謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!58

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。

前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1307102401/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2日本@名無史さん:2011/08/25(木) 23:50:41.34
九州説の勝利 畿内派完全敗北

韓国古代史の第1級資料が見つかった 題記「倭の属国 新羅」
3日本@名無史さん:2011/08/26(金) 17:36:46.85
上げとく
要らんかな?
4日本@名無史さん:2011/08/26(金) 17:45:51.55
もうすぐ出ます。邪馬台国は畿内です。あれだけ宣伝して、まーだ出ないのかね。しかも特定していて出ないのかね。まぁ、邪馬台国じゃないし、出るわけないけどね。
5レス長たらし毘古:2011/08/26(金) 17:47:18.58
前板での某の妄想主張のまとめ
@卑弥呼(=モモソ)さんの死によって九州と近畿の主従関係は動揺する
A神功さんの台頭によって、イヨ同盟の権益は大和に移管
B本来蘇我の主張であるトヨ説は記紀にて卑弥呼隠しに逆用される。
Cイヨ説は地名にのみその名残を残す。神功〜記紀の頃の皇室史観はイヨ説
(イヨ同盟)を無視。
D倭国と言う看板を架け替え、大和・日本としたのが記紀の外交戦略。
E神州史は、3000年程は遡れる筈。(これはまだ未公表)

では、この板をお楽しみ下され、八百万の皆の宗。
6日本@名無史さん:2011/08/26(金) 18:06:32.29
>>4
日本語で頼む

>>5
前板ではなく、前スレだお
あと、倭国って言ってるのは中国じゃなかったけか
7日本@名無史さん:2011/08/26(金) 18:31:03.07
畿内説ってどういう論拠で展開する説だったっけ?
8日本@名無史さん:2011/08/26(金) 18:33:30.32
正面から論を述べる、本当の畿内説論者は、
もういないな。
9日本@名無史さん:2011/08/26(金) 18:41:34.99
予算目当ての畿内説♪バレたらしゃーない♪次は四国説で勝負だ♪
10日本@名無史さん:2011/08/26(金) 18:46:42.70
どんコイスレと九州スレは。九州説を述べて、それを批評する構図になってる。
あとは四国を水銀厨氏だけでまわしてる。

畿内説を述べる人間はいない。
11日本@名無史さん:2011/08/26(金) 18:56:22.81
九州スレは、基本的に私の魏志倭人伝読み発表の場だから
実は何処説ってあまり関係無いんだよ。

あと、九州説の人は認めたくないかもしれないけど、畿内説の人はもう良くも悪くも
邪馬台国の場所は決まったかなと思ってて、新たな発見がないと動かない
纏向スレとかその典型。時折九州説の人がちょっかいかける感じかな
12日本@名無史さん:2011/08/26(金) 19:01:35.45
巻向スレは、考古学スレで、邪馬台国ネタは遠慮してたのだが、
突っ込みかけていいのかね。
13唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/26(金) 19:10:34.50
>>2

神功皇后摂政五十二年秋九月久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。…。
乃謂孫枕流王曰。…自是後。毎年相續朝貢焉。

百済は、倭に臣従する国である。しかし、七支刀を369年に設定した場合、書紀の
言い分は否定される。百済、高句麗は343年以降前燕に帰順する。←だから、七支刀
=369年では否定されて当然である。
書紀の記事が正しければ、書紀に記載された百済王朝は、倭に臣従する時代である。
クニシン王即位←書紀にはここまで記載されているが、420年クニシン王即位で
あれば、書紀に誤りがある事になるが、韓国の歴史は、百済本紀で説明しきれていない。
つまり、413年以降 百済は新羅と共に高句麗の属国を認める倭国。
413年允恭2年 倭、高句麗は、東晋に朝貢する。
414年允恭3年 新羅の医者に対する態度は、この時点で新羅が高句麗の属国である
ことを認めている態度である。
414年允恭4年 盟神探湯←これにより世継ぎは大きく書き換えられている。
つまり、神功元年(275年)磐余稚桜宮(桜井茶臼山)から110年後が誉田御廟山
(484年)である。
368年 応神25年 百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王。
326年 神功52年 七支刀
323年 神功49年 半島の占拠。←ここが百済建国。
323年とは、中華東北部が政治的空白地帯の時代である。

続く。
14日本@名無史さん:2011/08/26(金) 19:11:08.79
九州説が遺跡を特定出来たらある意味比較出来て盛り上がるかもしれないけど・・・

今の会話
畿内説:纏向周辺かな邪馬台国は
九州説:何チャラ感チャラだから違うよ
畿内説:九州だと何処になるの?
九州説:キィー

この繰り返しではさすがに畿内説の人も厭きれる
多分、九州説の人も遺跡を特定出来ればもう少し精神状態は安定すると思うのだが・・・


>>12
オレの指図が必要なの?
只、巻向スレは物証スレでもあるから邪馬台国の話題は避けて欲しいな
また、考古学の方は意味無く占拠してる人が居て近づかないのでは?
ドンと来いスレでやれば
15唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/26(金) 19:13:30.42
続き
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。

323癸未年、大量の民の渡来により、巨大古墳が造られる。そして、高句麗の南下により
巨大古墳は造られなくなる。
大仙陵古墳の山肌の荒れは、築造途中で作業を打ち切った証拠である。
16日本@名無史さん:2011/08/26(金) 19:48:15.96
>>14
九州説の場合は特定できる出土物がないから、
それぞれで決めている場所があっても、
無意味に主張することを控えているわけだが、

なぜマキムクの場合は特定できるのかな?
現実問題として、なぜマキムクか、を語れる人がいないだろ?
17日本@名無史さん:2011/08/26(金) 19:53:50.15
>>11
>基本的に私の魏志倭人伝読み発表の場だから

当たり前だろうがドアホ、倭人伝がなければそもそも邪馬台国なんて知りもしないだろうがカス
屁理屈ばかり言ってないで、さっさと邪馬台国である証拠を考古学的に出さんかい!このインチキ畿内説論者が!
18日本@名無史さん:2011/08/26(金) 19:58:05.41
>>16
そうやってすぐ感情的になる
主張しまくってるだろ。九州スレなんて主張のオンパレード
その上、九州説内でも他の九州説を罵倒してるし

邪馬台国関係無しに、初めから否定しようと思ってる人に説明するのは徒労なだけだよ
そこまで尽くす必要も無いしね

書きこもうと思ったら17も感情的だ
何で君らそんなに魏志倭人伝を信用してるの?
それが凄い不思議なんだけど

そろそろスレの意にそぐわないから止めるね
19日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:02:49.07
>>18
>何で君らそんなに魏志倭人伝を信用してるの?
はぁ〜?畿内説論者に邪馬台国を語る資格はねーよ。さっさと去らんかい。
20日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:07:07.39
>>19
伊作並みに知能低いな
九州説に伊作が居るわけだ
21日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:16:53.47
皆がもっと大人になってくれることを 希望 します。
22日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:23:50.03
>>20
知能が低い?考古学的に説明しなよ

できないならグダグダ言ってんじゃねーぞ。このマヌケが!
23唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/26(金) 20:24:07.45
北史
至邪馬臺國,即倭王所都。
其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。
魏景初三年,公孫文懿誅後,卑彌呼始遣使朝貢。魏主假金印紫綬。
倭人伝
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬
其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼
正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩
 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人…
晋書 正始元年 東倭重譚納具。

倭人伝では、景初3年に女王の登場がある。その翌年に邪馬台国を訪れ、「倭王を授与するから洛陽を訪れろ」
倭王は「有り難く頂戴します」と正始元年に洛陽を訪れる。
正始4年 倭王は遣使する。
この後にも“女王、女王国”が登場する。倭王=女王であるならば、記事の信用性が劣る。
倭王≠女王であるならば、北史の認識が正しいとできる。
239年 其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼
魏は、239年の時点で女王卑弥呼を認めている。これまでに王と認められたのは、奴国王のみである。
奴国王の後継者として、共立倭女王卑弥呼は、存在し、景初3年に朝貢団を送る。
正始元年に、新たに邪馬台国に倭王を承認する。
邪馬台国倭王と女王国女王卑弥呼が共立する。

崇神(188〜216年)
垂仁(217〜239年)
景行(240〜261年)
3世紀半ば、九州に畿内の庄内式土器が上陸する。持ち込んだのは景行である。
大乱の終了時、景行は、壹與(五百野姫)を軍隊付きで筑紫へ送り込む。
大倭は、伊都国に一大率を置く。←倭人伝の正しい読み方である。
24日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:25:36.55
>>22
知能を考古学で説明できると思ってるから馬鹿なんじゃね
25日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:31:01.42
>>24
だから、倭人伝なしに邪馬台国は語れないんだよ。わかったか、このマヌケが!根底から間違ってんだよ。畿内説はなプッ
26日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:31:50.41
景行天皇って名前適にはなんか旅行好きな温厚な人ってイメージだよね。
27日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:32:05.36
>>24
つーか、お前バカだろう。
28日本@名無史さん:2011/08/26(金) 21:13:34.17
畿内説論者は、魏志倭人伝を読まずに、邪馬台国の存在を知り、場所も特定した。そう、彼らは超能力者なのです。
29日本@名無史さん:2011/08/26(金) 21:22:48.78
アハハハハ
遺伝子調査でも邪馬台国は九州
考古学?はぁ?ゴッドハンドの間違いだろう
30唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/26(金) 21:41:55.09
至邪馬臺國,即倭王所都。其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。

為法甚嚴。打算の結果として共立された女王卑弥呼に”法甚嚴。”は出来ない。
そして、3世紀半ばに宮室を持つ纒向。
倭王は大和に居住し、卑弥呼は、奴国(後漢時代に王位を認められている)の範疇に
女王国が存在する。

景行、大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別 ヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
倭王の名は?
31日本@名無史さん:2011/08/26(金) 21:54:48.64
考古学で畿内を示唆するような出土物って、
なんかあったか?
32日本@名無史さん:2011/08/26(金) 21:56:16.16
九州説、畿内説で決着がつかないのであれば、一旦福岡の方で預かっておいてもよい。
33太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/26(金) 22:15:53.65
天津神算木 真の年代を語る天下の宝器。古代からの贈り物。
三輪神、三輪山の三輪とは半径r=3の円を示唆し、これの球化の体積、
表面積を天津神算木(天津金木)という。この場合 体積=表面積 となる。
天津神算木は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はべき)

天津神算木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335

右辺は三分したとき 113 097 335 の三つの数列となる。左辺の3は
3倍年暦を暗示しているのだ。三つの数列は

113←1/13 崇神即位の月日数
097←B.C.97年 崇神即位の見かけの年代(先頭0は紀元0年を示唆し、除去)
335←335年 崇神即位の真の年代を誘引させる年数

崇神即位の真の年代は見かけの年代と誘引年数との和

 -97+335=238年

ただし紀元0年を除いたから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=真の崇神即位元年=景初元年

卑弥呼の活動時代は崇神の代である。
34唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/26(金) 22:51:22.38
>考古学で畿内を示唆するような出土物って、なんかあったか?

3世紀半ばの福岡西新町遺跡に、畿内の庄内式土器が持ち込まれる。
ちょうど、大倭が伊都国に一大率を置いた時期である。
土器が布留式になると、半島に布留式が持ち込まれ、西新町遺跡に半島の土器及びカマドが登場する。
西新町遺跡とは、後漢時代に朝貢した奴国の範疇であり、景初3年女王卑弥呼←卑弥呼は王位を授与されずとも魏から女王と認識されている。
つまり、女王卑弥呼の女王国は奴国の範疇に存在する。
35太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/26(金) 23:08:44.86
景行は初代ではな〜い。

景行はホツマでの末代の天皇であ〜る。景行は卑弥呼の年代より後代で
あり、景行は崇神のお助け年代であ〜る。
36日本@名無史さん:2011/08/26(金) 23:25:14.89
なんかループの周期が短くなってきてね?
37日本@名無史さん:2011/08/26(金) 23:27:20.51
これ文献ありきだろう。なくして考古学がどうとか言っている奴は思考停止か。そのわりには書記だの神話だの理屈に言うわな。モモソ=卑弥呼?絶対にない!もう、奈良ではないと完全に論破されている。
38:2011/08/27(土) 11:24:11.36
>>37
>モモソ=卑弥呼?絶対にない!

どうして、そう言い切れる?
絶対無い?
39日本@名無史さん:2011/08/27(土) 12:34:20.33
>>38
なんでモモソ=卑弥呼なの? 倭人伝に弟がいて教祖みたいに書いてあったからなの?ねー畿内派は倭人伝をバカにしているのになぜ?倭人伝を引用するの?
ねーねー、天照大神=卑弥呼じゃダメなの?各地に卑弥呼に似たような姫は存在しているのに、なぜモモソじゃないといけないの?
40日本@名無史さん:2011/08/27(土) 12:39:19.26
永遠にループします
諦めない者が勝つ
41日本@名無史さん:2011/08/27(土) 12:40:10.07
諦めるな!
諦めたらそこで負けだぞ!!
42日本@名無史さん:2011/08/27(土) 12:40:39.84
>>39
横だけど
参考資料としては使えるからじゃないかな?
不磨の大典みたいに使ってるから突っ込まれるだけで
43日本@名無史さん:2011/08/27(土) 13:10:46.80
>>42
>参考資料としては使えるからじゃないかな?

魏志倭人伝にはモモソの事なんて書いてないのにな。何を参考にしたんだろうな?
44日本@名無史さん:2011/08/27(土) 13:27:49.45
>>43
それは本人じゃないから知らない
39の質問で、魏志倭人伝を馬鹿にするのに引用するのは何故っていうから答えただけ
魏志倭人伝を含む形で、多角的に説明出来るなら、魏志倭人伝を貶す人は居ないと思うよ
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/27(土) 14:39:50.79
倭人伝には、卑弥呼の国を女王国と呼んでいる。
つまりだ、女王の支配する国があったということだ。その女王を卑弥呼という
わけだが、記紀には女王(女天皇)の在位した記述は相当年代付近に存在しない。

モモソヒメが即位した事実は記紀にはない。その陵が天皇級だとして不審に皆
想うんだろうが、これなど印度のタージ・マハルやエジプトの神殿なので、お妃
可愛さあまり王級の建造物を造っていたわけだから、別にモモソヒメの陵が広大
でも不合理とはいえない。上の二例は、だからといってお妃を王にしたわけで
もない。かように二例が古代日本でも似た状況が出ててもおかしくはない。

卑弥呼とモモソヒメとはぼ同時代に並行して生きていた女性だということだ。
前者は九州、後者は畿内の女だったということだ。そして

 崇神元年=景初元年

であり、卑弥呼の年代が崇神のころだったということなのだ。それは鏡作神社の
伝承が 崇神6年に日像鏡の改鋳をしたことで、この前後ころこの神社付近を
拠点として鏡を多数製造してたのだ。それで△鏡は大陸人がからんでの可能性
がありながらの日本製だということが分かる。王氏の日本製の論は正解なの
だ。卑弥呼の時代はホツマの末代天皇たる景行の時代ではない。
46唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/27(土) 16:22:03.12
>モモソ=卑弥呼?絶対にない!

景初三年 倭女王卑弥呼遣使朝貢。
景初三年時点で王を名乗れるのは、後漢時代に朝貢した奴国だけである。
そのつもりで、北史を読むと
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。
靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。

183年(中華で凶作)頃唐、倭国乱の時代となる。歴年無主(3世紀初めの前原王墓をもってこの地には王墓は築かれない)
238年奴国を魏使が訪れる。239年朝貢←この時空までに女王卑弥呼が共立されれば良い。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、
倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、…。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。

北史 至邪馬臺國,即倭王所都。

景初3年時点で卑弥呼は女王である。←魏は関与していないが王位を認めている。
正始元年 邪馬台国の王が”倭王”を拝受する。
女王国≠邪馬台国であるから、正始元年以降にも女王、女王国が登場するのである。
晋書 正始元年 東倭重譚納具。東倭=邪馬台国である。
47唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/27(土) 16:34:10.56
謂之倭奴國。靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。

其國亂は、倭奴國の出来事である。この出来事を畿内大和に持ってきても
整合しない。
倭女王卑弥呼は、魏が関与しなくとも”王”を名乗れる地位にいる。
倭王位は、邪馬台国の王が、正始元年に授与する。
48日本@名無史さん:2011/08/27(土) 19:48:21.29
>>39

魏志倭人伝が無ければ、
3世紀の箸墓を作った権力を持つ大王は、モモソヒメという巫女だったという話し。

魏志倭人伝があれば、モモソヒメは卑弥呼と呼ばれたということになるだけ。

なにもおかしくないよ。
49日本@名無史さん:2011/08/27(土) 20:07:16.56
>>48
で、そのモモソが大王だったという根拠はどこにソースがあるのかな?
50日本@名無史さん:2011/08/27(土) 20:16:19.37
>>49

箸墓が巨大だから。

もっとも、大仙古墳が大王墓じゃないと力説するなら、話は別だけどね。
51日本@名無史さん:2011/08/27(土) 20:50:30.36
お子様レベルか
52唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/27(土) 21:23:47.59
>魏志倭人伝にはモモソの事なんて書いてないのにな。何を参考にしたんだろうな?

明治時代に日本の歴史を認識するときの大きな間違いから生じた。
まず、歴史認識として、神功52年7支刀を百済本紀に合わせる。←これが今も続き
崇神世=卑弥呼時代、の認識となる。
その編年が変り、考古学は巻向年代を50年遡上させる。←であるならば、書記の編年も50年遡上させねば
整合性が得られない。
今、卑弥呼時代=崇神世で巻向遺跡を説明できる輩はいない。←考古学の50年遡上を認めない。
巻向遺跡が2世紀末からであれば、崇神世も2世紀末からである。←新羅本紀に合わせられる。
新羅192,3年は崇神5,6年であり、任那建国は、新羅209年である。
魏が半島を管理する239年以後に任那建国は無い。

ついでに、箸墓は、箸稜の誤りであり、最初の大王墓である。

>大仙古墳が大王墓じゃないと力説するなら、←大仙稜は、313年から87年後の仁徳陵である。
つまり、仁徳が葬られている可能性はゼロである。(渡海の年に生れた応神の子供として)
その応神の誉田御廟山は、応神誕生後110年目の墳墓である←書記の主張は正しいが、世継は否定される。
53太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/27(土) 22:12:18.39
>今、卑弥呼時代=崇神世で巻向遺跡を説明できる輩はいない

卑弥呼は九州の女王であるから、巻向と関係なければならないという説
はデタラメであ〜る。したがって等号は独立しており、巻向とは直接年代
の関わりには関係な〜い。
54太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/27(土) 22:23:53.44
>新羅192,3年は崇神5,6年であり

崇神5,6年≠192、3年

崇神6年に鏡作神社の日像鏡の改鋳があり、これが△鏡(239年鏡)が
畿内から多出する鏡製作のきっかけである。500枚の鏡は大陸人がからん
でいた可能性はありながらも鏡作の日本製だということだ。
これは王氏の説と整合する。すなわち

 崇神6年≒239年

である。
55太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/27(土) 22:31:39.75
>書記の主張は正しいが、世継は否定される。

 書記の主張は正しいが、オマエの寝言は否定される。
56レス長たらし毘古:2011/08/27(土) 22:36:53.83
>>6
珍しく鋭いご指摘・並びに指導ありがとうございます。
>あと、倭国って言ってるのは中国じゃなかったけか

一応、古事記においては、「倭」と言う漢字は頻度登場しており、その読みは
大抵の通説では「やまと」と解釈されているようです。
通説どおりだとすると、当時(AD2〜3世紀)は、日本には、読み言葉は
あれど書き言葉が無く、そのために漢字を訓として、或は音として活用し
始めた、と考えられているかと思われます。
この通説から考えるに、少なくとも古事記編纂の時期(AD7世紀)には
外来文としての漢文と通俗文としての当て字漢文が併用されていると想像
した方が自然でしょう。古事記は基本文を漢文調、人名地名を当て字漢文、
このような使い分けの要素が高いです。

さて、すると、「倭」と言う名称がどこでどのように古事記では登場して
いるか、ここが重要になります。そうですモモソ姫等、「人名・地名」に多く
登場しています。つまり、当て字漢文の要素を多く持っている文字なのです。
57レス長たらし毘古:2011/08/27(土) 22:38:51.45
つまり、「倭」の字を持つ人物のお名前は、「(当時)中国側から呼んだ名前
そのもの」であった為、古代日本人(の子孫)とは言え、外来公式性と先祖
を敬う気持ちから「勝手に書き換えられなかった」と考えるのが自然です。
そしてまた、「中国側から呼んだ名前」 を「つけられて(そのまま使用して)
いそうなお人」こそその可能性が最も高い人物が「卑弥呼さん」とも考えられ
ると思うのです。(注:モモソさんと卑弥呼さんが近時代である可能性を当方
は採用しております)

「倭」の字の真意を知り、それを積極的に嫌って行くのは、聖徳太子や遣隋使
以降の時代の日本(大和)と、こうなって行きます。つまり、変えていいなら
或は変えようと考えるなら、聖徳太子より半世紀後の古事記の編纂において、
「倭」の字を一切使用しないで他の字を当てる事は充分可能です。
しかし、ご先祖様のお名前を後代勝手に変える不遜を恐れ、また国際情報の
公式性までには歯向かう国力は当時日本には無かったのでしょう。
「倭」に「やまと」と言う音を当ててしまい、そしてそれを用いた時代が
長かったとしたら、倭の字そのものの嫌悪感を採用するか、あるいはご先祖
様のお名前を勝手に変える不遜を採用するか。これは充分悩ましい判断です。
58日本@名無史さん:2011/08/28(日) 16:43:55.67
中国人による日本の呼称が「倭」だった、それを「ウォ」と読まず、日本人による自称「やまと」の読みを当てただけ
「あるく」という日本語に「歩」という漢字をあてて、「歩く」と書く方法を発明したのと同じで漢字の応用使い
「卑弥呼」も中国人による呼称であり、日本人がこれを「ひみこ」と読んだとは思えない
何がしか別の日本語による読みがあったと思われる
漢風諡号も、付けたのは日本人だが、明らかに漢字圏を意識して作っている
「みまきいりひこ」を「崇神」と書けば、漢字圏の人には「神を崇めた帝」と意味を持つ名称として伝わる
「はせがわ(初瀬川)」を「長谷川」と書けば、「長い谷をなす川」と土地の特徴を伝える事が゙できる
漢字はそうやって言葉の垣根を越えて交流するために使うもの
どんな民族でも象形文字の系統である漢字は覚えやすい、漢字の利点はそこにある
59日本@名無史さん:2011/08/28(日) 17:17:13.72
>>38
書記には女王が即位した記録はないな。日本は大王が統べていた国。
女王に関しては倭人伝の方が勘違いしている可能性の方が強い。
書記にあるように巫女が大きな墓に葬られた事は事実だろうけどね。
だいたいにして、中国人からみれば、邪馬台国なんぞ畿内でも九州でもどっちだっていいやん。
それほど踏み込んで調べる気なんぞなかったんだよ。
だから曖昧になっていてで前漢時代の九州の地理情報と魏時代の畿内の大王家情報が混同しているんじゃないのか。
ちなみに、明史日本伝を見てみなよ。かなりでたらめが入ってるぜ。
60唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/28(日) 19:24:53.64
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

183年 凶作、184黄巾の乱(太平道の張角らによる反乱、〜192)

後漢安帝時、倭奴国は朝貢した。その国(奴国)は183年の凶作をきっかけとして乱の時代となる。
相攻伐を繰返し、大王は立てられなくなる(歴年無主)その国(奴国)で卑弥呼は共立される。
3世紀初めの平原王墓を以てこの地に大王は立てられない。
そして、景初3年女王卑弥呼朝貢。←魏から叙勲を受けたのでは無く、奴国王の王位を受継いだ。
邪馬臺國は、女王国から遠い。そして“倭王”の叙勲を受ける。
だから、“倭王”と“女王”は別人である。
倭人伝 240正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、
倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、
詣恩を答謝す。

女王国(奴国)から南に邪馬臺國と書かれているが、この時代、福岡西新町遺跡に進出するのは、
庄内式土器である。

謂之倭奴國 其國亂。←奴国の乱を畿内大和に設定できない。
ただし、至邪馬臺國,即倭王所都。邪馬台国は、畿内大和であり、倭王の都である。
61日本@名無史さん:2011/08/31(水) 21:57:02.36
唐松は唐変木である。その花にはガクが無い。
倭人伝の読み方がなってない。魏は景初2年12月詔書で卑弥呼を親魏倭王に封じた(制詔親魏倭王卑彌呼)。
卑弥呼は女王であるが正始年間においては死ねまで倭王であったのだ。
62唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/31(水) 22:23:10.69
>卑弥呼は女王であるが正始年間においては死ねまで倭王であったのだ。

であるならば、何故正始元年以後も”女王、女王国”が登場するのか?
女王国≠邪馬台国であるからその後も女王国が登場するのである。
邪馬台国(大和)に”乱”は無い。←王宮、楼閣がある。
奴国は、3世紀初めの前原王墓までである。←乱を想定できるが王宮、楼閣は無い。

63太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/31(水) 22:26:17.25
稀代のデ○パ
64日本@名無史さん:2011/08/31(水) 23:03:01.03
>>62唐変木
>であるならば、何故正始元年以後も”女王、女王国”が登場するのか?

女王国が登場しているか?よ〜く読め。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和とは書かれてあるが、何も問題ないだろ。卑弥呼は倭の女王であることには
変わりはないのだから。若しかしたら卑彌弓呼が男か女か分らぬ名前だから狗奴國男王と「男」を王の前に入れるので
釣り合いをとって倭女王卑彌呼としたのかも知れんな。それとも、卑彌呼が親魏倭王に封じられる以前から卑彌弓呼と
不和であったから倭女王としたのかもな。

65日本@名無史さん:2011/09/03(土) 21:15:17.39
アマテラスが卑弥呼のことと思ってる
66日本@名無史さん:2011/09/03(土) 23:40:04.50
アマテラスが卑弥呼なら、邪馬台国は畿内だな。

天の岩戸神話は、近畿の神話だから。
67日本@名無史さん:2011/09/04(日) 00:17:50.55
アマテラス/天照大神は天に坐して遍く神恩を垂れ賜う太陽のごとき偉大な王神。

ヒミコに擬される御神名は三つ。
天照大神荒魂。こと、憧賢木厳之御魂天疎向津比売命(秘説、瀬織津比売神)
(天照)大日霊女貴命・・・オオヒルメノムチ。素直に読めば、大ヒミコのムチの命
雅日霊女貴命・・・ワカヒルメのムチの命。個人的には第二代ヒミコ女王=豊姫/豊宇気比売神
68日本@名無史さん:2011/09/04(日) 00:27:03.59
市寸嶋比売命(狭依毘売命)。一伝、天照大神。
豊宇気比売神。一伝天照皇大神
豊受皇大神。一伝、天照皇大神
伊弉諾尊。一伝、天照皇大神。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
略して?天照御魂大神。天火明命。一伝、天照皇大神
天照大神の原型。
69日本@名無史さん:2011/09/04(日) 00:42:55.22
天照大神の有名な神話、天の岩戸神話は、伊勢の地方神話だった。

天の岩戸神話を朝廷に奉納したのは、猿女君である。
猿女君は、日の神をおびきだした、アメノウズメとサルタヒコの末裔。
したがって、天の岩戸神話は、猿女君の伝承なのである。
サルタヒコは、伊勢の地方神であり、祭っていたのは、宇治土公。

『西宮記』裏書には、猿女君の一族に稗田氏のあった事を記してある。
『斉部氏家牒』(大倭神社註進状)に『稗田阿礼語る所の古事記是也 阿礼は宇治土公庶流。
天宇受賣命の末葉なり。』とある。

天の岩戸神話が伊勢の地方神話なのだから、
天照大神も伊勢の地方神であることは、文献史学上の常識である。

70日本@名無史さん:2011/09/04(日) 00:51:22.68
天孫降臨の途中に、
アメノウズメの前にサルタヒコが現れ、
アメノウズメとサルタヒコは伊勢に降りた。

天孫降臨が九州なのに、アメノウズメとサルタヒコは伊勢に降りたのは奇妙な記述である。
天孫降臨はもちろん、創作であるが、アメノウズメとサルタヒコが伊勢に降りたのは、
元来、アメノウズメとサルタヒコが伊勢の地方神だったことを意味している。

アメノウズメは、伊勢で祭祀の巫女をしていた猿女君の祖神なのだから、
天の岩戸神話も、伊勢の神話だったことは、確定事項である。
71日本@名無史さん:2011/09/04(日) 00:57:09.60
ttp://www.norichan.jp/jinja/renai/meta.htm

賣太神社
祭神:稗田阿禮命 天宇受賣命 猿田彦神

稗田阿禮は、古事記を暗誦した人物である。
日本神話を朝廷に紹介したのは、稗田であり、その同族として、
アメノウズメ、サルタヒコの猿女君がいる。

伊勢の地方豪族、宇治土公が、猿女君と同族であることからも、
天の岩戸神話が、伊勢の地方豪族、宇治土公の行っていた祭祀だったことがわかる。
72日本@名無史さん:2011/09/04(日) 01:16:06.57
>>48
記紀も倭人伝もなかったらどうなる?

>>39
百襲姫は大和にいたから。
天照大神=卑弥呼だったら、天照大神(卑弥呼)の子孫である神武天皇が東征
することになり、邪馬台国東遷説につながるから。
73日本@名無史さん:2011/09/04(日) 01:37:30.87
>>72
>天照大神(卑弥呼)の子孫である神武天皇が東征

事実誤認。
卑弥呼に夫がいない以上、子供が神武であるはずがない。

また、神武(天皇家)の祖神は、タカミムスヒであって、天照大神ではない。
天照大神が、皇祖神になったのは、天武天皇以後のことである。
文献史学の常識なので、覚えて置くように。
74日本@名無史さん:2011/09/04(日) 02:37:52.49
>>73
子孫で不満ならば、権力を受け継いだものと言っても良い。
まあ、世襲制がいつから始まったかは定かではない。
卑弥呼も世襲ではないだろうし、台与も世襲ではないようだし。

天照大神を祀る斎王・斎宮の制度は、崇神天皇の時代から始まっている。
記紀に基づくならば、高皇産霊尊はそのまま取り入れて、天照大神は天武天皇の時代と
するのはあまりにも身勝手すぎると思うが…。
75日本@名無史さん:2011/09/04(日) 02:58:30.50
>>74



>記紀に基づくならば、高皇産霊尊はそのまま取り入れて、天照大神は天武天皇の時代と
>するのはあまりにも身勝手すぎると思うが…。

記紀を全て真実とするなら、ニニギは天から降ってきたのかね?
神武の父のウガヤフキアエズはサメから生まれたのかね?
継体天皇は、本当に神武から続く皇統の継承者だったと思うのかね?

8世紀の権力者、天武によって、記紀が編纂されたことを忘れないように。

宮廷祭祀でも、最高神はタカミムスヒである。


76日本@名無史さん:2011/09/04(日) 03:02:15.23
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%A5%9E%E6%AE%BF

八神殿(はっしんでん)は、日本の律令制の下で神祇官西院に設けられた、天皇を守護する八神を祀る神殿である。
八神殿に祀られる神は以下の神である。『延喜式』と『古語拾遺』で表記が異なるが、同じ神である。

延喜式 古語拾遺 読み
第一殿 神産日神 神皇産霊神 かみむすびのかみ
第二殿 高御産日神 高皇産霊神 たかみむすびのかみ
第三殿 玉積産日神 魂留産霊 たまつめむすび
第四殿 生産日神 生産霊 いくむすび
第五殿 足産日神 足産霊 たるむすび
第六殿 大宮売神 大宮売神 おおみやのめのかみ
第七殿 御食津神 御膳神 みけつかみ
第八殿 事代主神 事代主神 ことしろぬしのかみ
-------------------------------------------------------

このなかに、天照大神がいないのが、わかるな?
77日本@名無史さん:2011/09/04(日) 03:08:32.15
天武天皇は、自身を皇祖タカミムスヒになぞらえた。タカミムスヒは、本来の皇祖神。
皇后の持統天皇を、天照大神(女神)になぞらえた。

そして、持統天皇は、子の草壁皇子ではなく、孫の文武天皇を即位させた。

この、子を飛び越えて孫を即位させるにあたって、
日本神話でも、タカミムスヒ、天照大神の孫のニニギを天孫降臨させるという筋書きを作ったのだ。

そして、持統天皇の統治時代に、天皇が女性だったことから、
それまでのタカミムスヒではなく、天照大神を女神として最高神に設定したのである。

文献史学の常識なので、論破しようなどとは思わないように。


78日本@名無史さん:2011/09/04(日) 05:21:58.92
>>75
宮中三殿の真ん中にあってひときわ高い賢所は誰を祀っている?
神社で最も格式の高い伊勢神宮は誰を祀っている?

瓊瓊杵尊は高天原から日向に降りてきた。天から降りてきたというのなら、三輪山にでも降りて
来た方が都合が良いだろうに。大和朝廷の都する大和の地に降りてきて、そこから全国を支配して
いくというのが都合のよい筋書きだろう。

にもかかわらず、天孫・瓊瓊杵尊は日向に降りてきた。やがて、ひ孫の神日本磐余彦が東征し、
大和の長髄彦を滅ぼして、橿原の地で初代天皇として即位する。どうしてこのような筋書きに
する必要があったのか。

よく考えてみれば一つの結論が出てくるはず。

>>77
文献史学の常識が聞いてあきれる。だいたい、持統天皇には夫がいるなど似ていない部分が多すぎる。
似ていると言うなら、卑弥呼の方がずっと共通点が多い。
79日本@名無史さん:2011/09/04(日) 05:47:33.50
>>78

>瓊瓊杵尊は高天原から日向に降りてきた。

しかし、ニニギは、九州で大王になったわけじゃないし、
その子の日向三代も、九州の大王になったわけじゃない。

ニニギは、地上を支配するために降りてきたのに、三代とも大王になれなかったとは、
おかしいとは思わないのかね?
なぜ、日本神話を書いた人は、ニニギを初代天皇にしなかったのか?

ニニギの天孫降臨が架空だということはもちろん、
九州に初代天皇がいたら、九州の豪族が皇別を名乗ってしまう危険がある。
朝廷の作り話のために、九州の豪族に皇別を名乗らせるわけにいかないから、
ニニギは初代天皇ではないし、ヤマトまで来た神武が初代天皇になった。

したがって、神武東征は創作である以上、
九州の卑弥呼の子孫が神武などという東遷説の根拠はまるで無いのだよ。
80日本@名無史さん:2011/09/04(日) 05:55:03.40
なぜ、天皇の祖先が九州のニニギかというと、
ニニギはそもそも、日向神話のカミで、ヤマトとは何の関係もなかったが、
高千穂に降りてきたというニニギの神話が神々しいイメージだったので、
朝廷が、日向神話を盗んだというのが本当のところ。

8世紀にキリスト教が盛んだったら、天皇はキリストの子孫という筋書きだったかもしれないな。
その程度の話だ。

4世紀に日向が、ヤマトに服属したときに、日向の神話(ニニギの降臨神話)を、ヤマト朝廷に奉ったということ。
81日本@名無史さん:2011/09/04(日) 06:14:14.07
>>78
>宮中三殿の真ん中にあってひときわ高い賢所は誰を祀っている?

天照大神と言いたいのかもしれないが、延喜式には出てこない。
ttp://kamnavi.jp/en/kyuchu.htm

>神社で最も格式の高い伊勢神宮は誰を祀っている?

伊勢神宮が、天照大神の神殿として建立されたのは、7世紀ですが。
それ以前に伊勢に天照大神が祭られていたという証拠はありませんね。

崇神、垂仁の記事を信用したとしても、皇祖神を都から遠く離れた伊勢の地に移すなど、
不自然極まりない話しです。
82日本@名無史さん:2011/09/04(日) 07:22:50.11
続日本紀 「文武天皇2年12月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」

この記事は、北方にあった”多気大神”を度会郡に遷す、つまり伊勢神宮に合祀するという意味です。
伊勢神宮では、この出来事を今も祭祀の中に伝えており、
最も古い建築様式留めている御鐉殿では、南の正面から参入した神主は、
多気大神を伊勢神宮にお迎えするために、北の御扉を内側から開けます。

ここで、時系列を見てみましょう。

天武天皇が、伊勢神宮の式年遷宮を制定
持統天皇4年:西暦690年:第1回式年遷宮 
文武天皇2年:西暦698年:多気大神宮を度会郡に遷す
元正天皇5年:西暦720年:日本書紀完成

690年には、伊勢神宮が建立されていたのに、そこに「多気大神宮を遷した」わけです。
実はこの、多気大神宮の神が、後の天照大神に変容したわけです。
現在の滝原神宮が名残で、天照大神を祭っていますが、もともとは、「川のカミ」です。

つまり、伊勢神宮とは、もともと天照大神の神殿では無く、
多気大神を遷したあとで、太陽神、天照大神の神殿に変えられたのです。

日本書紀の成立と時期を同じくして、天照大神を頂点とした日本神話が作られ、
神話に合わせて太陽神の神殿を作る必要性から、伊勢神宮を創出し、
多気大神を祀っていた度会の人々に、天照大神を祭るように配置換えをしたわけです。
7〜8世紀の朝廷によって創出された日本神話に合わせて、神道、神殿が整備されていったわけです。

勉強になりましたか?
83日本@名無史さん:2011/09/04(日) 07:47:51.74
おまえら、好きだよなw
「●●●の話を取り込むために、神話を創作したとか」そういう話w
何に根拠でそういう話をしているんだよw
84日本@名無史さん:2011/09/04(日) 07:50:22.77
>>83


神武東征は史実だ〜とか思い込んでるアホを教育するため。
85日本@名無史さん:2011/09/04(日) 07:52:11.47
>>80
それが誤解だろうがw
天皇の祖先のニニギは九州の出身ではない。
もともとは、ニニギは高天の原の出身だったが
出雲国譲りの後、九州高千穂に降臨したわけだから
ニニギの出身地は、高天の原だ。

では、高天の原とは、どこか?だが、
これは、どう考えても、葛城地方にある高天地区の台地のことだろう?
86日本@名無史さん:2011/09/04(日) 07:54:32.78
>>83
神武東征が史実かどうかは分からんけど
うんじゃ、完全に否定できるともいえないんだよ、あれはな。

ただ、多くの人が誤解しているが、あれ読んだら分かるが
神武東征ってのは、都を移したような大規模なものではない。
また、ワカミケヌ(神武)が東征する前も後も
倭国では、近畿地方のほうが栄えていて、日向は辺境地帯の扱いだったのがわかる。
87日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:04:08.14
また、ワカミケヌ(神武)が実在の人物だったとしたら
律令体制以後の世界と、ワカミケヌの時代とでは
色んな状況に違いがあったことを考慮しないといけない。
じゃないと、歴史解釈にいろいろ誤解を招くことになる。

たとえば、律令体制以後、ヤマトといえば、現在の奈良県全域を表していたが
おそらく、ワカミケヌの時代は、ヤマトといえば
現在の奈良県東南部の三輪山周辺である桜井市あたりをいっていて、
奈良県西南部の葛城市・御所市周辺のあたりは、葛城(高尾張)と言われている地域だった。

よって、神武東征時代の伝承では、ヤマト=奈良県東南、カツラギ=奈良県西南
と理解しないといけない。
また、カツラギは、元の地名は、高尾張といわれていたと日本書紀にあり
その高尾張のさらに西南の高地のあたりを高天(たかま)といわれていて
そのあたりの平原を高天の原と言われていたことを注意しないといけない。

だから、スサノオの神話で、やたら、ヤマトと高天の原が近くに感じられるのもそのため。
スサノオの神話見たら、ヤマトと高天原は至近距離にあって
出雲は遠くに離れていることが分かる。
でも、後世の人間は、そういう地名感覚がなくなっているから、
何のことか分からないわけで。

88日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:06:21.87
>>85-86

そこまで文献を読み込んでれば、
邪馬台国東遷なんて、妄想だってことがわかるだろう。

神話は、ある程度史実かもしれないが、そこに甘えて、オレ様解釈で、
邪馬台国の卑弥呼の子孫が東征した、なんて話は徹底的に教育的指導をせにゃならん。
89日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:10:16.48
よって、天孫降臨とは、
出雲国譲りの後、皇祖ニニギが
高天原(奈良県御所市高天)から高千穂(宮崎、熊本)へ
派遣された出来事を言っている。
では、誰が、ニニギに命令したのかと言うと
天照がニニギに命令したとなっている。

しかし、この天照が問題なのだなw
もともと女神アマテラスを祭りだしたのは天武天皇からという説があって
それ以前は、天照国照彦を男神アマテルとして
祭っていたとうう説がある。

この天照国照彦とは、皇祖ニニギの兄にあたる者で
この天照国照彦という通称も、天津と国津の両方の支配者って意味。
文字通り、出雲国譲りによって、天津と国津の両方の支配者って意味。
90日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:22:59.07
皆は正気でっか?

まず言葉の問題だが、神武天皇の場合は東遷と言い、応神天皇の場合を東征と
言う。よく似ているが意味が違うので混同しないように。
さらに言えば応神天皇の東征は歴史上の事実らしく(応神天皇陵、仁徳天皇陵が
その証拠、畿内の勢力は征服されたのだ)、神武天皇の東遷説話は応神東征をモ
デルに書かれた物語らしい。

なぜ高天原から神武天皇の物語が必要だつたかと言えば、天皇家の正統性を担保
するためで、持統天皇の頃の日本中の神々をまとめて一本の系列・系統にする
ために古事記が作られた。イザナギ(淡路島)、オオクニヌシ(出雲)、ハチマン
(宇佐)、ニニギ(日向)、サルダヒコ(伊勢)など、すべての神々が天皇家を日本
の正統とするために働いた、だから天皇家がトップだぞと古事記は書いたのだ。
91日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:26:35.11
>>89

天照大神のモデルは、もちろん、天照国照彦=天火明命のことだよ。
7世紀以前では、太陽神は「アマテル」として信仰されていた。
しかし、大王の祖神ではなく、民間信仰の日のカミとしてね。

日のカミには、地域によっていろんな呼び名があって尾張氏などは、天火明と呼んだ。

顕宗天皇の時、対馬に日のカミを祭らせた。
それが対馬市の阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)。
祭神は、天日神命。

当時では、日のカミは、「アマテル」「天日神」で、天照大神でも女神でもなかったし、皇祖神でもなかったことがわかるね。

しかし、ニニギの祖がアマテルかどうかは、また別問題だね。
葛城に高天原があった可能性は大いにあるが、そこからニニギが日向に派遣されたかどうかも、別問題。

ニニギは、純粋に日向神話のカミだろう。
なぜなら、日向神話に登場するニニギは、稲作伝来の投影に見えるので、成立は弥生時代初め頃と言ってもいい。
92日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:28:54.09
ヤマト・・・矢→的◎=中心。首都/首府
93日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:31:43.69
>>90

応神東征は、どうだかわからんが。

7世紀の朝廷が、天皇支配を正当化するために、日本中の神話を集めて、
地方の神を、天皇の下位に置いて日本神話を創出したのは、その通り。

7世紀に創作された神話を史実だとか言っても、何も歴史は語れないよ。
94唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 10:26:40.45
>応神天皇の東征は歴史上の事実らしく(応神天皇陵、仁徳天皇陵が
その証拠、

応神天皇陵の造られたのは、応神誕生から110年後である。
仁徳天皇陵が造られたのは、仁徳治世87年の西暦399年である。
この数字は、成務までと違い圧縮できない。

274年 応神誕生(275年神功元年)
323年 半島占拠(神功49年)
326年 七支刀(神功52年)←369年では、半島占拠が否定される。
ここから、倭に臣従する百済王家が記載されている(高句麗の属国時代の百済王家ではない)
407年 金官伽耶は、新羅軍に攻込まれ東半分を失う(3国遺事、広開土王碑)しかし百済本

の百済王家に高句麗に占拠された時代の記録がない。
413年 高句麗・倭が東晋に朝貢する。この時百済王映は、高句麗国に含まれる。
ソウルの積石塚はこの時代の高句麗の墳墓である。←決して百済王家近ショウコ王からの50年に成らない。
95日本@名無史さん:2011/09/04(日) 10:51:49.94
>>90
そんなこと、どこにも書かれてないぞw
なんで、わざわざ、そんな面倒くさい話を作らなきゃ
いかんのだw?

応神天皇が最初ならば、そこからスタートした歴史を記述すれば良いだけw
わざわざ、応神天皇を反映した架空の人物を作る必要がどこにあるのだ?
96日本@名無史さん:2011/09/04(日) 10:55:17.40
>>92
ヤマト=山処
山の麓って意味。
ヤマト王権のヤマトは
三輪山の麓にあったから、そのように呼ばれたと思われる。
97日本@名無史さん:2011/09/04(日) 10:56:48.71
>>91
なんで、おまえ、最初のほうは良い解釈なのに、
途中から、ぐだぐらになるんだよw
98日本@名無史さん:2011/09/04(日) 11:05:43.46
太陽信仰ってのは、日本各地にもあるし、世界中でもあることだ。

ただし、ヤマト王権が崇拝していたアマテルは、ちゃんとモデルがあって
それは、ヤマト王権の前身の王権を建国した
大王のことを崇拝していた。
その初代倭王こそ、天照国照彦。諱を火明(ほあかり)という。
出雲国譲りを実現させ、はじめて天津と国津の両方の支配者になった人物だ。
だからこそ、天照国照彦といわれた。
ヤマトの始祖アマテルは彼のことだった。

現在の天皇家の祖先のニニギは、この火明の弟にあたる。
だからこそ、天武天皇は古事記を編纂する時に
ヤマトの始祖アマテル(火明)のことが都合が悪くなった。
自分たちが崇拝するヤマトの始祖アマテルが、自分の男系の先祖ではないからだ。

もし、火明とニニギの父親であるオシホミミが初代倭王になっていたら
オシホミミを初代天皇として歴史を編纂すれば良いだけであったが
そうではないから、歴史を編纂する場合、苦労したわけだ。
天武天皇は、火明の嫡流の子孫である尾張氏とも揉めまくっているからねw
99日本@名無史さん:2011/09/04(日) 11:22:01.96
>>81
>伊勢神宮が、天照大神の神殿として建立されたのは、7世紀ですが。
>それ以前に伊勢に天照大神が祭られていたという証拠はありませんね。

>崇神、垂仁の記事を信用したとしても、皇祖神を都から遠く離れた伊勢の地に移すなど、
>不自然極まりない話しです。

その答えを教えようw
崇神が天照を宮中から離して祭った天照とは、
女神アマテラスではなく、男神アマテル。
正式名称を、天照国照彦。諱を火明(ほあかり)。
出雲国譲りを実現させ、はじめて天津と国津の両方の支配者になった倭王だ。

崇神ら、つまり、神武皇統らは、
この火明の弟のニニギの男系子孫。
出雲国譲りのあと、兄である倭王アマテル(火明)の命令で
九州高千穂へ派遣されたニニギの男系の子孫が、現在の天皇家。

よって、本来は、この火明の嫡流の子孫である尾張氏こそが、
ヤマト王権の正統な祭祀の継承者だったのが、
ちょうど、欠史八代の時代(倭国大乱)くらいに、神武皇統が
尾張氏の先祖から、ヤマト王権の正統な祭祀権、つまり、倭王の地位を
奪ってしまったので、崇神は、始祖アマテルの祟りを恐れたのだ。
100唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 12:39:31.28
ホケノ山古墳
■纒向遺跡の東南端に位置する古墳時代前期の前方後円墳。
■前方部裾の葺石の一部を取り除き、瀬戸内系の壷・東海系の壷を副葬した木棺が埋葬してあった。
■主体部の埋葬施設は石積木槨(長さ約7m、幅約2.7m)で、その中に刳抜式木棺(コウヤマキ製5m)が収められていた。
■石積木槨からは、鋼鏃60本以上、鉄鏃60本以上、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類10口
前後、その他に加飾壷、画紋帯同向式神獣鏡、破砕鏡、鉄製農工具などが出土した。
■コウヤマキ製のくりぬき式木棺の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、
築造時期が3世紀第2四半期(225〜250)ごろと判明。

この鉄器および楽浪鏡は、任那建国後の証拠である。
この東海系の壷は、伊勢に遷宮した証拠である。
101日本@名無史さん:2011/09/04(日) 12:47:23.35
>>99

アマテル=尾張氏が、出雲国譲りをしたと?

面白い着眼点だな。実はいろいろ辻褄が合う。
尾張氏の熱田神宮が祭るクサナギの剣は、三種の神器の一つだが、なぜ尾張氏が持っているのか奇妙だね。
神話では、ヤマトタケルが、ミヤズヒメに預けたということだが。

クサナギ剣は、スサノオがヤマタノオロチを退治して、尾から出たもので、
それを天照大神に献上したというわけだが、
アマテル=尾張氏なら、クサナギ剣を尾張氏が持っているのは、ごく当然なことになるわけだ。
スサノオが直接尾張氏に献上したということだからね。

スサノオと天照大神の関係が、出雲と尾張の関係を意味するとしたら、いろいろ面白い事実が見つかるだろう。
出雲と尾張には、前方後方墳が多いのも、なにかしらの出雲と尾張の関係を示唆するね。
102sss:2011/09/04(日) 15:03:28.00
>>81
畿内説は都合の良いところを拾い読みして、都合よく解釈するものらしい。

天照大神は元々宮殿に祀られていた。崇神天皇の時代に災いが多発する、反乱が後を絶たない。
これを契機に出雲の大物主神が祀られる。災いは収まり、天照大神(と倭大国魂神)は宮殿を離れる。

どうして皇祖が宮殿を離れ、出雲の神が祀られるようになったのか。
恐らく、天照大神らの出雲の国譲りが関係していると思われる。出雲征服の祟りが崇神天皇の時代の
大災であり、出雲の大物主神が守り神となったからには、征服の張本人である天照大神らを
一緒の場所で祀るわけには行かなくなったのだろう。

天照大神は、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命に託され、大和国の笠縫邑に祀られる。垂仁天皇の時代になり
倭姫が天照大神が鎮座される場所として伊勢を定める。これらの頃から斎宮が始まる。

斎宮は、豊鋤入姫(崇神天皇)、倭姫(垂仁天皇) 、五百野(景行天皇)、伊和志真(仲哀天皇)
稚足姫(雄略天皇)、荳角(継体天皇)、磐隈(欽明天皇)、莵道(敏達天皇)、酢香手姫(用明天皇)
と天皇の皇女によって続いていく。

斎宮は、原則として独身であり、500人とも言われる大勢の女性に囲まれて生活しており、独身で千人の婢に
囲まれて生活していた卑弥呼に共通するものがある。
103日本@名無史さん:2011/09/04(日) 15:48:26.23
>>101
自分が思うに
現在の歴史と直接的に繋がるのが、
神話でいうところの「スサノオとアマテラスの誓約」の後からだと思うね。

これによって、オシホミミ、ホヒといった
皇室、尾張氏、出雲国造家の先祖が誕生したとあるが。。。
これ以降は、男女の性交渉によって子孫が繋がっていくのよ。
それ以前は、誓約とか剣で球が飛び散ったら
それが神(人?貴族?)になったという神話的な誕生秘話になっている。

実際に、天火明命に関する神社とかの伝承でも
オシホミミ命を事実上の最初の先祖としており
それ以前のアマテラスは存在しないか、あるいは、オシホミミよりも
ずっと前の先祖で、直接的に関係ないみたいな伝承になっている。
まあ、アマテラスは天武から祭りだしたという話があるくらいだからねw

あと、出雲国譲りとか実際に存在した歴史だと思うよ。
それのヒントが播磨国風土記にもあるよ。
出雲国譲りとは、ただ単に、ヤマト(タカマ)が、
出雲を武力だけで降伏させたのでは無いと思うよ。
出雲がヤマトへ禅譲した話で、それは母系継承になったのでは?と思う。

つまり、天火明命の妃が、大国主の王女の天道日女命で、
大国主は、娘の天道日女命が産んだ皇子である天香語山命に
倭王の地位を継承することを条件に譲ったように思うのだ。
104唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 16:08:14.86
ミ02009      アウのメヲ ヲはアメとなり 男は天となり
ミ02010      ヒのワなる メはクニとなり  日の輪なる 女は国となり
ミ02011      ツキとなる          月となる

アマテラスは太陽の象徴であり男である。

105レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 16:10:55.04
今回はオミアゲネタもまとまった虚構説もどちらもないので、雑談感想のみで
あい申し訳無く候。多少気になった箇所に感想を入れときます。
(返答は必ずしも不要ですので、あいスミ。勿論頂いてもOKでwす)

>>91
>天照大神のモデルは、もちろん、天照国照彦=天火明命のことだよ。

古事記好きのレス長としては、その情報そのものは全く違和感無い。元は
天照国照(天と地の神を兼任担当)として着任して、スサノウとの勝利者無き
決戦を経て、国照(地の神)要素が不確定になってしまったという古事記筋
ともそれほど相違を生じない。或は、この国照を地の神ではなく、大和地方
と解釈しても、これも違和感を発生させない。

>>92>>96
>ヤマト・・・矢→的◎=中心。首都/首府

ご参考までに、釈迦に豆知識を補充しておきますと、古事記の出雲箇所国譲り
前にて、羽山戸(ハヤマト)と言う地名が登場しております。出雲風土記にも
あったかな(ウロ覚え失礼)。
余談ですが、先日出雲風土記を読んでて、蘇山(ヨミヤマ)と言う地名
(か種族名?)を見つけました。余談類推でまたしても勝手に、前出雲勢力と
蘇我氏との関連性がキニナッテ来ました。
本題のヤマトの語源ですが、当方は山の戸(戸口)、つまり、本来は、山と山
との境の場所ではないか、と想定してます。これは単に地形としての山のみ
ならず、「山の神」そのもの同士の境をも表している物かもしれません。
106唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 16:12:13.91
ミ03058      アワウタに おさむハラミの
ミ03059      ミヤにいて すでにヤシマの
ミ03060      クニうみて いかんぞキミを
ミ03061      うまんとて ヒノカミをうむ
ミ03062      そのミナを ウホヒルギまた
ミ03063      アマテラス オヲンカミとぞ
ミ03064      たゝえます

天照大神の名はウホヒルギである。男の名前だ。
107日本@名無史さん:2011/09/04(日) 16:33:29.64
>>105
蘇我氏は比較的に歴史が新しい豪族だよ。
皇別氏族の武内氏の傍系貴族。
108レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 16:47:17.40
>>98
>天武天皇は、火明の嫡流の子孫である尾張氏とも揉めまくっているからねw

天武天皇の敵味方対関係が古事記監修に大いに影響を与えたと想定する考えは
共感できる。古事記ではそれを匂わす箇所は少なからず散在するとも見れる。
少し横にズレルかもしれないが、物部の始祖の苦しげな解釈も、蘇我を蔑と
するならそれ以前の従来説からすると、当然物部氏を少しアゲてテコイレし
なければならなかった筈とも考えられるし、天武天皇以降の皇室儀礼において
物部式が主流になった事実とも相反しない。これも傍証の一つかもしれない。

>>103
>自分が思うに現在の歴史と直接的に繋がるのが、神話でいうところの
「スサノオとアマテラスの誓約」の後からだと思うね。

貴殿の思いを尊重した上で、当方の感想を申しますと、タカミムスビまでは
遡れると想定しています。(ま、あまりこれを言うと、現学閥の日本古代史
専門家からは白い目で見られるんだけどネ、ウハw)しかしながらもしかした
ら検証可能?な範囲は貴殿が想定している範囲までが限度かもしれませんね。
これも少し余談に流れますが、コノハナサクヤヒメとかも、人間の寿命をそこ
から規定する神様として古事記にも登場しますが、黄泉の国(蘇の国)の規定
との前後関係や、神代と人代との間の大王のご長命を鑑みるに、歴史そのもの
では無いにせよ何かしら歴史イベントを暗喩している伝説なのかもしれない。
109太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 16:48:54.33
>宿主
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

天文計算〜
メトンを出したところで、朔が数日間継続しないくらい分かるはずの
野郎が、日食も数日間継続しないことくらい〜天文計算で日食で90%以上
欠けてのみの短時間だけ暗黒になることも含んで分かるはずだぜ。

それを曲げない妄想野郎はなおもインチキ・ホツマ解釈をがんばっていて、
脳内がこれに完全に蹂躙、麻痺されているというわけだ。ww
110レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 16:50:04.44
つまり、コノハナサクヤヒメの件に関してのみ言えば、
「その時コノハナサクヤヒメがいないとイロイロおかしくなる」と言う歴史
イベントがあった、とすると、コノハナサクヤヒメが登場する以前の世界が
その前にあった。つまり「神や人に特殊事情として寿命が無い例外があった」
前時代が、そこらへんまではあった、と想定する方が自然、とこうなります。

何故古事記が神話の部分と人皇の部分に分かれるか?当方の感想としては、
古事記編集時代(の権力学閥)において、神話部分の時期区分は、最早検証
不可能であった内容で、人皇部分の時期区分は、編集時代においては、ギリ
ギリ検証可能であった、と想定すると、ツジツマは合うと思うのです。
111太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 17:03:08.40
アマテラスは太陽の象徴であり女である。

112レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 17:05:41.85
>>107
>蘇我氏は比較的に歴史が新しい豪族だよ。皇別氏族の武内氏の傍系貴族。

古事記の基礎情報では、そこは異論は無い。息長系皇族・物部氏・中臣氏に
とっては「そうでなければならない」のですから、当然そうなる筈。ジグゾー
パズルを組み立てなおしても、蘇我の祖神を古事記の神代に探すのは不可能。
なぜなら、国譲り以前の出雲の神話体系に属した神を祀った氏族かもしれない
のだから。(つまり大和神話の神の中にはいないし、置けない)
つまり、もし「事後編入」するとしたら、蘇我の祖先を人皇の部分に挿入する
しか手が無いのです。

古事記を編集させた天武天皇が、その巻頭で述べていますが、
「(蘇我と共に)焼失してしまった古代伝承においてはワケワカメな内容が
多かった」とあります。これは読み方を変えれば、
「蘇我の伝承は、息長系のオレには、全くワケワカメだった」と言うだけの
意味合いに過ぎないのかもしれない。

以上の傍証から、古事記が主張するよりもっと意外と蘇我氏は古かったん
ジャネ?と言う可能性が発生し得るのです。
なぜワケワカメだったか?それは、例えば「長命」を、蘇我系は「蘇えり」で
解釈し、息長系は「延命術」で解釈していたら、どうでしょうか?そう、この
場合、両者はお互いを相容れる事はかなり至難となりましょう。
113レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 17:27:58.44
当方想定の蘇生術と長命術の葛藤の可能性に関しては以前に先述しましたが、
新しい人の為に敢えて再述しておきます。(勿論信じなくて結構ですが)

例えば、ヤマトタケル(個人名?役職名襲名?)さんが、口承伝説において、
代をまたいで度々登場される場合、後代学者(つまり蘇我時代〜天武時代)は
どのようにその矛盾を解釈しなければならないか?ここが争点です。
或る学閥は、「古代は蘇生術があり、ヤマトタケル様は度々蘇生なされた」
とし、また別の学閥は、「古代は長命術があり、ヤマトタケルは長命だった」
としたとします。そうすると、二つの学閥の見ている「当時の歴史の全体像」
は、当然全く違った物になってくる筈なのです。

息長系は、この蘇えり(黄泉還り)を、「コノハナサクヤヒメまでだよん」と
規定します。従って、その後の長命者には、「補足説明」が必要になります。
従って、武内宿禰は「役職名」になり、ヤマトタケルは「神」にするしかあり
ません。神武以降の数代は「神が人との融合を重ねて行く」ので「自然と後代
になるに従って短命(通常の寿命程度)になって行く」と、こうなります。

しかし、この解釈は、果たして蘇我系(の聖徳太子)の編纂した、旧辞・本紀
の武内宿禰解釈やヤマトタケル解釈と一致するのでしょうか?もし、蘇我が
「蘇生術」説を採る、前出雲王権文化の、当時までの最終継承者であったと
したならば、当然宿禰やタケルは、前出雲のラスボス大国主のように、最低で
も2〜3回は生き返ったと、こうなっていたかもしれません。
114レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 17:43:24.82
以上、脱線板違い、大変すみませんでした。(自分にハッシュドウドウ)
アマテルクニテルのアマテル部分だけが、スサノウとの戦いの後に出雲以外の
土地では残留した。(クニテル部分はスサノウに争奪されたか、或は管理者が
ウヤムヤになった)と言う解釈は古事記からは可能、と、これだけですね、
板の話とすると。余談が多すぎました、反省。
ちなみに、その当時は大和地方が、アマテルクニテルの物であったか、それ
とも出雲ベースのスサノウの物であったかは、ここの今回では不問。
前大和王権は、こう考えると、出雲と九州の両方に恐らく二面外交をしていた
と想定すると、筋としては自然です。
115日本@名無史さん:2011/09/04(日) 17:46:26.95
武内は姓だが、宿禰って、もろ役職名とかだろう?
ちょうど、武内長官とか、武内大臣とか、武内首相みたいなかんじ。

しかも、この時代は、役職は家柄で決まっていたから
武内宿禰が複数代くらいいたというのは、なんとなしに納得できる。

あと、この当時は暦の数え方まで違っていて、そのせいで高齢だっただけだから
それらと合わさって、あういう長寿の伝承が残ってしまったように思うよ
武内宿禰に関しては。
116日本@名無史さん:2011/09/04(日) 17:55:17.31
物部氏に関しては、ニギハヤヒの男系子孫なんだよな。
このニギハヤヒは、新撰姓氏録では、
天火明命とは別神とされ、よって、天孫ではなく、天神とされる。
天孫とは、ヤマト王権の王族から分離した親藩豪族で
天神とは、ヤマト王権の譜代の豪族。

ニギハヤヒの正式名称は
天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命で、略して櫛玉命ともいう。
櫛玉=奇魂のこととされていおり、これは形見と言う意味。

そんなことから、神武東征の原因になった、ニギハヤヒの反乱とは、
天火明命の形見(遺児?御落胤?)をなのるニギハヤヒが
妻の兄のナガスネヒコと共謀して天下を奪おうとした乱だと思う。

それをヤマト王権の一族であったワカミケヌ(神武)が
援軍として駆け付けた話。
実際に、ワカミケヌ(神武)を畿内で待ち受け案内した神(豪族?)の中には
ヤマトスクネとか、高倉下とか、天火明命の男系子孫といわれる登場人物が
多く出てくる。
彼らはニギハヤヒのクーデターにより、一時的に、苦境に立ったけど
九州南部にいた親戚筋のワカミケヌ(神武)が援軍としてかけつけ、
ニギハヤヒを降伏させ、ナガスネヒコを倒した話だと思う。
117レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 18:09:06.93
>>115
>あと、この当時は暦の数え方まで違っていて、そのせいで高齢だっただけ
だからそれらと合わさって、あういう長寿の伝承が残ってしまったように思う
よ武内宿禰に関しては。

補足説明&定説の再確認ありがとうございます。宿禰の長寿伝承が、古事記
以降も無視できないほど流布残存していたので、書紀で反動が(古事記に抵触
しない範囲で)図られたと言う可能性は残ります。
もっとも、当方も、「武内宿禰、実は超長命だったんじゃね?」と言う判断も
確かに、非科学的で合理性に欠く事は認めます。しかしながら当方の争点は、
「蘇我氏の歴史研究者が、それらをどう判断したか?」の点でありますので、
蘇我氏が武内宿禰を「ほぼ神のように」把握していたなら、当然その(古事記
からわかる範囲での大元の)始祖の寿命は長かった可能性、或は宿禰登場の
伝承逸話が(古事記以前の伝承にては)数代・数十代にまたがっていた可能性
は残存するのではないかと邪推する当方なのです。
118レス長たらし毘古:2011/09/04(日) 18:21:01.83
>>116
>天火明命の形見(遺児?御落胤?)をなのるニギハヤヒが妻の兄のナガスネ
ヒコと共謀して天下を奪おうとした乱だと思う。

古事記は、ニギハヤヒの祖先系を規定も判別もしておりません。この事から
邪推すると、天火明命の遺児・或は御落胤と言う可能性は残存するかと思われ
ます。(私家文書では好き勝手書いても公としては関与しないが、公(大和
朝廷)としては判別はシナイヨと言う態度になります)そしてもしその可能性
だとすると、当然、ニギハヤヒにも、イワレヒコ(神武大王)と同じくらいの
後継正当性が発生する事にもなります。
そんな大事な事を、規定も否定をもしていないところを見ると、ニギハヤヒの
イワレヒコへの恭順の件や、ニギハヤヒの末裔を触れるのをはばかりながらも
蔑ろにはしていない古事記記述は、逆に信憑性が高いと当方は想定します。

ましてや(当方想定では)その後暫く、命からがら生き延びたナガスネヒコは
神武王権にゲリラ戦にて徹底抗戦している筈なのですから。(あ、ここは
信じてもらわなくても結構ですが)
119太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 18:53:24.04
武内宿禰のころは、朝廷が倍年暦法を行使していたため、実際の年齢は
1/3 あたりに来る。
120日本@名無史さん:2011/09/04(日) 18:59:27.74
>>118
ニギハヤヒに関しては、物部氏は天孫と自称していたけど、
皇室や尾張氏などは認めてなかったぽいね。
そういう対立がずっと、あったのかもしれん。
ニギハヤヒは一応、天神とはされているけど、それ以前の先祖が書かれてなくて
他の豪族に比べて、新しい時代の神(豪族?)のニギハヤヒが最初の先祖とされているから
御落胤問題?の真相をめぐって、争っていたのかもしれない。

ちなみに、ニギハヤヒは高天原から天岩船に乗って河内に降臨して、
その後、ヤマトに入ったらしい。
高天原とは、葛城地方の高天のことであり、御所市や葛城市のあたり、
河内は大阪で、葛城とは河川で結ばれている。
また、この場合のヤマト(山処)とは、三輪山周辺で
現在の桜井市周辺だな。奈良県全域がヤマトになるのは、もっと後の世。

よって、ニギハヤヒは天火明命の御落胤?として
高天(御所市高天)か高尾張(葛城市笛吹)のあたりで産まれ
その後、河内に移り住んだけど
成人して、ヤマト(桜井市・天理市のあたり)に移りすんだのかもね。
それで、妻の兄であったナガスネヒコ(ナガスネの領主)に担がれて
高尾張王権(ヤマト王権の前身)の倭王の地位を継承しようとして
内乱になった、というのが本当のところか?
121サガミハラハラ:2011/09/04(日) 19:41:21.08
今、倭国の政治形態を絞殺しているのであるが、どうやら伊都国には天皇がいたようである。世世王有りの王が天皇であったようである。
122日本@名無史さん:2011/09/04(日) 21:11:30.11
天照大神のモデルが、アマテル=天火明命=尾張氏、海部氏系の祖神ということに、
注目してる人が増えてるのはいいことだね。

いつまでも、天照大神=卑弥呼とかいう妄想がはびこってたんじゃ、レベルが低すぎてかなわん。

ただ、アマテルが近畿の支配者だったとまでは思わない。

アマテルは、あくまでも、地方豪族が祭る、地方神にすぎなかったろう。
後に、アマテルを祭る地方豪族が権威を増してきて、アマテルも太陽神として有名になり、
ヤマト王権の神話に太陽神・天照大神として採用されたと見る。
天武以後のことだろう。

天武は、壬申の乱に挑む前に、吉野で天照大神を拝んでいる。
これは、アマテルを奉じてる尾張氏に、援護を求めているという意味。
123日本@名無史さん:2011/09/04(日) 21:31:11.18
>>122
おれは、天照国照彦が倭王の地位についていたと思うよ。
紀元0年前後くらいか?
日本列島のかなり広範囲を支配下におさめたと思う。
ただし、まだ歴史が浅いから、とうぜん、
近畿に逆らう勢力が各地にいたように思うよ。
だから、この高尾張王権(葛城・御所)はたえず反乱にあっていて、統制力が崩壊していたと思う。
それで、神武東征、倭国大乱(欠史八代)みたいなことが起っていたように思う。
とくに倭国大乱では、天照国照彦の男系の末裔は
ニニギの男系の末裔にやぶれて、現在の愛知県に追放された。
尾張氏の誕生だ。
この時に、ニニギの末裔で倭王になったのが、
ヤマトトトヒモモソ媛命。女王卑弥呼だ。

なぜ、天照国照彦の末裔に正統性があるのかと言うと
大国主から天照国照彦への国譲りが、母系継承もあったから。
大国主の王女の天道日女命が天照国照彦の妃になっており
大国主と天照国照彦は義理の親子の関係でもあった。
124日本@名無史さん:2011/09/04(日) 21:43:48.71
>>123

ヤマトトトヒモモソヒメは、吉備系の巫女だと思うけどな。
弟が吉備津彦だし。

吉備の巫女がヤマトに奉じられて、そこで卑弥呼になったんだと思うよ。
ヤマトの前方後円墳や埴輪は、吉備の墓制や特殊器台にルーツがあるわけだし。
125日本@名無史さん:2011/09/04(日) 21:48:34.17
イザナギ、イザナミの国生み神話は淡路島から生まれているが、
日本神話の創世神話に、瀬戸内海の神話を借用してるのがわかるね。

これは、ヤマト王権の王族が、瀬戸内海の神話を親しみを持ってよく知ってたからに他ならないよ。

126日本@名無史さん:2011/09/04(日) 22:09:45.69
>>124
モモソ媛命の出身地は、奈良県桜井市に隣接する田原町な。
このへんには、桃太郎の話でモデルになった河川も近くにある。
ヤマトトトヒモモソ媛命は、あくまでもヤマトの出身だけど
彼女の同母弟や伯父が吉備の国主になった関係から
纏向遺跡には吉備に関する遺物が多く登場するだけだと思う。
吉備とかは、恵まれた平野とかがあるし、
昔から時の中央政権に近いものの領地になったりしたでしょう?
豊臣政権では、養子の宇喜多秀家の領地だったし
徳川幕府では、家康の娘婿の池田家の領地だったし。
足利政権では、幕府の重臣だった赤松家の領国だったしね。

同じように、ヤマト王権でも、吉備は重要な地域で
ここには、ヤマトの王家の重要な人物が領主として配置された。
127日本@名無史さん:2011/09/04(日) 22:13:01.16
>>125
なんで、淡路島の神話が最初に来たのか分からん。
まあ、なんとなしに、高天の原の近くから
大阪湾にかけて重要な河川が流れていて
高天の原〜大阪湾〜淡路島〜瀬戸内海と重要な水上交通が栄えていたように思う。
そんなこんなで淡路島の話が高天の原に紛れ込んだのかと思うな。
128日本@名無史さん:2011/09/04(日) 22:34:29.84
>>127

紀伊〜葛城というラインはどうかね?

紀伊には、日前神宮があって、天の岩戸神話の鏡を御神体にしてる。
崇神紀にある、天照大神を祭った巫女のトヨスキイリヒメの母は紀伊出身。
129日本@名無史さん:2011/09/04(日) 22:40:15.07
>>128
ほう...そちらのラインもあるだろうね。
まあ、あのあたりは全部近いからね。
葛城地方は、奈良県西南部で、南へ行くと
和歌山県の橋本市のほうへ抜ける道があるしね。
また、葛城地方には、高天山があって、これは大阪側からは金剛山といわれていて
現在では金剛山という名前のほうが一般的だが。。。
130日本@名無史さん:2011/09/04(日) 23:14:58.41
その天の岩戸って、日前神宮の東に連なる山々のこと。
太陽は東の山で生まれて西の海に沈む、という思想からアマテラスを岩戸から呼び出すという発想をした。
その意味では、日前神宮と同じ発想でつくられた祭祀場はいたるところにあると思う。
131sss:2011/09/04(日) 23:32:00.63
>>120
饒速日命は、神武天皇と同じく天神の子で、高天原から天磐舟に乗って大和にやってきた。
瓊瓊杵尊は、高天原から日向の高千穂に天降った。山に降り立ったわけで、舟は使っていない。
神武天皇(神日本磐余彦)は、日向からもちろん舟に乗って東征のたびに出た。

このように考えると、高天原は日向とは陸続きだったと考えられ、大和は日向からと同じように、
高天原からも舟でやってくる場所と考えられる。

ちなみに、高千穂には二つの説がある。北部の高千穂町と南部、霧島連山の高千穂の峰。
面白いことに、九州の西側から宮崎にやってくるには二つの経路があるが、その二つに
高千穂があることになる。

だいたい、葛城地方が高天原としたら、いきなり日向では不自然だろう。饒速日命も不自然。
132日本@名無史さん:2011/09/04(日) 23:51:23.51
天と海は実は同じ空間。
133sss:2011/09/05(月) 00:21:35.13
ついでに言うと、記紀の最初の舞台は高天原だが、なぜか出雲についても詳しく書かれている。
瓊瓊杵尊が日向に降り立ってからは、日向が記紀の舞台になる。

つまり、記紀の主要な舞台は、高天原と出雲と日向。神武天皇以降は大和に移る。
どうして、出雲と日向の間にあって古代最も栄えた北部・中部の九州が全く登場しないのか。

それはこのあたりが高天原だったからだと思う。そう考えることによって、出雲の国譲りも
天孫の日向降臨もわかりやすいし、北部・中部九州の存在も生きてくる。
134日本@名無史さん:2011/09/05(月) 00:22:00.13
葛城には、高天原の伝承地があり、
九州には、高天原は無い。

九州では原は「ハル」と発音する。
高天原は「ハラ」と発音する。

よって、高天原の場所は、真っ先に九州は除外される。
135日本@名無史さん:2011/09/05(月) 00:26:44.03
国譲りの冒頭に、最初に登場する地名は、美濃国である。

国譲りに派遣されたアメワカヒコの墓が美濃国にある。
日本書紀にも、古事記にも明記してあること。

アメワカヒコを祭る神社は、近畿にのみ存在する。
つまり、美濃国が国譲り神話の最初の伝承地だったことがわかる。

美濃国でアメワカヒコが死に、出雲にアメノホヒが降り、日向にニニギが降りたというわけであり。
これは、近畿からみた世界観である。
もちろん、創作されたものであることは、言うまでもないが。
136日本@名無史さん:2011/09/05(月) 00:56:52.82
>>134
何でそう「原」に拘るんだ?
ハルとバルは大きく違うぞw九州人ホローしてやれよ。
137日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:04:40.50
>>131
高天の原とは、高天という地域があって、そこの原野と言う意味。
ここの領主は、高天彦といった。高天彦神社が今でもある。
ちなみに吉備の領主は吉備津彦、ナガスネの領主はナガスネ彦、
イワレの領主ならばイワレ彦だ。

高天とは、現在の奈良県御所市高天のこと。
googleアースで地図を見れば、なんとなく想像できるが
現在の奈良盆地があって、そこの西南部に高天と言う地域がある。
奈良盆地の中でも一番土地が高いところで
うしろというか、南部は和歌山に抜けられるようになっており、
安全保障上も有利な地域にある。
ヤマト王権が拡大、政治的に安定するにつれて、徐々に低地に下がり
ヤマト(山処=桜井市周辺)、ナラス(奈良市)へ中心地をずらしていった。
138日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:04:40.30
高天原は壱岐だろ。畿内じゃない。
139日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:11:01.84
高天の原は、畿内。
つーか、葛城地方の西南部。
現在の御所市高天とその周辺。

延喜式の名神大社である高天彦神社がある。

出雲国譲り戦争とは、近畿と出雲の戦争だが
その緩衝地帯にある播磨の国に、その伝承が残されている。
播磨は古来から、近畿と中国地方の勢力の激戦地で
戦国時代においては、毛利家と織田家がここで激突した。

播磨国風土記によると、出雲のオオナムジ(大国主)が
義理の息子(娘婿)の火明命(天照国照彦)に降参する話が出てくる。
140日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:11:03.38
いずれにしても、地上の支配者として降臨したニニギと日向三代が、
ちっとも九州の王らしくないし、王に即位したとは書かれていない。
ニニギが初代天皇でないのは、おかしい。

ニニギが日向に降臨した時点で、日向から見れば、ニニギが初代大王なのは自明。
4代目の神武がヤマトに東征したというなら、ヤマト王権の始まりは、日向王朝の分家と言うことになる。
しかし、東遷説からも日向王朝という言葉を聞かないのはなぜかね?

答えは簡単、
日向神話が、もともとヤマト王権の皇統とは無関係だったからだ。

141日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:19:36.49
>>140
なんで、そういう解釈になるんだw?
せっかく、良いところまで行っているのにw

ニニギは、初代倭王とは言えない。
記紀によると、出雲国譲りの直後、九州南部の高千穂に降臨したとある。

しかし、出雲国譲りの時の高天王朝のトップは、天火明命だった。
ニニギ命の兄とされている人物だ。
通称を天照国照彦といい、これは、出雲国譲りを実現させることによって
天津神と国津神の両方の支配者になったという意味。

天武天皇にとって、自分の先祖であるニニギ命が初代倭王ではなく
ニニギ命の兄の火明命が初代倭王というのは、非常にまずいことだった。
火明命を初代天皇として崇拝するわけにはいかなかった。
尾張には、この火明命の嫡流の子孫である尾張氏がおり、
三種の神器の一つ、天叢雲剣を保管していた。
神武皇統が保管しているものは、そのレプリカに過ぎない。
そこで、記紀において記述面で苦心するのだ。
だからこそ、あういうややこしい記述になった。
142日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:30:03.51
>>140
ヤマト王権を足利政権に例えると分かりやすい。

天火明命を足利高氏にたとえるのなら
ニニギ命を足利直義にたとえてみる。

足利高氏が京都に幕府を開き、足利初代将軍になる。
一方、足利直義は地方を抑えるために
関東公方とか九州探題の長官になるみたいな感じ。

天火明命は出雲国譲りさせて、事実上の初代倭王になる。
一方、ニニギ命は地方を抑えるために
九州南部の高千穂へ派遣され、そこの知事に就任する。

現在の天皇家は、初代倭王の天火明命の男系子孫ではなく、
このニニギ命の男系子孫。
この場合、ニニギ命の男系子孫である大海人命(天武天皇)は
古事記を書く上で、天火明命を初代天皇にはできない。
143日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:40:51.76
>>141
天照大神のモデルが、天火明命であること。
天火明命を祖神とする尾張氏。
尾張氏が、三種の神器の一つ、天叢雲剣を保管していること。

これらは、スッキリ辻褄が合うので、間違いないことだろうな。
天叢雲剣は、天火明命から授かった尾張氏の神宝だったが、
後で、天火明命が天照大神にすりかえられたために、尾張氏の天叢雲剣は朝廷の神宝になってしまった。
一時期、天叢雲剣は宮廷に保管されていたが、熱田神宮が取り戻すことに成功した。
天叢雲剣が熱田神宮に戻されたことを祝う神事が、いまでも熱田神宮に残されている。



しかし、ニニギが、葛城から日向に派遣されたというのは、どうかな?
史実とするには、まだ論証不足だろう。

144日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:45:45.59
>>142

ニニギが、九州南部に派遣された時期は、西暦何年頃と想定してるのかな?

畿内で、卑弥呼が共立されるよりも前のことだとは思うが、
弥生時代末に、日向と近畿の考古学上のつながりが判然としない。
近畿の土器が、日向で見られるという事実があればいいのだが。
145日本@名無史さん:2011/09/05(月) 01:56:07.17
ニニギは、対馬から九州北岸に派遣されたわけだが。
146日本@名無史さん:2011/09/05(月) 02:18:48.24
>>144
明確な年代分からない。
ただし、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命ならば、
出雲国譲りって、紀元前1世紀〜紀元後1世紀くらいでしょう?
神武東征で紀元後1世紀中ごろ〜後半くらいか?

漢書王莽伝によると、西暦5年に、東夷の王が大海から朝貢したとあるんだよね。
この王が倭王の可能性があり、だとしたら、
大国主命とか、天火明命とか、ニニギ命とか、天香語山命とか
そういう時代の話になると思うんだけどね。
ちなみに、この時代、王莽の時代の中国の通貨が
岡山で大量に出土されたりしている。
つまり、この時代、すでに倭国には中国の通貨がかなり流通していた可能性が高い。

>弥生時代末に、日向と近畿の考古学上のつながりが判然としない。

考古学上の証拠も当てにはならんからね。
戦国時代や江戸時代なんかの歴史は文献で分かるわけで
この時代に文献がなく、土器だけで判別しようと思ったら
とてもじゃないけど、あういう歴史があったことなんて分からんよ。
ただし、時代は卑弥呼よりも後にあるが
日向のあたりは、北九州なんかよりも早く前方後円墳が造られたりしているから
ヤマト王権は日向を特別視していたことは想像できる。

>>145
ニニギは、葛城の高天から、九州南部に派遣された。
平安時代の文献で何だったか忘れたけど
高天原とは、葛城の高天の原だと明言している。
147日本@名無史さん:2011/09/05(月) 02:27:53.12
ニニギの九州侵略は紀元前100年ごろだろうから、
天武が九州の出来事を畿内であるかのように偽装して
永年過ぎた平安時代には、事実が分からなくなっていたんだろう。
148日本@名無史さん:2011/09/05(月) 02:38:12.94
>>147
なんで、そういう解釈になるんだw?
天武がそういうことする意味が分からん。

記紀を読めばわかるけど
記紀では、というか、天皇家では
天火明命、ニニギ命の父親に当たる
天オシホミミ命の代にも出雲国譲りをしようとしたことを
いちおう、書いているんだ。

そこが、天皇家の精いっぱいの思いでしょう?

天オシホミミ命は、弟の天ホヒ命を出雲へ派兵させたけど、
失敗したみたいに書いている。

で、天オシホミミ命の時に出雲国譲りを実現させていれば
天オシホミミ命が、天照国照彦として崇拝され
彼が、初代天皇として記載すれば良かった。
天オシホミミ命が初代天皇ならば、神武皇統の天皇家も
この天オシホミミ命の男系子孫だから、全く問題ない。

でも、実際は天オシホミミ命は出雲国譲りできず、
彼は近畿の地方豪族のままで終了した。
149日本@名無史さん:2011/09/05(月) 02:44:15.59
ちなみに、ニニギ命や天火明命の父親にあたる
天オシホミミ命を祭る式内社が京都府にある。
式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであることから、
鎌倉時代の『釈日本紀』には「許波多神社に座す神は宗廟の神として、
他と異にして尊崇すべきである」と記されている。
永禄12年(1569年)には最高位の正一位の神階を受けた。
戦国時代、戦火により社殿のほとんどを焼失し、古伝も失われた。

現在、天オシホミミ命を祭る神社は日本各地にあるが
もっとも古くからあり、式内社にされているのは、この神社だけである。
天オシホミミ命は高天原で生涯を終えた人物であり
それが近畿地方に存在してある。
150日本@名無史さん:2011/09/05(月) 03:58:04.29
>>149

かなり調べてるね。

>式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであることから、
>鎌倉時代の『釈日本紀』には「許波多神社に座す神は宗廟の神として、
>他と異にして尊崇すべきである」と記されている。

これは、揺るがしようが無い有名な事実だから、
いまだに東遷とか言ってるやつは、不勉強にもほどがある。
ちょっとは、他の文献に何が書かれてるか、自分で調べてみればいいんだよ。

アメノオシホミミは、アマテラスの子で、アメノオシホミミを祭る神社が畿内にしかないのだから、
アマテラスもまた畿内発祥の神なのは自明。

しかし、ニニギが系譜通りに近畿から日向に降臨したといのは、やっぱり考古学上の証拠が欲しいところだね。
151日本@名無史さん:2011/09/05(月) 04:20:20.94
>>150
考古学上の証拠って、どれくらいの証拠ならOKなんだろうか。
152日本@名無史さん:2011/09/05(月) 04:30:38.03
たとえば、共通の様式の土器があれば、交流があったことになり、
ニニギが近畿から日向に行ったことの傍証になる。

神武とニギハヤヒは、お互いの矢の印を見て同族と認識したようだから、
近畿と日向で、共通の鏃でも見つかればベスト。大当たり。

が、いまのところ、4世紀の日向から畿内と同じ前方後円墳ができることしかわかってない。

153163:2011/09/05(月) 06:46:21.68
では、アマテルやらモモソやらはジョーカー氏の大好きな、考古学上の証拠、
発掘は有るのかい?
154日本@名無史さん:2011/09/05(月) 06:50:25.62
ドンと来いでくだらない話でかき回したのは筑紫の民か?
さすがに違うか、師匠自体が○○なんだから
155日本@名無史さん:2011/09/05(月) 09:43:40.99
>4世紀の日向から畿内と同じ前方後円墳ができることしかわかってない。
日向から畿内か畿内から日向か。

156日本@名無史さん:2011/09/05(月) 10:06:31.01
>>150
絵画土器

絵画土器は宮崎平野部から内陸部へは都城盆地まで、南は大隅半島の肝属平野の範囲、瀬戸内海系土器は、宮崎平野と
肝属平野に限られる。この地域は「7対3の弥生社会」と見なすことができ、そしてこの分布の範囲が、後の前方後円
墳の分布と重なるのである。すなわち、弥生時代に開拓された畿内・瀬戸内海地域と交流を持つ地域の中で前方後円墳
は広がるが、逆に言えば、古墳時代に至ってもその領域を広げることは出来なかったとも言える。

宮崎では多くの絵画土器を出土するし、近畿も同様である。瀬戸内海を通じて南九州が畿内と交流があったとすると、
どうして銅鐸が伝わってこなかったかが一つの謎である。南九州には青銅器が無い。銅鏡も出土は10例もない。

http://inoues.net/study/seminer3.html
157ひとぶた:2011/09/05(月) 10:25:39.00
天孫降臨の地、
「筑紫の日向」の久士布流多気が、現在の宮崎県である必要は無いと思いますけどね。
158日本@名無史さん:2011/09/05(月) 10:27:10.50
>>155
畿内から日向な。
その間の北九州を飛ばして、先に日向で作られている。
159日本@名無史さん:2011/09/05(月) 10:28:59.21
>>157
筑紫ってのは、古代においては九州全域な。
また、日向は、宮崎だけではなくて
鹿児島も含まれる。
160ひとぶた:2011/09/05(月) 11:00:31.25
>>159

宮崎と鹿児島に限定するんですか?
「日向」・・・「日に向かう」くらいの意の形容語で、
要するに「九州島内であれば何処でもOK」的な説は昔からありますよね。
161日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:18:31.43
>>160

いや、日向が、南九州限定なのは常識だから。
162日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:22:51.46
>>158
>畿内から日向な。その間の北九州を飛ばして、先に日向で作られている。
単なる思い込みだな。日向から畿内だろう。


163日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:22:58.67
全方位、日に向かうのは厳密に言えば南端。
164日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:36:39.09
>>162

日向は畿内よりも後進国で、青銅器も無いし、なにも文化はありませんよ。
165ひとぶた:2011/09/05(月) 11:44:59.29
>>161

「常識」なんですか?
記紀神話で「日向」なんて用語自体、あまり出てこないのですが・・・
例えば国産譚では九州をどのように表現してましたっけ?

166日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:50:45.70
青銅器時代がなく、いきなり鉄器に移行したということは、璧から察するに
中国南部からダイレクトに文化が伝わっていたのではないかと思う。
167日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:54:56.26
国産み神話は、淡路島の神話だから、もともと九州は関係ないんだよ。
168日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:57:50.92
>>166

伝わってないし。
北部九州で鉄器や青銅器が豊富にあった時代にも、南九州は青銅器すら無かった。
それだけ、日向と北九州は交通の便が悪かったんだろうな。今でもだが。
169日本@名無史さん:2011/09/05(月) 12:00:31.42
遠回りして北部九州を経由する必要がない
170ひとぶた:2011/09/05(月) 12:07:51.17
>>167

【古事記】
次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。
故筑紫國謂白日別。
豐國謂豐日別。
肥國謂建日向日豐久士比泥別。
熊曾國謂建日別。

「日向」っぽい字面は「肥」の「建日向日豐久士比泥」だけです。
「たけひむかひとよくしひね」って読むらしいのでが、どう区切ってよむのかも悩ましい。
「たけ|ひむか|ひとよ|くしひね」と読むと仮定すると
「日向」と言うのは「肥國」と関係するらしいことにはなりますが、
今度は、「肥國」と「宮崎・鹿児島限定の常識」との関係が判らなくなる。
困った。
171日本@名無史さん:2011/09/05(月) 12:15:09.87
>>170

それ、国名じゃなくて、古代の国王の名前だと思うよ。
172ひとぶた:2011/09/05(月) 12:29:17.08
>>171

はい、神話においては、島も神様の化身(成れの果て)ですので、
地名と神名を両有することもあるでしょう。(でもここで「国王」と言わんでもw)
要は「日向」と言う言葉の使われ方が「宮崎・鹿児島限定の常識」であるかどうかと言うこと。
173sss:2011/09/05(月) 14:38:40.22
>>170
九州をどうして九州と言うのかというと、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、
薩摩、大隅の九つの国があったから。
ちなみに、関東は、八つの国があったから、昔は八州と言っていた。
常陸、安房、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の八つ。

というわけで、日向が宮崎であるのは常識だが、古代は、宮崎と鹿児島を含めて日向と
呼んでいた。日向から薩摩と大隈が分離したのは、大和朝廷の隼人支配が理由で、
7世紀終わり頃か8世紀初頭とされる。

日向三代の公式の御陵は、瓊瓊杵尊が薩摩川内市の可愛山陵、彦火火出見尊が霧島市の
高屋山上陵、鵜葺草葺不合命が鹿屋市の吾平山上陵と全部、鹿児島県にあるのは
そういうわけだろう。

もっとも、これが正式に決ったのは、明治時代で当時、政府で力を持っていた薩摩藩の
力が大きいと言われる。決定に当たっては、宮崎県の有力候補地とかなり熾烈な争いが
あったらしい。
例えば、可愛山については、有力な候補地が延岡市にもあり、陵墓伝承地となっているなど
宮崎県にも陵墓参考地などがけっこう多い。

昭和天皇の日向好きは有名で、よくぞこれほどと言うくらい多くの場所を訪問、参拝して
いるし、回数もかなり多い。宮崎神宮などは8回も参拝している。
174日本@名無史さん:2011/09/05(月) 14:49:25.74
>>173

いみじくも明治の時代の地方権力者によって、神話が作りかえられたことを認めたわけだ。

8世紀、記紀が書かれるときも、同じように地方豪族の力関係で神話の舞台が決まった事だろう。

これで、記紀を信じて東遷説をぶちあげてるんだから噴飯ものだ。
175日本@名無史さん:2011/09/05(月) 15:08:31.35
出雲神話なんてのが、いい例で。

古代に、出雲国譲りとか、特別な出来事があったわけじゃない。
国譲りなんて、全国どこでもあったことだ。

なぜ、記紀に出雲が取り上げられているのか?
それは、出雲国造が力を持っていて、地元の大国主神話を朝廷に披露したにすぎない。
大国主信仰が全国に広がれば、出雲国造(出雲大社宮司)も権力を増す。
出雲神話は、つくられた神話の典型だね。

出雲に、全国のカミが集まるなどと喧伝したのも、出雲大社だ。
記紀にも風土記にも延喜式にも、10月に出雲に全国のカミが集まるなんて書いてない。
出雲大社が勝手にそう宣伝して定着させたものだよ。

同じように、江戸時代では伊勢神宮がお伊勢参りを全国に流行らせた。
176日本@名無史さん:2011/09/05(月) 15:14:16.45
スサノオしてもそうだ。
スサノオなんて、出雲風土記ではたいした活躍もしない、地方神にすぎない。

それが記紀ではヒーローのような扱われ方。
その理由は、スサノオが牛頭大王と同一などとして、渡来系氏族に崇拝されはじめたことにある。
7〜8世紀にもなると、渡来系氏族も朝廷内で力を持っていたからな。
渡来系氏族のために用意された祖神のポストとして、スサノオが選ばれ、
スサノオが天照大神にならぶ高天原のカミにされた。
そのかわり、高天原を追い出されて出雲に降りたという設定を付け加えたというわけだ。
177日本@名無史さん:2011/09/05(月) 15:20:37.63
日向の意味、日が上る東の事。
当然四国、本州方面を拝んでる国の事だろ。
178日本@名無史さん:2011/09/05(月) 15:20:45.43
ニニギの天孫降臨にしても、
その、ニニギの御陵がある鹿児島西部ってのは、モロに隼人の勢力圏内。
クマソと呼ばれて、朝廷に反乱を繰り返してた勢力だ。

そんなところに、どうしてニニギの墓の伝承地があるのかね?
辻褄が合わないにもほどがあるだろ。

仮に邪馬台国が九州だとしても、卑弥呼と対立してたクナ国とは隼人の勢力の南九州というのは同じなんだろ?
おかしいじゃねえか。
179日本@名無史さん:2011/09/05(月) 16:34:23.93
>>178
卑弥呼が最後に対決した狗奴国の卑弥弓呼って、
武埴安彦命だよ、どうみても。
狗奴国って、許乃国(このくに)のことで、
そこの彦命(ひこみこ)ってこと。
また、狗奴国の副官に拘右智卑狗(こうちひこ)がいたとあるが、
河内彦のことだよ。
武埴安彦命の母方や妻が、河内彦の出身。
180日本@名無史さん:2011/09/05(月) 16:41:55.11
>>175
おいおい、勝手に歴史を想像するなよ。
おまえの意見なんて、おまえの脳内ファンタジーなんだろう?

出雲王権が古代の倭国で力を持っていたことなど、
およそ想像がつくことだ。
中世においても、中国地方の勢力は一定の影響力をもっていた。
あそこに誕生する勢力は、日本海、瀬戸内海などに航路をいかして
日本国内で大勢力にはなる。
平家にしても、山名家、大内家、尼子家、毛利家にしてもそうだ。

ただし、中国地方の勢力ってのは、最終的には、
近畿・濃尾をまとめた勢力には勝てない。
で、近畿・濃尾の勢力は、中国地方の勢力を併合した時点で
ほぼ日本全体のおける覇権を決定的にできるので、
近畿VS中国地方が、事実上の最終決戦みたいになる。
181日本@名無史さん:2011/09/05(月) 16:47:03.86
>>178
日向自体、南九州だし
東征はその孫の役目なんだから
南九州に御陵がなかったら、逆に何処に御陵をおけと?
182日本@名無史さん:2011/09/05(月) 16:53:16.31
御陵を大々的に置くようになったのって
もっと後の世代だからでしょう?
それこそ、卑弥呼(モモソ媛命)のちょっと前くらいからじゃないの?
だから、ニニギが実在の人物だったとしても
その時代の御陵って、いまいちピンとこないね。
183日本@名無史さん:2011/09/05(月) 16:55:01.79
>>177
九州にある高天原礼拝所みたいなところがあるが
ひたしうら東を向いて拝むようになっている。
まあ、ただたんに日を向いて拝んでいるだけだが
その東には、葛城の高天がある。
184日本@名無史さん:2011/09/05(月) 17:03:26.67
古事記・日本神話の伝承地〜高天原史跡ガイド奈良県御所市から
http://takama.sakura.ne.jp/
葛城の 高間の草野 早知りて  
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/97.htm
高天彦神社
http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/1katsuragi_12takamahiko.html
【車載動画】高天彦神社へ涼みに【高天原伝説】
http://www.youtube.com/watch?v=LIusMCGRyEE
185日本@名無史さん:2011/09/05(月) 18:59:10.03
御陵/古墳は比較的新しい形態。
その前、原初には三輪山と大神神社や八雲山と熊野大社(出雲)のように神奈備山に磐座を営んで、拝礼所を麓に設置する形態だったかと。

そんなに都合良くあちらこちらに神奈備山に成りうる「物件」はありませんから神奈備山の代わりにモッコシした御陵を造営するようになっていったのかなぁ。と
186ひとぶた:2011/09/05(月) 19:16:52.01
>>173

蘊蓄の御披露、お疲れ様でございます。
まあ、神武東征譚を読めばその出発地は、令制国日向の地であることは明らかです。

ところで、私が疑義を持つのは天孫降臨譚の筑紫・日向の地です。
ちなみに高天原は朝鮮半島説です、なので降臨地が宮崎みたいな僻地では個人的に困るわけです。

記紀を史書と捉える方々には、降臨地の日向と東征出発地の日向が別物とか言う話には、
全くついてこれないかもしれません。
ただ、私にとって、記紀は単なる神話であって、各地のいろいろな時期の説話を取り込んで成立していると考えています。

まず、降臨譚の「日向」は「高千穂」と併せて単に「久士布流」に対する美称(形容語)と考えます。
令制国「日向」と言う地名も、「大隅」、「大和」や「山背」の例と同じく、本来、普通名詞であったものが固有化したものです。

また、東征譚の成立は、天孫降臨譚の成立時期より、はるかに新しいとします。
では、それは何時かと言うと、現状では「国産譚で熊曾國が、後の令制国名と同じく呼ばれた時」以降としか言えませんが、
つまりは、東征譚は、より成立時期の古い天孫降臨譚に含まれる普通名詞「日向」を
後世の固有地名「日向」と誤認するほど新しい時期に作られたから、と言うのが私の(屁)理屈でございます。
187日本@名無史さん:2011/09/05(月) 19:33:17.41
>>186
高天原は、葛城地方の高天だよ。
神武天皇がわざわざ大阪上陸戦するときに
私は天津神の出自なのに、高天を向いにして
戦うとは何事か?ってあっただろう?
188日本@名無史さん:2011/09/05(月) 19:41:31.25
日本神話を読めばわかるが
ヤマトと高天原は隣接しており、
出雲は、高天原とヤマトから遠く離れているのが分かる。

もともと、ヤマトとは桜井市周辺だけをそのように言った。
奈良県全域がヤマトと言ったのは、律令体制導入前後くらいから。

現在の奈良県東南部をヤマトといい、
現在の奈良県西南部をカツラギといい、
カツラギの元の名前は、高尾張といった。
その高尾張の西南部に高天があり、さらに南部に行くと
高鴨という地域が存在している。
189日本@名無史さん:2011/09/05(月) 19:42:37.28
今日日本史の本をなんとなく立ち読みしたんで気になって来てみたんだけど
卑弥呼っていう呼び方自体は日本で使われてたんじゃなくて
魏が呼んでただけっていう呼称ではないの?
190ひとぶた:2011/09/05(月) 19:56:49.09
>>187

「高天原(たか|あま|が|はら)」
「たか」は後続の「あま」にかかる美称、
「あま」は「くに(地上界)」の対語、要するに別界の意で後続の「はら」の形容、
「高天原」も分解してみると普通名詞のオンパレードですね。
191日本@名無史さん:2011/09/05(月) 20:05:16.20
>>190
それは古事記に編纂された時点での漢字の当て字だから
じっさいは、どういう語句の変遷をたどったのかどうかは分からないよ。

ただし、奈良県御所市の高天周辺には
高という美称のついた地名が多くある。
高天、高鴨、高尾張など。
192日本@名無史さん:2011/09/05(月) 20:15:57.28
ニニギ命は、

出雲国譲りの直後
高天(奈良県御所市高天)→高千穂(宮崎県)へ派遣された。
それを天孫降臨という。

出雲国譲り戦争では、高天と出雲が
播磨国にぶつかったとある。
播磨国風土記にその痕跡がある。

高天とはどこかと言うと、それは葛城地方にある高天であり
ここの領主は、古くは、高天彦といった。
高天彦神社は延喜式の式内社として、今でも存在している。
193ひとぶた:2011/09/05(月) 20:37:07.47
>>191

>古事記に編纂された時点での漢字の当て字

まあ、そうですね。
古事記より古い万葉集には「高天原」でてこないですから。
ところで、葛城の高間には、安河とか香具山と関連付けられる地名もあるのでしょうか?
194水銀厨:2011/09/05(月) 20:57:24.17
>>193
葛城山とは本来二上山から金剛山、和泉葛城山一帯を指すとも言われている。
その二上山の麓から大阪側の石川に注ぐ現飛鳥川を
昔は安川とよんでるよ。安川の上流は石の採掘場や岩屋もある。
195:2011/09/05(月) 21:15:29.74
本当の邪馬台国はどこなんでしょうかね
さてさて、議論しましょうよ
196:2011/09/05(月) 21:28:24.07
>>39
調べればそうなる(ちゃんちゃん)

>>124
>ヤマトトトヒモモソヒメは、吉備系の巫女だと思うけどな。
>弟が吉備津彦だし。

ん?ヤマト(奈良)を代表する巫女なんじゃない?
たしかに埴輪は出てるが、深いつながりがあったということで・・・
197サガミハラハラ:2011/09/05(月) 21:31:03.21
>>195 それは佐賀県小城市甘木に存在します。
今年は邪馬台国発見20周年にあたります。
198:2011/09/05(月) 21:31:16.09
>筑紫國謂白日別。
>豐國謂豐日別。
>肥國謂建日向日豐久士比泥別。
>熊曾國謂建日別

この議論、面白そうだね。
さあ、さあ、くいつけ(ALL)w
199:2011/09/05(月) 21:33:37.46
>>197
おっ、サガミハラハラさん生きてたのか(笑)
おひさしぶりです。

あいかわらず、小城市甘木説か〜
でも、そこって〜奈良時代とかの人骨が出てきて、間違いだったんでしょ?
残念!!
200:2011/09/05(月) 21:37:52.98
ひさびさに鷲崎氏のホームページを観たらこんな投稿があった〜!
暇な人、鷲崎氏の代わりに投稿してみてはどうだろう。

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=120&summary=on
201:2011/09/05(月) 21:39:59.80
むこうでは伊作が張り切ってるねw

ではまた・・・・zzzz
202ひとぶた:2011/09/05(月) 21:44:43.00
>>194  水銀氏

あー、飛鳥川って河内飛鳥側にも有ったんですね、関東人なので知りませんでした。
最初、何を言ってるんだWとか思いましたよ。
でも、河内側も含めるとどんどん葛城版「高天原」はどんどん大きくなりますね。

>>197 サガミ氏

貴方の「邪馬台国」は存じております。
では、貴方の「高天原」はどこにありますか?

>>198  メ氏

まずは、貴方が喰いついてみてください。
203日本@名無史さん:2011/09/05(月) 21:47:29.91
>>193
>ところで、葛城の高間には、安河とか香具山と関連付けられる地名もあるのでしょうか?

あるでしょう?あのあたり。
香具山ってヤマト三山の名前だし
安川もあったよ。
204水銀厨:2011/09/05(月) 22:11:36.18
>>202
まあ葛城地方というと現葛城山を想定するのは仕方ないと思う。
でも本来はもっと広いですからね。
205日本@名無史さん:2011/09/05(月) 22:34:42.22
ヤマトも日向も時代によって範囲が違うよ。
だから、後世の人間は混乱するんだろう?
たとえば、現在の都道府県名も、ごく一部の地域名だったものが
いまや広範囲を示すものになっているし。
206日本@名無史さん:2011/09/05(月) 22:53:05.76
根本的に、高天原は8世紀の創作なんだが、
よしんば、高天原発祥の地を求めたとしても、葛城の高天以外には無いな。

朝鮮半島とかってありえないし、まだ騎馬民族説をひきずってるのかという。
そうとうの爺さんなのかな?
207日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:04:09.60
高天原を外国に求めるのって
ウィキペディアの外国語のほうでも普通にあるよ。
韓国語、中国語では、騎馬民族征服王朝説
英語のほうは、アルメニア説とか
イスラエル説とか。。。
もう、アホ臭くなるけど。。。

高天原は葛城の高天ってのが人気が出ないのは
それは、神武東征の影響が大きいでしょう?
神武が九州からヤマトへ東征した話だから。
その流れから、高千穂の前の高天原が葛城の高天ならば
神武東征って、曾祖父の故郷に里帰りした話にもなるけど
神武東征の伝承を見たら、いっけん、そのような感じがしないでしょう?

でも、ヤマトって、もともとは桜井市周辺だけをいって
御所市の周辺は、葛城とか高尾張といわれていて
区別されていたのって、知らない人多いだろうし。
その葛城でも、西南部のほうは、高天とか高鴨といって
区別されていた時代もあったみたいだし

何よりも、なんで、わざわざ、出雲国譲りの後
天皇家の先祖は近畿から九州に移住し、また、三代後に
近畿に舞い戻るという邪魔くさいことをしないといけないのか?って思うでしょう。
208日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:08:46.58
日本の記紀研究は、完全に停止状態でしょう?
だから、在野ではトンデモ説が出回ったり
もう、学者さんも、解明する力がないから
なんでも、かんでも創作されたで片づけるんでしょう?
209日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:15:14.99
いや、研究を重ねた結果の、創作説なんだが。

たとえば、高天原という語句は、古事記にはあるが、日本書紀には数箇所、「一書」として出るだけ。
8世紀においても、高天原は一般名詞でなかったことがわかる。


210日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:21:23.31
日向の天孫降臨、神武東征、ヤマト王権成立を、
神話通りに解釈しようとすることが、そもそもダメなんだ。

天孫降臨、神武東征は、創作なんだ。

仮に、事実としたら、矛盾するだろ?
日向に降臨したニニギは、一番カミに近い存在なのに、どうして「大王」(初代天皇)にならなかったのか?矛盾だ。
ニニギの墓があって祭られてる南九州は、そのまま隼人の土地で、
ヤマト王権とは対立してた勢力だ。なぜそこに、ニニギが降臨して祭られてるのか?矛盾だ。

7〜8世紀の朝廷が机上で適当に創作したから、矛盾があふれてるんだよ。

211日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:27:05.15
なぜ、隼人の土地にニニギが祭られてるのか、理由は明らかにされている。

ヤマト朝廷が隼人の反乱をおさえこみ、服属させた証として、
隼人の土地は、天皇が天から授かった土地として正当化するため、
天孫降臨神話を創作したというわけ。

そういう7世紀の政治的理由で生まれた神話に、あれこれ史実性をもとめても意味の無いことだよ。
212日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:54:16.03
>>209
研究を重ねた結果と言うよりも
さほど研究しているとは言えないでしょう?
つーか、おまえ、ちゃんと話を聞けよ。
最初から、耳をふさいでどうするんだよ??
213日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:55:07.30
>>211
だから、創作は飽きた。なんでもかんでも、創作
創作って、もうアホかと。おまえ、創作教かよw
214日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:55:40.94
創作、創作って、もう、あほかとww
215日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:57:05.22
史実だ〜史実だ〜と言ってるほうが、へんな人に見えるけどな。
216日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:59:18.57
>>213

創作じゃないなら、辻褄のあう説明してみなよ。

なんで隼人の勢力圏にニニギが降臨して、
その隼人はずっとヤマト王権に反乱してるんだよ?
217ひとぶた:2011/09/05(月) 23:59:46.68
>>207

記紀神話は奥深くて、素人的にも楽しめる要素は大きいですよ。
喩え大和朝廷により8世紀に体系化(とてもチグハグですが)されたものであろうと、
そのモチーフとなったものの痕跡(古田さんぽいですが)を想像するのは楽しいです。
倭人伝の読解に通じるところがあります。

特に古事記で言えば上巻に当る、国産み、天岩戸、出雲、天孫降臨、海神譚と言う流れは
ウキウキするほどめちゃくちゃで、まるで倭人伝の路程部分のようです。
218日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:07:51.50
>>217
楽しいのはわかるが、
邪馬台国が東遷したなどと、妄想してても人生のプラスにはならんよ。
219日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:13:33.90
>>218
そんな事言ったら、卑弥呼が誰であろうと
邪馬台国が何処にあろうと、学者以外は人生にあまり関係ないだろ
このスレ等に来る意味もない
220ひとぶた:2011/09/06(火) 00:22:31.01
>>218

あー、別に邪馬台国東遷論者ではありません。
一応畿内説に混ぜてもらってます。
221日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:23:11.09
>>219

歴史を勉強することは、自分を磨くことになるよ。
でも、勉強しようとしないで、神話を史実だと空想してるだけじゃ、ただのボケ老人だよ。
222日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:24:47.95
>>215
史実だとは言い切らなくても、研究しなきゃいかんだろう?
自分の思想に合致しないからと言って
創作で片づける奴はアホ。
というか、それを創作だと片づける根拠も薄いだろう?
223sss:2011/09/06(火) 00:26:39.03
>>216
隼人の勢力圏というのがどこがわかっているのか?
宮崎平野などはむしろ畿内あたりとの文化的な類似性が強いと言われる。
九州随一の古墳の宝庫であることからもそれが窺える。

一方で、鹿児島県には、高塚式の古墳が見られず、地下式板石積石室墓など
独特の墓制が見られる地域もある。

何を基準に隼人の文化圏などと言っているのか、瓊瓊杵尊が降臨した場所が
どうして隼人の文化圏と言えるのか教えて欲しいな。
224日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:27:27.45
とにかく、正常に物事を考えられない。
相手の主張をちゃんと読まず
嘘だ!創作だ!と喚き散らすアホが多い。

あと、邪馬台国東遷説は、たしかにトンデモ。
ただし、神武東征は普通にあったともうよ。
あんな面倒臭い伝承を作る意味がないもんw
ただし、神武東征の実態って、あくまでも
神武天皇が曾祖父のニニギ命の出身地の高天に近い
ヤマトへ里帰りしただけの話だよ、それはw
だから、神武東征の前も後も、倭国の首都は近畿にある。
225日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:29:54.08
>>223
隼人って、考古学的に見て
熊襲と違って、九州や近畿などから移り住んだ人が
昔から多かったことが分かっているよ。
熊襲っては古アジア人種の傾向が強いけど
隼人の場合、古アジア人種と新アジア人種が混在している地域らしいから。
226sss:2011/09/06(火) 00:30:19.04
>>221
で、記紀が創作で信用できないとしたら、何を根拠に古代を考えるんだ。
自分で好き勝手に考えているとしたら、それこそ悪質な創作じゃないか。
227日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:32:07.58
>>221
記紀を創作で全て片づける奴は
21世紀の現在に、おまえこそが新たな創作をしているわけで。
矛盾しまくりw
228日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:37:24.93
>>223

ニニギの墓が、隼人の勢力圏である鹿児島にあることを紹介したのはおまえだろ。

229sss:2011/09/06(火) 00:37:37.39
>>207
畿内説には論理性が乏しいな。
まず、葛城が高天原と言うが、その根拠が示されない。

次に、いきなり南九州の山の中に降り立つでは理解しろという方が無理。
物事には順序というものがある。瀬戸内海も無視、北部・中部九州も無視。
どうして南九州なのか意味不明。南九州に行く必要性も見つからない。

これらをある程度納得行くように説明する必要があると思う。
230日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:39:52.13
>>229

おまえこそ、ニニギが初代天皇にカウントされなかった理由を言ってみなよ。


231sss:2011/09/06(火) 00:45:44.72
>>228
日向三代の御陵は三つとも鹿児島県にある。しかし、瓊瓊杵尊の墓との伝承があるのは
西都原古墳群の男狭穂塚古墳で陵墓参考地になっている。延岡市の可愛山も陵墓伝承地に
なっている。

まあ、明治期に薩摩藩の政治力で決ったのが薩摩川内市の可愛山陵なのだろう。
しかし、瓊瓊杵尊が降り立ったのは、高千穂でこれは宮崎県にある。
232日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:49:52.38
>>229
よっしゃ、きたw なるほどな、理解できん理由が分かったw

やはり、そこが不自然だからか。。。
でも、その不自然なところが、天皇家が隠したかったところなんだわなw

いきなり、南九州におりたったのは
近畿王権が出雲国譲りでほぼ倭国統一を成し遂げたので
倭国各地に地方官を配置する必要に迫られた。
そのなかで熊襲との最前線だった地域には
近畿王権の王族の出身であるニニギ命が配置されることになった。
これを天孫降臨というだけ。

ここが天皇家にとって、まずいだろうw
つまり、天皇家の先祖のニニギ命は、ヤマト王権の初代倭王ではなかったわけw
わざわざ九州南部の辺境の地方官として飛ばされたわけだからw
では、誰が、出雲国譲りを実現し、天下を統一した初代倭王なのか?

本来なら、この人物を初代天皇として記さなきゃいかんのだが
天皇家は、これを詳しく書きたくなかったわけだw
233sss:2011/09/06(火) 00:50:46.16
>>230
質問に答えられず逆質問か。最低だな。

別にどこから数えようと特に問題はない。大和にやってきてから数えて、神武天皇が
初代でも全く問題はない。記紀はそういう立場を取っているのだろう。

天照大神が皇祖神で、神武天皇はその子孫となっているわけで、その間に瓊瓊杵尊もいる。

徳川家康が初代将軍で、その父親が将軍でないのはおかしいと言っているようなもの。
234日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:52:56.04
>>231

>まあ、明治期に薩摩藩の政治力で決ったのが薩摩川内市の可愛山陵なのだろう。

おまえ、後世に神話が作り変えられる例をしっていて、
どうして天孫降臨が8世紀の創作じゃないと断言できるのか?

答えてもらおうか。
235sss:2011/09/06(火) 00:55:50.26
>>232
どうして北部九州が無視されなくてはならないんだ。
恐らく、文化的にも鉄器などの技術的にもかなり進んでいるはず。
大陸との窓口としても非常に重要。
ここを無視して、どうして南九州の山の中に降りる必要があるのか。
得る物はほとんどないだろうに。
236日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:57:19.30
>>233
中世に例えると

足利幕府のほうが例えやすいよ。
たとえば、足利家の中でも明らかに序列があって
初代将軍の足利高氏の子孫と、
足利高氏よりも前の代に分かれた足利家の一族の間には
明確な区切りがあった。
基本的に高氏の男系子孫たちが足利将軍とされていたが
それ以前に分かれたものは、斯波氏、細川氏などは
家格が高くても、足利家から分けられた。
むろん、高氏の子孫が断絶すれば、将軍職の可能性も無くはなかったが
それでも、ほぼ可能性がなかった。
まあ、これは、徳川家も一緒だがな。
徳川家康の男系の子孫は親藩大名だが、
徳川家康よりも前の代に分かれた松平家の一族は譜代大名にされた。

そういうふうに考えたとき、出雲国譲りを実現させた
ヤマト王権の初代倭王が誰だったのか、ものすごく大切なことだw
誰だと思う?
237日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:57:58.58
>>223
>記紀はそういう立場を取っているのだろう。

これで済ませられるなら、なんでもありだな。

記紀を書いたのは、8世紀の朝廷だ。
8世紀の朝廷にとって、都合の良い神話が創作されているにすぎない。
天孫降臨神話は、隼人を服属させるため。隼人はヤマトに反乱を繰り返していた。
出雲国譲りは、出雲国を服属させるため。出雲国造は、ヤマトに服従しなかった過去がある。

238日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:00:32.80
>>236

SSSと、まともに議論しようとしても無駄だよ。

彼は、天照大神を卑弥呼と信じてる、ガッチガチの東遷論者だからな。
239sss:2011/09/06(火) 01:03:06.48
>>238
薩摩藩が鹿児島に日向三代の御陵を持って来たかった理由はわかるだろう。
地元意識というやつだろうな。これを強烈に持っているのが畿内説とも言える。
つまり、政治力を駆使するにはそれなりのメリットがあるから。

大和朝廷にとって、日向の神日本磐余彦が東征し、大和の長髄彦を滅ぼして初代天皇に
なることにどんなメリットがある?
創作するのなら、瓊瓊杵尊が三輪山あたりに降りてきて、ここから全国を支配していく
という筋書きの方がずっと大和朝廷の好むところだろうし、合理的でもある。

むしろ、大和朝廷にとっては神武東征は事実であるとしても隠したいような筋書き。
それをあえて書いているということは、記紀が真実を書こうとしていた証だと思うし、
神武東征に相当する出来事は事実だったんだろうと思う。
240sss:2011/09/06(火) 01:06:04.86
>>237
大和にやってきたというのは区切りとしては非常に重要だろう。
241日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:06:43.57
播磨国風土記などをみたり、記紀、海部氏系図をみたらわかるけど
出雲国譲りを実現させた、
ヤマト王権の初代倭王は、天照国照彦。諱を火明(ほあかり)。
皇祖ニニギ命の兄にあたる。

ニニギ命は、兄の天照国照彦の命令で、九州南部に地方官として飛ばされた。

足利幕府に例えると、
足利高氏が、弟の足利直義を関東や九州に地方官として飛ばすようなもの。
つまり、天皇家というのは、足利政権で例えるのなら
初代将軍の足利高氏の男系子孫ではなく、
その弟の足利直義の男系子孫なわけだ。
徳川幕府に例えるのなら、徳川家康の弟だった内藤信成の男系子孫みたいなもん。
でも、内藤信成は親藩大名ではなく、あくまでも譜代大名なわけで。

そういうふうに考えたら、天皇家にとって
この天照国照彦を初代天皇と認定することに抵抗があるわけだ。
だから、出雲国譲りのほうは神話の話とし曖昧な記述にし
そこから、ニニギの天孫降臨、日向三代、神武東征、欠史八代、崇神紀と
回りくどい書き方をしたわけだ。
明確な嘘を書いているわけではないが、かなり内容を分かりにくいように薄めている。
242日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:08:43.98
>>149にもあるが、
ニニギの父神である天忍穂耳命を祭神とする神社は、許波多神社だけ。
なぜ、九州には天忍穂耳命を祭る神社がないのだね?

しかも、許波多神社は、ヤマトにあるわけじゃなく、京都府宇治市にある。
神武東征ルートとも、かけはなれている。

243sss:2011/09/06(火) 01:11:21.44
>>238
前にも書いたが、古事記には、神武天皇に従軍してきた大久米命が顔に刺青をしていたとの
記述がある。これを見て、大和の五十鈴姫は奇妙に思った。

神武天皇にも刺青があった可能性は十分にある。刺青と言えば、倭人伝には倭人の男は
大人も子供も刺青をしているとある。どうして五十鈴姫は知らなかったのか。

これは東征・あるいは東遷の証とも言えるし、古事記の信頼性も高いことが窺える。
244sss:2011/09/06(火) 01:14:02.94
>>242
そんなのは後付けでどうにでもなる。
天照大神を祀る伊勢神宮は伊勢にあるが、これは垂仁天皇の時代に倭姫が
探し出したもので、高天原とは何の関係もない。
こういう風に関係ない場所で祀られていることもある。
245日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:17:07.34
何でも言うが、

ヤマト王権の前身の王権が初めて誕生したのは
出雲国譲りからで、その時の初代倭王は、天火明命。通称は天照国照彦。
長い間、ヤマトの始祖アマテルとして崇拝されていたのも彼。
(その後、大海人命こと天武天皇が、女神アマテラスをつくって、
このアマテルの存在を薄める策に出る)

出雲国譲りの激戦区は播磨国で、
古来から、中国地方と近畿地方が激突する場所は播磨国で
戦国時代も、織田家と毛利家が激突した地域だ。
播磨国風土記には、その証拠があり
大国主が義理の息子(娘婿)の天火明命に降伏した話が出てくる。

そんあわけで、ヤマト王権の初代天皇は、この天火明命にしないと駄目なのだが
これは、ニニギ命の神武皇統にとって、非常にまずいのだw
天火明命とニニギ命の父親に当たる天オシホミミ命の時代に
出雲国譲りが起り、この天オシホミミ命が初代倭王ならば
この天オシホミミ命を初代天皇としても、神武皇統にとっては
まったく問題ないのだが。。。w
246日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:20:11.55
>>244

おまえは、高天原が北部九州にあると言ってるわけだろ?

だったら、アメノオシホミミが九州で祭られていないのはおかしいわけ。
九州の人は、ニニギの父神のことを忘れてしまったのかね?
祭りたくなかったのかね?

なぜ、自己矛盾から目をそむけるのかな?
247sss:2011/09/06(火) 01:22:03.22
>>245
ちょっと理解不能。眠たいのでこの辺で。
248日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:24:37.31
つまり、古代天皇家にとって最大の問題点は
誰をヤマト王朝の初代天皇と認定するかの問題なのだw
そして、おそらく、ヤマト王権にとって、事実上の建国は、
出雲国譲りからだったと思われる。
でも、問題は、その時のヤマト王権の倭王が、天火明命だったこと。
彼を初代天皇とすると、大海人命(天武天皇)にとっては
困ってしまうのだ。
だから、彼を初代天皇と認定せずに、神話の話として曖昧に
のらりくらり話を進めて
しまいには、イワレ彦(神武)とミマキイリ彦(崇神)という二人の天皇らしい人物、
または欠史八代みたいな薄い部分を作るしかなかった。
249日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:24:59.86
SSSは、九州南部にニニギの墓があるから、ニニギの天孫降臨は事実だといいながら、

アメノオシホミミを祭る神社が近畿にあるのに、
それは後から作ったものだという。
だったら、九州にアメノオシホミミを祭る神社があるかといえば、無い。

まったく、事実を都合よく解釈するのも、いいかげんにしてもらいたいね。
250日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:26:54.35
>>247
そうだろうな、これが理解できない奴は
たぶん、何を言っても理解できない。
これは古来からある系統概念だから。
でも、現代人は、この系統概念が存在しないので
なかなか理解できんと思う。
251sss:2011/09/06(火) 01:31:42.43
>>246
記紀では高天原は天上の地となっている。
しかし、実際に高天原に相当する場所があったと思われる。
現実と神話のハザマと言うところだろう。

記紀の神代の三大舞台は、高天原と出雲と日向になっている。
出雲と日向の場所はわかるが、その間にあって古代重要な地であった北部・中部の
九州が全く登場しない。これはかなり不自然。

そこで、高天原をここに比定すると、地理的にも満足できるし、出雲の国譲りも
日向への天孫降臨も無理なく理解できる。
勢力拡大の方向としても何の問題もない。

そういう理由で、高天原の場所をここだと思っている。
天忍穂耳命自体、かなり存在感がうすいから、伝承として残っていなくてもそれほど問題は
ないと思う。
252sss:2011/09/06(火) 01:34:57.20
>>250
そんなトンデモ説、理解できる方が頭がおかしい。
253日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:35:45.09
馬鹿言え、高天原は壱岐だ。
254日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:37:35.72
>>251

>天忍穂耳命自体、かなり存在感がうすいから、伝承として残っていなくてもそれほど問題は
ないと思う。

都合の悪いことは問題ないとか、アホか?

九州に高天原があったなら、その人々は、アメノオシホミミを祭らずして誰を祭るんだ?

神武はヤマトで天皇になり、天照大神は近畿で祭られ、ニニギは南九州で祭られてるのに、
北九州では高天原のカミを誰も祭らないって、おかしいだろ。


255日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:40:17.47
>>252
君には都合が悪いだろうが、

天照大神が弥生時代からのカミだという説より、
近畿のアマテル(天火明)がモデルとなって天照大神が創出された説が有力なのは事実だよ。
256sss:2011/09/06(火) 01:40:55.60
>>254
で、高天原にいたとされる天照大神・高皇産霊尊、天忍穂耳命以下全てが祀られている場所が
あるのかい?
257日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:45:40.11
>>256

九州に無いなら、九州には高天原は無いということだ。
残念だったな。
258日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:55:01.51
高天原は、どうみても、葛城の高天。
そこの王が、出雲との戦いに勝利。
そしてそれにより全国統治が可能になった。
その時の高天の王が、天火明命だ。

この天火明命には弟のニニギがおり、彼は九州南部の統治をまかされる。
このニニギが、現在の天皇家の先祖。

天火明命を初代天皇とすれば、ニニギの子孫である現在の天皇家の
正統性が揺らぐわけだ。
259日本@名無史さん:2011/09/06(火) 01:56:58.47
だいたい、九州って、筑紫とかいうんでしょう?
筑紫て、付くしとかからきていると思うし。
あくまでも、近畿に従属した地域つー意味だろう?
こんなところが、高天原のわけがない。
260日本@名無史さん:2011/09/06(火) 02:38:55.31
ニニギが降臨したのは、筑紫のヒナタのクシフルダケであって、宮崎県ではないし、近畿でもない。
261日本@名無史さん:2011/09/06(火) 03:11:38.04
>>260
おまえ、高天原と高千穂が
gpちゃごちゃになってないか?
まじで、そういう初歩的なことすら
分かってないアホが多すぎる。
262日本@名無史さん:2011/09/06(火) 06:16:39.57
九州南部にも高千穂峰があるんだよなあ。

九州南部の高千穂峰が、本来のニニギの降りた場所じゃないのかな?
263日本@名無史さん:2011/09/06(火) 06:42:19.89
高天原=奈良県御所市高天周辺
高千穂=宮崎県西臼杵郡高千穂町

天孫降臨とは、出雲国譲りの直後
皇祖ニニギが、高天原→高千穂へ降臨した話。
これは、普通に、近畿王権がニニギを九州南部の統治をまかせるために
送り込んだ話に過ぎない。
だとしたら、出雲国譲り直後、近畿王権には
皇祖ニニギよりも格上の人物がいたはずだな。
ずっと近畿本国にとどまって、天下の政治を行った人物が。。。
264日本@名無史さん:2011/09/06(火) 06:55:59.94
ニニギが他所から来たのであれば、神武のようにその通り記せばいいだけのこと。
降臨の際、民衆が出迎えたとか、抵抗したとかの描写もない。

高千穂の峰は、宮崎平野から遠く真西にきれいな三角に見える。
つまり天孫降臨は単に土着の支配者の権威付けの意味しかない
265日本@名無史さん:2011/09/06(火) 07:07:15.06
何で兄弟なのに正統性が揺らぐの?
266日本@名無史さん:2011/09/06(火) 07:21:20.81
>>265
それが分からないから、なかなか、ピンとこないんだな。
まじで疲れそうだ。。。
これって、系図オタクじゃないと分からんだろうが。。。

たとえば、徳川幕府でもそうだけど、親藩大名、譜代大名ってあっただろう?
徳川家康の男系の子孫は、基本的に親藩大名とされた。
しかしながら、徳川家康よりも以前に分かれた松平家の一族は
他の徳川家の家臣と同様、譜代大名とされた。
松平家でも、家康の二男の子孫の越前松平家は親藩大名だが
家康よりも前の世代に分かれた松平家は譜代大名なんだな。
家康の弟の内藤信成も完全に譜代大名という扱い。

この、いつ分岐したのかというのが重要なんだ。
足利家でもそうなんだが、初代将軍の足利高氏の男系の子孫は、
足利将軍の候補になりえるのだが
足利高氏よりも前に分かれた足利一族である斯波氏、細川氏、吉良氏などは
あくまでも家来筋であり、足利高氏の男系子孫が断絶でもしないかぎり
将軍候補にはありえなかったんだよ。

ヤマト王権でも同じ。誰が初代のヤマト王権の倭王(天皇)が重要なんだ。
その場合、ヤマト王権の倭王の地位を継承できるのは
あくまでも、初代倭王の男系子孫なんだ。
初代倭王の弟になると、最初から家来筋で、倭王の正統性が揺らぐ。
むろん、初代倭王の男系子孫が断絶でもしたら
初代倭王の弟の男系子孫でも候補になるだろうが
ヤマト王権の場合、その初代倭王の火明命の男系子孫が多く健在で
なかでも、その嫡流だった尾張氏は、三種の神器の本物を保持していたぐらいだから。
天皇家よりも、尾張氏のほうが、ヤマト王権の倭王としては
圧倒的に正統性があると言えるわけだ。
267日本@名無史さん:2011/09/06(火) 08:26:29.20
>>266
父親を初代にすれば良いのでは?
268日本@名無史さん:2011/09/06(火) 14:18:36.74
>>267
だから、記紀は、正直と言えば正直なんだ。

天忍穂耳命が出雲国譲りしていたら、彼を初代天皇にすれば良かったけど
そうではなかった。でも、頑張ったんだって感じの記述だ、記紀では。
一応、天忍穂耳命の時も出雲国譲りの話があったけど
実現はできなかったみたいに書かれているわけだから。

そして、出雲国譲りってのは、婚姻関係も含まれていて
出雲の大国主命が、自分の王女を、天火明命に嫁がせていた。
その間にできた子供は、天香語山命。
この子は、父方がヤマト、母方が出雲という、ヤマトと出雲の合同の象徴だった。
尾張氏は、その嫡流の子孫だな。
こういう歴史的事実があった。

神武皇統も、天火明命の弟のニニギの子孫なので
この天火明命やその男系子孫とは、全くの赤の他人ではない。
一応、親戚だから、一応、同族として大切にしてきた。
だから、自分たちも天火明命とは同族だから、自分たちが倭王の地位を継承しても
王朝交代とはしたくはなかったが

たぶん、天火明命の男系子孫の尾張氏が、大海人命(天武天皇)に対して
プライドを傷つける態度に出たのでは?と思う。
天武天皇の晩年、一番揉めまくっていた相手が尾張氏で
天叢雲剣をなかなか返そうとはしなかった。
また、天武天皇は尾張氏に関する記述は極力避けようとしていた。
だから、天武の死後、続日本紀では、尾張氏がいかに壬申の乱に功績があったのか
詳しく補完する形で書かれている。
269日本@名無史さん:2011/09/06(火) 14:55:00.35
>>268

知ってると思うけど、海部氏系図で有名な海部氏も尾張氏と同じく天火明を祖にしてる。

でも、記紀には、海部氏の記述が全然出てこない。
天武が隠してるのは、海部氏のことなんじゃないかな?
どう思います?
270日本@名無史さん:2011/09/06(火) 15:13:05.47
>>269
単純に、海部氏ってのは、尾張氏の傍系だから
さほど重視してなかったのでは?
といっても、海部氏も新撰姓氏録には記載されているわけだし。

海部氏系図ってのは、かなり間違いが多くて
それは、尾張氏の系図とダブっているところが多いんだな。
これは、尾張氏の当主が、数カ国を領主していたことがあって
尾張氏は尾張国にいながら、丹波の国主も兼ねていたことが大きな要因ではと思う。
また、尾張氏が、高尾張(葛城)で倭王の地位にあった時は
近畿王権が、丹波を日本海沿岸の重要な港として
直轄地にしていたのも大きな要因だと思う。

海部氏ってのは、あくまでも、尾張氏の傍系。
ただし、籠神社ってあるが、あのカゴってのは
天香語山命からとった名称なのでは?と思うね。
この人物は、父親が天火明命、母親が天道日女命(大国主の娘)で
近畿と出雲の合同の象徴みたいな人物だから。
271日本@名無史さん:2011/09/06(火) 15:13:45.21
海部をアマベと読めば古代皇族に通じるものがある
272日本@名無史さん:2011/09/06(火) 15:35:17.53
皇族の苗字がアマらしい。

すると海部は?
273日本@名無史さん:2011/09/06(火) 15:45:00.26
>>270

海部氏は新撰姓氏録に乗ってないんじゃない?
274日本@名無史さん:2011/09/06(火) 16:45:39.34
>>273
そうなの?
旧事本紀のほうには記載されているんだよね?
まあ、海部氏ってのは、尾張氏の別姓という扱いだから、
ひとくくりだったのか?

>>272
皇室は姓を名乗る習慣がない。
もともと倭人は姓を名乗る習慣がなかった。
でも、各氏族の代表者は、「アメノ」という称号が貰えたと思われ
また、独立して新しい氏族を起こす場合にも
「アメノ」という称号が貰えたと思われ。

でも、中国では皇帝にも姓があるからね。
中国は易姓革命を肯定している国だから
とうぜん、皇帝にも姓があるわけだ。

そんなわけで、倭王も便宜上、姓を名乗る必要があったと思われる。
275サガミハラハラ:2011/09/06(火) 20:31:01.28
>>199 202
奈良時代の人骨とははじめてききました。ソースおしえてください。
高天原という名詞は、中国から神仙思想がはいってきてからつけられたものです。
それ以前の名は不明です。きれいにけしさったようです。
高天原のモデルとなったところは佐賀県脊振山中の盆地の佐賀市三瀬村です。
276:2011/09/06(火) 21:07:07.30
>>202 ひとぶたさん
>まずは、貴方が喰いついてみてください。

↓ここにかいてある通りじゃないかな?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%94%A3%E3%81%BF

筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国

筑紫島(九州)っていうのは、九州筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の4つに別れるんだが、
その前の「名称」でしょうね。
その後、筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9国になる。
277:2011/09/06(火) 21:14:40.30
>>275
いや、調べてはないが・・・
あなたがそこから人骨が出土されたって言ってたはず。
その人骨とは弥生時代のものだったの?
ちがうでしょ?奈良時代とか、別の時代のものなのではなかろうか?
278:2011/09/06(火) 21:17:22.49
高天原?海部氏?

卑弥呼はどうした・・・・w
279:2011/09/06(火) 21:21:15.48
誰か鷲崎さんの「邪馬台国の位置と日本国家の起源」
読んだことある人いないのかい?ww
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=120&summary=on

ではさらば・・・・zzz
280日本@名無史さん:2011/09/06(火) 21:25:55.11
憎まれ人 秋風とともに きたる
281サガミハラハラ:2011/09/06(火) 22:58:09.31
>277人骨が出た話は、戦国時代の天正の頃に書かれた書物にのっていたそうです、
ですから、その時代以前のものであることしかわかりません。人骨の出土した時代もわかりません。
282日本@名無史さん:2011/09/06(火) 23:37:56.80
>>278
卑弥呼とも関係ありだよ。
卑弥呼は倭国大乱によって即位した倭王だから。
その倭国大乱が、皇室系図でいう欠史八代の時代な。
倭国大乱の原因は、倭王の正統な祭祀権の継承だと推測する。
これを尾張氏・海部氏の先祖と、現在の皇室の先祖が争ったと思われるから。
卑弥呼は、モモソ媛命という名前で、現在の皇室の先祖の兄妹。
また、高天の原の高天とは、現在の御所市高天で
現在の皇室や尾張氏・海部氏の先祖の出発点。
283日本@名無史さん:2011/09/07(水) 06:03:16.56
>>282
ほう、欠史八代の時代とは西暦に直したら何年頃から何年頃のことでっか?
284井戸魔神F ◆Tny1JrNujM :2011/09/07(水) 06:12:52.56
やまたのおろち
285日本@名無史さん:2011/09/07(水) 06:26:26.90
>>283
西暦2世紀中ごろから西暦2世紀後半にかけてじゃないの?
286日本@名無史さん:2011/09/07(水) 06:50:50.13
日本書記だったかがポロッとゲロってくれています?
・・・「第二十代敏達天皇」・・・
と記述。
公式には「第三十代」。

その治世は僅か14年間。
先帝、欽明期の仏教伝来による物部と蘇我の宗教対立に苦悩しつつ、
蘇我に仏教を改めて勅許した矢先、蘇我宗家が
天然痘に罹患。続けて天皇も罹患されて585年8月に崩御。
287日本@名無史さん:2011/09/07(水) 07:20:47.56
日本書紀って、なまじ実年代を書こうとしたから
後世の人間が大混乱したんだよ、全くな。
288日本@名無史さん:2011/09/07(水) 07:21:45.02
>>275
まだ、そんなこといっているのか?哀れだな。
289日本@名無史さん:2011/09/07(水) 08:59:38.71
欠史分は並立していた別系統の王権を取り込んだとも。
葛城王朝×河内王朝×三輪山王権 ???

蘇我宗家は在地のもう一つの王権だったか?
290日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:57:24.47
>筑紫国、豊国、肥国、熊曽国
こう並べると、熊曽国だけは古事記を編んだ当時に作った名称だな。
291日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:01:58.68
天孫降臨のあった日向をクマソのカテゴリに入れてるわけだから、
天孫降臨も後付の創作だってことがわかるね。
292日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:26:24.31
>>289
蘇我氏を過大評価しすぎ。
293日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:32:31.00
>天孫降臨も後付の創作だってことがわかるね。
熊曽国をつくってから後付けで天孫降臨の物語をつくるわけがない。
天孫降臨は先だよ。



294日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:48:06.62
本屋でよく売れている古代史関係の本なんて
トンデモ本のオンパレードだろう?
295日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:00:34.40
>>289
蘇我氏のことを過大評価しすぎ。
また、倭国大乱時代は、まだ蘇我氏は誕生していないだろう?
とにかく、ちまたの歴史学者のレベルの低いこと
このうえないよw
296日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:02:03.18
天孫降臨はほとんどだろう?
でも、あれをよく解釈したら
要するに、近畿にあった高天王権が
王族の一族のものを九州高千穂へ
地方官として派遣したにすぎないと思われる。
297日本@名無史さん:2011/09/07(水) 15:58:07.64
事代主は三島から嫁さんをもらった・・というより、
この時代ここが出雲だったんじゃないのか?
298唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/07(水) 17:24:30.59
ホ03049 ワナにやし うましオトコに あいきとぞ やわしてアワを ヱナとして ヤマトアキツス
アワチシマ イヨアワフタナ ヲキミツコ ツクシキヒノコ サドウシマ うみてウミカハ
ヤマのサチ キオヤククノチカヤノヒメ ノツチもなりてアワウタに おさむハラミの
ミヤにゐて すでにヤシマの クニうみて いかんぞキミを うまんとて ヒノカミをうむ
そのミナを ウホヒルキとぞ たゝえます
ミ03060 クニうみて いかんぞキミを うまんとて ヒノカミをうむ
そのミナを ウホヒルギまた アマテラス オヲンカミとぞ たゝえます

天照大神の名はウホヒルギである。
しかし、国生みの神話に語られる“国”は、景行時代以後の知見である。
ヤマトアキツは、秋津遺跡であり、応神の明宮の地でもある。
秋津遺跡は4世紀初めから複数回の立替えがある。
応神を1世代に特定できない。
だから仲哀9年(274年)生れの応神が誉田御廟山に葬られるのが110年後となる。
299太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 18:38:49.57
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
300太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 19:04:10.51
>>283
倍年暦法演算から

綏靖即位 A.D.30年
開化崩御 A.D.236年
301唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/07(水) 19:41:37.76
崇神11年異俗多帰=2世紀末に各地の土器が持込まれる。
ホケノ山古墳(225〜250年)ここに東海、瀬戸内の土器が副葬される。
時代は、同向式画紋帯神獣鏡(楽浪鏡)がもたらされた時代である。

崇神6年を239年に設定して”景初3年銘”で説明したつもりでも
桜井茶臼山(3世紀後半)が最初の△縁神獣鏡の副葬である。
3世紀中は舶載鏡の時代であり、ホウセイ鏡の元となる鏡が輸入された時代である。

>>300 >開化崩御 A.D.236年
かわいそうに。
302太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 19:58:37.53
>崇神6年を239年に設定して”景初3年銘”で説明したつもりでも
 桜井茶臼山(3世紀後半)が最初の△縁神獣鏡の副葬である。
 3世紀中は舶載鏡の時代であり・・・

崇神6年を239年に設定して”景初3年銘”で説明したつもりで、
これでよい。
つまり鏡作神社が鏡の日本製の拠点であるからして、その伝承の
崇神6年 鏡改鋳 が整合を保証している。すなわち崇神6年ころが
景初3年=239年に近接するわけだねぇ。

オマエの景行元年は崇神6年の鏡作神社の記事と合わな〜い 。
303太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 20:04:47.29
天津神算木は真の年代を測る古代からの贈り物であり、その示唆は崇神紀
の三輪山の説話に残っている。天津神算木(天津金木)は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

右辺から

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
 A.D.130年 景行天皇 【崩御】←死値

崇神の年代は見かけの年代である。ここで天津金木を分断し

 3≠113.097335

右辺数列を三分して 113 097 335 から

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の実年代誘引ジョーカー数 335年

 -97+335=238年

西暦0年を除くから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

の真の年代を得る。ここから年代下降で崇神没年259年を得るが、
1年違いで記の崇神没年258年説がほぼ真であったことが確認出来た。
304唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/07(水) 21:35:10.61
>オマエの景行元年は崇神6年の鏡作神社の記事と合わな〜い 。

当然だな、私は、書記の編年を考古学や文献に合わせて、それを主張している。
だから、主張に合わない”大成教などは使わない。

神功52年に同49年の領土分与のお礼として七支刀は、もたらされる。
神功渡海は、考古学の示す三世紀後半である。
百済王家の記事は、倭に臣従する百済の王家である。高句麗の南下した390年代以後の
記録ではない。
ここの説明が出来なくては、日本の歴史にならない。

崇神元年を237年あたりに設定しても、考古学の云う”2世紀末各地の土器が持込まれる”
この説明も出来ない。
この年代を後ろにずらすと、△縁神獣鏡も後ろにずれる。
そうすると、崇神6年=景初3年の説明に使えない。
かわいそうに。

305太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 21:59:10.39
>主張に合わない
当然だな。つまり不整合だと遠回しに認めたことだな。bbb
306太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 22:04:23.92
宿主よ
考古なんかアテにはならない。10年20年と経てば、またまた書き換え
られるのが考古の本質だなぁ。

王氏の非舶載説は権威がある。オマエのは即興の言い訳のデタラメだ。ww
307太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/07(水) 22:35:16.67
東日本大震災での福島原発崩壊にての大放射能漏れの事故が発生した直後、
遅滞なく放射能汚染除去作業、除染に徹する行動を取り出すごとく、
鏡作神社の鏡改鋳等の改良作業が始まった直後に、当然鏡の多製作が
行動に出るのが当然であり、それが景行の代まで鏡作りが何もしないで
2代も後に鏡を莫大にこさえるノンビリは無いんだぜ。宿主よ。ww

除染をのんびり愛子さまの女帝時代から始まるとかいう手法の編年が、
オマエのインチキ論だ。オマエのはまるでメシの時間にメシを喰わずと
して、途中のクソを垂れるときにずらしてメシを喰うという言い草で、
ハハッ支離滅裂な説明とはオマエのことだ。ww

おまけに崇神6年に朝廷の最重要行事たる被災、飢饉からの神の祟りを
鎮めるための倭笠縫での鏡祭祀の直後に記念にて他での鏡を多量にこさえ
ずに、2代ものんびり経過して2代前(崇神の代)の行事を重たい腰を
やっと揚げてそろそろ忘れた時世に暇な鏡作りが鏡を造りだしたとかいう
時節狂いのボタンのかけ違いを編年してるのが、デタラメの権化たる
オマエだということだな。プハハハ・・・
308日本@名無史さん:2011/09/08(木) 07:30:55.21
俺の目の黒いうちはあまり舐めた事を言うなよ?FBIとかNASAって分かるか(?_?)
309日本@名無史さん:2011/09/08(木) 10:39:27.16
>倭国大乱時代は、まだ蘇我氏は誕生していないだろう?
蘇我って言ってんだからここで敗れた勢力が蘇ったってことだろ。
310日本@名無史さん:2011/09/08(木) 12:23:38.04
事代主=海神豊玉彦
娘が台与その後はどうなったのかわからん。
311日本@名無史さん:2011/09/08(木) 12:53:24.11
>>309
なんだよw それw
もう、トンデモだらけだなw
語呂合わせじゃないんだしw

>>310
お〜い。そんなこと書いてないぞw
312日本@名無史さん:2011/09/08(木) 13:26:43.83
改めて言うまでもないが蘇我氏の一族名は豊だ。
313日本@名無史さん:2011/09/08(木) 13:40:57.97
蘇我氏は皇別氏族の武内氏の傍流。
たぶん、卑弥呼の時代は、まだ皇族の一員だよ。
臣籍降下したのは、その後だな。
314:2011/09/08(木) 20:58:28.96
オレが付けたんじゃ お〜れが↑ww

わはははは
315:2011/09/08(木) 21:19:41.47
>>281
>戦国時代の天正の頃に書かれた書物にのっていたそうです、

ていうことは・・・
サガラさんのいう卑弥呼の墓の人骨は〜
弥生遺跡のものではないということ。
残念・・・・ ではのちほど・・・zzzz
316唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/08(木) 21:21:21.20
>>306
>考古なんかアテにはならない。10年20年と経てば、またまた書き換え
られるのが考古の本質だなぁ。

考古学の全体の数字が少しずつ動いて、巻向年代がほぼ50年遡上した。
そして年代は、土器の重なり具合から算出されている。
つまり、巻向の年代を動かすと△縁神獣鏡も同時に動く。
景初3年銘は△縁神獣鏡に記されているが、
巻向年代(2世紀末から6,70年=庄内式の時代)を自分の主張する
巻向3代(崇神、垂仁、景行)に合わせたら、△縁神獣鏡はさらに新しい時代の
制作物となる。
舶載鏡は、その後の国産鏡が模倣する。だからこの元となる鏡は、△縁神獣鏡の中にしか求められない。
舶載鏡は存在せず全てが国産である、とするならばその元となる画紋、画像をどのように
入手したか?楽浪鏡では役不足である。
呉鏡が洛陽に伝わるのは、274年以後である。当然楽浪がこの鏡を入手するのは、その後になる。
舶載鏡の入手は308年までである。
317サガミハラハラ:2011/09/08(木) 22:02:39.26
まあ、弥生時代の人骨が何年ぐらい残っておるかということになりますか。
幕末の人骨さえ、条件が悪ければ残ってませんからね。
318太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/08(木) 22:07:14.47
崇神紀の三輪山の説話は半径r=3の円(三輪)を示唆したものである。
オマエのホツマより正確度は確かだ。大中臣の下命は古代の真の年代を未来
へ継続させる。その 球化の体積=表面積 の数式を天津神算木(天津金木)
といい、古代の真の年代の計測をする天下の宝器である。これに違える
編年は全てデタラメである。

天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・

これに崇神即位年月日が右辺先頭にあり、景行即位年月日は存在しない。
ただし同二桁目からには

 A.D.130年 景行没年


があり、主値たる崇神即位年月日の助値にあたり、

〜これは、景行の代が崇神の代のお助け引き立て役年代であることを
意味するものである。つまりオマエの主張は全然通らない。ww
319レス長たらし毘古:2011/09/09(金) 16:43:33.72
>>312
>改めて言うまでもないが蘇我氏の一族名は豊だ。

一応余談として、メジャーな話では無いが、蘇我の元の苗字はスガ(須賀?
宗賀?)と言う話もあり、古事記では宗賀と言う文字が当てられている。
これらにも言及して頂けると、当方としては説得力が増して来るような気も
します。
古事記を流し読みすれば気付きますが、確かに蘇我が外戚を果たした皇族は
みな、「豊」がつきますね。ここが思案の分かれ道だと思うのです。

さて、思案を別れた先には、こう言った架空都市伝説も発生して来ます。
蘇我エミシは実は聖徳太子?

私個人は、これは最初は眉唾と思った話ですが、豊の氏族と考えて見ると、
妙に辻褄は合いやすくなります。
エミシとエミシの子のイルカ、これが中大兄によってテロ殺されます。
太子の子山背皇子、これも(日本書紀によると)蘇我系によってテロ殺され。

思い出すのは先述の拙者の、太子と蘇我(馬子&エミシ)は「陰と陽?」の
話を覚えておられる方はいらっしゃるだろうか?
中大兄皇子(つまり天智天皇)の娘の持統天皇にとって、聖人聖徳太子の御子
を殺したのが父であると非常に不都合なのである。従って、聖徳太子の御子は
まず蘇我によって殺され、従ってその報復として悪人蘇我の御子(つまり
イルカ)を(持統の)父上がテロ殺した。

この構図でないと持統天皇は、歴史の正しい伝承と父上の所業の正当性主張の
両立を果たす事はできない。となる。もちろんこれも拙者の架空だが、豊の
歴史を紐解くと、結論の一つはここに至るのも確かである。

天智天皇がそのシ号として、なぜ易姓革命の殷の紂王の懐刀である天智丸に
なぞらえた名前を送られたかとも併せて考えると、この架空は現実味を帯びて
来る物ではある。
320レス長たらし毘古:2011/09/09(金) 17:00:50.49
ええと、その他ツッコミや感想や横槍を入れてみたい内容が、今回は多かった
ので、愚かな某としてはみなさんとても楽しく読ませていただきました。
それぞれの内容に全てツッコミを入れてみたいが、それをやると更に長くなる
し、こちらとしてもツッコミを入れるだけの傍証に欠ける部分も多いので
それはまた今度とします。今回は厳選して、以下のみ傍証無き無味感想を。

>ニニギはなぜ人皇に含まれなかったか。

この可否を当方も重視します。つまり、古事記基本法則としてはニニギ〜神武
までの間の登場人物は「神」としなければなりません。ニニギを人皇一号と
すると、この間の登場人物はほとんど「人」としなければなりません。
従って、ニニギを人皇初号機にしてしまうと、以下のような構図になります。

@出雲の神々の登場人物の多くを現人あらひとにしなければならなくなる。
A豊玉伝説の登場人物の多くを現人にしなければならなくなる。
B物部の始祖をギリギリ神にできなくなる。

古事記から読み解くだけに限っても、上記三つもの巨大な障害(古代大和王権
にとっての)が発生してしまうのです。これは彼等にとってはいただけない。
傍証は無いですが、しかし古事記編集者にとっての不都合が大いに発生して
しまうという事情だけは存在しそうです。従ってニニギは人皇初号機にしなか
った、と愚かな某は想定しております。
321レス長たらし毘古:2011/09/09(金) 17:15:49.64
さて、当方の架空主張は「神武とは託宣の詔の名前である」と言う従来の当方
主張に乗っ取って追記するならば、神武の託宣が発せられたのが古事記にても
隠す事無くかかれています。そう、その託宣はニニギ相手では無くその親爺の
国勝吾勝(クニカツアカツ)さんに対してなのです。従ってその後ニギハヤヒ
にもその託宣の「正当性」は担保され、実際神武はニギハヤヒの恭順を許可
しなければならなくもなります。

ニニギを人皇第一号とするためには、国勝吾勝を差し挟まず、天照国照からの
託宣の詔が、直接ニニギに与えられたとしなければなりませんが、逆にそれを
やると「(連合している氏族伝承の多く)に反する史実解釈」となりますし、
他にも「物部の始祖ニギハヤヒの(前)東征の正当性を否定する事」にも
なります。
従って、ニニギを第一号にしたくても出来ないし、すると(編集代)不都合が
発生するし、かといって無理して第一号にするメリットもそれほど多くない。
(人を神にするならメリットは多いかもしれませんが、この場合は、神を
人にするワケですからね)

以上から類推すると、ニニギは古事記の主張通り、「直接託宣を拝命した
人物(神物?)では無い」と言う解釈の方が妥当なように拙者には思えます。
直接の拝命者である、国勝吾勝さんが、拝命を前に「渋った」と言う事は
かなり信憑性が高いと(少なくとも古事記編集者達は)判断した、と言う
推論結論になると拙者は想定します。
322唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/09(金) 17:48:45.41
>景行の代が崇神の代のお助け引き立て役年代であることを 意味するものである。

どんなに悪あがきしようとも、巻向は2世紀後半から6,70年の遺跡である。
そして、△縁鏡は、3世紀後半からの物である。

巻向の年代を引下げて、巻向3代にあてがうと、△縁鏡の年代も引下げられる。
この90年の誤差が2,3年になることは無い。
崇神を巻向で説明しようとすると、△縁鏡で説明できない。
崇神を△縁鏡で説明しようとすると、巻向で説明できない。
天照大神の伊勢遷宮よりカサヌイに祀った事は大きな出来事としなければ、
垂仁以後に紀年銘は刻めない。
しかも紀年は(崇神6年の)90年以上後に刻まれる。
東倭重譚納貢。この紀年である、としても△縁鏡に刻まれるのは、50年後である。
50年たっても刻まれる意味とは、ここが畿内大和の発展の礎となった年だからである。

東夷と東倭の意味も理解できない耄碌じいさん太国に理解できているのか?
かわいそうに。
323レス長たらし毘古:2011/09/09(金) 17:54:20.86
さて当方は「断絶説」は採りませんが、継体大王の継承によって、かなり大き
な画期が図られたと想定する者の一人です。何の画期か?それは次の二つを
分ける画期と想定するのです。

@神功皇后&武内宿禰の二大魔王の連合王朝=古墳時代=倭の五王時代
A継体を担いだ物部・息長等の豪族連合=その中で蘇我が実力を拡大

蘇我は古事記において武内宿禰の亜流子孫ですので、@からAの過渡に際し
「実務者」として世俗的な勢力を拡大し得たのもそうするとごく自然かも
しれません。また当方仮説においては、神功は「トヨになりかわった人物」
(もしくはなりすました・あるいは本当にトヨの後継?)ですので、その意味
でも、トヨ(&蘇我)が、神功の直接の後継者である仁徳王朝が、上記@とA
の過渡期によって「揺らいだ」ので「トヨ(の末裔)の復権が可能になった」
と推定すると、その勢力の再起爆としてトヨを祀る蘇我がメキメキ実力をつけ
てくるのもかなり可能性の高い話となって来ます。
この架空筋の場合、@によって奪われたトヨの権威が、Aによって復権の門を
開き、その後蘇我VS物部の戦いによって、最終復権を果たす。こう言う架空
筋も妄想郷として出現してくるような錯覚が幻出します。

簡単に神話に仮託して表現するなら、住吉筒三神によって新型外洋船団を操る
神功皇后軍団が、その動揺と共に、かつて駆逐した、ワニ船を操るトヨの一族
が復権してきた。是が上記@がAに画期した事で、可能に成って来た、と言う
構図なのです。そしてその延長線上で、蘇我VS物部の、豪族頂上決戦が可能
になってくるのも、これも筋が通ってきます。@→Aの画期によって、皇族を
「支える豪族の方の勢力関係」が大きく変って行った。そう考える想定です。
324太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/09(金) 18:56:14.53
>>322 宿主よ
>東倭重譚納貢。この紀年である、としても△縁鏡に刻まれるのは、50年後である。
 50年たっても刻まれる意味とは、ここが畿内大和の発展の礎となった年だからである。
 東夷と東倭の意味も理解できない耄碌じいさん太国に理解できているのか?

オマエの即興の言い訳にすぎない。
ウィンドウズ95が発売されたら、1995年ころに爆発的に売れて皆使うん
だよ。オマエのはまるで1995年から50年後にウィンドウズ95を使ったと
いう言い草どぇ、物笑いだ。ウワッハッハ!
403 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2011/05/04(水) 14:26:47.10

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>晋書 正始元年 重譚納具 畿内大和の朝貢
          ↑
       これは何かねぇ?ww
藤村某もこんなことはしないだろう・・・。ww
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/09(金) 18:59:30.52
崇神紀には三輪山の説話がある。これは半径3の円(←三輪)を示唆したもの
である。その球化の 体積=表面積 の数式を天津神算木(天津金木)といい、
古代史の真の年代を測る天下の宝器であるのだ。違える編年は出鱈目である。

天津神算木(天津金木) r=3

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はべき)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335=113.◎97B350

マル数字 B ◎ がまず注目すべき数字で、三輪(ミワ:三〇)を示唆する。

マル数字の中に B.C,97年 崇神即位年 の見かけ年代が位置する。真の年代は

 350−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

と、計測される。崇神元年は景初元年だったのだ。これ以外の編年は悉く
デタラメである。

天津神算木からその主値は崇神であり、景行はA.D.130年にて死値であり、
景行年代は崇神の代の引き立て役たる〜お助け年代となることが把握される。
326日本@名無史さん:2011/09/09(金) 20:10:26.37
297 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2011/09/09(金) 18:00:09.46 ID:PeLUaRHk0
それでも、生きてゆく 9月8日放送

問題の場面

http://iup.2ch-library.com/i/i0414733-1315558682.jpg

391 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 17:26:47.43 ID:bD7ojX2t0 [6/8]
JAP18マジだった。。。
>見つけた(パンドラだけど・・・)!27分頃〜見てみ。ゴミ箱に捨てられとる
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=wmnnx&prgid=43296284


983 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2011/09/09(金) 18:24:42.00 0
>>981
韓国語で「18」は「シッパル」と発音する
これが韓国語で「FUCK YOU」を意味する言葉に発音が似てることから
「18」が罵倒の隠語として用いられる

つまり、「JAP18」は

JAP FUCK YOU

と解釈できる
327唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/09(金) 22:02:14.93
>天津神算木(天津金木) r=3

この数字で△縁神獣鏡の整合性が得られるつもりかも知れないが、
△縁神獣鏡は3世紀後半の品であり、桜井茶臼山から副葬の時代となる。
しかし、巻向遺跡は2世紀後半からである。
100年の誤差を埋められない思考であることは、
崇神時代に任那建国を主張できないところにも現れている。
かわいそうに。
328太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/09(金) 22:06:43.60
オマエは半島人だな。半島スレへ行け!
329太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/09(金) 22:22:18.22
宿主よ
ウィンドウズ95が発売されて1995年ころに爆発的に売れて同年即皆使っ
たんだよ。オマエのはまるで1995年から50年後にウィンドウズ95を使ったと
いう言い草だね、物笑いだ。そろそろ盲象に気づいたら如何か。ウワッハッハ

崇神6年に鏡作神社付近で鏡の改鋳があったのなら、その直後に即〜
239年鏡の製作が多数行われたと観るのが妥当な考えだ。つまり景初3年
の239年が崇神6年に近接してると観るのが正解なのだよ。これは〜

ウィンドウズNTが改作されて1995年にウィンドウズ95が発売されて、
当然皆買ったのが記憶に新しいが、オマエのはそうでないとして1995年の
50年後にウィンドウズ95が出回ったと頑張って主張してるも同然であり、
笑止千万だ。50年後にウィンドウズ95が新作の如く出回るわけがないん
だぜぇ〜。ppppp

宿主よ、そろそろオマエの脳内点検をしてみろ。ww
330唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/09(金) 22:33:55.90
>オマエは半島人だな。半島スレへ行け!

323年 神功49年 半島占拠、そして領土分与により百済建国。
その証拠が、七支刀を持ってきた時の言葉だ。以後倭に春秋の朝貢を欠かしません。

これを正しいとする見方は存在しても、半島の人々は納得しない。

そこへゆくと太国倍年は、事実を曲げても百済から文化が伝わったとしたいんだろ?
であるならば、太国耄碌じいさんの方が適任である。

ちなみにパソコンは、dos3,dosvから使い続けている。
ほしければ、ウインドウズ3.0からあるぞ。
3.1でないところがいいだろう。
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/09(金) 23:00:19.58
オマエのそんなPCなんかより、コチラのはもっと古いのを持ってたぜ。
当時は200万円とかもしたんだぞ。いまから30年近く前だ。
オマエの自慢なんかペーペーだ。ww
332日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:07:51.10
両氏、なんだか、議論の方向がかわってきてるぞwww
333ひとぶた:2011/09/09(金) 23:33:38.52
>>330-331
私はDOS_V2.11→V3.3C→V5.0→V6.2→Win95→Win2000→XP(現在)
MacはOS8→OSX(現在)
機械は買い換えてもOSは長めに引っ張る性質です。
Unix/Linux系もいじったけど、これは馴染めなかったですね。
VMSとかCP/Mなどの伝説的OSは見たこともないけど
N88ベーシック互換のPC-9801は動態保存してますよ。
334日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:38:36.43
その手の話を始めたらうずうずする人がたくさんいそうだ。

N-BASICとか、SP-5030とか。
335日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:48:26.12
MSXからスタートしたが何か?
336日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:12:23.70
友達がAmigaを持ってやがって、当時はとてもうらやましかった。
337日本@名無史さん:2011/09/10(土) 07:18:58.09
じじぃども纏めてウゼェー
338日本@名無史さん:2011/09/10(土) 10:27:33.76
>>331

>当時は200万円とかもしたんだぞ。

Windows3.0を小馬鹿にしたその言い草、MacのQuadra持ちですねw
339唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/10(土) 15:32:37.23
>当時は200万円とかもしたんだぞ。
それを使って >>325 程度か。
340日本@名無史さん:2011/09/10(土) 15:53:09.42
太国は金持ち
341日本@名無史さん:2011/09/10(土) 15:58:21.62
崇神は名前がかっこいいよな。
342太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 17:22:20.46
宿主よ 再度言う。
そんなわき道へそれる話はどうでもいい。

それよりこれだ。↓
ウィンドウズ95が発売されて1995年ころに爆発的に売れて同年即皆使っ
たんだよ。オマエのはまるで1995年から50年後にウィンドウズ95を使ったと
いう言い草だね、物笑いだ。そろそろ盲象に気づいたら如何か。ウワッハッハ

崇神6年に鏡作神社付近で鏡の改鋳があったのなら、その直後に即〜
239年鏡の製作が多数行われたと観るのが妥当な考えだ。つまり景初3年
の239年が崇神6年に近接してると観るのが正解なのだよ。これは〜

ウィンドウズNTが改作されて1995年にウィンドウズ95が発売されて、
当然皆買ったのが記憶に新しいが、オマエのはそうでないとして1995年の
50年後にウィンドウズ95が出回ったと頑張って主張してるも同然であり、
笑止千万だ。50年後にウィンドウズ95が新作の如く出回るわけがないん
だぜぇ〜。ppppp
343太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 17:29:56.28
>ちなみにパソコンは、dos3,dosvから使い続けている。
 ほしければ、ウインドウズ3.0からあるぞ。
 3.1でないところがいいだろう。

それを使って ↓ 程度か。

>この数字で△縁神獣鏡の整合性が得られるつもりかも知れないが、
 △縁神獣鏡は3世紀後半の品であり、桜井茶臼山から副葬の時代となる。
 しかし、巻向遺跡は2世紀後半からである。
 100年の誤差を埋められない思考であることは、
 崇神時代に任那建国を主張できないところにも現れている。

344唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/10(土) 17:37:06.03
http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=1423

PDFファイル 研究課題名(和文) 日韓出土土器による3・4世紀国際交流の研究 より
当該期の朝鮮半島系土器の分布が玄界灘沿岸地域、なかでも博多湾周辺に集中すること、
西日本全体でみると上述のルートと重複する点の多いこと、3 世紀後半以降、福岡県西新
町遺跡に極度に分布が集中するようになることなどが理解された。

国内の土器についてみると、この時期、博多湾沿岸の地域では、日常土器の多くが、
庄内式・布留式とよばれる畿内の土器の特徴を備えていくが、西新町遺跡においても、
このような畿内系統のものと山陰地方のものが卓越し、これに加え吉備など瀬戸内海
地域の土器も認められる。

この3世紀後半に△縁鏡が舶載される。
△縁鏡を全て国産で説明使用としても、画像・画紋の輸入が先である。
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 17:37:07.67
>>325から
天津神算木からその主値は崇神であり、景行はA.D.130年にて死値であり、
景行年代は崇神の代の引き立て役たる〜お助け年代となることが把握される。

景行はホツマでの 【末代の天皇】 であ〜る。


346太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 17:41:54.78
×この3世紀後半に△縁鏡が舶載される。

○この3世紀前半に△縁鏡が国産される。
 △縁鏡を全て国産で説明使用として、ウィンドウズ95の1995年即使用と
 同様に鏡作神社で国産されたものである。このことは王氏の有権威論で
 解決済みであ〜る。
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/10(土) 18:05:28.74
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
壹與=五百野姫。
大和が九州に進出するのは、景行時代である。
考古学は、それを庄内式土器の九州上陸で認めている。
だから、魏志倭人伝を上記( >>344 )のように読むことが出来る。
それから2、30年後には神功の渡海がある。あづないの罪は273年の日食。
神功渡海は3世紀後半である
現在の考古学の知見は正しい。
348唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/10(土) 18:09:23.68
>>345
だから、200万も使って”算木”程度かと…
これを、人々は”豚に真珠”と呼ぶ。
349太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 18:33:46.21
その程度ではないね。www

ほんの少しを出したまでのものよ。そんなに秘儀を書きこむわけがなか
ろう。オマエがいなければ、天津神算木も秘匿していただろうがね。
オマエは原さんも歴史読本で呆れて批判していたように、こちらから
観れば、オマエは朝廷に背反する朝敵であり、危険人物だ。
だからやむを得ずその少しを出して示したものさ。

なお、オマエなんかに卜事なんか分かるまいて。ppp
350太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 18:41:50.23
>壹與=五百野姫。

これは別人だね。
ツクシムケ=筑紫平(む)け ←○

×→筑紫向け(←これはオマエの恣意的解釈)

>大和が九州に進出するのは、景行時代である。

進出ではなく行幸での視察だ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>それから2、30年後には神功の渡海がある。あづないの罪は273年の日食。
 神功渡海は3世紀後半である

273年の日食は神功紀紀の神功元年前年の暗黒記述とは関係ない。
日食は数日も継続はしない。つまりあづないがどうのこうのはこれも
関係がない。

>現在の考古学の知見は正しい。
正しいところもあろうが、間違いもうんとある。
351唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/10(土) 18:52:28.09
>>350
かわいそうに
自分の編年があるのに、その編年で対案を示せない。
つまり、3世紀半ばに景行の九州遠征があり、
3世紀後半に神功渡海がある。
この思考に反する対案が存在しない。
352太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 18:55:47.52
かわいそうに
自分の編年があるのに、その編年で対案を示せない。
つまり、3世紀前半に鏡作の畿内鏡製があり、
3世紀半ばに崇神没年がある。
この思考に反する対案が存在しない。
353太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/10(土) 18:59:25.38
>>348
大王、臣下も使って”猿人”程度かと…
これを、映画は”猿の惑星”+創世記と呼ぶ。ww
354日本@名無史さん:2011/09/11(日) 18:46:16.23
>>343

卑弥呼は「ウインドウズ235」を使っていたらしい。
355日本@名無史さん:2011/09/15(木) 21:51:12.23
卑弥呼が奴国に殺されたって思ってる人いる?
卑弥呼は姿を見せなかった=都に隠れてた
ってことは邪馬台国の首都に攻め込まれて
リーダー(卑弥呼)を殺されたってこと

でもその後男王だったりトヨが王に立ったりしてるから
滅亡はしていない

本拠地に乗り込まれてリーダーを殺されたら普通滅亡するよね?

俺は卑弥呼は病死だったんじゃないかなって思ってる
356日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:33:59.15
>>1
卑弥呼は誰って、、、
神社本庁が昭和末期に公開しただろうに。。。
こんな事今時論議しているのは三流の学者だな。。。
357日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:36:51.74
トヨも公開しているだろうに。。。
豊受大神はトヨが受けた神だろうに。。。
358日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:44:55.93
>356
何を公開してるって?
俺の兄貴は神社庁の役してる
うちは神社屋だ
359日本@名無史さん:2011/09/16(金) 01:22:08.23
とよ=神功皇后という可能性はどれくらいありますか?
昔、考古学オタだった連れがしきりに言ってたので
360日本@名無史さん:2011/09/16(金) 01:51:26.78
神功皇后は自ら戦におもむき応神天皇を生んだりしているが、
卑弥呼やトヨのイメージとは大分ちがう
夫が無く人前にも現れない巫女のイメージだからな
361日本@名無史さん:2011/09/16(金) 07:23:08.87
神名。天照大神こと、大日霊女貴命。・・・初代(大)日巫女
又の名は、天照大日霊女貴命
・・・天照大神「荒魂」=憧賢木厳之御魂天疎「向津比売」命。=「瀬織津比売」大神
神名。天照大神。こと、雅日霊女貴命
・・・二代日巫女/トヨの御事。
母神は市杵嶋姫命/狭依比売(天照大神ことムカツヒメとスサノオの姫御子)=天宇受売命。(一伝、天照大神)
・・・天の岩屋での表現は当に産屋での出産をあらわしています


又の名、多数(御名が数多有るのは大物である査証)。
「トヨ」比売。又は豊依比売。
諱は、「波」比売。又は豊波比売。
雅日霊女貴命。(天照大神)
豊宇気比売神/豊受皇大神(和魂/荒魂は気吹戸主大神とも)//(天照豊受皇大神)
丹生都比売大神。(神武東征では、紀伊の国の女賊の酋長に改竄。神武天皇の祖母ないしは大伯母)
托幡多千々比売命/萬幡・・・
若狭比売神
・・・
362日本@名無史さん:2011/09/16(金) 09:49:23.58
中国の国史が、三世紀前半の日本に「共立された女王」がいると書いている事実。
三世紀前半の日本で、各地の土器が集まる場所は纏向にしか見出されないという
事実。

今後の新発掘があるかも知れないが、すでに纏向で出てきたものが消えてなくなる
わけではない。そして、その纏向には初期の古墳が多数存在するという事実。

当時の日本人が「共立した王」のことをなんと呼んでいたかは不明だが、
その王は纏向にいただろう。

いくつもの国に分かれ、相争っていた倭人が、ある日「王を共立」し都を
定めた。都は邪馬台国に置いた。
倭人は、卑弥呼連合国だけでなく、他にも幾つかの国を作っていた。

これが三世紀前半の日本の様子。
363日本@名無史さん:2011/09/16(金) 13:39:36.71
けど、そのためには相当交通網が充実していないとなりませんね。
364日本@名無史さん:2011/09/16(金) 14:45:06.48
>>362
倭人伝を読んで「共立された女王」を知っていながら、ヤマト王権が
それを自分たちの歴史(日本書紀)の中に記述できなかった、という事実。
これほど重いものはなかろう。

事実は、神功紀の中に“卑彌乎”を“隠して紛れこますように”触れてるのみ。
365太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/16(金) 14:54:02.45
>とよ=神功皇后という可能性はどれくらいありますか?
卑弥呼は紀に神功の条に書かれているが、その実、卑弥呼の年代はそこ
ではなく、崇神の代であり、真の年代とは100年位の段差がある。

トヨ(イヨのほうが正解)は垂仁の年代あたりに来るから、その等号は
成立しない。
366日本@名無史さん:2011/09/16(金) 17:32:09.96
>>359
>とよ=神功皇后という可能性はどれくらいありますか?

多分その「ツレ」が読んでいるのは『関裕二』と言う作家の本じゃないのかな?

畿内ヤマトの壱与=神功皇后が九州邪馬台国の卑弥呼を殺して
魏には卑弥呼に連なる宗女とか偽ってその後釜に座った…という話だったと思うがwww

「可能性」と言われても 0% なのか 100% なのか判断する材料が無い。
リアルである程度は本を売っているんで、流石にここの頭イッチャッテる九州説と違い
年代観その他でも一応は現在の考古学上の常識は押さえているんだろうが
「ストーリー先行型」と言う点では同じ様なタイプだろう。

「そのような物語は無かった」と言う『悪魔の証明』はできない。
否定も肯定もできないようなものの可能性を計ることはできない。

まあその病気にかかったなら適当に話を合わせてスルーするのが一番いいだろうがw
反論したいなら、そもそも九州にその殺害された卑弥呼がいたと言う邪馬台国があったと言う(ストーリーじゃなくて)根拠を問うてみるのが突破口かな?w


367日本@名無史さん:2011/09/16(金) 18:10:18.50
関祐二さんの本を読んで見ると疑問があっさりと解決するよ
卑弥呼は誰か?
トヨは誰か?
たけのうち?しおつちのじい?
などなど・・・
368唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/16(金) 18:10:55.65
書記が倭人伝を神功の時代に差し込んでいる。
しかし、時代が違うが卑弥呼の時代が存在して大和が存在する程度の認識はある。

>その実、卑弥呼の年代はそこではなく、崇神の代であり、真の年代とは100年位の段差がある。
この認識は、神功52年=369年七支刀=百済本紀 からきている。
だが、韓国においても、百済本紀の数字認識が正解であるとの見解には
疑義がもたれている。
はっきり言って、「百済本紀の数字には誤りがある」だから、百済本紀による編年を
考古学は、50年遡上させる。つまり、「百済本紀の数字は50年遅すぎる」となる。

崇神世に任那建国がある。
ほけの山古墳(225〜250年)
東海、瀬戸内の土器←崇神11年異俗多帰の後
棺郭、大量の鉄器←任那からの朝貢の後
整然と並べられた穴あき壺←最初期の埴輪←垂仁末頃より後

369太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/16(金) 18:50:06.43
〜考古学は、50年遡上、降下させる。
370太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/16(金) 18:55:47.51
〜その実、卑弥呼の年代はそこではなく、崇神の代であり、真の年代とは100年位の段差がある。
この認識は、倍暦の逆算と天津神算木計測 からきている。
371唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/16(金) 20:38:54.12
卑弥呼の時代は、魏が半島を管理する←任那建国は無い。
だから、任那建国以後のホケノ山を225〜250年に設定する考古学である。
崇神(188〜216年)
崇神5,6年=後漢193年
崇神11年異俗多帰=考古学:各地の土器が巻向に持ち込まれる。
崇神世 任那建国=新羅209年伽耶に援軍。3国遺時の541年で建国330年の金官伽耶。
216年ころから任那より朝貢があり、
さらに後でホケノ山古墳が作られる。
神功渡海は、
晋帝紀 274年 幽州を分け平州を置く。←東夷を冊封体制に組み込む
神功渡海に武力は必要ない年代である。
この50年後に渡海をもってきても、西晋滅亡後であり、武力が必要となるが
魏が半島を管理する時代に”任那建国”は無い。鉄と武力はどこから来たか?

372唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/16(金) 20:43:40.79
239年時点で、女王卑弥呼を認めている魏書。
240年時点で 倭王を「拜假」、ここで倭王は、「使上表荅謝詔恩」である。
晋書 正始元年 東倭重譚納具。この記事は、正始元年の出来事を正しいとする。
 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻… 掖邪狗等壹拜率善中郎印綬
正始4年に倭王は、伊聲耆掖邪狗を派遣する。
其八年 太守王到官 倭女王彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國


女王卑弥呼が倭王を授与されたのであれば、女王、女王国がこれ以降に登場することは無い。
ところが、その後も女王卑弥呼は登場する。この事実は、女王卑弥呼が倭王でないことを表す。
女王卑弥呼は、景初3年時点で魏に認められている“王”である。つまり、後漢時代に認められた
王権の継承者であり、倭王とは別人である。
373唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/16(金) 20:47:26.67
北史 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中,
其國亂,遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。無夫,
有二男子,給王飲食,通傳言語。…
南至邪馬臺國,即倭王所都。 其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。

倭奴國が其國亂,遞相攻伐,歴年無主。國人共立為王。であるから、女王卑弥呼は、使節団長として
大夫難米(大夫難升米、書記難斗米=難トベ)、難=奴=後漢倭奴国。を選ぶ。
次使都市牛利は、邪馬臺國,即倭王所都の代表である。
邪馬臺國=大和であれば” 官有伊支馬”を大和の代表、”次使都市牛利”が誰であるかを決定する
のがベストである。
倭王所都の王は、伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
374日本@名無史さん:2011/09/16(金) 20:49:22.39
日女命と小豊姫命は系図にそのまま書かれているだろうに。。。
倭迹々日百襲姫命の名もはっきり記されているといるのに。。。
更には、
玉手見命、彦国玖琉命、御間木入彦命、彦大毘毘命、大足彦命、と云う天皇の和風諡号まではっきり記されておるのに。。。
本庁と合議せずに是程の物を公開する訳なかろう。。。
何を今更論じると言うのだ。。。
375太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/16(金) 22:02:14.99
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の 」は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これこそ本物なのだ。
376太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/16(金) 22:05:40.09
伊支馬(猿相当)≠垂仁(人間相当)

等号とするは、まるで映画の「猿の惑星 創世記の」さながらのデタラメで
ある。
377唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/16(金) 22:14:20.43
>>376
畿内天皇で最初に朝貢したのは、垂仁である。

その垂仁を魏朝廷が何と呼べば正解なのか?
ちなみに、半島の諸王は、邑長、邑君程度の爵位授与である。
378太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/16(金) 23:14:31.65
寝言を言うな。
臣下(猿相当)は大王(天皇)(人間相当)にはなれない。
379日本@名無史さん:2011/09/17(土) 04:01:25.80
>>365

然り
380日本@名無史さん:2011/09/17(土) 04:13:22.10

因みに、
奴國などと云うものは存在しない。

委奴國である。



381日本@名無史さん:2011/09/17(土) 05:43:20.08
ウィキ「呉 (三国)」

その後、孫権は遼東の公孫氏に使者を送って魏を挟撃しようとしたが失敗した。
また、東の夷州・亶州(今の台湾・沖縄諸島)に探索と人を集めさせに兵を派遣したが、亶州には辿り着けず、
夷州から数千人の住民を連れ帰っただけに終わった。



               ↑

           
このイベントは日本と関係あるだろうか? 呉軍の偵察隊みたいなのが日本に上陸した伝承とかあるかな?
382日本@名無史さん:2011/09/17(土) 06:46:50.98
>>381
ない
383日本@名無史さん:2011/09/17(土) 10:31:29.39
>>364

うん、不思議だよね。
考えられること
1,後の王権は卑弥呼とは血縁関係がなかった
2,倭国の政治の実態と中国が書いたものが齟齬があった。

1は、266年頃以降、「卑弥呼共立」の主体となった部族の中から、勢力を
伸ばし、後にヤマト王権に育つ一族が現れた。記紀に書かれた内容も9代まで
の天皇家は、一豪族でしかない。記紀は自身の先祖について書いており、
無関係の卑弥呼については、一族の言い伝えが残っていなかったから
無視して当然。この場合も、卑弥呼は絶対的な権力を持っていたのではないと
思われる。

2,は、卑弥呼はあくまで祭祀の主宰者であり、政治的な権力者ではなかった。
倭人にとって権力者は武人だった。
時代が下がるほど、祭より政が重視され、祭の実行者の伝承より政が重視され
伝承の内容がさらに脇役になった。
三輪山祭祀の関係のモモソヒメとして伝承が残るのみとなった。
384日本@名無史さん:2011/09/17(土) 10:56:59.72
>>383
貴様の様に幼稚で何も調べようともせず、
適当な事を書く馬鹿は死んでしまえ。
385太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/17(土) 11:47:01.31
>>377 盲象の宿主よ
伝が魏使の北海道感知をしてる記載でないように、畿内のことはそこの文
では無関係だぜ。

オマエはそこの判別がトロいから、いっしょくたにしている猿知恵を敢行
している。ww 倭人伝は九州のみの記述としてほぼ間違いない。もし
もう少し考えても、山口県あたりを含むくらいに留まる。垂仁は九州行幸
はしておらず、大王(天皇)の臣下たる伊支馬は垂仁にはなりえない。
倭人伝では、畿内を入れてはならない。

つまり

 臣下 伊支馬≠垂仁天皇

であり、オマエの主張はデタラメとなる。
386唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/17(土) 17:23:44.89
>畿内のことはそこの文では無関係だぜ。

北史では、女王は、謂之倭奴國。倭王は、邪馬臺國。邪馬臺國の官は、イクメ(垂仁)である。
伊支馬を垂仁とできるのが、今の考古学の数字である。
ホケノ山古墳(225〜250年)
東海、瀬戸内の壺←崇神11年異俗多帰の後である。
棺郭、大量の鉄器←任那よりの朝貢。
整然と並べられた穴あき壺(庄内式)は初期の埴輪←垂仁末頃より後である。
画紋帯神獣鏡(楽浪鏡)←時代をあらわす。

>倭人伝は九州のみの記述としてほぼ間違いない。
奴国から南へ1と月かけたら海上に出てしまう。
晋書帝紀 正始元年東倭重譚納貢。東へ1ケ月移動すれば、畿内大和に行き着く。
そして、庄内式は、北部九州に上陸する。

纒向3世紀中期の大型建物は、土盛りと整地(土盛りをすれば土地は乾く、代す)日代宮。
387太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/17(土) 18:16:16.01
→イクメ(≠垂仁)である。 。
 伊支馬を垂仁とできないのが、今の考古学の数字である。

なぜか? 簡単だ。臣下は神国日本では天皇には絶対なれない。
このことは考古の連中は了解済みよ
388日本@名無史さん:2011/09/17(土) 20:38:31.90
卑弥呼は倭30国の象徴的な女王
EU総裁のようなもの
崇神(弥馬升or弥馬獲支)は邪馬台国の王
389唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/17(土) 22:26:43.99
>>338
ホケノ山の説明ができるか?
ホケノ山古墳(225〜250年)
東海と瀬戸内の壺←崇神11年異俗多帰の後
棺郭と大量の鉄器←任那建国後
整然と並べられた穴あき壺(出現期の埴輪)垂仁末以後
同向式画紋帯神獣鏡=楽浪鏡=公孫氏が呉から導入した鏡
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
390太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/17(土) 22:30:09.93

伊支馬=イクメ=垂仁 とは
     ↑
    映画「猿の惑星 創世記」〜

〜そのものの笑止千万wwwwのデタラメ。ww
すなわち

臣下 伊支馬(猿相当)≠垂仁天皇(人間相当)

猿は人間にはなれない
391日本@名無史さん:2011/09/17(土) 23:07:18.44
御神名の、(天照)大日霊女貴命。
この御方が天の岩戸に籠もる(=死亡)以前のヒミコ(日霊女)さま。

天鈿女命(市杵嶋姫命/狭依姫)を母君として産まれた(岩戸開き)のが、
雅日霊女貴命。第二代ヒミコ。トヨ姫。
392日本@名無史さん:2011/09/18(日) 00:09:52.20
>>390
崇神は自分が全国を収められないからと、
大叔母の卑弥呼に頼り切って何がおかしい?
倭のまとめ役を卑弥呼に頼ったにしても、
恐らく崇神が邪馬台(やまと)の天皇であることに変わりないだろうし
それに伊都国王は卑弥呼に従属しているのだよ。
従属したら王は猿なのか?
393レス長たらし毘古:2011/09/18(日) 04:02:46.13
さて、久々に古事記を読んでのおみあげ。自空説にとっては不利になるか、
無関係かのどちらかだったが、ここの先生方なら活かせるかもしれない不思議
な表記をめっけましたので、ご持参ワン。

古事記序文にて、「賢后」と言う表記が登場しますが、はて、この賢后とは誰
であろうか?解説書では、これは崇神大王との事だが、つむじまがりの拙者は
「あれ?男でも使うのかな?「后」の字」と思い、古事記全文にて「后」の
字(と関係ある人物)を調べ、その用法を確認してみたが、全て、天皇か神か
神のような人物の「配偶者」と言う形でしか用いられていない。そう、つまり
全て性別で言えば「女性」でしかありえない人達しか「后」の字が用いられて
いないのだ。

すると、古事記序文の「賢后」は、
@女性である→つまり解説書の、それが崇神の事である、と言うのは間違い
A女性である→それが崇神であるがあっている場合、崇神は女性となる
A女性でない→序文のみ例外表記をしている

この三つの可能性しか無い。残念ながら古事記序文には「后」の字は、そこで
一回しか出ていないので上記Bは検証不可能である。すると、上記@かAしか
無いと言う話になるのだが、序文での用いられ方を見るに、「その人物」は、
神武大王より後で、かつ仁徳大王より前の人となる。
この間に「后」の字が使われるお方は、イスケヨリヒメ(神武の妻)と神功
皇后だけである。ここで拙者はまた迷宮に飲み込まれてしまうのである。
394レス長たらし毘古:2011/09/18(日) 04:18:59.47
解説書を書いた方も、お馬鹿ではなかろうに、と思うと、「崇神大王である」
としたご理由があろう筈なのだ。しかし崇神大王は古事記を読む限り、女性
感は感じられない。
そこで、あくまでも邪推の余地として、拙者の先述した「毘売」論から鑑みる
に、それがしの「開化大王女性説」とか「モモソ様、実は結婚してた説」とか
がここでまたまた再浮上するのである。

序文筆者の太安麻呂は、ウッカリやっちまったか?あるいは、賢后は崇神では
なく、神功かイスケヨリのどちらかなのか?神功だと「後代すぎ感」が強いし
イスケヨリだと「先代すぎ感」が強い。うーん、迷宮ずっぽし。

さて、ここからが邪推空論であるが、もしですよ?もし、序文執筆時までには
古事記本文の崇神記述前後に、「賢后に当たる女性」の表記がいらっしゃった
ならどうであろうか?
そう、それに対する序文なら、太安麻呂の序文中の「后の字の用い方」は、
全く違和感は無いのだ。そして、その序文ができあがった後に、「賢后」は
「古事記本分表記からスッポリ消された」とすると、拙者のつまらない違和感
もある程度晴れてくる。

まあ、私が解説者の真意をつかみきれていないだけかもしれないし、それは
それでいいのだが、もし上記架空仮説の通りだとすると、今度は別の場所で
困った自体が生じてしまうのだ。だから、私的には迷宮なんですね。
なんとかならんかのぅ?諸先生方。
古事記で序文執筆以降全文奏上までの間に「消された賢后」がいたとすれば、
その反動で、日本書紀にて怪人モモソヒメがパワーアップしてカムバックして
くると言うのもこれもこれで筋は通るのだが。そうなると、「その間にモモソ
を消さなくてはならない理由」を説明しなければならなくなる。

あ〜困った困った。
395日本@名無史さん:2011/09/18(日) 04:24:16.33
>>392
仮に崇神がモモソに国の統治を任せたとしても
(そんな事実はどこにも書いてないが)
官名が王名と同じになるハズはなかろう
396レス長たらし毘古:2011/09/18(日) 04:48:21.53
さて、拙者の今回の争点を、あらためて下に二分

A:拙者の「先代過ぎるor後代すぎる」の拘りは無関係で、しかも解説者が
間違っていて、古事記序文の「賢后」はイスケヨリヒメか神功皇后のどちらか
である可能性。
B:太安麻呂、ウッカリ古事記下書きに対する序文をそのまま使った可能性。

「后」の字を全力で検証した結果、上の2つの可能性しか無い、と言う結論に
なる。上記Bに更に注目すると、モモソの母親の苗字は意富氏、つまりおお氏
そう、奇しくも編集総責任者で序文の執筆者でもあるの太安麻呂(おおの
やすまろ)と同じ苗字である事も再浮上する。
そう、ウッカリなんてあり得ない。やるとするなら、太安麻呂は、「積極的」
にそうする可能性だってあるのだ。おお氏(の末裔)であるなら、本分から
おお氏の女傑(つまりこれがモモソさん)を消されたのに納得が行かず、
せめてもの意趣返しを序文にこめた。こう言う筋も可能にはなって来る。

天武大王は、なぜ、崇神代付近の女傑だったかもしれない「賢后」を古事記
本分からきれいさっぱり「消し去ってしまった」のか。これがわからニャイ
のである。もし、Aであるなら、なぜ解説者はそのお方を崇神大王だと解釈
したのであろうか?謎は深まるばかりであーる。
397レス長たらし毘古:2011/09/18(日) 05:15:06.32
あ、最後に上記Aでシックリ行かない拙者なりの理由(と言うか感想)を述べ
て本日は終り。

この序文「賢后」であるが、「夢に覚め」と言う表記がある。これは「夢の
お告げ」を暗喩している印象がある。仮にこの暗喩だとした場合、イスケヨリ
ヒメさんは自分の子供が殺されそうな時に救ったので、まだその可能性は残る
が、残念ながら「どのような夢のお告げ?」と言う点は記紀どちらにも表記は
されていない。又、神功皇后に関しては、「夢のお告げ」が関与した事に
よって後世賢いお方だとされる要素が古事記上は全く無い。(むしろ実行者で
あるし、賢いお告げ媒体だと仮定した場合、夫の仲哀をむざむざ神罰で死なせ
てしまったのは果たしてその「夢に覚めた賢后」に当たると言えるだろうか?
チト言い難い)
どちらも賢后である事には違いないのだが、しかし「古事記序文の賢后」とは
少し印象が違う存在に拙者には思えるのだ。

逆に、これは古事記でなく日本書紀であるが、崇神の遭遇した「童女の童歌」
をモモソが「夢判断」する事によって、崇神大王の死の危険は回避される。
(これによりタケハニヤスの乱を事前に察知し、崇神は逆にこれを殺す)
(注:但しこれは紀の主張であり、記でモモソはこれに絡んでいない)
これは「夢に覚めた賢后」と言われる要素は高い逸話と言える。
(勿論、これはもし仮にモモソが崇神大王もしくはその先代大王の開化大王の
皇后であったとしたら、と言う架空前提での話になるが)
398日本@名無史さん:2011/09/18(日) 06:43:46.68
>>395
日本書紀に、依代となり神懸った百襲姫が崇神に予言を与えている場面がある
外国人からすれば百襲姫が崇神に指示を与えているようにしか見えないかもしれないので
格付として百襲姫>崇神となったかもしれない
399日本@名無史さん:2011/09/18(日) 08:11:20.41
>>398
それを「女王を共立した」とは言わないやね

古代の天皇はどれも同様に巫女を使っているので、
巫女>天皇
という格付が他でもないと証拠にならない。
400唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 09:30:54.30
太国の思考
>臣下 伊支馬(猿相当)≠垂仁天皇(人間相当)

臣下は”ヒト”であり、朝廷に背いた臣下が”サル”と表記される。
伊支馬は、官であり、背いてはいない。
401太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 10:07:49.50
背いていないなら、官の伊支馬はなおさら天皇にはなれない。
垂仁は立太子してるから、官ではない。伝は官とはっきり書いており、
太子とか書かれていない。このことは等号の成立しないことを意味する。
垂仁が九州行幸した事実は見当たらないことでも、官 伊支馬が天皇で
ないことは自明である。

つまり両者は別人である。

オマエがオマエの父親になれないのと同様だな。ww
402太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 10:12:31.93
>従属したら王は猿なのか?
王にも従属のほうはある。これは古代マヤでもあったようだ。通常、王は
アハウと呼ばれてたが、従属王はヤハウというんだそうだ。従属王は
猿相当ではなかろう。人間での上下のほうでたとえるべきだ。

しかし官は王ではない。いずれかの王の家来だ。つまり伊支馬は垂仁天皇
にはなりえない。
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 11:09:54.16
>官は王ではない。

だから、倭奴國までしか訪れなかった魏使が、まだ朝貢をしたことのない
邪馬臺國(大和)に同行を求め、次使田道間守の派遣となる。
では、この時魏が垂仁をなんと記述すれば良いか?
答えられないのか?
404太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 12:30:47.16
伝の魏使が畿内に行った状況はない。伝は九州の話をしたもので、
もう少し拡大しても山口県あたりまでのこと。

垂仁は畿内の天皇であり、九州の王の臣下たる伊支馬とは関係がない。
405唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 12:35:13.22
>>404
逃げるな!!

406太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 12:36:20.60
>逃げるな!!
寝言はもういいぜ。
42年の説明をしないで逃げてるのがオマエだよ。
407:2011/09/18(日) 15:51:59.92
おしゃ↑おしゃ↑おしゃ↑

さあ、盛り上がろう〜〜〜☆
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 16:06:37.68
書記 より19*n回の空白年(増し)を差し引く、正朔である。19年=6940日=1章が基本。
天皇   西暦    増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。
弥生第X様式の始まりである。

これだけで充分だろ?
西暦1年辛酉年に~功元年を重ねても日々の”朔”が重ならない。
409太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 16:08:29.32
重ならないのは当たり前だ。途中分断
410太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 16:10:18.39
重ならないのは当たり前だ。途中分断があればもう合わない。

欠史八代は月下旬の記事がない。

グレゴリオ暦でも1582年は途中日が抜けている。それでは合っていない。
411太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 16:16:02.38
>これだけで充分だろ?
全然充分ではない。連続で分断なしならば合う可能性があるが、八代を
観れば、オマエの論が軽率であることがわかる。


こんな軽く即断してるオマエの脳内のアワレさ。ww

おまけに紀の記載と話が違うのが、神功元年前年の記事が日食と観ての
計算が数日間も継続するという不審な論。これもオマエの論が恣意的妄想
で構築されたデタラメと判明する。

それにどこからどこまでが空年なのかの事由もない。これでは誰も納得
しないね。自身過剰だな。古代マヤ暦にも空年はない。オマエの脳内の
盲象そのもの。
412:2011/09/18(日) 16:30:46.92
>367
>関祐二さんの本を読んで見ると疑問があっさりと解決するよ
>卑弥呼は誰か?トヨは誰か?たけのうち?しおつちのじい?

せきゆーじ 北ーーー
413日本@名無史さん:2011/09/18(日) 17:32:15.78
関祐二とかもう、そういう歴史小説家を信じるなよ。
無知な読者を騙して本を売るのが仕事なんだからさ。
414唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 17:58:37.16
関祐二を読んでも次の時代につながらないだろ。
273年 泰始9年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。

考古学は3世紀半ばに(庄内式の時代に)畿内が北部九州に進出し、
3世紀後半(布留式)に半島の土器とカマドが北部九州に存在する。

415唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 18:18:24.91
>連続で分断なしならば合う可能性があるが、

暦を”後付けである”と主張しても
399年仁徳87年は、閏年である。
中国の399年は閏年では無い。
後付け説は、まずここでつまずく。
416太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 18:25:31.59
>九州人も畿内人も関東人も北海道人もすべて東夷に含まれる。 
閏年では1日違いだけ。年代の設定には美濃もん太氏の言うとおり、
これにこだわることはない。

おまけに399年は通説年代であり、大陸の399年とは年代差がある。
つまりつまずくことはまったくない。これは400年で14年の年代差が
あるわけで、閏年と合わないのが当然である。14年差は佛伝の二説が
552年と538年とある因を意味している。

 552−538=14年
417太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 18:28:25.02
>>416 訂正
× >九州人も畿内人も関東人も北海道人もすべて東夷に含まれる。 
○ >399年仁徳87年は、閏年である。
418唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/18(日) 19:42:17.67
>399年は通説年代であり、大陸の399年とは年代差がある。

その思考で暦の後付けができるのか?
できないだろ。
であれば、仁徳87年は、倭国での記録である。
となり、倍年とは整合しない。
419太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/18(日) 20:22:27.74
その思考で14年差(499年=永元元年)がができるのか?
できないだろ。
であれば、仁徳87年は、通説での記録である。
となり、空年とは整合しない。

420日本@名無史さん:2011/09/19(月) 00:21:53.19
あんまり意味ないかもしれません
神武天皇即位の紀元前660年は、百済滅亡の661年の1320年前。
「易緯」という漢代の書物によれば、天道は1320年に一度改まるという。つまり新時代に入るということ。
最後の半島利権を失い、大陸との貿易ができなくなった倭国にとって、これは不安だが新しい時代の到来だったのであります。すなわち、日本の誕生です。
というわけで、神武天皇即位の年代時代、虚構なわけです。
421日本@名無史さん:2011/09/19(月) 03:46:19.94
官使を調べるとこうある
「太政官の使者」

太政官を調べるとこうある
「1 律令制で、神祇官(じんぎかん)と並ぶ中央の最高行政機関。
八省以下を統轄して政務を行った。長官は太政大臣で、これに
次いで左右大臣があり、のちに内大臣が置かれた。
事務局として少納言局・弁官局が付属した。おおいまつりごとのつかさ。」

つまり倭の邪馬台国の官使は、倭の大臣より身分は上。
国の最高位であることは事実
422日本@名無史さん:2011/09/19(月) 06:43:35.98
コテハンが思い込み(?)で妄想を振り撒いてるのは知ってたけど
(それでも関連文献ぐらいは読んでる)
例をだして悪いが>>421みたいな書き込みする人間までいるとは・・・
423日本@名無史さん:2011/09/19(月) 07:20:03.21
結局、九州説・畿内説
どっちかは思い込みなんだからいいじゃんね
424太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 09:53:59.64
>神武天皇即位の紀元前660年・・・・・・・・・
>・・・神武天皇即位の年代時代、虚構なわけです。

当時は倍暦を行使していたため神武の年代が大幅に紀元前に位置してるとの
錯覚が生じてしまい、それで紀元前660年だということになってしまったもの。

当時の1年は現今の半年等であるから、そこをを正確に掴めば真の年代を
見つけることが出来ます。
425唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 10:19:05.23
>552−538=14年

仏教と共に暦が”初めて”入ってきたと主張したいのか?
ホツマ=きあえ
日本=きのえね
中国=甲子

仏教とともに入ってきた暦は”甲子”である、当然この文字を”きのえね”とは訳せない。
”きのえね”で数える暦は、古墳時代に”半島の暦”を導入したものである。

千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿
□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗
休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚。

水羊(癸未年)祭を行った。 水羊=みずのとひつじ=癸未
そしてこの癸未は、半島が政治的空白であり、民が自由に動ける時代である。
383年の半島に政治的空白は無い。
扶余が高句麗に攻め込まれたのは320年か21年である。この年代が西晋滅亡後の
半島の政治的空白期である。~功49年(323年癸未)、同52年(326年)七支刀。
大量の民の渡来。
七支刀369年−326年=43年。
この誤差が「過去の考古学−今の考古学≒50年の誤差なのである。

426太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 10:41:55.97
今の考古学が正解の保証はどこにもない。
また元の木阿弥になることは十二分に予想がつく。

保証がないのは日食が数日間生起しない現代天文学上の鉄則であり、朝廷には
臣下が天皇には絶対即位できない鉄則のあることだ。

甲子がどうのこうの言うならば、色即是空が佛教公伝前には訳せないのと同様
にこんな思想は朝廷にはないことが分かるものであり、当然宿主空年は虚像で
全然存在しない。
427太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 10:47:22.93
>>426 訂正
× 現代天文学上の鉄則であり・・・絶対即位できない鉄則のあることだ


〇 現代天文学上の鉄則への背反であり・・・かつ絶対即位できない鉄則への背反だ

 
428太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 14:02:17.39
仏教とともに入ってきた思想は”色即是空”である、仏伝前この文字で”空年”
とは使えない。
429唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 16:04:49.75
>今の考古学が正解の保証はどこにもない。

今の考古学は、纒向遺跡(庄内式土器)を、2世紀末から6,70年の時空である。
ここに、崇神〜垂仁〜景行を設定した場合の文献として、次のような文献をあてがえる

崇神(188〜216年)から
後漢193年6月寒風冬のごとし。新羅本紀 192,3年大餓
新羅本紀 209年 金官伽耶に援軍。三国遺事 541年時点で建国330年
倭人伝 都市牛利(たしうり)=タジマモリ 、伊支馬=イクメ
北史 至邪馬臺國,即倭王所都。
晋書 正始元年東倭重譚納貢。
倭人伝 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
晋書 273年 泰始9年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。

これだけの文献を、崇神から~功に配置することができる。(まだ他にもある)
文献との整合性こそが、歴史であると主張できるのだ。
否定したければ、自分の主張する年代を正しいと主張できる文献を重ねれば、対案として
検討することはできる。
太国は文献を重ねて主張したことがない。だから太国の否定は、個人攻撃でしかない。
430太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 17:22:29.45
崇神(237〜259年)から 〜

〜伊支馬≠イクメイリヒコ


431太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 17:26:39.13
これだけの文献を、崇神から~功に配置することができない。(まだ他にもある)
文献との非整合性(←日食数日間継続)こそが、歴史であると主張できないのだ。
否定したければ、自分の主張する年代を正しいと主張できる文献を重ねれば、対案として
検討することはできる。 ←コチラは紀、神皇紀、大成経等で重ね済み。
コチラは文献を重ねて主張したことがある。だから宿主の否定は、個人攻撃でしかない。
432唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 17:47:31.72
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~jkodaken/jpn/activity/lecture/lt110730.html

土坑木棺墓→葺石封土墳→割石積方形基壇式積石塚墳の順に出現して熊津遷都時に終焉を
迎える。21.6haもの規模の夢村土城は、自然丘陵を利用して築か れ、城壁には木柵や望楼が
併設され、城内には各種建物・施設が確認できる。風納土城は漢江沿いの平地に築かれてお
り、土城に先行する三条の直線環濠が検出 され、築造開始期について論争がある。

百済本紀に歴史を合わせても正解が得られないことは、韓国考古学も認めざるを
得ない。
太国倍年が正解であるか?残念ではあるが百済王朝は日本の記録である。
日本の記録を中国、半島と整合させるのが正解であるが、
上記のように百済本紀に整合させても正解ではない。
だから、考古学は新しい年代観を示すのである。
433唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 17:54:41.85
>コチラは紀、神皇紀、大成経等で重ね済み

井の中の蛙大海を知らず。
日本の中の文献だけで、大陸の歴史と整合できるか?
または、整合していると主張できるか?
答えは簡単だ。太国倍年は、541年の時空が三国遺事と整合する。
しかし武寧王の誕生で整合を失う。
434唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 18:16:06.28
>50−113=237年=崇神天皇即位元年=景初元年 。 と、計測される。崇神元年は景初元年だったのだ。
これ以外の編年は悉く デタラメである。

で任那建国は何時なんだ?
ホケノ山(225〜250年)をどこに置くんだ?

ホケノ山古墳の整然と並べられた穴あき壺(庄内式)は出現期の埴輪である。

435日本@名無史さん:2011/09/19(月) 18:37:00.58
弥馬升が崇神の場合、生年と天皇即位は3世紀前半なのは同意です
436日本@名無史さん:2011/09/19(月) 18:41:18.44
すいません、テストです
437太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 18:47:45.09
>で任那建国は何時なんだ?

いつなんか分かる奴はまだいないぜ。オマエのもデタラメだしな・・・。ww
そんなのは先述のとおり100年以上紀と食い違う状況なのに、合うわけが
ないのが当然だ。だからそんなものは楽観視していればいいわけだ。

100年以上差があって、これここで決まりだなどと言う奴ほどインチキ
だということだ。流動的だから、今後何らかの古文献が発見されたとか
古代のブツが出てきたとかのとき照合して研究すればいいことだ。

それでもああだこうだ言う奴は半島人の野郎だろう? オマエはそうなん
ではないのか?
438太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 18:50:05.64
>大陸の歴史と整合できるか?

オマエは半島人か?
ならば半島スレへでも消えろ!

コチラは日本史での日本畿内の古代の編年をしてるのだよ。半島は参考で
充分だ。
439太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 18:52:09.65
>しかし武寧王の誕生で整合を失う。
オマエは〜

〜しかし永元元年=499年の編年で整合を失う。
440日本@名無史さん:2011/09/19(月) 18:53:39.05
ある程度わかるよ
日本書紀の垂仁紀に加羅から来た都怒我阿羅斯等のことが書いてある
んで、都怒我阿羅斯等が帰国する際に、崇神天皇が加羅を任那と改めよと言った
441唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 19:00:20.02
http://inoues.net/korea/yumemura_dojyo.html
夢村土城は、5世紀前葉からの遺構が確認されているが、遺構以外で4世紀に遡るべき
遺物が土城内にみられることも事実であり、土城内に未知の「4世紀の遺構」が存在した
可能性は残っている。5世紀後葉から土城内に高句麗土器が現れ、土城内に小積石塚や
土壙墓が造営され、5世紀前期とは土城の機能に若干の変化があったようである。5世紀
前期から中期にかけての墓制の変化ともあわせて,当時の社会変動を憶測させるが、
6世紀半ばまでで土城は廃絶したらしく、

この未知の「4世紀の遺構」こそ323年から続く領土分与の結果としての
百済王朝であり、390年代の高句麗南下までである。
442太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 19:00:37.18
いまのところ半島文献が120年前後の年代差があり任那が崇神の代だと
崇神紀にあるわけだが、こんなものは、では崇神の代のどこなのか、こんな
に年代差があって特定は出来まい。

だから今後の研究にゆだねればいいことで、237年=崇神元年 で必ず
合う状況がそのとき出ますよ。それまで保留にしておき、楽観視して
ばいいことだ。
443太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 19:08:37.20
>ホケノ山(225〜250年)をどこに置くんだ?

225〜250年をどこで保証するんだ?

アテになるまい。おまけに末桁が5と0じゃぁ、精度が細かくなさそう
な読みとなる。考古とはそれほど精度が低いということだ。
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 19:12:50.18
>>442 訂正
× 崇神紀にあるわけだが
○ 垂仁紀にあるわけだが
445唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 19:22:42.98
>で任那建国は何時なんだ?
>いつなんか分かる奴はまだいないぜ。

それでも崇神時代でなければ書記の記事を信じることはできなくなる。
記事を信じないということは、世継ぎを含むほとんどが信用できないということだ。
しかし、ホケノ山古墳は、任那からの朝貢と垂仁末の埴輪と推定できる。
であるならば、ここから任那建国を導き出すことも可能である。
三国遺事が、541年時点で建国330年を示唆する以上 任那建国は210年と
することができる。
任那建国が210年であれば、垂仁末を240年頃に設定できる。
考古学の編年とも整合する。

崇神元年が237年であるならば、そこから崇神末までに任那建国を設定すれば良いだろうが
魏が半島を管理する時代に”任那建国”を設定できるか?
答えは簡単だろ。
446唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 19:43:03.85
2世紀末 纒向に各地の土器が持ち込まれる。
この数字には年輪年代が使われる。
ホケノ山古墳(225〜250年)
この数字は、炭素年代法が使われる。
年輪年代法は、年輪の残り具合によりかなり正確に年代を割り出す。
それに比べ炭素は少し特定年代が広がる。
年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

降水量が183〜193年で異常を示す。
日本においても193年の凶作は成立し、年輪年代が正しいことも示す。
447太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 20:17:22.44
>ホケノ山古墳は、任那からの朝貢と垂仁末の埴輪と推定できる。

推定しても、合うことにはならない。
448太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 20:25:02.86
>書記の記事を信じることはできなくなる。

オマエは五重在位だとか、書紀の記事を信じていない。つまり恣意的に
オマエの都合に合わせただけのデタラメ盛りだ。 
五重在位とか言っていると、五重の院檻に入るくらいのひどい妄想だと
査定される。
449唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 21:06:31.48
>書紀の記事を信じていない。
間違いだ、記事を信じて編年すれば、世継ぎが整合しなくなるだけ。
歴史を語るには、記事を重視する。
だから、~功、応神および仁徳の治世はそのままの長さで使用している。
編年を短くすることに夢中で、その中身を吟味していないから、そんな発言が飛び出す。
450唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/19(月) 21:21:53.92
>書紀の記事を信じていない。

神功、応神紀に連なる百済王家は、日本の記録である。
だから、~功、応神紀はそのままの長さでしか歴史は語れない。
書記を信じればこの様な結論となる。
451太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 22:10:33.12
記事を重視してないから、五重在位だとか、最高級のデタラメがオマエの
脳内から滲み出るのだ。オマエは重視などしてな〜い。
452太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/19(月) 22:24:28.66
オマエを信じれば五重在位とかのイカサマな結論となる。

453日本@名無史さん:2011/09/20(火) 04:43:05.31
今までの唐太論争を本にしたら、とんでもないページ数になるだろうな
454日本@名無史さん:2011/09/20(火) 05:47:52.82
日本書紀は政治的な作為がある。
それを史料にしてる三國史記は尚信じられない
ここは、残念だが中国史料を基準に、足りない部分を考古学で補うしかない
455日本@名無史さん:2011/09/20(火) 08:07:11.71
>>453
読む価値はないがなw
456日本@名無史さん:2011/09/20(火) 08:29:43.38
>>453
重複内容が大半だろw
457日本@名無史さん:2011/09/20(火) 08:47:38.08
邪馬台国時代の奴国とか投馬国には王さまっていたのか?
倭人伝には官有しか書かれていないけど。
だいたいこの官って誰が任命したんだ。
458日本@名無史さん:2011/09/20(火) 10:38:12.93
>>457
奴国の金印が、あるということは、
奴→邪馬台国
と発展していったのなら、皇帝に変換して印字を代えたものを新しくもらうだろうから、

つまり奴国の王は滅んだんじゃね?
459レス長たらし毘古:2011/09/20(火) 18:57:40.79
ところで四国の讃岐で見つかった女性、あれ結局誰だったんやろね?俺個人は
神功様じゃないかと思うが。地理的に時代的に丁度いい。
また、時代面が俺の想定と違うとするなら、オオヤマトクニアレヒメとかヤマト
トモモソヒメなんかも、あやしい。
460レス長たらし毘古:2011/09/20(火) 19:18:32.25
ところで関裕二さんの話が出ていましたが、私のレスをまじめに読まれている
方は、1/3くらいネタバレしてしまってますね。私も少なからず箇所においては
参照させて頂いておりますが、彼の想定(彼も想定筋を決め撃ちしてるタイプ
のモノカキですね)と私の想定は重要な点で実は大いに相違しています。
さてさて、どちらが正しいかは、これこそ神の味噌汁。

さて、想定筋ソノモノはどうであれ、実は記紀と他文献、及び地方伝承・地方
文献との比較検証、これらは、普通に考えれば実に歴史科学的にはマジメな
態度ではあると思うのです。(つまり筋は違えど、その方法論は評価している
と言ったところ)ところが、このマジメな態度は、現在の日本の歴史学閥では
正面からも後からもタブーになってしまっているのが現状なのです。
この現状が嘆かわしい次第ですね。それだから、戦前従来論も戦後の分散思考
論も、「どちらからも卑弥呼様に辿り着きにくい」と、こうなってしまって
いる、と思うのです。

実は江戸時代までの、所謂「記紀解釈論」は、それぞれ筋が相違していますが
本来はこう言うアプローチでそれぞれの皆さんがそれぞれの筋を構築して行っ
たんですね。
ところが、戦前の「皇室に関する事はお上(長州閥)の統一見解のみ」とする
立場と、戦後の「皇室に関する事は一切タブー」とする立場との二つによって
卑弥呼様はとてもわかりにくーい所へお隠れなさってしまった。と言う次第。

不可思議ハンターとしては、これ、燃えますね。

「お隠れ遊ばした」←これがクセモノで、これが多元解釈を可能にする。
そしてこの方法論こそ既に最古の確実文献でもある古事記ですら、重篤に採用
されているテクニックでもあるのです。(ネ?古事記って意図的デショ?)
461太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/20(火) 19:26:03.93
>ところで四国の讃岐で見つかった女性、あれ結局誰だったんやろね?俺個人は
>神功様じゃないかと思うが。地理的に時代的に丁度いい。

 ??

もう少し具体的に説明されたい。
462レス長たらし毘古:2011/09/20(火) 19:30:07.03
>>461
ちらっと2CHのニュースで数日〜数週間前見ただけなので、ソレガシにも良く
わからんが、四国の讃岐あたりでのお墓から高貴そうな女性の遺体だか埋葬後
だかが見つかったそうな。ま、後日報を楽しみに待っているだけなのですが。
(時代が近いっぽいですよ)誤報か操作報道ならアイスミマセン。
463太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/20(火) 19:31:33.41
有難う。
464レス長たらし毘古:2011/09/20(火) 19:43:34.30
>>463
いえいえ。

ところで、自架空に戻りますが、この「お隠れ遊ばす」ですが、古事記では
(あるいは古事記前の伝承や文献で既にそうなっていたのかもしれませんが)
天照様の有名な岩屋戸の逸話、あれが、「古事記では場所変え・あるいは創造
挿入?」された可能性に関して、拙者は先述しておりますが、この置換交換が
卑弥呼を探し出す上で拙者個人は重視しております。

つまり、後代の物を先代に持っていく事は、比較的「不遜ではない」と想定
すると、つまり、事後逸話を神代逸話に持っていった?とも邪推架空できる
ワケです。
「誰か」を「お隠れ遊ばした者」にするために、「先代神代の話」として
ここに再構築する。
するとあーら不思議(三分クッキング)拙者の「百襲様が天武様に文献上
消された可能性」が、まほろばの如く再浮上してまいります。

要するに、百襲様の「重要な逸話」が、百襲様の代(これを古事記どおり、
開化末期〜崇神前期と想定)から「スッポリ消され」て、その分を(祟りを
恐れて)天照様の逸話にする(或は合流させる)と言った架空筋ナンデス。
465レス長たらし毘古:2011/09/20(火) 19:55:55.23
まとめると、古事記で以下の「編集上の策略」が為されたと言う、仮説。

・モモソ様の「卑弥呼要素」(が実際あったと架空して)

・天武様にとっては歴史解釈上不都合

・「卑弥呼要素」のみ大幅削除。祟りを恐れて天の岩屋戸逸話にそれを合流

・天照様の女性化(ま、これはそれ以前かもしれない)とパワーアップ。
466唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/20(火) 20:28:39.56
>>451
>オマエは重視などしてな〜い。

私が ~功(275〜343年)、応神(343〜384年)を発表したのは、
ラヂオ氏の書き込みである↓
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
↑この書き込みより前である。
つまり、私の ~功49年(323年癸未)が先である。
千熊長彦をあてがえるのは、半島占拠の位置になる。
七支刀369年や千熊長彦 383年では、半島占拠は存在できない。
半島占拠を323年に宛がえば、七支刀は、~功52年東晉明帝太寧4年:丙戌
で5月庚寅朔が得られ、5月庚寅朔とすると、17日丙午となり、1日遅れる。
太寧4年は1月までしか無いが、この時代ではやむを得ない。
467太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/20(火) 22:02:20.57
>>464
卑弥呼≠天照大御神  ですよ。

前者は日神よりずっと後代の女性です。日神は超ミス・ユニバースとの
想定を思えばだいたい間違いありません。ホツマの男神説はトンデモの
デタラメです。ホツマ当時の妄想が増幅したイカサマものです。

百襲媛も四国に関係ありますなぁ。
468太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/20(火) 22:04:09.31
>>466
オマエは五重在位だとぬかしてたではないか。
469日本@名無史さん:2011/09/21(水) 11:45:22.06
>>462

古墳時代の女性人骨出土 徳島市の犬山天神山古墳
 徳島県埋蔵文化財センターは8日、箱式石棺2基が見つかった徳島市八万町大野
の犬山天神山古墳から、新たに古墳時代前・中期(4世紀後半〜5世紀後半)の箱
式石棺4基と、ほぼ完全な状態の女性4 件の人骨などが出土したと発表した。セン
ターは「古墳時代前・中期の人骨がそのままの状態で残っていたのは珍しく、当時
の埋葬方法や被葬者像を知る上での貴重な資料」としている。

 犬山天神山古墳は園瀬川流域にあり、岩盤を削って築造された。石棺はいずれも
阿波の青石を使った「阿波式石棺」で、全長約1・9メートル、幅約0・4メート
ル、床面からの高さ約0・3メートル。現在の徳島市の佐古地区から名東地区など
の眉山北側から運んだ石を、箱形に組み合わせたとみられる。

 既に発見していた石棺1基を含め計5体分の人骨が出土。うち1体は頭を東にし、
頭蓋骨、脊椎、骨盤、大腿骨などが良好な状態だった。鑑定の結果、身長150セ
ンチ程度の50代後半以上の女性4 件という。頭部右側には若い頃に負ったとみら
れ、治癒していた長さ約4センチの刃物傷もあった。

 この女性の顔面から胸にかけてと、石棺の床面には赤色顔料の水銀朱が塗られて
いた。センターは「おそらく死亡した直後に弔いや魔よけ、再生への願いを込めて
塗ったもの」と分析。園瀬川流域を基盤とする集団の指導者とみている。

 別の石棺からは頭蓋骨や上腕骨などが出土。1体は30〜40代の男性で頭を東
にし、上顎に水銀朱が塗られていた。男性の石棺は斜面にあり、女性4 件の石棺よ
りも造りが悪く、女性よりも下位層の人物という。

 他の人骨の性別や年齢は不明だが、石棺内部にはヒスイ製勾玉(まがたま)1点、
青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製
管玉(へきぎょくせいくだたま)8点などがあった。
470:2011/09/21(水) 20:44:51.21
>赤色顔料の水銀朱が塗られていた。センターは
>「おそらく死亡した直後に弔いや魔よけ、再生への願いを込めて塗ったもの」と分析。

こういうところ、抑えとくといいかもね。
あれ、なんで赤いんだ?って思うはず。
471日本@名無史さん:2011/09/22(木) 21:56:07.89
age
472日本@名無史さん:2011/09/23(金) 02:48:12.36
やはり金印がでないとな
箸墓とかホトケ山とか、えぐるようにほって欲しい
473日本@名無史さん:2011/09/23(金) 12:19:18.40
金印か。
奴の国の金印は、写真でみると綺麗だが、
印字面は、墨がけっこう残っていて汚い。
474日本@名無史さん:2011/09/23(金) 13:14:34.61
>>472
>ホトケ山

ナマンダブ…
475日本@名無史さん:2011/09/23(金) 13:36:13.27
ボケノ山だろ
476:2011/09/23(金) 14:48:13.49
そういえば、河童さん お元気してるのかな?

もうかれこれ、5年以上なるからな〜
477日本@名無史さん:2011/09/23(金) 22:06:03.30
>>473ちょっとまて、金印の使用法は、封土におしつけて型をつける封印なのであるよ。
墨や朱肉をつけて、紙に押すようなものじゃないよ。現在の印鑑とまちがってるんじゃない。
478唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/23(金) 22:14:39.26
河童さんとは、1年ぐらいかな?
その時は
晋書正始元年東倭重譚納貢。東倭とは、後漢時代の倭奴國(奴国)に対する
東の邪馬臺國王が”倭王位授与。
なんて話が最後ですね。
479日本@名無史さん:2011/09/24(土) 00:50:52.98
河童虫って、プラムのことだよね。
480日本@名無史さん:2011/09/24(土) 00:53:42.23
>>477の言っている「封土におしつけて型をつける封印」は正しい使用法だが、
国立博物館で展示されていた金印の写真では、印字面に墨がうっすらついていたのだよ。
検索しても大抵の写真では綺麗な金印だが、それらは模造品。
画像ググってみれば、本物の写真がでるはず。

実物は、江戸時代などの学者が調べたときに、墨をつけて印字を確認したのだろう。
481日本@名無史さん:2011/09/24(土) 00:59:27.47
つづき

ttp://inoues.net/museum2/9shu_national.html
このサイトの下の方に、金印が3つある。
482日本@名無史さん:2011/09/24(土) 02:34:47.98
しかし、金印を読めたなら、すでにこの頃から、文字があったんじゃね
神代文字もあながちあるかも
今あるのは別にして
483日本@名無史さん:2011/09/24(土) 09:39:55.94
そりゃ、日本が原始人みたいな生活をしていたころ、
中国ではすでに人口は1億人を超えて、宮殿まで作っていたさ。
文字ならある。日本人が使えなかっただけ。
484日本@名無史さん:2011/09/24(土) 09:43:31.19
>>477
>>481にある写真では、テン国王に下賜した金印なんぞは朱肉がついているよ。
485唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 10:34:03.96
文字とは、漢字を指す。新羅では木刻通信、新羅の古代文字では、
魏使の”文字”の範疇にはいらない。
つまり、倭人伝に書かれた”魏使”の見聞を拡大解釈しすぎである。
不知正歳、四節。 正歳とは、太陰暦(月の満ち欠け)ではない、それに付随する”四節”
すなわち、24節季のことである。
海洋民は、月の満ち欠けを頼りに、漁、海運を実行するのであり、24節季は役に立たない。

だから、拡大解釈して、倭国全体に”不知正歳”をあてがうのは、いかがなものか。
しかし、七支刀=369年では、太陰暦をあてがうことが出来ないのも事実である。
486太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 11:04:32.51
正歳とは、・・・それに付随する”四節” すなわち、24節季のことでない。

正しく歳(年)のことである。
487日本@名無史さん:2011/09/24(土) 11:07:40.43
三国志の時代に「正歳」というと、これは「夏正」を指す。
「夏正」とは夏王朝の暦のこと。詳細は省略。
488日本@名無史さん:2011/09/24(土) 12:41:59.12
卑弥呼は神功皇后で決まりだろ。神功皇后がひとりだと仮定するから
いろいろとつじつまがあわなくなる。神功皇后はAKBみたいなチームユニットだったんだよ。
489日本@名無史さん:2011/09/24(土) 12:44:56.45
Aチームは九州担当、Kチームは畿内担当、Bチームは関東日本海担当。
それぞれ研究生もいて総選挙で1位になった女子がセンター「ヒメミコ」
つわものどもはみんな熱狂。
490太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 14:02:10.35
>三国志の時代に「正歳」というと、これは「夏正」を指す。
 「夏正」とは夏王朝の暦のこと。

学あるねぇ〜。
詳細は省略では、物足りない。解説がもう少しは必要。


>卑弥呼は神功皇后で決まりだろ
卑弥呼は神功皇后の時代ではなく崇神朝ころの時代の女性であるから、別人で
あります。紀の編者が時代を合わせることが出来ず、神功皇后ではないのかと
の考えを持っていたのか、神功の代に載せたもの。
491唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 15:09:07.50
【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】

その俗(民)は、不知正歳四節。ただし、春耕秋收をもって1年とする。
1年が180日の太陽暦は成立しない。3年分の記事で1年とするためには 春夏秋冬の4季
を違えてはならない。

かわいそうに。
492日本@名無史さん:2011/09/24(土) 15:14:28.19
ウェハハ!通貨安政策ニダ!ウォン安で韓国製品輸出大成功!世界席捲ニダ!

イスラム圏革命、欧州危機、アメリカ失速加速で世界的不景気

・・・世界的に物が売れないニダ。外需80%の韓国は大ピンチニダ。輸出が伸びないとヤバイニダ・・・

世界的に不安定で投機マネーを投資できる場所がないため円暴騰

チョッパリから基幹部品買ってるし石油輸入してるし・・・まずいニダ!ウォン安円高で材料費ヤバイニダ!

元々、価格競争で勝つために安売りしていた韓国製品。材料費が上がり、なおかつ世界的不景気で輸出伸びない
対日赤字過去最高額になり、輸出額も落ちる

ここにきて通貨安政策大ピンチニダ・・・欧韓TPPも米韓FTAも通貨安のおかげで輸入品が高騰してしまったニダ

世界的に穀物高騰、資源高騰状態。そんな中で通貨安ならお買物価格は当然値上がる

まずいニダまずいニダまずいニダ!輸入品が高いから消費者物価もどんどん上がるニダ!
白菜10000ウォンじゃキムチ食べれないニダ!!

韓国の最低時給賃金は4110ウォン(270円くらい)。2時間働いても白菜が買えないレベル
世間ではこれをスタグフレーションという

韓国、輸入大ピンチ、輸出大ピンチ。でもサムスン頑張ってるから生活地獄でも国民ホルホル
493レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 15:25:11.42
>>467
>前者は日神よりずっと後代の女性です。日神は超ミス・ユニバースとの想定
を思えばだいたい間違いありません。

当方も比較的その立場です。日神役職説。タカミムスビの時代の末期に、
日神の時代(そしてスサノウとの対立の時代)が到来し、日神を祀る巫女を
代々選出していった長い時代を想定すると、筋としてはピタリと来ます。
その慣習が一旦おろそかになり、男王が乱立します、これが卑弥呼登場前の
倭国大乱で、「やっぱり巫女が必要」と再登用されたのが卑弥呼、でその後
没するとまた倭国大乱。
古事記の拡大解釈でこの筋も成り立つ余地は生じると思います。

>ホツマの男神説

ホツマ自身の検証は当方はまだ途中段階ですが、日の神が男神か女神かに
ついては当方は現在の所「どちらもありうる」と言う感想にて並行検証中
です。

>百襲媛も四国に関係ありますなぁ。

古事記アプローチで残念な事は、古事記では四国の表記がほとんど無い事
です。万葉集ですら、四国は時々出現するのですが。。。古事記アプローチ
から四国が見つからないもどかしさは、魏志倭人伝から出雲が探しずらい
もどかしさにも通じるものがあります。「スッポリ抜けてる」なんて残念。
494レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 15:40:57.05
>>469
多分その記事です。すくらっぷPICKUP有難うございます。続報が楽しみです。

>>487
>「夏正」とは夏王朝の暦のこと。詳細は省略。

夏王朝神話と日本神話は、完全一致ではないが、その構成などが非常に
似通っている。例えばフギとジョカの関係がイザナギイザナミの関係に
似ているとか、祖神の最初の登場のありかたとか。
夏王朝の神話文化と当時古代日本の神話文化とは、かなり近縁関係だったの
かもしれませんね。傍証のために、今一歩掘り下げて検証過程を出されたし。

>>489
>つわものどもはみんな熱狂。
その熱狂の様子が、古事記の天の岩屋戸逸話にて、存分にスクープされて
おります。(と、当方は想定)
卑弥呼は古代版AKBのトップ当選者(の何代目か)だったのかもしれ
ませんね。
495 ◆4EqWP5uJSs :2011/09/24(土) 16:11:28.81
「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」
要するに、これは、
「倭人は、中国の正統な暦法である夏正を知らない。四季の区別をしない。
春に耕し秋に収穫して、それを年紀としている」
ということ。

逆に言うと、
倭人なりの歳の数え方があって、春・秋の区別はキッチリとしていた、と。
(今でも盆と正月の習慣がある)

何故「夏正」と分かるかというと、「歳」という漢字=夏王朝の使った「年」だから
「夏正」は現在でも生きていて、旧正月を正月とする暦のこと。
(以上、違ってるかも)
496レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 16:19:24.77
さて、神武東征があったかなかったかが、長年議論になってしまうのとは、
これは無縁ではないのですが、古事記による所、九州と近畿を結びつける
地理的要件、つまりその連結地点でもある、出雲(中国地方)と四国が、
「極端に描かれていない」事がその根本原因と言えましょう。
出雲に関しては私が述べるまでもなく、古事記本人ですら「前出雲の神話
体系は(間違った祀り方をしていたので)一旦反故にされた」と自己申告して
いますし、四国表記は逸話上は全くと言って良いほど登場しません。

「これはなんでだろう?」と考えると、次の二つの可能性しかない事が浮上
して参ります。
@古事記が意図的にそうした。
A古事記の時代には既にそうなっていた。
この二つしかないと思う私では有りますが、しかしながら、この二つのどちら
かだけ、でもその立証は至難と思われます。ここが悪く言えば事実に近づけ
なくさせている悪因とも言えますし、良く言えば神話空想を幾分にも可能に
する要因とも言えます。

これは提案ではございますが、皆々様、是非ともスサノウとタカミムズビの
戦い(があったと仮定して)から、もう一度日本神話を読み解き直してみて
はいかがでしょうか?タカミムスビがスサノウのよって幽閉された地が、
淡路島(古事記主張)であったり、或いは近江(書紀主張)であったりした
場合、当然淡路の大物オオヤマトクニアレヒメ(モモソの母)や、
近江が天の尾羽張神の(近畿への初)上陸地点である事、又、神功皇后の
祖先が、近江・吉備・播磨の有力者となって言った過程(が古事記に描かれ
ている事)等々が、非常に鮮明に浮かび上がって来るような想像を掻き立て
始めるのであります。

大和王権がその力を蓄えやっと九州(&出雲)を完全支配し果たした時、
はたと振り返り、「あれ?大和で伝わっている神話と少々(てか大分)違う
ぞ」と気付いた時、彼等は一体どのようにその矛盾をクリアして行こうと
したのか?古事記には、その苦難の後が垣間見られるような気がします。
497レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 16:31:53.46
さて、余談として感想私見。卑弥呼はモモソ代か神功代か。

当方の拙文を少しは目を通している方は、私がどちらに偏っているかは、もう
ご存知だとは思いますが、マクロ視点で東亜の国際情勢を鑑みる場合、卑弥呼
なる女性権力者は、大陸権威に対し恭順的であり、神功皇后は、大陸権威が
存在していないシチュエーションでの大活躍を果たしております。この事から
当方感想としては、卑弥呼は神功皇后とは違うんじゃない?と邪推してます。
また、モモソ代の古事記における倭国の権威者と大陸権威者との関係は逆に
どうかと言うと、これは驚くほど「古事記には描かれていません」

「描く必要を感じなかった」とするならば、それは「不都合な事」か「取る
に足らない事」のどちらかと言う話になります。そのどちらの要素をも持ち
併せる人物として、モモソさんは比較的有力と邪推します。
498レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 16:40:56.07
さてさて、しかしながら私の邪推筋は、なんせあくまでも「古事記ベース」
古事記がある程度正史(或は欺史)を「ちゃんと全て網羅した上で描ききって
いる(あるいは隠された証拠)」と仮定した上でのみ、成り立つお話。

卑弥呼が「正も邪もどちらも古事記に描かれなかったお方」で有った場合は、
勿論、この限りでは無いワケではあるんだよね。

でも、一応外書の魏志倭人伝にすら表記されてしまう大人物。古事記に全く
その影を落さない、と言う類推も、逆に難しいとも思うんだな。
499日本@名無史さん:2011/09/24(土) 16:57:27.86
記紀は、ニニギのちょっとあとぐらいから、卑弥呼の王統を
吹っ飛ばして、神武の血統を畿内王統としているわけだ。
つまり畿内王統は、九州に残存した王統とは別系統だ。

ところが一方で漢籍にでてくる卑弥呼って畿内王統の誰?
って訊かれちゃうと、九州王統の話を説明しなきゃいけなくなるので
畿内王統としては、これを避けたいわけだ。

だから、畿内王権の女性と卑弥呼のイメージを、ダブらせて、
その辺をごまかしちゃったわけ。
500レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 17:10:37.23
>>499
>記紀は、ニニギのちょっとあとぐらいから、卑弥呼の王統を吹っ飛ばして、
神武の血統を畿内王統としているわけだ。

私個人は必ずしも貴殿の言う「畿内王統と九州残存王統は別系統」は想定は
していないが、最近気になっている事が貴殿にも無関係では無いと思われ
ましたので、ここで吐露しておきましょう。

それは、ホスセリ(ニニギの子孫でいわゆる山幸の事)とスセリヒメ(大国主
の第一夫人)が「古事記では全く同じ漢字である」と言う点。
これをどう解釈するかが、今、私的には優先しています。
もし仮に、この二人が同一人物、或は血族的近親者であった場合、九州王朝・
出雲王朝・大和王朝の、ニニギ時代における「関係」は、更に明確化を図れる
のではにゃかろうか?(あくまでも個人感想です)
501レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 17:16:19.14
「同じ漢字」で、もひとつ思い出したが、これはカテ違いかもしれないが、
そもそも「大国主」も、古事記の神功の先祖話をベースにすると、
「(大)コニキシ」とも呼べる。この「国主(コニキシ)」とは、勿論あの
お相撲さんのコニシキとは全く関係無いが、百済で言うところの「地方王」に
あたる、と古事記の神功様のご先祖様紹介欄では説明されている。
502唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 17:20:11.55
>「夏正」は現在でも生きていて、旧正月を正月とする暦のこと。

正月から三ヶ月ずつ4期に分けたものが4季である。
正月は春分の日を目安とした”朔”より始まり”お節料理が食される。
この”節”こそ24節気であり、その基本として、冬至、春分、夏至、秋分の節目が存在する。

崇神10年 導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。
是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。

この記事は、この機会(5,6年の凶作)をとらえて、天皇家の”種借し”に取り込む
そのための”農事暦”(24節気で編まれている)を”正朔”で表している。
では何故”正歳”で表さず”正朔”なのか?
季節を含む”朔”は正しいが”歳”は引き伸ばされている。という主張と判断できる。
であるならば、書記の太陰暦は、”1章”こと19年単位の引き伸ばしである。
503レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 17:21:31.40
筋においては、>>499さんとは異なっている私ではありますが、問題意識は共感
できます。神武武勇伝以外は、淡々と家系図だけを一方的自己申告によって
述べられ続けているニニギ〜開化の間の期間の古事記表記ですが、ここで、
三王朝(大和・九州・出雲)の相互関係性が「劇的に流動した」と言うのは、
これは神武一代に託すまでもなく、おそらくリアルに近い話ではあるとは邪推
できます。
504唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 17:34:29.17
書記の太陰暦を、七支刀=369年から分析しても正しいと主張できる太陰暦が編み出せない
だから、「日本に太陰暦は存在しなかった」という結論が導き出されるのであるが、
はたしてそうであろうか?

韓国考古学は、漢城に「未知の4世紀遺構」の存在を認める。
当然、百済本紀を正しいとした場合である。

韓国においても正しいと確認されていない百済本紀を無視しなければ
太陰暦は振れない。その場合の指標として、これまで無視されてきた
シラギ本紀が存在する。
505日本@名無史さん:2011/09/24(土) 17:47:23.95
記紀を編纂させた畿内王統は、次の矛盾した立場にあったと思う。

1:唐とは仲良くしたいので、畿内王統は唐と敵対した敗北した
 九州王統とば別系統であると言いたい
2:しかし、後漢から金印をもらった倭奴国や卑弥呼の邪馬台国を
 引き継いだのは、畿内王統であると言いたい
3:九州王統系人脈を政権から排斥して、畿内系人脈で固めたい

それで、内容が怪しい記紀になったんだろう。旧唐書と新唐書で
倭国・日本国の記述がちぐはぐになっているのも、このせいだ。
武則天は畿内の女帝国家(建て前は文武天皇だが実質持統)を
であるのを喜んで、上記畿内王統の言い分を丸のみしたようだ。
506レス長たらし毘古:2011/09/24(土) 18:01:28.72
>>505
1と2は概ね理解可能。しかしながら、当方は2は、古事記がぼかしたか、むしろ
古事記時代にはわからなかった、と想定。
ま、結果として「ちぐはぐ」ってとこは、一致です。看板かけかえ「倭」から
「日本」と言うのもいいように活用されたとも言えますね。目論見どおり。

九州王統が「女帝も輩出可能」な王統文化だと仮定すると、貴殿の解釈論も
概ね理解可能です。そして、畿内王統が継承されるにしたがって、次第に
「女帝が出なくなった」と言う皇位継承現象も、或る程度説明がつく。
507太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 18:04:17.36
”歳”は引き伸ばされている。という主張と判断できない。
年の引き伸ばしは存在しない。↓ 以下のとおり、詰まっている。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務28年 伊曾神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(佐賀県)清賀上人 椿油を採る
508太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 18:15:34.73
1年が180日の太陽暦は成立する。古代マヤの太陰暦が1年180日(C文字)
かように事例がある。
3年分の記事で1年とするためには 春夏秋冬の4季 を違えがありうる。
紀の編者は1年が180日の暦法をより古代にやってることの無知から、
四季とか日の干支を後付けしたもの。

その事例が紀と大成経の雄略4年の同記事が春2月と秋8月と半年違いが
あり、明白である。おまけに雄略天皇は古事記が124歳、日本書紀が62歳
と記は紀の丁度2倍の年齢になっているのと考えても2倍年暦は古代マヤ
の太陰暦同様、1年を180日ばかりとして行使していたことがハッキリ
している。
509唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 20:25:06.84
> 以下のとおり、詰まっている。

すべてが西暦で妥当だと認められて、初めて正しいと主張できる。
>成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

大伴氏はこのころからなのか?
観音様はこのころで良いのか?
偽書を取り入れても主張と齟齬を生じるだけだ。
かわいそうに。
510唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 21:14:56.46
偽書を取り入れても主張と齟齬を生じるだけだ。
取り入れても齟齬を生じなければ、偽書のレッテルをはれない。

ホツマ伝に偽書のレッテルを張るのは、書記の太陰暦を正しい西暦に直せない連中の仕業である。
太国もその一人である。
511太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 21:56:43.18
大成経に偽書のレッテルを張るのは、書紀の暦法を正しい西暦に直せない連中の仕業である。
宿主もその一人である。
512唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 22:04:49.66
そもそも”大成経”なる書物はそれほど立派な書物なのか?
旧事本記にどうでもいいような事を書き込んだだけの書物だろ?
513太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 22:08:29.66
そもそも”秀魔伝”なる書物はそれほど立派な書物なのか?
タダのおっさんがどうでもいいような事を書き込んだだけの書物だろ?


ハハ! ホツマとはそんじょそこいらのタダのオッサンが
妄想を注入して書いた文であり、危険思想の書で
あるからして、重々警戒せねばならぬ。

おのおの方はただの一度も具体的説明も出来
ない神武即位年が42年という〜宿主が前に強行して
いた〜 畿内=東夷 に西暦5年に王がいたという
超S級のインチキ説に騙されては
ならない。つまり42年説の証拠だとの抽象的数列を
出して〜さ〜も出したような振る舞いをして
その実、修飾文ばかりで、実際の核心の中身の説明
証拠は1回もしない無証拠野郎だということだ。ww

なお日食が数日間も続くというインチキは、どうやら
遠い電波星からの日食がこちら(電波星)では
数日間も継続出来るという大デンパをピピピ・・・と
受信しているらしく、これではそういう日食が
数日間も継続すると頑張るのもデンパの重要性を
考えれば、完全否定しては可愛そうだということ
だ。ww 遠い遠いデンパ星では日食が数日間も
続く所もあると頑張り通すんだろう。

ppp ブハハハ・・・


514太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 22:18:33.11
>>513 訂正
× 畿内=東夷 に西暦5年に王がいたという
○ 畿内=東夷 に西暦5年に別王がいたとなる
515唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/24(土) 22:38:50.14
発掘調査現場から(194回) 広報「わかざくら」 平成15年6月15日号掲載
 ここに紹介する鏡は4世紀前半に築造された2号墳で出土した2面の鏡のうち、棺おけの蓋の上
に置かれていた内行花文鏡(ないこうかもんきょう)です。この内行花文鏡には、内向きの連弧文
(れんこもん)12単位、6葉の鈕座(ちょうざ)、櫛歯文帯などの文様が刻まれていました。内行花文鏡は中国の漢代を中心に製作され日本に伝わった鏡ですが、中国鏡は連弧文8単位、4葉の鈕
座を原則的な文様構成としています。…この鏡は日本でつくられた鏡(ぼうせい鏡:ぼうせいきょ
う)であると考えられます。…
 この観点から、この鏡は日本での鏡の量産化が始まる前段階の過渡的な姿を示す製品であると
推定され、ぼうせい鏡製作の変遷を考えるうえで重要な資料になるものと考えられます。

ここから、景初銘を崇神6年という解答を得られるか?
516太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 23:12:17.68
日本での鏡の量産化は鏡作りの鏡製作だ。

鏡作神社に、崇神6年に鏡の改鋳の伝えがあるのは当然だ。

大量化の典型が景初3年鏡の500枚だな。ならば崇神6年だ。この年ころ
この500枚の日本製を作ったわけだ。

ウィンドウズ95が量産化して販売したのは95’つまり1995年ころだ。
それだから景初3年=崇神6年であり、同6年に倭笠縫に日像鏡を
飢饉災害の神の祟りとみて祭祀したわけだ。

オマエのは1995年の50年後にウィンドウズ95を量産化発売したとか同然
のデタラメを言い出している。Puハハハ・・・
517太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 23:18:10.45
>>516
景初3年=崇神6年近隣頃であり

だな。
518太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/24(土) 23:21:43.24
皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92      紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年(つまり崇神での戊寅元年相当)
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社 戊寅七年
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年
519日本@名無史さん:2011/09/25(日) 00:35:41.53
古代の鏡か。

銅の鏡だが、現代の先生が同じ材質を用意して、磨いたら、
見事にくっきりと10円玉が鏡に写っていた。

現代の鏡とほぼ同じ性能がでてた。古代の人は、自分で自分の顔を見ることができて
さぞ驚いたであろう。
520日本@名無史さん:2011/09/25(日) 01:09:23.96
>>266
かなり亀レスだが、面白い!
海部氏系図、勘注系図の地元民だが、それはおもしろい。

要するに、天皇家は本家ではない、天火明命と。
難点は、記紀だけではそうは読めないことだな。

古事記を読んでいて、理解に苦しむのは、イワレヒコとニギハヤヒ。
初めてその地に下って治めるんじゃないのか?同族が先に来てるじゃないか?
イワレヒコ、おまいさんはいったい何なんだ?

その後の8代は時に事績があるでもなく、戦国期で言えば、家康のご先祖様の
ようなものだ。先着の天津の同族を従えたはずなのに、子孫はヤマトの中で
さえ小さな単なる弱小勢力。どう見ても、出雲を支配下に置いた勢力ではない。
宮の場所も、非常に狭い範囲にある。

出雲を支配下に置いたのは、同族の別の勢力で、イワレヒコの子孫は
崇神以前はどんぐりの背比べにも及ばない。その時勢力を持っていた
別の一族があったとしか思えない。もしかして、それが卑弥呼の所属する
一族かも知れんが。
521唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/25(日) 12:02:37.10
桜井茶臼山から”正始元年銘”の群馬県?古墳出土の同はん鏡の欠片が出土している。
桜井茶臼山は~功の磐余稚桜宮の近方である。
そして、△鏡副葬墓としては、最も古い。
纒向遺跡を2世紀末からとして数えても100年後の3世紀末からである。
太国のいう崇神に纒向を合わせると、最初の△鏡副葬の茶臼山古墳は、4世紀半ばの築造となる。
伝世で説明したいんだろうが、△鏡は製造年代が追えるほど正しく各古墳に対応する。
伝世では説明できない。
大神を笠縫に祀る事が、伊勢遷宮に優先する出来事でなければ、紀年の根拠とならない。
522唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/25(日) 12:27:25.41
七支刀=369年で得られるものは、
韓国 夢村土城に未知の4世紀遺構が存在する。
百済本紀を正しいとし、新羅本紀は無視される。
神功49年のお礼のハズが、領土分与は存在しない。
つまり、どちらの歴史も説明できないのである。
しかし、韓国の心情としては、七支刀=369年を死守したい。

七支刀=326年で得られるものは、
韓国 広開土王碑の文言はすべて正しい。
新羅本紀が正しい歴史書となる。
しかし百済本紀は否定され、「未知の4世紀遺構」が百済王家の遺構となる。
~功49年の領土分与のお礼として七支刀は存在する。

太国の主張する数字は、半島の彼らにとって都合の良い数字である。
彼らには、新羅本紀の示す歴史より百済本紀の数字のほうが心地よい。
だから、太国倍年の存在意義は、半島の彼らのために存在する。
523太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/25(日) 13:52:49.75
大神を笠縫に祀る事が、伊勢遷宮に優先する出来事であるから、紀年の根拠となる。

伊勢神宮の創始の出来事であり、極めて重要だ。
524唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/25(日) 14:21:58.95
>紀年の根拠となる。

だからこの数字で紀年を説明してくれ。
>極めて重要だ。 だけでは説明になっていない。
525太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/25(日) 14:43:06.38
だから41年の数字で紀年を説明してくれ。
抽象的文言で〜

>これでいいだろう。 だけでは具体的説明になっていない。
526唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/25(日) 23:01:41.55
書記は太陰暦で書かれ、正朔の文字がある。
だから、当時太陰暦が使われている。
しかし、−660年と引き伸ばされていることは明白である。
であるならば、太陰暦を引き伸ばす方法を考えたとき、太陰暦は19年7潤を1章とする積み重ねである。
書記の日付を分析すると、”章”の積み重ねでは説明できない”1日”程度の揺らぎが存在する。
この”揺らぎ”はどこで発生するか?こう考えたとき、日本書紀は実際の太陰暦と空白年の太陰暦の合わさったものである。
このような結論を得られる。
日本書紀から空白年を差し引けば、正しい歴史を再現できる。正しいかどうかは、半島、中国の歴史書と同期すればよい。
これで得られた数字が、神武元年=西暦42年である。この数字をホツマ伝で見ると、
キアエ(甲子)より数えた58年が神武元年である。
西暦4年(甲子)より実38年+空白19年=ホツマ58年目が神武元年である。
崇神5,6年が新羅192,3年であれば、188年=崇神元年が得られる。
垂仁(217〜239年)、景行(240〜261年)、成務(262〜265年)、
仲哀(266〜274年)。274年仲哀9年が~功渡海の年である。
神功、応神に、倭国で記録された百済王家が書かれているから、この110年は実在の年である。
しかし、この後ろに仁徳を繋げない。
仁徳は、~功39年太歳を元年とする(313〜399年)である。
527太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/25(日) 23:29:31.74
神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年

 太陰暦を【太陽暦】に改め、

 30日を一月とし、十月を1年と定め給う。

−660年と引き伸ばされていることは明白でない。

であるならば、太陰暦を引き伸ばす方法を考える必要はない。
当時は2倍年暦等を行使したいたからである。しかも古代マヤの太陰暦
とかパラオ暦とかにその事例が現実に存在する。

こう考えたとき、日本書紀は実際の太陰暦と空白年の太陰暦の合わさったものでない。
このような結論を得られる。
日本書紀から空白年を差し引けばは、正しい歴史を再現できない。
これは成務年代の成務5年以降とその二桁年代伝承が数多くあることから
明白である。よって
空年で得られた数字が、神武元年=西暦42年とはデタラメである。
528太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/25(日) 23:34:42.25
太陰暦を引き伸ばす方法を考える必要はない。
年の引き伸ばしは存在しない。↓ 以下のとおり、詰まっている。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務28年 伊曾神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(佐賀県)清賀上人 椿油を採る
529唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/26(月) 13:58:54.68
>>520
伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の十
二世(とをまりふたつぎ)の孫、天日別命(あめのひわけのみこと)の平治(ことむ)けし所な
り。天日別命は、~倭磐餘彦の天皇(~武天皇)、彼の西の宮より此の東の州(くに)を征ちた
まひし時、天皇に隨ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金(こがね)の烏の導きの隨(ま
にま)に中州(なかつくに)に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に
勅りたまひしく、「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(き
た)めよ」とのりたまひ、且(また)、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の
國を平(ことむ)けよ」とのりたまひて、即ち標の劔を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入る
こと數百里(いくももさと)なりき。 其の邑に~あり、名を伊勢津彦と曰へり。
530唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/26(月) 14:06:47.90
ホ29043 シホツチノ オキナすゝめて ニギハヤか いかんぞゆきて むけさらん

ニギハヤと長すね彦は、罪人として追っ手を使わされた。
その追っ手の1人に神武がいる。
531太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/26(月) 14:12:27.02
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

宿主という男は、ホツマの恣意的逸脱解釈が多いようだな。これでは
ダメだ。
532太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/26(月) 14:18:31.42
大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の 」は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる188年とは偽編年であり、デタラメである。
533唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/27(火) 20:19:29.85
大和葛城寶山記   行基菩薩撰
大日本州造化~

 伊弉諾尊 伊弉冉尊【此二柱尊者 第六天宮主大自在天王坐 爾時任皇天宣 
受天瓊戈 以咒術力 加持山川草木 能現種々未曾有事 往昔大悲願故 
而作日~月~ 照四天下矣 昔於中天度衆生 今在日本金剛山】

大日孁貴尊【此名日~也 日則大毘盧遮那如來 智慧日光之應變也 梵音盧遮那 
是日之別名 即除暗遍照之義也 日者天號 故常住之日光與世間之日光 
於法性躰有相似義故 名大日孁貴天照太~也

吼雀王古語一言主曰 以昔日子伊弉諾尊 月子伊弉冉尊 従皇天勅宣天

伊弉諾尊は、男で太陽。
伊弉冉尊は、女で月。
534太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/27(火) 20:23:56.16
伊弉諾尊は、男で、太陽ではない。
伊弉冉尊は、女で、月ではない。。
535唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/27(火) 20:34:42.53
伊弉諾尊は日の子どもである。=日~
伊弉冉尊は月の子どもである。=月~
大日孁貴尊【此名日~也。=天照太~也
536唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/27(火) 20:38:57.69
伊弉諾=イザナギ
大日孁貴=ウオヒルギ
537:2011/09/27(火) 21:28:57.14
イザナキていうのは、昔のこの国の「王」さま。

いまでこそアマテラスが有名だが、その昔はどっちが知名度が高かったか
わからないかも。
538太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/27(火) 22:11:45.54
伊弉諾尊は日の子どもでない。≠日~
伊弉冉尊は月の子どもでない。≠月~
539唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/27(火) 22:15:35.49
日子伊弉諾尊 
月子伊弉冉尊
540太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/27(火) 22:16:59.54
× 日子伊弉諾尊 
× 月子伊弉冉尊


541日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:34:14.65
伊弉諾尊。
一伝、又の名を天照坐皇大神。
又の名、豊受皇大神。
又の名、天照豊受皇大神
又の名、天之御中主尊。
又の名、国常立尊。
又の名、神魂命。
542太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/27(火) 22:37:00.87
それはホツマの如くデタラメを書いた文だ。

オマエはそういうのにす〜ぐ飛びつくから、デタラメの世界を2ちゃんに
蔓延させるのだ。
543太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/27(火) 22:39:35.19
>>541
君は宿主の野郎ではないよな?
544日本@名無史さん:2011/09/27(火) 22:40:48.93
市杵嶋姫命(狭依比売命)。
一伝。天照大神。
一伝。道主貴。
一伝。多岐理(田切)姫命。
545日本@名無史さん:2011/09/27(火) 23:04:49.33
伊弉諾尊(伊弉諾神宮=幽宮。日之少宮。日之本一宮。御神社。)は
伊勢内宮の天照坐皇大神の朝日の神格に対して夕日の神格(日之少宮)をお持ちに成られています。
546日本@名無史さん:2011/09/28(水) 20:55:12.20
年代が。
ある程度合意を得られているのは、雄略478年くらいだろ。
547唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/28(水) 21:39:43.43
>雄略478年くらいだろ。

その程度でしょうね。
では何故それより前が合わないか?

問題は、七支刀=369年にある。この数字で百済本紀につないでも
韓国考古学には、未知の4世紀の遺構。という百済本紀では解けない謎がある。
日本書紀ではだぶつく5世紀。4世紀が足りない百済本紀。

七支刀=326年であれば、
ここが半島占拠とお礼の七支刀であり、「未知の4世紀の遺構」の解消と
だぶつく5世紀が同時に解消する。

548唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/28(水) 21:47:34.32
ホ32214 またこたえ アにツキひとつ ハハはツキ シモメはホシよ これをめす
天に月一つ 母は月 下女は星よ これを召す

太国はあの「ツキ」を迎えたことがあるのか?
「ツキ」は女性の専売特許だ。
549太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/28(水) 22:16:15.43
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

宿主という男は、秀魔伝の恣意的逸脱解釈が多いようだな。これでは
ダメだ。
550唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/28(水) 22:23:25.04
 凡八百萬~紙下生 南閻浮提釈迦尊與爲父爲母 爲君爲臣 生々世々 無不従之世人 
無孝順心 犯軽垢罪 堕地獄 故日~盧舎那佛等 説大乗心地而已 栄惑守心秘要 
右筆記之耳 于時己卯 沙門行基奉勅撰鈔之 天平十一年己卯 伊勢太~宮政印一面始
鋳進之 環柏一百枚 奉上二所太~宮矣

~紙寶山記         以秘本校了

日~盧舎那佛
日~が女で、盧舎那佛が男では、違った意味の合体になってしまう。
551太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/28(水) 22:26:43.43
>年代が。
 ある程度合意を得られているのは、雄略478年くらいだろ。

豊受大神宮の成立は478年と伝えられていますが、その実年代とは14年差が
あります。真は 478+14=492年 ですよ。
552太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/28(水) 22:28:40.70
宿主よ
オマエも相当な助平だな。WWWWW
553日本@名無史さん:2011/09/29(木) 12:36:10.75
このスレの過去スレで何とか山のベクトルがどうのこうの言ってたのまえの会社の開発の上司だろ?www
このスレでも嫌われていたなw
2ちゃんはくだらないとか言ってバリバリ書き込んでいたじゃねーかw
それに会社にはスーツにネクタイつけてこいと言ってたくせに、あるやつだけ私服で来ても文句言わないとか
差別のようなことしてたよな
おまえ何を作っても売れないものしか作れなかったくせに
おまえには何の能力もねーんだよ
554日本@名無史さん:2011/09/29(木) 17:49:12.79
人のことをオタクだの暗いだの無口だの貶していたのは忘れない
555日本@名無史さん:2011/09/30(金) 04:25:46.70
>>563 >>564
何の話?
556唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/30(金) 10:52:13.20
神話時代
周滅亡と共に倭国まで逃れてきた。秦始皇帝(B.C.221〜B.C.210 )
歴史を B.C.220年からとして、7代目に天照大神を置くと
ムカシこの クニトコタチの ヤクタリコ キクサをツトのホツマクニ ヒカシはるかに
ナミたかく たちのぼるヒの ヒタカミや タカミムスビと クニすへて
ヒノカミをうむ そのミナを ウホヒルキとぞ たゝえます
あれませる アマテルカミそ フソヒスス モモフソヰエタ トシキシエ ハツヒほのほ
の いづるとき ともにあれます
年キシエ(甲午)B.C.87年 甲午から7代(20年*7代=140年後)A。C.50年あたりが
神武である。
神武時代の暦は、甲子(西暦4年)から使われるが、この暦は、”年の干支を加増”
したものである。
 イトウケステメ アカガクニ クロソノツミと うむミコを コロビツクニの
キミとなす
3国遺事  屬建武二十四年戊申七月二十七日では、時代が合わないか?
 於是王與后共在御國寢 從容語王曰 妾是阿踰陀國公主也 姓許名黄玉 年二八矣 
在本國時 今年五月中 父王與皇后顧妾而語曰 爺孃一昨夢中 同見皇天上帝 謂曰 
駕洛國元君首露者 天所降而俾御大寶 乃~乃聖 惟其人乎 且以新莅家邦 未定
匹偶 卿等須遣公主而配之 言訖升天 形開之後 上帝之言 其猶在耳 

コロビツクニのキミ=阿踰陀國公主
ケステメ=須遣公主
557太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/30(金) 11:01:05.83
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

オマエの聞くが、アームストロングさんとかオルドリンさんは女なのか?pp
558唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/30(金) 21:28:59.57
『日本書紀』巻一第四段一書第一◆一書曰。
伊弉諾尊=吾身陽元→男=日子
伊弉冊尊=汝身之陰元→女=月子
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。
故即以石凝姥爲冶工。イシコリドメは女性であるから”者”の文字であらわすことは無い。
鏡作部遠祖天糠戸者造鏡。こちらは、男である。
559太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/30(金) 22:02:12.69
イシコリドメを言ってるんじゃないの。

日神が男でないということを話してるんだよ。
560唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/30(金) 22:40:44.03
>日神が男でないということを話してるんだよ。
伊弉諾尊=吾身陽元→男=日子
太陽であらわされるのは、男であり、月であらわされるのは。女である。
であるならば、日の神であらわされるのは、男神である。
561唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/30(金) 22:45:07.69
さらに言えば
天照大神=ウオヒルキ諱ワカヒト である。
562太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/30(金) 22:47:32.04
であるならば←この仮定は必ずしも不成立 日の神であらわされるのは、男神でない。

天照大御神は女性である。インチキ秀魔伝はデタラメであ〜る。
なお秀魔伝とは、そんじょそこいらのタダのオッサンが妄想を恣意的に
オマエのように解釈して書きこんだ危健史想の書。
563唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/30(金) 23:04:10.59
>天照大御神は女性である。

その文献を出したらどうだ?
そんな文献が皆無であれば、
日=男、月=女の読み方が正しい。
564太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/30(金) 23:05:38.23
天照大神≠ウオヒルキ諱ワカヒト である。

秀魔伝の作者が当時の日神男神説を津田の強固な妄想の如く生み出し
た部類の恣意的勝手な命名であり、インチキであるからして、この
デタラメ語を葬り去らねば皇祖皇宗の御威靈にキズがつく。

恐れ多くも、天照大御神は超ミス・ユニバース級の美女である。
565太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/30(金) 23:10:59.22
日=男、月=女の読み方が正しいとは限らない。
566日本@名無史さん:2011/10/01(土) 12:12:31.05
>恐れ多くも、天照大御神は超ミス・ユニバース級の美女である。

超 能 力 者 現 る 。

流石は九州説www
567日本@名無史さん:2011/10/01(土) 13:01:08.92
× 天照大御神は超ミス・ユニバース級の美女
○ 天照大御神はニニギに侵略や人殺しを強いた因業ババア
568日本@名無史さん:2011/10/01(土) 15:03:20.78
ミス・ユニバースとかって、背が高くて痩せてるだけで
顔はまずいとは言わないまでも、美女じゃないよね。
569太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/01(土) 15:29:33.15
それは例示的形容ですよ。

天照大御神は瓜実顔風の小柄な柳腰の超美女です。
570日本@名無史さん:2011/10/01(土) 18:49:14.11
日本史上の人物で、肖像画が残っている最古の人物は誰?
571唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/01(土) 18:59:12.55
>秀魔伝の作者が当時の

大和葛城寶山記 行基菩薩撰は、伊勢の秘文である。
伊勢が天照大神を男神であると言っているんだ。
伊弉諾尊 伊弉冉尊【此二柱尊者 第六天宮主大自在天王坐 爾時任皇天宣 受天瓊戈 以咒術力 
加持山川草木 能現種々未曾有事 往昔大悲願故 而作日~月~ 照四天下矣 昔於中天度衆生 
今在日本金剛山】

伊弉諾尊 伊弉冉尊が日~月~を作る。
 大日孁貴尊【此名日~也 日則大毘盧遮那如來 智慧日光之應變也 梵音盧遮那 是日之別名 
即除暗遍照之義也 日者天號 故常住之日光與世間之日光 於法性躰有相似義故 名大日孁貴天
照太~也 以尺天流大鏡 秘崇伊勢太~之正躰是也 即奉齋内宮 豊葦原瑞穂中國主上】
ウオヒルキ天照大神は伊勢の主張である。
 吼雀王古語一言主曰 以昔日子伊弉諾尊 月子伊弉冉尊 従皇天勅宣天 受天瓊玉戈 
立山跡中央 爲國家心柱 造八尋殿【~祇峯是也】 二柱~捧持眞経津鏡

伊弉諾が日子であれば、ウオヒルキ天照大神は男である。

何処に問題があるんだ?
572唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/01(土) 19:09:48.17
太国も竹取物語くらいは知っているだろう。
その骨子は、
女の子が月のものを迎えたら、結婚して親元を離れる。を物語にしたんだ。
月=女。この考えは洋の東西を問わない。
太国の使うマヤでは、日神が女なのか?
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/01(土) 19:58:32.66
何を寝言を言ってるんだね?

秀魔電を書いた野郎より、俺の言う事を信じろ。
日神は女性だ。男じゃねぇ〜。こんなデタラメを書いてある秀魔電に、
懐疑心を持て。それに〜

〜例えば金星は西欧だとかではビーナスといって女性になっているが、
弼馬温の登場する西遊記では、太白金星といって、男の老人の仙人だ。
必ずしも男(逆に女)ではないものこのようにあるんだ。
574太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/01(土) 20:08:45.75
行基菩薩は佛者のほうだ。古神道のことはうとくて当然だろ。
当時秀魔電成立の妄想増幅時代より時代は降下しており、その妄想が津田
の妄想にしてやられた連中の如くこの佛者のころに根を張ってしまったと
観てよい。その者の主張も間違いだ。
575唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/01(土) 20:56:07.51
>秀魔電を書いた野郎より、俺の言う事を信じろ。
何を寝言を言ってるんだね?
日本書紀 是行也陽神先唱曰。憙哉。遇可美少女。焉〈少女。此云烏等■。〉因問陰神曰。
汝身有何成耶。對曰。吾身有一雌元之處。
この「陽神」とは、伊弉諾のことである。「陰神」は、伊弉冊になる。
だから、伊弉冊尊生火産靈と出産をしている。
伊弉諾が日子で問題ない、であるならば、
日神ウオヒルキ天照大神は、男神である。

言いたければ、
日本書紀を書いた野郎より、俺の言う事を信じろ。だろ?
576太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/01(土) 21:58:13.13
>この「陽神」とは、伊弉諾のことである。「陰神」は、伊弉冊になる。

日食が数日間も続くとか言う野郎の言う事など聞く馬鹿は、蛮族等精神
異常者等以外どこにいる。あとは幼児の類だ。www
これじゃぁ、オマエのことが信じられるわけがなかろう。

子供騙しにもなるまい。ブハッハッハ・・・

そこの文は日神のことではな〜い。日神は女神だぜ。笑わせるな。

こんなんだから秀魔電は朝廷の落第文書だというんだよ。ww
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/01(土) 22:05:14.82
日神≠ウオヒルキ≠天照大神は、男神でない。
578太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/01(土) 22:38:50.25
>月=女。この考えは洋の東西を問わない。

月読命は男らしいぜ。
月読命は忍者の祖神だ。忍び覆面を常時してたから、顔がなかなか
拝めない。女ではないようだ。すなわち くノ一 ではない。
命は伊賀者らしい。
579日本@名無史さん:2011/10/02(日) 07:54:56.91
>月読命は忍者の祖神だ。

忍者部隊 月光。
580太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 11:06:18.60
月夜見尊は夜の活動家。
忍者の淵源的人物。
581唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/02(日) 17:27:34.56
ホ03075 ワカヒルメ ソサクニにうむ ソサノオは つねにをたけび なきいさち クニタミくじく
イザナミは ヨのクマなすも わがヲヱと タミのヲヱクマ ミにうけて まもらんための
クマノミヤ かくミココロを つくしうむ

ワカヒルメは、イザナミの妻の一人である。
天照大神とスサノウは、共にイザナミの子供である。
天照大神の名がオオヒルメムチでは、スサノウの母と整合性がとれない。

つまり、ウオヒルキに漢字をあてはめた「大日孁貴」にオオヒルメムチと
女性に例える思考が平安貴族の遊びとして介在するのである。
平安貴族はどう考えたか?

続きはまたね〜。
582太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 18:34:33.24
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

ウオヒルキ≠天照大御神
583唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/02(日) 18:46:57.22
>ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

太国のどの主張を否定したか良く認識している人間の書き込みである。
だから、【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】
 これみよがしに出した文献にさえ西暦を入れられない。
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

かわいそうであるが、この文献に西暦を差し込むのを楽しみにしている。
自分の主張に数字が入れられなければ、太国倍年は存在できない。
584太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 18:53:00.27
かわいそうであるが、成務の伝承に空年を差し込むのを楽しみにしている。
自分の主張に数字が入れられなければ、宿主空年は存在できない。
585太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 18:56:19.06
へへへへへ・・・・・
唐松山の成務年代が4年で終わりだというインチキ
は、論無しで以下 ↓ のとおり確認出来る。当然、空白年
(西暦0年は別)が存在しないことをこの表は物語る。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務28年 伊曾神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人 観音を刻す
成務48年 油山(佐賀県)清賀上人 椿油を採る
586唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/02(日) 20:05:57.17
>>585
西暦を差込めない太国。
かわいそうに。
西暦が差込めなければ、いくら書込んでもただのゴミにしか成らない。
例えばだ、
西暦305年成務5年 安積国造神社(福島)
西暦306年成務6年 日御碕神社(出雲国)
西暦348年成務48年 千如寺
であれば、太国倍年も否定される。
587唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/02(日) 21:17:06.59
>月読命は男らしいぜ。

太陰暦が存在したから、月読みがいる。
588レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 22:09:18.86
>>580
>月夜見尊は夜の活動家。忍者の淵源的人物。

えー、今回はオミアゲの無い寄り道なので感想だけ。そう言えば、天武天皇
(古事記編纂指示者)のバックボーンが、修験道者(ある意味古代忍者)で
あるかも、と言う事を誰かが言ってたのを思い出しました。
月読(ツクヨミ)忍者仮説は、当方的には少し興味を覚えます。
そして、忍者であるならば、公儀お庭番柳生のように、国史においては確かに
「隠されていてもおかしくない存在団体」とも邪推できます。
ツクヨミ表記が何故希薄なのか?の解釈のヒントになって来るかもしれません
ね。(ま、あくまで思いつき感想ですが)

で、更に感想を深めてみます。(ここからは判断は読み手に任せます)
天照・月読・スサノウ、この三者の古事記における「役割分担」を一回下記に
まとめておきます。

[アマテラス]
父神イザナギによって昼世界の支配権を付与される。その後スサノウと確執。
[ツクヨミ]
父神イザナギによって夜世界の支配権を付与される。その後の表記ほぼ無し。
[スサノウ]
父神イザナギによって死後世界の支配権を付与される。不服申し立てでその後
対イザナギ・対アマテラスで揉める。その後は追放されて独自に宮を持つ。
589太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 22:23:32.29
例えばでは仮説であり、否定にはならな〜い。あくまでオマエの即興の仮説
にすぎない。

41年の説明出来ない宿主。泣いてあげるぜ。エンエンと〜。mmm・・・

成務年間なんか、オマエがコチラの論説を読んでいれば、その逆算は
容易ではないか。出来ないのか? 41年も説明出来ず相手の論説の逆算も
やれないのか?ww そうだろう〜。日食が数日間も続くというインチキ
を頑張っているオマエだからな〜。ww

オマエ、オマエの頭は確かかぁ〜?

いいか神功摂政元年が353年だ。そこで仲哀年代は通常暦だから、9年で
10年遡れば成務末年がその辺だか求まるのが当然だ。
成務は3倍暦だからオマエがそこから調べれば、見当がつくだろうが〜?

こんなこともオマエは出来ないのか? だな〜。日食が数日間も続く論
では、斉藤先生もオマエに精神病院の患者かと、こっそり脳内でオマエを
嘲笑するぞ。pp

>太陰暦が存在したから、月読みがいる。←これはだいたいよい。
590レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 22:27:09.65
えー、以上は古事記における御三家の基礎情報ですが。ここからまあある程度
読み取れる御三家それぞれの「属性」が見えてきます。それを私なりに以下に
分類。

[アマテラス]
晴れの昼の天上世界を管轄担当する神様と古事記は解釈。
[ツクヨミ]
晴れから闇へとうつろう夜の世界を管轄担当する神様と古事記は解釈。
[スサノウ]
曇・雨などの、所謂あらぶる世界を管轄担当する神様と古事記は解釈。

古事記にて、それぞれ上記の三要素を強調するために、結果として以下の
構造へとなっていきます。
[アマテラス]
⇒天の岩屋戸伝説⇒「お隠れされたら困る存在」※実はツクヨミとの関係性
⇒天の河の誓約⇒ハレとクモリのせめぎあい⇔スサノウとの葛藤
[ツクヨミ]
⇒誕生以降、古事記での表記は一切無し⇒「お隠れ(&お出まし)」を専門
⇒アマテラス・スサノウ(・イザナギ)との確執も当然一切無し。
[スサノウ]
⇒誕生してすぐ、父神イザナギと政策対立。(⇒世界が蝿で包まる如く暗転)
(結果どうなったかは古事記は沈黙)※当方はイザナギ幽閉と仮説
⇒その後すぐ、姉神(或は兄神)アマテラスと支配権対立。
(スサノウはぬれぎぬと主張、結果的にアマテラスはそれを了解(古事記))
591太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 22:33:04.61
弘文天皇の祖神が月読命だと見て可です。

この天皇の別名を『伊賀』といいます。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 22:35:46.33
(×或は兄神)←日神は女神です。秀魔電に騙されないように。
593レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 22:44:00.93
はい、ここで不思議な「三つのバランス」が浮かび上がってきます。

まずその前に、蘇我(蘇賀・宗賀)(ソガ)が須賀(清・菅)(スガ)と
「大いに関係ある」と仮定した関裕二さんの提唱説の場合を前提とします。
※(スサノウの最終安住地の宮の場所は「須賀」だそうですが、関さんは
このソガとスガとの近音から同一性濃厚を重視しているようです)

参考は兎に角「何が三つのバランスなの?」ですが、ここからが自架空です。
それは、古事記において御三家とも、「一回づつ」「お隠れ遊ばしている」と
言う点です。
・アマテラス⇒天の岩屋戸伝説において一回お隠れ遊ばす。
・ツクヨミ⇒誕生してほぼ描かれず父神からの拝命どおり一回お隠れ遊ばす。
・スサノウ⇒安住の地を得てその後は表記されず、後継者大国主との関係のみ
において、一旦再登場、その後お隠れ遊ばす。大国主も「国譲り」にてお隠れ
遊ばす。(以降再登場無し)

つまり、この御三家、気質も三分なら、お隠れもバランス良くお隠れ遊ばして
いるのです。これが当方の言う所の「御三家バランス」です。
また、仮に蘇我が須賀(スサノウの宮)と同源である事を重視する仮定を
採用するならば、スサノウ〜大国主〜(武内宿禰)〜蘇我氏の(結果的に
歴史現象として生ずる)この「蘇えり(黄泉還えり)」の属性も、古事記には
イザナギ⇒大国主までは「ちゃんと継承されている」ことは担保されている
事になるのです。(古事記で何度か復活されるお二方)
594sss:2011/10/02(日) 22:45:27.49
月読尊は、日本書紀に出てくる。

天照大神が、月読尊に「葦原中国には保食神がいるという、お前が見てきなさい」。
月読尊が見に行くと、保食神は、口からいろんな食べ物を出して、並べ、月読尊をもてなした。

月読尊は激怒して、「口から出したものを食べさせようとするのか」と言うと、剣を抜いて
保食神を切り殺してしまった。

高天原に帰り、そのことを天照大神に報告すると、天照大神は非常に怒って、
「お前は悪い神だ。お前の顔など見たくもない、出て行きなさい」と言った。というわけで、
天照大神と月読尊は昼と夜に別れて暮らすことになった。

月読尊は男だろう。
595太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 22:52:50.37
>ツクヨミ表記が何故希薄なのか?

忍びだから、月夜見尊の行動は隠密裏であり、その活動内容が記されて
ないか、あるいは少ないわけです。
596レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 22:57:34.89
>>591
>弘文天皇の祖神が月読命だと見て可です。この天皇の別名を『伊賀』といい
ます。

解釈ヒントの一糸ありがとうございます。調べてみます。伊賀系関係のこの類
の関連話も、史実・都市伝説あわせて、時々散在してますね。確かに。

>>592
>(×或は兄神)←日神は女神です。秀魔電に騙されないように。

ご忠告ありがとうございます。当方はまだ「確定」までは至っていないので
可能性残存要素を補注しといただけです。

自架空に戻ります。簡単に言うと、古事記では以下の通りと私は解釈分析。

[アマテラス]⇒古事記本分にてお隠れ(お出まし)遊ばす様子まで詳細描写。
[ツクヨミ]⇒古事記本分で描写無し。上記姉神・下記弟神の表記で暗喩描写。
[スサノウ]⇒安住の地を見つけ安穏隠遁。大国主後継問題で少し関与。

つまり、骨組みと役割分担と基礎要素だけは、意外と「シッカリ」してるん
ですね、古事記は。ここまでシッカリしている物を「単なる空想神話」とだけ
考えるのは、少々「もったいない」
「なら、なぜにツクヨミは隠されたか?」←これが「意図的で無い筈が無い」
と思うのは、果たして私の妄想郷でしょうか?みなさん、どう思われますか?
597日本@名無史さん:2011/10/02(日) 23:00:59.97
アマテラスとスサノオが姉弟ってのは、8世紀の創作なんだから、
ツクヨミが隠されたもクソも無いものだ。
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 23:05:31.86
国家の史書を創作をすれば、当時での公文書偽造同行使で身の危険が
切迫、失脚する。当時も政敵は多かろうわけで、そいつらに摑まれれば、
もうオシマイ。デカイ利害も存在せず、そんな危ないマネなどするヒマ
はない。
つまり創作の主張は成立しない。
599レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 23:10:01.99
>>595
>忍びだから、月夜見尊の行動は隠密裏であり、その活動内容が記されて
ないか、あるいは少ないわけです。

感想だけを言うなら同感です。
さらにつっこんで言うならば、「(消極的に)記されてない」とか「少ない」
とかではなく、「意図的に隠された」可能性が残存する事の方を当方は重視
しています。(ま、あくまでも感想レベルですが)
先述しましたが、天武さんの支持母体(或は天武さん本人も?)は所謂
「古代忍者かも」の可能性の話をしましたが、もしそうなら、次の二つの
可能性もあながち皆無ではなくなってきます。

@天武天皇は、古事記より前の国史を充分に熟知し、その「権力推移現象」
を自分なりに分析・把握していた。(つまり更に前代の古代での隠密史に
まで精通していた可能性)
A上記熟知会得していたために、今度は当代(つまり自分の代)の国史
(つまり古事記)にも、「その描写テクニック」を存分に発揮し、
「詳細明記すべき物」と「暗喩表記すべき物」と「封印して黙殺する物」を、
意図的に、三つに分け、そして丁寧に古事記を編纂した。

さて、聖徳太子さんの名著が蘇我イルカさんと共に(なぜか都合よく)燃え尽
き、そして登場するこの希代の名著、神話含みの国史にして怪文書の
「THE古事記」
もし、聖徳太子さんの名著を天武さんが熟読精通していたならば、「その本」
の描写テクニックを「超えてやろう」と言う野心が芽生えていたとしても、
おかしくはない。
600太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 23:10:40.06
空年を差込めない宿主。
かわいそうに。
空年が差込めなければ、いくら書込んでもただのゴミにしか成らない。
例えばだ、
空年→成務5年 安積国造神社(福島)
空年→成務6年 日御碕神社(出雲国)
空年→成務48年 千如寺
であれば、宿主空年も否定される。
601太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/02(日) 23:15:26.43
>「意図的に隠された」可能性が残存する

忍びの活動がバレてはまずいので、これは充分ありえましょう。

レス長たらし毘古さん おやすみ。亦明日に・・・。

zzzzzzzzz・・・・・
602レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 23:25:48.70
さて、以上の感想ですが、このような感想の書き方をした場合「天武さんって
大魔人の大悪人?」と思われかねない書き方になっていたので、一部補足。

天武さんは、むしろ、「国史を復活させたかった」方だと思います。しかし
ながら、その作業の途中で「断念せざるを得なかった」と。その「せざるを
得ない理由」こそが、天智天皇の(良くも悪くも)所業のせいであり、その
半分を(后と共に)引き継いだ天武天皇としてはのお立場だったのかもしれ
ません。(結果的に私個人は天武王朝から分断説や、ましてや彼は外人説
は従って採用しません)

・天智天皇の血脈にとっては蘇我氏(&聖徳太子)の存在は不都合。
・(出自不明瞭の)天武天皇にとっては、上記の利害関係は必ずしもどちらか
に組する必要は無い可能性も高い。

この上記二点は、ある程度揺るぎ様が無いそれぞれのお立場であったと解釈
するのが、ごく自然じゃないかなと思うレス長でした。
603レス長たらし毘古:2011/10/02(日) 23:28:38.04
>>601
あい、明日は確約できませんが、またの近い機会に議論か感想交換でもでき
れば幸いです。今日は乙です。(てか、私もそろそろですがw)
604日本@名無史さん:2011/10/02(日) 23:40:55.44
レス長たらし毘古は、ブログやったらいいんじゃまいか
605日本@名無史さん:2011/10/02(日) 23:41:11.39
天武は九州王権系の人物で、その後畿内では九州系人脈は
政権の座から消されたので、日本書紀では天武もそういう扱い。
606レス長たらし毘古:2011/10/03(月) 00:03:21.31
あくまでも背景から察せられる感想にて、本日の感想を締めておきます。

天智天皇は血脈上も政策理念も、蘇我氏(&聖徳太子)が邪魔だった。天智も
天武も幼少の頃(或は青年期)に、聖徳太子(実存説を前提想定)のまとめた
前代国史(古事記では旧辞・本紀と記載サレ)を熟読精通してた。
と言う妄想仮定の前提でおつきあいお願いします。

天智は太子の国史から「権力簒奪のテクニック」を大いに学び、これを実行
してクーデターとその後の天智律令(私個人はこれは一部疑問視)を「効率
よく」成し遂げる。以後「天智の父の遺言どおり」対外積極政策を(蘇我氏の
外交主義を破って)再開する。しかし失敗する。(この過程で、神功記の
重要性が浮上する)
※クーデター過程で、この旧辞・本紀が、なぜか天智さんのご都合にあわせた
かのように、蘇我イルカさんと共に焼失!(うーん残念!)
外征の失敗は同時に内政の同様に直結する。しかし元々クーデター政権なの
で、血を見ずして「降りる」事は天智グループにとって内部的にも体面的にも
無理。それでも天智天皇ご存命時はナントカ凌いだ。
しかし、天智天皇老齢化とその皇位継承時にその内部不満は破裂。その期に
あえて旗頭になったのが天武天皇。これが壬申の乱。
天武天皇は国史を復活しようと試みた。しかし、古事記序文の弁明どおり、
その「完全復活」は至難であり、(多分無理だった)
彼も天智と同じように、幼少期か青年期に太子の国史をある程度は知ってる。
(私個人は塾解してたと先述仮定)
607レス長たらし毘古:2011/10/03(月) 00:04:55.12
しかし、そのまま復活すれば、次の二つの大問題が起こる。

@天智クーデターのような王権簒奪が自王朝でも起こってしまう。
A天智と蘇我氏の確執を詳細明記したら、天武王朝が懐柔して取り込んだ
旧天智派が立場が無く、納得しがたい。

さて、あなたなら、どうする? そう、「神話にしちゃえ!」とか「これは
フィクションです!」とか、「お名前は書いておくけど、察してね」とかの
描写テクニックを最大限駆使せざるを得ない、との結論に達するお方も
いるかもしれない。
608レス長たらし毘古:2011/10/03(月) 00:13:31.60
>>604
ご意見ご感想、参考にさせて頂きます。(但し当方はブログに抵抗感アリ)
えーと、卑弥呼と直接は関係ないじゃない、と思われている方には多少の
不快感を抱かせてしまっている可能性に関しては申し訳無く思っています。
今回は流れでこうなってしまいました、チト反省。

>>605
>天武は九州王権系の人物で、その後畿内では九州系人脈は政権の座から
消されたので、日本書紀では天武もそういう扱い。

ご指摘ありがとうございます。もしその筋だとしたら、卑弥呼九州可能性
からしたら、避けて通れない記紀再チェックの必要性を共感します。
(畿内説さん達には、多少の妄想小説になってます、その点は申し訳無い)
「どっちにしても書かれてるハズ無いから無駄だよ」と言う意味でしたら、
その限りではありませんが。。。(苦笑)
609日本@名無史さん:2011/10/03(月) 08:56:29.41
天武が九州系ってのは、ぜんぜんデタラメな話なんだけど、
どうして、そういうデタラメな話に飛びつくの?
610日本@名無史さん:2011/10/03(月) 09:10:01.29
>>609
九州王朝説のオナニー
611唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 10:11:00.28
>成務年間なんか、オマエがコチラの論説を読んでいれば、その逆算は
容易ではないか。出来ないのか? 

 これみよがしに出した文献にさえ西暦を入れられない。
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(佐賀県)清賀上人 椿油を採る

仏教が中国にもたらされたのは、石碌の持ち込みであり、晋と対峙する勢力である。
4世紀も後半になれば、△縁鏡の図柄が仏になるが、仏教本体はまだ輸入されていない。
漢語に訳されるのは、クラマジュウの5世紀となる。
上記の記事に西暦を差し込めば、平安時代以後の数字しか差し込めない。
つまり、太国倍年が使い物にならない思考の証拠となる。
612唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 10:14:50.80
平安の暇人貴族は考えた。
日本の首都となった大和は、大昔、筑紫に女王が存在する時代に、戦争、戦力により
倭国統一を果たし、今日につながる。
しかし、書記はこの出来事を~功紀に差し込んだだけで事実ではない。
考える。謂之倭奴國,其國亂,女王卑弥呼
 アメノカミ つぎなくマツリ つきんとす かれイザナギに のたまふは トヨアシハラの
チヰオアキ ミヅホのタあり ナンヂゆき しらすべしとて トとホコと さつけたまわる
 ヱナガタケなる シナノクニ いたるワカヒト ヒタカミの アメノミヤにて ミチまなぶ
天照大神の時代に、戦争、戦力により天皇家は大きくなる。
であるならば、筑紫の天照大神を女性に仕立てれば、伝承と整合性が得られる。
そこで、ウオヒルキ(大日孁貴)にオオヒルメムチと読みを振って、主張したのであるが、
結局残ったのは、大日孁貴=オオヒルメムチという誤った情報だけなのである。
613太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 11:19:43.96
佛教公伝は538年あたりだが、非公式の公伝はずっと前からあったんだぜ。

いくらでも西暦に対応できる。以前全部年表を見せてるからなぁ〜。当然だ。

オマエの41年は皇紀との対応がデタラメだ。ww

分かったか〜? あ〜ん、どうだ精神病院で診てもらってるか〜?
614日本@名無史さん:2011/10/03(月) 11:34:39.51
確かに、いくら記紀が天皇家よりに書かれていたとしても
中央集権が達成されていたとしても、あまりにデタラメに書いたら
豪族や回りの手下がいい顔をしないだろう。後の災いになるし、非難がくるだろうから
ある程度、彼らと同じ共通した歴史認識に沿った内容だったと思う。
615唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 12:04:05.93
>佛教公伝は538年あたりだが、非公式の公伝はずっと前からあったんだぜ。

だから、仏像鏡は、4世紀後半で良いが
仏教そのものは、漢語に翻訳されてからであるから、5世紀に新羅へ伝わる。
百済に仏教が伝わるのもそのころである。
であるならば、日本に伝わるのは、それより遅れる。
したがって、太国の主張する”成務48年はそれ以後であり、
仏教が各地へ分散するのは、奈良時代国家が各地に寺を造った後である。

仏教が中国に入るのは、石碌が持ち込んだのである。308年が指標となる。
漢語への翻訳は、クラマジュウの5世紀初めであり、その後、各地へ分散する。

成務48年に仏教が地方にまで行き渡っていたのならば、成務48年は、平安か鎌倉時代あたりだろ?
太国倍年は、このような資料を基に組み立てられている?

なにも”偽書”であると認定する必要もない。
逆恨で対応するしか能のない太国であった。
616唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 12:31:47.85
太国倍年 850庚午  342壬寅  成務崩御
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

342年では、三角縁仏像鏡にさえ手がとどかない。
342年までは、まだ前燕と高句麗の対立は続いていた。
洛陽や東晋の文物は入手できない時代であり、
成務時代は、渡海さえしていない。
神功は渡海に斥候を派遣してから渡海する。半島との交流さえ限られている。

成務48年 千如寺を持ち出しても、342年以前の数字は入れられないだろ。

617唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 13:05:06.35
ホ39026 チマタカミ なかにヱミシら メオまぜて シムミチかけて
アナにすみ ケシシをはみて ケコロモき
日本武尊の関東遠征時の描写、獣肉を食らい、毛皮を着る時代である。
ここが関東も大和の勢力範囲に入った時期である。
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

景行から1世代後(20年程度とする)にこの記事を正しいとする
太国倍年。
正しいとする限り、ホツマを否定せねばならない。
しかし、成務48年の記事をだれも認めてくれない。
かわいそうに
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 14:15:02.77
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

どうした〜? 成務48年の計算が出来たか〜? あ〜ん?

余が採点して解答してやろう。ww
619太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 14:29:15.49
 これみよがしに出した文献にさえ空年を入れられない。

空年?→成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
空年?→成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
空年?→成務48年 油山(佐賀県)清賀上人 椿油を採る

仏教が中国にもたらされたのは、石碌の持ち込みとするは知られている範囲
だろう。他に日本に非公式佛伝をしていたということよ。538年は朝廷に
関しての公式佛伝だ。

4世紀も後半になれば、△縁鏡の図柄が仏になっても、仏教本体はもう輸入されていた。

熊野年代記

 孝靈13年 天竺から文字が渡る

上記※の記事に空年を差し込めば、平成時代の次代の数字しか差し込めない。
つまり、宿主空年が使い物にならない思考の証拠となる。
620太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 14:36:32.97
だから、仏像鏡は、4世紀後半で良いが・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
であっても、日本に伝わるのは、それより遅れるとは言えぬ。例外がある。
また朝廷の不使用の色即是空は公式佛伝のほうであるから、空年ならば
もっと538年より遅れる。

したがって、宿主の主張する”宿主空年はあったと仮定でもそれ以後であり、
公式仏教が各地へ分散するのは、538年後である。
621唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 15:17:36.25
>公式仏教が各地へ分散するのは、538年後である。 ???
成務48年は、538年後である。??
622太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 15:41:07.47
非公式佛伝が成務48年の記事だということだ。

分かったか? 秀魔電盲象の宿主よ。ww

畿内朝廷への公式佛伝が538年だ。九州は畿内ではないぞ。
623日本@名無史さん:2011/10/03(月) 15:42:04.98
おまえら、蘇我氏を過大評価しすぎw

蘇我氏について、皇室にとって都合が悪いのは
もともとは自分たち皇室側が改革反対派で
それを理由に、蘇我氏を誅殺してしまったことだろう?
実はリベラルな蘇我氏こそが大化の改新の立役者で
当初は皇室も中臣氏も保守派だった。
が、蘇我氏を誅殺したずっと後に、白村江の戦いなので敗れ
大和朝廷も律令体制を導入することになって
蘇我氏のかつての政策が見直されたが
それだと、蘇我氏を滅ぼしたことが間違いになるから、
認めるわけにはいかない。

蘇我氏の邸宅が見つかっているが、
皇室を守るための藩屏の位置に邸宅がある。
624日本@名無史さん:2011/10/03(月) 16:13:17.48
皇室にとって家系上、都合が悪い相手は
熱田社の尾張氏
尾張氏の祖こそが大和朝廷の創業者で
皇室の祖先は、その弟で、つまり傍系。
625日本@名無史さん:2011/10/03(月) 16:52:08.56
【古代史】3世紀のものと推定される銅鐸に"女性器"を示す象形文字(画像有)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/
626日本@名無史さん:2011/10/03(月) 17:32:23.64
>>623
おまえが、過大評価
627唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 17:38:46.71
皝師不出,季龍將伐之。天竺佛圖澄進曰:「燕福コ之國,未可加兵。」季龍作色曰:「以此攻城,
何城不克?以此眾戰,誰能禦之?區區小豎,何所逃也!」。…皝遣子恪帥胡騎二千,晨出挑
戰,諸門皆若有師出者,四面如雲,季龍大驚,棄甲而遁。
343年建元初,季龍饗羣臣于太武前殿,有白雁百餘集于馬道南。

慕容氏は晋の臣下であった。季龍と前燕慕容皝は対立している。
仏教受け入れは、スパイの受け入れと同義語になる。
つまり、敵方の仏教を対峙している間に受け入れることは無い。
628唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 17:59:18.63
>>622
>畿内朝廷への公式佛伝が538年だ。九州は畿内ではないぞ。
>成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず

その成務5年に大和朝廷は、日田に国造を置く。でよろしいか?
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 18:41:28.76
同義語になろうと、畿内と九州は別。オマエは一緒だろ?

オマエの論は、まるで新幹線のように当時の登場人物が行ったり来たり
で、デタラメもいいところだ。ppp

国造を置いたところでだ、A点ならその小周辺だけの朝廷の拠点だね。
九州はも〜っと広いのだ。景行が行幸しただけで、九州統一なんぞ未来の
また未来だ。

>正しいとする限り、ホツマを否定せねばならない。

 その通りだな。なかなか素直だ。ww

しかも、成務48年の記事を認めてくれる。非公式だからな。しかも
伝承がそこは2個もある。これはこの伝承が強調されてることを物語る。

残念か〜?。くやしいんだねぇ〜。bbbbb
630太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 18:53:57.16
日本の首都となった大和は、大昔、畿内に女王が存在する時代に、戦争、戦力により
倭国統一を果たし、今日につながる。

ほぼこのとおりだな。 www

但し女王は元明だな。pp
631唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 18:59:09.79
>国造を置いたところでだ、A点ならその小周辺だけの朝廷の拠点だね。

国造を置いた証拠が畿内型墳墓である前方後円墳であれば、
九州王朝の居場所がなくなる。
632太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 19:20:25.08
いきらでもあるぜ。
それより継体以降の年号がうんとあるんじゃ、九州王朝の存在が継体以後
の年代にあtt
633太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 19:23:07.80
>>632 続き
〜継体以後に継続していた強い論拠となる。

記紀成立のころ、九州王朝滅亡により、日本統一が成ったのだ。

秀魔電成立のころは、まだまだだ〜。ww
634唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 19:27:46.18
3世紀末布留式と半島の土器が共存する。
273年 泰始9年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
274年大和は要請により渡海、以後晋の冊封体制に組み込まれる。
書記に記された百済王朝は、倭に臣従する時代である。

350年頃では不可能である。
635太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 19:32:01.18
273年 泰始9年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。
          ↑
これに神功元年前年の記事は相応しない。当然だな。
日食は数日間継続しないことは、現代天文学の鉄則である。
この鉄則を曲げる野郎は、インチキの精神病院の患者の世界に相応だ。
636唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 20:56:04.93
~功の渡海を273年の日食で説明しなくても、274年の渡海は
323年~功49年であり、七支刀=326年。この位置であれば、半島占拠
と領土分与が実在できる場所である。
この場合百済王家は、380年までにクニシン王までが入る。
390年代に高句麗が南下し、新羅、百済および任那(金官伽耶)の東半分
を失う。
407年に新羅が金官伽耶を襲うのは3国遺事にも書かれている。
高句麗の南下は事実である。
637:2011/10/03(月) 21:09:13.77
ちと考えてみよう

一言で”九州王朝”というのはたやすいことで、
その実態についてもう少し話し合おう。
ただたんい九州のどこかの村のリーダーを勝手に”王”などと呼ぶのは間違い。
ここらへんの基準の問題になると思う。
638日本@名無史さん:2011/10/03(月) 21:14:16.39
嫌ね メが来たわ 
昔何回も総叩きのネットリンチに合った嫌われ者よ
639:2011/10/03(月) 21:27:38.86
ひさびさに投稿してきた〜☆

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=120&summary=on

では、あばよ
640:2011/10/03(月) 21:33:50.39
たとえば九州の遺跡で豪華な三種の神器が出土されるだろう。

だからと言って、倭の首都が九州にあったとは限らない。
歴史的に見ても九州の松浦だとか、博多付近ていうのは、
首都近畿が朝鮮半島との外交に欠かせない地だろう。
邪馬台国も同じことが言えよう。 寝るzzzzzzzzzzzz
641唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 21:55:06.38
368年 応神廿五年 百濟直支王薨 即子久爾辛立爲王 王年幼 木滿致執國政
371年 応神二八年秋九月。 高麗王遣使朝貢。
仁徳五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
前燕が滅んだ270年頃である。
百済本紀では、前燕に臣従しながら、前燕軍の駐留する高句麗と戦をする。
↑こんなことはありえない。
だから、夢村土城に未知の4世紀遺構が出来上がるのである。
高句麗と対峙するのは、324年にすれば、慕容氏に蹴散らされた高句麗軍を
百済が襲う。となる。
これで、4世紀の遺構は無くなり、慕容氏と対峙することもなく建国できる。
倭に臣従することを決めた百済からの朝貢が巨大墳墓築造の原資となる。
であるならば、高句麗の南下は、その終了を意味する。
642太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 22:19:10.76
九州年号に『倭京』がある。首都はあったと観るべきだな。
643太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 22:22:26.48
日本の首都となった大和は、大昔、筑紫に女王が存在する時代に、戦争、戦力により
倭国統一を果たせず、今日につながる。
644唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 22:29:56.11
成務5年に日田に国造が置かれたことを認めたんだから
前方後円墳の各地への進出があり、次は、~功渡海である。
274年の渡海であれば、晋による冊封体制への参加で説明できるが
250年頃では、武力を使わねば進出できない。島国の~功軍がどこで武力を養ったか?
ここから説明できるのか?
645唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 22:34:25.01
訂正
誤 250年頃では、武力を使わねば進出できない。
正 350年頃では、武力を使わねば進出できない。
646太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 22:38:18.72
273年の日食で説明しなくてもと認めたんだから、その編年逆算ではもう
オマエの論は、これのインチキ基盤で固めたもので、神功あたりから上代
の年代は総崩れだということだぜ。
647唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/03(月) 22:58:55.17
273年の日食は275年の~功元年への差し込みである。
この主張を引っ込めても
神功元年が275年から動くことは無い。なんせ差し込み記事でしかないから
323年 ~功49年半島が政治的空白となった時を見計らって占拠する。だから大きな戦力は必要ない。
326年 ~功52年が七支刀である。

渡海と占拠の出来る位置は他に無い。
648太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 23:04:35.48
動くことは無いなら、今後日食など出すな。
649太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/03(月) 23:10:15.11
動くことは無いなら、今後日食など引っ込めろ。
〜その主張を引っ込めても 神功元年が275年から動くことはある。
           ↓
大中臣からの偽編年撲滅の下命。真の年代を測る天下の宝器〜〜これを
天津神算木(天津金木)という。天津神算木とは三輪山の山名たる三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいうのだ。
天津神算木

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

右辺(天津菅曾)に

☆主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

★死値 A.D.130年 景行天皇 没年  景行は崇神の引き立て役年代

上の崇神即位年は見かけの年代であり、真の年代ではない。
大祓祝詞に曰く 「天津菅曾を本打ち断ち末刈り切りて」

 右辺=113.097335=113.0973350 --------------------@

@の右辺の先頭三数と末尾三数は 113 350 だが (350:イスズ暦数)

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

○ 崇神即位元年=237年 が真の年代である。188年の主張は妖魔の論である。
650レス長たらし毘古:2011/10/04(火) 23:23:08.09
>>594
直接私への指摘では無いと思いましたし、私個人はツクヨミの男か女かは
今の所それほど重視していませんし、また指摘時点では私としても即答が
しきれない内容でしたので、あえて遅くなりましたが調べてきました。

ツクヨミさんと関係の深い所で、検索しました所、壱岐の月読神社がヒット
しましたので、その開闢を確認した所、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)と言うお方
だそうです。
阿閉氏とは、古代阿倍氏の事だそうで(釈迦に説法なら申し訳無い、一般向
けに一度基礎情報を整理しております)すると、その阿倍氏と天武天皇との
関係わと言うと、これは阿倍氏ではなく、紀氏ですが、
@紀阿閉麻呂と言う人物が明らかに天武側で壬申の乱参戦。
A紀大人と言う元々天智(の子大友皇子)側の五天皇の一人が、後々天武朝
から受賞してます。

つまり、阿倍(阿閉)にとっては、記紀編集時期においては、「天武側」なの
です。

さて、日本書紀でのSSS氏の参照文ですが、確かにその話がありました。
(確かに私も記憶のスミにあったんだよね。普段記しか読まないので、失礼
しました)月読様の鮮やかな登場シーン。保食神との一悶着。
651レス長たらし毘古:2011/10/04(火) 23:36:30.93
で、ここからは自架空解釈ですが。(読み手に任せます)

上記の背景を前提とした場合、阿閉氏(古代阿倍氏)は壬申の乱にて天武側に
ついた事は述べました。また、阿閉氏は壱岐島縁の筑紫地方の有力者です。

そこで、いよいよSSS氏ご指摘の「日本書紀主張の月読神と保食神の悶着」
ですが、当方は以下のように類推します。

[第一段階]月読神の大幅削除→古事記表記(従って登場してすぐ隠れる神様)

しかし、そこで壬申の乱の助っ人ヒーローの紀氏・阿閉氏から、クレームが
入ります。阿閉(あべ)は「あへ」とも読むそうで、この文字は「敢えて」
とか「もてなす」を意味する言葉だそうです。そう、阿閉氏の神話体系に
このあへの神(つまり保食神)がいて、その大事な神様(ひょっとしたら
昔は当氏族の祖先神ですらあったかもしれない)が、ちゃんとおもてなし
したのにもかかわらず、「もてなし方が気に入らん!」と言って殺してしま
ったのが、日本書紀主張による「月読神」その人、となるのです。
月読神を消すだけなんてとんでもない!と阿閉氏は訴えます。「月読神は
こんな酷い事もしてたんですよ!」と、消え入る神のみならず、悪い神様に
貶めなければ、彼ら阿閉氏の気が晴れなかったのかもしれません。

[第二段階]月読神再登場→日本書紀表記(天照に断罪される様子を付記)
652レス長たらし毘古:2011/10/04(火) 23:48:05.06
P.S.
自問自答&井沢ファン向けw

>>651
>また、阿閉氏は壱岐島縁の筑紫地方の有力者です。

壬申の乱時点で、天武さんと北九州の国境役人との間で、癒着があった可能性
について、井沢さんは述べられております。井沢さんの筋をそのまま鵜のみ
にはしていない私では有りますが、「移り変わる外交タイミング」と「壬申の
乱タイミング」が、必ずしも無縁では無さそうと言う読みは共感を覚えます。
大友皇子の招集に応じられなかった筑紫の国造勢力。うーん。権謀術数ダネ!

以上、今回は明らかな板違い脱線、大変失礼しました。(流れにつき陳謝)
653レス長たらし毘古:2011/10/05(水) 00:12:37.00
誤字訂正、陳謝陳謝
>>650
> 関係わと言うと、(誤)
→関係はと言うと、(正)
>五天皇の一人(誤)
→五天王の一人(正)
>>651
>阿閉氏(古代阿倍氏)は壬申の乱にて天武側についた(誤)
→阿閉氏(古代阿倍氏)・紀氏は壬申の乱にて天武側についた可能性(正)
654日本@名無史さん:2011/10/05(水) 10:06:17.95
ずっと読んでて思ったんだが、太国って人は荒らしなの?
常に他者を見下したような発言をするのは何か意味があってのこと?
655日本@名無史さん:2011/10/05(水) 11:06:03.91
>>654
唐松山と太国とは、ボケとツッコミのコンビなんで、
まったりと見学しましょう。
太国も、唐松山以外の人には、親切ですからね。
656日本@名無史さん:2011/10/05(水) 14:47:36.94
まだやってたのか
657日本@名無史さん:2011/10/05(水) 14:57:57.70
新潟の唐松山は展望が良いが、ここの唐松山の展望は最低だ。
658唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/05(水) 19:45:15.47
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は、雄略時代。
阿閉臣は、大彦の子タケヌガワからであり、伊勢を主勢力とする。
阿閉臣は、景行に従い、九州から関東まで勢力圏とする。
659唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/05(水) 20:06:27.90
>>657
名大日孁貴天照太~也 が分からんのか?
ホ03059 クニうみて いかんぞキミを うまんとて ヒノカミをうむ
そのミナを ウホヒルキとぞ たゝえます。
ホ04140 ナをこひて ヲバよりとえば ウヒルギと みつからこたふ
ミコのコヱ きゝいるときは ヲサナナの ウはヲヲヒなり ヒはヒノワ ルはヒのチタマ
ギはキネぞ かれウヒルギの ミコトなり キネはメヲトの オのキミぞ 
ウはヲヲヒなり (大日)、ヒはヒノワ、ルはヒのチタマ(昼)、ギはキネぞ(杵)。
キネはメヲトの オのキミぞ 杵は夫婦の夫の君ぞ。

ホ04150 アカタマの ワカヒルのルは あをきタマ クシヒのミタマ ヌバタマなりき
この”叔母”は、名付け親のトヨケである。
660太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/05(水) 20:20:59.83
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

いよいよ支離滅裂になったのか〜?
661太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/05(水) 22:21:53.18
>ここの唐松山の展望は最低だ。

ここの唐松山の点数は最低だ。
662唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/05(水) 22:27:43.28
>ここの唐松山の展望は最低だ。

そんな最低のものにめくじらをたてる太国。
かわいそうに、自分の編年で歴史を語れない。

満点の太国倍年で主張できない無念さが露骨に見える。
663太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/05(水) 23:16:10.16
0点の宿主空年とは ↓ 主張できない無念さが目に浮かぶように見える。

唐松山の成務年代が4年で終わりだというインチキは、
以下 ↓ の通り確認出来る。空年が存在しない事を表は物語る。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 2/11 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人 観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃 創建
664唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/06(木) 13:18:23.00
太国倍年と【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】 と書記を合わせれば
最強なんだろ?
だからそれで、太国自身が倍年正史を語ればいいんだよ。
まず、書記を太国倍年に書き換え、そして太陰暦に直す。←まだ倍年にも書き換えずに
0点編年に文句を言うのは早すぎる。
考古学が合わないのなら、考古学が合うまで口を閉ざす。
それがいやなら、まず考古学に文句をつける。それが順序だ。
まず、日本書紀を太国倍年に書き換えることが先決である。
665唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/06(木) 13:30:43.67
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人 観音を刻す

神武元年皇歴564年+仲哀元年皇歴852年≒320年とすると
237年神武元年から320年後は557年である。
この少し前が成務48年であるから、530年頃仏教の導入の直後である。

数字を振ろうとすれば、こんな数字より前に行くことは無い。
だから、”日本全国の神社等の由緒、伝承”に西暦を振るのは、太国の役目である。
できるのか?
666太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/06(木) 13:58:53.72
成務が530年代に行くわけがないねぇ。神功元年が353年だからそのもっと前。
オマエが都合悪いんで、無理にあさっての方に行かせ見せかけて誤魔化してるだけ
のこと。↓ はオマエの空年が大ウソであるのを見事に露呈している。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 2/11 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人 観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃 創建
667太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/06(木) 14:08:26.61
>そして太陰暦に直す

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月とし、
 十月を1年と定め給ふ。

それがいやだろうと、まずオマエに文句をつける。それが順序だ。
668唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/06(木) 14:20:46.09
>太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月とし、 十月を1年と定め給ふ。

暦とは日付の連続で”年・月・日”を数える
魏明帝景初3年 ?次:己未(戊午) 生肖:馬 西元239年1月22日(星期二)起

だから暦法が違っても合わせられる。

>それがいやだろうと、まずオマエに文句をつける。←日本語になっていない。
それができないから、(太国太陽暦に数字を入れられない)のであれば、太国倍年は成立しない

669太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/06(木) 14:38:30.58
それがいやなら、まず考古学に文句をつける。それが順序だ。←日本語になっていない
(宿主太陽暦に数字を入れられない)のであれば、宿主空年は成立しない 。

670:2011/10/06(木) 20:37:56.91
皆さん~頑張って投稿しよう!!
671唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/06(木) 20:44:50.19
>(宿主太陽暦に数字を入れられない)のであれば、

何がいいたいの?
神武からの太陰暦を太陽暦に直して何が得られる?
中華、半島が太陰暦であれば、太陰暦でしか整合性は得られない。
垂仁末年正月元旦は、魏明帝景初3年 ?次:己未(戊午) 生肖:馬 西元239年1月22日(星期二)起である。
~功39年、仁徳元年正月元旦は
西晉懷帝永嘉7年 ?次:癸酉 生肖:? 西元313年2月12日(星期四)起
丁丑朔であらわされる。

さて、太国倍年太陽暦に数字を入れられなければ、太国倍年は成立しない。
かわいそうに
672太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/06(木) 22:37:24.27
神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月とし、
 十月を1年と定め給ふ。

このようにあるのに〜
神武からの太陽暦を太陰暦に直して何が得られる?

さて、宿主空年も太陽暦に数字を入れられなければ、宿主空年は成立しない。
かわいそうに  泣いてやろう〜〜
673日本@名無史さん:2011/10/08(土) 10:22:06.62
井沢元彦って、アマチュアの歴史作家だろう?
あいつの言っていることは、完全にずれているよ。
674日本@名無史さん:2011/10/08(土) 10:44:02.11
とりあえず「怨霊」を出しておくとか?wwwwwww
675:2011/10/08(土) 19:45:13.85
さあさあ
676日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:52:45.66
何で卑弥呼だの邪馬台国だのって騒ぐ人達ってさ、こういうトンデモとかに走るのかね?
別に そんなもんが誰だろうが 何処にあろうが俺たちの今の生活に何にも関係ないんちゃうの?
卑弥呼殺しで天皇家が没落するってわけじゃないし 邪馬台国が海の中に有ろうが俺たちの土地が安くなるわけじゃない。
どーでもいいことで相手を罵るわバカ扱いするわ 興味のない俺らは何で日本史板って卑弥呼とヤマタイだらけの状態を変だと思ってるよ。
677:2011/10/08(土) 20:23:00.01
>>676
なんでもいいよ〜w
678日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:49:14.91
井沢元彦は乱歩賞でデビューしたミステリー作家だから
無理にでもトンガッタ説で本を書かないと売れないわけで。
完全にネタ切れでも無理に突っ走らないと
仕事がなくなるわけw
679日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:57:40.54
メ よ。やーねまだ生きてたんだわ。
680日本@名無史さん:2011/10/10(月) 07:40:01.22
戦前までは、邪馬台って
常用漢字のヤマタイと発言せずに
ヤマトと呼ばせていた。7
681日本@名無史さん:2011/10/10(月) 14:24:56.41
国粋主義者本居宣長が、馬鹿の一つ覚えでそう読んだんだろう。
「あまてるおおかみ」も「あまてらすおおみかみ」に改変しやがった。
682日本@名無史さん:2011/10/10(月) 16:50:35.37
あまてらすはどうなんだろ?
神社では祝詞の口伝で伝承されてたからアマテラスと呼んでたんじゃないかな?
683唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/10(月) 20:10:19.22
そのミナを ウホヒルギまた アマテラス オヲンカミとぞ たゝえます
684日本@名無史さん:2011/10/10(月) 20:37:59.70
>>680
実は邪馬台国の人達がどういう発音で自国を呼んでいたかは解っていない。戦
前の読み方はでっち上げ。現在の学界では漢読みで呼ぶことになっているので
ヤマタイと呼んでいるが、これも実は仮読みの呼び方です。

>>681
宣長は失敗した。アマテラスと呼ぶことで「天照らす」というイメージにした
かったのだろうが、実は海もアマと呼ぶので「海照らす」、すなわち航海の神、
漁師の神という意味がくっついてしまった。
アマテラスの大元の神威は海(アマ)照らす神だったのかもしれない。
685:2011/10/10(月) 21:04:42.08
お、返信がきてら〜ぁ
ちと書き込もう

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
686日本@名無史さん:2011/10/10(月) 21:07:36.70
ふーんドツボってまだ生きてたのか
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/10(月) 22:16:03.17
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
    ↓
   秀魔電
688日本@名無史さん:2011/10/11(火) 08:09:20.76
江戸時代の国学思想って邪教だよ。
現在の半島の檀君思想と大差がない。
689日本@名無史さん:2011/10/11(火) 08:13:12.83
ヤマトの本来の始祖のアマテルってのは
天照国照彦のことで、火明命のことで、
現在の皇室の祖先であるニニギの命の兄にあたる。
天照国照彦ってのは、天津神と国津神の両方のトップっていみ。
つまり、出雲国譲りしてそうなった最初の人物な。
690唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/11(火) 15:46:12.66
天照大御神を女性に変換した平安貴族にとって、
男王天照大御神が必要になる。
それが、天照国照彦って事だろう。
691日本@名無史さん:2011/10/11(火) 16:17:23.25
アマテルの孫のニニギから、傍流王統に分かれ
ニニギの数代あとの神武が分家して、別王統を始めたわけだから、
アマテルは畿内王統とはほとんど関係がない。

米国からみたフランスのようなもの。
692日本@名無史さん:2011/10/11(火) 18:17:28.42
畿内/西日本に伊勢神明系の式内社の神社は殆どありません。
反対に、天照神を祀る式内社の神社(明神系/天照神社や天祖神社)はイパーイ。
御祭神は
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。♂
天照国照彦天火明命。
櫛玉饒速日命/饒速日命。♂
天火明命/彦火明命♂
天照御魂(大)神♂
(ほか、
以上全て同神といわれます
また、御別称が数多蟻杉。ビックリ仰天のウルトラC、D、Eに改竄、すり替えや隠蔽も。
結局のところ、我々が拝んでいるのは殆ど(大部分は)この御方と父祖神様、子孫神様に集約されると思われ。)
ヒミコさまはチャンと御神名としてあります。

初代ヒミコ女王が(天照)大日霊女貴命。
・・・憧賢木厳之御魂天疎向津比売命(天照大神荒魂/瀬織津比売大神)

二代目ヒミコ女王が雅日霊女貴命。
・・・豊宇気比売命(豊受大神和魂)/台与(豊)姫(豊依姫)/波姫。(豊波姫)/丹生都比売大神。(ほか、御別称数多。)
693太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 19:14:14.26
天照大御神は恒久的に女性であり、変換などの性転換は存在しない。
かような変換などというデタラメを、徹底して葬り去る必要がある。
694日本@名無史さん:2011/10/11(火) 19:39:49.31
>>693

根本的な話だけど、太国は九州説で、東遷説ではないよね?

だったら、卑弥呼は、ヤマト王権の祭る天照大神ではない。
天照大神が男でも、君には関係ないよね?
695日本@名無史さん:2011/10/11(火) 19:50:32.74
ここは学問板だからきっちり学問としての論証をしてくれ。皆さん。
696太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 19:51:02.91
関係あるよ。東遷などないね。
男神などとは超トンデモだ。こういう説を野放しにしておくと、津田の
妄想論が日本に蔓延して根を張ってなかなか絶滅しないで一人歩きから
かなりの日本の連中が津田に毒されたことの、二の舞の記紀の危機が
訪れる気配となる。したがってそうなならないうちに、徹底して第三者
が秀魔電のこういう説に脳内を占領させないうちにコチラが2チャン等で
宿主の魔説を徹底に葬り去るよう、論説を立てて防衛せねばならない。
697:2011/10/11(火) 21:12:53.02
ほらぁ〜おっさん言われてるよw

ここは学問板だから〜トンデモじゃなくw 学問的な議論をしてくれってww
698日本@名無史さん:2011/10/11(火) 21:20:42.44
ああっ メ が来たわ ジンマシンが出る
699唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/11(火) 22:01:34.74
>論説を立てて防衛せねばならない。

大日孁貴天照太~ まずヨミから説明してくれ。


700太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 22:14:27.72
ヨミがなんとか言う前によ、41年を説明しろ。

オマエとんだことをしでかしてるんだぞ。
それで朝敵呼ばわりされるんだぜ。
701唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/12(水) 20:33:11.18
>41年を説明しろ。

何の41年なん??

神皇正統記評釈 文学士 大町芳衛著 巻一 より
天祖(あまつみおや)国常立 尊(くにのとこたちのみこと)、
陽神陰神(をがみめがみ)にさづけ給し勅(みことのり)にきこえたり。

太陽は男の象徴であり、月は女の象徴である。
702太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/12(水) 22:09:41.41
>何の41年なん??

下手なとぼけだな。みんなオマエのを読んでるんだぞ。

太陽は男の象徴とは限らず、月は女の象徴とは限らない。

毒書 秀魔電の言う日神が男神だというのは、大ウソである。
日神は女であ〜る。
703太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/12(水) 22:27:02.62
>>701
>41年を説明しろ。

何の41年なん??

これは ↓ 何だ。説明しろ。抽象的なのは役に立たぬイカサマ論。

58.唐松山
2010/01/08 22:19

>>57
西暦で見る歴史

西暦 41年 神武元年 第X様式土器
704太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/12(水) 22:29:35.49
>>703 注意
上の >>57 はここのスレの>>57ではありません。
705:2011/10/13(木) 20:00:31.76
>アマテラスの大元の神威は海(アマ)照らす神だったのかもしれない。

後代の「贈り名」だろうね。
もちろん、この神は実在した人物であり、
その当時は、もう少し親しまれた名で呼ばれていたことだろう。

天照らすというのは、太陽の神だからそうなったのだろう。
706:2011/10/13(木) 20:01:57.79
ところでわっし―の本って、誰か読んだことある人おる?ww

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
707日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:03:02.29
実在なわけないだろ。バカじゃないの?
708日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:05:51.40
鷲崎って人、宇佐説なのか。

ここにも無駄な人生を送ってる人がいるんだな。
709:2011/10/13(木) 20:07:30.79
>>707
バカだな〜おまえ

どの本にも書いてるだろう!
記紀の神代の事柄は、歴史的事実を反映したもので・・・・
たとえば、記紀を編纂するに当たり、何もない状態、いわざゼロから
一つの出来事(たとえば天の岩戸伝承等)を作り上げるのは、
歴史的事実を用いて編纂するよりも遙かに難しいとか。

わかるかね?
710:2011/10/13(木) 20:10:53.83
このK-MATさんって結構、本読んでるよ・・・・わかるわかる

あまり見かけない人だが、どこかの掲示板の人なのかな・・・
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
711日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:29:19.31
高天原→高海原はここでは論外?
712日本@名無史さん:2011/10/13(木) 21:56:07.27
>>709
>どの本にも書いてるだろう!

どこの本だよばーか。
713日本@名無史さん:2011/10/15(土) 00:08:31.45
書いてきた・・・・

では....   See you again! ~☆

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121
714日本@名無史さん:2011/10/15(土) 19:13:01.13
age
715日本@名無史さん:2011/10/15(土) 21:12:02.27
716日本@名無史さん:2011/10/15(土) 21:33:14.42
また メ が来てる。なんで未練がましくたびたび顔を出すのかしら?
717日本@名無史さん:2011/10/15(土) 21:55:55.69
掲示板の宣伝活動だろ
718恵みの人:2011/10/16(日) 19:36:09.17
まあ出会いがあり、別れがあるさ〜☆
719唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/17(月) 00:29:14.27
>>696
>論説を立てて防衛せねばならない。


論説はまだか〜
720恵みの人:2011/10/17(月) 20:55:13.97
おっぱい 書いてきた〜☆(スッキリ) www

では、さらば・・・・〜☆
721唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 00:08:53.37
帯方太守・張撫夷墓(西暦288年/348年?) は、348年である。
317年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年。仁徳4年課役停止。
323年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年。~功49年。
342年 慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
347年? 遣其世子儁與恪率騎萬七千東襲夫餘,克之,虜其王及部眾五萬餘口以還。
348年 帯方太守・張撫夷墓。

百済以北の東夷は、前燕に帰順する。その中で、被害を被っていないのは、百済のみである。
何故か?
323年 ~功49年 領土分与。大量の渡来民。
324年 高句麗は遼東(楽浪)に攻め込むが、慕容氏に蹴散らされる、
その敗軍を百済が襲う(百済本紀371年)。これで前燕ににらまれることは無い。
慕容氏は、西の石季龍への対応で東の患い(高句麗、崔)を克服できてない。
そこに百済という友軍ができる。331年辛卯のころより、高句麗にとっても気になる
存在となる。
722ローガン:2011/10/18(火) 10:15:24.27
>>721:唐松山
>帯方太守・張撫夷墓(西暦288年/348年?) は、348年である。

帯方郡は無いのに…
723唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 17:28:00.65
>>722

 時平州刺史、東夷校尉崔自以為南州士望,意存懷集,而流亡者莫有赴之。
意廆 拘留,乃陰結高句麗及宇文、段國等,謀滅廆以分其地。
318年 太興初,三國伐廆,
319年 與數十騎棄家室奔于高句麗,
 明年,高句麗寇遼東,廆遣眾擊敗之。
 段末波初統其國,而不修備,廆遣皝襲之,
 遣宇文乞得龜擊廆,廆遣皝距之。…攻乞得龜,克之,
323年 ~功49年
334年 咸和九年 段遼遂寇徒河,皝將張萌逆擊,敗之。
335年 咸康初,遣封弈襲宇文
337年 皝於是以咸康三年僭即王位,
皝前軍帥慕容評敗季龍將石成等于遼西, 段遼謀叛,皝誅之。
340年頃季龍との対峙は、終了する。
342年 其年皝伐高句麗,王サ乞盟而還。明年,サ遣其世子朝於皝。
342年 慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。戍(兵)を置いて帰る。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
347年? 遣其世子儁與恪率騎萬七千東襲夫餘,克之,虜其王及部眾五萬餘口以還。
高句麗、扶余の民は、前燕に強制移住。
348年 帯方太守・張撫夷墓 塼室墓
353年 ピョンヤン駅構内 塼室墓 遼東韓玄菟大守佟利造
この時代に「太守」を任命出来るのは、前燕のみである。
724唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 17:29:46.42
>>722
353年 ピョンヤン駅構内 塼室墓 遼東韓玄菟大守佟利造
では、こちらは誰が指名したか?
725唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 17:58:56.00
時平州刺史、東夷校尉崔自以為南州士望,意存懷集,而流亡者莫有赴之。
意廆 拘留,乃陰結高句麗及宇文、段國等,謀滅廆以分其地。
318年 太興初,三國伐廆,

318年頃、平州刺史、東夷校尉崔は、高句麗等と同盟を結び、慕容氏を
滅ぼそうとする。
それに先立ち、高句麗が楽浪、帯方を滅ぼしていたら?(313年?)
東夷校尉崔の支配地域である以上、同盟は成立しない。
319年に崔が高句麗へ出奔することにより、楽浪、帯方地域は、慕容氏の
管理下に置かれる。
323年 百済へ領土分与。翌年、楽浪を攻める高句麗、けちらす慕容氏、
横から百済が高句麗王を殺す(百済本紀371年?)。
これにより、百済は、慕容氏と敵対しない。
370年前燕滅亡。これを受けて、百済は東晋に使者を送る。
371年 応神天皇二八年九月。高麗王遣使朝貢。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神28年≒仁徳58年。
280年 応神天皇三七年 通呉。

百済本紀を無視すれば、このような数字が得られる。
726ローガン:2011/10/18(火) 18:49:12.26
>>724
いや、永和九年だから。前燕なら元璽2年って記すでしょう。
727唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 19:46:37.02
>>726
たしかにその通りではあるが、
[太守]の称号、任官を誰が任命できるか?
340年頃石季龍との対峙は終焉する。
342年時点で、高句麗、百済等は、前燕に帰順し、347年で扶余を含む
東夷は前燕に帰順する。
この時代は、年号が使用されていない。(帯方太守)
年号が使用されて直ぐ全国に知れ渡ったか?
知れ渡っていたとしても、燕王位は、西晋から授与された王位でもある。
337年 皝於是以咸康三年僭即王位,赦其境內。以封弈為←このあたりで仏寺が燕にできる。仏獣鏡?
帝又遣使進皝為征北大將軍、幽州牧,領平州刺史,加散騎常侍,摎W萬戶,持節、都督、單于、公如故。


372年 百済 晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり。
この称号は、東晋の使者が百済等を訪れたうえでの授与である。
これを正しいとする読み方でなくてはならない。

728唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 19:59:41.51
4世紀後半 九州に横穴式墳墓。
5世紀後半 畿内に横穴式墳墓。

250年代 大倭は、伊都国に1大卒を置く。
274年 神功渡海。畿内の軍と九州で募集した混成部隊の渡海。
その後、全国の部隊が参加する、316年軍の引き揚げ。
323年 ~功49年再渡海以後、半島に駐留するのは、九州の軍隊であり、この時代の
横穴式墳墓が畿内に造られるのは、限定的である。
400年前後の高句麗南下には、畿内も参加するが、百済・新羅と伽耶の一部を失う。
以後の半島は、九州駐留軍の管理下に置かれ、
470年代、 百済が高句麗に背くと、畿内の軍隊を送り込む。
ここで、横穴式墳墓が畿内に持ち込まれる。
729:2011/10/18(火) 20:54:28.46
皆さん〜これどう思う?

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on

間違ったこといってないよね?
730日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:57:32.59
嫌だわ また メ が来た 嫌よ 嫌
731唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 21:04:24.37
鷲崎弘朋氏は、考古学が100年早すぎるという主張である。
ということは、私のように、文献と考古学を整合させた主張では無い。

両方を無視すれば、天照大神でさえ卑弥呼となる。
732:2011/10/18(火) 21:07:20.45
たとえば八幡神の出現でいうと、

邪馬台国宇佐説で有名な、富来 隆氏の1970年出版「卑弥呼」では
K-さんと同様に八幡神=鍛冶の翁、も含めた考えで書かれてるはずだが、
宇佐神宮由来記にはそのようなことが書かれていなく、欽明天皇三十二年(571)
に始めて八幡神が現れたのであって、569年ではない。

で、富来氏の本によると大貞の薦神社に伝わる伝説をもとにしてるらしいが、
あくまでも八幡神の出現は571年の3才の童子をもってと思う。
如何だろうか。
733ローガン:2011/10/18(火) 21:08:26.86
>>727:唐松山
>337年 於是以咸康三年僭即王位,赦其境。以封為←このあたりで仏寺が燕にできる。仏獣鏡?

仏獣鏡の初見って事? そんなに下がらんと思いますよ。 揺銭樹とか調べたら良いかと。
734:2011/10/18(火) 21:09:40.86
いや、鷲崎さんはどうでもよい(笑)
私とK-さんの違いについて、どう感じるのか
意見を聞きたいってことで。
735:2011/10/18(火) 21:14:57.44
アマテラスとスサノオのうけひで、

剣を噛み噛みして、それをブオーと噴き出すじゃん。
その息の霧から生まれたのが、かの有名な三女神でして、

この霧っていうのが、宇佐ではよく発生するらしく、
三女神の降臨した宇佐嶋といわれてる大元山には泉が湧きだし、
剣を作る鉄製品もここからとれるんだったかな・・・・
この宇佐の自然現象と、うけひの神話とが重なるとか。
736唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 21:18:35.85
仏教を平原に持ち込んだのは石碌である。308年以後。
これより早くしようとすれば、敦煌あたりから画像だけでも持ち込まねばならない。
西晋墓では早すぎる。
落としどころは何処でしょう?
737:2011/10/18(火) 21:21:38.73
誰か読んだことある人おる?


富来 隆氏の1970年出版「卑弥呼」
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%95x%97%88%97%B2/list.html
738:2011/10/18(火) 21:32:24.83
で、K-さんによると
もともとの八幡神は「素戔鳴尊」、
八幡神=応神天皇とされたのは、823年に神功皇后(三之御殿)が祀られた頃
らしいんですが、 まあ、言ってることは分かる。

しかし、大神氏が823年頃に応神天皇を持ち込む以前にも、
571年(欽明天皇32年)に、大神比義が八幡神をすでに祀ってるんであって、
私の言うのが正しいと思うんですが、如何だろうか。
739唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 21:34:01.23
メさんへ返信
 イトウケステメ アカガクニ クロソノツミと うむミコを コロビツクニの
キミとなす
3国遺事  屬建武二十四年戊申七月二十七日では、時代が合わないか?
 於是王與后共在御國寢 從容語王曰 妾是阿踰陀國公主也 姓許名黄玉 年二八矣 
在本國時 今年五月中 父王與皇后顧妾而語曰 爺孃一昨夢中 同見皇天上帝 謂曰 
駕洛國元君首露者 天所降而俾御大寶 乃~乃聖 惟其人乎 且以新莅家邦 未定
匹偶 卿等須遣公主而配之 言訖升天 形開之後 上帝之言 其猶在耳 

コロビツクニのキミ=阿踰陀國公主
ケステメ=須遣公主

アカガクニはご存じ香春である。
イトウヤスカタは、出雲である。
イトウヤスカタの姫8人を喰らうオロチを退治するのは…

たぶん聞かれても議論にならない。
740:2011/10/18(火) 21:34:37.90
>>739
それはなんですか?
ほつま?ww
741唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 21:36:07.48
生け贄の姫は、青銅鋳造時の微量要素リンとなった。
742日本@名無史さん:2011/10/18(火) 21:39:06.98
メ がいっぱいレスしてるわ。嫌、嫌よっ。
743:2011/10/18(火) 21:39:15.93
さて、そろそろ帰宅して本でも読みますかね
・・・・

ではまたです 〜☆
744日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:39:58.07
age
745日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:49:10.39
>太国

>14年だとなると、神武が即位前の立太子の年の前年となるな。
>その文献はいつごろの成立なのかね? 作者は?
>信用があるとなると、その文献は紀の編者らの記載でない事と観て、
>神武実在の信用度が増すこととなる。

宇佐宮八幡御託宣集 巻三 って書いてるじゃん
神吽 編纂で十三世紀成立だよ。
746:2011/10/19(水) 22:21:31.23
おっさん(太国)は
宇佐宮八幡御託宣集 って観たことがないのかな?
わたしも鷲崎さんも所持してるので、いつでも気軽にどうぞ。

http://www.gendaishicho.co.jp/book/b523.html

宇佐神宮の学頭・神吽による1313年作 らしいね。
747:2011/10/19(水) 23:42:18.64
皆さん〜これ読んでみ


http://homepage3.nifty.com/washizaki/kodaisinoumi1.pdf

では・・・・zzz
748唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/20(木) 00:20:37.19
ミ03061 ヒノカミをうむ  そのミナを ウホヒルギまた  アマテラス オヲンカミとぞ  たゝえます
ホ04143 ヲサナナの ウはヲヲヒなり ヒはヒノワ ルはヒのチタマ ギはキネぞ かれウヒルギの ミコトなり
ウオヒルキ=大日孁貴≠オオヒルメムチ
伊弉諾尊=吾身陽元=日子→男
伊弉冊尊=汝身之陰元=月子→女
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。”者”=男。

749日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:38:21.09
みんなこっちに書き込め
750唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/20(木) 19:16:45.40
>>663
>成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃 創建

この八幡宮の祭神は応神だろ。
残念か〜?。くやしいんだねぇ〜。bbbbb
751日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:50:19.61
age
752日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:53:30.11
753:2011/10/25(火) 20:05:00.88
ネタを少し入れようか。

富来隆の本にあったことなんですが、
倭人伝の風俗記事の「有棺無槨」、「其地無牛馬虎豹羊鵲」とかは
他地(韓伝とか)と比べて記載されている。
だから、決していなかったわけではなく、他地(韓伝とか)と比べて
基準が設けられてるみたいだね。
754改め(畿内説):2011/10/25(火) 21:05:12.06
どんこいのやつをおちょくってたら〜
なんかローガンが出てきたねw
755改め(畿内説):2011/10/25(火) 21:12:01.89
「倭」とはいにしえの「日本」であり、
聖徳太子以前の人々に、我々は「日本人」ていう認識はないよ(笑)

大陸からは「わ」と呼ばれてたので、それにあやかって一部の人には
「わじん」という認識はあっただろうが。
756日本@名無史さん:2011/10/25(火) 21:22:57.86
「改め」って、「ドツボ}のこと?
757日本@名無史さん:2011/10/25(火) 21:28:36.21
日本という漢字名自体、一般名詞ぽいだろう?
固有名詞というよりも、一般名詞だ。
日の本にあるみたいな意味だから。

だから、倭のことを、日本という慣習は
昔からあったのでは?と思う。
758改め(畿内説):2011/10/25(火) 21:40:06.08
>>757
>倭のことを、日本という慣習は昔からあったのでは?と思う。

あったことはあったが、近畿の一部においてだろうね。
列島全体に普及されてるのは「ひのもと」ではなく、あくまでも
「わ」や「やまと」「やまとのくに」でしょうね。
「ひのもと」は全国区ではない。
あくまでも一部であり、全国区になるのは聖徳太子以降でしょうかねえ。
759日本@名無史さん:2011/10/25(火) 22:28:54.56
やまとも大和地方の一勢力じゃないの
760唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/25(火) 22:32:45.79
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂。←倭奴国の乱を畿内大和に設定できない。
だから、九州女王国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。

大和の王が倭王位を魏から授与される。そのために九州倭奴国(倭国)
との関係に齟齬が生じる。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。がある。
倭奴國(女王国)=西の倭に対する東倭=東の倭(邪馬台国=大和)である。
761日本@名無史さん:2011/10/26(水) 00:53:54.08
>>759
ヤマトって地名は、三輪山の山麓あたりを
山処って言ったことからできた名称だと思う。
762日本@名無史さん:2011/10/26(水) 01:52:15.80
NHK総合 2011年10月26日(水) 22時00分〜22時45分 の放送内容

歴史秘話ヒストリア「女王さま振り向いて!〜最新研究!邪馬台国・卑弥呼のヒミツ」

番組内容日本史上、最も有名な“女王さま・ヒミコ”。卑弥呼がいた邪馬台国とは、どこなのか?
中国の史書にしか登場しない卑弥呼の正体とは? 歴史家だけでなく、松本清張など推理作家までが参戦。
最新の発掘調査の成果を交えると、新たな実像が明らかになってくる。壮大な王宮跡や、謎の出土品も次々と発掘。
調査から見えてくる女王の暮らしと、死の謎の真相など、ベールに包まれた古代の女王に迫る!

http://www.nhk.or.jp/historia/
763日本@名無史さん:2011/10/26(水) 02:15:20.81
>>761
うん、なのでヒノモトと同じで一地方なんだろうなあと
以前ヤマトとハヤトを同族とか言ってた人がいたけどどうなの
ヤマトは山人って言ってた
764日本@名無史さん:2011/10/26(水) 08:56:16.01
最初に九州の国々が出てくるのは
魏の使節がそこで、止められていたということの意味が大きいのと違うか?

徳川時代は長崎出島
平安時代は大宰府
卑弥呼の時代は、伊都国の一大率
765唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/26(水) 20:25:24.02
ホ23044 ヤマトクニ マトのオシエは のぼるヒの モトなるゆえに ヒノモトや しかれとヤマト なすてそよ
大和がヒノモトを認識するのは、
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。邪馬臺國王が倭王位を授与。←東の倭を認識。
250年代に、九州を含む倭国統一、大倭成立。
倭人伝 壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
大倭成立。この時、大和(邪馬臺國)自分をどう表現するか考えた結果が“ヒノモト”であるが、
魏→晋と王朝が変わっても、大和の王は、倭王位を歴代の王(天皇)がつぐ。
大倭と倭王。
766日本@名無史さん:2011/10/26(水) 20:36:23.75
>>764
白村江(663年)の敗戦処理(671年だったか)には、
唐軍トップが畿内まで来てることになってるね。
767太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/26(水) 22:27:55.35
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、
コチラを口撃していた男が〜

〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

なお

 伊支馬≠垂仁天皇

これをイコールだとイカサマを言う野郎の論は
まるで

 「猿の惑星 創世伊支」

さながらのインチキ創作論であ〜る。ww
768日本@名無史さん:2011/10/26(水) 22:34:40.70
やっぱ、狗奴国は尾張一宮やったか!はぁはぁはぁ!
769日本@名無史さん:2011/10/26(水) 22:51:52.78
クナ国は可児市なんだけどね。ここだけの話。
770日本@名無史さん:2011/10/26(水) 22:57:04.20
そやし言うたやろ〜邪馬台国は纏向遺跡やて。卑弥呼は天照大神で決まりやなぁ。
771太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/26(水) 23:10:37.37
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

これをイコールだとイカサマを言う野郎の論は
まるで

 「猿の惑星 ウソ西紀」

さながらのインチキ創作論であ〜る。ww

所詮猿は人間にはなれない。道鏡が絶対天皇になれぬ如く、等号は成立しない。
すなわち

 臣下 伊支馬(猿相当)≠垂仁天皇(人間相当)

臣下は彼らを選んだ〜〜ww
        ↓   
http://ameblo.jp/i-am-icchan/entry-10926356839.html
772日本@名無史さん:2011/10/27(木) 02:13:35.58
狗奴国=コノ国=許乃国でしょう?
武埴安彦命の領国。
773日本@名無史さん:2011/10/27(木) 02:48:37.24
邪馬台国は岐阜にあったの?
774唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/27(木) 19:37:54.71
>「猿の惑星 ウソ西紀」
太国が主張する1年が180日の暦の出処か?
地球上で180日の暦を使用するような人間はいないし…?
もし、180日の暦など主張しても、頭に???を飾られるだけである。
775:2011/10/27(木) 20:04:38.91
ふう、
あのケイ・ハイフンさんって結構手ごわいねえ><
なんか知識あるっていうか・・・・思わない?ALL
776太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/27(木) 20:23:05.60
>地球上で180日の暦を使用するような人間はいないし…?

えらそうに大ウソを言うな.bbbbb・・・・・

古代マヤの太陰暦は2倍暦だ。長期暦の次の補充シリーズにマヤ神聖文字
でこの2倍暦が書かれている。学術上、C文字で論じられる。

絵文字は 1C 2C 3C 4C 5C 6C で1年6ヶ月の180日を暦と
する。当然1年が現今の6ヶ月だから 7C〜12C の文字はマヤの太陰暦
には存在しない。ww これは改め氏が否定してもあるものあるんだから、
認めるほかはなかろう。中南米が存在しないといきばっても、精神病院
行きをオマエが第三者から勧められるだけ。ww
777日本@名無史さん:2011/10/27(木) 20:47:09.00

中野剛志先生がTPP賛成論者の詭弁を全滅させたようです
http://www.youtube.com/watch?v=9amjatPD_l4
http://www.youtube.com/watch?v=8G29qFqId2w


中野先生が敗北宣言、暗殺される?
日本が米国の植民地に。すでに99%手遅れか?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15973549


テレビ・新聞にだまされるな。
気づいたら、
「my日本」で検索
778唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/27(木) 20:55:33.41
>えらそうに大ウソを言うな.bbbbb・・・・・

おお、一人忘れていた。
1年が180日の暦を自在に操れる男、それが太国。
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/27(木) 22:07:20.03
ま〜だまだまだ沢山いるぜ。当時の古代マヤの学者らだ。ww
あるんじゃぁ〜イカサマ空年はあきらめるんだな。
780:2011/10/27(木) 22:11:26.43
アメーバーピグやってたw

釣やっててくせんしまくりってw
781:2011/10/27(木) 22:12:43.16
おっさん、何かいいネタを書いてよ

こっちのスレ、干上がってて、何かネタが無いと・・・・
782日本@名無史さん:2011/10/27(木) 22:15:42.77
また メ がきてる キモイなあ
783太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/27(木) 22:21:01.16
卑弥呼の国が2倍年暦を行使していたかどうかは、定かではないが・・・

2倍暦は現今ではミニの2倍暦として12時間制と24時間制の時刻計測法
が併用で行われているわけであり、これだけでもたわごとではない。また
現今、グァテマラでマヤのキチェー族が古代マヤの1.4倍暦法たるツォルキン
暦をいまだに行使しており、パラオでは古田先生グループが2倍年暦の存在
を確認しているという。

古代南バビロニアでは2倍年暦が行使されており、いろいろ調べたが、2倍
年暦の行使では今のところこれが最も古い。この地域でこれが行使されて
いた事由とは、6ヶ月ごとに起こる月食を1年の単位としていたことからと
言われているが、さらに南部では春分を元旦としてたが北部のアッカドでは
秋分を元旦としていた状況のため、1年に2回元旦のカレンダーのことにて
2倍年暦を編んだと想われる。

また現今のバリ島でもウク暦(バウコン暦)という1.7倍暦法が行使されて
いるという。日本書紀の欠史八代の記事は総て1日〜14日(2週間)に
収まっており、これなど当時1ヶ月が14日間しかなかったということを
物語っている。このことは八代当時に2倍年暦の行使があったということが
うなずけるのだ。古代アステカでは1.4倍暦法のトナルポワリ暦があり、
古代サポテカでも1.4倍暦法の存在がサンニホセニモゴテの石碑3号の文字
から、当時1.4倍暦法の使用がうかがわれる。
他に寺坂氏という方の某板での書きこみでは、パラオ暦が倍暦だという。
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/27(木) 22:23:52.55
先日のNHKの卑弥呼の番組で、天照大御神の絵を見せていたが、全然本物
からは程遠いと感じた。去年吉野ヶ里へ行った思い出が脳内に浮かんだ。
785唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 00:28:57.50
>1年に2回元旦のカレンダーのことにて

3倍年をどう説明するの?

1年(公転)を12ケ月(月の公転)とし、365日(地球の自転)で1周。
自転軸の傾きを4季とする。
786日本@名無史さん:2011/10/28(金) 01:48:54.41
邪馬台国が畿内なら、
「親魏倭王」の金印を保管してそうなんだけど、どう思う?
787日本@名無史さん:2011/10/28(金) 01:56:04.53
>>786

ああ、ダメ!
そういう当たり前の正しい判断が出来たら、
畿内説なんか絶対に信仰できないの。
788日本@名無史さん:2011/10/28(金) 02:34:10.72
>>786
巻向掘りまくったら、出てくるよ

そもそもあんな超巨大遺跡群を作ろうと思ったら、年月も相当かかる訳で
ここ以外ありえない
789日本@名無史さん:2011/10/28(金) 02:45:23.22
巨大古墳群が無いのが、邪馬台国の特徴だよ。
790日本@名無史さん:2011/10/28(金) 02:47:17.28
畿内説って>>788みたいなアホばかりだな。
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 10:24:55.30
>3倍年をどう説明するの?

古代南バビロニアでは3倍年暦をやってたとは言ってない。そこは2倍年暦だよ。
2倍は先述のとおり典型的なのが、古代マヤの学術C文字でいう暦法だ。これは
補充シリーズとかルナー・シリーズと呼ばれるもので、オマエが昨日
 地球上で180日の暦を使用するような人間はいないし と、嘘をほざいていたが、
当時のマヤではこれを常用していたのだ。こういう古代マヤ学研究の現今の学者ら
の主張は権威がありウソではない。それも信用性ある定説だ。

C文字は右片手の(前腕は含まない)手刀形でその甲を見るもの側に向けていて、
これの上に人間かマヤ神の頭字体が乗り、その手と頭の通常は左か上に点(1)
(小丸)と棒字(5)を付加して1から6までの数字をこさえ、マヤ文字を構成
する。かように2倍暦は古代に実用化されてたのである。

オマエも早くインチキ空年を覚り、倍暦が正解だとの鞍替えをして暦の研究を
やり直ないと、一生トンデモ・デタラメの論説でオシマイだぞ。分かったか?ww
792唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 17:53:36.80
>古代南バビロニアでは3倍年暦をやってたとは言ってない。

書記は3倍年で書かれている。が太国3倍年である。
バビロニアの暦法など関係ない。

太国3倍年が”猿の惑星”の暦法でもよいが、
書記にあてはめるのは、太国の役目である。
書記にあてはめた途端、太国3倍年で読む書記は、”猿の惑星”での出来事と認定される。
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 19:23:23.39
書記は空年で書かれている〜が宿主空白年である。
ホツマの暦法など関係ない。

宿主空白年が”猿の惑星”の暦法でもよいが、
書記にあてはめるのは、宿主の役目である。
書記にあてはめた途端、宿主空白年で読む書記は、”猿の惑星”での出来事と認定される。
794あらため:2011/10/28(金) 20:20:31.69
おれはこっちで書き込むんだったw

>群馬県高崎市

で思い出した・・・
あそこの祀りに参加した時、おみこしが担がれてたんだが
その上に大きな人形が乗っており、スサノオ神だったのはびっくりしたな。
群馬ではやたらとスサノオを祀る社が多いと思うんだがどうなんでしょうねえ。
795唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 20:28:28.45
>ホツマの暦法など関係ない。

そりゃそうだ。ホツマや書記は、東洋の太陰暦で読める。
しかし、太国倍年は、”猿の惑星”の暦でもなければ読めない。

太国倍年を書記の太陰暦にあてはめることは不可能である。
796あらため:2011/10/28(金) 20:37:46.52
>去年吉野ヶ里へ行った思い出

私は一昨年行かな。
吉野ヶ里はお薦めできる。
なんせ、園内が広いので半日以上かかるし、勉強になることだらけだあ〜
797あらため:2011/10/28(金) 20:40:36.87
>「親魏倭王」の金印

まだ発見されてないが、いずれ出てくる可能性がある。
そのまえに、それ以外の決定的証拠だって十分あり得る。
魏代の王の墓から邪馬台国への地図がでてくるかもしれんし、
卑弥呼の鏡だってそうだ。
798日本@名無史さん:2011/10/28(金) 20:45:51.02
今あらためが、神の手=藤村新一氏と
「親魏倭王」の金印の発見芝居を計画中。
799あらため:2011/10/28(金) 20:47:51.77
みんな、日本書紀どこの使用してる?

おれは、これだったかな・・・
http://www.amazon.co.jp/dp/4827315205/?tag=yahoo-ps-22&creative=9311&creativeASIN=4827315205&linkCode=asn

今出先からなので、間違ってるかも知れんが・・・
800あらため:2011/10/28(金) 20:59:45.85
>>798
君ら〜名無し連中の所持してる本は
560円とかの安いやつだろ?「」図解とかの(笑)
http://books.livedoor.com/item/3636796?cid=yprodsh

まずコテハンと名無しの「差」といえばこういう所にあるんだろうな。
801日本@名無史さん:2011/10/28(金) 21:10:01.26
奥野さんが捏造事件を裁判にすると頑張ってたなぁ。
離れた遺跡から出た鏡片なんかが一致するという話聞くと
今でもドキッとするわ。
802唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 21:14:01.06
後漢書志第十五
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。 [一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」

「當溫而寒,」=寒暑矢序。
「刑罰慘也。」=飢餓の為食人。
弥生後期後半の、青谷上寺地遺跡の人骨は食人をあらわす。

これほどの凶作は崇神6年にしか当てはめられない。

ところが、太国倍年では、崇神4,5,6年で365日程度とする。
凶作・飢餓・餓死・逃散を1年で説明することは出来ない。
おまけに、記念品まで配るとは。

803日本@名無史さん:2011/10/28(金) 21:26:56.13
まともな人はコテなんてつけないw
804太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 21:27:56.89
凶作・飢餓・餓死・逃散を1年で説明することは出来る。
おまけに、紀年鏡まで合うとは。
805太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 21:30:29.09
そりゃそうだ。南バビロニアや書記は、旧大陸の2倍暦で読める。
しかし、宿主空年は、”猿の惑星”の暦でもなければ読めない。

宿主空年を書記の2倍暦にあてはめることは不可能である。
806あらため:2011/10/28(金) 21:38:36.38
しかし、みなさん〜詳しいですよね><

いつだったか、河童君が
みなさんに着いていけなくなったらしく、脱落した感があるんですが(笑)
私もみなさんの知識に着いていけるかやや不安(><)w

で、さっきまで鷲崎サイトで書き込んでたんですが、
彼の言う、「炭素14年代測定は誤り」とか「輪年代法と年代遡上論」とか
考古学専門でやってる人からみてどうなんでしょうかね?

たとえば、ローガンさんとかジョーカは考古学専門って感じで、
彼(鷲崎氏)の論を観てどう思うのか、ちょっと聞いてみたいですよね。

私は、よくわからないんで、彼のソノ論には口を出さずにおとなしくしてる。
自信のある人は、彼のあの論に噛みついては如何だろう。
彼も、それの話をしたがってる感があるし・・・ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
807唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 21:48:17.75
崇神時代に”任那”建国が無ければならない。

三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、金官伽耶、任那)は存在する。
808あらため:2011/10/28(金) 21:51:00.24
神奈川県の厚木に「ほんごうてい」とか秦野には「なんつっ亭」ていう
うまいラーメン屋さんがありますよね。
私もよく食べにいったりしてたんですが、上手いラーメンは毎日食えるというもんでして、
集に2,3度は通ったりしてましたよ。

で、関ゆーじの本に九州のとんこつラーメンの話がありまして、
関東の人から見たら、九州のらーめんはくさいと思うらしく、
本州からみて九州は独自の文化みたいなことが載ってあったと思う。

本州の人が九州へ行って、まず初めに思うことは、
石仏文化なのではなかろうか。
あの下関バイパスを通り、九州に入って、各地を回ると
なんて石仏の多い所なんだろう と思う人もいるかもしれない。

邪馬台国畿内説、九州説あるが、
この辺の文化の違いについて議論してもいいんじゃないだろうか。
809太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 21:53:39.68
崇神時代に”任那”建国が無ければなかろうとあろうと関係ない。

半島文献の大幅な年代差の原因とそのへんの詳細な別の古文献が出て
これが非常に信用度が大だとなれば、任那のことはいずれ倍暦でカタが
つく。

あわてるオマエはいずれイカサマ空年が発覚して、
もうオマエはオシマイ。ww
810唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 21:57:08.86
年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。

鷲崎さんもこの降水年輪は認めた。
しかし、考古学の主張する纒向年代を100ズレと主張する。
つまり2重基準のほら吹きでしかない。我田引水。
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 22:01:38.00
つまり5重在位のほら吹きでしかない。我田引水。ww

812唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 22:02:32.40
>書記は、旧大陸の2倍暦で読める。

旧大陸の2倍暦とは、人類発祥以前の暦か?
読めるなら、勝手に読めば。
813あらため:2011/10/28(金) 22:02:42.39
で、みなさんはどこに住んでるのか
良く知らないんですが、歴史好きな人には、滋賀県周辺の人って
結構便利な地ですよね。
滋賀県の周りには、古代史を追う上で、結構重要な地もたくさんありますし、
あの、滋賀県の琵琶湖の中にある「竹生島」なんか伝説がありまして、
面白そう。
あと、ブラックバスもいるようですし、
私はけっこう釣りが好きでして、ブラックバスを釣りに琵琶湖まで出かけたことがある。
琵琶湖で泳ぐのって海水浴ならぬ「淡水浴」ていいまして、
私も琵琶湖で泳いだりしたことがあるんですが、海じゃないので浮かないから大変。

琵琶湖の周辺に、多賀大社(お多賀さん)もありますよね。
この多賀大社周辺にヤマト王権誕生に関る重要な地って聞いたこともある。
814日本@名無史さん:2011/10/28(金) 22:06:11.36
>>808

あのさ〜、小田急沿線のラーメンと、国東周辺の石仏と、
卑弥呼の関係を、先に説明したほうがいいんじゃない?


                                    無関係だとおもうけど。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/28(金) 22:07:55.63
>旧大陸の2倍暦とは、人類発祥以前の暦か?
>読めるなら、勝手に読めば。

人類発祥以前の暦というのは、オマエの空年だろ。ww
なぜか〜〜? pp

人類の前は猿か猿人猿とかだ。wwwwwwwwwwww

宿主空年は「猿の惑星」という人類発生以前の暦法らしい。ブブブ・・・
816あらため:2011/10/28(金) 22:10:17.28
あ> あ〜ラーメン美味しかったなぁ〜
あ> ラーメンと言えば邪馬台国九州説の関ゆーじがその話をしてたな
あ> 関ゆーじいわく、本州と九州では若干文化の違いがある
あ> 九州には石仏が多い

て話だよwww
817唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 22:20:15.56
唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
青谷上寺地遺跡の人骨は、食人を表す。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。←考古学のこの数字は、年輪年代法により
割り出された。「年輪降水量」と同じく正確である。
この出来事を書紀に当てはめる
崇神5年 民の疫病=餓えの病、凶作、飢餓、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
寒暑失序。疫病多起。百姓蒙災。
(高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。)
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神10年 4道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:各地の土器。
崇神58年 新羅209年ころ 任那建国。

考古学の数字は、他国の文献や書記の記事と整合させることができる。
これまで整合させられなかったのは、百済本紀と七支刀を369年に設定していたためである。
考古学の年代遡上とは、百済本紀を無視し、新羅本紀や魏・晋書に歴史を合わせる。
818日本@名無史さん:2011/10/28(金) 22:22:32.15
>>816
石仏は国東周辺でしょ。それで?
819あらため:2011/10/28(金) 22:22:37.75
>鷲崎さんもこの降水年輪は認めた。
>しかし、考古学の主張する纒向年代を100ズレと主張する。
>つまり2重基準のほら吹きでしかない。我田引水。


ああ〜たんなる「ほら吹き」てことね。
あの人、安本美典氏と仲が良いみたいだが、電話番号とか交換してるんでしょうかね。
たぶん、そういう関係(どういう関係?)だろうがw

あの掲示板は、安本氏も観てるかもしれないので、
興味ある人は書き込めばいいのにね〜と思ったりする。
820あらため:2011/10/28(金) 22:30:39.84
>>818
石仏は「臼杵」にもありますし、
福岡県八女郡には、磐井で有名な石人なんかありますし、
本州とはすこし文化が違うてはなしですよ。
821日本@名無史さん:2011/10/28(金) 22:41:16.85
>>820

石仏を卑弥呼に因縁づけるのは、困難。
石仏はむしろ後世の修験道興隆関連じゃない?
822日本@名無史さん:2011/10/28(金) 22:42:22.97
滋賀県と卑弥呼も無関係。
823唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 22:48:18.32
323年 ~功49年 軍を派遣。半島占拠、領土分与。
4世紀後半 九州に横穴式古墳、畿内方面へは限定的な普及。主に九州の軍が半島に駐留。
5世紀後半 畿内に横穴式古墳。嶋王送致などに畿内の軍隊がかかわる。

この4世紀の横穴式古墳で九州王朝を主張しても、磐井自体が畿内から派遣された勢力である。
824あらため:2011/10/28(金) 22:56:22.59
考古学の話しないと寄ってこないのかな・・・・

前方後円墳の形は、国家誕生を以ってあの形状にしたって話があったと思うが、
その実質の墓というか、本体は円部で方墳のほうは「祭壇」や「引立て」、
または飾りみたいなことがいわれてたはず。
実際に被葬者の亡骸があるのは円部の方であるが、仁徳天皇陵だったか
逆に方墳の方に埋葬されてる場合もあるらしいね。
825あらため:2011/10/28(金) 23:00:51.48
邪馬台国論者の間にも

邪馬台国のランク付けがあるらしいねw
とりあえず虫しとくか(笑)

>>821
いや、暇つぶしに書き込んだだけだよ
深く追求しなくておk

>>822
ああ〜無関係かもしれないが、古代史好きが集まってるので
イイ場所じじゃないかな〜て思って書きこんだんだよ。
826唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/28(金) 23:11:13.05
>>824 大仙陵のように築造に20年もかかっていたら、1人の埋葬じゃあ間に合わないし
400頃は、高句麗の南下があり、古墳築造どころではない。
大仙陵古墳の山肌の荒れは、築造途中で終了したことをあらわす。
827あらため:2011/10/28(金) 23:21:28.90
さあ〜、さあ〜 かかってこい! by太国


さて、もう飽きたので寝るか・・・じゃ〜後は、唐さんの考古学ネタ満載をお楽しみに!
zzz・・・・
828日本@名無史さん:2011/10/29(土) 02:03:39.56
かかってきそうなのは、鳥の糞ぐらいだろ。
829日本@名無史さん:2011/10/29(土) 02:09:24.97
>>824 ドツボ
>考古学の話しないと寄ってこないのかな・・・・

むしろ集客を望むなら文献。

このスレが一番賑わったのは多分お前とか河童が漢字一文字ごとに
その意味をあーでもないこーでもないと言っていた頃だろう?w

830日本@名無史さん:2011/10/29(土) 02:15:19.30
つーかドツボの河童への嫉妬が面白かった
831唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/29(土) 21:25:36.43
>>809
>崇神時代に”任那”建国が無ければなかろうとあろうと関係ない。

崇神時代に”任那”建国が無ければ、日本書紀は”嘘をついている”と認定される。
であるならば、太国倍年の基礎である”書記の日付”も”嘘”である。

~功52年七支刀=369年では、半島占拠は否定される。よって日本書紀は嘘の書物としか認定できない。
だから
~功52年七支刀=326年であれば、半島占拠は事実とできる。

太国倍年の数字では、半島占拠は無い。だから太国倍年も無い。
太国倍年が存在するためにも、崇神時代の任那建国を”真”で主張できなくてはならない。
太国が任那建国を無視する限り、太国倍年は存在しない。
832唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/29(土) 21:55:11.39
>>804
>凶作・飢餓・餓死・逃散を1年で説明することは出来る。

そして、崇神時代の任那建国は無視することができる。
崇神65年 任那からの朝貢、垂仁世の鉄剣製造と貯蔵はどう説明するの?

ホケノ山古墳 (225〜250年)
木郭は、半島の葬儀形態であり、大量の鉄器と楽浪鏡は、任那の存在なしで説明できない。
任那とは、ミマキの那の意味である。
833日本@名無史さん:2011/10/29(土) 22:03:59.94
投馬国ってここの人はどこにしてるの?
俺の予想では、出雲なんだけど。で、狗奴国は熊襲。

史料とは方向が合わないけど、そんな人口が多い所(投馬国5万余戸)はないかと。
(奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、、大月氏国10万戸)

ただ読みで、末廬国→松浦、一支國が壱岐とかと比べると、うまく合わないんだよね
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/29(土) 23:00:56.97
そして、崇神時代の任那建国は無視することができる。
           ↑
そのとおりである。いずれ詳細正確、信用性大なる古文献が出てくれば、
倍暦でいい線に落ち着く。ww

神武元年=41年 空年の神武紀のどこからどこまではどう説明するの?
835太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/29(土) 23:04:12.79
>>831
崇神時代に”任那”建国が無い有るでは、日本書紀は
”嘘をついている”と認定されない。
であるよりも、宿主空年の基礎である”書記の日付”も具体的説明が無のため”嘘”である。

オマエは書紀の日付の具体的説明をしたことの
ない張本人だからであ〜る。


宿主空年の数字では、半島占拠は合っていない。だから
宿主空年も無い。
宿主空年が存在するためにも、崇神時代の任那建国を
”真”で120年差の調整を主張できなくてはならない。
宿主が任那建国を云々する限り、宿主空年は存在しない。
836唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/29(土) 23:07:07.83
>いずれ詳細正確、信用性大なる古文献が出てくれば、倍暦でいい線に落ち着く。ww

そして、いずれ考古学の年代も太国倍年に近づく。
まあ1太陽年が180日になる可能性とどっこいの妄想でしかない。
837唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/29(土) 23:16:42.35
>120年差の調整を主張できなくてはならない。

何処に120年差が存在するんだ?

>空年の神武紀のどこからどこまではどう説明するの?
何を聞きたいのか?
太国倍年で説明できる事か?
太国倍年で説明するのが先決だろ?
太国倍年ならこのように正確に説明できるが、”増し年”で説明できるか?
となるべきである。
838日本@名無史さん:2011/10/29(土) 23:24:55.91
このアホ一人で自演して、基地外やなww
839太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/29(土) 23:39:35.90
そして、いずれ考古学の年代も太国倍年に近づく。
まあ1太陽年が180日になる可能性と古代マヤ太陰暦と欠史八代の
2倍暦との現実でしかない。

>何処に120年差が存在するんだ?
あ〜ん、とぼけなくてもいい。
今夜は遅い。また明日書いてやろう。

オマエが毎回見ていた三国史記と日本書紀の120年差をな。
ずいぶん記憶力がうすれたような言い訳だな。忘れはしないだろう。ww
840日本@名無史さん:2011/10/29(土) 23:47:42.05
またやっとるわ
841唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/29(土) 23:53:01.09
>まあ1太陽年が180日になる可能性と古代マヤ太陰暦と欠史八代の
2倍暦との現実でしかない。

1太陽年とは、地球が太陽を1周する時間であり、その間の自転が365日程度となる。
だから1年が180日で存在するのは、地球では無い。これが結論である。

>三国史記と日本書紀の120年差をな。
だから、どう読んだら120年差なのか?太国倍年ではどのように解消したか。聞かせてくれ。

842太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 10:33:09.59
>だから1年が180日で存在するのは、地球では無い。これが結論である。

2倍暦法の太陰暦を行使している古代マヤは、中南米の地球上である

在るものに眼をつぶって否定したり、日食が数日間も続くと頑張るオマエ
は、まぁ精神病院の中でしか通用しない文言の大ウソである。ww
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 10:50:15.58
>何処に120年差が存在するんだ?

下手クソな とぼけ野郎! 知らないふりはよそうぜ。

三国史記と日本書紀の各半島王没年が、 120年のズレになっていること
が多いことを知らねばならない。

三国史記        日本書紀
255 肖古王没   375 近肖古王没→紀の神功55年(通説255年)
264 貴須王没   384 近仇首王没→紀の神功64年(通説264年)
265 枕流王没   385 枕流王没 → 紀の神功65年(通説265年)
272 辰斯王没   392 辰斯王没
285 阿花王没   405 阿華王没

以上ことごとく120年の段差がある。空年で、どう読んだら120年差
なのか?
宿主空年ではどのように解消したか。聞かせてくれ

844唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 16:23:25.40
>>843 三国史記と日本書紀 の数字が逆だ。かってに訂正しておく。

で、三国史百済本紀阿花王没(405年)とは、120年の差がある。
太国は、応神紀を”倍年”であると主張している。
であるならば、太国倍年で百済王家を確認することは出来ない。
つまり、書記の記事を確認できない。

太国倍年は、書記の記事を無視して成り立っている。
だから、太国倍年は使い物にならない。
845太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 18:48:14.39
>宿主空年は、書紀の記事を無視して成り立っている。
 だから、宿主空年は使い物にならない。

無視をしてるのはオマエだよ。その典型的なのが、五重在位という
精神病院ご到着候補の論説(←嘲笑もの)であり、これなど完全に書紀
を無視しっぱなしである。ウソと詭弁と空年解説できないのが、オマエの
書きこみなのさ。ww

まず神武の代がどこからどこの年までが空年なのか? 次に綏靖はどこから
どこまでが空年なのか、そして3代目の懿徳もどこからどこまでなのか?

こういう具体的年代箇所をオマエと論戦してから、オマエはただの一度も
説明したことはない。ハハハッ、これがオマエのイカサマ編年論の
正体なのだ。各人に空年を認めてもらいたければ、出してみなさい。

そしてどのようにその空年が確かめられたのか? これを言わない限りは
オマエの空年なんか誰も信じやしない。せいぜいカルト秀魔教にだまされ
て脳内を蹂躙されたやつだけだな。ww
846太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 19:10:09.25
何処に120年差が存在するんだ?
        ↑
上と下とはオマエが即興のウソを交えて書きこんでいることを意味する。
        ↓
三国史百済本紀阿花王没(405年)とは、120年の差がある。


オマエは120年差がどこにあると聞いてて、なぜここで120年差を言うんだ?

こんな虚実の応酬をするオマエは、少しは空年が駄目だとの想いをオマエ
の脳内によぎらせていることを認知する。ww

しかし編年を絶対変えたくないわけで、とくに景行を秀魔伝の権威付けと、
カリスマ化するにはインチキとわかっても変える気はさらさらないのが
オマエの精神状態なのさ。おまけにオマエ自身が松本某の上にあぐらを
かきたい強大な欲求がオマエの脳内に渦巻いているからさ。ww
それは史実とは全然関係のない〜史実論ではゴミだ。

だから日食が数日間続くとか中南米に現実に存在して古代マヤの最高
権威のお墨付きある2倍暦法のマヤの太陰暦(1年が180日:C文字)
を地球上に存在しないとかの大嘘否定を書きこんでるわけさ。ppp
マヤの学者のこの定説は崩れないんだぜ。

いまのうちに倍暦法に鞍替えないと、もう引っこみがつかなくなるね。ww
847太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 19:50:30.54
ホツマとはそんじょそこいらのタダのオッサンが
妄想を注入して書いた文であり、危険思想の書で
あるからして、おのおの方は重々警戒せねばならない。

おのおの方はただの一度も具体的説明も出来
ない神武即位年が41年という〜宿主という男が前に強行して
いた〜 畿内=東夷 に西暦5年に王がいたという
2ちゃんの超S級のインチキ説に騙されては
ならない。つまり41年説の証拠だとの抽象的数列をうんと
出して、さ〜も出したような振る舞いをして
その実、修飾文ばかりで、実際の核心の中身の具体的説明の
証拠はただの1回もしない無証拠野郎だということなのだ。ww

なお日食が数日間も続くというインチキは、どうやら
遠い電波星からの日食がこちら(電波星)では
数日間も継続出来るという大デンパをピピピ・・・と
受信しているらしく、これではそういう日食が
数日間も継続すると頑張るのもデンパの重要性を
考えれば、完全否定しては可愛そうだということ
だ。ww 遠い遠いデンパ星では日食が数日間も
続く所もあると頑張り通すんだろう。ブハハハ・・・
そこの天体は、おそらくは「猿の惑星 ウソ西紀」さながらのことから
「猿の惑星」らしく、ここから主客転倒の臣下が天皇になれないのに
なったとする強力なデンパをこの星から受信してるのであろう・・・。ww

臣下は、彼らを選んだ・・・ppp
848あらため:2011/10/30(日) 20:07:18.48
>>829-830
>このスレが一番賑わったのは多分お前とか河童が漢字一文字ごとに
>その意味をあーでもないこーでもないと言っていた頃だろう?w

つーかドツボの河童への嫉妬が面白かった

やはり倭人伝解析が人気あるようだ
河童さんとは、同じ高卒同士で相性が良かったんだが
彼、もう少し知識を増やしてくれると有りがたかったんだがねえ・・・

んで、倭人伝解析は、少し秋田かもしれん(笑)
849日本@名無史さん:2011/10/30(日) 20:10:27.71
>河童さんとは、同じ高卒同士で相性が良かったんだが

うくっ、くくっ、くっ
850あらため:2011/10/30(日) 20:33:28.64
K−さん〜レス来ないな・・・

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on

ひまなので、誰か相手宜しく
851唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 20:43:03.81
>>843
の数字をどのように処理したか?が読めない。

861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
863癸未  353癸丑  應神立太子    (倍歴では皇紀861年と同年)
917丁丑  371辛未  仁徳誕生
929己丑  375乙亥  神功崩御
930庚寅  376丙子  應神即位 庚寅←繼體即位丁亥を倍歴辛丑取替1倍逆算
970庚午  389己丑  應神崩御

120年差が正しいと主張するのであれば、太国倍年は存在できない。
120年差が誤りであるなら、書記の記載年に誤りがある。
書記に誤りがあると主張するならば、誤りのある数字から得られた太国倍年も誤りである。

年代の誤りは存在するが、”倍年”を主張すると”百済王家”の世継ぎが説明できない。
神功・応神を”1倍”としても、百済本紀と完全一致は無いが、この程度は認めることができるが
太国の主張する数字に百済王家をおしこめることは出来ない。
だから、この齟齬を説明しなければならないのに、”120年差”を主張する。
だから、120年差を主張した時点で、太国倍年は成立していない説にしかならない。
かわいそうに
852壹與:2011/10/30(日) 20:52:36.21
もうこのスレにも終止符を打ったらど〜お?唐国の痴話喧嘩ばかり聞かされてもね〜。
853あらため:2011/10/30(日) 21:03:50.56
>年輪年代法では樹木が1年毎に年輪を形成することを利用し、
>現代から過去に遡り同一種類の木材の年輪を時系列で繋ぎ合わせて「標準パターン」を作成する。
>調べる樹木をこの「標準パターン」と照合して伐採年代を求めるというものである。
>しかしこの「標準パターン」の作成者奈良文化財研究所光谷拓実氏以外に科学的妥当性を検証していない。
>基礎データが公開されていないのだ。

>◇年輪年代法による年代を事例検証してみると640年頃を境に100年の誤差を生じている。
>講師はいくつも事例を挙げて説明したが、ここではその一例を示すことに留めたい。
>まず法隆寺五重塔心柱は年輪年代法では594年と測定されているが法隆寺は670年に全焼(日本書紀)、
>7世紀末〜8世紀初に再建されたとされる。
>100年の誤差が生じている。
>法起寺三重塔心柱(測定年代572+αに対し706年建立:聖徳太子伝私記)や元興寺禅室部材(測定年代582年に対し建立は710〜718年:縁起)も同様である。
>◇もう一つ、池上曽根遺跡の柱で年輪年代測定ではBC52と鑑定されているが、
>出土した土器の年代からはとてもそこまでは遡れない。やはり100年の誤差がある。
>◇古墳時代の例では、石塚古墳は190〜200年伐採、勝山古墳は200〜210年伐採と鑑定されているが、
>周濠から出土した布留0式の土器年代(最近の通説では280〜300年)と合わない。100年前の古材使用ということで片付けられるものでもなかろう。
>◇他の事例も含めて検証すると、640年を境として、それ以前のモノサシが100年古く狂っている。
>「標準パターン」の接続に誤りがあったのかも知れない。
>◇講師は、年輪年代法は手法としては科学的なのであるが、基礎データが公開されずいわばブラックボックスから出された結論には従えない、と主張する。
>やはりこれだけ矛盾が提起されているのであるから、弥生時代・古墳時代の年代引き上げ論はいったん白紙に戻すのは当然ではなかろうか。
http://wakokujyoou.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-1e76.html

彼、人気だね〜それにしても100年遡上論って皆さん的にはどうなの???
854あらため:2011/10/30(日) 21:08:26.04
>法隆寺五重塔心柱は年輪年代法では594年と測定されているが法隆寺は670年に全焼(日本書紀)、

>法起寺三重塔心柱(測定年代572+αに対し706年建立:聖徳太子伝私記)や元興寺禅室部材(測定年代582年に対し建立は710〜718年:縁起)

>池上曽根遺跡の柱で年輪年代測定ではBC52と鑑定されているが、
>出土した土器の年代からはとてもそこまでは遡れない。
>やはり100年の誤差がある。

やはり、いい所ついてるみたいだね。
で、光谷氏の測定が正しいと裏付けるモノはなんなんでしょうかねえ?
ローガンさんあたり、答えて下さいよ。
855唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 21:17:22.10
崇神(188〜216年)
崇神5,6年 災害 凶病(えやみ、疫病は間違い)餓死 逃散
後漢 193年 6月寒風冬の如し。高句麗 冷夏凶作
新羅 192年 4月大雪、 193年倭人大餓
考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡など各地の居住遺跡の放棄
崇神11年 異俗多帰
考古学:2世紀末、纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。
崇神世 任那建国
新羅 209年 伽耶に援軍
三國遺事卷二 降及仇衝朝末(541年),三百三十載之中←541年で建国330年

垂仁(217〜239年)
任那より鉄の流入、埴輪の導入
239年 田道間守の派遣
倭人伝都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
考古学3世紀初期の大型建物=珠城山、その跡に土盛りと整地をし中期の建物=日代宮。
考古学ホケノ山 穴あき壺=埴輪、鉄の副葬。半島式墳墓 西瀬戸内の壺。
856唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 21:18:27.16
景行(240〜261年)
晋書 正始元年 東倭重譚納具。景初3年、正始元年銘。
景行12年より 九州へ派兵
倭人伝 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
246年頃 黄旛下賜の決定。
景行20年 五百野姫=壹與即位 ホツマ 五百野姫を軍隊付きで派遣。
255年 景行27年 日本武尊を九州へ派遣16才。
256年 景行40年 日本武尊を関東へ派遣 倭国統一(大倭成立)。
倭人伝 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

大倭(大和)は北の女王国(九州北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
考古学 箸墓 3世紀半ばから後半にかけて築造 特殊器台(埴輪)、布留0式
857唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 21:21:37.69
>>853 >>100年の誤差が生じている。

100年誤差が生じていると主張するならば、100年誤差がある文献の読み方が
無ければ、ただの嫌味・うらみ・つらみ、でしかない。
858あらため:2011/10/30(日) 21:25:26.27
あ〜でも、法隆寺、法起寺、元興寺っていうのは、聖徳太子や蘇我馬子の活躍した
六世紀後半と一致しているわけだ。
池上曽根遺跡はBC52〜50年頃までの間に何度も建て替えられてたんじゃなかったけ。

彼の100年遡上論をすぐに信用するのも良くないかも・・・
859あらため:2011/10/30(日) 21:35:10.44
「徇葬」ていう、戦国時代頃までその習慣があったのかもしれない。
たとえば、賤ヶ岳での柴田 勝家の話にもそういう話がでてくるし、
考古学的なうらずけるものが無いというだけなのかもしれない。

「徇葬例」に関して各自の意見を聞こう。
860あらため:2011/10/30(日) 21:41:32.44
>>857
そうですかw

>>856
>大倭(大和)は北の女王国(九州北部)

唐さんの「九州=女王国、畿内=大倭国」論、分かり易く説明してくれませんか。
たぶんみなさんが聞きたがってるようで。
861あらため:2011/10/30(日) 21:49:20.28
ロムら―の為に、「私」と「唐さん」で邪馬台国位置論でも始めましょうか。

まず、
>郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
>始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。
>又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。
>又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。
>東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。
>東南のかた奴國に至ること百里。
>東行して不彌國に至ること百里。
>南のかた投馬國に至る。水行二十日。
>南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

ですが、これをどのように読んで、「九州=女王国、畿内=大倭国」と決定したんでしょうね。
ささ、どうぞ。
862唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 21:49:35.41
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂。←倭奴国の乱を畿内大和に設定できない。
だから、九州女王国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。
考古学はさらに、3世紀半ばに畿内庄内式土器が北部九州に持込まれる、とする。
次の時代、布留式期には、半島の土器やカマドと共存する。~功渡海はこの時代である。

邪馬臺國に女王卑弥呼を存在させようと、100年議論してきたが、だれも正解であるとの認識は得られなかった。
であるならば、読み方も幅を広げる必要がある。
863あらため:2011/10/30(日) 22:00:15.59
>>862
>謂之倭奴國… 其國亂。←倭奴国の乱を畿内大和に設定できない。
>だから、九州女王国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。

「其國亂れ」とは日本列島全体を指すもので、日本各地で「乱」があったせいでしょう。
この「其國亂」ていうのは、王位継承問題もあったでしょうが、
基本的には中国大陸の二世紀後半に、霊帝が崩御後に青軍だったか、白軍だったか
忘れてしまいましたが、各地で戦闘が行われた。
この影響により、周辺諸国に異住民が雪崩れ、影響したと考えます。
その中で、倭国の王位継承問題もあったかもしれない。
そして、私は畿内説ですが、中国大陸の影響を受けて、半島を経緯し、日本列島各地で
「乱」が起こる。
すなわち九州から影響を受け、畿内にまで広がったのかもしれない。
ですから、「倭奴国」がどうのとかの問題ではないと思うが如何だろうか。
864唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 22:06:54.36
>>861
距離、方角で邪馬臺國を決定しても、読み方でかなり幅が出る。
だから棚上げして、書記の時代、編年から始めた。
得られた数字は、現在の考古学の主張する年代と整合性がある。
考古学をどうとらえるか?書記の主張はどの程度正しいか?
文献と考古学は表裏一体であれば、正しい主張とできる。

これまでの年代観は、100年以上前に設定された”七支刀=369年”で百済本紀に整合させ
反対に新羅本紀は無視されてきた。
半島で最後までつながるのは新羅である。つまり、最も正しいはずの新羅本紀を無視してきた。
だから、歴史認識に整合性が得られなかった。
後漢193年=新羅192年で1年の齟齬しかない、その文献を無視してきたツケが
整合性が得られない各主張となっている。

~功49年の半島占拠と領土分与は正しい歴史であるが、369年あたりの出来事では
否定される。半島情勢を分析すれば当然の結果であるが、七支刀の位置を書き換えない限り正しいとならない。
865あらため:2011/10/30(日) 22:14:48.19
>大倭(大和)は北の女王国(九州北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
>諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
>刺史の様だ。

畿内説の私ですが、女王国っていうのは、ぶっちゃけて久留米周辺〜熊本あたりを指してるんですよね。
で、それより「以北」に「一大率」を設けて、「大いなる倭」は「諸国を検察する」。

これは、

畿内のヤマトは、九州に大宰府を設けて、諸国を検察する

が正解だろう。
866太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 22:20:48.75
大中臣の偽編年撲滅の下命〜その重要年代計測器 天津金木
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これを天津神算木(天津金木)と
いう。毒書ホツマに汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う〜過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

☆主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
★死値 A.D.130年 景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335−97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
867あらため:2011/10/30(日) 22:23:23.76
>>864
>距離、方角で邪馬臺國を決定しても、読み方でかなり幅が出る。
>だから棚上げして、書記の時代、編年から始めた。
>得られた数字は、現在の考古学の主張する年代と整合性がある。
>考古学をどうとらえるか?書記の主張はどの程度正しいか?
>文献と考古学は表裏一体であれば、正しい主張とできる。

いえ、中国史に記録された倭について、実態はどうだったのか?という事が重要。
私が上に書いたように、


【記録】
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。

【実態】
畿内のヤマトは、九州に大宰府を設けて、諸国を検察する

という事。

>最も正しいはずの新羅本紀を無視してきた。

ほう、新羅本紀ではどうなってるんでしょうね?

>~功49年の半島占拠と領土分与は正しい歴史であるが、369年あたりの出来事では
>否定される。半島情勢を分析すれば当然の結果であるが、七支刀の位置を書き換えない限り正しいとならない。

どのように書き換えるんでしょうか?
868日本@名無史さん:2011/10/30(日) 22:27:34.18
魏志倭人伝のどこに畿内が出てくるんだ?
いい加減にガセネタやめろ。
869太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 22:27:50.19
大中臣の下命〜ニセ編年を撲滅するため、未来人の為に残した天津金木

古代人からの贈り物たる真の年代を測る天下の宝器〜〜これを
天津神算木(天津金木)という。天津神算木とは三輪山の山名たる三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

右辺(天津菅曾)に

1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

この崇神即位年は見かけの年代であり、真の年代ではない。
大祓祝詞に曰く 「天津菅曾を本打ち断ち末刈り切りて」

 右辺=113.097335=113.0973350 --------------------@

@の右辺の先頭三数と末尾三数は 113 350 だが (350:ジョーカー数)
双方の数から

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
870唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/30(日) 22:29:37.16
女王国(倭奴國)の南に対立する勢力狗奴国が存在しなければならない。
熊本方面の出土品は、対立勢力とできる。

女王国を熊本にしても、倭奴國王位の継承とできるか?
その場合の、対立勢力は?
871あらため:2011/10/30(日) 22:31:17.67
唐さん〜たとえば風俗記事のこれについてどう考えます?

>真珠・青玉を出す。

これは「真珠」は正解なのだが、「青玉」というのは「サファイア」の事で、
日本列島にサファイアの出土なんてほとんどありません。
「青玉」というのは緑色の「玉」で「翡翠」が正解だろう。
記録されてることが全て正しいとはかぎらず、その日本列島から出土する
「実際例」を照らし合わせる事が大切。
872あらため:2011/10/30(日) 22:45:23.04
>女王国(倭奴國)の南に対立する勢力狗奴国が存在しなければならない。
>熊本方面の出土品は、対立勢力とできる。

記録では、女王国(久留米周辺〜熊本あたり)の南といえば、
熊本南部なのか、日向・大隅なのか。 となるが、
狗奴国の位置論に関してはノーコメントにしたい。

>女王国を熊本にしても、倭奴國王位の継承とできるか?
>その場合の、対立勢力は?

倭奴國というのは、北部九州でしょうね。
ソノ時代の後に邪馬臺(ヤマト)を盟主とする。

中国の記録では、紀元後52年頃には、倭国の盟主は「北部九州」にあったとある。
その後、三世紀になったからは、畿内のヤマトを盟主としてるんであって、
「倭奴國王位の継承」というのは誤読でしょうか。
ソノ時代のヤマトの対立勢力としましては、九州の熊襲、土蜘蛛もすですし、
東国にも蝦夷がいたことでしょう。
873太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 22:50:15.84
皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神天皇即位元年 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238 景初2年
568 -93
569 -92     ☆紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳 倭笠縫に鏡を祭祀
570 -91 239 ☆景初3年鏡銘文年 ↑ 鏡改鋳とほぼ4ヶ月に近接(整合)
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年(皇紀の干支)
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社伝承 戊寅七年(戊寅年から7年目)
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年
628 -33
629 -32
630 -31 259
631 -30     崇神天皇 没年
874あらため:2011/10/30(日) 22:57:38.94
たとえば、昔に福岡県福岡市東区の志賀島で「漢委奴国王印」が発見されましたが、
中国史の記録にも、『親魏倭王印を授ける』っていうのがありまして、

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。

この「倭」ていうのは、記録と考古の両方から見て、外国ではなく日本列島で間違いない。
ただ、「記録」と「実態」については、現在みたいに人工衛星を使って正確な位置を
把握できる時代じゃなかった。
たとえば携帯電話やインターネットが普及してますが、ソノ時代は、
各区域間での情報のやりとりが困難だったため、多少、間違いが生じる。

徳川家康の会津討伐の際にも、その大阪城の御奉行との連絡に時間差が生じたりしてますよね。
邪馬台国の時代と言えばそれよりも時代は先なので、さらに正確な「情報」が行き来しない時代で、
どういうことを考えると、上記したような、

【記録】
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。

【実態】
畿内のヤマトは、九州に大宰府を設けて、諸国を検察する

のように、多少の間違いは仕方がなかったのではなかろうかと思う。
875太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 22:58:12.07
>倭人伝都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁

上の文の右端は猿(臣下)が人間(天皇)で人間が猿だと主張していること
となる。猿は人間にはなれぬと同様、臣下は道鏡の如く天皇には絶対なれ
ない。

つまり宿主の主張はまるで

 臣下は、彼らを選んだ〜〜「猿の惑星 ウソ西紀」

さながらの大デタラメである。ppppp


876日本@名無史さん:2011/10/30(日) 22:59:06.16
>>874

奈良県で、どうやって潜水漁をしてたわけ?
877あらため:2011/10/30(日) 23:01:11.88
>>868
>魏志倭人伝のどこに畿内が出てくるんだ?

邪馬臺國と記して、ヤマトノクニと読むんです。
倭といえば日本列島で間違いないのは上記しましたが、
日本列島の盟主となるヤマトと言えば、ソノ時代にはすでに奈良に首都が置かれていた
ということが分かるはず。
私の説明は分かりやすいと思うんだが、如何だろう。
878日本@名無史さん:2011/10/30(日) 23:10:19.19
>>877

なに知ったかぶってんだよ。

ヤマタイ国が大和国なのは常識でしょ。
879あらため:2011/10/30(日) 23:11:15.78
>>876
>奈良県で、どうやって潜水漁をしてたわけ?

意味不明。
記録にあるのは、

又渡一海千余里 至末廬國 有四千戸M山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之

これを訳すと・・・

又、"一海"すること千里余りで末廬国(松浦半島)に至る。
四千戸有り。
山、海のある浜辺に居住する
草・木が生い茂げ、行く先見えず、みな魚・鰒を素潜りして採る

これらの記事は、九州の松浦半島周辺での事なので、
ですから、奈良県で?って意味不明と思う。
880あらため:2011/10/30(日) 23:17:31.90
>>878
分かり易く説明してる


それよりも"八幡神考"に関して各自の意見を聞こう。

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
881太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/30(日) 23:22:30.76
882あらため:2011/10/30(日) 23:26:05.06
八幡神ていうのは、源頼朝はもちろん、
戦国時代の各武将にも崇拝されており、応神天皇ていうのは、日本で一番人気がある天皇の一人。
この八幡神っていうのは石清水や宇佐で「八幡神」として祀られており、
八幡神発生について、向こうの掲示板で議論してるんだが、
その起源をたどると豊国でもある豊前宇佐から生じてるらしく、
571年に始めてその姿を現し、鷹居社で神仏習合をもって応神八幡神は誕生した。
その後に、小山田社を経て、現在の宇佐神宮内にある亀山で祀られてる。

この八幡神の誕生について興味ある人は、掲示板への参加をお薦めする。
883あらため:2011/10/30(日) 23:39:07.99
ネタを出せ〜 ネタを〜〜〜!

前方後円墳についてだが、
・200メートルを超える前方後円墳
・100メートルを超える前方後円墳
・50メートルを超える前方後円墳
・円墳、方墳   の4段階に分けられており、
この「大きさ」によって、「格」が分かるというか、
大陸や半島との外交には、200メートル以上の前方後円墳に葬られた「列島の主」があたり、
国内の周辺諸国との外交には100メートル以上の前方後円墳に葬られた「豪族」があたってたんじゃなかろうか。

前方後円墳の前の時代でいえば、副葬品をみると
九州のスグ岡本やミグモが立派なので、上記の「主」にあたるのはこれらに葬られた被葬者が該当すると思う。
884日本@名無史さん:2011/10/30(日) 23:47:54.19
>>883

畿内は倭人じゃないってことでいいわけだな。
じゃあ、九州説が正しいことになるな。
885あらため:2011/10/30(日) 23:49:04.87
大体、前方後円墳っていうのは、「最古期」「古期」「最盛期」「後期」の4段階に分かれており
考古学に詳しい人なんかは、T期、U期、V期、W期 とか呼んでるよね。

初めて、この前方後円墳って名がついたのは、
1805年の蒲生 君平著「山陵志」からなんですが、
その中に「垂仁の時に山陵の制が始まり敏達まで....制はほぼ同じで前方後円墳の形をとる」
というのがありまして、ここから「前方後円墳」て名称がついたらしいです。
詳しくは、「山陵志」本でも買え!w
886日本@名無史さん:2011/10/30(日) 23:49:59.57
>>877
邪馬臺國は、「山大倭」国だ。山大倭国があったのは九州だよ。
887あらため:2011/10/30(日) 23:55:35.69
>>884

【魏志倭人伝】
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。

....

邪馬臺國....女王の都する所なり

てあるだろ?
で、どうして、

>畿内は倭人じゃないってことでいいわけだな。

てなるんだい〜?オモシロー 河童さんみたいなこと言ってるね(笑)
ウケ狙ってるのか〜?www
888あらため:2011/10/30(日) 23:58:27.91
>>886

おめーさん何も知らないんだな。
「邪馬臺國」ていうのは、名称っていうのは分かるよね?
で、中国は〜一字一語だから〜ヤマドが正解だ。
君みたいに、「山大倭」なんか行ってたら無知丸出しだし、笑われちゃうぞ?ww
889あらため:2011/10/30(日) 23:59:21.05
さて、飽きたので、もう寝るか・・・・
では、おやすみ〜 後は各自で議論してくれ zzzz
890日本@名無史さん:2011/10/31(月) 00:23:18.97
>>877
> 邪馬臺國と記して、ヤマトノクニと読むんです。
>>878
> ヤマタイ国が大和国なのは常識でしょ。

「邪馬臺」は絶対に「ヤマト」とは読めない。
「ヤマタイ」という読みにしても十七世紀後半の中国音
(今の北京音 yémătái の先行形)、古音でも日本音でもない。
日本漢字音では呉音ヤメダイ、漢音ヤバタイ。
中国古音、日本漢字音の研究者で「臺」を「ト」と
読む人は一人もいない。

「ヤマトノクニと読むんです」「大和国なのは常識でしょ」
馬鹿馬鹿しい。無知がいい加減なことを言うもんじゃない。
891日本@名無史さん:2011/10/31(月) 02:33:09.19
倭人の朝廷(大和朝廷) 

大和朝廷に委ねられ国造りを始める倭人達
 
例 邪馬臺国  
892日本@名無史さん:2011/10/31(月) 03:11:24.77
「邪馬臺國」が「ヤマトノクニ」と読めるなら
「あらため」は「チテキショウガイシャ」としか読めないな。
893日本@名無史さん:2011/10/31(月) 10:32:11.89
中国歴を西暦に換算するのがズレてる
不思議な事だが、これは殆ど検証された事が無い
894:2011/10/31(月) 14:13:47.50
>>890
「邪馬臺」は上古音で「dag」中古音「dai」て書いてあるべ。
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/7Days/yamato.html

で、ここのホームページの人は、

>「臺」は乙類の「ト」または「ド」を表記したものであり、
>したがって「邪馬臺」は「ヤマト(乙)」または「ヤマド(乙)」である

と言ってる通り、どの研究者も最終的には、ヤマト、ヤマドに行きつくんであって、
ここから実際の日本列島みわたすと「ヤマト」王権が創造出来る事だろう。


で、>>888で私が、

>「邪馬臺國」ていうのは、名称っていうのは分かるよね?
>で、中国は〜一字一語だから〜ヤマドが正解だ。

と簡単に言ってるようにみえるが、
いろいろ研究した結果から来てるモノで、適当に言ってるわけではない。

>>877

>邪馬臺國と記して、ヤマトノクニと読むんです。

ていうのは、君は知らないだろうが・・・
日本列島に住む人たちは、奈良の中央政権を
「ヤマト」又は「ヤマトノクニ」と呼んだことから
当時の人々に「邪馬臺國」字をみせるとヤマト、ヤマトノクニと発言してた事が想像できる。
895:2011/10/31(月) 14:46:40.64
「卑彌呼」の名だが、

日巫女(ひみこ)説、日御子(ひみこ)説、姫子(ひめこ)説、姫御子(ひめみこ)説、日女子(ひめこ)説
があり、私は、日巫女(ひみこ)をもって、「卑彌呼」と漢字表記されたんじゃなかろうかと考えてる。

大体、ヒミコ、ヒメコの2パターンの説が多いようだが、ヒメコていうのは、
男性・女性を称えた言い方でヒコ、ヒメ制からきてるのでしょうか。
しかし、倭人伝の文章中に「ヒメ」に対する、「ヒコ」がみれないことや、
もしヒメならば「卑彌」でも良い気がするのは私だけだろか。

話は戻るが、「卑彌呼」というのは、「卑」「彌」「呼」という字を見ても分かる通り、
中国側から蔑んだ「字」を当てられてる。
この事柄から想像するのに、ヒコ・ヒメ制からくるものではなく、
太陽を象徴する「日」から、シャーマンを連想する「巫女」であり、
当初日本側の主張では「日巫女」様だったのではなかろうか。
だから、蔑んだ「字」にされた。
ヒコ・ヒメ制のヒメ+コでは、蔑んだ「字」にされなかったこともあり得ないだろうか。
896日本@名無史さん:2011/10/31(月) 14:49:47.48
邪馬臺をどのように読むかなんて、さして重要じゃない。
ただ日本人にとって漢字のままだと何かと不自由するだけの話し。
897:2011/10/31(月) 14:59:11.98
1つ疑問に思うのは・・・・

卑弥呼は、鬼道に事え、能く衆を惑わす。
年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。

とあるところで、注目して欲しいのは、「辞を伝え」。
これは、記紀の神功皇后にもあったが、巫女シャーマンが神の言葉を聞き、
近臣(男)に「辞」を伝える、当時の宗教を物語っており、この近臣(男)というのは、
現在でいう首相みたいな地位の人だろう。

そして、私が疑問に思うのは、この巫女シャーマンが神託した「神」はナニモノだったのだろうか?
なぜこれが、議論されないのか不思議に思う。

私は、最近、八幡神の調査をしてまして、八幡神といえば託宣の神ですよね。
古くは、辛島氏の巫女シャーマンがあたり、大神氏の巫女シャーマンも八幡神の言葉を聞いたりしてる。

卑弥呼も巫女のシャーマンで、神から「辞」を聞き「男」に伝える。
898日本@名無史さん:2011/10/31(月) 15:02:42.24
>>895

>私は、日巫女(ひみこ)をもって、「卑彌呼」と漢字表記されたんじゃなかろうかと考えてる。


そうすると日本での読み方を、漢字音を利用したということですか?
899:2011/10/31(月) 15:04:47.80
で、神託の「神」だが、
日本列島の首都「ヤマト」を代表する巫女シャーマンはモモソ姫だったり、
ヤマトヒメだったりするんですが、彼女等に纏わる神は、オオモノヌシ・アマテラスだろう。

卑弥呼、巫女シャーマンの辞をキイタ神の正体はナニモノだったん?
900:2011/10/31(月) 15:06:55.38
>>896
まあ、「邪馬臺」は「ヤマト」で問題ないとして・・・

>>898
名詞だから当然そうなるねえ。
901日本@名無史さん:2011/10/31(月) 15:11:32.46
>>898
なぜ名詞とわかるんですか?
902:2011/10/31(月) 15:13:10.77
>>898
ナルメだったかナンシュウマイだったか知らんが〜
献上使が、皇帝様(又は臣)に会わされ、ジェスチャーで天に向かって指をさし、
太陽の偉大なるシャーマン(巫女)って一生懸命に説明しただろうことが想像できるw

一生懸命に田舎丸出しの「発言」をしたのかもしれない
また、一生懸命に下手くそな「字」を書き、「太陽の巫女」を象徴する〜なんて言ったのかもしれないw

どうも倭人伝本文を読んでいると・・・ヒメコではなく、日の巫女というイメージがするのは私だけだろうかな?
903日本@名無史さん:2011/10/31(月) 15:21:25.67
>>902

日の巫女だったら「之」を用いて説明するのでは?
日の巫女が卑彌呼で書かれるとは思いませんがね
904日本@名無史さん:2011/10/31(月) 15:44:28.86
>>900
>まあ、「邪馬臺」は「ヤマト」で問題ないとして・・
大ありだろ。古事記、日本書紀に「ヤマト」は無数に書かれてるが、
ただの一か所も「臺」を使っていない事実。これを無視しちゃいかん。

へんな能書きはいいから、
日本の古代文献で「ヤマト」を「臺」を使って表記した例をあげてみろ、って話だな。
905:2011/10/31(月) 15:55:17.41
>大ありだろ。古事記、日本書紀に「ヤマト」は無数に書かれてるが、
>ただの一か所も「臺」を使っていない事実。これを無視しちゃいかん。
>日本の古代文献で「ヤマト」を「臺」を使って表記した例をあげてみろ、って話だな。

いえ、いえ、この人は何を言ってるんだ(笑)
私はいつ・どこで?どの文献をもって日本文献で「臺」を使ってヤマト表記した例があると言ったんだい?
私は言っとらんし、どこからそげないい加減な事がでてきたんだい?wwwww

今、「それでも邪馬台国は九州にあった9」スレ観てたんだが、
あそこの名古屋大文学部1年生クンのがもっとまともな事を言ってる気がする。
906日本@名無史さん:2011/10/31(月) 16:06:23.34
「dag」や「dai」を「ト」と発音してもOKだったら、
音韻の研究なぞ必要なくなるぞ。なんでもあり、だから。

「ヤマダ」「ヤマダイ」であって「ヤマト」ではない。
907日本@名無史さん:2011/10/31(月) 16:16:08.27
だいたい、「邪馬臺」の字形は安定していないんだぞ。
紹煕本では「邪馬壹」となってるんだし。

「邪馬臺」=「ヤマト」を前提に論ずるのは、大間違い。
908:2011/10/31(月) 16:34:37.98
>>886 名古屋大文学部1年生 クン
>魏の使者は卑弥呼に直接親魏倭王の金印を渡しているのでしょうか?

の問いに対しての答えは「ノー」だ。

倭人伝本文中に、
今以汝親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授 汝其綏撫種人勉孝順

とあるとおり、
今、汝を「親魏倭王」とする。
金印紫綬を装封し、帯方の太守に渡すから、それを同胞人種にみせなさい。

と言ってるんであって、太守から手渡しされたハズ。

>難升米らに渡してそれで済ませてしまったら、
>難升米らが仮に裏切ったら卑弥呼の元に金印が渡りませんよね。

上記記事に「装封」てあると思うんだが、考古学専攻ならば「封泥」は知ってるだろうが、
この「装封」というのは「封泥」の意味なので仮に裏切ったらバレてしまうわな。

>なので直接会った可能性のほうが高いと思うのですがいかがお考えでしょうか?

君以外、この掲示板で書き込んでる諸君も知らない人が多いと思うんですが・・・
魏志倭人伝というのは、我々にとってあまり良い記事ではない。
倭人伝には、我々の先祖達の行動が記載されてるんだが、さげすんでみられているというか。
あくまでも皇帝と関わるのは朝鮮半島で、朝鮮半島の主を経緯し、倭王は関われるという感じである。

皇帝→帶方の太守→倭王 であって、
又、倭王→帶方の太守→皇帝 となる。

だから君の「直接会った可能性のほうが高い」という質問自体、心配ないというか、
私が上記した事が書かれてるんであって、心配無用ということだw 勉強になっただろうか?ww
909:2011/10/31(月) 16:53:33.30
彼は、日本史学専攻か・・・・

封泥ていうのはこんなのだよん。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%B0%81%E6%B3%A5

あとは各自で調べろって言いたいw

>>906
>「dag」や「dai」を「ト」と発音してもOKだったら、
>音韻の研究なぞ必要なくなるぞ。なんでもあり、だから。
>「ヤマダ」「ヤマダイ」であって「ヤマト」ではない。

ヤマダってどこの地名の事を言ってるのか知らんが〜考古学をみてごらん。
そのヤマダっていう地名と考古学で出土されたものとを比較し、三世紀の都と言える所があるのか問題だ。

>>907
>だいたい、「邪馬臺」の字形は安定していないんだぞ。
>紹煕本では「邪馬壹」となってるんだし。
>「邪馬臺」=「ヤマト」を前提に論ずるのは、大間違い。

「壹」「臺」については、私は何度も述べたので誰か代わりに答えてくれw
910日本@名無史さん:2011/10/31(月) 17:10:34.17
>>909
考古学との比較といっても、何等決め手となる物証なんて、何一つ出てないが
911日本@名無史さん:2011/10/31(月) 17:11:06.12
「ヤマト」と読む主張はどうしたの?
912日本@名無史さん:2011/10/31(月) 17:15:06.24
相変わらずの芸風だな
913唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/31(月) 18:17:21.92
>>908
金印紫綬を装封し、帯方の太守に渡すから、… 太守から手渡しされたハズ。

帶方太守假授 
倭王位は、帶方太守から、假授(仮の授与)であり、正式には
正始元年 東倭重譚納貢。このように洛陽にて授与されている。

914日本@名無史さん:2011/10/31(月) 19:19:56.41
魏の官となった難升米は帯方郡で太守から渡された金印を持参し、日本へ
915日本@名無史さん:2011/10/31(月) 19:31:26.43
卑弥呼は琉球の「聞こえ大君」に似ている。
ただし、「聞こえ」とは神託という意味ではなく、「音にも聞こえた=至上の」って意味だけど。
916唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/31(月) 22:37:57.06
>>867
>女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。
大倭は、女王国…。 大和が筑紫に一大率を置くのは、(置けるのは)
景行20年以後である。←250年代。

>ほう、新羅本紀ではどうなってるんでしょうね?
新羅192,3年は、崇神5,6年である。
新羅209年 加羅に援軍。金官伽耶が新羅に降った541年時点で建国330年。
ここが、崇神世(ホツマ崇神58年)の任那建国。
魏が半島を管理する240年以降に、任那建国の隙間は無い。
新羅312年 倭太子に嫁入り。
274年 ~功の渡海以後、大倭の一大率は、筑紫での行動を半島にて行う。
そのために、晋の要請による渡海である(戦闘は無い)。
323年 ~功49年半島の占拠と領土分与(半島が政治的空白となっている)
ここでも本格的戦闘は無い。
326年 ~功52年七支刀。

369年七支刀では、夢村土城に“空白の4世紀遺構”が存在する(百済本紀に誤りがある)
917唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/31(月) 22:41:15.50
>>894
>「邪馬臺」は上古音で「dag」中古音「dai」て書いてあるべ。

倭人伝の発音は、中国東北部(楽浪方面)の発音である。
918太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 22:42:45.89
大中臣の下命〜〜大祓祝詞

大中臣の偽編年撲滅の下命〜その重要年代計測器 天津金木
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これを天津神算木(天津金木)と
いう。毒書ホツマに汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う〜過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

☆主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
★死値 A.D.130年 景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335−97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
919唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/31(月) 22:46:40.73
公孫度(たく)、 ど(ト)はタと発音する。
都市牛利 タシウリ 
牛=ウ。 チジュ島の東にある小島“牛島”に“ウ”と振り仮名がふられている。

牛馬と書いて、ウマと発音する。
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/31(月) 22:58:43.29

マヤ(真矢)- D−−−−−−−−−−−−−→◎矢的(大和)
921日本@名無史さん:2011/10/31(月) 23:04:28.18
弓長
922日本@名無史さん:2011/10/31(月) 23:09:42.65
倭 大倭 大和 
923日本@名無史さん:2011/10/31(月) 23:31:30.89
924日本@名無史さん:2011/10/31(月) 23:54:04.23
志賀島の金印は偽物。捏造。
あんなのが出てくるわけない。
って本読んで以来、すべてが信じられなくなった
925日本@名無史さん:2011/11/01(火) 01:16:07.50
スレチでスマソ
ここの人は、色々よく知ってるから聞きたいんだけど、
(自分は違うと思ってるが)邪馬台国=琉球説もある。ここの海底遺跡って何?
926日本@名無史さん:2011/11/01(火) 01:46:19.05
>>925
邪馬台国ではなくても興味あるよね
927日本@名無史さん:2011/11/01(火) 02:38:22.04
>>925
>ここの海底遺跡って何?

自然現象。

陸上でもああやって岩が直線的なラインを見せるものはある(ただし海中と違って風化が激しい)

窪みのボールなんかもごつごつした岩が小さな窪みで動いているうちに擦れて
窪み自体が広がり岩も削れて丸くなった…とかで説明が付く。

928日本@名無史さん:2011/11/01(火) 05:00:51.73
よく分からんけど、
天津金木というのはホツマとライバルなん?

>天津金木を組み立てた水茎文字とホツマ文字というのは、共通するところがあって、
http://www.hachiman.com/inteview/intvhotuma.html
929日本@名無史さん:2011/11/01(火) 09:38:17.32
沖縄の海底遺跡と言われる物は、地殻変動による断層かもしれない。
石には目があり、目に沿って亀裂が入るとその断面は刃物で切ったように平に割れる。
沖縄などの西南諸島付近は、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込む
プレート境界域で、西南諸島西側では今でも熱水が噴き出し、地殻変動の活発な地域。
地殻変動が作り出した自然の造形美。
930日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:08:52.76
>>929
> 石には目があり、目に沿って亀裂が入るとその断面は刃物で切ったように平に割れる。

階段みたいに見えるのも、実際は何メートルか巨大な物だから、偶然の産物でしょうね。
岩が縦に割れやすい堆積層で出来ているらしい
931日本@名無史さん:2011/11/01(火) 10:28:47.84
>>930
ユーラシアプレートや北米プレートなどの大陸プレートは
主に玄武岩よりも比重の軽い花崗岩で構成されているから、より一層目に沿って割れやすくなります。
沖縄の遺跡と言われている所は、考古学ではなく地震学者が注目しそうな造形物ではと
932日本@名無史さん:2011/11/01(火) 12:01:25.00
これは、どう見ても人工的。切り出したような石だ。自然の地形とは思えない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Turtleyonaguni.jpg

http://www.yonaguni.jp/iseki-syasinsyu.htm
933モグラのモグちゃん。:2011/11/01(火) 12:33:27.03
>>932
自然は時として、人知を超える事をしでかす。
プレート間の衝突によって出来た造形だよ。
934日本@名無史さん:2011/11/01(火) 17:46:50.35
いや、これは人造物でしょ(自然説もあるのは知ってるが)
縄文時代に沈んだとか言われてる

ここは、史料を忠実に行くと(邪馬台国は)沖縄に辿り着くとか言われてたね
短里や方向の違いを加味しないで計算するとね。
935日本@名無史さん:2011/11/01(火) 19:22:53.09
階段に見える物も実際は数メートルの大きさだし
何一つ、人間の利用出来る物は無い

規則的に地層の入った岩が自然に割れただけ
936:2011/11/01(火) 19:58:26.08
>>913 唐さん
>倭王位は、帶方太守から、假授(仮の授与)であり、正式には
>正始元年 東倭重譚納貢。このように洛陽にて授与されている。

ほう、晋書 卷一 帝紀 ですか。
で、これのどこに上記の事がかいてあるんでしょうか。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shinnsho/frame/shinnsho_0101_gen.htm
937唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/01(火) 20:04:28.23
http://kamome.2ch.net/history/#9
特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0005224764

>>936
先を急がず↑をどう見るか?
 直訳
反面今回あらわれた百済提起には既存南京博物館旧蔵本両職人道(ド)で見える百済
の夭逝侵略説、いわゆる百済が夭逝地域を侵略して領有したという技術がない漸移特
徴に選ばれる。

遼東、楽浪亦あり遼西…
 永明(483年-493年)…
斉永明中其の王??皆受中国官爵…高句麗所破
百済本紀と王名が違う?
938:2011/11/01(火) 20:09:57.27
>>916 唐さん
>大倭は、女王国…。 大和が筑紫に一大率を置くのは、(置けるのは)
>景行20年以後である。←250年代。

いや、女王国ていうのは、勘違いされて書かれてる。
弥生時代末期に、奈良で天の受けを中心とするヤマト王権が誕生しました。
で、日本書紀にもあると思うんだが、初代神武天皇が九州から東征する。
ようは、天皇家の祖先は、九州から来た。
そして、魏志倭人伝というのは、いろんな情報からなってるのであり、
女王国というのは九州に存在したと思わてるが、記録されただけというか、
それが、そのまま、現在私たちが見る、魏志倭人伝の原文に残ってるんであって、
実際の「女王国」は奈良県でしょうね。

>新羅192,3年は、崇神5,6年である。(以下省略)

新羅本紀は正しいという、説明を分かりやすくお願いします。
939:2011/11/01(火) 20:19:28.02
>>917
>>「邪馬臺」は上古音で「dag」中古音「dai」て書いてあるべ。
>倭人伝の発音は、中国東北部(楽浪方面)の発音である。

ん、ちょっと分かりにくいな・・・
我々がみてる倭人伝に記載される「邪馬臺」は、
「上古音」又は「中古音」では良くないってことなんでしょうか。
じゃ、楽浪方面の「音」ってやつでは、「邪馬臺」←これ、どんな音になるんでしょうね?

940唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/01(火) 20:28:16.62
正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩

正始元年 太守弓遵は、建中校尉梯儁等を(邪馬臺國)に遣り、奉 詔書と印綬を
持って倭國を詣でる。 倭王は、詔(書)を 拜假して、金帛錦刀鏡采物を賜る。
倭王は因って、使を(使いを使わし、上表(詔書)に荅(こたえ)詔に感謝と恩義をあらわす。

景初3年 都市牛利=田道間守の派遣。
正始元年 梯儁等が邪馬臺國を訪れ、詔書をさしだす。それに応えて
東倭重譚納貢。その年のうちに洛陽にて、倭王位を授かる。
941:2011/11/01(火) 20:35:08.77
>>940
>その年のうちに洛陽にて、倭王位を授かる

あ〜それ解釈がおかしいってw

今以汝親魏倭王假金印紫綬.....

今、をもって、親魏倭王をする(仮)

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩

ここで「済」のはず。
942唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/01(火) 20:35:56.56
>>939
東倭重譚納貢。重譚=訳を重ねる。
238年 魏は、密かに使いを韓南方に使わす。
当然、現地語の通訳がいるわけで、その通訳が漢字表記をすれば、
楽浪方面の発音になるでしょう。

943:2011/11/01(火) 20:43:36.87
>>937
>先を急がず↑をどう見るか?

いえ、東の倭が献上してきたって書いてあるダケと思われます。
>>913で唐さんが、言ってるような事はどこにも書いてないし・・・・

>>942
>238年 魏は、密かに使いを韓南方に使わす。
>当然、現地語の通訳がいるわけで、その通訳が漢字表記をすれば、
>楽浪方面の発音になるでしょう。

いえ、意味不明です。
ここをみて下さいよ。

景初二年六月 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_framepage.htm

倭の使者は、太守に頼み、遠い皇帝が居る所まで行ってる。
だから、景初二年記事の「所」は、使者が皇帝に直に発言したとみるべき。
944:2011/11/01(火) 20:51:25.69
さすが、みなさん〜古代史に詳しいんですが、
たぶん「倭人伝」を触らせたら、ここでは、
私の右に出るものは居ないのかもしれない(自分で言うのもなんですけど・・・)。

だって〜みなさんが言ってる事って、私から言わせれば、爆笑と言うか、
チャラチャラおかしいんですもん〜☆
945唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/01(火) 20:56:24.68
>実際の「女王国」は奈良県でしょうね。

安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,
北史では、女王は、謂之倭奴國。
倭王は、邪馬臺國。邪馬臺國の官は、イクメである。

畿内大和に相攻伐,歴年無主。を設定できるか?設定できなければ、大和に卑弥呼はいない。
前原王墓は歴年無主の設定が可能である。
纒向遺跡または、ホケノ山と箸墓。ここに歴年無主の設定は、不可能でしょ。

>ここをみて下さいよ。
我田引水の訳。←まあ一般的なトゲの無い訳であり、考古学が見捨てた
時代の訳ではある。
946唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/01(火) 21:03:21.60
>>937 より直訳
新羅史学(私学)会キム・チャンギョム会長は"今回新しくあらわれた新羅と高句麗、百済提起を既に知ら
された関連記録らと詳しく比較検討すれば新しい事実をたくさん明らかにすることができると見る"としな
がら"特に新羅関連記録は争点を呼び起こせるような項目があって注目を要する"と評価した。

新羅本紀を無視してきたツケ。
重要なのは、百済本紀と王名が一致しない事実である。
947:2011/11/01(火) 21:06:11.73
さて、逃げましょうかね〜(逃走)
太国に助けてもらいましょ。。。。(T_T)

では、Good night 〜☆ 寝る zzz・・・・
948日本@名無史さん:2011/11/01(火) 21:43:01.30
首露王の娘である伽耶姫であることが証明された
949モグラのモグちゃん:2011/11/02(水) 00:29:45.19
>>943

今日初めての為、少し見学させてもらいましたが、「東倭」を(東の倭)と読んでもいいのですか?
それではまるで日本語読みではありませんか。
950名古屋大文学部1年生:2011/11/02(水) 01:52:37.71
倭国から東北の龍城国の脱解王の母が女王国の積氏らしいので、
女王国に関してしては、九州のほうが濃厚です。
女王国の東に畿内では海がありませんしね。

考古学的には畿内優勢なのでこの矛盾点を解消するには
東遷説に頼るしかないと思われますが、鉄の優位性をもって
2世紀終わり3世紀にかけて九州勢力の東遷はあったのでしょうか?
無学な僕にお教えください。
951日本@名無史さん:2011/11/02(水) 02:05:07.96
「東遷」の概念にもよるが、九州から都落ちした
落ちぶれ兵士の神武がわずかな軍を率いて
畿内で小さな領土を得た程度の小事件を
「東遷」などと大げさに呼べないだろう。
952モグラのモグちゃん:2011/11/02(水) 07:55:39.47
>>951
リアルタイムに書かれた記事ならそうかも知れないが、何百年の時を経て
現権力者が編纂する自国史ならば、先祖の功績を誇大化するなんて何でもない事。
953日本@名無史さん:2011/11/02(水) 08:11:10.26
わずかな小事件で有ったとしても、神武一族にとっては重要な功績。
神武一族の歴史には輝かしい功績として書き記すことになるだろう
954名古屋大文学部1年生:2011/11/02(水) 10:07:48.23
神武=崇神=卑弥呼の弟 なんてことはないですよね?w
考古学的にみても畿内が邪馬台国っぽいし、
邪馬台=大和で、水行陸行の記述も九州外にあるっぽいし、
卑弥呼は巻向の桃襲姫と考えるのが一番しっくりきますが、
それでも女王国まで万二千余里や女王国の東の海〜の記述と
矛盾するんですよね。女王国=卑弥呼の出身国 と解釈して
女王国は九州にあり、邪馬台国は畿内にあったと考えるべきなのか?
もうわけがわからなくなりましたw邪馬台国問題はやっぱ深入りしたらダメだわ
955太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 10:41:49.06
>>954
各等号はともに成立しません。
956名古屋大文学部1年生:2011/11/02(水) 11:37:39.13
>>955
では太国さんのお考えをお聞かせください。
僕にはもうわからなくなってしまいましたw
957sss:2011/11/02(水) 13:26:34.76
>>954
倭人伝に書かれている邪馬台国までの行程の記述の中で、末盧国は唐津市の付近に比定される。
末盧国から伊都国の行程については「東南陸行五百里、到伊都國」と書かれている。

これがミソで、唐津市から東南の方向に陸路を取ると言うことから佐賀平野に向かっていると
考えられる。つまり、昔から通説のようになっている糸島付近に伊都国を比定することには
大いに疑問があるというわけである。

また、佐賀平野に向かうことにより、畿内説も自ずから消滅するということになる。

以前書いたことがあるが、大和朝廷の時代になると、大陸までの往来で壱岐は通らなくなる。
地図を見るとわかるが、壱岐を通ると近畿地方からは遠回りになるので、沖ノ島を経由して
宗像から対馬に渡るようになる。

というわけで、壱岐を通ること自体が九州の南の方を目指していると言える。

また、水行二十日や十日に惑わされる人が多いが、これはかかった時間であり、距離ではない。
歩いていくのと車で行くのでは同じ距離でも時間が大分異なるように、時間から距離を
推定するにはまず当時の速度から考える必要がある。

畿内説は、こんなに進んでは南の海に出てしまうと言って、距離と方向を相殺する戦術に
出たが、時間から距離がわからない以上、これは詭弁としか言いようがない。

結局、畿内説の言うことに惑わされてしまうと困ったことになるわけである。
958梯儁:2011/11/02(水) 13:40:22.31
>>957:sss
同意。
959太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 15:08:49.05
>>956
だから3人とも別人ですよ。
960日本@名無史さん:2011/11/02(水) 15:08:59.24
>>957:sss
そのとおり。で、伊都国が佐賀平野となれば、そこから舟に乗れる。
奴国や不弥国に陸行する必要はない。当然、伊都国からの放射式が
正しいということになる。
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 17:37:25.58
>>954
>女王国は九州にあり、邪馬台国は畿内にあったと考えるべきなのか?
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

北史が正しければ、そういう事。
大和に卑弥呼を住まわせるなら、其國亂,遞相攻伐,歴年無主。の説明が出来れば良い。
ちなみに、今の考古学の数字で、同時代にモモソ姫を存在させることは、至難の業である。
なぜ至難かというと、文献は、崇神を188〜210年程度とする。
崇神を240〜260年程度と考えても、整合する文献が無い。
962日本@名無史さん:2011/11/02(水) 17:39:58.82
>>957
>また、水行二十日や十日に惑わされる人が多いが、これはかかった時間であり、距離ではない。

バカな畿内論者は現代みたいに道路が整備されていると思っているからな。畿内論者の中には、あの時代に車があったなんて思う奴もいたしな。
963唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 18:01:06.51
景行は、大和から周防サバまでを20日間で移動している。
早い遅いはともかく、1ケ月あれば、伊都と大和の片道である。
これで足りなければ、10日ほど足してくれ。
964梯儁:2011/11/02(水) 18:07:16.59
>また、水行二十日や十日に惑わされる人が多いが、これはかかった時間であり、距離ではない。

本官一行に倭国の案内人や警護兵も含めれば百人を越す人数が平底の倭船で、満潮時には島となる有明海
東部沿岸地域の有力集落を訪ねながらの旅である。各集落で食事をとり宿泊をして、満潮時の限られた時
間だけ船で移動する。10カ所も訪れれば優に二十日はかかる。筑後川沿いの浮羽市、久留米市から有明海
沿岸の大川市、柳川市、筑後市、八女市、みやま市と距離にすれば60kmほどを二十日かけたのである。
965日本@名無史さん:2011/11/02(水) 18:12:15.86
邪馬台国が九州としても、畿内に東遷したのはウソでしょう。
畿内にはヤマト王権があって、景行天皇が邪馬台国の女王をクマソとして討ち滅ぼしたのです。
日本書紀にもちゃんと書いてありますからね。
これがもっとも辻褄のあう考え方でしょう。
東遷説を聞くと、とたんに九州説がウソくさく感じてしまいます。

966唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 18:13:41.61
魏書の行程記事は、
238年に韓南方に使わされた斥候の見聞録である。
斥候が各所で御馳走になっていたのでは、職務怠慢間違いなし。
距離や方角の間違いを「飲酒のため」で説明するのか?
967唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 18:42:51.10
>>965
>景行天皇が邪馬台国の女王をクマソとして討ち滅ぼしたので

景行天皇(240〜261年)が、九州に上陸して最初にあいさつに行ったのは、
筑紫の夏磯姫(カンカシヒメ)である。
夏磯姫こそ九州で一番人気のあった女性である。
夏磯姫を卑弥呼と考えても齟齬は生じない。
968日本@名無史さん:2011/11/02(水) 19:04:11.37
>>967

やっぱりそうですよね。そんな気がしてました。
ヤマト王権と連合した邪馬台国の卑弥呼の末裔は、筑紫国造=磐井になったと思います。
969太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 19:07:45.18
崇神を240〜260年程度と考えても、整合する文献が在る。
970太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 19:16:11.13
>崇神を240〜260年程度と考えても、整合する文献☆が在る。


皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神天皇即位元年 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238 景初2年
568 -93
569 -92     ☆紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳 倭笠縫に鏡を祭祀
570 -91 239 ☆景初3年鏡銘文年 ↑ 鏡改鋳とほぼ4ヶ月に近接(整合)
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年(皇紀の干支)
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社伝承 戊寅七年(戊寅年から7年目)
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年
628 -33
629 -32
630 -31 259
631 -30     崇神天皇 没年
971ローガン:2011/11/02(水) 19:28:18.63
>>957
>以前書いたことがあるが、大和朝廷の時代になると、大陸までの往来で壱岐は通らなくなる。
>地図を見るとわかるが、壱岐を通ると近畿地方からは遠回りになるので、沖ノ島を経由して宗像から対馬に渡るようになる。

うん。沖ノ島の遺物とかみたら、そんな感じですかな。
では、壱岐経由なら、壱岐と共に、楽浪土器が豊富な地域が対岸の港と考えるのが穏当。 原の辻〜糸島が通交のメインルート。
972唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 19:53:58.52
>>968
>ヤマト王権と連合した邪馬台国の卑弥呼の末裔は

北史は、倭奴國に共立女王卑弥呼←倭奴國王位継承。239年時点で王位を認められている。
邪馬臺國(大和)の王が正始元年 倭王位授与。239年時点では”官”としか記載されない。

だから、これ以後の記事に女王、女王国が登場しても齟齬を生じない。
倭奴國王位継承の女王卑弥呼が親魏倭王であれば、倭王しか登場できないハズ。
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 19:59:19.65
景行天皇(×240〜×261年)
974梯儁:2011/11/02(水) 20:36:23.37
>>966
>魏書の行程記事は、 238年に韓南方に使わされた斥候の見聞録である。

またまた根拠のない話をでっち上げて、しょうもない人だねえ。
倭人伝の行程記事は本官の報告書を主な資料として書かれたものである。

本官の任務は詔書を奉じて印綬を倭王(卑弥呼)に授けることと下賜品を届けることであるが、同時に魏の威光を
倭人達に示して廻ることでもあった。最新の武器を携え、きらびやかな衣装を纏い、倭人集落に入るときには笛、
太鼓、銅鑼などを打ち鳴らして人々を驚嘆させた。

975唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 21:13:40.92
238年の斥候は伊都国程度までの来訪。
239年 女王卑弥呼を頂点とする倭国朝貢団。
朝貢団の帰国時に梯儁は邪馬臺國を訪れる。
240年 梯儁は、足を延ばして、邪馬臺國を訪問。
ここで倭王位授与の為の詔書。梯儁に倭王位授与の権限は無い。だから
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
東倭(邪馬臺國)は、使いを洛陽に使わし、倭王位を授与して帰る。

>詔書を奉じて印綬を倭王(卑弥呼)に授けるこ
詔書とは、いかなるものか?
倭王(卑弥呼)=女王であれば、正始3年以後”倭王”だけ登場すれば良い。
しかし、女王、女王国が登場する以上、邪馬臺國≠女王国である。
247年?からの戦いは、女王国と狗奴国が主たる土地である。
遺物として、鉄鏃の出土地で戦争は行われる。
大和には”鉄”が無いと揶揄されるほどであるから、戦争は存在しない。
976唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 21:31:23.22
>>974
特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0005224764

崇神世の任那建国があり、
~功渡海
~功49年 半島占拠。ここから新羅は倭の属国となる。
当然 百済は自分から属国となることを望む。
4世紀が説明できない邪馬臺國であってはならない。
977日本@名無史さん:2011/11/02(水) 21:41:11.80
>>957
>地図を見るとわかるが、壱岐を通ると近畿地方からは遠回りになるので、沖ノ島を経由して宗像から対馬に渡るようになる。

>>971
>では、壱岐経由なら、壱岐と共に、楽浪土器が豊富な地域が対岸の港と考えるのが穏当。 原の辻〜糸島が通交のメインルート。

SSSのクソぶりがよくわかる話だな。

978sss:2011/11/02(水) 22:10:18.54
>>960
有明海は遠浅の海なので、港として使える場所は限られていたのではないか。
不弥国は筑後川の河岸であり、潮の満ち引きに関係なく港として使えたのかも。

まあ、筑後川がある限り、南に行くとなればどっちみち舟は必要だっただろうな。

>>971
土器の存在からルートがわかるとは思えないな。交易していたことはわかるかもしれないが。
979あらため:2011/11/02(水) 22:24:31.10
>>949
>今日初めての為、少し見学させてもらいましたが、「東倭」を(東の倭)と読んでもいいのですか?
>それではまるで日本語読みではありませんか。

読んでもいいんデス(終了)。

>>950 名古屋大文学部1年生くん

>>908-909 ←これどうぞ。
980sss:2011/11/02(水) 22:24:48.77
>>971
宗像大社は、航海の神様と言われる宗像の三女神を祀っているが、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、
大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神が祀られている。

このルートが、近畿地方から朝鮮半島に渡るときのメインルートだったと考えられ、特に沖ノ島には
鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が見つかっていて、海の正倉院とも言われる。
航海の無事を祈って供えられたとも言われ、航海のルートであったことは確か。
981日本@名無史さん:2011/11/02(水) 22:28:34.75
>>980

うんこのSSSくん。

沖ノ島は女人禁制の祭祀場専用の島なんだが、
そんなとこを恐れ多くて交易ルートにするわけないだろ。

男でも上陸するのにいちいち浜で裸になって禊しなきゃいかんのだぞ。
おまえはしらんだろうが。



982あらため:2011/11/02(水) 22:42:42.81
>>957 sssさん
>唐津市から東南の方向に陸路を取ると言うことから佐賀平野に向かっていると
>考えられる。つまり、昔から通説のようになっている糸島付近に伊都国を比定することには
>大いに疑問があるというわけである。
>また、佐賀平野に向かうことにより、畿内説も自ずから消滅するということになる。

あんたアホかい〜 
福岡県福岡市東区志賀島(金印公園)から「漢委奴國王印」が出土されてるでしょう。
これが、奴國が博多周辺だったという動かぬ証拠になる。
現実を直視しようよ。

>以前書いたことがあるが、大和朝廷の時代になると、大陸までの往来で壱岐は通らなくなる。
>地図を見るとわかるが、壱岐を通ると近畿地方からは遠回りになるので、沖ノ島を経由して
>宗像から対馬に渡るようになる。
>というわけで、壱岐を通ること自体が九州の南の方を目指していると言える。

君は王朝さんかな?まあよい・・・
ところでその沖ノ島ルートになるという証拠はどれでしょう?
証拠を提示できなければ、単なるあなたの頭で描いた「空想」でしかなくなる。

>また、水行二十日や十日に惑わされる人が多いが、これはかかった時間であり、距離ではない。
>歩いていくのと車で行くのでは同じ距離でも時間が大分異なるように、時間から距離を
>推定するにはまず当時の速度から考える必要がある。

いえ、これもぜんぜん違います。
昔は、距離の長い場合に、「日数」で表記してたのです。
詳しくは後ほど話しましょう。
983唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 22:49:56.55
>>950 名古屋大文学部1年生くん

書記 より19*n回の空白年(増し)を差し引く、正朔である。19年=6940日=1章が基本。
天皇   西暦    増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜
懿徳天皇    〜93年 3章 安寧、懿徳は同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章−1年(増56年) 開化、崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年 2章+1年(増39年) (同5年を新羅192年に設定)
垂仁天皇 217年〜239年 4章 新羅209年が任那建国の指標。ホケノ山。田道間守の派遣。
景行天皇 240年〜261年 2章 正始元年邪馬臺國王に倭王位授与。大倭成立。箸墓。
成務天皇 262年〜265年 3章 成務、仲哀は同じ暦の可能性が有る。 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 274年から晋による東夷冊封体制
神功皇后 275年〜343年 326年~功52年七支刀
応神天皇 344年〜384年  倭に臣従するクニシン王までの記録

仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
履中天皇 400年〜405年 405年兄王捜索は、404年の事後処理である。兄王とは履中自身か?
反正天皇 405年〜411年 
允恭天皇 412年〜453年 同4年盟神探湯。 新羅の医者は、新羅が高句麗の傘下であることを
認める。
984日本@名無史さん:2011/11/02(水) 22:50:14.55
>>957

>これがミソで、唐津市から東南の方向に陸路を取ると言うことから佐賀平野に向かっていると
>考えられる。つまり、昔から通説のようになっている糸島付近に伊都国を比定することには
>大いに疑問があるというわけである。

>また、佐賀平野に向かうことにより、畿内説も自ずから消滅するということになる。

畿内説憎しのためには、イト国もナ国も玄界灘には面して無かったという訳か。

九州説の本性なんてこんなものだ。なんでもありあり。
985唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 22:59:49.78
おまけ
時空の設定
神武 土器で第X様式の始まり。
崇神 新羅192,3年を同5,6年とする。(後漢193年を同5年とする場合は、開化の治世が
1年延び、崇神の治世が1年減る。)
崇神6年 弥生後期後半 唐古・鍵遺跡などが放棄される。
崇神11年 異俗多帰 2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
崇神12年 寒暑失序。疫病多起。百姓蒙災。この記事は後漢183年〜193年にあたる。
崇神58年頃 任那(狗邪韓国、金官伽耶)建国。新羅209年、三国遺事。
考古学:3世紀初めの大型建物=珠城宮。中期は日代宮。
垂仁末を239年の朝貢。伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
景行時代 大倭は伊都国に1大率を置く。壹與=五百野姫。庄内式が九州へ。
箸墓は最初の大王墓、布留0式。
神功元年のあづないの罪は、273年の日食。
326年 神功52年七支刀。
仁徳87年 399年を以て巨大古墳の築造は終わる。
履中6年2月の記事を404年帯方界での敗戦、戦士の捜索記事とする。
407年 新羅の侵攻により、金官伽耶の東半分を失う。
允恭3年 新羅の医師は、413年高句麗、倭国の東晋への朝貢の後。
盟神探湯により、世継ぎの書き換えを正当化している。

時代特定は、文献の積み重ねである。
986唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 23:05:33.60
おまけ その2
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。

316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。仁徳4年戦線離脱の決定(課役の停止)。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 半島は空白地帯となる。半島占拠、百済建国。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
百済本記によれば、近肖古王の末近くに文字を得て記録を残す。つまり、それ以前
の百済は記録を残さない程度の集団である。国家経営に記録は必要不可欠。
326年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔≒東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
正しくは3月16日丙午が存在する。(5月では1日の狂い)。百済本紀の数字には狂いがある。
331年 辛卯年 広開土王碑。
343年 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
高句麗、百済は前燕に帰属する。東北方面の安定は、渡来人の減少。
343年 神功69年。343年 仁徳31年 立大兄去來穂別尊爲皇太子。
987太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 23:16:19.19
神功元年のあづないの罪は、273年の日食ではない。
日食は天体現象であり、罪の有無を問う人間ではな〜い。
また日食は数日間も継続せず。このことは神功元年前年の記事とは
無関係である。

ただし大宇宙は広大であり、遠い遠い天体には日食が数日間も継続
するデンパ星とか猿の惑星とかスター・ウォーズ的チュー馬ッ鹿が活動
する天体では、まぁそういうこともあるのだろうしww、そこの天体から
強力な大デンパを受信しているなら、そういう論も否定はかわいそう
だ? PPPPP・・・→∞
988太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 23:17:59.29
大中臣の下命〜

大中臣の偽編年撲滅の下命〜その重要年代計測器 天津金木
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これを天津神算木(天津金木)と
いう。毒書秀魔電に汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う〜過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

☆主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
★死値 A.D.130年 景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335−97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
989sss:2011/11/02(水) 23:21:51.45
>>984
以前からの定説というのがあって、糸島市が伊都国、福岡市が奴国、宇美町が不弥国と
いうものだった。
しかし、後がどうしても続かない。宇美町から南に水行?
畿内説のように、東に水行としてみてもやはり続かない。宇美町の東には海(水)はない。
放射説を取ったとしても、伊都国から南に水行が続かない。

ふと、伊都国は、末盧国から東南に陸行五百里と書かれているのに気づいた。このとおりに進むと、
南の方には有明海があるではないか。

糸島市や福岡市が古代の重要地域であることに疑いはないが、倭人伝に書かれているルートからは
外れていると考えてもいいと思う。

糸島市や福岡市の方に進んだから、吉野ヶ里遺跡などが無視されることになるわけで、これは
仕方のないことだろう。
990太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 23:24:04.49
崇神 新羅192,3年を同5,6年と出来ない。
農民が腹ペコでの千人渡海は出来ない。

垂仁末を×239年の朝貢。
伊支馬=イクメ=垂仁←大間違い

上の等号は臣下(猿相当)が天皇(人間相当)になれるというデタラメ
である。これでは「猿の惑星 ウソ西紀」さながらのインチキである。

 臣下は彼らを選んだ〜

猿の惑星とかデンパ星では日食が数日間も続くらしい?ww
    ↓
神功元年のあづないの罪は、273年の日食にならない。
991神奈川県民:2011/11/02(水) 23:27:56.98
992ローガン:2011/11/02(水) 23:31:12.66
>>978
>土器の存在からルートがわかるとは思えないな。交易していたことはわかるかもしれないが。

え?交易に「ルート」は存在しないとでも云うつもり?
その交易の跡と思しき遺物が濃密な地域の存在を「南北市擢」とかに重ねて考えないのかなあ。
それとも、

>土器の存在からルートがわかるとは思えないな。

この「ルート」とは使者来倭時のルートという意味?
「土器の存在から使者のルートがわかるとは思えないな。」でいい? 交易のルートと使者のルートとは違うものだとの主張なら、土器だけでなくどのような遺物、遺構、文献を挙げた所でなんの意味もなし。
倭人伝だけ読んで「自己完結」しとくのが宜しいかと、思う。
993あらため:2011/11/02(水) 23:33:34.09
sssさんは、はじめて見るんですが、
畿内説の私が相手してやろう。

結構知ってるようですし。
994日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:33:41.21

畿内説大勝利だな。
995日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:35:02.33

SSSはコテコテの安本信者の東遷説信者だから、遠慮しないでヤっちゃっていいよ。

996日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:36:33.87
>>978
>土器の存在からルートがわかるとは思えないな。交易していたことはわかるかもしれないが。

「ルート無き交易」か…ナニ イッテルノカ ワケワネンエヨ wwwwwwwwwww
997日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:39:14.35
>>995
sssは信者と言うほどでもない。

恐らくオーソドックスな東遷説じゃなくて奠都説。

ただ アマテラス=卑弥呼(+壱与) と言う図式に魅せられた病人であることはガチwwwwww
998日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:50:11.14
ドツボ梅
999ローガン:2011/11/02(水) 23:52:46.67
もう、ドン来いだけでええのとちがう?
1000終止符スレ閉店のお知らせ :2011/11/02(水) 23:57:55.39
永きに渡りご愛顧頂いた当店で御座いますが

本スレをもって終了とさせて頂きます。

今後は九州説の客様は『それでも邪馬台国は九州にあった』スレのご利用をお願い申し上げます。


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