【初心者】スレッド立てる前に質問をPart28【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
テンプレはお願いします。
上級者の定義を教えてくらはい
中級者向けはどこですか?
丁度
>>5のスレで邪馬台国の話が出ていたので質問させてください。
邪馬台国論争は、今は畿内説が有力なようですが、どの程度北九州説より有力になっているんでしょうか?北九州説もまだまだ強いように思いますが。
また、神護寺の伝源頼朝像については、足利直義像説とどちらが有力なのでしょうか?
もはや大半の考古学者が畿内説支持になり、
九州説を支持する考古学者は片手で数えられるほど減った。
のではなかったかな。
文献研究は既に下火なので、考古学の動向が大きく影響するようになってきてるなかで、
九州説の考古学者が減ってるということ自体、九州説の劣勢を物語っている。
江戸時代には荻生徂徠は有名人だったらしいけど
古義学ってどのくらい一般に広まってたの?
11 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:34:39.15
考古学界で九州説が減ってるのはわかるんですけど
いわゆる自虐史観とか非皇国史観の人たちはなんでまだ九州説を信じてるんですかね?
畿内説=皇国史観なんですか?
12 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 07:57:32.29
>>11 畿内説=皇国史観だと言う主張は九州説の人が畿内説を非難して
言い始めたんじゃなかったかな
今の天皇家以外が日本を統治した過去はない=卑弥呼は天皇家の先祖一族
ということにしたいがために無理矢理出したのが畿内説だという意味で
しかし現在の研究者が畿内説を支持する理由は考古学的成果
(弥生時代の大規模遺跡が畿内で見つかる)が最大の理由
畿内説を支持する研究者の中でも邪馬台国=大和王権と考える人もいれば
王朝交代があったとみる人もいて意見は様々
畿内説=皇国史観とは言い難い
>>12 考古学と関係ない日本史の学者は九州説支持してる人が多いんでいつも不思議に思ってました。
納得できました。ありがとうございます。
もともと九州説の方が皇国史観と親和的。
畿内説だと、「古代の天皇が中国王朝に朝貢した」と確定するが、
九州説だと「中国に朝貢したのは、当時の九州にあった辺境王朝」となり、
日本の天皇は中国に朝貢などしていない、と言い張ることが可能になる。
邪馬台国九州説が出現した当時には、復古的趣味の大元とも言える国学者が説の中心だったしな。
そういう来歴もあって、戦前には、
東大の学者が九州説、京大では畿内説が有力だったぐらい。
武士の名乗り方の変化ですが。
鎌倉時代だとホントの官位を名乗ったり、「三郎」「四郎五郎」なんて
出自に基づいて名乗ってるけど、室町後期からかな?
適当な勝手名乗りを始めるようになったのは。
なんで名乗りが変化したんでしょうか?
朱子学があんまり流行ってない現代では孟子の位置づけってどんな感じ?
日常的には空気。
中世の武士道の話で
だれもいないときはあやしてるのに女房や妻が近づくと
強い武士になれるか見ているのだ、とか答えたのってどの話か知ってる?
知ってる?
非常に大雑把な質問で恐縮なのですが、
日本史の中で「水神」として祀られている武将や公家といった方はいらっしゃるでしょうか?
「神」として祀られているだけならかなり多くの人物が該当すると思いますが、
「水神」と限定すればどうなるでしょうか。
天災の多い日本では、
治水や農耕に絡んで「水神」様もかなり重要な神仏であると思いますが、
「水神」としての特性を持たされた人物がいれば教えてください。
21 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 09:29:25.36
乳母がわかりません
なぜ乳母になるのですか?お乳を出す以上、生まれたばかりの自分の子がいるのでしょう
乳母の本当の子はお乳を与えられずに死んでしまうのですか?
>>21 昔は、高貴な女性は自ら育児をするものではなかった、そういう文化だったのです
そのために乳母が必要でした
乳母というのは、乳児の頃に母乳を与えるだけの存在ではなく、幼少期の(時として成人するまでの)養育係でもあります
だからこそ、乳母に育てられた子と乳母やその一族との間には、現代人の我々が思う以上に、強い家族的な絆があるのです
足利義政と今参局、徳川家光と春日局、源頼家と比企一族など、乳母やその一族を重用した権力者は少なくありません
乳母自身の子は、乳母が一緒に育てます
そのように一緒に育てられた乳母の子のことを乳兄弟(ちきょうだい)といいます
同じ釜の飯を食った仲どころか、同じ乳を吸った仲であり、権力者の子が物心ついた頃に最初に出会う年齢の近い遊び相手
であるわけで、成長後は、実の兄弟同様、あるいは実の兄弟以上に重用されました
23 :
21:2011/10/24(月) 10:14:06.81
>>22 よくわかりました ありがとうございました
駿河大納言様や秀頼公を見ると、あの時代母親が自分で育てて甘やかすとろくなことにならねえって感じがするな。
そういえば、この二人従兄弟同士か。
そもそもお市の教育が悪かったか?
忠長については、家光の側の者が記録を残しているわけで、忠長の乱行とされる行為は
話半分ぐらいに見るべきだろう
たとえば、神社に保護されていた猿を狩ったことが忠長の悪行の一つとされているが、
農村に被害をもたらす害獣だったから駆除しただけだという説もある
>>24 忠長も秀頼も乳母が育てんだが・・・
茶々が秀頼を母乳で育てた事実はあったが江は確認できない
江も茶々も世継ぎの母となった
その重責から盲目になっただけだろ
嫡男は大勢の守役や乳母を付けられ母親から隔離されて育つため
母親が守役に取られた兄を疎んじ手元に置いた弟を可愛がるというのは
織田信長母、伊達政宗母などにも例がある
27 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:21:52.98
後醍醐天皇は政治理念しかない人だと思うんだけど
足利尊氏は反対に政治理念がまったく無い人なのかな?
何となく尊氏にそれがないせいでグダグダになってる感じがするんだけど
戦には勝ちまくってるのに
まあ普通に考えたら
グレるだろ、忠長
>>27 中世の社会は、既得権とか人脈、地縁などが重要視される社会で、
政治理念とかはむしろ異端。
あの時代の為政者としては尊氏の方が正常型に近く、
後醍醐天皇は生まれる時代を間違えたと言っていいほどの特殊な人物だ。
あまりにも時代を間違えすぎたせいで、追従できる人がほとんど居なかった。
ただ、尊氏を裏で支えて幕府開設まで事態を動かした直義も、
あの時代としては珍しい、理念先行の人物っぽい。
(その影響もあってか、戦場ではあまり活躍がない気がするが)
ってか尊氏って理念もないけど政治能力というがガバナンスがなくね?
政治は弟と家臣に丸投げじゃん
江戸時代の学者で、無茶苦茶父親が嫌いで
父親が死んだ時にやったーって喜んだ人がいたと思うんですけど
誰でしたっけ?
江戸時代には寺子屋で論語孟子学んだらしいけど
五経はあんまりそれに比べて重要視されなかったの?
江戸時代の儒学者って四書五経暗記してる?
儒学者は暗記してるだろうけど、寺子屋で論語はやらないんじゃなかろうか。「読み書き算盤」だよ。
戦国時代板のスレタイそのままなんですが、足利将軍家はなぜ娘を使った政略結婚をしなかったんでしょう?
当時だと細川家などもそういった戦略を採っていません。
また、天皇家の皇女が結婚しない例が多かった時代もありましたが、それと似たような理由でしょうか?
このスレはage進行なのに何故みんなsageるんですか。
ルールは守るべきではにでしょうか?
>>34 足利将軍家も細川京兆家も政略結婚を利用していると思うけど。
近隣の有力大名家に娘を嫁がせてますよ。
足利義晴は若狭武田、細川政元は姉を赤松、澄元や晴元の娘も北畠・山名・畠山など。
戦国後期の場合は、対象となる女性がいない(義輝以降は短命)とか、彼らの勢力・権威が衰えてしまったから
相手側にメリットが少なくなったからではないでしょうか。
>>36 回答ありがとう。
それ以前についてはどう思われますか?
義満とか義持、義教あたりはあまり印象にないんですが。
政元の姉は、出家していた政元姉を還俗させての結婚でしたよね。こちらは政元の異母姉(側室の子?)にあたるので、尼にさせられていたのかもしれないですが、やっぱり少ない印象です。
側室の子をかなり出家させていたから持ち駒が少なかったのかな。
38 :
質問:2011/11/03(木) 18:53:52.25
大和朝廷が仏教を受入れたのは、中央集権化に利用できるから、だそうですね
仏教のどういった部分が、中央集権化につながったのでしょうか?
>>38 質問の前提となる「仏教受け入れは中央集権化のため」が違うかもしれないですね。
>>38 そうだな。前提が間違ってるように思われる。
41 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 23:39:08.34
キリスト教はいずれおこる世界最終戦争時にキリストが復活して信者を天国に導いてくれる。
ユダヤもイスラムも同じ
仏教は厳しい修行すれば死んだあと極楽浄土に行ける
これはわかります。
では神道は神を信じたら具体的にどういういい事がおこるのでしょうか?
>>41 宗教についての質問ならば「カテゴリー歴史」で聞くよりも
「カテゴリー宗教」分野の方が適しているかもしれません。
キリスト教は世界最後の日に「俺を崇めた奴の中から幾許かを救ってやるよ」という宗教
仏教の一部には「善人が救われるのは当然のことであり悪人こそ救ってなんぼ」という派もある
原始神道には終末思想がない
>>41 世界史板のなんでも質問スレで間違ってると指摘したのに改めないとは?
あんた、莫迦??
>>41&43
日本史と無関係な質問を意図的に繰り返すのは荒らし行為です。
>>37 天皇家は内親王に釣り合う家柄の男性が限られる→
皇族や摂家に嫁ぐのでなければ寺に入り出家という流れだったように思いますが
足利将軍家も京に幕府を置いたことからかなり第二の天皇家を意識した面はあると思います
足利義政と日野富子の間に生まれた正室腹の娘すら出家させてますからね
それから洛中における仏教勢力はかなり強かったので
そこの門主を子息や娘で抑えるというのは大変意味のあることでした
将軍足利義教なども青蓮院に入り比叡山天台座主だったのを還俗させてます
>>46 御免なさい。非難するつもりはないのですが意味がわからないです。
一行目ですが「天皇家は内親王に釣り合う家柄の男性が限られる」
主語が二つです、(天皇は)(〜男性が)
それとも(男性が)→(男性と)(男性に)なのでしょうか。
二行目(多分皇族女子の身の振り方かなと思うのですが)、
最後の「思います」が三行目の「足利〜思います」に繋がっていないので文意が分かりません。
五行目、六行目は分かりますが、それを以って七行目に入ると義教なども仏教勢力の門主を還俗させ子息等に迎えたのかなと考えてしまいます。
「天台座主だったのを」が「〜だった人物を」なら迷わないのですが、
「義教が出家した後還俗させられた」とも読み取れるので意味が分からなくなってしまいます。
いくつか質問を
1、伸展葬が出現した背景には稲作の伝来によって本格化した生産経済があるのでしょうか?
縄文人には飢餓線という年輪のようなものがあったといいます。
それは当時の人間が一年の自然環境の変化によって摂取できる食べ物の量が大きく変わっていたことを示しているのだと思います。
そのような中で人間が自然や霊的なもの対して恐れをなすのは当然のことに思えます。死者を屈葬したのも死者の霊への恐れだと言われています。
そこに稲作という自然に人の手を加えることで多くの食料を得ることができる技術伝来し、比較的安定した生活を送れるようになったならその恐れも薄らぐでしょう。
その結果として屈葬が伸展葬に変わったのではないでしょうか?
また、マツリゴトの語源となったといわれるマツリが行われていたことが青銅器などからわかるのは、
人間が自然や霊的なものを恐れる立場から、その力を積極的に利用しようとする立場へと変化したことを表しているように思えます。
2、縄文土器から弥生土器へと変化したきっかけは稲作でしょうか?
弥生式土器の注目すべき点は使用目的によって形状が変化したことにあるらしいですが、そこで例に出されるのは甑や高杯などどれも食に関係した物のようです。
これは稲作の伝来が画期になったことを示しているのではないでしょうか?逆にいえば稲作伝来しなければ弥生土器は生まれないことになりますが
稲作が伝わらなかった北海道では続縄文文化が発展したり、稲作伝来直後は土器がすぐには変化せず、従ってしばらくは縄文土器が使われ土器を基準に時代を考えると縄文時代晩期となるのは自然なことに思えます。
はたして、この考えは正しいのでしょうか?
以上ゆとり浪人生が教科書読んでて勝手に思ったことです。半分くらい独学なので的外れなこと言ってるかもしれませんが、現在専門家の間ではどのような見方が一般的なのですか?
>>48 浪人生ですか。受験勉強頑張って下さい。
国語力は大事です。伝える力を養ってください。
>>47 46じゃないけど書き直してみました。
>天皇家の一員である内親王は釣り合う家柄の男性が限られる→
>皇族や摂家に嫁ぐのでなければ寺に入り出家という流れだったように思いますが、
>足利将軍家も京に幕府を置いたことから、娘の扱いに関して天皇家を意識した面はあると思います。
>足利義政と日野富子の間に生まれた正室腹の娘すら出家させてますからね。
>それから洛中における仏教勢力はかなり強かったので、
>子息や娘を出家させてそこの門主に据えるというのは大変意味のあることでした。
>足利義教なども、青蓮院に入り比叡山天台座主になっていたのを還俗させられて将軍になっています。
>>47 横レスだけど、
足利義教を含め、義満の子供の多くは出家していた。
出家してなかったのは義持(4代将軍)と義嗣ぐらいじゃないかな。
で、5代義量の没後、将軍空位のまま政治を行っていた義持が死ぬと、
義持の弟(故人である義嗣を除いて、全員が出家済み)のなかから次の将軍を選ぶことになった。
で、弟たちの中で最高齢である義教が、結果的に次期将軍に選ばれ
当時は天台座主だった彼を還俗させることになり、還俗後に足利義教という名前になったんだよ。
だから、「義教が出家した後還俗させられた」と読むのが正しい。
将軍になってから出家したのではないので、順番にだけは注意。
幼少期に出家してから青年期に還俗し将軍就任。
>>49 >2、縄文土器から弥生土器へと変化したきっかけは稲作でしょうか?
新しい土器技術を持った人間集団の移住による新技術の持ち込みだと思う。
技術体系としてまったく異なっているんじゃなかったかな。
技術的な断絶がある一方で、文化的には断絶してはいないはずで、文化的連続性は、ある。
土器の用途別多様化は、
土器の数的拡充があって、より多くの局面で用いる事が可能になったという事情もあるんじゃなかろうか。
従来よりも壊れにくく長持ちするようになったという面も無関係ではないのでは?
また、より薄手に作れるようになって軽量化や熱伝導などの理由で従来には土器を用いることができなかった新しい使い道が生まれたとも思える。
稲作自体は主たる要因ではないと思うよ。
1.人が人である限り闇を恐れることからは逃れられない
これは人種・宗教・時代に左右されない
2.縄文末期の土器と弥生初期の土器に明瞭な差異はない
53 :
46:2011/11/04(金) 18:16:29.87
>>47 書き直してみます。
内親王は釣り合う身分の男が限られるので
ふさわしい男がいなければ出家しました。
足利将軍家の女子もこれに似たことがあったということです。
洛中における仏教勢力は非常に強いものでした。
そこで天皇家や将軍家では娘や息子を
有力寺社の門跡として入れて仏教勢力を味方につけようとしたのです。
固有名詞を入れると難しい文章になったみたいですね。
言いたかったのはこれだけです。
ここで質問するのが正しいのかどうかわからないのだが、
役という言葉に公務員や地位という意味、役人、役職なんかの意味をもたせるようになったのは、
受領やその下働きを現地で採用したからだろうか?
それとも、防人などの軍役労役賦役などから転じていったのだろうか?
役人の語源が知りたいです。
>>48 >人間が自然や霊的なものを恐れる立場から、その力を積極的に利用しようとする立場へと変化した
それ以前は祀らなかったとでも思ってるんですか?自然や霊的なものを恐れ、鎮めるのが元々のマツリでしょう。
縄文時代と青銅器が入って以降とでどれだけ違っているのか(あるいは変わってないのか)判ったものでは有りません。
俺も全くの素人だけど。
>>50-51>>53 ありがとう。質問者(
>>37他)です。
いえ、
>>46でも充分分かりましたよ。宗教界を味方につけたかったというのは考えたこともなかったです。
ありがとうございました。
足利氏歴代将軍のうちで、
比叡山に対して最も強権的・高圧的に接したのが、
ほかならぬ義教(もと天台座主)ってのは、皮肉なのか必然なのか。
日本は唐に支配されたという説をネット上で見かけたんですが、
最近、こういう学説も学界で出されているんでしょうか?
世の中には数多くの与太話がある。
おおかた、通説に圧されて死にかけの九州王朝説が起死回生を掛けてぶちまけた与太。
奈良の大仏に水銀が使われていて、水銀が蒸発したために、都を遷したってのは
与太話なのかマジ説なのか教えてもらいたいんですけど
日本は古代大韓帝国の一部だったって書いてある教科書なら
読んだことはあるが
水銀と金のアマルガムが液体になることを利用して
大仏を金メッキ仕様にするために用いられたんだよね
塗った瞬間に蒸発するもんだから多くの仏師が水銀中毒に悩まされただろうね
だが、それが遷都の理由かというと、別問題だな
水銀蒸気が平城京全体に健康被害を与えうるほどの濃度で拡散したとは考えにくいな
妙薬として直接経口していた奴らの方がやばくねぃ
67 :
58:2011/11/07(月) 07:45:51.33
>>59 どうもありがとうございました。
そのような説を唱えている論者は、資治通鑑に唐が日本を
支配したと書かれていると主張していたんですが、昔から
読み継がれている資治通鑑にそのような記述があれば
既に気づいている人がいるはずだと思ってたんで、奇妙に
思っていました。
ありがとうございました。
68 :
38:2011/11/07(月) 19:01:56.70
>>39>>40 ありがとうございます
前提が間違っていましたか
見ている日本史の本に書いてあり、納得できなくて質問しました
>>60 それについては白須賀公平(東京大学環境安全センター)という
応用化学が専門の理系の教授による論文があるらしい。
ただし、当時の人がそれを認識していてそのために遷都したかというと疑問。
本当に酷い水銀中毒が続出したのならば東大寺の高僧なんか逃げ出しそうだし。
>>49 国語は一番苦手ですね。基本数学勝負です。現役の頃、数学は上位0.5%には入ってました。
無論国語もがんばりますが…
>>51 >技術的な断絶がある一方で(ry
52で指摘されている通り、最近は共に轆轤不使用、野焼きなど余り差が無いので弥生時代を土器で定義しないみたいですね
山川詳説日本史研究にも書いてありました。勘違いしてました。
耐久性、軽量化や熱伝導ですか、詳しくは知らないのでなんとも言えませんがそれもあるかもしれませんね
>>52 >人が人である限り闇を恐れることからは逃れられない
夜になると闇が視界を遮り人間を無力化します。 しかし、人間は光を手に入れ闇に抵抗しました。
それどころか、夜にまで活動時間を広げていきました。人間は人智で一見、抗えない物を掌握し利用したのです。
でも、その人智の結晶たる科学技術も過信は危険だと震災後よく思うようになりました。
なぜ、山川の教科書が最終段落全で現在形を使い科学技術の信頼に対する再検討が大きな課題だと言っているのか よく考えて見たいと思います。
>>55 祀っているだけでは利用してるとは思いません。
縄文時代の呪術的なものは土偶にしろ石棒にしろ神秘的なものを象徴化しています。しかし、青銅器の祭器はすべて人工物です。
大陸の影響があったにせよ、大きな思想の変化は否定できないと思います。もし思想が変わらなかったなら銅棒でも作ったのではないでしょうか
まぁ想像に過ぎないと言われればそこまでですが。
71 :
名無し募集中。。。:2011/11/08(火) 17:57:10.98
江戸っ子が
宵越しの銭はもたねえ
とうそぶいていたのは
日雇いで働いてたからですか?
72 :
日本@名無史さん:2011/11/08(火) 19:32:42.11
>>71 それもありますし、私有財産を殆ど持っていなかったからです
働ける限りは日銭が入ってきます
>>71 >>72さんの意見を否定する意図はありません。
その他の意見としてですが、
「宵越しの銭はもたねえ」
この価値観が江戸期の江戸町民達一般を表象しているとは限らないのではないでしょうか。
一部の人の価値観が印象的であるが為に全体にあてはめられているとも思われます。
江戸に於いては金銭による物流が存在しています。職に対しての報酬が金銭であれば其れは財へとなるのではとも考えられます。
定住と定職、それを得た人が長期的には江戸の住民の核となるでしょう。
「江戸っ子」とはスラムの住民ではなく賃借家屋や長屋下宿の人々だとすれば多くの人々は定職を持ち蓄財もあったのかもしれません。
>>73 江戸は火事が名物ってくらいに多いから家財が有っても燃えてしまう。長屋が簡素な作りなのも燃える事を
前提にしている。そういう訳で蓄財は無いのが普通。技術が有れば日銭を稼ぐくらいの仕事は必ず有るので
蓄えが無くても大丈夫。商人とかはそういう訳にはいかないけど。
壱与の名前は壱与説と台与説のどっちが有力なの?
有力な理由は何?
>>71-73 貧乏人が強がりや見栄で言ってたって面もあるだろうね
もともとたいして稼ぎもないのに、稼いでいるんだけどその日のうちに使ってるからないだけだ、と
>>74 健康な人なら毎日稼げるだろうけど、蓄えゼロだと病気の時や老後はどうするんだろうね
男性過多の江戸では独身男性も多いから、老後は子供に世話してもらうってわけにいかない男も
少なくなかったはず
>>76 そこんところは俺も知らないから疑問では有るが、たぶん五人組とか町名主とか共同体が
何とかするんじゃなかろうか。これが田舎だと後家の嫁入り先とかも名主が世話する訳だから。
>>71 ・江戸は火事が多いので私有財産を所有してもすぐに焼失してしまう
・江戸は地方から出てきた農家の二男三男が多く圧倒的な男あまり
多くの男性は独身で家族を扶養していなかった
・医療が発達していない江戸時代は体が弱れば案外簡単に死に
働けなくなってからも長生きする(老後)ことを考えなかった
現代人がとにかく貯蓄に走るのは老後が不安だからです。
また大商人などで妻や身請けした妾を大勢所有し、生涯養っていく必要があり、
幼い子供を大勢もっていたのならば貯蓄も必要だったでしょう。
現代人も老後の不安がなく扶養家族もいないならばこういう考えの人は結構出てきそうです。
財産が焼失するから蓄えないって、おかしくない?
貨幣は、火災で避難する時に持ち出すのにそんなにかさばるものでもない
(銅銭は、穴を紐でくくっておけばいい。かさばる小判は、庶民は持っていないか、
持っていたとしてもほんの数枚程度だろう)
持ち出せなかったとしても、普通の火事の火力程度なら溶けたりしないだろうから
盗まれさえしなければ後で回収もできる
むしろ火事に備えてこそ、貨幣の形で財産を蓄えるべきでしょ
>>79 現在でもそうだが、最大の財産は家だよ
家が燃えてしまったら現在でも多額の負債が残るだけ
しかも江戸時代に火災保険はない
また自衛手段として町内ごとに戸を作り番人を置いたほど窃盗も多かった
火事になれば焼け跡からあらゆるものが盗み出されてしまう
現在ほど治安も良くなかったんだよ
>>80 だったらなおさら、家自体には金をかけず、その分、貨幣で蓄財しておいて、火災の時には
それ持って逃げるべきだろ
家は持っいけないが、貨幣は避難する時、持っていける
冠位十二階や十七条憲法が隋との対等外交を成立させるための準備、と指摘した人って誰がいましたっけ?
以前本か論文かで読んだことがあるんですが、誰の指摘か忘れてしまいましてorz
83 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 17:47:12.19
打出浜の戦いで敗れた尊氏が戦後すぐの段階でも強い発言力を保っていたのはなぜ?
>>81 野宿生活して貨幣だけ持ってろってかw
雨露凌げる家を所有すればそれなりに金はかかるよ
そして雇われ町人がそれほど大金持ちなはずもない
家がどれくらいの値段がするのか分からない人?
85 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 18:01:28.88
>>83 足利直義が排除を求めたのはあくまでも高師直であって
尊氏を敵としていなかったからでは?
直義は師直だけを排除して尊氏のナンバー2を目指した
>>85 それでも主導権握ってるのはなんとも…
普通なら傀儡にされてもおかしくないと思うんだけど
今テレビでジョン万次郎の特集してますけど
ジョン万次郎が帰国した当時、すでに日本には英語が話せる武士が何人もいたので
万次郎が明治維新に与えた影響は全くないと聞いたことがありますが、本当ですか?
89 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 22:27:07.41
はるか昔の900年代末期は今でも「末法思想」が流行し、世が乱れたと記憶され、
1000年以上経た現代でも歴史の授業で習います。
バブル崩壊後のこの20年ほどは「失われた20年」とか「閉塞感」に支配されているとか、
「平成不況」と言われていますが、かなり後世にまで伝えられることになるでしょうか?
また、100年以上後の歴史の授業でも習うようになるでしょうか?
90 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 22:31:00.11
国王が統治する国は王国、天皇や皇帝が統治する国は帝国と言われますが、
戦前の日本は王国ではなく帝国でした。
つまり、天皇は国王よりも皇帝に近いと言うことですよね?
国王と皇帝の相違をわかりやすく教えてください
>>89 今の授業で神武景気とか岩戸景気とかたいしてやらない程度にしかやらんでしょう。
>>90 日本の場合は特殊で、言ったもん勝ちという程度の意味しかない。つまり自称に過ぎない。
歴史的には「諸王の王」が皇帝。つまり諸王の上に君臨するのが皇帝。
93 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 22:54:04.69
>>91 サンクスです
つまり、日本史として俯瞰的に捉えた場合、平安時代の一時期の
末法思想が流行した頃の方がはるかに意味がある、と言うことですか?
>>90 天皇はkingではなくemperorだと自称したことがおそらくは大きいのだろうけど、
「多くの民族を束ねる帝国」という体裁を、名目的ではあるのだろうけども、作ろうとしてはいたはず。
つまり、帝国という名目に実態を合わせようという努力も、おこなってはいた。
>>93 末法思想は、けっこう長期にわたって続いたんじゃなかったっけ。
思想というか世相だが。
>バブル崩壊後のこの20年ほどは「失われた20年」とか「閉塞感」に支配されているとか、「平成不況」と
は短期間過ぎるからなあ。
ただ、1929年の世界恐慌の影響による、1930年代の説明と同程度には教えられることになる可能性がある。
え? その時代の授業を受けた記憶がない、だと?
>>93 今の世相が画期となって、末法思想が浄土系の仏教や浄土庭園を生んだような影響を残せば
習うようになるかもしれんけどね。
>88
オランダ語を話す人達は沢山いたけど、
英語を話せる人は余りいなかったから、ペリー提督との通訳に抜擢されて重宝したのでは?
しかも、黒船の乗組員の中には、万次郎の滞米時の時の商船学校時の同窓生が居たから、交渉もやり易かったらしい
>末法思想
中世以降の日本では末法思想を、この世の終わりとする終末論的なものであると捉えることも多い。
しかし末法思想はあくまでも仏法の衰退、つまり仏の教えが時代を経て次第に通用しなくなる事のみを指しており、そこに世情不安や天変地異は含まれない。
したがって末法思想は「この世の終わり」を意味するものではない。
ペリーは蘭語の通訳も連れて来ている
この世の終わりでは無いが法が失われるので、世が乱れるのも間違いではないと思われる。
>>96 万次郎の知人もいたのか、それは初耳だ。
交渉の話以外に昔話もしたんだろうか?
世情不安や天変地異は含まれない
101 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 08:30:57.87
>>90 中国の近隣にとって、皇帝は中国のトップを意味し、国王は中国に帰順した支配者、つまり皇帝認可の支配者を指す言葉だった
日本は中国の属国になることを拒み、王よりも皇帝よりも上を意味する天皇という称号を使った
……と誰かが言っていた
>>90 春秋時代の頃は『天に二日なく、地に二王なし』という言葉があったくらいで周のみが王を名乗っていたが、
春秋時代の後期から戦国時代にかけて諸国の君主が王を名乗るようになり、王の価値が相対的に低下した。
なので始皇帝は新たに『皇帝』という称号を作ってそれを名乗り、秦を倒した漢も皇帝を名乗り、
さらに郡国制を敷いて王を任命するようになった。この流れで皇帝>王というのが確定した。
そして、皇帝=天子(天から、世界を統治するように命じられた者)であり、皇帝は一人というのがタテマエだった。
だから、聖徳太子が『日出ずるところの”天子”、日没するところの”天子”に〜』と書を送ったのに煬帝が怒ったのは、
辺境の小国の君主が中国と同じ”天子”という称号を名乗ったから。
その後の遣隋使・遣唐使の間は、日本は”すめらみこと”を漢字表記した称号を名乗り、
中国の返書は日本国王すめらみことに〜となっていた。
が、日本の遣隋使や遣唐使はその国書は『賊に襲われました』『新羅に奪われました』『航海中に無くしました』
などとした。国書を紛失など本来は一大事だが、中国からの国書はそうやって曖昧にしておくのが慣例だった。
明治維新後は日本の元首は天皇となり、称号も天皇で統一された。
それで天皇の名で朝鮮に国書を持って行ったら
「”皇”とか”勅”とかは中国以外が使ってはならないのでこの国書は受け取れません!」と拒否された。
日清戦争後、朝鮮が中国から正式に独立すると、国号を大韓帝国に変え、君主の称号も皇帝に変えることで
中国からの独立を示した。まぁその十数年後に日本に併合されるけど。
歴史においては、皇帝という称号は中国の皇帝とローマ帝国の皇帝、およびそれと同等のものに使うけど、
イスラームの君主に関しては”カリフ””スルタン”をそのまま使うのが慣例。
ローマ帝国系は西ローマ→フランク→神聖ローマ→ドイツ/オーストリア・ハンガリーと、
東ローマ→ビザンツ→ロシア。あとこれらとは別にナポレオン。あとはインドなんかは皇帝と呼んだりもする。
外交儀礼上ではペルシャのシャーも皇帝扱いだった(イスラム革命で消滅)
ただし日本語表記では帝王とされた
天皇がemperorとされたのは自称ではなく他称の面が大きい
明治政府が当初推していた天皇の外国表記はmikadoだった
ヨーロッパ表記は他称なんだろうけど、漢字表記は『天皇』とすることに
あまり議論はなかったように記憶してるが、違ったか?
歴史の教科書で本文に載せるほどではないが、それなりに意味のあることを
欄外のところにコラム風に載せてありました
今から50年後くらいの歴史の教科書で欄外のコラム風に載るであろう平成の
事柄といえば何が思い浮かびますか?
そりゃ平成7年(1995年)だべさ
阪神大震災、オウム事件、ネット元年(windows95発売)、もんじゅ事故とか
妙に密度が濃く、後世の何事かを予感させる年であったよ
>>94 横から失礼しますが、
>「多くの民族を束ねる帝国」
とのことですが、百余国に分かれいた国をひとつの国にまとめたという意味では
日本もその時から帝国だったとは言えないでしょうか
>>105>>106 阪神淡路大震災やオウム事件は、本文に載りそうな気もするなぁ
コラムに載るぐらいの事件では、平成12年、藤村新一の石器捏造発覚なんてどうだ?
109 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 23:37:24.31
>>107 百余国と言ってもいわゆる国家では無くて、クニとカタカナ書きで注記するような都市国家以前のレベルのものであって、
それを一つにまとめてやっと王国のレベルです。
阪神淡路大震災より東日本大震災と事後の悪影響じゃねぃ
教科書の本文にのるのは
三内丸山遺跡で発見された版築や「内転び」技法は従来6世紀末に中国から伝わった技法と言われていた我が国の建築史を大きくぬりかえた
青森から北陸に見られる大型掘立柱建物跡や翡翠の分布域の偏りからも環日本海文化圏の存在は自明
何十年前の教科書観か知らんが歳幾つなんだ>110
そもそも、国家という定義づけ自体が難しいぞ。
古代史・中世史でには近代国民国家は存在しなかったと言う理由が、同研究者の間で「国家」という言葉を忌避して「王権」と表現する一因になっている。
>>90 「大英帝国」のように統治するのは「国王(キング)」「女王(クイーン)」であっても
国号を帝国としている国は存在した
つまり日本も大英帝国のような多くの植民地を持つ国を目指して
明治時代にそれまでの国号「日本」から「大日本帝国」に改めたのだろう
日本が「天皇」号を始めたのは天武朝と言われるがその後も
中国からの国書の号では「日本国王」であり格は王であった。
江戸時代の日本では対外文書で将軍がエンペラー、天皇がローマ字のミカドだったこともあり、
エンペラーが統治するから帝国だというわけではない。
>>115 英国自体は「キングダム」だよ(正確にはユナイテッド・キングダム、連合王国)
比喩的にはともかく、正式な国号で「エンパイア」を称したことは一度もない
ただ、ヴィクトリア女王個人が、ムガール帝国滅亡後のインドの女帝も兼ねることによって
「エンペラー」も称していたから、日本語訳では大英王国ではなく大英帝国としたんだろう
>>116 日本の国号も英語で「エンパイア」だったことは一度もないよ
日本が大日本帝国だった時代にも英訳は「ジャパン」だけだった
ちなみに日本語での国号が「帝国」だった時代があるのはイギリスと日本だけ
日本がイギリスを意識していたことは間違いがない
ちなみに皇帝がいる時代の中国すら日本は王朝名の「清(王朝)」で呼んでおり
皇帝統治の中国国号が日本で帝国と訳されたことは一度もない
>>107 >百余国に分かれいた国をひとつの国にまとめたという意味では
>日本もその時から帝国だったとは言えないでしょうか
おそらく、だが、その時代、つまり「五王」時代末期頃から、おおよそ平安初期ぐらいまでの期間に関しては、
「帝国」の体裁を整えようという努力があったみたいだね。
その後、平安中期までに、「帝国」という体裁をとる努力を放棄した。
そこから明治初期までは、「帝国」と呼べるような実態はない。
>>110 実質としては単なる王国だけど、自称として帝国を名乗ろうという努力を行ってはいる、はず。
その延長上に、「東の帝国=日いずるところの天子」とか「天皇」の語句が出現するんだろう。
>>116 え? ヴィクトリア女王だけだったっけ?
>>118 >>110さんの言うように実際問題として現代でいう「帝国」と言えるシロモノだったかどうかはともかく、
「帝国」のようなものを一応は整えようとしていたわけですね。
五王時代や平安時代に「帝国」という言葉も概念もなかったでしょうし、
当時で言うところの「天下」、「天の下」などがおよそ今で言うところの「帝国」だったのでしょうか。
>>105へのレス、ありがとうございました
ちなみに、欄外のところに偉人先人たちの言葉が
紹介されたりしてる場合があります。
板垣退助「板垣死すとも自由は死なず」とか
犬養毅「話せばわかる」とか
明智光秀「敵は本能寺にあり」とか
吉田茂「ばかやろ」とか・・
そんな感じで昭和末期〜平成の時代で
後世に残るような言葉って何か思い浮かびますか?
「自民党をぶっ壊す」とか「日本列島は日本人だけのものじゃない」とか
「痛みに耐えてよく優勝した、感動した」とか「日本は天皇を中心とした神の国」とか
その他諸々・・どうでしょうか?
日本は日本人だけのものじゃない
?
「やるっきゃない。」と言って何も出来なかった土井たか子。
東国原の「宮崎をどげんかせんといかん」
125 :
日本@名無史さん:2011/11/13(日) 08:52:53.80
「日本列島は日本人だけのものではありません」
いろんな意味を含めて、この言葉は後世に語り継がれるような気もするね
>>123 拉致被害者家族情報を
事前に北朝鮮に渡すということが「できました」
日本の歴代の皇后陛下の中では、現皇后陛下たる美智子さまは
初の民間出身ということもあり、ミッチーブームもあり、
最大級のビックネームとして後世に語り継がれるような気がしますが、
実際どうなんでしょうか?
後世において、この平成という時代がどういう位置づけになるのかって事に
興味があります。
日本史として、昭和以上の位置づけになることはないでしょうが、
それなりに重要な位置づけになるでしょうか?
それとも、大正のような感じで比較的マイナーな位置づけになるのでしょうか?
2度の大震災、原発事故、オウム事件、人口減少社会の到来、長期不況の時代、
自殺大国化、など、それなりに大きな要素は多いですよね
内親王について質問です。
親王の場合、国司や八省などに任官されたようですが、
内親王は何かしらの官職に任官されることはなかったのでしょうか。
131 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 07:10:20.62
大和政権って4世紀中ごろには日本を統一し終えて初めて朝鮮に進出したものだと思っていましたが
そうではないのですか?
5世紀になっても大和政権は九州と戦争をしたりしていますよね
それとも4世紀には日本統一に成功していたけど、各地に一部の反乱分子があっただけ
と言う程度の事なのでしょうか?
>>130 斎宮、斎院は?
厳密には官職じゃないかも知れないですが。
>>127 美智子さん本人が何か大きなことをしたわけでなく
民間人という定義も微妙ですので
教科書に載るような有名人にはならないでしょう
大仏造営協力、悲田院・施薬院設立の光明皇后や
日本赤十字設立、学習院女子部設立の昭憲皇太后のようには
取り扱われないということです
>>131 日本統一って言っても、4〜5世紀だと、九州南部は異民族の土地みたいなもの
九州北部にしても、6世紀の筑紫磐井の乱が示すように、在地豪族が強力だったと考えられる
>>130 律令制度のもとでも家庭に入っていた女性は多いですからね。
貴族の男子はすべて任官しますが(任官できない男子は出家)
貴族の女子はそうではなかったように内親王も女性ですので
基本的には任官しませんでした。
ただし、臣籍降下して女官になる女性はいましたね。
嵯峨天皇の皇女たちの中には源姓を受けて女官になる人が結構いました。
内親王の中には天皇、斎宮、斎院になる人もいましたが一部にとどまりました。
>>132 >>135 ありがとうございます。
やはり叙品されることはあっても任官されることはあまりなかったのですね。
殊に、斎院は承久の乱の頃に、斎宮は後醍醐天皇の頃になくなってしまったようですし、
それ以降、室町、江戸時代で内親王が臣籍降下せずに官職かそれに準ずるようなものに任官することは
天皇に即位でもしない限り殆ど無かったのですね。
>>131 とは言っても、
磐井の鎮圧に向かった上毛君(だっけ?)が、
「一緒に朝廷で働いた、もと同僚じゃないか。」と呼びかけたと書き記されて入るわけで、
少なくとも敵国とか外国というわけではなかったはず。
ただ、朝廷の支配と言えるほどには強く服従していなかっただけで。
統一と呼べるかどうかが微妙な程度には独立性がある地方豪族達が、
大和朝廷の元に、緩やかに連合してまとまってたんじゃないかな。
4世紀と比べて中央集権化が進んでいく飛鳥時代になっても、
地方豪族の一部は朝廷で大きな役割を担うことがあって、
地方豪族と中央豪族の境目が微妙だったりする。
吉備や紀伊の地方豪族なんかが、奈良時代になっても朝廷で一定の活動をしているし。
>>131 東北が支配下に入ったと言えるのは平安時代の田村麻呂の時になるけど、そっちは無視ですか?
>>137 >磐井の鎮圧に向かった上毛君(だっけ?)が
それは上毛野君じゃないのか。でもググったら近江毛野と出たぞ。
139 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 08:18:57.68
>>134 ありがとうございます
もう一つ質問させて下さい
倭の五王って大和政権の天皇を指すものではないのですか?
五王の血族である毛野はストレートに天皇になれませんでしたよね
奈良に入るまで割りと不遇な扱いを受けていませんでしたか
五王は大和政権の王ではないから血族が天皇になれる訳ではないのか、とか
五王毛野一族の権威はいつしか失墜したのか
とか色々考えてみたのですが、正解を教えて下さい
>>131 4世紀の日本だと東は関東、北は北陸、西は北九州、
南は四国あたりまでが大和王権の勢力範囲
大和王権は豊臣秀吉のように日本統一を果たして征服する土地がなくなったから
朝鮮へ進出したというよりも朝鮮に任那と呼ばれる日本人居住区や
百済という同盟国があり救援のために要請されて出兵したんじゃなかったか
別に朝鮮を切り取って倭国にするという目的ではなかったっぽい
毛野ってのは継体天皇の事です
>>139 その辺の時代については文献史料が乏しく、諸説ありますね
倭の五王は、少なくとも最後の倭王武がワカタケル大王、すなわち雄略天皇であることが、稲荷山古墳出土
金錯銘鉄剣の銘文から確実となっています
継体天皇については、王朝交代説をとる人もいますし、日本書紀の記述を信じるとしても「応神天皇の5世の孫」
ですから、それまでの王との血縁やつきあいはかなり薄かったはずです(あなたは、5代遡れば自分のひいひい
ひい祖父さんにたどり着くという親戚を、どれだけ知っていますか?)
実質的に北陸の豪族化して中央の豪族との交流がほとんどなかった家の出身者なのです
それを、大臣の大伴金村が引っ張り出して大和の大王につけたのですから、反発も大きかった、といったところ
ではないでしょうか
とはいえ、最初に言ったように、文献が乏しいので、結局、日本書紀をもとにあれこれ推測することしかできず、
正確なところは誰にもわかりません
文献の信憑性と考古学的な史料の付き合わせで埋まらない部分や食い違いを完全に整合するのは無理だろうなぁ
>>138-140 ちょっ、上毛野君は継体天皇の家臣じゃん。
継体天皇は、オホド王だろう。
それと、天皇(というか、当時は大王だが)と血縁があるといっても、
既に分家筋というより遠縁扱いになってただろうし。
王族ではあっても、地方豪族の元に養子入りしていった古い親戚の子孫だろう。
とはいえ、直系相続制度が固まる前だったとも言われているし、
ストレートに即位できなかったからではなくて要地要地を押さえ、固めていきながら、
王権伸張を図っていただけという可能性もある。
要するに、文献だけでは状況を知ることが困難な程度には、解釈の余地が大きいわけだ。
想定しうる範囲が広すぎる。
>>144 上毛野も皇別扱いだったはず
継体は息長氏だけどね
なんか変な歴史観に染まった人同士が演じている感じの流れ。
宗教の人かな?生長?
後世において、平成史の中で大きく取り上げられているであろう順番は
どうなっていると思いますか? 大きいと思われる順に並べてください
@阪神大震災
A東日本題震災
B福島原発事故
Cオウム真理教事件
D小泉構造改革
E政権交代
Fリーマンショック
G戦後最長の好景気
Hデフレ・円高不況
148 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:19:39.70
原発、911、オウム、地震群、小泉の順ぐらいかな。
地震については、東北や神戸など各地で大規模な震災が起こった、という形だと思う。
新潟や北海道でも大きな地震があるし、海外でも大地震がいくつも起こってる。トルコにスマトラに...
小泉、政権交替、リーマン等は、少し時代が空けば取り上げられなくなる可能性もある。
>>148 ありがとうございます
しかし、この2011年は1995年と同等もしくはそれ以上の重大事案が
多い歴史に残る1年になりそうですね
この1年だけで東日本大震災、原発事故、ビンラディン暗殺、史上最大の円高、
人口減少、アラブの春(中東民主化の流れ)、どれもビックニュースですよね
ところで、構造改革は江戸時代の享保、寛政、天保の改革のように
後世には残らないのでしょうか?
日本の労働市場破壊を含め、功罪ともに影響はでかいと思ってるのですが・・
また、リーマンショックはかつての昭和恐慌やブラックマンデーレベルには
ならないでしょうか?
小泉改革は教科書に載るとしても郵政民営化で選挙圧勝ぐらいかなあ
派遣解禁で労働市場に影響とはいっても日本人正社員がいなくなったわけじゃなし
2ちゃんねるで騒いでるほど大きな影響は出ていない
竹下登の消費税導入のほうが影響が大きい気も
オウムは教科書に載っても欄外じゃないか
それより北朝鮮拉致事件のほうが扱いが大きそう
151 :
38:2011/11/16(水) 12:53:16.57
くどいのは承知で質問します
大和朝廷が仏教を受容れた理由は何ですか?
仏教と共に伝わってくる技術や知識が、目的のひとつになっているのはわかります
けれど、国として認可する必要はないですよね
それと、自らを神格化した皇族にとっては、異教を受容れることは自己否定なのではないかと
そこが腑に落ちないのです
>>151 >国として認可
仏教を「国教(日本国の宗教として信仰する)」とした事実はないです
当初は崇仏派の蘇我氏に対して本人の勝手で個人的に崇拝することを認め
その後蘇我氏を外戚とする天皇や皇族たちが個人的に崇拝しました
後の時代になると天皇が国家財産で寺を建てたり自分も出家して
僧籍に入ったりしましたがあくまでも仏教を崇拝するかは個人の判断でした
>自らを神格化した皇族
天皇が神格化するのは天武天皇の頃だと言われています
それでも神と仏は並立するものだとされていました
天皇は現人神ではあるけれども日本神話の神々たちがそうであるように
悩みがあり病気で苦しむのです
それを救ってくれるのが仏教の菩薩であり如来なのであって
天武天皇自身も寺を建立しています
歴史に詳しい方、
>>128に対する所感を聞かせてください
>>128 マイナーな位置づけに一票。
本当に色々あるけど、
2度の(北海道も含めると3度?)大震災は江戸後期の飢饉と同じような扱い、原発は欄外にチラ、程度(政府の発表だと大したことないわけだし)、
オウムはグリコ事件と同程度、人口減少社会は、それに伴う弊害(年金が支給されないとか)が出てはじめて教科書に載る、
長期不況は大々的に教科書にも載るだろうし、これが一番大きい話題だと思う。
自殺については、自己責任、で片付けられてしまうから話題にすらならない。
とにかく昭和が大きすぎるから反動で大したことないように見えてしまうと思う。
藤原不比等とか、源頼家、足利義詮、徳川秀忠みたいな2代め感がある。
過去がどう評価されるかは、評価する未来側の世相や背景に影響されやすく、近い時代の評価だと、さらにその傾向が強まります。
これは「未来はどんな世の中ですか?」と聞いてるのようなもので、誰にもわかるわけがないです。
重要云々は、当然重要な位置づけになります。
歴史に「重要じゃない時代」は存在しないし、「それなりに重要な時代」なんてものもありません。
そもそも
>>128は、主観による印象と歴史的評価をごっちゃにしてませんか?
正直なところ、
>>128で聞いてる内容は 「平成は、後世に目立つ時代ですか?」 程度の意味しかないでしょう。
大正期の印象がマイナーなのは同意しますが、それは歴史上での重要度の低さを表しません。
平成は、今のままなら、あまりパッとしない時代と語られるかもですが、後世への影響度合いは未知数です。
また、大きな事件や事故の例を並べても、それは事件・事故の記憶であって、時代そのものの評価とはあまり関係ありません。
>>153 「古代」は原始〜平安時代の数万年、「中世」は鎌倉〜室町の約500年、近世は安土桃山〜江戸時代の400年という
長いスパンですからね。
どの時点で平成の世を振り返る想定なのかわかりませんが、100年200年たってしまえば遠い昔のことです。
「平安時代はどんな時代だったか」と聞かれることはあっても「長保ってどんな時代?」
「仁和ってどんな時代?」と元号単位で狭い範囲の歴史を詳しくやることはないです。
明治以降がひとくくりの「東京時代」であり、平成という年号の出来事としては「低成長時代」の一言かもしれないし。
157 :
151:2011/11/17(木) 12:41:39.84
>>152 だいぶ納得できました
ありがとうございます
>>152 横から失礼します。
仏教を国家が管理していた時代に勝手に一般民衆に仏教を広めようとしたために行基は罰せられた
というようなことを聞いたことがあります。
また、僧正、僧都、律師といった国家が決めた僧侶の位があります。
このようなことから仏教に対し公的な管理があったように思うのですが、
「国として認可」と上記のような公的な管理とどのような違いがあるのでしょうか。
>>158 僧侶の管理をするようになったのは律令国家になってから(「僧尼令」)。
律令国家では基本となる租税を徴収する百姓の離散を防ぐ必要があった。
そのために百姓が勝手に僧を自称し他人からモノを恵んでもらって生活しないように
国として僧侶を認定する必要があったんだよ。
僧尼令は乞食防止のために作られた令であって、
国家が仏教を管理するために作られたものではないんだよ。
>>159 ありがとうございます。
仏教の管理ではなく、あくまで僧侶の監督のためで、
また宗教的な理由ではなく、徴税策だったんですね。
>>128へのレス、ありがとうございます
いろんな意見や解釈が聞けて幸いです
やはり、歴史というのは語れる学問ですね
現在に近い時代に関しては過小評価する面と過大評価する面の
両面があると思いますし、冷静かつ公平な判断をすることは
至難の業だと思いますが、いろいろと自分なりに考えてみたり、
他人の意見や解釈を聞くのは楽しいです
またいろいろと意見や解釈を聞かせてください
>>160 現代でも宗教法人は優遇されてるように当時は仏僧には税がかからないから勝手に出家する私度僧が
多かったらしい。それを禁止した。
同時に奈良の大仏で有名な聖武天皇は疫病や災害に悩み、仏教の力で災厄を防ぎ国を繁栄させる
鎮護国家の思想を採用して東大寺と国分寺を建てた。この頃になると国家仏教の面もある。
163 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:41:52.81
新潟県の偉人といえば上杉謙信と田中角栄が思い浮かびます
時代背景が全然違うけど、むりやり比較して考えたら
やはり田中角栄が格上ということになるでしょうか?
164 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:50:47.84
↑一応根拠としては、上杉謙信は越後の国の領主に留まったけど、
田中角栄は総理大臣(日本のトップ)にまで登りつめた
また、上杉謙信はもともと守護職であり、高い地位にあったが
田中角栄は貧乏人で小卒の学歴から総理大臣にまでなったから
上杉謙信のほうが人格者だったとは思うけど
てめえの日記帳じゃねえんだから、近代史板でやってくれや。板違いだろうが。
>>165 なんか質問者も回答者も同一人物っぽいよな
同じ幅、同じ間隔、同じタイムラグでスレが動いている。
168 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 04:02:36.55
大老は、同じ大名の老中に対して、官名を呼び捨てに出来るほどの権威があると聞きましたが、その権威は将軍が与えたものですか?それとも、大老が威厳を示すために勝手に呼び捨てにしたのでしょうか。
169 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 10:08:53.55
大老は就任すると多くの場合左中将程度に官位が昇進するようです。
大名は皆横並び一列なのではなく大老は特に官位が高いので
他の老中たちよりも上位に君臨したのでは?
また、大老は家康側近であった井伊家と酒井家の歴代当主から任命される例が圧倒的に多く
横並び一列の譜代大名の中から能力次第で任命されるというよりも
ある意味家康時代の功績にならった世襲の一面もありました(すべてではないですが)。
170 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 11:49:24.77
三条天皇の諱「居貞」は、「おきさだ」と「いやさだ」のどちらが正しいのでしょうか。
本や辞典によってバラバラのようなのですが。
171 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 12:00:04.31
>>170 当時天皇の諱を発音することはほとんどなく、記録にも残らないため不明です。
また、当時の人ですら天皇の諱の読みをほとんど知らなかったということです。
平安時代、後一条天皇の諱敦成の読みを貴族たちが「あつなり」と読んでいたところ
母上東門院が「私はあつひらだと聞いている」と言ったという記録もあります。
決定的な当時の史料が出てこない限り、不明だとしか言いようがありません。
>>169 詳しいご説明ありがとうございました。
ほぼ限られた譜代しか大老になれない時点で、家格も違うということですね。
173 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 17:00:34.62
>>171 なるほど。ありがとうございます。
しかし辞典の巻末の歴代天皇の一覧などに出ている諱を見ると、
漢字表記からは一見想像しにくい読み方が載っている天皇がかなりいるように思います。
戦国以降は特にそういう天皇が多い印象がありますが、古い時代でも、
例えば醍醐天皇の「敦仁(あつぎみ)」とか、堀河天皇の「善仁(たるひと)」なんかは、
ちょっと漢字表記だけからは想像しにくいように思います。
こうした天皇の場合、諱の読みについての何らかの記録があるというわけではないのでしょうか?
174 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 17:50:51.91
>>173 醍醐天皇や堀河天皇の諱の読みを掲載した同時代史料はないようです。
つまり、現代の研究者が想像して読み仮名を振っているということです。
敦仁には「あつひと」という読み仮名を振っている学者や本もあります。
どちらが間違いかということは現状判断できません。
明子(あきらけいこ:藤原良房の娘で文徳天皇女御)や高子(たかいこ:基経の妹で清和天皇女御)
みたいな、現代では考えられない読みがあるから定子(ていし)とか彰子(しょうし)とかの
読み方が分からない女性は有職読みするわけですが、
天皇の諱を有職読みしてはいけないのでしょうか?
176 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 18:29:28.86
>>175 現状、多くの場合平安時代の男性の名を訓読みして女性の名を音読みしているのは
「慣例」としかいいようがないですね。
平安時代の女性の中にも近衛天皇后の藤原多子のように「まさるこ」と
当時の公家の日記から名前の読み方が明らかな人もいます。
しかし、多子も一般的な歴史書では音読みの「たし」と記されていますよね。
慣例的にそのように呼ばれているということです。
177 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 19:47:51.99
>>174 しかし史料的根拠が全くないのだとしたら、
あえてあまり一般的ではない訓を現代の研究者が想定するのはなぜなのでしょうか?
また「成」の字が「ひら」か「なり」かということでいえば、
後鳥羽天皇の「尊成(たかひら)」と順徳天皇の「守成(もりなり)」などは、
親子なのに同じ字の読みが違う(これはほとんどの本・辞典でそうなっている)けど、
これも史料的根拠は全くないのに、なぜかこう読ませる研究者が多いということ?
178 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 19:57:22.06
>>175 個人的には明子や高子のような形容詞+子の女性名は、
「〜いこ」ではなく「〜きこ」が正しいような気がします。
例えば藤原良相の娘で文徳天皇の女御になった「多賀幾子」という名前の人がいます。
この場合は(万葉読みということになりますが)、
「たかきこ」とは読めても「たかいこ」とは読めませんし。
そう考えると、明子や高子の場合も、
音便化させずに「あきらけきこ」「たかきこ」のほうがよいような。
179 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:08:48.88
>>177 あなたがどの「人名事典」を参考になさっているのか知りませんが、
一度出版社に問い合わせては?
後鳥羽天皇や順徳天皇の諱も別の読み方をしている本は複数あります。
あなたの手元にある本がなぜそのような読み方をしているかというのは
編者の意向かと思われます。
つまりは、同時代の史料にそのような振り仮名がついているというわけでは
ないからです。
180 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:10:47.02
181 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:23:01.25
>>178 それならなぜ同時代の明子や高子を万葉仮名表記しなかったかだな。
多賀幾子は特に変わった名前だったから漢字を当てようがなく
万葉仮名表記になった可能性もある。
182 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:26:16.84
人名の表記については、平安初期(9世紀)は過渡期的な時代だからな。
男性の人名でも、万葉読み的な名前と中近世の諱的な名前が混在しているし。
あと「〜い」か「〜き」かに関していえば、日本語史的な観点も必要。
9世紀段階の日本語に、既に音便化という現象が普通にあったのか、ということとも関わってくる。
183 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:36:27.64
つうか天皇や皇太子なんかの名前だと、命名の際の宣命なんかが史料として残ることも多い。
一風変わった諱の読みが伝わっているケースの大半は、そうしたものに依拠しているはず。
184 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 03:45:00.64
藤原多賀幾子について、これが特に変わった名前というが、当時の女性人名だと、
藤原多美子(多賀幾子の妹で清和の女御)
藤原佳珠子(基経の娘で清和の女御)
橘嘉智子(嵯峨の皇后)
なんかの名前も、「1文字が1音ずつの音読み+子」になっているわけで、
こういうのも多賀幾子と同様の万葉仮名表記的な名前といえるよ。
185 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 11:32:41.46
>>183 江戸時代ぐらいになると有識読みが史料に残っている。
だけど平安時代では残らない。
漢字重視で読みはあまり重視してなかったからな。
藤原頼長も養女多子の諱を決める際、
「后妃の名は口に出して呼ぶことがないために
読み名をあえて定めないものが多いが
今回は特別に読みを決めるものである」としている。
186 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 11:37:58.22
>>184 そのあたりは過渡期なんじゃないか。
平安時代中期、醍醐天皇ぐらいになってくると
后妃や内親王たちの名前はすべて○子に統一されてくる。
一条天皇の頃、源氏物語の時代までには貴族女性は諱で呼ばれることがなくなり、
(女一宮、女二宮や、三の君、四の君といった呼び名がされる)
諱は官位を受ける際の記録に用いられるのみになる。
読みよりも漢字が重視されている。
187 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 11:53:35.66
万葉読み云々の話が出ているが、それなら嵯峨天皇の諱なんかは、
「賀美能」と「神野」という2通りの漢字表記が伝わっている。
いずれも「かみの」と読むこと自体は間違いないだろうが、前者は明らかな万葉読み。
188 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 16:12:48.36
>>184 その人らの名前も
藤原民子(多賀幾子の妹で清和の女御)
藤原数子(基経の娘で清和の女御)
橘勝子(嵯峨の皇后)
でもいいわけだからな。
>>178 「高子」は「たかきこ」のように当時の女性は皆「き」を入れて読むのが一般的だった
いうのならばもっと例が必要じゃないか?
「弥須幾子(やすきこ=安子・保子・康子など)」とか
「与幾子(よきこ=良子・芳子など)」みたいな例が見当たらない。
「き」を入れた読みが多賀幾子一件だけしか見当たらないのは不思議だということ。
江戸時代の大名も、後になると難解な字や読み方を使った例が増えてきて、
要は天下泰平で暇になって、余計な頭を使うようになったんだと評した人がいた。
現代でも、第三者には読めない名前(当て字でもなく、字のイメージから読むとか頓知みたいな読みをするとか)つける人もいるので、
一つの例を持ってきて、それが当時の主流だったというのも無理があるかも。
教授達から予想して早稲田日本史入試問題の傾向わかる人いる?
191 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 19:19:19.79
>>188 つうか
>>178の言わんとするところは、「き」を入れることが一般的だったのかということよりも、「い」を入れる名前に根拠があるのか、ということのような気がするが。
実際には「たかいこ」「あきらけいこ」みたいな名前も、一部の研究者が勝手に読んでいるだけで、そう読む保証はないんじゃないの?
それに形容詞+子の女性名に「い」を入れて読んでいる万葉仮名表記も見たことがないし。
あと
>>182のいう通り9世紀段階の日本語で形容詞の連体形の音便化が既に起こっていたとも考えにくい。
そういう意味では、形容詞+子の名前に、「い」を入れる万葉仮名表記の実例の有無はわからないが、「き」を入れる万葉仮名表記の実例は、少なくとも一つはあることになる。
192 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:18:10.04
「たかいこ」や「あきらけいこ」の読みは、おそらく角田さんか橋本さん
あたりが言い始めたものだったと思いますが、そのように読む史料的根拠は
特に示されていなかったように思いますよ。
>>190 受験板で聞いたほうがいいでしょう。
なお早稲田の入試は、各学部ごとに完全に別々に作問をしているので、
学部を明示しないと、ちゃんとした答えは得られないでしょうが。
>>193 かつての「宮中某重大事件」みたいな感じで後世に伝えられるかもね
福井のど田舎からやって来た天皇と同じで、天皇家の歴史が終わるから、それに関連して語られるだろうな。
カルト宗教系の右翼は天皇をテーマにして街宣車での迷惑行為や掲示板アラシをするから嫌われる
皇国史観なんて押し付けられても日本の学界では異端なんだし受験にも使えない
それなのに何故カルト宗教は皇国史観を押し付けるのでしょうか
>>196 右の人の言動が気になるってのは、君自身が左がかりすぎているからじゃないの?
>>191 むしろ、「たかいこ」読みも「たかきこ」読みも結局のところ「多賀幾子」という
人名(4文字名「畿」を「き」とよむか「い」と読むかの違い)から来ているように思うが。
しかし、古代〜平安時代初期までの「こ」で終わる女性名を見てみると、
蘇我刀自古(とじこ)、車持与志古(よしこ)、
橘嘉智子(かちこ)、藤原賀登子(かとこ)のように
ほとんどが3文字名であることがわかる。
この時代のもっとも用例の多い女性名は3文字であったことを考えれば
「高子(たかこ)」「明子(あきこ)」表記のほうがまだましだ。
一つしか例がない多賀幾子を持ってきて
これが最も一般的な名だったとするのは厳しい。
多賀幾子が特殊な名前であるといったのはそういう意味。
よく天皇は権力者にとって都合のいい神輿だとか言うけど、かつて当時の大権力者だった
山県有朋が皇太子(後の昭和天皇)の縁談に難癖をつけて破談させようと暗躍したけど、
結局失敗してそのまま失脚していった。
そう考えると天皇(皇族)というのは単なる神輿じゃなくて、やはりいろんな意味で
強い存在なんだな〜と思ったけど、みなさんはどう思われますか?
>>196-197 横レスだが、
「新右翼」と呼ばれるグループの主張は、旧右翼(とは呼ばれません、念のため)と違って、
狂った主張内容が少ないので好感が持てるよ。
それに、(旧)右系団体の大半は、
サヨクと呼ばれる(呼ばれた)「活動」団体の主張より酷く狂っているというわけではなく、
せいぜい五十歩百歩ぐらい。
ただまあ、サヨク団体はオブラートの使い方がうまかった。
>「新右翼」と呼ばれるグループの主張は、旧右翼(とは呼ばれません、念のため)と違って、
>狂った主張内容が少ないので好感が持てるよ。
核武装中立論とか
十分アホ過ぎるけど?
>>199 御輿だからこそ、権力者がわざわざ、その縁談に介入して破談させようとしたり、
その破談させようとする暗躍を別の勢力が潰したりするんじゃないか
203 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 01:48:11.72
>>198 「幾」は「き」とは読めても「い」とは読めないでしょ。
また古代日本語の特徴として、単語の語頭以外にはア行音は原則来ないはずだし。
「多賀幾子」の名前から「〜いこ」という読みが想定されるという流れはよくわからん。
>>192 角田文衛さんと橋本義彦さんでしょうか?
本当に「〜いこ」について何の根拠も示されていないのでしょうか。
204 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 08:35:07.99
>>203 「イ音便」参照。
「たかきこ」と書いていても実際読むときには「たかいこ」だったとする説。
高き山→高い山と変化したのと同様。
平安時代初期にイ音便化していたかどうかが問題なだけ。
4文字名がこの時代に最も一般的だったとは言えない。
205 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 08:38:10.72
>>203 現代でも「私は」とかいて実際の発音は「わたしわ」と読むみたいに、
書き言葉は話し言葉よりも後まで古い言葉が残る。
(昔は文字通り「わたしは」と発音していた)
だから書き言葉と話し言葉が常に同じだとは限らない。
206 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 09:24:03.16
>>204 言語学の立場からいえば、平安初期(9世紀)にイ音便化はまずないというのは常識だと思う。
さらにいえば形容詞連体形の語尾のイ音便化の発生は、
四段動詞連用形の音便化や形容詞連用形のウ音便化と比べても、時期的には下るはず。
というか9世紀段階だと、まだ上代特殊仮名遣いが完全に消滅していない時期なわけで、
この段階で音便化が既に普通におこる状況だと想定するのは無理があるでしょう。
まあ確かに平安初期に音便化が絶対にあり得ないとはいわないが、音便化と
いう現象が顕著になるのは基本は中世以降だろう
また音便は、ハ行転呼音によるア行・ハ行・ワ行の表記上の混乱と違って、
実際の発音が音便化している場合には基本発音通りに表記される傾向が強い
もの
さらにこうした発音変化は、日常生活でよく使われる口語的な単語ほど
顕著に起こるもので、逆に改まった語では起こりにくい
例えば中世以前の和歌では音便化は起こり得ないという事実もあるし、
人名(とくに当時その名前で呼ばれるようなことは滅多になかったはずの
貴人の諱)なんかも同様だろう
>>205 「は」「へ」「を」の助詞を発音通り「わ」「え」「お」と書かないのは、
確かに古い発音の名残ではあるけど、現代国語で「わ」「え」「お」は
ダメで「は」「へ」「を」が正しい仮名遣いとされているのは、古い発音に
依拠しているというより、日本語を文字化する場合の正書法・文法上で
そうしておいたほうが便利かつ整合性がとれるから、そう決まっている
という面のほうが大きい
ハ行転呼音問題が発生する平安後期から中世・近世にかけての仮名書きの
文献では、これらの助詞を含むア行・ハ行・ワ行の音は表記上はかなり
ゴチャゴチャになっている
ただ近代以降に国家によっていわゆる歴史的仮名遣いが制定された結果、
改めて「は」「へ」「を」が正しい日本語表記として教育現場などに
周知徹底され、現代仮名遣いにも引き継がれたことにより、日本人の誰もが
これらの助詞を「は」「へ」「を」で書くようになったというのが実情
209 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 12:03:53.68
>>207 >実際の発音が音便化している場合には基本発音通りに表記される傾向が強い
>もの
というか“仮名遣い”のような概念が発達する以前は、基本的に発音が変化したら、
仮名表記も実際の発音通りに変化するものだよ。
発音上は音便化しているのに表記上はそれを反映しない形にするなんてことを、
明確なルールもないのに誰もが当たり前にできることのほうが想定しにくい。
むしろ実際の発音通りに書かれるからこそ、そこから日本語の発音の時代的な変遷が、
現代の研究者によって学問的に追えるわけで。
>>204-207 私があのレスで言いたかったのは、平安初期に音便化があったのか、とか
仮名4文字の女性名が当時一般的だったのか、ということではないです。
そもそも音便化のような発音変化は、文字表記上に変化が現れなければ現代人には判らないこと。
当時の人の言葉を直接聞いた人が現代にいるわけではないからね。
「多賀幾子」は万葉仮名の表記からすれば明らか「たかきこ」であり「たかいこ」ではない。
これを、「文字表記には現れてないが音便化していたに違いない」
と根拠なく勝手に解釈することが妥当とは思えない。
少なくとも文字史料上の表記は「多賀幾子」=「たかきこ」。
音便化していたという確証がない以上は、「たかきこ」と読むのが学問的良心なのでは?
>>210 まあ言ってることは概ねそうで、「多賀幾子」は「たかきこ」としか
読みようないよ。
…但しこの議論の原点に関わることを一ついうと、「明子」や「高子」を
「あきらけいこ」「たかいこ」と読むのは、やはり根拠薄弱だということで
近年の教科書・概説書類では採用せず、「めいし」「こうし(かうし)」の
ような音読みに結局読み仮名を統一している傾向がある。
以上
212 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 15:49:11.08
つうか「多賀幾子」なら「たかきこ」じゃなくて「たがきこ」だろ
いや、多賀が苗字で、幾子が名前かも知れんぞw
214 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 18:04:20.85
>>210 君が聞きたかったのは「高子」を何と読むかということだったのでは?
それが、「多賀幾子」と「高子」は読みが全く同じであるはずで間違いがない、
みんな、私の自説に賛同して!というひたすら自説の連投になってしまっている。
だったら、もうここでレスを募る意味がないんじゃないかな?
当時の史料に読み仮名は書いてない。
だから、いくらレスを募っても確定できない。
これが結論。
つうか言語学板でやったほうが有益。
日本史板にはこの手の話題のプロパーは正直少ない。
>>215 人名を言語学的に形容詞読みしてもな。
そもそも「高子」と「多賀幾子」が同じ読みだったという根拠もないのに
「多賀幾子」の読みを判別したところで「高子」の読みにはつながらない。
「多賀幾子(たがきこ)」で「高子(たかこ)」かもしれない。
217 :
日本@名無史さん:2011/11/21(月) 22:04:56.38
野戦をする場所とか日時とか、両軍あらかじめ決めてあるんですか?
なんか、うまいこと敵と遭遇して睨み合いとかになってるんですけど、陣を張って、待ちぼうけを食らったとかないんですか?
>>217 何を見てうまい事遭遇したと言ってるの?
>>217 ちなみに武田信玄が京を目指したとき、その進路上に当たる家康は浜松城で篭城しようとした。
ところが信玄は家康をスルーして西へ向かった。侮辱と感じて頭に血が上った家康は追撃しようとした。
しかし三方原まで来ると前方に信玄が陣を張って待っていた。家康はまんまと釣り出されてしまったのだった。
コテンパンにやられた権現様はあまりの恐怖にクソを漏らした。
といった事は有る。
>>218 いや、例えば川中島で、同じ場所で何度も睨み合うとか、お互いの都合を考えて示し合わせてるとしか思えないんですが…
>>219 ありがとうございます
それ聞いたことあります。野戦に誘い込んだ話しですね
>>220 川中島は重要な係争地なので相手が軍勢を動かしたらこっちも動かさないと取られてしまう。
そして軍勢を展開出来るような場所を選ぶとあの辺になるんじゃないの。
>>221 戦略上の重要地点なら、そこで何度にらみ合いになろうと別になんら不思議はない
山岳と森林と河川(昔はダムがないから現代の川よりおおむね水が多く、交通の障害になった)が多い日本の地形では、
大軍が行動できるルートは限られている
敵が行軍してこちらに向かっている、という情報をつかんだら、侵攻ルートはだいたい想定できる
いくつかルートがあるとしても、すっぱを放ってどのルートで来るか調べればいい
防衛側が籠城ではなく迎撃を選んだ場合、なんとしてもこれ以上は攻め込ませたくない、この辺で敵を防ぎたいという
地点がある
当然、そんな戦略上の重要地点に布陣して敵を待ちかまえるだろう
一方、侵攻してきた側も、敵が出てきたとなれば、野戦でそれを倒し、突破するため、よい場所に布陣する
敵の布陣を迂回して進むという手もなくはないが、敵の兵力をそのままにして敵国にあまり深く侵攻しては、本国との
連絡を絶たれかねない
退くのでなければ、正面から戦うしかない
別にわざわざ示し合わせなくても、だいたい両者はどこか適当な場所で必ず対峙することになる
>>220 >いや、例えば川中島で、同じ場所で何度も睨み合うとか、お互いの都合を考えて示し合わせてるとしか思えないんですが…
現代みたいにヘリや航空機などの輸送機関が発達しているわけでもないので、軍隊が移動できるような道は限られます。
何回も川中島で戦い(正確には睨みあい)が起こったのは、越後から信濃を攻める際の
ルート上の重要拠点なので武田軍が予め城を築いて守っていたからです。
落城する前に、武田側も動員をかけて川中島に救援に向かいます。
別の道を通って直接越後を攻めようとしても、上杉軍も同じようにルート上に城を築いて警戒しているので
短時間では不可能です。
また、当時の大名は各地の中小武士達の領地を守るかわりに、兵や年貢を提供して貰うという
一種の契約関係みたいな支配を行っているので、川中島で守っている武士を見殺しにして
越後を占領出来たとしても、他の武士達が協力しなくなり、大名権力自体が崩壊してしまいます。
224 :
220:2011/11/21(月) 23:21:22.55
皆様ありがとうございます
今と時間の流れ方も違うし、賭けに出ず、慎重な戦の結果でそうなるんですね
226 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 22:23:00.17
古代の天皇や大和朝廷の王は何を以って王と呼ばれているのでしょうか?
古代は全国を統一する国家の王があまりいませんし、一世代に数人王がいる事もありますよね
どんなイメージを持てば良いか教えてください
>>226 時代によって変わるかもしれないけど
古語辞典に載ってるのだと<天皇の子・孫で
親王宣下も臣下としての姓を賜っていない男子>
となっている。
イメージとしては王族だな。
ひょっとして、
>>226は、「王」というのを、君主とlしての「王様」のイメージでとらえているから、混乱しているのではないか?
長屋王などの、古代日本の「○○王」というのは、君主ではない
>>227、
>>228が言うように、単なる皇子や皇孫だ
古代、日本の君主が「天皇」という称号で呼ばれるようになる前のその地位の呼び名は、「王」ではなく、「大王(おおきみ)」だよ
歴史の冷静かつ公平な評価って本当に難しいですよね
それぞれの時代の時代背景が時代によってまったく違うし、
人々の認識や価値観も違うし、それを現代の価値観で
推し量るというのは本当に難しい作業だと思います
その中で、できるだけ冷静かつ公平に歴史を評価する
為の知恵とか物差しは何でしょうか?
また、皆さんは歴史を評価するときに自分なりに
気をつけていることは何でしょうか?
ホームランを800本以上打っても「王」と呼ばれます
Oh...
東京都の地名・板橋の由来が
「板の橋が架かっているのが珍しく、都にも話が聞こえていた」
そうですが、では当時は橋ってあまり架けられてなかったんでしょうか。
普通は渡し舟とか使ってたのかな?
>>234 ただし、近年異説として軍事的理由は後付けで、
土木技術が不十分であったために、橋を架けるとコストがかかったという説もある。
例えば、大雨や雪解け水が大量に川に流れ込むと、十分な治水がなされていなかった当時の川はしばしば大規模な氾濫を起こして橋を押し流してしまう。
つまり、氾濫を抑制する治水技術と氾濫に耐えられる架橋技術が十分でなかったために、橋を架けるメリットよりも流されて再建するコストの方が高くついたからという話。
236 :
235:2011/11/24(木) 07:56:48.05
勿論、軍事的云々も全く根拠がない話ではなく、戦国期に川を渡ろうとした部隊が橋のところに来てみたら氾濫で橋が流されていて渡川地点を探して攻めあぐねたという記録がある。
237 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:18:10.62
>>230 純粋な客観はなく、評価とはそれぞれの立場で行うもの
他人の評価と違っても、立場や価値観の違いを感じるのみ
気を使うとすれば、評価にあたって、自分の立場や価値観を説明することかな
>>235 それは興味深い
自分でも調べてみたいので出典希望
樺太出身者って本来どこ出身のどんな身分の人が多かったのですか?
>>240 樺太の北部にはシベリア系の二ヴフ、
中部にはツングース系のウィルタ、
そして南部にはアイヌ人が住んでいたそうです。
♪勝ってくるぞと いたばしく
江戸時代について聞きかじりの調べごとをしていたところ、
「西洋の圧力を感じた幕府はオランダに200隻の主力艦(戦列艦?)を買い付ける旨伝えたが、
『そんなの10隻もあれば十分大国だ』とはねつけられ、手始めに数隻発注した」
との小話を見かけたのですが、これは実際に何か記録のある話なのでしょうか?
>>241 すみません聞き方が悪かったです
樺太統治後に日本から移住した人は元々どこにいてかつてどのような身分(農民、華族etc)の方が多かったのでしょうか?
>>244 当時の幕府の財力から言って
とうていありえない。
開陽1隻調達するだけで
ものすごーく苦労しているのに。
中世、近世の武士はどの程度の古代日本の知識を持ってたの?
北畠顕家が後醍醐天皇に三年間の無税を進言してるのは明らかに仁徳天皇の故事になぞらえてるけど
武家はどの程度故実に通じてたんでしょう?
>>246 何故幕末だと?
江戸初期かもしれんぞ?
>>248 江戸初期ならば
西洋の圧力を感じることが
そもそもない
>>247 北畠家は有職故実に通じた家だったような。
鎌倉期からの名門武家だからこその知識で、室町中期に台頭した土豪・酒屋上がりの新勢力の人なら多分「有職故実」を何と読むかすら分からないかと。
>>250 おいおい、北畠家は武家じゃないぞ。公家(公卿に列してはいないが)じゃん。
252 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 21:26:28.26
物部と大和朝廷って主従関係にあったんですか?
元はどこの豪族でいつ配下になったか分かる方いますか?
神話時代からだから明確に何時とは言えない。
>>250 北畠家は村上源氏の流れの公家だな。
>>251 北畠親房は生前大納言まで昇進しており、公卿に列している。
>>252 記紀の記載を信用するなら、
現在の天皇家とは別に降臨してきた天津神が先祖で、河内あたりを支配していた。
神武天皇の東征の際に降伏して配下になった。
蘇我氏と対立した物部守屋の時代には、重要拠点が河内にあったのは事実みたいだけど、
本当に先祖代々河内を拠点にしていたとは断定できないかと。
むしろ、全国各地の様々な豪族が、
同祖神話を拠り所に連合した集合体のように思える。>物部氏の起源
前スレで邪馬台国の話をしたものですが
私は学生時代(80年代後半)に岩波書店の歴史学の本をかなり読み込んでいたのですが
岩波書店は近畿説を皇国史観であると否定しており、北九州説一本でした。著者が誰か忘れましたが。
今は近畿説が有力なのですが、やはり北九州説というのは岩波書店を筆頭にする左翼勢力が主張してるのでしょうか?
岩波書店がというより、それらの本の著者がたまたま九州説論者だったんじゃねーの?
>>257 岩波書店は畿内説の学者の本も出版していますよ。
出版社自体がどちらかの説を推しているわけではないと思います。
1980年代後半は全体的に九州説が強かった時期です。
当時は専ら「魏志倭人伝」に記載されている魏から邪馬台国までの行程をもとに
途中に出てくる邪馬台国連合国を一つ一つ当てはめていくやり方で、
「邪馬台国は九州連合王国」といったものだったと思います。
しかし、2000年代に入ると、年代測定法の開発により纏向や箸墓が卑弥呼の時代のものあることがわかり、
卑弥呼時代の大和に大規模な国があったことが明らかとなって九州説は下火になりました。
日本人が世界的に見てもドラッグやドラッグ使用者に強い忌避の念を抱くのは
世界の諸民族や文化では太古から宗教儀式にドラッグが使用されてきたのに、
日本人はアルコールに弱くアルコールで十分に酩酊・陶酔状態になるため、ドラッグを避けてきたからだ、
と聞いたことがありますが本当ですか?
あと日本人とドラッグ、ドラッグと宗教儀式について良書あれば紹介してください。
>>260 >日本人が世界的に見てもドラッグやドラッグ使用者に強い忌避の念を抱くのは
一般的な意見ではないと思いますが?
酒やタバコをドラッグと考えるなら、むしろ日本は寛容なほうではないでしょうか。
酔っ払いが周囲に迷惑なことをしたり、路上などでの酩酊、年少者や女性が飲酒・喫煙することなど、
法律面での規定はともかく、社会的には問題視されないことのほうが多いと思います。
狭義のドラッグについても、戦後しばらくの間のヒロポン(覚せい剤)の流行などがありましたし。
>>260 日本でも大麻の実が七味唐辛子の一つに入っているなど、昔からドラッグの使用はありましたよ。
日本人はアルコールに弱いためにドラッグに手を出さなかったというわけではないです。
また、現在日本国内で売られているアルコールはずいぶん度数が低いものです。
昔の日本酒はアルコール度数も高いため、今より少量でも酩酊したと思われます。
また、祭祀に酒は必需品であり、昔は神社や寺が主体となって醸造を行っていました。
>>261 >年少者や女性が飲酒・喫煙
日本の法律はむしろ年少者の飲酒・喫煙に厳しいです。
諸外国にはもっと緩い国も見られます(フランスでは飲酒は16歳から可)。
女性の飲酒・喫煙(嗜好品は男の専売特許?)について問題視するのはどうなのでしょう?
特に酒は魏志倭人伝に倭人の男女は米を噛んだものを吐き出して発酵させた酒を飲むと記されており
古代から日本女性は酒をたしなんでいました。
特に、酒は巫女が管理していた時代も長いなど、女性の歴史と密接な関係があります。
たしか古代のギリシャか何かでは神殿でセックスしてたらしいけど
日本でも神社で巫女がセックスの相手とかしてたの?
264 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 20:34:02.85
教科書レベルで申し訳ないんですが
大正天皇が職務不能になって、摂政が置かれたのは教科書にも書かれてることですが
明治天皇の晩年はどうだったのでしょうか?摂政がおかれるような状態ではなかったのですか?
>>260,262
年少者が飲酒すること自体に対する法的規制は厳しい部類に入る一方で、
年少者が飲酒することに対する周囲の反応は法規制の割には必ずしも厳しくはない。
が、それよりも、飲酒時の行動の乱れに対する目が甘い。
酔って街中で大声を上げたり寝ころんだりする人間を人格破綻者とか生活破綻者のように見下す風習のある国の方が多くない?
>>263 巫女がセックスの相手〜なんて風習は、上古にはあった可能性があるが、
律令法では排除されたはず。たぶん。
神社という信仰形態自体は律令制の中で作り上げられたもので、上古の信仰とは異なっている。
ただし、秋祭りなど豊穣を願う祭りの際に境内でセックスをするような風習は近世まで行われたとは聞く。
266 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 00:14:36.44
天皇家はいかなる宗教団体とも関係がない無宗教って本当ですか?
伊勢神宮とかも含めて。
>>265 神社の境内ではともかく、今でも祭りの夜はその地域のコンドームの使用量が3倍になるという話だなw
>>262 昔という言葉の見解に相違があるかもしれないが、
昔の度数は低かったと聞いた事があるな。江戸時代くらいだと10%行かなかったって。
俺も昔は低かったと聞いてるから違和感を感じていた。
現代の酵母程かどうかは知らんが、江戸時代の酒酵母でも当時のワインより高度数の原酒ができるんじゃなかったかな?
ただ、今よりかなり甘口だから割り水も多めにする事が多かった
それでも現代の基準では甘口
江戸時代に技術があがって灘とかで清酒が作られるようになって度数も上がったと聞いたが。
272 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 22:13:44.20
村上春樹は100年後、現在の石川啄木や与謝野晶子くらいの知名度が
あるでしょうか?
273 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 23:06:01.91
日本酒の原酒は結構強い酒だが、味が濃いから、
割り水してもあまり薄く感じない。
で、あちこちで割り水した結果、
村醒めどころか、軒醒めの酒になると。
>>272 モーツァルトの時代にモーツァルトより人気のあったサリエリが今ではさっぱり名前を聞かないんだから
100年後の事は判りません。
ここ数年、税務署から頼まれて、神社で造っているどぶろくの分析をしていますが、
低くても12・3度、高い年だと16・7度のアルコールは出ていました。
ただ、おそらく野生酵母での発酵ですので、酸味が強く、余り香もよくないですね、
酒造業者が言うのも何ですが、酒屋が造った酒の方が格段に美味いです。
276 :
275:2011/12/01(木) 01:15:24.32
脱線序でに
元禄頃から地方文書で「酒狂」による詫び状などが多くみられるのは、
江戸前期まではほとんど祭礼などのためにその場で少量造られ、その場で消費された物だったのが、
醸造技術や流通の発達によって「商品」としての酒が村方にも流通するようになって、
何時でも飲めるようになり、酒を飲みすぎる人が続出したためだと聞きました。
>>272 あくまで俺個人の予想だが、現代は出版物が多すぎるので、個々の作家は埋没してしまうだろう
おそらく、戦後〜現在までの作家で、100年後も一般人にも知名度が高いのは、ノーベル文学賞を取った川端康成と
大江健三郎ぐらい(日本人が権威に弱いのはおそらく未来もかわらないだろうから)
ちょっと文学史に興味がある人なら名前を知ってるぐらいのレベルで、司馬遼太郎とか、井上靖とか、そのあたり
村上春樹はさらにその下ぐらいの位置づけじゃないかな
意外と名前が残りそうな気がするのは、文壇ではおそらく低く見られているであろう、推理小説とかSFといった
大衆向けの分野の作家
明智小五郎を生みだした江戸川乱歩と金田一耕助を生みだした横溝正史はおそらく100年後にも名前を知られて
いるだろうし、星新一のショートショートは100年後にも読まれているだろう
日本沈没や首都消失を書いた小松左京は日本で大地震があるたびに名前が出るだろう
そう考えると、ラノベ作家や、携帯小説作家の中にも、未来に名前を残すことになる者がいるかもしれない
まあ、
>>274の言うように、未来の予想なんて当てにならないから、100年後には俺のこんな予想なんて大笑いの
結果になってるかもしれないけどね
日本史、世界史、地理、どこで尋ねるか非常に迷うのですが…
前提:大陸と島という区別は地球の大きさに対する人間の踏破能力、昔の航海能力等からなんとなく生まれたものですよね?
質問:日本人はいつからどうして日本が島だって知ってたんでしょう?
国産みによれば本州まで島だと称していますね。
島と呼ぶためにはまず大陸(=踏破出来ない広さ)を知っている人間が
本州をぐるっと踏破or航海してここは大きな島だとわかる必要があると思います。
古代人がどうやって島を理解できたんでしょうか。
雑多な文章ですみません。
西郷隆盛がフィラリアにかかっていた根拠ってデカい金玉なことだけ?
足パンパンに膨れたりとかはなかったの?
金玉だけなら鼠径ヘルニアな可能性もあると思うけど。
>>274 >>276 サンクス
出版物の大量化、保存技術の進歩、情報化、などにより、昭和後期〜平成〜将来の
文化作品や作者などの後世に与える影響やネームバリューなど、一体どうなっていくんですかね?
そういう観点に今非常に興味があります。
>>259 >しかし、2000年代に入ると、年代測定法の開発により纏向や箸墓が卑弥呼の時代のものあることがわかり、
>卑弥呼時代の大和に大規模な国があったことが明らかとなって
えっ・・・
282 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:03:02.26
なぜ鳥居には赤く塗られているものが多いのでしょうか?
>>282 奈良時代あたりに神社を赤く塗る習慣が出来たからだと思う。
>>280 デジタルの時代になって印刷は売れない時代になったと言えます。しかしデジタルだとマトモな読書はし難くて、
ケータイ小説みたいのしか出回らない時代になるかもしれません。それで紙に揺り戻すのか、デジタル環境が
改善されて行くのか、そこがキーポイントかと思います。
>>278 つーか、地理用語としての大陸と島の別なら、
オーストラリアのデカさが基準だったかと。
そんでもって、そうした意味での「大陸」なる言葉は、
古代日本には無かったのではないかと。
>>278 記紀神話は、元の原初的な神話そのものではなくて、
中国とか律令法とかを強く意識して再編成された内容になってるわけで。
中国大陸の巨大さに比して島国である、という立場だったかもしれないね。
もしくは、中国の史書で「山島に〜」などと記されていることを知っていて、
その表現から本州島をも島と認識したのかも。
つい最近には、弥生中期以前、紀元前の時点でさえ、
日本列島で最大級の大規模水田が奈良県内にあったと発見されてるよ。
>>278 自分たちの住んでいる土地が海に囲まれている事は知っていたでしょう。(津軽海峡の確認自体は平安も終わり頃らしいが)
西に自分たちが生んでいる土地とは規模が違う大きな大地があるのも知っていたでしょう。
それだけの話。
大陸は一般的にオーストラリア大陸以上が大陸、オーストラリアの次に大きいグリーンランドからは島。
でも定義がはっきりしているわけではない。
ユーラシア大陸なんて、ヨーロッパ大陸アジア大陸に分けるなんて考えもある。
でもヨーロッパはユーラシア大陸から離れた形跡はない、むしろインドは昔は島だっただから今でも亜大陸と言われる事もある。。
>>278 >>285も言うように、古代や中世に「大陸」なんて言葉はなかった
(余談だが、何年か前に大河ドラマで北条時宗をやった時、劇中でやたら「大陸」って言葉使ってたけど、
違和感があってしょうがなかったよ)
海洋とのかかわりの深かった古代の日本人の意識では、おそらく陸地イコール島
朝鮮半島&中国大陸は、別格のとても大きい陸地という認識はおそらくあったろうけど、それ以外の陸地は
みんな島
踏査できるかとか、ぐるっと周囲を回れるかどうかなんて、関係ない
もし仮に、津軽海峡・宗谷海峡・間宮海峡がなくて本州が大陸と地続きだったとしても、おそらく本州を島と
称したのではないだろうか
権門体制論について語ってるスレはありますか?
明治の偉人は皆ヒゲをはやしています。政治家も軍人も文士たちも。
その流行は随分長くて、少なくとも明治末頃ぐらいまでは続いていたハズです。
ところが、大正時代の写真では、政治家も軍人もヒゲをはやしている人はめったにいません。
この現象はなぜなんでしょうか?
また、ヒゲをはやさない風潮は、ある時期一斉に起ったのでしょうか?
というのは、その後、昭和の満州事変以後ぐらいの写真では、大臣も軍人も議会人も文士たちも
また皆ヒゲをはやしていますので、疑問に思いました。
>>277 >>意外と名前が残りそうな気がするのは、文壇ではおそらく低く見られているであろう、推理小説とかSFといった
大衆向けの分野の作家
赤川次郎、西村京太郎、東野圭吾あたりの「大衆推理作家」はどんな感じでしょう?
「シマ」ってもともと海に浮かぶ島だけじゃなくて
地続きでもある一定の区域の土地のこととかじゃなかったっけ?
ヤクザの「シマ」もそこから来てるとかなんとか。
記紀が書かれた頃は大八洲みたいに日本は島国だって自覚はあったとは思うけど。
293 :
292:2011/12/03(土) 02:44:00.57
「ある一定の区域の土地」じゃなくて「人里離れた場所」だった。
こっちの意味は全然関係ないな。
>>290 髭も髪型と一緒で流行り廃りがあるということです。
明治時代にはとにかく上流階級での西洋へのあこがれが強く、
西洋(特に王朝を持つイギリス)の真似をしていた時期がありました。
イギリスの貴族は現在も鬘に付け髭で貴族院に参院する風習が残るなど、
威風ある長い髭を蓄えるのが貴族男性の伝統でした。
そのために、日本の貴種たちも男性はこぞって長い髭を蓄えたのです。
しかし、その後米英と対立するにあたってこの流行りは廃れていきました。
英国以外にも、ドイツの影響も大きい気がする
カイゼル髭なんて言葉もあるし、陸軍の教官のメッケルも髭生やしてたし
日本史を語る上で、ペリー提督とマッカーサー元帥はどちらがより
外せない重要人物でしょうか?
297 :
278:2011/12/03(土) 22:02:51.49
>>285-292 ありがとうございます、大陸という言葉そのものが無かったとは…
>>287 >
>>278 > 自分たちの住んでいる土地が海に囲まれている事は知っていたでしょう。(津軽海峡の確認自体は平安も終わり頃らしいが)
> 西に自分たちが生んでいる土地とは規模が違う大きな大地があるのも知っていたでしょう。
>
> それだけの話。
そこんところ興味深いですね
それだけと言ってしまうには惜しいです
>>296 どっちも外せない
だが、どうしてもどっちか1人を選べというなら、武家政権崩壊の契機となったペリーの方だろうな
これはあくまで、「強いていうなら」の話で、マッカーサーも重要だぞ
マッカーサーなんて部下を置いて逃げた臆病者だ、
誇り高い帝国軍人ならたとえ敗れようと最後の一人まで戦い抜くだろう。
はっはっは。
・・・どう考えても勝てるわけがねえなぁ。
300 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 00:21:31.69
>>300 ・土器片年よりは正確さが勝っている
・異文化間の年代比較ではC14以外に方法がない
まずは正確に年代を出すことよりも海外の諸文明との年代比較用ツールとして考えることだ。
それでもC14より正確な年代決定方法なんてのは、無いも同然ではあるんだが。
>>298 この二人は日本史を語る上で外せない最重要レベルの外国人ですよね
この二人以上に外せない外国人ていますかね?
マッカーサーは日本占領軍総指揮官としてアメリカから派遣された役人にすぎないからな
ポツダム宣言に署名したりマッカーサー派遣を決めたりしたアメリカ大統領ルーズベルトのほうが
後世の扱いは大きい気がするが
304 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 10:47:16.66
C14の細かいデータベースが欲しいね。
補正してないやつ。
結構想像を絶するデータが出てくると思うけど、
紀元前や、縄文時代から続く集落もあるし。
305 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 10:48:43.58
太宰府も糸島も佐賀も、
縄文時代と重なる所がいくつかある。
>>303 サンクスです
ルーズベルトはマッカーサーの上司に当たるわけだし、言いたいことは
わかりますが、マッカーサーは実際に日本に駐留して占領政策をやった
トップで日本人との接点が強いので選びました。
国のトップ(や上司)から派遣されて来たという意味ではペリーもハリスも
ザビエルも同じですよね
>296
どちらも重要人物ではあると思う。
ただ、片方はGHQ最高司令官として、実質日本を占領統治した人物。片方は国書を届けに来た使者。
立場や地位だと比較にすらならない。
後世への影響で言えば、マッカーサーは戦後日本の方向性を意図して占領政策を行っている。、
ペリーは、幕末維新のきっかけとなった人物ではあるけど、ペリー自身が維新を意図してたわけではない。
日本の政権中枢との関わり具合が段違いなので、正直ペリーのが重要とは思えない。
むしろハリスと比較するほうがまだ適切だと思う。ペリーについては、最初のインパクトで知名度が高いだけってのが実態じゃないかなぁ。
あとアメリカでの両者の知名度の差とかも考慮すると、正直ペリーの名前を知ってるアメリカ人がマッカーサーを上回ると思えない。
まぁ質問が 「日本史を語る上で」 なので、アメリカでの比較は関係ないと言われればそれまでだけど。
>>290 当時のヒゲの流行り廃りは、世界的なもので、だいたい第一次世界大戦を境にして変化してます。
男性だとヒゲ、女性だとスカート長さやコルセットの有無などです。
日本における流行もその影響でしょう。
女性の例に関しては実用的な意味合いもあるのですが、男性のヒゲに関しては心理的な問題なんでしょうね。
そもそも19世紀中頃から20世紀初頭のヒゲ流行の方が、少し特異な気がします。
欧米だと18〜19世紀初頭にはヒゲはあまり流行ってませんし、日本の江戸期も同様でしょう。
武断的な時代、男性的な時代にヒゲが流行るってのは安易な発想な気もしますが、そんな一面はあるかも。
戦国期もヒゲは多いかな。
江戸時代にヒゲがすたれたのは、江戸時代の初期に、家康に似ていると言われた老中かなんかが、
大権現様と似ているなんておそれおおいと、人相を変えるためにヒゲを剃ったら、みんなマネして
ヒゲを剃るようになったからと聞いたことがある(うろ覚え)
310 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 21:20:35.24
加速器質量分析法(AMS:Accelerator Mass Spectrometry)とは放射性炭素(14C)年代測定法の感度・精度を追求した発展系で、重イオン用半導体検出器を用いることによって14Cをほとんどバックグラウンドなしで測定できるため年代の推定を更に正確にするもの。
>>304 数年前、数千件ばかり網羅されたデータ一覧表のpdfがあったが、
今もDLできるのかなあ?
といっても、縄文時代末から古墳時代前半頃まで(主に弥生時代)のデータだったが。
較正年代だけじゃなく、元データも載ってたよ。
較正の方は、対応表が暫定版だから参考値だけど。
>>294 >イギリスの貴族は現在も鬘に付け髭で貴族院に参院する風習が残るなど、
>威風ある長い髭を蓄えるのが貴族男性の伝統でした。
何の話で聞いたか忘れたけど、かつらが流行る時期と、髭が流行る時期が交互にきて
同時期に両方流行るってことはなかったらしいです。
上で言われているのはイギリスの裁判所の例だと思いますが、つい数年前までルイ14世みたいな白いかつらをつけていました。
(今はたしか廃止になったと思う。)
で、このルイ14世あたりはかつらの時代で、その前のリシュリューとかあのあたりが、かつらは着用せずに髭がはやった時代。
>>295 ドイツの髭は日本の髭とかなり違う。
有名な「カイゼル髭」は鼻の下の髭を伸ばして油で固めて上へ跳ね上げたもの。
写真を見るとわかるが、顎髭は伸ばしておらず、
イギリスや明治時代の日本とは明らかに異なる。
>>312 イギリスで初めてかつらを着用したのはエリザベス一世。
女王であり、もちろん、ファッションとしてだった。
男性の例ではフランスのルイ13世。彼は若禿だったので必要に駆られたものだったが、
続くルイ14世以降はファッションのためにつけるようになり、西欧の王侯貴族に大流行した。
その後、西欧諸国では王家がなくなったり、王家は残っても貴族制度がなくなったりしたが、
イギリスには現在も王家と貴族が存続しており、上院(貴族院)議員と裁判所議員に
この世襲の貴族が出仕するため、伝統的に鬘を付ける習慣が残りました。
鬘は現在、つけることを強要されてはいないが、禁止はされていなかったはず。
つまり、現在も、鬘をつけて登院することが認められている。
髭が流行したのはこれより遅く、18世紀ごろから。
いわゆる日本人が真似した顎鬚を伸ばす(付け髭する)習慣がイギリスなどで起こった。
しかし、長い顎鬚は第一次世界大戦のころには軍人として不潔だという理由から
廃れてしまったものらしい。
鬘と髭は交互に流行が来るというよりも、鬘の伝統に比べて髭の伝統は短い。
昭和の10年代から大東亜戦争の時期に懸けて又ヒゲが流行る。
大正3年以降の大正時代は全く廃れていた。
そのあたりに、何か法則性が有るんではないかと?
天皇もそうだな。
明治天皇はヒゲを生やしていた。
大正天皇は確かに大正3年にヒゲをお剃りになって以後生やしておられない。
昭和天皇は途中から以後ズゥーと生やしておられた。
ウ〜ン、なるほど法則性があるかも…。
現在でも秋篠宮や寛仁親王は髭を生やしているよ
でも今の天皇や皇太子は生やしてない
髭の生やし方も明治天皇・寛仁親王は鼻下と顎の鬚をのばし
昭和天皇・秋篠宮は鼻下だけ伸ばすと形態が異なっている
寛仁親王は現在の皇族の中で一番容姿が明治天皇に似ていると言われて
有頂天の時期があったから、真似して伸ばしているらしいが
319 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 23:00:50.78
先日、坂上田村麻呂を祀ってる神社に行ったんだけど、そこに「正一位」と
書かれていました。正一位というと官位としては最高位ですよね?
征夷大将軍は武士としては最高の役職だけれど、太政大臣や左、右大臣、大納言の
方が官位は高いはずだし、太政大臣でも正一位になれなかった人は大勢いると思います。
この辺の役職と官位の関係とかは一体どうなってんですか?
320 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 00:01:52.26
>>319 それ田村麻呂じゃなくて神社の祭神に贈られた神階では?
生前は正三位大納言が極官。死後、従二位を贈られている。
正一位はたぶんその神社が貰ったんだろう。何処だか知らないけど。
お稲荷さんが合祀されてるだけというオチとか…
そういえば以前から少し気になっていたのですが
神階は神社とその祭神のどちらに授けられるものなんでしょうか
坂上田村麻呂を祀る正一位の神社って香川県の「田村神社」のことか?
ここだったら鎌倉時代に「神社が」正一位の神位を受けている。
http://tamurajinja.com/about/ >>323 神階が与えられるのは専ら神社。
(死後に官位が与えられるのは贈位であって神階ではない)
祭神に与えられるものとしては神号。
北野天満宮天神(菅原道真)、
豊国大明神(豊臣秀吉。大坂夏の陣の後、徳川家康によって剥奪される)
東照大権現(徳川家康)など神号を与えられた人物は限られている。
蛤御門の変ってありましたが、長州勢は御所に突入して何をしようとしてたのですか? それとも、幕府勢が御所付近にいたから、たまたまここが合戦の場になっただけなのですか?
>>325 簡単に言えば、御所へ突入して孝明天皇の身柄を確保し、
長州藩の思い通りの政治を執ろうとしました。
長州藩は強硬な尊王攘夷論を展開し、討幕運動を繰り広げていました。
これに協力する公家たちとともに孝明天皇を動かし、江戸幕府に無茶な攘夷を突きつけます。
しかし、孝明天皇は妹和宮を徳川家茂に嫁がせ公武合体に傾くようになり、
遂には八月十八日の政変によって長州藩に協力する尊王攘夷派公家たちが追放され、
江戸幕府により長州藩士は入京禁止、長州藩主は蟄居を命じられてしまったのです。
代わりに朝廷で主流を占めるようになったのが会津・薩摩ら公武合体派でした。
焦った長州藩は、孝明天皇を手中におさめ、念願の尊王攘夷と討幕を推し進めようとしました。
そのために内裏を襲ったものの敗れたのが蛤御門(禁門)の変です。
>>326 強引だったんですね。
現時点では、いろんな面からも勝ち目のない戦いだったんだろうと思いました
ありがとうございました。
328 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 23:02:03.69
>>319へのレスありがとうございました
正一位は神社に与えられていたということですね
ちなみに場所は滋賀県甲賀にある田村神社です
田村麻呂御鎮座1200年祭(?)でした
329 :
323:2011/12/07(水) 23:17:53.91
>>327 理性のある人間は兵を引いて時機を待つべきだと論じましたが、
頭に血が上った連中が死に場所を求めて暴走したものです。
現在一般的に使われている「藩」は江戸時代当時は一部の儒学者が使っていたくらいで
普通は「藩」なら「〜家」、「藩士」なら「〜家家中」などと呼ばれていたようですが、
現在「脱藩」と呼ばれている行為は当時はなんと呼ばれていたのでしょうか。
>>332 ありがとうございます。
様々な呼ばれ方をしていたようですね。
エルビスプレスリー、マイケルジャクソン、共にその時代を代表するスーパースターですが、
100年後の世界ではどちらがより大物として音楽史や芸能史、または歴代のスターとして
君臨していると思いますか?
エルビスプレスリー、マイケルジャクソン、共にその時代を代表するスーパースターですが、
100年後の世界ではどちらがより大物として音楽史や芸能史、または歴代のスターとして
君臨していると思いますか?
>>334 100年後にはたぶん、どちらもたいした知名度はないよ
君は100年前の歌手の名前をどれだけ知っている?
バッハとかビバルディーとかチャイコフスキーとか滝廉太郎とか
有名な音楽家は知ってるよ
ちょっとしたスターってレベルじゃないんだから、それなりに名前は残るだろう
>>337 俺が言ったのは、「歌手」
バッハとかは、「作曲家」や「音楽家」であって「歌手」ではない
100年前の欧米ではもう、歌手が職業として成立していたし、社交界やショービジネスの世界で
それなりに一世を風靡した有名歌手もいた
が、今では、よほどその方面の知識のある人でなければ、当時のシンガーの名前なんて知らないだろ?
エルビスプレスリーは、音楽史ではなく、社会を変えた意義が大きいから、
100年後にも必ず名前は残る。
ビートルズも同じ。
マイケルジャクソンは、忘れられるだろう。
70年代以降のミュージシャンは、音楽的にはそれ以前の連中より高いレベルにあったり
するけど、すでに社会構造を変える余地はなかったから、誰も名前残らないんじゃないだろうか?
>音楽史や芸能史、または歴代のスターとして
だったか。
それでもマイケル・ジャクソンは、100年後にはほとんど忘れられるだろうな。
歴代スターの年表に、マドンナなんかと並んで名前だけが載る程度。
音楽史に名前が残るためには、新しい音楽の分野を作ったとかなどの業績とか、
後から聞いても音が古くさくないとかいう要素が必要。
そういう意味で、70年代のT-REXとか、ピンクフロイドなら名前が残るかも。
>>338 100年前にエルビスプレスリーレベルのスーパースターな歌手って本当にいたの?
たぶん、大分レベルが違うんじゃないの?
>>340 マイケルは驚異のダンスを披露しながら歌うというスタイルでど肝を抜いたし、
ミュージックビデオをメジャー化させた
342 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 22:32:55.49
よく美空ひばりは歴史に残るけど松田聖子は残らないとか聞くけど、
美空ひばりにあって松田聖子にないものってなんだ?
第一線での活躍の長さ、(タイプは違うけど)歌唱力、知名度、
どっちも甲乙つけがたいと思うけど
>>341 >マイケルは驚異のダンスを披露しながら歌うというスタイルでど肝を抜いたし、
>ミュージックビデオをメジャー化させた
全然マイケルだけの功績じゃないし。
>>342 >(タイプは違うけど)歌唱力
本当はかなりうまいのかもしれんが、一般に披露している歌は
とても後世に残したくなるようなものではないよ。
純粋に音楽性だけを見た場合、後世に残る要素はない。
彼女が残るとしたら、あくまでそれ以外の功績で。
345 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 05:43:21.47
武田家の編成について少し
先祖の宗家が武田家のもとで働いていて知行を受けていた(信濃史料に記載あり)
ようですが信濃先方衆、天正壬午甲信諸士起請文に名前がありません。
何故でしょう??また、この家は江戸期農民なのですが
遠い分家と思われる家がちゃっかり徳川家系の家の家臣になってるのですが・・・
こういうのって立ち回り次第なのかな?順当にいえば宗家が武士になるべきでは?
346 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 09:07:55.40
>>342 一言で言えば時代背景かな
美空の場合、テレビの黎明期+敗戦後〜戦後復興期に活躍したのが大きい
100年くらい前のエジソンや豊田佐吉は今でも有名です
松下幸之助やスティーブジョブス、ビルゲイツも
死後100年くらい経っても有名でしょうか?
それとも時代の波の中で消えていくのでしょうか?
>>345 名字がわからないとお答えのしようがないですよ
>>347 豊田佐吉が有名と言えるのだろうか?
一部を除き、忘れられていると言った方がいいと思うけど。
子供の頃、世界偉人伝みたいなシリーズで豊田佐吉があったけど、
将来、松下幸之助やホリエモン、孫正義とかもありかな?
ホリエモンは無いとは断言出来る。子供向けならなおさら。
>>347 エジソンは有名でもテレビを作った人とか知らないでしょ?
たぶん消えるね。
352 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 23:42:08.25
松下幸之助は残ると思う
経営の神様と呼ばれてるし、実業家としての実績もさることながら、
人間としても高く評価されてるし、信奉者も多い
エジソンレベルじゃないとしても、きっと名前は残る
ヒーリング・ミュージックの効能の説明にも使われる言葉であり、規則正しい音とランダムで規則性がない音との中間の音で、人に快適感やヒーリング効果を与えると主張される。
1/fゆらぎが一部の人間の声にも現れると主張されることがある。代表的な例としてMISIA、美空ひばり、宇多田ヒカル、松任谷由実、徳永英明、Lia、吉田美和などが持つとされる。
また、声優の大本眞基子、俳優・ナレーターの森本レオや更にはダチョウ倶楽部の肥後克広が森本の声真似をしているときの声も該当すると言われる。
しかしその根拠や効果の説明は曖昧であり、オカルトにおける波動などが基にされることもある。
音楽の嗜好や受ける印象には個人差があり、万人にヒーリング効果を及ぼす音楽なるものが存在するかどうか定かでない。
>>352 問題は、何史に残るかだな。
世界史に残る人物って、日本に限らず世界の経済界にいるんだろうか?
>>354 岩崎弥太郎などは経済界で成功し、財閥創始者となって
高校の日本史教科書に載っている。
松下幸之助は豊田佐吉程度には残るんじゃないのか。
ただし、教科書に残るレベルかというとわからない。
>>352 松下幸之助の人間性はよく分からない。
経済界で成功したからと言って政治塾(松下政経塾)やら思想活動(PHP研究所)
まで手をだしたのはやりすぎかな、と思う。
女性問題でもやりすぎた感はある。
356 :
354:2011/12/12(月) 09:45:43.04
一言書き忘れた。
残るんだろうか、と書いたのは「戦後の人間で」の話。
明治期は、まだ国家形成途上期だったから、名前を残すチャンスもあるんだけどね。
幕末の「ええじゃないか」って何だったんでしょう?
世情不安を煽る作為的な物だったとしても、多くの人間が
簡単にトランス状態になるもんなんでしょうか?
集団ヒステリーなんじゃ?
近代が始まる頃、ヨーロッパでもなんか集団ヒステリーがいろいろあった気が。
新政府の世直し煽動、ガス抜きとか言われてるけどな。
今でも政治会合やら歌手のコンサートに「サクラ」がいるけれども、
あちこちでサクラの民衆に面白い踊りにのせて乱舞させたら
一般庶民たちものってきたってことじゃないのか。
近代以前には、村ごとに祭りがあって、その日だけは過激な歌や踊りで
一年の鬱憤を晴らして民衆は大暴れしていた。
だから、そういうこと(一種のトランス状態)に慣れていた。
360 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 20:29:35.57
平安末期の末法思想と江戸末期のええじゃないかはなんとなくイメージが被る
平成もよく「バブル崩壊後の失われた20年」とか「社会の閉塞感」とか形容されるけど、
まだまだ規模が小さいのかな
失われた20年は、何も起こらない虚脱状態だから違うだろう。
むしろ、今年3月以降の現象の方が似てる。
あくまでこれから本格的に何か起こればだけど。
鎌倉〜室町期の土一揆
江戸期の百姓一揆や打ち壊し
大正期の米騒動
は有名だし、教科書にも載っているけど
昭和戦後期の愚連隊や暴力団の活動は
教科書に載らないし、その後の西成暴動なども
教科書に載る見込みはないね
つ 60年代安保と連合赤軍
>>363 その実態は同窓会と乱高パーティーだったんだけどなw
実態はともあれ教科書に載っている
土一揆や百姓一揆、打ちこわし、米騒動は困窮や悪政に対する民衆の蜂起だが、
安保闘争や連合赤軍は思想による抗議行動の一種だから比較にはならないんじゃない?
西成暴動は困窮や悪政に対する民衆蜂起といえるが、規模的に弱いな
教科書に載ることはないだろう
じゃあ、世界大恐慌の後に起きた226事件。
普通はクーデターに分類されるけど。
>>367 2.26事件=軍部の暴発
一般庶民の参加によるものではないから土一揆や打ちこわしとは違う。
ときの政権を揺るがしたから教科書には載っているけどね。
>>366 戦後は選挙が行われているから民衆は平和的に政権交代させることができ、
悪政を正すために大暴動を起こすということはなくなってきている。
格差社会で虐げられた人たちも暴動起こさずにネットでガス抜きだしな。
日本人の祖先はユダヤ人だというのは本当ですか?
ウソです
はい、次
日本の統治機構や社会制度が変わったから単純比較はできないけど、
「ザク」っとした感覚で比較すれば、飛鳥〜平安時代の歴代の天皇、
鎌倉時代の源氏将軍〜執権北条氏、室町時代の足利将軍、信長、秀吉、
江戸時代の徳川将軍、明治〜昭和初期の薩長閥の総理大臣、戦後の
自民党の歴代総理大臣、近年の鳩山〜野田は「日本の統治権者」
(またはそれに近い存在)として同格の存在と言えるのですよね
この解釈は間違ってますか?
373 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 22:06:45.29
新井白石の母親の姓 祖先を教えてください
>>372 何をもって「統治権がある」と考えるのかによるのでは?
律令制に則って言えば摂政・関白に天皇の代理として統治する権限はあるだろうけど
征夷大将軍にはそんな権限はないし、明治憲法下の総理大臣にもない。
「万系一世ノ天皇之ヲ統治ス」なんだから。
総理大臣が統治権者じゃないから、昭和の軍部は統帥権を錦の御旗にして、総理大臣の言うことにも従わなかった。
統治する実力があったということで評価するなら、形骸化する前の院政下では上皇だし、
歴代将軍に実権がなくて、北条氏など別の人物に実権があった例はたくさんある。
自民党政権下だって、田中角栄とか経世会のトップ(金丸信、小沢一郎ら)などは、
総理大臣でも自民党総裁でもありませんでした。
陰の実力者は言い出すときりがないから、あくまでも表面上の話
飛鳥〜平安は歴代天皇を柱としながら、要所要所で時の摂政や関白、
鎌倉以降はやはり統治権者は将軍(一部天皇親政、執権、信長、秀吉)に
なるんじゃないのかな?
明治〜終戦まではご指摘の通り天皇、終戦後は総理大臣が妥当と思うけど、
どうだろ?
江戸時代なんて幕府が禁中並びに公家諸法度を作って、天皇&公家を抑圧してた
くらいだから、少なくとも幕末までは江戸時代の統治権者は幕府(将軍)だろうな
将軍よりも実権を握ってた大老や老中がいたとしても、だからといって
その時代の統治権者を大老や老中にしない
>>376 江戸幕府は圧倒的な武力を背景に朝廷を監視していたとはいえ、
幕末、朝廷に武力を提供する雄藩が現れると、簡単に政権はひっくり返った。
歴代将軍が朝廷からの委任を持って政権を担当していたことを考えると、
一概に将軍>朝廷とは言えない。
378 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 12:27:45.96
379 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 12:33:26.97
>>378 雄藩の中には尊王攘夷で鎖国に反対してたところも多かったが?
長州が海外から武器を導入して開国に転じた時には、
すでに徳川幕府が転覆してただろ。
380 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 12:44:24.44
>>379 幕府が賢明にもおフランスの全面支援断り続けたから
381 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 13:09:50.70
>>378 欧米列強はどっちでもよかったんだよ、自国に有利になることなら
雄藩を選んで支援してたわけじゃない
最初は徳川幕府の開国体制に対して鎖国存続を訴える長州藩を
攻めたりしてるし
382 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 15:12:05.81
今の天皇は北朝系なのに、なぜ、南朝を正統だとしているのですか?
>>382 南朝を正統としたのは明治時代です。
武家たちが学んだ水戸学において南朝正統論が出たためとされています。
ちなみに、江戸時代の朝廷では、北朝が正統でした。
江戸時代の朝廷の文献では、北朝の年号が使われ、
北朝のみで天皇の代が数えられています。
現在は、北朝と南朝の年号併記が多く、両系統に天皇の称号を認めています。
天皇の代数のみ、南朝の天皇の代数で数えるようです。
要するに、天皇の意見より武士達の総意の方が優越していたって事。
明治時代の天皇は所詮はミコシで、権力がなかったわけさ。
段々と権力を獲得して入ったようだけど、政府有力者達の意見を撤回させることができるほどの権力は最後まで持てなかったはず。
でも特定の政府有力者一人の力ではどうにもならないだろうな
結局数の論理になっちゃうんじゃないの
将来、大河ドラマで取り上げられる比較的最近の人物は誰でしょうかね?
昭和天皇や田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎、小沢一郎・・
あるいは美智子皇后とか
そりゃあ、何と言っても淺沼稲次郎か太田薫だぜ。NHK好みそう。
NHK「王」を「朝廷」に書き直したらしいな
ソースは2chだがw
かつての「知ってるつもり」みたいな番組なら、
鳥山明や宮崎駿、イチローとか取り上げられるだろうけど、
大河ドラマとなると、「国家的な貢献をした人」
「政治的な貢献をした人」になってくるんじゃないかな
平成なら小泉あたりかな
>>386 皇室を扱うのは無理。その辺の人物で大河は100年くらい経たないと難しい。
たぶん100年後には大河が無いだろう。
391 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 23:56:12.65
1744発のあさぎりがなくなったわけで、
この時間帯に快速急行増発はありそうかな。
緒方貞子とかじゃん?犬養首相の子孫で話題性もあり。
小説吉田学校あたりをネタ本に大河ドラマってのは、
生存者中唯一の有力当事者中曽根が死ねばあり得ると思う。
皇室でも、昭憲皇太后あたりが主役ってのもあり得る気がするけどな。
「女性好き」の大河として主役を張れそうな女性って限られてるから。
女性政治家だったら、辻元清美あたりは絵的に面白い。
ピースボートで世界に行って、社民党政審会長で激しく国会でやって、
逮捕されて、政権交代で副大臣になって、ごたごたあって、
震災で首相補佐官になって…と絵的には困らない事象が盛りだくさん。
土井たか子と2人でダブル主人公的にすれば結構大河もやれるかも知れん。
>>389 川上音二郎が主役の大河ドラマもあったじゃないか
文化人の主役も充分、ありえる
小澤征爾はだめ?
会津と薩摩の架空の武士を主人公にして、その視点から幕末から明治にかけての時代を描いた
獅子の時代って大河ドラマもあった
戦後日本を描くならその方式で、下っ端政治家秘書か、官僚ぐらいの架空の人物を主人公にして
実在の人物や事件とからませていくのが一番いいかも
>>390 100年か〜、じゃあ、そろそろ明治天皇は解禁かな
明治天皇なら知名度、功績、ドラマ性抜群だから高視聴率いくだろうな
真面目な話やってほしい
397 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 18:54:27.10
明治以降、元号ごとに時代区分けがされているけど、この先何百年か経って
元号の数が多くなってくると、2〜3の元号をまとめて〇〇時代と呼ぶようになるのかな
平成の時代も後世から見たら「〇〇時代の一時期」という感じになっちゃうんかな
>>397 もし、首都がどこか別の場所に移転すれば、明治からその遷都までの時代は
まとめて「東京時代」と呼ばれるんじゃね?
この先、首都が東京から移されることってあるのかな?
副都心とか副首都というのはあるだろうけど・・・
災害や戦争で壊滅状態になる以外はなさそう
>災害や戦争で壊滅状態になる以外はなさそう
壊滅はなくても、半壊の可能性が非常に高いんだが。
401 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 23:39:39.34
むしろ、今の東京はちょっとしたトラブルで、
輸送や交通が麻痺する非常に脆弱な状況。
帰宅難民なんて言葉も最近出てきたね。
そういう意味でも、ある程度移転したほうがいい。
移転した方が良いのは確かだが既得権益を失う者たちが許さないだろう。
反射的に送信してしまった。移転は出来ないだろうから大阪なりあるいは他の所でもイザという時の
バックアップになる所を整備するべきだろう。
ウォークマンや携帯電話なども、後世の歴史教科書の昭和〜平成の頃の文化として
写真が載るかもしれないね
銀閣寺や風神雷神図屏風が載っているのと同じような感覚でね
江戸時代の町人文化として寿司とか蕎麦の屋台の絵が載ってるか?
(載ってたような気もする……。)
>>405 それがピンポイントで取り上げられる訳じゃないが、風景画やら何やらの中に「当時の風俗」の一つとしては出るかもな
意外とヤマンバ(ギャルの)は残るんじゃない?海外からも評価されてたし。
キティちゃんも。
やはり政治史中心に残っていくだろうから、文字だけとかかもしれないけど。
文化史っていうのも興味深いねー
かつての大衆娯楽として、北山〜東山文化における連歌や能、狂言、
桃山文化における盆踊り、浄瑠璃や人形浄瑠璃、
元禄文化における俳諧、浮世草子、蒔絵、化政文化における滑稽本、錦絵、歌舞伎、
明治文化の小説、劇、昭和後期以降は芸能(歌、ドラマ)、プロスポーツ観戦、ゲームあたりに
なるんだろうな
でも、今からまた時代が経れば芸能(歌、ドラマ)やプロスポーツ観戦、ゲームが
文化の主流から外れ、現代における能や歌舞伎のように「古典芸能」扱いされるんだろうな
そう考えるとなんだかすごく感慨深い
最先端の大衆娯楽というとSNSになるのか?
文化史になるのかどうかはわからないけど、平成史の中で絶対インターネットは
出てくるね
411 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 21:47:32.43
1995年に続き2011年も歴史に大きく残る1年人になったな〜
2011年
東日本大震災
東京電力福島第1原発の事故
世界同時多発テロ首謀者のビンラディン殺害
平成で最悪の台風被害
天皇陛下入院
北朝鮮の金正日国家主席死亡
412 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 00:34:17.78
戦後の六十数年の中でも2011年は傑出していろいろあった一年じゃねーの?
日本国憲法施行の年とか、サンフランシスコ講和条約の年とか、それ自体は
大きな出来事だけど、こんなに盛り沢山な一年ではなかったよね(多分)
もっと年配の方の意見が聞いてみたい
マルチすんな
このスレ、意見が聞いてみたいのアンケート君に乗っ取られたのか?
もういい加減にしてくれよ。
この手の質問スレでは、アンケートはご法度だろ。それにアンケート内容は常に現代に絡めたのばっかだし。
スレ違い、違反の宝石箱だな。
415 :
質問:2011/12/20(火) 19:47:54.75
平安京までは頻繁に遷都していたのに、平安京が遷都しなかった理由は何ですか?
新井白石の母親の姓 祖先を教えてください
>>415 武士の時代を迎え、朝廷には遷都の費用を工面する事が出来なかった。
平安京以前も日本は常に財政が逼迫しまくってただろ
逼迫した財政で遷都する為には税を搾り取るしか無いが、武士の時代ではそれも出来ない。
財政逼迫云々以前に
古代の日本は世界でも随一の貧しい国だった
そんな日本が中国さえ滅多に行わなかった遷都を
天皇の代替わりごとに行ってたのが異常
>>420 天皇の代替わりごとに「遷都」はしてないよ
古代に天皇の宮が一代ごとにかわっていたのは「宮殿」のみを新築していたということ。
昔の茅葺や板葺の宮殿じゃあ、耐久年数も低かっただろうし、
どうせ建て替えざるを得なかっただろうしね。
大極殿や条里制を備えた「都」が成立したのは藤原京から。
これ以降は、一代ごとの遷都はなくなっている、。
10-20年前の大河ドラマ(慶喜だったかな?)で奇妙な光景があったんですが、これはなぜでしょうか?
江戸幕府で勅使と将軍が謁見するときは、本来は将軍が上座で勅使が下座だったのに
家茂のときには、本来将軍が座る場所に勅使が立って、将軍が下座で土下座をして勅語を聞くとと、大逆転してしました。
これについてナレーションも解説を入れてましたが。
なんでこんなことになったんですか?
質問です。
諡号では「霊」はあまり良くない意味も多い字ですが
日本の孝霊天皇は何故このような「霊」の字があてられたのでしょうか?
どのような意図で「霊」の字があてられたのか知っている方がいたら教えて下さい。
日本史てつまり主に桓武、清和天皇の子孫同士、てか天皇家の子孫が
ケンカ、勢力争いした記録てイメージでOK?
少なくとも武家政権や戦国については。
>>425 いや、全然ダメだよ。
なんでそんな乱暴なこと思ったんだ。
>>425 ○○の子孫は大義名分でっち上げるためのものがほとんど。
イラク戦争を始める時のブッシュの大量破壊兵器あるあるや、糸井重里の徳川埋蔵金「あるとしか言えない」発言と同種。
間に受けてるとバカにされるレベルの話ですな
>>422 徳川家康が伏見城で将軍宣下を受けた際には勅使が上位だったようです。
秀忠・家光もいずれも入京して秀忠は伏見城、家光は二条城で将軍宣下を受けており、やはり勅使上位。
しかし、秀忠・家光が後水尾天皇を二条城に招いて饗応したときには後水尾天皇と同座しました。
将軍上座、勅使下座というのは将軍が就任のために入京することを止め、
江戸城に勅使が赴いて将軍宣下するようになった4代将軍以降の慣例のようです。
幕末、将軍徳川家茂の時、幕政改革をひっさげ勅使と共に入京した島津久光は、江戸城における勅使上位を要求。
このとき江戸幕府は「古の例に戻す」として勅使上位を受け入れます。
この頃には幕府権威が落ち、朝廷の要求を否定できなくなっていたとみられます。
430 :
415:2011/12/25(日) 09:56:04.11
>>417-421 ありがとうございます
平安京は荒廃していったイメージがあるのですが、貴族はよく我慢していましたねぇ
荘園の拡大で税収が減ったのでしょうが、貴族が遷都を言い出さないのは自分さえよければ、といった考え方ですかね
国家の統治能力が落ちたから、荘園支配も進んだし、羅城門や内裏を維持できなくなり荒廃してしまった。
そんな弱体な政府に遷都なんて大事業はできません。
巨額の予算と、大規模な労働力を調達しないといけないし、各論沸騰するのを取りまとめないといけない。
国家が上り調子だったり、逆に戦時化などの非常体制で、強い指導力とか権力がないと
大プロジェクトはむつかしいです。
質問
公地公民制が正式に廃止されたのは、明治の地租改正? それとも昭和の農地法の改正?
どっち?
中高のアレっぽい教師なら昭和の農地法の改正と答えておけば喜んでもらえるよ
うちの縁の下の地中から三角縁神獣鏡がたくさん出てきたことがあった。
調べに来た人は「皆、国産や」と言ってました。
うちので、同種の鏡の発見数が累計600枚を超えたということでした。
(「面」って言ってましたがね)
なんで、庭先の水道で泥を洗い落とした途端、「国産」とかわかるんでしょうね?
結局、5枚だけ持ち帰って、あとは並べて写真だけ撮って終わりました。
三角縁神獣鏡って、珍しい物ではないのでしょうか?
残りは市の担当の人に引き取ってもらいました。
435 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 15:22:57.53
調べに来たとこにきけよ!
そんなんが史学の問題かぁ!
436 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:45:01.29
大学や博物館が所蔵しているものの10倍くらい
アマチュアや美術コレクターが所蔵しているという話はよく聞く。
確かに三角縁は買おうと思えば買えるくらい
流通してはいるらしい。
438 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 23:46:17.74
子供ん頃、家の近くに古墳群があって、整備してるわけでもなく、立入禁止になってるわけでもなく放ったらかしで、よく遊び場にしてたけど、今でもそんな感じなんかな
なんで、あんな形の前方後円墳が日本だけで造られたんでしょうか?
あの平面形は、平地ではわからないのに。
丸は陰、四角は陽を象徴し、陰と陽の結合を表しているらしい。
発想は、風水の陰宅と似てるね。
いやいや・・・
442 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 02:52:16.50
質問:道鏡のちんちんは、でかかったんですか?
それとも単なる伝説でしょうか?
芥川龍之介は、ちんちんでかかったそうですが…
>>442 おそらく単なる伝説にすぎないでしょう
女性の天皇がそこまで道鏡を寵愛したのは、セックスで言いなりにされたからに違いない、ということは
道鏡はよほどスゴイものを持っていたのだ、と、昔から勝手に憶測されてできた伝承と考えるのが妥当です
中国だと春秋戦国時代にはすでに衣装もきらびやかなのに、
日本では竪穴式住居だったんですねよ。
この違いはなんだろう?
現代だってニューギニアとかアマゾンとか行くと裸に近い恰好してるけど、それがどうかしたか?
親魏倭王印は、なぜ出てこないのですか?
>中国だと春秋戦国時代にはすでに衣装もきらびやかなのに
日本のドラマはどんなつまらない瑕疵でも見過ごさずに突っ込まれるのに
中国ドラマや韓ドラは誰も突っ込まないことの不思議
知らないからだろ。
日本については、間違った知識のインプットで強弁しているやつがやたら多いけどな。
450 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 22:50:18.95
>>448 ドラマは関係なく、出土文物を見ると、本当に春秋戦国時代は、すでに衣装もすごいよ。
絹とか複雑な文様を織りだした錦とか。
あと漆工芸品とか貴金属の装飾品とか、あまりにレベル高くて、始めて見たときびっくりした。
よく兵馬俑が紹介される秦の始皇帝の統一がBC221年。
卑弥呼の時代より500年ちかくもむかし。
>ドラマは関係なく、出土文物を見ると、本当に春秋戦国時代は、すでに衣装もすごいよ
エジプトが4000年以上前で日本も弥生時代には織物・染色がはじまっていて(確認できるのは魏志倭人伝)赤い染付けは縄文時代
魏志倭人伝より前は確認できないが軽くググった程度では中国の何が世界で突出しているのかは分からないね…
452 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 00:38:14.55
>>451 >中国の何が世界で突出しているのかは分からないね…
>>450はオレだが、世界で突出しているなんて言うつもりはない。
>>445氏も、日本と比較してるだけだろう。
上の方見てないが、誰か、世界で突出してるなんてレスしたのか?
同時代の文物を史料で確認できないのに比較することに意味があるのかい?
中国はすごいと単体でとりあげているからエジプトと比較したことがそれ程問い詰めるようなことなのだろうか…
そもそも>445の発想が一般的な日本人と乖離してんじゃねぃ?
NHKのシルクロードで中国の少数民族をみて日本の生活と比較して考える人間なんか俺の周囲にはいないし
80年代にドラエモンを読んだ中国や東南アジアの子供たちがTVや電話を知らないので
そういうものもドラエモンが持ち込んだ未来の道具だと思い込んでいると聞いても
「それはそれ、これはこれ」というのが普通の日本人の受け止め方じゃねぃ?
古代の中国と検証不能な日本との比較に限定したい香具師もいれば、エジプトとの比較はどうなのと訊ねる者もいる
それは咎められることなのだろうか
>>453 >>445は、単体で中国を取り上げてすごいと言ってるんじゃなくて、
当時の日本列島の文化レベルと比較してすごいと言ってるんだ。
そこを読まずにレスしたんじゃないの?
>>445の発想は普通だろう。
我が日本列島では、人間が竪穴式住居に住んでた時代に、となりの中国ではきらびやかな衣装を着ていた。
この文化の差は何なんだ?と誰でも感じるだろ。
そりゃ、文化レベルの差ではなく、文明のスタートした時間の差だ
中国が先に文明を開化させたってだけの話
マラソンで、A選手には先にスタートさせ、B選手にはその1時間後にスタートさせておいて、「A選手はもう中間地点まで
来てるのにB選手はまだスタート地点近くにいるじゃないか、なんでA選手はB選手よりもすごいんだ?」と言っているよう
なもの
456 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 09:09:28.59
「中国はすごいんだ」と言いたいだけで「中国と日本の比較いがいは許さない」とだけ言いたいのなら
考古学板か中国・世界史等の板でどうぞココは日本史・板
>>454 445だけど、その単純な疑問でした。
進取性のある民族なのになんで遅れてたんだろうかと
思ってたんですが、455の説明のように文明の発祥が遅かった
(大陸からの伝播まかせ?)ってことなんでしょうね。
春秋戦国時代だと、まだ大陸との交流もなかったんでしょうね。
ちなみに話が変な方に進んでいてちょっと戸惑ってました^^;
>>442 デマ。
たぶん、始皇帝の母親の愛人にまつわる伝説からのパクリだろう。
武烈天皇の暴虐伝説が史記からの盗用(桀・紂らの記載から)なのと同じ。
>>445 竪穴式住居は平安時代にも鎌倉時代にも使われ続けた、庶民用住居の王道です。
平安貴族のきらびやかな衣装と竪穴式住居は、同時代に共存する。
それと同じ事ですよ。
中国のきらびやかな衣装には劣るけど、春秋戦国の頃には日本列島でも、そこそこにきらびやかな衣装の貴人が出現してたのではないかと。
村で竪穴式住居を数戸再現したことがある。
むろん公開していて道の駅もつくった。
なぜあんなに地面を掘るのかというのがよくわかった。
天辺のけむ出しと中の北側に作りつける祠の作り方が難しかった。
へぇ〜
日本本来の仏教は神仏習合ってよく教わるけれども
それは禅宗とか浄土宗の話で
密教の場合は神道と仲悪いんじゃないの?
>>464 そんなことないよ。
比叡山の天台宗は、山王神道を生んでる。
真言宗は、両部神道を生んでる。
学生時代にうけた宗教学の講義の知識で、もううろ覚えだけど、
三輪の神仏習合は密教の儀軌によってると習った記憶があるよ。
>>465 最澄が比叡山に天台宗の延暦寺を開いたとき、もともと比叡山に祀られていた日吉神社を
延暦寺の鎮守社としている。
南都北嶺で天台宗延暦寺の僧兵が日吉神社の神輿を担いで入京、強訴していたのは有名。
天台宗や真言宗の寺であっても明治以前までは境内に鎮守社を営んでいたものがほとんど。
>竪穴式住居
>粗末な衣装
>ドラマでみた古代中国はすごいが現実の日本は駄目
先月世界史板に書き込んだ奴と同じ臭いがする…
>458
>ちなみに話が変な方に進んでいてちょっと戸惑ってました
改革開放以前の中国が貧しかろうが第三世界の住民生活が日本主観で見劣りしようが言い立てないのが日本人の徳目
と諭しても理解できないんでしょうね
ともかく、日本は劣っていたはずだというのは推測に過ぎず検証不能なことなのですから
古代中国と古墳時代以前の日本との比較をどうしてもやりたいのなら次回からは全く板違いの日本史板ではなく相応しい板へ移動してください
468 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 20:57:09.14
般若心経の六波羅蜜多と六波羅探題って別物でしょうか?
それとも六波羅探題のネーミングが地理から取られていても元は仏教から取られているのでしょうか?
そもそも六波羅ってなんでしょうか?
469 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 21:00:57.48
>>468 別物と言うのは六波羅探題に仏教的な要素は皆無という意味です
>>468 六波羅探題は地名から来ているが、その地名は六波羅蜜寺という寺の名前から来ている。
六波羅探題自体は仏教的な要素は無い。
そもそも六波羅蜜とは般若経に出てくる修行者が修めるべき六つの徳目の事。
サンスクリット語のパーラミターの音訳で波羅蜜多だが時に省略して波羅蜜とも書く。
字で書くと同じだが、京都の会話言葉では明確に区別してる。
地名を言う時は「ロクハラ」。(寺を指す場合も有る)
真言のことを言う時は「ハラミッタ」又は「パラミツ」。
般若心経は「ハラミッタ」と読む。
真言の教え・内容を一言で言う場合、「パラミツ」。
単に「ロクハラ」と言うて真言を指すことはない。
詳し過ぎるw
勉強になるなぁ
>>458 王侯将相と一般庶民を比べるからおかしい。
それと、竪穴式住居は板材の大量生産が可能になるまで長く使われた住居形式で、
鎌倉時代頃まで広く用いられた形式。
大陸と交流があったかどうかとは関係ない。
いや、板材を大量生産するための新技術「大鋸」は中国から伝わったらしいけど。
何が言いたいかというとだな。
同時代の(古代の)中国にも庶民はいる、庶民生活はある。
当時の中国の庶民がどういう生活だったかは習わないから意識にのぼってないだけじゃないかって事。
竪穴式住居で暮らしていた日本の庶民より裕福だったと言えるのか、疑問を持ってみよう。
春秋戦国時代ならば、日本はまだ縄文時代なので
大した文明はなかっただろうな。
「竪穴式住居」というたとえを出すのがまずいのであって
「日本の縄文時代に中国ではあれほどの文明があったのは凄い」
ということならば文意が通じる。
やよいタン
もっとも、中国の春秋時代って青銅器時代なんで、ドラマほど立派な時代だったかは怪しい。
(戦国時代頃から徐々に鉄器が使われるようになる)
>>474 九州北部の限られた範囲では、
おおよそ殷周革命の頃に弥生早期が始まってる。
東周の初期頃には西日本のほぼ全域が弥生前期に入る。
春秋時代頃には日本は縄文、というのは旧説。
弥生タンのはじまりが、近年さかのぼってますねえ
古墳時代も遡ってますね。
うちの裏山の山腹に全長50mの前方後圓墳があるが、
当初五世紀中葉のと言ってたのが、最近三世紀後半まで上がってる。
480 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 22:32:18.19
箸墓が卑弥呼の冢である可能性が益々高まった
それはない
>>479 それは調査前と調査後の見解の変化ではなくって?
昔は古墳周辺から出土した土器の形式とかで年代を推定していたんだけど、
最近は炭素同位法とか年輪の幅を使った年代特定の技術などが進んで、
昔の説が間違っていたとして、年代が修正されてきているんだよ。
箸墓古墳も、前は卑弥呼の時代ではなくて、より後になって造られた古墳だと言われていた。
最近はやたらと年代がさかのぼりすぎるネ
特に、C14法の年代観は眉唾ものネ
日本列島以外から出土した遺物、出土物と日本で出土した遺物で年代を比べる手段としてはC14以外の手段はないよ。
「絶対年代」としての信憑性が十分かどうかという点はともかくだ、
従来の年代法では「絶対年代」は算出不可能で、
「従来の年代よりも怪しい」とは言えないよ。
充分な信憑性と言える段階になってはいないだけ。
従来の年代法の方がもっと不正確。
今はドラマ平清盛が話題ですがニュース速報のスレで
「平家は壇ノ浦で滅亡するくらいなら宋に亡命すればよかったのに」
って書き込みを読んで、なるほどと思いました。
壇ノ浦前夜は陸地にはもはや拠るべきところもないし、たとえ
海戦で勝っても根拠地は得られないままですよね。
いいとこ松浦党みたいに小島に拠って海賊&貿易するか、
宋に逃げるのが関の山と思うんですが、どうだろう?
>>485 >充分な信憑性と言える段階になってはいないだけ。
そうですネ。だから扱いは慎重に、慎重に、
>>486 宋に逃げた所で日々の糧を得る術があるのか?
>>488 他国の高貴な人たちが逃げてきたら保護しません?
数人ならともかく大挙押し寄せたら邪魔だろう。
高貴か〜?
日嗣の皇子が中国で暮らすなんてありえなかったんじゃないの
>>486 琉球とか、その手前の奄美辺りにでも逃れたら?
壇ノ浦で義経に滅ぼされた一因は、九州は既に範頼に制圧されていたから。
だから船を用意できなくて逃げられないんじゃね?
>>489 宋が平氏を保護する理由が見つからん。
百済王族は百済復活の時に日本が関与するために預かったが
平氏なんて急に出てきた新興武家にすぎないし。
壇ノ浦では外海に出る海路は緒方惟栄たち豊後勢に封鎖されていたんじゃなかったか
宋はともかく、高麗に逃げ……無理か。
高麗とは国交あったんだっけ? 源氏物語の冒頭で、高麗から来た僧が
光源氏の将来を占ってるけど、そういう話のネタになる程度には人の交流はあったんだよね?
朝鮮半島南岸には、無数に島があるから、とりあえずあの辺に逃げるとか
平氏側は天皇と三種の神器の剣だかを持っていたはず
それを宋が評価すれば、あるいは……
>>499 都には治天の君後白河法皇が君臨していて、新帝後鳥羽天皇も立っていたんだよ。
三種の神器などほとんど意味をなさないのは南朝を見ていても分かる。
三種の神器のうち草薙剣は安徳天皇と一緒に沈んだので
朝廷は早速新しい草薙剣を作り直して何事もなかったかのようにしているし。
では壇ノ浦の前夜の平家は、もう詰んでいたってことかな?
壇ノ浦で勝って日本近海のどこかに逃れても、源氏方の水軍が
源氏武者を満載して来て、結局は第二第三の壇ノ浦になって
後背地がないもんだから、いつかは負けるだろうし。
>>500 >朝廷は早速新しい草薙剣を作り直して何事もなかったかのようにしているし。
作り直したっつーか、代用品を持ってきた。
鏡も内裏の火事で焼けて、破片しか残ってないとか言われいている。
箱の中を開けて神器を直接見ないことになっているんじゃなかったかな。
だから、どのような大きさや形なのかは不明。
剣と鏡の本体は熱田神宮や伊勢神宮に伝わっていて、宮中のは形代(みがわり)って説もあるけど、個人的には眉唾物だと思う。
損傷したり失われたとされる二つは形代で、勾玉だけは本物だよってのがいかにも後付けっぽい。
壇ノ浦の直前までは詰んでたとまでは言えないんじゃないの?
たられば論になってしまうが、阿波重能の裏切りがない前提ならば
合戦を有利に進めてある程度のところで講和、って道はなかったかな
追加。自分の兄弟も信じない頼朝は平家をちゃんと叩かないと自分がそうしたように
源氏に仇なすと考えた筈。
神道では、本物か偽物かにはあまりこだらわない
神社同士で、「あっちの神社でもうちの神社と同じ神様を祀っているが、こっちのご神体が本物だ、向こうで
ご神体と言ってるのは偽物だ」「いや、こちらこそ本物だ、こっちのご神体の方が古い」なんていう争いは
聞いたことがないでしょ?
こっちが本物だからあっちは偽物、というのではなく、こっちも本物だけどあっちも本物と尊重する
だから三種の神器が失われても、新しいのを作って、朝廷でその新しいのを公式に本物ってことにすれば、
それが本物になるんだよ
熱田神宮のも、伊勢神宮のも、御所のも、壇ノ浦に沈んだのも、それぞれみんな本物なのだ
南北朝の頃にはさすがに、そういうわけにもいかなくなってくるけど
>>506 神社の場合は分祀とか分霊であって一方が本物なら他は偽物という事にはならないが、本社/末社の
別はあるだろう。例えば八幡様は宇佐が総本社。お稲荷さんは伏見が総本社。
三種の神器が、中国の伝国の璽のように正統性の証なら、作り替えたらまずい。
でも、神の依り代なら、神霊が依り憑けば良いわけだから、
神が納得すれば作り替えても良いことになる。
三種の神器は、どっちなんだろう。
>>508 建前論からいえば、三種の神器自体に神性はない
(神が造り、神から賜った物体としての価値)から、
人間側が自分達の都合で造り直して問題ないってのは違和感あるけど。
逆に、単なるものなんだから消失した御神体・本尊、神社仏閣を建て直すことでご利益は変わらないのと同じって考えも成り立ちますね。
鏡と剣は伊勢や熱田のご神体でもあるし、火事で焼けたとか壇ノ浦に沈んだとかで最早どうでも
良くなっているが、(502は疑ってるけど)勾玉はそういう話を聞かないので勾玉が重要か?
仏教は本来偶像崇拝しないので仏像は突き詰めれば物でしか無いけど、御神体はどうだろう?
三種の神器は本来はその物自体の来歴に意味があった訳だけど、先に書いたような訳でこだわりが
無くなったんじゃね。
511 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 18:21:01.93
数百年後の後世から振り返った場合、明治時代と昭和時代はどちらが重要な時代として、
日本人に語られ、記憶されていると思いますか?
明治時代
・鎖国から開国への転換
・明治維新のさまざまな大改革
・日清・日露の戦争で勝利
・史上初の国会開設、憲法の発布
昭和時代
・最大の国難といわれる太平洋戦争の敗戦
・戦後のさまざまな大改革
・焼け野原からの復興、世界第2位の経済大国へ
最近の学校ではこういう宿題が流行ってんのか?
何度目だ〜ナウシカ(AA略
>>504 ふとおもったんだけど、結局長州は朝敵のまま、王政復古の大号令を迎えたのか??
514 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:47:48.81
>>511 太平洋戦争の敗戦はかなりの重要案件だけど、それでもトータルで考えると
明治時代のほうが重要だろうな
516 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 09:55:11.88
島根県の山林王が何故、あれだけの影響力を持ちえたのか歴史的経緯
を知りたいです。元を辿ると源氏に行きつくようですが。
何かお勧めの書籍はありませんか?山林地主の実態についての
本を読みましたが明治以降の情報しかありません。
>>510 南北争乱期、後醍醐天皇は新田義貞に神器と北陸宮を託し、「皇太子だから守れ」といいながら、
その軍勢が遠くにいくと、「神器は偽物、皇太子というのも嘘」と自分で言ってるから、
その時代ですでにその程度のあつかいだったのかもね。
>>516 いつの時代の話よ?
って、多分出雲地方などで盛んだったタタラ製鉄で大量の木材(炭)を使うんで、その供給源として大切だったからでいいと思うけど。
519 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 19:13:38.51
518
竹下登のことかと思ったんだが
>>519 竹下は鳥取だろ。
俺も確定はできないが、
>>516は亀井家のことじゃないか? 亀井久興という
政治家も出した。
先祖は信長の野望にも登場する亀井慈典だとか。
>>520のミス訂正
誤:亀井慈典
正:亀井慈矩
でした。読みは「かめいしげのり」のはず。
誰かデアゴの週刊日本の100人のスレ建てないかな
改訂版初買いだがちょっとハマってるんだが・・・
>>511 昭和だろ。
日本史の観点から見た場合、社会の仕組みが一番大きく変わって最大の区切りになったのが戦国時代。
で、次に大きい変革が起きたのが、太平洋戦争敗戦革命。
明治維新なんて、革命としてはかなり中途半端。
制度はいろいろ作ったけど、江戸時代との継続性がかなり保たれたまま。
>>524 すまない、そちらが正しいようだ。
指摘に感謝するとともに、誤解を与えたことをお詫びします。
申し訳ありませんでした。あと、ご指摘ありがとうございます。
質問です。
教科書などでよく江戸時代の次からの時代区分が
明治、大正、昭和、平成と元号になっていますが、
何故、実際は天皇の代が変わっただけで
それほど大きな変化も起きていないのにそこで区切っているのでしょうか。
東京時代とか大日本帝国時代とかでは駄目なんでしょうか。
>>527 東京時代だとほぼ維新から現在までずっと続いて何の区切りにもならないでしょ。
大日本帝国時代だって同様に長過ぎで無意味。
東京時代や大日本帝国時代では長すぎて無意味というなら、じゃあ江戸時代や平安時代って区切り方は
どうなんだってことになるけどね
まあ、明治以後は、歴史の流れ、社会の変化といったものが速いから一概に比較はできないけど
元禄時代とか、文化文政期とか、そういう短いスパンで区切って一つの時代を見る時に、現代では年号で
区切るのが便利ってのはあると思う
江戸時代までだと2、3年程度の短い年号が多くて時代の区切りには使いにくいけど、明治以後は天皇一代
に対して年号一つだから、ちょうど一世代を表す手頃な長さになるからね
>>529 それでも平安時代約400年、江戸時代約450年に比べると随分短いな。
ただ単に、「東京時代」がいつまで続くかわからんからだろう。
政治機能の移転が行われれば明治からその時代までを東京時代というだろうし、
東京が政都のまま400年以上たったらさすがにどこかで区切りを入れるかも。
>>527 明治〜平成は、まとめて現代というくくりなのではないでしょうか。
江戸時代以前は、評価が定まった過去の時代。
明治以降は、現在進行中の同時代。
ただ、同時代とは言っても、明らかに過去の一時期として扱いたい場合もあるので、
その期間を指すために、明治期、大正期、昭和期という区分を使用しているということでは?
将来、全く違う社会体制に切り替わったりした場合、歴史学では、明治から平成は、
一つの○○時代という区分が割り当てられるのでは無いかと。
>>530 揚げ足をとるようで悪いが、江戸時代はそこまで長くないぞ〜
>>527 現代史や、それに近い過去なら細分化した方がいい。
過去の延長線上に現在がある以上、影響が大きい部分は詳しく学んだ方が適切。
>>526 レスありがとう
モバイルからでスレたて出来ないんだけど過去ログもすぐ落ちてるし諦めるよ
元々古墳時代は大和時代と呼ばれていたようですが、
なせ政治の中心の地名を冠した大和時代が廃れ、
古墳時代が一般的になったのでしょうか
536 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 15:42:23.94
>520
亀井という名前の山林地主は出て来ないですね。島根県知事に
までなった田部さんが有名なようですが。
537 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 17:05:47.82
ディェップディェップって奈良時代の言葉でなんていう意味ですか?
>>535 大王墓や宮の所在地が必ずしも奈良県(大和)に限っていたわけではないから。
また、政権所在地と墳墓の造営地との関連も、今もって解明されてないから。
また、「大和」は奈良時代以降の書き方であるから。
また、この時代は先史時代と歴史時代の間の原史時代であり、飛鳥以降との区別の意味から。
このあたりが要因ではないでしょうか。
539 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 17:41:09.38
540 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 18:45:17.43
>>537 昨日たけしの番組でやってたやつか。
奈良時代には、現在のは行ををぱ行で発音していた。
蝶々(てふてふ)→ディェップディェップ
母上様(ははうえさま)→ぱぱうえつぁま
元号でしょでしょ
542 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 21:19:40.50
>>523 太平洋戦争の敗戦、戦後の改革、象徴天皇制、経済大国化、バブル、
確かに昭和も激動の時代だけど、社会と国の変化という意味では
やはり明治の方がでかいと思うけどね
鎖国から開国、維新の改革、幕藩体制から中央集権の近代国家へ、
社会に根付いていた身分制の撤廃、天皇の可視化、国会開設と憲法制定、
二つの大戦、明治は激動過ぎるよ
昭和がすごくないわけじゃない
明治がすごすぎるんだ
古代の話に便乗。
八百万の神々がいるのに、なんでわざわざ仏教を取り入れたんだろう?
教えが新鮮だったのかな。
それがなかったら獣肉食って体格のいい民族になっていたかも。
明治維新なんて、支配者側の首がすげ替えられただけ。
ショーウィンドウ的にいろんな制度は用意されたけどね。
敗戦は、全ての価値観を逆転せざるを得なくなった、本当の意味での革命。
溺れる者は藁をも掴むからじゃないかな
>>544 >八百万の神々がいるのに、なんでわざわざ仏教を取り入れたんだろう?
宗教を、今と同じような感覚で捕らえてはいけない。
丸ごと文化セット。
>>542 >鎖国から開国、
明治と昭和の開国は、程度の差に過ぎない。
>維新の改革、
何これ?
>社会に根付いていた身分制の撤廃、
身分制が本当に取っ払われたのは、昭和
>天皇の可視化、
大した意味はない
>国会開設と憲法制定、
明治憲法のインパクトと、日本国憲法のインパクトは比較にならない。
国会の役割の大きさもそう。
>二つの大戦
第二次世界大戦と比べると、何も起きなかったに等しい程度の戦争
>>547 大陸の技術や文化を取り入れる中に、仏教も入っていたってことか。
「技術は欲しいけどお前のところの宗教はいらない」
じゃ通用しないか。
>>549 いや、仏教が文化包括セットそのものだったんだよ。
>>548 明治と昭和の似通った部分での比較
@制度改革
・明治維新…廃藩置県、地租改正、四民平等、学制、一世一元制、その他
・戦後改革…財閥解体、農地改革、12宮家の臣籍降下、神道指令、その他
A天皇の位置づけ
・明治…見えない存在から国のトップとして見える存在へ、天皇の可視化
天皇の国家元首化、神聖不可侵の存在へ、国造りの為の全国巡幸
・昭和…天皇が国家元首から国の象徴へ、象徴天皇制、戦後復興の為の全国巡幸
B戦争
・明治…後進国と思われた日本が日清日露の戦争で勝利して国際的地位が飛躍
賠償金と権益の確保
・昭和…満州事変〜日中戦争で権益拡大、太平洋戦争の敗戦で焼け野原
GHQ(外国勢力)の統治
C国会と憲法制定
・明治…日本史上初めての選挙による国会(帝国議会)、初めての近代憲法制定
・昭和…現代につながる普通選挙による国会、新憲法制定(外圧による部分あり)
Dその他重大要素
・明治…富国強兵により、開国後わずかな期間で国際的大国へ上り詰めた
・昭和…戦後の焼け野原からわずかな期間で世界第2位の経済大国へ上り詰めた
>>550 では物部氏とかの仏教排斥派は、大陸の文化包括セットは
不要だって思ってたということ?
>>548 >>明治と昭和の開国は、程度の差に過ぎない。
ちょっと前まで鎖国してたって面は大きいだろう
>>大した意味はない
天皇の可視化舐めすぎ
>>明治憲法のインパクトと、日本国憲法のインパクトは比較にならない。
>>国会の役割の大きさもそう。
インパクトや役割の大きさはそうかも知れんけど、明治ではそれまでに
例のない初めての選挙による議会、近代憲法を成立させたという意味で
大きなこと
また、今でも評価の高い武士道精神などを含んだ教育勅語もあったし
どっちも重要でいいじゃん。なんか意味あるのかこの比較?
意見交換続けるなら別スレ立てたらいいよ。
元質問からして、回答が出るわけがない内容なんだから。
>>553 昭和は現在の社会に近いから影響力が強いんだよ
現在の日章旗の赤い丸の模様自体はかなり古くから存在したと聞いたのですが、
あの模様が日本や日本人を表す象徴のように扱われ出したのはいつ頃のことでしょうか?
>>556 日の丸旗の模様自体は源平合戦のころからあるらしいが、
この頃には源頼朝率いる源氏軍の旗として用いられるなど、武将が使用するものだった。
戦国時代や安土桃山時代にも、伊達氏などの大名が使用。
しかし、江戸末期まで日の丸が日本の象徴などではなかった。
日の丸が日本の国旗に定められたのは明治3年。
西洋諸国に倣って国旗を定めた際に日の丸が採用されてから。
>>552 不要とは思ってないだろう。
物部氏は宗教的な力・権威も持っていたから仏教の影響力が強くなると既存の権益が損なわれるとか、
ライバルである蘇我氏にとってのメリットがより大きいという政治的な理由から、反対したんじゃないかな。
559 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 13:42:09.14
旗といえば、時代劇などでは横幅の広い旗よりも縦に細長い幟の方がよく見られますが
横幅の広い旗は日本でも昔から使われていたのでしょうか。
>>553 >インパクトや役割の大きさはそうかも知れんけど、明治ではそれまでに
>例のない初めての選挙による議会、近代憲法を成立させたという意味で大きなこと
そりゃ、初の憲法成立にも、それなりに意味はあるよ。
でも、比較の話をしているでしょ?
>>552 宗教にとどまらず、文化やら秩序やら、すべてが変わってしまうほど影響が大きいから、
なおさら反対したんだろう。
>>553 >天皇の可視化舐めすぎ
よく分からないけど、具体的にどういう意味?
>>553 >また、今でも評価の高い武士道精神などを含んだ教育勅語もあったし
っていうか、大日本帝国憲法は、教育勅語ほど重視されてなかったってのが実態だった。
>>563 国政を述べた大日本帝国憲法と国民一人ひとりに教訓として出した教育勅語の差
教育勅語は義務教育とされた尋常小学校で四大節句に読み上げられ暗誦が奨励され
すべての国民の知るべき教育の基本理念とされた
それに比べ大日本帝国憲法は庶民が触れる機会がほとんどないものだった
別に教育勅語のほうが重視されていたとかいう問題ではない
まあ要は、日本国憲法のように国民一人ひとりに関わって意識されるものではなかったということだ。
>>563 あれ?
明治前半期には武士的要素を称揚することを避ける方針が強くて、
教育勅語でも武士を称揚する表現は避けられてたのではなかったっけ?
>>562 天皇の役割や存在の変化において明治時代は画期的であったという事
それまで京都御所に篭もり、ごくごく一部の人間としか会わなかった
従来のスタイルから変えて、国のトップとして全面に立ち、
全国を巡幸した事が日本国民を束ね、近代国家形成への大きな原動力になった
また、天皇の威信を高めるために御真影が学校等に置かれたのも従来にない変化
もっとも昭和における国家元首→日本国および国民統合の象徴への変化も同じく
大きな事だけどね
>>560 明治憲法と新憲法の純粋な比較じゃなくて、後世から振り返った時に、
日本史としての重要度という視点でみた比較だろう?
>>568 もちろん。
そりゃ、最初だからそれなりには意味はあるよ。
>>559 仏教で使う幡はあったと思うが、旗はどうだろう。
>>567 明治天皇の場合は特別インパクトがあったんだよな
若い天皇が軍服で白馬に跨ったり、洋装で馬車に揺られたり・・
これまでの天皇像(イメージ)を大いに覆した
572 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 08:00:01.94
>>570 ありがとうございます。
「はた」という言葉もサンスクリットの「パターカー」から来ているようですね。
即位礼の時に使われる金鵄と八咫烏の大錦旛も仏教の影響なのでしょうか?
>>567 >国家元首→日本国および国民統合の象徴への変化
実質的に主権者から引きずりおろされたんだから、大きいどころではないんだけど。
民衆が主権者になったというのは、日本史上初めてのこと。
天皇→将軍→天皇といった、単なる支配者の交代とは全然意味が違う。
574 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 11:09:00.95
↓ GHQも把握していた「日本を支配する秘密人物」とは誰なんでしょうか?
内外新聞紙の報道によりませば、本月十日日本占領軍総司令部は、
「日本の民主化のあらゆる努力を覆えす陰謀を持つ秘密政府」というものに
ついて発表をいたしております。そうしてこれは、「先に日本をこの戰争に
導いた黒龍会などよりも危険なものである。」としております。この発表は
次のようにいつております。「今年七月、又特に九月十二日以來、総司令部
は、日本を支配する秘密人物が存在することを知り、これを突止める仕事に
全力を注ぎ、講和條約調印以前に、これらの人物及び組織を壊滅しようと
努力しておる。」といつております。尚続いて、「全日本を蔽うこの網の
中心には、約十人の追放された軍人たちと財閥、独占金融資本家たちとの
組織がある。」と指摘しております。そうして「この支配には、前首相たち、
海軍及び陸軍の将官たち、旧及び新の財閥たちから、神風特攻隊員たち、
農夫、漁夫、政治家、藝者、請負師、判事、ギヤング、殺人犯などが参加
しており、死ぬまで主從の関係を結ぶ誓いをしている。この組織の下に、
東京だけで四万五千人に上る露天商が支配され、ギヤング的秘密政府は、
これら下層人民から搾り取つた金を、種々の政党やボス政治家に注ぎ込み、
又ボスたちのために暴力を提供し、その代わりにボス政治家は、彼らが逮捕
されないように手を廻し、行動の自由、非公式の便宜まで與えている。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/0512/00111290512059a.html
日本史とは少しズレるのかもしれませんが、
日本で天皇が天子を自称し出してからは、
昔の中国では天皇を公的にはどのように扱っていたのでしょうか?
あくまで日本の国王という扱いだったのでしょうか。
>>575 日本が天皇の称号を使い始めたのは天武天皇の頃
同時に日本国内での天皇の神格化がされたとされます。
白凰期〜平安時代初期まで、日本は遣唐使を遣わしていましたが、
中国皇帝から日本の天皇へ宛てた国書ではやはり「日本国王」の称号が使われました。
この時代の中国は国交を持つ諸外国に対して冊封関係で臨んでいましたから、
日本の天皇が中国皇帝の家臣である「国王」であるという立場に代わりはありません。
推古帝じゃなくって?
578 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 20:26:42.00
>>551の制度改革の比較を見る限り、戦後改革よりも維新の改革の方が凄いと思う
579 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 21:28:42.60
バカボンドという漫画を見ると、強くなるために日本刀で殺し合いの戦い・試合?を自ら望んで行います
このように侍は喧嘩でもないのに、修行のために時には命をかけて日本刀での決闘を行っていたものなんですか?
廃藩置県とか地租改正、解放令、学制なんてすごい改革だよな
それに比べたら財閥解体や農地改革は見劣りする
>>575-577 「天皇が天子を自称した」の範疇からは外れるけど、
577の言うように、隋への朝貢に際して国書で天子という自称を使ったことはある。
んだけど、このときには天皇号が用いられていないんだよね。
天皇号を用いるようになって以後で、天子と自称する国書を送ったことはあるんだろうか。
少なくとも、平安時代までは(というか、中世でも)、中国の王朝あての国書では日本国王と称するだけで、
天子と自称する国書は送っていないはず。
新羅とか渤海とかへの国書では天子と自称した国書を送ったりしてるけど。たしか。
戦後の改革は外圧(GHQ)によるところが多大だが、明治維新の改革は
内側からの改革だから質が違うよね
よくもまあ内側からあれだけの改革ができたなって思うけど
ただ、結局内側からだったから、徐々に徐々にしか変えられなかった。
大久保利通自体が、そういう方針だったし。
それでも暗殺されてしまったけど。
せんせい、質問∩(´・ω・`)
豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、源氏の血筋じゃないから、
平家の血筋だから、農民あがりだから等々、学生時代に先生が言っていた
のですが、でも、関白にはなれたんですよね?
なんかこー、聞いた時から「?」って感じなのですが、秀吉が幕府を
開かなかったとか、そういうのって、どう関係するんでしょうか。
漠然とした質問で申し訳ありません。
平清盛や豊臣秀吉は有名であり、説明文を読むと「〜ついに太政大臣まで登りつめた」
みたいな表現があります。
天皇に次ぐ官職NO1の座に登りつめたのだから凄いのはわかるんですが、清盛や秀吉以外にも
歴代の太政大臣(摂政や関白も含め)がたくさんいるのになぜ有名じゃないのでしょうか?
特権階級だった武士と被差別民を同じにしてしまう明治政府の政策ってすごいわ
今の政府では例えようがない大改革
>>584 源氏じゃないとか農民上がりだからはたぶん関係ないです。
思うに、元々武士でない秀吉に取っては将軍になる事に特別な意義が無かった。
でも本当の所は判りません。
>>585 歴代は貴族社会のルールに則ってその位に付いてます。例外だから有名なだけです。
>>584 秀吉が征夷大将軍にならなかった理由は
その当時はまだ足利義昭が毛利に身をよせていたため
無理に辞職に追い追い込むことができなかったのが理由でしょうね。
あなたが言う通り、秀吉が関白になれたことからも、
出自が原因でなれなかったというのは間違いなのが分かります。
本当に征夷大将軍になれない原因が源氏でないからだったのであれば、
関白になったのと同じ方法で源氏に改姓しなることはできたはずです。
※秀吉は藤原氏に改姓することで関白になっており豊臣氏になったのは関白になった後
>>588 征夷大将軍よりも関白のほうが上位であり、
関白の座を手にした秀吉は今更征夷大将軍になる必要がなかったと言える。
秀頼誕生時にはすでに足利義昭は将軍を辞していたが、秀吉は5歳の秀頼元服の際、
摂家嫡男の先例に乗っ取って内裏で元服式、同日、従三位近衛権中将とした。
秀吉が豊臣家は摂家で行くとしていた証であり、征夷大将軍不在であっても
あえて嫡子を征夷大将軍にする気はなかったことの証でもある。
>>578 明治初期:
欧米列強に食われないようにするため、近代国家として必要な制度、機関を急いでそろえた。
ただできるだけ速やかに体制を整えるため、現実的な妥協を無数に行ったため、
箱を外から見ると欧米諸国と同じだが、内側は江戸期とあまり違わない状態だった。
江戸時代は、酷い時代だったという宣伝を散々やったが、前の時代と比べて
生活は何も変わらなかった、というより、国民を半奴隷化することで資本形成を
進めるというのが政府の方針だったため、より悪化した。
一番大きな変革は、支配層の総取っ替え。
GHQ改革:
二度とアメリカと全面戦争を行ったりしないよう、徹底的に社会の仕組みを変えてしまった。
近代国家にあるべき機関は、戦前にほぼ完備していたので、日本側は当然それを
継続使用しようとしたが、GHQ側がいちいち内実を吟味して、ことごとく民主的なもの、
多くの場合180°反対の方向に変えさせた。
>>585 律令制度では「蔭位の制」があり、子の位は父の位に連動していました。
大臣につくことができる家柄は初めからある程度決まっていたのです。
父も祖父も大臣になどなったことがなく、本来太政大臣に登ることができない人物が
太政大臣にまで登れば「太政大臣にまで登りつめた」ということになります。
清盛は父の代には受領クラスでしたし、秀吉の父は朝廷の官職など受けたことがありません。
そのためにこのように言われます。
592 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 19:39:00.84
年貢(税金)を米から金に変えた地租改正って日本史上有数の大改革じゃね?
593 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 19:52:33.94
信長以前の仏教の勢力って比叡山も高野山も武装集団なんですが
そもそも仏教はあくまでも自衛のための武装とは言え
武装することは教義的にも普通の事だったのか?
宗教勢力が武力を有することは世界的によく見られるが
教義的な問題というよりも政治上の都合と割り切った方がいい問題。
武力なしで領地や身の安全を守れるような時代じゃないから。
>>594 そういや日本の仏教の格宗派って自衛以外で他団体を攻撃した事あるの?
たとえば浄土宗などが日蓮宗を武力で攻撃したり
596 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 20:30:29.82
日蓮がその排他的な教学で色々な僧侶に論戦挑んだために
浄土系の寺院から刺客を差し向けられたことがあったりと
対立する僧侶の暗殺はかるようなのはある程度はあったな
昔はそれぞれの寺院がかなり独立しているので宗派規模で戦闘するようなことはあまりない
国の政策としての制度改革で地租改正レベルの改革と言えば他に何が挙がりますか?
法然の廟所は延暦寺に破壊されたはず
そのほかにも宗派対立による戦闘や破壊は結構ある
南禅寺が延暦寺を批判したことで延暦寺が南禅寺を襲撃したこともあったな
ペリーが一回目に浦賀に来た時に
東京にいた薩長土肥の著名人って龍馬、桂以外にだれがいましたか?
601 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 07:31:32.41
京都では「白足袋さんにさからうな」というのを本で読みましたが、
彼らは永田町(東京)には影響力は持っているのでしょうか?
602 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 08:22:01.32
>>594 浄土真宗は鎌倉時代天台宗に追われて都落ち、しかしその後武力を蓄えて
室町時代には山科本願寺にまで戻ってきた
やがて都で信者を増やした法華宗(日蓮宗)と浄土真宗の宗教戦争が起こり
山科本願寺は攻め滅ぼされる(浄土真宗は石山本願寺へ移動)
浄土真宗を追って都で最大級勢力となった法華門徒だが、
今度は延暦寺を中心とする天台宗僧兵によって洛中を追われた(天文法華の乱)
室町幕府守護大名がそれぞれ一方に加担したり煽動したりした事実はあるが
やはり宗教戦争の面は大いにある
>>597 兵農分離や士農工商、解放令などの身分制に関わる政策
>>588 鎌倉時代に藤原姓や親王など源氏でない武家将軍の先例があるわけで、
将軍になりたいだけなら源氏への改姓は不要だったと思う。
どう考えても
>>589の方が主じゃないのかなあ。
>>595 天文法華の乱
日蓮宗が山科本願寺を攻撃して落城させるなどした。
>>600 それがクイズなら未だ東京は無いが正解となるだろう。それはさておき、江戸に居たかは判らんが吉田松陰は
佐久間象山と黒船見物に行っている。
晩年の豊臣秀吉は明やインドまで侵攻する気だったと聞いたのですが、
何か別の目的があったのではなく本気でそれができると思っていたのでしょうか?
>>606 秀吉自身は本気でできると思っていたよ
これに関しては、老化した秀吉が誇大妄想的になっていたからだという説もあれば、
当時の日本の国力からいって明攻略自体は不可能な計画ではなかったという説もあり、
いろいろな見方はあるが、なんにせよ秀吉が本気だったことは間違いない
秀吉ほど明確に外に対する野心向けた男って日本史だと意外に珍しいからな
浪人問題は家光の頃まで続くんだから、
内戦するか外戦するかしないと、処理できない。
メンツを別にすれば、朝鮮出兵は、
勝っても負けても良かったんじゃないかね。
江戸時代の商家の住み込みの手代や丁稚はお風呂はどうしてたんでしょう?
入らなければ臭うし、さりとて商家はケチそうだから湯屋代も
払ってくれるのかどうか。
もしかして井戸で水浴びで済ませてたとか?
井戸端で行水して、手ぬぐいで拭うようなことは、
風呂がないときの日常風景。
昭和初期まで。
五右衛門風呂持ってたりするのは、結構お金持ち。
ちょっと長くてすいません。
戦前は恋愛結婚が少なかったんですか?
親戚同士で年始に集まって、従妹の結婚の話になったんですが。
僕の祖父と祖母の結婚は、大恋愛だったけど、相当苦労したと聞きました。
友人で文学部の奴が、横で話を聞いていて「昔の恋愛小説みたいw」と言ってました。
場所は現代の渋谷〜赤坂近郊で、当時の状況は、
祖父:田舎から来た大学生で当時は二十歳くらい。50石程度の下級武士の末裔。
明治時代に実業で成功したため、実家は大金持ちだったらしい。(戦後は財産没収されて一転貧乏に)
英文学、カフェ、バンド活動などハイカラな趣味だったらしい。
高等遊民とかいうのをやった後、公務員になったそうです。
祖母:下宿先の御屋敷の長女。10代後半の女学生〜花嫁修業。
旗本の子孫。明治時代に料亭や宿の経営に手を出したらしい。軍人や官僚が家系に多い。
家は金持ちだったけど、ブロマイド撮影のアルバイト(広告のモデルですか?)をしていたらしい。
考え方や趣味は西洋かぶれで、モガと呼ばれていたとか。
祖母の許嫁:士族の家柄で○○子爵って呼ばれてたらしい。
祖母はこの人との婚約を断って、大騒動になった。
親族から「お家を潰す気か」「親不孝者の不良娘!」と罵られたらしい。
彼を振った理由が「親同士で勝手に決めた話に興味ありません」「私には自分で決めた好きな人がいて、彼と結婚したい」
こんな理由で勘当されそうになるなんて・・・現代人が見たら、まったく馬鹿げていると思うんですが。
当時だったらヤバい状況だったんですか?
あと、祖父と祖母って、当時は少し裕福なほうだったんでしょうか?
613 :
612:2012/01/19(木) 03:44:29.08
すいません、質問だけ書いて上げ忘れました。
614 :
612:2012/01/19(木) 03:51:19.95
連続すいません。一番下の行、少し変ですね。
もう少し正確に書くと、金持ちと言ってもどの程度の? ってことです。
今のうちは普通のサラリーマン一家なので、具体的にピンときません。
高等遊民は裕福でないと出来ないだろうな。
第1次桂内閣の第○次ってどういう意味ですか?
モダンガール()
旧陸軍において「駐屯地」とは外征先の一時的に駐屯する場所を指していたようですが
陸上自衛隊の朝霞駐屯地などの「○○(地名)駐屯地」に相当する旧陸軍の国内に置かれた基地は
なんと呼ばれたのでしょうか。
「衛戍地」という言葉もあるようですが、「○○(地名)衛戍地」というようなものは調べた限りないようですし
陸上自衛隊の「駐屯地」とはニュアンスが違うような気がします。
619 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 11:13:25.66
>>587 >>591 世襲的に太政大臣になった人物で清盛や秀吉くらい権勢を誇った人物はいないのでしょうか?
清盛や秀吉は成り上がり者だから有名になった側面もありますが、実際の権勢や実績でも歴代の
太政大臣を凌駕しているのでしょうか?
仮に成り上がりではなく、世襲的に太政大臣になった人物でも、権勢が凄かったり実績が凄ければ
清盛、秀吉レベルの知名度があってもおかしくはないですよね
>>619 清盛や秀吉は武家でありながら公家社会においても大出世したために有名です。
公家社会の「太政大臣」だけでは武家社会には影響力ないですからねえ。
武家の頂点に立ちながら太政大臣にもなった人には足利義満、徳川家康ら有名人がいます。
>>619 藤原道長は『この世は俺のものだ』と歌ってますが、それでは足りませんか?
有名じゃないというのはあなたが知らないだけじゃないですか?
622 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:11:10.92
>>620 現在は公家や武家って身分がないのであれですが、現在に置き換えて例えれば、
公務員として事務次官まで上り詰め、その後事業を立ち上げて大企業に育てたって感じ?
>>622 裸一貫から事業立ち上げた実業家が、政界入りして
首相に上り詰めたようなもんじゃないか?
>>622 清盛にしろ、秀吉にしろ、家柄からみれば考えられないポストに就任したということが
歴史上まれに見る例外だから宣伝されているわけで、ポスト自体に意味はないかと。
(清盛は父親の忠盛の官位などを見る限り、院側近として公卿になるくらいは予想の範囲)
歴史上でいったら、地方・中小豪族出身で大臣や法王になった吉備真備とか道教あたりくらい。
現代で例えると、清盛の場合は東大・京大じゃなくて、無名の私立大出て事務次官になった。
秀吉は中卒なのに、事務次官になった(法律上可能か知らないけど)みたいな感じでは。
>>623 それはまさに田中角栄ですね
>>624 >>現代で例えると、清盛の場合は東大・京大じゃなくて、無名の私立大出て事務次官になった。
>>秀吉は中卒なのに、事務次官になった(法律上可能か知らないけど)みたいな感じでは。
その例えが妥当なのかどうかわかりませんが、もし妥当であるなら思ってるほどは凄くはないですね
(もちろん凄い事は凄い事ですが、清盛、秀吉のイメージが強烈過ぎるので)
しかし、太政大臣のポストは現代で例えれば事務次官じゃなくて総理大臣に当たるのでしょう
>>625 そうですね。幕末の長州の農民の倅が倒幕に参加して、明治の元勲として総理大臣まで上り詰めたって処かな。
日本史上における立身出世のベスト3
1位 豊臣秀吉
2位 伊藤博文
3位 田中角栄
こんな感じ?
頼朝さんも、家柄はともかく、立場を考えればたいしたもんだと思いますが。
政治犯として30までなかずとばず。
自前の武力はほぼゼロ。持っている武器は、
「子供のころ、中級貴族上流の家柄の任官をうけました」これだけ。
この状態から関東武士団をコントロールして、内乱の中、平家・朝廷と
渡りあって生き残り、幕府を開いたわけで。
>>625 首相は知名度と運があれば中卒でもなれるからなぁ
事務次官は中卒にとってそもそもあり得ないポスト
上に日本国王についての質問と回答がありましたが、
対外的(主に中国に対して)に将軍が日本国王とされていた時も
天皇は日本国王だったのでしょうか。
また、もしそうした場合に天皇と将軍が同格だと誤解されなかったのでしょうか。
>>630 中国皇帝は朝貢してきた者に対して位を与えるだけですからね。
例えば、日明貿易では足利将軍が中国皇帝から日本国王の称号を与えていました。
で、同時期の日本の天皇はどうだったかというと、中国皇帝からしてみれば、
音信不通、国交なし、赤の他人なので知らん、というわけです。
天皇と将軍が同時に朝貢し、「どちらかを日本国王に任じろ」と言ったなら別ですが、
日本では将軍が貿易をしだす時期には天皇にはすでに船を派遣するだけの力はありませんでした。
中国皇帝は中国に朝貢するだけの力のある将軍のほうを「日本国王」として日本統治者としていたわけです。
>>624>>629 現在の制度上、中卒でも国家一種試験を受けることはできます(国家一種の受験資格は年齢制限しかありません)。
だから、制度上、国家一種試験に通りさえすれば中卒が事務次官になることは可能ということになります。
実際になった人がいるかどうかは不明ですが(公務員は最終学歴を公開しないので)。
>>630 中華では「将軍」というのは一武官にすぎない(しかも、武官は文官よりさらに下に見られる)ので、当時の
国際外交で「征夷大将軍」などと名乗っても、国を代表する立場の者とは見てもらえない
実際、足利義満が1380年に使いを送った時は「征夷大将軍源義満」を称したため、無視された
ちゃんと対応されたのは、1401年に「日本国准三后道義」を称して遣使した時で、これによって義満は翌年、明から
「日本国王」の称号を与えられた
徳川幕府はそういう事情をよく承知していたので、朝鮮との国交文書では、将軍の呼称として最初「日本国大君」
を使用し、後に新井白石がこれを「日本国王」に改めている
>>631,633
ありがとうございます。
中国からしてみれば現在のように他の国の政治体制が分かっている上での外交ではなかったのですね。
>>634 というか、異国の使者は皇帝の徳を慕ってやってくるという建前なので、その国の実態には関心が無い。
直接の利害関係にある場合は別だが。
636 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:33:33.63
足利直冬について質問です
尊氏や直義は以前から庶子(後の直冬)がいるということを知っていたのでしょうか
いくら何でも出自も分からない寺の喝食を直義が養子にするとは思えません
というか、日本を掌握している人(例えば、倭寇をとりしまることが出来たりとか)を
日本代表者として認めて公式の貿易の窓口としますよってだけなんじゃにの?
足利将軍の最初の使者のときって、「将軍」だからNGじゃなくて、
それ以前に中国に使者を出した南朝征西府の「日本国王良懐」との関係が中国側では判らず、
倭寇の被害も続くので日本を掌握していると認められなかったからじゃなかったの?
だって制度の建前からいえば、中華皇帝が認めるから○○国王なんであって、現地での称号なんて単なる私称でしょ?
そりゃ皇帝とか天皇って肩書きで使者を出すと不遜だと怒るだろうけど。
龍馬伝を見ていますが
龍馬が木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通に最初に会ったのっていつって分かりますでしょうか?
龍馬伝の通りでいいのでしょうか?
例えば龍馬は黒船襲来の前に偶然会っていたとか
639 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 11:31:14.88
645年に改新のみことわりが出ましたよね
そこで天皇を中心とした国づくりが発表されてるのに
その後中大兄皇子はすぐに孝徳天皇に逆らって天皇を仲間外れにしました
矛盾してませんか?
>>639 改新の詔は当時使われていない後世の言葉が使われていたり
実際に出されたのかどうかは諸説ありますが・・・
孝徳天皇が蘇我氏本拠地飛鳥にあったそれまでの都を捨て
難波に新都を築き、革新的な政治を行おうとしたのは事実でしょう
しかし、政策に反対する者、乙巳の変の実行者中大兄皇子の台頭などで
最終的に行き詰ったのでしょう。
中大兄皇子ばかりではなく、孝徳の実姉皇極太上天皇、
孝徳の皇后間人皇女までも孝徳を見捨て飛鳥へ帰ったのですから、
余程不評だったのでしょう。
641 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 13:32:42.53
人間は顔の美醜、お金の有無、年齢、性差、コミュニケーション能力の有無、
さまざまな条件において格差がありますが、少なくとも建前上および法律上は
平等を担保しているのです。
しかし、建前上および法律上においても天皇や皇族方は良くも悪くも平等では
ないのです(国によって保護されると同時に基本的人権が制限されている等)
なぜ日本国において、このような唯一の例外的存在があるのでしょう?
また、そういった唯一の例外的存在があることを正当化する理論、理屈とは何でしょう?
太政官制と内閣制はどう違うのでしょうか?
それぞれの特徴などをわかりやすく教えてください
また、いまの日本で内閣制から太政官制に戻したとしたら、どうなるでしょうか?
>616
複数回総理大臣の任を務めた人物の場合、それによって第1次、第2次、…と内閣を区別します。
最多は吉田茂の5回。
(カウントされるのは、総理大臣として選ばれた回数、なので、内閣改造だけの場合は除かれます)
現在でもこの言い方は踏襲されています。
せんせい、質問∩(´・ω・`)
井伊直弼が、大老職を得る過程は何があったんでしょうか?
最後は将軍から直接受けたような形になっているらしいですが、家定に井伊を大老に
するよう進言したのは、どなたさまなんでしょう? 大奥サイド?
647 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 16:58:16.56
庸の労役には兵役の防人は含まれていますか?
それともこの労役と兵役は別物ですか?
648 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 17:26:35.75
>>647 庸と防人は別物です。
京と畿内の庶民は朝廷の命により都や寺社仏閣建設の人夫として労役が科せられることが多かったのですが、
地方の人々にはこの労役の代わりに地域の副産物を都におさめさせたのが庸です。
防人は辺境を守らせた兵役で、当初は東国、のちに九州の庶民が徴兵されました。
>>648 労役は「雑徭」だろ?
国司が徴発するものであって、ミヤコで働くものではないけども。
庸の「地域の副産物を都におさめさせたのが」は違わないか?
兵役としての徴発と、徴発された人の生活を支えるための物資。その両方を呼んでるはず
>>649 庸は本来、都での労役。
しかし、地方の人々はこれが困難なので布・綿・米・塩を代わりに収め、これも庸と呼んだ。
雑徭は地方の労役。
国司が徴収して地方で労働を課すことができた。
では、防人は何かと言えば、国が大宰府などの辺境に派遣した兵士のこと。
庸とも雑徭とも違うが?
日本史上で最高の強権を握った人物は誰でしょうか?
何人か候補を挙げてください
>>652 やはり誰もノーと言えなかった豊臣秀吉でしょう。
654 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 03:18:24.57
質問です
近江令や飛鳥浄御原令は行政法令であると言われていますが
この頃、一般的な刑法令と言うものはなかったのでしょうか?
>>652 あまり強権を発動させることはなかったけど、明治、大正、昭和の天皇のうちの誰かじゃね?
秀吉や徳川幕府の将軍なんかは、地方は現地の大名に統治を任せて間接的に支配していただけだが
戦前の天皇が勅を出せば、日本全国どの地方の人も、ありがたくそのお言葉通りにしなきゃならなかった
もっとも、昭和天皇の頃には軍部の暴走がひどくて、天皇の意志にも反することもしていた(終戦の
時に玉音放送を妨害しようとした動きもあった)けど
656 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 08:59:27.83
>>654 近江令や飛鳥浄御原令は原本が現存しないのではっきりした内容は明らかではありませんが
令(行政法)のみで律(刑法)はなかったとされています。
この時代までの刑事罰に対しては法令にのっとらず、
天皇の軍事行動による私刑によって行われていたということでしょう。
大宝律令によって中国から輸入された律が加わり、法令にのっとった
刑法が定められるようになりました、
>>655 曲がりなりにも選挙が行われて議会が開かれ、
議院内閣制がとられていた大正・昭和期には
天皇が独断で勅を出すことなんかできなかったよ。
天皇が議会と対立するなんてことはまずなかったからね。
そういう意味では、天智・天武・持統あたりの時代が一番
天皇が強権を持っていたと思う。
>>652 卑弥呼
蘇我馬子〜入鹿(蘇我氏の栄華の代表格)
藤原道長(藤原氏の栄華の代表格)
平清盛(平氏の栄華の代表格)
足利義満(武家&公家としてトップ、日王扱い)
豊臣秀吉(全国統一、武家&公家としてトップ)
徳川家康(全国統治及び朝廷への介入)
奈良〜平安初期辺りの歴代天皇
明治天皇(神聖にして不可侵)
昭和天皇(戦前は現人神)
まあ意見は割れるだろうね
〉日王
お里が知れるな
実際、中国皇帝から日王扱いされたんだろ?
何を言ってんだか
662 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 10:30:44.67
「日本国王」に冊封されたはずでは?
義満を日王ってよんでるのは初めてみた
宿題は自分でやれ
すいませんでした
668 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 14:31:44.50
>>656 解答ありがとうございます
もう1つ質問させて下さい
天武天皇の出した八色の姓は皇族とそれ以外をはっきりとランク分けするものだったと言われていますが
これ以前に皇族以外が皇族より力を持ったり皇族の脅威になった事ってありましたか?
元々豪族はいくら力を持とうが豪族に過ぎず皇族には及ばない印象があります
後、八色の姓と冠位階との関係性についてです
せっかく八色の姓で豪族を階級分けし手中に収めても
冠位階の能力に比例して力を得る仕組みがあると姓で氏族をランク分けする事に意味がなくなりませんか?
生まれながらに決められている地位と能力に比例して力を得る制度とが両立していた事をよく理解出来ません
教えて下さい
>>668 蘇我馬子や蘇我入鹿は当時の天皇を凌ぐほどの権力者だったと言われてるが
>>668 かつての大和朝廷は有力豪族の連合体で大王(おおきみ)の権限はあまり強くなかったと考えられる。
蘇我氏や、大王の仏教政策に反対して戦争になった物部氏などを見れば判る筈です。
そういった旧来の豪族の上に皇族を位置づける新しい身分秩序が八色の姓です。
『冠位四十八階は、天武天皇14年(685年)に施行された。冠位二十六階を改訂したものである。
八色の姓と関連がある。大宝令で位階制が制定されるまで存続した。諸王(親王と王の総称)を
諸臣と分離し、別の冠位(十二階)を与え、諸臣の上位においた点も注目すべき点である。』
wikipediaの引用ですが、冠位も皇族と臣下たる豪族とで区別があります。
古代の話に便乗ですが、民の苦しみを救うためといって
寺やら仏像とか建立して、かえって民を苦しめてました。
これって為政者はおかしいと思わなかったんですかね?
この世で苦しんだ民衆もお寺や仏像に寄与した功徳で多少はマシな来世になると思われます。
常々思っていたが、各個人への福祉をケチって、
なんたら福祉センターを建立するのは、
現代でもよくあることだな。
で、中では割りとどうでもいい福祉セミナーやら講演会をやって
お茶をにごすと。
>>671 聖武天皇が出した大仏造立の詔を読む限り、民を救うために大仏を作るといった恩着せがましい文言なのではなく、
民が聖武天皇と思いを一つにして大仏建立に汗を流すことによって
一つの国家を成す運命共同体としての仲間意識を高めることを言っていたような。
聖武天皇が自分の権力を誇示して大仏を作ることは簡単だが、それは望まない、
それよりも民が志を一つにして私に協力してくれることを望むといったことが書かれてある。
勿論、大仏建立の人夫として徴収された民が本心から協力的だったとも思わんが。
676 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:14:35.71
幕末の武市や久坂などの攘夷派の今の評価ってどんなもんですか?
勝ち目が無いのに攘夷攘夷って現実を見れていなかったのでは?
たまたま外国と大戦争にならなかったけど
考えとしては戦前の日本の軍人と同じような気がしますが
下手したら彼らが外患を招いて日本を滅ぼしかねない張本人になっていたかも知れないし
逆にたしかに屈辱的外交だけど日米戦争を回避した阿部正弘はもっと評価されても良いのでは?
昔のWikipediaソースですが、安土桃山時代に、新しい側室とその娘(まだ幼女)で無理やり乱交したとか言う理由(でっちあげ?)で粛清された人がいたと思うんですが
豊臣秀次だったと思ったのですがWikipediaには書いてませんが、わかる方いらっしゃいませんか?
解決しました。一の台の連れ子なんですね
はい、次の方どうぞ
680 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 04:14:56.45
大宝律令以降、八色の姓が皇族三親等外の真人と有力豪族の朝臣がいたとして両者は階級差にあったとします
しかし両者の位階が同じものだった場合の力関係はどうなっていたのでしょうか
大名のレベルの指標?としてxx万石というのをよく聞きますがこれはどの範囲を指すのでしょうか?
その大名単独の収入(=税収?)でしょうか、それともその城ないしは家の家来等に配る分も含んだ値なのでしょうか?
あるいは国の総収入なのでしょうか?
>>682 藩の収穫高です。そこから何割かを税として取る。家臣に知行地として与えていればその分は無くなる。
知行じゃなく禄の場合は税として集めた内から与える。
685 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 15:34:15.15
黒澤明監督もゆくゆくは今で言う葛飾北斎や松尾芭蕉、世阿弥クラスの
日本を代表する歴史的文化人になっていくのでしょうか?
手塚治、北野武、宮崎駿、村上春樹辺りはどんな感じでしょうか?
一石って成人男性が一年に食べる米の量でしたっけ?
十万石と言ったら、十万人養える、ということなのかな。
はい。
>>685 黒澤明>>>壁>>>手塚治>宮崎駿=北野武=村上春樹
こんな感じじゃね
黒澤監督は北斎、芭蕉レベルになるかもね
689 :
ゴミために降りた鶴:2012/01/31(火) 20:06:14.33
>>586 :縄嘉ー:
>ではお望み通りにしよう。
て。てめえ、それで反論でもしたつもりかこの野郎。
いっぺん俺の目の前で語ってみるか?
690 :
ゴミために降りた鶴:2012/01/31(火) 20:07:45.72
まあ、公称収穫高って感じですが。>石高
米がとれる量を表しているわけではない。
商品作物を育てている畑や、屋敷地、ときに作業場まで「石高」を持っている。
その公称収穫高のうちの何割が税として集められるわけだが、
家臣の取り分とかまで全部合わせた総額表示だね。
作業場まで石高が有るんだったら松前藩が実高0というのはおかしくね?
公称収穫高?えっ?
GDPという解釈でよい?
江戸時代初頭に数度全国的な検知がされただけで、
それ以降の新田開発などで増えた収穫高は租税の対象にならなかった
と聞いたことがある。
表高は公称というか、公認って感じじゃね?
一応、米の取れる量を基準にしているけど、政治的な配慮(対馬の宗家とか)や、
大名側の見栄(天草・島原の乱の原因)によって高くなったり、低くなったりする。
同じ表高でも奥州棚倉への転封は、左遷だし。
高いと江戸城内での序列は上がるけど、軍役負担は増えるから。
697 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:00:30.39
仏像が祈る対象から鑑賞する対象に変わってきたのは...何故?
698 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:08:15.40
>>697 仏像を国宝や重要文化財に指定するようになってから。
寺に置いてあるならばまだ一応は拝む対象だが、
博物館に陳列された仏像はもはや誰も文化財としてしか見ない。
西洋人が美術として見る視点を持ち込んだからじゃないの?
あの人達には信仰としての視点なんか最初から欠けてるんだし。
>>696 棚倉とかの場合、左遷された大名が
「公称六万石だけど実高一万石だから見直してくれ」
と言えなかったのかな?
>>700 大名でもないのに大名格ってだけで、
殿様が宿屋のポン引きしてでも金作って自主的に参勤する例があるくらいだからな
「懐が厳しいから、ちょっと格を下げてよ」なんて言えないんじゃない?
>>692 松前藩は例外
基準となった検地の時、屋敷地は「上田」扱いで石高計上されてるぞ。
除地以外は石高設定されてるよね
>>697 明治の廃仏毀釈で祈る価値も無くなり海外への流出が始まった。フェノロサからその美術的価値を
教えられた岡倉天心がそれを国内に広めて海外流出を食い止めた。それから。
歴史秘話ヒスとリアを見てたら、ナレーションが「西南戦争は日本最大の内戦」と
言ってたけど、本当なんでしょうか?もちろん西南戦争も最大の内戦の候補には
なるだろうけど、他にも強い候補があると思います
歴史に詳しい方、ご意見を聞かせてください
ちなみに下記は自分が最大の内戦として候補に挙げたものです(時系列)
日本最大の内戦と聞いて、どれを思い浮かべますか?
@壬申の乱
A源平の合戦
B応仁の乱
C信長VS本願寺
D関が原の戦い
E島原の乱
F戊辰戦争
G西南戦争
西南戦争以前は日本がまだ存在してないからおk
>西南戦争以前は日本がまだ存在
関係ないが先日BSで放送された「ファイナルカウントダウン」
米軍に捕虜になった日本人パイロットが「トリックを使うと許さんぞ」と
日本語はたどたどしい発音なのに「トリック」だけはネイティブに近い発音をしていたので苦笑してしまった
そこは「詐術」だろ
まぁ言葉尻を捕まえて正しいとか正しくないとか野暮の極みだわな
まぁ正確には近代国家としての日本
>>709 やはり「戦国時代」というもの自体でしょ。
典型的な内戦状態の一つである戦国時代をおいて、ほかにどんな「最大の内戦」があるというのか。
710 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:13:14.73
小国文立時代は日本とは呼べないか
当時の人々にとって日本(日ノ本)とは現代の我々にとっての「世界」に近っかたと思われる、それ迄の主権者も古代朝廷統治時代を除けばあくまで最大諸侯であり平時に置いても反独立。
言うなれば世界統一後の視点から過去の世界大戦を内乱と呼ぶようなものかな。
訂正:平時に置いても外部勢力は半独立。
日本史板に日本史の良書スレがあったはずなんですけど、
どっか行っちゃったんですかね。
近現代史の通史を勉強したいんですけど、
左寄りの物や、各論に走っている物以外で
何か良い本、シリーズがあったら教えて欲しいです。
なんで卑弥呼みたいな重要人物が国内で全く伝わらず中国の書物にしか名前が載ってないの?
>>714 卑弥呼の時代の日本に、文字の読み書きができた人間がどれだけいたことやら
文字史料がなく口伝だけでは、歴史の伝承には限界がある
その子孫や氏族が権勢を持ち続けて血筋を存続させていればともかく、そうでないなら
数世代もすれば地方の一権力者のことなど忘れ去られるのは当然のこと
716 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 00:07:53.38
忍者について調べたいのですが、良い本などは無いでしょうか?
実際の仕事やその手順、生活などを詳細に解説してあるものがあれば紹介していただけませんか。
「たべもの噺」鈴木晋一著の中に、蹴鞠の時にあまのり、たたみ、つばゐもち(椿餅)を食べものとして出した。
(『蹴鞠之目録九拾九箇条』)
という記述があるのですが、あまのりは「海苔」として、
「たたみ」は何でしょうか?「たたみいわし」なんでしょうか?
本に「たたみ」の部分だけ説明がなくて、すごく気になっています。
スレ違いの場合は、正しいスレを教えて下さい。
719 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 21:55:37.81
奈良時代の国と郡の関係について教えて下さい
地方には国と言う大きな枠組みがあってその中に郡と言う区画がいくつかあった
と言う認識に間違いはありませんか?
間違いは無いようです。
地方領主の治める「郡」という行政区画があって、
その統治を担当する郡司はほとんど世襲に近い状況だった。
それら郡を束ねる、地方統治のための出先機関として新設されたのが「国」であり、
その統治のために中央から派遣されたのが国司。
古墳時代の国造に類する地位を残していたのが郡司だよ。
法然の4万5千人の結縁交名って翻刻ないしは
人名が判読できる高精彩な画像の公開されてる?
信長・秀吉・光秀・家康・信玄・謙信・他一同が
天皇中心として協力して大陸に攻めたらどうなってると思いますか?
和睦を最初から否定するならば、まぁ、今頃日本列島は外国人だらけになっていたんじゃないですかね。勝とうと負けようと。
725 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 03:22:01.01
>>720 >>721 解答ありがとうございます
郡司は国造で地方の豪族と言う事でしたが
奈良時代、この国司に就く人はどんな地位にいたんですか?
国司は郡司とは違い、官僚で四等官だったと書かれていますが
国司を輩出し続けた特定の豪族などはいたんでしょうか?
歴史に疎いので初歩的すぎる質問ですみませんが、
新撰組が称えられてる?理由を教えてください。
新撰組はいわば江戸幕府を存続させようとした側ですよね。
明治維新を成し遂げた側の坂本竜馬などが称賛される一方で、
新撰組も良好なイメージで扱われています。
これはなぜでしょうか?
基本的な質問ですいません
「稲米」の読み方を教えていただけませんか?
>>726 誰も未来が見えてる訳じゃ無い、結果的に敗者の側に立ったとは言え其れは致し方のない事だった。
>>726 旧体制を壊す美学もあれば、同時に現体制を死守する美学もある
良い悪い、勝ち負けを越えて、信念を持って闘い抜く姿勢が
維新志士ともに評価されているのでしょう
古来から日本でも酒が飲まれていたと思いますが
具体的にどういった種類の酒なんでしょうか?
日本酒なんでしょうか?
それとも今では再現不可能なんでしょうか?
もっといえば平清盛が飲んでいた酒と坂本龍馬が飲んでいた酒は基本的には同じものでしょうか?
当然ビールやワインでは無いと思いますが
>>731 歴史時代に入ってからの日本では米を原料とした酒以外はほとんどない
沖縄とか、あと、東国の遠くのほうは別かもしれんけど。
ただ、清盛のころまでさかのぼったら、清酒はたぶん、まだない。
どこかの博物館で、奈良時代平安時代の酒を再現展示してた記憶があるが。
甘味料用の酒とかもあった。
坂本竜馬の時代には、酒の主流は清酒だろう。
だから、清盛が飲んでた酒と竜馬が飲んでた酒は全く違うはずだ。
733 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 22:36:17.19
あとは、焼酎やね。
>ただ、清盛のころまでさかのぼったら、清酒はたぶん、まだない。
>どこかの博物館で、奈良時代平安時代の酒を再現展示してた記憶があるが。
>甘味料用の酒とかもあった。
それは今でも作られて普通に酒屋で売ってて飲めるレベル?
例えば具体的な原材料や作り方の資料はあるとは思うですが
>>726 新撰組を善として描いた講談などもあったことはあったけど、どちらかといえば、明治・大正の頃には、
新撰組は賊軍扱いだったよ
新撰組の調査のために今でいうインタビューを受けたある元隊士は、必死に「自分は騙されて新撰組に
入ったんだ」みたいな自己保身の証言を残している
その頃は、新撰組の隊士だったことは、誇れることではなかったわけ
有名なところでは、大正時代に書かれた大佛次郎の『鞍馬天狗』では新撰組は完全に悪役だ
それが、昭和に入って、子母澤寛の『新選組始末記』などでようやく新撰組が再評価されはじめ、映画
などでもいいイメージで描かれるようになった
そして、新選組のいいイメージが決定的になったのはやはり戦後
なんといっても、司馬遼太郎の小説『新選組血風録』と『燃えよ剣』や、それらを元にした映画やドラマ
などによるところが大きいだろう
>>725 そんなあなたに国司補任。
奈良時代、国司の長官である守は四位から七位までの中下級官人から、
次官の介以下は五位から初位までから任用された。
なお希には三位の国守も居た。
六位クラス以上に昇進した人のほとんどは、
経歴のどこかで国司を経験して居るんじゃないかな?
よって数世代にわたって国司を経験した一族は多いとは思うが、
特定の国の国司だけになり続けたような例は少ないと思う。
ましてや、奈良時代を通して独占したようなことはないのでは?
まあ、親子兄弟等で特定の国の守介をたらい回しにしようとしたらしい
ケースはあるようだけど。
まあとにかく、この時代の国司は一般の貴族・官人であり、
特定の階層とは言い難いでしょう。
大臣になるような人でも大概は経歴に国司が入ってるし。
>>726 ぶっちゃけ、有能の宣伝係(惚れ込んだ作家)が居たかどうか。
実在の人物がどうだったかとかはさほど関係ない。
>>734 コメで作る酒の一番原始的な形態は、乙女が御飯を口でかんで
吐き出した物を溜めて醗酵させるという手法。
奈良時代にはすでに麹(こうじ)を使って酒を作っていた記録が
あり、おそらく濁り酒……ようするにどぶろくのような物だった。
今でも作っている人はいるだろうが、普通に酒屋で売ることは
できないな。
>>735 幕末では
攘夷派を現実を知らない奴、世界観の狭い奴とは思われていないし。
幕府勢力も守旧派とは思われていない。
新撰組も今では英雄視されている。
ペリーの圧力に屈した阿部正弘も別に批判はされていない。
つまりよく喧嘩はしたけど今となっては
青春時代を一緒に過ごした熱い思い出みたいになっている
幕末の唯一の悪役で言えば井伊直弼ぐらいじゃないの?
鞍馬天狗の映画が沢山作られるうちにライバル・キャラの近藤勇の人気が上がって行って
近藤勇が主役の映画が作られるようになっていった
日本の歴史的人物で
視聴率でもそこまで危惧しないぐらいに一般的な知名度もそこそこ高いけど
大河ドラマでまだ演じられていない人って誰がいますか?
もちろんいろいろ批判が来そうな、ややこしい問題の無い人物で・・・
源平、室町、戦国、江戸初期、幕末では殆ど演じられていますよね
義経とか清盛とか龍馬みたいに第二ターンって感じ?
演じられていないが難しい。主役でなければ良しとしてもらわないと。それで良ければ真田幸村。
ややこしい問題は有る。まず名前が違う。w
鎮西八郎源為朝はどうだろう。馬琴の弓張り月は有名な筈だが。
>>731-732 清酒の酒造を始めたのは、戦国武将山中鹿之助の息子の鴻池新右衛門と言われている
実際には清酒の醸造自体はそれ以前から小規模に行われていたのかもしれないが、商業的に
醸造・販売を大規模に行って成功したのは彼が最初
それ以前は、濁り酒、つまりどぶろく
>>741 「演じられている」というのが主役以外も含むとすると、基本的に、平安末〜幕末・明治初期までの
有名どころはたいていなんらかの大河ドラマで、演じられているんじゃないか?
あまり扱われていない印象の時代も、「北条時宗」「花の乱」など、意外にあったりするから
平安時代やそれ以前なら、「風と雲と虹と」と「炎立つ」があるぐらいで、あまり扱われていないから、
平安時代の天皇や藤原氏や歌人たち、あるいは奈良時代や飛鳥時代の人たちなら有名どころも
残ってるよ
ただ、その辺りの時代を扱うとなると、主役でなくてもどうしても天皇を描写することになるから
「いろいろ批判が来そうな、ややこしい問題の無い人物」という条件にひっかかりやすい
逆に新しい方の時代で、明治、大正、昭和期は、大河ドラマ自体はけっこうあるけど、扱われて
いない人物も多いんじゃないかな
>>745 主役で言うと
鎌倉〜室町→清盛、頼朝、義経、時宗、尊氏
戦国〜江戸→信長、秀吉、家康、正宗、元就、山内、利家、春日の局、吉宗、内蔵助、樹里、直江、信玄、謙信、道三、武蔵、柳生
幕末→龍馬、西郷、大久保、勝、慶喜、天障院
これ以外に視聴者受けして主役が出来るとすると
真田幸村、高杉晋作ぐらいしかいないんじゃないの?
聖徳太子とか中臣鎌足とか足利義満とか藤原道長とか応仁の乱とか
視聴者受けしそうにないし
加藤清正も伊藤博文も朝鮮関連で無理そうだし
思いきってこれまで日の目を見なかったシャクシャインとか天草四郎でもやってほしいんだが
天草はキワモノ過ぎてNG
>>746 女だと北条政子や淀はまだ主演がないな
過去主演になった女性としては日野富子と北政所が抜けてるよ
草燃えるは、政子が主演じゃなかったの?
てっきりそうだとばかり。
751 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 09:41:37.72
質問です
律令制下での位階は親王が品位を与えられていますが
蔭位制により親王の子は従四位下の位階を与えられた
となっています、親王の子は親王である筈なのにどうしてそれ以外の位階を与えられたのでしょう?
>>750 草燃えるは主演石坂浩二(源頼朝役)
頼朝が死んだあとも岩下志麻演じる政子の尼将軍時代をやってたけど
一応主演は頼朝
>>751 令制では親王の子は王です。
後世の世襲親王家とは違います。
世襲親王家の場合は少なくとも当初は、
天皇の子扱いになることで親王となったようです。
>>751 それは親王の子が臣籍降下した場合ね
律令制ではもともと天皇から5世までは皇族とされていた
しかし皇族が多くなり過ぎ国家財政を圧迫したため
嵯峨朝以降はほぼ王が廃され親王の子は臣籍降下するようになった
親王の子である一世源氏や一世平氏が授与されるのが従四位下
一方、親王の娘である女王は一代限りということでその後も
女王のままとどまることもあった
二世王(皇孫)=親王の子はデフォルトで王。
で二世王の蔭位は従四位下。
三世〜五世王(皇曾孫〜皇来孫)は従五位下。
ただし796年、四世・五世王は正六位上に改訂。
賜姓の場合は規定がない。
本来は親王足るべき一世源氏は従四位下から従三位までの例有り。
従四位下は最初の数人のうちの2、3人。
以後は従四位上以上だが、ほとんどは従四位上で正四位下以上は例外。
特段の規定はないらしいがそれが実態。
二世源氏以下は原則すら有ったかどうか定かではない。
従五位下以下ではあったようだが、例外あるかも。
一世源氏の子は、もはや通常の臣下であり、
原則としては一般の蔭位の適用を受けるのが原則。
ただし、通常貴族でも時折あったように、
特段の恩恵で優遇を受けることがしばしばある。
757 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 12:15:13.53
平安時代、いったん出家したらもう俗世には絶対もどれないのですか?
男性同様、いったん尼になったとしても、髪の毛伸ばせばまた還俗するのは容易ではないですか。
それとも一度出家したらもう俗世には戻れないというような縛りでもあったんですか?
例えば花山天皇出家のところでも、ボウズにしてしまったのでもう後戻りできないとか、ちょっと理解できません
だまされた、と思ったら、やっぱ出家やーめた、っていうことはできないんですか?
確か不倫か何かしでかして、勅命で還俗させられた坊主がいた。
その後叙位されて官僚勤め。
ただ天皇は特別でしょう。神様とか関係してるから。
花山天皇は「やーめた」と途中で言わないように源氏の武士を見張り役に後を付けさせて
急いで三種の神器を新帝一条天皇のところに運んだらしいな
この場合は出家云々よりも三種の神器が新帝のもとに渡ったので
花山法皇は退位決定というのが大きかったみたいだが
一度出家した法皇が還俗した例はないが
一度は退位出家した天皇が即位した例はある(称徳天皇)
院政期以降は仏門に入った法皇が天皇以上に政治の実権を握っていた
>>752 いや、形の上では頼朝役の石坂浩二が主役かもしれんが、ドラマ自体は主として北条政子の視点から描かれていたし
原作の1つは永井路子の『北条政子』だった
頼朝の死後も、頼家や実朝の時代の描写がかなり長い
『利家とまつ』や『巧妙が辻』が夫婦ワンセットで主役だったように、頼朝と政子の両方が主役だったと言うべきだろう
>>756 夫婦ものは扱いが難しいだろ
天地人は直江兼続主演でも嫁の船とダブル主演ともいえるだろうし
しかし草燃えるは一応頼朝の単独主演
原作の一つに大河の主演ではない他の人の本が参考文献として入ることは良くある
たとえば2005年は主演源義経だったがその原作は平時子主演の宮尾本平家物語だった
巧妙が辻は千代が主演(司馬遼太郎の原作でもそう)
ココまで『おんな太閤記』の話題なし
あとつまんない難癖(大河じゃない)付ける奴がいそうだが『真田太平記』は秀作
菅原道真とか応仁の乱とかは確かに面白そうだけどな
藤原道長とか足利義満とかがドラマになりにくいのは全く浮き沈みがないから
クライマックスがないから視聴者が全然面白く感じない
応仁の乱なら
日野冨子のドラマやったじゃん
道長のクライマックスは満月の歌を詠んだ時だろう。
もう一つ。天皇が自分の娘との間に世継ぎを作るように紫式部を送り込んだり、色々工作してるのに
面白くないってぇ!?
>>765 道長は望月の歌のこともありイマイチ国民から好かれてないんじゃないかな
娘を入内させて「子を産め!」と強要するのもたしか
「葵三代」で世継ぎ世継ぎ言わせすぎて視聴率下がった気がする
>>766 道長と式部がセットなのは映画や小説でしつこいくらいあるんだが
正直それ程面白くはない
源氏物語が面白いのであって筆者の紫式部本人の人生はねえ・・・
じゃあ一般には知名度低いけど藤原隆家主役。
若い頃には叔父道長との政治闘争もあるし、
兄との性格・生き方の比較も面白い。
なんといっても派手な戦闘シーン入れても良いよ。
内戦じゃないし、相手の実態が詳細がわからないからやりたい放題。
あとは当時の女流作家陣からませたり、恋愛織り込めばいい。
小言爺さん実資。
そろそろドラマ談義は
そっち系の板へ移ってたもれ
>>767 >源氏物語が面白いのであって筆者の紫式部本人の人生はねえ・
>>768氏も書いてるけど、清少納言とのバトルで大奥風に展開する。俺は見ないけど。
773 :
732:2012/02/10(金) 02:59:48.61
焼酎も江戸時代に始まったんだっけ、たしか
だから733がいうように、竜馬の時代にはあった。清盛の時代にはない。
>>734 博物館以外では見ないと思う、たぶん。売ってるのは大半が清酒で、一部が濁り酒。それ以外系統は作られてないはず。
>>726 坂本竜馬も明治半ばごろまでは知名度ゼロだったらしいと聞いた気がする。
その意味では、小説を通じて人気を高めた新撰組とあまり変わりがないのでは。
>>741 戦国時代の著名人として、長宗我部元親って描かれてたっけ?
細川京兆家(管領)とか将軍家は主役として描かれてはいない。が知名度いまいちだなあ。
大覚寺統と持明院統の争いを描く大河を見てみたいと思ったが、実現可能性がゼロだ。無理すぎる。
北条時宗のドラマでも、これ系の部分がわざと削除されてるほどデリケートなテーマだし。
>>771 清少納言と紫式部は同時期出仕じゃないよね?
彰子が入内した一年後に定子死亡
彰子と定子は一度も宮中で出くわしたことなし
(彰子が里帰りしている隙に定子が参内)
紫式部が彰子に出仕したのは定子が死んだあと
>>774 そうなんだけどそこはドラマという事で。『江』がアリならそれくらいはアリじゃね。
俺は見ないけど。
江戸参府随行記を読んだら、江戸時代の町民や農民は将軍の名前を知らなかったと
書いてありましたが、本当なのでしょうか?
将軍の政策や次期将軍候補の争いとかはさすがに庶民の間でも話題になったと思うので
名前を知らなかったというのは変じゃないかとおもうのですがどうなのでしょう?
>>776 それが本当なのかどうかは知らないけど、ありえない話でもないと思う
まず、日本では、目上の人の下の名前をむやみに呼ぶのは失礼で、苗字や肩書きで呼ぶ
社長の名前が佐藤太郎だったら、社員はその人を「社長」とか「佐藤さん」とか「佐藤社長」とは呼ぶが、特殊な
場合をのぞいて「太郎さん」とはあまり呼ばない
現代でもそうなのだから、昔ならなおさらだ
だから、庶民は将軍のことは、「将軍様」とか「上様」と呼ぶ
征夷大将軍が同時に2人以上いることはないので、それで誰のことを言っているのか通じる
わざわざ「家光様」とか「徳川慶喜様」と名前で言う必要はない
(現代だって、「野田総理」とか「総理」と言えば誰のことかわかるので、日常会話ではわざわざ「野田佳彦」と
フルネームで言う人はあまりいないでしょ?)
次期将軍候補にしても、たとえば、家宣なら「甲府様」、吉宗なら「紀州様」と呼べばいい
名前を呼ばないのだから、名前を知らなくても困らないし、知らなくても不思議はない
陛下が心臓の検査を受けられるけど、
玉体に傷をつけることは出来ないから退位したいとか
大河ドラマで江戸時代の天皇が言ってたと思うんだけど、
いつから手術OKになったんだろ。
将軍に限らず武士の本名は、通常は使用しないものだったそうだ。
極論で言うと系図に乗るだけだとか。
系図でご先祖や子孫と区別するための記号みたいなものとか。
新左衛門高安と新左衛門高俊と新左衛門高幸とかの区分程度。
日常ではあくまでも新左衛門で、本名では呼ばれない。
父新左衛門から襲名するまではなんか別の名を名乗ってるとかね。
官位もらうような上層は、正式の官姓名を書いたり書かれたりするときは、
氏名+本名なんだろうけどね。
で、そんな人は普段は官名で呼ばれる。大岡越前だの遠山左衛門尉だの。
ってことらしい。
名前のシステムが明治以後とずいぶん違うから実感が掴みにくい。
さすがに系図に載るだけってことはなくて、書状などの署名に本人が使うけど、確かに今と違って他人は
呼ばないね
本名が一般に知られてないから、真田信繁がいつの間にか真田幸村という名で知られるようになって
しまったり
位階を授ける時に西郷吉之助の本名を誰も知らなくて、「確か隆盛じゃなかったっけ?」とうろ覚えの記憶で
本人がいないところで勝手に登録したら、実はそれは本人ではなく父親の名前だったが、本人はそのまま
「ではそれに改名するでごわす」と正式に西郷隆盛になったり
なんてことになる
>>778 知らんけど多分、退位の規定が無くなった明治時代じゃね。
逆にいつからそう言うことになったんだろう?
最初期からなのか?律令制下でそうなった?
はたまた先例主義で柔軟性がなくなってくる10世紀くらいから?
>>782 古い時代だと、手術のように傷つけるようなタイプの治療行為自体があまりないからよくわからないねぇ
確実なのだと、1311年に、花園天皇が虫歯の歯痛で苦しんだ時、典薬頭が抜歯を勧めたら、他の医者たちから
「玉体に傷をつけるとは!」と反対されたことがある
結局、抜歯しているけど
質問二つ
平家→源氏
鎌倉→室町
豊臣→徳川
に変わった時に農民や商人って具体的に決定的にこれまで生活システムが変わった事って何があるのでしょうか?
結局帽子が変わっただけで彼らとしては大きなところは別に何も変わらなかったのでは?
あと室町時代はまず中央があって地方をその中央から任されて守護大名が治安維持をしていると言う構図だと思いますが
鎌倉や平安時代では地方の豪族や大名ってどういう位置づけだったのでしょうか?
半ば独立状態?
武士や貴族で源為義以外で実の子供に処刑されたケースって誰がいますか?
また義朝はなんで父親を処刑・晒し首にしたのですか?
島流しじゃダメだったのでしょうか?
そこまで憎悪してたのでしょうか?
平治物語では上が許してくれなかった事になっているが、元々親子関係が悪かったようだし
憎悪してたんで殺したのが本当の所じゃないでしょうか。
あ、間違えた。保元物語ね。
788 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 10:16:35.18
>>784 3を除いて庶民(主に農民)の生活システムなどは、劇的には変わっていないようです。
1平安→鎌倉 幕府の成立により在地の治安は、前時代より安定したようです。
2豊臣→徳川 劇的な変化はなさそうです。江戸中期は、商人文化が栄えました。
3鎌倉→室町 これは鎌倉幕府が倒れて室町政権(義満の頃)が安定するまで、各地で戦乱がおきました。
当然庶民も影響を受けたでしょう。
平安時代→鎌倉時代
武士として力を付けてきた地方の豪族的領主(大名のようなもの)は、
国衙の在庁官人、荘園の荘官に任命され、中央(朝廷)の体制下に一応組み込まれました。
しかし、なんやかんやあって(源平争乱・治承寿永の内乱など)、武士の政権鎌倉幕府誕生。
という流れではないでしょうか!?
>>785 - 787
そもそも、謀反人に加担した武士を、政権側が処刑したんであって、義朝が私刑で行ったわけではないですし。
平忠正らを清盛が処刑したのそうだけど、近親者者を頼って降伏して、そのまま抑留されていた捕虜への判決が出て、
捕虜を管理していた近親者が、引き続いて処刑を実行しただけだと思います。
通史類だと、大概信西が死罪を復活したように書いてあるようだけど、
軍記物で言ってるだけで、確たる証拠はないってことなのか?
テスト
源氏の本家本流は多田ですが、平氏の本家本流の苗字はなにですか?
>>793 あ、ごめん清和源氏の話でした
多田満仲ー頼光の家だと本家は多田だけど、桓武平氏の本家はどこですか?
徳川は河内だし末端だから除外で
>>794 >多田満仲ー頼光の家だと本家は多田だけど、桓武平氏の本家はどこですか?
そもそも、本家が多田氏であるという主張の根拠は何ですか?
別に多田氏が源三位頼政や土岐氏などの頼光の子孫の各氏に対して、何らかの権限も持っていたわけではないですから、
本家・分家をはっきりと分けることは出来ないと思います。
桓武平氏であえて考えると、公家の西洞院家、江戸時代の大名家では織田家でしょうか。
官位という点からみればですけど。
意味わかんね。
俺んちが本家だとしてさ、俺の弟の三男の家系が繁栄したらさ、そっちが本家になんの?
>>789 他人の手にかかるよりは縁者の手にかかるほうがマシという温情措置(みたいなもの)だったという見解もある
>>790 関与した武士の死罪は単に武士社会の風習を正式採用しただけ、「死罪復活」じゃない。
との説もある
が、貴族の死罪が行われたっけ。
>>792-795 近現代はともかく、中世以前なら
>>796-797式で、「本家は入れ替わるもの」と思ったほうがいいよな。
「惣領家」なんてのが現れる鎌倉末期ごろからは、状況が違ってくるのかな?
もとは、「氏長者を出している家が本家」みたいに考えていいと思う。
>>797 >俺んちが本家だとしてさ、俺の弟の三男の家系が繁栄したらさ、そっちが本家になんの?
何をもって、自分の家が本家と思っているかだね。
長男だからってことなら、室町時代あたりから出来てきて、江戸時代に成立した考えだし、
先祖代々の屋敷を相続しているとかなら、平安後期あたりから出来た習慣。
それまでは、屋敷なんかは婿取り婚で、娘が相続して、息子は親の財産ではなく、妻の実家の財産を相続する。
家の墓ってのもまだないから、墓所を管理しているイコール本家ともいえない。
室町からなんだ初めて聞いたわ。
例えばさ源満仲の一族の場合さ、長男が親の土地引き継いで、次男や三男は河内や大和に行ったじゃん、
あのときも長男頼光が本家じゃないの?
娘が相続?天皇とかもですか?
公家の屋敷も娘が相続ですか?
>>800 当時の所領って、あちこちに分散しているし、屋敷も各地にあるんだよ?
多田の領地と屋敷は長男の頼光とその子孫が相続したかもしれないけど、ただそれだけの話、
他の兄弟に対して鎌倉時代なんかでいう総領権を持っていたわけじゃない。
>室町からなんだ初めて聞いたわ。
室町より前は、家督相続や領地をどう息子・娘(娘婿)に分割・相続させるかは当主側の権限だった。
一旦決めて遺言状なんかで公表した後で、「最近反抗的だから、与える予定の領地減らす」なんてことも勝手にやれる。
だから、鎌倉時代の御家人はだんだん所領が縮小していって貧乏になったりした訳。
室町時代の後半になってくると、家の権益の大部分は一人が相続するようになり、幕府がその人選に介入してくる。
ただし、長男相続と決まっていた訳ではないし、幕府が認めても他の候補に当主・家臣(被官)の支持があれば、
命令に従わずに実力で反抗してくる。
将軍個人と関係が悪くなれば、他に差し替えられたりもする。
これが応仁の乱その他の原因。
江戸時代になると、幕府に予め申請して公認してもらうのが普通になり、基本的に正妻の長男が相続するという原則が確立する。
>>801 天皇家として私有している荘園なんかは、娘(女院)も含めて分割相続している。
次代の当主(院政期なら院政を行う上皇、その前は天皇)に一括して相続されているわけじゃない。
>>802 必ず女系相続というわけでもないです。男子一人への相続でもない。
相続人が売ったり、権力者へ献上したりもしてますし。
tp://eva.genji.cc/m-buildings.htm
このページに、平安時代の有名な邸宅の来歴とか載ってますので、参考にどうぞ。
頼朝は三男だけど長兄の義平は母の身分が卑しいので頼朝が嫡男と聞いているが、
それを決めるのは義朝の裁量なのか?
>>805 この時代は嫡男決定は父親の権限だし、
義平は母の身分が低すぎて嫡男ではなかったと言う説はあるが、
次男の朝長の官位から考えて、朝長を飛ばして頼朝はあり得ない。
>>806 前の人の話だと
嫡男→嫡男→嫡男の家系が本家とも限ら無いみたいなんだけど。
義朝、頼朝がその時代における河内源氏の本流である事は間違いないが、
為義がそうであったかどうかは怪しいと言われている。
ああ
直系と本家は別なのか
為義は後継者として定められたのだとは思うが、
そのご自分の愚行のせいで脱落。
中年以後、嫡流だと思ってたのは本人と家来くらいでしょ。
ましてその後継者ですらなかったふしがある義朝も、
本人の自負以外では嫡流でなどではあり得ない所からのスタート。
自助努力で家を興し、父を越えたってところ。
保元の乱後は諸源氏の中のトップではあったんだろう。
嫡流といえるかどうかまではともかく。
頼朝は義朝の後継者候補筆頭ではあったのだろうが、
平治の乱後は流人にすぎず嫡流など論外の話。
そのままなにごともなく人生を終えていれば、
子孫は北条あたりを名乗ってたかもしれないな。
息子くらいまでは多少特別扱いされたかもしれないけど、
そのうち一般の武士の中に埋没していくだけだったんだろう。
って言うか、嫡流なんてみんな後付。
とにかく勝ち残った、少なくとも負けなかったのが嫡流。
813 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:56:34.55
律令制の二官八省の中で中務省は官人に位を与える叙位を司っていた
と書かれていますが、各省庁にはそれぞれ叙位(勿論、自分の省内の叙位だけでしょうが)
機能を持つ部署がありますよね
これはどう言う意味でしょうか
後、式部省の人事考課なども同じで
各省庁にはそれぞれ人事考課を行う部署があったそうです
各省庁の官人の叙位を中務省が司り、各省庁の人事考課を式部省が司るものだと思っていましたが
どうやら違う様です、何方か回答の方を宜しくお願いします
例えば、「俺の家は、元をたどれば、将門を討伐して武勇を謳われた源経基だ」って意識はある。
先祖がそうなら、子孫も同じように武勇に優れているだろうという周囲や朝廷の期待もある。
しかし、これは特定の子孫(例えば長男だけとか)に限った話ではないので、代々の当主の活躍や相続した財産の多寡などで、
勢力の大小などはあっても、どこか一つの家が嫡流で他の家が傍流なんて意識はおそらくなく、同じポストを争うライバル同士って認識だと思う。
彼らは先祖の名声やコネ、個人的な評判で、朝廷・高級貴族に仕えたり、盗賊退治の役目を貰う。
そこで、相応の活躍をすれば、五位あたりの位を賜り、各国の受領や六衛府や検非違使の下級官僚となり、子孫に同じような立場を継承させる。
(いわゆる中央軍事貴族)
その起用に失敗したり、仕えていた高級貴族が政変などに巻き込まれて失脚して中央での名声やコネを失うと、
没落して中央で官位に就くような家柄でははなくなり、中央軍事貴族の家人や地方の武士となる。
為義と義朝の話だけど大河でも
「源氏の名をあげに関東でがんばってくるぉ、パパ」
「頼む・・父がなさけなくて・・」と感動的な別れに
してたけど元木なんかは「あれは廃嫡だろう」って
言ってるよね。
そうすると後の親処刑も少し理解しやすい。
専門家なんかはどういう感じなんでしょ。
何しろ関東で頑張ってる義朝に対抗させる為に義賢を送り込んで邪魔する訳だからねぇ。
「頼む…」どころじゃねぇよ。
>>812 嫡流と直系は違う概念。用語を調べ直せ。
>>813 今の会社でいうと、
各部署の上司が部下の人事考課を行う、経理担当が出張旅費や経費の精算を行う
人事部や経理部は各部署からの報告を全社で取りまとめて人事異動や昇給を決める。
また、評価や経理の実務がきちんと行われているか、チェックする
みたいな感じでは?
819 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 11:13:08.64
日本史的に考えた場合、青年将校のクーデターで政府首脳を暗殺しまくった2.26事件と
国家転覆を狙って都心中枢部で猛毒ガスのサリンを撒いた前代未聞のテロ地下鉄サリン事件は
どちらが重要な事件になると考えるべきですか?
820 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:00:29.00 BE:371935687-2BP(0)
またアンケート君が帰ってきたのかよ、今回のアンケートは最早日本史ですらないじゃねえか。
>>819 明らかに2.26
226は政治への大きな影響を残したのに対し、
地下鉄サリン事件は対テロ/治安関係への影響が残った以外には政治への影響がない。
あれ程のテロをしでかしても日本では破防法すら適用できない政治の無能を
全世界に知らしめたがな
823 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 22:45:22.94
>>821 やはり政治への影響度を考慮して2.26事件に軍配ですか
個人的には甲乙つけられない事件ですがね
>>822 あれほどの事件、組織に対してなぜ破防法は適用できなかったんですかね
破防法適用に反対の人物が政権内部にいたとか?反対の理由は?
>>823 オウムの時は国家公安委員長(担当閣僚)の野中広務が破防法適用に反対して、首相の村山も同意したから。
825 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 23:09:08.21
>>824 サンクス
野中氏はなぜ破防法適用に反対したんでしょうかね?
破防法を適用せずとも被害の拡大を食い止め、オウムを抑えつけられると
判断したんでしょうか?
>>825 真偽は不明だが、
野中氏がそういう部落の出身であったため(これは本人も認めている)、差別やそれにつながるような措置には一貫して反対していたとされている。
また、事件当時からオウムと闘っていた人たちの間でも破防法適用によって却って「隠れキリシタン」状態になる危険性を指摘する意見もあったから、
必ずしも世論全体が破防法適用を支持していた訳じゃなかった。
必ずしも世論全体が破防法適用を支持していた訳じゃなかった。
↓
一部の世論(某新聞社・週間金曜日系)が破防法適用を反対していた。
>819
日本史的には 2.26 > 地下鉄サリン事件。
ただし世界史的に見ると、地下鉄サリン事件は「世界史上初の都市部における化学テロ」
なのですがね。
2・26では斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監、松尾首相秘書官が殺害され、
鈴木貫太郎侍従長が重傷、岡田啓介首相もあやうく殺されるところだった
高橋是清なんて、日本史上の重要人物だろ
単純に政治的なテロとしての効果を比較すれば、一般人を無差別に殺害したにすぎない
地下鉄サリン事件より、はるかに効果を上げていると言わざるを得ない
破防法にすると、警察レベルの犯罪の話じゃなくて
国家レベル、つまり自衛隊出動が検討されるような
話になるから、それまでの責任とか対応とかいろんなものが
蒸し返されてしまう。
それに826さんのいうように今後の対応は「警察レベル」でしたかったろうから
いろんな思惑がからんだみたいね。
ただあれで適応できないというはねぇ。
もう一つは「宗教相手」ということ。
破防法適用するには相手の「明確な攻撃意思」を確認しないといけないけど
もしちょ〜ひらきなおって「この腐った日本のためだ」みたいに宗教論議に
持ち込まれるとアサハラは「殉教者」みたいになるし
そういう方面に持ち困れるのはイヤな人たちも多かろう。
だからアサハラが、アホ、を演じてるのはある意味助かってて
堂々と「死刑にしてくれ」と「物質文明弊害論」みたいなのをぶったら
ある意味2000年前のやせた伝道者さんと同じになっちゃうんだよなぁ。
831 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 16:58:15.48
天武天皇は皇族主義を強めるために八色の姓を定め生まれつきの階級を作って大臣は一人もおかずに
冠位48階ではやはり皇族と臣下の位の枠組み自体が分けられていましたよね
しかしこれが大宝律令で位階制に変わって親王以外の皇族と臣下の位階には差があるものの
枠組み自体に隔たりはなくなりました
そこで質問なのですが、親王以外の皇族Aと豪族Bがいたとして位階がBの方が上だった場合
位階ではBが上ですが姓的には真人である皇族が上ですよね
両者の官職にもよるのでしょうが、仮に同僚であった場合このAとBではどちらが上になりますか?
八草の姓が形骸化したあとでは官位優先というのが
基本だったんじゃないかな。
真人もいつのまにか価値が薄まってきてたわけだしね。
なにかに載ってたんだけど忘れた。
真人は皇族じゃなくて臣下じゃないの。
皇裔であることを一応公認はされれいるけど臣下。
臣下のうちでの最上列ではあっても、あくまでも臣下。
位階が上なら朝臣・宿禰はもちろん、連姓でも真人姓より上でしょう。
真人でもごく近々尉賜姓だれた皇孫程度は、まだしも准皇族を扱いを受けるかもしれないけど、
高官どころか五位程度にすらほとんど縁がない端の真人は扱いはかなり下では?
天武の意図では真人最上位だったんだろうけど、
天武の死と共に形骸化が始まったんだと思う。
皇族である王の場合は多少は問題になるかもしれない。特に二世王程度は。
832だけどごめん、831を誤読してた
取り消します、すんません。
>>831 官職にはそれに相応する位階が決まってるから同僚なら位階も同じようなもんじゃないの?
それが実際には下級官職は結構バラバラだったりするらしい。
六位以下の官職の場合は実質的には相当位と言うより、
官職自体の上下関係を表す目安みたいものだと思った方が良いかも。
平戸の松浦の分家が遠江で庄屋になったって歴史ある?
八色の姓の制定より古いけど、
歴代天皇の中で一人だけ、「真人」とついてるよな。
即位以前の立場を反映してるとか、そういうことはなかったのかな?
幕末で西国雄藩が活躍したのは、情報の入り具合が東国と
違うからとおもうんですが、大藩でも
「長州、薩摩、土佐」などが華々しかったのに対し、
「安芸、福岡、肥後」などの大藩はどうして目立たなかったんでしょう?
840 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 19:18:30.89
江戸時代の国と藩の関係をわかりやすく示したサイトはございませんか?
現在の滋賀県ですと近江の国の中に彦根藩その他の藩が存在していたわけで、
そういうのをわかりやすく紹介して欲しいです
>>839 藩としての規模だけじゃなく、幕府との関係の良否もありそうな気はするな
薩摩も長州も関が原で西軍だったことがな。
>>840 江戸三百藩HTML便覧である程度はわかる。
具体的に、地図上の範囲が聞きたい場合は用を成さんが
明治以降の文部省は主に教育や文化などを担当していましたが、
文部省の名前のもととなった式部省は役人の教育機関の大学寮統括していたとは言え
主に官吏の人事を主に担当していました。
このように律令制下の省の名前とその役割と明治以後の省の名前とその役割では違いがあるようですが、
大蔵省と民部省が合併した時に民部省の方がその名が残り徴税と財政を担当したり、
警察機構として弾正台が残ったりと言うようなことは可能性としてあったでしょうか。
844 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 22:12:26.49
>>842 サンクスです
江戸時代は日本ー近江の国ー彦根藩というように3層構造になってたって事ですよね
日本の統治は幕府、彦根藩の統治は彦根藩主、では近江の国を統治してたのは
誰になるのですか?また人々の帰属意識は基本的には藩にあったのですか?
>>844 詳しいわけではないが、幕藩体制においては幕府→藩→住民であったとおもう。
勿論完全な一致ではないが、意識的には、国→関東→埼玉が、幕府→近江国→彦根藩みたいな認識でいいのでは?当時も関東とかはあるけれど。
又は今なら国→九州→肥前国→佐賀県・長崎県だから、国って当時は意識上な話でね?
>>839 明治時代に主流とならなかっただけで、別に何もしなかったわけじゃないし、個人としては活躍した人もいる。
肥後細川家の場合は、長州征伐では小倉で長州軍を破ったり、戊辰戦役では官軍に軍艦を供出したりしているし、
藩士としては、横井小楠が新政府の参議として登用されている
戊辰戦役では、他の大藩も部隊を出したりしているんだけど、そんな細かいエピソードは知られてなくて、
それらの軍財を指揮した西郷隆盛とか板垣退助あたりの個人の名前しか知られていない面があると思います。
ただ、薩長土肥と違って、藩が一つの方針にまとまってなくて動きが鈍かったり、中心となる人材が早死にだったりしたので
功績もそれなりで知名度も低い。
>>844 江戸時代には、国という範囲・領域を管轄する行政機構はないから、三層構造とは言えないだろう。
古代の律令耐性化では、国という行政機構があり、その下には郡という行政機構があったから、三層構造といえるだろうけども。
848 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:04:58.85
>>845>>847 サンクス
江戸時代には近江の国とか美作の国、上野の国、という名称やその領域を管轄する
行政機構がなくなっていたんですか?
日本という統一体の次は三百以上の藩に分割統治されていたってことですね
ユナイテッド・ステーツ・オブ・徳川。
>>848 領域に関する業務は、基本的に藩又は天領代官がやるから行政機構は必要ない。
残ったのは近江守とかの称と遺構くらいじゃないかな。朝廷直轄領もなかろうし。
>>849 ああ、言い得て妙かも。
徳川大統領の下での各州の独立と大統領指揮権との関係みたいなもんか
>>848 そういうこった
国は行政区ではなく、(事実上)ただの地名
国群里制の国群里の規模って今で言うと
国→県
郡→市町村
里→字
といった感じですか?
>>853 まあ、だいたい、そんな感じ
国によっては2〜4県に分割されてるし、逆に2〜4国を合併した県もある。
郡も、同様かな
里・郷は、字・大字より大きいと思う。
当時の人口密度で千人ぐらいだし、いまなら人口二〜三万ぐらい相当かと。
最近の合併しまくってできた広域な市は、旧郡ないしそれ以上だけど、
町村は郡域よりかなり狭いと思うけど。
合併前の市も面積的にはそんなに大きくないのが多かった。
昭和の大合併以前はさらに小さかったわけだし。
かつての連合赤軍事件とオウム事件はどちらが日本史的に後世に大きく残るでしょうか?
アンケート君懲りないねえ
アンケート君は一体何回オウムの事を聞いたら気が済むんだ?しつこいよ。
861 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 21:35:51.57
>>858 僅差ながらも連合赤軍>オウムじゃない?
地下鉄サリンの衝撃はでかかったけども、組織の主張という部分で
赤化を目指した連合赤軍のほうがわかりやすい
オウムは結局何がしたかったのか具体的にはわからないからね
もういいわん
863 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 22:25:38.18
「赤旗」について何ですが、日清戦争の豊島沖海戦で警告として巡洋艦浪速に掲げられた「赤旗」は、国際信号旗のB旗ですか?
>>858 連合赤軍はある程度「線」になったけど、オウムは「点」で終わった感が強い
まあ、でかい「点」ではあったけどね
>>863 艦長の東郷は国際法に精通していたから、おそらく当時の国際的な信号旗だとは思うが、
ググってみたら国際信号旗のB旗だと「危険物積み込み中」の意味みたいだし、右端の三角形の部分が
白いから、それとは別の旗なんじゃないかな
赤軍は若気の至り、時代的な連続性、があるけど
オウムは宗教仕立て、海外と結んだ、など基盤がでかいから
点というか大丸って感じはする。
無関係な大量殺人まで犯した意味は大きいわな。
世界史的にはオウムなんだろうけどな。
左翼系のテロは至る所で起こったから日本のは目立たないが、
先進国のカルト宗教のテロはたぶんオウムが最大だろう。
自分の話で悪いが松本サリンと9・11テロにどちらも
巻き込まれかけたことがある。
日米で、ってのは珍しいんじゃないかとビビった。
てへぺろ
870 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 23:05:48.39
南京大虐殺の研究で知られる秦郁彦氏って歴史学専攻ではなく法学博士だそうですが、
この方の歴史研究は信用に値するんでしょうか?
はい。
>>858 連合赤軍事件はそれまで盛り上げっていた全共闘運動や学生運動を
目に見えて終わらせたと言う意味では大きいんじゃないの?
もちろん三菱重工爆破事件とかダッカ事件とかまだまだ左翼運動は続くんだけど
オウムはただの一宗教団体の暴走でしかない
オウムは確かに重大事件であるが日本の歴史を見た視点では語れない
あれがあったから日本の歴史が大きく変わったとかではなかったわけだし
かみくいしき村ってどうなったの?
>>867 アルカイダなんて
イスラム系カルトみたいなもんだぞ
>>872 学園紛争もそんなに社会変革というほどでもなかった。
やってる本人たちはマジでそう思ってたかもしれないけど
結局内輪で殺しあっただけ。
結局暴走族がヒャッホーしてるのとそんなに変わりはない
というところかな。
浅間山荘にしても酔っ払いが人質取ったのと変わらないレベルで
別に主義主張や国家をおびやかすとかそんなこともない。
当時も今もあんまり過大評価はされてないというか
そんなにたいした事件ではなかったとは思うなぁ。
なんで日本ってこんなにダサいんだろうな
学園紛争は、若者のエネルギーの発散って側面があったみたい。
二人ばかりに当時の話を聞いた意訳
「主義主張なんて飾りです。 大人にはそれがワカランのです」
まっ、そんな人ばかりではないだろうけど、後年会った友人たちもそんな感じだったらしい。
公表できるソースなどないから、スルーして下さい。
今のヲタク()気取りみたいなもんか。
そんな風だったよな。
特に戦後の180度転換の頃だったし
まだ政治が身近にあった頃だったから
お茶のまにも入って来やすかった。
決して階級闘争が社会問題化するとか
そんなことはなかったからね。
それにしても指導者がお粗末・・・
ガキやサイコやコンプレックスの塊みたいのばっかし
せめてホーチミン級が欲しかったもんだ
世界的な兆候だよな
パリの五月革命があって
アメリカのベトナム反戦運動があって
キューバ革命のゲバラや文化大革命の毛沢東に理想を見出して
韓国もイタリアも学生運動が盛んだった
日本がその波に乗らないわけがない
幕末のええじゃないかに近い民衆カタルシスの一種かな
883 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 08:51:36.66
1936年に226事件が発生。岡田内閣が瓦解すると
それに代わって廣田内閣が組閣される
・・・でその際なぜ現役の軍人である寺田陸軍大将を
陸軍大臣にする必要があったのですか?
廣田は内閣として能動的に陸軍皇道派を粛清したかった
↓
しかし統帥権の独立の都合、文官+予備役(元軍人)で構成される内閣では
軍内部の人事に関与することが出来ない
↓
内閣として軍内部の人事に干渉するには軍内部に人事権を持つ人物・・・
現役の軍人を閣僚にすえる必要があった
こういうロジックとみてOKですか?
884 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 00:04:13.38
承知しました
仁の小日向も龍馬伝も武田鉄矢も
勝海舟に関しては同じような口調だったのですが
「最初によっよっ」とか
これはほぼあーいう口調で間違いないと言う事でしょうか?
読んでないけど勝の談話を出版した氷川清話というのがあって、それが威勢のいい江戸弁なんで
あんな感じなんだと思われる。
かつて諸国をその大きさで大上中下の4等級に分けられていましたが、
何故大上中下小の5等級、あるいは上中下か大中小の3等級にならなかったのでしょうか。
郡は大上中下小の5等級だったようですが。
海舟ぐらいだと実際に話したことあるとか
聞いたことある人の話は多そうだからね。
891 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 23:32:03.74
幕末維新の有名な志士で農民出身の人物って誰がいますか?
有名なのは近藤勇ですが
あとは99%はランクで言うと全員武士でしょうか?
上士下士とかあるだおうけど
日本史的に見て「南北朝時代」ってマイナーなイメージがあるんだけど、
考えてみれば日本の最高権威である皇室が二つに分断して同時進行で
並立していたっていうとんでもない時代ですよね
何であんなにマイナー感があるんだろう?
もっと有名であってもおかしくないですよね
皆さんは「南北朝時代」について、どんな見解をもたれてますか?
>>892 色々ややこしいのでドラマなどで取り上げないから。
>>891 農民じゃないけど医者とかは結構いるんじゃないかな。大村益次郎とか。
896 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 00:49:15.54
戦国やそれ以前の時代に塹壕はあったのでしょうか?
城攻めや野戦なんかでも塹壕を掘ってさらに藁みたいなものを前においたりすれば死傷率が下がり、また、柵なんかと組み合わせて効率よく反撃できそうですが
労力要るは近付かれたら滅多刺しだは移動力は落ちるはでまるで意味ない。
当時の矢なら木製の盾でおk。
鉄砲は少ないしあっても少し厚い盾用意した方が早い。
WW1でも塹壕が流行ったのは榴弾からの防御の必要・接近される迄の火力の向上・非装甲部隊ばっかり、で当時でも接近されたら上からなぶり殺し。
898 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 01:55:12.67
幕末で言うところの
攘夷=非現実的なナショナリズム
開国=当時の日本では唯一の現実的な選択
攘夷=日本の置かれている状況を全然理解せずに威勢のいい事だけを言っていたバカ。
この認識でOK
攘夷を実行しようとした武市も長州も歴史的観点で言うと批判されるべき対象?
たまたま何事も起こらなかったけど、
下手したら最悪の場合日本がイギリスとかに占領されるきっかけになったわけだし
>>898 たまたま何事も起こらなかったって薩英戦争とか下関戦争とかは大事じゃないのか?
日本の置かれている状況を全然理解せずにって今みたいに
皆が皆ニュースや新聞で情報得ていたわけじゃないんだから
>>898 攘夷といっても大攘夷と小攘夷とか色々考え方が違うし、一概には言えないんじゃ?
薩長もイギリスに留学生出したり、現実的な部分もあるし
902 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 23:53:01.73
>>900 つまり情報弱者であり
少なくとも大攘夷が出た後も小攘夷を掲げた連中は
情報を知った上でそれでも外国人排斥を訴えた狂信的なナショナリストって事?
人間と言うのは自分に都合の悪い情報があると、それが真実だとしてもそれを必死で否定しようとするものだ。
すると結局のところ、薩長の目的は攘夷ではないって事だ。
攘夷運動を利用してとにかく幕府を倒したかった、
幕府を倒すことが目的であって攘夷は口実。
という風に見えてしまって困る。
まあ、開国より以前から幕府を倒したいと密かに思ってはいたようだけど。
幕府への怨みを再確認するための年中行事を、江戸時代初期から続けてたしさ。
しかしそれだけが理由ということはなかったはず、たぶん。
お邪魔します
関が原の戦いでは両軍合わせて20万(?)を動員できたのに、
なぜ時代が進んだ幕末時代の戦は、数が極端に少ないのでしょうか?
普通に考えたら人口向上により、しようと思えば関が原並の動員が簡単に可能だったのではないのでしょうか?
>>905 幕末の人口自体は関ヶ原の時代より増えているけど、(江戸初期に増えて、あとはほぼ頭打ち)
各大名家の財政は悪化していて、兵士となるような階層(足軽とかの臨時雇用者)の数はリストラで減っている。
先祖代々持っている装備も旧式化しているので、新たに高価な輸入品を買ったり、技術導入して造る必要がある。
そのためにも、お金がいるんだけど、そのお金が工面できない。
よって、あまり大量の動員が出来なかった。
財政が比較的健全だった薩長などは、その点が他の大名と比べて有利だった。
あれ、勘違いなら悪いが江戸初期に1220万だったのが
幕末には3120万に増えてるというのが普通では。
>>907 だから、
>幕末の人口自体は関ヶ原の時代より増えているけど、(江戸初期に増えて、あとはほぼ頭打ち)
って書いているでしょ。
江戸初期(元禄くらいまで)は、新田開発とか、戦争がなくなったおかげで生産力が上がって、それに合わせて人口も増えたんだけど、
それ以降はあまり伸びていない。
以降も干拓などで、生産力は上がっているし、人口も増えてはいるけど、初期ほどの大きな変化ではない。
江戸時代を通じて同じようなペースで増えていったわけじゃないので一応書きました。
幕末で既に人口三千万を超えてたろ。
こんなに多い人口の国はほかには無かった。
ま、ロシアとインドと清ぐらいだな、超えてたのは。
その内、一民族で超えてるのは清の漢系族だけだろ。
でも、文明人ではなかった。その地域に棲息する単にヒト科の動物だった。
910 :
905 :2012/03/06(火) 20:01:01.49
>906
ありがとうございました!
歴史関係の本を読んでいるうちに、関が原で大量の軍を動員できたにかかわらず
幕末での戦争の数の少なさに疑問でした
急激な近代化に対応できなかったのですね
第一次長州征討では広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させた件
>>908 別に議論する気はないけど
江戸時代に同じペースじゃない、ってデータは知ってていってる?
3倍になるぐらいだから元禄までに3倍に増えて後は頭打ち、という
根拠はなに?ってこと。
少々のことはいいけど、元禄までに1200から3000になった
という、頭打ち、のデータがあったら教えてほしいだけね。
どちらかというと、元禄以降のほうが飛躍的に伸びた、のほうが
正確だしデータもあるというのが常識だから。
もしかして今の教科書はそうなのかもしれないから
聞いてるだけで、ちと気になっただけね。
>>912 wikipedianoの近代以前の日本の人口統計 という項目に研究者の諸説が載ってます。
1600年頃に元禄頃(1700年頃)約2800から2900万人なんで、そう捉えていました。
>どちらかというと、元禄以降のほうが飛躍的に伸びた、のほうが
>正確だしデータもあるというのが常識だから。
最近の研究だと違うのでしょうか、もしそうならどのような要因・理由が挙げられているのか興味があります。
ご教示頂けるとありがたいです。
915 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 22:35:17.72
太政官制と内閣制はどう違うのでしょうか?
それぞれの特徴などをわかりやすく教えてください
また、いまの日本で内閣制から太政官制に戻したとしたら、どうなるでしょうか?
また来たよ。何かの宿題なのか??
江戸時代の「一国一城令」とは実質的には「一藩一城令」ということですか?
>>912 横レスだけど、
たしか、人口が横ばいになり始めた元禄より前は人口の変化を調べる有力な情報が少ないんだっけ。
関ヶ原の頃の人口が1200万程度という説もあれば、1000万未満の説やら1800万ぐらいの説やら、入り乱れてるとか?
>>913 Wikipediaは必ずしも信憑性の高い情報が載っているとは限らないから、
調べ物の最初のとっかかりに使う以外ではあまり役立たないかもね。
すくなくとも、何か議論する際の論拠にしてはいけない。
室町時代後半から江戸初期頃までは寒冷気候の時代で恒常的に飢饉に襲われてたのが、
温暖化によって飢饉の少ない安定時代に入った。
それで戦国時代末頃から徐々に人口が増えたのと、江戸時代初期までの大開発時代の影響などで人口が増えた。
まあ、江戸初期の場合、開墾じゃなく治水の方がメインか。
元禄の頃から、開墾の弊害として、水不足やら洪水やら、災害が起こりやすくなって開墾が制限され始めたよね。
それで人口が増えにくくなったのではないかな。
919 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 08:42:24.56
>>915 太政官制<
朝廷の組織で、天皇及び臣下の太政大臣以下の太政官で構成される合議機関。
奈良時代から形式的には、幕末・明治初年まで続きました。
内閣制<
内閣総理大臣と各省大臣で構成される政府の意思決定機関。
明治18年発足、現在まで続く。
920 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 08:48:53.31
>>919続き
古い制度に戻すのは考えられません。憲法改正なども要しますから。
内閣制も広い意味での太政官制ともいえますけどね。制度が近代的になったということでしょう。
>>918 太閤検地による全国の土地の評価高が1800万石。
だから戦国終わった頃の人口は1800万くらい……というのが昔の説。
太閤検地期のとある村の実際の人口が分かってるけど、それによると石高の6〜7割ほどで、
じゃあ全国的にそれくらいだったんじゃないかというのが近年の説。
ただ、石高と実際の人口の両方が分かる土地はそれほど無いので、これを全国に適用できるかは疑問。
ちなみに江戸時代に入ると、宗門改帳を使ってかなり実際の人口が分かり、
それによれば……いつまで増えてたかは分からないけど(元禄か享保かそれくらい)、
やはり江戸後期は頭打ちになってるって速水融先生が書いてる。
江戸の記録はかなり正確なのと
地方の人別帳に残ってるのが基本でしょな。
元禄に増えたのはそれまでおおまかにしかカウントしてこなかったのが
以外に江戸は多い、ということから実質石高の方にシフトして
全国規模にしてしまったから多くみえるだけで、江戸の増加率を
全国にあてはまてるのは問題がある。
ただ長いから中後半には安定や流通から地方でもかなりの
増加はあるだろうしトータルではやはり江戸期全体で段階的に
増えたとするほうが一般的だろう。
後期に頭打ちになるのも当時の水準ではそこが一種の限界であったわけで
元禄に増えてそこから頭打ち、というのはいろんな意味でちとありえない。
小規模団体ならともかく100年でほぼ3倍増になるということ自体が
食料、流通、住居、その他の事情からありえないだろうということね。
だから、小さな江戸府内だけなら記録にも残るように100年で2〜2.5倍になっても
ありそうだけど、それを全国も同じで考えて元禄が一種のピーク
というのはどうだろうかという話。
ただこれらとは違う話で人別帳に載らなくてももっと人口自体は多いんじゃないか
という説も確かに強い。つまり食料があればそこまでは増えてもおかしくはないだろうという
考え方。
中国なんか今でもそうなんだけど農村部には戸籍にのらないーのせないという人口もかなり多くて
億に近いんじゃないかというのもあるらしい。
だから江戸期の江戸府内はかなり正確として地方農村が少ないかどうかは別だろう
と言われるとこれはこれで難しいがやはり江戸はいろんな意味で最先端だったから
カウントしてみたら意外と多かった、というだけで地方も一気に増えたというのは疑問
なんだな。
長くてごめん。
>>919>>920 どうもありがとうございます
どちらも、少数の人間の合議によるってことで、
前者はその少数がほぼ世襲による、後者はその少数が選挙による
こんな認識でいいですかね
>>917 >江戸時代の「一国一城令」とは実質的には「一藩一城令」ということですか?
原則とsてはそうです。一つの国に複数の城持ち大名がいれば、複数の城が存在しますし、
複数の国に領地が及んでいても、普通は一つしか城は持たないので。
本城+いくつかの支城という体制が多かったのを、支城を破棄させた。
また、あくまで原則なので例外もあります。
肥後加藤・細川家は、熊本・八代の2城、島津の抑えとしての例外と言われています。
伊勢藤堂家は、津と伊賀上野の2城、これは何でだろ?
他にもあるかもしれません。
925 :
913:2012/03/08(木) 21:25:46.66
江戸時代の日本の人口推移について、レすありがとうございます。
かつての研究は石高の推移を基にしていたけど、人口推移はそれと必ずしもリンクせず(人口の増加率のほうが低い)
よって曲線の形や、頭打ちになった時期なども変わってくるという説が出てきた。
ただ、新しい説の決め手となる史料がなく、定説はまだ確立していないって感じですかね。
926 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 22:02:55.74
>>924 以前ここで「江戸時代には国という行政区域はなかった」という話があったので
一国一城令の国はどういうことかな?と思いました
国=藩てわけではないでしょう?
>>926 基本的には一藩一城という考えで宜しいとおもう。
例えば肥前なんか佐賀、唐津、平戸など各藩が城的なものを持ってるし、尾張や紀伊は付家老の犬山や新宮を持っている。
勿論零細藩は城ないけどね。
失礼。先に答えて貰ってた。
当時の帰属意識としては国=藩と言う考えでいいんでないかな。国は勿論あったけどさ。
『お国言葉』って実際国じゃなくて藩だろうし。法律・当主・言葉が違えばよその国っていっても可笑しくないだろうし
>>905 武器が進化したからって以前誰か解答していた。
鉄砲が数に限りがあるから、それに見合った人数を動員する。
鉄砲部隊に竹槍の大集団立ち向かわせても的になるだけだし。
930 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 19:32:27.72
いやいやそんな戦術面や人口的な要素以前に幕末とはいえ仮りにも士農工商で武士階級が
特権階級である以上農民を武装させるような動員は出来んでしょう、ヒャッハーな戦国と家康以後の社会では比較にならない
っていうか誰もいままで動員の件で士農工商を持ち出さないのはなぜ?
>>930 戦争では武士だけが戦うわけじゃないから。
普段は武士だけ常備兵だけど、いざというときは色々な階層から
動員するだろ。
>>930 動員した武士が役に立たないから長州が奇兵隊を組織した。
逆に言えばそれまでは戦争するのは武士だけ。
933 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 00:48:42.00
>>931
本気で言ってるなら勉強し直した方がいいよ
もし当時に武士の以外の人間を十分な理由(言い訳)なく戦力として動員すれば
それは武士の特権・支配ひいては江戸幕府以来の支配構造を根本から否定して破壊しかねない
250年間武士がのさばってられたのは彼らが排他的に唯一公認された軍事力の担い手としての支配者だったからだ
だから新撰組もあくまで例外であり奇兵隊は「奇兵」隊
そんな戦争だからってどんな階層からでも動員できるなら平時において武士(武家)の支配が揺らぐし(そのための理不尽なまでに強烈な封建体制の時代)、明治維新後もあんなに士族相手にもめやしない。
>>933 それも一見正解だが、実は勘違いが甚だしい。
実際の戦闘要員は武士だが、戦争には後方支援と言うものがなければ絶対に負ける訳でそれは当然領民にやらせることが前提。
実際の戦闘要員を後方支援に割くなんて負けに行くようなもんだ。
935 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 01:33:30.96
後方支援が大事という話には全面的に同意するがなぜ後方支援の話になるんだ?
蛇足だが後方支援が大事といっても現代戦のように大量の武器弾薬燃料を使うわけでもないから
現代の感覚ほど後方支援は重要ではない、あくまで現代戦と比べるとだが。
話が感情的になり追及戦線が無駄に広範に及び泥沼化する前に纏めると
「戦国時代と幕末期に置ける動員兵力差の謎という議題で私は色々な要素の中でも当時の社会構造上の基盤である武士の差別化が無視できないレベルとして存在であろう。」という事を追加的に主張したい、以上。
今の私の中で、以上に正しいとも思わない、批難は勝手にやってくれ、御休み。
>>931 武士の間では、武士以外の人間が戦争に参加することを既得権侵害のように認識して反対する動きが強かったのではなかったかと。
欧米だって、フランス革命による市民の軍隊が成立するまでは、
一般庶民の従軍は少なかったんじゃなかったっけ?
937 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 01:37:28.72
戦国時代は農民を兵として動員するのは常識だったが、
江戸時代は完全に兵農分離ができていて、
農民兵は動員出来なかったの?
明治になって専業武人としての士族の特権を廃止する為に徴兵制を敷いた、と聞いている。
>>933も参照。
>>935 当時の方が後方支援は人手が要るだろ。
現代はトラック輸送できるが、当時は人力で食料やら陣屋作る資材やら
武器やら運搬しなくちゃならなかっただろう。
そういう意味で一般庶民が動員されたんだろう。
戦国ー江戸は後方支援的行動も武士が自分でしてたけどね。
なんでもかんでも、人を徴収ー民を苦しめた、にしてしまう
教科書や本が多いからいけないのだけど。
鳥居耀蔵が甲斐守の官位についていますが、この当時は秋月藩の黒田氏も
甲斐守でだったりして、同じ○○守が複数いることはよくあったことなのでしょうか?
>>941 同時に被る事は無いようにした筈です。
つまり黒田氏がつくのが慣例でも鳥居がついてる限りはつけません。
>>943 戦国雑学本なんかには書いてあるでしょ、足軽さんたちが鍋や
米を持って移動したとか。先触れで該当の村に「ご飯たいといてね」
とかお願いしたり。
後半に関しては問題があるわなぁ。
945 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 07:37:10.04
西郷吉之助侯爵が男女両色を愛でた(両性愛の人物)とウィキペディアにありますが、
その根拠となる記録ないし証言にはどんなものがあるんですか?
活字になってる作品があったら、その書名も教えて下さい。
>>941 甲斐守とかはあくまで名前のごときもので、それ自体に意味はないそうです。
よって苗字が違えば被っても問題ないのだとか。
そもそも大名が二百数十人、旗本もかなりが官位持ちの諸大夫であり、
だぶらせないと官名が全然足りません。
同姓が多い松平とかはいろいろ調整が大変だったようです。
なお、有力大名で世襲的に使っているような場合は、
他の家が遠慮するようなことはあったようです。
それで、そんな遠慮は無用と幕府が通達を出したことがあるとか。
>>942>>946 そうなんですか。ということは、「じゃー、今日から俺○○守ね。」って
ある程度自由に名乗れるんですか。
でも、そうなると今度は実際にその役職についてる人との間でトラブルにはならなかったんでしょうか?
トラブル:たとえば老中は優先権があったらしい。
老中が名乗りたいって言い出したら、既に名乗ってる人は改名しなければとか。
まああとは家同士の力関係でしょう。
通常は先輩や上役や家格が上の人が既に名乗っていたら遠慮するはず。
家代代の慣習とかでどうしても名乗りたい場合は、交渉次第でしょうね。
そんなこんなで名乗りが変わる場合もある。
松平姓の旗本とかは調整が大変だろうな。
>941
基本的には複数はありで、幕府に許可を得て名乗ります。
ただし、
・同姓で同官名は避ける(誰だか分からなくなるため)
・国持大名による優先使用権(前田「加賀守」、伊達「陸奥守」、黒田「筑前守」、島津「薩摩守」など)
・老中職になった大名と同官名は避ける(別名に変更する)
・歴史的特例(真田「信濃守」、宗「対馬守」など)
・一部は禁止(「三河守」「武蔵守」「山城守」など)
など、占有・優先使用に関する決まりはあります。
さらに言えば、歴史的に加賀前田家は筑前守を名乗っていた時期がある(豊臣時代)ため、望めば
黒田家より優先して「筑前守」を名乗れたりとかします。(むろん、その場合は加賀守は名乗れません)
>>940 >戦国ー江戸は後方支援的行動も武士が自分でしてたけどね。
>なんでもかんでも、人を徴収ー民を苦しめた、にしてしまう
.教科書や本が多いからいけないのだけど。 ]
大名行列が、当時の軍隊の行軍(建前では)なんだが。
中間・小物など、荷物持ちや馬の口取りやったような人は武士じゃないぞ。
パート雇用の庶民だし、自分の領民でもない。
大名が金ないから、江戸付近でしか雇わず、後は武士自身が運んだりもするけど。
じゃあ、戊辰の従軍でも自分達で運べばってのは成り立たない。
荷物大量に運んでたら、すぐに戦闘できないから。
いちいち、戦闘のたびに荷物を捨てて、終わったらまた拾い集めたりはできない。
>>950 大名行列の話じゃないでしょ。
あと、戊辰なんて時期の話でもないと思うけど。
952 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:41:11.67
質問です、日本最古の兵役は養老律令の軍防令ですか?
防人などはそれ以前から存在していますが、どう言った扱いなのでしょうか
幕末について質問ですが
高杉や坂本はちょんまげではないのですが
別にあの時代はちょんまげじゃなくても堂々と街を歩けたんでしょうか?
あと
土佐は山内系の上士と長宗我部系の下士がいましたが
こういう差別があったのは土佐だけでしょうか?
学者とか医者とかで総髪の人もいたし、別に月代そってなきゃいけないって決まりはないでしょ
現代にたとえれば、せいぜい、髭を生やしてる人、みたいな感じじゃない?
役所とか普通の会社でサラリーマンとして働くなら髭はそらないといけないが、髭を生やして
いるからって町を堂々と歩けないってことはない
>>953 >土佐は山内系の上士と長宗我部系の下士がいましたが
>こういう差別があったのは土佐だけでしょうか?
武家社会の身分による差別は、土佐に限らずかなり厳しかったようです。
江戸時代はじめはそうでもなかったけど、時代が下がるにつれてだんだん厳しくなっていく。
家によって、区分はは変わりますが、おおまかに上・中級武士、下級武士、奉公人と別れていて
それぞれの中では、あまり身分差はなく対等に接しているけど、階層が変わると厳しい差別があって、
例えば、上・中級武士と道で会った下級武士は履物脱いで土下座するなんてのも、
土佐郷士に対する特別な差別じゃなくて、結構どの藩でもあったようです。
服装や履物など身分による違いが規定されているので、遠目でも相手の身分が判るので、
急ぐときなどは道を変えて通る。
一番、こまごまとした決まりが厳しいのは下級武士で、奉公人はそうでもなかったみたいです。
これって本当ですか?
正確にいえば現在の朝鮮人の血は古来からの日本人に入ってない。
弥生系といわれる人達は朝鮮半島から来た人が多いけど、現在の朝鮮人とほぼ別人種。
現在の朝鮮人は元や南宋に蹂躙された匈奴などの末裔に夫余などが混じってのちに
モンゴル人との混血が進んだ人種。
古代日本に来た渡来系(弥生系人種)は純粋な高句麗や高麗などの民族と
それらの中の漢民族と混じったのとか。
それと古代日本人は元々、南方のベトナムや中国の福建省とか廈門から来たのと
ミクロネシアや南洋の民族と北方のシベリア・ツングース方面から来たのが混血したものが
固定化されて縄文系になり、その後、渡来系に駆逐されたり渡来系と縄文系の混血が進んだ。
日本人はそういう意味では他民族の混血人種であって遺伝子解析した結果、各地方で
遺伝パターンに特色がある。
縄文系遺伝子の特徴を強く残す遺伝子はアイヌ・北海道の原住民だった人・東北人の北部地域の人・
九州南部・沖縄。
* *
* + うそです
n ∧_∧ n
+ (ヨ(* ´∀`)E)
Y Y *
>>956 去年出た考古学の本に出てたね。
データが少ないと言う人もいるがかなり重要な事実だろう。
今後はそれがどういう経路だったか、とかがさらに詳しく
研究されるでしょね。
現在の人たちがずっとそこにいたとも限らないし
今後大事な研究じゃないかな。
似ているというのは解釈が難しいが
因子がまったく別、ということは少なくともその地域と
接触はなかったということが証明はできるわけだからね。
>>958 自演乙です。
>現在の朝鮮人は元や南宋に蹂躙された匈奴などの末裔に夫余などが混じってのちに モンゴル人との混血が進んだ人種。
せめて時間軸はあわせましょう。エサの質が悪すぎます。
又、匈奴の人種構成については諸説あるので、匈奴のDNAなどが特定できたのであれば、さっそく論文にまとめてはどうでしょう?
新聞のトップページを飾る快挙ですから。
>>959 いや、956の引用が正しいというのではなく
そういう研究が進んでるよ、という話ね。
シロウトの例えだろうし別に誰も匈奴のDNA?が特定
できたなんて話をしてるわけじゃないし。
明治以降の文部省について質問です。
この文部省というのは大学寮の上位機関の式部省の唐風名の文部省に肖って付けられた名前でしょうか。
それともただ単に「文」=「教育」というイメージからつけられた名前でしょうか。
近代世界史(西欧史)について書いてる本で
「欧州情勢は複雑怪奇と言った日本人には、欧州の外交は到底理解不能」という記述を何度も目にしてるのですが
そこまで日本人は、欧州の外交について知らない外交音痴だったのでしょうか。
あの総理大臣がそう言っただけで、日本の外交を全否定するのはおかしい気がしますが。
>>961 「考古学を科学する」だったかな。
ちなみにあとがきが素晴らしいんだ。
理系からみた文科批判?みたいなもんなんだけど。
>>963 チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』のなかにこんなことが書いてある。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。
反論する相手を捩じ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。
すると議会は、いままで以上の要求をしろという。無理を承知で要求してみると、今度は、笑みを浮かべていた日本人はまったく別の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことをいうとは、あなたは話の分からない人だ。ことここにいたっては、刺し違えるしかない」といって突っかかってくる。
これは、昭和十六(一九四一)年十二月十日、マレー半島クァンタンの沖合いで、イギリスが誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二隻が日本軍によって
撃沈されたときの日記だが、チャーチルは、これによってイギリスはシンガポールを失い、インドでも大英帝国の威信を失うのではないかと心配しながら書いている。
チャーチルは、「日本にこれほどの力があったのならもっと早くいってほしかった。日本人は外交を知らない」と書いている。
つまり、日本は相手に礼儀を尽くしているだけで外交をしていない、外交はかけひきのゲームであって誠心誠意では困る、ということらしい。
別の例では従軍慰安婦の場合。
韓国は「これは内国向けで日本が従軍慰安婦を認めればそれいじょうの問題にはしない」と口約束で確約した。
その後韓国は世界中に「日本政府が従軍慰安婦の存在を認めた」と定期的(韓国大統領選前)に発信し続けている。
日本人は日本人同士で通用するやり方を国外で行うべきではないのだが、人間というものはそう簡単に頭を切り替えられない…
>>964 前半はさておき、後半は盛大に吹いた新書だw
龍馬の結婚って正式なものなの?
脱藩浪士の身分でもたとえばどっか役所に届けてたの?
死にたいよ・・・・
971 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 19:24:15.55
平安貴族が演奏してた管弦曲は
どんな感じの曲だった」のでしょうか。
雅楽みたいな雰囲気のものですか。
972 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 01:29:38.54
973 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 10:15:47.21
よく戦前の天皇は神輿(悪く言えばお飾り)であり、実権はなく、
時の権力者に動かされる傀儡だったとか言われますが、
張作霖爆殺事件の後、昭和天皇が岡田首相を叱責し、
それを苦にした岡田首相が自殺したという話がありますが、
これが事実ならとても天皇=神輿=傀儡ってイメージはしません
詳しい方、戦前の天皇と権力者との力関係や立場などを教えてください
織田信長は生前右大臣になりましたが、右大臣といえば朝廷の上位の立場ですが、
本人はほとんど安土城や自分の領土内にいたんですよね
朝廷の合議があるたびに参内しなくていいんですか?
どれくらいの頻度で合議があったのか知りませんが、それなりに多いと思いますし
>>973 そもそも「岡田首相が自殺したという話」が事実では無いんだけど・・・
知事というものはかつては知太政官事のように知+官職の名前(太政)+官職の種類(官)+事
と言うように使われていましたが、明治初期の知藩事は仙台藩だと知仙台藩事というように呼ばれていたのでしょうか。
それとも知藩事が固定で仙台知藩事のように呼ばれていたのでしょうか。
977 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 14:04:47.78
>>975 すいません、勘違いがありました
岡田首相ではなく、田中首相でした
田中首相は自殺ではないですが、昭和天皇に叱責されて内閣を総辞職し、
その数ヵ月後になくなってしまったんですね
昭和天皇は自分が叱責したことが大きく影響したのではないかと自身の責任を
痛感し、以降、政府の方針に不満があっても異を唱えることを控えたとか・・
どちらにしても、「天皇には実権がなく、権力者に動かされる傀儡」という
イメージとは遠いんです
質問。なんでヤマトタケルって英雄扱いされてるんですかね?
どう見ても英雄に見えないんですが。
古事記を読んでた当時の人はヤマトタケルこそヒーローみたいな感じだったんですかね?
スサノオならわかるんですけど。
>>976 >知+官職の名前(太政)+官職の種類(官)+事
違う。太政官の事を知るだ。つまり知藩時も藩の事を知るだし、知県事(県知事)は県の事を知るだ。
知藩事という官職なんだから知仙台藩事とはならんだろ。
>>978 八岐大蛇を酒で眠らせて倒したスサノオと女装してクマソタケル兄弟を油断させたヤマトタケルに
大した差は無い。
>>980 村人に危害加えてた化け物を退治したスサノオと
敵対勢力をだまし討ちしたヤマトタケル
じゃあかなり違うとおもうんだが。
>>981 敵対してたんですかね?
平和に暮らしていた人たちのところにいきなり押しかけて、
歓待されたにもかかわらず、一方的に騙し打ちにした
とんでもない奴ってイメージなんだが。
それは頼光一味じゃないか。
>>974 摂関政治の時代じゃないしそんなに実務はなかった。
どっちかというと記念パーティーみたいなのばっかり。
ただ止める時のいいわけにはなったけどね、「忙しいから」って。
朝廷ってほぼ毎日のように政務(執務)が行われているんじゃなかったの?
イメージでは公卿や貴族は京都御所周辺に住んでいて、ほぼ毎日のように
参内してる感じなんだけど
信長は公卿ではなく武将だけど、正式に右大臣という官職に就任したんなら
個人の都合だけを主張するわけにもいかないと思うんだけど
986 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 21:29:39.87
>>982 まああんまいいイメージないですよね。
最後、白鳥になるらしいけど。白鳥ってイメージでもないし。
悲劇の英雄になるには卑怯すぎる。
いつ頃から、やまとたける=英雄みたいになったんだろ、。
>>978 現代人の感覚や常識で、古代や中世の人の感覚を理解しようとしちゃいかん
たとえば、「戦争なんかしちゃダメだよね」っていうのは、第2次大戦後の感覚であって、戦前にはほとんどの
日本人は、戦争イケイケだった、あるいは、戦争もやむをえない、と思っていた
戦争反対を唱えていた人もいないわけじゃないけど、全体からみれば少数派にすぎなかった
たかだか数十年でさえ、人の感覚や常識はそれぐらい違う
「だまし討ちが卑怯」というのも、実戦の機会が少なくなり、また、儒教道徳が普及した江戸時代以後の感覚
生きるか死ぬかの戦いに明け暮れた戦国時代には、だまし討ちはイメージは悪かったかもしれないが、する方
が悪いというよりも、それ以上にだまされる方がマヌケだった
ましてさらに時代の古い古代ならば、手段を選ばずに勝てる奴こそ英雄だろう
女装して油断させ酒に酔ったところを倒す、スゲー!
剣を交換して敵には木の剣を渡して勝つ、頭いー!
その結果朝廷の勢力大きく拡大、チョー英雄!
ってなもんじゃね?
>>987 けど源平の時代には義経卑怯者って価値観があったんじゃなかったっけ?
平家から卑怯者呼ばわりされて。頼朝にも、戦場のルールを守らずみたいな告げ口された
みたいな話があったような。
>>986 何時頃からって、少なくとも古事記や日本書紀が編纂された時代や頼光が酒呑童子を退治した伝説が
作られた時代は英雄とはそういうものだったんだよ。
むしろ何時頃から、それが何か違うって感覚になったんでしょうね、と訊くべきだ。答えは知らんが。
>>988 その通り。夜討ち朝駆けは武士の常道だけど、非戦闘員の水夫を攻撃するのはルール違反だった。
だがマトモにやって勝てない相手には知恵を絞って何をしてでも勝つというのもまたアリだろう。多分。
>>988 義経と同時代の史料に、義経の戦法を卑怯と言うようなものはないよ
義経が弾劾されたのは、「自専」であって戦法じゃないから
>>989 平家物語は義経が水夫梶取りを射るよう命じたなんて書いてないでしょう
>>990 >平家物語は〜なんて書いてないでしょう
平家物語はフィクションだぞ
あんた、平家物語に書いてある、義経と梶原景時の逆艪論争が本当にあったとでも思っているのか?
史実ではその時、景時は九州にいて、義経と論争なんてできるはずがなかったんだぞ?
つーか、そもそも、川の渡し船じゃあるまいし、軍馬とかも海上輸送する大型の軍船が、船尾の艪だけ
で漕いでいくなんてありえないぞ
>>991 フィクションだなんて分かってるよ。
なんでいきなり逆櫓の話なんか持ち出してきたのか知らないけど
どちらにしろ、水夫梶取りを射るよう命じたなんて史料はないってのは事実でしょ
だったら「史料がない」と書けばいいのに、
>>990はわざわざ「平家物語は〜なんて書いてない」だろ?
どう読んでも、
>>990が平家物語を史料として信用しているようにしか思えない書き方をしているから、
平家物語がいかに不正確であるかの一例として逆艪を出したまで
>>989 つか、
敵に襲われて、死んだフリで油断させたあと、仲間をあつめて奇襲で相手をたおすような卑怯だって、知恵と呼ばれたりもする