【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
1 :
日本@名無史さん:
前スレ
その16
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1306848787/ ─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
2 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 11:29:49.90
3 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 17:46:52.49
4 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 17:49:17.40
とりあえずこっちのスレでネタを振っておくが…
前スレ
>955
>畿内説にしろ九州説にしろ「筑紫がヤマト王権に完全に併呑された時期をいつと捉えるか?」の違いだけだろう。
>マキムクの九州色の薄さから考えて、少なくとも三世紀初めではなく、後半から四世紀にかけてではないか?
>紀で書かれている景行親征がそれだ。
そもそも九州と畿内ヤマト王権の正面切っての(小競り合いではなくて大規模な)衝突は
それこそ後代も後代「磐井の乱」がその嚆矢なんじゃなかったのか?と想像することもあるw
あくまで纏向スレの範疇で考えれば
・3世紀〜4世紀初頭にツクシとヤマトがどのような関係だったか?
・初期の前方後円墳が出現したような地域は「緩やかな連合体(神蔵の甘木あたりが南限?)」に加わっているとして
それ以外の「非前方後円墳地域」との関わりがどうかどうだったか?
…だろうが少なくとも敵対的であったと見るに足る材料は無いように思う。
(まあ敵対的であったとしたほうが邪馬台国九州説には色々やりやすいと思うがw)
と言うのも「前方後方墳」が結構、前方後円墳の分布と重なっていて(例:那珂SX028・002)
強固な(排他的な)ブロックを形成していたとも思えないのだが
(この辺は「狗奴国=東海説」にも同じ疑義を持っている)
つまりその後も徐々にその影響範囲を伸ばし最初は「緩やか」と言うか互恵的・対等合併みたいな感じだったのが
徐々にヤマト側の締め付けがきつくなっていよいよ九州側がブチ切れたのが「磐井の乱」とw
このスレの諸氏の見解は烏賊に?
>>3 考古学板ローカルルール
-------------------------------------------------------------------------
○人類の遺跡・遺物に関する学問=考古学、およびその関連分野について語る板です。
○人類史・遺跡に関わらない話題については、より相応しい板があるかもしれません。
・・・・・・
●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史
-------------------------------------------------------------------------
邪馬台国が中心でなければOK。IDも出るから議論がしやすい。
6 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 19:45:09.81
この板でいいんじゃないか?
「17」まで重ねてきて今更変える意味が分らない。
7 :
日本@名無史さん:2011/07/06(水) 20:34:59.43
もはや、ここでは以前のスレの質は維持できない。
本来、考古学の立場から纏向の性格、および王権の成立プロセスを学問的に検討するスレ。
まともな考古学の本さえ読まずに、邪馬台国だの記紀だの言ってる奴の駄文は読む気がおきない。
>>4 > ツクシとヤマトがどのような関係だったか?
土器の動きからみると、
畿内の人間は大陸文物を買い付けに九州に出かけてゆき、九州の人間を通じて手に入れていたのだろう。
九州の人間は大陸文物を輸入・加工し、畿内および他地域の人間に売っていただろう。
互恵的な関係にあったように思える。
> 前方後方墳
前方後方墳をひとつのブロックとして抽出できるのかどうかは疑問。
共通の祭祀形式は墳丘だけでなく、埋葬施設・副葬品・墳丘祭祀を併せて考えるべきだと思うからだ。
>>7 お前さんは異常な程に記紀が気に入らないだけじゃないか
コンセンサスも得ずに勝手にむこうに立てて
あっちで大人しくやってるならいいが
こっちへ来てわざわざでそんな事言わなくてもいいだろ
>>7は日本史板に畿内説(と彼自身が何故か思っている)が居るのが我慢ならない人
だから立場を誤魔化してでもどこかに行って欲しいんだろう
>>4 そもそも倭人伝にある狗奴国との対立が
武力は論外として、同じ交易連合内の主導権争いに近いものなんじゃないかな
つまり同一政党内の派閥争いみたいな物
そういう意味では逆にヤマト交易連合に匹敵する別の交易連合の存在は、今のところ仮説レベルですら存在を考えにくいので
「狗奴国=東海説」は、一番妥当な解釈のように思う
と言っても倭人伝にあるように、魏の黄巾の権威のもとに倭国がついに収まりましたとか
こんなことは例に上げている那珂SX028だけでなく、遺跡や遺物の流れからは到底考えられないが
>>10 確かにそう言う推理もできると言うか俺もその可能性を半分ぐらいに見ているんだがwww
ただ記紀倭人伝をネタに妄想電波垂れ流す奴が乗り込んでくるのに辟易としている人間がいるのも事実だろうw
あまり決め付けはよろしくないかと…
13 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 19:34:10.85
>>11 まあ言わんとすることは理解できるが…
ただ現代の常識と言うより古代にも通用したであろう常識から言うと
「兄弟は内に争えど外に侮りを受けるべからず」と言うか…
果たして身内の争いに外部勢力を引き込むと言うのはちょっとどうかと…
まあ追い詰められて余裕がない方はそれをやって援軍の名目でやってきた軍にそのまま蹂躙された
…なんてことは歴史上ままあることとは思うがwww
そこら辺の事情はもう想像するしかないがあと対東海と考えれば
「瀬戸内交易ルートの東のはて」が今度は勢い「対東国」の最前線に位置するわけだが
やはり纏向にそう言う緊張の色が見難いと思ってしまうのも事実w
無論纏向が城塞化する必要はないだろうがwwwww
14 :
13:2011/07/08(金) 20:45:04.09
まあチラ裏レベルだが自身の見解と言うようなものも書かせてもらうと
先ず最初に立ち位置からはっきりさせておくと
自分は狗奴国=肥後菊池と言う大昔の説を推しているw
(ハイ、この板でドマイナーなのは自覚してますwww)
先ず
>>11の言うように
>ヤマト交易連合に匹敵する別の交易連合の存在
と言うのも考え難いし、逆に当時のヤマトがその緩やかな連合体全体に号令をかけ兵力を総動員できたとも思っていない。
(この辺はこのスレの人間なら大抵はコンセンサスとできると思うが)
で、そもそも卑弥呼が魏に狗奴国と相攻撃する状を伝えたのは
あくまで親魏倭王としての資格においてであろうから
別に卑弥呼のいる邪馬台国でなくとも倭国内での揉め事であれば良いわけで…
構図としては
北部九州の連合加盟のクニグニと狗奴国=肥後菊池が衝突。
北部九州の連合加盟のクニグニから卑弥呼に現状打開のために魏に連絡を取ることを要請と…
だから別にヤマトと九州の狗奴国が直接的にぶつかったわけじゃない。
まあ九州の騒乱を遠くに見つつ纏向では巨大古墳が築かれてましたとさ、めでたし、めでたしw
光武だったか何処かで纏向を平和都市とか言ってたと思うが軍事的緊張の色が見えないのも当たり前とwwwwwww
15 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 21:06:51.16
いや、>14に一票
狗奴国と称された勢力をどこだと見るかは大変興味深いが
その以前の段階として、ヤマト連合に北部九州が参画していたか同盟していたかが必要となる
北部九州には庄内式などでその仮説の根拠とできるが
肝心の纏向には全くと言っていいほど痕跡がない
交易もしくは同盟に際し北部九州は、一体何を交易品としたのかが3世記の時点ではかなり謎なんだよね
鉄だとすればその取引量は微々たるものだし
食料などはおそらく東海のほうが主だろう
かつての北部九州なら、大陸や半島からの豪華な直輸入品とかだったろうが
弥生時代にこれほどまでの劇的な経済力逆転が果たして起こり得たかどうかの考察は必要だと思う
もちろん東征とか西征とかの武力制圧はありえないというコンセンサスの下に
続きだが自分としては、纏向創設が2世紀末頃だったとしても
それよりかなり以前から北部九州を除く西日本の有力首長たちによる、合意された交易が相当に広まっていたのではないかとしか考えられない
物理的な輸送方法の問題で、いわゆるバケツリレーになっていただけで
そのバケツリレーの方法の一つが実は高地性集落ではないかと考えている
とすると倭国乱や狗奴国との対立という、魏志倭人伝の記述そのものが果たして正しい捉え方だったのかどうかが疑問となる
商取引のトラブルや距離的な問題、輸送の困難さやもしかしたら居たかもしれない山賊や海賊などのクニに属さないはぐれ者など
そういう治安の問題のようなものを倭国乱と取られたのかもしれないし
商取引における度量衡の統一などで狗奴国と意見統一が出来なかったのが、元より和せずなのかもしれない
とにかく倭人伝だけしか資料がないので、その内容に対する真偽が計れないというのが一番の問題だね
>>16 > 一体何を交易品としたのかが3世記の時点ではかなり謎なんだよね
> 鉄だとすればその取引量は微々たるものだし
大陸文物でいいんでない?
鉄は現物が出土しないからといってなかったと決めつけられないだろう。
実用工具としては石器がなくなっていくのは確かなのに、
大溝の矢板など木製品の加工が大々的に行なわれていた事実がある。
残らなかったというのはあり得る話だ。
副葬品についてはけっこう多量に出土しているが、
逆に近畿地方にそれらを製造した高度な生産遺構があるかというと、どうなんだろう。
九州で作って畿内へ売りつけたってのは、へんな話かな?
>>18 大陸ものだとすれば、逆に北部九州にも畿内や吉備などにしても
この時期は減少するんだよね
もしかしたら画文帯を北部九州に輸入させて畿内で使ってたのかもしれないが
それなら纏向にもっと北部九州の痕跡がありそうなもので
そして加工具としての鉄器があったであろうというのは村上を引き合いに出さずとも同意
つまり交易品は「鉄」そのものではなく「北部九州で加工された鉄器」だと見るべきなのかな
まあ鉄器の多寡は村上に沿うとして、ほとんどが日本中で残っていないというのはもちろん同意
バケツリレーが突然遠隔地交易に発展するには、なんらかの輸送の新技術かインフラ整備が必要なんだな
そして遠隔地交易はもう事実として動かし難い
これを実現したテクノロジーとは何なのかが、ミッシングリンクを繋ぐのかもしれない
>>19 > この時期は減少するんだよね
この時期って具体的にいつごろのことかな?
列島に流入する中国鏡の製作時期からすると、桓霊の頃に減少して公孫氏の台頭以降増えてくる。
大陸情勢に影響された様子がうかがえるんだが、マキムク成立後は順調に入手できる状況なんじゃないかな。
> 纏向にもっと北部九州の痕跡がありそうなもの
大陸文物欲しさに畿内から九州に買い付けに来るんだから、
九州はわざわざ出向くことはないだろ。
>>21 >この時期って具体的にいつごろのことかな?
3世紀中頃のまさに倭人伝の時代なんだけど
三角縁の景初4年問題を踏まえても、半世紀ほどタイムラグがあるように思う
>大陸文物欲しさに畿内から九州に買い付けに来る
それが3世紀中頃の北部九州に可能だったのだろうか?
むしろホケノ山での鉄鏃が九州でなく吉備の様式であったことからも
大陸半島との交易が混乱で途絶えた時期の、吉備の「代用品」が使われ、北部九州はいわば連鎖倒産状態だったのかも
そうでないと3世紀後半からの畿内文化の大量侵食の説明がつかないように思う
>>22 > 3世紀中頃のまさに倭人伝の時代
そういや魏と4回ぐらい通交したって書いてあるね。
> 半世紀ほどタイムラグがあるように思う
説明してもらわないとよくわかんないな。
> ホケノ山での鉄鏃が九州でなく吉備の様式
ソースきぼん
> 大陸半島との交易が混乱で途絶えた時期
それは3世紀なかごろじゃないよね。
> 北部九州はいわば連鎖倒産状態だったのかも
にぎわってたように思うけど
「‥‥古墳時代初め頃になると、博多遺跡群の住居址から多数の鉄器未製品とともに断面が台形をした土管が出土しています。
これは「羽口」といわれるもので強制的に炉の中に空気を送り込む装置で、
炉内を弥生時代の炉より高温にすることが可能になりました。
この羽口を用いた炉のおかげでたくさんの鉄器を作れるようになったのです。
こうした鍛冶技術は朝鮮半島から直接もたらされたもので、当時の日本では最新の技術でした。」
(
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/301-310/305/305_03.htm)
あっちはあんなだけど
こっちもこんなだ
マキムクスレ終わってしまったじゃないか
責任者出てこいwwww
新発見や新発表がない時期はこんなもんだw
世の中それが普通だよ
現在発表されたデータを元にして語れることは、ほぼ語りつくしているからね皆さん
というかメインストリームなんではないかと
28 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 13:49:10.15
御所市=秋津遺跡か。
狗奴国は、コノ国
山城国風土記に出てくる許乃国(このくに)のことだ。
狗奴国王とは、許乃国王であり、これは、武埴安彦命のことを言っている。
彼の領国は、こにあたりだったから、。
ちなみに、狗奴国の副官の拘右智卑狗(こうちひこ)とは、
河内彦のことであり、
武埴安彦命の母方や妻の一族である。
30 :
www:2011/07/16(土) 12:14:51.55
このスレが「考古学板」じゃなくて「日本史板」にある事に意味を持たせるようなネタを一つ
…と言うか以前からの素朴な疑問なんだが
今日、狗奴国の比定地で一番人気は東海で
卑弥呼を日本側の史料に出てくる人物に当てはめた場合、そっちの一番人気は倭迹迹日百襲姫命なんだろうが…
「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」とした場合当然お話しとして「狗奴国王卑弥弓呼=武埴安彦命」になると思うが
記紀には武埴安彦命は「山背」から攻めてきたとあるがそれはどういう解釈になるんだ?
あくまで東海の勢力が山背方面経由(東海道ルート)で攻めてきたと言うことか?
それとも東海の勢力が山背の勢力に話しが変わってしまったとか?
31 :
ひとぶた:2011/07/16(土) 16:03:10.38
狗奴国の領域に山城を含めてしまえばokでは?
32 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 17:53:42.13
狗奴国は女王国の南のはずだが。
邪馬台国畿内説だから「南」が「東」の誤りなんだろう。
そこまではまあまあいいとして、狗奴国が山城なら大和の「北」になってしまうんだがwww
これはあんまりだろうとwww
>>30 > このスレが「考古学板」じゃなくて「日本史板」にある事に意味を持たせるようなネタを一つ
> …と言うか以前からの素朴な疑問なんだが
>
> 今日、狗奴国の比定地で一番人気は東海で
> 卑弥呼を日本側の史料に出てくる人物に当てはめた場合、そっちの一番人気は倭迹迹日百襲姫命なんだろうが…
>
> 「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」とした場合当然お話しとして「狗奴国王卑弥弓呼=武埴安彦命」になると思うが
> 記紀には武埴安彦命は「山背」から攻めてきたとあるがそれはどういう解釈になるんだ?
>
> あくまで東海の勢力が山背方面経由(東海道ルート)で攻めてきたと言うことか?
> それとも東海の勢力が山背の勢力に話しが変わってしまったとか?
>
>
>>32 やっぱこの板で記紀倭人伝ネタをふるとサイキバのアホがわいてくるのな・・・
邪馬台国=筑紫、狗奴国=肥後くらいで考えれば丁度いい。
東海を無理やり敵対勢力にする必要もないし。
いや、どう考えても 邪馬台国=出雲、狗奴国=大和 だろ
36 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 16:11:57.63
>34はまだしも>35は無い
37 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 16:27:39.06
39 :
伊作:2011/07/17(日) 18:41:10.93
>>29 >狗奴国はコノ国
狗は「こ」、奴は「の」と読むと、きちんと論証・立証したのかい。
まっとうな手順と手法を度外視した願望妄想かい。
毛野だろ?違うの?
41 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 22:43:24.45
狗奴国は濃尾平野。
>>40 毛野=鬼奴国
紀伊=鬼国
山城=邪馬国
高志=躬臣国
播磨=巴利国
吉備=支惟国
穴門=烏奴国
いや、もう「空耳アワー」とか「当てはめゴッコ」の類は他の邪馬台国スレでやってくれ
二上山博物館の邪馬台国シンポジウム行った人いる?
あと、土曜日に早稲田で行われた邪馬台国シンポジウム行った人いますか?
レポよろしく
石野先生や村上恭通が出るんだよな。
毎年思うが、現役の考古学者ほど、
邪馬台国なんて興味の範疇外ということ。
寂しいことだ。
今年は用があっていけない
>>45 もう20年ほど前に白石太一郎が
文献と出土品を絡めて考察する複合派と
考古学主体で文献はリップサービス程度の峻別派に分かれると書いていたけど
その最後の複合派が白石さんだったからねえ
佐原さんからモリコーさんあたりまでの人たちが主だね
春成さんや石野さんなどは、マスコミ相手の発言には文献を絡めても論文には一切無いしね
いや、春成さんは歴博のAMSプロジェクトで悪乗りしたのか、箸墓卑弥呼説を主張するために、学術発表や論文に魏志引用してるけど。
あまりに安易なので、同じ邪馬台国畿内説で箸墓卑弥呼説であるはずの白石さんに、方法論を批判されていたはずだが。
説話や伝承、てのは、年号的実年代とは無縁に語り継がれてきた物語
であって、特に記紀の崇神から応神より前の記述は
説話的様相が顕著、おそらくは、それがいつの時代の出来事か?
はとうに失われてしまっている。
前後関係もムチャクチャになっていたのだろうと思う。
例えば山片虫番桃が指摘したように、応神東征とは神武の焼き直しであって、
そういった混乱は記紀を比較すると散見される事象である。
例えば、記のヤマトタケルの出雲建の下りは、
紀の出雲振根の弟殺しと同じ内容で、すでに説話化してしまった史実、
つまりは大和による出雲侵攻が遠い昔の物語で
今となってはいつの時代か分からなくなっているという事態を物語っている。
もっとも説話化したのが国譲り神話で、
恐らくは崇神か景行の頃に行われた大和の侵攻が遠い昔、天孫降臨の前に
位置付けられている。
記紀信者はこのあたりのことを押さえた上で書き込んで欲しい。
安易に史実と捉える馬鹿は無視するしかない。
〉このあたりを押さえてから書き込んでくれ
いや、それでもここには書き込まんでいいだよ。
どっちにしろスレちだ。
記紀ネタに粘着してる奴は、考古ネタばかりのここが気に食わない、
文献プロパー君の荒らしだろう。
50 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 06:24:12.24
白石太一郎の考古学に関する論述はよく整理されて論理的なのに、
そこからはみ出すと、とたんにデンパ満開になるのは、
これいかに。
だから考古学のみを語りたいなら板違いという話。
>>47 ごめん春成さんじゃなくて近藤さんだったw
ぼけとるわ自分
>>50 それでも村上恭通の論文は相当ショックだったらしく
さらなる検証が必要とだけ言い残して、それ以来あまり邪馬台国について語らなくなったね
白石の、筑紫からの鉄ルート奪取のために大和王権が成立した、
みたいな、単純で分かり易い説明が、村上論文で成り立たなくなった
ということですか?
で、最近は鉄だけでなく、交易全体を考えることで、
大和王権の成立要因を考察するながれになったと。
村上の論文だけでなく、寺澤もそうだし石野も北条もなのだが
鉄に限らず奪取という概念で広域王権の発生を説明できないという流れになったんだろう
ここで旧来の文献主体の畿内説は完全に止めを打たれた
同時に北部九州の影響が吉備より東ではほとんど見受けられないことから東遷説が消え
九州内での小規模な広域王権すら確認できないということで
それまであった全ての邪馬台国論が消滅したということだね
ヤマト交易連合がヤマト王権になり、大和朝廷に発展するには
邪馬台国の時代から数百年では足りないし、キングオブキングスであるオオキミが自称でなく
少なくとも西日本を緩い繋がりで機能するようになったのは、継体いや天武天智以降だろうというのが通説になった
それじゃあ九州王朝説になってしまうだろw
少なくとも四世紀末、高句麗と抗戦してたのは、畿内大和を盟主とした
倭王権だっただろうし、
また少なくとも雄略の頃、五世紀には、
熊本江田船山から埼玉稲荷山までの倭王権が確立してたのは間違いない。
>継体いや天武天智以降だろうというのが通説になった
またまたご冗談を
それじゃあ全国的な前方後円墳ブームとはなんだったのか?
またまたご冗談を
それじゃあ全国的な銅鐸ブームとはなんだったのか?
実際、前方後円墳があるからといって、
その地域がマキムク王権に従属してたことにはならないよね。
むしろ、ある程度政治的に独立してたからこそ、
前方後円墳の祭祀を独自に執り行っていたと言える。
大王のお膝元である奈良盆地に至っても、いくつかの古墳群があって、
豪族連合であったことか推察されるのに、
古墳の形が共通だから政治的にまとまっていた
と結論づけるのは性急に過ぎる。
59 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 22:25:11.95
>>52-54 村上の本は昔1・2冊借りて読んだ程度だが
かなり断定的なことを避けて俺みたいな素人には概要・結論が分かりにくい印象だなw
まあ要するに鉄の普及も需要側の都合が色々あって
入れ食い確実なエサにはならないと言うお話って事でいいのかな?
まじめな話、もし鉄資源の分配で広範な連合体を築けるのなら
九州にも鉄の分配流通をベースにしたヒエラルキーみたいなものが存在して良いだろうwww
それより鉄の流通をコントロールするのなら当然、半島北部九州(玄界灘周辺・博多湾周辺)を武力制圧と言わずとも
少なくとも「業務提携」ぐらいはしてなきゃならないわけでもうその時点で連合体と言うか
瀬戸内を横断する「通商ネットワーク」みたいなものができているって話で
やや話が本末転倒のような気がしないでもない…
しかし本当に鉄の評価は難しい。
あと「反動」で過小評価に陥る事にも気をつけたいw
60 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 22:30:56.77
>>46 峻別派と複合派か…
白石が自著の中で伝統的に東大には峻別派、京大には複合派が多いとか書いていたな…
で、その京大の複合派が(理論的支柱を与える形で)作り上げたのがかつての邪馬台国ブームと言えるのだろうか?w
この板で京大の考古学を悪の組織のラスボスに戦っている九州説の連中は
結局その敵が作り上げた土俵の上で戦っていると言う皮肉ないしは笑い話wwww
61 :
伊作:2011/07/22(金) 23:17:19.95
鉄と鉄に関する技術と鉄器(とくに武器)は国家統制の最たるところ。
富国強兵の鍵となるものを独占したがるのが人間心理というものだ。
淡路島かどこか、山のてっぺんに鍛冶工房か製鉄工房の遺跡があったが。
あれを見ると、攻撃を受けて用意に奪われないよう防衛対策を講じていた節がある。
推測だが、ひょっとすると護衛の兵士もいくらか配備していたかもしれない。
それほどに鉄と鉄加工技術が大きな鍵を握っていたんじゃないのか。
>>59 鉄がマキムク開始以降も、九州>畿内、てのは、もう動かし難い事実で、
筑紫の王権は鉄を外交カードに畿内らと交渉していたということだろう。
マキムクでの九州色の薄さを考えても、
筑紫がマキムク王権に参加していたとは考え難い
(参加していれば、もっと鉄が出ている筈)。
おそらくは畿内は西新町で対外交易に参加させてもらっていたが、あくまで
外交の主体は漢委奴国王の流れを汲む、筑紫勢力だったと思う。
>>61 淡路は纏向と違って、他地域の文化侵入が殆ど無い。
甕も器台も淡路型。庄内型甕は技法すら混入なし。
変わってる。
そもそも倭人伝と邪馬台国畿内説は食い合わせが悪く、
伊都国王が代々邪馬台国に統属していた筈なのに、
伊都国地域に出現期の前方後円墳がない
(那珂八幡は奴国地域、またこれ以降、前方後円墳祭祀が継続しない)
という問題がある。
65 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 00:11:15.72
マキムクが仮にどんなに強大な王国だったとしても、
伊都国を支配下にしていない以上、それは邪馬台国ではない。
発掘が進めば進むほど、北九州との断絶が証明されてしまっている。
マキムクが畿内説を決定的に葬り去ってしまったことを認めるべき。
66 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/07/28(木) 08:19:18.49
q
夏休みだなw
阿波とホケノ山は関係あるだろ?
ならもう決定じゃん。
69 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 11:00:30.15
天皇家の遺跡を掘り返しては、ちゃんとした検証もせず
無理やり邪馬台国とこじつけてるだけなのが畿内説。
本当に罰当たりもいいとこ。低学歴軍団にまかせるとこうなる。
>>68 阿波と淡路の違いも特筆すべきこと。
淡路は西瀬戸内海の中心的な役割の一部を担ってもおかしくないのに、
>>63のような状況だし、纏向でも淡路の影響はないに等しい。
ところが阿波は古墳の原型があったと考えられている。
>>1 > そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
とは言い切れないのが不思議なところ。
吉備、讃岐、阿波のラインは初期に連合に加わって、
淡路、河内は少し遅れたということがあるのではないだろうか。
71 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 18:16:31.90
いや、吉備・阿波・淡路のヤマト王権参加が布留0以降で少し遅れるんだと思う。
庄内土器の分布を見ても、河内は早い段階で参加していたと思うが。
72 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 18:30:35.78
>>71 > 吉備・阿波・淡路のヤマト王権参加が布留0以降
宮山型特殊器台のある中山大塚古墳が庄内だという話はどうなる?
以北の国々は遠絶、この遠絶の意味を理解できてない奴らが多いけど、遠は物理的距離が遠いという意味ではなくて、関係が遠いという意味。
遠には疎いと言う意味がある。
遠絶は、疎遠で断絶状態にある、つまり対立・戦闘状態にあると言う意味。
この意味がきちんと理解されてないから妙な説がまかり通って混乱状態が続いてる。
庄内の編年を絶対年代に当てるのはなかなか難しいよなあ。
石野さんは3世紀初頭からなんだっけ?
76 :
伊作:2011/07/28(木) 21:49:49.72
>>74 >遠絶は、疎遠で断絶状態にある、つまり対立・戦闘状態にあると言う意味。
け。
女王国とそれ以北の8カ国勢力は、
その他の傍国21カ国と対立・戦闘状態にあったわけか。
>以北の国々は遠絶、
じゃないんだ。以北の国々以外の「その他の傍国が遠絶」なんだ。
大丈夫か?
>>76 昔アンタに現在の日本語で知ってる単語が出てきたからって、それを現代の日本語の意味のまま理解してはいけないって忠告したんだけどな。
78 :
伊作:2011/07/29(金) 07:52:30.20
>>77 んなことよりも、自分の日本語はだいじょうぶか。
遠絶なんて中国語熟語があるのか。独善我流の創作解釈か。
で・女王国とそれ以北の8カ国勢力は、
その他の傍国21カ国と対立・戦闘状態にあったわけか。
以北の国々以外の「その他の傍国が遠絶」なんだ。
という指摘はスルーか。
かっこつけて逃げることだけはよーく知ってるようだが。
>>71>>73 河内に限らず、面としての集団だとは考えられないから
中山大塚の被葬者は布留0以前からの参加と見ればいいんじゃないか
大和ですら東南部以外がヤマト連合に参加したと思われるのは相当後の時代だし
80 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:00:10.83
>>79 まったく逆なんだよな、俺の考えは。
弥生後期を通じて、おそらくは交易の利潤を巡って、
地域間競争の高まりがあったんだろう。
弥生以来の拠点集落の首長たちは、
対外的に優位に立てるよう、同盟、連合をしていってた。
見る銅鐸や、広形銅矛、四隅突出型墳丘墓、特殊器台
などの共通の葬送儀礼、つまりは神話を共通にする政治経済ブロックが
弥生後期には形成されていたと見るべき。
その終着点として、終末期から古墳初めにかけて発生した古墳祭祀がある。
特定首長墓の出現、首長霊祭祀の創始。それは数百年続くことになる。
>>80 自分は
>>79だけど、弥生後期にはそれが当てはまるとは思うんだ
ご存知のように地域ごとに墳墓形態が特徴を持ち、その地域ごとに独特の首長霊信仰があったとみられる時代
ただ終末期から古墳黎明期は特にだけど
そのサークルの中から抜け出す集落が出始めて、その点が遠隔地と線でつながろうとし始めたんじゃないかという兆しがあるように思えてならない
それはあなたの言うように、まずはその地域内で優位に立てるように他の地域の文化や技術や交易ルートを取り込み
まさに経済活動として、地域そのものがハイブリッドしていったかのように結果的に見えるといったように
例えば北部九州では大半が前方後円墳を採択するなかで
一部は前方後方墳を選ぶケースもあるよね
これなどは言い方は乱暴だが逆張りのようなまさにギャンブル的要素もあったんじゃないかな
それも含めて旧郡藩の範囲で統一を語れないように見える
大和東南部と中部、そして山城に近い北部(現在の奈良市あたり)などは
前方後円墳体制に移行するのは古墳後期ではないかと思えるし
見る銅鐸連合が後の邪馬台国になり大和王権に発展していく訳やね
見る銅鐸とか言ってるけど、後の時代の旗印の原型だった可能性はない?
>>81 古墳時代以降は、マキムクに巨大王権が誕生、
東海や筑紫、吉備などの連合に楔を打ち込むため、
ヤマト王権が分断政策を取ったんだと思う。
山口組と同じ手口で地域の主導権争いに介入し、その調整役になることで、
自らの権威の伸張を図った。
要は、地域の二から三番手の勢力に肩入れし、
揉めさせることで一枚岩を崩す政策。
室町幕府の奉公衆に近い。
>>84 豪族や首長たちの関係をヤクザで例えるのは言い得て妙だが
地域ごとに○○一家みたいな一枚岩の強固な繋がりはなかったというか、まだ時代が早すぎるんじゃないか?
王権というか権力志向にも個々に温度差があっただろうし
なんというか、一言では説明できないようなグダグダの状態が飛鳥までは続いていたように思う
大仏建立が後の参勤交代に匹敵する支配システムとして機能する時代まで
国内特に地方はカオス状態だったんじゃないかな
これ九州王朝とか○○王朝とかいう誇大妄想jとは違うから、そこは念のため
86 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 10:54:08.74
>>80 >見る銅鐸や、広形銅矛、四隅突出型墳丘墓、特殊器台
>などの共通の葬送儀礼、つまりは神話を共通にする政治経済ブロックが
>弥生後期には形成されていたと見るべき。
銅鐸・銅矛と、墳丘墓・特殊器台を、並列して憚らないセンスの悪さに驚く。
見る銅鐸、広形銅矛は、葬送儀礼とは殆ど何の関係もない筈だ。(対馬の一部だけは除くが)
恐らく四隅突出型墳丘墓や特殊器台は、銅鐸・銅矛・銅剣等の弥生青銅祭器による祭祀を
拒絶した人々によって、新たに始められた儀礼なのだろう。
>>84 吉備との関係が濃くなる前に、纏向には何もありませんよ。
いや、初期マキムクに吉備の影響が本当に強ければ、
石塚、矢塚、東田大塚、勝山の、いわゆるマキムク型前方後円墳に、
特殊器台が使用されてると思うんだよね。
吉備は途中参加でしょ、おそらく。
確かに、銅鐸銅矛は葬送儀礼とは関係ないな。
共通の宗教観、てことで。
石塚、矢塚、東田大塚、勝山が箸墓より古いかどうか分からんし、たとえ古いとしても
特殊器台を輸送する手段がなっかたので見送られた可能性も考えれば、特殊器台だけで
判断するのは危険だと思う。現に奈良盆地、河内での吉備の土器の出土状況をみれば
早い段階で参加していただろう。
>>88 中山大塚古墳から宮山型特殊器台が見つかっているのだから、
庄内式期から吉備の影響はあったということ。
箸中古墳群に特殊器台がないのは被葬者の出自によるのではないか。
>>89 現時点では石塚、矢塚、東田大塚、勝山などより箸中山が先行するという見方は危険だろう
>>90のいう中山大塚にしてもだが
それよりも「箸中山築造時の最初から特殊器台があったのかどうか」がまだ断定できないのだから
(改修時や後の祭祀での設置も現時点では考慮せねばならない)
吉備が纏向初期から参画していたか否かは、まだ結論を出せる段階ではないと思う
それでもすでに弥生後期の河内大和川沿岸においては、特殊器台のような祭祀具ではなくとも
吉備や出雲の土器がそう珍しいものではなかったとは見ていいだろうが
墓造りの重要性、「王の権威を民衆に知らしめる」を考えれば、
マキムク最初の石塚古墳に特殊器台が無い、ってことは、
もっと重要視されていいと思うが。
吉備から運ぶのに時間がかかった、とか無茶苦茶な理屈だよw
少なくとも前方後円墳の最初の方は、吉備の葬送儀礼は採用されず、
逆に他地域の影響は多く見られる。
庄内の頃、吉備はヤマト王権には参加していなかった、
もしくは立場は低かったかのどちらかだろう。
更に言えば、吉備が本格的に参画したと思われる箸墓=布留0以降の古墳で、
三角縁が出土するようになるのも意味深だ。
吉備の合流で初めて、ヤマト王権は全国王権になり得たのではないか?
吉備で言えば、箸墓の相似形とされる浦間茶臼山が造られたころだろう。
中山大塚に特殊器台があることから、庄内式期には吉備の影響があったと思われる。
同時期に特殊器台の祭祀をおこなう墳墓とおこなわない墳墓が併存しているということは、
被葬者とその同族が採用する葬送儀礼の違いが理由だと考えられる。
箸墓に葬られた初代倭王の葬儀の際に墓制を含む葬送儀礼が定型化されたのだろう。
庄内の初めは吉備の影響、ないでしょ、という話で。
中山大塚自体、布留0とそう時期的に離れていないと思うが。
>>95 > 庄内の初めは吉備の影響、ないでしょ、という話で。
そんな話あったかな? ・・・以下のレスの
>>71 > 吉備・阿波・淡路のヤマト王権参加が布留0以降
>>88 > いや、初期マキムクに吉備の影響が本当に強ければ、石塚、矢塚、東田大塚、勝山の、
> いわゆるマキムク型前方後円墳に、特殊器台が使用されてると思うんだよね。
> 吉備は途中参加でしょ、おそらく。
>>93 > 少なくとも前方後円墳の最初の方は、吉備の葬送儀礼は採用されず、逆に他地域の影響は多く見られる。
> 庄内の頃、吉備はヤマト王権には参加していなかった、もしくは立場は低かったかのどちらかだろう。
> 更に言えば、吉備が本格的に参画したと思われる箸墓=布留0以降の古墳で、
「箸中古墳群に特殊器台がないことから吉備の参加は布留0以降」
という見方について検討しているつもりだったんだけどね。
まあ、纒向1式の外来系土器のうち吉備系が20%以上あるわけだが。
いや、そんなこと言えば、外来系では東海の土器が一番だしさ。
庄内初期、マキムク運河が築かれた頃に、
大和川水系首長層(大和+中河内)の一大連合、大規模な経済圏が生まれて、
吉備や東海もそのヤマト王権と交易してただけだと思うが。
楯築以降からの伝統的な流れと、
浦間茶臼山以降ははっきりと相違があると。
マキムク発の前方後円墳を吉備が受け入れたのが箸墓築造の頃ということ。
>>97 > いや、そんなこと言えば、外来系では東海の土器が一番だしさ。
> 吉備や東海もそのヤマト王権と交易してただけだと思うが。
ワロタ
>>97 > 大和川水系首長層(大和+中河内)の一大連合、大規模な経済圏が生まれて
なら、その経済圏が誕生した経緯を当該期の中河内の状況から検討するべきだろう。
中河内地域では庄内期初頭に、それまでの拠点集落が消滅し、新興の集落が各所に登場する。
これらの遺跡は、弥生時代後期からの発展によって段階的に形成されたのではなく、
それまでの展開とは無関係な地に突如として出現することに特徴がある。
ここでは外来系土器としては山陰系のほか、吉備、讃岐、阿波系の瀬戸内地域の土器が多いという。
そして当該地域の集落が纒向遺跡を中心とする大和盆地東南部地域への一方通行的な流通に関与したと指摘されている。
また、中田遺跡群の消長は、纒向遺跡の消長と一致しており、
自然集落の消長ではなく、人工的・政治的な突然の出現と消滅を感じさせる。
100 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 02:05:28.27
邪馬台国5文字の謎ってどうよ?
>>99 うーん。言いたいことが分かり難いな。
つまり、庄内の頃、河内に外来勢力が侵入して、
新しい政治体制が生まれた。とか主張したいの?
特定首長墓の発展の帰結としての古墳祭祀って、
出雲や吉備、筑紫、阿讃播で色々発展したものがマキムクで集結。
そのパッチワークで誕生したのが前方後円墳。
だからマキムク王権はこれら外部諸勢力の合併、
てのが寺沢とかの主張なのかな?
土器の流れだけじゃ、広範囲に人と物の流れがあった、というだけだし。
>>99の主張としては、そういった汎西日本連合の中心みたいな場所として、
中河内が選ばれ、更に大和川を遡上して奈良県東南部に
運河や大王墓などの宗教施設が造られていったということでは?
俺は反論あるけど。
104 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 07:33:55.66
自分も
>>99には反論あるけど、主張は
>>103の言うようにそれが仮説の骨子だと思う
これは纏向が王都であるとする反論でもあるが
ある程度は無人都市への回答とは成り得る
ただ3世紀の王都(首都9機能を現時点で中河内に求めるのは、ちょっと根拠に乏しい(あり得るんだけどね)
むしろ秋津遺跡や久宝寺、八尾といった大和川沿岸が実務的な首都機能を分散して(互いに主張し合いながら)有していた混沌の時代だと見たほうがいいと思う
倭人伝の記述のように、邪馬台国が絶対的な権力を有していたとは思えない
中河内が首都とは書いてないのでは?
106 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 14:22:55.84
微妙にスレ違いですまないが
古代の飛鳥地方にも物々交換のための市場(常設ではなく、月に数回の開催)
があったらしいが、飛鳥のどのあたりにあったのだろうか?
武市郡、飛鳥は、蘇我氏が権勢を握ってから、
ヤマト王権の中心になったように思うが。
アスカのスカは蘇我だろうし。
蘇我氏が自分の勢力基盤近くに都を置いたという。
初期ヤマト王権で市場が開かれたとしたら当然、山の辺の道に連なる
磯城郡で、海石榴市だろう。
108 :
忍法帖【Lv=17,xxxPT】 :2011/08/10(水) 21:58:23.80
110 :
日本@名無史さん:2011/08/11(木) 15:20:29.82
海石榴市は現在のJR桜井駅から
それほどは遠くない場所にあったのではないかとも言われている。
近畿式銅鐸→邪馬台国
三遠式銅鐸→狗奴国
近畿式銅鐸 近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に分布
三遠式銅鐸 東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸に分布
112 :
水銀厨:2011/08/14(日) 09:35:25.72
河内〜畿内というのは基本的に同一経済圏とみるべきでしょう。
巻向から出土している海の幸なんてのは当然大阪湾沿岸の産物です。
海柘榴市(椿市)という名は、本来鉱石(目玉商品で椿は赤の象徴)の
市という名残でしょう。
大和川は重要だが、紀の川も無視できない。
> 巻向から出土している海の幸なんてのは当然大阪湾沿岸の産物です。
これは言い過ぎ。
近畿式銅鐸→前方後円墳→邪馬台国
三遠式銅鐸→前方後方墳→狗奴国
こうか?
115 :
水銀厨:2011/08/17(水) 01:04:55.43
でも鯛なんてどう考えても大阪湾、茅渟海(チヌ)ですよ。
かなり時代は下るが、茅渟の道って熊野街道、紀州街道のことだぞ。
117 :
水銀厨:2011/08/17(水) 21:26:34.42
>>116 熊野や紀州に向うには和歌山周辺を経由する為です。
少なくとも古代、4世紀頃の茅渟海といえば、淡路と和泉の間の海ですよ。
118 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 23:58:23.57
>>112 >巻向から出土している海の幸なんてのは当然大阪湾沿岸の産物です。
それこそ考古学で確かめられないのだろうか?
魚貝類の残滓が出てきてそれを分析して何処産のものか?確定できない?
まあ「両面を焼くことはなし伊勢の鯛」とか近年じゃあ「A福」でケチがついているが
伊勢は大和にとって御食国(みけつくに)だからなwww
119 :
水銀厨:2011/08/18(木) 00:15:45.92
御食国なら海の産物でも志摩があわびにさざえ、淡路が魚類だっただろう。
何処産の確定はどうかな?播磨や和泉辺りの遺跡から
鯛の骨なんか出てたらね。
>>117 > 少なくとも古代、4世紀頃の茅渟海といえば、淡路と和泉の間の海ですよ。
そんなの分かるわけない。同時代の文献がないのに。
121 :
水銀厨:2011/08/18(木) 14:42:35.91
>>120 存在しえる最古の文献資料上で茅渟海といえば、
淡路と和泉の間の海、としか言いようがありませんよ。
他の説を主張したいのであれば、それなりの資料を基に
主張してみたらどうですか?
122 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 13:09:33.41
>>121 「〜といえば、〜である」と言うには、
他に可能性がないことを実証しないといけないのでは?
124 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 17:14:26.15
>>114 しかし、同じ銅鐸なのに、三遠式と畿内式が昔から激しく対立していた、
とか結構無理があるような気が。
同じように、前方後円墳と前方後方墳も殆ど同じ思想で造られてると思う。
土器から見ても、マキムクの最大の交易相手も東海だし。
そもそもの立地条件からして、東海は畿内を通じてからしか
西日本、ひいては半島と交易が出来ない。
文化の成熟度が西高東低だった古代において、
東海は地勢的に畿内と友好関係を結ばざるを得ない。
東海を狗奴国に比定するのは、そろそろ無理が出てるような気がする。
寺沢を始め、考古学者の殆どが東海=狗奴国を支持する理由が分からない。
>>123 それは逆じゃないの?今の所大阪湾の最古の呼称が
記紀の神武東征にある茅渟海というのは事実な気が。
最古の呼称ってのは事実だからいいんじゃない?
時代ずれてても。
127 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 19:03:20.98
>>114 >>124 前方後円墳と前方後方墳が入り混じっているように
(ヤマトより東にも前方後円墳はあり中には初期の三角を副葬しているものもある)
三遠式と近畿式も結構交じり合ってたはずだが・・・
参考)銅鐸分布考
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku02a.html 近畿式と三遠式の対立はあったのか?
古くから近畿式分布圏と三遠式分布圏の対峙のようなことがいわれ、なかにはこれを根拠に三遠式が分布する遠州を狗奴国とする説もありました。
この“分布圏”が強調され過ぎるあまり、三遠地区を含む東海地方では近畿式は出土しないと思いこんでいる方も多いのではないでしょうか?
ところが、下に示すように三遠式の本場である三遠地区にも近畿式銅鐸は相当数入っています。
長野を例外として、近畿式の分布域の中に三遠式の分布域はすっぽりとおさまってしまいます。
分布的には三遠式と近畿式が対峙しているというような事実はなく、近畿式のみの地域と近畿式+三遠式の地域があるというのが現実です。
128 :
♪西から昇ったお日様が〜:2011/08/19(金) 19:22:26.94
>>127訂正
誤)ヤマトより東にも前方後円墳はあり
正)ヤマトより西にも前方後円墳はあり
130 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 19:37:34.40
>>129 すいません「前方後方墳」と書かなきゃならんですた。頭冷やしてきます orz
131 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 21:54:57.27
考古学者は東海を狗奴国に比定するようだが、
倭人伝・記紀重視派は狗奴国を昔ながらの南九州、
熊襲、クマオソに比定するんだよな。
畿内に邪馬台国をもってくると、南九州では畿内から離れ過ぎてる。
畿内と仲が良かった筈の東海を狗奴にしないといけないとか、
やっぱり畿内説には無理があるよ。
132 :
水銀厨:2011/08/19(金) 22:30:25.00
風変わりな畿内説論者の私は3世紀の狗奴国=紀伊半島南部説です。
紀ノ川、葛城山系を境にしているという。
但し年代と共に国境線が移動している為、方位認識にやや混乱がある
という説で、後漢の頃は河内〜大和も狗奴国。
邪馬台国と狗奴国と呼ばれる集団があって、これらが対立(素より和せず)と記されている史料が
魏志倭人伝しかなくて、その真偽が検証できないので議論そのものが意味が無いんだよね
結局内容を「信じるか否か」の信仰の世界になるわけだから
それでも敢えて想像するならば
当時の日本最大の勢力を邪馬台国と見る、いわゆる畿内説だと
ヤマトに対抗できる大きさの勢力となるとまず第一に東海が挙げられるのは当然だし
マンガじゃないので、常に敵対していたような状況は有り得ないわけだから
当然交流があるからこそ敵対する時期もあったと見るのが当然
だから土器や墳墓の交流がない地域とは、逆に敵対したくても出来ない、そんな情報網が機能した時代ではない
続いて中部や南部九州が畿内&北部九州う交易連合と半島交易などの利権で揉めたとする説が挙げられる
この場合特に南部九州は四国南部から畿内南部などと、いわゆる太平洋ルートでの交易連合を形成していたと見るべきで
日本海ルート、瀬戸内ルートとの三つ巴だったとしたほうが、地勢的にも出土物の流れからもしっくり来る
敢えて、と注釈をつけた上での想像だが、このどちらかしか無いんじゃないかな
134 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 00:13:07.95
いや、ていうか、三世紀のマキムク王権が、果たして半島や大陸との交易で、
主導的役割を果たしていた、という畿内説の主張自体に懐疑的というか。
三世紀初めに誕生したマキムク王権が、邪馬台国の時代にすでに
大陸との交易を牛耳っていたとは思われない。
半島南部の遺跡でも、邪馬台国の時代は筑紫の影響が強く、
畿内のそれが強くなるのは四世紀以降
交易は主導的でもないでしょ。
外交は主導的だったんじゃないかな。
それが後の覇権につながった。
136 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 00:55:28.98
倭人伝によれば伊都国で検閲を行っているけど、伊都から卷向までは
遠いぞ。なんでそんなところで最終検閲んなんかやったんだろう。
137 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 01:09:44.88
邪馬台国が伊都国の近くにあったってことだろ
138 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 05:08:50.34
>>131 クマソを確定してないとする人達もいるでしょ
それに、クマソ=敵対する人達ってのは魏志倭人伝と記紀に出てるとも言える
九州の女酋長の話もあるし、戦闘の跡等発掘出来てるならある程度認められるのでは?
東の海は魏志倭人伝だけだしってならないのが不思議なんだけど
何でそこまで魏志倭人伝を信じてるの?
>>135 大陸へのある意味入り口なんだから当然では?
港に税関置くのと似てる?
それとこのスレはマキムクスレなのであまり邪馬台国の話は遠慮して欲しいんだよね
139 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 05:40:54.88
遠慮して欲しいって書いといて付け足すのもなんだけど
唐津について陸行で伊都に行くと思うのか?
唐津湾を船で渡るだろ、難所で船で行けないでもいいし
伊都国の方向が違うでもいいけど、魏志倭人伝を信じてる人はまずその辺を纏めてから
何で遠くに検閲所置くのとか聞いてよ
自分建ですら満足に場所を確定してないのに、他の人にそれを確定事項の様に聞かないで
東の海がもっと酷いのは言うまでもない
140 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 08:14:22.07
>>139 意味わかんないんですけど。
興奮しないで冷静に説明してください。
141 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 08:24:56.12
>>140 横からだが、そもそもマツラ国に上陸してイト国まで「陸行」すること自体が不自然という話だよ
だから倭人伝信者の中には、myマツラ国やmyイト国などをびっちりと方角と距離だけで作り上げる人も多い
何も無いところにねw
それを奴国までは通説に沿うとした場合、不自然な陸行がまずおかしいと思わねばいけないということ
唐津湾から加布里湾までの沿岸をそのまま水行したほうが自然だし
だいたい直接加布里湾を目指すだろうから
142 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 08:46:38.31
>>141 んじゃ、あなたのyour伊都国ってどこなの
143 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 09:07:23.39
マツラから伊都まで陸行したか海行したかは置いといて、
要するに伊都で差錯を調査したわけね、リストとブツに違いはないか
封泥は解かれてないか調べたんだろ、不貞の輩がおらんとも限らんからな
しかし、伊都からマキムクまで陸で行くにしろ海で行くにしろまたしばらく
距離がある、途中、山賊やら海賊やら居らんとも限るまい、それなのに
なんで伊都で最終的な検閲をやったのか?ん?
144 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 09:34:27.76
>>143 マキムクスレなんだが
邪馬台国スレでやってくれないか?
マキムクの言葉が出てるから答えるけど
伊都国があった根拠は何?
糸島半島にクニ又は国があったのは認めるよ。それを示す遺跡も出てくるし
大陸の出先機関があったという事を複数資料もしくは、遺跡から説明してよ
そしたら、なるほど伊都国は存在し、大陸の出先機関があったんだな
この場所に出先機関があるのは何故だろって考えるから
後、魏志倭人伝との整合性を整えた場所の比定も忘れずに。
どこに存在したかもわからない伊都国では考えずらいから
しかしいつも思うのだがwww
外交とか貿易とかと国内の政治の主導とかは分けて考えた方が良いんじゃないのか?
現代の感覚なら無論それらは一元管理されてなければならないもので
例えば外務省の役人が政府官邸のあずかり知らぬところで外国と重要案件について勝手に推し進めていたら大問題になるが
戦国時代なら九州の大名が独自に外国と交易してたわけで…
3・4世紀なんて外交の主体はまだまだ北部九州が主体だったとか?
ただ外国と交流し新しい文化や富を蓄えたからと言って国内で天下を取れるわけでもない。
> 外交とか貿易とかと国内の政治の主導とかは分けて考えた方が良いんじゃないのか?
まぁ、こう言うのが。「よとり」って言う、一般的に馬鹿にされるやつなんだけどね・・・
唐津湾上陸は確かに普通では考えにくい。まっすぐ邪馬台国を目指すなら。
ただまあ、何か理由があったんだろ。
当日は海上が荒れてたとかw
当時は宗像氏や志賀島の安曇氏なんかより、
マツラの首長が海上交通での主導権を握っていた、
とかさ。
せっかくだけど、大した矛盾点でもない。
そんなことで倭人伝を頭から否定する方が問題だろ。
148 :
145:2011/08/20(土) 11:57:28.09
>>146 「よとり」って「ゆとり」からの派生か?初めて聞いたwwwwwww
しかし、まあ3世紀においても畿内大和が九州を監督下におき
交易を厳しく管理したと言うのがこのスレの大勢と言うか俺以外の人間の見方なんかね?
伊都三雲遺跡の首長が、帥升以降、大陸との交易を差配してたと。
邪馬台国の時代もそれは変わらないだろう。
倭人伝の一大率の記述があるから、
畿内説ではマキムク邪馬台国の一元管理とかw無理のある解釈になる。
三世紀の倭国がそれほど政治的に統合してたとはとても思えないんだよね。
150 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 12:57:36.17
>>147 王、使を遣わして京都、帯方郡、諸韓国に詣り、及た郡の倭国に使
するや皆津の臨みそんなて捜露し、文書、賜遣の物を伝送して女王に詣り、
差錯するを得ず。であってたまたま海が荒れてたとかそんな問題じゃ
ないんだな。女王の意思が反映されてんだよね。安曇はむしろ伊都国に
管理されてたし、宗像はそ当時は海上交通権をうんぬんする程の勢力では
なかったんじゃなかろうか。
151 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 14:26:19.26
>>148 いやそのようなきつい一元化など考えられないというのが常識で多数派だろう
徳川幕府でも出来なかったというのにw
だからそのあたりの常識がわかってなくて、ついつい大河ドラマ的戦国時代やマンガ三国志
更にはハリウッドのローマ帝国ものが史実だと思ってしまい、壮大な脳内歴史を創りだす
それ故に海上は○○氏が主導権を握っていたとか
九州から軍を率いた○○族がとかをついつい夢想してしまう
つまり文献を鵜呑みにしてしまうわけ
そういう人の書き込みって、史実かどうか疑わしいものが大活躍してるでしょw
現実はカオスそのものだったはずなんだけどね
152 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 08:03:09.43
呉の赤烏七年銘画文帯神獣鏡の画像みたんだけど、半円、方格等、基本
ホケノ山の画文帯神獣鏡とよく似ているよね、ホケノの画文帯神獣鏡が
呉鏡の系譜の中にあるのは確かだな。
弥生時代以降、揚子江下流域の文化が、
山東半島、朝鮮半島南部を経由して、日本に流入している。
そもそも揚子江上流発の神仙思想が、
同じルートを辿って、日本に伝わった、ということ。
154 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 11:24:06.46
ホケノの画文帯は楽浪、瀬戸内、そしてホケノの3地点でしか見つかって
いない。面径も19cmと大ぶりだしこの大きさの画文帯は中国でも皆無。
ホケノの築造年代確定要素の1つが画文帯神獣鏡が後漢末から三国時代初頭
の鏡であると言うことだけど画文帯神獣鏡は呉の領域でしか造られていなし、
面径も18cm以下。
ということは、ホケノの画文帯は楽浪で造られたか、日本産ということになり
ホケノの築造年代に影響してこないか?
でも、遣唐使とかさ、十数回しか言ってねえのかよって思わね?
一回に数十隻の船が行くのだとしても、
他の交易船とくらべればたいした数じゃないよね
それなのにあたかも莫大な利益をもたらしたことのように書かれるということは
知識を持った人間が公費で学びにいくのと
商売のためにいくのでは、もちかえる知識の量がちがうのと、
威光をもった国家同士の結びつきが、小さな商売をやるだけの連中に
いかに大きな影響力をもつか示してるんじゃないかな
舟の技術がなかった魏への遣使も二回ぐらいかもしれんが
何かしらの強い影響力はあったんじゃないかな
加羅の鉄を希求した時代、3〜5世紀と、
敵対的な新羅が誕生、国内でも製鉄が始まった時代以降を比べても、さ。
半島交易の重要さがまるで違う。
157 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 21:53:58.42
弥生後期の吉武高木や三雲遺跡の首長は、
大陸利権を各地に分配するという立場で権威者足り得た、のだろう。
筑紫のオウは楽浪郡や帯方郡に遣いを送り、
後漢から倭王に承認されることで、
初めて交易の窓口として認められたのだろう。
158 :
ひとぶた:2011/08/22(月) 00:12:24.44
>>153 「墳丘墓」も華中以南のスタイルですよね。
弥生中期の初めに、江南の青銅祭器を祭る有力な航海集団が、
玄界灘沿岸部に、カルタゴのような植民都市を造ったのではないか。
その影響で、弥生後期の二百年を通じ、倭国各地に小国家が建設されていったと。
カルタゴて
ポエニキア人なんて波が穏やかな地中海だからこそ成り立つ
交易集団じゃねえか
そこで瀬戸内海ですよ。
朝鮮半島南部と北部九州の結びつきはかなり強かったようだしな。
半島と列島を行き来する交易国家の存在は否定出来ないだろ。
弥生中期にたち現れてくる、首長権力の高まりには、
こういった渡来のリーダー層の影響が大きかったように思う。
在来勢力の取り込みは当然あっただろうが。
任那府までは流石に持ち出さないけど、
半島南部は倭人と風俗や文化がかなり近しい勢力だっただろうと。
倭人伝でいうところの狗邪韓国。
「国家」という言葉を使う理由を述べよ。
国家って
何をもって国家なんだ
国家の定義とか、しちめんどくさいこと言われてもw
政治的まとまり、程度でいいんじゃない?
たとえば、吉武高木や三雲遺跡などを国家と呼ぶのは不都合?
じゃあ、小国家でw
大小の問題じゃない。
なぜ「国家」と言いはるのか?
じゃあ国家じゃなくて、クニでもいいよw
交易国家じゃなくて、交易クニでw
何に拘ってんだか分からないから、その違いに執着する理由を説明してよ。
話はそれから。
169 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 19:28:35.07
海石榴市の想像復元図を見たことある人いますか?
どんな感じのマーケットだったのか、まったく想像つかない。
170 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 09:53:07.05
、
171 :
LUNAMASK:2011/08/26(金) 10:29:21.46
纒向は角鹿、吉備の奥つ城か。
172 :
LUNAMASK:2011/08/26(金) 12:39:42.12
舌足らず、ごめん。鯖落ちの影響が出ている。
----------------------------------------
私の仮説:
@銅鐸 尾張海部/彝族/越族 オーストロアジア/オーストロネシア→炎帝族、羌戎
(始皇帝の雲南制圧、彝族を徐福ミッションに編入)(テン王国:荘喬(紀元前278年 -
紀元前256年)→前109年武帝テン王国征服) 筑後川→丹後半島→伊勢湾→関東・
東北鉱産地帯。
銅鐸民の転業→画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡
A細型銅剣・玉 出雲 ツングース・穢 積石冢
(匈奴による東胡併合(鮮卑誕生)の結果として強い騎馬民族の影響を受けた満州畑
作民+東岸貝塚文化)
→わだつみ族、ワイ、博多湾→沖縄、博多湾→出雲→琵琶湖→諏訪湖→霞ヶ浦
崇神から始まるツングース穢系王朝は四出道、岐神、倭姫巡幸に見られる伊勢遺跡
的太陽崇拝を特徴とし、近江王朝と言ったもよい。 多鈕細文鏡→方格規矩鏡
B銅矛 伽耶/吉備・角鹿/孝霊・卑弥呼→継体・蘇我 チュルク突厥・アルタイ貊
→天神族、北狄
(伽耶にはモンゴロイドとコーカソイドの騎馬民族が渡来)
伽耶に阿踰陀国許黄玉が降嫁するのはテン王国の彝族が渭水において小月氏と
共生していた彝族がテン王国に移住し、彝族が三韓に移動したという情報を得た
インド、BMAC方面の月氏が通商を求めて伽耶に入ったものと考える。金首露後、
伽耶に入るのは月氏同様騎馬民族の柔然・チュルク系と見られる。その一部が弥生
後期の吉備・角鹿に入ったのが孝霊・卑弥呼。内行花文鏡。
>>172 あなた自分専用のスレ作っていた
トンデモ説のコテハンでしょう?
174 :
LUNAMASK:2011/08/26(金) 16:08:17.13
んーん、推理、プロファイリング・・・つうか。トンデモというととんでもなくずれている
ということかな。んじゃ、とんでもなくずれていないのは、つまり、まともと言うのは
どういうこと?
175 :
LUNAMASK:2011/08/26(金) 16:21:54.37
日本の歴史と言うのはズタズタに切れている筈がない。しかし、記紀、考古学発見では
切れたものとしてしか見えてこない。背後にはまだ知られていない歴史があるに違い
ない。それは推理小説であり、サスペンスであり、ドラマだ。・・・こうした情熱をもって
書き込んでいるものは通常のトンデモとは違うんじゃないかな。
176 :
LUNAMASK:2011/08/26(金) 16:54:42.37
177 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 22:43:42.87
>124
立派な御意見です。
178 :
伊作:2011/08/27(土) 01:58:31.40
「ドンと来い」が目いっぱいだ。
こっちに邪魔して、995の名無し野郎にレスして今日は終わる。
>近畿には、「花弁住居」が無いっていってるだろ。ナニが移住だ。
こいつもまた、一元的にしか見ることのできない、
思考領域と視野領域の限られたバカだな。
墓制でいえば、九州だけで5種類か6タイプもある。
しかもこれが同じ時代に共存しているし、エリアが重なっている面もある。
住居様式もまちまちだ。熊本にはベッドをもつ縦穴式住居だってあるぜ。
似てはいるが、少しずつ文化などが異なる色んな民族が、
長江河口にやってきて、ここから渡来してきたわけだ。
むろん半島経由も混じっていることだろう。
花弁型住居だってそのほんの一部でしかない。
俺ではないが、こんなのを邪馬台国比定の材料にする奴がおかしいのだ。
ところでタコ。
唐戸鍵遺跡の土器に書いてあった男女司祭と思われる人物は、
まさに隼人の司祭そのままだし、
へびのウロコを描いた連続三角文(鋸歯文)の衣装を着ている。
こういうのまでもがヤマトに自生したとでもいうのか?
もっと目んタマを見開け。
179 :
伊作:2011/08/27(土) 02:00:52.06
>>176 「神獣鏡疑論」
は俺のサイトのページだが、ここで紹介されるとは思わなかったな。
180 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 07:52:07.67
>>179 考古学板纏向スレでレス不要で延々下記続けた人だしね。その位は・・・
ついでに君のHPを見に行ったけど、君説では邪馬台国は熊本で落ち着いたの?
>>178 >「ドンと来い」が目いっぱいだ
なら、九州にあったスレとか、少しでも関係の有りそうなところで書けば?
こんなところで自分のホムペの宣伝しても効果無いと思うけどw
マキムクと、海石榴市(桜井市金屋)の場所、結構離れてたりする。
マキムクから各地の土器が出てきてることから、
プレ大和王権の初期大王が、交易の元締として権力を得た
とかいうのは正直疑わしい。
むしろ宗教、マキムク詣でが先で、その供物、贄を売り捌くために
市場が生まれた、後世の寺内町や神前町みたいな感じじゃなかったのか?と思う。
三世紀の大和が、大陸との交易の窓口になっていたというのも眉唾。
朝鮮半島の遺跡をみる限り、大和の影響が出だすのは四世紀以降。
そこで問題になってくるのは、何故大和が西日本中で権威足りうるような
宗教的尊崇を集められたのか?ということ。
ごめん、門前町だった。
184 :
忍法帖【Lv=35,xxxPT】 :2011/09/01(木) 02:51:26.01
>>182 > プレ大和王権の初期大王が、交易の元締として権力を得た
> とかいうのは正直疑わしい。
商業ではなく、やはり軍事と祭祀に長じていた政権だと思う。
出土した物しか信じない、考古学の専門バカは反論するだろうけど、
三輪山の宗教的権威を御輿にして畿内の有力豪族が結集したのがプレ大和王権。
おそらくは江南地域から伝来した神仙思想を吸引力にして
宗教国家連合を樹立したんだろうと思う。
マキムクから出る各地の土器も、供物として考えればよい。
マキムクの女王に捧げられた供物は臣下に下賜され、
臣下たちがそれを売り捌くために市場が必要とされた。
つまりは宗教的権威→市場の順。
三輪山よりも初瀬川の三角州の方がお気に入りみたいだぜ?
187 :
日本@名無史さん:2011/09/04(日) 08:25:24.88
三角州とか、湖の真ん中の島(竹生島とか)は宗教的なパワースポットだからな。
熊野本社も以前は三角州に立っていた。
大斎原は今頃水没してるのだろうか・・・・
189 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 06:34:06.72
>>188 だと思う。あそこは物凄いパワースポットだな。
パワースポットって言葉使ってるやつ
頭が悪そうで嫌いだ
191 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 08:02:20.37
194 :
日本@名無史さん:2011/09/05(月) 23:30:42.11
結局、マキムクの成立プロセスには2つの主張、仮説があって、
近藤寺沢に代表されるような、吉備楯築の影響を強く見る説と、
石野白石福永のように、見る銅鐸圏を主体とした畿内勢力がイニシアチブを取った
という説に二分されるのだろう。
現時点では前者の方が優勢、ということか?
195 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:20:58.61
吉備が主体と見ると、東海系土器の多さはどう説明されるの?
吉備は、はじめから東海と交易する利点を意識し、マキムクを開拓したのか?
196 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 00:32:58.86
松木武彦なんかは、一代限りの楯築のオウを
倭面土国の帥升だとか言ってるらしいね。
で、楯築の帥升の後裔として、吉備と縁が深いトトヒモモソ媛が
次世代の倭王に祀られ、マキムクで即位したと云う。
>>194 土着が纏向作ったというなら、放棄が早い説明はどうしているの?
飛鳥の方が便利だった
マキムクが計画都市で短期間で放棄されたからといって、
必ずしも大和以外の外部勢力主体と考える必要はないと思うが。
大和川水系豪族、大和+中河内が主体となって、
三輪山祭祀の巫女を女王に共立したのがプレ大和王権。
他の豪族の土着っぷり見るとマキムクは特殊と考えるしかない。
201 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 18:09:41.93
>>199 自分もそう思うよ。
ヤマトが全国規模の王権ならば
そりゃ、ヤマト以外からも人や物が
首都のヤマトを目指して集まってくるわけだし。
最初っから集まってるのが特徴。
こっちにも貼っておこうwww
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110908/art11090820240006-n1.htm 死者再生祈願か 埋葬骨に水銀朱彩色 徳島・犬山天神山古墳
徳島県埋蔵文化財センターは8日、徳島市八万町の犬山天神山古墳に埋設された石棺から、古墳時代中期(5世紀後半)とみられる水銀朱の彩色を施した女性の人骨を発見したと発表した。
同時期の残り具合が良好な埋葬人骨の出土例は少なく、同センターは「当時の埋葬原理や被葬者像を考える上で重要だ」としている。
同古墳からは5基の石棺が出土し、埋葬骨を徳島大大学院の石村和敬教授が鑑定して、男女各1体を確認。ほか3体は残存状態が悪かったが、石棺内の床から水銀朱やヒスイ製の勾玉(まがたま)などが見つかった。
女性の埋葬骨は身長約150センチで、顔から胸にかけて水銀朱が塗られていた。
50代後半以上とみられ、頭部右側に生前に受けた刃物傷も残っていた。
当時、水銀朱は貴重で、魔よけや死者再生を願って塗られたとみられる。
同センターは「被葬者は祭祀(さいし)を執り行ったシャーマンや女性家長と位置付けられる」と推測している。
昔は代ごとに遷都してたからそのたぐいでは?
そのころ
207 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 18:01:12.04
今どれくらいまで発掘が進んでいるのかな。
未だ5%程度で、人家跡は出てこない?
高床式の後ばかりなんだろう?
要するに、マキムクには身分の高い人ばかりいた。
>高床式の
マキムクは湿気対策で造った夏用の王都なんですよ。
で、冬の王都は、どっか別の場所にある。
個人所有の田んぼや畑ばかりだから勝手に掘れない。
大規模商業施設やら都市計画道路とかでも建設されない限り、
マキムクの全貌はなかなか見えてこないだろう。
ただまあ、掘れば何かが出てくるのは間違いないし、発掘は施主負担だから
誰もやろうとはしないだろう。
山の辺の道の風景が守られるのは良いことだが。
唐古・鍵のような大規模居住地がないのは既に確定。
小規模なのが出るかどうかというところ。
212 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 01:54:52.16
出ない方が「特異性」を浮き立たせるがw
これはある有名な考古学者のM教授が言ってたけど、大阪球場をつくった時に、超巨大な貝塚があったらしい
今発見されているのとは比べものにならんくらいでかいので、かなり古い住居後とかあったが、当時の風潮で軽く無視され深く埋められたらしい
その教授は高松塚古墳に壁画がなかったら、今も考古学は人気なかっただろうとか言ってたよ
ちなみにその教授がいってたけど、大阪とか奈良とか水道管工事でも遺跡が見つかるらしい、でも、報告すると工事中断とかになるから、無視するらしい。
また、もう奈良とか京都や大阪は都市かしていて、でそうなとこはあえて工事しなかったり、いまさら、発見されたら、上に住んでる家はどうするんだとか、ややこしくて、きっちり調査できるケースが少ないといってたよ
この人、結構業界では有名だった方
それをいうなら「千日前」も撤去した墓場の下は貝塚だぞ。
明治期にああいう盛り場にしたが 墓場は撤去したが貝塚は埋めたままにしてある。
後日発掘することだってあるだろうと考えたのではなく 単にもうメンドかっただけ。
216 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 15:19:49.70
うん実は難波周辺にはかなり大規模な縄文弥生集落遺跡があった可能性があるそうだね
ただ高度経済成長時代と地下街開発という命題があったので
そのほとんどが破壊されたらしい
その一部発掘品が奈文研や橿考や阪大などにあるらしいが
何分発掘状況がはっきりしないとか、古墳群があったはずとか無かっただろうとか諸説入り交じっているので
あの辺りの古代情況は今後もわからずじまいだろうねえ
淀川周辺て仁徳天皇とか聖徳太子とかの逸話がおおいし、羽曳野とかは市内南部だけど日本武尊に関連する地名が、多いから、想像以上の考古学的発掘もありそうだよな
218 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 12:56:12.52
仁徳陵がある百舌鳥古墳群なんかがそうだね
戦後の宅地開発で100基以上の小中規模古墳の破壊が確認されているし
実は福岡でも小倉の八幡製鉄敷地周辺に、かなり大規模な弥生港湾施設があった可能性も指摘されている
まあ、結局のところ、考古学は残ってる物を語る学問だし、
残ってない物は語れない。当たり前だけど。
残ってない=無かったと単純に捉える専門バカがいるのが何とも。
三輪山祭祀にしてもそう。
禁足地を調査してないのに、三輪山祭祀は五世紀以降とか断言するし。
まだ出てないのは調査が足りないだけで必ず出てくるバカ。
いやいや、ある程度、冷静に考えてみてさ、
マキムクの立地が三輪山祭祀と無関係とかいう方がバカだよ。
考古学の限界性を知って、もうちょっと謙虚になった方がいいw
222 :
ひとぶた:2011/09/13(火) 00:48:12.09
>>221 じゃ、どの分野の知見から「纏向の立地」と「三輪山の祭祀」をお考えか?
いや、それは大神神社やら記紀の記述でしょう。
実際、そのあたりを否定する理由が分からない。
発掘調査可能な範囲で何の痕跡もないから…
225 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 20:57:59.83
マキムクの発掘調査は、まだ全体の5パーセントそこそこ程度と聞くが・・・・
考古学専門バカは、出土しない=存在しない、になるからな。
まあ、おめでたいというかw
227 :
ひとぶた:2011/09/13(火) 23:26:05.73
>>223 三輪山と大物主説話が出てくる「崇神朝」は、磯城とか軽の辺りを中心にしています。
大市墓と言われる箸中山が辛うじて纏向の領域にかかるかどうか(現在の区分では入らない)だと思います。
纏向が王都になるのって「垂仁朝」からですよね。
この垂仁時代になると記紀に三輪山はあまり出てこないかと。
今、纏向で発掘されている建物も方位的に三輪山を意識しているとは思えない。
要するに「纏向」と「三輪山」は近隣ではありますが、余り関係の無い土地なんじゃないですかね。
それに垂仁朝を実年代の何世紀に比定するかも微妙でしょう。
新羅の王子様なんかがやってくる時代とも書かれているわけだから。
考古学、てのは、常に新しい発見によって塗り替えられていく学問。
それはあくまで考古学の学問としての有限性を物語っている。
考古学ってのはあくまで「出土した物から推測する」だけの学問。
それ以外については「よく分からない」が正しい態度だろう。
229 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 16:55:45.34
考古学遺物なんていうのは
傍証資料と見なした方がよいのだが、
文献資料がない、あるいは少ないことをいいことに、
勝手に邪馬台国、卑弥呼妄想に耽る考古学者の多いこと。
文献資料をほとんど使わない広瀬氏みたいな研究の潔さを
見習うべきだな。
230 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 18:27:22.36
まあ「現時点では出土していない」事をだからと言って「可能性はある」で無限大に解釈して好き勝手言い出したら
考古とか文献とかジャンル以前に学問ですらなくなるわなwww
ちなみに「邪馬台国論争」なんてものが無かったら
ヤマト王権の発生時期についてももっと早くに現在の年代観に達していただろう。
(ここら辺はこのスレの人間なら同意していただけると思うが)
弥生末期「土師器」と呼ばれる広範な地域で斉一性の見られる土器が登場し
日本列島がようやく統一・連合に動きだしたというのは随分と昔に認識されていたのだから
(まあそれでも崇神の没年干支とか文献に引っ張られていた可能性はあるが)
この板で九州説の連中が必死に噛み付いている今の年代観は何のことは無い
文献(の分野から出てきた邪馬台国論争)に引っ張られてしまったのを是正しただけに過ぎないw
>>230 土師器の流通機構が発達したからと言って、
> 統一・連合に動きだした
とまでは言いすぎだろ。
縄文時代から日本列島の端から端まで
流通しているものはあるのだし。
233 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 18:46:33.39
纏向は、土器が各地のものが集まっていることから見ても、特殊な場所なのは
間違いないと思う。他にそんな場所はない。
突然現れたこと、ほぼ同時に近くの鍵唐古が衰退していること。
祭祀に関係する遺物が大量に出てくること。
共立された卑弥呼の祭祀に関係がある場所だった可能性は高いと思う。
住居跡が出ていないけど、奈良は古代から今まで続く集落がたくさんある。
大規模な道路工事や工業団地とかめったになく、田んぼに囲まれた
古くからの集落が今もそのまま残っている。
今の集落の地下に埋もれている可能性もある。纏向もね。
去年発掘した近所の元田んぼに、住宅地が出来て新しい家が建ったんだよな。
そこって調査した形跡がないんだけど、どうなんだろ?
234 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 19:28:23.03
>>232 まあ統一と言うのが語弊があるかもしれないが
無論それこそいきなり中央主権構造が成立したと言う話でもないし
土器で言えば確かに縄文時代であろうが列島を縦断するような広範な移動を見せる物はあるが
ここで言う土師器というのは先ず「地域色」が消えているのが特徴。
(平たく言えば規格化かな?)
単に移動・流通の範囲が広いと言うこととは別の意味がある。
無論前方後円墳のような大型首長墓が広い地域に見られるようになるといった事も含め合わせての話だが。
>>233 唐古・鍵は衰退したんじゃなくて、
環壕が埋められただけって人も最近は結構いるよ。
埋められた物を見ると、祭祀してたんじゃないかって人もいる。
236 :
水銀厨:2011/09/16(金) 00:36:47.92
>>235 少し衰退して復活してるよね。
他からの襲撃ではなく水害でやられて復活の繰り返し。
襲撃というか窃盗対象で狙われる事はあっただろうが。
環濠が埋められたのは鍵唐古が窃盗対象でなくなったのか、
河川水路が変更されたのか‥
237 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 10:43:27.46
唐古・鍵の環濠って水の無い環壕?
水のある環濠だとしたら、水害でやられるってどういうこと?
水の無い環壕って、奈良で掘れるの?地下水出てこない?
この一帯の水害のことを知らないのですか?
ただの市場じゃないかなぁ。
二世紀っていうと、博多に倭国王がいる時期だろ?半島は漢レンシ邑君か辰国ぐらいか。
倭国王が楽浪郡と日本列島との貿易窓口だから、マキムクは北九州からくる倭人商人を迎える窓口だって解釈はどー?
ややこしい事しなくても
楽浪で貿易して列島に運べばいいだろ
241 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 20:06:52.12
>>237 大和川の洪水でやられたんだろうね。明日香だって洪水でやられてる。
奈良盆地は洪水多いよ。
最近発掘している秋津遺跡も洪水で埋まったものが出てきてる。
纏向も、旧河川がいくつもあるから何度も洪水で埋まったり、川の流路が
変わったりしたんだろう。今のようにごっつい堤防があるわけじゃないから。
奈良盆地の真ん中らへんは、弥生のころは湖だっらしい。その周辺は
釧路湿原がもうちょっと水が抜けたくらいだったんじゃないかな。
ちょっと雨が降ると水が溢れ、大雨が降れば川の流れが変わってしまう。
鍵唐古は、弥生遺跡の中では低地にあるから。
神武が何故磐余なのか、初期大和王権が何故今の桜井なのかって言ったら、
良い土地はその辺しかなかったんだろうな。盆地の真ん中は釧路湿原状態で、
人が住んだり田んぼを作ったり出来るような場所じゃなかった。
南西部はすでに有力な勢力がいた。
>>240 現代じゃあるまいに、直接平壌に倭人が行くのは無理だよ。
たぶん、海岸線をリレー式に、港から港に物資を送るしかない。
魏志倭人伝に列挙されてる国々は、港町だね。
マキムクは内陸倭人の市場。
243 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 23:25:18.47
纏向に卑弥呼がいたかどうかは分からないけど、王権の地なのは
確かだと思う。
安本説も捨てがたいんだよな。特に平均在位年数については。
倭人の国が、大動乱の後、九州一帯と近畿を中心にしたのと、2つ出来て、
卑弥呼は九州で、その国はその後衰退した。
纏向を中心にした勢力(狗奴国?)がその後大和王権に繋がる。
ただ、そうすると、中国国書にあれだけ書かれた九州勢力は一体どうなってしまった
のかという疑問が残るし、逆に、卑弥呼の時代からそれほど時間を置かずに
かなりの勢力を持つようになった王権について、中国が何も情報を持たなかった
というのも不思議な気がする。
卑弥呼の時代は九州にいて、トヨの時に大和へ移った?
>>243 卑弥呼は中国と関わったから、結局落ちぶれたんだよ。豊は晋に挨拶に行ったんだよ。
晋が東アジアを一まとめに東夷なんてかかなけりゃ、詳しくわかったのにね。あちらの都合でしか記述しないもんね。
245 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 23:44:31.27
>>210 発掘は、以前は道路工事や宅地開発、工業団地造成のときに緊急調査として
するのがほとんどだったらしい。
ただ、今の纏向は、市長が熱心なんだ。市の学術調査で掘ってる。
地主に掛けあって、調査をさせてくれるところ、駐車場とか物置になってる所
とか休耕田とを掘っていくと思う。橋本さんはそういう意味で、幸せな人だと
思うよ。プレッシャーもすごいだろうけど。
>>241 上ツ道・中ツ道・下ツ道の話くらい
このスレの住人なら知っておろう
箸墓に柏原市芝山の玄武岩が使われていることから、
日本書紀の「大坂山の石を運んだ」という記述は
正しい歴史を伝えている可能性が高い。。
箸墓の被葬者が、初期ヤマト王権の女性祭祀者、ていうのは蓋然性がある。
だからといって、=卑弥呼にはならないんだろうけど。
マキムクが卑弥呼の都、というのは動かせないとしても、
マキムクの最初の王墓で、当時としては倭国史上最大の石塚こそが
卑弥呼の墓として相応しいと思う。
布留0を三世紀半ばと見るのはやはり苦しいし、三世紀後半と見る方が穏当。
箸墓=台与の墓というのが妥当ではないか。
邪馬台国のスレに行けよ。
マキムクを掘ってる橋本さんが、マキムクは邪馬台国の可能性が高い、
って言ってるんだよ。
橋本さんも邪馬台国の話は邪馬台国スレでやってるよ。
橋本さんはマキムクスレで邪馬台国の話するだろw
大体、文献を知らない考古学専門バカが隔離したがってるだけだしさ
252 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 09:32:30.36
>>246 ずいぶん時代が違うと思うんだけどな。
弥生の終わりから古墳時代のはじめには、そんな道はまだないでしょう。
253 :
日本@名無史さん:2011/09/26(月) 18:05:20.79
巻向、邪馬台国説というのは、
一部の結論ありきの論者が言っているのを、
マスゴミが大きく取り上げているだけで、
考古学根拠無し。
いわゆる「魏志倭人伝」の記述からでは、
邪馬台国は近畿よりも北九州説の方がより可能性が高い。
といっても近畿説よりも相対的に考古学上の遺物が多いというだけで、
正しいわけではない。
巻向、邪馬台国。箸墓、卑弥呼説はオウムみたいなカルト説。
しかしまた、北九州、邪馬台国東征説もまたカルト説。
>>252 そのずいぶん時代が違う頃までは
ズブズブで道どころじゃなかったって話
>>254 奈良盆地の中心部が旧大和湖由来の低湿地帶で、
奈良盆地は分断され、ひとつのクニではなかった。
つまりは盆地西部の葛城国と、東部の大和国。
大和川水系を通じて交流はあったが、あくまで別国だったのだろう。
狭義の大和国は盆地中央部が低湿地であったため、
山沿いの交易陸路を発達させ、それが山の辺の道、初瀬街道になる。
256 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 00:46:28.13
所詮「邪馬台国」なんて言ってしまえば”客寄せパンダ”だからなw
博物館が催し物をやる際、時代が重なるならお題にその文字を入れておけば客の入りも多少は違うんだろうw
その辺は九州だろうが関西だろうが同じだと思うが
鍵・唐古は盆地の相当真ん中だろ。
258 :
sss:2011/09/27(火) 16:18:56.43
日本書紀の神武東征には、近畿地方のいろんな地名が出てくる。
神武東征があったかなかったかは別として、当時の地理・地名を知る上で参考になるかも。
まず、河内国草香邑(現在の大阪府東大阪市日下町)にある白肩之津に到着。かなり内陸の港に
到着したようだ。徒歩で龍田に向かったが、道が険しくて進めず、戻って生駒越えをしようとする。
孔舎衛坂で長髄彦と衝突。苦戦して引き返す。
舟で南下し、暴風雨に遭って苦労しながらも熊野に到着。熊野の方から八咫烏に導かれて北上する。
菟田下県(奈良県宇陀郡)に到着。しばらくして吉野の地を見ておこうと出かける。狩猟民がいた。
高倉山に登ると、武装集団の八十梟帥(ヤソタケル)が見えた。磯城邑や高尾張邑にも八十梟帥がいた。
神武天皇は、天香山の赤土を取ってきて土器を作り、地元と同じような祭りをして馴染もうとした。
やがて、神武天皇は弟猾と共に、八十梟帥を襲い、これらを打ち負かす。
残党と仲良くしようとして忍坂邑(桜井市)に屋敷を建てさせ、歓待しようとしたが、勘違いして
部下が襲ってしまった。
磯城に移住するよい土地を見つけたが、磯城彦(複数)には、反対するもの賛成するもの様々だった。
弟磯城は味方になったが、兄磯城は敵対した。(日本書紀にはその土地の族長として兄弟がよく登場するが、
一貫して弟が味方で、兄が敵となっている。)
もめていると、長髄彦がやってきたので、一緒にやっつけてしまおうと考え、やっつけた。
層富県(大和郡山付近)、和珥坂下(天理市付近)、臍見の長柄丘岬(御所付近)には、勇猛だが好意的で
ない土蜘蛛がいたが、天香山の土で土器を作り、その地方の祭祀をすることにより馴染んでいった。
しばらくして、畝傍山の東南の橿原の地に高床式の屋敷を作った。神武天皇の一団もそれぞれの土地を得た。
道臣命は、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)、大久目たちは、畝傍山の西の川辺に住み着いた。
珍彦も定住し、倭国造となった。
人府天皇はここで初代天皇として即位した。
やがて、我々は天から降りてきた天神の一族である。地元の祭祀ではなく天神(あまつかみ)の祭祀を行おうと
いうことになり、自分たちの祭祀を始めた。
259 :
sss:2011/09/27(火) 16:22:40.62
人府天皇(タコヲフキコボスミコト)
初代天皇 八本の手を持つ三面の偉丈夫として「日本神代記」には描かれている 出身は蝦夷地であり
大和に西征して橿原で即位した
この天皇には様々な逸話があるが、西征の苦境にあたりピンクの猿がその先導を務めたという桃猿伝説が
特に有名である
261 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 17:42:35.73
>>258 神武の兄弟が全員死んだことも忘れるなよ。
長男のタギシミミも殺されてるからな。
262 :
日本@名無史さん:2011/09/27(火) 18:41:34.84
>>258 sss
纏向に関係ない与太は邪馬台国スレでやれ。
その記紀神話に拠る以上ヤマト王権は畝傍周辺から始まらなければならないが
言うまでも無く纏向は三輪に近い。
纏向をヤマト王権始まりの遺跡とするなら
神武・欠史八代は自動的に消滅。
神武東遷なんて夢のまた夢。
神武神話が雄略〜継体の頃に創作された、てのは、一部の記紀原理主義者以外には納得されていることだと思うが?
欠史八代の意味が何なのか?は分からないが、おそらくはマキムク王権以前の奈良盆地の神々の幻影(銅鐸祭祀)、てのが相場だろう。
要点は、崇神以降の記紀の記述と考古資料が親和的ということで、理化学年代から倭人伝の時代と近似しているという事実。
>>257 唐古鍵は大和川水運の船着き場として機能したんだろうし、
盆地東部、狭義の大和である磯城郡、奈良県北部や山背、
伊勢とかの瀬戸内海航路への窓口だろう。
そういう意味ではマキムクと近い、東日本側勢力の玄関口というか。
葛城はむしろ、河内や紀伊と近しい。
唐古・鍵は下ツ道の山側にある。
>>255 > 狭義の大和国は盆地中央部が低湿地であったため、
> 山沿いの交易陸路を発達させ、それが山の辺の道、初瀬街道になる。
なんてありえん。
そもそも低湿地のあるところで物流なら水運を使うに決まってる。
山辺道歩いたことすらないだろ。
奈良盆地の東西交通はそうなんだろうけど、
伊勢や吉野、奈良県北部や山背近江には陸路しかないのでは?
そもそも唐古鍵の立地は大和川水系の船着き場で、
水路から陸路に切り替わるところ
奈良北部は大和川水系がある。
268 :
日本@名無史さん:2011/09/29(木) 21:02:22.25
奈良県北部という書き方で混乱させてしまったみたいだね。
奈良盆地北部で読んでくれれば助かる。
不毛な議論は出来るだけ避けたい。
>>263 無から創作されたってことはないはずだから
なんらかの伝承があったと見るべきじゃないかな
雄略〜継体期から遡及的につくられたのは確かかもしれんとしても
>>269 川を全て水運に利用できるわけじゃないんだしさ。
なんか議論をすり替えてる気がする。
奈良盆地が低湿地だから陸路は発達せず、
水運を利用した筈?てのが君の意見じゃないの?
山の辺の道が古くより交易路として栄えたを否定するの?君は?
渋谷向山や行燈山は、山の辺の道を往来する人々に見せつける場所に
造られたと思うけど。
前方後円墳は文字が読めない民衆に王の偉大さを分からせるための装置だから、
人がいないような無人都市に造っても意味がない。
盆地の山裾の道が交易に利用されたなんて本気で言っているの?
古今東西そんな例があるのならば例示して欲しい。
歩けば相当のアップダウンがあって、
交易には全く適さないことが分かるはず。
山の辺、って山沿いの道としか考えられないけど?
それ以外にヤマノベノミチって名前がつくのかな?
274 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 21:27:27.95
ていうか、マキムクと佐紀が水路で繋がっいてるとかは、
寡聞にして聞かないがな。
膨大な量の鰭付円筒埴輪は、普通に大和川経由を想定されてますが?
276 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 21:49:49.34
いやだからさ、マキムクと佐紀を直接繋ぐ水路って何川なの?
冷静に考えて、奈良盆地中央部の湿地が乾燥して、中ツ道、下ツ道が整備されたんだろうし。
唐古鍵の時代に下ツ道は流石にないだろう。
奈良盆地の南北の交易路は山沿いの山辺の道が担ったと思うぞ。
278 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 22:17:32.58
奈良の遺跡出土状況はよくわからんが、
山沿い、川沿いのみちは、
住居跡などの出土状況でわかるんじゃないか、
と、北部九州人は思う。
肥満児が山辺の道を歩いたのなら、きっとキツかったとは思うが。
アップダウンがあってさw
たとえアップダウンがあったとしても、湿地帯を抜けるよりはマシだったということだろう。
例えば初瀬川沿いに伊賀を抜けて伊勢に至る陸路は、
東海への最短距離だが、家康公も人生最大の危難だったという程の険しい山道。
しかし、実際古代では対東海の主要交易路として機能していたことが分かってる。
古代人は健脚だったんだろうw
280 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 00:12:13.08
>>276 大和川水系の中の佐保川と秋篠川は初瀬川と繋がってるよ。
ただ、平城京を作った時に流路を変更してるだろうから、それ以前と今とは
違うところを流れていただろうね。
自然の状態で、あんな真っ直ぐになるはずがないし。
>>280 意味が分からん。
マキムクの人々は佐保川や秋篠川を水運に利用して、
佐紀に行ったということ?かなり遠回り過ぎないか?
桜井市から奈良市に行くのに、わざわざ大和郡山市を流れる佐保川利用とは、発想がぶっ飛び過ぎててついていけない。なぜそこまで水路に拘る必要があるのか?
引っ込みがつかなくなっただけならさ、そろそろ退散してくれた方がお互いのためだと思うよ。
時間の無駄。
283 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 00:54:45.92
それに、古墳時代でもまだ中心部は湖だったと言う説もある。
今だに大雨が降ると、川沿いは浸水の危険がある。
昭和になってからも、何度か水浸しになってるほど。
>>283 >それに、古墳時代でもまだ中心部は湖だったと言う説もある。
ないないw
最近の発掘では盆地中心部から縄文時代の遺物が見つかっていて
弥生時代に湖があったという説は否定されつつあるよ
毎度お馴染みのループですね
纏向にしても、微高地や低湿地が混在する土地を開拓したんだもんな
その微高地からは弥生初期の小集落跡も確認されているし
案外、万葉集の大和湖の歌は
数十年に一度の大雨で河川が氾濫して大変な被害が出ているのを
呑気に山の上から眺めて詠みましたという、不謹慎なものなのかも知れない
治水なんて出来てないだろうから
少し雨が降ると山沿いの平たい所はグズグズ
乾いた頃に別の所で降ってグズグズ
という具合に、乾期の冬場以外は常にどこかが水っぽくて
それなら麓を通ろうって事になった
と妄想してみる
288 :
ひとぶた:2011/10/01(土) 13:21:04.27
>>286 やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち
くにみをすれば くにはらは けぶりたつたつ うなはらは かまめたつたつ
うましくにぞ あきづしま やまとのくには
> 案外、万葉集の大和湖の歌は
> 数十年に一度の大雨で河川が氾濫して大変な被害が出ているのを
> 呑気に山の上から眺めて詠みましたという、不謹慎なものなのかも知れない
呑気で不謹慎ってw、詠み人は舒明天皇ですよw
それは、ともかく、この歌には「やまと」が二回登場します。
最初と最後でにですね。
最初の「やまと」は、天香久山に登る話ですので、当然に奈良盆地のこと。
そこから「国見」をするわけですが、村々での炊事でしょうか、煙の立ち昇り景色に満足し、
鴎の飛び交う姿に自然界のやすらぎ感じた。
あくまでも詠み人(舒明天皇)の眼下に広がっているのは、奈良の風景のはずですが、
国原の対語として海原を使ったころには、盆地を飛び立ち、あきづしま(天下)を俯瞰する視点に移行します。
そして、ラストへ繋がるわけですが、この二度目の「やまと」は奈良では無く、「国家」としての大和です。
では、当時の香久山の付近に「海原」を連想するような水面が有ったかと言うと・・・
『おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ』
と言う歌が万葉集に残されているように、平時でもけっこう水っぽいところだったようです。
まあ、沼沢地が多いからと人が住めないわけじゃないことの論拠でもありますが、
弥生時代、磯城あたりに大池があってもおかしくはありません。
>>287 マキムクで治水が出来てないないって、マジで言ってんの?
マキムクの知識ZEROな人YO!
290 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 13:38:29.44
唐子鍵の近くをトレンチ掘って調査したら、
割と浅い層から湖の堆積層が見つかるんで、
湖、湿地帯であったことは間違いない。
唐子鍵はかなりど真ん中に近いんで、
微高地だったのかねえ。
>>289 現説行ってるよ
水路との高低差が1mあるかないかなのにコントロールできないでしょ
平時はよくても豪雨なら間違いなく溢れる
>>290 それは湖による堆積層ではなくて
洪水による堆積層ではないか?
293 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 15:54:06.92
>>292 水中にあったと推測される粘土沈殿層や、
洪水の砂泥層など、何層にもなっていたと記憶している。
>>293 唐古は何回も洪水にあっている
粘土沈殿層だって洪水でもできるから
それをもって湖があったとはいえない
なにより唐古よりも標高が低い箸尾のあたりで発掘しても
長期間湖であったことによるものと思われる水成堆積が検出されていない
大和湖はあくまで仮説で確定ではなかった筈。
少なくとも弥生の頃に湖だったは有り得ない。
マキムクの話とは無関係に思うが。
「山の辺の道がアップダウンがきつく交易路だった筈がない」とか、
「マキムクと佐紀は大和川水系で往来してた」とか、
バカがいたから、大和湖の話題になってただけ。
昭和になっても山の奥地まで水運が発達したままだけどな。
水の上を船で運ぶのは楽だから。
298 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 15:37:11.16
>>288 その歌で対象とされているらしい、沼沢地あるいは湿地というのは
飛鳥のこと。
飛鳥はまず帰化人によって開拓され、
のちのその帰化人を配下においた蘇我氏が大規模に開発し、
後に宮を作る。
>>297 いや、だからといって山の辺の道を交易路として否定するのはおかしいでしょ?
その根拠も、単に君が「山の辺の道を歩いてみたら結構疲れた」
みたいな主観的感想だけだしw
水運が使えるところは使っただろうけど、
陸路がまったく無かったとかは有り得ないわけで。
300 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 02:13:38.57
まあ後の上ツ道みたいな物ができなければ物資の運搬ルート・交易ルートがなかった。
…と言うのはナンセンスだなwww
しかし重い物資を運ぶには水上輸送が楽チンであったろうことも間違いが無いと思うが…
しかし実際のところ例えば穀物を運ぶとしたら何に入れて運んだんだろう?
縄文時代イグサ科の植物で編んだ「ポシェット」みたいな物は発見されているが
植物繊維でできた俵や袋状のものがあったんだろうか?
土器に入れて船で運ぶにしてももう少し安定性の良い形のものが出てきてもいいような気がするが…
船の上でひっくり返りにくい「船徳利」みたいな感じでwwww
参考)適当にググった
http://kottou-tonbo.com/touki-syousai0003.html
米を運ぶなら麻袋じゃないかな。保存する時は壺だったんだろうけど。
>>301 壷だったら、ねずみ返しなんていらないだろ!
303 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 16:37:30.09
俵くらいあったろ?
304 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 16:51:44.82
305 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 17:20:28.83
奈良盆地の水運否定する奴って何が言いたいのか分からん。
普通に近代以前は江戸時代の関東も大阪も水運主体だったじゃないか。
鍵唐古の近くにある宮古の遺跡は、集落の地下に埋もれているから
あまり調査されていないが、弥生遺跡がある。
ここも周囲と比べ5mほど高い微高地。
同じようにしたんだろ。
別に水運を否定してるんじゃないよ。
「山の辺の道が交易路として使われてた筈がない、
なぜならこの前歩いたら結構疲れたから」
とか主張する馬鹿をからかってるだけ。
307 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 19:15:59.17
考えようによっては奈良が都として発展したのは盆地を南北に走る多くの河川による水運の利があったからかもな…
いわば「内陸の八百八橋」みたいな感じでwww
大和に限らずどこでもそうなんだけど
なぜ水量はあんなに少なくなってるのだろうね
下流の方なら、途中で使うから少なくなるってのはわかるけど
農耕地が減った地域では、河川が農業用水として機能することなく、
単なる都市下水路になり果てる訳で、
洪水しないように出来るだけ水量を減らすような河川工事になる。
要は、出来るだけ素早く雨水を海へ放水するために、
三面張りの矢板護岸で流水面積を稼ぎ、
河川の流路を出来るだけ直線にする。
>>309 河川に水が滞留しないようにしてるのか
>>310 このスレに関して言えば大和川
飲料用の小さな初瀬ダムはありますね
大和川本流でも田原本の途中あたりまではなんとかOK
龍田川・富雄川・佐保川・寺川・飛鳥川・曽我川などの支流はどれも舟で行けるほどの水量が無いんですよね
でも古代はおろか戦前までは
十石舟が流通を担ってた記録や船着き場跡などがあるんですよね
そして湖底都市へのループ
古代の大和の人間は半漁人
卑弥呼は人魚の末裔
だいたい、ヤマト(大和)っていう名前自体が、山処って意味で、
山懐に抱かれた内陸部のイメージ。
大和川って名前に引っ張られて、大和は河川交通で栄えていた、
とか混乱しているのかな?
ヤマトタケルも唄っている通り、青垣に囲まれて山に籠もっているのが、
少なくとも昔からの大和の国形だ。
一応言っとくが、河川交通を全て否定するつもりはないよ。
しかし、例えば中世の今井町は「陸の堺」と呼ばれ、
陸上交通で栄えている。
水運>陸運に違いないという思い込みが強過ぎるのではないか。
あと、山イコール不便で未開、という思い込みも強そう。
当時の山は生活資源の重要な供給地。
その山沿いの集落を結んだのが山の辺の道の最初だろう。
対するカワチ(河内)は文字通りの意味で、大和川水運と切り離せない。
>>315 > ヤマトタケルも唄っている通り、青垣に囲まれて山に籠もっているのが、
> 少なくとも昔からの大和の国形だ。
そうそう
ヤマトタケルは忍者みたいな戦い方をしている
伊賀とか甲賀とかは、ヤマトの生活風習の残像ではなかろうか
317 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 23:47:05.46
>>311 伏見の十石舟のような、底の平らな船だったら佐保川は奈良市に入っても
いけると思うよ。
渇水期は無理かもしれないけど、普段見てるとそこそこあるから。
318 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 00:20:39.01
いやまあ、古代日本は陸上交通が余り発展してなくて、
専ら水上交通がメインだったのは間違いないだろう。
古代豪族が水系ごとに同盟、やがてオウが生まれる、
ていうのが弥生後期の特定首長墓の発展のプロセスだろう。
これらのことは十分踏まえた上で、奈良盆地の中央部は低湿地に阻まれて、
大和(磯城)と葛城は別国だったと主張してるのだが。
古代の奈良盆地は、大和川水系の支流ごとに首長層の連合がなされ、
それらが後に大和の有力豪族になったということは事実だと思う。
しかし大和川水運だけの中心を言えば、
盆地西部の河合町あたりが川の合流点で、それに相応しい。
マキムクは上流過ぎる。
やはり、初瀬街道やら山の辺の道などの陸路と繋がる、
大和川最深部の船着き場、てのが正しい解釈だろう。
奈良盆地南西部が倭国の中心地足り得たのは、
東西交易の結節点だったからだ。
西からの物資が瀬戸内海、大和川の水運で運ばれ、
それが陸路に切り替わり東国に運ばれる、交易センターの役割が唐古やマキムクの立地。
逆の流れとして、食糧や労働者がマキムクに流入したのだろう。
今の知識で考えると分からないと思うが、昔は意外と上流まで舟で運んでるよ。
戦後も山奥の店では、仕入れの時に川の中を人が舟で押して荷物を運んだ記録がある。
滝は荷物を降ろして、舟と別に滝を超える。
巻向は運河の跡があるくらいだから、当時は意外と水位があったのかもしれない。
今は上水用と水田用の取水でどこでも水位が減っているから。
反論の意図が分からないが?別に水運は否定してないし。
マキムクの立地は、水路から陸路に切り替わる、
交通の要衝に王権が誕生したということ。
河川交通だけでマキムクは説明できない。
「マキムクは上流すぎる」ってのになにか根拠があるの?
大溝は何に使われていたって想定?
ヤマトが忍者集団なら
魏の使者に正確な位置情報など教える訳も無く
倭人伝が出鱈目になるのも当然なのだ
>>322 大溝は宗教施設という説もあるがw
まあ例え物質を運ぶ運河だったとしても、
マキムクが大和川水系のかなり上流なのは地図を見れば分かると思うがw
君が何に対して反発(感情的に、何ら根拠を示さずに)
してるのかが分からない。
具体的にどの箇所が、どのようにおかしいのか?
君が山の辺の道を歩いた感想はもういいからw
陸路全否定バカに何を言っても無駄。
大和川水運を掌握する場所として適切なのは、
上でも書いたが、盆地西部、大和川水系が合流する河合町あたり。
馬見古墳群の被葬者が大和川水運を担当した豪族であったのはそうだろう。
何度も書くが、マキムクの立地は東に寄り過ぎている。
327 :
ひとぶた:2011/10/16(日) 10:40:32.91
>>326 >マキムクの立地は東に寄り過ぎている。
纏向の建設主体が、新興勢力だったかじゃないの?
西側には既存の勢力が展開済みなので、遠慮して東側の空き地に展開した。
新興勢力の母体が「在地」なのか、「東海」や「河内」などの外部勢力なのかは別にして。
歴史の連続性を考えろよ。時間的地理的点と線で考えたほうがいいんじゃないか?
隣に重要な遺跡もあることだし。
どんな勢力がマキムクに新たに参加して、どうなっていくか。
壱岐の港の弥生遺跡から北九州以外の何処のものが出てきたか・・・
点々としか論議してない奴らには一生わからないだろうけどね。
ヤマトは忍者集団として
神代文字は忍法帳みたいなもんだから
門外不出でなかなか発掘が難しい
マキムクの勢力が気を遣った旧勢力って、唐古鍵?
個人的には、弥生終末期の転換って、
旧勢力に気を遣ってとか生易しいものじゃなかったと思うけどな。
近隣集落の環濠が一斉に埋め立てられたり、
かなり政治主導が色濃いと思う。
巨大な計画都市を造営するにあたり、聖なる山、三輪山近くに広い空き地
があって、そこが選定されたという単純な話で、
旧勢力に気を遣って、とかはなかったと思うな。
332 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 19:24:14.88
ヤマト王権が誕生した頃、葛城勢力はどのような立場だったんだろう?
銅鐸やらサヌカイトなど、古くから栄えていたのは分かるが、
肝心の(このスレでは)マキムクとの関係が見えてこない。
四世紀後半以降で言えば、大和と葛城の二頭体制なるのだろうけど。
333 :
ひとぶた:2011/10/16(日) 20:08:41.34
>>331 纏向の場所が、広い空き地で、造営適地だったのは、そうでしょうけど、建設開始時には、まだ、大和庄内も登場していないし、
唐古などの旧集落も健在で、盆地内の政治構造が急転するまでには若干のタイムラグが有ると思います。
つまり、当初の力関係は、旧集落>纏向で、纏向Uあたりに勢力逆転の画期があるのではとも思います。
三輪山信仰との関係も、近いと言っても正面を外していて、微妙に「聖地」を避けているように思います。
なので、「気を使って」と言うイメージがわくんですね。
334 :
ひとぶた:2011/10/16(日) 20:58:30.45
>>332 >四世紀後半以降で言えば、大和と葛城の二頭体制なるのだろうけど。
そうですかねえ・・・
馬見古墳群を葛城と結びつけて善いのかどうかわかりませんが、
初期古墳を比べると、盆地東側の勢力の方が大きいように思いますが。
>>333 要は、マキムク発生において、
「交易が先か」「マツリゴト(宗教=政治)が先か」の議論ですよね。
「交易が先」論者は、阿讃播の東瀬戸内地域や吉備が東海との交易を求めて、
大和川最上流、東国との玄関口である奈良盆地南東部に、
共同して交易拠点を造営。その後にオウが誕生した、という仮説。
マキムク1類と2類の間には確かに画期があるのでしょうけど、
長く見積もってもせいぜい二三十年。
交易から王権の誕生したというには、短期間過ぎるように思うのですが。
ヲシテ文字は、後世の忍者のオキテに通づるのである
337 :
335:2011/10/16(日) 22:24:40.97
あとまあ、私は畿内説なので、倭人伝を積極的に援用させてもらうとw
マキムク1類の時点ですでに卑弥呼が擁立されていたことになります。
今有力な絶対年代で言えば。
マキムク最初のオウであるところの卑弥呼が死んで、
マキムク最古で、当時ではずば抜けて大きいマキムク石塚が築かれたと。
卑弥呼の在位は長かったみたいだし、マキムク開始から石塚築造までの期間は
卑弥呼という1人の女王がマツリゴトをしていたんではないでしょうか?
338 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 23:37:50.47
石塚が卑弥呼の墓なの?
339 :
ひとぶた:2011/10/17(月) 00:01:19.74
>>337 石塚の被葬者は、既に特定すべくも無いところですが、
学者さん達の言質を信じて、纏向最古の王墓だとは考えています。
理化学年代の進展で、箸墓が三世紀半ば、とか言われ出してるからなあ。
マキムク開始も二世紀後半、石塚が三世紀初頭。
箸墓以前の4つの古墳、石塚勝山矢塚東田大塚も違う捉え方をされてくる。
卑弥呼共立の功臣が次々に葬られた、とか。
近藤先生が言う首長霊祭祀で考えれば、そんな馬鹿なことはない。
古墳の性質を考えれば、オウより先に臣下が古墳に葬られた、
という想定自体が有り得ないだろう。
後代の古墳のあり方を考えれば、首長が神になって共同体を見守る、という信仰があって、
その宗教的権威を、文字が読めない民衆にも分からせる装置こそが古墳。
交通の便が良い場所や、山の尾根の突端など、共同体を見守る位置に築かれた。
箸墓を卑弥呼の墓とするなら、それに先立つ4つの古墳は、卑弥呼の前の
男の先王たち。つまりは倭国大乱の時期に想定されるべきだろう。
342 :
www:2011/10/17(月) 22:10:04.38
西日本、畿内だけで考えれば大和は河内の後背地だが
日本全体を見れば東西の接点でそこから交易都市の姿を描く…と言うのはもう散々繰り返されてきている話だがwww
自分としては纏向の「発生」と「発展」は分けて考えた方が良い様な気がする。
つまり集落の発生自体は弥生集落として始まったもので
それがある時期にそれこそ東西の接点として特異な都市に変貌したとw
根拠と言うほどではないが…
(1)纏向と言えば搬入土器(外来系土器)の多さが最大の売りだがwそれも纏向123…と段階を踏んで増加している。
(2)纏向の土器は庄内より1式分先行する
(「庄内0」を引き伸ばして「纏向1」に当てるのは疑問、だったら纏向0も想定可能とちゃうんかとwww)
(3)よく勾配のきつい扇状地で農耕に適さない云々の話があるが
盆地の青垣地帯寄りにある遺跡として布留遺跡や芝遺跡もあり(地図で標高は確認していないw)何も纏向が盆地で孤立した位置にあるわけでもないし
また高槻の古曽部・芝谷遺跡は高地性集落ながら環濠も備えていたと言うから標高が高いからと言って人が住めないものでもないのだろう。
そもそも食料体系の問題で米で腹いっぱい食えるわけもなく堅果類、山菜や果物、時には狩猟による動物等々「山の幸」に負う所が少なからずあっただろうし…
これが証明されるとしたら「始まりの纏向」とでも言うべき集落が最下層から発掘されなきゃならんのだろうが
まあ夢のまた夢だなwwwwww
>>342 マキムクが大和の自生勢力から誕生したとするなら、
まあそれでもいいんだけどね。
私自身は唐古鍵の人々が中心になってマキムクを造ったと思っているのでw
ただまあ、あなたの言うようなマキムクの古層に弥生遺跡が例え見つかったのだとしても、
唐古鍵とそう大差はないと思うのだけれど。
特定首長墓の発展が見られない大和にあって、突然巨大土木工事が行われるとか、
かなり特異なことだと思うよ。
344 :
342www:2011/10/17(月) 23:04:00.14
>>343 しかし考古学的にある集落から(近場の)集落に集団移住したと確認されている事例ってあったっけ?
それも結構ハードルが高い気がするwww
いやまあ、唐古鍵とマキムクは直線距離で五キロ程度だし、
ないこともないんじゃないか?と思うが(根拠はなく可能性としてw)
てか、歩いて一時間ほどの距離で別勢力が並び立っていた、
てことの方がなかなかない話ではないか?w
マキム遺跡自体がかなり広大で、2キロ×1.5キロあるわけだし、5キロなんて近距離だろうw
特にマキムクが政治=宗教都市の色合いが強くて、
西日本を統べる新たな大王の都として新たに造営されたと仮定するなら、
強ち無理な設定ではないのではない、とw
銅鐸を壊すという宗教改革が畿内を中心に起こって、
新たな宗教、てのが大陸由来の神仙思想、やがて古墳祭祀に繋がるという流れw
弥生後継なら銅鐸は壊さないだろうw
346 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:44:21.02
更に言えば、唐古鍵も交易拠点として弥生時代を通じて栄えていたわけで。
大和川水運の船着き場としての地勢は、マキムクと唐古鍵は大差がなく、
なぜ突然マキムクだけが勃興し始めたか?の理由が分からない。
要は交易だけでは説明できない。
あるとすれば何らかの政治的理由が介在したのだろう。
ぶっちゃけて言えば倭人伝でいうところの倭国大乱があって、
乱後、新たな宗教的権威、政治権力として生まれたのがマキムク、
というのが妥当な線w
唐古鍵と比較しておいて、勃興の理由がわからんとは・・・
いやだから、マキムク勃興の理由は交易というより、
政治的・宗教的理由が強いと言いたいわけ
纏向の辺りは柳本古墳群と比べると奈良側はさほど差がないが、
東海の方へ山を超えた後の交通の便、特に水利がかなり違う。
初瀬街道は、名張川、木津川本流から青山高原を抜けてる。
木津川から山城に抜けるには柳本の方がいいが、佐紀には負ける。
350 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 19:54:09.31
>>346 倭国大乱は、もろ王位継承争いでもある。
記紀でいうところの、欠史八代のあたり。
それまで、倭国の政体は、
祭祀を行う倭王と、それを補佐し、実際の政治を行う執政の
二元体制がだった。
倭王を継承する王統と、執政を継承する王統があり、
両者は兄弟から分かれた家系だった。
前者が火明命の男系子孫が継承し、後者をニニギ命が継承した。
351 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:07:36.44
倭国大乱の前、つまり、欠史八代の前までは
倭国の中心地は、葛城、旧名は高尾張と呼ばれていた地域だった。
それが、倭国大乱後、つまり、欠史八代の後半ぐらいから
倭国の中心地は、三輪山の麓の山処(やまと)に移行した。
ここで倭国の権力構造が大きく変わった。
倭国大乱以前、欠史八代前半までは、火明命の嫡流の子孫たちが
倭王の正当な祭祀を継承し、実際の政治をニニギ命の子孫たちが行っていた。
それが、倭国大乱以後、欠史八代後半からは、
火明命の子孫たちは濃尾平野に追放され、
ニニギ命の子孫たちが祭祀も政治も掌握し、正当な倭王として君臨した。
ただし、これに不満を持つ勢力が各地、とくに東国に存在し、
倭国は完全には統一されていない時代が続いた。
また、ホアカリ馬鹿の自説開陳が延々と続くのかw
馬鹿馬鹿しい。
結局根拠は記紀だけ、という。
マキムクスレは考古学重視なんだから、入ってこなくていいのに。
353 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:41:45.11
>>352 考古学上も、葛城から三輪山へ中心地の移転が
大々的にあったんだけどねw
355 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:46:37.60
>>353 明日仕事休みなんで相手してやろうか?
逃げるなよw
それでは第一問。マキムク前の葛城の遺跡って何?移転したという根拠は?
356 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:53:16.20
秋津遺跡に3000www(1000www=1ジンバブエドル)
357 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:57:13.49
秋津遺跡、マキムク前という根拠は?
358 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 21:08:29.79
もう打ち止めか。
ネットで一生懸命探してんだろうけど。
残念ながら、秋津がマキムクより前で移転したとかの根拠なんて
記紀以外にはないんだけどな。
ホアカリ馬鹿は、せめて自説を垂れ流すんではなく、
きちんと相手と会話ぐらいしろよ。
チラシの裏でなく、掲示板で書く意味を考えてね。
>>340 > 卑弥呼共立の功臣が次々に葬られた、とか。
> 近藤先生が言う首長霊祭祀で考えれば、そんな馬鹿なことはない。
大和古墳群についてはどう考えればよいのだろうか。
西殿塚・行燈山・渋谷向山という箸墓に後続する大王陵の周囲に築かれた前方後円(方)墳は
いかなる地位にあった人たちの墓なのか。
とくに中山大塚は築造時期が箸墓古墳に先行すると考えられている。
また、当の近藤さんは纒向石塚をはじめとして、纒向型前方後円墳が箸墓に先行するということを疑問視しているが。
ホケノ山が箸墓に先行するとすれば、その埋葬施設からみて、
被葬者は東部瀬戸内に出自をもつ集団の首長クラスの人物だと想定することもできる。
他の纒向型前方後円墳の被葬者も同様に自己の統率する集団の首長なのではないだろうか。
361 :
358:2011/10/18(火) 21:23:08.04
ホアカリ馬鹿みたいな、不用意に記紀を持ち出す馬鹿がいるから、
心ある人は記紀アレルギーになるんだよ。
系図とか記紀読んでて僕はこう考えた!とかさw
仮説の上に仮説を重ねた自説を延々と長文で書くのなら、
自分でホームページを立ち上げればいい訳だし。
2ちゃんねるで書く以上、そういう狂信的排他的態度で書き込むのではなく、
「複数の人間で検証していこう」的な、謙虚な態度が学問板には相応しい。
ホアカリの話は、ホアカリなだけに、そろそろヲハリにしようか。
364 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:00:21.50
>>359 何を言っているんだかw
秋津遺跡って、曲学の徒さんとかいう人の説でしょう?
あれは、たしかにピントがずれているね。
尾張氏や海部氏に着目したまでは良いけどね。
でも、それだけだ。
365 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:04:28.15
ふーん、それで?w
考古学的根拠はまだですか?w
ホアカリ馬鹿が
まさかの9回サヨナラ逆転満塁ホームランを打つことに期待。
大いなる愚鈍のパーシバルこそが愚鈍であるが故、聖杯を発見できたように。
367 :
ひとぶた:2011/10/18(火) 22:49:15.20
>>366 多分、秋津遺跡でも、板塀遺構のことを言ってるのでしょうね。
布留1期の遺構でしょうけれど、布留1=1C中葉と言う見解なんでしょうか?
そうすると庄内はBC末開始になってしまいますけど。
葛城地方が弥生後期の昔から栄えてた、とかならまだ分かるけど、
葛城→巻向に大々的に移転とか、流石にないだろw
何をどこで勘違いして、そんなことを言い出したのか?w
内容は噴飯物だけど
移行と書いてるだけで(物理的)移転とは書いてないね
枝葉末節をつつかないといけない論でもないと思うけどな
>>349 初瀬街道を言うなら、マキムクより磐余が適地かと思うがな。
桜井茶臼山、メスリ山があるし。柳本と並立していた王権という説もあるし。
マキムク、柳本、磐余、佐紀の関係はどのように考えてる?
>>360 近藤先生の説は箸墓が最古っていう前提で成り立っているので、
今となっては難しいのかな、と。
前方後円墳の定形化(布留0以降、吉備の影響を加味)を重視する向きもあるが、
やはり畿内最初のマキムク石塚のインパクトには適わない。
マキムク当初は畿内連合体制だったのではないか?
葛城佐紀磯城河内磐余阿讃播あたりの首長たちが、
地球的規模の寒冷化(倭国乱)を契機にブロック経済化、
連合したということ。
各地の首長たちは当時流行りの神仙思想を連合の中心に据え、
それに基づきマキムクを造営。マキムクに集まり政治と祭祀を行う。
やがて死んだ各地のオウたちはマキムクで葬られる。
それが石塚勝山矢塚東田大塚ホケノなど。
箸墓の時にマキムク王権が全国的に飛躍、
要はマキムクの女王が倭国の代表、倭王に選ばれた。
373 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 13:06:50.88
弥生終末期に起こった、筑紫から大和へのパラダイムシフトを
どう考えるか?だと思うけどな。
昔は白石の、ヤマトによる鉄ルート奪取が言われてたけど、
村上論文を読む限り、古墳時代以降も、鉄に関して言えば、
筑紫>大和は変わらず。
現在はヤマト王権の誕生に、鉄は重要なファクターではなかったとされている。
本当にそうか?
374 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 14:48:30.05
漢が滅んで九州が弱体化したから、九州のほうから近畿のヤマト王権にすりよってきただけだろ。
なんでこんな簡単な事がわからんのかな。
そんな当たり前の答えを自信満々に書かれてもw
例えば倭国は後漢の後、三世紀初めに遼東の公孫氏に属するんだけど、
大陸からの近さ、アドバンテージを考えれば筑紫>大和。
鉄器を見ても筑紫の優勢は変わらず。
筑紫の遺跡も古墳前期末まで相変わらず存在していて、
衰退したようには見えない。
筑紫のオウが大和のオウの下風に立ったようには思えず。
寺沢などは筑備讃播と、マキムク開発の初期勢力の中に筑紫を入れている。
正しいかどうかは別にして。
376 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 17:45:08.16
>>375 2世紀には奴国よりイト国が隆盛して、イト国は平原を最後に滅んだのでは?
377 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 19:48:54.52
>>375 >寺沢などは筑備讃播と、マキムク開発の初期勢力の中に筑紫を入れている。
筑紫を入れないと畿内説が成り立たないからだろう。
筑紫を入れなくても、弱体化した筑紫にヤマト連合が圧力かけたで十分説明できるはずだが。
いや、だから、筑紫が弱体化した、というのは何故なの?という疑問なんだが。
379 :
www:2011/10/19(水) 19:54:22.62
「弱体化」という以前に
そもそも九州にそんな大きな王権構造があったのか?と言うところから疑問なんだが・・・
380 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 19:58:39.32
白村江で筑紫の守、サツヤマが捉えられるほどの大敗北、
筑紫に唐の軍勢が駐留されるほどの大敗北で、
九州王朝の支配階級は事実上消滅する。
それをみていた畿内勢力は国家としての整備を急ぐ。
九州王朝の生き残りがだいぶそっちに入ったのかもしれない。
それ以前は、遠いこともあって、互いに自由な関係にあった。
戦をするのは、軍勢を送れる近距離の隣接する国同士。
九州と畿内では、戦をしたくてもできるものではない。
筑紫に王権構造があったか?という疑問より、
弥生中期以降、筑紫以外の倭国で王権の萌芽発展が見られるか?
の疑問の方が・・・
突然マキムクに王権が誕生したとか考えてる?
382 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:25:16.14
>>381 四隅とか盾築とか知らんの?ばかだなあ。
いやだから、そんなことは知ってるよw
そんなことも知らないヤシはこのスレにはいないだろう。
四隅や特殊器台は王権と評価するのに、
それに先行する筑紫は過小評価する理由が知りたいなw
384 :
www:2011/10/19(水) 21:55:43.55
つまるところ「王権構造とは何か」と言う定義の問題になってしまうんだろうが
単純に「ヒエラルキー」と言うなら環濠集落にも王権構造を見ることができるって話にはなるw
まあそれはそれで厳密な意味で間違いでもないのだろうがwww
ぶっちゃけた話個人的には
平野とか水系とか地理的なブロック形成の範囲を超えて尚且つヒエラルキーのようなものが形成されたと言う痕跡が欲しいところw
自分がいつも古墳に、中の副葬品や単純な大きさ以外に広範な地域的広がりを重視している理由はそこにある。
そう言う意味で前方後円墳の広がりは少なくとも王権の出現の前の地ならしベース作りにはなっていると思う。
で、九州の場合にそんなものがあったのか?と言うのが疑問なんだが…
385 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:59:55.69
>>383 >それに先行する筑紫は過小評価する理由が知りたいなw
九州の墓制は継続的に発展してないじゃないですか。
386 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:07:09.92
いやまあ、俺の書き方も悪かったんだろうけどw
筑紫の王権を否定しちゃったら、倭国のどこに王権誕生してたって言えるの?
という意味。反語表現なんだけど難しかったかな?w
四隅とか楯築とか当たり前のことを改めて教えられるとは思わんかったよw
387 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:20:44.66
筑紫の王権が平原以後続いてないのに、
筑紫>ヤマト王権みたいなことを言うからでしょ?
388 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:21:25.85
宮崎の古墳群はバリエーションが豊富で、
変化の過程とされる中間的な形状の古墳も多数見られる。
宮崎では結構継続的に発展していったんじゃないかね。
土器の形状の変化で作られる土器編年のように、
宮崎の古墳編年ができそうな気もするのだが。
北部九州は、古墳時代まで、そんなに古墳に興味を持っていなさそうで、
大型古墳に執着してない。大型古墳ができるのは、
古墳時代に入ってからだね。
>>371 > 今となっては難しいのかな、と。
纒向石塚の築造時期は石野・橋本ら古くみる論と寺沢の庄内3とみる論があり、いまだ確定をみていない。
ホケノも小型丸底壺が混入ではないとされて、土器編年をみなおすといわれている。橋本はもとから布留0とみている。
東田・矢塚・勝山は周濠出土の土器は纒向4類だし、東田・勝山は前方部が長く、纒向型という分類に当てはまらない。
などなど、箸墓に先行する纒向型前方後円墳、という概念はいまいちど洗い直してみる必要があるんじゃないだろうか。
> 前方後円墳の定形化(布留0以降、吉備の影響を加味)
吉備の影響が布留0以降とするなら中山大塚の築造年代と矛盾する。
中山大塚の築造年代は庄内式土器の出土から推定されているのだから、
これを認めれば特殊器台は箸墓以前にヤマトに出現していたことになる。
(吉備の影響=特殊器台の出現=中山大塚の埋葬)が布留0=箸墓以降ならば、土器による築造年代の推定に疑問符がつき、
石塚・矢塚・勝山・東田の築造時期に対しても同じ見方をしなければならなくなるんじゃないか。
>>385 おいおい、逆だろ。
筑紫は弥生中期の頃から
一般人とは別の場所に墳丘墓が築かれ、
大量の副葬品が見つかってる。
弥生後期の畿内で首長権力の進展が見られない、
って主張はよく聞くが(真偽は別にして)、
こんな訳の分からない反論を言われたのは初めてw
このレベルの低さは考古学無知のホアカリ馬鹿か?
391 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:34:38.82
>>387 だからーw
弥生終末期に筑紫から大和にシフトしたと思われる、
って書いてるだろ。よく読め馬鹿。
392 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:37:05.74
素朴な疑問なんだが…
箸墓以後のいわゆる定型化された大型古墳とそれらに先行する纒向型と言う前後関係を見直したら
三角と画文は一体どうなるんだ?ほぼ同時出現?
>>389 周濠の土器は後の時代の混入が考えられるから。
私は石野先生派だw
古墳築造後も、周濠でかわらけを使った祭り(神=首長霊との共食儀礼)
が行われていたと想定すればいいんじゃない?
神事や宴に使われ土器は一回使ったら捨てるし。
その習俗はかわらけ投げなんかにも残っているとw
周濠から出土する土器は、その量の多さから見ても、
祭りに使用された土器という推測が妥当だろう。
土器を使った祭りといえば、共食儀礼というのもそう。
議論の別れるのは、その祭りが古墳築造後の一回きりで行われた、と考えるか
築造後何十年も継続して行われたのか?
古墳が神社になって信仰対象になってるケースも多いし、俺個人は後者かな。
>>392 いわゆる「交易が先」派からすれば、
マキムクでの王権誕生は遅ければ遅いほど都合がいいんだろうw
私個人は政治主導派なんで、箸墓はマキムク最初の王墓ではなく、
それに先行する王墓があったと考えてるが。
石塚も古く見積もってる。
やはり三角縁が出るのが布留以降の古墳、てのが大きい。
396 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:36:56.71
>議論の別れるのは、その祭りが古墳築造後の一回きりで行われた、と考えるか
先ず継続して祭祀が行われたと見るに使えそうな材料としては
ホケノの周濠なんか前方部のところが極端に狭い。
あれって丸太橋でも渡せば中に入っていけるんじゃないか…とか
あとホケノの直ぐ近くと言うより一部重なっている例のw堂の後が5世紀なら
やはりあの周辺で祭祀は行われていたのだろうと。
で逆に祭祀の継続を難しくする材料としては
特にその祭祀が墳丘内で行われたとするなら
木槨の天井部が崩落(外から見たら陥没)したら祭祀も何もないだろうとw
祭祀の場に使えるのも賞味期限があるのではないかとwww
397 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:42:55.08
筑紫が大和に取って代わられたのは、
二世紀半ばのグローバルな冷害で、穀物の価格が急騰したから。
耕作面積が広い平野を後背地に持つ畿内東海が台頭。
逆に筑紫が優位性を持つ鉄は、相対的に価値が低下。
筑紫は頭を下げて大和から米を買うという事態に至った。
398 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:47:42.85
食料ネタなら、むしろ干ばつではなかろうか。
干ばつなら、九州は水不足となり、不作になる。
畿内東海はむしろ豊作になる。
いやそういう可能性の問題でなく、
実際グローバルな寒冷化が起きたことが分かっているらしい。
西洋ではローマ帝国が、中国では後漢が衰退。
日本では倭国乱。
400 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 00:55:17.27
寒冷化はむしろ、九州有利になりそう
寒冷化でダメージを受けるのは、
関東東海
401 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:57:21.52
>>400 九州が被害受けたから九州に戦乱があった。
近畿に戦乱は無い。
九州の戦乱が倭国大乱で、近畿の卑弥呼が食料援助して解決。
常識だろこんなこと。
402 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 02:02:09.30
しかし、歴史上寒冷化で九州が大した被害を受けた
ことはない。干ばつで水不足ならかなりあるが。
つまり倭国大乱は高温干ばつが理由なのではないだろうか。
403 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 02:45:43.88
>>402 >しかし、歴史上寒冷化で九州が大した被害を受けたことはない。
どういう根拠があってのことかね?
九州に飢饉があったのは文献にも残っているが。
讃岐の土器が播磨で出土するようになる事を考えると、水不足の可能性の方が
高い気がする
405 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 10:21:39.54
九州で被害を受けるほどの寒冷化なら、
畿内、東海は悲惨な状況になるのではあるまいか?
406 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 16:42:02.11
近畿は農地が広いから致命傷にならない。
407 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 16:53:12.43
昨年は九州は高温化で被害受けたな。
秋になってもドングリが落ちてこないのは初めての経験だった。
また、木によっては葉が落ちるのが早くて、枯れたかと心配した。
日光が強すぎて、葉が持たなかったらしい。
昔なら、飢饉だな。
筑紫は、第一次産業に携わらず、交易に従事するような
余剰人口を多く抱えていて(都市化が進んでいて)、
穀物の高騰が大ダメージになったのだろう。
結果、畿内や東海のような内陸部、広い農耕地を抱えたクニが発言権を増した、と。
弥生以降の国の力は、平野面積で決まる、ってのを思い出したわ。
最初は北部九州の筑紫平野と福岡平野
つぎは、畿内と東海地方の平野
最後が関東平野に支配権が移る。
筑紫平野だって吉備、大和に比べて遜色ないはずだけど、小国分立だったんでしょ。
田舎の大国が強国になるのはよくあること。マケドニアとかアメリカとか。
>大和王権については移民勢力A、移民勢力B、土着日本人が一体となったものだとする話がある。
>土着日本人同士による勢力争いが続いていたところに移民勢力Aが上陸して自分達の生活拠点
>を確保すると、やがて、土着日本人と移民勢力Aとの間にも争いが起きた。この頃がいわゆる大
>乱であり、これを治めるために各勢力の長が妥協を重ねて連合国家構築のために1人の王卑弥
>呼をやむなく擁立することで安定した国家が樹立された。
>しかし、この初代の王の死によって再び国が乱れ不安定な情勢に陥った。この第一次の連合国
>家の後期の王位継承において、男王に次いで壹與を充てた事実は王を巫女の系列に戻して再度
>安定化を図ろうとしたことを示すものであり、これは初代の王の死後、国家の安定的運営に失敗し
>た可能性を意味する。
>幾度かの王位継承が行われても安定しない情勢の中で偶然に時期を重ねて移民勢力Bが九州に
>上陸し九州内に陣を張った。やがて移民勢力Bは東征を開始し政治的混乱の中にある既存の連合
>国家との交戦及び対話を経てその支配権を獲得した。これにより再び安定した国家としての第二次
>連合国家が構築された。
>第一次連合国家が不安定な状態に陥りその状態が続いたことが移民勢力Bの進入及び攻勢を一
>層容易にしたものと考えられる。こうして、第一次連合国家の役割が第二次連合国家に引き継がれた。
>第一次連合国家は土着日本人による文化の土台の上で移民勢力Aの影響が及ぶ巫女の系統を王
>とした畿内の国家であり、第二次連合国家は第一次連合国家の文化的背景の基礎と統治地域を引
>き継ぎつつも移民勢力Bの文化によって支えられた系統を王とした国家である。この話によれば古代
>史を違和感なく整理できる可能性が高い。なお、移民勢力A、Bはそれぞれ異なるルートから日本に
>到着したがどちらも朝鮮半島の民族ではないという。
そのB勢力って、いったい何を想定してるの?
東遷したとか。
応神なのかな?
移民とかwww
弥生人は縄文人の奴隷。
その証拠に多くの現代人のY遺伝子には古来からのものが残っている。
農作業みたいなもんは奴隷にやらせるだろ。アメリカみたいにね。
>>413 どうでもいいけど、このご時世でそのどうでもいいこだわりはなんなんだ?
血なんて千年万年の間に混じりに混じりあってるに決まってるだろうが。
体毛が濃くてだんごっ鼻でギョロ目な自分の姿をただただ肯定したいのか?
415 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 08:46:47.26
日本人って母方で見たら、南中国人の血が濃いけど
父方で見たら、アイヌとほぼ同じパターンらしいね。
416 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 08:48:59.97
日本で、纏向の前に大規模な都市があったすれば、
それは葛城のほうだろう?
このへんは、むかし、高尾張と言われていたみたい。
高がとれて尾張になった……か
418 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 15:25:17.37
>>417 そうですよ。高尾張、高鴨、高天彦、と言う具合に『高』が付いている
葛城地域。
419 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:07:11.42
>>418 高尾張邑(奈良県御所市〜葛城地域)
身長が短く手足が長く、小人のような土蜘蛛がいたというところだ。
葛城という地名も神武天皇の時代につけられたようだし、
土蜘蛛のいた土地の名称が、
葛城勢力や尾張氏の名称のルーツになるところが面白い。
いったいどないや中年。
420 :
www:2011/10/21(金) 19:03:20.92
>>345 >銅鐸を壊すという宗教改革が畿内を中心に起こって、
>新たな宗教、てのが大陸由来の神仙思想、やがて古墳祭祀に繋がるという流れw
まあ他のスレでも銅鐸の話が出たんで、ここでもその意見には疑義を呈しておこうかな?w
先ず大前提として銅鐸の祭祀がいつまで続いていたかだが…
徳島の矢野遺跡の物が見る銅鐸の最後も最後、突線鈕5式(より細かくは5I)共伴の土器から庄内の手前。
まあこの頃までに終焉したと言うのが大方の見方だと思うが
更に肝心のヤマトは「聞く銅鐸」で既に祭祀のピークは終わっているよな?
破砕事例が数件あったとしてそんな劇的な宗教改革劇を想定しうるものでないと思うのだが…?
むしろ銅鐸の埋納の一回目のピーク「聞く銅鐸」が埋納され
以後「見る銅鐸」もあまり造られなくなった(出現する地域は近江、三遠、紀州に移る)その時点での社会構造の変化に注目したい。
纏向の登場もその変化の先にあったものではないかと…
畿内が銅鐸を棄てた時期の考え方の相違なんだろうね。
もし仮に畿内が見る銅鐸の中心地じゃなかったら、
X様式の畿内の発展が説明できないというか、昔の東遷説から
言われてるみたいな、畿内は停滞していた、という結論になってしまう。
聞く銅鐸からマキムクまで、政治的空白が長くなり過ぎるというか。
見る銅鐸の畿内式の製造が唐古鍵だとするのは、
そんなに無理がある設定ではないと思うよ。
422 :
www:2011/10/21(金) 23:07:44.50
>>421 銅鐸→銅鏡のシフトに長い間をおくのは不味いと?
そもそも墓の中からは出てこない共同体:ムラの祭器である銅鐸と
首長の威信を表現する銅鏡を同じ軸におく必要こそ無いと思うけどなあ・・・
福永の言う通り、見る銅鐸の分布を考えれば、
畿内勢力が各地の首長にプレゼントして友好関係を構築した、
てのが妥当な解釈だと思うけどなあ。
仮に近江が製造センターとして、
紀伊や四国東部と政治的に結びついていた、とは思えないよ。
424 :
www:2011/10/21(金) 23:16:18.70
>>423 必ずしも一箇所に製造センターを設けなくても良いと思うがw
まあただ鉛同位体の分布が見る銅鐸は聞く銅鐸に比較してかなり集中するらしいが・・・
>>422 筑紫の広形銅矛も副葬例は少ないしな。
青銅器が非現実的に巨大化していく流れは、
首長権力の発展と不可分だと思う。
あとまあ、銅鐸が各地で思い思いに作っていた時代から
一括生産、配布に移行する流れは見逃せない。
畿内勢力の政治的まとまりの萌芽と見て良いと思う。
畿内から見る銅鐸の痕跡が余り見つからないのは、
破砕して再利用したことと
(弥生後期に畿内で鉄器が見つからないことと同じ)
鋳型が石製から土製に変わったから。
土製にしないと華美な飾りや細かい文様、
何よりあんな巨大な銅鐸は石の鋳型では作れない。
結局都出や福永の仮説をそのまま書いてるだけなんだよな。
反論する側は、都出や福永説のここがおかしいと書いてくれれば助かる。
427 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:09:26.70
>>426 というか肝心のそのヤマトの製造センターが確認されないことにはなんとも・・・
まあ確かにそこが一番の弱点
というか、製作センターの痕跡が見つかってたら仮説ではなくなるw
そもそも見る銅鐸くらいしか、
マキムク前の畿内の発展を示唆する物証がないw
ために絞り出したのが「見る銅鐸」を共通の祭器とした政治連合の想定。
見る銅鐸が政治的連合のシンボルと言えるのか、というのが問題。
北部九州の巨大銅矛はどうなんだ、という話で、
後期後半になれば北部九州ではそれまでの甕棺墓制にみられたヒエラルキーが消滅する。
青銅祭祀と首長権力の関係性はよくわからん。
430 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:43:25.06
しかしその仮説が本当なら、もう見る銅鐸を配布した時点でヤマト王権誕生してるよなwww
431 :
www:2011/10/22(土) 00:57:03.63
>>425 >青銅器が非現実的に巨大化していく流れは、
>首長権力の発展と不可分だと思う。
で、あればヤマトも手元にその大型化した青銅器置いておくべきでは?
まあ一部を叩き壊してリサイクルしたというのもありうるだろうが
やはり(銅鐸本来の最終)埋納されたものが多く見つかって然るべきかと・・・
>>425 >青銅器が非現実的に巨大化していく流れは、
>首長権力の発展と不可分だと思う。
説得力皆無だなw
いや逆に言うならw、見る銅鐸以外に、弥生後期、
畿内の政治的まとまりを示唆する物証がないんだよ。
見る銅鐸以外に、それを示してくれれば。
それとも過去の遺物となった東遷説の人間なのか?w
434 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:02:42.89
個人的に銅鐸勢力と大和朝廷には断絶があると思っていたのだが、
この流れは、断絶はなくてつながってるという流れかね?
もっとも、断絶も過去の説を鵜呑みにしただけで、あまり根拠もないのだが。
青銅器祭祀から決別して古墳が造られる、
てのが全国的な流れなんだよね。
急に銅鐸を祭らなくなるのは、古墳(首長霊祭祀)を始めたから。
シンプルな説明だ。
畿内だけがその間、二百年程空白がある、
っていう仮定自体にそもそも無理があるだろw
その間、祭祀0なのか、とw
436 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:15:09.72
>>434 君の言う「断絶」って、いつの頃を想定してるの?
土器編年でも実年代でもいいから答えてみてよ。
銅鐸自体に首長権力が関係ないのに、その廃止を古墳に結びつけるなんて、なんて愚かな発想なんだよ!
銅鐸=村落の祭り、ていう思い込みが強すぎないか?
当初はそうだっただろうが、
見る銅鐸以降は政治的に利用されていった、ということ。
もっと頭を柔軟にしないとw
銅鐸の分布範囲と首長墓が一致してから、権力との関連性を言えよ。
根拠なしに妄想すんなよ。
440 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:30:27.40
>>435 >畿内だけがその間、二百年程空白がある、
本当は、畿内の古墳の開始が古いってだけじゃないの?
ホケノは2世紀後半でもいいくらいなのに。
>>440 >本当は、畿内の古墳の開始が古いってだけじゃないの?
そうじゃ困る人がいるんだろうねw
>>439 考古学っていう「出てきたものでしか判断できない」
限界のある学問ならそうなるのかもしれないなw
近視眼的ではなく、出てきた物をどう解釈するかの方が重要なんだが、
専門馬鹿には難しいらしい。
考古学では、土器編年では絶対年代は無理。
相対年代しか出せない。
しかも、この相対年代は、学者によっては数十年から数百年
狂いが生じる。
444 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 12:35:52.08
たとえば半年程前のNHK特集でもやってたけど、
銅鐸をあのように破片にするには高温で熱してからでないと無理。
適当に埋めればいいのに(事実畿内以外は埋めている)
わざわざ火にくべて破砕している。
宗教改革の匂いがするなw
あとまあ、この前見つかったマキムクの土坑。
銅鐸を破砕して、破片の一つを宗教的に埋納したのだろうと思う。
マキムクは銅鐸の神を殺すことで、古墳祭祀に移行したのだろう。
纏向は弥生後期に大型首長墓が見つかってないので、
見る銅鐸時代に首長制に移行する説は厳しいんじゃないの?
その辺がもっと西の辺りとは大きく違うところかと。
出雲なんかは時期が重なってる可能性大いにあるけども。
むしろここは纏向の特徴かと。
マキムクって弥生終末期に突然生まれた計画都市なんだから、
「それより以前」とか語る意味があるのか?
唐古鍵やら池上曽根みたいな弥生拠点集落なら分かるが。
それでも何ら政治的まとまりがない所に、
突然王権誕生なんて有り得ない訳で、
それが昔は東遷説のバックボーンになっていた。
447 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 18:51:29.88
共通の祭器を使用する集落同士に、ある程度の政治的繋がりがあった、
というのは、そんなに無理がある設定ではないと思うがな。
銅鐸=村落レベルの祭器という思い込みが強過ぎる。
見る銅鐸は一括生産配布が想定されてる訳だし、単なる青銅器というより、
かなり政治的な意味合いが強いだろう。
何度も書いてるが、見る銅鐸以外に、弥生第X様式の畿内で、
政治的まとまりを物語る物証が無い以上、
そう考えるしかない。
政治的まとまりが皆無、って言うなら、どういった勢力が、どういった
理由で東遷?西遷してきたの?
448 :
www:2011/10/22(土) 19:05:44.66
そもそも大型青銅器不在の時代があったらそんなに不味いのか?と言う話で
一括生産配布といってもじゃあ紀伊のものと海を隔てた阿波のもので同氾同型のものがどれだけ出ているんだ?と
(福永は両地域への配布は太平洋ルートの安定の為とか言ってたが…)
見る銅鐸の大型青銅祭器に自らの首長権を投影したなら
ヤマトでも見る銅鐸の埋納事例が他の地域並にあって然るべき。
将来盆地の何処からか大量に出る可能性もあるのかもしれないが
まあそん時はそん時、出てから考えましょうとw
>>448 畿内で見る銅鐸が出土しない理由は、上で何度も書いてるけど、
破砕され、リサイクルされたから。
破片が見つかる事例が増えてきてるしな。
今まで神として崇めてた依代を火にくべるという手間をかけてまで壊す意図、
てのは、ある種の宗教革命を連想するけどね。廃仏毀釈みたいな。
土坑に大量の贄を捧げて銅鐸の破片を埋納したのは神の祟りを恐れたから。
考古学は出てきた物を解釈する学問だけど、
時には「出てこないこと」をどう解釈するかも大切だと思うんだけどねえw
例えば弥生後期の畿内では石器の出土量が減少するんだけど、
普通は鉄器の普及を想定するところ、
畿内から鉄が出土しないことから、弥生後期、畿内が衰退していた、という説が、
特に東遷説から強硬になされていたんだよね。十年くらい前まで。
衰退した地域になぜわざわざ東遷?衰退した地域が古墳時代に勃興する理由は?
外来勢力が来て摩擦、トラブルが増える筈なのに、なぜマキムクに環濠がないの?
とか普通で考えればおかしいのに、「出てきた物」だけで考えるから、
全体で見るとおかしな結論になる。
451 :
www:2011/10/22(土) 21:05:37.29
>>450 そこに例に挙げている鉄の話は”今から考えれば”そもそも鉄の古代社会における役割みたいな物を再検証すべきだったと言う話だなw
鉄・銅何れにせよその「リサイクルしたから出てこない」と言うのはあまり筋のいい話だとは思っていない。
幾ら九州だとてまさか鉄を使い捨てにできるほど恵まれていたわけでもあるまいにとw
先ず確認したいのは本当に各地の見る銅鐸が同一製造元で作られたと言う根拠
先にあげた鉛同位体の集中にしても同一鉱床の原料を使っていたと言うことで説明が付く。
何も銅鐸を製造した工房が同じでなければならないと言うことは無い。
同氾同型のものが多くみられればそれが何処か?はさておき単一の製造元tだろうと言う話にはなるのだろうが
おいおい、「鉱床」とか本気で言ってるのか?
衰退した地域に古墳が勃興した理由なんだけど、
ただ単に「お墓を作った」というのはどうだろう。
突然現れ突然消えた、というのもお墓設立のためだけで、首都機能
みたいなのはそんなになかったんじゃないかな。
全国の土器があるというのも人を集めたからだろうし
環濠がないのもそうすれば説明できないだろか。
おもいつきでなんだが。
454 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:30:16.68
>>452 は?まさか国内限定とかでとらえている?
>>453 衰退というわけではなくて、
纏向以前は首長制が発達していたあまり痕跡がない。
集落は結構大きくても身分差が激しくないことが伺われる。
ところがオオヤマトに突然大溝や古墳が現れる。
>>1は土着集団以外に関わった可能性を問うている。
特に東瀬戸内海周辺。
411つづき
>古墳時代以降、日本が安定的で機能的な国家として繁栄することができた理由は、そもそも土着
>日本人が古墳時代以前から、受け入れ価値のあるものを客観的に評価してそれを取り込むことが
>できる高い知性に基づく進取の気性と豊かな許容力を備えていたためであり、また、この人的土
>台に対して接近してきたものが、共存を是とすることができる理性的異集団であったためでもある。
>その結果、古墳時代以前の個々の大規模共同体が奇跡的で磐石な基礎の上に成立したことが後世
>の安定と繁栄をもたらすことになったと言えるだろう。
>ところで、第二次連合国家(大和王権)が第一次連合国家を引継いだという側面は後世の国家運営
>において問題となる。それは、第二次連合国家の立場に立った場合、国内における自らの権威付
>けや海外国家に対する牽制などの意味において、第一次連合国家と第二次連合国家の一体性を説
>明する論理が必要になるからである。以下、便宜上、第一次、第二次と記す。つまり、第一次の
>政権樹立を第二次の初代が達成したとみなされることが第二次にとっては望ましいのであるが、
>直接的な血縁上から見てもまた、第二次樹立に至る時の政権引継ぎの方法から見ても第二次の初
>代王が第一次の誕生に関与できる余地はない。この場合、第二次にとっては国家の成り立ちを国
>内外に示し難い。さらに、第二次が第一次の礎のもとに誕生したことを考えれば、第一次の功績
>を抹消することは望ましくない。
>そこで、第一次の功績を保護しながら第一次との何らかの手段による正当な繋がりを既成化し、さ
>らに、第一次及び第二次の誕生時期を調整せざるを得なくなった。
>これらの必要性から、皇祖神として位置づけられることになった卑弥呼を通じて第一次と第二次は
>神国からの系譜で繋がれることになり、これに伴い国家の一体性及び国家の歴史的権威が担保され、
>国内外へ示す立場が確立された。そして、この工夫は現代に至るまで日本に千数百年に亘る政権の
>安定と国家の繁栄を導く遠因となった。
>>455 さんきゅ。
衰退というのは上で使われてたから便乗したんだが
集落や人はもちろん住んではいたんだろう。
そこに突然巨大なものが現れたというのはやはり
「よそから来た」と考えるのが自然でないかということで。
そして痕跡を消したというのも、目的が済んだ、と考えると
わかりやすい。それがどうしてかは別問題で価値観が変わったのか
別の一族ークニのような集団が来たかどうかはわからない。
だもんで、マキムクが邪馬台とするのは「連続性に欠ける」という意味で
少しむつかしいと思うし、女王国だから新たに巨大クニをそこに
作ったー移動した、というのも証明のしようがないだろう。
例の桃の種とかも全部、葬儀用、みたいに考えればそれなりに
説明はつくようにも思う、無理に付ける必要もないとは思うけど。
銅鐸破壊儀式、とかそういうのがあってそれが葬儀用とかも
利用されるとあれだけど、とりあえず反証になるようなものはあまり
ないようにも感じる。
桃の種は鍵唐古からも多く確認されてる。
周辺に存在する、古墳築造における影響は
吉備や阿波等瀬戸内東部が大。
また土器からは西日本〜東海に渡っての物が多く確認済み。
これだけでもこの地域が特別な場所なのは言うまでもない事だろう。
考古学で「出ないこと」をどう考えるか?で言えば、
三角縁神獣鏡がよい例になるだろう。
一昔前まで、三角縁神獣鏡は肝心の大和から殆ど出てこず、
大和王権の配布を疑問視する向きもあった。特に九州説の人に多かったと思う。
しかし少し考えれば、三角の出土の中心は大和だし、
少なくとも三角の頃には大和に大王権力が誕生していたのは間違いなく、
中心の大和が空白、っていうのはおかしいと思うだろう。
普通の頭で考えれば。
結局この論争は黒塚の発見で終結を見、
三角≠大和なんて意見は影も形もなくなるんだけど。
これが起こった原因は、大和の古墳の多くが陵墓参考地などで掘れない、
ブラックボックスになってるためなんだけど、
「出てきた物」だけで考えてては駄目という良い例になるだろうな。
で、見る銅鐸の出土分布を見て貰えれば分かるけど、
空白の大和を中心にドーナッツ状になってるんだよねw
ここから何を読み解くか?だよw
>>455 この、「首長権力の発展が見られない大和に、突然マキムクが」→外来勢力
って理屈はよく見るけど、どうなのかなあ?といつも思うw
実際、吉備楯築とマキムク石塚の間隔だって、長く見積もってせいぜい数十年、
首長権力の確立で、吉備が大和に先行してたのはそうだが、
早さでいえば、吉備と大和でそんなに大差はないというw
吉備が特殊器台を共通の祭器として連合したように、
大和は見る銅鐸。
その連合の中からやがてオウが生まれたと考えるのが一番シンプルw
一応言っておくけど、突然古墳が誕生するのは大和だけではない。
吉備もそうだし、東海、木津川もそう。
全てを外来勢力が原因とするのか?外来勢力の人、忙し過ぎるだろw
自生勢力が、外来の影響は受けたにしろ、自主的に古墳を造った
と考えることになぜ不都合があるのだろうか?
要は外来主導は思考停止w
丁寧に見ていけば、王権誕生のプロセスが見えてくるのになw
東遷説の残滓はいい加減に一掃した方がいいw
東遷説はないだろうが、各クニに渡来人がブレーンとして入っていて、そのネットワークがあった
とする説はあるな。
464 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 11:21:39.86
>>461
その後、大和のオウはなぜ自らのシンボルである銅鐸を捨てて
他国の特殊器台や祭祀を採用したのか?
天皇は第二次大戦後にキリスト教に改宗したか?
そう考えると、外部勢力が大和政権の基盤になったと考えるほうが
自然じゃない?
465 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 11:25:00.15
しかし仏教伝来のことを考えると
他国の先進的な祭祀を導入という可能性も否定はできない。
>>464 たとえば出雲の加茂岩倉で銅鐸が一斉に埋納されていて、
ちょうど同じ頃に四隅が普及する。
出雲は、青銅の神を自主的に棄てて、新たな祭りを始めたと見做せない?
なぜ大和ばかりが外来外来言われるかと言うと、
東遷説の名残りだから。
近藤とか寺沢とかも、元々は東遷説の影響を受けていて、唐古鍵と
マキムクの断絶をことさらに主張する。
流石に筑紫東遷は成り立たないから、各自の説にシフトしたというところ。
467 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:49:16.81
なるほど、面白い視点。
しかし、出雲が独自の四隅突出墳を起こしたのに対して
大和は独自の方形周溝墓ではなく、なぜ東瀬戸内の前方後円墳や特殊器台を採用したのか。
出雲の四隅突出墳からも一部特殊器台が出土しているけど、
こちらは吉備が祭祀に参加していただけといわれるのは、
墳丘形態が独自だからか。
468 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:13:46.12
瀬戸内海から東遷したでいいんじゃない?
もっとも、大和の古い古墳には特殊器台は無いそうだが。
古墳が突然現れるのがマキムクだけじゃない、というのは
マキムクを特別視するすることもない、ということで
より畿内説にとって不利ということでいいのかな。
外来勢力というと表現があれなんだけど、今まであったものより
さらに「ありがたい」「すごいものがあるんですよ」と言われて宗教か
実用かはともかくそれに影響される、というのは自然じゃないのかな。
直接証拠をどうというよりは考え方の問題なんだけど古墳がある以上
そうやって「突然つくられ」「突然消滅した」のでしょう。
だからマキムクもその他大勢の小国のひとつだった、その墓地だった、
ぐらいのもので、これがその後の大和朝廷とどう結びつくかはまた別の
話だとは思う。
そこを一緒くたにしてヤマタイスレでは語られてるような気がするな。
そして「直接証拠は?」って。そりゃ話がまとまらない。
連続で悪いが、マキムクでいろんな地方の土器がみつかるのも
「広大な支配圏を持った勢力がそこにあった」みたいに
言われるけど、例えばピラミッドでも以前は奴隷に強制労働させたというのが
「二日酔いで休みます」みたいな記録もあって普通の公共工事?だった
というようになってきてる。よね。
だから、地方の人に「アルバイトしませんか」とか誘ってマキムクまで来てもらって
そこで巨大な古墳を作ったと考えると、特に強力な中央集権的な国家の
必要も感じない。
ネットワークというとなんだが、各首長さんに「こういった形の大きなお墓作ると
子孫繁栄、中国でも流行ってますよ〜」とか広めた人たちっては
いるんじゃないかな。
ちょと妄想入ってきてあれだが。
471 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:59:19.05
>>469 >だからマキムクもその他大勢の小国のひとつだった、その墓地だった、
>ぐらいのもので、これがその後の大和朝廷とどう結びつくかはまた別の
>話だとは思う。
そうはならないよ。
マキムクには最古の前方後円墳が作られてるわけだから。
>>467 確かに前方後円墳の源流は阿讃播にあるのは間違いないな。
しかしまあ、銅鐸を棄てて古墳祭祀に切り替わる時に
阿讃播の葬送儀礼を参考にした。
ていうか直接技術者を呼んだのかもしれないし。
あとまあ知らないようなので書いておくと、古墳時代以降、
九州で方形周溝墓が増えるんだよね。なぜだと思う?
473 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 18:29:32.57
また九州王朝説か。
474 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 18:59:34.57
邪馬台国別にしても、九州王朝の存在を示唆するものは多いからな。
たくさんの国があったとして、筑前筑後エリアが、大宰府付近を中心とする
国にまとまっていくのは自然だ。
それが畿内を征服するとは思わないけどね。
互いに独立国家だよ。
古墳時代以降、九州で方形周溝墓が造られるのは畿内の影響。
おそらくは前方後円墳とセットで伝播。
前方後円墳を造る許可が貰えないレベルの人の墓だろう。
>>469 まったく理解出来ていないw
マキムクは特異で、ヤマト王権に繋がる遺跡なのは確かだけど、
古墳の発生が突然だからという理由だけで、
外来をことさらに主張するのはおかしい。
吉備の楯築や東海の象鼻山、木津川の椿井大塚にしても
突然なのに、外来外来言わないではないか?という皮肉なんだよw
つまりは、外来の影響を受けたにしろ、
それを採用、主導したのは自生勢力だろ、という主張。
畿内の場合は銅鐸圏の政治的まとまりが主体、
そうなると東瀬戸内も含まれるんだよなw
大和が阿讃播と親密で、その墓制度を採用してもおかしくはないw
477 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:38:06.89
>>476 突然とはいえ独自に発生したものか、
余所から取り入れたものかというのには
大きな違いがある気がする。
しかも独自の墓制である方形周溝墓とは別に。
前方後円墳が畿内独自の墓制なら認めるんだけど
方形周溝墓という独自なものが駆逐されている。
他地域の新しい祭祀も外部勢力の流入の可能性が高いと思ってるけど。
>>477 方形周溝墓が駆逐されたのなら、なぜ古墳時代以降の九州に広まるんだ?
479 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:13:18.05
>>478 お膝元の畿内は前方後円墳で、なぜ北九州に?
畿内を追い出された勢力が九州に方形周溝墓を築造した
ということかな?
480 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:18:30.11
>>479 もう滅茶苦茶というかw
普通で考えれば、畿内の墓制が九州に伝播したと考えるべきだろうw
苦し紛れw
481 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:26:19.84
畿内も九州も方形周溝墓なら分かるんだけど
何故に、畿内はよそ様の前方後円墳を取り入れて
自前の方形周溝墓を九州に作らせた?
また吉備にはほとんど方形周溝墓がないとか・・・。
吉備を飛ばして九州ってのは違和感がある。
いや、だからさ、宗教やら墓制てのは伝播するもので、
必ずしも自国のモノに拘る訳じゃない、ていうこと。
外部から強制されたに違いない、ていう思い込みが強過ぎる。
483 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 08:36:56.97
九州の大型古墳でも、前方後円墳が点在する一方で、
かなり後期の大型円墳があったりするからな。
前方後円墳に強制された印象はない。
その王様の趣味と言ったら、軽すぎだが
その一族単位で、自由だったんじゃないかね。
前方後円墳も良さげと思った豪族で、取り入れることもあったんだろう。
共通の墓制にするというのは、
確かに神話や始祖を共通にする意味合いがあるんだろう。
必ずしも強制やら争いを想定する必要はない。
大和の場合は、前の墓制が駆逐された、というより、
大和を主体としたマキムク連合王権が、
東瀬戸内の前方後円形を王墓に採用した、
てのが妥当な解釈ではないか。
阿讃播の先行古墳は楯築やマキムク石塚と比べてかなり小さいし、
これらの国々が大和に強制出来る程の力を持っていたとは考えにくい。
横だが、前方後円墳は下が四角の土台で上が丸というのを
二次元でとらえたまちがい、みたいなのを聞いたことがあるんだが
そうだとすると外来さんはいなくて自力で伝聞で作ったことになる。
こういうのはどういう解釈になるんだろう。
最初に間違えて作った豪族がいてそれの影響でただ単にみんな真似ただけなのかな。
どっちにしろマキムクを都とする根拠にはならなくて
単に墓地利用ってのには採用出来るんだけど。
486 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:59:24.24
大和王権が東瀬戸内の葬送儀礼を採用したのだろう
というのは何の根拠もなく言ってるのではなくてねw
大和朝廷で神事を管掌した職能集団であるところの忌部氏。
彼の氏族の本貫地は四国東部。
ホケノに葬られたのは恐らく忌部氏の先祖とみて間違いない。
大和王権の中での忌部氏の立ち位置を考えれば、
畿内勢力を駆逐して王権を樹立したとは考え難いなw
ヤマト王権の譜代の重要な家臣の領国が
四国東部にあった。
そういうことか。
ところで古墳はどうして破壊されなかったのだろう。
初期ヤマト朝廷は自分の祖につながるものという認識が
あったからだよね。
とすると古墳を作った時代ー人たちとヤマト朝廷には連続性があるということだろうけど
これはどう考えればいいのだろう。
もう少し後の壬申の乱あたりでは大陸の影響が強かっただろうけど
この時にも破壊されなかったということはすでにして古墳時代には
大陸ー倭国の関係があったということを暗に認めてるんだろか。
それとも単に、墓あばきは失礼、ってなものだったか。
盗掘は普通にされてるから悪い庶民?には祟りとか倫理観念みたいなのは
あまりなかったろうが国家支配層としてはあの巨大な古墳だらけなのを
どう見てたのだろう。
>>488 何が言いたいのか、よく分からん。
もっと、正しい日本語で書けよ。
>>488 自分たちの先祖の墓をわざわざ破壊するわけないだろう?
庶民の盗掘は、中世以降、多くなったんだろう?
とくに、朝廷の権力が落ちたから、墓の管理も地方の新興の豪族任せ。
半島の古墳のことでは?
492 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 13:38:04.49
わざわざ古墳を壊すほど人口密集してないだけだろ。
>>491 半島は、前方後円墳を壊さなかったのか?
今でも、倭王武の時代に
倭軍が軍事進出していた半島南部地域に
倭人の前方後円墳があるのに。
>>488 自分は、考古学上の時代区分が好きではない。
あれは、最新の研究の時代の変遷の実態を表していない。
倭国はかなり古い時期から、中国の王朝との間に外交関係があったとみてよいだろう。
実際に中国の文献に書いてあるわけだから。
紀元前からそういう関係がある。
卑弥呼の王権も、中国から中国の外藩として
軍事出兵を求められていたぐらいだから。
>>494 外交関係はもちろんあっただろうけど
もう少し踏み込めないかということ。
>>490 祖先の墓、と一言で言うが何百年も前、誰の墓かわからない?
ぐらいのものをちゃんと祖先の墓と認識してたということか?
それは文字資料でか伝承なのか、意外と簡単な問題ではないと思うが。
>>495 外交関係でいうと、冊封体制みたいな関係のことか。
たしかに、倭王武は、朝鮮半島南部への軍事指揮権の要求において
自分の先祖は古くから、中国の王朝と主従関係を結んでいたと言っているな。
私はあなたの外藩だと。
だからこそ、中国皇帝の外臣として、軍事指揮権下さいと言っている。
>>495 でかい目立つ墓だし、たかだか500年程度前ぐらいだったら
覚えているんじゃないの?
それから神社や祠が建つ過程ってわかるもんでしょうか?
魏志倭人伝では、卑弥呼が共立されたという記述があるが
あれは、同じ王権内部で王位継承があって
家臣たちが話し合って王を立てたという意味が大きい。
普通、王というのは、先王の意思で決められる。
中国でも日本でもそうだ。
が、そうでない場合、共立される。
中世以降で例えるのなら、足利義教の将軍継承みたいなもん。
で、卑弥呼の共立の前に倭国大乱があったわけで。
これは王位継承争いだろう、普通。
それが、欠史八代のあたり。
>>496 例えば蘇我氏なんて名前から見ても渡来人そのものだし
古くからの主従関係というのも中国ー倭国って案外近かったのでは
という感じで。
倭国大乱でまとまった国をどうして滅ぼそうとは思わなかったのだろう。
妙に仲良さそう?には思える。
>>497 たかだか500年って軽いなぁ。
3代前がわからないぐらいが普通だし
伝承するということは相当安定して平和な時代が続いたってことなんだけどな。
言葉や発音やそういうの全部ひっくるめて。
前半もツッコミどころ満載だが、それは別の人に任せて。。。
>>500 現代と同じ感覚で語るなよ
文字のない社会だと口伝の持つ重みって、変わるだろ?
意外と正確に伝わるもんだわ
>>500 蘇我氏は皇別氏族な。
渡来系ではない。
渡来系の場合は、諸蕃というカテゴリに分類される。
せいぜい、母方にそういう出自がいたのでは?と言われている。
日本書紀の継体紀のところで、
大日本人が隣国の女性に子供を産ませ、その子に韓子と名付けたと注がある。
蘇我韓子とかそういう出自の人物だろう?
蘇我氏以外にも、韓子という名前の豪族が出てくるしな、日本土着の豪族でも。
母方にそういう人間がいた可能性が高い。
しかしながら、蘇我氏は父方でみたら、皇別氏族。
ホアカリ馬鹿がまた欠史八代とか言い出してるなwwwww
記紀にしか根拠を見いだせない、考古学では根拠0の欠史八代を持ち出すのは、
少なくとも考古学重視のこのスレではやめてほしい。
もっと相応しいスレがあるだろうとw
>>500 >3代前がわからないぐらいが普通だし
普通じゃないよw 一般庶民でも5代ぐらいまでは分かるだろう?
そこそこの名家だと、10代以上前ぐらい分かるもんだ。
書店などに売られているような歴史読み物に毒されているのかもしれんが
読みが浅はかで素人ぽいよ。
>>500 倭国大乱の前も後も
この王権は同じ王朝の流れ出来ていると
中国側は認識している。
だから、この国は、もともと、ひとり男王によって建国され
数十年つづいたのち、歴年争いが起こり、卑弥呼を共立することで
鎮まったという記述になっている。
邪馬台国の王朝を建国したのは、卑弥呼ではない。
卑弥呼よりもずっと前にいた男王だというふうに
中国側は認識している。
つまり、足利幕府に例えるのなら
倭国大乱とは応仁の乱みたいなもんで、
卑弥呼は足利義澄のような立ち位置。
>>502 ごめん、ここは古代史スレだったね。
省略して書いたが渡来系というのは、血が混在してる、という意味だ。
例えが悪いのは承知だったが、マキムクの時代でも大陸と
土着とその血が混在してるのをちゃんと理解はしていたのではないか、という
意味で。
>>504 そのあたりは一言ではむつかしいが庶民でそんなに
5代前までわかるかな。今は戸籍とか完璧だがうちの爺あたりの
ジジはもうあやふやだもんね。江戸に足かけてるぐらい。
だから、現代的に毒されてるのはそっちじゃないかな。
ちなみに秀吉でも2代前がわからないのは有名な話だが
名家を例に出されても古代史を語るのには的確じゃないでしょう。
まぁ、ツッコミどころ満載のカキコでここにレスするとことがあれだが。
中国王朝が正しく倭国の成り立ちを知っていたとは思えないけどな。
所詮東夷な訳だし。
卑弥呼が漢委奴国や倭面土国の後継者を名乗って、
中国王朝に対して自らの正当性を主張。
倭人伝は卑弥呼の主張をそのまま載せた程度ではないか。
奴国は玄界灘グループのオウだろうし、
面土国は伊都国か吉備楯築のオウのどちらか。
卑弥呼とは直接の関係はないだろう(吉備は微妙だが)
>>505 丁度お隣でそんな解釈の話になってるが
中国側の認識がどこまで正確か、ということだよね。
このあたりはかなり難義なとこだろが
向こうは、建国、というあたりを本当に
信じたのかなぁ。うまく言えないが。
それと足利に例えるのは誤解をまねかないかな。
義教の名前も出てたけどこの人は特に
くじびきなんとかってかなり就任のいきさつからして
誤解されてるふいんきもあるから。
スレチで悪いけどね。
509 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/25(火) 22:48:02.36
>記紀にしか根拠を見いだせない←大ウソ
古史古伝にも八代の記事がある。
日御碕神社社記には孝霊61年半島の月支国王が出雲に大船団襲来の記述
がある。
熊野年代記にも安寧58年それに孝昭5年、23年、29年、孝安48年、
孝霊6年、13年の記事がある。
日野郡誌に孝霊天皇の行幸の詳細記事が多数あり、現に関係の孝霊山も
ある。
野坂神社(福井県)社伝には懿徳23年3/8神勧請の記事がある。
鹿児島史官記録には懿徳の代、開聞岳湧出(噴火)の記事がある。
富士山南麓の大淵丸火公園北駐車場には富士噴火の溶岩樹型が存する。
艮神社(広島県)には孝霊の皇子 吉備武彦が開化10年に熊曾新羅王と
戦い、左眼を射た話がある。
神社の縁起由緒伝承で、八代間のはまだまだいくらでもある。
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/25(火) 23:08:24.17
>>509 訂正
× 富士山南麓の大淵丸火公園北駐車場には富士噴火の溶岩樹型が存する
○ 富士山南麓の大淵丸火公園北駐車場には孝霊の代の富士噴火の溶岩樹型
が存するという
>>507 倭国と中国の関係は長いでしょう?たぶん。
魏の将軍のことを知らなかったみたいだけど
漢王朝の時代は、倭国と中国の外交関係が深かったんだろう?
倭の面土国(米多国=吉野ヶ里周辺)とか、奴国に関しては
中央王権が弱体化した時代に中国と交流を持った地方王権じゃないのか・
近畿王権は天下を握っても、全国への統制力が弱かったんでしょう?おそらく。
>>508 卑弥呼が新しい王権を建国したのなら
共立して鎮まったみたいな記述にはならない。
もともと、この国は男王が建国して。。。みたいな記述にはならない。
中国側は漢王朝時代の資料から、倭国のことをそこそこ知っていたと思われる。
ちなみに、長江周辺の地域で、卑弥呼の時代に
呉のほうで倭人が協力して戦ってくれたみたいな記述がある。
倭国は、魏とも呉とも交流が深かった。
513 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 00:56:27.61
ここ纏向スレだからな。
邪馬台国が出るのも仕方ないが纏向に絡まないなら他でやれ。
倭人伝の記述を深読みし過ぎるんだよな。
方角とか距離とか間違いまくりなのに、そこは都合よく読み替えw
自分に都合のいい部分は「正しいに違いない」と思い込み、
いろいろ解釈するという愚w
ある程度、考古学とすり合わせがあればいいのだが、
何百年も後の史料、記紀とか海部氏系図とかとすり合わせるというw
少なくとも、弥生後期に中央集権とか大王権力とかは、
否定されてるんだし、いい加減にこのスレの空気を読め>ホアカリ馬鹿
マキムク作った人たちは今の天皇家とはなんの関係もない
ということでいいの?
要は、どこに軸足を置くか?なんだよなw
三世紀の日本を考える時には、考古学>倭人伝>記紀になるというだけ。
倭人伝や記紀を無視しろとは言ってない。
ただ、記紀や海部氏系図を見て妄想し、その妄想に合う考古学資料を探すという
のは甚だ非現実的だし、学問的態度ではないよ、ということ。
そだな。
結論ありきで都合が悪いのは例外というのが多過ぎるもんな。
結局、マキムクにおける外来勢力の影響は、100か0かじゃない。
ただ従来言われていたよりは在地勢力の意向が強かった、ということ。
マキムク王権の初期参加メンバーは、大和と中河内、阿讃播くらいの旧畿内銅鐸圏で、
後に吉備や筑紫が参加し全国王権に。
東海は最大の貿易相手国で盟邦。
このあたりである程度のコンセンサスは得られたのかな?
519 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 20:09:37.13
>>518 東海の外来土器が一番多いのに、ただの貿易相手国って言い切るのは恣意的な何かを感じるな。
東海をクナ国したいのか?
520 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 20:58:15.91
纏向一帯に大規模前方後円墳があり、それに先立つ初期古墳もあることは事実だ。
その古墳に埋葬された人たちが、後の王家に連なる人々であることも異論は
ないだろう。
古墳以外の発掘では、大掛かりな土木工事のあとと大型の建物が出てきている。
すまいらしきものはまだ出ていない。土器は奈良だけでなく、各地の土器が
見つかっている。祭祀で使ったと思われる、食べた形跡のない桃の種3000個
も見つかった。桃は、道教で用いられ、魏志倭人伝が描く「鬼道」にあたると
言われている。
>>515 何故?
2100からヒストリア見ないといけないな
越はないwww
>>520 埋葬されたと言ってもそこで王国を作っていたかどうかは
わからないのでしょう。住まいとか大規模集落は見つかってないし。
それに、そののちにそこで王家を作った人たちとの連続性を示すものは
なにかあるんだっけ?
例えば記紀に記述されてるとか。
そこに大規模古墳があるからと言ってそのまま
それが後の王家とつながる、と解釈するのが妥当かどうかが
問われてるんじゃないの?
>>518 初期というのは、土器編年で言うといつまで?
>>519 昨日のヒストリアで、赤塚次郎がマキムク王権に東海が積極的に関与して
大和朝廷が誕生したとか言ってたよな。
しかしまあ、マキムクにおける東海の影響を過小評価する気はないけど、
東海がマキムクを制圧したとかは流石にないと思う。
てか赤塚さんは倭人伝を重要視し過ぎていると思う。
土器の動きだけで政治を語るのは危険。
たとえば、筑紫に畿内の土器が入ってるからと言って、
畿内が筑紫を制していたとかはないだろう。
526 :
525:2011/10/27(木) 21:40:05.09
あとまあ、なぜ東海がマキムクを制した筈がないと言い切れるかと言うと、
箸墓以降、柳本と磐余に王統が並立する時代があって、
磐余は東海との玄関口として力を持ったが、
最終的に柳本に負けてしまっている。からなんだよ
赤塚さんは話したことあるけど、意外と普通の人だった。
東海ではあんまりヤマタイの話は盛んじゃないしがんばってはいるなぁ。
528 :
日本@名無史さん:2011/10/27(木) 22:50:30.61
>>526 それって、卑弥呼の死後に、一時的に東海勢力が強まった=クナ国の力が増したとも言えるじゃないの?
529 :
日本@名無史さん:2011/10/28(金) 09:06:39.11
廻間の前方後方は、報告書の考察を見なければ、古墳に直接伴いそうな土器は廻間3式前半のもの。
周囲の古墳に伴うか怪しい土器片を無理やりグルーピングして祭祀が何回もあったことにして、築造を廻間1式初めに無理やりしている。
これが前方後方の最古で、前方後方の中心が濃尾だからそこが狗奴国という三段論法は、ア ヤ シ イ。
瑞龍寺山の「前方後方」説も、自然の丘陵地形のコンターをそれらしく前方後方状に切り取っただけ。墳墓は上の台状部分だけだろう。時期も疑問で、土器は5様式初めより半ばくらいまで下るという見解もある。
近畿との土器様式の併行関係も東海を恣意的に古くしているっぽいし。最近の実年代論も、数々の問題点を無視してAMSをストレートに当てるとか、ますますおかしくなっていると思うのは漏れだけか?
530 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 01:21:45.15
独自説ばかりだな。まさに百花繚乱。
>>524 大和川水系+東瀬戸内の連合だった初期ヤマト王権が、
ローカル権力から全国区になるのは、
吉備の影響、特殊器台が大和の古墳に出現する頃。
布留0の頃だろう。
布留0と書くより、はっきり箸墓が画期と書いた方が分かり易いだろう。
箸墓以前の石塚勝山矢塚東田大塚が、初期というかプレ大和王権の王墓群。
533 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 12:58:04.50
534 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 13:14:58.66
むしろ、AMS、C14を全てストレートに適応させると
おもしろい結果になりそうな気がする。
いろいろな試料で、とんでもなく古く出たり、新しく出たりするのだが、
不思議と奈良時代以降の年代がわかっている建物の木材では
ほとんど矛盾がない。
案外、そのままC14年代を採用したほうが、定説とは合わないにせよ、
矛盾のない結果になりそうな気がするんだな。
目についたC14年代の資料だけの印象だが、
考古学の時代区分、根本的に見直したほうが良いんじゃないのかな?
そもそも、縄文時代とか弥生時代って
縄文式土器、弥生式土器で時代区分していたんだろう?
でも、いつのまにか、狩猟か農耕かで区分されるようになり
最近では、陸稲農耕の始まりか水稲農耕の始まりかで区分されるように
解釈が変更されまくるようになっている。
縄文土器とか弥生土器、もう関係ないじゃんってww
また、年代に関しても、大雑把な土器編年から
年輪年代、C14年代などの科学的な年代法によって
古い時代では、数百年のずれが出てきている。
土器に関しても、縄文と弥生で
区別できない土器もあるしな。
明治初期に考え出された考古学区分は、もう古臭い。
つか土器も水稲耕作開始も地域によってズレがあるんだよ
だから大ざっぱな区分しかできない
>>537 水稲耕作を過大評価していと思うけどな。
陸稲から水稲農耕にすべて置き換わったわけではなし、
古代でも、日本人のカロリー摂取量
におけるコメの比率は2割程度だろう?
そもそも、縄文時代、弥生時代というネーミングが悪い。
土器の名前での時代区分だが
最近は縄文時代、弥生時代をわけるのに、土器は関係なくなっている。
539 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 14:45:06.80
正直言って、土器形状でどの程度年代がわかるのか、
ものすごく疑っている。
今焼かれている陶磁器でも、うわぐすりかけなきゃ、
須恵器あたりと大して変わらん。
同等の土器なら、九州が古かったりする。
541 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 14:50:35.50
未来、今日使われている土鍋の底の部分だけ出てきたら土師器扱いとか?w
542 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 15:18:48.15
工事現場で瓦礫積み上げてるようなとこだと、
たまに甕棺のかけらがあるな。
わりと、白っぽくて、ほんのりピンク色。
柔らかいので、コンクリートや路面に落書きするのにちょうどよかった。
いまはやらねーよ。
543 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 16:06:51.90
時代区分の話だと「邪馬台国時代」とか出てくるのかな?w
考古学その他各分野で苦い顔する人間が出てきそうだがwww
544 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 18:24:09.80
赤塚さんが言ってた、大阪湾vs東海、邪馬台国vs狗奴国、で
卑弥呼が以て死す後、東海勢力=狗奴国が西征、マキムクを席巻、
大和王権が全国政権になる、っていう説はどの程度支持されてるんだろ?
個人的には狗奴国は紀伊、紀ノ川水系、紀氏だと思っているw
昔からの狗奴=熊野説。
マキムクと近距離で同じ銅鐸文化圏なのに、
マキムク出土の外来系土器における紀伊系土器の出土は1%。
紀伊国造家は出雲と並び後世まで朝廷から警戒されてた。
仮に東海がマキムクを席巻したなら、
奈良盆地に巨大な前方後円墳が造られている筈w
546 :
545:2011/10/29(土) 18:39:01.70
前方後円墳→前方後方墳読み替えでw
>>544 そういえば件のNHKの番組
卑弥呼は魏に対して援軍要請=実働部隊の派遣要請したという風に言ってたなw
援軍の名の下にやってきた軍がそのまま居座ってその国を占拠する…なんてのは普通に考えるだろうにw
卑弥呼サマ世間知らず杉…ってほぼ隔離状態だから仕方なかったのか?www
>>544 マキムクの立地が東海との交易を見据えたものなのはそうだろうが、
単純に土器の出土割合だけで当時の政治を測るのは少し違うだろう。
まず外来系土器の性質を区分、検討すれば、
@中に交易品を入れて運び込まれた、いわゆる搬入土器。
土器=交易。
A各地から移住してきた人々が、在地の土で故郷の土器を作った。
筑紫の場合のような、庄内式土器の技術プラント移転
のような場合もあり得る。
マキムクの場合は@。
おそらくは後世の御食国制度のような、
地方からの贄をマキムクのオウに献じる、といった意味合いだろうと思う。
549 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 20:41:23.52
奈良にも前方後方墳あったよね。
土器の編年もそんなに5〜10年で正確に
だせるものかのかな。
併用したり流行、好みみたいなのもあるだろう。
だから土器から逆算して古墳とかの年代をさぐるというのが
よくわからないのだよな。
専門家ですらよく前後に移動させたりいろんな説があるんでしょう。
ということは根本的に資料とか根拠には用いられないように
思ったりもしてる。
ってか編年にこだわってる人たちは結局それでなにを
主張できて何の根拠になると思ってるのかかえって
わからなくなったりして。
>土器の編年もそんなに5〜10年で正確に
>だせるものかのかな。
畿内に卑弥呼がいたことにする偽装工作ですから、
そこは絶対に突っ込まないでください。
じゃないと、詐欺がバレるじゃありませんか!
>>550 土器編年に五年十年の精度を求めるのは無理だろ。
てか誰もそんなものは強弁していないが。
基準年から様式変化を十年スパンくらいに見積もって、
大まかな年代を推測してるだけ。
でもまあ、この土器グループはあれよりは新しい、とか、
各地との並行関係は分かるから、
大和王権の成立を語るだけなら土器編年で充分とも言える。
C14とか年輪年代の信頼性が上がれば、倭人伝とのすり合わせが出来るのだが。
>>552 そもそもが、いい加減で無根拠な土器編年で、卑弥呼は弥生時代、
筑紫にいた、っていう説がまかり通っていたんだよ。
それが徐々に見直し、修正されている良い流れw
倭人伝の倭国乱の記述を、弥生中期後葉の石鏃の大型化、
高地性集落の増加に対応させるという根拠薄弱の思い込みが
長らく考古学界に巣くっていた。
畿内の遺跡に大陸遺物が少なく、やむなかった事情もあるだろうが、
九州の学者は昔からその年代観を疑問視してたみたいだ。
九州は大陸遺物が多く、年代観に百年くらいのズレが生じてたから。
555 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 12:46:15.54
>>554 えーと、昔は、倭国大乱=180年頃=高地性集落の増加に対応させたってこと?
九州の学者は昔からその年代観を疑問視してたってことは、
高地性集落の増加はもっと古くて107年=師升等の頃とか?
5〜10年の精度を求めるのは無理だと思うのだが
専門家の本や話だとそういうニュアンスで語られてるのも
多いような、だから素人にには非常に誤解を与えやすいとかね。
本の図式でも境界線が実線で区切られてて明確になってるようになってる。
本来は破線とかあやふやということを強調すべきだろう。
553さんがいうようにどっちが新しいとか並行関係はわかるのだが
隣り合う形式の場合はそんなに明確に「こっちが古い形式だから古く作られた」
とも言えないのじゃないかとは思う。
つくってる人ー集団自体が同じ形でずっと作ってたりしたら何十年の
齟齬は出てくるんじゃないか。
とまぁ、素人だもんで土器とか編年の話や図をみるたびに
ずっと不思議には思ってたんだ。
それを専門にしてる人には申し訳ないけどそれはあくまで
傍証というか背景を説明するものだろうってね。
土器編年は相対年代の構築だよ。
土器編年だけじゃ絶対年代は無理。
けど相対年代についてはかなり精密に構築されているので、
土器編年を無視して絶対年代を語ることは無意味。
ほとんど前提条件と言ってもよくて、
反する意見を述べるにはそれなりの「考古学的」根拠が必要。
>>556 土器文様の研究論文、研究書、報告書は読んだことがないんじゃないの?
三段落目は相対年代のことを言ってるけど、
四段落目で絶対年代の話にすり変わってる。
卑弥呼が畿内にいたかのように偽装せんがための土器編年。
九州には卑弥呼がいなかったように偽装せんがための土器編年。
畿内説は、職場と収入と地位と名誉のために、頑張ります!
生活のために延命に懸命なのは
九州説本を売ってたアマチュア研究家の方だろ?w
決着がついてしまえば返本の山、講演会に呼ばれることもなくなり、
飯のタネがなくなるw
考古学者の大概は、白石太一郎とかを除いて、大体邪馬台国問題には慎重な姿勢。
ていうか、邪馬台国自体を研究してる考古学者なんてそもそもいないだろ。
白石はC14の有効性を立証するために急ぎ過ぎてる感はあるが。
白石や森浩一(これは畿内説ではなく東遷だけどな)くらいの年齢になると、人生の残り時間が少ないから
邪馬台国発言が出てきたりもするんだな。実際古代専門の考古学者なら邪馬台国問題への関心は高いだろ。
公式な論文や発掘調査報告書に書くことはまずないけど。
>>561 なぜかというと、考古学では歴史のこと
殆どわからんし、そもそも、考古学と史学は別の分野だから。
でも、考古学が入口で、邪馬台国の興味持っている学者は
殆どだと思うよ、学会などで発表するかどうかは別として。
開発にともなう緊急発掘の場合はどの年代の遺跡でも地元の教育委員会でやるけど、
古代専門の考古学者なんて総数は多くはないな。
>>558 そそ、だから相対年代しか語れないはずの
物証を絶対年代も語れるような方法論というか主張に
なってるような気がして。
一般的な図の載ってるような本でも
土器の形式や編年に章がさかれてる本では
相対年代の話のはずがその章の前後ではまずたいてい
絶対年代にも触れてるから誤解をまねきやすいという話ね。
専門的な論文なんかだと土器のみとか
読む方はすべてを理解してるだろうけど
広く〜説とかの話にもたいてい土器の話はでてくるから
わざとそういう方向性で書かれてるのか
いつも疑問に思うんだ。
そして四段目は相対に関してもあてはまるようにも思う。
ちょっと話が混乱するから順番にかたづけてはいきたいのだけどね。
考古学者でも、邪馬台国の話をしたがらない人、多いけどな。
なぜなら学問的でないからw
まあ、言えば、永遠に答えの出ない倭人伝を使った暗号ごっこ、泥沼に、
時間を使うのは馬鹿らしいという判断w
昔は考古学がまだ未発展で、倭人伝を利用して推測するしかなかった。
その時の名残で、高齢の学者は邪馬台国の話をしたがる。
若手ほど土器編年で語り、できるだけ実年代は喋りたがらない。
まあ、確定してない実年代を使いたがらないのは、
学者として当たり前の態度だな。
また、倭人伝とすり合わせをする必要がなければ
(邪馬台国を切り捨てれば)、
実年代は四世紀以前を説明する時に特に必要性がない。
土器編年で十分に語れる。
理化学年代で弥生終末期の実年代が確定したら、
変わってくるんだろうけど。
素人は邪馬台国の話をすると喜ぶから、サービスする学者もいるが。
>>561 う〜ん九州説は、就職口や利権を求めていないから、
東電の記者会見みたいな詐欺を言わなくて済むんだよ。
畿内説だと、真理・真実より、就職や出世、世間を泳ぐ方法が優先だからね。
>>567 いや、考古学者の大半は、
「マキムク王権=邪馬台国としても差し支えない」程度の態度だけどな。
シンポジウムとか行ったら分かるけど、
ヤマタイコクヤマタイコク言ってる考古学者はごく一部。
邪馬台国論争は実年代が確定しないと決着をみないし、
まあ、倭人伝と同時代と判明しても、
畿内以外の地方王権の可能性は否定出来ない。
そもそも倭人伝に正しいことが書いてあるとは限らないしね。
マキムクの問題は、文献史学、邪馬台国等を抜いて考えても面白いよ。
570 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 17:52:20.13
と言うかヤマト王権の始まりの遺跡なんてものが出てきたら
邪馬台国なんて抜きでもっと盛り上がっていいはずw
恐らくその点は日本人が良きにつけ悪しきにつけナショナリズムと言ったものが希薄なのに由来するんだと思うがwww
一番面白いのは、考古学に軸足を置きつつ、
倭人伝やら記紀を絡めてマキムクを語ることだよw
ただし考古学に軸足がないと、延々思いつきを書き続ける、
ホアカリ馬鹿みたいになってしまうw
まず三世紀の日本を語る時、
同時代文献が、間違いだらけの倭人伝しかない以上、
どうしても考古学主体の考察になる、という大前提が必要。
魏志倭人伝は間違いだらけだから、
畿内説に都合の悪い部分だけは無視して
畿内説に都合の良い部分だけは根拠に使って
畿内説だけが完璧に正しいという
トンデモ詐欺理論を構築してきたんだけどな。
倭人伝を間違いとしなければ、畿内になどいけるものではない。
ついでに中国の文献や、記紀も間違いとしなければ
畿内にいけないのである。
韓国の古墳から字が出てきたけど
これは日本の古墳からも発見される可能性があるということになる?
とすると畿内説に利用されそうな気がする。
>>570 というか、倭人伝崇拝者(卑弥呼好きのほぼ全員)は、「裏返しのナショナリズム」だよね。
昭和10年代に、経典としての記紀崇拝が極限に達して、
「橿原で出土の切り株の年輪を数えたら2600年だった!これぞ神武天皇の杉!万世一系神国日本万歳!」という
神話と現実が、極限まで混同されるレベルに達した。
その批判として、記紀の全否定がおこなわれるが、
中国史書が「偉大なる中国様の史書だから、虚飾の神話とは違う」という理由で、
鏡像として、「反記紀『史書』」として、倭人伝が崇拝され、卑弥呼が神格化されることになる。
アマチュア連中の場合、昭和15年と、実は文献に対する態度は殆ど変わっていない。
読み方の何が悪かったのか、理解していないから、同じように倭人伝を崇拝して大騒ぎすることになる。
いや、崇拝しているのは、畿内説保持で確保される、就職口やら出世コース、名誉と地位でしょ。
577 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 02:33:30.53
>>575 >「橿原で出土の切り株の年輪を数えたら2600年だった!これぞ神武天皇の杉!万世一系神国日本万歳!」という
ややこの板のカテゴリーから離れる話になるがw
1940年(昭和15年)11月10日に紀元二千六百年式典か…
時代背景としては
1933年(昭和8年)2月に日本国際連盟脱退
1940年(昭和15年)9月に三国同盟締結
式典での近衛の万歳三唱の音頭がラジオを通じて流れて日本国民のテンションMAX!な時代だなwww
何度も言ってるが、まともな考古学者の大半が
邪馬台国の研究なんてやってないのだが。
実年代が確定しない限り、邪馬台国には言及できない、あくまで「ロマン」という態度w
いつまでたっても、畿内説捏造史観から抜け出せないのは可哀想だがw
仮想敵国をつくり、九州説の破綻を誤魔化そうということなんだろうか?w
>まともな考古学者の大半が、邪馬台国の研究なんてやってないのだが。
いや、就職口の確保やら昇給やら、地位と名誉の確保に必死で
「畿内説」にすり寄ってくるとういう構造が問題なんだよ。
畿内説にすり寄るとか有り得ないしwwwww
どの陰謀史観ですか?w
まあ確かに考古学を勉強していれば、
自然とマキムク王権=邪馬台国の蓋然性が高いと感じるだろうけどなw
確証がないだけで。
実年代がはっきりしてきて、九州説が成り立たなくなってきて、
火病を起こしてるんだろうけど、いい加減に倭人伝や記紀に縋って、
考古学批判するのは止めたら?って思うw
つーかここの九州説は記紀は九州王朝の歴史を簒奪した欺瞞の書と言ってるわけだし
東遷説は神武を強引に3世紀にもってこなければ収まらん
まともな記紀読みをしてるわけでもないんだな
まあ、まともな記紀読みに出会ったことが稀なんだよな、このスレでも。
記紀を重視してるとか発言してるクセに、
まともな記紀研究の本なんてまったく読んでなくてw
ただ単に「自分なりに記紀をこう読みました」的根拠皆無な思いつきを
さぞや物凄い発見をしたかのようにw
ダラダラ長文で書き込むw
唯一の根拠は「ムカシノヒト、ウソツカナイ」w
その上、更に酷いことには、
記紀をそのままではなく自分なりに曲解してしまうところ。
何故か、どこが正しくてどこが間違っているか?
は分かってしまうらしいw
ホアカリ馬鹿、お前だよw
583 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 00:37:58.60
>>582 ちなみに、まともな記紀読みとは、どんなかんじ?
さわりだけでいいから、おしえて。
ホケノを忌部氏の先祖、とか書いてたのはいいセン行ってたと思う。
四国東部の葬送儀礼を大和王権が採用した、という話に説得力を持たせた。
585 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 01:34:37.67
アマテラスが卑弥呼で、その時期に東遷したんだろう。
そう考えればすべてつじつまがあう。
アマテラスと卑弥呼は、時代が300年も違う。
587 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 02:31:57.49
アマテラスは7世紀だからな。
卑弥呼はAV女優
589 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 07:17:22.04
卑弥呼は彦火明六世孫、宇那比姫命
590 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 16:22:15.89
卑弥呼は倭姫命。
だから卑弥呼スレじゃない!!
そういえば靴屋で卑弥呼ってあったな
アマテラスは実在した人だろ
生きていた時の名は「阿麻?留=あまてる」だったと思う。
594 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 01:56:19.53
伊勢にいた人ですね=アマテル
どこのいせだよ?
596 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 20:49:41.30
三重県の伊勢ですが、何か?
597 :
思金 久延毘古:2011/11/03(木) 22:45:04.66
158年 7月13日 皆既日食 琵琶湖 京都 大津 津
元伊勢(籠神社)、伊勢遺跡、伊勢神宮 のライン
(日食・月食・星食情報データベース 等)(ΔT= 8042.58 等)
天岩戸隠れの時の宮
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江
(ホツマツタエ 7アヤ)
天安河=野洲川 説
近江高天原説
滋賀県守山市 伊勢遺跡
弥生時代後期 二世紀初めから半ばが最盛期
東西750メートル、南北400メートル
大型建物が半径約100メートルの円周上に並んでいる
高天とは、葛城地方にある地名。
599 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 20:56:06.79
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
考古学の話しに戻ろう。>529
>533
「漏れだけ」じゃないな。報告よく吟味すると矛盾点や恣意性が分かるよ。>529の言ったような問題の批判については、すでに何人かが論文で書いているるよ。赤塚氏の議論を無批判に丸呑みして再生産している白石氏などの大御所が悪い気がするが。
最近の暦年代論も新井宏氏に恣意性を批判されている。新井氏の論文は自身のHPにアップされているからググってくれ。
荒井さんって古韓尺の人でしょ。
マキムクが新しく見つかった大型建物も、古墳も、
全部古韓尺だってのは説得力あったね。
高句麗系の建築技術者が絡んでいると推定されるらしい。
602 :
日本@名無史さん:2011/11/07(月) 21:07:06.58
>>584 忌部氏ねえ、まあこのスレで古代氏族の話とかするのはアレなんだろうがw
現在、阿波一宮と言えば大麻比古神社で例の萩原と同じ鳴門市だが
祀ってあるのは大麻比古大神=天太玉命
(アマテラスが岩屋に引き篭もってハンストやった時、おびき出すのにええ声で歌った神さん)
この神さんの子孫が忌部氏と言うことになっている。
単純に考えればイザナギ・イザナミ以前の天皇家の皇祖神アマテラスより古い神様を祖先にした氏族と言うことにはなる。
※Wikにある関連事項を適当に…
『阿波国』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%9B%BD >阿波国一宮を称する神社は複数ある。
>現在「阿波国一宮」と言った場合は大麻比古神社とすることが多いが、大麻比古神社が一宮とされるようになったのは中世以降のことである。
>古くから一宮とされていたのは上一宮大粟神社(名西郡神山町)であった。
>平安時代後期に、一宮大粟神社から国府の近くに分祀して一宮神社(徳島市一宮町)が創建された。
>上一宮大粟神社および一宮神社は式内名神大社の天石門別八倉比売神社の論社であるが、八倉比売神社(徳島市)も天石門別八倉比売神社の論社であり、こちらも一宮とされる。
>また、忌部神社は阿波国最高の社格を有していたこともあり、「四国一宮」を称している。
>総社は国府八幡大明神宮(徳島県徳島市国府町観音寺)とされるが、明証がない。
『忌部氏』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E6%B0%8F >氏族は多数に及び、各地に広がっている。九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった。
…そう言えば房総半島=千葉と言えば神門古墳群に「纏向型」あったが何か関係あるのだろうか?←(ちゃんと纏向に話を繋いだwww)
古韓尺は古倭尺でもあるんじゃないかな?高句麗と直接つながりのない4世紀中頃以前に高句麗系技術者とか、かえっておかしいですよ。
新井氏は既存の説への批判や視点はいいけど、自説の結論が最近はやや短絡的な気がします。
高句麗って扶余から分かれた連中でしょ。
倭は周の重王(BC11C)に貢献したぐらい先進的だったから、
倭の尺が扶余や高句麗に伝わったんじゃないの?
なんで、高句麗の尺を「古【韓】尺」と言ってしまうかな?
このソウル由来の政治的混同こそが、東アジア古代史の混乱の原因の一つなのに。
高句麗は、「東端の北アジア勢力」で、朝鮮南半分とは、文化的にしっかり切り分けなければならない。
他方、倭(西南日本)は、「東端の暖帯照葉樹林勢力」となる。
4世紀後半以降、この2つが、中間の朝鮮南部を草刈り場として、行ったり来たりのバトルを繰り広げるというのが、
あの広開土王碑が、雄弁に語る内容。
この対立構造は地政学的なものなので、現代に至るまで基本構造は変わらない。(主役がいなくなったりするけどw)
その上で、さらに前段階でどうなるか、というのが今回の問題。
南(倭)の尺、北(高句麗)の尺、西(中華)の尺、どの時代のどれだろう、ということになるだろう。
韓という実在しない蜃気楼を立てて、そこに更に高句麗を巻き込む「ソウル史観」を取ると、
何が何だか分からなくなる。
ようやく四世紀に建国の百済新羅と、
西暦一世紀には光武帝から印綬を貰ってる倭国、高句麗を比べると、
やはりそうなるよね。
韓国の後進国ならではのナショナリズムは、
学問からすれば排除する方向でいいと思う。
日本も戦前はそんな感じだったし。
>>604 向こうの方が時代が確定していて、
古いものがあるんだから仕方ない。
608 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 13:22:21.97
大和盆地南部は元々地形がなだらからからねえ。
こっちはどっちかというと氾濫しやすいタイプの扇状地だけども。
>>609 その条件こそが、
>>1の原因であるという議論が、去年くらいの過去スレで無かった?
纏向が興隆した原因の一つが、
「いくつもの断層崖が、緩やかな複合扇状地を作る」という、近畿中央低地、特に大和盆地の地形にあるという話。
この条件を満たすためには、かなり強いリアルタイムの地殻変動が必要で、中国地方はここから外れる。
そして、扇状地を直下に作るためには、傾動地塊の断層崖側(急な斜面側)であることが必要。
特に、皇室は崇神天皇陵の地形をひな形として、上述のタイプの扇状地上を放浪するような動きをする期間が長い。
難波や長岡のような、高台を占める皇宮は、どうも長続きしない。
ただ、大和盆地は全般的に川の水量が足りず、最終的に皇室が選んだのは京都のそれも京都御所だけどね。
このスレで聴く話かどうか分からないけど、吉備の楯築墳丘墓が倭国王帥升という説があるんだが、どう思う?
そいつって卑弥呼より古い時代のやつでしょ?
ある意味、歴史上に最初に現れる日本人
帥升が楯築のオウってのは、可能性としてはアリ。
従来みたく筑紫一択ってことはない。
マキムクに先行する王権=帥升の倭面土国の候補地は、
今のところ伊都のヒラバル、吉備の楯築、出雲の西谷くらいだろうか。
今後、これら以外にも見つかる可能性はあるだろう。
吉備楯築が後の前方後円墳に与えた影響は大きく、
マキムク直前期に吉備が一時的に倭国オウになっていた
てのは畿内説には納得し易いものだろうが。
614 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 09:40:04.58
帥升が漢に使いを送ったのは確か西暦107年。
楯築弥生墳丘墓の築造年代は170〜200年頃と考えられているので時期があいません。
楯築の実年代を新しく見積もり過ぎじゃない?
それだとマキムク開始と同時期になってしまう。
楯築は二世紀半ばくらい、倭国乱の前くらいが妥当じゃなかろうか?
2世紀半ば頃は古すぎだろw一般的に180〜220年頃って言われるけど、180年頃でも
古すぎな感じがする。
へー
じゃあ、マキムク開始の庄内の始まりは西暦何年くらいに考えてるの?
619 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 02:14:53.36
吉備は方形周溝墓を拒否してる地域なんだよな…
帥升は、倭の面土国だろう?文献ではそうあったはず。
これは、当時の音韻では、倭のメタ国と読む。
これに近い地名は、旧事本紀にでてくる、筑紫の米多国(メタ国)
現在の吉野ケ里遺跡のあたりの地名。
倭面土=ヤマトに決まってる
帥升が大和の王なら、
少なくとも107年には大和に王権が誕生してないといけない。
しかしその痕跡はない。マキムク石塚をそこまで遡らせるのは不可能。
後漢書東夷伝の少ない情報だけで議論は難しい。
ただ二世紀に倭国王がいたとすれば、
筑紫か出雲、吉備、大和あたりに絞られるとは思う。
弥生時代を通じて東国が開発され倭国世界が東方に急速に拡大、
倭国内の物と人の流れの中心が、筑紫→出雲・吉備→大和と移っていく。
個人的にはそういう大雑把な解釈でいいんじゃないか?と思うが。
>>622 倭面土=ワメタ
とてもじゃないけど、ヤマトとは発音しない。
これは、倭の面土国で
倭にあったメタ国って国でしょう?
おそらく、旧事本紀の国造本紀に登場する
筑紫の米多国(メタ国)のことだろう?
吉野ヶ里のあたりがそう。
>>623 帥升は、吉野ヶ里にあった
米多国(メタ国)の国主でしょう?
ただし、それ以前に、ヤマト王権はできていた可能性はあるよ。
文献が豊富な歴史においても
京都朝廷や足利幕府などの中央政権があっても
中央政権の統制力が弱体化して、地方が勝手な行動をして
内乱状態になるjことはよくあるわけだから。
マキムクより前に大和に王権があったと?
唐古鍵とか見ても、それは違うような
628 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 10:48:56.58
しかし「王墓」をキーワードに考えるなら
九州には平原以後の王墓が無い。
そして纏向に(纏向型)前方後円墳が現れるまで少し時間が空くとも思うが…
確かに楯築を持ってきたら間を埋められるか?
これが反日マスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています
「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット
「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」
「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット
「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット
「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット
「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット
他にもカットシーンがたくさんあるので、 ブ−タン国王陛下の演説 をyoutubeで検索してください
邪馬台国=ヤマト国
卑弥呼=モモソ媛命
男弟=三巻入彦(崇神天皇)
トヨ=豊鋤入姫命
難升米=ナシトミ命(孝霊〜崇神時代のの中臣氏の先祖)
狗奴国=許乃国(コノ国)
男王・卑弥弓呼=武埴安彦命
副官・拘右智卑狗=河内彦(武埴安彦命の外戚)
投馬国(ズマ国)=出雲国
>>630 古代畿内に、ヤマトなんていう場所は無いから、邪馬台国は畿内以外ってことでいい?
大和神社とか大和国造とか。
隋書倭国伝にも、邪摩椎、すなわち倭人伝の邪馬台国のこと、
とはっきり書いてあるのにな。
それは、ヤマトって読めないし、
古墳時代以前のヤマト地名なんて畿内に無いし。
大和ってヤマトって読むんだよ?知らなかった?
倭(やまと)→大倭(おほやまと)→大和(やまと)でしょ?確か
邪馬台は、ヤマトとは読めないし、
弥生時代の畿内にヤマトなんて場所はないよ。
ヤマトっていう地名がどこまで遡れるかは、まあ確かに不明なんだけど。
しかしヤマトの原義が古くから言われてるように山処なんだとすれば、
奈良盆地南西部の地勢はヤマトに相応しいとは思うw
邪馬台はヤマトだろ、読み方はw
邪馬壱なら話は別だがなw
そもそも邪馬台をヤマタイとか読んだのがかなり恣意的なんであって、
九州説のバイアスがかかってる。
邪馬台国を普通にヤマト国と読むのが現在の趨勢。
邪馬台国をヤマタイコク、って読んだのは本居宣長が最初で、
それまではみんな普通にヤマトコクと読んでたんだよ。
宣長は皇国史観から、中国皇帝に朝貢したのが大和朝廷、天皇の先祖と
したくなくて、九州の蛮族の女酋に邪馬台国を押し付けた。
ヤマトコクって読もうと読むまいと、ヤマトっていう地名は各地にあるし、
弥生の畿内にヤマト地名があった証拠が一つもない。
640 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 01:58:43.89
>>639 邪馬台国がヤマトと読まないなら、九州にもヤマトという地名は無いことになるが?
>>640 そのとおり。
そもそも学問を、ゴロ合わせを根拠に進めること自体、誤り。
言うまでもないが今の地名も字も変えられてるからねえ
643 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 10:01:17.88
一国として広い領域の大和国の地名は存在するが、
弥生時代を意識した、小領域での大和の地名は、
畿内に残ってる?
筑紫なら、筑紫島、筑前筑後の筑紫国
筑紫郡、小字名の筑紫まで。
644 :
名古屋のサガミファン:2011/11/22(火) 10:08:31.77
邪馬台国がマキムクなのはもうとっくにわかってるが、
記紀との関連性がまだ不明瞭だ。卑弥呼はアマテラスなのか?
学問が、お前の脳内で江戸時代以前に戻っているなw ダメだこりゃ
>>644
647 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 16:59:34.65
>>644 アマテラスは、8世紀の創作。
卑弥呼は、モモソヒメが可能性が高いが、他の巫女かもしれない。
648 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/22(火) 17:25:39.73
アマテラスは、8世紀の創作ではないね。
天照大御神を祭祀した伊勢神宮は、創建が8世紀より以前だからな。
君の妄想。
649 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 18:26:45.49
それなら、アマテラスは7世紀の創作だな。
650 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:03:07.98
>>644 名古屋
>卑弥呼はアマテラスなのか?
邪馬台国の女王卑弥呼と皇祖神にして世界的にも珍しい女神としての太陽神アマテラスを結び付けたくなるのは分からないでも無いがw
実際のところ両者を結び付けなければならない必然性はない。
唯一(誰もが一度は聞いたことがあるだろうが)実はアマテラスは元々男神だったが
それに歴史上の人物(卑弥呼・持統)を仮託したが為女神にされてしまった…という可能性があるだろうが
それにしたって実はアッサムのカシ族に岩屋に閉じこもった美女をあれやこれやの手練手管で出口までおびき寄せる伝説があり
日本神話との共通性が海外の比較神話学者に指摘されていると言う話もある。
そうなると何のことは無い、女神としての太陽神が岩屋に篭ってそれを皆が寄ってたかって引っ張り出す
…というストーリーの原型は既にあった可能性がある。
つまり話の大筋において一から創作しなければならない部分がほぼ無い。
まあその手のアマテラス=卑弥呼なんて話は九州説の連中が死ぬほど好きだから邪馬台国スレでやればいくらでも相手が見つかるだろう。
そっちのスレでやるべしwwwwwwwww
ヤマトっていう地名が大和に無い、ていう指摘は実は重要ではないだろうか?
奈良県桜井市には逆に吉備や出雲という地名があるわけだしw
おそらくは各地からの移住者かあったのだろう。
ヤマトという地名は恐らく、大和川水系が
大連合した時に名乗った国名ではないか?
後世でいう大和国は、古墳時代当時はいくつもの国に分かれていて、
奈良盆地東部は磯城嶋、南西部は葛城(秋津島)、
北部は春日とか分裂状態だった。
彼らが対等に連合して、共同して奈良盆地南西部、神南備・三輪山の麓に
都マキムクを築き、ヤマトを名乗った。
どこか一つの勢力が強盛になって他地域を従え、やがてその地域の代表となって
国名に昇格した訳ではない。
だから小字とかの地名にヤマトが存在しない。
それぞれの国は初期ヤマト王権の支える有力豪族で、
大王位を持ち回りした。
その時の持ち回りの記憶から後世、皇別氏族を名乗り、臣姓を得る。
存在定かならぬ、マキムク以前の彼らの始祖たちは、
崇神より昔に加上された。
653 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 19:44:09.99
山門郡なら、字までヤマトがあるな。
654 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 20:02:49.83
マキムクが突如出現した計画都市、ていうことからも、
それまでとは大きく違う政治的枠組みが生まれたという可能性は高い。
当時の人々はその新しい政治体制を、三輪山の麓の王権ということで
山処=ヤマトと呼んだのではないか?
ヤマト(大和)という国名は、おそらくはカワチ(河内)との対比の意味合いもあって、
内陸部の農業国家勢力が大阪湾沿岸部の海商国家群を飲み込んだという
歴史的事実を物語っている。
河内地域に初期古墳が見られないのもそのため。
海幸山幸神話など日向三代などで語られている
山と海の衝突と宥和の物語は、大和と河内の争いを神話的に物語っているのだろう。
結局は内陸部の王が政治的に勝って河内を併呑するのだが、
永らく大阪湾で海神から王位継承の承認を得るという
八十嶋祭が皇室の重要な祭儀として行われていた。
なんか説得力あるな
>>651 そういうケースは、ヤマトだけじゃないだろう?
京都だとか江戸だとか、首都になった場所には
全国から人が集まってくるから、そういう地名が多くできる。
>>656 そういう説も面白いな。
たしかに、河内に限らず、ヤマトの周辺から見たら
ヤマトってのは、盆地の国だから
山の上に人が住んでいる感じだろうね。
自分は単純に、三輪山の麓が山処(やまと)と言われていたから
だと思うけどね。
>>652 分裂したとか、連合したとかいっても
あんな狭い地域なんだから、彼らは元は殆ど同族でしょう?
661 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 21:30:44.54
>>661 「卑弥呼には夫も子もあった」・・・・この人、神懸かりだね〜
663 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/24(木) 23:26:51.63
卑弥呼≠アマテラス
右辺7世紀の創作ではない。伊勢神宮創建は3世紀前半である。
なおアマテラスは超ミス・ユニバース級の美女であり、危険厄物秀魔電の
言う男ではない。真の姿はマリー・アントワネットのような洋装をして
おられる。瓜実顔気味で。額上部正面に八咫鏡のある冠をかぶって
いる柳腰の美女である。ココデで鏡が極めて重大であることが確認される。
すなわち239年は鏡作神社の社伝の崇神6年9月3日の鏡改良の鋳造の
ころに近接する。崇神6年にはアマテラスの鏡の祭祀の行事が倭笠縫で
行われた年でもあり、239年がこの年のころだということが確認出来る。
景行元年が239年では、鏡のかような重大行事は無く、景行元年がインチキ
であることの確認が取れておる。宿主空年はすでに破折論破されている。
鯖江に高地性環壕
福井新聞 2011年11月22日
福井県の鯖江市教育委員会は22日、同市東部の弁財天(べざいてん)山にある弁財天古墳群で、
集落内に外敵の侵入を防ぐために造られたとされる溝「高地性環壕(かんごう)」が県内で初めて見つかった、と発表した。
出土した土器片から弥生時代後期前半(1〜2世紀初頭)に掘られたとみられ、北陸3県では最古級としている。
環壕は山頂(標高120メートル)を囲むように二重の輪の形で掘られ、大きさは南北約150メートル、東西約50メートル。
深さは約1・3〜3メートル、幅1・5〜4メートルあった。
土器片は「近江系土器」と呼ばれる滋賀県特有のつぼやかめなどで、数百点以上出土した。
一帯は高地性環壕集落だった可能性が高く、市教委では来年度、環壕内側に住居跡がないか調査する。
鯖江の高地性環壕では、メガネを作っていたとみられる。
667 :
www:2011/11/25(金) 21:40:31.94
>>664 環壕を備えた高地性集落か…高槻市の古曽部・芝谷遺跡とかよりは小ぶりな感じなのかな?
何れにせよそれで長期間人間が居住していた跡が見つかるなら
本当に一時的な避難場所だったのか?と言う疑問も出てくるんだろうか?
ちなみに「鯖江」と言うと過去邪馬台国の比定地に上がったことがあるらしいw
−映画監督の武智鉄二「古代出雲帝国の謎」1975
なんでも邪馬台国は北方騎馬民族テュルク人によって建てられたとかなんとからしい…
(成分に騎馬民族王朝説も入っているんだろうなw)
まあ邪馬台国ブーム華やかりし頃のお話なんだろうがwww
668 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 00:47:53.96
>>665 確かに怪しすぎるな。
だけど、伊勢の神宮に内宮と外宮が同じような形式で建っているのが
不思議でしょうがなかったんだが、この怪しい説だと説明できるかな。
皇祖神と同じような扱いで、誰も異を唱えないんだから。
>>668 その人は、漢字の音韻とか無視して
自分の好きなように解釈しているから
突っ込みどころ満載なんだよ。
だいたい、21世紀の日本の常用漢字の音韻で
西暦3世紀の中国の魏志倭人伝に書かれていることを理解すること自体
むちゃくちゃ。
asahi.com:新たに古墳13基/庵寺古墳群 マイタウン島根
2011年12月08日
県埋蔵文化財調査センターは7日、多数の古墳が集まっている
「庵寺(あん・でら)古墳群」(大田市仁摩町)の今年度の発掘調査成果を発表した。
古墳時代前期(4世紀)を中心とする古墳13基が新たに見つかり、石見地方で最大級の古墳群となった。
2008年度の調査では、丘陵の尾根から古墳時代前期(3世紀中ごろ〜4世紀)の古墳2基と後期(6世紀後半)の古墳1基、
前期古墳からは前漢時代の中国で作られたとみられる青銅鏡「八禽鏡(はっ・きん・きょう)」が出土した。
センターによると、今回は山陰道仁摩温泉津道路の建設に伴い、
5月から前回と同じ標高約60メートルの尾根の続きや丘陵斜面など約4500平方メートルを追加調査。
尾根沿いの約100メートルに13基の古墳が見つかった。
古墳からは穴を掘って遺体を埋葬した土坑(ど・こう)や石棺、木棺の跡、
土器(高さと直径各約50センチ)を棺に使った壺棺(つぼ・かん)などが見つかり、
鉄刀や鉄器片、ガラス小玉など十数点が出土した。
前回で見つかった八禽鏡に加え、多数の古墳や当時貴重だった鉄器なども見つかったことで、
周囲に広がる仁摩平野を治めたほか、海上交通にも一定の影響力を持った首長が存在した可能性が考えられるという。
石見地方でまとまった数の前期古墳が見つかった例は少なく、
10基程度の調査を終えた中山古墳群(邑南町)と並んで、石見地方最大級の前期古墳群になるという。
今回は、弥生時代中期末から後期初頭(1世紀ごろ)の集落跡も見つかった。
センターは10日午前10時から現地説明会を開き、出土品を公開する。
問い合わせは現地事務所(0854・88・9772)へ。(大久保直樹)
玉名市の塚原遺跡 大規模環濠集落を確認
2011/12/09付 西日本新聞朝刊
玉名市教育委員会は8日、同市岱明町野口の「塚原遺跡」で、
弥生時代中・後期(1−3世紀ごろ)の大規模な環濠(かんごう)集落跡を確認したと発表した。
菊池川下流域では初めての発見で、市教委は周囲の遺跡との関係から、九州西部の海上交易の中継拠点だったと推測している。
集落内の直径約11メートルの大型建物跡は弥生中期のものとしては県内最大という。10日に一般公開される。
市南西部にある塚原遺跡付近は現在、農地や宅地が広がっているが、かつては海岸線に近かった。
遺跡は約9万平方メートルと考えられ、今回は市道工事に合わせて、昨年8月から畑や竹林計約8千平方メートルを調べていた。
環濠集落は、周囲に溝をめぐらせた弥生時代の特徴的な集落(ムラ)の形態。
外的の侵入を防ぐ機能などがあったと考えられている。
今回見つかった集落跡では、住居を含む建物跡23軒分や土器、石器などを確認。
集落の境界とみられる幅約5メートル、深さ約2・2メートルの溝を挟んで、
かめをひつぎにした甕棺墓(かめかんぼ)4基も見つかった。
住居跡は円形や四角形で、直径約11メートルの最大の円形は住居跡としては大きすぎ、集会場などの可能性がある。
塚原遺跡そばの北西側に位置する「年(とし)の神(かみ)遺跡」では、
奄美諸島以南にしか生息しない貝のゴホウラを使った装身具「貝輪」が出土しており、
この一帯が海上交易の中継点の集落だったと考えられるという。
調査区域の別の部分からは、古墳時代前期(4世紀)の集落跡と、同中期(5世紀)の古墳群を発見。
住居跡(13軒)では、かめやつぼなど多くの土器が見つかった。
熊本大文学部の杉井健准教授(考古学)は「玉名平野で弥生時代の環濠集落の発見は初めて。
古墳時代前期の土器も、玉名の古墳を造った人々が住んだ候補地という意味で興味深い」と話している。
市教委は「調査部分以上に環濠集落が広がっているのは確実。調査範囲を広げたい」と話す。
>>671 肥後と筑後の中間か、これは面白いところに見つかったもんだね。
ただちょっとスレ違いか。
674 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 10:11:24.98
熊本の鉄器加工遺跡からは、
熊本の北側の玉名山鹿と、
南側の宇城八代に分かれてる感じがする。
675 :
イアン・馬韓:2011/12/13(火) 10:41:17.20
>>673 >肥後と筑後の中間か、
筑肥山地が隔てた熊本側だ。中間ではない。
熊本平野は奈良盆地と構造が似てるだろ。地形構造的に相似形をしている。
左巻き台風の害が少ない山の懐、外洋の津波の害が少ない内海の奥。
一級道路の大小の河川と水路が走り、稲作適地の平地の先には、
古代の漁労水準に適した豊穣の内海………。
平城京が奈良盆地の北部にあったように、熊本平野の北部に山鹿・菊池がある。
そういえば。
銅鐸の出土数が少ない奈良盆地の中で、わずかだが出土するのは北部だな。
>ただちょっとスレ違いか。
これが奈良盆地で発見されたらどんな大騒ぎをしたか。
それを考えるだけでも勉強になるだろ。鷹揚さを見習え。
676 :
イアン・馬韓:2011/12/13(火) 10:50:11.55
ま・「邪馬台国は熊本だ」といい続けてるのはこの俺ぐらいのものだし、
他の九州北部説のタコたちにも芳しい情報じゃないかに話題にしたくはなさそうだし……。
だが、こっちは余裕よ。
熊本にはもっともっと大きな遺跡が眠っている。
とてもとても、
従来通り「狗奴国の領域」ではごまかしきれない規模と物量だ。
倭国の中心権力は、
北部九州→熊本→北部九州と移動しているような気がするが?
678 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 13:08:34.10
狗奴国一宮
679 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 22:06:13.83
age
680 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 22:30:26.43
>>676 記紀で言うところの熊襲地域は鉄とか見ても確かに先進的だし、
倭人伝で言うところの邪馬台国だった可能性はないではない。
しかし、筑紫地域を政治的に従属させていたと分かるような、
考古学的痕跡が皆無なんだよな。
681 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 23:16:03.49
筑前と筑後は別じゃないかね。
磐井の岩戸山古墳の石人石馬は熊本の影響が強い。
個人的には久留米(筑紫平野)を、筑前と熊本で
取り合ってたんじゃないかと思う。
肥国は以前、有明海周囲全体の国だったが、
筑紫が割り込んで、佐賀の肥前と、
熊本の肥後が別れてしまった。
そして、肥前肥後の全域である肥国が、
女王を共立した30ヶ国であり、
その中のどこかが邪馬台国である。
つまり、唐津から肥前を通って、肥後へ向かうということであり、
倭人伝の使者は、肥国以外の領域は通っていない。
…ちょっと妄想がすぎるだろうか。
682 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 05:59:27.80
たしかに、肥の国とまとめて呼称している以上、
あえて肥前肥後をまったくの別国と考えることはないだろう。
古代、そこには何らかの政治経済的か宗教的なまとまりがあった
と考えていいだろう。
たとえば、熊本の阿蘇山を中心にした、火山信仰みたいなものを
想定することも可能かもしれない。
その場合、火の巫女=卑弥呼になり、=コノハナサクヤヒメになるのか?w
しかし同じように、筑紫を筑前筑後に分けるのも不適当だと思うぞ。
筑紫が肥の国に侵攻とか、筑前なのか筑後なのかw
683 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 06:20:31.55
後代、筑後が装飾古墳やら石人石馬とか、筑前とは毛色の違う文化に
見えるのは、恐らくはヤマト王権との関係の濃淡の差だと思う。
ヤマトと関係の深い筑前に対し、関係の薄い筑後では九州独自色の強い
古墳祭祀を行っていたということ。
磐井の乱の発生地域とも重なる。
あとまあ蛇足で倭人伝の話の方も意見を言わせて貰えば、
末廬国まではいいとしても、その後の伊都やら奴国まで
肥前やら肥後にするのは流石に無理があるだろうとw
まず邪馬台国=熊本ありきの話で、根拠もへったくれもない。
まあ確かに畿内説もマキムクありきの説なんだが、
考古学的根拠で言えば畿内説>>>>…>熊本だよな。
熊本に眠ってるというw超巨大遺跡が出てくるまではww
2012年○月 熊本に眠る王都邪馬台国が発見され森村E作が一躍時の人となり
以後彼を中心に史学の世界が回っていく様になるのを今は誰も知らないのであった…
685 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 10:15:58.45
倭人伝の松浦から伊都へ南東に行くというのは、
糸島の怡土を知らなければ、容易にたどり着く。
古来、松浦の唐津までは、佐賀を通るルートが普通。
糸島から唐津に向かう、唐津往還、という古道もあったが、
途中で何度か渡し舟に乗るルートだ。
それに、松浦から佐賀へは一見すると
えらく山を通るように見えるが、ずっと谷になっており、
標高は高くない。自然の間道となっているのがわかると思う。
ついでに、輸入品の砂糖も佐賀を通るため、唐津街道は
シュガーロードでもある。
まあ確かに、何故直接糸島半島へ行かず、唐津に立ち寄ったのかは、
昔からよく言われてる、素朴な疑問ではある。
ただまあ、倭人伝解釈は結論が出ない堂々巡りになるのでw
もう少し違った角度から熊本=邪馬台国を補強出来る資料はない?
687 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 11:33:34.21
なんだかんだ行っても、筑紫の存在は大きいからなあ。
筑紫の玄関口が博多湾の入り口としての怡土、
肥国の玄関口が松浦とか?
基肄城、高良大社ラインが大体現在の佐賀と福岡の県境。
国の境が山で接している場合は、比較的すんなり行くけど、
平野で接している部分では、筑後川、宝満川が暴れ川で
流路を変えたりするんで、国境がなかなか落ち着かなかっただろう。
つまり戦は多かっただろう。平野で接しているからね。
熊本も遺跡自体はいくらでもあるけど、補強できるかって言うと難しいね。
あるいみ、九州全域どこでもあるし。
うてなも吉野ヶ里級と言われてるようだけど、まともにほったら、
ほかにも吉野ヶ里級が見つかりそうだ。
クナ国と熊襲は別物で、クナ国は奴国、と考えたこともある。
688 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 11:35:14.25
>>686 >もう少し違った角度から熊本=邪馬台国を補強出来る資料はない?
スレ違い他でやれ
1ヶ月放置されてるスレなんだし、固いこと言うなよw
文句あるならお前が燃料投下しろw
まあ、大きく言えば、もし仮に熊本を中心とした30のクニの連合が
三世紀の日本にあったとするなら、
それはそれでヤマト王権と無関係だったとも思えない訳だし。
王権どころか、民間レベルの土器の伝搬でさえほとんど影響がないのです。
691 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 18:42:17.75
>>682 阿蘇(aso)浅間(asa−ma)と火山に語源を同じくする地名をつけたのがアイヌ…とかいうお話があったなw
で「コノハナサクヤヒメ」というのは浅間神社から引っ張ってきたか?www
で、コノハナサクヤヒメの神話で父のオオヤマツミからニニギにブサイ子ちゃんの姉と一緒に嫁にと送られたが
ニニギがカワイコチャンの妹だけ娶った為その子孫が見目麗しくとも儚い命になってしまったと言うのは
比較神話学だとバナナ型神話(この場合はバナナと石の二択)でひょっとすれば縄文時代にも遡るほどプリミティブな存在…とwww
(参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%8A%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
でもまあコノハナサクヤヒメが浅間神社の祭神に祀られたのは江戸時代からという話もある
あまり深読みしすぎるとドツボに入るぞとwwww
まあ隋書に阿蘇の石を使っての祭祀みたいな事も書いてあるがそれで30カ国の連合体のような広がりを想定するのも難しいかなあ・・・w
692 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 18:52:53.10
>>689 >もし仮に熊本を中心とした30のクニの連合が
まあ話の腰を折るようで悪いが実際難しいだろう(まあ重々承知で言っているんだろうが)
土器にしても九州って北部中部南部とあって相互に多少の行き来はあっても
土師器みたいに地域のローカル色払拭していくk斉一性を持った物は発生しなかったんだろう?
土器に限らず何かでそう言ったものを想定可能なら今の邪馬台国論争も随分形が違ってたんだろうがw
693 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 19:02:03.78
棺や石細工で阿蘇凝灰岩ってのが出てくるけど、
阿蘇凝灰岩は九州のかなり広域から出て来る。
もとは阿蘇山の火山灰だからね。
九州全域に降り注いでいて、地層の指標にもなってる。
阿蘇山にしか無いという事ではない。
念のため。
694 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 19:09:24.78
九州は全域、独立しているっぽくて、各国マイペースだねえ。
前方後円墳もあれば前方後方墳に円墳、方墳ごちゃまぜだ。
卑弥呼が睨み効かせなきゃ、すぐ戦乱が始まったのもさもありなん、というところ。
まとまりやしねえ。
695 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 20:39:12.62
一大率って、後の
大宰府、九州探題みたいなもんだろう?
弥生後期の鏡 甕棺と一緒に出土
2011年12月27日 asahi.com:
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001112270002 佐賀市大和町尼寺のマンション建設予定地から、
後漢時代の青銅鏡「雲雷文帯連弧文鏡」が弥生時代の甕棺(かめかん)と共に出土し、佐賀市教委が26日に発表した。
この形の鏡と甕棺が同時に出土するのは九州で初めてで、甕棺の年代特定や当時の埋葬方法などを明らかにするのに役立つという。
この形の鏡は1世紀前〜中期に中国で製造された。
今回は棺に添うように見つかっており、副葬するために人為的に打ち割られている。
打割鏡を副葬する風習は弥生時代後期に佐賀平野を中心に始まり、北部九州全域に広がったと考えられている。
佐賀市教委によると、この形の鏡の出土は県内で14例目だが、
いずれも土壙(どこう)墓や石棺墓などからの出土で、甕棺と一緒に出土するのは初めてといい、
甕棺の埋葬年代や当時の葬送儀礼、鏡への価値観を知る手がかりになるという。
一方、棺の内側や鏡の背が赤く塗色されており、市教委の担当者は「被葬者は権力者だった可能性が高い」と話している。
遺跡を視察した高島忠平・旭学園理事長は
「議論の多い弥生時代後期の年代論に指標を与える資料。当時の人たちの精神生活がうかがえる」と意義を説明している。
付近は尼寺一本松遺跡と呼ばれ、11月の工事中に遺構が見つかったため、市教委が発掘を開始。
17の甕棺と3の石棺、祭祀(さいし)遺構が見つかり、1月中旬まで調査を続ける。
697 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 22:41:06.36
ありゃ、割と近所だな。
尼寺という地名の元は、国分寺、国分尼寺から。
国分尼寺の場所はよくわからなくなってるけど、
国分寺跡はまだある。
狗奴国は、魏志倭人伝が書かれたのが中古音の時代なので、中古音で
コノ国と読むのが正解。
これは、武埴安彦命の領国だった許乃国(コノ国)のこと。
実際に、魏志倭人伝には、奴が付く名前の国が多いけど
武蔵の国、伊賀の国みたいに、助詞の「の」から来ている。
奴という発音は、最初の北九州にあろう奴国を上古音で
ナ国と読むものだから、誤解しやすいが
奴国に関しては、西暦57年の上古音の時代だから
中国側に、倭国側の玄関口として有名になったおかげで
上古音時代につけられた漢字名がそのまま、慣習として残された可能性が高い。
699 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 10:02:34.00
狗奴国一宮
700 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 15:12:17.50
狗奴国を東海地方と考えるやつは単純。
巣に帰れ
702 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 22:24:12.39
弥生後期に北部九州の甕棺墓が衰退したのは、
何か政治的な意味合いがあるのかな?
703 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 23:51:10.74
衰退したって言っても、古墳時代にも
甕棺は出てくるし、小型石室墓はゴロゴロしてる。
祭祀の手法がゆっくりと変化していっただけじゃないかね。
甕棺墓がゆっくり減っていっただけで。
704 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 01:01:10.33
邪馬台国北部九州説だと、卑弥呼の墓は甕棺を想定するのか?
705 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 10:17:37.84
別に、すべてが甕棺ってわけじゃないし。
706 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 18:40:50.22
698 :日本@名無史さん:2011/12/29(木) 21:15:40.90
狗奴国は、魏志倭人伝が書かれたのが中古音の時代なので、中古音で
コノ国と読むのが正解。
これは、武埴安彦命の領国だった許乃国(コノ国)のこと。
誰の(妄)説?
707 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 19:04:11.07
この野郎
708 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 19:05:29.01
武埴安彦命ってのは、青木慶一が30年以上前に言っていた説だと思う。
卑弥呼がモモソ媛命ならば、そうとしか考えられないしな。
709 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 19:49:21.33
狗奴国(コノ国)の男王は卑弥弓呼で、
その副官が拘右智卑狗(コウチヒコ)な。
で、卑弥弓呼と卑弥呼は、元より個人的に仲が悪かったらしい。
狗奴国の卑弥弓呼って、許乃国(コノ国)の彦命で、武埴安彦命。
その副官ってのは、彼の外戚だった河内彦。
武埴安彦命は孝元天皇の長子だったけど
母親が河内の領主の娘で、孝元天皇の側室だったから、嫡子ではなかった。
でも、外戚の河内彦は、なんとしても、武埴安彦命に倭王(天皇)の地位につけたかった。
そういうことだな。
なんか安易に記紀神話と結びつけるのには抵抗があるなあ。
モモソ媛の話も、どこまで正確に伝承されているか甚だ疑問。
かなり神話的脚色がなされている。
武埴安彦の話も、確かに興味深いが、
安易に言葉遊びでヒミココと結びつけるのはどうだろうか?
あと、甕棺墓については、弥生後期という各地の首長権力が高まる時代に、
反比例する形で衰退しているという点に注目したい。
つまりは、外来勢力、おそらくは西日本各地に土着化した渡来系より、
北部九州の甕棺が急速に否定されていく流れ。
712 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 22:38:14.06
博多と唐津に朝鮮式土器が混じりだすから、
その流れかもしれない。
5世紀中葉以降の須恵器もその流れかも。
で、須恵器の高温窯から製鉄に繋がるのではないかと思っている。
713 :
19歳某国立大生:2012/01/11(水) 20:12:28.78
海部氏系図に卑弥呼と台与らしき人物が書かれてるし
記紀は脚色されてるからこっちが真実だろう。
トヨタン・・・・・・・・・・
715 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 16:09:59.21
>>712 曲学の徒さんの説だろう?それw
でも、あの人、漢字の音韻なんて無視して、
かなり御都合主義の解釈だからね。
狗奴国なんて、北陸にあったクガ国だとかいっているしなw
狗奴国のことを、クガ国なんて絶対に読まないしw
漢字の音韻を無視してる馬鹿って学会にも多いよね
卑弥呼をヒミコだとかいっているしなw
717 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 20:39:13.33
>>710 そう。安易に卑弥呼や邪馬台国と結びつけて、
妄想に耽っているのが、
れっきとした考古学や古代史学の研究者だから、
まともな実証的な研究(これ自体は資料が少ないから大変なこと)
がなおざりにされる風潮を作っている。
考古学の記述では理路整然とわかりやすいものを書いているのに、
そこに卑弥呼なりをからませると、デムパぎんぎんの研究者が
あまりにも多い。
信憑性で言えば、倭人伝>>>>>記紀だからなあw
紀のヤマトトトヒモモソヒメなる人物は
蛇と結婚したりw墓は夜は鬼が造ったりするw甚だ実在が疑われる人物。
アマテラスとかと同レベルの神話説話上の人物としていいだろう。
モデルぐらいはいたかもしれないが、どの時代かも不明だ。
仮にモデルがいたとすれば、おそらくは三輪山祭祀と関係深い人物で、
三輪山祭祀がマキムクの時代に見られないことからも、
マキムクより大分後世の人物ではないかと思われる。
卑弥呼は三世紀に確実に倭国にいた人物。
>>718 それ、すでに「悪意の捏造のバイアス」に騙されているよ。
よく考えれば、その意味の信憑性も、倭人伝も記紀も大差ない。裏が取れていないのはどちらも一緒。
「倭人伝は、『余所の国を記述した』のだから、『権威付けのための捏造の動機』が無いだろう、だからより正確なはずだ」
というのは、一見的確そうな推論だが、実はおかしい。
更に、倭人伝には、情況証拠として致命的な問題がある。距離が滅茶苦茶なのだ。
日本書紀は、「時間がおかしい」。魏志倭人伝は、「空間がおかしい」。
日本書紀の「時間」は、意図的操作であることが強く推認される。ということは、逆操作すれば信憑性を上げることが可能。
だが、倭人伝の「空間」は、中国人に距離を曲げる意味も動機も無いのに、途中から滅茶苦茶になっている。
これは、「中国人が素で間違えた」ということで、意図の問題ではなく、当時の日本列島の正しい状況を把握する能力の問題。
つまり彼らは端的に「馬鹿だった」ということ。これは、倭人伝の信憑性に深刻な影響を与える。
「詐欺師の書いた旅行記」より「馬鹿の書いた旅行記」のほうが、信憑性は低いのは当然。
東京地裁の裁判官で、「邪悪な詐欺師の供述」より「能力の低い馬鹿の供述」をより信用する人はひとりもいないはずだ。
長文で何やら解らない理屈を書いてるが、
客観的に考えて、同時代に書かれた倭人伝と、
五百年後に書かれた記紀を比べて、
どちらが信憑性があるか?は火を見るより明らかだと思うがw
大体、君が大好きな紀の編者は、時間が経ち過ぎて、
卑弥呼が誰だったのか解らなくなっている。
倭人伝も変な読み方をしない限り、不弥国=宇美までは確定。
邪馬台を当時の発音で普通にヤマトと読めば大和になるだろう。
記紀は、大和朝廷のいろいろな意図でもって脚色した史書だから、
三国志の客観度や正確さに、遠く及ばないよね。
場所からして怪しいじゃんかw
>>720 簡単に言えば、
「詐欺師が書き換えた変造文書は、意図を見抜けば訂正可能だが、馬鹿が書いた出鱈目文書は、捨てる以外手の施しようが無い」
ということ。これに尽きる。記紀編者は詐欺師。倭人伝著述者は馬鹿。
>>720の指摘は、更に痛い結論を招くわけで、
「同時代に書いたのに、途中から地理的関係が完全に滅茶苦茶って、どんだけ凄まじい馬鹿が書いたんだ?」
ということになる。俺は記紀を擁護するのではなく、倭人伝を腐しているだけ。
あんなものを持て囃している奴の気が知れない。
「アメリカ合衆国は南半球にある」なんてレベルの出鱈目記述のある旅行記を、誰が読むかね?
>>720 > 大体、君が大好きな紀の編者は、時間が経ち過ぎて、
> 卑弥呼が誰だったのか解らなくなっている。
「卑弥呼が誰だかわからなくなっている」って考えは、
暗黙の内に倭人伝が正しいことを仮定している。
実際は「こいつら出鱈目書いてるけど、
尊敬する中国さんの言う事だからムゲにもできないしなあ。
まあ交流があったのは事実だろうからなんとか解釈してみるか」
だった可能性だって、まあ一応ある。
邪馬台国、卑弥呼を重要に考えていれば、もっと記紀に盛り込んだはず。
>>724 中国史書が出鱈目だという根拠がない。
卑弥呼の同時代文献が日本になかったのだから仕方がない。
で、君の先祖は弥生時代に何していたかわかる?
同時代史料がないというのはそういうこと。
九州の国々についてはともかく、
邪馬台国についてはいきなり間違ってるからなあ。
何も倭人伝が全面的に信用できる、なんて言ってないよw
記紀に比べれば大分マシ、という程度。
倭人伝に記載のある文物は、圧倒的に九州から出るから、
争っても意味ないよ。地名の語呂合わせだとか、
如何わしい神話と卑弥呼を=で結んでも、デタラメの上塗り
にしかならない。
729 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 20:55:44.47
大和という字は8世紀後半に入ってかららしい。
それまでは大倭とか書かれていたようだ。
その間の時代に「大養徳国」という表現もあった。
万葉仮名だろうとおもうが、ヤマトと読めない。
マキムクって”纒向”、”纏向”、どっちが正しいんだ?
”纒”だと意味は”まつわる”とか”(つき)まとう”とかで、周辺に存在してるってイメージだが、
”纏”の字だと、それに加えて”纏り”="まつり”ということで、「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」を行う場所、つまりマチ・都との関連性が出てくる
”向”の字と合わせてマチ・都の周辺にあってマチ・都を向いている・対になってる場所ってイメージが感じられる
>>725 >中国史書が出鱈目だという根拠がない。
十二分にあるだろ。博多から、うねうねと【真南に500kmも伸びる謎の巨大な島】は、
地球物理学上、紀元3世紀に成立していた可能性は絶対にゼロ。
ゼロ以外の結論が欲しいなら、月刊ムーの編集部にでも行ってくれw
これが致命傷。国家は、基本的に領域と国民と統治組織からなる。だが最初の「領域の指示」が完全に出鱈目。
だから、邪馬台国は存在自体が怪しい。
指し示す所在地が架空の国なんて、存在自体が疑わしい。当たり前の話なんだけどなあ…
まあ、ハッタリだろ。国家の血統として南で在る必要があった。民俗描写も意図的なものだろ。
倭人伝の方角や距離がいい加減だからといって、
三世紀の日本に、三十国を束ね、中国に使いを送る
女王がいたことには間違いがないわけでw
なんかまあ、倭人伝をくさしたいだけ、というか。
一字一句正しいと信仰する原理主義者も極端だが、
まったく信用できないと切り捨てるのも極端。
あいだがとれないものかw
まあ倭人伝に書かれてる邪馬台国の位置が無茶苦茶な時点で
眉つば扱いされても仕方がないね
記紀のほうがまだましだな
>>734 まったく信用できないというより、纒向が邪馬台国に関係するかどうかも分からない時点で
倭人伝を用いて語るってのも、無意味だと思うがなw
マキムクの実年代が分かってきて、おそらく邪馬台国=マキムク、
てのはある程度一般常識になりつつあると思うけどなw
方角や距離が違うから全部否定、とか極端過ぎる。
考古学>>倭人伝>>>>>記紀
みたいな感じだな。
魏志倭人伝に記載のある文物が、九州(福岡・佐賀・熊本)には圧倒していて、
纒向にはあまりないという決定的な事実が、すべてを物語っているな。
>>734>>737 おまえらさ、
「東京都東区銀座20丁目30番40号 サンライズビル100階 邪馬台物産株式会社代表取締役社長 天津日美」
という名刺を差し出して来た自称女性社長が、社員を引き連れてやってきたとして、取引に応ずるの?
邪馬台物産株式会社というのは、実在すると1ベクレルでも思える?
目の前に天津日美と称する女性と、引き連れた社員がいることは事実だ。
だが、邪馬台物産というのは、存在するのかね?
東京都に東区なんてないし、銀座20丁目なんてあり得ないのに。
三世紀の、それも初見の外国人が書いたんだから、
色々間違えていて当たり前だw
ただ、間違いがあるからといって、全部信用しない
ていうのが学問的態度と言えるだろうか。
あつものに懲りてなますを吹く、ではないが、
倭人伝アレルギーを起こし過ぎw
741 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 23:06:53.27
>>738 そんなこと言っても、焼け石に水だよw
だって、魏志倭人伝では、倭国は九州にも玄関口があったので
邪馬台国=ヤマト国でも、さして問題がない。
そもそも、歴史時代においても、海外との貿易品は、
圧倒的に九州が多かったわけだから。
西新町遺跡やら、那珂八幡から三角縁が出てることからも、
卑弥呼の時代、北部九州は畿内の影響を確実に受けている。
743 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 23:38:11.39
また、魏志倭人伝を読めば分かるけど
卑弥呼の王朝を建国したのは、卑弥呼ではない。
卑弥呼よりも、ずっと前にいた男王によって建国されている。
その王朝で王位継承争いがおこり、卑弥呼が擁立されて鎮まったとある。
中世の南北朝時代を思わせる対立が、倭国大乱ともいえる。
弥生後期に南北朝や戦国時代みたいな国家体制を想定することに、
そもそも無理があると思うんだけど。
当時は小国家が乱立して、緩やかな同盟がなされていた時代だろう。
前方後円墳の広がりにしても、統一国家というより
同じ宗教観を持ち、共通の墓を造ったとした方が座りがいい。
卑弥呼、てのはその倭国同盟の神輿みたいなもので、
マキムクは同盟の中心地として築かれた都。
745 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 13:14:24.20
纒向遺跡&一宮萩原遺跡
>>743 直前に大乱の痕跡なんて見つかってないからね。
青谷上寺地遺跡は?
吉備にしたところで、内実はひとつのクニではなく、
豪族の連合政権だったと思われる。
後世の上道、笠、三野、賀陽、苑など諸豪族が
共通の始祖キビツヒコを創作、同族化したということ。
同族化しても、それぞれに政治的独立性は有していたと思われる。
これは畿内有力豪族と同じ。
のちにキビツヒコは大和の王統に取り込まれ、
孝霊の王子と同一人物とされる。
弥生後期の吉備地域で、特殊器台を共通にした葬送儀礼が行われるが、
このあたりの時代に、キビツヒコを触媒とした同族化が行われていったのだろう。
これと同じような流れは、当時の倭国各地でパラレルに起きていて、
大和川水系豪族たちの間で起こったそれがマキムク王権なのだろう。
749 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 21:06:15.76
纒向遺跡&一宮萩原遺跡
750 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 14:01:48.31
魏志倭人伝の時代に正確な日本(倭)地図があったわけでも、
精密な測量持術を身につけた者が同行していたわけではない。
ただ、先入観を持っていたことは実際よりもかなり南に倭を想定していることでもわかる。
この程度のものだけで、
一応専門の研究者でさえ、
やら大和だ巻向だ、
九州だ、とか妄想している状況の方が可笑しすぎる。
>>750 「倭」呼称そのものが南成分の意味を含むんだよ。
九州なんていってるのは頭おかしい
「大乱」はかなり後世の伝聞だからね
たんに長い間、連合王国の統一首長が決まらなかったってことだろ
赤塚が言うような、
大阪湾=邪馬台国vs伊勢湾=狗奴国の対立があって、
狗奴国が一旦マキムクを席巻し男王が立つが、国が収まらず、
また卑弥呼の宗族から台与が女王に。
みたいな仮説は、どれくらいの支持を受けてるんだろう?
この場合の、マキムクで一時的に即位した狗奴王の墓は桜井茶臼山古墳になるのかな?
トヨタン・・・・・・・・・・
756 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:00:21.15
>>754 いやむしろ西殿塚にその男王と壱与が一緒に眠っているとか?www
イヨタン・・・・・・・・・・
東海勢力がマキムクを一時的に占領、その後、東海と大和が合併して
全国規模のヤマト王権が誕生した
という赤塚さんの説が本当なら、
なぜ記紀にはそのことが全く触れられていないのだろう?
日向になんかに天孫降臨せずに、伊勢に降臨すれば良かったのにな。
759 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 13:43:29.88
マキムクに東海系土器(S字甕)が多く発見されているのは事実の承知。
土器が流入してるからと言って、
大規模な政権交替とイコールにするのら違うと思う
●弥生時代の銅鏡出土 安中・長谷津遺跡で県内初
上毛新聞ニュース 更新日時: 2012年1月19日(木) AM 07:11
県埋蔵文化財調査事業団は18日、2009年に発掘調査した安中市西上磯部の長谷津遺跡で出土した青銅製の銅鏡が、
弥生時代後期(紀元1世紀〜同3世紀中期)のものと判明したと発表した。
県内で発見された銅鏡としては最古級で、弥生時代の銅鏡発見は初めて。
銅鏡は同時代に西日本地域で製造され、祭りのシンボルとして用いられていたものと同じ特徴を持つ。
遠く離れた県内に運び込まれ、西日本と同じ形態の弥生文化の影響が県内にも及んでいたことが初めて明らかになった。
この時代は、邪馬台国で卑弥呼が活躍した時代と重なるという。
銅鏡が見つかった場所は、碓氷川右岸の台地にある竪穴住居跡で、
深さ40〜50センチの黒土の中から弥生時代後期の土器と一緒に三つに割れた状態で見つかった。
実際の銅鏡(直径6センチ、厚さ2・4ミリ)の4分の1の部分に当たる。
事業団によると、銅鏡は前漢時代(紀元前202〜8年)の鏡をモデルに、
朝鮮半島や西日本で作られたと考えられている小型の連弧文(れんこもん)鏡。
裏面に円状の曲線が連続する連弧文と、のこぎり状の鋸歯文(きょしもん)という文様が浮き彫りされているのが特徴とされる。
当時の西日本では、村の共同祭器として扱われ、
青銅器を祭りのシンボルとして用いる西日本の弥生文化が本県にも及んでいたことを実証する貴重な発見としている。
国内では、九州を中心に西日本の弥生時代後期の遺跡から出土例があるが、本県の出土は最東部に位置するという。
元群馬大教授で古代銅鏡を研究している梅沢重昭さん(77)は「関東では最古級の銅鏡で、
弥生時代の県内の歴史を見直す発見。西日本と同質の社会が関東にもあったということで、
金属製の宝器など今後の発見に期待している」と話した。
発見された銅鏡は、27日から29日まで県庁県民ホールで初めて一般公開される。
<関連情報>
長谷津(ながやつ)遺跡【県道建設】
柄を縛り付けた紐の跡が残る弥生時代の鉄斧
長谷津遺跡は安中市西上磯部にある遺跡で、県道宇田磯部停車場線の建設に伴い平成21年度に発掘調査が行われました。
弥生時代中期(2世紀代)から古墳時代前期(4世紀代)にかけての集落や、方形周溝墓などたくさんの遺構が見つかりました。
この中の弥生時代後期の竪穴住居(3世紀代)から出土した板状鉄斧(ばんじょうてっぷ)の保存処理が完了し、
写真1・2のような姿が明らかになりました。
この鉄斧は長さ11.1cm、刃部幅3.4cm、重さ218gです。錆のため不明瞭な部分がありますが、
刃部は片刃で比較的まっすぐに作られ、刃こぼれもほとんどありません。
鉄斧の表面には木質が見られ、裏面と側面には太さ2oほどの紐の跡が写真3のように明瞭に残っていました。
これらの痕跡から図1のような鉄斧の装着が復元できます。
使用方法は、主に木の表面をコツコツと平らに削って板材や角材などを仕上げるのに用いられたと考えられます。
群馬県内の弥生時代後期には、薄い板状の加工材を使用した木製農具類が出土します。
また、本遺跡や富岡市中高瀬観音山遺跡の竪穴住居の柱には、角材を使用した痕跡も見つかっています。
群馬県域における弥生時代の鉄斧は発見事例が少なく、当時でも貴重品であったことがわかりますが、
前述のような農具や建築材を作るのに不可欠な工具であり、
旧来の石製工具に比べてその切れ味には大きな違いがあったことでしょう。
財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団
http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/seiri/2011/20110929-1.html
そもそも王権だとか大王だとかいうものがどれだけ明確に存在していたのかな?
飛鳥時代ですらあやふやな感じなんだから、巻向の時代じゃ後の大和朝廷に
繋がる勢力であろうがなかろうが国内では大規模な豪族としか言いようがない
764 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 11:06:03.65
しかも最大勢力とは限らないからややこしくなる
765 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 16:35:33.79
箸墓は卑弥呼ではなく台与の墓。
倭迹迹日百襲姫の墓ではなく、倭迹迹姫の墓。
766 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:40:04.92
復旧した?
東海(狗奴国)は女神(伊勢神宮)を祀るから、祭祀王は男王(卑弥弓呼)。
大和は男神(大神神社)を祀るから、祭祀王は女王(卑弥呼)。
アマテラスとスサノヲのウケイやら、天岩戸神話とかが、
東海と大和の関係を神話的に物語ってるんじゃないかな?
鳥居前古墳:集落側の墳丘、山側より高く 淀川からの見栄えを考慮?−−大山崎 /京都
毎日新聞 1月26日(木)13時27分配信
大山崎町教育委員会は25日、大和政権に参画した有力者の墓とみられる鳥居前古墳(同町円明寺)について、
墳丘の東側が西側より高さが高くなる造りだったことが分かったと発表した。
片側だけ高く作られた古墳は珍しく、東側に点在する集落などに見栄えを良くする狙いがあったのではとみている。【堀智行】
同古墳は中規模の前方後円墳(全長51メートル、高さ8メートル)で、主体部は竪穴式石室。
古墳時代前期末〜中期初頭(400年前後)に築造されたとみられる。
朝鮮半島南部からも出土している巴型銅器などが見つかっており、
大和政権で外交に関与していた有力者を埋葬したと推認されている。
町教委によると、これまでの調査では前方部は1段、後円部は3段構造としていた。
しかし今回、墳丘の裾の部分を掘り下げたところ、東側から新たにもう1段が見つかった。
この段は高さ約1メートル、長さ約11メートルの盛り土で成形され、ふき石が敷かれていた。
同古墳は、西側が山を背にしているのに対し、東側には河川交通の要だった淀川があるほか、点在する集落遺跡も確認されている。
町教委の古閑正浩さん(43)は「集落や水上交通路からの見栄えをよくするため、東側だけ意識的に高く作った可能性がある」
としたうえで「古墳とそれを支えた地域との関係を考える上で重要な成果」と話した。
28日午後1時から、現地説明会が開かれる。現場は西乙訓高校正門の西側約60メートル。小雨決行。
問い合わせは町教委(075・956・2101)。
>山頂を削り取りその上に8段階もの工程を経て完成されていることから見栄えも重視したと考えられる。
>従って濃尾平野が見渡せるだけではなく、濃尾平野から見られることも念頭に置いた築造思想が読み取れる。
こんなのもあるな
「1995年春の箸中大池の第81次発掘調査に際して、前方部北側の側面で池の下の部分から、河原石を使った葺石帯が検出された。
これを含めると、前方部墳丘は四段となるのだが、
南側の側面の調査ではこのような葺石は使われておらず、北側部分のみの状態である。
このような葺石の葺かれ方は、以前にメスリ山古墳前方部北斜面の調査でも見られたもので、
これは古墳がどちら側から見られるのかを意識していたことを示したものであろう。
つまり、メスリ山古墳では北側の大和平野を意識し、箸墓古墳では北側の纒向側から見られることを意識したものであろう。」
こんなのもあります。
初期は山の上に作って見せていた。
その後、平地で巨大化させることで見せるようになった。
こんなとこかな
出現期の前方後円墳は、国見の習俗の影響か、と思う。
国が見晴らせる場所で国を誉めることで豊穣をもたらすという、
当時の首長の宗教的役割から立地が選ばれたのではないか?
774 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 13:18:31.26
アゲ
>>772 むしろ上に上がっていっているでしょ。マキムクの最初期から考えると。
狗奴国は、許乃国(コノ国)のことであり
狗奴国の男王は、武埴安彦命。
方向がちょっとずれてるなあ。
779 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:35:32.45
>>775 それはホケノが500年頃とかいうのを無視した特攻隊の連中に言ってくれ
780 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 21:12:04.87
>>777 邪馬台国(やまたいこく)の最有力候補地とされる奈良県桜井市の
纒向(まきむく)遺跡で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と
同時代の大型建物跡など中枢部を囲んだ可能性がある溝跡が見つかり、
同市教委が16日発表した。
ま、いつものパターンだな。
建物が整然と並んでいた都市じゃなかったのかよw
>>763 だよね。いい年をした学者が「古代大和王権」とか、恥ずかしくね?って感じw
783 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 21:36:52.03
■纏向遺跡 王宮の範囲示す溝か
NHKニュース 2月17日 (動画あり)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120217/t10013083661000.html 邪馬台国の候補地の1つとされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、女王・卑弥呼の宮殿という説もある大型建物跡の南側から、建物とほぼ平行に延びる溝の跡が見つかりました。
市の教育委員会は、王宮の範囲を示す可能性もあるとみて、詳しく調べることにしています。
奈良県桜井市の纒向遺跡は、邪馬台国の候補地の1つとされ、3年前に見つかった3世紀前半の大型建物の跡を女王・卑弥呼の宮殿とする説も出ています。
桜井市教育委員会が去年12月から発掘調査をした結果、建物跡から南に38メートル離れた地点で東西に延びる溝の跡が見つかりました。
溝は幅60センチ、長さが6メートル以上で、建物とほぼ平行に延びていることから計画的に作られた可能性があるということです。
この溝は王宮の南端に作られ、王宮の範囲を知る手がかりになる可能性も考えられるということで、市の教育委員会はさらに詳しく調べることにしています。
調査を指導する桜井市立纒向学研究センター設立準備顧問の寺沢薫さんは、
「溝は建物がなくなった直後に埋まったとみられ、時期的には合うが、今後、延長した部分などを調査して、建物と関連があるか確認する必要がある」
と話しています。
今回の調査内容について、18日、現地で説明会が開かれます。
784 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 23:26:14.38
纏向遺跡で建物の跡はひとつしか見つかっていないのかな。
卑弥呼は建物一つしかないところに住んでいたのかな?
まだ発掘調査は10%以下だよ。
しかし宮自体は基本的に一つだろうな。
ここも行程か
発掘作業遅すぎ〜何時までまた線だよ
788 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 21:44:44.68
>>783 なんでもかんでも卑弥呼にむすびつければニュースになると思ってるのか、
それとも
日教組みたいに
垂仁天皇の宮跡なんていう可能性を端から否定したくて、
マスゴミは根拠薄弱な記事をニュースネタにするのだろうか。
789 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 22:00:11.27
>>787 いつ終了宣言しようかと今、思案しているところ。
古くからある集落のど真ん中だからな
周辺部の公営住宅の建て替え時や農地から掘ってるから
まだまだ100年はかかるんじゃないかな
溝一つでも「邪馬台国に近付いた」wwwww
マスゴミってキチガイなの?
しかも溝の方位がずれてるな。
溝は円、楕円で、今発見されている大型建物の東に、
更に大きな宮殿があるという想定なのだろうか。
793 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 13:08:25.42
■竜が描かれた弥生後期の土器出土 福井、治水願う祭祀の道具か
福井新聞(2012年2月24日午後6時35分)
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/33252.html 福井市栗森町の寄安(よりやす)遺跡から、福井県内では初めての「竜」を描いたとみられる絵画土器の一部が出土した。
弥生時代後期から古墳時代にかけてのものとみられ、調査に当たった市文化財保護センターは
「水神信仰の象徴である竜が千数百年も前に、中国大陸から県内に伝わっていたことを知る貴重な資料」としている。
25日から同センターで展示する。(谷口洋史)
発見された土器片は縦約5センチ、横約9センチ。
竜はヘラ状の道具で描かれ、左部分が頭部、右部分が胴体で、縦に引かれた3本線は脚と考えられている。
絵画土器は過去に県内で3例見つかっているが、いずれも人物やシカが描かれ、
空想上の動物である竜が描かれた土器の発見は今回が初めて。
土器の表面に朱色に着色された跡が残っていることや、
当時の寄安遺跡の近くには現在はなくなってしまった川が流れていたことから、
担当者はこの土器について「河川の治水を願う祭祀(さいし)用の道具として使われていたのではないか」と推測している。
竜を描いたとみられる絵画土器=24日、福井市渕4丁目の福井市文化財保護センター
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/photo/1/33252.html
これはすごい!と思ってみたら、竜かどうかはっきりしないなw
【岐阜】 墓坑から土師器の破片 夕田茶臼山古墳、3世紀代の築造か
中日新聞 2012年2月28日
富加町教育委員会が、同町夕田(ゆうだ)で進めている「夕田茶臼山古墳」の第3次調査で、
埋葬部の墓坑(墓穴)から3世紀代と見られる土師(はじ)器などの破片300点が出土した。
調査前の古墳は5世紀ごろの築造とされてきたが、専門家らでつくる調査検討委員会は
「県内でも最古級の3世紀代までさかのぼる可能性が高まった」としている。
古墳は町東部に位置し、南北に全長37メートル。
周辺に点在する古墳などから「5世紀ごろの前方後円墳」とされ、1960(昭和35)年に町史跡(同時は村)に指定された。
2009年度から本格調査が始まった。
町教委によると、古墳北側で発掘された墓抗は直径6メートルで、中心部の東西に棺を埋葬したと見られる。
供献土器の高坏(たかつき)や朱塗りの壺(つぼ)など土師器の形状が三世紀代の特徴。
棺を保護する石槨(かく)や粘土槨を持たない構造も「弥生時代の墳丘墓に近い」としている。
町教委は破片を分析して年代を特定し、古墳の形の調査を進める。
同町羽生地区に伝わる日本最古(702年)の戸籍「半布里(はにゅうり)戸籍」に記された豪族との関連も調べる。
調査検討委員長で三重大の八賀晋名誉教授(考古学)は「まだ調査の過程だが、この年代の古墳は数少なく価値が高い。
どのように棺を埋葬していたか関心がある」と話していた。
町教委は3月4日に現地を公開し、学芸員らがこれまでの調査を解説する。
申し込みは町郷土資料館=電0574(54)1443=へ。
>>797 面白い発見だな。
墳丘墓の巨大化は同時多発的だろうから当然のこととはいえ。
「古墳」って呼び方もやめればいいのにな。定義が曖昧だから。
>>798 > 定義が曖昧だから
古墳時代のものを古墳、弥生時代のものを墳丘墓、と言うんだろう。
ただ、古墳時代と弥生時代の区分が人によって違うのだろう。
飛躍的に隔絶した王墓の出現と、それにつづいて広域に共通した仕様の前方後円墳が築造されるようになることに、
祭祀(首長葬送儀礼)の同一化、各地域の連携という時代的画期をみて、それ以降を古墳時代とする。
歴史時代には政権成立時をもって、室町時代とか江戸時代とかいうんだろうけど、
先史時代は考古学的に確認できる資料によって区分するのが妥当だろう。
時代区分が明確になってないのに、
時代で名前を分けるってのが馬鹿だよな。
古墳は畿内で最初に出来たというのに拘るから変なふうになるんだろう。
それより前は墳丘墓ということになる。学問的じゃなくて、地元主義かな。
802 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 00:23:03.32
弥生終末期に墳丘墓が「同時多発的に」巨大化するのは何故なんですか?
803 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 00:31:54.17
巨大化してるの?
エッチいのはいけません
805 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 20:50:40.87
前方後方墳丘墓
愛知県一宮市の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40メートルもある。
前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられている
大和の前方後円墳は、吉備の楯築墳丘墓が源流で、
濃尾平野の前方後方墳とは別系統ということ?
807 :
www:2012/03/02(金) 23:48:40.94
>>802 いろいろ考え方見方はあるんだろうが自分としては土師器の斉一性をあげ
そこに「首長層の意識の拡大」のようなものを主張したいな。
つまりそれまで各地域の狭い範囲で「お山の大将」を気取っていたものが
首長間のネットワークみたいな物が形成されるにつれ更なる「(パンピーどもとのw)差別化」を望んだと…
それも単に墓を巨大化させるんじゃなくて墓の形により他地域との首長らと共通の埋葬・祭祀文化に属している事も示したと・・・
>>806 ヤマトの前方後円墳の源流は阿波の墳丘墓/古墳らしい。特に内部は。
その後ヤマトである程度発達してから、吉備の墓制文化が流入してる。
前方後方墳はよくわかってない。
>>806 前方後円墳・前方後方墳の原型は方形貼石墓です。
810 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 09:33:36.89
要は、墳丘墓と古墳を分けるのは、単に巨大化ではない。
墳丘墓は地域色が強い。
ある程度広範囲な地域で画一性が見られるようになった段階で、
初めて古墳と呼ばれる。
つまりは広域倭王権の萌芽が、イコール古墳時代の始まりであり、
定義上、墳丘墓→古墳に変換する時期。という解釈。
811 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 09:42:55.87
どうして画一的になっていくんだろう。
812 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 09:55:58.98
北部九州は、前方後円墳と同時期か
それ以降でも大型の円墳つくってるから、
画一的になろうともしねえ。
画一化=広域王権誕生の理由は、
地球規模の寒冷化で、それまでの弥生社会が維持出来なくなった。
遠隔地交易でしか入手出来ない希少品(主に鉄)の需要が高まり、
交易路の安全を保障する広域王権の存在が求められた。
神仙思想の流入と流行。
このあたりがよく言われているところ。
更にプラスアルファするなら、
@大陸利権を独占する強者・筑紫に対抗するため、
その他大勢のクニ(主に大和・吉備)が大同団結した。
A筑紫が吉備などと語らって、東方マキムクへ進出した
(東海・関東への交易or征服目的)。
@白石とか都出、福永?A寺沢とか柳田?
どちらにしても、この政治的混乱の時期を、
中国史書の倭国大乱に置いてるのは同じ。
814 :
ひとぶた:2012/03/03(土) 15:54:08.22
>>813 B交易相手を求めて吉備が東進、東海が西進してきて、ちょうどヤマトで相対して連合した
、とかは選択肢に無いのですか?
それとですね、@の場合では、
前代まで畿内地域内部でも比較的劣勢だったヤマトが地域代表に躍り出たプロセスとかも説明が必要ですよね。
画一化は環濠集落でも起きてる。
墓制にはこれまでとは違う流れがあるようなので特に注目されてる。
墳墓の形状による文化圏の違いと、唐古・鍵の時代から連続性を考えれば、自ずと解るんだけど・・・
817 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 17:24:55.86
>>814 Bみたいな説を言ってる人っているの?
なんか近藤と赤塚の折衷案みたいな。
818 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 18:20:07.80
寺沢の主張する「マキムク型前方後円墳」問題、
石塚・矢塚・勝山・東田大塚とかを古墳と見るか墳丘墓と見るかで変わってくる。
箸墓とか椿井大塚みたいに定型化する前方後円墳以前を古墳と見る
寺沢の見方には個人的に俺は反対。
箸墓以前と以後、庄内と布留には隔絶、画期があるだろう。
三角縁が副葬されているかどうか、の違いは大きい。
庄内の4古墳は古墳ではなく墳丘墓。
あくまで地方政権レベルの大和が作った地方色豊かな墳丘墓だろう。
>>817 考古学やってる人で
吉備が初期から関わってたひといないんじゃないの?
昔はともかく今は。
820 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 21:16:11.31
画一化というと、どうしても武力による統一を連想するわけなのだが。
821 :
ひとぶた:2012/03/03(土) 23:44:37.94
>>817 いや、ちょっと言ってみただけです。
纏向のベースは、あくまでも「畿内」だと思うのですが、例えば「墓制」とかはどうなんでしょうかね。
822 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 09:00:16.81
寺沢さんは筑備讃播が共同でマキムク体制を
作ったみたいに言ってるそうですが?
確かに、マキムク型は千葉県神門から福岡県那珂八幡まで非常に広範囲に広がる。
そのような強大な政権が突然庄内の初めに大和
(それまで首長墓の発展が見られない)で自然誕生するのはおかしい。
今までの型を打ち破るくらいの広範囲な政治的連合がなされて、
その都がマキムクに定められた。明治維新みたいに。
823 :
ひとぶた:2012/03/04(日) 13:05:10.41
>>818 > 庄内の4古墳は古墳ではなく墳丘墓。
> あくまで地方政権レベルの大和が作った地方色豊かな墳丘墓だろう。
呼び方については、墳丘墓でかまわないかと思うのですが、「地方色豊かな」とはいかようなニュアンスですか?
「地方色」が「大和固有の」くらいの意味なら、少なくとも墳形では、円形ベースの纏向型は「大和固有」では無いと思います。
同じ畿内でも摂津とかに多い円形周溝墓に近いですよね。
824 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 13:18:17.13
>>808 だから、前方後方墳は濃尾平野低地沿岸部の廻間墳丘墓。
廻間墳丘墓と西上免遺跡(前方後方墳)は同じ尾張平野低地部。
>>822 ヤマトの土器は詳しいけど東瀬戸内海の墓制はそれほど詳しいわけじゃないでしょ。> 寺沢
>>823 いやまあ、楯築にしたって、ああいう双方中円形は突然出来たんだし、
墳丘墓の形に継続性がないからといって、
「すわ外来主導」てなるのはどうなんだろう?と思いますが。
マウンド、貴人の墓に土を高く盛るのはおそらく楽浪の影響で、
二世紀に朝鮮半島でも流行り出すみたいなんだけど、
吉備や出雲はそういった流行・宗教観を導入してああいうマウンドを築造したらしい。
楯築とマキムク石塚もそうは時代が空いてないし、
大和、もっとはっきり言ってしまえば、大和・中河内連合のオウが
楯築のオウみたいに自分たちなりのマウンドを造ったのが、庄内のマキムク4古墳ではないか。
寺沢が言うみたいに、吉備やら筑紫などが参加して全国王権になるのは、
箸墓以降、古墳が定型化する以降に考えるべきだろう。
首丘+祭祀用の突出部は共通していて、楯築は突出部が二つってだけだねえ。
かなり広範囲だった戦いの時代が終わって、首長祭祀が各地で始まったから。
しかし、楯築の突出部2つは、スタンダードにならなかった。
わずかの例を除いて断絶してしまっている。
「マキムク型」から特殊器台が出ないことからも、
吉備王とは違ったやり方で、大和王が墓を造っていたことが分かる。
近藤や寺沢が言う吉備主導は、理屈的にかなり厳しいと思うな。
もっと近い河内でさえ前方後方墳だしねえ。
830 :
ひとぶた:2012/03/04(日) 21:41:35.93
>>826 > いやまあ、楯築にしたって、ああいう双方中円形は突然出来たんだし、
> 墳丘墓の形に継続性がないからといって、
> 「すわ外来主導」てなるのはどうなんだろう?と思いますが。
> マウンド、貴人の墓に土を高く盛るのはおそらく楽浪の影響で、
> 二世紀に朝鮮半島でも流行り出すみたいなんだけど、
> 吉備や出雲はそういった流行・宗教観を導入してああいうマウンドを築造したらしい。
でも、纏向の場合は、至近に吉備から播磨、丹波、摂津辺りに分布する円形墳丘墓が存在するわけですから、
先ずは、その影響を考慮する必要はあると思うのですがね。
> 大和、もっとはっきり言ってしまえば、大和・中河内連合のオウが
> 楯築のオウみたいに自分たちなりのマウンドを造ったのが、庄内のマキムク4古墳ではないか。
> 寺沢が言うみたいに、吉備やら筑紫などが参加して全国王権になるのは、
> 箸墓以降、古墳が定型化する以降に考えるべきだろう。
私も吉備や筑紫が建設自体に参加して・・・とかは考えてはいませんが、
連合勢力成立前に、先ずは畿内地区の地方王権選手権みたいなものがあって、
そこで円形墳墓の勢力が勝ちあがって畿内王権の主体になった、とかでもよいかと思うのですが。
勝ち上がったかどうかはともかく、
画文帯神獣鏡の時代がその時代に当たるのではないか。
阿波の萩原とかも、寺沢はマキムク型に入れてるけど、
明らかにマキムク石塚より前だしなあ。
マキムクに諸オウが集まり、マキムク型を全国に発信した、
ていう寺沢の想定自体が眉唾な感じがする。
寺沢の「明治維新の薩長土肥みたく、筑備讃播」っていうのも、
前からなぜ阿波が抜けてるのか疑問だったが、
萩原が寺沢の「マキムク型」仮説のネックになってるから
敢えて阿波を外したのかな?
833 :
ひとぶた:2012/03/06(火) 00:13:34.91
>>832 >阿波の萩原とかも、寺沢はマキムク型に入れてるけど、
>明らかにマキムク石塚より前だしなあ。
「王権誕生」の一覧のことですよね。
あれには楯築も載ってますから、寺澤の出版当時の意識としては、「纏向型=定型化古墳のプロトタイプ」だったんでしょう。
出っ張り付きの円形墳を拾って来て集めた図で、それらを定型化前の古墳として、
従来基準の弥生末期を新たな解釈の古墳時代に含めましょうと言う主旨だと思いますよ。
なので、あの図から「纏向インスパイアな古墳の出現=前方後円墳体制の前倒し」などと主張しているわけではないでしょう。
倭王権成立の根拠だとしているのは「筑備讃播による纏向建都」の方だと思います。
筑備讃播・・・讃はきっと阿讃の代表と言うことなんでしょうか。
834 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 01:18:50.04
讃岐の平尾2・3号墓とかは、弥生中期末にすでに前方後円形らしいからなあ。
「前方後円」という形は、瀬戸内地域では昔からあった形の一つで、
別に、新しい政治体制とか新機軸を表すものではないだろう。
少なくとも吉備が大和に持ち込んだとは思えない>特殊器台が無いことから
835 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 01:32:14.01
ここで反発を覚悟で記紀を持ち出すと、阿讃が地盤の忌部氏に注目したい。
忌部氏は、大王の葬儀を職掌として仕えた氏族。
寺沢の意見に真っ向から反発することになるが、マキムク型とは、
マキムク王権が、単に瀬戸内で発展していた首長霊祭祀を採用しただけだろうと思う。
阿讃播の首長は、古墳祭祀という最新の技術をカードとして、マキムク王権に参画。
阿波の影響が強いホケノの被葬者は忌部氏の祖先の一人?
葬送儀礼が上意下達みたいに、上から下に押し付けられた
という思い込みは現代的感覚じゃないだろうか?
葬送儀礼を管掌する臣下たちが、偉大なオウを葬るに際し、
自分の持てる最高の技術を用いた、という考え方はないだろうか?
>>834 弥生中期末って、まだ特殊器台は出来てないでしょw
834は
サヌキ→ヤマト
キビ→ヤマト
を対比して語ってるんでしょ。
サヌキーーーーーーーー→ヤマト 前方後円墳
キビ┘ 特殊器台
こういう時間関係にあるって。
>>835 忌部氏には複数の系統があるが、基本的には
皇室と同じ葛城の高天地方から発祥した豪族。
記紀のことをちょっとでも書くと、こういった馬鹿、
おそらくホアカリ馬鹿?が書き込みするよな…
考古学の知識ゼロなんだから、こういった考古学重視スレに出しゃばらなけりゃいいのに
840 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 06:01:07.83
>>835 お前馬鹿だろ
ここはマスター以上のレベルの日本史プロがチェックしている板・スレッドだ
いい加減なことをしたり顔で書くなよ
どうせ三流大学の学部生だろうがな
今後も不埒な書き込みを続けるならば
厳しい沙汰が屹度あるものと心得よ
841 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 08:44:38.64
典型的な老害のような書き込みw
>>839 それじゃ考古学板でやれよ、という話になるぞ?
843 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 10:24:59.28
復刊ドットコム→「謎の出雲帝国」
844 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 14:53:07.42
>>832 連合というのは基本的に大きな敵があっての話。
薩摩と長州にしても元々仲が悪かったが、反幕府ということで同盟となった。
>>842 纒向遺跡という考古資料をもとに歴史を復元しようってのがこのスレの主旨なんじゃないの。
古代史を推定するのに考古資料を根拠に考えよう、と。
これが終止符スレなら、
記紀の記述をもとに中国史書に書かれている3世紀の日本の歴史を推定しようってことになるわけで。
>薩摩と長州にしても元々仲が悪かった
蛤御門の変からやですやん
>>99>>829 庄内期の河内は北中南全体が前方後方墳だな。
土器は一方的な流通が認められるが、その後しばらく大型墳がない。
さらに北河内が摂津三島と同化して、
中南河内と文化的に離れていくというのも面白い。
庄内の河内って前方後方墳なんですか?
方形周溝墓の出入り口があるタイプなんじゃないの?
ちゃんと墳丘になってる?
849 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 11:37:47.37
中央忌部氏って伴造(職能集団)は、阿波、讃岐、出雲、紀伊、筑紫、越など
各地にある忌部(品部)から儀式に使う品を徴発、管理する仕事だったんだろ?
これって全国各地の葬送儀礼のパッチワークと言われる前方後円墳の成り立ちを
そのまま表現してるんじゃないのかな?
つまりは、全国各地を統べる建て前のマキムクの大王は、
死んだら全国各地から祀られねばならず、全国各地の葬送儀礼が融合せざるを得なかった。
そういった融合的創造を担ったのが中央忌部氏の祖先。
吉備は少し遅れてマキムクに参加したから、特殊器台の採用は少し遅れるという。
阿波讃岐が前方後円墳の源流として注目されている今、
忌部氏が注目されてるみたいだが、もっと言及があっていいように思う。
850 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 23:36:46.75
前方後円墳にしろ、前方後方墳にしろ、ルーツはおんなじだと思うんだよね。
未だに「四角形か」「円形か」にこだわり、
「畿内は方形周溝墓=四角だから、前方後円墳とは毛色が違う」
みたいな単純な主張がなされているというか。
要は、楽浪由来のマウンドが出雲や吉備に伝来、これらを経由して、
畿内や東海に伝わったのが前方後円墳であり、前方後方墳。
円形か四角形かは関係ない。
そもそも古墳時代の北部九州に、畿内由来の方形周溝墓が伝わり、
造られるようになってるんだよね。寺沢はこのあたり、どう考えてるんだろう?
寺沢の「マキムク型前方後円墳」の提議は面白かったし、
従来殆ど省みられなかった庄内を、クローズアップさせた功績はあるけど。
851 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 21:25:35.64
纏向のモモちゃんが壱与なら古事記の国譲りと魏志倭人伝が一致する
852 :
ひとぶた:2012/03/13(火) 21:31:04.72
>>850 墳丘墓の起源が外来か自生かは別にして、墳形が「関係ない」は過激では?
墳形については、大まかですが地域性がありますし、文化差としての一面があるでしょう。
文化差=社会集団の差でもありますから、墳形の違いは重視すべきだと思うのですが。
地域性で言えば、纏向の円墳嗜好は、大和盆地の中で離れ小島みたいですが、
これは、円形墳嗜好の地域から来た集団が、新興集落・纏向の発展に関与をした証しと見るべきではないでしょうかね。
その集団が何処から来たかと言われると・・・なんですが、吉備や阿讃じゃなくて、もっと近い播磨や摂津とかも有りでは?
853 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 23:35:26.21
マキムクの円形嗜好は確かにそうなんでしょうけど、
方形周溝墓=四角形嗜好とするのは単純過ぎやしないでしょうか?
そもそも弥生の方形周溝墓と古墳との間には、形の違いというよりも、
そもそも墓自体として、かなりの隔絶、飛躍があるのではないでしょうか?
方形周溝墓を造ってた人たちが墳丘墓を造るとしたら、
必ず四角く造ると言えるものでしょうかね?
あと、古墳時代以降、方形周溝墓が北部九州に伝播することからも、
畿内の九州への影響力が強まったと見るべきで、
畿内の方形周溝墓の伝統が捨てられた、ということでもなさそう。
おそらくは、前方後円墳を造ることを許されなかった造墓集団が、
畿内の影響で方形周溝墓を造ったのでしょう。
方形と円形は同時に存在しますし、本当に古墳時代の人が
円形とか方形にこだわっていたのでしょうか?というのが率直な疑問で。
定型化以降の前方後円や後方形にはこだわっていたでしょうが。
前も方形、後ろも方形とか、真性方形だな
855 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 23:49:45.99
古墳の形にはいろんな種類がある。
前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳、帆立貝式古墳、双方中円墳、八角墳、
六角墳、柄鏡式古墳、双円墳、上円下方墳などなど。
それぞれの古墳の形に意味があるのだろうか。
856 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 12:26:30.39
古墳の形には、当然意味があると思いますよ。
私が言いたかったのは、弥生時代、墓の周りに四角形の溝を掘ってたからと言って、
新しく墳丘墓を造る時も、四角形に土を盛る筈、て理屈は無理がないか?
という意味です。
857 :
ひとぶた:2012/03/15(木) 00:20:30.85
>>856 > 私が言いたかったのは、弥生時代、墓の周りに四角形の溝を掘ってたからと言って、
> 新しく墳丘墓を造る時も、四角形に土を盛る筈、て理屈は無理がないか?
> という意味です。
方形周溝墓好きが立派な墓を作るならば、それは方墳になるに違いない、とか言う決めつけなら暴論でしょうね。
首長墓には、転向して新たに円形嗜好を取り入れたって構わないと思います。
ただ、方形周溝墓を作っていたところに、円形墓の風習を持つ人たちがやって来て、
そこの首長になったってケースも有り、と言うか話が早いかなと考えたんですね。
大和や河内の勢力には、畿内W様式の時代から大きな変動無く存続したところが多いのでしょうが、
摂津など淀川以西では、畿内X様式になって成立したような新興勢力が多いように思います。
そこ出身の人達が、同じ新興の纏向にもやって来て、中心勢力になったとかは考慮できませんかね。
混在しているけども、おおまかに分けると大和、摂津が円形墳で、河内が方形墳だよ。
昔は前方後方墳は東海、近江以東の墓制って説があったけど、
畿内に混在しているんで、いまやそういう人もいなくなったね。
859 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 23:07:15.49
最近、前方後方墳の出現・祖形が、岐阜の象鼻山だったとか報道されてなかったっけ?
赤塚が言ってるように、大阪湾(東四国、播磨も含めて)が前方後円墳、
伊勢湾が前方後方墳ってのは大まかには合っている、と思うがな。
古代日本は陸路が未発達で水上交通が主体だったから、
まず湾岸部が発展し、川沿いに進展、やがて王権が誕生するのだろう。
で、伊勢湾と大阪湾の二勢力が合体してヤマト王権になるのだと赤塚は言う。
合体したのだから、畿内でも東海風の前方後方墳が造られても不思議ではない。
>>858>>859 東国式の前方後方墳の発祥が、愛知県犬山市付近であることは、ほぼ通説と言っていいだろうね。
(山陰から日本海側のもの(出雲系)は、そっくりの形をしているが、発祥も展開も全く別系統)
それが、大和盆地に入って、なぜか大きさだけ急膨張する。
赤塚説的な、東海と近畿を対等に見る立場には、俺は反対だが、この歴代スレで論ぜられているような、
東海の強い影響は、十分にあると思う。
だけど、よく考えると、「○○型古墳の本場がどこか?」って、語用論的な問題を孕むよなあ。
以前、N速+で、
「全国最大の古墳文化の地は埼玉。埼玉こそが古墳時代の日本の中心。前方後円墳といえば埼玉なんだよ!
近畿朝廷の全国支配なんてちゃんちゃらおかしい。古墳時代から関東地方特に埼玉が日本の中心に気まってるべ!」
と力説する阿呆がいて、みんなあきれかえっていたが、
彼の論拠は、よく読むと確かに「間違い」では無かったんだ。考え込んでしまうよね。
861 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 01:46:51.31
東海土器の東国への爆発的な拡散を見ると、
弥生末から古墳初めにかけての東海が、かなりイケイケだったことが分かるw
神門古墳の被葬者は、東海の圧迫に対抗する為に、積極的に大和と親睦を図ったのだろう。
で、東海をそれ程までに強国足らしめた要因は一体何か?と問えば、
やはりそれは筑紫経由で入ってくる大陸文物や先進技術だったのだろう。
東国側の交易窓口としての伊勢湾が栄え、逆に西国の窓口としての大阪湾が栄える。
大和と東海が台頭したのはまったく同じ理由で、恐らくは地形的に列島の中心を占めており、
東西交易の中継地として富裕化したのだろう。
この台頭した二国が争ったのが、倭人伝でいうところの邪馬台国と狗奴国の争いで、
争いが収束してやがて和合したのだろう。
赤塚が言うような、東海勢力が一時的にマキムクを席巻したというのは確かに眉唾だが、
大まかな流れとしては合っていると思う。
伊勢湾の太陽神を大和朝廷が尊崇するのも、そういった歴史的経過を物語ってるのかもしれない。
862 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 09:34:58.25
尾張平野低地沿岸部に廻間〜西上免(前方後方墳祖形)〜東之宮古墳(犬山・前方後方墳)と
東海一の大河、木曽川(旧尾張川)沿いに沿った形で前方後方墳が存在する。
西求女塚古墳のように詳細な発掘調査前は、
前方後円墳だと思われていたものもある。
円墳なのか方墳なのかは新潮に判断したほうが良い。
特に発掘が不可能な陸墓指定地。
>>861 東に向かっては、3世紀の濃尾伊勢勢力というのは、そんなに特異な状態でもないんだよね。
この地域は、弥生時代以来一貫して、「東国文化のスタート地点」のようなところがあって、
近畿以西と一線を画す、文化様式なり人種集団なりがここで醸成されては、
太平洋側を順に東へ進出していく。
濃尾→三河遠州→駿甲信→関東→福島→仙台(だいたいこのあたりがつねに終点)
ところが、濃尾伊勢平野は、畿内の影響をダイレクトに受けるので、
東へ拡散すると、本家の側は、畿内の新トレンドの影響を強く受けて、状況が変わってしまう。
そして、そこに新しく出来た濃尾新文化が、また東へ進出していく。これの繰り返し。
ただ、濃尾の文化要素が西に影響を与えるという例は、あんまりない。
一つは前方後方なり
>>1の巻向出土土器。もう一つ顕著なのが、お馴染みの戦国時代末期の織田信長に豊臣秀吉。
仮に名古屋を座標原点に置いたとして、西向きと東向きは、ちょっと事情が異なると思う。
865 :
ひとぶた:2012/03/17(土) 01:06:51.31
>>861 > 東国側の交易窓口としての伊勢湾が栄え、逆に西国の窓口としての大阪湾が栄える。
> 大和と東海が台頭したのはまったく同じ理由で、恐らくは地形的に列島の中心を占めており、
> 東西交易の中継地として富裕化したのだろう。
そんな感じだったと思いますが、
> この台頭した二国が争ったのが、倭人伝でいうところの邪馬台国と狗奴国の争いで、
> 争いが収束してやがて和合したのだろう。
互いに大切な交易相手で、別に競い合うような関係には為りえないと思います。
主導権争いはあっても、反目しあってたら交易そのもが成立しません。
なので、発展は最初から相互に協調しあいながらだと思いますよ。
争うなら、瀬戸内ルートと日本海ルートとか、ライバル関係になりそうな地域同士でしょう。
【有年牟礼・山田遺跡:弥生時代後期末〜古墳時代初頭、大型方形周溝墓を確認 /兵庫】
毎日新聞 〔播磨・姫路版〕
赤穂市教委は16日、同市の有年牟礼(うねむれ)・山田遺跡で
弥生時代後期末〜古墳時代初頭(2〜3世紀)の大型方形周溝墓が出土したと発表した。
方形周溝墓は近畿地方で多数出土しているが、山田遺跡はその西端に当たる。
また、89年に西約1キロにある有年原・田中遺跡では岡山県や四国地方で始まった円形周溝墓が見つかっており、
市教委では「有年地域が東西両文化の境界に当たることを裏付ける貴重な遺跡」としている。
山田遺跡は88年に一部発掘され、今年2月から約1000平方メートルを再調査した結果、
長辺約20メートル、短辺約15メートルの方形周溝墓が見つかった。
市教委によると、同時期の方形周溝墓では県内最大級という。
また、長辺約12メートル、短辺約11メートルのやや小型の方形周溝墓も出土。
周囲の溝には墳丘の補強や装飾に使われたとみられる拳から大人の頭大の貼石(はりいし)や墓参りに使った陸橋も見つかった。
一方、88年に溝から発見された土器を復元したところ、
波状紋や直線紋のある「広口壺」(口径約22センチ、高さ約33センチ)が土質から香川県産、
「複合口縁壺」(口径約33センチ、高さ約90センチ)が大阪府産であることも分かった。
いずれも祭祀(さいし)用とみられ、墓上部に置かれていたらしい。
古墳に詳しい石野博信・県立考古博物館長は
「ほぼ同時代の方形と円形の周溝墓が見つかったことは有年地域が先進的な地域だったことを裏付けるもので、
有力な豪族か首長が存在した証拠だ」としている。
現地説明会は20日午後1時半から。JR山陽線有年駅下車、北東へ徒歩約15分。
問い合わせは市教委(0791・43・6962)。【小泉邦夫】
【船岡山古墳:出土の埴輪、円筒形では四国最古級 20日に現地説明会−−高松 /四国】
毎日新聞 3月17日(土)16時44分配信
高松市教委は08年7月から発掘調査を続けている「船岡山古墳」(高松市香川町)が、
前方後円墳の形状などから、古墳時代前期の3世紀後半のもので、
出土した埴輪(はにわ)は円筒形では四国最古級と発表した。
約3年半にわたった調査の総括として、20日午前10時〜正午、現地説明会を開く。
前方後円墳は全長44メートルで、前方部が3世紀後半の特徴である三味線のばちのような形をしていることが今回新たに分かった。一方、埴輪の透かし穴の形は三角形や巴(ともえ)形で、突起で区切った段ごとに四つ以上並ぶ。
透かし穴が円形で1段に二つ並ぶ4世紀のタイプと異なることも、時代特定の判断材料になったという。
また、古墳は東側に比べ、西側が石を列状に並べて裾を区画する精巧な造りで、
集落があった西側からの眺望を意識していたと考えられる。
構造は積み石の上に盛り土をしており、
讃岐地方で主流の「積石塚」と、畿内などで一般的な盛土だけの古墳との折衷様式の可能性があり、全国でも例がないという。
同時期の石清尾山古墳群(同市峰山町など)とは古墳の特徴が異なることから、
高松平野には有力者の勢力が二つ以上あったと考えられるという。
共同調査してきた徳島文理大文学部の大久保徹也教授は
「高松平野は史料が充実しており、3世紀の地域社会の動向分析が進められる代表的な地域になるのでは」と評価している。
説明会は雨天の場合、24日に変更。問い合わせは、市教委文化財課円座整理事務所(087・885・0197)。【馬渕晶子】
3月17日朝刊
868 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 22:55:49.32
交易してるから仲か良かった筈、ていうのは短絡的過ぎないかなあ。
交易とか緊密な交流があるからこそ、
その利権を巡って対立したり揉めたりするんじゃないでしょうか?
松前とアイヌとか。
中世でいえば、細川vs大内、織田vs毛利も瀬戸内海交易の利権を巡る対立だったと思います。
確かに対立で交易がストップする時期もあるのでしょうが、
交易せざるを得ない状況から仕方なく交易を再開するという妥協、
政治的決着が模索され、東海+畿内合体、ヤマト王権が誕生したのではないかな?
↑↑↑ 過去の上記関連ニュース ↑↑↑
【高松市・船岡山古墳 全長45mの前方後円墳ともう一基からなる古墳群と判明】
2009年9月26日
高松市教委は、香川町の浅野―大野地区にまたがる船岡山古墳が、
全長45mの前方後円墳と、形や規模が不明のもう1基の計2基からなる古墳群であることが分かったと発表した。
08年からの市と徳島文理大の共同発掘調査による成果。
これまで船岡山古墳は、県の77年の測量調査に基づき、
円形の墳丘の両側に方形の墳丘がつく「双方中円墳」で、4世紀後半(古墳時代前期後半)に造られたと推測されていた。
香川と徳島西部でよくみられる積石塚だが、粗く積んだ石に土をかぶせて墳丘を作っており、県内では類例のない築造方法という。
形態や出土品から、時期は古墳時代前期前半(3世紀中頃〜4世紀前半)と推定。
出土した埴輪の破片は、ほぼ同時期の石清尾山古墳群(高松市峰山町など)から出土したものとは異なっており、
市教委は「高松平野の北部と南部で異なる文化や政治的背景を持つ集団が存在していたと推測できる」としている。
前方後円墳は南側に方墳、北側に円墳を配置。
粗く積み上げた人頭大(直径約30〜50cm)の石に土をかぶせる形で墳丘が作られている。北側には別の墳丘も確認した。
古墳時代前期の石清尾山古墳群も同じ積石塚だが、土の覆いは見られない。
出土品は埴輪の破片を中心に約100点。
壺型と円筒の2種類で、円筒埴輪の胴体部には巴型の透かし穴が開けられ、周囲には複雑な文様が刻まれていた。
畿内や吉備(岡山県)の影響を受けながら、独自にアレンジしたと推測されるという。
四国は文献学的には前から一定の注目あったけど、
ここ20年位は考古学的にも凄いね。
872 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 23:47:05.32
大王が湯治に出向くようなところだしね
873 :
ひとぶた:2012/03/18(日) 00:16:33.01
>>868 > 交易してるから仲か良かった筈、ていうのは短絡的過ぎないかなあ。
> 交易とか緊密な交流があるからこそ、
> その利権を巡って対立したり揉めたりするんじゃないでしょうか?
互いに抱いているイメージが違うのかなw
「利権」って言っても、それは交易によって収益を受けてこその話でしょう。
大和から伊勢へ、伊勢から大和へ、それぞれ物資の需要供給を調整することで利益が生じるわけで、
取引上の駆け引きとして、武威行為とかも必要とされたでしょうけど、相互に売り手、買い手となる立場は変わらない。
大和と伊勢の場合(特に伊勢側にしてみたら大和以外に相手がいない)、基本は友好関係になければ利権も何も無いでしょう。
一つの権力として統合されるとしても、平和的に行われることの方が多いと思います。
「対立関係」を考えるなら、先ずは商売敵、売り手と売り手、買い手と買い手同士の組み合わせです。
例えば、東海方面への話なら、
・大和川→伊勢→三遠
・淀川→近江・美濃→三遠
・丹後→近江・美濃→三遠 等々
複数のルートが有るわけで、これらは互いに商売敵、
武力闘争による地域王権の統合が起こるとすれば、こう言う商売敵同士のつぶし合いとしてのケースではないでしょうかね。
874 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 08:39:46.32
売り手同志が商売敵になるのは単純にそうなんだけどね。
ただ、買い手からすれば売り手が複数いないと困る訳だし。
もし大和に大きな王権が生まれて交易を独占。
それまでの複数いた売り手が一本化されて、
東海に対し不利なレートを強要したとすれば、かなりの不満になったと思いますが。
875 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 09:33:05.39
纏向勃興期の時代だと、まだ、近江−三遠には銅鐸勢力も存続しているし、
山陰から北陸に連なる日本海ルート、四隅突出墳勢力も存在する。
九州だって、糸島・唐津と博多湾はライバル関係だし、
東西交易のルート上で、絶対的地位を持てたのは、壱岐・対馬だけでしょう。
876 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 10:15:45.26
太古で言えばローマとカルタゴ、現代で言えば日米貿易摩擦など。
交易している=対立はない、なんて結論にはならないと思うけどな。
まあ、敵同士でも交易はするしな。
878 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 12:53:49.61
フェニキアの海商は、地中海だけではなく、アラビア海にも船を持っていたし、
遠く天竺やフィリピン、日本にも来ていたらしいですね。
一回の航海で来るのは難しいですが、要所に拠点とする港があれば当時の技術でも可能でした。
879 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 17:27:58.01
古墳時代以降の九州に、方形周溝墓が拡散するというのは何故?
前方後円墳と方形周溝墓がセットで九州に伝播したと考えれば、
方形周溝墓=四角、前方後円墳=円だから断絶がある
とかいう議論は、消えると思うんだけど。
880 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 18:01:43.99
マキムク型古墳が登場した以降も、畿内では方形周溝墓は存続してるじゃん。
要するに河内、大和で円形墓はマキムクだけ。
畿内の中でも方形と円形は併存してるんだね。
だから、マキムクの真似をすれば那珂八幡みたいになるし、
河内辺りの住民が移住すれば、方形周溝墓を作るんじゃないのか?
>>879 九州にも古い方形周溝墓がある。
平原遺跡のもそうだし、うてな遺跡にも一辺が34mの大きな方形周溝墓がある。
>>879 後半についてはその通り。
前方後方墳も含めて、畿内でも地域差があるものの、実際のところは混在している。
邪馬台国議論で、狗奴国を東海に比定して、
前方後方墳を狗奴国の墓制とした古い仮説が、いまだある誤解の原因。
883 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 23:01:08.91
狗奴国=東海、てのは、現在も結構支持されてると思うがな。
前方後方墳が東海に源流があることも証明されたみたいだし。
東瀬戸内+畿内という大阪湾沿岸部で誕生した前方後円墳とは別系統ということ。
>>882 最近、前方後方墳を良く聞くと思ったらそういうことだったのか。
しかし、前方後方墳から狗奴国とは、考古学はつくづく何でもありだなと
思う。
古墳の分類は纒向型が代表だけど眉唾が多いぞ。
自分の勝手な尺度で分類してるケース多い。
前方後円なのか前方後方なのかさえも変わる場合があるし。
特に畿内は前方後円と先入観で報告した例が、
これまで実は前方後方墳と発見されたもの以外にも他にもあるはず。
886 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 12:18:02.79
前方後方墳を狗奴国の墓制とした古い仮説が、いまだある誤解の原因。
↑
近年になって分かってきた新しい定説だろう。
887 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 14:38:23.58
登場から極短期間の間に否定された仮説。
888 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 14:54:11.56
邪馬台国=ヤマトとすると
日本人がヤマトを名乗り出した時期が
東夷思想があった中国の時代で、
当時の中国はいちいち国名の違う日本人に
邪馬台国のモノか?と訪ねたと思う
帰国した各国の倭人がある日ヤマトを名乗り
中国でもヤマト民族ですと名乗り出すようにした云々
889 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 15:00:01.20
邪馬台国を名乗り出した日本人が遣隋使を派遣して中国の書物を購入した時に東方倭人誌みたいな名前の書物の中に当時の日本の中の各国の歴史が書かれてあるのを幾つかの書物から邪馬台国人は見た時に
邪馬台民族を名乗り続けたくないとある時代の邪馬台朝廷は中国に大使を派遣し
>日いずる国の云々
として、暫く中国の歴史に日本の話題が載らないように日本の朝廷は中国に配慮した
という説をとなえてみる
前方後方墳が、S字甕と並んで、
濃尾伊勢を起点とする、東国太平洋側勢力の東国全域への拡散の、一つの指標であるという考え方は、
そんなに新しいものでもなければ、瞬殺されたものでもないんじゃね?
起源は尾張北部という通説でほぼ確定なので、
大和盆地で見られるものは、中京方面からの移入(経路はいろいろだろう)ということになる。
ただ、そこに、□と○の対立なんて、まるで「雑煮の餅まがい」の論争を、
道教やら和の精神やら、変な形而上学まで巻き込んで持ち込んだり、
あるいは、相変わらずの倭人伝厨が、狗奴国狗奴国狗奴国狗奴国狗奴国狗奴国と騒ぎ出したりと、
そういう、周辺的な論争は、一時期ブームになって、もう終焉したとは思うけど。
東海=狗奴国とかいう議論には確かに辟易だけど、
だからといって、前方後方は四隅突出くらい、東海発祥の独自性ではないか?
畿内で前方後方が見られるのは、東海勢力がヤマトに参加したと考えれば良いのでは?
東海=邪馬台国でしょ
狗奴国は毛野
893 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 09:51:43.90
同意。
邪馬台国のやまとは富士山のことだ。
徐福の子孫が、打ち立てた富士王朝が邪馬台国だろう。
魏の第3代皇帝 曹芳(そうほう)は、斉王と呼ばれることが多い。
徐福は斉国の琅邪の出身だから、自分たちの王が魏の王の位についたことを祝って朝貢したのだろう。
894 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 11:03:06.08
大和マキムクの石塚と同時期に、
東海地方で前方後方墳が発生していた、というのは、ある程度確定なんだよね?
伊勢湾=前方後方、大阪湾=前方後円ってことを認めたくない輩が一部いるみたいだけど、
畿内は方形周溝墓=四角重視っていう偏見に捕らわれてるだけだと思うな。
895 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 11:17:05.52
S字甕の出土遺跡、纏向遺跡(50%)、東国、弘法山古墳(長野)、鷲山古墳、山の根古墳
(埼玉)、神明古墳(千葉)、あと北陸にも。
東海の土器は広範囲に拡散するのに、
逆に東海地方では、畿内とかの外来土器が殆ど出ないのは何故なんでしょうか?
897 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 21:14:12.13
しかし、朝日遺跡から巴形銅器が出ていたなあ。
九州と交流?があったことがわかる。
898 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 21:22:51.93
そういえば、巴形銅器は関東地方あたりからも出ているらしい。
巴形銅器が注目されることがほとんどないのはなぜ?
899 :
日本@名無史さん:2012/03/21(水) 11:54:55.36
考古学は何に注目するのも勝手。何を発表するのも勝手というところがある。
逆に、重要なものであっても無視することが出来る。
900 :
ひとぶた:2012/03/21(水) 13:11:20.32
>>898 九州産とか、畿内産とか、地域差はあっても用途的には普遍的な「実用装飾品」であって、
大型銅鐸みたいに「謎めいた祭器」と言うイメージが無いからでしょう。
銅鐸も「小銅鐸」と呼ばれるレベルのやつになると、なんか普通の住居跡からも出てくるので、
注目されていないと思います。
>>894 愛知の前方後方墳の方がちょっと時代が下るんじゃないの?
出土鏡のラインナップ見ると。ホケノと違って、三角縁の鏡出てるからね。
しかも三角縁系でも少し時代が下るやつだったはず。
>>890 初期の前方後方墳が狗奴国の大王、重臣の墓って言ってるのは愛知の学者さんですよ。
土器編年が恣意的だと批判する人もいる。
>>860 ・愛知の前方後方墳がヤマトに入った
・出雲系は完全な別系統
という根拠は何でしょう?
また神戸市の西求女塚古墳は、犬山市の前方後方墳より時代が下るという説でしょうか?
だとしたらその根拠は何でしょう。
ちなみに私は上の三点については、そう断言するに十分な証拠はまだないと思ってます。
各地域の土器編年の摺り合わせも学者によって違う状況だし。
ただ畿内以外では埋葬施設も発掘したケースが結構あります。
そういう場合に古墳時代前期前半と見なせるようなものが出土してますか?
でなければ西求女塚古墳に先行しているというのは難しいと思いますが。
清須市や一宮市じゃなくて、犬山市だって断定する根拠もよくわからない。
>>903 この歴代のスレでも、そこに反論してくるのは初めて見た。
大変に重要なことだと思うけど、このスレでさえ、誰も反論せずずっと自明だったんだよね。
まず、犬山というのは厳密な意味じゃない。大雑把に尾張北部の「木曽川水系の扇状地の上」ということで、
名古屋以南ではありませんよ、ということ。誤解を招いたとしたらすまなかった。
多分、愛知県一宮市八王子遺跡ということになるんじゃないかと思う。いわゆる廻間型というやつ。
そして、これが、神戸の乙女塚に先行するということは、
いくら土器編年が揺らいでも、さすがにあり得ないと思う。乙女塚は4世紀後半で、しかも完成形の孤立遺跡。
あれを、奈良や濃尾の前方後方墳の起源とすることは、
韓国の前方後円墳を、日本の前方後円墳の起源とするのと同じくらいの矛盾になる。
ただ、この通説は、全国の神社の半分の縁起に喧嘩を売っていることになる。
彼らスサノオ系の神社の縁起は、素直に読めば「島根県からやってきた」と言っているのだから。
この文献学的矛盾をどう考えるべきかは、また別の問題として存在する。
西求女塚古墳と東求女塚古墳の区別が付いているかちょっと心配
>>905 灘じゃなくて、西灘のほうにこだわりたいのか。まああっちのほうがネタとして面白そうだからね。
それでも、廻間より先行させるのは、どうみても無理だよ。
それに、このペア以外に、類似の古墳が周囲にどこにもない。
面白い謎ではあるが、分かったところで他のことに波及するネタではない。
907 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:55:46.63
>>906 神社で言うならスサノオ系と言うより木曽川水系に入って来た族はホアカリ系
の子孫じゃねえ?神社の創期でいうなら真清田神社が濃尾・伊勢平野の中で一番
古社だと思ったが。
狗奴国ってのは、許乃国(コノ国)のことであり、
ここの領主は、武埴安彦命だな。
卑弥呼こと、ヤマトトトヒモモソ媛命が最後に戦った
狗奴国王とは、武埴安彦命のことだ。
魏志倭人伝と日本書紀の間に整合性が取れたな。
909 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 22:32:15.93
>>909 関係ないんじゃないの?直接的には。
魏略によると、卑弥呼が最後に戦った狗奴国について
狗奴国の男王は、卑弥弓呼といい、
狗奴国の副官を、拘右智卑狗といったそうだ。
これは、許乃国(コノ国)の国主は、彦命(ひこみこ)であり、
許乃国の副官が、河内彦だったことを意味している。
この許乃国の国主の彦命が、武埴安彦命のことで、
副官の河内彦とは、武埴安彦命の生母や妃の一族のこと。
武埴安彦命は幼少期は、母方の河内彦によって養育されている。
武埴安彦命は孝元天皇の皇子だが、母方が側室だったので、
皇位継承争いから脱落していた。
しかしながら、そのことを彼の外戚の河内彦らは、よくは思ってなかった。
911 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 23:32:41.41
>>908 崇神天皇10年9月27日、大彦がどこか(w)に行くと、少女が変な歌を歌っていた。
大彦が奇妙に思い、帰って子細を伝えると、倭迹迹日百襲姫が、これは武埴安彦が
謀叛を企てていることを歌っているのだと言った。
案の定、武埴安彦は、妻の吾田媛と共に軍を率いてやってきた。崇神天皇は吉備津彦を
派遣して吾田媛の軍を破った。また、彦国葺を派遣して武埴安彦を討った。
というわけで、前から不和ということもないし、わざわざ使者を帯方郡に派遣して
戦いの様子を魏に伝えたり、また、その仲裁に張政がやってくる必要もないと考えられ、
魏志倭人伝の狗奴国とは全く似ていない。
卑弥呼を倭迹迹日百襲姫に比定したために、記紀の中から狗奴国との争いのようなものを
探しださなくてはならず、苦し紛れに武埴安彦の乱が出て来たという感じ。
邪馬台国はスレチ
>>911 >というわけで、前から不和ということもないし、
なんで、そう言い切れるのかな?
日本書紀の原文呼んだけど、以前から不和かどうか判断できん。
ただし、武埴安彦命の出自などや、その乱の人間関係から見て
彼の外戚の河内彦が、自分の一族の娘が生んだ武埴安彦命を
皇位につけようと画策したのは容易に想像できる。
自分の一族の娘は、孝元天皇の側室で、武埴安彦命は庶子という扱いなので、
皇位につくことはできなかった。
もし、成功していたら、側室が正室の子供を倒して即位した応神天皇と
似たようなケースになっていたと思われ。
>わざわざ使者を帯方郡に派遣して
>戦いの様子を魏に伝えたり、また、
>その仲裁に張政がやってくる必要もないと考えられ、
この時の魏への使者の派遣の目的は何だったのか
いまでに議論が分かれるところ。
魏の帯方郡の太守が、三韓の反乱によって戦死する事件が起こっており
魏は冊封を円滑にするために、倭への出兵要請をしたのが本当のところだろう?
難升米(梨迹臣命)に魏の将軍の地位に任命しているのも、そのへん。
しかしながら、倭は出兵要請に応じなかったので、理由を聞いてみたら
倭国内で、狗奴国の男王の乱があったと。
914 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 01:53:34.61
>>913 苦し紛れの説のために無理が多い。
例えば、軍事援助は下位の国が上位の国に対して求めるもの。
新羅はしょっちゅう唐に対して軍事援助を求めたが、唐が新羅に軍事援助を
求めたようなことはない。
百済は日本に援助を求めたが、日本が百済に援助を求めたことはない。
援助要請はかなり恥ずかしいことなのだ。だから、魏が倭に軍事援助を
求めるようなことはない。
思い込みだけで語る人って厄介だよな。
そもそも記紀の神武東征とかの記述からして眉唾、てかおそらくは出鱈目だからなあ。
あとに続く欠史八代に至っては言わずもがな。
倭王権の萌芽が漸く見られるのが、マキムクからなんだから、
記紀で言えばミマキイリヒコ以降かな。
まあ、それでも蛇と交わったり、クグイになって空を飛んだり、など、
多分に神話伝承の類で史実性はかなり希薄。
ホアカリ馬鹿は、記紀を妄想で解釈してる馬鹿だから、相手にしない方が吉w
>>914 >例えば、軍事援助は下位の国が上位の国に対して求めるもの。
それは、あなたの勝手な思い込み。
そんなのは、時と場合による。
魏のほうも、ちゃんと考えて軍事援助の要請をしていて
あくまでも、倭の武将に、魏の臣下の武官の地位を任命することによって
援軍を求めている。
「援助」なんて恣意的表現をするから屁理屈が出てくる。
単に「出兵要請」と書けばよいのだ。
かってのベトナム戦争では、韓国は出兵したが、日本やカナダは憲法や国内事情を盾に出兵しなかった。
アフガニスタン戦争では、カナダや日本も派兵に応じた。
ベトナム戦争において、韓国はアメリカ合衆国を「援助」したと書くも「要請にに応じた」と書くも、出兵に係る事情、内容は同じことだろう。
たとえば隋は高句麗征伐に失敗して滅亡の遠因をつくった
唐は新羅と協力して百済攻めを行い、そこから高句麗を滅ぼした
その後に新羅に裏切られ、半島から追い出されたが
唐は援助されてるんじゃないの?
920 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 15:12:14.49
>>915 >>917 魏が倭に軍事要請したという方が勝手な思い込みで、そんなことはどこにも
書かれていないだけでなく、倭人伝からは読み取れないばかりか、
そんな慣習もないと言っている訳だが。
むしろ、倭人伝に記述からは、わざわざ帯方郡に使者を派遣して狗奴国との
争いの状況を説明し、その調停に張政がやってきて、「詔書、黄幢、
拜假難升米爲檄告喩之」となるわけで、卑弥呼が軍事援助を要請したと考える方が
可能性ははるかに高い。
だいたい、女王でも天皇でもないただの皇女の倭迹迹日百襲姫を卑弥呼に
比定するのが何の根拠もない思い込みと言える。卑弥呼=倭迹迹日百襲姫は
何から何まで全部、間違っている。共通点は女であることくらいかな。
伊勢神宮に仕える斎王の神託を重視したのをみて女王国と勘違いしたとか?
中国から見れば権威の源が王(皇帝)なんでしょ
卑弥呼>ミマキイリヒコ
天皇>タイクーン
ローマ法王>皇帝
スレチはやめて邪馬台国スレに書いてくれないか
924 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 18:15:53.21
925 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 18:23:47.39
ここは邪馬台国に関する考古学のスレだ。考古学を論じる力の無い奴は他のスレへ行け。ドア○ウ。
>>925 >ここは邪馬台国に関する考古学のスレだ
違う。纏向遺跡に関するスレだ。
927 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 19:03:42.89
むきむきいせき
>>920 >むしろ、倭人伝に記述からは、わざわざ帯方郡に使者を派遣して狗奴国との
>争いの状況を説明し、その調停に張政がやってきて、「詔書、黄幢、
>拜假難升米爲檄告喩之」となるわけで、卑弥呼が軍事援助を要請したと考える方が
>可能性ははるかに高い。
だから、それが思い込みだってw
>>920 >だいたい、女王でも天皇でもないただの皇女の倭迹迹日百襲姫を卑弥呼に
>比定するのが何の根拠もない思い込みと言える。卑弥呼=倭迹迹日百襲姫は
>何から何まで全部、間違っている。共通点は女であることくらいかな。
モモソ媛命は、天皇家の長老的な存在として描かれているし
神に仕える巫女の最高位という点も同じ。
だいたい、日本書紀には天皇とされてないからというけど、
そんなこと言ったら、中世でも、九州に落ちのびていた
懐良親王のことを、
中国の史書では、日本国王良懐と記載するぐらいなんだしw
黄憧を与えた理由は、もともと韓との抗争を収拾するための共同軍事活動
を求めたためで、それが韓の鎮圧が予想外に早く終わったため
郡に預けっぱなしになっていたものが
たまたま来た倭使が狗奴国のことをいったのでその機会に与えた
…ってことを平野邦雄がいってたから学界の中でもそんなへんな説じゃないだろ
ただ、国家間の格上格下の話は
援助を請願したのか軍役を命令したのかって表現の問題だから
そこはまた分けて考えないと。ごっちゃにしたらまずい。
軍事問題ってのはリアリな武力がすべて。
格式の問題はその時代の官僚だか学者だかが適当につじつま合わせるだろ
931 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 01:53:44.78
邪馬台国でも記紀でも良いが纏向に絡めて柿米屋
>>930 「たまたま管理していた下級役人が使った」とか笑えるネタだな。
それを国家の歴史書に書くか?
黄憧と使うときは、それに応じた各種の付属物や人員配備までセットになるから、
いい加減な使い方はできないだろ。
933 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 02:13:23.59
>>928-930 何もレスはないな。
こちらが書き込みすると、だいたい
>>923とか
>>925みたいなのが出て来るんだが…。
>>930 倭人伝のその部分を自分で読んでみることをお勧めする。そんなに長くはない。
要約してみようか?
正始元年、(帯方郡)太守の弓遵は、建忠校尉の梯儁を倭国に派遣した。
梯儁は、詔書・金印等を奉じて、倭女王に拝仮した。また、銅鏡や刀などの
品物を賜った。倭王は、使いによって上表し、謝辞を述べた。
正始四年、倭王はまた伊聲耆・掖邪狗等を派遣して、貢物を献上した。
正始六年、皇帝の命により、難升米に黄幢を賜り、帯方郡に預けた。
正始八年、帯方郡の太守・王頎が赴任した。倭女王・卑弥呼と狗奴国王・卑弥弓呼は
もとより不和だった。倭は、載斯、烏越等を派遣して互いに攻撃している状況を
説明した。(王頎は)張政等を派遣した。詔書・黄幢を難升米に拝仮し、檄を為して
これを告喩した。以って卑弥呼は死んだ。大いに冢を作った。径百歩あまり。
殉葬者・奴婢百人あまり。
更に、男王が立ったが、国中が不服。さらに相誅殺し、当時千人あまりが殺された。
また、卑弥呼の宗女・壱与、歳十三歳を立て王とした。国中ついに定まった。
張政等は、檄を以って壱与を告喩した。壱与は、掖邪狗等二十人を以って張政の
帰還を送らせた。よって、都に詣で、生口三十人等を献上した。
934 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 08:55:24.78
>>925 邪馬台国に関する考古学
んなもん推測こじつけ以外に全く確立しとらんだろうが、ボケが
拝仮て直接あったってことになるの?
上意を伝える使者が上座に座り、それを受けるものが下座に座るような作法があるが
そういうことじゃないの?
拜假
拜授臨時官爵とあるね。
拜は敬意礼節を表すことを意味して、直接会うことは意味していないようだよ
僕は記紀の記述をこう解釈します!的な書き込みは時間の無駄。
せめて書いてあることをそのまま読むか、誤りと無視するかのどっちかにしてよ。
僕なりの記紀の新解釈、こう読めば新発見が!みたいな、根拠のない珍説は要らないから。
つーか何で邪馬台国スレでやらないんだよ
939 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:28:15.18
ついでに倭迹迹日百襲姫について一言。
この人は、確か、古事記には登場していないはず。
日本書紀には、三つのエピソードが書かれている。
一つは、ちまたに疫病が発生し、反乱するものが後を絶たず、崇神天皇が困り果てて
いるとき、百襲姫が大物主神として神懸りし、「我を祀れば災いは収まる」と
言ったので、そのとおりに大物主神を祀ると災いが収まった。
二つ目は、少女の歌が、武埴安彦の謀叛を表していると崇神天皇に告げた。
武埴安彦とその妻の吾田媛は攻めてきたが、結局は征伐された。
三つ目は、百襲姫は大物主神の妻になった。ところがその神は、夜にしかやってこない。
明るくならないと、あなたの顔が見えませんと言ったところ、では櫛箱の中に入って
朝を待つことにしよう。私を見ても驚かないようにと大物主神は言った。
朝になって、百襲姫が櫛箱の中を見ると、小さな蛇が一匹いた。
百襲姫は驚き、叫び声を上げた。
大物主神は、お前は私に恥をかかせた、私もお前に恥をかかせようと言って、天に
舞い上がった。百襲姫はそれを見て腰を抜かし、箸でホトを突いて死んでしまった。
百襲姫は大市に埋葬されたが、昼は人が作り、夜は神が作ったとの伝説がある。また、
大坂山の石を使って作ったが、山から墓まで人が列を作り、手渡しで運んだとも伝えられる。
940 :
笑っ虎:2012/03/28(水) 10:08:47.64
>>933 >正始元年、(帯方郡)太守の弓遵は、建忠校尉の梯儁を倭国に派遣した。
天子・皇帝が何かの権限や使命与えるときは、節という「からうしの尾」がついた旗をあたえる。
この節を持った使者が「使節」だ。
節を与える資格権限も勅使・使節を立てる資格権限も天子・皇帝だけのものだ。
魏本国から皇帝の詔書と金印と、別途の詔と贈答品を持参した勅使・使節がいて、
これを護衛を兼ねて先導してきたのが、帯方郡太守が派遣した弓遵だ。
「天子代理の使節」を太守風情が立てると読んでは常識はずれの極みだ。
>梯儁は、詔書・金印等を奉じて、倭女王に拝仮した。
「梯儁は」ではない。「梯儁等」とある。
ここに、中国では「いわずもがなの常識」たる使節と随行員一行の存在がある。
>正始六年、皇帝の命により、難升米に黄幢を賜り、帯方郡に預けた。
「帯方郡に預けた」ではない。帯方郡を介して難升米に「假授した」とあるから、一連の行動は完結している。
簡潔にして饒舌をもって「よし」とする中国正史だ。
書いてない行間のほうが遥かに饒舌だ。これを「知識」で埋めて読むのが解読だ。
他人に詳しく読むことをすすめる者が、文字づら追いの表層読みをしてどうするか。
941 :
笑っ虎:2012/03/28(水) 10:09:21.32
>>936 >拜授臨時官爵とあるね。
假授、拝假の假は「仮に」ではない。「与える」だ。假授は「授与」という古語熟語。
拝は「授ける」だが、拝假は天子・皇帝に変わって授けることをいう古語熟語。
文字は複数の意味を持つが、熟語の場合は完成単語としての意味が優先する。
>拜は敬意礼節を表すことを意味して、直接会うことは意味していないようだよ
封拝(諸将・諸官を拝し・諸王・諸侯を封じる)もまた天子・皇帝だけが行なえる特権。
拝は「授ける」で、諸将・諸官を任命する(官位を授ける)ことをという。
封は「与える」で、諸王・諸侯に位と領地を与えることをいう。
領地を封(あた)えて建てさせることを「封建」という。(いずれも、厳粛な授与儀式が伴う)。
いかにど素人とはいえ、公に発信するにはひどい内容だし、無責任すぎる。
己が無知・無学であるという謙虚な認識に立って、勉強と確認をしてから発言したらどうだ?
942 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 11:42:00.39
三輪山に登られたし
山頂には何か
943 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 11:45:20.76
まあ高貴な立場の女子がウンコ箸でまんまんを誤って突いて死ぬという事故はあったんだろうと思う
>>939 モモソ媛命は、古事記には出来事としては登場しないが
普通に、孝霊天皇の皇女として、その出自は出てくる。
>>941 假は、与えるというより、貸し出すってことだと思うけど。
太祖將討袁譚,而柳城烏丸欲出騎助譚。太祖以招嘗領烏丸,遣詣柳城。到,?峭王嚴,
以五千騎當遣詣譚。又遼東太守公孫康自稱平州牧,遣使韓忠齎單于印綬往假峭王。
峭王大會群長,忠亦在坐。峭王問招:「昔袁公言受天子之命,假我為單于;今曹公複言當更白天子,
假我真單于;遼東複持印綬來。如此,誰當為正?」招答曰:「昔袁公承制,得有所拜假;中間違錯,
天子命曹公代之,言當白天子,更假真單于,是也。遼東下郡,何得擅稱拜假也?」
忠曰:「我遼東在滄海之東,擁兵百萬,又有扶餘、?貊之用;當今之勢,強者為右,曹操獨何得為是也?」
招呵忠曰:「曹公允恭明哲,翼戴天子,伐叛柔服,寧靜四海,汝君臣頑?,今恃險遠,背違王命,
欲擅拜假,侮弄神器,方當屠戮,何敢慢易咎毀大人?」便捉忠頭頓築,拔刀欲斬之。峭王驚怖,
徒跣抱招,以救請忠,左右失色。招乃還坐,為峭王等?成敗之效,禍福所歸,皆下席跪伏,
敬受敕教,便辭遼東之使,罷所嚴騎
袁氏と公孫氏と曹氏が天子の代わりに任命する権を争っていたのが分かる
言ってみれば三人とも独断で任命して、事後処理的に天子に自分の言う事を聞かせるってやり方をしてるだけ
まあ、印綬を奉じてきた使者を遠方の部下に受け取らせるってのは危ういからしなさそうではあるよな
義満にしろ明に発注して自分で受け取ってるし、大内氏は義満の押した印から木印を偽造してつかっているが
おそらく、最終責任者として印は身元においておいただろうしさ
ただ、古代ということを考えれば、摂津に港があったのか確かめようがないが、おそらくなかっただろうし
漢文の素養のある人物はそういなかったであろうから祐筆がいるとしても、
使者と直接交渉できる伊都国に滞在していると方が何かと便利だったろう
本国から派遣する刺史のようなものに伝言して、祐筆に指示を伝えればよいのだし
946 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 20:19:50.32
947 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 20:41:12.77
天子に代わって封拝する「専断権」について、虎のサイトにこういう論考がある。
ものごとには、何ごとにも例外がつきものである。この場合も、
例外的に天子に代って封拝する実例があるので紹介しておく。
▼『後漢書』ケ禹伝
ケ禹は旧知の先輩である光武帝が河北を平定したと聞くと、
杖をついて北に渡り、鄴の地で光武帝の軍勢に追いついた。
光武帝はケ禹を見て大いに喜んでいった。
「我は封拝の專を得る。(私は諸王・諸侯を封じ諸将・諸官を拝する専断権を天子から得ている)。
君は遠くから来たが、私に仕えることを望んでいるのか」。
ケ禹はかくして光武帝に仕えることになるのだが、
光武帝は左右の群臣にケ禹を将軍と呼ぶように命じて軍中で重用している。
将軍は天子政府の爵号であり、天子のみが与えることのできる称号である。
(これを、天子が詔勅でもって、例外的に専断権を与えた事例である)。
つづくし。
948 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 20:41:59.89
専断権を与えた理由と事例。
▼『三国志』魏書・武帝紀
建安20年9月、天子は、曹操に詔勅を下して諸侯・太守・国相を封拝する専断権を与えた。
孔衍の『漢魏春秋』にいう。「天子はもって、公は外の任務を担っており、
ことに当って恩賞を速やかに行なわなければならない。
すなわち、公は諸侯・太守・国相を封拝する専断権を「承制詔勅」によって得たのである」。
天子が専断権を与えた理由。(専断権を得ずに封拝を実行した事例を含む)。
▼天子曰く「そもそも軍事において大切なことは、速やかに善を宜しくすることである。
ゆえに『司馬法』にいう[日を跨がず]とは、人民の欲する善(恩賞)を速やかに行なう利のことである。
むかし、ケ禹は関中に入ると、祭酒李文を河東太守に拝し、来歙は高峻を通路将に拝した。
その様子をみると、みな先に 天子の承諾を得たのではない。ことに当って自らの判断で称号を刻んだ印綬を与えている。
これは、世祖(光武帝)の神明が、速やかに用いる利をわきまえていて、それによって威光を示す手だてとしたからである。
そもそも春秋時代の大夫は、国境を出てことに当たるに独断によって処置した。
仮にも、社稜に利益を与え国家を安んじる目的に沿っていればよい。
君は内外の任に当たる二伯の任を兼ね、中原の内外を征して九州を統率している。
藩甸(天子の支配領域)の外に出陣した際の得失はそのことにかかっている。
恩賞をひきのばし、務めを停滞させるのは、固く私の望むところではない。
これより以後は、ことに当って称号を加えるべき者には印章を刻んで假授し、みな忠を得て励み疑いをもたせないよう」。
949 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 20:45:04.69
天子の封拝行為に用いられる言葉を、原則論として分類すると次のようになる。
原則論だ。僅かな例外的用例はここでは受け付けないぞ。
▼封: 天子・皇帝が親近血族や功臣などに領地を与えたり公侯に取り立てるときに用いる。封じる(あたえる)。
▼拝: 天子・皇帝が臣下に諸官・諸将の位を授けるときに用いる。拝す(授ける)。
▼假(仮): 天子・皇帝が臣下に官位を与えるとき、假す(与える)。
その官位に見合った指揮幢や印綬など(主に物品)を与えるときに用いる。假す(与える)。
▼賜: 天子・皇帝が物品やメッセージをおくるときに用いる。賜う・賜る・賜える
▼假授: 「授与」という古語熟語。
(一例のみだが)私が確認した事例では、中国では假授を「授与」と訳している。
950 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 20:48:16.60
短絡細胞に釘。
「仮司馬、仮節」といった位階は完成熟語で、
ここにある仮の文字談義をしても意味はない。
文字個々の意味よりも完成熟語としての意味が優先する。
951 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 21:48:15.68
纏向遺跡に関するレスだ。
952 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 21:58:51.20
>>951 何かといえば、ふた言目にはそういうバカ野郎がいるが、
纏向遺跡だけに限定して何が語れるか?
纏向遺跡に関する投稿だけではないからこういう矯正投稿をするのだが、
それに対して、そういうバカげたセリフを吐いて効果があるのか?
ごちゃごちゃいうならば、お前が纏向遺跡の話題で、
客を集めて白熱する議論スレにして見せたらどうだ。クソ野郎
953 :
笑っ虎:2012/03/29(木) 22:02:16.87
>>951 纏向遺跡。100年も150年も時代を古くサバ読んだ詐欺所見に便乗して、
歴史の深層が見えて来るとでも思ってるのか。尻馬ゴミ。
954 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 23:04:10.89
>>949 この部分はどう訳す?
今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝
>>947 辞書に書いてあるわけだが・・・。貸し出すって・・・。
天子がなんたらみたいな意味はぜんぜんないよw
形容詞に、すばらしいって意味があるな嘉と同じ意味で。形声・仮借かしらんが
假哉皇考・・・すばらしきかなわが父君って意味らしいぞ
仮
@貸す
ア貸し出す
イ与える、開倉廩仮貧民…米倉を開放して貧民に与えた
A借りる
ア利用する、善仮於物也…物を利用するのがうまい
イかこつける
B委ねる
C寛容に扱う
以上、4つの用例のうち、@の貸すからの転だろ、拝仮は。
957 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 02:00:03.40
漢和辞典にも、假(仮)の意味として「かす」「かりる」というのが書かれている。
ただ、倭人伝全体から考えると、「ゆだねる」という意味の方が合っているように思われる。
ということになると、当事者同士が介入しないときの受け渡しに使われるのかもしれない。
>>948 ざっと見たかんじだと仮節ってのは承制で皇帝の意を承けた後、
遠方の地へ行って、皇帝の代わりに位を授けるって意味だと思うが
だから、皇帝の代わりに位を授けるって部分を受けて、仮にって意味が強調されて仮の字が
使われたと考える方が分かりやすいな
959 :
笑っ虎:2012/03/30(金) 09:30:22.56
>>954 「自分はこう訳すが、お前はどう訳すのか」
と、オープンマインドな質問の投げ方をしろ。精神的田舎っぺが。
>>955 古語用法の話だが、減多勢のクソ辞書見てゆっるんじゃあるまいな。タコ
>>956 中国で古文を学んだ中国人のアドバイスだ。
さらに、俺なりに拝仮について延々と論考をしめしたが、
お前は、「貸すからの転だろ」という推論で終りか?
>>957 >>当事者同士が介入しないときの受け渡しに使われるのかもしれない。
こっちでも「かも知れない」か。
>>958 >ざっと見たかんじだと
ざっと見て判断できる話じゃないぜ。
>仮にって意味が強調されて仮の字が使われたと考える方が分かりやすいな
バカ野郎。仮の字を使った資格権限をあらわす熟語だ。
・仮司馬=副部隊長
・仮節=軍規・軍令違反者を処罰する権限
ほかに節のつく資格権限としては、
使持節(刺史・太守以下を処罰する権限。倭王武がこれを併せ持った)
持節(官位のない者を処罰する権限)
●ざっと見た所感をいえば、バカな日本人の多いことよ。
960 :
笑っ虎:2012/03/30(金) 09:31:50.04
もう、
>>951 のように、
「纏向遺跡に関するレスだ」などと、
了見の狭いことをいうタコは出てくるなよな。
961 :
笑っ虎:2012/03/30(金) 09:45:32.67
おほほーい。
前後の時間の脈絡がちょちょ切れた状態で纏向遺跡だけをとりあげて
「ヤマト王権」などという願望夢想を語るタコども。
国家の存亡にかかわる諸将に重要な使命と
これを遂行するに必要な資格権限を与えるのに、
「仮に与える」とか「貸し与える」なんてあるのか?
「命をかけた職務も仮に与える」てかー。
少しは常識でモノごとを判断しろ。
漢字は複数の意味をもつ。その中からどの意味を採るか、
使われている状況ともども正しく判断するるのが解読というものだ。
962 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 10:32:48.53
>>960 >「纏向遺跡に関するレスだ」などと、
>了見の狭いことをいうタコは出てくるなよな
スレタイを一万回声に出して読め低脳伊作
963 :
笑っ虎:2012/03/30(金) 10:33:14.06
この野郎とくに気に入らねーな。
>>955 >辞書に書いてあるわけだが・・・。貸し出すって・・・。
「文字の意味」として色々ある中で「与える」という意味も紹介してるだろ。
>天子がなんたらみたいな意味はぜんぜんないよw
天子の許可を得て天子以外の人間が封拝する例外を除けば、
諸将・諸官の位階は天子が与えるものだ。封拝に関する假は「与える」だ。
お前みたいなタコにも分かるように、
細かい論考説明つきで翻訳してやってるのだが・理解できんらしい。
>形容詞に、すばらしいって意味があるな嘉と同じ意味で。
動詞用法についての話に形容詞用法を持ち出してどうするか。
>假哉皇考・・・すばらしきかなわが父君って意味らしいぞ
まったく意味違いで用いられている用例を持ち出してどうするか。
お前は考え方の整理・分別ができていない。
思考細胞が幼稚なガキのまま大人になった、いわゆるバカだ。
964 :
笑っ虎:2012/03/30(金) 10:40:05.50
>>962 >スレタイを一万回声に出して読め低脳伊作
スレッドの主旨が理解できないわけじゃないぞ。外道
纏向だけで、どれだけ日本の古代史がまともに語れるか。
纏向だけじゃ・ほとんどネタ切れで閑古鳥状態だろうが。
てめえが、纏向だけでやって行けるように盛りあけでみせろ。
できもしないくせに、ケチなことをいうのなら、
こんなクソスレッドなど放置して潰せ。
965 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 10:49:27.32
>>964 閑古鳥が鳴こうがdat落ちしようがお前の知った事ではない。
スレ違いはスレ違いだ阿呆。
自分の気に入らないスレにイチャモンつけているだけのヒステリー爺。
>>964 伊作
>纏向だけで、どれだけ日本の古代史がまともに語れるか。
ここで「日本の古代史」全体を語る必要は無い。
纏向で見えてくる事だけを語ればよい。
スレ違いと言う事を理解しろ馬鹿。
>>959 べつにいんじゃないの?www
何が逝けないのか違いが分からないわかけだが
・仮司馬=副部隊長
・仮節=軍規・軍令違反者を処罰する権限
仮司馬も、本来的には司馬の権能を仮に預かるものだから仮の字を使ってるんだろ
店長がいないとき、店長代理がうけもち、いるときでも補佐するような役割をうけもつようなもんだ
仮節も、軍規というのはいちいち中央の意見をうかがっていては戦況に影響するから、果断に決定することが求められる
だから、本来中央に行って、きちんと礼をつくして、官位に即くのを省いて、現地での即位を許すんだろうよ
これも本来的ではない仮の権能という意味で仮の字が使われていると解しておかしくない
>>963 辞書が気に入らないのなら、それだけの例示義務があると思うのだが、おまえは何様だよwww
承制にしても、制には、みことのり、王命とちゃんと意味が書いてあるわwww
なんで仮だけ辞書的意味でなく、おまえの独断を許さなければならんのだよwww
しかも、辞書の意味はきちんと、そういう意味となる出典元を書いているよw
漢代の用例として、おまえのような使い方がありえるなら書いてるはずだわ
つーか、俺が言っていることが理解できない時点で、辞書も調べずに論考してたのがまるわかりなんだけどwww
何が中国人だよwww、おまえの友達はそんなにえらいのかwww、シナ人崇拝アホすwww
二人とも他所でやれ
970 :
笑っ虎:2012/03/30(金) 11:46:07.72
じゃ・もとの閑古鳥にもどれ。
基地外が来るより、閑古鳥の方が遙かにマシなんだがw
さっさと巣に帰れw
お前なんかお呼びじゃないんだよ、カスwwwww
972 :
日本@名無史さん:2012/03/31(土) 23:04:47.07
じゃ・もとの閑古鳥にもどれ。(震え声)
だっておwwwwww
ho
【中野・柳沢遺跡の銅戈、近畿型と九州型でスズの割合に違い】
県埋蔵文化財センター(長野市)は23日、
2006年度から3年にわたって発掘調査した中野市の柳沢遺跡の報告書をまとめ、これまでの調査の成果を発表した。
出土した弥生時代の青銅製祭器の金属成分を調べたところ、
「近畿型」の銅戈(どうか)と「九州型」の銅戈とでは、スズの割合が異なることが新たに分かった。
同遺跡では、全国で初めて、大阪湾周辺で出土している銅戈と、九州北部を中心に出土している銅戈が、
同じ埋納坑(まいのうこう)から見つかった。
同センターは、銅鐸(どうたく)を含め出土した青銅器13点全ての金属成分を調べた。
スズは、近畿型の7本など11〜15%と割合が高いグループと、九州型の1本など5%以下の低いグループに分かれた。
同センターは「他の遺跡でも金属成分の分析が進めば、青銅器がどこから来たのかが分かってくるかもしれない」とした。
青銅器13点は、発見時の状況から、約2千年前、一つの埋納坑に同時に埋められた可能性が高いという。
このうち5個見つかった銅鐸は、いずれも高さが21〜22センチで、ほぼ同じ大きさと判明。
同センターは「銅鐸をまとめて埋める際、大きさをそろえる西日本と同じ傾向が、柳沢遺跡でも見られる」としている。
(提供:信濃毎日新聞)
【九州・近畿型の銅戈、銅鐸と同じ埋納坑で出土か】
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120524-OYT1T00622.htm 弥生時代の青銅器が相次いで出土した長野県中野市の柳沢遺跡について、
県埋蔵文化財センターは23日、青銅製の祭器「銅戈」8点と銅鐸5点が、
同じ「埋納坑」に埋められていた可能性が高いとする発掘調査報告書を公表した。
同センターの広田和穂調査研究員は
「青銅器は力を持った集団でないと持てなかった。
県内に複数の力を持った集団がおり、近隣の集団との交流で青銅器が伝わったのではないか」
と話している。
出土した銅戈は矛の刃の部分で長さ約22〜36センチ。銅鐸は釣り鐘形で高さ約21〜22センチ。
どちらも日本では農耕祭事に使われた。
柳沢遺跡では2007年、東日本で初めて銅戈が完全な形で出土。
08年には全国で初めて九州型と近畿型の銅戈が同じ埋納坑から出土した。
埋納抗は縦約26センチ、横約66センチ。銅戈7点と銅鐸1点は、07年に堤防建設工事現場を重機で掘削中に発見された。
また、翌08年、すでに掘削を終えていた土を調べたところ、銅戈1点と銅鐸4点のほか、
掘削中に発見された銅鐸の一部も見つかったことなどから、同じ埋納坑に埋められていた可能性が高いと判断した。
当時貴重だった青銅器が複数発見されているのに、周辺には住居跡が数件しか見つかっていないことから、
報告書は、複数の集団が、現在の中野市周辺だけでなく、長野市付近からも埋納坑に青銅を持ち込んだ可能性を指摘した。
広田研究員は
「少なくとも長野県までは、西日本と同様に稲作や農耕祭事が行われていた可能性が高まった」
と、発掘の成果を話している。
出土品の一部は7月28日〜8月19日、伊那市の伊那文化会館で展示される。
(2012年5月25日10時18分 読売新聞)
まじでか。長野にこの手の研究で先を越されるとは!
【纒向石塚古墳:桜井市教委、全調査のまとめ刊行 今後の活用に期待 /奈良】
毎日新聞 2012年05月25日 地方版
http://mainichi.jp/area/nara/news/20120525ddlk29040597000c.html 国内最古の前方後円墳とされる、桜井市の纒向(まきむく)石塚古墳(3世紀前半〜中ごろ、全長約99メートル)について、
桜井市教委が71〜05年度にかけて行った9回の発掘調査をまとめ、発掘調査報告書を刊行した。
71、75年度の第1、2次調査については報告書が出されていたが、それ以降は概要発表などだった。
全てまとめた報告書は初めてで、今後の研究での活用が期待される。
報告書は、それぞれの調査内容や図面、資料写真などを掲載し、図版編と合わせてA4判約600ページ。
纒向石塚古墳は、古墳時代の始まりを巡る論争上非常に重要で、これまで延べ3752平方メートルの調査が行われ、
06年には史跡纒向古墳群の一つとして国史跡指定を受けている。
周濠からは、弧文円板や鶏形木製品などの木製祭祀(さいし)遺物が見つかった。
当初は円墳と推定されていたが、76年度の第3次調査で前方後円墳と確認された。
報告書には、現在予想されている、馬てい形の周濠を持つ墳形復元案も掲載された。
築造年代については、さまざまな解釈があることも示されている。
桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長は
「報告書は、古墳時代がいつ始まったのかという議論をするための基礎となる。
すべての研究者が同じ土俵に立って議論できるようになる価値ある資料だ」
と話した。
報告書は300冊作られた公機関用とは別に、100冊限定(1冊6000円)で一般に販売している。
問い合わせは桜井市埋蔵文化財センター(0744・42・6005)。
pdfで公開しろよ
【ホケノ山古墳の銅鏡】
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000141205180001 ◆特異性象徴 尽きぬ議論
桜井市ホケノ山古墳(3世紀中葉築造)は、最古級の古墳として「石囲い木槨(もっかく)」を埋葬施設とするなど、
多くの点で特異な面をもつ古墳であるが、その一つに銅鏡がある。
1999年の発掘調査によって銅鏡は3面分、出土している。
完形復元できる画文帯神獣鏡1面と、もう1面の画文帯神獣鏡片、及び内行花文鏡片である。
画文帯神獣鏡は、日月運行を表現する飛天や雲車が描かれた画文帯をもち、
西王母などの古代中国の道教世界が表現された青銅の鏡である。
日本列島において銅鏡の出土分布の中心が、北部九州から畿内へと移る初期のものであり、
卑弥呼の鏡とも呼ばれる「三角縁神獣鏡」とも共通の文様をもつことがあり、関係の深い鏡でもある。
完形となる画文帯神獣鏡は、崩落した石材に押し潰されて割れていた。
直径は19・1センチと大形で、その文様は一辺8ミリの方格の中に4文字を鋳上げており、
これほど文様の精緻(せいち)な画文帯神獣鏡は中国でも珍しい。後漢末から三国時代初頭につくられた中国鏡である。
ホケノ山古墳以降、多くの前期古墳に中国鏡が副葬される。
このことは、古墳造営の中心地である奈良県東南部の勢力が、
銅鏡入手に象徴される中国との交渉ルートを継続的に確保したことを示唆しているのであろう。
一見すると、完形の画文帯神獣鏡が目立つが、
ホケノ山古墳を考える上でさらに重要なのは、もう1面の画文帯神獣鏡片と内行花文鏡片である。
つづく
【ホケノ山古墳の銅鏡】
つづき
もう1面の画文帯神獣鏡片は復元すると直径16センチほどである。出土したのは、鏡面の12分の1にすぎない。
発掘調査によって副葬品の多くは木槨の蓋(ふた)の上など木棺の置かれた床よりも高い場所にあったことが判明しており、
その一部は木槨柱痕跡内に落ち込むなどの乱雑な出土状況であった。
鏡片は10点出土したものが接合して2片となり、最大6・3メートル離れた鏡片が接合していることから、
副葬の時に鏡片であったものをさらに砕き、木槨の蓋の上に撒(ま)くような祭祀(さいし)を行ったことを示している。
そして内行花文鏡片も同様の破砕鏡である。
復元すると直径約26・3センチの大型鏡となるが、出土したのは鏡背面の約10分の1である。
弥生時代後期の北部九州には鏡片を利用した破鏡と呼ばれる祭祀があり、
ホケノ山古墳における鏡片の使用と破砕は破鏡に近いものである。
銅鏡の扱いには弥生時代的な要素を色濃く残しており、ホケノ山古墳の特異性を象徴している。
ホケノ山古墳は墳長80メートルの前方後円形の墳丘を持ちながら、木槨系の埋葬施設と破砕鏡という弥生時代的な要素を併せ持つ。
その築造時期は、調査によって埋葬施設や副葬品が判明している古墳の中で
古墳時代最古相とみられる天理市中山大塚古墳よりもさらに古くなる可能性が想定され、
何をもって古墳とするかという古墳の定義の問題と古墳時代開始年代について、議論の尽きない古墳である。
なお、6月17日(日)まで、県立橿原考古学研究所付属博物館で開催中の特別展「三国志の時代―2・3世紀の東アジア―」で、
ホケノ山古墳の銅鏡を含めた出土品が展示されている。
(県立橿原考古学研究所 総括研究員 水野敏典)
(2012年05月18日 朝日新聞)
>>979 三角縁神獣鏡の大枠が挽型によって形成されたこと、
三角縁神獣鏡には挽型を共有する鏡群が幅広く存在することは
岩本崇の研究によって明らかになっている。
挽型を共有する鏡群間で神獣像表現が相違する事例がみられることは、
同一の原図や同一の挽型で作製された鏡群に複数の工人が関与していることを示しており、
同じ工房で製作されていた可能性はかなり高い。
布留1が出てるのに最古相か。
>>982 「複数の工人」ってどういう意味で使ってるの?
一人で作っていたわけじゃないのは当たり前だよね。
技術系統が違うってこと?
どういう根拠で何を言おうとしているの?