:30:05.20
ていせい。 値切って勝った漢和辞典をみたら、也を「や」とも読むとある。 ただし、中国語では疑問・反語・詠嘆(感動)の助詞として使う。 中国語の「也」には、やはり接続助詞としての用法はない。 この「や」を 「〜すると(〜するやいなや)」という接続助詞に使うのは日本語だ。 「宣帝の公孫氏を平げるや」という読みは、日本人独自の読みだな。 「宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也」。新しい提案だ。
509 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/23(水) 00:04:54.60
>>505 >子之哭也
>夫子之至於是邦也
>宣帝之平公孫氏也
>いずれも〜之〜也という構文
之:ゆく、いたる(動詞)
也:なり、や(語勢を強める為の助詞)
「之哭」「之至」「之平」として動詞として働く。
「之」は「也」と合わさって語勢を強める為の助動詞と見ても良い。
「主語」+「之」+「動詞」+「〜」+「也」の構文となっている。
伊作の「漢文の才能のなさ」は芸術的
伊作と19名古屋はうんここ。
512 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/23(水) 10:17:54.68
みなさん今日も不毛な議論お盛んのようですね。 僕をその伊作という人と一緒にしないでくださいよw みてるとただのマニアじゃないですか。 マニア特有の思考で知識量で優劣はかる傾向が見受けられますしね。 僕は由緒正しい国立大の学徒ですので、邪馬台国問題に関してましては 数冊本を読み、畿内説が正解だと気付いたので、これ以上はもう本は読みません。 無駄なので。無駄な知識は排除して、ソフィスティケートするのが 我々受験戦争を勝ち抜いてきた高学歴派です。低学歴は無駄を排除する 効率化という概念が薄いので低学歴なんですw 僕の大学の教授もそして知り合いの学芸員も皆畿内説支持ですし、 彼らも邪馬台国問題など馬鹿馬鹿しいので避けてますよ。 おそらく邪馬台国に関する知識の量だけならここにいらっしゃるマニアの方々のほうが 教授や学芸員よりも上かもしれませんね。でもプロはそのような知識は 無駄だとわかってるから避けてるだけなんです。それがわかってない。 推論部分が多くなりすぎるので、古代史は大化の改新前はあまり盛んでないと 教授も言ってました。それが歴史学を専攻する者の態度です。 邪馬台国論者など推論ばかりで素人じみてますし、オカルト板にスレ立てたほうが 適材適所でしょうwこんなん学問でもなんでもないです。
513 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 10:35:39.86
伊作大明神はあいかわらず往生際が悪いな(爆 也には「や」と読んで指示、提示を表す用法があるのである。〜は。〜のは。〜ときには。 子之哭也、壱似重有憂者。子(孔子)の哭するや、いつに重ねて憂いある者に似たり。 夫子之至於是邦也、必聞其政。夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞く。 宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見。宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王遣使して帯方に至り朝見す。
514 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/23(水) 11:03:29.71
>512←19歳?ジョーカーの化けコテ
515 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 11:29:47.56
卑弥呼 ◎朝鮮半島の女王 ○九州の女王 △畿内大和の女王 邪馬台国 ◎畿内大和 ○筑後山門郡 △肥後山門 ×佐賀市大和町東山田あたり ×朝鮮半島のどこか
516 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/23(水) 11:42:49.62
>>512 畿内派特有の論理のすり替えをしている。
>僕は由緒正しい国立大の学徒ですので、
文系学部は戦後乱立の駅弁大学のひとつ。
旧帝大である理系学部の様な言い方するな。
>我々受験戦争を勝ち抜いてきた高学歴派です。
受験戦争を勝ち抜いてきたのは文学部を除く学部だろ。
文学部は論理思考のできないアホが行くところだ。特に数学的論理思考
>古代史は大化の改新前はあまり盛んでないと教授も言ってました。
「大化の改新」は、古田武彦氏に叩き潰され反論もできない古代史のなかで、
「乙巳の変」と言い換えて、唯一反論できたところ。
517 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 12:24:12.63
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
自危四度至斗六度 謂之析木 之次 燕之分也
>>508 >「宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也」。新しい提案だ。
「二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都」
『景初2年8月23日、公孫淵父子をはじめ廷臣を斬首、更には遼東の成年男子7000人を虐殺した。』
からも
『別格』氏に一票だな。
もし、倭女王が公孫氏に加担したなら
逆に魏郡は公孫氏と倭に挟まれて公孫氏の滅亡には到らなかったこもね。 ははは。
非常に緊迫した状況の中での朝見でああっただろう。
難升米と牛利の連合で軍を出さずに朝見だ。
518 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 12:25:40.08
×魏郡 ◎魏軍
519 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/23(水) 12:35:50.94
卑弥呼が公孫氏とかまだ今日もそんなトンデモ説を言ってるんですかw いかにも在野のオタが好きそうな解釈で、斬新な説を出せばいいと思ってるでしょww ほんとアホらしいな、低学歴素人の邪馬台国論争などww
520 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 12:53:36.09
>>519 「制詔親魏倭王卑彌呼」
所謂
卑彌呼は「邪馬壹【臺】國」の女王ではない。
奴國の女王である。
521 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/23(水) 12:58:51.77
今度は奴国の女王ときましたかw もうトンデモ満載で勝手にやってくださいって感じですww オカルト板でやりましょうよそういうのは。
522 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 12:59:09.41
魏志倭人伝の最大の問題点は、行程記事を別にすれば、倭の女王が魏に朝貢したという記述である。 邪馬台国が九州なら、それはありうることだろう。しかし邪馬台国が畿内大和なら、そんなことは絶対にありえない。 なぜなら倭の女王は軍事支援要請のために朝貢しているからである。そんなことのためにそんな遠方にまで行くはずがない。 しかし九州でもやや無理があるのである。なぜなら九州からでも魏は遠すぎるからである。 さらに軍事支援要請のためなら畿内大和に要請してもよいはずだが、そうはしていない。 ゆえに邪馬台国がどこであれ、倭の女王卑弥呼は朝鮮半島の女王だったのである。 倭の女王が朝貢してきたという情報と、倭の王都は邪馬台国というところにあるらしいという情報から、 陳寿は卑弥呼は邪馬台国にいると勝手に解釈したのである。
523 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 13:10:39.29
>>521 名前:旧帝大歴史学徒
奴國は畿内だ。
所謂、纏向遺跡は奴國の遺跡だ。
「女王之所都」を正確に解釈してみろ。
都と京の違いを解れ。
魏の時代の倭王卑弥呼は 「邪馬壹【臺】國」には居ない。
都とは過去の京だ。
524 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 13:19:06.29
>魏の時代の倭王卑弥呼は 「邪馬壹【臺】國」には居ない。 勿論、後漢の時代の共立卑弥呼も「邪馬臺國」には居ない。 「國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國」の「大倭王」は女王であるが、 その女王が卑弥呼であると記述されたことは一度もない。 あったら、原文を教えろ。 君たちの論旨自体がトンデモなのだ。
525 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 13:22:37.09
誤解している人がいるようだが、わたしはすでに
>>488 で、卑弥呼は公孫氏なり、と読むのはまちがいであったと訂正している。
卑弥呼は公孫氏ではない。それを認めた上で、たとえば
>>500 の記事を書いているのである。
卑弥呼は公孫氏ではないが、卑弥呼は朝鮮半島の倭の女王である。
19歳=名大=旧帝大=79歳国民学校中退の耄碌爺
527 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/23(水) 15:06:04.10
卑弥呼が朝鮮半島の倭の女王ですって?w だったら早くその論文でも書いて投稿してみなさいww それで評価されれば雑誌にちゃんと載るはずですから。 載らないなら相手にもされないレベルってことを自覚してくださいww
528 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 17:49:15.65
>>512 、527
あんたがとても邪馬台国を論じる資格が無い人間だとチョンバレだね。ここは
九州板だからここに投稿することは自分が九州説支持ですと告白することにな
る。それでいて畿内説を主張するなど、あんたの頭は論理的思考ができないこ
とを皆の前に自らさらけ出しているよ。
529 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 18:31:18.44
お国自慢合戦にしか見えんね畿内や九州説とかって
530 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 18:38:54.73
わたしは山形明郷氏の説を全面的に信じているわけではないが、 帯方郡は遼東地方にあったという説だけはかなり説得力があると思った。 だから馬韓、辰韓、弁韓も、通説よりは北方にあった可能性があり、 朝鮮半島の南半分、あるいは三分の一くらいは倭人国家だった可能性がある。 今日の定説のように半島の南の沿岸部だけが倭人国家だったというわけではあるまい。 邪馬台国も狗奴国も朝鮮半島にあったかもしれない。
531 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 19:06:19.37
もともと邪馬台であろうと邪馬壱であろうとヤマトとは読めないわけで、 これをヤマトと読むこと自体に問題があるわけである。 ヤマタイ、ヤマダイ、ヤマイ…と読む朝鮮半島の一国家であったとしても全然不思議ではない。
秦人の国だったりする?
邪魔大国
534 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 19:25:05.37
倭の女王が朝貢してきたという記事はあっても、邪馬台国の女王が朝貢してきたという記事はない。 だから、邪馬台国が九州か畿内にあったとしても、倭の女王が九州か畿内の女王であるとは断定できないのである。 朝鮮半島の倭の女王の情報と、九州か本州の地理誌としての邪馬台国の情報が混交しているのである。 卑弥呼は朝鮮半島の倭の女王なのだが、陳寿は九州か本州の邪馬台国の女王だと誤解したのである。
>>515 > 僕をその伊作という人と一緒にしないでくださいよw
うり二つ。
536 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 22:20:19.11
57年 倭奴国が朝貢。その金印と思われるものが九州北岸で発見された。 ところで倭奴国は倭国の極南界とあるから、倭国は朝鮮半島南部にあったと思われる。 107年 倭国王帥升が朝貢。この倭国もおそらく朝鮮半島の倭国である。 それから七八十年男王が続く。 180年頃 卑弥呼共立。この卑弥呼も朝鮮半島の倭国の王である。 204年以降 公孫康により倭が帯方郡に服属された。この倭が朝鮮半島の倭であることは既に述べた。 つまり卑弥呼の時代に倭は帯方郡に服属したのである。 238年 公孫淵が宣帝により滅ぼされた。 239年 公孫氏が滅ぼされたので卑弥呼が魏に遣使した。 つまり卑弥呼は朝鮮半島の倭の女王である。どこにも矛盾はない。まったくすんなりと理解できる。
>>536 金印が出た志賀島だけがピンポイントで倭奴国だったと決めつけないと、
そういう論理にはならない。
538 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 23:00:45.26
>>537 たしかにそれはそうだが、倭奴国がどこであろうとわたしの論には関係ないのである。
>>500 で、公孫氏に服属した倭は朝鮮半島の倭以外考えられないことをわたしは述べた。
そして宣帝が公孫氏を平定したとき、その服属した倭の女王が朝貢してきた、と魏志韓伝に書かれているのである。
だから
>>500 だけで卑弥呼は朝鮮半島の倭の女王であることは明白である。
そうであってみれば、紀年の計算から帥升も朝鮮半島の倭国の王であったことは極めて蓋然性が高く、
帥升はおそらく卑弥呼の先代か先々代の王だったのである。
539 :
日本@名無史さん :2011/11/23(水) 23:17:11.37
すまない。まちがえた。 宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見 という文は晋書?にあるらしい。だから卑弥呼は朝鮮半島の倭の女王であることは明白ではない。
>>539 いや、だからさ、半島と列島の両側に倭の領土があっただけで、
列島側に倭の領土が無いという前提をも重ねないと、そう断定できないのよ。
だけど実際には、考古学的にも列島側の倭の領土が根拠地でしょ?
541 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 12:34:46.45
>>539 舊以男子爲主 漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲王名曰彌呼
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見
の「舊以男子爲主」が何故『王』ではなく『主』なのか?
『主』とは誰のことか?
解る奴はいるかな?
542 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 13:17:45.80
>>540 後漢書倭伝の冒頭文は、倭は日本列島にあると理解される文になっているが、
それは魏志倭人伝の冒頭文を改作したものだと言われている。
しかし後漢書倭伝の本文では、倭奴国は倭国の極南界と書かれているし、
後漢書韓伝でも馬韓と弁辰は南で倭と接すと書かれており、倭が朝鮮半島にあるような書き方であり、
後漢時代の中国人にとって倭とは朝鮮半島の一部と理解されていたかもしれない。
考古学的にも前方後円墳が全羅南道、全羅北道で見つかっており、
卑弥呼の時代にはおそらくもっと北方までが倭の領土であったかもしれない。
543 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 13:50:38.11
>>542 半島に倭の力が及んだのは、隋の時代で
魏の時代の倭の領域は
北緯24度の与那国島から北緯38度迄
原文は
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」
の「其北岸狗邪韓國」が与那国島で
「自郡至女王國萬二千余里」の
着点が北緯38度になる。
544 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 15:30:52.87
また変ちくりんなのが湧いてきた。
545 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 18:36:15.73
よおく考えてみよう。 日本は先の大戦まで、外敵に侵略されたことは一度もない。 四方が海に囲まれているので、元寇も日本を侵略することはできなかった。 だから、わざわざ中国まで朝貢して、中国の冊封体制に入る必要はない。 九州や本州の王がわざわざ中国に朝貢する必要はないのである。 しかし朝鮮は別だ。中国大陸と陸続きだから、下手をすれば侵略される。ゆえに冊封体制に入る必要がある。 だから魏に朝貢した帥升も卑弥呼も朝鮮半島の倭の王だったと考えるのが自然な考えである。 倭奴国の金印については、贋作説もあるので、これについては改めて考えなければならない。
546 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 19:04:45.65
>>545 また馬の骨が迷い込んできた。
エサやんなよ。
547 :
別格 :2011/11/24(木) 19:16:32.02
>>541 何故『王』ではなく『主』なのか? 『主』とは誰のことか? 解る奴はいるかな?
ずいぶんデカい態度だな。王を「主」と書くのは別段珍しいことではない。
『三国志』は、後漢朝の献帝から禅譲を受けた魏を正当王朝とみなして、
帝紀を起こしている。魏を皇帝がすなわち天子とみなしていたのだろう。
蜀と呉は帝や王ではなく「主」として扱っている。
@『魏書』 武帝操、文帝丕、明帝叡
A『蜀書』 先主備、後主禪
B『呉書』 呉主權、三嗣主(孫亮・孫休・孫皓)
天子(皇・帝・王・皇帝と時代によって呼称が変わる)は、
そもそもは地上に一人のはずだった。
周王朝期(春秋時代)に楚の熊通が王を号して以来、
地上に一人のはずだったはずの王が乱立する。
それでも、(それぞれ立ち居振る舞いや儀礼は天子然としていても)
さすがに周室をさておいて天子を号する奴はいなかった。
ここで、微妙に天子しと王の意味合いが違ってくる。
つまり『三国志』編纂者としては、正当な天子・皇帝との対比上、
正当天子ではない「その他の主」と書いて区別をしたのだろう。
▼天子を号した孫権と劉備が「主」なのに、異民族たる倭人の王に「王」を使っているが、
編纂者本人の中では、王は王でも別のランク区別があってのことだろう。
『晋書』は後漢代の倭国王を「主」と書いているが、
『後漢書』が後漢代の倭国王を「主」と書いたのを受けたものか。
548 :
別格 :2011/11/24(木) 19:25:03.63
冊封だの、公孫に朝献だの・半島のじゃがいもに朝献だの。 歴史錯誤もはなはだしいぞ。 朝献・朝貢は、中国天子を対象としてトップ外交であり、 交流・交易・安全保証などを目的とした唯一の公式手段だった。 倭人の朝献・朝貢対象は一貫して「中原の正当王朝」だ。 中原がごった返しているとき、どれが正当王朝かも分からん間は、 50年でも100年でもカラを閉じた貝同然にしている。 火事場泥棒見たいな公孫親子など、相手にするものか。それが倭人の誇りだ。 冊封などという現代の日本人がつくった造語を誤解して、 あたかも倭国がどこぞの国や王朝に従属していたかのらようなバカな史観を吹くのがまだいるが、 倭人の国が中国はおろか他の民族国に従属した事実は一度もない。 腹が立ってくるぜ。
549 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 19:27:22.00
さすが伊作氏はすばらしい。546とはえらい違いだ。
550 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 19:38:37.79
伊作氏よ、冊封という言葉は不適切だったかもしれないが、卑弥呼の使者が魏に行ったことはまちがいない。 そして公孫氏が倭と韓を服属させたという資料があるのも事実だ。 「倭人の国が中国はおろか他の民族国に従属した事実は一度もない。」 これは日本列島の倭のことだ。 朝鮮の倭は公孫氏に服属し、朝鮮の倭の女王卑弥呼が魏に朝貢したのだ。
552 :
日本@名無史さん :2011/11/24(木) 21:18:57.47
本居宣長は、大和朝廷の王が中国に朝貢などするはずがないと考えて、卑弥呼は九州の女酋だとした。 しかしわたしは、九州の王でも中国に朝貢などするはずがないと思うのである。 遠すぎるからである。親善や物見遊山で行くならまだしも、南の狗奴国と仲が悪いから何とかしてくださいと支援を要請しに行っているのである。 よく考えてみたまえ。君らが筑後や肥後の王だとして、中国まで支援要請に行くか? 中国は遠いぞ。飛行機で行くのじゃないぞ。手漕ぎ舟で行くのだぞ。下手をしたら沈没して死ぬのだぞ。
553 :
別格 :2011/11/24(木) 22:07:22.05
>>550 >>552 きみよ。
本気で議論するつもりなら、きみを特定できるようにハンドルをつくれ。
そして。
自論の誤りを指摘されても、決して逆恨みしない応用さでかかってきなさい。
相手をしてあげる。
554 :
別格 :2011/11/24(木) 22:10:33.14
応用さ→→鷹揚さ 妬み・嫉み・やっかみ・恨み節のタコどもは俺を誹謗するしかない。 だが、俺は常に正論しかいわない。 潰されても文句をいわんように。覚悟して議論するよう。
クズの相手は田舎っぺ大将。
556 :
別格 :2011/11/24(木) 22:30:39.12
>>550 >公孫氏が倭と韓を服属させたという資料があるのも事実だ。
これにはまず、朝鮮半島南部と島嶼部に「倭」と呼ばれたエリアがあったことの証明がいる。
これについては俺の意見も同じだし、俺なりに証明努力をしている。さほどの問題はなかろう。
>朝鮮の倭は公孫氏に服属し、朝鮮の倭の女王卑弥呼が魏に朝貢したのだ。
「朝鮮の倭の女王卑弥呼」をどう立証できるのか。拝聴しよう。
膨大な分量になると思うから、文字数制限なしの掲示板つくろうか?
>>552 >九州の王でも中国に朝貢などするはずがないと思うのである。
倭奴国王と倭国王はどこの王だというのかね。
>南の狗奴国と仲が悪いから何とかしてくださいと支援を要請しに行っているのである。
これは俺の倭国情勢分析も同じだ。
>君らが筑後や肥後の王だとして、中国まで支援要請に行くか?
だ・か・ら。
倭奴国王と倭国王はどこの王だというのかね。
>下手をしたら沈没して死ぬのだぞ。
現実に1世紀と2世紀にやってのけているが。
557 :
別格 :2011/11/24(木) 22:32:41.70
>>555 意味も意義も価値もない
一行ヤジを書くしか能がないてめえよりもマシだ。
叩かれても叩かれても出てくるモグラ。 〆モグラ叩き
559 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 10:38:45.34
画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の分布状況をみれば 九州説はありえません。九州説の人は素人のマニアばっかなんで 考古学的知見はいっさい無視で、自分の部屋の中に籠って 文献だけ読んで判断するから読み誤るのです。
560 :
世捨人 :2011/11/25(金) 11:14:27.26
私は君らほどの知識はないから、これまでは読むだけで、投稿しなかった。 しかし君らが山形氏の説を知らないようなので、ひとつ投稿してやろうかと思ったのである。 ただし私自身、卑弥呼=朝鮮の倭の女王説に確信があるわけではなく、半信半疑で書いているのである。 だから名前は入れなかった。しかし伊作氏の要望もあることだから、今後は入れることにする。 さて、たしかに金印や漢鏡や魏鏡が出土しているのであるから、日中間に交流はあったと思われる。 そのこと自体、実に驚くべきことだと私は思うのだが、とにかく考古学的事実は事実として認めなければならない。 しかしである。日本が中国に軍事的問題で支援要請をしたというようなことは歴史上一度もないのである。 遣隋使を派遣したりして文化交流はあったが、軍事的な支援要請をしたことはない。 だから、早くも3世紀の時点で日中間にそのような関係が成立していたと考えるのは不自然である。 卑弥呼は朝鮮の倭の女王だったと考えるほうが、より自然なのである。
561 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:16:31.72
画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡が、 「他の前漢鏡、後漢鏡に比べて優位であるか」 そして、 「どの時代に」 「どう分布してるか」 を論じられないと、誰も納得しないよ。 その各論に対して、畿内説九州説問わず、 専門家も含めてずっとやってきたわけだ。 君の各論の見解はどういうものかな?
562 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:17:47.97
563 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 11:18:08.13
卑弥呼が朝鮮の倭王とかまだそんなこと言ってるんですかw ここで九州説唱えてる低能より低能ですよww というか邪馬台国の所在地論にそこまで拘泥する時点で かなりアホですから、さっさと手を引いたほうがいいですよ。 賢い人は邪馬台国問題は完全にスルーしてますので。
564 :
世捨人 :2011/11/25(金) 11:22:02.79
よく考えてみよう。 女王に服属する国は三十余国もあったのである。 それらの国が九州にあったか本州にあったかはどうでもよい。 狗奴国をやっつけるためなら、それらの国々に支援要請をすればいいのである。 狗奴国一国なんて、それだけでやっつけられる。 ところがそうしていない。わざわざ魏にまで朝貢している。なぜか。答えは簡単である。 邪馬台国と狗奴国は朝鮮にあったのである。朝鮮の倭国はおそらくこの二国くらいしかなかったのである。 だからこそ卑弥呼は魏に支援要請したのである。
565 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 11:23:05.70
>>561 三角縁神獣鏡は、魏の年号が入ってるので、
もうリアルタイム国産説濃厚です。
景初4年は存在しないので、年号が変わった情報が
入ってこなかった日本国内で生産されたものです。
近畿地方を中心に分布しておりますので、配布元は畿内王権であり、
九州説に立脚すると、3世紀末に東遷し、それから鏡を配布したと
考えなければならなくなるので、九州説の方は東遷説を立証しなくてはなりません。
しかし考古学的にみて東遷した可能性は薄いです。
566 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 11:27:44.59
>>564 いい加減恥晒すだけなのでそのへんにしといたほうがいいですよw
邪馬台国に関しては僕も不毛なのであまり詳しくないですが、
僕から見てもトンデモ説ですよそれw
半島内に邪馬台国と狗奴国があったなら朝鮮のどこにあったんです?
567 :
世捨人 :2011/11/25(金) 11:36:13.49
私はトンデモ説と思われることを承知で書いているのである。 しかし具眼の士なら、私の説に少しは興味を示してくれるはずである。 古代史はトンデモ説の宝庫である。しかしそこが、面白いといえば面白いのである。 必要なのは、どんな珍説奇説にもつきあってやろうじゃないかという態度である。
568 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:38:01.24
>>565 いいね。ここまで書けば話ができる。
「畿内しかないですよ」では、話にならない .
三角縁は卑弥呼のもらった鏡ではない、はOKだね。
国産量産鏡を畿内王権が配ったというのは同意する。
自分は九州王朝並立説なので、東遷しないのも同意。
ただし、九州勢力の非主流派や、部下が、まだ人口の少ない時代に、
極少数移動したことは否定しない。同様に九州に入ってきた
一族もいるだろう。それは大戦争の起きる程の規模ではない。
569 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 11:39:32.06
>>567 では一言で、貴方の説を否定して差し上げると、
女王国以北には伊都国に一大卒を置き諸国を検察すると
倭人伝に書いてありますので、朝鮮に邪馬台国があったなど
ありえません。倭人伝すらちゃんと読んでない人の妄想です。
570 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:39:56.61
>>564 朝鮮にあった国もそれぞれ魏に朝貢してるよね。
さすがに朝鮮にあったら魏も認識しているはず。
魏から邪馬台国へ行く行程では海を渡っているんだが
そもそも中国と朝鮮は陸続きだよ。
鏡を配ったからなんちゃらってアホか ただの供給地だっただけだろが
572 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 11:49:24.75
巻向の大和王権の中心地周辺でも魏の年号入りの鏡が 出土するので九州説はほぼありえません。 鏡を権威の象徴として利用してるということは 中国に朝貢してなければおかしいので、巻向大和王権が 魏に朝貢していたと考えるべきです。
573 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:51:06.39
三角縁は大部分古墳時代だからね。 糸島の王墓の方格規矩四神鏡のように、 舶載鏡を配布する慣習はあったのだろうが、 容易に舶載鏡を入手できない畿内では、国産鏡を使ったのだろう。
574 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:55:09.79
>>572 国産なら、魏の年号入りでもどうにでもなる。
それも間違い年号入りの鏡を配布する時点で、
魏との関係は薄いのは明白。
575 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 11:59:59.25
基本的に舶載鏡を、配布するお手本にしていたとすれば、 その時代時代の舶載鏡をお手本にして、変わっていっても良いはずであるが、 莫大な三角縁の出土量は、お手本が固まってしまったことを示している。 つまり、ほとんど新しい舶載鏡が入って来なかったのである。
576 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 12:03:47.66
前にも言いましたがその間違い年号入りの鏡は リアルタイムで作られたものなので、近畿地方にも 大陸から鏡を製造できる技術者の流入が当時あったことを示しています。 つまり渡来人が大陸から近畿に流入するルートが230年代にすでにあったので 北九州〜瀬戸内ルートはすでに巻向大和王権に押さえられていたと考えるべきです。
577 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 12:05:15.24
>>547 :別格
>『晋書』は後漢代の倭国王を「主」と書いているが、
>『後漢書』が後漢代の倭国王を「主」と書いたのを受けたものか。
倭國という概念の中で
「舊以男子爲主」を「舊以男子爲王」とは記述できない。
が
「有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲 王 」
「漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲 王 名曰卑彌呼」
では、卑彌呼が倭國の王という記述されている。
何故なら、
倭國王とは女王にだけ冠される王号であるからだ。
だから、男は王ではなく主としている。
所謂
倭國とは女王国なのである。
余談だが、
大和国・日本国というとき、その国王は男王でよい。
578 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 12:07:51.56
神獣鏡が100年もたってから埋められてるとかどこがリアルタイムなんだろうねえ
579 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 12:09:51.63
服属国としてパチ物大量生産はまずいだろjk
580 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 12:10:50.93
交易で、小型銅鐸すら、畿内や出雲から九州まで広がっている。 技術者が数名移動するくらいは別に問題ない。 逆に畿内から九州に入り込んできた人間もいるだろう。 しかし、大量の鉄や舶載鏡は、畿内に流れては行かない。 数個ぐらいは行っただろうが。 また、三角縁神獣鏡という、近い形式の鏡が 大量に出てくるのは、移動した技術者の数が 少ないことを示している。 大勢の技術者が移動すれば、国産鏡も、 もっと多種多様になっても良いはずである。
581 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 12:12:57.91
製造されたのがリアルタイムです。 九州説なら東遷後に配布したことにしなければつじつまが合わなくなります。 4世紀の福知山の古墳からも間違い年号入りの鏡が出土してますから、 九州に邪馬台国がありそこで製造されたのでしたら、 九州の邪馬台国から福知山の豪族に配布したことになりますし、 そのようなことありえないでしょ。
582 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 12:22:49.50
しょせんパチ物なんだから関係ないよ
583 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 12:26:57.42
>>580 服属とか友好とかヌキにしても交易は成り立つしね
畿内説は神獣鏡バラ撒いたのだって支配権のなんちゃらとか寝言言ってるようだけど、単なる交易かもしれないし
584 :
別格 :2011/11/25(金) 12:39:14.35
>>560 :世捨人
>伊作氏の要望もあることだから、今後は入れることにする。
ありがとね。要望に応えてハンドル造った人ははじめたかな。
>君らが山形氏の説を知らないようなので、
俺も初めて聞く名だし、初めて聞く珍説だ。
『邪馬台国半島説』というわけだろうが、奇を衒うにもほどがある。
>日本が中国に軍事的問題で支援要請をしたというようなことは歴史上一度もないのである。
魏と卑弥呼の倭国の交流は軍事支援からはじまっているし、
魏の対倭国政策は一貫して軍事支援だが。話せばながーくなる。
その山形氏とやらのと俺のを読み比べてもらいたい。
>卑弥呼は朝鮮の倭の女王だったと考えるほうが、より自然なのである。
『三国志』韓伝に卑弥呼のことが書いてあるかい?
『三国志』韓伝の次に倭人伝が立ててあって、帯方東南の大海の中にいると書いてあって、
卑弥呼はその倭人の国30ヵ国の那珂の邪馬台国に居ると好いてあるが、
文献をきちんと読み分けることぐらいはできるだろう。
この話はこれくらいにしよう。
585 :
別格 :2011/11/25(金) 12:46:37.93
>>577 倭国王帥升等 (『後漢書』)
復以為安東将軍倭国王(『宋書』)
>倭国王とは女王にだけ冠される王号であるからだ。
わるいが、相手ならほかを当たってくりれ。
586 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 12:53:29.60
親魏倭王卑弥呼に制詔すの、制詔という言葉も 格が低い者に対して使う言葉なので親魏倭王というのも せいぜい辺境の蛮夷の王といったとこです。 その程度ですよ当時の中国側の日本に対する認識は。
587 :
世捨人 :2011/11/25(金) 12:57:50.45
伊作氏よ、山形氏は中国の正史を何千巻も読んだ人だ。一読の価値はあるよ。 帯方郡や前三韓、後三韓が定説よりずっと北方にあったと主張している。 氏の本を読めば史観が変わる。尤もそれが正しいかどうかは別だが。 「『三国志』韓伝に卑弥呼のことが書いてあるかい? 」 卑弥呼は倭国の王だから、韓伝に書かれてないのは当然だ。朝鮮の韓と倭は別だから。
>>585 わるいが、相手ならほかを当たってくりれ。
トンデモのカスが偉そうにしている。
589 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/25(金) 13:00:39.56
だからその山形って人も他人とは違う斬新な説を言わないと 本が売れないから、奇抜なこと言ってるだけですってw 騙されたらいけませんよ。邪馬台国本出す在野の研究者など みんなそんなんばっかですから。 もう少しちゃんとした本読んだ方がいいですよ。
590 :
世捨人 :2011/11/25(金) 13:07:57.63
>>569 も
>>570 も、魏志倭人伝は日本列島の情報と卑弥呼の情報が混在しているという視点が欠けている。
当時大和朝廷はあったのだから、伊都国に一大卒が置かれたことは不思議ではない。
また、誰かが日本列島に行って日本の情報を得てきたのだから、海を渡ったのは当然だ。
しかし日本列島の情報が遣使によってもたらされたとはかぎらない。
たしかに魏志倭人伝を読むと倭は日本のことだという印象だ。しかし朝鮮にも倭があり、卑弥呼はその倭の女王だったのである。
591 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 13:12:44.64
>>585 名前:別格
>>577 >倭国王帥升等 (『後漢書』)
「願請見」あるが、倭国王と称したから後漢から相手にされなかったんじゃないの。
二十年倭國王濟遣使奉獻
「復以為安東将軍倭国王」(『宋書』)
の
濟が男であった
という確証は何?
592 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 13:34:52.21
間違い年号入りの鏡は、たしかにリアルタイムか、 極めて近い時期に作られたものだろう。 数年後、あるいは数十年後に、中国の年号のことを知ったとしたら、 恥ずかしくて作れたもんじゃないからな。 で、畿内王権が、自作の鏡を畿内周辺に配っても、 何らおかしいことはない。 九州と畿内は遠隔地で、互いに干渉する関係にはないからである。 畿内は畿内王権、九州は九州王朝で二極化していたとみる。 九州では鉄製武器などの軍事物資は制限するが、 とくに問題とならない物資は交易の制限はしていない。 鉄製武器は九州を離れるとほとんど出てこないのに対し、 鉄製農具は距離が離れるにつれ、緩やかに減少していく。 農民同士の交易で農具は渡っていったのだろう。
>>590 >当時大和朝廷はあったのだから
馬鹿言え、大和朝廷が出来たのはせいぜい8世紀初頭だ。
「畿内で畿内政権が鏡を配った」みたいな話になっているけど、 配ったんじゃなくて、ただ流通しただけでしょ。 あたかも強大な権力が畿内だけに存在したかのような、印象操作はやめてくれ。
595 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 14:26:53.09
三角縁が主に流通するのは古墳時代に入ってから。 前方後円墳の副葬品として出土する。
596 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 14:35:45.65
>>590 名前:世捨人
>当時大和朝廷はあったのだから、伊都国に一大卒が置かれたことは不思議ではない
「自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率は自女王國以北に置かれたのであって
伊都國に置かれたのではない。
「常治伊都國 於國中有如刺史」
伊都國には、刺史の存在があった。ということだ。
597 :
別格 :2011/11/25(金) 14:45:46.47
>>587 >朝鮮の韓と倭は別だから。
理屈だよ。
韓地の倭のことが韓伝に書かれている。
そこに、韓地の異民族国家として書かれているか。
>朝鮮にも倭があり、卑弥呼はその倭の女王だったのである。
韓地の倭の女王として韓伝に書かれてはいまい。
この程度の編纂理屈も分別できんかい。
598 :
別格・渡世人 :2011/11/25(金) 14:51:53.24
>>587 世捨人のだんな。
>山形氏は中国の正史を何千巻も読んだ人だ。
中国正史を合計れば何千巻にもなるんかい?
読むといっても読み方と質による。
結果論として、「邪馬台国朝鮮半島説」をいうようじゃ、
読み方にも察しがつこうというもの。
「奇を衒った」という表現は上等すぎてふさわしくない。
わるいが、それはゲテモノだよ。
599 :
別格・渡世人 :2011/11/25(金) 14:54:21.83
ここんとこ・全晩的にさらにレベルが落ちたな。 さすがの渡世人も矯正する気にならんほどひどいぞ。
600 :
世捨人 :2011/11/25(金) 18:27:43.93
伊作氏よ、とにかく山形氏は中国の正史を全部読んだらしいぞ。 それと氏は邪馬台国は朝鮮にあったとも、卑弥呼は朝鮮の倭の女王だとも、とくに主張してはいない。 示唆したというか、再考を促したのだ。
601 :
世捨人 :2011/11/25(金) 18:40:13.16
>>593 私は、邪馬台国がどこであろうと、神武東征以来、日本の中心は大和にあって、天皇が治めていたと信じているのである。
神武天皇はいなかったなどという戦後史学などは信じていない。
602 :
世捨人 :2011/11/25(金) 18:52:48.94
たとえば官名を見てみると− 対馬国 卑狗 一大国 卑狗 狗奴国 狗古智卑狗 とあり、対馬国、一大国、狗奴国だけが卑狗という官名が共通している。 なぜだろう。これを、狗奴国を九州南部とか関東に比定しているかぎり、疑問は解けない。 しかし狗奴国は朝鮮半島南部の国だと考えると、すんなり理解できるのである。 朝鮮半島南部から対馬、壱岐までが一つの文化圏だったと考えれば。
603 :
別格・渡世人 :2011/11/25(金) 18:58:22.73
>>602 狗奴国が対馬や壱岐よりも北の朝鮮半島南部にあったなどとは、
そうとうにイカれたオタクでもいわない。
山形某が何者かは知らんが、きみの話を聞いただけでも支離滅裂な模様だ。
そろそろ、かんべんしてもらいたい。
>そろそろ、かんべんしてもらいたい。 おまいも似たようなレベル。
605 :
日本@名無史さん :2011/11/25(金) 19:21:46.82
>そろそろ、かんべんしてもらいたい。 伊作に対する板住人全て(ど民除く)の意見。
>>601 それが、純粋妄想だと、早く気づけよ、視野狭窄の万世一系史観!
>>600 判断力のない奴が、いくら量をこなしてもムダ、という好例だろう。
608 :
渡世人 :2011/11/25(金) 21:05:45.93
>604 お前はそれ以下。一行ヤジをいうだけの銀蝿。 >605 恨み節をいうしか能がない板乞食。 ドブ川沿いの枯れススキのほうが・よっぽど存在価値があるぜ。 燃えないゴミの燃えカスども。
609 :
世捨人 :2011/11/25(金) 22:07:42.88
伊作氏よ、卑弥呼は朝鮮の倭の女王だったとか、邪馬台国や狗奴国は朝鮮半島にあった、というのは、
私が勝手に言っていることであって、山形氏はそんなことは一言も言っていない。勘違いしないように。
>>606 学者が何を言おうと、私は学者より記紀を信用しているのである。考古学より記紀を信用している。
考古学的に近畿説が有利であろうと、記紀に卑弥呼に比定できる女性がいない以上、近畿説はまちがいである。
>>609 記紀を盲信するのは、原点批判の能力がない証拠。
つーか8世紀成立の書物をすべて史実と考えてるなら歴史センスなし 内容を選択して採用するなら、そこにはどうしても恣意が入り込む
612 :
世捨人 :2011/11/25(金) 22:19:56.35
>>610 それは小賢しい近代人の考えること。
民族の神話には深い真実が秘められているのだ。
>>612 記紀は、漢籍を読んだうえで都合よく情報操作した書であることを認識すべきだ。
原典批判ができない人間が、記紀を使って古代史などやるべきではない。
614 :
東京帝国大学文学部国史学科 :2011/11/26(土) 01:51:09.07
>>589 :旧帝大歴史学徒
君は、頭狂大学の歴史学徒か?それとも狂徒大学の歴史学徒か?
史学科のあった旧制帝大は両校のどちらかしかない。
それら以外で旧帝大の歴史学徒と名乗る者は詐欺師だ。
616 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/26(土) 08:04:13.46
在野の頭悪い素人が古代史研究なんていう学問の領域に手を出すから 九州王朝だの、邪馬台国は朝鮮だの誤った答えになり笑われるんだよw 古代史の研究がしたいなら最低でも旧帝大の日本史か東洋史に進み、 そこで博士号とってからにしたまえ。大学で鍛えられてもないくせに 研究とか笑わせないでくれ。薬学部も出てないのに、独自で薬の調合の 研究してるって言ってるのと同レベルだw みてると定年退職したっぽいお爺さんが多そうだから時間は有り余ってるんでしょ。 邪馬台国の前にまず大学入りなおしなさい。それすら無理なおつむしかないなら 潔く撤退しなさい。大学受験すら無理なのに研究とかおこがましいよ。 許されるのはサガミさんだけだよw
自称19歳、どんどん腐って来るねえ。
7世紀以前の歴史を扱う研究者は、 結局、一生かけて何もわからなかったという研究生活になるだろう。 もちろんある程度のことはわかるのだけれど、断定的なことが言えない。 限られた史料から推測を交えたハギレの悪い論文ばかり書いてお茶を濁す。 それに比べると、何度でも実験を繰り返すことのできる化学者は楽です。 サラリーマンはもっと楽です。
619 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/26(土) 09:26:02.41
そもそも7世紀以前の歴史は研究対象としては 盛んではないので、邪馬台国なら考古学の領域になるんですけどねw ましてや素人風情が、文献史学から邪馬台国にアプローチするとか もうお笑いの領域ですw
620 :
日本@名無史さん :2011/11/26(土) 09:28:38.53
日本書紀を歴史書だと思って 歴史を研究してきた歴史学者や学会は悲惨だよな。
621 :
日本@名無史さん :2011/11/26(土) 09:33:58.41
たぶん当人たちはその悲惨さってわかってないよ
622 :
世捨人 :2011/11/26(土) 11:11:12.12
私は古事記は素朴なので信用している。日本書紀は紀年が書いてあるから却って信用できない。 朝鮮の史書と比較して神功皇后の事跡は120年ずれていると説く学者がいるが、それも信用できない。 なぜなら朝鮮の史書は神話的な話をたかだか紀元前100年頃の話として書いていて、まったく信用できないからである。 神功皇后は何時頃の人かは不明である。卑弥呼よりずっと以前の時代の人かもしれない。
623 :
世捨人 :2011/11/26(土) 11:29:03.64
漢字の読み方について。 奴 これをナと読むのは無理があるような気がする。ヌかドではあるまいか。 狗 これはクと読まれているが、コ、コウとも読めると思う。卑狗はヒコではないか。 邪 これはヤ、ジャ、シャなどと読まれているが、サとも読めるのではないか。 狗邪韓国の狗邪はクサと転じることもあるのではないか。 ところで日下の日をクサと読む。これはなぜか。 日本というのは元は(本は)日という意味ではないか。たとえば在日の金さんが、もとは金という姓だったので金本と姓を変えるように。 そうすると日本はもとは日(クサ)と呼んだ国で、狗邪韓国の狗邪に由来するのではないか。
624 :
世捨人 :2011/11/26(土) 13:03:05.69
井上秀雄氏は、名前か姓にヤマトと付くのは殆どが天皇家一族か、あるいは(主に朝鮮からの)渡来系の氏族だと言っている。 たとえば桓武天皇の母は和氏でヤマトという姓であるが朝鮮渡来系の氏である。 渡来人は大和に住んだからヤマトと名乗ったのだという説もあるが、果たしてそうか。 朝鮮半島にヤマトという地名か国はなかったのだろうか。 あるいは日本から朝鮮に渡った人々が大和民族であることに誇りを持っていて、 渡来後ももとは大和民族であったことを示すためにヤマトと名乗ったのではあるまいか。
>>624 「大和民族」制定は近代日本成立以後。明治建国以後なそれを時代を遡る形で適応。
626 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/11/26(土) 18:21:48.61
>>623 >奴 これをナと読むのは無理があるような気がする。ヌかドではあるまいか。
奴 これをナと古代シナ人が読むことはない。ヌかド(ト)である。
倭奴國の読みは、イト国である。 イト=倭都
倭奴國=倭都國=倭の都のある国
>狗 これはクと読まれているが、コ、コウとも読めると思う。卑狗はヒコではないか。
狗 これはクと読まれているが、コゥ(コ)と読める。卑狗はヒコと読んでもよい。
狗古智卑狗=菊池彦=菊池地方の官(王)
>ところで日下の日をクサと読む。これはなぜか。
クサカの地が日が昇る下にあるので、日の下=日下と当て字した。
春分秋分に大阪上町台地から見て生駒山山頂から日が昇るので、
その太陽の下にある生駒山麓の海岸の「くさか」の地を「日下」と書いた。
なお、生駒山は弥生銅鐸文化族時代以前(2世紀以前)の霊山である。
627 :
世捨人 :2011/11/26(土) 19:09:10.36
ある先入見について。 邪馬台国論を読むと、たいていの論者が、日本の情報は魏使か帯方郡使の見聞によると見なしているようだ。 しかし魏志倭人伝がそのような役人の情報によって書かれたということはどこにも明記されていない。 商人とか旅行者とか、一般の民衆の情報をもとに書かれたのかもしれない。 だから、魏の使いを案内するのに松浦半島のような不便なところに着くのはおかしい、などという論は無意味だとも言える。 魏使が案内されたときの体験や見聞にもとづいて書かれたという証拠はどこにもないのである。
628 :
世捨人 :2011/11/26(土) 19:21:24.96
>>596 微妙にちがうと思う。
一大率とは一人の大率で、それが女王國以北に置かれ、諸国を検察した。
常に伊都國に治し(とどまり)、(中国における)刺史の如き存在であった、という意味ではあるまいか。
あるいはそれらの国々に(中国における)刺史の如き役人がいた、という意味かも。
629 :
世捨人 :2011/11/26(土) 19:38:23.10
卑弥呼以死 これは卑弥呼すでに死す、と読むべきである。 張政が着いたとき卑弥呼はすでに死んでいたから、難升米に黄幢を渡したのだろう。
630 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/26(土) 19:40:19.02
>>629 その点は同意する。おそらくその点に関しては貴方の言うとおり。
ただ魏志倭人伝の解釈などという古典的な方法でアプローチしてるようでは
素人丸出しだからやめたほうがいい。そんなんで答えを導き出せてたら
邪馬台国論争などとっくに終わってるから。
■民主党政権になって放送禁止になった言葉一覧■ [道義的責任・進退問題・発言のブレ・閣内不一致・派閥・プライマリーバランス 空気が読めない・庶民感覚・国民目線・バラマキで人気とり・国民に信を問うべき・OECDの貧困率 ワーキングプア・ネットカフェ難民・世襲・料亭・漢字・読み違え・直近の民意・国民の生活が一番、政権交代が最大の景気回復策、公務員改革 ガソリン値下げ、景気回復策、解散総選挙、ホッケの煮付け 世襲制廃止、地域主権、議員定数削減、地球温暖化対策]
633 :
世捨人 :2011/11/26(土) 20:57:14.42
卑弥呼以死 これは漢文構成上からも、卑弥呼すでに死す、としか読めないのである。 卑弥呼以て死す、なら何を以て(何が原因で)死んだのか不明である。卑弥呼以○○死と書かねばならない。 また、卑弥呼の死を以て、の意なら、以卑弥呼之死、と書かねばならない。
634 :
世捨人 :2011/11/26(土) 21:04:41.06
私に言わせれば、邪馬台国論争が決着しないのは、ほとんどすべての人が、卑弥呼は日本列島の女王だと思っているからである。 また、倭人伝の行程記事が、魏使の体験報告にもとづくものだと思っているからである。 君らだって、まさか倭人伝のすべての記事が魏使の見聞にもとづくものだとは思っていまい。 倭の風俗記事などは、おそらく民間から採取した情報によって書かれているのである。 行程記事もそうだ。日本に行った経験のある民間人の報告にもとづいているのかもしれないのである。
海を渡ったところに居るんだから、卑弥呼は列島在住だ。
636 :
世捨人 :2011/11/26(土) 22:40:50.60
1 魏志韓伝に、倭と韓が公孫氏の帯方郡に服属した、とあり、 2 晋書に、宣帝が公孫氏を平定したときに、倭の女王が遣使して帶方に至り朝見した、とある。 常識的に考えて九州や本州の倭が公孫氏に服属することなどありえないから、1の倭は朝鮮の倭であり、 1から常識的に考えて、2の倭も朝鮮の倭のことであり、卑弥呼は朝鮮の倭の女王である。
637 :
世捨人 :2011/11/26(土) 22:57:57.80
何を以て大和朝廷の成立と見なすかは問題であるが、たとえば地方の首長(王)が、自分より上に大和の大王がいることを認識していれば、 それはすでに大和朝廷が成立していることである。 ところで風土記には古い時代の天皇の逸話が書かれている。たとえば景行天皇の逸話など。 それはすでに少なくとも景行天皇の時代にはすでに大和朝廷が成立していたことを示しているのである。 だから卑弥呼の時代にも当然大和朝廷は成立していた。しかし大和朝廷の女王が魏に朝貢したという記事は記紀にはない。 ゆえに卑弥呼は九州か朝鮮の女王である。
638 :
世捨人 :2011/11/26(土) 23:12:38.98
地方の民衆が景行天皇のことを知っていたから、景行天皇の逸話が残っているのである。 景行天皇が大和の王であり、大和の王が日本の王であることを民衆は知っていたのである。 だから記紀に書かれてあるとおり、神武天皇の昔から大和は日本の中心であり、天皇が日本を治めていたのである。
>>636 倭とは民族名。半島の倭がどうあれ、卑弥呼は列島側にいた。
大和朝廷が出来るのは、早く見積もっても8世紀初頭だ。
まったく文献のななめ読みとしか言いようがないぞ。
640 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/27(日) 08:28:01.20
倭人伝に記載されている対馬〜邪馬台国までの8カ国の総戸数が約15万戸。 三国志に記された朝鮮半島周辺の国の戸数は、中国東北部の夫余が8万戸、 高句麗が3万戸、東沃租が5千戸、朝鮮半島東部の歳が2万戸、馬韓が10万戸、 辰韓弁韓が5万戸、合わせて約12万5千戸であり、前記8カ国の総戸数15万戸を 下回ります。一方で朝鮮半島の面積は22万1千平方キロ、九州は3万6千平方キロ、 朝鮮半島の6分の1程度でしかありません。面積に比して北九州に人口が 多すぎです。また1戸当たりの平均人口は漢書、地理志によると、 玄兎郡4万5千6百戸に対し、口数22万1845人で、1戸当たりの平均4,9人、 また楽浪郡は6万2812戸に対し、口数40万6748人で一戸あたりの 平均6,5人弱。これらのデータから1戸あたりの平均は約5人と仮定でき、 倭国の場合にあてはめると、前記対馬〜邪馬台国の8カ国15万戸で、 人口約75万人。これに+旁国21カ国と狗奴国の人口を加えたものが 当時の九州の人口になります。ところが邪馬台国の時代から約600年後の 平安時代に作成された延喜式によれば平安時代の北九州の人口は、 筑前9万2900人、筑後7万3300人、豊前7万1600人、 豊後8万7400人、肥前8万1400人、壱岐1万600人、対馬7000人。 その合計が42万4200人で、邪馬台国の時代の75万人から 半減した結果となり明らかに不合理です。九州説はありえないんですよw おわかりいただけたでしょうか?
641 :
日本@名無史さん :2011/11/27(日) 08:39:44.67
>>640 中国は何事も白髪三千丈だ。ウマシカ野郎、一から勉強し直せ。
中国と日本の家の形も考えなきゃね。 一番数が多い竪穴式住居で六畳二間くらい。 このなかに竈や、生活用品入れて、 大人六人+幼児数名住めるかね?
644 :
世捨人 :2011/11/27(日) 09:53:26.31
>>639 魏志韓伝に、桓靈の末に韓、濊が強盛となり、その後、倭と韓が公孫氏の帯方郡に服属した、とあり、
その他の諸書に、桓霊の間、とか霊帝光和中に倭国大乱、卑弥呼共立とあり、
晋書に、漢末に倭人乱れ、卑弥呼を王に立て、公孫氏が平定されると、その女王が帯方郡に朝見した、とある。
これらはどう見ても朝鮮のことが書かれているとしか思えない。
律令制とか中央集権体制の確立が大和朝廷の成立ということではない。
各地に王がいて、地方自治だったとしても、それらの王や民衆が、大和に王がいて、
大和の王が日本の王だという認識をもっていれば、それで大和朝廷は成立していたと言える。
645 :
世捨人 :2011/11/27(日) 10:03:37.53
倭人伝の里数や戸数はいいかげんなものである。それを正確なものだと考えないほうがいい。 たとえば倭人伝の戸数がいいかげんなものであることは橋本増吉博士が論証している。 投馬国や邪馬台国への行程、郡から女王国まで万二千余里、卑弥呼の塚の大きさ、など、 いずれも信用するに足らない。
646 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/27(日) 11:10:08.35
では文献史学の見地から邪馬台国研究など意味ないことを 認めるわけですねwだったら早く撤退しなさい。 考古学的見地から推測するしかないので考古学の専門家に 任せておけばいいんです。
647 :
サガミハラハラ :2011/11/27(日) 11:33:42.87
>>645 倭人伝の里数はかなり正確であることは既に立証されております。
戸数にかんしては、じつのところ私は分かりません。なにをもって1戸としたのかの
基準がわからないからです。ですから憶測でのべるしかないでしょう。
ただ、投馬国の5万戸についてであるが、宮崎鹿児島で邪馬台国7万戸にせまる戸数であることにかんしては、
大昔は水田稲作よりも畑作中心で雑穀をつくっていたことにより、宮崎の戸数が多いのでしょう。
宮崎平野は相当ひろいのですが、水利が悪く水田はすくないのです。
よって稲作が不適であったのです。
近代稲が租税の対象になったことから、畑作が衰退していき宮崎の人口は急減したと考えられます。
648 :
日本@名無史さん :2011/11/27(日) 11:49:50.55
やはり、邪馬台国は高知の土佐山田ぜよ。 関門海峡を通って南に南に向い、足摺岬を回ればもう邪馬台国はすぐそこぜよ。
649 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/27(日) 12:34:16.65
>>647 あっサガミさん待ってましたよw
サガミさんの韓国内陸行は残念ながら成立しないようです。
水行は一日を千里に換算してたようなので、
韓国内はすべて水行が正しいみたいですよ。
650 :
世捨人 :2011/11/27(日) 12:58:14.43
私は考古学については、まだ投稿できるほどの知識はないが、魏鏡とされるものの内、 景初三年銘のものが1枚、残りの3枚は○始元年銘で、○が正かどうかは論争があるという。 つまり三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏からもらった鏡とは断定できないわけである。 鏡は日本の王侯貴族向けの商品だったのかもしれない。 そう考えれば、財力豊かな近畿の王侯貴族が買い求めたもので、近畿から多く出土する理由も分かるのである。
651 :
世捨人 :2011/11/27(日) 13:03:40.75
ついでに、魏志倭人伝の記事を無視して、仮に邪馬台国が九州にあったとすれば、 福岡市、佐賀市、久留米市、熊本市…のどこかだろう。 現在の人口分布から見て、それ以外は考えられないと思う。
652 :
筑紫の民 :2011/11/27(日) 15:57:28.86
小城の茶筅塚古墳行ってきたよ。
653 :
日本@名無史さん :2011/11/27(日) 18:57:04.16
邪馬台国には福岡市、佐賀市、久留米市、熊本市…の全部が含まれている。 邪馬台国の都が伊都国だ。
654 :
サガミハラハラ :2011/11/27(日) 19:59:56.62
すごいですね。 いろいろいう人でもなかなか行く人はいないのですが、実証検分するとは 行動力のかなりあるかたです。
佐賀県小城市に、自費出版の本をプレゼントする行動力も、 普通の人にはありません・・・
さすがに畿内が正解だとわかってしまい 馬鹿馬鹿しくなってしまったのでこのへんで邪馬台国はおしまいにしますw ↓↓↓ ↓↓↓訂正 ↓↓↓ さすがに畿内が不正解だとわかってしまい 馬鹿馬鹿しくなってしまったのでこのへんで邪馬台国はおしまいにしますw
民主は反日で論外 自民は谷垣のようなエセ保守が居る限り衰退
658 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/28(月) 12:47:24.70
水野祐氏や大庭脩氏の本は難しすぎるw 学者の書いたものはやっぱ内容厚すぎて、素人の出る幕はないことがよくわかるw
659 :
日本@名無史さん :2011/11/28(月) 14:47:03.90
>>628 :世捨人:2011/11/26(土) 19:21:24.96
>>596 微妙にちがうと思う。
一大率とは一人の大率で、それが女王國以北に置かれ、諸国を検察した。
常に伊都國に治し(とどまり)、(中国における)刺史の如き存在であった、という意味ではあるまいか。
あるいはそれらの国々に(中国における)刺史の如き役人がいた、という意味かも。
「自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「自女王國以北」の領域は狗邪韓國である。
狗邪韓國の領域は現八重山諸島。
660 :
日本@名無史さん :2011/11/28(月) 17:05:04.23
>一大率とは一人の大率で、それが女王國以北に置かれ、諸国を検察した。 >常に伊都國に治し(とどまり)、(中国における)刺史の如き存在であった、という意味ではあるまいか。 これが正解。
661 :
徐々に出父 :2011/11/28(月) 18:45:28.09
>>619 >素人風情が、文献史学から邪馬台国にアプローチするとか もうお笑いの領域ですw
>>630 素人丸出しだからやめたほうがいい。
小僧。かくいうお前も素人も素人、
かじりはじめた馬鹿りのハナたれじゃないか。
>>640 ビギナー素人風情が延々とやってるじゃないか。
>>646 >文献史学の見地から邪馬台国研究など意味ないことを 認めるわけですねw
>考古学的見地から推測するしかないので考古学の専門家に 任せておけばいいんです。
文献では畿内説は不可能と早々と分かった畿内説が、
考古学資料の「ねつ造」と年代操作で畿内説推進の道を採った。
コンチキ図しかり、神獣鏡しかり、箸墓と纏向の年代操作しかりだ。
頭の悪い畿内説者に悪い入れ知恵でもされての害宣稼働か。んー?
662 :
徐々に出父 :2011/11/28(月) 18:49:03.69
>>646 >文献史学の見地から邪馬台国研究など意味ないことを 認めるわけですねw
>考古学的見地から推測するしかないので考古学の専門家に 任せておけばいいんです。
文献を蔑ろにする考古学者こそ邪道だ。
傍観している「真打ち」がそう発言していたと、入れ知恵したタコ野郎に伝えておけ。
663 :
世捨人 :2011/11/28(月) 19:55:39.78
図書館から「なんと卑弥呼は東冶の東の巫女だった」という本を借りてきた。 それによると中国の福建省、広東省の沿岸地域に天照大神の神話とそっくりな神話が伝えられているらしい。 それ以外はトンデモ本だが、どんなトンデモ本にも有益なところはある。
考古学オンリーでいくなら、邪馬台国なんか論じないことだな>69歳サガミファン
665 :
サガミハラハラ :2011/11/28(月) 23:03:58.08
666 :
日本@名無史さん :2011/11/28(月) 23:21:49.64
>>665 838 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/01(月) 08:01:12
かように知らない人がおおいので、一生懸命宣伝しているわけです。
1度小城を訪ねて見てください.
町の北の須賀神社から町をみおろすと、町のなかに巨大なヒミコの墓がみえるのは圧巻です。
尚、小城市の小城分庁舎では、邪馬台国小城説を紹介している拙著「倭国歴訪」を無料で提供しています。
分庁舎が休みの日は不可です。
http://mimizun.com/log/2ch/history/1105023539/
伊作のお笑い古代史は真打の芸だわな
669 :
あらため :2011/11/29(火) 01:31:12.39
へえ、ここの世捨人さんっていう爺さん、いろんな本を読んでますね(わかるわかる)。
>>567 >私はトンデモ説と思われることを承知で書いているのである。
>しかし具眼の士なら、私の説に少しは興味を示してくれるはずである。
>古代史はトンデモ説の宝庫である。しかしそこが、面白いといえば面白いのである。
>必要なのは、どんな珍説奇説にもつきあってやろうじゃないかという態度である。
私は畿内説ですが、少し相手して貰った構いませんか?
まあ、今日はもう遅いので後日にしますが・・・
670 :
サガミハラハラ :2011/11/29(火) 06:21:18.81
>>667 保存しておりましたですか。ありがとうございます。涙がでるほどありがたいです。
思いおこせばなんとか落ちですべてきえてしまったのですが、あの時代も
白熱の論議がつづいていましたですね。
当時のひとたち、名前をかえたりして続けているのでしょうか。
671 :
世捨人 :2011/11/29(火) 09:26:43.09
倭奴国 これを倭の奴国と読む説がある。しかし漢文ではそうは読めない気がする。 倭の奴国の意なら、倭之奴国と書くのではないか。 では倭奴国はどう読むか。奴は上古音ではナ、中古音ではノまたはドと読むらしい。するとワナ、ワノ、ワドである。 仮に倭奴国と委奴国が同じ国だとすれば、委はイとしか読めないから、イナ、イノ、イドである。
672 :
世捨人 :2011/11/29(火) 09:30:43.32
不弥国は宇美に比定されている。 ところで宇美は神功皇后が崇神天皇を産んだとされているところである。 だとすれば魏志倭人伝の時代にすでに宇美という地名があったことになり、 神功皇后は卑弥呼より前の時代の人ということになる。
673 :
世捨人 :2011/11/29(火) 09:33:56.69
↑崇神天皇→応神天皇に訂正
674 :
有帯(アルベルト)・雑毛浪人 :2011/11/29(火) 10:09:05.84
>>671 魏も倭も発音は「wei」だ。
『三国志』の影印をみてみ。
ページセンターの丁合い符合の部分に
魏志を「鬼志」「委志」と略して書いている。
ここでは「鬼」も「委」も「wei」、日本語読みは「ぎ」だ。
要するに、どう略すかは当事者の感性による。
略したものを、「き」だの「い」だのと読んでどうするか。
古代の中国人が書いた「倭奴国」をどう発音するかは不明だ。
ただ、
「倭地の奴国」という意味で「倭の奴国」と日本語読みすることに問題はなかろう。
こねくり回すと、自らがつくった迷路に自ら迷うハメになる。
>>672 >不弥国は宇美に比定されている。
何の根拠もないゴロ合わせだ。
>だとすれば魏志倭人伝の時代にすでに宇美という地名があったことになり、
「だとすれば」て、
創作物語を史実とした上で、何の根拠もないゴロ合わせをしてる。
>神功皇后は卑弥呼より前の時代の人ということになる。
その上で、中国史書のいう史実と重ね合わせている。
これは典型的な素人手法。粗雑な土台の上に空論を積み重ねる不条理。
675 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/29(火) 10:48:45.50
前に僕が申し上げたとおり人口論ですでに九州説は破綻しており、 研究者の調査によると、3世紀当時の日本の人口は約120万人〜200万人程度と いう数字が出ております。先に僕が申し上げた通り、対馬〜邪馬台国までの8カ国で 約75万人これに狗奴国も対抗できる勢力があるわけで少なく道持っても、 これだけで100万人は越えてしまいます。残り旁国21カ国と東国の毛人国や 東北の蝦夷など加えて、だいたい200万人程度で畿内説ならば非常に理にかなった 結果となります。戸数の問題も当時は身分の高い大人が妻を数人もつ、 一夫多妻制で、下戸は、ほぼ今と同じ一夫一妻制なので、一戸は核家族の 構成でよいと思われますので平均5人程度で間違いないでしょう。 考古学的にも当時の住居の収容人数はそれくらいになっておりますので。 また高地性集落も西日本全域にわたっており、倭国大乱終息と同時に なくなっていきますので、防衛面で高地に集落を構えたとみてよいので、 倭国大乱を九州内限定ととらえるのは難しいです。 ここまで証拠があがってきてるのになぜまだ九州説が正しいと 言えるのか僕には理解に苦しみますw
676 :
世捨人 :2011/11/29(火) 12:30:16.39
>>674 私は仮説を提示しているだけだから、誤解しないように。
>>675 前にも書いたが、橋本増吉博士の論文を読むと、戸数についてまじめに議論するのがばからしくなる。
それと、高地性集落の年代には定説はないのだから、根拠にはならない。
さらに、記紀には倭国大乱の記事はないから、邪馬台国が畿内大和であったとしても、
卑弥呼は九州か朝鮮の倭の女王だと見なすほうが理に適っているのである。
677 :
日本@名無史さん :2011/11/29(火) 14:20:58.79
>邪馬台国が畿内大和であったとしても、 それも無いでしょうな。マキムクの遺跡(前方後円墳、掘ったて柱跡)の年代を2世紀末から3世紀半ばに 引き上げようと畿内説考古学者はやっきになっているけれども、そのうち「やはり4世紀以後だった」とい うことになるだろう。
678 :
日本@名無史さん :2011/11/29(火) 14:52:00.57
>>675 >研究者の調査によると、3世紀当時の日本の人口は、
>約120万人〜200万人程度という数字が出ております。
その研究者は邪馬臺國畿内説に基づいて計算した数値にしています。
>約75万人これに狗奴国も対抗できる勢力があるわけで少なく見積もっても、
>これだけで100万人は越えてしまいます。
九州の狗奴國を除いた倭人人口は100万前後でしょう。
それに狗奴國人口を加えた九州倭人人口は、120万〜150万と推定できます。
倭人居住の北部九州の人口は、3世紀から17世紀初頭までに
2倍程度にしか増大していないようです。
壱岐対馬において人口増加は殆どありません。
以上が無能学者に代わっての私の人口試算です。
人口:成人男女人口
679 :
有帯(アルベルト)・雑毛浪人 :2011/11/29(火) 17:13:48.83
>>671 >倭奴国はどう読むか。奴は上古音ではナ、中古音ではノまたはドと読むらしい。
『日本書紀』推古紀に、大河内直糠手(おおこうちの・あたいの・ぬかて)という官吏が登場する。
『倭人伝』に、奴佳テという官吏が登場する。
『日本書紀』の糠手が『倭人伝』からのパクリならば、
『日本書紀』を書いた帰化漢人は奴を「ぬ」と読んだことになる。
糠手が倭人の命名パターンの一つならば、奴佳テは「ぬかて」だったことになる。
いずれにしても、奴を「ぬ」と読んでいる理屈だが、きみの読み候補には入っていない。
また詐欺か〜〜〜 サガミファンの詐欺論法 →畿内説だと畿内の人口は多目に推定 →だから九州の人口は過少に推定 →過少に推定した九州の人口から推定できる邪馬台国の場所は畿内だけ
681 :
日本@名無史さん :2011/11/29(火) 17:34:35.91
>>396 見栄と嘘と知ったかぶりの塊 森村伊作
●誠実度・正直度
●「総合力」=論理性、思考深度、検証視野、検証能力、判断力、説明能力、著述能力、説得力
お前に不足しているものだな。
●とんでも度・オタク度
この点は 森村伊作 がこの板のゴミクズレベル九州説の中でもトップクラスと言うのは認めざるをえない。
大和朝廷の祖たる偉大なる九州王朝邪馬台国が熊本にあってその系譜の末端に
熊襲の子孫を自称し国士気取りの自分がいると言う超オタク発想。
普通ここまで来るとオタク通り越してビョーキだなw
>懐疑論・否定論をいう者を「考古知識の有無」で処断するのは、
>情報操作された考古所見に依拠する輩のやることで、こういう作業に口出しする資格はない。
要するに知ったかぶりで大恥かいた過去を帳消しにして欲しいわけやね、正直にゆうたらどうや?w
682 :
日本@名無史さん :2011/11/29(火) 18:06:54.47
>>681 ⤴ こいつの評価ポイントには、
「分裂度」「狂気度」を加える必要がある。
683 :
日本@名無史さん :2011/11/29(火) 18:56:29.65
>>677 手元に記紀がないから知っている範囲で書くが、巻向は崇神、垂仁、景行、雄略などが宮を置いたから、
2世紀以前の遺物が出てきても全然不思議ではない。
>>679 それならヌも候補に入れておこう。
684 :
あらため :2011/11/29(火) 20:22:13.43
>>681 この点は 森村伊作 がこの板のゴミクズレベル九州説の中でもトップクラスと言うのは認めざるをえない。
大和朝廷の祖たる偉大なる九州王朝邪馬台国が熊本にあってその系譜の末端に
熊襲の子孫を自称し国士気取りの自分がいると言う超オタク発想。
大和朝廷の祖たる偉大なる九州王朝邪馬台国が熊本とすれば
大和朝廷の祖を大和朝廷は熊襲と言う蔑称で呼んだ訳だ。
根拠だけ無しで、他は何でもありの主張だな。
>>685 彼はそう言ってないでしょ。
熊襲は熊本とは無縁だと、懸命に言っているな。
687 :
あらため :2011/11/29(火) 21:06:19.34
>>671 >倭奴国
>これを倭の奴国と読む説がある。しかし漢文ではそうは読めない気がする。
>倭の奴国の意なら、倭之奴国と書くのではないか。
これは私が終止符スレで倭奴国は倭の奴国と読むのが正しい と言ったことに対するレスなのだろうか。
倭の奴国というのは倭に属する奴国という意味で、正式名称を奴国でしょうね。
倭之奴国なんて、もしかして人を馬鹿にしてます?w
倭奴国というのは後漢書ですので、ここを全体をとおして読んでもらいたい。
「後漢書倭伝」
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
ワナ、ワノ、ワドなんて国名は、日本列島をどこを探してもどこにもありませんし、
ワのナ国ということが分かるはず。
>>687 倭国≠奴国≠倭奴国 が大前提でしょう。
別な国だから別な名前で記載しただけです。
もし=で結びたいなら、よほどの論証が要求されるが、
よほどのことがない限り≠だ。
689 :
あらため :2011/11/29(火) 21:20:14.56
どの本で誰だったかだったか忘れたんですが・・・(だいぶん前に調べたので)、 以前、漢委奴國王印は、かんのわのなのこくおういん と読むのが正しいということになったはず。 倭奴国もワナコクなんて聞いたことすらありませんし、倭の奴国が正しいと思ってる。
690 :
雑毛浪人 :2011/11/29(火) 21:20:50.69
>>686 >彼はそう言ってないでしょ。
相手の発言を誤解して揚げ足するか攻撃する。畿内説の得意技だ。
ときには発言ねつ造までして攻撃する。
キ違いの攻撃に対処するには、
キ違いの気違いたる部分と攻撃の手づるたる「誤解」を、
いちいち説明して訂正したからやらなきゃならん。
やっところでキ違いには分かるまい。そんなところよ。
691 :
世捨人 :2011/11/29(火) 21:28:07.54
>>684 こういう地図があることはもちろん私も知っている。誤解しないでほしいが、私は邪馬台国は畿内ではないと言っているわけではない。
どちらかといえば畿内かもしれない。しかし邪馬台国が畿内であっても、卑弥呼は畿内大和の女王ではないだろうと言っているのである。
陳寿は、倭の女王卑弥呼が朝貢してきたという情報と、倭の王都は邪馬台国というところにあるらしいという情報から、
当然のことながら、倭の女王は邪馬台国に都すると誤解したのである、ほんとうは卑弥呼は朝鮮の倭から朝貢してきたのに。
692 :
あらため :2011/11/29(火) 21:31:27.75
世捨人さん >記紀には倭国大乱の記事はないから、邪馬台国が畿内大和であったとしても、 >卑弥呼は九州か朝鮮の倭の女王だと見なすほうが理に適っているのである。 たったそれだけの理由で邪馬台国朝鮮半島説をとってるのでしょうか? もういちど書き込みますが・・・・ 【計其道里 當在會稽東冶之東】 邪馬台国までの)その道のりの里数を数えると會稽、東冶の東に位置する。 これは基準が帯方郡というのは分かるだろう。 分かり易く説明すれば・・・その帯方郡から會稽、東冶までの距離が 帯方郡から最終到着地点である邪馬台国までの距離が「同等」といってるんですょ。 もう一度お尋ねしますが、帯方郡から會稽、東冶までの距離と同等の邪馬台国が どうして朝鮮半島になるんですか? ご返答お願いします。
693 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/29(火) 21:33:18.13
卑奴母離という対馬や奴国に置かれている官職は おそらく夷守のことであり、大和朝廷の辺境守備隊のことであり、 奴国があった福岡県をはじめ、宮崎、岐阜、新潟などにその地名が 残っているので、邪馬台国の勢力範囲を九州限定だと とらえるのは無理があります。
694 :
あらため :2011/11/29(火) 21:47:40.04
>>621 「徑百餘歩」です。
これは現在の約150メートルに相当するんです。
この卑弥呼の墓が朝鮮半島南部の海沿いに見つかるだろうか?
>陳寿は、倭の女王卑弥呼が朝貢してきたという情報と、倭の王都は邪馬台国というところにあるらしいという情報から、
>当然のことながら、倭の女王は邪馬台国に都すると誤解したのである、ほんとうは卑弥呼は朝鮮の倭から朝貢してきたのに。
貴方は「倭人伝」をよく読みましたか?
読んでないから、そういうワケのわからん事を言うんじゃないでしょうか。
朝鮮半島説・・・・・・・
【倭人伝】
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢「百餘人」
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺「千餘人」
以婢「千人」自侍
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
ここから連想する卑弥呼像は、貴方が考えてる朝鮮半島一部の長なんて到底言えないのではなかろうか。
695 :
あらため :2011/11/29(火) 21:48:56.83
696 :
世捨人 :2011/11/29(火) 21:51:22.80
>>692 >>691 をもう一度よく読んでほしいのだが、私は邪馬台国は畿内ではないと言っているのではないのである。
邪馬台国は畿内かもしれないが、卑弥呼は朝鮮にいたと言っているのである。
ついでにいうと君の文の解釈はまちがっていると思う。
倭までの道里から推測すると、倭は會稽東冶の東にあるのだろう、という意だろう。
697 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/29(火) 21:55:09.95
卑弥呼が朝鮮にいたなら具体的に朝鮮のどこにいたのか言ってみてよw
698 :
世捨人 :2011/11/29(火) 22:01:01.08
>>694 徑百餘歩
こういう数値を私はあまり信用してはいないのである。
それに卑弥呼がいたのは朝鮮半島南部の海沿いだとも思っていない。
定説よりもっと広範な地域が倭の領土だった可能性があるのである、山形氏の説によれば。
699 :
あらため :2011/11/29(火) 22:01:47.39
>>696 >691をもう一度よく読んでほしいのだが、私は邪馬台国は畿内ではないと言っているのではないのである。
>邪馬台国は畿内かもしれないが、卑弥呼は朝鮮にいたと言っているのである。
それは何処をみて「朝鮮にいた」と私に言ってるのでしょうか?
文献、又は考古的な証拠を提示して下さい。
それとも、貴方の単なる想像でしょうか???
>ついでにいうと君の文の解釈はまちがっていると思う。
>倭までの道里から推測すると、倭は會稽東冶の東にあるのだろう、という意だろう。
貴方〜私を馬鹿にしてるでしょ?www
倭までの道里というのは、「七千里」ですよw
【倭人伝】
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「その道のり」というのは旅程記事の「道のり」を言ってるんであって、
帯方郡から會稽、東冶までの距離が七千餘里のワケが無いじゃないですかwwwwwwww
ウケを狙って笑いを取ろうとしてるんでしょうかね?w(人気とり?)
700 :
あらため :2011/11/29(火) 22:18:03.81
>>698 >徑百餘歩
>こういう数値を私はあまり信用してはいないのである。
>それに卑弥呼がいたのは朝鮮半島南部の海沿いだとも思っていない。
>定説よりもっと広範な地域が倭の領土だった可能性があるのである、山形氏の説によれば。
アハハハハハハッハ あのねぇ 世捨人さん
朝鮮半島には、弁韓が12国、弁辰が12国、馬韓が54国記載されてるんですよ。
それでどうして、朝鮮半島の一部の倭が広範な地域になるんです?笑わせないで下さい(笑)
倭人伝の「里数」と「戸数」に関しましては、貴方のおっしゃるとおりで
「大まか」な記載になってるのは私も含め、みなさんも御承知でしょうが、
「尺」や「歩数」に関しては、どうして「信用出来ないと」考えたのでしょうねえ。
701 :
あらため :2011/11/29(火) 22:27:01.21
世捨人さんがワケのわからんことを連発してるのでw 「倭人伝」というやつを教えて差し上げますが・・・・ 【倭人伝】 從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 これは、 倭人の先導にて帯方郡より倭に至るには、 海岸沿いを船で進み、韓国を背にし 南し、東し、 その倭の領域(北岸)の狗邪韓国に到着する。ここまで七千里余り。 と訳すべきで、分かり易く説明すると倭までの距離が「七千里余り」言うてるのです。 ちゃんちゃん
702 :
あらため :2011/11/29(火) 22:32:51.36
>>698 >それに卑弥呼がいたのは朝鮮半島南部の海沿いだとも思っていない。
何をおっしゃってるんでしょうか。
朝鮮半島南部に倭の領域があったのは、朝鮮半島南部の海沿い「のみ」です。
「其北岸」と文献的証拠が記載されてるでしょうが〜
703 :
あらため :2011/11/29(火) 23:19:55.50
朝鮮半島説の世捨人さんへ
>>693 のサガミファン君が「夷守」について書き込んでくれてます。
この「夷守」が對馬國の副官に居るってことは、卑弥呼は朝鮮半島に居るわけがないw
そして、卑弥呼が朝鮮半島に居たという、貴方の説は成り立たない
なぜそうなるのかっていうのは、私も学校の先生ではないので、一から十まで説明するのは面倒なので・・・
ご自分で調べてみて下さいよ。
では、私はここらへんで・・・・・zzz
704 :
日本@名無史さん :2011/11/29(火) 23:28:33.85
平松邦夫/民主党 大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ ・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞 ・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派 VS 橋下徹/維新の会 大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫 様子見:公明
>>702 倭人が、半島の内陸部も含めた南半分にいただろう。
何か勘違いしていないか?
707 :
世捨人 :2011/11/30(水) 10:00:11.26
たとえば卑弥呼は伊都国の女王だったかもしれないのである。 そんなばかな! 伊都国の王は女王に統属すと書いてあるじゃないか! と君らは言うかもしれない。 しかし陳寿は、当時の倭国の王は卑弥呼という女王だという認識があったから、 伊都国という倭国の中の一国の王も女王に統属していると解釈したのである。 女王は邪馬台国に都する、という記述もそうである。この記事をそのまま信ずれば、 邪馬台国は畿内大和か筑後山門くらいしか考えられない。 しかしこの記事も、倭国の王は女王であるという認識と、倭国の首都は邪馬台国という、という情報から、 陳寿が勝手に解釈して書いたものかもしれないのである。 夷守が大和朝廷の辺境官であり、伊都国が大和朝廷に統属していたとしても、 それでも尚且つ卑弥呼は九州か朝鮮の女酋である可能性があるのである。 要するに、卑弥呼の情報と、日本列島の倭の諸国の情報が錯綜している可能性があるのである。
708 :
サガミファン、サガミ待ち :2011/11/30(水) 10:18:47.71
そんなばかな!はこちらのセリフだよwww 伊都国女王卑弥呼とかそれはアマチュアの邪馬台国論文大会レベルで 出てくるような意見で、そういう面白おかしく素人同士で 邪馬台国論を交わしたいところで言いなよww
709 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 10:41:00.70
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 これは、次のように訳すんだよ。 倭人の先導にてなんて書いてないぞ。帯方郡より倭に至るには、海岸沿いを船で進み、 韓国を経由するにはしばらく南へゆき、それから東へ行く。そして、倭の北方の狗邪 韓国に到着する。ここまで七千里余り。 と訳すべきで、
710 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 11:15:23.30
>倭人の先導にてなんて書いてないぞ 君はえらい。ほとんどの人が、この記事は倭人が魏使や郡使を案内したときの記事だと思っている。 そこに盲点がある。
711 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 11:29:59.66
>>707 >要するに、卑弥呼の情報と、日本列島の倭の諸国の情報が錯綜している可能性があるのである。
お前の頭の中が錯綜しているんだよ。
>>709 明訳を披露しよう。
帯方郡より倭に至るには、諸韓国に立ち寄りながら、
突然南へ行き次いで突然東へ行きながら、海岸沿いを船で進んで行く。
そして、海岸沿いの海の北側にある狗邪韓国に到着する。
ここまでの道程は七千里余り。
712 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 11:32:39.13
桓靈の末に韓、濊が強盛となり、とあり、同じ桓靈の末に倭国大乱とあり、 その後、倭と韓が公孫氏に服属した、とあり、公孫氏が平定されると、その女王が帯方郡に朝見した、とある。 ここだけ読めばどうしても朝鮮の情勢が書かれているとしか思えず、倭は朝鮮の倭だろうと思わざるを得ない。 ところが陳寿が倭人伝でかなり正確な日本列島の地理を書き、おまけに陳寿は卑弥呼は日本列島の女王だと思っていたので、 伊都国は女王に属す、とか、女王は邪馬台国に都す、とか書いた。 それで、倭人伝を読んだほとんどすべての人が、卑弥呼は日本列島の女王だと誤解したのである。
713 :
旧帝大歴史学徒 :2011/11/30(水) 11:51:34.60
朝鮮の女王とか馬鹿馬鹿しくて聞くに堪えんw 歴史学も修めてない素人が首突っ込むから そういうトンデモ説になるから歴史の研究がしたいなら まず歴史の博士号とってからにしたらと何度も言ってるでしょ
714 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 11:58:49.86
「乍南乍東」 は、『南はたちまち東』つまり 『南は東』故に『東は北』『北は西』と読むのだ と記述されているのだ。 だから、 「到其北岸狗邪韓國」は『倭(其)の西岸狗邪韓國に到る。 と解釈するんが正しい。 北は北海道から南は沖縄八重山諸島・与那国島の領域の方位記述は是に従う。
715 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 12:11:28.56
716 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 12:15:54.99
>>714 「乍南乍東」には「乍」が二回あるんだけどな。
『南はたちまち東』は「乍」を一回しか訳してないな。
「乍南」「乍東」だから、「乍」は「南」にも「東」にも同じようにかかるんだな。
なのに『南はたちまち東』は、「たちまち」のかかりかたが、「南」と「東」で違うんだな。
だから、原文に書いていない勝手な想像なんだな。
717 :
世捨人 :2011/11/30(水) 12:25:38.07
その北岸狗邪韓國に到る この文はどう考えても誤文としか思われず、陳寿が日本の地理を正確に把握していなかった証拠である。 あえて合理的に解釈するなら、巨済島の北岸に着いた、と考えるしかない。
718 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 12:28:51.60
>>717 船で沿岸航行して半島の周囲を回っている。
その航路から見て北の岸、だから、其北岸。
其は倭国を指すのではなく、航路を指してる。
719 :
世捨人 :2011/11/30(水) 12:35:40.72
乍 は、〜したり〜したり、の意である。
>>718 それはやや無理があるかとw
720 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 13:00:25.66
>>719 名前:世捨人 :2011/11/30(水) 12:35:40.72
>乍 は、〜したり〜したり、の意である。
「乍」という字は木や竹や石器や土器などを重ねて用いることを表しており、
同じ形状の物を二つ重ねている様子を象(かたど)ったものである。
『説文解字』は「乍」を「止也。」と記し、
“止”=“足跡の形”として解釈している。
根拠ある解釈をするなら
「乍南乍東」
は、『南と東』が重なって在るとすべきであろう。
所謂
南は東と置きなさいと、言う事だ。
>>707 卑弥呼半島人説より先に、まずゴロ合わせ邪馬台国論をやめろよ。
>邪馬台国は畿内大和か筑後山門くらいしか考えられない。
722 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 14:43:41.04
語呂合わせ邪馬台国論=日本は言霊の国なのですby井沢
723 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 15:23:06.99
卑弥呼の怨霊が・・・
724 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 16:58:14.60
>>720 >「乍南乍東」は、『南と東』が重なって在るとすべきであろう。
>所謂 南は東と置きなさいと、言う事だ。
自分で何を言ってるのか、分からないのじゃないかな?
乍寒乍熱という用法にとらわれてはいけない。倭人伝の場合には、しばらく南へ行き、
それからしばらく東へ行くということだよ。
725 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 17:02:50.96
>>717 >その北岸狗邪韓國に到る この文はどう考えても誤文としか思われず、
君の頭が誤っているだけだ。
漢文には、上のような用法があるんだよ。単に倭の北方の岸(倭の岸ではない
、朝鮮半島の岸だ)にある狗邪韓国というだけのことだよ。
727 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 18:20:52.33
嘘吐き朝鮮、中国人がやってる報道機関 朝鮮人犯罪があまり報道されない理由 韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6 TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F 東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13 京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2 産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2 (サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社) 朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F 毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1 韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F 読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1 東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2 朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT) 韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C NHK放送センター、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
728 :
世捨人 :2011/11/30(水) 18:31:45.54
上古音で読むと− 伊都 イタ 委奴 ヤナ 卑弥呼 ヒミカ 豆知識 日本書紀によると、推古天皇のとき新羅に軍船を派遣したが、難波から筑紫まで60日かかったそうだ。
729 :
世捨人 :2011/11/30(水) 18:40:44.11
倭人伝の行程記事が、魏使や郡使を案内したときのものではないと思われる根拠について。 畿内大和に案内するなら、瀬戸内海航路か日本海航路を取るはずで、 どちらにしても寄港はするが内陸部に上陸するはずはないと思う。 九州内陸部に案内するなら、唐津から佐賀市に行くか、博多港に着いて内陸部に向かうはず。
730 :
世捨人 :2011/11/30(水) 18:50:55.89
狗奴、狗邪、伽耶、加羅 クナ、クヤ、カヤ、カラ いずれもよく似た音だ。狗奴国は狗邪韓国ではないのか。 辰韓に辰韓狗邪国というのがあったと思う。 辰韓狗邪国、狗邪韓国の狗邪、これがのちの伽耶になったのか…
731 :
日本@名無史さん :2011/11/30(水) 19:48:57.56
>>730 >辰韓狗邪国、狗邪韓国の狗邪、これがのちの伽耶になったのか…
正解、その通り。
なお、
任那は栄山江流域部(光州も?)、
秦韓は、洛東江中流部の弁辰瀆廬國(大邱)付近。
慕韓はまだわからない。
732 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/01(木) 10:38:04.86
中学生の時に、井沢の逆説の日本史1巻を読んだときは感心してしまったが、 大学入ってから邪馬台国について少し調べた今となっては井沢説など糞にもほどがあるわw
733 :
日本@名無史さん :2011/12/01(木) 11:33:46.76
>>724 >>720 >>「乍南乍東」は、『南と東』が重なって在るとすべきであろう。
>>所謂 南は東と置きなさいと、言う事だ。
>自分で何を言ってるのか、分からないのじゃないかな?
君のおつむがついてこれないだけだろう。
一言。
春分点を固定すれば西は東へと移動する。
との理論は歳差理論としては有効である。
734 :
世捨人 :2011/12/01(木) 12:58:50.68
松本清張は一大率は帯方郡が九州に設置した役人だと考えていたようである。 すると、清張は、倭と韓が帯方郡に服属したという記事の倭は九州(日本?)だと考えていたようである。 清張だけではない。学者もそのように考えていたようだ。 トンデモ説とまでは言わないが、珍説奇説というべき考えだ。 公孫氏に九州や本州が服属するはずがない。日本が中国や朝鮮に服属したことは長い日本の歴史上ただの一度もないのである。
735 :
世捨人 :2011/12/01(木) 13:05:45.77
正始8年に卑弥呼は魏に軍事支援要請をした。 仮に卑弥呼が九州の王だとすると、山陽、山陰、近畿、あるいは韓国にでも支援要請をすればよいのである。 ところがそうせず、わざわざ魏に要請している。 だから卑弥呼は朝鮮の倭の王だと考えるのが合理的である。 卑弥呼が大和の王だなどというのは論外である。
736 :
世捨人 :2011/12/01(木) 13:08:37.55
行程記事から考えると邪馬台国は大和。 朝貢記事から考えると卑弥呼は朝鮮の倭の王。 これがおそらく正解である。
>>735 その理屈で言うと、卑弥呼の居場所はシベリアでも
沿海州でもフィリピンでもいいんじゃない?
温暖な土地だって書いてあるけどね?
738 :
世捨人 :2011/12/01(木) 18:29:01.65
>>737 だから、倭人伝の、卑弥呼に関する記事と、日本の地理・風俗に関する記事は切り離して考えるべきなのである。
あの風俗記事だって、それほど信用するのはいかがなものか。
百歩譲って、九州が公孫氏に服属したとしても、せいぜい九州北岸の国々だけで、内陸部までは及んではいまい。
だから卑弥呼が九州の女王だとすると、伊都国か奴国の王だろう。
九州北岸の国の王なら、あるいは魏に支援要請に行くかもしれない。
>>738 朝鮮半島は寒いぞぉ〜!
冬に生菜なんか食べていないぞ。
海に沈没して海産物を採ったりしないぞ。
740 :
世捨人 :2011/12/01(木) 22:11:01.89
>>739 何回言ったら分かるのかなw
陳寿が書いているのは日本の地理・風俗だ。それはまちがいない。
それらの記事と卑弥呼の記事を切り離して考えろと言っているのだよ。
日本の地理・風俗の記事など一切無視して、卑弥呼が魏に支援要請したという事実だけを考察する。
そうすると卑弥呼が朝鮮の倭の女王だということが見えてくるのだ。
741 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/01(木) 22:11:10.23
まだ朝鮮の女王とかなんとかあほみたいなこと言ってるのかW その一大卒も仮に筑紫平野に邪馬台国があるならわざわざ目と鼻の先の伊都国に 常駐させる意味が全くわからないし、邪馬台国は畿内で、 一大卒はのちの太宰府長官みたいな感じのほうがしっくりくるけど。
>>739 いや、大丈夫。
畿内説と同じで
倭人伝で信用できるのは自説に都合の良い所だけだから。
743 :
世捨人 :2011/12/01(木) 22:19:27.05
記紀に、日本で大乱があったとか、日本が公孫氏に服属したとか、 日本の女王が中国に朝貢したとか軍事支援要請したとか、 大和王権に反抗した強大な国があった、などという記述は一切ない。 だから卑弥呼が大和の王であることは考えられない、邪馬台国が大和であったとしても。
>741 九州の一大卒が 畿内の女王国以北も檢察させるてか? キチガイ沙汰だな。 畿内説を120l否定する一大卒を 畿内説の証拠としてあげるとはとんだ間抜けだのぃ。
745 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/01(木) 22:32:44.55
>>744 それも当時の中国人の地理認識をわかってないだけw
伊都国から畿内まで貢物を輸送すると同時に諸国の見回りもしてたんでしょ。
747 :
世捨人 :2011/12/01(木) 22:35:08.51
>>741 君もまだ分かってないようだなw
私は筑紫に邪馬台国があったとも、一大卒は九州の邪馬台国の官だとも朝鮮の倭国の官だとも言っていない。
邪馬台国は大和で、一大卒は大和朝廷の官であってもいいのである。
そのような日本の地理・風俗・官などの記事と卑弥呼の記事を切り離して考えろ、と言っているのだよ。
749 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/01(木) 22:50:55.04
馬鹿なのは九州説などいまだに言ってるアホども。 庄内式土器や△鏡や古墳等の整合性から九州はないことも 理解できない馬鹿ども。ほんとこれだから低学歴のアホは 相手にしたくない。こんな判断力ない低学歴のアホばっかじゃ そりゃ民主主義など機能しないし、政治家の質も悪いわけだわW 多数決原理じゃアホどもの票が多数派になっちゃうしね。
誰かこいつにカンチョウしてやれ
もう、なに言ってるんだか? >一大卒は大和朝廷の官であってもいいのである。 一大卒は3世紀。大和朝廷は7世紀以降。 トンデモもいいところだ。
>>749 だからそうなると、邪馬台国熊本西遷説になっちゃうよW
753 :
日本@名無史さん :2011/12/01(木) 23:03:42.38
754 :
世捨人 :2011/12/01(木) 23:04:23.92
倭の女王は邪馬台国に都す。 結局この記述が諸悪の根源である。これを読んで卑弥呼は邪馬台国にいて、邪馬台国の女王が卑弥呼だとすべての人が思ったのである。 しかしこれは陳寿の勝手な解釈かもしれないのである。陳寿は、 1 倭の王は卑弥呼である。 2 倭とは日本列島のことである。 3 日本の王都は邪馬台国である。 という情報から、卑弥呼は邪馬台国にいると理解したのである。 しかしどの文献にも倭の女王が朝貢してきたとは書いてあるが、邪馬台国の女王が朝貢してきたとは書いてないし、 魏使や郡使が倭に行ったとは書いてあるが、邪馬台国に行ったとは書いていない。
755 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/01(木) 23:18:40.38
19歳急帝盲象男はすでに論破済みであ〜る。
756 :
筑紫の民 :2011/12/01(木) 23:32:30.07
本日、折角書き込んだのにツッコミがなかったのでこちらにも再掲 560 :筑紫の民:2011/12/01(木) 13:00:45.41 三角縁神獣鏡には邪馬台国と関係の深い魏の年号(景初)が記されてあるものも多く、 それらはヤマト王権と関係すると思われる有力者の古墳から多く発掘さる。 これは、邪馬台国首脳部がヤマト王権首脳部となったと考えられ、これによって 九州王朝説及び卑弥呼は九州の女酋長説は抹消される。さらに、九州説が確実と なれば邪馬台国は東遷したことになる。 594 :筑紫の民:2011/12/01(木) 18:36:23.71 三角縁神獣鏡を調べていて気付いたこと 畿内及びその周辺の古墳の中についての共通点 @棺・槨を朱を塗ったものが非常に多い A鏡の他に、剣・その他の武具等を副葬 なお、弥生以前の畿内及び周辺を検索したら倉敷の楯築遺跡が棺に朱が敷かれ鉄剣 1本その他が副葬とあったがそれ以外では@Aは認められない(今のところ) 九州の弥生〜古墳時代 @棺(甕棺・木棺・その他共通)の内側に朱を塗る A鏡・剣・その他武具等を副葬する おや〜、なんだか邪馬台国東遷のにおいぷんぷんじゃないか?
>>756 江戸時代は、大阪と江戸の双方が大いに栄えたわけだが、
「九州と畿内それぞれが大いに栄えました」じゃなぜいけないの?
758 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 00:20:10.21
「フジパシフィック音楽出版」は、韓国アーティスト1236曲の楽曲保有している事がわかります 公共の電波が、特定の企業に利益を生むように垂れ流されていたのです。 売れれば、売れるほど、「フジパシフィック音楽出版」が儲かる。しいては、「蛆テレビの隠れた大株主=姦国」が潤い、反日工作の資金となる。 韓流ファンの方は、一放送局であるフジテレビの仕掛けに見事に引っ掛かってしまいましたね。 メディアミックスを巧妙に仕掛けられたので仕方ないかも知れません。 真実を見極める目で、この現状をうかがって見てください
>>757 「九州と畿内それぞれが大いに栄えました」じゃなぜいけないの?
それ認めたら
畿内説消滅しちゃうだろ?
760 :
世捨人 :2011/12/02(金) 09:30:59.27
古代史における代表的な珍説奇説 神武天皇はいなかった 卑弥呼は天照大神 騎馬民族征服説 三王朝交代説 九州王朝説 出雲王朝説 邪馬台国東遷説 大和朝廷の成立は○世紀 etc こういう珍説奇説がなぜ生まれるか。記紀を信じていないからである。
761 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 09:32:58.58
↑ 絶滅危惧種の記紀儲
762 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 10:28:25.85
>>756 三角縁神獣鏡は、一部が卑弥呼時代の中国の青銅鏡と銅の成分が
ほぼ一致することが、微量元素の含有比測定で判明しており、
泉屋博古館所有の三角縁神獣鏡8枚中6枚は3世紀の中国の青銅鏡と
近い測定値を示しており、三角縁神獣鏡の一部は中国産の可能性も
十分ありうる。卑弥呼のために特鋳で作られた可能性も捨てきれない。
764 :
狗奴国は名古屋 :2011/12/02(金) 11:35:41.00
国産か中国産にせよ、同范鏡の分与元が京都の 椿井大塚山古墳である以上は九州説だと苦しい。 かろうじて東遷すればつじつまは合わせれるが、 庄内式や前方後円墳等からも東遷はまずないし。
765 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 11:52:14.65
別に東遷なんかせんでもよかろう。 畿内の豪族が、畿内周辺で国産鏡を配布したって だけのことだ。
そもそも、鏡がいつの時代の物かさえもハッキリしていない現状ですよ
767 :
九州王朝大好き :2011/12/02(金) 12:09:40.15
>>762 >三角縁神獣鏡は、一部が卑弥呼時代の中国の青銅鏡と銅の成分が
>ほぼ一致することが、微量元素の含有比測定で判明しており、
そのようなデータは存在しない。
金属学に無知なので、別のデータを捏造改変作文しているぞ。
>>762 は老眼が書きそうなコメントだ。
768 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 12:12:02.60
案外、近くで発掘された銅鐸も同じ成分比だったりして。
769 :
世捨人 :2011/12/02(金) 12:53:54.46
三世紀のものと思われる古墳から、景初二年(三年)の銘のある銅鏡百枚と、親魏倭王の金印が出てこないかぎり、 卑弥呼がどこの王だったかは分らないだろう。 将来、それは朝鮮の古墳から発見されるだろう。
>将来、それは朝鮮の古墳から発見されるだろう。 200%無いよw
771 :
九州王朝大好き :2011/12/02(金) 13:30:37.67
>>764 >>768 椿井大塚山古墳の銅鏡は良質な1個の大型銅鐸の破片を鋳潰して改鋳したもの。
即ち、銅鐸用成分に鉛を加えて銅鏡用成分に調整した。
推測
銅鐸文化の埴安彦政権所有の大型銅鐸を垂仁が戦利品として獲得し、
その後、それの細分化した破片を成分調整して銅鏡に改鋳したものと思われる。
772 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 14:05:44.16
弥生末期の銅鐸勢力の範囲は銅鐸の分布により見当がつく。 古墳時代に入ると、古墳は全国に造られた。そのポイントは、銅鏡、剣、そして朱だ。 これらは北九州勢力のシンボルといってよいものだ。近畿にはほとんどなかった。 となれば、全国に古墳を造ったのが九州勢力であることは明白。何か文句があるかな?
773 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 15:49:12.95
776 :
世捨人 :2011/12/02(金) 18:58:11.18
地図を見れば分るが、朝鮮半島は意外と広大だ。 慶尚道と全羅道、これだけで九州より広い。 倭人がいたと想定される慶尚南道と全羅南道、これだけで九州の三分の二くらいはありそうだ。 狗邪韓国だけが倭人の国ではない。その北部にも倭人の国があったはず。 帥升、卑弥呼、倭の五王はみんな朝鮮の倭王だったのである。 女王国の旁国の二十一国さえ朝鮮の倭の諸国だったかもしれない。
777 :
世捨人 :2011/12/02(金) 19:01:51.84
君らに告ぐ。 邪馬台国と卑弥呼をセットで考えるな。 邪馬台国と卑弥呼を切り離して考えよ。 卑弥呼は邪馬台国にいたのではない。 卑弥呼は朝鮮にいたのだ。
>世捨人 どこかの隔離スレで、一人でやってください。
781 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/02(金) 21:27:21.65
>>767 兵庫県三日月町の大型放射光施設「スプリング8」を使用して、
三角縁神獣鏡は、一部が卑弥呼時代の中国の青銅鏡と銅の成分が
ほぼ一致することが、微量元素の含有比測定で判明しており、
泉屋博古館所有の三角縁神獣鏡8枚中6枚は3世紀の中国の青銅鏡と
近い測定値を示しており、また魏の工房で作られたことを示す、
「尚方」の銘も三角縁神獣鏡の中から見つかったので、一部は
魏からの下賜品の可能性が高い。その下賜品を元に国内で国産したのでしょう。
782 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/02(金) 21:37:34.95
ゆえに9割方邪馬台国は畿内にあったとみるべきです。 かろうじて1割程度は可能性として九州も残りますが、 そうすると、筑紫女王国が、巻向連合政権に参加しつつ、 魏に朝貢もしていたという二重外交をとっていたと仮定せざるを えなくなります。そして下賜された三角縁神獣鏡を 巻向連合政権に参加していた同じ筑紫の王族に渡し、その王族が 椿井大塚山古墳の被葬者で、連合政権内で筑紫の優位性を保つために 魏からの鏡を国産し、各地の豪族に配布し、倭王としての権威を示すことで、 連合政権内での権勢を高めようとしたと。 と完全に推論部分ばかりになるのでやはり学問の徒としてはこのような仮定は 承服しがたく、巻向王権が邪馬台国そのものとみたほうが自然かと思う次第です。
>>781 それがどうした?
原材料がおなじ場所から来たなら同じになるわな。
銅鐸を鋳つぶすこともあるしな。
>低偏差値学徒 まあ、志賀島で金印が出たこととの整合性でも考えて、今日は寝なさい。
785 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 22:18:20.39
>>784 先生、なんで志賀島の金印が邪馬台国に関係あるんですかあ〜?
>>785 中国側が連綿と継承された国家と判断してるから。
畿内の国は、旧唐書でも「断絶のある国」と判断してるね。
787 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 23:00:52.85
新唐書では、筑紫城から畿内に向かったと書いてあるね。 そうすると、日向は、伊都と福岡の間の日向峠なのかなあ。
788 :
世捨人 :2011/12/02(金) 23:11:38.82
行程記事や考古学で論争しているかぎり、真実には到達できない。 桓霊の末に朝鮮で動乱が起こり、同じ桓霊の末に倭国でも大乱があり、 公孫氏に倭が服属し、公孫氏が平定されると倭の女王が帯方郡に朝見してきた。 明らかに朝鮮の記事ではないか。 日本の女王がなんでいちいち朝見するのだ。魏や公孫氏が日本を侵略しようとしたことなど一度もないのに。
790 :
日本@名無史さん :2011/12/02(金) 23:16:22.27
>>787 新唐書の記述はずっとのちになって、日本の勝手な言い分を宋朝が無理に呑んだもの。
>>788 × 行程記事や考古学で論争しているかぎり、真実には到達できない。
○ 世捨人が一人妄想に耽っているかぎり、絶対、真実には到達できない。
795 :
日本@名無史さん :2011/12/03(土) 07:08:55.59
今時九州説って馬鹿なの?w
796 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/03(土) 08:29:52.89
九州説とか地元が九州の人が言ってるだけでしょw 町おこしのために地元に邪馬台国を誘致したいだけ
797 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/03(土) 08:45:37.28
古代中国人の地理認識は東南海夷図をみればわかるよ。 所詮あの程度のもん。
>>797 中国人と朝鮮人の区別も付かないとは。
旧帝大歴史学を詐称する名古屋大学生なんて所詮その程度のもん。
799 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/03(土) 09:41:14.98
ひれ伏しなさい! 九州説などとたわごとを言ってるような低学歴の低能が! 受験で論理的思考力を鍛えられてないから、 九州王朝説とかおかしなものに洗脳されるんだし、 低学歴なら低学歴らしく、パチンコでもしてなさいよw 受験ごときで結果出せない程度の頭のやつらが、古代史の研究とか片腹痛いよw
中国人と朝鮮人の区別も付かないカスが喚いとるわィ。
801 :
世捨人 :2011/12/03(土) 12:50:49.70
>>790 「太平御覧」によると東晋に倭が朝貢したとき(413年)の方物(その地方の産物)が、
朝鮮人参と貂皮だったらしい。これは明らかに朝鮮の産物である。
つまり5世紀においても倭とは朝鮮の一部のことだったのである。
だから倭の五王も朝鮮の倭王のことである。トンデモ説でも何でもない。
802 :
日本@名無史さん :2011/12/03(土) 13:50:11.37
最近、継体天皇の時代について調べているんだけれど、 磐井の乱で滅ぼされた九州の磐井こそ邪馬台国の正統ではないかというような気がするのです。 当時、磐井は有明広域連合の長といった立場で大和の天皇の勢力と並び立つ存在だった。 磐井の乱で敗れた磐井の子の葛子は、今の博多湾にあったと推定されている糟屋屯倉を献上して死罪を免れたとあり、 磐井は有明海だけではなく南九州一帯を支配していたようだ。 それだけではなく、新羅から賄賂を貰って近江毛野氏の渡海を邪魔したこと磐井の乱の原因とされているけれど、 磐井は元々朝鮮半島や大陸と深い交流があったことは確実で、 周代、春秋時代、戦国時代初頭に渡って現在の山東省を中心に存在した国(斉)の支配地域のひとつと考えられる。 魏の曹芳(そうほう)は斉王であり、卑弥呼は同族である曹芳の即位を祝って使者を魏の国に送ったのだろう。 当時の畿内には、中国大陸まで使者を送る財力も船も政治的基盤もなかったのだ。
803 :
筑紫次郎 :2011/12/03(土) 15:40:26.25
>>802 >磐井の乱で滅ぼされた九州の磐井こそ邪馬台国の正統ではないかというような気がするのです。
磐井の乱は一種の内紛だと思います。
磐井は大和朝廷と関係がある勢力です。
邪馬台国が四世紀後半に支配力を無くした後に入り込んで来た勢力です。
邪馬台国とは無関係です。
>今の博多湾にあったと推定されている糟屋屯倉を献上して死罪を免れたとあり、
敵対する勢力だったらそれでは済まなかったはずです。
謀叛のほうが厳しいだろ
805 :
世捨人 :2011/12/03(土) 15:46:55.22
>>802 博多にあった屯倉を献上したことが、なぜ南九州を支配していたという見解につながるのかが不明。
また、文から判断すると、君は九州が斉の支配地域だったと解釈しているのだろうか。
そうだとすれば、それは一種の自虐史観というものではあるまいか。
九州が中国に服属したことなど一度もないと思うが。
806 :
筑紫次郎 :2011/12/03(土) 16:57:56.52
>>805 博多にあった屯倉を献上したことが、なぜ南九州を支配していたという見解につながるのかが不明。
博多にあった屯倉を献上したことから博多は支配地域。
石人に阿蘇の石が使用されていたことなどから、
少なくとも熊本も支配地域だったと考えられているようです。
807 :
筑紫次郎 :2011/12/03(土) 17:12:06.55
根拠を提示できないし、邪馬台国と無関係なので 最後のレスになりますが 磐井の謀叛ではなかったと考えている。
808 :
日本@名無史さん :2011/12/03(土) 17:14:57.39
>今の博多湾にあったと推定されている糟屋屯倉を献上して死罪を免れたとあり、 まあ「私物」であったから命乞いの材料になりえたと言うのは言えるわなw 盗んだものを返して「これで罪を許してくれ」と言う盗人はいないわけでwwwwwwwwww
809 :
日本@名無史さん :2011/12/03(土) 17:17:46.05
屯倉って、大和朝廷が設置したのか、 磐井が設置したのかで意味合いが変わってきそうだな。 兵糧の集積地だから、これはそのまま兵力に直結する。 いわば最前線なのである。 普通、筑後の磐井をたたくなら、大和朝廷は北九州方面から進攻するだろうから、 屯倉は真っ先に奪取する対象のはずなんだよな。 あとで、屯倉を返上するってのが、ずっと気にかかっている。
810 :
日本@名無史さん :2011/12/03(土) 17:21:33.19
屯倉を返上するなら、それは磐井の乱の先でなければならないし、 先に返上しなかったとすれば、屯倉に反撃の兵力はなくても(ありえそうにないが) 兵糧がたっぷりある屯倉を素通りするものだろうか。
811 :
日本@名無史さん :2011/12/03(土) 17:26:57.60
ついでに、屯倉を返上することによって、死罪を逃れている。 これは屯倉に価値があることを示している。 つまり、磐井が物資を取り上げて、空になった無価値の屯倉を 返したわけではないと思われる。
領土の割譲かな
813 :
世捨人 :2011/12/03(土) 18:23:00.08
仁徳紀に倭が紀角宿祢を百済に遣わし、初めて境界を分かち、土産物を記録させた、という記事があるらしい。 ということは倭と百済は陸続きだったということになる。 また広開土王碑の永楽十年(400年)条に、新羅に倭が侵攻したので新羅が高句麗に救援を求め、 高句麗軍が来ると倭は退き、倭を追撃して任那加羅に至り城を攻め落とすと城は帰服した、とある。 これから見ても、倭とは任那加羅などの朝鮮の倭のことと思われるのである。
814 :
世捨人 :2011/12/03(土) 18:44:36.75
南斉書や宋書に、加羅国王が輔国将軍本国王に、倭王が使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王武に封爵された、とある。 ところで南斉の官位は 1 宗室やそれに準じる重臣に授ける位階 ○○>○○>○○>輔国将軍>○○>○○>○○>○○ 2 武臣に授ける位階 ○○>○○>○○>○○>○○>○○>○○>○○>安東大将軍>○○ となっていて、倭王の位階はビリから二番目の低位階で、要するにただの辺境守備の王である。 また上の諸国の中に弁韓がないことから、倭王は弁韓の後継国の王だという説があり、 そうだとすればやはり倭王武は朝鮮の倭の王であり、日本の王ではない。
815 :
九州王朝大好き :2011/12/03(土) 19:25:34.05
>>802 >磐井の乱で滅ぼされた九州の磐井こそ邪馬台国の正統ではないかというような気がするのです。
磐井(倭薈)は、倭武を引き継ぎ、倭奴國女王國卑弥呼を引き継いでいる。
磐井の乱は、磐井に対しての玄界灘沿岸勢力(後の多利思北孤等)の反乱である。
糟屋屯倉を献上記事は、玄界灘沿岸勢力が磐井の搾取から領地を取り戻したこと言っている。
816 :
九州王朝大好き :2011/12/03(土) 19:40:14.09
>>813 >仁徳紀に倭が紀角宿祢を百済に遣わし、初めて境界を分かち、土産物を記録させた、という記事があるらしい。
>ということは倭と百済は陸続きだったということになる。
栄山江流域の倭(任那)と錦江流域以北の百濟との境界を決めたことの記事を九州歴史書から脚色転載したもの。
地質学的には一万年以上前は台湾あたりから、大陸だなあたりはずっと地続きという説はあるな ただ古すぎるけどね 磐井が卑弥呼の末裔とは考えにくいよ 祭事も墳墓や風習が似通っているなんて聞いたことない
818 :
九州王朝大好き :2011/12/04(日) 06:57:33.45
>>817 >磐井が卑弥呼の末裔とは考えにくいよ
王統が続いているとの意味ではない。
王権が引き続かれたのである。
@倭奴國王 [筑前王権] 都:福岡平野
↓
A帥升王→伊都國の王 [肥前王権] 都:佐賀平野(吉野ヶ里遺跡→惣座遺跡)
↓
B卑弥呼→壹與[筑前王権] 都:久留米
↓
C不明 狗奴國(肥後)から筑後八女への侵入者 [肥後王権] 都:久留米
↓
D倭旨王権 [筑後王権] 都:久留米
↓
E倭讃→倭珍→倭済→倭興→倭武→倭薈(磐井) [筑後王権] 都:久留米
↓
F不明→多利思北孤→不明→薩野麻 [筑前王権] 都:久留米→太宰府
↓
G不明確→曽我入鹿→薩末比売 都:太宰府→大和葛城→薩摩
819 :
サガミハラハラ :2011/12/04(日) 07:26:52.81
邪馬台国は壱与の死を以て(西暦285年)断絶しています。そのご290年代に大和朝廷に合併吸収されています。
820 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 07:28:58.63
朝っぱらから妄想乙
821 :
旧帝大歴史学徒 :2011/12/04(日) 08:58:39.97
何度も言うように九州に邪馬台国があったのでは、 巻向王権が朝貢しなかったことになるし、 かといって三角縁神獣鏡は近畿一円に分布してるので 魏とのなんらかの交流はあったとみるべきだし、 矛盾が生じるのでやはり厳しいだろう。
822 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 11:03:23.64
先に出てきた神獣鏡の成分比では、 中国産に近いものが数枚。 後は、非常に広い範囲で成分比がばらついている。 中国人デザイナーがいなくなって、品質保持ができなくなったか、 各集落で勝手に作るようになったと思われる。
823 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 11:15:12.91
>>822 神獣鏡に関しては、成分比では中国産か国産か判別するのは難しく、
原材料となる銅を輸入した可能性もあるしね。
ただ卑弥呼と同時代の中国の銅が使われていることと、景初4年の
年号鏡が存在することからほぼリアルタイムで製作されたことは
裏付けはとれたと思う。魏の工房「尚方」の銘入りの鏡も
あるし何枚かは中国産で、それを元に国産したんじゃなかろうかと。
ただ「右尚方」というのが正式な魏の官営工房で作られた銘らしいので、
そのへんの処理の仕方がわからん。民間に委託して作らせて
卑弥呼に下賜したのか、それともすべて国産鏡なのか。
ただ国産にせよ中国人デザイナーが当時近畿にいたんだろうし、
邪馬台国が九州ではさすがに無理がある。近畿と魏の交流があったってことだし、
魏志倭人伝に近畿については全く掲載しないのはありえんしね。
824 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 11:44:02.44
平松邦夫/民主党 大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ ・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞 ・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派 VS 橋下徹/維新の会 大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫 様子見:公明
>>819 290年に大和朝廷などありません。
大和朝廷が出来たのは、早くて7世紀以降。
>>821 銅鐸国家から簒奪した銅鐸を鋳つぶして、鏡にしただけじゃん。
あとさ、証拠もないのに
「巨大権力を持った畿内政権が、△鏡を配った」
なんて全くの妄想だよ。鏡職人が買いたい奴に鏡を売っただけだろ。
827 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 12:13:18.12
「尚方」銘が中国産なら、下賜品の一部の可能性も残るし、 邪馬台国が九州ならその鏡は九州に渡ってるから、 下賜鏡を元に鏡を国産できない。まず三角縁神獣鏡が すべて国産だと言うことを立証してくれ。
828 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 12:27:07.97
>>821 、823
ただウマシカでしかない。何度も同じことを言わせるな。ここは九州説板だ。
九州説の者達が意見交換をする板で、ここにレスを入れることは自分も九州説
を信じていますと自白することになる。わからんのかドア○ウ。
もう一つ。2チャンネルはディベ−ドの場かもしれないが、邪馬台国を論じるこ
とはレッキとして学問の分野だ。ならば単に意見を言うだけでなく、自分の意
見の論拠を明示し、自分の意見が正しいという論証をしなければ邪馬台国論を
言っていることにならない。だから他の論者からウマシカにされ、現に826氏
の言うように簡単に論破されてしまうのだ。自分のア○ウさ加減に気付け。
829 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 12:46:22.19
邪馬台国を論じることが学問の分野と言うなら 推論ばかりの妄想はやめたまえw それに何が九州説板だw非九州説は来てはいけないなどと どこにも書いてないしおまえが勝手にそう思ってるだけだろw それに自説に対し批判する人間もいるのが健全なる学問だろうが。 自分の意見は、魏の工房の銘が入った鏡もあるんだから、 何枚かは魏からの下賜品の可能性もあると先に言っただろ。 論破されてるのは九州説のほうだしもう勝負はほぼついてる状態でしょw
830 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 13:04:11.00
ネットで調査した結果、下賜品の可能性は低いのかw 呉系の鏡だから魏の工房で作り下賜した可能性は低いだと。 それなのに魏の年号が入ってるから国産で、尚方は国産した奴が 見栄かなんかで入れただけなんかいw
831 :
世捨人 :2011/12/04(日) 14:45:11.88
鏡について一言。 銘文に至海東とあって、この海東を日本のことだと解する説があるが、それはやや無理かと思う。 この銘文は鏡を所有することの福について述べた箇所にあるのだから、 海東とは扶桑と同じような意味で、海の東にある不老長寿のユートピアのことを指しているのではあるまいか。 中国からの亡命者が作ったとか、呉の工人が渡来して日本で作ったなどという説は一種の珍説ではあるまいか。 ついでにいうと、銅鏡百枚の百枚も、径百余歩と同じく、ただの修辞である可能性もある。
>>827 >まず三角縁神獣鏡がすべて国産だと言うことを立証してくれ。
う〜ん、君ですら△鏡舶載説の証明ができないんだろ?
国産・舶載の証明段階まで行っていないんだよ。
だったら、中国でたった1枚でも△鏡が出ていない舶載説が
決定的に不利だってこと。
833 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 16:45:10.89
今は熊本辺りはド田舎の地方都市に過ぎないけれど、 弥生時代から古墳時代にかけて、有明海から島原湾周辺は大穀倉地帯で人口扶持力も高く、国の中心だったのです。 それは、菊池川周辺の古墳の数を見ればわかると思います。 しかし、磐井の乱の頃を境に磐井の勢力は急速に衰え、畿内勢力が日本列島を支配していったのはなぜでしょう? 磐井の乱は磐井が博多湾沿岸を支配しようとしため、継体天皇が毛野氏や大伴氏に命じ鎮圧させた内乱だと思います。 では、磐井が北進した理由とは何か?それは、地球寒冷化による有明海の陸化です。 有明海周辺で三の付く地名を追ってみてください。 北から三日月、三田村、三根、三潴、三橋、三池・・この地名をつなげた辺りが当時の海岸線だったのです。
アホか 有明海周辺を掘っても塩しか出てこないだろ 有明海ー島原近辺の弥生水田跡をまず示してくれ
>>843 よく読んでください。
有明海は古墳時代以降に陸化したという意味のことを書いているのですが・・
>>835 そんなに都合よくはいかんよ
九州なら弥生−古墳時代を通して筑後川流域のほうがずっと生産力が高かっただろ
837 :
九州王朝大好き :2011/12/04(日) 17:48:54.14
岩井の乱は、九州王朝倭薈王(筑後勢力)に対する玄界灘沿岸勢力(筑前勢力)の反乱。 この内戦に勝ったのが宗像君を主力とした筑前軍。 内戦終結後の政治体制は筑前と肥後の協調体制、即ち倭五王時代に戻る復古政治。 内戦終了半世紀後現れた王が宗像の多利思比孤。
>魏志倭人伝に近畿については全く掲載しないのはありえんしね。 魏志倭人伝当時近畿は特記すも価値も無かった。 それだけのこと。
839 :
世捨人 :2011/12/04(日) 18:49:12.34
>>832 三角縁神獣鏡が中国で出土しない理由として考えられることは−
1 魏王朝は45年しか続かなかった。
2 魏では薄葬令が出され、墳墓に宝物を埋めることが禁止された。
笠野毅「三角縁神獣鏡は語る」(『古代を考える 邪馬台国』(平野邦雄編 吉川弘文館)所収)
>>839 45年じゃなくて、中国5千年の歴史において、△鏡が一個も出てこないんだよ。
魏では、倭人みたいに鏡を墓に埋める目的で使わないから、薄葬とは無関係だよ。
それから言っとくけど、中国では漢の時代からずっと薄葬で、魏だけの特徴じゃないからね。
841 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 21:37:56.39
夕方、本屋で三角縁神獣鏡の本があったから 思わず買ってしまい、読んでたら、自分が今まで言ってたことが 稚拙すぎて恥ずかしくなったし、九州説などありえんことが △鏡について調べてくだけですぐわかるよ。 まだ読んでる途中で、内容も難しいけど、簡単に言えば 陳氏鏡の一部のみが魏からの下賜品でほぼ間違いないよ。。
>>841 自分に見合った幼稚な本を見つけられて、おめでとう。
それ、間違いだから。
843 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 22:11:39.36
間違いは九州説のほうだわw
△鏡 箸墓 桃の種(笑 みんな畿内説のインチキだったんだよ・・・・
845 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 22:18:39.87
>>843 根拠にもならんことを根拠に取り上げて、
九州説はありえんと連呼されても、
畿内説論者でも、フォローできないよ。
846 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 22:19:13.51
箸墓も炭素14だかの測定で、240〜260年のものだと断定されたんでしょw なぜそれにいちゃもんつけるわけ?w
848 :
筑紫の民 :2011/12/04(日) 22:24:00.78
>>846 <サガミファン、小城説不支持派>
たいした見識も持っていないくせに場違いなスレに来て糞尿撒き散らしやがって
お前は<古代史>以前に「日本人としての資質」を養うべきだ。ここから出て逝け。
849 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 22:28:05.64
銅出徐州 師出洛陽 の銘文で徐州と洛陽が入ってるので 魏晋時代であり、師の字は司馬師の字なので、 晋朝時代は使われてなかったようなので、 魏鏡確定だ。鏡の鈕孔も呉の様式ではないので、 呉から来た職人が作った国産説の線も消える。
>炭素14だかの測定 桃の種を16分割して測定したところ、何百年も差のある年代が 測定結果に出たくらいブレが大きいのだよ。
852 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/04(日) 22:33:02.65
>筑紫さん あんたも九州説なんだし、見識あるとは思えんがなw
>>852 サガミハラハラの、どこに惹かれてファンになったの?
854 :
筑紫の民 :2011/12/04(日) 22:36:08.24
>54 :サガミファン、小城説不支持派:2011/12/04(日) 21:57:34.18 >日露で中途半端に勝たないほうがよかったのにw 上記が日本人としての資質か?お前日本から出て行けよ
855 :
筑紫の民 :2011/12/04(日) 22:38:59.08
他スレの話なのでこれ以上語らんが、 <サガミファン、小城説不支持派>おまえの日本人感が解ったよ。
856 :
日本@名無史さん :2011/12/04(日) 22:49:42.94
>日露で中途半端に勝たないほうがよかったのにw 筑紫のド民くんが禿げしく反応しているが 太平洋戦争の終結までの長い目で見ればこれも正論なんだよなw ・・・と、スレ違い板違いだな。 失礼しますたwwwwwwwwwww
857 :
世捨人 :2011/12/04(日) 23:00:02.44
箸墓が卑弥呼の墓でないことは明白である。 なぜなら箸墓は倭迹迹日百襲媛命の墓だが、倭迹迹日百襲媛命は孝霊天皇の皇女だからである。 孝霊天皇は卑弥呼よりはるかに古い時代の天皇だから、箸墓が卑弥呼の墓であるはずがないのである。 記紀を信ずればこんなことは簡単に分かるのだが、学者も素人も記紀を信じないから、 倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼だとか、倭姫命が卑弥呼だとかの珍説を唱えることになるのである。
858 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/04(日) 23:07:48.80
箸墓は卑弥呼の墓に非ず。
>>857 記紀は信仰の対象物ではなく、原典批判の対象物だ。
記紀信仰を理由とするのではなく、別な理由で箸墓と卑弥呼は無縁。
箸墓は、卑弥呼の死よりはるかに後に造られた古墳であり、
卑弥呼は九州在住の女王だったからという単純な話だ。
___ ;;/ ノ( \; ;/ _ノ 三ヽ、_ \; ;/ノ(( 。 )三( ゚ )∪\; ;.| ⌒ (__人__) ノ( |.; ..;\ u. . |++++| ⌒ /; け、K−POOPは・・世界中で・・人気があって・・ ねつぞうとか・・全然・・やったこと・・な、な・・・
>箸墓が卑弥呼の墓でないことは明白である。 たしかにそうだろう。前々から畿内説は終わっている。
862 :
世捨人 :2011/12/05(月) 18:18:04.64
委奴国はどうやら倭の奴国と読むようである。 というのは漢が匈奴に与えた印が多く残されていて、それには、 「漢匈奴○○△△」 と書かれているらしい。○○に部族名、△△に官職名が入っているらしい。
863 :
日本@名無史さん :2011/12/05(月) 18:26:13.40
箸墓は間違いなく卑弥呼の古墳ですよ。嘘だと思うなら掘ってみなさい。
864 :
日本@名無史さん :2011/12/05(月) 18:28:55.44
普通、卑弥呼の古墳という証明が必要な方が、 掘る必要があるんじゃないかね? 俺は、べつに箸墓が卑弥呼の古墳と証明できなくてよいし。 証明されるまで、被葬者不明でよろしい。
箸墓を掘ると、ゴッドハンドで何でも出てくるよ。 きっとAV女優卑弥呼のDVDも出てくるぞ。
866 :
世捨人 :2011/12/05(月) 19:10:09.06
百済の官職名に大率というのがあるらしい。 達率、恩率、徳率、杆率、奈率 (北史百済伝) 大率、恩率、徳率、杆率、奈率 (隋書東夷伝) (明石書店「古代朝鮮語と日本語」) さてこれをどう考えるべきか。
867 :
世捨人 :2011/12/05(月) 19:17:02.72
上の達率と大率が同じであるとすれば、推古紀にも 任那からの使いとして達率というのがある。
868 :
サガミファン、小城説不支持派 :2011/12/05(月) 22:27:12.41
>世捨人 あんたの卑弥呼が公孫氏だも、おそらく間違いだけど 面白い考えだと思うよ。卑弥呼が半島情勢にやたら詳しいのも それで説明つくし、魏に朝貢する前は公孫氏に朝貢して 舶載鏡もらってたっぽいし、卑弥呼の鬼道も道教だとしたら 中国の語と五斗米道がらみだろうし、列島の人間じゃない。 卑弥呼が巻向で女王に推戴される理由も、渡来人の貴種として 差別化でき、半島とパイプもってたからで、 公孫氏が魏に滅ぼされたから次は自分たちのとこに攻めてくると思い すかさず魏に朝貢しにいったと考えてもいいしねw でもやっぱ卑弥呼はモモソ姫の可能性のほうが高いけどw
卑弥呼=モモソ姫論って、証拠がまったくないんだよねー
870 :
世捨人 :2011/12/05(月) 23:03:26.03
>>868 何回も言うが、私は卑弥呼は公孫氏だと言っているのではない。
私は卑弥呼は朝鮮の倭の女王だと言っているのである。
卑弥呼は倭人である。
卑弥呼も倭の五王も朝鮮の倭の王である。
871 :
世捨人 :2011/12/05(月) 23:36:28.44
仮に卑弥呼が九州の女王だとしたら、奴国の女王である。 その南に狗奴国があった。 狗奴国は筑紫平野のどこかの国か、または筑肥山地を境にして、 北が奴国、南が狗奴国だったかもしれない。 女王は邪馬台国に都す、という文を無視すれば、こういう自由な発想ができるのである。 女王は邪馬台国に都す、というのは陳寿の勝手な誤解である。この記述にとらわれてはいけない。
872 :
世捨人 :2011/12/05(月) 23:44:55.01
私は邪馬台国はどこでもいいのだが、行程記事から考えると大和説が有利である。その根拠は− 1 至邪馬台国水行十日陸行一月の記事と、至女王国万二千余里の記事とでは、 前者は倭人伝だけの独自性があるが、後者は慣用的表現だからである。 2 奴国が戸数二万で、投馬国が五万、邪馬台国が七万。 九州内陸部に奴国を超えるような大国があるとは思えない。
873 :
世捨人 :2011/12/05(月) 23:47:15.56
邪馬台国 ◎大和 △九州 卑弥呼 ◎朝鮮の倭の女王 △奴国の女王
>>871 漢籍のどこを見ても、卑弥呼は半島に居ない。
以上、君の説は完全否定されました。
議論はこれ以上不要。
875 :
日本@名無史さん :2011/12/06(火) 06:46:30.30
世捨人氏も19才氏も自分の主張の立証、論証を行え。できなければ邪馬台国を 論じる資格は無いよ。
876 :
日本@名無史さん :2011/12/06(火) 11:11:40.96
>至邪馬台国水行十日陸行一月の記事と、至女王国万二千余里の記事とでは、 > 前者は倭人伝だけの独自性があるが、後者は慣用的表現だからである。 水行十日陸行一月は北九州から南へ行くって話だ。その記事に従って大和へ 行くことは不可能だ。 >奴国が戸数二万で、投馬国が五万、邪馬台国が七万。 > 九州内陸部に奴国を超えるような大国があるとは思えない。 北九州の片隅にあった奴国が2万戸ならば、投馬国5万、邪馬台国7万が 九州の中にあって何も不思議ではないだろう。
877 :
世捨人 :2011/12/06(火) 12:49:01.86
倭人伝の記事は、大別して二系統の史料に基づいていると思われるのである。 1 魏の政府の外交文書。倭の女王が朝貢してきたとか、支援要請してきたというような記事はこれに基づいていると思われる。 2 民間の交易、旅行など、民間から採取した情報。日本の地理・風俗などの記事はこれに基づくと思われる。 さて陳寿は倭は日本だと思っており、日本の地理情報から、日本の王都は邪馬台国ということを知っていた。 また倭の女王が朝貢や支援要請をしてきたという情報も知っていた。 それで、当然のことだが、倭の女王は邪馬台国に都す、と書いたのである。 しかし陳寿は、女王は朝鮮南部の倭から朝貢してきたのだということを知らなかったのである。
>>877 それは100%嘘だね。
陳寿の時代に、「日本国」も「日本民族」も「日本という呼称」も存在しない。
879 :
世捨人 :2011/12/06(火) 18:29:59.39
>>878 もちろん、当時は日本、日本国、日本人という観念はない。
私が言いたいのは、陳寿は朝鮮の南部にも倭があることを知らなかった、という意味である。
あるいは、狗邪韓国というのは倭人の国であると知っていたかもしれないが、
まさか女王がそういう朝鮮南部の倭人の国から朝貢してきたとは思わなかったのである。
もしかすると陳寿は狗邪韓国が倭人の国であることも知らなかったかもしれない。
(尤も、狗邪韓国が倭人の国であるとは断言できないが。)
狗邪韓国は金官伽耶、後の任那だろ
>>879 いや、君の説を応用すると、
魏も呉も陳寿も卑弥呼も日本列島に住んでいたのに気づかなかったんだよ。
882 :
九州王朝大好き :2011/12/06(火) 20:31:13.63
《3世紀と7世紀の倭》 魏志倭人傳 地図 〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜│郡⇔不彌國(女王國):12000餘里 〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜│郡⇔投馬國:水行20日[2万里](漢江・韓海岸・対馬海峡・角力灘・天草灘・有明海) 〜〜〜〜〜一大國┃◎↓壱岐〜〜〜│郡⇔邪馬壹國:水行10日[1万里](漢江・韓海岸・対馬海峡)と陸行1月[1千里](九州) 〜〜〜〜 [一支國]┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜┏━┛∵┗┿┛観音峠∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │ [城郭位置] 〜〜〜〜〜┃∵末盧國◎→▲→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │末盧國:唐津鏡中原遺跡 〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:惣座遺跡(肥前國庁址付近) 〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國を構成する国 〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里遺跡 〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃│●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川中心部 〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃●投馬國∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米南部 〜〜〜〜〜〜角┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國 :佐賀市中心部 〜〜〜〜〜〜力┃∵┃┗┓∵┗┓有〜┃∵∵┌─────── │ 〜〜〜〜〜〜灘┗┓┃〜┃∵∵┃明〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛海〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:方保田東原遺跡(狗奴國連合の中核国) 〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │狗奴國連合(15〜25ヶ国) 卑彌弓呼王 〜〜〜〜〜〜┏┛┏━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │倭地:狗奴國連合以北の九州島 〜〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃島〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │ (周旋可5000餘里[350km余]) 〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛原〜┃∵狗奴國連合∵∵∵ │ 〜〜〜〜┗━┛天草灘┗━━━┛〜湾┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
883 :
九州王朝大好き :2011/12/06(火) 20:32:31.44
《3世紀と7世紀の倭》 〜〜〜〜┃∵┃〜〜《 隋書イ妥國傳 九州地図 》〜〜〜 →→┐C┗━┛都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜↓┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ 〜〜〜〜〜D↓┃∵┃一支國〜〜〜〜〜┏┛∴∴∴┃ 〜〜〜〜〜〜↓┗━┛〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∴┃ 〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜┏┓〜┏┛∵∵∵∵∵┗ 〜〜〜〜〜D↓┏━┓〜〜┏┛┗━┛∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜┌←←←┘┃竹┃〜┏┛∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓┏━━━┛斯┗━┛∵竹斯國∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓┃∴∵∵∵國∵∵∵∵∵∵∵◇倭京(大宰府)∴ 〜〜↓┗┓十餘國G∵∵∵∵∵H海岸∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓〜┗┓∴∵∵∵∵∵┏○→→◎邪靡堆E∵∵∵ 〜〜↓〜┏╋━┓∵∵十G┃↑┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∴ 〜〜↓┏┛┃〜┃∵∵餘┏┛↑┃十∵∵∵∵∵∵∵∵∴ 〜〜↓┃∵┃〜┗┓∵國┃〜↑┃餘G∵∵∵∵∵∵∵∴ 〜〜↓┗┓┗┓〜┃∴┏┛〜↑┗┓國∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓〜┗┓┗━┛∴┗━┓└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓G十餘國∴┏━┓∵┗┓↑┗┓十∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜↓〜〜┃∴┏┛〜┃普I┃↑〜┃餘G∵∵∵∵∵∵ 〜〜└┐┏┛┏┛〜┏┛賢▲┃↑〜┃國∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓┃┏┛〜┏┛∵岳┏┛↑┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓┃┃〜〜┃〜〜┏┛┌┘┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜↓┗┛〜〜┗━━┛〜↑〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜└→→→→→I→→→┘┏┛泰王國F∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜G十餘國┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
884 :
九州王朝大好き :2011/12/06(火) 20:39:22.29
《3世紀と7世紀の倭》 C『度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中』イ妥國伝 隋使は航行中で未だ上陸していない。 D『又東至一支國、又至竹斯國』イ妥國伝 E『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』イ妥国伝 F『又東至秦王國』イ妥國伝 G『又經十餘國』イ妥國伝 H『達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於イ妥』イ妥國伝 「達於海岸」で隋使は初めて上陸した。 "I『路經地獄之門 親見其上氣色葱鬱 有烟火之状 若鑪鎚號叫之聲』冊府元龜 巻662 奉使部 絶域 " 『路經地獄之門 親見其上氣色蓊鬱 又聞呼叫鎚鍛之聲』唐會要 巻99 倭國
885 :
世捨人 :2011/12/06(火) 23:22:40.72
最近は東アジア(主に中国大陸と朝鮮)との関係で日本史を考えようというのが主流になっている。 まるで大陸の動きと日本が密接に関係しているかのごとく見なしている。 しかし日本と大陸は海で隔てられているのである。大陸の動きがそう簡単に日本に影響を及ぼすわけがない。 大陸で動乱が起きると日本でも動乱が起きるという人がいるが、そんなのは嘘である。 桓霊の末に朝鮮で動乱が起きて、同じ時期に倭国で大乱があったのは、その倭は朝鮮の倭だからである。
886 :
世捨人 :2011/12/06(火) 23:26:16.79
さらにまた、東アジアとの関連で日本史を考えようというわりには、 卑弥呼は朝鮮の倭の王だという説を唱えるとハナからバカにされる。 困ったものだ。
887 :
世捨人 :2011/12/06(火) 23:29:00.46
もうひとつの問題点は自虐史観というやつだ。 九州や本州が公孫氏に服属したと本気で信じている人がいる。 日本を侵略しようとしたのは元だけだ。 漢民族も朝鮮民族も日本に侵攻しようとしたことはない。
動乱があると九州に渡来人が入ってくるという傾向は間違いなくあるよ
>>885 呉軍が朝鮮半島にまで進出している状況で、
九州が安穏としていられることはない。
890 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 00:06:00.47
嘘吐き朝鮮、中国人がやってる報道機関 朝鮮人犯罪があまり報道されない理由 韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6 TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F 東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13 京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2 産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2 (サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社) 朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F 毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1 韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F 読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1 東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2 朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT) 韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C NHK放送センター、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
891 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 04:31:25.96
諸先輩方、教えて下さい。調べてもわかりません・・・ 弥生時代の遺跡から銅鏡が出るのは福岡と佐賀以外に何処があるでしょうか?
892 :
九州王朝大好き :2011/12/07(水) 10:44:22.74
893 :
USボーカルスクール名古屋校生 :2011/12/07(水) 10:48:50.62
>>891 弥生時代つっても幅が広いんだがw
2世紀までなら北九州が圧倒的に多いけど、
それ以降は近畿に多いよ。
894 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 10:48:58.15
>>891 宮崎
BC3世紀 弥生時代前期
銀代ケ迫遺跡−竪穴住居から銅鏡(内向花文鏡、方格規矩鏡)の破片
895 :
九州王朝大好き :2011/12/07(水) 11:19:44.44
>>891 熊本県から呉鏡が出土するのは、
狗奴國が熊本県に在り、東シナ海を越えての直接交流があった証拠である。
漢代の東鯷人の20餘國は、會稽の東シナ海の海外(海中は舟山群島)であるから、
魏呉代の狗奴國であって熊本県に在ったと見做せる。
896 :
世捨人 :2011/12/07(水) 12:40:50.85
安帝紀、永初元年の記事に倭國王帥升等の朝貢記事があり、 同じ永初元年の記事に東鯷人の記事があるのだから、倭と東鯷人は別だろうと思われる。
897 :
世捨人 :2011/12/07(水) 12:52:02.08
まあ、邪馬台国と卑弥呼をセットにして考えているかぎり、九州説は不利だろう。 なぜなら邪馬台という名前を考えるかぎり、候補地としては筑後山門と肥後山門くらいしか考えられないからである。 そうではなくて、卑弥呼は邪馬台国とは無関係な九州のどこかの国の王だと考えれば、 卑弥呼を伊都国や奴国の王と想定することも可能だし、九州北岸の古墳から出土する鏡を、 卑弥呼が魏からもらった鏡だと主張することもできるのである。
898 :
世捨人 :2011/12/07(水) 13:00:53.39
大和は古来、日本の中心だったのだから、そこからいろんな鏡や刀剣が出るのは当たり前なのである。 日本の中心だったから、いろんな物が集まった来たのである。 だから、大和に鏡が多く出土するからといって、そこに卑弥呼がいたとはかぎらない。 邪馬台国が大和である蓋然性は示せても、卑弥呼が大和にいたことは証明できない。
899 :
メ :2011/12/07(水) 13:08:21.11
>卑弥呼がいたとはかぎらない。 貴方の言葉を返したら 卑弥呼が朝鮮半島に居たとはかぎらないのではないでしょうか?
900 :
メ :2011/12/07(水) 13:12:09.80
901 :
メ :2011/12/07(水) 13:47:10.48
>>891 九州王朝もちゃんと説明してるので私もw
奈良県の巨大な前方後円墳が築かれる前、すなわち「前夜」ともいうべき
弥生時代の弥生墳丘墓から銅鏡は出土している。
ここは弥生時代、古墳時代の区分による定義が問題になる所なんですが、
「弥生墳丘墓」というのは、「弥生」時代にカウントするべきではないでしょうか。
903 :
九州王朝大好き :2011/12/07(水) 16:03:43.47
>>896 前漢代の倭と東鯷人は別。
後漢代の倭と東鯷人も別。
魏呉代には、倭が倭人となり、東鯷人が消える。
呉書には東鯷人についての記載はない。
後漢書の拘奴國は、後漢代末期の女王國の東にあるから、
魏代の女王國の南にある狗奴國とは別国で、倭種の国である。
しかし、両国は不屬女王では共通。
拘奴國は卑弥呼共立後の後漢末に現れ、魏代には消滅しいる。
狗奴國は、拘奴國消滅後の魏代になって現れる。
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作を行っていた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
>>866 14時以降に何が起きたんだ
>>866 Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
これが規制されたからじゃねw
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 2009年3月
↑ 朝日新聞社員を買収してるのは、中国じゃなくてCIAだってのは世間の常識だよ君!
906 :
世捨人 :2011/12/07(水) 19:04:48.07
たとえば平原遺跡の被葬者は女性だと言われている。 日本最大の銅鏡も出ているし、方格規矩鏡も32面出ている。 ところで方格規矩四神鏡には魏の年号である青龍三年(西暦235年)の銘が入ったものがあるそうだ。 そうすると平原遺跡の被葬者が卑弥呼である可能性もまったくないわけではない。 伊都国の王の墓だから卑弥呼ではない、と考えるべきではない。
>>906 卑弥呼は文献にしか出てこないんだから、その可能性を文献上でも構築しなきゃ
「かもしれない論」をばら撒いてもダメでしょ。
908 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 19:13:16.78
方格規矩四神鏡は平原遺跡から大量に出土し、 近隣の墳墓から1〜2枚ずつ出土する。遠くは大阪からも数枚出土する。 一時期、平原が、鏡配布機関としての機能を持っていたと考えられる。 時代的に早過ぎると思われるので、 卑弥呼と直結はしないが、それに近い力を持っていたと思われる。
909 :
メ :2011/12/07(水) 20:16:14.55
>>206 >たとえば平原遺跡の被葬者は女性だと言われている。
なんで女性といわれてるのか知ってる?
貴方〜じわり、じわりと卑弥呼は朝鮮の王から、伊都国の王へ変わってきてますよねw
アンカーすら満足につけられんのか
911 :
メ :2011/12/07(水) 20:22:38.39
912 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 20:31:59.25
>>887 どこが自虐なのかわからない。
というか、あなたは本質が見えていないのではないだろうか?
日本、朝鮮半島、沿海州、山東半島・・この辺りは元々人の交流が激しい一つの経済圏だったのです。
公孫氏は日本から半島に渡った渡半人のかもしれない。
913 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 21:11:59.02
金印が証明してるように九州説が有力だろ
914 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 22:03:49.41
まぁ 九州の王達が素性も判らない2ヶ月も離れた所にいる 畿内人を共立なんか100lしないわな 卑弥呼が畿内にいたなんざ とんだ茶番劇だ。
915 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/12/07(水) 22:37:28.81
「玄界」とか「九州」といった語自体が、最上位の王がいたことを示している。
918 :
世捨人 :2011/12/07(水) 22:49:30.76
>>908 時代的に早すぎるという根拠は何だろうか。
>>912 では君はほんとうに日本が公孫氏に服属したと信じているのか。
それは九州か。それとも大和もか。
普通の人は、服属したのは朝鮮の倭で、日本は関係ないと思うはずだが。
919 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 22:52:07.19
>>918 〉時代的に早すぎるという根拠は何だろうか。
一応1世紀前後という定説に従った。
別の信頼できる根拠が出れば、それに従う。
920 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 23:00:17.86
>>917 別に九州の王たちが卑弥呼を共立したわけではないよww
畿内にも卑弥呼がいたのかいな。
卑弥呼を共立しだのは戦った九州の王達。
家内と九州ではあまりにも遠すぎて戦う理由が無い。
九州内でさえまとまってないのに畿内までは手が回らない。
つまり
倭国大乱に畿内は無関係。
共立された卑弥呼は畿内とは無関係。
921 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 23:07:24.21
>>914 筑紫痔漏
>九州の王達が素性も判らない2ヶ月も離れた所にいる
>畿内人を共立なんか100lしないわな
ほう、じゃあその卑弥呼共立に関わった九州の王達と言うのは一体どの範囲を想定しているのかな?
恐らくき畿内説では九州といっても早期古墳が出現する範囲に留まると思うが
ここは九州説スレなのでとりあえず九州におけるその範囲と理由を聞きたいなw
>>920 何を言ってるんだ王朝さんは・・・
共立ていうのは、「魏志」夫余伝にもあって
嫡子でない者が王となる場合で、九州の王達ていうのは豪族だろう。
原始的な豪族による話し合いの元に王を建てたのではない。
923 :
世捨人 :2011/12/07(水) 23:11:04.34
>>919 私の読んだ本では「この墓の時期はまだ確定していない。三世紀初頭ごろにみる見解が有力…」とあった。
高倉洋彰「魏使のみた国々」(「古代を考える 邪馬台国」所収)
924 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 23:12:15.72
>>922 痔漏=王朝でいいんか?
本職のw金属材料で知識の深度に差があったような・・・
>>923 平原に関しては、以前卑弥呼の墓説もあったんだけど
平原の築造された時代が早すぎるというか
大体、いま言われてるのは上限52年、下限220年の間だったと思う。
926 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 23:20:10.10
>>921 >ここは九州説スレなのでとりあえず九州におけるその範囲と理由を聞きたいなw
そんなの判るわけがない。
しかし
推定するなら
周旋可五千餘里から
博多湾岸地域と有明海沿岸地域、佐賀の一部。
大分、長崎は全部含んでいたのかは疑問。
うーん 他のスレでも書いたが・・・ 平原の築造年代は銅鏡の編年でいうと100年前後 土器の編年でいうと200年前後だったと思う。 その前のいわらがどうなのかっていう問題もあるが・・・
928 :
日本@名無史さん :2011/12/07(水) 23:23:50.35
>>926 筑紫痔漏
>博多湾岸地域
先に言った畿内説の場合そこは早期古墳の出現地域でバッティングしちゃうわけだがw
そこは年代論で対抗するのか?
別にその地域が本州畿内の文化を積極的に受容していても問題無しとするのか?
929 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 23:26:06.65
>>922 共立ていうのは、「魏志」夫余伝にもあって
嫡子でない者が王となる場合で、九州の王達ていうのは豪族だろう。
原始的な豪族による話し合いの元に王を建てたのではない。
畿内勢力の勢力内の権力争いなら九州は無関係。
九州を巻き込まないで畿内だけで解決しな。
畿内の卑弥呼を勝手に共立すれば良かろう。
九州とは無関係の話だ。
930 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 23:28:13.14
痔漏=王朝でいいんか? な、訳はない。 卑弥呼と関係のない 湖も金属も関心はない。
>>922 別人だよ別人。
名前がメのくせに、見るメがない奴だな。
>>929 なんだ〜貴方、王朝氏とは別人か。
じゃ貴方が考えてる「共立」てどんなの?
933 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 23:33:50.43
>>928 >先に言った畿内説の場合そこは早期古墳の出現地域でバッティングしちゃうわけだがw
そこは年代論で対抗するのか?
別にその地域が本州畿内の文化を積極的に受容していても問題無しとするのか?
古墳にも土器にも興味がない。
神功皇后は博多湾岸地域で心からくつろぎ
出産したり兵を集めたりしている。
博多湾岸地域と大和朝廷は深い関係にあったのだろう。
しかし、その勢力は
邪馬台国、卑弥呼の勢力ではない。
934 :
筑紫次郎 :2011/12/07(水) 23:41:40.46
>>932 >じゃ貴方が考えてる「共立」てどんなの?
同一勢力内の権力争いは倭国が統一されてからの話。
四世紀の中北部九州ですら統一されていないのだから
卑弥呼が共立されたとかんがえられる二世紀には当然不統一。
だから
共立したのは国々の王。
>>934 日本建国記念日って2月11日だよね?
この2月11日ていうのは、古代の正月にも当たり、
初代天皇の神武天皇が御即位した日でもある。
で、共立したのは国々の王。ていう根拠は何なんでしょうね?単なる想像?
だって百余国のうち、30余国が通じてたんでしょ。 30余国がなんらかの関係を保っていたとしか考えられないんだけど。
937 :
筑紫次郎 :2011/12/08(木) 00:11:24.40
>>935 で、共立したのは国々の王。ていう根拠は何なんでしょうね?単なる想像?
それを説明するのは場所比定
倭人伝の謎を説明した後になり簡単にはできない。
申し訳無いが畿内説のメちゃんでは
理解する意志もないだろうから説明する意欲がわかない。
悪しからず。
>>937 ほう、貴方、九州説なのか。
ご存じの通り私は畿内説なので、悪く言われるのは仕方ないのかもしれないが、
九州説と言えば、魏志倭人伝の解析が得意なのでしょうね。
そのご自慢の魏志倭人伝の解析てやつを御披露して下さいよww
>>938 ┣¨壺
九州説に乗り込んでそう言う仕切り屋、鍋奉行のような態度は流石に嫌われるんじゃねえのかよ、おい('A`)
>改めドツボ 元九州説ってことは、 過去に畿内説でスタートしてしまい今になって論理破綻して困っている 畿内説学会に今頃になって身を投じたってわけね。ごくろうさん。
942 :
筑紫次郎 :2011/12/08(木) 09:33:15.95
>>938 >ご存じの通り私は畿内説なので、悪く言われるのは仕方ないのかもしれないが、
九州説と言えば、魏志倭人伝の解析が得意なのでしょうね。
そのご自慢の魏志倭人伝の解析てやつを御披露して下さいよww
いや、だからね。
>>937 それを説明するのは場所比定
倭人伝の謎を説明した後になり簡単にはできない。
申し訳無いが畿内説のメちゃんでは
理解する意志もないだろうから説明する意欲がわかない。
悪しからず。
本当にどうしても
真実を知りたいと言われるならば
説明しますがね。
畿内説の人は聞かない方が幸せでいられますよ。
943 :
日本@名無史さん :2011/12/08(木) 12:02:20.82
もったいつける程の話ではないだろう。 九州の中で「倭国乱」があった。戦っていた双方が共に卑弥呼を 立てたってことだ。つまり、北九州諸国と南九州諸国が共に立てたんだよ。
944 :
世捨人 :2011/12/08(木) 12:32:12.78
共立というのは王位継承資格のない者を王に立てるということだ、という論を本かブログで読んだ。 いずれにしても九州か朝鮮南部の話であって、畿内の話ではない。
945 :
筑紫次郎 :2011/12/08(木) 12:48:06.08
>もったいつける程の話ではないだろう。 九州の中で「倭国乱」があった。戦っていた双方が共に卑弥呼を 立てたってことだ。つまり、北九州諸国と南九州諸国が共に立てたんだよ。 根拠を述べないで結論だけで良いのならそれで終わりだ。 しかし 周旋可五千餘里から 南九州は倭国大乱には含まれないし、倭人伝の言う倭国ですらない。
御宣託だけなら畿内説19歳落ちこぼれと同じだよ。
947 :
世捨人 :2011/12/08(木) 13:02:37.26
周旋可五千餘里 五千というのは修辞かもしれない。 旧百余国…使訳通ずる所三十国 この百とか三十というのも修辞だと思うべし。
問題外、基地外。
修辞と言い出すと、世捨人の発言も全部修辞だから、無視して良い。
平松邦夫/民主党 大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ ・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞 ・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派 VS 橋下徹/維新の会 大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫 様子見:公明
951 :
世捨人 :2011/12/08(木) 17:33:39.29
使訳通ずる所三十国 なるほどたしかに三十国の国名が挙げられているのだから、この三十というのは修辞ではないと誰もが思うだろう。 しかし鳥越憲三郎はこれはでたらめで、三十という数字に合わせてでたらめな三十の国名を並べただけだと言った。 鳥越の主張が正しいかどうかは別にして、その可能性を完全に否定することはできないわけである。 とにかく倭人伝をあまり信用しないほうがいい。 記紀を信ぜず倭人伝を信用する。それを自虐史観という。 大和の女王がわざわざ中国まで支援要請に行く。そんなアホなことを信ずるのを自虐史観という。
世捨人の言説は、すべて虚ろな修辞だと、 皆、理解しているから心配するな。
953 :
日本@名無史さん :2011/12/08(木) 20:02:49.91
>>951 その大和の女王というのはモモソのことか?
九州の卑弥呼は中国の文化を盗み取るために、中国を翻弄しただけだよ。
954 :
世捨人 :2011/12/08(木) 21:07:47.36
福岡 148 北九州 97 熊本 74 鹿児島 61 大分 48 長崎 44 宮崎 40 久留米 30 佐世保 26 佐賀 24 九州の主要都市の人口(単位万人)である。福岡が圧倒的に多い。内陸部に投馬国や邪馬台国を求めるのは無理である。 もう、邪馬台国は大和だとあっさり認めた上で、卑弥呼は九州のどこかの国の王だと考えた方がいい。 いちばん合理的な考えは、卑弥呼は朝鮮南部の倭国の王だと認めることである。
× 卑弥呼は朝鮮南部の倭国の王だと認めることである。 ○ 世捨人の判断力などまったくないと認めることである。
956 :
世捨人 :2011/12/08(木) 22:46:06.63
あと九州説の拠り所としては、狗古智卑狗を菊池彦と見なして、狗奴国を熊本に比定することくらいしかない。 そうすると邪馬台国は筑後山門ということになるわけだが、肥後和男という学者が筑後山門を訪ねた感想として、 湿地帯で、邪馬台国があるような場所とは思えなかったという感想を漏らしていた。 山門県の上蜘蛛・田油津姫の伝説や岩戸山古墳のある八女市、久留米市あたりの可能性もあることはあるが。
957 :
USボーカルスクール名古屋校生 :2011/12/08(木) 22:49:26.10
>世捨て人 そんなに自説に自信があるならサガミさんみたいに 自費出版で本でも書いて発表しなってww てか君もそんな馬鹿なこと言ってないで外で遊んでたほうが楽しくていいと思うよw 女とかいないの?
958 :
日本@名無史さん :2011/12/08(木) 23:46:04.71
>>953 その通り。
邪馬台国は茨城県の筑波山にあった。
男体山のほうに弟王が、女体さんのほうに卑弥呼が住んでいて関東平野を統治していた。
越後に上陸して南へ陸行1月。方向も距離も一致します。
959 :
筑紫次郎 :2011/12/09(金) 00:01:49.92
>>956 >肥後和男という学者が筑後山門を訪ねた感想として、
湿地帯で、邪馬台国があるような場所とは思えなかったという感想を漏らしていた。
そんな物はいかなる根拠にもならない。
根拠もない「思えなかったという感想」が事実になるなら何でも事実になってしまう。
>筑後山門を訪ねた感想として、湿地帯で、
当時は湿地帯ではなく筑紫平野が無数の島のある海だる
現在の海岸線から10q以上も離れた内陸部で無数の海生の貝殻が出土する場所もある。
絶在海中洲島之上或絶或連とも一致する。
>邪馬台国があるような場所とは思えなかったという感想
佐賀平野、筑後、八女地区と同様に山門郡〜大牟田、荒尾は
山沿いに遺跡が大密集した人口過密地帯で遺跡も無数にある。
また
筑後山門には神籠石がある。
作られたのは5〜6世紀と言われている。
10q以上も離れた別の山から
最大で畳1枚程度の石を加工して運んで
最高で標高二百bの場所に
約3qに渡って作られた列石である。
2〜3百年後に作られたとは言え
相当な人口の大国があったことを強く示唆している。
960 :
筑紫次郎 :2011/12/09(金) 00:42:29.31
>>956 >あと九州説の拠り所としては、狗古智卑狗を菊池彦と見なして、狗奴国を熊本に比定することくらいしかない。
そうすると邪馬台国は筑後山門ということになるわけだが
それが正解。
水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではなく
勅使が倭へ来た目的を果たすための日数。
唐津から道なり東南37q程度で佐賀大和都渡城(伊都国)
さらに道なり東南6.5q程度で上和泉(奴国の中心地)
さらに道なり7q程度で吉野ヶ里(不弥国)
さらに当時の有明海を挟んで南にほぼ隣接状態、下妻、上妻のある三潴筑後八女(投馬国)
さらに南に隣接してヤマトのなのある山門郡、大牟田、荒尾、玉名(邪馬台国)
さらにその南が狗奴国。
何の問題もない。
961 :
卑弥呼の都は久留米 :2011/12/09(金) 00:52:25.00
>>956 >肥後和男という学者が筑後山門を訪ねた感想として、
>湿地帯で、邪馬台国があるような場所とは思えなかったという感想を漏らしていた。
江戸時代初期でも矢部川から南の筑後山門、海津まで海(潟)だった。
その潟の西側には幾つかの島々があった。
これ等の島々は投馬國の領域。
962 :
891 :2011/12/09(金) 01:41:55.43
教えていただきまして、ありがとうございます。 調べ直したら、宮崎県高千穂町@神殿遺跡からも破片が出ていました。 土地開発が進めば他にも出そうですね。 勉強中なのでROMさせてもらいます。 あと、箸墓などが倭人伝の時代だというのはゴッドハンドでしょw
963 :
日本@名無史さん :2011/12/09(金) 05:50:20.03
倭国乱=山口組VS一和会 のような内ゲバにすぎない
源平合戦も南北朝も戦国時代も内ゲバ 日本史とは内ゲバ史
965 :
日本@名無史さん :
2011/12/09(金) 07:00:17.22 白村江は無視ですか?w