1 :
卑弥呼の都は久留米:
2 :
サガミハラハラ:2011/09/10(土) 07:10:07.63
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
1991年8月12日に到達に成功しています。
卑弥呼の墓は、小城公園内の桜ヶ岡(さくらおか)です。
今年は邪馬台国発見20周年にあたります。
3 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 07:25:56.98
誰かが、方1000里は1里四方が1000個だといってたな。
すると方4000里は、1里四方が4000個か。
すると、64×64=4096。
朝鮮半島南部の三韓の面積は64里四方に収まる計算だな。
こんなのがどこの世界に通用するか。
俺は算数に弱いのだ。
誰かついでに、4000里を円周や周囲の長さにして計算して、
三韓の面積を割り出してみてくれ。
そうすれば、方4000里は周囲の長さだと言い張ったバカがバカだということも分かる。
4 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 09:24:30.77
方4000里=16000000平方里
これと同じ面積の円を考えると
半径×半径×π=16000000
これより半径=2257里
これから円周を求めると
直径=2257×2=4614里
円周=4614×π=14176
邪馬台国までの行程の場合、この円周を一回りすることはなく、半周だろうから、
半周=7088里となる。
これはクヤ韓国までの行程7000里とほぼ同等である。
編纂者は机上の計算で方4000里から、計算で
大雑把に求めたのかもしれない。
つまり、方4000里の円状の面積の周囲を半周した距離が
7000里であると言える。
>>3 > 誰かが、方1000里は1里四方が1000個だといってたな。
昨夜の伊作の痛さのホットスポットだね。
「方四千里」の説明を漢文の用例で説明すればよいのに
伊作はそれを現代の面積単位である「u」でやろうとしたのが間違えのもと。
漢文の場合、「方○○里」と書けば、基本は一辺が○○里(一方○○里)の意だが、
書き手によっては周○○里(四方○○里)の意で使う場合もある。
以前、どぐだみと誰かが用例を出し合って議論していたと思う。
現代の面積単位の一つである「平方メートル」の場合は、正しく「単位」である。
「平方メートル」と書かず「u」と書けばわかりやすいか。
これは、一辺が1mの正方形と同等の面積を示す単位であって、面積が同じであれば正方形である必要は無い。
1m×1mの土地も2m×50pの土地も、その面積は1平方メートルと表記する。
また、「km2」とは、「u」の百万倍の広さを表す単位で、「cm2」は百万分の一の単位。
「1000u」と書けば、これは一辺が1mの正方形1000個分の面積だが、「1km2」と書けば、100万個分の面積となる。
あくまでも「単位」表記なので「2u(一辺が2mの正方形と同等の面積)」なんてややこしいものは使わない。
用はそう言う決めごとのもとに使われていることばで、漢文の方○○里とは、基本的に相いれないもの、
方○○里を○○「平方里」などと訳そうとすると無用の混乱を招くこととなり、
昨夜一周厨と伊作の空議論がそれの見本みたいだったなw
ちなみに河童虫も生前、伊作と同じく「平方里」なる概念を持ち出し、韓地は一平方里4000個分と吹いていた。
まあ、同類だからなw
6 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 11:38:29.31
伊作、もうダメポ.・・・
7 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 11:41:24.21
>>3 >誰かが、方1000里は1里四方が1000個だといってたな。
それ、オレ。
一里四方が1000×1000個のつもりが1000個と書いちゃった。
伊作と同じ間違いしてた。恥ずかし〜けど、許して。
8 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 11:41:58.26
>>959 :伊作:
横から失礼!
>>953 >>方可四千里の方は周囲長だと言っている。
>それが違うのだ。方は正方形に見立てた面積表示だろ。
>「方」で表したのだから一辺は1000里だな。いいか?
伊作ちゃんが正解です。
方可四千里とは、周囲長が4000里で
一辺が「1000里の正方形の面積」です。
>>周囲長(円周でもよい)で面積(土地の広さ)を表したのだ。
>周囲が4000里ならば一辺1000里の正方形を想定しろ。いいか?
>で・一辺1000里の面積を「方4000里」というのか? おかしいだろ?
「方4000里」とは、周囲長が4000里で一辺が1000里の正方形の「一辺の長さが1000里」ということです。
重ねて、
「方可四千里」とは周囲長が4000里で一辺が1000里の「正方形の面積」。
「方四千里」とは周囲長が4000里で一辺が1000里の正方形の「一辺の長さが1000里」ということです。
「四千里」とは、2点間の長さ(距離)が4000里ということです。
河童登場
10 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 12:00:00.58
>>5 名前
>漢文の場合、「方○○里」と書けば、基本は一辺が○○里(一方○○里)の意だが、
>書き手によっては周○○里(四方○○里)の意で使う場合もある。
>以前、どぐだみと誰かが用例を出し合って議論していたと思う。
え〜〜!
どくだみさんも「方○○里」は一辺が○○里との解釈だったのですか。
ところで、
【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩
以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】
に「古法=300歩=6尺」と「今法=360歩=5尺」とありますが、
「卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
の「百余歩」は「今法=360歩=5尺」で計測していると言っていませんでしたか?
>>10 河童なら、Y!での多少の恩義も有ろう
他人のふりしてないで、傷心の伊作に今は優しいことばの一つも掛けてやれよ。
13 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 12:26:04.30
>>12 俺は、河童じゃない。
>「方可四千里」とは周囲長が4000里で一辺が1000里の「正方形の面積」。
>「方四千里」とは周囲長が4000里で一辺が1000里の正方形の「一辺の長さが1000里」ということです。
>「四千里」とは、2点間の長さ(距離)が4000里ということです。
に関しても、昨年河童さんとやりあったが俺を相容れない意見だ。
彼の主張は、
「方可四千里」とは一辺の長さが4000里の正方形の面積です。
>>13 「其印方一寸也」とか言う文例が普通にある。
「寸」も時代によって変化するがだいたい3cmだ。
周3cm(一辺7.5mm)の印鑑なんて使いづらいだろう。
だから、方は通常は一辺を表すことに間違いは無い。
後は通常外の用例を見つけて来て、韓伝の記述と比べてみるしかないな。
15 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 13:44:52.86
一大国(壱岐)の方可三百里を一辺300里の正方形の面積を示すと解釈すると、
魏朝の公式里とされる1里=430mを用いれば面積の値は16641kuとなる。
一方、方可三百里を周囲長と解釈すれば、
正方形の一辺の長さは75里となり、その面積は同じく魏朝の公式里とされる1里=430mを用いれば
1040kuとなる。
現在の壱岐島の面積は138.56kuであるから、いずれにしても過大な数値が得られる。
このことから方可三百里の里は魏朝の公式里とされる1里=430mとは異なる長さであることがわかる。
もっとも一大国は壱岐ではないとすれば話は別だが。
なお、方可三百里を一辺300里の正方形の面積を示すと解釈した場合、
壱岐島の実際の面積に合うように里の値を求めると300里は11.8kmとなり、1里は39.3mとなる。
一方、方可三百里を周囲長と解釈した場合には75里が11.8kmとなり、1里は157mとなる。
16 :
ローガン:2011/09/10(土) 13:55:47.38
同様に計算したばあい対馬は、どうなるの?
17 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 13:58:03.24
>>5 >漢文の場合、「方○○里」と書けば、基本は一辺が○○里(一方○○里)の意だが、
>書き手によっては周○○里(四方○○里)の意で使う場合もある。
>以前、どぐだみと誰かが用例を出し合って議論していたと思う。
書き手によって周の意で使うだなんて、ありえない。
つまり、古文献には実際の遺跡と記述の長さが一致いないもの
があって、記述では「方」と書いて一辺を示しているが、
それだと合わないので、「方」を「周」の誤りだろうと、
勝ってに修正しているからです。
だから「方」は「周」の意で使う場合もあるなどど、
時代が時代なら極刑にでもなりそうなことを平気で言えるである。
つまり、長里で計算しているから、実際の遺跡の計測とあわないのです。
公定理は古代では今とは違う基準であったということを
認めないからです。
これをいうと、中国国内の歴史認識も変わるから、中国の研究者は
邪馬台国の里数問題については何も口を挟みたくないのじゃないかな・・・。
歴史というものは「捏造」してはいけない。
いつになっても世界は平和にはならない。
歴史を正しく理解することが、まず基本中の基本だと思う。
18 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 14:14:05.92
>>15 >現在の壱岐島の面積は138.56kuであるから
↑をもとにするとせっかくの正しい計算が水の泡になります。
壱岐の一辺の300里は目視だろうから、誤差が多いです。
それを考えて計算する必要があります。
使者は壱岐を実際よりずいぶん大きく見積もったことは確かです。
19 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 14:23:20.51
>>18 >壱岐の一辺の300里は目視だろうから、誤差が多いです。
>それを考えて計算する必要があります。
具体的にどう計算するの?
>>15 のやり方でいいじゃないか。
>>15 > 現在の壱岐島の面積は138.56kuであるから、いずれにしても過大な数値が得られる。
> このことから方可三百里の里は魏朝の公式里とされる1里=430mとは異なる長さであることがわかる。
これは可能性の一つに過ぎない。
命題から得られる解はいくつも有る。
貴方がトンデモ例としてあげた
> もっとも一大国は壱岐ではないとすれば話は別だが。
も、まあ、解の一つであろうが、
一大=現在の壱岐で、1里=430mの基本定義を生かせば、
方可三百里の記述自体が誤りだと結論づけることもできる。
要は、何か一つ定義を否定しなければ解は出てこない。
>>15氏の二段論法では永久に堂々巡りだなw
>>17 キミは論外だな。
先ずは日本語の勉強をしてから出直してきなさい。
以後、スルーするので、そのつもりでw
22 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 14:44:55.43
>>16 對海国(対馬)の方可四百餘里の場合。
一辺400里(餘)の正方形の面積は魏朝の公式里とされる1里=430mを用いれば約30,000kuとなる。
一辺100里(餘)の正方形の面積は魏朝の公式里とされる1里=430mを用いれば約1,850kuとなる。
対馬は上島と下島から成るが、遺跡等から見て倭人伝に書かれた頃の對海国は下島であろうと思われる。
この下島の面積は約280kuである(上島も加えると約700ku)。したがって、この對海国の場合も魏朝
の公式里とされる1里=430mを用いれば過大な面積値が得られる。
なお。方可四百餘里を一辺400餘里の正方形の面積を示すと解釈した場合、
対馬下島の実際の面積に合うように里の値を求めると400餘里は16.8kmとなり、1里は42mとなる。
一方、方可四百餘里を周囲長と解釈した場合には100里が16.8kmとなり、1里は168mとなる。
23 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 14:47:06.07
>>21 どうぞスルーで。
方が周を意味することもある、などとバカなことをいう人はどうしても
許せない。
そういう人とはかかわりあいたくない。
というかものすごく嫌悪する。
それでは、資料がみな信用できなくなって、価値のないものになる。
24 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 15:01:31.95
>>15 名前
>一大国(壱岐)の方可三百里を一辺300里の正方形の面積を示すと解釈すると、
>魏朝の公式里とされる1里=430mを用いれば面積の値は16641kuとなる。
>一方、方可三百里を周囲長と解釈すれば、
>正方形の一辺の長さは75里となり、その面積は同じく魏朝の公式里とされる1=430mを用いれば
>1040kuとなる。
会稽は北緯30度でその東は列島の口之島・種屋久島にあたる。
この「会稽之東」が「一大國」です。 「一大國 」の面積は1040ku。
種子島の総面積は,444.99 ku。屋久島町の総面積は504.88 ku。
口永良島が38.04 ku。硫黄島が11.65 ku。黒島が15.37ku。と
北緯29度58分00秒の 口之島が 13.33 ku。
その総合面積は1028.17 kuで「一大國 」の面積、1040kuと近似値である。
25 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 15:11:34.00
韓の方可四千里の場合
方可四千里を一辺4000里の正方形と解釈した場合、魏朝の公式里とされる1里=430mを用いれば面積の値は
約296万kuとなる。
方可四千里を一辺1000里の正方形と解釈した場合には魏の公式里とされる1里=430mを用いれば面積の値は
約18.5万kuとなる。
韓を現在の大韓民国とほぼ同じと見れば、その実際の面積は約9.8万kuである。
なお。方可四千里を一辺4000里の正方形の面積を示すと解釈した場合、
韓の実際の面積に合うように里の値を求めると4000里は約310kmとなり、1里は77.5mとなる。
一方、方可四千里を周囲長と解釈した場合には1000里が310kmとなり、1里は310mとなる。
韓の場合は方を周囲長と解釈すれば魏の公式里とされる1里430mが用いられたとも言える。
26 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 15:24:52.70
>>25 方を周囲で計算してはダメ。絶対ありえない。
そんないい加減なことをするはずがない。
世が世なら極刑もの。
なんで、そういうことを平気で考えられるのかな。
そういう思考ができる人って本当に信用できない。
畿内説派がいくらバカだからって、南を東といったり、
箸墓を卑弥呼の墓だといったりするのは、笑ってあ、そ、で済ませられるけど、
この「方」が「周」を意味する、の意見だけは、
本当に心から怒りを感じる。
27 :
ローガン:2011/09/10(土) 15:27:41.54
>>22 >対馬は上島と下島から成るが、遺跡等から見て倭人伝に書かれた頃の對海国は下島であろうと思われる。この下島の面積は約280kuである(上島も加えると約700ku)。
ふ〜ん。じゃあ万関瀬戸の開削は、魏使来倭以前という事ですか?
>>27 開削部が有ろうが無かろうが、南北離れて見える、つまり見映えは今も当時も変わらんでしょう。
ただし、どっちにせよ中心部は浅茅湾岸なので上だの下だの別けて考えるよりは、一括して「対馬」と捉えるところが多いでしょうけど。
29 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 15:40:43.97
わたしは長里でもなければ、短里でもない。
一里=120m〜150m説、根拠は足二歩分が一歩から。
この一里120m〜150mで計算すれば、韓の方四千里は
一辺が480キロ〜600キロで、
だいたい韓半島の三韓があった地方の面積にほぼ「一致」する。
これが短里だと、方4000里は一辺が300キロでちょっとちいさずぎる。
この一里が120m〜150mで計算すれば、邪馬台国も
ちゃんと福岡の山門に比定できます。
30 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 15:48:18.89
4000里×4000里の面積は、
一里77mとすると
現在の韓国とほぼ同じ面積だな。
31 :
ローガン:2011/09/10(土) 15:50:43.70
>>28 >開削部が有ろうが無かろうが、南北離れて見える、つまり見映えは今も当時も変わらんでしょう。
地続きの440ku を地上からけしさらないと導けない、短里とやらの計算…
自分で書いてておかしいと思わない?
32 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 16:08:56.96
面積を短里換算で方xx里で表現すれば、
対馬は二つの島合わせて、方343里
壱岐は方150里
33 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 16:14:40.56
>>26 方400里や方300里を一辺400里や300里の方形としないと具合の悪い人達がいますね。
伊作さんもそうですけど古田さんなんか周囲長説は絶対に認めることができないでしょうね。古田さんの
島巡り半周(の800里と600里)を万二千餘里に含める説が成り立ちませんからね。
34 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 16:40:52.49
>>33 とういうかそういう思考を本当に畿内説はしているのかって思ったら、
バカというより、病院いったほうがいいかも。
周囲の長さで計ったのではなく、島の面積を表したってことわからない?
実際の対馬は細長いから、面積でいうとだいたいこの位かなって。
周囲で表したかったら、縦横が極端に違うのだから、
たて、いくつ、よこ、いくつと書かないと。
たとえば、周囲400のばあい、たて10、横190と100四方は同じ周囲の長さ。
でも面積は全然違う。片方は1900で、片方は10000だからね。
35 :
ローガン:2011/09/10(土) 16:41:28.74
>>26 >この「方」が「周」を意味する、の意見だけは、本当に心から怒りを感じる。
またか…ではコピー。
●235:ローガン:2011/06/05(日) 01:59:49.38
>>234 ごめん。スルーしてた訳じゃないんだけど、思い出せなくて…
>方は周を意味することもあると、詭弁を言われたのです。
漢旧儀に曰く:「長安城は方(亦)[六]十三里,経緯は各々長さ十五里,十二の城門があり,九百七十三頃(の畑)がある.城中は皆長安令に属する.
この事かなあ? 15×4≒63
●257:ローガン:2011/06/05(日) 13:10:18.01
「中国都市研究の史料と方法」を読んでみてください。
「例えば発掘調査により漢長安城の城壁は周囲 62 里強と確定されたが,これは『漢旧儀』に記載された 63 里という数値とほぼ符合する。」
とあります。 又後程。
●280:どくだみ:2011/06/05(日) 22:40:42.60
>>279 >なぜ[六]となっているのか、また注釈として(亦)が入っているのか。
それは中華書局の校勘の結果です。校勘記に以下のようにあります。
長安城方(亦)〔六〕十三里 據校補引錢大昭?改。按:史記呂后紀索隱引亦作「六十三里」。
後漢書注で 「長安城方亦十三里」となっていたものを、銭大昭の説によって「長安城方六十三里」に改めた。
史記索隱は同じ文を引いて
漢舊儀「城方六十三里,經緯各十二里」。
となっているということです。
これを見ても後漢書のほうが「六」を「亦」に誤刻したものだということは明らかでしょう。
方六十三里で経緯各十二里といっているのだから、この「方」は周囲と解する以外ないのではないですか。
以上、「「それでも邪馬台国は九州にあった」その4 」から。
36 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 16:45:51.73
>>35 あんたは無視。
話する気にもなれない。病院いったほうがいい。
37 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 17:04:00.37
対馬の周囲は壱岐の周囲の約5倍くらい在りそう。
周囲を実測したのなら、壱岐300、対馬400はありえない。
38 :
どくだみ:2011/09/10(土) 17:06:28.80
>>26 ローガンさんからレスがありましたが、僕からも一言。
>>26さんの気持ちもよくわかるのです。
方○○里が、一辺○○里の正方形の面積を表すというのは、初学のうちから良く目にしますし。
僕も、はじめて方四千里が周囲の長さだという説をスレで見かけたときは、
正直「また馬鹿なことを」と思って否定していました。
ところが、講談社学術文庫の「長安」を読んでいたら、次のような一文に出くわしました。
「今本『漢旧儀』は「城方六十里」とし、『史記』巻九呂后本紀索隠および
『續漢書』郡國志に引かれている『漢旧儀』は「城方六十三里」とし、
『三輔黄図』は「周回六十五里」としているが、実測の結果は今本『漢旧儀』が最も近い。」
調べて見たら、その通りでした。
「長安」の著者のように、邪馬台国の短里だの長里だのに関わらない人は、
方○○里が周囲の長さを示すということに何の痛痒も感じていないのです。
これで、「あれ、僕が間違ってるのか」と思うようになりました。
その後、ローガンさんに教えてもらったのですが、後漢書礼儀志注引く古今注には、
後漢皇帝の陵墓の大きさが列挙されています。
それには方○○里と周○○里が混在しつつ、里の数値はみなほぼ似たり寄ったりで、
現存するそれぞれの皇帝陵の周囲の長さと、ほぼ合致します。
一辺の長さと考えると、周も方も全く合いません。
長安城の例だけなら、周を方と書き間違えたとも考えられますが、
古今注の例は、方も周も同じ意味で使用され、元資料をそのまま引き写した
と考えた方が合理的ではないかと思います。
もっと沢山の例文が見つかると、もっと確度が増すのですが、
これだけでも方○○里が周囲の長さとして使われていたと考えるに足ります。
>>38 じゃ、質問しますが、漢文では面積はどう表現するんですか?
例えば、ある場所の面積が
「1辺10里の正方形の面積=1辺1里の正方形100個分の広さ」
として、どう表現するんですか?
40 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 17:18:24.29
>>34 あなたの主張は矛盾してませんか?
方四百里だとか方三百里とかは土地の広さを正方形や円の周囲長の形で表したものでしょう。土地の平面形状
(長方形だとか三角形だとか正方形だとか)を示すものではありません。おっしゃるように対馬は正方形では
なく長方形です。この広さを方四百里と表しているのですが、あなたの理屈でゆけば長方形なのに一辺四百里
の正方形で表すのはおかしいということになります。
41 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 17:19:14.88
>>38 それはね、
長里に合わせているだけだ、って上の方に書いたよ。
実測に合わないから、方を周囲の長さとして処理したんだよ
後の時代にね。
そういう食い違いの箇所が古文献には沢山有る。
でも、そのたびに都合よく処理しているのが現実。
42 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 17:26:22.25
>>40 面積で表せば、土地の大きさがわかるでしょ。
周囲の長さはともかく。面積が重要。
周囲の長さで計ったのにもかかわらずそれを4分の一にして
一辺を著したら、島の形も不明だし、面積も不明になる。
要は長さが重要なのではなく面積が重要なのだってこと。
方400里ってのは、一里四方の面積が160000個あるってこと。
その面積を表すことが重要であって、周囲の長さを計っても
たていくつ、横いくつで示さなければ、面積がでてこないので、
資料としては価値がないの。
レベル低くて申し訳ない。
同時期の他の文献でどうなってるかから見た方が良いと思うんだよね。
正しいかどうかはともかく、
>>38で周囲の長さという例は出されてるけど、
面積を表しているという例は無いんだろうか。
広さを表すような単位(例えば、坪、みたいな)のって無かったのかなぁ。
じゃないと、当時でも混乱すると思うんだよね。
全然無知なんで知ってる人いたら教えてください。
44 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 17:56:47.82
>>42 >周囲の長さで計ったのにもかかわらずそれを4分の一にして
>一辺を著したら、島の形も不明だし、面積も不明になる。
一辺の長さを400里としても100里としても島の形が不明なことは同じでしょ。面積の表し方を正方形や円の周囲長
でもってすると分っていれば「面積も不明になる」などということはありませんよ。
45 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 18:02:58.80
>>42 長方形の島の面積を方四百里と表しているのだから、この四百里が正方形の一辺の長さであろうと周囲長
であろうと島の形には関係ないよ。面積の値は16倍異なるけどね。
46 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 18:09:17.88
>>43 例は無いんだろうか、どころか方○里は全部面積を表していますよ。
はっきり指摘しておくけど、周囲の長さも意味するというのはトンデモ説だから気をつけたほうがいい。
広さの単位は、歩、里がそう。他に畝等々。
一歩は6尺(尺は長さ)四方の面積、一里は300歩(こちらの歩は面積ではない
ので歩=六尺ではない)四方の面積。
これが何個という考え方。
昔は現代のように、100メートル×100メートル=10000平方メートル
という計算方法ではなく、
ある広さ(面積)がいくつ、という考え方をした。
例えば、日本の場合たてに畳3畳、よこに畳4畳だったら全部で12畳とかね
坪でも同じ。わかりやすく言うとそういう思考方法。
47 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 18:23:56.75
>>44 例えば横10たて190の島の周囲は400
横100たて100の島の周囲も400
でも面積は上は1900、下は10000
同じ周囲の島でも面積にするとこれだけ違いがでてくる。
対馬は細長いから、周囲を計って4分の一にしたら、
面積が食い違ってしまうのよ、わかるかな?
面積をあらわすほうが重要なの。
島の形はわからなくてもいいってこと。だいたい面積を
示されれば、島の情報としては十分。
周囲まで謀る余裕もなければ、その必要もないと判断したかも。
でも周囲の長さを4分の一にしてあらわしたら、
面積が不明になってしまって、ひいては形も想像できなくなって
資料としては価値がないってこと。
48 :
伊作:2011/09/10(土) 19:07:13.81
雑魚処理の前に、くり返し確認する。
●『三国志』のいう「方」は面積表示だ。
●面積は正方形に見立てて表記する。これが不動の大前提だ。
●面積の最小単位が6尺平方、5尺平方だ。いくら大きくなっても「平方」だ。
●方で表す面積数値あくまでも一辺の寸法で表記する。
●面積表記を外周距離や円周で表記するバカがいら連れてこい。
>>13 彼の主張は、 「方可四千里」とは一辺の長さが4000里の正方形の面積です。
yes。オフのコース。
どいつもこいつも知ったふりして勝手な解釈を並べているが、恥をかくのは俺ではない。
>>5 >昨夜の伊作の痛さのホットスポットだね。
どこを見てるんだ。。
1里四方を4000個で方4000里じゃ、1里四方を64×64で4096。
三韓の面積は64里四方というわけか。バカやろう
>漢文の場合、「方○○里」と書けば、基本は一辺が○○里(一方○○里)の意だが、
なはーにが漢文の場合だ・この野郎。
「方4000里とは一辺が1000里」などと、よくものうのうといえるもんだぜ。
49 :
伊作:2011/09/10(土) 19:08:46.13
伊作の意見に共感する賢明な人もいるようだ。
>>26 >方を周囲で計算してはダメ。絶対ありえない。
>そんないい加減なことをするはずがない。
>なんで、そういうことを平気で考えられるのかな。
>そういう思考ができる人って本当に信用できない。
>この「方」が「周」を意味する、の意見だけは本当に心から怒りを感じる。
●あいつらには基本的に真相究明の姿勢がない。
●むしろ、真相に迫ることを妨害している。それが畿内説の正体だ。
●なぜならば、畿内以外にあったことなっては、助成金の蛇口が閉ざされる。
>>30 >4000里×4000里の面積は、
これも一辺4000里とする生き方か?
50 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 19:10:26.66
47だけど、
でもわたしが言いたいのは本当はそういうことじゃない。
「方」が有るときは面積、あるときは「周の意味」と使い分けて考えることはありえないといっている。
じゃ、これは面積をあらわすのか?周囲をあらわすのか?
どっち?て話。
資料的に何の価値もなくなって、文献すべてあてにならなくなる。
それに対しものすごく怒りを感じているわけ。
51 :
どくだみ:2011/09/10(土) 19:11:06.75
>>41 >実測に合わないから、方を周囲の長さとして処理したんだよ
そうではないです。呂后本紀の注は次の通りです。
漢舊儀「城方六十三里,經緯各十二里」。三輔舊事云「城形似北斗」也。
「経緯各十二里」と書いてあり、経緯は立て横の長さです。
つまり、一辺十二里なのだから、六十三里が一辺の長さであるわけはありません。
後の時代に処理したのではなく、これを書いた本人が、そう表現しているのです。
方○○里が絶対に周囲長でなく、一辺の長さによる面積の表現ならば、
「方十二里」でなければなりませんが、そうは書かれていません。
ならば、十二里の四倍は四十八里で、六十三里より短いじゃないかという異論が出るかもしれません。
城の形は、正方形ではなく北斗の形に似ているとあるように、凸凹しています。
凸凹に沿って周囲の長さを測ると六十三里ということです。
実際、前掲書「長安」でも、直線で測ると周囲は22690メートルだが、
中国側の発掘調査報告書には25100メートルとあり、
その差は城壁の曲折だろうと書いてあります。
52 :
伊作:2011/09/10(土) 19:15:38.50
さて。ローガンくんはどういう意見なのか。
(長安城の云々も必ず持つ出される。校勘・注釈を含めていろいろいわれているが、
一体どれが正解なのかの専門学会のコンセンサスはできているのかい。
あれが正しいとの前提で「方という面積表記」の原典を忘れては何の意味もない)
方とはその文字の通り、不定形の領域の面積を
数値で表記する便宜上、正方形に見立てて表記する方法だ。
我が国でも坪・町歩などすべて正方形表記だ?
外周で面積を表記したという輩には、
外周で面積を表記した実例こそ出してもらいたいものだ。
53 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 19:24:12.81
>>52 外周で面積を表記したなんて、だれも言ってないんじゃねえの。
方四千里が外周の長さだと言ってるだけだろ。
54 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 19:49:23.85
畿内説って古文献を冒涜しているよね。
いくら長里を主張したいからって、なりふり構わず
都合よく解釈して、度の基本までぐずぐずに崩そうとしている。
なんという節操のなさ。
方、周という漢字が別個にちゃんと存在するというのに。
結果が同じならまだ許せるけど、
周囲でみるのと、面積で見るのでは全く結果が違うからね。
古文献と古の吏官を冒涜している。
55 :
日本@名無史さん :2011/09/10(土) 19:53:15.90
いくら短里をくつがえそうったって、
対馬から壱岐まで千里は覆らない。
それなのに、方、周まで冒涜しようとするのは
やりすぎ!!!
56 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 20:24:21.56
>>49 周髀算経でも面積の計算の仕方は、縦辺×横辺である。
そんなものを出さなくても、どこの国でも時代でも
計算の仕方にそう違いはない。
方4000里=4000里×4000里=16000000平方里=95000平方キロ
特に証明ができない限り、これを変更することはない。
これは韓国の広さとほぼ同じである。
先に書いたが、この面積の円の半周は7000里である。(短里使用時)
57 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 20:28:03.85
>>53 >外周で面積を表記したなんて、だれも言ってないんじゃねえの。
そうか?
>方四千里が外周の長さだと言ってるだけだろ。
「方4000里」という面積表記が、なんで「外周の長さ」を表記した理屈になるんだ。
「方4000里」とは面積表記なんだから、
これは「外周の長さを表記したのだ」というのなら、
「外周で面積を表記した」論理に帰結するが。
そっこ・までは・どたまが・めぐらないか。
58 :
ローガン:2011/09/10(土) 21:00:47.84
>>52:伊作
>さて。ローガンくんはどういう意見なのか。
何度も書いたけどね。「帯方東南萬里」からの机上計算で作られた一辺4000里の正方形だと。
念の為云うと、外周を指す例は挙げたけど。だからといって、東夷伝の「方」が外周だと主張してる訳じゃない。
勿論どくだみさんも、方が外周を表す場合もあると述べてられるだけで、4000里が外周だと主張されていないと思う。
59 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 21:36:12.12
>>57 >「方4000里」とは面積表記なんだから、
「方4000里」が面積表記じゃなくて長さの表記じゃねえかって議論だろう
魏書六袁紹伝
周四十里
魏書二十四高柔伝
周数百里
魏書三十所引魏略西戎伝
其王所治城周回百餘里
『三國志』の「方」が東西、南北各々の長さを表していることは明白だね。
61 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/10(土) 21:44:50.18
◎方4000里
方4000里=4000里×4000里=280km×280km=78400ku
韓地の概形は4000里×4000里
韓國の実際の面積は99400ku
漢江流域以北は韓地に含まれないから、ほぼ一致。
>>56と同じ
◎方400里
方400里=400里×400里=160000平方里=200里×800里
=14km×56km=784ku
対馬の概形は東西200里、南北800里の長方形
対馬の実際の面積は709ku
◎方300里
方300里=300里×300里=21km×21km=441kku
壱岐の周辺諸島を含む概形
壱岐の実際の面積は139ku
62 :
伊作:2011/09/10(土) 21:50:01.69
>>58 >「帯方東南萬里」からの机上計算で作られた一辺4000里の正方形だと。
「一辺4000里の正方形」。
よーし。
「からの机上計算で作られた」。
正当王朝の文化事業の目玉として実施した東夷調査の結果を軽視している。
63 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 21:50:41.16
>>59 >「方4000里」が面積表記じゃなくて長さの表記じゃねえかって議論だろう。
すでに、「方」という表記が面積表示だということは明白なのだが。
そもそも議論じゃないな。バカなことを言い張るバカと、
これを正そうとする俺に対する誹謗と個人攻撃の修羅場だったが。
>>58 > 何度も書いたけどね。「帯方東南萬里」からの机上計算で作られた一辺4000里の正方形だと。
どうやって 「帯方東南萬里」から一辺4000里の正方形が求められるんだろ?
65 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 22:06:03.48
>>63 「方」って四角って意味だけど、辞書をひいても面積って意味は無いぞ。
66 :
伊作:2011/09/10(土) 22:14:12.00
よーし。
●「方4000余里」は、一辺4000里の正方形を想定して表示した面積表示。
これで大方の意見は一致したようだ。これを踏まえた上で、
昨夜の俺に対する誹謗と攻撃の実態を読み返してもらうと、あ・り・が・た・い。
俺が82での畿内説との口論で体験したことだか、俺の意見を否定するためには、
「わざと間違った解釈をしてまで否定する」ということが実際にあった。
「何でもあり」の畿内説者の豊富な手口のううちの一つだ。
俺が百戦錬磨であることを、ここの攻撃野郎たちは知らなかったらしい。
67 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 22:14:54.61
方○○里が一辺○○里の正方形の面積を表すとして、
韓の方可四千里を現在の韓国の面積に当てはめて計算すると1里は約77mとなる。この数値は魏の公式の里とされる
値の約1/5.6である。これは伊作氏の6倍強説に近いと言えば言える。
ところが、壱岐の方可三百里の場合についての計算結果では1里は約39mとなりこれは魏の公式の里の値の1/11である。
對海国を対馬下島として同様の計算をすると1里は42mとなり、壱岐の場合とほぼ一致する。魏の公式の里との比率は
1/10.3となる。
他に倭の地で計算可能なところはないが、伊作氏はどこに6倍強説の根拠を見出したのであろうか?
>>66 >●「方4000余里」は、一辺4000里の正方形を想定して表示した面積表示。
勝手に決めるのがいつもの癖だな
>>66 >俺が82での畿内説との口論で体験したことだか、
>俺が百戦錬磨であることを、ここの攻撃野郎たちは知らなかったらしい。
「口論」は百戦錬磨かもしんないけど、まともな「議論」は見たこと無いな。
70 :
伊作:2011/09/10(土) 22:49:06.67
>>67 >>伊作氏はどこに6倍強説の根拠を見出したのであろうか?
▼『魏書』明帝紀
登場人物の口頭文言に3度ほど執拗に、
「司馬懿軍の洛陽から遼東までの公孫淵討伐行軍距離は4000里」というのがある。
▼『後漢書』郡国志
「洛陽から遼東まで3600里」
前者は人間の口頭文言だから端数を省略している可能性がある。
後者は郡国志の記録だからかなり正確と思われる。
これらを考慮して、『晋書』宣帝紀にある司馬懿軍の行程を参考に、
だいたいの距離を比較して割り出した。
実際の行程が不明なのだから、6倍強というのが絶対だというわけではない。
5倍のこともあろうし7倍のこともあろう。さらに詰めて検証すべき課題だ。
71 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 22:49:49.81
戦国時代末期から前漢にかけての時期に成立したと見られその後暦学の基本書として重んじられた周髀算経
に用いられている里の値は谷本茂氏によれば76〜77mである。
谷本 茂 中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』一九七八年三月号
倭人伝の資料に記載された里はこの周髀算経の里であるとすればほぼ説明がつく。
72 :
伊作:2011/09/10(土) 22:52:10.71
>>68 >勝手に決めるのがいつもの癖だな
攻撃と否定のトーンがだいぶ下がったが、それでも否定しているつもりか。
>>69 >まともな「議論」は見たこと無いな。
俺が、お前たち攻撃銀蝿にいうセリフだ。
現実にまともな議論などしたことないだろ。んー?
>>72 >まともな「議論」は見たこと無いな。
>俺が、お前たち攻撃銀蝿にいうセリフだ。
>現実にまともな議論などしたことないだろ。んー?
まともな議論のレスナンバー教えて。
確認するから。
74 :
伊作:2011/09/10(土) 22:57:33.75
>>71 >周髀算経の里であるとすればほぼ説明がつく。
倭人伝が周髀算経の里を使ったという検証作業は?
検証と論証の手順からいえばそっちが先だよ。
もっとも、それができればモメることもないが。
75 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 22:57:39.39
伊作氏が独自説を打ち出す必要はないのじゃないかな。既に周髀算経という確実な資料が存在しており
1里=76〜77mという数字が出ているのだから。
76 :
伊作:2011/09/10(土) 23:02:25.34
>>73 古くさい手を使うな。ボケなす
「現実にまともな議論などしたことないだろ。んー? 」
こういわれたら、「ここにまともな議論をしたレスがある」と、
てめろえが・てめえの過去レスの場所を提示すればいいのだ。
>まともな議論のレスナンバー教えて。 確認するから。
これじゃ、尻尾を腹に巻き付けて遠吠えする逃げの手だろが情けない。
「俺が自分の議論のレスナンバー教えたのだから、そっちも教えろ」
と要求するのがまともな会話だ・カスやろう
77 :
伊作:2011/09/10(土) 23:08:13.14
>>75 >伊作氏が独自説を打ち出す必要はないのじゃないかな。
大きなお世話だこの野郎。
昨日は高見の見物していながら、
勝負が見えたところでのこのこ出てきやがて。
いいとこ取りの抜け駆けで「こっちが先だ」といわんばかりだが、
論拠も根拠もまるで異なるし、こっちは根拠が明確だ。
セコさと功名心に飢えたようなことをいうな。見苦しい。
胡散臭いこじつけ論法に頼らなくても、
明らかに記録事実から割り出したものだ。
むしろ、周髀算経を持ち出したことが笑いものにならんようにしろ。
78 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:10:07.49
>>74 伊作
>倭人伝が周髀算経の里を使ったという検証作業は?
倭人伝が周髀算経の里を使ったという直接の証拠はない。しかし、周髀算経には後漢の趙君卿、
北周の甄鸞、唐の李淳風による注が付けられている。後漢の趙君卿の注は3国時代の直前になさ
れたものであり、魏の知識層にはかなり知られたものであったと考えられる。
79 :
伊作:2011/09/10(土) 23:17:01.62
>>78 「状況証拠に依拠した推測」というところか。
直接の証拠があるだけに、俺のは説得力があるだろ。
ま・周到な文献いじりの古田某にも「抜け目」があったということさ。
80 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:18:55.05
>いいとこ取りの抜け駆けで「こっちが先だ」といわんばかりだが、
誰もそんなつもりではいないだろう。おぬしこのごろ(昔からかも知れないが)猜疑心が強くなり
心の余裕を失っているな。年齢に応じて成長しなよ。
81 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:21:43.12
>>79 >直接の証拠があるだけに、俺のは説得力があるだろ。
数値が確定しないじゃないか。「直接の証拠がある」が聞いてあきれるぜ。
>>76 > 「現実にまともな議論などしたことないだろ。んー? 」
> こういわれたら、「ここにまともな議論をしたレスがある」と、
> てめろえが・てめえの過去レスの場所を提示すればいいのだ。
天才なのに分かんないの?
僕はまとも議論をしたと言ったことないんだけど。
「口論」は百戦錬磨かもしんないけど、まともな「議論」は見たこと無いな。
と言ったんだよ。
>>82 訂正
×僕はまとも議論をしたと言ったことないんだけど。
○僕自身について、まとも議論をしたと言った覚えはないんだけど。
84 :
伊作:2011/09/10(土) 23:31:20.98
>81
>数値が確定しないじゃないか。
「何倍だ」というほうが恵山臭いだろ。
なぜならば、現代人にとって不可抗力の部分をもつ案件だ。
不確実な部分を残すほうが紳士的というものだ。がんたれ
>>82 >僕はまとも議論をしたと言ったことないんだけど。
だったら他人にも「どうこう」いうな。
なーにを・ふにゃふにゃ逃げまほってるんだ。コケざる
85 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:35:48.05
>>79 古田氏へのやっかみが強いのがよくわかるな。古田を貶めるための独自説の構築か。
うぬぼれるんじゃねえよ、このアンポンタン。おめえのやってることなんか誰にでもできることだ。
韓の方可四千里、對海国の方可四百里、一大国の方可三百里、洛陽から遼東まで3600里にしても大抵の者は一度は
計算しているんだ。その結果は周髀算経の1里=76〜77mでおおよそ説明できるという結論をだしているんだ。
86 :
伊作:2011/09/10(土) 23:40:27.62
>>80 やかましい。いちいち俺の人となりについての非難文言を挟むなクソたれ。
82の古田説熱烈支持者に「4000里」の件で質問したら、
「古田のサイトを見ろ」というから見た。驚いたぞ。
古田某は、洛陽から遼東までの司馬懿軍の行軍距離4000里を
あろうことか、短里で、遼東における討伐距離としている。
そのために、延々と・色々というのだが、
頭の悪い奴なら「言いくるめ」られるだろうなと思ったもんだ。それほどに巧妙だ。
その部分を冷徹に解体したのが、俺のサイトにある。
●古田武彦氏の史観批判01〜02
古田某と俺との史観と着眼点の違いがはっきり現れている。
>>84 > なーにを・ふにゃふにゃ逃げまほってるんだ。コケざる
実際にまともな議論を目にしたことが無いと言ってるんだから、
まともな議論をしたのならレスナンバー示せば良いだけなんじゃないの?
88 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 23:43:29.45
伊作はタコが好き〜♪
酒の肴は ガンタレー♩♫
89 :
伊作:2011/09/10(土) 23:44:56.40
>>85 >大抵の者は一度は 計算しているんだ。
計算しただけか。
今ごろになっていうタイミングといい・開きなおりの物言いといい。
ただの負け惜しみじゃないか。
その程度の自己分析もせずに投稿するか。ぼんくら
90 :
伊作:2011/09/10(土) 23:50:05.92
>>89 >古田氏へのやっかみが強いのがよくわかるな。
お角違いもはなはだしい。俺ははじめから別の独自の道を歩んでいる。
あこがれも・羨望も・尊敬の念もない。俺にとっては、ただの同じ外野の人間だ。
さてと。
俺は古田シンパと板ではやり合わないことにしている。
バカバカしすぎるし、実りがまったくないから。
そういうわけで、先に宣言した通り周髀算経の話パスする。
91 :
伊作:2011/09/10(土) 23:55:33.85
>>87 まともな議論をしたことがない奴にまともに対応する必要はなかろう。
それでいいのだ。
92 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 00:08:31.13
>>89 >>大抵の者は一度は 計算しているんだ。
>計算しただけか。
おまえは他人に向かってはやかましく非難するくせに文言の一部だけ取り出して反論するのか?
「大抵の者は一度は 計算しているんだ。」の後に「その結果は周髀算経の1里=76〜77mでおおよそ説明できるという結論を
だしているんだ。」と書いてあるだろが。おまえの目は節穴か?ダーホ。
>>91 >それでいいのだ。
バカボンのパパなのだ。
94 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 00:27:22.66
>>90 伊作
>俺は古田シンパと板ではやり合わないことにしている。
俺は古田シンパじゃないが周髀算経の1里=76〜77mは有力だと思っている。壱岐の方可三百里の計算結果
などは1里を76〜77mとすると4倍近い過大な面積になるが、これなどは目測の誤差を考えれば許容範囲だ
ろう。
大事なことは周髀算経という基準となるものが(2世紀後半から3世紀半ばの)倭人伝記載の時期に存在した
ということだ。魏の公式の里の何倍で書かれているというのは結果論であるが、何倍で書くという決まりがあ
って書かれたものではないだろう。そんな決まりがあったかどうか検証のしようもなかろう。
うな)
95 :
伊作:2011/09/11(日) 00:39:03.33
>>92 >おまえは他人に向かってはやかましく非難するくせに
>文言の一部だけ取り出して反論するのか?
なんかしら、俺を相当に甘く見てるようだな。
さもなければお前バカでその程度の見方したできんということだ。
「韓の方可四千里、對海国の方可四百里、一大国の方可三百里、
洛陽から遼東まで3600里にしても大抵の者は一度は計算しているんだ。
その結果は周髀算経の1里=76〜77mでおおよそ説明できるという結論をだしているんだ」。
洛陽から遼東まで3600里について計算しているのなら、
それだけで俺と近い結論が出るはずだが、それを唱えた者はいない。
しかも「それだけで結論が出るはずだが」、
そこから何で「周髀算経の1里=76〜77m」にくっつける必要があるんだ?
俺の着目を古田の周髀算経とかいう方法に取り込んで、
古田説優先・古田説優位化を目論んでるんだろ。な。
古田は洛陽から遼東の4000里を、遼東における討伐距離といい、これも短里だとゆってる。
洛陽から遼東の4000里は、古田の短里説構築には活かされていない。短里としているだけだ
ごまかしようがない自縛だな。
この話には卑しい魂胆が見え隠れする。これ以上やると醜くなるだけだ。
俺はパスするから、周髀算経議論でもやれ。
96 :
ローガン:2011/09/11(日) 00:47:02.40
>>62:伊作
>正当王朝の文化事業の目玉として実施した東夷調査の結果を軽視している。
ちょいと言葉尻になるけど、「文化事業」ではない。
当然ながら、論点はこれ。
「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。景初中、大興師旅、誅淵、又濳軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。
其後高句麗背叛、又偏師致討、窮追極遠、踰烏丸、骨都、過沃沮、踐肅愼之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。
雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」
淵を斬り、位宮を追う事により、東夷の事が解るようになった。いわば、軍事行動による情報だ。
「絶域」だった筈の東夷を、「伝」に著せた理由について 序文は進軍をかなり強調している。
又、末尾の評に
「史、漢著朝鮮,兩越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸,鮮卑、爰及東夷、使譯時通、記述隨事、豈常也哉!」と。
使訳が通じた時の資料に従って記述したものであり、通常の記述とは言い難い。という意味だと思う。
つまり、この序文と評から、「進軍したところについては信頼出来る軍事情報があるが、そうでない所についての資料は、通使によるものなので、信憑性に疑問あれど、裏をとる術も無いので、とりあえず列記しておいた。」
と読むべきだと思う。これは編纂当時の先行史書を含む手持ちの資料の確度に対して言及したもの、と捉えて良いんじゃない?
腐った生ゴミ。
相手する奴はウジ虫と自覚しろ。
>>96 > 使訳が通じた時の資料に従って記述したものであり、通常の記述とは言い難い。という意味だと思う。
> つまり、この序文と評から、「進軍したところについては信頼出来る軍事情報があるが、そうでない所についての資料は、通使によるものなので、信憑性に疑問あれど、裏をとる術も無いので、とりあえず列記しておいた。」
> と読むべきだと思う。これは編纂当時の先行史書を含む手持ちの資料の確度に対して言及したもの、と捉えて良いんじゃない?
其後高句麗背叛、又偏師致討・・・遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。
高句麗討伐の後じゃん。
99 :
伊作:2011/09/11(日) 07:00:24.20
>>96 >「文化事業」ではない。
「評にいう。史記・漢書は朝鮮・両越を著わし、後漢朝は西羌を撰録した。魏の世、匈奴遂に衰え、更って烏丸・鮮卑あり、
さらには東夷に及び、使譯時に通ず。記述は隨事、なんぞ常なるや!」
これは、東蝦伝序文と対をなす締めの文章だ。
「記述は隨事、なんぞ常なるや!」とは、今鷹真・小南一郎氏の訳を参照すれば、こうだ。
「歴史書の記録はそれぞれにま時代ごとに随時記録するもので、
常に扱うべき記録が定まっているわけではない。
だから、先書が記録したものは省いて、「烏丸・鮮卑・東夷」の伝を立てた」。
東夷のことを知ることになったのは軍事行動がきっかけだが、
それがどうしたというのだ。東夷調査自体は文化事業だ。
つまらん言葉尻をするな。
>つまらん言葉尻をするな。
おまえがな
101 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 09:10:45.42
周髀算経で短里を計算でき、
伊作含め先人の様々な計測による実証とも一致する。
短里相当の距離を採用するのは、
全く問題がないと言える。
102 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 09:15:10.59
短里に対する実証結果が増えるのは、
短里の概念をより確実にすることであって、
悪いことではない。
103 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 12:12:43.61
>>48 :伊作:2011/09/10(土) 19:07:13.81
>●『三国志』のいう「方」は面積表示だ。
×
>●面積は正方形に見立てて表記する。これが不動の大前提だ。
◎
>●面積の最小単位が6尺平方、5尺平方だ。いくら大きくなっても「平方」だ。
???意味不明。
>●方で表す面積数値あくまでも一辺の寸法で表記する。
??
>●面積表記を外周距離や円周で表記するバカがいら連れてこい。
馬鹿はお前だ・
>>13 >>彼の主張は、 「方可四千里」とは一辺の長さが4000里の正方形の面積です。
>yes。オフのコース。
>どいつもこいつも知ったふりして勝手な解釈を並べているが、恥をかくのは俺ではない。
「方可四千里」とは一辺が千里の正方形の面積を言う。
『説文解字』に、《可》とは「肯也」とある。
「肯・こう」は〈肯綮・こうけい〉の「肯」を指し、
”骨と骨の間に肉がグッとはまり込んで骨と肉が結合して止まっている部分”を表す。
伊作ちゃん理解できるよね。
『説文解字』による、“ 骨と肉が結合して止まっている部分”が 内部(可)でその外周が「方」。
「方」の内部の「可」が面積を表す。
104 :
どくだみ:2011/09/11(日) 14:44:34.65
遅レスですが、前スレ
>>843さんへ
自危四度至斗六度,謂之析木之次,燕之分也。
>危は27度ありますが、倭人の同星分は危の4度から・・・・
「危の4度から・・・」の「から」は、漢文で言うと、どの文字に当たるでしょうか。
それは「自」です。ですから、「自危」ではなく、「自・危四度」で、「危の四度から」という意味になります。
天球を二十八宿で分割した時の「危宿の四度から斗宿の六度」(自危四度至斗六度)の部分が、
天球を十二次で分割した時の「析木の次」に相当し、そこが地上の燕に対応しているということです。
ですから、
>「自危」とあれは危の初度で所謂「鼻であり始め」にあたるでしょう。
ではありません。
一般的に言えば、「自A至B、C也」(AよりBに至るは、Cなり)という句で、
「AはCの始め」であり「BはCの終わり」という意味です。
「自A」とは「Aというグループに属するものの最初」を意味するのではありません。
だから「危の初度」は関係なく、「危の四度」が「析木の次」の「鼻であり始め」にあたるのです。
そして、「自郡」とは、いくつかある郡の始めの「郡」ではなくて、
女王国に至る萬二千餘里の行程の「鼻であり始め」であるのが帯方郡ということです。
また他の視点から説明すれば、「自危四度至斗六度」という句は、「自・危四度⇔至・斗六度」で、
「危四度」と「斗六度」が「自」と「至」で対応しているように、
「自郡至女王國」という句は、「自・郡⇔至・女王國」で、郡は女王国と対応しているのであって、
自郡の郡は、他の郡と対応しているのではなく、「自郡至女王國萬二千余里」の文に、他の郡の存在は一切かかわりません。
つづく
105 :
どくだみ:2011/09/11(日) 14:47:50.12
>更に、「到」とあり「到」はあくまでも『寄り道かバイパス』ルートに使われる。
三国志の他の部分では、同じ具体的事実を、同じページの中で「至」「到」両様に表現している例はありますが、
「至」と「到」を使い分けていたという証拠は見当たりません。
むしろ、三国志に限らず「至」と「到」は同じ意味で使用されている例は枚挙に暇がありません。
それを「通用」と言います。
先日、「從」に「経由して」という用法があれば七千餘里は洛陽から狗邪韓国の距離の可能性があると書きましたが、
それも、他の部分で、「経由して」以外に解釈しようがないという例文が見つかって始めて説として成り立ちます。
本来は、例文の検証をしてから書きこむべきですが、目の調子が悪く、自分で調査・検証ができない状態なので、
だれかやってくれないかという淡い期待をこめて、書きこみました。
「『経由して』という意味で解釈すれば、倭人伝が矛盾なく解釈できるから、ここは『経由して』の意味だ」
では、学説になりません。
それをやってしまうと、中国四千年の漢文の歴史の中で、倭人伝にのみ一回きりしか登場しない用法があることになります。
今の倭人伝解釈では、陳寿の筆法などと称して、四千年に一回きりの用法が主張されることがあります。
「到」も、他の部分で、確かに使い分けがされているという証拠がなく、
むしろ通用という現象が多数確認されている現状では、
倭人伝でも使い分けされているとは言えません。
終わり
106 :
伊作:2011/09/11(日) 19:30:34.56
>>101 >周髀算経で短里を計算でき、
>伊作含め先人の様々な計測による実証とも一致する。
>>102 >短里に対する実証結果が増えるのは、
>短里の概念をより確実にすることであって、 悪いことではない。
伊作説を短里説の補証か補強に使おうというのだろうが、
この二人はまだ紳士的なもの言いをしているほうだろう。
だが現実論としては、伊作説は短里説とは無縁のところから出ている。
その「確かな論拠」からなる伊作説の確かな論拠である洛陽から遼東まで4000里を、
「司馬懿軍の遼東における討伐距離」としているのが古田説。これも短里だと主張している。
つまり、伊作説の1里の単位が短里説に近いという表層的な部分だけをとらえて
伊作説を短里説の補証か補強に使おうというのだろうが、
伊作説を補証か補強に取り込む「筋」は古田説にはない。
107 :
伊作:2011/09/11(日) 20:03:11.58
●歴史記録の凄さ
一定以上に高官や将には、史官が配属される。この史官が、事実を事実として記録したものが、
後世の歴史家の豊富な知識とすぐれた考証眼のふるいにかけられて歴史書に記録される。
その結果として、我々は様々な人物の列伝までを知ることができる。
むろん、大規模遠征には現代の従軍記者にも似た史官が従軍する。そうして逐一を記録する。
東夷伝の原本となったであろう記録は、この従軍史官の手になるものだろう。
これを「調査記録」といえるか否かは議論の余地があるが、
倭国訪問調査記録はこれよりもある意味で重い。
魏政府側からみれば、民俗学的・地理学的発見である。
当然ながら、使節団には民俗学・地理学・などの専門家が随行しているものと思われる。
そうやって書かれた記録に基づくのが倭人伝だ。
>>96 のローガンの解釈はまったくむちゃくちゃであり、何よりも、
「歴史書の歴史」と歴史書と、歴史記録と歴史書づくりに書に携わった
膨大な人間に対する冒涜だと入っても過言ではない。
こと倭人伝にかぎっていえば、
東夷における民俗学的・地理学的に初の公式記録であり貴重な記録であり、
「歴史書のよき伝統」が息づていた時代の最後の伝だ。
文献に依拠するのだから、もっと文献を尊重するよう切望する。
>>105 パソコンやりすぎで目がおかしいなら、
@ビタミンB
Aそばを食べる(ルチン摂取)
Bブルーベリー(アントシアニン)
C目の運動
がいいぞ。他の持病が原因なら、医者に相談。
目と歯は年を取るに従って誰でもガタが来る部分。
109 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 22:08:10.50
>>106 伊作
>伊作説を補証か補強に取り込む「筋」は古田説にはない。
何か勘違いをしているようだ。周髀算経の1里=76〜77mは古田氏が見出したものではない。見出した
のは谷本茂氏だ。古田氏が割り出した1里=75〜90mが周髀算経の1里=76〜77mによってほぼ正しか
ったとされただけだ。伊作氏も古田氏と原理的には同じ試みをしただけであり、周髀算経の1里=76〜
77mとは筋の違うものである。
周髀算経にある「1寸千里の法」の8尺の棒の影の長さ1寸に相当する南北間の距離千里は76〜77kmで
ある。この周髀算経は戦国時代末期から前漢にかけての時期に成立したと見られ、後漢、北周、唐の学者
による注も付けられていることから分るように当時の数学書として知識層に知られていた。
このようなことであるから、倭人伝の原資料を書いた者がこの周髀算経の里を用いたとすればほぼ説明が
つくのである。
なお、周髀算経の1里が76〜77mであることは現代の我々にはわかることであるが、当時はメートル原器
みたいなものがあるわけではないので、恐らく平均的な大人の歩幅100個分を以て1里としたのではないか
と思われる。歩測であるから誤差も生じよう。また、倭人伝でも里数の最小単位は百里としてかなり丸めて
いる。
110 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 23:13:56.55
>>109 「簡素を旨」とする陳寿が、何故そんな数学書をわざわざ使用したの?
111 :
どくだみ:2011/09/11(日) 23:22:33.88
>>108 ありがとう。
いまのところブルーベリーのサプリのみだったから、
他のも取り入れてみます。
>目と歯は年を取るに従って誰でもガタが来る部分。
確かに、最近、歯も良くないですね。
昨年から何度か歯医者に行っても痛みが治まらなかったのが、
どうやら歯槽膿漏だったみたいです。
112 :
ローガン:2011/09/12(月) 00:36:24.45
>>107 >
>>96 のローガンの解釈はまったくむちゃくちゃであり、
そうかなあ?では伊作レスを検証。
>>99:伊作
>「評にいう。史記・漢書は朝鮮・両越を著わし、後漢朝は西羌を撰録した。魏の世、匈奴遂に衰え、更って烏丸・鮮卑あり、さらには東夷に及び、使譯時に通ず。記述は隨事、なんぞ常なるや!」
>これは、東蝦伝序文と対をなす締めの文章だ。「記述は隨事、なんぞ常なるや!」とは、今鷹真・小南一郎氏の訳を参照すれば、こうだ。
>「歴史書の記録はそれぞれにま時代ごとに随時記録するもので、常に扱うべき記録が定まっているわけではない。だから、先書が記録したものは省いて、「烏丸・鮮卑・東夷」の伝を立てた」。
まずおかしいのは、「時代ごとに随時記録するもの」ではない。出典を明記しフェアなように見せているが、その参照したはずのちくま本には、そのような記述は無い。
それに、これは「記述随事」であり、この「事」とは当然、前にある「使譯時通」を指す。
つまり、「使者通訳が通じた時に得られた情報に従って記述した」が適切な訳だと思う。
次に「豈常也哉」だが、前文の強調の意にはとれないので当然、反問。
「 あに常ならんや」…どうして常態であろうか? つまり「使譯が通じて得た情報を、そのまま記述した。しかし、裏をとれず、その真偽は定かではない。常態を表しているとは言い難いが、とりあえず列記しておく。」
という意味だと思う。
詳しい方ご教授よろしく。どくだみさんよろしく。
113 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/12(月) 02:04:36.23
>>109 >この周髀算経は戦国時代末期から前漢にかけての時期に成立したと見られ
周髀算經の原文には、周髀(8尺棒)と呼ばれるように、
商末から周初(BC1300〜BC1000)に知られていたことを編集されています。
周髀算經は、その原文を戦国末から前漢に編纂したものです。
北極枢の観測データーから上記のことが決定されます。
つまり、1里=76〜77mは周初期の値なのです。
>周髀算経の1里が76〜77mであることは現代の我々にはわかることであるが、当時はメートル原器
>みたいなものがあるわけではないので、恐らく平均的な大人の歩幅100個分を以て1里としたのではないか
商後期から周初期にあった天体観測技術は、以後も断続的だとしても継続したと考えられます。
1里76〜77mは、時代によって変動した値(天体観測誤差)と考えられます。
「里」は、平均的な成人男子の歩長(足長)300個分を以て1里としたのではないか。1歩(長)≒23cm
114 :
伊作:2011/09/12(月) 07:04:48.40
>>112 こういえば分かるか。
「記述は隨事にして、なんぞ常なるや」
>「記述随事」であり、この「事」とは当然、前にある「使譯時通」を指す。
切ってはならん所で切り、つなげてきならん所でつなげる。まやかし論者と素人のやる手法の一つだ。
>出典を明記しフェアなように見せているが、その参照したはずのちくま本には、そのような記述は無い。
またぞろ不当な誹謗か。以下が全文だ。
「評にいう。史記や漢書は朝鮮・両越のことを著わし、後漢王朝の史書には西羌のことが記録されている。
魏の時代にはだんだんと匈奴が劣勢に向かい、代って烏丸・鮮卑さらにはさらには東夷までがあらわれて、
使者や通訳が時おり(これらの地域に)往来するようになった。
歴史の記述はそれぞれの時代に起こったた事を記録してゆくものであって、
扱わねばならぬ対象が常にに定まっているものではない。
(だから両越や西羌の伝を省いて烏丸・鮮卑・東夷」の伝を立てたのである)
他の卑怯者たちのように黙りこくって消えるのではなく、無礼の始末だけは・つけろ。な
>どくだみさんよろしく。
知ったふりのど素人我流野郎の意見など聞く必要はない。
>>114 知ったふりのど素人我流野郎の意見
お前のことじゃろうが。
細かいことだが、シロート臭くてかなわん
「なんぞ常なるや」
じゃなしに
「なんぞ常ならんや」
と読んでくれんか?
117 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 11:56:23.86
>>110 >「簡素を旨」とする陳寿が、何故そんな数学書をわざわざ使用したの?
>>109をよく読めばわかるだろ。陳寿が「そんな数学書をわざわざ使用した」のではなく、陳寿の見た
原資料に用いられた里が周髀算経の里だったとしたら説明がつくと言っている。
118 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 12:11:34.35
妙な解釈が必要で、解読が必要な計算方法よりは、
当時の知識人なら当然知っている数学書の基本的な手法のほうが、
「簡素」ではなかろうかと思う。
陳寿は、原資料(使者の報告書)の里をチェックなんかできないだろ
実際に自分で行った訳でもなし。
原資料の里程記載をそのまま転載してるだけだろ。
「文章の簡潔さ」とは無関係だよ
120 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 13:30:03.52
>>104 :どくだみ さん
>「危の4度から・・・」の「から」は、漢文で言うと、どの文字に当たるでしょうか。
>それは「自」です。ですから、「自危」ではなく、「自・危四度」で、「危の四度から」という意味になります。
は、了解です。
>天球を二十八宿で分割した時の「危宿の四度から斗宿の六度」(自危四度至斗六度)の部分が、
>天球を十二次で分割した時の「析木の次」に相当し、そこが地上の燕に対応しているということです。
「析木の次」とは「斗六度」を刺しての言で「自危四度至斗六度」全体を刺したものではないでしょう。
「自危四度至斗六度」に対応しているのは、燕ではなく『斉・呉・粤』でしょう。
燕が対応しているのは、斗六度、箕11.25度、尾18度です。
「自危四度至斗六度」は倭人の分野が『斉・呉・粤』と同星分野にあるという意で記述されている。
>一般的に言えば、「自A至B、C也」(AよりBに至るは、Cなり)という句で、
>「AはCの始め」であり「BはCの終わり」という意味です。
「自A至B、C也」に「自危四度至斗六度,謂之析木之次,燕之分也」を嵌めると
自Aは自危四度、至Bは至斗六度、C也は謂之析木之次。燕之分也。
で、「燕之分也」とは『斗六度至尾十八度』。
「AはCの始め」のAは「自危四度」、Cの始めは「燕之分也」である「謂之析木之次」に当たる「斗六度」。
「BはCの終わり」のBは「斗六度」、Cは「自斗六度至尾十八度」で
論旨のベクトルを反転させている。
>「自郡至女王國萬二千余里」の文に、他の郡の存在は一切かかわりません。
「自郡至女王國萬二千余里」も、「自危四度至斗六度」それぞれの二点間で成立してはいないでしょう。
もし、二点間で成立しているなら、「自郡至女王國萬二千余里」の一節が
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」につずけて「自郡至女王國萬二千余里」でことたりる、が
「自郡至女王國萬二千余里」は「其南有狗奴國」迄一連の行程叙述の終焉の後に記述してあるのは、一連の行程を引き受けているからであろう。
漢文自体の解釈がどうあろうと、陳寿の意を汲み取らなければ明解な解釈とはいえないだろう。
121 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 13:46:51.77
>>119 >陳寿は、原資料(使者の報告書)の里をチェックなんかできないだろ
>実際に自分で行った訳でもなし。
陳寿は下記にあるとおり、
魏志倭人伝は、一里は1800尺で三百六十歩で一歩は五尺で記述している。
(一尺≒24cm)
「壹【臺】與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人
貢白珠五千孔大句珠二枚異文雜錦二十匹」
解るかな? 解らないだろうな!
は??
123 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/12(月) 14:20:24.72
>>121 >魏志倭人伝は、一里は1800尺で三百六十歩で一歩は五尺で記述している。(一尺≒24cm)
解らない。
魏志倭人伝では、一里は300歩で1歩は約23cmで記述している。
>「壹【臺】與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人
>貢白珠五千孔大句珠二枚異文雜錦二十匹」
解る。晋代も短里約70mが使われていた。
短里70〜80mは、隋代(唐初期650年頃迄)まで使われ続けていたのである。
隋書の東夷傳も全て短里約80mで書かれている。
124 :
ローガン:2011/09/12(月) 15:22:07.63
>>114 伊作
>他の卑怯者たちのように黙りこくって消えるのではなく、無礼の始末だけは・つけろ。な
おいおい、無礼者はどっちかな? 君は反論の論拠にちくま訳を引用したようにしながら、その文面は改竄しているやん。そんな明らかなルール違反をしながら、
>
>>96 のローガンの解釈はまったくむちゃくちゃであり、
は、ないだろう。まあ、指摘したら訂正したようなので、もういいけど。
125 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 15:37:05.77
>>124 ローガン
>
>>114 伊作
>>他の卑怯者たちのように黙りこくって消えるのではなく、無礼の始末だけは・つけろ。な
その件について一言。
伊作の「6倍強説」は短里説などとは異なる独自の優れた説だと自慢していたが、結局は古田氏やその他の
アマチュア諸氏がやっていたのと原理的には同じ手口のものにすぎない。大口叩いた始末を・つけろ。な。
126 :
ローガン:2011/09/12(月) 16:34:25.30
評曰:史、漢著朝鮮,兩越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸,鮮卑、爰及東夷、使譯時通、記述隨事、豈常也哉!
は、魏書第三十の評である。勿論、三十とは烏丸鮮卑東夷の伝。
その冒頭、烏丸伝の最初に「烏丸,鮮卑即古所謂東胡也。其習俗,前事、撰漢記者已録而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變云。」とある。
意味は、「漢代の記録が既にあるので ここでは再掲せず、漢末魏初以降のことのみ取り上げた。」だろう。
次に東夷伝の冒頭
「中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」
意味は「前史に欠けた所を補う」だろう。
いずれもその伝の冒頭で、「前史には無い部分を書くんだ」と編者は、都合二度にわたり、ことわりをいれている。
これによって、読者は当然、編者が当巻において、前史に出てくるものは省いてあることはわかっている。
であれば末尾の評で、「歴史の記述はそれぞれの時代に起こった事を記録してゆくものであって、扱わねばならぬ対象が常に定まっているというものではない。(だから、両越や西羌の伝をはぶいて、烏丸鮮卑東夷などの伝をたてたのである)」(ちくま本p.477)
などと同じ事を繰り返しいう必要など無い。
という事は「使譯時通、記述隨事、豈常也哉!」に対する上記の訳が 誤りであろうと思う。
127 :
伊作:2011/09/12(月) 18:58:08.66
>>124 >その文面は改竄しているやん。
意味はどうだ。違っていたか。一字一句同じに書かなくちゃ改竄か。
俺が今までそんな姑息なマネをしたことがあるか。
>>126 名前
くどいな。
本論は「東夷調査は天子政府の文化事業」という俺の見解に対する異論だ。
それとはほとんど無関係の文章を持ち出して、おかしな会社をした上での横車だ。
俺もくどくいうぞ。
これは東夷伝序文と密接な関係があって、この文章単独ではない。
東夷伝序文が、漢朝の西方調査に並ぶ偉業である旨の自負をうたっている。
(これに欠けていたいた部分を補うものだといってる)。天子政府の文化史事業だ。
この締めの文章はさらに、『史記』『漢書』と後漢王朝の文化事業としての
周辺異民族の調査記録について触れてから、魏朝が初めて東夷調査をした自負と誇りをまじえて、
「歴史記述は〔随時に〕記録すればいい」とのべているのだ。
これは文献解釈の問題ではない。
歴史記録と歴史書編纂は、中国王朝が文化事業の目玉の一つだ。常識の問題だ。
きみがちょくちょくやってくけることだが、
●意図的誤解をしておいて、これを論拠や反論材料に使うのを「論拠ねつ造」という。
128 :
伊作:2011/09/12(月) 19:01:41.42
×おかしな会社をした上での横車だ。
○おかしな解釈をした上での横車だ。
×歴史記録と歴史書編纂は、中国王朝が文化事業の目玉の一つだ。
○歴史記録と歴史書編纂は、中国王朝の文化事業の目玉の一つだ。
×きみがちょくちょくやってくけることだが、
○きみがちょくちょくやってくれることだが、
129 :
伊作:2011/09/12(月) 19:13:05.99
>>125 >伊作の「6倍強説」は短里説などとは異なる独自の優れた説だと自慢していたが、
今までに登場したことのない根拠を提示したろ。
>結局は古田氏やその他の アマチュア諸氏がやっていたのと
>原理的には同じ手口のものにすぎない。
タコ。韓伝と倭人伝の尺度が異常なのは誰にでも分かるぜ。
それをこれまでは、誇張だ・創作だ・短里だとやってきたんだろが。
俺と同じ手法の実例があるならばそれをここに提示しろ。
できなければ、ハッタリのホラと断定する。
>古田氏やその他の アマチュア諸氏がやっていたのと
>原理的には同じ手口のものにすぎない。
俺の投稿を読んでいないのか? 俺の論拠は知っているのか?
古田説は、俺が尺度の倍率計算の論拠とする洛陽から遼東までの4000里を、
司馬懿の遼東における公孫淵「討伐距離」として、短里にしてしまっている。
根拠も原理も古田説とはまったく違う。
古田自ら魏の公式尺度ではないとした4000里を
魏の公式尺度として割り出した俺の手法が同じとは、どんな感性してるんだ?。
>大口叩いた始末を・つけろ。な。
大口上等。
ぼんくら頭で俺説を古田説の亜流にしてしまおうなどすると、もっと牙をむくぜ。
130 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 19:23:06.76
短里と同一視してほしくないなら、それはそれでいいんだよ。
他に短里の根拠はいくつもあるから、別に困らない。
結果としてほとんど差がない以上、考慮から外して問題ない。
131 :
伊作:2011/09/12(月) 19:45:55.12
>>130 >短里と同一視してほしくないなら、それはそれでいいんだよ。
当然だ。俺はわざわざ自分のサイトでも断っている。
「私はこの尺度を短里などとはいわない」。
>他に短里の根拠はいくつもあるから、別に困らない。
短里説の補強とか正当化に伊作説を使う場合には、
伊作説の手法を正当と認めた上で、正面から申し出るよう。
あくまでも次元の異なる「同等の意見」の一つだ。断じて古田亜流などではない。
この2〜3日の発言をみると、油断も隙もあったものじゃない。
だからこそ、洛陽から遼東まで4000里を短里とする古田説を紹介したのだ。
132 :
ローガン:2011/09/12(月) 21:22:03.95
>>127:伊作
>本論は「東夷調査は天子政府の文化事業」という俺の見解に対する異論だ。それとはほとんど無関係の文章を持ち出して、おかしな会社をした上での横車だ。
なんで無関係…
>魏朝が初めて東夷調査をした自負と誇りをまじえて、「歴史記述は〔随時に〕記録すればいい」とのべているのだ。
だから、序文にあるやん。いいかい、張騫の西域使節団の功績と対比させているのは、
天子が「絶域」と見なす元凶となったや、公孫氏を誅殺した事や背いた位宮を追った事。いずれも軍隊がもたらせた情報による東夷の把握。
しかし、軍隊を派遣していない地域については、「使譯時通」通使による情報しかない。だから 「情報の確度は定かではないが裏をとれる術も無いので列記しておいた。」だ。
随時に、じゃない。「事にしたがいて」だ。 通使による情報に従って記述した。
又、後程。
133 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 21:55:09.37
>>131 あー、頑なな理由が何となくわかった気がしたよ。
短里だと古田説の下になると思ってるからかな?
古田短里説より前に、すでに短里を提唱した人がいるんだから、
古田先生でさえ、短里説提唱者じゃないよ。補強しただけだ。
それもかなり強引な所があるのも事実だし。
この古田説も、周髀算経説も、そして伊作説もそういう意味では
「同等」だよ。
他の多数の説もね。
134 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 22:01:51.33
つづき
要は、公里より短い里が存在し、
多くの人がその根拠を探した。
そして、それはたくさん見つかった。
というだけのことさ。
>>134 >そして、それはたくさん見つかった。
と思ってるだけ
>>135 具体的な反論もせず負け犬の遠吠えばっかでむなしくない?
137 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 22:45:09.45
>>129 伊作
>タコ。韓伝と倭人伝の尺度が異常なのは誰にでも分かるぜ。
>それをこれまでは、誇張だ・創作だ・短里だとやってきたんだろが。
>俺と同じ手法の実例があるならばそれをここに提示しろ。
>できなければ、ハッタリのホラと断定する。
韓の方四千里や、對海国の方可四百餘里や一大国の方可三百里などを計算して1里がどれくらいの値になるか
という検討のやり方において同じだろ。それを原理的に同じ手法と言う。古田氏の「洛陽から遼東までの4000
里を、 司馬懿の遼東における公孫淵「討伐距離」として、短里にしている」のと君の結果が違うのは四千里が
どこからどこまでかという点における解釈の違いによるものだ。原理の違いではない。
>>136 たくさん見つかったんなら、ちゃんとした学会で短里が認知されてるはず。
ところが、見つかった見つかったっていうのは、古田氏周辺の身内ばかりで、
他からは全然相手にされてないやん。
どっちが遠吠えで虚しいのかいなと思うよ。
>>138 短里説は十分市民権得てるだろ
あきらかに長里で換算できないのがいくらでもあるんだから(東夷伝は顕著)
140 :
サガミハラハラ:2011/09/12(月) 23:10:48.59
いいですか。有る時代の歴史書に、複数の里単位で書かれていることはありません。
もしあるとするならば、長里短里の区別がつくように書かれているはずです。なんの区分けもなく、まじりあってかかれていることはないのですよ。
例えば、百里(長)、百里(短)のように区別がつくようにね。
これが常識です。
141 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:16:27.20
>>139 市民権を得るというのは、普通の学会で通説として認められるということ。
古田史学の会じゃなくて。
白髪三千丈は公定丈では長すぎるので、これは短丈だ。
髪の長さを長くても身長程度の180cmと見積もれば、一丈は0.6mmだ。
これこそ、歴史に埋もれていた短丈だ。
私は、短丈を発見した。
短里の証拠って、こういうのばっかじゃん。
142 :
ローガン:2011/09/12(月) 23:35:48.83
サガミ先生に同意。短里も長里も無い。皆が共有した里があるだけ。
短里など無い。「有るんだ!」と言い張るなら、その存在を示す証拠を提示すればいいだけ。
これは、論証や計算など一切必要のない類いのもの。 繰り返す。論証や計算など一切必要ない。証拠を提示すれば済む事。
「短里はあった!」と主張するなら、その証拠を出せば良い。簡単な事だ。
143 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:44:16.50
>>142 ローガン
周髀算経の存在が証拠だね。漢や魏などの王朝が定めた里は周髀算経の一寸千里の法の里とは異なるが、
公孫氏ののちでも帯方郡の官吏として採用されていた韓人達は周髀算経の里を用いていた可能性がある。
144 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:48:16.15
そういや、昨日の方4000里も、短里でやれば、現在の韓国とぴったりだったな。
公里でやれば程遠い数値になる。なんせ6倍以上なんで、面積にすると
36倍と論外な数値。
周囲だから、1/4だ、なんてとんでも説を提唱してるのもいたみたいだが、
面積にすれば、それでも現韓国の2倍である。
145 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:52:39.21
素朴に、公理は魏朝が統一例を出しただけなんで、
魏の国内だけでしか通用しない。
それどころか魏の国内でも、完全に統一されたのは
いつの時期か怪しい。
そもそも、冊封体制に入っていた日本でも、
それに従った形跡がない。
146 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 00:10:16.27
短里だっていう人は、魏の使者が正確な数値を報告したと思ってるんだろう。
なら、聞きたいんだが、
正確な数値を報告しようってくらい真面目な使者が、
なんで皇帝の臣下なのに、皇帝の決めた里じゃなくて、現地人の勝手な里で報告したの?
それとも、数値が正確なら、単位は何だっていいんだよとでも思ったの?
数値をゆるがせにしない真面目な使者が、皇帝の権威はどうでもいいの?
それとも、現地の勝手な長さの里と、皇帝が定めた里の違いもわからないような使者だったの?
147 :
ローガン:2011/09/13(火) 00:14:42.00
>>143 >周髀算経の里を用いていた可能性がある。
悪いが、「幽霊は存在している可能性がある。」に同じ。
可能性を探ったり、懸命に計算したり、いくらしても同じ事。 無いものは無い。
勿論、長里とやらも無い。あるのは公定里。 それでも短里はあると言い張るなら、客観視して誰もが首肯できる証拠を提示すれば良いだけ。あるかないかの議論なんて必要ない。
提示が出来なければ、共有出来る結論は「短里など無い」だ。至極簡単な話。他のネタと違い、蓋然性云々は全く関係ないから。
だからといって九州説自体をどうこう言うつもりは無い。それに出来れば、短里の証拠を知りたいとも思う。
歴代の「里」が異なるのに、ここにいる人たち、どうかしてるんじゃ・・・?
149 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/13(火) 00:27:48.12
>>133 >この古田説も、周髀算経説も、そして伊作説もそういう意味では「同等」だよ。
周髀算經説は古田説の短里の有無について補強したものにすぎない。
古田説は三国志から短里70〜80mを求めている。
古田氏は周髀算經説が出てくる前から短里は周代からあると言っている。
周髀算經説の短里76〜77mは、魏志倭人伝に使われている短里とは異なる。
周髀算經の短里は周代の短里であるからだ。
周髀(8尺棒)によって求められた数値は周初頭のものである。
周髀算經の天体観測に基づく数値はBC1300年からBC1000年の天体状況を示しているからだ。
それは、北極樞(天の正北極点)と大星(北極星)の関係についての記述である。
天の正北極点は地球の歳差運動によって天空を移動しているが、
天の正北極点と北極星の関係は、3000年から3300年昔の北極樞と大星として書かれている。
現在の北極星は小熊座α星であるが、3000年余昔の北極星は小熊座β星であったことがわかる。
周髀算經巻下
「正極之所游 冬至日加酉之時 立八尺表 以繩繫表顛 希望北極中大星 引繩致地而識之
又到旦 明日加卯之時 復引繩希望之 首及繩致地而識其端 相去二尺三寸
故東西極二萬三千里 其兩端相去正東西 中折之以指表 正南北 加此時者
皆以漏揆度之 此東西南北之時 其繩致地所識 去表丈三寸 故天之中去周十萬三千里」
上記には北極樞と大星のなす角度が5°であると書いてある。
これは天の北極点と小熊座β星のなす角度が5°であったことを意味する。
天の北極点と小熊座β星のなす角度が5°であったのはBC1000〜BC1300である。
150 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 00:28:08.30
すくなくとも、倭人伝に置いては公里を使った形跡は一切ない。
公里を使えばパプアニューギニアかマリアナ諸島か、インドネシアか。
客観的に言って公里を使った可能性が一つでもあれば
示してもらいたい。それがなければ公里を使用していないと
判断せざるをえない。
短里を使えば多くの部分で説明が可能だが、
公里では説明ができない。
従って、倭人伝は信用出来ないという話になるわけだが、
この時、説明ができる短里と説明ができない公里
どちらが正しいかは各自で判断するより無い。
いくらでも無意味な言葉の応酬が続くからである。
短里でしか説明できない箇所
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
「始度一海、千餘里至對馬國」
倭人伝の全ての里、その他東夷伝
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺江口、逆水行七千里乃至焉」
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
「(洛陽から)蜀在万里」
その他もろもろ
また短里がなく数字がデタラメなだけだというのなら
そのデタラメな数字の全てが一里=約80mで収まるのは何故か?
数字がデタラメなら約80mを大きく逸脱したものが多数あってもおかしくないように思われる。というかそのほうが自然
にもかかわらずここまでまとまった数字が出るのは、公里とは別の里が混同されていたという証拠
153 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 02:21:21.28
水行20日
水行10日陸行1月
は、無視すべきだとおもう。
陳寿は投馬国と邪馬台国に行ってない。
それに、陸行1月なんて、帯方郡や洛陽に頻繁に行くのに
めんどくさ杉。時間かかり杉。
海の近くですぐ船出せて加羅や百済や帯方郡に
近い場所に首都を置く筈。
しかも狗奴国と一触即発の状況で帯方郡に使いを送って
倭に戻ってから水行20日+水行10日+陸行1月なんて
助けを求めるのに時間かかり杉w以上
154 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 02:23:31.73
だから邪馬台国は筑後国山門郡。以上。
155 :
伊作:2011/09/13(火) 07:29:25.77
>>137 「俺と同じ手法の実例があるならばそれをここに提示しろ」。
>韓の方四千里や、對海国の方可四百餘里や一大国の方可三百里などを計算して
>1里がどれくらいの値になるかという検討のやり方において同じだろ。
ハッタリのホラだったということだな。
韓伝と倭人伝の尺度が異常なのは誰にでも分かる。その先が問題だ。
確かな記録事実からみて「公式尺度とは異なる」という着眼と、
書かれている数値で「1里がどれくらいの値になるか」なんて素人試算とは次元が違う。
これを、「どの尺度で書かれているか」に熱中したのが古田だ。
3者ともぜんぜん違うぜ。稚拙なへ理屈は慎め。
>それを原理的に同じ手法と言う。
原理などとは大げさな。ボキャブラ貧乏か? 探求の方向性が違うのだ。
>古田氏の「洛陽から遼東までの4000 里を 司馬懿の遼東における公孫淵討伐距離」として、
>短里にしているのと君の結果が違うのは
>四千里がどこからどこまでかという点における解釈の違いによるものだ。
卑しいな。卑しすぎる。もっと「ものの道理」が分かる頭のいいのを連れてこい。
功名心に飢えたお前たちが「よだれ」垂らして取り込みたがっている伊作の倍数計算の論拠を、
古田は「司馬懿の遼東における公孫淵討伐距離」などと小細工解釈して否定しているのだ。
>原理の違いではない。
根本的な所で「手法」を間違っている。
古田もその時点では、伊作説のような新しいのが出るとは夢にも思わなかったろう。
とにかく、お前のような奴が古田シンパにいるとはわかったし、俺も十分に警戒させてもらう。
先に予見した通り、この件には「卑しい魂胆」がチラつく。これ以上は醜くなるから終りにしろ。
何にしても、お前は論調も・論法も全体的に稚拙すぎるし、論理性に欠けるぞ。
156 :
伊作:2011/09/13(火) 07:36:12.19
伊作の手法を「古田と同じだ」ということにしたがるのがいる。
手順・手法・論理と方向性の違いを説明しても、へ理屈こねて同じにしたがる。
ますます古田が嫌いになるだけだ。ちっ
157 :
伊作:2011/09/13(火) 08:22:47.93
ローガンしつこいぞ。
●要は漢文の句点のつけ方の問題からだな。
「使譯時通、記述隨事、豈常也哉!」ではない。
切ってはいけない所で区切り、つなげてはいけない所でつなげてる。
性懲りもなく、不正解釈をしておいて、それを論拠や反証とする手口ばかり使う。
↓↓これが、文章的に分かりやすくした句点だ。
評曰:史、漢著朝鮮両越、東京撰録西羌。
魏世匈奴遂衰、更有烏丸鮮卑、爰及東夷、使譯時通。
記述隨事、豈常也哉!」
●きみはこうだ。
・2行目末尾の4文字「使譯時通」を切り離し、
・3行目頭の4文字「記述隨事」にくっつける。(使譯時通、記述隨事)
・3行目「記述隨事」と「豈常也哉」を切り離す。
結果は「使譯時通、記述隨事」となるわけだ。無理があるべ
>「随時にじゃない。〔事にしたがいて〕だ。
確かに〔事にしたがいて〕だ。
>通使による情報に従って記述した。
〔事にしたがいて〕とは、史漢が朝鮮両越を著し、東京が西羌を撰録したように、
それぞれの時代ごとに判明したこと・起きた出来ごとを(記述すれば良いのであって)
という意味だが。
少なくとも市井の素人の我流よりは「博士」の訳のほうが正しい。つづく
158 :
伊作:2011/09/13(火) 08:23:31.58
この我流にしたがって、かく拡大する。
>使訳が通じた時の資料に従って記述したものであり、
>通常の記述とは言い難い。という意味だと思う。
使節や通訳がい加減な報告書を書いたというわけだな。歴史錯誤。
異常な記録なわけだ。使節や通訳を通じて交流したのは異常な事態だったわけだな。
>進軍したところについては信頼出来る軍事情報があるが、
>そうでない所についての資料は、通使によるものなので、
だんだん作文になってきたが、使節の報告資料は信頼できないというわけだな。
>信憑性に疑問あれど、裏をとる術も無いので、とりあえず列記しておいた。 と読むべきだと思う。
歴史家もまた考証するわけでもなく、「信頼できない」資料の記録をそのまま列記したわけだ。
>これは編纂当時の先行史書を含む手持ちの資料の確度に対して言及したもの、と捉えて良いんじゃない?
だから。歴史家が歴史書を編纂するにあたっての「常道」を無視して、
ただ、「こんなんでましたけど?」と、ただ資料をそのまま書いたというわけだ。
先に断言しておいた通り、きみのこの一件の無理解釈は、
歴史記録と歴史書と歴史書編纂に携わった膨大な人間に対する冒涜以外の何ものでもないが。
「歴史記録(東夷調査)は天子政府の文化事業」とは歴史の史実なんだぜ。
こんな陳腐な手法で、帝国の常識たる大前提を覆すだけの説得力を演出できたと思うのか?
でー? ここが本論だよな?
倭人伝の記録の信頼性を落すことに「いかほどに」役立つと思うのか?
159 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 08:24:24.25
水行10日、陸行一月の表記は、隋書より、一月行=80キロ前後と推測される。
隋書内の、240キロほどの距離を、三月、90日で移動したということだが、
それでは一日あたり3キロ弱となってしまう。これはあまりにも短すぎる。
したがって、日数表記は実際に要した日数ではなく、距離の単位の一つであるとする。
この80キロは、短里におけるほぼ千里の距離である。
これから、公里千里を顧みると、公里千里では435キロとなり、
一月行としては妥当な距離になる。
推測だが、公里千里相当の距離を一月行とし、千里=一月行が定着。
それがそのまま短里千里も一月行とされたのではないか?
これはただの推測であり根拠はないが。
さらに、これを魏志倭人伝の行程距離に当てはめてみると
不弥国まで、10700里である。
それから投馬国まで水行20日、一月行を反里千里とすると、20日は
短里一月行千里77キロより、短里20日666里51キロとなる。
邪馬台国までは水行10日、陸行一月より、合計40日
つまり、短里40日行1333里102キロとなる。
この里程を合計すると、10700+666+1333=12700里である。
これは偶然にも、倭人伝の最終距離として記載されている
万二千余里に当てはまる。
ついでに言うなら、投馬国の距離666里を省いても合計12034里で
成立することから、投馬国と邪馬台国は放射式の可能性もあるが、
よくわからない。
160 :
伊作:2011/09/13(火) 08:30:42.28
ローガンに107を再掲。
一定以上に高官や将には、史官が配属される。この史官が、事実を事実として記録したものが、
後世の歴史家の豊富な知識とすぐれた考証眼のふるいにかけられて歴史書に記録される。
その結果として、我々は様々な人物の列伝までを知ることができる。
むろん、大規模遠征には現代の従軍記者にも似た史官が従軍する。そうして逐一を記録する。
東夷伝の原本となったであろう記録は、この従軍史官の手になるものだろう。
これを「調査記録」といえるか否かは議論の余地があるが、
倭国訪問調査記録はこれよりもある意味で重い。
魏政府側からみれば、民俗学的・地理学的発見である。
当然ながら、使節団には民俗学・地理学・などの専門家が随行しているものと思われる。
そうやって書かれた記録に基づくのが倭人伝だ。
>>96 のローガンの解釈はまったくむちゃくちゃであり、何よりも、
「歴史書の歴史」と歴史書と、歴史記録と歴史書づくりに書に携わった
膨大な人間に対する冒涜だと入っても過言ではない。
こと倭人伝にかぎっていえば、
東夷における民俗学的・地理学的に初の公式記録であり貴重な記録であり、
「歴史書のよき伝統」が息づていた時代の最後の伝だ。
文献に依拠するのだから、もっと文献を尊重するよう切望する。
161 :
伊作:2011/09/13(火) 08:48:30.31
それでは漢文読み方教室。
●中国文学専門家の読み
「評にいう。史記・漢書は朝鮮・両越を著わし、後漢朝は西羌を撰録した。
魏の世、匈奴遂に衰え、更って烏丸・鮮卑あり、 さらには東夷に及び、使譯時に通ず。
記述は隨事、なんぞ常なるや!」
●ローガン流・我流読み。
「評にいう。史記・漢書は朝鮮・両越を著わし、後漢朝は西羌を撰録した。
魏の世、匈奴遂に衰え、更って烏丸・鮮卑あり、 さらには東夷に及び、使譯時に通じ記述は隨事。
なんぞ常なるや!」
「隨事」を受けての「なんぞ常なるや」であることは明白で、
「記述は隨事、なんぞ常なるや!」が正しい。
↓↓↓ほとほとあきれるばかりだが、詭弁を弄するにも詰めが甘すぎる。なーんだこれ。
>使訳が通じた時の資料に従って記述したものであり、
>通常の記述とは言い難い。という意味だと思う。
「なんぞ常なるや!」が「通常の記述とは言い難い」だと・わらわら。
>通使によるものなので、 信憑性に疑問あれど、裏をとる術も無いので、とりあえず列記しておいた。
>と読むべきだと思う。
>これは編纂当時の先行史書を含む手持ちの資料の確度に対して言及したもの、と捉えて良いんじゃない?
「私の編んだ伝には、使節がいい加減に書いた記録を含み、てきとーな箇所があります」と、
編纂者自身がことわっているというわけだ・わらわら。
162 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 11:45:52.08
>>139 >あきらかに長里で換算できないのがいくらでもあるんだから(東夷伝は顕著)
そんなことはない。
『韓の方四千里や、對海国の方可四百餘里や一大国の方可三百里』は
一里=1800尺 一尺=24cmで何も問題ない。
問題は、比定地を間違えていることだ。
比定地を間違えている、だから短里とかを発明しなければ着地点がみつからないだけ。
ご苦労なことです。
163 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 11:57:36.82
方4000里を公里435mで計算すると、
300万平方キロとなり、これは現在のインドの大きさに匹敵する。
短里77mで計算すると現在の韓国の大きさに匹敵する。
>>162 比定地を間違えてる?
どこがどうまちがえてるのか教えてもらおうか
165 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 14:17:25.80
>>163 >方4000里を公里435mで計算すると、
>300万平方キロとなり、これは現在のインドの大きさに匹敵する。
方4000里は面積ではありません。よ。
>>164 >比定地を間違えてる?
>どこがどうまちがえてるのか教えてもらおうか
狗邪韓國の比定地を間違えたら
おそらく、全ての比定地を間違えることになる。
。
>>165 別に間違ってないがお前が言う狗邪韓國はどこなんだ?
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺江口、逆水行七千里乃至焉」
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
「(洛陽から)蜀在万里」
とりあえずこれも訳してみろ
多分同じことは言えなくなるぞ
167 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 15:00:14.09
>>160 伊作
ローガン氏との論争においては伊作氏の論の方が迫力があり優勢と感じられる。ただし、下記の@については
そうだろうと思われるが、A、Bについては伊作氏の推測の域を出ないので裏付けが欲しい。
>魏政府側からみれば、民俗学的・地理学的発見である。 ・・・@
>当然ながら、使節団には民俗学・地理学・などの専門家が随行しているものと思われる。・・・A
>そうやって書かれた記録に基づくのが倭人伝だ。・・・B
伊作氏は以前、天子の詔を携えた使者は使節であり軍人などが任じられるものではなく、ましてや郡の太守
如きが派遣できるものではないというような趣旨のことを言っていたと思うが、倭人伝では「正始元年、太
守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國」とあり、帯方郡太守の弓遵が軍人の梯儁に詔書と印綬を奉じさ
せて倭国に向かわせている。
景初2年12月に発せられた詔であるが、この詔の取り扱いと使者の派遣については帯方郡太守に委ねられて
いたように見てとれる。ちなみに、明帝紀や三少帝紀 齊王芳にはこの倭国への使節派遣の記事はない。
つまり、魏が倭の地理や風俗などの調査という文化事業に熱意を持って取り組んでいた様子は見られない。
当時、魏は公孫氏を滅ぼしたとは言え呉、蜀とは死闘を繰り広げていた時代であり、中央政府としてはそれ
ほど余裕はなく倭国のことは帯方郡に任せていたのではないか。帯方郡は梯儁を派遣するにあたり文官や警
護兵とともにある程度の「民俗学・地理学・などの専門家」を同行させたかも知れないが、これも倭につい
ての知識を持つ半島人であったろう。
168 :
伊作:2011/09/13(火) 15:15:47.27
>>167 つかれる野郎
>当然ながら、使節団には民俗学・地理学・などの専門家が随行しているものと思われる。・・・A
>そうやって書かれた記録に基づくのが倭人伝だ。・・・B
いずれも中国王朝の常識だ。推測などではない。
>伊作氏は以前、天子の詔を携えた使者は使節であり軍人などが任じられるものではなく、
>ましてや郡の太守 如きが派遣できるものではないというような趣旨のことを言っていた
その通りだ。王朝における制度と儀礼の常識だ。
>倭人伝では「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國」とあり、
>帯方郡太守の弓遵が軍人の梯儁に詔書と印綬を奉じさ せて倭国に向かわせている。
この文章の背後には王朝儀礼の常道として、魏天子が派遣した使節がきている。
「梯儁等」「張政等」とあるのはここに使節などがいたことを示す。
弓遵はその中継ぎと、護衛を兼ねた先駆として梯儁をつけたにすぎない。
>明帝紀や三少帝紀 齊王芳にはこの倭国への使節派遣の記事はない。
使節派遣の記録は帝紀にある決まりはない。
>魏が倭の地理や風俗などの調査という文化事業に熱意を持って取り組んでいた様子は見られない。
くだらないことを論拠にしたバカな二段論法。
>中央政府としてはそれほど余裕はなく倭国のことは帯方郡に任せていたのではないか。
推測の域を出ないので裏付けが欲しい。
>これも倭についての知識を持つ半島人であったろう。
「倭についての知識を持つ半島人」が漢文で記録できたというわけか?
これも推測の域を出ないので裏付けが欲しい。
他人「書いてない」などというときは、己も書いてないことを推測で述べるな。
169 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 15:25:28.98
ガンジス川は延長2500km、ブラマプトラ川なら延長は2900km
逆水行七千里乃至焉 は問題なし。
去日南可七千里
起点は西安市、西安からブノンペンなら2560km、西安からスラートターニーなら3,000.267km
何も問題なし。
旬日便退,蜀在万里のこと?
>>169 ガンジス川の延長がなんで関係あるんだよ
河口から川を七千里遡上した所に天竺 がある訳だ
何もガンジス川の端から端までを表してる文じゃないからな
西安はどっからでてきた?「去日南」って書いてあるだろ
>旬日便退,蜀在万里のこと?
うん
171 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 16:09:56.34
>>168 伊作
勝手な野郎だぜ。
>中国王朝の常識だ。
>王朝における制度と儀礼の常識だ。
その常識とされることが常に守られていたと言うのか?倭人伝の記事はその常識に沿っていないではないか。
「護衛を兼ねた先駆として梯儁をつけたにすぎない。」と言うが、な〜んでそんな人物の名前が記されて肝心
の使節の名前が記されていないのだ?
172 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 16:28:24.79
天竺がインド全域をさすのなら、どうにも場所が決められないねえ。
三蔵法師なら仏教経典もらってくるんだから、ナーランダ寺院か?
これは河口から700キロくらいだね。
他にも途中にも都市があるからねえ。
173 :
ローガン:2011/09/13(火) 16:34:20.44
>>158:伊作
>少なくとも市井の素人の我流よりは「博士」の訳のほうが正しい。
曲学板で、初めてご一緒するようになってから、この解釈を君に提示するのは三度目。以前に出典は示してある。
元東北大名誉教授井上秀雄氏の解釈だ。(勿論、私見を交えてはいるがね。)
市井の素人でも、君の苦手な考古学者でもない。東アジア古代史の権威だ。
>でー? ここが本論だよな?倭人伝の記録の信頼性を落すことに「いかほどに」役立つと思うのか?
思考方法が逆だ。テキストクリティクとか判るか? 書いてあるのが史実だと考えるのか?違うだろう?
すべて疑ってかかって、その批判に耐えた記述が評価されるんだ。 生憎私達は君のように倭人伝を盲信しないんでね。「倭人伝の記録の信頼性を落とす」ことが「役立つ」とは考えないんだよ。逆だ、逆。
>魏の世、匈奴遂に衰え、更って烏丸・鮮卑あり、 さらには東夷に及び、使譯時に通ず。記述は隨事、なんぞ常なるや!
「なんぞ常なるや!」って何?(笑)反問なのか?強調なのか?どっち?
勿論これは反問の意やね。「記述隨事、豈常也哉!」…あに常ならんや(どうして常態であろうか)
『自身が「記述したこと」が通常ではない。』 なんて、これでは意味が通らない。
よって反問の対象は、随事の「事」。
意訳すれば「通訳を伴った使者が往来するようになった。その話に従って、東夷伝を記述したが
どうしてこれらの記事が東夷の一般的な事情を伝えたものと言えようか」
174 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 16:49:02.36
>>173 老眼鏡の勝ち。
話にならん。
>>171 >使節の名前が記されていないのだ?
伊作は進歩してない。
昔のまま。
「糞して寝ろ」
175 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 16:55:23.73
176 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 16:59:50.29
>元東北大名誉教授井上秀雄氏の解釈だ。
アホな解釈だ。誰もそんな誤訳に追従はしてないだろ。
177 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:06:42.01
>>173 >井上秀雄氏の解釈だ。
そらバカだよ。
>東アジア古代史の権威だ。
文献学者じゃないわけだな。
そういう手合いが文献に口出すとバカなことをいいだすのだ。
もともと、「中国の歴史記録と保管と、歴史書編纂は天子政府の文化事業」という
不動の事実に対するよこ槍がはじまりだ。
そのよこ槍のためにくだらないことに、関係のない文章を勝手に解釈して、
だからてきとーだ。だから文化事業ではないという。
本質論として、てきとーだろうが適当でなかろうが、
「中国の歴史記録と保管と、歴史書編纂は天子政府の文化事業」だ。
つまらん横やりをまで撤回しろ。
次に、
倭人伝は、それまでは伝説か風聞でしかなかった大海の中の倭人の発見記録だ。
漢朝も後漢朝もなし得なかった東夷調査の目玉だ。
バカにするのもい加減せい。そんなくだらない解釈は即刻捨てろ。
みのりがないので・この話は打ち切り。
178 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:17:48.85
>>173 問題は中国古典の読みと解釈の問題だな。
●京都大学文学部史学科卒業の歴史学者・井上秀雄。
●京都大学文学部中国文学科卒業の今鷹真。
●京都大学文学部中国文学科卒業の小南一郎。
経歴をみただけでも後者2名の所見を採るぜ。
それとも、後者2名の所見が間違いだといい切るか?
きみにそれだけの見識と資格があるのか?
著書そのものが後者は訳本だ。
井上秀雄なんて漢文が専門じゃないし、歴史論説を書いてるだけじゃないか。
179 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 17:18:44.63
>>168 >「梯儁等」「張政等」とあるのはここに使節などがいたことを示す。
弓遵はその中継ぎと、護衛を兼ねた先駆として梯儁をつけたにすぎない。
で、「拜假倭王」の魏使の名は?
トニー谷
180 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:19:11.57
>>174 >老眼鏡の勝ち。 話にならん。
てめえの眼力と見識と「お里」けが・その程度ということだ。タコ
181 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 17:20:36.32
訂正
みのりがないのでこの話は打ち切り。→こっちが負けそう。そろそろ矛先を他に向けてくれ〜ツ。
182 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:21:41.82
>>179 >で、魏使の名は?
しらねー。編纂した本人に聞いてみれ。
「なんで使節の名をかかなかったんだ」とな。タコ
183 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:35:20.50
>>181 >そろそろ矛先を他に向けてくれ〜ツ。
みれ。はじめからおかしな横やりだった。
おかしな解釈を垂れてそれを論拠とするいかさま手法だ。
それが通用しなくなると言葉尻や揚げ足や枝葉に分岐して、
わけが分からなくしてるだろ。
毎度のことだが、勝負は最初から見えているのだ。
相手がおかしな解釈をしていることは分かってるから。
おかしな解釈を垂れる奴には俺は絶対に負けない。
俺はおかしな解釈をしないからだ。
184 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 17:36:22.35
有男弟佐治國と書かれた男弟と一大率について
狗奴国との争いにおいて活躍したという記事がないことを基に(=倭人伝に書かれていないとして)
大した働きをしていないとして男弟=一大率説をぶっていたのは誰だっけ?
185 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 17:43:13.32
>>183 >>そろそろ矛先を他に向けてくれ〜ツ。は「みのりがないのでこの話は打ち切り。」という伊作氏の
言の行間を読んで「こっちが負けそう。そろそろ矛先を他に向けてくれ〜ツ」と悲鳴を上げているもの
と診断して書いたものだろう。
186 :
ローガン:2011/09/13(火) 17:44:26.20
>>178 あ、あのなあ〜
どっち先生のほうが偉いとか…経歴がいいとか悪いとか…
そんな子供みたいな事訊かれても困る。
ようは、お題として別々の解釈があるが、それぞれ、そう読むに至った経緯を素人なりに考えてみるのが主旨だと思ってたんだけど。
筆者の経歴での採用不採用の判断は、遠慮しとく。では、この件はこれまでということで。
小南一郎氏といえば、たしか岡村秀典氏とこの…
「この分野の権威」・・・こんな話を持ち出すのは、だいたい畿内説なのが笑える。
188 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:52:02.81
>>186 >どっち先生のほうが偉いとか…経歴がいいとか悪いとか…
>そんな子供みたいな事訊かれても困る。
「偉いとか…経歴がいいとか悪いとか」ではない。
「筆者の経歴での採用不採用の判断」ではない。
「どっちが漢文古典解釈の専門か」の比較による判断だ。
井上秀雄は漢文の専門家ではない。その意味ではただの外野だ。
とことん相手のいい分を誤解するなー。畿内説のクソ野郎どもは。
189 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 17:53:16.47
>>187 井上秀雄は漢文の権威などではないしなー。
恥ずかしいローガンの意見を再掲しておこう
>>173 >元東北大名誉教授井上秀雄氏の解釈だ。(勿論、私見を交えてはいるがね。)
>市井の素人でも、君の苦手な考古学者でもない。東アジア古代史の権威だ。
これで九州説を撃破したつもりなんだろう。
191 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 18:04:49.41
>>190 彼はひどく頭が悪いわけではない。あまり良くもない。
何度か手練手管を駆使して横槍してきたが、ほとんどは仕切れトンボ。
俺には手の内が見えるから、やさしく蹴散らして・ちょん。
「東アジア古代史の権威だ」で、この天才がビビると思ったわけでもなかろう。
192 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 18:10:21.74
>>188 もしかして、史学科は漢文の素人だとでも思ってる?
東洋史ってのは、漢文で書かれた歴史を研究する学科だから、
東洋史専攻ってことは、井上秀雄まさに漢籍文献の専門家ってことだ。
どうしても専攻で区別するっていうのなら、
中国文学は、漢詩文専攻の分野だから、そっちの方が歴史学の素人だろうが。
実際は、そんなことはなくて、この三人は、みな漢籍の専門家なんだけど。
193 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 18:35:24.39
●京都大学文学部史学科卒業の歴史学者・井上秀雄。
井上秀雄って、古代朝鮮史、日朝関係史の専門家なんだってね。
古代朝鮮史って、漢籍読めないと何もできないよ。
漢籍の専門家の上に、分野でも、烏丸鮮卑東夷傳のストライクの専門家やん。
それを「ただの外野」とは。
194 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 19:10:35.69
>>182 呑作
>しらねー。編纂した本人に聞いてみれ。
「なんで使節の名をかかなかったんだ」とな。タコ
アンポンタンの陳寿が書き忘れたんだろうよ〜!
魏志倭人伝ってのは、そのくらいの便所の書なんだろう。
司馬勢に脅かされて書いた史書であるのであ〜る。 イカ
195 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 19:20:19.12
>>193 >それを「ただの外野」とは。
自説に都合の悪いのは、すべて外野。
伊作は、天動説。 唯我独尊説。
アホの極みなり。
消えてナクナレ! タコ焼き
196 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 19:52:14.02
>>192 >>193 >>195 くだらねー読みと解釈を垂れるのは、ここではみなクズだったと呼ばれる。
漢文の訳文を仕事として真摯に取り組んでいる学者と、
歴史論説を書いている学者と、漢文の読みと解釈にえいて比較すべくもあるまい。
比較するまでもなく、井上秀雄の読みと解釈は素人目にクズだ。
197 :
↑:2011/09/13(火) 19:53:32.50
…とゴミクズが申しております。
198 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 20:05:06.40
ローガンが紹介した井上秀雄の読みと解釈はひどいぞ。
素人でもあそこまでバカな読みはしない。
199 :
THE スーパースター :2011/09/13(火) 20:09:29.40
切ってはいけない所でちょちょ切り、
つないではいけないところでつなげる。
なーにが漢文の専門家だ。
やることがど素人と同じじゃないか。
明治の那珂通世とかいう学者も同じことょやってたな。
邪馬台国について「論じる」とみなこうだ。学者がきいてあきれるぜ。
201 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 22:20:57.62
>>195 伊作は自己愛性人格障害なんじゃないかと思ってる。
病気だと思えば、腹もたたんだろう。
1. 自己の重要性に関する誇大な感覚。
2. 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3. 自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たちにしか理解されない。または関係があるべきだ、と信じている。
4. 過剰な賞賛を求める。
5. 特権意識。つまり特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由無く期待する。
6. 対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7. 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない。またはそれに気づこうとしない。
8. しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9. 尊大で傲慢な行動、または態度。
DSM-W-TR 精神疾患の分類と診断の手引き より
202 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 22:33:14.97
>>201 ■自己愛性人格障害(ナルシスト)の原因
子供時代、親が必要以上に過保護だったり、逆に愛情を与えなかったりすると、
「自分」というものをうまく作り上げることができず、見捨てられるのを非常に
嫌がったり、不安に取り付かれるようになっていきます。
その中で自分の精神バランスを保とうと、自分を見捨てた相手に仕返しする、
自分は偉い人間なんだ、というふうな妄想にとり付かれ、そのまま成長してし
まった場合、自己愛性人格障害となります。
【 レ・ミゼラブル 】
. : : :  ̄ ̄ミ: .、
/: : : : : : : : :}_: : : :\
\、__ __彡 : : : : / : : : : : : 、:\: :\_
`¨¨爪i: : : : /:/: : : :}_j_:\ `: ̄ミ: .、
. (_|: : :7:/: : イ厶|__ ミ: :`':<⌒ヽ: }
| i l:| :,旡i/.ノ不i::{》 }斤y、:\ )′
乂从《 ヒ:} 'ー'′ jノ人:\: )__ ,ノ
ノ'i: { ′ ,爪: 、:\(⌒¨´ 伊作クン、どうしたのかしら?
__,ノ:人 ‐ ィ'{: | :ヽ{\{` 自己愛性人格障害かな・・・
`¨て廴:}≧ァ‐; }ハ|从トミ
)'´/ / ,{ _,ノ′人
/⌒'}_ノ/{厂 / \_
ノ{ i/`¨i{ 人/ / ,∠⌒}
rく ∨ i|// { / ∨
{r‐\/ /く{l /⌒ヽ }
∠ ̄ { { / .ノ
/ ̄ ̄`¨ `‐‐くア⌒ヽ、 ´}
{__ ____ ___ / /\_,ノ
204 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 23:34:23.71
なんだか伊作さんが可哀想に思えてきた。ときにはいいことも言うし、文章のうまさもあるなど感心
させられることもあるので、彼の書き込みを楽しみに待つこともあるのだが。そういう好意的な者に
も自分の説に疑問を呈されるといきなり罵倒したりする。罵倒された方はあっけにとられてしまう。
このようなことを数回経験すると伊作嫌いになる。伊作さんの支持者が少ないのはこのようなことに
よるところが大きいのではなかろうか。自己愛性人格障害と見る人もいるようだが、たしかに
>>211 に挙げられた症状があたっているようだ。病気なら怒ってもしょうがないか。
つーか伊作はもう年寄りで自分の説を変える余裕というのはないんだよ。
このまま主張して、主張して、異論は罵倒して死んでいくだけ。
発展性のない哀れな人間として見ておかないとね。
スーパースターは「随事」を「随時」と見間違えただけだろ。
どぐだみさんにブルーベリーを別けてもらえばいい。
伊作は古田と性格がそっくりだよ
自分の説と違うものは一切認めない
古田はそれなりに世の中に影響力を持ったけど
伊作はこんな便所の落書きネットの中で吠えるだけだ
208 :
ローガン:2011/09/14(水) 00:14:00.27
>>200 私が言い出した事なんで…
井上「魏志倭人伝は、ご存知の通り3世紀後半のものですが、そこに書かれていることを、私の文献史学の立場で言うと外国資料です。
中国人から見て、外国をどのように理解したかということです。そのことが従来はあまり議論されてこなかった傾向がありますので、邪馬台国の論議に入る前に一言だけ申し添えたい。
中国人が朝鮮や日本をどうみているかというと、漢書地理志分野誌でいいますと 東夷は箕氏朝鮮だとか、朝鮮は箕子の教化の行き届いたところだとか、孔子が住みたいと言ったところだとか、とにかく儒教の聖地と考えようとしている所です。
それを受けて後漢書では、そういう聖地のある朝鮮が位置を変えている。秦までの東夷と以後の東夷とは違うのだといいます。
すなわち、秦の始皇帝までの東夷の現在の山東省から安徽省にかけての地域であるという。ところが秦の始皇帝によってこの地域の東夷諸民族が漢民族に包含されてしまい、その後は遼寧省方面から朝鮮地方の住民が東夷として位置づけられてきた。
その東夷というのは東方崇拝もあり、しかも前の時代からの儒教の中の東方崇拝と結びつき、聖地と考えようとするのです。一面からいうと植民地なんです。前108年から朝鮮四郡は植民地だという観念がある。
一方からいうと儒教の聖地である。ですから朝鮮といっても同じ所とはかならずしも考えていないらしい。植民地の朝鮮四郡は海を渡っていく、儒教の聖地である朝鮮は陸を通っていくわけです。そういう表現になっている。
そうするとどうも、中国人の東夷観というのは、かならずしも我々が今考える程簡単なものではなく、例えば二世紀後半に書かれた後漢の応劭の漢書地理志の注によると、朝鮮は三つ出てくる。遼東郡は先ほどの朝鮮の衛満が都した所であると考えた。
玄菟郡は異民族の朝鮮国である。すなわち、東夷の朝鮮の国である。それに対して、楽浪郡は周の武王が箕子を封じた朝鮮であると注をしている。
ですから、それを更に一般化して考えてみると、東夷に対する考え方は多様であって、従来考えてきたように、同じ呼称で同じ所だけを呼んでいない。
畿内説って、論破されると話をそらすんだな。
べつにかまわんけどね。
210 :
ローガン:2011/09/14(水) 00:41:35.40
例えば、わい貊というものも これは先学が調べられたように昭和初年には一つだと考えた。ところが、昭和二十年代の研究では、民族名として二つに分かれていたと考える。それが三十年代の研究になりますと、いや もっと沢山組み合わせがあるという考え方に変わっています。
これはどこに問題があるかというと、中国人の史書が東夷に関しては十分にわかっていないということです。 そういう大前提の上で、ではどの程度わかっているのかという事が問題になります。
三国志東夷伝の序文によると、夫余や高句麗のように魏が軍隊を出した所については、国の大小や習慣などがわかっている。それに対して沃ソやワイ族、日本海岸の方や韓族、南朝鮮の方は、まだ十分歴史を書く程よくわかっている地方ではない。
一番遠い倭人のことについては色々情報があるため「事にしたがいて記述す。あに常ならんや」と、遠い所だから情報はまちまちなので勝手に此方で整理する訳にいかない。
少なくとも編者の方で考えて、不正確な記事が沢山混入しているので、あまり信用が出来ず、整理出来ないので入った情報は並べておきましょう。というやり方で整理している。
それを現在の研究者の多くは陳寿という人が東方に関心をもち非常によく調べた上で書かれたものだから信頼しなければいけないんだと、一言一句極端な事を言えばすべて、信用しなければいけないということになった。
そういう立場をとるのは、陳寿の編纂方針からいうと無理というか、まちがっている というのが、最初に申し上げておきたい事です。
邪馬台国論もあまり厳密な意味で議論するのは無理だと思います。考古学の成果をできるだけ尊重しながら、それが文献のなかのある部分と重なるかどうかという事のほうが、現段階でいえば重要ではないかと思います。
(以上、シンポジウム日韓古代史の謎 1992 p.73〜75 より)
おやおや、魏志倭人伝には、倭についての極めてリアルな記述があるぞ。
そもそも魏を攻撃していた呉は朝鮮半島まで進出していたから、
邪馬台国が呉と結託してしまえば極めてマズいことになるわけで、
呉と邪馬台国を和合させずに、邪馬台国だけ魏に惹きつけておきたい状況だった。
そういう中で、邪馬台国と呉が組んでいないか、その危険性はないかを
しっかり把握したいはずなのだ。
悪いけど、邪馬台国が儒教の聖地だと思っている中国人などいないよ。
孔子は、下克上で礼が行われていない中国より、倭人のほうがマシと嘆いただけだ。
井上秀雄の見解は、一つの見方ではあるが、
魏志倭人伝・東夷伝の序文の主張からはズレてるね。
東夷伝序文を読むと分かるが、
「わが王朝は、遂に東夷、特に倭人の詳細を入手したぞ」
ていうことが一番の主張。
これと東夷伝末尾の評は、矛盾しない。
213 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 04:37:35.74
>>212 漢文の「遂」は、「ついに入手したぞ」じゃなくて、「ついでに入手したぞ」の意味だよ。
動詞だと「遂」は「やりとげる」の意味になるけど、
副詞だと「ついでに」とか「その結果」とか「結局」とかの意味になるよ。
漢和辞典ひいてみて。
214 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 06:21:26.62
>>210 >考古学の成果を出来るだけ尊重しながら…
黒塚古墳の棺の様子を見ると、画文帯神獣鏡が頭の付近に一枚、棺を取り囲むように三角縁神獣鏡が
三十数枚。これで、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと確信した考古学者も多かった。
椿井大塚山古墳は黒塚古墳と良く似た古墳ではないかと思う。しかし、当時の評価は全く逆で、
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡で、三角縁神獣鏡が多数出土する近畿地方こそ邪馬台国だという
結論だった。
一体どうしてこのようなことになったのか。考古学の問題点もこの付近にあると思う。
要するに、何を発表するかは考古学者の勝手。遺物をどのように解釈するかも考古学者の自由。
これだったら、思ったような結論が導けるということになる。
まして、発掘されて表に出てくる遺跡・遺物が全体から見るとごくごく一部であることを考えると、
これを尊重することは危険だとさえ思えてくる。
215 :
THE スーパースター :2011/09/14(水) 06:39:10.94
ローガン。
思った通り。俺はうすうす感じていたがはっきりしなかったので発言を控えていた。
井上って学者は何のことはない、考古重視で文献の信憑性なきものにせんとする
畿内説の考古学者の生き方そのものじゃないか。
だから、妙な読みとて解釈をしてまで倭人伝の信憑性を否定しにかかったのだな。
きみの生き方もまったくそれを踏襲しているだけだ。
>邪馬台国論もあまり厳密な意味で議論するのは無理だと思います。
>考古学の成果をできるだけ尊重しながら、
>それが文献のなかのある部分と重なるかどうかという事のほうが、
>現段階でいえば重要ではないかと思います。
紳士づらして意図的誤解を吹く。俺の嫌いなタイプだ。
まったく邪馬台国を論じる学者にろくな奴はいない。
ほれ、の手合いに対する批判もとっく掲載してあるぜ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/7ce9c2e491ed6dc38110a57708940aee わが国の邪馬台国論には、実にいろんな方法がある。
よくみかける『倭人伝』への責任転嫁とはまた違って、
『倭人伝』の信憑性を懐疑して文献の資料価値を無に帰そうとする手法もある。
以下に、『邪馬台国』(朝日新聞学芸部:朝日文庫)から 拾って、それらを冷徹にながめてみる。
216 :
THE スーパースター :2011/09/14(水) 06:49:44.80
>>206 >「随事」を「随時」と見間違えただけだろ。
もう一つ。
「なんぞ常なりや」は「難座常ならなんや」間違いという指摘があった。
●善意の過失を恐れないユープンマインドを見習え。
82でもそうだが、論証・反論・用例提示に、原文をそのまま出す奴が多い。
これは自分の読み下しに自信がないことと、その裏返しとして、
へたに読み下しや意味解釈を提示して突っ込み材料になることを恐れてのことだ。
こういう所だけは頭が利口に働く。こういう姑息さと狡猾さがおれは嫌いだ。
だから、俺は原文を解釈するにあたっては、まず読み下しを手提示する。
今回とて、ローガンが原文だけを提示したものを俺なりの読み下しを提示して、
そうして解釈を述べた。観客に対してもそれが親切だろう。
中で、誤字・脱字・感知違い・読み立ちがいがあれば、それは善意の過失だ。
そんなささいな善意の過失そえも個人攻撃のネタにするのがいる。
矮小もの。
この天才の「善意の過失を恐れないユープンマインド」こそ見習え。
217 :
THE スーパースター :2011/09/14(水) 06:59:47.28
>>201 >>202 >>204 >>205 >>207 かはは。これも先に述べておいた通りの現象だ。
論でかなわなくなると個人を攻撃する。
「出された意見」に対してではなく「意見を出した人間」を攻撃するのだ。
それでも潰しきれないとみると、人格破壊作戦にでる。
ウソつき・でたらめ・バカ・気違い。
これを連呼して、でっちあげた「人格」の刷り込みをはかる。
それでも潰しきれないと、個人の精神面の問題にしてしまう。
てめえら。図式通りのステップを歩んでるぞ。
218 :
THE スーパースター :2011/09/14(水) 07:01:39.22
●天才語録
文献の価値と信憑性を落しめんとする畿内説学者の文献批判こそ信憑性に乏しい。
219 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 07:18:58.62
文献だけでなく考古学的なフィールドワークと神社伝承や位置関係による考証も併せて総合的に。
例えば、いわゆる「太陽の道」は多数存在。
都、宮殿が移動すればその都度設定し直した形跡があります。
220 :
THE スーパースター :2011/09/14(水) 07:32:34.06
>>219 >文献だけでなく考古学的な
当該問題は、「考古だけ」でこれに文献を併せようという、
「ものいわぬ」無機質物体優先で、「言葉でもって記録した文献」を軽視するという、
本末転倒論が根底にあることが判明している。きみもその手合いか?
言葉でもって伝える文献を、「適当だ・誇張だ・創作だ・机上操作だ」と、
倭人伝の責任にしてしまう手口が、いかに安易で汚いか。
あろうことか「学者」と名のつく男がこの手を染めるとは驚きだ。
邪馬台国論者に人格なし。そうだよな井上秀雄さん。
221 :
THE スーパースター :2011/09/14(水) 07:50:39.51
善意の過失を恐れないユープンマインド
↓↓↓
善意の過失を恐れないオープンマインド
あろうことか「学者」と名のつく男がこの手を染めるとは驚きだ。
↓↓↓
あろうことか「学者」と名のつく男がこれに手を染めるとは驚きだ。
皆さん、
THE スーパースター=NGワードです
追加の戸締りは忘れずに
223 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 08:50:40.79
>>182 >>で、魏使の名は?
しらねー。編纂した本人に聞いてみれ。
「なんで使節の名をかかなかったんだ」とな。タコ
本当は知ってるけど隠してるんだろ
それとも、そんな魏使来なかった
どうしても軌道修正できないようだな
「関門海峡冬景色」は、どんな勢力だったの
答えてチョ
>>223 伊作のは小説なんだから、
論証を求めちゃダメ
225 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/14(水) 09:51:48.35
THE スーパースター が正論だな。
多数は工作をした上で「大方の見方だ」と結論付けるのが畿内論者の手口。
論理的思考のかけらもない。
226 :
伊作:2011/09/14(水) 10:14:21.76
227 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/14(水) 10:17:22.37
THE スーパースター は異策か?
異策なら前言取り消し。
228 :
筑紫次郎:2011/09/14(水) 10:38:26.57
>>225 多数は工作をした上で「大方の見方だ」と結論付けるのが畿内論者の手口。
う〜ん。
確かに事実だよな。
ところで卑弥呼との関連性ありと大々的にマスコミ報道された
生ゴミ(桃の種)はその後話を聞かなくなったがどうなったのかな?
229 :
伊作:2011/09/14(水) 10:49:17.90
歴史記録は天子政府の責務であり文化事業である。
この膨大な歴史記録が、
その王朝が滅びるときに禅譲の一環として次なる王朝に継承される。
正史編纂(滅びた前王朝の歴史を編む)ことは、禅譲を受けた証しである。
禅譲を受けたということは正当王朝であることを意味する。
つまり紀伝体の整った正史編纂は王朝が正当であるこを示す大事業である。
のちにはこれが形骸化して、紀伝体を保つことだけが重視されて、
伝の末尾の伝などは先史だけを頼りにいい加減に扱われるようになる。
だが『倭人伝』を掲載した『三国志』は、
歴史書のよき伝統が息づく最後の歴史書である。
畿内説しょくん。
この天才が登場したからには、よこしまな手口を使ってまで、
倭人伝の信憑性を懐疑するなどという手法は通用しないと思いたまえ。
>>228 さすがに恥ずかしくなったのでしょう。話題にするのが。
231 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 10:50:17.02
>>215 伊作の前スレのレス
>そんな中で、王なんとかという著名な学者が、
>たったひと言、日本人の『倭人伝』の扱いにつしいて言及したことがある。
>「そんなに隅々まで細かくつついては『倭人伝』がかわいそうです」。
その王なんとかさんという学者は、
倭人伝なんて、隅々まで細かくつついたって何もわかりはしない、
そんな程度の文献ですって言ってんだよ。
井上って学者の言ってることと同じだ。
232 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 10:58:18.81
倭人伝をちゃんと読めば、ちゃんと分かるよ。読まなければ分からない。
これ、当たり前。
233 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:00:44.51
>>226 異作
裴 松之が、三国志に注を付けたら量が2倍になった。
それだけ、書けない部分があったということだ。
三国志は現代史。 関係者が多数政治の中枢にいた時代の編纂書だ。
そんなことも理解出来んのか。
多分、王沈が笑ってるだろうよ。
234 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:06:22.88
新旧唐書にしたって、信頼できないところは信頼出来ないと書いてあるからな。
「あるいは曰く」のくだりは、日本の使者がこういったという事実を示しているのであって、
内容が正しいかどうかは疑っている、と書いてある。筆者の姿勢には、かなり正直な印象がある。
基本的には、倭人伝の内容に従うべきだろう。
235 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:44:13.11
>裴 松之が、三国志に注を付けたら量が2倍になった。
倭人伝が誤っているなんていう注はなかったな。
236 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:57:04.53
>>235 間違ってなかったら、邪馬台国の場所は誰にでもわかるだろう。
間違ってるから、誰にもわからない。
中国、韓国、日本の古代史家が、よってたかって研究してわからない。
でも、倭人伝は正確だと。
笑わせるな。
中国人特有の千畳敷の世界の話だよっ!
237 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/14(水) 12:51:24.76
>中国、韓国、日本の古代史家が、よってたかって研究してわからない。
>でも、倭人伝は正確だと。
九州説も畿内説の先入観に振り回されてわからなくしている。
過去の研究成果と言う先入観を全て捨て去って、素直に読めばよいだけだ。
結論は明白だ。
卑弥呼の都は久留米南部
238 :
伊作:2011/09/14(水) 13:14:49.98
>>231 「そんなに隅々まで細かくつついては『倭人伝』がかわいそうです」。
これを都合良く解釈して、思い出したように切り返しか。
>倭人伝なんて、隅々まで細かくつついたって何もわかりはしない、
>そんな程度の文献ですって言ってんだよ。
>井上って学者の言ってることと同じだ。
バカ野郎。
お前ら見たいに『倭人伝』をコケにする不届きな日本人たちに対する
「やんわりとした批判」だ。
この言葉が『倭人伝』擁護の弁だと分からんのか。
よほど「おつむ」がすさんでるようだな。
井上秀雄に尻馬したローガンの卑屈な論法の始終は、
俺のサイトに整理して掲載した。分かりやすいぞ。
239 :
筑紫次郎:2011/09/14(水) 13:17:56.31
>>237 >九州説も畿内説の先入観に振り回されてわからなくしている。
うんうん、その通り。
>過去の研究成果と言う先入観を全て捨て去って、素直に読めばよいだけだ。
全く持ってその通り。
>結論は明白だ。
うんうん。
>卑弥呼の都は久留米南部
えっ、
何でそうなるの?
240 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 13:21:05.77
倭人伝を読むと九州説は成立しないな、
距離も合わないし水銀丹もないんでしょ?
241 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/14(水) 13:22:41.20
>過去の研究成果と言う先入観を全て捨て去って
今シナ人による原文改定が一人歩きしている。
これは問題だ。
242 :
伊作:2011/09/14(水) 13:32:17.70
>>233 >裴 松之が、三国志に注を付けたら量が2倍になった。
『三国志』全体ではそうだろうが、『倭人伝』はちょこっとだ。
『三国志』は極度に簡潔に書いている。このことは周知の事実だ。
>それだけ、書けない部分があったということだ。
>関係者が多数政治の中枢にいた時代の編纂書だ。
下卑た憶測など、お前の無知と下卑たところを露呈するだけだ。
歴代の中国王朝は、たとえ自らが滅ぼした王朝といえど、
その歴史を自らの政府のもとで編纂させるという、利害や欲得抜きの文化事業を遂行した。
そうしたことから、正史編纂にはとくに客観性が求められる。
正史編纂に口出しをした王朝政府があったとすれば笑いものにされる。
なんなら、ここをみれ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/99966d9deb33daa2ab8224cfef65b589 >そんなことも理解出来んのか。
己の無知から出た恥さらし文言だ。
>多分、王沈が笑ってるだろうよ。
こいつは時流におもねたお調子ものだから、
作品は『三国志』に劣るといわれて陽の目をみることがなかったろ。
243 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/14(水) 13:34:07.04
>>239 >えっ、何でそうなるの?
今、説明するのはたいへんなので勘弁して下さい。
>>240 >距離も合わないし水銀丹もないんでしょ?
先入観を捨て去って素直に読めば、距離も合うのですよ。
魏志倭人伝には「丹」「鉛丹」はあるが「水銀丹」は書かれてていない。
244 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 13:40:32.61
正史とは、国家が公式に編纂させた王朝の歴史書。
(または王朝が正当と認めた歴史書)。
正史編纂が国家的事業だったことを知る良い実例がある。
『隋書』の編纂経緯によると、唐の貞観3年(629年)に太宗皇帝が
秘書省長官の魏徴に『隋書』の編纂を命じている。いわゆる勅命撰である。
魏徴は中書省に秘書内省を置き、中書侍郎の顔師古、給事中の孔頴達、
著作郎の許恭宗らを撰者に任命して編纂をはじめ、
7年後の貞観10年(636年)に、帝紀5巻と列伝50巻が完成している。
このように皇帝の命令を受けて、れっきとした中央官庁専門部署の管轄下で、
前王朝から禅譲で引き継がれ政府の金庫に保管されていた資料を用いたうえでの、
多くのスタッフによる組織的作業だったことが推察できる。
それでも、編纂者は総指揮をとった魏徴という個人名で通っている。
これは編纂させた王朝側の客観性を示すためでもある。
245 :
伊作:2011/09/14(水) 13:42:24.72
下駄履き長屋の下世話談義場では、
天才の論説はいかにも高度すぎるようだ。意識レベルが違いすぎる。
246 :
ローガン:2011/09/14(水) 13:44:37.76
>>242:伊作
>『三国志』全体ではそうだろうが、『倭人伝』はちょこっとだ。
ほら、ご覧なさい。他の紀や伝とは違い、注を入れるような情報が先行史書に皆無だったという事。つまり、魏志は先行史書を襲っただけ。
さておき、古田や安本はよく知っているのに、井上氏の名前すら知らなかったとはね。(笑)
247 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 13:51:49.64
248 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 14:00:04.81
魏志倭人伝の通りにたどったら、
南熊本になった。
249 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 14:11:27.64
250 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 14:23:44.42
■自己愛性人格障害(ナルシスト)の主な特徴
自分の重要性は大変大きなものであると考えている。
限りない成功、権力や才能といったものの空想にとらわれている。
自分が特別な人間であるため、地位の高い人にしか自分は理解されないと思っている。
過剰な賞賛を求める。
自分だけに特別な計らい、特権があると思っている。
自分自身の目的の達成の為なら、他人を利用する。
他人に対する共感の欠如。
他人に嫉妬する。
尊大で傲慢な態度や行動をとる。
上記のような症状を持っている事が多いです。自分は特別な人間だという意識が高く、
周りに賞賛されたい という欲求を持っています。社会の中ではなかなか協調できにくくなります。
251 :
伊作:2011/09/14(水) 14:31:31.50
>>246 >古田や安本はよく知っているのに、
よくは知らない。とくにも安本の論説は見たことがない。
82で、俺が批判の俎上にあげるから、
どんな行程読みで甘木だ朝倉だといってるのか教えてくれとたのんだが、
くわしい奴も詳しくは教えなかった。彼も「その部分」が弱い所らしいことは分かったがな。
知っている部分は板に多く登場する所だ。
>井上氏の名前すら知らなかったとはね。(笑)
YES。邪馬台国に関して、おかしな言説を流す学者など、
俺にとっては何の存在価値もない。
むろん、「敬意を表せよ」といっても無理な相談。
>魏志は先行史書を襲っただけ。
まーだそんなバカなことを言い張るのか。観客が笑うぜ。
畿内説と反伊作のタコどもだけが、きみにむなしく味方するだけ。
ところでローガンくん。きみも俺のサイトにデビューしたわけだが、
それについては「いうことなし」か? 掲載内容に文句があるなら・おいで。
252 :
伊作:2011/09/14(水) 14:36:23.97
>>249 >自説の論拠を証明するのに、自分の説でするてか。
膨大なサイトの中に詳しい論拠が書いてあるだろ。
そこを見れといってるが、お前バカか?
>陳寿のよいしょ野郎が、王沈に勝てるか。 王沈のコピペだら。
どこか、別のトピックで荒らしをやれ。腐れゴミ
畿内説を吹く奴は、話の筋が読めない・誤解する・誤解したまま切り返す。
最後には、になりふり構わず・恥も外聞もなく開き直る。
だったいお決まりのタイプばかりだな。
253 :
天才伊作大先生:2011/09/14(水) 14:37:25.05
254 :
次有21連発:2011/09/14(水) 15:10:10.52
>>252 其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、
次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
これ、陳寿君
漢文のイロハくらい勉強しなさい。
重複は慎むべしと教えただろう。 王沈
こら!陳寿。 いい加減にせーよ。 魚豢
255 :
伊作:2011/09/14(水) 16:55:51.13
誤字・脱字・異同・不統一は、編纂時点で起きたものとは限らない。
●編纂原本からの転写時点
●後世の歴史書が文章伝世で書き写す時点
●版木原稿揮毫時点
●新旧木版寄せ集め刷本(百衲本)時点。
一元的なものの見方は恥と知れ。
256 :
ローガン:2011/09/14(水) 17:49:43.33
>>251 >それについては「いうことなし」か? 掲載内容に文句があるなら・おいで。
はい、これ、的外れ。
[一方、東夷伝にも独自の序文があるが、提示した通り序文には「両越や西羌の伝をはぶいて東夷の伝をたてた」とは書いてない。
したがって、「同じ事を繰り返しいう必要などない」というのは当たらない。まして、本論は東夷伝の中の『倭人伝』に関することである。ここに、烏丸・鮮卑の序文の記事を持ち出すことに正当性があるとは思えない。]
東夷伝の序文中程「然後西域之事具存、故史官得詳載焉。」 …それ後、西域のことが判るようになり、ゆえ、史官は詳しく記録する事が出来た。
同序文末尾「以接前史之所未備焉。」…前史に欠けた部分を補う。
ほれ、ご覧。「前史に記録されていないものをここでは取り上げる」 と述べているんだ。
それゆえ、評の記述を「前代史書に既にあるものは省いて」と訳したら繰り返しになる。
それにこの評は巻三十に付けられたもの。烏丸鮮卑は巻三十にある伝。
「ここに、烏丸・鮮卑の序文の記事を持ち出すことに正当性があるとは思えない。」
は、トンチンカンは主張であることは明白。
やり直しなさい。
257 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 17:51:14.32
>>255 >一元的なものの見方は恥と知れ。
倭伝盲信は恥と知れ。 タコ焼き
258 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 17:53:56.51
>>255 鈍作
>誤字・脱字・異同・不統一は、編纂時点で起きたものとは限らない。
21箇所も誤字ってか?
259 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 18:16:17.30
>>252 偽作
「拜假倭王」の魏使の名は、脱字ってか?
誤字・脱字の伝を直訳して、熊本ってか?
260 :
天才伊作大先生:2011/09/14(水) 18:29:11.45
>>256 本論には手が出ずか。
きみが持ち出した東夷伝序文が、東夷について
「そのあたりを訪れて観察して回るところとなり」と述べているのだ。
「使訳の記録はアテにならない」というクソ解釈が不当であることは決定している。
ローガンくん。いつものみことだが、きみのいい分は「半熟」だ。
半熟頭といったほうがいかな。その半熟論理の枝葉議論につき合おう。
>はい、これ、的外れ。
引用はフェアにやれ。その前に重要なことを書いてるだろ。
(きみが省いた部分)烏丸・鮮卑の冒頭に序文がある。
「彼らの出自や習俗については漢代の記録者たちの書物に見えるので、
ここでは漢末魏初以降のできごとのみ取り上げた」と、あくまでも烏丸・鮮卑について言及している。
(きみが引用してみせた部分)一方、東夷伝にも独自の序文があるが、提示した通り序文には
「両越や西羌の伝をはぶいて東夷の伝をたてた」とは書いてない。
したがって、「同じ事を繰り返しいう必要などない」というのは当たらない。
まして、本論は東夷伝の中の『倭人伝』に関することである。
ここに、烏丸・鮮卑の序文の記事を持ち出すことに正当性があるとは思えない。
筋の通った見解だろ。どう筋が通っているかは以下につづく。
261 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 18:30:01.62
>東夷伝の序文「前史に記録されていないものをここでは取り上げる」 と述べているんだ。
これは漢朝の西方調査に関する話だよな。
>それゆえ、評の記述を「前代史書に既にあるものは省いて」と訳したら繰り返しになる。
そうかあ。序文では漢朝の西方調査にだけ触れているのであって、
末尾では漢朝は(両越か?)を著したといっている。同じ事はゆってないぞ。
書く場所を選んで(かえて)表現を変え、全体的にフォローするようになっている。
>「ここに、烏丸・鮮卑の序文の記事を持ち出すことに正当性があるとは思えない。」
>は、トンチンカンは主張であることは明白。
烏丸・鮮卑の冒頭の序文はかくいう。
「烏丸・鮮卑の出自や風俗については漢代の書物にゆずって、
漢末魏初以降のできごとのみ取り上げた」。
これはあくまでも烏丸と鮮卑の伝に関する序文だ。
末尾で「烏丸と鮮卑と東夷に関する伝を立てた」というのと何も重複しない。
結びの文章としてはごく当然だ。
この文章を「くり返し」云々をいうために持ち出すのが妥当だとでもいうのなら、
そうとうに脳内が錯綜してるぜ。
いま一つピリっとしない半熟のまま、
「ああでもない・こうでもない」は、相手をしていて疲れるぜ。
262 :
天才伊作大先生:2011/09/14(水) 18:30:30.30
263 :
ローガン:2011/09/14(水) 19:58:34.84
>>260:天才伊作大先生
>本論には手が出ずか。きみが持ち出した東夷伝序文が、東夷について「そのあたりを訪れて観察して回るところとなり」と述べているのだ。
そうだ。では「その辺り」の「その」とはどこだ?直前に書いてあるだろう。「その辺り」を観察したのは丘倹と王キの軍だ。全て単単大嶺の北。南韓や倭ではない。
>烏丸・鮮卑の冒頭の序文はかくいう。
>「烏丸・鮮卑の出自や風俗については漢代の書物にゆずって、漢末魏初以降のできごとのみ取り上げた」。
>これはあくまでも烏丸と鮮卑の伝に関する序文だ。末尾で「烏丸と鮮卑と東夷に関する伝を立てた」というのと何も重複しない。
もう一度いうが、烏丸鮮卑は、前史に書いてあるものは再掲しない。という意味だ。東夷伝は、前史の欠けた部分を記述する。だ。
これで読者はこの巻三十には、前史に記述の無いものが書いてあることは伝わる。
>「烏丸と鮮卑と東夷に関する伝を立てた」というのと何も重複しない。
評にはそんな事は書いていない。それは、「あに常ならんや」を「扱わねばならぬ対象が常に定まっているというものではない。」と訳したが為、読み過ぎた部分であり、
書いていないものを持ち出して「重複しない」といわれても的外れというしかない。
筆者は既に、この巻では、前史に無いもの欠けたものを記述すると述べている。
したがって、「史書とは扱わねばならぬ対象が常に定まっているというものではない」(史記や漢書や後漢の史書を省くことわりの文)は、明らかに重複であり、簡潔を良しとするなら その訳が間違いであるという結論になる。
264 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 20:48:25.64
>>263 半熟くん。
>では「その辺り」の「その」とはどこだ?直前に書いてあるだろう。
直前の記録て、こんなもんでいいかな?
「長老說く異面の人あり、日の出ずる所の近く。遂に諸国を周観し、
その法俗を采り(集め)、小大の区別、おのおの名号あるを詳らかに紀するを得べき」
>烏丸・鮮卑は、前史に書いてあるものは再掲しない。という意味だ。
これだけで、「記述は随事にして、なんぞ常ならんや」の意味が通じるわけだ。
>東夷伝は、前史の欠けた部分を記述する。だ。
そうだ。東夷伝は前史になかった部分だし。
>これで読者はこの巻三十には、前史に記述の無いものが書いてあることは伝わる。
これで、「記述は随事にして、なんぞ常ならんや」の意味が通じるわけだ。
>書いていないものを持ち出して
きみの解釈も「書いてないストーリー」ばかりだが?
>「重複しない」といわれても的外れというしかない。
書いていないというのなら、なおさら重複はしないがなー。
>「扱わねばならぬ対象が常に定まっているというものではない」は、明らかに重複であり、
●『史記』『漢書』が著した朝鮮・両越を省いた。
●後漢朝が選録したとう西羌も省いた。
●『三国志』が立てた烏丸・鮮卑伝でも、漢の記者が撰じて記録した習俗・前事を省いた。
●そして、魏朝として公式に調査して回った東夷伝を立てた。
「記述は随事にして、(各時代の出来事を記録すればいいのであって)、
いつもいつもすべてを記録しなくちゃならんと決まっているわけではない」。
極めて論理が通っているし、なーにも重複してはいないが。
>>264 伊作の訳分はシロート丸出しなんで、オレが訳してやるよ
長老說くに、異面の人あり、日の出ずる所に近し、と。
遂に諸國を周觀し、其の法俗を采る。
小大區別おのおの名號あり。得て詳紀すべし。
266 :
筑紫次郎:2011/09/14(水) 21:11:38.34
>>247 倭人伝をそのとおり読んだら、南九州に決まってるだろうが。
>>248 魏志倭人伝の通りにたどったら、南熊本になった。
詳しい説明を聞いてからでないと断言はできませんがね、
恐らく、読み間違いです。
267 :
天才伊作大先生:2011/09/14(水) 21:55:38.92
>>265 バはは。じゃがいもがよくやるぜ。
しかも訳文だってさ。
268 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 22:09:07.91
>266
>魏志倭人伝の通りにたどったら、南熊本になった。
>詳しい説明を聞いてからでないと断言はできませんがね、
>恐らく、読み間違いです
>>159 に書いてありますのでよろしくです。
距離しか書いてませんが、連続式で方向も倭人伝のままですね。
何度か書いているので、見たことあるかと思います。
倭人伝の通りにたどると、対馬がソウルの真下にくるな
270 :
ローガン:2011/09/14(水) 22:29:56.70
>>264 >>「重複しない」といわれても的外れというしかない。
>書いていないというのなら、なおさら重複はしないがなー。
そう、書いていないものは重複しない。あたりまえだ。書いていないものを書いてあると持ち出さない限りはね。
ようやくこれで落ちた訳だ。
271 :
天才伊作大先生:2011/09/14(水) 23:10:09.19
>>270 そんな枝葉なところで打ち上げか。
●正しい区切り。「使譯時通。記述隨事、豈常也哉!」
●ローガン流区切り「使譯時通、記述隨事。豈常也哉!」
「使譯時通」を前から切り離して「記述隨事」にくっつける。
そうして「記述隨事」と「豈常也哉」を切り離す。
「句読点のない漢文を切ってはいけない所で区切り、
つなげてはいけない所でつなげる」という手法である。
挙げ句の解釈がこうだ。
使譯時通、記述隨事(使譯が時に通じたとき隨事に記述した)
豈常也哉!(なんで常態であろうか。それは不確実な情報である)
さすがの観客もこれには賛同しないだろう。
もう一度、烏丸・鮮卑伝と東夷伝の序文、
そして東夷伝の末尾の文章がいうところを整理して提示する。
●『史記』『漢書』が著した朝鮮・両越を省いた。
●後漢朝が選録したとう西羌も省いた。
●『三国志』が立てた烏丸・鮮卑伝でも、漢の記者が撰じて記録した習俗・前事を省いた。
●そして、魏朝として公式に調査して回った東夷伝を立てた。
「記述は随事にして、(各時代の出来事を記録すればいいのであって)、
いつもいつもすべてを記録しなければならないと決まっているわけではない」。
極めて論理が通っている流れだ。
272 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 23:18:59.80
>>270 やたらと枝葉にすり変えて「くり返し」にこだわるようだが、
(だから両越や西羌の伝を省いて烏丸・鮮卑・東夷」の伝を立てたのである) というのは、
俺が引用した今鷹真氏と小南一郎氏の訳文だ。(そうことわって提示してある)。
その全文も提示した。
「評にいう。史記や漢書は朝鮮・両越のことを著わし、後漢王朝の史書には西羌のことが記録されている。
魏の時代にはだんだんと匈奴が劣勢に向かい、代って烏丸・鮮卑さらにはさらには東夷までがあらわれて、
使者や通訳が時おり(これらの地域に)往来するようになった。
歴史の記述はそれぞれの時代に起こったた事を記録してゆくものであって、
扱わねばならぬ対象が常にに定まっているものではない。
(だから両越や西羌の伝を省いて烏丸・鮮卑・東夷」の伝を立てたのである)」。
( )つきの添え書きだから、意味をわかりやすくするために添えられたものと思われる。
これに文句があるのなら、今鷹真氏と小南一郎氏にいうことだな。
273 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 23:20:02.22
>>216 伊作へ
>中で、誤字・脱字・感知違い・読み立ちがいがあれば、それは善意の過失だ。
>そんなささいな善意の過失そえも個人攻撃のネタにするのがいる。
そうじゃない。「豈に常ならんや」なんて、初歩の初歩。なのに読めない。
初歩の初歩ができない男が、なぜ天才なんだ?
初歩の初歩ができない男が、なぜ井上秀雄という専門家をつかまえて外野と決めつけるんだ?
初歩の初歩ができない男が、なぜスレの住人に最大限の敬意を要求するんだ?
こういうこと。
天才を自称し、専門家を外野と決めつけ、自分は無礼なのに他人に礼儀を要求するのなら、
反語ぐらい読めて当然ではないのか。
なのに読めない。態度と実力が懸け離れすぎてないか。
そういう意味での非難だ。
普段そんな態度をとってなければ、だれも反語が読めないくらいで責めはしない。
しかし、遺作は誤字が多いな。
このスレのレベルを下げてるぜ。
275 :
天才伊作大先生:2011/09/14(水) 23:59:19.63
>>274 すまんなあ。
頭の回転が早い上に短気だから、考えるスピードに手がついていかないんだ。
ほとんど打ち流し状態だから、同音異語と誤字の山たい国だ。
>>273 そんな正統なことを、伊作相手に言われてもな
理解できるくらいなら、
こういう人格(=病状)にはなってないだろ
277 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 00:04:18.19
>>273 やかましい。
間違い・勘違い・気違いはどこにもある。
膨大な量の書き込みを記憶だけで書いてる中で、
一つのや二つの間違いを大ぎょうにとりあげてほざくしか
攻める所がないということだ。
他人をどうこういう前に、そうした己の了見の狭さを自覚しろ。
伊作は気違いでかわいそうな人の一人さ
だから2chに定着した
279 :
ローガン:2011/09/15(木) 00:08:27.69
>>272 >これに文句があるのなら、今鷹真氏と小南一郎氏にいうことだな。
あはは、文句など何も無い。ただ、ちくま本の訳は唯一無二だ。井上なんてバカだ。…と思った段階で思考停止だと気がついてね。
>>270はごめん。
>>264が言葉尻に終始した駄レスだったから、ちょっとした揶揄。
上でチラッと書いたけど…、流れで「魏時京兆魚豢私撰魏略事止明帝」(史通古今正史篇)とかに膨らむかなあと思ってたんだけど…。まあ、多数の伊作ファンのお相手忙しいからな。(笑)
280 :
天才伊作大先生:2011/09/15(木) 00:09:48.67
>>273 俺は書き込みをすると毎回のように、もっとレベルの低い誤解・間違いを矯正している。
誤解に基づく「お角違い」の攻撃や反論も、誤解であることを説いてから説明している。
その数は知れないが、そうした相手に執拗に迫ったことはない。いい加減にしろ矮小もの。
281 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 11:00:37.09
井上は北九州説だからな。倭人伝の長い日数が邪魔だったんで、日数は信用できないと
いうためにこじつけたんだろう。
282 :
天才伊作大先生 :2011/09/15(木) 11:40:51.28
>>281 >井上は北九州説だからな。
そうだったのかい。俺はてっきり畿内説だと思った。
>日数は信用できないと いうためにこじつけたんだろう。
確かに、北部九州説者にそういう手を使うのがいた。
それも、俺の(短里説ではない)6倍強説の登場で、無駄な手法となったわけだ。
いずれにしても、
言葉でもって証言した文献よりも、
ものいわぬ無機質遺物のほうを歴史判断の核にしようとは、
歴史を語る者の風上にもおけない。
283 :
天才伊作大先生 :2011/09/15(木) 12:08:50.50
>>282 言葉でもって証言した文献よりも、
ものいわぬ無機質遺物のほうを歴史判断の核にしようとする輩でも、
言葉を駆使して自論を説明するし、
文字を介した言葉で「文献」をたくさん書くんだろう。
284 :
天才伊作大先生 :2011/09/15(木) 12:43:09.59
今回のローガンと井上秀雄の件で思った。
『倭人伝』の記録は「誇張だ・でたらめだ・創作だ」といって、
具体的な尺度には言及せず、
好みの所へ邪馬台国を求めるだけの輩よりも、
「短里」と称してその論拠を求めて提示し、
具体的な数値を出した古田某のほうが遥かに立派だな。
倭人伝の方向が合ってると思ってる人は、対馬がソウルの南にあると思ってるの?
6倍強説の登場?
はは〜ん、倭人伝の里程誇張説のたぐいだな?
287 :
天才伊作大先生 :2011/09/15(木) 13:10:12.88
>>285 >対馬がソウルの南にあると思ってるの?
対馬は狗邪韓国の南だと思っているが。
>>286 はは〜ん、
記録事実から割り出した確かな数値だといことを知らん奴だな。
さんざん話題になったんだぜ。
288 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 13:22:14.04
>>166 「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺江口、逆水行七千里乃至焉」
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
「(洛陽から)蜀在万里」
>とりあえずこれも訳してみろ
>多分同じことは言えなくなるぞ
>>170 >>169 >河口から川を七千里遡上した所に天竺 がある訳だ
そ〜〜かな〜〜!
【呉(南京)〜】扶南國〜天竺河口迄一年余。
扶南國〜【呉(南京)】が七千余里。
と記述されているようですが。
>西安はどっからでてきた?
>「去日南」って書いてあるだろ
じゃ〜。
梁の国都・開封ならOKですか?
まさか、「去日南」を 日南〜扶南國の2点間とみているんじゃないでしょうね。
結論は、
一里=1800尺 一尺=24cmで記述されている。
ということです。
289 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 13:30:53.25
>>287 名前:天才伊作大先生
>>対馬がソウルの南にあると思ってるの?
>対馬は狗邪韓国の南だと思っているが。
狗邪韓国は与那国島で對海【馬】國は沖縄だ。
その2点間は千余里=432kmだ。
290 :
天才伊作大先生 :2011/09/15(木) 14:39:23.53
291 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 17:11:23.77
伊作の日数は郡からってのも似たようなレベルだ。
292 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 19:09:51.50
>>166 >「(洛陽から)蜀在万里」
宋史なら、北宋の都開封府からじゃないの?
>伊作の日数は郡からってのも似たようなレベルだ。
日数は郡からってのが市民権を得るとは
日本人の学力も落ちたものだ。
295 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 00:11:22.67
>日数は郡から
日本で中国の学者による倭人伝の読み解き本がいくつか出ているが
それに共通して採用していないのがこの「日数は郡から」と言う解釈だ
…と聞いたことがあるが、余程変な読み方なのかな?
まあ個人的には
「オッケー、オッケー、どうせそんな解読ゴッコで位置を割り出すことはできないんだから なんでもオッケー!
放射説でも膨大な日数を郡からのトータル所要日数でも理論的可能性はゼロじゃないw」
…と言う立場なんで基本どうでもいい話なんだがwww
>>289 千余里=432kmなら郡から七千里の狗邪韓国は韓国じゃないだろ。
どこだ?
>>295 余程変な読み方なのかな?
変と言うよりあり得ない解釈。
>所要日数でも理論的可能性はゼロじゃないw
言語を数学の理論で解釈するからおかしくなる。
文書を解釈するのは言語の理論が必要。
学力が不足していると区別ができない。
298 :
295:2011/09/16(金) 00:32:58.26
>>297 そりゃそうだろうな、とりあえずレスサンクスw
途中でまた郡にまで起点を戻して…だから素人目にも変に映るのは間違いなんだがwww
まあ数学と言うか算数にしたって掛け算・割り算を先にして足し算引・き算を後にする…と言うルールがあるわけで
それを無視すると無茶苦茶になるみたいな?wwwwwwwww
古田氏は距離を合わせるために対馬国、一大国の半周を加算しましたよね。
数学的にはOKです。
ところが言語的には当然NGです。
言語の理論で解釈すべき所を数学の理論で解釈するから半周加算などと言う解釈が出てくるのです。
半周加算でもOKだと考えますか?
郡から、と同じ間違いをしているのですが。
>>298 説明して判る人は救いがある。
学力のない人は何を言っても理解できない。
301 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 01:24:49.33
>>299 >言語の理論で解釈すべき所を数学の理論で解釈するから半周加算などと言う解釈が出てくるのです。
>半周加算でもOKだと考えますか?
OK MUST 古田説は間違っていない。
言語の理論で解釈しても、半周加算をしなさいと書いてある。
「始度一海千餘里」「又南渡一海千餘里」「又渡一海千餘里」
海の大きさが千餘里とある。海の部分の道程のみが各千餘里、計三千餘里なのだ。
これでは島の部分の道程が空白となるので、島の大きさとして書いてある。
これは島の大きさ分も道程に加算しなさいとの言語的指示。
注
市中の間違った読点の付け方に振り回されてはいけない。
原文には、読点はない、読点なしに漢字が並んでいるだけ。
>>288 >そ〜〜かな〜〜!
>【呉(南京)〜】扶南國〜天竺河口迄一年余。
>扶南國〜【呉(南京)】が七千余里。
>と記述されているようですが。
漢文を読めないことだけはわかった。
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」
これが二点間でなくてなんだ?
他にこの用例で二点間じゃないものを教えてくれ。ないから
また倭人伝の中の里数が、どう考えても長里で説明がつかない点も説明よろしく
あと狗邪韓國の比定地もな
>>292 三国志です
また呉の領域が「方一万里」とか、楚が「方五千里」とか書いてあるな
長里ならわけのわからんほどの大国になってしまう
>>301 卑弥呼の都は久留米さん
卑弥呼の都は久留米の邪馬台国は久留米ですよね、
投馬国は八女でしょ?
たとえ緯度的に久留米と八女に重なる地域があったとしても
久留米が八女の南にあると言う人はほぼ皆無です。
※本当は100lのはずですが、やまたいとか貴方みたいな人がいるのでほぼと言わざるを得ない。
つまり
数学的には認められるかもしれないことでも、言語的には到底認められないことも多々あります。
もう一度言いますが、言語的には
久留米は間違いなく八女の南ではなく、北にあります。
これで理解できなかったらもう何も言いません。
305 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 08:07:18.80
結局、倭人伝で長里で説明がつかないどころか、
中国国内もすべて長里で説明つかないんですよ。
今の公里とは違う長さが基準だったってこと。
国によって里を書き分けるなどとおバカなことをするわけありません。
公里だと、あの広い中国大陸を東は海から南はインド、ベトナム、
北はバイカル湖、西はイランといとも簡単に自由に闊歩しているように見えて、
古代ではとても無理であると感じる。それと公里だと、その間にある無数の土地が
無視されてあまりにもアバウトになっていることに気付く。
本当はもっと小さい地域の出来事で、もっと緻密だったはず。
>>301 これは島の大きさ分も道程に加算しなさいとの言語的指示。
いや言語的には
対馬国、一大国は旋可五千餘里には含まれませんよ、と言うことだでしょう。
対馬国、一大国の大きさを記載した以上、再度旋可五千餘里に加算することは
二重に計算したことになりますからね。
つまり
旋可五千餘里から対馬国、一大国を除外するために大きさを破砕したのだと思いますよ。
307 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 08:23:05.62
そして、短里の一里=75メートルではちょっと短すぎる。
これだと中国国内の文献には合わない。いろいろ試してみたけど、
長里ではもちろんだけど、短里では小さすぎて合いません。
短里は周ヒサン計から取った数字だといっているけど、其の計算のしかたも
怪しい。
本当の里は120〜150メートルが、中国国内も、倭人伝も
すべて合うのです。
地図上の直線距離のおよそ3倍が、古代の実際のみちのりで、
古代中国人の里の感覚にぴったり合います。
>307
九州説の恥さらし
309 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 08:46:02.58
>>308 わたしはたしかに九州説だけど、
東夷伝だけ短里で書かれているという、
解釈のしかたは、同意できない。
中国国内も東夷も、みな同じ里で書かれています。
それが、普通です。
310 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 08:53:48.10
短里だと、一歩が22、5センチ。
わたしのは一歩が45センチ前後。
卑弥呼の古墳は直径45メートルくらいの円墳だと
比定しています。
殉死者100人が埋葬されているなら、短里のいう直径22.5
メートルの古墳では小さずぎます。
>>309 思いつきだけでなく
ちゃんと調べてから言うべき。
312 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 09:09:11.13
>>311 ちゃんと調べましたよ。
当たり前じゃないですか。
ちゃんと調べたからこそ、誰もわからなかったようなことが
言えるんですよ。
ところで、あなたは中国国内も短里で書かれていると思っているの?
それとも公里で書かれていると思っているの?
どちらですか。
313 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 10:13:49.39
周時代、あるいはそれに影響された地域は短里
また、年代によって、伝わる経緯によって変遷していく
変形短里。
のちに公里統一令を公布された、中央政府の影響力が強い地域が
公里ってことかね?
日本は日本で一里=4キロだしな。これまたどういう経緯でできたんだか?
314 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 12:15:44.95
>>304 >卑弥呼の都は久留米の邪馬台国は久留米ですよね、
>投馬国は八女でしょ?
上記の様な事は、過去に全く言ったことはありません。
卑弥呼の都(女王國の都)は久留米南部ですが、
邪馬壹國の城郭(都)は卑弥呼の都と同じかどうか判りません。
邪馬壹國の都が久留米の卑弥呼の都と同所又は近辺であってもOKです。
「南至投馬國」「南至邪馬壹國」
の『南』の基点は不彌國です。
不彌國(吉野ヶ里付近の背振山麓がその領域)の南に
投馬國領域と邪馬壹國領域があるのです。
3世紀の筑後川は不彌國の南を東から西に流れており、
吉野ヶ里の南南西にあった有明海に流れ込んでいました。
吉野ヶ里のすぐ南(現千代田と佐賀市東部)まで有明海が北に入り込んでいたのです。
東から西に流れていた筑後川の南岸に、投馬國と邪馬壹國の領域があったのです。
投馬國は西側の有明海沿いに在り。邪馬壹國は東側の内陸山麓沿いに在りました。
筑後平野にはほぼ中央に南北方向に矢部川まで低地部があり、
この南北に縦長の低湿地部が投馬國と邪馬壹國の自然の境界であったと思われます。
筑後平野の南部では、矢部川河口部のみやま市付近(瀬高)は投馬國の領域、
矢部川河口の東側の八女は邪馬臺國の領域となります。
投馬國の領域は有明海沿岸沿いとその島々で、
邪馬壹國の領域は八女以北の内陸部です。
315 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 12:16:52.03
続き
狗奴國と紛争の接点は、投馬國の瀬高と邪馬壹國の八女です。
狗奴國は菊池川流域から山越えで(国道3ルート・九州自動車道ルート)
女王國に攻撃を仕掛けて来たのです。
狗奴國の玉名(狗奴國)から大牟田(投馬國)への攻勢は困難だったと思われます。
それは、投馬國が海人族だったのに対し、狗奴國が内陸族であったからです。
有明海東岸沿いの戦いは、有明海を北上する海流の為、
陸戦を主体として攻撃する狗奴國軍は、海から反撃する投馬國の漁民団に立ち向かえないのです。
なお、私は、投馬國と邪馬壹國の城郭(都)は、其々大川と久留米と推定しています。
上記内容は「水行十日陸行一月」「水行二十日」とも密接に関連しています。
[ 魏軍の女王國派遣 ]
316 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 12:32:25.69
>>310 短里だと、一歩が22、5センチ。
だから一歩が22、5センチ前後。
卑弥呼の古墳は直径23メートルくらいの円墳又は方墳だと
比定しています。
徇葬者100人は、殉死者100人ではありません。
「徇」と「殉」では意味が違います。調べてください。
私は、奴婢百餘人による「合唱葬」のようなもの思います。
奴婢百餘人のお祈りの合唱。
317 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 12:48:44.42
>>306 >旋可五千餘里から対馬国、一大国を除外するために大きさを破砕したのだと思いますよ。
「周旋可五千餘里」は、狗邪韓國から女王國(不彌國)までの道程。
12000餘里−7000餘里=可5000餘里
318 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 12:57:49.51
「周旋可五千餘里」は、倭の地の大きさを表したものだよ。倭の領域ではない。
九州に上陸した地点(末盧国)から南の端まで巡っていった距離だ。
319 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 13:07:06.93
●徇=@となえる、Aしたがう、Bもとめる、C命を投げだす(=殉)
徇国=国のために死ぬ(殉国)
徇節=正しいと信じることを守って死ぬこと
徇難=国家や主君を救うために命を捨てること(殉難)
●殉=@したがう。死んだ人のあとを追って死ぬ、A命を捨てて事にしたがう
殉死=主君や目上の人の死を追って死ぬこと
殉葬=高貴な人の死に臨んで、そのおともとして(家来や下僕などを)埋めること
おそらくは古田某の手法の延長線上にあるのだろうが、
いまっ・だに、一字一字をとりあげて独善我流解釈を流す素人が耐えない。
「徇と殉」ディティールは違っても同じ意味用法があるのだから、
文字のディティールの違いや文字づかいの違いは、歴史家の感性によるもと判断するのが正しい。
意味の違いに注意しなければならいとすれば、
@殉死=自らの意志で、あとを追って死ぬ。
A殉葬=第三者によって葬られる。
どうだっていいものにとち狂った意味をもたせた・とんでも独善我流解釈は、
はっきりいって迷惑だ。
320 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 13:16:15.57
>>309 >東夷伝だけ短里で書かれているという、 解釈のしかたは、同意できない。
>中国国内も東夷も、みな同じ里で書かれています。
>>312 >ちゃんと調べましたよ。
・『後漢書』郡国志いわく「洛陽から遼東まで3600里」
・『三国志』明帝紀いわく「洛陽から遼東まで4000里」(口頭発言につきアバウト)
これが後漢代と魏代の公式尺度と思われる。(後漢代の1尺は魏代の1尺よりも1センチ短い)
これと、東夷伝の三韓の方4000余里と比較して、同じだということを証明してみ。
321 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 13:21:47.17
>>318 何度も繰り返す問答だな。会話の不連続輪環。
>「周旋可五千餘里」は、倭の地の大きさを表したものだよ。
>九州に上陸した地点(末盧国)から南の端まで巡っていった距離だ。
どっちなんだ?
倭地訪問調査で巡った距離が5000余里。
倭地の外周でもなければ、倭地の大きさを表したものでもない。
「周旋」に周囲という意味はない。「回る・巡る、周り巡る」だ。
322 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 13:38:39.38
●徇葬(殉葬)について考慮すべきこと。
古代の徇葬は生きたまま埋めた節がある。
『日本書紀』では、これが悲惨で惨いことから、埴輪に代えたという。
問題は、身分低い奴婢や下僕を、
高貴な人物の墓の脇や周囲に生き埋めしたか否か。
天才としては、しかるべき距離を保った場所に徇葬の場を設けた
んーじゃないかと思っている。
従って、必ずしも卑弥呼の墓の周囲に100人もの徇葬者の骨があるとは限らない。
323 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 15:16:58.34
>>318 >「周旋可五千餘里」は、倭の地の大きさを表したものだよ。倭の領域ではない。
>九州に上陸した地点(末盧国)から南の端まで巡っていった距離だ。
「周旋」と「周匝」の違いを調べなさい。「旋」と「匝」の違いのこと。
周旋:A→B→C→D→E→F 行きっ放しの片道、F点は全体の途中でも良い。
周匝:A→B→C→D→E→A 最初の地点に戻る、ひと回りするので全体の大きさがわかる。
「倭地絶在海中 洲島之上 或絶或連」
倭地は九州島1島だけではない。倭地には対馬も壱岐も含まれる。
324 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 15:30:03.24
>>319 伊作氏あなたは「卑弥呼の都は久留米」を無視すると何回も宣言しましたね。
今回で宣言後5回目のレスポンスになるが。
反論して欲しいの?
それとも、レスポンスは独り言?
あなたの引用と漢字の読み方は間違っています。
325 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 15:35:55.48
間違い修正
誤:「南至投馬國」「南至邪馬壹國」の『南』の基点は不彌國です。
正:「南至投馬國」「南至邪馬壹國」の『南』の視点は不彌國です。
>>324 伊作の宣言、言ったコト、を信用しちゃダメ。
本人も忘れるくらい、いいかげんなの。
327 :
ローガン:2011/09/16(金) 16:48:32.14
>>320 >>中国国内も東夷も、みな同じ里で書かれています。
当然の事。
>『後漢書』郡国志いわく「洛陽から遼東まで3600里」・『三国志』明帝紀いわく「洛陽から遼東まで4000里」(口頭発言につきアバウト)
>これが後漢代と魏代の公式尺度と思われる。(後漢代の1尺は魏代の1尺よりも1センチ短い)
>これと、東夷伝の三韓の方4000余里と比較して、同じだということを証明してみ。
(取り敢えず両方とも間違いであるという可能性を除いて)
どちらかが間違いである。これが結論。
328 :
どくだみ:2011/09/16(金) 17:46:54.50
>>166 >「(洛陽から)蜀在万里」
孫権の言葉ですね。孫権の主観ですから、建業から成都でしょう。
短里だと、直線距離で考えても建業から白帝城までも届きません。
これまでの議論で、山間部は直線距離の3倍強ということが何度かでてきました。
建業⇔成都の直線距離を3倍すると、ほぼ長里の一万里に合致します。
ただ、3倍が必要なほどの山間部ではなく、長江沿いの移動を考えた方が良いかもしれません。
そうすると、「蜀は万里にあり」というのは、少々誇張が入っていると思います。
実際は六千里くらいかもしれません。
いずれにせよ、短里では全然足りません。
その他のものにつていは、航空機も衛星画像もない梁代に
中国人がガンジス川やプノンペンについて、正確な地理情報を持っていたとは、とても考えられません。
その数値を持ってきて短里の証拠だと言われても、
その数値が正確であると、どうやって証明するのですかと聞き返すしかありません。
329 :
どくだみ:2011/09/16(金) 17:54:22.59
ローガンさん
だいぶ遅いレスですみませんが、評の部分の訳についてです。
評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!
中華書局標点本の句読はこうなってます。
「魏世」以降は、はっきり切らずに「,」で逃げたなという感じですので、
編集を担当した人も、どう切るか迷って決しがたかったのでしょう。
僕の訳は、今鷹・小南訳に近いです。
ただ、句読は、こう切りたいですね。
魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷。
使譯時通,記述隨事,豈常也哉!
以下、拙訳です。
史記・漢書(=前漢)は朝鮮・両越について著述し、東京(=後漢)は西羌について撰録している。
魏の世になると匈奴は次第に衰え、かわって烏丸・鮮卑があり東夷にまで及んだ。
使訳というものは、通じたり通じなかったりする。
記述というものは、事件があったときになされる。
どうして、いつの時代も変わらず同じ蛮夷の伝を立てる(=常)ということがあろうか。
(だから、前漢・後漢・魏で、違う蛮夷の伝を立てているのは当然なのだ)
この評言のテーマは、なぜ前漢・後漢・魏で伝を立てた蛮夷の種類が違うのかだと思います。
「あに常ならんや」の訳は、「使譯時通」の句が、
前の文についても後の文についても変わらないと思っています。
ちなみに「爰及東夷」は「ここに東夷におよぶ」と訓読するのかもしれませんが、
「爰」にも「およぶ」という意味があるので、「爰及」二字で「およぶ」と訳してみました。
>>328 「(洛陽から)蜀在万里」
は呉志二 七年春正月の記事だ。ここの登場人物と国はジバイと魏と蜀。
洛陽から蜀までなら短里換算(一里約80m)でちょうどおなじぐらいだ
>中国人がガンジス川やプノンペンについて、正確な地理情報を持っていたとは、とても考えられません
自分に都合の悪いものを全て、正確ではないで片付けたらどんな議論でも終了してしまう
日南からプノンペンを短里換算で計算するとほぼ一致する。
正確ではないとされるのが、短里だとほぼ正確に一致する。
これは倭人伝に出てくる短里にもしかり。
仮に、長里で説明がつかない場所の単位里の距離がバラバラで始めて成り立つ議論だ。
長里で説明がつかないものは、ほぼ全て短里で一致するのに、上記のような物言いはただの言い訳にすぎない
山間部3倍説とかは、全ての里でそうなら問題ないが
都合のいい場所だけ抜き出してるだけにすぎない
331 :
どくだみ:2011/09/16(金) 19:41:56.71
>>120 こちらも、だいぶ遅いレスですみません。
フリッカーを低減するフィルターというのをモニターに貼ってみました。
これで、目の負担が少しは軽くなると、もうちょっとすばやくレスできるのですが、どうでしょう。
御存知かもしれませんが、「自危四度至斗六度」のような文が末尾についているのは、
秦と周と韓と燕の四条だけです。他の条にはついていません。
この度数は、後漢蔡ヨウの月令章句の数値で、漢書律暦志の数値とは合致しません。
それで、漢書補注では、班固がどちらを採用するかまだ迷っていた時のメモだろうという
錢大マの説を引いています。
班固かどうかは、解りませんが、だれかが月令章句の数字をメモしたものが
紛れ込んだ衍文なのは間違いないと考えています。
そして、「自危四度至斗六度」ですが、もととなった月令章句では、
「自尾四度至斗六度」となっています。
漢書地理志のほうは、写し間違いです。
漢書補注が引く齊召南の説は、「自危四度至斗六度」では、順周りでも逆周りでも意味をなさないので、
「宋本監本倶に誤れり」と評しています。
332 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 19:46:20.97
>>324 どうだっていいものにとち狂った意味をもたせた
とんでも独善我流解釈は、 はっきりいって迷惑だ。
看過できないものには矯正を入れる。俺の主義だ。
333 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 19:55:53.56
>>331 横からですが、
原理上液晶はほとんどフリッカーは気にならないと思いますので、
ブラウン管でしょうか。
設定でリフレッシュレートを変えられるはずですが、
試されましたでしょうか。
リフレッシュレートを早くすると気にならなくなるかもしれません。
すでに試されていたらごめんなさいです。
334 :
どくだみ:2011/09/16(金) 19:57:44.83
>>330 >七年春正月の記事だ。ここの登場人物と国はジバイと魏と蜀。
その直前に、「權揆其不然,曰:」(「(孫)権 その然らざるをはかりて曰く」)とあるでしょう。
あなたが引いている「蜀在万里」というのは、孫権のセリフの中に出てくるのです。
ちなみに司馬懿は「しばい」です。
>洛陽から蜀までなら短里換算(一里約80m)でちょうどおなじぐらいだ
短里を言う人は、なぜ直線距離ばかり主張するんでしょう。
航空機も衛星写真もない時代に、800kmも離れた二点間の直線距離を求めるのって、
なかなか高度な技術じゃないでしょうか。
直線距離と道なりの距離と、どちらが実感を伴った数値でしょうか。
>自分に都合の悪いものを全て、正確ではないで片付けたらどんな議論でも終了してしまう
時代状況から数値の正確さに疑問を持つ方が自然でしょう。
ならば、それを証拠として使おうという方に、その正確性の証明義務がありますよ。
短里で計算したら合致するから正確なんだっていうのは矛盾です。
短里の存在を証明するためにやってる議論なのだから、
証明すべき結論を論拠に使ってはだめでしょう。
335 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 20:02:33.65
>>323 こいつ・何度も何度もしつこいから断を下しておこう。
>「周旋」と「周匝」の違いを調べなさい。
>「旋」と「匝」の違いのこと。
典型的な「文字いじり」の迷路にハマった実例だ。
「周旋」と「周匝」の違いを調べてどうする。
周旋の解釈に関する議論に周匝を持ち出すバカがいるか?
こっちは、同じ『三国志』魏書に使われている用例をあげて比較検討して
総合的に判断した上で結論を出してるんだ。
それを上回る論理的な解釈法があれば・それを出せばいいのだ。
336 :
どくだみ:2011/09/16(金) 20:04:30.61
>>333 ありがとうございます。
>原理上液晶はほとんどフリッカーは気にならないと思いますので、
らしいですね。でも、少しくらいは効果がないかと思って貼ってみました。
やはり、イワシの頭ていどのものなんでしょうか。
リフレッシュレートは、解像度を変えてみても60ヘルツしか設定できなかったです。
337 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 20:22:17.19
>>327 >どちらかが間違いである。
くだらねー。
『倭人伝』の信憑性をなきものにするために姑息な手法を使った張本人が、
その姑息さがバレても間違いを認めず頬かむりして、
性懲りも無く「間違い」でカタづけようとする。
文献研究において、
一番イージーな逃げの手法だってことが分かってないようだな。
そういう手を使わないものはすぐに分かるのだが。
>>334 そこは孫権からした「蜀在万里」でなく、孫権がシバイ(魏)側から見て「蜀在万里」と言ってるんだろ
>>なぜ直線距離ばかり主張するんでしょう。
逆算した結果、直線距離相当で約80mとなるから
だいたい75〜80mで収まるが、中には70〜90mぐらいのズレが生じてる。
これは道のりごとの距離が微妙に違うからだろう
ついでにそのことは全ての長里にも同じことを言ってくれよ
>ならば、それを証拠として使おうという方に、その正確性の証明義務がありますよ
扶南國と日南郡の距離、対馬と壱岐の距離、○○と○○の距離・・・それらは全て実際に計ってみると長里とは合致しないことは認めるな?
そして、それらの地点間の距離は実測して求められている
この実測が証拠
そして短里はその実測に即して割り出された単位
過程が違うな。
長里では計算できないところは、ほぼ全て短里=80mで解決できる
これは単なる偶然だというのなら、偶然であり、間違いであるという根拠を否定派は出さなければならない。
つまり、なぜ長里で計算できないところは直線距離一里約80mで計算できるのか?という疑問をな
全ての間違いが偶然、直線距離で計算すると一里約80mに収まるでは通らないだろう?
339 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/16(金) 20:39:21.38
>>335 >こっちは、同じ『三国志』魏書に使われている用例をあげて比較検討して
>総合的に判断した上で結論を出してるんだ。
又、口からでまかせ。
周旋の用法で周匝と同じ意味とはっきりわかるものはない。
即ち、周旋は片道ルートで、はっきりと往復ルートを意味する用例はない。
周匝の議論は、この板でも過去に、さんざやったな。
341 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:03:10.26
少なくとも倭人伝の記録なら、短里を使用して
水行は誤差三割以内、陸行は現在の道からの推測だが、
誤差一割以内で収まるような印象がある。
陸行は場所を特定できないので、印象でしか無いが、
松浦、佐賀大和間は一割以内。
奴国不弥国の合計距離で、水行可能な場所に達する。
(短里77m使用時)
342 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:04:30.02
書き忘れ
この距離は現在の主要道を参考にした
道なりの距離である。
343 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:09:47.14
>>339 >周旋の用法で周匝と同じ意味とはっきりわかるものはない。
あるよ。馬が同じ所の周囲をぐるぐる回るというので周旋を使ってるとか、いろいろある。
一方で、
>周旋:A→B→C→D→E→F 行きっ放しの片道、F点は全体の途中でも良い。
という用法もある。
周匝という言葉の意味は、周旋の意味に包含される。
周旋がカバーする意味の範囲は、周匝の意味を包含しつつ、それより広いということ。
344 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:12:49.77
魏志倭人伝って、東夷伝だから、倭国以外の事も色々書いてる。
そこで書かれてる、里の距離を見れば、100〜50mなのは明らかだよね。
あと、陸行一月の一月は、二十四節気なら、14〜15日。
よって邪馬台国は、八幡平以外に考えられないと思う。
345 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 22:21:58.04
>>339 >又、口からでまかせ。
お前。自分の言に責任もてるのか。
こういう無礼は絶対にゆるさん。妄想たれのクソやろう。
個の板にも、かつて議論したのがいる。そいつらが証人だ。
俺のサイトにもきちんと用例を提示してるぜ。
>周旋は片道ルートで、はっきりと往復ルートを意味する用例はない。
バカやろう。片道も往復もあるか。
先に提示した徇の使い方も同じで、言葉というものは使われ方によって色々だ。
片道もあれば往復もある。入ったさきでの巡るもある。
中卒程度のバカ頭で勝手に限定してほざくな。
よく生きてるぜ。九州説のゴミが
>>345 そんなに顔を真っ赤にせずに、
ここに用例を提示すれば済む話では?
347 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 22:26:01.44
久留米よ。
「めぐり回る」が片道だ往復だと限定した言葉か。
てめ。ガッコに入ったのか?
妄想古代史はもう通用しない。敗残者はとっとと消えろ。
348 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:28:20.90
あと、インターネットを検索してて思うのだけど、邪馬台国九州説の人が見せる、
放射性年代測定への攻撃は、朝鮮人や韓国人のウリナラマンセーと似てると思う。
ちょっと酷いよね。攻撃の仕方が幼稚で執拗で五月蝿いだけって感じ。
機内説も九州説も間違えていて、八幡平だと思うけども、放射性年代測定を攻撃して
自説を守ろうとする態度はどうしたもんかな? って思う。
誰がどこで何の放射性年代測定を攻撃してるんだ?
351 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 22:37:50.70
>>346 くだらねーカス。
理解力も無いボケのために同じことを何度もできるか。
俺は「ここに提示しろ」といわれたら絶対にしないのだ。
352 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 22:41:53.58
>348
>放射性年代測定を攻撃して
たしかに、「もうええ」といいたくなる。
もう・それしか古代史の世界に踏みとどまる手がないのかな?
話題としては辟易だ。
353 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 22:47:45.90
九州説だがC14年代測定の
基準校正曲線のintcal04は基本的には尊重してるけどね。
たまにintcal04を恣意的に改変して
日本用校正曲線なるものを勝手に作る輩がいて、
それに対しては怒りを覚える。
その根拠が土器編年だったりすればなおさら。
土器編年を修正すべきだろってなもんだ。
354 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 22:58:39.52
>>353 >土器編年を修正すべきだろってなもんだ。
これで、古墳の年代もずいぶんごまかされてきたわけだ。
悪辣なのがまだ生き残ってるし、要職という名のニンジンに飢えたのが、
「かわりべんたん」で継承していくんだろうな。
>>348 C14に反対するのは主に考古学者(畿内説)じゃないの?
文献派(九州説)としては、土器編年なんか止めて、
すべてC14判定にすりゃいいじゃん、という感じ。
と思ったが、違うのかな。オレ個人としては、
博物館などの展示物にはすべてC14判定結果を明示すべきと思う。
後で修正値が出たら、その段階で修正すりゃいいだろうし。
土器編年という考古学者の職人芸だけじゃ信用できない。
356 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 23:47:22.55
>>355 >土器編年なんか止めて、
>土器編年という考古学者の職人芸だけじゃ信用できない。
それしか年代を想定する方法がなかった時代に、
50年100年単位で狂いが生じることも分かっていて使われた手法で、
時代遅れであり、かつ極めて正確な方法でしかない。
土器編年こそ、まず手を入れてみ直さなければならない。
357 :
天才伊作大先生 :2011/09/16(金) 23:54:35.86
土器の存続期間には300年400年というスタンスがある。
出土した土器で古墳の築造年代がぴたりと当たるわけがない。
「考古学者の職人芸」か。
地域ごとに孤立状態で地域ごとにやってるしなー。
古墳づくり・土器づくりにバラつきがあるように、
「考古学者の職人芸」にもバラつきがあるんだろうな。
358 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 23:54:47.30
やっぱ魏志倭人伝の登場人物は崇神朝
んで垂仁天皇の息子景行天皇の名が無いことから
まだ景行は生まれてないか幼いことは確実
んで崇神の年齢は35歳くらいだとして垂仁は15歳前後か
卑弥呼は85歳を超える老齢だろうと。
359 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 00:09:22.44
>>358 官の伊支馬=垂仁
次の彌馬升=崇神
とするなら普通に序列から考えたら垂仁の方が年上じゃないか?wwwwwwwwww
360 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 01:16:58.74
361 :
燃えよチームドラゴン:2011/09/17(土) 02:23:23.32
長幼の序をわきまえる九州の文化では若い方が先に客室に入って
それを見た魏使が序列と勘違いしてしまった。
これが事実。
362 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 02:35:21.42
>>361 そういう儒教的な価値観は、鬼道良くする道教的な価値観には無いよね。
だから九州説じゃないだろうなって感覚的にみんな思うんだ。
363 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/17(土) 10:06:16.62
>やっぱ魏志倭人伝の登場人物は崇神朝
ここは正解。
官の伊支馬=垂仁
次の彌馬升=崇神
とか考える人ってアホ?
伊支馬とかは官名だぞ。天皇の名前をつけるか?
外務大臣の官名を「裕仁(ひろひと)」とするようなことするか?
古代なら、即死刑だ!
365 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/17(土) 11:51:14.90
>伊支馬とかは官名だぞ。天皇の名前をつけるか?
左様、つけない。つまり伊支馬は垂仁ではない。九州の王国とやらの王の
臣下だ。彌馬獲支も同様、崇神ではない。
臣下は畿内の朝廷では、天皇には絶対なれない。
366 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 12:44:48.16
>>331 >「自危四度至斗六度」ですが、もととなった月令章句では、
>「自尾四度至斗六度」となっています。
>漢書地理志のほうは、写し間違いです。
>漢書補注が引く齊召南の説は、「自危四度至斗六度」では、順周りでも逆周りでも意味をなさないので、
>「宋本監本倶に誤れり」と評しています。
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也」・・・・@
の「自危四度至斗六度」は倭人の分野を対応させている。
「自尾四度至斗六度, 謂之析木之次,燕之分野。」・・・・A
の「謂之析木之次,燕之分野」と「謂之析木之次 燕之分也」の解釈は?
「自斗六度至須女二度,謂之星紀之次,越之分野。・・・B
自須女二度至危十度,謂之玄枵之次,斉之分野。」・・・C
「自南斗十二度至須女七度為星紀,於辰在丑,吳、越分,属楊州。・・・D
自須女八度至危十五度為玄枵,於辰在子,斉分,属青州。」 ・・・E
@ を基本に A〜Eを重ねてみると、
倭種とは『何』が見えてくる。
367 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 16:55:56.94
>>364 だから現代でも皇太子のことは殿下、
天皇のことは陛下としか呼ばないではないか
皇室に官使名なんかないではないか
名前でしか有り得ないのでは
368 :
ローガン:2011/09/17(土) 17:02:53.02
>>329:どくだみさん
返信どうもです。
>僕の訳は、今鷹・小南訳に近いです。
やっぱりそうなんかなあ。見解の相違という事で…。
私が考えたのが、まず東夷伝の序文。
「然荒域之外、重譯而至。」…(九服の内はわかるが)荒服の 外は訳を重ねてやってくる。
「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」…(公孫氏により)中国へ東夷の使者は来れなくなった。
どちらも中華の使者派遣や相互の往来ではなく、あくまでも夷蛮→中華。
これと同様に考えたら評の「使譯時通」の使譯は「東夷からの使者」と読めるのではないですか?
で、「随事」…東夷からの使者のもたらせた情報にしたがって。と読んでみました。
又、序文「其後高句麗背叛、又遣偏師致討、窮追極遠、踰烏丸、骨都、過沃沮、踐肅愼之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。」
公孫淵誅に続く、位宮追討。それにより、まわった諸国については詳細記録が可能となった。
つまり、進軍した所についての情報はある程度正確であろうが、他はやってきた使者情報ゆえ、その真偽は定かではない…。という考えです。
370 :
天才伊作大先生 :2011/09/17(土) 20:43:19.09
>>368 その件についてはすでに決着している。
こういうことを裁定するのは第三者の良識と見識だ。
371 :
日本@名無史さん:2011/09/18(日) 12:07:27.70
>>366 「自危四度至斗六度 謂之析木 之次 燕之分也」・・・・@
は、
『危4度から斗6度に至。次へゆく(之)燕の(之)分野也、これ(之)析木と言う(謂)。』
「自尾四度至斗六度, 謂之析木之次,燕之分野。」・・・・A
は、
『「尾四度から斗六度に至。 これ(之)燕の(之)分野で析木と言う(謂)。
次へゆく(之),。」
@ の「自危四度至斗六度」は、燕の分野である析木ではありません。
「自危四度至斗六度」は、倭人の分野です。
析木である燕之分野は、次の所謂「斗6度」からです。
372 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 06:29:33.04
>>371 >次へゆく(之)
では意味が通らんよ。
373 :
ローガン:2011/09/19(月) 09:07:58.37
析木のやどり
374 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 11:21:43.94
>>372 >>371 >>次へゆく(之)
>では意味が通らんよ.。
意味が通らないという意味がわからない。?
豕韋 之次⇒降婁 之次⇒大梁 之次⇒實沈 之次⇒鶉首 之次⇒鶉火 之次⇒鶉尾 之次⇒寿星 之次⇒大火 之次⇒析木 之次⇒星紀 之次,⇒玄枵 之次⇒
十二次円環で問題ない。
375 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 12:36:22.95
>>373 名前:ローガン
>析木のやどり
「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」を受けて
「自危四度至斗六度 謂之析木 之次 燕之分也」・・・・@
なら、「自危四度至斗六度」も 燕之分野である(也)。
が、有効ですよね。
あくまでも、「自危四度至斗六度」は倭人の分野と置いての上で。
本来の「燕之分野」は
「自尾四度至斗六度, 謂之析木之次,燕之分野。」・・・・A
です。
何の議論をしてるんだ?
377 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 15:39:06.09
邪馬台国とは無関係。知識をひけらかしたいだけだろ。
378 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/19(月) 16:03:37.86
379 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/19(月) 16:08:01.60
>>378の書き足し。
邪馬臺國が九州にあったことを示す証拠のひとつ。
な〜る
381 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 12:32:09.48
魏略 (逸文1) 前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注の
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」で
倭の領域が記述されているなら、その範囲は帯方にゆだねられる。
帯方=沙里院なら、沙里院は北緯38度30分23秒 東経125度45分35秒であるから、
倭の領域は緯度的には北緯 38度25分53秒の山形県東根市あたりで、
経度的には経度126度44分49秒の沖縄県久米島あたりになる。
「度海千里復有國」の「海千里」は『千里四方の海』をいう、故に
「倭種」の国は北緯38度30分以北、所謂北海道を刺しているだろう。
「倭」も「倭種」も
「自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也」の通り、
燕とかかわっている。
燕王を名乗った公孫と深く係わっていたことも納得がいく。
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」・・・・魏志
382 :
どくだみ:2011/09/20(火) 20:28:04.94
>>366 >@ を基本に A〜Eを重ねてみると、
>倭種とは『何』が見えてくる。
僕には、漢書の写し間違いしか見えてきません。
>>371 >『危4度から斗6度に至。次へゆく(之)燕の(之)分野也、これ(之)析木と言う(謂)。』
この読みなら、漢文は以下の語順じゃないといけません。
「自危四度至斗六度 之次 燕之分野也 謂之析木」
原文と比べると、それぞれの文字の順番が全然違うでしょう。
漢文は、格変化もないし日本語のような助詞もないので、文字の順番が意味を決定します。
原文の順番を入れ替えてしまっては、もう解釈ではありません。
それから、貴方の訳では、日本語としては成り立っていますが、
その語順に合わせようとすると、「自危四度至斗六度 之次」の部分が、漢文として文の態をなしません。
つまり、漢文に書いていない事を、想像で日本語として組み立てているわけです。
また「析木之次」のように二十八宿を「○○之次」と表現するのは決まり文句のようなものです。
決まり文句を分解して「次へゆく」と読むのは、無理矢理すぎると思います。
>@ の「自危四度至斗六度」は、燕の分野である析木ではありません。
ただの書き間違いです。
基本の語法・句法を曲げてしまっては、どんな意味を見出しても、
それは言語ではなく、暗号です。
383 :
どくだみ:2011/09/20(火) 20:34:35.17
>>368 >これと同様に考えたら評の「使譯時通」の使譯は「東夷からの使者」と読めるのではないですか?
「豈に常ならんや」を僕や今鷹・小南訳のように解釈すれば、
「東夷からの使者」でも「相互交通」でも解釈には影響はないです。
>つまり、進軍した所についての情報はある程度正確であろうが、他はやってきた使者情報ゆえ、その真偽は定かではない…
「その真偽が定かである」ということを「常」という言葉で表すのは無理があろうかと思います。
だから、井上さんの訳は、あまり賛同できないですね。
384 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 13:04:14.54
>>382 :どくだみさん
>@ の「自危四度至斗六度」は、燕の分野である析木ではありません。
>ただの書き間違いです。
書き間違いではありませんよ。
「自危四度至斗六度 謂之析木 之次 燕之分也」・・・@
の「也」は『おなじ・等しい』。
あくまでも、「自危四度至斗六度」は倭人の分野と置いての上で。
本来の「燕之分野」は
「自尾四度至斗六度, 謂之析木之次,燕之分野。」・・・・A
ですが、
@ の「自危四度至斗六度」は析木のやどりである燕の分野・「自尾四度至斗六度」と同じである(也)。
と、記述されている。
だから、漢書地理志の呉地ではなく粤地でもない燕地に記述されているのです。
書き間違いとするのは、無謀です。
385 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 18:29:10.81
時代的にはぜんぜん後だが、北部九州からこういうものが発掘されたのはなんらかの影響があるか?
福岡市西区の元岡古墳群で、西暦570年とみられる「庚寅(こういん)」の干支(えと)と、「正月六日」の
日付が刻まれた鉄製大刀(たち)が見つかった。福岡市教委が21日、発表した。
年と月日を組みあわせて表記した古墳出土の刀剣類の発見は初めて。暦が使われたことを示す国内最古の
例とみられる。
6世紀半ばに暦が伝来したとする「日本書紀」の記述を裏付け、古墳時代の社会を解き明かす画期的な資料だ。
7世紀に造られた同古墳群G6号墳の石室内から8月末に出土した。長さ75センチの刀身の背の部分に
「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□(1字不明、練か)」の19文字が、たがねで彫った文字に金や
銀を埋め込む象眼という技法で記されていた。
市教委によると、「庚寅の年の正月6日庚寅の日に、この刀を作った。12回練り鍛えた」と読め、年の干支と
日付の干支を照らして570年と判断したという。
出土当初、表面はさびで覆われていたが、福岡市埋蔵文化財センターがX線撮影をした結果、文字が確認された。
「日本書紀」には554年、暦が朝鮮半島にあった百済から日本へもたらされたとある。見つかった表記は暦に
したがったとみられ、伝来から十数年後には国内で暦が使用されていたと考えられる。
文字を象眼した古墳出土の鉄剣類は6例見つかっている。うち、年号が入ったものは埼玉県の稲荷山古墳
出土鉄剣など3例があるが、具体的な日付が入った例はこれまでなかった。
ソース
asahi.com
http://www.asahi.com/culture/update/0921/SEB201109210016.html
386 :
佐賀原住民:2011/09/21(水) 18:42:49.09
元岡遺跡で6世紀ですか。
元岡では斜め式高炉が28基出ています。もちろん、鉄滓もトン単位で出ています。
ここから出土した木簡では7世紀から8世紀ということですが、
弥生遺跡もありますので、6世紀には操業を始めていた可能性はありますね。
国産か舶来かという問題もありますが。
387 :
天才伊作大先生:2011/09/21(水) 18:52:01.19
江田船山古墳出土の鉄刀
・八十練九十振
稲荷山古墳出土の鉄剣
・百練の利刀
元岡古墳出土の鉄刀
・十二回練り鍛えた
いずれも鋳造ではなく「鍛造」だったことが分かる。
日付を入れたもの・誰それの治世で自らの存在した時期をあらわしたもの、
そして自らの身分を誇らしげに書いたもの。
みずからの身分と一族の系譜を書いたもの。いろいろなわけだ。
388 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 20:26:27.52
>>385 太歳を都合良く見落してるんじゃないのかな?
大歳AND 庚寅AND 正月六日 が、庚寅日 になる日だぞ?
てか中国歴良く知らないけども。
庚寅AND 正月六日 が、庚寅日で、500年代辺りとして決めたとか
日本の文系はそういう事を良くやる。
389 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 20:58:35.18
刀身にきざんだのは6世紀であるが、副葬されたのは7世紀ではないか?
390 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:53:30.72
>>389 それは争いが余りないみたい。
問題は百済から歴が伝わったとしている所。
理由は記紀に書いてるからとか頓珍漢言ってる。
百済でこの時代の暦がガッツンガッツン出土されてるのら信じるけども、
記紀に書いてるのは坊主が暦法(歴を作る方法の教科書を持っていた)としか
言ってない。つまりマニュアルをヤマト運輸が運べば、ヤマト運輸が歴を伝えと
言うんか? って話やね。
391 :
ローガン:2011/09/22(木) 01:13:00.19
>>383どくだみさん。>賛同できません。
了解しました。ご教示に沿えば、常とは「決まり事」と訳すのが良いようですね。
ざっくばらんに云えば豈常也哉…「先行史書の伝を踏襲しなければならない決まりなどない」でしょうか。 では、お題の評に戻って…
陳寿は、先行史書の夷蛮伝の例として、史記の朝鮮南越、漢書の西南夷粤朝鮮、後漢代の書の西羌を挙げています。
先行史書が記した外国伝は軍の遠征、又は張騫のような使節団の派遣がソース。つまり中国人自ら入手した情報が、立伝の基準だと言って良いのではないでしょうか?
実際、この評にある朝鮮、越、羌はいずれも進軍した地域です。そのため越は元鼎六年、朝鮮は元封三年に滅んでいます。又、羌への進軍は後漢弱体化の一因といっても過言ではないでしょう。
勿論、東夷伝でも軍による征討はある訳ですが、南韓や倭までは及んでいない。それら、進軍していない地域の資料とは「使訳時通記述随事」のもの。ではあるが、ここでは外国伝として記した。
この事は、先行史書が行った「立伝の基準には合わないが、なにもそれを踏襲しなければならない決まりなどない」
が、豈常也哉! ですかな?
392 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 07:25:11.73
「使訳時通記述随事」と、
変なところで続ける手法が間違いだと、まだ分からんか。
井上という学者は、そんなよこしまなことをやってるのか?
393 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 10:00:30.08
>中国人自ら入手した情報が、立伝の基準だと言って良いのではないでしょうか?
>「立伝の基準には合わないが、〜
立伝の基準なんて誰も言ってないだろうが・・
おそらくね、魏略の方が三国志より先にあって、
簡潔達意を信条とする陳寿としては、
魏略のような従来の夷蛮伝を踏襲した長々とした文章を嫌い、
「豈常也哉」と、いいわけ+自己主張をしたんだと思うよ。
395 :
ローガン:2011/09/22(木) 15:32:23.38
>>393 >立伝の基準なんて誰も言ってないだろうが・・
勿論その語句自体は、私の言ですが、史記が書いた夷蛮伝、匈奴も越も朝鮮も西南夷も大宛も
又漢書の伝、匈奴、西南夷両粤朝鮮、西域。いずれも軍による征討もしくは使節団の派遣という、中華が自らとった行動の対象国ばかり。いわば史記漢書における立伝の条件とは、帝国の歴史に登場する国である事。
これを「立伝の基準」と表現した訳です。
>>394 そうかもしれませんね。さておき陳寿が評にピックアップした先行史書の伝…朝鮮、越、羌が自身の東夷伝の諸国と呼応しているなら、朝鮮が遼東辺り。
羌が鮮卑の領域、越が南韓と倭になり、陳寿は、倭がかなり南方の地にあると認識している事が読み取れます。
396 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 15:44:13.21
>>395 >陳寿は、倭がかなり南方の地にあると認識している事が読み取れます。
それでも会稽東冶の東。
それで1万2000余里というが、額面通りの距離じゃないことは明白だ。
なにしろ、距離測定が不可能な海路の1万余里を含む1万2000余里だから。
397 :
ローガン:2011/09/22(木) 16:08:39.75
>>396:天才伊作大先生
>それで1万2000余里というが、額面通りの距離じゃないことは明白だ。
そう、明らかに実態とは乖離している。北部九州上陸までが「帯方東南萬里」そこから王都のある国まで二千余里。
洛陽から交趾郡まで萬千里。洛陽から楽浪は東北五千里。
これから寸法取りすれば、帯方からだと萬二千里は閔越辺り。という机上計算。
>なにしろ、距離測定が不可能な海路の1万余里を含む1万2000余里だから。
同意、萬里は測定した数字ではありません。修辞だから。
398 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 17:48:32.76
>>397 ローガン
>同意、萬里は測定した数字ではありません。修辞だから。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里 の七千餘里も
始度一海、千餘里至對馬國 の千餘里も
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國 の千餘里も
又渡一海、千餘里至末盧國 の千餘里も
ぜ〜んぶ修辞ですかい?
399 :
ローガン:2011/09/22(木) 18:29:12.80
>>398 >ぜ〜んぶ修辞ですかい?
漠然とした萬里。それを三渡海と韓地水行に按分。各千里の渡海。
韓地を一辺四千里の正方形になぞらえ、左辺四千里を南下、底辺三千里を東行。という机上計算だと考えています。
>>397 同意、萬里は測定した数字ではありません。修辞だから。
勅使が実際に踏破し実際の距離が判っているのに
出鱈目な数字を記載したと考えるとはね。
畿内説の
必殺
《都合の悪い物は全て間違いで片付ける。》
401 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 19:32:38.46
>>398 >>400 正確に測定しようのない海路距離は正確には表記できない。
だから、日数表記か1000里単位表記を用いた。
1日航海1000里、1航海1000里。(他の歴史書もだいたいこれで記録している)。
修辞だとか出鱈目な数字だとかいうのではない。そういう表記方法だったのだ。
(すでに何度もそう述べてきたが、二人は知らないのか納得しないのか)。
それが、編纂者の机上計算では「まさに会稽東冶の東にある」だよ。
これをいうと反対意見続出だろうが。
1000里単位表記の海路を含む1万2000里だからこそ、アバウトすぎるからこそ、
これを、帯方郡から邪馬台国までの行程と日程に直して書いている。
それが「水行10日(海路1万里)、陸行1月」だよ。
402 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 19:46:41.36
机上計算なら、方4000里分の面積を円形に直し、
その半周分が約7000里
朝鮮半島を円系の土地とし、それから7000里を
割り出したのだろうか。
実測では9000里なので、実際に計測した距離の
誤差を含むものとも考えられますが。
どちらにせよ、あり得ないほどかけ離れている距離ではない。
403 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 19:52:36.63
クヤ韓国から、対馬
対馬から壱岐
壱岐から唐津
千里77キロからみれば、全部誤差3割以内。
海行の荒っぽい測定法からみると、誤差はある程度仕方がない。
この三つの距離を足して、平均すれば、81キロ
千里77キロの誤差範囲ではある。
404 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 19:59:29.28
>>402 >>403 実際の距離数値とは無縁の記録法なんだよ。
これに数値とを当てはめることがナンセンス。
どんな巧妙な計算法を編み出しても意味はない。
たのむからやめてくれ。
405 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 20:04:13.76
三韓の方4000里から、(三韓の南北4000里、東西4000里として)
二辺の合計は8000里になる。
この8000里よりも海路7000里のほうが遥かに長い。
406 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 20:49:11.25
>>404 天才伊作大先生
伊作さんは地理情報は大事な軍事情報だと言っていなかったかな。誰かが史書に軍事情報なんか書かないだろう
と言ったのに対して猛烈に罵倒していたように記憶しているのだが。
韓の方四千里 も 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里 もいい加減な数値
なのか?
407 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 21:53:21.54
408 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 21:56:59.10
>>406 >史書に軍事情報なんか書かないだろうと言ったのに対して猛烈に罵倒していた
史書にすべてがかいあると思ってるタコと、
史書に書いてなければないと思ってるタコは罵倒して当然だろ。
古代の中国王朝が地理をどうとらえ、どう位置づけていたのかを知るために、
中国文化研究院のサイトを参考に、古代中国の地図学と地理学について簡単にみておく。
▼中国の古代地図学
晋の武帝のとき司空に就任し裴秀(陳寿と同時代の人)は、
「製図六礼」という地理学と地図学の法則を確立した。
すなわち、縮尺比率・方位・距離・高低差がある場合の水平距離・交差道の角度・
曲線区間での直線距離と直線の方位、以上の6つの求め方を確立している。
中でも注目すべきなのは、曲線区間においては、直線距離と直線の方位を求めることである。
▼中国の古代地理学
「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」としている。
さらには、「軍事的地理把握の要件には、政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、
人口、河川等がある」としている。
『倭人伝』の内容も、ほぼこの要件に沿っている。
409 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 22:03:05.73
>>406 >韓の方四千里も
これについてはどんな議論をしたか記憶にないか。便利な頭だな。
>いい加減な数値 なのか?
俺は『倭人伝』のいかなる記録についても、「いい加減」などといった覚えはないぞ。
ふざけてると承知しないぞ。
●おーい。俺の言動にきーたふーないちゃもんつける野郎たちよ。
これでも紳士的に対応しろというか。クソったれ。
410 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 22:22:02.03
>>406の名無しよ。
これでも、「私の誤解でした」とか、
「教示ありがとうございます」とか、
しおらしいことは書けんか。
411 :
402-403:2011/09/22(木) 22:35:59.14
>>405 短里の方4000里は、現在の韓国に匹敵する面積である。
三韓の面積としては妥当なところであろう。
そして、帯方郡(と予想される所)から、狗邪韓国(釜山を推定)
まで、短里で実測して約9000里である。
この9000里は、狗邪韓国まで7000里との表記に対して、
3割以下の誤差ということになる。
海路は計測が困難と言われているように、
この程度の誤差はあるのだろう。
>>408 >曲線区間での直線距離と直線の方位、以上の6つの求め方を確立している。
>中でも注目すべきなのは、曲線区間においては、直線距離と直線の方位を求めることである。
確認したいのだが、
曲線の道を計測して、直線距離と方向を求める(数学的)手法。 なのか
曲線区間では、道なりの距離は使わず、直線距離と方位を記録する。
この2つの意味にとれて、どちらかわからない。
原文をぐぐっても該当する原文がないので、確認ができない。
412 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 22:37:50.16
>>409 自意識過剰の遺作
>>いい加減な数値 なのか?
>俺は『倭人伝』のいかなる記録についても、「いい加減」などといった覚えはないぞ。
>ふざけてると承知しないぞ。
「伊作が『倭人伝』のいかなる記録についても、「いい加減」などといった」とは言っていない。
「いい加減な数値 なのか?」と聞いているのだ。
「承知しないぞ。」とふざけているのはおまえだ。ば〜かめ。
413 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 22:57:05.55
>>412 思ったとおり、
「私の誤解でした」とか「教示ありがとうございます」とか、
しおらしいことは書けんようだな。
どだい。
文書にならんような書き込みをする奴に、まともな話が通じるわけがないわな。
>>397 >北部九州上陸までが「帯方東南萬里」
そこまでの皇帝の徳の及ぶ範囲で
そこから先がいよいよ「化外の地」と言うことですねわかりますwwwwwwwww
415 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 23:04:10.13
>>413 困った委作
答えに詰まったときの常套手段・・・話題を転換する、相手を罵倒する。
416 :
天才伊作大先生:2011/09/22(木) 23:10:46.11
417 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 23:36:06.22
>>416 天才伊作大先生
韓の方四千里からすれば
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
の七千餘里は「実際の距離数値とは無縁の記録法なんだよ。」とは言えないだろ。
そういうことから「韓の方四千里」はいい加減な数値なのか?という問いが出された。
韓国の釜山辺りから南へ少し下れば対馬が視界に入ってくる。地平線(水平線)に見える
のであれば凡その距離は(慣れた者であれば)判る。狗邪韓国から對海国、對海国から一大
國、一大国から末盧国はそのような状況にあるから目視で大凡の距離として千里と判定され
たのだ。
つまり、帯方郡から末盧国までの距離万里は実測(目視)で求めたとして何らおかしくない。
修辞だとか、一日航海千里だとかでおかしな解釈をする必要はないのだ。
クズ。いい加減にしろ。
419 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 23:48:14.47
420 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 00:21:37.51
>>417 >目視で大凡の距離として千里と判定されたのだ。
半島と対馬、対馬と壱岐は、
海岸からの目視では島影は見えないよ。地球は球体だから。
山に登って対岸の山がやっと見える距離。
水行1日の距離を1000餘里と見做したのだ。
帯方郡から狗邪韓國も水行7日だったので7000餘里とした。
実際の距離との誤差は±30%以下。
1里≒70m
421 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 00:34:34.44
>>417 追加
方可4000里、方可400里、方可300里は、
韓國、対馬、壱岐の面積とほぼ一致。
壱岐については本島と周辺諸小島を含む海域面積とほぼ一致。
方可4000里の面積は漢江流域以北の韓國を含まない。漢江流域以は帯方郡。
方可400里は、対馬20里×800里の面積。
422 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 00:41:52.48
>>417 1里≒70mについて
1歩≒22.8cm
1里=300歩=300×22.8cm≒68.5m
423 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 04:32:11.89
>>400 >勅使が実際に踏破し実際の距離が判っているのに
>出鱈目な数字を記載したと考えるとはね。
なら、なんで勅使は皇帝が定めた魏の里を使わずに、
現地人の勝手な短里なんてもので報告書を書いたわけ?
即位のときに暦なんかといっしょに度量衡もきちんとしろって詔が出てるのに、
短里で報告したら詔無視してることになるやん。
現地人から短里で聞いたとしても、報告書には公定里に変換して書かないとまずいでしょ。
誅殺されても文句は言えんよ。
短里説は、そういう都合の悪いことは無視なん?
424 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 06:25:33.17
425 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 06:46:10.06
>>423 >短里で報告したら詔無視してることになるやん。
魏の公式尺度とは異なる尺度で書かれた報告書があって、
のちに歴史家がその通りに東夷伝に記録した。
これを校閲は通しているし、政府関係者の注文がついた形跡はない。
後世の注釈でも何の注釈もつけていない。
むろん、史官や編纂者が誅殺された形跡もない。
かくして、東夷伝はきみの目に触れるに至っている。
これが現実であって、何びとの疑問や不条理感にも優先する。
「なぜそうなったのか」は現場をみていない者には分からない。
ただ、「魏の公式尺度とは異なる尺度で書かれた」という現実があるのみ。
短里説など、この現実を解決せんとする方便の一つにすぎない。
それが無理な方便であることはすでに周知の通りだ。
426 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 06:46:32.26
帯方郡(今の平壌辺り)から一万二千里って短里(76m採用で)
76×12000=912Km だから、ちょうど八幡平の辺りになると思う。
あと、当時既に暦が出来ている。つまり中国人は天体観測による
距離を計る術を持っていた訳だ。だから何故突然帯方郡から1万2000里と
書いたかと言うと、遠すぎて旅程の距離じゃ分り難いだろうから、
天体の観測で求めた距離を示したのだと了解すれば、なんの問題も無い。
南へ南へという記述がちょと意味不明だけど、これより以北は遠すぎると
言ってるのだから、八幡平が北限だと言ってるようなもので、
南北の言い方・記述が今とは違うのだろう。
427 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 06:53:29.07
>>425 でも東夷伝全体が短里で読めるのだから、短里だよ。
一万二千里は旅程じゃなくて、直線距離。
天文計測なんだよね。だから耶馬台国は秋田県の八幡平。
428 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 07:00:52.94
古代中国の天文学って体系的に明らかにした資料無いけども、
太歳(木星の惑星軌道を元にした架空の天体)を想定するほど
高度なものだった訳。一年も365+1/4と知っていたみたいだし
月の満ち欠け周期も充分に理解していた。でなければ、太陽太陰
歴なんか作れない。となると、天文測地法も充分に了解していたはず。
429 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 08:50:25.70
>>426、427
ここは九州板。邪馬台国が九州に有ったことを立証するために研究している者
達の発表板だ。ここに投稿することは邪馬台国が九州に有ったことを認めるこ
ちになる。それが解って言っているのか? 九州以外の所に邪馬台国が有った
と主張したいのならドン来い板へ行け。
430 :
筑紫次郎:2011/09/23(金) 09:48:46.11
邪馬台国のあったのは山門郡。
其餘旁國遠絶不可得詳から
末盧国に上陸して邪馬台国までにあった国は
伊都国、奴国、不弥国、投馬国だけ。
水行陸行の日数は場所をしめす所要日数ではなく別の意味があった。
伊都国、奴国、不弥国があったのは佐賀平野。
糸島、博多方面へ行ったら
方角、距離、伊都国の人口が合わなくなるだけじゃなく
奴国不弥国から先へは進めない。
これは方角を間違えている可能性が大きい。
奴国は九州で最大級の貝塚があるほど人口が密集していた東名遺跡付近。
不弥国ははそこから7q程度の吉野ヶ里遺跡。
伊都国は西北7q程度の佐賀大和都渡城付近。
不弥国(吉野ヶ里)から南へ進んで最初にあるのが投馬国。
だから投馬国は下妻、上妻の名前があった八女、筑後。
投馬国から南へ進んで最初にあるのが邪馬台国。
だから邪馬台国は山門の名前のある山門郡。
倭人伝の行程記事は間違っていなかったし
実に簡単な話。
434 :
筑紫次郎:2011/09/23(金) 10:30:55.50
●皆裝封付難升米牛利(全部包装して難升米と牛利に託する)とある。
魏帝が与えた品物は勅使ではなく難升米牛利に運べと言っている。
●正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦?刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
(正始元年、太守弓遵が派遣した建中校尉梯儁等は、この詔書と印綬を倭国へ持って行き倭王に授、併せて詔をもたらした。詔書と金・白絹・綿・刀・鏡などの品物を賜り、倭王は使者に上表文を託して詔書と賜物への答礼の謝辞をのべた。)
やはり
魏帝が与えた品物を卑弥呼に与えたのは勅使の梯儁ではない。
いったい何故なのか?
※金帛錦?刀鏡采物を賜ったのは梯儁ではなく魏帝。
だから賜の主語は梯儁ではない。
だから「梯儁等が金帛錦?刀鏡采物を賜った」と訳すのは間違い。
賜金帛錦?刀鏡采物は「金帛錦?刀鏡采物を賜って」と訳すべき。
賜の主語は倭王。
435 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 12:32:27.00
>>431 >伊都国、奴国、不弥国があったのは佐賀平野。
其の通り。末盧國(唐津古松浦湾)から東南へ500里(35km)で佐賀平野。
>>432 >奴国は九州で最大級の貝塚があるほど人口が密集していた東名遺跡付近。
>不弥国ははそこから7q程度の吉野ヶ里遺跡。
>伊都国は西北7q程度の佐賀大和都渡城付近。
ほぼ同意。
伊都国は佐賀大和都惣座遺跡。(渡城付近を否定はしない)
奴國は伊都國から東南100里(7km)の佐賀城。
(東名遺跡の可能性は否定しないが、東名遺跡は伊都國から5kmで近すぎる)
伊都國で放射読み、不彌國は伊都國から東100里(7km)の吉野ヶ里遺跡。
436 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 12:33:01.97
>>433 >不弥国(吉野ヶ里)から南へ進んで最初にあるのが投馬国。
>だから投馬国は下妻、上妻の名前があった八女、筑後。
八女投馬國説は否定はしないが、可能性は低い。
しかし、山門の名前のあるみやま市瀬高は投馬國の領域。
八女を除く筑後は投馬國。投馬國の城郭は吉野ヶ里の南方の大川。
>投馬国から南へ進んで最初にあるのが邪馬台国。
>だから邪馬台国は山門の名前のある山門郡。
これは読み間違いの勘違い。
不彌國からも放射読みすべき。
不彌國の南に邪馬壹國、投馬國の東側内陸側に邪馬壹國。
邪馬壹國の筑後の領域は久留米から八女までの内陸側。
邪馬壹國の城郭は久留米。
倭人伝の行程記事は間違っていなかったし、
実に簡単な話。
437 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 13:50:36.57
>>420 卑弥呼の都は久留米
>半島と対馬、対馬と壱岐は、
>海岸からの目視では島影は見えないよ。地球は球体だから。
>山に登って対岸の山がやっと見える距離。
出航時に島影が見えるとは言っていないだろ。「韓国の釜山辺りから南へ少し下れば対馬が視界に入ってくる。」
と書いているだろが。出航してしばらくすると目的地の島影が見えてくる。凡そ35kあるなと判る。振り返れば
出航地が見えてああ、25km来たなと判る。こんなものなのだ。
半島西岸から南岸沖を行くときは陸地が見えている。海岸線の長さは凡そ判っている。水行7日だから七千里と
換算したなどとアホぬかせ。
438 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 13:57:35.53
耄碌もなにも最初から馬鹿なんじゃあ…
440 :
筑紫次郎:2011/09/23(金) 16:10:21.54
>>435 >奴國は伊都國から東南100里(7km)の佐賀城。
最初は私もそのように考えましたが佐賀城付近は弥生時代の遺跡は
点在しているだけでほとんどありません。
遺跡の無い所を二万戸の奴国に比定するのは無理だと思います。
千戸の伊都国不弥国は判りづらいので奴国を最初に比定した方が間違いがないはず。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG >伊都国は佐賀大和都惣座遺跡。
国府があったりして大変な要地だったのですが、
それは数百年後の話だし、距離と方角が少し合いません。
都渡城と言う名前をたよりにしまししたが、
少なくともここから3q以内の場所にあったと思います。
> 伊都國で放射読み、不彌國は伊都國から東100里(7km)の吉野ヶ里遺跡。
伊都国を都渡城にすれば幹線道路道なりで吉野ヶ里まで14q程度。
当時道路が現在よりも整備されていなかったとすれば
直列読みで距離方角もほぼ一致する。
>八女投馬國説は否定はしないが、可能性は低い。
しかし、山門の名前のあるみやま市瀬高は投馬國の領域。
八女を除く筑後は投馬國。投馬國の城郭は吉野ヶ里の南方の大川。
三潴、筑後。八女は四世紀には八女津姫がいた一つの国です。
奴国の2.5倍の五万戸を満たすのは三潴、筑後。八女全てが必要です。
三世紀にも一つの国だったと考えられます。
その南の山門郡は田油津姫がいた別の国です。
441 :
筑紫次郎:2011/09/23(金) 16:16:03.85
>>436 >しかし、山門の名前のあるみやま市瀬高は投馬國の領域。
みやま市の南には別の国(三潴筑後八女)投馬国があります。
方角の違う久留米が邪馬台国になる根拠は何ですか?
>これは読み間違いの勘違い。
不彌國からも放射読みすべき。
邪馬台国までの道のりを正確に描写するのが最重要なはず。
個人的には放射読みはいかなる根拠もないと考えています。
>邪馬壹國の筑後の領域は久留米から八女までの内陸側。
邪馬壹國の城郭は久留米。
佐賀大和から久留米は東、
八女でも南ではなく東南になります。
それに
久留米の重要遺跡は三世紀ではなく、多分四世紀以降のものですよ。
442 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 16:40:37.20
>>437 >半島西岸から南岸沖を行くときは陸地が見えている。海岸線の長さは凡そ判っている。
郡(漢江河口)から狗邪韓國(洛東江河口)まで、
半島西岸南岸多島海の島の間を循海岸水行でくにゃくにゃ航海する。
正確な道程も距離も判りようがない。
グーグルアースでも見たら解るよ。
443 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 16:42:06.99
>>442の地図
┃∵∵∵∵∵∵楽浪郡∵∵┃∵┃〜〜〜〜〜〜
┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃∵┗┓〜〜〜〜〜
〜┗━━━━━┓∵∵∵∵┗┓∵┃〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜┌←┐∵∵∵∵┃∵┗┓〜〜〜〜
〜〜江華島■↓┃↑帯方郡∵┃シ歳 ┃〜〜〜〜
〜〜永宗島■↓┃└◎郡庁 S┗┓∵┃〜〜〜 S
〜〜大阜島■↓┣━━━┓ S S┃∵┗┓〜〜辰
州胡■〜┌←┘┃∵∵∵┃ S S┃∵∵┃〜〜韓
〜徳積島↓┏━┛∵∵∵┃ S S┣━━┫〜〜八
〜〜〜〜↓┃∵∵∵∵∵┗┳━┛∵∵┃〜〜國
〜〜〜〜↓┗┓∵馬韓∵┏┛∵辰韓∵┃〜〜〜
〜〜〜〜└┐┃∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┃∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜┌┘┃∵∵∵∵┃∵∵弁辰∵┃〜〜〜
〜〜〜〜↓┏┛∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜↓┃∵∵∵∵┏┛倭∵狗邪┏┛〜〜〜
〜智島■↓┃∵∵∵∵┃∵┏━━◎┛〜〜〜〜
多島海〜↓┃倭∵∵倭┣━┛┌→┤〜〜〜〜〜
〜珍島■↓┃∵∵┏━┛┌→┘■↓巨済島〜〜
〜〜〜〜↓▲━━┛┌→┘■〜〜↓〜〜〜〜〜
〜〜土末└→→→→┘〜南海島〜↓〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜多島海〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜
444 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 17:26:19.78
邪馬台国論争だけで日が暮れるのか
445 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 18:10:07.84
>>442,
>>443 卑弥呼の都は久留米
「海岸線の長さは凡そ判っている。」というのは既に陸地の踏破なりその他の測定法で○○から△△までは
二千里、△△から□□までは千五百里と判っている(韓が方四千里と分っているということはこのようなデ
ータがあったということ)から舟で△△の側を通ったから郡からの距離はこれくらいだと分るという意味。
渡海の場合の目視とは違う目視なのだ。
446 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 18:18:58.83
>>425 >魏の公式尺度とは異なる尺度で書かれた報告書があって、
間違いじゃなくて、異なる尺度だって、何が保証してんの?
447 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 18:42:29.41
>>446 新参者か? もう何度も詳しく説明済みだ。
説明を求めるならば、過去の投稿をみていない旨を添えて、
礼節をもって新たに説明を求めることだ。
なんだその口のきき方は。
448 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 18:48:03.87
>>438 >> 439
山ザルに哲学書を見せても無意味ということだ。
449 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 18:58:02.40
>>441 それにしても筑紫次郎。
何年経っても・開けても暮れても・里程・日程読みだけで、
「邪馬台国はここだ」と叫ぶことしか興味がないようだな。
450 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/23(金) 19:51:42.15
>>441 >佐賀大和から久留米は東、
>八女でも南ではなく東南になります。
伊都國城郭(惣座遺跡)の東100里(7km)に不彌國城郭(吉野ヶ里遺跡)。
不彌國領域の南は東から西に流れる筑後川を挟んで投馬國と邪馬壹國の領域。
有明海沿い側に投馬國の領域、内陸側に邪馬壹國の領域がある。
不彌國から筑後川を渡って邪馬壹國の領域を東南東に行くと久留米南部にある邪馬壹國の城郭。
不彌國から筑後川を渡って邪馬壹國の領域を南に行くと大川にある投馬國の城郭。
八女は邪馬壹國の南の端、狗奴國が攻め込んでくる紛争地。
瀬高は投馬國の南部矢部川河口であり有明海沿岸、狗奴國が攻め込んでくる紛争地。
投馬國の南端は大牟田、南で狗奴國と接している地域。筑後の南端。
>>449 脳タリンの屑は私にレスするなと感度も言っている。
不正と誤魔化しと妄想しかないイサクを相手にはしない。
452 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 20:11:31.12
>>451 >不正と誤魔化しと妄想しかない
公開の場でこういう「ウソ」をいって大丈夫か。
まったく正反対のウソだということは観客が一番よく知っているのだ。
お前が信用をなくすだけだぞ。
ウソをついて誹謗してきたからみろ。
お前をまともに相手にするのはオタクだけになったろが。
消えるときが近づいてるぞ。
453 :
筑紫次郎:2011/09/23(金) 20:12:10.86
>>450 >伊都國城郭(惣座遺跡)の東100里(7km)に不彌國城郭(吉野ヶ里遺跡)。
惣座遺跡から吉野ヶ里遺跡までは直線距離で10.4qです。
道なリならば10数qになります。
百里でも誤差の範囲内かもしれないが
どちらかと言えば二百里でしょう。
>不彌國領域の南は東から西に流れる筑後川を挟んで投馬國と邪馬壹國の領域。
有明海沿い側に投馬國の領域、内陸側に邪馬壹國の領域がある。
方角を無視してまで
何故そう考えるのですか?
>八女は邪馬壹國の南の端、狗奴國が攻め込んでくる紛争地。
何故そう考えるのですか?
455 :
天才伊作大先生:2011/09/23(金) 20:17:33.23
>>451 それにしても筑紫次郎。
お前は了見が狭いから、やること・いうことも・チンケだわ。
で・墓場と茶畑しか使い途のない八女がどうしたって?
熊本平野との格の違いにそろそろ気づいてる頃だと思うがのぃ。
おらおらチンケだって言われてるぜ八女の大将
伊作もだいぶ人間ができてきたな。
コテハンだけは、いまだにオコチャマれべるだが。
458 :
日本@名無史さん:2011/09/23(金) 21:23:01.84
見調査の古墳に鉄剣銘があるとして
今後数十年で朽ちて錆びて記録が失われたら
誰の所為になるの?
459 :
神武の子孫:2011/09/23(金) 22:57:54.35
儂も投馬国は筑後川以南の筑後地方だと思う。九州で五万戸を養える地域としてはその地域が最も適当だ。
弥生時代の遺跡はどこにでもころがっている(但し、多くは耕作地や住宅地開発で潰されている)。
奴国は博多湾岸から佐賀県南東部にまたがる地域だろう。ここなら二万戸は養える。漢委奴国王の時代には
博多湾岸地域が奴国であったが、帥升の時代に筑紫平野部近辺まで版図を広げたと見る。そして九州の北部
と中部の30国ほどの盟主の地位を手に入れ、107年に後漢に献見を願い出ている。印綬を受けたかどうかは
史書に書かれていないが、倭国王という記述が後漢書に見えるから倭国の王として認められたのだろう。
この倭国体制が七八十年続いたのち数年に及ぶ内紛が起こり、卑弥呼が共立されて倭国の(女)王となる。
卑弥呼は居所を邪馬台国に置いた。この邪馬台国は戸数七万餘というからこれを養える地域としては熊本
平野近辺であろう。
460 :
筑紫次郎:2011/09/24(土) 00:37:14.48
>>459 >儂も投馬国は筑後川以南の筑後地方だと思う。
>この邪馬台国は戸数七万餘というからこれを養える地域としては熊本
平野近辺であろう。
≪筑後川以南の筑後地方≫と≪熊本平野近辺≫の間の
山門郡〜大牟田〜熊本県荒尾の人口密集地帯はどう解釈するの?
>奴国は博多湾岸から佐賀県南東部にまたがる地域だろう。
奴国を博多湾岸に比定したら不弥国から先へは進めないはず。
奴国、不弥国の基点はどこに比定して、どう進むつもりなんかな?
>>427 八幡平では、冬に生菜を食い、海に沈没して漁をすることなどありえない。
462 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/24(土) 07:09:40.07
>>453 >惣座遺跡から吉野ヶ里遺跡までは直線距離で10.4qです。
惣座遺跡(肥前国庁跡)から吉野ヶ里遺跡までは直線距離で7qですが。
>>八女は邪馬壹國の南の端、狗奴國が攻め込んでくる紛争地。
>何故そう考えるのですか?
女王國(邪馬壹國)の南端。
瀬高も女王國(投馬國)の南端。
大牟田も女王國(投馬國)の南端。
内陸国狗奴國が攻撃可能なのは八女と瀬高。
大牟田は投馬國水軍が圧倒的に優位で、狗奴國の攻撃は不可能。
>方角を無視してまで何故そう考えるのですか?
不彌國領域の南、筑後川を挟んで並んで南接しているのが、投馬國領域と邪馬壹國領域。
投馬國と邪馬壹國はどちらも不彌國の南の方向です。
>>八女は邪馬壹國の南の端、狗奴國が攻め込んでくる紛争地。
>何故そう考えるのですか?
女王國の南は狗奴國。
狗奴國と接しているのが女王國の南端である八女と瀬高。
菊池盆地の狗奴國が県道4号沿いに八女へ、
九州自動車道沿いに瀬高へ侵入してくるのです。
狗奴國は3世紀末から4世紀初に八女侵入に成功。
狗奴國勢力の侵入定着は、八女の横穴式石室古墳群が示しています。
八女の狗奴國勢力が、倭王旨から始まる倭五王へと発展していくのです。
女王國の範囲:郡から12000里からの地域。奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國。
463 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/24(土) 08:10:55.39
>>441 >個人的には放射読みはいかなる根拠もないと考えています。
郡から女王國へのメインストリート
@水行到狗邪韓國7000里
A度海1000里至對海國
B方400里=800里
C渡海1000里至一大國
D方300里=600里
E渡海1000里至末盧國
F陸行500里到伊都國
G行至不彌國100里
メインストリートからの枝分かれ
H至奴國100里::伊都國起点
I至投馬國:::::不彌國起点
J至邪馬壹國::::不彌國起点
@〜G=12000里 不彌國は女王國
@〜F+H=12000里 奴國は女王國
投馬國と邪馬壹國は不彌國以遠であるから女王國
女王國は上記4ヶ国
女王國より南にあるのは狗奴國のみ。
女王國以北は、21ヶ国と狗邪韓國から伊都國迄の5ヶ国。
464 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/24(土) 08:11:53.36
>>441 水行7日・水行20日
郡から狗邪韓國は7日行程(7000里) 1日行程は約1000里
狗邪韓國から末盧國は3日行程(1000里の3渡海)
末盧國から投馬國(天草灘経由)は10日行程 倭人からの伝聞
陸行1月
末盧國から邪馬壹國 一月行程は約1000里
末盧國から不彌國は600里
不彌國から邪馬壹國は残り400里(28km)
不彌國(吉野ヶ里)から400里は、邪馬壹國と狗奴國の紛争地である八女と考えられる。
「水行二十日」は帯方郡から投馬國(瀬高)への水軍派遣に要する日数。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬壹國(八女)への陸軍派遣に要する日数。
465 :
神武の子孫:2011/09/24(土) 22:20:45.26
>>460 筑紫次郎
>≪筑後川以南の筑後地方≫と≪熊本平野近辺≫の間の
>山門郡〜大牟田〜熊本県荒尾の人口密集地帯はどう解釈するの?
みやま市、大牟田市辺りまでは投馬国の領域だったろう。筑後川上流のうきは市からこの辺りまで舟
で20日間巡ったのではないかと思う。
>奴国を博多湾岸に比定したら不弥国から先へは進めないはず。
>奴国、不弥国の基点はどこに比定して、どう進むつもりなんかな?
奴国は博多湾岸から佐賀県東南部にかけての地域というのは
福岡平野部と糸島と筑紫平野部と佐賀平野東南部のことである。卑弥呼の時代には奴国の中心は
上峰町〜みやき町(アサヒ再生ゴム佐賀工場のあるところ一帯)にあったろう。
不彌国は鳥栖市の朝日山(新鳥栖駅の近く)一帯。すぐ近くに宝満川ー筑後川が通っている。
466 :
筑紫次郎:2011/09/25(日) 08:54:37.35
>「水行二十日」は帯方郡から投馬國(瀬高)への水軍派遣に要する日数。
>メインストリートからの枝分かれ
I至投馬國:::::不彌國起点
J至邪馬壹國::::不彌國起点
>B方400里=800里
>@〜G=12000里 不彌國は女王國
投馬國と邪馬壹國は不彌國以遠であるから女王國
以上全てに全く同意できません。
≪都は久留米≫さんがこれほどのゴミがらくたの収集家とは知りませんでした。
私はゴミがらくたには興味がありませんので
≪都は久留米≫さんとの論争はこれにて終了します。
九州説としてこれからも奮闘してください。
467 :
筑紫次郎:2011/09/25(日) 09:01:40.25
>>465 >儂も投馬国は筑後川以南の筑後地方だと思う。
>みやま市、大牟田市辺りまでは投馬国の領域だったろう。
≪筑後川以南の筑後地方≫は八女津姫、
≪みやま市、大牟田市辺り≫ は田油津姫が治める
別の国でしたよ。
468 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/25(日) 11:23:25.97
>>467 >≪筑後川以南の筑後地方≫は八女津姫、
>≪みやま市、大牟田市辺り≫ は田油津姫が治める
>別の国でしたよ。
別の時代でしたよ。2世紀以前の。
469 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 11:32:53.74
投馬国は、大牟田、荒尾の丘陵地帯を中心にして、
みやま、玉名に広がる国を想定したんだけど、
みやま側と玉名側は、文化的には別国の雰囲気は強いかね?
五万戸だと、それくらい必要かなと思って。
470 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/25(日) 12:07:48.74
>>469 >みやま側と玉名側は、文化的には別国の雰囲気は強いかね?
荒尾と大牟田は別の文化圏ですよ。荒尾は長洲、玉名と同じ。
筑後と肥後の国境も、大牟田と荒尾を分けています。
倭國乱で5万戸の投馬國に統一されるまでは、
大牟田、みやま、柳川は別の国と思われます。
471 :
筑紫次郎:2011/09/25(日) 12:14:43.19
>>468 別の時代でしたよ。2世紀以前の。
4世紀筑紫平野が
博多湾岸地域の大和朝廷の前身に支配されていく時の話です。
卑弥呼の都は久留米さんとは邪馬台国論争したくありません。
472 :
横槍:2011/09/25(日) 12:39:18.16
>>463 邪馬台国までのルート
帯方郡(平壌)〜投馬国(出雲)水行20日
投馬国〜邪馬台国(大和)水行10日(陸行1月)
邪馬台国までの距離万二千里は、直線距離
これは3年ぐらい前にドン来いに記載していて、既に決定しています。
ここのスレの削除を希望します
473 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/25(日) 14:59:35.93
>>472 既に決定しています。
何が決定してるの
475 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 16:30:15.64
>>472 決定していると言うなら、その立証を掲載して下さい。立証できないのなら、
472のレスの削除を希望します。
倭人伝は、帯方郡〜邪狗韓国7000里(実測≒500km、一里≒70m)
しかし
後漢書では、邪狗韓国〜邪馬台国7000里(実測≒700km、一里≒100m)※出雲経由
逆算すると
帯方郡〜邪狗韓国一里100m、直線距離≒500kmなので5000里
帯方郡より邪馬台国に至る万二千里
陳寿の勘違いを修正すると極めて性格な資料だと解ります
>>476 直線距離で考えているのが致命的な間違い。
勘違いしているのは陳寿ではなくあ・な・た。
移動距離を測るより、直線距離を算出する方が遥かに容易でしょう
シナは、先史より天文学を重視して精度の高い暦を作る国でしたから
480 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 18:15:38.64
>>459 不弥国は宇美
邪馬台国は山戸
ならばその中間で川が流れている都市が投馬国
筑後川で結ばれた久留米
久留米の北部から宝満川が奴国へ通じている
481 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 20:20:42.83
伊都国糸島説だと、
不弥国から、南水行できないんだよなあ。
482 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/25(日) 22:01:53.24
>>481 「倭奴國」「委奴國」「伊都國」いずれも「いと國」と読めるから、
怡土にあったと死体のだ。
これが糸島説の本質。
483 :
天才伊作大先生:2011/09/25(日) 22:34:10.50
>>482 3世紀の中国人が書いた伊都は「いと」とは読めない。
7世紀の中国人は対馬を都斯麻と書いた。
8世紀の百済からの帰化漢人が書いた『日本書紀』は、都とことごとく「つ」と読ませる。
その『日本書紀』は、伊蘇志が転じて「伊覩=怡土」と書いているが、
都とは明らかに違う「覩」という文字を使っている。
都を「と」と読むのは唐代以降で、比較的新しい読み方だろう。
おっと、呉音・漢音(唐音)などという区別がなかった時代の
中国人が書いた文字の読みだということを「釘」を刺しておく。
>>475 レスの削除は無理なんじゃねーの?。
スレ丸ごと削除ならありうるかもしれないが。
485 :
天才伊作大先生:2011/09/25(日) 22:50:27.24
>>483 ●伊覩(怡土)と伊都は何の関係もない●
これが日本古代史の「夜明け」となる核心の一つだ。
486 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 23:00:09.14
松浦から、糸島まで、陸行できるまともな道はない。
そんなことを考えず、船で糸島半島まで行け。
糸島水路と博多湾。
これほど水行に適している地形はない。
同時にこれほど陸行が困難な地形もない。
487 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 23:05:37.90
『日本書記』に伊覩県主・五十迹手が登場するが、ここでも「伊都」ではない。
この五十迹手も「いとて」という読みが流通しているが、
五十猛を「いそたける」と読むごとく、厳密には「いそとて」が正しい。
「いとて」という読みこそ、伊覩と「伊都」をくっつけんとする小細工だろう。
だが、「伊覩」と「伊都」はまったくの別物だ。
なぜならば、用例を示した通り古代中国語の「都」は「tu」で「to」ではない。
地元福岡では筑紫を「つくし」ともいうが、
古い風土記が、筑紫を「都久志」と書いているほどだ。
●伊都し「いと」ではなく「いつ」●
日本古代史の革命はここから起きる。天才がその口火を切った。
>>486 それはわかるが、なぜ魏志倭人伝が松浦から陸行することを書いてあるのか、
何か理由がほしい。
内陸部に向かったからに決まってるだろ
490 :
天才伊作大先生:2011/09/25(日) 23:17:45.11
>>486 >そんなことを考えず、船で糸島半島まで行け。
そんなことを考えず、なぜ難儀な陸行をとったかを考えろ。
それが歴史考察というものだ。
自らが依拠している文献の「部分」を曲げるのは最もイージーなことだ。
粘り強い思考力をもつ者は、安易な結論を選択することはしないものだ。
491 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 23:22:26.49
松浦から、厳木、多久、小城を経由して佐賀に行く道。
地図上でみるととんでもない山の中を通るようだが、
実は、ずっと谷道となっており、標高は一番高いところでも
50m程しかない。google mapでも使えばすぐに分かるだろう。
この道は昔から唐津街道と呼ばれており、
秀吉の唐入りの名護屋城に向かう軍勢もここを通り、
各大名が陣を敷いた旧跡も各地に残っている。
松浦からは、佐賀に向かうのが自然である。
ついでに南東方向になるので、倭人伝の距離と方向も
矛盾しない。
糸島では怡土付近でも、北東、またはほぼ真東となる。
>>490 それは思考の順序が逆だろうw
いいこと教えてやる
自説があって検証があるんじゃなくて、
検証があって自説ができるんだ
まず「自らの依拠」から疑え
493 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 06:41:07.73
>>492 発言内容が稚拙すぎる。ツラ洗って、あしたの朝もう一度出直せ。
494 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 09:24:26.82
伊都国は佐賀市付近。倭人伝に従う限りそれが当然だろう。
495 :
博多の女:2011/09/26(月) 12:02:44.77
>地元福岡では筑紫を「つくし」ともいうが、
そんな話は聞いたことなかよ。
496 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/26(月) 13:22:14.72
地元では、筑紫「ちくし」だ。
筑紫「ちくし」は畿内語。
497 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 13:42:27.75
筑紫高校、筑紫女学院、筑紫餅など地元ではぜ〜んぶチクシと言うね。
ツクシはよそもんの言葉じゃろ。
498 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/26(月) 13:48:06.41
漢籍に見る発音
中原音(漢音@):〜晋迄、(漢音Aと同じ音が多い)
呉音:南北朝・隋・唐650年頃迄
漢音A:唐650年頃以降、(中原音と同じ音が多い)
南北朝の北朝は中原音(漢音@)である。
黄河・淮水流域で書かれた文書は漢音
長江流域で書かれた文書は呉音
499 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/26(月) 13:53:30.68
>>496は間違い。
以下に修正
地元では、筑紫「ちくし」だ。
筑紫「つくし」は畿内語。
「つくし」は「尽くし」か。
500 :
佐賀錦:2011/09/26(月) 15:45:29.81
筑前(つくぜん)、筑後(つくご)、東筑(とうつく)、南筑(なんつく)
筑紫野市(つくしのし)
筑をツクと発音するのは歯切れが悪(わる)かね。
501 :
いきなり団子:2011/09/26(月) 16:02:05.75
天才も木から落ちる。「地元福岡では筑紫を「つくし」ともいうが、」と裏を取らずに書き込むことも
たまにはある。もうこのあたりで勘弁してやれよ。
「竺紫」と書けばいいんだよね。
503 :
ドン・フランシスコ:2011/09/26(月) 16:21:22.63
>天才も木から落ちる。
高崎山で見たことがあるけんね。
天才は認知症の初期段階だから
つくしと発音するような輩は、九州説とは認めんぞ
506 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 16:47:55.29
筑紫という地名・文字に馴染みがある地域は案外狭いんじゃないか。
福岡県の一部という感じがするが。
507 :
軽羹・かすたどん:2011/09/26(月) 17:08:45.01
秋だねえ。夕日の落ち方が速いねえ。驕れる者久しからずだねえ。
508 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 17:15:41.67
筑紫国の形そのものが
山門へむかう「くの字」ルートを示してるとすれば
509 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 17:25:35.12
竹斯、竺紫、と音を示す言葉が残ってるけど、
まあ、これらの読みは「ちくし」だろうなあ
筑紫は古くは「血食死」つまり「チクシ」だ
「血食死」とは死者の血液を喰らう食習慣が古代の北部九州地方にあったことが語源となる
511 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 18:20:28.50
地元福岡では筑紫を「つくし」ともいう。
熊本でも「つくし」という。
古い風土記が、筑紫を「都久志」と書いている。
事実を前に「筑紫」という文字でけにとらわれて
ナニをびーすか・ぎゃーすか騒いでいやがる。
512 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 19:24:16.69
現在もある都久志の呼称。
都久志会館(福岡市)
都久志の湯(大宰府)
都久志祭(福岡市)
●「都久志祭」の由来
かつて九州地方が「都久志の国」呼ばれていたことからの命名。
「ちくし」が訛って「つくし」と発音されてきた事実を証明したぞ。
513 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/26(月) 19:33:04.66
かつて九州地方が「都久志の国」呼ばれていたのは、8世紀以降。
514 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 19:33:25.54
基本が「ちくし」で、訛って「つくし」なら、まあありだろう。
「ち」でも「つ」でもどっちでも大差ないんだよ。重要なのは「くし」の部分
朝鮮半島の「クシ岳」からきているのだからな
「ちくし」の発音と同様に、
「だざいふ」にどういう漢字を書くかによっても、その人の本物度がわかる。
517 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/26(月) 20:27:49.48
「大宰府」
と
「太宰府」
「太宰府」は捏造されたもの
518 :
陣太鼓:2011/09/26(月) 22:24:13.07
>>512 3世紀の頃のことではないではないか。都久志をツクシと読むことには異論はないが、伊都国が問題に
なる時代に都久志があったかどうか分らんだろが。都はツと発音するとする根拠としては薄弱だ。
なお、熊本で筑紫をツクシと言うのを聞いたことはないんだがね。
519 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 22:26:57.88
毎度のことだが。
本論を見失って枝葉に邁進する銀蝿ばかり。
本題にもどろう。
3世紀の中国人が書いた「都」は「ト」か「ツ」か。
520 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 22:36:50.41
>>513 >九州地方が「都久志の国」呼ばれていたのは、8世紀以降。
けっこう。地元の風土記が「都」を「つ」と読ませている事実を提示したものだ。
8世紀以降についたかも知れん人の姓ですら、都はことごとく「つ」と読む。
本論は、3世紀の中国人が書いた都が「と」か「つ」かだ。
521 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 22:36:51.73
新唐書だと筑紫城とそのまま書いてあるので、
読みまではわからんな。
旧唐所では書いてない。
隋書倭国伝では竹斯国となっている。
倭人伝も書いてないな。
522 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 22:43:06.62
中国人の聞き取り調査でも筑紫は「ちくし」である可能性が高い。
これにより、筑紫をしめしているであろう都久志には
「ちくし」に近い音が当てられると思われる。
訛って「つくし」はともかく、「とくし」と読むのは難しいだろう。
523 :
陣太鼓:2011/09/26(月) 22:47:53.26
>本論を見失って枝葉に邁進する銀蝿ばかり。
その銀蝿を呼び集める餌(枝葉の不確かな情報)を撒いたおぬしが言うか。
524 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 22:50:00.54
>>522 本論は、3世紀の中国人が書いた都が「と」か「つ」かだ。
525 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 22:53:07.62
>>523 >(枝葉の不確かな情報)
確かな情報だったことは判明したし。
本論は最初から明確だし。
俺がいない間に枝葉に終始していたのは・てめえらだし。
ジャリじゃあるまいし、責任転嫁もはなはだしいし。
あっちへ行っててほしいし。
526 :
陣太鼓:2011/09/26(月) 23:04:41.96
>>525 不確かな(誤った)情報
「地元福岡では筑紫を「つくし」ともいうが、」
「熊本でも「つくし」という。」
福岡でも熊本でも都久志はツクシと言うけれど「筑紫をツクシ」とは言わない。
527 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 23:12:21.36
>>526 熊本出身の俺がゆっているのだが。発言を保証できるのか。
>都久志はツクシと言うけれど「筑紫をツクシ」とは言わない。
なんだーこれ。筑紫と都久志は別物という新企画か?
筑紫を「つくし」という方言があった事実も提示したが。
「枝葉」だといってるのに、場が読めない野郎がいたもんだ。もうやめとけ
528 :
天才伊作大先生:2011/09/26(月) 23:14:20.52
●本論の続き
倭人伝が書いた「奴」はみな「な」で読める。
卑も狗も同様で、一つの文字に複数の読みを与えているとは見えない。
(枝葉が好きなアナ探し銀蝿には、「倭人の発音に漢字を当てたと思われる文字」の中で、
一つの文字に別々の読みを与えたと思われる文字を探してもらおうか)
というわけで都はどうか。
伊都が「いと」だとすれば、都支、好古都、都市牛利の都は「と」でいいのか。
みなで一緒に考えよう。
529 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 23:39:24.21
シラケたね。
530 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 23:50:14.27
>>528 3世紀の漢字の発音を研究した専門家がいるならその人に聞くのがよいだろう。シロウトが議論したって
どうしようもないと思うよ。
531 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 01:00:34.17
「と 都」は漢音系の発音
「つ 都」は呉音の発音
「つくし 都久志(尽くし)」は、8世紀、畿内政権支配下に入った九州の畿内従属派から発生したと考えられる。
532 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 03:27:37.08
倭人の発音を当時の漢音に当てはめたのでしょ
ならば倭人伝に使われてる人名地名は
倭人の発音に近いはずでは
533 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 03:30:40.74
そう言えばタイヤメーカー「ブリヂストン」の正確な発音は
九州のネイティブでないとできないと言う話を聞いたことがあるなwwwwwwww
石橋を英語にしただけやろ
535 :
天才バカボン:2011/09/27(火) 12:53:48.00
>>534 >石橋を英語にしただけやろ
それならStone bridgeとしただろう。「ブリヂストン」は恐らく創業者石橋氏が毎夜唱えた
太古から受け継がれた信仰的精神性が込められた呪文の一部を切り取ったものであろう。
要するに深いのだ。
536 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 13:14:53.85
九州の言葉は、イントネーションによる区別はほとんどしないんじゃないか。
「一杯」と「いっぱい」、「柿」と「牡蠣」、「歯医者」と「廃車」など、同じようにしゃべって
いるのではないかと思う。まあ、全部の地方の言葉を知っているわけではないが。
これが山口県になると、はっきり区別するんだな。
筑紫といえば、邪馬台国=筑紫平野説があったな。
魏志倭人伝の行程のうち、対馬、壱岐に向かっては、実際は東南だが、
海流が強いから、船は南向きに進まなければならないそうだ。壱岐からは南へとは書かれていない。
それまでの千里、千里の行程に比べて、東松浦半島は千里にしては近すぎるので、
博多湾に入るとちょうどいいとする。←ここがポイント。
東南に陸路で、五百里で伊都に着く。千戸余りの住家。太宰府あたりだが海岸近く。
伊都国から東南に陸路を百里進むと、奴国。二万戸余りの住家。太宰府あたりだが山際近く。
奴国から更に東)へ陸路を百里進むと不弥。千軒余りの家。
投馬国は、ここの南方向であるが(今たどってきたルートでなく海峡横断後の船のままで)20日ほどかかる。
邪馬台国も、南方向であるが、海路で十日(博多方面から長崎を迂回か?)、陸路では一月ほどかかる。
筑紫平野のあたりである。
邪馬台国より以北の山岳地の中については、よくわからぬ。
筑紫平野説は、方角がよく一致しているものの、致命的なのは、投馬国5万という人口密集地が、
川内だの鹿児島だのに推定しなければならないことだな。
538 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 14:26:53.96
>致命的なのは、投馬国5万という人口密集地が、
>川内だの鹿児島だのに推定しなければならないことだな。
九州の昔の人口密集地は北ではない、南九州だよ。
嘘はよくない
南九州はすっこんでろ
541 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 16:58:09.36
>>538 >九州の昔の人口密集地は北ではない、南九州だよ。
南九州では人口の密集地は無理。
南九州は火山灰地が多く、食料生産農業に適さない。特に水稲作。
密集した人口を養える耕地がない。
関東平野も同様。
利根川と荒川の氾濫原と火山灰地。
542 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 17:53:58.38
邪馬台国当時に方位が分からなかったって、大嘘だと思うわ
当時から高い山に登ったはずだから
どっちが壱岐でどっちが博多湾でどっちが阿蘇山かって
明白に分かったと思うよ
晴れた日には高い山から海岸線がずっと見えるだろう
本州がどっちかなんてのも一目瞭然だったはずだよ
543 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 19:23:17.31
>>542 >晴れた日には高い山から海岸線がずっと見えるだろう
高い山に登る必要はない。
100mの山で60km、200mの山で100km位先が見える。
544 :
天才伊作大先生:2011/09/27(火) 19:39:04.97
>>541 >南九州は火山灰地が多く、食料生産農業に適さない。特に水稲作。 密集した人口を養える耕地がない。
南九州にはカルデラ火山が集中している。人びとの生活はこれらの火山と共にあったといえる。
なぜ危険な火山地帯に人は住むのか。大阪市立大学理学部教授・熊井久雄氏が調べた結果、
太古から火山地帯は生活する上で大変理にかなったところだったという。
火山は天然の貯水池でもある。火山灰土壌は雨水を吸収しやすく、
下部へと降りた雨水は水を通しにくい泥炭層とぶっかり、溶岩の中を通ってゆっくりと下流へと向かってゆく。
それはやがて湧き水となって裾野の地表に出る。この水が人々を潤した。
火山の周りを流れる河川の流量も湧き水同様に豊富なことから、人々は火山の周辺に居を構えたと考えられる。
さらに、火山は土壌を豊かにしている。日本の火山灰の中でも特に黒みがかった火山灰土壌は、
有機物が豊富で非常に肥沃だという。そのため木々や植物が良く育つ。
その後の日本で畑作や稲作が栄える背景にも、火山灰土壌の存在が深く関わっている。
考古学者・小田静夫氏は丸ノミ形石斧(丸木舟製作に使われた)に注目して、各地の遺跡の出土物を調査した。
その結果、丸ノミ形石斧と系統を同じくする円筒型の磨製石斧が、黒潮の流れに沿うように高知(木屋ヶ内遺跡)、
和歌山(不動寺谷遺跡)、八丈島(供養橋遺跡)などで出土していることが分かった。
また、南九州が発祥地といわれる独特の燻製施設の連穴土坑が、三重(鴻野木遺跡)、愛知(浜井場遺跡)、静岡(匂坂中遺跡)、
そして関東と、黒潮の通る沿岸に伝わっていることが最近の研究からわかってきた。
東京の多摩ニュータウンで、4500年前の縄文時代の274の住居跡が見つかった。
ここから、大量の土器に混じり石斧が250本近く見つかった。
それらはすべて、上野原の縄文集落の人々が生み出したと思われる磨製石斧だった。
(これらのことから)南九州の縄文人たちは、火山噴火の前後に海人の精神と文化を携え、
黒潮に乗って東へ東へと拡散していったと考えられる」。(「火山地帯の悲劇と恩恵」荻野太郎)
545 :
天才伊作大先生:2011/09/27(火) 19:41:54.45
546 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 21:14:24.46
>>544 それは、縄文時代の話を語っているのだよ。
河川上流の火成岩地質が水稲作にメリットがあるのは、
水田へのリンの補給が豊かであること。
リンが少ないと米のみのりが悪い。
以上は、日本の水稲作が歴史的に高い収率であった理由。
547 :
火山灰土壌:2011/09/27(火) 21:15:42.12
(アカホヤ)
九州の枕崎市と日田市を結ぶ線より東側の地域で,地表下10〜70p付近に,橙黄色の極ガラス質火山灰が数p〜40pの厚さで堆積しており,
地元ではアカホヤまたはイモゴと呼ばれている。この火山灰は,約 6,300年前に鬼界カルデラから噴出したもので,その分布は,遠く関東か
ら東北地方にまで及んでいる。アカホヤの原材料の大部分は葉片状の火山ガラスである。物理的性質は,仮比重が著しく小さく,孔隙にとみ,
水の浸透がすこぶる良い。化学的性質は,pHが比較的中性に近く,置換酸度は小さい。置換性塩基が極めて少なく,ばん土質である。植物の
根系はアカホヤ中でほとんど発達せず,林木生長の障害となっていることが容易にわかる。
(シラス−姶良Tn 火山灰)
南九州一帯に厚く堆積するシラスと,同時に噴出し,ほぼ九州全域,および中国,近畿,関東,東北にもその分布が確認されている。噴出
の年代が約2万年前と比較的古い時期であるため,普通は他の火山灰に覆われていて,直接,土壌母材となっているケースは少ない。しかし,
南九州のシラスは,二次堆積物が土壌化したものもみられる。シラスはガラス質の火山砂で粘土をほとんど含まない。このため,水分と養分
の吸着保持力に欠ける。
以上のように、火山灰土壌は植物の生育には好ましい土壌ではない。
仮に生産力が数パーセント劣っていても、現状を見ればたいして影響は無いんじゃね
慢性的な水不足よりはマシだと思う
549 :
火山灰土壌:2011/09/27(火) 21:39:01.08
>>548 >仮に生産力が数パーセント劣っていても
火山灰土壌は埴壌土(しょくじょうど)や埴土(しょくど)に比べると排水性はよいが保水性、保肥性に
劣るので水田耕作の場合灌漑用水をより多く必要とし、肥料をより多く施さないといけない。生産力が数
パーセント劣るというようなレベルではない。残念でした。
具体的にお願いします
551 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 21:55:24.34
>>548 >仮に生産力が数パーセント劣っていても
桁が違うよ。数十%のオーダー。
火成岩の山に木が茂ると水不足にはならない。
何か適当にイメージだけで言ってるような気がするんだよね。
>>547の引用元も具体的には書いてないのに。
553 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:10:38.20
検索中・・・
554 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:22:55.93
>>552 >何か適当にイメージだけで言ってるような気がするんだよね。
農業や地質関係の専門家には常識的なことだよ。自分で「火山灰」や「シラス」で検索してみなよ。
555 :
天才伊作大先生:2011/09/27(火) 22:24:53.12
再掲。
火山は天然の貯水池でもある。火山灰土壌は雨水を吸収しやすく、
下部へと降りた雨水は水を通しにくい泥炭層とぶっかり、溶岩の中を通ってゆっくりと下流へと向かってゆく。
それはやがて湧き水となって裾野の地表に出る。この水が人々を潤した。
火山の周りを流れる河川の流量も湧き水同様に豊富なことから、人々は火山の周辺に居を構えたと考えられる。
さらに、火山は土壌を豊かにしている。日本の火山灰の中でも特に黒みがかった火山灰土壌は、
有機物が豊富で非常に肥沃だという。そのため木々や植物が良く育つ。
「その後の日本」で畑作や稲作が栄える背景にも、火山灰土壌の存在が深く関わっている。
556 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:27:07.72
557 :
天才伊作大先生:2011/09/27(火) 22:27:45.96
阿蘇山が集めた水が湧水となって湧き出る熊本平野は「名水」の山たい国だ。
平地では稲がよく育つ。縄文時から現代まで変わらない。
558 :
天才伊作大先生:2011/09/27(火) 22:34:35.58
シラス台地は、九州南部に数多く分布する火山噴出物からなる台地である。
典型的な火砕流台地であり、加久藤カルデラ、阿多カルデラ、姶良カルデラ
および池田カルデラなどを起源とするシラスや溶結凝灰岩などで構成される。
鹿児島県本土の52パーセント、宮崎県の16パーセントの面積を占める。wiki
560 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:40:47.23
>>555,
>>557 天才伊作大先生
熊本と鹿児島(宮崎南部も)とでは土壌の種類が異なるよ。熊本はシラス層ではない。火山灰も混じってはいるが
粘土が多く含まれている。
九州南部は食糧生産力に乏しいから人口密集にはならないという話は鹿児島や宮崎南部についてのものだよ。
561 :
天才伊作大先生:2011/09/27(火) 22:44:01.88
誤解されやすい投稿が多いのでかくにんのためにwiki から引いた。
シラス土壌
九州南部の平地を中心に分布しており、鹿児島湾北部を囲む地域において最も厚く、
湾から遠ざかるに従って薄くなり熊本県人吉市や水俣市、宮崎県宮崎市にも分布している。
鹿児島県内でおおむね数10m程度、最大約150mの厚みがある。
鹿児島市北西部から日置市にかけて広がる丘陵地や、
鹿屋市を中心として広がる笠野原台地は、
ほぼ全体がシラスで形成されている。
また、霧島市付近に広がるテーブル状の丘陵群は
別の地層の上にシラス層が重なるようにして形成されている。
上面は平坦になっておりシラス台地と呼ばれる台地を構成している。
562 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:49:48.99
>>559 >湧水に恵まれた低地は弥生時代から水田として利用されてきた
その部分だけ引用するといかにも「火山灰土壌が農業に適している」かのごとき誤解を与えるね。
「湧水に恵まれた低地」だけしか水田として利用できなかったのだ。
低地だけで十分じゃね
564 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:54:57.82
>>563 「湧水に恵まれた」という条件が必要。それでも通常の埴土に比べれば生産力は半分。
その半分の根拠がほしい
566 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 23:04:01.38
鹿児島の農業試験場に聞いてみなよ。
567 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 23:07:58.36
>>559 >湧水に恵まれた低地は弥生時代から水田として利用されてきた
単なる低地ではない。扇状地のこと。
火成岩の山の栄養豊富な水が湧き出るところ。
地球は「球形」ではなく、実は「洋ナシ型」だとよく言われる。
北半球が少しくびれているからだそうである。知っている人にとっては常識かもしれない。
しかし、実際はくびれの割合は極めて小さい。
「球形」か「洋ナシ型」かと問われれば、地球は「球形」である。
ほぼ完全な球であると言ってもいい。
シラス台地が農業に適さないという「常識」は勿論知っている。
実際、他の土壌よりは不適なのかもしれない。
しかし、南九州全体が不毛地帯のごとく解釈するのは誤りだということ。
自分が言いたいのはそういうこと。
シラス台地とは、イワシなどの養魚を乾燥させたものを地面に鋤き込んだきわめて肥沃な土壌である
570 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/27(火) 23:29:24.56
熊本平野は南部九州ではない、中部九州である。
熊本平野の大部分は火成岩から形成された土壌が堆積した扇状地土壌。
低地部は、緑川下流域と白川河口部の熊本平野南部のみ。
熊本平野北部の菊池盆地は、水の抜けた湖の底だから、扇状地と同質の土壌。
阿蘇カルデラ底も菊池盆地と同じ。
571 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 23:30:09.87
植物の肥料としては窒素、リン酸、カリが知られているが、これらは土壌中で不足しがちなものである。
実際には植物はそれらの他に鉄、マンガン、ホウ素、イオウ、カルシュウム・・・などなど多数のミネラ
ルを必要とする。そしてそれらのミネラルの大部分はイオンの形で存在する。土壌はこれらの栄養素を吸
着していて植物は根からそれらを取り入れる。
火山灰はガラス質でイオン交換容量が小さいため上記の栄養素イオンを多く保持できない、つまり、極めて
痩せているのである。したがって、稲作をするには継続的な施肥が必要なのである。古代においては肥料が
少なかったので、大量の河川水を水田に流してその河川水から栄養素を供給する必要があったと考えられる。
つまり、大量の河川水をかけ流すという灌漑方法がとれる所だけで水田が営まれただろう。
572 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 23:39:10.56
>>569 >イワシなどの養魚
イワシを養子に迎えたんだね。鹿児島ではイワシの養子をキビナゴと言うから地元ではシラス台地じゃなく
キビナゴ台地と言うでごわす。がは は。
573 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 23:39:49.31
ええっと、窒素燐酸カリの三大肥料はかなりたくさん必要だから、
堆肥などで常に補給してやらなければならない。
しかし、あまりあえて補給しない他の微量ミネラルは
長い間の雨や地下水、そして耕作によって減少する。
そのため、よそから土壌を持ってきたりして改良する。
火山の噴火によって供給された火山灰土は、
時間的には新しいため、他の土壌に比べて、
比較的雨や地下水によるミネラルの溶出が少ない。
適度に保水のための粘土を混ぜ、石灰や
三大肥料を加えると、むしろ良い土壌となる。
もちろん、改良せず水の透過が良すぎるままでは良
い土壌にはならない。
574 :
日本@名無史さん:2011/09/28(水) 00:06:17.20
宮崎県小林市で小学生時代を過ごした。
小さな山というか丘のようなのがたくさんあるが、あれは全部シラスで出来ている。
近所の子達と、一番下の部分から横穴を掘っていったが、10m以上掘ってもやはりシラスだった。
しかし、自宅付近は掘ると石ころが出てきていたから、そこはシラスじゃなかったんだろうな。
大昔に、20mか30mあるいはそれ以上シラスが積もり、ほとんどは流れ去ったが、
残った部分が丘になっているんだろうと思う。
富士の樹海があるように、火山の土地は植物が良く育つ。
今日的な稲作に適さないから、農業不毛の地だなんて思い込みは間違いだ。
576 :
佐賀原住民:2011/09/28(水) 01:53:36.34
微量ミネラルは耕作によって減少する。
チグリスユーフラテスの土壌も、文明以前は肥沃な土地だったが
長い間耕作するうちにミネラルが失われ、砂漠化に拍車をかけたの
ではないかという説もある。
そして、定期的に洪水が起こる土地は、定期的に土壌が入れ替わり
ミネラルが豊富な土壌になるので、長い間使える土地になるといわれる。
現在の筑後川では、めったに洪水など起きないが、それでも、
やはり川に近いほど土地が肥えているという。
過去の洪水で土壌が入れ替わっていたことが伺える話である。
これは久留米市の農業行政担当者から聞いた話である。
577 :
日本@名無史さん:2011/09/28(水) 02:02:03.94
しらすじろうの本名はきびなごじろうだったの
578 :
天才伊作大先生:2011/09/28(水) 07:54:09.30
●列島に渡来した民族のあり方
中国には現在50を超える少数民族と呼ばれる非漢民族がいる。
(中の苗族などは、さらに10を超える枝族に分かれる)。
古代における日本列島には、北方から長江流域に移入した羌族を含めて、
長江流域の複数の民族が渡来してきたものと思われる。
彼らは基本的には同じ民族なのだが、少しずつ文化の異なる民族だ。
集団ができると、内部の結束を高めるために外に敵をつくるものだ。
みながみな友好的なわけではなく排他的な側面をも持つ。
ある土地に先住の渡来集団がいて同居できないとみた後続集団は、
先住渡来集団の生息地を避けて、海浜・平地・河川流域・丘陵・山岳など、
列島各地で住み分けることになる。
丘陵地では棚田を造って稲作が行なわれ、山岳地帯では焼畑農業が行なわれる。
「ドンと来い」に書いたが、ソバの起源は中国雲南省の山岳地帯にあるらしい。
日本でも縄文時代前期に栽培が始まっていたともいわれる。
焼畑農業は縄文時代から行なわれてきたが、熊本県や宮崎県の一部の山岳部では、
現在でもソバの焼畑栽培が行なわれている。
先祖伝来のソバのタネを代々受け継ぎ、 次の年のタネを大切に保管する。
ただし麺にするのではなく、 ソバだんごにして汁ものなどに入れて食べるらしい。
稲と同じ渡来ルートを使って、ソバのタネをもって渡来してきた丘陵・山岳民族がいたのか。
弥生倭人の構成を考えるに不可欠な、日本列島倭人の草創期のはなしだ。
どこにでもここにでもつらだすな。
うざったい。
伊作は暇なんだろうな タワゴトばかり書いていないでボランティアをやればよいのに
581 :
天才伊作大先生:2011/09/28(水) 14:25:50.47
>>579 >どこにでもここにでもつらだすな。
極めてまじめな投稿なのだが。それでもこういうヤジを飛ばすか。
てめえみたいなヤジゴミ野郎こそ目障りだ。タコ
>>580 >伊作は暇なんだろうな
てめえほど暇じゃないぜ。
>ボランティアをやればよいのに
黙っててめえがやれ。
まったく。女小姑みたいなクズどもが。
つーかこのゴミクズネットで誰の役にも立たず、デタラメを吹き上げるだけの余生ってどうよ?
583 :
天才伊作大先生:2011/09/28(水) 16:01:59.49
>>582 >誰の役にも立たず、
お前のような奴のことをいうのだ。
俺の場合は確実に影響を与えている。
>デタラメを吹き上げるだけの
デタラメを吹いて人格批判をするお前はどうだ。
俺はウソやデタラメをいわないことで信用を得ているんだ。
ウソをついてまで俺を批判して、逆に信用をなくした奴は数知れない。
信じられなかったら、固定HNでおなじ発言をしてみ。
誰もまともに相手にしないから。ウソ発言は自分の信用にはね返る。
>>583 >俺はウソやデタラメをいわないことで信用を得ているんだ。
おおそうか では無知による過ちということだな
>>584 >おおそうか では無知による過ちということだな
まあ、そういうこっちゃね。
いろいろ言いたいのもわかるけど、逆に構うから、味をしめて居付くんじゃないの。
もう、そっとしておいて、誰も相手をせんというのが、唯一の有効な対処法だろ。
586 :
優等生:2011/09/28(水) 18:31:16.60
伊作氏は自分で気付かずにウソやデタラメを言うことがあるが(特に地質、農業、科学、数学など理系の分野
に属することで誤った内容の書き込みが多い)、文献(中国の史書など)には詳しいよ。万能の人間など居な
いのだから、欠点だけで全否定するのはよくないね。よい点も認めないとね。
文献って、漢文まともに読めないじゃないか。ww
中国の制度史に少し詳しいだけだろ。
>よい点も認めないとね。
無いもの。
589 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/28(水) 19:19:56.87
よい点はある。
ダニにもよい点はあると言うがごとし。
591 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/28(水) 20:24:56.23
The Valley of Fear
伊作がモリアーティという意味か? ワトスンほどの価値もなかろ
593 :
天才伊作大先生:2011/09/28(水) 22:20:14.63
>>586 >伊作氏は自分で気付かずにウソやデタラメを言うことがあるが
>(特に地質、農業、科学、数学など理系の分野 に属することで誤った内容の書き込みが多い)、
「誤った内容の書き込みが多い」というんだから、ずいぶんあるんだろうな。
箇条書きでいいから羅列してみ。ただし、慎重勝つ正当な出し方でだ。いいな
594 :
天才伊作大先生:2011/09/28(水) 22:22:50.88
おっと。
恥をかいても・間違いを指摘されても、
優等生というHNで、ずっと固定してやれよ。
自己の発言には自己が責任をとるのだ。
595 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/28(水) 22:40:58.41
妖書ホツマは薬にもなるが毒にもなる諸刃の剣。
30 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/20(火) 19:09:56.64
もう10年は経っているだろう? 東京駅の隣接デパートで妖精展をやって
いた。あれは本当によかったな。帰りにそこで井村さんの妖精の音楽CD
と関係本及びリチャード・ドイルのモノクロの茸の上と下にいる妖精らの
ある絵画を買いこんだ。
CDは妖精の超美麗な曲で、よ〜くこれを聞いたもんだ。いまも群馬県
だったか?、彼女の運営してるらしい妖精博物館へ行けばこれが入手出来
るかも知れない? 関係本も美麗で、たまには披いて眺めてる。ドイルは
かの有名な名探偵ホームズの作者 コナン・ドイル の兄貴で、兄弟揃って
才がたけていたということだな。この絵は黒だといっても少し暗緑色の
気配があり、いまも居間に飾っている。皆も妖精画を一枚でも住まいに
飾るとよい。室内が少しでも豪華に見えて引き立つから・・・。別絵でも
同博物館で買いこめるかな? ただあの博物館は交通の便がよくない
みたいで、かつ冬季はやってないんだろうから、行きたくてもなかなか
行けないね。チャンスがあったら足をのばしたいものだ。
596 :
優等生:2011/09/28(水) 22:59:32.32
>>593 天才伊作大先生
では先ず最近の書き込みから分ることを一つ。
熊本平野の土壌を火山灰土壌と思っていたと見られる。これは地質について知らないための誤解である。
鹿児島や宮崎南部のシラス土壌は火山の噴火によって放出された噴煙(溶融岩石が多孔質の微粒となったもの)が
降り積もって形成されたものである。
同じ火山由来の岩石が元になったものでも熊本平野の土壌は溶岩が風化して微小粒子となったものである。
つまり、生成の仕方も出来た粒子の性状も全く異なるものである。
597 :
天才伊作大先生:2011/09/28(水) 23:26:00.51
>>596 優等生
>熊本平野の土壌を火山灰土壌と思っていたと見られる。これは地質について知らないための誤解である。
俺は熊本の出身だ。どんな土壌かは知ってるぜ。タコ
だから
>熊本平野の土壌は溶岩が風化して微小粒子となったものである。
自分の発言に責任をもてよ。
熊本平野は沖積平野だ。河川の堆積作用によってつくられた平野で、
その定義通り、上流から下流へ向けて、扇状地、自然堤防帯、三角州などがある。
外輪山の山裾と平地に、阿蘇の溶岩の中を通って濾過された清水が湧き出るのだ。
>>541 >南九州では人口の密集地は無理。
>南九州は火山灰地が多く、食料生産農業に適さない。特に水稲作。
>密集した人口を養える耕地がない。
>544
「南九州は火山灰地が多く」を受けて、熊本も含むのかと思って誤解がないよう、
「火山地帯の悲劇と恩恵」荻野太郎氏の文章を転載した。それだけのことだ。
きちんと決着をつけろよ。
598 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 00:06:57.09
返事はなしか、劣等生。
こっちは勇み足がないようにさらに確認したぞ。
「熊本平野」といえば沖積平野だが、広い視野でみれば洪積台地もある。
阿蘇山麓の菊池から大津までは広大な洪積台地(洪積世に形成された
平坦面が隆起した台地らしい)が展開する。
俺は小学校にあがるまでこの洪積台地で育ったが、陸稲と畑作の適地だった。
おそらくは古代においては、列島有数の畑作地だったろう。
台地で畑作、低地で稲作。目を前に向ければ豊穣の有明海だ。
熊本平野は、食料生産面でも水運アクセス面でも優れた土地だったのだ。
しかも、左巻き台風の風水害も、など九州山地東側の土地よりは少ない。
「知ったふり」の前言をいさぎよく取り消すことだが、できるかな?
ニニギ勢力が農業生産に目を付けた九州北岸に上陸して以来、
農業に向いている有明海沿岸方面に、どんどん人が移動したり
人口が増えていくのは自然な勢いだと思う。
600 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 00:55:40.66
>>600 ホントかあ〜?。
本当だったとすると、邪馬台国九州説が有力になる。
602 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 08:26:58.70
>>600 小山修三氏がつくった弥生の人口密集地によると、筑後川東岸側と熊本平野全域、
そこから飛んで都城を中心とした諸県郡と肝属郡の平地になっている。
九州山地の傾斜が海岸線近くまでのびた九州東側では、数少ない豊かな土地だ。
ここには有力者のものと思われる古墳も多い。(西都原は国家規模で営まれた葬斎墓域だろう)
>遺跡数や集落規模を基に考えられているらしいが、
そう。とくに環濠集落は高級住宅または砦集落・官衙集落であって、
環濠集落の外に住んでいた庶民の数が漏れてはいないかなー。
農民が耕作地から離れて住んでいては農作業にかかる時間が少なくなる。
極端な例でいえば、片道に半日を要するようでは労働時間がない理屈である。
そうしたことから、耕作地の近くに住んで農業を営む。
みながみな竪穴住居や掘っ立柱住居を持っていたわけではなかろう。
痕跡の残らない「竹柱にむしろ壁」の住居も少なくはなかったはず。
まして、耕作地に点と線で結ばれるように点在した小集落は、
ほとんどは水田の下に埋もれたままだろうし。
従来の考古学的計算による人口を遥かに凌駕していたと天才はみている。
603 :
火山灰土壌:2011/09/29(木) 08:55:30.47
>>597 天才伊作大先生
う〜ん やっぱり分っていないようだね。
『熊本平野の土壌は溶岩が風化して微小粒子となったものである。」という優等生氏の言葉を短絡的に
「熊本平野を覆った溶岩が風化により微粒子化して出来た土壌」と理解して「熊本平野は沖積平野だ。」
と反論している。
その河川によって運ばれた土壌のでき方の話をしているのに見当違いの応答をしていることに気付かない。
シラスは火山灰が降り積もってできたもの。熊本の平野の土壌は岩石が風化してできた土壌が河川により運
ばれて堆積したもの。
火山灰は多孔質で透水性が高く水田には向かない。岩石の風化によってできた土壌とは性状が全く異なる。
604 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 10:26:36.38
阿蘇だからなあ。
阿蘇周辺から河川で運ばれて堆積した土壌に、
火山灰などの成分が大量に含まれているのは、
普通のことだろ。
もうこの話題はいいんじゃまいか
606 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 10:39:42.68
>>605 ざっと思い浮かべただけでも「統続」「周旋」「方400余里」などなど。
ここで我流解釈を並べた奴と同じく、何だかんだと「抵抗姿勢」を見せて・おしまいよ。
絶対に「滑りました」とはいわない。
女の腐ったようなめめしい野郎ばかりで、男らしいのは一人もいない。
そういう奴だからまた、めめしく・ネチネチと揚げ足言葉尻をするんだな。
面と向かっての会話なら、ものもいわずにぶっ飛ばしてるぜ。
607 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 10:50:35.78
>ものもいわずにぶっ飛ばしてるぜ。
ネット番町キタコレ(・∀・)
608 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 10:51:14.92
滑っているのはどちらだ?南九州の火山灰土壌(シラス)の話に知ったかぶりで顔を突っ込んで無知を
さらして、阿蘇カルデラの伏流水だの富士の裾野の樹海だのあさっての方角の俄仕込みの知識を書き連
ねてごまかす。女の腐ったようなめめしい野郎とはおまえのことよ。少しは反省しろ!!
609 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 11:11:03.36
>>608 とり乱すなよ。まったく女の腐ったような体じゃないか。
それよりも、劣等生のHNはやめか。男らしくないな。
>火山灰土壌(シラス)の話に知ったかぶりで顔を突っ込んで
熊本平野がシラス土壌だと思われても困るので、WIKIか引っ張ったことを提示したが。
そういうのを「知ったかぶり」とはいわんのだ。タコ
>富士の裾野の樹海だのあさっての方角の俄仕込みの知識を
俺がそんなことを書いたか否か、過去ログで確認しろ。
血迷うようじゃ・夕べはそうとうに手足に汗を書いたろう。
返す言葉も手だてもなし。開き直ってわめき散らすだけ。醜態だな
心理的にいえば、わめくのは己の敗北に気づいているからだ。
ま・蛍光灯も切れる前は明るくなるという。
お前も、せいぜい「虚勢」をはってから消えることになるだろう。
610 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 17:09:05.07
>小山修三氏の人口推計方法を用いて計算した鬼頭宏氏の人口推定によると、
>北九州(福岡・大分・佐賀・長崎)40.5千人に対し、南九州(熊本・宮崎・鹿児島)64.6千人となっている。
南九州説を裏付けていると言ってよいな。
611 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 17:43:55.63
>>610 ん?
誰か別の人間が、熊本は中九州で南九州ではないといってたが。
そこんとこはっきりしたいものだ。
熊本と宮崎は「中九州」。
で・熊本は中九州西部で、宮崎は中九州東部なんてのはどうよ。
ほんでもって鹿児島が南九州になるわけだ。
で・お前さんの南九州って・どこなのさ?
612 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/29(木) 18:08:20.63
>>610 >小山修三氏の人口推計方法を用いて計算した鬼頭宏氏の人口推定によると、
>北九州(福岡・大分・佐賀・長崎)40.5千人に対し、南九州(熊本・宮崎・鹿児島)64.6千人となっている。
熊本(熊本平野)は北九州だろが。
熊本(人吉盆地)は南九州だが。
熊本県は中九州とすべき。
鬼頭宏氏がバカなのか、引用した奴がバカなのか、どちらだ?
613 :
優等生:2011/09/29(木) 18:31:19.83
>>597 天才伊作大先生
私はあまり夜更かしはしないし、昼間は仕事をしているのでレスが遅くなりました。
>「南九州は火山灰地が多く」を受けて、熊本も含むのかと思って誤解がないよう、
>「火山地帯の悲劇と恩恵」荻野太郎氏の文章を転載した。それだけのことだ。
そのようなこととは思いませんでした。あなたの書き込みは火山灰土壌が農業に適しているという印象を与える内容
だったものですから、当時のスレの流れから見てこれは熊本平野の土壌について勘違いしているなと思いました。
なにしろ「シラスなどの火山灰は透水性が高く、水田耕作には向かない。豊富な河川水でかけ流しの灌漑ができると
ころ以外での水田耕作はできない」という話の中に突然「火山灰土壌の恩恵」や「阿蘇山が集めた水が湧水となって
湧き出る熊本平野は「名水」の山たい国だ。 平地では稲がよく育つ。縄文時から現代まで変わらない。」と来たもの
ですから誤解を受けても仕方ないでしょう。
仰るような意図での書き込みならば、わずかな字数でさほど手間もとらないのだから、そのように前置きして書き込
めばよかったのです。
鬼頭宏氏がバカ
真に受けるやつも馬鹿。
616 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/29(木) 18:47:46.87
>>613 優等生
夷柵は、指摘を受けてからの弁解後付け。いつものこと。
617 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 18:56:28.94
>>613 >>608 の名無しの攻撃野郎を、
きみが優等生というHNをやめたものかと勘違いした。失礼した。
そういう議論姿勢の人ならば、熊本平野が沖積平野であることも認めるだろう。
618 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 19:15:13.46
>>612 卑弥呼の都は久留米 = 九州王朝大好き
>鬼頭宏氏がバカなのか、引用した奴がバカなのか、どちらだ?
お 前 が 馬 鹿 な だ け www
619 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 20:36:53.15
>>617 >そういう議論姿勢の人ならば、熊本平野が沖積平野であることも認めるだろう。
いまさら何を・・・
日本の平野のほとんどは沖積平野である。これは姿勢がどうあれ誰でも知っている事実。
620 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 21:00:34.61
621 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 21:17:10.99
>>619 事実が判明すると、「分かりきっている」「誰でも知っている」という。
その卑しい人間性を自分に対して恥じたことはないか。
名無しの横ちゃり野郎。
thats all
622 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 21:20:21.44
分っているのかな?
「熊本平野は沖積平野である」と強調することの無意味さを。
鹿児島の平野部だって沖積平野だ。間氷期(温暖期)の海進による海砂の堆積、海退期にシラスを削った河川による
火山灰の堆積などで形成されている。
623 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 21:29:49.62
>>622 不毛だ。
お前は無毛か?
無知蒙昧の無蒙か。
ぷっ
624 :
622:2011/09/29(木) 21:45:37.72
>>623 チンサイ
まあ、頭頂部はだいぶ薄くなった。このやろ〜 ひとが気にしている事を持ち出しやがって。うるせイ。
そういうおまえは無知のようだな。
蒙とは「道理に暗いこと」だ。無蒙ならば「道理に暗いことがない」ということになろう。
無知蒙昧の無蒙か だって。ひ〜ひっひ。腹の皮がよじれるぜ。
625 :
天才伊作大先生:2011/09/29(木) 22:22:29.40
ツルタというHNにしらどうだ。
ぶひ。
626 :
622:2011/09/29(木) 22:52:58.94
ツルタという姓の人は多い。差し障りがある。禿松(かぶろまつ)にしようかな。唐松山という唐変木
と同類と思われるのは嫌だが、禿松を知っている者は多くなかろう。
んで、おまえはチンサイとしな。小さいの幼児語だ。チン才でも可。ククク ク。
>ぶひ。
ぶ・た
628 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 13:59:41.68
「參問倭地絶在海中洲嶋之上或絶或連周旋 可 五千余里」
の「周旋 可 五千余里」は倭地の広さ(面積)だとの解釈が妥当であろう。
629 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 14:23:31.83
邪馬台国 可能是 薩摩国??
中華的目中,日本以来都是海中之国
630 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 14:40:45.62
>>628 >「周旋 可 五千余里」は倭地の広さ(面積)だとの解釈が妥当であろう。
倭地は「周旋 可 五千余里」に収まる広さ、と言う意。
631 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 14:56:26.82
“周旋可“は可以周旋
周旋の意は回旋,轉進
方円广闊,大軍伸入可以轉頭,改変方向前進
周旋可ではなく可五千余里
633 :
卑弥呼の都は久留米:2011/09/30(金) 18:05:45.42
>>628 「參問倭地 絶在海中洲嶋之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
の「周旋可五千余里」は倭地の大きさ(距離)だとの解釈が妥当であろう。
倭地は、目的地まで各国を順番に訪れて五千餘里に収まる大きさ、と言う意。
狗邪韓國から女王國迄の海陸の道程が可五千餘里であることを言い換えたもの。
面積を意味する大きさなら、「方可五千餘里」となる。
狗邪韓國は倭じゃないし。
635 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 21:38:22.63
松浦に上陸した所で一万里、
邪馬台国まであと二千里。
松浦−邪馬台国間、往復四千里
千里ほど寄り道して、周旋可五千余里
636 :
征天皇大将軍:2011/09/30(金) 22:07:16.89
日本考古专家通过科学检测发现,
奈良县樱井市箸墓古坟出土的文物
与日本古代“邪马台国”女王卑弥呼的去世时间相吻合。
这一发现可能对确定作为日本国家起源的
“邪马台国”的位置产生重要影响
637 :
征天皇大将軍:2011/09/30(金) 22:09:18.30
638 :
奇才天才伊作大先生大明神:2011/09/30(金) 22:31:25.82
征天皇大将軍 なんだこのHNは?
639 :
征天皇大将軍:2011/09/30(金) 22:46:50.71
>>638 何ですか?HN?私にはわからない
私は日本語初学者
日語使用困惑。。。
640 :
奇才天才伊作大先生大明神:2011/09/30(金) 22:57:41.80
>>639 HNはHandle Nameの略だ。パソコン(personal computer)通信用のニックネーム(nickname)のことだ。
分ったか?分らなかったらも少し日本語を勉強してから書き込め。
征天皇大将軍みたいな中国人って、
結構橿原考古学研究所の言いなりなんで
知的レベルが低いなって心底思う。
642 :
征天皇大将軍:2011/09/30(金) 23:31:37.52
だいたい今の中国人は、自分たちの歴史を忘れてるだろ。
かつて周の穆王が西域の西王母に拝謁して感激し、
西王母様が「天」と自称されるなら、私穆王は
自分のこと「天子」と呼ばせて頂いていいですか、
と訊いて許可をもらったのが、中国人歴代最高権力者の
自称なのだ。まあ、日本の天皇も大したことないけどな。
さらにその前に揚子江流域が先進地域だったことも
忘れてはいけない。
独占資本家ロスチャイルドが支援して、マルクス・エンゲルスに
作らせたインチキ思想が「共産主義(要は金融ユダヤ人支配思想)」だ。
こんな思想の一党独裁国家でマトモな学問が発達するわけはないから
橿原の犬となった征天皇大将軍の邪馬台国畿内説には同情するよ。
645 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/01(土) 03:38:00.84
>>634 >狗邪韓國は倭じゃないし。
狗邪韓國は倭人伝に書かれているので倭である。
しかし、倭地ではなく、韓地である。
「始度一海千餘里」は「周旋可五千餘里」に最初の千餘里として含まれる。
646 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 04:31:26.80
この当時、狗邪韓國は倭国の最北端
>狗邪韓國は倭人伝に書かれているので倭である。
その理屈でいえば
郡、國皆倭種、侏儒國、裸國、K齒國も倭である。
東到其北岸狗邪韓國七千?里と
自郡至女王國萬二千?里から
狗邪韓國から女王國まで五千里と判る。
周旋可五千餘里で
狗邪韓國から女王國まで五千里とわざわざ
同じことを二度も言う無駄なことをするのかなぁ?
649 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/01(土) 10:52:05.53
>>647 >その理屈でいえば、
>郡、國皆倭種、侏儒國、裸國、K齒國も倭である。
國皆倭種、侏儒國、裸國、K齒國と(歴)韓國は倭である。
しかし、「郡」は主語であり、文章倭地図の基点を示すから倭ではない。
650 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/01(土) 11:08:44.16
>>648 >周旋可五千餘里で
>狗邪韓國から女王國まで五千里とわざわざ
>同じことを二度も言う無駄なことをするのかなぁ?
同じことを二度くりかえしているのではない。
「倭」について述べている部分と、「倭地」についての部分の違いがある。
倭≠倭地であり、倭>倭地である。
「倭」のなかで、「倭地」は「倭」の一部分。
國皆倭種、侏儒國、裸國、K齒國と(歴)韓國は倭ではあるが、
それらは倭地にあるのではない。
倭地は、對海國(対馬島)から狗奴國(菊池盆地)まで。
651 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 12:23:08.17
>>648 >同じことを二度も言う無駄なことをするのかなぁ?
しないだろうね。
「周旋可五千余里」とは、半径約834里(約360km)の円の円周の距離が「五千余里」ということです。(円周率(π)=3として)
「參問倭地絶在海中洲嶋之上或絶或連周旋可五千余里」の「倭地」が魏志では2箇所ある。
今一箇所は「倭地温暖冬夏食生菜」です。この「倭地」は
「計其道里當在会稽東治【冶】之東」の記述の後にあるので、
その位置は「会稽東治【冶】之東」である北緯26度の沖縄を刺していることになる。
沖縄を中心とする半径360kmの領域が所謂「倭地」である。
それでは、「倭地」と言う括りは何に対して「倭地」なのかを明確にしなければならないだろう。
652 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/01(土) 12:43:06.96
>>651 >「周旋可五千余里」とは、半径約834里(約360km)の円の円周の距離が「五千余里」ということです。(円周率(π)=3として)
「周匝可五千余里」とは、半径約834里(約58km)の円の円周の距離が「五千余里」ということです。(円周率(π)=3として)
「周旋可五千余里」とは、直径約5000里(約350km)の円の直径の距離が「五千余里」ということです。
周匝と周旋は正確に円周とか直径を意味するものではない。
周匝は往復一巡り。
周旋は片道一巡り。
653 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 13:29:45.32
邪馬ネット高田
654 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 13:37:36.75
周は、「稠密」の「稠」の原字で
会意は「田の中、いっぱいに米のある形」+「口」。
説文解字によると「口」は、ものを巡らすことを意味する。
旋の会意はぐるぐるまわる意。
故に、周旋とは「ある領域をぐるぐると回る」意。
方可五千里は、正方形の四辺の総和が五千里のこと。
周旋可五千里とは、「旋のぐるぐる回る意」から円周と解釈するのが正しいい。
よって、周旋可五千里とは
半径約834里(約360km)の円の円周の距離が「五千余里」ということで問題ない。(円周率(π)=3とし、一里=1800尺 一尺≒24cm の魏尺で)
655 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 13:47:15.17
九章算術では、
直径は径、
外周は周径
半径は半径
で記述されているようである。
まあ、いまでも使われる普通の表現と思ってよい。
656 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 13:57:27.11
>>655 >九章算術では、
面積や体積から一辺の長さを求める。
所謂、方可四百里とは400里の長さで囲まれた正方形の面積をあらわしている。
その正方形の面積の一辺は100里ということです。
>まあ、いまでも使われる普通の表現と思ってよい。
現在は、一辺の長さから正方形の面積をけいさんする。
現在は、過去が逆立ちしている積算ほうである。
657 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 14:18:11.55
>>643 你好,抱歉啊,我的日语差劲
641楼的话,我看不懂,帮我翻译一下好吗
我觉得所谓的邪马台也就是音译罢了,应该就是大和国的奈良
658 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 14:21:37.02
>>656 基本的に方形の面積の求め方は、縦×横で計算するようである。
いま、ひととおり見まわしてみたが、九章算術の面積関係の算法を示す
方田章では、周囲長から正方形の面積を求める算法はなさそうである。
そのような算法が記録されていれば指示していただきたい。
659 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/01(土) 14:42:31.24
>>654 周匝の「匝」は俗字。元字は「帀」。
「帀」は一回だけ回る時に使う。「一帀」
周旋の「旋」は何回も回る時に使う。
転じて、あちらこちら巡ること。起点には戻らない。
一歩は約23cm。一歩は足の長さ。踵から爪先の長さ。
1里=300歩≒70m(魏代の短里)
周代の短里 1里=76〜77m
「周髀算經」に書かれている
BC1300〜BC1000頃の天体(北極星)観測データからきた値。
周髀算經では北極星と天の正北極点のなす角度が5.05度であると観測している。
この角度が約5.05度であったのが、BC1300〜BC1000の時期。
現在の北極星と天の正北極点のなす角度は約0.8度。
1950年頃の北極星と天の正北極点のなす角度は約0.11度。
662 :
征天皇大将軍:2011/10/01(土) 19:00:10.63
663 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/01(土) 22:36:55.51
>>659 間違い修正
×:1950年頃の北極星と天の正北極点のなす角度は約0.11度。
○:1950年頃の北極星と天の正北極点のなす角度は約1.1度。
無理だろうが
脳内妄想以外の根拠があるなら説明すればよかろう。
665 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 11:49:17.43
>>658 >>656 >基本的に方形の面積の求め方は、縦×横で計算するようである。
>いま、ひととおり見まわしてみたが、九章算術の面積関係の算法を示す
>方田章では、周囲長から正方形の面積を求める算法はなさそうである。
廣十五歩、縦十六歩 は、15×16=240歩 24歩は一畝。
廣一里、縦一里は三項七十五畝
方里之中、 有三項七十五畝。
「方里」とは四辺の総里数。廣一里、縦一里の四辺総里数は四里。方四里の一辺は一里。
666 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 12:04:44.23
>×24歩は一畝。
は
◎240歩は一畝。
667 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 12:25:05.96
668 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 12:53:32.65
>>667 名前
>方里=一里×一里、の表現はあるが、
>方四里=一里×一里の表現はなさそうである。
面積の場合は、
一里×一里=一積里 と記述され、
方里=一里×一里という算術は存在しないでしょう。
方里とは方形の四辺の長さの合計です。
方里之中とは
四辺形の中に面積が存在するという表現でしょう。
669 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 21:06:32.89
方尺、方寸、方歩、そして、方里
これらは全て、各単位の正方形を示す言葉であり、
4辺の長さを示す言葉ではない。
670 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 10:47:42.82
>方里とは方形の四辺の長さの合計です。
非常識。少しは調べてから書くことだ。
>これらは全て、各単位の正方形を示す言葉であり、4辺の長さを示す言葉ではない。
方四百里は四百里×四百里の面積だけど、実際の形が正方形だといっているわけではない。
例えば、八百里×二百里の長方形も方四百里ということだ。
671 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 11:22:17.66
「方里」は面積の基本単位「方1里」を意味する。
方400里は400×400=160000個の方1里の集まりであることを意味する。
もちろん、800×200でも160000個の方1里の集まりである。
100平方メートルの単位である平方メートルが、
一メートル×一メートルの正方形の面積を単位としているのと同じである。
九章算術や周髀算経でも基本的には同じ。
と、いうより、日本で使われている数学体系のルーツの一つが、
これらの中国数学書であり、基本的計算法も、用語も
余り変わらない。
また、数学書なので、用語はともかく、算法はそう変わるものではない。
西洋だろうが東洋だろうが、むしろ変わってもらっては困る。
672 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/03(月) 19:38:33.15
>>670 >方四百里は四百里×四百里の面積だけど、実際の形が正方形だといっているわけではない。
>例えば、八百里×二百里の長方形も方四百里ということだ。
>>671 >方400里は400×400=160000個の方1里の集まりであることを意味する。
>もちろん、800×200でも160000個の方1里の集まりである。
その通り、異義なし。
對海國は「方四百里」とある。
對海國(対馬)の実際の形は、八百里×二百里の長方形である。
■九州フジテレビ抗議デモ in 福岡 開催決定!
◎期日 10月23日(日)
◎場所 天神、警固公園集合・解散
◎集合 13:00
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※ボランティア希望者は12:30集合
☆10月23日は……
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・そして反日女優キム・テヒ主演のフジテレビ連続ドラマ
「僕とスターの99日」のスタート日です。
10月23日、福岡・天神のど真ん中で、一緒に正義の声を張りあげましょう!
674 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 12:26:54.49
算術での禁止事項は
1÷0=不能 0÷0=不定
これだけ。
>方四百里は四百里×四百里の面積だけど、実際の形が正方形だといっているわけではない。
>例えば、八百里×二百里の長方形も方四百里ということだ。
「方可四百余里」と「方四百余里」表現しているものが違う。
百歩ゆずって、「方四百里」が面積を現すとして、
『方四百里は四百里×四百里の面積』
『八百里×二百里の長方形も方四百里』
という、2つの答えを持つのは算術ではなく
珍術というんじゃやないの。
『説文解字・せつもんかいじ』に拠れば、《可》は「肯也」とあり、
「肯・こう」は〈肯綮・こうけい〉の「肯」を指し、
”骨と骨の間に肉がグッとはまり込んで骨と肉が結合して止まっている部分”を表す。
所謂、「方可四百余里」とは周囲四百余里で囲まれた面積を云う。
「可」が面積乃至体積を意味する。
以上。
675 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 13:01:52.65
何か これら邪馬台国系スレを読んでると、偽書以下の「と本」が論拠の方と倭人伝なら何でもござれの
博覧強記の方が喧嘩してる印象ですが、発掘や出土物を見れば普通の神経なら九州説だと思いますが?
例の三角縁神獣鏡ってのが中国本土で一枚も出ず当時流行の小振りな位至三公鏡は関西じゃ出ない。
どう言抜けようかってんで阪大と組んで大掛かりな非破壊検査をやったけど酸化物のコンタミが多すぎて失敗データ。
でも「卑弥呼の鏡」とか増すゴミに花火を打ち上げてました。
きちんとした発掘データを 文書データとリンクさせ対比させようとする普通の学者はいないんでしょうか?
676 :
天才伊作大先生:2011/10/04(火) 20:19:20.55
>>674 ●漢字は複数の意味をもつ。
その中で、文意・文脈から最も適当と思われる意味を採るのが解読のイロハだ。
まったく異なる漢字で同じ意味をもつものもある。
「肯」と「可」に共通する意味は「承知する」。これをして「可は肯也」というのだろう。
●漢字は複数の意味をもつ。
「方可400余里」の可は、面積が400余里ばかりという時の「ばかり」という意味だ。
「ぱかり」という意味で使用されている「可」をとりあげて、
それがもつ「承知する」という意味に仕立てた上で、
肯の持つ「承知する」とくっつけようというのかな。
●方には四角形(方形)の意味がある。四角形には正方形・長方形(矩形)がある。
面積表記には、不定形の面積を正方形に見立てた表現をする。
面積をいう場合の方は四角形の一辺の長さをいい、
面積は四角形の二辺を掛けて割り出す。
●面積は四角形の二辺を掛けて割り出す。
「方400里」といえば、一辺が400里の正方形の面積を意味する。
現物がどんな形であれ、一辺400里の正方形の面積と同じということだ。
>「可」が面積乃至体積を意味する
これは、いったいどこから引っ張ってきた結論か。
(なんで・『説文解字』の「可は肯也」を持ち出したのか意味が分からん)
きみの漢字解釈こそ珍述だな。
678 :
ローガン:2011/10/05(水) 16:27:24.48
>>675 >例の三角縁神獣鏡ってのが中国本土で一枚も出ず
中国に「三角縁神獣鏡」という形式分類がないから。当然。
>当時流行の小振りな位至三公鏡は関西じゃ出ない。
園部の黒田から出てる。
中国に「三角縁神獣鏡」という形式分類がなくても、
日本の分類基準で存在しないわけだが。
680 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 19:49:51.14
681 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 09:46:17.30
>中国に「三角縁神獣鏡」という形式分類がないから。当然。
ローガンも耄碌したもんだ。
「三角縁神獣鏡」は中国ではどうゆう形式分類がされて、どれだけ出土しているの?
682 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 15:09:15.04
>>676 :天才伊作大先生
期待はずれの回答に落胆だ。
どくだみさんは
「方可四百余里」を九章算術持ってどのように解釈するだろうか。
683 :
天才伊作大先生:2011/10/06(木) 15:24:39.20
>>682 あいつは「どくだん」さんというのだ。独断我流。
遠吠え
天才伊作先生にお訊ねしたいのだが
熊本から高千穂に抜ける途中に弊立神宮というのがある。
高千穂より古い場所の様に聞いているが、本当の所どうなのか。
皇室の方々も時折訪れるそうだが。
686 :
◆67qtRPiyr2 :2011/10/08(土) 12:37:25.17
天才伊作先生にお訊ねしたいのだが
お魚さん達の学校の運動会で、生徒のうちイカ君ばかり応援する先生がいます。
さて、この先生の受け持つ教科はなんでしょうか?
※正解は名前欄に有り
687 :
天才伊作先生:2011/10/08(土) 19:00:52.03
>>685 以前こう書いたことがある。
宮崎では、「神々は有明海側から山越えでやってきて高千穂に降臨した」
というのが了解ごとだったが、明治時代頃までは口外するのをはばかられた。
●幣立(へいたて)神宮 (下記サイトを参考に)。このサイトはきれいだ。
ttp://japan-web-magazine.com/japanese/kumamoto/ japan-kumamoto-heitate-jingu-shrine1-japanese.html
「神武天皇の孫・健磐竜命(たけいわたつのみこと)が、高千穂から阿蘇に下向する途中、
この地に幣帛を立て、天神地祇を祀ったのでこの名がある。らしい
高千穂や、天岩戸などとの関連性もありそうで、
他に類例のない神が祀ってある所も異質だ。
祭神「神漏岐命、神漏美命、大和神、天御中主大神、天照大神」
▼その健磐龍命を祀ったのが熊本市の健軍神社だ。
健軍はもともと「たけみや」と読んだ。神社の東側にある上ノ原遺跡では
刻目突帯文土器と炭化した米(プランとオパール)が発見され、
縄文時代からの稲作の痕跡として注目されている。
健軍神社のなだらかな台地の下では、阿蘇の湧水が豊富な清廉な湖をつくる。
湖の周囲には多くの弥生遺跡がある。
西向き一直線の1200メートルの参道の先には、神水泉=神水(くわみず)という水源地がある。
ここでは、弥生時代の大型掘っ立て柱建物遺構が2ヵ所発見されている。
そのうちの1つは長さ10m以上、幅4mという大型である。
ほかに、竪穴住居跡が30軒以上見つかっている。
このエリアは古くは「タクマバル」呼ばれてきた。
688 :
天才伊作先生:2011/10/08(土) 19:12:10.02
ついしん。
●幣立神宮は別名を「日の宮」。
日の宮とは、天上の天照大神の御殿。または、その子孫である天皇の御殿。
なんとも凄い神宮があったものだ。
689 :
天才伊作先生:2011/10/08(土) 19:14:00.95
>>686 その教員の担当教科は「家庭科」だな。
つまり、勝て!イカ!!な〜んちゃって♪
・・・・・ ウ、ウム、まあ、天才にわからないことは無いのだ。
わかったか、スカポンのタコ。
690 :
ゴジンム:2011/10/08(土) 19:30:44.88
神州ハ不滅ナリ
>>688 タコ作
>なんとも凄い神宮があったものだ。
で、その「凄い神宮」とやらは”いつから”神宮なのかな?wwwww
692 :
本物の天才伊作先生:2011/10/08(土) 22:17:21.64
>>689 おい。なりすましも度を超して、
まったく同じHNを使うのはレッドカードだろ。
限度をわきまえるのもセンスのうちだ。
てめえらのやり口には、ほとほと嫌気がさすぜ。
693 :
本物の天才伊作先生:2011/10/08(土) 22:19:32.34
なりすましで、本物よりも暴言吐いて、
濡れ衣・でっちあげの不法攻撃か。 外道
どれが本物の伊作か、もうわからなくなった
ま似たようなもんだが
このスレは伊作祭りだ はひはひ
タコポンども踊れや踊れ げはははは
696 :
本物の天才伊作先生:2011/10/08(土) 22:59:55.85
下卑た外道らしい手を使うもんだぜ。
一連の古代史スレもおしまいだな。
697 :
本物の天才伊作先生:2011/10/08(土) 23:23:41.72
伊作の名誉の為に宣言する。
なりすましの伊作によるかく乱が目に余る。
今後「伊作」およびこれに類したHNによる投稿があった場合は、
すべて「なりすまし」の偽物の投稿である。以上
トリップつけりゃいいだけじゃん
あ、こらっ。教えちゃダメじゃんよ
アブラハムの妻サラが初めて生んだ子はイサク。
神はアブラハムを試そうとイサクを犠牲に差し出すよう命じ
アブラハムはイサクを差出し、イサクもそれに従ったが
アブラハムの忠誠を確認した神はこれを取りやめた。
イサクは180歳まで生きた。
701 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 01:26:59.09
>今後「伊作」およびこれに類したHNによる投稿があった場合は、
>すべて「なりすまし」の偽物の投稿である。以上
つまり、本物も名乗れない、これからは名無し化します宣言だねw
伊作祭り
∧_,,∧
、-‐'''""''''\ /\. (`・ω・´) /ヽ
\ ● \ | ● ⊂ ⊃ ● | r--─‐i
\-‐'''""'''' ヽ/@/ く \ / r─--‐i | ● |
\ ∧_,,∧ ∧_,,∧(ノ⌒ヽ)∧_,,∧ | ● | ∧_,,∧ |--─‐''
○○・ω・´) (`・ω・´)∩ ∩(`・ω・´) ''─--‐| (`・ω・´)∩
ヽヽ` ヽ'´) ⊂ r ' '-、 つ ⊂ /
@〉 ,.- '´ @ノ / ヽ '、@ r‐' /@
〈_ノ´..................(ノ⌒し'......................'、_l⌒'、)................`""ヽ_ノ
............::::::::::::::::::::::.::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::............
703 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/09(日) 23:52:45.51
>>701 >つまり、本物も名乗れない、これからは名無し化します宣言だねw
伊作は消えないよ。
彼は舌の根も乾かないうちに又現れるんじゃない? それはいつものこと。
704 :
天才幻想皇帝:2011/10/10(月) 12:19:50.79
名誉などと俗人根性が抜け切らぬうちはハナタレ小僧であるぞよ。
705 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/12(水) 18:41:24.01
今回は、
伊乍が4日も出てこない。
いいことだ。
706 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 20:22:22.84
伊作は死んだよ
死 し て 屍 拾 う 者 無 し
708 :
鬼才天才偉材逸材大先生:2011/10/12(水) 22:31:28.26
人間死ねば皆み仏の懐に抱かれて無垢となる。死者を鞭打つことなかれ。
生前のことは忘れて冥福を祈るべし。南無阿弥陀仏。
さて、139のことは忘れて、九州に話題を戻そう。
そう言えば、「九州」とは古来中国では「天下」を意味する。
ということは、九州を「九州」と名付けた時点で、そこが天下であった、ということ。
710 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 23:27:27.25
曲学の徒氏の「邪馬台国掲示板」に「天才と呼ばれた男」が気炎をあげているよ。
ヤフーや2ちゃんやその他の掲示板
叩かれたら他の板にほとぼりが冷めるまで逃げて頃合を見計らってまた戻ってきて
…の繰り返しか
本当伊作はゴキブリみたいな奴だなw
ただの暇なジジイだろ
自己顕示が目的で、古代史はたまたまその道具に過ぎないから
714 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 13:43:28.83
投馬<当麻taima<但馬tajimaではないか?
倭語には対馬tusima>tuima という音便があったのかも知れん。対馬はツシマと読めないからな。
715 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 14:25:01.89
>>714 >投馬<当麻taima<但馬tajimaではないか?
んなわけないだろ。
投馬國は魏の人間が聞き取った国名だから当時の魏における投馬の発音に近いものだった筈だ。
taimaという音を投馬という字に当てたとは考え難いね。
716 :
サガミハラハラ:2011/10/13(木) 17:33:34.85
投はトウは倭人のトオをトウと聞きあてたものです。
トオは遠いのこと、馬(マ)は地域の意味で、倭国のなかでも遠い地域にある国という意味です。
717 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/13(木) 18:00:25.78
投馬國
「トマ」に漢字を充て「投馬」とした。
馬を投げ捨てるような馬不要な地域の国。
国の大部分が、筑後川と矢部川の河口部にあり
湖沼や水路が巡る低地と島々が点在する地域。
交通は舟で、馬は何の役ににもたたない地域。
投馬國の国域は、みやき町三根(佐賀平野東部)から大牟田に至る有明海沿岸地域。
718 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 21:42:11.87
託麻=投馬は無理筋でしょうか。
719 :
彌彌:2011/10/13(木) 21:52:58.40
>託麻=投馬は無理筋でしょうか。
無理です。
720 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 23:29:52.08
>>715 >>taimaという音を投馬という字に当てたとは考え難いね
しかし飛鳥時代に当麻をトウマと読まずタイマと読むのはトウとタイの変化が許容されるんだろう。
英語のゴウストがドイツ語でガイストになるような変化だ。
721 :
サガミハラハラ:2011/10/13(木) 23:45:24.85
投馬国は宮崎県です。
邪馬台国のある佐賀県からは遠いでしょ。
722 :
日本@名無史さん:2011/10/14(金) 09:38:24.11
伊都国は佐賀市付近だってことを忘れているな。
723 :
日本@名無史さん:2011/10/14(金) 13:28:35.93
>>720 >しかし飛鳥時代に当麻をトウマと読まずタイマと読むのはトウとタイの変化が許容されるんだろう。
それは日本語の話だろ。倭人伝の投馬国は中国人が聞き取って書いたものだから中国の発音で投馬を
taimaと言うかどうかが問題なのだ。中国語で投をtaiと発音するか?
724 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/14(金) 16:28:22.69
3世紀の中原における「投」の発音
@ to
A toh
B tau
C tao
の4つが考えられる。
「投馬」の倭音は、「トマ」「トゥマ」「タマ」「タゥマ」「タォマ」の何れかであろう。
725 :
日本@名無史さん:2011/10/14(金) 16:30:11.65
>託麻=投馬は無理筋でしょうか。
無理筋でしょう。薩摩=曽の投馬ですよ。
726 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 02:12:39.70
>投馬国は宮崎県です。
どこからどう進んだら宮崎県?
>邪馬台国のある佐賀県からは遠いでしょ。
どこからどう進んだら佐賀県?
728 :
サガミハラハラ:2011/10/18(火) 20:33:07.08
佐賀県小城市の三日月町大江というところから、南に有明海を抜け、九州の西海岸に沿って南下、薩摩大隅半島をまわって、宮崎にはいります。
ざっと、二十日ぐらいでしょう。
マツロ国である唐津から東南に松浦川にそってすすみ、多久盆地にはいり(庄集落に伊都国の都がありました)、ついで東に進み一本松峠を越えて、佐賀平野に入り、小城市不二町が不弥国で、
その南にせっして邪馬台国の都があります。
甘木地区に桜ケ岡があり、それが卑弥呼の墓です。
奴国はどこでしょうか。
730 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 18:41:38.59
>>729 >奴国はどこでしょうか。
奴國は2つあります。
福岡平野の奴國・・倭奴國の後継国である奴國・・須玖岡本遺跡
佐賀平野の奴國・・人口2万戸の奴國・・佐賀城
731 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 18:44:06.38
福岡平野の奴國は卑弥呼の出身地ね。
732 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 21:51:30.14
もっとしぼると、
卑弥呼の出身地は倭奴國(イト国)のあった地域。
奴國の変遷
倭奴國→帥升により消滅→餘旁國の再興奴國→二万戸の分国奴國
>福岡平野の奴國
>佐賀平野の奴國・・人口2万戸の奴國
同意できるのはここだけですが
九州説として健闘を期待しています。
734 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 15:42:55.48
佐賀は伊都国できまりだろう。
735 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/24(月) 20:12:18.19
伊都国は佐賀市大和町惣座遺跡
736 :
サガミハラハラ:2011/10/25(火) 09:32:21.97
しばらく岡山にいってたもので書き込みしませんでした。
奴国(トコク)は佐賀県の肥前山口土元です。庄集落から東南6.7Kmです。
その余の旁国の奴国は福岡県山門郡です。
737 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 10:02:54.28
伊都国をちょっと手前の小城に持ってきて、
南東百里の奴国を佐賀市内に持ってきた方がいいかもしれない。
伊作氏風にいうならば、佐賀大和は奴国の王都、佐賀市内が政都、商都。
佐賀市内は、大宰府政庁に対する鴻臚館みたいな位置づけ。
小城はほぼ一本道の唐津貿易のチェックポイント
さらにここから真東で大川不弥国。
ここから南に船を出す。
738 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 11:31:43.38
中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の
作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の
大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら
さらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の
戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は
口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に
閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の
将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
庄集落
不二町
肥前山口土元は
はどこにありますか?
駅学校などの目印は無いですか?
740 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/26(水) 01:15:03.42
741 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 01:39:00.41
もはや邪馬台国問題など学問にあらず。
専門家ほど邪馬台国には手を出さず、
素人のマニアほど首突っ込みたがるw
所詮個人レベルの想像で構築するしかないから
手を出すだけ不毛だとわかれよ。
>>740 >不二町は何の事か理解できない。
『佐賀平野に入り、小城市不二町が不弥国で』
ところで
サガミさんは冗談ではなく本気で主張しているのですか?
私はホントに理解しようとしていますが
冗談なら中止します。
>>742 >もはや邪馬台国問題など学問にあらず。
と言うより学問として考える能力がない。
>専門家ほど邪馬台国には手を出さず、
倭人伝の解釈が全くできないのだから手を出したら笑い者。
>所詮個人レベルの想像で構築するしかないから
手を出すだけ不毛だとわかれよ。
貴方も物好きにも
こんな所へ顔を出し不毛な投稿などする必要はありませんよ。
744 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/26(水) 15:05:30.61
>>742 >サガミさんは冗談ではなく本気で主張しているのですか?
サガミハラハラさんは、10年位前に既に同じ主張をされていました。
一部は修正されています。
数年前、本も自費出版されていました。
745 :
サガミハラハラ:2011/10/26(水) 18:06:38.12
庄集落は多久市中小路集落に隣接した集落です。今はほとんど田んぼですが。
不二町は小城市小城の市分庁舎の裏手にあたります。自治会名としてのこっています。
不二町の名の由来は江戸時代あたりでしょう。不彌国とは異なります。
肥前山口土元は、JR長崎線の佐賀平野の西端近く、肥前山口の駅があります。
土元は駅から北西へ800mぐらいのところです。
私は本気で主張しています。自信おおありです。
ちなみにサガミハラハラさんは、相模原から他へ引っ越されたそうです。
747 :
荒らしを呼ぶ男。:2011/10/26(水) 19:11:06.79
>>737 >伊作氏風にいうならば、
ちょっと目を話したスキに何をいうか。
東南に500里程度陸行の線でいけば、
だいたい似たような所にたどりつく。
伊都国は「渡船場のある河川の近く」だ。
津の古代中国語は「岸から岸への渡し場」で、
現代日本語でいう「海浜港」とは違う。
あくまでも河川の船着き場・渡し場だから。
このあたりの議論も詰めてされないまま、
津を海浜皆とと解釈しているのが多すぎる。
次なる問題がその先のたどり方だ。
サガミハラハラやら痔漏を含めて、投馬国、邪馬台国を
九州北部に押し込もうという手合いは必ず小細工に頼ることになる。
んー? 寝たふりじゃなく、ネタ振りになっちまったか?
748 :
荒らしを呼ぶ男。:2011/10/26(水) 19:12:36.34
海浜皆と→→→海浜港
749 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 19:35:41.90
>>747 大川を不弥国として、総行程万二千里中の残り1300里
一里77mとして、ほぼ百キロ
筑後川を下り、有明海を南下して
宇土半島付け根で63キロ 800里
宇城市付け根で、74キロ 960里
人吉盆地まで140キロ 1800里
(グーグルマップ ルート計測による)
行程だけで考えれば、だいたいこの辺りだろうな。
南熊本といったところだ。
750 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 19:36:27.73
宇城市付け根で → 宇城市中心部で
751 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/26(水) 19:46:11.06
>>747 >津の古代中国語は「岸から岸への渡し場」で、
>現代日本語でいう「海浜港」とは違う。
>あくまでも河川の船着き場・渡し場だから。
その通り。
だから、荷物検査をした「津」は、官不在の不彌國にある。
伊都國の津は、松浦川沿いの中原遺跡。
正確には、3世紀の中原遺跡は松浦川河口の古松浦湾南岸。
3世紀の唐津
∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵
∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港
∵∵∵┗┓↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜┏━━━‖┛∵∵∵∵
∵∵∵∵┃↓┏━━━━━━━━━━━━┛∵∵∵‖∵∵∵∵玉
∵∵∵∵┃↓┃∵∵∵∵虹の松原∵∵∵∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵島
∵唐津○┃↓┗━━━━━━━━┓∵∵∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵川
∵∵∵∵┃└→┐○東唐津〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵┗=====
∵∵∵∵┗┓〜↓古松浦湖〜┏━┛∵∵∵┌→→→→→→→→→
∵∵∵∵∵┗┓└→→┐〜┏┛∵鏡山∵∵↑∵∵∵∵∵伊都國へ
∵∵∵∵∵∵┗┓古〜↓〜┃∵∵∵▲∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵∵┃松〜↓〜┗┓(領巾振山)↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵高尾山∵∵┃浦〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵▲∵∵┏┛湖┏◎━━┛∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┃〜〜┃└→→→→→→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┃〜┏┛中原遺跡∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┗‖┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵松浦川‖∵∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
752 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/26(水) 20:04:10.42
>>747 >伊都国は「渡船場のある河川の近く」だ。
上記のことはどこにも書いていない。
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」
753 :
ゴミが嫌いな男。:2011/10/26(水) 23:00:23.51
>>752 ゴミ横はやめてくれ。
常に伊都国に治すという一大率のことだ。
伊都国の津で卑弥呼関係の品物の検察してたんだろ。
じゃ伊都国は津(渡船場のある河川)の近くだ。
巡りの悪いタコは・ハウス!!
754 :
サガミハラハラ:2011/10/26(水) 23:05:10.82
伊都国は渡船場のある河川の近く、ですか。中小路庄集落は多久川のほとりです。
多久川は結構川幅ありますよ。
755 :
ゴミが嫌いな男。:2011/10/26(水) 23:21:08.81
>>749 >行程だけで考えれば、だいたいこの辺りだろうな。
曲折行程も考慮せんか。
>南熊本といったところだ。
よおーし。だいたい当たりだ。
狗奴国は熊襲がいたという人吉盆地。
記紀で熊襲伝承が登場するのは玉名と人吉盆地だけ。
熊本平野に熊襲はいなかった。
狗奴国を熊襲に直結する手合いは・そこんそこを忘れるな。
ナニ?
人吉盆地の狗奴国の官に
菊池と関係ありそうな「くくちひく」がいるのはなぜかって?
そこが「事実は詳説よりも奇」だ。
狗奴国こそが、菊池の「くくち一族」が仕えてきた古豪国家の系譜にあたる。
756 :
寝たふり男。:2011/10/26(水) 23:24:32.94
>>754 わるいけど。
九州北部説は、畿内説よりも眼中にないから。
757 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/26(水) 23:45:05.07
>>738 「日本餘噍拠扶桑以逋誅」
「日本」は、百濟救援に参戦した倭軍の名称。
殆ど打撃をうけることなく帰還できたようだ。
671年唐軍が薩野馬と倭兵捕虜と共に博多に筑紫に上陸したとき、
日本軍は大海人皇子と共に九州を脱出し、扶桑(畿内)に逃げる。
扶桑は厳密には播磨國、5世紀末にシナ僧により仏法が伝わり、
王「乙祁(弘計尊)」がいた。・・梁書諸夷傳
「乙祁(弘計尊)」は、後の畿内王「顕宗天皇」。
播磨のシナ僧が大和政権に仏教を伝える。
播磨國は684年九州倭側から離脱し、畿内側のみに付く・・・播磨(風土記)の宝剣返納
日本軍は大海人皇子の手勢軍として、中大兄皇子と戦う。
半島で親唐百濟軍と戦った日本軍は、大海人皇子の傘下の軍と考えてよい。
758 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/26(水) 23:57:09.55
>>753 >伊都国の津で卑弥呼関係の品物の検察してたんだろ。
「臨津」の津は、伊都國の津であると書いていない。
G「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」と
H「王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」は
全くの別内容の文。
759 :
五味飼助:2011/10/27(木) 07:53:22.73
スマン、わしが主張していたことはすべて出まかせじゃ。何の根拠もない。
寂しかったんじゃよ、察してくれ。はひはひ
761 :
名古屋大文学部1年生引きこもり:2011/10/27(木) 09:00:05.28
日本史学を専攻してまだ半年足らずの学生の私の考えですが、
魏志倭人伝は魚拳という民間の歴史家が書いたものに対して
司馬遷があとから付け足したものなので、そこに矛盾が生じているのです。
魏志倭人伝を読めば明らかに女王国は九州にあります。
どう転んでも畿内にはたどり着きません。なので投馬国と邪馬台国の
道程は司馬遷があとから付け足したものなのでしょう。
邪馬台国はヤマト国で畿内大和だと考えます。
女王国と邪馬台国は別物だと考えることで真実が見えてきそうな気がします。
762 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 09:24:39.50
女王国と邪馬台国とは別物だよ。しかし、投馬国、邪馬台国の記事だって同じ
資料にあった記述さ。それを別人が加えたなんてことにするのは間違い。
>>761 陳寿を知らんようじゃ、論評するのには、まだ百年早いな。
>>743 >私は本気で主張しています。自信おおありです。
まともな主張なら必ず理解できるはずです。
しかし
ゴミクズが来たので話は中断します。
また機会があればお願いします。
765 :
名古屋大文学部1年生引きこもり:2011/10/27(木) 09:36:58.31
すいません初歩的なミスをw
司馬遷じゃなくて倭人伝は陳寿でしたww
いずれにせよ邪馬台国=大和 だと思いますよ。
七万戸の人口が誇張だとしても、当時の最大人口国ですし、
九州の田舎にあたっとは考えづらいです。
766 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 10:26:15.20
奈良盆地と人吉盆地って同程度だしな。
平地面積では、河内、大阪平野入れても、九州は超えない。
東海地方を入れると、九州を超える面積になる。
いつの時点で東海地方が版図にはいったか、だな。
767 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 11:08:46.84
弥生時代の奈良盆地は過疎地帯だ。銅鐸すらほとんど出ない所。
768 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 11:12:26.79
そういえば、人吉盆地やその周辺、南九州から出る
免田式土器は、土器の中でもかなり高度な製法だそうである。
直接、中国辺りから技術が入ったのかも知れんね。
769 :
名古屋大文学部1年生引きこもり:2011/10/27(木) 11:18:53.78
魏志倭人伝の記述との整合性をもたせるためには
女王国=九州、邪馬台国=畿内 とするしかないと思われますが。
神功皇后が征伐したという、山門郡の女首長の国とやらが、
たぶん女王国のことなのではないでしょうか?
770 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 11:37:52.03
女王国と邪馬台国は別物だが、全くの無関係ではない。
倭国乱の際、邪馬台国を中心として共に戦った国々のことだよ。
女王国が九州だということは、その中心の邪馬台国も九州にあったと
いうことだ。
771 :
名古屋大文学部1年生引きこもり:2011/10/27(木) 11:48:21.11
しかしそうなると投馬国まで水行20日、邪馬台国まで水行10日陸行1月の
記述との整合性がうまくいかなくないですか?
さすがにたまたま天候不順で動けなかったとかそういう諸々のアクシデントを
考慮しても九州内に邪馬台国をおさめるのは無理がある気がしてならないのですが。
考古学的にも畿内のほうが有利ですし、日数表記してるところからも、
ものすごい遠くにあるから里数表記できないからだと思うんですが。
とこのように邪馬台国論はいくら考えてもわかんないことだらけなんですねw
772 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 12:05:40.07
まず、行程情報は、旅をした本人が理解できるだけではなく、
読んだ別人でも行程が理解できるように書かねばならない。
ただの遊旅紀行文なら、その限りではないが
隋書百済伝に済州島から百済まで、三月行の記事がある。
地図上で陸地に重ならないようにした実測距離で240キロ
つまり日数表記は、実日数ではない。
一月あたり80キロという距離を表している。
また、遣唐使南航路での、一日当たりの航行距離は
一般的な日程で約50キロ
陸路街道での一日当たりの歩行距離は16キロ
これをまともに取れば、短里前提でも北海道すら越えてしまう。
公里では、パプアニューギニア、マリアナ諸島、北に行ってもベーリング海峡である。
773 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 13:06:51.59
>>771 何も問題ないよ。行程記事は伊都国から先が放射式に書かれているんだ。
邪馬台国は、伊都国から南へ水行10日、陸行1月のところにある。
九州の中で何の問題もない。使者を案内するときには、先々への手配をして
大丈夫となってから進む。非常にゆっくりしたものなのだよ。
774 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/27(木) 15:41:34.39
>>771 女王國と邪馬臺國は異なる概念の国。
女王國は女王の直接支配の国々。
言い換えれば、卑弥呼を共立する為に中心となって働いた国々。
その国々で最大の国が邪馬臺國、其処に卑弥呼は都を置き居住した。
卑弥呼の出身は邪馬臺國ではなく、旧倭奴國地域のようだ。
卑弥呼擁立の為に、邪馬臺國が旧倭奴國地域から招聘したものと思われる。
女王國は帯方郡から12000里であるから、
女王國の範囲は帯方郡から12000里以遠。
帯方郡から12000里の国は、2万戸の奴國と不彌國。
(帯方郡から伊都國までは11900里)
12000里以遠の国は投馬國と邪馬臺國。
よって、女王國は上記4ヶ国によって構成される。
つまり、女王國は、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺國によって構成された国々を指す。
これ等4ヶ国以外の国々は女王國ではない。
ここでこれ以上書くのが億劫になった。結論だけ書こう。
投馬國水行二十日は、帯方郡から投馬國までの行程。
邪馬臺國水行十日陸行一月は、帯方郡から邪馬臺國までの行程。
帯方郡からの最初の水行十日は同じルート。
帯方郡から末盧國までは水行十日の行程。
775 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 15:54:02.75
奴国、不弥国を万二千里の国とするところが誤魔化しだな。
776 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 16:11:53.79
九州のドコだったんだろうな
777 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/27(木) 16:14:54.67
>>775 この部分は古田説支持
古田説では、伊都國は万千九百里となり、
奴国、不弥国は万二千里となります。
778 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 16:27:34.18
水行十日陸行一月を全行程とみなす解釈がしばしばみられるのだが、
国の位置を示す場合、「スタート位置、方向、距離」の情報が絶対に必須なのね。
不弥国をスタート位置、そして南至で方向はわかるとしても、
水行十日陸行一月を距離とみなさなければ、情報が足りない。
位置情報としては成立しないことを念頭に置いておくべき。
水行十日陸行一月を総行程とする場合、別の距離情報を提示しなければ
位置を決めることができない。
779 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 16:37:46.09
あと、絶対ではないのだが、「スタート位置、方向、距離」
は基本的に、すべて同じ原点からの情報であることが望ましい。
というか、そうでない記述が中国書などで有れば別だが、いまのところ
違う原点での情報の例を知らない。確実な例が複数あれば撤回する。
スタート位置が不弥国であれば、方向も不弥国からの方向、
距離も不弥国からの距離であるのが普通。
スタート位置が伊都国、方向は不弥国、距離は帯方郡から、
のようにバラバラでは、行程情報としては非常に使いにくい。
780 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/28(金) 01:47:46.73
水行10日陸行1月が、帯方郡からの全日程だの、
伊都国からの放射式だのあまりにご都合主義じゃありませんかw
そのような読み方が他の中国の文献に存在してるなど
聞いたこともありませんが。
781 :
筑紫次郎:2011/10/28(金) 08:45:31.05
>>780 >水行10日陸行1月が、帯方郡からの全日程だの、
水行10日陸行1月は所要日数ではない。
距離、場所問題とは無関係で別の意味がある。
>伊都国からの放射式だのあまりにご都合主義じゃありませんかw
放射式とか投馬国が鹿児島や出雲なんてことはない。
全部直列式であり、九州有明海に邪馬台国=女王国があった。
782 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 08:46:13.05
まあ、いろいろと解釈があってもいいんだが、
前に書いたように、位置情報には、「スタート位置、方向、距離」
が絶対に必要。
このうちのどれかを欠かした場合、「位置はわからない」ということ。
だから、水行十日陸行一月を、全行程としたり、距離情報ではない、
とした場合は、代わりの情報がないと、位置がわからないと主張するに等しい。
もちろん、代用となる情報があればそれはそれでよい。
倭人伝の情報をいじるのは自由だが、それによる他の部分の矛盾が発生するので、
それも考慮して、慎重にいじれということ。
だから、「写本の過程で情報が落ちた」という意見もあるが、、
その時には倭人伝の記録からは場所がわからない、ということになる。
項目の順番が変わるとか、記述法が変わるので、ここから連続式だとか
放射式だとかの議論もあるが、これについては、明確な条件を示すことができないので
関与しない(できない)。
783 :
筑紫次郎:2011/10/28(金) 09:27:08.83
>>782 前に書いたように、位置情報には、「スタート位置、方向、距離」
が絶対に必要。
このうちのどれかを欠かした場合、「位置はわからない」ということ。
いや
距離を記載しなくても位置が判る場合が一つだけあります。
>だから、水行十日陸行一月を、全行程としたり、距離情報ではない、
とした場合は、代わりの情報がないと、位置がわからないと主張するに等しい。
倭人伝がその一つだけの場合です。
さもなければ
郡起点とか放射式とか
投馬国をとんでもない場所に比定するとか無理な解釈が必要になり
其餘旁國遠絶不可得詳にも矛盾が生じる。
784 :
筑紫次郎:2011/10/28(金) 09:33:00.84
>>783 水行十日陸行一月を郡からとか
放射読みをするから邪馬台国の場所が判らない。
どこでも好きな場所に比定できる。
陳寿はピンポイントで場所を教えているのに。
785 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/28(金) 11:46:48.23
投馬国と邪馬台国の記述さえ省いて考えれば、
女王国は北九州で間違いないでしょう。
根拠は女王国まで万二千里の記述と、女王国の東海渡ること千里国有
の記述です。このことから女王国=畿内は99%ありえません。
まずこれを前提として話を進めていくべきだと思います。
786 :
無免許講師:2011/10/28(金) 11:57:04.14
初心者講座になってしまったか。
>投馬国と邪馬台国の記述さえ省いて考えれば、
て・きみ。
その手法で海路の記述さえ省いて考えれば、
女王国は朝鮮半島で間違いないわなー。
>>785 女王国=畿内は99%ありえません。
まずこれを前提として話を進めていくべきだと思います。
女王国=邪馬台国ですよ。
788 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 16:07:23.88
自分は九州説だが、先に枠にはめないほうがいいと思うなあ。
前提となる情報と、論理からなるルールで推論した結果、
九州になるか畿内になるかがきまるのではないかと。
推論は自分の思い通りに論を組み立てていくことではない。
ルールに沿って組み立てていくから、期待したことと逆になることは
良くあるもんだ。
ドラえもんより
「つまり、犯人は僕以外にありえない」
「なにをいわせるんだっ!!」
789 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 16:35:43.15
>>780 >伊都国からの放射式だのあまりにご都合主義じゃありませんかw
>そのような読み方が他の中国の文献に存在してるなど聞いたこともありませんが。
君が勉強していないだけだよ。文献史学者の間では、放射説の方が有力だ。
もちろん、中国史書には放射式の記述がいくつもある。
790 :
筑紫次郎:2011/10/28(金) 17:34:27.61
>文献史学者の間では、放射説の方が有力だ。
もちろん、中国史書には放射式の記述がいくつもある。
郡起点のトンデモよりは遙かにまとも。
しかし
邪馬台国まで間違いなく案内するには直列式でしょう。
私には
放射式の記述する理由があるとは思えません。
連続式では主要国をまんべんなく記述できない
>連続式では主要国をまんべんなく記述できない
主要国て何?
それを記載するのに何の意味があるの?
倭人伝の目的は邪馬台国の紹介じゃなくて、倭国の紹介だよ
794 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 18:50:37.40
この手の論議は、
どういう前提としての情報(資料)を取り上げて、
どういう論理で答えを導き出すかに興味がある。
その過程を得ない、結論の連呼にはあまり興味がない。
前提と論理がしっかり書かれていれば、
だれでも同じ結論を導き出せるものだ。
そのうえで、俺は別の前提を採用するとか、
私はこの論理を適用するとかの議論になるのだ。
で、主要国とはどの国?
この場合は前半の8カ国の意味
対馬国、一大国、末盧国、奴国。不弥国、投馬国
は単に邪馬台国への途中にあったんじゃないの?
伊都国は主要国で途中にあった特別な国だろうけと。
798 :
無免許やくざ医師:2011/10/28(金) 19:06:46.75
天才の「おくる言葉」
邪馬台国問題を極論すれば、日本の歴史の根幹をなすものであり、
日本国の揺籃と黎明を決する問題でもある。
日本の古代史空間には大和至上心理というものがあって、
大和の揺籃も黎明も大和にあったことにしたいとする人がいる。
そうした意識の根底には、漠然とした増上慢心理と、
創作された熊襲・隼人・土蜘蛛といった社会部族に対する差別意識や嫌悪感が潜む。
これらが九州を含む地方蔑視へと膨張し、当人が意識するとしないにかかわらず、
古代の真相を見ることよりも真相から遠ざかろうとする。
かくして、「邪馬台国畿内説」という倒錯歴史を積極的に支持することになる。
そこには、『古事記』『日本書紀』が書き記した「神武の東征」という事象は認めず、
服わぬ社会部族として描かれた熊襲・隼人・土蜘蛛の存在は信じるという身勝手な心理が覗く。
対して「邪馬台国九州説」というものが存在するが、こちらについては多くを語る必要はない。
(極めて少数ながら純粋に古代の真相を探求しようという人がみられるが)、
多くは、「身びいき・郷土びいき」という純朴な幼児性によって成り立っている。
そう、両者ともに単に感情的古代史論を叫んでいるにすぎないのである。
その根底にあるものが、主義・思想といった高尚な意識とは無縁の感情であるだけに、
理屈や論理で説得することは到底不可能である。
このように、わが日本国の古代史は、冷静かつ客観的な史観によらず、
極めて個人的な感情の集合体によって翻弄され続けているのである。
こうした人びとを沈黙させる歴史的事実か歴史資料が登場しないかぎり、
「矮小なエゴに支配された感情的古代史論」は互いに譲らない。
ここは、底の浅い我の張り合いと「衒学広場」としての側面だけが膨らむ傾向にある。
まあ、そう言うのもあるがよ大和民族の中原思想は畿内域じゃ無いと困る連中も居るw米中とか
>>798 無免許やくざ医師は
東遷による「万世一系史観」という夢から、覚めたほうがいい。
むり
802 :
反省する猿:2011/10/28(金) 23:39:27.26
自分の説を本にしたりネットで公開したりしている人達は自分と異なる考えを認めたがらないですね。
他人から間違いや論の不備を指摘されると冷静さを失い、自省する代りに相手を罵倒することが多い。
どうも人間には自分で書いた物の欠点は見え難いもののようである。他人から見たらおかしい内容でも
自分で読み返す度に傑作だと思い込んでゆく。
一方では、他人の説にはおかしいところが見えてくる。自分と立場の違う者の説に対してはまるで
あら探しをする目で見てしまう。
つか、題材が古代史だからだろ。何書いても決定的な間違いかどうかはわからん。そこが逃げになってる。
中世民衆史とかやれば一発で知識不足はさらけ出される。
804 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 23:46:43.98
つまり言ったもん勝ちの世界だと…
表面的に言っていることの前提として、自分固有の大前提がある。
この大前提を語らないと、本当はダメなのだと思うが、それは
自覚していないから困難だ。
806 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 00:18:36.25
本当は、論文を書くにせよ本を書くにせよ、
ある前提となる情報を、ある論理で推論した結果こうなった、
という書き方なら、それほど問題なく修正できる。
前提となる情報が変わったから、こういう結論に変わった、と言いやすいからだ。
大抵の論文はそうなっているはずだ。
それを言ったもん勝ちで、反論は許さないという立場では、
どんどんドツボにはまって、痛々しい。
一部には良いものを持っていて、応援してもやりたいのだが、
横から見てはがゆい時がある。
807 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/29(土) 09:16:10.32
やっぱ馬鹿馬鹿しいな邪馬台国論争はw
結局主観的な推測の部分が大きすぎて、たしかな答えなど導き出せないし、
不毛な議論に終止してしまう。マニアが好みそうな分野だ。
歴史を専門にしてる人なら逆に避けるわ。
808 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 09:27:44.65
>>803 東大教授と高卒のアマチュアが横一線でスタートできる研究分野だねw
809 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/29(土) 09:56:42.47
考古学的には畿内説のほうに分があるし、
僕も邪馬台国は畿内だったと思います。
高知集落性の分布状況をみるに、倭国の乱を
九州限定だとするのは無理がある気がするからです。
三角縁神獣鏡も国産だとしても配布元となってるのが
畿内ですしやはり重要視すべきではないでしょうか。
>>809 >高知集落性の分布状況をみるに、倭国の乱を
九州限定だとするのは無理がある気がするからです
高知集落性を倭国の乱と結びつけなければなない根拠は無い。
>三角縁神獣鏡も国産だとしても配布元となってるのが
鏡の配布がよく問題になるが
魏が卑弥呼に鏡を与えたのは配布するためではない。
卑弥呼に対する
間違った予断と先入観念がある。
もっとも
間違っているとは言え
名古屋大文学部1年生の信じたい願望を
無理に否定するつもりはさらさらありません、
811 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/29(土) 11:01:15.84
当時の倭王がいた都がどこか?という観点でみれば
やはり畿内でしょう。邪馬台国はヤマト国でいいと思います。
庄内式土器の分布も関東から九州までと広範囲に渡ってるのに、
倭国=九州 とするのは無理がある気がいたします。
2世紀前半までならそれでも通用したかもしれませんが。
あとは魏志倭人伝との整合性をどうするかという点です。
残念ながら普通に読めばどう転んでも畿内説は無理があるんですよねw
しかし邪馬台国が畿内だとすればどこかに矛盾点があるはずです。
当時の中国人の日本に対する地理認識が誤っていたとか、
邪馬台国への道程は伝聞による曖昧なものだったとか
結局推論部分が大きくなりすぎるので不毛な作業になってしまいますがw
>当時の中国人の日本に対する地理認識が誤っていたとか、
何度も倭へ来ているのだから考えられません
>邪馬台国への道程は伝聞による曖昧なものだったとか
陳寿で検索すれば
よく調べて正確に書いた文書だと判るはずです。
>結局推論部分が大きくなりすぎるので不毛な作業になってしまいますがw
ただ単に
倭人伝を正しく読めてないだけの話でしょう。
813 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/29(土) 11:32:27.50
正しく読めれば邪馬台国問題などとっくに解決してるでしょう。
結局九州説とるなら、放射説か、帯方郡からの総日程説を
使わざるをえないし、畿内説をとるなら南の中に東が含まれる説を
とるか、もしくは、投馬国、邪馬台国の日程のみ連続してない別航路だと
仮定するしかないでしょ。いずれにせよ無理がありすぎるw
814 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 11:44:20.94
隋書三月行実測距離240キロより、一月行を80キロ前後と換算
周髀算経による短里77m採用
以上で全て矛盾なく行程をたどることができる。
>>813 金印が出てきた場所を、さっぱり記憶できないのが、畿内説の特徴。
考古学的にみて、畿内が3世紀に九州を制圧していた状況など、100%無い。
>>813 >正しく読めれば邪馬台国問題などとっくに解決してるでしょう。
違う方角へ進んで正しく読めるはずもない。
>結局九州説とるなら、放射説か、帯方郡からの総日程説を使わざるをえないし
読み方が間違ったてるから。
>投馬国、邪馬台国の日程のみ連続してない別航路だと仮定するしかないでしょ。
いずれにせよ無理がありすぎるw
読み方が間違ったてるから。
817 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 13:17:12.01
すでに、無理も矛盾もない読み方はある。
読みたくないだけで。
818 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 13:25:31.81
>>817 うん、無理矛盾なくなんて読みたくないな。
太平洋に落ちちまうからなw
>すでに、無理も矛盾もない読み方はある。
読みたくないだけで。
水行郡からなんてのはノーサンキュー。
矛盾を増やすだけだから。
820 :
◇:2011/10/29(土) 17:20:57.79
高地性集落だけでは倭国大乱を説明できない。
海辺は先の大津波の例もあるし、平地の河川などは氾濫もするから一時的に高台に
居住したのかもしれない。
せめて、「頭蓋骨のない遺体」であるとか「鏃の刺さった遺体」など戦闘の痕跡
みたいなものがでないかぎり、近畿・中国などは当時倭国ではなく、人少なく
開発されていない僻地でしかない。
邪馬台国の痕跡も無い。
>>813 > 無理がありすぎる
邪馬台国までの日数は「実際にかかった日数の記録」を引き写したものでしょう。
無理なく九州内に収まりますよ。
822 :
筑紫の民:2011/10/29(土) 21:08:34.21
神籠石の話
杷木神籠石・女山神籠石・高良山神籠石・帯隈山神籠石これらの共通点
@ 筑後川を制する要点に築城されている。
A 列石の規模・水を蓄えることができる・遠くを通史できるなどほぼ同じ遺構
B 筑後平野に存在(大宰府の南側)
上記から築城目的として見積られるのは
ア 筑後川を溯上して攻め込む敵の監視
イ 筑後川を溯上して攻め込む敵を撃破するための戦闘指揮所
ウ 上記任務達成のための防御戦闘
では、これら神籠石山城が守ろうとしたものは(つづく)
823 :
筑紫の民:2011/10/29(土) 21:09:15.90
杷木神籠石・女山神籠石・高良山神籠石・帯隈山神籠石が守ろうとしたもの
@ やはり、大宰府(当時は何とよばれていたかは不明)
A 日田盆地(杷木神籠石の位置関係からすると可能性がある。)
神籠石の築城年代
今のところ不明、であるが、
ア 大宰府の防衛施設である水城の築造年代が「白村江の戦い」以前であること
イ 「C14によれば3世紀築城され爾後逐次補強された可能性がある」ということ
をふまえれば、3〜6世紀の間
なんだか、倭の五王の時代に合ってくる。(この辺はまだ推測)
倭の五王は
「昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。」
防御機能に守られた筑紫(大宰府)で戦闘指導しつつ時に戦場に赴いたのかな?
824 :
筑紫の民:2011/10/29(土) 21:10:25.39
杷木神籠石・女山神籠石・高良山神籠石・帯隈山神籠石が守ろうとしたもの
@ やはり、大宰府(当時は何とよばれていたかは不明)
A 日田盆地(杷木神籠石の位置関係からすると可能性がある。)
神籠石の築城年代
今のところ不明、であるが、
ア 大宰府の防衛施設である水城の築造年代が「白村江の戦い」以前であること
イ 「C14によれば3世紀築城され爾後逐次補強された可能性がある」ということ
をふまえれば、3〜6世紀の間
なんだか、倭の五王の時代に合ってくる。(この辺はまだ推測)
倭の五王は
「昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。」
防御機能に守られた筑紫(大宰府)で戦闘指導しつつ時に戦場に赴いたのかな?
もしも、神籠石山城が日田盆地を守っていたのなら・・・
日田は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」出土地だから、やっぱり何かあったのかね?
「大宰府」が戦闘指揮所「日田」は倭の五王時代の王都・・・この辺は<ゴミクズレベル>の憶測
825 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 21:58:15.85
高良山を下から見上げると、血の匂いがする。
あれほど戦いを意識した場所はない。
明らかに威嚇している。
高良山を制するものは、筑紫平野を制する。
>>822-824 卑弥呼や壱与の後は、倭国が軍国化して、663年の白村江まで
「極東三百年戦争時代」へと突入するから、当然じゃない?
827 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/30(日) 01:45:11.69
やはりこの問題深入りするのは果てしなく危険ですねw
あまり邪馬台国問題については詳しくありませんが、魏志倭人伝を読むに、
伊都国は女王国に統属すると書かれてるので、これ言いかえれば
伊都国は女王国に属しているので、伊都国も女王国の一部ってことでしょ。
これにより万二千里余もすでに伊都国までで達成してるということです。
高木彬光さんだったか誰かが言ってた「余」を加えることで万二千里余くらいには
なるでしょう。あとは投馬国、邪馬台国の記述は伝聞でしょう。
遠いので里数表記できず、日数表記になってますし、女王国より北にある地域は
里数表記可能だとも書かれてますから、やはり遠くにあったと考えるべきです。
それに北九州内に収めたいなら里数で表記できるはずです。
方角のずれは会稽の東に倭国があったと考えてたようですし、
明代の地図によれば中国人の日本に対する地理認識は90度ばかりずれてたようですし、
畿内まで南と考えられててなんら問題ないでしょう。旁国で列挙されてる国も
全部九州内に収めるのは無理がある気がしますね。遠いから記述できないと
書かれてるのに、全部九州内にもってこようとするのは。
以上のことから僕は畿内説を支持しますよ。
半島だよ
>伊都国は女王国に属しているので、伊都国も女王国の一部ってことでしょ。
統属しているから、伊都国は女王国の一部にはなりえません。
>これにより万二千里余もすでに伊都国までで達成してるということです。
統属の解釈が間違っているからです。
伊都国までは一万五百里。
>高木彬光さんだったか誰かが言ってた「余」を加えることで万二千里余くらいには
なるでしょう。
「余」を加えるとしても伊都国までは一万五百余里です。
万二千里余になることはありません。
>あとは投馬国、邪馬台国の記述は伝聞でしょう。
危険を冒して渡海し
魏帝の命を受けてはるばる倭へ来たのに
勅使は邪馬台国まで行かずに金印詔書を授けたんかいな。
トンデモ学生がまた一人誕生した訳だ。
太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔
>明代の地図によれば中国人の日本に対する地理認識は90度ばかりずれてたようですし、
畿内まで南と考えられててなんら問題ないでしょう。
脳内妄想満開。
>僕は畿内説を支持しますよ。
お好きにどうぞ。
830 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 02:25:37.33
邪馬壹
>>827 う〜ん、倭人の国は、道路が藪に隠れている状況だよ。
陸を行ったら一日に何キロも進まない。
陸伝いに海を進めば、超、遠回りで、またまた進まない。
しかも、君が遠いと言ってる距離の単位が、
実際は6分の1しかないよ。畿内まで全然たどり着かないよ。
論理をバーンと飛び越えて、飛躍的に畿内説支持っていうのは、
名大生にしちゃ、熟慮が足りないんじゃないかな?
832 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/30(日) 02:37:20.85
ちなみにこないだ、うちのクラスの教授にも邪馬台国はどこか
聞いてみましたが、畿内ヤマトで間違いないとのことでした。
最も教授も学生時代は九州説支持派だったようですがw
専門家になってからはもう畿内で決まりみたいな言い回しでしたよ。
プロが畿内だと言ってるのに、素人やアマチュアが九州だと
叫んでもねw餅は餅屋でこういうのは専門家に任せておけばいいんです。
833 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 02:42:39.37
ああ、もう思考放棄しちゃったか。
早かったな。
馬鹿教授
>>827 > 伊都国は女王国に統属すると書かれてるので、これ言いかえれば
> 伊都国は女王国に属しているので、伊都国も女王国の一部ってことでしょ。
「A統属B」はAが独立性をもちながらBの指示系統に属するってニュアンスですから
女王国の一部とは(逆に)うけとれませんよ。
> 遠いので里数表記できず、日数表記になってますし、女王国より北にある地域は
> 里数表記可能だとも書かれてますから、やはり遠くにあったと考えるべきです。
表記の違いは原資料の記録者の違いによるのでしょう。
伊都国には郡使が常駐していたのだから里数。邪馬台国までは魏使の記録によるもの。
距離ではなく通交頻度によるものでしょう。
> それに北九州内に収めたいなら里数で表記できるはずです。
> 方角のずれは会稽の東に倭国があったと考えてたようですし、
北九州じゃなければOKですか? 会稽(紹興)の東なら九州でしょ。
> 旁国で列挙されてる国も全部九州内に収めるのは無理がある気がしますね。
吉野ヶ里は旧神埼郡程のクニの拠点集落でしょ。そんなクニが30ならじゅうぶん収まるよ。
> 明代の地図によれば中国人の日本に対する地理認識は90度ばかりずれてたようですし、
> 畿内まで南と考えられててなんら問題ないでしょう。
魏使は、東に向かっているのに先入観で南に向かっていると思い込んでた、というわけ?
yamaichi ha
yamato no
pasiri
>>832 専門家じゃなくて、畿内説で職にありついている利権側の人でしょ?
名古屋大学では、奈良県で鮑が取れると教えてるのかな?
名古屋大学では、絹と鏃は圧倒的に九州で出ることを、教わらないのかな?
名古屋大学では、金印が畿内で出たと教えているのかな?
yamato no pasiri
>>832 >最も教授も学生時代は九州説支持派だったようですがw
〔はしか〕みたいなもんです
841 :
サガミハラハラ:2011/10/30(日) 07:38:29.56
>>832 学界の人が畿内説を支持するのは、学問上というよりも保身のためです。
>>832 >うちのクラスの教授にも邪馬台国はどこか
聞いてみましたが、畿内ヤマトで間違いないとのことでした。
倭人伝もまともに読めない教授ということです。
>プロが畿内だと言ってるのに、素人やアマチュアが九州だと
叫んでもねw餅は餅屋でこういうのは専門家に任せておけばいいんです。
謝銘仁【中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】は
九州説です。
倭人伝もまともに読めない教授が畿内だと叫んでもねw
餅は餅屋でこういうのは中国の専門家に任せておけばいいんです。
>畿内説は、都合の良い仮説を立てて、完璧に否定されるまではそれを言い張る。論理破綻したあとは
知らん顔、というのが常道となっている。
放射性炭素、年輪、桃の種
など全て同じパターン。
844 :
筑紫の民:2011/10/30(日) 08:57:07.21
>>832 >ちなみにこないだ、うちのクラスの教授にも邪馬台国はどこか
>聞いてみましたが、畿内ヤマトで間違いないとのことでした。
「だって、先生が言うとったもん、間違いにゃ〜よ。」だって。
名古屋大学の1年生は<ドツボ>タイプだな。
世の中には、
ウィキペディアで調べたり、大学の教授に質問したりしても、
正解が得られないことがある。
これを知ることが、学問の第一歩だ。
846 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/30(日) 09:12:01.96
えらい叩かれようですねw
知り合いの学芸員の方にも話を伺ったところ、彼も畿内で間違いないと
おっしゃってましたよ。プロに素人がたてついちゃいけませんやw
プロ野球チームに草野球のチームが勝てるわけないでしょ。
今時九州説など言ってるのは高島とかいう、九州の研究者と、関裕二とか
うさんくさい作家くらいでしょうにw
それに教授や学芸員等の専門家のみなさんほど邪馬台国問題については
タッチしたがらない印象を持ちました。やはり推論部分が大きくなるので
専門家の立場としてはコメントしづらいみたいです。
つまり邪馬台国問題など進んでタッチしたがるのは素人マニア丸出しですw
つーか世に?受け入れられない人たちが2chにいるんだよ
>知り合いの学芸員の方にも話を伺ったところ、彼も畿内で間違いないと
おっしゃってましたよ。プロに素人がたてついちゃいけませんやw
詐欺師畿内説の化けの皮が剥がれるのも、もう間もなくでしょう。
849 :
筑紫の民:2011/10/30(日) 09:41:27.14
>>846 こんにちは、ド・ツ・ボ君
>知り合いの学芸員の方にも話を伺ったところ、彼も畿内で間違いないと
>おっしゃってましたよ。
なんて言ってた?△鏡のことか?ハシハカ・マキムク・ももの種か?
>プロに素人がたてついちゃいけませんやw
>プロ野球チームに草野球のチームが勝てるわけないでしょ。
何のプロだい?土掘って見つけたものを無理やり邪馬台国と結び付ける
能力が<プロ>かい?
>それに教授や学芸員等の専門家のみなさんほど邪馬台国問題については
>タッチしたがらない印象を持ちました。やはり推論部分が大きくなるので
>専門家の立場としてはコメントしづらいみたいです。
「畿内説」と言いながら実際は「わからにゃ〜よ。」ってか?
ほら<ド・ツ・ボ>にはまった・
>つまり邪馬台国問題など進んでタッチしたがるのは素人マニア丸出しですw
そうだよ、みんな素人さ、百も承知さ。
その素人に<プロ野球顔負けのプロ>である畿内説の先生が叩きのめされているのが
現状さ。
850 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 10:29:57.35
名古屋の弩壺君は【やまドン】に逃げてった
851 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/30(日) 10:43:08.14
そりゃ僕も魏志倭人伝だけみれば、九州説のほうがやや有利だと思いますよ。
投馬国と邪馬台国の行程さえなければ九州で決まりでしょう。
しかし考古学的に見れば畿内のほうに分がありますし、やはり伊都国から
邪馬台国まで約1500里で、水行陸行合わせて60日もかかるのは
当時の交通網が整備されてない状況でも長すぎるでしょう。
1里を何mにするかとかいう問題も当然あるのは知ってますが、
そういうのを差し引いて総合的に見ても整合性を欠きますね。
かろうじて郡からの総日程ならまだつじつまが合いますが、そういう読み方も
かなりご都合主義ですし。
ふと思ったのですが、水行陸行合わせて2か月もかかったということはどこかで
食料の補給をしなければそれだけの旅はできないわけで、当時の船など
粗末なものでしょうし、そんなに食料も積みこめないはずですよね?
水行なら陸伝いに進んで、必ずどこかの集落で食料の補給を受けたはずです。
なのに投馬国や邪馬台国に至る行程が大ざっぱ過ぎてその途中に
立ち寄ったであろう、国の情報が全く書かれていないじゃないですか。
つまりやはりこれは伝聞によるものでしょう。この点も九州説では弱い点です。
852 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 10:54:23.65
いや中国の慣行を考えれば魏使は大船、数百人規模の大人数で来たと思うよ。
実際に帯方郡には船はあった。
倭船に乗り換えることはしたくなかったろうから、進めるとこまで自分らの船で
進んだと思う。食料はできる限り積んで来ただろうが、補給はあったかもしれない。
魏使一行は準軍事行動で素早く進行したと思われる。
それから魏使の行程がそのまま倭人伝に書かれているという根拠はどこにもない。
伊都国に駐在していた郡使や大陸に来た倭使からの聞き取りなど多様な情報が
混じってると思ったほうがいい。
854 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 10:57:11.17
>当時の交通網が整備されてない状況でも長すぎるでしょう。
別に長すぎないでしょう。そんな時間はゆっくり観光とか停泊とか道間違い
で迂回したとか病人が出たとかの遅延で長いわけで、妥当な時間ですね。
855 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 10:58:45.20
>なのに投馬国や邪馬台国に至る行程が大ざっぱ過ぎてその途中に
>立ち寄ったであろう、国の情報が全く書かれていないじゃないですか。
>つまりやはりこれは伝聞によるものでしょう。この点も九州説では弱い点です。
つまり、記載されている日数は、実際に掛かった距離を反映していないということです。
実際には細かく補給する必要がない短時間の行程であることを意味しています。
水行一月、陸行一月では、代表的な一日の距離で換算すると、北海道にまで達します。
途中で滞在して、時間を潰すことはいくらでも出来ますが、
それは、日数を距離の目安として使用することを、放棄することを意味します。
一日でいけるところを、一年かけていくこともできるからです。
>投馬国と邪馬台国の行程さえなければ九州で決まりでしょう。
谷を馬鹿なこてとを。
>しかし考古学的に見れば畿内のほうに分がありますし
根拠になるものは皆無。
>邪馬台国まで約1500里で、水行陸行合わせて60日もかかるのは
当時の交通網が整備されてない状況でも長すぎるでしょう。
だから、所要日数しゃないって。
>そういうのを差し引いて総合的に見ても整合性を欠きますね。
>なのに投馬国や邪馬台国に至る行程が大ざっぱ過ぎてその途中に
立ち寄ったであろう、国の情報が全く書かれていないじゃないですか
>つまりやはりこれは伝聞によるものでしょう。この点も九州説では弱い点です。
倭人伝を何一つ理解できないのに色々言っても無意味。
858 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/30(日) 11:48:20.04
さすがは九州説の人が集まるとこだけあって
畿内説を述べたら叩かれまくりですねw
ではお聞きしますが、邪馬台国が九州だとしたらその後どうなったんです?
まさか東遷したとか言うんじゃないですよねw
あとやはり邪馬台国には素人は関わらないほうがいいですよ。
こんなん不毛すぎますから。僕も教授からあんまり深入りしないほうがいいと
釘を刺されましたw
>ではお聞きしますが、邪馬台国が九州だとしたらその後どうなったんです?
邪馬台国の場所が刈れば判りますよ。
>僕も教授からあんまり深入りしないほうがいいと釘を刺されましたw
倭人伝を全く理解できない教授じゃ
関わったら笑いもの。
>>851 つか将来がある人だと思って真面目にレスすれば、
ここは歴史ごっこ、といって悪ければ歴史遊びの場だから。
本来歴史学というのは、ここまではわかった、ここから先はわからないということをはっきりさせていくもので、
まあここまでは間違いないだろうという部分を定説としてじりじりと広げていくものだ。
自分一代である時代のことのほとんどがわかるなんてありえないし、
ここまでやったからあとは次世代にバトンタッチという姿勢がプロの学者。
ここの人たちはアマチュアだから、自分一代で邪馬台国を見つけたぞと主張するのが楽しいのであって、
実際は資料不足がはっきりしている邪馬台国問題の完全な解決など不可能。
たまたま比定地が合ってるということはあるだろうけど。
文献史学で邪馬台国に関する論文が最近はほとんど出ないのもそのため。
これをやっても業績にはならないと考えている人が多いからだ。
考古学者にしても、一般向けの本には邪馬台国の名は出すけれども論文として書くことはまずない。
考古学者は客観的な発掘の調査報告を積み重ねるのが業績だからね。
861 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/30(日) 12:14:05.46
>>860 そうですね。私もプロの歴史の専門家になる気もないですし、
また枠が少なすぎるし無理でしょうw
普通に市役所辺りの公務員か、最悪歴史の教員ってとこですよ。
それでいいです。まだ専攻も決めかねてますが古代史よりも
平安から鎌倉時代あたりの中世史を専攻しようかと思ってます。
文献的にそちらのほうが豊富ですしね。邪馬台国問題はさすがに
私もお遊び程度です。だいたいみなさん、邪馬台国の場所が
九州のどこだかもうおわかりなら早くそこ行って掘ってくればいいでしょw
そうしなきゃ邪馬台国はここだと永久に証明できませんよw
862 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 12:19:43.52
研究者になるために、手っ取り早く業績を積もうとすれば、
邪馬台国関連は良いテーマではありません。
研究されすぎているからです。
過去の研究が莫大すぎて、網羅するのも困難であり、
しかも新たな知見やアイデアが出る余地は殆どありません。
つまり、業績になりません。
過去にあまり注目されていない分野で業績を積み、
研究者として成り立つようになってから、
邪馬台国関連に手をつけてもいいのではないでしょうか。
先生なら多分そういう視点で考えると思います。
某工学部准教授より
863 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 12:45:06.81
>>861 名古屋の弩壺君は本当は【名古屋大学の学生】ではないな。
稚拙な文といろんな書き込みにからむことができない知識・・・
名大学生を語るトンデモ君だな。
>しかも新たな知見やアイデアが出る余地は殆どありません。
倭人伝を素直に読めばよいのに
間違った先入観念、固定観念に捕らわれすぎています。
邪馬台国に深く関わって先入観念、固定観念に捕らわれた人が
倭人伝の謎を解くのは永遠に不可能でしょう。
九州説とは「邪馬台国九州説」だぞ。
魏志倭人伝その他の中国の古書に出ている邪馬台国
ないしは邪馬壱国が九州のどこかにあったという説だから
魏志倭人伝その他を素直に読めばそんなのは当り前で、
じゃ九州のどこだよという話になって議論が始まる。
畿内に「何か」があったのは確実だがその「何か」は中国古書の
邪馬台国ないし邪馬壱国とはなんら関連が見つかっていない。
桃の種が出てきても畿内に桃があったことが分かるだけで、桃の種に
邪馬台国と書いてあるわけではないから邪馬台国とは結びつかない。
昔の中国の文献なんか当てにならないという奴も増えているが
文献を無視するなら当然邪馬台国という語も無視すべきだろう。
邪馬台国を無視すれば「邪馬台国畿内説」とは言えなくなる。
残るはただ「畿内説」。畿内説って何の畿内説だよ?(爆爆爆)
866 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 14:18:02.59
>>861 名古屋大学の名誉のためにそのコテハンは止めなさい。他の名古屋大学生が迷
惑だ。みんなろくに研究もしていないことに生意気なレスをするウマシカ大学
生かと疑われてしまう。
それにここの板は九州説の人達が意見交換をする板で、レスをするからには九
州説の人間だということが前提になっている。九州説と畿内説とを論争したい
のならドン来い板へ行きなさい。
867 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 16:28:28.48
>>841 サガミハラハラ
>学界の人が畿内説を支持するのは、学問上というよりも保身のためです。
まあ学会の人間全てが深く邪馬台国の問題にコミットしているわけでもなく
「なんとなく」の空気に流されている部分はあるのだろうが…
じゃあ九州説に支持できる何があるのだ?と言う話で
結局このサガミハラとかいう奴も何で九州説が今の体たらくなのか根本原因を冷静に分析できない。
自分=九州説が認められないのは学会の政治力学のようなものが原因だとファビョってる『ゴミクズレベル九州説』だったか・・・
もう少しマシだと思ってたんだが
>>861 ホントの史学科の大学生なら漢文もそうだし、変体仮名の古文書読みもそうだし、現代中文も
取れるなら取ったほうがいい。学芸員の資格はむろん、教員免許取るなら教育実習も入ってくるし、
やることはいっぱいある。2chで遊んでる廃人の仲間入りすることはないよ。
>>861のように判断力もないくせにひとにはいっぱしの難癖つける
こういうゴミが教員になったらろくなことはない。
ゴミ箱行きが妥当なところ。
870 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 19:58:28.28
>>868 お前もな。2ちゃんねる覗いている同程度の人間だものな。
俺の友達の名大出身者は、もっと頭がいいけどなあ〜。
「せんせーがこういったから、正しいです」なんて池沼は
一人もいないぞ。
>「せんせーがこういったから、正しいです」なんて池沼は一人もいないぞ。
やっと大学生になったばかりだから大目に見たいが、これは少し拙かったな。
判断能力の無い小学生レベルだ。
大学1年生に現実を突きつけられてフォビョる九州説哀れwwwwwwwwwwwwwwww
こんどは小学生レベル以下のバカが出てきたぞ。
詐欺がばれると、野次や怒号で誤魔化すのが畿内説
なんか画期的な発見でもないと、邪馬臺国論争も今後発展しないかもな。
親魏倭王金印とか、九州王朝の史書とか
大学1年生に現実を突きつけられてフォビョる九州説哀れwwwwwwwwwwwwwwww
878 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/31(月) 09:19:18.41
いや、僕はまだ稚拙ですが名大生です。邪馬台国関連の知識の少なさは
たしかに否めません。まあそのへんはまだ年齢的にここにいいる皆さんとは
差があるので大目に見てやってくださいw
で稚拙な僕の考えとしては、やはり文献と考古学両面から見て整合性を
判断しないといけないと思うのです。九州説は文献のみで考古学を
無視しすぎです。2世紀後半における巻向の勃興と、庄内式土器の全国展開、
3世紀から近畿で始まった古墳文化の伝搬等々みるにやはり倭国を
九州限定としてとらえる見方は無理がある気がするのです。
魏志倭人伝の文献面からは九州の描写が多いので九州説が有利かもしれません。
しかし、投馬国と邪馬台国の行程の記述をよく見てください。
南の「かた」や、七万戸「可」有といったように不弥国までの記述に
比べ明らかに曖昧な表現を用いています。かつ日数表記ですし、
前にも言いましたがこれはやはり伝聞の可能性が高いです。
ゆえに方角も南か東かもよく把握しきれていなかったんでしょう。
それだけ投馬国と邪馬台国は遠くにあったということです。
まずこれらのことを考慮すれば邪馬台国に関しましては九州より畿内に
あったとする説に分がある気がいたします。
879 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/31(月) 10:13:29.12
あとは、魏志倭人伝との矛盾点をいかに少なくするかですが、
ここで記紀を見るに神功皇后が卑弥呼だと暗に述べてる節があるので、
神功皇后というのは卑弥呼をモデルにした可能性が多分にあります。
そう考えると、神功皇后の熊襲征伐=卑弥呼の狗奴国征伐 だったのでは
ないかと。卑弥呼は筑紫あたりに長期間滞在し、狗奴国と戦ったと。
また九州にいたほうが、中国側と連絡もとりやすいメリットもあるでしょうし。
筑紫あたりなら女王国まで万二千余里にも合致しますし、
女王国の東に海もあります。これを九州説の人は邪馬台国は九州だと
勘違いしてるだけなのではないかと。推論部分が多すぎますが一つの可能性として
ありえない話ではないかとw
880 :
サガミハラハラ:2011/10/31(月) 10:28:52.40
倭人伝の行程については、不ミ国までの記述と以降の記述に違いがみられます。
不ミ国までは、里数ぬよる記載なのに、以降は日数となっています。この理由ですが、簡単にいうと、陳寿は編纂時、倭にかんする資料をいろいろ集めてそれを組みあわせて倭人伝を書いたわけです。
ですから不ミ国を境にして違った資料をくみあわせていたのです。
このようになったわけは、卑弥呼による遷都があげられます。
卑弥呼は230年から240年代にかけて、東方の吉野ケ里から西の小城甘木に遷都したわけです。
ですから、里数でかかれた行程記事には吉野ケ里までの行程が里数でかかれていたのです。
しかし、陳寿もバカではありません。遷都していたことに気付き、不ミ国行こうについては別の資料をもとにして記事をかいたのです。
それが、日数による史料だったわけです。
もちろんそれは、伝聞による資料だったわけです。
実は魏使(郡使)は、里数による測量はしていなかったのです。
里数による測量は漢の時代におかなわれたものでしょう。漢の西域などの国々にはくわしい里数が書かれていますから。
881 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/31(月) 10:35:52.25
>>880 サガミハラさんの言う小城というところが邪馬台国だとしたら
水行10日陸行1月はどう説明されます?いくらなんでも不弥国から
近すぎやしませんか?あと七万戸もの人口を小城というところで
まかないきれるのでしょうか?また不弥国と邪馬台国の間にある
投馬国はどこなのです?
882 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 10:42:09.54
>まずこれらのことを考慮すれば邪馬台国に関しましては九州より畿内に
あったとする説に分がある気がいたします。
伝聞はあるだろう。しかし不充分ながら女王国への道程など詳しい状況が
みられることから、そんなあいまいばかりではない。
はっきり言って記紀の卑弥呼の記載は(倭人伝の借り物の神功39年等の記事は
別として)、記紀原書のものかららしい記事はまるでない。
このことは原書のほうに卑弥呼の情報がなかったことを物語っている。という
ことは畿内に卑弥呼とその国は存在しなかったと観るべきである。つまり
彼女の国は畿内でない九州と考えるのが相当である。
神功を卑弥呼のモデルと考えるのは相当ではない。神功紀にはかなり年月日の
ある記事の見られることから、これは各地の神功の多大な伝承等が残存して
ることから、創作とは言えない。なお彼女と卑弥呼は別の時代の人物であり、
それを紀の編者が神功が卑弥呼に想えて、神功紀に倭人伝の借用記事を載せ
たということであるのだ。
883 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/31(月) 10:56:50.59
>>882 太国さん、原書のほうに卑弥呼の情報はなかったのではなく、
あったのに隠した可能性は考えられませんか?
記紀が成立した当時の情勢から、日本が中国側に朝貢し属国になっていたという
事実があってはまずいと考えて隠ぺいしたのではないでしょうか?
884 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 11:09:02.56
これから外出なので、簡単に・・・。質問は書きこんでおいて下さい。
それじゃぁ、こちらが属国だと書けばいいでしょう。大陸も属国扱いにして
たんなら、隠すことはないわけで、こちらが属国だと書けばいいことです。
隠すなどは探偵小説のやり方でしょうがね。
885 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 11:16:56.46
景初二年は間違いなかとよね?
886 :
名古屋大文学部1年生:2011/10/31(月) 11:26:45.77
いえいえ、僕もそろそろ外出しますので。
では軽い質問だけしておきますと、魏の使者は卑弥呼に
直接親魏倭王の金印を渡しているのでしょうか?
難升米らに渡してそれで済ませてしまったら、
難升米らが仮に裏切ったら卑弥呼の元に金印が渡りませんよね。
なので直接会った可能性のほうが高いと思うのですがいかがお考えでしょうか?
887 :
サガミハラハラ:2011/10/31(月) 14:16:28.88
>>881 水行十日陸行二十日は、郡から邪馬台国の都までの総日数とみます。
投馬国は邪馬台国と不ミ国の間ではなく、不ミ国から出航して二十日とみます。場所は宮崎県です。
邪馬台国の都と不ミ国はほとんど接しています。不ミ国のすぐ南が邪馬台国の都です。
不ミ国は非主流国なので、ほとんど独立性がなく、そのために都をその南におくことができたのです。
戸数の7万は倭国(邪馬台国が宗主)王の支配下の国でしょう。都の人口ではありません。
888 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 14:23:53.06
>魏の使者は卑弥呼に 直接親魏倭王の金印を渡しているのでしょうか?
難升米らに渡してそれで済ませてしまったら、
難升米らが仮に裏切ったら卑弥呼の元に金印が渡りませんよね。
なので直接会った可能性のほうが高いと思うのですがいかがお考えでしょうか?
さぁ〜? これは決められませんよ。
889 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 17:58:49.97
>名古屋大文学部1年生
言っていることは正論と言うかごく現実の話だがwwwwwww
このスレは九州説前提のスレなんでその主張はスレ違いだな。
「〜終止符」スレとか「ドンと来い」スレでやるべき内容。
まあこのスレで続けるにしても他のスレに移るにしても一つだけ認識しておいた方がいいのは
この2ちゃんの日本史板の邪馬台国関連スレにおける九州説と言うのは
7〜8割(あるいは9割以上?)がその中身が
「邪馬台国東遷説」や「九州王朝説」と言うゲテモノだと言うことだ。
この事は認識しておいた方が良い。
890 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 18:55:14.63
九州年号は多大に出ている。否定論者は妄想連。
踊る阿呆に踊らぬ阿呆〜か。
妄想踊りもいずれ先が見えている。
891 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 19:05:54.34
中国=大和朝廷
葦原なんたらかんたら
893 :
サガミハラハラ:2011/10/31(月) 19:38:13.96
わたしは、九州王朝は邪馬台国がほろんだ4世紀初頭あたりまでとみています。
もちろん白村江まであったとは思っていません。
894 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 21:48:26.32
九州王朝は文武の世のあたりで滅亡した。
継体 の年号があるので継体天皇の代ころにはまだ九州王朝あったことは
確実視できる。つまりサガミハラハラ氏の4世紀初頭の主張は間違いと
観てよい。もちろん宿主のこれに関する言い分も、このことからデタラメ
なのである。
俺は別に「九州王朝」とは言わないが、(継体〜大化、517〜700年)間に
列島の広範囲で元号を使わせていた九州の政権があったことは間違いないだろう。
896 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 22:23:16.64
畿内の年号と大化以降何度か途切れ、安定するのは大宝以降。
ちょうどこの直前に九州年号は途切れる。
ここで九州が畿内に東遷という説は取らないが、
九州の年号を扱う文官が畿内に
スカウトされてもいいのではないかと思う。
>>894 犬国
つうかだな、その九州年号で邪馬台国の時代に届くのか?
何処のスレでも倍歴だのマヤだの年号だの言うことが同じ。
邪馬台国スレならそれに関連して話せボケ。
898 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/31(月) 23:29:18.81
>>895 >列島の広範囲で元号を使わせていた九州の政権があったことは間違いないだろう。
九州を中心として、播磨以西の西日本で元号を使わせていた九州の政権があったことは間違いない。
899 :
筑紫次郎:2011/10/31(月) 23:37:41.19
@狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里だから
百里は5〜10qの間として考えます。
A邪馬台国のことを述べた行程記事で一番大切なことは
邪馬台国まで間違いなく案内することだから傍線行程などはなく全て順次式で読みます。
B伊都国〜奴国〜不弥国が百里しかないことからも推定できるように
一つの国は山を越えて広がるような大きなものではありませんでした。
C戸は家族ではなく住む家のことです。
そしで有屋室父母兄弟臥息異處から家には一人で住んでいたと解釈します。
だから例えば二万戸と言うのは二万人+αのことです。
D自女王国以北其戸数道里可略載とあるから末盧国、伊都国、奴国。不弥国。投馬国は
全て邪馬台国以北であり勅使か邪馬台国への途中に通過した国です。
E其餘旁國遠絶不可得詳とあるから勅使はそれ以外の国へは一国たりとも行っていません。
つまり邪馬台国への行程の途中に他の国は一国たりとも無かったのです。
これらをもとに
倭人伝の方角、距離、人口を満たす国々の配置はあり得るのでしょうか?
偶然に倭人伝の方角、距離、人口を満たす国々の配置がある確率はほぼ0のはずです。
ところが何と
倭人伝の記載通りに進んだ場合に限り
倭人伝の方角、距離、人口を満たす国々の配置があり
しかも
投馬国のあったことになる場所にはツマの名前が残り
邪馬台国があったことになる場所にはヤマトの名が残っている。
偶然を遙かに超えている。
900 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 23:45:06.09
>>898 九州王朝大好き
>九州を中心として、播磨以西の西日本で元号を使わせていた九州の政権があったことは間違いない。
西日本でその年号を記した木簡でもでてるのか?
901 :
卑弥呼の都は久留米:2011/10/31(月) 23:54:21.23
>>900 >西日本でその年号を記した木簡でもでてるのか?
木簡ではなく、その年号を記した寺社の古文書がある。
903 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/01(火) 00:30:57.17
>>899 >@狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里だから
>百里は5〜10qの間として考えます。
その考え方に同意。
>A邪馬台国のことを述べた行程記事で一番大切なことは
>邪馬台国まで間違いなく案内することだから傍線行程などはなく全て順次式で読みます。
数kmしか離れていない目視できる国の城郭(木柵)は枝分かれ国として書かれている。
ex. 伊都國→数km→奴國、不彌國→数km→投馬國 Bを参照
>B伊都国〜奴国〜不弥国が百里しかないことからも推定できるように
>一つの国は山を越えて広がるような大きなものではありませんでした。
同意
>C戸は家族ではなく住む家のことです。
>そしで有屋室父母兄弟臥息異處から家には一人で住んでいたと解釈します。
>だから例えば二万戸と言うのは二万人+αのことです。
同意。しかし異なる点もあり。
「戸」は、支配の単位、生産の単位、戦士の単位。
それに対し「家」は、王・官・領主等と対等な関係、共和国の基礎単位の様なもの。
一大國と不彌國は、共和国の様な体制で、「王・官」と「家」には主従関係がなく、
多数の「家」の中の有力者が、「王・官」である関係。
>D自女王国以北其戸数道里可略載とあるから末盧国、伊都国、奴国。不弥国。投馬国は
>全て邪馬台国以北であり勅使か邪馬台国への途中に通過した国です。
末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国は、勅使が邪馬台国への途中に通過した又は遠望した国々です。
E其餘旁國遠絶不可得詳とあるから勅使はそれ以外の国へは一国たりとも行っていません。
つまり邪馬台国への行程の途中に他の国は一国たりとも無かったのです。
同意
904 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/01(火) 00:49:34.54
>>899 >投馬国のあったことになる場所にはツマの名前が残り
>邪馬台国があったことになる場所にはヤマトの名が残っている。
同意、ツマは投馬国を反映したと考えられる。
邪馬臺國は無かった。あったのは邪馬壹國であった。
邪馬臺國は邪馬大倭國(やまたゐこく)のこと。
大倭(たゐ)は4世紀以降の倭のこと、邪馬臺、邪靡堆、俀のこと。
905 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/01(火) 01:04:40.40
横レスですが
>>902 >其餘旁國遠絶不可得詳も九州内ですか?
其餘旁國遠絶不可得詳は九州島北西部の狭い地域です。
筑紫平野周辺と福岡平野とその周辺の地域です。
遠賀川流域は含まれません。
906 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 01:05:03.26
>其餘旁國遠絶不可得詳も九州内ですか?
対馬国から邪馬台国までの八国以外の倭の国ですから九州内です。
何か問題ありますか?
九州内でないのは國皆倭種、侏儒國、裸国、黒歯国
907 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 01:12:17.41
>数kmしか離れていない目視できる国の城郭(木柵)は枝分かれ国として書かれている。
>「戸」は、支配の単位、生産の単位、戦士の単位。
それに対し「家」は、王・官・領主等と対等な関係、共和国の基礎単位の様なもの。
卑弥呼の都は久留米さんとは見解に相違があります。
私には理解しづらいので卑弥呼の都は久留米さんとの論争は辞退します。
九州説としては応援しています。
>>906 21カ国は以北でなく遠絶であるということは通過した国には接していなかったということですか?
>21カ国は以北でなく遠絶であるということは通過した国には接していなかったということですか?
そんなことは何も書いてないでしょ。
不可得詳です。
>>909 了解です。 九州内をどのように想定しているのか知りたかっただけです。
>>878 > 文献と考古学両面から見て整合性を判断しないといけないと思うのです。
それで、“整合性がない”から「投馬国と邪馬台国の行程の記述」を伝聞ということにしたいのかい?
それって「合理化」なんじゃないのかい?
また、伝聞だと推察する根拠が
1.南の「かた」・・・どこに書いてある?
2.可七萬餘戸・・・七万余戸が正確に把握できるという方がウソくさい。
現地で倭人からの聞き取り調査だとしても、こうした表現になるだろう。
と、稚拙すぎる。
倭人伝からも畿内へ到ると読める、ということを示さなければ邪馬台国畿内説はあり得ない。
>>879 で、今度は「神功皇后が卑弥呼だと暗に述べてる節がある」と記紀を持ち出すってのは、
方法論がうえと180度違うだろ。
ましてや持論について「可能性」のありなしを言うなら、
九州説の文献解釈をどーのこーの言える立ち位置にいないと言ってることになるぞ。
>>905 久留米さん
すいません見落としてました。 北西部ですか?北東部ではなく?
913 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 02:02:02.40
>>899
末盧国は唐津に比定しています。
東南へ向かうには唐津街道のある唐津へ上陸するのが最善だからです。
楽な道ではありませんが草木茂盛行不見前人には一致します。
船で有明海へ向かわなかったのは
玄海の荒波の流れに逆らって三百q以上も進むのを嫌ったからだと思います。
次は奴国を比定します。
伊都国は千戸と少ないので判りづらいのに比べて
奴国は二万戸もあるので遺跡分布図から比定できるからです。
奴国は唐津から六百里(30q〜60q)の場所です。
佐賀平野には東名遺跡と言う西日本で最大級の貝塚遺跡があります。
最大級の貝塚(ゴミ捨て場)があったということは相当な人口があったと言う事を意味しています。
松浦川河口から東名遺跡まで直線距離で35q余り、
現在の道なりで47q程度です。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG これが弥生時代の遺跡分布図です。
東名遺跡を中心として佐賀大和〜吉野ヶ里が最も遺跡が密集しています。
唐津から六百里(30q〜60q)の場所でこれほど人口が密集している場所は他にはありません。
奴国はここ以外には比定できないと考えます。
914 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 02:02:45.19
>>913 奴国の中心地はは東名遺跡から少し北東になる上和泉付近が有力です。
伊都国はそこから直線距離で5.3q余り、現在の幹線道路道なりで8.1q程度の
嘉瀬川沿い都渡城付近。
不弥国は直線距離で5.5q、現在の幹線道路道なりで6.5q程度の
吉野ヶ里遺跡になります。
対馬国+一大国=末盧国(唐津)四千戸とすれば
佐賀大和〜吉野ヶ里の間の人口密集地帯はその五倍の二万戸は妥当だと考えます。
>>900 亀レスだけど、平家物語にも九州元号が出てくるね。「金光元年」
916 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 09:10:36.48
>>887 サガミハラさん、それはいくらなんでもご都合主義すぎやしませんか?w
917 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 09:36:14.66
逸年号でググれば、いくらでも出てきますな。
918 :
サガミハラハラ:2011/11/01(火) 09:38:18.15
いいえもっとも単純にして合理的解釈です。
従来の邪馬台国論争は、ひねりすぎなのですよ。
ひねりすぎてあらぬ方向へとすすんでしまったのです。
原点に帰るべきなのです。
919 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 09:48:32.82
学者の誰も理解できないような合理的解釈はなかろう。
北九州から南へ水行20日で投馬国。水行10日陸行1月で邪馬台国。
それ以外の読み方は不合理ってんだよ。
920 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 09:49:11.01
>>911 いや、考古学的に見てもう当時の都が畿内だったのは動かし難いですよ。
魏志倭人伝をみても会稽の東にあると、日本の位置をずっと南だと
認識してたようですし、末櫨国から伊都国までが本来なら東北のはずなのに
東南と書かれてるところからも地理認識が若干ずれてるのがわかるでしょう。
明代の地図が昔の中国人の地理認識ですよ。なので、倭人伝の通り進めば
邪馬台国は畿内になりますw
921 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 09:57:39.42
>>920 北東方向の糸島伊都国までは、当時陸行できるような道がありません。
標高400m級の峠を通ることになります。
海沿いは波が荒く、岩山がすぐ海まで迫っていて、やはり道がありません。
素直に、南東方向の唐津街道に行きましょう。
唐津街道は一見するとえらく山のようですが、ずっと小城まで谷が続いていて、
一番標高の高いところでも50mほどしかありません。
唐津街道という名前が付いているのは、それなりの理由があるのです。
>>920 >末櫨国から伊都国までが本来なら東北のはずなのに東南と書かれてるところからも
違う方角へ進んで、方角が間違っているとはあまりにも倭人伝を無視した主張。
伊都国が糸島にあった確証はありますか?
教授が言っていると言うのは駄目ですよ。
923 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:09:21.72
>>920 幼いねえ。伊都国は怡土だ、邪馬台国は畿内だという考えが先にあって、
あとは考古学とか当時の中国人の地理感覚とか言ってるだけだ。
924 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:09:44.43
南東に行けるのに行かずに、北東に行って、「南東じゃないから方角が間違いだ」
では、マッチポンプというか自爆というか。
925 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:13:08.30
計測誤差はあるにせよ、
当時の中国人の数学能力をなめないほうがいい。
周髀算経や九章算術に類するものを、中国の高官が理解していたとすれば、
今の高校生並みの数学力は持っている。多分それ以上である。
926 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 10:15:22.93
というのは一つの考え方でありまして、邪馬台国=畿内でも魏志倭人伝との
矛盾点は解消されないのです。女王国まで万二千余里ですからね。
これを松本清張だったかだれかが言ってた説で、遠くにあるという抽象的な
表現を万二千余里と表現したんだというのもやや無理がありますし、
女王国の東に海があるらしいので、畿内では海がありませんからw
普通に読むと邪馬台国は北九州にあるはずなんです。まあ女王国=邪馬台国 と
仮定した上での話ですがね。最初は女王国は筑紫平野のどこかにあったのかも
しれません。その後、巻向の勃興により、そちらに移ったと考えるか、
それがいわゆる神武東遷神話に反映されたのか、日向ではなく筑紫の高千穂に
天孫降臨したと考えて。なので魏志倭人伝ではちぐはぐな記述になってるのか。
やばい、やっぱ資料が少ないので推論部分が多くなりすぎるw
927 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:23:32.01
>>926 これかね?
新唐書倭国伝(抜粋)
そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、
次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、
次は成務、次は仲哀という。
928 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 10:27:48.40
>>927 そのような資料があったのは知りませんでしたw
いやーもう矛盾点を解消するにはそのように考えざるをえないんじゃないですかね?
東遷前と東遷後の記述がごちゃまぜになってるから
矛盾が生じるのだと。
929 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:30:08.16
女王国まで万二千里。つまり、伊都国からは千五百里だ。となれば、それはせいぜい
熊本県あたりだね。それと北九州から水行20日、水行10日陸行1月という距離とが
合わないってことは明白というべきだろう。となれば、女王国=邪馬台国ではない。
邪馬台国までの距離を日数で表したのも正確な里数が分からなかったためと考えるべきだ。
倭人伝に邪馬台国までの里数は表示されていないってことだな。
930 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 10:34:14.26
>>926 こういう所で投稿するにはきみはあまりにも勉強不足だ。
きみが提示している疑問などはぼ既出のものばかりだし、
ただの蒸し返しになっている。稚拙だ。
そのきみの疑問に対して、
誰一人として疑問を解消するほどの説明をできていないことも事実だが。
誰かが俺のサイトをきみに「読め」と紹介していたが、読んでいないらしいな。
今は自分の意見をいうよりも、黙って探求する時期だと思うぞ。ぼくちゃん
ほれ。邪馬台国を基本から勉強するには最高の教科書だ。
きみが相談したという教授にも読むようにいっとけ。
人生観が変わるほどの「まっとうな論説」だ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear
931 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/01(火) 10:36:49.17
>つうかだな、その九州年号で邪馬台国の時代に届くのか?
邪馬台国は九州王朝の始まりだ。ただしウガヤ朝があったとするならこれは別。
>何処のスレでも倍歴だのマヤだの年号だの言うことが同じ。
何がマヤと同じなんだ? 意味不明??
言い出したオマエは邪馬台国スレならそれに関連して話せ ボケ。
932 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/01(火) 10:39:35.73
>九州年号で邪馬台国の時代に届くのか?
卑弥呼が年号を使っていたのは分からんが、継体の年号からして、継体天皇の
代のころは年号を使用していたということだな。
もっとマシなことを聞け ボケ。
933 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 10:40:51.44
いえ、邪馬台国を基本から勉強する気はないんでこのへんでw
答えなど絶対に出ないし時間の無駄になるのはわかってるんでww
934 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 10:41:54.44
>>914 周旋可五千餘里から推定できるように倭の範囲は大きなものではありません。
だから当然、水行陸行も所要日数ではあれません。
水行陸行が所要日数で邪馬台国が広大な領土を持ち、卑弥呼が強大な権力を持っていたと言うのは
予断、潜入観念です。
同様に
水行十日水行二十日陸行一月が到着するための所要日数と言うのも間違いです。
所要日数だとすれば倭地は周旋可五千餘里には収まりません。
【謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】も
「★決して★実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。」
と述べています。
水行陸行の日数はどんな意味を持つのかと言えば、
実はこの記述がさりげなく挿入された倭人伝のキーポイントであり、
倭人伝の謎を解く手掛かりとなるものなのです。
日数は場所問題とは全く関係のない数字なのです。
投馬国、邪馬台国への距離は記載がありません。
距離を記載しなくても邪馬台国の場所は判るし、
距離を記載できない訳(後述)があったので陳寿は記載してないのです。
それでは邪馬台国の場所は特定できないのかと言えば
もちろんそんなことはありません。
餘旁國遠絶不可得詳の文を入れることにより、
不弥国の次にある国が投馬国であり、
投馬国の次にある国が邪馬台国であると陳寿は述べているのです。
935 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:43:04.83
>>929 邪馬台国なんて所詮概念の世界だから、距離なんて存在しないし
それを探そうなんて実に馬鹿げたお話し。
>>933 能力の無い人が関わっても混乱させるだけ。
本人にとっても時間の無駄。
937 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 10:47:47.91
魏志倭人伝だけ見れば、邪馬台国の場所など一目瞭然w
東に海があるんですから宇佐〜大分あたりにあったんでしょうきっと。
井沢元彦氏もたしか逆説の日本史の中で宇佐説を唱えてましたよね。
それが正しいかどうかは知りませんがw
938 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:58:00.33
>周旋可五千餘里から推定できるように倭の範囲は大きなものではありません。
周旋五千里の意味が分かっていないようだな。一周という意味ではない。
巡っていくというだけのこと。五千里といえば、倭人伝の距離からすれば400キロ
ぐらいの話。九州内だってだけのことだよ。
939 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 11:09:11.75
>>920 >地理認識が若干ずれてるのがわかるでしょう。
軍事支援にやってきた軍人が方角を間違えて仕事になるか。
その調査記録をみた歴史家が方角を勝手に書き換えては三流扱いだろ。
きみはそういう「いい加減な仕事」をする人になるのかな。
>女王国まで万二千余里ですからね。
これが、実際距離とは無関係の海路距離1万余里を含む事実と、
魏の公式尺度の6〜6.5倍の尺度で書かれている事実を知らんのだろう。
>女王国の東に海があるらしいので、
>東に海があるんですから宇佐〜大分あたりにあったんでしょうきっと。
邪馬台国(王都エリア)とは書いてないだろ。なぜか。
狗奴国を含む倭地の30ヵ国と書き、
女王に属さない狗奴国を除く28ヵ国を女王国と書いている。
女王国エリアの東であって、邪馬台国の東ではない。
邪馬台国が海岸べりにあった解釈するのはただの直訳だ。
>>933 >時間の無駄になるのはわかってるんでww
有益になるか無駄になんるかは勉強の仕方による。
なにやら自己矛盾を山ほど抱えた学生らいしな。
中国にとってそれまでは伝説か風聞でしかなかった大海の中の倭人と
倭人が住む島の発見は、民族学的・地理学的発見だ。
しかも地理情報は軍事情報に位置づけていた中国だ。
そこで、きみに分かりやすく現代版で質問をするぞ。
総理大臣の命令で初めて訪れる国があったとしょう。
そこに至る「方角・距離・行程・日程」を適当に報告するか?
もう1点。報告の中で、経由地間の距離と日程を書くほかに、
最後には出発地から目的地までの距離と日程を書くだろう。
940 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 11:20:49.04
>軍事支援にやってきた軍人が方角を間違えて仕事になるか。
それ正始元年の魏の使者のことですか?倭人伝のどこに「軍事支援にやってきた」と書かれているのですか?
941 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 11:24:22.73
>>934 >水行十日水行二十日陸行一月が到着するための所要日数と言うのも間違いです。
学生くんにも書いたことだが。
報告の中で、経由地間の距離と日程を書くほかに、
最後には出発地から目的地までの距離と日程を書くだろう。
>所要日数だとすれば倭地は周旋可五千餘里には収まりません。
「周旋」とは何だったかな? すでに決着しているはずだが。
>謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授も
邪馬台国問題に口出しする学者にまともなのはいない。
まともな学者ほど邪馬台国問題はタッチしない。
中国でも同じだ。だいいち日本人よりもヘタな解読してるだろ。
こんな三文学者の言説に依拠した時点でボツだ。
>距離を記載できない訳(後述)
もう何ヵ月も「そこ」が出てこんな。考え中か?
>餘旁國遠絶不可得詳の文を入れることにより、
>不弥国の次にある国が投馬国であり、
「其余旁国遠絶不可得詳」は、
通過しなかったために詳しく記載できない21ヵ国について、
国名羅列で済ませるための「ことわり」の文章で、
投馬国と邪馬台国の文節とは無関係だ。
942 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 11:29:03.25
>>940 >それ正始元年の魏の使者のことですか?
あっちいってろ。
>東に海があるんですから宇佐〜大分あたりにあったんでしょうきっと。
井沢元彦氏もたしか逆説の日本史の中で宇佐説を唱えてましたよね。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺〓去女王四千餘〓
去女王四千餘があるから宇佐ではありません。
南と言う方角とともに有明海沿岸を示唆しています。
944 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 11:31:21.49
僕だったら軍事支援でやってきた他国の軍隊に
自国の詳細な情報など絶対に教えませんからw
そんなことしたら他国が征服欲が芽生えたとしたら
こちらが不利になっちゃうでしょ。曖昧な情報を教えとく程度に
しときますがね。そもそも自国内のもめごとに他国の軍隊を介入させること自体
誤りです。
あとさすがに女王国=邪馬台国 で一応話を進めるべきなのでは?
狗奴国以外の卑弥呼の支配領域が女王国とはとても読めませんしね。女王国より北は
道里や戸数が記載できるが、旁国は記載不可と書いてあるでしょうに。
それに水行10日陸行一月が総日程というのもあまりにご都合主義でしょw
それならまず連続式で投馬国から邪馬台国までの里数を書いたあとに、
郡から邪馬台国までは総日程で何日と書くのが自然ですしね。
945 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 11:34:53.74
>>939 ていせい
狗奴国を含む倭地の30ヵ国と書き、
↓↓↓
狗奴国を含む倭地(30ヵ国をいうとき)を「倭国」と書き、
女王に属さない狗奴国を除く29ヵ国を女王国と書いている。
女王国エリアの東であって、邪馬台国の東ではない。
邪馬台国が海岸べりにあったと解釈するのはただの直訳だ。
946 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 11:37:36.56
>>941 報告の中で、経由地間の距離と日程を書くほかに、
最後には出発地から目的地までの距離と日程を書くだろう。
途中まで詳しく行程説明をしながら、
場所説明を放棄していきなり郡からの位置を書くのか?
私にくだらないレスするなと何度も言ったはずだ。
以後無視する。
良識ある人は
勝手に作った根拠のないでたらめな法則を真に受けないよう切望します、
947 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 11:39:50.01
三角縁神獣鏡や高地性集落からも畿内が都と考えるほうが自然ですよ。
なぜ考古学は無視するのです?先ほども述べたように倭国の大乱前は
九州が主体だったかもしれませんが、大乱後は畿内に中心が移ったと
考えればいいでしょ。
>僕だったら軍事支援でやってきた他国の軍隊に
軍事支援なんかじゃ無い。
949 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 11:47:22.61
>>944 >女王国より北は 道里や戸数が記載できるが、旁国は記載不可と書いてあるでしょうに。
うん。俺のサイトにはことわっているが、
女王国というのは一元的に断定できないものがある。
たとえば、首都東京が邪馬台国で、日本国が女王国。
話の要点としてはエリアの違いがかんじんで、
女王国の東とは邪馬台国の東ではないということだ。
邪馬台国が九州東沿岸にあったわけではない。話は分かったか?
>まず連続式で投馬国から邪馬台国までの里数を書いたあとに、
距離が書いてないふだろう。なのに「女王国以北の国」に組み入れるか?
投馬国へは魏の人間は行っていない。
水行の半分は、里程を知らない倭人による手漕ぎ倭船による日程だ。
>郡から邪馬台国までは総日程で何日と書くのが自然ですしね。
郡から邪馬台国までの総距離は書いたが、
郡から邪馬台国までの行程と日程は抜かしたというのか?
あり得ない半端な報告には違いないな。
950 :
卑弥呼の都は久留米:2011/11/01(火) 11:51:22.02
>>920 >魏志倭人伝をみても会稽の東にあると、日本の位置をずっと南だと認識してたようですし
正しい認識ですよ。
会稽の東は鹿児島県口之島付近。
其道里では、邪馬壹國は大隅海峡の位置になります。
951 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 11:56:42.10
>>949 正直言いまして厳しいでしょw
女王国=日本国 で邪馬台国=東京 だという例えはわかりましたが、
女王国まで万二千余里ですし、そしたら狗那韓国も女王国なんですし
すでにここで万二千余里になってしまいますよw
あと邪馬台国に行く途中に投馬国があるんですし行ってないはずないでしょw
北九州内に邪馬台国があると主張するならなおさらです。
あり得ない報告なのは、連続式で最後までしっかり記載せず、最後の邪馬台国だけ
いきなり総日程で記載するやり方のほうですw
952 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 11:56:50.48
>女王国=邪馬台国 で一応話を進めるべきなのでは?
同じならば表現を変えないはずだろ。違う表現をしたのには、それなりに
意味があるんだよ。
953 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 11:59:41.93
大隅半島とか、あんな大和朝廷の時代になってからでも
辺鄙な田舎扱いのとこに邪馬台国があったとは到底思えませんねw
いやーやっぱり畿内説のほうが優勢ですわw
954 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 11:59:59.02
>女王国まで万二千余里ですし、そしたら狗那韓国も女王国なんですし
>すでにここで万二千余里になってしまいますよw
単純だな。不弥国までは女王国ではないんだよ。
倭国の乱は女王国と北の国とが戦ったんだ。
955 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 12:00:23.64
>>946 >途中まで詳しく行程説明をしながら、
>場所説明を放棄していきなり郡からの位置を書くのか?
途中まで詳しく行程説明をしながら、(実際には距離だけで日程なし)
投馬国と邪馬台国までは今度は距離説明なしで、行程と日程だけで済ますか?
そんなバカげた調査報告があるか。
ところで。
投馬国と邪馬台国まで行程と日程だけで済ませたわけ。
まだ思いつかんのか。(後述)といってから何ヵ月も経過してるぞ。
良識ある人は
勝手に作った根拠のないでたらめな言説を真に受けないよう切望します、
956 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 12:01:02.69
無免許やくざ医師
そのハンネどおりの薮だ。他人が納得できる根拠を示さず「軍事支援にやってきた軍人が方角を間違えて仕事になるか。」
と言っても説得力皆無。
957 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/01(火) 12:03:37.89
>>952 まあそれは僕もそう思ってましたが、一応スタンダードな解釈では
女王国=邪馬台国 なのでそれに合わせて話を進めましたw
まあ東遷前は女王国=北九州 にあり、それをまず中国側が
記述した。その後畿内に東遷後にまた来た時に新しい情報を付け加えた。
もうそれでいいじゃないですかw矛盾点を解消するには
こうしてこじつけるしかありませんよ。馬鹿らしいですがw
始度一海千餘里至對馬 ) (順次式に読む
又南渡一海千?里名曰瀚海至一大國官 (順次式に読む)
又渡一海千?里至末廬國 (順次式に読む)
東南陸行五百里到伊都國 (順次式に読む)
東南至奴國百里 (伊都国起点で放射状に読む)
東行至不彌國百里 (伊都国起点で放射状に読む)
南至投馬國水行二十日 (郡起点でとんでもない場所にある)
南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月 (郡起点でどこにあるのか場所が皆目判らない)
こんな出鱈目な読み方をしなければならない行程記事だとすれば
何の価値も無い。
行程記事ではないからな
960 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 12:13:51.84
>>950 >女王国まで万二千余里ですし、
1万2000余里と書いた倭人伝編纂者が、
1万2000余里を「その程度の距離」と認識していた事実のほうに注目すべきだな。
>そしたら狗那韓国も女王国なんですし
しっかり勉強してから発言したらどうだ。
>あと邪馬台国に行く途中に投馬国があるんですし
それは。文章構成・文法(語順)の違いを無視した、「バカづらさげた続け読み」の産物だ。
中国語に詳しい教授に質問してこい。中国語は語順が重要で、これで意味が変わる。
>北九州内に邪馬台国があると主張するならなおさらです。
俺は北九州内にあるなどと、バカなことは言わない人だ。
>最後の邪馬台国だけ いきなり総日程で記載するやり方のほうですw
不弥国のまでは「方角・行程・距離」だけで日程なし。
邪馬台国までは「方角・行程・日程」で距離なし。
最後に邪馬台国までの総距離を出している。
さて。邪馬台国までの「方角・行程・日程」は不弥国からのものか?
それじゃ、最もかんじんな女王の都する所までの報告がずさんだな。
邪馬台国までの「方角・行程・日程」を郡からとした場合のみ、
邪馬台国までの「方角・行程・日程・距離」が出そろう。
そういう文章構成にしてあるのだ。きみは文学部だろ。
理工系学生みたいな積算的読みを吹くなよ。恥ずかしい。
961 :
筑紫次郎:2011/11/01(火) 12:14:49.14
>投馬国と邪馬台国まで行程と日程だけで済ませたわけ。
まだ思いつかんのか。(後述)といってから何ヵ月も経過してるぞ。
何度も説明しているのにまだ理解できないとは馬鹿じゃないのか?
何度言ってもくだらないレスしてくる。
ホントに学習能力の無い奴だ。
962 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 12:17:36.63
>>956 ゴロつき。
>「軍事支援にやってきた軍人が方角を間違えて仕事になるか。」
>と言っても説得力皆無。
周知の事実だが。てめ。いったい何を考えてるんだ?
否定するならば、お前が、他人が納得できる根拠を示して否定すればいいのだ。
たったそれだけのこともできんで、こんなところをうろつくな。
963 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 12:22:46.06
>>961 吉野ヶ里から投馬国まで徒歩で2日たらず、そこから邪馬台国まで徒歩で1日。
目とハナの先にある投馬国まで水行だけで20日もうろうろし、
すぐとなりの邪馬台国まで水行10日と陸行30日もかけて、
うろちょろした。という笑い話か。
笑い話だと思ったぜ。もっとましな方便を考えろ。な
964 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 12:29:14.59
水行十日陸行一月が、全行程というのなら、
距離がわからない。
まあ、日本側が教えたくなかったのかもしれんな。
965 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 12:35:20.60
>>958 くだらないは・な・し。
それならば、バカにも分かるように矯正してやる。
対馬→壱岐(方角・行程・距離・国名)日程なし(順次に読む)
壱岐→末盧(方角・行程・距離・国名)日程なし(順次に読む)
末盧→伊都(方角・行程・距離・国名)日程なし(順次に読む)
伊都→奴(方角・行程省略・国名・距離)日程なし(順次に読む)
奴→不弥(方角・行程省略・国名・距離)日程なし(順次に読む)
投馬(方角・国名・行程・日程)距離なし
邪馬台(方角・国名・行程・日程)距離なし
このスレ書いたタコは、違いが分かるほどの注意力を持ってるかなー。
語順の違いは文法の違い。文法の違いを数学でいえば数式の違い。
数式が違えば出てくる回答は違う。
名大文学部の学生くんも、これをひっさげて教授に質問するといいぞ。
横ちゃりのバカとは付き合いきれんし。
966 :
無免許やくざ医師:2011/11/01(火) 12:43:58.34
>>964 >水行十日陸行一月が、全行程というのなら、 距離がわからない。
「郡より女王国に至る1万2000余里」とあるが。
郡から末盧まで海路1万余里。残りは2000里だ。これが陸行距離。
距離測定が不可能な海路は「1日航海1000里」「1航海1000里」で、
1000里単位か日数単位で表記した。(数多の史書がこの表記法を用いている)。
それが、倭人伝の場合1万里で10日だ。1月陸行した距離が2000里だ。
この程度の理屈を理解する能力ぐらいあるだろ。
>笑い話だと思ったぜ。もっとましな方便を考えろ。な
クズ
天災が来たら場は大荒れ
969 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査:2011/11/01(火) 13:33:40.21
名大文学部の学生君。
>>965 で提示した文章構成分析と語順の違いは、
学者アマチュアを含めて、この天才が初めて提唱したものだ。
倭人伝をろくに解読できず、その分を倭人伝に責任転嫁することをせず、
教授とやらにこれを見せて一緒に考えろ。
「バカづらさげた続け読み」………。
文系の人間ならこの指摘が理解できるはずだ。
970 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 13:42:39.01
>>968 見るに見かねて俺が投げた異論を、
冷静にはね返すほどの正論がないから、
ハチの巣をつついたような騒ぎになる。
対抗する手段も言葉もみつからないジャリが
「バカ」と叫ぶしか手がないように、
クズだのといって溜飲をさげるのみ。
伊作はマルチハンドルしても無駄。すぐにばれるんで。
どうせなら、伊作のコテでやれ。
>971
どうせなら、伊作のコテでやれ。
いや、逝ってほしい。
出てこないで。
973 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 14:22:10.77
>>970 >見るに見かねて俺が投げた異論を
ものは言いようとは正にこの事。
人恋しく自ら進んで言い寄ったくせに、見るに見かねてとは何たる言い草。
あんたのような人を、世間では「レスこ〇き」とな。
伊作はジョーカーと同じで、体臭がキツいため、すぐにそれと分かる。
いっそのこと、無名で投稿しろ。どうせ分かるから。
975 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 14:49:08.62
>>972 >>973 俺が出てこないでもいいような、
ちゃんとした返答を学生くんにしてやれ。
そうすれば、おれも黙っている。
まともな説明文章が書けない。
↑↑
理路整然とした思考能力がない。
↑↑
まともに説明するだけの知識がない。
お前らこそ、いったい何をしにここにツラ出してるんだ。
板ゴミ・板ダニ・板クズ・板ボケ。
>>974 >すぐにそれと分かる
HNなんざシャレだ。ジョークだ。バカ嘲笑だ。
わざわざそれと分かるように書いている。
単細胞がそれを真に受けて、バカか?
別人を装う気ならいくらでもできるんだぜ。ボケ
レスこ〇きが暴れだしたな。
何と言う哀れな奴なんだ
自ら進んで2ちゃんに首突っ込んだくせして、さも自分は頼まれ嫌々投稿しているような言い草。
淋しいんだろ?
独りぼっちなんだろ?
構って欲しけりゃ「遊んで下さい。」と、言ってみろよボケ。
>俺が出てこないでもいいような、
ちゃんとした返答を学生くんにしてやれ。
おまいが一番まともでないへんとうだろが。
>975
板ゴミ・板ダニ・板クズ・板ボケ。
>>975 別人を装う気ならいくらでもできるんだぜ。ボケ
別人を装って自画自賛するも何度もばれて嘲笑された。
だれが何と言おうと疑いようのない事実だ。
まぁ遺作を褒めるのは遺作しかいないからなw
139は素が卑しいんで、隠すことは不可能
982 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 16:48:41.50
>>957 >一応スタンダードな解釈では女王国=邪馬台国 なのでそれに合わせて話を進めましたw
多数説だからっていって、それが正解というわけではないんだよ。
正確を旨とする史家が理由もなく表現を変えることはない。
女王国と邪馬台国とは違う概念だからだ。女王国の女王が都をおいている国が邪馬台国なんだよ。
女王国とは何か? 倭国と同じならば倭国と書くわけで、倭国ともちがう。
倭国の乱は、倭国の中で、女王国と以北の国々とが戦ったものだ。だから万二千里から始まるんだよ。
983 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 17:34:18.04
965 :無免許やくざ医師
>語順の違いは文法の違い。文法の違いを数学でいえば数式の違い。
>数式が違えば出てくる回答は違う。
数学に弱い人が例えとして数学を持ち出すのは不適切だと思う。「数式が違えば出てくる回答は違う」などと
中学生でも間違いだとわかるようなことを言ったら台無しだ。
数式が異なっても答が同じになる例はいくつもある。
1×1=1,1÷1=1、2-1=1、3-2=1、4-3=1、・・・(5×4)÷20=1,・・・・数えきれないほどある。
>正確を旨とする史家が理由もなく表現を変えることはない。
女王国と邪馬台国とは違う概念だからだ。
勝手に根拠のない出鱈目な法則を作り
断定するとは遺作みたいな人だ。
>数学に弱い人が
落ちこぼれたのはほとん全部で数学だけではないよ。
986 :
第三者委員会:2011/11/01(火) 17:51:39.33
962 :無免許やくざ医師
>
>>956 >ゴロつき。
痛いところを突かれると相手をゴロツキ呼ばわりか。
>否定するならば、お前が、他人が納得できる根拠を示して否定すればいいのだ。
倭人伝には梯儁らが軍事支援のために来たということを窺わせるような文言は一つも無い。否定には
それで十分だ。書かれてもいない軍事支援を持ち出した方が根拠を示すべきだ。
議論のイロハも知らない筈はないだろ。ごまかして逃げているとしか見えない。
987 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 18:06:41.97
>>983 >数式が異なっても答が同じになる例はいくつもある。
前にも出た話だが言葉尻の典型だな。
しかも答えが同じになる「やさしい」計算ばかり提示する。
それは数学ではなく「さんすう」レベルだ。
>>986 軍事支援のために来た軍人とは、8年の張政のことだが。
ここまでいわんと分からんタコらしい。
皇帝の命令ですっ飛んで着た軍人が方角と距離を間違えたらどうなる。
正始元年の記録が間違っていたとして、
そのまま距離を間違えたらどうなる。きちんと答えろ。ゴロつき
988 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 18:08:02.53
>>986 >痛いところを突かれると
よくものうのうといえたもんだな。ゴロつき
989 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 18:14:48.51
>>965 >投馬(方角・国名・行程・日程)距離なし
>邪馬台(方角・国名・行程・日程)距離なし
軍事情報に準ずる情報というのは同意するが、
原点不明、距離不明では、軍事情報としては使えない。
原点は不弥国なのか?帯方郡なのかの情報がない。
「原点(スタート位置)、方向、距離」の情報が絶対に必要である。
水行十日陸行一月が日程なら、
邪馬台国は「原点なし、方向:南至、距離なし」となる。
これを前提にして、あえて軍事情報と言い張るのであれば、
わざと情報を隠蔽しているとするのが妥当ではないか?
個人的には「原点:不弥国、方向:南至、距離:水行十日陸行一月(一月行千里)」
を主張する。
990 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 18:17:55.68
>>989 間違えた。
連続式だから、
投馬国「原点:不弥国、方向:南至、距離:水行二十日(一月行千里)」
邪馬台国「原点:投馬国、方向:南至、距離:水行十日陸行一月(一月行千里)」
としなければならない。
>>982 板ゴミ・板ダニ・板クズ・板ボケ遺作
>正確を旨とする史家が理由もなく表現を変えることはない。
女王国と邪馬台国とは違う概念だからだ。
おいゴミクズ。
卑弥呼、王 、女王、倭王、倭女王は全部別人か?
少しは考えてから言え。
992 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 18:24:56.18
>文系の人間ならこの指摘が理解できるはずだ。
理系コンプレックスがにじみ出た言い草だ。
しかし、文系にとって言葉は最重要なものだろうが、あの人は国語力にも疑問符がつくな。
「一蓮托生」、「すべからく」の誤用を誰かに指摘されていたが、
「数式が違えば出てくる回答は違う」も酷い。
数学では問題に対する答は単に「答」あるいは「解答」と言う。回答という用語は使わない。
問い合わせに対して返事をする回答ではなく、問題を解いた結果の答なのだ。
993 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 18:32:33.50
987 :ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査
>軍事支援のために来た軍人とは、8年の張政のことだが。
ん?景初2年の魏の皇帝の詔書は軍事支援承諾宣言だと言ってなかったか?考えが変わったのか?
994 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 18:51:51.28
>>989 投馬(方角・国名・行程・日程)距離なし
邪馬台(方角・国名・行程・日程)距離なし
>原点不明、距離不明では、軍事情報としては使えない。
基点が不明だからどこを基点と読むか。
距離は不明ではない。
郡より女王国に至る1万2000余里とある。
そこから海路でやってきた1万里を引いてみい。
>連続式だから、
その続け読みがバカの見本といってねのだ。
>>991 >卑弥呼、王 、女王、倭王、倭女王は全部別人か?
>少しは考えてから言え。
倭、倭国、女王国の使い分け分析同様に、
「女王、倭王、倭女王」の使い分けなどは、とっくに俺のサイトで公開してる。
相手を誰だと思ってやがる。サンピン
995 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 18:52:27.14
>>992 >理系コンプレックスがにじみ出た言い草だ。
いいや。文献に口を出す理系をコケにしてるのだ。
>「数式が違えば出てくる回答は違う」も酷い。
ずいぶんと、変換ミスまで持ち出して、
女の腐ったみたいな攻撃をしてくりれるな。
>>983 もお前えか?
>「数式が違えば出てくる回答は違う」などと
>中学生でも間違いだとわかるようなことを言ったら台無しだ。
「数式」とは何か。おしえてくれよ。
「数式」というよりも小学校低学年レベルの計算で出してくれたので、
ランダムに2ケタ数字を割り振ってみようかな。
●方角15 行程20 距離45 国名54 日程32とする
対馬→壱岐 15+20+45+54=124 (日程の32を加算しない計算)
壱岐→末盧 15+20+45+54=124 (日程の32を加算しない計算)
末盧→伊都 15+20+45+54=124 (日程の32を加算しない計算)
伊都→奴 15++54+45=114 (行程の20と日程の32加算しない計算)
奴→不弥 15++54+45=114 (行程の20と日程の32加算しない計算)
→(基点不記載)投馬国 15+54+20+32=116 (距離の45加算しない計算)
→(基点不記載)邪馬台国 15+54+20+32=116 (距離の45加算しない計算)
簡単な足し算形式でやってもぜんぜん違う回答が出たが。
浅い思考深度で小学生でも笑うようなことをいって恥をかいな。
996 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 18:55:37.44
993 名前:日本@名無史さん :2011/11/01(火) 18:32:33.50
>>987 単細胞。
「軍事支援のために来た軍人とは、8年の張政のことだが」。
>?ん?景初2年の魏の皇帝の詔書は軍事支援承諾宣言だと言ってなかったか?
>考えが変わったのか?
正始元年の来訪者は「軍事支援にきた軍人か」? タコ
どうしてこいうバカが世間で生きてるのか納得いかんなー。
てめ。「軍事支援にきた軍人」に食いついてゴロまいてるんだぞ。
997 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 19:04:44.60
>>992 ずいぶん根にもつたいぷらしいな。
お前のそのネチネチした才能を活かすほうほうがある。
俺は自分の書いた文章の校正が苦手な人だ。
何度読み返しても間違いがある。そこで、
俺のサイトを隈なくみて、変換ミスや誤字があったら指摘したくれんか。
そうすりゃ大いに助かる。
998 :
ヘソ曲署・苦労がねーぜ派出所巡査 :2011/11/01(火) 19:09:37.17
どいつもこいつも。
過去にやっつけられた逆恨みで、
「伊作憎し」を漂わせたタコか、
俺の正論を前に自論が崩壊した逆恨みで、
何とかやっつけようという身の程知らずばかり。
自論が潰されて逆恨みするようなら、
最初から不特定多数に向かって無知・無恥のごたくを並べるな。
彡.心心心心心 l彡 :圭 ノ聿_______________ llllllllllllllllllllllllll圭ム
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1000 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/01(火) 19:22:13.39
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