それでも邪馬台国は九州にあった8

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1日本@名無史さん
それでも邪馬台国は九州にあった8

前スレ

> それでも邪馬台国は九州にあった7
> http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1310315919/l50
2日本@名無史さん:2011/08/11(木) 22:16:10.47
倭国は九州
3日本@名無史さん:2011/08/11(木) 23:43:44.33
伊作とかいうバカが九州勢力が東征したとかいってるけど。

九州の人々が東に出て行った痕跡はありません。
九州で有名なカメ棺は、となりの山口県ですら出てこない。

山口県ですら、九州は掌握してないのに、
関門海峡をコントロールしてたとか、子供じみた妄想をみんなは信じちゃダメだよ。

どこの博物館でもいいから、学芸員にそんなこと言ってごらんなさい。バカにされるだけだから。

4日本@名無史さん:2011/08/11(木) 23:59:44.94
東征は甕棺が終わってからだろ。鏡や武器の埋納、朱の使用、これらは九州型
習俗だ。東征を裏づけるものというべきだな。
5日本@名無史さん:2011/08/12(金) 00:50:16.86
遺作が来たらサッカー板に誘導してね

http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/soccer/1312857803/
6日本@名無史さん:2011/08/12(金) 02:48:08.05
>>4

おバカな東遷説信者くん。
その九州から来た王様は一人で来たのかね?
従者や家臣やその家族は誰も連れてこなかったのかね?

ヤマトの豪族で、九州出身という人物が誰かいるのかな?
いるなら教えて欲しいものだ。
721:00:2011/08/12(金) 03:41:51.12
自分の痴態は人前では見せられない、他人の痴態は見せまくるのか?

最悪でも犠牲は無駄には出来ない!!!!!

リアルに負ける戦争へ連れて行かれたのですか?←これは芸術作品なんですか?

半分過ぎてすぐ消える人間よりはまし、数字は色々ある

独裁者(知らない国の人々には見せられない、見てもらいたくない)
8日本@名無史さん:2011/08/12(金) 04:51:30.84
今回のスレではオーこれならっていう九州説を聞いてみたいもんだ
9日本@名無史さん:2011/08/12(金) 06:02:45.43
東征したとか、ばかなこと言わなきゃいいだけだよ。

3世紀に九州に邪馬台国があった、畿内にヤマト王権が興った、
4世紀に九州は、ヤマト王権に支配され邪馬台国は滅んだ。
これでいいだろ。

まあ、ボクの邪馬台国がヤマト王権に滅ぼされるのが嫌なんだろうけどな。
10日本@名無史さん:2011/08/12(金) 06:43:22.47
>>3 伊作さんはバカではありません。
九州勢が東征したのは真実です。ただし数十人の単位であったがゆえに、痕跡はすくないのです。
甕棺は九州のほんの一部でのみおこなわれていた習俗です。
畿内にないということは、この侵入者が邪馬台国系のひとたちではないことを意味しています。
東遷説ではなく東征です。
従来は邪馬台国を強く意識しすぎていたようです。
邪馬台国は山口県さえ掌握していなかったようです。最後は北部九州諸国の一国として
その歴史を閉じました。
11日本@名無史さん:2011/08/12(金) 06:55:19.32
さすがに100人未満で、どうにかなる勢力はないだろ
いくら一国単位が小さいとはいえ
移住ならまだ少しは・・・
12日本@名無史さん:2011/08/12(金) 07:03:33.52
>>6
恐ろしく幼稚なご質問で。では、ヤマトの豪族で、九州出身ではないという人物が誰かいるのかな?
いるなら教えて欲しいものだ。

13日本@名無史さん:2011/08/12(金) 07:27:49.34
>>10
>甕棺は九州のほんの一部でのみおこなわれていた習俗です

おいおい、九州の3分の1. 人口的には2分の1だろ
もう少し基本的な勉強をしてからにしろ
福岡を中心に、佐賀、長崎、熊本宇土半島だぜ
東は遠賀川まで、大分、宮崎、鹿児島は出てない
14日本@名無史さん:2011/08/12(金) 07:34:13.49
>>6
>ヤマトの豪族で、九州出身という人物が誰かいるのかな?
いるなら教えて欲しいものだ。

おいおい、豪族の出身地知ってるのかい?
学者達でも、お手上げの分野だぜ
ひとつだけでも教えてくれ!
15日本@名無史さん:2011/08/12(金) 07:37:39.10
>>6
なによりも天皇家が九州出身だよ。だから、どなたかの天皇の時代に東征が
無いと日本の歴史が困るの。
16日本@名無史さん:2011/08/12(金) 08:13:57.26
神武東征を信じてるアホがまだいるのか。

8世紀の役人が机上で創作した話しに踊らされてるんだよ。
恥ずかしいと思え。

で、神武が九州から来たなら、神武の親戚が九州にいるはずだが、いったいどこにいるんだね?
17サガミハラハラ:2011/08/12(金) 08:52:24.47
神武の東征を信じているものです。
神武一族は九州での有力氏族ではありませんでした。
豪族であったかもあやしいものです。
倭面土国滅亡の際に、あぶれ者たちを集めて、新天地にいって一旗あげようとした人達です。
ですから九州に残った親戚は大衆のなかにかききえていってしまったのです。
18日本@名無史さん:2011/08/12(金) 09:17:42.14
>>15
別に困らないよ
あくまで古事記や日本書紀の世界の話だから
ちなみに古事記の成立は712年で、日本書紀は720年の成立
卑弥呼の時代から500年近く後
現在から考えると関が原より前の話を書いてる
文字が無かったと言われる時代の話をね

>>17
新天地に行って一旗揚げるのはいいけど、見知らぬ人達を大事に受け入れた勢力がないと上手くいかないのでは?
実は技術者集団でってなら九州でもなんとかなるだろうし
19日本@名無史さん:2011/08/12(金) 09:33:26.25
補足すると今年は建国2671年らしい
記紀の成立が建国後約1300年
多ければ半分近く、少なくとも4分の1は文字の無い時代だね
20日本@名無史さん:2011/08/12(金) 09:33:36.53
そもそも、元の場所で、一定の地位と勢力を確保してれば、
よそに出ようとは思わんやね。

よそに出るのは、はじき出されてあぶれた勢力か、
上位から命令されて、遠征させられた勢力。
21伊作:2011/08/12(金) 09:50:27.87
●引っ越しの必然性
列島の統一経営には、列島の中心部へ出る必要があったろう。
また九州は、年に数度は台風という招かれざる客が訪問する土地柄である。
台風、河川の氾濫、水害も、当事者にとっては笑えない切実な問題である。
台風の被害がより少ないところへの移転も、大きな政治課題であり政治選択の一つだったろう。

だが引越しを急ぐことになった理由はやはり大陸の動向にある。
この時代、中国勢力はすでに数百人規模の兵士を積むだけの海洋船舶技術を手にしており、
海を渡って侵攻される恐れが現実的になっていた。3世紀に魏の使節が乗ってきた大型楼船を見た時点で、
倭国側はそのことを明確に認識したはずである。

魏以降の中国の動向をみてみよう。晋の武帝・司馬炎は帝位についたあとは色ごとに熱中して政治を顧みず、
武帝のあとを受けた恵帝は暗愚で外戚(皇后側勢力)の思うまま。
そうしたことが引き金となって、290年代に入ると晋の有力王たちによる「八王の乱」が勃発して国内は騒然となる。
これが、やがては五胡十六国入り乱れての騒乱の時代へ突入する。

倭国としてみれば、五胡十六国の争乱状態ではいつ何どきに中国勢力が侵攻してくるかは分からない。
そうした外来勢力に対する防衛構想上、玄関口の九州から離れたほうがより安全であると判断して、
かねてより準備していた引越しを急ぐことになった。
22伊作:2011/08/12(金) 09:51:07.41
●東遷は200年がかりの大事業
大和に倭国の政権拠点が出現したということは、政権中枢が畿内にあって九州・瀬戸内海を経営し、
淡路島と本州とで形成する内海を経営する体力と体制が備わったことを物語る。
これらが、大阪湾内の水郷地帯を開墾する水利・治水技術と労働力と、
大古墳を造る土木技術をそなえた時期と重なるはずである。邪馬台国東遷説も神武東征説も、
この列島特有の現実を考慮してこそ成立し得る。

東遷は一人一代で実現できることではない。
おそらくは何代にもわたって継続して実現した事業だったはずである。
遷都も統一事業を終えてから徐ろに実行するものだろうから、
相当に早くから根回し・地ならし・平定・開拓の尖兵が進出していたのだろう。

むろん、「山一つ隔てた東が毛人の国」というのでは安心して引っ越すことができない。
まずは派兵して毛人勢力を関東以北に押し込め、開拓農民を屯田させたところで、大和での王都建設が始まる。
そうした経緯を、3世紀末には関東でも前方後円墳や前方後方墳が登場することで知ることができる。
つまり、鏡と剣を重要な呪具とする信仰精神と墓制とをもった勢力が、
3世紀末には関東への進出・開拓・定着を果たし、安定収穫を実現していたことを物語る。
こうした動向を東への進出の下準備とみれば、東遷は実に200年がかりの大事業だったともいえる。

倭の五王の時代がピークかな?
23伊作:2011/08/12(金) 09:53:46.49
●考古事実との整合性はあるか
九州勢力による東への進出が本格的になると、
それまで政治的意図によって絞られていた関門海峡の通交弁が全開となり、
河内平野開拓・開墾と大和建築のための技術や労働力の導入が始まり、
朝鮮半島や九州からの「人・もの・文化」が押し寄せるようになる。

出雲をはじめ妻木晩田遺跡など、日本海側には朝鮮半島や九州との交流を示す痕跡が多い。
このことは、九州勢力が関門海峡をコントロールしていた時代においては、
日本海側が表日本だったことを示唆している。(のではないのか?)

いずれにしても諸君。
何か一つのことを考察するにもも、思考領域を広く・思考深度を深く。
そうすれば少なくとみ、ガキのたわごとみたいな会話にはならないだろう。
24伊作:2011/08/12(金) 10:19:48.06
●東遷と装飾古墳
「倭国政権中枢の東遷」を九州独特ともいえる装飾古墳が証言している。

古墳時代の5世紀頃になると、九州には○○の君を名乗る豪族が多く登場する。
宗像の君、筑紫の君、水沼の君、肥の君、阿蘇の君、芦北の君、大分の君。
あげればきりがないほどである。
君とは、天皇家の血筋の皇族がその身分を離れて名乗った皇別呼称である。

支配者が親近血族に領地を与えて各地に配するのも古来からの通例で、
こうした多くの君たちが、朝廷から(力をつけすぎないよう細かく分断した領地をもらって)
九州を分担支配していたわけである。
装飾古墳が登場し始める時期も、大和に統一政権が登場した時期と符合する。

つまり、倭国政権中枢がヤマトに引っ越したあとの九州支配を委任された
支配者の親近血族(○○の君)たちの墓が装飾古墳なのである。
25伊作:2011/08/12(金) 10:27:09.43
●これが歴史の現実だ
朝鮮半島との通交ルートと関門海峡を抑えた九州勢力が人・もの・文化の通交を制限すれば、
瀬戸内海側は裏日本と化す。
この状態で、瀬戸内・近畿地域に九州勢力と拮抗する勢力が育つ可能性はない。
▼ヤマト王権の畿内自生説など歴史の現実を度外視した願望論でしかない。

九州勢力が半島ルートと関門海峡の制海権を握っていて、
ここの通交をコントロールしながら四国・本州に拠点づくりを進めていた。
唐古・鍵遺跡の存在とその消長をみると、(特殊能力部族の隼人が司祭をつとめていた)
かなり早くから隼人を従えた九州勢力の拠点づくりが行なわれていて、
唐古・鍵遺跡は南九州勢力が築いた先遣開拓拠点の一つだった。

地域ごとに古墳の形状や造営法に違いはあっても葬送儀礼はほぼ同じである。
このことは、祭祀人材の計画的かつ組織的な育成と供給が行なわれたことを示唆する。
纏向はまさに、「祭祀人材の育成と供給センター」だった時期があるのではないか。


以上が、天才的な史観をもつ天才の東遷論だ。
26日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:06:17.20
>>23
まだ、関門海峡の話をしたいの?
昨日、やり込められてたじゃん
それに、今日は今日で何で絞ってたのを全開にすんのよ
矛盾してね?
東征したから全開にすんのか?
掌握してんならそのまま絞ってても問題ないじゃん
27日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:07:38.87
●機内説推進の障害
畿内説者は、九州とヤマトでは人種か文化が異なる方向へもって行きたがるが、
縄文晩期から古墳時代を経て現代(たとえば神社のしめ縄)に至るまで、
長江文明を支えた非漢・多民族の「伏義・女媧信仰」の痕跡が連綿と続いている。
(双極文・わらび手文などの渦巻き文、連続三角文(鋸歯文)、同心円文はすべて
蛇にまつわる伏義・女媧信仰につながる文様)。
そこには「畿内だ九州だ」の区別はない。みな同じ倭人(長江河口からの渡来人)なのだ。
歴史の一部を放置したり、見えるのを塞ぐようなことをしてはならない。

縄文時代
●鹿児島県国分市の上野原縄文遺跡出土の土製耳飾り。隼人楯にそっくりの双極文が刻まれている。
●北海道室蘭市輪西町出土・縄文時代晩期の土偶。胸から肩にかけて双極文と双脚輪状文が見える。
●宮城県田尻町恵比須田出土の縄文時代晩期の遮光器土偶。
胴回りに蕨手文らしきうず巻き文が確認できる。背中には蕨手文の組み合わせパターン。
●新潟県中魚沼郡津南町・道尻手遺跡出土の火焔土器。
原初的なうず巻き文か双極文が確認できる。
●中ッ原遺跡出土の・仮面の女神(胸部にうず巻き文がある)。
●棚畑遺跡出土・縄文のビーナス(頭部にうず巻き文がある)。

つづく
28伊作:2011/08/12(金) 11:08:15.99
弥生〜古墳時代
●香川県出土弥生時代中期の大銅鐸。。吊り手の部分に連続双極文と連続三角文。
●滋賀県野洲市・大岩山出土の弥生時代後期の大銅鐸。吊り手の部分に 二頭うず文。
●福岡市西区今宿町の今宿五郎江遺跡から出土した、弥生時代後期後半の木製短甲の部分板材。
うず巻き文様は津南町出土の火焔土器に近いものがあるし、右には連続三角文。
●池上遺跡出土の古代日本の鳥居の上に飾られた木彫りの鳥。
●三角縁神獣鏡。鏡の縁の内側を二重の連続三角文が巡っている。
●群馬県大泉町古海出土の腰かける巫女
女性の帯と上衣のすそと、台座にウロコ文の線刻が確認できる。
●奈良県の唐古・鍵遺跡で出土した土器の絵を再現した男女司祭の衣装の文様。
このウロコ文は紛うことなく装飾古墳と共通する。
●茨城県ひたちなか市の虎塚古墳の石室。同心円文、連続三角文、双極文。
石室右壁の双極文は、平城宮の井戸枠に転用されていた隼人楯の双極文と同じ。
29日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:16:36.80
>>27
同一の文化なら隼人の何かが何処にあろうと関係ないだろ
文化の伝達制はともかくとして、人種が違うなんて言ってるのは、一部の人の脳内だけでは?
30日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:21:19.62
>>24 :伊作
>古墳時代の5世紀頃になると、九州には○○の君を名乗る豪族が多く登場する。
>宗像の君、筑紫の君、水沼の君、肥の君、阿蘇の君、芦北の君、大分の君。
>あげればきりがないほどである。
>君とは、天皇家の血筋の皇族がその身分を離れて名乗った皇別呼称である。

諸侯(しょこう、Feudal lords)とは、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下である貴族のことである。
原義においては、古代中国において、天子である周王朝などの王から封土を与えられて、封土の内側(国家)において天子にかわって「君」として振る舞うことが許された、あるいは許されたと観念されていた諸都市国家や都市国家連合の世襲的な首長のことであった. 。。。。wiki
「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王」・・・後漢書
の「王」もwikiの『君』も「許」の一文字に回収できる。
九州に『君』が繁殖するのが五世紀なら後漢書の「三十許國 國皆稱王」は
九州ではないということでよろしいですね。
『君とは、天皇家の血筋の皇族がその身分を離れて名乗った皇別呼称である。』
とは、文学の世界のことですかNe?


31伊作:2011/08/12(金) 11:21:43.86
外から入る「人・もの・文化・技術・知識」などは、
入り口ほど濃厚で遠くなるに連れて希薄になる。
いわゆるグラデーション現象だ。この現象は古代であればなお顕著になる。

この厳然たる事実を超越して、
2世紀にはヤマトに王権が自生などとは、
非現実的なホラ言説もいいところ。

2〜3世紀における瀬戸内の奥地へ入るものは、
すべて九州を経由しなければ入ることもままならない状態だった。
極論すれば、九州あっての瀬戸内の奥地だ。

お前らが大好きなヤマト政権をつくったのは九州の先進勢力だ。
天皇家を支えたのも隼人を祖とする九州の部族だ。
疑うのなら宮内庁に行って確認してこい。

ヤマト王権自生言説とは、
生意気なガキが「一人で生まれて一人で大きくなった」というも同然のクソ論理だ。
32日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:30:52.16
>>26
九州勢力は一枚岩だ
卑弥呼様のお許しがないと、近畿勢の舟は通さない
有明海から、見張ってるんじゃ
わかったか
33日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:33:55.61
誰も九州の先進性は否定しとらんのにな。

だが半島から出雲や丹後からのルートもある。
また南方から四国へ流れるルートもあるのに。

どちらにせよ三世紀の時点でのヤマタイは畿内だね。
34伊作:2011/08/12(金) 11:34:22.63
>>30
なんか。いいかっこでもしてるつもりか?
35日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:37:14.13
>>32
一枚岩じゃ倭国大乱は起こらないだろw
それに有明海見張るなんてこれは絶対不可能www
36伊作:2011/08/12(金) 11:37:42.67
銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ。

こんなん出ました。復元しました。
どこそこで出たのと似ています。
こんなんが出たのだから、強力な王権があったのでしょう。

挙げ句は、足し算・引き算的な動向論しかいえない。
バっカバカしい限りだ。
37伊作:2011/08/12(金) 11:42:10.97
>>33
>半島から出雲や丹後からのルートもある。
それも九州勢力の監視下にあったろう。
半島から出雲て、対馬・壱岐抜きの直行便の話か?

>また南方から四国へ流れるルートもあるのに。
ないな。九州南端には隼人がいる。

それからな。いくら裏ルートをぶちあげても、
しょせんは裏ルート。メインルートではない。
有史以降、ヤマト政権が瀬戸内海ルートを
メインルートとしてきた事実があるだろ。タコ
38伊作:2011/08/12(金) 11:44:50.00
>>35
>一枚岩じゃ倭国大乱は起こらないだろw

まーたバカが一人。
倭国大乱とは王位継承争いだろ。そんなのはどこにもあることだ。
また王位継承の内紛時とて、倭国という体制と実力者・首脳陣は存在する。
だからしまいには実力者の合議で共立してるだろが。
39日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:55:26.52
>>36
隼人の何かに似てるとか書いてなかった?
隼人の精神性が分かってるからいいとか?

昨日の管の国会答弁みたいだな
マイナスのありえない物にたいして、マイナスあってもいいだろ・・・・

>>37
何で対馬が必ず九州側につくか説明ついたの?

>>38
当人同士だけでやるわけないのでは?
負けた側に付いた勢力は大概不満を持つよ
それとも必ず根絶やしにするの?
それはそれで別の問題が起きそうだけど
40日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:55:50.49
近畿説が箸墓だの纒向だの言ってる状況では、もう九州説を取るしか方法は無いと思う。
41日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:58:55.00
伊都国をどこに比定すべきか、それを考えたら畿内説なんぞ考える余地ないよ。
42日本@名無史さん:2011/08/12(金) 11:59:53.42
>>980 :伊作
>>968 どんな勢力が、制圧していたのだろうね。
>>975 だからどこの勢力かって聞いてるの(こいつらは能動的思考習慣のないタコ)
>制圧でも封鎖でもない。「掌握」だ。「痕跡がない」などというバカには無理な論理だろうが、
>日本列島特有の地形と朝鮮半島と中国大陸との関係が形成する物理的力学関係から
>朝鮮半島との通交ルートと関門海峡を諸悪した者が海を制する。海を制する者が列島を制する。
>ここを最初に掌握したのは歴史的にみて倭奴国だということは自明の理だ。
「投馬國水行二十日・・邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日」・・・魏志
「安イ妾西南海行一日」・・・翰苑 
の「水行二十日・水行十日・海行一日」との表現が可能な海は瀬戸内海以外には列島にはないのではなかろうか?
すると、
「イ妾及び安イ妾の伊邪分國」は魏志の末廬國・奴國・不彌國に当たる。ということ。

>ここを最初に掌握したのは歴史的にみて倭奴国だということは自明の理だ。
そのようなことは、太陽が西から昇るようなことがあってもありえない。
倭奴国が『朝鮮半島との通交ルートと関門海峡』を掌握したことはないから。
43日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:01:16.75

>>31:伊作:
>2〜3世紀における瀬戸内の奥地へ入るものは、
>すべて九州を経由しなければ入ることもままならない状態だった。
>極論すれば、九州あっての瀬戸内の奥地だ。
て、
冗談ですか?
「次伊邪國 安イ妾西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也」の
伊耶國が九州だから。よくよく読んでね。
44日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:06:51.93
>関門海峡を抑えた九州勢力
これついては根拠が示されてないな。
長文乙だったが根幹部分が妄想である以上、その上にいくら論理を組み上げても全体としては妄想に過ぎないってこったな。
45日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:06:52.49
>>36 伊作
>銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ。

鏡の大量副葬は、日本の何処が根源?
30枚、40枚もの大量副葬の信仰的根源地はどこ?

知ってるけど、答える勇気がない?
それとも、知らないタコ?
どっち?
46日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:11:02.74
伊作さんの脳内では完璧なストーリーが出来上がってるのだろうけど
面倒くさくても1度紙に書き出して冷静に読んでみるといいんじゃないかな
そうすれば多少矛盾は解消されるはずだから
47日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:27:56.40
>>37 :伊作:2011/08/12(金) 11:42:10.97
>>33
>>半島から出雲や丹後からのルートもある。
>それも九州勢力の監視下にあったろう。

「伊都國・・・ 郡使往來常所駐」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
の「伊都國」は九州ではない。
「郡使往來常所駐」の「郡使」は公孫氏の「役人」であり、
「常治伊都國 於國中有如刺史」の「刺史」も公孫氏の「役人」です。
これ抜きではだめYo.


48日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:29:41.98
>>40
九州説を排除するの間違いだろw
49日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:32:19.98
伊作は流通や交易の流れは全く理解しとらんからな。
根本的な部分で間違いを犯してる。
50日本@名無史さん:2011/08/12(金) 12:44:26.80
ナガト、アナトと言うくらいだからな。
奴国が北部九州から本州西部も領土にしてたという事だね。
51日本@名無史さん:2011/08/12(金) 13:00:15.87
>>50
対馬、壱岐、長崎、志賀島、和布刈神社、淡路海峡の垂水にワタツミ神社を持つ
安曇族と考えても良いのではなかろうか。
特に、和布刈と明石市の垂水「海神社」は強烈な場所にある。
日本書記、持統天皇の十八氏に墓記を提出させている中にも入っている。
52日本@名無史さん:2011/08/12(金) 13:39:28.28
九州内に収まる訳が無いのは確実だろう。
53日本@名無史さん:2011/08/12(金) 14:13:11.23
>>43
伊耶國って屋久島のことらしいな。
54日本@名無史さん:2011/08/12(金) 14:18:57.49
もう一度、みなさんに言う。
単に意見を書くだけなら、伊作さんの言うように、ガキの意見だろう。恥ずか
しくないのか。自分の意見の合理的な理由も併せて書け。
55日本@名無史さん:2011/08/12(金) 14:27:31.27
>>54
その伊作さんが矛盾した書き込みしてんのは無視なの?
56伊作:2011/08/12(金) 15:09:40.26
50
>ナガト、アナトと言うくらいだからな。

ナガト(長門)、ナガサキ(長崎)、ナガカワ(那珂川)、ナガツ(中津)、ナノオオツ(那の大津)。
帥升以前の古豪・倭奴国の「ソフトの遺跡」
ともいうべき名残りはすくなくないなー。
倭国30カ国のうち奴のつく国が9カ国あるが、
すべて古豪・倭奴国を分割したものだろう。

その中で最大なのが旧奴国(狗奴国)だ。
倭奴国の旧臣・遺臣が、卑弥弓呼を王に担いだ大国。
いやいや。
九州中部の歴史は小説よりも奇。ドラマチックであるぞ。
57伊作:2011/08/12(金) 15:20:13.94
>>45
>鏡の大量副葬は、日本の何処が根源?
>30枚、40枚もの大量副葬の信仰的根源地はどこ?
このバカ。俺の文章を完全に読み違えてるな。ほれ
「銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ」。
高尚な文章を己の程度に併せて誤読してやがる。

>>43
>「次伊邪國 安イ妾西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 
>以革爲衣 盖伊耶國也」の 伊耶國が九州だから。よくよく読んでね。
三流文献に依拠するオタクは論外とする。

>>47
>「郡使往來常所駐」の「郡使」は公孫氏の「役人」であり、
>「常治伊都國 於國中有如刺史」の「刺史」も公孫氏の「役人」です。
これ抜きではだめYo.
こういう話は、お前よりも程度の低いバカを集めてやれ。
58日本@名無史さん:2011/08/12(金) 15:27:53.29
>>57 :伊作

>「銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
>その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ」。
との作文は評価するが、
おそらく、その内容たるはトンのチンカンだろう。

>三流文献に依拠するオタクは論外とする。
五流以下の君が寝ぼけたことを言うな。

>こういう話は、お前よりも程度の低いバカを集めてやれ。

それって、伊作ちゃんあんたのことだよNe。
59日本@名無史さん:2011/08/12(金) 15:30:50.13
>>57
>「銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ」。
高尚な文章を己の程度に併せて誤読してやがる。

何んだい、単なる抽象論かい
素人は、これだからいかん
60伊作:2011/08/12(金) 15:38:40.04
>>58
「銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ」。
これが高度すぎて、すっと理解できなかったわけだ。なタコ

「三流文献に依拠するオタクは論外とする」。
自論に都合のいい記録はないかと文献漁りをして三流文献に行き当たり、
その文献とその記録の資料価値を度外視して飛びつくっての、
ど素人のお決まりパターンの一つだが、もう古い。
二流・異聞とされる文献を持ち出した時点で誰も相手にしないと知れ。
三流文献を持ち出して通用するような己のレベルに合ったバカとやれ。

それから、切り返しをするならば、もっと気の利いたことをいえ。
相手のボキャを使ったオーム返しは無能のやることだ。
61日本@名無史さん:2011/08/12(金) 15:39:45.04
>>54
>自分の意見の合理的な理由も併せて書け。

書いてたら、遺作が頭から否定したり、中傷したりするから
皆、反論してるんじゃないの?
お前みたいなのが、最悪だよっ
伊作の空サイトへでも行け! 客引きでも手伝え!
62伊作:2011/08/12(金) 15:42:59.79
「銅鐸にしろ銅鏡にしろ。
その根源にある信仰的精神性に着目することこそ学問だ」。
高尚な文章を己の程度に併せて誤読してやがる。

>何んだい、単なる抽象論かい 素人は、これだからいかん
図星だろ。こんな切り返ししかできんのだ。お里が知れる投稿だな。

なお、ここでいう「お里」とは、
そいつが受けてきた教育のレベルをいう。わかったな
63日本@名無史さん:2011/08/12(金) 15:48:36.75
>>60 名前:伊作
>「三流文献に依拠するオタクは論外とする」。
>自論に都合のいい記録はないかと文献漁りをして三流文献に行き当たり、
>その文献とその記録の資料価値を度外視して飛びつくっての、
>ど素人のお決まりパターンの一つだが、もう古い。

それが、過去の伊作ちゃんの姿なんだ。
チミがそうしたからといって皆がそうだとはかぎらないZo.
翰苑の記述が正しいかどうか、むじゅんがはせいしないかどうか
をけんしょうするがじぶんのつごうのよいきろくをさがしたことなどいちどもないな。
おれは、伊作ちゃんじゃないからNa.
64伊作:2011/08/12(金) 16:03:17.45
>>63
>それが、過去の伊作ちゃんの姿なんだ。
ははーん。その切り返しが実態とは遊離したウソだが。
お前、俺のことをどこまで知ってるというのだ?
俺は二流・三流・異聞とされるクソ文献を採用したことはない。
『後漢書』倭伝や『梁書』倭伝など二流と位置づけているほど厳しいんだぜ。

「メタンガスおなら」みたいに軽い投稿ばかりだが、
まさか「あらため」の屁っぴり野郎じゃあるまいな。んー?
65伊作:2011/08/12(金) 16:16:52.61
>>61
>書いてたら、遺作が頭から否定したり、
大した探求もせずに思いつきをいうから、
論理的に「そうではなくこうだ」と教えてやってるだろが。

>中傷したりするから
中傷などせん。事実を事実として提示している。
がんじがらめに論理で潰されて、ヒステリックにわめくようじゃ、
思考力に粘り強さがないことを自分で暴露してるようなもんだ。

>皆、反論してるんじゃないの?
反論じゃないんだ。
出された意見対してではなく、意見を出した人間のことを
「どうこう」といい始める。それが中傷であり不当な人格非難というものだ。

>お前みたいなのが、最悪だよっ
ヒステリックにわめくな。めめしい

>伊作の空サイトへでも行け! 客引きでも手伝え!
けっこう。俺のサイトは82が中3日でカテゴリ検索に入れてくれたしろものだ。
不偏中庸な良識がしかるべく評価してくれているのだ。
毎日100件を超える訪問と数百に及ぶ閲覧数をはじき出している。
もう30万件を遥かに越えた。余計な心配はしてくれるな。
66伊作:2011/08/12(金) 16:30:37.92
>>61

類い稀なほどに小細工やまやかしに頼らず、
極めて論理的に誠実に歴史を考えているこの天才が、
直に相手をしてやっているのだ。千歳一隅のチャンスなんだぜ。
本当の歴史を知りたいという者には最高の存在だ。
逆におかしな論を垂れる奴には煙たいかぎりだろう。

おかしな論を垂れる奴は、どこかで必ず小細工やまやかしをいう。
俺は小細工やまやかしをしないから、議論をしても絶対に勝つ自信がある。
ウソの歴史をいう奴にとっては最も手強い論客だろうな。
お前らもそのことが分かっているから手を出しにくいんだろ。
歯がゆいのも分からんではないが、
好き勝手を許さない正義感が、俺が2ちゃんに登場した最大の動機だ。

ウソ・小細工・まやかし抜きで、俺と純粋に議論する気があるならば
こい。「伊作の夏休み講座」だ。謙虚になれば勉強になるぞ。
ま・てめえらは勉強するというよりも、
好き勝手な歴史を吹きまくりたいだけなんだろうがよ。
67日本@名無史さん:2011/08/12(金) 16:56:58.61
>>54

わからないことがあったら自分で勉強しろ。

そうすれば、伊作の話がいかにバカげてるかがわかる。

68日本@名無史さん:2011/08/12(金) 17:26:34.88
>>55 >>61 >>67
伊作氏の論理が間違っていると考えるのならば、堂々とそれを論証すれば良い。
その論証ができないならば邪馬台国論に口出しする資格は無い。
伊作氏の話がバカげていると考えるのならば、バカげていることを堂々と論証
すれば良いではないか。それこそ邪馬台国研究者の姿勢だろう。
69日本@名無史さん:2011/08/12(金) 17:36:01.21
>>68
>伊作氏の論理が間違っていると考えるのならば、堂々とそれを論証すれば良い。

いちいち市販の考古学の本をまる写ししてペコピしろというの?

さんざん、前スレから、関門海峡を境に文物の流れが停滞してた痕跡が無いと言ってるだろ。
考古学のどの本を見てもだな、関門海峡を境に九州の遺物、鉄などが出なくなる、という様子は見られないんだよ。
見られるのは、遠賀川を境に、東ではカメ棺が出なくなるくらい。
したがって、博多湾の勢力は、関門海峡を支配してなかったことの傍証になるわけだ。

それに対して伊作は、なんら具体的な証拠を示さず、
九州勢力は関門海峡をコントロールしてたとか、言ってるわけ。
証拠を出して論じなければいけないのは伊作のほうなんだよ。
70日本@名無史さん:2011/08/12(金) 17:44:53.01

九州の人々が、九州から近畿に移り住んだとかなんとか。

そりゃあ、弥生人が九州から近畿に来たことは事実だが、
それを邪馬台国の時代にあてはめるのは論理が間違ってる。
弥生人は、弥生時代からじわじわと近畿に生活圏を広げていったわけで、
当の弥生人は、「おいどんは九州の人間ばってん、近畿を征服してやるたい」などとは思っていまい。

たんなる弥生人の生活圏の拡大を、邪馬台国の東遷と同一に語っちゃうところが、伊作の滑稽なところ。
誰もマジメに聞くわけねえだろ。
71日本@名無史さん:2011/08/12(金) 17:50:16.72
邪馬台国の時代というのは、弥生人は尾張や関東まですでに生活圏を拡大してる。
それは、「九州からの東遷を受け入れるための先遣隊」などではない。
弥生人の子孫が、玉突きで東に移住を繰りかえしていっただけ。
自分達の祖先が九州から来たからといって、九州に帰属意識なんて持ってるわけないし。

ヤマトの弥生人、唐古・鍵の人々が、「どうぞ、九州の王様、ヤマトに東遷して、天皇になってください」なんて考えてたと思うのか?
伊作の頭の中では、そういうストーリーみたいだがな。
もうね、漫画以下。
72伊作:2011/08/12(金) 17:54:22.67
>>69
「考古学の本・考古学のどの本を見ても」・か。
考古学は土の下ばかり向いてるからな、
ツラをあげてものごとを考えなきゃだめだ。

関「門海峡を境に九州の遺物、鉄などが出なくなる、という様子は見られない」。
だから。鏡にしろ鉄にしろ。瀬戸内の奥は遅れてるだろ。
まんまグラデーション現象だ。
九州勢力が関門海峡の通交をコントロールしていたといえば、
遮断になるのかタコ。
おこぼれ頂戴だ。後進の瀬戸内方面へ、
ちっとは九州から流れていたというだけのことだろが。

「九州勢力は関門海峡をコントロールしていた」。
いずれ考古学もその視点から歴史を組み直すことになる。
もっとも、畿内説考古学は絶対にやらないだろうが。
73日本@名無史さん:2011/08/12(金) 17:58:39.97
>>72
>「九州勢力は関門海峡をコントロールしていた」。

だから、どんな勢力か?って再三聞いてるんだろ。
74伊作:2011/08/12(金) 18:01:00.96
>>69
> 証拠を出して論じなければいけないのは伊作のほうなんだよ。

考古資料だけが証拠じゃないぜ。むしろ考古所見で確かだったためしがあるか。
つねにひっくり変える危険を孕んだ陳腐な所見ばかりだろうが。
考古に頼らず考古の風評などアテにせず、
地理・地形から人間心理など多方面から延々と書いたが、
それらは全部無視のスルーか。

他人の意見を否定するなら、
お題目唱えるだけの新興宗教信者みたいなマネではなく、
相手の論拠を一つ一つ無具体的に潰すことだ。やってみろ。
できもしないから、ただの否定文言羅列なんだろが。
75日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:05:54.87
「邪馬台国時代のツクシとヤマト」:学生社より
p5-6から抜粋

竪穴住居は、北部九州の場合は柱穴は2本だけのものが基調。それが後に4本柱に移行する。
豊前や築豊では、後期中葉の段階で4本柱が存在するが、
築前や築後では、庄内式並行期に、肥前では、布留式古・中段階に現れる。

つまり、九州の竪穴式住居は2本柱が主流だったものが、
弥生時代後期から、邪馬台国の時代にかけて、
竪穴式住居の4本柱の割合が、「東から西」へと、緩やかに伝播した。
これが考古学上の事実。


76日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:09:00.93
>>72
>鏡にしろ鉄にしろ。瀬戸内の奥は遅れてるだろ。 まんまグラデーション現象だ。

ここは、考古学を鵜呑みにしてるのに、

>>74
>考古資料だけが証拠じゃないぜ。むしろ考古所見で確かだったためしがあるか。

考古学を否定している。

自説に都合の良い、考古資料は重視するが、持説に合わない考古資料は無視するという、
そういうスタンスでは、誰からも相手にされませんよ。



77伊作:2011/08/12(金) 18:13:13.18
>>70
>弥生人は、弥生時代からじわじわと近畿に生活圏を広げていったわけで、
九州から計画的に派遣されたものも含めてな。
それからまやかしをいうな、
卑弥呼が女王になったのは西暦190年か200年か。
いずれしても卑弥呼の時代は弥生時代だぜ。

>たんなる弥生人の生活圏の拡大を、
弥生時代に、畿内が先進的になった事実があるか。
何ヵにつけて人的な香りがするのはなぜだ。

>邪馬台国の東遷と同一に語っちゃうところが、
日本の古代史は東遷抜きではなり立たない。
お前たちは「人・もの・文化・技術・知識」の流れの現実を正視せず、
逆流か突然変異的発展と言い張るだけだろうが。


>>71
>>弥生人の子孫が、玉突きで東に移住を繰りかえしていっただけ。
マンガ以下だが。

> ヤマトの弥生人、唐古・鍵の人々が、
>「どうぞ、九州の王様、ヤマトに東遷して、天皇になってください」なんて考えてたと思うのか?
なんかこう。デキのわるい小学生なみの投稿だ。
引用して再掲するのも恥ずかしい内容と文章だ。
「ヤマトの弥生人」「唐古・鍵の人々」は九州からやってきた開拓者たちだ。
78日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:17:18.91
「邪馬台国時代のツクシとヤマト」:学生社より
p30から抜粋

遺物から見て、弥生時代後期には。九州以外の地域が、九州を介さずに交易をしはじめた可能性がある。
その根拠のひとつに、
朝鮮半島の特産品である鉄斧の出土地をたどると、
朝鮮半島〜対馬〜壱岐まではたどれるが、北部九州では見つかっていない。
むしろ、瀬戸内海地域や、山陰地方で見つかっている。


弥生時代後期では、朝鮮半島の鉄斧は、九州を経由せず、壱岐から瀬戸内海や出雲が頂いていたということ。

これで、九州勢力が関門海峡を封鎖してたとか、ちゃんちゃらおかしいですぜ。>伊作
いままでさんざん無知を露呈して恥ずかしくないのかね?



79日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:23:25.64
伊作の情報は古臭い気がするな。
三世紀には瀬戸内までは半島と直接交易してると考えるられだろ。
淡路島にだって鉄器工房が確認されてるのに。
80日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:24:28.61
伊作
「君子危うきに近寄らず」
自己防衛本能はかなり強いな
82で負けない振りを勉強したんだろ
【真面目な投稿者が来ない】が一番の悪
「消えてナクナレ」が大勢
81日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:27:34.77
結局伊作は何処に邪馬台国を比定したいんだ?
82日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:29:34.16
DNAを見ても、大陸由来の下戸遺伝子は近畿に多い。
九州は少ない。

渡来人は、九州を介さずに直接近畿に流れたとしたほうが、真実味はあるな。
83伊作:2011/08/12(金) 18:29:55.40
>>76
そういうのを言葉尻・あげ足というのだ。
「考古学の本・考古学のどの本」と考古一辺倒でそれが証拠のようにいうから、
「考古資料だけが証拠じゃないぜ」とな。
で・現実に考古に頼らず考古の風評などアテにせず、
地理・地形から人間心理など多方面から延々と書いた。ときた

俺は畿内説者のいう考古所見はまったく信用しない。
俺が考古を批判するときは、だいたい畿内説者考古をさす。
わりーな。
考古資料もごまかしのない所は採用する人だ。なんか・文句あるか。
84伊作:2011/08/12(金) 18:30:52.94
>>76
そういうのを言葉尻・あげ足というのだ。
「考古学の本・考古学のどの本」と考古一辺倒でそれが証拠のようにいうから、
「考古資料だけが証拠じゃないぜ」とな。
で・現実に考古に頼らず考古の風評などアテにせず、
地理・地形から人間心理など多方面から延々と書いた。ときた

俺は畿内説者のいう考古所見はまったく信用しない。
俺が考古を批判するときは、だいたい畿内説者考古をさす。
わりーな。
考古資料もごまかしのない所は採用する人だ。なんか・文句あるか。
85伊作:2011/08/12(金) 18:34:30.69
>>75 名前:
>「邪馬台国時代のツクシとヤマト」:学生社より
必死で「東から西へ」の実例を探してきたか。
どうせ眉唾だろうが、正しいとしても万に一つの例外だ。

な。100りうち1か2の例外を持ち込んで
それが100でもあるかのようにいうのは、
程度の低い詭弁手法だ。
最近はあまりみかけなくなったぞ。
86日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:36:50.80
最新の考古学を一切信用しないから、(畿内説からみると)
伊作の論は古臭い感がある訳だな。
まぁポリシーの問題なので何も言わないが、
これから色々矛盾が拡大すると思うぞ。
87日本@名無史さん:2011/08/12(金) 18:39:02.63
こっちは、

伊作がどうしうようもなく墓穴を掘っていく様をニヤニヤ眺めてるだけなんだけどね。

結局、自滅するのは伊作のほうなわけで。

88伊作:2011/08/12(金) 18:40:19.50
>>82
>DNAを見ても、大陸由来の下戸遺伝子は近畿に多い。 九州は少ない。
何百年代のDNAだ?  弥生時代のDNAか?
半島から誘致するようになった以降の集団労働者たちのDNAか?
近畿は高句麗・百済など滅亡のたびに集団で移住してきた場所だ。
不十分な出し方でまやかしをいうな。ウソつき野郎

>渡来人は、九州を介さずに直接近畿に流れたとしたほうが、真実味はあるな。
どうやって近畿に入ったというのだ。そこまで述べてこそ真実味のある意見だろ。
89伊作:2011/08/12(金) 18:44:16.21
>>73
>だから、どんな勢力か?って再三聞いてるんだろ
前スレッドに詳しく書いたが、
てめえが見ていないのか・そのくせ態度がデカすぎるぜ。

てめ・タチもそうとうにわるそうだな。
90伊作:2011/08/12(金) 18:53:51.50
>>86 >>87
何とでもいえ。
俺は畿内説を唱える考古学者とその考古学所見もまったく信用しない。
そうしてきたのは誰あろう畿内説を唱える考古学者たちだ。
コンチキ図、神獣鏡、年輪年代法、C14炭素測定法、纏向、箸墓。
連綿とうさん臭い伝統があるしな。

ま・今後論争されるのは、土器編年だろう。
俺は畿内説のいう土器年代など信用しない。
まして、葬送儀礼に使う土器はわざわざ古式豊かなもを使うものだ。
(7世紀ごろの古墳に古式の円筒型埴輪をめぐらすとかよ)。
従って、出土した土器で古墳の築造年代をはかる
畿内説的手法は俺的にはみな没だな。わりーな
91日本@名無史さん:2011/08/12(金) 19:04:25.37
>>90

そうやって、全国の考古学博物館を敵に回すもいいけど、
君の論は、所詮、九州説のアマチュア愛好家しかも低レベルの読者にしか支持されないだろうね。

ネットの中のお山の大将って気分いいものなの?

外に出て、考古学研究所の学芸員と話をしたほうが、よほど面白い話が得られると思うんだけどねえ。九州説にしてもね。ば〜か。
92伊作:2011/08/12(金) 19:16:09.49
>>91
何度いえば分かるんだ。
俺は全国の考古学博物館を敵に回しちゃいない。
畿内説に有利な所見を並べる考古学を信用していないだけよ。
その理由はすでに明確に述べた。

九州の考古学者たちは、ガツガツしていないんだよ。
畿内説のように「ここにあった」といわなきゃならん
義務感も使命感もないし・のんびりしたものよ。

日本の考古学の欠点は、地域ごとに分断された形で孤立している所だな。
勢い地域迎合に走るし、地域視点でしか考えない。
「日本考古学センター」みたいなものがあって、
全国の発掘データを集積して、形質・作風・材料などを分析と照合するような、
本当の意味での学術的組織づくりが必要だ。

現状ではややもすると、俺たちの共有財産たる出土品すらも、
地域の研究機関や教育委員会の所有物と考えている節すらある。
これは俺の実体験による所感だ。文句あるか?
93日本@名無史さん:2011/08/12(金) 19:24:42.95
なんだ結局ご都合主義なだけかよw
94伊作:2011/08/12(金) 19:25:38.46
●土器による年代規定の危険性。

ある様式の土器が登場して廃れるまで200年間としようか。
登場しはじめ本格的に普及するまでには、
それ以前の古い様式の土器と重複する期間がある。
また廃れるまでには、新しい様式の土器と重複する期間がある。
しかも葬送儀礼にはわざわざ古式豊かな土器を使用することもある。

いったい日本の考古学は、何をもって土器の年代を決定しているのか。
それがいつ制作されて副葬されたものかをどうやって決定しているのか。
土器による年代測定も、50年100年という期間の見誤りが簡単に生じるのではないのか。

庄内式だ・布留0式だ・布留1式だという議論も見るが、
この年代区分も何やら胡散臭いものがぷんぷんしている。
「アテにならない基準」というのが正直なところよ。
95伊作:2011/08/12(金) 19:34:22.16
>>91
おい・ちょっと待てよ。

>「全国の考古学博物館を敵に回すもいいけど」
とは妙に唐突だな。
考古学博物館などと名指しで悪口も批判も述べたことはないぞ。
おまえ、どこかの考古学博物館の下っぱ学芸員か?
さもなければ、まったく唐突勝手に
「全国の考古学博物館」などいうセリフば出てくるまい。

>考古学研究所の学芸員と話をしたほうが、
どうやら、どこぞの考古博物館の・うだつのあがらん学芸員という所か。
ま・こんな所でヤジ飛ばしてるんだから、大したタマじゃなかろう。

わらわら
96日本@名無史さん:2011/08/12(金) 19:40:15.93
>>95

考古学者の言うことを信用しないってことは、
考古学の研究して論文書いて、展示品の解説をしてる学芸員を小バカにしてるってことだよ。

気が付かないなら、全国どこでも、九州の考古学博物館でもいって、
「畿内説は信用しない」とか言ってみなさい。
九州でも苦笑されるから。
97日本@名無史さん:2011/08/12(金) 19:50:34.82
あれ?
もしかして、考古学博物館と考古学者は無関係で、
伊作の説は考古学博物館からは歓迎されて、
いつか「伊作の東遷説展」なんてものを開いてくれるとか思ってた?

ごめんね、夢を壊して。ごめんねえ。プ

98伊作:2011/08/12(金) 19:55:53.10
>>96
むきになってる所をみると図星だったらしいな。

あのな。
俺たちはしょせん素人・門外漢・外野席の人よ。
学会が振り返ってくれることもないし、まして認めてくれることもない。
だから、しがらみのない立場でものをいい、
間接的にも自浄作用を促そうとするのが素人の特権よ。
学者同士は遠慮があっていけねー。素人しかできないことだ。

どだ。素人の指摘に「どきっ」としたか。
このぐらいにしとけ。
助成金獲得・発掘調査・復元・ハコものづくり・展示・集客・地元興し。
こういったこととつねに表裏一体の考古学だ・きれいごとだけじゃあるまい。
現実に世間を揺るがせた事件も考古学の世界だったよな。

引用ごとは正確に書く習慣をつけろ。
「畿内説は信用しない」ではない。
「畿内説を唱える考古学者とその所見は信用しない」だ。
もっとも、畿内説そのものも信用していないが。
99日本@名無史さん:2011/08/12(金) 19:59:52.07
>>98

>「畿内説は信用しない」ではない。
>「畿内説を唱える考古学者とその所見は信用しない」だ。
>もっとも、畿内説そのものも信用していないが。

ちなみに、九州説の高島氏は、東遷説を否定してるわけだが。

理由は、九州勢力の東征の痕跡が無いという、考古学上の事実から。

それも、否定するおつもり?


100日本@名無史さん:2011/08/12(金) 20:00:51.37
横だけど。
私は近畿のある考古博物館で学芸員にきいた。邪馬台国関連の展示をしていた。
畿内説オンリー。「じぁ倭人伝にある東の海ってどこ?」 気の毒にその学芸
員は一言も答えられなかった。−−−−学芸員なんてそれくらいのレベル。
101日本@名無史さん:2011/08/12(金) 20:09:18.37
>>99
>九州説の高島氏は、東遷説を否定してるわけだが。
この人物の書物を手にしたこともないし・論旨も知らない。
俺にとってはどうだっていいことだ。

京都大学出身者にも九州説をとるのはいるだろう。その程度のことだ。
102伊作:2011/08/12(金) 20:15:37.57
>>97
>もしかして、考古学博物館と考古学者は無関係で、
>伊作の説は考古学博物館からは歓迎されて、
>いつか「伊作の東遷説展」なんてものを開いてくれるとか思ってた?
>ごめんね、夢を壊して。ごめんねえ。

なんだーこの分裂投稿は。お前の頭が壊れてるわ。
やみくもに飛躍するように回路がショートしてるぞ。
103日本@名無史さん:2011/08/12(金) 20:19:10.43
>>100

その程度で勝ち誇ってる>>100のほうが気の毒な感じだな。

104伊作:2011/08/12(金) 20:26:18.78
>>103
うんうん。
飯を食わなきゃならんし・昇進もしなきゃならん。
しかるべきポストも欲しいし・最終的には教授の名もほしい。
めぼしい発見もしたいし・売れる本も書きたい。

にんげんだもの。
105伊作:2011/08/12(金) 20:55:11.26
いま・ふと・思ったが。

俺がいると出づらいのもいるようだな。
いなきゃいないでつまらんし・てか。
じゃ盆休みだ。
106夏休みの友:2011/08/12(金) 21:10:48.35
先生、いねなった?
夏の補習授業きびしかね。
107日本@名無史さん:2011/08/12(金) 21:51:09.41
>>100
その倭人伝自体が検証出来てないじゃん
検証出来てない資料を真実のように語られてもウゼェーと思われたのでは?
108日本@名無史さん:2011/08/12(金) 21:55:52.44
九州説の人は何故そこまで魏志倭人伝を信用出来るの?
スゲェー不思議なんだが
たしかに0ではないが、検証出来てないからあくまで参考って考えにはならんの?
109日本@名無史さん:2011/08/12(金) 22:00:13.84
おかしいと思うところがなかったら、信用していいだろうが。
110日本@名無史さん:2011/08/12(金) 22:06:40.52
>>109
放射説だぁー、短里だぁー、それは違うだぁーってやってるのに?
おかしいところないって言ってる人は自分の説を正しいと信じ込んでるだけでしょ
他の人を納得させれられない
111日本@名無史さん:2011/08/12(金) 22:12:26.47
2チャン見てたら、世の中にトンデモがいっぱいいることはすぐ分かるだろ。
そんな連中を納得させられないからって倭人伝のせいにしちゃいかんな。
112日本@名無史さん:2011/08/12(金) 22:42:58.81
>>98

>間接的にも自浄作用を促そうとするのが素人の特権よ。
>学者同士は遠慮があっていけねー。素人しかできないことだ。

そうやって素人の書いた歴史本が生まれては消え生まれては消え……。

なんで消えて行ったかわかる?
考古学は信用できない、間違った考古学を正す、本当の歴史観を提示する、なんていっても、
着々と提示されてくる本物の考古学上の事実と、どんどん自説が合わなくなり、
トンデモ本の類にしかならなくなっていくからさ。

騎馬民族説とか、東遷説なんてその極みなのに。

伊作の目的が、東遷説の証明なら勝手に自滅しろって感じだが
それなりに研究家として名を残したいつもりなら、多少のアドバイスは出来る。
考古学をきちんと勉強しておけと。人生は短いぞ。
113日本@名無史さん:2011/08/13(土) 00:21:25.48
>>85

あまり理解してないみたいだから、もう少し詳しく書くと、
弥生時代後期では、遠賀川の西のブロック=イト国、ナ国では、
カメ棺を作り、竪穴住居は2本柱だった。

その後、弥生時代末になると、カメ棺は作らなくなり、
遠賀川の東のブロック=あえて言えば宗像氏の勢力の、4本穴の竪穴住居が、
イト国、ナ国のあった場所に広まる。
平原遺跡も終焉する。

これはどう見たって、九州勢力の東征というより、東からの侵攻を受けてナ国は衰退したと見るべき事象だよね。
まず、事実を受け止めてから、魏志倭人伝なり神話解釈を交えて語るべきですな。
倭人伝にも神話にも一致しない事実だけどね。
どちらの文献も信用できないと、勇気を持って認めるならば、
「古臭くない」「九州説」も作れるんじゃないかな?


114日本@名無史さん:2011/08/13(土) 00:59:57.94
古臭さと御都合主義は九州説の難点だな。
115日本@名無史さん:2011/08/13(土) 04:12:47.70
こういうと語弊があるかもしれないけど
九州説は、邪馬台国を見つけたいのではなく、私だけの邪馬台国を見つけたいんだよね
だから自説の矛盾は許容出来て、他の九州説の矛盾は酷い中傷をするのが多々見受けられる
畿内説の矛盾にはもっと酷く中傷することになり、私だけは知っているとなる
そして、巨大な何かと戦ってる人が多いのも九州説の特徴
116日本@名無史さん:2011/08/13(土) 06:30:33.82
>>113
>遠賀川の東のブロック=あえて言えば宗像氏の勢力の、4本穴の竪穴住居が、
>イト国、ナ国のあった場所に広まる。
で、本州における四本穴の竪穴住居の分布状況は?
117日本@名無史さん:2011/08/13(土) 06:47:14.03
>>115
>巨大な何か
そりは、畿内説の利権構造だな
118日本@名無史さん:2011/08/13(土) 06:55:58.91
出ました

九州説お得意の陰謀論w
119日本@名無史さん:2011/08/13(土) 08:08:35.86
>>98
>俺たちはしょせん素人・門外漢・外野席の人よ。
学会が振り返ってくれることもないし、まして認めてくれることもない。

  何だ最初から負け犬か、情けない奴だな
  読んでて損した
120日本@名無史さん:2011/08/13(土) 08:19:29.43
>>117
利権体質から抜けられないのは、九州説が
候補地すら統一されない時点で気づくだろw
121塩土老翁:2011/08/13(土) 08:27:09.95
>>113
>弥生時代末になると、カメ棺は作らなくなり、
 九州勢力の東征というより、東からの侵攻を受けてナ国は衰退したと見るべき事象だよね。

 甕棺は、韓国南部から対馬、壱岐経由で天降って来たのだろう。
 箱式石棺に進化したんだよ。子供用は、甕棺のままだぞ。
 住宅は利便性、流行の部類じゃないのか。
 地方区の宗像族に秋田県までの全国区の安曇族が負けて侵攻されたの?
 
 
122塩土老翁:2011/08/13(土) 08:54:03.06
対馬、壱岐、長崎、志賀島、和布刈神社、淡路海峡の垂水、尾張の綿神社に
ワタツミ神社を持つ 安曇族が東遷の足だろう 。
特に、和布刈と明石市の垂水「海神社」は強烈な場所にある。
日本書記編纂の為、持統天皇が十八氏に墓記を提出させている中にも入っている。
安曇族を配下に置ける勢力が天孫族だろう。 

123日本@名無史さん:2011/08/13(土) 09:12:52.97
>>122
安曇族はどこから日本にやって来たんですかね?
124塩土老翁:2011/08/13(土) 11:30:15.88
>>123
これが難しいところで
淡路島の海人族が統一して安曇族を形成した、という説もある。
一番古い土地名は、応神天皇紀の福岡市新宮浜安曇郷であり、
そこの安曇大浜宿禰が統一した、という説もある。
昔、講演を聴いた時、九大講師が安曇族の記録が残ってれば
大筋の古代史は解明できると言ってたね。
 私は、長江〜ベトナムの人々と思っている。
志賀海神社の奉納されてる鹿の角(約1万本)は、最古のもので
約二千年〜二千五百年前といわれている。
時期的にも呉の移民と合ってる。
125日本@名無史さん:2011/08/13(土) 12:04:25.02
三重だか長野に無かったけか?
126塩土老翁:2011/08/13(土) 12:12:46.01
「楽浪の 思賀の辛崎 幸く有れど 大宮人の 船待ちかねつ」 柿本人麻呂

壬申の乱で荒廃した近江大津宮を偲んで歌った。
思賀は志賀であり、十世紀からは滋賀と書いたが、「和名抄」訓では志賀と呼んでいる。
琵琶湖西岸は、志賀町、安曇川が現在も地名で残っているが「あど」と呼ぶ。
安曇は、アドンと呼ばれていて可能性がある。
ここでは、和邇氏と共存している。和邇積であり、海人族だろう。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/hyoushi.html

安曇族こそ、「自謂太伯之後」と推測しています。
127日本@名無史さん:2011/08/13(土) 12:24:49.24
>>77 :伊作
>>70
>>弥生人は、弥生時代からじわじわと近畿に生活圏を広げていったわけで、
>九州から計画的に派遣されたものも含めてな。
>それからまやかしをいうな、
>卑弥呼が女王になったのは西暦190年か200年か。
>いずれしても卑弥呼の時代は弥生時代だぜ。
{「凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 
 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國」・・・後漢書

武帝は、前漢の第7代皇帝で在位は紀元前141年から紀元前87年迄。
紀元前87年には既に「邪馬臺國」も「大倭王」も存在した。

「其地大較在會稽・東冶之東」・・・・後漢書
漢代に冶県が設置され、後漢により冶県西部に侯官県が新設されたのは、
建安元年(196年)である。であるから「會稽・東冶」という時、
冶県西部に侯官県が新設された後のこととなる。
したがって、建安元年(196年)頃の倭の南の境界が「會稽・東冶之東」、つまり沖縄(北緯26度)であった、ということです。

遡って、紀元前87年頃の倭の南の境界は、沖縄から更に南の与那国島迄。
「去其西北界拘邪韓國七千餘里」・・・・後漢書

「其大倭王居邪馬臺國」の「大倭王」は、女王であるが、
「卑彌呼」だったか否か? 
別人なら、「卑彌呼」は「邪馬臺國」の女王ではない。


128塩土老翁:2011/08/13(土) 12:24:50.82
>>125
安曇野でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9B%87%E9%87%8E

ここは、白村江の後でしょう。
「御船祭り」は、船同士をぶっつけあう壮大なまつりです。
穂高神社は、安曇連比羅夫命が祭神です。
129日本@名無史さん:2011/08/13(土) 13:49:32.59
>>128

アズミは、応神の時代に、九州の海人として認められたわけだから、
本州進出はその後だろ。
きちんと文献を読めばかもの。

130日本@名無史さん:2011/08/13(土) 13:59:46.26

邪馬台国もだけどさあ、、


在日ばかりの創価学会がやってる自殺強要・集団ストーカー犯罪

優秀な日本国民狩りだってさ。

創価の連中は祖国に帰れといいたい。


日本国民の自殺者が増えてるのは創価の集ストのせい。

殺人創価は出て行ってほしい。


俺にとっては邪馬台国の事と同じくらい

この殺人集団の撲滅は大事な事なんだが、、、


131日本@名無史さん:2011/08/13(土) 14:18:31.17
アヅミ族というのは、操船のベテランだよね。
遠く太平洋南方からやって来たのでは?
132日本@名無史さん:2011/08/13(土) 14:55:47.14
ここに海幸彦、山幸彦のはなしを絡めるのも面白そう
133塩土老翁:2011/08/13(土) 14:58:30.40
>>129 名無史さん
>きちんと文献を読めばかもの。
 応神紀
 「十一月、各地の海人が騒いで命に従わなかった。阿曇連の先祖大浜宿禰を
  遣わして、その騒ぎを平げられた。」
 全国の海人が、安曇系統だったから大祖に平定させたのだろう。
 全国の海人が安曇族に関係ないなら、従わないだろう。
 文章の意味を理解しろ! 大ばかもの。
134日本@名無史さん:2011/08/13(土) 15:30:06.10
>>108
邪馬台国のことが詳しく書かれているのが魏志倭人伝だから。
魏志倭人伝を初めとする中国の歴史書がなかったら、邪馬台国も卑弥呼も
存在しないのと同じ。

>>112
邪馬台国と考古学がなじむのかどうかが問題だろう。
後漢書には、1世紀の日本に百余の国があったと書かれている。考古学では
これらの国がどこにあり、何という名前の国で、王は誰かなんてのは全く
わからない。

もし、これらが考古学でわかるならば、考古学はこの種の問題の参考になる。
しかし、わからないのだから、あまり大きなことは言えない。

卑弥呼時代の邪馬台国やそのほかの国の名前がわかるのは、魏志倭人伝などの
文献があるおかげ。にもかかわらず、魏志倭人伝よりも考古学が優先するかの
ような発言はおかしいだろう。
135日本@名無史さん:2011/08/13(土) 15:45:08.10
129対133  133の勝ち。

134氏に一票。 日本中のどの遺跡からも「邪馬台国」も「卑弥呼」も出てい
ない。今日現在でも。
136日本@名無史さん:2011/08/13(土) 16:33:44.52
>>133

ばかはおまえ。

全国の海人が、全部、安曇系統だったとか、妄想もたいがいにしろ。

尾張氏、海部氏、津守氏など安曇と無関係な氏族はいっぱいいる。
137日本@名無史さん:2011/08/13(土) 16:36:45.64
>>134

魏志倭人伝に書いてあったからといって、考古学で証明できなければ、
中国人の作り話と同じだよ。
138日本@名無史さん:2011/08/13(土) 16:41:06.23
花弁状住居跡
139日本@名無史さん:2011/08/13(土) 16:43:55.40
>>138

九州の南部に多くある住居跡だね。
近年、九州各地でみつかり、朝鮮半島からの渡来人のものだとされる。

花弁状住居跡は本州では全くみつかってないので、ここでも九州勢力の「東征」は否定される。



140日本@名無史さん:2011/08/13(土) 16:49:20.60
記紀にある東征は民族大移動ではないのだから、倭人伝とは関係ない
141日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:02:05.36
倭人伝に合致する住居が南九州中心に見つかっており、本州では見つかっていないということは、
南九州説を裏づけるな。
142塩土老翁:2011/08/13(土) 17:02:47.75
>>136
>尾張氏、海部氏、津守氏など安曇と無関係な氏族はいっぱいいる。

尾張にも「綿神社」名古屋市北区元志賀町2-53-1 があるだろう。
じゃ、何故志賀町なんだい?
海神綿津見と志賀町でも、無関係な氏族なの?
http://alay.at.webry.info/200611/article_15.html

人のことを気安く「ばか」呼ばわりするだけで、どんなレベルかわかるけどね!

 ヴァ〜カ
143日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:07:33.37
安曇族=安曇=馬食
なら熊本が関係するかもな?
確か馬食の習慣があるのは、熊本と長野だけじゃなかったけか?
まぁー邪馬台国の頃は馬は居ないらしいけど
144日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:17:14.77
>>134
1世紀だと「国」じゃなく「くに」じゃないのかね?
王と呼ばれるような人は居ないのでは?
145日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:17:29.19
南九州にはこんなのもあったな。畿内から出ていたら畿内説論者は小躍りしただろうに。

宮崎県串間市に強力な王がいた。文政年間に、日向国那珂郡今村(串間市今町)で 石棺から中国漢の諸候の証である
硬玉製の大きな【穀壁】が出土している。国内出土の壁としては、奴国の金印に劣らない秀品であり中国と直接交渉
できる 勢力の存在を示す貴重な資料である。
  「邪馬台国の暗号」  安田哲也著   鹿児島地検検事正 
146日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:21:13.91
>>142

それらの神社が弥生時代からあったことを証明するんだな。

だいたい、同じ名前の神社なんて日本中にある。
出雲大社はハワイにもあるが、出雲族はハワイも支配してたとか言い出しそうだな。

ばかめ。
147日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:25:24.61
日本中の安曇の地名をひっぱりだして、ほらこんなにあるから、安曇氏が日本中に移り住んで支配してたとか妄想してるんだろうが。

その地名がいつ付けられたのか、応神より前から安曇の地名が日本中にあったというなら聞く耳も持ってやるが、
日本書紀にヤマトタケルが関東に東征したとき、安曇なんて地名があったかね?
148塩土老翁:2011/08/13(土) 17:29:44.82
>>145
この穀壁については、松浦武四郎の記述と、現地の地名とに
微妙な違いがあって、出土した古墳が特定されていません。
したがって、研究者間で重要視されてませんね。
149日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:32:28.09
145のは出自が不明で肯定も否定も出来ないって物じゃなかったけか?
魏志倭人伝みたいだね
そういうと畿内説の陰謀だーって騒ぐのかもしれないけど
150日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:41:20.76
穀璧で証明するわけでなし、参考資料で十分です
151塩土老翁:2011/08/13(土) 17:45:00.33
>>147
>安曇氏が日本中に移り住んで支配してたとか妄想してるんだろうが。
誰も支配したなんて、言ってないだろうに???

>応神より前から安曇の地名が日本中にあったというなら聞く耳も持ってやるが
そんなこと、今頃分かるわけないだろうに。

>日本書紀にヤマトタケルが関東に東征したとき、安曇なんて地名があったかね?
誰も関東の話なんかしてないだろうに。

渥美半島は、安曇の名残りと考えるのが普通で、関係ありと思うのが普通だろ?

152日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:45:41.85
南九州から出たことには間違いないよな。どの古墳から出たかなんてことは
重要ではないよ。
153日本@名無史さん:2011/08/13(土) 17:56:41.07
>>148
>出土した古墳が特定されていません。
>したがって、研究者間で重要視されてませんね。
重要視しないのは、畿内説の役に立たんからだろ。
154日本@名無史さん:2011/08/13(土) 18:01:52.99
>>153
南九州から出たのならいいよねって意味を多分に含むのでは?
155日本@名無史さん:2011/08/13(土) 18:58:43.70
南九州は投馬だよ。
156日本@名無史さん:2011/08/13(土) 19:05:50.96
>>151

>渥美半島は、安曇の名残りと考えるのが普通で、関係ありと思うのが普通だろ?

全く関係ない。

どちらかが、片方の名称の起源だとしても、九州の安曇がオリジナルという証拠は無い。

いいかげんに、論拠の無い話をするな。
証拠をもってこい。



157日本@名無史さん:2011/08/13(土) 19:32:52.87
>>156
あなたが言っていることには証拠が有るかい? マンネリの時代劇ドラマの見
すぎと違うか。他の人も言ってるようだが、考古学でもほとんど何の証明もで
きていないんだよ。
158塩土老翁:2011/08/13(土) 19:39:17.70
>>156
>九州の安曇がオリジナルという証拠は無い。
 
だから最初に近畿統一説も言ってるだろう。

>証拠をもってこい。

志賀町と綿津見神で十分だろ。
安曇族は史料がなく、研究者達も手付かずの分野だ。
素人に証拠をもってだと???
159日本@名無史さん:2011/08/13(土) 19:40:37.81
>>157

俺は証拠の無いことを言った覚えはないが。

あと、考古学は、ヤマト王権が2世紀中葉から始まってることを証明してる。
もちろん、九州勢力の東遷なんてものがなかったことも証明済み。

論理的な帰結として、中国人が日本列島を眺めたとき、
九州で衰退中の勢力と、近畿で拡大中の勢力と、どちらを倭王と認定したかという話し。

当然、勢力拡大中の近畿ヤマト王権が倭王にふさわしい。
九州説を無理やり唱えるなら、衰退中の九州の女酋が中国人を騙して倭王を騙ったということだろうな。
そういう事情を全て認めるなら、九州説は生き残れる。
160日本@名無史さん:2011/08/13(土) 19:42:38.35
>>158

>志賀町と綿津見神で十分だろ。

4世紀前からその地名や神社があったことを証明しろといってるんだがな。
日本語がわからんのか?
161塩土老翁:2011/08/13(土) 19:55:26.18
>>159
何んだ、近畿説か
162日本@名無史さん:2011/08/13(土) 19:59:35.39
九州説は本当に御都合主義だよ。
163卑彌呼の都は久留米:2011/08/13(土) 20:04:42.78
  
「文章地図」の表現方法は素晴らしいので、

河童虫氏の言葉を拝借して使っています。
164卑彌呼の都は久留米:2011/08/13(土) 20:07:24.64
上記レスはスレ違い。ごめん
165日本@名無史さん:2011/08/13(土) 21:28:00.57
>>159
>あと、考古学は、ヤマト王権が2世紀中葉から始まってることを証明してる。
>もちろん、九州勢力の東遷なんてものがなかったことも証明済み。

デタラメ言っちゃあいけんぞな。ヤマト王権が2世紀中葉から始まったという考古学的証拠を具体的に
述べてみんさい。
おんしは知らんじゃろが、2世紀中葉では奈良盆地の大部分は沼沢で王権が存在できる条件(人口、食
糧生産力)は整っていない。王墓と見られるような遺跡もない。道具は石器や木器が主だ。

九州から先進の土木技術や農業技術を持った集団が入って来てから開発が進んだのだ。これが神武東征
という記紀の物語のもとになっているのだ。
166日本@名無史さん:2011/08/13(土) 21:43:20.68
>>165
場所すら判ってないのにね
167卑彌呼の都は久留米:2011/08/13(土) 21:59:13.79
>>165
>2世紀中葉では奈良盆地の大部分は沼沢で王権が存在できる条件(人口、食
>糧生産力)は整っていない。王墓と見られるような遺跡もない。道具は石器や木器が主だ。

そうだ。そうだ、奈良盆地の中南部は湖沼地帯だったのだ。
この地域が干拓されたのは、3世紀初頭、崇神6年との伝承がある。
168日本@名無史さん:2011/08/13(土) 22:13:13.45
>>159 名無史さん
>俺は証拠の無いことを言った覚えはないが。

>あと、考古学は、ヤマト王権が2世紀中葉から始まってることを証明してる。
>もちろん、九州勢力の東遷なんてものがなかったことも証明済み。

> いいかげんに、論拠の無い話をするな。
>証拠をもってこい。

レスつけるのが、楽でいいな。
169卑彌呼の都は久留米:2011/08/13(土) 22:20:00.16
>>167
「広瀬大社縁起」崇神9年 崇神6年は間違い 
170太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/13(土) 22:31:32.02
>>169

なぜ3世紀初頭と分かりましたか? 合ってますが。
171日本@名無史さん:2011/08/13(土) 22:38:13.30
『季刊邪馬台国』の最新号(110号)に森浩一の講演が載っている。

一番気になったのは、椿井大塚山古墳の報告書のくだり(32頁)。
1964年に梅原がこの報告書を出した。それに対して小林行雄が文芸春秋という雑誌に
「拝啓京都府知事殿」として非難した。小林が撮影した鏡の写真が用いられていると。

小林は、雑誌への寄稿という学者らしからぬ手段でこの報告書をお蔵入りに追い込んだ。
その結果、報告書は回収され、その後1989年まで長らくお蔵入りとなった。

この件について森は、小林は梅原の助手であり、写真は国の研究費(税金)で撮影しものであり、
それを税金で出版する報告書に使うことに、なぜ小林がクレームを言うのかと述べている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後、三角縁神獣鏡を大量出土した椿井大塚山の資料を見れる者は小林他数名だけとなり、
小林のみが公開されていない資料をもとに独壇場で三角縁神獣鏡の議論を独占し続けてきた。
他のものは資料を見ることができないので、批判どころか論評もできなかった。
この間、専門学校卒業の小林は京都大学の講師、教授、名誉教授と登りつめた。

椿井大塚山の報告書が公開されたのは小林が死去した89年であり、他の学者がその鏡の
写真を見て、小林の議論の検討をすることが可能となったのはこの後のことである。
森浩一がこの話をしたことの意義は大きい。
172日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:02:13.44
>>171

小林への怨念と、畿内説の正しさは無関係だけどね。
173日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:07:36.59
>>172
その畿内説の正しさを、ちょっと御披露願えませんか?
174日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:10:23.31
考古学の巨星、小林行雄も原田大六も
伊作の言う「高卒」だかんな。
原田は中卒だかんな。
しかし、彼らの研究は立派だよ。(人間が立派かどうかは知らんが)
175日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:11:04.70
>>172 そういう趣旨じゃない。

小林が公開されていない資料を独占した状況で、その公開されていない資料をもとに
学説を展開していた状況が30年以上続いていたということ。

その異常な状況に異論を述べることさえもできないいびつな状況が言論の自由に
基づくはずの学会で異常なほど長く続いたということ。

その状況が終わったはずの現時点でさえも、その異常さを批判する者がほとんどいない
という異常な状況が続いているということ。

三角縁神獣鏡に舶載鏡が含まれていると考える学者は、舶載説を表面的に主張している
少数だけだが、それを表立って批判することがはばかれるという異常な状況の根源は
すでに50年前に見られるということ。
176日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:11:46.19
>>159
畿内説のおっちゃん
反論はまだなの
泣き寝入りかい
177日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:14:30.38
まあ学者に言論の自由があったら畿内説なんてすでに消えてる罠。
178日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:16:47.26
>>175
言ってる意味がわからんな。

小林の「古い畿内説」は、この20年の間に、若手の研究者の手によって批判が繰り返され、
ほぼ畿内説の間でも小林の論文を引用するものなどいないというのが、現状のはずだが?


179日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:20:55.15
>>178
議論のすり替えって恥ずかしいねww
180日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:23:36.90
おおもとは税金かも知れんが
小林が提供したのは日本考古学協会を通じて拠出された科研費の一部
梅原が報告書を刊行しようとしたのは京都府の予算

しかも梅原は椿井の現場には立ち会っておらず、
梅原が行ったのは鏡を堀出した人夫に対する聞き取り調査程度で
報告書本文はほとんどが当時研究室助手の樋口隆康が執筆したもの。
梅原がそれに若干の手を加えて自分の名前で出そうとしたことに
長年梅原の人格に腹を据えかねていた小林が爆発したというのが真相

肝心の出土品は、国鉄用地(国有地)から不時出土したものを
科研費・京都府のお金で整理し、それを京大が預かるといった状態であったため、
京大が完全には責任を負えることができないことからお蔵入りしていたもの。
公開の原因は小林の鬼籍入りよりも国鉄分割民営化に伴う資産整理によって
国有品として京大が保管するという事に落ち着いたため。

なお、小林はお蔵入りした報告書以前に自著などに写真を公開しており、
「資料隠し」に積極的であった訳ではない。

181日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:30:56.82
>>175
>三角縁神獣鏡に舶載鏡が含まれていると考える学者は、舶載説を表面的に主張している
少数だけだが、

それは事実ではない
詳細は『三角縁神獣鏡研究事典』を一読されたし
182日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:35:46.36
>>180  というのが小林側の弁解の典型例。

梅原という独裁的なドンの横暴に反旗を翻して、自分がドンになったでござるよ。
というのが実際のところなんだな。

小林が管理していた「京大が保管していた鏡」は、その詳細写真を公開することが
できないわけではなかった。しかし、それはなされなかった。

自分が独占していた資料を小出しに公開しても、他者は断片的な資料では批判も論評も
できなかった。ゆに小林という新たなドンの独壇場が異常なほど長く続いた。

その異常な状況それ自体を批判する学者はいまだにほとんどいない。
今の学会の異常な雰囲気を物語るエピソードですな。
183日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:39:31.90
>>181
読んだよ。
本気で学問を生涯の職業とする者であれば、重要な批判に真摯に答えるのは当然だろう。

舶載説を表面的に唱えている人たちは、そうじゃない。
批判を必死に無視しているだけ。

学者としてのプライドはどこに行った?????

んなもん、最初からない?

やっぱりな。

より情けないのは、舶載説を無視して、「触らぬ神にたたりなし」を決め込んでいる連中。
184日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:40:57.35
三角縁神獣鏡が全て舶載鏡とか、古い畿内説を批判して悦にひたるしかなくなったのかね?

畿内説は自己批判を繰り返し、間違いを正して進歩してきてるわけだが、
それをウソだの捏造だのと子供じみた批判しかできず、
九州説を停滞させて瀕死に追いやってるのはおまえらだろうという。

九州説、とりわけ東遷説への批判は許さないという状況に対する自己批判はできないのかね?

185日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:43:34.54
>>184
また議論のすり替えですか??
なさけないねえ・・・
186日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:48:22.67
三角縁神獣鏡が全て国産でも、それが何?ってところまで畿内説は固まってるんだけどね。
187日本@名無史さん:2011/08/13(土) 23:52:52.60
>小林が管理していた「京大が保管していた鏡」は、その詳細写真を公開することが
できないわけではなかった。しかし、それはなされなかった。

またまた大嘘をw
『古墳時代の研究』とか『古墳文化論考』とか見たことある?

それに資料隠しとして小林を批判する森自身が
百舌鳥大塚山の遺物を永年私蔵していたのだがね
森も自分に都合の悪いことはだんまりだからな
188日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:01:36.13
>>185

すりかえじゃないよw
自分たちが生まれる前の畿内説や学会の旧態を批判されても、それに反論する必要も無いだろう、と言ってるんだよ。
議論がしたいなら、今の畿内説を理解した上で挑んできなさいな。
それも、ここじゃなくて別スレでね。
ここでも畿内の九州のと関係無いネタが出ることがあるので、一応覗いている畿内説の人間は多いが、
スレの主旨は尊重してるよ。
キミは、モロにスレ違いのネタに粘着しちゃってさ、いつもいつも場所を弁えない。
古色蒼然たる邪馬台国論争の相手を求めてるんだろうけど、それは2chでは難しいかもね。
189日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:02:06.91
>本気で学問を生涯の職業とする者であれば、重要な批判に真摯に答えるのは当然だろう。

読んでないの丸わかりw
あるいは読んだけど理解できなかったか?w
舶載説に立つ研究者は鏡そのものを丹念に観察して
大陸製のものと共通する点を指摘する論文を書いている

一方の全国産説の主張者は
それこそ「中国ではみつかっていない」で、思考が止まっていて、
次に行わなければならなかった鏡そのものの観察に基づく
大陸製品との技術的断絶や三角以前の国産鏡との共通点を指摘する
論文は書かれることがなかった

考古学という学問の研究手法に則れば
前者が説得力を持つと判断されるのが当たり前なんだがな

190日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:09:58.28
画文体が出てきちゃってから、三角の重要性はかなり後退したと思うが。

191日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:16:10.21
>>186
考古学的には畿内説。それは、とりもなおさず三角縁神獣鏡魏鏡説だった。
三角縁神獣鏡が国産なら「考古学的には畿内説」も白紙に戻すべき。
192日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:18:48.81
>>191
畿内説で三角国産説の人も多い訳だが。
193日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:19:37.65
>>191

30年前で思考停止かよじいさん。
194日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:20:16.21
しかしおかしな流れになっているな。
まあいつもの「恨み節さん」だろうがwww

そもそも「邪馬台国当選説」の成り立つ年代観の大元は小林理論によっていたと言う
最大の皮肉と言うかお笑い話なわけでw

安本が『季刊邪馬台国』でいくら過去の畿内説の学者の醜聞を取り上げようが
それで 「邪馬台国当選説」に浮かぶ瀬が出てくるわけでもなんでもないwwwww


>>189
>それこそ「中国ではみつかっていない」で、思考が止まっていて、

結局、「無批判・無条件の舶載説」から「無批判・無条件の国産説」に振り子が振れたような印象を受けるw

195194:2011/08/14(日) 00:23:15.08
おっと誤変換

「当選説」は「東遷説」な。

まあ未来永劫「当たり」の出ないくじみたいなもんだがwww

196日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:27:21.02
しかし九州説の人って平均年齢相当高いのか?
あまりに思考も情報も古過ぎないかい?
197日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:33:03.55
例え80歳や90歳、100歳でも(まあ倭人伝によると古代の日本にはそれぐらいの年齢がゴロゴロしいてたっポイがw)
現代なら書籍やネットでいくらでも新しい情報は得られる。

ゴミクズレベル九州説は年齢に関係なくある時代のある環境を好んで
自ら喜んでそこに閉じこもっているんだよなwww

198日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:35:25.44
>>193
邪馬台国論争の歴史というものも常識として知っておくべきだな。
それとも邪馬台国論争の歴史からも畿内説は逃避しているのかな?

賢者は歴史から学ぶ。
199日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:38:05.40
>>196
畿内説は厨房と消防だけと言われるが。
200日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:38:53.82
>>198
知っておくことと信じることは違うだろ
201日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:50:13.19
邪馬台国論争の歴史なんて、知ってて何か役にたつの?

最新の論文を知らずして。
202日本@名無史さん:2011/08/14(日) 00:52:03.36
>>197
だから、本で畿内説の歴史も知るべきだろう。

畿内説は、唐古・鍵遺跡を邪馬台国だとしていた。邪馬台国とした理由はなんなのか。
また、唐古・鍵が見捨てられた理由はなんなのか。

箸墓を卑弥呼の墓とした経緯はどうなのか。果たして妥当だったのか。
三角縁神獣鏡も同じ。どうして魏鏡とされたのか。

纏向が邪馬台国と言われ始めたのはいつ頃なのか。その根拠は何だったのか。

畿内説関係者の書いた、畿内説にとって都合の良い本だけ読んでいたって駄目だろうに。
203日本@名無史さん:2011/08/14(日) 01:07:34.96
まあ論争の歴史を本当に知らないのこの「恨み節東遷厨」を含めたゴミクズレベル九州説で
70・80年代頃のブームの頃の九州説で思考停止。

だから年代観にしても
「古墳時代は4世紀から」がデフォでスタートで、じゃあそもそもその年代観の根拠は何だったのか?知ろうともしない。

ただ現在の年代観に対する批判を拾ってきて
「昔に戻せ」と金切り声を上げるだけwww

「畿内説は考古学、九州説は文献」と言うのは一般にもまかり通っているが
論争史と言うのなら明治からこっちで言えば「神籠石」だの「江田船山」だの「トンカラリン」だの
むしろ九州説の方が無限ループの文献解釈に見切りをつけ考古資料に寄っているのが現実w







204日本@名無史さん:2011/08/14(日) 01:30:13.20
考古学に対する九州説の主張

唐古・鍵が衰退した→そらみろ、邪馬台国じゃなかっただろ!
北九州が衰退した→衰退なんぞしておらんわ!考古学なんて信用ならん!
205日本@名無史さん:2011/08/14(日) 01:51:43.12
結局 >>171 の安本儲の恨み節は過去の畿内説の学者の確執劇をあげて
少しでも溜飲を下したいと言うところなんだろうがw

無論それも論争史の一部であって知っておいて損はないが
ぶっちゃけ知らなくても良いような話しではある。

じゃあ話を九州説側に置き換えて
安本と古田の確執(某九州説の作家は何処かでプロレスショーと言ってたがw)を知らなければ
九州説を語れないのか?とwww


206日本@名無史さん:2011/08/14(日) 07:03:19.40
ゴタゴタと何を言ってるのかと思ったが、やっぱり確執劇には触れられたく
なかったということか。
207日本@名無史さん:2011/08/14(日) 07:30:28.73
>>206
確執とか陰謀論とか好きだよね
邪馬台国にちょっと興味あるだけの一般人は、陰謀論とか確執とか全然興味ないし
逆にそんな事ばかり言ってると誰も九州説に見向きもしなくなるよ
ただ、今いる人達の平均年齢を上げてくだけ。
それはそれでそういうの好きって人もいる事は認めるけど
九条教、革丸、そういえば最近この二つが共同で行動したな・・・・
208日本@名無史さん:2011/08/14(日) 07:58:34.83
九州説は左巻き被れが多かったしな。
209日本@名無史さん:2011/08/14(日) 08:27:39.47
ジョーカーさん、お目覚めですか。
畿内説を言いたいならば「東の海」が畿内のどこに有るか、万人の納得する
証明をして下さいな。
210日本@名無史さん:2011/08/14(日) 09:27:43.29
>>209
相変わらず学習能力の無い奴w
東海は「走水の海」だよ。
211日本@名無史さん:2011/08/14(日) 09:45:02.04
それじゃ「南の海」になっちまうだろうが。
212日本@名無史さん:2011/08/14(日) 09:50:47.31
最近は畿内説でも方向を間違えてないと
考える人もいるから。
213日本@名無史さん:2011/08/14(日) 09:55:05.27
>>206
誰も否定してないし、スレ違いだし、反論したい気持ちがあるわけでもない。
だから、貴方が触れたいなら別スレで触れていただいてけっこうですよ。
ここでどんなに煽ったって、小林理論の弁護者なんて出てきませんよw
214日本@名無史さん:2011/08/14(日) 09:58:47.36
>>212
そんな畿内説は無いwww
つーか、オマエら、ちゃんと九州説を語れよ。
それとも次からは「邪馬台国畿内説を必死になって否定するスレ」とかスレタイも変えてねw
215日本@名無史さん:2011/08/14(日) 10:13:52.66
>>214
あんたも情報が古いねw
216日本@名無史さん:2011/08/14(日) 10:24:03.00
畿内説は場当たりだから、畿内説論者ですら、前に何とこじつけたか覚えてないんだよ。
217日本@名無史さん:2011/08/14(日) 10:26:02.17
矛盾だらけのこじつけを、ずっと大事にしてるのが九州説だけどね。
218日本@名無史さん:2011/08/14(日) 11:52:04.19
>>209
>畿内説を言いたいならば「東の海」が畿内のどこに有るか、
>万人の納得する証明をして下さいな。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」・・・後漢書
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」          ・・・魏志

「拘奴國」は北海道です。緯度的には現・函館から札幌迄。
倭種とは、『燕之後』。
女王国の北限は北緯38度。北緯38度から『北度海千餘里』とは記述できない。
何故なら、北緯38度以北は津軽海峡を挟んで陸であるから。
「海千餘里」とは、一辺の長さが千餘里の海の大きさをあらわしている。
故に、緯度的に千里なら経度的にも千里である。

「從郡至倭・・・・自郡至女王國萬二千餘里」の
着点萬二千餘里は北緯38度です。
勿論、一里=1800尺、一尺=24cm 千里≒432km


219sss:2011/08/14(日) 13:04:43.72
邪馬台国論争の歴史も、邪馬台国を考えるものの常識として調べておくべきだと思う。

以前、ちょっとまとめておいたので書いておくと、


日本書紀には、神功皇后記に魏志が引用されていて、すでに、この頃には卑弥呼の存在が知られていた。
神功皇后の在位期間は、日本書紀の年代観によると西暦201年から西暦269年になる。卑弥呼の時代に
だいたい重なるわけである。

面白いのは、台与が西暦266年に西晋に朝貢した時期も含んでいて、神功皇后に卑弥呼と台与の二人の時期を
重ねているところである。というわけで、暗黙のうちに、卑弥呼は神功皇后と考えられてきた。

14世紀初め頃の北畠親房の「神皇正統記」などにも、邪馬台国と大和朝廷を同一視するような記述が見られる。
ただ、相国寺の僧、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)のように倭国の地理について疑問を呈するものもいた。

続く
220sss:2011/08/14(日) 13:07:21.47
江戸時代になっても、この考えは踏襲され、新井白石も神功皇后と卑弥呼を同一視している。1716年(正徳6年)の
「古史通或問」において、白石は魏志倭人伝に書かれている国々の比定を行っているが、そこでも邪馬台国を大和に
比定している。

ただ、魏志倭人伝と日本書紀の記述の違いにも注目し、魏志倭人伝は、当時、魏からの使者が実際にやってきて記録したもので
あり、日本書紀は後世の編纂であるから誤りも多いとして、倭人伝の記述の方に信頼を置くような態度がみられる。
そういうわけで「古史通或問」よりも後の著作とされる「外国之事調書」では、邪馬台国を九州の山門郡に比定している。

白石の後に登場した本居宣長は、1778年の「馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)」において、卑弥呼を九州の女酋とし、
神功皇后の名を騙って魏と通行したとの説を述べた。神功皇后が魏に朝貢するといった卑屈なことをするわけがないという
考えが根底にあったとされ、本居宣長一流の皇国史観ともいわれる。しかし、邪馬台国や卑弥呼を九州にあったとする考えが
あり、こちらの方が先立ったとも考えられる。

続く
221sss:2011/08/14(日) 13:08:53.86
1784年、福岡県の志賀島から金印が発見され、倭人伝研究が盛り上がることになる。また、本居宣長の影響も大きく、
豊後・臼杵の鶴峰戊申(しげのぶ)は、1820年に「襲国偽僭考」を著し、倭人を熊襲、邪馬台国を薩摩の国・曽於郡とした。
また、卑弥呼の墓を可愛陵(えのみささぎ)に比定している。

山口県・周防の近藤芳樹も同じような立場に立ち、1846年の「征韓起源」において、邪馬台国を肥後・菊池郡の山門郷に比定している。
本居宣長以降は、熊襲偽僭説のような考えが主流となり、畿内説を支持したのは伴信友くらいだった。
222sss:2011/08/14(日) 13:11:21.97
明治時代に入ると、那珂通世が「上古年代考」(1878年)、「上世年紀考」(1897年)において、
神功皇后の時代は卑弥呼時代よりも100年ほど下り、年代が合わないことを指摘した。これにより、
さらに邪馬台国九州説は勢いを増すことになる。

星野恒は、那珂の年代観を取り入れ、山門郡の土蜘蛛田油津姫の先代が卑弥呼であるとした。
菅政友、吉田東吾は、薩摩の国付近を邪馬台国としている。

江戸後期から明治時代にかけては、九州説が多数を占めていたわけだが、その比定地は筑後、
肥後の山門地方と薩摩地方に二分されていた感がある。

こんな中、明治43年(1910年)に東京帝国大学の白鳥庫吉が「倭女王卑弥呼考」を出し、
肥後国内に邪馬台国の所在地を求めた。同じ頃、京都帝国大学の内藤湖南が「卑弥呼考」を著し、
畿内大和説を唱えると、これを契機に活発な邪馬台国所在地論争が始まることになる。
223日本@名無史さん:2011/08/14(日) 14:12:59.22
邪馬台国論争と言うのは「学説史」と言うジャンルの中では稀有の存在。
続きをお願いします。
安本さんの事跡はけっこうですから、原田大六さんの活躍、
古田さん、近藤さん、樋口さんの盛衰くらいまではお願いします。
224日本@名無史さん:2011/08/14(日) 16:04:46.69
>>219-222

コノ人は、天照大神が卑弥呼だと考えてて、
邪馬台国が東遷して大和王権になったという、こってこての東遷説信者です。

でも、天照大神は7世紀の創作だってことがわかってます。
伊勢の度会氏が、天照大神を奉り始めたのも7世紀のこと。それ以前は伊勢の地方神=多気大神を祭ってたわけです。

しかしそれでも、天照大神は卑弥呼だと信じて疑わないという人は、
伊勢神宮に問い合わせてみればよいでしょう。
遠慮することはありません。誰でも、伊勢神宮の代表電話一本かければいいだけです。
丁寧に、「天照大神は卑弥呼ですよね?」と聞いてみてください。
答えは、「yes」かもしれないし「no」かもしれない。
でも、相手の答え方のニュアンスを聞けば、真実を読み取ることができるでしょう。

それすら怖くてできないコミュニケーション喪失してるのが、コノ人なわけです。
一人でもんもんと、天照大神は卑弥呼なんだ、
自分ひとりだけが、その真実にたどりついてて、誰も認めてくれないけど、事実なんだ、と、
実社会の外に出て、真実を探求する努力を何もすることなく、
部屋に閉じこもって、死ぬまで妄想にしがみついて生きていくつもりなのでしょう。
こんな人にはなりたくないものですね。


225日本@名無史さん:2011/08/14(日) 16:15:15.18
>>187
最後にはデマですか?
その本では小林説を論評も批判もできないですよ。
だから小林説の批判はすべて89年以降。
森もやったから小林もOKという理屈は自分のウソを認めたのと同じだよ。

>>189
鏡を丹念に観察したら、中国では1枚たりとも出土していないことに気付きそうなものだが。
頭がおかしくなったふりをして、高圧的に議論すれば、周りが避けていくというのが今の状況だろ。
学生からもキワモノ扱いされていることにいい加減に気付けよ。
226日本@名無史さん:2011/08/14(日) 16:36:16.37
>>225
>鏡を丹念に観察したら、中国では1枚たりとも出土していないことに気付きそうなものだが。

それは、どうかな?
中国でも三角に類似した鏡が結構出土してるらしいが、
こまかい特徴が違うってだけで、三角は一枚も出土してないってことになってるわけだろ。
その特徴って、どういうものよ?
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/14(日) 16:51:00.05
天照大御神は絶世の美女だったんですよ。
神々しい小柄な方で、その御姿を拝すれば、自ら首が下がります。
228日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:10:26.56
>>227
美女だったと言うような文献は無いと思うが?
それに太国ごときが拝謁できることは有り得ないので、首が下がるの上がるのとげせた言葉を使うのは不敬。
229太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/14(日) 17:16:15.01
世の中は漢字、カナ、英字等だけの文献ではな〜い。

皇族殿下でさえ、滅多に拝めないぜ。

俺の力量をナメてはいかんぜ。
230日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:19:46.26
wwwwwwww
231日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:23:00.37
119
232日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:35:54.26
>>229

> 皇族殿下でさえ、滅多に拝めないぜ。
> 俺の力量をナメてはいかんぜ。

そうか、そうか
太国さまクラスになると国家機密級の文献も手に入るのですね。
で、それを持つものは女神様に拝謁できると!

でもさ、ジジイのカリ首なんて、美女の前でもババアの前でも下がりっぱなしだろうw
233日本@名無史さん:2011/08/14(日) 17:46:07.20
>>225
>その本では小林説を論評も批判もできないですよ。

小林の考える同笵関係と鏡の写真が掲載されている
同笵関係は椿井出土鏡の中で完結するものもあるが
ほとんどは複数の他古墳出土鏡を含んでいる
本当に小林のいう同笵関係に疑問を持つのならば
椿井出土鏡以外の同笵関係を洗い直せばよかったのさ
そうした同笵鏡論批判に必要な基礎作業を誰もしなかったということ

>鏡を丹念に観察したら、中国では1枚たりとも出土していないことに気付きそうなものだが。

やはり『三角縁神獣鏡研究事典』を読んでないですね
三角縁と同じ鏡を探しているのではなく、
三角縁と同じ製作技法を持った鏡を探索しているですよ
もっと考古学のなんたるかを勉強してください
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/14(日) 18:52:44.20
>>232
オマエはなかなか好色な野郎だな。
そんな口をたたくのは千年早い。>|<
235日本@名無史さん:2011/08/14(日) 19:09:34.58
>>234
地が出てるな
236日本@名無史さん:2011/08/14(日) 19:51:06.13
>>226
1枚たりともでていない。似ているからOKというわけには行かない。
>>233
椿井大塚山で出土した大量の三角縁を確認できなければ、反論不可能な
事くらい分かる知能を持てよ。
「三角縁と同じ製作技法」・・・話のすり替えのなかで最も醜い部類に属するな。

まあだからこそ舶載説の連中は学生にすら近寄りがたいカルト臭を出しているんだが。
237日本@名無史さん:2011/08/14(日) 21:32:21.57
>>236
1枚たりともでていないから、三角は国産だ、という論法は、
日本から金印が出てこないから、邪馬台国は日本じゃない、というのと同じなわけだが。


238962:2011/08/14(日) 21:34:17.33
馬鹿につける薬はないって言葉があったな。
239日本@名無史さん:2011/08/14(日) 21:55:21.22
>>237
見苦しいね
240日本@名無史さん:2011/08/14(日) 22:14:49.60
都の西北、馬鹿台国のとなりに邪馬台国はありました。
241日本@名無史さん:2011/08/14(日) 22:44:32.74
邪馬台国が九州とか言ってるのは日本人だけで、中国人は、大和国という認識を一貫してもってた。
三国志を一番読みこなせる中国人が、邪馬台国は九州という意識を持ってなかったってことが重要。
242日本@名無史さん:2011/08/14(日) 22:49:30.68
最近は畿内説の学者も三角縁のことは無視したがっている傾向が強いな。

支持しないけれど批判はしない。ただ無視するだけ。
243日本@名無史さん:2011/08/14(日) 23:00:46.58
何で卑弥呼に送った鏡が三角縁神獣鏡だって考えたの?
244日本@名無史さん:2011/08/14(日) 23:00:52.03
あそこまで腫れ物扱いされて恥ずかしいという気にならないのかな・・
245日本@名無史さん:2011/08/14(日) 23:57:19.62
>>241
>中国人は、大和国という認識を一貫してもってた。
そんなデマを信じているの? 単純だなあ。
246日本@名無史さん:2011/08/15(月) 00:12:36.51
>>245

デマだと思うなら、邪馬台国が九州だと中国人が考えてた資料を出してきたまえ。
江戸時代より前の資料でな。
247日本@名無史さん:2011/08/15(月) 00:37:34.42
>>246
江戸時代よりも前? 梁書、隋書、旧唐書かな。
248日本@名無史さん:2011/08/15(月) 00:44:06.34
邪馬台国は大和国と書いてあるな。
249日本@名無史さん:2011/08/15(月) 00:45:57.27
>>236
>1枚たりともでていない。似ているからOKというわけには行かない。

ほんとに考古学の研究法というものが理解できていないですね
もはや憐憫を覚える域です

三角縁はある日突然天から降ってきたわけでも地から湧いてきたわけでもない
誰かが作ったから今そこに存在している
ここまではさすがに理解できますよね?

で、考古学者というものはその作った誰かさんに注目する訳です
高温の青銅を用いる鋳造技術、大陸の神仙思想と漢字を理解した鋳型の製作など
そんじょそこらの人がいきなり作り始めることは不可能な代物です
十分な鏡の製作技術を持つ工人によって作られているのは疑いないでしょう

で、大陸でも国内でも鏡は製作されている訳ですから
鏡に残される製作時の技術の痕跡から工人たちの技術的系譜を追うことができれば
三角縁の製作地を推定する傍証となりうると考えるのです

舶載説はそこに研究の視点を向けて着実に成果を蓄積している
一方の国産説はそこまで研究を深めることはなかった
というのが現状です
250日本@名無史さん:2011/08/15(月) 00:56:03.43
>>248
>邪馬台国は大和国と書いてあるな。
嘘をつけ。そんなことは一言も書いてないよ。


251日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:01:52.19
>>236
>椿井大塚山で出土した大量の三角縁を確認できなければ、反論不可能な
事くらい分かる知能を持てよ。

それはいいわけにしか過ぎません
「天皇陵になっている古墳の発掘ができないから古墳の研究なんていくらしても無駄だ」
なんて言ってる考古学者はいません
本当に疑問を感じている問題であるならば、
資料に制約があったとしても使えるものから研究し、
外堀を埋めていけばいいのです

既に指摘があったとおりに
小林の同笵鏡理論は椿井の出土鏡だけで成り立っているのではなく、
それ以外の古墳出土鏡もたくさん含まれています
実際に同笵鏡理論そのものは椿井発掘以前に論文として世に問われています

小林は自分の取り扱った鏡を明示している訳で
小林の同笵鏡認定力を信用できないというのであれば
椿井以外の鏡でそれを検証することは十分可能です

また、同笵鏡分与についての史的評価に問題があると考えるならば
椿井の鏡が見られないことを明記した上で
小林の認定に誤りがあった場合となかった場合それぞれについて
その考えられる問題点を提起する論文を執筆すればよかったのです

やりようはいくらでもあったはずなんですよ



252日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:18:54.58
まあ、何故、九州説専用スレで>>171の 恨み節東遷厨安本儲 が小林批判を持ち出したのかトンと分からないがw

そもそも一種ブラックジョークなのはだw
小林説が学会を支配していた時期が実は九州説が一番輝いていた時期でもあるw
小林説が批判されるようになったのが九州説の没落の始まりwwwwww

昔は畿内説だろうが九州説だろうが邪馬台国は取りも直さず「弥生の都市」だったんだからw
(で、それを九州の考古学者は冷めた目で見ていた…ってところかな?)

「敵国敗れて謀臣滅ぶ」「唇破れて歯寒し」「狡兎死して走狗烹らる」
…って奴だなwwwww

『季刊邪馬台国』の安本センセイは当然そんな事は知っているんだろうが
購読者にカタルシスを与える為のネタなんだろうか?www

無論そう言う学者同士の確執を取り上げるのも良いだろうがw
少なくともそれで九州説が浮かび上がることはなく
前述のように下手すりゃ自分たちの立場が更に悪くなる可能性もあることを知っておいた方が良いだろうwwww

253日本@名無史さん:2011/08/15(月) 01:45:51.60
季刊邪馬台国って本は、畿内説を攻撃して九州説の読者の溜飲を下げさせて売り上げを維持してるものだからね。

九州説がちっとも進歩しないでトンデモの域に入っていってる現状は、まさに安本にある。

お利巧な九州説諸氏は、とっとと安本から見切りをつけるべきだよ。
254日本@名無史さん:2011/08/15(月) 07:24:47.87
ジョーカーは相変わらず文章力ないなァ
255日本@名無史さん:2011/08/15(月) 07:59:19.24
文盲 レベル
256日本@名無史さん:2011/08/15(月) 08:00:56.84
>>249
そんな寝言を言っているから、学生から馬鹿にされているのが分からないのかな?
学生から汚物を見るような目で見られていて、言い逃れに必死になる姿は
さらにみっともない。

>>251
小林が椿井大塚山の非公開の鏡を独占していたことは認めるんだな。
遺物の独占は、考古学者として最大の恥だと言うことは授業で習わなかったか?
257日本@名無史さん:2011/08/15(月) 08:18:18.99
京大で独占中の銚子塚鍍金鏡はどうなってんの?
258日本@名無史さん:2011/08/15(月) 14:04:01.65
>>254 :日本@名無史さん:
>ジョーカーは相変わらず文章力ないなァ
>>255 :日本@名無史さん:
>文盲 レベル
単に、理解能力の問題じゃん。
理解出来ないとは思うが、かきこしておくからよくよく考えろ。

「正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人・・・・ 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」          ・・・・魏志

邪馬【臺】國 の倭王の王号が「臺」
邪馬壹國   の倭王の王号が「壹」。
倭王「臺」與は倭王「壹」與である。
邪馬壹國並びに倭王「壹」與とうい呼び名は魏の時制にかぎる。

壹【臺】與は親魏倭王卑彌呼に非ず。
壹【臺】與が太伯之後で
親魏倭王卑彌呼は季歴之後。

壹【臺】與の太伯之後の後方に「燕」あり。
親魏倭王卑彌呼・季歴之後に「粤」あり。

先ず、理解できないだろう。 
理解するには力量不足だから。

259日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:00:21.63
何の力量だか知らんが、確かに理解できない。
260日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:14:31.76
ジョーカーってばば抜きのばばのことか?
このひねたおっさんどこのスレでもスルーされとんな
261日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:16:23.50
九州説は、証拠を出せばいいんだよ。
人格攻撃ばかりしてないで。
262日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:35:01.32
>>261
つ「漢委奴國王」金印
263日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:36:02.80
「倭国は古の委奴国なり」(隋書その他)
264日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:43:43.34
>>262
発掘状況に難ありだけどな。
265日本@名無史さん:2011/08/15(月) 18:46:27.83
>>263
でも都はヤマトだね。
266日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:01:58.82
言うだけならタダやな
267日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:06:37.27
>>265
「邪馬臺」はヤマトとは読めんぞ。
「臺」を「ト」と読んだ例は古事記、万葉集にない。
268日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:17:29.91
お前ら、畿内説のことはどうでもよいから九州説を語れよ。
このスレは何の為にあるの?
269日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:20:17.93
>>267
古事記・万葉集は、倭人が倭語に漢字を当てた例。
邪馬臺は、中国人が倭語に漢字を当てた例。

おのずと差異があるはずだから、古事記・万葉集にないからといって読めないとは言えない。
中国語の音韻学によらないといけないと思うよ。
270日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:21:12.41
畿内説を潰す為
271日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:23:38.82
畿内に決定しとるでしょ、卑弥呼はモモソ以外有り得ないし。
272日本@名無史さん:2011/08/15(月) 19:47:09.35
>>271
だから畿内に邪馬台国が有ったという立証をしなさい。立証ができなければ
負け犬の遠吠えね。
273日本@名無史さん:2011/08/15(月) 20:10:12.46
>>269
>中国語の音韻学によらないといけないと思うよ。

中国語の音韻学で邪馬臺をヤマトと読めるとは初めて聞いた。
根拠あるなら示してくれ。
274日本@名無史さん:2011/08/15(月) 20:26:07.06
>>271
言うだけならタダやな
275日本@名無史さん:2011/08/15(月) 20:27:35.67
ジャパンの語源だろ?
276日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:18:27.02
>>267

「臺与」は「トヨ」だよね。




277日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:40:14.42
邪馬壹國 イェマイッグォ
邪馬臺國 イェマタイグォ

壹與 イユ
臺與 タイユ
278卑彌呼の都は久留米:2011/08/15(月) 21:42:03.43
「邪馬臺國」は「やまたいこく(邪馬大倭國)」
「臺與」は「たいよ(大倭與)」
279日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:48:11.42
仮に百万歩ゆずって、「ヤマト」と読めたとしても、
それが奈良のヤマトであるとするには、なんの根拠もない。
日本全国に「ヤマト」はいくらでもある
280日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:48:24.07
日本語の音韻学では、母音は接続しませんので、「タイユ」なんて発音はしませんよ。
281日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:49:53.27
>>279
ヤマトが国名として現存してたのは畿内のみです。
282日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:50:40.84
邪靡堆 イェミドゥイ

どっちにせよ、ヤマトはない
283卑彌呼の都は久留米:2011/08/15(月) 21:53:24.97
>>277
北京官話で解析して何の意味がある?
284日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:53:49.47
>>280
どう発音するのですか?
285日本@名無史さん:2011/08/15(月) 21:54:16.90
>>273
中国語音韻学でヤマトと読めるとは言っていない。
古事記・万葉集でヤマトと読めないというのは根拠にならないと言ってる。
「ほったいもいじくるな」というのを聞いたことがあると思うが、
日本人だって外国語の音は正確には聞き取れない。
邪馬臺國というのは、古代中国人が倭語を聞き取った音の写しだから、
倭語の音を正確に写した保証は無い。
だから、日本人が日本語を表記した万葉仮名とズレがある可能性も
考慮しなければならないのではないかということ。
286日本@名無史さん:2011/08/15(月) 22:05:00.02
台を「ト」と読む用例は日本書紀に書いてあるんだけどね。
287日本@名無史さん:2011/08/15(月) 22:06:59.94
台を「ト」と読む用例

ttp://gejirin.com/src/Ko/kokotomusubi.html

ココトムスビ

興台産霊神。興澄魂霊神。居々登魂命。 

288日本@名無史さん:2011/08/15(月) 22:10:20.40
台と臺は明確な区別がある
台はトと読める
289日本@名無史さん:2011/08/15(月) 22:14:17.65
>>288
>台と臺は明確な区別がある

ありません。
290卑彌呼の都は久留米:2011/08/15(月) 22:23:22.66
>>268
>お前ら、畿内説のことはどうでもよいから九州説を語れよ。
>このスレは何の為にあるの?

卑弥呼の都は久留米南部、久留米市上津、
マリア様の様な観音様の様な巨大像の見えるところ。
上津天満宮が卑弥呼の冢跡か?
291日本@名無史さん:2011/08/15(月) 22:54:03.77
>>290
あ、知ってる、あの白い巨像ね
292日本@名無史さん:2011/08/15(月) 23:21:02.37
>>289
それぞれ本来は、台=喜んで言う、臺=うてな、の意味。違う字。
後世になって、臺の俗字・略字を台としただけ。

参考
http://plaza.rakuten.co.jp/jitenfeti/diary/200506160001/
293日本@名無史さん:2011/08/15(月) 23:29:42.86
>>289
三国志東夷伝を調べてみ、
台と臺は別字、両方使っているから
294脳内学校の脳内学生さんの話ですか?w:2011/08/15(月) 23:52:45.32
>>256
ヨコからだが…

その書き込みの内容からすれば考古学をやっている学生に日々接触している人間なのかな?
で、わりとマジに聞きたいんだが考古学を専攻している学生が、まさか

「三角は中国から一枚も出ていないから国産で決まり!」

なんて事を言っているのか?

そりゃ同氾同型のものが中国から出れば一番分かり易いが
確実に魏代で洛陽出土の銅鏡なんてほぼ皆無(と言うか自分は知らない)となれば

工人・技術・デザインその他を系統として見ていくと言うのは
至極まっとうなやり方だと思うのだが、それは

「学生から馬鹿にされて汚物を見るような目で見られる」

…ものなのかい?wwww
295日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:10:24.29
>>294
学生は正直だから、日本で550面以上出ていて、中国で0面という時点ではっきりと
「こりゃダメだ。」と確信してしまう。「特鋳」なんてざれ言で騙せるわけもない。

教授がいくら君のような御託を並べても、無駄な詭弁はみっともないとしか思わない。
むしろ、なにか汚らわしいものに触れたような嫌悪感を強く感じる。
大多数の学生は考古学や古代史とは無関係は人生を送るから、ダメなものは率直に
馬鹿にして、それでおしまい。
296日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:14:48.50
畿内説論者の多くは三角縁問題を切り離そうとしているし、彼らはお荷物でしかないよ。
今確実に言えることは、舶載説を唱えている連中以外は三角縁についての態度を
最大限留保しようとしている。
297日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:24:25.72
>>295
「嫌悪感」だの「汚物」だの生理的感覚を並べてオバハンのヒステリーかいなw

およそ学術的思考からは程遠い。

「”550対0”で国産で決まり」なんて考えているなら

考古学でも専攻しているような学生がそれなら、もう馬鹿としか言いようがない。

まあゴミクズレベル九州説には溜飲を下せるネタで
そう言った「雰囲気的なもの」にすがるしかないのだろうがw

「雰囲気」で良いなら、既に邪馬台国論争は畿内説で終結しているで終わりだなw






298日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:24:55.22
三角縁神獣鏡は4世紀におけるヤマト王権発展期の姿を示す by現・畿内説
299日本@名無史さん:2011/08/16(火) 00:30:40.20
>>297
あの人たちは、1000対0になっても1万対0になっても信念を貫きそうだね。
だからカルト宗教のような扱いを受けるのも仕方ない。

ところで君は特鋳説なの。
前方後円墳も中国の技術者に特注して日本で作ってもらったとか言えそうだけど、
特注を言い出すとどこで止めればいいのか分からないね。
300脳内学校の脳内学生さんの話ですか?w:2011/08/16(火) 00:58:34.69
>>299

「1000対0」だろう「1万対0」だろうが問題ないというか元々意味の無い数字。

意味を持たせたいのなら分母分子とも中国で出た物で揃えろって話だなw

例えば中国で魏代洛陽の鏡が1000枚ぐらい出土していて
その中に三角が1枚も無ければ無ければ 0/1000 と言う意味を持つ数字になるだろうし
その1000枚を分類すれば当時どのような鏡が魏で作られていたかも分かるだろう。

こんなことド素人の俺でも分かる話だがw

お前の言う学生と言うのはちゃんとお勉強した上で言っているのかい?w

そもそも魏が薄葬をむねとし銅も不足気味で
何より後漢末の長い戦乱で銅鏡製造組織も壊滅したと言うことであれば(どこらへんで立ち直ったかによるが)
『特鋳』と考えるになんら問題ないというかそっちの方が蓋然性がある。

逆に言えば「特鋳はありえない」と言うのなら
官製工房に鋳型が揃えられていて、同型の鏡が多く作られていた(その中から下賜品もチョイスされた)と言う事になるのだろうが
そんな状況を示せるような資料は聞いたことも無い。

結局、舶載説はきちんと資料を集めて検証しているが
国産説というのは雰囲気ムードに流されているような印象だなwww


301日本@名無史さん:2011/08/16(火) 01:25:04.84
舶載説は「中国では出土していない」という事実を突きつけられたが
そこから考古学の王道とでもいうべき遺物そのものに残された製作技術の痕跡を分析する方法で
新たな事実を積み上げてアップデートしている

一方の国産説は「中国では出土していない」という指摘で満足するだけで学問的な進展をしていない

ここには「舶載説は頑迷」などと知ったような書き込みをする頭が残念な人物がいるようだが
実態は国産説こそが40年間そこから一歩も進んでいない頑迷そのものな説なんだよ
302日本@名無史さん:2011/08/16(火) 01:39:01.74
東遷説も似たようなもんで、
どうして畿内にヤマト王権が興ったのか?という理由が、
「九州の邪馬台国が東遷したから」ってところで思考停止して、何の発展も無い。

マキムク出土の遺物が、どこの地域の影響を濃く受けているかとか、知ろうとしない。
考古学はインチキとか言ってるだけでいいんだから楽なもんだ。

303日本@名無史さん:2011/08/16(火) 01:41:10.10
>>293

漢字の発音がどう違うのか提示してくれないと無意味。
304日本@名無史さん:2011/08/16(火) 01:53:54.46
>>293
東夷伝で区別してるかどうかは関係ないよ。

>ココトムスビ

>興台産霊神。興澄魂霊神。居々登魂命。 

上記の例がある日本書紀の、そのテキストが臺と台を区別してるかどうか。

臺と台が本来別字でも、後に通用しているのだから、
ココトムスビのテキストが成立した時代に、
まだ両字が通用しておらず区別されていた、ということを証明しないと、
漠然と別字だと主張しても、ココトムスビに対する反証にはならないよ。
305日本@名無史さん:2011/08/16(火) 02:34:36.54
舶載説をいくらアップデートしても、
それが主流になることは、もう無く、
卑弥呼の鏡百枚という記事そのものに、
触れないようになっているのが現実であった。
306日本@名無史さん:2011/08/16(火) 04:44:50.94
卑弥呼の鏡って全部三角縁神獣鏡なの?
魏志倭人伝以外に資料はあるの?
307日本@名無史さん:2011/08/16(火) 04:54:16.64
ttp://www.city.gobo.wakayama.jp/gobo/1120ka/katadaiseki/katadaiseki.html

堅田遺跡(和歌山)

1999年2月に発掘された堅田遺跡は、弥生時代前期(今から2,200年前)に営まれた環濠集落です。
調査によって日本最古のヤリガンナの鋳型と青銅器を溶した溶炉遺構が発見され、
弥生文化は西日本へ一気に入ってきたのではないかと一躍注目されました。
いままでは、朝鮮半島から北部九州にもたらされた農耕文化をもとに弥生文化が成立し、
東へ広がったと考えられていましたが、遺跡から出土の土器・石器等から縄文時代終わりころ
大陸から瀬戸内に渡来した集団によって弥生文化が生まれ、
前期後半にはどうも瀬戸内を中心にして一つにまとまる環瀬戸内圏が成立し、
東方への開発拠点として堅田遺跡の集落が造営されたようです。


308日本@名無史さん:2011/08/16(火) 05:21:15.82
思考停止してる人は知らないだろうが、
九州が漢委奴国王金印をもらった頃、
近畿勢力は瀬戸内海から東海まで交易を広げていたことがわかってる。

魏志倭人伝の百余国の記述が九州だけのこととすれば、
近畿勢力はその十倍くらいの国が互いに交易してたことになるんだよ。

それでも邪馬台国が九州にあったとするなら、九州の邪馬台国は閉鎖的で孤立した集団で、
4世紀には完全に近畿勢力の支配下に落ちたことを認めるしかないわけ。
認められる脳みそがあれば、九州説もまだ救いはあると思うがな。
309日本@名無史さん:2011/08/16(火) 05:58:12.79
>>224
黙れカス。
お前ほどのカス野郎を見たことがない。
310日本@名無史さん:2011/08/16(火) 06:11:07.94
>近畿勢力は瀬戸内海から東海まで交易を広げていたことがわかってる。
何を証拠にそのように言うのかな?

>それでも邪馬台国が九州にあったとするなら、九州の邪馬台国は閉鎖的で孤立した集団で、
>4世紀には完全に近畿勢力の支配下に落ちたことを認めるしかないわけ。
近畿勢力がまとまって九州勢力の支配下に落ちた可能性は考えないのかな?

311日本@名無史さん:2011/08/16(火) 06:15:06.71
伊作がいないと自由な議論が出来ていいな。
312日本@名無史さん:2011/08/16(火) 06:39:36.98
>>310
>何を証拠にそのように言うのかな?

>>307も読めない子なのか。哀れだな。

>近畿勢力がまとまって九州勢力の支配下に落ちた可能性は考えないのかな?

どういうロジックで?
313日本@名無史さん:2011/08/16(火) 06:58:51.12
>>307も読めない子なのか。哀れだな
調査によって日本最古のヤリガンナの鋳型と青銅器を溶した溶炉遺構が発見されたと
いうだけで、そんな妄想にひたっているのかね。

>>近畿勢力がまとまって九州勢力の支配下に落ちた可能性は考えないのかな?
>どういうロジックで?
四世紀から九州が銅鐸祭祀に変わったというならば、九州が近畿勢力の支配下に
落ちたという可能性もあるだろうが、逆に近畿の銅鐸は消滅し、九州の鏡、武器
が近畿、その他を覆っていくわけだ。九州勢力の支配が広まったと考えた方が分
かりやすくないかな?
314日本@名無史さん:2011/08/16(火) 07:41:51.42
>>313

九州の銅矛も消滅し、カメ棺も消滅してますよ?

しかも、九州より何倍も広い地域を一気に占領して銅鐸を駆逐するなんてことが、可能なわけないでしょ。
マンガの読みすぎですな。

おまえさんが小学生なら許せるが、社会人ならそれこそ哀れむべき人ですな。
315塩土老翁:2011/08/16(火) 10:09:02.60
>>308
>魏志倭人伝の百余国の記述が九州だけのこととすれば、
近畿勢力はその十倍くらいの国が互いに交易してたことになるんだよ。

 邪馬台国は、国際線ですよ。
 国内便の方は、パスポート取得してからにして下さいな。
316塩土老翁:2011/08/16(火) 10:14:32.66
>>308
>九州が漢委奴国王金印をもらった頃、
近畿勢力は瀬戸内海から東海まで交易を広げていたことがわかってる。

 1、平原1号墓    ・・・ 鏡40面
 2、三雲南小路1号棺 ・・・  35面
 3、須玖岡本遺跡D ・・・・  30面
 4、三雲南小路2号棺 ・・・  22面
 5、井原鑓溝墓    ・・・  20面  次位が立岩の6面からも、異常な数である。

三雲南小路墓は日本伝来の最古の鏡であり、伊都国、奴国において「鏡の多量副葬」という
東アジアでも特異な風習を生んだ。この風習は、やがて古墳時代の近畿へと東進して行く。
317日本@名無史さん:2011/08/16(火) 10:14:37.85
>>304
>日本書紀の、そのテキストが臺と台を区別してるかどうか

もちろん、日本書紀も厳密に区別してまっせ。
天武天皇紀あたりでも読んでみてくれや
318卑彌呼の都は久留米:2011/08/16(火) 11:20:06.65
>>308
>思考停止してる人は知らないだろうが、
>九州が漢委奴国王金印をもらった頃、
>近畿勢力は瀬戸内海から東海まで交易を広げていたことがわかってる。

1世紀の畿内勢力は銅鐸族
鏡族が銅鐸族の地畿内に侵入し始めたのは2世紀

鏡族の侵入開始地は茅渟の海に面した和泉南部と摂津西端部。
蛭子神社(阿波ひるこ神)のあるところ。
319卑彌呼の都は久留米:2011/08/16(火) 11:29:04.21
瀬戸内海から東海まで交易を広げていたのは銅鐸族
320日本@名無史さん:2011/08/16(火) 13:01:24.19
>>314
>九州より何倍も広い地域を一気に占領して銅鐸を駆逐するなんてこと

そんな想定をすること自体、漫画の読みすぎかな。
本州の国々がまとまっていたとは限らない。たくさんの国に分かれていたなら
各個撃破ということもある。戦わずして九州勢力に服する国々もあっただろう。
321日本@名無史さん:2011/08/16(火) 14:15:53.31
それなら九州が纏まっているっていう前提はどうなの?
もしかして伊作さん?
早く対馬が必ず九州側にたつ理由を説明してよ
後、長門に兵を送る事もなしに、必ず長門は九州側にたつ理由も
322日本@名無史さん:2011/08/16(火) 14:36:34.03
確実な資料の少ない古代のことだから、鬼の首でも取ったみたいに立証しろ、
説明しろと迫ったところで、ことは難しい。
日本列島上の歴史の流れとして確実なことを少しずつ積み上げて行くしかない。
弥生時代の初め、弥生文化を持った渡来人が列島にやって来て、中国南部から
来た人達は九州南部に、新羅から来た人達は九州北部に、百済から来た人達は
近畿に住みついた。しかし百済系は新羅系よりも弱く、韓国半島で百済が新羅
に滅ぼされたように列島内でも近畿は北九州に攻めつぶされた。その証拠が大
仙古墳と誉田山古墳だということさ。近畿説の連中に邪馬台国=大和朝廷と主
張することは許さない。邪馬台国も大和朝廷もそんな弱虫ではない。
323日本@名無史さん:2011/08/16(火) 15:00:44.11
>>316
本墳墓に対する鏡の多量副葬という面より、
ここで大量に副葬されている鏡が、
近隣の古墳では一枚ずつしかでてこないということに
注目したい。

この墳墓が築かれた伊都国が力を持っていた時期、
鏡の配布機関を担っていたのではないか。
324日本@名無史さん:2011/08/16(火) 15:17:29.33
日本列島の外から支配者としてやってきたように語る人いるけど
実際どうなんですか 古来より列島にいた人々って大陸からの技術や
文化を取り入れることに貪欲で、移住者を柔軟に受け入れていたって
ことはないんですかね
古代でも列島は人口が多かったようだし、日本語も他語からの強い影響
を受けていないようですし
325塩土老翁:2011/08/16(火) 15:47:44.12
>>324
>外から支配者としてやってきたように語る人いるけど

韓国南部の伽耶勢力は、倭人ですよ。
その伽耶(倭人)達が天下ってきたのが、伊都国でしょう。
本隊(大勢)は、広い土地を求めて河内に直行したと考えています。
それが、「倭の五王」時代と思います。
326日本@名無史さん:2011/08/16(火) 15:57:59.65
>>323
鏡を朝鮮半島から安く輸入し、近隣の国々に高値で売りつけて商売していたんだろう。
327塩土老翁:2011/08/16(火) 16:09:54.32
>>321 名無史さん
>早く対馬が必ず九州側にたつ理由を説明してよ

対馬は、伽耶勢力と一緒でしょう。
甕棺から箱式石棺に変わるのも一番早く、伽耶に連動してる。
伊都国がある以上は、九州側でしょう。
伽耶山と可也山に挟まれた地域が、その他側につくことはなかったでしょう。
328塩土老翁:2011/08/16(火) 16:41:46.91
>>321
>長門に兵を送る事もなしに、必ず長門は九州側にたつ理由も

 当時の舟では、直行はできない。海流に逆らっては行けない。
 遣唐使でも、成功率30%でしかない。
 九州北部を通過して、末羅から壱岐へ渡る。帰りの便も壱岐から博多を通る。
 和布刈神社は安曇だが、そこで戦う必要はない。
 九州勢が圧倒的に優位であることにかわりはない。
329塩土老翁:2011/08/16(火) 17:13:36.75
松原 弘宣「古代国家と瀬戸内海交通」によると
瀬戸内海と日本海の水夫の給料は、日本海側が3・4割高い。
平穏な水域(近畿)と対馬海流の荒波を渡りきる(九州)海人族は違うんだ。
330日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:00:44.65
そんなに九州が有利なら、1世紀の段階で近畿を支配してもよさそうなものだが、なぜできなかったんだ?
卑弥呼の時代でもいいが、卑弥呼は半世紀もの間女王だったのに、近畿を支配しようとしなかったのかね?
そして、卑弥呼が死んだ後で、ナニを思い立ったか急に近畿を支配したとか。

妄想もたいがいにしろって感じ。
こんなへんぴなネットで書き込みするのは自由だが、
世間じゃ全く相手にされない話。

考古学博物館とかに行って学芸員と話もしたことないやつらばっかりなんだろう。
ひきこもって、安本本ばっかり読んでて、屈折した情報しか入ってこないのはわかるが。
社会人として恥ずかしいやつだ。




331塩土老翁:2011/08/16(火) 18:11:46.13
>>330
>1世紀の段階で近畿を支配してもよさそうなものだが、なぜできなかったんだ?

 土地と人口の割合だろう。 土地(生産量)が足りないから、移住して行ったんだろう。

>安本本ばっかり読んでて、屈折した情報しか入ってこないのはわかるが

 安本説なんか賛同してないだろ。
 何処をどう読んだら、安本説になるんだい???
 九州説=安本説なの?
332日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:17:36.15
>>327
>>伊都国がある以上は、九州側でしょう。
意味不明

>>328
長門は本州と地続きじゃないの?
九州の船は自由自在で畿内の船は自由自在じゃない根拠は?
仮に長門に行けないなら長門が必ず協力する訳ないじゃん

>>329
古代から出雲の人が日本海沿いに日本各地に行ってるだろ
何か九州人はスーパーマンで他は普通の人みたいだね。
自分で御都合主義が極まってるとは思わないの?
333塩土老翁:2011/08/16(火) 18:18:09.87
>>330
安本説は、伽耶勢力が天下って来て河内王朝を打ち立てたと言ってるの?
因みに、安本氏の著書は1冊も持ってないけどね。
これから先、買うこともないだろうね。
334日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:18:20.18
>>331
東遷説なら同じことだろ。

「卑弥呼の死後、九州勢力が東遷してヤマト王権を作りました。」ってのが論旨だろ。

一般社会に出て声高に叫んでみろよ。どれだけ変な目で見られることか。

335日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:27:42.05
>>328
往復しないの?
片道切符なの?
336塩土老翁:2011/08/16(火) 18:29:23.67
>>332
>伊都国がある以上は、九州側でしょう。
意味不明
 自説が、伽耶勢=伊都国勢ですから。

>九州の船は自由自在で畿内の船は自由自在じゃない根拠は?
 九州勢は、関門海峡に行く必要はないでしょう。伊都国、奴国で十分。

>古代から出雲の人が日本海沿いに日本各地に行ってるだろ
 沿岸水行と渡海は違うだろう。

>何か九州人はスーパーマンで他は普通の人みたいだね。
 近畿の銅鐸族が、自由自在に渡海出来たって?

>自分で御都合主義が極まってるとは思わないの?
 自己主張はいけないの? 皆、ある意味御都合主義じゃないの?


337日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:39:12.71
>>336
>>自己主張はいけないの? 皆、ある意味御都合主義じゃないの?
自己主張は構わないが、皆御都合主義という訳ではない
それでは単なる法螺と変わりない
338日本@名無史さん:2011/08/16(火) 18:40:44.35
>>336
> 近畿の銅鐸族が、自由自在に渡海出来たって?

できたけど?

少しは自分の無知を認めて、考古学をもっと勉強しなよ。
339塩土老翁:2011/08/16(火) 18:48:35.60
>>337
>自己主張は構わないが、皆御都合主義という訳ではない
それでは単なる法螺と変わりない

 じゃ、投稿するのはヤメにしよう。

>>338
>少しは自分の無知を認めて、考古学をもっと勉強しなよ。

 それはご指摘の通りで、これからも勉強して行きますよ。
340日本@名無史さん:2011/08/16(火) 19:26:52.11
>>338
じぁ考古学で邪馬台国が近畿に有ったことを証明してみろよ。
考古学では邪馬台国のやの字も卑弥呼のひの字も証明できていない。東の海も
証明できていない。考古学とは傍証をするものでしかないことに早く気づけよ。
341日本@名無史さん:2011/08/16(火) 19:30:26.95
>>338名無史さん
>>近畿の銅鐸族が、自由自在に渡海出来たって?
>できたけど?

横しますが、具体的にどんな裏付けでしょう。
よろしく
342日本@名無史さん:2011/08/16(火) 19:41:07.96
>>340

九州に邪馬台国が見つからないのだから、近畿しかないでしょ。
九州のどこに邪馬台国があるのか、証明よろしく。
343日本@名無史さん:2011/08/16(火) 19:45:15.72
>>341

ttp://inoues.net/tango/naguoka.html

丹後では、紀元前から培ってきた内外の交易を結びつけるノウハウ、先進技術を駆使して素材を加工する技術などを基盤と
して、やがて弥生後期には、大宮町三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、岩滝町大風呂南1号墓、峰山町赤坂今井墳丘墓など、豊
富な鉄とガラスを副葬品に持つ首長墓を生み出す。弥生後期の首長墓のようすは、北部九州や畿内地域よりむしろ、出雲や
因幡を加えた日本海中西部地域の首長層の方が、弥生後期の日本列島内では有力な存在であったように思える。

また後期には、畿内地域と東海地域で作られた巨大な銅鐸がともに丹後地域にも出現する。分布圏の中心から遠く離れた銅
鐸の存在は、おそらく両地域から丹後の先進物資の入手のためにもたらされたものであろう。ただ、弥生中期後葉から後期
にかけてこれほどの外来物資を集めることのできた丹後地域ではあるが、なぜか同時期の中国後漢代の銅鏡はあまり発見さ
れていない。大陸交渉の門戸として発展した北部九州で多数の中国鏡が出土していることとは対照的である。この事実は、
丹後地域にもたらされた鉄素材などの外来物資が、鏡の豊富な北部九州を経由したものではないこと、つまり丹後の首長層
がいわば独自の大陸交渉ルートを持っていたことを示唆している。そしてその交渉先は、豊かな鉄資源を持ついっぽうで中
国鏡は少ないという同じ特徴がみられる、朝鮮半島南部の伽耶地域に求められる。


伽耶とつながりがあるのは、丹後であって、河内じゃない。
そこのところ、再認識するんだな>塩土老翁
344塩土老翁:2011/08/16(火) 20:25:05.79
>>343
>伽耶とつながりがあるのは、丹後であって、河内じゃない。
そこのところ、再認識するんだな>塩土老翁

  何んだい???安曇族じゃないか。
  安曇族は、小浜市から琵琶湖西岸へ入植し、銅鐸族が放棄した西岸を和邇氏
  とともに土木工事を行い「志賀町、安曇川」を残している。
  小浜以東から、遠賀川式土器が出てない。
  志賀島から小浜市は、安曇族の縄張りだ。
  自説の「伽耶族+安曇族」の証明じゃないか。
  銅鐸族の遺跡でも運送会社は、「安曇引越しセンター」だ。
  安曇族が行ってないのは、四国周辺だけだ。
345塩土老翁:2011/08/16(火) 20:38:47.18
和邇氏は、和珥、和迩、丸邇などとも記される古代豪族である。
欠史八代の5孝昭天皇を始祖とする皇別氏族である。
5孝昭天皇の長男「天足彦国押人命」(記では天押帯日子命)を祖とし、
本拠地は奈良盆地東部「春日、大和国添上郡和邇(天理市和爾町)」である。

関連地としては、全国に多数あるが、【 滋賀県滋賀郡志賀町和邇春日 】
が代表的である。

志賀町 〜 安曇族
和邇春日〜 伽耶族
346日本@名無史さん:2011/08/16(火) 20:45:02.23
>>300
反論すればするほど見苦しくなるね。
畿内説のなかでも「三角縁問題」はスルーして著書でもあえて触れない人の
方が多いだろ。

舶載説批判はやりにくいが、あんな暴論に与するわけにも行かない。

という状況がありありと伝わっているよ。
347日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:28:31.31
>>346
>反論すればするほど見苦しくなるね。

ゴミクズレベル九州説の自分が溜飲を下せる数少ないネタです
反論はゆるしません!
かつての舶載説が批判された時点でゴミクズレベル九州説の勝利は確定したんです!
無駄な抵抗はおやめなさい!

…ってところだなwww

現在の深化(進化)した舶載説に伍して国産説を採る研究者ってのも名前が思い浮かばない…
結局、思考停止で雰囲気ムードに流されているだけw

まあ「製作地」と「制作年代」の問題は別なわけだが

「邪馬台国東遷説」に縛られているゴミクズレベル九州説としては
画文・三角といった神獣鏡の登場を4世紀に入ってとしたいところなんだろうが

国産だとしても中国で2世紀には登場している神獣鏡のモチーフが最低丸々100年日本に伝わらなかった
…という都合の良いシナリオなんて無いのが現実w




348日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:34:57.26
模造品・コピー品製作販売の発祥の地だな
349日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:43:34.49
仮に100%コピー模造品であろうが3世紀にそれを大量に全国にばら撒く勢力が畿内に興っているというのは
畿内説に有利な傍証にはなっても不利になることは無い。

逆に邪馬台国が東遷してそのままヤマト王権の祖となった
…なんてお話はもはや物理的に無理なお話www

>>346の知る学生達に邪馬台国東遷説なんてどう思っているのかリサーチしてもらいたいものだが
そっちこそ笑いものなんじゃないかとwwwwwww
350日本@名無史さん:2011/08/16(火) 21:49:33.97
△は半島で制作されたものなんじゃないの?
公孫氏は魏と呉の二面外交やってたし。
北朝鮮がなくなったら、帯方郡の証拠が出てきそう。
351日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:05:44.09
△とかみともねぇからどっか捨ててこいよ
352日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:15:04.49
>>344
>志賀島から小浜市は、安曇族の縄張りだ。
>自説の「伽耶族+安曇族」の証明じゃないか。

あまりにもバカバカしくてレスする気にもならんが、
四隅突出型墳墓って聞いたこと無いの?

弥生時代末には、山陰から越にかけて、四隅突出型墳墓をつくった勢力(同族ではない)があったの。
「安曇族の縄張り」なんてものが存在する余地は微塵もありません。
353日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:17:48.45
>>347
痛い奴だなあ。まあネタだろうけど。

▲の学者はリアルでもっと痛いからネタとしても物足りないね。
354日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:26:20.77
痛さで勝負するなら、
九州説の安本が最強だな。

なんせ、卑弥呼は天照大神で、神武東征によってヤマト王権ができたと信じてる人を騙して金儲けしてるんだからな。
355塩土老翁:2011/08/16(火) 22:27:23.72
>>352
>「安曇族の縄張り」なんてものが存在する余地は微塵もありません。

 じゃ、その四隅突出型墳墓勢力が、対馬海流を渡って交易してたってこと?
 領土の話じゃありませんよ。 海運業の話ですよ。
 微塵もありませんなら、志賀町、安曇の名残りは、嘘ってこと?
 
356日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:32:52.14
>>300  まったくそのとおり。素晴しい!!!

仮に100万対0になっても、そんなことは問題じゃあない。
中国のあの時代の魏は極度の銅不足で銅鏡なんて流行っていなかった。
なので分母が極少の中国の状況と分母が数千の日本の状況を対比してはいけない。

魏は銅不足で貨幣鋳造もままならぬ物々交換の状況だったから、魏で大量の大型鏡を
作ったとかいうのは、ありえない。
朝鮮あたりで「特鋳」したに違いない。
もともと魏の領域では神獣鏡は全然流行っていなかったからなおさらだ。

魏は薄葬だったから、朝鮮で作られた三角縁が魏の領域で出土しなくとも不思議ではない。

舶載説万歳!!!
357日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:36:48.61
まあ一連の流れは >>171 の恨み節東遷厨安本儲の小林批判から始まるわけだがw

「論争史を正しく知っておくべきだ」と言うのならゴミクズレベル九州説も知っておくべきだろう…

”小林説への批判・検証”と言うのは

ゴミクズレベル九州説(特に東遷厨)がいつも金切り声上げて糾弾しているw

『悪のキナイセツによる不当な年代遡上』

…とほぼイコールだと言うことをだwww


358日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:38:38.86
>>354  その通りだな。

記紀なんてのは天皇支配を正当化するために創作されたもので99%が事実ではない。
聖徳太子さえ架空なのに、それ以前の部分に事実が存在すると考える方がおかしい罠。

万世一系どころか、王朝交代が頻繁に起きていたことは水野教授が書いたとおり。

欽明天皇とか継体天皇なんて架空の人物に決まっている。

古墳の99%以上は平安時代以降に作られたに違いない。
359日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:41:10.72
>>355
>志賀町、安曇の名残りは、嘘ってこと?

その地名がいつ付けられてのか、証明できないだろ?
江戸時代かもしれないのに。
360ゴジンム:2011/08/16(火) 22:45:49.77
一系ハ無窮ナリ
361日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:46:14.10
>>355

同じ地名でいうなら「山田」のほうが近畿を中心に全国に散在する。

近畿の「山田族」の存在も、当然論考してるんだろうね?
362塩土老翁:2011/08/16(火) 22:49:24.57
>>359
>証明できないだろ?
昨日の人? もういいよ。
363日本@名無史さん:2011/08/16(火) 22:54:56.11
>>356 恨み節東遷厨安本儲

…つうかお前時々そうやって「ほめ殺し」的な芸風の書き込みやってるよな?
まあ中身の材料が同じなんで「ああいつもの安本儲か」と丸分かりだがwwwww

そもそもそうやって当時の魏が極度の銅不足であったなんて事を強調するのならば
いわゆる「卑弥呼の鏡」が三角でなかったとしても(九州説の推す「内行花文」や「TLV」だったとしてもだ)

「特鋳」にならざるを得ないと思うんだが(魏に銅鏡のストックが潤沢にあったわけじゃないんだろう?)
…一体何が言いたいんだ?

アホの安本儲が「特鋳なんてありえない!」ってフレーズに飛びついているだけなのか?wwwwwww
364塩土老翁:2011/08/16(火) 22:56:30.58
>>361
>近畿の「山田族」
初めて聞きました。とても興味ありますが、近畿の地理に弱い者で・・
どの系統の海人族になるのでしょう?  よろしく。
365日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:05:02.54
>>364

なんで海人なの?
アズミのほかにも同じ地名が広がってる例があるということを指摘してるわけだが。

君、頭悪そうだから、もっと説明したほうがいい?

そもそもアズミ族ってなに?アズミって地名が全国にあるから、それが何なの?
江戸時代にできた地名かもしれないのに、それを根拠に弥生時代の何が語れるというの?
366ゴジンム:2011/08/16(火) 23:05:28.98
大日本帝国ハ有史以来 皇室ヲ中心トシテ建設セラレタル國體ヲ有シ

皇統一系天壌トトモニ窮リナク 未ダカツテ神器ヲ窺フ者アラス

國體ノ尊厳ニシテ 千古ニ於イテ変ラサルモノ正ニココニ存ス

皇國體ノ天下萬世ニ冠絶スル所以ナリ。
                                   〜徳富蘇峰


367日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:13:31.58
安曇系の地名を問題にする前に、◯那という地名を問題にしろよ
邪馬台国が男王で混乱する以前に日本を支配し、漢に使者を送った那(奴)国の痕跡なのに、、、
368塩土老翁:2011/08/16(火) 23:17:17.47
>>365
>なんで海人なの?
海人族を中心に古代史を勉強している者です。
>そもそもアズミ族ってなに?
ご存知でなかったら結構です。
369日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:36:44.34
>>368

あのねえ。海人族っていうけど、古代に広域を支配したような海人族なんていないからね。
あくまでも、港から港、点と点を交易で結んでいた漁師の延長。

どこかの港を拠点にして、内陸に勢力を広げてクニを作って王になったとか、
ひとつやふたつは、そういう例もあるかも知れないが、全国のアズミ地名が、アズミ族の興した王国の名残とか思ってたとしたら、
そんなの、全く根拠の無い妄想だからね。

海人に横のネットワークがあったにしろ、
近畿の海人は、アズミだけじゃなくて、尾張氏だっているんだから。瀬戸内海は津守氏がいるし、丹後には海部氏がいる。
尾張氏、津守氏、海部氏は、系譜につながりがあるが、アズミとは全く何の関係もないからね。

海人を勉強するにしても、もっと基礎から学んだらどうよ?邪馬台国から離れてさ。


370日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:41:25.64
>>363
ここにも現れたジョーカー
場違いであることを理解せずに
相変わらず不明な発言を繰り返す虫だな
371日本@名無史さん:2011/08/16(火) 23:47:15.72
>>370
ようサイキバ君元気してた?

372日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:02:16.84
そういや、もう夜中だ
ジョーカーの時間か
夜中ずーっとわめいていろよジョーカー
373日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:17:45.27
>>372
サイキバ君今日はお外で昆虫採集でもやってたのかな?
それとも海にでも連れて行ってもらったのかな?

もう憑かれ…疲れちゃったんだねオヤスミwww
374日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:32:56.24
>>370
その病的粘着性は「筑紫の民」だったかな?www

とりあえずお前が言っている
「まともな畿内説」の基準・定義って何だよ?

まさか俺に行程記事の解釈・すなお読みとか要求しているのか?

そんなものに意味は無いと今まで散々言ってきたんだが・・・




375日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:54:37.27
ジョーカー、お前は此処で何がしたいの?
ここは、お前のいる場所じゃないんだよ。
早く仕事見つけてしっかり働けよ。
彼女も早く見つけろよ。
376日本@名無史さん:2011/08/17(水) 01:00:01.05
>>375 病的粘着性筑紫のド民

あれ寝たんじゃないのか?w
377日本@名無史さん:2011/08/17(水) 01:15:29.75
ジョーカーは人格を否定されても平気なんだ。
2ちゃんなれか?それとも、ここでの会話が生き甲斐か?
相手されてうれしいか?ジョーカー
378日本@名無史さん:2011/08/17(水) 01:26:31.87
ジョーカー
お前、人生このままでいいのか?
379日本@名無史さん:2011/08/17(水) 01:28:36.25
明日は、仕事見つけろよ。
ちゃんと稼いで他人に迷惑をかけず立派に生きろよ、ジョーカー。
380日本@名無史さん:2011/08/17(水) 04:05:30.56
>>363
などと意味不明な供述を繰り返しておりwwwww
381日本@名無史さん:2011/08/17(水) 10:18:29.44
>>380
サイキバくんの朝は早い、徹夜かな?
382日本@名無史さん:2011/08/17(水) 11:31:20.14
邪馬台国の話しなよ
383日本@名無史さん:2011/08/17(水) 11:52:29.83
いい加減筑紫の民はしつこい
384sss:2011/08/18(木) 01:19:30.90
>>354
東遷説を最初に示唆したのは、明治末期の白鳥庫吉だろう。
その後も、和辻哲郎、和田清、榎一雄、井上光貞など、そうそうたる東大系の歴史学者に
受け継がれている。

しかし、戦後になって少し様相が変わってくる。
奥野正男氏が、畿内説論者は、東遷説を「神武東征神話の亡霊」と右翼扱いするレッテル張りで
封じてきた、と述べているように、東遷説を語らせないことに重点を置くようになる。

要するに、邪馬台国東遷説は神武天皇神話から来たもので、こういう皇国史観が軍国主義を
戦争へと導いた、というわけである。

ちょっと名前は忘れたが(森浩一氏だったかな)、同じように、戦争を体験したものにとって、
軍国主義者扱いされることはかなり辛く、次にどんなレッテルを貼られるかと思うとなかなか口に
出すことは出来なかった、と言っていた。

戦争の記憶が強く残っている場合は、それが通ったのだろう。
そういう中で、古田氏のような九州王朝説、あるいはこれに類似する邪馬台国九州説が登場する。

戦争の記憶が薄れたのかどうかわからないが、1980年代くらいになって戦争にあまり係わらない
世代が出てくると、「神武東征神話の亡霊」では、何それ、ということになる。そうなると
東遷説も新たに登場してくる。安本氏もそうなのだろう。

畿内説は、安本=東遷説ということにして、安本を連呼する新たなレッテル張りをするように
なったと言うことかもしれない。
畿内説は、こういう手段を取るしか方法がなくなっているのだろう。
385日本@名無史さん:2011/08/18(木) 01:28:28.79
安本がよくネタに上がる理由は、生理的嫌悪感が強いからだな。
386日本@名無史さん:2011/08/18(木) 01:30:30.04
>>384

よう、安本信者のSSS君。

伊勢神宮に電話したかい?

「天照大神は卑弥呼でしょうか?」って聞いてみた?

相手が知らなかったら、君がおしえてやりなよ。

「天照大神は卑弥呼のことです。」ってさ。簡単なことだろ?
387日本@名無史さん:2011/08/18(木) 01:38:54.11
>>384
戦後の歴史学会は左翼支配だから、神武東征を唱える学者は叩き上げには居ない。
学会の本流である左翼史観は、神武東征につながる要素を最大限否定する。

しかし、戦後の考古学の成果はその方向性に反する部分に大きく躍進し続けてきた。

弥生時代の遺物では 九州>>>畿内 という圧倒的な差が確定したが、主流派はそのことは最大限触れない。
九州優位→畿内優位の時代の流れは神武東征につながるから。

荒神谷など出雲での青銅器の大量出土は、九州優位の時代と併行する時代における本州での出雲優位という
記紀神話をそのまま裏付けるものであるが、記紀神話とのリンクを述べる学者は一部のみ。

主流派の学者が、思想的理由でお預け状態だったご馳走を、安本や奥野が横取りしたというのが主流派の
若手〜中堅の学者の本音だろう。
388日本@名無史さん:2011/08/18(木) 01:47:32.78
>>387
>弥生時代の遺物では 九州>>>畿内 という圧倒的な差が確定したが

その舶載品に富む九州の考古学の年代観に合わせたものが今の考古学の年代観なわけだがwww

少なくとも「邪馬台国東遷」なんてものは物理的に無理、右も左も関係のない話。


>若手〜中堅の学者の本音だろう。

だったらいいなという願望だろうが、まあ毎晩お祈りでもしているんだなwww

少なくとも前述の理由からも「邪馬台国東遷」なんて完全にイロモノw

まあ精精、毛色を変えて「奠都説」にでもシフトするのが関の山wwww
ただし安本はそれもできないんだろうが…

389日本@名無史さん:2011/08/18(木) 03:19:06.54
>>387
>学会の本流である左翼史観は、神武東征につながる要素を最大限否定する。

そのサヨク思想の恩恵を受けてるのが、ほかならぬ東遷説だろうが。

サヨクさんは、万世一系や、紀元前660年の神武東征を否定してるが、
その論に乗っかって、ヤマト王権は4世紀に生まれ、邪馬台国が東遷したという説を主張してるわけだろ。
2〜3世紀の欠史八代を認めたら、東遷説は成り立たないからな。

そうやって、他人の論を都合よくねじまげてるから東遷説はサギだというのだ。
390日本@名無史さん:2011/08/18(木) 03:39:30.60
>>387
>主流派の学者が、思想的理由でお預け状態だったご馳走を、安本や奥野が横取りしたというのが主流派の
>若手〜中堅の学者の本音だろう。

なんだろうね。ようするに、神話を史実として語りたいという本音があるが、
主流派はサヨクばっかりだから、神話を史実として語ると学会で爪弾きにされるので、
仕方なく、若手〜中堅の学者は、神話を無視して考古学だけで論を立ててると。
そして、安本や奥野がどうどうと神話を史実として語ってるのが、内心うらやましくてしょうがないと、
できることなら、自分達も、そうやって神話を史実として論じてみたかったと。
若手〜中堅の学者は、本来自分達の手柄として得られた研究結果を、安本や奥野に横取りされて悔しがってると、
そういうことを「妄想」してるというわけか。

一度、君も論文書いてみたら?学会でなくても、ホムペでもいいから、
他人の目に触れるような形で、持論をまとめてみなよ。
考古学と記紀神話を見事にリンクさせてさ。
古代には出雲王国が〜。
邪馬台国は東遷して〜。
卑弥呼はアマテラスになって〜。
とかさ。

出来上がった論文は、いかにも小学生の作文みたいな幼稚なものになってるだろうね。
391日本@名無史さん:2011/08/18(木) 11:15:29.85

それより日本の教科書が、国旗掲揚が、在日教師が、
マスゴミが、創価学会が、公明党が、創価の集団ストーカー犯罪が、
電通が、民団が、総連が、ソフトバンクが、NHKが、諸々が、
日本国を内側から腐敗させてることが問題なんだ、 、、


392sss:2011/08/18(木) 15:22:16.17
>>386
卑弥呼は、3世紀前半頃の日本に実在したと中国史に書かれている倭国の女王。
天照大神は、記紀神話に登場する高天原の主宰神であり、皇祖神でもある。

共に日本の古代史上、もっとも有名な女性である。普通に考えても同一人物ではないかとの考えがよぎるが、
倭人伝と記紀を読み比べると、かなり類似性が高いと考えられる。

まず、共に女性でありながらトップの地位にいること。夫がいないこと。巫女的な性格を持つこと。など
人物の性格が似ている。

卑弥呼は魏から百枚の鏡をもらっている。天照大神の場合は、天岩戸から出るときに鏡が重要な
役割を果たすなど、共に鏡に関係がある。

記紀における天照大神の記述は、素戔鳴尊との争いが中心になっているように、天照大神は素戔鳴尊に
非常に苦しめられる。卑弥呼は、狗奴国との争いに困っており、そのことで魏(帯方郡)に使者を送り、
戦争状態を調停するために張政が来日している。

天照大神は、素戔鳴尊の乱暴に怒って天岩戸に隠れる。卑弥呼は張政がやってきた頃、
狗奴国との争いの中で死んでいる。
天照大神が岩戸に隠れると高天原は真っ暗になり、神々が騒ぎ出し、あらゆる災いが起こる。
卑弥呼が死ぬと、倭国は跡継ぎをめぐって戦乱状態に陥り、千人あまりが殺される。

天照大神が岩戸を出ると、高天原は元のように明るくなる。台与が女王になると倭国はついに定まる。

天照大神が岩戸を出ると高皇産霊尊が登場し、共に高天原を治める。台与が女王になったあと、
男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。男女の二人の王の並存という珍しい状況が、中国史にも記紀にも
書かれているわけである。

卑弥呼(+台与)と天照大神が統一人物であることは、文献的にはかなり確率が高い。
にもかかわらず、畿内説が必死になって否定したがるのは、これを認めたら、天照大神の実在性を
認めることになり、その後の神武東征も認めなくてはならなくなる。これは邪馬台国東遷説そのもの
だからである。
393日本@名無史さん:2011/08/18(木) 16:19:28.62
説得力はないな。
アマテラスは夫いるぞ。名前は知らんが。子供がいるから。
394日本@名無史さん:2011/08/18(木) 16:21:46.85
古代においては、祭政一致だから、
名の売れた女性なら、だいたい巫女的性格を持つもんだ。
395伊作:2011/08/18(木) 16:46:27.30
>>392
>倭人伝と記紀を読み比べると、かなり類似性が高いと考えられる。
>女性でありながらトップの地位にいること。
類似性としてあげるほどの意味なし。
>夫がいないこと。
類似性としてあげるほどの意味なし。
>人物の性格が似ている。
まったく意味なし。
>共に鏡に関係がある。
鏡を神宝・祭器・呪具とした日本人のことだ。つくられた神と密接な関係にあって当然。

>天照大神は素戔鳴尊に非常に苦しめられる。卑弥呼は、狗奴国との争いに困っており
>天照大神は、素戔鳴尊の乱暴に怒って天岩戸に隠れる。卑弥呼は 狗奴国との争いの中で死んでいる。
>天照大神が岩戸に隠れると高天原は真っ暗になり、神々が騒ぎ出し、あらゆる災いが起こる。
>卑弥呼が死ぬと、倭国は跡継ぎをめぐって戦乱状態に陥り、千人あまりが殺される。
状況の類似というだけで、記紀神話の創作者が卑弥呼=天照大神を同一人物と意識して創作した証拠はない。

>天照大神が岩戸を出ると、高天原は元のように明るくなる。台与が女王になると倭国はついに定まる。
こじつけだね。
>台与が女王になったあと、 男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。
そんなことまでは倭人伝は触れていない。はちゃめちゃな『梁書』倭伝など持ち出してはならない。
>男女の二人の王の並存という珍しい状況が、中国史にも記紀にも書かれているわけである。
かんぜんに中国歴史書の誤読(『梁書』倭伝の誤読の受け売り)による飛躍だ。

>卑弥呼(+台与)と天照大神が同一人物であることは、文献的にはかなり確率が高い。
くり返す。恣意的あるいは意図的に、さらにはこじつけ的に類似を主張しているだけであって、
同一人物といえるほどの「直接的類似」はない。ほとんど願望論になっている。

つづけるから
396伊作:2011/08/18(木) 16:47:33.82
つづきだから。

>これを認めたら、その後の神武東征も認めなくてはならなくなる。
創作神話に頼らずとも倭国勢力の九州からの「引っ越し」は説明できる。
▼日本列島特有の地理・地形と海洋ルートとの関係。
▼これを戦略的に利用したとする人間の行動心理。
この2点で勝負はつく。

「人・もの・文化・知識・技術」は、入り口ほど濃厚で遠くなるにつれて希薄になる。
(運搬と往来には、海人勢力の監視の下で、海人の船と航海技術が活躍することになる)。

大陸と朝鮮半島との通交にあっては出入り口が一つしかないのに、
この出入り口を掌握した勢力が古くから出入り口にいたというのに、
出入り口よりも遥かに奥まった所が出入り口よりも先進的で強力になる可能性はない。

むろん、日本列島特有の地理・地形が規制する物理的にも力学的にも、
武力支配時代における人間の行動心理学的にも、
出入り口よりも遥かに奥まった所に出入り口よりも大きな王権が自生して育つ可能性もない。

これが、文献にも考古にも頼らずに構築できる東遷説だよ。
397伊作:2011/08/18(木) 16:56:37.74
気になること。

>天照大神は高天原の主宰神であり、皇祖神でもある。
そう。「神話」に登場する神様だよね。

>巫女的な性格を持つこと。
神さまが巫女的な性格を持つて・どゆこと?

いやしくも倭国の王が巫女的な性格を持つて・どゆこと?
天地や天地神を祀ることができるのは天子・皇帝だけ。
これを倭国も直線的に受け入れてきた。
天子・天皇が天地や天地神を祀る行為が巫女的に見えるのか。
ちと安い話だが、安本という人もそうゆってるのかね。
398伊作:2011/08/18(木) 17:23:06.16
言葉づかいを正確に。
卑弥呼=天照大神とはよく見かけるが、実は言葉のあやで大きな恣意がのぞく。

厳密には、
記紀が中国歴史書に登場する卑弥呼をヒントに天照大神を誕生させた。
天照大神の神話は卑弥呼の逸話をモデルにしている。
という程度でなければならない。

そんなことは俺にとってどうだっていいことだし、
だからどうだというのだ。てとこ。
399伊作:2011/08/18(木) 17:38:07.49
sssさんに。以前告げたことを再度通告する。

卑弥呼と天照大神を同一人物とするならば、フェアにはこうだよ。
●卑弥呼3兄弟と天照大神3兄弟
天照大神にはスサノオという荒ぶる弟と、ツキヨミという目立たない弟がいた。
卑弥呼にも、政治を手伝っているというだけで名も不明な目立たない弟がいた。
じゃ卑弥呼と名前も兄弟のようで狗奴国の卑弥弓呼は荒ぶる弟ではないのか。
つまり、「卑弥呼と卑弥弓呼は兄弟だ」と、なぜいわないのだ。
「卑弥呼と天照大神を同一人物」をより補強するはずの「卑弥呼と卑弥弓呼は兄弟だ」と、なぜいわないのだ。

「そこ」には触れたくないらしく、いうことはこうだ。
>記紀における天照大神の記述は、素戔鳴尊との争いが中心になっているように、
>天照大神は素戔鳴尊に非常に苦しめられる。
>卑弥呼は、狗奴国との争いに困っており、そのことで魏(帯方郡)に使者を送り、
>戦争状態を調停するために張政が来日している。

「男らしくない」と軽蔑してもいいよね。
文句があるなら、卑弥呼と天照大神は同一人物である。天照大神とスサノオ兄弟である。
だが、卑弥呼と卑弥弓呼は兄弟ではないと論証してみてほしい。
400伊作:2011/08/18(木) 18:04:45.68
卑弥呼=天照大神説が、
こじつけばかりで「卑弥呼3兄弟と天照大神3兄弟」に触れないのは、
これに触れると九州中部の歴史に触れざるを得ないからだろう。
九州中部の熊本あたりは、狗奴国・熊襲として一線を画しておいて、
深く関与せずにやり過ごして日本の古代史を語ろうとする意識がチラつく。

おかしな言説の典型ともいえる「片手落ち論法」だ。
こじつけの類似項目をみつけてくるわりには
「卑弥呼3兄弟と天照大神3兄弟」には言及しないという不条理。
そこまでして卑弥呼=天照大神説を垂れるに、どんな意義と意味があるのか。
邪馬台国を九州北部の片隅に押し込めんとするゆえの論法なのだろう。

ま・九州中部の歴史を日本古代史として語りたくない奴は、
この卑弥呼=天照大神説を叩き潰すことだな。
401日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:15:00.30
>>384 >>387 のような SSS とか 恨み節東遷厨 とか
こういった連中のルサンチマンと言うか負け犬の遠吠えとかうんざりだな。

要するに自分達が陽の目を見なかったのは学説そのものの価値ではなくて戦後のサヨクに虐げられてきたからで
そのサヨク支配の呪縛から解き放たれたら自分達こそがメインストリームに君臨できると妄想しているわけだw

戦後のある時期サヨクというかマルクス思想に学者らも大いに影響されたのは確かだろうが
それはそもそも九州説も同じ。
と言うか松本清張とか古田とかサヨクそのものじゃねかとw

まあいくら現実を突きつけてもその妄想を止めることはないんだろうが…

とりあえずその「東遷説復活」の為に「つくる会」あたりにでもきちんと東遷説を有力な学説として載せるように運動してみてはどうかな?
無論「古墳時代の始まりは4世紀」と明示してもらってだ.

スローガンは

「正しい日本の歴史をサヨクから取り戻せ!立て良識ある保守!復活東遷説!!」

とかいかがだろう?w
402日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:21:33.59
>>392 
記紀が大筋で事実を反映していると解釈するとその方向は必然だろうね。
しかし、天照は実在で、神武東征も史実であるとなると、天皇の権威は高まる。

そんなことは絶対に認めないというのが、戦後に実権を握った左翼史観。
彼らはイデオロギーだけなんだよね。

最近は、雄略以降は史実性を認める考えが主流になりつつあるが、
それ以前については、多数の天皇を架空とする直木孝次郎などの戦後に開花した
左翼史観の長老が生きているうちは、踏み込めないだろうね。

その踏み込めない領域にずけずけと入って行って、お宝独り占めの安本なんかは
やっかまれる存在と言えるだろう。
「おれだってバカ長老がいなくなれば同じことを主張するのに〜」と。
403太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/18(木) 18:26:17.00
卑弥呼≠天照大御神
404日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:28:54.68
>>392 sss
>卑弥呼(+台与)と天照大神が統一人物であることは、文献的にはかなり確率が高い。

こりゃ驚いた文献史学ってそんなところまでフォローするのかwww

まあこいつ(やもう一人の日向厨もそうだったかな?)とって卑弥呼+台与=天照大神と言うのは
もう自身の存在意義、全ての出発点みたいなもんだろうから死ぬまで持ち続けるんだろうが
まあ死ぬまで陽の目を見ることはないだろうw

もっとも卑弥呼=天照大神なんてのは誰でも考えることなので根強い人気は持ち続けるんだろうが
学術的に本気で取り上げられることはないだろうwww

餅は餅屋、神話は神話学ということだろうがこの岩戸に隠れる太陽神の神話は広く東南アジアにも見られる。
こんなもの常識中の常識。
だから卑弥呼=天照大神を主張するにしても元々あった神話に卑弥呼と言う女王の記憶が”仮託された”と言うのが普通。

それがゼロから卑弥呼邪馬台国の事件を下敷きにしてできたと言うところに無理がある。
(恐らく安本も同じ)

そもそも神話中の神のモデルを歴史上の人物に求めなければならないと言う理屈を
このsssとか言うトンデモ君は述べていないことに気づいているんだろうか?www
(実は考えられる理由は一つはあって恐らく誰でもが知っていることだが)

405伊作:2011/08/18(木) 18:30:46.75
卑弥呼と卑弥弓呼は姉弟であり、
邪馬台国は熊本平野にあって、狗奴国は人吉盆地にあった。

狗奴国は古豪・倭奴国の遺臣・旧臣が支えた旧奴国のことで、
これを倭人伝は狗奴国と書いた。
もともとは菊池の隈(くま)にあったことから、
新たに封えられた人吉盆地を球磨(くま)と呼んだ。

人吉盆地は奈良盆地に匹敵するポテンシャルを秘めた土地で、
こういう土地を封えられるのは血脈が王家と連なる有力者と相場が決まっている。
むろん、都城盆地も日田盆地も同様。

卑弥呼の女王国側と狗奴国との確執は、
かつての倭国大乱のしこりがもたらした九州勢力間の最終戦である。


こうしたストーリーを潰したい向きは、
「卑弥呼=天照大神」言説を潰すほうがいい。
なぜならば「卑弥呼と卑弥弓呼は姉弟」説とイクオールだから。
406日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:34:06.51
それと恨み節やsssと言う連中がサヨクかぶれの爺どもが死んだら
自分達に陽が当たるとかほざいているが…

まあ素人目の予想だが
ゴミクズレベル九州説にとって今より悪くなる事はあっても良くなることはないだろうw

恐らく今はまだこれでもマシな方なんだろう。

先に出てきた小林の薫陶を受けた人間(都出とかは弟子筋にあたるのかな?)や
何よりブームの中で自身が論争に参加した人間もまだいるのだから。

将来は邪馬台国ブーム自体が本で読んだ大昔のイベントで
「邪馬台国東遷説」だの「九州王朝説」だのはその中で起きた珍現象ぐらいの認識になるだろうwww



407日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:38:55.98
>>405
九州は常に一枚岩じゃないんだ?
408日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:48:45.53
>>405

ようするに伊作は何がいいたいのかな?

卑弥呼=天照大神で、
卑弥弓呼=スサノオで、
男弟=ツクヨミって解釈なら、卑弥呼=天照大神っつー東遷説もアリということかな?

目くそ鼻くそで、どうでもいい話だが。
409日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:52:19.25

なんにせよ、スサノオといえば出雲の神様で、こればかりは誰も否定できまい。

ならば、卑弥弓呼はスサノオでは無いわけだから、>>392の論法は全く意味が無い。

卑弥弓呼が出雲の男王って話なら、また別だが、絶対にそんな発想は持つまい。
410日本@名無史さん:2011/08/18(木) 19:04:17.52
>>392
>卑弥呼(+台与)と天照大神が統一人物であることは、文献的にはかなり確率が高い。
>にもかかわらず、畿内説が必死になって否定したがるのは、これを認めたら、天照大神の実在性を
>認めることになり、その後の神武東征も認めなくてはならなくなる。これは邪馬台国東遷説そのもの
>だからである。


このいやらしいミスリードについては、苦言を言わないとな。

神武東征は紀元前660年。欠史八代を実在として計算すれば、神武東征は1世紀。
天照大神を実在として、神武東征を史実と認めたとしても、邪馬台国東遷説にはならない。

なぜ、こんなミスリードを誘う文章が書けるのか?相当な悪意を感じる。

誰も言わないだけで、神武東征を史実と認めたって、畿内説は全然オッケー。
むしろ神武東征を史実と認めても、畿内説は揺るがないし、積極的に認めてもいいくらいだ。
411日本@名無史さん:2011/08/18(木) 19:22:55.86
九州に鏡が流入してきたのは紀元前の話。
天照大神が鏡に関係する太陽神で九州発祥なら、
天照大神信仰は紀元前に生まれたと考えるべきだろう。

弥生時代末に、九州から近畿にかけて高地性集落ができる。
これは神武東征と考える根拠として十分。

天照大神→神武東征は、紀元前〜1世紀の出来事として考えても、全く何の問題も無い。

なぜ考古学者が神武東征を肯定的に考えないのか?
それはヤマト王権成立に、九州が大きく関与したという考古学上の痕跡が無いから。
証拠が無いから、神武東征を考慮した論文が書けないだけであって、
サヨク思想云々は全く関係ない。



412日本@名無史さん:2011/08/18(木) 19:31:38.69
ヤマト王権成立時に、九州勢力の影響が見られないのに、
神武東征神話を引き合いに出して、ヤマト王権成立過程を論じてしまったら、
それは学術論文ではなくて、歴史小説になってしまうわけだ。

東遷説を認めたくないから、神武東征を認めないわけではない。
神武東征を史実と確認できる証拠が無いために、神武東征は否定されているわけ。
戦前の考古学は、大いに神武東征の証拠を探し回ったはずだが、
それでも結局見つからなかっただろ。

ヤマト王権成立に、九州勢力の影響は無いの。
いいかげんあきらな。>SSS&伊作


413日本@名無史さん:2011/08/18(木) 19:35:13.54
倭の五王やタリシヒコですら、ろくな情報がないってのに
九州が大和朝廷の前身と密な付き合いがあるはずがない。
金印の存在だって、記紀では存在しないことになってる。

仮に神武東征の原型となるような事績があったとしても、
九州勢力の本体とはあまり関係がないこと。

追い出されたかごく小さい勢力が新天地を求めて
移動していっただけ。

飛鳥の聖徳太子だって、タリシヒコの事績とごっちゃになってる。
遣隋使の記録もたまたま残っていて合う部分もあるが、合わない部分も多い。
このころの記録は様々な記録の痕跡から創作していったものだろう。
414太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/18(木) 19:54:17.63
【年表】
皇紀 西暦 倍暦
415 -246 176  紀の孝靈45年 孝霊天皇 山陰行幸
416 -245 177
417 -244
418 -243
419 -242 178
420 -241
・・・・・・・・
424 -237 179  光和2年
・・・・・・・・
504 -157 207  開化天皇 即位
・・・・・・・・
530 -131 220  後漢 滅亡
531 -130      崇神天皇 立太子
532 -129 221  開化29年 開化天皇 四方巡幸
・・・・・・・・
544 -117 227  卑弥呼即位 開化41年 開化天皇還幸
545 -116
546 -115 228
・・・・・・・・
562  -99 236
563  -98       開化天皇 崩御
564  -97 237
・・・・・・・・
569  -92 238   倭笠縫に天照大御神 鏡を祭祀
570  -91 239   景初3年
・・・・・・・・
573  -88 240   正始元年 百襲媛 没
・・・・・・・・
594  -67 247   卑弥呼 没
415太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/18(木) 19:58:37.37

>>414 不備の追加

564 -97 237 崇神天皇 即位

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

同表を眺めると、開化の代は

@ 開化即位年 A 皇太子の立太子 B 開化四方巡幸
C 同 還幸 D 開化崩御年

の五つがあり、ホツマ伝には他に

E 開化7年記事 F 同8年記事 G 同10年記事
H 同13年記事

があるところを観ると、唐松山の言う開化の代が4年
でオシマイの主張はデタラメのインチキであることが
分かる。9年分あるんだから4年で開化の代が終わ
るわけがない。ww
416太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/18(木) 20:02:30.86
>>414年表 >>415から
表を観て想うに、百襲媛と卑弥呼とはほぼ同時代の
女だったということだ。百襲媛のほうが卑弥呼より
7年ばかり先に死亡している。ほぼ同時代とはいえど、
両女は別人なのだということを思い知らねばならない。

倭乱の終わったころであろうか、ミマキイリヒコが
立太子礼をあげたその翌年、漢滅亡直後に開化天皇は
次代の四道将軍の如き四方巡幸を始めたということだ。

次帝の崇神は先帝開化の行ったことを、四道将軍にも
再び行わせたのだということが分かる。開化の四方
巡幸が不十分で、それ以上に畿内外周等の視察が必要
であったからだろう?

表から 景初3年=239年 の前年、農民の飢饉、暴動を
憂い、崇神天皇は神頼みでの倭笠縫に皇祖とその象徴
たる鏡を祭祀した。これが1次鏡であり、2次鏡は
その代用の模擬鏡であり、3次鏡が翌 景初3年の
多数生産の3次鏡であり、この3次鏡が畿内からうん
と出るのは、前年に日神と鏡を倭笠縫に祭祀したこと
に因むのである。これらの鏡にてその前年の237年が
景初元年となるのだとのウラがとれたことになる。

紀の崇神5,6年の飢饉が、倭笠縫にアマテラス、鏡を
祭祀させた事由だということなのだ。
417日本@名無史さん:2011/08/18(木) 20:10:40.33
ジョーカーのおかげでこの板の畿内説信者はかなり少数だな。
418伊作:2011/08/18(木) 20:14:45.32
>>408  >ようするに伊作は何がいいたいのかな?
卑弥呼=天照大神ならば、天照大神とスサノオは姉妹だから、
卑弥呼と卑弥弓呼は姉妹だとなんでいわないのか。男らしくないぞ。
男らしくない言説など潰せってこと。

卑弥呼と卑弥弓呼が兄弟だといいたくない本音はすでに推測してみせた。
419日本@名無史さん:2011/08/18(木) 20:50:33.68
420日本@名無史さん:2011/08/19(金) 08:58:50.71
>卑弥呼と卑弥弓呼が兄弟だ

馬鹿丸出し。
生ゴミがくると皆逃げる。
421日本@名無史さん:2011/08/19(金) 11:15:52.70
>>391
先日、フジのドラマでAKB前田敦子が着ていた黄色いTシャツの訳が判った。
fool (バカな)on the hill (高岡の)friends (支持者たち)little boy (原爆でも食らえ!) 。

これは、創価在日のスタイリストが確信犯でやった行為。
もはや宣戦布告。しかも原爆投下の次の日。

不謹慎極まりないフジテレビと一連の関係組織、集団ストーカー犯罪集団・創価。
日本国民は創価を許さない。8月21日(日)にはお台場・フジテレビ抗議デモがある。

422sss:2011/08/20(土) 00:51:37.65
>>418
記紀は、天地が分かれるところから始まっていて、明らかに神話と言うか、
想像の記述から始まっている。
伊邪那岐命、伊邪那美命の国産み神話なども非現実的な世界。
しかし、これがいつからか記録や伝承に基づく現実の世界に繋がっていく。

それはいつからか。伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰り、筑紫日向の小戸橘之檍原で
みそぎ払いをしたときに、左目を洗ったときに生まれたのが天照大神、右目を洗ったときに
生まれたのが月読尊。鼻を洗ったときに生まれたのが素戔鳴尊。

このみそぎ払いも現実的とは言えない。ところが、その後の高天原の天照大神の話になると
かなり現実味を帯びてくる。
恐らくこの頃からの伝承が残っていて、年代による脚色はあるものの、人々の記憶に残っていたと
考えられる。つまり、人々の記憶に残る一番古い話が高天原物語ということになる。

その一番古い記憶の登場人物が天照大神や素戔鳴尊あるいは月読尊になったわけだが、それ以前の
記憶がない。由緒がわからない。だから、伊邪那岐命のみそぎ払いが登場し、姉弟とせざるを
得なかったのだろう。

そういう事情だから、記紀に姉弟と書かれてはいても、実際に姉弟である必要はない。
イザナギ・イザナミを源流と考えれば、むしろ、一番古い登場人物は兄弟であるほうが自然な
成り行きだと思う。実際にはそうでなくても。
423sss:2011/08/20(土) 01:04:51.73
>>412
東遷説の根拠はけっこうあるだろう。
弥生時代に近畿地方周辺で極限まで発展した銅鐸は消滅し、古墳時代になると全く登場しない。
かわりに古墳時代を代表するものは棺に副葬される鏡ということになる。鏡は、弥生中期頃から
九州の甕棺などから大量に出土し、明らかに九州系のものといえる。

皇室の歴史書と言われる記紀にも銅鐸は登場しない。矛や剣はよく登場する。これも皇室の系統が
銅鐸の文化圏を経ておらず、むしろ矛や剣の文化圏を経ていることがわかる。

皇室の三種の神器も、弥生九州の伝統を受け継いでいる。少なくとも近畿地方の文化の影響は
受けていない。

古事記には、神武天皇に付き添ってきた大久米命のことが書かれている。大久米命は顔に刺青を
いていた。それを見て、五十鈴姫は奇妙に思ったと書かれている。
倭人伝には、倭人は大人も子供も刺青をしていると書かれている。大久米命はこれを満たしているが、
五十鈴姫は刺青を始めて見たことになる。
古事記的には、東征の信憑性が窺える。
424sss:2011/08/20(土) 01:25:51.59
>>404
卑弥呼=天照大神は多くの歴史学の大御所が語っている。

例えば、白鳥庫吉は、
「これは地上に起きた歴史上の事実で、かれは、天上に起きた神典上の事跡であるけれども
その状態の酷似すること何人もこれを否定することあたわず。かりに神話が太古の事実を
伝えたものとすれば、神典の中に記された天の安の河原の物語は、卑弥呼時代に置けるような
社会状態の反映と見ることが出来よう」

和辻哲郎も
「これらの諸伝説の原型がいかなるものであったにしろ、筑紫の生活のほのかなる記憶が
統治者の階級に残っていたと見ることは許されねばならない。」

和田清は、
「4,5百年に間には、卑弥呼のことも天照大神伝説くらいになったものと考えても良いのでは
ないでしょうか。はなはだ大胆不敵な説ですが、私はまずそう考えておきます」

記紀と倭人伝をじっくり読んだものは、だいたいそう考えるのが普通だろう。
425日本@名無史さん:2011/08/20(土) 01:58:06.80
記紀の前編は日本人にとっての聖書みたいなもん。
426日本@名無史さん:2011/08/20(土) 04:12:21.66
>>399
伊作ちゃん。前に、一大率が卑弥呼の弟って言ってなかったか?
俺の勘違いかな?
427日本@名無史さん:2011/08/20(土) 19:39:21.56
>>423
>東遷説の根拠はけっこうあるだろう。
確かに九州勢力の証拠だとは思うが、都を遷したとまで言えるかは問題だな。
古事記も三男が東征したとするだけで、本家が動いたとは書いていない。
428伊作:2011/08/20(土) 20:36:15.16
>>426
>一大率が卑弥呼の弟って言ってなかったか?
yes
卑弥呼の政治を手伝っていたという弟が一大率。
名ばかりの名誉職で、
卑弥呼姉さん関係の文物の検閲だけをしていた。
倭国大変の時も何も仕事をしていない。

一大率と卑弥呼の弟。
ともに一見すると大人物のようだが、ともに名前する商会していない。
編纂者も、自国の歴史書に載せるほどのタマじゃないと踏んだんだろうな。
429日本@名無史さん :2011/08/20(土) 20:44:36.99
東遷したのは実はもっと時代が後。
奈良が中央〜西を統一したのが7世紀後半。
その時の奈良に入った天下を統一した王が少し前に東遷して来て、
唐の都をまねて都つくりをしたのであって。
でも、日本書紀は遠い昔に東遷したように作り話をしているわけ。
当然、中国史書から倭国の情報も入ってきているので、それらを
参考に物語を構築しているから、卑弥呼が天照だとか、モモソヒメだとか、
卑弥呼に類似する人物が沢山でてくるのですよ。
ですから、東遷したことは東遷したのですが、邪馬台国ではなく別国。
奈良王朝はなぜヤマト朝廷と呼んだかは、
大倭=大和(倭の字を嫌って和に改めた)の方が名が通っていたからですよ。「日本」は新しい呼び名、
大倭は併合した相手国の名で、大倭国というと史書で有名な
邪馬台国であるから、これから大倭=大和=ヤマトとなったのであって、
卑弥呼の国の邪馬台国は奈良王朝とは無関係。というか、奈良王朝は東遷して来る前に
九州で邪馬台国の滅亡後の遠い遠い血縁である国を併合していたと思われるので、
まんざら無関係ともいえないとは思いますが。
430日本@名無史さん:2011/08/20(土) 20:52:04.11
>>428
こりゃまたすげえな(爆)
431日本@名無史さん:2011/08/20(土) 22:38:14.74
>>430
「有男弟佐治國」の行間を読むと「卑弥呼姉さん関係の文物の検閲だけをしていた」となるのでしょう。
「倭国大変の時も何も仕事をしていない」ことは「倭人伝に書かれていない」から分るのでしょう。
432日本@名無史さん:2011/08/20(土) 23:45:42.00
天才に文句を言うな
433日本@名無史さん:2011/08/21(日) 00:07:34.24
>>432
文句を言っているのではない。驚嘆しているのである。そして、天才の考え方を推測しているのである。
434日本@名無史さん:2011/08/21(日) 00:40:11.80
ここの連中は生ゴミにまみれて
全員脳みそが腐っている。
435日本@名無史さん:2011/08/21(日) 05:24:48.98
伊作氏と取り巻きみると
世の中にはキツイ事言われたり、言ってる人を良く思うって人が居るんだなって改めて思う
以前、そういうお店流行ったよね
今は紹介されないだけか、潰れたのか知らないけど

ここから先はサンプルが少なくてなんだけど
学生時代そういうお店が好きな人が2人居た。そして、そのどちらも陰謀論好きでアメリカは・・・
九州説内の一部の人は考古学は・・・
何かその姿がダブル
要は陰謀論好きで、自分の代わりに何かを言ってもらってる気になるんだろな
知能が著しく低い
436伊作:2011/08/21(日) 06:54:04.15
天才の読みに論理あり。

●一大率考01
『倭人伝』は、卑弥呼が女王に共立されたときの彼女のことを「一女子あり」としている。
これは「一・女子」で一人の女子という意味である。
一大率の場合も「一大・率」では意味が通じないことからも、
一女子と同じ「一・大率」という書き方だとみなされる。
 「大率」とした場合、中国歴史書は3通りの用例を見せる。
・『史記』が「大いに率いる」という動詞に用いている。
 (單于聞之大率衆来入)。
・『漢書』が、「あらまし・およそ」という熟語に用いている。
 (県大率方百里、大率十里一亭)。
・『隋書』百済伝が、百済人の官位に「大率、恩率、コ率......」があると書いている。
 (官有十六品:長曰左平、次大率、次恩率、次コ率……)。 
状況的にみて、『倭人伝』の一大率は百済伝の官位に近い使い方とみなされる。一大率は「一人の大率」である。

※一大率を組織やハコものと見る意見もあるが、「一・大率」と表現したり刺史にたとえるからには、
一定数の部下を従えた個人の肩書きか呼称とみなされる。
また、組織やハコものは頻繁に移動するものではなく、一定の場所にあるものである。
「常に伊都国に治す」という文意・文脈からからも、ハコものとの解釈は成立しない。
437伊作:2011/08/21(日) 06:54:45.90
●一大率考02
一大率が伊都国にいた異常さ
国家経営上の常識からいえば、半島との境界の島であり倭国の玄関口ともいえる対馬に一大率を配置する。
万歩譲っても壱岐に置く。10万歩譲っても、九州最初の上陸地(寄港地)となった唐津に置く。
何よりも、そんなところに置くよりは港湾都会の博多に置く。
ところが一大率は、対馬でもなく唐津でもない。いかにも中途半端な位置にみえる伊都国に配備されていた。

国家というものが、防衛・監視と出入国管理・検閲・査察を厳格に行なうには、
自国と外国との国境でことに当るのが鉄則である。当時の倭国でいえば、
韓国側との国境にあたる対馬(対海国)で任務にあたらなければならない。
ところが肝心の一大率は伊都国にいたという。
あなたが倭国主脳の一人だったとして、国家経営の命脈ともいえる半島との海上ルートの監視と管理に、
こんな危なっかしい体制をとられるだろうか。否だろう。
伊都国と一大率を過大に扱えば扱うほど、かくも歴史の臨場感に乏しくなるのである。
邪馬台国畿内説にしろ九州北部説にしろ、一大率を九州に置くとするならば、
立地・地形関係から見て博多湾に置くべきである。
この論理の現実的正当性のほどは、やがて登場する大和政権が、
長きにわたって博多湾奥に太宰府をおいた歴史事実をみれば自ずと知れるはである。
438伊作:2011/08/21(日) 06:55:20.30
●一大率考03
大率という大ぎょうな役職名の人物は何者だったのか。
その仕事ぶりを注意深くみると、邪馬台国ルート上にある伊都国の津で、
諸外国から邪馬台国へ邪馬台国から諸外国へ行き交う、卑弥呼に関する文物だけを検閲していた雰囲気がある。
要するに、彼が伊都国に配備されていた非現実性からも分かるように、
さほど重要な仕事をしていた様子がないのである。むろん、出入国管理と防衛・監視・検閲査察の重要任務は、
対馬と壱岐と博多湾に配備された大官が指揮していたはずである。
『倭人伝』は、大率については名前すらも書いていない。
彼が重要人物だったとすれば、これはどう見てもおかしい。
一大率(一人の大率)という個人を連想させる書き方も奇妙だし、
倭国大変のときも何一つ活躍した形跡がないことなど、さほど重要な人物ではなかった節がある。

その『倭人伝』は、一大率について「刺史の如く有り」と書いている。
刺史は郡見回わり役のことである。問題なのは、「刺史の如し」ではなく「刺史の如く有り」としたことである。
これは「刺史のようだった」というのではなく、「刺史のようにふるまっていた」というニュアンスが強い。
そんな男を諸国は畏れはばかったというのだが、
実態をひと言でいえば「刺史のように自大で大した仕事をしない一大率」である。
お分かりのように、『倭人伝』はこの人物については何かしら揶揄めいた書き方をしているのである。
439伊作:2011/08/21(日) 06:56:35.38
●一大率考04
そもそも、大倭という市場管理の中堅役人と一大率については、
「倭国風土記」ともいうべき庶民の記事の中の一つにすぎない。
これが倭国経営にとって重要な人物の記事であれば、
文章構成の観点からは「倭国の統治体制」ともいうべき箇所に書かれるべきである。
この事実だけで、『倭人伝』が大倭と一大率を異質かつ軽く扱っていることがわかる。
この一大率と何かと符合するのが、「卑弥呼の政治を手伝っていた」という弟である。
『倭人伝』は、卑弥呼の弟についても一度紹介しただけで、名前すらも書いていない。
倭国王の弟でしかも倭国王の政治を手伝っていたというのだから、しかるべき重要かつ高位の存在だったはず。
ところが実際には、名前も官名もなければ何をやっていたのかも書かれていない。
各国の官を執拗に紹介している事実に照らせば、重要人物である(はずの)弟の扱いが異常に軽すぎる。

立派な肩書きのわりには大した仕事をしない大率と、
卑弥呼の政治を手伝っていたというだけで名前も仕事内容も説明がない弟。
この二人は同一人物であり、卑弥呼の威光を傘にきて自分で偉そうにふるまっていた弟の、
大ぎょうな役職名が大率ではなかったか。
つまり、政治を手伝っていたという卑弥呼の弟の役職名が大率で、
その仕事は卑弥呼に関する文物の確認だけ。ひまな時はブラブラ。
近隣諸国の実力者のところへ顔を出しては、偉そうに振る舞って御家人待遇……。
こんなところが実態ではなかったかと私は読んでいる。
中国人の調査報告書には、この二人についてはもっと具体的に書かれていたものと思う。
詳しく書かれていればこそ、編纂担当者にもその実態がよく分かる。
『倭人伝』編纂担当者が両者の名を書かなかったのは、
自国の歴史書に名を記すほどの人物ではないと判断したものと推察する。

天才の読みに論理あり。
440伊作:2011/08/21(日) 07:14:34.66
ついでに大倭。
国々に市ありだから、各国に最低でも一つは市がある。
30カ国あれば30で、大倭も最低で30人はいたことになる。
これは市場管理の中堅役人だ。

行も読めないタコどもに行間を読むことなど臨むべくもないが、一大率と大倭。
こんなものを大ぎょうに解釈していては「とんでも史観」へと飛躍するのみだ。

以上、本日の講義はこれまで。
441日本@名無史さん:2011/08/21(日) 07:31:24.34
伊作の一大率考は、最初はよいがだんだん妙な方向に行ってるな。
一大率は、確かに組織やハコものではない。一人の大なる率だね。率は辞書
に示されているように帥に同じで「かしら」ということだ。一人の大物の頭
ということだから以北の国々に対して絶対の権力をもっていたということ。

この一大率は朝鮮半島との関係で置かれたものではない。倭国の乱の結果、南
は北に事実上勝利した。そこで、北の国々を監視するために置かれたものだ。
だから、本国との連絡も取りやすく、各国に目を光らせることができる佐賀付
近に役所を置いていたということ。津に臨むという場合の津は、唐津ではない。
有明海に面した伊都国の津だね。

倭人伝がいう男弟は卑弥呼の政務を助けていた人物。当然、邪馬台国本国にいた
わけで、一大率とは別だ。
442日本@名無史さん:2011/08/21(日) 07:42:23.59
一大率は「一大卒」の誤記。
一橋大学卒業生を置いた、と言いたかった。
443441:2011/08/21(日) 08:33:22.28
大倭、これは組織だね。軍と警察を兼ねた組織だろう。
倭人伝は、倭国のことを詳細に書いている。そこに当然書かれるべきものとして
軍のことがあるが、「兵は〜」とあるだけで、組織については明記していないよ
うに見える。軍はどうした?と考えれば、大倭しかそれに当たるものがない。
その大倭が市の監督もやっているとなれば、警察も兼ねていたなと判断がつく。
要するに、当時は、軍と警察が未分化だったということだな。
444日本@名無史さん:2011/08/21(日) 09:43:37.44
>>439
天才の読みに論理あり。

天才と言うよりは天災バカボン。

>>441
伊都国の比定地には同意できないが
まともな思考力だ。
445日本@名無史さん:2011/08/21(日) 11:18:51.54
「一大國」が検察を引き受けていたから「一大率」。
「大倭」は「倭」に対してだ。「倭」は「太伯之後」で「大倭」は「卑奴母離」
の中核である「粤」のことだろう。

『行も読めないタコどもに行間を読むことなど臨むべくもないが、一大率と大倭。
こんなものを大ぎょうに解釈していては「とんでも史観」へと飛躍するのみだ。 』
おおせの通りです。

446日本@名無史さん:2011/08/21(日) 11:41:51.01
>『倭人伝』の一大率は百済伝の官位に近い使い方とみなされる。
だから
「一大國 官亦曰卑狗 副曰奴母離・・・ 有三千許家」とある
「許」が官位だ。


447日本@名無史さん:2011/08/21(日) 12:39:42.68

>>437
>ところが一大率は、対馬でもなく唐津でもない。
>いかにも中途半端な位置にみえる伊都国に配備されていた。
「(諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
國中に於いて、常に伊都國を治す刺史の如くあり。(諸國)これを畏憚す。
一大率が配備されていた地域は、隋、宋、唐の大陸へのルートであった、
沖縄以南の宮古、石垣、西表に存在した(諸国)であろう。


448日本@名無史さん:2011/08/21(日) 14:53:03.74
へんちくりんなのが湧いてきたぞ
449伊作:2011/08/21(日) 17:51:18.29
●バカを料理する。01
一大率は一・女子と同じ書き方で「一・大率」だ。
俺はちゃんと調べて書いたぞ。
▼『史記』が「大いに率いる」という動詞に用いている。
▼『漢書』が、「あらまし・およそ」という熟語に用いている。
▼『隋書』百済伝が、百済人の官位に「大率、恩率、コ率......」があると書いている。
3番目の大率という官名すなわち「成立単語」とみるのが妥当だろう。

>>441
↓↓↓なーんだこれは。毎度毎度何の論拠も示さずに結論だけか。
>一人の大なる率だね。
バカか?

>率は辞書 に示されているように帥に同じで「かしら」ということだ。
大率という官名(成立丹後・いわば熟語)をバラして文字の意味を論じて何になるか。
●熟語・成立単語に持たされた意味は、文字個々の意味に優先する。
哲学的で理解できないだろうが、烏堂の鉄則だバカ野郎。

>一人の大物の頭 ということだから
盧難居亡き結論の上に飛躍か。ガキだな

>以北の国々に対して絶対の権力をもっていたということ。
>北の国々を監視するために置かれたものだ。
対馬・壱岐・博多湾の軍司・政治を監督と書いてあるか・タコ。
邪馬台国ルート上にある1000戸ほど集落にいて、
そこの津で卑弥呼関係の文物のチェックだけをしていたと会あるだろが。
450伊作:2011/08/21(日) 18:03:32.57
●バカを料理する。02
>>443
>大倭、これは組織だね。軍と警察を兼ねた組織だろう。
バカか? 例によって論拠なき空想結論だけ。

>軍と警察を兼ねた組織だろう。
軍隊と警察は違う。理解できなければ現代社会のそれを比較してみろ。
古代においても警察は官吏だ軍人ではない。赤恥タコ

>軍のことがあるが、「兵は〜」とあるだけで、
救いようのないバカだな。
兵とは武器のことだ。もうすっこかでろ。
451伊作:2011/08/21(日) 18:21:05.55
●バカを料理する。03
倭国の統治体制・防衛と監視体制面からの不条理、一大率が1000戸ほどの集落にい不条理、
倭人伝の文章構成と表現の不条理などなど、あらゆる角度から総合的に分析したみせたが、
天才の論理が理解できないタコばかりだったようだ。

もう一度くり返すぞ。
風俗、産物・生物、軍備、気候風土、葬喪儀礼、世俗信仰、世俗生態、法制・罰則、税制、
市場管理(大倭)、検閲・査察(一大率)、倭人の礼儀作法)、女王誕生の経緯と鬼道、
魏使来訪時の卑弥呼の周辺状況、女王国の周辺状況、
そして倭地訪問調査記録の結びの文章があるところまでが「倭地風土記」ともいうべき文節だ。

大倭と一大率については、軍事・政治・管理の面で「絶対の権力をもっていた」のであれば、
文章構成の観点からは「倭国の統治体制」ともいうべき項目を設けて特筆されるべきである。
こんな「雑多情報」の一つとして書くべきことじゃない。
むろん、無線も携帯も高速道路も自動車もヘリもなかった古代のことだ。
軍政の権力者ならば、軍政の拠点となる大基地か大都市を基盤としていなければならないし、
郡見回り役の官吏である「刺青のごとく有り」ではなく、「将軍のごとく有り」と書かれるべきなのだ。

ターコ
452伊作:2011/08/21(日) 18:29:07.87
>>443のバカを・あざ笑おう。
「兵には矛・楯・木弓を用う」。
「常に人あり、兵を持して守衛す」。
兵とは武器のことだ。
兵庫県の「兵」も兵士ではなく武器庫のことだ。

それにしてねも、その程度のタマが
天才の読みにタメ口でちょっかい出すとは、
2ちゃんもたいしたもんだぜ。

手足が汗をかいても、
「大きな考え違いをしてました」。
「ありがとうございました」。
などとはいわだろうな。わらわら

もう・すっこんでろな。
453伊作:2011/08/21(日) 18:43:07.81
>>449打ち間違いが多いので訂正して再掲する

>率は辞書 に示されているように帥に同じで「かしら」ということだ。
大率という官名(成立単語・いわば熟語)をバラして文字の意味を論じて何になるか。
●熟語・成立単語に持たされた意味は、文字個々の意味に優先する。
哲学的で理解できないだろうが、不動の鉄則だバカ野郎。

>一人の大物の頭 ということだから
論拠なき結論の上に飛躍か。ガキだな

>以北の国々に対して絶対の権力をもっていたということ。
>北の国々を監視するために置かれたものだ。
対馬・壱岐・博多湾の軍司・政治を監督と書いてあるか・タコ。
邪馬台国ルート上にある1000戸ほど集落にいて、
そこの津で卑弥呼関係の文物のチェックだけをしていたと書いてあるだろが。
454日本@名無史さん:2011/08/21(日) 18:54:02.35
>それにしてねも、その程度のタマが
>天才の読みにタメ口でちょっかい出すとは、
>2ちゃんもたいしたもんだぜ。

この論理的飛躍が、伊作の致命的欠陥なんだろな
本人は理解できないようだ
455伊作:2011/08/21(日) 19:23:56.90
>>431  こいつを・どうしても料理しておく必要がある。
●行間を読む。例え簡単なのはこうだ。
倭国30カ国ばかりある中で、狗奴国に限って「女王に属せず」と書いてあれば、
他の28カ国は女王に属していたということだ。

行間を読むことは、歴史書だろうが文芸書だろうが、つきものの常識的技法だ。
書く側も読む側にも技術的にはピンからキリまであって、
ボンクラが能動的かつ自力で理解できるべきものではない。
だいいち、説明しても理解できんのだからなー。

国公私立の難関大学を受験するレベルになれば、
行間を読むことなんざ・いうまでもない必須条件だ。
「傍線部分の文章の意味を100字以内に書け」という、
行間を読む能力を試す試験問題が必ず盛り込まれている。

さて >>431
俺が「行間を読む」といったことを根にもっているらしく、
ネチネチと皮肉を書き込みやがる。精神的田舎っぺが

>「有男弟佐治國」の行間を読むと「卑弥呼姉さん関係の文物の検閲だけをしていた」となるのでしょう。
>「倭国大変の時も何も仕事をしていない」ことは「倭人伝に書かれていない」から分るのでしょう。
てめ。行間を読むことを知らないどころか、行間を読むことをバカにしるようだな。
大学を出てないのか、教えることを知らない三流大学を出たのか。
まったく理解する能力がないか。このうちの一つだろう。わらわら
456伊作:2011/08/21(日) 19:34:03.48
>>454
並みの神経の持ち主なら赤面逃亡ものだが。
赤恥を隠して「なすりつけ逃亡」か。

>この論理的飛躍が、伊作の致命的欠陥なんだろな
>本人は理解できないようだ

そうかい。

>そこに当然書かれるべきものとして 軍のことがあるが、
>「兵は〜」とあるだけで、組織については明記していないよ うに見える。

この半端な日本語をどう説明して逃げる?
てめえが「兵を軍という意味で書いたのではない」と言い逃れするのは見えているが、
半端な日本語で誤解させるような書き方をしたのはてめえだぜ。

予見どおり。
「大きな考え違いをしてました」「ありがとうございました」どころか、
相手の論理飛躍にして、『 』つけて逃げやがる。

根性なしの名無し野郎。名乗って道々と議論しにこい。クソったれ
457日本@名無史さん :2011/08/21(日) 19:40:35.03
なんで大倭がいきなり役人になったのかな?と思ったら、
市の交易に出ていたんですね。でもわたしの言う(429)大倭は下。

其大倭王居邪馬臺國

大倭王の大倭、倭王に大を付けて大きな、立派なという意味かな。
この場合の大倭は決して役人の意味ではありません。

倭人伝の中の交易の大倭は大倭人、或いは大人のことで、身分の高い倭人ろいう意味でしょう?
または、大倭監が一つの言葉かも。
458伊作:2011/08/21(日) 19:47:27.26
>>457
かんべんして。
『後漢書』倭伝の部分はちゃめちゃな部分をけんしょうと批判なしで採用して、
論証や論拠に使うのはもう古いよ。出る処へ出ればまず通用しない。
せいぜい、こういう素人空間の底辺で垂れるだけだろう。

俺はパスする。
459日本@名無史さん :2011/08/21(日) 19:59:06.15
>>458
素人空間の底辺で垂れている議論でさえ、説明できないようじゃ、
それは玄人とはいえないですよ。

パスするということは説明できないないことですね。
普通大倭と言えば、大日本というのと同じ用法ですよ。
460伊作:2011/08/21(日) 20:06:15.28
>>459
天才が口を破産で矯正も説明する次元じゃない。
いくらオタクでもそのくらい自覚できるだろ。

>それは玄人とはいえないですよ。
俺は玄人じゃない。
安本・古田・奥野らと同じ外野の素人だよ。
461日本@名無史さん :2011/08/21(日) 20:22:06.12
>>460
大倭が官名というのは普通におかしいと思いますが。
身分のたかい倭人と言う意味で、決して一大率のような
名詞ではないと思います。
或いは大倭監をここにつかわすと訳せば、大倭監が一つの役職名になります。


462伊作:2011/08/21(日) 20:52:04.99
>>461
後漢書の「大倭王」をちょちょ切って「大倭」とゆってみたり。
「使大倭監之(大倭をして之を監さしむ)」という文章をちょちょ切って
「大倭監」などという意味不明の我流を垂れる。

信憑性に乏しい記録の部分を切り取るとか。
句読点なしの漢文をいいことに、とんでもない所で切ったり、
またはつなげたりという手法は別にきみが初めてじゃない。
だが、そういう手法はもう絶対に通用しない。

ちょっと住む世界が違いすぎる。かんべんしてくれ。
463日本@名無史さん:2011/08/21(日) 20:54:57.09
>>462
かんべんでけん
464伊作:2011/08/21(日) 21:05:49.64
>>461  ついしん。
>大倭監をここにつかわすと訳せば、

使大倭監之の「使」は使わすではない。
「…させる」「…せしむ」という用法だ。
派遣の意味の「つかわす」は「遣わす」と書く。

「之」の用法。
▼之を「の」と読ませて所有格として使った用例
・夏后少康之子封於会稽…「少康の子」
・断髮文身以避蛟龍之害…「蛟龍の害」
▼之を「の」と読ませて所在格として使った用例
・帯方東南大海之中...「大海の中」
・當在会稽東冶之東...「会稽東冶の東」

使大倭監之の「之」は人や物や事象を指し示す代名詞で、
▼文中で一度提示した語句を再度述べる場合に使う文字だ。
・好捕魚鰒、水無深浅皆沈沒取之。
 好んで魚鰒を捕えるも、水の深浅となく皆沈沒して之(魚鰒)を取る。
・国有市交易有無、使大倭監之。
 国に市あり有無を交易す。大倭をして之(交易)を監さしむ。

 之を「ここに」などと読むバカがどこにいるか。
465日本@名無史さん:2011/08/21(日) 21:07:13.62
わかったら・ツラ洗って出直して、ほかを当たってくれ。
466日本@名無史さん :2011/08/21(日) 21:12:19.25
>>462
大倭と言えば、官名である、という説ほどばかばかしい解釈はないと
思います。
倭になんの意味がありますか?
大率と言えば、率の字は帥の意味がありますが、
倭になんの意味がありますか?
国名だけでしょう?
これは大漢、大魏、大秦とかいいうのと同じことです。
これがどうして官名になるでしょうか。
素直に訳して身分のたかい倭人でよいのではないでしょうか。
467伊作:2011/08/21(日) 21:21:29.70
>>466
理づめで説明したが。俺の教示は矯正でもある。
みなが垂れるバカ論を潰す理屈だから、
教示などとは思わず逆恨みして歯向かう奴ばかり。

「ありがとう」との声が出るわけがない。
それもま・人間心理のなりゆきか。
468伊作:2011/08/21(日) 21:25:52.31
>>466 大倭と言えば、官名である、
>という説ほどばかばかしい解釈はないと思います。

ん。俺は官名といったか?
ならばさらに厳密に訂正しよう。市場管理役人の役職名だ。
これが少なくとも30カ国それぞれの市に配置されていたわけだ。


親趣味・おやしゅみー。
469日本@名無史さん :2011/08/21(日) 21:31:59.71
>>468
では言い直して、大倭といえば役職名であるという説ほどばかばかしい
解釈はないと思います。

普通に大倭国という言葉があるのは知っていますよね?
その倭の字を嫌って大和国になったという話を初めにしたわけです。
国は敢えて省きましたが。
そしたら、あなたは大倭は役職名であるといきなり言い出したので、
わたしはその大倭を指して言ったのではないと言ったわけです。
ですから、大倭が役職名であるというのはほんとにおかしな解釈だと思
うのです。
470卑彌呼の都は久留米:2011/08/21(日) 21:32:04.25
「一大率」は一大國出身者(家)によって構成された刺史「率」組織である。

主な駐在地
伊都國:元倭国王の監視が職務
末盧國:官不在の末盧國で官の代理業務と末盧國の港で通関検査が職務。

一大國は半島と九州の交易を握る三千許家で構成する豪族集団。
一大國は、倭奴國の時代には倭奴國と組み、
帥升王系統倭国(倭面土國)の時代時代には帥升王倭國と組み、
倭國乱の時代には海峡の覇権を握った。
ついで一大國は、卑弥呼を擁する女王國の登場で女王國と組んだのである。
一大國の海峡権益を守る為に。
一大國の海峡権益の独占は、6世紀宗像氏の登場まで続く。
471塩土老翁:2011/08/21(日) 21:51:06.07
>>469
>大倭が役職名であるというのはほんとにおかしな解釈だと思 うのです。

「倭」と断りを入れていると言う事は、店側に外人もいると言うことでしょう。
「交易有無、使大倭監之」物々交換の時代です。
公正取引委員会、租税、通訳等の役目を担った倭人と理解すべきでしょう。
国の経済の円滑な運営のために設けられた役職と思います。
472日本@名無史さん :2011/08/21(日) 21:55:16.38
>>471
役職名ではないと思います。
大倭という大層な役職名はつけないと思います。

ほんの小役人にすぎないのに、おかしいでしょう。
大人とかいうのと同じ意味だと思います。
473日本@名無史さん:2011/08/21(日) 22:04:03.01
>>449
>『史記』が「大いに率いる」という動詞に用いている。
おい、熟語を分解しちゃいかんというのが君の論理じゃないのか?
大なる率はいかん、大いに率いるはいいっのは良く分からんね。

>大率という官名(成立丹後・いわば熟語)をバラして文字の意味を論じて何になるか。
官名だとは思わんが、もしそうとしても、ばらして意味を論じることに何の不都合が
あるんだ? 国名は国の名前、ばらせば意味が分かりやすくなるということはいくら
でもあることだ。

>兵とは武器のことだ。もうすっこかでろ。
私が武器のことではないとどこかに書いたか?




474塩土老翁:2011/08/21(日) 22:05:56.39
>>472
>ほんの小役人にすぎないのに、おかしいでしょう。

「小役人」
貴方自身が、役職と認めてますよ。
論理破綻してませんか?
475日本@名無史さん :2011/08/21(日) 22:06:46.12
それに倭と呼ぶのは魏側で果たして女王国が自国を倭国と呼んだでしょうか?
ですから、大倭というのは音を写してダイワという役職名であるというのなら
納得できます。
当て字をしたというのならば、です。
でも倭が国の意味であるならば、大倭は決して役職名ではないと思います。
476日本@名無史さん :2011/08/21(日) 22:12:28.64
>>474
あなたの理屈が理解できません。

交易を監督するのは小役人ではありませんか。
大倭は役職名ではないといっているのです。
普通に身分の高い人と訳すだけでいいのでは?と前から言っています。
大倭を名詞として扱ってはならないと。
477日本@名無史さん:2011/08/21(日) 22:13:55.41
>>453
>対馬・壱岐・博多湾の軍司・政治を監督と書いてあるか・タコ。
>邪馬台国ルート上にある1000戸ほど集落にいて、
>そこの津で卑弥呼関係の文物のチェックだけをしていたと書いてあるだろが。
一大率の職務が、津で卑弥呼関係の文物のチェックをすることに限られるなどとは
どこにも書いてないぜ。諸国を検察す。検察の範囲は限定されていない。いろいろ
ある中の一つとして津に臨んでのチェックがあるというんだよ。
478塩土老翁:2011/08/21(日) 22:30:43.68
>>476
様々な解釈の仕方があっていいと思います。

>親趣味・おやしゅみー。

479日本@名無史さん:2011/08/21(日) 22:31:31.72
>>477
あなたの意見がまともですね。伊作氏の論は既発表の自説を守ろうとするためかこじつけが多いように感じられる。
480日本@名無史さん:2011/08/21(日) 22:56:59.41
>>477,479
賛同します。

>「既発表の自説を守ろうとするため」
伊作の気持ちもわかるけど、これは明らかなミスですよね。
修正してくるでしょうけど・・・
481日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:25:48.77
>>455伊作
>>431の書き込みを皮肉と受けとったのは正解。
伊作氏の>>455に言う「行間を読む」ということの説明は常識的なことで、それくらいのことは誰にでも出来る。あま
り他人を見下して馬鹿にするものではない。

>>431が言いたいことは伊作氏が倭人伝の行間をどのように読めば「有男弟佐治國」とある男弟が一大率(と同一人物)
になるのか?ということであろう。それに関して>>437>>439にいろいろと述べているが「男弟=一大率」の根拠とし
ては「何れも名前が書かれておらず、さほど重要な働きをしていないようだ」というものに過ぎない。こんなものが根拠に
なるとは誰も思わないだろう。
482日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:33:24.55
ふと思ったのだが、男弟という表現は不思議だなあ。弟と言えば男に決まっていると思っていたのだが。わざわざ
男弟と書くことに特別の意味があるのだろうか?
483日本@名無史さん:2011/08/21(日) 23:39:50.08
女弟=妹という使い方もあるそうだ。
484482:2011/08/21(日) 23:54:30.17
>>483
なるほど。ちょっと辞書を調べたら「弥子之妻与 子路之妻,兄弟也。――《孟子》」というのが
出ていました。昔は姉妹の意味で兄弟と言うこともあったのですね。
485日本@名無史さん :2011/08/22(月) 00:24:28.89
>>437

>邪馬台国畿内説にしろ九州北部説にしろ、一大率を九州に置くとするならば、
立地・地形関係から見て博多湾に置くべきである。

伊作氏のこの論には同意見です。
更に言えば、はじめから、伊都国は博多湾の奥の大宰府あたりにあったのです。
みんな遠回りして考えすぎ。こんな簡単なことなのに。
これなら博多湾に降り立てば東南の方角に大宰府ですから。
後漢時代の金印が博多湾の先端の滋賀島にあったのも、中国との行き来した
国がこの付近にあったからです。
当然その延長として博多湾は南北交通の要所であり一大率が置かれたところなのです。
486日本@名無史さん:2011/08/22(月) 01:59:22.41
伊作ちゃんは一大率と卑弥弓呼は兄弟だと仰っているわけです。
487日本@名無史さん:2011/08/22(月) 06:42:03.38
>>449
天才が自分で言っている。
大率が官位名として出てくるのは隋書の百済伝くらいのものと。
大陸の中国本国で、大率が「おおむね」以外に熟している例は無いんだろ。
一方で、「一大星 ひとつのおおきな星」とか「一大縣 ひとつのおおきな県」とか
「一+大+名詞」という表現はたくさんある。
一大率が>>441のいう「一人の大なる率」なのは、
天才以外の誰が見ても明らか。
488日本@名無史さん:2011/08/22(月) 06:53:22.71
>>453
>大率という官名(成立単語・いわば熟語)をバラして文字の意味を論じて何になるか。
>●熟語・成立単語に持たされた意味は、文字個々の意味に優先する。
>哲学的で理解できないだろうが、不動の鉄則だバカ野郎。

中国本国で大率に「おおむね」以外の意味は無く、
官名として熟していないのだから、
文字個々の意味に優先する熟語が存在しない。
489日本@名無史さん:2011/08/22(月) 12:03:05.76
>>439 :伊作:
>そもそも、大倭という市場管理の中堅役人と一大率については、
>「倭国風土記」ともいうべき庶民の記事の中の一つにすぎない。

一大率が置かれたのは、「一大國」である。「有三千許家」の「許」が「一大率」である。
「有三千許家」の本家に当たるのが、「不彌國」の「有千余家」であり
「不彌國」は四国全島である。
「不彌國」は所謂、「翰苑」の「伊邪分國」です。
「伊邪分國」の本国は「「伊邪國」、現・西表島です。
漢の時制に、女王国・「邪馬臺國」が建国された時、沖縄以南は女王国からは外された。
が、宮古、石垣、西表に存在した諸国の国主(酋長)は女であったことにかわりはない。
宮古、石垣、西表の中で大陸との交易により最も大きな勢力となった一団が四国に入植したのだ。
「一大率」の検察は大陸との悪しき癒着だ。

「卑奴母離」連合体を外して、論じる、「大倭」や「一大率」はゴミくずでしかないYo. 伊作ちゃん。

490日本@名無史さん:2011/08/22(月) 12:37:33.82

世界の国々でオウム真理教と同じ
テロカルト認定されている創価学会(公明党)が
すべての在日企業に関係していて
日本国にダメージを与え続けてる事実はみんなもう知ってる事

昨日のフジデモのように
日本国民が立ち上がって層化反対デモが行なわれる日も近い

打倒!犯罪集団・創価学会!

491日本@名無史さん:2011/08/22(月) 13:03:12.93
倭人伝では、壱岐のことを至「一大国」と書いている
一大率の「一大」がこれと一致しているのに注目する奴はおらんの?
492日本@名無史さん:2011/08/22(月) 13:14:10.73
>>491 :日本@名無史さん:
>倭人伝では、壱岐のことを至「一大国」と書いている
>一大率の「一大」がこれと一致しているのに注目する奴はおらんの?

魏志の「一大國」とは「会稽」の東に当たる北緯30度の種屋久島です。
又、「對海【馬】國」とは 「会稽東治【冶】之東」に当たる北緯26度の沖縄です。
だから、種屋久島と沖縄は南北的には432kmある。432kmは一里=1800尺 一尺=24cmでの千余里。

493日本@名無史さん:2011/08/22(月) 17:06:50.28
>>491
梁書・北史・隋書には「一支国」と書かれていて、「一大国」と書かれているのは
魏志倭人伝だけ。
一支国の方が正しいのではないかと思う。今の呼び名も「壱岐」だし。
つまり、倭人伝の方は誤記だろう。
494日本@名無史さん:2011/08/22(月) 18:00:07.66
九州説の人が資料のすり合わせをするなんて
いつも魏志倭人伝、魏志倭人伝で、絶対な魏志倭人伝なのに
だから今日は天気が悪いのか
495日本@名無史さん:2011/08/22(月) 18:02:41.22
太平御覧には「一大国」とある
496伊作:2011/08/22(月) 18:29:12.88
>>473
「『史記』が「大いに率いる」という動詞に用いている」。
これは動詞として使用されている用例の話。
中国で大率という熟語は「あらまし」「だいたい」という意味しかない。
……分別できたか?

↓↓↓
>おい、熟語を分解しちゃいかんというのが君の論理じゃないのか?
俺が熟語(成立単語としての官名)と理解しているのは『隋書』百済伝の大率。
その理由として、恩率、コ率といった官名と並んでいる事実を提示したろ。
………分別できたか?

「大率という官名(成立単語・いわば熟語)をバラして文字の意味を論じて何になるか」。
>官名だとは思わんが、
ならば勝手にしろ。

>もしそうとしても、ばらして意味を論じることに何の不都合があるんだ?
成立単語・熟語というものは、そこに使われている文字個々の意味に優先する。
これをバラして何の意味があるか。
………分別てぎたか?

>国名は国の名前、ばらせば意味が分かりやすくなるということはいくらでもあることだ。
国名や官名をバラして文字個々の意味を優先して解釈するというわけか。
漢文を知らないバカのやることだ。

>私が武器のことではないとどこかに書いたか?
いまさらさくろいの言い訳をしてみぐるしいぜ。
497伊作:2011/08/22(月) 18:37:46.22
>>488
>中国本国で大率に「おおむね」以外の意味は無く、
倭人がつけた漢字の倭人の官名の話だ。
……分別できたか?

>官名として熟していないのだから、
倭人がつけた漢字の倭人の官名の話だ。
……分別できたか?

>文字個々の意味に優先する熟語が存在しない。
『隋書』百済伝に官名として登場する事実を提示した。
これと同じだろうとの判断だが、これは大率という官名(成立単語・熟語)だ。
文字個々の意味に優先する熟語が存在してるわけだ。

それにしても、何かにつけて「たどたどしい」な。
意味を理解しようと努力するのに大変だ。
498伊作:2011/08/22(月) 18:44:08.24
>>493
>一支国の方が正しいのではないかと思う。
>つまり、倭人伝の方は誤記だろう。
ほい正論。

>>491
>倭人伝では、壱岐のことを至「一大国」と書いている
>一大率の「一大」がこれと一致しているのに注目する奴はおらんの?
ほい、時代遅れのハズル解釈。

>>495
>太平御覧には「一大国」とある
どうだっていい。
この書き物もまた、固有名詞や名称の異同と不統一が目立つ書き物だ。
499伊作:2011/08/22(月) 19:19:27.00
>>481
>伊作氏の言う「行間を読む」ということの説明は常識的なことで、
>それくらいのことは誰にでも出来る。
>あまり他人を見下して馬鹿にするものではない。

この野郎。
ここで俺が「行間を読む」という発言するまでは、
何かといえば「書いてない」というバカげた反論ばかりで、
行間を読むことなど誰も理解しなかったぜ。

てめ。その時にいたのか。
いたのならば、なぜその時に表記のような発言をしなかったのだ。
いまさら、知ったふりだか分かったふりで『』つけて、
「はなもちならねー」とはこのことだ。このやろ。

それにしても名無しは便利でいいなー。
何をゆっても赤恥かいても誰とは特定できんし。
500日本@名無史さん :2011/08/22(月) 19:38:01.10
伊作氏
一大率も大倭もそのまま熟語として訳してはだめ。
一大率はばらせば意味が通るからそのまま熟語として訳しても
かまわないけど、大倭はばらさないとわからないから、
日本人向けにばらして訳してあげなくてはならない。
一大率の率は率(ひき)いるという意味だから、
刺史のようだと中国評にあるけれど、警察や軍を指揮する指令長官の
こと。
大倭は身分のある倭人と言う意味で、伊作氏のいう中堅管理職の役人に
限ったことではない。
伊作氏はなんでも物事を小さい箱に収めて訳そうとする傾向がありますね。
501伊作:2011/08/22(月) 20:25:21.41
>>500
意固地な野郎だな。
やさしく構ってりゃその気になって、大口叩くな・タコ。
天下無敵の正論家の俺がダメといったらダメだ。古代史などやめろ。

>刺史のようだと中国評にあるけれど、
>警察や軍を指揮する指令長官のこと。
そもそも「刺史」を調べてみたのか?
で・これもバラして解釈するのか?
バラして解釈したら、警察や軍を指揮する意味になるのか。

てめえの論が土台から崩れるからと、必死であがいてるようだが、
テメーのクソ論など誰も真に受けちゃいまい。
かまいたくないから・あっちいってろ。
502日本@名無史さん :2011/08/22(月) 20:34:36.63
>>501
刺史はばらさなくて結構。官名だから。
刺史は改めて調べないと正しくは表現できないですけど、
そんなこと個々で調べればネットで簡単に出てきますから。
おのおのでやってください。
常識で考えてね。

でも一大率とか大倭というのは大きな意味を含んでいる中国から見た
表現であるから、これは官名でも役職名でもなんでもない。
503伊作:2011/08/22(月) 20:58:53.72
>>502
漢文がわかっていないだけじゃなく。日本語の行間も読めないタコ。
●刺史が「警察や軍を指揮する指令長官」のことか確認しろとゆってるんだ。

大倭が官名でも役職名でもどうだっていい。
倭国に30カ所の一があれば30人いたし、50カ所の市があれば50人いた役人だ。

漢文知らずが・目くら蛇で・勝手な文章切断をして、くだらねー妄想こいて。
それを潰されて悪あがきしやがる。
独善我流は正論の前に頓挫する。それが末路と決まっている。
504伊作:2011/08/22(月) 21:02:36.16
きょうは不愉快だ。
505日本@名無史さん :2011/08/22(月) 21:08:18.98
>>503
刺史は伊作氏が確認してくださいよ。違ってたら直すから。

役人には違いないけど、官職名、役職名ではないよということです。
役人であることは誰だってわかっていますよ。あたりまえなこと言わないでください。
要は伊作氏がこれを官名、役職名あつかいしているから、
それは違うでしょと。
506卑彌呼の都は久留米:2011/08/22(月) 21:13:35.83
>>491
>一大率の「一大」がこれと一致しているのに注目する奴はおらんの?

>>470に書いているよ。

「一支國」「一支率」が正しい。「一大國」「一大率」は誤記。
「支」と「大」の字体がほぼ同じなので、読み間違えた。
読み間違いが発生したのは、陳寿が元資料から三国志を編纂した時と
編纂後や後世に三国志を筆写した時、のどちらか。
507伊作:2011/08/22(月) 21:17:44.07
へなちょこヤジ馬ども。
反論というものを承知しているならば、お題目だけの否定文言など無用だ。
俺が列挙した「一大率考」を一つ一つ潰してみろ。

一大率が、魏との外交で何か仕事をしたか。
狗奴国との戦争で何かそれらしい働きをしたか。
卑弥呼なきあとの内紛で何か働いた形跡があるか。

こんなのを一大権力者とする解釈が正当であるか否か。
明確な理由をそえてかかってこい。

そんな調子だから倭人伝もおかしな書き方をしている。
「刺史のごとし」といえば権力や仕事ぶりをいうことになる。
「刺史のごとくあり」といえば、その立ち居振る舞いの様子をいう。
様子とは、実権のない者が刺史のようにエラそうにしていた様子だ。

大きな態度でタメ口きくならば、それに即したレベルの反論をしてこい。
508日本@名無史さん :2011/08/22(月) 21:22:44.28
>倭国に30カ所の一があれば30人いたし、50カ所の市があれば50人いた役人だ。

それとこれね、どうして人数まで?
市の交易の監視役は別に一人とはかぎらないと思いますけど。
大倭には大がつきますけどね。一大であるなら、一人の交易監察長官をさすと
はっきりわかりますが。
それと一大を使ったら、倭という字は用いないと思いますよ。
もっと具体的な表現になると思います。
509伊作:2011/08/22(月) 21:26:44.37
一大率にしろ大倭にしろ。
魏との交流経緯や倭国の防衛と出入国管理の項目に書かれているのではない。
「倭国風土記」ともいうべき雑多情報の中で紹介しているだけだ。
卑弥呼の弟だって、各国の官名が執拗に紹介されているにもかかわらず名前すらない。

権力者で重要な任務にあったのなら、位階と序列と格式に厳しい中国人が、
こんな扱いをするはずがない。
倭人伝の中での「扱い」がバカにしたように軽いのはなぜか。
併せて明確な理由をそえて反論してこいな。それでこそ反論だ。

510卑彌呼の都は久留米:2011/08/22(月) 21:28:36.39
「一大率」は、一大國(壱岐)出身者によって構成された刺史のような檢察組織。

一大卒が、官名なのか役職名なのかは判別できない。
私は官名ではなく役職名と推定する。
511伊作:2011/08/22(月) 21:43:28.79
>>510 名前
>「一大率」は、一大國(壱岐)出身者によって構成された刺史のような檢察組織。
ひどいねどーも。
一大国という表記が、誤字でも異同でもないという前提で、
一大率と一大国の絵合わせカルタ的なゴロ合わせをしてる。

>一大率は一大國出身者によって構成された
それがどうしたっていうんだい。

>刺史のような檢察組織。
「刺史のような」て、刺史は警察官吏かい?

>檢察組織
一・大率が組織かい。
で・そんなもんが「常に1000戸ほどの伊都国にいて」
いったいなんぼの仕事ができるというんだい?

>官名ではなく役職名と推定する。
組織ならば組織名というのが正しいんじゃないのかい?

まったく、妄想得意のど素人たちは、どいつもこいつも、
わずかな用語の認識と使い方すら散漫で締まりがないなー。
512日本@名無史さん :2011/08/22(月) 21:46:23.67
>>507
伊作氏は漢文を理解している天才だとか豪語しているけどね。
伊作氏は漢文を訳す考え方はまるで日本語を基本して、細切れにして細かい
日本風なニュアンスの違いを表現しますよね。
以前、朝廷のことを体制だと言い切ったけど、それはまさに誤った日本風の解釈で、
朝廷とは場所のことです。日本語辞書であっても場所のことだといいます。
でもある時期から日本では体制のことも指すので、どっちを使っても正しいのです。

如刺史であったら、如刺史であって、前後の漢文の意味をくみとってから
日本語に訳すべき。でないと誤訳になってしまうよ。
あなたは日本語を解釈しているのです。漢文を解釈しましょう。

だから物事を小さな箱に収めて解釈する傾向があるね、って言ったの。
513伊作:2011/08/22(月) 21:58:21.52
私たちが議論の対象とする文字の違いや異同には明白な理由がある。

▼「臺と壹」「堆と推と惟」「摩と靡」「譯と驛」「土と上」「與と輿」
「支と大」「王と三」「古と右」など、視覚的な錯誤(類似による思い込み)が原因と思われる間違い。
▼「俾と卑」や「倭と、人へんに妥」など、文字づかいの違いによる異同・異字体である。
(文字づかいの違いは人間の個性や感性の違いから生じるから、関与した人間が違うことによる異同だと考えられる)。
▼百衲本に代表される新旧木版の「寄せ集め活用」による文字や表記の不整合・異同である。
これらを冷徹に検証して、正否を見極めることが正史読みの第一歩になる。
正否を見極めることをせず、
誤字あるいは異同をそのまま論拠にする手法を受け入れる愚かな社会はない。

↓↓↓錯字・異同・異字体が発生する要因と状況とを
歴史書づくりの現場ごとに想定して分類している。
●誤字や異同の発生要因
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/2a9b444bfbf020830a65d609ac219741

少しは天才の考察を参考にする謙虚さをもて。
そうすれば、一大国と一大率をくっつけるなど邪道だとわかる。
514日本@名無史さん :2011/08/22(月) 22:18:05.35
一大率、大倭が官名、役職名として倭国自身が使っていたわけではないことは
伊作氏は理解できてますか?だってどうみても両者は漢文ですから。
そして一大率、大倭は中国の官名、役職名にはありませんから、
これはただの表現で、官名でもなんでもない。
ばらして訳す必要があります。

倭国の官名は卑狗(官 ヒコ)、卑奴母離(副官 ヒナモリ)、これが官名です。
音を当てたということは明白。
その他、倭国の官名は沢山あると思いますが記載されてません。
名前が不明だったので、官名だけ記載したのです。
具体的に姓名が書かれている国も沢山あります。
それは官名ではなくその人物の姓名です。
515日本@名無史さん :2011/08/22(月) 22:38:53.00
>>514
訂正
>具体的に姓名が書かれている・・・その人物の姓名です。
姓名ではないですね。よくみると。失礼しました。
細分化した役職名ですね。
卑弥呼も一種の官名。
516日本@名無史さん:2011/08/22(月) 22:57:43.73
伊作も段々と河童虫の域に達しつつあるなw
517日本@名無史さん:2011/08/22(月) 23:49:04.23
>>507 伊作
>一大率が、魏との外交で何か仕事をしたか。
そのような仕事については倭人伝には書かれていない。それは当然であろう。一大率の仕事は主に諸国の検察であり、魏との外交の
担当者ではないようだから。

>狗奴国との戦争で何かそれらしい働きをしたか。
一大率が働いたとは書かれていないが、卑弥呼と卑弥弓呼の不和について報告した載斯、烏越の他には働きをしたという者の名も
書かれてはいない。

>卑弥呼なきあとの内紛で何か働いた形跡があるか。
一大率が働いたとも働いていないとも分らない。他に働いた者の名も書かれてはいない。

>こんなのを一大権力者とする解釈が正当であるか否か。
>明確な理由をそえてかかってこい。
一大率について「檢察諸國、諸國畏憚之」と書かれているからかなりの権力を持っていたと見られるのだが、倭国を牛耳れるような
一大権力者だとする見解はほとんどの人が持っていないのではないか。一大率は女王(邪馬台国指導部)の配下の執行官にすぎない。

>「刺史のごとし」といえば権力や仕事ぶりをいうことになる。
>「刺史のごとくあり」といえば、その立ち居振る舞いの様子をいう。
>様子とは、実権のない者が刺史のようにエラそうにしていた様子だ。
「於國中有如刺史」を誤読している。「刺史のごとくあり」ではなく「刺史のごときものあり」である。

518卑彌呼の都は久留米:2011/08/23(火) 00:26:24.86
>伊作も段々と河童虫の域に達しつつあるなw

伊作と河童虫とは全くの異質。
河童虫は、古代漢文の古代日本人による日本語訳に基づいている。
伊作は読み方に方針がない。

漢語として扱うか、日本語として扱うかは、都合によって読み方を変えている。
「度」と「渡」の取り扱い方は其の一例である。
ただ、伊作は基本的なデータ調査はそこそこ良くやっていることを認めるが。
519日本@名無史さん:2011/08/23(火) 03:14:44.98
ただ単に伊作ちゃんは卑弥呼と卑弥弓呼と一大率は兄弟だと仰っているのです。
伊作ちゃんは、ちょっと前までは一大率をスサノオと言っていたけど今は卑弥弓呼がスサノオだと言っているのです。
520伊作:2011/08/23(火) 06:46:37.14
>>518
>「度」と「渡」の取り扱い方は其の一例である。
度は渡の異同。それだけのことだが何か。
誤字や異同を誤字・異同とはせず、正しいとの前提で文字の違いを論じる手合いか。
そういうのを「危のう丸」という乗り込んだオタクという。


>519
>ただ単に伊作ちゃんは卑弥呼と卑弥弓呼と一大率は兄弟だと仰っているのです。
>伊作ちゃんは、ちょっと前までは一大率をスサノオと言っていたけど今は
>卑弥弓呼がスサノオだと言っているのです。

誤解による吹聴は誹謗と同じだぞ。
sss氏に、卑弥呼=アマテラスを唱えるならば、その弟のスサノオ=卑弥弓呼とすべきだろう。
そのほうが男らしい。と述べた。
俺の持論が卑弥弓呼がスサノオなのではない。

卑弥呼の政治を手伝っているという弟と一大率は同一人物だと述べた。
したがって、卑弥呼と卑弥弓呼が姉弟ならば、ひいては卑弥弓呼と一大率は兄弟になる。
だが、卑弥呼と卑弥弓呼が肉親関係にあるか否かはまで断定してはいない。

俺からの信用を失いたくなかったら、きちんと整理して正しくいえ。
521伊作:2011/08/23(火) 07:09:07.28
>>517
>「於國中有如刺史」を誤読している。
>「刺史のごとくあり」ではなく「刺史のごときものあり」である。

「危のう丸」に乗り込んだだオタク。独善我流をくり返すタコ。
そうやって勝手に吹いて、誤りを死は的されても始末せず
「棚にあげた」ままの荷物が山積みだろう。(意味はわかるか?)

「危のう丸」オタクに理解できるとは思わんが、観客のために砕いて説明しておく。
●漢文の初歩的な読みの問題
「於国中有如刺史」の文中に「もの」と読むべき文字があるか? ないわな
●意味の決定的な違い
一大率の様子について言及した文章で「国中に於いて刺史の如く有り」の話だ。
「刺史の如く有り」ならば通じるが、
「刺史のごときものあり」では、
他の人物か「もの」について言及した文章になってしまうぞ。

お前はもう何度も、同じような「無学我流のバカ読み」を堂々と断言してきたが、
学力不足もさることながら平衡感覚がかなり麻痺してるようだな。
522伊作:2011/08/23(火) 07:11:09.74
>>520
 
そういうのを「危のう丸」という乗り込んだオタクという。
↓↓↓↓
そういうのを「危のう丸」という船に乗り込んだオタクという。
523伊作:2011/08/23(火) 07:14:10.82
たしかに、この板そのものが「危のう丸」という乗り合い船だ。
524伊作:2011/08/23(火) 08:12:38.67
ていせいしとこ。

そうやって勝手に吹いて、誤りを死は的されても始末せず
「棚にあげた」ままの荷物が山積みだろう。(意味はわかるか?)
↓↓↓
そうやって勝手に吹いて、誤りを指摘されても始末せず
「棚にあげた」ままの荷物が山積みだろう。(意味はわかるか?)
525日本@名無史さん:2011/08/23(火) 08:47:29.94
人間とは愚かなもので、
知ってる知識はすぐに結びつけたくなる
526卑彌呼の都は久留米:2011/08/23(火) 09:46:12.91
>度は渡の異同。それだけのことだが何か。

魏志倭人傳と隋書俀國傳の「度」の日本語訳は伊作曰くの「はかる」ではない。

「度」「渡」の日本語訳はどちらも「わたる」である。
「度」と「渡」の違いはシナ古典の用例によって確認できる。

伊作はその貧困な漢文読解力を見直すべきだ。
もっと勉強しなおせ。諸橋の大漢和でも座右の書として持つべきだ。
527伊作:2011/08/23(火) 10:04:30.35
>>525
知識などまるでない奴は自分を利口とみせかけるためだけの空虚で無益なヤジを書き垂れて自己満足するしかない。
横からきーたふーな「つもりの」ことを書けば他人が感心すると錯覚してるアホ
528伊作:2011/08/23(火) 10:13:34.45
>>526
「度は渡の異同」とは、お前がいう
「度・渡の日本語訳はどちらも〔わたる〕である」と同じことだが。
何か、まずいものでも食ったか。

>「度」と「渡」の違いはシナ古典の用例によって確認できる。
それもやってのけてあるが、ちゃんと理解できていないようだな。
「度海」と「渡海」について、俺のサイトにはこう書いてあったろう。

『魏略』も『後漢書』も『梁書』も一貫して「度海」と書いている。
ところが、『汲古閣本』『紹興本』『紹煕本』倭人伝の版本はそろって、
狗邪韓国から対馬へ渡る時にかぎって「始度一海」で度が登場する。
これは最初の一度だけで、以降は「渡海」となっている。
そうしたところをみると、『魏略』『後漢書』『梁書』同様に、
当初は一貫して「度海」と書かれていた可能性が高い。

この「始度一海」の「度」という文字に意味を持たせて「始めて度(はか)る」
といった解釈で展開する例もある。
私たちが手がける文献検証や歴史考察は、
解読ゲームやパズルとは次元の異なるものなのである。
どや。

>伊作はその貧困な漢文読解力を見直すべきだ。
>もっと勉強しなおせ。諸橋の大漢和でも座右の書として持つべきだ。
他人のことをいう前に、他人の論旨を正確に汲み取る能力を磨け。タコじじい
もう、「危のう丸」歴が長く「磨く」なんて行為は無理な年回りだろうが。

まったく、注意力も集中力も理解力も散漫な野郎ばかりだぜ。
529伊作:2011/08/23(火) 10:18:33.71
>>526
>魏志倭人傳と隋書俀國傳の「度」の日本語訳は
>伊作曰くの「はかる」ではない。

俺が「度=はかる」と主張しているのではない。
「始度一海」を「始めて一つの海をはかる」と、
とんでも訳をしているものがあると紹介しているのだが、
分かったか。妄想老船「危のう丸」
530日本@名無史さん:2011/08/23(火) 12:02:53.12
>>528 :伊作:
「度」と「到」と「始」の関係をりかいしていない。
から、
>『魏略』『後漢書』『梁書』同様に、
>当初は一貫して「度海」と書かれていた可能性が高い。
という結論を導かざるをえない。
では、隋書に「度百濟行至竹島」と「度」を用いているが何故だ?
遣隋使は半島経由で長安に詣でたの?
それが、理解できなければ、「度」と「渡」の使い分けを分別できないだろう。
「到」と「度」の連結、「始」と「度」の連結。。。。。。・・・・・

孫悟空の如く或る領域から飛び出したいようだが
それは無理だ、無理を通す者は只の馬鹿!
531卑彌呼の都は久留米:2011/08/23(火) 13:12:20.27
>当初は一貫して「度海」と書かれていた可能性が高い。

可能性の高低ではない。
「度」と「渡」の使い方が異なるのだ。
「渡」は水に関係する「度」に使い方が限定される。
「度」は、水に関係なくても使える「度」である。

諸橋大漢和だけでも開いて、「度」の用例でも読んでみたら。
諸橋の優れたところは豊富な用例があることだ。
諸橋大漢和は世界一の漢字辞典なんだから。
532日本@名無史さん:2011/08/23(火) 13:41:46.95
>>531
その大漢和の「度」の項目に 「二十二 わたる わたす 渡に通ず」とあって、
用例として[説文通訓定聲]度、仮借為渡。 川をわたる [漢書]猶度江河亡維楫 [南史は面倒なんで省略]
ってのが出てる。
使い方が異なる部分もあるし、通用もできる。

ところで、豊富な用例って、いまどき電子テキストで検索できるんだから、用例数としは大漢和は貧弱でしょ。
大漢和は便利ではあるけれど、世界一とか、そんなに持ち上げるものでもないと思うよ。
大東文化大学関係者なら批判はできないかもしれないけれど。

533日本@名無史さん:2011/08/23(火) 14:33:44.05
>>521伊作
>●漢文の初歩的な読みの問題
>「於国中有如刺史」の文中に「もの」と読むべき文字があるか? ないわな
>●意味の決定的な違い
>一大率の様子について言及した文章で「国中に於いて刺史の如く有り」の話だ。 「刺史の如く有り」ならば通じるが、
>「刺史のごときものあり」では、 他の人物か「もの」について言及した文章になってしまうぞ。

「於国中有如刺史」は一大率のことを述べたものであることについては同意。
ただし、「有」は存在を表す言葉で、英語のbe 動詞的用法ではないので「刺史の如く有り」と状態を表す訳語とするのは
文法的には間違いである。原文により近い訳としては「刺史のごときが有る」がよかろう。ただし、これでは一大率とは別
に刺史のごとき者がいると誤解されかねない訳になるので、意訳として「刺史の如く有り」でよかろう。

しかし、「於国中有如刺史」を「国中に於いて刺史の如く有り」と訳しても伊作氏が主張する「実権のない者が刺史のよう
にエラそうにしていた様子だ。」ということにはならない。そのようなニュアンスは無い。
534卑彌呼の都は久留米:2011/08/23(火) 14:34:55.19
>>532
>使い方が異なる部分もあるし、通用もできる。

そうですよ。
>>「度」は、水に関係なくても使える「度」である。
>>「渡」は水に関係する「度」に使い方が限定される。

こんな用例もあります。「渡」に通じない用例
『 谿谷不通以縄合引而度 』漢書西域伝


私は大東文化大学とは何のかかわりもありません。

諸橋「大漢和辞典」
>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BC%A2%E5%92%8C%E8%BE%9E%E5%85%B8
535日本@名無史さん:2011/08/23(火) 14:43:13.19
>>534
>「度」は、水に関係なくても使える「度」である。

つまり「度」は水に関係する場合にも使える。
始度一海千里の「度」は「渡」と通用している。
「度」と「渡」の用法などと、いろいろ捏ね繰り回して理屈を考えるより、
数百年の間に書写を繰り返すうちに一ヶ所だけサンズイが落ちたと考える方が合理的。
536日本@名無史さん:2011/08/23(火) 14:59:24.28
>>535
>始度一海千里の「度」は「渡」と通用している。

「始度一海千里」は、想像上の航海だから「度」と記述しているの。
所謂、
「狗邪韓國」から「對海【馬】國」の航海は現実のものではない。
便宜上、倭へのルートとして記述されたものである。
その本線ルートは女王国の領域たる「對海【馬】國」から始まる。
だから、「又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國」と
「渡」と記述してある、勿論海を渡って一大国へ至る。





537日本@名無史さん:2011/08/23(火) 15:22:46.70
>>536
漢文の文法に、「度」は想像上の航海、「渡」は実際の航海などという区別は無い。
倭人伝は漢文で書かれているのであって、倭人伝語や暗号で書かれているのではない。
陳壽の筆法などというのも、倭人伝語や暗号の類でしかない。
「度」は想像上の航海などというのも、倭人伝を解釈するためだけの理屈に終始してしまっている。
漢文全体に確認できる理屈でなければ、机上の空論でしかない。
538日本@名無史さん:2011/08/23(火) 15:25:03.88
魏志倭人伝は特別なんだって思ってるんでしょ
539卑彌呼の都は久留米:2011/08/23(火) 15:37:04.71
>>536
>「始度一海千里」は、想像上の航海だから「度」と記述しているの。

文章地図上の抽象的な渡海であるので、それもある。
私は次のようにも考える。

「始度一海千里」は洒落て二つの意味を持たせる為。
「始度」と「渡一海千里」
双方に使ええる文字は「度」
540日本@名無史さん:2011/08/23(火) 19:38:50.18
度にしろ渡にしろ、一般的意義は従的意義しかなくて、
三国志なら陳寿は度と渡をどう慣用しているのか、が主的意義。
そちらにこだわるべき。

今でも、人により熟語の使い方は、それぞれだよね
541伊作:2011/08/23(火) 19:40:48.69
一字をとりあげて「ああでもない・こうでもない」。
ビギナーが埋没しやすい独善我流の混沌の世界だ。
共通するのは、「漢文を読む」はずが「漢字読み談義」になっている。

もう一度提示するぞ。
『魏略』も『後漢書』も『梁書』も一貫して「度海」と書いている。
じゃーこれはみな空想上の渡海か。水とは無関係の「度」か。タコが

『汲古閣本』『紹興本』『紹煕本』倭人伝の版本はそろって、
狗邪韓国から対馬へ渡る時にかぎって「始度一海」で度が登場する。
これは最初の一度だけで、以降は「渡海」となっている。
『魏略』も『後漢書』も『梁書』も一貫して「度海」と書いているところをみると、
『魏略』『後漢書』『梁書』同様に、
倭人伝も当初は一貫して「度海」と書かれていた可能性が高い。
これが中庸な判断だ。

俺は文字談義が大嫌いだが、それにしても・モグラ叩きのように・
とっくに済んだ話題を持ち出すビギナーが現れるなー。
倭人伝読みは「3歩進んで・3歩さがる」の体だな。
542日本@名無史さん:2011/08/23(火) 19:43:15.79
このスレの存在意義が、魏志倭人伝解釈の場だから
スレが続いて丁度いいな
目指せ1000スレ
543日本@名無史さん:2011/08/23(火) 20:41:59.83
伊作ちゃんはアラフォー毒女子かな
図書館の司書でもやりながら勉強してるイメージだな
544日本@名無史さん:2011/08/24(水) 05:22:44.04
紳助よろしく伊作も引退すれば
545日本@名無史さん:2011/08/24(水) 11:56:14.77
>>541 名前:伊作 :
>もう一度提示するぞ。
>『魏略』も『後漢書』も『梁書』も一貫して「度海」と書いている。
>じゃーこれはみな空想上の渡海か。水とは無関係の「度」か。タコが
その通りだ。
「度」に『水をわたる』という意はない。
それを、あたかも『水をわたった』如くの記述はそれなりの意があるからだ。
『その意を一括りにして』『空想上の航海』と置いた。
>倭人伝も当初は一貫して「度海」と書かれていた可能性が高い。
のような所感は、つずりかた教室でやりなさい。
大事なことは、「度海」と「渡海」の使用法を明確にすることです。
後漢書の
「樂浪郡徼 去其國萬二千里・・・
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」で
何故、「度」と記述されているかを検討しろ。 ゆでダコ。
 
546日本@名無史さん:2011/08/24(水) 12:12:27.67
空想上の航海なんて言葉遊びじゃないの?
547日本@名無史さん:2011/08/24(水) 12:36:47.69
倭京=博多=大宰府

日本の最古の首都=博多


こんなん歴史的事実ですやん
議論の余地ないっすねー
8世紀に平安京が荒れたとかどの史料読み取っても
「8世紀から畿内を開拓」してますやんwww
どう考えても縄文文化なんかウソっぱちで
日本列島の西から東に文化と人口が大移動してるよね
548日本@名無史さん:2011/08/24(水) 13:19:01.44
>>545
>「度」に『水をわたる』という意はない。

あるよ。>>532に大漢和の解説・用例を引いてある。

>それを、あたかも『水をわたった』如くの記述はそれなりの意があるからだ。

意味のない所に意味を読み取ってしまう、典型的な暗号解読。
549日本@名無史さん :2011/08/24(水) 13:20:48.74
>>547
そうですよね。
縄文文化にしても東北では10世紀以降まで残っていただろうし、
学者が二世紀までとスパッと区切って日本中どこでも同じに語るのは
誤ってます。
北海道なんか、明治になってから、正式に併合されたんですから。
推してはかるべしですね。
550日本@名無史さん:2011/08/24(水) 13:33:40.14
>>548
ははは・・・・

[漢書]猶度江河亡維楫

翻訳してください。

江河をどのような方法で渡ったの?
551日本@名無史さん:2011/08/24(水) 13:46:05.28
是猶度江河亡維楫,中流而遇風波,船必覆矣。可為長太息者此也。
唐‧顏師古注曰:「維所以繫船,楫所以刺船也。詩曰『紼縭維之』。
楫音集,又音接。」
552伊作:2011/08/24(水) 13:52:35.01
>>543
>図書館の司書でもやりながら勉強してるイメージだな
公的機関の人間が仕事そっちのけで掲示板やってたら月給泥棒だ。
組織の管理を担当する上司ともども処分ものだな。
俺は半分は自宅でPC使って仕事をしている人だ。時間の自由はきく。

ま・畿内説のばあい。
学芸員とか公的機関や施設の職員が、「仕事」でやってるかと思わされるがなー。
553日本@名無史さん :2011/08/24(水) 13:58:40.18
>>550
横からですけど

551を参考にして、

これはちょうど江河をつな、かい亡くして渡るようなもので、中流で
風波に遇えば、舟は必ず転覆するだろう。

でいいかな?
渡るという意味ですよね?
それがどうしたの?
554日本@名無史さん:2011/08/24(水) 14:06:10.94
>>これはちょうど江河をつな、かい亡くして渡るようなもので、中流で
風波に遇えば、舟は必ず転覆するだろう。

結局、江河は渡れていない。
だから、度と記述しているの。

わかりますか。

維楫があるなら、渡と記述する。
中流で転覆する船では江河は渡れない。
555日本@名無史さん :2011/08/24(水) 14:11:22.54
>>554
はあ?渡れないと度と書くの?
珍説じゃあありませんか?
そんな屁理屈初めて聞いた。
556日本@名無史さん :2011/08/24(水) 14:18:42.09
>>553
あ、そうそう、
その中流ってのは、流れの真中でと言う意味ね。念のため。
557日本@名無史さん:2011/08/24(水) 14:23:52.53
>>はあ?渡れないと度と書くの?

そうじゃない。
渡れないのに渡った如く表現しているから
度と記述しているの。

558日本@名無史さん :2011/08/24(水) 14:56:18.02
>>557
魏略では、例えば対馬に渡るのに「度」を使っていて、
魏志では同じ対馬に渡るのに「渡」を使っているので、
両方、どっちを使用しても同じ意味ってこと。
深く考える問題ではないですよ。

度というのは辞書をみればわかりますけど、
長さをはかることではじからはじへと手ではかっていく意味か
あるのです。

あなたの屁理屈でいえば、渡れなければ、「度」の文字はつかえませんよ。
この問題は深く考えすぎ。

この江河を度るのも、こっちから向こう岸に渡ることをいう。
河の流れにそって渡ることは、「浮く」か「乗る」を使います。

559日本@名無史さん:2011/08/24(水) 15:05:04.50
 始度一海千余里 至対馬國 ・・・・魏略
 始度一海千余里 至對海【馬】國・・・魏志

どちらも「度」ですが?
560日本@名無史さん :2011/08/24(水) 15:09:58.55
>>559
あ、そう?
じゃ、一支(大)国ね。確認してみてね。その後に末ラ国でもいいですよ。
561日本@名無史さん:2011/08/24(水) 15:29:13.43
>>560
「又度海千余里 至末廬國」・・・」魏略
「始度一海 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名末盧國」・・梁書

「度」と記述されている。
君は何が言いたいの。

梁の時制では、
「倭者 自云太伯之後」の領域は、
「末盧國」から「去帶方萬二千餘里」迄と記述してあるの。

對海【馬】國や一大國(一支國)は「倭者 自云太伯之後」の領域外なの。
倭に至るルートとして拝借しているだけ。DA.
562日本@名無史さん :2011/08/24(水) 15:32:15.80
>>561
あなたはいい加減な人ですね。
梁書ではなく、魏志倭人伝と比べてくださいよ。
もう、一回どうぞ。
563日本@名無史さん:2011/08/24(水) 15:38:22.74
>>560>>562
は、同じ人?

おれは、 >>560 に答えただけだ。

>魏志倭人伝と比べてくださいよ。
て、
何と 魏志倭人伝を比べるの?
意味不明!!!!

564日本@名無史さん :2011/08/24(水) 15:42:16.42
>>563
同じ人です!
つべこべいわずに、魏略と魏志を比べてくださいよ。
わかった?末ラ国を比べてね。
ここまで説明してもわからないなら、お手上げ。
565日本@名無史さん:2011/08/24(水) 15:47:31.71
>>554
じゃあ、他の例。漢書。

張春將卒萬餘人度河攻聊城。 実際に河を渡って城を攻めてる。

布果如薛公言,東?殺荊王劉賈,劫其兵,度淮?楚,楚王交走入薛。 淮水を渡って楚を攻撃してる。

どちらも架空の渡河ではない。こんな例はいくらでもある。
実際の渡河・渡海であっても「度」を使う事に納得がいきましたか。
566日本@名無史さん:2011/08/24(水) 16:11:23.99

「度河攻聊城」「度淮擊楚」も
橋を架けて、又は綱を張って無理やり河をわたるなら
「度」と記述できる。
>つべこべいわずに、魏略と魏志を比べてくださいよ。

明日又会おうね。

567日本@名無史さん:2011/08/24(水) 16:26:25.64
九州説の人って何でこんなに意固地なの?
あの妄想暴言じいさんだけかと思ってたら他にもいるのか
単に年取ると人の話を受け入れられなくなるだけ?
568日本@名無史さん :2011/08/24(水) 16:28:22.05
566がいきづまって、屁理屈ばかりこねていますね。
このような手合いは畿内説者に多いですよね。
ずうーっとエンドレス状態。
569日本@名無史さん:2011/08/24(水) 16:44:41.93
横だし見直しもしてないけど、多分564が言うようにそこの時だけは満たすのだろうね
でも、それで他では満たすのって言われて終わりだよ
何がしたいの?
570日本@名無史さん :2011/08/24(水) 17:02:10.84
>>569

564だけど、何がしたいのって、渡と度は同じ用法だってこと。
読んでてわからない?

伊作氏がたしか言っていたけど、平衡感覚の欠如した人って
畿内説に多いですね。だから畿内説なのかもしれないけど。
571日本@名無史さん:2011/08/24(水) 17:15:32.25
>>570
それを満たそうと思うなら
自分に都合の良い資料だけじゃなく、複数の資料から持ってきて
ほら、こうだよって説明して始めて満たされた事になる
又、満たしていないもの持ってくるのも極めて重要。
この場合はこうだからって説明出来るからね
君の場合、自分の都合の良い資料だけでこうだよって説明してるように見える
大事なのは満たしていない資料でそれが説明出来るか
572日本@名無史さん :2011/08/24(水) 17:19:37.62
畿内説者には理解できないかもしれないけど、
度という字には端から端まではかるという意味があるのですよ。
だから、川や、海の岸から岸へ渡る場合、度を使うわけです。
それにサンズイがついたのが渡で、水に関係するってこと。どちらも「わたる」という意味。
だからどっちを使ってもいいの。どっちもわたるという意味だから。
もう少し補足すれば、川に乗って移動したり、海を移動したりは「浮」、「下」、「行」を
使用するわけ。架空のこととか、橋をつかってとか、つなをつかってとか、
へんな理屈はうまれないのです。とにかくわたるという意味だから、両者は。
573日本@名無史さん:2011/08/24(水) 17:19:59.06
念のためにいっとくが、アンチ九州説はいても、
畿内説はいないぞ。

アンチ九州説は、まともな論客はいなくて、トンチンカンな書き込みで、
畿内説を間接的に貶めるから、隠れ九州説とも呼ばれる。

畿内説を正面から説ける人材はほとんどいない。
574日本@名無史さん :2011/08/24(水) 17:21:03.17
>>571
572で説明したよ。570と572は同じ人!
575日本@名無史さん:2011/08/24(水) 17:28:23.44
>>573
日本語で頼む
576日本@名無史さん :2011/08/24(水) 17:28:39.43
>>573
わざと畿内説を間接的に貶めるのが、隠れ九州説?
そうは思わないけどね。
わざと頓珍漢な質問して畿内説を貶めるほど、九州説は
窮していませんから。
577日本@名無史さん:2011/08/24(水) 17:33:16.61
>>576
九州説は2つに分かれてたけど、最近3つに分かれたのが顕著だからな
来年当たり4つ?
基本、魏志倭人伝信奉者の集まりなのに
578日本@名無史さん :2011/08/24(水) 17:35:18.09
アンチ九州説のふりして
わざと頓珍漢な書き込みして畿内説を貶めることをするような
九州説者はいないですよ。九州説者それほど窮していないから。
579日本@名無史さん:2011/08/24(水) 19:10:13.38
>>573は隠れ畿内説
580伊作:2011/08/24(水) 19:12:48.55
おほほーい。
独善我流と混沌の「一字談義」が終わったら知らせてくれ・なー。
581 :2011/08/24(水) 21:21:41.29
>>580 森噂異作

独善我流と混沌はお前だ。
異作が来る限り独善我流と混沌は終わらん。
582日本@名無史さん:2011/08/24(水) 21:54:48.42
>>566
史記
當是時,趙別將司馬?方欲 渡河入關,沛公乃北攻平陰,絶河津。

漢書
時趙別將司馬?方欲渡河入關,沛公乃北攻平陰,絶河津。

史記
漢四年,漢王之敗成皋,北渡河,得張耳、韓信軍,軍脩武,深溝高壘,
使劉賈將二萬人,騎數百,渡白馬津 入楚地,燒其積聚,以破其業,無以給項王軍食。

漢書
漢王敗成皋,北度河,得張耳、韓信軍,軍脩武,深溝高壘,
使賈將二萬人,騎數百,撃楚,度白馬津 入楚地,燒其積聚, 以破其業,無以給項王軍食。

史記の文を漢書が引き写している例。同じエピソードで文もほぼ同じ。
史記で「渡」とあるのを漢書は「度」にしている。
史記では事実であったことが、漢書では架空になることはないし、
同じエピソードなので、橋の有る無しも関係ない。

二番目のエピソードについて、同じ漢書の別の伝では
漢王得韓信軍,留止,使盧綰、劉賈渡白馬津入楚地,
佐彭越共?破楚軍燕郭西, 燒其積聚,攻下梁地十餘城。
と「渡白馬津」と書いてある。
漢書は、おなじエピソードに「度白馬津」「渡白馬津」どちらも使っている。
「度」と「渡」に架空とか架空出ないとか、橋とか綱とか関係ない。
583日本@名無史さん:2011/08/25(木) 00:12:59.60
>580
腐れ生ゴミは出て来んじゃね〜。
584日本@名無史さん:2011/08/25(木) 05:55:01.40
書きこむ前に。。。
http://info.2ch.net/before.html
おやくそく。

頭のおかしな人には気をつけましょう
利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって来ています。
頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。

頭のおかしな人の判定基準

・根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
 他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないが
 プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なので放置してください。

585伊作:2011/08/25(木) 07:57:10.79
>>584
ウソをつく・ごまかす・ヤジる・なじる・無知・バカ。
独善我流オタク・妄想空想オタク。断片知識衒学野郎。
間違ったとんでも読み・解釈を正しいといい張る無学者。
意味不明の文章を書いて罵倒する荒らし。
不当に非難・攻撃するだけの欲求不満タコ。

ここには頭のおかしな人ばかりだけど、
これらがみな互いに放置したら閑古鳥になってしまうが。ためしてみ
586日本@名無史さん:2011/08/25(木) 08:08:43.76
>585
いつも82を褒めてるんだからそこへ行けよ。
まともなことを言う人を罵倒する生ゴミはここにはいらん。
587日本@名無史さん:2011/08/25(木) 08:19:43.12
伊作の閑古鳥の予言が当たったためしがない件
588伊作:2011/08/25(木) 08:29:57.04
>>586
いずこも同じよ。
世が世ならば、不特定多数に向かって発言や主張する手段を持たなかったはずの者までが、
無料・匿名で好きなことをいえるようになった。
「せっかく利器を使わせてもらってるんだから建設的に利用しよう」という者は皆無に近く、
人間の日本人の醜さと矮小さを拡大・増幅してみせることに使う。

匿名・顔無し掲示板の欠点は、匿名・顔無しゆえに礼節が発揮されないことだろう。
実社会の日常においては抑えている「別の自分」が出てしまうんだな。
これが、横柄な態度でのなじり合い・ののしり合いを簡単に誘発する要因だ。

>まともなことを言う人を罵倒する生ゴミはここにはいらん。
今のお前にこそふさわしいセリフじゃないのか?
589日本@名無史さん:2011/08/25(木) 09:20:58.57
匿名でない伊作が、最も礼節に欠ける件
590伊作:2011/08/25(木) 10:00:20.30
>>589
>匿名でない伊作が、最も礼節に欠ける件
虚勢と「責任なすりつけ心理」が混じった見事な一文だな。タコよ
591伊作:2011/08/25(木) 10:03:40.20
>>587
>伊作の閑古鳥の予言が当たったためしがない件
虚勢とか「ぶせ否定の機能」が入り交じった見事な一文だな。タコよ

もうシラけて閑古鳥傾向になってるだろが。
こういえば、むきになって書き垂れるだろうが、それも一過性のものよ。
592日本@名無史さん:2011/08/25(木) 10:44:03.65
「2chのおやくそく」より引用
http://info.2ch.net/before.html

○頭のおかしな人の判定基準(←伊作が該当する箇所)
根拠もなく、他人を見下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人。
他人を見下すことで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないが、
プライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。
可哀想なので放置してください。
593伊作:2011/08/25(木) 11:35:11.52
>>592
はい。これで心おきなく閑古鳥ね。
めでたし・めでたし。
594日本@名無史さん:2011/08/25(木) 11:37:28.22
伊作の横柄さは、ある意味、反面教師として参考になるよ。
595日本@名無史さん:2011/08/25(木) 13:29:04.87
伊作の場合、古代史研究は学問ではない。
他人を罵倒することが目的。古代史はその手段に過ぎない。
596日本@名無史さん:2011/08/25(木) 15:24:13.22
>>582
>漢書は、おなじエピソードに「度白馬津」「渡白馬津」どちらも使っている。
>「度」と「渡」に架空とか架空出ないとか、橋とか綱とか関係ない。

項羽と劉邦の攻防ですか。
「使賈將二萬人,騎數百,撃楚,度白馬津 入楚地」
に「度白馬津」とあるが、誰が白馬津をわたったの?
面白い一説だ。
劉賈も盧綰も楚を攻撃した時(BC204年)に、黄河の南にいたはずだが。
黄河をわたったのは劉邦だけ?
「度」に水を渡る意は無い。ことだけは確かだ。



597日本@名無史さん:2011/08/26(金) 00:11:36.09
>「度」に水を渡る意は無い。ことだけは確かだ。

当たり前のことだ。
しかし
「度」には渡に当てた用法がある。
始度一海千余里と言えば、当然海を渡る以外の解釈はない。
598日本@名無史さん:2011/08/26(金) 12:01:50.58

>>597 :日本@名無史さん:2011/08/26(金) 00:11:36.09
>>「度」に水を渡る意は無い。ことだけは確かだ。

>◎当たり前のことだ。
>しかし
>「度」には渡に当てた用法がある。
>始度一海千余里と言えば、当然◎海を渡る以外の解釈はない。

えらい矛盾した書きこだな。




599 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2011/08/26(金) 12:04:46.73
600日本@名無史さん:2011/08/26(金) 12:48:32.26
>>596
>黄河をわたったのは劉邦だけ?

史記・漢書を読んで自分で確かめたら良い。

それよりも、「度」が架空で「渡」が現実とか、
「度」が橋や綱で無理矢理渡った場合で「渡」は橋や綱を使わない場合とか、
そういう用法の区別が本当にあったとすれば、
「度」で表現される事象と「渡」で表現される事象は、
同時には成り立たない排反事象ということになる。
だから同一の出来事について「度白馬津」「渡白馬津」と書くと、
どちらかが嘘の記述ということになる。
史記が嘘なのか。漢書がどちらかの伝で嘘を書いたのか。
そういう問題になるが、そんなことはナンセンス。
つまり、「度」は水を渡る意味で使える。ことだけは確かだ。
601日本@名無史さん:2011/08/26(金) 13:30:58.78
>>600
>だから同一の出来事について「度白馬津」「渡白馬津」と書くと、
>どちらかが嘘の記述ということになる。

鄭忠(テイチュウ)【文官】
漢の臣。
『B.C.204劉邦が韓信の兵を得て、河南に渡ろうとしたが、鄭忠はこれを諌めた。そこで劉邦は思いとどまり、 河内に防壁を作り盧綰と劉賈に兵を率いて彭越を助けさせ、 楚の糧食を焼いた。』
を「鄭忠の計」というそうだ。
「白馬津」をわたったのは、劉邦でもなく、勿論、盧綰と劉賈でもない。
「鄭忠の計」が「白馬津」をわたったようだ。
だから、「度白馬津」「渡白馬津」どちらでもOKだ。


602卑弥呼の都は久留米:2011/08/26(金) 15:53:15.96
>>600
>「度」が架空で「渡」が現実

凡そ其の通り。

「度」は抽象的事象。 伝聞・推量・仮定等を含んだ記述の場合

「渡」は具体的事象。 同時代資料を基にした記述の場合で、水に関するもののみ。
603卑弥呼の都は久留米:2011/08/26(金) 16:12:22.96
「始度一海千餘里」の「度」について

この「度」の用法は、漢書「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」からの引用である為。
「又南渡一海千餘里」の「渡」は、2回目の「わたる」だから漢書の引用にあたらない。
同時代資料である魏代資料による記述であるから「渡」を使わなければならない。
604日本@名無史さん:2011/08/26(金) 16:27:14.84
おまいら、学校教育の弊害だな。
昔は今みたいな全国共通の学校教育なんてなかったから、
漢字の使い方に基準はなかったんだよ
(日本も明治以前までは同じ)

つまり、同じ漢字を使うにもツクリはともかく、ヘンな取ったり取らなかったり
かなり融通無碍だったんだよ。
呉の二代目皇帝なんかは息子のために新しい漢字を作っちゃったりとかしてる

気にしすぎ。人が変われば、漢字の使い方も変わる。
ただし、陳寿が度と渡を使い分けているのに理由はあるかもしれないが。
605卑弥呼の都は久留米:2011/08/26(金) 16:30:09.53
>陳寿が度と渡を使い分けているのに理由はあるかもしれないが。

その理由を説明しているのが、>>602-603だ。
606日本@名無史さん:2011/08/26(金) 16:41:32.14
>>605
それを理由と推すなら、残念ながら説は成り立たなくなるよ
何故なら、事象の有無を陳寿が決定した事に成るから
架空なのか、そうでないかを陳寿が考えた以上、その事自体が間違いであれば根本的に成り立たない
607日本@名無史さん:2011/08/26(金) 17:27:31.47
>>590
えらい矛盾した書きこだな。

「度」に水を渡る意は無い。ことだけは確かだ。
だから
始度一海千余里と海を渡ると渡る場所を書く必要がある。

「度」に水を渡る意は無い。が、水を渡る場合に使用しない決まりもない。
608日本@名無史さん:2011/08/26(金) 17:31:25.87
>>605
度は韓国から倭国への移動。
渡は倭国内の移動。
609卑弥呼の都は久留米:2011/08/26(金) 17:43:45.85
>>606
>事象の有無を陳寿が決定した事に成るから、架空なのか

何をいっているのやら?
「始度一海」は漢書からの伝聞事項・・・抽象的情報 伝聞資料
「又南渡一海」は、魏代の資料に基づく情報。・・・具体的情報 同時代資料

>>607
>「度」に水を渡る意は無い。が、水を渡る場合に使用しない決まりもない。

同意
610日本@名無史さん :2011/08/26(金) 18:15:35.85
大昔はわたるの意味は「度」だけを使用していたんじゃない?
それが、後漢と魏を境くらいにサンズイもつけるようになったと。
それだけのことじゃない?敢えて仮説を立てれば。
架空だとかなんだとか、歪曲しすぎ。
611卑弥呼の都は久留米:2011/08/26(金) 18:23:47.22
>>610
漢書には「度」も「渡」もあるよ。
612日本@名無史さん :2011/08/26(金) 18:28:21.64
>>611
後に書き写したときに、サンズイをつけただけ。
だから、入り混じっているの。
簡単なことじゃん。
613日本@名無史さん:2011/08/26(金) 21:59:30.98
のちの康煕帝の時代になって字体そのものが整理されるぐらいだから、
それまでは割りと適当だったと考えられる。
614日本@名無史さん:2011/08/27(土) 02:21:27.16
>>601
>「鄭忠の計」が「白馬津」をわたったようだ。

冗談だよね。でも、冗談のようなことを真剣に書く人がいるのが、このスレだからなあ。
冗談なのか、かなり強烈な皮肉なのか、それとも本気で書いてるのか。
どうなの?
615日本@名無史さん:2011/08/27(土) 03:05:27.39
>>604
>ただし、陳寿が度と渡を使い分けているのに理由はあるかもしれないが。

陳寿が使い分けてるんじゃなくて、何百年も書写・伝承している間に変わっただけだろ。
書写工が、内容や巻数の切れ目ではなく、葉数で分担して書写すれば、
伝の途中で書写した人物が変わる。
人物が変われば、度と渡の違いも出てくる。
616日本@名無史さん:2011/08/27(土) 06:53:07.46
テスト
617日本@名無史さん:2011/08/27(土) 08:06:39.12
>>615
書写工が、内容や巻数の切れ目ではなく、葉数で分担して書写すれば、
伝の途中で書写した人物が変わる。
人物が変われば、度と渡の違いも出てくる。

度と渡の間の字数は60字あまりしかない。その可能性は限りなく小さいと言える。
第一
そんなことを言ってたら
至と到、戸と家、自と従、水行と船行など全て書写した人物が変わったからと言うことになろう。
618日本@名無史さん:2011/08/27(土) 17:46:57.21
日本史上かつてない危機。


【集団ストーカー&テクノロジー犯罪】とは、

被害者を鬱病や統合失調症に仕立て上げ、

社会から抹殺する国家機密であると考えて下さい。

この犯罪は海外でも存在し、アメリカではテレビでも報道され、

【生命倫理に関する大統領諮問委員会】も開かれています。

日本では20年以上も隠蔽され続けています。



619日本@名無史さん:2011/08/27(土) 20:42:33.39
ここんとこの流れを見てると、
・遠賀川の東西で文化が異なっていた
・高地性集落の分布から瀬戸内海を挟んで南北で争っていた
・熊襲の国へは北九州の文化がある時期から一気に流れ込んだ
・隼人は別の文化を持っていた

これらから少なくとも5つの勢力圏があったことになるな。
少なくとも九州説は、
・北東部九州説
・北西部九州説
・中部九州説(熊襲)
・南部九州説(隼人)
これらに分化すべきだな。
620日本@名無史さん:2011/08/27(土) 20:48:47.64
>>619
で、「すなおに読んだら分かる」倭人伝の読み方も5通りっすか?wwwwwwwww
621日本@名無史さん:2011/08/27(土) 20:54:03.40
>>620
何を最優先で考えるかでないかい?
・海上の里程
・陸上の里程
・方角

更に、
・短里を想定する
・方角のズレを想定する
なんてのもある。
622日本@名無史さん:2011/08/27(土) 21:00:25.88
どうも九州文化と邪馬台国のそれが結びつかんな
もちろん今の関西とも違うけれども
623日本@名無史さん:2011/08/28(日) 00:25:42.03
>どうも九州文化と邪馬台国のそれが結びつかんな

どこが?
624日本@名無史さん:2011/08/28(日) 11:56:14.44
>>600
>>596
>>黄河をわたったのは劉邦だけ?
>史記・漢書を読んで自分で確かめたら良い。

>>614
>>601
>>「鄭忠の計」が「白馬津」をわたったようだ。
>冗談なのか、かなり強烈な皮肉なのか、それとも本気で書いてるのか。
>どうなの?

劉邦が韓信軍を手に入れたとき、韓信軍は劉邦救済の為既に黄河を渡っていた。
そこへ劉邦が逃げ込んで韓信軍を手に入れたとの列伝もあるようだ。
史記と漢書の度と渡の違いは、視点の違いによって主体が交換されているのだろう。

度と渡は転注文字の関係にある、其れゆえにその関係の解釈は可也揺れる。
從と自、至と到も同じ。

 五曰転注 、転注者、建類一首、同意相受、考老是也。

625日本@名無史さん:2011/08/28(日) 12:24:51.42
>從と自

 從郡至倭・・・ 自郡至女王國萬二千余里・・・魏志
の「郡」は本当に「帶方」なの?
「歴韓國」が「帶方」に当たるのではないか?

626卑弥呼の都は久留米:2011/08/28(日) 16:52:32.08
>>624
>度と渡は転注文字の関係にある

違う

「度」と「渡」及び「至」と「到」は、前者が原義、後者が原義の一部用途に制限されたもの。
「渡」の用途は、具体的現実の水に関わる時の意味に使われる。
水に関わる場合でも、仮定、条件、伝聞等の抽象的な表現の場合には、「度」が使われる。
「到」は、目的や終着に至る場合にのみに使われる。

「従」は、「自」と全く異なる品詞。
「従」は接続詞とみるが良い、現代シナ語の介詞に相当。
「従」の日本語訳は「従って」。

「漢時有朝見者 今使譯所通三十國 従 郡至倭」
私の和訳:倭人は漢時朝見し、今は倭の三十國と接点がある。従って、郡(郡使)は倭に至る。
627卑弥呼の都は久留米:2011/08/28(日) 17:08:46.95
>>625
>「郡」は本当に「帶方」なの?
>「歴韓國」が「帶方」に当たるのではないか?

韓伝を読めば、倭に最も近く郡使を派遣しなければならない立場にあるのは、
楽浪郡ではなく帯方郡であることがわかる。

倭人伝であるから韓三種(馬韓・辰韓・弁韓)についての記述はありえない。
「韓國」は韓地の倭人が住んでいる国のこと。
「歴韓國」と「狗邪韓國」
狗邪韓國は韓地の狗邪國の意味。
韓伝では弁辰狗邪國があるが、これは弁韓人辰韓人が住んでいる狗邪國の意味。
韓伝であるから狗邪國の倭人については記述はされない。
628日本@名無史さん:2011/08/28(日) 17:18:18.34
久留米氏は段々河童氏に似てきた
629卑弥呼の都は久留米:2011/08/28(日) 18:05:57.48
>>682
>久留米氏は段々河童氏に似てきた

河童虫氏に似てきたのではない。
二年程前、偶々河童虫氏と似ているところがあるのに気づいただけ。
ヤフーのwajin128氏とも似ている。
「従」を接続詞又は介詞とみるところは同じ。
630日本@名無史さん:2011/08/28(日) 23:24:30.74
>>622
結びつかなくて当たり前じゃないのかな?
所詮、古代中国人の視点で描かれたものだからねえ…

まあ日本人とて現代人の視点から見れば奇異に見えるんだろうが
現在考古学的には確認されていない徇葬とか
80・90あるいは100歳の人間がゴロゴロいるとか
戸数にしたって七万戸なんて数字たいていは誇張と解する。
言い出したらきりが無い。

これでリアリティのあるものとして考えろと言うのが無理かとw

ハリウッド映画の「ニンジャ」を実際の戦国時代の忍者に重ねろと言うのと同じようなものかとwwwwwwwww



631卑弥呼の都は久留米:2011/08/28(日) 23:42:36.11
>>630
>現在考古学的には確認されていない徇葬とか

徇葬は考古学的には確認しようがない。

確認できるとすれば殉葬。
殉葬も確認されていないが。

卑弥呼の葬儀は百餘人の奴婢によりとり行われたのである。
現代風に言えば合唱葬かな?
「あ〜あ〜あ〜」「ん〜ん〜ん〜」の大合唱
632日本@名無史さん:2011/08/28(日) 23:59:45.03
>>629
ヤフーのwajin128氏とも似ている。
「従」を接続詞又は介詞とみるところは同じ。

wajin128はろくに漢文読めないで勝手な解釈ばかりしています。
從郡至倭にしても解釈が何度も変わっています。
漢文読めないのに自分で考えるからです。

wajin128は《初度》など言語虫とよく似た訳をしばしばします。
例えば
「医者の前に、は、が付いた場合は歯医者のことだ。
だから熱があったので私は医者へ行きました。は
熱があったので私、歯医者へ行きました。が正しい。」
と言う感じです。
思考力に、柔軟性が無く、問題があると思います。

言語は数学や物理と違って自分で考えて判るものではありません。
「従」を接続詞又は介詞として読む中国人学者が1人でもいますか?

半分以上は完全な出鱈目なwajin128の言うことを真に受けてはいけません。
中国人学者、または信頼できる日本人学者の訳を参考にすべきです。
633卑弥呼の都は久留米:2011/08/29(月) 00:57:00.43
>>632
>半分以上は完全な出鱈目なwajin128の言うことを真に受けてはいけません。

wajin128氏の影響を受けた訳ではではありません。
3世紀末の中原シナ語に介詞はありません。
「従」は現代シナ語の介詞の様な動きをしているのです。
見方によれば接続詞の様な動きとも見えます。
「従」のこのような働きは方は、大漢和にも載っています。
「従郡至倭」の「郡」が非人称主語と捉えることから、この問題は派生してきたのです。

「倭人在帶方東南大海之中〜自郡至女王國萬二千餘里」の文は、
河童虫氏の言う地理誌の文章地図で、旅日記ではありません。
だから「郡」が非人称主語となることができるのです。
郡の直接動詞は「至」。至倭の至・南至投馬國の至・南至邪馬壹國の至。
郡の間接動詞は、水行・歴・到・度・渡・渡・陸行・行至。
郡の第二間接動詞は、東南至奴國の至。
634日本@名無史さん:2011/08/29(月) 09:39:40.97

フジデモの先に信濃町デモを。カルト犯罪思想・創価

創価内部文書
【各地域の敵対者排除/躾】
a)創価学会への強固な敵対者に対しては、将来的に考えてもその子息子女を
 落とす必要がある。
 子息子女の不幸により折れる可能性も高い。
 子息子女へは創価学会へ反発しないよう躾る。
 敵対者の子息子女の結婚は潰す必要がある。
 会員の子息子女の敵であってはならない。
b)会員の商売敵を排除することは資金確保の上で重要である。
 商売敵の子息子女も、将来を見据え落とす必要がある。


635日本@名無史さん:2011/08/29(月) 09:42:10.44

>>634
c)敵対者が地域で高評を受けぬよう計らう。
d)各会員が連帯し、自然と不幸になったように落とす必要がある。
【くれぐれも会員が疑われてはいけない。】
e)敵対者の言に信頼が集まらないよう計らう。
f)敵対者の安定につながる者らも落とす必要がある。
g)常に経済的/心理的に圧迫させる必要がある。

636日本@名無史さん:2011/08/29(月) 13:19:22.73
「從と自」
「從」字は 『説文解字』に、「從、随行也。从辵从。从亦聲」。 とある。
@.「從」とは「随行」である。 A.「辵」字と「从」字に従っている。「从」字は聲符でもある。  所謂、「從」字は会意形声文字である。
又、「辵と从」の二字の本義が重なっているということは、「随と從」の二字の義符に「辵」字が共存するといことである。

で、「辵」とは、
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%BE%B5
彳(小径)と止(足趾)の会意。
〔説文解字〕には「乍(たちま)ち行き、乍ち止まるなり。彳に從ひ止に從ふ」とあり、彳を行く、止まると解して行ったり止まったり、というような意味としている。止は足趾の象形であるので、歩く意味と解釈する説もある。

「行」字には進む者が止まる、という意味がある。
随って「辵」の「乍行乍止」とは、「進みそして止まる」という動作で、更に 「從」の「彳」での「止まる」という、三つの行為を繰りかす意となる。
所謂、歩いてきて止まる、それが更に止まるとは留まる意である。
その行為は、東海道五十三次の如くの旅路をイメージできる。

「進むと宿泊を繰り返す旅路」を「帶方という一つの郡内旅路」と解釈することは妥当かどうか?
幾つかの郡を通り過ぎる過程と解釈するほうが妥当ではないか。
それは、「自」を解釈するとより鮮明になるであろう。

 「從郡至倭」の 「從」は『・・・より』との解釈より『・・・を通り過ぎて』と解釈するほうが好ましい。




637卑弥呼の都は久留米:2011/08/29(月) 16:28:26.78
>>636氏はwajin128氏ではないの?
3世紀のシナ語を現代シナ標準語で論じてはダメ。
3世紀と現代では全くの別言語なんだから。
638日本@名無史さん:2011/08/29(月) 16:55:34.97
魏志は270年頃完成したとすれば、許慎の『説文解字』はそれを遡ることその120年。

「從、随行也。从辵从。从亦聲」。
の解釈が現代的解釈とする根拠はなんですか?
3世紀の解釈ではどうなるのすか?
宜しく。
639卑弥呼の都は久留米:2011/08/29(月) 17:59:27.37
>>638さんのレスをよく読んでいなかったようです。
失礼しました。
あなたの解釈に一理あります。
賛同はありませんが、否定はできません。

この場合、起点は魏本国となりますね。
640日本@名無史さん:2011/08/29(月) 18:16:21.97
三国時代の距離単位、1里は約400メートル。
641日本@名無史さん:2011/08/29(月) 22:58:36.46
×1里は約400メートル。
○1里は約73メートル。
642日本@名無史さん:2011/08/29(月) 23:24:39.45
勝手に短里とか考えてるんだから
○とか×とか意味ないのでは?
643日本@名無史さん:2011/08/30(火) 07:56:37.62
>>624
>史記と漢書の度と渡の違いは、視点の違いによって主体が交換されているのだろう。

ぜんぜん違うよ。内容は本紀とかを読んで確認したら良い。
それより、文法として、使劉賈將二萬人は使役形なんだから、
劉邦が劉賈に命令して黄河を渡らせた以外の解釈はない。


>度と渡は転注文字の関係にある、

そんな関係にはないし、視点も変わってないし、解釈は全然揺れない。
以下の例は、陳平が船で黄河を渡るシーン。
明確に船だと解るから、架空でも橋でも綱でもない。
本人が操船を手伝ってるから計略が渡るwんでもない。

史記
陳平懼誅,乃封其金與印,使使歸項王,而平身闕s杖劍亡。
【渡】河,船人見其美丈夫獨行,疑其亡將,要中當有金玉寶器,目之,欲殺平。
平恐,乃解衣M而佐刺船。船人知其無有,乃止。


漢書
平懼誅,乃封其金與印,使使歸項王,而平身間行杖劍亡。
【度】河,船人見其美丈夫,獨行,疑其亡將,要下當有寶器金玉,目之,欲殺平。
平心恐,乃解衣?而佐刺船。 船人知其無有,乃止。
644日本@名無史さん:2011/08/30(火) 07:58:45.86
他にも、史記の渡が漢書で度と書かれている例はたくさんある。

史記
張春【渡】河?聊城。

漢書
張春將卒萬餘人【度】河攻聊城。

史記
秋七月,淮南王黥布反,東并荊王劉賈地,北【渡】淮,楚王交走入薛。

漢書
布果如薛公言,東?殺荊王劉賈,劫其兵,【度】淮?楚,楚王交走入薛。

645日本@名無史さん:2011/08/30(火) 08:11:15.05
>>633
>「従」のこのような働きは方は、大漢和にも載っています。

載ってません。
おそらく二番目の「したがって、つれて、よって、ともなって」をそのように誤解したのでしょうが、
これは、長悪不悛、從自及也。という例文を挙げていることからもわかるように、
卑弥呼の都は久留米氏のいうような意味での「接続詞」でも「介詞」でもありません。
646卑弥呼の都は久留米:2011/08/30(火) 10:30:34.61
>>645
>長悪不悛、從自及也。という例文を挙げていることからもわかるように、
>卑弥呼の都は久留米氏のいうような意味での「接続詞」でも「介詞」でもありません。

漢代魏代に品詞と言う概念はありません。
「長悪不悛 從自及也」の「從」は、現代風に言うと「接続詞」や「介詞」の様な働きをしているのです。
わかりやすく説明する為の方便です。


>>643-644
>史記の渡が漢書で度と書かれている例はたくさんある。

史記においては、同時代資料に基づく具体的事実であるので「渡」が使われます。
その同じ記事は、漢書においては、伝聞に基づく抽象的事実になるので「度」が使われます。

つまり前史記事から引用された「渡」は、「度」に変えるのです。

同時代記事では、仮定、推量、条件等抽象的事実の設定を含んだ文の場合には、
「渡」が「度」に変わります。
647日本@名無史さん:2011/08/30(火) 12:39:30.95
>>646
介詞と接続詞は全然違うので、
>「接続詞」や「介詞」の様な働き
では、意味をなしていない。

現代中国語で介詞「从」は「從」の簡体字。
「从家到学校,要五分?。」
「家から学校まで」という、この用法が介詞で、
倭人伝の「從郡至倭」の「郡から倭に至るには」というのと、
字も用法も、まったく同じ。
つまり、倭人伝の用法は現代の介詞の用法と同じで、
久留米氏の説を
>現代風に言うと「接続詞」や「介詞」の様な働きをしている
とうのは誤り。

>つまり前史記事から引用された「渡」は、「度」に変えるのです。

史記の引き写しでも「渡」のままの記事もあるので、引用は「度」に変えるなんていう規則は存在しない。
648日本@名無史さん:2011/08/30(火) 12:40:42.62
例を貼り忘れてた。

史記
章邯已破項梁軍,則以為楚地兵不足憂,乃渡河,北?趙,大破之。

漢書
章邯已破項梁,以為楚地兵不足憂,乃渡河北?趙王歇,大破之。
649伊作:2011/08/30(火) 13:24:45.45
なー。いい加減、度おだっていいだろ。
>>647が正論。

漢字は複数の意味をもっている。同じ意味をもつ違った漢字もある。
どの漢字を用いるかは当事者の選択することだ。
俺たちはひたすら、
文脈と文意から、どの意味で書かれているかを的確に選択すればいいこと。
はい・おしまい。
650日本@名無史さん:2011/08/30(火) 15:17:31.70
>>649 名前:伊作
>俺たちはひたすら、
>文脈と文意から、どの意味で書かれているかを的確に選択すればいいこと。

『どの意味で書かれているかを』明確にできていないから問題にしてるんでしょう。
伊作ちゃんが明確に出来るというなら、

女王國東渡海千余里復有國皆倭種・・・魏志
 自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王・・・後漢書
の、『度と渡』・『自有りと自無し』を明確にしてください。
宜しく。

651卑弥呼の都は久留米:2011/08/30(火) 16:45:08.64
>>647-648
>史記の引き写しでも「渡」のままの記事もあるので、引用は「度」に変えるなんていう規則は存在しない。

>>648の例文は、漢書に史記の一節を意識してコピーしたものであるから、伝聞引用にあたらない。
周書が北史からの引き写しであるレベルと同じ。

漢書「樂浪海中有倭人」に基づく伝聞が、魏志「始度一海千餘里」の「度」である。


652卑弥呼の都は久留米:2011/08/30(火) 17:07:45.71
>>647
「從郡至倭」について

「従」を介詞の働きとみるならば、その日本語訳は「から、より」・・・wajin128説、私は不支持

「従」を接続詞の働きとみるならば、その日本語訳は「したがって、よって」・・・私の主張、河童虫説もこれだと思う


どちらの説にも共通していることは、「從郡至倭」の「郡」が主語で「至」を動詞とみていること。
653伊作:2011/08/30(火) 17:45:29.90
>>650
●素人の文献いじりごっこ
南朝宋代の430年代。宣城太守に左遷された范曄が、
歴史家たちが先行して編纂した複数の『後漢書』を資料として整理編纂した。
これが正史『後漢書』である。
宋書・范曄伝も、范曄が「先行する歴史家たちの『後漢書』を整理した」と書いている。
(その先行する歴史家たちの『後漢書』には倭伝はおろか東夷伝もない。
正史『後漢書』倭伝が『三国志』倭人伝からの転用であることが鮮明になる)。

・范曄が郡太守職にあったのは「数年間」である。
太守職の合い間にやったわりには短期間で完成している。
・范曄の手になるのは本紀と列伝のみで、
のちに南朝梁の劉昭が東晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。
・『後漢書』東夷伝の中でもとくに『倭伝』はデキが悪く、
范曄が手がけたと思われる本紀や主要な列伝とは雲泥の差がある。
・『後漢書』倭伝を担当したのは歴史文筆のイロハを習得した人間ではなく、
范曄が助手か部下に書かせた節がある。
・『三国志』倭人伝と、これをトレースした『後漢書』倭伝の中で、
文字違い・意味違い・異同などはすべて『後漢書』倭伝の間違いと断定できる。

間違いだらけの『後漢書』倭伝の間違いの部分に依拠して語る歴史には
いかほどの価値もない。素人の文献いじりごっこ。

自論に有利な記録はないかと文献漁りをして、
二流・異聞とされる文献やその部分的な記録に飛びつき、
その文献の信憑性や記録の正否検証もせず論拠や論証に活用するのは
素人に許された「自由研究」の範疇にあるのかもしれないが、
そんなものを歴史として受け入れる愚かな社会はどこにもない。
654日本@名無史さん:2011/08/30(火) 18:20:38.66
>>651
>>648の例文は、漢書に史記の一節を意識してコピーしたものであるから、伝聞引用にあたらない。

久留米氏の言は、みんな「〜と思う」のレベルで、実証的な根拠はない。

>>643>>644の例文と>>648の例文にはどんな差があって、一方は
>漢書においては、伝聞に基づく抽象的事実になるので「度」が使われます。
で、他方は
>漢書に史記の一節を意識してコピーしたものであるから、伝聞引用にあたらない。
という違いが生じるんだろう。
具体的に、両者の例文の何がどう違うのか示してみせて。

>>652

>「従」を接続詞の働きとみるならば、その日本語訳は「したがって、よって」・・・私の主張、河童虫説もこれだと思う
>私の和訳:倭人は漢時朝見し、今は倭の三十國と接点がある。従って、郡(郡使)は倭に至る。

「倭人は漢時朝見し、今は倭の三十國と接点がある。」と「郡(郡使)は倭に至る。」という二つの文が、
「従って」という接続詞で論理的に繋がらないんだけど、何が何に従って、「郡(郡使)は倭に至る」のだろう。
意味がわからん日本語だなあ。
655伊作:2011/08/30(火) 19:38:40.33
久留米氏も「文字いじり」でモラトリアムか。
我流法則と自らつくりだしたカオス(混沌)の世界に埋没して終えるのだろう。
かかわっても疲れるだけだぜ。
656日本@名無史さん:2011/08/30(火) 19:54:24.36
文字いじりが産み出すのは依怙地な気違いだけ
657日本@名無史さん:2011/08/30(火) 20:52:10.23
>>653
> 文字違い・意味違い・異同などはすべて『後漢書』倭伝の間違いと断定できる。

『後漢書』の「邪馬臺国」が正しいって言ってたんじゃなかったっけ?
658日本@名無史さん:2011/08/30(火) 23:25:29.44
         ___
       /     \ キリッ
      /   \ , , /\
    /    (●)  (●) \  >>657 技あり、一本!
     |       (__人__)   |
      \      ` ⌒ ´  ,/
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
.      |          |
659伊作:2011/08/30(火) 23:53:10.63
>>657
「文献の比較検証と当該記録の正否検証をして採否を決める」。
「邪馬臺国」と書いているのは『後漢書』だけではない。
総合的判断の上で採否を決めるのだ。もっと頭を巡らせて考えろ。

なんでそう、遮眼帯競走馬みたいな狭小な見方しかできんのかなー?
天才にとっては不思議だぜ。
660日本@名無史さん:2011/08/31(水) 12:14:20.98
>>653
> 文字違い・意味違い・異同などはすべて『後漢書』倭伝の間違いと断定できる。
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」・・・魏志
 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」・・・後漢書
における後漢書の何処が文字違いで何処が意味違いなのですか?
例えば、 後漢書の「女王国には自がある」が魏志の「女王国には自がない」のは、
後漢書では間違えて「自」を記述したということですか?
又、魏志では「渡」ですが後漢書は「度」になっているのは「さんずい」が脱落しているということでしょうか?
私的には、「女王國東渡海千余里」と 「自女王國東度海千餘里」は同じ意であると解釈しています。
後漢書が、「自」と「渡」で記述されていたなら刺した場所が大きく異なることになる。
661卑弥呼の都は久留米:2011/08/31(水) 13:22:29.22
>>654
>久留米氏の言は、みんな「〜と思う」のレベルで、実証的な根拠はない。

実証するとなると、それは膨大な作業量、それが面倒なので、「〜と思う」の表現方法をとった。
調べたかぎりでは「度」と「渡」の用法に誤りがない。
又、抽象的事実と具体的事実とする分類方法が適切かどうかは疑問が残る。
もっと判りやすい説明方法があるかもしれない。


>意味がわからん日本語だなあ。

日本語の意味はわかり難いと思う。
それは非人称な抽象的な名詞が、日本語では主語ににならないからだ。
解り易い日本語に翻訳する場合には主語を変えて表現しなければならない。

ヨーロッパの言語の文(文語文)を読む場合、其の言語の主語を尊重して日本語に翻訳しようとする場合、
日本語とならない日本文となることを経験しているだろう。
其の場合、主語を述語等に置き換えることにより、判りやすい日本語となることを経験するであろう。
皆さんも漢文を読む時無意識に同じ事をしているとおもう。
漢文を主語のない日本語の翻訳文としているのはその一例だ。
662日本@名無史さん:2011/08/31(水) 13:41:03.72
>>652
>どちらの説にも共通していることは、「從郡至倭」の「郡」が主語で「至」を動詞とみていること。
郡は
主語ではない。主語は省略されているんだよ。


663卑弥呼の都は久留米:2011/08/31(水) 13:59:22.80
>>653
>文字違い・意味違い・異同などはすべて『後漢書』倭伝の間違いと断定できる。

後漢書倭傳にも魏志倭人伝にも間違いはない。
両者の違いは、編纂時(4世紀と3世紀)のシナの倭に対する認識の違いに過ぎない。

3世紀の認識
邪馬壹國は「ヰ(倭)」の国であるから「邪馬ヰ國」
天子の居る場所である「臺」も夷人の国名には使えない時代でもあった。

4世紀の認識
倭國も自称は「タイ(大倭)」になっていた。(倭王旨の時代)
邪馬臺國は「タヰ(大倭)」の国であるから「邪馬タヰ國」
「臺」に天子の居る場所であるとの意味はなくなっていたので「臺」の字が使用可能となった。
唐初においては「タヰ」の音に「俀」の字を充てている。

「東冶」と「東治」についても両者の認識の違い。
「一大國」と「一支國」については、地名が「ヰキ」であるから「一大國」が筆写時の誤りと思われる。

664卑弥呼の都は久留米:2011/08/31(水) 14:14:57.60
>>662
>郡は主語ではない。主語は省略されているんだよ。

君は日本語でしか考えていない。
文章で主語を省略する言語は日本語ぐらいのもの。

では省略された主語は何で動詞は何?
665日本@名無史さん:2011/08/31(水) 14:32:22.73
倭人伝は渡だ、後漢書は度だ、などと議論したところで、
原本は誰も見たことがない。

何百年の間に、どこの誰だかわからない複数の人間が書き写してきて、
残ったものを現代人が目にしているにすぎない。

原本の倭人伝なり後漢書なりが、確かに渡だった、度だったという確証が何もないのに、
それが単なる書写の過程での変遷でしかないのかもしれないのに、
この度の意味はこうだ、あの渡の意味はどうだと議論したところで、
しょせん証明はできない無駄な議論。
666伊作:2011/08/31(水) 16:28:57.44
>>665
限度を知るのもセンスのうちよ。
文献やりくり・文字操作・文字いじりも、
のめりこんで埋没しちまっちゃなーんにもならん。

古田某という反面教師が、それらをすべて見せてくれたろうに。
亜流をやっても「文献やりくり・文字操作・文字いじり」の面では、
古田某のそれを超える人材は今後もでまい。それ以外はみな陳腐。
667日本@名無史さん:2011/08/31(水) 16:55:19.25
「古田の本は読んでない」
じゃなかったのか
668伊作:2011/08/31(水) 17:03:26.41
>>667
板でやってるだけで十分に分かるぜ。
それほどに、組織的プロパガンダかと思わせるほど、
素人を含む古田持ち上げサイトと投稿が蔓延している。

わかってて・なじりちゃりか・クソ野郎
669日本@名無史さん:2011/08/31(水) 17:18:44.70
まあ古田はもうじき死ぬ さすれば烏合の衆は解散さ
安本も同じ
そして孤独なはぐれ猿の伊作も長いことはない
670日本@名無史さん:2011/08/31(水) 17:22:56.62
伊作は足腰がきくうちに震災ボランティアでもやれば後生がいいだろうに
671伊作:2011/08/31(水) 18:43:40.51
>>669
「高潔・孤高の求道の鉄人」といえ・この野郎。
そういえば、安本本は手にとったこともないなー。
古田本は1冊だけ買ったことがあるが、
あまりにも乱暴な原稿だったので、途中まで読んで・捨てた。

>>670
こっちも被害はあるぜ。家の中はぐちゃぐちゃ。
その月以降、定期的な仕事が中止になる。収入は減る。
間接的な被害にあっても黙って我慢してる者も少なくないんだぜ。
672日本@名無史さん:2011/08/31(水) 18:47:22.40
>>671
働いていたんだ
年金暮らしかと思ってた
673日本@名無史さん:2011/08/31(水) 18:48:25.76
>>668
そんなおまえの事情なんか知るかよ。
以前ゆったことを掲載したまでだ・クソ野郎
674伊作:2011/08/31(水) 18:50:00.15
>>672
これでも、一流の仕事をしてきた男だぜ。
人間がひと味もふた味も違うくらいのことは、
書き込みのデキ具合みれば分かろうってもんだ。
675伊作:2011/08/31(水) 18:51:53.76
>>673
こういう手合いこそ年金暮らしのヒマ爺だろ。
676日本@名無史さん:2011/08/31(水) 18:53:16.94
>>674
過去形って事はやっぱり年金暮らしなの?
677伊作:2011/08/31(水) 18:58:33.69
>>676

もの好きなお前とか、
>>673  こういう手合いこそ年金暮らしのヒマ爺だろ。
俺は人間がひと味もふた味も違うとゆってるだろ。
678日本@名無史さん:2011/08/31(水) 19:04:35.86
一首可以走进国际的作品,有商业价值又不失艺术本质。。
679筑紫の民:2011/08/31(水) 22:24:19.68
>>678 は誰?
なにがあった?
680日本@名無史さん:2011/08/31(水) 22:27:55.98
678は、単なる誤爆。中国人か?
681日本@名無史さん:2011/09/01(木) 00:14:21.33
何かに芸術的な国債価値があると言ってるようだが、それ以上はわからんな。
一首とは何のことだろう。
682日本@名無史さん:2011/09/01(木) 09:41:14.85
>>664
>君は日本語でしか考えていない。
>文章で主語を省略する言語は日本語ぐらいのもの。
なんだ。漢文をまったく知らんのかね。漢文は主語を省略することがしばしばある。
「漢文 主語の省略」とでも入れてググってみな。

>では省略された主語は何で動詞は何?
省略されている主語は、「倭を訪ねる者は」だろうな。
対応する言葉を言うならば、動詞ではなく述語というべきだろう。
水行する、狗邪韓国に至る、これらが述語だ。




683日本@名無史さん:2011/09/01(木) 11:36:32.64
中国の三国時代の里程の1里は約400メートル前後だったかと思っ。

里程(1里の距離)は時代毎にかなり変化していますから
近世〜現在の1里=4キロ弱との思い込みはドツボにハマりかねません。

684日本@名無史さん:2011/09/01(木) 12:22:33.82
>漢文は主語を省略することがしばしばある。

その通り。
すぐに確認できるそんなことも屁理屈で否定するwjinみたいなのが
少し足らない人を惑わすから困ったものだ。
685日本@名無史さん:2011/09/01(木) 12:33:23.48
>>643
>>644
史記 の【渡】が 漢書では 【度】と記述されているのは、
漢書では「推測・憶測」文として記述されているからであろう。

「始度一海千余里 至對海【馬】國」も
推測・憶測文として記述し、行程の連続性をたもっている。と
女王国と非女王国の区別表記として「度」を用いている。
単に、「渡」を「度」にかきかえてあるのではない。
「度」に水を渡る意はないから。
686卑弥呼の都は久留米:2011/09/01(木) 14:31:02.72
>>682
>漢文は主語を省略することがしばしばある。
>「漢文 主語の省略」とでも入れてググってみな。

君はの言っていることは漢文初心者レベルへの便法としての助言だ。

そんな事を言える君は、フランス語中級レベルの書き言葉(レベルの高いコラム等)も読めないだろう。
687卑弥呼の都は久留米:2011/09/01(木) 14:40:27.52
>>685
其の通り。
「伝聞」「仮定」文として記述されている場合も「度」
水を渡らない場合も「度」
688日本@名無史さん:2011/09/01(木) 15:31:37.35
>>661
>実証するとなると、それは膨大な作業量、それが面倒なので、「〜と思う」の表現方法をとった。

実際に膨大な作業を通して得た結論なのか疑わしいが、
いづれにせよ、下の質問は、膨大な作業なんか必要ない。
渡と度の問題ではなく、具体的な例文が、片方は抽象的事実であって、
他方は意識的なコピーである理由を提示してみて、という質問なんだから
これが説明できなければ、その場しのぎということになるよ。


>>643>>644の例文と>>648の例文にはどんな差があって、一方は
>>漢書においては、伝聞に基づく抽象的事実になるので「度」が使われます。
>で、他方は
>>漢書に史記の一節を意識してコピーしたものであるから、伝聞引用にあたらない。
>という違いが生じるんだろう。
>具体的に、両者の例文の何がどう違うのか示してみせて。
689日本@名無史さん:2011/09/01(木) 16:11:48.19
>>686
君は、フランス語中級レベルの書き言葉(レベルの高いコラム等)が読めるのかね。
立派、立派。漢文も読めるようになるよう頑張ろうね。
690日本@名無史さん:2011/09/01(木) 20:42:29.59
>>686
フランス語は、漢文には関係ないわな。
691日本@名無史さん :2011/09/02(金) 08:02:06.53
度は「わたる」という意味で、
水に関係するものでなくても、水に関係するものでも、
両方OKということ。
渡るをつかえば、よりはっきりとわかるというだけ。

「伝聞」「仮定」文として記述されている場合も「度」
水を渡らない場合も「度」
という使い分けはない。

その川を渡ったそうだ、
その川を渡ろうとしたが渡れなかった。
それを「度」と書き分けるって?
よくそんなことをまじめに議論していられるよね。
692日本@名無史さん:2011/09/02(金) 08:21:58.40
邪馬台国は九州、畿内にはその当時、別の強大な「国」が存在
やがて、これらは争い、最終的には畿内の勝利
これで全部説明できる!!
693日本@名無史さん:2011/09/02(金) 09:34:21.78
畿内に強大な国がなかったことは考古学的に明らかになってきたね。
694日本@名無史さん:2011/09/02(金) 11:45:04.91
渡:水部、「渡、濟也。从水。度聲」、
度:又(ゆう)部、「法制也。从又。庶省聲」(実際は「庶」の「灬」が「火」)


695日本@名無史さん:2011/09/02(金) 13:07:53.66
 ↓↓↓ 魏志                  ↓↓魏略  
始度一海千余里 至對海【馬】國  ・・・ 始度一海千余里 至対馬國 ・・・@
 又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國 ・・・ 南度海 至一支國    ・・・A
又渡一海千余里 至末廬國      ・・・又度海千余里 至末廬國  ・・・C
 東南陸行五百里 到伊都國      ・・・ 東南五百里 到伊都國  ・・・D
 東南至奴國百里 東行至不彌國百里 
 南至投馬國水行二十日 
 南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 

魏略は、おそらく郡使が帶方より伊都國へ至るを記述している。
魏略の郡使は帶方⇒末廬國⇒伊都國がその行程で、
拘邪韓國⇒対馬國⇒一支國の行程は魏使の行程には含まれない。
では、魏志は?




696日本@名無史さん:2011/09/02(金) 13:58:34.06
>>695
>魏略は、おそらく郡使が帶方より伊都國へ至るを記述している。
梁書の如く「又東南陸行五百里 至伊都國」と、魏略なるなら、郡使の最終地と解釈できる。が、魏略の場合の行程は、魏使の行程の可能性がたかいだろう。
魏使の邪馬臺國を終着とする記述部が紛失されているから明確にはできないが。
697日本@名無史さん:2011/09/02(金) 14:01:01.30

>>696
魏略なるなる

魏略にあるなら
に訂正。
698日本@名無史さん:2011/09/02(金) 14:45:23.03
五百里=0.4キロ?×500=200キロ?
699日本@名無史さん:2011/09/02(金) 15:03:43.73
訂正、1里≒432メートル
700日本@名無史さん:2011/09/02(金) 15:54:53.67
伊都国は郡使が倭国に往来する際に駐する所の一つにすぎない。
最終目的地ではないな。
701卑弥呼の都は久留米:2011/09/02(金) 22:54:33.09
>>700
伊都国は郡使が倭国に往来する際に駐する所。
伊都國で邪馬壹國の都に行ける日を待つのだ。
伊都國から邪馬壹國の都までは200〜300里(15〜20km)、
日帰りも可能な距離。
702伊作:2011/09/02(金) 23:20:29.95
>>700
>伊都国は郡使が倭国に往来する際に駐する所の一つにすぎない。

外来の客とて許可なく王都へは入れない。
隋の使節は難波津の高麗館の上に増設された新館に常駐していた。
ここがとくに重要な場所だったわけではない。
ここから王都まで(見せびらかしの練り歩きを入れて)10日を要したといっている。
彼らとて数ヵ月間滞在した中で、倭王に面会できたのは2度しかない。

白村江の戦いの戦後処理交渉に訪れた唐の一行は、
戦争当事国への訪問とあって数千の兵団を伴っていたが、
さすがに土足で王都へ踏み込むことはできず、
倭国が筑紫に設けた都監府を定宿として大和と交渉していた。

無粋で野蛮な軍隊・兵士・軍人もまた、許可なく王都へは入れない。
(王都警備や王の身辺警護は王の親近血族からなる親衛隊という軍事貴族が務めた)。

外来の使者が常駐するからといって重要な場所とは限らない。
703日本@名無史さん:2011/09/03(土) 06:43:35.97
伊作は、学者というより小説家が天職だな
704日本@名無史さん:2011/09/03(土) 07:06:49.11
昨日の事さえ隠ぺいする中国人の残した古書を信じて議論することに浪漫も全く感じないのだが
705日本@名無史さん:2011/09/03(土) 11:46:33.79
>>704
昨日の事さえ隠ぺいする中国人の残した古書

古書と言っても信頼性は千差万別。
貴方の言うことよりも当てになる書物も数多あるでしょうね。
706日本@名無史さん:2011/09/03(土) 11:48:59.88
>>703
むしろ詐欺師
707日本@名無史さん:2011/09/03(土) 12:03:47.70
詐欺師でも小説家でも学者でもないただの孤独な老人だよ。
生涯を賭けてトランプの城を築いて死んでいくだけ。
708日本@名無史さん:2011/09/03(土) 13:49:36.08
>>703
ラノベ(ライト・ノベル)作家ですか?w
709日本@名無史さん:2011/09/03(土) 14:48:04.90
>>707
でも、安Mより上でしょ
710日本@名無史さん:2011/09/03(土) 14:52:02.99
>>709
他のお年寄りから会費をとって会を作ったり本を買わせたりしない点はな。
711日本@名無史さん:2011/09/03(土) 15:36:38.70
「自」
「自、鼻也。象鼻形、」 : 鼻也。鼻の形を象る。
皇、大也、従自王、自、始也、始王者三皇、大君也、自讀若鼻、今俗以始生子為鼻子 : 皇、大也、自・王に従ふ、自は始也、始めて王たりし者は三皇なり、大いなる君也、自は讀みて鼻の若くす、今の俗に始めて生まるる子を以て鼻子と為すは是れなり。
から、
「自郡至女王國萬二千余里」
の「郡」を「帶方」とするのは誤読でしょう。
712卑弥呼の都は久留米:2011/09/03(土) 22:46:02.60
>>711
>「郡」を「帶方」とするのは誤読でしょう。

違う。
「自」の原義からの展開方向が間違っている。

「自郡」は即ち「魏の郡」「魏の始め(倭人と関わっている先頭の魏の役所)の郡」
東夷方面の魏の郡は、遼東郡、楽浪郡、帯方郡の3郡。魏代には玄菟郡はもう無い。

倭人伝の直前は韓伝、韓に北接し韓伝に密接に関与した郡は帯方郡。
そこで倭人伝で「郡」とあれば直前に出てくる郡である「帯方郡」となる。
倭人伝本文中にも「帶方太守劉夏」が出てくることから裏付けられる。
713日本@名無史さん:2011/09/04(日) 12:27:42.75
>>711
>「自郡至女王國萬二千余里」
>の「郡」を「帶方」とするのは誤読でしょう。

「自郡至女王國萬二千余里」は,
郡⇒女王國であり、女王國⇒郡という道程ではない。
『自郡の郡』は『郡の鼻で、所謂始めの郡』です。
『始めの郡』ということは『倭に至るのに通過しなければならない幾つかの郡の中の始めの郡』ということです。
「帶方」は倭へ至る最終の郡ですから、『始めを刺す自』を置くことは出来ません。
故に、
「自郡至女王國萬二千余里」の「郡」は「帶方」では有りません。






714日本@名無史さん:2011/09/04(日) 13:06:07.76
ヘンなのが湧いてきた
715日本@名無史さん:2011/09/04(日) 13:51:54.04
>王都まで(見せびらかしの練り歩き

イサクのトルデモ。
716日本@名無史さん:2011/09/04(日) 14:12:17.88
>714
「自女王國以北」
魏志の「對海【馬】國」「一大國」「奴國」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹【臺】國」は、皆女王国で「自女王國」とは、「郡」から始めの女王国のことですから「對海【馬】國」です。
従って、
 「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」と「自」が付かない「女王國」は
最終の女王国で「邪馬壹【臺】國」のことです。
717日本@名無史さん:2011/09/04(日) 14:25:25.45
なんでそんな勝手な解釈するかな?
漢文読めもしないのに。
718日本@名無史さん:2011/09/04(日) 14:59:43.71
>>717 名前:
>なんでそんな勝手な解釈するかな?
>漢文読めもしないのに。
漢文を読める人の、勝手じゃない解釈をどうぞ。

719卑弥呼の都は久留米:2011/09/04(日) 15:00:44.64
>>711(=713=716) にレスするんじゃなかった。
720どくだみ:2011/09/04(日) 15:39:55.79
A→B→Cという移動が話題になるとき、
「行程の始点であるAからCにいたるには」というときには「自A至C」で、
「行程の途中の点であるBからCにいたるには」というとき「從B至C」という表現をする傾向があるようです。

あくまで傾向であって、厳密にそのような使い分けると言うのではありません。
自が鼻であり最初であるという漢字の原義を>>711さんが挙げていますが、
ごく初期には原義に沿って、そのような使い分けがあったのかもしれないと想像しています。
しかし、一般的には、そのような使い分けのない用例も、
從も自もなく「A至C」で「AからCに至る」という表現も見かけます。

それで、「従郡至倭」は魏の都から倭に至る途中の帯方郡からとういニュアンスで、
「自郡至女王國」のほうは、萬二千餘里という距離の問題ですから、
魏の都が出発点ではなく、帯方郡が出発点だというニュアンスなのだとおもいます。
だから「從郡」ではなく「自郡」とうい表現をしたのでしょう。
721日本@名無史さん:2011/09/04(日) 15:55:47.52
まあ、言語というのは、数学のような定義された体系ではなく、
人々の生活に根差した歴史的・重層的な体系なんですよ。

なので、同じような表現とかはいくつも形成される訳。
発生した時にはあった厳密な定義も、人々の慣用の中で変形・淘汰されていく、と。

したがって、あまり些細な事項に、まるで数学的定義のように拘っても、
言語の本質を見失うことになる。

その上、言語には数千年の歴史があるので、現代的観点から細部を
ああでもないと議論しても、これまた本質を見失うことに。
722日本@名無史さん:2011/09/04(日) 16:15:48.59
>>714
漢文読めないだけでなく頭も悪い人に解釈するのは疲れるからヤだ。
中国語学者か中国人学者の解説、読むよろしアルヨ。
723卑弥呼の都は久留米:2011/09/04(日) 16:30:25.21
>>720
>「行程の途中の点であるBからCにいたるには」というとき「從B至C」という表現をする傾向があるようです。

この部分には同意できない。
724どくだみ:2011/09/04(日) 17:10:43.27
>>723
現代中国語にも、このような傾向は残ってるようですよ。

「自古以来」、「从(従)古以来」 両方使いますが、
从(従)の方には、「経過する地点を示す」という用法があります。
「窓から外を見る」とか「公園を通って行く」とかの場合、
从(従)を使いますが、「自」の方には辞書にはそのような用法は載ってません。
だから、「從郡至倭」のほうは、帯方郡は経過する地点で、本当の出発点は魏の都という意識なのでしょう。
「自郡至女王國」の方は、萬二千餘里という距離は、帯方郡からの計測で、
魏の都は関係しませんから、「自郡」で良いわけです。
725日本@名無史さん:2011/09/04(日) 18:34:34.41
出発地点というより
移動を伴っている場合が従じゃないの?
726どくだみ:2011/09/04(日) 19:41:25.21
>>725
そういう区別は無いようですね
727日本@名無史さん:2011/09/04(日) 20:01:13.69
そうかいな。
じゃ移動を伴っている場合が従は取り消しね。
728日本@名無史さん:2011/09/04(日) 20:54:56.83
>>724

> だから、「從郡至倭」のほうは、帯方郡は経過する地点で、本当の出発点は魏の都という意識なのでしょう。

単に方角を表してるだけだと思うよ。
流れ星によく使われるし。
729日本@名無史さん:2011/09/05(月) 10:27:55.11
三国志はねつ造だらけ、ただの中国美化。
憧れて洗脳されるなよ。先物や配当金に騙される老人と同じだからな。
730日本@名無史さん:2011/09/05(月) 10:46:26.78
>>716
>魏志の「對海【馬】國」「一大國」「奴國」「不彌國」「投馬國」「邪馬壹【臺】國」は、皆女王国で
女王国は、万2000里から始まるんだから、対馬国から不弥国までは女王国ではないよ。

>「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」と「自」が付かない「女王國」は
>最終の女王国で「邪馬壹【臺】國」のことです。
女王国は女王国だ。邪馬台国と混同してはいけない。


731日本@名無史さん:2011/09/05(月) 13:30:47.19
>>720 :どくだみ
>A→B→Cという移動が話題になるとき、
>「行程の始点であるAからCにいたるには」というときには「自A至C」で、
>「行程の途中の点であるBからCにいたるには」というとき「從B至C」という>表現をする傾向があるようです。
>それで、「従郡至倭」は魏の都から倭に至る途中の帯方郡からとういニュアンスで
どくだみさんに質問です。
「郡」が「帶方」なら、
「從郡至倭 循海岸水行歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千余里」の起点は「韓國」。
との解釈は可能ですか?
          ↓↓↓ 陸路
韓國⇒ 郡(帶方)  ⇒       狗邪韓國 
732どくだみ:2011/09/06(火) 06:37:16.78
>>731
眼精疲労で目が痛いもので、即レスできずにすみません。
歴韓國とあります。
韓国を起点として韓国を経由するというのは矛盾ですので、
起点を韓国と解釈するのは不可能だと思います。
733伊作:2011/09/06(火) 08:42:33.52
>>729
>三国志はねつ造だらけ、ただの中国美化。
これはいかんなー。悪質な流言飛語の類いだぞ。

歴史の記録と保存と伝承は、天子政府の使命の一つであり文化事業の一貫だった。
天子や政府の周辺だけではなく、一定以上の高官には「史官」という官吏が配属された。
時には、公明正大に歴史を記録することに命をかけた史官がいたものだ。
(だからこそ、『史記』などをはじめとして、細かい人物の列伝や出来事などを
現代の俺たちは目にすることになっている)。
これらの無数の史官の記録に基づいて、歴史家の豊富な知識と優れた考証眼でふるいにかけ、
事実を事実としてクールかつ客観的に書かれたのが歴史家だ。

滅びた王朝の歴史書を編纂するのは新たな王朝の文化事業の一つ。
滅びた王朝の歴史書を編纂することは、禅譲とともに歴史記録を継承したことを意味する。
禅譲されたということは正統王朝であることを意味する。
すなわち紀伝体の整った正史編纂は正統王朝の証しともいえる。一種のステイタスだ。
王朝の管理下で(禅譲で継承され)王朝の文書金庫にあった歴史記録資料に基づいて編まれたのが正史だ。

時代とともにこれが形骸化して紀伝体を整えることだけが尊重され、伝の中身がいい加減になる。
このことは、倭人と倭国に関する各時代の伝に目を通したものなら分かろう。
(間違いのさらになる間違いや誤字のさらなる誤字は、適当な人間に任せたことを示唆する)。

ともあれ、歴史書の「よき伝統」を残していた最後の歴史書が『三国志』だといえる。
この前提で取り組むのが正道だ。
時代錯誤による間違った前提は、まっとうな研究の支障にしかならん。

ここで続いている「一字談義」も、何か本質的なところで間違っている。
734伊作:2011/09/06(火) 08:49:47.10
中国人学者は、真摯でまともな学者ほど邪馬台国問題にには関与したがらない。
「関与しないようにしている」ともいえるだろう。
中国人で邪馬台国問題に口だしするのは、ろくでもない学者だといえる。
(日本人学者も邪馬台国問題に口だしするのにはろくなのがいない)。

そんな中で、王なんとかという著名な学者が、
たったひと言、日本人の『倭人伝』の扱いにつしいて言及したことがある。
「そんなに隅々まで細かくつついては『倭人伝』がかわいそうです」。
これが精一杯の所感だったのだろう。

しょくんは、『倭人伝』に恥じるところはないか?
735日本@名無史さん:2011/09/06(火) 09:03:19.34
そりゃあ、中国人から見たら、
邪馬台国が九州なら、魏志倭人伝がいいかげんなのを認めることになるし、
邪馬台国が畿内なら、魏志倭人伝がでたらめなのを認めることになるからな。

736伊作:2011/09/06(火) 09:10:21.72
誤解のないよう申し添える。

禅譲で継承して王朝政府の文書金庫に厳重に整理・保管されていた
膨大な歴史記録を見ることができるのは、しかるべき地位と資格のある人間だけでだ。
市井の半端歴史家にできることではない。

こういうたとえがよかろう。
ここに出没する半端研究者が宮内庁へのこのこ出かけて行って
そこで保管されている文書を参考に「歴史を書きたい」と申し出て、
簡単に出入りが許可され閲覧ができるか否か。

中国の王朝というものを極論すれば、
日本において天皇の尊顔を拝見することすらできなかった時代の、
その何倍もの威厳と格式と規模があったと考えて差し支えない。

王朝政府の許可を得て、王朝政府の膨大なスタッフに手分け作業と手助けがあって、
正史というものは完成している。
されが「個人」の作品であるかのように扱われるのは、
編纂させた当該王朝の客観的立場(編纂内容への不干渉)をアピールするためである。
外づらと建前にこだわるのが天子を戴く王朝の側面でもある。
737伊作:2011/09/06(火) 09:12:52.12
>>735
都合の悪いところは倭人伝に責任転嫁するのもまた、
姑息で矮小にな日本人が思いつく「逃避手法」だ。

どこか、別のカテゴリの板で遊べ。
738日本@名無史さん:2011/09/06(火) 09:15:33.46
まあ、しかし邪馬台国が畿内である以上、
悔し紛れに魏志倭人伝をいじくってもいまさら遅いけどね。
739日本@名無史さん:2011/09/06(火) 09:17:01.36
単に他国の歴史に深入りしないだけでは?
別段、そんなに詳しく載ってる資料でもなし
740日本@名無史さん:2011/09/06(火) 09:36:43.80
あほぬかせ。

中国は、沖縄を取る気まんまんだろ。

邪馬台国だって中国の属国だったんだから、奪いとっても当然の権利だとか言うつもりだ。
邪馬台国の範囲が、九州か西日本全体か、中国の戦略にとっては大きな問題。
いずれ西日本を中国の属国にするのは、規定路線だから、邪馬台国は畿内おほうが、中国にとっては都合がいいけどね。

741日本@名無史さん:2011/09/06(火) 10:59:22.86
まあ、中国は戦略的に動いてるよな。
742伊作:2011/09/06(火) 11:51:09.59
>>741
人間のことだ、善し悪し両面誰にもあろう。
俺たちはここで、聖人君子(聖天子)の伝統が息づく時代の
大帝国の歴史にまつわる日本の歴史を論じている。
善し悪しに関係なくしっかりとらえることが大切なのだ。
「今」を混ぜてどするか・タコ。

「侵略的開発」は中国の得意技だ。いいセリフだろう。
それも確かな側面で、体面と建前に固執するのもまた側面。
そういう所を熟知して外交にあたるべきなのだが、
そういう奥の深い政治家が日本にいない。
国をあげて、歴史というものを正面からとらえず、
正直に教育してこなかった弊害だろう。
その弊害がここに出没するタコでもにまで及んでいる。

沖縄の問題など、学術的に解決する問題だ。
だからこそ、藩外国の朝貢外交を性格に理解し、
「冊封」などという現代日本人の造語を誤解せず、
『隋書』『旧唐書』を正しく解釈することが大切なのだ。

中国だけではなく、韓国もまた「対馬は韓国の領土だ」といい兼ねないぞ。
743伊作:2011/09/06(火) 11:58:26.49
>>742
だからこそ、藩外国の朝貢外交を性格に理解し、
↓↓↓
だからこそ、藩外国の朝貢外交を正確に理解し、

ついでに、現在の日中領土問題に関連する俺たちの責任について。
自分が語りたい歴史を語るために、
日本が中国王朝に臣従していたかのいう売国奴的論者もいる。
中国の歴史書を都合勝手に「めちゃくちゃ」に読む悪辣な論者もいる。
日本的規模でみればいかに無責任な歴史を語る者が多いか。
これらに対する天才の怒りと情熱のほどが分かろうというものだな。
744日本@名無史さん:2011/09/06(火) 12:04:55.24
国家には文明史的なルーツ血統があんのよな、そこを中国に突かれちっまった。
745日本@名無史さん:2011/09/06(火) 12:46:57.20
考古学会もNHKもつまらなくなって来た。2,3年前から見られる最早ほぼ決着という停滞ムードは何なの?
最早、畿内説 対 九州説 の大論争が見られるのはネット社会のみになってしまいました。
ワナビーの今後の畿内説 対 九州説の盛り上がりに期待します。

746日本@名無史さん:2011/09/06(火) 13:00:39.43
>>743

卑弥呼が魏に臣従してたのは事実だろうが。
747伊作:2011/09/06(火) 13:03:56.40
>>746 ↑↑↑こういう手合いがまだいるんだから、日本の古代史は見通しが暗い。
748日本@名無史さん:2011/09/06(火) 13:13:43.06
>>747

臣従してないなら、どういう関係か定義してもらおうか?
749日本@名無史さん:2011/09/06(火) 13:22:19.50
「やあ、よろしく」って挨拶しただけ。
750日本@名無史さん:2011/09/06(火) 13:24:51.36
朝貢交易は、主従関係にならないと成立しないんだが。
中国はそんなにお人よしじゃないぞ。
751日本@名無史さん:2011/09/06(火) 13:29:59.31
DNAレベルで連続性が無いだろがよ大陸に民俗学的にも北方人種化してる。
752日本@名無史さん:2011/09/06(火) 13:35:07.67
>>732 :どくだみ
ありがとうございました。
では、
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」の行程は、例えて
狗邪韓國←沙里院(帶方) ←piyonyan← 丹東市← 錦州市← 天津市← 洛陽  ・・・・@   で、
七千余里という解釈でよろしいのでしょうか?
「到其北岸狗邪韓國」の「到」との記述は、@とは別のルートの存在を暗示していますが、
「自郡至女王國萬二千余里」の行程は、「自郡」を「帶方」とするなら、例えて
沙里院(帶方)⇒piyonyang⇒丹東市⇒錦州市⇒天津市⇒洛陽⇒福州市⇒狗邪韓國⇒女王國 ・・・Aで
「帶方」⇒「狗邪韓國」が「七千余里」、「狗邪韓國」⇒「女王國」が五千余里、
故に「帶方」⇒「女王國」は「萬二千余里」である。
と、解釈することは有効でしょうか?

宜しくお願いします。

753伊作:2011/09/06(火) 15:11:16.09
>>750
よしよし。勝手にそう思ってろ。
754日本@名無史さん:2011/09/06(火) 16:38:34.03
対等に「つつがなきや」ってお手紙したら、結構大騒ぎになったねえ。

聖徳太子と小野妹子

これやったの、タリシヒコで倭の五王って説もあるんだっけか。
755?:2011/09/06(火) 18:17:54.83
>>754
タリシヒコだけど、倭の五王ではない
756日本@名無史さん:2011/09/06(火) 18:21:37.64
タラシヒコなら、筑後の高良大社だが。
757日本@名無史さん:2011/09/06(火) 18:32:56.55
タリシヒコは馬子だよ
758日本@名無史さん:2011/09/06(火) 18:44:00.68
そういや、タリシヒコ=蘇我馬子説もどこかで読んだな。
どのくらい信憑性があるのかは知らんが。
759日本@名無史さん:2011/09/06(火) 19:22:51.31
>>758
裴世清と最後に面会したのは、タリシヒコ。

推古十八年十月丁西条
新羅の導者が朝庭で最後に接見したのは、大臣馬子。
馬子の登場が、儀式の最後で主役だった可能性がある。
760日本@名無史さん:2011/09/06(火) 23:13:13.31
>>753

簡単に論破されるくらいなら、大ボラ吐くなタコやろう。
761伊作:2011/09/07(水) 07:09:44.35
>>760
お相手をしてあげて・ていねいに説明してあげて・
説得する価値のある人間とみなさないだけのことだ。

>簡単に論破されるくらいなら、
ロ・ン・パというほどに・何か論らしいことをゆったのか? ロンパリあたま

それから………他人のボキャブラを盗んで使うな。タコ野郎
762日本@名無史さん:2011/09/07(水) 07:52:21.81
卑弥呼が魏に臣従してたのを、魏志倭人伝が記録してるわけだが。

変なナショナリズムで現実が見えなくなったのかね?
763伊作:2011/09/07(水) 08:41:18.90
>>762
いまでバカげた赤恥行為をつづけるつもりだ?

俺が2ちゃん飛び込んで最初に説いたのが、
「西嶋某がつくさった冊封という造語の誤解の是正」と
誤解に基づく「倭国は中国に臣従という盲目的錯誤の矯正」だ。

おかげで、倭国が中国王朝に臣従していたなどというのは
もはや皆無に近くなったんだぜ。
ことのいきさつを知ってる誰かにきいてみろ。
バカバカしすぎるから・あっちいってろ。
764日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:21:23.72
>>763

そんなヨタ話に同意したやつなんていないだろ。
一人でなにを妄想してるんだか。
765日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:26:28.06
だいたい、中国が倭国とどういう関係だったか、
倭国が中国とどういう関係だったか、
視点が変われば認識が変わるのは当たり前。

中国と倭国が共通認識のもとに関係を持ってたと思うこと自体がもうトンデモ。
国際社会常識ゼロ。
それどころか、普通の人間関係だって成り立たんわ。
766日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:27:45.57
はて、倭王武の上表文に「臣、下愚といえども」と書いてあるが
これは中国の天子に臣従している証しなのでは?
767日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:34:29.77
聖徳太子が中国にタメ口たたいたら怒ったしな。
768日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:38:04.37
まさか、表面的には臣従したが、本心は・・とか言うんじゃなかろうな。
本心から臣従した周辺国なんぞ一国もありはせんからな

強大な中国に、不本意ながら外交的に臣従の姿勢をとる、
これを臣従外交という訳なんだぞ。
769日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:47:53.26
いつまでもくだらんことを言ってないで、行程記事の読み方をきちんと整理せい。
770伊作:2011/09/07(水) 09:50:26.10
●タコどもの半端認識是正。
>>766 倭王武の上表文に「臣、下愚といえども」と書いてあるが……
その冒頭に「封国は……」ともある。
いずれも、天子を奉る建前で展開した朝貢外交であるから、へりくだっているだけ。
そういう時代だったことを見逃すな。

>>767
>聖徳太子が中国にタメ口たたいたら怒ったしな。
「聖徳太子が……」て信じてるのか?  まいいや。
日本書紀をみると「東の天皇が西の皇帝に」で、倭国側としてはタメ口ではない。
ところが中国では天皇も皇帝も天子を意味する。
この文言を中国側にいわせると
「日出るところの天子が・日没するところの天子に」となる。
この込み入った一件は膨大な説明を要するので省略。

>>768 このバカは無視。
771日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:55:04.61
[俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。]

という文があって、「天」を中国皇帝のことだという人がいるけど、
この天というのは、日本人の感覚でいう高天原のことじゃないの?
772日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:21:57.63
>へりくだっているだけ
外交ではそれは許されん。シローとの見解だ。

日本の天皇(首相)が米国に行って、へりくだって「貴国の臣である私は・・・」と言えるか?
現代とは限らん、昔でもそうだ。少しは考えろ、タコ!
773日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:27:14.68
率賓王土なり。
中華に国境の認識はとんと有りませなんだ。
それは、ほんの二百数十年前にロシアが極東へ進出してきてから初めて境界を意識せざるを得なく成ってから以降の事。

昨今の大中華主義による他国領域の侵害も元々は中華五千年来の中華思想(中華帝国主義)に因るもの。
国境の認識は敵さんにはアリマセンが相手が軍事的、経済的に強く、さらに強硬な場合にのみ渋々こぶしを収めるのが欧米列強にやられてからの仕儀。
774日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:34:18.62
伊作という人が来ると、スレが途端に下品な言い合いになって
見るに堪えないんですが、どうすればいいでしょうか。

もちろん、「伊作」はNGワードにしてるんですが、それでも酷いです。
2chのどこかに届ければいいのでしょうか。
775伊作:2011/09/07(水) 10:36:44.42
>>771
>倭王は天を以て兄と為し日を以て弟と為す。
これは、倭国の使者が風俗(ここでの意味は「お国ぶり」だが、
使者の回答から判断して信仰様式)を問われて回答した文言だ。
倭国の祭祀信仰は天(天帝)を兄として、日(太陽)を弟とするして、天と日の関係を述べている。
(この時代まで太陽神は男だったわけだ)。
776伊作:2011/09/07(水) 10:43:08.59
>>774
>伊作という人が来ると、スレが途端に下品な言い合いになって
ここの参加者は礼節というものがない。
知識というものがない。無知なくせに生意気をいう。
他人の意見を正確に把握する能力がない。
誤解した上に誤解に基づいて駄論・お角違いの反論を投げる。
全く勉強した形跡がないのに限って、
バカなりに着想したアイデアを意見だと錯覚している。

2ちゃんの質的レベルをあげる方法を質問してみたらどうだ。
「伊作さんに御任せします」という返事がくるかもな。わらわら
777日本@名無史さん:2011/09/07(水) 10:43:39.25
>>775

すると、伊作も通悦どおり、天=中国の天帝ということでいいんだね?

だったら、中国と日本が兄弟=臣従関係ジャン。
778伊作:2011/09/07(水) 10:48:44.13
>>777
そういうのを、短絡的中間数式なしの加減数式回答という。
たったそれだけで解決するなら楽なもんだが。
779日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:09:31.86
中国五千年の歴史では漢族がずーっと占めているかといえばさにあらず。
漢族から蛮族と蔑まれた辺境の一族(国)が中国を占めると何故か魔法の中華鍋で料理されて須く中華人と成っていく不思議。
周王朝にとどめを刺して戦国七雄を平らげて東洋文化の基礎をもたらした大秦帝国も元々は中原からは西の蛮族と謗られ蔑まれた一族。
西暦元年を挟んで200年づつ計約400年の命脈を保った漢帝国の後、
三国時代をへて大統一を果たした大委鬼帝国〜国を簒奪して横滑りの晋帝国〜の後、
北方からの異民族により南北に分裂。
河北(黄河流域以北)は五胡十国時代、
域外の他民族が入れ替わり立ち替わりシャッフルを繰り返した時代をへてその中から勝ち残った隋帝国が成立。
南に逼塞していた漢族の王朝にとどめをさいての大統一。
その重臣で実力者の李氏の簒奪により大唐帝国が成立。(歴史は繰り返す)
何れも、漢族とは言い難い王朝ながら「魔法の中華鍋」で料理されるうちに大中華然とした皇室と王朝と思考に。
中世ではモンゴルから興った元帝国(ユーラシアを席巻したモンゴル帝国の首府国)はやはり最後は「魔法の中華鍋」でシャッフルされて中華人と成り下がって滅亡(モンゴルへ逃げ帰ったとして「北帰」と言うそうな)。
その前に華北地方を占めていた金(満州〜モンゴル族系?)も矢張り魔法の中華鍋の餌食に成った口。

近代、満州から興った女真族の後金〜清帝国はやはり魔法の中華鍋で料理されて
皮肉にも歴代中最も中華帝国らしい異族が建てた中華帝国の中の大中華帝国と言われました。
780日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:15:59.14
>>774
手を引いたはずなんだがな
恥ずかしくなく出てこれるとこはある意味感心
781日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:24:15.76
んで、この中国の漢代がわが国の歴史上で重要度が高い時代。
この西暦元年を挟んだ漢代が渡来亡命王族と云われるスサノオ命や父君フツさまらが活躍したわが国の黎明期。
当時の東アジア〜極東の国際情勢がわかれば
記紀編纂当時の支配者達に不都合な真実(歴史)を抹殺するため意味不明の神話にされたわが国のホントの歴史も垣間見れるかも?



782日本@名無史さん:2011/09/07(水) 12:04:45.41
>>779 こうみてくると、大日本帝国が中国を征服したところで、中国史からみて違和感はないわな。
別に中国に謝ったりなんて必要ないんじゃないか。
783卑弥呼の都は久留米:2011/09/07(水) 13:54:35.34
>>771
>[俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。]
>という文があって、「天」を中国皇帝のことだという人がいるけど、
>この天というのは、日本人の感覚でいう高天原のことじゃないの?

「倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」
これは倭の統治形態を書いている。
だから、「高祖曰 此太無義理」とある様に、シナ人はこの倭の統治形態を理解できないのである。

倭王は兄王と弟王の2人がおり、二元分担統治していることを示している。
兄王は「天王」(天皇)で夜の政務担当、弟王は「日王」(法皇)で昼の政務担当である。
即ち、兄王は祭祀王で、弟王は世俗王である。

隋書では弟王は多利思北孤として出てくるが、兄王の名前が出てこない。
魏志倭人伝では、兄王は「卑弥呼」と「壹與」として、弟王は「男弟」として出ている。
シナ人は世俗王を王とみなしており、後世では日本の王は天皇ではなく、征夷将軍や関白としている。
784伊作:2011/09/07(水) 16:35:09.50
>倭王は兄王と弟王の2人がおり、
倭王は3人兄弟かい? ぷッ

>兄王は兄王は「天王」(天皇)で夜の政務担当、
>弟王は「日王」(法皇)で昼の政務担当である。
24時間交替勤務かい? ぺッ
で・かんじんの倭王はいつ勤務するんかい? ポッ

>シナ人はこの倭の統治形態を理解できないのである。
日本人にも理解できないが。
>隋書では弟王は多利思北孤として出てくるが、
多利思北孤はかんじんの倭王の名じゃなかったのかい? あ:ーッ
785日本@名無史さん:2011/09/07(水) 17:06:27.34
>>783じゃないが、>>784は日本語能力が酷いな。
なぜ3人ってことになるw
786日本@名無史さん:2011/09/07(水) 17:09:31.41
チンピラ伊作は、見苦しい
82に帰れ!
787日本@名無史さん:2011/09/07(水) 17:28:35.35
>なぜ3人ってことになるw

イサクは所詮この程度のレベル。

>チンピラ伊作は、見苦しい
82に帰れ!

82では相手にしてくれんのではないのか。
788卑弥呼の都は久留米:2011/09/07(水) 17:51:26.51
>>787
82から逃げ出してきたんだよ。
789ローガン:2011/09/07(水) 18:00:22.27
>>785
>>783じゃないが、>>784は日本語能力が酷いな。なぜ3人ってことになるw

>>784ではないが
「倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」
天や日が、「特定の人物を指す」というような変な訳に従うなら、この文の登場人物は3人なるだろう?
という意味ですよ。
790日本@名無史さん:2011/09/07(水) 18:19:13.81
でもあれだね、これによると、
兄は夜中に政治を処理して、日の出とともに帰る。
日の出からは弟が政治を処理する、と。

兄は、昼は何してるんだろね?
791日本@名無史さん:2011/09/07(水) 18:26:03.35
>>783
「倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」
この文の主語は「倭王」

倭王以天爲兄           倭王は天を以て兄となす
倭王以日爲弟           倭王は日を以て弟となす
倭王天未明時出聽政 跏趺座 倭王は天の未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺坐す
倭王日出便停理務        倭王は日出づればすなわち理務を停め
倭王云委我弟           倭王は云う「我が弟に委ねる」と


上記のように分解すれば、祭祀王だの世俗王だのという読み方が間違いであることが解るだろう。
792日本@名無史さん:2011/09/07(水) 18:38:18.09
>>789
すまん、おれが>>783をちゃんと読めてなかった、
日本語読めてなかったのは俺の方だった。
謝罪する。
793卑弥呼の都は久留米:2011/09/07(水) 18:52:19.41
>>to all

>倭王は3人兄弟かい? 
皆さんの評価通り。
倭王は2人おり、彼等は制度上の「兄弟」で、血縁男女は問いません。
弟王が戦死した場合、兄王(兄女王)が弟王を兼任する場合もあるようです。by続日本紀

>24時間交替勤務かい?
皆さんの評価通り。
12時間交替勤務です。24時間二交替制。

>日本人にも理解できないが。
日本人なら理解するどころか、DNAに組み込まれている。
現代日本においても二王制度は続いている。
兄王・…天皇、 弟王・…内閣総理大臣

>多利思北孤はかんじんの倭王の名じゃなかったのかい
多利思北孤は「弟倭王」の名前です。垂彦かな?
794卑弥呼の都は久留米:2011/09/07(水) 18:57:55.62
>>790
>兄は、昼は何してるんだろね?

寝てる。
夜は祈祷で忙しいので。
795伊作:2011/09/07(水) 19:05:40.75
>>792
これはお前の投稿か?
↓↓↓
>>785
>日本語能力が酷いな。 なぜ3人ってことになるw
で・>>792もお前の投稿か?

だとすれば謝罪する相手はローガンじゃなく伊作だろう。
「倭王は兄をもって天となし、弟をもって日となす」
ここには倭王と、兄と弟がいるという理屈にはならんか?

日本語ではなく漢文の理解力の問題だ。
ローガンが指摘した通り、
天や日を人称扱いするからには、この文の登場人物は3人なる。

あらためて俺に謝罪しろ。
796伊作:2011/09/07(水) 19:20:23.60
>>793
こんなのを不特定多数に向けて発信するなんて、
お前さん・少しは罪悪感をもったほうがいい。
同時代に王や天皇が2人も3人もいて、
しかも24時間交替制で政務をとるなどとは狂気の沙汰だ。
どうかしてるぜ。

>現代日本においても二王制度は続いている。
>兄王・…天皇、 弟王・…内閣総理大臣
完全にどうかしてるぜ。

797日本@名無史さん:2011/09/07(水) 19:28:25.49
伊作は見苦しい
798伊作:2011/09/07(水) 19:28:50.55
「卑弥呼の都は久留米」というハンドルネームの投稿は今後一切無視する。
799ローガン:2011/09/07(水) 19:30:51.64
>>795
>あらためて俺に謝罪しろ。

子供みたいな事言いなさんな。 私が横レスしたからアンカーが付いただけ。 もとより私が謝罪されるいわれ無し。伊作ちゃん宛てのもの。

さておき、この度は住民の総意により「兄王、弟王」なんてのは却下と言う事で…
当然ながら。
800伊作:2011/09/07(水) 19:40:32.75
>>799
>子供みたいな事言いなさんな。
「日本語能力が酷いな」なん大上段にほざく野郎だ。
ローガン宛てだろうが、俺への謝罪と分かる書き方ぐらいできるだろ。

>「兄王、弟王」なんてのは却下と言う事で…
ああいう読みをするなんて、完全にいっちゃってる。
801日本@名無史さん:2011/09/07(水) 19:44:27.67
>>800
じゃ、どう読むわけ?
802伊作:2011/09/07(水) 19:44:58.68
>>797
見苦しいのはお前のほうだろ。

>伊作は見苦しい
この物言いにいささかでも理があるならば、それをここで書いてみ。
ただし、勝手奇妙な誤解に基づく「お角違い」はなしだ。正々堂々とやれ。

正々堂々と振る舞えない小ものが、遠巻きに吠えるでない。
803伊作:2011/09/07(水) 20:01:19.21
>>801
とっくに提示したが。
昨日今日のレスすら探す努力をせず、
エラそな態度で「ご質問」かい。おとといこい。
804日本@名無史さん:2011/09/07(水) 20:06:57.33
横からだが、そんな問題もあるのか。
今まで気にもしていなかったが、俺は天は祭祀担当、
日は実政治担当と思っていたが、

天、本人?、日、の三兄弟?

二人(二国)の関係で、上位が兄、下位が弟、の二兄弟?

どっちの解釈が正しいの?
805日本@名無史さん:2011/09/07(水) 20:12:16.21
>>801
>>791を読むべし
806日本@名無史さん:2011/09/07(水) 20:13:36.42
>>803
解説省略というレスは見たけど
説明できないのね。了解。
807日本@名無史さん:2011/09/07(水) 20:15:42.15
>>804
皇帝が天の子だというとき、「天」という実在の父親を考えるか?
倭王が天を兄とし、日を弟とするというのは、
天と太陽と兄弟であるほど偉大な王だということで、
実在の人間を兄弟と言ってるわけじゃない。
だから、中国側では、「そんなのはナンセンスだ」といちゃもん付けた。
808伊作:2011/09/07(水) 20:18:50.91
>>806
>解説省略というレスは見たけど
どこまで行ってもその調子だ。

>>775 を見ていないのだろう。
てめえなどまともに相手するほど俺も「お人よし」じゃないぜ。
809卑弥呼の都は久留米:2011/09/07(水) 21:09:04.00
>>804
>今まで気にもしていなかったが、俺は天は祭祀担当、
>日は実政治担当と思っていたが、

あなたの理解が正しいです。
天(兄)は祭祀担当
日(弟)は実政治担当

古式の祀りでは、祈祷は昼間ではなく夜間行われます。
夜の担当王は祭祀担当となります。
一例:出雲大社の古式に則った新嘗祭は夜に行われています。

実政治は昼間に行われます。
810卑弥呼の都は久留米:2011/09/07(水) 21:15:14.99
今上天皇の大嘗祭も夜に行われたね。
811どくだみ:2011/09/07(水) 21:26:24.22
>>752
遅レスですみません。

>狗邪韓國←沙里院(帶方) ←piyonyan← 丹東市← 錦州市← 天津市← 洛陽  ・・・・@   で、七千余里

この解釈は面白いですね。
僕は、洛陽は意識の上での出発点で、從を使ったのはニュアンス程度。
話題はあくまで、帯方郡→狗邪韓国で、七千餘里は帯方郡と狗邪韓国の距離と思っていました。

しかし、七千餘里が洛陽→狗邪韓国の距離だという可能性は、確かにありますね。
その場合、漢文で「從A至B」が「Aを経由してBに至る」という用法があるか確認しなければなりません。

現代中国語の從には、「窓から外を見る」や「公園を通って」などの場合の用法があり、
漢文にも「窓から外を見る」という用法があります。
ただ、「公園を通って」の方の用法が漢文にあるかは確認してません。
もし、そういう用法があれば、「(洛陽から)帯方郡を経由して倭に至るには、・・・」という風に、
七千餘里を洛陽から狗邪韓国までの距離と解釈できる可能性があります。
洛陽・北京など主要都市間を直線で結ぶと1600kmくらいで、道なりだと2倍くらいと考えて、
一里434mの七千里=3000kmと、ほぼ合致します。
帯方郡から狗邪韓国まで七千餘里は長すぎるというのが短里の根拠のひとつだったと思いますが、
その根拠がなくなりますね。
用法を確認していないので、あくまで可能性ですが。

それから、帯方郡→女王国が萬二千餘里ですが、もし七千餘里が帯方郡→狗邪韓国ではなくて、
洛陽→狗邪韓国なら、狗邪韓国→女王国は五千餘里ではなくなります。
全ては、用法の確認にかかってますが、眼精疲労のため、僕は出来そうもありません。
どなたか、やっていただけないものでしょうか。

Aの方は、帯方郡から女王国までの距離を、洛陽経由で測る理由がないので、
この解釈は成り立たないと思います。
812日本@名無史さん:2011/09/07(水) 22:18:36.70
藤原氏は女衒
自分の娘を含む女を豪族に与えて親戚となりながら勢力を広げた そして天皇にも
既に生えている木の傍に藤を植えるだけて 蔓を伸ばして巻き付かせる手法

太陽神を女神としたのは 与えた女よりも上の立場でいるため
天の小屋根は天の児の意味が表(事実と違う)日を遮り世に暗黒をもたらし公務を私物化した様子を伝えいているのが裏(事実)
813筑紫次郎:2011/09/07(水) 23:28:43.63
>>811
何だ?どくだみは畿内説だったのか。

>帯方郡→狗邪韓国で、七千餘里は帯方郡と狗邪韓国の距離と思っていました。

何の問題もない。
畿内説にとってはそれでは都合が悪いだろうが。

>七千餘里が洛陽→狗邪韓国の距離だという可能性は、確かにありますね。

従に「より。…からという起点をあらわす。場所にも時間にも用いる。」と言う意味があるのだから従郡の起点が落陽の可能性は無いでしょう。

>現代中国語の從には、「窓から外を見る」や「公園を通って」などの場合の用法があり、

「窓から外を見る」の起点は窓、従郡と同じ用法。

>ただ、「公園を通って」の方の用法が漢文にあるかは確認してません。

確認の取れないものを根拠にしては駄目です。

>もし、そういう用法があれば、「(洛陽から)帯方郡を経由して倭に至るには、・・・」という風に、七千餘里を洛陽から狗邪韓国までの距離と解釈できる可能性があります。

根拠にならないものを根拠にして、可能性を示唆しても無意味です。

>洛陽・北京など主要都市間を直線で結ぶと1600kmくらいで、道なりだと2倍くらいと考えて、一里434mの七千里=3000kmと、ほぼ合致します。

結局畿内説に合わせるための無駄な努力です。
第一そこだけ合わせても
狗邪韓国〜末盧国三千里
末盧国〜伊都国五百里は
一里434mでは完全に説明不能です。
814日本@名無史さん:2011/09/07(水) 23:42:18.71
>>791
「祭祀王」とか「世俗王」とかは、置いといて、

結局倭国が兄弟王の統治である、と読めるわけ?
それは認める訳ですか?
815日本@名無史さん:2011/09/08(木) 00:08:23.01
「倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」

この場合の天と日てのは、倭人が考えていた世界観で、
日本の大王は、「天」と「日」と並ぶような偉い存在ってことを言いたくて、
中国皇帝と倭王を兄弟としたという意味とは違うんじゃないの?
816日本@名無史さん:2011/09/08(木) 02:11:47.64
>>814
>結局倭国が兄弟王の統治である、と読めるわけ?

まったく読めない。
「倭王は天を以て兄となす」とは、
倭王が天を兄とするのであって、天が倭王なのではない。
倭王は天であって兄であるという意味には、どうやっても読めない。

「倭王は日を以て弟となす」とは、
倭王が日を弟とするのであって、弟が倭王なのではない。
倭王は日であって弟であるという意味には、どうやっても読めない。

倭王と天と日という三者が存在し、倭王が天を兄とみなし、日を弟とみなすということ。

「我が弟に委ねる」というのが兄弟王だというのならば、摂政や宰相は全て王ということになる。
日が倭王なのではなく、倭王が一時的に弟に委ねるということである。
817日本@名無史さん:2011/09/08(木) 05:44:27.82
ググルMAPで「地形」表示させると面白い。

倭国側は、対馬・壱岐・末廬のどこかで、魏の使者を出迎えたはず。
末廬〜伊都まで徒歩。伊都国なんて船で直行できるのに。

不弥国が、宇美・大宰府だと比定して、川を逆行(南下)できたら面白い。
宝満川まで行ければ、筑後川に合流して楽勝なんじゃないの?

魏の使者が単独で水行30日、陸行1月なんて出来るわけがない。迷子になる。
倭国側は、魏の使者を徒歩で山越えさせるわけにもいかないだろ。

ググルMAPで「地形」表示させると、九州全域の平坦部が見えてくるよ。
平坦部を移動したはずだ。移動ルートが見えてくる。
818日本@名無史さん:2011/09/08(木) 07:36:24.52
>>816
なるほど、確かにそれで、筋は通る。
ただ、この部分の特異な記述をどう考えるか、という問題は残る。
特に、「日を弟とする」と「日中には弟に委ねる」とが対応している書き方とか。

つまり、単に「現在の倭王は、弟を補佐にしている」と書くだけですむ話を、
このような特異な比喩を使っている点。それで何を言わんとしたのか。

間違いなく言えることは、倭王は仏教を信仰していることだ。
819伊作:2011/09/08(木) 09:22:05.89
>>815
>この場合の天と日てのは、倭人が考えていた世界観で、
yes 非常に重要な指摘だ。
信仰的世界観、これが国家祭祀の基盤であり、
当時の国家祭祀は政治体制そのものでもあった。
日本書紀が成立する100年ほど前に倭人の使者が語った話だが、
それによると、太陽神は男性だったという事実がそこにある。

みなは、いちいち語句のディティールにとらわれすぎるし、
そうした狭い視野で考える分だけ着目すべきところが違っている。

『隋書』は、「大いに義理のないことだといって、訓じてこれを改めさせた」という。
ここでいう「義理」とは「宇宙の原理・法則」とでもいうのだろう。
「訓じて改めさせた」というが、
倭国の信仰的世界観を中国のいう義理通りに改めたか否かは分からない。
820日本@名無史さん:2011/09/08(木) 10:27:13.83
まあ世界観とゆってもなあ
わざわざ「オレは、昼間は仕事してないよ〜」
てばらしちゃう王様てのもな〜

なんかそこに言いたいメッセージがあるんだろうが
821日本@名無史さん:2011/09/08(木) 11:16:12.19
>>818
>つまり、単に「現在の倭王は、弟を補佐にしている」と書くだけですむ話を、
>このような特異な比喩を使っている点。それで何を言わんとしたのか。

現実の人間である弟が補佐しているのではなく、太陽を弟と見なすということ。
神道では夜の闇を浄闇といって、神社の主要な祭祀は深夜にやる。

古事記に仲哀天皇が琴を弾き、神宮皇后が神懸りして、
建内宿禰が沙庭をして、熊襲を撃つことを検討する場面がでてくる。
当時の倭王の政務というのは、こういうシャーマニズム的な祭祀だったのだろう。
それは昼日中にやるようなもんではない。

隋書に「日出便停理務、云委我弟 」とあるから、
理務というと、国会か内閣の会議や事務仕事を連想するのかもしれないけれど、
神社の祭祀と思った方が近いと思う。

倭王が仏教を信仰しているという考えが、どこから出てきたのか、わからない。
822日本@名無史さん:2011/09/08(木) 11:57:20.31
>>821
宮中の奥の院で天皇が執行する祭祀も深夜で、
神社の主要な祭祀が深夜。これは秘事だ。

だからといって、どこぞのオタクがいうように日常的なものではないし、
24時間交代制でもない。

なんかこう、本来の議題そっちのけで枝葉に走り、
「似たような事象」を安易にくっつけるクセがあるなー。
823日本@名無史さん:2011/09/08(木) 11:59:23.37
仏教伝来638年
824日本@名無史さん:2011/09/08(木) 12:00:11.52
訂正
仏教伝来583年
825卑弥呼の都は久留米:2011/09/08(木) 12:13:21.48
>倭王が仏教を信仰しているという考えが、どこから出てきたのか、わからない。

宗教の仏教ではない、思想としての仏法である。
であるから仏法は信仰の対象ではない。

>理務というと、国会か内閣の会議や事務仕事を連想するのかもしれないけれど、
>神社の祭祀と思った方が近いと思う。

違う、理務は両者を含んだもの。

>当時の倭王の政務というのは、こういうシャーマニズム的な祭祀だったのだろう。
>それは昼日中にやるようなもんではない。

兄王である倭王の祭祀政務については其の通り。
弟王である倭王の政務については真夜中過ぎにおこなわれるものではない。

>現実の人間である弟が補佐しているのではなく、太陽を弟と見なすということ。

太陽と明るさをシンボルとする制度としての弟役の倭王が世俗的実務政治のみを補佐しているのである。
天と闇をシンボルとする制度としての兄役の倭王は祭祀を通じて政治をした。
826日本@名無史さん:2011/09/08(木) 12:25:51.87
>>825
弟王とか世俗王とか、そんな言葉は隋書にもどこにも書かれていない。
書かれていないことを勝手に作るのは良くない。

そもそも、隋書の記述で兄弟王とか、祭祀王と世俗王とか、
そんなことを言いだしたのは誰?
827伊作:2011/09/08(木) 12:38:55.76
>>826
>そんなことを言いだしたのは誰?
それは「卑弥呼の都は久留米」。
この一件で、俺は彼を完全に無視することにした。
いかに素人とはいえ、
自分の発言に対して、少しは社会責任というものを自覚してもらいたい。
828卑弥呼の都は久留米:2011/09/08(木) 12:40:33.02
>>824
>仏教伝来583年

畿内に播磨國から仏法が伝わったのは583年。
播磨國に宋から仏法が伝わったのは458年。

九州では播磨國より仏法伝来が早いと思われるので、
九州倭への仏法伝来は遅くとも5世紀前半。
829日本@名無史さん:2011/09/08(木) 12:43:56.50
>>827
このスレでは「卑弥呼の都は久留米」氏だけど、
もっと前から見かけたことがある気がする。
だから、だれかメジャーな人が著書で主張したのだと思ってたけど、ちがうのかな。
830伊作:2011/09/08(木) 13:02:13.30
>>829
>だれかメジャーな人が著書で主張したのだと思ってたけど、
あんなバカげたことを書くのはメジャーな人ではない。
仮にいたとしても超マイナーな「とんでも作家」だろう。
831日本@名無史さん:2011/09/08(木) 13:06:58.84
>>828
卑弥呼の都は久留米さん
>>829>>830ということだけど、ことの真相はどうなの。
832伊作:2011/09/08(木) 13:15:12.40
>>831
しつこいね。問題は、漢文の文章と行間読みの問題なんだよ。
メジャーな人間が、あんな赤恥ものの読みと解釈をするわけがなかろう。
お前さんもどうかしてるぜ。
833卑弥呼の都は久留米:2011/09/08(木) 13:40:15.33
>>829
>だれかメジャーな人が著書で主張したのだと思ってたけど、ちがうのかな。

私自身の裏づけに基づいて、自身の言葉で書いているので、
過去に誰かが書いていたことも含まれていると思います。

又過去に同じ事を2chや82に書いたこともあります。
古田史学の会のメンバーの人と主張が似ているので、
彼等の影響を受けた部分が紛れ込んでいると思います。
又、私の実名の著作はありません。

834日本@名無史さん:2011/09/08(木) 13:54:06.16
久留米は、それなりに面白い
伊作は、醜い。82に逝ってほしい
835日本@名無史さん:2011/09/08(木) 13:54:58.90
解読する前に、
一切の妄想・希望を廃して文法に従って正確に読む事が必要でしょう。

・「南」は間違いなく「南」で読む事
・郡から公定里一万二千里は間違いなく郡から公定里一万二千里で読むこと。
・ことわりとか注釈がないので水行陸行等の行程は書いてある順番に書いてある期間を正確に当てはめて読む事。
・記録に書いてない事は、勝手に読まない事。

記録が間違っていようが間違っていまいが、とにかく原文に忠実に読む事。
一旦全てを忠実に読み終わってから、そこから解読を始める事。
836日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:01:30.77
>834
伊作は、醜い。82に逝ってほしい

82では相手にしてもらえないと言う話だぜ。
837日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:02:04.92
>>834
>久留米は、伊作は、
特定個人を非難したりコキおろすとき、
第三者を持ち出して比較する形でやる手口もまた・さいていだ。
というよりも頭が悪いんだろーな。稚拙で女の腐ったような手法だ。

古代史の議論らしいことはせず、個人の誹謗と攻撃が専門か?
そういうのこそゴミというんじゃないのか?
838日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:02:08.45
>郡から公定里一万二千里は間違いなく郡から公定里一万二千里で読むこと。
公定里なんてどこにも書いてないぜ。
839伊作:2011/09/08(木) 14:04:05.42
>>836
>82では相手にしてもらえないと言う話だぜ。
気違いのルツボだからなー。こっちが辟易してる。
俺は82じゃビッグネームだぜ。人気者だ。

82の過去ログでも拝んで確認してみ。
840伊作:2011/09/08(木) 14:06:31.78
>>833
>過去に同じ事を2chや82に書いたこともあります。
82では何というハンドルネームを使ってたんだ。
たいがいのハンドルネームは知ってるし、
お前も、俺が古田支持者とやり合っていたことも知ってるだろう。
841ローガン:2011/09/08(木) 14:10:08.00
>>820
同意。
もっと真面目に働けー と。
842日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:22:45.84
>>833
可哀相にというか何というか。
古田史学の会というのは、よほどいい加減らしい。
843日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:25:38.56


>>811
どくだみさん有難う御座いいました。
>Aの方は、帯方郡から女王国までの距離を、洛陽経由で測る理由がないので、
>この解釈は成り立たないと思います。

「自郡」が「帯方」なら「自郡至女王國萬二千余里」・・・A の進行方向は朝鮮半島ではなく、遼東半島の方向になります。
「自危四度至斗六度」・・・漢書
危は27度ありますが、倭人の同星分は危の4度から・・・・
「自危」とあれは危の初度で所謂「鼻であり始め」にあたるでしょう。
「自郡」と言うとき幾つかある郡の始めの「郡」にあたる。
「帯方」から朝鮮半島方向には「郡」はありませんから、方向は@とは逆になります。

だから、「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國  七千余里」・・・@
には「郡」からの進行方向を明確にするために「歴韓國」を挿入してありその先に「狗邪韓國」があるとの記述方法をとっている。
更に、「到」とあり「到」はあくまでも『寄り道かバイパス』ルートに使われる。
故に、「狗邪韓國」への道は2ルートある。
今一方のルートが、「自郡至女王國萬二千余里」・・・で、@とAの交点が「狗邪韓國」です。
どくだみさん
ご検討の程宜しくお願いします。





844日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:25:58.24
>>841
ローガンさんは

>>815の解釈について何か意見は無いの?
同意とか否定とか。
845日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:26:13.03
>>839
俺は82じゃビッグネームだぜ。人気者だ。
82の過去ログでも拝んで確認してみ。

しますた
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=a332a6dab8rbxc0ba4h53gol1b2c0b&sid=1835208&mid=15303
846日本@名無史さん:2011/09/08(木) 14:28:43.21
郡から公定里一万二千里だと、パプアニューギニアかマリアナ諸島である。

パプアニューギニアという意見なら別だが、
日本国内と言う意見なら、知られている場所からみて、
いわゆる短里相当の距離であるのはほぼ間違いないところである。
847ローガン:2011/09/08(木) 14:45:37.02
>>844
世界観…私は同意。倭王はお日様が上がったらそれに委ねて、あとは音楽聴いて遊んでいるし(笑)。
これは余談。
848伊作:2011/09/08(木) 14:50:38.83
>>845
誰彼なき噛みついてバカよばわりする狂犬みたいな気違いの投稿を持ち出してどうする。
俺のことを褒めている「良識」の投稿をもってこい。

卑劣な片手落ちなど・まともな男がすることじゃないぜ。わらわら
849日本@名無史さん:2011/09/08(木) 15:50:10.41
>郡から公定里一万二千里だと、パプアニューギニアかマリアナ諸島である。

そう、その調子、先ずは書いてある事をそのまま忠実に読む事です。解読はそれからです。

>パプアニューギニアという意見なら別だが、
日本国内と言う意見なら、知られている場所からみて、
いわゆる短里相当の距離であるのはほぼ間違いないところである。

それは先ずは全ての原文を忠実に読んでから検討する事。考え方は人それぞれだからです。
先ずは皆が共通認識を持つ事が肝要。書いてない事は読まずに、原文を忠実に読もう。

850日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:01:55.62
>郡から公定里一万二千里だと、パプアニューギニアかマリアナ諸島である。

その前に魏志倭人伝は公のルールで読まなければならないのか?
民間の事情とかを無視していい史書なのか?
851日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:08:21.48
「何々が当然」とか言う事は一切禁止する。
とにかくその時の公のルールに従って、文法に従って書いてある事だけを読く事。
書いてない事は読まない事。
852日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:12:15.17
>>851
>書いてない事は読まない事。

本当にそう思う。書いてない事を読んでしまう人が多い。
853伊作:2011/09/08(木) 16:23:58.16
>>851
>書いてない事は読まない事。
書いてある事実だけでいえば、
少なくとも韓伝と倭人伝の距離尺度は、
魏の公式尺度の6倍強で書かれている。
原文を忠実に読んだ結果の厳然たる事実だ。

>郡から公定里一万二千里だと
どこに公定里で計算しろと書いてあるか。
書いてない事は読まない話だろ? それでこのザマか?

書いてないことのほうが情報量は多いし、
行間を知識で埋めて読むのが正史読みの常識だ。
知ったふりして大冗談におかしなことをいうな。
854日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:28:47.81
>少なくとも韓伝と倭人伝の距離尺度は、
魏の公式尺度の6倍強で書かれている。
原文を忠実に読んだ結果の厳然たる事実だ。

つまり、原文は公式尺度で書かれていなかった。
魏志倭人伝は、公式には間違いだった、と認めるんですね?

>行間を知識で埋めて読むのが正史読みの常識だ。

そんな読み方をするから私的解釈に発展するのです。

855日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:31:31.40
とりあえず、里数はそのまま尊重して、
公定里と言う書かれていないものは消して
判断すべきだな。

実際の一里がどのくらいかは、その後の議論である。
856日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:34:56.91
>>855
魏志倭人伝は公式記録ではなかった、もしくは公式には間違っている、
という前提は可笑しい。
魏志倭人伝は公式記録だ、という前提で読むべきだ。
857日本@名無史さん:2011/09/08(木) 16:37:37.10
>>856
賛成
858伊作:2011/09/08(木) 16:52:03.46
>>854
>原文は公式尺度で書かれていなかった。
魏の公式尺度とはことなる尺度で書かれている。

>魏志倭人伝は、公式には間違いだった、と認めるんですね?
勝手に飛躍・拡大解釈して濡れ衣を着せる気か?
誰がそんなバカけだことをいってるか。怒るぜ

東夷伝は、前漢朝の西方調査に匹敵する魏朝の東方調査記録であり、
天子政府の文化事業の目玉なんだぜ。東夷伝の序文がそのことをうたっている。
中国史上初の地理学的・民族学的発見として、
実際に現地を調査した記録官の手になる公式記録だ。ものの重みが違う。

それが、魏の公式尺度とはことなる尺度で書いている。
このことは当時の関係者も周知のことだったはずで、
校閲もそのまま通過している。
のちの校勘や注釈でもこの尺度のことについては言及していない。
当事者にしか分からない理由があったと考えるしか手はなかろう。
俺は事実を帝゛ししてやっただけだ。余計な邪推や解釈はやめろ。
この事実を時事と受け止めることが、大冗談発言に叶うのではないか?
まさか大冗談でもあるまい。

「行間を知識で埋めて読むのが正史読みの常識だ」。

>そんな読み方をするから私的解釈に発展するのです。
ぼんくら大学はいざ知らず、大学受験問題にすら
行間を読む能力を試す問題があるぜ。大学出ていないのか? 恥ずかしい発言だな。
漢詩は、豊富な知識がないと読めないが、正史もこれに近いものだ。
859伊作:2011/09/08(木) 16:54:25.68
俺は事実を帝゛ししてやっただけだ。余計な邪推や解釈はやめろ。
この事実を時事と受け止めることが、大冗談発言に叶うのではないか?
まさか大冗談でもあるまい。
↓↓↓↓↓↓

俺は事実を提示してやっただけだ。余計な邪推や解釈はやめろ。
この事実を事実と受け止めることが、大冗談発言に叶うのではないか?
まさか大冗談でもあるまい。
860日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:00:24.50
もちろん、公式文書はできるだけそのまま読むべきだろう。
しかし、そのまま読んではどこにも行きつかないのも事実である。

となれば、できるだけ少ない修正でできるだけ矛盾の少ない読み方を模索すべきである。

それが、周髀算径を根拠とする短里である。

これと、隋書の一月行80キロを根拠にすれば、
矛盾のない行程を説明できる。
ただし、あくまでも矛盾がないということであって、
正しいかどうかは保証できない。
861日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:03:21.21
>原文は公式尺度で書かれていなかった。
>魏志倭人伝は、公式には間違いだった、と認めるんですね?

倭人伝がどの程度の距離を1里としているのか、それを考えることが必要だ。
誰も公定里で書いているなんて断ってはいない。倭人伝は公定里で書かれてい
るわけではないのさ。それはけして間違いではない。
862日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:06:02.44
てす
863伊作:2011/09/08(木) 17:12:30.81
ここでも古田某のとんでも論に出くわしたか。

皮肉な話だが。
『三国志』魏書は、司馬懿の公孫淵討伐の
洛陽から遼東までの行軍距離を4000里ほどとしている。
一方で韓伝は半島南部の三韓の面積を4000里四方という。
同じ4000里でも1:6以上の開きがある。

周髀算径だ短里だといわなくてもはっきりしていることなのだが、
驚いたことに古田説では、
この尺度比較になる洛陽から遼東までの行軍距離4000里を、
あろうことか遼東郡での討伐距離として「短里」にしてしまう。

あいた口がふさがらない。
俺は「周髀算径を根拠とする短里」などという議論はパスする。
864日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:16:20.78
>魏の公式尺度とはことなる尺度で書かれている。

結局、魏志倭人伝は「公式には」間違っている、という事だろう。

>>魏志倭人伝は、公式には間違いだった、と認めるんですね?
>勝手に飛躍・拡大解釈して濡れ衣を着せる気か?
誰がそんなバカけだことをいってるか。怒るぜ

君が>魏の公式尺度とはことなる尺度で書かれている。
といったんだろう。

>のちの校勘や注釈でもこの尺度のことについては言及していない。
当事者にしか分からない理由があったと考えるしか手はなかろう。

書いてある事だけを語ろう。
憶測は止してくれ。

>ぼんくら大学はいざ知らず、大学受験問題にすら
行間を読む能力を試す問題があるぜ。大学出ていないのか? 恥ずかしい発言だな。
漢詩は、豊富な知識がないと読めないが、正史もこれに近いものだ。

正史に書いてある事だけを語ろう。
大学受験には興味がない。



865日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:20:36.38
>もちろん、公式文書はできるだけそのまま読むべきだろう。
しかし、そのまま読んではどこにも行きつかないのも事実である。

だから、結局はどこかが間違っているんだよ。

>となれば、できるだけ少ない修正でできるだけ矛盾の少ない読み方を模索すべきである。
それが、周髀算径を根拠とする短里である。
これと、隋書の一月行80キロを根拠にすれば、
矛盾のない行程を説明できる。
ただし、あくまでも矛盾がないということであって、
正しいかどうかは保証できない。

まあ、読後の議論として盛り上がってくれ。
なるほど、と思う事もある。

866伊作:2011/09/08(木) 17:46:23.57
魏の公式尺度では12000里は直線距離でインドネシアまでとどく。
これでは計算不可能なので、短里だとか、倭人伝の誇張だとか、
色んな小細工がなされてきた。

この天才が、魏の公式尺度の6倍強で書かれている事実を提示して以降、
(これまでにもいわれてきたのかも知れないが)
そういう小細工に頼る必要がなくなった者が少なくないことだろう。

「周髀算径を根拠とする短里」
こんなものまで持ち出す必要がどこにあるかいな。
867日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:53:38.94
>魏の公式尺度では12000里は直線距離でインドネシアまでとどく。
これでは計算不可能なので、

結局、倭人伝の記録は間違っているんだよ。

868日本@名無史さん:2011/09/08(木) 17:59:44.83
>>867

扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里

や三国志の呉志や蜀志にも短里でしかあわない尺度はある
869日本@名無史さん:2011/09/08(木) 18:00:27.70
周髀算径を根拠とする短里でも6倍強でも大して変わらんわけだが、
過去に使った根拠がある方がよくないか?
870日本@名無史さん:2011/09/08(木) 18:20:03.34
>扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里
や三国志の呉志や蜀志にも短里でしかあわない尺度はある

だから、魏の公式尺度とは違っているんだろう。
つまり魏の公式尺度で計測したら間違ってるわけじゃん。


871日本@名無史さん:2011/09/08(木) 18:35:11.62
>>870

魏・呉・蜀の公式尺度を知っての発言かな?
872伊作:2011/09/08(木) 20:16:45.16
ネタ振りに、面白い試算をひとつ。
(魏の公式尺度)
・1尺(24cm)
・6尺=1歩(144cm)
・300歩=1里(432m)
・10里(4.32km)
・100里(43.2km)

これを(仮に6倍で書かれているとして)6分の1に換算すると。
・1尺(4cm)
・6尺=1歩(24cm)
・300歩=1里(72m)
・10里(720m)
・100里(7.2km)

ここからが本番。
魏の公式尺度の1歩144cmは、なぜか
6分の1換算でいう1里=72cmの2倍だ。
●ここまでくると東夷伝の尺度と、
魏の公式尺度でいう「歩」との奇妙な関係がみえる。
・魏の公式尺度で50歩(72m)が、6分の1換算で1里
・魏の公式尺度で500歩(720m)が、6分の1換算で10里
・魏の公式尺度で5000歩(7.2km)が、6分の1換算で100里

俺は算数に弱いから、計算が間違っていてら指摘してくれ。
873日本@名無史さん:2011/09/08(木) 20:17:09.59
>>870
>魏の公式尺度で計測したら間違ってるわけじゃん。
『三国志』東夷伝は、公式記録として校閲を通過しているのだ。
これを単に間違いなどでカタづけていいと思うか?
874日本@名無史さん:2011/09/08(木) 20:21:33.88
思う。
875日本@名無史さん:2011/09/08(木) 20:25:52.38
戦国期に日本を訪れた外国人の話がチラホラ出てるので。
以下明史日本伝より秀吉について語られている箇所。

日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ
山城州の頭目、信長がこれになっていた。
ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。
何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い
薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。
信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、「木下人」と名づけた。
後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。
参謀に阿奇支なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。
にわかに信長は部下明智に殺される所となり
秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。
信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の衆をことごとく収めたのが万暦十四年である。

やっぱり実際に現場に行くことは大事だよネ!とか
伝聞まる飲みはホント危険だよネ!とか
われわれ現代人にとっても色々耳が痛い話。
876日本@名無史さん:2011/09/08(木) 20:38:26.78
三国志は基本的には長里を使ってはいるが、ところどころその長里では計算が合わない箇所が存在する

東夷伝や>>870の箇所がそれだ

それは俗に言う短里の数値を当てはめるとぴったり一致する

つまり、長里と短里の両方が使われているのである
877伊作:2011/09/08(木) 22:35:28.35
>>876
>長里と短里の両方が使われているのである

長里と短里という言葉そのものは、公式言語かね。
例によって現代日本人の造語かね。
だいたい、造語を駆使する論説にはろくなものはないんだ。
878日本@名無史さん:2011/09/08(木) 22:43:59.22
>>877

解り難いから区別するために皆そう言ってるんだろう

訳のわからん偏見で根っこから否定するのはやめていただきたいね
879伊作:2011/09/08(木) 23:00:09.29
>>878
公式の学術用語ではないというわけだ。

騎馬民族・九州王朝・長里短里・冊封と、
日本人がつくり出した用語にろくなものはない。
880日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:08:25.23
>>879

自分が気に入らないものを否定してるだけだろう

他と区別するために便宜上、名をつけるのは別におかしくはないし、合理的だろうに
881伊作:2011/09/08(木) 23:13:54.30
>>880
>自分が気に入らないものを否定してるだけだろう
思慮浅き勝手推論だな。
騎馬民族・九州王朝・長里短里・冊封と、
どれか一つでも学術用語として存在したものがあるか?
みな、学術的にはイエローカードものだぜ。

嫌って当然だろ。
882日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:20:53.17
>>881

学者先生方も皆それらの用語を使ってるわけで・・・

長里短里にしてもいちいち一里うんmの〜とか書くと疲れるだろう、他のもしかり

だから皆便宜上使ってるんだよ
883伊作:2011/09/08(木) 23:28:50.65
遊牧騎馬民族という学術用語はあるが騎馬民族という用語はない。
馬に乗るだけで騎馬民族なら、中国などは紀元前から騎馬民族だ。
船を操るだけで乗船民族とはいわんだろ。それを学者が作り出した。

「王朝とは何ぞや」。考えたことがあるか。
その王朝が2〜3世紀から日本列島にあったかのような用語は、
学術的にも論説用語としても「あり得ない」。

長里短里。
言及する必要はなかろう。

古代の中国に冊封という言葉ない。
ましてや「冊封体制」などという概念も言葉もない。
封冊・冊書といえば、封拝任命書のようなもののことだ。
この文書による封拝を「冊封」というわけだが、
これは藩外の異民族などが、任命文書などを媒介として、
中国天子との「名目的・形式的な」な上下関係をともなう外交関係をいう。
これを誤解して、倭国は中国に臣従していたとする言説が堂々とまかり通ってきた。

俺が造語を嫌うにも明確な理由があるんだ。軽々に決めつけるな。
884日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:37:09.11
いや用語説明なんかはどうでもいいから

それらの用語は便利だったり、自説にオリジナリティを持たせるために使っていて、合理的な使い方だ

そしてそれを否定する権利はお前にはないということ
885日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:39:40.28
伊作は議論の邪魔
886日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:41:57.86
学術用語は伊作が決めるもんでもなく、誰が決めるもんでもない。
人口に膾炙したものが用語となるわけ。
いわば、市場が決めるわけ。

ま、ときには、権威ある学者がそれを交通整理する必要はあるわな。
887日本@名無史さん:2011/09/09(金) 06:52:31.27
>三国志は基本的には長里を使ってはいるが、ところどころその長里では計算が合わない箇所が存在する
東夷伝や>>870の箇所がそれだ
それは俗に言う短里の数値を当てはめるとぴったり一致する
つまり、長里と短里の両方が使われているのである

要するに、公定里に当てはめると間違っているから短里で読め、
という事だろう。
だけどその理屈が許されるなら、南に当てはめると間違っているから東で読めという事を畿内派は言い出すのだよ。
お前に畿内派は絶対に論破出来ない。

888伊作:2011/09/09(金) 06:58:07.79
>>884
なかったものをあったかのように思わせるには便利だが、
そういう造語に頼る論説にろくなものはない。これが正論だ。
いくらご都合詭弁を弄しても、
学術的にふさわしくない造語を正当化でき得る論理などない。
889伊作:2011/09/09(金) 07:11:05.05
>>885
>伊作は議論の邪魔
独善我流・不正解釈・小細工解釈・まやかし・目くらまし、
意図的誤解・強引マイウエイの輩は俺をけむたがる。
890サガミハラハラ:2011/09/09(金) 07:47:09.28
長里と短里の両方が使われているのではない。公里以外の箇所は陳寿の換算のし忘れである。
891伊作:2011/09/09(金) 08:27:16.74
>>872  の続き。

東夷伝の尺度が魏の公式尺度の6倍で書かれているとすると。
魏の公式尺度でいう50歩を1里とした計算になる。(50歩=72m)
………50歩1里か。

すると、末盧国から邪馬台国までの陸行2000里は144km (6分の1換算で10万歩)

892伊作:2011/09/09(金) 08:46:24.29
↑↑↑これで、「周髀算径だの長里・短里だの」いわなくても、
大方の人間は、堂々と倭人伝の距離短縮ができるわけだ。
893伊作:2011/09/09(金) 09:15:56.04
なお古代中国では、
海路距離の場合は実際の距離とはまったく無関係に、
1航海を1日単位か1000里単位で表記した。
したがって、帯方郡から末盧国までの1万里は、
10日間航海だったことを意味する。

その1万里航海を日程にして表記したのが「水行10日」である。
894日本@名無史さん:2011/09/09(金) 09:56:09.73
>>887

>要するに、公定里に当てはめると間違っているから短里で読め、
という事だろう。

間違っているのではない。二つ使われているのだ。
その俗にいう間違った数値といわれる短里表記の場所は一里80m前後で全て一致する
これは単なる偶然ではなく、単位が複数あった証拠だ

>だけどその理屈が許されるなら、南に当てはめると間違っているから東で読めという事を畿内派は言い出すのだよ。

南を東などと全く根拠の無いものと一緒にするな。
南と東を多数書き違えてるなら別だが、そのような例は三国志にはない。
895日本@名無史さん:2011/09/09(金) 11:06:16.00
>その俗にいう間違った数値といわれる短里表記の場所は一里80m前後で全て一致する

つまり、短里は俗にいう間違った数値と認めるんですね。
896日本@名無史さん:2011/09/09(金) 11:24:04.53
>>895

お前のような短里を否定するような輩に皮肉を込めてそう表現したんだけど
皮肉がわからなかったかな?
897日本@名無史さん:2011/09/09(金) 11:32:22.18
>>888
伊作が無知なだけだ。
短里は公に認められた基準だ。
何もうしろめたい事はない。
898日本@名無史さん:2011/09/09(金) 11:52:52.18
>>897
公に認められた基準か、「おおやけ」とどこの公よ。
古田史学の会とかいうところかい?
史学の専門家でもないのに「古田史学」てか。
眉唾タイトルが好きな連中だなー。この造語も厳密にはいかんぞ。

公に認められた基準ならば、やいのやいの必死で語ることもなかろう。
899日本@名無史さん:2011/09/09(金) 12:56:13.90
伊作のせいで、つまらん流れになったな
900日本@名無史さん:2011/09/09(金) 13:09:44.71
>>899
長里・短里なんてその程度のものだったということ。
それを認める形の発言だな。

俺は、見過ごされてきたこと・まっとうなことしかいってないだろ。
それでつまらなくなるのなら、
お前たちのいってることが「つまらん」証拠だ。
901日本@名無史さん:2011/09/09(金) 13:10:29.26
腐った生ゴミから。
歓迎するのはウジ虫くらい。
902伊作:2011/09/09(金) 13:13:49.85
↑↑↑ ぬぁー!!
903日本@名無史さん:2011/09/09(金) 13:26:45.08
>>843
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國  七千余里」・・・@
「自郡至女王國萬二千余里」・・・A
@ とAの交点は狗邪韓國で、@の一連の行程叙述は「行」が用いられている区間を以って終焉する。
所謂、@の起点は洛陽で着点は狗邪韓國です。
(行とは進んでそして止まる。故に「行」は行程叙述の終焉となる)

↓↓↓狗邪韓國より先の行程はAの行程となる。
狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒ 伊都國
                末廬國⇒奴國⇒不彌國
末廬國⇒投馬國
末廬國⇒邪馬壹【臺】國
の如し。
@ の行程は起点が洛陽で着点は狗邪韓國その二点間の距離は七千余里で、
A の行程は起点が帶方で洛陽を経由して@との交点狗邪韓國に至る。
この2点間の距離も七千余里である。
故に、Aの行程の着点である「女王國」と「狗邪韓國」の二点間距離は五千余里となる。
勿論、日本列島内。



904日本@名無史さん:2011/09/09(金) 18:50:56.03
伊作が6倍強とかいっとるが、要は車輪の再発明だな。
伊作も自分なりの研究で見つけたのかも知らんが、
短里として先人がすでにやり終えているテーマなので、
評価されることは無い。

いまさらどんなに独自研究をして、車輪を発明しても特許は取れない。
評価されるためには、先人の短里研究と違う独自性を説明できなくてはならない。
905日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:00:52.90
>>904
特許だの評価だのどうだっていい。

短里がまっとうな発明なら、とっくに市民権を得てるだろう。
素人空間の最底辺で、しかもままっ子扱いされている発明だ。

俺のは発明ではない、事実に基づくちゃんとした発見だ。
短里などという発明とはわけが違う。

今後、どっちが皆に採用されるかを高みの見物だ。よゆうよ。
906日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:03:11.34
みろ。
俺が6倍強説を紹介しただけで、みな黙りこくってしまった。
短里を連呼してた連中もシラけたんだろ。その程度のもんなわけだ。
907日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:07:13.31
6倍説なんてのは、白鳥庫吉が大正のころにとっくに唱えてるわ
908日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:14:08.43
>>907
そうかい。ならばそれを補強したわけだ。
俺は功名心で先陣争いをしてるわけじゃない。
だれが言い出しっぺかなど、本質的にはどうだったいいことだ。

要はコンセンサスを構築できる説か否かが勝負だ。
909謎かけ婆:2011/09/09(金) 21:14:58.26
お山の大将、裸の王様 さて誰のことでしょう?
910伊作:2011/09/09(金) 21:24:01.90
面白い展開だな。

>>907
>6倍説なんてのは、白鳥庫吉が大正のころにとっくに唱えてるわ

>>904のタコ野郎いわく。
俺の6倍強説を「短里として先人がすでにやり終えているテーマ」だと。
ならば古田の短里説は、
白鳥とかいう学者がやり終えていたテーマという論理循環だ。
わらわら
911伊作:2011/09/09(金) 21:25:58.53
>>909
>お山の大将、裸の王様
外野から出てきて「古田史学」なんてのを
ぶちあげた人のことじゃないのかね。
912日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:28:08.03
>>908
陳寿は、「何故」わざわざ6倍で書いたの?
伊作氏は天才だろ?
913日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:40:14.61
伊作さんの書き込みへのレスはすごい(多い)。うらやましい。やはり人柄のせいかな?
914伊作:2011/09/09(金) 21:41:53.07
6倍強説では、300歩1里を50歩1里で書いた計算になる。
・魏の公式尺度で50歩(72m)が1里
・魏の公式尺度で500歩(720m)が10里
・魏の公式尺度で5000歩(7.2km)が100里
・魏の公式尺度で5万歩(72km)が1000里
末盧国から邪馬台国までの陸行2000里は144km (6分の1換算で10万歩)
果たして、なぜこういう尺度を用いたのかについては、
「現場を見てきたようなウソ」をいってもしようがない。

体系化された辞書みたいなものがあったわけでも無かろう古代において、
現在でも標準語が複数あるも同然の中国大陸のこと。
文字づかい一つ・用語づかい一つ、担当した人間なりの用法や感性がウエイトを締める。
その文字づかいやディティールの違いを重箱の隅するのは愚の骨頂。
尺度についても同様で、王朝が代わるたびに度量衡を整理する。
これが大陸全土に浸透するには相当な時間が必要だろう。
ここに、新旧混雑して存在し、混用される要因がある。
新しい制度が浸透しないうちに王朝が滅びて新しい王朝ができる。
そしてまた度量衡の整理。なんて輪環の歴史を繰り返しているからね。

現代人の我々には分からない原因や理由があったと考えるしかない。
915日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:43:47.62
伊作先生は古代史分野のエンタテイナーだ。がんばれ天才伊作大先生!!
916伊作:2011/09/09(金) 21:46:45.23
>>913
>伊作さんの書き込みへのレスはすごい(多い)。
>うらやましい。やはり人柄のせいかな?

はっきりいって自慢するが、82でも高視聴率を集める男と評価されている。
俺が行くトピックは金魚のウンコのように客がついてくる。
その理由は、なんだかんだ誹謗されていても、
逃げないし正面から受け止めて一つ一つ返答しているからだろう。

歴史に対する正直さ誠実さにかけては、俺の右に出る者はいない。
917伊作:2011/09/09(金) 21:48:18.22
>>915
>伊作先生は古代史分野のエンタテイナーだ。
>がんばれ天才伊作大先生!!

ありがとよ。いまではスーパースターだ。
918日本@名無史さん:2011/09/09(金) 21:53:31.83
褒め殺し作戦失敗だな。
919日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:01:13.28
82でそんにファンが多いなら、何故82に戻らない?
お世辞でもいいから誉めてもらいたい伊作としては、
願ったりじゃないか。
遠慮せずに82に行けよ。

行けないんなら、矛盾だな。
(つまり、誉める奴はいない)
920日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:01:37.63
誰かの大上段フレーズではないが、
「書いてある事実」から割り出した尺度が6倍強説だ。

度量衡は年貢の基本となるものであり、国家を支える経済政策の土台をなす。
重要だからこそ、王朝が興るたびに整理して制定する。
それほどに重要な度量衡の度(長さの単位)を、
なぜ公式に制定した尺度で記録しなかったのか。

そのことを承知していながら、なぜ魏政府の公文書管轄部署は看過したのか。
のちのち細かい校勘や注釈を入れた知識人はなぜ注釈しなかったのか。
この理由について、誇張説だの操作説だのという下卑た推論ではなく、
ある態度納得のいく説明ができる者がいれば、俺も拝聴したい。
921日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:04:32.06
なんだ、ただの短里か。

まあ、俺も短里説だが。
922日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:05:04.91
褒め方が足りん。伊作先生は古今東西類を見ない天才である。先生は歴史のみならず政治、経済、文化、
スポーツ、科学分野の知識を究めた逸材である。世が世であれば日本の総理大臣を務めるべき偉人であり、
世界の指導者になるべき人である。伊作大先生 出で給え、日本を救い給え。あなかしこ。
923伊作:2011/09/09(金) 22:05:42.69
>>918
やっかみの・混ぜっ返しか。わらわら

>>919
>何故82に戻らない?
気違い銀蝿に辟易とゆってるだろうが。ある程度見切りをつけた。
どのトピックも同じ顔ぶれで同じ応酬。新鮮味も進歩もない。
ここは、口出しせずにはおれないほどに無知・無恥な意見が多い。
一種のボランティアだな。
924伊作:2011/09/09(金) 22:16:19.11
>>921
>なんだ、ただの短里か。 まあ、俺も短里説だが。
短里説仲間に取り込もうって魂胆か?
俺の6倍強説は、その出所も割り出し手法も短里とは異なる。
あちこちで発表したことだから、知ってる奴も少なくないぞ。
925伊作:2011/09/09(金) 22:21:54.35
>>922
それじゃー・お前が失笑を買うだけだろう。
俺は、不特定多数の発信する場合や書籍などでは、
3S(政治・思想・宗教)には極力触れないことにしている。
ただし、古代における信仰的精神性にかかわるテーマには、
触れざるを得ないので慎重に触れている。

むろん、帝国発祥の国が書いた歴史書に依拠したことだから、
必要上、帝国の存在を肯定するスタンスでやっている。
926日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:30:12.50
>>924
仲間になる必要はないが、事実上同じものだろ?
927日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:38:15.60
>>926
理由がなければ、同類でしょ
928日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:41:44.28
伊作氏の6倍強説は
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里
を根拠の一つにしているのかな。つまり、方可四千里を韓の地が一辺四千里ほどの方形と解釈して実際の距離の
6倍強になっているというわけだな。

しかし、方可四千里の方は面積または周囲長だろう。方には四辺形の一辺の長さという意味はないからね。

929日本@名無史さん:2011/09/09(金) 22:48:20.14
>>928
方:
指四面,周围,四旁
方圆。指土地面积 [circumference]
荊之地方五千里, 宋之地方五百里。――《墨子·公输》
930伊作:2011/09/09(金) 23:06:19.35
>>928
>方可四千里の方は面積または周囲長だろう。

面積をいうのなら4000里四方だ。
周囲の長さをいうのなら一辺1000里だ。
ずいぶん違うが、どっちなんだ?
931日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:27:13.68
伊作が、短里と同じ考えを持つとはお笑いだ。

どう解釈しようと、短里も6倍も無い。

文献の読み方が間違ってるだけなのに。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

932日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:28:12.19
>>930

>>929にあるだろ。circumferenceは周囲長のことだよ。
方四千里を面積とすれば、正方形の場合は一辺の長さはルート4000で約64里となり、これでは短すぎるから
周囲長だろう。この場合は正方形なら一辺の長さは1000里となる。
933日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:48:24.13
伊作氏の6倍強説はもろくも崩れたか。残念!!
934伊作:2011/09/09(金) 23:54:36.12
「方」にも色々意味があって、
これは辞書のように「方」の意味を幾つか紹介しているにすぎない。
方: 四面、周囲、四旁、方と円(指す意味がある)。
土地面積を指す。(circumference=円周、周囲、周り、周辺)

別に周囲の長さだけをいうのではないぞ。勝手な解釈をするな。
幾つか意味がある中で、「土地面積を指す」とあるではないか。
で・どの意味を取るかだが、お前は「周囲長のことだよ」と断言するわけだな。

>方四千里を面積とすれば、正方形の場合は一辺の長さはルート4000で約64里となり、
なーんか誤解して変な計算してるようだな。
面積が4000平方里というのではない。
方4000里といえば、面積は4000里×4000里だ。
一辺が1000里なら面積は1000平方里だろ。

対馬は100平方里なのか、400平方里なのか。
併せて計算してみてくれ。
935日本@名無史さん:2011/09/09(金) 23:55:01.51
>>872
さあ、伊作の思考レベルが、太国や唐松レベルだってことが露呈してきたぞ!

数字をあれこれいじって、関連性を見出して、短里だ6倍だなんて論じることに、
何の意味も無い。

なんで、伊作が、>>872の数値関係をみて、6倍とか言い出したのか?
数学センスが無いと、こういうトンデモに陥るってことがよくわかる。

>魏の公式尺度の1歩144cmは、なぜか
>6分の1換算でいう1里=72cmの2倍だ。

「なぜか?」、もクソも無い。自分で数字をいじって、何か発見した気になってるだけだ。

普通は、測量した人間が「1歩=(144cm) 」を、「1尺=(24cm) 」と間違えたと考えるだろうな。
歩を尺と間違えて記録すれば、距離は1/6に縮んでしまう。

実際は1000歩の距離=1440m
歩を尺と間違えて記録した場合=1000尺=240m
すると、ここに「短里」なるものが現れる。しかし実際は測量した人間が度量を間違えただけというオチ。

ここから読み取れるのは、「歩と尺が混同されて記録されたケースがある」というだけにすぎない。
そのように解釈するのが、これまでの伊作の文献読みの論法では無かったのかな?

ば〜〜〜〜か。
936伊作:2011/09/09(金) 23:56:12.12
>>933
>伊作氏の6倍強説はもろくも崩れたか。残念!!
安いやろ。
937伊作:2011/09/10(土) 00:00:04.89
>>935
おめ。いったい何をゆってるんだ。タコ
一辺1000里の面積は、100万平方里だ。
一辺4000里の面積は、1600万平方里だ。

「方4000里」てのはどっちだ。
938日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:03:01.56
またまた関係の無い数字いじりで議論をごまかそうと・・・・
939日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:04:18.04
>>937

記録した人間が、歩と尺を間違えたって言ってるだろ。

弥生時代に「1里」を直接計測できる測量技術があったとおもうのかアホたれ。
みんな、徒歩であるいて距離をはかったのだ。

倭人のアホが、1歩を1尺と勘定して報告しただけのことだろ。

940日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:06:44.45
度量の間違いは現代でもあるぞ。

センチとインチを間違えたために、部品が合わなかったなんて話はザラにある。
941伊作:2011/09/10(土) 00:06:59.39
>>939
>倭人のアホが、1歩を1尺と勘定して報告しただけのことだろ。
倭人はこの時期はまだ里程を知らない。
942日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:08:38.37
>>941

だから、歩数を数えて、報告したんだよ。

倭人は、1000歩と計測して、中国人に報告したが、そのとき中国人は「尺」と勘違いした。
だから距離が1/6になってしまったのさ。
943日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:10:34.66
>>934
>方4000里といえば、面積は4000里×4000里だ。
>一辺が1000里なら面積は1000平方里だろ。

支離滅裂だな。
944日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:11:49.57
どうだ?

伊作君。頭を後ろから殴られたようなショックを受けたかね?

このへんで、6倍説をひっこめるのが潮時とおもうよ。どうせ思いつきなんだし。

あえて、6倍説を強弁して傷口を広げるのは、得策じゃないとおもうなあ。今後の君のためにも。

なあ、冷静になって考えてみなよ。今なら、まだ間に合うぜ。
945伊作:2011/09/10(土) 00:13:43.28
ちなみに。
面積の「4000平方里」の一辺は、約64里しかない。
946伊作:2011/09/10(土) 00:18:44.73
>>942
それを「見てきたようなホラ」という。

>>943
方4000里といえば、面積は4000里×4000里だ。
一辺が1000里なら面積は1000平方里だろ。
>支離滅裂だな。
お前の目と頭が支離滅裂だ。

>>944
なーにもショックし受けていないが。
「方」の議論だって、お前らみたいなバカどもよりも、
遥かにデキる奴らとやり合ってきたんだぜ。

井の中のぼんくら蛙。
947伊作:2011/09/10(土) 00:20:17.65
さて、今度もまた、黙りこくって引っ込むのばかりか?
楽しみだな。
948日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:23:34.48
さて、伊作を罠にはめたところで、高みの見物だ。

これから、事あるごとに、何度でも6倍説を吹聴してみてくれ。

ぷぷ。
949日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:24:43.67
>>946
>一辺が1000里なら面積は1000平方里だろ。

アホか?面積は1,000×1,000=1,000,000だ。それとも一辺が1000里なら面積は方1000里と言いたかったのか?
950日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:27:39.39
>一辺が1000里なら面積は1000平方里だろ。
>一辺1000里の面積は、100万平方里だ。

両方とも伊作が書いてるようだが、ちょっと落ち着け。
これでは、分裂症だ。
951遺作:2011/09/10(土) 00:28:53.95
>>947

先ずは潰しやすいのだけを論っておいて、本命はスルー作戦かw

>ここからが本番。
>魏の公式尺度の1歩144cmは、なぜか
>6分の1換算でいう1里=72cmの2倍だ。

全ては、このお間抜け計算の結果が「根拠」のくせにwww
952日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:30:59.59
>>948
問題は「方4000里」が何であるかだ。
おめ。何か意見らしいことをいったのか?
「方4000里」が何であるかをきっちり決めてからにしろ。
ほれ。意見らしい意見をいえ。

>伊作を罠にはめたところで、高みの見物だ。
カラ元気の「勝ったポーズ」な。姑息者のチンけな手口。


どうした。最初に方4000里を4000平方里と勘違いしたタコは。
もう黙りこくって引っ込んだか?
面積の「4000平方里」の一辺は、約64里しかないぞ。始末をつけろ。
953日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:35:53.14
>>952
>面積の「4000平方里」の一辺は、約64里しかないぞ。始末をつけろ。

だから方可四千里の方は周囲長だと言っている。周囲長(円周でもよい)で面積(土地の広さ)を表したのだ。
954伊作:2011/09/10(土) 00:37:10.71
>>949
「一辺が1000里なら面積表示は方1000里だ」。
これならいいか?
>アホか?面積は1,000×1,000=1,000,000だ。
だから一辺が1000里なら面積は100万平方里になると書いたが。

>>950
「一辺が1000里なら面積表示は方1000里だ」
「一辺1000里の面積は実質100万平方里だ」。
これならいいか?
955日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:37:43.34
6倍説が伊作の遺作になったみたいだなw
まったく惜しくないヒトを亡くしたな。
ナムナム・・・・・
956日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:39:58.50
倭人はこの時期はまだ里程を知らない。
倭人は、日数で距離を測っていたが、中国人はもっと正確な距離を知りたかった。
しかし、中国人使者が自分で計測する必要は無い。
倭人に計らせればいい。
そこで、倭人に、A地点からB地点まで、何歩でいけるか、測らせた。
倭人は、1000歩です、と答えた。
この後、また別の記録をする人間が、1歩=6尺のところを、1歩=1尺として里数を計算してしまった。
そして距離は1/6に縮んでしまった。

公式度数が、2通りとかあるわけがない。
例外的に、1/6などという距離が生じる理由は、度量を間違えたことをまず疑うべき。
957日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:40:29.83
>>954
>「一辺が1000里なら面積表示は方1000里だ」。
>これならいいか?

よくない。方1000里は周囲長が1000里だからだ。
958卑弥呼の都は久留米:2011/09/10(土) 00:50:22.86
  
方4000里=4000里平方

歩と尺は無関係
歩:土地の大きさの単位・足の長さ
尺:身の回り大きさの単位・腕の長さ
1歩≒23cm≒1尺

1里=300歩
1丈=10尺
959伊作:2011/09/10(土) 00:52:02.70
>>951
>全ては、このお間抜け計算の結果が「根拠」のくせにwww
おい。分裂男。
いま、そこへ至る計算論拠の正否が議論になっているところだ。
ごちゃごちゃいわずとも、俺の計算根拠が間違っていれば、
話はそれで終わるのだ。あっちいってろ

>>953
>方可四千里の方は周囲長だと言っている。
それが違うのだ。方は正方形に見立てた面積表示だろ。
「方」で表したのだから一辺は1000里だな。いいか?

>周囲長(円周でもよい)で面積(土地の広さ)を表したのだ。
周囲が4000里ならば一辺1000里の正方形を想定しろ。いいか?
で・一辺1000里の面積を「方4000里」というのか? おかしいだろ?
一辺1000里の面積は「1000平方里」で表す。これを「方1000里」という。

仮に三韓の面積が「4000平方里」しかないのならば、土地の一辺は約64里だ。
960日本@名無史さん:2011/09/10(土) 00:59:31.52
>>959

>計算論拠の正否が議論

「議論」ってwwww
ようは「方可四千里」が漢文で「周囲長」を示すのか「方形の一辺」を示すのかってことだろ。
しょうがく4年生レベルの算数比べなんかして、言い合ってても意味無い。
自分の読み方の根拠となる用例を提示するだけでよいだろうがw
961伊作:2011/09/10(土) 01:01:44.71
>>957
>方1000里は周囲長が1000里だからだ。
便宜上、土地の面積を正方形に見立てた表記法が「方」だ。
周囲長が1000里ならば一辺は250里だ。すると面積表記は「方250里」だ。

>>958
>方4000里=4000里平方
その4000里平方が現代の面積表示では4000「平方里」。
古代の面積表示では「方4000里」。それだけのことだ。

これが理解できないらしい。
962日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:01:48.06
>959
>一辺1000里の面積は「1000平方里」で表す。これを「方1000里」という。
>
>仮に三韓の面積が「4000平方里」しかないのならば、土地の一辺は約64里だ。

また、わけわからんことになっとる。
1000平方里の一辺は31.6里だぜ。
自分の書いたことの中で矛盾させんな。

横から見ていても、わけわからん。
963伊作:2011/09/10(土) 01:12:10.08
>>962
>また、わけわからんことになっとる。
とごか分からんか。お前が理解できないだけだろが。

>1000平方里の一辺は31.6里だぜ。 自分の書いたことの中で矛盾させんな。
てめえ。トンチンカンをいうな。
誰が1000平方里の計算の仕方を書いてるか。

これは、単に面積表示のし方。
「一辺1000里の面積は(現代では)「1000平方里」で表す。これを(古代では)「方1000里」という」。

これは、単に4000平方里の面積の一辺の寸法。
「仮に三韓の面積が「4000平方里」しかないのならば、土地の一辺は約64里だ」。 (64×64=4096)

>横から見ていても、わけわからん。
とんでもない言いかがりだ。
964日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:15:29.07
これも混ざって矛盾してる。

>>961
>周囲長が1000里ならば一辺は250里だ。すると面積表記は「方250里」だ。

これが示す面積は、250里×250里=62500平方里

>その4000里平方が現代の面積表示では4000「平方里」。
>古代の面積表示では「方4000里」。それだけのことだ。

これが示す面積は、63里×63里=4000平方里
方4000里だと、一辺4000里×一辺4000里=16000000平方里

正しいのはどれよ?

965日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:17:35.58
>>961
方千里という表現は、一里四方の面積が千個分という意味と、
周囲の長さが千里、つまり正方形なら一辺が250里という意味の両方に使われている。
たしかローガンさんと久留米さんだったかが議論していて、
長安城の周囲の長さと皇帝陵の周囲の長さで、方xx里という例が挙げられてたはず。

>>962
伊作は算数に弱いと自分で言ってたような。
多分、自分でも計算していて訳分からんようになってるんだろう。
966日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:24:37.84
>>965

> 方千里という表現は、一里四方の面積が千個分という意味と、

そんな意味はねーよw
967日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:26:11.98
多分、伊作は、一辺が1mの正方形の面積が1×1=1^2=1平方メートルだから、
一辺が1000mのときも、1000×1000=1000平方メートルだと勘違いしてるんじゃないの。
968日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:30:43.24
>>963
>これは、単に面積表示のし方。
>「一辺1000里の面積は(現代では)「1000平方里」で表す。これを(古代では)「方1000里」という」。

あらわさない。
現代では、一辺1000里の面積は1000000平方里と表す。
969伊作:2011/09/10(土) 01:31:29.78
中国の面積の単位の畝は、
6尺平方×100(周以前)
6尺平方×240(秦〜隋)
5尺平方×240(唐〜)

6尺平方という正方形が基準になっている。
この「平方」を「方」称していただけのことだ。
平方(方)をいうときは、正方形の一辺の長さでいう。
970日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:32:06.30
これはさすがに小学校の算数レベルだな。
971日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:39:44.40
>>965

> 方千里という表現は、一里四方の面積が千個分という意味と、

それを言うなら「方千里」じゃなくて「千方里」だろう。
972伊作:2011/09/10(土) 01:40:41.77
>>964
「周囲長が1000里ならば一辺は250里だ。すると面積表記は「方250里」だ」。
どこがおかしいか。

>これが示す面積は、250里×250里=62500平方里
「方250里」の面積はそうだろうな。
だが、ここでは「方250里」の面積の話はしていない。
●「周囲長が1000里ならば」一辺は250里だ。すると面積表記は方250里。
こうゆってるだけだ。横車やろう。

「その4000里平方が現代の面積表示では4000平方里」。
「古代の面積表示では方4000里。それだけのことだ」。
どこがおかしいか。

>これが示す面積は、63里×63里=4000平方里
4000里平方とは4000里×4000里だ。常識だろ
平方里の使い方が紛らわしいようだから、平方メートルに置き換えて考えろ。

>方4000里だと、一辺4000里×一辺4000里=16000000平方里
>正しいのはどれよ?
ゆってることは同じだが。
973日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:43:23.55
算数はともかく漢文については伊作の師匠筋に当るどくだみさんか河童虫さんが登場して解決してくれるだろう。
974伊作:2011/09/10(土) 01:45:51.06
>>968
>現代では、一辺1000里の面積は1000000平方里と表す。
正しい計算面積は先に2度ほどにそう書いたが。

「一辺1000里の面積は(現代では)「1000平方里」で表す。
これを(古代では)「方1000里」という」。

この平方里の使い方が紛らわしかったようだが、
一辺1000メートルの面積は1000平方メートルという。
これを里に置き換えれば1000平方里だが。
975日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:49:55.26
>ここからが本番。
>魏の公式尺度の1歩144cmは、なぜか
>6分の1換算でいう1里=72cmの2倍だ。

この説明は未だかよw
976伊作:2011/09/10(土) 01:50:48.44
>>973
>どくだみさんか河童虫さんが登場して解決してくれるだろう。
たまには参考になる解釈を提示してもらいたいもんだ。

とにかく。面積表示は「平方」で表す。
このことはすでに畝の件で提示した。
面積をいう場合の「方」は首位の長さなどではなく平方を意味する。

本日はこれまで。
977日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:52:05.42
逃げるな!
978日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:54:31.20
>>972

古代の面積表示が、方250里ならば、
250里×250里=62500平方里
を示しているのであろう?

ならば、
方4000里は、4000里×4000里=16000000平方里を示しているのではないのか?

「その4000里平方が現代の面積表示では4000平方里」。
「古代の面積表示では方4000里。それだけのことだ」

では矛盾するだろうが。
口先で言いくるめられると思うな。

>974
>この平方里の使い方が紛らわしかったようだが、
>一辺1000メートルの面積は1000平方メートルという。
>これを里に置き換えれば1000平方里だが。

さすがにこれはひどい。小学生以下か。
979日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:57:10.69
ただの猿カキコをするおじいちゃんだよ。
980日本@名無史さん:2011/09/10(土) 01:58:20.36
>面積をいう場合の「方」は首位(誤:正しく周囲)の長さなどではなく平方を意味する。

最後にそんな当たり前のことだけ言って、後は放り投げか!
見事な退散の仕方だなwww

今日もまた大先生の不敗神話(と本人が外面的に取り繕う)は維持されたわけだ。
都合の悪い所は全てスルーしてなwwwwwwwwww
981日本@名無史さん:2011/09/10(土) 02:00:53.67
>978
伊作は算数が弱すぎて、
どんな恐ろしいことを書いたのか、自分で理解してないなwww

>伊作
>一辺1000メートルの面積は1000平方メートルという。
982伊作:2011/09/10(土) 02:05:16.54
>>978
>方4000里は、4000里×4000里=16000000平方里を示しているのではないのか?
すでにそう書いたが。

「その4000里平方が現代の面積表示では4000平方里」。
「古代の面積表示では方4000里。それだけのことだ」
>では矛盾するだろうが。
面積表示の4000平方里は4000里×4000里
方4000里も4000里×4000里
現代と古代の面積表示の違い触れた文章だが。

>口先で言いくるめられると思うな。
理解力の問題か。攻撃意識が先行して理解しようとしていないのか。

「一辺1000メートルの面積は1000平方メートルという」。
>さすがにこれはひどい。小学生以下か。
1000平方メートルといったら、1000m×1000mじゃなかったか?
おしえろ
983日本@名無史さん:2011/09/10(土) 02:07:29.05
1000平方メートルは、1平方メートル×1000だ。

1000のルートが一辺の長さだ。
984伊作:2011/09/10(土) 02:07:53.54
>>980
「面積をいう場合の方は周囲の長さなどではなく平方を意味する」。

>最後にそんな当たり前のことだけ言って、後は放り投げか!
さっきから、その解釈の違いで議論していたのだ。
で・例によって、銀蝿が枝葉をつつき回ってる。
はははー、俺説が正しいというわけだ。
985日本@名無史さん:2011/09/10(土) 02:10:21.86
なに?、この算数教室?
986伊作:2011/09/10(土) 02:10:52.84
>>983
>1000平方メートルは、1平方メートル×1000だ。
やあやあ、勘違いしてた。
1000m×1000m=100万平方mだったな。わりー

987日本@名無史さん:2011/09/10(土) 02:16:09.76
ほれ・結論だ。
「面積をいう場合の方は平方を意味する」

説明段階で数字の勘違いもあったが、本論はここだ。
「方4000里とは一辺4000里の正方形の面積をいう」。
韓伝のいう4000余里は、魏の公式尺度の6倍強である。

いじょ。
988日本@名無史さん:2011/09/10(土) 02:23:27.92
>>986

ほらほら、悪いこと言わないから、「6倍説」も勘違いだったってことで、
このスレが終わるまでに撤退したほうがいいぞ?

傷口を広めることはなかろう。

と、言っても聞かないだろうが(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)

989日本@名無史さん:2011/09/10(土) 02:28:17.86
肝心の6倍説にはシカと。
常に与しやすバカとバカさ加減を争って鼻毛ほどの自尊心を保つw
990卑弥呼の都は久留米:2011/09/10(土) 06:16:17.02
算数白痴ばかり
特にレス回数の多い人
991伊作:2011/09/10(土) 06:57:41.89
問題は、面積をいう「方」が平方ではなく「周囲の長さ」だと、
間違ったことを平気で言い張るバカに対する俺の説明ディティールにあるのではない。
それにしても、「統=属である」というバカが出て以来、
一つの文字・語句の意味について、明らかに間違った意味を言い張る奴が多い。
同じ人物かも知れんが、それを擁護するバカが多いのがここの異常な所だ。

「面積をいう場合の方は平方である」。
これが正しいか否か。これですべては決まる。
俺の6倍強い説は、これに依拠しているのだからそこを攻めてこい。
簡単なことだろう。何を枝葉で騒いでいやがる。

●「面積をいう場合の方は平方である」。
「方4000里とは一辺4000里の正方形の面積をいう」。
韓伝のいう4000余里は、魏の公式尺度の6倍強である。
さあこい。
992伊作:2011/09/10(土) 07:03:16.07
短里説を支持するタコども
伊作説を短里説に取り込もうとしていたタコでももみな
こぞって反伊作に回ったか。

どうにもならねー奴らだな。
そんな調子だから誰も認めないんだ。バカったれ
993日本@名無史さん:2011/09/10(土) 07:13:01.81
>>991

>●「面積をいう場合の方は平方である」。
>「方4000里とは一辺4000里の正方形の面積をいう」。
>韓伝のいう4000余里は、魏の公式尺度の6倍強である。
>さあこい。

ああ〜、やっちゃったな。

とりあえず、自分のHPに記事を追加だな。

で、永久に恥をさらすとwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

994日本@名無史さん:2011/09/10(土) 07:29:27.47
あのなぁ、まず邪馬台国研究の学徒として、人様は論争相手でも敬称を付けて
呼べ。それができない人は邪馬台国を論じる資格が無い人だからこの板から出
て行け。
次に人の説を批判するなら、自分の説を示し、批判の立場を明確にしろ。ジョ
ーカーみたいな卑怯者に成るなよ。
995日本@名無史さん :2011/09/10(土) 08:26:17.13
横からだけど、
方4000里とは一辺が4000里の正方形を意味するんだよ。
方の前に一の字が隠されているとみればいい。
一方が4000里。
これならはっきりわかるでしょ。
伊作氏の言うことが正しい。
そんなことは常識だと思っていた。
これを周囲だと思っている人がいるって、こわいことだなあって。
996日本@名無史さん:2011/09/10(土) 08:45:25.49
怖いのは、短里だの6倍などと妄想してるほうだな。

たんなる度量の変換ミスなのに。
997日本@名無史さん :2011/09/10(土) 09:00:26.03
>>996
太古から、今の公定理とすっかり同じだったとはとても
思えない。
古代の公定理は今とは違っていたと考える。
現に、古代の漢籍の中には長里では説明できないものが、
東夷伝以外にも沢山あるんだよ。
現代の通説となっている古代の地名はほとんど誤りだよ。
どうしてかっていうと、地名が時代とともに、どんどん拡大していって、
長里に当てはまるようになっているから。
古漢書の中の長里では説明できないものというのは、
地名以外の内容で、「おかしいな」と思えるものが時々出てくる。
それから実際の遺跡と記述との違いがでてくる時もあって、
その場合は都合よく、括弧に訂正されていたりする。
そういう実情だよ。
998日本@名無史さん :2011/09/10(土) 09:15:57.06
997だけど、
ま、わたしは公定理の6分の一ではなく、3分の一だと思っているけど。

一里=150mね。
これなら、東夷伝も古漢書のすべてに当てはまる。
そうすれば、五帝の時代から、今と殆んどかわらにない領土であった
とする通説の誤りが正せるというもの。
五帝の時代から、今と変わらない領土を有していたとする考えは冷静に考え
たら、とても可笑しいことだ、と気付く。
すべて1里=約450mとする計算からきた弊害だよ。

史官が、里を書き分けたり、
換算間違いをしたりするはずがありません。
後になれば、なんで、里を書き分けた、とか、換算間違いだとか、
都合よく解釈しようとしたのだろうかと、笑い話になるよ。
999日本@名無史さん:2011/09/10(土) 09:34:32.93
>>961
これが理解できないらしい。

馬鹿の理屈を理解できたらやはり馬鹿。
1000日本@名無史さん:2011/09/10(土) 10:20:22.20
>>995
方4000里の議論なんて過去スレでやり尽くされている。
昨夜の伊作は、一旦、何か思いついたらしいが途中で勘違いと気付いたのだろう、
6倍説に何の根拠も提示できなくなって、議論の矛先をかわすため、相手を言い勝てそうな厨一人に絞り、
他からの指摘をすべてスルーしまくっていた。
途中で簡単な算数計算をわざと間違えてみせたりして、最初の大トンデモの輝きをくすませようと
涙ぐましい努力だったな。
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