あ〜、「2」を付け忘れた。なんたる凡ミス。消えます。
3 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 18:57:39.39
江戸時代の武家の
○○守、○○介、○○卿などは、ものすごく不自然だけど、
当事者はよかったのかね?
5 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 23:21:32.78
何が不自然なのかくらい言えよ
それよりも門跡の坊官の「刑部卿」とかの方が不自然な気がする
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=3895920 NHK その時歴史が動いた 傑作DVDマガジン 戦国時代編(1)
徳川家康 編者: 講談社
総監修: 小和田哲男
発行年月日:2011/09/20
サイズ:B5判
ページ数:17
価格(税込):980円
内容紹介
--------------------------------------------------------------------------------
<番組タイトル>
「関白」対「源氏長者」〜家康・秀吉「姓」をめぐる知られざる攻防〜
謎の権威「源氏長者」とは? 家康、執念の天下取り全真相
●とことん「その時」
執念の築城レース 17世紀の江戸城vs.大坂城 再現パノラマ
●まるわかり「その時」歴史が動いた
官位 10位30階全図解
信長・秀吉・家康 官位取得年表
8 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 00:58:07.54
官位 10位30階全図解
なんだこりゃ
国語便覧でも読めば済む感じじゃないだろうな
小和田か・・単語丸暗記歴ジョには受けるかもしれん・・
10 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 20:52:13.54
前スレ996で落ちてるな
11 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 10:13:08.70
885 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/09/08(木) 20:44:22.76
喜連川家は徳川家との主従関係があるのかどうかはっきりとしない。
↑
官位はどうだったのか?
喜連川家当主は江戸時代は無位無官。代々が名乗る左馬頭などは
勝手名乗り。したがって江戸城中での装束は直垂・狩衣・大紋などではなく
素襖・・・。
13 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 20:13:14.69
席次は中将ノ格
14 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 21:05:23.16
前スレより
354 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/25(金) 14:58:28.96
>>352 それ関連で言えば喜連川は中将格なんだとさ
無位無官なので服装は平士同然の素襖だけど
なんかの席で加賀の殿様が「無位無官のくせにすぐ後ろに座ってる奴って何なの?」って怒ってたらしい
ついでに言うと加賀の嫡子は少将でも中将の上席だとか
15 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 21:15:17.63
16 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 21:19:58.96
>>14 何で無位無官って分かったんだろ?
それに素襖が無位無官ってくらいの知識があるんなら、関東公方末裔の喜連川を知ってそうなものだけどなあ
喜連川を取り立てたのが秀吉だから・・・・
>>16 知らないわけないだろw
当然嫌味だろう。
18 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 22:29:41.54
>>14 > ついでに言うと加賀の嫡子は少将でも中将の上席だとか
これはどういうことだろ?理由がわからん。
例えばこういうことだろ
水戸中納言
加賀宰相 ←当主
加賀少将 ←嫡子
越前中将
理由と言ったって家の格式ってのは「そういう扱いだから」としか言えないことが多いよ
「そういう扱いだから」の補足。家光親裁時の大広間下段の右側の列上席は
正四位参議松平忠昌、従四位下少将毛利秀就、正三位参議毛利秀元の順
>15
すごいね正七位が従三位に越階(だっけ)。
22 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 12:57:11.64
元大尉が何かの功績で叙位に与ったんだろうな
23 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 19:47:06.93
>>20 そういう実例は出典付きでどんどん書き込んでもらいたいものだ。
24 :
20:2011/10/02(日) 20:38:54.28
失敬。補足・訂正する。出典は山本博文『江戸城の宮廷政治』(講談社学術文庫)
寛永12年(1635年)3月、柳川一件親裁時のときの座配。
大広間中段右側は御三家に次いで、伊達政宗・前田利常・島津家久の従三位中納言三人、
下段の右側の列は「正四位下参議」松平忠昌、毛利秀就、毛利秀元、細川忠利、鍋島勝茂。
(中段左側は井伊直孝・松平忠明・土井利勝 従三位参議である細川忠興は隠居ゆえ列席せず)
家光の位置については上段とするものと、中段に座を進めていたとするものの二説あり。
都合によっては家格だとか家例とかで官位の上下を無視するくせに、
存在自体を完全には無視できなくて、高い官位は欲しがると言う、
律令制度崩壊後の官位と言うのものは、実に不可思議な存在。
と言うか官位に踊らされる人達が不可思議なのか。
26 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 01:19:31.82
>>24 >>23は別に出典出せよバカヤローとか言ってるわけじゃないからねw
為念
27 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 06:04:39.99
石高の割りに官位が高い大名というと誰がいるの?
28 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 18:40:35.37
大名は誰かという問いに吉良なんて頓珍漢な回答はやめてくれ。
30 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 19:33:51.98
丹羽長重とかは?
不祥事を起こすまでの織田家は国主なみの従四位まで
32 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 22:45:46.25
続日本後紀を見ていたら、
836年2月:遣唐使史生以下将従以上に位記を賜う。
ような記事が有ったけど、将従ってなに?
{従・{人程度かな。
はずれるのは水手長・水手・射手程度かな?
将従で検索したら、どこかのサイトでこんなのがあった
『正倉院文書』正集35・36・天平10年周防国正税帳(738)
(略)
国司巡行。壱拾参度。守四度。掾九度。目十度。史生十二度。将従陸拾弐人。
合玖拾漆人。単壱仟玖伯漆拾壱人。目已上四百五十人。史生二百七十人。将従一千二百五十一人。
食稲陸伯陸拾参束参把。酒陸斛陸斗陸升。塩参斗玖升肆合二夕。直稲陸束伍把壱分。以二一束一充二六升一。
食法。史生已上人別日稲四把。将従人別日稲三把。目已上人別日酒一升。史生日酒八合。将従已上人別日塩二夕。
(略)
従レ造二神宮駅一使。国司壱度。掾一人。目一人。史生一人。将従伍人。
合捌人。廿五日。単弐伯人。目已上五十人。史生廿五人。将従一百廿五人。食稲陸拾漆束伍把。酒漆斗。塩肆升。
やっぱり当時の行政用語で従者の類を言う言葉かな?
35 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 21:53:13.99
伊達や島津も三位に叙位されてたのに、何で前田以外の表大名は三位に叙任されなくなったのでしょうか?
36 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 22:25:10.03
序列化の都合でしょ
大名間の序列がつけば用が足りるから、
豊臣時代の武家官位のデフレを断行しただけ
37 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 22:31:40.76
島津は家久、伊達は政宗の叙位任官を先例として申し立てなかったのかな。
島津と伊達は家格の上下を競い合ったらしいし・・・・
38 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 22:45:52.49
前スレより
こういう判断がいちいちあったんだろうな
911 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 14:31:23.99
>>908 初代利長は豊臣家大老として権中納言、二代利常は幕藩体制下で権中納言、
三十一で亡くなった三代光高が左近衛権少将どまりだったのはしかたないとして、
従三位参議だった四代綱紀は、老年になれば先例どおり権中納言になれると思っていて、
吉宗もそのつもりだったが、老中たちが反対して吉宗が押し切られ、結果「前田家の極官
は参議」と最終的に確定したのは享保八年(1723年) の綱紀八十一歳の隠居時だったと
いう話。
十二代斉泰が権中納言に返り咲いたのが安政三年(1856年)だから、134年の有効期限
の定めだったわけだけど、こういう場合、「前田家の極官は参議」と簡単に言い切ってしま
っていいものかどうか?
39 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 21:58:31.38
wikiでは、陪臣の官位は死没・隠居までになってる。
武家官位は名乗りでもあるから隠居で辞官するのではなく、官位は死没までのはずなのに。
隠居すれば普通は名乗りも変えると思うけど。
受領名は変わるけど、武家官位は変わらないだろう
贈官・贈位というものがある以上官位というものは死没までじゃなく死後も有効だよ。
43 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 11:19:18.42
御三家や前田家の家老の叙爵は定数あるけど、死没まで官位が有効だと
定数オーバー?叙爵者が死ぬまで叙爵待ち?
44 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 11:58:09.11
隠居したのだから、当該現任家職ではないので定員には含まない。
朝廷からの解官の措置が取られない以上、隠居後も官位はそのまま。
隠居後に官名を異動することもあるが、そのままの場合もある。
個々の実例に即して判断することになる。
因みに、官名の異動は、幕府の許可のみで成立し、
官名異動に伴う口宣案などは朝廷からあらためて発行されない。
例えば、大岡能登守忠相は江戸町奉行転出に伴い、
越前守に転任するが、越前守転任の口宣案は発行されていない。
45 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:14:09.90
「○○守」のような名乗りと武家官位は区別しないと
武家官位では辞退しなくても隠居すると「前権中納言」などになる
46 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:05:57.23
>>45 ん、御三家の当主だと大納言、中納言の官位以外に「○○守」のような名乗りを同時に名乗ってたんですか?
47 :
日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:40:17.52
名乗ってないけど45が言ってるのはそういうことじゃないだろ
>>42 死後も有効?単に「なったことがある」というだけの扱いで
現任ではないでしょ?
49 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 15:59:51.75
武家官位では、上表をしない限り、
終身、現任のまま。
前中納言にはならない。
>>48 それでは贈官贈位や神階というものが根本的になりたたなくなるw
「称号」としては失効しないと考えるほかない。
そもそも武家の官位全般も本来の意味では「現任」ではないし。
まあつじつま的には退任した三条実美は「元」なのに岩倉具視は本日ただいまでも
「太政大臣」ということになったりするが、いまだに警察官が死後に
階級が上がったりするので仕方がないだろう。
51 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 21:02:43.42
警察官の階級は全然違う話だろ。
警察官を退職したら、階級なんてなくなるし、そもそも死後
に上がるのは殉職した時であって、その他に退職前日に上がる
程度。階級が上がれば退職金も変わるので、今までお勤め
ご苦労さんの意味で上がるだけ。
違わないよ。殉職は既に死んでる人間の階級を上げるんだぞ。
単に金の問題なら別に慰労金を積むなりすればいいだけのこと。
ちなみにこれは旧軍で戦死者の階級を上げる例があることに倣ってる。
栄誉としての称号贈与の意味を含んでる。
53 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 22:20:02.03
>>52 わかってないなあ。警察の階級は正式に退職扱いになるまでだよ。
死んだ時点ではまだ、警察官なんだから階級があるわけ。
そして殉職してそのことを考慮して退職金を上積みする為に
特別に2階級あげるんだよ。
上であるように、普通に退職した場合も前日に一階級あがる。
テレビでお馴染みの元警視庁捜査1課長の田宮さんは退職
前日に警視長から警視監に昇進している。ただし退職までの
1日だけの警視監だ。(この退職前日の昇進はお手盛り行為
だと非難されている)
死後も有効な位階とは全然違う。
54 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 22:34:33.97
警察官だけではなく、検察官も消防士や自衛官も在職者の階級で
あって退職後栄誉で使うことの法的根拠はない。
元検察官の弁護士(例えば日テレの御用弁護士の河村氏)が
テレビに出るとき、「弁護士○×検事正」とか検察官時代の
階級を出すと思うか?
55 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 22:56:41.42
>>52の理屈だと警視総監経験者は退任後も警視総監っと
名乗っても良いことになるな。
尾張家の相続騒動の時、前藩主斉朝は「前大納言様」と呼ばれている
ようだけど。
57 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 01:50:21.27
武家官位の場合だと正式に退任の手続きをしない限り退任はないが、隠居したら「前権大納言」などと「呼ばれる」ようになる。
公家だと普通に退任があるから、その場合には「前參議」などになる。
贈官は「その官職に就いていたという取扱をする」ということ。
いずれの場合にも歿後に現任と見なされるはずがない。
戦前の軍の階級は官等(官階)であり官名でもあるが、退役しても退役大佐などと名乗れる。
ちなみに戦前の警察官には厳密な階級はなく、ただ警視総監(勅任)・警視(奏任)・警部・警部補(ともに判任)などの官名があるだけだった。
軍の階級と比すれば警視は大佐〜少尉、警部・警部補は准尉〜伍長に相当する。
判事や検事に至っては親任も勅任も奏任も官名は単一の「判事」「検事」しか存在せず、職名として「大審院長」「検事総長」以下があった。
戦後の警察官は官名としての階級があるが、元警視正などとは名乗れるものの、警視正などとは名乗れない。
>>50 称号としてというより、単に呼び方として過去の最高官を使うだけだろう?
位階はともかく官には定員があるんで、贈官まで本来の意味で「有効」
だなんてことにしたら、生きている人間が就ける官なんてなくなってしまう。
>>54-55 誰も生きて退任した場合も同じだなどとは主張してないだろう。
故意に相手の話を捻じ曲げた上で否定するのはいかがなものか。
そんな主張してないことを否定するより三条実美(生前退任)と
岩倉具視(死後贈位)のどっちが今日時点で太政大臣なのかちゃんと説明すれば
いいだろうw
警察の場合は知らんが軍人の階級には栄誉称号としての位置づけもあるのは事実。
官職階級位階勲等功級爵位学位とちゃんと並べる順番も決まっている。
軍の場合は上の方は自動的に終身になるから問題も起きづらいかもな。
>>58 武家の官職は員数外じゃなかったっけ?
武家が員数外なら死んでる人が員数外でもそんなに不思議じゃない気がするが。
61 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 02:35:23.29
>三条実美(生前退任)と
>岩倉具視(死後贈位)のどっちが今日時点で太政大臣なのかちゃんと説明すれば
こいつただの馬鹿だな
出た、説明なしの馬鹿認定w
しかし本当にちゃんと整理がついて馬鹿認定しているかは疑わしいなw
神階みたいにどうしても理屈のつじつまが合わなくてやめちゃったものも
あるのにw
神階をやめちゃったって、何を言っているのやら。
そもそも神は死ぬことがないんだから、理屈のつじつまもへったくれも
ないし、維新まではやめていないと思ったが。
片方の言ってることがおかしすぎて議論の筋が理解しにくいんだけど、
>>50>>59の脳内では廃官になった官職でも「本日ただいまでも」「今日時点で」存在することになるということか。
そして贈官されたら現任とされると。
こいつの主張をまともに受け取ると現任の太政大臣がいたら贈官はないか贈官されたら現任の太政大臣は退くかということになる。
しかし例えば足利尊氏が太政大臣を贈られた康正3(1457)年4月28日には西園寺公名が現任として存在しており、異動どころか微動だにしていない。
そして何の留保もなく贈官贈位と神階とを一緒くたに論ずるという愚を犯している。
正一位稲荷大明神が現任一覧や公卿補任に掲載されるとでも思ってるのかなこの低能は。
それから得意げに
>官職階級位階勲等功級爵位学位
なんて並べてるけど、正しくは
「職」「官」位階勲等功級爵位学位
法令上は「階級」とは言わずに「陸軍武官官等及陸軍兵等級」「海軍武官官階及海軍兵職階」と言い、
いずれも士官・准士官・下士官の場合は「官」とされる。
「職」と「官」の区別がついてないようだ。
65 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 03:19:45.35
>>60によると「員数外」らしいよ。
いるんだよなたまに。
生半可な知識を元に独自に変な推論を展開しちゃった挙句、
推論過程をまともに検討もしないままその結論が真実だと疑わない類の馬鹿が。
>>57とかが贈官について説明してくれているのにそういう肝心なところは読まないんだな。
というか自説に都合の悪いところを読まなかったふりをしてるだけか。
66 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 03:24:52.96
>>59 「軍の場合は上の方は自動的に終身になる」とかさらっと嘘ついてるけど
終身現役は元帥の称号を賜った陸海軍大将だけだぞ
しかも「終身」ってことは死んだら終わりってことだぞ
また誰も言ってないことをやっきになって否定して得意になってるよw
>贈官されたら現任とされる
誰もこんなことは言ってないだろうにw
では岩倉具視への贈官はもう無効なのか?それも違うだろう。
はなから死んでる人に「太政大臣」の称が贈られるということはどういうことなのか?
最初から官名の称号としての有効性は現任や死亡と連動してない部分があるんじゃないか?
という疑問を呈しているわけなんだが?
貴殿の頭の中では贈官とは死人に「現任」を期待するものなのか?w
>「職」と「官」の区別がついてないようだ
いや、別に軍人限定の順番ではないので一般的な言葉を使っただけのつもりだがw
っていうか、つらつら書き連ねてるけどそれで順番が変わるわけでなし、
だいたい「職」と「官」は同一人に同時に並立しないんだから併記順序を
示すときあえて区別する方が変だろw
直接関係のない重箱の隅的知識をずらずら書き連ねてるだけで、
どっちが「得意げ」なんだかw
>>66 たしかに「自動的」は間違ってるな。予備役にも年限がある。
ただ軍人には警察官とは違う「終身」があると思ったが
>「終身」ってことは死んだら終わり
これはもっともだ、つまり軍人の階級は除籍処理時点で消滅ってことか。
69 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 05:25:55.54
おまえスベッてるよ
70 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 12:45:14.14
>>67 >>贈官されたら現任とされる
>誰もこんなことは言ってないだろうにw
なるほど現任とは一言も言っていないようだが、岩倉具視が「本日ただいまでも」「今日時点で」太政大臣だなんて言ってるようじゃ同じことだよ(しかも廃官なのに)。
逐語的にそういう言葉を使ったかどうかの問題ではないのに、言うに事欠いて「誰もそんなことは言ってない」なんて愚劣すぎて言い訳にもならない。
生前の任官と死後の贈官を同列に論じてるのも笑いのポイントだな。
それでは過去に何十例も贈太政大臣があったがそれらもすべて「本日ただいまでも」「今日時点で」太政大臣なのか?
生前に太政大臣だった者を差し置いて?それでは死亡時太政大臣だった者は?
死後に太政大臣を贈られた者は「本日ただいまでも」「今日時点で」太政大臣なのに生前に太政大臣だった者は停止されるという理屈がおかしいことに気づかないか?
どっちも「本日ただいまでも」「今日時点で」死んでいることに変わりはないんだぞ。
>>48や
>>57も説明してるが贈官は栄誉を称えるために「生前に任官したことがあるという扱いにする」というだけのことだ。
「故太政大臣」も「故前太政大臣」も「故贈太政大臣」も「今では死んでいるので官職は当然停止されている」という点では異ならない。
>貴殿の頭の中では贈官とは死人に「現任」を期待するものなのか?w
君の言ってることに辻褄を合わせようと思ったら支離滅裂で馬鹿丸出しの主張になるということをデモンストレートしただけなんだけど、頭が悪すぎて皮肉も通じないようだな。
君のレベルに合わせて草でも生やせば皮肉だと理解できたのかな?
そもそも君の「贈太政大臣は「本日ただいまでも」「今日時点で」太政大臣である」という結論がまずありきのトンデモ主張なんて、みんな馬鹿にしてるだけで最初から誰もまともに受け取ってないよ。
71 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 12:46:19.17
>だいたい「職」と「官」は同一人に同時に並立しないんだから併記順序を
>示すときあえて区別する方が変だろw
日本語もだんだんと怪しくなってきてるな。
結局「職」と「官」の区別が理解できていないようだし本格的な低能か。
例えば「師団長」は職であり「陸軍中将」は官であるから同一人が同時に補せられ任ぜられるものだぞ。
>いや、別に軍人限定の順番ではないので一般的な言葉を使っただけのつもりだがw
>>57がちょうどいい例として職としての「大審院長」と官としての「判事」を挙げているように、「官」と「職」の区別は軍人限定ではない。
他にも官としての「××書記官」と職としての「○○課長」などがある。
一方で君が
>>59でズラズラと並べ立てているうちの「階級」は軍人限定であり、むしろこちらが
>>64でより一般的に書き直したことになるんだけど、君の頭は本当に大丈夫か?
>直接関係のない重箱の隅的知識をずらずら書き連ねてるだけで、
自分のレスも読み返せないほど知能が低いのか。
>>59で
>官職階級位階勲等功級爵位学位とちゃんと並べる順番も決まっている。
なんて最初に「直接関係のない重箱の隅的知識をずらずら書き連ね」て「得意げ」になってたのは君の方だよ。
>>292 >大河ドラマの武田信玄で毎回最後に言うセリフって
>「楯無しご照覧あれ?、今宵はここまでです?」
>だったっけ?
「御旗楯無、御照覧あれ」
「今宵はここまでに致しとうござりまする」
>このセリフを言っていた女性の名前を教えてください。
大井の方役の若尾文子さん
73 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 17:35:47.68
お〜っとこれは届かない
74 :
日本@名無史さん:2011/10/11(火) 18:51:06.30
キチガイは相手にするなよ
76 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 00:09:04.86
>>52は官位と警察官の階級が違うと言う指摘に「違わないだろ」
っと啖呵を切っているのに
>>59にて「警察の場合は知らんが」っと
平気で言うやつだからなあ。
馬鹿が知ったかぶりするとこういう浅ましいことになるといういい見本だな
?
源朝臣定の従三位直叙は、なぜか叔父淳和天皇に寵愛されて猶子となり、
親王に成る代わりだったらしいけど、
源朝臣常の急激な昇進はなぜ?
格別有能だったとも特に伝えられて居ないようだけど。
そう言えば嵯峨天皇は藤原良房のどこがそんなに気に入ったんだろう。
正直見る目がなかったと思うけど。
81 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:43:14.78
で、結局、武家官位というのは隠居すれば辞職して散位にならなくても前官礼遇扱い?
>>80 能力はあっただろ。
藤原北家嫡流を確立した人なんだから。
嵯峨・淳和の世では藤原氏による国政掌握なんて心配はしてなかっただろうし
功臣の優秀な子供に娘をやったってだけじゃね?
常も人物評としてはべた褒めされてるんだから、それなりの人物だったんだろう。
83 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 19:11:40.17
武家官位では隠居は単に「前」をつけて、
「前大納言」「前中納言」「前宰相」「前中将」「前少将」「前侍従」と“呼ばれる”というだけで、
別に前官礼遇というものではない。
「○○守」などの名乗りは通称と同じ扱いなので「前」はつかない。
ただし他に遷任して名乗りを跡継ぎに譲ることがある。
例えば上杉治憲の場合だと、当主の時は「上杉弾正大弼」(米沢侍従)と名乗るが、
隠居したら「弾正大弼」を嫡子治廣に譲り「上杉越前守」(米沢前侍従)と名乗り、
更に出家剃髪して「上杉鷹山」と名乗る。
84 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 19:52:01.72
越前福井の松平家は当初国名をとって「越前少将」などと呼ばれていたのが
無嗣だか不行跡だかで減封されたときに城地名をとって「福井侍従」などと呼ばれるようになったというのを聞いたことがあるんだが
(ちなみにこのとき幕府が「福居」を「福井」と書き間違えたために「福井」で定着したとか)
その後「越前中将」「越前少将」などに復したのだろうか
復したのだとしたらいつ?
それとその他の侍従以上の大名はそれぞれ何と呼ばれていたのか
「水戸中納言」や「会津中将」は有名だけど
85 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:14:49.37
>>83 御三家、御三卿のように大中納言に任官していた当主は通称をどう名乗っていたのでしょう
常陸介とか一応初任に受領名もあるようですが、それを通じて名乗っていたのでしょうか?
>>45 > 「○○守」のような名乗りと武家官位は区別しないと
>
> 武家官位では辞退しなくても隠居すると「前権中納言」などになる
徳川光圀は、隠居翌日に権中納言に任じられているのだが。
87 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:11:05.01
>>85 横レスだけど
参議以上は○○守とか名乗らなくなると思う
三位中将だと名乗るけど
88 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:34:58.32
>>86 >>83 「「前権中納言」などになる」という言い方が気に食わないなら、
「「前権中納言」と呼ばれるようになる」に脳内変換してください。
そもそも「呼び方」の問題に口宣案等の日付なんて関係ないし(任官前や口宣案等の発給前から名乗りを許されることもある)、
単に隠居は「前」をつけて呼ぶというだけなんだからそんなツッコミされてもな。
光圀は任命された当日から前中納言を名乗っていたということでしょうか
90 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:36:38.52
隠居と現当主(藩主)との区別あるいは藩主を憚って
敢えて「前」の字を添えているにしか過ぎない。
現実には、隠居でも現任の中納言なり大納言である。
徳川光圀が隠居後に権中納言に転任したとしても
隠居だからといって現実には、前官にはならない。
因みに、浅野内匠頭長矩の墓所には
冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士
といった戒名が刻されているが、前少府の
少府は内匠頭の唐名であり、前内匠頭と翻訳される。
戒名には、前官の表示もある。
91 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:57:27.29
“前中納言”って、読みはやっぱり皆さんご存じの“さきのちゅうなごん”ですかね?
秀吉、徳川将軍は准三宮には興味なかったのかな・・・
93 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:10:24.69
>>92 過去スレにもあったようなのですが、徳川将軍は上皇の格式を得たので准三宮の地位に拘らなかったと・・・
>>90 >徳川光圀が隠居後に権中納言に転任したとしても
昇任ならわかるけど、転任?
95 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:21:25.81
96 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:57:44.23
>>94 横レスだけど
例えば少将→中将、中納言→大納言と順序通りに昇進していくことを「転任」と言い
玄蕃頭→掃部頭、右京大夫→讃岐守、若狭守→肥後守と部署を異動することを「遷任」と言う
位階については「昇叙」などと言うが官職に関して「昇任」などとは言わない
97 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:59:25.22
武家官位で辞官はなかったようですが
武家官位で官位を剥奪されたのは、朝敵となった禁門の変の毛利父子と最後の将軍慶喜だけかな?
他に解官、官位剥奪された者はいないのかな・・・
>>97 慶応元年九月、阿部豊後守、松前伊豆守の二老中が、独断で兵庫開港を承認しようと
した廉により、「退職・官位召し放ち・在所において謹慎」の処分を受けている。
(毛利の末家当主や、慶喜の「共犯者」の扱いはどうだったか覚えてない)
基経って本当に良房の養子なの?
後継者のなのは間違いないんだろうけど、
正式に養子になってるの?
100 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:55:06.35
>>98 このときの官位剥奪というのは朝廷側で決した処分だったようですね。
幕府による処分(改易)では官位剥奪や停止はなかったようなので、松平忠輝も、松平忠直も、徳川宗春も官位はそのままで、配流や蟄居の処分を受けていたのですね。
101 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:38:42.54
徳川家斉は左大臣から太政大臣に転任ののち、
朝廷から、准三宮の打診があったが、
それには興味が無く
結果として准三宮を辞退した経緯がある。
102 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:51:23.40
江戸幕末、京都守護職参議正四位下松平容保
京都所司代従四位上左近衛権中将越中守松平定敬の兄弟も
解官の憂き目にあった。
一方、江戸幕末、田安徳川慶頼は
正二位権大納言の官位を辞す旨、
幕府経由にて願うが、結果として
従二位権中納言の官位降格処分といった
珍しい事例もある。
103 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:03:33.22
朝廷主導だったら松平容保・伊達慶邦・上杉斉憲が解官されているはず
104 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 10:10:48.38
江戸幕末、土佐高知藩主、山内豊信(容堂)は
安政6年2月26日に藩主の地位を世子豊範に譲り、
隠居の形になるが、官位については、そのまま
従四位下侍従土佐守。
一方、新藩主豊範も同年12月、従四位下土佐守の叙任。
豊信が、土佐守から他の官職に異動あるいは土佐守を
辞任といった史料が見受けられないことから
現藩主と旧藩主が同じ土佐守といった極めて異例の状況が事例としてある。
105 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 10:47:56.70
江戸幕末、解官となった一例
長門萩藩主 従四位上行左近衛権中将兼大膳大夫 毛利慶親(元治元年8月22日付)
長門萩藩世子 従四位下行左近衛権少将兼長門守 毛利広封(のちの元徳。元治元年8月22日付)
周防徳山藩主 従五位下行淡路守 毛利元蕃(元治元年9月22日付)
長門府中藩主 左京亮従五位下 毛利元周(元治元年9月22日付)
長門清末藩主 讃岐守従五位下 毛利元純(元治元年9月22日付)
常陸宍戸藩主 大炊頭従五位下 松平頼徳(元治元年10月4日付)
106 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:25:50.02
江戸幕末、解官となった一例
陸奥仙台藩主 参議正四位下 伊達慶邦(慶応4年8月3日付)
陸奥仙台藩世子 左京大夫従四位下兼行侍従 伊達宗敦(慶応4年8月付)
讃岐高松藩主 従四位上行左近衛権少将兼讃岐守 松平頼聡(慶応4年正月10日付)
陸奥盛岡藩主 左近衛権中将従四位下兼行信濃守 南部利剛(明治元年11月付)
陸奥米沢藩主 従四位上行左近衛権中将兼弾正大弼 上杉斉憲(慶応4年8月3日付)
107 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:44:18.76
江戸幕末、解官となった一例
伊予松山藩主 従四位下行左近衛権少将兼伊予守 松平(久松)定昭(元幕府老中首座。慶応4年正月10日付)
播磨姫路藩主 従四位下行侍従兼雅楽頭 酒井忠惇(元老中首座。慶応4年3月7日付)
出羽庄内藩主 従四位下行左衛門尉 酒井忠篤(慶応4年閏4月5日付)
出羽松山藩主 紀伊守従五位下 酒井忠良(明治元年11月5日付)
108 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:52:44.73
江戸幕末、解官となった一例
相模小田原藩主 従四位下行加賀守 大久保忠礼(慶応4年6月4日付)
陸奥二本松藩主 従四位上行侍従兼左京大夫 丹羽長国(明治元年11月5日付)
陸奥国白河藩主 従四位下行侍従兼豊後守 阿部正外(老中。慶応元年10月1日付)
越後長岡藩主 駿河守従五位下 牧野忠訓(明治元年11月5日付)
上総大多喜藩主 豊前守従五位下 松平(大河内)正質(老中格。慶応4年正月10日付)
備中松山藩主 従四位下行侍従兼伊賀守 板倉勝静(老中首座。慶応4年正月10日付)
109 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 19:53:32.63
幕末の解官というのは、朝廷による制裁だよね。
幕府は武家の序列付けのために官位を利用しただけで、官位にそれ以上の価値は認めなかった。
だから、制裁・懲罰としての解官という発想は幕府にはなかったのかな。
110 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:20:12.89
武家の根本は鎌倉以来の一所懸命。
有名無実に至った官位にそこまでの魅力は及び得ない。
111 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:21:48.75
>>109 >>幕府は武家の序列付けのために官位を利用しただけで、
>>官位にそれ以上の価値は認めなかった。
というのは賛成するが、解官で序列が変わるのであれば
>>制裁・懲罰としての解官
があったのかもしれない。
112 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:54:33.87
>>111 >>制裁・懲罰としての解官
だから、それは官位による序列が体制の基盤であった公家の発想だったと思います。
江戸期の武家官位体制では、高家の官位が老中の上にあったなど官位の上下による身分の上下はなかったようですから。
同じくくりであれば官位の順の座になっていたようだし、四位以上であれば
三家の行列にあってもそのまま素通りできたとか、いろいろと違いはあった
ようだけどね。
(総下座とはいえ、相手が四位以上の場合には三家側も下乗して答礼する
必要があり面倒なので、お互い知らん顔で通ったというような話だとか。)
宇多天皇って、源氏時代に叙位、任官ってあったのですか?
源定省時代にいずれの官職にも任官はしていないみたい。叙位については
わかりませんね・・・。
116 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:04:26.84
宇多天皇(諱:定省 さだみ)
867年(貞観9年)5月5日、降誕。定省王
877年(貞観19年・元慶元年)〜885年(元慶9年・仁和元年) 侍従
位階については、正五位下といった情報あり。
882年(元慶6年)11月、元服
884年(元慶8年)4月13日、賜源朝臣。源定省。
887年(仁和3年)8月25日、立親王。品階は不明。
同年同月26日、受禅
同年11月17日、即位
三代実録には叙位任官記事はないのかな?
もしないのなら編纂時の今上天皇だから?
118 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:32:44.85
119 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 09:41:43.11
江戸幕末・従五位上に昇叙の大名の一例
昇叙年月日:元治元年(1864年)5月5日付
讃岐・丸亀 京極朗徹 佐渡守
越前・大野 土井利恒 能登守
肥前・平戸 松浦 詮 肥前守
伊予・新谷 加藤泰令 山城守
摂津・高槻 永井直矢 飛騨守
丹波・綾部 九鬼隆備 大隅守
120 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 09:47:48.53
江戸幕末・従五位上に昇叙の大名の一例
昇叙年月日:元治元年(1864年)5月5日付
播磨・三日月 森 俊滋 伊豆守
備中・新見 関 長克 民部少輔
河内・狭山 北條氏恭 相模守
尾張・犬山 成瀬正肥 隼人正
昇叙年月日:元治元年(1864年)7月付
三河・西尾 松平乗秩 和泉守
肥前・平戸新田 松浦 脩 豊後守 (7月晦日付)
奈良時代とかまでは位も実に抑制してるよな
藤原氏の御曹司が四位になるのに勤務20年とか
122 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 23:34:54.73
奈良時代は、官位相当がそれなりに機能していたから
藤原4家の当主でも従四位下参議は40歳ぐらいじゃね
相当長生きしないと大臣は無理
124 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 22:43:12.95
>当主
時代錯誤な用語を使ってる時点でw
125 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 10:00:29.51
関係ないけどやっぱ南家が嫡流なの?
そう南朝が正統
「氏」の全体としての、集団・組織の論理が優先されていた時代には、
嫡流という考え方がマイナーだった。
イエ、血統、家系の論理がウヂより優先されるようになっていく平安中期より前は、
嫡流という発想が下火だった。
イエの論理がウヂを駆逐するようになったのは鎌倉時代末頃かな?
だから、南家が正嫡という考え方は広まっていないと思う。
>>127 南朝が正統だとすれば、正統ならざる北朝の子孫は偽帝ってことになるな。
南朝の子孫は滅亡してるから、南朝正統論に従うなら天皇制を存続させることはできないぞ。
845年って公卿の当たり年って言うか特異年だな。
この年生まれの公卿は7人もいる。
馬鹿みたいに公卿が増える後代ならともかく、
平安前期以前じゃああまり例がないんじゃないの?
嫡男概念はあるから、一応嫡男をたどると、
不比等ー武智麻呂ー豊成ー縄麻呂が一応嫡流かな?
縄麻呂の子孫はもうはっきりしなくて。
もうあとはめちゃくちゃ。
縄麻呂の庶兄継縄流だとすると保則が嫡流最後の人?
などと考えてもまるきり意味がないけど。
後に繋がるのは真楯ー内麻呂ー冬嗣流だけど、
内麻呂の段階ではまだ定着してないってところかな。
寵臣の嫡子とかの場合は30前で公卿という例はあったけど、
橘朝臣奈良麻呂、29歳?で参議、藤原朝臣緒嗣、確か29歳で参議。
20前後の公卿は嵯峨源氏からだな。
藤原朝臣基経、同常行も29歳で参議だし。
時平でようやく、五位スタート以外は源朝臣常並に。
132 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 00:49:50.34
(律令制下における)ウジの論理だと結局官位が一番高い人が氏長者となり、嫡流も糞もない。
当時の「嫡子」という概念は単に嫡妻から生まれた子ということであるから、「嫡子」が複数いることも一人もいないこともありうる。
いずれにせよ後世の「嫡男」「嫡子」という概念とは異なる。
勿論兄の方が弟より優先・優遇されるということはあるが、政治状況によって弟が兄の官位を追い越すということもある。
よく言われる「清和源氏の嫡流」なんて結果論(または後世の潤色)でしかないということは言わずもがな。
>>125 >>124はいわゆる「イエ」制度がない時代について「当主」という語を使うことをくさしてるのではないか。
知らんけど。
>>128 大覚寺統(南朝)を正統としても、南北朝合一によって持明院統(北朝)の傍流が正統たる大覚寺統を継承したという建前になるので、
現在の皇室に正統性がないということにはならないと思う。
もっとも北畠准后親房の「正統」という概念は天照大神と現天皇を結ぶ直系のラインを「まことの継体」とし、
それ以外を傍系として扱うものだから(上述した「結果論」に似ている)、その意味でも問題はない。
ちなみに持明院統の嫡流は伏見宮(というか持明院統の嫡流という由緒ゆえに世襲親王という特殊な地位を得た)。
皇籍離脱した皇族を復活させよという論理は持明院統を復活させよという意味になってしまうのがおもしろい。
133 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 23:14:00.64
天皇家が嫡流じゃないって言ってる時点で・・・
なんとか宮のほうが嫡流って頭おかしいな。
実父と弟に格別の配慮を加えての話でしょ?伏見宮の方が本来は
云々というのは後崇光院までの話で、王子が皇位を継いだ時点で統一
されている。
で、兄が皇位を継いでいるのに、弟の方が「嫡流」というばかげた話はな
いし、そもそも伏見宮が世襲親王の初例ということではないはず。
136 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 01:52:30.03
現天皇の系統は大覚寺統を継承したものであり、伏見宮は「「持明院統の」嫡流」と書いたはずなんだけど、知能が低すぎて理解できないのかな?
この程度の読解力もないとは。
経緯がどうあれ今上天皇に連なる系統が正統であることは論を俟たない。
>>136 >現天皇の系統は大覚寺統を継承したものであり、
大覚寺統たる南朝を正統と認めたからといって現天皇家が大覚寺統になった訳じゃないと思うが?
139 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 11:49:08.19
1867年(慶応3年)12月9日現在(将軍徳川慶喜、将軍辞任日。王政復古の大号令)
武家公卿補任
内大臣正二位 徳川慶喜 右近衛大将
権大納言正二位 徳川慶勝(尾張前藩主)
権大納言従二位 徳川茂徳(尾張藩藩主)
権大納言従二位 徳川茂栄(一橋家当主)
権中納言従二位 徳川慶頼(田安家前当主)
権中納言正三位 徳川茂承(紀伊藩藩主)
権中納言正三位 前田斉泰(加賀金沢藩¥前藩主)
権中納言従三位 徳川慶篤(常陸水戸藩主)
140 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 11:53:41.88
1867年(慶応3年)12月9日現在(将軍徳川慶喜、将軍辞任日。王政復古の大号令)
武家公卿補任(続き)
参 議従三位 前田慶寧(加賀金沢藩主)左近衛権中将
参 議正四位上 松平慶永(越前福井前藩主)元幕府政事総裁職
参 議正四位上 松平容保(陸奥会津若松藩主)同日、幕府京都守護職辞職。
参 議正四位下 伊達慶邦(陸奥仙台藩主)
参 議従四位下 黒田斉溥(筑前福岡藩主)
※水戸徳川慶篤は正三位昇叙の打診あるも固辞。
※田安徳川慶頼は正二位権大納言であったが、官位返上を請うも従二位権中納言の降位降官処分となる。
ところで、尾張茂徳と一橋茂栄って同一人物だろ。
前の尾張藩主にして現在の一橋当主だな
名前も変わるのは珍しい
将軍家は左大臣になれないって本当?
>>136 それ以前に孝明朝までの歴代の天皇にとって南朝は南方偽主でしかなかった訳で、間違っても大覚寺統を継承したなんて意識は絶対に持っていなかったと言えるのだが。
145 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 21:06:34.81
伏見宮が持明院統嫡流ってのは正しい
大覚寺統にしたって後醍醐流は嫡流ではなく傍流
というか正統なんて言い方は理想論か正当化かそれこそ結果論でしかないのだから
正統またはそれを明らかにすることを前提にして議論なんてするのは馬鹿馬鹿しい
ということでスレ違いはここまでにしましょう
>>140 容保は参議正四位下だよ
>>143 ?
>>145 伏見宮より皇統のが長系なんだから伏見宮が嫡流ってのは違和感覚えるなー
147 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 23:08:55.70
1867年(慶応3年)12月9日現在(将軍徳川慶喜、将軍辞任日。大政復古の大号令)
武家の左近衛権中将(参議兼帯を除く)
正四位上 松平頼胤(讃岐高松前藩主)玄蕃頭
正四位上 蜂須賀斉裕(阿波徳島藩主)阿波守
正四位上 松平斉民(美作津山前藩主)越後守
正四位下 松平慶倫(美作津山藩主)三河守
従四位上 松平慶憲(播磨明石藩主)兵部大輔
従四位上 細川慶順(肥後熊本藩主)越中守
従四位上 島津久光(薩摩鹿児島藩国父)大隅守
従四位上 池田慶徳(因幡鳥取藩主)因幡守
従四位上 井伊直憲(近江彦根藩主)掃部頭
従四位上 上杉斉憲(出羽米沢藩主)弾正大弼
148 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 23:16:36.77
1867年(慶応3年)12月9日現在(将軍徳川慶喜、将軍辞任日。大政復古の大号令)
武家の左近衛権中将(参議兼帯を除く)続き
従四位下 徳川昭武(清水家当主)民部大輔
従四位下 鍋島斉正(肥前佐賀前藩主)肥前守
従四位下 佐竹義堯(出羽久保田藩主)右京大夫
従四位下 南部利剛(陸奥盛岡藩主)美濃守
従四位下 松平定敬(伊勢桑名藩主)越中守(幕府京都所司代。同日辞任)
従四位下 有馬頼咸(筑後久留米藩主)中務大輔
※長門萩藩主毛利敬親は翌日、官位復旧にて参議従四位上
>>136 南北朝正閏論を勘違いしているようだけど、「神器を持っている方が正統」というだけの話だよ。
だから、南朝側が神器を保持していた時期には南朝が正で北朝が閏という理屈。
で、後亀山から後小松に神器が渡された時点で北朝側が正統になったということであり、
「天皇の系統が大覚寺統を継承した」というのは完全な誤り。後小松院が後亀山なり後村上
なりの子として継承したということではないからね。
150 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 23:55:43.97
>>143 徳川家慶は将軍世子のときに左大臣になってる。
これは親父の家斉が将軍在職のまま、太政大臣になったからだが。
確か3代家光も左大臣だったはず。
その後の歴代将軍が右大臣や内大臣どまりなのは、将軍権力が朝廷を完全に凌駕し、
ことさら高い官位にこだわる必要がなくなったからだろう。
将軍は手紙や座席において天皇・上皇と同等の待遇で、勅使も将軍より下座だったから。
151 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 00:20:49.41
正確には最初期の伏見宮は崇光院流なので持明院統の正嫡と言えるが
伏見宮第三代貞成親王の嫡男彦仁王(第102代花園院)皇位を継いだために嫡流は皇統に戻っている
152 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 00:26:20.49
>>148 昭武って少将じゃなかった?
いつ中将になったの?
153 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 00:32:19.61
連投で細かいところをチクチクと悪いけど
>>140 前田慶寧が従三位に叙せられるのは明治2年
それまでは正四位上
>>148 松平定敬は従四位上
そういや、南朝の官位に関する研究って聞かないね
無い訳じゃないけど、現存文献・史料が少なすぎるから大よその推定しかできない
156 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:07:43.09
水戸徳川慶篤に対して正三位(権中納言従三位)昇叙の件は
加賀前田斉泰が既に正三位(権中納言)に昇叙しているため
官位の序列上、前田の方が上に列することになる。
しかし、慶篤はこれを固辞した。何故か?
先祖の水戸家祖の頼房が権中納言従三位。
加賀前田利常も同じ官位といったことが一時的に
あったが、水戸家が運動して正三位に昇叙という先例がある。
因みに、前田斉泰は、利常の先例に倣い、権中納言からその後、肥前守に遷任している。
157 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 03:01:52.09
南部利剛が権中将とは出世した
>>118 >どこかのスレで詳細な系図が書いてあったのをご存じありませんか?
これ?
…… 始祖
┃
┃
┣━━━━━ 勇者
┃ ┃
┃ ┃
┗ 某 ┃
┣━━━ 略 ━━━━ 勇者
┃ ┃
┃ ┃
┗ 某 ┃
┣━━━━━━━ 子 ━━━ 国王 ━━ 王子(断絶)
┃ │
┃ │
┗ 某 ├── 国王 ── 王子(断絶)
│
│
└── 国王 ── 王女(断絶)
ドラクエか。
>>150 > 徳川家慶は将軍世子のときに左大臣になってる。
世子時代は、さすがに内大臣、将軍宣下と同日左大臣
161 :
日本@名無史さん:2011/11/06(日) 23:35:04.55
徳川家慶が世継ぎの段階で既に従一位で
しかも正二位ではなく従一位で内大臣というのは、稀有な例。
さらに、右近衛大将まで兼帯。
これで充分に当時としては征夷大将軍の官位ともいえる。
162 :
日本@名無史さん:2011/11/07(月) 00:39:32.29
>>150 例え勅使が将軍の下座についたとしても天皇と同等と言うことは
なかろうに。
正月の祝いの使いを出すのは将軍側だし、その返答にやってくるのが
勅使で幕府は最上級のお持て成しをする。
>>162 勅使の座が根拠という話ではないよ。
書状やら天皇と対面した時の座等々が、上皇に準じた扱いであったというのが
先にあっての話。
「上皇に準じた扱い」っていうけどさ。
儀礼の際の振る舞いとか様式について、
摂関家と同列以上で新しく様式を作り上げる際に、
上皇の格式を応用・変形して作り上げていったって意味に過ぎないんじゃないの?
それだったら足利義満時代の足利将軍の場合にも同様のことがあったし、
特に珍しい話じゃない気がするんだけど。
実のとこ、どうなの?
バカな質問ですまないけど、
皇太子は親王なの?
今の皇太子が? ってことならその通り。
現行法で? ってことでもその通り。
ここは歴史板だったね。
>>166に追加。
歴史上は? ってことなら、そうとは限らない。
>>165 親王宣下されてない王で皇太子なら例がある。
内親王で皇太子もいた。(孝謙天皇)
うろ覚えだから間違っているかも
>>164 天皇と対等の扱い云々は、元々書札礼や対面の格式と言った
話であって、「全てが対等であった」なんていう話じゃないでしょ?
170 :
日本@名無史さん:2011/11/08(火) 02:19:01.98
家康〜家光あたりは室町殿の格式を踏襲しのだと思う
171 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 18:15:38.42
唐土では皇太子と王(親王)は別の爵位だから
皇太子徳仁親王みたいに言うのは字義からすればおかしいんだよな
だからと言って現代の親王はkingに相当すると言っているわけではなくw
ところで前近代の皇太子は品階を有していたのだろうか?
皇太子一品とか二品皇太子とか書いてあるのを見たことがないんだが
172 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 18:45:04.72
>>171 天皇と皇太子(皇太弟)は親王・内親王号があっても品なし
一品〜四品は天皇と皇太子(皇太弟)を除く親王・内親王だけ
大宝律令成立から明治維新まで続いた
173 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:34:22.17
>>172 親王や内親王は「皇族」の号であって、天皇は親王・内親王号は
つかない。天皇は「皇族」ではないから。
現代に言うと天皇は「明仁」、皇太子は、「徳仁親王」。
174 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 01:31:07.79
一品二品とかの区別があるならいいが
天皇から高円宮まで全員が
同じ大勲位菊花大綬章なのはなぜなんだ?
175 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 04:17:49.98
天皇陛下は、大勲位菊花章頸飾もあるから他の皇族と同列になってるわけじゃない。
(昔は功績のあった皇族とかにも与えられてたけど。)
176 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 12:51:04.39
天皇は「菊花章頸飾もある」じゃなくて菊花章頸飾
それにしても天皇が勲等持ちというのは噴飯もの
天皇にはだれが授けるのじゃ?
上皇でもいるなら話は別だが、何さまじゃ?
178 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 21:48:32.82
179 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 23:43:57.42
>>178 ヨーロッパ由来の勲章制度ではそうだけど
日本の伝統的な観念で言えば馬鹿な話
天皇賞も菊花賞も負けちまったよ。
日本の伝統概念に勲章なんてものはないんだから、馬鹿も糞もない。
古代の勲位は勲章とは全く別物で、どちらかというと位階の一種。
位階の法を文位とも言うらしい。
明治以後の勲章はあくまで輸入物で、外形的に勲位をまねただけ。
数字の等級がなくなって、外形的類似性も薄れたけど。
勲位は光仁天皇が即位前に勲二等をもらってるけど。
即位後の勲位の帯勲者はいないはず。
帯勲者が即位した場合は、消滅というか発展的解消と言うか、する?
位階(文位)同様なのか?
品階以外の(通常?の)位階を除された経験がある天皇は、
光仁・桓武両天皇親子だけだったと思う。
賜姓源氏から即位した宇多天皇は、即位以前には位階をもってなかったのか
皇族(王)の時代に侍従だったと聞いたことはあります。王のときに叙位されていたと思うのですが、そうすると、賜姓後も官位があったのではないでしょうか。
聞いたことあるもなにも、上の方に書いてあるじゃないかよ。
185 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 02:33:48.13
>>181 勲等と勲章は区別した方がいい。
それとそもそもヨーロッパの勲章制度はイコール騎士団制度で、
騎士団なんて伝統のない日本に輸入したら何だか位置づけがよくわからないものになってしまったという感じだな。
186 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 16:24:51.55
>>177 明治天皇と今上は「自分で自分に授ける」という形らしいな
大正天皇と昭和天皇は皇太子時代に受けたので天皇から授与されたが
187 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:01:20.49
貞観大地震発生時の政府首脳
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
天皇 惟仁(清和)20歳
皇太子 貞明親王(のちの陽成天皇)3ヶ月
摂政太政大臣 従一位 藤原良房 68歳
大納言 正三位 藤原氏宗 60歳 皇太子傅
中納言 正三位 源 融 48歳
中納言 従三位 藤原基経 34歳 左近衛大将、陸奥出羽按察使
参 議 従三位 源 多 39歳 左衛門督、近江守
参 議 従三位 藤原常行 34歳 右近衛大将、讃岐守
参 議 正四位下 源 生 49歳 右衛門督、讃岐権守
参 議 正四位下 南淵年名 63歳 民部卿、春宮大夫、伊予守
参 議 正四位下 春澄善繩 73歳 式部大輔
参 議 正四位下 大江音人 59歳 左大弁、勘解由長官、美濃守
188 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:07:22.40
貞観大地震発生時の宮廷女人たち
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
皇 后 欠員
中 宮 欠員
太皇太后 正子内親王 60歳(淳和天皇皇后、嵯峨天皇第一皇女。受戒法名:良祚)
太皇太后 藤原順子 61歳(仁明天皇中宮、五条后、故左大臣藤原冬嗣の娘)
皇太后 藤原明子 41歳(文徳天皇中宮、染殿后、摂政太政大臣藤原良房の娘)
女 御 正三位 藤原多美子(故右大臣藤原良相次女)
女 御 従四位上 嘉子女王
女 御 従四位上 源 濟(文徳天皇皇女。臣籍降下)
女 御 従四位下 平 寛子
女 御 従四位下 藤原高子(故権中納言藤原長良娘)28歳
女 御 従四位下 源 貞子(温明殿女御)
(内侍司)
尚侍 正二位 源 全姫 58歳(嵯峨天皇皇女。臣籍降下)
典侍 従四位上 良岑親子
典侍 正五位下 菅原能子
掌侍 従五位下 文室御井子
189 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:31:55.92
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
(検非違使)
別当 欠員
佐 従五位上 紀 春枝 左衛門権佐 因幡権介 (9月7日、陸奥国地震使)
佐 正五位下 在原守平? 右衛門権佐
(左衛門府)
督 従三位 源 多 39歳 参議、近江守
佐 従五位上 藤原利基
権佐 従五位上 紀 春枝 検非違使、因幡権介
(右衛門府)
督 正四位下 源 生 49歳 参議、讃岐権守
佐 従五位下 藤原宗枝か
権佐 正五位下 在原守平? 検非違使
大尉 正六位上 藤原高經 蔵人
190 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:47:29.67
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
(左兵衛府)
督 正四位下 在原行平 52歳 備中守
佐 四位 源 平?
(右兵衛府)
督 正四位下 源 勤 46歳 備中権守
佐 従五位上? 藤原國經?
蔵人頭 正四位下 藤原良世 48歳 皇太后宮大夫
蔵人頭 従四位上 藤原家宗 53歳 左中弁、皇太后宮亮
蔵 人 正六位上 藤原高經 右衛門大尉
蔵 人 正六位上 良岑農茂
191 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 08:52:59.33
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
(左近衛府)
大将 従三位 藤原基經 34歳
中将 従四位下 源 舒 42歳
少将 従四位下 藤原良尚 52歳 備前権守
少将 従五位下 藤原有實 22歳 加賀守
権少将従五位上 文室巻雄 60歳 伊予介
将監 外従五位下 丹波茂嗣
(右近衛府)
大将 従三位 藤原常行 34歳 参議、讃岐守
中将 従四位上 源 興 42歳 阿波守
少将 従五位上 藤原山陰 46歳
少将 従五位上 坂上瀧守 45歳 阿波介
将監 外従五位下 和藥弟歳
192 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 15:03:40.53
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
(神祇官)
伯 従四位上 藤原廣基 播磨権守
大副 従五位下 大中臣豐雄 祭主
少副 正六位上 大中臣有本
大祐 正六位上 大中臣常道
伊勢祭主 従五位下大中臣豐雄 神祇大副
伊勢大宮司 従七位下 大中臣有範(服喪中)
伊勢大宮司 正六位上 大中臣澤松
伊勢内宮禰宜 外従五位下 荒木田繼長
伊勢外宮禰宜 外従五位下 度會眞水
伊勢斎宮(斎王) 恬子内親王 22歳?(文徳天皇皇女)
斎宮頭 従五位上 藤原諸藤 伊勢介
斎宮助 従五位下 藤原豐本?
賀茂斎王 三品 儀子内親王 (文徳天皇皇女)
斎院長官 従五位上 藤原忠主 皇太后宮大進
193 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:16:59.77
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
中務卿 三品 時康親王 40歳 大宰帥、(のちの光孝天皇)
中務大輔 従四位上 棟貞王(桓武天皇孫、葛井親王皇子)
中務少輔 従五位下 藤原諸房?
式部卿 二品 忠良親王 51歳 (嵯峨天皇皇子)
式部大輔 正四位下 春澄善縄 73歳 参議
式部少輔 従五位上 高向公輔 53歳
式部大丞 従五位下 文室行敏?
式部少丞 従五位下 藤原忠方?
治部卿 二品 賀陽親王 76歳 上野太守 (桓武天皇第十皇子)
治部大輔 従五位上 橘 信基
治部少輔 従五位下 藤原貞亮?
民部卿 正四位下 南淵年名 63歳 参議、春宮大夫、伊予守
民部大輔 従四位下 忠範王? (賀陽親王皇子)
民部少輔 従五位上 藤原水谷 信濃権守
194 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:24:31.07
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
刑部卿 従四位上 菅原是善 58歳
刑部大輔 従五位上 菅野弟門
刑部少輔 従五位下 藤原是行
兵部卿 四品 本康親王 42歳? 上総太守
兵部大輔 従四位上 藤原仲統 43歳
兵部少輔 従五位下 藤原忠方
大蔵卿 従四位上 源 能成
大蔵大輔 従五位上 橘 三夏
大蔵少輔 従五位上 滋野善根
大蔵大丞 従五位下 安倍弘行?
宮内卿 欠員?
宮内大輔 正五位下 良岑長松
宮内少輔 従五位下 島田善宗?
195 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 00:16:34.63
1 左右大臣がいない
2 参議の近衛大将
3 頭中将がいない
のは、ちょっとした違和感がある
藤原道長のときにも、大蔵卿と中将が頭だったり、左右頭中将だったりと
いう時期があったようですね。
平安前期までは太政大臣・左大臣・右大臣のうち1人いればいいくらいの感覚だった筈。
つまり、太政官の最高責任者がはっきりしていれば可。
>>195 史実ではないが、光源氏も宰相で大将の時期があったから、当時では珍しくないのではないかと思うよ。
そういえば時代は下るが豊臣秀吉死去の時点では太政大臣も左右大臣もいなくて
内大臣源家康が太政官の首班だったっけか
200 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 12:08:03.26
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
左大弁 正四位下 大江音人 59歳 参議、勘解由長官、美濃守
左中弁 従四位上 藤原家宗 53歳 蔵人頭、皇太后宮亮
左少弁 従五位上 藤原良近? 47歳
左大史 外従五位下 菅野良松
左少史 正六位上 大春日安永
右大弁 従四位上 藤原冬緒 62歳 美濃権守
右中弁 正五位下 源 直 40歳
右少弁 従五位上 藤原千乘?
右大史 不明
右少史 不明
少納言 従五位上 和氣彝範 侍従
少納言 従五位上 久須繼王? 侍従
201 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 12:17:29.83
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
(弾正台)
尹 四品 惟喬親王 26歳
大弼 従四位上 基兄王 46歳(桓武天皇孫、葛井親王第一皇子)
少弼 従五位下 高階令範
大忠 不明
少忠 正六位上 布瑠道永
大膳大夫 従五位上 橘 春成?
大膳亮 不明
左京大夫 不明
左京亮 従五位上 橘 高成?
左京権亮 従五位下 藤原生丘?
右京大夫 従四位上 橘 貞根?
右京亮 従五位下 藤原是縄
右京権亮 従五位下 佐伯子房?
202 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 15:41:58.14
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
(東宮坊)
傅 正三位 藤原氏宗 60歳 大納言
学士 従五位下 橘 廣相 33歳
(春宮職)
大夫 正四位下 南淵年名 63歳 参議、民部卿、伊予守
亮 従五位下 藤原門宗
大進 従五位下 藤原清經
(皇太后宮職)
大夫 正四位下 藤原良世 48歳 蔵人頭
亮 従四位上 藤原家宗 53歳 蔵人頭、左中弁
大進 従五位上 藤原忠主 斎院長官
少進 従五位下 菅野愛甲
(太皇太后宮職)
大夫 欠員
亮 従五位上 紀 冬雄 美濃権介
大進 従五位下 藤原遠經
少進 外従五位下 笠 冬人
203 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:44:51.68
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
勘解由長官 正四位下 大江音人 59歳 参議、左大弁、美濃守
勘解由次官 従五位下 紀 安雄
大舎人頭 従五位上 礒江王
内蔵頭 従五位上 藤原安方 土佐権守
内蔵助 不明
内蔵権助 従五位下 藤原積善
大学頭 従四位下 潔世王 50歳(桓武天皇孫、仲野親王第八皇子)
文章博士 従五位下 巨勢文雄 46歳 備後権介
陰陽頭 不明
陰陽助 従五位下 笠 名高 備中介、権陰陽博士
204 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:52:32.73
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
主計頭 従五位上 家原繩雄 但馬権守
主計助 不明
主計権助 外従五位下 真野永徳
主税頭 従五位上 家原氏主 尾張権守 算博士
木工頭 従五位上 源 包
木工助 不明
木工権助 従五位下 藤原維邦
大炊頭 従五位下 上毛野安守
主殿頭 正五位下 當麻鴨継 讃岐権介
主殿助 従五位下 藤原秀雄?
主殿権助 従五位下 大中臣國雄
>>199 家康も、五大老筆頭で多忙で、朝廷への出仕は無理なので、秀吉死語間もなく菊亭晴季を右大臣に復帰させている。
206 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 00:38:52.28
出仕して何やるの
>>199 しかし、さすがに家康が日々朝廷に出仕というのも無理なので、間もなく菊亭晴季が右大臣に復帰したはず。
朝廷が一番困ったのは、秀次切腹後晴季復帰までの間みたいだね。
なにせ、大臣は秀吉と家康の2人だけど出仕せず。
この経験が、禁中並びに公家書法度の武家官位につながったんだろうけど。
208 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 11:58:26.16
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
左馬頭 正五位下 藤原秀道
右馬頭 正五位下 在原業平 45歳
左兵庫頭 従五位上 久我三常
右兵庫頭 従五位上 廣山王?
大監物 従五位上 興我王
大外記 外従五位下 善淵愛成
大外記 外従五位下 南淵興世
少外記 春澄魚水
少外記 大春日安守
大内記 従五位下 小野問道
大内記 従五位下 安倍興行
少内記 不明
209 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 12:27:27.16
貞観大地震発生時の政府官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
諸陵頭 従五位下 橘 葛名
采女正 従五位下 清河王
正親正 従五位上 當世王(桓武天皇孫、仲野親王皇子)
内薬正 従五位下 興道名繼 侍医、能登介
医博士 外従五位下 深根宗繼
音博士 従五位下 清内雄行
陰陽博士 従五位下 滋丘川人
権陰陽博士 従五位下 笠 名高 陰陽助、備中介
天文博士 従五位上 中臣志斐春繼
210 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 12:36:00.04
貞観大地震発生時の僧綱
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
僧 正 眞雅 70歳
権僧正 壹演 67歳
大僧都 慧達 74歳
少僧都 眞紹 73歳
律 師 慧叡、最教、願曉、明哲、光善,、
権律師 眞叡、正進、道昌72歳、道詮73歳?、興照、常曉、春徳、春賢、宗叡61歳、
おまえは毎日何がしたいの?
あらしとも思えんが、やってることは、あらしと変わらんぞ
212 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 13:26:01.32
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
陸奥守 正五位下 良岑經世 上野権介
鎮守府将軍 従五位下 御春岑雄
出羽守 従五位下 多治高棟
常陸太守 四品 惟彦親王 30歳
常陸介 従五位上 橘 良基 45歳
下野守 従五位下 紀 本道
下野権守 従五位上 紀 有常 55歳
下野介 従五位下 紀 安雄 48歳
下野権介 外従五位下 多米弟益
上野太守 二品 賀陽親王 76歳 治部卿
上野介 従五位上 安倍貞行
上野権介 正五位下 良岑經世 陸奥守
214 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 14:43:54.32
>>209 諸王も六位相当の官職に任ぜられているんだな。
与える官職が不足してきたのかな。
>>207 豊臣時代と違って江戸時代、武家の大臣が将軍の一人だけで、大中納言が計三人、参議が一人だけだから
朝廷の職務に大きな影響は無いのでは?
まあ、諸法度が制定されたころは、複数武家大臣いたみたいだけどね。
>>214 官位相当崩れてしまった平安後期以降と違って奈良時代から平安初期の五位はかなりの上層じゃね?
諸王の蔭位ってどんなだっけ?
218 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 18:27:09.65
>>217 親王の子は従四位下。
諸王の子は従五位下が選叙令の基本。
なお、庶子は一階落す。
>>218 そうすると
>正親正 従五位上 當世王(桓武天皇孫、仲野親王皇子)
これはどういうことなんだろうか
221 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:10:11.82
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
武蔵守 従五位下 藤原安陳
武蔵介 六位 紀 有朋
上総太守 四品 本康親王 42歳? 兵部卿
上総介 従五位上 藤原萬枝?
下総守 従五位下 橘 最雄
下総介 従五位下 上毛野上長
安房守 外従五位下 大國福雄
相模守 従四位上 源 冷 35歳
相模介 従五位下 橘 岑雄 66歳
相模権介 従五位上 橘 休蔭
伊豆守 不明
222 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:21:14.13
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
甲斐守 従五位下 藤原弘道
甲斐介 外従五位下 道島村島
駿河守 従五位下 清原道雄
駿河権守 従五位下 橘 主雄
遠江守 従五位下 田口統範
三河守 従五位下 藤原善友
三河介 外従五位下 太 貞長
尾張守 従五位下 吉備全繼
尾張権守 従五位上 家原氏主 69歳 主税頭、算博士
伊勢守 従四位下 多治貞岑 71歳
伊勢権守 従五位下 藤原有蔭 46歳
伊勢介 従五位上 藤原諸藤 斎宮頭
伊勢権介 従五位下 藤原廣守
志摩守 不明
伊賀守 従五位下 上毛野綱主
>>220 仲野親王王子の當世王は貞観大地震の14年前に散位従四位下で没しておりますな。
当該の當世王は貞観4年に正六位上から従五位下に昇叙されており別人かと。
224 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:38:55.81
蔭位については
尾崎陽美「律令官人制における蔭位制の本質」日本史研究 通号418(1997年6月)
仁藤敦史「蔭位授与制度の変遷について--慶雲3年格を中心にして」歴史学研究 通号592号(1989年4月)
田原光泰「蔭位授与制度の再検討--延歴14年10月8日格を中心に」日本歴史 通号619号(1999年12月)
あたりを先ずは読むといい。
延暦15年(796年)の改正で、四世王・五世王・五世王の嫡子は正六位上。
五世王庶子は正六位下、いずれも21歳以上。
よって、9世紀になると六位の諸王は珍しくない。
裏返すと日本後紀以後で五位直叙ならほぼ間違いなく三世王だと判断できるとも言いうる。
あと一世源氏の従四位下以上は、二世王より上を意識しているのだろうか?
226 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:51:08.84
>>225 >>二世王より上を意識しているのだろうか?
「平安時代皇親の研究」(吉川弘文館)によれば、
一世源氏は従四位上直叙が原則で、二世王より上、
長屋王(正四位下直叙)より下というところで、
バランスをとったのではないかと言われている。
>>215 勘違いしていないか?
秀次事件で秀次が切腹し、菊亭晴季が連座して配流された後に公家の大臣が1人もいなくなった時期の話をしているのだが。
229 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 08:44:16.38
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
信濃守 従五位上 源 潁
信濃権守 従五位上 藤原水谷 民部少輔
信濃介 従五位下 滋野恒蔭
飛騨守 不明
美濃守 正四位下 大江音人 59歳 参議 左大弁、勘解由長官
美濃権守 従四位上 藤原冬緒 62歳
美濃介 従五位下 藤原飽水?
美濃権介 従五位上 紀 冬雄 皇太后宮亮
越後守 従五位下 紀 當仁 侍医
越後介 従五位下 善淵永貞? 57歳 大学助教
越後権介 外従五位下 御輔直野
佐渡守 不明
230 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 08:53:12.39
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
越中守 従四位下 良秀王
越中介 不明
越中権介 従五位下 源 弼
能登守 従五位下 安倍高貞
能登介 従五位下 興道名繼 内薬正、侍医
加賀守 従五位下 藤原有實 43歳
加賀介 不明
加賀権介 従五位下 菅野彦主
越前守 従四位上 源 啓 41歳
越前権守 従五位上 藤原良近 47歳
越前介 外従五位下 志紀氏經
若狭守 従五位下 藤原數守
231 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 14:18:35.95
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
近江守 従三位 源 多 39歳 参議、左大弁、左衛門督
近江権守 従四位下 藤原有貞 43歳
近江介 従五位下 安倍三寅
近江権介 従五位下 平 正範
近江大掾 従五位上 菅野弟門
山城守 従四位上 輔世王(桓武天皇孫、仲野親王皇子)
山城権守 従四位上 在原善淵
山城介 従五位下 紀 好雄
山城権介 従五位下 秦 安雄
大和守 従四位下 藤原本雄
大和介 従五位下 山田文雄
大和権介 外従五位下 和氣時雄
この列記しているだけのやつは、なにかを語っているつもりなのだろうか。
スレタイが読めないのだろうか。
233 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 15:13:51.59
伊豆守とか治部少輔とか官職っていうのかな?
元々は、名前で呼ぶのは失礼だから、こういうものをつくったのかな
嵯峨源氏の最初期(最初の2、3人)は従四位下もあったが、
すぐに従四位上に進み、以後は全員従四位上以上。
なかには三位直叙と言う荒技も。
>>233はネタ?
万が一マジなら、本末転倒としか言いようがない。
>>235 半分マジですが・・・
ほら、昔の人って名前を呼ばすに屋号で言ったりしたんでしょ?
そんな感じだったのかなと・・・
>>234 その例は嵯峨天皇の皇子の源定と後三条天皇の皇孫の源有仁ぐらいだろう…
そういえば、四等官のスケに当たる字(介、助、亮、輔、弼とか)が人名に多く使われてきたのは
もともとは、一番とまでとはいわないが二番目くらいになってほしいという親の謙虚な願いだという話をどっかで聞いたが、本当なんだろうか?
単にたすける、支えるという良い意味の字なので多用されたという気もしないでもないが
239 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 18:31:46.01
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
河内守 従五位下 紀 眞丘
和泉守 従五位下 御室安常
摂津守 従五位上 橘 安吉雄
摂津権守 従四位下 藤原廣基 弾正大弼
摂津介 不明
摂津権介 従五位下 源 吟
紀伊守 従五位上 藤原興世
紀伊介 従五位下 菅野高松
丹波守 従五位上 坂上貞守 65歳
丹波権守 従五位上 安倍房上
丹波介 従五位下 三善清江
丹後守 従五位下 大春日澤主
240 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 18:47:12.61
>>238 介、助、亮、輔、弼は
何れも「たすける」と訓読みするが、
実は、たすけ方に相違がある。
例えば、
介は、人と人との間にはさまってたすける。
という意味をこの「介」一字で表現している。
助は、力をそえてたすける。
亮は、明らかにするためにたすける。
輔は、つきそって政務などをたすける。
弼は、自分を律し、相手があやまちのないようにたすける。
弾正台の次官にこの文字を使っている。
祐は神のたすけ。神祇官の判官に使っている。
それぞれの官庁にどうしてこれらの文字を使っているのか
また、人名に使う場合の意味合いからも
考えて見るのもよいかも。
長官の官名は中国に先例がある場合が多いが、次官はなぜか日本独特の名が多い。
ところで中国でポピュラーな長官名の令は、日本では家令や条令(坊令)以外は、
令制にはない。
令外の官にいくつか有ったかが長続きせず。
243 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:40:21.50
>>238 単純に中世武士の官途名に大炊助とか上総介とかが多かったから
江戸時代になっても啓介やら信介やら宗佑やらが武士の通称や百姓町人らの名前として使われ(そのまま修理亮なんて名乗るとお縄になる)
そのまま名づけの慣習となって残ったんだろ
>一番とまでとはいわないが二番目くらいになってほしいという親の謙虚な願い
これは特定の誰かの親がどういう意図で名付けたかの説明としては成り立つが
〜スケが名前としてポピュラーとなった説明にはならない
244 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:29:18.28
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
但馬守 従五位上 伴須賀雄
但馬権守 従五位上 家原繩雄 主計頭
但馬介 従五位下 小野後主
因幡守 正五位下 藤原關主
因幡介 従五位下 大春日高庭
因幡権介 従五位下 島田忠臣 42歳(菅原道真の岳父となる。)
伯耆守 従五位下 橘 良實
出雲守 従五位下 島田善長
石見守 従五位下 大野鷹取
隠岐守 不明
245 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:39:23.44
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
播磨守 従五位上 藤原有年
播磨権守 従四位上 藤原廣基 神祇伯
播磨介 従五位下 南淵良棟
播磨権介 従五位下 藤原高藤 32歳
淡路守 外従五位下 善道繼根
美作守 従四位上 朝右王
美作介 従五位下 廣階貞雄
備前守 従五位上 源 好
備前権守 従四位下 藤原良尚 52歳 左近衛少将
備前介 従五位下 藤原春景
備前権介 従五位下 源 湛 25歳
>>233 伊豆守、なんかは国司の官職名。
長官が守で次官が介、三等官が丞。
四等官は何も付けないのかな? これだけは知らない。
治部少輔とかは、八省に属する治部という役所の次官(輔)のこと。
役所によっては次官が二人いて、大輔・少輔のように大少で呼び分けた。
のちに、武士の世界でもこういう官職に就くことが多くなった頃からか、
理由はよく分からないが、
地方の庄屋など富農のあいだで官職姪に似た名前を使うことが多くなった。
村人との格の違いを強調したい意図があったのかもしれない。
何百年かたってから、庄屋だけでなく一般人も使うようになったんじゃないかな。
>>238 長官は貴族じゃないと就任できないからじゃないか?
(もしくは、格式の高い有力武士か。)
>>240 介は国司の次官、助は六衛府の次官、亮は京職など「職」の次官で
弼は令外官?
247 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 07:46:51.03
>>246 >長官が守で次官が介、三等官が丞。
三等官は掾、四等官は目だよ
248 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 08:32:00.47
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
備中守 正四位下 在原行平 52歳 左兵衛督(在原業平の兄)
備中権守 正四位下 源 勤 46歳 右兵衛督
備中介 従五位下 笠 名高 陰陽助、権陰陽博士
備中権介 従五位下 藤原保則 45歳
備後守 従五位下 丹○瀧雄
備後権守 従五位下 源 雙
備後介 従五位下 伴 興門
備後権介 従五位下 巨勢文雄 46歳 文章博士
安芸守 従五位下 橘 岑守
安芸介 従五位下 文室行敏
周防守 従五位上 家原繩雄 鋳銭司長官
周防介 従五位下 源 撰
長門守 従五位下 藤原安嶺
249 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 08:41:11.30
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
阿波守 従四位上 源 興 42歳 右近衛中将
阿波権守 従五位上 藤原三直
阿波介 従五位上 坂上瀧守 45歳 右近衛少将
阿波権介 従五位下 藤原維範 内匠頭
讃岐守 従三位 藤原常行 34歳 参議、右近衛大将
讃岐権守 正四位下 源 生 49歳 参議、右衛門督
讃岐介 従五位上 藤原秋緒
讃岐権介 正五位下 當麻鴨繼 主殿頭
伊予守 正四位下 南淵年名 63歳 参議、民部卿、春宮大夫
伊予権守 従四位下 當麻清雄
伊予介 従五位上 文室巻雄 60歳 左近衛権少将
伊予権介 従五位下 藤原房雄
土佐守 従五位下 大中臣岡良
土佐権守 従五位上 藤原安方 内蔵頭
土佐介 外従五位下 難波實得
メモはメモ帳にな
251 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 13:53:18.67
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
大宰帥 三品 時康親王 40歳 中務卿
大宰大弐 従四位上 茂世王(桓武天皇孫、仲野親王皇子)
大宰少弐 従五位下 安倍清行 45歳
大宰少弐 従五位下 藤原忠雄
筑前守 従五位下 紀 恒身
筑前介 従五位下 永原永岑
筑前権介 従五位下 長岑恒範
筑後守 不明
豊前守 従五位下 藤原海雄
豊前介 不明
豊前権介 外従五位下 和氣時雄
豊後守 従五位下 紀 繼雄
252 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 14:04:05.36
貞観大地震発生時の地方官僚
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
肥前守 不明
肥後守 従五位上 在原安貞
肥後介 従五位下 平 住世
肥後権介 従五位下 橘 子善
日向守 従五位下 藤原定岑
大隅守 不明
薩摩守 従五位下 安倍興氏
壱岐守 不明
対馬守 不明
253 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 14:12:38.89
貞観大地震発生時の著名人たち
貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日。グレゴリオ暦7月13日)
在原業平 45歳 正五位下 右馬頭
菅原道眞 25歳 正六位下 下野権少掾
三善清行 23歳 無位無官
紀 長谷雄 25歳 無位無官
都 良香 36歳 播磨権大目
円珍 56歳 天台座主
紀 貫之 2歳位 無位無官
橘 廣相 33歳 従五位下 東宮学士
遍照 54歳 法眼和尚位、雲林院別当
藤原保則 45歳 従五位下 備中権介
※この月、新羅の海賊が博多津に現れ、豊前国の年貢を奪うといった事件もおこっている。
内憂外患の月であった。
>紀 貫之 2歳位 無位無官
最近の報道の85歳無職とかを彷彿とさせるな。
長谷雄や清行はともかくとして。
歴名土代だと、1歳でも有位有官だったりするが、さすがに9世紀でそんな無茶はない。
ここで聞いていいのか分からないが…
信長の野望とかやってるとデフォルトで七位とか八位とかの武将がいるんだが、この時代に正式な官位で七位以下って叙任されてたの?
前スレ見てたら江戸時代に復興されるまで七位以下はいなかったらしいし。
16世紀だったか15世紀だったかの大間書(任官記録)で従七位上は
有るんだけど、なんか名前が架空っぽいので実在の人物かどうか?
13世紀の貴族の日記で、従七位上の人の任官が記されているらしい。
よってたぶんその頃までは従七位上は存在していたと思うのだけど。
南北朝時代あたりで消滅したのかも?
八位は平安後期以後使われていない模様。
ちなみに幕末も最後の最後になって八位復活。
これが反日マスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています
「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット
「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」
「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット
「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット
「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット
「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット
他にもカットシーンがたくさんあるので、 ブ−タン国王陛下の演説 をyoutubeで検索してください
?
9世紀末だったか、衛門志や府生で七位の者が検非違使になると六位特叙なんて例があった。
特叙だから、特例なのかもしれないけど。
たぶんすぐに慣例化したんだろう。
そう言う習慣は外記や官史あたりから始まって準用されたのかも?
そんなこんなで下位の位階は意味をなくし消滅していったのかな?
261 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 22:45:48.78
七位なんて飾りです。
地下人にはそれがわからんのです
>>260 もっと後になると、6位以下は無給になって、
その代わりに官位だけは乱発(官職ではなく位だけ)になった。
このあたりが従来の初位に代わるようになったわけだ。
それ以後は七位とかはなくなった。
263 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 06:51:49.77
律令時代にカネで官位を買えたはずだが、これは6位以下の官位?
>>263 蓄銭叙位令だと正六位と五位以上は応談だなw
現実には多額の献納で外従五位下までは買える。
従六位大勲位中曽根康弘氏涙目だな。
死んだら多分従一位だろうけど。
位階のすっ飛ばし記録かもしれんw
9世紀中頃くらいでも、大初位から数年で正六位上に昇進している例が散見される。
もちろん、長い年月をかけて昇進するケースもあるんだけど。
一部の(下級官人としての)出世コースに乗ってしまった場合は、
下位の位階にはさほど意味がなかったのかもしれない。
承和の遣唐使で生還した者は、平の水手にいたるまで、
ほとんどが五〜九階昇進してるし。
無位からだと従八位下から従七位下に叙されたことになる。
一部昇進なしとか、三、四階昇進者もいるが、
これはたぶん元からの有位者で、正六位上の頭打ちだと推定。
>>265 宮中席次は、大勲位>従1位だった。
だから、正2位大勲位の西園寺公望は、従1位より上席だった。
彼が生前従1位に進まなかった理由は分からないが。
>>267 確認したら大勲位の順位高ッ!!
っていうか内閣総理大臣より上のナンバーワンだったとは…。
しかもこの席次、現在も準用みたいだから
中曽根氏、問答無用で陛下の次だなw
しかし準用しようとしてももういないヒトだらけだが。
269 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 21:05:29.33
席次は受勲年月日順になるので皇族の次、内閣総理大臣の上
悠仁親王が受勲したとき中曽根康弘がまだ存命だったら中曽根の方が上席w
第1階
第1 大勲位
1. 菊花章頸飾
なし ※今上天皇が自ら佩用
2. 菊花大綬章
崇仁親王 1936年(昭和11年)10月1日
正仁親王 1955年(昭和30年)11月28日
ェ仁親王 1966年(昭和41年)1月5日
宜仁親王 1968年(昭和43年)2月27日
憲仁親王 1974年(昭和49年)12月29日
徳仁親王 1980年(昭和55年)2月23日
文仁親王 1985年(昭和60年)11月30日
中曽根康弘 1997年(平成9年)4月29日
第2 内閣総理大臣
野田佳彦 2011年(平成23年)9月2日
というか小泉純一郎がいずれ受勲する可能性があるんだけど、
その頃には悠仁親王はまだ受勲してないだろうから
小泉は将来の天皇よりも宮中席次は上になり得る
歴代内閣総理大臣の位階勲等を見るとなかなか味わい深いな。
意外と戦前にも無位の総理がいる。
高橋是清、田中義一、岡田啓介、広田弘毅、近衛文麿、田中角栄と
中曽根康弘以外の存命者が無位のようだ。
有位者は従一位か正二位、短期の人で従二位ってとこか。
太政大臣よりは落ちるな。
広田、近衛、角栄が無位なのは解る。
岡田も戦後まで生きてたので貰いそこねたんだろうな。
高橋と田中義一はなんでなんだろ。
勲等はさすがに伊藤博文から宇野宗佑まで
全員大勲位か勲一等で、唯一のなしが角栄。
橋龍と小渕も大勲位で村山が桐花大綬章。
小泉は存命中大勲位、死後従一位ともに固いだろうな。
>>271 > 高橋是清、田中義一、岡田啓介、広田弘毅、近衛文麿、田中角栄と
> 中曽根康弘以外の存命者が無位のようだ。
角栄以外は、位階あるはず。
高橋は、子爵
田中義一は、陸軍大将
岡田は、海軍大将
広田は、外交官
近衛は、公爵
戦前の華族、高級軍事、高級官僚は、皆、地位相応の位階をもらっている。中曽根も海軍の短期現役将校だったので位階もらった。
273 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 11:23:59.18
>>262 江戸時代だと、七位はお菓子屋とか蕎麦屋とか宮中出入りの商人だよな。
虎屋も七位だったはず。
商人だけってわけでもないけどね。目立つけど。
一部裕福な地下官人には家臣がいたりして、
そういうのが七位に叙される場合もあるようだ。
あと分家とか弟子とかの新規取り立ての場合も。
275 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 02:08:11.67
南朝公家の子孫は北朝朝廷でどの位の段位を?
276 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 06:29:27.80
江戸時代の天皇や仙洞の御料の庄屋は姓を許されていたというけど、
御料のうちの神社の神主は従五位下くらいの官位を認められていたんだろうか。
大塩平八郎の乱では平八郎の叔父の宮脇志摩という男も参加して自決している。
養子に入った宮脇家は摂津国吹田村の仙洞御料分の牛頭天王社の神主で、
幕府の吟味書では、大部分で通称の志摩と呼ばれているが、ごく一部に
志摩守と書かれている部分がある。これが誤記なのか、志摩守が正しいのか知りたい。
これを調べるための何か良い資料はないだろうか。
なんかしょっぱなから話が錯誤と未整理で意味不明。
まず最初の行。
天皇は江戸時代でも「姓」はなく、そしてそれを承認する立場で「許された」などという話はない。
ここでいう「姓」とは「氏(うじ)」とも言い、源平藤橘とかのことで古代から続く正式な家もしくは一族の名。
徳川家康は天皇の前では「源家康」もしくは「かばね」を入れて「源朝臣家康」と名乗る。
ちなみに「氏」を「天皇に貰うもの」と書いてある本もあるがこれも間違い。
古代の氏姓は基本、別に天皇が付与したものではない。
付与したのはそのランク付けであり下に付ける「かばね」の方。
ただし、天皇が臣籍降下した皇族(源や平)や功臣(豊臣など)に氏を与えることはあった。
庄屋が幕府に許されたのは姓ではなく「苗字」。
苗字の由来は武士が領地の主であることを主張する通称で、地名を取って「××太郎」などと
名乗っていた(家康なら「徳川次郎三郎」)のが上半分が徐々に家名化したもの。
室町〜戦国期には武士だけでなく庶民にもかなり普及していた。
幕府は武士以外が公に苗字を名乗るのを原則禁止にしたが、
実際にはずっとわたくしに苗字を維持していた農民とかも大勢いた。
明治になって整理し、「うじ」と「かばね」は使用停止し、苗字を「氏(し)」と改称して統一したので
現在の日本人の家名は苗字が元になっている。
>>275 公卿に復帰できたのは、北畠と阿野ぐらいじゃないの?
279 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 10:24:53.25
>>277 ああ、確かに単なる枕の部分なんで今の感覚で用語を使っちゃいました。どうも失礼。
ところで、仙洞御料の神社神主の官位はどうなってたんでしょう。
神主に対する官位の実情について、何か論文などがあれば当たりたいと思ってます。
ググると伊勢の内宮外宮の神官の実例とかは引っ掛かってくるんですが。
諸国の大社では五位だけど、
長州藩管内は、分家藩主の五位と対等なのはけしからんって理由で、
六位だったという話はどこかで見たことがある。
国の一宮とかの神主級は五位だったんじゃないの?
あと一六世紀で、どこかの禰宜が正六位下で祝が従六位下なんて
例があったと思う。
北畠は実質守護化したから生き残れた。
阿野は一門ほぼあげて南朝に付いていったのがむしろ良かったらしい。
正直、数年前まで阿野は断絶してたと思ってた。
どう考えてもA級戦犯だし。
その後存続していたことを知ってすごく不思議だった。
最近読んだ本によると、復帰を邪魔する一族が居なかったのが良かったと。
あとは近衛だかどこか南朝に帰属した摂家の孫が、
たまたま断絶した清華の養子になったらしい。
さて本題だが、明治になって個人名を整理するときわざわざ布告で
「以後、官職名を勝手に名乗るな。あ、『権兵衛』とかはもう完全に名前だからオッケーね」
と言っているように江戸時代の庶民の官職は
基本怪しいと思った方がいいと思うけど、御料となるとどうかなあ。
でも在地の神主風情を殿上人として遇するいわれはないから
「従五位下」はとうてい考えられないだろう。いくらなんでも高過ぎ。
ま、逆に昇殿の必要があればサギでも正五位が貰えるんですがねw
象はちょっと高くて従四位w
お鼻が長い象さんは四位
確かローマ帝国でもお馬さんが護民官になったとか。
神職の五位は地下じゃないの?少なくとも廷臣の官位とは別立て。
神職としての官位とは別に地下の官位(大概低い官位)を持って、
地下官人として勤務していることもよくあるし。
二位・三位はともかく、四位でも堂上の五位より下なんじゃないかという気もする。
あっ、令外官の紫微中台(後坤宮官に改名)の次官も大少弼だった。
288 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 13:24:29.97
>>282 従五位下=殿上人だと思っている時点でこのスレに書き込むレベルじゃないな
過去ログ全部読んでこい
近世だと御料に限らず諸国神官は従五位下(周防長門のみ正六位下)
もちろん小さい社なんかの神官は叙爵されずに吉田官とかが多いだろうけど
289 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 13:49:52.48
天皇が行幸するようなところは神社側で応対する人間が必要ということかもしれない。
江戸時代で従五位下あたりの神主の一覧とか、そういった史料資料論文とかは
存在してないもんでしょうか。
292 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 15:30:27.28
>>291 そこじゃなくて、泉殿宮です。
http://www.idudono.jp/ 大阪は明治の神社合祀令をバカ正直に徹底的にやっちゃったから、残っているところはどこも大きくて整備されきって、
素人目にはともかく歴史好きには面白くありません。片隅の石造物の金石文とかを見るのが楽しいのに。
さすがに領主の仙洞自らが所領に下向ってことはありえなかったでしょうが、どれだけ幕府代官が威張っていても、
皇室領庄屋はみかどの直臣扱いで、敬意をはらったとか聞いたことがあります。
それでも大塩の乱では幕府はお構いなしに御料や伊勢神宮とかを捜査してますけど。
>>275 大多数は滅亡し、ごく一部だけ、他家の養子になって生き残っただけ。
と思っていい。
子孫断絶というわけではないが、ほとんどの場合に、公家として生き残ってはいない。
>>286-287 弼は、令外官の次官じゃなくて、〜台の次官。
ということかな?
弾正台と紫微中台のほかはどうなんだろ? 有ったのかどうかすら知らない。
>>293 国内ではそれだけだったと思うけど。
おそらく四輔の中の、左輔・右弼からとった字なのだと思う。
他の二つは確か前疑と後丞だったかな。疑は字が違うかも?
295 :
松平モンミクシー綱国:2011/12/05(月) 03:49:48.46
松平モンミクシー綱国
子供に弾正大弼とか信濃守とか名前付けたら受理されるの?
297 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 07:12:09.17
>>269 > 悠仁親王が受勲したとき中曽根康弘がまだ存命だったら
中曽根はまだ存命だろうなw
298 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 07:14:03.53
>>296 > 子供に弾正大弼とか信濃守とか名前付けたら受理されるの?
ドキュンネームで「帝王(さうざ)」ちゃんというのが実在している。
「皇帝」「女神」「天使」「美王」「美女神」「皇子」「神」「神王」「天子」「天照」
全部いる。
300 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:11:48.50
そういう名前を付ける親の子どもが世に出るわけがないから問題ない
ところで現在の刀匠は受領名は名乗らないの?もちろん僭称だけど。
小笠原弓術では奉納の時は名字でなくて「藤原」「源」などの氏が
正式名乗りだと聞いたことある。
302 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 13:40:22.04
>>300 信長の6男の幼名は「人」ではなかったか?
幼名だから「奇妙丸」とかでも良いのだろうが。
303 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 15:28:58.67
>>302 幼名は家族が用いる程度でそれほど世間に出回らないからな。
諱で藤原小屎(女性・桓武天皇妃)とかのほうが可哀想だ。
江戸時代に流行った号は今でいうドキュンネームが多い。
・近藤勇(諱は近藤昌宜)
・坂本龍馬(諱は坂本直柔)
・松平春嶽(諱は松平慶永)
一番のDQNネーム皇族は神王だな。
天皇より偉そうだよ。
なんかお目出たいくて、初見の時に思わずくすりとしたのが正月王。
それはともかく、菅原朝臣道真って公卿補任では、
従四位下参議から従三位中納言に特進したとうに見えるけど、
従四位上とか正四位下は経ていない?
長屋王・安宿王親子も、現代感覚だと笑っちゃうけどね。
厩戸皇子もだが。
>304
乳母が三輪氏ってことでOK?神氏なんていないよね?
309 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 02:42:37.30
>>303 勇・龍馬は通称で春嶽は号だから別物
諱と言いながら苗字を付すのもおかしい
310 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 03:11:50.29
>>304 北海道に北斗市があるんだが、あそこの市長は地元民から「拳王」と呼ばれているらしい。
坂本龍馬の墓には「紀直柔の墓」と書いてあって
誰だか判んない状態らしいねえ。
紀朝臣直柔は明治24年贈位なので正式には
苗字実名で「贈正四位坂本直柔」になるのかな?
春嶽こと源朝臣慶永も最後は明治なので
「従一位勲一等松平慶永」だな。
百姓上がりの幕臣で位階なしの
近藤勇の昌宜に付くべき本姓は何だろう?
明治4年に「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ
姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」と布告され
以後戸籍とかで無視されるようになっただけだから
本姓やカバネも以後公文書以外での強制終了令は
出てないんだな。
公文書以外で使ってる人や例は
あるのかな。
ウヨッキー団体とかそういうとこではあるそうな気もするが。
313 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 18:12:55.82
>>311 田尻 佐「贈位諸賢伝」国友社によれば
坂本龍馬の贈位について、明治24年4月8日付で
阪本龍馬の表記になっている。
因みに、同日には、中岡慎太郎、高杉晋作、武市半平太なども
同表記にて正四位贈位となっている。
>>313 藤原朝臣道正^中岡(慎太郎・慶応3年没)なら中岡道正、
源朝臣春風^高杉(晋作・慶応3年没)なら高杉春風、
橘朝臣小楯^武市(半平太・慶応元年没)なら武市小楯で
なきゃならんはずなんだよな。
本人が苗字仮名の組み合わせをそのまま戸籍名に選んだ
パターンは多いだろうが故人のを勝手に選ぶのは
いかがなものかw
もっともそれを言えば
平朝臣信長^織田は織田信長で
源朝臣家康^徳川も徳川家康なのに
豊臣朝臣秀吉^羽柴だけ豊臣秀吉なのもおかしいワケだが。
この3人は江戸時代はもっぱら「信長公」「豊太閤」「御神君」として
親しまれていたみたいだから、
テキトーな政府呼称の方が一般に定着した可能性もあるな。
あと、明治初期公文書の姓尸表記では名乗り朝臣は
やらないみたいだな。
>>314 > もっともそれを言えば
> 平朝臣信長^織田は織田信長で
> 源朝臣家康^徳川も徳川家康なのに
> 豊臣朝臣秀吉^羽柴だけ豊臣秀吉なのもおかしいワケだが。
豊臣は、朝廷が、秀吉に与えた新しい姓で源平藤橘と並ぶものだからそれでよい。羽柴が織田、徳川と並ぶ名字。
中臣鎌足が藤原姓をもらったのと同じこと。
秀吉は「豊臣」賜姓の後は「羽柴」名字を使っていないというね。
秀次朱印状の印も「豊臣秀次」だし。
元々、名字に類するものは分家が使うものだから、秀吉や秀次
が豊臣姓をそのまま称することは不自然でもなんでもないし。
>>315-316 誰も秀吉自身が豊臣を称したことに疑問なんか持ってないよ。
明治に「朝廷」が本姓を排したときに「藤原」や「源」は排して
「豊臣」だけ排さないのは変だって話だろ。
>>317 「名字」を別にもたない人物の本姓を排するなんて無意味なことを
してどうするんだ?
「秀吉」だけにするのか?
だから羽柴秀吉でいいんじゃないか、という話でしょ。
320 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:52:27.91
低能が連投してるのか
322 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 23:58:21.32
一応位記の人名表記法の話なんじゃないのか?w
平安か武家官位のこちょこちょした話からちょっとでも外れるとすぐ
「スレのレベル」とか「知能の低さ」とか言い出す
専門知識バカも大概にして欲しいわ。
324 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 02:38:53.21
低能が何か言ってるな
糞スレ終了
源頼朝も源を名乗ってはいけないわけかw
あほか
327 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 09:35:23.25
贈位は、朝廷が死後贈るものだから
当該本人の生前の名乗りに固執していないのが実態だ。
例えば、直江兼続は晩年、重光と諱を変えているが
明治政府は、直江兼続として贈位している。
一方、名和長年については、源長年として贈位並びに
追贈がなされている。
328 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 09:49:24.65
>>303 >江戸時代に流行った号は今でいうドキュンネームが多い。
DQNネームじゃなくてそもそもペンネームだろ。
329 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 10:04:42.68
判官贔屓の象徴的存在の源義経について
明治政府は贈位の対象としていない。
検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉の
官位について、解却見任位階褫奪となったが
その後、明治に至っても復位復官されなかった。
さらに、諱についても、朝廷から義行そして義顕に改名させられており
これについても爾来、復帰の沙汰はなされていない。
現今に至るまで朝敵扱いである。
>>326 頼朝は名字名乗って無いから源で呼ぶしかないけど、こいつ源氏長者でもその近親者でもなんでもないから
>>316的には名字で呼ばないといけないのかも
331 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 10:24:27.30
>>330 頼朝は都では「鎌倉殿」と呼ばれていた、だからそのうち鎌倉頼朝になっていたかも。
九条兼実なんかでも当時の名としては「藤原兼実」であって通称が「九条殿」。
後に九条家始祖になったから九条兼実と呼ばれるけど
本人に九条兼実が自分の名前だという概念はなかったわけだし。
一時的に木曽義仲の方が勢いがあったし、
うまく統治できれば頼朝の出番がなくて、
源義仲、鎌倉頼朝になった可能性はあるもんな。
333 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 13:28:17.99
どうしたら「秀吉が羽柴を捨てた」なんていう寝言が出てくるんだろう。
室町時代の足利将軍や江戸時代の徳川将軍も「足利」や「徳川」と自ら名乗ったり呼ばれていたとでも思っているのかな。
トップクラスの貴人となれば官称や家号だけで特定されうるから苗字で呼ばれる機会がないというだけで足利苗字を捨てるわけではないのに。
「苗字は分家が使うもの」とか意味不明だし。
>>331 というか公家の家号は皇族の宮号と同じく当主の呼び名という性格がある。
維新に至るまでそれは変わっていない。
足利家当主だって室町殿であって足利という苗字で呼ばれていたわけではない。
尊卑文脈ではどうだったか忘れたけど諸家知譜拙記では室町としか書かれていない。
334 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 13:39:30.11
>>333 「足利」だって、もともとは足利庄に住んでいる源氏という意味で
鎌倉時代の当主が代々「足利殿」と呼ばれていたためだよ。
ある日突然「苗字を決めることになった、足利にする」と決めたわけではない。
室町時代に京都へ出てきてから「室町殿」と呼ばれるようになっただけ。
それも室町に住むようになった3代目足利義満からな。
鎌倉時代にはずっと「足利殿」だった。
官位について語るのは嫌なのか?
羽柴を捨てた、というイミフの話は終わったかな。
頼朝はもし地方のおっさんですんだら鎌倉頼朝だったろうな。
義仲が幕府を立てたら源義仲になってだろう。
思いつきだが、幕府を立てたり初代的な意味合いだから
慣例的に源頼朝、豊臣秀吉、なんだろな。
徳川は源よりも上みたいな圧倒的迫力があったから
慣例とかふっとばしてもう源平トウキツより上みたいな
もんだしなぁ。
平秀吉
338 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:42:43.35
>>334 足利家督しか「室町殿」と呼ばれていないのに「室町」の家号を苗字と同じようなものだと思って
足利から室町に変わったとでも思っているのかな?
同じように秀吉も羽柴から豊臣に変わったとでも?
馬鹿じゃないのか。
339 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:49:50.05
>>336 木曽義仲っていうのも現代人が適当によんでるだけだからな。
木曽義仲は署名するときには「源義仲」で呼び名が「木曽殿」。
>>333 「徳川」は家康が従来の松平から自分の意思で改めている。
自分で「徳川家康」と署名もしている。
むしろ、「源家康」というのが征夷大将軍になったときに初めて出てきた署名だろう。
秀吉の家臣になってからその没までは「豊臣家康」と署名したものもある。
340 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:52:47.25
>>338 馬鹿はそっち。
足利将軍家が室町に住んでいたから「室町殿」と呼ばれたんだろう?
足利家督以外の足利氏が室町に住んでいたのかよ。
足利庄に住んでいたから足利殿って呼ばれたってこともしらなかったに。
341 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:58:26.76
>>338 意味不明だな。
足利尊氏は署名するときには「源尊氏」ね。
現代人が足利尊氏と呼んでいるだけで、当人の時代には
「源尊氏」が名前で、呼び名が「足利殿」だったわけ。
それから、足利尊氏と足利義詮は室町に住んでいないから、
一度も「室町殿」と呼ばれていない。
で、羽柴は苗字、豊臣は姓だから。
足利や室町と混同するって、かなり認識が酷いな。
結局、苗字+諱の呼び方は後世で便宜的に使っているだけであって
正式には姓+諱で、当時は苗字+通称等だったわけじゃん
だから無意味な議論だよね
>>339 「豊臣家康」は現存しないはずだが。
あったら出してくれないかな。
なんか香ばしいのが一人かと思ったら二人以上?いて
それでスレは混乱してるな。おもろい。
>>339 途切れた。
源家康の初出は1588らしい。
このあと将軍になるまでは藤原と源を使い分けてた。
正式かどうか、は結局自称でどっちでもないから
それこそ意味がない。
将軍になる前から系図を整備したけどそれで将軍のあとは
源になる。
足利のお兄ちゃん筋に結びつけたわけで武士の棟梁の
さらに上ってことね。
>>343 現存しないけど豊臣姓を名乗っていたと推測されてるんだっけ?
まあ他の大大名はみんな豊臣姓もらってるのに一人だけ貰わないなんてありえないから当然だけどな
346 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 18:50:46.60
>>343 息子の徳川秀忠が「豊臣秀忠」と署名したものは複数ある
(聚楽第行幸の際・任官の際)が
後の時代に家康だけが源家康と改編されたんだっけか。
もう、氏姓苗字称号スレでも作ったら。
348 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 19:13:45.79
>>344 家康が秀吉に臣従する前に「藤原」を名乗っていた史料はある。
しかし、家康が征夷大将軍就任以前に源を名乗っていたというのは
聚楽第行幸の署名が根拠で、書き直された可能性が指摘されている。
すなわち、他の大名たちは皆豊臣で署名し、跡取りの秀忠までが
豊臣を名乗っているのに、親父の家康一人が源であることが不自然なためだ。
尚、公卿補任は何人もの官僚が適宜修正・削除を加えて清書していくものなので
天下を取った徳川家が後から源氏と書き直させることは十分可能。
>>342 ところが話の発端はそうでもない。
朝廷は正式な人名呼称はウジ+カバネ+諱で一貫していたわけだが、明治政府は明治4年に
「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」と布告した。
そう布告しても既に死んでる人は当然対象外かと思いきや
官位の世界には贈位贈官というものがあって、
大昔に既に死んでる人が現役官人と同様の行政取扱(=位記発行)を受ける部分があるわけだ。
その際、上記布告以前に死んでるからとウジ+カバネ+諱のままにするわけでなし、
かといって明治4年以降に生きてた人と同様に苗字+諱に統一してるのかというと、
そうなってるひともいれば豊臣秀吉のようにウジ+諱の人もいれば
坂本龍馬のように苗字+名乗りの人もいて全然統一されてないのは変だって話。
もちろん苗字以前の人の場合はウジ+諱以外に選択の余地がないから仕方ないだろうけど。
…でもそういう話のはずが、なぜか本人存命当時の事情の認識の
話になっていろいろよじれてるわけだがw
>>345,6
そんな感じ。推測はされてるし間違いないだろうが
「署名したのがある」というから気になっただけ。
たぶん家光なんだろな。
>>348 もちろん臣従前は徳川は源じゃだめだから藤原ならいいよってことで
藤原と名乗ってた。
聚楽第の後の朱印状も源があるらしくて、このあたりが
藤原、源使い分けの根拠なんだろう。
秀吉も自分は新姓もらってるから武家の棟梁がどうという
問題にはあまり興味がなかったんだろう。
官位官職の方は熱心だが。
そいえば話は逸れるけど豊氏長者って秀吉→秀次(関白就任時)→秀吉(秀次失脚後)→秀頼(秀吉死後)の変遷?
それとも秀吉→秀次(関白就任時)→秀頼(秀次失脚後)だったり秀吉→秀頼(秀吉死後)のどっちかだったりする?
それと秀頼死後は長者なしかな?木下家の家督が長者?
そういえば、過去スレで地下官人家に豊臣氏があるって書き込みがあったなー。
>>351 確か秀吉は豊氏長者って記録はなかったんじゃなかったっけ。
秀次に「譲る」みたいな記録があるから秀吉もそうだったろうと推測される
ってこのスレかどっかのスレにあったような気がする。
354 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 23:20:17.24
氏長者についての初歩的な誤解だな。
藤氏長者も源氏長者もそして藤氏長者に準えた形で発祥した豊臣氏長者も、
その氏の中で最高の官位を有する公卿に宣下されるもの(すべての氏長者がそうであるというわけではない)。
藤氏長者は摂関に宣下されるのが通例であり、従って豊臣氏長者も同様であり、
別に豊臣氏長者宣下を被っているわけではない秀頼が氏長者のわけがないし、
公卿どころか殿上人にも昇らない木下氏が氏長者になるわけがない。
結論から言うと、秀吉は関白宣下を被ったときに藤姓であり、藤氏長者を宣下されている(はず)。
後に秀次が関白宣下を被ったときは豊臣氏長者を宣下されている。
ということは恐らく秀吉は豊臣氏に改姓したときに豊臣氏長者となったと見なされていたと、少なくとも事後的に推測することができる。
秀次が薨じた後はどうなったか不明。
秀吉が当然に氏長者となったか秀頼が関白になるときまで留保されたか…。
あと秀吉か秀次が豊臣氏長者として春日社やら興福寺の催事に関わっていた気がする(うろ覚え)。
355 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 23:33:21.90
長者って公卿限定?公卿でなくても氏人中最高位者が長者じゃないの?
藤原氏や源氏は、実態として公卿が居ないが時期がない(最初期を覗き)
から必然的に公卿が長者になってるけど。
橘氏長者は、橘氏の公卿消滅後も厳然としてあるわけで、
ただ権限は行使できないけど。
で、代わりに藤原氏の是定がいる。
藤原・源・豊臣も?、限定の話なのかな?
王氏長者もいたんだっけ?王氏爵はあるよね
357 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 23:53:34.30
だから他氏のことは詳しくないから藤氏と源氏(と豊臣氏)についてだけ説明したんだが
藤氏と源氏については最高位の公卿が宣旨で補せられる
橘氏も公卿を輩出しなくなると藤原氏が是定となっているので同様だろう
氏爵があるのは藤氏長者・源氏長者・橘氏長者(是定)・王氏長者(是定)だけなので、王氏についても公卿限定かもしれない
そもそも公卿にもならない卑官の分際で氏挙のような権門紛いのことを行えるわけがないからな
358 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 23:55:41.27
あと橘氏是定がいるのに他方で橘氏長者がいるなんてことはない
>>355は言ってることがおかしい
359 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 00:44:39.65
>>340-341必死に連投してまで恥を晒している馬鹿がいるのか、同レベルの馬鹿が二人いるのか判断に迷うところだが。
そもそもこちらの主張の主眼は「そう名乗らなくなったり呼ばれなくなったからといって、それが即『捨てた』ということになるわけではない」ということ。
そのために足利将軍家などについて例示したのだが、さすがに知能が低すぎて趣旨を読み取れなかったようだな。
そればかりか中途半端な知識をもって枝葉末節部分に噛みついてきたために有耶無耶になりつつあるので、繰り返し馬鹿にもわかるように説明しよう。
(馬鹿はわずかにかじっただけの知識をひけらかそうとしてすぐに脇道に逸れるからこういう手間がかかる)
トップクラスの貴人ともなれば官称や家号のみで特定され得るし、生のまま「足利」や「羽柴」と呼ぶことは欠礼となるからそう呼ばれなくなる。
代わって「室町殿」や「殿下」などと呼ばれるようになるが、依然として足利苗字や羽柴苗字であることに変わりはない。
馬鹿が主張するところによると「豊臣秀吉と署名しているから羽柴苗字を捨てた」ということになるようだが、
関白や前関白の立場として公文書の署名に氏(姓)+諱を用いるのはむしろ普通のことであり、それが即羽柴苗字を捨てたことになるわけではない。
それは徳川家康が源家康と署名しても徳川苗字を捨てたことになるわけではないのと同じ。
またこれと同時期に他から羽柴苗字で呼ばれることもなくなるが、
これは秀吉ほどの地位の人間が羽柴ナントカなどと馴れ馴れしく呼ばれるわけがないというだけのこと(勿論豊臣さんなどと呼ばれるわけでもない)。
それにしても今週の踊るヒット賞は
>>318だな。低能の亀鑑とも言うべき頭の悪さ。
馬鹿の馬鹿たる所以は、恰も羽柴から豊臣に変わったかのようなミスリーディングな論じ方をしているところにある。
「秀吉は羽柴から豊臣に『改姓』した」という初心者によくある誤解をなぞるかのような主張に一周回って逢着してしまい、しかもそのことに気付いていないという間抜けっぷり。
その後もまるで足利将軍家が「足利」から「室町」に変わったかのような書き方をしており、そのことに全く自覚的ではない。
360 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 00:53:55.13
例えば尊氏の氏姓は勿論源朝臣であるが、実際にはその前半生では飽くまでも「足利治部大輔」などとしか呼ばれず、「源尊氏」とは呼ばれない。
またその後半生では「鎌倉大納言」や「御所」や「高倉殿」などと呼ばれて「足利」などと呼ばれるわけではない。
しかし依然として氏姓は源朝臣であり苗字は足利であるということに変わりはないし、それは足利家督が「室町殿」と呼ばれるようになっても同じ。
ちなみに「室町殿」は義満以降の足利家督(現職の将軍であるとは限らない)の地位を表す呼び名であり、室町に住んでいない「室町殿」もいるし、
「室町殿」が義満のときの義持、義持のときの義量、義政のときの義尚などは、たとえ室町に住んでいたとしても「室町殿」とは呼ばれず、「将軍家」などとしか呼ばれない。
「室町に住んでいるから『室町殿』と呼ばれる」という程度の認識しかないのがお粗末すぎる。
そもそも足利苗字が足利荘由来だの苗字と姓の区別だのと基礎知識を得意げに語っているところがいかにもニワカらしい。
しかもその基礎知識もちゃんと身に付いているのか極めて怪しい。
少しでも知識があれば「苗字+諱」という組み合わせでの呼び方が前近代では稀であることにまず思い至らなければならないはずなのに、
何の留保もなく位記の名義は「坂本直柔」や「武市小楯」のように苗字+諱「でなきゃならんはず」などと言い出す。
そもそも「春嶽」などの号と「龍馬」などの通称を区別できないレベルの馬鹿が何を言っても失笑しか買わないのに。
>>360 後段、あんたはまず幾つものレスを勝手な仮想人格で適当にくくり過ぎ。
『位記の名義は「坂本直柔」や「武市小楯」のように苗字+諱「でなきゃならんはず』と書いたのはオレだが、
「何の留保もなく」とか勝手な思い込みでしつこく他人の「無知」を決め込んで話してるが
これは明治政府が明治4年に「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」と布告して
のちの話だとしつこく書いている。どこが「何の留保もなく」もなんだ?
相手の言っていることもちゃんと理解できない「レベル」のくせに他人の無知を笑うヤツが馬鹿に見えないとでも思うか?
そしてその話題が問題の、別人による号と通称が区別できてないレスへの軽い突っ込みから始まっていることは
レスの流れがちゃんと読めていれば容易に理解できるはず。
相手が「無知に違いない」と適当に決め込んで初歩レベルの知識をしつこく振りかざしてるバカはいったい誰だよ?
>>354 あのさ、ちょっと教えてほしいのだけど秀吉は最初関白就任時に
藤原長者になるよね。その後豊臣下賜で藤原姓とは関係がなくなると
思うのだけど実際は藤原長者としての権限も行使してる。
これは単に秀吉がその圧倒的力で藤原家をも牛耳ろうとしてたということ?
改姓なんて異例な状態だから宣下されたものをその常識的資格?が
なくなっても堂々と持ってたということなのかな。
代々受け継ぐ器なんかも返還せずに持ってたから
摂関家側でもどうしようもなかったってことなのかな。
秀吉死後摂関家に関白が戻った時に藤長者と器なんかも
一緒に戻った、ってことでいいのかな。
>>363 ついでだが、室町殿というのは一般的に足利将軍のことを指すから
1〜2代が実際は呼ばれてなかったとしても慣例として
室町殿みたいに言うのは一般書ならオケ?
室町に住んでるから〜というのはその由来を語ったものであって
別に個別の将軍が室町在住であったかどうか、はまた別の話でしょう。
ここに家督と将軍の違いも加わると結構ややこしいんだが
専門書なんかは厳密に使い分けとかはしてるんかな。
何人でやってるのか知らんが、別スレ立てなよ。
氏姓についてここでやってると、他に参加したいひとがいても、わからないよ。
>そもそも公卿にもならない卑官の分際で
>氏挙のような権門紛いのことを行えるわけがないからな
後の時代はともかく、本来は氏長者の権限は氏爵だけではない。
氏爵は、重要ではあっても権限のうちの一つに過ぎない。
その権限がないから氏長者でないってわけではないよ。
それ故に橘氏では是定と長者が分離した。
確かに氏長者が確認できるのは公卿を出すような氏だけのようだが、
それらの氏でも常時を公卿を輩出できとは限らず、
氏人の公卿消滅=氏長者消滅というわけでないようだ。
存在意義がなくなって(氏の組織そのものの消滅もあり)
自然消滅していったんだろう。
後世まで多少は意味があって残ったのがほぼ藤原・源だけだが、
その両者共通の特徴だけで氏長者一般を語るとミスリードになる。
366 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 13:57:29.15
>>363 室町殿は義満の代にかなりグレードアップされてるから
尊氏や義詮が室町殿に相当する地位にいたかどうかも微妙な気がする
>>365 氏爵を行えるのは藤氏・源氏・王氏・橘氏の長者・是定だけだから
この四氏については当てはまると思うが他氏のことについても包括して説明したわけではない
少なくとも藤氏長者は摂関が、源氏長者は源氏の第一公卿が補せられるのは間違いない(近世の源氏長者は別として)
正確には源氏の第一公卿が奨学院別当に補せられ、源氏長者は奨学院別当がこれに兼補せられる(職源抄)
橘氏の是定と長者が分離したというのは寡聞にして初めて知った
何かスレチじゃねえ?
×スレチじゃねえ?
○スレチだ。
369 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 20:17:58.05
橘氏の問題はマニアックなので面白いな。
ちなみに関西の有名寺院「中山寺」は寺紋が「丸に橘」。
370 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 23:41:37.36
橘氏は14世紀以後再び公卿を出せるようになり、16世紀中頃まで続く。
惜しくも江戸期まで続かず近世の堂上諸家、ひいては華族になりそこなったが。
それでこの時期の内公卿が存在した期間はどうだったんだろう?
371 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 09:28:37.34
橘氏の人で有力寺院の山主になった例はいくつもあると思ったな。
同じ官なら、低い位階で就任する方が一般的には家格が高いってことでいいの?
374 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:51:35.30
元服後数年で三位上階の上早々に権中納言の摂家と、
老年で正二位まで昇ってやっと中納言に進む平堂上みたいな話だろ。
何が「逆」なんだか。
若年で三位少将の摂関家という例もある。
家格とかがまだ固まる前から、
エリートの方が低い官位で任官の傾向があるようだ。
この場合のエリートの条件は、
生まれが良い、外戚、学者、能吏、単なる寵臣等。
官位相当とは別にその時期その時期なりの、
事実上の官職ごとの位階の相場が存在しており、
その相場の下限で就任する方がエリートっぽい。
足利将軍は、従四位下参議、中納言飛ばして、
従三位大納言とか。
結局位階の方は官職と違って定員ないから、
昇進させやすいってことか。
五位中将は摂家だけ?
377 :
日本@名無史さん:2011/12/11(日) 22:49:05.82
昇任する時に、越階するとか
官職を飛び越えるとか
そういう昇任をするのが摂家(や清華家)の子弟と言うことか。
>>結局位階の方は官職と違って定員ないから、
>>昇進させやすいってことか。
一般論としてはそうだろうな。
最終的には、上級大納言としての「従一位大納言」なんてのもできるから。
378 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 04:10:38.83
義持〜義尚あたりの官途を見ると
足利将軍家の(順当に行った場合の)標準昇進ルートはこんな感じだろう
叙正五位下 任左近衛中将 征夷大将軍宣下
↓
昇叙従四位下 補参議 左近衛中将如元
↓
昇叙従三位 転任権大納言
↓
昇叙従二位
↓
昇叙正二位
↓
昇叙従一位(ここまでに兼任右近衛大将)
↓
転任内大臣
↓
転任左大臣(この前後に源氏長者淳和奨学両院別当等宣下)
↓
准三后宣下
↓
(封日本国王)
やや傍流だったり還俗したりだと
初叙従五位下で初官が左馬頭とか
それ以後になると大概参議か権大納言で止まってるようだけど、
将軍として格好が付く最低限の官位なら良いって割り切ったのかな?
任官すれば、祝いだなんだで金も必要だろうし。
藤原兼平(基経三男の方)の官歴ってわかりませんか?
公卿補任の方にも出てないようだし。
381 :
足利義澄:2011/12/12(月) 19:05:18.44
>>379 参議中将を望んだら管領の細川政元から
お前が参議中将になるなんて意味ねえだろ。俺がお前を将軍だと思ってるのだけじゃ不足か?
大体いくら昇進したところで誰も従わなけりゃ無益だろうがwww
って言われたよ(´・ω・`)
合理主義って言えばそうなんだけど、
合理主義と対極な部分も持っているのが人間の不思議なところで。
383 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 19:53:19.12
>>382 成金がカネの次には名誉を欲しがる、ってのと同じ心理だろうか。
384 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 22:32:30.62
細川は即位費用を何とかしてくれという天皇にも同じことを言った
理由は結局お金がないからだけど
正四位下参議と正四位上中将はどっちが偉いの?
↑
ものの本に前田と井伊の官位が列挙されててふと思った
参議は公卿だから別格
388 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 23:14:30.18
参議であれば、公卿の列であるから、位階が中将より下であっても
序列上は参議の方が上。
正四位上で中将とは、正四位下の中将より上位ということであり
同じ中将の中で位階により上下が決まると考えればよい。
江戸期の武家の場合は、
大納言>中納言>参議>中将>少将>侍従>四位>五位の序列。
侍従以上は、同じ官職の中で位階が高い方が上。
幕末期の公家の場合、四位以下の席次は、職階関係なく位階の順、
と言う証言監もあった。
律令の建前だと、参議は官ではないので位階が上の方が上位。
もっとも八世紀中葉でも、実態は従四位下参議>正四位下中将のようだ。
なお参議の官職化はなし崩しにいつの間にかとしか言いようがない。
観察使設置など、いくつかの画期はあるらしいけど。
三位中将も非参議だから
四位参議の方が上という事?
391 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 00:42:55.34
近世武家の席次は第一に官位順.
官位順というのは、「大納言>中納言>參議>中將>少將>侍從>四品>諸大夫」という武家官位に於ける序列のこと
(この下に「假六位」として「布衣」という格がある).
侍從以上の場合,同官職は位階順,同官職同位階の場合は敍任順,
また四品の場合も敍位順であり,
城の有無,領知高の多寡,家督相續の先後は關係がない.
諸大夫の席次は城の有無によって決まる(城主(城主格)>無城)
城主(城主格)及び無城それぞれの間では領知高順.
但し城主格は萬石以下切捨(例:城主五萬石>城主格五萬三千石).
同高では家督相續順(公儀に家督を認知された時期).
從五位下に敍せられた時期の早さは關係がない.
嫡子同席の場合,四品以上は家督相續の有無(當主か部屋住嫡子かの別)に關係なく,官位順に席次が決まる.
從って,或る家の部屋住嫡子の方が他の家の當主よりも上座となるということもありうる.
元服前などの理由で敍任前の無位無官であっても,家ごとに諸大夫格,四品格,侍從格,少將格と席次が決まっている.
例外として,加賀家の嫡子は少將であっても中將の上座.
喜連川家は無位無官ながら中將格.
高家は位階に關わらず,同官職の大名の下座(例:大名從四位下少將>高家從四位上少將>大名從四位下侍從>高家從四位上侍從).
表高家は無位無官ながら諸大夫格.
寄合(交代寄合を含む)は布衣以上の格.
これらの官位等の序列と,「大廊下席」「溜詰」「大廣間席」「帝鑑間席」「柳間席」「雁間詰」「菊間櫞頬詰」という伺候席の序列は密接に關係している.
392 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 09:09:53.89
参議は公卿で議政官の列だから
三位の中将の場合、三位という公卿ではあるが
中将は議政官では無いので
四位の参議の方が上位。
公卿補任の並び順をみれば歴然。
極端な話、六位蔵人と神職の二位ってどっちが上なの?
394 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 11:50:19.89
攝政又は關白(内覽一座氏長者)
准三后(前攝政又は前關白)
三公(太政大臣>左大臣>右大臣)
准三后(門跡)
親王(一世二世)
前攝政又は前關白
攝家前三公
諸親王(三世以下)
清華前大臣
内大臣
前内大臣
准大臣
從一位
本座(前權大納言)
權大納言
前權大納言
權中納言
前權中納言
參議
前參議
非參議(正二位>從二位>正三位>從三位)
藏人頭
四位殿上人(正四位上>正四位下>從四位上>從四位下)
五位殿上人(正五位上>正五位下>從五位上>從五位下)
六位藏人(正六位上)
地下三位諸大夫(正三位>從三位)
地下四位諸大夫(正四位上>正四位下>從四位上>從四位下)
地下五位諸大夫(正五位上>正五位下>從五位上>從五位下)
地下六位諸大夫(正六位上>正六位下>從六位上>從六位下)
侍
士分以下
※社家氏人の位階は官人等とは別立てなので,官人又は諸家諸大夫としての位階を別に持っていなければ比較できない(どちらにしても六位藏人>社家二位は間違いなさそうだが).
頭中将と頭弁の序列は?
396 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 12:48:35.27
397 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 12:49:57.50
>>394 親王は世数で序列に差がつくのか
親王家でも皇子が養子に入って一代目と二代目は格上でそれ以降は格下ってこと?
399 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 14:04:25.56
皇子皇孫と世襲親王の違いでしょ
400 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 14:20:57.52
>>393>>397 神職は「職」ではあるが「官」ではない
しかも社家氏人の位階はその人に付くもので職に付くものではない
したがって「神職の二位」でなく「社家の二位」という質問の仕方の方が適当だし
「どの官職」ではなく「どの社家」と問うのが適当
従二位に昇りうる社家は伊勢内外宮・鴨・春日の社司(宮司・神主・祝等)だけ
>>399 皇孫なんて世襲親王家を除けば中世近世にはほとんどいなくないか?
儲君の子って意味ならまあいるけど
>>401 室町時代頃までだと世襲親王がいる一方で
天皇の実子でも親王宣下を受けていない王がいたり
いろいろ複雑
403 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 17:31:23.17
いるいないの問題ではないだろう
そもそも世襲親王家という制度の下では皇孫という存在が儲君の子と宮家の養子となった皇子の子しかあり得ないので
在俗に限れば幼児か宮家の当主かその後継ぎしかおらず、想定する必要性が無いというのが問題では?
405 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 20:18:23.21
「儲君の子と宮家の養子となった皇子の子」があり得るんだから想定する必要性があるだろ
何をわけのわからんことを言ってるんだ
>>405 そもそも儲君の子は普通幼児だから席次が問題になるような場面が無いような
それ以外は世襲親王家なのに同じ世襲親王の間で皇子と皇孫は上で三世以下は下ってどうなの?って話
二世なら四品でも無品でも、三世で一品の親王の上席になるのか?
世数によって序列つけるんならともかく二世と三世でそんなに差があるというのは
それが事実ならそれでいいんだけど単純に疑問
あと書いてて思ったけど、皇子が宮家の養子になった場合って養父よりも上になるのか?
>>394だと
100年200年前の規定についてここで文句を言ってどうなるんだ。
意味が分からん。
>>407 単なる疑問を呈しただけでそんなに強い口調で言われても困る
どうして文句を言っているようにみえるのかわからん
単なる疑問を呈しただけで
どうして強い口調で言ってるようにみえるのかわからん。
単なる疑問を呈しただけで
どうして揚げ足とってるようにみえるのかわからん。
412 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 22:41:00.23
わざわざ揚げ足を取って楽しい?だのと言い出すからからかわれるんだ。
皮肉は利かせたつもりだが本当に単なる疑問を呈しただけなのに。
昔そういう規定があったって話なのにその内容について疑問を呈してどうする?
「一世親王と三世以下の親王は存在しうるが二世親王だけが存在しえない」という想定をする方が余程不自然だろう。
少なくとも二世親王が存在しうるという可能性のためだけにそういう規定があったからって何が問題なのか。
気持ち悪いのはおまえだよ。
>>413 どう見ても揚げ足だろそれ
それと
>>412は自分じゃないんだけど……
まあそれはいいとして、言いたいのはそういう事ではなくて
一世にしろ二世にしろ三世にしろ四世にしろ儲君を除けば親王は皆世襲親王家であるのに
その中で二世と三世の間にだけ席次に隔たりが存在すること
当時世襲親王家に入った皇子のさらにその子が他の世襲親王と比べて優遇されていたような印象がないのでね
どのような必要性があってそうなっていたのか
さらに言えば事の発端として、
>>399で皇子皇孫と世襲親王の違いと言っているが
特に江戸時代は基本的に存在するのは儲君(当然に皇子)と世襲親王だけで
儲君でも世襲親王でもない皇子や皇孫なんていない
だから線を引くとしたら儲君と世襲親王の間の席次の差か
一世と二世の間になりそうなのに何故二世と三世の間なのか
そんなことが単純に疑問だったんだけど、何故か知らんが陰湿に攻撃してくる奴がいるからもう終わるわ
そこまでこだわることでもないしね
あれこれ言わずに、出典であるところの禁中並公家諸法度を見ればいいのに。
そこでは、「親王」と「諸親王」の座次は明確に区別されている。
>三公之下親王(略)親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、
>辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別(後略)
で、三公>親王>前官の大臣(摂家)>諸親王(ただし儲君は別)>(以下略)
というのが基本。
後、ここにもあるように「儲君」が「当然に皇子」とは言えない。後陽成天皇の話も
あるわけだから、「諸親王」から儲君が出ることは最初から想定されていたし、
実際にも、光格天皇が相続している。
416 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 01:59:43.66
>>414 総じて君はありうることとありえないことの区別が恣意的すぎるし、想定が限定的すぎる。
准后や太政大臣や准大臣だって常にいるとは限らないが、いる場合を想定しておくのが普通だし、さもなくば一般的な規定として意味をなさないはずだ。
また儀礼や格式の問題では「何故○○が××の上なのか」なんていちいち詮索しても、「何故ならそう決まっているからだ」としか言えないことが腐るほどある。
>>406で自分から
>それが事実ならそれでいいんだけど
と言ってるのに何故粘っているのか理解に苦しむ。
そもそも事実として歴史上に二世親王が実在していたのに尚その規定の必要性に疑問を呈すのは異様だし、
「儲君でも世襲親王でもない皇子や皇孫なんていない」などと言って「儲君の子と宮家の養子となった皇子の子」という
>>404で自分が出した例に目をつぶるのもおかしい。
「儲君の子は普通幼児だから席次が問題になるような場面が無い」とも言うが、儲君の子はいつまでも幼少なのか?
何故幼少限定の想定をしなければならないのか?
祖父たる天皇が長生きする可能性は何故考えないのか?
俺は三十路目前だけど祖父はまだピンピンしてるぞw
また儲君は必ず践祚即位するのか?
儲君を廃せられたりそのまま傍系の叔父や従兄弟が即位したらその子は二世親王じゃなくなるのか?
これらの想定はありえないことなのか?
これらのことが例えそれまでの歴史上に一度も起こらなかったとしても、尚未来にも決して起こりえないことなのか?
規定としてはありうる可能性を想定するのが当然ではないのか?
殊更に二世親王の可能性だけを排除した規定に意味があるのか?
疑問を呈するのは結構だけど君のは有益な疑問にはまったく思えなかったし、
遠い昔のルールに対して駄々を捏ねているようにしか見えなかった。
問いの立て方が論の運び方がおかしいから突っ込まれた上にからかわれてるのに「陰湿に攻撃してくる奴」とはいい気なものだ。
417 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 02:12:15.84
家柄の上に官位があるのか、官位の上に家柄があるのか、どっちかな
>>415 「親王」は一世二世で「諸親王」は三世以下ってことなのか
それとも
>>394に事実誤認が含まれているのか
419 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 03:01:59.64
事実誤認ってのは語弊があるな
ただ普通は諸親王と言ったら二世以下のことを指しそうなものだ
官位について語るのは、嫌いなのか?
家柄が固まってくると、官位には同程度の家柄の中での上下関係を示すもの
といった程度になっていく傾向がある。
少なくとも幕末あたりになると、その傾向が非常に強い。
特に家柄の中にもいくつか断層(時に事実上の君臣関係)が有るわけで。
官位はその断層の中での序列としての意味しか持たないようだ。
いっそ徳川一族のように、高い家柄は一気に高位高官からって方が、
合理的かもしれない。
昇進マニアとしては江戸時代の将軍・大名の官位は見ていてつまらんけど。
422 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 13:00:57.83
禁中并公家諸法度で云う親王は一世二世で諸親王は三世以降というのは俺も見たことがあるけど典拠は失念。
ただ事実誤認とまでは言えないはず。
あと「儲君は格別」というのは押さえておいた方がいい。
公家は江戸時代でも従五位下兵衛佐・侍従・少弁からすたーと?
424 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 18:55:31.24
>>415 >「諸親王」から儲君が出ることは最初から想定されていたし、
> 実際にも、光格天皇が相続している。
微妙にずれるが、大友皇子は卑母なので即位に反対する声があったと言われているが
六条天皇は卑母でも即位している。
公家ってのは地下も含めてだけど、堂上はそう言うのが多い。
ただし羽林とか名家の場合で半家とかは従五位下でも官職はいろいろ。
また堂上でも六位スタートの場合もある。
地下から昇格した家は、六位スタートを条件にされている場合があるし、
そう言う記録が残ってなくても、最初の2世代くらいは六位のことがある。
もっとも六位を条件にされていても、3代目あたりで五位スタートになったりもする。
菅原一門は昇進コースの都合で慣例的に六位スタート。
426 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 19:22:50.06
>>424 六条天皇は摂関家出身の二条天皇中宮藤原育子を養母として即位した。
摂関家の後ろ盾なしでは即位できなかったはず。
それでも二条天皇が死亡すると後白河上皇に帝位を覆されて
あっという間に天皇の座をおろされた。
427 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 16:29:01.88
>>418 諸親王=世襲親王家
「親王」と「諸親王」には明確な区別が有ったということでしょ。
>>427 それ皇子と世襲親王家の区別であって一世二世と三世以下の区別の説明になってないけどな
すんません、ちょっくら質問よろしいでしょうか。
室町時代の武士の官職って、
大名(守護)と守護代は国司など地方官、
奉行衆や奉公衆など在京の官僚的武士は中央官、
三管領など特殊な上級の武士は京官、みたいな感じの区別があったんでしょうか?
京兆家のように。
430 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 22:04:17.76
>>429 そういう区別はない。
大名(三職・御相伴衆・国持衆)やそれに准ずる外様准国持や御供衆中の国持は「大内介」「富樫介」等の由緒あるものを除き六位〜四位相当の官に任ぜられるというだけ。
実際に中央の大名クラスでも細川京兆は武蔵守、畠山金吾は尾張守や上総介、細川讃州は讃岐守、赤松は上総介、
今川は上総介、佐々木六角は備中守や近江守、土岐は美濃守、若狭武田は伊豆守、和泉細川(下)は阿波守、
細川奥州は陸奥守、淡路細川は細川淡路、備中細川は上総介、細川野州は下野守、伯耆山名は相模守などに任官している。
ただ京官地方官の区別とは別に、官途にも格や相場があるので、身分階層ごとに任ぜられる官途が異なっていたようだ(受領は公方直臣ならば身分階層の違いを越えて広く任ぜられている)。
ただし左馬頭は足利連枝に限り、右京大夫は細川京兆家に限られる。
431 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 22:05:14.80
関東奥羽九州を除き、室町末期までを通観すると、
代々衛府督に任ぜられるのは斯波武衛(左兵衛督)・畠山金吾(左衛門督・右衛門督)・山名惣領(右衛門督)くらい。
代々職大夫に任ぜられるのは細川京兆(右京大夫)・一色(左京大夫・修理大夫)・畠山匠作(修理大夫)・赤松惣領(左京大夫)・大内(左京大夫)・佐々木京極(大膳大夫)
・斯波大野(修理大夫)・佐々木六角(左京大夫・大膳大夫)・土岐(左京大夫)・石見山名(修理大夫)など
衛府督、次いで職大夫が中世武家官途の格としては最も高く(実際に上記のすべてが三職・御相伴衆・国持衆上層)、
八省輔や衛府佐がこれに次ぐ(但し同じ受領でも武蔵守は格が高い、同じ職大夫でも大膳大夫は少し格落ち、同じ八省でも治部は高く刑部は低いなどの相場がある)。
概ね衛府督には八省大輔・衛府佐等から転任、職大夫には八省少輔や受領等から転任という傾向があるようだ。
432 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 22:05:48.73
ちなみに今谷明が侍所頭人は左京大夫に任ぜられることが多く左京大夫の職務から言っても当然みたいなことを言っているが、
最も多く頭人となっている京極に左京大夫任官例がなく、頭人就任例がない大内や六角が左京大夫に任官している点からして、
単に職大夫に任ぜられる階層の大名が侍所頭人に就くということでしかないと思う。
その他に、「御一家」とされる吉良・石橋・渋川はほとんどが八省大輔や衛府佐。
国持衆下層・外様衆・御供衆以下はほとんどが八省少輔・受領止まり。
番衆は六位相当の官が多い。
守護代はそもそも主君が諸大夫クラス(四位でさえ稀)なのだから、ほとんどが官途書出や受領書出で主君に名乗りを許されただけで、実際に任官していたとしても六位侍相当が精々ではないだろうか。
※以上は独自研究の恐れがあります。
なるほど、サンクス。
守護とか足利一門の人以外の、
奉行・奉公衆など直臣たちの官職は、分からん人の割合が高いのかな?
守護代の件は、織田家の有力者が大和守・伊勢守・備後守などの国司に、
官位乱発が始まる以前の15世紀段階から任じられていることからの空想でした。
群書類従だったか、続群書類従だったかに、
いつの時期だったかの奉公衆の名簿があったような。
衛門尉などの官名で実名はなかったかも。
うろ覚え。
確か、ごくわずか馬允が居たような。
世襲親王家って何のためにあったんですかね?
臣籍降下すべき人を残す必要があったのか疑問なんですが。
436 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 00:53:01.48
奉公衆は交名(名簿)がいくつか残されている。
確か受領・八省少輔・職亮・寮助・八省丞・弾正忠・近衛将監・衛府尉・職進・寮允・司佑あたりが多く、半分くらい?は無官。
武家は苗字+官途(通称)だけの表記が普通なので、これらを特定するだけでも大変だろう(全部特定してくれる人がいたら掘られてもいい)。
437 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 09:40:25.13
従五位下 左馬権頭
従五位下 右馬頭
この場合、どちらが上位となるのか。
438 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 09:45:50.30
室町時代は、
相模守、武蔵守、讃岐守、陸奥守に関しては
官位相当に限らず、国司の守の中で
上座扱いが慣例であった。
これは、鎌倉時代に執権北條家が
これらの官職を踏襲し、他の国守の中で
特出されていたことが起源のようだ。
440 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 10:38:22.82
>>439 気のせいだ。
讃岐守は執権歴任者が執権就任前に歴任した官職の例あり。
そういえば、平安時代を例にとれば、
藤原氏も備前守同様、讃岐守は重要視していたようだ。
参議あたりで、讃岐守あるいは讃岐権守を兼帯した例もあり。
国の序列も時によってかわるよね。
確か播磨守と伊予守がツートップの時代がなかったっけ?
院政期だったかな?
受領の頂点で四位がなる奴じゃなかった?
近江守も特別だったような
443 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 11:16:45.30
>>435 > 世襲親王家って何のためにあったんですかね?
> 臣籍降下すべき人を残す必要があったのか疑問なんですが。
医療技術が低かった時代においては要人でも藤原4兄弟みたいに伝染病で死ぬ可能性があったから、
ブルペンに誰か置いておく必要があったのではないか?
光格天皇とか残しておいたお陰でって実例もあるし。
コンスタントに皇子が生まれさえすれば、
出家や臣籍降下は皇子・皇孫には一切認めず、
皇曾孫以後とかならいらないかもしれないけど。
数の調整が世襲親王の方がしやすいんじゃないの。
他の方法としては皇籍復帰を認めるとか、
還俗後の即位を認めるとか。
将軍は義教って先例があるな。非常に縁起が悪い先例だけど。
445 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 13:42:43.91
中世(特に室町期)の武家官途では相模守武蔵守陸奥守が3トップで讃岐守は少し格落ち。
讃岐守は確かに執権が就任前に任じられているが、あくまでも「就任前」。
讃岐守は伊予守などと同程度のはず。
他に摂津守伊勢守尾張守安房守上総介阿波守などが格が高い。
詳しい序列は忘れた。
ちなみに武蔵守は細川京兆家当主が将軍の代始に管領として任じられる慣例(だったはず)。
義満代始めの頼之の例による。
細川京兆家当主は将軍元服の際に加冠役を務め、同じく細川奥州家当主が理髪役を務め、そのために共に四位に叙せられる例もある。
奥州家がたかが外様衆の分際で四位に叙せられている者が多いのはこういう理由がある。
ただ必ず細川が役を務めるわけではなく、畠山苗字の者が務めることもあった。
戦国期の佐々木六角家当主が管領代として加冠役を務め、そのために四位に叙せられた例もある。
管領代は執政のような役職ではなく、こういう役務のために任じられるものらしい。
さらにちなみに江戸期には加冠役は井伊掃部頭、理髪役は松平肥後守と決まっており、その際には両家とも官位昇進を仰せ付けられた。
室町の家格はよく分からん
将軍>鎌倉>吉良>今川>斯波で合ってる?
447 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 18:14:10.34
>>446 もしも足利氏が絶えて吉良氏が将軍になったときは吉良庶流の今川氏が将軍一門になる、というだけで今川氏自体の家格はそれほど高くないよ。
成り立ちでは斯波と吉良はほぼ同格だろうけど、
官位的には、将軍>鎌倉>斯波>畠山>他
安房なんで独立してるかもわからないような小国なのに、
なんで格が高いんだろう?
足利の先祖の誰かの官途だったとか?
正直六位国守でも良いような国じゃないの?
449 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 19:13:45.69
安房守って誰かいたっけ?
9世紀あたりの公卿補任でちょくちょく見たような気がする。
どうでも良い程度の国だから、
大きな失敗がなくて経歴に傷が付かないってことかな?
って勝手に思ってた。
451 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 19:26:25.36
>>444 > 他の方法としては皇籍復帰を認めるとか
一例だけだが、平安時代に実例はあったはず。
安房は戦略的には要地だから格はあったんじゃね?
今ちょっとwiki見たら室町時代は関東管領が国守になってるみたいだね。
453 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 21:07:47.66
安房があれだけの面積で安房国になっていたのは
地形的な理由のほかに何かあったのだろうか?
>>443 少なくとも伏見宮系は、単に家の格式ということである意味「惰性」で
残っただけだろうね。
閑院宮なんかは、「伏見宮では遠すぎて皇位継承の対象にならん」
というのが理由でできたわけだし。
>>453 奈良時代には御食国の一つとしてアワビを貢進していたというね。
志摩
>>436 サンクス。
>>452-453 安房や志摩などの小さい国は、
奈良時代に朝廷行事その他の理由で特別に重視された土地だろう。
普通なら郡扱いで充分だけど、郡司は国司と違って地方豪族が任命されるから、
朝廷の人間を直接に送り込む必要があるような特別の要地が国に昇格させられてたはず。
対馬や壱岐のような島の場合にも、同様の扱いがあったはず。
「木簡から読み解く平城京」を見ると、御食国の貢進物として、
若狭の塩、隠伎や志摩の海藻、安房のアワビなんかがあげ
られているね。
六位国守の国って、確か平安後期あたりに四つあったと思うけど、
どこどこだったっけ?
正式に定められたのかただの慣例なのか知らないけど。
460 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 09:18:28.30
安房国は、安房神社の存在が大きい。
阿波国の忌部氏の一部がこの安房国となるべき地域に
異動し、一大勢力を作り、保持していた。
後年、安房神社が同国の一宮となる所以でもある。
こういったことから、小国とはいえ、安房国が誕生する。
>摂津守伊勢守尾張守安房守上総介阿波守
やっぱりこう並ぶと安房だけ異質だな。
奈良時代とかに安房が独立の国であり重視された理由は、
上記のみなさんの書かれている通りなんだろうけど、
中世の国守として重視された理由がよくわからない。
>>461 鎌倉に攻め込むのに便利が良いからw
というか相模の隣国なんで評価が高いんじゃね?
463 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 13:58:34.78
>>460 > 安房国は、安房神社の存在が大きい。
往古より大神宮と称されている、とあるな。
464 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 14:04:39.46
>>446 室町中期にほぼ確定した武家家格秩序は以下の通り(二木謙一の研究などを基にした)。
江戸期とは違い官位とは無関係だった模様。
※「」内は主な分国(重複あり)
(参考)
一門→斯波・石橋・渋川・一色・上野・吉良・今川・畠山・桃井・仁木・細川・山名・上杉
外様→赤松・大内・佐々木・土岐・武田・小笠原・富樫
三職 斯波武衛家「尾張遠江越前」・畠山金吾家「山城河内越中紀伊」・細川京兆家「摂津丹波讃岐土佐」
御相伴衆
一色家「三河丹後」・畠山匠作家「能登」・細川讃州家「阿波」・山名惣領家「但馬」
>赤松惣領家「播磨備前美作」・大内家「備後周防長門」・佐々木京極家「近江飛騨出雲隠岐」
※「一門」の方が家格が高く「外様」の方が家格が低いようだ。
国持衆
佐々木六角家「近江」・土岐西池田家「美濃」
>斯波大野家「加賀」・今川家「遠江駿河」・細川両和泉守護家「和泉」・山名伯耆守護家「伯耆」・山名石見守護家「石見」・四条上杉家「信濃越後」・若狭武田家「若狭安芸」・信濃小笠原家「信濃」・富樫「加賀」
※若狭武田家は後に御相伴衆に列せられることが多くなる。
※室町期に「大名」とされるのはここまで。
465 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 14:05:10.69
外様衆
准国持 細川奥州家・佐々木京極加賀家
赤松七条家・赤松有馬家・佐々木鞍智家・摂津守家・他
※細川奥州家だけ浮いてるが、何か由緒でもあるのか?
※室町末期には大名クラスでも在国の者は外様衆とされている。
御供衆
国持並 細川淡路守護家(奉公衆一番番頭)「淡路」・細川備中守護家「備中」・細川典厩家・細川野州家?・山名因幡守護家「因幡」
一色式部少輔家・上野家(奉公衆三番番頭)・畠山播磨家(奉公衆三番番頭)・畠山中務少輔家(奉公衆四番番頭)・桃井家(奉公衆二番番頭)・新田大館家(奉公衆五番番頭)・政所伊勢守家・他
※外様衆や御供衆のうち守護や分郡守護の家は准国持または国持並の待遇とされるらしい。
御部屋衆
申次衆
番頭
節朔衆 京都小笠原家・他
走衆
奉行衆(右筆方)
番衆(奉公衆)
※御部屋衆以下走衆までは奉公衆から就く役職のようなものと理解するのが適当か。
466 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 14:05:40.30
上記の他にこれらの序列とは別に御一家として吉良家・石橋家・渋川家(義鏡系)などがあるが、中でも特に吉良の家格が高い(三職・御相伴衆などとの上下は不明)。
八条上杉家と伊賀仁木家は御目見の日程などで御一家と同じように扱われるが、御一家とは言い難いらしい。
関東の武家家格秩序は鎌倉殿(古河御所)の下に京都と相似的な秩序が形成されていたようだ。
管領山内上杉家、扇谷上杉家、御一家(無御盃衆と言ったらしい)である吉良蒔田家(新田岩松家も御一家扱い?)を頂点に、
その下に国持衆に相当する佐竹・宇都宮・小田・那須・小山・長沼・結城・千葉といういわゆる「関東八屋形」(長沼の没落後大掾などが追加されたか?)があり、
新興勢力である小田原北条家・安房里見家も書札礼ではこれらと同格。
467 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 14:06:02.99
その他の地域では斯波大崎御所に伺候する留守・葛西・伊達などが秩序立った序列を形成していたらしいということをネット上で見たことがある。
出羽についてはよくわからないが、「羽州探題」というのが果たして関東や奥州と同様な公権力の出張所として実効的だったのか個人的には疑っている。
関東奥羽には「京都御扶持衆」という在地守護に対抗しうる存在もあったために位置付けが難しいものもある(その最たるものが甲斐武田家だが、これは普通に国持級だと思われる)。
九州についてもよくわからないが、九州探題を頂点とする家格秩序は維持しえなかったと思われる。
少弍・大友・島津・菊池・阿蘇などは国持衆相当だろう。
468 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 14:07:37.00
室町殿(及びそれに准ずる鎌倉殿(古河御所))は家格秩序の主体なので家格秩序の内には位置付けられえない。
さらにこれらに准ずるものとして奥州探題斯波大崎御所や九州探題渋川家があり、位置付けが難しい(斯波の総本家である武衛が屋形号なのに大崎御所は御所号)が、もしかしたら御一家扱いかも知れない、
余談だが、豊臣秀吉の天下統一に至るまで、六角や京極がずっと佐々木苗字であったのと同様に、大崎最上の苗字はずっと「斯波」だと思われる(現に最上義光の嫡男義康が斯波苗字で呼ばれている)。
「大崎(御所)」や「最上(屋形)」は家号のようなものだろう。
さらにちなみに奥州斯波家は書札礼では大崎と同格。
あと安房守は関東管領山内上杉が任官している。
摂津守は評定衆・地方頭人の摂津守。
伊勢守は政所執事の伊勢守。
尾張守(鎌倉時代の足利尾張家の官途)は畠山金吾など。
相模守は伯耆山名か石見山名のどちらか(うろ覚え)。
武蔵守は細川京兆。
上総介は吉良・今川一門、畠山金吾、赤松惣領。
陸奥守は細川奥州。
淡路守は細川淡路守護。
阿波守は細川和泉下守護。
讃岐守は細川讃州。
伊予守は遠江今川堀越など。
雑誌の付録に江戸大名の柳営序列一番から100番まで
一覧があって分かりやすかった
室町の方は色々家格があって複雑だね
江戸時代も一本で序列が付くような簡単なもんじゃないでしょ。
将軍との親疎・藩の表高・国持〜陣屋までの格・官位・城内詰め間・家自体の評価
おおざっぱに考えただけでもこれだけある。
一番簡単なのは明治時代の華族叙爵基準。
実高+勲功、あとは特別配慮の徳川、宗、松浦
家格はもちろん公的な地位も関係してくるんだけど、
ある程度自然発生的な面もあるから割り切れないのは当然。
いくら時の政権が序列を公定してもそれだけでは律しきれない。
もちろん公定されれば大きな影響はあるけどね。
拝謁順序や畳の場所でその時点の序列もわかるっちゃわかるな
年齢官位で微妙に変動するけど
473 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 23:07:54.47
囚獄正は、今で言えば、法務省矯正局長なんですか。それとも府中刑務所長か東京拘置所長に当たるんですか。
斯波とかは、執事など臣下が就任するべき職、
という感じで、あまり有り難がってない感じがする。室町時代前半には。
当主ではなく、当主の子息が、当主見習いのうちに就任する職務と認識していたかのように見えてしまうほど。
平安期に公家達が国司に抱いていた認識に似てる感じがする。
(国司は実入りはいいんだけど地位が低いから... って感覚)
室町時代前半だと、足利の苗字の使用を許された、特に格式の高い一門衆が何人かいて、
そのうちの一人だったよね、斯波って。
他にも渋川とか桃井とかもそうだったっけ?
同じ一門でも細川とかは格下で、幕府の開設以前から臣下扱い。一門として遇されては居ない感じ。
分家の分家、というか庶家だしなあ。
公的な地位とは全く釣り合わない低い扱いにみえる。
475 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 14:13:33.56
>>474 石高や軍事力の割りに、官位が不自然に高い(あるいは低い)大名もいるのではなかったか?
江戸時代の幕藩大名とは比べものにならないぐらい、
領国の数・規模と官位の相関性が低かった気がする。
>石高や軍事力の割りに、官位が不自然に高い(あるいは低い)大名もいる
という程度の話じゃなく、相関性が低い、関係があるかどうか不明と思えるレベルではないかと。
477 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 19:31:15.40
鎌倉期の足利一門は足利惣領家・足利尾張家(後の斯波)・足利上総家(後の吉良)・畠山家の4トップ。
何故ならこれらは鎌倉殿御家人としては同格だったから。
あとは足利尾張支流の石橋、足利上総支流の今川、宮内少輔泰氏の子孫(渋川・石堂・一色・上野等)が一門。
仁木・細川などはほとんど郎党扱い。
桃井はその中間か。
斯波・吉良が足利苗字を「許されていた」というのはちょっと語弊があるのではないか。
北条支流が別に許されていたわけでもなく単に支流というだけで北条苗字を名乗っていたのと同じではないか。
後世の羽柴苗字や松平苗字の許可という概念に引きずられている気がする。
むしろ名乗りを禁じられなかったってことなのかな?
479 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 20:37:31.20
渋川氏と石橋氏が一門の中でも少し格上っぽい気がするけど
今川氏と比べるとどうなんだろうね?
今川氏は一色氏と同じくらいなイメージがある。
基準が一つじゃないのは序列をはっきりとさせないためだとか。
なるべくいろんな相手を満足させるため。
頼朝が、範頼が「源範頼」と称したのをとがめたという話がなかったかな。
左馬頭は室町時代は足利に限定されてたという本が出てたけど
結局江戸になっても足利を意味した、これは非常に珍しいなんて
続いてたね。
読んでおいたほうがいいかな。
483 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:45:14.23
室町・戦国時代、左馬頭は、足利以外に
木曽義仲の後胤の木曽氏も称していた。
いずれにせよ、木下 聡「中世武家官位の研究」吉川弘文館が
先月出版されたから、これを図書館経由で読んでみるとよいかも・・・。
484 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 11:50:30.91
>>483 > 木曽義仲の後胤の木曽氏も称していた。
甲斐武田に従属したあともかな?
>>483 それですね、どっかにあらすじが載ってた。
図書館はまだないんですよね〜。
486 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 00:58:11.32
徳川綱重の初官が左近衛権中将兼左馬頭
ちなみに綱吉の初官が右近衛権中将兼右馬頭
487 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 01:48:23.47
里見氏は義豊義弘義頼義康などが左馬頭
関東足利一門みたいな扱いだったのだろうか
ググったら木曽義昌肝付良兼筑紫広門も左馬頭を名乗ってるけど胡散臭い
すいません誤爆しました…
490 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 13:44:26.89
>>485 木下 聡「中世武家官位の研究」吉川弘文館
東京都立中央図書館、埼玉県立浦和図書館、
大阪府立中央図書館あたりには
既に配架状態だ。
順次、道府県図書館あたりに先ずは配架するでしょう。
因みに、当方は、東京大学総合図書館でみた。
ここは学外一般者でも閲覧可能だから。
神階について調べてるがなかなかややこしいな。特に人の位階との境目。
徳川家康の位階にしてからがややこしい。
家康は生前の慶長7年正月6日に「源朝臣家康」として従一位に叙されているが、
「源朝臣家康」や「徳川家康」の叙階はここまでで、
元和3年3月9日に「東照大権現」、正保2年11月3日に「東照宮」が正一位に叙されてる。
神階は明治に廃止されたということになってるが、現在でも「徳川家康」の位階は正一位と
されてるし、神階は祭神でなく神社に賜うものだということだから、
一部資料にこれも「神階」とされている元和3年3月9日のは神階でなく人階で、
宛名書は「東照大権現」だけど、実は人間家康への追贈という理解でいいのかな?
で、「東照宮」の方だけホンモノの神階なので明治に廃止と。
神階廃止の手続きも資料が見つからないんだよね。
多分神社のランキングとして重複するので明治4年の近代社格制度と入れ替えで廃止だと思うんだが。
象や鷺や馬の位階は人階の領分だから今でも有効なんだろうなw
象や馬は個体が対象みたいだから大丈夫だが、鷺とかもし「種」が対象だと
今でも有効の場合またややこしいことになるがw
鷺が個体じゃなくて種と言うのはおもろいな。
献立見ても椀物に「ごい」とかなってるし
種として使われてる感じだもんな。
平気物語では鷺の類だろうってのはまあわかるとして、
種の特定までは無理な気がするけど。
本当は五位を与えられたのは他の種の鷺だったりして。
もしそうなら、五位鷺と言うより五位詐欺?
群書類従に一二世紀初めから一三世紀中頃までの樂所補任があるけど、
出てくる樂人は、従五位が最高。
当時の樂人は鷺以下ってことか。
幕末公家集成って本だと正四位まであがれるようになってるけど。
495 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:12:58.25
遣唐使の乗船も官位を持つケースがあったなあ。
確か従五位下ね。
じゃあ三笠は正一位くらいやっても良いな。
勲一等の方がいいかな。
軍艦だから、功1級だろう。
調べたら慶雲3年2月22日に粟田朝臣真人の乗った遣唐使船の「佐伯」が
従五位下に叙されているということだな。無生物もありかw
象、鷺、馬ときて船。あと犬あたりは貰ってるのがいそうだなw
朝廷や公家にとってはホンモノの官制人事と絡まないという点では、武家官位も
神階や追贈階や象・鷺・馬・船の位階と似たようなものだったんだろうなw
猫を忘れちゃだめだ。
上にさぶらう御猫
遣唐使船の命名は他にも例があるけど、叙位はこれだけのような。
猫は従五位下、象>鷺>猫。一応殿上人(人じゃないけど)扱い?
501 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 12:12:52.64
>>498 > 調べたら慶雲3年2月22日に粟田朝臣真人の乗った遣唐使船の「佐伯」が
> 従五位下に叙されているということだな。無生物もありかw
船首に烏帽子をかぶせて航海した、
と司馬遼太郎「空海の風景」に書いてあった。
他に無生物はあるのかなぁ。
鷺なんか由来としては美しい感じがしていいな。
へい、カッカしやすい性格なんは自覚してるので
頭冷やしにε=ε=ヽ( ゚Д゚)ノ 逝ッテキマース。どうもすんませんした。
不二山て江戸時代宝永噴火で政一委なたて本当?有生物やおまへんやろに、ほんま
山は山そのものじゃなくて、山の神への叙位らしいよ。
スサノオ正一位(1284年叙階·今宮神社·京都)>藤原お玉·桂昌院 従一位(氏子·1702年叙階)
菅公(天神)贈正一位(993年追贈·北野社·京都)>某菅流元宰相さま·予定正二位?(子孫?)
やぱりアマテラスとオオクニヌシと天子は超階だな...神々の上。
>>505 「富士山本宮浅間神社」(現富士山本宮浅間大社)の
神階が永治元年(1141、宝永よりはるか前)以降正一位「だった」ことを
言ってるのかな?
ちなみに富士山本宮浅間大社の祭神は富士山の神霊「浅間大神」と
と木花之佐久夜毘売命(江戸時代以降この2柱はごっちゃになってる)、
御神体は富士山そのもの、だが、
神階は祭神や御神体でなく神社が対称なので、
正一位はあくまで、「富士山本宮浅間神社」であって
「浅間大神」や「富士山」ではない。
しかも神階は明治に「廃止」されてるので現在は失効。
それとも宝永噴火で物体としての「富士山」か「浅間大神」に別途
人階枠で正一位が贈られたのかな?
508 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 00:05:39.12
509 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 11:03:45.72
徳川家康の死後の件については
中村孝也「徳川家康文書の研究」日本学術振興会
を参照されたし。
南北朝時代は各官職が2人ずついたりしたの?
いたんだろうねえ・・・
考えてみりゃ日本の南北朝って妙な時代だよな。
王朝が2つに割れて正統性を掛けてあい争うのはよくあることだが、
普通はそういう場合領土や制度も真っ二つに割れて敵対国家として争う。
日本の南北朝は王統は2つ立ったのに、領土どころか制度や宮廷すら
完全に二つに割れたわけじゃないからなあ。
「南朝の太政大臣」というのはかぶってないね。
官員の組織ができなくなっちゃうから当然かぶりはありそうな気もするけど。
もっとも南朝は全部うめるほど人数居なかったりするけど。
>>513 公卿の議席はほとんど埋まってたかもしれない。
その下で実務を担当する官人は空席だらけ、というよりほとんど無人だけど。
衛府府生って、728年の中衛府設置の際に置かれたのが初例?
同年中に、衛府府生は兵部省が補すことになったようで、
衛府府生って言うからには、この時点までには令制五衛府に置かれた?
742年正月、武官に物資を下賜。
五位以上、主典以上、府生以下衛士以上の序列有り。
この時点で既に令制五衛府にも府生が存在か?
778年2月、右衛士府生少初位上飯高公大人らに宿禰を賜姓。
実際に府生の肩書きをもつ人物の初例らしい。
平城京出土の木簡で、府生の文字が見えるのが十数あるようだけど、
年期までは不明?
従五位下からスタートして従一位〜従二位に到達する例はあるけど
小初位下から従一位に到達した例はあるのだろうか?
ないんじゃないの。
秀吉はそれ以下の地位(令制で言うと仕丁かなにかに相当か?)からだけど、
位階としては従五位下からだし。
惜しいのでは、吉備真備は帰国時従八位下だったのか確認されており、
最終的に正二位で右大臣。
これが位階的には一番の出世では?
真備はおそらく大学出身で、従八位下は試験合格でもらった、
最初の位階ではないだろうか?
と言うことで初位は経て居ないと思われる。
519 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:50:34.94
摂政は摂行政事の略
参議は参政朝議の略
管領は総管頭領の略
内管領は御内総管頭領の略
というように略称の官名・職名がある。
道鏡の弟弓削浄人が、初見時従八位上、極官従二位大納言。
蔭位はないと思われるので、この以前に初位経験があるかも?
道鏡の弟だから別勅で従八位上直叙かもしれないけど。
他に参議や中納言クラスで蔭位がないと思われる人物が数人。
極位三位程度までの場合が多いが、初位経験が有るかも?
紀長谷雄:従三位中納言、38歳時点で従八位上。
あるいは大初位だった時期があるかも?
春澄善縄:従三位参議。31歳時点で大初位下。
粟田道麻呂:従四位下参議。高麗福信:従三位非参議。
和家麻呂:従三位中納言。和気清麻呂:従三位非参議。
菅野真道:従三位参議。朝野鹿取:従三位参議。
大江音人:正四位下参議。三善清行:従四位上参議
彼らは初位経験があるかも?
他は初期で出自がよくわからない(ほとんどは豪族?)か、
成り上がりでも父が五位以上かってところだと。
他に父は六位以下だが、祖父を見れば名門とか。
>>512-514 正平一統以降の南朝では、兼官が増加して任期も長期化する
傾向が見られるとのこと。人材不足が顕在化したってことだね。
蔭位の最下位は、外従五位庶子の大初位下。
少初位下はその最低ラインより下。
少初位経験者は四位すらほとんど居ないかも?
順番に昇進では死ぬまでには到達が不可能。
何回か国家に功を成すなどの理由で越階しないと無理。
位階は死んでも上がれるからなあw
もし初位経験があれば和気清麻呂は初位から正一位まで
昇りつめた唯一の人?
いや正一位贈受は「護王大明神」だから
唯一の「例」と言わなきゃいかんかw
おそらく実際に初位に叙されたのは10世紀頃までなんだろう。
道長死後に活動してるような人は初位だったことはないと思う。
生前一位になった人で、初叙七位以下っているんだろうか。
明治以後は考えず、あくまで令制位階制度下で。
正一位は全員五位か六位と思われるけど、従一位は七位もいたかな?
石上麻呂は八位相当くらいの旧位階だったようだけど、そのくらい?
恵美押勝の首級ひとつで
大初位下から従五位下まであがった
坂上石楯
首一つなら実際の武功があるからまだましで、
密告しただけで同程度の特進があるしねえ。
それも嘘の時もあるし。
日本史総覧や国史大事典を見た限りでは、
唐名って主典はほとんど見えないようだけど、
やっぱりとるに足らない官だからなのかな。
雅号的には一部あったりもするようだけど、
そう言うのは定着してないことかな。
職原抄見たら、主典も出てた。衛府は府生まで。
主典は、録事とか主事とか史とかが多い。
531 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 08:36:52.83
カミ、スケくらいは語感で長官、次官っ分かるけど、ジョウとかサカンの語源はどうなってるの?
532 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 11:09:26.29
ゼウ←丞
サクワン←佐官
533 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 09:06:19.47
内覧って唐名はないの?
あれはあくまでも職務で、「職」になりきってないからないの?
534 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 09:51:51.36
名家と半家ってどれくらい違うの?
半家である西洞院家の分家が名家になってるから
それほど違いはないのかな
羽林も含めて平堂上ってひとくくりにされるくらいだから、
幕末頃だと大差ないんじゃないの。
家格形成期の状況はまた別だろうけど。
江戸後期だと、摂家は超別格、清華も別格、大臣家は清華に準ずるはずなんだけど、
昇進では大臣家と羽林・名家の一部最上位は同格。
平堂上は重なり合うけど、上限と下限が違うってところか。
半家でも菅原氏の旧家なんかは、大概の羽林・名家の新家より上っぽい。
まあ江戸中期以後の新家は分類にかかわらずほぼ最下層だけど。
特に江戸も終わりになるころから最末期に地下から昇格した家なんか、
仲間とは思われてなかったんだろうな。
江戸時代の散位でお役目なし、これといった家職もない蔵米取りの公家って
実際はどんな生活してたんだろ? 下橋翁にはそういう公家全体の生活ぶりにも
聞いておいてほしかったな。
では家格形成期だと大臣家は清華家に近かったわけか
大臣家ってもともと天皇の外戚になった家だっけ?
大臣家って清華の分家じゃなかったっけ?
さすがに屋敷の一角で賭場開帳してたなんてことは言えないでしょ。
いくら回顧談でも。
貧乏話はともかく、反社会的活動はちょっとねえ。
もともとは清華・大臣家・羽林最上位あたりは似たり寄ったりレベル。
清華の家格を形成し損なって落ちこぼれたのが、
大臣家や羽林になったってところじゃあ。
もちろんそれすら無理で完全に没落した流れや分流も多いけど。
日野家なんて左大臣も輩出してるしな
日野家が左大臣出したのって、室町将軍の外戚だった時代だろ?
羽林は、最上級貴族の庶流で分流以後上級貴族の格を保ち続けた、いわば名門。
このあたりは状況がもう少し有利だったら清華になれた可能性有り。
同じく庶流だが一度没落しかかった家。
かなり早期に分流し、受領がやっとの時期が長かった、いわば成り上がり。
の類型があるんじゃないかな。
三番目なんかは、名家より家筋は悪いだろうな。
摂関期に既に公卿を輩出していた家と、受領止まりだから。
旧家に限れば、名家はわりと等質だけど、羽林と半家は結構様々。
特に半家は分類に付き物のゴミ箱だから。
細川一門の初期の昇進。
右馬助→右京亮、右京亮→右馬頭、右馬頭→右京大夫なんての見えるけど、
これは一つの昇進の系列をなしていた?
それとも細川一族になにか右へのこだわりがあったのか?
まあたまたまなんだろうけどね。
546 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 16:00:39.75
547 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:29:31.55
摂家は別格
院政期などに発展した上級貴族が清華
清華になりそこないが大臣
中級貴族嫡流及び上級貴族庶流が羽林
実務官僚が名家半家
名家と半家の違いって昇進ルート?
北条一門の場合は、嫡流は別格として有力庶家でも、
初任将監と初任衛門尉とで差があったみたいだ。
昇進ルートも半家の一部は名家に似てるな。
羽林に近い家もあるけど。
弁官を経る場合もあるけど、五位蔵人を経ないところは違う。
ただし名家でも五位蔵人に縁がない家もあるし。
源平藤以外は半家に分類されてる感もあるし。
歴史的経緯でそうなってとしか言えない面も。
結局は家格とかってそんな一律には割り切れないなんだよね。
江戸時代だと名家の上位は屋敷の大きさや家禄で
大臣家や一部の清華より上ですよね。
摂関家と清華家以外はけっこう適当な区分なんだね
分家でできた新家の場合は、本家が羽林・名家だから分家も同じ、
と言うだけの場合も多いように思われる。
近世に地下から昇格した場合は大概半家に放り込まれるけど。
まあ、摂関家と清華家以外の格付けが分かりづらくて、華族制度を作るときに、大納言宣任の多い家が伯爵、それ以外の堂上家が子爵という大雑把なことになった。
大臣家が割りを食ったよね。転法輪三條家(嵯峨家)は侯爵に昇爵できたが、三條西は名門なのに伯爵に留め置きになったし。
555 :
554:2012/01/20(金) 09:02:44.28
誤 転法輪三條家
正 正親町三條家
>>554 華族制度は総じて公家に甘くて武家に厳しくない?
最高位の公爵の家格は徳川宗家だけに対して公家は5家、侯爵も公家は9.
武家華族対象者に対して公家が約半数なのに公家の上位華族が多すぎる。
そりゃあ皇室にとってどっちが親しいかって言えばおのずと。
武家や一部勲功者を公家社会に迎え入れたって意識がどこかにあったんだろう。
もちろん理念的には統合して新たな階級を作ろうとしてたんだろけど、
あくまで心情的な部分でね。
真偽は知らないけど、戦後昭和天皇が公家華族だけでも残せないかって、
言ったとかって話しもあるらしいし。
まあ叙爵で公家に甘い分、資産では公家に厳しかったからなw
ストレートに家格を持ってくれば将軍家と御三家御三卿、前田家くらいしか公家の家格ではないし。
政府高官につけなかった公家華族や奈良華族はけっこう生活が苦しかったみたいだね。
山科伯爵なんぞは借金取りから逃げるために木賃宿に隠れていて警察に捕まったり
しているし。
名家中の名門は、五位蔵人、蔵人頭を経て昇進するんだけど、
これが人数に対してポストが不足でだんだん滞留してきて、
中年にならないと就任できないから、その間官位が上がらない。
と言う状況がだんだんできてきて。
幕末あたりだと、親子そろって正五位上だなんてケースも。
その分、蔵人頭終了後は急速に昇進するんだけどね。
ただ、他の堂上に比べて公卿になり損なう確率は高い。
ちょっと早死にだと五位のまま。
>>554 でも大臣家も羽林家に毛が生えた程度だからいいんじゃない?
562 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 02:04:00.88
>>556 逆
武家に甘い
そもそも大名のほとんどは公家社会じゃ数の内にも入らない五位の諸大夫がほとんど
堂上格の侍従以上に家格として昇れる武家などは50家前後しかいなかったのだからむしろ武家が高すぎる
武家の家格(殿中の席次など)も実際は官位を基本にしていたのだから堂上公家と同じ家格にされるのはおかしい
563 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 04:39:39.32
江戸時代に半家の長屋住まいには、家来がいたのか?
御所に参内する時、五摂家の当主は何に乗ったのか?
564 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 04:51:03.57
>>562 幕末の土佐藩士が
「岩倉卿は下級公家とはいうものの
官位は雄藩であるわれらが殿より上じゃ」
と驚いたらしい。
>>562 あの時代の公家の官位なんて虚官・虚位もいいところだろ?
無意味になっていたから公家には乱発してやっていただけで、ほとんどは
その日暮らし状態だったわけだし。
平堂上なんて、家来に至るまで非蔵人あたりに馬鹿にされていやがらせ
されていた程度の存在でしかない。
むしろ、武家官位での重みの方が、実際に官位が機能していた奈良・平安
期の重みの名残を残していると思うけどね。
武家清華って官位は全然清華家並じゃないよね
もし豊臣政権が続いてたらもっと昇進してたのかな?
それとも清華家だよって認定しただけで
昇進させるつもりはなかったのかな
武家と公家の婚姻関係を見ると、大体の格付けがわかるよ。
土佐山内家と三條家(清華)、徳川御三家と摂関家、親王家
大大名は、結構、上級公卿と婚姻関係があった。戦国時代でも武田信玄の奥方が三條家だし。
あと、小藩もそれなりにで、平戸藩松浦家(6万石)から中山家(羽林家、極官権大納言)に姫君輿入れしていて、松浦清が明治天皇の曾祖父になってるというのもある。
家格形成期には到達点が重要なんだけど、
家格が固まると、到達点より、スタートと昇進コースが重要。
到達点は個人履歴には重要だが、家としてはそうでもなくなる。
要はその家格の昇進コースに乗ってれば良いってことなんだろう。
清華だって皆が大臣になれるわけじゃないしね。
江戸期の武家の場合は、羽林か半家の昇進コースの最初期部分だけ
ってところが特異だな。
実体的に官位昇進ってものが希になってる意味では非律令的、
その辺は徳川の都合なんだろうな。
公家側は昇進があった方がうれしいでしょ。
その都度礼金とかで結構な収入になるし。
>>570 華族制度の話なんだから、爵位に反映された家格の基準の話だろ?
まあ、石高と言っても幕府の基準とは別だけど。
そもそも同じ基準じゃないのがおかしいってことじゃないの
公家を大名と同じく「現米○万石以上」でくくったら、全員が子爵になるな。
574 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 10:18:25.23
大名を公家と同じく官位でくくったらほとんどが華族になれないな
>>574 爵位よりも華族制度開始の方が先なんで、諸侯も公家も、華族にはすでになっている。
官や石高でわけたのは華族の序列づけの時点だよ。
576 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 10:24:31.37
577 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 12:25:50.18
華族の話は近代史板に別スレ立てやがれ
580 :
忍法帖【Lv=13,xxxPT】 :2012/01/22(日) 16:27:57.36
まあそうだな
>>563 蔵米取りなら最下級武士並みの生活だろうから下女がいればいいほうでは?
参内もそうないだろうし、草履とりや挟箱持ちなどは必要に応じてレンタル。
五摂家当主は乗輿で行列を組んで参内。
内覧って、菅原道真以外は、摂関家(家確立以前も含めて)だったようだけど、
平安貴族の大好きな醍醐天皇時代の先例があるんだから、
閑院流、村上源氏、足利義満あたりに内覧になろうって動きとかなかったの?
清盛以下平家一門はは公卿にはなっても、公家になる気がなかったようだから、
そんなこと考えもしなかったんだろうけど。
公家っていつ頃から、自分たちは虚位、虚官で、おひな様ごっこしてるだけの存在だって
気づいたんだろうか?
584 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:15:37.63
>>565>>583で当たり前のように虚位だの虚官だのという言葉を使ってる馬鹿は何なんだ
そんな前提は誰も共有してないよ
大納言は大納言
三位は三位
権力や財力がないだけでこれらの格式が無になると思い込んでるのかな
摂関期あたりの公卿は、単なる格式ではなく、議定官としての実態が
あったし、公卿達にそっぽを向かれれば天皇ですら身動きが取れな
くなった。
宰相にだって、なれるのはごく限られた者だけだし、そこから中納言
以上に昇進するのは至難のことだった。で、就任すればそれなりの
期間勤めるのが当たり前だった。
少なくとも、
>>562が語っている江戸期の公家の官には、官として勤め
る実態がなく、単に家格・格式の表象として官名を使うだけの状態で
あり、「虚官」としか言いようがないね。
586 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:38:36.37
格式そのものが虚栄という主張ならまだわからないでもないかな(笑)。
というかそんなことはみんなわかりきってるわけだし、虚位虚官という言葉で何を言いたいのかよくわからない。
前近代の公家や武家は(というか現代人もだけど)いわば虚栄を張ることに血道を上げていたわけだから、
シニカルに虚位虚官という言い方で切り捨てても仕方ない。
あと大臣納言参議あたりの官職なんかは時代が下ればむしろ格式とか座次とかの「偉さ」の指標となっていくものだから、
実権がないとか権益がないとかいうことを指摘しても意味がないわけだし。
いくらボンクラな公家でも、戦国期には、さすがに虚位、虚官に気づくだろう。
食えなくなって、京の町衆から、米や味噌をめぐんでもらうまで落ちぶれたら、骨身に沁みると思う。
この時代、地方大名に高位高官を乱発しているし、もはや家元の免状ぐらいの価値か。
娘をかつては遥か格下だった大名に売ってるし、没落は痛感してるだろう。
589 :
586:2012/01/22(日) 21:45:04.71
ごめん更新しなかったから
>>585を読まずにレスした。
どちらにせよ例えば大岡越前守に国司としての活動実態がないことを改めて指摘されてるような印象しかない。
で?っていう
王様は裸だ!と叫んでみたいだけのガキか
>>586 おおもとは、
>>562だよ?「公家の方が官位が高かったんだから〜」という
事を語っていたから出てきた話だ。
経済力が家格と相関関係があるんなら岩崎や三井は公爵か侯爵だなww
593 :
586:2012/01/22(日) 21:52:01.97
>>591 ん?公家の方が官位が高かったから何?
わかりきった話で不思議でも何でもないけど。
それとも武家の方が偉いことにでもしたいの?
爵位がらみの話はともかくとして、江戸時代の公家官位は実際のところどの程度
機能していたんだろうね。公文書の類の序列や儀式の座次には影響するだろう
し、低い官で終わると家格自体が低下するというようなことはあったんだろうが。
「幕末の宮廷」にある、非蔵人口でのいやがらせの話などを読むと、「平堂上」
でひとくくりのようにしか見えないけど。
>>593 爵位の基準というスレ違いの話だったとはいえ、一応流れくらい読んでから書けば?
一々上げながら見当違いのかみつき方をする前にね。
非蔵人口での事例はそんなに一般化できるものなのかな?
それを言うなら非蔵人たちこそ屁のような扱いをされているわけだし。
>>596 さすがに本人に対しての無礼ではないが、「主人に言いつけてもどうせ何も
できないだろう」ということで平堂上の家来が舐められていたという話だから、
考えてみれば官位の話という事ではないね。失礼。
599 :
586:2012/01/22(日) 23:01:03.41
>>595 >>562は官位を基準にすれば堂上と大名とが同じ爵位っておかしいねという程度の話でしょ?
共感するかどうかは別として言っていることは理解できるよ。
虚位虚官と言うが実際に家格の指標として機能していたんだからそれだけで十分だし、
爵位というのはまさに家格の話なんだからそこで官位を無闇に否定する意味はない。
虚位虚官という言葉で奈良平安期と比べて江戸期の公家の官位が有名無実であることを批判しているつもりなのかも知れないが、
官位の歴史はむしろ官位制度の崩壊と意味の変容の歴史であって、そんな批判は的外れとしか言いようがない。
そして
>>565で武家官位の方が奈良平安期の重みを残してるとかトンチキなことを言っているわけだけど、
武家官位こそは純粋に官位の格付け機能を抽出した虚位虚官なのだから、
そこに奈良平安期の名残を見たり、公家の官位の空虚さと比べて称揚するものとしてはまったく不適当。
そもそも江戸期と比べて「実」を伴っていることに着目して奈良平安期の官位をもってきたであろうはずなのに、
その「重み」とやらを引き合いにして武家官位を云々するに至っては我田引水もここに極まれり。
それに公家は江戸時代でも官位に応じた公事などを細々と務めているが、武家はそんなことにまったく関わらないわけだから、言っていることがいちいちマヌケすぎる。
>>565の「そもそも虚官で無意味だから公家には乱発してやっていた」という認識も意味不明。
ここだけでもツッコミどころがいくつもあってうんざりする。
首尾一貫しない主張や議論によってわかるのは、公家を貶めて武家を持ち上げたいというどうでもいい意図だけ。
人に見当違いのかみつきとか言う前にまず自分の見当違いっぷりを恥じた方がいいよ。
というか馬鹿にされていることくらい早々に気づいてほしい。
全然関係ないけど単なる思い入れで歴史上の物事の優劣やら真贋やらを語り始める奴は本当に困るよな
俺も「公家侍なんて本当の侍じゃない!武士こそ本当の侍だ!」という奴に遭遇して頭を抱えたことがある
「武士じゃない侍もいるし侍じゃない武士もいる」と言ったらもう大発狂
「侍」と「武士」(あと「武者」)は完全に意味の重なりあう概念だと思い込んでいて説明しても理解してくれなかった
仮にも学問板なんだからこういうのは勘弁してほしい
武家官位は徳川の方の都合で意図的に押さえた感もある。
献金さえくれれば、小大名でも四位、国持ちクラスなら参議程度は、
あまり難しいことは言わずに出したでしょ。
戦国期の例から言って天皇は内心忸怩たるものがあるだろうけど、
背に腹は代えられないってやつで。
廷臣も食っていかなきゃならないしね。
602 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 23:49:42.47
やたら高い官位の旗本と、その旗本より低い大名が相対した時、やっぱ大名の方がへーこらするの?
御三家の行列は制止声をかけて下座させていたが、相手の身分で
三家側の応対が決まっていたらしい。
相手が四位以上では三家も下乗、万石以上では足を出し、目見得
以上には手を出して会釈することになっていたとか。
だから、四位の高家などの場合にはお互いに面倒を避けるため、
知らん顔で通り過ぎたとか。
>>603 籠から足ですか?
同じ部屋で話をする場合、官位の高い方が偉そうな口調で話すのかなって思ってたけど、よく考えたら自分の家来でもない人には、それなりの丁寧語を話すんだろうなと思った
津山藩松平家(秀康の子孫)は、わざと御三家の籠とすれ違ったそうな。
>>604 土佐とか薩摩の身分差別の厳しさはよく言われるけど、実際は他の家中も同様で、
上級の武士(中小姓とか馬廻とか呼称や区切りは家によって違う)と下級武士・奉公人とははっきり差別されたそうです。
服装(袴OKとか、下駄OKとか)や路上であったら草履脱いで土下座するとか、同じ部屋では応対しないなど。
格好から違うから面識がなくても身分はわかる。
一番規制が厳しいのは下級武士が上級武士と接する場合で、奉公人は以外とアバウト。多分武士じゃないからでしょう。
で、逆にそれぞれの階層内では比較的平等な立場でお互いに呼び合うべきなんて規定がある。
なぜか同じ上級武士間でも家老だけは別扱い。
幕府でも老中だけ、ちょっと変わりますよね。
だから、大名同士とか旗本と話したりする場合は、官位によらずあまり規制は厳しくなかったのでは。
身分の上下の話だと土方縫殿助みたいな存在は興味深いな。
将軍にまで名前を知られて信任を置かれるエピソードがあるけど
水野忠成が老中になった頃には大名とも対等に話しができたんじゃないかね?
この人に限らず、権勢家の江戸家老なんてひんぱんにやってくる大名の対応をしなきゃならんわけで。
従五位諸大夫の禁裏附の部屋に呼び出しを受けて自ら赴く
権大納言の武家伝奏・・・。カワイソス・・・。
官位の重みって面では江戸時代は確かに軽くはなってる。
雑任以下の衛士や駕輿丁でも任官し、叙位されることもあったんだから。
虚官って意味では、極端に言うと官史と外記、あとは医師くらいじゃないのか
虚官じゃないのは?
虚位の方は、位階の本質が人を序列付けするものである以上、
序列としての意味合いを失わない以上虚位ではあり得ないのではないか?
ここの位階の重みが低下することはあっても。
極論だと、堂上は軒並み従一位、地下が正二位、庭の草むしりが従二位、
なんて状況になっても序列があれば実位と言いうるような気も。
>604
手や足を出すというのは、一応降りる素振りを見せると
いう事らしい。
>>609 まあ官位相当だけが位階の重みを示す訳ではないからね
でもそうすると明治以降の位階も虚位ではないってことになるのかな?
それはそれで違和感あるけど
612 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 20:18:25.95
家柄官位なんぞ無意味なものだ
無意味な虚飾から逃れられないのが人間。
例外はいるけどね。
江戸時代、衛士は数名だが筆頭の家(血統はしばしば変わる)のみ、
当主と出仕済みの嫡男が国掾に任官。
最初は無位だったようだが、七位の叙位が復活すると七位。
他に国目に任官した者が少なくとも一人はいる。無位らしい。
精勤かなにか特別な功績が有っての例外なのだとは思うが、
特に明記はされていないようだ。
駕輿丁は、少なくとも二人国目に任官有り。これも無位の模様。
先例としないとされており、その時点では特例だったのだろう。
ただし幕末最終期に、全員が従八位下国目となったと「幕末の休廷」に有り。
この辺が江戸時代に叙位任官があり得た下限なのだろう。
615 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 02:31:26.96
公家は義満以降政治的実権は無いに等しくなったが
辛うじて家格を維持するだけの経済力はあった(幕府の後援もあって)
一番困窮したのは戦国期(衣食住すらままならない状態)
江戸時代になって身分秩序を重視する幕府の政策のおかげで安定を見出した
616 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 06:04:47.65
周知のことをドヤ顔で語る馬鹿
六位以下の贈位ってあまりないのかな?
確か六国史に遭難死した遣外使節への贈位が少なくとも一例はあったと思うけど、
他にも有ったんだろうか?
六位以下の場合は子の蔭位にも繋がらないし、名誉以外はなにもなし?
619 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:21:45.52
ウィキ見てたら、
島田 正辰(しまだ まさたつ、? - 文久2年7月20日(1862年8月15日))は、
江戸時代末期の地下官人。幕末期の九条家青侍。
位階・官職は従六位下左近衛権大尉。
官職から島田左近(しまだ さこん)の通称で知られる。
とか書いてあったけど、左近衛権大尉ってなんだ?
左近将監か左近将曹なのか?左兵衛権大尉くらい?
それとも従六位下の方はともかくとして、官名はただの名乗りなのか?
なぜ、古代日本律令国家は、爵位制度を取り入れなかったのか?
淳仁天皇が廃位後に淡路公とかの他は、
藤原氏(時の)嫡流に対する贈位の公くらい?
初期以外は生前太政大臣で出家しなかった人限定だっけ?
氏姓制度があるじゃないか
国司の目ってどこからとったんだろう?
守は地方長官の太守からだろうし、介は次官の通例で単に助ける意味の漢文、
掾は地方の属官(課長クラス?)等によく使われていた文字。
けど目は、中国にも朝鮮にも官名としては先例がないようだ。
後の時代になると中国は下級の属官に使われているけど。
同じ主典でも、録は、おそらく録事からだろうし、
属・令史はそのものずばりが属官にある。
さて、どういう意味合いで?
624 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 09:21:45.38
幕末の宮廷によると九条家には侍の島田が二軒あって
暗殺された方は源氏(下橋は「九条家の侍島田左兵衛権大尉元左近」と呼んでる)
もうひとつは橘氏で諸大夫に進める
同時代の完全に同じ身分階層(摂家侍)の人間の証言だから信頼できるかな?
「左近衛権大尉」は創作とかじゃなくて単に馬鹿が間違えたんじゃないか
橘氏の方の人はウェブ上の地下家伝に出てた。九条家侍。
天保5年従六位下、同日左兵衛権大尉、同12年従六位上、
弘化5年正六位下と昇進してるので、
その後明治までに、諸大夫に転じ、陸奥守に任官したんだろうな。
ただこの人、寛政9年生まれなのに、父正就の没年が同3年となってる。
どういうことだろう?単なる間違いか?孫か他人で死後養子?
暗殺された人は、最初無官で左近と名乗り、後に左兵衛権大尉任官ってことかな?
同姓のよしみか、橘氏の人の転官後の交代かも?
関東郡代・伊那忠順さまて 贈従五位下でよろし?なして堂上格に御成りもたかのぅ⁉
南都寺侍、樂人の一種らしいけど、
この内の玉手氏は、なぜか江戸時代後半でも叙位がないようだ。
歴代任官はされてるんだけどね。
前半だと、七位相当と見なされてるらしい人は叙位はないんだけど、
後半になると七位の叙位が復活し、その人達も七位に叙されている。
八位相当と見なされていたのか、なにか事情があったのか?
628 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:14:20.93
帯刀→滝口→下北面ないし武者所って経歴はあり得た?
なんかやってることは似ているもみいだし、
出身階層も似たような感じみたいだし、
仕える主人が東宮→天子→院って変遷に従ってとかあり得たのかな?
日本歴史大事典では、在位時の滝口のうち上臈3人を除いた者が、院武者所
で引き続き奉仕するのが初期の例だったとなっているね。
なるほど、滝口と武者所は少なくとも当初の意図としては継続性があったんだ。
まあ、任務上本来はその方が自然だよね。
たれか掌侍と尚侍の准位階のちがいと家格を教へてたも
633 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 23:50:47.29
掌侍と典侍のことかな?
それだったら前スレか前々スレで誰かが公家の家格と一緒にまとめてたような。
ログ速で見つけて「典侍」で検索しなされ。
准位については書いてなかったが、そんなもんはググれば出てきそうなもんだ。
准位とかいう規定が衰退した江戸後期だとそれとは別に典侍は五位〜四位(大典侍は四位〜三位)、
掌侍は無位または五位(勾当内侍は稀に四位)、
命婦は無位または六位〜五位、女蔵人や御差は無位といったところみたいだ。
清少納言がじつは内侍だたといふ噂→定子と立場が微妙になるから
(共存的ライバル関係)原典読み直したもれ、わかうどら
12世紀だったかの常陸の在庁官人が連名で作った文書。
掾・中座・書生・史生……って序列のようだけど、
書生は本来史生より下役だったと思うんだけどどこで逆転したんだろう?
なまじ定員に入っている史生より地位を動かし安かったってことかな?
あと中座は目の後身ないし、目相当と見て良いのかなあ。
仲麻呂政権下で、衛府が○○衛って改称されたとき、
総称としては衛府のままだったのかな?
「右大臣と左大臣はどちらが上なのか」
なんてスレが立ってた。
世も末だ。
右大臣が関白かもしれない。
大河では変に古式に正確にするから明治以降の習慣とは
違うことが多くてよく質問がくるらしい。
席次の左右もそう。
現代風にしました、という回答の時は意外と
間違ってヤバ、というのかもしれないな。
問題はそれが正しいとガッコのセンセとかが
思ってしまうことか。
小早川則平が、朝鮮と貿易する際に九州総守とか九州巡撫使とか名乗ったそうだけど、
これはいったいなんなんだ?
別に探題とか大宰大弐とかでもないんだろう。
美作太守とか作州前刺史ってのは、美作守?
日本の官職で左右があるのは、明確に左が上か、官制上は対等でも左が格上なケースがほとんど。
なのになぜ、左遷と言う言葉がそのまま生きているのか。
この言葉ができたと時の中国では右が上なのは知っているけど、
やっぱり疑問。
中国は時代によって左右どちらが上か変わることがあるんだよね。
モンゴルは右が上だったらしく、元は右が上だけど。
清は左が上だな。これは満州族本来なのか、単に前王朝の明のまねか?
なんてのは板違いだけどね。
>>637 正二位右大臣と従二位左大臣
というレアケースでも考えているのか?
それよりは、
正二位左大臣
従一位右大臣
の方がありそうだな。年老の右大臣と新進気鋭の名門若手の左大臣。
644 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:23:30.73
>>642 官位におけるレアケースというと、具体的にはどういうのがあるの?
(遣唐使船の官位とかそいうい特殊例は除く)
645 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:46:44.86
生前正一位とか?
親王任国の介って、実質長官で他国の守と同等とされ、
実際に他国の守と同様の経歴・資格の人物が任用されたようだけど、
相当位は前のままなのかな?
647 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:06:41.53
648 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:33:53.74
>>641 左遷の左は、別な意味に由来するんじゃないかな。
昔、中国で劉邦を中央の官職から外し地図の左側に位置する地方へ降格させた
ことに由来するんじゃなかったっけ?>左遷
少なくとも漢初は右が上で、右丞相>左丞相。
同じ頃の匈奴は左が上、左賢王>右賢王。
三国時代になると左が上になっているらしい。
どのころに変わったのかよくわからない。
もしかすると移住してきた匈奴の影響があるのかも?
それ以後唐・宋まで右が上。
元は右が上で、明も当初は右が上、後に左が上に改める。
日本で大臣を左右に分けたときは、左が上が常識の時代だから、
左が上になったんだろうな。
左遷は漢の時代の言葉らしいね。
>>648 昔はぜんぶ縦書きだったので、何かを列記するときに普通は上位から
書き始めるんだけど、そうすると順位が上のものほど右にある。
だから「〇〇の右に出る者はいない」とか「最右翼」なんて言葉があるわけ。
ほほぉ、というと、左遷、なんてのは順位を下げる、という意味か。
なるほど。
×それ以後唐・宋まで右が上
○それ以後唐・宋まで左が上
654 :
日本@名無史さん:2012/02/10(金) 20:46:06.64
左大臣右大臣スレでやれ
何で大臣ふたりも必要なの?
どうせ右大臣は左大臣のいうこと聞かなきゃなんないんでしょ。
担当がちがうの?
公式には担当も権限も同じ、と言うか右大臣の職掌は左大臣同様とか書いてある。
職務上は必要ないわけで、一人の方が良いに決まってる。
トップが複数居る場合は、一人の臣下に権力・権限が集中しすぎるのを嫌ってか、
さもなくば人物本位で、甲乙つけがたいのが二人以上居るからかのどちらかの
場合が多い。
皇帝独裁(少なくとも建前上は)の中国では宰相ないし宰相相当は、
制度上複数なのが常態。
欠員補充しない皇帝の下で宰相が一人になったこともあるけど。
>>656 大化の改新の時に、大臣を左大臣と右大臣の二つに分けたとも書いてあるね。
>>655 それを言い出したら、弁官、衛府も左右あるが。
弁官は一応は左右で分担が別れている。八省を四つずつ分掌。
まあ、中国のまねで実態に合わなかったのかそのうち一体化するけど。
衛府の場合は反乱を警戒してなるべく分割しておきたかったんだろう。
単に中国のまねの可能性もあるけど。
関係ないけど、大臣と卿・伯は権官・員外官がないな。
他は大概あるんだけど。
内大臣を数の外の大臣とは言うらしいから、あえて言えばこれが員外大臣か。
左右近衛大将は権官は居ないけど、前身の時に権大将の例があるらしい。
660 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 15:31:55.15
内大臣ってのは日本の国情にマッチしただろうね。
幕末の欧米人には、同じ職掌の大臣が2人いることが奇妙に見えたらしい
多数決では決まらない、話し合いで決めるため
と井沢になってみる。
663 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:17:49.71
>>656 > トップが複数居る場合は、一人の臣下に権力・権限が集中しすぎるのを嫌ってか、
これがもっとも大きいが、医学水準が低かった時代だと要人でも藤原四兄弟みたいに急死するケースがあるから
要人の突然死にも備えたのだと思う。
ローマだって執政官は二人だし、その下もほぼ全部複数同僚制。
帝政になってからも、近衛隊長は2人制。
古典の知識が足らないやつが不思議に思ったんじゃないの。
665 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 18:58:24.58
>>664 > 帝政になってからも、近衛隊長は2人制。
これは歩兵担当と騎兵担当ではなかったか?
左大臣:総理
右大臣:副総理
内大臣:官房長官
納言・参議:その他閣僚
とすれば、一応の「イメージ」がつかめるかも。
>>667 形式上の国権の最高官は衆議院議長だから、
太政大臣はそのイメージじゃね?
名誉職だし。
>形式上の国権の最高官
三権の長は対等じゃなかったっけ?それこそ形式上は。
あと衆議院と参議院も。
てか衆議院のが効力上でも上院は参議院だし。
というわけで最高官は
最高裁判所長官、参議院議長、衆議院議長、内閣総理大臣の4人?
帝国憲法下だとどうなるんだ?
そもそも「最高官」って概念厳密な定義あるのかしらん?
>>666 左大臣と右大臣には、総理と副総理のような明確な権限、地位の差はない。内大臣、大納言が副総理だろうね。
あと、官房長官に該当するのは、職掌としては、少納言か蔵人頭だろうね。
太政大臣は最初の想定から名誉職だったのかどうか?
シンガポールの上級相みたいなものかも?よくわからない。
不比等を太政大臣に任じようとしたには、棚上げの意味あり?
だから断ったのだろうか?
仲麻呂の太師(太政大臣)は名誉職のつもりなんか全然ないだろうし。
道鏡の太政大臣禅師はどうかなあ?
良房の場合は、いくばくかは名誉職のつもりありか?
少なくとも本人はそう受け取っていたような節もあり。
なんやかやいろいろ経緯があって、名誉職に落ち着いたってところ?
672 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 12:43:29.09
>>671 「左右大臣の後見人」みたいな感じだった人もいるなあ。
これは本人の能力や性格や健康状態にもよるんだろうが。
>>664 そういう知識があればなおさら時代遅れの制度に見えただろう
総理と比較するからイメージが掴みにくいような気もする。
令制下の大臣はあくまで臣下のトップで、国のトップじゃないからね。
天皇を知事にたとえると、大臣は副知事みたいなものでは?
左大臣は筆頭副知事で右大臣次席副知事。太政大臣は県政顧問とか。
議会のことは考慮しないことにして。
そう言えば琉球王国の三司官って明確な序列とか有るのかな?
一応分担は有ったらしいね。分掌とまで言えるかどうかわからないけど。
現実にはなにがしか序列ができてくるんだろうけど、制度と言わないまでも、
半公式なものとか有ったのかな?
675 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:06:58.87
総理大臣も国のトップではないですよ
676 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:13:22.03
太政大臣・・・上院議長=参議院議長
左大臣・・・下院議長=衆議員議長
関白右大臣・・・首相=内閣総理大臣
と言ったところかと
677 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:15:04.16
すまん訂正
太政大臣・・・上院議長=参議院議長
左大臣・・・下院議長=衆議院議長
関白右大臣・・・首相=内閣総理大臣
それよりも権官の方が気になる。
正官がいるときに権官の役割は?だって正官の下にはすけとかさかんとかいるわけだから
権官はいらんのじゃない?
>>678 室町時代あたりから、大納言、中納言は、権官ばかりで、正官の補任がないそうだが。
680 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 19:36:16.42
権官は元々は官職の定員に対して資格者が多かったことに対する救済措置
後には摂関家など限られた人が正官に就き、それ以外の人は権官に就くようになった。
(ただし、権官から正官に転じる場合もある)
その後、上記にもあるように摂関家も権官しか就かなくなって、正官は任命しないのが先例化した。
681 :
678:2012/02/12(日) 20:55:17.96
ありがとう
なるほどねー、
平安時代の中期とか正権同時に任官するのをよくみるから
(たとえば居貞親王立坊の時の春宮大夫朝光と春宮権大夫公季とか)
意味ないんじゃないかと思ったんだ。
>>677 征夷大将軍はやはり防衛相なのか・・・。田中・・・やだ、あんなの!
>>682 征夷大将軍は
東日本大震災の統合任務部隊司令官のようなものでは。
防衛相はあくまで、参議兼兵部卿では
684 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 23:39:37.31
古代の官職を安易に現代の役職に比定するのは馬鹿やること
連休だから馬鹿が集まっちゃったのかな
春宮権大夫とか中宮権大夫は、実質次官ないし准長官だったりするけどね。
結構実務に関与してるみたいで、まんざら名目的ってことでもないらしい。
大夫の本官や政治的地位によってはほとんど実務に関わらず、
権大夫が実体的には長官役だったりとか。
権官にもいろいろあるから一概には言えないようだ。
権官、臨時代理だったり次席だったり名誉官だったり員数外だったり、
個々の官職によって違うし、時代的変遷もあるし。
正官に対してあきらかに劣るときもあれば、ほとんど同格の時も、
中には権官の方が本官の地位が高いもある。
権守とか権介とかはそう言うときも。
参議の兼任の権守とか、摂関家の子弟の権介とか。
言葉本来の意味としては「臨時代理」なんだけどね。
権官の最低ランクは、国の権史生とか権弩師、郡の主帳、軍団の権毅あたりかな。
軍団の権校尉なんかも見えるらしいけど、これは官の範疇に入らないしな。
近代以後の軍隊で言うと中隊長程度に相当する指揮官?だけど、
制度上は兵士だしねえ。
>>666 総理と副総理じゃだいぶ違うイメージなんで左大臣と右大臣は天地ほどの差があったということですね^^
弁官の権官とかは正官6人に対する7人目って感じだし、
権少外記は、少外記の次席って感じで、
これらは事実上定員化されていて、正官同様に職務に当たっている。
実体的には令外官みたいなものなんだろうな。
そういえば東宮というのは今に残る唯一?の職名
なんて週刊誌にあったなぁ。
大河スレで、四〜五位は貴族じゃない、清盛の該当時は
貴族じゃないと言われてるけど一般的にはどうなんでしょう。
東宮大夫と侍従くらいかな?
令制では東宮じゃなく春宮大夫だけど。
けど傅と学士は東宮傅・東宮学士、春宮坊の職員じゃないからなんだろうけどね。
>>691 平安末期では官位じゃなくて家で貴族かどうか判断するからどちらともいえない。
平家は貴族とは言えないだろうねえ・・・
>>690 東宮は令制では東宮職ではなくて春宮坊だし長官は東宮大夫ではなくて春宮大夫。
令制じゃないけど皇太后宮大夫は断続的には置かれ続けてる官職(今は無いけど今上天皇死後に皇后が生きてれば復活するはず)。
令制で残ってる官職といったらそれこそ侍従ぐらいしかないんじゃないか?
貴族の定義が曖昧だからなんとも。
頼朝母の実家の熱田大宮司家が上流貴族だって力説してた人もいたし。
ただ個人的には、四位・五位も貴族じゃないって言うのは、
華族のイメージで貴族を狭くとらえすぎているような気もする。
西洋式の考え方なら、一般庶民と明確に区分される侍層は、
貴族と言っても問題ないと思う。
現に無位であり、六位級の官を得る可能性が低くても、
潜在的にそれを得る権利を保持し続けていたと考えられるようだし。
例の「最下品」も、あくまで支配層の中での最下等ってことでしょう。
そもそも貴族とはなんぞや?
各人が勝手に自分のイメージで語ってる感もあるなあ。
とにかく一般庶民とは区分され優越した階層で、その地位を世襲してる。
なんて程度の定義だと、かなり広い階層が貴族ってことになる。
下手をすると侍どころか郎党のうち上層は含まれるかもしれない。
侍層より若干下位の下級官人層はどうなのか?とか。
共通理解を得るのはなかなか悩ましい問題。
ありがとう、要は定義の問題ですよね。
辞書にも明記されてる、と一般論から三位以上と
主張してるから最近はそうなのかなと思って。
律令の「通貴」も、貴族じゃないことの証明、とかね。
698 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 11:35:15.71
>辞書にも明記されてる、と一般論から三位以上と
>主張してるから最近はそうなのかなと思って。
>律令の「通貴」も、貴族じゃないことの証明、とかね。
君は文章を書くならもうちょっと人に読んでもらうということを意識した方がいい。
主語述語がどうのこうのと言う以前に日本語としておかしいし気持ち悪いし何を言いたいのかわからなくて不快。
官庁名なら、主計局。主税局コンビが、民部省の主計寮と主税寮の名残。
確か明治の一時会計寮(司?)とか租税寮(司)だったこともあるけど。
宮内庁が宮内省に由来は、まあ常識だろうな。
あとは、文部科学省の文部は8世紀後半に文部省の例があるな。
式部省の一時的改名。
そう言えば宮内省式部職は、名称だけは式部省由来。
職務は全く関係ないけどね。
直接的には、式部寮とかが置かれた明治の官制改革から。
うちは幕末まで従五位下だったわ
貴族の定義として、貴とか通貴とかにとらわれるのはどうかなって思いはある。
10世紀くらいまではそれも目安として良いのかもしれないけどさ。
戦国時代に、お金で買える官位ってどの辺りまでだったのでしょう?
703 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 02:09:57.93
大内義隆かな
従二位太宰大弐
宮内庁大膳課も、大膳職の名残だね。
>>703 義隆は頑張ったな。何回かキョヒられても。
707 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 13:46:40.13
図書寮+諸陵寮→宮内庁書陵部
そう言えば森鴎外が図書守(ずしょのかみ)になったって聞いた息子が、
「親父もたいしたもんだ。生きているうちに神になるんだからな」
って言ったって言うのは本当?
709 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 15:12:38.62
>>655 もともとは、大臣に昇進したら、それ以上の昇進がなくて不便、とか、
大臣の体調不良・病気療養で副大臣(代行大臣)が必要になる場合とか、
そういう理由でポストが複数あるだけで、原則として大臣は一人、という運用だったのに、
いつのまにかポストすべて定員いっぱいまで埋めてしまうようになった。
というだけの話のような気がするんだが。奈良時代には、ポストの空席を埋め尽くさなかったはず。
>>695-697 昇殿を許される、「公卿」とか「殿上人」クラスなら貴族だと思うけど、
一個人の成り上がりで地位を世襲できなかった人の場合は貴族と呼べるか微妙、とかそういう感じかね?
四位・五位でも貴族と呼べる人はいるが、四位・五位の多くは貴族の範疇に入らない、感じと思う。
貴族ってさ、制度的に定められて居てさえグレーゾーンが有る場合が多い。
まして古代〜近世の日本では制度的なものじゃない。
後世の人間が貴族と呼んでいるだけ。
つまりは、貴族という言葉は、わたしはこういう意味で使っているという
定義付けをして使うべきなんだよね本来は。
そうじゃないと議論にならない。
研究者でもなければいちいちそんな七面倒くさいことやってられないけどね。
なにせ極論すると人の数だけ貴族の定義があるもんな。
曖昧模糊としたイメージだけで語っている人もいるし、
その都度定義が揺らいでるいる人もいる。
ってことは人の数より多い可能性すら有る。
上級・中級・下級の定義はさらに曖昧。
まあ貴人ではなく族である以上、一代限りのぽっと出は貴族とは言えないかも?
もっとも一代貴族なんて言葉もあるな。主に翻訳用語みたいだが。
確かスペインだったかの有る地方では人口の過半が貴族だったことがあるとか、
たぶん貴族じゃない家は生活苦しくて子供が育たなかったから、
いつの間にかそうなったんだと推測している。
しかし、そこまで行くと貴族が庶民で、平民はそれ以下。
>>710 ですよねぇ。該当スレではその相手の定義つけを
「間違ってる」「三位以上しか貴族とは言わない」と
言ってたからね。
一代貴族というのは、サー、とか継承権のない
個人にのみ与えられる称号、って感じで使われるのかな。
あまり翻訳物読まないから日本の小説等では確かに
聞きなれないですね。
712 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:46:53.36
律令制の建前では「貴」の地位を世襲する「族」などは想定していなかったはず。
「貴」やら「通貴(貴に通ずの義だろう)」やらは官位と連動して個人の地位を表す語と解してよいだろう。
ただ特定の官位を世襲する家格というものが生じてからは三位以上というか公卿を輩出する層、つまり堂上が貴族と言ってよいのでは?
さらに家格が固定化してからは地下三位諸大夫なども現れるが、これらは貴族と言えるかどうか。
ただ武家のうち大名などはほとんどが諸大夫層なので官位と連動する身分としては貴族とは言えず悩ましいところ。
また貴族と庶民という二分法が妥当かどうかという問題もある。
諸大夫や侍は貴族でないにせよ支配階級ではあるだろう(特に武士の場合は)。
例えば英国ではScotish feudal baron、baronet、knight、esquire、yeoman、gentlemanなど非貴族で庶民(commoner)でないという階層があり、ドイツ圏でもHerr、Ritterなどがある。
713 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:12:23.19
承久の変以降は
貴族=支配階級ではないからね。
高い官位の人って、なにか優遇されることがあるんですか?
五位以上はいろいろと優遇措置があるね。蔭位やら屋敷への立ち入り制限やらなんやらと。
>>709 確かに、奈良時代は大臣が一人というのが結構ある。
蘇我氏時代(?)の大臣(おおおみ)一人制の残滓かもしれない
という記述をどこかで見たことがある。
また、乙支の変直後の左大臣、右大臣も実は
みぎの−おおおみ、ひだりの−おおおみ、ではないかという記述も見たことがある
天智朝の蘇我連子は単なる「大臣」だもんね
徳川家康は、秀吉死亡後、菊亭晴季右大臣還任まで、唯一の大臣(内大臣)だったな(左大臣秀次出家・自害、右大臣晴季連座で配流、左右大臣の後任補任なし)。
近いところでは、これが、大臣1名の最後の例かな。
蘇我連子は右大臣とする史料があったと思うが。
720 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 13:30:08.53
大臣と大連は定員が決まっていたという史料はないと思うが。
>>713 >>712の言ってるのは本来の貴族が権力の座から滑り落ちたとかいうことじゃなくて
貴族と庶民の間に中間階級があるんじゃないかとかそういうことだと思うが
行政上の必要性だけで言えば大臣は一人で十分。
8世紀から9世紀初頭くらいまでは、
併置されるのは属人的な必要性からが多い。
実力者を大臣にしたいが長老が居るとか、
甲乙つけがたい実力者が居るとか、
寵臣と実力者を併置したいとかそんな感じ。
それ以後はポスト要求に抗しきれなくなってきて、
併置が当たり前になり、さらには員数外の内大臣も復活。
それでも権大臣とか置かなかったのが最後のけじめか。
准大臣はあくまで待遇だしね。
准・大臣という官職ではなく、大臣に準ずる待遇。
諸大夫層の上の階層を表す用語が難しいんだよね。
中世初期の公達は、家系的な概念らしくて、階層とは一致しないし。
当時公達と呼ばれるのは、忠平子孫と比較的新しい源氏だけらしい。
もっともそのくくりの全員が該当するかどうかは不明らしいけど。
ただ、公卿に縁がなくなって数世代後でも公達と呼ばれることもあるそうだ。
逆にかなりコンスタントに公卿を出していても、
この範疇から外れると公達ではないと。
そうすると、公達以外も含めた公卿輩出階層をなんと呼ぶのか?
そう言う存在を貴族ないし狭義の貴族と呼ぶと言うのなら、
それなり合理性はあると思う。
724 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:03:43.02
近世なら「堂上」という便利な語があるけどね。
職原抄などでは華族・公達・名家・儒中(儒門・儒胤などとも)・諸道輩(医道・陰陽道など)・諸大夫・侍などの言葉が用いられている。
華族(清華・英雄とも)は中世から近世にかけて「清華」や「大臣家」に分かれていくが、閑院流、花山院流、村上源氏中院流などに限定されている。
七清華三大臣家以外には閑院流の洞院家(西園寺分流、今出川本家)、村上源氏の土御門家、堀川家などがかつて存在し、
桓武平氏の六波羅殿や清和源氏の室町殿も清華と考えられる。
官途からすれば清和源氏の鎌倉殿もこの層か。
ちなみに「清華家」という言い回しがあまり見られず、単に「清華」と呼ぶ用例ばかりが見受けられるのは注意に値する。
公達は摂家・華族の傍流・分流で、近世には「羽林家」となるが、羽林家には四条家など諸大夫から昇った流れもある。
名家〜諸大夫は本来同じような階層のようだが、
「名家」は院近臣として院殿上人、内殿上人、さらには公卿となることが多くなり、遂には堂上となる。
儒中・諸道輩・諸大夫などの一部は中世〜近世に段々と堂上に列せられていく。
近世の堂上家のうち「半家」は名家以外のこの層から昇ったものだろう。
摂関政治期〜院政期には諸大夫層の武士でも院昇殿や内昇殿を聴されたものがあり、これらが武士の棟梁と見なされるべき流れだろう。
ちなみにこの時期に昇殿を聴された武士を時期ごとに挙げてみると武門の盛衰を辿れるように見えて興味深い。
結局士族等と呼ばれる存在をどうみるかって問題だな。
支配層の中の下層と見るか、中間層と見るか。
庶民より上の階層中に断層があるのは間違いないけど、
その断層が庶民との断層並みなのか、それよりは意義が小さいと見るか、
そこらは最終的には主観とか感性の問題としか言いようがなく平行線。
議論することによって理解が深まるから議論自体は良いことだけど、
結論は出ないでしょうね。
それと、そう言う用語がないってことは、
当時の人は公卿層を一つの集団としては理解してなかったってことかな?
藩によっては、駿河とか民部とかの律令官制に直接由来する名前は、
家老しか駄目とか、番頭以上のみとかあったみたいだけど、
さすがに普及しすぎの衛門・兵衛なんかは除外?
727 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 15:15:56.03
ここで結論を出すことにあまり意味はない。
所詮2chだし(笑)
貴族の定義や範囲なんかよりも身分や家格の実際を知りたいだけの人がほとんどだろう
ところで概して日本では官位昇進の先途・経路・速度によって家格が決まる。
日本の家格は「ある地位に到達しうる権利」とでもいうべき性格がある。
当然貴族と見なしてもよい層でも名義上(少なくとも途中まで)は高級官僚にすぎない。
例えば摂家といえども振り出しは五位少将。
ヨーロッパで男爵は男爵、公爵は公爵で席次の変更がない(官職についた場合を除く)のとは対照的だ。
個人なのか
家なのか
の違いでしょ
日本は明治になるまでタテマエ上は律令制で、
律令制は本来、一君万民の中国式システムだからね。
日本の場合は科挙も導入されなかったし、古代の豪族が
勢力を交代しながらそのまま貴族として残ってしまった。
本家の中国や、朝鮮ではもっと制度として徹底してたから
名家はあっても国権と結びついた貴族層的なものは育たなかった。
おっと途中でボタン押しちまった。
(続き)
もっとも朝鮮の両班なんかの実態は多分に「貴族」に
近いものがあったし、中国にもそれに似たものはあったが
公的に認められた世襲権力というものは原則なく
「層」としての存在自体が「腐敗」の一端だったことに特徴がある。
>>726 もう室町ぐらいからエモン、ベエは普及しすぎて
意味がなくなってるからねぇ。
百姓さんでもつけるぐらいだから
好きにして、ってとこだったろう。
中山忠光って贈位低いような気がするんだけどどうでしょう?
贈従四位ってことだけど、中山家ということ、維新側の人間だったということ、
長府藩によって殺されたという悲劇、若かった故に普通に生きていれば…等々踏まえても贈三位はないですかね。
733 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 19:13:02.16
俺は仮に堂上・大名という貴族層、地下・士分という中間層、百姓・町人という平民層、
そしてアウトカーストである穢多・非人等という大雑把な分け方でよしとしている。
伏見殿殿上人などのグレーゾーンは当然いるとして。
ところで堂上・大名の家格序列もさることながら、地下・士分(一般武士)層内部の序列がこれまた複雑
(武士だと家中によって制度や規模が違うから家禄などで一括したり一般化しにくい)。
例えば公家社会における侍と士分の違いは何なのだろうか?
官人では初叙六位が侍で初叙七位が(史生等は別として)士分?(すると召使や少納言侍・弁侍や諸司官人などが士分?)
官人にも無位の士分がいるのか?
諸家家臣では雑掌などの無位の士分がいるが、幕末に柳原家他に付属せられた侍は実際は銘々の家臣に六位を賜っただけという。
すると士分と侍の違いは六位か否かにすぎないのか。
官人の六位侍と六位に昇った士分の席次はどうなるのか(就中、侍従六位下と士分従六位上などの場合)。
とかく侍やら士分やらの語は多義的(時代や文脈によって意味が異なる)で気を付けないといろいろ勘違いしかねない。
幕末の宮廷では無位無官でも士分に分類されているようだが、
維新後の身分確定でそうなっただけかもしれず、
江戸時代の身分上取り扱いはどうだろう、と思わなくもない。
もっとも摂家の青侍あたりはやはり士分だと思われるから、
口向けの使番とかは無位無官でも士分ではないだろうか?
少なくとも19世紀になってからはそんなものでは?
幕初のころまではわからないにしてもね。
官位好きの諸君は、やっぱ権門体制論なの?
最近、武家官位とか華族制度の研究が進んでるけど
権門体制論の復権と関係あるのかね
736 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:16:41.08
青侍は諸家六位侍の別称だよ
記憶で書いたのがまずかった。「青士」ね。
幕末期の青士は侍より数段下の身分で、
摂家家臣としては士分の最低ランクに近いらしい。
19世紀半ばの二条家では青士と言う分類はないようだが、
御奏者番とか御奏者番添番とかが相当するのかな?
江戸期の侍は、それはいろいろ経緯が有っての変化で関連はあるんだろうけど、
中世の侍とは一応別物って考えるべきものじゃないかな。
木下さんの武家官位の研究を借りてきてるところだ。
741 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 12:16:28.19
>>734 > 幕末の宮廷では無位無官でも士分に分類されているようだが、
一時期の島津久光だあ
>>741 島津久光は
> 公家社会における侍と士分の違い
とは直接の関係は無かろう?
島津久光は息子が藩主になって薩摩では国父の地位に就いたが、朝廷から見れば
久光はただの無位無官のおっさんだった。
しかし、兵を率いて上京して来たので、門前払いを喰らわせるわけにいかず、それなりに応対した。
江戸時代の武士の場合、士分かどうかの基準を官位に置くと、
遠山の金さんは士分だが、鬼平は士分じゃないと言うことになりかねない。
助さん、角さんも士分じゃなくなるな。
中村主水が士分かどうかは最初から議論があるかもしれないけど。
745 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 19:18:15.27
久光は幕府から見ても松平修理大夫(茂久)厄介島津三郎でしかない。
一家を立ててない以上家老よりも扱いが悪いかも知れない(家老ならその資格で殿中に出入りできる)。
鬼平は布衣だから六位侍格。
堂上家臣の「士分」というのが無位の侍のことだとしたら旗本布衣以下の平士も「士分」?
それとも侍は無位でも侍で、士分はあくまでも士分という下の格なのか。
また武家では主君への拝謁資格の有無(御目見以上・以下)や騎乗資格の有無(騎士・徒士)で身分が大きく分けられるが、
例えば御目見以上が「侍」で以下が「士分」のように対応関係がありうるだろうか。
ただ幕府の軍役令では「騎士」と「侍」というように呼ばれるので混乱する。
中世武士社会だと「侍」と言えば騎乗の士を指すので余計わかりにくい。
足軽の発生により郎党身分のうち騎乗資格のない者が相対的に身分が上昇して「侍」と呼ばれるようになったのか?
日葡辞書では「サムライ」というと「貴人」の義に解せられているというが。
諸藩の場合は、馬廻とか平士とか言う、騎乗の資格があるのから上は、
ほぼ間違いなく士分らしい。
それに準ずるクラス、で中小姓等と呼ばれる存在は、士分だったり、
そうじゃなかったりと言うことらしい。
幕臣の場合、お目見え以上は間違いなく士分なんだろうが、
お目見え以下はどうなんだろう?
お目見え以下の中に士分かそうでないかの境目があるかもしれない。
あるいは徒程度は士分なのかもしれないが、小人とか中間・黒鍬は、
ちょっと士分とは言い難いような。あくまで印象だけど。
抱席の与力や同心はそもそも御家人なのか?って話もあるし。
布衣は本来の侍に相当するクラスかもしれないが、
幕臣の諸大夫・布衣は、家じゃなくて職務に連動するものだよね。
中世以来の身分である侍は、公家についてのみ名残が残ってるところか。
武士の場合は、侍と言う言葉の拡大解釈が戦乱の度に広まって、
とうとう武士=侍にまでって感じか。
武家と公家は序列の基準そのものが全く違うわけだから、
同列に語ること自体がナンセンスだな。
748 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 23:51:04.77
序列の基準そのものが違うというのはその通り。
しかし例えば「武家従四位下侍従は朝廷に出れば官職によって少将の次座になるのではなく、位階によって従四位上殿上人の次座になり、五位少将よりも上座になる」というように、
運用が異なるとしても、同時代の社会制度である以上は相互にある程度の通用性があると想定してもおかしくない。
大名のほとんどが諸大夫身分であり、布衣が六位侍に相当するということは動かないわけだし、
その下にも相当関係があるのではないかと考えてもナンセンスではない。
同列に論じているというよりむしろ同列に論じてもよいかという問題も含んでいるわけだけだし。
それを言い始めたら武家でも家中によって基準が違うんだから比較することはナンセンスということになってしまう。
武家は大臣が2人程度(将軍と世子)
権大納言がMAX2人(尾張、紀伊)
公家に比べて低すぎる
>>749 将軍家世子は、通例権大納言で、大臣の方が珍しい。
うろだが、世子で大臣は、秀忠(将軍宣下の直前)と家慶ぐらいのような。
751 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 13:25:07.61
武家の本来の出自からすればむしろ高すぎるだろ
朝廷と武家の絶妙なバランスだな
武家の中で等差をつけたい徳川側の都合じゃないの。
豊臣の前例があるから、もう少しばらまいても朝廷側も受け入れたと思う。
裏でぶつくさ文句言ったり日記には書くだろうけど。
特に武家官位が員数外になってからは実害ないし。
大名と公家では、経済格差が開き過ぎで、公家が大名を羨む事はあっても、大名側には皆無。
だからこそ名目的に朝廷が保てたわけで、中途半端に権力や財産を持ってたら、諸外国の例のごとく、
王朝は名実共に滅んでただろうな。
幕府は、朝廷を身分秩序の維持のために利用しただけで、将軍家を高位に付け、
他の大名たちには将軍の家来、家人的な官職を与えて、身分差を強調したんだろう。
大名の中で相対的な上下が決まればよいのだから、
官位の絶対的な高下にはさほどこだわらなかったのだろう。
朝廷における徳川将軍の位置付けがよくわからないんだけど、右大臣の下ぐらいですか?
>756
江戸時代は、位よりも家格の方が重要。出来星の大納言風情よりも、拙家嫡男の中将の方が
はるかに偉かった。
将軍家の家格だが、江戸時代初期は、朝廷での待遇は、摂関の上で、上座で天皇と対面形式で座ったらしいから、
形式的には、天皇の父親と同じ扱い。
その後、将軍家が京都の権威を利用する必要がなくなり、京にも上らなくなったが、
仮に御所に行ったとしても、当然、摂関の上の待遇になっただろう。
幕末になり、水戸藩の基地外たちのせいもあり、すっかり落ちぶれて、摂関家レベルになってしまった。
>>757 初期は天皇と対面形式で座っていたなんてびっくりです。
ありがとうございました
759 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 07:51:47.12
他に適当なスレがないせいか、身分・家格総合スレみたいになりつつあるな。
別に構わないけど。
対面形式って何?
秀吉は関白で天皇と同じ高さに座った
のだけど家康はその上位を狙ったということで
やはり秀吉を意識してたようにも感じますね。
家康、秀忠が昇殿した時の席次とかは
どうなってますかね。
豊臣の頃って羽林公卿クラスの大名は任官翌日辞任とか多くね?
公家に迷惑かけるからな
763 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 13:49:48.26
武家清華と言っても前権中納言ばっかりだったな。
ずっと現任だったのは岐阜中納言秀信くらい。
いったんそれをもらったということが重要?で
公家さん自身もすぐに交代する例は多いしね。
院政期くらいから官職には格付け以上の意味はなくなってるからね。
766 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 21:20:23.19
紀州徳川治宝は正二位大納言になれたのに、尾張徳川斉朝が従二位権大納言止まりだったのはなぜですか?
>766
尾張より紀州の方が少し偉いから。
>>766 家督を継いだ年齢や家督以後の経過年数の問題では。
>>766 隠居後だが、治宝は、従一位になっている。
権大納言でしょ?後、従一位になっているね。養子(斉順)を受け入れる
ことへの不満を和らげるため、という話もあったように思うが。
771 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 00:05:31.11
既出ネタ
前々スレ当たりでお手盛りだという話があっただろ
772 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 06:52:53.67
>>767 > 尾張より紀州の方が少し偉いから。
尾張 > 紀伊 > 水戸
だよ。
九男家、十男家、十一男家
774 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 17:27:41.87
尾張 > 紀伊 >>> 水戸
という感じなんだが。
775 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 20:10:14.20
官位昇進の規定では尾張=紀伊>水戸だよ
武家の家格も四品以上は官位によるのだから尾張と紀伊に差はない
1〜2万石の割には、高い官位の大名っていたのかな
>>775 ちなみに、水戸が官位が一番上の場合(同位で最先任の場合も)は、水戸が殿中では最上席だったそうだ。
>776
二万石の従四位下の守山藩松平家
同じく二万石の従四位下の常陸府中藩松平家
元が摂関家だからな。
確か小説家か江戸時代の時代考証やってる人の本で読んだ話。
どの程度信憑性があるのかわからないけど。
義直の母親が、「何でうちの子が兄なのに弟と待遇が変わらないのか」
と家康に泣きついたところ、家康がこういったそうだ。
「武家には庶子の惣領・惣領の庶子と言う言葉がある。
同母の弟が居たから秀康でなく秀忠を跡継ぎにしたのだ。
義直は同母の弟が居ない」
どうも、庶子の惣領とは、庶子中でも同母兄弟中の第一子、
惣領の庶子とは、跡継ぎの同母弟のことらしい。
異母兄弟は究極のところで当てにならないって考えかな?
782 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 00:59:51.27
>>777 どこの席でも四品以上は官位順だから大廊下に特有の話ではないよ
そのときどきの席次でなくて官位昇進の速さとか極官とかを勘案した場合、家格として同格と言ってるだけ
>>778-779 武家官位についての知識が必須の官位スレでそんな半端な書き方しないでくれ
ちゃんと従四位下「侍従」まで書いてくれ
783 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 01:39:38.95
今でも侍従の役職ってあると思うけど、朝廷の侍従と意味合いが全く違うの?
784 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 10:25:02.01
>>776 石高が低い割に官位が高い家と
その逆は知りたいよな。
石高が高い割に官位が低い大名は誰がいるだろ?
785 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 10:26:10.90
>>783 岩倉具視が一時期、孝明天皇の侍従だった。
786 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 12:06:06.36
>>784 戦国大名って、思ったより官位が低いよな
武田晴信の従五位とか
787 :
日本@名無史さん:2012/02/24(金) 21:05:58.94
信玄は正四位下ではなかったか
だから贈位も従三位
>>586 リラックスして、焦らずに
自分のベストを尽くしてくれ
試験終わったら報告よろしく
大内義隆は、従二位兵部卿・太宰大弐・侍従で異例に官位が高かったな。
790 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 10:03:20.29
少弐氏に対抗するために、大金を献金して太宰大弐の官位を購入したのではなかったか?
大宰大弐はまだわからなくもない。
従二位とか兵部卿はただの虚栄心?なにか役に立つとも思えないが。
792 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 13:13:17.47
散々既出
793 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 16:23:46.36
兵部卿は関東管領と同様に、出兵の際の大義名分に有利だったのか?
幕府を憚って大将任命を避けたんだっけ?
( ´∀`)y-~~ んだな、全部女が悪いな全て女のせい
兵部とか刑部に録とか、兵庫属に隼人令史、兵衛志とか弾正疎とか、
その手のほぼ意味を喪失した主典級の官職や七位級位階を、
土豪・郷士・豪農・豪商とかに売ろうって発想は、
なぜ出なかったのだろうか?
江戸末期の下官人はそれに近いようだが。
大金を払ってまでほしいと思わなかったんだろ
そのレベルの人間にとってたいして利用価値があるとも思えない
798 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 15:22:18.67
勝海舟の先祖はカネ払って御家人になったのではなかったか?
>>796 戦国時代で一番金に困ってた頃でも朝廷のほうから積極的に官位を売り出したことはないよ。
大名や僧相手の取引は全て相手方が望んできた話。
庶民相手に礼銭をせしめるにせよ、相手が望んでこなければ売りようがない。
戦国時代は豪農や豪商って言っても江戸時代のように巨大な資産持ってたわけじゃないし。
官位もらっても公称できないだろうし。
神社が正一位になる条件はなんですか?
>>798 身分を金で買うのと肩書きを金で買うのとでは全然意味が違うだろうが
802 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 06:27:32.19
ドシロウトで悪いけど官位ってのは誰が決めて誰の発行になるの?
文書みたいなのはあるの?
年に二回の叙目とはいうけど、それとは関係無しでの昇進みたいなのも
ある感じだしそういうときはどうしてるのかなって。
804 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 19:31:59.95
司馬「国盗り物語」に
「織田信秀は朝廷に献金して上総介の官位を手に入れた。
信長はその上総介を相続していた」
と書いてあったが、官位は自動的に相続できたの?
できません。
3幕府の征夷大将軍すら、一応は任官されないといけないくらいで。
分裂前の摂関家も、自動的には摂政・関白に任命されないしね。
>>786 だって地方領主に従三位とかいらないじゃんよ。
太政官でなんかやるわけじゃないのだからさ。
>>806 だよな。
室町時代に武士が地方官じゃない官職を持つのは、
京都で活動する武士だけ、幕府の奉行衆・奉公衆とか、それに準ずる役割の武士だけだよな。
守護大名の家臣(幕臣じゃなく陪臣だな)でも、幕府内で役割を果たす例は多いから、「準ずる」の範囲は広いんだけど。
戦国時代に入ると状況が変わりだしたとはいえ、地方の大名が高位高官につくのは異例。
>>804 本来なら上司を経由して官位を得なくてはならないのに、
信秀は守護(斯波氏)も幕府も飛ばして朝廷と直接交渉したんだよな。たぶん。
これって、守護の家臣じゃない独立の大名であると宣言するようなもんだと思う。
信長だって本当は朝廷から官職を得ていたと思うんだけど、最初のうちは自称してただけなのも事実。
しかし。信秀は上総介じゃなくて備後守じゃなかったか。あと、弾正忠。
戦国時代になると国人領主はもとよりその家臣である郷主クラス風情でも
いっちょまえに受領や官途を自称(もしくは主君より名乗りを許可)するから笑ける。
809 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 19:45:37.68
>>807 > 信秀は守護(斯波氏)も幕府も飛ばして朝廷と直接交渉したんだよな。たぶん。
そうらしい。
> しかし。信秀は上総介じゃなくて備後守じゃなかったか。あと、弾正忠。
司馬さんの勘違いなのか創作なのかわからん。
810 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 20:23:57.83
わざとボケているのか分からないけど
織田信秀が正式に得た官途は三河守
備後守や弾正忠は世襲(自官)
811 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 20:37:22.80
戦国期の守護大名は、自分の国の何々守も兼任してたのかな
>>811 江戸時代と同じ感じ。
自分の国の守だった人もいれば、全然違う国の受領だったりもする。
守護大名は結構複数国の守護やってる人が多いから受領は割と少なめで
諸大夫の人が多い。
>>812 ありがとう
地方の職名より、中央の職名の方が有り難かったかも。
814 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 06:47:29.29
先日までの流れと比べるとレベルが一気に下がったな
815 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 11:27:41.40
春休みになってただの歴史ゲームファンが官位に興味を持ち出したんだろうな
受験終わった高校生じゃないの
なるほどそういうことか。
奈良時代から明治元年までの間、公家で三位の大納言に任ぜられた例ってあったのだろうか?
間違えた・・・
大納言じゃなくて、三位の大臣(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣)の例があったのだろうか?
菅原道真、源光(道真の後任)は、正三位右大臣
公家ではないが、織田信長が正三位内大臣
藤原忠平(小一条太政大臣)も、正三位で源光の後任の右大臣になっているね。
島左近の左近って官名なんですか?
内大臣(含む内臣)なら、結構例がありそう
源能有(文徳天皇の第一皇子・文徳源氏)も正三位で右大臣。
藤原基経は、なんと正三位摂政右大臣、昔の正三位は偉かったんだな。
827 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 23:28:09.40
正三位内大臣ならちょくちょく見かけたことがある
室町将軍だと官に比して位が低くて
正五位下中将→従四位下参議→従三位大納言という例がある
828 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 23:29:58.86
正二位太政大臣という例もある
829 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 01:10:22.77
三位以上は、なんで上下がないの?
830 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 08:19:14.06
じゃあなんで四位以下は上下があるの?
道真の政敵藤原時平は、正三位左大臣
>>830 位階を細かくすることで、(おもに下級官人の)昇進スピードを抑え、
官位インフレを避けようとしたんだろう。
結局官位インフレは起きたけれど。
位階を細分化するのは、頻繁に昇進させられたり、
特進させられたりできるからって考え方もあるらしい。
北宋の官僚制度に関する本でそんなことがあった。
同じ正七品の中に20くらい序列があって、
と言ってもほぼ同格が多くて実質数段階。
平均は五階ずつ昇進だが、三階くらいの時もあり、
七階・一〇階の特進有り。
戦死者は二〇階特進もありとか。
直広壱とか、四八階も有ったときはそう言う考え方が有ったかも。
モデルの中国でできたときは、正従も上下もない一品〜九品の九段階。
北魏で正従・上下が生じたらしい。
一時は一品にも上下、どころか確か上中下があったはず。
つまり9×2×3=54階、これが一番多いはず。
さすがに煩瑣過ぎて、一〜三品は正従だけ、四品以下は正従上下で30階
に減った。
上の方は人数が少ないから、上下区分する意味がさほど無かったんだろう。
後世は三位以上がやたらに多いから、上下分けた方が良さそうだが、
その頃は先例主義だからそんな発想出てこないだろうし。
835 :
830:2012/03/02(金) 14:04:44.25
どうでもいい質問をまぜっかえしただけなんだが
現在勉強中なんだけど、お勧めのテキストが有れば教えてくれませんか?
講談社学術文庫の官職要解と有職故実は読みました。
単純に、極めて高官の人に上下の文字を使うのを憚っただけじゃないの
なるほど。これは明解だ。
正と従は憚らないの?
840 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 13:28:58.52
ただの推測に明解とか馬鹿か
841 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 19:01:40.13
>>836 職原抄
江戸時代でもベストセラーだったらしいし基本はコレ
平凡社の東洋文庫に和歌職原抄っていうのが入っていて
巻末に江戸時代に公刊されたバージョンの職原抄(+職原抄後附)の翻刻が収載されていてリーズナブル
翻刻なのでテクストクリティークがなされているかは不明
誤記などもあるかも
>>841 ありがとう、探してみる。
地元の図書館にあれば良いんだけど。
843 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 13:26:47.62
買わないのかよ
>>843 いや、買うつもり。
手元に持っておきたいし。
ただ、難しすぎるようなら無駄になっちゃうし、
買う前に中身を見ておきたいなと思って。
天平宝字元年睦月…6日、前左大臣…橘諸兄。
遣…紀飯麿、…蘇我豊人ら、監護葬の事、所須官給う。
諸兄大臣、贈従二位 栗隈王の孫、 従4位下 美努王の子なり。
…戊午、従5位下 石津王、賜姓藤原あそみ、為大納言従二位仲麻呂の子。
→右大臣は豊成さま、中納言は従三位永手さま。
このころ皇族支配で平和やたな
嫡流が半家で庶流が羽林家、名家って例があるけど
どうしてですか?
任官系統の違いでは
>>845 天平宝字2年やけど、
大保≡右大臣従二位 兼 中衛大将…恵美あそみ藤原押勝公
…中納言 兼 式部卿神祇伯 蘇我あそみ年足公
で天平宝字4年正月の叙任
多治比広足薨去…中納言、天平勝宝元年文月任官→どなた?
849 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 21:45:03.64
自演バレバレのキチガイ
>>848 避諱の思想…仲麻呂公の祖先顕彰、
藤原氏の地位(官位など)の特殊化(
政治的意図)との関連
851 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 21:40:36.11
ブツブツと一人で…
友達いないんだろうな
初心者ですいません
・摂関に任じられるのが摂関家
・摂関家より遅れて天皇の外戚となり、太政大臣に任じられたことがあるのが清華家
ただし新家の醍醐家と広幡家は左大臣、内大臣までしか任じられたことがない
村上源氏、閑院流、花山院流、正親町源氏、摂関家庶流
・清華家の庶流で少将、中将を経由して公卿になるのが大臣家
右大臣まで任じられたことがある
村上源氏、閑院流
・清華家、大臣家の庶流で少将、中将を経由して公卿になるのが羽林家
基本は大納言までだが内大臣に任じられたこともある
村上源氏、宇多源氏、閑院流、花山院流、中御門流、御子佐流、四条流、水無瀬流
・弁官を経由して公卿になるのが名家
基本は大納言までだが左大臣、内大臣に任じられたこともある
日野流、勧修寺流、桓武平氏
・それ以外を経由して公卿になるのが半家
大納言まで
羽林家≧名家>半家の順で極官が高い家が多いが
大納言を極官とする半家と参議を極官とする羽林家では半家が上?
こういう理解でよろしいでしょうか?
853 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 09:10:59.97
ざっと言っておくと
一応「大臣家」「羽林家」「半家」というのは江戸期に確立した名称で中世以前に適用することはできないと思う
中世までは「大臣家」は「清華」呼ばわりだし(昇進に実質的格差はあるが)
職原抄では「執柄」「清華」「公達」「名家」「諸大夫」「侍」などのカテゴリーで論じられているが
「公達」は摂家や清華の庶流や傍流で概ね後の羽林家に相当するが四条流は「公達」でなく「諸大夫」出身
ということは「羽林家」はその名の通り昇進経路に着目した名称というだけで血筋の良さは二の次という見方もできるかも知れない
「名家」は実務官僚として出世した人たちだが
「羽林家」と「名家」を比較すると実は従一位昇叙・准大臣宣下・大臣転任などの点では「名家」の方が「羽林家」より多い
「羽林家」には上位互換として「清華」や「大臣家」がいるから相対的に昇進のチャンスに恵まれなかったと言えるかもしれない
(「羽林家」最上層は「大臣家」と格式や待遇があまり変わらないが)
対して「名家」は実務官僚としての功績によって昇進のチャンスを得るのに有利だったのかも
「半家」は「諸大夫」のうちの最上層が累代昇殿を聴されたもので
極臈・局務・摂家や清華の諸大夫などという出自を見れば明らか
逆に地下の諸大夫として残った連中も運が良ければ取り立てられたのだろう
出自から言えば「羽林家」>「名家」≧「半家」と言えるだろうがこれらは江戸時代には「平堂上」というほとんど同じカテゴリーで
「羽林家」と「名家」は昇進においては経路以外に差はない
むしろ旧家>新家という格差の方がでかい
あと「清華」は実際は「清華家」と呼ばれることはほとんどなく単に「清華」と呼ばれる(他に「英雄」「華族」など)
「摂家」「大臣家」「羽林家」「名家」「半家」と他のすべてに「家」がつくことによる誤認が広まってしまったように思う
間違いとまでは言わないが
>「羽林家」と「名家」は昇進においては経路以外に差はない
少なくとも最末期は昇進速度はかなり違うようだ。
名家の内の名門は、昇進コース上蔵人を経なければならず、
ポストに限りがあるから順番待ちで五位で長期滞留。
親子そろって正五位とかざら。
蔵人は実務があるから、そんなにすぐに交代はさせられないし。
羽林や半家の一部はその手の制約が無く、位階はすいすい昇進。
まあ蔵人の家は、関門越えた後は急速に昇進するんだけど。
門番や掃除する人でも、御所で勤める人は皆官位を貰ってたんですか?
江戸期で言うとさすがにその辺は無位無官らしい。
奈良時代なら位階はもらえる可能性がある。官職にはたぶん縁遠い。
その後何かのきっかけで昇進すれば話は別だけど。
>>856 ありがとうございます
従八位掃除正 みたいな位がもしかしたらあるのかもと思ってました。
>>855 面白そうなので調べてみた
宮中の屋内掃除は掃部という掃部寮の下級職員が担当
庭掃除は殿部という主殿寮の下級職員が担当
門番は、各役所の担当区域によって、近衛、兵衛、衛士といった兵士たちが担当
だったらしいです。
上の人たちは律令制がきちんと機能していた時期は位階をもらえていたようです
859 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 16:21:29.97
他に適当なスレが無いのでここで質問します
盲人つまり視覚障害者の官位である所謂盲官についての質問です
私自身が視覚障害者なのでこの盲官制度に興味があっていろいろと調べましたが、どうしても不明な点があります
盲官には大きく分けて検校、別当、匂当、座頭の4つに区分されて、更に細かく分かれているとのことですが
実は、有名な検校の経歴を調べても匂当や座頭になった経歴はいろいろと散見されるのですが、別当を歴任した者がいないのです
この別当と言う官位は実際に在った官位なのでしょうか
どうか、お判りの方、お願いもうします
尚、こちら視覚障害者のために誤字、脱字等がありましたらご勘弁願います
どうも別当というのは実質的に検校の一部として扱われていたようですよ。
ですので厳密に言えば別当にあたる官位の人間も大きく検校として括られていたようです。
なのでご指摘のように検校の経歴の中に別当が出てこないのかもしれません。
>>858 ありがとうございます
江戸幕府役職辞典を見たら、御掃除ノ者という記述がありました。
朝廷の官職辞典もあれば見てみたいです
863 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 06:21:51.77
盲官は僧侶の役職をモデルにしているのだと思うが
寺にもよるけど「検校別当」「権別当」などの役職があるから
別当職の中の特定の役が検校なのではないかと思う
盲官の場合は役目は関係なく純粋なランク名だろうけど
ちなみに「検校」の字義は「あらため・かんがふ」だから取り締まりという意味
どこかで読んだうろ覚えの知識ですが。
盲官は数段階飛び越しての昇進が多い。
飛び越さないと一生かかってもとても検校にはなれない仕組みだとか。
推測だけど、匂当、座頭は関門として一度は通っておかないといけない位で、
別当はそうでもなくって飛躍可能だっとかじゃないのかな?
それなら別当に成るメリットが無ければ人情として飛ばすでしょう。
別当は、事実上は別当になるのがやっとの人の地位だったのかも?
制度設計の意図がそうだったかどうかはともかく。
結局は売官だから、所詮は金次第。
朝廷の官職で、公人朝夕人に相当するもの(帝の儀式時の小用のお世話係)はあるのでしょうか?
>>864 推測でよくそこまで語れるねw
別当も検校も通称は検校と呼ばれていたので呼称上は匂当→検校となるけど
実際は
>>860>>863が指摘しているようにじっさいは匂当→(別当)検校→検校という昇格を経ていたということ。
867 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 19:13:09.44
官位の「官」は職業や役職、「位」は身分ってことでいいんですか?
場合によっては身分は高いけど大した役職じゃないケースや
逆に身分は低いけど重大なポストに就いたってケースもあると?
そういう問題が発生しないように官位相当があるんでしょうに・・・
869 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 08:07:49.30
>>865 公人朝夕人は足利・徳川の将軍が御所に参内するときのいわばオマル係で
そもそも天皇は自分のとこのオトウバ(御所ことば)を使うわけだから
同じようなものが天皇のために置かれていたとは考えにくい
ただ天皇のトイレの御用の係としては御差(女官)がいる
玉体を紙で拭き拭きお清め申し上げるのか
お口で綺麗にするのかよく知らんけど
>>867、
>>868 巧く説明できないけど、職業、役職、身分とと官職・位階を同じ次元で比較するのは変。
それはそれとして、位階は高いけどたいした役職に就いてないって例はままある。
密告とか金を見つけたとかで、一気に三位・四位に昇進したけど。
いきなり納言・参議や省卿等が勤まるわけもなく、少なくとも当面は国守程度とか。
もっとも仲麻呂の乱直後はそんな元下級官僚でも、一気に参議になったのもいる。
その辺は、時の権力者のさじ加減次第。家柄がだんだん固まってくるまではだけど。
位階が低くて高い官職ってのはあまり無いらしい。
やっぱポストが足りないからでしょ。
六位以下はわりとあったかもしれないけど、史料が少ないからよくわからない。
>>869 あまり動かなくなった平安中期以降の天皇にはいらないとは思うけど、
鷹狩りとかしてた桓武天皇とか、あちこちさすらった聖武天皇とか、
そのあたりの時代には、なにかそう言う役職はなかったのかな?
今となってはわからないことかもしれないけどね。
872 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 09:46:16.99
千数百年に亘る官位の歴史について「官位相当」なんて建前だけで説明する方が問題がある。
というか馬鹿。
近世では大納言であっても武家伝奏や議奏に就かない限りは御役目がなく重要性の低い地位に甘んじるしかないし、
地下の官務や大外記がいなければ朝廷の運営そのものに支障を来す。
ただ「官(官職)」を職業というのはおかしい。
内閣総理大臣や文部科学事務官は職業ではないだろ。
具体的な一定の権限をパッケージしたものと考えた方がいい。
そして「官」と「職」と「役」はそれぞれ微妙に違う。
無闇に混同して用いるのはやめた方がいい。
それと「位(位階)」は身分でなく地位や席次に関わる。
古代後期から近世の公家社会では公卿を除けば位階が地位の高低を表したが、
身分の高低を表したわけではない(その身分が叙せられる位階の限度というのはあるにしても)。
例えばある人が五位から四位になったとしても身分が上がったとは言わない。
総じて語の使い方が雑すぎるから、特にこういう学問板では気をつけた方がいい。
__
__ / ../) たっぷり稼いだから
/ ../) 三三)/) 晩御飯はいつもより豪華にしました。
三三)/) ∧,,∧ 煮干がこんなに美味しいなんて・・・
三三)/ シクシク (;ω;`) いつになったら。戦終わるの? by:吉田兼見
( つφノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/⌒/⌒/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
. / ⌒ ⌒ \
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二二二二二二二二二二二二ニ二二二二二二二二二二二二l
| |l l | |
|_,,ソ !,|_,ン
874 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 21:58:39.89
>>872 野田総理大臣を説明する場合、下記の通りで大体合ってる?
野田総理大臣
官職…内閣総理大臣
職業…政治家(国会議員)
役職…?内閣総理大臣?
身分…一般人
位階…なし?
不適切なところは添削してほしいです
875 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 12:15:39.22
わかりやすく現代の例を出したんだろうが
初心者が約一名混乱してるだけという悲しい結果に
どうでもいいが「官職と職業は違う」と言われてるんだからまず「職業」から離れろ
あと身分制の存在しない現代の人について身分が云々と言うのは初心者とかいう以前の問題
不適切と言えば不適切すぎて何が不適切なのかもわからないくらい不適切
876 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 17:37:10.47
偉そうに能書きは垂れるが、実のある訂正や提示は示さない
まさに「言うだけ番長」は初心者以下だぞ
現代も皇族と一般国民の違いは厳然とあるから、
野田総理を身分的に「一般国民」と規定するのは
間違いじゃないと思うけど、実際どうなんだろう?
地下人
>>564 >あれ?
>くわばらの語源は菅原道真公の領地の地名だとどこかで聞いたなあ
道真が怨念になって近畿地方を雷で襲撃したとされる件で
道真の領地の和泉国和泉郡桑原郷(兵庫県三田市)・和泉国和泉郡桑原村(大阪府和泉市桑原町)のどちらかが
雷の被害を一切受けなかったことから雷よけ又は災難よけのまじないになった説
あと、仏教の念仏が由来だと言う話も聞いたことがある。
すまん誤爆してた…
881 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 20:08:54.48
官・・・大納言
位・・・正三位
身分・・・清華家
役職・・・関東申次
大納言の官位相当は正三位だけど、従二位の大納言も従三位の大納言もいるとか
摂関家の大納言と半家の大納言では同じ大納言でもだいぶ違うとか
清華家である西園寺家が関東申次という役職を世襲して権力を持ったことがあったりとか
時代によっては、重要な役職に就くことで官位が上がり身分(家格)が上がるとか
いろいろあって難しいけど、きちんと区別しないと余計に難しくなる
ってことでしょ?
浅はかですまんが
884 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:07:16.95
春休みなんだな
政治家でもポストや当選回数、大臣経験、派閥内のポジション
参議院議員、衆議院議員、民間人などいろいろな尺度があるけど、
官位の世界と現代政治の世界では何もかもが違うから、
無理に例えようとすると余計に分かりにくくなるよね。
886 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 02:58:41.69
近世
徳川家斉の例
職 淳和奨学両院別当 源氏長者 征夷大将軍 左馬寮御監
官 太政大臣 左近衛大将
位階 従一位
近代
山縣有朋の例
職 軍事参議官
官 内閣総理大臣 陸軍大将
位階 従一位
勲等 勲一等
功級 功一級
爵位 公爵
学位 なし
887 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 08:31:02.50
山縣有朋は元帥にはならなかったんだっけ?
いわゆる「元老」と言うのはどういう官職扱いなんですか?
正式な官職や役職ではなく、通称みたいなもんですか?
元老の定義ってあるんですか?
よく「天皇の相談役、天皇の側近の実力者」みたいな説明があるけど
近代の話は近代史板に別スレ立てやがれ
>>元老
厳密にはスレ違いなので簡潔に。
形式上の定義は「元勲優遇の勅語」を受けた人ということになるが、
実際上の定義は、内閣制度創設とともに参議から大臣に横滑りした人
(黒田は、厳密に言えば、この定義には当てはまらない。
また、山田はこの定義には該当するので、元老とみなす余地がある)
また、「勅語」は当初、「無役」(≒総理退任時)でなければもらえなかった。
(このため、山田と西郷は勅語をもらう機会が生前にはなく、
大山も大正天皇即位時まで勅語をもらう機会がなかった。)
894 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 22:11:31.99
>>887>>890 途中で人名を書き替えたから間違えたままだった。
>>889 「元老」は法令上は「元勳優遇ノタメ大臣ノ禮遇ヲ賜ハリシ者」などと呼ばれる。
官でも職でもなく待遇。
「元老」というのはマスコミ用語。
>>888 征夷大将軍や左馬寮御監は官でなく職。
895 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 22:18:25.98
ついでに官職位階勲等功級爵位学位等につくときの用語
前近代近代を通じて「官」は「任(ず・ぜらる)」で「職」は「補(す・せらる)」。
但し宣旨(天皇の命令文書の一形式)による補職は単に「宣下(す・せらる)」と言うことが多い。
古代においては任官に重要度に応じた手続きの違いによる「勅任」・「奏任」・「判任」という類別があり、補職にも「判補」というのがあった。
通例「官」は「除目」という手続きにより任ぜられ、「職」は「宣旨」により補せられることが多かったため、「除目官」「宣旨職」とも区別した(時代を下ると「官」も「宣旨」によって「任」ぜられることがある)。
見分け方は官位相当がある(官)かない(職)か。
一般に「令外官」の代表とされる「摂政」「関白」や「蔵人」「検非違使」や「征夷大将軍」は「補」せられるものであり、「官」ではなく「職」。
ちなみに「参議」は「任」でなく「補」であり、本来は「職」なのだが、「官」とあまり変わらない扱いになっている。
ところで「職」は判補を除く殆どの場合「官」を持っている者が「補」せられ、前官でもない無官に対する補職はあまりない。
近代においても「親任」・「勅任」・「奏任」・「判任」の別があった。
近代官吏の類別に親任官・勅任官・奏任官・判任官があるのはこれによる。
さらに勅任官であっても親任官の待遇とされる特別な補職を「親補」と言い、その職を「親補職」という。
ちなみに「元帥」は陸海軍大将が賜る称号であり「官」でも「職」でもない。
「補」「任」を引っ括めて「補任(ブニン)(す・せらる)」ともいう。
中世武家の「職」(守護など)も「補任(す・せらる)」と言った。
「位階」は(近代においては「勲等」「功級」「爵位」も)「叙(す・せらる)」。
さらに近代においては「学位」は「授与(す・せらる)」。
江戸幕府の「御役」は「仰付(おほせつ)(く・けらる)」。
「就く」とかいう言葉を使う人がいるけど「官途に就く」などキャリアを開始する場合や「役に就く」という場合などにしか使わない。
「藩主に就任する」とか言ってる人までいるが、「藩主」は役職でも正式な名称でも同時代的に一般的な呼称でもない。
これは単に「家督を仰付けらる」などと言う。
897 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 09:50:47.86
元老は令外の官でもなかったのか。初めて知ったぞ。
898 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 09:53:00.24
>>893 > また、山田はこの定義には該当するので、元老とみなす余地がある)
理屈ではそうだが、当時も今も山田を元老とみなしている人はごく少数ではないだろうか?
899 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 12:06:02.04
明治以降について令外官と言うことのおかしさに早く気づくべき
官位を貰える時は、具体的に何を貰えるんですか?
紙切れ一枚だけですか?
>>989 山田は、大臣と元老が分離する前に早死にしたから、
元老としては「未熟児(死産)」ということだったのだろう。
四条隆謌は元老?
>官位は陸軍中将正四位勲二等侯爵に昇り、元老院議官・貴族院議員を務める。権大納言四条隆生の三男で、醍醐輝久の孫。
ウィキより
904 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 01:49:44.41
905 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 05:22:17.12
四条隆謌は能力はともかく、気骨はあった。
906 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 05:25:25.85
>>903 まあ山田はもっと長生きしていれば確実に元老になったとは思う。
1868年から?日本近代史化必須。
「元老」に対するレス、ありがとうございました
>>908 荒らしの元凶の分際で、礼なんか書いてんじゃねえよ
>>903 それでも、圧倒的少数説なんたよな。
(山田を事実上の元老とみなすこと自体には反対しないが)
912 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 06:33:06.10
山田があと10年生きていれば、ほぼ確実に元老になったであろうことは否定しない。
俺は 從一位関白太政大臣 になりたい
914 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 04:44:31.94
馬鹿が来た
おまいら〜
馬鹿
おわり〜
916 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 06:43:05.63
江戸時代。
細川家の官位が思ったほどは高くない。やや意外。
>>916 歴代藩主はだいたい従四位下左少将
外様でこれなら妥当だと思うけど…
918 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 19:09:34.68
外様というより国持として妥当と言うべきだろ
国持で少将なら普通だと思うが。
それより上の官位になる大名といえば、
御三家・御三卿
加賀前田家
会津松平
彦根井伊
讃岐松平
伊達・島津
というくらいしか思いつかないのだが。
江戸後期は島津=前田>>伊達?
921 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 22:02:53.47
薩摩は琉球の慶賀使やらを引率してくる御用などがあったから臨時昇進の機会が多かっただけで
家格として加賀に並んだり仙台より上になったわけではない
大藩高格の大名って、領国と国司職名が一致しててカッコイイよね
事実上の国司国主だからね〜。
その大藩藩主と官位官職では同格の高家肝煎はさすが。
何がさすがなの?
ただ徳川が特定の家柄にそういうポジションを与えただけじゃないか。
925 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 23:21:51.86
吉良上野介とか、上野守じゃないから微妙
>>925 親王任国知らんのか?
なぜ、織田上総介か考えたこともないとか?
親王任国も知らん雑魚はすっこんでろよ
信長も最初は間違えて上総守名乗っちゃったって聞いた。
間違えてってか知らんかったんだね
豊臣朝臣家康?源?本当はどっちで将軍宣旨受けたのだろうかね
931 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 04:53:44.64
何だこのレベルの低い流れ
932 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 07:55:18.96
石高の割に官位が低い大名というと誰がいるの?
春休みの厨房を相手にすると糞みたいな流れになるから気を付けようぜ。
岡山池田家は官位が低いと思う
少将にはなれるけどかなり年期がいる
935 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 13:32:02.55
>>934 池田家は幕府から中途半端に警戒されていたんだろうか?
>>934 岡山池田家は国持という意味では、一般的な基準だったと思うが。
考えられるとすれば、部屋住み侍従になるかどうか位だが。
937 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 22:31:38.68
利隆の早世が微妙に影響しているのでは?
鳥取池田家が優遇されてたからな
939 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:30:18.87
三位以上、参議以上が公卿ですが、
位階が三位以上であれば、官職ナシ(無官)いわゆる散位でも「公卿」ですか?
940 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 02:42:31.12
自分でそう言ってるじゃねえか
アホか
941 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 14:00:00.65
岡山家は50歳か侍従30年でようやく少将昇進だからかなり大変だ
黒田家の方が石高の割に低いのでは?
特定の大名について、ぐだぐだ書いても意味ねえだろ
945 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 16:04:37.10
>>943 黒田家は「目薬屋」とか呼ばれて過小評価されていたはず。
946 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 18:53:39.09
>>942 国持ならそれが普通なんだが
頭悪いのか?
947 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:26:50.87
武家官位は安売りし過ぎ
948 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:46:37.34
単なる主観で高いとか低いとか言ってる馬鹿どもは何なんだ?
高かったり低かったりしたからって何なんだ?
949 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 00:55:45.32
>>939 散位(さんに)でも、公卿です。
ただ現任公卿でないので、朝廷(太政官)の議定には参加できません。
ただ、散位でなくても非参議の公卿というのもあります。
この非参議公卿も、同様に太政官の議定に参加できません。
950 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 03:49:55.37
散位の公卿には議定官の前官と非参議がともに含まれる。
非参議が散位でないというのはミスリーディング
現任公卿以外の三位以上と前参議はすべて散位公卿とされる
951 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:00:59.72
非参議の公卿には、
散位公卿以外にも太政官以外の官職にある者も入るのでは!?
952 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 23:20:55.77
「太政官の官人に限る」なんて一言も言ってないのに勝手に解釈して変な質問しないでくれるかな
まず君の中途半端で固定した理解を見直した方がいい。
>>950の説明を読んで論理的にカテゴライズすれば充分に理解できるはずだから敢えて詳しく説明しなかったんだが。
いちいち列挙してもらわないとわからない?
散位公卿=前摂関・前三公・前内大臣・前大納言・前中納言・前参議・「非参議」など
非参議=位階三位以上でありながら参議以上になっていないもの
以上は平安後期以降の実際の運用によるものであり、当初の規定や用法と違うのは勿論のこと。
准大臣は散位(従一位前大納言)でいいんだよね
954 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 08:38:37.44
●…見任(現任)
※…散位
●摂関
※准后(前摂関)
●三公
※前摂関
※前三公
●内大臣
※前内大臣
※准大臣(前権大納言)
※従一位(前権大納言)
●権大納言
※前権大納言
●権中納言
※前権中納言
●参議
※前参議
※正二位(非参議)
※従二位(非参議)
※正三位(非参議)
※従三位(非参議)
何でも人に聞いてお手軽に済ませようとしないで
自分で調べて考える過程を踏んでほしい
955 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 10:30:14.08
上に、
>散位の公卿には・・・と非参議がともに含まれる。
>散位公卿=・・・「非参議」など
とありますが、
散位公卿は、非参議公卿の一部ではあっても、非参議公卿の全体は入らんでしょう。
>>954 従1位と権大納言の間に本座宣下が抜けているような。
957 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 12:16:10.41
>>956 本座は肩書ではなく席次上の待遇であり
席次の高い正二位前権大納言でしかないんだが
>>955 低能はもうレスしないでいいよ
>>席次上の待遇であり
准大臣もその側面はある。
かつ、准大臣も「宣下」だったはず
つまり、席次の宣下という意味では
准大臣と本座宣下とは同じになる。
とすれば、准大臣と本座宣下との
制度的な違いはどこにあるのだろう
959 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 13:37:49.12
単純に『公卿補任』で准大臣は「前権大納言」とはされず「准大臣」とされ、本座は「前権大納言」とされるから別にしたんだが。
それに准大臣は「公」と呼ばれ本座や従一位は「卿」と呼ばれる違いがある。
おまけに摂政や関白も「宣下」だし、他の官職位階も「宣下」になることがある。
「宣下」という手続きが共通だからと言っていっしょくたにする意味がわからん。
というか愚図の発想は計り知れん。
同じく『公卿補任』で「前権大納言」とされる従一位を前権大納言とは別に掲げたのは、
非参議の意味をイマイチ理解していない低能が勘違いしないように、
また非参議の範囲がわかるように敢えて区別して書いてあげたんだが、
その親切が仇となって低能っぷりにますます磨きのかかったレスを投げかけてくるとは…。
おまえのレスはいちいち頭の悪さが滲み出ていて本気で目障りだから早く消えて二度と書き込むな。
普通の人間は度を過ぎた馬鹿を見ると不快になるんだからいい加減に察しろ。
厨房を相手にするのが悪い。
初心者質問スレに行ってもらえばいいだけの話。
961 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 12:19:44.48
>>957 説明せんか!
藤原道長(22歳) 987年9月 従三位 官職:左近衛少将
山中裕・人物叢書『藤原道長』5頁は、非参議との説明。
藤原忠実(14歳) 1091年1月 従三位 官職:右近衛中将
元木泰雄・人物叢書『藤原忠実』10頁も、非参議の使用例。
いずれも散位公卿とは、言わん。
何らかの官職があれば、「散位」(位階だけを有し官職を有しない者)じゃないだろう。
明らかに誤解、非参議公卿だよ。
たとえ正しいことを言っていたとしても、
自分の説明でうまく伝わらなかったからと言って、
相手に暴言を吐くのはよろしくない。
(自分の説明が下手だったかもしれないと謙虚になってみては?)
963 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 17:27:36.75
>>961 本格的に知能が低いらしいな。
>>952をちゃんと読んだか?
特に最後の行をよく読んだか?
「散位」の意義は古代から中世にかけて変化している。
「有官であっても現任の摂関・大臣・大中納言・参議でないもの」は「散位の公卿」。
「散位」=「有位であっても無官の者」なんて頑固に思い込み続けてる方がよほどマヌケ。
『官職要解』か何かだけを読んでわかった気になっちゃったのか?
だから最初に「自分の固定した理解を見直せ」と忠告したんだが、その意味も理解できなかったのか?
手間を掛けさせるなよ知障
こんなことは『公卿補任』でも読んでいれば自ずとわかるはずなんだが、
たったこれだけのことも知らず、説明されても理解できない低能が何を身の程知らずに説明を求めてるんだ?
分際を弁えろよ
自分が恥を晒してることを理解したらこれに懲りて二度とこのスレにしゃしゃり出てくるなよ
>>951 どう考えてもわかっていないのは一人だけで、
その一人の馬鹿が理解するまで懇切に教えてあげなきゃいけない義理なんて当方にはない。
だいたい馬鹿は馬鹿にされるのが当たり前。
そもそも馬鹿のくせにレスしようとする意味がわからん。
964 :
Gくん:2012/04/02(月) 19:53:28.41
↑
そう来ると思っていました。近衛中将という要職の官職にある者が散位か!前官(退職者)は散位でもいいけどな。
東大(山中先生)や京大(元木先生)の先生が、言っている方「非参議」を信用するけどな。
低能より。
こいつまだわかってないのかよw
この分じゃまた罵倒されるだけだからもうやめとけ。
それにしてもこのスレって定期的に物分かりの悪すぎる人と、知識はあるけどカルシウムの足りない人がバトルしてるなw
糞スレ終了
見た感じ
>>963の方が正しいというか
>>964の方が変な勘違いをしているようだけど、
前者は悪罵がひどすぎて論旨がすんなりと頭に入ってこないw
969 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 18:12:51.14
>>964 どうやら知的障害をお持ちのようで段々かわいそうになってきたので丁寧に教えてあげよう。
まず「三位中将は非参議ではない」なんて俺も誰も言っていない。
俺は「三位中将は非参議であり、かつ非参議は『散位公卿』である」と言っているだけ。
その東大や京大の先生たちだって「三位中将は非参議である」と言ってるだけで、
「三位中将(または非参議)は散位公卿ではない」なんて馬鹿丸出しなことを言ってはいないはずなのに、
おまえが勘違いして勝手にそう結論づけちゃっただけ。
そもそも「三位中将は非参議である」という命題からそのまま「三位中将(または非参議)は散位公卿ではない」という命題を導出し得ないということは、最低限の論理的思考力があれば理解できるはず。
つまりおまえはおまえがその権威にすがっている東大や京大の先生たちの著作を正確に読めてさえいない。
東大や京大の先生たちは低能に勘違いしてもらうために本を書いたわけではないし、低能の勘違いを権威づけるために東大や京大の先生をしているわけではない。
970 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 18:14:06.54
「見任(現任)公卿」という語は現任の摂関と議定官のみを指す。
それ以外は従三位中将だろうと正二位神祇伯だろうと「散位公卿」。
これは『公卿補任』を参照しさえすれば一目瞭然でわかること。
「散位」という言葉で「位階を保持するが無官の人」という意味しか知らないからと言って、
それ以外に意味がありうるとも考えないのが典型的な馬鹿の発想。
とにかく先に俺が『公卿補任』に言及したんだから、
反論とも言えない世迷い言を書き込む前に『公卿補任』を参照し確認するという労をとるべきだろう。
だから俺は早くから「自分で調べて考えるという過程を踏んでほしい」とも言っていたはずなんだが、
頭の悪い奴はそういう労苦を厭うから結局いつまでも頭が悪いままで馬鹿にされる。
低能呼ばわりされて悔しかったからって脊髄反射的に鸚鵡返ししていないで、
その前に自分が何故低能呼ばわりされて馬鹿にされているかを反省して己の無知を恥じろよ。
おまえのことだから今まで生きてきて親兄弟教師同級生に散々馬鹿にされてきているはずなんだから、自分のオツムの程度くらい弁えろよ。
自分の脳味噌が最も信用に値しないということくらい気付けよ。
知能が低すぎて自分の知能がどれだけ低いかもわからないのか?
それならばこんな場違いなところで書き込んでないで、早く障害者手帳でももらいに行け。
糞スレ終了
じゃあ皇宮警察は近衛府w
誤爆したw
熱くなるのは仕方ありませんが、中傷や罵詈雑言を挟んでレスするのはやめにしませんか。
世界史日本史の両歴史板の中でも特に有意義なスレなのでウォッチしてる者としてとても残念です。
もう少しどうにかならないでしょうか。
2chだからとか言っても荒らしや居直った相手、言葉尻取るだけとか、
言葉遊びしかしない相手に対しては
スルーすると言うのも2chを利用する態度の一つなのではないでしょうか?
丁寧語や敬語を使うべきだとは絶対に言いません。
確固たるソースから導き出した有意義なレスも罵詈雑言が混じっては
見るに耐えないとても残念なものになっています。
さらにそんな状況が続くととても残念です。
きちんと勉強していなければとても書けないようなレスが数多く書き込まれる中。
そんな知識のある方々が、こんな残念な人間性を持っていると思うととても悲しいです。
975 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 08:05:28.53
>>972 「衛士」はいまでも残存しているんだよね。
976 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 19:07:03.61
>>974 その「有意義なスレ」に知識の乏しい奴が知ったかぶって明白な誤りを書き込むことの方が問題。
実際春休みの学生がどうこうと言って迷惑がってる人もいるじゃないか。
例えて言えば大学生の会話に中学生がしゃしゃり出て参加してきたら大学生はうんざりするだろ。
そもそもこういう奴に限って自信満々にもっともらしい書き方をするから始末に負えない。
真らしく装った出任せを無責任に流通させて、誤りに気づきもせず指摘されても理解できず、しかも反省の色のない連中こそよほど知的かつ倫理的にカスだと思うが。
それこそ本当の初学者にとって有害。
低能はスルーしろというのはこういう弊害を無視しろということかな?
実際にも明らかな誤りをスルーしている向きは多いだろうが、それがますます事態を助長していると思っている。
それでいいと言うならばこれ以上何も言わない。
その風潮に大人しく従う。
例えば
>>970は上三行以外は書くなってことだと思うよ。
それで我慢できないなら書き込みしないほうがマシだね。
>>976 障害者手帳もらえだのなんだのといった戯言をほざくのを容認する
風潮なぞは、お前の脳内以外には存在しない。
明白な誤りも迷惑だが、気違い同然の罵倒も同じくらいに迷惑なん
だよ。
979 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:21:34.55
世界史板IDないから第三者のふりした書き込みも簡単。
980 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:23:48.53
失敗、失礼
この勘違い正義漢は自らが罵っている相手と
自分が同程度だということにいつ気づくんだろうか
自分に対する反対意見は自演ですか
攻撃的で過激な発言は多くの場合賛同を得ませんし、孤立を生むだけですよ。
少なくとも歴史を嗜む人間がこんな浅はかな間違いを犯すなんて
よほど知力の欠けた方をお見受けします。
間違ったレスに対しては、罵詈雑言抜きに
きちんとしたレスを1回、2回すればそれが間違いだなんて第三者からは明らかですよ
皆が皆貴方のように無知で、掲示板に書いてあることを丸々信じるような人ではありません。
あなたは知識が格下の相手に対し、汚い言葉で罵ってうさを晴らしたいだけにしか見えまえん
「初心者が勘違いしたら困るなんて」
そんな安物のメッキのような後付の理由で、身勝手な正義感を振りかざされたら迷惑です。
「品がない人」は「知識が乏しい奴」に劣る
984 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 06:26:38.00
間違ったなら素直に認めればいいだけなのに、みっともない
品性下劣
986 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 09:57:36.27
>>978 >障害者手帳もらえだのなんだのといった戯言をほざくのを容認する
>風潮
こんなことは誰も言っていないんだが
間違いを指摘せずに見て見ぬ振りする事なかれ主義的風潮に従えと言うなら(憫笑を禁じ得ないながらも)従う用意はあると言っただけなんだけどな。
勝手に勘違いして突っ掛かって来るなよ鬱陶しい。
>>981>>982 別に正義のつもりはないよ。
俺が迷惑に思って腹立たしいから馬鹿は排除したいだけ。
例えば様々な質問サイトで、歴史系に限らず何も知らない初心者の質問に何も知らない馬鹿が知ったかぶって当てずっぽうの出鱈目で答えて、「ありがとうございました」なんて言われてるのを見ると、
ますます馬鹿が再生産されていくのかと思って怒りすら覚える。
罵倒は当方の純粋な嫌悪感情から発したものであって、当方と同じくらい不快になってもらいたいという意識から必要以上に攻撃的にやっている。
無自覚にデマを垂れ流す馬鹿の方がよほどタチが悪い。
敢えてやっていることなので正当化する意図はないが、初学者にとって有害なのは紛れもない。
むしろ誤りを指摘もせずに看過していた傍観者が何故か今さらになってうじゃうじゃ湧いて出てきて、当方にだけ文句を言い立ててくる意味がわからない。
そこまで言うならば自分で説明してあげれば良かったじゃないか。
当方は少なくとも最初は「君それは間違ってるよ」程度のトーンで指摘したはずだし、気持ちの悪い突っ掛かりの仕方をしてきたのはむしろ先方だ。
「第三者から見て明らか」なら物分かりの悪い奴をたしなめることくらいすればいいのに、
たまたま一人だけ相手をしていた奴が口汚い人間だったからと言って、相手にせずに放置していたような奴らが人のことをどうこう言える筋合いがあるのか?
無責任な外野の言葉などまったくとるに足らない。
987 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 09:58:58.72
ところで
>>982 俺がいつ自演認定なんてした?
>>980のことを言っているなら誰かのどこかへの誤爆か何かじゃないのか?
自演認定というのはボコボコにされた弱者の愚劣な戦術であって、ただ一人で相手をボコボコにした人間のやることではないだろう。
なんでこんな馬鹿馬鹿しい勘違いばかりするんだろう。
そもそも馬鹿じゃないんだから俺のレスで不快になる奴が何人もいることくらいわかる。
こちらは賛同を得ようとしているわけでも、孤立を恐れているわけでもない。
自分一人の責任で相手を論破して罵倒しているにすぎない。
それだからこそ雨後の筍のように湧いて来た外野連中などは軽蔑せざるを得ない。
988 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 10:01:45.45
それと
>皆が皆貴方のように無知で、掲示板に書いてあることを丸々信じるような人ではありません。
このレスはかなり不用意。
第一に、「皆が皆〜ではありません」「¬∀x(Fx)」と言うが、それは論理学的には「無知で、掲示板に書いてあることを丸々信じるような人」も存在する「∃x(Fx)」ということをも逆に言い立てている。
「無知で、掲示板に書いてあることを丸々信じるような人」のことはどうでもいいから誤りを指摘せずに放置しておいて構わないということか。
流石に無責任な傍観者の言いそうなことだ。
改めて疑問を呈すが、そんな奴が何故今さら俺だけに突っ掛かってくるのか?
第二に、「貴方のように無知で、掲示板に書いてあることを丸々信じるような人」というのは、これこそ根拠のない中傷としか思えない。
当方は具体的な理由を指摘して「それゆえにおまえは低能だ」と言っているのであって、相手の悪罵に言い返すためだけに謂れのない中傷をしているわけではない。
当方が「無知で、掲示板に書いてあることを丸々信じるような人」であるという具体的な根拠を持ってこなければ、先の悪罵はまったくの感情的なものでしかない。
罵詈雑言を批判しながら罵詈雑言を用い?
989 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 10:03:42.60
罵詈雑言を批判しながら罵詈雑言を用いるという首尾一貫しない態度はまったく不用意すぎる。
大した覚悟もないくせに罵詈雑言を用いたという浅はかさがやりきれない。
先のレスでの分別臭い物言いが取り繕ったものでしかなかったということが如実に表れてしまって残念極まりない。
何だこいつ結局罵倒したかっただけかよとしか俺は思わなかった。
また罵倒のセンスがなさすぎ、悪口が下手すぎる。
具体的な根拠を伴っていないからこちらは「何言ってるんだこいつ」と思うだけでほとんど効果的なダメージを受けない。
結局相手を傷つけずに自分を傷つけるのに終始しており、そんな罵倒ならしない方がマシだと思う。
>>983 こういうカテゴリーミステイクを平気で犯す非論理的な低能が一番嫌い。
「品がない人」と言われても異論も反論もないが、論理的に比較不能な別カテゴリーを無媒介にいっしょくたにして評価する頭の悪さは救いがたい。
星占いや血液型占いを本気で信じちゃってる知的障害者と同レベル。
まあこう言われても知能が低すぎて何を言われているか理解できないんだろうけどな。
なんで知的障害者のくせに発言しようと思うのかね。
>>986 分かったから二度と書き込まないでくれ。
お前は単なる荒らしだ。
991 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 13:29:08.52
歴史学の一分野において初学者よりも知識があるというだけで、自分は頭が良いとでも思ってるのかな?
罵詈雑言は、2Chの華、周囲は馬鹿がやってると生暖かく見てるのみ。
>>993 とはいえ平穏に進行してたスレが罵詈雑言しか書けない子供に荒らされるのもねえ。
たまには言ってやらないと自分が許されてると思い込んで増長しちゃう。
995 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 18:17:42.85
平安時代史事典(角川書店)1978頁
・・・なお「散位」という語は、本来有位無官の意であるが、
三位中将などを含めて有官の非参議を「散三位」などと称した例も見られる。
(黒坂伸夫)
996 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 18:41:21.20
「罵詈雑言しか書けない」ねえ。
なんでそんなに低能アピールをしたがるのかな。
「しか」というのは論理的限定を意味する語なんだけど、当方は明らかに罵詈雑言だけを書き込んでいるわけではない。
低能はその知能レベルに相応の罵詈雑言「しか」読み取れないらしいな。
間違った知識を披露しちゃってる奴に指摘して説明してあげるでもなく、罵詈雑言にしか反応できない。
そんな奴がこのスレにいる意味がわからん。
何度も言うが、今さら出てきて人のことをとやかく言うよりも、それならば自分で説明してあげるくらいしろよ。
話が終わってからぞろぞろと現れるなんざ相当の間抜けだぞおまえら。
>>992 当然俺は自分が頭がよいと主張しているわけではなく、馬鹿と比べれば頭が良いという程度の知力しか備えていない。
思ったより世の中に馬鹿が多すぎるとは思っているけどな。
それに俺はそもそも歴史学専攻でもない。
素人に知識と論理的推論で劣って論破されてる奴などは明らかに知能が低い馬鹿だろ。
馬鹿が馬鹿ゆえに馬鹿にされるのは当たり前で悔しがる資格すらないんだから馬鹿にされたからっていちいち悔しがるなよと言いたい。
そう言えば罵倒されていた当人はどこに逃げちゃったのかな?
低能の上に卑怯者か。
やはりカスだな。
>>986 >知能が低すぎて自分の知能がどれだけ低いかもわからないのか?
>それならばこんな場違いなところで書き込んでないで、早く障害者手帳でももらいに行け。
こんなくだらない、自分の無知さ加減と偏見を暴露するだけの発言を平気で
しているような下種が、なにをほざいているのやら。
それこそ、頭が悪すぎて、自分の発言がそのまま自分自身に当てはまって
いることにすら気づいていないんだな。
> 星占いや血液型占いを本気で信じちゃってる知的障害者と同レベル。
> まあこう言われても知能が低すぎて何を言われているか理解できないんだろうけどな。
> なんで知的障害者のくせに発言しようと思うのかね。
この手の「ぼくちゃんだけに通用する知的障害者の定義」を振り回して、「障害者手帳
もらいに行け」か。
本当の定義やら、交付されるための条件に完全に無知な上に、自分の無知さを反省
するだけの知性を欠いているから、ああいう馬鹿げた罵倒を恥ずかしげもなく書き
続けられるんだろうな。
999 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 20:22:57.07
>>998 公家は星占いを本気で信じていたと思うが
1000 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 20:31:46.26
もう一人の方は、そういう罵倒もしてるけど、散位の解説みたいな学術的な話もしてるから、
「しか」って表現はあたらない、といったんじゃないの?
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。