それでも邪馬台国は九州にあった7

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1日本@名無史さん
それでも邪馬台国は九州にあった7

前スレ

それでも邪馬台国は九州にあった6
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1308465603/
2日本@名無史さん:2011/07/11(月) 06:01:38.07
>>1
あんたもええ加減四方田ぎりゆおったらいかんぞな
わしもたいがいのんびりしとるけど、いかるときはいかるけんのぅ


3日本@名無史さん:2011/07/11(月) 07:51:21.08
>>2
日本語でおk
4日本@名無史さん:2011/07/11(月) 07:53:23.51
スレ立て乙です
5日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:02:31.05
実際問題として、このスレ終了して、ドンこいスレや終止符スレに
合流してもいいような気もするけどね。
しばらく九州説スレ、続けるのか、合流するか。
いずれ、話し合わないといけないかもね
6日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:05:05.43
基地外の集まりだろ。
7日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:11:02.16
邪馬台国関連スレでは、一番元気なスレだからね。
むしろ、こちらが本スレ?
8日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:32:50.73
      ,一-、
     / ̄ l |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ■■-っ < んなーこたーない
    ´∀`/    \__________
   __/|Y/\.
 Ё|__ | /  |
     | У..  |
9日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:53:19.00
四国は隔離したから次は畿内説隔離スレ立ててくれ

スレが荒れるのは畿内の基地外のせいだからな
10日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:00:21.54
つまりここが一番の隔離スレな。
論争じゃ負けてるからねw
11日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:03:18.43
じゃあ邪馬台国あたっと思う場所スコップもって掘ってこいよw
こんなとこでうだうだクダ巻いててもしょうがないだろ。
12日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:07:06.96
畿内は巻向掘ってるしなw
13日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:11:33.45
資金をよこせば掘り返すよ
14日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:13:01.30
170回目か180回目だっけ。
よくスポンサー付くなあ。

ここ最近は穴とゴミだっけ。
たしかに当時のゴミは素晴らしい貴重な資料だが。
15日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:16:44.34
はいはい恨み節は見苦しいよ。
九州は掘る場所どころかまともな候補すらねーし。
16日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:30:26.56
九州を批判する事でしか存在価値を見い出せない基地外どもが
追い出されまいと必死だな

早く隔離スレ立ててここに書き込む畿内説の基地外どもを荒らしとして水遁すればいい
17日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:32:47.64
大学教授とかくらいの肩書きがあれば
ボランティアでもスポンサーでも集めて掘れるだろうに

本売って得た印税は何に使ってるんだ?
18日本@名無史さん:2011/07/11(月) 09:52:05.24
>>17
そんな教授が日本に何人いると思ってる?
19日本@名無史さん:2011/07/11(月) 19:27:53.94
畿内説はもう場所を特定してるしな
外れにならない限り割と退屈
それに引き換え、九州説はオレだけの邪馬台国を表明出来るから楽しいかも
でも、証明される事はないけどね。笑い話だけど
20日本@名無史さん:2011/07/11(月) 19:41:38.33
場所特定()
21日本@名無史さん:2011/07/11(月) 19:45:15.75
場所特定してると、あとは守りしかないもんね。
もっと可能性の高い遺跡が見つかったとしても、
梯子外されたような感じになっちゃう。
22塩土老翁:2011/07/11(月) 20:41:11.63
魏志、魏略の「伊都国までの原史料」は、一緒と思われる。「至・到」の使い方まで一致している。
張楚金は、翰苑に引用するにあたって、魏略を簡素化したと思われる。
「乍南乍東」、「其北岸」、「東南陸行五百里」の陸行も省いて書いたのだろう。
陳寿の魏志が、魏略の本文に近いと判断できる。

ところが、伊都国条では簡素化とは別の違いが存在する。 
@「有千餘戸」に対して、「戸万余」となっている。
A 魏略逸文「其国王皆属女王也」には、魏志「丗有王、皆統屬女王國」である。

何故、陳寿は、「其国王」を「丗有王」と記載したのだろうか?
新たな史料に接した為と想像できる。 ここは「其国王」が魏略の本文ではないのか??
「其国王」を「丗有王」に改変したが、「皆」をそのまま残したたために、
歴代の伊都国王が、皆統属していたという意味になってしまっている。

「皆」に関しては、陳寿のミスとしか思えない。
 
【 陳寿のバカタレ 】
23日本@名無史さん:2011/07/11(月) 20:51:29.64
えらそうに
24伊作:2011/07/11(月) 21:47:42.11
>>22

しょせんは正歴史となり得なかった『魏略』と、
異聞とさえいえる二流文献の『翰苑』を正しいとして、
一流文献『三国志』の2者と異なる部分は一流文献の間違いとする。
論以前に手順と手法が本末転倒だ。

>「皆」に関しては、陳寿のミスとしか思えない
『魏略』と『翰苑』の信憑性確認の文献批判はやったのかい?
辟易するほど見せられた安易な責任転嫁法だな。

甘ったれた手法だ。
25伊作:2011/07/11(月) 21:48:54.27
甘ったれというよりは、
根気と努力の欠落した「怠け者」の手法だ。
26塩土老翁:2011/07/11(月) 22:07:17.28
>>24 伊作氏
>『魏略』と『翰苑』の信憑性確認の文献批判はやったのかい?

 私は、アマの愛好家だ。
 図書館で信頼できそうな著書を読む程度しかできない。
 三国志が一流文献であるから「皆」の一文字に関してのみ異論を唱えている。

 天才は「丗有王、皆統屬女王國」をどう解釈なさっているんですか?
 ご教示願いしたい。
 素人は、間違いを指摘されることに「恥」はない。
27日本@名無史さん:2011/07/11(月) 22:23:59.15
>>22
>「其国王」を「丗有王」に改変したが、「皆」をそのまま残したたために、
>歴代の伊都国王が、皆統属していたという意味になってしまっている。
誤読だろう。「丗有王」は対馬国から伊都国までの話なのにり、それを伊都国の王のこと
だと読んでしまうから、妙なことになるんだ。

28塩土老翁:2011/07/11(月) 22:31:50.71
>>27 名無史さん
>誤読だろう

 多分、私と貴方とは、同解釈と思いますよ。
 でも世間一般では、伊都国王と理解してるのでは・・・

 http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm

 http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/index.htm
29日本@名無史さん:2011/07/11(月) 22:32:28.66
畿内説が場所を特定してるって?
何を根拠に?
30日本@名無史さん:2011/07/11(月) 22:48:36.60
>>28
世間一般や学者の多数に義理立てする必要はないだろう。正しいか、正しくないか
だけが問題だ。榎一雄は「邪馬台国」で、「部落があればその長があったのは当然
であるから、これら諸国に昔から国王がいたとするのが自然であり、従って、「世
有王」はこれら諸国に歴代王がいた意味に解することもできる。」と指摘している。
安田哲也「邪馬台国の暗号」も、「丗有王、皆統屬女王國」は、「4か国には世襲
の王がおり、いずれの国も女王国に従属している、ということを意味する。」と書
いているよ。「皆」が統属する相手は「女王国」。ということは、文章的なバラン
スから言っても「皆」も王ではなく国でなければならんだろう。
31塩土老翁:2011/07/11(月) 23:02:55.86
>>30 名無史さん
>正しいか、正しくないか だけが問題だ。

 異論ありません。
 主張したいことへの一つの階段と、ご理解下さい。
 また、よろしくお願いします。
32日本@名無史さん:2011/07/11(月) 23:19:43.98
九州説に立てば、邪馬台国が突然誕生したというのは考えられなくて、少なくとも漢書・地理誌に
書かれている時代、あるいはそれ以前からあったと考えるのが普通だと思う。
33日本@名無史さん:2011/07/11(月) 23:19:45.63
>>30
榎氏や安田氏の解釈が正しいとは限らないだろ。
「丗有王、皆統屬女王國」が伊都国のことだけでないのであれば何故あそこに挿入されているのだ?
34日本@名無史さん:2011/07/11(月) 23:28:35.03
>榎氏や安田氏の解釈が正しいとは限らないだろ。
もちろん、そうだろ。ただ、素人のこじつけたトンデモ説とはちがうということだよ。
伊都国の王とする説と榎氏らの説のどちらをとるかは、それぞれが決めるべきことだ。

>「丗有王、皆統屬女王國」が伊都国のことだけでないのであれば何故あそこに挿入されているのだ?
挿入? 新しい文章が始まっているんだろ。挿入ではない。

35日本@名無史さん:2011/07/11(月) 23:41:33.66
>>34
>挿入? 新しい文章が始まっているんだろ。挿入ではない。

その前で伊都国についての記述が終っていて「丗有王、皆統屬女王國」が「4か国には世襲 の王がおり、
いずれの国も女王国に従属している、ということを意味する。」には改めて4カ国の名前が最初に書かれ
なければならない。
36日本@名無史さん:2011/07/11(月) 23:51:56.91
>>35
>改めて4カ国の名前が最初に書かれなければならない。
そんな約束事はないんだろうね。
魏略だって、倭人伝と似たり寄ったりの書き方だが、次のような指摘がある。

橋本は、魏略に記された「其国王皆属女王也」の一文に注目して「魏略本文について
考えれば、対馬、一支、末盧、伊都と順次にその大官及び副官を掲げし後、乃ちこれを
受けて 其国王皆属女王也というのであるから、其の国王とは以上列挙せし各国の国王を
意味するものとして認めるべきかの如き文脈をなしている・・」と述べている。
皆を対馬以下の各国の王とする見解は白鳥をはじめ賛同する学者が多いが・・・・

37日本@名無史さん:2011/07/12(火) 00:54:56.45
>>36
では、奴国、不弥国、投馬国あるいはその余の旁国の場合はどうなる?
38日本@名無史さん:2011/07/12(火) 01:07:09.47
書いてないということだろうね。
39日本@名無史さん:2011/07/12(火) 01:16:35.81
>>38
それぞれの国に王がいたことは確かだろう。でなかったら国とは言わないだろうし。
「その余の旁国」の国々を列挙した後には「此女王境界所盡」との記述もある。

普通だったら、ここに書けばいいものを、わざわざ伊都国のところなんて中途半端なところに
挿入するのはやっぱり不自然。伊都国だけの記述と考えた方が納得がいく。
40日本@名無史さん:2011/07/12(火) 01:32:04.76
>伊都国だけの記述と考えた方が納得がいく。
そう考えたところで、他の国々については書いてないっていうことになるさ。


41伊作:2011/07/12(火) 06:41:23.09
>>26へ。

●倭国の国家像が一定していない。論旨によってバラバラ。
●国家が分かっていない。王朝が分かっていない。
●歴史書の歴史が分かっていない。
●誤字・誤読・異同の発生状況が分かっていない。
諸君の誤解を矯正するには、表記の膨大な説明を要する。つ・か・れ・る。

たった一つの倭国王の座を命をかけて争った事実を忘れたか。
各国に官吏を派遣している事実を見逃したか。
帥升以来、倭国は倭国王を頂点とした統一国家の形ができていた。
卑弥呼時代の倭国には卑弥呼と、
のちに王を号して女王国側と対立することになる狗奴国以外に王はいない。
伊都国にも王はいない。
42伊作:2011/07/12(火) 06:44:45.34
伊都国にも王はいない。
@「世々王有り。皆女王国の統ぶる属す」。
この一文が、王が存在していたという現在形表現ならば、
30年を一世代の区切りとする世という表現は使わない。
世(代々)という時間的広がりと脈絡を意味する世代表現をしている以上は、
歴代の王たちについて述べていると判断しなければならない。
A「簡潔かつ饒舌」をもってよしとする中国歴史書の性格に鑑れば、
皆という複数表現も使わない。皆という複数表現をしている以上は、
歴代の王たちについて述べていると判断しなければならない。
B王朝とは極めて厳格な階級制度でなる。その史官も階級には極めて厳格である。
女王国や狗奴国の記録は官名よりも先に、現存する最高位の王について触れ、
そのあとで官名を紹介している。これが常道なのだが、
伊都国の場合は官のほうを先に紹介して、歴代の王について触れている。
このことが、王は現存しないことを証明している。
当然、卑弥呼の時代に伊都国王は存在していない。

たかだか1000戸、3000戸、4000戸で、王を担ぐ国家の形成と維持が可能な者かどうか………。
頭のいいのが集まらないのが2ちゃんの最大の特徴らしい。
43伊作:2011/07/12(火) 06:54:50.96
1世紀半ばの倭奴国の実像。
これをみれば、邪馬台国の国家の実像も自ずと分かるだろう。

西暦57年正月に、倭人国家の倭奴国が後漢朝に朝賀(祝賀表敬)の使者を派遣する。
西暦25年に光武帝が即位して後漢朝が興きるのだが、
その30年以上ものちに王朝樹立の祝賀表敬をするとは、
倭人も相当のんびりしていたと思われるかも知れない。
だが、これはむしろ倭人の「凄さ」を物語っている。

後漢朝の実質的な中国統一は西暦56年とみられている。
西暦25年に光武帝が即位して以来、その後も光武帝は抵抗勢力の鎮圧に明け暮れ、
国内統一の体裁が整うのは36年。周辺民族との外交面で一段落したのが54年。
56年の4月、内外の安定を確保して王朝としての体裁を整えたあと、
東方を巡行して泰山で封禅の儀式をとり行なう。
後漢朝が名実ともに王朝の体裁を整えたのが56年である。
その翌57年の正月に倭奴国が使者を派遣する。
つづく。
44伊作:2011/07/12(火) 06:55:40.38
弥生時代まっただ中の倭人が、朝献の作法や相手先の国内事情にも通じていて、
間をあけず朝賀に出向いた知力・情報力・行動力は驚嘆に値する。
このことは実に、倭奴国の先進性と、
最新の国際情勢をリアルタイムに把握する情報収集力を備えていたことを物語る。
さらには、しかるべき交通手段と交通ルートを掌握していたことをも示唆する。
紀元1世紀半ばの日本列島ではすでに、国家を知り尽くし、政治手法も、戦い方も、
すべて知り尽くした人たちが倭奴国を経営していたのである。

まーその。光武帝は踊りあがって喜んだに違いない。
それまでは伝説か風聞にすぎなかった大海の中に住む倭人が、
はるばると王朝樹立の祝賀にやってきたのである。化外慕礼としても喜ばしいことである。
倭奴国が当時の倭地における強豪国ではあったにしろ、
統一国家でもない倭奴国に金印を賜ったことが、そのことを如実に物語っている。

どや。3世紀の倭国を原始共同体にケが生えた程度の集落連合とみるのとは大違いだろう。
だが、これが歴史を正直に見た見解だし、歴史を語る者としてとるべき正論だ。
45日本@名無史さん:2011/07/12(火) 07:01:16.89
奴国から王が出てるな。
46日本@名無史さん:2011/07/12(火) 07:18:37.60
伊作の国家像はままったくの誤りである。

倭に30国ありという以上、それぞれの国に王とその王が任命した官がいたということだ。
だから、後漢書は、「国皆王を称し、世世統を伝う。」と書いている。それは魏時代におい
ても変わりはない。

>たった一つの倭国王の座を命をかけて争った事実を忘れたか。
>各国に官吏を派遣している事実を見逃したか。
倭王というのは、30王の上に君臨する大王であり、大王が一人だからと言って他の国に
王がいないというわけではない。各国の官は、当然、各国の王が任命したものだ。
邪馬台国が官を派遣していたのならば、派遣先も邪馬台国であり、国か分かれることはない。

>女王国や狗奴国の記録は官名よりも先に、現存する最高位の王について触れ、
>そのあとで官名を紹介している。これが常道なのだが、
>伊都国の場合は官のほうを先に紹介して、歴代の王について触れている。
王を先に書くのが常道というのはそのとおり。
だからこそ、官のあとに歴代の王を書くはずはない、「世有王」は伊都国だけの
話ではないと読むべきなんだよ。
47卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 08:31:31.51
>>46
>後漢書は、「国皆王を称し、世世統を伝う。」と書いている。それは魏時代におい
ても変わりはない。

倭國乱以前の倭では、「国皆王を称し、世世統を伝う。」であったと言えても、
倭國乱以降、特に卑弥呼共立後も「國皆稱王」が続いたと考えるのは、
>>46君の独断と偏見だ。

魏代には倭に王は3人しかいなかった。
@伊都國(倭都国)の王(帥升王統の王)
A女王國の王(卑弥呼・壹與)
B狗奴國の王(卑彌弓呼)

「世有王」は帥升王統の王を指すのである。
帥升の後、帥升王統の倭王が何代続いたのかは判らない。
しかし、卑弥呼共立後、女王國成立後、帥升王統の王は、
倭都(伊都國)で女王國の支配下に入ったのである。
48卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 08:41:19.92
追記

卑弥呼は邪馬壹國の王ではない。
卑弥呼が何処の出身かはわからない。邪馬壹國の出身の可能性もある。
卑弥呼は何処かの国からかつれて来られて、共立により女王國の王として、
邪馬壹國に居住したのである。
49水銀厨:2011/07/12(火) 08:54:50.23
>当然、卑弥呼の時代に伊都国王は存在していない。
やっぱりそうでしょうね。

で、後に女王である卑弥呼が亡くなると、伊都国王家縁の
伊都比古が王を主張するのです。
50卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 08:58:42.71
>>41-44
遺作も正論のみを吐くこともあるのだな。
しかし一点修正すべき。

>卑弥呼の時代に伊都国王は存在していない。
伊都國には倭王としての実権を失った王が女王國に統屬していた。
魏としては漢代の倭都を「倭都(ヰト)」と書けないので、似音異字の「伊都」としたのである。
51日本@名無史さん:2011/07/12(火) 09:02:50.14
>>50
いいねえ、その案
52卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 09:11:01.46
>>49
水銀朱の話は別だが、

「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」の男王は、
伊都國王である可能性を否定できない。
53伊作:2011/07/12(火) 09:22:00.18
魏も倭も、偶然だろうが発音は「wei」だ。

魏を委と略したり鬼の古字体で略して書いた。
倭や、魏や倭の略字ため「委」を「yi」と読むのは現代のバカだけだ。

それにしてもお前ら。
畿内説者から「ゴミクズ」と言われんようなまともな会話をしろ。
俺なんざ、82じゃプロ顔負けの文献に詳しい畿内説者から、
ここじゃローガンという畿内説者のファンができるほどに、
一目おかれた九州説者だ。

それは、論考の手順と手法がまっとうで、正直な所が買われてのことだ。
その天才にタメ口で愚かな妄想を投げるでない。
伊都国偏重・前原偏重の古代史などもう時代遅れと知れ。がんたれが
54伊作:2011/07/12(火) 09:34:51.40
>>46  精神的発育未熟児童教室での指導。

>伊作の国家像はままったくの誤りである。
目からウロコだといえよ。すなおによ。
邪馬台国の所在だけしか脳裏に無いタコにはいい勉強だろう。

>倭に30国ありという以上、それぞれの国に王とその王が任命した官がいたということだ。
たかだか1000戸の所帯で、政治・軍事・生産といった役分をどう割りあて、
国としての経営と防衛と繁栄が可能かを考えてからいえ。
倭人伝のいう国は、倭国という国家の拠点や都市単位の表現でしかない。

>後漢書は、「国皆王を称し、世世統を伝う。」と書いている。
『後漢書』のとくに倭伝は、誤読と誤解と誤字まじりで書かれた二流記録だ。

>倭王というのは、30王の上に君臨する大王であり、
いつから大王にになったのだ?

>各国の官は、当然、各国の王が任命したものだ。
論拠無しの空論だが。それでお前、他人には論拠を提示しろと迫るんじゃないのか?

>官のあとに歴代の王を書くはずはない、
今はいない過去の王について(統属関係)だから官の後に書いたのだ。タコ

>「世有王」は伊都国だけの 話ではないと読むべきなんだよ。
かの文節は明確に伊都国に関する記録だ。タコ
55伊作:2011/07/12(火) 09:44:52.53
卑弥呼の時代に伊都国に王がいたとは、ウソつきのいうことだ。

まるで、糸島市立博物館を伊都国歴史博物館と名づけたり、
九州大学の糸島キャンパスに伊都キャンパスと名づけるような、
アカ恥ものの行為を平気でやる九州北部偏重者どものやることだ。
56日本@名無史さん:2011/07/12(火) 09:59:41.22
伊都キャンパスはちょっとどうかとは思うが、
もともと怡土郡で、大字怡土の地名もあるからねえ。

ちなみに、九大の北西側が志摩郡

まとめて糸島
57怒りの伊作:2011/07/12(火) 10:02:41.18
●前原市教育委員会の関係者の皆さん。
3世紀に中国人が書いた伊都を「いと」と読むことを証明してみたください。
それができなければ、伊都国歴史博物館を糸島市立歴史博物館と
改名してください。

●九州大学関係者の皆さん。
3世紀に中国人が書いた伊都を「いと」と読むことを証明してみたください。
それができなければ、伊都キャンパスを糸島キャンパスと
改名すべきですね。

それとも、学術関係機関にあるまじきフライングとして、
了見と視野の狭さが形になったモニュメントとして、
後世まで残しますか。
58水銀厨:2011/07/12(火) 10:06:55.97
本来伊都の宮はもう少し内陸部じゃないとね。
あの半島は伊都への入り口、津だろう。
59日本@名無史さん:2011/07/12(火) 10:07:59.56
あのさあ、糸島という地名も、怡土と志摩の合成語だから
イトを使いたくなければ、糸島も使わないほうがいいと思うよ。

そういう意味では、糸島も、イトという用語を使わせたい
昔の人の策略に乗せられてるのかもね。

糸島半島の北側がシマ、内陸部がイト、
ついでに、東側がイマ、今宿や今山があるとこね。
60塩土老翁:2011/07/12(火) 10:08:47.48
>>46
>だからこそ、官のあとに歴代の王を書くはずはない、「世有王」は伊都国だけの
話ではないと読むべきなんだよ。

  魏略逸文にある
 「職を分かち官を命ずけ 女王に統べられ部を列す」とある。
 だが逸文は、「其国王皆属女王也」で終わっている可能性がある。
 しかし、張楚金が、国を節略したとは考えられない。

 国情のついてまで述べられている「女王国系」の原史料と 官僚の報告書を感じさせる
 奴国以下の「邪馬台国系」の原史料を別史料と考えたい。
 ならば、「其国王皆」は、素直に対馬からの四カ国と解釈できる。
61怒りの伊作:2011/07/12(火) 10:12:46.53
>>56
>伊都キャンパスはちょっとどうかとは思うが、

半世紀そこそこの歴史しかない私立大学の浅いところと
地元迎合でしか生き抜く道のなさを如実にあらわしている。
62怒りの伊作:2011/07/12(火) 10:17:41.56
>>59
>糸島という地名も、怡土と志摩の合成語だから
百も承知だ。タコ

>イトを使いたくなければ、糸島も使わないほうがいいと思うよ。
3世紀に書かれた伊都という文字を、唐以降の読みで「いと」と読んで、
これと合併前の怡土に直結する手法の欺瞞を問うてるのだ。

わかるか?

意味ずれもはなはだしいが、お前。
自分が何をいいたのか自分でわかってるのか。
63怒りの伊作:2011/07/12(火) 10:20:09.55
>>60
どこへ出しても通用しないストリーを思い描いて
自己満足してるがいい。 

ただし、そんな程度の無能薬栽培脳で俺に話かけるな。
64塩土老翁:2011/07/12(火) 10:21:19.12
>>52 卑彌呼の都は久留米氏
>「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」の男王は、
 伊都國王である可能性を否定できない。

 一票入れときます。
 ほぼ同解釈の感じがします。 が、肝心な個所で反してるかもね?
 その時は、論戦を挑みますよ。
 よろしく。
 
65日本@名無史さん:2011/07/12(火) 10:21:21.63
地図を見ればわかるけど、九大伊都キャンパスの南側、
今は田んぼになってるけど、低湿地地帯がある。

この辺りは、瑞梅寺川と雷山川の土砂がたまってできたところ。
この辺は海だったから、当時は福岡に行くためのよい入り江だっただろうな。
海側に島があるから、玄界灘の荒波を避ける絶好の場所だ。

>>61
そんなに切れなくても。

九大伊都キャンパスだから、
九大自体は、創立100年くらいだよ。

理工学部系が先に移転したけど、理工学部は、
帝国大学以前の学校まで含めれば、120年以上前だよ。

九大OBでもないからどうでもいいけど。
あと15年移転が早かったら、通学楽だったのになあ。
66塩土老翁:2011/07/12(火) 10:24:56.38
>>63 怒りの伊作
>ただし、そんな程度の無能薬栽培脳で俺に話かけるな。

 了解した。
 お前も、以後私にレス付けるな!
 この99勝が。
67日本@名無史さん:2011/07/12(火) 10:32:06.38
>>62
>3世紀に書かれた伊都という文字を、唐以降の読みで「いと」と読んで、
>これと合併前の怡土に直結する手法の欺瞞を問うてるのだ。

まあ、長い間、怡土は伊都という説で続いてきたからねえ。
多分、よくつかわれるかっこいい字面と言うだけで、あまり考えてはいないと思うよ。
怡土が糸でもあるし、音があっているだけじゃないかね。

まあ、自分自身は佐賀伊都説だけどね。
そこまでアツくなるネタなのかどうか。
68日本@名無史さん:2011/07/12(火) 10:37:21.92
基地外守村遺作の脳内妄想生ゴミ垂れ流しは迷惑、有害、
69日本@名無史さん:2011/07/12(火) 11:06:59.52
99勝てなに
70卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 11:10:16.39
九州大学伊都キャンパスは馬鹿げてているね。
九州帝国大学も今や福岡県立九州大学のレベルに低落したようだな。

福岡に行くと地元民は天下の九州大学の感覚で驚いた。田舎者
大阪で天下の大阪大学と思っている地元民は聞いたことがない。

私は末盧國(唐津)東南500里(35km)が伊都國の説です。
伊都國は佐賀市大和町惣座遺跡(肥前国庁跡付近)となります。
71日本@名無史さん:2011/07/12(火) 11:12:46.76
>>990非論理的な文章で妄想を語られても理解できる者はいないであろう。
>晋書倭人条には
>倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬
>とある。これからは「戸有七萬」は邪馬壹(䑓)国一国のこととはとれない。
>昔相接して存在した百餘小國あるいは魏時 代に通好した30国の戸数として述べられている。

「依山島爲國」は、後漢書を引いている、「舊有百餘小國相接」は魏志を引いているが時制は後漢。
『「計其道里當會稽東冶之東」は三国志東夷伝の記述を引いたものと思われるが』は、
「至魏時」と記述されているから当然のことです。魏志に「可七萬余戸」とある。これは邪馬壹【臺】國 の人口です。
「可七萬余戸」を「邪馬壹【臺】國」とはせず、「戸有七萬」と記述したのは、
「倭人在」の如く、『人』に焦点を絞ったからである。故に「戸有七萬」以下の記述は全て人に集約されている。
 「戸有七萬 男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫」。





、計の字が用いられていることから推定を
示したものである。あくまでも「郡から女王国まで万二千餘里」という数値から推定した位置であって、実際に確認され
たものではない。こんなものを「戸有七萬」についての議論に持ち出す意味がわからない。
72卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 11:33:49.77
伊都(イト)、倭都(イト)は、唐代までの中原淮水流域の音。所謂漢音。
長江下流域の音は呉音。

現代シナにでは漢音はほぼ消滅。僅かに客家語に残っているだけ。
呉音は呉方言として現代にも残っている。
73日本@名無史さん:2011/07/12(火) 11:36:30.89
>>990
>「計其道里當會稽東冶之東」は三国志東夷伝の記述を引いたものと思われるが、計の字が用いられていることから推定を
>示したものである。あくまでも「郡から女王国まで万二千餘里」という数値から推定した位置であって、実際に確認され
>たものではない。
「計其道當會稽東里冶之東」は「會稽東冶」を「東」へ列島迄緯度線上を追ったもので、
『「郡から女王国まで万二千餘里」という数値から推定した位置』ではない。
>実際に確認され たものではない。
緯度の天体測量が可能であったから当然列島の「會稽東冶」と同緯度の位置は確認されていた。そこは北緯26度の沖縄である。
>こんなものを「戸有七萬」についての議論に持ち出す意味がわからない。
北緯26度の沖縄つまり、「計其道當會稽東里冶之東」が倭人の領域の南端である。
南端があれば、北端がある。それが「戸有七萬」の「邪馬壹【臺】國」である。


74日本@名無史さん:2011/07/12(火) 12:31:18.85
>>46
>伊作の国家像はままったくの誤りである。
>>42 >>43>>44
は、全て正論だ。 誤読をしているのは君だ。
一重潜って、倭国王は女王の坐だと理解していれば満点だ。 

75日本@名無史さん:2011/07/12(火) 13:15:14.46
短里なんかありゃしないのに
里程の混乱を招いてるのは水上行程
公里と海里で全て説明がつく
76日本@名無史さん:2011/07/12(火) 13:17:44.48
>>41
狗奴国には、王として卑弥弓呼、官として有名な狗古智卑狗がいる。
王と官は共存していてもおかしくない。
77日本@名無史さん:2011/07/12(火) 13:48:33.70
王と官は共存ではなく同一人物ですよ。
78日本@名無史さん:2011/07/12(火) 14:23:32.00
>>75
公里はともかくとして、
また海里なんて妙な単位を出してくるのか...
さすがに飽きてきたな。
79日本@名無史さん:2011/07/12(火) 14:45:15.29
九州説は短里一択
80日本@名無史さん:2011/07/12(火) 15:03:26.16
海里って明治以降にできた言葉じゃなかった?
81日本@名無史さん:2011/07/12(火) 15:05:42.82
現在、海里と言えば国際単位系での一ノット(1.85キロ)のことだが、
>>75が言っている海里がどのくらいの大きさなのか見当がつかない。
82怒りの伊作:2011/07/12(火) 15:24:28.71
>>70
>私は末盧國(唐津)東南500里(35km)が伊都國の説です。
>伊都國は佐賀市大和町惣座遺跡(肥前国庁跡付近)となります。

末廬から東南に500里歩けば、誰しも大差のない場所にたどりつく。そこから先が問題だ。
邪馬台国を筑肥山地以北に収めたいという我欲に負ける野郎は、
吉野ケ里あたりを不弥国にしてしまう。
で・バカづらさげた続け読みで、投馬国まで筑肥山地以北に押し込める。
せっかく東南に500里歩いたのに、その先がとち狂ってしまうのだ。

九州における弥生の人口密集地の中心は熊本平野。
鉄鍛冶の中心地も熊本平野。
稲作の先進地域も本当は熊本平野。
阿蘇山の西斜面の広大な台地は有数の畑作地。

鉄と稲。富国強兵の2大要素は熊本平野にあったのだが、
そこへ踏み込んでくる勇気のある奴はこの天才のほかには皆無に近い。
みな、矮小な我欲に支配されて、九州北部偏重の欺詐解釈と偽装工作に走る。
その最たる実例が、今日もみたが、倭人伝への責任転嫁だ。

久留米は、水縄だか耳納だかで、弥奴国だろ。
83怒りの伊作:2011/07/12(火) 15:28:36.38
弥生人たちは稲だけを食ってたわけじゃない。
水産物、畑作物、これに野生の鳥や獣も稲同様に重要だったのだ。
84塩土老翁:2011/07/12(火) 15:29:17.20
>>70 卑彌呼の都は久留米氏
>伊都國は佐賀市大和町惣座遺跡(肥前国庁跡付近)となります。

  『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳  晉 陳壽撰  (宋 裴松之 註)

「夫餘本屬玄菟。〜略〜 漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬。
公孫淵伏誅、玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、[王贊]數代之物、傳世以爲寶、耆老言先代之所賜也。

(漢の時、夫余の王葬は玉匣も用いた。常に玄菟郡に漢政府から置いておかれた。王が死ぬと、これを
 取りに行き、王墓にいれた。今、夫余の庫にしまってある。耆老は先代から賜ったものとして
 伝世して宝としている。)

 倭国ではガラス壁(玻璃壁)も用いてた。 この玉壁の出土は、奴国(須玖岡本遺跡)と
 伊都国(前原・三雲遺跡)の二ヶ所しか出ていない。三雲南小路王墓1号甕棺からは、漢の皇帝が、
 王侯・功臣に帰服した蛮夷の王の死に際して下賜した葬祭具である「金銅四葉座飾金具」も
 出土している。
  http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/siryokan/museum1.htm

 伊都国=前原市、奴国=春日市は、動かない。
 
85日本@名無史さん:2011/07/12(火) 15:39:17.35
自分は通り過ぎて人吉まで、行っちゃったけどな。
もうちょっと手前のほうが都合がいいんだが、
行っちゃったものは仕方がない。
放射式にするかどうか考え中。

あと、国の在り方だが、国境枠の中の国、という構造じゃなくて、
中心都市とその周辺に広がる沃野、といったイメージでの
国の構造を考えている。

投馬国を大牟田、荒尾付近に設定し、そこを中心とした周辺の平野を
領域とする。玉名側も筑後側も領域となる。

この関係だと、熊本から八代までが邪馬台国となる。
86ローガン:2011/07/12(火) 16:00:48.48
>>57:怒りの伊作
>3世紀に中国人が書いた伊都を「いと」と読むことを証明してみたください。

過去ログから…
「魏略西戎伝に、
臨兒國,浮屠經云其國王生浮屠。浮屠,太子也。父曰屑頭邪,母云莫邪。浮屠身服色,發青如青絲,乳青毛,蛉赤如銅。始莫邪夢白象而孕,及生,從母左脅出,生而有結,墮地能行七。
此國在天竺城中。天竺又有神人,名沙律。昔漢哀帝元壽元年,博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。とあります。
浮屠はブッダですね。
屠は詩経音系でdag 広韻音系でdo。 ブッダなので決してt'uではない。
都も詩経音系ではtag 広韻音系でto。倭人伝の都を tuとは読めない。」
87日本@名無史さん:2011/07/12(火) 16:11:14.61
百里が6〜7kmだと二万余戸ある那国と伊都国がなぜ別個に存在できたのか想像できない
普通に考えて一繋がりになってる状態だと思うんだが…
88日本@名無史さん:2011/07/12(火) 16:17:09.21
ここは無職老人のデイケアセンターか?伊作はみなの力で生かされていることを謙虚に感謝せねばいかんぞ。
89日本@名無史さん:2011/07/12(火) 16:39:37.80
>>67
佐賀大和に伊都国があると仮定すると、
奴国は、神崎か佐賀市内、両方とも明確な境界線はないね。
事実上の連結国家と言っていいと思う。

それは、糸島に伊都国を置いた場合でも同じで、
糸島半島は博多湾の入り口を抑える場所にあるから、
もし、たがいに敵対国家であれば、交易が困難になり
早めにどちらかがつぶされる結果となる。

もし、糸島でも佐賀大和でも二つの国が独立して存在しているとすれば、
敵対していなかったということだろう。


山岳地や大河を境界線とする国があるのは当然だが、
筑紫平野や熊本平野のように、広大な平野がある場合、
特に境界線となる地形がない場所で国境線を必要とする
場合があるのではないだろうか。

その場合、国力によって境界が左右されるのは当然だが、
互いに中心都市から離れた場所で、話し合いによって
国境が決められるのではないか。

多分、いくつかの集落が集まって、国を構成しているから、
この集落まではこちら、といったように領域が決められる
のではないだろうか。
90怒りの伊作:2011/07/12(火) 17:24:56.77
>>86
>浮屠はブッダですね
意味不明の過去ログ無用。3世紀における「伊都」の発音の話なのだ。
上古音ならtag(タ)で「イタ」。
呉音・漢音などという発音区別がなかった時代の発音ならdu(トゥー)で「イツ」。

たしかに。『隋書』は対馬を「都斯麻」と書いた。
古代の中国人が都と書いた場合は、「と」ではなく「つ」。

百済からの亡命帰化漢人の手になる『日本書紀』も、
都怒我阿羅斯等、丹生都姫などなど、都をことごとくを「つ」と読ませている。

倭人の読みをみても、地名や姓には都はほとんど「つ」に当てている。
都介、都於、都祁、都保、都留、都野、都路、都築、都濃、そして都万......。
どれもみな「つ」と読む。
福岡県の古い文献ですら、筑紫を(「つくし」といったらしく)都久志と書いている。 

で・「浮屠」がどうしたって?
91怒りの伊作:2011/07/12(火) 17:27:19.29
末盧国から東南に500里歩くと、
ホーシャ読みも成立しない。ケラケラ
92怒りの伊作:2011/07/12(火) 18:02:04.54
>>86
ローガンくんへ。意味不明といった「わけ」。

三国志と同時代の魏略から引っぱりだしてこうだ。
>屠は詩経音系でdag 広韻音系でdo。
>都も詩経音系ではtag 広韻音系でto。

いいか。
「屠を詩経音系のdag」を採用したのなら、
「都も詩経音系ではtag」を採用するべきじゃないのか。

せっかく河原で小石を拾うように用例を持ち出しをしておいて、
都のほうだけは「広韻音系」とやらを採用して「to」はなかろう。
ゆってる意味は分かるよな。
きみの論法でいけば魏略は詩経音系の発音を採用したいることになるから、
都もこれでいけば「た」になる寸法だ。
むろん、魏略と同時代の三国志も伊都は「いた」と書いた理屈だ。

「いと」と読むのでなければ、俺は「いた」でも、いたくもかゆくもない。

93怒りの伊作:2011/07/12(火) 18:12:50.97
ちなみにおらほの辞書には屠は「tu」とある。
これも「と」よりは「つ」に近い「トゥ」だ。


もうええな。
94日本@名無史さん:2011/07/12(火) 18:29:53.03
細かいトコばかり突っついてないでもっと大きな問題に答えろよ
95卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 18:36:16.48
「東南至奴國百里」
奴國は伊都國東南100里(7km)。
伊都國城郭を肥前国庁跡付近であるから、
奴國城郭は佐賀城跡付近になります。
この近辺で城郭になりうる小高い地形は佐賀城近辺以外にありません。
奴國は帯方郡から12000餘里の位置になる。

「東行至不彌國百里」
不彌國は伊都國から東行して100里(7km)
不彌國の城郭は吉野ヶ里遺跡になります。
吉野ヶ里遺跡は帥升の倭面土國の城郭跡。(米田郷、筑志米多国、米多、目達原)
倭國乱の頃、倭面土國城郭は吉野ヶ里から惣座に移転。
不彌國は郡から12000餘里の位置になる。

投馬國と邪馬壹國は不彌國の南に古筑後川を挟んで、不彌國と領域が接している。
投馬國は有明海沿岸側で帯方郡から水行20日(凡20000里)の距離。
邪馬壹國の城郭は、投馬國の東山側内陸側、高良山の付近。

女王國と狗奴國の境界は現在の福岡熊本県境。
狗奴國は菊池から県境を山越えして筑後平野南部にしばしば攻め込んできたのであろう。
有明海沿い侵入ルートは投馬國海洋民軍が防御。
96卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 18:45:35.21
邪馬壹國の城郭は、投馬國の東山側内陸側、高良山の付近。
帯方郡から末盧國まで水行凡そ10000里で水行10日
末盧國から邪馬壹國まで凡そ1000里で陸行1月。
97日本@名無史さん:2011/07/12(火) 18:53:33.16
>>95
一戸の食生活を賄うのに必要な土地の広さを教えてくれ
二萬餘戸の食生活を賄うのに必要な土地の広さを教えてくれ
98卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 18:58:47.24
>>84
惣座遺跡の墓一つを発掘しただけで、
連珠9mに相当する大量のガラス玉と、高純度の銀の指輪3個が出土している。
国道工事部分以外の広大な範囲を発掘すると何が出てくるかわからない。
惣座遺跡の発掘された部分の城郭は吉野ヶ里と同じ構造。
99卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 19:09:20.08
>>87
>>89
奴國は旧倭奴國と分国と考えます。
奴國は、倭奴國を滅ぼした帥升王統の伊都國を軍事的に監視する立場の女王國側の国です。
100日本@名無史さん:2011/07/12(火) 19:24:21.41
恥ずかしくない?そんな恣意的解釈の極み
101ローガン:2011/07/12(火) 19:30:46.56
伊作ちゃんへ。
「浮屠經曰復立者其人也」
魏略のこの文、ちくま本では、復立は復豆の誤記であるとする。勿論、ブッダの事。復立ではおかしいので。
豆はdug-deu-teu(逆e) 「a」つまり「ア」という開口度の大きい音じゃない。いわゆる上古音中古音ともにね。
であれば 屠はdagではなくdo。つまり広韻系。ゆえに 都はto。
102塩土老翁:2011/07/12(火) 19:35:31.64
>>98 卑彌呼の都は久留米氏

ガラス壁、金銅四葉座飾金具の出土した前原市の「三雲南小路墓」
1号棺は、男性で伊都国王と思われている。
2号棺は、「妃」、「王女」、「巫女」と思われている。
 1、小型鏡である。
 2、武器を副葬していない。
 3、大半が赤い色に塗られている。
この2号棺の女性への厚葬ぶりは、以後の卑弥呼出現をすでに示しているかもしれない。

 1、平原1号墓    ・・・ 鏡40面
 2、三雲南小路1号棺 ・・・  35面
 3、須玖岡本遺跡D ・・・・  30面
 4、三雲南小路2号棺 ・・・  22面
 5、井原鑓溝墓    ・・・  20面  次位が立岩の6面からも、異常な数である。

三雲南小路墓は日本伝来の最古の鏡であり、伊都国、奴国において「鏡の多量副葬」という
東アジアでも特異な風習を生んだ。
この風習は、やがて古墳時代の近畿へと東進して行くのだろう。

 伊都国、奴国は動かない。
103塩土老翁:2011/07/12(火) 20:04:03.43
>>48 卑彌呼の都は久留米氏
>卑弥呼は邪馬壹國の王ではない。
   賛同。

>卑弥呼が何処の出身かはわからない。
    
   『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳  「韓」
有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟taku[偏水旁右琢]國、臣濆沽國、伯濟國、
速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國
、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗廬國、【 卑彌國 】、藍奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、
兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、
狗素國、捷廬國、牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、
楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國。

ここは素直に「韓半島」に一票入れときます。
104日本@名無史さん:2011/07/12(火) 20:23:57.25
この流れはヤツが現れるカモ
105怒りの伊作:2011/07/12(火) 20:35:27.66
>>101 無駄なあがきだ。

3世紀には「都」を「と」の音に当てたものが、
いつの間にか日中でともに「つ」になってしまった。
でまた唐代以降に「と」に戻った。
こーんなバカげた話を誰か信用するか?

伊都は「いつ」か「いた」だ。
伊都を「いと」と読むのは比較的新しい読みだ。

もうええな。
106怒りの伊作:2011/07/12(火) 20:39:53.99
おおおっ!!

伊都は「いつ」か。
そういえば、佐賀県南部に「寺井津」てのがある。
これは徐福が手を洗うために掘った井戸という意味だ。
「手洗いの井津」で「てらいつ」だ。

わははー。ちっとは視点と気分の転換になったろう。
107サガミハラハラ:2011/07/12(火) 20:42:07.70
卑弥呼は邪馬台国(邪馬壱国)王にして倭国王です。
出身は邪馬台国及び親密な国の大人階級出身です。彼女の父が邪馬台国の王であったことは絶対ありません。
108伊作:2011/07/12(火) 20:50:00.42
あああっ!!

寺井津周辺には諸富津もあり、古くから良港として機能していた。
この近くにある新北神社には、樹齢2200年ともいわれるビャクシンの老木がある。
佐賀市のこのあたりが大きな島か陸地の南端だった証拠だ。

どや。発想の転換になったか。あははー。
109伊作:2011/07/12(火) 20:53:16.11
>>107
卑弥呼は、倭国首脳たちが祖先の故地たる長江流域の
鬼道の盛んな所から招聘したリリーフ投手だよ。

時間的タイミングの問題。
本場の大陸で鬼道が盛んになる190年代に、
倭地で鬼道をマスターしていたという理屈はない。
110伊作:2011/07/12(火) 21:11:21.45
ゴミクズレベルの論拠なき空論をひとつ。

あるいは卑弥呼は、
大陸から鬼道を布教しにきた一派の人間かも知れん。
その民衆人気に注目した倭国首脳が、内紛解決のために女王に担いだ。
卑弥呼が女王に担がれた数十年後、
卑弥呼の弟の卑弥弓呼を狗奴国の狗古智卑狗が王に担いで対抗した。

どや。発想の転換になったか。あははー。
111日本@名無史さん:2011/07/12(火) 21:17:37.62
伊都はイタだな
Oh、素晴らしきイタの地よ!
なんと碩くの田のある地なのか!
景行タソカワユス
112日本@名無史さん:2011/07/12(火) 22:26:03.26
>>47
>倭國乱以前の倭では、「国皆王を称し、世世統を伝う。」であったと言えても、倭國乱以降、
>特に卑弥呼共立後も「國皆稱王」が続いたと考えるのは、>>46君の独断と偏見だ。
隋書倭国伝に「魏時訳通中国三十余国皆自称王」とあるのを知らないのかな?

113日本@名無史さん:2011/07/12(火) 23:33:54.77
>110
まごうことなくゴミクズレベルの論拠なき空論だな。
114卑彌呼の都は久留米:2011/07/12(火) 23:43:07.79
>>112
>隋書倭国伝に「魏時訳通中国三十余国皆自称王」とあるのを知らないのかな?

知っている。
隋書は「国皆自称王」であって、後漢書は「国皆称王」である。
両者の違いは解るかな?

>>112は老眼そっくりな非論理。
115日本@名無史さん:2011/07/12(火) 23:44:30.82
>>113
伊作のやつ、壊れてるよ
116日本@名無史さん:2011/07/13(水) 00:03:56.59
バカなだけっしょ。
117日本@名無史さん:2011/07/13(水) 00:21:19.52
>>114
はは、くだらん屁理屈か。どちらも同じ意味だよ。
118日本@名無史さん:2011/07/13(水) 07:07:50.27
>>54
>たかだか1000戸の所帯で、政治・軍事・生産といった役分をどう割りあて、
>国としての経営と防衛と繁栄が可能かを考えてからいえ。
>倭人伝のいう国は、倭国という国家の拠点や都市単位の表現でしかない。
陳寿ともあろうものが、そんなものを「国」と表現すると思ってるのか?
都合が悪くなると適当なこじつけに走る。悪い癖だ。素直に解釈せんといかんね。

>『後漢書』のとくに倭伝は、誤読と誤解と誤字まじりで書かれた二流記録だ。
都合が悪いものは明文も無視。畿内説同様のご都合主義。

>>各国の官は、当然、各国の王が任命したものだ。
>論拠無しの空論だが。
国家というものの仕組みを知らんのか? 自明の理だ。

>今はいない過去の王について(統属関係)だから官の後に書いたのだ。
今はいない王について書いてどうする? 倭人伝はそんな無駄は書かんよ。

> かの文節は明確に伊都国に関する記録だ。タコ
それこそ、根拠無しの思い込みだな。>>30 >>36でもじっくり読んで勉強することだ。






119日本@名無史さん:2011/07/13(水) 08:19:10.51
>118
まさにその通り。
この程度のことも判らない馬鹿遺作、
ぼけ老人がのさばっているのは困ったものだ。
120伊作:2011/07/13(水) 08:47:29.05
ほんまもんのゴミクズの登場だ。
ほれ。
>>113 >>115 >>116 >>118 >>119

「論理だ論拠だ金論だ」というくせに、
自分は何ひとつ具体的かつ論理的なことはいえず、
ただ、ガキのなじり合いレベルの投稿しかできん。

>>118
こいつなんか、その典型だな。
反論したつもりだろうが、中卒レベルの否定文言を並べただけ。

よくもまあ、公衆の面前でのうのうとやってるぜ。
ああー。そういえば名無しだからできるのか。わらわら
121伊作:2011/07/13(水) 08:49:40.57
俺が出なきゃ「板の質が落ちた」といって呼びやがるし、
やってくればやってきたでこのていたらくだ。

もう二度と呼ぶんじゃないぞ。クソ野郎ども。
122日本@名無史さん:2011/07/13(水) 09:01:30.29
>>121
終わってる
へらへら
123日本@名無史さん:2011/07/13(水) 10:43:03.93
伊作氏、ひさびさに「オレサマ脳」を発揮w
124日本@名無史さん:2011/07/13(水) 11:03:36.76
>>114 名前:卑彌呼の都は久留米 :
>隋書は「国皆自称王」であって、後漢書は「国皆称王」である
>両者の違いは解るかな?
ハイ! 解りますけど何か?
    この表現法、倭の五王もやりますか?

125日本@名無史さん:2011/07/13(水) 11:16:40.33
>>124 名前:
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」も、
『隋書は「国皆自称王」であって、後漢書は「国皆称王」である』と、
同じ表記法ですね。


126日本@名無史さん:2011/07/13(水) 12:15:32.30
>121
ゴミクズ糞遺作は馬鹿にされ嘲笑されるのが判っているのにのこのこ出てくる。
生ゴミ腐臭説を披露するために。
127卑彌呼の都は久留米:2011/07/13(水) 15:27:28.98
>>124
>>隋書は「国皆自称王」であって、後漢書は「国皆称王」である
>    この表現法、倭の五王もやりますか?

倭五王もしていましたね。

128日本@名無史さん:2011/07/13(水) 17:21:15.66
>>114
>隋書は「国皆自称王」であって、後漢書は「国皆称王」である。
>両者の違いは解るかな?

わからない
129塩土老翁:2011/07/13(水) 19:18:59.85
>>60
> ならば、「其国王皆」は、素直に対馬からの四カ国と想像します。

 「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國」

 一大率は卑弥呼側と理解しても、以北の国々が何に対して畏憚していたのだろうか。
近畿説は説明しやすいが、九州説で明快な解釈を読んだことがない。
卑弥呼死亡後即倭乱だから、飛び抜けた軍事力は存在していないはずだ。
松本清張氏の帯方郡説もあるが、大好きな岡田英弘氏に言わせると漢文知らずと相手にしない。

そこで、素人説
この時期は東遷の過渡期であり、吉備、徳島まで伸びた「瀬戸内海沿岸勢力」が、卑弥呼を支え、
交易の確保に努めていたのではないだろうか? 
目的が交易ならば、 自女王國以北は四カ国と想像します。

【 陳寿崇拝・倭人伝盲信に反対 】

130日本@名無史さん:2011/07/13(水) 20:57:33.72
>>129
>以北の国々が何に対して畏憚していたのだろうか。
倭国の乱はいったい何だったのか、だよ。「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」
これは倭国の乱の実質的な勝者である女王国が、実質的敗者である以北の国々を厳しく検察して
いたということだよ。それ以外に、女王国がその女王国に従属する国々を厳しく監督する理由は
ない。一大率は、けして朝鮮半島との交易のために置かれたものではない。北九州諸国の再度の
反乱を阻止するために置かれたものだ。
だから、伊都国と奴国、不弥国は比較的近い距離にあるのだろう。伊都国から目が届く範囲に奴
国の王を住まわせ、がっちりと見張っていたんだろうよ。でなければ、使者一行は、北九州の大
国である奴国にもう少し興味を示しただろうな。
131塩土老翁:2011/07/13(水) 21:33:56.73
>>130 名無史さん
>これは倭国の乱の実質的な勝者である女王国

狗奴國は敵。
 女王國以北の国々を除いて、何処にそんな勢力があったのでしょうか。
近畿説ということでしょうか?
132日本@名無史さん:2011/07/13(水) 22:25:16.28
>>131
考古学的にみても、近畿と九州が戦った形跡はまったくない。
北九州諸国と戦った国は、やはり九州の中だよ。熊本以南が女王国だね。
3世紀後半に栄えた中心は日向。そして、肥後、薩摩だ。
133卑彌呼の都は久留米:2011/07/13(水) 22:29:33.75
>>128

隋書「國皆自稱王」
宋書倭武「自稱使持節 都督 倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍 倭國王」

後漢書「國皆稱王」
宋書倭武「詔除武使持節 都督 倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事 安東大將軍 倭王」
134日本@名無史さん:2011/07/13(水) 23:01:13.55
景行天皇の熊襲退治は、北九州、大分、宮崎
実際、これらの国は、九州山地で分断されている。
この熊襲がクナ国の可能性は高い。

ついでに、神武一族がもし出たとすれば、このクナ国からだろう。
そうすれば、景行天皇は何者だという話になるが、
史実のとおりに、筑後から熊本を領域とする王の一人と思われる。

そのため、筑後から畿内に帰った描写はない。

135筑紫次郎:2011/07/13(水) 23:01:37.42
>>131
当時九州にあった勢力は
@糸島〜博多〜甘木朝倉〜日田〜宇佐以北の博多湾岸勢力。
神功皇后が兵を集めたり、出産したりしてくつろいでいるのがこの地域。

A唐津〜佐賀〜八女筑後〜山門郡〜大牟田の有明海沿岸地域。
この地域が当時人口最大密集地帯で最も栄えていた。
佐賀大和の速来津姫が天皇の家来の神代直により捕らえられ、神功皇后の妹の與止日女命が女王になっている。山門郡の田油津姫は、神功皇后を暗殺しようとしたと濡れ衣を着せられて神功皇后に滅ぼされている。
この地域が博多湾岸勢力に制圧されたのは4世紀。

B菊池、熊本以南の狗奴国の勢力。

倭国大乱とは博多湾岸勢力と有明海沿岸勢力との戦い。
倭国大乱は決着が付かないので山門国の卑弥呼を共立して一応平和を取り戻した。、
武力だけでは攻めきれないので色々と策を弄して魏の後ろ盾が無くなったので4世紀に
博多湾岸勢力(大和朝廷)は有明海沿岸の諸国を全て支配下に置いていく。
武力により九州が統一されたのは4世紀以降。
136塩土老翁:2011/07/13(水) 23:08:34.96
>>132 名無史さん
>考古学的にみても、近畿と九州が戦った形跡はまったくない。

 この時代の工業的な図式は、奴国と熊本平野の二大勢力だ。
 熊本は狗奴國の可能性が高い。 倭乱には含まれない。
 倭乱は、どう見ても内乱でしょう。 
 戸万余〜有千餘戸。伊都国半分東遷説です。 
 第三勢力は、瀬戸内海に求めたい。
137塩土老翁:2011/07/14(木) 00:02:46.21
>>134
>ついでに、神武一族がもし出たとすれば、このクナ国からだろう。

 「猶東二行カン」
 神武は、西から来たのだよ。
 「そして、さらに東に行こう」と言っている。
 伊都国から秦王国まで来て、また東に行くんじゃないのかな? 噂では・・
138日本@名無史さん:2011/07/14(木) 00:42:00.71
>>136
女王国より以北の国々は、伊都国、奴国、不弥国等である。
その南は女王国。つまり熊本は女王国であり、狗奴国ではない。狗奴国の可能性が
高いと言われるが、倭人伝からはそのような見方はでてこない。

>第三勢力は、瀬戸内海に求めたい。
第三勢力とは女王国のことなのかな?
139伊作:2011/07/14(木) 01:48:40.47
>>138
いいねえ。
狗奴国は卑弥呼の時代には人吉盆地を拠点としていた。
邪馬台国はその北の熊本平野だよ。

邪馬台国も狗奴国も熊本にあったのさ。それだけのこと。
140日本@名無史さん:2011/07/14(木) 07:16:14.79
>>133
おい、おい、「詔除」と「称」はまったく別だぞ。

141卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 07:34:17.78
1世紀〜3世紀の九州北西部勢力

@福岡平野(糸島〜博多)
倭奴國 餘旁國奴國(元倭奴國)

A筑紫平野(北野平野・筑後平野・佐賀平野・白石平野)
帥升[吉野ヶ里城郭 倭面土國](佐賀平野+北野平野+福岡平野+唐津)
末盧國・伊都國・奴國・不彌國(唐津+佐賀平野+白石平野)
投馬國(佐賀平野東部+筑後平野)
邪馬壹國(北野平野+筑後平野内陸部)卑弥呼は元倭奴國系統。

B熊本平野
狗奴國(菊池盆地)

倭国乱とは帥升王統(佐賀平野)に対しての北野平野福岡平野筑後平野勢力の乱立反乱。
倭国乱は決着が付かないので狗奴國系統の卑弥呼を共立して一応平和を取り戻した。
しかし、倭國乱の混乱に乗じて菊池の狗奴國が筑後平野内陸部に山越えで侵略を仕掛ける。
3世紀末には狗奴國は筑後平野に侵略。
倭王旨が4世紀中頃迄に九州西北部を統一。以後倭五王へ続く。

142筑紫次郎:2011/07/14(木) 09:15:16.73
>>141
博多湾岸地域とか甘木朝倉は畿内大和朝廷と極めて親密な関係にある。
それらの地域を邪馬台国の比定地にしているのは邪馬台国が大和朝廷に繋がっていると言う先入観念がある人だ。

しかし
もしもそれらの地域に邪馬台国があったのなら、卑弥呼を共立して邪馬台国を盟主として認めている有明海沿岸諸国を再度攻める必要など無い。
博多湾岸勢力(大和朝廷)は有明海沿岸の山門国の卑弥呼を共立して倭国大乱を終わらせたが、
このままでは中国諸韓国は博多湾岸勢力を交渉相手の盟主として認めないから、
邪馬台国を滅ぼして自らがヤマトを詐称したのだ。

>3世紀末には狗奴國は筑後平野に侵略。

そのような痕跡は無い。
4世紀まで、筑紫平野の国々は
田油津姫、八女津姫、速来津姫など女王が君臨して平和な状態だったようだ。

>倭王旨が4世紀中頃迄に九州西北部を統一。以後倭五王へ続く。

統一したのは神功皇后、景行天皇などの働きもある。
倭五王は統一した後の話だから大和朝廷に繋がる勢力になる。
私の考えでは
倭五王のいた場所は水沼の大君(天皇のこと)がいた場所付近。
天皇屋敷跡がある大善寺で、
ここには直径約130bの御塚と約150bの権現塚がある。
元々は五つの塚があったが残りは壊して農地にされたそうだ。
143卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 09:44:09.11
>>141の間違い修正

誤:倭国乱は決着が付かないので狗奴國系統の卑弥呼を共立して一応平和を取り戻した。

正:倭国乱が決着が付かないので倭奴國系統の卑弥呼を共立して一応平和を取り戻した。
144日本@名無史さん:2011/07/14(木) 10:01:56.24
いったいいつまで毎日似たような議論してんだよw
不毛だし意味ないよ。そんなに邪馬台国のあった場所が知りたいなら
スコップもって自分が邪馬台国だと思う場所を掘って来いってw
145日本@名無史さん:2011/07/14(木) 10:12:30.77
>>144
で、何が見つかったら邪馬台国って決定するんだ?
146塩土老翁:2011/07/14(木) 10:28:42.37
>>138 名無史さん
>第三勢力とは女王国のことなのかな?

  女王国はちっぽけな国だ。

  1、伊都国
  2、狗奴國
  3、瀬戸内海沿岸
147日本@名無史さん:2011/07/14(木) 10:31:13.18
>>133
それが
>隋書は「国皆自称王」であって、後漢書は「国皆称王」である。
と何のかかわりがあるの
まさか七国と六国の違いとか気にしてんのかな
148日本@名無史さん:2011/07/14(木) 11:14:40.36
答えなんて絶対に出ないものに対して
推測でああだこうだと毎日議論するのは
頭悪すぎるww完全なる時間の無駄だと
理解するおつむもないのかと。
149卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 11:17:44.22
>>142 筑紫次郎さん

>>3世紀末には狗奴國は筑後平野に侵略。
>そのような痕跡は無い。

そのような痕跡とは、横穴式石室古墳が菊池川流域から矢部川流域(八女・筑後)に進出したことである。
大善寺の古墳群の大部分は、その後九州北西部を統一した倭五王時代のもの。
大善寺の数十基の小型古墳は大正時代に農地化された。現在残っているのは特別大型の2基のみ。


北部九州の勢力が東進した時期は何回もある。
ひとつはは帥升に滅ぼされた倭奴國の敗残難民の移民。神武移民団。
最も大規模移民であったのは、7世紀白村江の敗戦前から680年頃。
難波副都(難波宰府・第一次難波宮)設置がきっかけ。全国の宰府の一つ。
この時期の移民では北野平野から奈良盆地への移民が最も規模の大きい(期間も30年位)もの。
150卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 11:29:23.21
>>147
武自称:七國 倭國王
宋認定:六國 倭王

違いの意味が解らないの?

151卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 11:42:54.87
>>147
倭諸国の自称:國皆自稱王
シナ王朝認定:國皆稱王
152日本@名無史さん:2011/07/14(木) 11:46:39.90
>>133 :卑彌呼の都は久留米:
>>128
>隋書「國皆自稱王」
>宋書倭武「自稱使持節・・・ 倭國王」
>後漢書「國皆稱王」
>宋書倭武「詔除武使持節・・・倭王」 の
「倭王」は「太伯之後」だけが敬称できる王名でが委細割愛。
隋書「國皆自稱王」に対比出来るのは、
宋書 「讃死弟珍立 遣使貢獻 自稱使持節・・・倭國王表求除正・・・詔除倭國王」
 「興死弟武立 自稱使持節・・・倭國王・・・詔除武使持節・・・倭王」
後漢書「國皆稱王」に対比できるのが、
宋書「二十年倭國王濟遣使奉獻・・・倭國王」
 「濟死丗子興遣使貢獻・・・丗祖大明六年詔曰倭王丗子興・・・宜授爵號可・・・倭國王」
に、なるだろう。
所謂、「國皆稱王」との記述は、後漢が『国々の王在りと認めているが、
「國皆自稱王」は、『自称王ということであり、隋は其の王を認めていない。と、あくまで「國皆自稱王」「國皆稱王」の視点は中華帝国にある。
故に、倭国の視点なら、「今使譯所通三十國・・・魏志」の『三十國』に王が居たことを否定でない。


153日本@名無史さん:2011/07/14(木) 11:54:41.16
>倭諸国の自称:國皆自稱王
>シナ王朝認定:國皆稱王
國皆稱王も自称にすぎないよ。
154卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 12:07:38.28
>>152
>故に、倭国の視点なら、「今使譯所通三十國・・・魏志」の『三十國』に王が居たことを否定でない。

同じ意見です。
倭国の視点なら同意です。
しかし、シナ認定では王は居なかった。居たのは王と自称する官である。
155卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 12:17:43.33
>>153
シナは、後漢書では王と称する人物の存在を認定している。
156日本@名無史さん:2011/07/14(木) 12:31:57.03
自ら称する
自ずから称える

前者で確定でいいの?
157筑紫次郎:2011/07/14(木) 12:33:15.79
>>149 都は久留米さん
>そのような痕跡とは、横穴式石室古墳が菊池川流域から矢部川流域(八女・筑後)に進出したことである。

何時の時代のことですか?

>大善寺の古墳群の大部分は、その後九州北西部を統一した倭五王時代のもの。

少なくとも
直径約130bの御塚と約150bの権現塚は倭の五王の時代の者ですね。

>北部九州の勢力が東進した時期は何回もある。
>この時期の移民では北野平野から奈良盆地への移民が最も規模の大きい(期間も30年位)もの。

博多湾岸、甘木朝倉、宇佐の大和朝廷に近い勢力でしょう。
邪馬台国の勢力は東進していません。

>ひとつはは帥升に滅ぼされた倭奴國の敗残難民の移民。神武移民団。

根拠があるのなら知りたいですね。
158日本@名無史さん:2011/07/14(木) 13:19:10.79
>>150
七国か六国かは、百済が入ってるか入ってないかじゃん。
倭か倭国かなんて関係ないよ。
159日本@名無史さん:2011/07/14(木) 13:58:52.52
>>158
>倭か倭国かなんて関係ないよ
倭王を敬称できるのは「太伯之後」だけ。
倭国王は倭種も敬称できる。
倭種とは、列島の粤系・斉系の事である。
漢書に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
 自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也」と
あるが如し。

160日本@名無史さん:2011/07/14(木) 14:13:31.15
>>159
>倭王を敬称できるのは「太伯之後」だけ。

そんなもの、どこの文献に根拠があるの?
漢書の記述は分野説の話であって、倭王の称号についてはなんも書いてないよ。
161卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 14:16:54.96
>>157
>何時の時代のことですか?
3世紀末から4世紀初頭

>直径約130bの御塚と約150bの権現塚は倭の五王の時代の者ですね。
武とあと一人(珍or済)だと思います。

>>この時期(650〜680)の移民では北野平野から奈良盆地への移民が最も規模の大きい(期間も30年位)もの。
博多湾岸と甘木朝倉出身者が移民の中核をなしていたと思います。
宇佐出身者は別の時期、たとえば欽明の頃とか?

>>ひとつはは帥升に滅ぼされた倭奴國の敗残難民の移民。神武移民団。
>根拠があるのなら知りたいですね。
神武のメンバーの構成
・刺青のある海洋族
・久米族
・鯨の入る入江がある地域
・岩場のある海岸地域
・一夫多妻の風習
・移民時期が倭國乱の頃
・神武軍団の河内湾への侵入脱出ルート
・あと幾つかあるが、今思い出せない。
162日本@名無史さん:2011/07/14(木) 14:35:48.31
>>160
>>159
>>倭王を敬称できるのは「太伯之後」だけ。
>そんなもの、どこの文献に根拠があるの?
それが、あるんですね。漢籍に。
>漢書の記述は分野説の話であって、倭王の称号についてはなんも書いてないよ
そのとおりですよ。漢書については、「倭種とは、列島の粤系・斉系の事である」を受けて書きこしたのですから。
「分野説」を「樂浪海中有倭人」の流れの中で展開していますから、倭人の分野と漢書の分野説は同分野に集約できる。
163日本@名無史さん:2011/07/14(木) 14:38:35.82
訂正
>>160
>>159
>>倭王を敬称できるのは「太伯之後」だけ。
>そんなもの、どこの文献に根拠があるの?
それが、あるんですね。漢籍に。
>漢書の記述は分野説の話であって、倭王の称号についてはなんも書いてないよ
そのとおりですよ。漢書については、「倭種とは、列島の粤系・斉系の事である」を受けて書きこした。
漢書では、「分野説」を「樂浪海中有倭人」の流れの中で展開していますから、倭人の分野と漢書の分野説は同分野に集約できる。

164日本@名無史さん:2011/07/14(木) 14:46:13.68
太伯がいつの時代のどういう人か知っているのかな?
165日本@名無史さん:2011/07/14(木) 14:58:26.77
>>163
>それが、あるんですね。漢籍に。

あるんだったら示して。
166日本@名無史さん:2011/07/14(木) 15:07:58.38
>>164
>太伯がいつの時代のどういう人か知っているのかな?
 「後漢書 光武中元年二 倭國奉貢朝賀 使人自稱大夫 光武賜以印綬 
安帝初元年 イ妾王師升等獻主口百六十 景初之辰 恭文錦之獻 
槐志曰 景初三年 イ妾女王遣大夫難升未利等 獻男生口四人 
女生六人 班布二疋二尺 詔以爲新魏倭王 假金印紫綬 正始四年
 倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人 上獻生口也」
から、イ妾王は季歴の後と知っているのかな。
それを知れば、倭國は太伯の後といことを知るだろう。
167日本@名無史さん:2011/07/14(木) 15:22:56.58
訂正
それを知れば、倭國は太伯の後といことを知るだろう。

それを知れば、倭王は太伯の後といことを知るだろう
168日本@名無史さん:2011/07/14(木) 15:33:03.00
何を言いたいんだい?
169日本@名無史さん:2011/07/14(木) 16:01:57.18
いまググったら、太伯は紀元前12世紀の人で、呉の祖って書いてあったけど、
これだけ古ければ、たしかに大抵の事項はその後のことになるだろう。
170日本@名無史さん:2011/07/14(木) 16:48:10.38
後ってのは子孫ってことだぞ。
171日本@名無史さん:2011/07/14(木) 16:52:54.47
>>170
>後ってのは子孫ってことだぞ。

同情。 大爆笑。 
172塩土老翁:2011/07/14(木) 18:24:18.36
>>129
 わが国の鉄器生産遺構で最古なのは、奴国に比定される春日市の「赤井手遺跡」だが
一世紀後半とみられている。 次に古い福岡県築上郡「安武深田遺跡」からは、九州初の
「分銅型土製品」が出土している。 これは吉備(70%出土)を中心に瀬戸内海沿岸
の土製品であり、一世紀末には双方に交流があったことを示している。
九州にはこの分銅型土製品を使う風習はなく、人の交流がすでにあったことを表している。
 吉備で貯えられたエネルギーが、近畿地区で爆発した。
近畿地域の弥生時代の層はとても薄く、一気に古墳時代に突入した。

 臺與の時代が、過渡期と考える。
173日本@名無史さん:2011/07/14(木) 19:03:13.92
倭国大乱が瀬戸内海を舞台をしているのは確実だ。
174日本@名無史さん:2011/07/14(木) 19:19:32.22
さあ、どうだろ
175日本@名無史さん:2011/07/14(木) 19:25:24.53
一大率が伊都国=佐賀に置かれたことを考えると、瀬戸内海は無関係だな。
176八色仮面:2011/07/14(木) 19:40:13.21
伊都国が佐賀であると証明はされていない。あなたは証明できるのかな?
177日本@名無史さん:2011/07/14(木) 19:47:23.15
佐賀の証明は難しいな。確率は一番高いと思うが。

まあ、それ言いだすとまた長い論争になるかもしれないが
178日本@名無史さん:2011/07/14(木) 19:55:10.11
>>177
>確率は一番高いと思うが。

東南陸行五百里のこと?
179日本@名無史さん:2011/07/14(木) 20:06:43.30
佐賀はないと思う。大宰府辺りではないかな。
180日本@名無史さん:2011/07/14(木) 20:11:00.53
一番可能性が高いのは国東半島の北か南。
別府って宇佐神宮の別の府って意味なんだってね。
古代から宇佐と別府は一心同体の関係だったんだろうな。
181卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 21:07:22.02
東南陸行五百里と惣座遺跡で佐賀の確率がずば抜けて高い。

原文を改変して読むのは論外。
182日本@名無史さん:2011/07/14(木) 21:10:22.87
倭人伝に従えば伊都国=佐賀であることは問題ないだろう。
それとも、倭人伝の記述に照らして何か合わないところがあるかな?

他の説は、全て、倭人伝の記述には合わないけれど・・・私はここだと思うってな
話だね。これは証拠はないけれど・・ということにならざるを得ない。
183卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 21:18:36.40
別府は大宰府に対する九州王朝直轄國の最末端地方役所
184卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 21:28:05.05
伊都國怡土説は出土物の解釈に振り回されている。

出土物の時代解釈も150年程ずれている。
185日本@名無史さん:2011/07/14(木) 21:50:03.35
>>182
>それとも、倭人伝の記述に照らして何か合わないところがあるかな?

邪馬台国はどこにあるんですか?
186日本@名無史さん:2011/07/14(木) 22:15:59.85
「又南に一海を渡る千余里、一大國に至る」
「又一海を渡る千余里、末盧國に至る」という文章ではね、
上陸場所が松浦半島ではそれまでの千余里と比較して距離が短すぎ。
また南に行くとも書いてないので距離的にはもっと現博多よりでしょう。
よって距離的に伊都は佐賀ではない、春日付近だろう。

187日本@名無史さん:2011/07/14(木) 22:27:34.12
唐津は歴史的に大陸への渡航場所として広く用いられてきたのは
間違いない。また、佐賀方面への道が、唐津街道として古くから
使われてきたのも間違いのないところ。

それだけで、決定としてもいいのだが、確かに壱岐から唐津では、
それまでの行程と比べて、距離が短めなのも事実。

そのため、壱岐から南方向で、それなりに距離を合わせるということで、
伊万里湾奥の伊万里、有田も考慮しておきたいところ。

秀吉の時代に、中国からの陶工がここに根を下ろしたのはなぜだろうか。
ここからも武雄方面から有明海側に出ることはできる。
188日本@名無史さん:2011/07/14(木) 22:35:06.03
唐津辺りに上陸するなら少なくとも千余里とは書かない、五百里だろう。
また宇美の位置関係も伊都が春日辺りの方がより正確に近い。
189日本@名無史さん:2011/07/14(木) 23:05:12.46
>>185
>邪馬台国はどこにあるんですか?
倭人伝の行程どおりに進めば自然にたどりつくよ。

190卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 23:17:49.05
末盧國は一大國から南へ渡海1000里とある。
水行(渡海)1日の行程が1000里。

末盧國の港は古松浦湾南岸の中原遺跡である。
191卑彌呼の都は久留米:2011/07/14(木) 23:25:40.56
>邪馬台国はどこにあるんですか?

その領域は北野平野と筑後平野内陸部。

追補
投馬國の領域は佐賀平野東部と筑後平野の有明海沿い。
奴國の領域は佐賀平野中西部と白石平野。
192筑紫の民:2011/07/14(木) 23:27:24.42
わるい。別府には何もない。住んでいたからよく分かる。
特に昔は、火山が噴き出していてとても人が住めるところではない。
古い地図を見れば人が住んでいなかったことがよく分かる。
古代にも何もない。なにしろ石だらけで農作物できましぇん。
宇佐神社とは、地形的に分離されていて影響は全くなっかた。
ってか、大分に何を求める?
193筑紫の民:2011/07/14(木) 23:34:26.38
だいたい、筑紫と大分は地形的に分離されていることを
理解しないといけませんよ。
高速道路も国道も水分峠通過させて大分に通じさせるのも
大変だったのですよ。
昔の街道も、筑紫〜香春口〜京都〜宇佐はあっても、
宇佐〜別府は無かったし、直接別府に通ずる道も無かった。
194日本@名無史さん:2011/07/14(木) 23:36:46.46
>>190
>末盧國は一大國から南へ渡海1000里とある。

嘘はダメだな「南」とはないはずだが。
195筑紫の民:2011/07/14(木) 23:39:14.11
日田は、筑紫平野と連接されています。
当然ですわ、だって筑後川の流れに沿っていますから。
徳川時代に天領となって、文化的途絶はありましたが
日田の民は大分県人であると思っていません。
今回の市町村合併の時もどさくさにまぎれて福岡県民に
なろうと画策する民ですから。
196日本@名無史さん:2011/07/14(木) 23:41:02.05
杵築でもいいよ、早津媛のいた場所だ。
そもそも末盧から伊都国まで山深い道を進行してるんだから文化が異なって当然。
ウリナラ召致思考が高まると、ホント目が曇ってしまうんだな。
197筑紫の民:2011/07/14(木) 23:47:25.37
大分は古代に発展する要素はないですね。
宇佐神宮が卑弥呼の墓という人がいますが
もしそうであれば、伊作先生の説によれば
王都から離れた場所に埋葬したのであって
邪馬台国でないことのあ・か・し、ですね。
198日本@名無史さん:2011/07/14(木) 23:53:07.96
土着文化を破壊し尽くしてしまうキリスト教、
そんな邪教に大友宗隣が毒されなかったらいろいろな文献が残ってただろうと思うと、
それが本当に残念です。
199日本@名無史さん:2011/07/14(木) 23:59:31.52
>>197
だれもこの地域が邪馬台国だなんていってないよ?
卑弥呼がいて、後に台与がいた伊都国じゃないかと言ってるわけ。
ホント目が曇ってしまってるなぁ。
200日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:02:12.10
>>186
「又南に一海を渡る千余里、一大國に至る」「又一海を渡る千余里、末盧國に至る」という文章
からすれば、一大国から末盧国も南だろう。方角が書いてないのは、同じ方角だからとみるのが
もっとも妥当だ。距離は、一大国で船をつけたところがどこかにもよるね。
勝本あたりにつけたのならば、一大国から末盧国(唐津)も千里でよさそうだ。勝本付近でなけ
れば対馬→一大に比して距離は短いということになるだろうが、海上の距離は正確に把握するこ
とがむずかしい。末盧国の比定を変えるほどの理由にはならんね。


201筑紫次郎:2011/07/15(金) 00:04:18.68
>>161 都は久留米さん
>そのような痕跡とは、横穴式石室古墳が菊池川流域から矢部川流域(八女・筑後)に進出したことである。
>何時の時代のことですか?
>3世紀末から4世紀初頭

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4
高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、主に6〜7世紀の古墳で盛んに造られた。

調べたけれど裏付けが取れません。根拠を提示してください。
それと仮に3世紀末から4世紀初頭が事実として何故
横穴式石室古墳が菊池川流域から矢部川流域(八女・筑後)に現れたことが狗奴国が筑後平野に侵略したことになるのですか?

述べたように4世紀には筑後平野の国々は女王が支配しており狗奴国の影響はありません。
5世紀は倭の五王の時代であり狗奴国の支配はありません。
6世紀は筑紫の君磐井の時代であり、石人などに阿蘇の石が使用されているらしいですが、
狗奴国が筑後平野に進出したのではなく筑紫の君磐井の勢力が狗奴国(熊本)まで及んでいたと考えられています。
狗奴国(熊本)が筑紫平野へ進出した風土記、記録、言い伝え、痕跡は皆無です。
ただ
後に大和朝廷の勢力が一時的に狗奴国(熊本)に本拠地を構えた可能性はあるのではないかと思っています。

南には人口過密地帯の山門郡、大牟田もあります。狗奴国が最重要拠点の筑後平野に簡単に進出したとはとても考えられません。
4世紀に佐賀平野、筑後平野を攻略したのは狗奴国ではなく、間違いなく大和朝廷です。
筑後平野にある水沼の大君、天皇屋敷、筑紫君磐井なども狗奴国ではなく大和朝廷です。 
202日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:06:24.02
>伊作先生の説によれば
王都から離れた場所に埋葬したのであって

その説は出鱈目ですよ。
203日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:09:11.55
>>200
あの距離で誤差が出るとはおもわないな。
それに方角が書かれてないのも事実だ。
204筑紫次郎:2011/07/15(金) 00:13:55.49
>>189
>邪馬台国はどこにあるんですか?
倭人伝の行程どおりに進めば自然にたどりつくよ。     

その通りだと思います。。
たどり着けないのは間違った読み方をしているからです。
ところで
どこにたどり着くのですか。
良かったら教えてください。
205日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:19:41.91
>>204
伊都国=佐賀となれば、そこはすでに有明海の沿岸だ。伊都国から南へ水行ができる。
ということは、放射説が正しいということだよ。
伊都国から南へ水行二十日が投馬国。戸数5万戸の国の首都が置かれたところとなれば
これは薩摩川内だろう。後の薩摩国府が置かれたところだ。
伊都国から南へ水行十日陸行一月が邪馬台国。水行十日は川内までの丁度半分だから八
代あたりになるね。そこで上陸して南へ陸行するとなれば、球磨川沿いに南下し、小林
か都城盆地ということになる。距離的にみて都城の可能性が大だな。
206日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:22:53.87
>>87にキチンとした反論がないとこをみると、末盧国から伊都国まで短里はあり得ない。
公里500里だと、やっぱり伊都国は国東半島周辺になっちゃいますよね。
207日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:23:14.29
伊都の佐賀説はもう無いでしょ
208日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:23:40.11
唐津から佐賀への唐津街道はおおむね谷を縫っていくんで、
そんなに険しいところはありません。
一番標高が高いところで50メートルくらいです。

唐津から糸島はとても険しく、高いところだと標高400メートル程度
上がらなければなりません。

糸島に行くなら直接海路を行きましょう。
伊都と志摩の間は水路か湿地帯で、停泊しやすい場所のはずです。
209日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:26:53.38
短里じゃないと、そもそも松浦にたどり着かない。
帯方郡から公里でどこに着くかな。
やはり、パプアニューギニアかマリアナ諸島かな。
210日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:31:18.70
水上行程の里と陸上行程の里は異なった尺度による表示だって伊作大先生も認めてたぞ
211日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:35:17.59
困ったときの伊作頼みか。世も末だ。
212日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:39:52.19
伊都国を怡土だとかその付近の玄界灘沿岸に比定しようという考え方は、百年やってきて
もその先を説明することができていない。
伊都国=佐賀説は、倭人伝どおりだし、その先もまったく無理することなくすんなりと
比定できる。どちらが正解かは自ずから明らかだね。
213日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:40:13.56
アホの言うことを真に受ける馬鹿もいる。
214日本@名無史さん:2011/07/15(金) 00:41:53.44
これでアンタと伊作は対立関係になったわけだ。
カルト信者は理詰めで一人一人更正させていかなきゃな。
215筑紫次郎:2011/07/15(金) 00:44:59.67
>>205
有り難うさんです。

>伊都国=佐賀となれば、そこはすでに有明海の沿岸だ。伊都国から南へ水行ができる。
ということは、放射説が正しいということだよ。
>水行十日は川内までの丁度半分だから八
代あたりになるね。そこで上陸して南へ陸行するとなれば、球磨川沿いに南下し、小林
か都城盆地ということになる。距離的にみて都城の可能性が大だな。

同意はできませんがメンドイので反論はしません。
そのように考える人もいるのだと理解しておきます。
216塩土老翁:2011/07/15(金) 00:48:28.42
>>208
> 糸島に行くなら直接海路を行きましょう。
伊都と志摩の間は水路か湿地帯で、停泊しやすい場所のはずです。

当時は、長崎の出島状態だったようです。
 西に伊都水道東に三苫水道が、風待ち・避難場所だったようです。

 



 
217日本@名無史さん:2011/07/15(金) 01:10:23.44
結局伊都の佐賀説も説明に無理があるのか。
218日本@名無史さん:2011/07/15(金) 01:13:20.12
何の無理もないから、誰も反論できないんだよ。
219日本@名無史さん:2011/07/15(金) 01:14:38.48
現代のような動力船じゃないのだから
船で直接行けばいいってのは的外れでしょ。
後代の遣唐使船だって目標地点に辿りつけたのは
それほど多くない。
220日本@名無史さん:2011/07/15(金) 01:28:10.36
何と的はずれなご意見で! 郡から末盧国まできた船が怡土までたどり着くのが
大変だとでも?
221日本@名無史さん:2011/07/15(金) 07:15:05.81
反論が出てるのに反論を認めない?
まるで管のような回答w
222日本@名無史さん:2011/07/15(金) 08:06:15.60
熊本方面に邪馬台国を求めるなら、
火山に関する記述が全くないというのはおかしいね。
223日本@名無史さん:2011/07/15(金) 08:16:56.21
そうかね?
外輪山の中にでも入らなきゃ、ただの山地だぞ。
中にはいっても、場所が良くなきゃ、遠くに見えるただの山と雲だし。
224伊作:2011/07/15(金) 08:37:16.34
『翰苑』が『後漢書』から引いたとする「倭面上国」と、
これに続く「倭面土地」「倭面土」依拠する説を潰しておこう。

『翰苑』は7世紀の唐代に書かれた類書だ。
類書とは、多くの書物の内容を分類収録したもので歴史書ではない。
周知の通り、正史『後漢書』は「倭国王帥升」で、倭面上国という表記はない。
では、『翰苑』が引いたという『後漢書』とは何か。
これを探るにはまず、笵曄が正史『後漢書』を編む資料とした先行『後漢書』をみる必要がある。
彼が見たと思われる先行『後漢書』と、後漢代を記録したものは以下の通り。

・謝承『後漢書』(紀伝体)霊帝紀に始まり東夷列伝で終わる。
・華キョウ『後漢書』(紀伝体)明帝紀 で始まり西南夷伝 ・南匈奴伝で終わり。
・謝沈『後漢書』不完全な紀伝体で伝少なし。
・袁山松『後漢書』 光武帝紀ではじまり。西域伝で終わる。
・司馬彪『続漢書』(紀伝体)光武帝紀で始まり烏桓伝・鮮卑伝 で終わる。
・薛瑩『後漢記』光武帝紀 に始まり戴翼伝で終わる。
いずも東夷に関する記録はない。
以上のことから、57年の倭奴国と107年の倭国の朝献の記録は、
朝貢担当窓口で記録されたものが帝紀と倭国伝に使用されたものと思われる。
つづく。
225伊作:2011/07/15(金) 08:38:25.18
それでは、『翰苑』が『後漢書』から引いたとする「倭面上国王帥升」は
どの『後漢書』にあったのか。
おそらくは謝承、華キョウ、謝沈、袁山松のいずれかの『後漢書』にあったものと思われる。
(正史『後漢書』を編んだ笵曄は、これらを見ていながら倭国王とした)。

そもそも、後漢代からほど遠く500年後の唐代の類書編纂者の手元に、
『後漢書』 数名の編纂者たちが見た資料よりも詳しく正確な資料があった可能性は皆無に近い。
したがって、7世紀の張楚金が正史『後漢書』よりも正確な記録を書ける余地はない。

その『翰苑』以降、「間違いの増幅リレー」を見せるのがこれだ。
すでに、そちこちでいい尽くされた経緯だ。
・倭面土地王師升等 (唐類函から引いた『通典』)
・倭面土国王帥升 (北宋版『通典』)
その他「倭面上国」 「倭面国」などがある。
なお、如淳(三国魏代の人物)の『漢書』地理志の注に「委面」とあるが、
640年代に『漢書』に注釈を入れた顔師古はこれを「倭面=倭国」としている。
つづく
226伊作:2011/07/15(金) 08:39:43.73
●しめ
二流文献ともいえる『翰苑』が最初に書いた「倭面上国」。
笵曄が先行する『後漢書』を吟味して編んだ正史『後漢書』にない「倭面上国」。
そして、倭面上を「倭面土地」「倭面土」と訂正した(つもりの)『通典』。

自論に都合のいい記録はないかと文献漁りをして、二流・異聞とされるものに飛びつき、
その正否と信憑性の検証・批判もせずに自論の土台に使うとは、いかにも素人らしいが、
土台となるところが脆弱な論はわずかな振動にも耐えきれずに液状化する。

これで、「倭面土だ」「メタだ」という言説をメタメタにしたぞ。
227塩土老翁:2011/07/15(金) 10:03:53.71
陳寿(233−297)は、蜀の出身で四川省生まれ、蜀に仕え官職についたが父が亡くなって服喪中に病気に
なり、女中に薬を作らせた。 儒教では「三年の喪」があり、ことにセックスのタブーがきつい。この女性を寝室
に入れたことが 噂になり失職した。  
その陳寿の才能を認め、引き立ててくれたのが一つ年上の「張華」である。張華は、司馬昭の息子武帝に私設秘書
室に任命され実績を残す、も政敵に憎まれ朝鮮半島の開拓に従事した。郡司令官として表彰もされた。
半島、倭国の地理に精通した人である。恵帝になって中央に返り咲くが300年のクーデターで一緒に殺害された。
 
 この張華のおかげで陳寿は、晋朝の修史官になり「三国志」を書き上げるのである。張華は司空に出世したが、
陳寿は病気で翌年死んだ。  死後まもなく「三国志」公認の請願が出され、勅命が洛陽令に下り、陳寿の家で
「三国志」を写さしめた。
 
 こうして「三国志」は、張華の政治力で正史として公的な地位を獲得したのである。 司馬家、張華と続く人脈の為
司馬家に不利な材料は極力削除圧縮され、好材料は増幅された不完全な書なのである。

 したがって、1世紀半過ぎて支障がなくなった頃、宋の裴 松之によって、多量の注を書き、多量の史料を引用して
史実を補填する必要があったのである。
228伊作:2011/07/15(金) 10:54:48.33
>>227
だから何だ。
聖職者にだって「下半身に人格なし」なんでのがザラだぜ。それと仕事とは別物だ。

てめえ勝手なごたく並べるために、陳寿の人となりを批判しておいて、
その彼の手になる記録の懐疑へと発展させ、
文献の信憑性をコキおろそうなんて手法は古くからある骨董的だ。
そんな見苦しいことをするなら、文献を頼りに歴史に口だしするのをやめとけ。

姑息な奴らにかかると、日本の天皇体制の何倍も巨大な王朝の
威厳もへたくれもあったもんじゃないな。
229日本@名無史さん:2011/07/15(金) 11:22:54.51
>>227

魏王朝は、禅譲を受けた王朝としては(短命だったせいか)珍しく、
正史をもたない王朝となった。
本来、魏王朝下で編まれるはずだった後漢代の歴史書は、
宋代になって正史『後漢書』として誕生することになる。

正史『後漢書』を編んだ范曄は、宋朝の彭城王・劉義康の母の葬儀の最中に宴席を開いたことから、
劉義康の怒りを買って宣城太守に左遷された。
その笵曄が、 太守職の片手間に先行する数種類の『後漢書』を資料として整理 してまとめた。
しかも本紀と伝しかなく、
南朝梁の劉昭が司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。
これがいわゆる一つの正史『後漢書』だ。

後年、劉義康擁立に関して孔熙先らの謀議に加わった范曄は、彼を含む一家全員が処刑された。
それでも、(助手か部下に書かせたと思われる東夷伝を除けば)、
彼の手になる『後漢書』の価値がさがったという話は聞いたことがない。

お角違いの横車にも似た編纂者批判による文献批判などに、いまどき誰が騙されるものか。
230伊作:2011/07/15(金) 11:33:54.47
頭わるい上にろくな勉強もしなかったくせに、
自惚れくさって思いつきの妄想を並べる野郎ども。

この天才の目が光っているのだ。
畿内説・九州説に限らず、弊害となるような害宣行為には、
きつーいお灸をすえてやるぞ。
231伊作:2011/07/15(金) 11:35:34.01
>>229 も伊作の投稿だ。文句あるか。
232塩土老翁:2011/07/15(金) 11:48:54.19
俺にレス付けるな
このゴキブリ野郎
板は公的なものだ。
色んな見解があっていいんだ。
これ腐れが
233日本@名無史さん:2011/07/15(金) 11:55:09.45
>>169 >ググったら、太伯は紀元前12世紀の人で、呉の祖って書いてあったけど、
太伯は殷の時代であることは間違いない。殷と列島の関係を見ると
『殷の原貝貨』に沖縄の黄色宝と呼ばれる子安貝が使われており、
又沖縄の子安貝は三内丸山迄出土している。
殷のシャーマンの『坐』は『女坐』で、その『座主』に『倭』が座っていた
と記憶しているが。『倭』という文字は『女偏に属し』女を表す
象徴文字の一つに挙げることが出来るのはそのあたりにみえる。
「倭」⇒「委」「倭→ ←イ妾」
234日本@名無史さん:2011/07/15(金) 12:00:11.00
>頭わるい上にろくな勉強もしなかったくせに、
自惚れくさって思いつきの妄想を並べる野郎ども。

これって伊作のこと?
235伊作:2011/07/15(金) 12:09:46.71
>>232
>板は公的なものだ
だから。社会責任というものを考えて発言しろ。

>色んな見解があっていいんだ。
てめえのは見解ではならい。よこしまな意図を背景とした横車だ。この野郎
236伊作:2011/07/15(金) 12:10:51.31
>>234
陳腐。さいていの切り返し。
237日本@名無史さん:2011/07/15(金) 12:19:11.62
>>225
>その『翰苑』以降、「間違いの増幅リレー」を見せるのがこれだ。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」・・・後漢書
からすると、「倭國王」を名乗った「帥升」は、後漢から門前払いを食っている。
何故だ、それは「倭國王」は女でなければ名乗れないからだ。
男の「倭國王」を後漢は認めなかったということだ。
だから、『倭面土地王師升等 (唐類函から引いた『通典』) ・倭面土国王帥升 (北宋版『通典』) その他「倭面上国」 「倭面国」などがある。』と『倭に紐をつけての王』を記述してあるのだ。
238塩土老翁:2011/07/15(金) 12:21:11.96
【 名者實之賓 】
(名誉(名目)などというものは実質の客(一時的な仮りのもの)にすぎない。)
「裏を返せば、現実生活にとっては、言葉はお客さんにすぎない」という格言の
 通用する国民だ。

 その顕著な例が、南京大殺戮だろう。
 千人、二千人ではじまった数は、三十万まで膨れ上がっている。
 数を増やし、距離を伸ばすことにそれほど違和感を感じない民族だ。

 倭人伝は、何処かが誤解され、抜け落ち、何処かの時間軸がずれているから
 中国、日本、韓国の史家達がよってたかって研究しても解決できない。

 そのまま読むな、ボケ!
239伊作:2011/07/15(金) 12:27:26.98
>>237
>「倭國王」を名乗った「帥升」は、後漢から門前払いを食っている。

冗談いうない。「頼るは拒まず、服わずは討伐」が王道の不文律だ。
160人の生口の大半が技術や知識の習得をめざす留学生だとしたら、
門前払いどころかきちんと受け入れて大切に扱ったことだろうよ。

タコが。歴代の中国歴史書が倭奴国は倭国の前身だと証言しているんだぞ。
倭奴国が倭国を統一したのだろうから、
金印は先に頂戴したものを伝世(継承)しているとみるのが歴史の常識だ。
当然、ここで新たな金印をくれる理由などない。

中国王朝の判断と見解と威厳と格式を安っぽく考えるでない。
240伊作:2011/07/15(金) 12:31:16.17
●『隋書』の「イ妥」が倭の異字体であることを証明しておこう
(ここでは、「イ妥」を□であらわす)。

『隋書』□国伝はこう書いていた。
「漢の光武の時、大夫を自称する使を遣わして入朝す。
安帝の時、また使を遣わして朝貢す。これを□奴国という」。
これは、『後漢書』のいう光武帝の57年に朝献した倭奴国と、
これに続く107年の帥升の倭国の記録であることは明白である。
つまり、ここで書いた□奴国は『後漢書』のいう倭奴国のことなのだから、
倭の俗字(異字体)であるという根拠になる。
さらに、『隋書』帝紀のほうでは通常の倭という文字を使っている。
「608年3月壬戌、百済、倭、赤土、迦羅舍国、並びに使を遣わして方物を貢ず」。
「610年春正月己丑、倭国使を遣わして方物を貢ず」。
(※中国中央研究院の校勘。按:「古くはつくりの部分の委を妥で通用した時がある」。
「『隋書』煬帝紀では倭と書いている。 本卷も いま改めて 一律に倭とする」)。
中国の学識がこのことを認めている。 
つづく。
241日本@名無史さん:2011/07/15(金) 12:31:45.52
さらに古く、司馬遷が倭を□と書いている。
『史記』魯周公世家「文公が治世18年目の2月に卒した。文公には二人の妃があり、
正室には惡と視という二人の子がいた。 側室の敬贏には□という子がいた。
魯の(実力者である)公子・襄仲は、嫡子の惡と視の二人を殺して、庶子の□を世継ぎに立てた」。
(※『史記』の書いた□は、『隋書』の倭の異体字と同じ□である。
これについては、「集解徐廣曰:一作倭」とある。
私が教科書とした吉田賢抗氏は「『左伝』は(□を)倭につくる」と注釈している)。
「倭」の異字体として、古くから文筆家たちの間で□が使われていたのである。
まだつづくぞ。
242日本@名無史さん:2011/07/15(金) 12:41:13.65
>>239 :伊作:
>>237
>>「倭國王」を名乗った「帥升」は、後漢から門前払いを食っている。
> 160人の生口の大半が技術や知識の習得をめざす留学生だとしたら、
>門前払いどころかきちんと受け入れて大切に扱ったことだろうよ。
寝言はいいから、後漢が「倭國王帥升」を『受け入れ大切に扱った』という原文を挙げてみんしゃい。あげれるはずはない、そんな史実は存在しないから。
243伊作:2011/07/15(金) 12:41:36.68
さらにさらに。
慶元版『太平御覧』が倭の文字に□を使っているので紹介する。
「後漢書曰く」として、『後漢書』倭伝から引用した文章を載せているが、
倭の文字がすべて□になっている。

同じく「魏志曰く」として、『三国志』魏書の倭人伝から引用した文章を載せているが、
倭の文字がすべて□になっている。

『南史』から引いた記録も同じく「南史曰く」として「□国風俗不淫……」としている。
どれもみな倭人・倭国に関する記録だから、□が倭の異字体であることが分かる。

(※『南史』以降は、『宋書』『北史』から引いた記録は倭国・倭王・倭国王と、
□ではなく倭という文字を使っている。
かと思うと、□国と書いたはずの『隋書』から引いた記録は倭国・倭王と書いている)。

一見はちゃめちゃだが、当事者にとっては□でも倭でも良かったのだろう。
「倭国とは別にイ妥国があった」などという言説は無視するがよかろう。
こういう手合いに関わると自分の程度が低下するだけだ。
244伊作:2011/07/15(金) 12:47:26.28
>>242
>>原文を挙げてみんしゃい。
俺は論拠に乏しい推論は極力いわない人なんだ。
推論をいうにも、推論の背景となることを明確に書いている。
お前らのような、ただの推測空論とはわけが違う。
だが低能児なみのタコには、
図式的なこと以外は書いてないのと同じなのだろう。

で・そういうお前は、
何か妄想を足れるときは論拠なり原文を提示したことがあるのか。
もっとも、名無しじ過去ログの探しようもないわなー。
お前にとっちゃ名無しは好都合なわけだ。わらわら
245伊作:2011/07/15(金) 12:50:54.82
ある名無しが「あれは俺の発言だ」といったところで、
他の(人数さえも不確実な)名無しがみな、
「あれは俺の発言じゃない」と証言する必要がある。

バカには良くは意味の理解できない論理展開だろうが、
名無し投稿てのは、そうした証拠能力さえない投稿形態なわけだ。わらわら
246伊作:2011/07/15(金) 13:01:53.93
>>242
>寝言はいいから、後漢が「倭國王帥升」を『受け入れ大切に扱った』という原文を挙げてみんしゃい。
こいつの決定的な無知・無恥をさらしてやろう。

俺はこう書いた。
「頼るは拒まず、服わずは討伐」が王道の不文律だ。
160人の生口の大半が技術や知識の習得をめざす留学生だとしたら、
門前払いどころかきちんと受け入れて大切に扱ったことだろうよ。

俺の文章はすべからく計算づくで書かれている。
別に論拠提示を必要とするほどの断定的な文言ではないぜ。タコ
こんなことは、『史記』をはじめとして、
中国歴史書を広くを読み込んだ人間なら誰にもわかることだ。
原文を提示する必要などない。

>『受け入れ大切に扱った』という原文を挙げてみんしゃい。
文章そのものが稚拙だが、どこの大学を出たのかな。(出てないのか)。
こんなことは、『倭人伝』しか呼んだことがない上に、
『倭人伝』すらまともに読めないバカがいうことだ。
247卑彌呼の都は久留米:2011/07/15(金) 13:02:50.58
>>201 筑紫次郎さん
wikiの横穴式石室は否定されるべきものです。
記事を書いたのは、韓国厨の捏造史観の持ち主ではないかと。

私の言うところの横穴式石室は、後のベンガラ彩色による装飾古墳となるものです。
初期の横穴式石室は崖に作られた横穴墓と呼ばれるものです。
これが平地に作られると横穴式石室に盛り土をして古墳になります。
これが地下に作られると九州南部にある地下式墓となります。

横穴式石室墓の特徴は、石室がベンガラにより彩色されていたり、
大量のベンガラにより消臭処理されていることです。
石棺にピンク色の石を使ったりすることもあります。

248日本@名無史さん:2011/07/15(金) 13:04:03.74
>>240 :伊作
(ここでは、「イ妥」を□であらわす)。
『隋書』□国伝はこう書いていた。
「漢の光武の時、大夫を自称する使を遣わして入朝す。
安帝の時、また使を遣わして朝貢す。これを□奴国という」。
「漢光武時遣使入朝 自稱大夫」・・・@
「安帝時又遣使朝貢 謂之□奴國」・・・A
のことですか?
相当に誤読していますね。
@ は倭奴国でAが□奴国ですよ。@は女王Aは男王。
倭国大乱は@とAの勢力争いでしょう。
結局共立して卑弥呼を建てた。その出自は@だ。
魏の卑弥呼はAが出自だ、だから倭王ではなく「親魏」を「倭王」に冠してある。
解ったかね。


249日本@名無史さん:2011/07/15(金) 13:19:06.35
>>246 名前:伊作
>俺はこう書いた。
>「頼るは拒まず、服わずは討伐」が王道の不文律だ。
>160人の生口の大半が技術や知識の習得をめざす留学生だとしたら、
>門前払いどころかきちんと受け入れて大切に扱ったことだろうよ。
は、貴殿の願望で史実とは何の関係もない。
 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
が、後漢と倭國王帥升の完了形なのだから。

250伊作:2011/07/15(金) 13:22:41.72
>>248
あっちいってろ。
251日本@名無史さん:2011/07/15(金) 13:27:18.21
>>250 名前:伊作 :2011/07/15(金) 13:22:41.72
>>248
>あっちいってろ。

ははは〜〜〜〜!
只、誤読を指摘しているだけさ。


252伊作:2011/07/15(金) 13:29:02.92
>>249
>貴殿の願望で史実とは何の関係もない。
「頼るは拒まず、服わずは討伐」が王道の不文律だ。 は史実だ。
とくに外藩の異民族の朝献・朝貢は、化外慕礼として歓迎する。
(化外慕礼は、知らないだろうから検索して調べろ)。
これ常識な。

で。帥升らは何を願い出たのか。
「願請見」だからと、ただ皇帝に接見することを願っただけか。
それだけで160人もの生口を献上したと思うか。
(書いてあることにも満足に洞察がいかんバカにこれ以上の説明はしない)。

>が、後漢と倭國王帥升の完了形なのだから。
だから。どこの大学を出たのかと聞いてるがな。
253伊作:2011/07/15(金) 13:30:42.23
>>251
議論する気なら、誰にも分かるように書くことだ。
てめえだけが分かってる気で、ちんぷんかんぷんだ。この野郎
254伊作:2011/07/15(金) 13:32:10.51
ためいき。

正史とは、王朝によって公式に編纂された王朝の歴史書、
あるいは王朝が正当と認めた歴史書だ。
中国王朝が中国王朝の歴史の「部分」として中国語で書かれた『倭人伝』だけをみて、
『倭人伝』を理解できると考えている。
にわか仕込みのど素人には、この手合いばかりが目につく。

中国の歴史書を読み解くのに中国の歴史・制度・習慣などを知らずしてどうするか。
そういう輩にかぎって「書いてない」を連発する。無恥・無知の極み。
この鉄人にしてみれば、もの分かりの悪いガキを相手にしてる気分だぜ。
255水銀厨:2011/07/15(金) 13:39:09.17
伊作さんはやっぱり凄いね。
256日本@名無史さん:2011/07/15(金) 13:42:18.93
>>252 名前:伊作
>だから。どこの大学を出たのかと聞いてるがな。
驚くなよ!
『喜びも悲しみも行年月』のとうだいだ。

伊作ちゃん
あんたも相当な天才のようだにゃ。
伊作ちゃん
『俺は日本の総理大臣だ』といって中国政府にアポをとっても、
例え千人の人を従えても中国政府は、寝ぼけたアンちゃんなど相手にしないだろうYo.



257伊作:2011/07/15(金) 13:48:43.42
>>251 のぼんくらへ。
明確な事実から確認するぞ。
「漢光武時遣使入朝自稱大夫」。これは57年の倭奴国の朝賀のことだ。
「安帝時又遣使朝貢謂之□奴国」。これは107年の帥升の朝献のことだ。

ここでいう□が倭の異字体であることは明白だから、
隋書は57年の朝賀と107年の朝献は倭奴国がやったと書いている。
そうすることで、倭奴国と倭国との脈絡に言及することにもなっている。
「書かずに伝える」というのは、文章書きにとっては初歩的な技巧の一つだ。
お前などには高度すぎて理解できんだろうがよ。

なんだー、この小ガッコ低学年で習う加減計算的な出し方は。
>@ は倭奴国でAが□奴国ですよ。@は女王Aは男王。
>倭国大乱は@とAの勢力争いでしょう。
>結局共立して卑弥呼を建てた。その出自は@だ。
>魏の卑弥呼はAが出自だ、だから倭王ではなく「親魏」を「倭王」に冠してある。
論拠らしいものを提示せず妄想結論の羅列じゃないか。んー?

>解ったかね。
だれに口きいてると思ってるんだ。この野郎
258伊作:2011/07/15(金) 13:54:22.07
>>256
そうさな。俺は新生の天才だ。お前たちぼんくらに比べればよ。
朝献・朝見と簡単にいうが。相手は絶対専制時代の神格化された天子・皇帝だ。
現代の俺たちがローマ法皇やエリザベス女王に面会するのよりも難しかったろうよ。

そうした作法もしきたりも心得た上で、
弥生まっただ中の倭人が57年に朝賀した事実こそ驚嘆すべきなのだ。
259伊作:2011/07/15(金) 14:00:04.06
>>255
>伊作さんはやっぱり凄いね。
また一人・伊作ファンができたらしい。
論旨の異なる論敵が真価を認めるのも、アマチュアの中では俺ぐらいのものだろう。

それにしても、素直に評価する観客がもっといてもいいはずだが。
オープンマインドじゃないのが集まってるのか。
260日本@名無史さん:2011/07/15(金) 14:04:21.81
>>257 名前:伊作
>ここでいう□が倭の異字体であることは明白だから、
其れは、思量がたりないな。
□ を倭の異体字としてあるのは、□が倭種だからだ。
総じては□も倭であるが、別しての倭はあくまで「倭」だけなの。
で、列島の倭を敬称しているのは「太伯之後」で、
□ は倭種であるから総じては倭であるが「太伯之後」ではないから
別しては倭を借用することが出来ないから□としているの。

261卑彌呼の都は久留米:2011/07/15(金) 14:08:29.60
>>201
>それと仮に3世紀末から4世紀初頭が事実として何故
>横穴式石室古墳が菊池川流域から矢部川流域(八女・筑後)に現れたことが狗奴国が筑後平野に侵略したことになるのですか?

菊池の勢力(狗奴國)は3世紀初期卑弥呼の頃から筑後平野に侵入しようとしています。
場合によれば倭國乱の頃から試みていたのではないでしょうか?
菊池の勢力は3世紀末に突然筑後平野に侵入したのではありません。
菊池の勢力が3世紀末頃侵入に成功し矢部川流域に定着したからこそ、
彼等の墓制である横穴式石室墓群が矢部川流域にできたのです。
4世紀以降装飾横穴式石室古墳は北上し始めます。
九州の王者は6世紀の初期(筑紫君岩井)まで菊池の文化を受け継ぐ者達だったのです。
262伊作:2011/07/15(金) 14:18:04.44
>>260
ガキじゃないんだから、説明文章ぐらいちゃんと書け。
そのていたらくじゃ程度が知れるぜ。

あのな。
お前などとはデキ具合と信頼性において天地の開きがある中国の良識が、
「□ は倭の異体字」と断定しているんだ。

バカにも分かるようにいえば、「□と倭は同じ文字」というのと同じだ。
これを別の文字として語るのはレッドカードだとゆってるが。

ま・アナーキー的な反逆心でもなけりゃ、
ある程度歴史がはっきりしている7世紀に、
「九州に□国、大和に倭国があった」などとはいわんだろう。
263水銀厨:2011/07/15(金) 14:23:40.10
>>259
>中国の歴史書を読み解くのに中国の歴史・制度・習慣などを知らずしてどうするか。

資料に関する解釈は的確だと思う、個人的には色々教わりたい位だ。
邪馬台国とは直接関係ないが、中山国について色々調べてたんでね。
264伊作:2011/07/15(金) 14:28:54.82
>>261
またほれ。思いつきストーリー(論拠なき結論)の羅列だ。

俺もやろう。
卑弥呼時代の狗奴国は、球磨川流域から川内川流域を版図として、
球磨地方(人吉盆地)を拠点としていたのだ。
菊池は帥升たち男王の時代の拠点。卑弥呼の時代は邪馬台国の一部。
遺跡が豊富なことで分かる通り「良い土地」だったんだわなー。
茶畑しか使い途がない八女や大河中流の拠点都市たる久留米よりも
遥かに弥生の香りが高いところだよ。
265日本@名無史さん:2011/07/15(金) 14:29:32.19
>「九州に□国、大和に倭国があった」などとはいわんだろう

何も解っていない、伊作ちゃん

□国は、魏志の「奴国」の系で、
倭国は、魏志の「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都」の系 だ。
266卑彌呼の都は久留米:2011/07/15(金) 14:32:01.74
>>224-226 劣等学生だった伊作氏
間違いが増幅されたのは、間違いが間違いでなかったからだ。

佐賀平野背振山麓のメタ(米田・米多・目達)の地に、2世紀初頭まで倭の王者がいたからだ。
その王者の城郭は、今、吉野ヶ里遺跡と言う。
267伊作:2011/07/15(金) 14:33:45.03
>>263
>邪馬台国とは直接関係ないが、
邪馬台国など、倭国・日本国の黎明を極める一つの要素でしかない。
本来は邪馬台国とは関係なく論考をすすめるべきなのだが、
邪馬台国にとらわれすぎて本当の歴史を見失っている輩ばかり。

>個人的には色々教わりたい位だ
まじめに問答したかったら、専用の掲示板を立てるよ。
268卑彌呼の都は久留米:2011/07/15(金) 14:37:35.26
文字認識テスト
俀國=イ妥國
269伊作:2011/07/15(金) 14:41:48.44
>>266
二流・異聞とされる文献に依拠した言説は、
二流以下の扱いうける宿命にある。

勝手なスチーリーねつ造も自己満足の世界で済むなら何もいわんが、
公衆の面前で吹かれると・いい加減・看過するわけにはいかない。
270伊作:2011/07/15(金) 14:43:49.70
>>265
事実と現実を提示したが、抗弁できず我論連呼しか手がないようだな。
だからゆったろ。あっていってろ、と。
271日本@名無史さん:2011/07/15(金) 14:49:10.88
文字認識テスト
俀國=イ妥國≠倭國
272日本@名無史さん:2011/07/15(金) 15:00:38.62
>>270 名前:伊作
>>265
>事実と現実を提示したが、抗弁できず我論連呼しか手がないようだな。
>だからゆったろ。あっていってろ、と。

漢書地志曰 夫餘樂浪海中 有俀人 分爲百餘國 以歳時獻見
 後漢書 光武中元年二 倭國奉貢朝賀 使人自稱大夫 光武賜以印綬 
安帝初元年 俀王師升等獻主口百六十 景初之辰 恭文錦之獻 
槐志曰 景初三年 俀女王遣大夫難升未利等 獻男生口四人 
女生六人 班布二疋二尺 詔以爲新魏倭王 假金印紫綬 
正始四年 倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人 上獻生口也

倭と俀を区別しているじゃん、 伊作ちゃん、目を開いてちょ。

273水銀厨:2011/07/15(金) 15:00:39.17
>>267
邪馬台国「しか」見てない論が多い気はしますね。
時間があればまた色々質問しますよ。
274日本@名無史さん:2011/07/15(金) 15:03:06.96
翰苑は、それをもとに何かの論を立てられるような代物じゃないね。

間違いの様子から漢文に慣れていない人間の書写だとわかる。
当時、文字を書けるのに漢文に慣れていないという状況は、子供しか考えられない。

菅原家伝来のものが太宰府天満宮に所蔵されたという説がウィキに書かれていたけど、
むしろ子供が書写したものを、親が学問上達を願って奉納したものじゃないかと思う。
間違いだらけの子供の手習いでは、ほとんど資料価値はない。
275日本@名無史さん:2011/07/15(金) 15:33:29.46
>>274 名前:

都合の悪い物には蓋
ですか?

翰苑は本物だよ。


邪屆伊都 傍連斯馬 廣志曰 俀國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國 安俀西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也
から、俀國は魏志の末廬國・奴國の領域に位置していることがわかる。


276日本@名無史さん:2011/07/15(金) 15:35:15.26
如何だ!
伊作ちゃん 勉強になったかNe.  ははは。。。。。
277ローガン:2011/07/15(金) 15:37:51.40
倭国=イ妥国
「倭國其先所出及所在事詳北史」(南史)
その倭国について詳しく書いたという北史では「イ妥国」。
南史北史 共に編者は李延寿。倭=イ妥は明白。
278卑彌呼の都は久留米:2011/07/15(金) 15:54:50.44
文字認識テスト
俀國=イ妥國=大倭國
279筑紫次郎:2011/07/15(金) 16:20:58.14
>>247 都は久留米さん
wikiの 横穴式石室は否定されるべきものです。
記事を書いたのは、韓国厨の捏造史観の持ち主ではないかと

判断する資料が無く
邪馬台国に関係もなく
興味もありませんので
この話題はこれで終了したいと思います。
280日本@名無史さん:2011/07/15(金) 16:37:27.76
文字認識テスト

俀國=イ妥國=大倭國 ≠倭國
281日本@名無史さん:2011/07/15(金) 17:08:30.54
>>275
たとえば
使譯通於漢者が使譯通漢於者となっていて、於の位置が間違ってる。
こういうのは日本語でいえば「てにをは」の間違いに相当する。
漢文を読んで理解できる人間ならこんな間違いはしない。
つまり、漢文を満足に読めない人間が機械的に書写した結果が、この翰苑。
例えれば、小学校低学年の児童が写した間違いだらけの文書をもとに学術を論じるようなもの。

こんな信頼性の低い文書を根拠に邪馬台国の位置がどうこういっても意味無いよ。
282日本@名無史さん:2011/07/15(金) 17:32:32.49
使譯通漢於(於漢)者州(三十)餘國、稱王、其大倭王治邦(邪)[冠去脚冖至](臺)、
283日本@名無史さん:2011/07/15(金) 17:36:07.32
>>243
> 慶元版『太平御覧』が倭の文字に□を使っているので紹介する。
> 「後漢書曰く」として、『後漢書』倭伝から引用した文章を載せているが、
> 倭の文字がすべて□になっている。
>
> 同じく「魏志曰く」として、『三国志』魏書の倭人伝から引用した文章を載せているが、
> 倭の文字がすべて□になっている。
>
> 『南史』から引いた記録も同じく「南史曰く」として「□国風俗不淫……」としている。
> どれもみな倭人・倭国に関する記録だから、□が倭の異字体であることが分かる。
>
> (※『南史』以降は、『宋書』『北史』から引いた記録は倭国・倭王・倭国王と、
> □ではなく倭という文字を使っている。
> かと思うと、□国と書いたはずの『隋書』から引いた記録は倭国・倭王と書いている)。

信じちゃダメ、でたらめだ。
くれぐれも原典を確認するように。

『太平御覽』の所引『後漢書』は「イ妥」だけど
所引『魏志』は「倭」だ。
以降所引『南史』、所引『北史』、所引『唐書』に至るまで全て「倭」で統一されてる。

『宋書』、『隋書』からの直接引用はない。
284伊作:2011/07/15(金) 18:32:49.83
>>272
>倭と俀を区別しているじゃん、
区別しているんじゃない。その三流文献を担当したバカが間違えたにすぎん。
すべて先書が倭国について記録したことを書いているだろが。
ものごとの見極めもできんタコ。

>漢書地志曰「有俀人」
『漢書』地里志は「倭人あり」と書いている。

後漢書「倭國奉貢朝賀」「俀王師升等」?
『後漢書』も、「倭国王師升等」と書いている。

槐志曰「俀女王」?「倭王復遣」
『魏志』も「倭の女王」「倭王」と書いている。

こんなことを書くのはどこの三流文献だ。
俺は二流・三流の文献は読まないから・おしえろ。
バカか。自論のために三流文献の間違った部分を持ち出すのは、
頭隠して尻隠さずの与太盗っ人も同然だな。はなしにならん
285伊作:2011/07/15(金) 18:36:32.58
>>283
俺の比較検証と違うことをゆってるようだが、詳しく具体的に提示してみろ。
ただの知ったふりの『  』つけか・確認してやる。
286日本@名無史さん:2011/07/15(金) 19:01:32.52
いま、考えなしに、九章算術という中国最古の数学問題集見てたけど、
これに書かれている例題の里程計算の例題も短里なのな。

なんだか、逆に公里のほうがマイナーって感じになってきた。
287サガミハラハラ:2011/07/15(金) 19:31:28.73
中国最古ということは周の時代ということでしょうか。
周の時代なら、周尺で、1里=67・5mです。
よくいう、短里ですね。
288日本@名無史さん:2011/07/15(金) 19:52:51.62
唐会要って文書に、

  拘?蜜國

  拘?蜜,在林邑之西,陸路三月行。山居饒象,並養之以供用。顯慶元年閏正月,來朝貢。在盤盤致物國東南,海路一月行。
  南距婆利國十日行。東去不述國五日行。西北去文單國六日行。風俗物?,與赤土國墮和羅國略同。

  永徽六年八月。遣使獻五色鸚鵡。

こんな感じで、一月行みたいな大雑把な日数表記じゃなくて、五日行とか六日行みたいな
えらく細かい日数表記が書いてあるので、実質距離をはかろうと思ったが、
国の名前も解読も出来ねえ。読める人がいたら解説お願いします。
唐会要でググればいろいろ出てくると思います。
いちおう自分でも努力はしてみるけど。
289日本@名無史さん:2011/07/15(金) 20:03:46.49
wikipediaより

九章算術(きゅうしょうさんじゅつ)とは古代中国の数学書。

近年前漢期の陵墓から発見された算数書に続いて古い。九章からなるいわゆる問題集形式の数学書である。
著者はわかっておらず、加筆修正を経て次第に現在に伝わる形に完成したとされている。
研究によると前漢の張蒼や耿寿昌も加筆したことがわかっている。263年に劉徽の註釈本を制作していたことなどから、
制作年代は紀元前1世紀から紀元後2世紀頃であると考えられている。


もっと最古が見つかっていたようなので、最古はなしで。
邪馬台国時代の直前と言った時代でしょうか。
290伊作:2011/07/15(金) 20:18:29.80
>>283
>くれぐれも原典を確認するように。

『御覧魏志』の錯綜について影印で再確認した。
指摘されたミス(俺の見誤り)もあったようだ。ていせいしとこう。
・『後漢書』曰「□在韓東南大海中…」
倭が□になっている。
●天才の間違い。「魏志曰く」として、『三国志』魏書の倭人伝から引用した文章を載せているが、
倭の文字がすべて□になっている。
・『魏志』曰「倭国在帯方東南大海中……」
●天才の間違い 『南史』から引いた記録も同じく「南史曰く」として「□国風俗不淫……」としている。
・『南史』曰「倭国風俗不淫……」
・『北史』曰「隋開皇30年倭王姓阿毎……」
      「隋大業3年倭国王多利思比孤……」
『北史』が明らかに『隋書』から引いたこの記録は□ではなく倭になっている。
『北史』本文は□と書かれているが、『北史』は倭と書いたように書いている。

>所引『南史』、所引『北史』、所引『唐書』に至るまで全て「倭」で統一されてる。
『北史』の□が倭になっていることは事実だ。

>『宋書』『隋書』からの直接引用はない。
うん。『隋書』からの間接引用があるだけだ。
291伊作:2011/07/15(金) 20:25:21.13
ていせい。
>『宋書』『隋書』からの直接引用はない。
うん。『隋書』からの間接引用があるだけだ。
↓↓↓
うん。『南史』いわくとして『宋書』からの間接引用があり、
『北史』いわくとして『隋書』からの間接引用があるだけだ。
292伊作:2011/07/15(金) 20:32:43.93
いけね・またやった。
正しくは『御覧魏志』ではなく『太平御覧』だった。
293卑彌呼の都は久留米:2011/07/15(金) 20:56:23.02
>>279 筑紫次郎氏
>判断する資料が無く
原文、遺跡遺物、地理についてゼロから分析解析を基に、資料は自分で作らなければなりません。
これが私のやり方です。

>邪馬台国に関係もなく
狗奴國が山越え谷沿いに侵入してきた八女・瀬高は、それぞれ邪馬壹國・投馬國です
卑弥呼の頃に魏に助けを求めた狗奴國との戦場は八女・瀬高付近と推定しています。

>興味もありませんので
従来にはない異なった手法も採っていますから興味は湧かないでしょう
更に、ここでは根拠抜きの結論しか書きませんから。
294伊作:2011/07/15(金) 21:25:38.76
>>288
ずいぶん前に『旧唐書』の南蛮伝を調べたときに見たことのある国が出ている。
たぶん、似たような情報記録の部分だろう。
にわか読みでてきとーだが、だいたいこんな所か。

拘蔞蜜は林邑の西に在り、陸路三月行。(略)
盤盤、致物国の東南に在り、海路一月行。
南は婆利国と距てること十日行。東は不述国を去ること五日行。
西北は文単国を去ること六日行。
風俗物產は赤土国、墮和羅国と略ね同じ。
永徽六年八月。使を遣わして五色の鸚鵡(オウム)を献ず。

拘蔞蜜国(不明)
林邑国(インドシナ半島東南部、チャム人のチャンパ王国)
盤盤国(スマトラ島にあった王国)
致物国(不明)
婆利国(インドネシアのバリ)
文単国(カンボジアからラオスにまたがるクメール王国の真臘国があった。
北部の水真臘と南部の陸真臘に分かれていたが陸真臘を文単国ともいう)。らしい
赤土国(東南アジアの国。詳しい所在については不明)
不述国(不明)
墮和羅國(タイにあったモン族の国家ドワラティ)
295日本@名無史さん:2011/07/15(金) 23:04:02.34
>>294
ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

教えていただいた場所をざっと眺めてみると
公里千里=一月行が成立しそうな気もします。
唐の時代ですからね。

もうちょっと調べてみます。
296日本@名無史さん:2011/07/15(金) 23:26:56.12
>>286
これに書かれている例題の里程計算の例題も短里なのな。

一問か二問紹介してくれませんか。
297日本@名無史さん:2011/07/16(土) 00:01:55.64
>>290
間違いを確認してくれればOK。
298日本@名無史さん:2011/07/16(土) 00:01:59.41
>>296

http://ctext.org/nine-chapters/gou-gu/zh

このURLの後半の問題で、公里、短里の数値を入れて計算すれば
すぐに分かると思います。
299日本@名無史さん:2011/07/16(土) 00:04:49.53
>>298
書き忘れた。

多分、日本語で計算しているサイトもあるはずなので
ググれば出てくるはずです。

最初はたしかそんなサイトで興味を持ったから。
300日本@名無史さん:2011/07/16(土) 00:59:21.82
邪馬台国は、大和。
クナ国は、東海。

卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメ。
トヨは、トヨスキイリヒメ。

これ、豆知識な。
301日本@名無史さん:2011/07/16(土) 01:14:43.64
畿内説の豆知識ね。
302八色仮面:2011/07/16(土) 06:57:14.53
どうして近畿説の諸君は近畿板を作らないの? 近畿説には板を作るほどの値
打ちも無いのかな?
303日本@名無史さん:2011/07/16(土) 07:24:04.33
>>302
近畿説では、倭人伝を解釈できないからだよ。
だから、「九州説でも倭人伝と合わない。」と叫ぶしか手がないの。
304日本@名無史さん:2011/07/16(土) 08:22:17.07
たとい倭人伝の「水行十日、陸行一月」をそのまま読むとしても、
近畿にたどり着く確率はあまり無い
305日本@名無史さん:2011/07/16(土) 08:37:31.84
素朴な疑問だが、魏帝が統一令を出す前に、
公里が使われていた形跡はあるのか?
306水銀厨:2011/07/16(土) 09:29:41.63
>>302
私は畿内説のつもりだが、九州説からも畿内説からも浮いてるけどな。
でも西都原は女王国のはずだからここでも書き込んでる。
307日本@名無史さん:2011/07/16(土) 10:11:08.89
ドン来いが畿内説じゃないの?
通説は語るところは少なくなるだろうし、発掘待ちだろうね。
308日本@名無史さん:2011/07/16(土) 10:12:57.16
九州説でも合わないと主張する論者は、倭人伝の行程は連続式に書かれていると決めつけて
いるね。放射式だと九州内に収まりそうなので、敢えて放射式は無視して「合わない」とい
うわけだ。
309日本@名無史さん:2011/07/16(土) 10:13:28.47
>>305
短里こそ使われた形跡が無いのだが
310日本@名無史さん:2011/07/16(土) 11:21:05.69
>>284 :伊作:

>>倭と俀を区別しているじゃん、
>区別しているんじゃない。その三流文献を担当したバカが間違えたにすぎん。
>すべて先書が倭国について記録したことを書いているだろが。
>ものごとの見極めもできんタコ。
箸にも棒にも引っかからない何処かの馬の骨の様なものが、翰苑を愚弄しても始まらないZe.
「暦韓國到拘耶韓國 七十餘里」の一説も驚嘆する程の一説だ。
伊作ちゃん、「七十餘里」は何を記述して有るか解るかね。
所詮、頓珍漢論の伊作ちゃんには無理な質問かNa。
まさか、七千余りの間違いだ。何て答えないでよね。 ははは。。。。


311日本@名無史さん:2011/07/16(土) 12:01:42.45
伊作の方がまともだな。
312日本@名無史さん:2011/07/16(土) 13:28:58.96
>>281
>>275
>たとえば
>使譯通於漢者が使譯通漢於者となっていて、於の位置が間違ってる

「使譯通漢於者州餘國 稱王 其大倭王治邦臺 樂浪郡儌去其國万二千里 甚地大較在會稽東」の
 「使譯通漢於者州餘國」は『使譯通漢於倭・俀者州餘國』の意だ。
「州餘國」の三十余国には、倭・俀もあるから只、「於者」と記述したのだ。
止まれ、「倭」の領域は「樂浪郡儌去其國万二千里 甚地大較在會稽東」だ。
この時制に於ける「俀」の領域は、「 炙問俀地 絶在海中 洲島之山 或絶或連 周旋可五千餘里 四面倶[扌弓一]海 自營州東南 經新羅 至其國也」
で、未だ 「會稽東」列島の北緯30度・口之島を越えない南・「周旋可五千餘里」「至其國也」の「其國」が俀国のことだ。
その行程は、漢の国都長安から自營州(現・淄博市)
そして新羅を経て北緯30度以南の俀に到るのだ。
俀が倭を盖(しのぐ)と、総じての倭の領域は
「計其道里當在会稽東治【冶】之東」で
北緯26度の沖縄迄南下した。
313日本@名無史さん:2011/07/16(土) 14:11:18.55
>>312
お前さんの話はわけが分からん。他人に分ってもらえるように書いてくれ。
314日本@名無史さん:2011/07/16(土) 14:32:19.44
本人も何を言ってるのか分からんのだろう。
315日本@名無史さん:2011/07/16(土) 14:37:54.12
第三者にわかり易く説明できるのは大事だよな。
316塩土老翁:2011/07/16(土) 16:06:02.97
まあ、こんなもんかな。

http://www.geocities.jp/cato1963/hideyoshi.html
317日本@名無史さん:2011/07/16(土) 19:40:02.51
>>316

中国の伝聞のいいかげんさを知れば、
邪馬台国が九州とかとても言えたものじゃないな。
318日本@名無史さん:2011/07/16(土) 20:04:18.96
>>316
本当かよ
明史 評価 wiki
明史の資料的価値は康熙帝が望んだとおり現在でも高い評価を得ている。
清代には趙翼が「遼史は簡略であり、宋史は雑で量が多い、元史はぞんざいであり、
金史のみ優雅さや簡潔さがありやや見るべきところがあるが、明史には及ばない」
と述べている。また、趙翼の友人であった銭大マも「公平であり、よく考えられ
大事な点は詳しく述べてあり、未だこれほどの正史はない」と評価している。

319伊作:2011/07/16(土) 20:18:24.65
>>315
>第三者にわかり易く説明できるのは大事だよな。
第三者にわかりやすく説明するには、
説明する側が理路と論理の整った思考をしなければできない。
第三者にわかり易く説明できないのは、
理路と論理の整った思考ができていないことを意味する。

つき詰めれば、知能が高いか低いかの問題に帰結する。
320伊作:2011/07/16(土) 20:37:40.08
>>306
>>西都原は女王国のはずだからここでも書き込んでる。

西都原はそもそも「斎殿原(さいとのはる)」とゆった。
原は「はる」で、原義は「墾(は)る」。これは文字どおり
開墾した土地、人の手が入った土地の総称で、田畑・集落・墓地などにつけられた。
この「はる」が前後の文字との関係で「ばる・はら・わら」へと発音変化する。
ここでは詳しくはいえないが、俺の検証によれば、
今治・播磨・尾張もすべてこの「墾(は)る」に関連した地名である。
●九州に残る「はる」という方言に由来する所に注目されたい。

それはさておき、斎殿原とは、まんま葬祭センターを意味する。
単一勢力で数百年間もあれだけの墓群を維持できるはずはないし、
幾つかあった倭国の国営墓域の一つでだったのではないかな。
●「古墳群や大古墳墓地のあるところが勢力拠点」と短絡するのはやめたほうがいい。

西都原の墓には朝鮮半島で戦死した有力軍人たちも葬られていると思う。
この推測が当たっていれば、墓には遺骸はなく、
半島での戦利品などを交えた「副葬品」だけの墓もあることだろう。
321日本@名無史さん:2011/07/16(土) 20:57:55.23
●また一つ、新たな展開。

先に金鑚(かなさな)という言葉から、
華奴蘇奴国が鉱山か鉄鍛冶が盛んな国名だろうとの読みを提示した。
そして次は巴利国だ。
これが、原(はる)の語源となった
「墾(は)る・墾(は)り」に関連する国名の可能性もあろう。

華奴蘇奴国と巴利国。
とても現実味に欠ける2国だが、
天才にかかるとやおら現実味を帯びてくるわけだ。

むろん、天才の考える由来が当たっていれば、
九州にあった国名であることはいうまでもない。
322伊作:2011/07/16(土) 21:01:10.22
>>321も伊作だから。
323日本@名無史さん:2011/07/16(土) 21:31:42.45
アンタにはコテいらないな、簡単に識別できる
324日本@名無史さん:2011/07/16(土) 21:37:19.91
掲示板といえども、自らを天才と称する者は少ないからな。
325日本@名無史さん:2011/07/16(土) 21:53:59.05
この程度の思いつきを天才というなら、
日本中天才だらけ
326日本@名無史さん:2011/07/16(土) 22:01:25.02
だが、畿内説とか北九州説とかを信じてる奴は、天才とは言えんだろうな。
327日本@名無史さん:2011/07/16(土) 22:06:19.21
転載、天才、甜菜、天災、テンサイ、てんさい
328日本@名無史さん:2011/07/16(土) 22:59:51.39
巴利国(はりこく)は、
今治(いまばり)か尾張(おはり)であろう。

※※※もしやこれで、オレも天才か?
329日本@名無史さん:2011/07/16(土) 23:01:25.84
天才バカボン
330水銀厨:2011/07/16(土) 23:03:24.06
>>320
墓のすぐ近くは基本的に大きな集落はない、と思う。
これは巻向も同じはずで、勢力拠点という認識ではないな。

この周辺で何より重要なのはイクメでしょう、イクメイリヒコ。
それと四国のミマ、ミマキイリヒコ。

今治・播磨・尾張については何らかの
関連性はあるでしょう、(大和の針も)
巴利国については個人的には播磨だけどね。
331日本@名無史さん:2011/07/17(日) 05:17:32.56
>>317
日明貿易は室町時代、『明史』編纂時期は江戸鎖国時代。
倭人伝は、実際に相互間の往来を経ての記録。

『明史』の記述が倭人伝の記事の信憑性に関係するとでも思ってんのかね。
懲りないね、畿内論者は。
332日本@名無史さん:2011/07/17(日) 05:55:49.11
>>331みたいなアホには九州説を止めてもらいたいね。
333日本@名無史さん:2011/07/17(日) 06:23:19.76
>>332
どこがアホなのか説明しないと。
334日本@名無史さん:2011/07/17(日) 07:51:46.24
文献の信頼性というのは、時代の新旧は無関係だろ
(近世のものは信頼できるてもんじゃない)
それを作った「人」による訳だ。

三国志を批判するなら、
陳寿の記述がいいかげんであることを検証しなくちゃな
335日本@名無史さん:2011/07/17(日) 08:26:29.34
いいかげんだろ
だから、こんなに紛糾してる
336日本@名無史さん:2011/07/17(日) 08:29:42.81
読む方がいいかげんなんだよ。伊都国を変な所に比定している。
それが間違いのもと。倭人伝を素直に読んで、佐賀付近に比定すれば
何の問題もない。
337日本@名無史さん:2011/07/17(日) 08:32:24.63
素直に読めば佐賀には行かないだろw
338日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:03:44.48
佐賀しかないだろ。どこに行くっていうんだ?
339日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:07:30.91
これは、陳寿がいいかげんというより
報告書の記載がいいかげんなんだろな
というか、報告書の文章がへたくそ。誤解を招く記述。

もっとはっきりした行程記事を書いてほしかったな。
そうすれば、われわれも悩まずにすんだ。
340日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:15:23.65
これ以上、どこをはっきり書けというのかな?
末盧国が唐津あたりであることは明らか。あとは東南五百里だ。
地名なんぞはどんどん変わる、そんなものはいくら書いたって役にたたん。
341日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:27:07.37
一大から海を渡って千余里は唐津でも近すぎだな。
342日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:32:15.43
別に近すぎないだろ。一支国は方三百里だぜ。それと比べてみな。
343日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:48:30.01
対馬〜隠岐等距離と合わない以上はダメ。
素直に読むなら最後まで素直に読めよ。
地名にも拘らないなら松浦にも拘わる必要はない。
344日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:56:19.33
>対馬〜隠岐等距離と合わない以上はダメ。
どこからどこを考えてるのかな?
とにかく、そんなことでダメなんていってるのは君だけだろう。
末盧国を唐津付近というのは、松浦にこだわっているわけではない。
それが素直な解釈だからだよ。
345日本@名無史さん:2011/07/17(日) 09:56:25.88
だいたい合ってればいいんだよ。
3世紀にぴったり距離を計測出来る方がうそくさい。
346卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 11:05:03.77
>素直に読むなら最後まで素直に読めよ。

素直に読めば末盧國の港は松浦川河口になる。(古松浦湾内3世紀)
君は漢文を読む力が殆どないと宣言しているようなものだよ。
347日本@名無史さん:2011/07/17(日) 11:46:56.62
砂鬼
348日本@名無史さん:2011/07/17(日) 11:49:11.22
佐賀も否定はしないが決して素直な読みではない。
距離の矛盾は解消してないね、千「余」里なら。
しかも南とは書かれてないなら現博多辺りまでは充分選択肢だ。
349日本@名無史さん:2011/07/17(日) 11:57:52.06
大体晴れてりゃ見える程の距離を間違えるのも変な話w
上陸は唐津より東だろう。
350日本@名無史さん:2011/07/17(日) 12:21:11.61
>>319 :伊作
御託はいいから
「暦韓國到拘耶韓國 七十餘里」の 「七十餘里」は何を記述して有るか
答えてくれないかな。天才伊作ちゃん! 答えられないなら俺が答えてもいいよ。
そうすれば、伊作ちゃんの邪馬台国九州説は砂上の楼閣の如く崩壊するよ。
>理路と論理の整った思考ができていないことを意味する。
>つき詰めれば、知能が高いか低いかの問題に帰結する。
知っているかい伊作ちゃん?
ユダヤの大富豪が恐れたのは、知能が高い者ではない、
シェイクスピアのような筆の力を恐れたとさ。
因果関係が成立しない二つの事実を何の抵抗もなく癒着させ一つの事実を創造してしまう短絡したお脳回路の持ち主の筆の力だ。伊作ちゃんの筆にはその才能がみえるぞ。
講談師見て来たような嘘を云い。。。。。。。。。。。。とな。
知能と長けた作文力に因果関係がありとした論文でもあったら教えてよ。


351卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 12:57:56.81
>>346の続き
更に素直に読めば、
伊都國は末盧國の東南500里(35km)の佐賀平野背振山地山麓となる。
352卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 13:05:40.77
>しかも南とは書かれてないなら現博多辺りまでは充分選択肢だ。

南と書かれていないから南と限らないと君が考えていることが、
君の漢文読解力の初心者振りを示しているのだ。
「南」と書いていないのに南に渡海したと読める。
これが普通の人の漢文読解力。
353日本@名無史さん:2011/07/17(日) 13:08:04.64
倭人伝の行程なんていい加減なものだろ。
中国が自ら国交を求めに行った西域とは違うって事だ。
354卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 13:38:12.91
仮説:女王國と狗奴國は何処で戦ったか?

狗奴國は菊池盆地にある。
狗奴國軍の北進ルートは3つある。
@国道3号沿いに八女にでる。
A福岡熊本県道4号沿いに八女にでる。
B九州自動車道沿いに瀬高にでる。

八女は邪馬壹國の領域である。
瀬高は狗奴國の領域である。
邪馬壹國八女と狗奴國瀬高は即ち女王國の南の端。

狗奴國の攻め込みルートはもう一つある。
菊池川河口平地部(玉名)から大牟田に攻め込むルートだ。
しかし狗奴國は内陸国なので、水上戦能力に劣っている。
有明海海岸沿いの戦いは、水人投馬國船団からの攻撃には取る術なし。
(有明海の反時計回りの沿岸海流が狗奴國軍団(陸上戦・水上戦)に災いする。)
355卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 13:41:27.80
>倭人伝の行程なんていい加減なものだろ。
>中国が自ら国交を求めに行った西域とは違うって事だ。

いい加減ではない。緻密に書かれている。
西域より正確である。
356日本@名無史さん:2011/07/17(日) 13:41:42.84
>>352
それを普通の人は憶測、推測と言います。
決して論理的な分析ではないな。
357日本@名無史さん:2011/07/17(日) 13:44:36.50
九州説の大半が携帯小説レベルの妄想だとは思ってたが、
ここのは更に酷いねw
358卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 14:10:25.73
>>350
横レスだが

短里を知らない執筆者が「七千餘里」では遠過ぎると思い、
「千」ではなくて「十」だと勝手に決めつけ、「七十餘里」と書き換えた。

似たような錯誤が新唐書にもある。
「日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居」

京師から旧帯方郡まで二千里(長里)。
旧帯方郡から女王國(日本)まで万二千里(短里)。
両者を合わせて万四千里とした。

「東西五月行 南北三月行」については、
日本が俀國の数倍になっているので不思議に思わずそのまま筆写。
(1月行=1000里の知識は持ち合わせていたようだ)
359卑彌呼の都は久留米:2011/07/17(日) 15:05:50.81
唐代の日本の範囲
東:岩手
西:五島
南:屋久島
北:秋田・岩手
360日本@名無史さん:2011/07/17(日) 15:29:15.13
3世紀よりはるかに往来が多かった唐代でさえ
倭人伝の里程を何の疑問も持たず
そのまま引き継いでいるわけだ。

陳寿が元にした資料も怪しいものだ。
361日本@名無史さん:2011/07/17(日) 15:39:12.77
>>358 :卑彌呼の都は久留米
>短里を知らない執筆者が「七千餘里」では遠過ぎると思い、
>「千」ではなくて「十」だと勝手に決めつけ、「七十餘里」と書き換えた。
 從郡 至倭 循海岸水行 暦韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里 
從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國    到   拘耶韓國 七十餘里 
翰苑では、魏略曰として「乍南乍東」と「其北岸」が魏志の一説から削除されている。興味津津の削除である。が、
この削除部に相当するのが魏略曰:「七十餘里」である。
魏志の「乍南乍東」と「其北岸」で「狗邪韓國」の位置が決定できる。
が、「從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國    到   拘耶韓國」では
「拘耶韓國」の位置が決定できない。
「拘耶韓國」の位置決定の補佐をしているのが「七十餘里」なのである。
「七十餘里」は「拘耶韓國」の國の広さす。
「拘耶韓國」は一つの島であり「七十餘里」はその島の海岸線長なのである。
「「七十餘里」≒30.24km=70里×1800尺×24cm÷100000.
海岸線長30km前後の島を探せ、そこが「拘耶韓國」だ
362日本@名無史さん:2011/07/17(日) 15:59:04.03
>>359 名前:卑彌呼の都は久留米
>唐代の日本の範囲
>東:岩手
>西:五島
>南:屋久島
>北:秋田・岩手
後漢書、魏志の倭の領域にほぼ一致している。
魏志の「計其道里當在会稽東治【冶】之東」
は、倭人の領域の南端である、ここでの倭人とは、倭と俀の両者を一括りにした呼び方である。(倭の領域は後漢時も魏時も変わらない)やがて、
俀の領域であった会稽東治之東・現沖縄は倭国連合から外され琉球国として独立国の道を歩むことになった。





始度一海 千餘里至對馬國 

似たような錯誤が新唐書にもある。
「日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居」

京師から旧帯方郡まで二千里(長里)。
旧帯方郡から女王國(日本)まで万二千里(短里)。
両者を合わせて万四千里とした。

「東西五月行 南北三月行」については、
日本が俀國の数倍になっているので不思議に思わずそのまま筆写。
(1月行=1000里の知識は持ち合わせていたようだ)

363日本@名無史さん:2011/07/17(日) 18:16:03.31
そもそもが日本なん?
364伊作:2011/07/17(日) 18:28:28.73
>>350
>「暦韓國到拘耶韓國 七十餘里」
>「七十餘里」は何を記述して有るか答えてくれないかな。

俺が見聞きした与太ゴミの中でも最低のゴミだ。
回路がぶっ飛んでるか・いっちゃってる奴を相手にしろ。
365伊作:2011/07/17(日) 18:35:22.95
矯正の甲斐もなくオタクが幅をきかせる板になってしまった。
「ゴミクズ」という罵声すら好意的表現に見えるほどのていたらくだ。
366日本@名無史さん:2011/07/17(日) 18:37:47.34
ゴミクズさんは、どうして畿内説を理解できないの?
自分の知能が低いという自覚は無いの?
367日本@名無史さん:2011/07/17(日) 19:03:09.94
畿内説を語りたければ、別の板に行ったほうが、
好意的な反応をもらえると思うぞ。

なんなら
「それでも邪馬台国は畿内にあった1」
でも立てようか?

需要はなさそうだが。
368日本@名無史さん:2011/07/17(日) 19:15:20.80
たんに「七千餘里」を見間違えただけやろ
書写では、よくあるミスやん
(頭で文章の内容を追っていないから起こるミス)
369日本@名無史さん:2011/07/17(日) 19:54:28.65
ここは相変わらず何の進歩もないな。
370八色仮面:2011/07/17(日) 21:00:08.63
倭人伝の方向は黄道修正説で示されている。現在の東西南北で書かれていると
考えた人は皆、邪馬台国を論じる資格は無いよ。

371日本@名無史さん:2011/07/17(日) 21:02:57.26
旧唐書までの史書には日本国はまったく出てきておらんよ。
書かれているのは、全て九州だ。
372日本@名無史さん:2011/07/17(日) 21:08:00.00
>>370
>黄道修正説

ふむふむ、ググると

小説のネタとして黄道修正説が提唱されたが
初歩的なミスが見つかって、
修正に修正を重ねて、グダクダになり、
過去に提唱されたネタに近いありふれたものに
なってしまった、とか書いてあるな。
373日本@名無史さん:2011/07/18(月) 07:22:33.78
前後の見境なくトンデモに飛びつく奴がいるんだなあ。
374日本@名無史さん:2011/07/18(月) 10:50:05.26
>>364 名前:伊作
>>350
>>「暦韓國到拘耶韓國 七十餘里」
>>「七十餘里」は何を記述して有るか答えてくれないかな。
>俺が見聞きした与太ゴミの中でも最低のゴミだ。
>回路がぶっ飛んでるか・いっちゃってる奴を相手にしろ。
結局は、何も答えられずに罵倒して逃げの一手ですな。
>>365 名前:伊作
>矯正の甲斐もなくオタクが幅をきかせる板になってしまった。
>「ゴミクズ」という罵声すら好意的表現に見えるほどのていたらくだ。
今度は、トーンを下げて泣きごとですか。
>>「暦韓國到拘耶韓國 七十餘里」
は、一応これで終了します。



375日本@名無史さん:2011/07/18(月) 11:01:28.40
>>374
そんだけ思わせぶりなこと言ってんだから、
自説くらい書いていったらどう。
376日本@名無史さん:2011/07/18(月) 11:35:59.72

>>375
>そんだけ思わせぶりなこと言ってんだから、
>自説くらい書いていったらどう。
>>361 で、自説の一部を下記の様に書きこしてあります。

 從郡 至倭 循海岸水行 暦韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里 
從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國    到   拘耶韓國 七十餘里 
翰苑では、魏略曰として「乍南乍東」と「其北岸」が魏志の一説から削除されている。
興味津津の削除である。が、
この削除部に相当するのが魏略曰:「七十餘里」である。
魏志の「乍南乍東」と「其北岸」で「狗邪韓國」の位置が決定できる。
が、「從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國    到   拘耶韓國」では
「拘耶韓國」の位置が決定できない。
「拘耶韓國」の位置決定の補佐をしているのが「七十餘里」なのである。
「七十餘里」は「拘耶韓國」の國の広さです。
「拘耶韓國」は一つの島であり「七十餘里」はその島の海岸線長なのである。
「「七十餘里」≒30.24km=70里×1800尺×24cm÷100000.
海岸線長30km前後の島を探せ、そこが「拘耶韓國」だ。
377日本@名無史さん:2011/07/18(月) 11:39:21.84
単なるトンデモか。
378日本@名無史さん:2011/07/18(月) 11:50:07.73
>>376
ただの幼児の写し間違いなのにw
379日本@名無史さん:2011/07/18(月) 12:05:35.37
>>376
トンデモ本の丸写し

>海岸線長30km前後の島を探せ、そこが「拘耶韓國」だ。
自分で探せ
誰も興味持たないだろう
380日本@名無史さん:2011/07/18(月) 12:23:10.98
>>377
>単なるトンデモか。
「其北岸」とは「從郡 至倭・郡を通り過ぎて倭に至る=其」為の「北岸」であり、
そこは、現・与那国島である。
「從郡 至倭」の「倭」の領域は「會稽之東」以北で列島の北緯30度以北になる。
 「會稽之東」から魏志の『会稽東治【冶】之東(北緯26度)』迄は
『イ妥・(沖縄)」であり、それ以南は魏志の「參問倭地」にあたる。
この「參問倭地」の領域内に「拘耶韓國」が在る。
381日本@名無史さん:2011/07/18(月) 13:25:22.83
>>379 >>376
>トンデモ本の丸写し
そのトンデモ本の委細を教えて下さい。
多分存在しないとは思うが。
>>海岸線長30km前後の島を探せ、そこが「拘耶韓國」だ。
>自分で探せ
与那国島がそれに当たる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E9%82%A3%E5%9B%BD%E5%B3%B6
海岸線長 : 27.5km
382日本@名無史さん:2011/07/18(月) 14:42:22.70
「拘耶韓國」=与那国島である
と、確定できる根拠をもし望む人がいるなら後漢書並びに魏志の原文を分析を進めてもOK。
383日本@名無史さん:2011/07/18(月) 14:51:24.65
×「拘耶韓國」=与那国島である
 確定できる根拠をもし望む人がいるなら後漢書並びに魏志の原文を分析を進めてもOK。
◎ 「拘耶韓國」=与那国島である
と、確定できる根拠をもし望む人がいるなら「後漢書並びに魏志の原文」を挙げその分析を進めてもOK。







384日本@名無史さん:2011/07/18(月) 16:02:31.24
壮大な釣りだろうが、与那国島が狗邪韓国なら対馬国、一支国、、、伊都国、奴国、、、投馬国、邪馬台国、狗奴国はいったい、、、?www
385日本@名無史さん:2011/07/18(月) 16:18:56.47
「会稽東治之東」に無理矢理理屈をこじつけると
東に漕ぎ出したつもりが黒潮に乗って北上し日本に着いた事が
中国本土に伝わって誤解を生んだとかかね。
386日本@名無史さん:2011/07/18(月) 16:49:32.93
だが、「会稽東治之東」は「道里を計るに」とある話だ。郡からどれだけ南下したか
中国本土でそれだけ南下したらどのあたりになるか、そうゆう話だよ。
387卑彌呼の都は久留米:2011/07/19(火) 00:49:39.32
>>386
>だが、「会稽東治之東」は「道里を計るに」とある話だ。郡からどれだけ南下したか
>中国本土でそれだけ南下したらどのあたりになるか、そうゆう話だよ。

同意
具体的に言い換えると
京師の南方にある會稽東治(北緯30度)は、
帯方郡から真南に12000餘里の位置(北緯30度)に女王國があると書いてあるのだ。

帯方郡庁はソウル(北緯37.5度)。1里=69,5m。

388日本@名無史さん:2011/07/19(火) 06:35:24.33
>帯方郡から真南に12000餘里の位置(北緯30度)に女王國があると書いてあるのだ。
乍東と東南五百里の分を考慮しないといけない。郡の南一万里ぐらいになるだろう。

389日本@名無史さん:2011/07/19(火) 08:34:47.86
ここは相変わらず進歩しないねw
390日本@名無史さん:2011/07/19(火) 08:56:06.50
>>388
荒っぽい比定だが、大枠としては同意

帯方郡の南一万里に相当する北緯のところに
あると解釈する。

一里の長さにもいくつかあるが、一里77mとすれば、
一万里は770キロ、該当する北緯では、
やはり熊本と鹿児島の間に来るようだ。
391日本@名無史さん:2011/07/19(火) 09:07:45.68
>>390
熊本と鹿児島の間は会稽東冶の東ではないから、
やはり一里77mではないようだ。
392日本@名無史さん:2011/07/19(火) 09:12:38.39
>>390
「スーツの仮縫い説」
方向と寸法があってりゃいいのか

与作は「ツタ説」「東南陸行五百里」に頼っている
甲子園球場のツタは生い茂っているが、元はか弱い茎だけ
茎が傷つけば全部枯れる。 こんなのは説とは言わない
奴国までは研究者達によって解明されてる
不彌国から語れ
393日本@名無史さん:2011/07/19(火) 11:35:33.82
その奴国の比定がただしくないとすれば、というよりまちがっているから辿りつけないのだろう。
394日本@名無史さん:2011/07/19(火) 11:36:52.23
>>384
>壮大な釣りだろうが、与那国島が狗邪韓国なら対馬国、一支国、、、伊都国、奴国、、、
>投馬国、邪馬台国、狗奴国はいったい、、、?www
「其北岸狗邪韓國 七千余里 始度一海千余里 至對海【馬】國」
「狗邪韓國・對海【馬】國」の二点間距離は千余里(約432km)
与那国島(狗邪韓国)を中心とする半径432kmの円を描くとその弧は沖縄の久米島を切る。久米島・沖縄本島から徳島を含む方可四百余里(43.2km×43.2km=1866.24平方キロ)が「對海【馬】國」です。
「倭者 自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東 相去絶遠 從帶方至倭 循海水行 歴韓國 乍東乍南 七千餘里始度一海 海闊千餘里 名瀚海 至一支國」と梁以後は「對海【馬】國」は中華の史書から姿を消す。
さて、「對海【馬】國」は何故姿を消したのか?
変わって隋書には「流求國」が初見えする。




395日本@名無史さん:2011/07/19(火) 12:09:00.09
奴国は北九州から東だな。
396日本@名無史さん:2011/07/19(火) 12:10:13.58
また台風それたな九州
神風はやはり悪人のいる方向へ向うんだなw
397日本@名無史さん:2011/07/19(火) 12:30:28.35
災害の恐れがあるのに…
そんな事言う奴はお里が知れるよ。
398日本@名無史さん:2011/07/19(火) 12:33:06.67
方可四百里の事。
方可四百里は43.2km×43.2km=1866.24平方キロ(1里=1800尺×24cm=432m)

沖縄本島の総面積は
「沖縄本島北部 面積764 平方キロ
 沖縄本島中部 面積280 平方キロ
 沖縄本島南部 面積197 平方キロ」・・・・合計面積1241平方キロ。

 徳之島  面積247.66 平方キロ
 加計呂麻島 面積77.15  平方キロ
 喜界島    面積56.87平方キロ
 与論島    面積20.49平方キロ
 伊平屋島   面積22.73平方キロ
 伊是名島   面積15.42平方キロ
 [家島・栗島・久米島] 面積 63.21平方キロ
 [慶良間列島・家島・栗島] 面積 約100平方キロ・・・ 合計603.53平方キロ

1242平方キロ+603.53平方キロ=1845.53平方キロ。又、
方可四百里は43.2km×43.2km=1866.24平方キロですから
両者の面積は近似値である。
399日本@名無史さん:2011/07/19(火) 12:56:53.28
たぶん暇なんだろうな。
400日本@名無史さん:2011/07/19(火) 15:31:05.86
「從郡至倭循海岸水行暦韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國  七千余里」
郡を通り過ぎて(從)倭に至る・・為の北岸狗邪韓國迄七千余里の道程を便宜上陸路で追うと。

与那国島 ⇒ 沙里院(. 1,585.833km)⇒piyongyang(58.465km)⇒
錦州市( 456.117km) ⇒洛陽(1,048.210km)
合計3,148.625km≒七千二百八十八里。
勿論、一里=1800尺、一尺=24cmで。
401日本@名無史さん:2011/07/19(火) 17:48:39.41
>>399
寂しいんじゃない。
402日本@名無史さん:2011/07/19(火) 17:57:56.71
@そもそもその時代は東西南北が曖昧であった事。

A魏志倭人伝は複数の旅人による口承から繋ぎ合わせて書かれたものであること。
403日本@名無史さん:2011/07/19(火) 18:41:49.15
>>396
お前が妙な事言うから奈良桜井のスサノオ神社の
ご神木が折れたらしいぞ、まだ殆ど雨風強くないのに。
台風で紀伊半島がヤバイかもしれないな。
404日本@名無史さん:2011/07/19(火) 20:26:56.21
邪馬台国が九州だったとすれば
なぜ後に大和に朝廷を?
九州に見切りをつけたって事?大和の方が魅力的だった?
405日本@名無史さん:2011/07/19(火) 20:39:50.97
やはり、南九州辺りの一部勢力の移住じゃないか?土人との対立にしちゃぁ、後々のハヤトの処遇も可笑しすぎるし花持たせ過ぎな感じもする。
406日本@名無史さん:2011/07/19(火) 21:40:46.51
豊前、豊後、日向は熊襲勢力
これが狗那国の可能性は高い。

そして神武は狗那国の豪族の一部。

福岡佐賀熊本の勢力の弾圧を避けて
瀬戸内海方面に脱出したと推測する。
407日本@名無史さん:2011/07/19(火) 23:22:12.07
>>404
邪馬台国が九州だったとすれば
なぜ後に大和に朝廷を?
九州に見切りをつけたって事?大和の方が魅力的だった?

邪馬台国と大和朝廷は別だっただけのこと。
共立された卑弥呼は平和主義
大和朝廷は侵略主義
408日本@名無史さん:2011/07/20(水) 12:53:07.82
魏志の「不彌國」は翰苑の「伊邪分國」で、
現・四国ですね。 
409日本@名無史さん:2011/07/20(水) 13:52:00.79
「銅鏡百枚」
凹面鏡の焦点と球心の間に日本列島を置くと日本列島は東西南北180度反転して映し出される。・・・・@
@ を平面鏡に映すと日本列島は東西180度反転して映し出される。
C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\Resized
の『倭人伝反転図』のように。
魏志倭人伝は『倭人伝反転図』の状態で記述されている。


410 ◆4EqWP5uJSs :2011/07/20(水) 13:54:51.12
「翰苑」はね、オレは写真版もってるけど、書写ミスがひどいよ。
例えば、「范曄の後漢書に曰く」と書いてるとこもあれば
「范曄の漢書に曰く」と明らかに書写ミスしてるところもある。

そいうのが、他にもたくさんある。貴重書としては国宝の価値はあるが、
中身はミスだらけ。こんな本を証拠に論じても意味なし。
411日本@名無史さん:2011/07/20(水) 13:59:31.37
>>410 名前: ◆4EqWP5uJSs :
その書写ミスの写真版此処に貼り付けてください。
書写ミスではなく貴方の誤読では?
412 ◆4EqWP5uJSs :2011/07/20(水) 14:13:34.71
誤読といわれちゃ、ヤだね。
413日本@名無史さん:2011/07/20(水) 14:24:46.04
>>412 名前: ◆4EqWP5uJSs :
>誤読といわれちゃ、ヤだね。

ははは、まるで駄々っ子のようですね。
414卑彌呼の都は久留米:2011/07/20(水) 14:52:41.97
>>409
『倭人伝反転図』
自分のパソコンの収納場所を貼り付けてどうする?
アプロダに貼り付けて、そのアドレスを貼り付けろ。
415日本@名無史さん:2011/07/20(水) 15:23:26.62
『倭人伝反転図』 は、2007/4/8(日) 午後 7:25に作図したもので、人様にご披露できる程立派なものではありません。
日本地図を『ペイント』に貼り付けそれを『変形』の『角度を指定』180度を選択し、180度反転させる。それを更に、『水平方向』で『水平反転』すれば、
魏志の日本列島は直ぐ出来ちゃいますよ。
416日本@名無史さん:2011/07/20(水) 19:34:52.03
ついに畿内で親魏倭王の印発見か!
417日本@名無史さん:2011/07/20(水) 19:53:42.19
九州からの引っ越し荷物でも見つかったのか?
418日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:09:42.57
>>409
>C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\Resized
>の『倭人伝反転図』のように。

どうしろと?
419日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:31:58.51
>>418
>凹面鏡の焦点と球心の間に日本列島を置くと日本列島は東西南北180度反転して映し出される。・・・・@
>魏志倭人伝は『倭人伝反転図』の状態で記述されている。

根拠皆無で矛盾しかない。

>>409
>C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\Resized
>の『倭人伝反転図』のように。
どうしろと?

何もしなくていい。
貴方には無理。
邪馬台国論争も無理。
420日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:36:29.67
>>418

その手のボケって、よくほうぼうで見掛ける「ネタ」ですよw
421日本@名無史さん:2011/07/21(木) 00:47:28.43
こりゃやっぱりどう見ても九州は無いな。
422日本@名無史さん:2011/07/21(木) 12:04:40.45
>>419
>根拠皆無で矛盾しかない。>何もしなくていい。 >貴方には無理。 >邪馬台国論争も無理。
>>420
>その手のボケって、よくほうぼうで見掛ける「ネタ」ですよw

神仙画像鏡
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g017-sinsengazou.html
に、西王母・東王夫が居る。
青龍側が東である。南北を割って東側に西王母が居る。
神仙画像鏡を東西南北を180度反転させても、西王母は反転前の東側に居る。
それは、東西南北180度反転(凹面鏡に列島を映しこむ・・@)の後、東西反転(@を平面鏡に映し込む)させたのと同じで効果である。
俺のかきこは、史実に沿ってかきこをしている、だから何処かを潜れば必ず過去の遺産を発見できる。
再度確認しておく、
後漢書、魏志倭人伝は『日本列島を東西南北を180度反転させ、更に、東西を180度反転して記述されている。』のだ。

423日本@名無史さん:2011/07/21(木) 13:24:24.04
>>422
>東西南北を180度反転させ、更に、東西を180度反転して
どゆこと? 南北を180度反転させるってこと?
424日本@名無史さん:2011/07/21(木) 13:29:40.46
>>423 名前:日本@名無史さん :2011/07/21(木) 13:24:24.04
>>422
>>東西南北を180度反転させ、更に、東西を180度反転して
>どゆこと? 南北を180度反転させるってこと?
南北は反転させないで東西だけを反転させるということです。
東西だけを反転させるためには平面鏡に映せばよい。
上下は反転されないが、左右は反転する。つまり、
南北は反転されず東西だけが反転される。

425日本@名無史さん:2011/07/21(木) 13:40:33.28
>南北を180度反転させるってこと?

東西反転をさせず、南北だけを反転させる。ということです。

凹面鏡に移し込むと『東西南北』とも180度反転してしまう、
だからそれを平面鏡に映し込むと『南北』はそのままで『東西』だけが180度反転する。
その状態は、初期状態を南北だけを反転した状態となる。
426日本@名無史さん:2011/07/21(木) 14:16:09.08
日本列島を南北に180度反転させて\tombo1268っていうフォルダに入れたけど
後どうしたらいい?
427日本@名無史さん:2011/07/21(木) 14:16:44.21
>>425
何で二回も鏡に映すとかいうややこしい事をかんがえなきゃならないの?
魏の官僚が倭の地図を鏡に映して見たんでなければ、そんなの要らないでしょ。
428日本@名無史さん:2011/07/21(木) 14:19:10.98
>>426
「2ch 画像うp」でググれ
429日本@名無史さん:2011/07/21(木) 14:29:15.94
>>427
>何で二回も鏡に映すとかいうややこしい事をかんがえなきゃならないの?
魏の官僚が倭の地図を鏡に映して見たんでなければ、そんなの要らないでしょ。

第一
当時魏に倭の地図などあろうはずもないし。
430日本@名無史さん:2011/07/21(木) 15:06:22.57
魏志は
神仙画像鏡 と
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g017-sinsengazou.html
同じ要領で行程地図を書きあげてある。
だから、
その行程を辿為には、日本地図を南北180度反転の地図が必要だ。
その地図上をたどれば、魏志の国々へ行き着くことができる。
勿論、邪馬壹【臺】國にも行き着くことができる。
それ以外の方法では 邪馬壹【臺】國 に行き着くことはむりだろう。
行き着けずに、いつまでも『それでも邪馬台国は九州にあった』と遊ぶのも
時間つぶしにはよいかもね。ははは・・・・・
431日本@名無史さん:2011/07/21(木) 16:13:14.06
>>430
行き着けずに、いつまでも『それでも邪馬台国は九州にあった』と遊ぶのも
時間つぶしにはよいかもね。ははは・・・・・

妄想もほどほどにね。ははは・・・・・
ふん。
432筑紫の民:2011/07/21(木) 20:09:47.76
反転させて、反転させて・・なんじゃそら?
433日本@名無史さん:2011/07/21(木) 22:30:09.49
何を訳のわからないことを言っているのやら。末盧国に上陸して東南五百里、普通に
佐賀付近に行けば何の問題もないだろうに。
434日本@名無史さん:2011/07/21(木) 23:57:01.92
距離が間違っていると言ったり
方角が間違っていると言ったり
訳の判らない妖術を使ったりしないとすれば
邪馬台国は九州にあったことになるからな。
哀れなものだ。
435日本@名無史さん:2011/07/22(金) 02:19:14.02
反転する作業に根拠が無いと
ただの、おらが村に場所を合わせる作業にすぎない。

説得力をもって、その作業を行うだけの根拠が見いだせるかどうかだな。
436日本@名無史さん:2011/07/22(金) 09:09:48.57
根拠などあるはずも無い。
ただ単に馬鹿なだけ。
437日本@名無史さん:2011/07/22(金) 12:14:11.98
もう九州説は詰んでますね。
438日本@名無史さん:2011/07/22(金) 13:21:03.65
>>435
>反転する作業に根拠が無いと
>ただの、おらが村に場所を合わせる作業にすぎない。
>説得力をもって、その作業を行うだけの根拠が見いだせるかどうかだな。

神仙画像鏡 が
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g017-sinsengazou.html
何故、↑の様な画像に成っているのか?
又、何を画像化した物なのか、を明確にすれば、
倭人伝が東西は反転させず、南北だけを反転させて記述されていることが明確になる。
>>436
>根拠などあるはずも無い。 >ただ単に馬鹿なだけ。
神仙画像鏡 は只の馬鹿の作品か
其れとも、あんたが無知と馬鹿の固まりか。
上塗りを出世したのは左官さんだけだ。
君のは恥の上塗りをしているだけだ。 

439日本@名無史さん:2011/07/22(金) 14:14:54.57
>>438

>神仙画像鏡 が
>http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g017-sinsengazou.html

>この紋様の特徴は、主題紋様が上から下へと配列される重列式紋様である。
>画面の中央上の神仙は南極老人、下は天皇大帝、左が東王父、右がは西王母である。

ん?、反転してるか?、180度回転してるだけのような気が...


440日本@名無史さん:2011/07/22(金) 14:22:07.55
北を背後に覗き込んでるだけだ。
441卑彌呼の都は久留米:2011/07/22(金) 14:36:26.07
>>438
南を上にしているだけ。
南を上にした地図と同じ。

富山県庁にも南を上にした地図が張ってあるよ。
大陸側から見ると日本列島が蓋をしている様な圧迫感を受ける。
グーグルアースで簡単に作れる。
http://mohariza6.exblog.jp/7082163/
442日本@名無史さん:2011/07/22(金) 14:41:37.21
三角縁神人車馬鏡ならどうですか?
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g027-sinjinsyaba.html
左に龍がいますから本来は東ですが、反転して西の位置に東の神獣の龍がいます。
この銅鏡は最初から東西反転させてあります。当然南北も反転された状態にあります。
西王母は反転された西の位置に座してます。
この鏡を180度反転させると、東の神獣の龍は本来の東の位置に座します。
すると、西王母は神獣の龍と同じ東の位置にいます。
443日本@名無史さん:2011/07/22(金) 15:13:34.85
>>442
東に龍というのは青龍であって、全ての龍が東なわけじゃない。

仮にこれが青龍だったとしても、東王公も東に結びつく存在で、龍とかぶってる。
一方で、馬車は南とは関係ない。
これで龍と西王母と東王公と馬車が東西南北に配当されていると考えるのはおかしい。
444日本@名無史さん:2011/07/22(金) 15:57:42.58
>東王公も東に結びつく存在で、龍とかぶってる。
龍が西(左)に座して東王公とかぶるが龍を東(右)に座させると東(右)
には、西王母が居る。
西王母と東王公は一対で南北に対峙しており、二者の位置は龍(西・左)を右・東に回転移動させても
西王母は右(東)で東王公は左(東)に位置は変わらない。

◎つまり、本来東に座す龍が西に移動しても、東に坐しても西王母の位置は東の位置は変わらない。
↑がキーポイントです。

445日本@名無史さん:2011/07/22(金) 16:00:58.92
>>444
北に結びつくものが無い。馬車に結びつく方角が無い。
だから、この四つを方角に配当してアレコレ考えても仕方が無い。
446日本@名無史さん:2011/07/22(金) 17:46:11.52
高良大社の高良記の記事をみて、ちょっと面白そうな話。

http://www.kourataisya.or.jp/kourataisya/matsuri/nenohinomatsu/index.html

高良の神様が高良山に入られる前は、高良山は禿山でした。
そこで、近くの松の木に覆われた丘に住まわれていたそうです。
神様は手元の松の木を手にとって、高良山に松を植えられ、山上に移られました。
山上に移られる前に滞在されていたのが、上津本山天満宮です。

ここに豊姫さんも祭られていまして、小さなやしろに豊姫様像があります。
これ、知らないで気づくと、ちょっとドキッとしますね。
写真が載っているブログがあったので記載します。自分は関係者ではありません。

http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-160.html

松の木と言えば、近所に自衛隊の演習場があるのですが、かなり松が多いです。

また、この神社、非常に場所が分かりにくいところにあります。
上津バイパスの途中、ベスト電器やミスタードーナツがある交差点から、
南方向に入っていくのですが、多分そう言ってもよくわからないでしょう。
あらかじめ、地図を見ていったほうがよいと思います。

住宅地の隙間にあるような神社ですが、案外大きめの神社です。
が、外からはほとんど場所が分かりません。
447日本@名無史さん:2011/07/22(金) 18:36:31.53
>>438
神仙画像鏡 は只の馬鹿の作品か
其れとも、あんたが無知と馬鹿の固まりか。

間違いなく
貴方だけが馬鹿。
448日本@名無史さん:2011/07/22(金) 22:08:18.67
>>438
なにを下らん話をしとるんかいな。神仙画像鏡と倭人伝の記述には何の関係もないだろが。

そもそも、南北を逆にした記述なら何で対馬から壱岐へ行くのに又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國と書いて
あるのだ?
449日本@名無史さん:2011/07/23(土) 00:59:20.98
>>448
同意。倭人伝はそのまま素直に読めばいいんだよ。
それで、何か合わないところがあるかい? あると思うなら、言ってみな。
450日本@名無史さん:2011/07/23(土) 01:37:32.32
で、どの すなお読み が一番 すなお なんだ?w
451筑紫の民:2011/07/23(土) 05:10:55.59
お・は・よ・う、ございます。
今日の筑紫は天気がいいバイ。
邪馬台国、さがしにいくバイ。
452サガミハラハラ:2011/07/23(土) 06:45:55.07
おはようございます。
佐賀もはれていると思います。
小城の甘木もういってみました?
453八色仮面:2011/07/23(土) 07:53:34.79
>>372
ググって出たものが正解だと信じられるなんて、可愛いね。
3世紀当時の人達の方向感覚がどんなレベルだったか、自分の頭で考えろよ。
454日本@名無史さん:2011/07/23(土) 09:20:41.47
さて、昼から仕事なんで、
午前中は神崎櫛田神社でも、回ってみようかな
吉野ヶ里の近所です。
多分同じ集落だとおもいます
455日本@名無史さん:2011/07/23(土) 09:26:18.21
>>453
黄道修正説とかはあなたが考えたの?
456日本@名無史さん:2011/07/23(土) 09:29:03.26
>>450
末盧国までは問題ないな。末盧国=唐津だろう。そこから東南五百里、伊都国は
佐賀付近となる。倭人伝どおりだろ。
457日本@名無史さん:2011/07/23(土) 09:36:55.70
この八色仮面というのは「改め」か、あれと同じレベルのやつだな。
458日本@名無史さん:2011/07/23(土) 09:51:01.01
千里という距離を稼ぐのであれば、
伊万里湾奥の伊万里市を末盧国に設定する案もあるかも。
ただちょっと距離が伸びるので、
伊都国を小城あたりに設定しなければならないかな。
まあ、ひとつの案でそんなに強く推すつもりはないけど。

あと、大和町史を図書館で見た印象だと、
惣座付近に環濠集落が出たのは確かだけど、
弥生遺跡の出土状況では、川上のほうが多いみたい。
大和町のなかの旧川上村、いまの川上小学校があるところの山側あたり。
惣座遺跡は川の東側で、旧川上村は川の西側。
こちらは、旧小城郡に含まれている時代もあったみたい。
船塚古墳もあるね。

西側でも東側でも遺跡自体は腐るほど出てくるけどね。
459日本@名無史さん:2011/07/23(土) 10:12:44.73
>>458
千里という距離はあまりこだわらなくていいんじゃないかな。五百里では短すぎると
思ったら次は千里と書く、その程度の大ざっぱな数字だと思うよ。

>万里湾奥の伊万里市を末盧国に設定する案もあるかも。
それも考えられないではない。しかし、そうなると伊都国は塩田、有明あたり。
一大率が北九州全体に目を光らせる位置としては、バランスが悪いだろう。
460日本@名無史さん:2011/07/23(土) 11:53:42.61
>>445
>>444
>北に結びつくものが無い。馬車に結びつく方角が無い。
>だから、この四つを方角に配当してアレコレ考えても仕方が無い。
『馬車に結びつく方角が無い。』、有るだろ、よく見てよく考えましょうNe.
『三角縁神人車馬鏡』を縦軸で二分し、東王父が左、西王母は右に坐している。
さらに、左には『龍を東王父と同坐』させている。
左に方位を与えれば、西だ。その西に『本来東(右)に坐しなければならない龍と東王父』がいる。そして、右(東)には西王母がいる。この構図は正常か否か?
誰が見ても東西が180度反転していることに気ずかない者はいないだろう。
左右で東西を決定しているなら上下は必然的に南北になる。それも東西が反転しているのだから、当然南北も反転させてある。
『三角縁神人車馬鏡』を正常な構図に戻す為には2度の反転をさせなければならない。
先ず、東西南北を180度反転させ、次に南北だけを垂直反転させる。
魏志は、東西南北を180度反転させ更に東西を水平反転させてある。




461日本@名無史さん:2011/07/23(土) 12:16:36.95
>>448
>そもそも、南北を逆にした記述なら何で対馬から壱岐へ行くのに
>又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
>と書いてあるのだ?
簡単だよ、對海【馬】國・一大國の比定地を間違えているだけさ。
だから、短里とかを発明して妄想を展開して遊んでいるのさ。
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の「南」は「北」と読むのが正しい。


462横からですが:2011/07/23(土) 13:30:36.20
>>460

貴方の書く文章、とても判りにくいです。
なので、私が論旨を後読しているだけなのかもしれませんが、失礼を省みず言わせてください。

ネタ元の画像です。
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/f027-sinzinsyaba.jpg

画像の構成は次のとおりです。
まず、画像上方に神人の絵柄、そして、これと対になる下方にももう一体の神人像
次に、画像の向かって右側に龍の絵柄、向かって左側に馬車の絵柄、
そして、中央には紐孔を「上下に穿った鈕」が配置されています。
なお、神人像のオスメスについては、私には見分けがつきません。

紐孔と言うのは御存じかとは思いますが、紐を通すための穴です。
紐は鏡を吊るすために用いられます。
鏡を安定的に吊るすためには、紐孔は鏡の天地に向かって水平に穿ちます。
紐を通すとこんな感じです。
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/73/0000694973/54/img0b7294bbzik0zj.jpeg

ところが、ネタ元の画像では「上下」に穿かれているのです。
多分、写真を撮ったカメラマンは紐孔による天地左右を考えなかったようです。
実は、日本郵便の100円切手の図柄にネタ元と同じデザインの鏡を使ったものがあります。
その切手では、神人が上下で、馬車を右、龍が左に見える方向から撮影されています。
もともと図柄自体が同心式ですので、紐孔の位置を考えなければどの図柄を上にしても構わないのかもしれませんが、
紐孔を穿った鏡職人には天地が有ったと言うことです。

いかがですか?
463日本@名無史さん:2011/07/23(土) 13:47:13.50
>>461
>「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の「南」は「北」と読むのが正しい。

それ、たんに北を南と書いた誤記だから。
反転とかなんとか関係ないから。
464卑彌呼の都は久留米:2011/07/23(土) 15:21:56.85
>>446
仮説2
@上津本山天満宮は径百歩の卑弥呼の墓跡
A卑弥呼の都は上津荒木川と桃太郎川に挟まれた台地
465日本@名無史さん:2011/07/23(土) 16:00:09.27
上津って言う言葉は、上流とか、上流の船着き場って意味だと思うけど、
あまりあの辺りって水の雰囲気無いんですよね。

上津荒木川を下流にたどっていくと、広川と合流します。
その合流地点が大善寺玉垂宮、御塚権現塚古墳があるところです。
大善寺玉垂宮の上流という意味で上津でしょうか。

本拠地が大善寺玉垂宮で、上流の上津本山天満宮に拠点を作り
それから、高良山に入っていったのでしょうか。

あと、蛇足ですが、上津荒木を”こうだらき”と呼びます。

そのうち、浦山公園と浦山古墳にも行ってみたいですね。
466日本@名無史さん:2011/07/23(土) 16:03:24.62
妄想しても文献の裏がないとな、単なる小説だよ。
467日本@名無史さん:2011/07/23(土) 16:17:00.32
蛇足ですが、広川の上流は岩戸山古墳群ですね。

九州の田舎って、開発され尽くしてないから、
伝承と地勢が関連できる形で残ってたりするわけです。

松を植えたなんていう伝承では、実際に開発されていない
自衛隊演習場で松が多く残ってたりします。
高良山では、もともと松の植生ではなかったため残っていなくても、
上津は松の植生に合っているのでしょう。

これは伝承に補強を与える風景だと思います。

あと、いろいろググっていると、上津本山天満宮自体が
古墳の上に立っているとかいう説もあるようですね。
これはまだ目を通しただけですが。

ついでにいうなら、これが直接卑弥呼にかかわると言い切るつもりもありません。
一つの情報としてとどめていただければ、ありがたいと思います。
468日本@名無史さん:2011/07/23(土) 16:53:06.12
伝承って邪馬台国や卑弥呼と関連性のある物の事だが。
469日本@名無史さん:2011/07/23(土) 16:58:02.87
>>456
>末盧国までは問題ないな。末盧国=唐津だろう。そこから東南五百里、伊都国は
佐賀付近となる。倭人伝どおりだろ。

末盧国は正規のルートではありません
風などによる一時的なものです
官、副の記載がありません
これが研究者達が、佐賀に注目しない理由です
裴世清が正規のルートでしょう
470筑紫の民:2011/07/23(土) 18:09:11.20
反転爺さん、静かだね。
471筑紫の民:2011/07/23(土) 21:32:39.97
今日は、本当に静かかね。
みんな夏祭りにでもいっとーと?
472卑彌呼の都は久留米:2011/07/23(土) 22:39:24.73
  
上津本山天満宮は卑弥呼の頃(218年頃)と繋がるのではなく、
倭王旨が久留米に入った時(468年頃)との仮説もあります。
473日本@名無史さん:2011/07/24(日) 01:15:44.81
>>469
>末盧国は正規のルートではありません
そんな思い込みを述べてもだめだよ。
官、副の記載がないのは、単に記録に残してなかっただけだろう。
474日本@名無史さん:2011/07/24(日) 01:29:10.90
>>469
正規のルートだよ。
475日本@名無史さん:2011/07/24(日) 02:25:01.32
そういえば、朝鮮半島に唐津県があった時代もあるようなんだが
日本の唐津と関係あるのかね。
476卑彌呼の都は久留米:2011/07/24(日) 05:37:23.49
>>472の西暦年の間違い修正

  
上津本山天満宮は卑弥呼の頃(218年頃)と繋がるのではなく、
倭王旨が久留米に入った時(368年頃)との仮説もあります。

477日本@名無史さん:2011/07/24(日) 06:20:04.68
>>469
>風などによる一時的なものです
常に駐する所とあるんだから一時的なものではないな。
478サガミハラハラ:2011/07/24(日) 06:34:08.40
>>469 官の記述がない国があと一カ国あります。
それは狗邪韓国です。
末ロ国と狗邪韓国の官名の記載がない理由ですが、両国とも都が、邪馬台国への行程の途上になかったからです。
マツロ国への上陸地点は西唐津八幡町であり都はもっと東の鏡山の方にあったようです。よって、行路からはずれております。
狗邪韓国からの出航地は金海のずーっと西の固城です。ここもやはり都から離れています。
よって、都が行程上にない場合は官名を省いたのです。
479筑紫の民:2011/07/24(日) 08:02:59.48
おはようございます。
今日は志賀島に行ってくる。
480日本@名無史さん:2011/07/24(日) 08:11:59.72
>>473
陳寿が一カ国だけ記載しないということはないでしょう
そんなミスをする人とは思えない

>>477
それは伊都国ですよ

>>478
米国の外務大臣、防衛大臣等が訪問してるのに、遠いから合わない
なんてことはないでしょう
総動員で出向かえしてますよ
当時は格がちがいます
もう少し客観的に見ましょう
481八色仮面:2011/07/24(日) 08:48:30.13
>>455
仕事が立て込んでいて返事が送れすみません。
黄道修正説は高木彬光氏の小説が有名ですが、その後少し問題が生じたことは
承知しています。私のはそんな大掛かりなものではありません。
3世紀当時、中国人の有識層は春分の日、秋分の日の太陽の出る位置を真東とし
方角を認識していたのでしょうが、倭人はまだそこまでの知識は無かっただろ
うということです。
西暦240年の魏の使節団が來倭したのは必ずしも春分、秋分の日を含む期間であ
る可能性は低く、天気の良い日は自分達の目で見て、くもりや雨の日は現地の
倭人に太陽の出る位置を聞いて方角を判断し、旅行記を書いたのでしょう。
したがって緯度によって正確な方位とはやや狂いが生じているはずです。
大事なことは倭人伝の方位は現代の方位感覚と同じではないということです。

482筑紫次郎:2011/07/24(日) 08:58:45.08
>>472
上津本山天満宮は卑弥呼の頃(218年頃)と繋がるのではなく、
倭王旨が久留米に入った時(468年頃)との仮説もあります。

玉垂命など久留米に残っているのは邪馬台国のものではなく
4世紀以降にここへ来た大和朝廷系のものだと思います。
483日本@名無史さん:2011/07/24(日) 09:03:15.81
>>480
>陳寿が一カ国だけ記載しないということはないでしょう。そんなミスをする人とは思えない。
陳寿が記載しなかったわけではなく、原資料になかったということでしょう。
末盧国に上陸したとき、伊都国から一大率が来て出迎えたのではないかな。
そのため、使者一行が末盧国の王や官と親しく話をする機会がなかったとも考えられる。

>それは伊都国ですよ
いろいろな考え方があるんだよ。対馬国から伊都国まで、その全てが常に駐まる所と読む
説がある。





484筑紫次郎:2011/07/24(日) 09:03:20.36
>>475
そういえば、朝鮮半島に唐津県があった時代もあるようなんだが
日本の唐津と関係あるのかね。

唐津とは唐の津(港)と言う意味だそうだからどこにあっても不自然ではない、
唐津が関係あるのは朝鮮半島ではなく唐と考えられる。
485日本@名無史さん:2011/07/24(日) 09:40:41.16
>>481
当時の中国人は、盛んに星占いをやっていたようだ。方角は太陽がどこから
でるかではなく、北極星の位置を重視していたんじゃないかな。
486日本@名無史さん:2011/07/24(日) 09:52:23.64
高良大社は、記紀の景行記を信じるなら1世紀、
大社の由緒を信じるなら4世紀、
磐井の時期に持ってくるなら5世紀

この辺りの時代になるのでしょうかね。

景行の熊本の事跡をみると、景行を4世紀に
持ってきたいところです。
487日本@名無史さん:2011/07/24(日) 11:43:59.47
>>483
>対馬国から伊都国まで、その全てが常に駐まる所と読む 説がある。


そりゃ、駐まってない
白村江後の、安曇荒雄は対馬までの官米の輸送で遭難し壊滅している
気楽に行ける時代ではないでしょう
488日本@名無史さん:2011/07/24(日) 11:51:29.39
>>462 :横からですが:
>神人像のオスメスについては、私には見分けがつきません。
それでは、右に座す大きい神人像を東王夫と仮定しましょうか、それに右にある車を連結させ東とします。この東の車を東から西へ180度反転させます。すると車は西(左)で龍は東(右)に座すことになります。が、右に座す大きい神人像の東王夫は、東(右)にあり不動です。
>>481 :八色仮面
>大事なことは倭人伝の方位は現代の方位感覚と同じではないということです。
◎ 東西に座す車と龍を180度反転させて表現しているのは、
『春分点を東に固定し、それに時間概念(180度反転)を差し込むと西は東に移動し、東は西に移動する』、これは古代人が歳差運動を具現かした方法です。
◎ 東で不動の東王夫は太陽を具現化させています。
『歳差と自転を重ねて図象化した』ものが、三角縁神人車馬鏡です。
>>470 :筑紫の民
>反転爺さん、静かだね
歳差と太陽の関係!


489日本@名無史さん:2011/07/24(日) 12:00:54.88
>>480
>陳寿が一カ国だけ記載しないということはないでしょう
「末廬國」は「狗奴國」に属し「男子為王 其官有狗古智卑狗」だろう。
まあ、私見ですがね。
490日本@名無史さん:2011/07/24(日) 12:35:03.90
>>489
えぇ、私もその考えを捨て切れないでいるんでよ
狗奴國の発達をみると、可能性は大いにありますよね
491日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:00:22.12
>>479 :筑紫の民
>今日は志賀島に行ってくる。
志賀島は、
会津若松と「会稽之東」の口之島のホボ中央に位置している。
会津若松市
(37.4947611, 139.9298096)
37度29分41秒 , 139度55分47秒
志賀島
(33.673639, 130.301284)
33度40分25秒 , 130度18分05秒
口之島
(29.9666667, 129.9166667)
29度58分00秒 , 129度55分00秒
492筑紫の民:2011/07/24(日) 13:02:41.96
魏の使節をなめちゃいかんよ。
中国から朝鮮半島〜対馬國〜一大國〜末盧國と順調に
しかも現在の方向と概ね一致した旅をしてきたのに、
末盧國以降は方向が違うってですか?
なんじゃそりゃ?ですな
493日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:17:21.44
>>490
>>489
>えぇ、私もその考えを捨て切れないでいるんでよ
>狗奴國の発達をみると、可能性は大いにありますよね
狗奴國の侵攻によって末廬國は、混乱状態にあった。
だから、王も官も記述されていない。
との思考は狗奴國を九州に比定し、狗奴國の本州侵攻とするならどうだ。

對海【馬】國は「倭」ではなく「俀」である。
この「俀」の流れは、ゴホウラ貝の腕輪を追えば明確になる。


494日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:20:31.17
>>481
>倭人はまだそこまでの知識は無かっただろ
>うということです。

言ってることが矛盾している。
知識の無い倭人に方角を聞いて真に受けた魏の使いも、また知識が無かったことになるよ。
あなたの言ってることは、倭人だけじゃなく、魏の使いも無知じゃないと成り立たない。
495日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:20:46.93
>>492 名前:筑紫の民
>魏の使節をなめちゃいかんよ。
>中国から朝鮮半島〜対馬國〜一大國〜末盧國と順調に
>しかも現在の方向と概ね一致した旅をしてきたのに、
>末盧國以降は方向が違うってですか?
>なんじゃそりゃ?ですな
魏志は「魏の使節」の倭への行程はありません。
相当な混乱があるようだけど。
496サガミハラハラ:2011/07/24(日) 13:26:00.42
>>480 マツロ国の官が郡使にあっていたか?ですか。
会っていましたよ。郡使が来たというので、挨拶に来ていた可能性は十二分にあります。
官名もわかっていましたよ。ただ行路上にないのでかいていないのです。こうすることによって、狗邪韓国とマツロ国の都は行路上にない
ということを暗示しているわけです。

>>481 方向感覚が現在とちがうって、そんなことありませんよ。
497卑彌呼の都は久留米:2011/07/24(日) 13:46:23.11
>高良大社は、記紀の景行記を信じるなら1世紀、
景行紀の時代と主語は認められません。
景行紀は、4世紀、筑紫・肥の王の東部九州平定と自国の巡幸を描いたもの。

>大社の由緒を信じるなら4世紀、
大社の由緒は3世紀又は4世紀の出来事。
景行紀に描かれた時代以前であることは間違いなし。

>磐井の時期に持ってくるなら5世紀
磐井の時代は、律令と元号があるから、あり得ない。

>景行の熊本の事跡をみると、景行を4世紀に持ってきたいところです。
景行の肥後と筑後での事跡は4世紀前半の状況であることを示している。
498卑彌呼の都は久留米:2011/07/24(日) 14:12:11.61
末盧國は女王の直轄地。
故に官不在。
一大率は、港の女王直属検査官。
499サガミハラハラ:2011/07/24(日) 14:20:27.28
直轄地だったらお役人様が必要ではないでしょうか。
500日本@名無史さん:2011/07/24(日) 14:40:16.76
>>496 サガミハラハラさん
>狗邪韓国とマツロ国の都は行路上にない ということを暗示しているわけです。
なるほど

>>499
当然でしょう
501卑彌呼の都は久留米:2011/07/24(日) 15:06:40.20
>直轄地だったらお役人様が必要ではないでしょうか。

直轄地だから官不要なのです。
女王にとって官は邪魔者。(菅も不用品滞荷ゴミだが)
官はお役人様ではありません。
官は元各国の王です。
後漢書によれば、魏書の官は各国の自称王と位置づけられていますよ。
502日本@名無史さん:2011/07/24(日) 15:11:40.52
>>498 名前:卑彌呼の都は久留米 :2011/07/24(日) 14:12:11.61
>末盧國は女王の直轄地。 故に官不在。
奴國が狗奴國の暴走を防ぐため、軍を置いていた可能性は捨てきれない。
魏の時制の於ける「俀」の本体は「奴國」で「卑奴母離」の連合体の中核。
「使大倭監之」の「大倭」とは「倭種」で「俀」のことです。
>一大率は、港の女王直属検査官。
「一大率」とは「大倭」が派遣した監視官です。
目的は中華帝国との直接接触の監視です。
「呉」などと直接繋がったら大変なことになるからね。、
「一大率」が置かれたのは、「自女王國以北」つまり、
宮古島、石垣島、西表島です。

503日本@名無史さん:2011/07/24(日) 18:13:48.64
>一大率」が置かれたのは、「自女王國以北」つまり、
宮古島、石垣島、西表島です。

えええぇ?
504日本@名無史さん:2011/07/24(日) 18:29:06.45
アナログTVが終了したと言うのに

まだ九州説だなんてやっているのかよ。W
505卑彌呼の都は久留米:2011/07/24(日) 19:33:13.13
ケーブルTVでは、地上波アナログが続いているよ。デジアナ
506サガミハラハラ:2011/07/24(日) 19:53:00.04
>>501 官とは王のことですか。
とすると、邪馬台国の所に官に伊支馬あり、とありますが、王は卑弥呼ではなかったですか?
507塩土老翁:2011/07/24(日) 20:40:36.32
>>506 サガミハラハラ氏

 さすが! 際どい所へ誘導しますね。
 臨戦態勢に入ってますね。
 私は、高見の・・・
508日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:04:46.79
>>501
>後漢書によれば、魏書の官は各国の自称王と位置づけられていますよ。
どこを見てそんなふうに読んでいるのかな? 
官とは役人のこと。主権者(3世紀当時は王)から任命されて主権者の代理人となって
国務を分担する者のことだ。王と官が一緒になることはない。
辞書でもみてきちんと整理しておいた方がいいよ。でないと恥をかくだけだ。

509日本@名無史さん:2011/07/24(日) 23:10:08.16
>>508
自称王と言っても、、、
王を自称してるわけじゃないよ。
国民が自ら自発的に称えてるんだよ。
510日本@名無史さん:2011/07/25(月) 01:06:45.48
>>488

> それでは、右に座す大きい神人像を東王夫と仮定しましょうか、それに右にある車を連結させ東とします。

何を言ってるのかぜんぜんわかりませぬ。
511卑彌呼の都は久留米:2011/07/25(月) 06:04:53.60
>>506-509
時は後漢代末、卑弥呼が共立され大倭王となった頃。
三十許國で皆王と稱していた。
倭では30許王(27〜29人の王)が、王と自称していたのである。
彼等が共立したのは大倭王卑弥呼で邪馬臺國に居していたのである。

時が過ぎ魏が倭を認識した時には、その自称王は官と呼ばれていたのである。
邪馬壹國の王も官となっていたのである。
しかし、伊都國と狗奴國では非共立王がいた。
そこで魏は、卑弥呼が王となっているのは大倭國ではなく、
倭の一部地域としての女王國の概念を持ち込んだのである。

女王國を構成しているのはどんな国々で何ヶ国かはここでは述べない。
少なくとも、女王國に含まれない国々には伊都國と狗奴國がある。
512卑彌呼の都は久留米:2011/07/25(月) 06:29:42.61
  
「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國」後漢書倭伝
513サガミハラハラ:2011/07/25(月) 08:42:28.33
いまふと思いついたのであるが、当時の北部九州では、王のことをハン(ジンギスハンと同じ)と呼んでいた。
中国人はそれを官という感じであらわした。
というのはどうでしょう。
514日本@名無史さん:2011/07/25(月) 08:46:18.64
ハンとかカンとかの称号はもっと後代に登場するものだよ。
515サガミハラハラ:2011/07/25(月) 11:26:51.86
モンゴル語の首長を表す汗(カンまたはハン)の始源はものすごく古いと思います。
これは日本語の神、アイヌ語のカムイなどのように、日本海周辺の民俗にみられます。
つまり、モンゴル人朝鮮人、日本人アイヌ人がまだ分離せずにいた時代までさかのぼり、
かれらにとってとても偉い、絶対的なもの(日本の神のような)を呼んだ言葉のようです。
称号としてのハンとかカンは、もっと後代のものでしょうが。
516日本@名無史さん:2011/07/25(月) 12:05:35.11
少なくとも官という漢字を当てる事は避けるだろうから終了だな。
517日本@名無史さん:2011/07/25(月) 12:26:04.02
>>516 名前:日本@名無史さん
>少なくとも官という漢字を当てる事は避けるだろうから終了だな。


「使驛通於漢者三十許國」の「許」の一文字が、「諸侯」であるなら、
「 國皆稱王 丗丗傳統」は、当然でしょう。
故に、「王」を「官」とすることも問題ないだろう。
518卑彌呼の都は久留米:2011/07/25(月) 12:43:44.45
日本にはシナ人には理解できないダブルスタンダードの王制があったのだ。
7世紀の俀國では兄王と弟王の二元統治がそれにあたる。
二元統治制度は現代まで続いている。
宗教王(天皇)と世俗王(摂政関白・上皇・征夷将軍・総理大臣等)がそれだ。

三世紀においても同様に二元統治があった。
卑弥呼は宗教王、各国の王は世俗王である。
魏としては、同一地域に2王の並立は理解できない。
そこで魏が下した決断が、宗教王卑弥呼の支配下の地域王(各国の世俗王)を「官」としたのである。
伊都國には宗教王が居たが、それは女王國に統属しているとし、
狗奴國の宗教王は女王支配地域と敵対する別地域の王として処理したのである。
であるから、その2国の世俗王は、やはり「官」として処理しているのだ。

余談
伊都國は倭都國である。
女王國成立以前倭國乱以前の倭国王が居た倭の都である。
伊都國の世有王は旧倭王の系列王である。

魏から見た狗奴國は女王國に対応する国である。
狗奴國には卑彌弓呼がいる。彼は卑弥呼同様の宗教王とみなせる。
又「官」狗古智卑狗は熊本平野北部の菊池地方限定の世俗王であろう。
狗奴國には熊本平野中部以南や以西にも多数の国々があり、
其々の国々に「官」と呼ばれる世俗王が存在したと考えられる
519日本@名無史さん:2011/07/25(月) 12:53:54.30
>>511 名前:卑彌呼の都は久留米
>倭の一部地域としての女王國の概念を持ち込んだのである。
「自武帝滅朝鮮」の「自武帝」は武帝の在位期間であり、武帝と記述すれば武帝のこと。
後漢書の「自女王國 」とは女王卑弥呼の統治領域を刺す。
魏志の「自郡至女王國萬二千余里」「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」の「女王國 」とは、邪馬臺國のこと。
魏志の
 「自女王國以北」の「自女王國」は女王卑弥呼の統治領域であり、その南限は
「計其道里當在会稽東治【冶】之東」で沖縄です。
520卑彌呼の都は久留米:2011/07/25(月) 13:42:16.87
>後漢書の「自女王國」とは女王卑弥呼の統治領域を刺す。

女王國を構成する国々は、卑弥呼を女王共立に動いた国々を指し、
それに同意した国々は含まれない。
女王の統治地域は共立に同意した国々も含まれる。
魏書の對海國、一大國、末盧國、伊都國や以北の餘旁國等は女王國に含まれません。
邪馬臺國は勿論女王國に含まれますが。
後漢書では女王國の範囲は、はっきりとは書かれていません。
521日本@名無史さん:2011/07/25(月) 14:05:59.13
>>520 名前:卑彌呼の都は久留米
>後漢書では女王國の範囲は、はっきりとは書かれていません。
そんなことはないですよ。
『倭國の領域』と『女王國の領域(自女王國) をキッチリとたて分けていますよ。
原文は↓。
「樂浪郡徼 去其國萬二千里」が『倭國並びに女王國の領域(自女王國)』の北限で、
南限は、「其地大較在會稽・東冶之東」です。
會稽之東は倭國、東冶之東が女王國です。

522日本@名無史さん:2011/07/25(月) 14:25:12.35
>>520 名前:卑彌呼の都は久留米
>女王國を構成する国々は、卑弥呼を女王共立に動いた国々を指し、
>それに同意した国々は含まれない。
>女王の統治地域は共立に同意した国々も含まれる。
と解釈できる原文は何処ですか?

後漢書には「女王國」という記述はない、あるのは「自女王國」です。
魏志には「女王國」という記述が2箇所ある。
いずれもこの「女王國」とは「邪馬臺國」のことです。
魏志の「自女王國」とは女王卑弥呼の統治領域を刺し、その領域は
>>521 と同じです。
又、魏志には「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千余里」とあり
その「女王」は「女王卑弥呼」のことではありません。
「女王國」「自女王國」「女王」を明確に。
523日本@名無史さん:2011/07/25(月) 15:16:35.42
>>519
>「自武帝滅朝鮮」の「自武帝」は武帝の在位期間であり、武帝と記述すれば武帝のこと。

そういう意味じゃない。
「自」は「武帝」にかかるんじゃなくて、「武帝滅朝鮮」にかかる。
「武帝が朝鮮を滅ぼす」という出来ごと(時間的な起点)があって、それ以降という意味が「自」。
>「自武帝」は武帝の在位期間であり
というのはトンデモ。
同様に「自女王国以北」は女王国という地理的な起点から、それよりも北の地域という意味で、
>「自女王國」は女王卑弥呼の統治領域であり
というのはトンデモ。
524日本@名無史さん:2011/07/25(月) 15:20:25.25
九州説自体がトンデモだな。
525日本@名無史さん:2011/07/25(月) 15:27:05.54
畿内説は九州説以上にトンデモである。
526日本@名無史さん:2011/07/25(月) 15:33:19.83
>同様に「自女王国以北」は女王国という地理的な起点から、それよりも北の地域という意味で、
>>「自女王國」は女王卑弥呼の統治領域であり
>というのはトンデモ。


>女王国という地理的な起点から
との起点とは何処?
この何処が決定していなければ「以北」と言う決定もありえない。
「以北」だけが一人歩きすることはない。

「自郡至女王國萬二千余里」の「自郡」を「帶方郡」と解釈しているのもあやまりである。
 
527日本@名無史さん:2011/07/25(月) 15:37:13.04
>>526
女王国=邪馬台国
女王境界=30国
528日本@名無史さん:2011/07/25(月) 16:07:34.79
>>526
>この何処が決定していなければ「以北」と言う決定もありえない。

そうじゃない。
「自A以B」という句法は、「Aを起点にしてBの方向」という意味だから、
女王国が具体的に何処か決定していようがしていまいが、
「女王国を起点にして、そこから北」としか解釈のしようがない。
それに合わせて女王国とは何かを解釈しなければいけない。
女王国の意味を勝手に作って、それに合うように「自A以B」の意味を決めるのでは本末転倒。
529日本@名無史さん:2011/07/25(月) 17:40:48.36
まぁ有明海側には邪馬台国が無いのは確実だよ。
530日本@名無史さん:2011/07/25(月) 17:50:24.75
>>524, >>529
こういうふざけたレスに付合ってやろう。
伊都とはイタリアの都という意味だ。つまりローマのことだ。ここから南に水行すればエジプトに着く。
邪馬壹国はエジプトにあったのだ。
531日本@名無史さん:2011/07/25(月) 18:01:35.54
信憑性は有明沿岸説=エジプト説か。
このスレで唯一説得力を感じたよ。
532日本@名無史さん:2011/07/25(月) 19:23:51.97
>>526
>「自郡至女王國萬二千余里」の「自郡」を「帶方郡」と解釈しているのもあやまりである。
どうゆう意味かな? 帯方郡から万二千余里で女王国に至るということだろ。
そこから女王国が始まるんだよ。けして、万二千余里で女王国の都に至るというわけではない。

自女王国以北は、その万二千余里よりも北にある諸国を指しているわけだ。
具体的に言えば、不弥国までの国々だね。
533日本@名無史さん:2011/07/25(月) 19:33:37.44
>>512
>「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國」後漢書倭伝
>>508に対する答のつもりかな?
しかし、後漢書の上の記事は、倭人伝にいう官を各国の自称王と書いているわけではないよ。
後漢書の「國皆稱王 世世傳統」は、范曄が倭人伝の「世有王」を解釈して書いたものだ。
自称王とは別に官がいるんだよ。
534日本@名無史さん:2011/07/25(月) 20:39:59.89
>>533
>「世有王」を解釈して書いたものだ。
 
この辺は、素人には難しいですね。

535日本@名無史さん:2011/07/25(月) 20:49:05.76
韓国国営放送である犬hkを解約する方法
http://www.youtube.com/watch?v=eXHtr8nKn2k&feature=related
ただし一般郵便だと無視される可能性があります。
とぼけられないように一般書留+配達証明=770円で郵送したほうが確実です。。


これをすると、犬hkから電話がかかってきます。
丸め込まれないためにも、理論武装、犬hkの不祥事事件の知識が必要となります。
十分に準備を整えてから実行しましょう。
私の実際の経験では、1時間ほどの電話×2日ほど掛かりました。
あまり好きな手段ではないのですが、担当者の胃に穴を開けるつもりでクレーマーに徹しました。

デジタル移行の今がチャンスです。
536卑彌呼の都は久留米:2011/07/25(月) 22:51:20.39
漢文を読む能力不足の人が多いね。

漢文読解力テスト
「自女王國東度海千餘里至拘奴國」後漢書倭伝

上記を、「女王國と拘奴國の距離が千餘里」と理解するようでは漢文読解力初心者。

正解は、「女王國と拘奴國の距離は不明」である。
537日本@名無史さん:2011/07/25(月) 23:01:20.12
んな、アホな
538日本@名無史さん:2011/07/25(月) 23:33:24.10
>>536
一度精密検査受けて来た方がいいよ。
539日本@名無史さん:2011/07/25(月) 23:42:13.61
>>534
「世有王」は、単に伊都国に関する記事ではない。そのことに気づいた范曄は、「世」が
世襲の意味を持つことから、倭の諸国にはそれぞれ世襲の王がいると解釈したのさ。
540卑彌呼の都は久留米:2011/07/25(月) 23:43:16.45
>>537
渡る海の大きさが千餘里と書いてある。

女王國と拘奴國の距離が千餘里なら、
「自女王國東度海至拘奴國千餘里」又は、
「自女王國東渡海千餘里至拘奴國」となる。
541日本@名無史さん:2011/07/25(月) 23:47:21.55
「自女王國東度海千餘里至拘奴國」後漢書倭伝

「自女王國東渡海千餘里至拘奴國」

違いはさんずいの有無だけだな。
542卑彌呼の都は久留米:2011/07/26(火) 08:34:41.40
>>541
「渡」の意味は、水上の「度」に限定される。
543サガミハラハラ:2011/07/26(火) 08:53:23.62
近頃考えるのであるが、狗奴国と拘奴国とは、全く別の国ではなかろうかと。
狗肉奴国は熊本県北部、拘奴国は山口県あたりと。
544サガミハラハラ:2011/07/26(火) 08:55:29.27
狗肉奴国は狗奴国の誤まりです。
545日本@名無史さん:2011/07/26(火) 10:22:05.63
どうやって漢字変換してるかわかって面白い。
よく使うなら登録しとけよ。
546日本@名無史さん:2011/07/26(火) 11:35:56.63
>>528 :日本@名無史さん:
>「自A以B」という句法は、「Aを起点にしてBの方向」という意味だから、
「自」を「より」翻訳されているのは周知でしょう。

>女王国が具体的に何処か決定していようがしていまいが、
>「女王国を起点にして、そこから北」としか解釈のしようがない。
>それに合わせて女王国とは何かを解釈しなければいけない。
では、貴方の「女王国」の解釈をご教示ください。
おそらく、
{後漢書の「自女王國 」とは女王卑弥呼の統治領域を刺し、
魏志の「自郡至女王國萬二千余里」「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」の「女王國 」とは、邪馬臺國を刺す。
魏志の
 「自女王國以北」の「自女王國」は女王卑弥呼の統治領域であり、その南限は
「計其道里當在会稽東治【冶】之東」である}ということに行き着くだろう。

547日本@名無史さん:2011/07/26(火) 12:00:00.08
>>543 名前:サガミハラハラ
>近頃考えるのであるが、狗奴国と拘奴国とは、全く別の国ではなかろうかと。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」と
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」の
「拘奴國」と「復有國」が同じ国です。が、
「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」の
「狗奴國」は全く別の国です。
「狗奴國」は女王卑弥呼の統治領域内に在るが、
「拘奴國」と「復有國」は女王卑弥呼の統治領域外に在る。

「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」の
「拘奴國」は、「燕人」の影を引きずっている。

548日本@名無史さん:2011/07/26(火) 12:33:54.78
>>533 :日本@名無史さん
>>512
>>「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國」後漢書倭伝
>>508に対する答のつもりかな?
>しかし、後漢書の上の記事は、倭人伝にいう官を各国の自称王と書いているわけではないよ。
>後漢書の「國皆稱王 世世傳統」は、范曄が倭人伝の「世有王」を解釈して書いたものだ。
>自称王とは別に官がいるんだよ。
「使驛通於漢者三十許國」の「許」の一文字を正しく解釈していないんじゃないですか?
「許」は『ほぼ、約、おおよそ』という意味では使われていない。
「國皆稱王 世世傳統」とあるから、春秋時代の諸侯の一つとしての「許」であろう。
所謂、都市国家連合の世襲的な首長であり、その酋長が王を自称した。
という解釈はどだ。


549卑彌呼の都は久留米:2011/07/26(火) 12:36:24.91
>>547
>「狗奴國」は女王卑弥呼の統治領域内に在るが、

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
卑彌呼と卑彌弓呼は不和であるから、
「狗奴國」は女王卑弥呼の統治領域外となります。

>「拘奴國」は、「燕人」の影を引きずっている。
これは、あなたの空想。
550日本@名無史さん:2011/07/26(火) 12:49:50.56
>>549 名前:卑彌呼の都は久留米
>>547
>「狗奴國」は女王卑弥呼の統治領域内に在るが、
>「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
>卑彌呼と卑彌弓呼は不和であるから、
>「狗奴國」は女王卑弥呼の統治領域外となります。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」と
「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」の
「不屬女王」を正しく解釈していない。
この「女王」は卑弥呼ではありません。普通名詞としての女王です。
魏志の何処にも『不屬女王国』は記述されていない。

>「拘奴國」は、「燕人」の影を引きずっている。
これは、あなたの空想。
 「贊曰 宅是嵎夷 曰乃暘谷 巣山潛海 厥區九族 嬴末紛亂 燕人違難 雜華澆本 遂通有漢 眇眇偏譯 或從或畔」・・・後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (倭)
の記述の意味するものは何だ?

551日本@名無史さん:2011/07/26(火) 16:22:26.00
しかしここの連中はまだ三世紀の倭国を
九州内で収めようてしてんじゃないだろうな?
マジなら犯罪的誤解か無知だぞ。
552日本@名無史さん:2011/07/26(火) 16:47:19.70
売国組織、犬hkを解約する方法
http://www.youtube.com/watch?v=DPS2LFunUz8&feature=related
ただし一般郵便だと無視される可能性があります。
とぼけられないように一般書留+配達証明=770円で郵送したほうが確実です。。


これをすると、犬hkから電話がかかってきます。
丸め込まれないためにも、理論武装、犬hkの不祥事事件の知識が必要となります。
十分に準備を整えてから実行しましょう。
私の実際の経験では、1時間ほどの電話×2日ほど掛かりました。
あまり好きな手段ではないのですが、担当者の胃に穴を開けるつもりでクレーマーに徹しました。

デジタル移行の今がチャンスです。
553日本@名無史さん:2011/07/26(火) 18:40:31.61
>>551
しかしここの連中はまだ三世紀の倭国を
九州内で収めようてしてんじゃないだろうな?

本州は倭種の国。
四国は侏儒国。
倭国は九州中北部だけだ。

>マジなら犯罪的誤解か無知だぞ。

畿内説の学者はマジで詐欺師だ。
炭素同位元素、とか年輪まで利用して年代の誤魔化しをしている。
しかしいくら年代を誤魔化しても
距離も方角も違い墓か大きすぎる畿内が邪馬台国になることはない。
554日本@名無史さん:2011/07/26(火) 20:03:00.35
まぁ頑張ってくれw
時間の無駄だと思うけど。
555日本@名無史さん:2011/07/26(火) 21:11:55.59
倭人伝を100%信頼できるものという前提の方がいらっしゃいますが
三国志の評価が高いのは周辺国に関する記事に対してではないでしょう
日本のこの時代に関しては確認の意味で部分的にしか採用できないと思います
556日本@名無史さん:2011/07/26(火) 22:10:57.97
>>555
>倭人伝を100%信頼できるものという前提の方がいらっしゃいますが

方角が正しいとしたら
距離が正しいとしたら
女王國東渡海千余里復有國が正しいとしたら
畿内説は即消滅だから都合の悪いものは全て間違いとするしかない。

>日本のこの時代に関しては確認の意味で部分的にしか採用できないと思います

畿内説に都合の良い所だけ採用すると言うことですね。
557日本@名無史さん:2011/07/26(火) 22:11:43.96
部分的に採用するにしても

ようは、自分の都合の良いところだけの
つまみ食いになってしまうから、

各部分で、採用する部分としない部分を
根拠を持って説得できなければならないと思う。

そして、基本的に改変が少ない解釈のほうが
説得力がある。事実はどうか知らないが。
558日本@名無史さん:2011/07/26(火) 22:15:04.84
なぜ、ある部分を採用するのか、
なぜ、ある部分を採用しないのか、

これに明確な基準が設けられ、
倭人伝以外の文書でも適用できるようなものでなければ、

結局水掛け論になる。
つまり無意味である。
559日本@名無史さん:2011/07/26(火) 22:23:01.21
根拠ないつまみ食いでは

万二千里、公里で5000キロ程度
該当する場所はパプアニューギニアか
マリアナ諸島である。
途中に行程記事があるが、これは後世に差し込まれた
間違った記事である。
つまり、邪馬台国はパプアニューギニアか
マリアナ諸島である。

と解釈することも可能である。

案外合っているかもしれないが。
560日本@名無史さん:2011/07/26(火) 22:53:52.89
畿内でも九州でも何か倭人伝でいう邪馬台国の存在が認められるような
考古学的にも文献的にも成果があったのですか?
561筑紫の民:2011/07/26(火) 22:56:28.36
Sh×E 勝ったばい。
日ハム負けたから1ゲーム差で単独首位ばい。
この調子で邪馬台国も勝ちとるばい。
562日本@名無史さん:2011/07/26(火) 23:14:30.67
>>559
万二千里、公里で5000キロ程度
該当する場所はパプアニューギニアか
マリアナ諸島である。
途中に行程記事があるが、これは後世に差し込まれた
間違った記事である。
つまり、邪馬台国はパプアニューギニアか
マリアナ諸島である。
と解釈することも可能である。
案外合っているかもしれないが。

馬鹿じゃないのか?
【万二千里、公里で5000キロ程度】で書かれた古文書での倭人の情報など皆無だ。

魏略逸文、隋書東夷傳、舊唐書、新唐書 、梁書、後漢書など
全ての子文書は魏志倭人伝と同じ距離基準で記載している。
563日本@名無史さん:2011/07/26(火) 23:18:51.74
>>562
まあ、そのとおり。
基本的に短里で記録されているのは確実である。

できれば皮肉であることに気づいてくれるとありがたい。
564日本@名無史さん:2011/07/26(火) 23:35:57.40
>>548
くだらんこじつけはやめることだ。
565日本@名無史さん:2011/07/26(火) 23:54:05.18
>>558
なぜ、ある部分を採用するのか、
なぜ、ある部分を採用しないのか、

倭人伝の記述を採用して
畿内説になる箇所など一つとして無いじゃないか。
畿内説は
悉く間違いとするしかないんだよ。
566卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 06:42:42.26
>>550
>「後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五」の「贊曰・・・」の記述の意味するものは何だ?

東夷全般についてのコメントである。
狭い視野でみても、倭についてのコメントなのか東鯷人についてのコメントなのかはわからない。
567卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 09:44:37.92
>>550
>>「後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五」の「贊曰・・・」の記述の意味するものは何だ?

古田氏は、「贊曰 宅是嵎夷・・・・・或從或畔」を東鯷人についてのコメントと捕らえ、
東鯷人の二十餘國を関東平野と比定したいたような記憶がある。
私の記憶が曖昧だが。

私は古田説を支持しない。
東鯷人分爲二十餘國の中の有力な一国が後の狗奴國だと思う。
東鯷人二十餘國の範囲は九州西部海岸九州中部(ほぼ肥の地域に相当)地域。
568卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 09:53:38.99
>>550
「贊曰 宅是嵎夷・・・・・或從或畔」については、
関東平野についての記述とみることは、古田説と同じくする。
関東以北の太平洋岸についてのことともとれる。
後の「日高見国(仙台平野を中心とする)」の地域のことかも知れない。

以上私の想像。
569日本@名無史さん:2011/07/27(水) 11:33:56.84
色んな説みたけど倭人伝の記述なら九州よりやっぱり四国だわ。
570日本@名無史さん:2011/07/27(水) 13:27:41.62
>>568 名前:卑彌呼の都は久留米
>>550
>「贊曰 宅是嵎夷 曰乃暘谷 ・・・・・或從或畔」については、
>関東平野についての記述とみることは、古田説と同じくする。
>関東以北の太平洋岸についてのことともとれる。
>後の「日高見国(仙台平野を中心とする)」の地域のことかも知れない。
>以上私の想像。
私見は、
「曰乃暘谷」という時、「燕の居住地」は北緯40度を刺す。
その根拠と成り得るものは、
燕(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国で国都は薊で現・北京市です。北京の緯度は北緯40度。
燕は漢の時制にあては、
「然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」・・・漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条
の如く、北緯24度から北緯39度に至る範囲にも居住していたが、後漢の時制に於いては、
燕の国都と同緯度に落ちついた。
というよりも、北緯39度を挟んで共立したとみる。
共立の他方は 「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」・・・漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条 の
後漢時制に「東鯷人」を浄化してより純化した「太伯之後」。
「太伯之後」が「大倭王居邪馬臺國」の「大倭王」だ。

571日本@名無史さん:2011/07/27(水) 13:31:55.45
まっすぐ陸路と航路を教えるわけない。
わざと迂回したに決まってる。

真面目に議論するだけ無駄。

しかし、奈良は有得んね。
九州か四国、これ以外考えられん。

天皇陵を掘り返しては邪馬台国とこじつける畿内説には天罰がくだるぞ
572日本@名無史さん:2011/07/27(水) 13:43:13.45
>>564 :日本@名無史さん
>>548
>くだらんこじつけはやめることだ。
「至一大國・・・ 有三千許家」の
「許家」を解釈してみろ。
『ほぼ、約、おおむね』なら『有三千余家』で事足りるだろう。
俺の論を否定したいなら貴方の肯定すべき論をぶつけなさい。

573卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 15:03:59.48
>>572

三千餘家=(三千+α)家
三千許家=(三千−α)家

じゃないの?

574日本@名無史さん:2011/07/27(水) 15:11:59.43
>>573 名前:卑彌呼の都は久留米
>>572
>三千餘家=(三千+α)家
>三千許家=(三千−α)家

「使驛通於漢者三十許國」は、『三十ヶ国』以下だった
という、初見解ですね。
「漢時有朝見者 今使譯所通三十國」との記述の行き違いはどの様に解釈しますか?



575日本@名無史さん:2011/07/27(水) 15:12:20.77
>>573
三千餘家=(三千+α)家
三千許家=(三千±α)家

でしょ。
576日本@名無史さん:2011/07/27(水) 15:18:19.02
>>575 名前:日本@名無史さん :2011/07/27(水) 15:12:20.77
>>573
>三千餘家=(三千+α)家
>三千許家=(三千±α)家

>でしょ。

魏では30ヶ国と国数を明確にしているが、
漢は「使驛通於漢者」に関しては明確ではなくいい加減だった。
ということか?   ははは。
577卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 15:27:49.11
>>570
緯度は関係ないと思うよ。

燕の東の東夷、その又東の端です。
即ち、沿海州、半島東海岸、東日本東海岸が範囲。
理由は省略しますが、最有力地は現関東平野の多島海湾。
578日本@名無史さん:2011/07/27(水) 15:36:00.61
>>576
武帝が朝鮮を滅ぼしたのが元封三年、紀元前108年。
後漢滅亡からすると、ざっと300年前。
300年間には朝貢する国の数にも変動があっただろう。
それに、三国志は同時代人の手になるもの。
かたや後漢書は漢武帝からおよそ500年後に編纂されたもの。
後漢滅亡からでも200年くらいたってる。
漢に朝貢していた倭の国の数が明確にはわからなかったとしても、何の不思議もない。
579卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 15:53:46.84
>>574
魏志倭人伝には31ヶ国あります。(狗邪韓國を含む)
時代によって国の増減があり、又数え方が異なるのでしょう。

不彌國は倭國乱以後に設立された国と思われます。
奴國は分国(倭國乱の頃か?)後に2ヶ国とカウントされました。
末盧國は王(官)不在となりました。卑弥呼共立後か?
狗奴國がカウントされたかどうか。
580日本@名無史さん:2011/07/27(水) 16:36:13.99



今歴代8位!!

【芸能】宮崎あおいさん夫・高岡蒼甫氏、ツイッターでつぶやく 「8は韓国のTV局か、洗脳気持ち悪い。日本の番組や歌をやって」★60


http//kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1311749130/


ヒャッハー!!お前ら待望の垂涎の(新)神スレだぜー!! ただしスレの流れが速すぎて

素人さんにゃーおすすめできねえ! 
お前らの実力をはかったうえで祭りに参加してくれ!!
こいつはしんじゃうスレだぜーあでぃおす!!






581日本@名無史さん:2011/07/27(水) 17:20:07.46
>572
塵クズ
582日本@名無史さん:2011/07/27(水) 20:46:53.56
そもそも、邪馬台国なんて国は無かったのだ。

何を下らんことを言い争ってんだ?
583卑彌呼の都は久留米:2011/07/27(水) 21:01:11.70
>>582
>そもそも、邪馬台国なんて国は無かったのだ。

と古田武彦氏が40年前に本に書いております。

センセイショナルな題名だったなぁ。
当時眉唾で読んだ覚えがある。
584日本@名無史さん:2011/07/27(水) 21:21:21.98
>>583
>古田武彦氏が40年前に本に書いております

これからは「邪馬壱国」と読んでほしい、じゃなかった?
それにしても古田武彦は落ちぶれたなぁ。
津軽三郡誌事件でミソ付けちゃったね(´・ω・`)。
585日本@名無史さん:2011/07/27(水) 21:57:16.80
>>576
>魏では30ヶ国と国数を明確にしているが、漢は「使驛通於漢者」に関しては明確ではなく
>いい加減だった。 ということか?   ははは。
理解力のない奴だな。>>575 のいうとおりさ。魏時代には30国だったが、後漢時代につい
ては幾つだったのか資料がない。范曄は、魏時代と大した違いはなかろうと考えて倭人伝の
数字を利用し少しあいまいな意味をもつ「許」をつけたってことだ。

586日本@名無史さん:2011/07/28(木) 10:07:07.69
九州説?有り得ないのでもう終わった話。
587日本@名無史さん:2011/07/28(木) 11:37:21.93
>>585 :日本@名無史さん:
講談師見てきたような嘘を言い。
>>578 も同じテンポだが、同一人か?
後漢書で
「許」が使われているのは、
 議者皆以爲可許・・・後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (高句驪)
と、外にあるの?
夫餘、挹婁、高句驪、東沃沮、濊、三韓の国々の国数に於いて「許国」と
使われている例はないようですがNe.
倭だけは「後漢滅亡からでも200年くらいたってる。
漢に朝貢していた倭の国の数が明確にはわからなかったとしても、何の不思議もない」
といっても、詭弁にしか聞こえないがNe.
ま〜〜、籠手を打たれてのかきこだ
と、いうことは解るが



588日本@名無史さん:2011/07/28(木) 13:13:34.26
>>585 :日本@名無史さん:
「戊子,帝幸衛尉馮石府,留飲十許日,賞賜甚厚,拜其子世為黃門侍郎,世弟二人皆為郎中。石,陽邑侯魴之孫也,父柱尚顯宗女獲嘉公主,石襲公主爵,為獲嘉侯,能取ス當世,故為帝所寵。京師及郡國二十七雨水。」
順帝は、衛尉の馮石の役所・・・・馮氏の子弟に、官爵をバラまく。
「留飲十許日」のベストの解釈は、「十日±α」でか?
ここでも、官爵が飛び散ってますが?


589日本@名無史さん:2011/07/28(木) 13:40:09.84
許=ばかり
590日本@名無史さん:2011/07/28(木) 13:52:19.20
「許」の古文字は「鄦」。
「鄦、炎帝大嶽之胤、甫侯所封。在潁川。从邑無声、読若許〔虚呂切、五部〕」。
「漢の字にては許に作り、周時の字にては鄦に作る」

「許、聴言也。从言午声〔虚呂切、五部〕」。
「許す」という意味が本義、ということになります。
591日本@名無史さん:2011/07/28(木) 14:14:10.71
段玉裁を超える解釈が出来る者が此処に居るとは思えんがの〜〜〜!。

段玉裁曰、「漢の字にては許に作り、周時の字にては鄦に作る」

籠手無しの天才君、面を打たれないようにNE。 ははは
592日本@名無史さん:2011/07/28(木) 14:40:54.48
段くんのそれは解釈とはいえんレベルやな
調べれば誰でもわかること
593卑彌呼の都は久留米:2011/07/28(木) 14:44:42.82
>>584
>これからは「邪馬壱国」と読んでほしい、じゃなかった?

「邪馬臺國はなかった」
しかし、
「邪馬壹國があった」です。

古田武彦氏は、既存学説が原文改竄によるものであることを批判したのです。



594日本@名無史さん:2011/07/28(木) 15:11:59.65
>>593
卑彌呼の都は久留米さんって、古田武彦信者なんですか?
595日本@名無史さん:2011/07/28(木) 15:14:10.62
古田武彦氏の「邪馬壹國」は何処ですか?


596卑彌呼の都は久留米:2011/07/28(木) 17:04:46.61
>>594
>卑彌呼の都は久留米さんって、古田武彦信者なんですか?

いいえ。
方法論では彼の影響を受けました。
しかし、彼の論理展開には同意できないところがいろいろあります。
一方、彼の九州王朝説には傾聴に値するところが多々あります。


>>595
>古田武彦氏の「邪馬壹國」は何処ですか?

知りません。
著書「邪馬台国はなかった」で、
卑弥呼の宮殿は、室見川中流吉武高木遺跡付近の高台と推測していました。
その時私は疑問に思いましたね。

今、古田氏は邪馬壹國を何処としているのかは知りません。
597日本@名無史さん:2011/07/29(金) 12:44:49.97
「今使譯所通三十國」・・・魏志の「三十國」とは、
對海【馬】國、 一大國、 末廬國、 伊都國、 奴國百里、不彌國、
投馬國、邪馬壹【臺】國、の8ヶ国。と、

 「自女王國以北其戸数道里可得略載」の
 斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、
 對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、
 躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國 此女王境界所盡 迄の 21ヶ国。と、
  狗奴國 で  計30ヶ国。です。
「其余旁國遠絶不可得詳」とある「旁國」数は不明。
この魏志の「三十國」が、後漢書の所謂、「國皆稱王 丗丗傳統」である「使驛通於漢者三十許國」の
「三十許國」です。  

 

598日本@名無史さん:2011/07/29(金) 13:35:17.98
 「自女王國以北其戸数道里可得略載」における「自女王國」の領域は、
「自郡至女王國萬二千余里」と「計其道里當在会稽東治【冶】之東」の範囲内に当たる。其れを緯度で見るなら北緯38度から北緯26度となる。
北緯38度は新潟県新発田市(北緯37度57分03秒)の緯度線上で北緯26度は沖縄県糸満市(北緯26度07分25秒)である。
此処で「自女王國以北」という時、魏志の行程地図は南北180度反転して記述されているので、「以北」は『以南』です。
従って、「自女王國以北」の領域は、沖縄より南の宮古島、石垣島、西表島です。
この三島からは、筏に乗っても中華本土に行ける。邪馬台国や奴国の恐怖する地域なのである。だから此処に「一大卒」置いて監視をしたのである。
599日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:07:04.96
>>597
「数字+許+名詞」は、「だいたいこのくらいの数」という意味の句形だから、
「三十許国」は「ぴったり三十国」の意味じゃないし、
「許された国」という意味には絶対にならない。

つまり、漢代には朝貢国に増減があったが、魏の時代には三十国に落ち着いていたということ。
卑弥呼共立以前には揉めてたんだから、滅びたり漢まで使者を送れなくなったり、
あるいは新たに力を付けて使者を送るようになったりということがあっただろう。

ただ、三十国の構成がすべてガラリと変わったとは考えにくいので、
その主要な構成国は漢代からあまり変わってないのだろう。
600日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:13:50.00
>>599

>「数字+許+名詞」は、「だいたいこのくらいの数」という意味の句形だから
「名詞+数字+許」で、「だいたいこのくらいの数」
例えば、
「年四十許」で「年はほぼ40歳」。
601日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:20:45.33
>>600
「数字+許+名詞」と「名詞+数字+許」は倒置表現で意味は同じ。
たとえば「漢家君天下四百許年」。
602日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:26:33.58
倒置表現というより省略かな。
「年はほぼ40歳」。これを逐語的に漢文にすれば「年四十許年」。
年が重複するので後ろの年を省略する。
すると「年四十許」という文になる。
基本となる句法は「数字+許+名詞」。
603日本@名無史さん:2011/07/29(金) 14:47:06.53
>>602 名前:日本@名無史さん

>「年はほぼ40歳」。これを逐語的に漢文にすれば「年四十許年」。
とは、絶対にならない。
>「漢家君天下四百許年」。
「漢家は天下に君たりしこと四百許年」
漢家の「君主」と「許」を同位相に記述してある。
主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下の貴族、所謂「許」。「許」無くして「君主」なし。
「年四十許年」と記述されている場合は、個人の年齢ではない。
「主君」としての存命が「四十年」ということになるだろう。



604日本@名無史さん:2011/07/29(金) 15:17:36.63
>>603
河童虫復活?
605日本@名無史さん:2011/07/29(金) 18:16:35.43
河童は真っ当で、あたり前のことは絶対書かない。
606卑彌呼の都は久留米:2011/07/29(金) 18:37:41.79
「年」と「歳」の使い分けを明確に
607日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:00:35.11
>>606
年と歳は、意味がほとんど重なるんだけど、
どんな明確な使い分けがあるの?
608日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:24:06.12
年は太陽の公転周期が基準
歳は木星の公転周期が基準
609日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:43:10.42
>>608
それは用法の明確な使い分けではない。
原義が違っていても、後世に同じ意味用法で使われることを妨げない。
後世にどのような明確な使い分けがあったのかという質問。

それに、その原義もどうかなあと思う。
?の巡りを見るのに木星を使ったから、木星を?星と名付けたのなら、
?の文字の方が?星紀年法より前に存在したことになる。
すると、?は木星の公転周期が基準とは言い難い。
一般には夏では?、殷では祀、周では年と言ったということになってる。
610日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:43:38.49
化けてた。
>>609の?は歳。
611日本@名無史さん:2011/07/29(金) 20:09:22.17
反射的に横レスしてしまった、スマヌ
夏で歳を使ってたのか、なんか納得いった。
612卑彌呼の都は久留米:2011/07/29(金) 23:48:03.38
>>609
>一般には夏では歳、殷では祀、周では年と言ったということになってる。

こんなのもあるよ。

「唐虞曰載 夏曰歳 商曰祀 周曰年」(唐虞=堯舜時代)
613日本@名無史さん:2011/07/30(土) 11:31:07.16
>>604 名前
>>603
>河童虫復活?
>>605 名前
>河童は真っ当で、あたり前のことは絶対書かない。
俺は、河童でも河童虫でもないYo. 
文字の病に侵された奇想天外な発想はしません。

「至一大國・・・有三千許家」の「許」は何だ?
「一大率」の匂いがするが。
614日本@名無史さん:2011/07/30(土) 12:31:05.27
>「至一大國・・・有三千許家」の「許」は何だ?
「一大率」の匂いがするが。

妄想
気のせい
615日本@名無史さん:2011/07/30(土) 13:33:05.40
>>614 名前:日本@名無史さん :2011/07/30(土) 12:31:05.27
>>「至一大國・・・有三千許家」の「許」は何だ?
「一>>大率」の匂いがするが。
>妄想 >気のせい
では、
「自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 
常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遣之物 詣女王 不得差錯」の
「王」とは誰で、「女王」とは誰?
「郡使倭國」の「郡」は「帶方郡」ではないよね。
「王」は「自女王國以北」の「王」ならこれも女王。
何故なら
 「自女王國以北其戸数道里可得略載・・・此女王境界所盡」だから。
「傳送文書賜遣之物 詣女王不得差錯」の
役割も「一大率」が担っていたなら、可也の人員が必要であったであろう。
616日本@名無史さん:2011/07/30(土) 13:41:40.76
レベル低すぎ。
617日本@名無史さん:2011/07/30(土) 13:47:37.20
>>615 名無史さん

「一大國」の表記
「畏憚之」の背後関係
「許、家、戸」
「倭乱の勢力図」  いずれも定説はない。 皆バラバラ。

>役割も「一大率」が担っていたなら、可也の人員が必要であったであろう。

 賛同したいところですね。
618日本@名無史さん:2011/07/30(土) 13:52:45.82
>>614,616 名なし
>妄想
気のせい
レベル低すぎ。
何か主張してみたら?
619伽耶族の逆襲:2011/07/30(土) 19:21:32.87
自郡至女王國、萬二千餘里。
「男子無大小、皆面黥面文身」 「計其道里、當在會稽東冶之東」
「所有無與儋耳・朱崖同」   「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣」
「食飲用籩豆、手食」     「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十曰、陸行一月」

 邪馬台国は九州南部にあるべし。
620日本@名無史さん:2011/07/30(土) 19:39:10.67
>>619
会稽東冶之東は九州南部じゃなくて沖縄。
ただし、陸行一月があわない。
他の条件も沖縄を彷彿とさせる。
621日本@名無史さん:2011/07/30(土) 19:47:16.99
北九州に上陸して、南、水行二十日、水行十日陸行一月。
奄美や沖縄では陸行一月は不可能。となれば、南九州しかないよ。
622日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:01:10.91
でも会稽東冶は南九州じゃないよ。
>北九州に上陸して、南、水行二十日、水行十日陸行一月。
は採用して会稽東冶之東は無視するのは矛盾だよ。
623伽耶族の逆襲:2011/07/30(土) 20:06:13.21
投馬国 = 宮崎西都原 は固い。

都萬神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E8%90%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE

海人族日下氏系図 「都萬大明神君」
西都原に駒はいたのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC
624日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:14:32.75
会稽東冶之東も2つ説がなかったかな
従来は倭人伝を否定するために、より南とする説の方が好まれてたようだけど。
625日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:16:42.65
>>622
会稽東冶の東という意味を考えないとだめだよ。
626日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:21:41.26
>>624
「会稽郡の東冶の東」だと台湾のあたり。
「会稽から東冶にかけての東」だと沖縄から台湾のあたり。

>従来は倭人伝を否定するために、より南とする説の方が好まれてたようだけど。

そういうことではない。
どちらの説にせよ「東冶の東=台湾のあたり」は含まれるから南限は同じ。
台湾のあたりだけを指すのか、北が沖縄まで含まれるのかで説が違うだけ。
627日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:27:49.56
「冶」と「治」の違いとか、北緯32度付近説ってなかったかな
628伽耶族の逆襲:2011/07/30(土) 20:37:06.98
「南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸」

西都原古代文化圏の最北端に美々津港(みみつ)がある。
美々津町は、古代以来児湯郡の重要な津であった。
(神武船出の伝承を持つ)

「古代日向の国」  日高正晴  西都原古墳研究所所長
629日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:56:30.67
>>627
東治は東冶侯官でいいでしょ。
緯度の人の説は知らない。
630日本@名無史さん:2011/07/30(土) 21:14:02.46
会稽郡は上海付近
その中の東冶城

これも上海の近く。
631伽耶族の逆襲:2011/07/30(土) 21:55:57.16
「狗奴國王墓」

 宮崎県串間市に強力な王がいた。文政年間に、日向国那珂郡今村(串間市今町)で
石棺から中国漢の諸候の証である硬玉製の大きな【穀壁】が出土している。
「玉之山」と呼ばれていたが、現在の地名は残っていない。

 国内出土の壁としては、奴国の金印に劣らない秀品であり、中国と直接交渉できる
勢力の存在を示す貴重な資料である。

 「倭國之極南界也」

       邪馬台国の暗号  安田哲也 中央大学卒 鹿児島検事正
632伽耶族の逆襲:2011/07/30(土) 22:14:22.44
 弥生時代の甕棺の南限は、宇土半島である。
六世紀の装飾古墳は、玉名市菊池川で南北が分かれる。
六世紀以降は、さらに北上している。

邪馬台国は宇土半島以南であり、狗奴國は鹿児島であり、
姉と弟と推定する。

勢力図は、甕棺勢と甕棺以外の乱と考える。
633筑紫の民:2011/07/30(土) 22:16:13.45
今日も勝ったばい。
杉内完投おつかれさん。
そしてキャプテン小久保3打点すごかばい。
今日はドーム行ってよかったばい。
この調子で親魏倭王の金印も見つけるばい。
634伽耶族の逆襲:2011/07/30(土) 22:26:59.15
 甕棺の東限は、福岡県飯塚市の立岩遺跡である。
卑弥呼共立以来、田川・行橋地区で「素環頭太刀」の出土が大急増している。

「自爲王以來、少有見者」
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」

遷都の可能性が感じられる。
どちらの地も甕棺の出土は少ない。
635184:2011/07/30(土) 22:46:05.83
すまん、ミスタッチ
一般人じゃなく会津好きの人は供養してやればという話ではと言いたかった
636635:2011/07/30(土) 22:49:34.85
申し訳ない
スマホ不馴れの失態だ、邪魔してすまん
637伊作:2011/07/31(日) 00:02:58.31
>>633  筑紫の民さん。
そろそろ、俺の邪馬台国訪問旅のパートを
俺のサイトで公開しようと思うがいいかね。
638筑紫の民:2011/07/31(日) 02:19:26.89
>>637 伊作先生
はい、まてます。
みんなびっくりですよ。
先生が比定するあの場所は私個人年数回立ち寄るので
今度行くときはスコップ携行して掘り返そうかと思ってます。
639日本@名無史さん:2011/07/31(日) 03:12:11.60
>スコップ携行して掘り返そうかと思ってます。

そこが周知の埋蔵文化財包蔵地ならば
文化財保護法違反の立派な犯罪行為

そして素人が掘り荒らすことによって失われた情報は
二度と復元することができない

本当にそこが重要な遺跡だと考えているのならば
自信の安直な行動がそれを永久に破壊してしまうということを
真剣に考えろ
640日本@名無史さん:2011/07/31(日) 08:45:22.22
はずれだから、ダイジョービ!
641筑紫の民:2011/07/31(日) 09:44:58.77
>>639
たかが冗談を真剣に考えるな、しかも夜中の0312に。
不眠症になって短命の元だよ。
642筑紫の民:2011/07/31(日) 10:20:12.03
>>637 伊作先生
たしか平成14年頃、先生の比定する某地で建物建築前に
発掘作業があってたと記憶しています。その頃は私も古代史や
考古学に興味が無くて何が発掘されたのか全く知りません。
(今度調べてみます。)なお、某地は建物の場所以外は深く
掘り返したことが無いと思うのでわたしはささやかながら期待
しています。
643筑紫の民:2011/07/31(日) 10:24:07.67
さ、今日も対日ハム戦「頂上決戦」ばい。
本日1300試合開始、当然現地に応援行くばい。
近傍の福岡市博物館にある「漢倭奴国王金印」のパワーを
受けて「今日も勝つんダ」たい。
644日本@名無史さん:2011/07/31(日) 10:47:41.78
>635
伊作熱患者
特別な治療は必要なくしばらくすると抵抗ができて自然に完治する。
645日本@名無史さん:2011/07/31(日) 11:17:38.26
某地と伏字を投稿するくらいなら、メールでやり取りしてくれ
掲示板参加者には迷惑・不愉快
646日本@名無史さん:2011/07/31(日) 11:17:39.03
>>619 :伽耶族の逆襲
>自郡至女王國、萬二千餘里。
着点である「萬二千餘里。」は、ほぼ北緯38度の緯度線上です。

>「男子無大小、皆面黥面文身」 「計其道里、當在會稽東冶之東」
「當在會稽東冶之東」は緯度を支点として、経度を追って「之東」としている。
「會稽東冶」は現・福州で北緯26度04分、
「之東」は北緯26度07分の沖縄糸満市である。
故に、
>「所有無與儋耳・朱崖同」 「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣」
>「食飲用籩豆、手食」 
等は全て、沖縄諸島の環境等を記述している。
    
>「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十曰、陸行一月」
「水行十曰、陸行一月」は、ほぼ千里に相当する。従って
「南至投馬國水行二十日」の「水行二十日」はほぼ五百里に相当する。 
それでも『邪馬台国は九州南部にあるべし』。
647日本@名無史さん:2011/07/31(日) 11:28:45.77
>>630
>会稽郡は上海付近
>その中の東冶城 >これも上海の近く。

東冶城の情報を教えてください。
因みに
東治城遺跡は北緯26度の↓です。

http://heartland.geocities.jp/zae06141/fukusyuu.html




648日本@名無史さん:2011/07/31(日) 11:39:53.50
まあ、捏造だろ。民俗学的地理描写の南方向への誘導がひつこ過ぎなんだよ。まあ、国家の血統示すには重要なファクターだがな今も昔もw

大和民族には無縁と片付けた方が良いぞ。
649日本@名無史さん:2011/07/31(日) 12:22:27.62
>>648
>大和民族には無縁と片付けた方が良いぞ。

後漢書、魏志では南沖縄は健在だよ。
沖縄の子安貝やゴホウラの腕輪が畿内迄散乱しているからね。
沖縄が倭国から姿を消すのは『梁書』からだよ。
此処に、ヤマトンチュウとウチナンチュウの差別が明確となる。


650日本@名無史さん:2011/07/31(日) 12:50:25.47
>>646
日本語が苦手のようだな。
651日本@名無史さん:2011/07/31(日) 13:12:40.24
>>650 名前:日本@名無史さん
>>646
>日本語が苦手のようだな

君は、可也強度のマザ〜コンプレックスのようだね。
治療を受けたほうがいいぞ。
652卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 13:21:34.00
三国志原文
「 會稽東治之東 」

現代語訳
「 紹興東寧波之東 」

會稽(紹興)の東の勇江流域の治めた地域が東治(寧波)である。
中原の先端治水土木技術により氾濫原であった勇江流域の平野を治めたのである。
治水によりこの地域を治めたので、
「東治(冶)」の「治(冶)」は「治める」であって「冶める」ではない。

勇江流域(東治)は北緯29.9度付近であるから、
「東治之東」は鹿児島県薩南諸島と同緯度の東シナ海海上となる。
その東シナ海海上の真北12000里(1里=70m)が帯方郡庁(ソウル北緯37.5度)になる。

帯方郡の東南に女王國があるから、
帯方郡の真南12000里の実際の位置は東に振れる分だけ北になる。
女王國は帯方郡の東南の北緯33.3度の位置になり、
女王國は有明海沿岸部の筑紫平野にあったとなる。
653日本@名無史さん:2011/07/31(日) 13:29:19.67
>>652
>會稽(紹興)の東の勇江流域の治めた地域が東治(寧波)である。
誰が治めたって? それに何で単純に「寧波の東」つて書かないの?


654伽耶族の逆襲 :2011/07/31(日) 13:47:13.36
  【 推理・邪馬台国 】

・倭人伝の過大な里数や戸数は、239年の卑弥呼に「親魏倭王」の称号を贈った
ときの建前である。その副産物として、偉大なる邪馬台国という幻影が生まれた。
しかし、それは中国側の内政上の都合によるフィクションに過ぎなかったのである。
                             岡田英弘説

・隋書⇒裴世清は現地踏査の上、前史二編とも勘違いである事に気付いた。
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」⇒魏志に所謂邪馬臺
(國の文字を外ている)      82yamattai 説

・「万二千里」とは、中国から絶遠の彼方にあるという「観念的里数」である。
                             松本清張説

一般的にいう邪馬台国とは、狗奴國(鹿児島・熊本)のことである。
狗奴國の領域に卑弥呼(姉?)の宮があったのである。
伊都国(伽耶)東遷後の九州王朝は、狗奴國王である。

  
655伽耶族の逆襲 :2011/07/31(日) 13:57:28.32
倭五王「武」によるヤマト朝廷は、やがて「熊襲征伐」「磐井討伐」と
繋がるのである。

伽耶族とは倭種である。
論衡    「周時天下太平 倭人來獻鬯草」
山海経   「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」
太平御覧  倭が安帝413年の朝貢した時の方物は、朝鮮人参と貂皮(てん)となっている。
       これは日本で産出してない。
656usumgal :2011/07/31(日) 14:06:26.99
>>伽耶族とは倭種である。

中華帝国が言うところの倭種を理解していますか?
あくまでも、倭とは太伯之後ですよ。
では、倭種とは?
657伽耶族の逆襲 :2011/07/31(日) 14:30:48.94
>>656 usumgal氏
>倭とは太伯之後ですよ。
出自は同じでしょう。大陸沿岸沿いに半島に移住した人々と思っています。
紀元前は、こちらが「倭」でしょう。 そして九州北部へ「天孫降臨」した。

>倭種とは?
北部九州(倭人)と半島南部(倭)の表記の違いだけです。
同じ「太伯之後」と思っています。
658日本@名無史さん:2011/07/31(日) 14:57:23.71
>>655日本では産出しませんが、倭の半島南部では産出するようです。
659usumgal :2011/07/31(日) 15:03:30.68
>出自は同じでしょう。
>大陸沿岸沿いに半島に移住した人々と思っています。
半島に移住するには、北緯39度を通過しなければならない。
北緯39度以北は、秦に滅ぼされる迄燕の領域です。
それに、
「昔箕子違衰殷之運 避地朝鮮」
とはあるが、「太伯之後」が半島に移住したという記述、
漢籍にはないようです。↓
>北部九州(倭人)と半島南部(倭)の表記の違いだけです。
>同じ「太伯之後」と思っています。

もし半島に倭の存在があったなら、それは列島から渡った倭でしょう。





660伽耶族の逆襲 :2011/07/31(日) 15:26:35.96
>>659 usumgal氏
>もし半島に倭の存在があったなら、それは列島から渡った倭でしょう。

私もそのように理解していましたが、高句麗、新羅との戦いを考えると
それでは戦力が少ないと思います。新羅侵攻も陸路が多い。
伽耶+北部九州ではないでしょうか?

前原市の地名も、「可也山」を始め数多く天下ってます。
万葉集にも、前原を「可也の地」と詠んでます。
661筑紫の野球部:2011/07/31(日) 17:59:43.88
今日も勝ったば〜〜〜〜い。
どうだ、すごいだろう「漢倭奴国王金印」効果は!!!
な、わけないか。
けどね、ドームから見渡す博多湾は古代から連綿と現代まで続く
歴史を感じさせますね。
662伊作:2011/07/31(日) 18:22:15.96
>>661
例のパート、開けといたから。

>連綿と現代まで続く歴史を感じさせますね。
海人の香りぷんぷん。
その海人たちは長江河口部からきた非漢民族(南蛮・荊蛮が中心)。
「黥面・文身、お歯黒・無文字文化」。これが逃れようのない事実ですたい。
663卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 19:11:04.39
>>655
>伽耶族とは倭種である。

伽耶族は倭人です。
狗邪韓國は韓地の伽耶族の国の意味です。

「歴韓国」の韓国は、韓地の倭人の国々のことです。

倭人伝に韓人の国々のことを書くことはないから。
664伽耶族の逆襲 :2011/07/31(日) 19:26:40.48
>>663 卑彌呼の都は久留米氏
>「歴韓国」の韓国は、韓地の倭人の国々のことです。

そうですね。シンプルに表現しましょう。
百済人と倭人の間に出来た子供の親権について、民事裁判も起こっていた
ようでから、少し曖昧にしてみました。
665伊作:2011/07/31(日) 19:27:04.89
>>663
>伽耶族は倭人です。

長江河口から九州をめざした人々の中で、
五島列島をすり抜けて半島にたどり着いた人たちもいた。
彼らはもともと九州に渡った倭人と同じで、
彼らが「半島の倭」を形成していたと思われる。

こうした水人(海人)がいたことで、半島と九州の往来も可能になったわけで。
666伽耶族の逆襲 :2011/07/31(日) 19:37:43.06
>>665 これはこれは、伊作大先生

「お久しぶり」と言っても誰かわかりませんよね。
でもそっちの方がいいようです。

>例のパート、開けといたから。
「奇跡の解法」とは別のHPですか?
是非とも拝見して勉強したいものです。
よろしく
667筑紫の民:2011/07/31(日) 19:50:24.22
うん、海だな海。
海から入ってきて海から進出。
これが判解らんと邪馬台国も見つからんたい。
陸育ち陸生活ではよくわからん世界ですたい。
668筑紫の民:2011/07/31(日) 20:04:15.32
カブレラの腕の入れ墨もベネズエラの海人魂なのか?
長江文化は、南米までやってきて、今九州に帰ってきたのか?
ロマンだ。てゆうか、世界がつながりますね。
669伊作:2011/07/31(日) 20:43:33.15
>>668
ニュージーランドのマオリ族も全身に渦巻き文の刺青をする。
彼らの伝承ではポリネシア系らしいが、
その風貌はラオス、台湾、ベトナム、そして九州の隼人にも近いものがあるけんね。
670伊作:2011/07/31(日) 20:46:55.74
>>666
当面の話題すなわち「倭人とは何か」とそのルーツについては
『民族の指紋』というサイトに集約している。
はじめて見るのであれば、衝撃だと思う。

「開けといた」というのは、伊作大先制の邪馬台国訪問旅のパート。
興味があるなら、「奇跡の解法」の中で探せばすぐにみつかると思う。
671卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 21:18:55.63
>>653
>誰が治めたって? それに何で単純に「寧波の東」つて書かないの?

夏后少康之子(庶子)。後漢書、漢書参照。

「東治」が「寧波」の場所にあたる。
會稽(紹興)の東で、文身をする現地人がいる海岸沿いは寧波となる。
又、その東方會稽海中にあるのが舟山群島、會稽海外にあるのが九州島(東鯷人)。

東鯷人二十餘國の中の1国が魏代の狗奴國。
672伊作:2011/07/31(日) 21:29:47.29
>>671
見るに見かねて横ちゃりするが。
「会稽東冶の東」とは、あくまでも倭人の文身に関する文節の文章であって、
「倭人の文身のルーツはかつての越(無余が興した越)にあるのではないのか、
そう思って机上で計ればまさに会稽東冶(かつての越の領域)の東にある」。
という、倭人伝編纂者の「所感」を李述べた所であって、
無余が会稽の東を治めたというのではない。
古田の文献いじり、文字操作解釈を孫引きして吹くのはよしなさい。

>會稽海外にあるのが九州島(東鯷人)。
會稽の海外れにいる東鯷人とは、九州とはまったく関係ない。
九州の倭国は30国ばかり。「東鯷人は二十余国」。
はちゃめちゃの後漢書だってそこの所は区別している。
673卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 22:04:17.62
>>672
>「倭人の文身のルーツはかつての越(無余が興した越)にあるのではないのか、

その通り、しかし、文身の風習は越のどのあたりにあったか?
そこは寧波の並びの東シナ海沿岸地域と舟山群島。
杭州湾や長江河口部の沿岸水域では、
「沈沒捕魚蛤」し、「厭大魚水禽」の為の文身の風俗ができる環境ではない。
文身の風俗のある自然環境がある地域は、舟山群島と寧波以南の東シナ海沿岸だけである。
674卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 22:29:53.45
>>672
>無余が会稽の東を治めたというのではない。
>古田の文献いじり、文字操作解釈を孫引きして吹くのはよしなさい。

會稽の東の地域を開拓した記事があるよ。
古田説は東鯷人関東説ですよ。
「文字操作解釈を孫引きして」はどこの部分?
古田氏は私と同じ内容の発言したのですか?
675伊作:2011/07/31(日) 22:32:36.53
確か古田では、東治は東冶の間違いではなく、
「東方を治めた」という意味だ。
なんて吹いてなかったかい。
俺にいわせれば、
どうだっていい所まで文字いじりをして
反逆的な説をぶち上げるという印象だよ。
676卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 23:03:35.89
>>657
「治」は「水をおさめる」の意
「冶」は「抽象的におさめる」の意

「冶金」の場合は、金属や火を「おさめる」から、「治金」とはできない。

諸橋の大漢和に載っているのでは?

會稽の東の地で農地開拓したから、「東治」。
農地を開拓は治水をもって行うから、「東冶」では間違い。

武力等で支配する場合は「冶」。
677日本@名無史さん:2011/07/31(日) 23:16:03.04
会稽・東冶は固有名詞。治めるだとかいうような言葉が入る所ではない。
678卑彌呼の都は久留米:2011/07/31(日) 23:22:49.09
>>675
 >>676のレスは>>657宛ではなく>>675

追加
最近、ココか別スレかヤフーに書いたが、
「治」と「冶」の違いは、
「渡」と「度」の違いと同じ。
679卑彌呼の都は久留米:2011/08/01(月) 00:04:30.11
>>677
>会稽・東冶は固有名詞

魏志倭人伝では「會稽統治」なっているが、
これはどう説明するの?

「會稽東冶」の魏志倭人伝は改竄文書。
680日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:14:07.47
>魏志倭人伝では「會稽統治」なっているが、
>これはどう説明するの?
いつの魏志を見てるの?
681卑彌呼の都は久留米:2011/08/01(月) 00:34:58.10
>>689
>いつの魏志を見てるの?

原本写真版
682日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:36:29.23
>原本写真版
陳寿がまとめた魏志の原本はみつかっていないはずだよ。

683卑彌呼の都は久留米:2011/08/01(月) 00:40:01.59
>>682
君はアホ?
684日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:42:29.93
>>679
漢書地理志八上
会稽郡・・・治
師古曰本?越地
先謙曰官本作冶
齊召南云冶各本作治非也

漢書地理志も冶縣を治縣に間違っていて、漢書補注がその誤りを指摘している。
倭人伝の会稽東治も同様に誤刻と考えるのが妥当。
685日本@名無史さん:2011/08/01(月) 00:53:49.14
>>683
いや、君が魏志の原本を見たような話をするから注意を促したまでさ。
686卑彌呼の都は久留米:2011/08/01(月) 14:42:19.25
>>683
>漢書地理志八上
>会稽郡・・・治
>師古曰本閩越地
>先謙曰官本作冶
>齊召南云冶各本作治非也

何? 理解不能。

>漢書地理志も冶縣を治縣に間違っていて、漢書補注がその誤りを指摘している。
>倭人伝の会稽東治も同様に誤刻と考えるのが妥当。

誤刻と考えるのが妥当とするのは、論理の飛躍、独りよがり。
687日本@名無史さん:2011/08/01(月) 15:20:35.12
>>665 :伊作:
>>663
>>伽耶族は倭人です。
>長江河口から九州をめざした人々の中で、
『長江河口から九州をめざした人々』を匂わせるる記述が
後漢書や魏志にあるのでしょうか?
 「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千余里
 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」は
長江より更に南におもえますが。
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」の倭人は何故、
漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条にあるのでしょうか?
燕地は北緯39度以北。
倭人の出自に北方系と南方系があったと考察すべきか?
北方系と南方系を繋ぐものは何か?
おそらく、「狗」がその鍵を握っているのではなかろうか?



688伊作:2011/08/01(月) 18:31:39.80
>>687
>『長江河口から九州をめざした人々』を匂わせるる記述が
>後漢書や魏志にあるのでしょうか?
それが、お角違いの解釈でしゅっちゅう議題にのぼる「会稽東冶金の東」だよ。

倭人には文身の習俗がある。倭人の文身はどうやら越の開祖・無余に始まるらしい。
そういえば、倭人の住む島までの道里を机上ではかるとまさに会稽東冶の東にある。

長江河口からは稲作・環濠集落・横穴墓・高塚墳・船形木棺・蛇信仰・文身・お歯黒などなど、
各時代ごとに人・もの・文化が継続的かつ大量に渡ってきたいる。
中国にも、かつての越地域(会稽あたりから)東に渡った人たちの伝承があって、
倭人伝編纂者はそうした伝承のことを知っていたのだろう。

さもなければ、唐突にも「まさに」会稽東冶の「東」という所感は書けない。

689日本@名無史さん:2011/08/01(月) 22:01:37.61
そのテーマで馬鹿牛と公開討論やってみてくんないかな
690日本@名無史さん:2011/08/01(月) 23:23:49.89
>>686
>誤刻と考えるのが妥当とするのは、論理の飛躍、独りよがり。
後漢書には「大較在会稽東冶之東」、晋書には「計其道里当会稽東冶之東」と
あるな。これをどう考えるのかな?
691卑彌呼の都は久留米:2011/08/02(火) 11:35:24.66
>>690
史書が編纂された時期が疑問解決のポイントです。
「漢書」と「三國志」が編纂されたのは、其々1世紀と3世紀です。
一方、「後漢書」と「晉書」は5世紀と7世紀です。

「漢書」では、「冶」の用例が殆どありません。「治」の用例ばかりです。
「三国志」も同様に、「冶」の用例は殆どありません。「治」の用例ばかりです。
その中で、倭人伝の「治」だけを「冶」に変更することには根拠がありません。

4世紀南北朝諸王朝乱立の時代(宋代か?)に、「治」と「冶」の用法転換があったと思われます。
治水の関与のほとんどない統治には「冶」が使われるようになったと推定します。

このようにして、後漢書編纂時に、その原史料にあった該当する「治」は「冶」に書き換えられたのでしょう。


「治」の一部の用法を「冶」とするのは、南北朝時代の南朝の用法(呉地方言語)であったとも考えられます。
呉地方言語(長江下流域言語)と中原言語(淮水流域黄河下流域言語)は別言語です。
両言語間の会話は成立しません。文法漢字の用法も異なるところがあります。
692日本@名無史さん:2011/08/02(火) 11:56:57.39
>>688 :伊作
>さもなければ、唐突にも「まさに」会稽東冶の「東」という所感は書けない。
私見。
「自郡至女王國萬二千余里」の
着点である「萬二千余里」は、緯度で見るならほぼ北緯38度であり、
「計其道里當在会稽東治【冶】之東」の
「会稽東治【冶】」を緯度で見るなら北緯26度。
北緯38度から北緯26度の緯度的中央は北緯32度。
長江河口(揚子江)の緯度は32度01分10秒 。更に、
その東に当たる列島の地は北緯32度06分31秒の西都市である。

列島史観はこの地より神武を紀元前660年前に東征させている。
「漢書・後漢書・魏志」にその記述はない。
おそらく、時間軸が前漢以前に遡るからであろう?

693日本@名無史さん:2011/08/02(火) 12:33:19.19
「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕」・・・山海經  第十二 海内北經 
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
 自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也」・・・漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条
から、「倭屬燕」は『倭と燕は同類』であるとの解釈は有効か?
もし、有効なら、
「蓋國在鉅燕南倭北」の「鉅燕」は
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」・・・後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (倭)
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」・・・魏志
の「倭種」と言う事がいえる。
すると、
「蓋國」は後の「邪馬【臺】國 」か?

694卑彌呼の都は久留米:2011/08/02(火) 13:39:44.27
>>693
>「倭屬燕」は『倭と燕は同類』であるとの解釈は有効か?

有効でない。
「倭屬燕」は「倭と燕は、燕に含まれる同一地域」の意味だから。
「属」に「種類が同じ」の意味はない。
695日本@名無史さん:2011/08/02(火) 14:20:57.95

>>694 名前:卑彌呼の都は久留米
>>693
>>「倭屬燕」は『倭と燕は同類』であるとの解釈は有効か?
>有効でない。

>「属」に「種類が同じ」の意味はない。
本当ですか?
【属(屬)】
『動』 (1) 属する,帰属する。 (2) (干支(えと)で)…生まれである:

(1) 属,同類: 金属.属性.
(2) 身内,家族: 親族. 烈属。
と、辞書にはありますが。
>「倭屬燕」は「倭と燕は、燕に含まれる同一地域」の意味だから。

視点に相違がうかがえます。
「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕」の私見の領域は列島内との視点がスタートです。
この「蓋國」の位置は大陸でもなければ、半島でもない。
その上で、「倭と燕は親族」関係にある。所謂、「倭」「倭種」です。

「自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也」も其れを示唆している。
「自危四度至斗六度」は『斉、呉、粤』に当たるが、その中で、
『呉が倭』で『粤がイ妥』で『斉はイ妾』となる。
『粤と斉』を『イ妾』との解釈も有効である。
696日本@名無史さん:2011/08/02(火) 15:39:40.84
属の解字
会意兼形声。蜀(しょく)は、桑の葉にひっついて離れない目の大きい虫のこと。屬は「尾+(音符)蜀」でしりをひっつけて交尾すること。ひっついて離れない意を含む。
697卑彌呼の都は久留米:2011/08/02(火) 15:47:44.56
>>695
>>「属」に「種類が同じ」の意味はない。
>本当ですか?

古語古字が載っている漢和辞典で調べ直して下さい。
「同じ」の意味はありません。

「属」は俗字です。21画の「屬」です。
屬:付く 付き従う 続く 作る 至る 等
  親属血属等の属は「ともがら」「類」の意味です。


「自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也」の意味を、私は理解できていません。
698卑彌呼の都は久留米:2011/08/02(火) 18:58:00.74
>>695
漢書地理誌の下記の部分を理解できる方法を教えて下さい。

『自柳三度至張十二度 謂之鶉火之次 周之分也』
『自東井六度至亢六度 謂之壽星之次 鄭之分野 與韓同分』
『自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也』
699日本@名無史さん:2011/08/02(火) 20:46:29.82
>>686
何が理解不能なのかわからない。
漢文が読めないというのなら、解説するのに吝かではないが。

>>698
分野説と十二次を調べるとわかると思うよ。
700日本@名無史さん:2011/08/02(火) 23:26:56.37
>>691
>「三国志」も同様に、「冶」の用例は殆どありません。「治」の用例ばかりです。
『三国志」のなかにも東冶または冶と書かれる場所があるだろ。『呉書」卷十五
の賀齊伝の「王朗東冶に奔る」、呂岱伝の「会稽東冶五県の賊」「会稽東冶の賊」
などね。
701卑彌呼の都は久留米:2011/08/03(水) 10:25:33.28
>>700
>>「三国志」も同様に、「冶」の用例は殆どありません。「治」の用例ばかりです。
>『三国志」のなかにも東冶または冶と書かれる場所があるだろ。
>『呉書」卷十五の賀齊伝の「王朗東冶に奔る」、呂岱伝の「会稽東冶五県の賊」「会稽東冶の賊」
などね。

「時王朗奔東冶」「會稽東冶五縣賊呂合」「會稽東冶賊隨春」のことですね?

「治」を「冶」に改竄した文書に「冶」があるよと言われても、反論の根拠にはならない。
702日本@名無史さん:2011/08/03(水) 12:11:42.32
十二次
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%AC%A1
の、『漢書』律暦志・次度で十二次と二十八宿がのってます。
『占星術と十二次』には『晋書』天文志・十二次度数にある十二次の分野がのっていますよ。参考にはなると思います。


斉・青州 (山東省)の十二次は玄枵 で、
斉の二十八宿は『危17度と虚10度』の27度であるが、『倭と同星分』は『危の四度から虚の十度』迄で。
呉・粤の十二次は星紀です。その振り分けは、
呉の二十八宿が『女10度』で、「倭との同星分」は『女の十度』、
所謂、倭を呉(太伯之後)とするのは此処に所以がある。
又、女王国とする所以もここにある。

粤の二十八宿は、『牛の8度と斗の26度』の34度であるが
『倭と同星分』は『牛の8度と斗の6度』迄である。
『斉、呉、粤』が持つ『倭との同星分』は
危の四度から斗の六度迄 、   「自危四度至斗六度」。

粤の7度から箕の11.25度、尾の18度が燕となる。
燕には「倭と同星分にある粤」が入り込んでいるので燕は倭種と呼ぶ。
が、私見です。



703卑彌呼の都は久留米:2011/08/04(木) 14:42:30.71
>>702

ありがとうございます。

十二次と二十八宿について学びます。
704日本@名無史さん:2011/08/05(金) 11:57:24.14
「計其道里當在會稽東治【冶】之東」・・・魏志
 「其地大較在會稽・東冶之東」 ・・・・後漢書
 會稽郡東治県は會稽郡の最も南に位置し、漢代に冶県が設置された。
これを、魏志では【冶】県と記述している。
この【冶】県西部に侯官県が新設された、後漢196年(建安元年)のことである。この【冶】県西部の侯官県に対して【冶】県は「東冶」県と呼ばれた。
所謂、後漢書の「會稽・東冶」である。
魏に置いては、「東冶」県は「東治」となり、
西晋が侯官県東部に原豊県を設置しているが、これが、漢の「冶」、後漢の「東冶」、魏の「東治」で、
南北朝時代になると天監年間(502年-519年に原豊県と侯官県が統合され東部侯官と称された。
會稽 (三国志地名事典 揚州 より)

【王】孫亮
【太守】唐鳳 / 韋毅 / 尹端 / 徐珪 / 唐瑁 / 王朗 / 孫策
【郡吏】陸昭
【郡人】周規 / 焦征羌
【領城】山陰 / 鄮 / 烏傷 / 諸曁 / 余曁 / 太末 / 上虞 / 剡 / 余姚 / 句章 / 鄞 / 章安 / 永寧 / 東部(東侯官)
因みに、東冶鎮は山西省に二箇所ある。
山西省忻州市東冶鎮 北緯38度38分36秒 , 東経113度09分27秒と
山西省晋城市東冶鎮 北緯35度21分53秒 , 東経112度29分56秒です。
二箇所の東冶鎮も興味津津の位置にある。
705日本@名無史さん:2011/08/05(金) 12:37:17.50
>會稽郡東治県は會稽郡の最も南に位置し、漢代に冶県が設置された。

「会稽東治」の領域は、独立国・閔越国の地であったが、
前110年、漢に征服され「冶」県が新設された。
閔越・Minyue ↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Minyue



706日本@名無史さん:2011/08/06(土) 13:41:20.94
>>701
>「治」を「冶」に改竄した文書に「冶」があるよと言われても、反論の根拠にはならない。
おいおい、「三国志」に「冶」の用例はない「治」の用例ばかりだ、と言いながら、三国志に
「冶」があると言われたら、それは全部改ざんだっていうのかい。
無茶苦茶な話だな。
707日本@名無史さん:2011/08/06(土) 13:47:04.72
まだ、九州説やってるんですか……、
世間をもっと知ろうよ!
708日本@名無史さん:2011/08/06(土) 14:55:51.31
例え、巻向発掘で決定的資料が出されても、
学会で、どう考えたって邪馬台国が畿内になる、とされても、
ネットの中だけは九州説が盛り上がる。
恐るべきネットパワー。
でも、1%の可能性にかける熱意には敬服できるんじゃないでしょうか。
709日本@名無史さん:2011/08/06(土) 15:02:59.62
でも、九州説は私だけの邪馬台国だからな・・・
まだ、オーー納得と思える説明をしてくれるならとかく
私だけの魏志倭人伝解釈と地名の類似性だけが根拠では
710日本@名無史さん:2011/08/06(土) 16:20:20.77
畿内説はこう考える、って言える奴が一人もいないのに何を気取ってんのかね。
方角も合わない、距離も合わない、いくら掘ってもそれらしき物はでてこない。
ただ、私は信じます、って何か可哀想になるね。
711日本@名無史さん:2011/08/06(土) 16:28:13.14
>>710
畿内説で説明してる奴なんて腐る程いるが?
大体九州説なんて既に死に体だよ。
712日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:27:42.79
倭人伝どおりに伊都国を比定するだけで、畿内説は死に体だったな。
何か考えたか?
713日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:43:54.83
畿内説を本気で信じている学者なんていないよ。

政治的スタンスとしてやっているだけ。
714日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:49:32.45
九州説の人も畿内説の批判ばかりじゃなく
正当な根拠に基づいた比定地を披露すればいいのに
もちろん研究者じゃないから多少アレな部分はあるだろうけど
只、私だけの魏志倭人伝解釈とか大和=山門は止めてくれな

ちなみに例のあの御老人も自信がないのかあれだけ人をけなしてても比定地は披露しないよね
あの御仁もすでに九州説は諦めてるのかね?
715日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:52:21.08
>>713
みんなに聞いて歩いたのか?それとも君の憶測なのか?
こういうよくわからん事を言う人の集まりが九州説なんですか?
716日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:55:06.72
例のあの御老人って誰よ?
717日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:59:19.92
古田じゃね
718日本@名無史さん:2011/08/06(土) 18:01:32.89
ある意味邪馬台国は何処にあったのって考えてる研究者はあまり居ないかもしれない
あくまで卑弥呼の時代辺りの状況を研究しているわけだから
そして今、発掘が進んでその時代の事が分かるようになってきた
邪馬台国の場所はいずれ分かるといいね位の研究対象として軽いものになってると思う
719日本@名無史さん:2011/08/06(土) 18:14:31.87
畿内説はダメだな。邪馬台国が登場する史書の初出は三国志の倭人伝なのだがこの倭人伝に書かれていることの
どこに畿内のことが出てくるのだ?考古学的資料のどこに畿内説の根拠があるのだ?馬鹿も休み休み言え。
720日本@名無史さん:2011/08/06(土) 18:36:37.38
>>715
投げやりの言葉は、ほっといてあげなよ。
どうにもならなくなって、出た言葉なんだからさ。
721日本@名無史さん:2011/08/06(土) 19:07:52.23
だいたい、ここは九州にあったという板だ。畿内説を言いたいならば畿内説板
を作ってやれ。畿内説板が無いのは板をたてるほどの値打ちも無いからだろ。
722日本@名無史さん:2011/08/06(土) 19:41:25.16
細かいこと書くけど「スレ」じゃね?
板は日本史、返事はレス
723日本@名無史さん:2011/08/06(土) 20:05:40.68
ここで度々と畿内説ネタが出てくるのは、強烈なアンチ畿内説な方が一人おられて、
その方には、九州説としての自論なってお持ちないようで、他人の話についていけないのか、
定期的に畿内説批判を繰り返すからだよ。
南が東がとか、三角鏡が国産だのなんだのとか・・・つまんない話ばかりだけどね。
724日本@名無史さん:2011/08/06(土) 20:12:36.24
       ___
     /|∧_∧|
     ||. (・ω・ | たまには畿内説を連呼しておかんと飯の食い上げ
     ||oと_ U|
     || |(_)J|
     ||/彡 ̄ ガチャ

       ___
     /|∧_∧|
     ||. (    | すいません スレ間違えました
     ||oと_  /|
     || |(_)J|
     ||/彡 ̄ ガチャ
725日本@名無史さん:2011/08/06(土) 22:13:12.99
畿内説の人は三世紀前半に畿内が北九州を支配してたことを証明してください。
そうでなければ、マキムクでどんなに発掘が進もうが無意味です。
ていうか、本気でその時代に西日本が統一されてたと信じてる人っているんですか?
726日本@名無史さん:2011/08/06(土) 22:25:44.74
畿内が北九州を支配というか、、、
高地性集落の分布から瀬戸内海を挟んで南北で争ってたことは事実なわけで、
それをうまく説明出来ない仮説は信用出来ない。
727日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:02:40.47
倭人伝で唯一具体的に意味のある記述は、伊都国の一大卒。
邪馬台国はこれの支配を証明するだけで、
必要十分条件を満たすと思うのですが、違いますか?
728日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:02:55.63
>高地性集落の分布から瀬戸内海を挟んで南北で争ってたことは事実なわけで、

邪馬台国とは関係のない話。

>それをうまく説明出来ない仮説は信用出来ない。

倭種の国の話は自分で解決してください。
729日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:06:10.81
>伊都国の一大卒。
邪馬台国はこれの支配を証明するだけで、
必要十分条件を満たすと思うのですが、違いますか?

伊都国を間違った場所に比定しておいて
そこの支配を証明したところで無意味。
730日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:07:56.58
高地性集落は九州にもあるけど同時多発的な収斂進化の結果なのかな?
731日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:29:57.91
伊作先生、カモーン(・・;)dm
ヘルプミー
732日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:35:32.37
>731
ゴミクズ生ゴミ
733日本@名無史さん:2011/08/07(日) 00:16:46.17
伊都国の範囲などたかが知れている。
どんなにブレても福岡県から佐賀県の間。
この辺りの地域を畿内勢力が支配していたという証拠があがらない限り、
畿内説は意味をなさない。
734卑彌呼の都は久留米:2011/08/07(日) 00:35:47.75
伊都國は背振山麓佐賀平野の小さな国
人口は僅か1000戸(5000人)
不彌國と変わらぬ小国
佐賀大和IC付近の小さな国
735日本@名無史さん:2011/08/07(日) 00:37:52.61
ちなみに、邪馬台国が伊都国は支配下に置いていたけれど、
例えば奴国は支配外だったと考えている人っていないですよね?
であれば、伊都国の詳細な場所など大して重要ではなく、
九州の北半分を支配していた勢力が、その中に居たのか、
畿内のように外に居たのか、それだけわかれば充分です。
そして今のところ、他地域が一部でも九州を支配していた証拠はあがっていません。
736日本@名無史さん:2011/08/07(日) 00:39:00.68
ちなみに、邪馬台国が伊都国は支配下に置いていたけれど、
例えば奴国は支配外だったと考えている人っていないですよね?
であれば、伊都国の詳細な場所など大して重要ではなく、
九州の北半分を支配していた勢力が、その中に居たのか、
畿内のように外に居たのか、それだけわかれば充分です。
そして今のところ、他地域が一部でも九州を支配していた証拠はあがっていません。
737サガミハラハラ:2011/08/07(日) 00:45:40.73
九州と瀬戸内海と畿内の高地性集落はその時代と成因事情がかなりことなります。
もっとも古いのは瀬戸内海の集落で、これは、九州からの海賊集団が瀬戸内海を東にすすみながら略奪をおこなったため、在地の人達の防御用の集落です。
つぎに古いのは畿内の集落で、奈良盆地に侵入してきた神武の子孫たちが勢力を広げる中で、在来の部族がそれに抵抗するためにつくったものです。
九州の集落が最も新しく、倭国統一を目指す邪馬台国女王壱与と、抵抗する狗奴国投馬国との間にとりでのように築かれた集落です。
738サガミハラハラ:2011/08/07(日) 00:46:23.70
九州と瀬戸内海と畿内の高地性集落はその時代と成因事情がかなりことなります。
もっとも古いのは瀬戸内海の集落で、これは、九州からの海賊集団が瀬戸内海を東にすすみながら略奪をおこなったため、在地の人達の防御用の集落です。
つぎに古いのは畿内の集落で、奈良盆地に侵入してきた神武の子孫たちが勢力を広げる中で、在来の部族がそれに抵抗するためにつくったものです。
九州の集落が最も新しく、倭国統一を目指す邪馬台国女王壱与と、抵抗する狗奴国投馬国との間にとりでのように築かれた集落です。
739卑彌呼の都は久留米:2011/08/07(日) 00:50:51.36
女王國が伊都國を支配下に置いていた。
奴國と不彌國は邪馬壹國同様に女王國のメンバー。投馬國も。
740日本@名無史さん:2011/08/07(日) 00:58:07.06
伊都国まで万五百里。女王国まで万二千余里。奴国、不弥国は伊都国からせいぜい
二百里。それでも奴国、不弥国は女王国のメンバーになるのかな?
741卑彌呼の都は久留米:2011/08/07(日) 07:39:06.95
伊都国まで万千九百余里。女王国まで万二千余里。
奴国、不弥国は伊都国から各百里。
奴国、不弥国で丁度万二千余里となる。
742筑紫の民:2011/08/07(日) 10:13:51.46
昨日、福岡タワーに行ってきました。
志賀島(私の大好きな金印アイランド)を見ながら子供に志賀島の説明を
していたら、その志賀島の奥に何やらちっちゃな島があった。
調べてみるとそれは沖ノ島でした。
沖ノ島は意外と近い。筑紫のご先祖海人様たちの神の島であったであろう
ことを体感した瞬間でした。
さ、今日は何処行こうかな
743日本@名無史さん:2011/08/07(日) 10:25:53.02
>>740
>それでも奴国、不弥国は女王国のメンバーになるのかな?
奴国から伊都国への政権移動に争いが感じられない。
伊都国が興って、奴国の経済は衰退していない。
奴国、不弥国は伊都国側=卑弥呼と戦った方と考えるべきだろう。
744日本@名無史さん:2011/08/07(日) 10:54:14.69
>>739 卑彌呼の都は久留米
>女王國が伊都國を支配下に置いていた。
奴國と不彌國は邪馬壹國同様に女王國のメンバー。投馬國も。

倭乱の勢力図をどう考えているの?
卑弥呼が武力制圧したってこと?
745日本@名無史さん:2011/08/07(日) 11:17:47.90
>>741 名前:卑彌呼の都は久留米 :
>伊都国まで万千九百余里。女王国まで万二千余里。
伊都国まで万五百五十余里。女王国まで万二千余里。
>奴国、不弥国は伊都国から各百里。
奴国から伊都国迄四百五十里、奴国境界と伊都国の境界は接触している。
不弥国は伊都国から五百五十里。但し、奴国経由。
>奴国、不弥国で丁度万二千余里となる。
⇒末廬國⇒投馬國⇒邪馬壹國⇒ 女王國で万二千余里となる。
746日本@名無史さん:2011/08/07(日) 11:29:44.00
>>743 名前
>奴国、不弥国は伊都国側=卑弥呼と戦った方と考えるべきだろう。
卑弥呼が邪馬壹【臺】國の女王だと思っているのですね。
壹【臺】與の出自は邪馬臺國ですが、
卑弥呼の出自は奴国でしょう。
「女王之所都」の「女王」は卑弥呼ではありません。
747日本@名無史さん:2011/08/07(日) 11:37:23.10
んな、あほな
748卑彌呼の都は久留米:2011/08/07(日) 11:52:28.38
>>743
伊都國は倭國王帥升の流れを汲む国
倭國乱の時代にその統治範囲が縮小し、帥升王の都だけの範囲になった。
そのときの伊都國の敵は、邪馬壹國、投馬國、旧倭奴國である。
3ヶ国連合が帥升王統倭国を伊都國の範囲に追い詰めたのである。
邪馬壹國が主戦力の国、投馬國は海からの水軍戦力、
旧倭奴國が帥升王統倭國を倒す大義名分を持つ国。(倭奴國は帥升に滅ぼされた)

戦後処理
旧倭奴國の王統姫を邪馬壹國に女王として共立する。
帥升王統倭國の都には不彌國を設立。
帥升王統倭國の本拠地には旧倭奴國の分国である奴國を設立。
帥升王統王は伊都國の狭い範囲に封じ込まれて、其の王達も女王國の管理下におかれる。
不彌國と奴國は伊都國(帥升王統)の監視の為の国である。


末盧國は帥升王統倭國の半島への港であったので、戦後処理として、
その王は廃止され、女王國の直轄地となった。(官不在の理由)
末盧國で官に替わって港で検閲等をしたのは一大率(一大國出身)

一大率を特置したのは、女王国構成国(4ヶ国)を除く国々と思われる。
749日本@名無史さん:2011/08/07(日) 11:52:48.82
>>746

>「女王之所都」の「女王」は卑弥呼ではありません。


「女王之所都」の「女王」は卑弥呼で、この語句は
対となるべき「男王之所都」が別に存在することを意味する。

男王の都が存在するから、わざわざ女王と限定する
750卑彌呼の都は久留米:2011/08/07(日) 11:55:43.14
>「女王之所都」の「女王」は卑弥呼で、この語句は
>対となるべき「男王之所都」が別に存在することを意味する。

「男王之所都」は伊都國

751日本@名無史さん:2011/08/07(日) 12:04:57.58
>>748 卑彌呼の都は久留米
>伊都國の敵は、邪馬壹國、投馬國、旧倭奴國である。
勢力が1対9になってるのでは?
「相攻伐歷年」が成り立ちませんね。
「更相誅殺、當時殺千餘人」 戦いでは決着がつかない状況でしょう。
752日本@名無史さん:2011/08/07(日) 12:24:56.11

>>748 名前:卑彌呼の都は久留米 :
>伊都國は倭國王帥升の流れを汲む国
「廣志曰 イ妾國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國・・・
後漢書 光武中元年二 倭國奉貢朝賀 使人自稱大夫 光武賜以印綬
安帝初元年 イ妾王師升等獻主口百六十・・・
槐志曰 景初三年 イ妾女王遣大夫難升未利等・・・
正始四年 倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人」
「安帝初元年 イ妾王師升」の時、
「廣志曰 イ妾國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國」とあり、
安帝初元年には伊都国が既に存在していた。
更に、伊都国は「光武中元年二」には既に存在していた。
此処で言うイ妾国は魏志の奴国・不彌國である。

753日本@名無史さん:2011/08/07(日) 12:39:13.05
>>749 名前:
>>746 >>「女王之所都」の「女王」は卑弥呼ではありません。
>「女王之所都」の「女王」は卑弥呼で、この語句は
>対となるべき「男王之所都」が別に存在することを意味する。
「復立卑彌呼宗女壹【臺】與年十三為王」を正確に解釈していない。
卑彌呼は【臺】與ではない。
女王【臺】與は邪馬【臺】國に居た。
それを、「女王之所都」と記述してある。
「壹【臺】與」は所謂「太伯之後」で、卑弥呼は別王朝、『季歴の後』でしょう。

段玉裁の『説文解字注』には、礼記を引用し「別子が祖を爲し、別を継ぎて宗を爲す。禰を継ぐを言いて小宗を爲す。凡そ言うに、大宗と小宗皆出る所の同じ兄弟であり、尊い所也。祖廟に対する尊さ以上の尊さはない。故に之を宗廟と謂う」とある。そうだ。

754日本@名無史さん:2011/08/07(日) 12:50:12.87
>>750
伊都國などという遠い文章じゃないよ。
この場合、南至の中に男王の都と女王の都が共存するからこそ
女王と限定した意味があるわけで。
755日本@名無史さん:2011/08/07(日) 12:54:31.85
>>753

古今東西、女王の対は男王
756卑彌呼の都は久留米:2011/08/07(日) 13:02:54.48
>>751
>>伊都國の敵は、邪馬壹國、投馬國、旧倭奴國である。
>勢力が1対9になってるのでは?

倭國乱の戦後処理後は1対141です。
伊都國1000戸、女王國141000個(=70000+50000+20000+1000)
倭國乱に入る前では、帥升王統倭國(伊都國)の勢力範囲は、奴國、不彌國、
旧倭奴國、投馬國の一部、邪馬壹國の一部、末盧國、一支國です。
更にその他の諸国も含まれたと思われます、
757日本@名無史さん:2011/08/07(日) 13:13:30.36
>>756
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」
今度はどんな勢力図になるのかな?元に戻ったってこと? 
そんなに簡単にくっついたり離れたりするのかな?
758日本@名無史さん:2011/08/07(日) 14:06:21.27
>743
妄想
759日本@名無史さん:2011/08/07(日) 14:22:18.58
>>758
貴方の「倭乱の勢力図」はどう考えてるのですか?
760夏休みの友:2011/08/07(日) 21:45:14.38
え〜、夏休みの宿題で自由研究してます。
ご発言が「しっかりした根拠がある」のか「妄想」なのか明確に表示願います。
ぱっと見、妄想が多いですね。
761日本@名無史さん:2011/08/07(日) 23:19:15.89
妄想、魍想、矇想、耗想、猛騷、耄懆
762日本@名無史さん:2011/08/08(月) 00:56:44.17
う〜ん、九州王朝説を見直してもよいと思えてきた。
大筋はそれで説明できてしまうところが口惜しい。
763日本@名無史さん:2011/08/08(月) 01:13:16.36
九州と畿内とそれぞれに勢力がいてもいいと思うけどな。
これだけ距離が離れてたら、互いにどうでもいい関係だろ。
764日本@名無史さん:2011/08/08(月) 01:33:04.16
王朝と言えるかは別として、
九州の勢力の歴史が、記紀に載らなかっただけ
と考えるのが一番自然な気がする。
765日本@名無史さん:2011/08/08(月) 01:33:56.42
本州以北に住む人々は、自分が毛人の子孫かも知れないなんて考えたくないんだろ。
766夏休みの友:2011/08/08(月) 04:29:31.42
倭奴国王(金印)〜倭王帥升〜倭王卑弥呼〜倭の五王〜阿毎多利思北弧
これが脈絡と続いたという史書を根拠にすれば、自ずと倭国は九州で発生し
東遷していったと考えられます。
767日本@名無史さん:2011/08/08(月) 08:26:32.95
なんだ、伊作かよ
768伊作:2011/08/08(月) 18:45:44.22
俺ならばこう書く。
あくまで文章の書き方の提示であって、ゆっている内容の正否は度外視。

>これが脈絡と続いたという史書を根拠にすれば、

こうした脈絡が連綿と続いたとする歴代の中国歴史書の見解を根拠にすれば

あるいはこうだ。

これが連綿と脈絡しているとする歴代の中国歴史書の見解を根拠にすれば

俺は計算づくで、正しい日本語と正しい文章を書くようにしている。
軽口たきのタコが、
「俺は文章の程度と質の見分けもつかん」と白状してるようなもんだ。
769日本@名無史さん:2011/08/08(月) 18:53:55.32
後半の3行なければ伊作さんほんとすばらしい人なんだけどねぇ
ブログでは勉強させていただいてます(ペコリ
770伊作:2011/08/08(月) 19:00:44.49
>>731  伊作先生、カモーン ヘルプミー
こんな状態では参加のしようがなかろう。

質が違いすぎる。
↓↓↓↓
726 瀬戸内海を挟んで南北で争ってたことは事実なわけで、
743 奴国、不弥国は伊都国側=卑弥呼と戦った方と考えるべきだろう。
746 壹【臺】與の出自は邪馬臺国ですが、 卑弥呼の出自は奴国でしょう。
「女王之所都」の「女王」は卑弥呼ではありません。

なお、「卑弥呼の都は久留米」のいうことは、ほとんど無視しているが、
ちゃんと見直しても全面的についていけん。
だいいち、卑弥呼の都は久留米ではないし。
771日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:03:44.50
>俺は計算づくで、正しい日本語と正しい文章を書くようにしている。

そうではないことは、この掲示板参加者の誰もが分かっている
772日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:05:39.67
>>770
質が違うと思うなら質が高いとこでやればいいだろ

ここは本来初学者がわーわー言い合うところだからな。2chなんだぞ。
773伊作:2011/08/08(月) 19:06:53.14
>>769
男の顔は一つではない。
男の真価は一面だけで決めるべきものではない。

俺は、ちみたちの狭小な経験則でこさえた固定観念でつかまるような、
単純かつ浅い男ではない。

>ブログでは勉強させていただいてます。
そこに俺の真価を見いだすのが大人の男だ。
きみこそ余計なことを書かず、素直に礼をいうだけでいいのだ。
774伊作:2011/08/08(月) 19:13:46.52
>>771
>そうではないことは、この掲示板参加者の誰もが分かっている
正反対の評価を書き垂れて、でっち挙げる手口だろうが、
そういう投稿こそハンドル固定でやれ。
そうすれば、誰もがおまえをウソつきと認識できる。
「そうではないこと」をてめえで証明してみろ。
いくらでも相手になってやるぜ。がんたれ

>>772
>質が高いとこでやればいいだろ
質の高い所で質の高いこともやってるが。
ガキ以下の筋の通らん泣きだが、
「かんべんしてください」ってわけか。
775日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:21:52.88
>>774
そうではない。ここはだれかの説を拝聴する場所ではないのだ。自由に自分の意見を
言える匿名掲示板だ。未熟な意見、浅学な意見があって当然の場所だということをわきまえて
行動しろと諭しているのだ。
776伊作:2011/08/08(月) 19:59:39.88
>>775
だから。
そんな勝手な正当化節はなかろうとゆってるんだ。
筋の通らんガキ以下の正当化手法だが、おめ・そうとうにデキが悪いな。

おまえのことだから、そのくせ、「論拠をだせ」「証拠を見せろ」
「何の根拠も無い空論をいうな」というんじゃないのか?
ガキ以下だわな。
777伊作:2011/08/08(月) 20:01:11.66
マジな話をしてやろう。(わかるかなー?)

●きみは何冊本を読んだか。
読書がもたらすものははかり知れない。
構造的思考力・継続的思考力・理路の整った思考力、
そして何よりも、思考回転の速さと粘り強い思考力が育つ。
これに、想像力・読読力・構成力・著述力などなど、
さまざまな能力を育てる働きがある。

人間は言語を媒介として思考し、言語によって理路に従った思考をするからだ。
国立難関大学の試験問題は、こうした能力を試すようにつくられている。
こうした難関大学受験を指導する塾も数学・英語・国語を3つの柱にしている。
(行間を読む能力と著述力のない者には、「傍線を引いた文章の意味を100字以内に書け」
という問題は絶対に解けない)。

つづくし。
778日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:01:54.26
理系だろうが文系だろうが、国語力なしではやってはいけない。
中学校の理科・数学で使用する国語は、その学年で習う国語とはレベルが違って、
高度な学術的(あるいは哲学的)言語と言い回しでなっている。
これが理解できない者は、問題の文章の意味が理解できない。頭が痛くなる。
これが、理数を苦手にする大きな要因の一つになっている。

つまり国立難関大学の試験をパスするには、現役の国語がいくらできてもダメで、
受験勉強の数倍もの読書をする必要がある。その程度の精神力のタフさも要求されるのだ。
わが周囲に東大工学部卒がいたが、中学時代から「本の虫」といわれるほど読書をしていた。

要するに「総合力の基本は国語力」と心得ればいい。
この板の参加者にはもう手遅れだろうが、
諸君の子どもや孫に教育盛りの子がいたら、何よりも読書をすすめよ。
勉強など後回しでも間に合う。

タコどもが中国正史を読むには、人生をはじめからやり直しても間に合うまい。
だが、総合力にすぐれた伊作の研究作品から謙虚に学ぶという近道がある。
779日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:10:18.44
>>総合力にすぐれた伊作の研究作品から謙虚に学ぶという近道がある。
「押し売り、お断り」
780日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:27:08.78
>>776
あのなあ、お前が自説を主張するのはかまわんが、他の投稿者を馬鹿にしけなす態度をあらためろ
と言っているのだ。お前もただの2chの利用者の一人だろう。だったらもう少し分をわきまえて、参加者が
増えるように、皆がそれなりに満足できるような板・スレの運営に配慮しろと言っているのだ。

お山の大将になりたくてここに来ているのなら大きなおかど違いということだ。これは邪馬台国論とは関係なく
2ch利用の話なんだよ
781伊作:2011/08/08(月) 20:29:51.33
>>779
押し売りではない。理路整然とした「アドバイス」だ。
構造的にまとまっている点では日本一の正論だ。
不正解釈・まやかし論証・論拠ねつ造などに頼らない奇跡の論考だ。
見る目のない奴には、ききめなし。

「総合力にすぐれた伊作」。いいセリフだろう。

自惚れ腐って、里程・日程・方角・距離の「部分」だけをかじって、
それで古代史でござい、倭人伝読みでございなどとは、面と向かっていえたもんじゃなかろう。
顔なし名なしの状態でしかいえないクソ野郎が。
782日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:30:44.78
>>777
いいか、もう一度いうが、ここは学会ではなく夏休みの中高生や素人の年寄りが自分の意見を
書き討論のまねごとをして楽しむ娯楽の場だ。それをわきまえて書くことをしなければ、お前は子供と
同じ程度の世間常識しかないということだよ。
783伊作:2011/08/08(月) 20:34:34.94
>>780
よう。痴性と貧性のかたまりくん。

俺がいなくなると「質が落ちた」という声が必ず出る。
面白くないとい声も出る。
3日も出ないと、伊作待望論が出る。

てめえみたいなバカばかり跋扈していた2ちゃんでも、
質の高い議論を期待する声が出るようになったという趨勢に気づけ。
いつまで過去のことにこだわって、下卑た正当化論を並べる気だ。タコが
784日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:36:25.95
>>783
この話がわからないなら馬齢を重ねた、ということだな。
785日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:36:57.91
>>781
>「総合力にすぐれた伊作」。いいセリフだろう。

「中国カブレのイカレタ余作」
どうだ、ナイスネーミングだら!

>>782
そんな一般常識の通用する玉じゃねぇ。
786伊作:2011/08/08(月) 20:37:26.04
>>782
>討論のまねごとをして楽しむ娯楽の場
誰が決めたんだ?
娯楽の場で、「証明だ・論拠だ」と哲学的な言葉を多用するのは常識なのか?

>世間常識
ここは非常識なタコの集まりというわけか。ん?
787日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:38:13.02
しかし、学問をやって、これだけ人格形成に偏りがあるというのも、稀有な例だな。
おのれの人間形成に資するところがないなら、獲得したすべての学問がパーになる。
人間が主、学問は従。
788伊作:2011/08/08(月) 20:38:47.07
さいあくだな。
789日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:39:05.92
読書では、自分や自分の考えを客観的に俯瞰する習慣は身につかないみたいね
790日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:40:48.75
>>786
お前の話にも確実な証拠などないだろう。こちらはそんなことは一言もいってはいない。邪馬台国は
わからないからこそ面白いのだ。確証を見つけにくい古代史分野だからこそ歴史板の中ではレスも伸びるし
お前のようなトウシロが入り込む余地があるのだ。
791日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:43:09.38
>>788 余作
「拜假倭王」
拜假した魏使の名前は、まだか?
俺は、待ってるぜ!
792日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:43:41.68
自分の名前で全て抽出して読み返してみればいいのに。
793日本@名無史さん:2011/08/08(月) 20:57:36.84
こちらは別に伊作に書き込むな、といってるわけではない。ここは上でも書いたように基本は無料で
だれでも書き込むことができる掲示板だ。だからルールがあるとすれば、それは「だれでも書き込むことが
できる」という部分を守ることだ。2chにおいてレベルなど関係ない。
生来の性格なのか、あの偏屈なヤフー掲示板で身につけたものなのかはわからんが、どうして「あなたの
意見はこういう点が違うと思いますよ。」的な言い方ができないのか。
794日本@名無史さん:2011/08/08(月) 21:01:15.50
>>788 伊タコ
この際、中国に帰化したらどうだ。
古今和歌ちゃんが、魏使の名前を教えてくれるかもよ!
「再見」
795伊作:2011/08/08(月) 21:21:13.72
>>794
考え違いをするな。
俺が中国を好きなのではない。
倭人が「国家」なるものを築いたとき、
国家体制・政治手法・制度・信仰的精神性からフアッションに至るまで、
中国王朝に倣ってきた。倭人が中国を好きだったのよ。

考え違いをするな
俺たちが材料にしている中国歴史書は、中国王朝が主役だ。
世界に冠たる大帝国の歴史書に書かれた記録に基づいているのだ。
天子・皇帝、帝国というもの抜きでは語れまい。

むしろ、こうしたことに気も回らず、
里程・日程・方角・距離ばかり議論し、
邪馬台国がどこにあったかだけに集中するお前らがさもしいのだ。
歴史書に基づいて、そこに登場する歴史を語る意識レベルと
知的領域に達していないだけのことなのだ。

図星。図星だけに素直に引っ込めない。
ああだもない・こうでもないと、痴性と貧性で書きなぐるわけだ。けらけら
796伊作:2011/08/08(月) 21:27:53.41
>>793
>「あなたの 意見はこういう点が違うと思いますよ。」的な言い方ができないのか。
普通に投稿しても、横からなじり、無礼な文言を書き垂れたのは誰だ。
間違いをきちんと指摘してやっても、黙って引っ込むただけで、
「おっしゃる通りです」。「勉強になります」と、素直に返答をよこした奴は一人もいないぞ。

これまでの経緯も状況も忘れて、こういう時だけ『』いいことをいうな。板乞食

797伊作:2011/08/08(月) 21:32:22.43
どんなやりとりをしても、顔なしでも名無しでも、人間的に信用のおける奴はわかる。
だが俺に不当な攻撃文言を投げる奴で、人間的に信用のおける奴はただの一人もいない。
観客みてるんだ。
「客観的な信頼性」というものを少しは気にして投稿しろや。外道ども
798伊作:2011/08/08(月) 21:33:40.80
じゃ失礼するから、「バカの書き垂れ放題」をつづけろ。
799伊作:2011/08/08(月) 21:52:31.75
>>785
>「中国カブレのイカレタ余作」
最後に一つ、いわせてもらおう。
日本の天皇家は古来「中国カブレ」だった。
その歴史を知ろうとすれば、「中国カブレ」になるほどに
中国の歴史や制度に詳しくなくちゃできん。
その俺を「中国カブレ」と揶揄するようじゃ、
お前のお里が知れようってもんだ。

これでおしまい。誰も・2度と俺を呼んでも無駄と知れ。
800日本@名無史さん:2011/08/08(月) 22:12:16.51
邪馬台国は畿内だって、大学で教わらなかったの?

高卒はダメだな。
801日本@名無史さん:2011/08/08(月) 22:14:15.99
>誰も・2度と俺を呼んでも無駄と知れ

さこれで、誰も呼ばないのにしつこく出てくるのはいつでしょうか?
1時間後、1日後?
802夏休みの友:2011/08/08(月) 22:34:03.39
ごめんね、伊作先生。
俺、国語ダメなんですよ。
結構長ったらしい文を打って「どうかな?」と思って改めて文を短くして
それでも内容は伝わるようにして・・・
でも、伊作先生には通じたみたいでよかったわ。
もちっと、勉強して出直します。
803夏休みの友:2011/08/08(月) 22:55:24.60
しかし、今日の夕方からはすごかった。
伊作先生が出てきた途端に一斉攻撃。
みんな、待ち伏せしていたのですか?しかも、何日も?
みんな、伊作先生が好きなのですね。
でも、ちゃんと仕事しないといけませんよ。
804日本@名無史さん:2011/08/08(月) 23:13:06.26
しかし、筑紫の民さんも素朴な人間性丸出しでイイね
ハンドル変えても、すぐバレバレだけど
805筑紫の民:2011/08/08(月) 23:16:29.59
あ、ばれた。
ま、いいか。夏休みなもので・・・
806日本@名無史さん:2011/08/08(月) 23:16:58.12
>>803
>754が余作が出てくる兆候さ
20年も研究して、このレベル。普通の人より長く、多く勉強しただけ
基本的な頭脳は並の並。20年もやりゃ誰でも講釈できるさ
今日は飲んでないからな、飲んでたらもっとキツイぜ
807筑紫の民:2011/08/08(月) 23:28:45.28
ついでに。
今日は布刈神社行ってきました。
布刈神社の御祭神は「ヒメ大神」で宇佐神宮の「ヒメ大神」と同一か?
「ヒメ大神」はとにかく大事な所にちゃんと座っています。
ちなみに布刈神社の社殿の奥にはでっかい岩があり結界がありました。
古代祭祀の名残でしょうか?
どなた様かちゃんと知っている方ご回答願います。
808日本@名無史さん:2011/08/09(火) 00:46:07.55
>ごめんね、伊作先生。
俺、国語ダメなんですよ。

気にするなよ。
イサクも落ちこぼれなんよ。
809日本@名無史さん:2011/08/09(火) 05:06:49.72
私は伊作を支持する。
810日本@名無史さん:2011/08/09(火) 05:49:29.79
まー、安本や関よりはマシだけどなwwww

811日本@名無史さん:2011/08/09(火) 07:35:26.91
オレも伊作を支持する
812日本@名無史さん:2011/08/09(火) 09:54:58.74
>>809
>>811
こんなアホがいるから混乱しちゃう。
813日本@名無史さん:2011/08/09(火) 10:02:08.97
ブラックジョークに決まってるがな
814日本@名無史さん:2011/08/09(火) 10:06:54.80
>813
多数の信者を集めてトンデモをばらまいた古田に比べれば屁だな。
指揮者でイサクのアホ説信じる馬鹿はいないだろうし。
815日本@名無史さん:2011/08/09(火) 10:18:20.63
伊作のよい点

・積極的に九州説同士で論争しようとすること。これまでは九州説は対畿内説批判が多く、九州説内での
論争はともすれば互いに牽制し合い進展しなかったが、それが動き始めたこと。
・論争に中国的視点を持ち込んだこと。三国志は中国知識人が読むために書かれたものであり、これは
重要。

伊作のよくない点

・偏屈な独善主義者は他の偏屈者を呼ぶこと。現状ヤフーは気違いの巣となっている。
・実際はたいした根拠のあるものでもないのに、自説のみ正しいと上から目線で語ること。
これでは初心者がなかなか入ってはこれない。
・考古学の比重が少ないこと。
816偏屈者:2011/08/09(火) 10:47:43.31
>>815
>偏屈な独善主義者は他の偏屈者を呼ぶこと。

常識的な古代史愛好者を偏屈者に急変させること。

817伊作:2011/08/09(火) 11:06:04.00
82の(できそこないの)気違いは俺が参加する前からいた。
責任能力を持たない真性のバカだから皆が放置しているが、
それが仇となって病状がどんどん進行している。
奴ばかりが目立つようだが、82には名うての論客が数人いる。

大学で専門的に勉強して、現在でも古代史に何らかの形で携わっているのも何人かいる。
そいつらの説明文章とその内容は、ここのバカどもとは雲泥の差がある。
中でも畿内説者でプロ以上の文献知識と研究実績を持つ者がいるが、
この男も伊作の力量は認めている。(彼は板でも何度かそう発言している)。
論旨の異なる論敵に理解者がいるのは俺ぐらいのものだろう。

ここにも伊作に対する理解者がいるようだ。
筑紫の民に、名無しが二人名乗り出た。いいことだ。
ローガン、水銀厨など九州説じゃないが、俺のファンになったようだし、
太国、唐松山も、論旨は異なるが俺には一定の理解を示してくれている。
818伊作:2011/08/09(火) 11:07:26.88
ろくな勉強もしてないくせに思いつきを垂れる半端者の巣窟。
人間的にも半端野郎だから自論に反することをいわれれば、
やみくもに反発するか不当に非難するしか手がない。
確かに、それが2ちゃんらしい。

人は、他人に対する出方をみれば、そいつがそれまで接してきた人間の程度も分かる。
どんなレベルの人生経験を積んできたかもある程度は透けてみえる。
ろくでもない体験しかない奴は、世間知らずと「見る目のなさ」が全面に出る。
ろくでもない体験しかない奴ほど、きーたふーなことをいう。

ものごとの「良さ」を分かることがセンスだ。

ものごとの「良さ」を分かるには相応の知識を必要とする。
すなわちセンスとは、知識に裏づけされた確かな価値観・確かな判断能力、
そして不偏中庸なバランス感覚をいうのだ。
819伊作:2011/08/09(火) 11:12:10.96
ここには、この天才を素直に受け入れる土壌はなさそうだ。

無味乾燥で中身のない、空想と妄想の垂れ合いの場にもどれ。

それで、「わがもの顔」をしてみせたくそ野郎も本望だろう。
820日本@名無史さん:2011/08/09(火) 11:26:39.33
>>817
>>801
やっばり呼ばれないのに出てきたウジ虫。
821日本@名無史さん:2011/08/09(火) 11:37:34.80
>>820
>>8011時間後、1日後?
やっばり呼ばれないのに出てきたウジ虫。

武豊にディープインパクト
大本命レース
的中オメ
822日本@名無史さん:2011/08/09(火) 11:38:05.88
>>819
また始めたのかこの爺さんはw だからここはレベルが低いと言っただろう。2chなんだぞ。
しかし自分でいくら天才と言おうが、お前の説はそのレベルの低い2chでチャチャを入れられる
程度のものでしかない。

そもそも邪馬台国論は完成された学問体系ではなく、わからないことだらけ、穴だらけのものだ。
だからこそお前のような者でも先生様面ができるわけだ。そんなにお山の大将になりたいのか?
見ていてこっけいだぞ。人生のとどのつまりを2chで終えるのかwww

そんなにあがめられたければ、自分で安本や古田のような会を作ればいい。そこでとりまきに
囲まれて余生を送るほうがいいだろう。そんなに自説が正しいと思うなら、正式な論文で学会
勝負をすればよいだろう。卑小な人間が何をほざくww

823日本@名無史さん:2011/08/09(火) 11:46:00.17
>>820 ← お前こそ蛆虫だ、此処から出ていけ。

伊作氏の書き込む内容を楽しみにしている民は沢山いる。
伊作氏の書き込む内容をよく見てみろよ、学校で習うものより数段高いレベル
にあるものを我々にもわかりやすく説明されている。
伊作氏の執筆した「大和の揺籃邪馬台国」は充実した素晴らしい本だけど、
その裏には膨大な資料収集と分析があるわけで、この板ではそれらを知ることができる。
なにしろ生の伊作氏が回答されるわけだから。
824日本@名無史さん:2011/08/09(火) 11:57:07.81
伊作の論は既に古いけどな。思い込みも多いし。
825日本@名無史さん:2011/08/09(火) 12:00:07.75
>>823
油臭いんだよ
ホイコーロー野郎
「在永远,再见」、「宣传严禁」
826日本@名無史さん:2011/08/09(火) 12:00:26.82
>>770 :伊作:
>質が違いすぎる。
↓↓↓↓
>746 壹【臺】與の出自は邪馬臺国ですが、 卑弥呼の出自は奴国でしょう。
>「女王之所都」の「女王」は卑弥呼ではありません。
又、恥の上塗りかYo.
魏志の卑弥呼は、壹【臺】與ではない。女王壹與の国が邪馬壹國で女王【臺】與の国が邪馬【臺】國だ。
壹【臺】與は、「太伯之後」、
魏志の「親魏倭王卑彌呼」は、「倭國王帥升」之後だ。
その区別も出来ていないのかYo.

827日本@名無史さん:2011/08/09(火) 12:08:40.63
夏休みの3流馬鹿高のガキと日中から何もしていない
ニートたちがわき出したな。
ガキは勉強しろ。
ニートは就活しろ。
828日本@名無史さん:2011/08/09(火) 12:11:10.62
 「正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王」
「其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻・・・掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」の「倭王」は「親魏倭王卑彌呼」ではない。
「倭王」とは、「復立卑彌呼宗女壹【臺】與」の
「壹【臺】與」のことだ。



829日本@名無史さん:2011/08/09(火) 12:32:58.91
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
が、「太伯之後」で邪馬壹國・邪馬【臺】國 の女王である倭王。

 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
の帥升之後が、魏志の「對海【馬】國・一大國・奴國・不彌國」の連合国女王である「親魏倭王卑彌呼」で、『季歴の後と粤の後』連合。
830伊作:2011/08/09(火) 18:12:36.98
ほい。
街頭香具師と雲助がたむろする裏街道暮らしをやめて、
陽のあたる所で質の高い話がしたい人はこっちへ・いらっしゃい。

http://8252.teacup.com/isaaq/bbs
831日本@名無史さん:2011/08/09(火) 18:34:22.16
よし、これで伊作の庭ができた。
そこで、しっかりと論陣を張ってくれ。
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/09(火) 19:05:30.02
伊作さんには、今後も頑張ってもらいたい。
833伊作:2011/08/09(火) 19:46:50.04
さあ。
名無し・顔なしで、コソコソしてきた野郎ども。
俺はかくも正々堂々としている。まいったか。

てめえらが不当に非難・誹謗・口撃をしてきたことを
俺の掲示板にきてやってみろ。
腰抜けのコソ泥根性を叩き直してやるぜ。
834日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:02:33.67
自分の意見を認められたいという欲求が強いんだな。

裏をかえせば、それだけ世間から疎外されてるルサンチマンという自己紹介なわけだが。
835日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:26:29.95
ま、行くのは強烈なファンか、マゾだけだろな
836日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:26:36.36
料簡が 狭い誰のこととは 言わんけど   一茶句
837日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:33:16.85
>不当に非難・誹謗・口撃をしてきた
これらの点で、伊作に勝る者はここには居ない
それがわからんのは、ある種の知的障害かなあ
838日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:43:07.71
>>833
>俺はかくも正々堂々としている。まいったか。
この人、何か勘違いしてるね
839日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:49:54.29
まいりました
840日本@名無史さん:2011/08/09(火) 20:59:40.63
伊作はもうだめぼ…
841日本@名無史さん:2011/08/09(火) 21:20:54.48
>>825
お前の親の顔が見たいもんだ。
糞発言の裏には家庭環境の問題がある。
842日本@名無史さん:2011/08/09(火) 21:21:06.60
>>799
【 これでおしまい。誰も・2度と俺を呼んでも無駄と知れ。】

http://www.geocities.jp/gyouseitaro/004b/toha.html

843日本@名無史さん:2011/08/09(火) 21:21:41.83
だいたい、伊作は中国視点でうんぬんとか言ってるが、
中国視点がいかに当てにならないか。

台湾は、独立国なのか、中国領なのか?
現代でも見解がわかれてるというのに。
中国視点で魏志倭人伝を読んだからって、ナニがわかるのかね?
844日本@名無史さん:2011/08/09(火) 22:04:31.30
事実というのは、3世紀の時点で、ヤマト王権は九州を支配していた。
しかし、ヤマト王権の支配に反発した女酋が九州にいて、
魏になきついたということだろう。

魏も、息のかかった勢力が東の果てにいることは都合がいいからと、
両者の利害は一致し、九州の女酋を倭王としてあつかった。
そんなことは、ヤマト王権は知らないことだから、日本書紀には記録されてない。

これ以上の、スジの通った話は無いね。

845日本@名無史さん:2011/08/09(火) 22:16:45.69
そんな餌じゃ釣れないぜ
叩き台にもならねぇ

>これ以上の、スジの通った話は無いね。
2・5・8ね
846日本@名無史さん:2011/08/09(火) 22:19:36.77
「拜假倭王」の意味、正確にわかりますか?
つまり、一時的に倭王の官名をさずけるという意味ですよ。
魏帝に対する外様の諸侯のようなもので、魏国に服属しているということです。
魏は皇帝ですから。王の号は実はその次の諸侯に当たるのですよ。
だから印綬には漢のとわざわざ書いて解りやすくしているわけです。
畿内説の人、わかりました?
847日本@名無史さん:2011/08/09(火) 22:47:01.23
>>846
「親魏」の場合は、どうなんですか?
ご存知なら、教えていただきたい。
見解でも、結構ですよ。
848伊作:2011/08/09(火) 22:48:31.97
1対1になるのが怖くて衆の中にいたがる・ふぬけ。
名無しでしか投稿できない・腰抜け。
抽象中傷的文言をかき立てるだけの・低能未熟中年。

継続的思考時間が短く、長文を2行も読むと、
最初の1行に書いてあった意味がぶっ飛んで、
何が何だが分からなくなる極小容量の劣等あたま。

果たし合いの場をつくっておいた。
カラいばり・虚勢は無用。やるときは黙ってやるものだ。
ガキのコロから複数相手の喧嘩も慣れっこだ。
まとめてかかってこい。
849日本@名無史さん:2011/08/09(火) 23:20:29.52
>>848
おまえの脳内世界の相手はしてられんわ
850伊作:2011/08/09(火) 23:32:56.59
>>849  >おまえの脳内世界の相手はしてられんわ

け。弱虫が最後にほざく、お決まりの逃げ口上だ。
てめえのバカさ加減を棚にせいいっぱい『 』つけるな。
喧嘩でもスポーツでも議論でも、
1〜2度やり合えば相手の力量も分かるし、互いの優劣も当事者が一番よく分かるものだ。
てめえらはバカなりに分かっているはずなのだが、虚勢と強がりの反動的手法として、
不当な非難文言を並べて板に居座ろうとする。

名無しのくせしやがって、板上でのメンツだけは保とうとするわけだ。
心理学的にも極めて陳腐な心理だが、
そうした下卑た心理を見せる所が「お里の極み」よ。自覚できいまい。
指摘されても理解できまい。精神的未熟低能中年だから。
851日本@名無史さん:2011/08/09(火) 23:54:25.89
何で何時までも居座るんだろうか?
852日本@名無史さん:2011/08/10(水) 00:13:29.17
>>845
>これ以上の、スジの通った話は無いね。
2・5・8ね

2・5・8て何?
それにしてもイサクは鬱陶しいね。
853日本@名無史さん:2011/08/10(水) 00:17:52.90
>>850
>不当な非難文言を並べて板に居座ろうとする。
>指摘されても理解できまい。精神的未熟低能中年だから。

あなたのこと?
854日本@名無史さん:2011/08/10(水) 00:57:19.55
>>852
マージャンのこと
147、258、369がスジ

それにしてもイサクかわいそう。
855日本@名無史さん:2011/08/10(水) 01:02:51.77
速報!!!

テレビテレビ!!

東京 埼玉 神奈川で一斉蜂起!!

約六百万人が首相官邸へ!!!
856日本@名無史さん:2011/08/10(水) 07:50:50.32
イサクはビョウーキ
857伊作:2011/08/10(水) 08:22:19.69
>>851
>何で何時までも居座るんだろうか?
おられちゃ困るか?  降伏宣言だな。

>>852
>それにしてもイサクは鬱陶しいね。
粘り強い思考力が欠落してる証拠だ。

>>853
>あなたのこと?
精神的未熟低能中年とはお前のことだが、
古くさい手だが、うまく切り返したつもりか。

>>854
>それにしてもイサクかわいそう。
口先だけのカラ元気はたくさんだから、正面からボコボコにしてみせろ。

>>856
>イサクはビョウーキ
ここは精神病棟の廊下によく似てる。
てめえなどは、さしずめ「廊下とんび」というところだ。

昨夜以来、ゴミクズどもの投稿はこれだけ。
これで、自己正当化か自己弁護のつもりらしい。
名乗り出て本物の議論をする度胸も容量もいのーたりんども。
858日本@名無史さん:2011/08/10(水) 08:42:31.47
>>857
当然と言えば当然で
大変な悪評ばかり。

>昨夜以来、ゴミクズどもの投稿はこれだけ
名乗り出て本物の議論をする度胸も容量もいのーたりんども。

ゴミクズイサクに名乗り出て議論をする価値があると思っているのか!
生ゴミは罵倒するしかない。
859伊作:2011/08/10(水) 09:24:44.02
>>858
>当然と言えば当然で大変な悪評ばかり。
1度でいいから「どこがどう」と指摘して、きちんと証明してみせろや。

>名乗り出て議論をする価値があると思っているのか!
その度胸も容量もないから、そういって逃げるしかない。

>生ゴミは罵倒するしかない。
「お互いさま」というわけだ。
畿内説の分裂野郎にゴミクズ呼ばわりされて手も足も出なかった腰抜けが。

何でもいいがお前ら、やってることはガキのなじり合いだ。
ろくなガッコ出てないだろ。

て・い・せ・い。

ろくにガッコ出てないだろ。わらわら
860日本@名無史さん:2011/08/10(水) 09:38:23.44
相変わらずコミュニケィション能力が欠如してるなw
861伊作:2011/08/10(水) 10:15:55.57
オレは暇でしょーがないんだ
ゴミクズでいーから、誰かオレの相手しろ
862日本@名無史さん:2011/08/10(水) 10:37:46.70
伊作さんは九州説みたいだけど邪馬台国の場所は何処だと思ってるの?
また、卑弥呼は?
863日本@名無史さん:2011/08/10(水) 11:31:48.19
>>846
>>「拜假倭王」の意味、正確にわかりますか?
>つまり、一時的に倭王の官名をさずけるという意味ですよ。
「一時的な倭王の官名」は「壹」で宜しいですか。
「壹」 を授かった「倭王因使上表荅謝詔恩」の「倭王」の官名は「臺」ですが、
この官名は「漢」から授かったのでしょうか?
この倭王の官名が「臺」から「壹」に成った事によって、
邪馬【臺】國 が邪馬壹國になったと
解釈して宜しいですか? 
「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」の解釈をお願いします。
特に、「壹」についての見解もお願いします。

864日本@名無史さん :2011/08/10(水) 13:13:27.52
>>863
>「一時的な倭王の官名」は「壹」で宜しいですか。
「壹」 を授かった「倭王因使上表荅謝詔恩」の「倭王」の官名は「臺」ですが、
この官名は「漢」から授かったのでしょうか?

どこにそういう記述がありますか?さっぱりわかりません。
官名は「王」ですよ。
漢からさずかったのではなく、魏からですよ。
変なこといわないでください。
漢の・・と引き合いに出したのは志賀島の金印のことで、時代が違います。
基本的なことをきちんとふまえてくださいよ。

他の質問はまた後に。
865日本@名無史さん :2011/08/10(水) 13:41:50.92
臺というのは、政務をとっているところ、王がいるところ、
中央政府のあるところのような意味で、邪馬臺国の臺の字はそういう意味で
王が政務を取っている朝廷があるところという意味。
壹(壱)も同じような意味で天下を一つにするところとか、専らに政務をとるところ
とかそんな意味ではないでしょうか。二つは同じような意味なのでしょう。
誤字説もありますけど、別に誤字だったわけでもないとも考えられます。
漢字の意味から分析すれば邪馬台国の元の名前は邪馬国なわけです。
866日本@名無史さん :2011/08/10(水) 14:52:53.23
>>847
親魏倭王については、後のほうに汝為親魏倭王とあるので、
魏に親しむ倭王という意味だと。要するに魏が王という地位を認めてあげた
ということで、その権威を借りて倭王も国内に権力を振るうことができると。
だから金印を仮に授けて、言ってみれば、金印は割符のようなもので、
魏と倭が行き来するときの正統な証明書のようなものなのだと。
金印をもらって王という名を戴いたということは、魏に服属しているということで
いいのではないでしょうか。領土ではないけれど従わせている外様の諸侯王という意味で。
詔を出すのは魏の皇帝のほうで、倭王は御礼の上表と言う言葉を使っていて一段下のあつかいですし
(魏の文書なので当たり前かもしれませんが)、
大夫らにも魏から中郎将という魏の官名を与えられていて、倭王はたとえその気ではなくても
魏から視たら倭を服属させているという考えなんだと思いますね。
けっして対等な親交ではありませんよね。
867日本@名無史さん:2011/08/10(水) 15:55:44.90
>>865
>漢字の意味から分析すれば邪馬台国の元の名前は邪馬国なわけです。
だから、女王である倭王の名が臺與の国が邪馬臺國で 
女王である倭王の名が壹與の国が邪馬壹國である。
邪馬臺國は後漢から魏まで存在し、
正始元年に魏の意を受け、 正始四年から邪馬壹國となる。

>>865 名前
>臺というのは、政務をとっているところ、王がいるところ、
>中央政府のあるところのような意味で、邪馬臺国の臺の字はそういう意味で
>王が政務を取っている朝廷があるところという意味。
それは、『京又は京師』と解釈しても宜しいですか。では、
「邪馬壹【臺】國 女王之所都」の「都」は如何様に解釈されますか?
「都」は過去の「京または京師」で邪馬臺國を刺し、
「邪馬壹國」の「都」との表現は、未来の『京または京師』と解釈可能ですか?


868日本@名無史さん :2011/08/10(水) 16:07:24.57
>>867
>だから、女王である倭王の名が臺與の国が邪馬臺國で 
女王である倭王の名が壹與の国が邪馬壹國である。

どこに倭王の名が臺與とあるのですか?
壹與は魏書にあるので理解できますが、臺與の方はどこに記述があるのでしょうか?

都は京又は京師と解釈しますけど。
壹の都の表現は京または京師と解釈してもいいと思ったから、
上に同じ意味だろうと書いたわけで。
869日本@名無史さん:2011/08/10(水) 16:17:53.27
伊作の論説は90%合ってるんだよ。

弥生時代末の状況はその通りだろう。
ただ、そこから導かれる結論が間違ってる。
すでに2世紀では、近畿勢力は九州を凌駕してることを認めるべきだ。

邪馬台国は畿内、卑弥呼は、モモソヒメ。
これを認める勇気があれば、伊作は真の天才になれる。

いまのままじゃ、ただのバカ。
870太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/10(水) 16:21:10.09
卑弥呼≠百襲媛
871日本@名無史さん:2011/08/10(水) 16:33:56.80
>>868
>どこに倭王の名が臺與とあるのですか?
>壹與は魏書にあるので理解できますが、臺與の方はどこに記述があるのでしょうか?


「卑彌呼宗女壹【臺】與年十三為王」
の、壹【臺】與は何処の国の王ですか?
倭国の王であり、邪馬壹【臺】國 の女王です。邪馬壹【臺】國 の女王であるということは、「太伯之後」であり、
「太伯之後」だから倭王なのです。
壹【臺】與は壹與であり臺與でもある。
邪馬壹【臺】國 も邪馬壹國であり 邪馬臺國 でもある。
両者の境は、正始四年です。
872日本@名無史さん :2011/08/10(水) 16:52:34.00
>>871
正始四年以前の邪馬臺国の女王の名は卑弥呼ですけど。
あなたは後漢から魏までの邪馬臺国の王の名は臺與だというからはあ?となるわけで。
正始四年以降が壹與或いは臺與に後継しましたよね。
壹與でも臺與でも同じ人です。
ですから、壹でも臺でもどっちでもいいと。
邪馬臺国も邪馬壹国も同じ。どっちでもいいと。
それに魏書は卑弥呼の時代でも邪馬壹国と表現していますよ。
つまり意味として壹、臺を解釈すれば、トヨの名はただのヨなんですよ。
873日本@名無史さん:2011/08/10(水) 17:11:37.73
>>863>>872
こんなおかしな書き込みを見たら伊作氏でなくても呆れるね。
874日本@名無史さん :2011/08/10(水) 17:17:19.11
>>873
ではあなたは邪馬臺国の邪馬壹国違いをどう説明しますか?
ただの誤字ですか?
それも考えられるけど、他の考え方もあるよということですよ。
考え方の幅が広がっていいと思いますけど。批判だけで終わらせるのは
簡単だけど、貴方の考え方も一言欲しいですね。
875伊作:2011/08/10(水) 17:47:42.91
>>873
>伊作氏でなくても呆れるね。
いま・書いていたところだよ。

>>846
「拜假倭王」の意味、一時的に倭王の官名をさずけるという意味ですよ
>>863
>「一時的な倭王の官名」は「壹」で宜しいですか。
>>864
>官名は「王」ですよ。
●王位・王号 (国を封ぜられた王族、その他周辺民族の王などに用いられた)。
ただし王爵という言い方もある。
●爵位・爵号 (国を封ぜられた諸侯などの貴族に用いられた。
(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵がはじまり)。
●官位 (百官とこれに属する無数の官吏に用いられた位階。武人・軍人も含む)
876日本@名無史さん:2011/08/10(水) 17:48:27.50
>>865
>臺というのは、政務をとっているところ、
高台などの地形から、高楼・高殿などの建造物、皇帝や王の別宅(姑蘇台・琅邪台など)、
大小さまざまな儀式のために土盛りしてつくった台にいたるるまで、幅広い意味がある。
>邪馬臺国の臺の字はそういう意味で
慎重な論客ならば一元的に断言しない。

>王が政務を取っている朝廷があるところという意味。
朝廷とか王朝とは、「天子を戴き」百官を配した
中央集権的官僚制度の政治体制・国家体制をいう。軽率に使うでない。

かくしてレベルの低さを指摘してやっても、
レベルの低さを自覚して謙虚に勉強しようという奴はおらず、
昨日のバカ野郎みたいに、「レベルの低いのが集まってるのが2ちゃんだ」と
開きなおって自己正当化した気になてる始末。どうにもならねーや。
877伊作:2011/08/10(水) 17:49:47.10
>>869
>伊作の論説は90%合ってるんだよ。
ほれ。畿内説者ですら、俺の論説に一目おいてるぜ。

>すでに2世紀では、近畿勢力は九州を凌駕してることを認めるべきだ。
時代の成熟度からそれは絶対にない。考古事実をねつ造するにも無理があろう。

>邪馬台国は畿内、卑弥呼は、モモソヒメ。
>これを認める勇気があれば、伊作は真の天才になれる。
そんなことを認めたら本当のバカだ。タコ


ホケた九州説を垂れるホケ野郎ども・みれ。
さすがに俺が手強いとみて、畿内説が俺を取り込みにきたぜ。がはは。
878伊作:2011/08/10(水) 17:50:47.18
>>862
黙っておれのサイトを読むか、
俺の掲示板にくれば回答は自ずと得られる。
879日本@名無史さん:2011/08/10(水) 18:13:15.19
肥後北部の沿岸だっけか?
卑弥呼はさすがに居なくて女首長を当ててるのかもしれんが
880日本@名無史さん :2011/08/10(水) 18:13:43.52
>>876
断言してないですけど。いろいろ書いてわかるように説明しました。
書き残した部分があるというだけの話。それを一元的に断定するというのは
そっちこそ許容できる範囲が狭すぎますよね。あら捜しするのは
得意なんでしょうけど。

>朝廷とか王朝とは、「天子を戴き」百官を配した
中央集権的官僚制度の政治体制・国家体制をいう。軽率に使うでない。

その朝廷の考え方は日本的な考え方ですよ。
あなたこそ何も知らない。
朝廷というのは官や大臣があつまる場所ですよ。
当然、王が政務をとるところは朝廷にあるんです。

881日本@名無史さん:2011/08/10(水) 18:22:22.28
>>877

>時代の成熟度からそれは絶対にない。考古事実をねつ造するにも無理があろう。

「時代の成熟度」なる根拠はなにかな?

それみなさい。君の言ってることは、肝心なところは根拠が示せなくて、願望を語ってごまかしてるだけなんだよ。
こんなことはみんな見抜いてるのに、自分だけドヤ顔で威張ってるからバカにされるんだよ。
882伊作:2011/08/10(水) 18:46:07.73
>>881
「時代の成熟度」。いいセリフだろ。
ボキャブラの天才ならではの名言だ。どや
883伊作:2011/08/10(水) 18:50:06.36
>>880

こう断定してるだろ。見苦しい言い訳をするな。
>臺というのは、王が政務を取っている朝廷があるところという意味。

臺とは高台などの地形から、高楼・高殿などの建造物、
皇帝や王の別宅(姑蘇台・琅邪台など)、
大小さまざまな儀式のために土盛りしてつくった台にいたるるまで、幅広い意味がある。

朝廷とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、
とりわけ中国と日本におけるものを指す。
また、君主が政治執務を行う場所や建物。(wiki)

3世紀の倭国に(王朝とか)朝廷とかいえるほどの体制にあったというのか。
言葉の使い方だけではなく、時代評価まで間違ってるだろが。
俺はこのことを指摘しているのだ。ぼんくら・ぼくちゃん
884日本@名無史さん :2011/08/10(水) 19:04:15.20
>>875

要するにわたしが言いたいのは、倭王という王号を仮にさずかったということです。
王号は王爵という言い方もある通り、皇帝がいる場合はその下の地位です。
一段下にみられていて、決して対等の付き合いではないということ。ようするに
外臣という言い方もあります。外臣という言い方はどうでしょう。正しくありませんか?
885日本@名無史さん :2011/08/10(水) 19:08:58.54
>>883
王朝と言う言葉は一言も発してないです。朝廷ということばだけです。
朝廷は朝廷ですよ。王が君主として国を統治していれば、
どんなに規模が小さくても。
だから邪馬台国の朝廷といってもいいわけです。
あなたは朝廷は最初は体制のことだと言ったじゃないですか。
後から訂正してますけど。
言葉は正しく使ってくださいよ。思い込みだけではだめです。
886伊作:2011/08/10(水) 19:42:38.58
>>885

朝廷とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権

「朝廷とか王朝とは、「天子を戴き」百官を配した
中央集権的官僚制度の政治体制・国家体制をいう」。

何か間違いでもあるか。タコ。見苦しくあがくな。
王朝以外の体制下において朝廷という言葉は使わない。
時代の成熟度からいって、3世紀の倭国に朝廷などない。
887伊作:2011/08/10(水) 19:47:49.18
>>884

すなおに「わかりました」「間違いでした」といえや。
これは誰のセリフだ。見せられるほうが恥ずかしいぜ。
↓↓↓↓
>>846
「拜假倭王」の意味、一時的に倭王の官名をさずけるという意味ですよ
>>863
>「一時的な倭王の官名」は「壹」で宜しいですか。
>>864
>官名は「王」ですよ。

基礎からやり直すことだ。本気でやれば10年はかかるだろう。
888日本@名無史さん:2011/08/10(水) 19:53:29.82
>>882

はいはい。
わかったから「時代の成熟度」の定義を言ってみてくれ。

言えないなら、ただの言葉遊びだな。

議論以前の問題。言葉遊びにつきあう暇人はいないよ。

889日本@名無史さん:2011/08/10(水) 20:08:55.13
話を整理するとだ。

2世紀末に、九州を支配できる権力を、畿内は持ちえたかどうかという話し。

3世紀初頭から、九州は衰退し、近畿の土器が拡散する。
ここに、九州の政治状況の大きな変化が見られる。
九州のたる勢力が九州を面的に支配したような証拠は一切無く、近畿の影響が増すという状況では、
九州説は成立せず、よって邪馬台国は畿内という結論になるんだよ。

それでも、九州に邪馬台国があったとするなら、九州の卑弥呼は近畿と積極的に交易を求めたということで、
魏志倭人伝の「東の倭種などしらん」という記述は間違いだということを、まず認めるしかないわけだが。

伊作はどういうスタンスなのかな?中国の史書の間違いを認めるかね?
890日本@名無史さん :2011/08/10(水) 20:33:35.96
>王朝以外の体制下において朝廷という言葉は使わない。
そんなことありません。
王朝というのは君主が王を称している政治体制をいうのであって、
帝制というのは皇帝によって国をおさめる制度。
ですから漢王朝という言う方は正しくないわけです。帝号を称しているわけですから。
朝廷といういいかたは帝号のくにでも朝廷というし、王号の国でも朝廷といいます。
朝廷と言う言葉は場所を表すのであって体制ではありません。本来は。
うちにあるちょっと古い広辞苑ですけど、体制のことは一言も書いてありません。
体制を意味するなら、体制のことも書いてあるはず。
だから朝廷を場所ととらえても正しいのです。あなたは体制と断言したじゃないですか。
最初は。それこそ一元的な見方しかできていませんよね。


>>887
ところで外臣の話は?
この場合の倭国の立場は外臣にあたるのでは?
だったら、王は爵位の一つととらえてもいいはず。辞書にもあります。
だから官位と表現しました。


891日本@名無史さん:2011/08/10(水) 20:47:19.94
わかりました。
間違いでした。
892日本@名無史さん:2011/08/10(水) 20:56:59.59
>>889
>3世紀初頭から、九州は衰退し、

誰の本を読んだか知らんが、馬鹿の一つ覚えを繰り返しているアホがいるな。
何をもって九州が衰退したと言うのだ?根拠を挙げてみろ。
893夏休みの友:2011/08/10(水) 21:04:37.35
たぶんね、ここで伊作氏に反論する畿内説の人達は、
小林よしのりの「ゴーマニズムなんとかの天皇論」など
最近の愛国心旺盛な漫画の読みすぎたちだよ。
理想はいいが、現実は違うよ。
894日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:07:30.54
>>892

九州が衰退した理由として、平原遺跡以後、同規模の王墓が作られなくなった。
集落が減り、人口が減少した。

明らかに卑弥呼の統治下にあった西新町遺跡には、渡来人が来ていたのと同時に、山陰や近畿の土器が出てる。
外国人が、「西の倭種などしらん」などというような状況ではななかった。

ぶっちゃけ、魏志倭人伝の倭人の習俗の記述は1世紀頃の話で、卑弥呼の頃の最新の情報は反映されてないんだよ。

895夏休みの友:2011/08/10(水) 21:08:30.37
畿内説のみなさんは、共産党に支配された現代中国と
天子が納めた古代中国を切り離して考えねば。

896日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:10:39.98
X外国人が、「西の倭種などしらん」などというような状況ではななかった。

○外国人が、「東の倭種などしらん」などというような状況ではななかった。

九州が衰退した証拠として、相対的に吉備の楯築遺跡が登場するなど、
卑弥呼の時代には、権力の中心がすでに東にシフトしている。
897夏休みの友:2011/08/10(水) 21:17:43.10
そして「邪馬台国」や「倭の五王」がどうして中国に臣従したのか、
そして「阿毎多利思北弧」が中国(隋)に独立宣言のような親書を
送ったのか。
ご先祖の苦労を知れば、日本人であることにあらためて誇りを持てるよ。
898日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:19:07.89
昭和時代まで、外国人は日本人がみんなチョンマゲをしてたと思ってたくらいだ。

九州が倭国の中心だった1世紀の頃の記録が、更新されることなく伝わってたために誤解されたんだよ。

だから魏志倭人伝には、間違った記述も多いと見るべき。
899日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:20:34.90
>>897

なにが日本人としての誇りだ?

ヤマト王権が2世紀から芽生えてた事実を許せないのはお前のほうだろ。
900日本@名無史さん :2011/08/10(水) 21:26:48.65
>>894
卑弥呼の頃の最新の情報は反映は終わりの方にありますよ。
卑弥呼の崩じた後、戦乱があったとか。結局卑弥呼の一族の娘のトヨが
後継者になって。
少なくとも東遷したという記述は見えないので、
一世紀頃の倭国とそれほど変わらない場所にあったはずです。
ということは、北部九州からそれほど変わってないということです。
邪馬台国という名の邪馬(やま)という言葉から、八女、山川、山加和、山鹿
とか一連のヤマ(ヤメ)のつく名前が
筑肥山地にあります。そここそ邪馬台国のあった場所です。
台というのは政治をとる場所という意味もあるし、概して政治をとる場所は高台にあるので、
筑肥山地の若干低い山が最適なのです。
901日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:26:52.99
元々九州王朝説を主張していたのは左巻きの息がかかった連中だしなw
902夏休みの友:2011/08/10(水) 21:27:58.93
>>899
見てきたの?タイムスリップでもして?
「ヤマト王権が2世紀から芽生えてた事実を許せないのはお前のほうだろ。」って
そんな仮説と創造を力説してもね〜
アメリカ人の60%くらいが「神の人類創造」を信じて「進化論」をしらないらしい。
日本人も「アマテラス」や「ニニギ」は信じても中国に臣従していたことは認めない。
臣従していたのは理由があるのに目をそむける。そんな奴に説明は無駄か?


903日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:30:02.38
>>900
地名がそんなに重要なら伊都だって和歌山県だなw
904夏休みの友:2011/08/10(水) 21:34:16.15
朝鮮半島の人達は、日本人に統治されたことを恥と思っているらしい。
だから、古代朝鮮半島が日本に影響を与えていたと言い張る。
日本書紀を盾に畿内説を語る連中はこれと同じですね。
905伊作:2011/08/10(水) 21:35:14.36
>>890
あのな。朝廷というのを安物でもいいから漢和事典でしらべてみ。
朝貢・朝献ともどもすべて「天子が」「天子に」という言葉がつくだろう。
朝廷とは天子をいただく政府・国家体制における言葉なのだ。
朝廷とは、天子制下で官僚組織をともなった政府および政権をいう。
また、天子が政治執務を行う場所や建物をいう。

>王が政務を取っている朝廷があるところという意味。
ではない。話をそらして己の失態から目をそらそうという魂胆か。はなたれ小僧

「王朝以外の体制下において朝廷という言葉は使わない」。
>そんなことありません。
王朝とは天子を戴く政治体制・国家体制・統治機構をいうのだ。

>王朝というのは君主が王を称している政治体制をいうのであって、
バカ野郎。朝廷とは、天子を戴く王朝にのみ使用する言葉だ。
語弊があるといけないが、天子を戴くという点で朝廷と王朝はイクオールなのだ。


俺とやり合って、強情張ったり・我流解釈並べた奴はみな信用をなくす。
小僧。お前もその口だな。
906伊作:2011/08/10(水) 21:37:01.50
>>890 この場合の倭国の立場は外臣にあたるのでは?
倭国が中国王朝に臣従した事実はない。とんでもを吹くな下郎。なーにが外臣だ

>だったら、王は爵位の一つととらえてもいいはず。辞書にもあります。
王号と爵位は別物だ。一覧をみせたろ。

>だから官位と表現しました。
官位は爵位とも王号とも違う。てきとーな方便使って『』つけるな。
「間違いでした」「不勉強でした」「ケイツでした」
といえないようじゃ誰もまともに相手をしないぜ。
907日本@名無史さん :2011/08/10(水) 21:38:58.74
>>903
たとえばの話で地名を出しただけ。
総合的に考えても、何もかも一致する。
近畿説のようにヤマトの音だけで、邪馬台国は近畿だと前提したことから始まっているわけだし。
それと近畿説は変な時代考証して異常に時代を遡ってしまうし。
変としかいいようがないです。
908伊作:2011/08/10(水) 21:41:52.58
「九州王朝説」

日本列島に王朝と呼べるものが登場するのはいつ頃だ。
2世紀・3世紀から九州に王朝があったようなことを吹く「九州王朝説」。
そもそもそのタイトルからして眉唾だってことだ。
909日本@名無史さん:2011/08/10(水) 21:49:15.33
>>877
90%か、、、
ずいぶん控えめな数字だな。
最近やけに攻撃的になってるのは不安の裏返しなのか?w
素直に転向してしまった方がいいと思うよ
910伊作:2011/08/10(水) 21:49:19.93
>>899
>ヤマト王権が2世紀から芽生えてた事実

九州勢力が九州に根を張ったのはいつからだ。
九州勢力が関門海峡の通交を支配したのはいつからだ。
武力支配時代の支配とは独占を意味する。九州勢力に関門海峡を抑えられた状態で、
どうやって瀬戸内の奥地の大和に「王権」と呼べるような勢力が育つ可能性があるか。

お前。俺の『日本列島一元支配論』を読んだほうがいいぜ。

「ゆるゆるの連合」だの「日本海ルート使用」だの、
への突っ張りにもならん詭弁と言い訳でやり過ごすしかない。
これを提示したとき、畿内説から「やいのやいの」ゆってきたが、
結局はみな、この仮説の秘めた凄さに気づいて畿内説はシラけてしまった。
畿内説のトピックが閑古鳥なのも『日本列島一元支配論』のせいなんだぜ。

ま・畿内説がシラけることも予言しといたがな。
911伊作:2011/08/10(水) 22:05:22.78
ほれほーれ。
抽象的中傷文言で否定的姿勢を示すしか手がなかった野郎ども。

天才伊作の真価と凄さは、「邪馬台国がどうこう」だけじゃないぜ。
こっちは「遠い祖先の体験の記憶を正しく見極める」という視点と、
まったく独自の史観に基づく史実検証という「総合力」で勝負してるのだ。

ヤブ蚊・銀蝿の羽音程度のヤジじゃビクともしないぜ。
912日本@名無史さん :2011/08/10(水) 22:06:50.87
>>906
王号を持っていても、外臣ならば、魏から視れば、
役人みたいなもの。倭の大夫は魏から役人の官位を賜わったですよね。
独立した対等な国ならば、こんな失礼なことしませんよ。
国内で倭王を勝ってに名乗っても
いいわけだけど、もっと強い後見が欲しかったのでしょう。
倭王は魏国の郡太守みたいな役人(官)の役目だと、魏からは
見えているはず。だから王位ではあるけれど実質は官位のようなものと視ていいのではないでしょうか。
これが当時の外交関係の実態だと思いますけど。
邪馬台国も国内では王だけど、魏に対しては外臣だという立場はわきまえていたのでは?
だから倭王という官名を賜わったと表現したのです。
で、その臣従している邪馬台国が畿内にあったと考えられますか?
考えられないでしょう?
913日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:07:10.10
2世紀には那国が関東から九州まで支配下に収めてたんだけどな。
ところが九州ー出雲が金属器を背景に勢力拡大してパワーバランスが崩れそれに(おそらく)鬼国が加わった。
それに対抗する形でヤマトが共立され、九州を奪い返し魏に援軍を要請した。
おそらくこれが真実。。。
914日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:22:45.33
>>910
>どうやって瀬戸内の奥地の大和に「王権」と呼べるような勢力が育つ可能性があるか。

抽象的で、中身がありませんな。

九州が、関門海峡を支配して、物流を滞らせたという証拠は何もありませんが。
915日本@名無史さん :2011/08/10(水) 22:27:38.84
>>913
何を根拠にそんなこといえるのかな。
邪馬台国は3世紀の時点でお隣の狗奴国王と敵対関係にあって、
臨戦状態にあったのですよね。その少し前はトヨの即位前に男王に
不服で戦乱が倭国内であったと。それも三世紀の中頃の話。
916日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:29:38.28
どうやら、伊作の論拠の全ては、
「九州が、関門海峡を支配してた」ってところにあるんだな。

さあて、そんな証拠がいったいどこにあるのかね?
それが事実なら、関門海峡を挟んで、文物が一切流通しないはずだが、
実際はそんな傾向は全くなく、筑前、長門、豊前、周防は、弥生時代も古墳時代も一体の文化圏を持っていた。

九州が関門海峡を封鎖してたなどという、おとぎばなしを語る考古学者も文献史学者も、聞いたこと無いね。

全部伊作の妄想からはじまった空想だ。
917日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:30:45.51
>>915
ここは根拠のない妄想を発表するスレじゃないのか?w
918日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:42:38.40
結局、伊作がナニを主張しようが、
最後の最後に、
「九州が関門海峡を封鎖してた」なんてデタラメを持ち出すから、
そこで議論が終わってしまう。

ああ、こいつは、バカなんだな、と。
919伊作:2011/08/10(水) 22:44:15.30
>>912
>王号を持っていても、外臣ならば、
倭国王が中国王朝の外臣だったことは一度もない。歴史的事実だ。

>魏から視れば、役人みたいなもの。
そういうのを詭弁というのだ。

>倭の大夫は魏から役人の官位を賜わったですよね。
禄高が2000石の親衛隊高官の官位だ。だから何だというんだ。

>独立した対等な国ならば、こんな失礼なことしませんよ。
朝貢外交というものは、天子を奉って行なうトップ外交だ。
形式上、上下関係があるのは必定というものだ。形式上な

>国内で倭王を勝ってに名乗っても いいわけだけど、もっと強い後見が欲しかったのでしょう。
>倭王は魏国の郡太守みたいな役人(官)の役目だと、魏からは 見えているはず。
>だから王位ではあるけれど実質は官位のようなものと視ていいのではないでしょうか。
>これが当時の外交関係の実態だと思いますけど。
いいわけにしてね陳腐すぎる。きみのトーンも力量もだいたい読めた。

>邪馬台国も国内では王だけど、魏に対しては外臣だという立場はわきまえていたのでは?
しつこいな。
倭国王が魏に属していた事実を提示するのが手順というものだ。

>だから倭王という官名を賜わったと表現したのです。
『 』つけるほどのタマでもないことが自覚できていないらしい。
必死でいいわけをしているが、醜態だ。

>その臣従している邪馬台国が畿内にあったと考えられますか?
臣従していた事実はない。これが厳然とした事実だ。バカもの
920伊作:2011/08/10(水) 22:49:02.01
>>914
>抽象的で、中身がありませんな。
超現時節的で現場の臨場感に溢れた仮説だが。

>九州が関門海峡を支配して、物流を滞らせたという証拠は何もありませんが。
人間の計画性・戦略性・狡猾さ・独占欲などに古今東西かわりはない。
『三国志』のドラマ、1度くらいは見ているだろう。
海を制する者が実際に列島を制したのだ。
莫大な利権のかかった関門海峡の存在を
ぼけっと指をくわえて見ているのはお前だけだろうな。

いかにも洞察が巡らない頭の悪さだが。
921日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:53:01.09
女王の使者は魏の都まで行かず、帯方郡で待機してたよね。
魏の使者も女王の都まで行かずに伊都國で待機してたよね。
これがこの時代の外交スタイルだったのかな?
922伊作:2011/08/10(水) 22:59:49.36
>>916
「九州勢力が関門海峡を支配してた」。これが歴史的事実だ。
関門海峡以東は、九州勢力に与しておこぼれ頂戴か、九州勢力の息のかかった開拓部隊か、
これ以外に先進の「おいしいところ」を享受する手はないし、生き残れる策はない。

>さあて、そんな証拠がいったいどこにあるのかね?
人間の行動心理だ。
お前が九州勢力の支配者で関門海峡を抑えていたとして、
いつ抜け駆け・出し抜けをくわされるか分からないのに、
四国や本州の他勢力を自由に往来させるか。バカも休み休みいえ。

>それが事実なら、関門海峡を挟んで、文物が一切流通しないはずだが、
だから。戦わずして傘下に入った者にはおこぼれを与えるのよ。
人間誰しも自分がいちばん可愛い。ほとんとどはこの口だったはずだ。
本州・四国の先進的痕跡はみな、九州勢力の先遣開発集落の痕跡だ。

>筑前、長門、豊前、周防は、弥生時代も古墳時代も一体の文化圏を持っていた。
文化圏じゃない。文化の先進度の違いがそう見えるのだ。タコ

>九州が関門海峡を封鎖してたなどという、
「封鎖したら瀬戸内海側は裏日本と化す」というだけで、
実際には「コントロール」していたのだ。

>全部伊作の妄想からはじまった空想だ。
じゃ、2世紀には畿内に九州をレリョウがするする勢力が自生していて、
関門海峡を遠隔コントロールしていたという事実を提示してみせることだ。
それなしでは、2世紀の大和王権利など妄想だ。
923伊作:2011/08/10(水) 23:07:15.93
ぼんくらどもにはちょっと高度すぎるが。

朝鮮半島との通交ルートと関門海峡を握った者の勝ち。
これが、日本列島特有の地理・地形が醸成する力学だ。

日本列島特有の地形が規制するところの物理的条件下において
2〜3世紀に畿内王権なるものが存在して関門海峡を支配していたとする可能性と
九州に派生した勢力が自然動向として関門海峡を継続的に支配していた可能性と
どちらが現実論として妥当であるか。

あらためて考えるまでもなかろう。
924日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:08:05.94
斯馬國=下関
斯馬の関(海峡)→下関、馬関

斯馬國は女王の境界(支配)が及んでないところ
925伊作:2011/08/10(水) 23:12:00.22
>>921
どこをどう読めばそういう解釈になるのか。

それにしても「もぐら叩き」よろしく、次から次へと新手のバカが登場する。
まともに相手をしていたら、同じことを何度も説明せにゃならん。
つかれるぜ。
926日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:15:09.77
瀬戸内海を挟んで那国と女王国は対立していた(高地性集落)
瀬戸内海の北側は女王国にとって敵国の支配域、南側は自国の支配域。
(注)伊都国から女王国へ向かうためには瀬戸内海の南側を水行しなければ那国に襲われてしまう。
927日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:21:53.63
>>925
俺にレスつけるな!
名無しにはレスしないんじゃなかったのか?
アンタに絡まれたくないから名無しで書き込んでるのに、、、
928伊作:2011/08/10(水) 23:26:38.21
バカどもが好きな日本書紀から。

天の鳥船にのってやってきたというニギハヤヒは、
天の磐船でやってきた神武と自分とは同じ神の子であることを確認する。
その上で、とびの地を国譲りよろしく無血開城する。

これは、ニギハヤヒの祖先に先遣開拓を命じた人物が神武の祖先であると同時に、
ニギハヤヒと神武は同族であることを示唆している。

とび(外山、登弥)のつく所こそほれ。いわくのある土地だし、
何かと物議をかもす土地じゃないか。
ここにみられる弥生の遺跡こそ、九州の先遣部隊が築いた集落だ。
また、唐戸・鍵遺跡出土の土器に描かれていた男子司祭は黥面をしているし、
男女司祭ともに紛うことなく隼人色の濃い文様の衣装をまとっている。

2世紀に(うやって自生して強大になったのかは歴史動向として説明不可能だが)、
ヤマトに自生したヤマト王権下の弥生の大集落では、
九州の装飾古墳にみられる鋸歯文(蛇のウロコ文様)をまとった司祭が
祭祀をやっていたというせわけだ。わらわら
929伊作:2011/08/10(水) 23:29:12.12
>>927
>俺にレスつけるな!

注文がつかんようなことを書くかぎりは誰も文句はいわんだろろろろろろーな。
新人じゃないことは分かったが、ちょっと内容がひどすぎるぜ。
930日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:35:28.13
郡使が駐していたところは伊都国
駐の意味もわからない奴だったのか、、、
931日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:38:02.06
伊作もだいぶん人間が丸くなったな
932伊作:2011/08/10(水) 23:51:51.79
>>930
話がちがってるだろ。最初はこう書いたのだぞ。

>女王の使者は魏の都まで行かず、帯方郡で待機してたよね。
>魏の使者も女王の都まで行かずに伊都國で待機してたよね。

それが今度は「郡使が駐していたところは伊都国」にすり替えて、
「駐の意味もわからない奴だったのか」などと姑息な切り返しをしやがる。

どいつもこいつも、男らしくないったら・ありゃしないな。
933日本@名無史さん:2011/08/10(水) 23:57:02.15
魏の使者=郡使
駐≒待機
934日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:10:13.25
>>928

>これは、ニギハヤヒの祖先に先遣開拓を命じた人物が神武の祖先であると同時に、
>ニギハヤヒと神武は同族であることを示唆している。

中国史書に詳しいとほざく人が、8世紀の作り話を根拠に持ち出すとは、……笑い話にもなりませんな。

新撰姓氏録によれば、ニギハヤヒを祖とする物部氏は天神氏族。天孫ではない。
これは、公式に、天皇家と物部氏は、縁もゆかりも無いよと突き放してるのであって、
神武とニギハヤヒが同族なんてのは、作り話だってこと。

かわって、尾張氏は、きちんと天孫氏族扱い。
せめて、神武と尾張氏が同族扱いとくらい読み込んでから、日本書紀を持ち出すんだな。ドアホウ。

935日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:21:59.80
ニギハヤヒなんて、高天原には出てこないし、神武東征のとき以外登場しないし、
ニギハヤヒが、誰々の神の子なんて言及は、日本書紀にも古事記にも一切無い。
何の脈絡も無く、神武東征のときにだけ、神武の敵と設定され、
神武と同じ種族として扱うことで、神武がヤマトを征服した正当性を与えるためだけに創出されたキャラにすぎない。

ニギハヤヒが天火明と同一と言ってるのは、物部氏だけであって、
天火明を祖とする尾張氏の系譜に物部氏がすりよって系譜を詐称してるだけ。

単純に物部氏がヤマト王権おかかえの軍事氏族であることを語ってるだけにすぎない。
こんなことは、日本神話を研究してるものにとっては常識中の常識。

ニギハヤヒが九州出身だっけ?

ぷー。ばかばかしい。九州のどこの神社でニギハヤヒが祭られてるのかね?1個でも挙げてみなさい。

936日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:27:14.19
だいたい、尾張氏が天孫だってのも、8世紀の創作なんだから、
尾張氏の祖の天火明やら、そのまた祖のニニギや天照大御神も8世紀の創作。
神武東征も8世紀の創作なのに。

その役人が創作した日本書紀に踊らされて、東征を信じてるなんて滑稽もいいところ。

937伊作:2011/08/11(木) 00:29:40.92
>>934
>天皇家と物部氏は、縁もゆかりも無いよと突き放してるのであって、
とんでもないな。物部の由来をもっとよく調べてみろ。
「もの」とは武力・武器・戦闘などを意味する言葉だ。
最初に武器・武力・戦闘にかかわる職務についたのは王の親近血族だ。
これを軍事貴族ともいう。これが物部のはじまりだ。
物部の祖は隼人ではなかったかなー。隼人こそ王族からなる社会部族、
というよりも、日本の王族の出自は隼人にきわめて近い部族だ。

>神武とニギハヤヒが同族なんてのは、作り話だってこと。
神武とニギハヤヒは同族だと、日本書紀が書いてるが。
作り話といえば、日本書紀の神話はみな作り話だ。
おれなどは信じちゃいない。東遷だって一人一代でできるわけがないのだ。
その作り話の中の「ももちゃん姫」の部分だけを利用して、
「ももちゃん姫が卑弥呼だ」というてめえらは何だ。
ほれほれ。
矛盾とか不条理とかいう次元を超越したことをてめえらはやってるじゃないか。
やぶ蛇。
938日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:37:21.65
ももちゃん姫が卑弥呼はあり得ないというのには同意。
あり得るとしたらトイだろう
939日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:39:15.05
>>937
>物部の祖は隼人ではなかったかなー。隼人こそ王族からなる社会部族、

はー。なにいってんのこいつ?
中国史書は読めても、日本書紀は難しくて読めなかったのか。
隼人なんて、ヤマト王権の中でも下層階級じゃん。犯罪者扱い。

>神武とニギハヤヒは同族だと、日本書紀が書いてるが。

8世紀の日本書紀の作り話がどうしたって?

あ、モモモソヒメは卑弥呼だよ。他に古墳を作ってもらった女性は書かれていないもの。


940日本@名無史さん:2011/08/11(木) 00:50:21.76
あと、当然だけど、ニニギの天孫降臨は創作だからね。

九州に降臨してきたというニニギ、
その子のウガヤフキアエズ、
そして、神武を含めた子孫、

そのどれの子孫も、九州にはいません。
九州の豪族が、一人くらいニニギやウガヤフキアエズの子孫を騙ってもいいくらいだけど、
誰もいないってどういうこと?

結論:すべて作り話だから。子孫なんているわきゃない。

941日本@名無史さん:2011/08/11(木) 01:04:24.00
またまた、当然だけど、
近畿の豪族で、九州に祖先がいたという伝承を残す豪族はいません。

神武東征は、作り話ですから当然です。

もう、こんなことはとっくの昔にわかりきってること。
神武東征を証明しようとした人は、戦中戦後に何人もいたけど、成功した人は誰もいません。

九州から近畿を征服しにきた人がいたなんて話は、どんな学者も誰も信じてませんよ。
942伊作:2011/08/11(木) 01:05:59.20
>隼人なんて、ヤマト王権の中でも下層階級じゃん。犯罪者扱い。
ぜんぜん分かってないな。

隼人にもいろいろあって、絶対服従したのもいれば、徹底的に反抗したのもいる。
「寸鉄を帯ず」が原則の宮中にあって、最初に武器を所持して警護にあたったのは王の親近血族。
この親近血族が物部のはじまり。これがいわゆる軍事豪族というやつだ。(のちの平家や源氏)

「寸鉄を帯ず」が原則の宮中にあって、最初に武器を所持して警護にあたったのは隼人。
これが王の親近血族で、「もの」という武器・武力・戦闘にかかわる役職のはじまり。
物部のはじまり。というのが俺のいう寸法だ。

隼人をバカにしないほうがいい。
943日本@名無史さん:2011/08/11(木) 01:06:37.28
国語の分野から
表記→発音

頬(ほほ)→ホォ、ホー
大岡越前→オォ(ー)オカエチゼン
大岡山→オォ(ー)オカヤマ
上大岡→カミオォ(ー)オカ

これらの例からすると、
ヤマトトトイ→ヤマトォ(ー)トイ
と発音されてた可能性がある。
これを支那人が、
ヤマトォ(ー) + トイ
と聞き取ったのかもしれない。
944日本@名無史さん:2011/08/11(木) 01:11:22.84
あと、なんだっけ?

伊作は日置氏に注目してたみたいだけど、熊本と関係させたいらしいけど、
日御碕神社宮司の日置氏の祖はスサノオですから。

知ってた?
945伊作:2011/08/11(木) 01:12:22.84
>>939
>8世紀の日本書紀の作り話がどうしたって?

日本書紀の作り話の中から、
ももちゃん姫の部分だけを史実でもあるかのように持ち上げて、
これと中国史書のいう卑弥呼とくっつける手法を「あざ笑う」ために、
「お前たちの好きな日本書紀から」とことわって、

お前たちのように都合のいい所だけを引用していいのなら、
ナガスネヒコとニギハヤヒの集落は、
九州勢力が神武以前に派遣した先遣開拓集団の集落だ。とゆってたわけだ。

そうしたらおめ。
やれ「作り話だ・作り話だ」とわいわいさわぎ始めたわけだ。
ならば、ももちゃん姫も持ち出すな。タコが
946日本@名無史さん:2011/08/11(木) 01:14:17.28
モモソは神大市姫、神大市姫はスサノオの二番目の妻だからね。
947伊作:2011/08/11(木) 01:14:25.83
>>944
>日御碕神社宮司の日置氏の祖はスサノオですから。
それも、8世紀の作り話だから。知ってた?
948伊作:2011/08/11(木) 01:16:10.68
>>946
>モモソは神大市姫、神大市姫はスサノオの二番目の妻だからね。
それも、8世紀の作り話だろ。わらわら


わら
949日本@名無史さん:2011/08/11(木) 01:26:54.09
>>948
何故作り話が必要か?という事を考えないと。
どうでもよい人物ならそんな記述は残らないですよw
950日本@名無史さん:2011/08/11(木) 01:41:30.64
>伊作

知ったかぶって日本書紀を持ち出すんじゃねえよ。

おまえより物知りなやつはゴマンといるんだよ。
951日本@名無史さん:2011/08/11(木) 09:11:39.27
>>950
しょぼい。
けんかに負けたツッパリ高校生が吐くセリフみたいでカスですね。
僕ちゃんは日本書紀の何を語れるの?
952伊作:2011/08/11(木) 09:49:02.87
>>949 >>950

わははー。
俺ははじめから、創作歴史書の創作された部分は採用しない主義なのだ。
だから、日本書紀の創作された神話部分などろくに読んでもいない。
これは82でも有名な話だ。

お前らをみると、「つくり話」だといいながら都合のいい所は採用するし、
都合の悪い所は「つくり話」でカタづけようとする。
その見苦しさと節操のなさと、バカバカしさをさらしてやったのだ。



このスレッドも、そろそろ1000になるようだ。
953伊作:2011/08/11(木) 10:08:42.89
これで・打ち止め。
タコどもの得意技で、都合が悪いとみて放置してきた事実を再確認。

唐戸・鍵遺跡出土の土器に描かれていた男子司祭は黥面をしているし、
男女司祭ともに紛うことなく隼人色の濃い文様の衣装をまとっている。

2世紀に、どうやって自生して強大になったのかは歴史動向として説明不可能にしろ、
ヤマトに自生したヤマト王権下の弥生の大集落では、
九州の装飾古墳にみられる鋸歯文(蛇のウロコ文様)をまとった司祭が祭祀をやっていた。

これって・どゆこと?
954日本@名無史さん:2011/08/11(木) 10:21:33.19
>>952
伊作さん、議論するなら読まなきゃ話にならんよ。
記紀と各地風土記位は頭に入れないと。
955日本@名無史さん:2011/08/11(木) 10:31:41.22
蛇って珍しい生き物なの?
956日本@名無史さん:2011/08/11(木) 10:51:56.95
なんだ、伊作はまだいたのかよ
どっかの掲示板に引っ越したんじゃなかったのか
くそが
957日本@名無史さん:2011/08/11(木) 11:47:13.85
>>955
珍しくは無いが、寒さに弱いあんまり北の生き物じゃないw
958日本@名無史さん:2011/08/11(木) 11:51:56.93
>>957
少なくとも本州(豪雪地帯除く)では珍しくないということだね
959伊作:2011/08/11(木) 12:34:24.38
>>955
>蛇って珍しい生き物なの?
何かしら大きな勘違いした質問だな。
黄河文明に匹敵する長江文明を築き上げたのが
南蛮・荊蛮・百越といわれた非漢・多民族(現在の少数民族の祖先)で、
彼らが神とあがめてきたのが、伏義・女カという、単胴両頭(人頭蛇身)の蛇神。
これがからみ合った様をあらわしたのが「しめ縄」だといえば分かるだろう。

彼らは、「黥面文身・お歯黒・無文字文化」という点で共通する。
日本の天皇家も貴族も江戸末期までお歯黒をしていた。
これらは実は、縄文後期以来継続的に長江流域から九州にやってきたもの。
これをもたらしたのが倭人の祖先だ。

彼らの信仰精神性をあらわしたのが、蛇のウロコ文(連続三角文・鋸歯文)、
蛇のうず巻き文、蛇の目をあらわした同心円文だ。
これらが、縄文の遮光器土偶・火焔土器から銅鐸・銅鏡・埴輪・古墳へ、
そして現在の神社の紋章や企業のマークに至るまで連綿と続いている。
みな、我らが遠い祖先たる倭人がもたらした文化だ。

銅鐸圏・銅鐸族、銅矛圏などといった算数的区分をしたがるが、
実はみな倭人の文化であり、
長江流域からもたらされたタイムラグ(地域的な浸透テンポの違い)の産物にすぎない。

や良い時代をもたらしたのも古墳時代をもたらしたのも彼ら倭人なのだから、
国や地方自治体の指定で発掘が不可能な大古墳を発掘すれば、
その大半には何らかの装飾が施されているはずだと天才はみている。
960伊作:2011/08/11(木) 12:36:21.67
>>954
>議論するなら読まなきゃ話にならんよ。
どうせ「つくり話」の世界だ。余計な口を挟むな。
961日本@名無史さん:2011/08/11(木) 12:40:52.06
>>872
>それに魏書は卑弥呼の時代でも邪馬壹国と表現していますよ。
その通りです。
だから、「邪馬壹【臺】國 女王之所都」の「都」は、
過去の『京師又は京』だけではなく未来の『京又は京師』を併記してある。
と、解釈してよいか?と問うたのです。
もし、「都」の一字に『過去の京』としか解釈出来ないのであれば、
「「邪馬【臺】國 女王之所都」としか記述できないはずです。
何故なら、「邪馬壹【臺】國 女王之所都」との記述してある年は、正始元年以前であり、まだ、倭王壹の誕生をみていないから。
>邪馬臺国も邪馬壹国も同じ。どっちでもいいと。
新たな質問です。
「拜假倭王」の解釈『一時的に倭王の官名をさずけるという意味ですよ。』
の、『一時的』という時間範囲ですが、それは『魏』王朝存続時間帯を刺している
とも解釈可能ですか?
「壹【臺】與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔大句珠二枚異文雜錦二十匹」
からも、
魏に対してのみ壹與であり、邪馬壹國であるが、
【臺】與、邪馬【臺】國の同時存在を認めた記述になっている。
魏志以外に「邪馬壹國」との記述は発見できないでしょう。



962伊作:2011/08/11(木) 13:29:23.83
そろそろこのスレッドも終わりだな。

長年掲示板でやり合ってきたが、
日本人にもまだ良識があることを俺一人で代弁し主張してきた。
WEB上を徘徊する奴の中には、
まっとうにやれば能力を発揮できるのがいるのかも知れないが、
まっとうにやろうとはしない。自我に負けてどこかで必ずウソをつく。
他人にウソをつく以前に、自分にウソをついているのだ。

DNAが己の遺伝情報を伝えようとすること自体がエゴなのだから、
動物はすべからく、その根源にエゴを抱え、エゴに左右されるということか。
………邪馬台国論に人間の矮小なエゴをみた。
963唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/11(木) 13:39:44.83
女王は伊都国を傘下に置く。
魏使はその前に狗邪韓国(任那、210年建国)を訪れる。
後漢時代、倭国の代表は金印を下賜された奴国である。つまり、魏使は、奴国を目指して
倭国を訪ねる。しかし、奴国は、3世紀初めの平原王墓を最後に大王を立てられていない。
卑弥呼を共立するのは、この奴国が中心となる。女王卑弥呼とはカンカシヒメである。
魏使は、狗邪韓国で大和の存在を知る。ただし、正確な位置までは聞き出せなかったが
女王に畿内大和も朝貢団に加わることを要請する。
九州へは出雲のフリネが訪れていた様に各地と通交がある。だからこの程度の連絡は取れる。
それに対し、卑弥呼と対峙する狗奴国。狗奴国は、熊襲(ソの隈、背振山地南縁)を通じて
鉄を入手していた熊本地方である。←朝貢団に加わらない。

正始4年  伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
正始6年? 難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
つまり奴国と大和は協力して倭国統一に動く、それを支持する魏国。
その戦争の最中に女王、男王は相次いで死亡する。
残された大和の倭王が倭国統一を果たし、伊都国に1大率を置く。

3世紀初めの平原王墓は動かない。従って纒向遺跡の年代も動かない。
となれば、これまでの年代(崇神=卑弥呼の時代)では纒向遺跡の説明が出来ない。
だから考古学が50年遡上したのであれば、崇神も50年遡上させなければ、整合性が取れない。
崇神5年は、後漢193年である。←50年遡上させた場合この文献で整合性が得られる。
崇神(モモソ姫)=卑弥呼の時代に合わせる文献は存在しない。
畿内に歴年無主は、存在しない。←畿内卑弥呼は成立しない。
考古学の数字を動かすと九州でも歴年無主は、成立しない。
964日本@名無史さん:2011/08/11(木) 14:39:05.21
>>952

負け惜しみだね。

先に、ニギハヤヒが神武と同族とか口走ったのはオマエのほうだろ。
記紀は採用しないとか言っちゃっても、根っこの部分では、神武東征を信じてるからこそ、東遷説なんだろ。

で、ニギハヤヒを奉る神社は九州にあったかな?探したかな?

ニギハヤヒを奉る神社が九州に無いのに、ニギハヤヒが神武より先に東征したとか、
「日本書紀の作り話を信用して」妄想してるのが、君ら東遷説信者の滑稽な姿なんだよ。

唐古・鍵にしても、山陰や東海の土器が出土して、近畿の人々が訪れていたことはわかってるが、
九州から人が来たような痕跡は皆無。これも古代史やってりゃ、常識なんだけどね。恥ずかしいヤツ。
965日本@名無史さん:2011/08/11(木) 14:43:34.35
>>919 :伊作:
>>912
>王号を持っていても、外臣ならば、
>倭国王が中国王朝の外臣だったことは一度もない。歴史的事実だ。
「更立男王國中不服」の「王」は
外臣の王じゃんか。
ちゃんうとね。。。  へへへ。
966日本@名無史さん:2011/08/11(木) 14:44:32.05
伊作は、九州が関門海峡を封鎖して物流を制限してたと言ってるが、
そんな証拠は全く無い。

論説の一番肝心な部分が、証拠もなく、印象だけで語るしかないという弱さ。

そこを追求したところ、具体的な反論は一切無く、罵倒で返すだけ。
専用の掲示板を作ったからそっちで話をしろだぁ?
甘えてんじゃないよ。

まずは、関門海峡を九州が封鎖してたという具体性のある証拠を持ってきなさい。
967太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/11(木) 14:49:59.19
崇神5,6年≠192,3年

左辺当時船舶が製造されておらず、食糧も千人ものかつ多日数分の確保も出来て
ない餓鬼同然の農民が半島渡海は出来ない。
したがって等号とする論はインチキだと分かり、化けの皮がはがれる。
968日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:04:47.03
>>966
>まずは、関門海峡を九州が封鎖してたという具体性のある証拠を持ってきなさい。

どんな勢力が、制圧していたのだろうね。 伊作。
立岩遺跡以西は、甕棺群ではないぞ。
近畿勢力は、寸前まで来てただろう。
台与の時代で逆転したんじゃないかな。
969日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:09:08.71
>>968
訂正。 以西→以東。
970日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:21:13.38
伊都国を有明海にもって行っちゃだめだろ
関門海峡は守れない
971伊作:2011/08/11(木) 18:23:53.32
>>965
「倭国王が中国王朝の外臣だったことは一度もない。歴史的事実だ」。
>「更立男王國中不服」の「王」は 臣の王じゃんか。
バカか?

>>966
>伊作は、九州が関門海峡を封鎖して物流を制限してたと言ってるが、
学習能力ゼロか記憶力障害か。
九州勢力が関門海峡を封鎖しすれば瀬戸内は裏日本と化す。後進に甘んじるしかない。
だから多くは戦わずして九州勢力に与したか、おこぼれ頂戴に甘んじるしかない。これが現実だった。
こゆってるんだが、いい加減に他人のいうことを理科する習慣をつけろ。外道

>証拠もなく、印象だけで語るしかないという弱さ。
お前らようなマンガストーリーではなく超のつく現実論だ。
考古学もこの視点から見直すべきだろうな。

>そこを追求したところ、
文献議論で「書いてない」というのはバカ反論。
考古議論で「証拠がない」というのはドバカ反論。
いまあるものでしか語らない唯物異存学問の欠点だ。

>関門海峡を九州が封鎖してたという具体性のある証拠を持ってきなさい。
封鎖したのではない。計画的コントロールだ。
もうちっと、大人のーの知性を感じさせる投稿をしろ。バカたれが。
972伊作:2011/08/11(木) 18:26:23.22
>>964
>ニギハヤヒを奉る神社は九州にあったかな?
別に九州にあるなしと伝承とは無関係だ。
>「日本書紀の作り話を信用して」妄想してる………
そう。
「日本書紀の作り話を信用して」いえばこうなるという逆説的見本を提示したのだが。
皮肉が皮肉にも見えんほどのドタコらしいな。

>唐古・鍵にしても、九州から人が来たような痕跡は皆無。
唐古・鍵出土の土器の絵から再現した司祭の扮装は九州隼人そのままだが、
これは考古学の世界では常識じゃないのか。
都合の悪いことは黙殺か?
973日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:30:56.84
徹底抗戦した隼人もいれば、畿内と仲の良かった或いは屈した隼人もいるってのは考えられないの?
974日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:36:57.05
関門海峡、関門海峡言うけど
対馬→沖島→山口沿岸じゃいけないの?
壱岐から唐津よりは沖島から山口沿岸のが遠いけど
でも、遠いっていっても対馬から壱岐と同程度の距離だし
975日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:41:11.88
>>971
>九州勢力が関門海峡を封鎖しすれば瀬戸内は裏日本と化す。後進に甘んじるしかない
だからどこの勢力かって聞いてるの
九州、九州と言っても、いささか広ろうござんすよ
それとも、九州勢力は一枚岩ってこと?
関門海峡は、山口勢じゃないの?
976伊作:2011/08/11(木) 18:51:27.66
>>974
>対馬→沖島→山口沿岸じゃいけないの?
玄界灘のヘソのように沖ノ島があるが、
こここそ海人たちの神聖なる信仰の島だ。
ここを中心とした海域が「朝鮮半島との通交ルート」だ。

>壱岐から唐津よりは沖島から山口沿岸のが遠いけど
長門の先の日本海側も掌握範囲だ。
977伊作:2011/08/11(木) 18:53:27.65
その翌57年の正月に倭奴国が使者を派遣するわけである。
弥生時代まっただ中の倭人が、朝献の作法や相手先の国内事情にも通じていて、
間をあけず朝賀に出向いた知力・情報力・行動力は驚嘆に値する。
このことは実に、倭奴国の先進性と、最新の国際情勢をリアルタイムに把握する情報収集力を
備えていたことを物語る。
さらには、しかるべき交通手段と交通ルートを掌握していたことをも示唆する。
紀元1世紀半ばの日本列島ではすでに、国家を知り尽くし、
政治手法も、戦い方も、すべて知り尽くした人たちが倭奴国を経営していたのである。

瀬戸内・畿内の勢力がここを使わずに先進的・強大になれる可能性はない。
敵対する勢力があったとしても、ここを通過しようと船を出すのは不可能。
そのことがわかっているから、無謀な通交をするバカはいなかったろう。
関門海峡を握った勢力に与するか、傘下に入っておこぼれを頂戴するしかない。
瀬戸内と畿内の歴史動向はこの視点からみるべきである。

継続的思考帯領域が短いバカどもにはこういう表現が理解できるか否か不明だが、
枝先をみて幹を想定するかのように土器や発掘調査可能な中小古墳など
絶対量不十分な考古資料から歴史動向を規定するのではなく
太い幹(大きな歴史動向)を想定して細かい枝先を規定するという検証手法こそが必要だろう。
978日本@名無史さん:2011/08/11(木) 18:59:39.57
>>977
あんたの感想文はどうでもいいよ
どんな勢力か?
九州勢力は一枚岩か?
どんな裏付けがあるのか?
聞いてんの。
979日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:03:15.50
九州の勢力は一枚岩で且つ、中国地方の勢力は全く影響ないという解釈なの?
あるいは中国地方も半分位は九州の勢力が掌握しているという事か
九州説の大事な魏志倭人伝も複数のくにに分かれているみたいだけど、そこまで1つになれるの?
敵国も隼人も居るんだよね。自分の所は滅んでもあの国をみたいのは小説かドラマにしか存在しないよ
980伊作:2011/08/11(木) 19:05:45.50
前後するが、前半部分がうまく投稿できなかったようだ。
>>968 どんな勢力が、制圧していたのだろうね。
>>975 だからどこの勢力かって聞いてるの(こいつらは能動的思考習慣のないタコ)

制圧でも封鎖でもない。「掌握」だ。「痕跡がない」などというバカには無理な論理だろうが、
日本列島特有の地形と朝鮮半島と中国大陸との関係が形成する物理的力学関係から
朝鮮半島との通交ルートと関門海峡を諸悪した者が海を制する。海を制する者が列島を制する。
ここを最初に掌握したのは歴史的にみて倭奴国だということは自明の理だ。

西暦57年の正月に、倭人国家の倭奴国が後漢朝に朝賀(祝賀表敬)の使者を派遣する。
これは倭人の「凄さ」を物語っている。
後漢朝の実質的な中国統一は西暦56年とみられている。西暦25年に光武帝が即位して以来、
その後も光武帝は抵抗勢力の鎮圧に明け暮れ、国内統一の体裁が整うのは36年。
周辺民族との外交面で一段落したのが54年。 56年正月に、東海、沛、楚、済南、淮南、趙など、
中国国内の諸王が来朝して朝賀(統一を祝賀)する。
この年の4月、内外の安定を確保して王朝としての体裁を整えたあと、
東方を巡行して泰山で封禅の儀式をとり行なう。
その後、 国内においてさまざまな祭祀を行なって統一を全国に宣布した。
後漢朝が名実ともに王朝の体裁を整えたのが56年である。
光武帝の後半生はほとんど統一事業に追われている。

>>977と前後を逆に読んでくれ。
981日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:08:46.53
長門まで行くなら制圧が必要だろ
982日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:10:31.17
後、対馬が九州側に必ずなる根拠も不明か
983伊作:2011/08/11(木) 19:13:06.78
>>978
>あんたの感想文はどうでもいいよ
内容的にはできるかぎり誠実に返答しているつもりだが。
「ものの違い」を見せつけられた与太郎が、
その現実を払いのけるべく開き直った文言だ。

俺は文章からも心理を読み取ることのできる天才だ。
さもしい野郎が、格違いの人間にタメ口てか。わらわせるなよ
984日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:14:40.18
>>983
「倭國亂、相攻伐歴年」「更立男王、、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」
九州勢力が一枚岩なわけないだろう
卑弥呼ちゃんが有明海から号令かけたら、安曇族、宗像族が突撃したってかい?
わら、わらわらわらのわら
985伊作:2011/08/11(木) 19:16:45.98
あのなお前ら。

他人には「証拠だ痕跡だ」と詳しい説明と論証を求めるくせに、
てめえらの「意見」となるとたったの1行で思いつきを結論としていうだけだが、
それでエラそな口ほきいて対等な議論をしているつもりか。

自分の言動を客観視してみろ。恥ずかしくないか。クソったれ

986日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:19:45.32
>>985
>恥ずかしくないか。クソったれ
返事に困ると、誹謗・中傷かい
ZANに似てきたな
糞尿撒いてズラかい
987日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:20:52.37
だってそこまで一枚岩になれる訳ないんだよ
どこのくにもそれぞれに事情があるんだから
地理的事情云々いうなら、それも又人の真理なんだよ
988伊作:2011/08/11(木) 19:23:17.11
>>984
たった一つの倭王座を争った内紛の様子をあげて
「九州勢力が一枚岩なわけないだろう」て何のつもりだ。
ちゃんと順序立てて考えをまとめる能力の欠落か? わーらわら

もっとひどい骨肉相食む王位継承争いなど、世界中にザラにあるぜ。
事態収束のために国士(国家をささえる実力者)によって王を立てることも、
古くから現実にあったことだ。岡戸違いもいい加減にせ。

989日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:26:27.66
0よりは1のがまだ良いと思うけど
立証出来るかは不明だけど、九州説の大切な魏志倭人伝だし
990伊作:2011/08/11(木) 19:27:54.33
>>986
>返事に困ると、誹謗・中傷かい
別にこまることなどない。お前らの投稿が議論のレベルにないことを指摘したのだ。
>ZANに似てきたな
そうかい。82にも出入りしてるってことか。てめ誰なんだ?

>>987
>だってそこまで一枚岩になれる訳ないんだよ
倭国は、たった一人の倭王を頂点とした一枚岩国家だ。

ただし、骨肉相食む王位継承争いなど、世界中にザラにある。
かつては天皇家でもあったんじゃないか。
991伊作:2011/08/11(木) 19:32:14.82
>>986
>返事に困ると、誹謗・中傷かい

盗っ人たけだけしいにもほどがあるぞ。
ほれ。ごまかされないように再掲する。このどこが誹謗・中傷だ

他人には「証拠だ痕跡だ」と詳しい説明と論証を求めるくせに、
てめえらの「意見」となるとたったの1行で思いつきを結論としていうだけだが、
それでエラそな口ほきいて対等な議論をしているつもりか。
自分の言動を客観視してみろ。恥ずかしくないか。クソったれ

とはいうものの、銀蝿野郎に
自分を客観視するなんて高尚な動作、できるわけがないわなー。
992日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:34:53.70
>>988 わら
>ちゃんと順序立てて考えをまとめる能力の欠落か? わーらわら

一枚岩で確定だな
卑弥呼の号令の下、近畿勢力、出雲勢を押さえこんでいたんだ
有り難うよ
観覧席はどう思ってるかな?
ところで、誰か訪問したのかい? 頑張れよっ!客ヨセ
993日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:37:57.15
>>990
その頃はいわゆる「国」じゃなく「くに」でしょ
日本列島の形(縄文海進はあるけど)が変わらないように、人の心もそんなに変わらない
故に一枚岩にはなれない。なるのはもう少し時代が下がった後。大化の改新の少し前位からじゃないかな?
それに、人の性格が独占を見たいな事いってるのはそもそも伊作さんの方じゃなかったっけ?
人の心か行動が読めるとも言ったような
994伊作:2011/08/11(木) 19:43:09.87
それにしても、たった20字2〜3行の投稿文すら
何をゆってるのか不明なのがある。

昨日だったか?
ここはレベルの低い人間が集まって
好き勝手な空想と妄想を書く場だとかゆってたなー。

ん。いい得て妙。ほれ。1000レスに到達だ。
995日本@名無史さん:2011/08/11(木) 20:42:36.42
文句タラタラの割には、いつまでも居つている奴(伊作)って、なんなの。
自慢の42に行けばいいのに、帰ってこなければいいのに
996日本@名無史さん:2011/08/11(木) 20:50:30.94
最後にもう一度言っておく。ここは九州説の板だ。畿内説は畿内板を作ってそ
っちでやれ。それとも畿内説とは板を作る値打ちも無いのか。
997日本@名無史さん:2011/08/11(木) 21:08:15.37
九州にあったのか、なかったのかを検証議論するスレだろ
なんかここのコテたちは、まず最初に根拠に乏しい思い込みによる結果ありきで、
その結果に合わせるために事実をいかに曲解するかに腐心してる人たちばかりで、
なんかカルト的な怪しさ満開で、そんな人たちが可哀想で見過ごしておけない。
998日本@名無史さん:2011/08/11(木) 21:45:41.93
立てました

それでも邪馬台国は九州にあった8
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1313066669/l50
999日本@名無史さん:2011/08/11(木) 22:39:51.85
今度はまともな議論を聞きたいな。
1000日本@名無史さん:2011/08/11(木) 22:46:40.12
邪馬台国は九州にあったんだよ
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