「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓

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159日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:52:22.78
>>158
670年代は遣唐使行っていない
当然、国号変更はその前に伝えている
天智天皇の近江朝の時だ
160日本@名無史さん:2013/12/16(月) 19:07:38.65
【人類】欧州の狩猟採集民と農耕民、2000年にわたって共存か
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1381588164/42,82,84,86-96,98-100,118,127,128,129,131,184,185,188
http://unkar.org/r/scienceplus/1381588164/42,82,84,86-96,98-100,118,127,128,129,131,184,185,188
84 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 13:23:15.56 ID:9gnKO6EO
・「旧唐書」倭国日本伝

「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
あるいはいう、倭国自らその名雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
あるいはいう。日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。」

いや、むしろ
日本(ニホン、ニッポン)の「ホン、ポン」=アイヌ語の「小さい」
であるように思える。


> アイヌ語の「poro」(大きい、という意味)に当て字をしたものです。
> 札幌(サッポロ)は、もともとは「サッポロペッ」と呼ばれる地名で、
> 「sat」(乾いた)「poro」(大きい)「pet」(川)に由来すると考えられています。

> ちなみに「小さい」は「pon」で、漢字になると「本」になることが多いようです。
> 十勝地方にある「本別」という町の名は、この「pon」+前述の「pet」だと考えられています。
161160:2013/12/16(月) 19:08:51.42
101 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 14:57:23.95 ID:Kv2giQO4
>>98-100
日本だけ地理と国号を一緒に使ったってだけの話でしょ
そもそも日本という国家がどこにあったと考えてるのよ?
吉備氏の乱、磐井の乱、武蔵国造の乱を平定して
北九州から関東までを支配している大和朝廷を倒せる勢力が
どこに存在したと考えてるの?
そして、その勢力が大和朝廷を征服したという考古学的な証拠はあるの?

118 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 14:36:43.81 ID:IVkdfzKM

>>101
乙巳の変で覇権を握った天智天皇の地盤じゃないか?

「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1319330023/


127 名前:名無しのひみつ[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 19:03:47.27 ID:hO9ZX/Jp
まほろば=美・幌別<ミホロペッ>=美しい?大きい川のある場所
日本→日・本別<ニポロペッ>〜な小さい川のある場所?

128 名前:修正[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 19:04:43.61 ID:hO9ZX/Jp
日本→日・本別<ニポンペッ>〜な小さい川のある場所?
162日本@名無史さん:2013/12/26(木) 00:33:19.38
>>159
いや、伝えてないだろ
163日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:02:49.24
2014/1/30付
(入門講座)日本古代史への旅(4)天皇号はいつから使われたか 文献・出土史料で諸説 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO66052750Z20C14A1BE0P00/
 わが国で、いつごろから「天皇」という称号が使われたかについては確かな答えがない。
私見では舒明朝
 天武天皇(在位673〜686年)の時代には天皇号があったと見るのが有力だが、使われ始めた時期については、
文献史料によるか出土史料なども考慮に入れるかで見解は分かれる。推古天皇(同593〜628年)にまで
さかのぼるとする説もあるが、私は舒明天皇(同629〜641年)に始まったのではないかと考えている。
 …
164日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:26:16.53
>>163
「舒明天皇に始まった」というその具体的な根拠がわからないから
なんとも反応のしようがないねぇ〜
最近の通説通り天武天皇で何も問題ないような気がするが…
165日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:48:43.29
舒明は義慈元年に倭国に派遣された男らしいよ。
166日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:58:20.09
倭国ってどこ?
167日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:58:15.54
ここだよ。
168日本@名無史さん:2014/04/29(火) 20:45:26.71
どこだよ?
169日本@名無史さん:2014/04/30(水) 00:42:15.75
>>165
おまえの電波説などどうでもいい。

>>166-168
おちぶれたとはいえ仮にも学問板なんだから
白痴がむりして混ざらなくてもいいんだぜ
170日本@名無史さん:2014/04/30(水) 17:08:54.94
ワクワクの国だよ
171日本@名無史さん:2014/05/24(土) 11:33:19.17
>>1の話題、この板でもあんまり盛り上がってないけど、信憑性はどの程度なの?
172日本@名無史さん:2014/06/11(水) 04:25:21.45
当時半島で使われていたのは書き文字は漢字だろ。
ならば漢字(中国語)で考えるのが妥当だろう。
半島は発音と書き文字が違って当然だったことを考えると読み方を腑に落ちんといっても
せん無きことだ。
173日本@名無史さん:2014/06/11(水) 05:08:22.80
半島では蚕室は地名
174日本@名無史さん:2014/06/11(水) 05:14:25.48
>>171 資料は本物だが解析者が新参フーゾクで谷間に埋まる程度
175日本@名無史さん:2014/06/11(水) 07:45:15.71
白村江会戦の後に唐軍が北九州に進駐しています

百済系天皇天智と百済人側近藤鎌足は
奈良盆地の諸豪族に可能な限り情報を与えない為に難波京で唐の使節を押し留めて折衝に当たるが
やがて無条件降伏に近い状況である旨を諸豪族に知られてしまい権威が失墜したので近江京に引き籠もる事になります

その後に本国の騒擾に応じて唐軍が北九州から撤退すると唐推薦の大友皇子を殺害・皇統から抹消する壬申の乱ですから
それまで恨流百済系政権が唐に降伏状態であったのは間違い有りません

扶桑の表記は単に山中の僻地の意であり
地名国名説は日韓何れもの国粋主義者のプライドと願望を利用する少数派支配主義者に依る捏造です
176日本@名無史さん:2014/06/11(水) 08:13:52.87
天智近江京遷都も実は廃皇流刑であったのを後に天武と不比等とが改竄した可能性もあります

  秋の田の刈穂の庵の苫を編らみ
    我が衣手は露に濡れつつ

冬田の歌で無い辺りに恨流を感じる御製ですね

以上
177日本@名無史さん:2014/06/11(水) 08:37:27.39
追記 この後百済JAPANは紆余曲折を経て実質的には応仁の乱まで名実共にには織田信長の足利義昭をの廃職と殿上への出仕まで続く事になります

178日本@名無史さん:2014/06/11(水) 11:06:29.62
安倍比羅夫の墓?
安曇比羅夫の墓?
179日本@名無史さん:2014/06/11(水) 13:46:33.65
>>175-176
おまえの電波説などどうでもいい。邪魔。

>>178
ちゃんと元記事よめ。
180日本@名無史さん:2014/06/11(水) 14:06:33.64
>>159
三国史記の記事は唐書を誤読したものだよ。
天智朝はまだ日本に改名してない。倭から日本への改名は天武。
181日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:03:43.14
養老令では国号については触れてないの?
182日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:09:28.84
>>179 天武帝が法律に明記したのは確かだけど律令(国内向け刑法行政法)でいちいち国号に触れるなんて不自然だと思わないw?
183日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:23:53.66
推古天皇の伝承が書かれてるのは物部氏の拠点、美濃なのに北九州とか不思議だね
184日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:27:35.33
美濃から越に勢力を伸ばしたのが物部系のウマシマジなんでしょ?
185日本@名無史さん:2014/06/11(水) 15:37:26.26
180
その唐書ってのがどうもよく分からねえな
後年、太宰府に勢力持ってたのは大弐氏、少弐氏だろ
征夷大将軍関連でいろんな人の名前がでてくるが
186179:2014/06/13(金) 21:07:16.04
>>182
なんで俺にきいてんのか意味不明だが一応答えると、
律令で国号にわざわざ条文立ててるってのは確かに不自然だしありえない。
それは律令だからではなく、そもそも漢字文化圏の習慣や形式としておかしい。
そこまでわかっていながらお前はなぜ
「天武が法律に明記したのは確か」っていってるの?
なんていう法律に明記したんだ?w
187180:2014/06/13(金) 21:11:29.25
>>185
唐書の何がわからないのよ? 何もわかりいくい話などないけどね
少弐だのなんだの全然ちがう時代の話して、
それで何を喩えているつもりなのかさっぱりわからん
188日本@名無史さん:2014/06/20(金) 10:30:02.78
NHK炭鉱ビデオ金銭ミルクGALコンチネンタル中東パクキン沖縄海焼きそば 西村ニューヨーク反省会ファミレス深夜ランチおしゃべり問題

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189日本@名無史さん:2014/06/22(日) 08:23:23.30
>>142
昔も今も中国のいうことにゃ〜である。
190日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:34:01.42
任那→上羅
百済→下羅
191日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:58:21.29
「扶桑に拠って」
という表現が、扶桑は日本の本領ではないという前提の上になりたっているように見える
そして、そうだとすれば日本が倭を征服したという旧唐書にある説が当てはまる
192日本@名無史さん:2014/09/14(日) 21:36:53.78
誰かここに移住しようよ
煽りや喧嘩がローカルルールで禁止されてるからまったりできるよ
自治もないから新参が叩かれることがまったくないよ
誰でも気楽に書き込みたいことを書き込めるよ
かなり過疎だけどこれから盛り上げていくからみんなで楽しもうよ

トークハウスDICE
http://saikoro6.com/main/
193日本@名無史さん:2014/09/16(火) 10:47:15.39
開皇二十年の600年以前にはもう日本国あっただろ
中国と通師してなかっただけで
女王国から東に水行1000里で岸につく狗奴国
名前が雅ではないので改名した
狗奴国が西から東なのか
東から西なのか解らないが
日国から日本国に変わっただろう事は想像付く
194日本@名無史さん:2014/09/17(水) 03:43:28.25
>>193
まったく何の証拠もない妄想だけで作ったおまえの珍説などどうでもいい
195日本@名無史さん:2014/09/17(水) 15:42:27.39
>>190
日本と扶桑が別扱いになってるのはわかるが
墓誌だと唐に叩かれた日本が扶桑に引っ込んでるんだから扶桑が東で日本が西。
唐書は「日辺にあるをもって日本と称す」だから日本は倭国よりさらに東にある
ように書かれている。
墓誌の日本と唐書の日本は別物だろう。位置関係を図解すると

A案)west←「日本」←「扶桑(=?)倭国」→「日本」→east

B案)west←倭国(墓誌の日本)←→扶桑(唐書の日本)→east

扶桑と倭国の位置関係は諸説あるがこの場合たぶん同一国で
A案が正しいだろう。B案は論理上は構想できるがたぶんハズレ
196日本@名無史さん:2014/09/17(水) 18:35:53.12
任那日本府の実在が証明されたのか!
197日本@名無史さん:2014/09/18(木) 18:17:09.07
>>196
証明されたも糞も「無い無い」いってるの朝鮮人だけだろ
実在を前提に実態の詳細について意見が割れてるんであって
198日本@名無史さん:2014/09/29(月) 02:42:33.17
「日本餘焦、拠扶桑、以逋誅」の解読だけど
もし「白村江で敗れた倭国が半島から撤退して列島内に引っ込んでる」って意味なら
日本は国名(政治勢力の名)で扶桑が地名(日本列島をさす)ことになるね
199日本@名無史さん:2014/09/29(月) 03:11:35.39
>>195
梁書の地理観による限り、扶桑と倭国を比べると
倭国が西側で扶桑が東側にこないとおかしい。
B案も保留しとく価値がある
200日本@名無史さん:2014/09/29(月) 03:43:06.93
>>198
扶桑は白村江で失った「任那」地域の意味と思われ。
白村江の戦いの後に、日本人の捕虜の返還の交渉が繰り返されて、任那地域で
その交渉が行われていたと考えられる。

日本は捕虜を返してもらう代わりに、各種の品々を持って行ったことが記録に残っている。
捕虜1人ごとに交換するものが決められていたようで、数値が細かく出ている。
「以逋誅」は、日本軍の捕虜を解放してもらったことを意味すると思われ。

「餘焦」は日本に逃げ込んだ亡命百済人を意味すると思われ。
扶余はちょっと特殊で、高麗系の文化が半島の先端にポツンと存在していた。
日本が扶余(百済人)を引き取って、扶桑(任那地域)で交渉をして、捕虜返還の交渉を
していたという意味だろう。

もともと百済は半島に拠点を気付くために、漢王朝が外様の高麗人を連れて行って、
そこに据えたという経緯から、百済が滅んだ時に王族は半島から追い出されたんだろう。
201日本@名無史さん:2014/09/29(月) 04:35:08.94
白村江の会戦の後には唐は北九州に進駐して関門海峡を封鎖し京に行政官を送り弘文天皇を傀儡として即位させてまでいるのに何で扶桑=日本列島に籠もって戦えるんだ阿呆

扶桑は単に朝鮮半島の山間部を指しているに過ぎない

日本の残党の日本はヤマトを乗っ取って実権を握っていた百済系渡来人グループを指しており故にヤマトを百済乃至唐と同等の体裁を持った文明国とは認めない旨の蔑称として文中用いられただけ
202日本@名無史さん:2014/09/29(月) 04:52:41.95
>>43辺り 百済(ペクチェ)は半島南侵の際に序盤にクダ羅(クダラ)の実権を握ると対南にはクダラを名乗り続け対北にはペクチェを名乗り続けて外交に際して硬軟を使い分けていた

新羅(シルラ)は日本に逃れて来た亡命百済人が酒を呑んでは「シルラギヨ〜シルラギヨ〜(新羅鬼め〜新羅鬼の奴等め〜)」と管を巻いていたので日本語のみにてシラギになった
203日本@名無史さん:2014/09/29(月) 05:05:50.79
>>78 古新羅の方が日本人に近いんだがw

新羅は高句麗百済南侵以前の環日本海小国家群の内としての古きから存在しており人種的には北方系だった様子だがその当時は政治的文化的には出雲の仲間だった

韓国人は大国スケールの国から話を始めようとしたがる余りなのか李氏朝鮮の呪いなのか国祖を高句麗百済に求めようとしがちだが同時に大陸の諸部族との差異の源を新羅千年王国に求めようとしているので頭の中がグチャグチャになっている
204日本@名無史さん:2014/09/29(月) 05:36:32.92
日本余=日本(ヤマト)の余客である百済王族

扶桑=東日本の未開地

と読む事もできるがいずれにせよ扶桑は単に山間部を指す比喩の一般名詞で地名では無い
205日本@名無史さん:2014/09/29(月) 05:45:16.52
百済は白村江の会戦より以前に半島に於いては国が滅亡しており唐から見れば百済王族は白村江の会戦時点で既に日本の余客と見做されていたと見る事もできるが
日本余はやはり半島に於ける百済ヤマト連合重来軍の残党と見るのが妥当では無いか
206日本@名無史さん:2014/09/29(月) 10:25:27.04
那(ナ)=南方系稲作倭人
羅(ラ)=北方系狩猟倭人(背は高かったが便宜的に)

だったんじゃないかなー
207日本@名無史さん:2014/09/29(月) 10:33:40.57
ラナよりナラの方が好戦的でより強い飛蝗意思を保っていた場留守!(C)LIVED
208日本@名無史さん
倭国が正式に日本に改名したのはいつかという問題をとりあえず脇にどけといて
正式な改名以前に、倭国の雅称・別名として
「日本」だの「扶桑」だのいったことはありうると思うんだよね
でも最初から使い分けがあったわけではなくて、もとは漠然と倭国をさしてたろう
墓誌の文面では明らかに使い分けてるがこれも漢文修飾上の便宜的な使い分け。
素で書くと「倭国が倭国に引っ込んでる」ってへんな文になるから。
国家名と地名を別々に表わすために雅称を便宜的に借用してるわけだよ
だからこの部分は「日本餘焦、拠扶桑、以逋誅」と書こうが
「扶桑餘焦、拠日本、以逋誅」と書こうがどっちでも同じ意味。