1 :
佐賀原住民 :
2011/06/19(日) 15:40:03.51
2 :
忍法帖【Lv=17,xxxPT】 :2011/06/19(日) 15:41:19.17
スレたて確認せずに埋めるなよお。
3 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 16:07:08.92
⊂⌒⊃ ⊂⌒⊃ ―‐ ● ―‐ ⊂⌒⊃ ⊂⊃ / | \ ⊂⊃ ⊂⊃ /~\へ/~\へへ/~\/~\へ/~\へ/~\へ/~\へヘ/~\/~\ ,、,,,,,、,,,,、,,,、,,,,,,,,,,、,,,/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_________ ,, ,,,,,, ,,,, ,, ,,,, ,,,,,| 立った立った! クララが立った!| \ ,,,, ,,, ,,,,, ,,,,,,, ,,,, , \ _____________/ 駄スレも立った ! | ||=||=||=||=||=||∨=||=||=||=||=||=||=||=||\__ ______/ ,,,,,,, ,,,,, ,,, ,, ,,,, ,,, ∧_∧ ,, , ∧_∧,, ,,,,, ,, __ ,,,, ,,,,, ∨ ,,,,, ,,,, ,, ,, ,,,, ,, e@@e ,,,,,, ,,, ( o´∀`) ,,,,, (∀・ ; ) ,,, , , | || ,,, ,,,, e@@e , ,,,, ,,, ,, , ,, ,,, (,・∀・) ,,, ,,⊂ ⊃,,, ,,⊂⊂⌒ヽ、, ,,, |!____i|| , ,,,♪ (・∀・,)_ノ ,,,,, ,,,, ,, , ,〜(( ,,), ,,,, ,,,○( ノ ,,,, プル )) )○/_/) ,,,, ,, とと,,__つ , ,, ,, ,, ,,,, ,UUU ,,, ,,, ,,,,,, )__)_) ,, ,,, ,(( (_(_ノ ))プル,,,,◎ ,, ,,, ,, ,,,,, ,,,,, ,,, ミ ピョン | |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| |,,, ,,,,| | | |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |二二| |
4 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 16:14:11.49
九州説も、一方を主張すれば、一方が成り立たないという関係にあるので、なかなか微妙。
5 :
サガミハラハラ :2011/06/19(日) 16:34:47.17
そうです。邪馬台国は佐賀県小城市甘木説でなりたっていますので、他説は全てなりたちません。
6 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 16:48:50.50
自分なりの仮説を絶対の結論とするから、勝ち負けになって、 必死で防衛しなければならなくなる。 実際には、自分の仮説も、大元では変わらないにせよ 微修正くらいしたくなるときはあるものさ。 自分の説も仮説とわきまえて、他説の考え方にも耳を傾ければ、 無理なく修正していけるもんだ。 で、個人的には熊本平野の南部当たりを想定しているのだが 持論で計算してみると通りすぎて人吉盆地になっちまった。 どうしよう(笑)
邪馬台国の7万戸、投馬国の5万戸、その他2.5万戸、合計14.5万戸以上だけど他に不明国や敵国あり 人口に換算すると最小80万で、最大160万〜170万? 全部北九州だけで賄えるの? 九州全域でも厳しいと思うんだけど それとも戸数についてはいい加減な記述なの?
8 :
どくだみ :2011/06/19(日) 17:05:14.52
キンガンさん 眼精疲労で目が痛くて、レス確認がままなりません。 とりあえず、返答すると言ってた「自」についてレスしておきます。目がよくなったら、また来ます。 自陰平道についてですが、例えば儀禮・禮記や正史の禮関係などに「升自?階」「降自西階」といった句が見られます。 「東の階段からのぼる」「西の階段からおりる」という意味です。 ?階や西階は起点ではありません。階段のうえに立っていて、そこを起点にどこかに行くのではなく、 外にいて、?階(東の階段)を通って堂にのぼる、堂内にいて西の階段を通って外におりるという文です。 つまり、「自○○」とうい句は起点だけを指すのではなく、階段などの場合「○○を通って」という意味になります。 ケ艾伝の原文は「艾自陰平道行無人之地七百餘里」です。 道は線であって点ではないので起点にはなりえません。 だから「陰平道を通って」という意味の「自」です。 これを都市である陰平であると主張するなら、少なくとも句法として 「自陰平、道、行無人之地七百餘里」となって「道」が浮いてしまい、 おかしな文になってしまいます。 僕は、陰平道は道であり、道は線であり点ではないという議論をしていたつもりなので、 「面が起点なのか???」というのは「何か妙なことを言うな、皮肉か冗談かな」と思って、 「陰平道」の「道」を同解釈しているのですかと質問したのです。 陰平道の場所を問うたのではなく、「陰平道は道でしょう。道は線なんだから起点にはなりませんよ」という確認です。 質問の意味が伝わらなかったようで、場所をお答えになっておられましたが。
>>7 「晋陽秋」という書物によると、
三国時代の呉について、呉の高官が語ったものとして
四州全体で52万戸、人口230万人と記している。
参考になるかも。
10 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 17:11:20.04
>>7 一夫多妻制で、事実上 一戸=1人、という説がでてたな。 実際吉野ケ里では、大人(たいじん)の家の周りに 複数の妻の家や子供の家が並んでいる。 夫は時々妻の家を回り、子どもが独り立ちしたら、 別の家を建てるなら、だいたい一人一戸だろうな。 田舎の豪邸で離れを建てるような感覚だろうか
11 :
どくだみ :2011/06/19(日) 17:21:50.17
文字化けしてました。「升自ソ階」 「自陰平道」という句が「陰平(都市)を起点として」ではなく「陰平道を通って」であると理解し、 かつ列挙されている地名の相互関係が長里であることが解れば、 この七百餘里は短里の例ではないというのは、普通なら議論の余地は無いと思いますよ。 ちなみに陰平道の場所は陰平古道でググると紹介サイトがいくつがヒットしました。 全長265kmだそうです。一里434mで計算して六百十里です。 起点は都市の陰平、終点は江油です。 三国志では行軍は七百餘里とあり、百里以上長いです。 百里以上+陰平古道の行軍であり、 これは、「自陰平道」が「陰平(都市)を起点にして」ではなく 「陰平道を通って」だということと符合します。 直線距離と道のりの比率について、 いろは坂なみに3倍に設定したら、あまりに自説に御都合主義すぎるだろうと思って、 2倍から2.5倍と設定したのですが、実際は3倍強だったので驚きました。 御都合主義の設定はもちろん間違いの元だけど、遠慮しすぎても間違うので、 難しいところですね。 それでは、目の状態が回復するまでしばらくお休みします。
12 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 17:44:02.87
13 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/19(日) 17:53:03.22
|| !| │ || !| │ ,.-─‐-.、 =||=!| │ /:::::::::::::::::::::ヽ || !| │ |:::: ::::::::::::::::::::::l こんなクソスレ見たことない・・と || !| │ |::: ::::::::::::::::::::::::! =||=!| │ |:::::::::::::::::::::::::::::l ─.─.┤ | !:::::::::::::::::::::::::li:|ニニニニニ.、 | .! カタカタ !:::::::::::::::::::::::::l|::| ̄ ̄.!| |.! | .! 、r, /|::::::::::::::::::::::::ll.,7:! .!| |.! ||`ー|. ̄ 丁 ̄|\ ´ミ《 |:| !:::::::::::::::::::::::l|.l|:.:.!_」.! !.! __||二二二]|__ || | .!| !::!|:::::::::::::::::::::├.|:.:.::l─´. !.! || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.!l `ヽ !、 |l/:.:.:|:l|::::::::|!:::::::ll|::l|:.:.:.:|=コ|.| || l三三l || ,_」____!l_:.:.:|:|.!:::::::|l!::::::|l:.:||:.:.:.::l'丑丑|ニl___,'ニヽ___ ||.==========!l '‐┬┬‐─ヽ|ll_|__:_!|::!:.::l‐!:.:.:.::l.─────┬┌′ || l三三l || | /丁´/:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`ヽ!:.:.:.:.:! ̄ ̄ ̄ ̄丁ヽ、| ||==========:!| | !.| | / ::/ .:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ:.::_│ ! | | || l三三l !l .| !.! ||、:::.!:.:.:.: :.:.:.:.:.: :.:.:.:.:.:、:`<ヽ, .! ! ! ||----------|.! ___,| !.|_メ´丶、:: ::::::::::::, -‐─、:ヽ:::::`\ ヽ .| l _  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ー'" 、┴-、:_:_;:-l_____, -ー‐‐‐‐' ´ `ー'
15 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 18:45:55.13
もともと、九州説を笑うつもりで立てられたスレだが、 だんだんスレが煙たくなってきたか。 感慨深いものがあるな。
16 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 18:57:46.14
九州説といっても、北九州説は、倭人伝の日程は郡からだとか、戸数は誇大だとか トンデモを言わなければ北九州に収めることができない。 倭人伝のとおりの日程、戸数で行き着くところは南九州だよ。 南九州ならば、東渡海千里(これは女王国の東が海に面していることを示している) とか南女王を去る四千里(これも南が海に面していることを示している)とかいう 記事も理解できるが、北九州では理解不可能。
>>16 南九州だと隼人はどうなっちゃうの?
又、南九州まで押さえられたら、その南に住む人達は抵抗出来るの?
かなり土地は痩せてそうだけど
北九州じゃないと鉄の分布とか 畿内説を論難しにくくくなってくる。
19 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 19:17:57.53
225 :日本@名無史さん:2011/06/19(日) 16:55:42.95 ヤマタイの「マタイ」って「もたい(水や酒を入れる器)」のことだという説ある? なければ俺が最初だ。それじゃ「ヤ」ってなんだと言われると困るが。 土器製造所遺跡の近くに「馬渡」という地名が目立つ。 九州北部の苗字に「馬渡(もーたい)」もある。
21 :
筑紫の民 :2011/06/19(日) 21:57:49.36
スレ立てありがとうございます。
22 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:19:20.63
「土器 馬渡」で検索してみると分かるとおり 古代、土器や土器製作所のことを「もたい」と呼び、 それに「馬渡」の字を当てたのだ。
23 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:23:56.41
>>17 隼人というのは、特別の人種じゃないよ。南九州の人々を隼人と呼んでるだけだ。
隼人も倭国の人々なんだよ。
24 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:29:52.01
ゴミクズレベル九州説のみなさんこんにちわ こちらに「才器場」君はいますか?wwwwwwwww (本家サイキバ君は単なるアンチ畿内説なので、こちらにはいないと思いますが)
25 :
才器場 :2011/06/19(日) 22:33:53.10
>>24 おい、ジョーカー
こっちに来るな
「どんこい」に帰れ
27 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:35:55.94
邪馬台が「ヤ・モタイ」だったとすると(「ヤ」が何か分からないけど) 「馬渡」の地名を持つ土地や土器製作所遺跡、出土土器成分からの製作地を 調べるとそこが邪馬台かもしれない。
28 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:41:18.42
>>25 才器場
まあ、当然いるわなw
できればこっちで使っているハンドル教えてもらえないかな?wwwwwww
俺と遊びたいんだろう?wwwwwwwwww
29 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:49:03.07
またパズルと妄想小説大会するの? 本当に飽きないね。
30 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 22:50:29.19
>>30 大隅半島プラス薩摩半島でもいいけど
それ以北の九州全土を敵に回して戦えるのっていうか、相談する程の敵になりえるの?
大隅ってかなり稲作に適していなかったと思うけど
32 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 23:08:26.67
>>20 順番から行けば、「それでも邪馬台国は九州にあった」その5
から使ったほうがいいだろうな。
33 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 23:11:41.95
>>31 当時、倭の地にあった30国は皆どうゆう形かはともかく魏と通交していた国だろ。
卑弥呼の率いる倭国がその通交国の一つである狗奴国を魏に断りなく討伐したら魏
から文句を言われかねないんだよ。攻める口実にだってされかねない。
だから、一応、こうゆう状態です、と報告して、その指示を仰いだ形をつくっておく
んだな。それだけのことだ。
>>33 していたという根拠は?
また、今の鹿児島県辺りだけの繁栄では、貢ぎ物は足りない気がするけど
ましてや大隅だけでは尚更
35 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 23:39:38.71
>>34 倭人伝を読んでないの? 使訳通じる30国って書いてあるだろ。
貢ぎ物なんてものは、いくらでもあるさ。奴隷だって貢ぎ物になる時代だ。
36 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 23:56:34.51
>>18 鉄は少なくていいんだよ。骨鏃を使ってるって書いてあっただろ。
北九州は鉄か銅の鏃だろ。
畿内説を攻撃するのに困るなんてケチなことを言ってはいけないな。
倭の中心が淡路とか言ってた奴に聞きたい 記紀の国生み神話の初めが淡路だから、日本の中心つまり邪馬台国は淡路に有りという主張だったと思うが なぜこの順番が倭の権力の移り変わりを意味しているのか? なぜ邪馬台国が倭の初めだと勝手に決めつけているのか?それ以前はなぜ無視するのか? 邪馬台国以前にあった倭奴國は漢から金印を貰うほどの大国だが、なぜこれが九州にあるのか? 順番通りなら淡路→九州→近畿になるはずだが 淡路以前にできた失敗作は何を意味するのか?
38 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 17:22:44.77
景行天皇の時代は福岡県北東部、大分県、宮崎が 熊襲エリアとして認識されていたようだが、 時代による変遷はあるのかな。 とりあえず、宮崎で熊襲の中枢はつぶしたような印象はあるが。 そして、そのあとの、残党狩りは必要だったのか それとも割とすんなりと支配下にはいったのか。 このとき、一部の残党が瀬戸内方向に逃げだしたとしたら、 神武をイメージしてしまうな。
39 :
サガミハラハラ :2011/06/20(月) 18:26:38.28
西暦300年代初頭、宮崎県の勢力は垂仁天皇治下の大和の勢力圏に入りました。 入った時の条件として、前方後円墳をつくることになりました。 大和と約をむすんだ王が葬られたのが現在の男狭穂塚です。 時は移り、景行天皇の代になって、天皇は宮崎の勢力を討伐することにし、成功しました。そして、御刀媛を召して妃とし、 豊国別皇子をもうけました。この皇子は日向国造となり、その墓が女狭穂塚です。女狭穂塚を作るときに、男狭穂塚の前方部をくずして土砂を採取してつくりました。 豊国別は新しい支配者だから、旧来の王の墓を破壊し、おのれの権力をみせつけたのです。
40 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 20:04:27.18
<Wikiジョーカー>
サイキバには過去よほど痛い目にあわされたらしく、スレがたつと必ず恨みのカキコを入れている。
また、相手がいなくなったあと負け犬の遠吠えレスを入れるのも特徴的。
最近はサイキバを避けて他のスレで負け犬の遠吠えレスを入れる事例が目立つ。
(
>>24 参照。←この時間ならサイキバはドンコイスレにいたのだが、
ジョーカーはここへ逃げてきて負け犬の遠吠えレスを入れている。)
この項目は書きかけです。
>サイキバには過去よほど痛い目にあわされたらしく、スレがたつと必ず恨みのカキコを入れている。 この板にはサイキバ君を恨むような奴はいない。 何時も楽しませてもらっているわけだから 感謝する(又は憐れむ)ことはあっても恨むなんてバチ当りはいないw 痛い目には何度が遇わされている。 一度捩れた腹の皮を戻すには、3泊4日の温泉旅行が必要なこともあるぞw
42 :
水銀厨 :2011/06/21(火) 01:44:28.33
>>37 私は淡路島、瀬戸内海東部周辺が邪馬台国説だが。
淡島=畿内と認識したらいいだけですよ。
国生みはどうみても現河内辺りからの視点だと思いますから。
奴国は大陸に近いので当然有力な大国となるでしょ。
>>42 イザナギ、イザナミって淡路島辺りが発祥なの?
イザナミは出雲がって書き込みが別スレであったけど
イザナミについては墓所は出雲か紀伊みたいだし
両神とも違うとなると、淡路島にあえてした何らかの意図を汲んで
始めを淡路島にした可能性もあるのでは?
やはりキーは出雲
44 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 08:30:48.03
福岡にはイザナギを祭った太祖神社と太祖山 福岡平野を挟んで、イザナミを祭った飯盛神社と飯盛山、高祖山連峰があるよ
45 :
水銀厨 :2011/06/21(火) 08:33:17.25
>>43 まず出雲という場所、どの辺までなのか自体はっきりしないからね。
元々丹波の出雲大神宮が一之宮だし。
古事記にあるように、大きな宮を建ててくれれば国を譲るといって
隠れた場所が現出雲大社の場所だろう。
畿内説の生ゴミジョーカーと九州説の生ゴミ遺作だけは来ませんように。 ジョーカーと遺作は生ゴミレベルの両横綱です。
47 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 13:49:45.07
48 :
sss :2011/06/21(火) 13:50:05.52
>>43 イザナギ・イザナミは日本の国土ができる前に誕生していて、天の浮橋の上から天沼矛でかき回し、
最初に出来たのが所在地不明の淤能碁呂島(おのころじま)。この島で国産み・神産みが行われる。
火の神様を産んだイザナミはやけどが元で死んでしまう。これは不可解で、普通、神様は死なないのだが…。
とにかく、イザナミは、出雲国と伯伎国の境の比婆の山に葬られる。
で、イザナギはイザナミに会うために黄泉の国(死者の国)に行くことになる。これもちょっと不可解。
黄泉の国で散々な目にあったイザナギは、筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原に到着して禊払いをする。
このとき、左目を洗ったときに生まれたのが天照大神、右目を洗ったときに生まれたのが月読尊。
鼻を洗ったときに生まれたのが須佐之男命。
日向、橘、阿波岐原なんとなく宮崎に関係ある地名。日本書紀もだいたい同じ地名になっている。
天照大神は日向で生まれたということかな?
49 :
サガミハラハラ :2011/06/21(火) 19:06:24.57
漢慶があるようにみえるのは、記紀をみて南部九州のあちこち、主に宮崎県に地名をつけたからですよ。
50 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 19:45:54.03
677 :生ゴミ遺作:2011/06/21(火)
>>675 >そうですわたしがジョーカーです
わたしの脳味噌は生ゴミレベルwww
(【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その16 より)
47 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 13:49:45.07
>>46 サイキバくん朝から元気だね
<Wikiジョーカー>
40代、無職、童貞、引きこもり、親の年金で生活しているらしい。
邪馬台国関連スレにいつも張り付いており、スレの自縛霊とかスレの癌と呼ばれる。
>>47 の如きレスを13:49:45.07に入れるも、自らは無職、引きこもりの強さを生かし、
他スレで 09:39:53.11に入れている。まさにスレの自縛霊である。
(この項目は書きかけです。)
51 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 19:56:24.10
もうひとつのほうが進んでるみたいだけど、 こっちはどうしようかね? いちおう維持して上げときます。
52 :
忍法帖【Lv=18,xxxPT】 :2011/06/22(水) 20:49:51.33
修行でござる。
53 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:05:18.84
何やら謝罪の言葉を要求しているアホの ポチ才器場=筑紫の民 へ うるさいぞポチの分際でw 朝から晩まで2ちゃんで与太飛ばしているような伊作まで可哀相な被災者として気遣ってやれと? 馬鹿馬鹿しい。
54 :
忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/06/22(水) 22:24:08.85
いまどのくらいあるのかな
血ん血ん千鳥が三羽死羽
筑紫の民テーマ・ソング 裏の畑でポチが鳴く 九州説が掘ったれば金印・銀印ザックザックザックザク♪
57 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 07:59:38.95
素直読みじゃだめだと言われ続けてたけど いま九州説で書かれてる説って、ある意味 究極の素直読みだなあ。
58 :
サガミハラハラ :2011/06/23(木) 08:55:42.89
確かに、不彌国までは素直黄泉でいいのです。日数表記の部分からひねって考える必要があります。 何故、里数表記が日数表記にかわったのかとね。
59 :
fsr :2011/06/23(木) 11:50:17.77
>>58 >不彌国までは素直黄泉でいいのです。
黄泉じゃまずかろう。読みのことならいいのですがね。
>日数表記の部分からひねって考える必要があります。
何故、里数表記が日数表記にかわったのかとね。
日数表記の解釈が間違っているだけ。
倭人伝の他の部分を読めば判るように書いてあるではないか。
サガミハラハラさんは冗談で小城と言っているのかと思っていたら本気だったのか?
どうして小城になるのか教えてくれないか?
60 :
サガミハラハラ :2011/06/23(木) 19:13:19.56
1 水行十日陸行一月は群から邪馬台国の都までの総日数です。 2 よって、陸行一月の大部分は半島内陸行です。 3 総里数と部分里数の差は、行程の記述を省略した結果です。 半島側の出航地は金浦ではなく固城です。固城を出航し鴻島の島陰で一泊そます。ここまで固城からおおとりしままで千里です。 鴻島から小茂田浜まで千里です。小茂田浜から豆酸崎まで265里です。ここが省略されています。 ツツザキから壱岐の勝本まで千里です。勝本から赤瀬鼻まで140里(ここも省略です)。赤瀬鼻から唐津市八幡町まで千里。 次からが大事です。 B 唐津から東南に陸行ですから、松浦川にそって東南方向へ500里進みます。 いままでは東南というのに東に進み、前原に到着していましたが、これは間違いです。 前原あたりが怡土郡 (イトグン)であったことから、誤解したのです。 唐津から500里で多久市中小路庄集落に到着です。ここが伊都国の都です。 庄から南西に百里で肥前山口の土元に到着ですが、東南にいくという動詞がないことから、 行路上ではありません。よって、庄から東に百里進み小城市不二町に到着します。 そこが不彌国です。邪馬台国へは南に進みます。 C 不彌国と邪馬台国の都は接しているような状態なので 距離の記載はありません。実際は15里あります。 これで万2千里(余ははぶきました)となります。 そしてそこに桜ケ岡(サクラオカ)という歩百余歩の卵型の丘がありました。 となると、これが卑弥呼の墓に違いありません。 その南に甘木という地名があります。おおきな弥生遺跡があり、農道には砂利のかわりに、弥生土器を砕いて 砂利代りにしていました。 邪馬台国にかんしては、東アジアの誇大文化を考える会のHPの討論室や書棚にいっぱいかきこみましたのでそちらもごらんください。
61 :
サガミハラハラ :2011/06/23(木) 19:15:24.66
訂正 Bは4で、Cは5の間違いです。誇大は古代の間違いでした。
62 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 20:37:12.21
サガミの師匠へ 唐津からの陸行は現代の地名との一致を考えると 九州の海岸線を歩いていったと考えられませんか?
63 :
サガミハラハラ :2011/06/23(木) 21:09:23.19
現代の地名との一致といいますが、伊都国はイタと発音していたようですので怡土とは厳密にあいません。 もっともいたがなまって伊都となったとすれば別ですが、 奴国はナノツにあてているようですが、そもそも奴をナと発音した時代はありません。奴をナと発音するようになったのは、戦後の邪馬台国研究の「なかで、奴をナと読みナノツにあてると都合がよいことから、捏造されたものです。 最後の不彌国は宇美に比定しているようですが、そこから南に水行はできません。もっともいったん北にいってから南に方向展開するという説明をしているようですが。 似た地名はさがすと結構あるものです。邪馬台国研究が、対馬、壱岐マツロととんとん拍子に語呂合わせで進んできたことから、その崎も古代の地名がのこっているものとして信じてきたことが、おおきな障害となっているわけです。 つまり、あうところもありゅが、そこをあてはめるには、音がにているだけというのでは成立しないわけです。
64 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/23(木) 23:11:41.60
>>60 1 水行十日陸行一月は帯方郡から邪馬台国の都までの総距離。
2 韓地循海岸水行七千里、即ち水行七日です。(千里の換算値は水行一日)
3 韓地狗邪韓國から倭地末盧國まで渡海三千里、即ち水行三日です。
4 帯方郡から末盧國までの合計一万里の水行は、水行十日となります。
5 上陸地末盧國から玉島川と嘉瀬川沿いに南東に五百里で伊都國です。
伊都國から東に百里で不彌國、不彌國から南へ邪馬壹國まで四百里。
(この邪馬壹國の地域は狗奴國との紛争地である山門付近です。)
陸行の合計千里は陸行一月となります。(千里の換算値は陸行一月)
5 水行二十日は帯方郡から投馬國の矢部川河口部海岸(山門付近)までの距離です。
末盧國から水行十日の距離となる。
「水行十日陸行一月」と「水行二十日」は、帯方郡から女王國の狗奴國との戦場までの距離で、
魏が女王國に軍を派遣する場合の距離を示しているのです。
即ち、女王國を構成する邪馬壹國と投馬國は山門で狗奴國と対峙していたのです。
女王國と狗奴國の戦線は、八女の矢部川と星野川の合流地点付近(山門と同じ様な山麓)との見方もあります。
65 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 23:19:27.58
景行天皇が詠んだという碩田、これは掛詞なんですよね。 元々の地名があって、それと碩田(多くの田んぼがある)お掛けたオヤジギャグの世界。 元々の地名が伊都、大いなる伊都、と、多くの田んぼ、を掛けて碩田と詠んだとすれば納得いくんですけど。
66 :
fsr :2011/06/23(木) 23:25:35.19
サガミハラハラさん >1 水行十日陸行一月は群から邪馬台国の都までの総日数です。 >2 よって、陸行一月の大部分は半島内陸行です。 1も2も中国人でそのように読む人は一人もいないと思います。 陳寿が 中国人が一人も解釈しない書き方をするはずもありません。 つまり そのような読み方は成立しないのです。 成立しない読み方で得た結論が一般に認められる日は永久に来ないでしょう。 私はやはり サガミハラハラさんは悪い冗談で主張しているのだと思うことにします。
67 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 08:04:22.60
>1も2も中国人でそのように読む人は一人もいないと思います。 >成立しない読み方で得た結論が一般に認められる日は永久に来ないでしょう。 そのとおりですね。 サガミハラハラは、伊都国を見直すということには気づいたのだから、そこから 先をトンデモに走らず、まともに読んでいけばいいのにね。
68 :
サガミハラハラ :2011/06/24(金) 10:13:06.04
ここであげられている中国人とは現代中国人のことですか? わたしはたいして漢字漢文の研究はしていないのですが、漢字の音は時代により変化しているようです。また意味も同様に変化しているようです。 となると、文法も変化しているのではと考えます。 中国の現代語読みと平安時代いらいの漢文の読みでは平安時代のほうが、より原文の意味に近いとかんがえます。 この現代中国語読みにあわないということについては、日本式の道行文であるとの説もあります。 そうなると、書いたのは日本人だとなりますか。
69 :
fsr :2011/06/24(金) 12:38:48.18
>>68 >ここであげられている中国人とは現代中国人のことですか?
現代と古代の中国人両方のことです。
>漢字の音は時代により変化しているようです。また意味も同様に変化しているようです。
発音とか意味以前の基本的な問題でしょう。
どんな勝手読みでも許されるのなら【都は久留米】さんの
「韓地循海岸水行七千里、即ち水行七日です。」も認めなければならないでしょう。」
そうすれば
サガミハラハラの韓地陸行は根拠がないことになります。
私にすれば
韓地水行七日も韓地陸行も冗談としか思えません。
>この現代中国語読みにあわないということについては
>文法も変化しているのではと考えます。
日本の古文の研究があるように
古代中国の文書の意味も文法も研究されています。
例えば
「庄から南西に百里で肥前山口の土元に到着ですが、東南にいくという動詞がないことから、」と言われますが古代から至も到も到着すると言う動詞の意味で使用されていることも判っています。
陸行水行を郡からとするような文法とか解釈の仕方は古代現代にかかわらず無いはずです。
70 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 15:39:52.28
「夏は来ぬ」 今:夏は来ない。 昔:夏は来た。
71 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 16:08:41.09
>>70 「夏は来ぬ」とはどちらの意味でも現代語じゃない。
むかし「なつはこぬ」か「なつはきぬ」で発音がちがってた。
打ち消しの「ぬ」は未然形接続だから、「来」の未然形「こ」+「ぬ」。
完了の「ぬ」は連用形接続だから、「来」の連用形「き」+「ぬ」。
昔と今ということじゃないと思うが 夏はこ(来)ぬー夏はこない 夏はき(来)ぬー夏はきた
73 :
72 :2011/06/24(金) 16:20:33.01
あら同じ事がもう書かれていた、スマソ。どっちも文語表現だね。
>69 では 水行陸行はどう解釈しますか?
75 :
fsr :2011/06/26(日) 18:59:24.87
>>74 〓〓〓〓〓
陳寿の筆法
筆法の一例として、「文を錯(たが)うるを以って義を見(あら)わす」と言われるものがあります。
これは、「文をわざと矛盾させることにより、そこに意味を持たせてある」ということであり、その「矛盾」は決して「間違いではない」ということです。
〓〓〓〓〓
水行陸行は到着するのに必要な所要日数ではありません。
所要日数ではないのだから、所要日数と解釈すれば必ず矛盾が生じます。
陸行水行は魏の勅使がわざわざ倭へ来た目的を果たすための日数です。
陳寿は
『千三百里に水行二十日水行十日陸行一月』を記すことにより三十日、一月の意味を考えなさいと言っているのです。
位置は其餘旁國遠絶不可得詳によって判ります。
つまり勅使は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壹國以外の国は
遠絶不可得詳と言っているのです。
つまり
他の国へは一国たりとも行っていないのです。
つまり
不弥国の南で最初にある国が投馬国で
投馬国の南で最初にある国が邪馬壹國で、
ほぼ隣接している状態です。
講釈師、見てきたような○○を言い
77 :
3 :2011/06/26(日) 21:42:15.31
文は矛盾していないよ。水行陸行は邪馬台国までの所要日数だ。 一方、万二千里は、女王国までの距離だ。邪馬台国までの距離ではない。 邪馬台国と女王国がどうちがうのか、それを考えることが必要だ。
女王國は卑彌呼を共立した国々の総称である。 卑彌呼を共立した国々のひとつである邪馬壹國に、 卑彌呼は都しているのである。
79 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 23:02:22.27
>>78 「女王國」は倭人伝に五回登場する。
一、伊都国には代々王がいて、皆「女王國」に統属する。
二、「女王國」より北を以って、その戸数・道里は略載可能。その余の旁國は遠絶していて詳細はわからない。
三、郡より「女王國」に至るに万二千余里。
四、「女王國」より北を以って特に一大率を置き、諸国を検察する。
五、「女王國」の東に海を渡ること千余里でまた国がある。皆倭種。
女王國は、邪馬台国の方がいいような気がする。
気がすると言うより女王國=邪馬台国以外の考え方はあるまい。
女王國の比定 女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國(伊都國東南の) 上記に定義することにによって、倭人伝全体の文意全てと整合する。
82 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 23:54:08.76
女王國=邪馬台国だと具合が悪いところがあるよ。 79氏があげたほかに、「女王」が2度でてくる。 奴国あり、これ女王の境界の尽きる所なり。 侏儒国あり、其の南にあり。〜女王を去る四千余里。 いずれも「女王」とあるが、それは女王国のことであろう。女王国と別の意味で「女王」 と書いているとは思えない。 となると、上の記事は、女王国の境界の中に旁国があるということになる。すなわち、女 王国とは旁国を含んだ概念なのだ。 女王の境界とは女王の勢力圏を意味するだけで、女王国の境界ではないと主張する者がいる。 しかし、勢力圏を表すのに「境界」という言葉を使った例を私は知らない。勢力圏に入って いる国を示すだけならば、伊都国について「女王国に統属す」と書いているのだから、それと 同じように、「旁国は女王国に統属す」と書けばよかったはずだ。 下の記事は、女王国の南、四千余里に侏儒国があるということだ。侏儒国とはこびとの国。 倭地の中の話ではないから、これも海を渡ること四千余里ということであろう。 ということは、女王国の南は海に面しているということだ。女王国=邪馬台国と読んだのでは 旁国の存在場所がなくなってしまう。
>>81 女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國(伊都國東南の)
上記に定義することにによって、倭人伝全体の文意全てと整合する。
>>76 女王國は卑彌呼を共立した国々の総称である。
と整合してないし
末盧国、伊都国などを女王国に入れない理由も判らんし。
84 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 23:58:58.39
>末盧国、伊都国などを女王国に入れない理由も判らんし。 女王国は万二千余里からだよ。
85 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 00:04:43.37
>>82 女王(卑弥呼)は倭王なので、女王の境界の尽きるところというのは、29カ国連合の内か外かという問題になる。
まあ、女王国を邪馬台国と捉えるか、あるいは倭国と捉えるかは、共に女王・卑弥呼が絡んでいるので微妙なところ。
一応、邪馬台国が基本にはなるが、陳寿自信もそれほど厳密には区別していなかったのだろう。
倭国と捉えた方が意味が通じるところもある。
>>82 >奴国あり、これ女王の境界の尽きる所なり。
女王の支配地域の尽きるところ
>〜女王を去る四千余里。
女王のいる場所から四千余里離れている。
>「旁国は女王国に統属す」と書けばよかったはずだ。 はずだって、
んな当たり前のこと書かないでしょ。
>女王国の南は海に面しているということだ
誤読を根拠にされてもね。
女王国の南は狗奴国だし。
87 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 00:47:49.81
>女王国の南は狗奴国だし。 やっぱり旁国の所在場所がなくなってるな。
魏志倭人傳 地図 〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │郡⇔不彌國(女王國):12000餘里 〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │郡⇔投馬國:水行20日(有明海・天草灘・角力灘・対馬海峡経由) 〜〜〜〜〜一大國┃◎↓壱岐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ │郡⇔邪馬壹國:水行10日と陸行1月(韓地海峡水行倭地陸行) 〜〜〜〜 [一支國]┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜┏━┛∵┗┿┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │ [城郭位置] 〜〜〜〜角┃∵末盧國◎→○→┐∵∵∵∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │末盧國:唐津鏡中原遺跡 〜〜〜〜力┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:惣座遺跡(肥前國庁址付近) 〜〜〜〜灘〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國を構成する国 〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里遺跡 〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃│●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川中心部 〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃●投馬國∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米南部 〜〜〜〜〜〜狗┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國 :佐賀市中心部 〜〜〜〜〜〜奴┃∵┃┗┓∵┗┓有〜┃∵∵┌─────── │ 〜〜〜〜〜〜國┗┓┃〜┃∵∵┃明〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜連〜┃┗┓┃┏━┛海〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:方保田東原遺跡 狗奴國連合(15〜25ヶ国)の中核国 〜〜〜〜〜〜合┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │ 〜〜〜〜〜〜┏┛┏━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │倭地:狗奴國連合以北の九州島 〜〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃島〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │ (周旋可5000餘里[350km余]) 〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛原〜┃∵狗奴國連合∵∵∵ │ 〜〜〜〜┗━┛天草灘┗━━━┛〜湾┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
伊万里が壱万里、つまり郡から一万里ということで末盧國。 そこから東南行五百里+東行百里で有明海。 南水行二十日で熊本、宇土。 南水行十日で水俣付近で上陸して陸行一月、伊佐、垂水、えびの経由で西都へ。 伊都は亥都、北西の都。 宇土は宇都、中央の都。 西都は西の都。 三つの都にそれぞれ女王がいて、女三國。
90 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 20:03:52.99
>>79 一、伊都国には魏代に王がいて、皆は「女王國」に統属する。(世有王であり、世世有王ではない。皆とは倭の国々)
二、「女王國」より以北、その戸数・道里は略載可能。その余の旁國は遠絶していて詳細はわからない。
三、郡より「女王國」に至るに万二千余里。
四、「女王國」より以北には特に一大率を置き、諸国を検察する。
五、「女王國」の東に海を渡ること千余里でまた国がある。皆倭種。
一、即ち女王國は、邪馬壹国であり、伊都国が女王國の都である。
女王國は倭の国々を統属し、伊都国に王がいたのである。
二、その余の旁國も女王國の中の国邑である。
「女王國」より以北とは伊都国より以北のこと。
三、郡より「女王國」に至るに万二千余里も帯方郡郡治から伊都国(奴国)まで。
四、一大率は大陸と首都である伊都国の間の壱岐、対馬、松浦を検察する機関。
五、「女王國」の倭種の国は山口県あたり。
91 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:13:14.34
「狗古智卑狗」って菊池彦だと思いませんか?
92 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 01:29:17.84
>>90 >「女王國」より以北とは伊都国より以北のこと。
計算が合わないな。女王国以北とは万二千里よりも北ということ。
不弥国までが以北の国々だよ。
>一大率は大陸と首都である伊都国の間の壱岐、対馬、松浦を検察する機関。
一大率は、滅多に行かない大陸との関係で置かれたものではない。
以北の国々が全て一大率を畏れたように、以北の国々が反抗しないように監督
するために置かれたものだ。
94 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 00:49:14.34
96 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/29(水) 02:02:39.10
菊池彦とは菊池地方の土豪の長の意味。 その土豪の長が狗奴國の官だったのであろう。
97 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 03:56:03.20
地名からいくんだったら、火の国の火の御子(卑弥呼)の方がいいんじゃなかろうか。 みなみに、菊池一族が菊池にやってきたのは確か11世紀。 その前は、鞠智(ククチ)と呼んでいて、これから菊池の名前を取ったのかもしれない。 ただ、地名と官名が一致するのかどうかも問題。 伊都国の官は爾支(ニキ)。奴国の官は?馬觚(ジマコ?)。投馬国は弥弥。あまり地名とは関係ないと思われる。 地名が一致するのは、どちらかというと国名のような気がする。
98 :
訂正 :2011/06/29(水) 06:42:45.05
>>92 郡治 〜 狗邪韓国 〜 対馬国 〜 一支国 〜 末盧国〜伊都国 〜 奴国
七千里 + 千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里 + 五百里 + 百里萬 = 萬二千餘里
郡治から奴国までで萬二千餘里となり奴国が女王国の中心地である、
奴国の北が女王国の北。「女王國」より以北とは伊都国以北のこと。
一大率は大陸との交易路を押さえるのが目的、国々が反抗しないように監督
するのは当然。
>地名が一致するのは、どちらかというと国名のような気がする。 鞠智城(キクチ・ククチ)は7世紀に作られたもので 鞠智一族とか鞠智城など城の名前にはあるが鞠智国と言うのは記録にない。 菊池氏の居城、菊池城は別の場所。
>>98 (四百里×2)とか (三百里×2)とか馬鹿な読み方をするのは止めてください。
そんなんじゃ
一般に受け入れられることも絶対にないし
当然、畿内説にも馬鹿にされるだけで太刀打ちできない。
101 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:07:19.45
>>100 同感
特に明確な理由があれば別だが、距離合わせのための
理屈を無理に付けないようにしたほうが良いと思う。
明確な前提条件を設定し、許容される誤差の範囲で
比定地を見つけ出すべきである。
そうすると、自分が考えた場所ではないところに行き着くこともある。
そして、それが真実かもしれない。
もちろん間違っているかもしれないがひとつの参考にはなるだろう。
自分の意図ではなくデータを主として考えることも必要ではないだろうか
102 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:41:05.89
>>100 使者は船で倭に訪れ、対馬海峡を船で越えてきた。
行程に壱岐対馬の半周を加えるのは当然である。
今でも博多から釜山まで船が出ているが
壱岐や対馬の横を通り過ぎるには結構時間がかかる、
これを無視すことはできない。
距離合わせのために理屈を付たのではない。
郡治から狗邪韓国までの7,000里が水行二十日で
狗邪韓国から末盧国までの4,400里が水行十日である。
>>97 >火の国の火の御子(卑弥呼)の方がいいんじゃなかろうか。
同意。肥国とか日向(ヒムカ)な、後継の読みがトヨなら豊国だし、イヨなら日向の対岸にあるしな
卑弥呼もろとも名前に対応したクニの名がある
104 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:03:41.57
日向は筑紫の日向。 つまり福岡県の日向峠付近でしょうね。
106 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:26:14.92
日向峠は伊都国と奴国を結ぶ重要な峠ですね。
地域名に、国名と同じ名称は付けづらい。混同するから。 ただし、その国から遠く離れる程そんな躊躇はなくなる。 例えば、日照時間の多い南九州なら、地域名に「日向」と付けたいところだが殆どない。 「日向」という小さな地名は、南九州から離れるほど多くなる。
108 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:42:17.25
熊本市があって熊本県の名ができるように 普通小さな地名が先で大きな地名が後。 宮崎の日向は宮崎の何処が起こりだろうか?
109 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:50:43.15
天孫が降り立った日向には高千穂がないといけない。
110 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:54:35.20
日向峠の横の山が高祖山(高千穂)です。
>>107 確かにそのものズバリは付けづらいが、日向「峠」とかなら、
全国にいっぱいある。武蔵なんかやたらあるぞ
武蔵境、武蔵小金井、武蔵○○・・・
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」。日向の下に3つの地名がある。
ということは、「日向」は、かなり広い地域を指すことになる。
日向という広い地域が福岡に存在して、その中の峠の1つが「日向峠」、
そして国名は完全に消えて、峠の名前だけが残ったという事だと思うけど、
やはり、「ひなた」峠な訳だし、名付けづらいのに変わりはない。
というより、
>>107 は「南九州=日向」というのは昔から周知の事実だったという主張。
つまり、福岡と宮崎とどちらが「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の「日向」
としてふさわしいか、という話。
「日に向かう」という地名は「富士を見る」みたいなもんで、 偶然に複数地につけられても不思議でない名前だよ
>>102 >使者は船で倭に訪れ、対馬海峡を船で越えてきた。
行程に壱岐対馬の半周を加えるのは当然である。
当然ではないし半周を距離に加算すると言う記述もない。
>今でも博多から釜山まで船が出ているが
壱岐や対馬の横を通り過ぎるには結構時間がかかる、
これを無視すことはできない。
半周を距離に加えるという理由には全然なってない。
>距離合わせのために理屈を付たのではない。
古田氏は熟考の上半周加算を思いつき、これで距離的に博多湾岸地域で合うと狂喜したそうですよ。
>郡治から狗邪韓国までの7,000里が水行二十日で
狗邪韓国から末盧国までの4,400里が水行十日である。
そんなことはどこにも書いてない。
郡から南ではなく東南と記載して無ければならない。
115 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:42:25.57
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原 最後の阿波岐原以外は、全部福岡市で収まってしまうではないか。 筑紫野市筑紫(福岡全体を指すかも)、早良区日向峠、東区立花山、西区小戸港
116 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:47:40.44
筑紫とは現福岡県、博多の住吉神社から西に約10kmに日向峠があり北東に約10kmに古賀市青柳(阿波岐)があり、立花(橘)山、その北が尾東(小戸)山麓と地名が対応している。
地名がバラバラに存在しては意味がない。
118 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:58:00.70
阿波岐原は泡立つ(つまり荒い)海のことじゃないの?
119 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:00:48.10
>>117 大昔の地名の名残ですから
そのまま残っている方が不自然でしょ。
>>119 同意。
宮崎市中央を流れる大淀川の河口が「小戸」。大淀は小戸が転訛したものとされる。
大淀川河口近くにあるのが阿波岐原。しかしこれは後付けくさい。
正式な住所としては消えた?けど、地域の名前として残っている「檍」がそれだと思う。
121 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:08:51.58
>そんなことはどこにも書いてない。 >郡から南ではなく東南と記載して無ければならない。 里数は国邑と郡治を基準に詳細に説明され 日数は国邑の連合体である投馬国や邪馬壹国と帯方郡などもっと大きい基準で説明されているから 郡から東南ではなく南。 >半周を距離に加えるという理由には全然なってない。 半周を距離に加える理由は船での航海の距離を記したからです。
小戸の阿波岐原は 神様の住んでる洞窟を拝む場所だよ 沖縄の御嶽(うたき)みたいな所か
>>118 筑紫の日向(東の方角)の橘の小戸(関門海峡の小門)の阿波岐原(波の荒い地)
だね。
橘の意味だけわからない。
124 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:19:44.81
阿波岐原って、 イザナギが、黄泉の国のイザナミから逃げ出して、 阿波岐原に降り立ったところで、体を洗って 黄泉の国の汚れを清め流した場所でしょ。 高祖山連邦の飯盛山、飯盛神社はイザナミが祀られている。 日向峠を超えた向こう側は、高祖山連邦の向こう側の、 高祖山、高祖神社があるところの伊都国 高祖神社の高祖姫尊、さざれ石神社の木花咲耶姫、 どうでもいいかもしれんが、両方共、建て直してくれたということで 息長垂姫(神功皇后)、と女性神が多い
125 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:28:32.52
なんでスレ同時進行させてんだ もう一つのスレ埋めてからにしろよ
126 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:30:54.98
今、ふと感じたんだが、 景行天皇の高良大社 仲哀天皇の香椎宮 神功皇后の宇美八幡 と代表的な神社と拠点があるわけだが、 太宰府を拠点とする人物がいないんじゃねえか? 場所的に周りにはいるんだから、あそこを拠点とする豪族がいないはずはないぞ。 消されたか、それともよく知っている人物なのか?
127 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:37:01.25
九州説。たまには、これはって思える説が無いのかね?
128 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:51:05.09
とどのつまり距離の独自解釈しかないからな その一点突破でここまで頑張るんだからある意味大したもんだ
129 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:56:47.28
糸島市の細石神社では「漢委奴國王」金印について 昔は細石神社に代々伝わる宝物であったが 江戸時代に市中に流失したものであるとの伝承があるそうだ。 志賀島から出土したとは嘘で本当は細石神社の宝物を誰かが 売りとばしたのではないかな。
130 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:57:46.33
畿内説では、どんなアクロバティックな解釈しても 行程距離の解釈は無理だからな。 はじめからさじを投げている。
131 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:04:57.46
さざれ石神社は、今でこそ寂しい小さな神社だが、 兵乱に合い、焼き討ちを受けたり、秀吉によって 社殿を没収される前は、かなり大きな社格だったそうな。 また、糸島は、博多湾の入り口に当たり、 海を渡れば割とすぐに志賀島である。 関係がある可能性もなくはないかもしれない。 根拠がないからなんとも言えないが、 地理からは比較的近い。
132 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:09:45.18
金印が出土した経緯が良くわからないんだよな 邪馬台国を構成していた奴国が大乱の際に崩壊し散り散りになる際 混乱でそのあたりに転がったのが出てきたようにしか思えない そんな状態だから大和が征服していくのは簡単だっただろう 軍を進めれば大きな戦いもなく侵攻できたのではないだろうか
133 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:14:16.31
距離の話とか普通に見たら一気に太平洋だわw 日本どこでも邪馬台国 それを100人が100人違う事を云うような俺解釈で 無理やり九州に入れ込んで根拠だと言い張る面の皮はむしろ凄いと思うわぁ そんな定説すらできてないものはソースに用いない 学問として当たり前の話 なのにその当たり前の部分ができてないのが九州説がトンデモとされるゆえん それもわからないとかちょっと哀れになるな
無理やりはめ込もうとしてるのは畿内説だろ 自分たちがやってることを良く見てみろよw
135 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:19:34.03
史書に書いてあることを読み上げるだけで沈黙する九州説 そしてまた距離の俺解釈を言い張る あーうんざり たまにはまともな話を教えてくれないか 別に九州説がどうのっていうか アホな脳内物語述べてる奴がバカにされてるって事なんだと気が付かないのか
136 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:20:14.94
印は使用されるもの 「漢委奴國王」金印は委奴國王の印として委奴國で代々受け継がれるべきもの。 最後の使用者は「親魏倭王」金印を授けるまでの卑弥呼であろう。 新たに「親魏倭王」金印を授けたので「漢委奴國王」金印は不要となる。 「漢委奴國王」金印の見つかった地こそ邪馬壹国の都である。
137 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:25:22.06
・・・冊封の印は代替わりやらで返還して新しいの貰うものなんだけど それがそのまま見つかるってことは 金印はむしろ奴国とそのあとの邪馬台国に連続性がないことの証明だろう
大体金印貰った先が違うだろ
139 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:35:28.14
中国の王朝が変わったら新しい方に行くだけ 先方の王朝がどうのじゃなくて 貰いに行く方に連続性があるなら新しい印綬に変わるだけだな 新しくなってないなら奴国と邪馬台国は無関係という事になるだけだな
140 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:53:07.11
>>137 >・・・冊封の印は代替わりやらで返還して新しいの貰うものなんだけど
中国王朝でも変わらないと新しい印は貰えないよ。
代替わりやらで簡単にはくれないよ。
141 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:56:03.82
>>140 「漢委奴國王」金印も「親魏倭王」金印も個人の印じゃなくて
皇帝の臣たる王印だから当然ですね。
142 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:11:35.20
壹與が晋の泰始二年(266年)に朝貢したのも 魏から晋への王朝交代で「親魏倭王」金印が無効になり 晋から新たな金印を貰うのが目的だったのだろう。
143 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:27:07.77
まぁつまり奴国=邪馬台国だから九州だなんて説が成り立たないのがわかるだけの話
144 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:38:17.92
>>143 委奴國王が倭王になった。
委奴國は博多湾近くに王都があったと推定されるから
邪馬壹國も博多湾近くに王都があったことになりますね。
145 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:42:16.73
146 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:02:51.25
史書に書いてあることを読み上げるだけで沈黙する畿内説 そしてまた距離の俺解釈を言い張る あーうんざり たまにはまともな話を教えてくれないか 別に畿内説がどうのっていうか アホな脳内物語述べてる奴がバカにされてるって事なんだと気が付かないのか
147 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:33:57.93
「漢委奴國王」金印は漢から倭奴国の王と認められた証。 この印を持つ者が倭国の王。 「倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」 「漢委奴國王」金印を引き継ぎ卑弥呼は倭国の王に共立された。 漢が滅んだので魏に入朝すると「親魏倭王」金印が新たに下授されたので 「漢委奴國王」金印は不要となり御蔵入り。 「漢委奴國王」金印の発見場所近くに卑弥呼の都があったことになる。 「親魏倭王」金印が見つかれば、そこは壹與の都の近く。
148 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:01:29.84
つまり倭の奴国説じゃなくて、倭の国説をとってるわけか その点についての見解の根拠と説も知りたいね
149 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:17:18.29
『後漢書』には奴國ではなく倭奴國と書かれている 倭奴國王とは何処にも書かれていないので 奴國王など存在しない。奴國王は想像の産物である。 倭國王は記載があるので存在した。
奴国王に金印あげたら、倭国王の立場はどうなる? メンツにこだわる中国王朝が、 そんな封建秩序を破壊する行為をするいわれがない。
151 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:58:15.66
オオナムチのナは那国の那、ムチは尊称。 そのオオナムチが居た場所、すなわち出雲が那国の首都。那国は西日本全域を支配下に置くに至った。 那の津は那国の都へ向かうための港という意味。唐津とかと同様。 ところが金属器を武器に吉備の鬼国が台頭、出雲もその傀儡に成り下がってしまった。 それに対抗対抗するために各国が邪馬台国を共立、首都はマキムク、女王は卑弥呼。 そして倭国大乱が始まったのであった。
倭人伝には倭国「大」乱とは無いから。
153 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:11:01.12
『後漢書』には倭奴國王とか倭奴國王は記されていないが 『魏志倭人伝』にも奴國王は記されていない。 いったい誰が奴國王などというもの発明したのだろうか?
155 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 23:26:54.53
このかた、邪馬台国論争の混迷の原因をつくったひとですよ。
156 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 07:23:03.24
>>112 日向は太陽に関係してきます。日向ぼっことか。 ところが来たの方は太陽が有りがやいが、南の方はあつすぎて、このまれないのであすね。 ですから、太陽にかんした日向は南にいくとあまりないのです。
157 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 07:25:41.76
訂正 来たは北、ありがやいはありがたい。であすねはですねの間違いです。
太陽をありがたがらない人間はいない。 夏が暑いのはどこも同じで、むしろ北の方が暑い。
>夏が暑いのはどこも同じで、むしろ北の方が暑い。 北海道の夏は涼しいお
北に行き過ぎ
古墳時代の日向は宮崎と鹿児島を含む南九州一帯を指す 703年に薩摩が分割されて出来、713年に薩摩が薩摩と大隅に分けられた 日向に王朝とも言うべき集合体があったのは間違いなくそれは西都原古墳群から裏付けられる 高千穂の伝説を持つ一族がこの日向の地にいたのは間違いなく 隼人の地といわれる鹿児島までこの日向の勢力下だったのは 古事記にもある海幸彦山幸彦の伝説が隼人にある事からも伺える 福岡など他地域の根拠もない引き合いにはうんざりだ
さてこの日向の一族の勢力下にあったのが西都原古墳群 ここは天皇家の御料参考地だ 大和王権の根拠地は畿内だが何故こんなところにも御陵があるのか? それは高千穂への天孫降臨後に畿内へ移動した勢力と日向に残った勢力に分かれた勢力がいたためであり 古事記の神武東征の記述からもそれはうかがえる さらに神武以前の神代三代といわれる山陵も鹿児島にあるのだ つまり邪馬台国があったといわれる時代南九州一帯に大和王権と祖先を同じくする勢力がいたという事 魏志倭人伝に 「その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。」 とあるこの南のクニこそ日向の勢力とみれるだろう つまり邪馬台国は北部九州にあり日向は敵対勢力で相容れない存在 その後邪馬台国がどのようにして消え去ったのかは不明だが 大和王権が編纂した神話に邪馬台国も卑弥呼も出てこないのは自分たちの祖ではないからであって その功績を我が物として伝えることはあってもその名は出す必要さえないのである
163 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 16:56:56.51
有明海玄界灘文化圏と、日向灘豊後水道文化圏は別の文化圏という感じでしょうか。 景行天皇が熊襲退治をするのが、豊、日向となっていますが、 そのエリアに重なりますね。それに薩摩も加えた形ですかね。
土蜘蛛は邪馬台国の残存勢力、熊襲は神武東征以後九州に残った日向勢力の一部ではないのか? 景行天皇の九州平定について古事記には記載がないが、息子の倭男具那王に熊襲征伐を命じており 倭男具那王は熊襲から名を譲り受けるという日向王権の最後の権力委譲を象徴的に書いたとも思える 古事記に景行天皇が熊襲を殺した記述がなく、架空の人物とも思えるヤマトタケルにその役を与えたのは 同属の王権にとどめをさす役を天皇に与えたくなかったからとも読める 景行天皇が九州平定後、西都原付近にしばらく留まりその後九州巡行したのは やはりこの地に祖先の拠点があったからだと推察する
>北海道の夏は涼しいお 羨ましいお。 ‐筑紫次郎‐
166 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 18:36:45.71
筑後三郎は筑後川だったっけか。
167 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 18:38:51.67
坂東太郎、筑紫次郎、吉野三郎じゃなかったかな。
168 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 18:41:23.04
平野の名前かな。
169 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 18:41:59.38
>>157 ちょっと訂正
坂東太郎…利根川
筑紫次郎…筑後川
四国三郎…吉野川
170 :
筑紫の民 :2011/06/30(木) 22:28:56.00
よいしょっと、こんばんわ。 「邪馬九5」終わったから、今日からここが 九州説ホームグランド「ダ」 今日はSホークス勝ったばい。 この調子で邪馬台国も見つけたる。
171 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 23:07:54.56
>>164 土蜘蛛というのは小さな勢力のことだろう。後の野武士のようなものだろうと思われる。
熊襲の場合、景行天皇は日向に宮を築き6年かけて戦っている。でも、決着が付いているわけではなく、
日本武尊も熊襲征伐をしているし、仲哀天皇も熊襲征伐をしようとしている。
これくらいの敵が本来の敵というべきで、後の磐井の乱もこれに匹敵する。
土蜘蛛を退治したから九州平定というのはちょっと違うと思う。
福岡平野にあるのは 筑紫野(ちくしの) 博多駅の筑紫口(ちくしぐち)、 筑紫平野(つくしへいや)にあるのは筑紫次郎(つくしじろう) 筑紫と言う字を書いて 福岡平野ではチクシと呼び 筑紫平野ではツクシと呼ぶ。 古くは九州のことを筑紫(ツクシ)と呼んだとも言う。 弥生時代の九州最大の人口密集地帯は 福岡平野ではなく筑紫平野などの有明海沿岸。 今は 筑紫平野でもチクシと言う人も多い。 しかし (ちくしへいや)で筑紫平野と変換はできない。 ‐筑紫次郎‐
173 :
筑紫次郎 :2011/06/30(木) 23:36:19.35
>171 >土蜘蛛というのは小さな勢力のことだろう。後の野武士のようなものだろうと思われる。 土蜘蛛とは大和朝廷に従わなかった勢力の総称。 特定の勢力や、勢力の大きさを意味するものではない。
174 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 23:55:42.10
>>164 那国は一時勢力を拡大し九州から関東まで傘下に置くに至った。それは各地にある○那という地名が証明してる。
そして統合の証として57年の朝貢がある。
その都はオオナムチ(ナは那国の那)の名に見られる様に出雲。
その那国の支配に反発する国々が共立して生まれたのがヤマト。
そしてヤマトは那国の支配地を切り取って勢力を拡大していった。
ヤマトの人たちは那国(出雲)の支配下にある人たちのことをドクモ(土蜘蛛=土雲=出雲)と呼んだ。
脳内だけ妄想
出雲のは根拠が全くない妄想だな
177 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 00:23:47.31
○那って朝鮮半島にもあったな
キムチのムチとオオナムチのムチって同根なんだろうか?
もともとヒムカのクニが有明海沿岸にあったんじゃないのか 肥国旧称の建日向日豊久士比泥別だけが国名として異質過ぎる
180 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 06:09:18.24
過去スレから丹念に読ませていただきました。 畿内説はキチガイばかりですね。
181 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 06:39:45.30
>>7 >邪馬台国の7万戸、投馬国の5万戸、その他2.5万戸、合計14.5万戸以上だけど他に不明国や敵国あり
>人口に換算すると最小80万で、最大160万〜170万?
倭人伝に記された人口を全て合計する考え方は誤り。
對海国〜不彌国、斯馬国〜奴国の国邑は全て邪馬壹国内の国邑であり
北部九州に存在したのは邪馬壹国の七万戸だけだ。
182 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 07:06:41.34
吉野ヶ里だと、大人の家の周りに妻や子供の家が集まるような構成になっている。 普通の人で、妻を3人程度、大人(たいじん)で5名程度の一夫多妻制のようである。 子供が幼いときは母親と同居だろうが、ある程度大きくなると子供の家も作られる。 一戸が今の一部屋の感覚。したがって戸数=人口と考えてよい。
183 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 07:56:18.29
日本の古代は婿取婚だから女系家族 祖母、母、子で一戸4〜6人だろう。
>>181 都合のいい解釈だねw
北部九州にあるのは奴国だけだよ。
それに北部九州では気候風土の条件にも合わないし。
否定する根拠に乏しい
邪馬台国を北部九州に比定する根拠は もっと乏しいけどなw
その逆もしかり
海岸線も今より内陸部にある弥生期の北部九州に七万戸も入らない、 北部九州圏内に以上の国々が存在するなら 伊都国の存在意義もない、以上。
筑紫平野と熊本平野それ以外にも人の住めるところはかなりあるが 2つ合わせたら日本最大の平野を猫の額みたいに考えてるバカ発見
合わせると日本最大なら 他のどこに収まるんだろうなw
>>189 2つ合わせたらとか‥
ホント九州の事しか頭に無いバカ発見w
それだけの人間が高密度で住んでいて、本州西部とかは
急に知らない国になるんですかね?
高密度とかほざいてる点で既に脳内妄想の阿呆確定だなw
ああそれか違和感あったのは パソコンで日本地図見ながら こんなちっちゃいとこに入るかよとか考えたんだろうな 自分が住んでるとこ書かせたら大陸みたいで他はちょっとしかない脳内地図みたいなもんか
194 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 10:01:14.20
そういえば、熊本の南に小さく見える人吉盆地が、 奈良盆地と同じくらいの大きさだそうで
もう勝利宣言w せめて本州西部はどういう認識とかまともに反論しなよ。
それだけ沢山人口がいた北部九州の人間は 以降どうなったんですかね? まさかそんな先進的で鉄も豊富な、 農作に適した土地を捨てて畿内に移住したとかいうなよw
九州で収まるのに本州がどうたら反論する必要ないわな
また畿内説がワケわからんこと言い出してるのか? いつ九州から人間が消えたんだよw
>>199 直ぐ畿内説が頭に浮かぶという時点でバカだな。
西都原説だし。
西都原は日向勢力の範囲で邪馬台国とは別物
南九州でいいと思うが、 あまり遺跡にこだわり過ぎると同じ失敗の繰り返しになる
203 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 10:23:55.77
戸数自体は余裕だが、それを食わせる田畑の面積のほうが重要だろう。 筑紫平野を投馬国5万戸と仮定し、一戸当たり4名として、20万人 単純計算して20万反の米作を行わないと食わせられない計算だ。 筑紫平野を西は佐賀平野まで含め、東は甘木、杷木、北は基山、南は八女までを含めると 1250平方キロ 一反がだいたい1千平方メートルなので、125万反となる。 つまり、全面積の1/6を耕作すれば食わせられる計算になる。 ただしこの面積は現在の面積であることに注意。 さらに、吉野ヶ里の家族構成のように、一戸=1人とすれば、 5万反を耕作すれば済むことになる。 全体の面積の1/25である。 こちらのほうが妥当な数字だろうか。
当時とは海岸線も違うし、その数に見合うような居住跡も確認できないぞ。 (まだ発見されてないなんて意見は無しな、それは他も同じだから) まあ北部九州に全部集めるのは100%無理。 遠くて詳細が判らないという記述とも合わないし 気候風土からだと北部というより南方系でしょう。
205 :
九州説者 :2011/07/01(金) 10:31:48.30
>>196 >まさかそんな先進的で鉄も豊富な、
>農作に適した土地を捨てて畿内に移住したとかいうなよw
唐軍の侵攻から逃げ延びる為、畿内に退避移住したのだよ。
どんな豊かな冨よりも命あってのものだね。
>>205 畿内に移住は年代的に痕跡がない。むしろ逆。
207 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 10:39:10.42
>>204 どこの話をしているのか知らんが、
福岡佐賀なら住居跡はいくらでもあるぞ。
鳥栖市で確認された住居跡は1000以上
佐賀市大和町で明治時代からの記録で確認できる住居跡が500以上
古墳は小さいものも合わせて2000以上がでている。
かなりの部分が畑でつぶされているが、残存しているものも多い。
ちなみに、うちの土地から住居跡が2つ
>>204 発見されてないものを否定してたら他も同じだろ
自分で自分の説潰してるのわからない?
論拠に矛盾だらけなんだよ
>>207-208 だから西都原だけでも推定3〜5世紀古墳の数は相当あるだろ。
よって単純に考えても北部九州に納めるのは無理という事。
210 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:05:25.86
日向説:南の敵国を御都合主義じゃないと説明不可 北九州説:筑紫と熊本で10万戸以上を押し込める御都合主義 どちらも一長一短あるね
211 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:10:04.23
移住の方向 寒冷化による移住なら、畿内から九州 高温少雨による移住なら、九州から畿内 源平合戦の時、北九州に本拠地を持つ平氏が 関東の源氏に負けたのは、干ばつによって 思うように兵力が整えられなかったという説がある。
「狗奴国」を「邪馬台国」の南と読む方が御都合主義
213 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:14:17.51
景行天皇が豊前、豊後、日向と熊襲退治をやってるから、 九州有明側と、九州東岸側が九州山地を挟んで戦っていると考えてよい。 この熊襲が神武天皇のルーツだろう。 景行天皇は畿内天皇家ではなく、 九州筑後から熊本の勢力と考えればつじつまが合う
だからいつ九州から人間が大移住したんだよ? 妄想から始めるのをやめろよ
215 :
九州説者 :2011/07/01(金) 11:18:56.77
>>203 戸数自体は余裕だが、それを食わせる田畑の面積のほうが重要だろう。
筑紫平野を邪馬壹國投馬国奴國他15万戸と仮定し、一戸当たり5名として、20万人
単純計算して75万反の米作を行わないと食わせられない計算だ。
筑紫平野を西は佐賀平野まで含め、東は浮羽、杷木、北は大宰府、南は大牟田までを含めると
1500平方キロ
一反がだいたい1千平方メートルなので、150万反となる。
つまり、全面積の50%を耕作すれば食わせられる計算になる。
ただしこの面積は現在の面積であることに注意。
景行は日向までは抵抗にあっているが、日向にはすんなり入ってる。 そして日向を根拠地として熊襲と戦っている。
217 :
水銀厨 :2011/07/01(金) 11:20:56.61
結局大分から紀伊半島にかけて女王国とすれば 話は繋がる訳ですね。淡路島辺りが中心で。 西都原も文字そのまま西の都なんですよ。 天孫降臨話も四国から降りたと考えると 全て話はまとまります。
西都原が邪馬台国なんて言ってるのは地理を知らないバカだろ 九州山脈が隔てていて集権国家でもない邪馬台国が九州統一とか無理 日向の地は別の勢力なのは明白
219 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:21:29.31
基本的に住んでいるところが治安が良く、安定していれば、よそに移住する必要などない。 もし移住するとすれば、その場所からあぶれた弱小氏族が新天地を目指す場合である。 強い勢力は良い場所を占拠して、放さないものである。 仮に神武東征があったとしても、弱小士族が新天地を目指したに過ぎず、 大量移住などの可能性はほとんどない
なんだ荒らしてたのは四国説の基地外か 最初からコテつけとけよ
>>218 西都原かどうかはともかく、伊都国の一大卒が活きてくる。
222 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:26:25.87
>>215 全面積の50%は、ちょっと苦しいな。米しかとれなくなってしまう。
ほかに家の土地や道路、その他の空き地も必要だから、
50%は多すぎないかな。
筑紫平野に邪馬台国を入れたい人なのかな?
223 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:28:11.92
>>215 筑紫平野に邪馬台国を入れたいんなら、
一戸=1名で算定したほうがよくないか?
だいぶ余裕が出ると思うが。
224 :
水銀厨 :2011/07/01(金) 11:29:36.99
別に荒らした覚えはないですけどな。 私は四国説ではなく邪馬台国は畿内河内中心説ですよ。 しかし神武東征も四国の周囲をなぞってると考えると わかりやすいですね。
225 :
九州説者 :2011/07/01(金) 11:31:01.83
九州支配者層の畿内移住は、白村江敗戦後から680年頃の間。 百濟難民の畿内移住と共に。 天智、天武の畿内移住もその流れ。
四国にマキムクや西都原みたいな古墳がない時点で水銀は終了
227 :
水銀厨 :2011/07/01(金) 11:40:31.44
>>226 前方後円墳のルーツはありますが?
それに私は徳島から巻向に遷都した説ですよ。
ミマキイリヒコの名前は美馬地方由来ですね。
新たな水銀を求めて移ったと理由もはっきりしてます。
西都原はやっぱり鍵だな、ここ発掘して欲しい
229 :
九州説者 :2011/07/01(金) 11:50:02.80
>>222 >筑紫平野に邪馬台国を入れたいんなら、
>一戸=1名で算定したほうがよくないか?
>だいぶ余裕が出ると思うが。
西は白石平野や、武雄、鹿島方面まで含めるともっと余裕はある。
有明海沿岸地域と見る考え方。
有明海の魚介類が米等でんぷん質カロリーよりも重要な蛋白質の供給源。
女王國人は有明海の蛋白質で活力を得、狗奴國を除く倭を取りまとめたのだ。
230 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 11:52:40.09
「其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下」 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東」 の二節から、[イ妥]国は、南は北緯30度、北は北緯39度迄の海域を支配していた。つまり、朝鮮半島の海域は、[イ妥]国が支配していた。ということだ。
231 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 12:28:41.89
>>227 >前方後円墳のルーツ
それっての確証もないじゃん
徳島の古墳年代って3世紀後半からだろ?
最新の研究だと纏向は3世紀前半、西都原は3世紀中盤だぞ
西都原はもっと調査したら纏向と同等の年代になると思うよ
233 :
九州説者 :2011/07/01(金) 12:32:39.71
>>230 × イ妥國は、南は北緯30度、北は北緯39度迄の海域を支配していた。
○ イ妥國は、南は北緯30度、北は北緯35度迄の海域を支配していた。
追加
イ妥國は、西は東経129度、東は東経132度迄の海域を支配していた。
誰だよチンケな小型古墳を前方後円墳のルーツとか言ってる奴はwww
235 :
九州説者 :2011/07/01(金) 12:41:04.67
>>231 >徳島の古墳年代って3世紀後半からだろ?
徳島の前方後円墳の年代は、遅くとも2世から。
神戸の前方後円墳の年代は、3世紀初頭。
泉南の前方後円墳の年代も、遅くとも3世紀初頭から。
236 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 12:42:03.23
古墳の年代はちょいちょい変わるからなあ。 そして、大型古墳は建設に何年もかかる。 西都原もマキムクも徳島も、同じ瀬戸内海文化圏で ほぼ同時期ってことでいいんじゃない? 前方後円墳の墓制がこの範囲で広まったということで。 それより、前方後円墳だけなのか、他の円墳や方墳他も同時に存在するのか それにより、強制された支配なのか、それとも、各勢力独自に文化を導入していたのかが 見えてくるんじゃないかな。
237 :
水銀厨 :2011/07/01(金) 12:42:05.59
西都原、徳島、巻向の年代特定が近くなるのは
別に問題ないはずですが。というより好都合かもw
>>234 そりゃ小型だからルーツになる訳です。
238 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 12:45:49.03
>>233 追加
×イ妥國は、西は東経129度、東は東経132度迄の海域を支配していた。
◎イ妥國は、西は東経 123度、東は東経141.6度迄の海域を支配していた。
東西五月は三千七百五十里≒1620km、南北三月は二千二百五十里≒972km。
239 :
九州説者 :2011/07/01(金) 12:46:41.12
>>232 >西都原はもっと調査したら纏向と同等の年代になると思うよ
西都原の前方後円墳の原型はもっと調査したら2世紀になる思うよ
240 :
九州説者 :2011/07/01(金) 12:59:26.26
>>238 × 東西五月は三千七百五十里≒1620km、南北三月は二千二百五十里≒972km。
○ 国境(長)東西五月行は国境南北方向五月行≒5000里≒400km
国境(長)南北三月行は国境東西方向三月行≒3000里≒250km
241 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 13:11:06.47
東西五月・南北三月は魏志の水行二十日=五百里が引き継がれている。 一里=1800尺 一尺=24cm で、東西五月は三千七百五十里≒1620km、南北三月は二千二百五十里≒972km。 となる。
242 :
九州説者 :2011/07/01(金) 13:24:08.33
西都原日向の前方後円墳は、1世紀頃から、 九州東岸、瀬戸内沿岸に侵略移民と共に広がった。 特に前方後円墳が定着したのは、吉備、播磨、讃岐、阿波である。 このとき讃岐、播磨の銅鐸文化は亡んだのである。
243 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 13:30:57.86
ここか?古墳の年代平気で捏造して書いてる奴がいるのは
244 :
水銀厨 :2011/07/01(金) 13:35:12.53
西都原は天孫降臨話との間連を感じさせるが、 何処から天孫が降りたか?と考える事だね。 九州の「日向」なんだから「日」は四国か本州の方向しかない。 で、唐国に近くなったと言う位だから半島でもない。 となるとやはり四国経由でやってきた人物しか無いはずで。 倭とは元々四国の何処かが本拠でしょう。
245 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 13:39:05.02
何故韓を唐に置き換える妄想捏造馬鹿
ニニギが他所から来たのであれば、神武のようにその通り記せばいいだけのこと。 降臨の際、民衆が出迎えたとか、抵抗したとかの描写もない。 高千穂の峰は、宮崎平野から遠く真西にきれいな三角に見える。 つまり天孫降臨は単に土着の支配者の権威付けの意味しかない
247 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 13:40:32.60
おい誰か水銀何とかの根拠も何もないヒキコモリ妄想をどうにかしろよ
馬鹿はスルー 根拠もなく妄想する奴に何を言っても無駄
250 :
九州説者 :2011/07/01(金) 13:43:50.91
一月行=海行一月=陸行一月=水行一日≒1000里=70〜80km 海行:海中を船で渡ること 陸行:内陸を歩いて(馬で)進むこと 水行:水域(川・河・湖沼・沿岸・群島間)を舟で進むこと 歩行一日:何里に相当するのか私は調べていない。 馬行一日:何里に相当するのか私は調べていない。
251 :
水銀厨 :2011/07/01(金) 13:50:26.26
根拠なら沢山ありますよ。でもここで出せない資料も多いからね。 (一応発掘、出土品の状況は早く見れる立場) なのでこの板ではあえて考古学に関する話は避けてます。 人物割れるかもしれないからねw まぁ結論からすれば、倭は四国東部を中心としていた、 としか言えない状況になります。
根拠も出せず まるで事実があるかのような事を結論だけ言っても誰も信用しない
253 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:00:16.58
>>250 >>一月行=海行一月=陸行一月=水行一日≒1000里=70〜80km
東西五月行南北三月行は、『東西に連なる五月、南北に連なる三月』だ。
「行」は日本語の「行く」ではない、
日本語の「行く」に相当する語は「去」だ。
故に、
>>一月行=海行一月=陸行一月=水行一日≒1000里=70〜80km
は、70〜80km も含めて捏造です。
254 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:00:51.76
発掘したものから年代測定して古いものが出たとしても 学会での試論もなしに >まぁ結論からすれば、倭は四国東部を中心としていた、 >としか言えない状況になります。 なんて話になるわけもないしそういうことを言い出す者が学者ならなおさら信用できないね
出せない資料って 水銀何とかが出した資料なんてないだろ 妄想以外は
256 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:09:16.27
追加 「行」に方位が連結して一節をなす文は、 「行」は「列」と解釈するのが日本語訳として好ましい。 又、 『方位+行』の文節は、『行』をもって一連の行程の終了をつげている。 「東西五月行」の先の行程はありません。
確かに四国は盲点だからな。 発掘状況しだいかな?
258 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:14:59.25
259 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:26:32.01
>>181 一大国(壱岐)が三千家だから、その23倍くらいの七万戸は北部九州で余裕だよ。
一戸5人として35万人
福岡、長崎、佐賀、熊本、大分県なら広すぎるくらいだ。
宮崎、鹿児島県が狗奴国だろう。
倭人伝の風俗、気候も九州にがよく当てはまり畿内ではない。
260 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:29:38.20
261 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:48:46.52
>>260 >四国は侏儒國か裸國か黒齒國だな
四国は翰苑の伊邪分國でイ妾国に連結(されいた。
262 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 14:51:58.66
>>259 一支国は田が不足してるって書いてあると思うが
ついでに船で足りない分は買い入れてるとも(金ではないだろうが)
263 :
九州説者 :2011/07/01(金) 15:00:09.98
>>253 >「行」は日本語の「行く」ではない、日本語の「行く」に相当する語は「去」だ。
出鱈目話でそらすな。
「行」は、「歩む」、「進む」の意だ。「ゆく」の意味で使うなら、「往」だ。「去」ではない。
「行」は、左足(左歩)と右足(右歩)を挙げること。
だから、
>>253 の捏造論は成り立たない。
一月行=海行一月=陸行一月=水行一日≒1000里=70〜80km
は、正しい。
264 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 15:00:58.11
四国はイヨの国だから確かに女王国かもね。
265 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 15:22:12.68
香川は河が無いから人なんか住んでいなかっただろう
266 :
九州説者 :2011/07/01(金) 15:22:47.82
>>256 >「行」は「列」と解釈するのが日本語訳として好ましい。
「行」には単独で「ならび」「列」の意味がある。
「行」は縦方向のならび
「列」は横方向のならび
「東西五月行」には先の行程も後の行程ありません。
「月行」は単に長さの単位です。
「海行○月」「陸行○月」「水行○日」も長さの単位です。
「東西五月行」の意味は、
東西の国境線の長さが、5[月行]のことです。
267 :
九州説者 :2011/07/01(金) 15:27:36.91
>>265 >香川は河が無いから人なんか住んでいなかっただろう
割れた銅鐸が出土しています。
高い文化を持っていた人々が住んでいた証拠です。
268 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 15:50:17.92
>>263 >「行」は、「歩む」、「進む」の意だ。「ゆく」の意味で使うなら、「往」だ。「去」ではない。
「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
の「去」の解釈は「行く」だ。「去」の反語は「来」。
故に起点は国都で「樂浪郡・帯方郡」は通過地なのだ、
勿論、着点は一萬二千里です。
「東西五月行」の意味は、
東西に五月(=150日=3750里=1620km)行(列)である。
>263 陸行一月=陸行一日×30 行一日=24kmくらい
270 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 15:56:41.67
なんだか、よくわからない里程を書いてる人がいるけど、 どこに到着するのかよくわからない。 推論->根拠->結論、みたいな流れがわかる形式で 書いていただけるとありがたいのですが。
271 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 15:56:42.47
>>262 壱岐では弥生中期の遺跡からは中国の五銖銭
弥生後期の遺跡からは大泉五十や貨銭などが発掘されていて
弥生期には貨幣による取引が行われていたようだ。
272 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 15:59:56.20
壱岐は現在でも人口3万人ほどだが 3世紀にはすでに3000家(1家5人として1.5万人)もの人口があり 当時の日本で最も先進地域であったようだ。
273 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 16:03:59.41
>>271 _272
論点は田の不足についてだと思うが
食料は田からの穀類ばかりではないだろう 何故壱岐でそれだけの人口が賄えたか それは海しかあるまい 九州は海に囲まれ有明海は豊饒の海 また栗を初めとする山の幸も豊富 無理やり食料がないとかこじつける阿呆には辟易だ
275 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 16:17:57.30
>>274 壱岐は米が足りなくて、周辺から買ってるって書いてあんだろ
魏志倭人伝読んでないの?
276 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 16:22:30.26
現代は福岡県だけで壱岐の人口の170倍ある。 少しばかり田が不足していたとしても 問題にならない。 計算上は3000家の内400家が壱岐内の田んぼで食えれば 福岡県だけで7万戸が収まる。
現代で語られてもな・・・
278 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 16:48:51.69
壱岐との比なら現代では福岡県だけでたりる、 色々考慮しても北部九州で7万戸は確実にいけるよ。
279 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 16:50:38.74
何を考慮してんだ?
北部九州では風俗でも無理があるしな。 九州説でも一番ない候補地だ。
281 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 16:58:14.67
283 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 17:56:46.69
奈良時代に朝廷が貨幣を使うように奨励してもうまく行かなかった畿内とは違い 倭人伝の記録や発掘された銭から壱岐など北部九州では3世紀には貨幣が流通していたらしい。
284 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 18:01:06.40
九州説なんでそう思いたいが、ぼつぽつ貨泉とか出てきても、 そんなに沢山じゃない。 今の感覚で言う通貨のような使い方じゃないみたい。
285 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 18:28:56.41
和同開珎等の銅銭でさえ周防国の山口市鋳銭司で鋳造されており 福岡市の西にも周船寺(鋳銭司)があった。(旧糸島郡周船寺)
286 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 18:39:29.56
>>285 ソース頼む。実家、周船寺の近くなんだが初耳だ。
ちなみに、この辺りから九大伊都キャンパスの方向は
昔海だったことがわかってる。
287 :
いちおう名無しで :2011/07/01(金) 18:50:47.65
>>286 >九大伊都キャンパス
大学までもが「伊都国誘致」でフライングしてるわけだ。
罪が深いことで。
288 :
286 :2011/07/01(金) 18:53:06.99
いちおう俺個人は、佐賀伊都説を押す。 ねんのため。
289 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/07/01(金) 19:09:17.96
_,,...,_ r'" 〈╋〉`! 周船寺は主船司と言う役所だお♪九州説の人お薬の時間だお♪ ,'ゝ,,..-─-イ はい♪ i ノ レイ^iル〉 λイi ゚ - ゚ノリ .r┐ (ゝy´`Ξ`Tつ[薬] )ノiJ'´ T.´!´  ̄ レン'r_,ri_;┘
290 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 19:12:59.86
太宰府鋳銭司 続日本紀に和銅3年丙寅、太宰府銅銭を献るとある。その跡は糸島郡周船寺(鋳銭司の音が転化して地名となった)にあるという。
291 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 19:18:25.29
周船寺には鋳銭司説と主船司説があるようだ。
292 :
九州説者 :2011/07/01(金) 19:33:04.55
「鋳銭司」は畿内朝廷のこじつけ命名であろう。 「茅渟海」を「血沼海」、「樟葉」を「糞袴」と命名した様に。
293 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 19:43:16.94
周船寺(スセンジ)が鋳銭司(チュゼンジ)か... 九大伊都キャンパスの元岡製鉄遺跡とか、 今宿鉄器加工遺跡は知ってるんだが、 スセンジのどのへんだろ? スセンジの地名範囲は結構せまくて、JR周船寺駅から202号線側に ちょっと行ったくらいの範囲だから、広くは無いんで割と簡単に特定できそうだが。 あんなところに、大宰府からの出張所の役所があったのかねえ。 あの辺りまで海だったらしいから、文字通り船着き場として、 周船寺じゃないのかねえ。そういう意味では主船司のほうがしっくりくるかな。
294 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 19:45:49.65
知ってる限りじゃ、鋳銭司という役所の残渣が残ってる感じはしないな
平和台の下みたいに何かの機会で掘って調査しないと出てこないだろうな 邪馬台国の跡も九州のどっかの都市の家の下にありそうだが
296 :
再度名無しで :2011/07/01(金) 22:07:32.75
>>288 前原私立の歴史博物館が「伊都国歴史博物館」。
考古学が、地元誘致・地域興しに迎合した典型的実例だろう。
学術的にも不確実の事項を決定事項のように既成事実化せんとする
矮小な関係者の心理が浮き彫りになった見苦しい現象だ。
九州説考古学も畿内説考古学と同様、怪しいもんだ。
297 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 22:10:11.30
前原私立???
298 :
72 :2011/07/01(金) 22:12:13.08
で、俺だけが正しい、と。wwwwwwwwwwwww
299 :
再々度名無しで :2011/07/01(金) 22:12:49.52
それにしても。 真相を極めることを学問の目的とする大学が、 「伊都キャンパス」とつけた軽率さは笑われてもよかろう。 半世紀そこそこの歴史しかないポッと出の私立大学か?
300 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 22:12:59.48
伊都国歴史博物館は市町合併により、前原市立から糸島市立となりました。
301 :
再々度名無しで :2011/07/01(金) 22:14:14.90
>>288 前原市立の歴史博物館が「伊都国歴史博物館」。
考古学が、地元誘致・地域興しに迎合した典型的実例だろう。
学術的にも不確実の事項を決定事項のように既成事実化せんとする
矮小な関係者の心理が浮き彫りになった見苦しい現象だ。
九州説考古学も畿内説考古学と同様、怪しいもんだ。
302 :
日本@名無史さん :2011/07/01(金) 22:15:23.38
糸島市立の歴史博物館が「伊都国歴史博物館」。 考古学が、地元誘致・地域興しに迎合した典型的実例だろう。 学術的にも不確実の事項を決定事項のように既成事実化せんとする 矮小な関係者の心理が浮き彫りになった見苦しい現象だ。 九州説考古学も畿内説考古学と同様、怪しいもんだ。
303 :
大御所 :2011/07/01(金) 22:22:22.68
304 :
塩土老翁 :2011/07/01(金) 22:45:06.98
>>303 大御所
おや! 明日の検討会は終わったようですね?
もう少し投稿して下さいよっ!
ジャブの応酬ばかりで、読みものがありません。
>>303 >邪馬台国とは関係ね〜だろ
脳が足りん。
>バーカ。どうせ発狂した畿内説のタコだろが目障りだ。早く寝ろ!
脳が足りん。
前原=伊都国を否定したら畿内説は成立しないのが判らないらしい。
>前原=伊都国を否定したら畿内説は成立しないのが判らないらしい。 普通に成立するけど。
>前原=伊都国を否定したら畿内説は成立しないのが判らないらしい。 普通に成立するけど。 あっ 間違えた。 伊都国がどこでも畿内説の可能性は全然無い。
>>307 そうだったらいいよねw
でも九州にある可能性はもう無いよ。
309 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 00:04:19.40
エタ・ひにんが住む土地は見つけた。 四国の友人に話を聞いた。 すごい。焼けない死体のまま生存しているんだ・・・。 京都に多い。
311 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 00:31:13.08
邪馬台(中華思想による卑下した表記)・・・・× ヤマト・・・・○ 一説にヤマトとは首都、京を表す古語とか。 奴国と書いて古語ではナラと読める模様 韓国語でナラは国を表すとか 時系列的には九州の勢力が畿内へ東遷したとおも。(数次に渡る?) ニギハヤヒ(天照国照彦天火明尊)降臨(一次)と神武東征神話(二次/日向王国のイワレヒコはニギハヤヒの娘婿、婿養子)の元の伝承があったはず。 神武天皇の実在は?印。神武天皇(イワレヒコ)を祀る神社が皆無に等しいのも妙な話。 畿内を攻撃、攻略した査証?に淡路島の常隆寺山(栗村山/伊勢の森)の 西山腹(播磨灘側)に発見された古代国内最大級(唯一無二に近い)の 鉄器工廠(一貫生産のコンビナート)跡の「五斗・垣内遺跡」はビックリ仰天の存在。 稼働時期は一世紀から三世紀ころにかけて長期間運用されていた模様
神武を祀る神社は全国にあるが?
九州東征なんてナイナイw 記紀の上では神武軍は河内湖の武力衝突で負けてるよ。
何が言いたいのかわからん 神武東征を語っている記紀持ち出して否定とは頭大丈夫か?
>>314 畿内説の連中は信じられない馬鹿が多いがその典型的な例。
九州説の主張は何でも否定すればいいと思っているらしい。
中には畿内が倭で
九州は倭の属国だから倭ではない、なんてマジで言い出す馬鹿もいる。
もっとも
九州説の中にも韓国陸行とか水行陸行の郡起点とか
平気で勝手読みする者も多いのは残念だが。
316 :
神武東征 :2011/07/02(土) 05:03:04.56
神武東征とは 邇邇芸命の天孫降臨以来、九州に国家を構えていた天皇家が 東国の近畿地方までを制圧した。 すなわち、この神話は九州に都を持つ国家の王が、 近畿地方までを勢力下に組み入れ、 名実共に大八島(オオヤシマ=日本全州)の中央を制圧したという話である。
317 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 06:04:14.20
そう、九州から近畿に都を遷したわけではなく、九州の都はそのままで 神武が近畿に進出したということだ。そして、その九州に残ったままの 都にいた大王を曾の王としてえがいたということね。
結局、纒向遺跡の年代測定にかかってるんだよ。 ここから逃げてる九州説は虚妄。
319 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 06:40:27.32
逃げるも何も纒向遺跡なんて畿内説の苦し紛れ、 反論しようにも何の根拠も示してない。
320 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 06:42:58.62
纒向遺跡の年代測定なんぞ何時だってかかわりのないことだ。 話の道筋には何も変わりはない。
321 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 08:32:19.34
畿内の方の古い古墳の事情をよく知らないが マキムクに匹敵する古墳は幾つかあるんじゃないの? 170回も掘れば、同じくらい出土する古墳は他にもありそうな気がするが。 ほかは陵墓参考地とかで掘れないだけで。
纒向遺跡に匹敵する3世紀遺跡が九州にあるかね? 箸塚の築造年次は卑弥呼の死期とぴったり一致するが、 九州に同じ時期の同じ規模の古墳があるか?古墳は 三世紀中葉に大和で始まった。これが結論。 悪あがきはやめなさい。
アホの九州説論者
ここは九州説スレだから。
卑弥呼が九州で死んだ全く同じ時に大和で卑弥呼の墓よりもりっぱな、 誰かの墓が造られた、こんな話を九州派は信じるのか?
>>325 モリコーセンセイいわく…
「九州で死んだ卑弥呼の遺骸を大和まで運んで箸墓に埋葬した可能性も考えられる」とかなんとかw
何処まで本気で言っているのかは知らないがwww
西都原の古墳もかなり古いぞ マキムクと同じように年代測定したらもっと古いのが出るだろうな ただ西都原は邪馬台国とは関係ないがな 卑弥呼の墓は山陵の可能性もある
328 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 08:56:02.40
>箸塚の築造年次は卑弥呼の死期とぴったり一致するが、 考古学者だってそれを否定してるよ。知らないのか。
卑弥呼がいた邪馬台国は九州にあったが、卑弥呼を倭王として推戴する 連合国家の中心地は纒向だったんだよwww
また地理的条件全く無視か 連合なんて出来るわけがない
>>327 西都原古墳は三世紀半ばではない。箸塚が最初期の古墳であることは
もう動かない。
誤差が100年以上のしかもサンプル比較が不十分な年代測定法の上限値出しておいて偉そうに言われてもな
333 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 09:06:40.83
石野 箸墓は3世紀末の大王墓である。その築造年代は、一部に3世紀中葉説 があるが容認できない。 寺沢も確か否定してたな。
西都原より生目(宮崎市)の方が古いらしい。卑弥呼うんぬんはともかく。
まあ他とは別の測定法やってその誤差範囲に古いのが出たからって 他の古墳の検証もしないままうちが一番古いですって言うのは学術的見地からするとどうなのよ?
箸墓は台与の墓だからな。
九州説は今や素人の古代史マニア向けの娯楽しか提供できない。
338 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 09:36:47.40
>>333 石野さんも最近は巻向と徳島や宮崎との連合、
というか関連重視を言い出してるからね。
私は西都原も女王国構成の一部と思ってるが。
西都原? 生目じゃないの。
340 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 10:05:38.44
>>339 勿論生目も宮崎ですからね。
この辺りから四国、紀伊半島一部までは女王国。
また何の根拠もない水銀なんたらかw 女王国は何の根拠だ? このホラ吹きが
おい水銀 お前が昨日言ってた邪馬台国が四国だと言う証拠出せや
そんなに四国に邪馬台国持っていきたいなら別スレ立ててやれよ ウザいわ
徳島県阿南市の若杉山遺跡じゃないの? 当時日本最大の水銀朱の産地だったらしいし。
九州のスレでやるから叩かれるんじゃないの? 空気読めない人に言っても仕方ないけど
水銀の産地だから邪馬台国かよw 何の直接的繋がりないじゃん
347 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 10:28:36.70
>>341 女王国の根拠?当然倭人伝と倭国伝、
また記紀や風土紀を初めとする各種文献資料ですよ。
>>343 別に四国だと言ってませんが。
九州大分辺りから紀伊半島辺りまでが女王国、
別にスレタイには反してませんよw
まあ四国東部が倭の中心だ、という説ですが。
348 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 10:31:29.91
卑弥呼や壱与の墓は前方後円墳ではない。
なんで?
350 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 10:41:40.43
前方後円墳という名称もどうか?とは思いますが。 別に卑弥呼や壱与の墓の場所比定が問題ではなく、 最古の物が宮崎や徳島に存在するかも?というのは 連合を証明する根拠の一つにもなりますね。 これは調査の進展しだいですが。
351 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 11:08:35.87
近畿地方の前方後円墳はいったいどういう人たちが作ったのか、というのもあるな。 近畿地方にはそういう伝統はない。特に副葬品というのはない。 しかし、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は紀元前には作られている。墳丘墓の伝統は九州にあると 考えられる。もちろん、吉野ケ里の墳丘墓からは副葬品も出ている。 墳丘墓は、ならされて畑や水田に変わったり、城の土台にされたりして 残っていないケースが多いと考えられるが。 そういう意味では、前方後円墳が九州で最初に作られたとしても不思議ではない。 古墳の年代比較は難しく、特に地域が異なればかなり困難になる。 生目1号墳は箸墓と相似形といわれるが、ひょっとしたら生目の古墳の方が古いかもしれない。
352 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 11:19:40.59
倭人伝の記述どおりに進めば、北九州から南のかなり遠いところに邪馬台国が あったことは明らかだ。そこに、九州随一で、全国的にみても最古かも知れな い大古墳があるということは見過ごせないな。
>>351 >しかし、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は紀元前には作られている。墳丘墓の伝統は九州にあると
>考えられる。もちろん、吉野ケ里の墳丘墓からは副葬品も出ている。
>墳丘墓は、ならされて畑や水田に変わったり、城の土台にされたりして
>残っていないケースが多いと考えられるが。
方形周溝墓、方形台状墓、低墳丘墓・・・
デザインの微妙な変化でいろいろと呼び分けられますが、弥生時代、九州だけでは無くいたるところにあります。
日本だけじゃなくて世界中にありますね。日本と同時期の朝鮮半島南部にもかなり濃密に分布しています。
墳形の選択は、技術伝播によるものもあるでしょうが、台状墓の場合、相互に関係なく自然発生的に同じような
デザインが採用された可能性もあります。
基本的には、家族墓的用途で築造されたため、区画を明確にするためマウンド型になったと思われています。
刀子や玉類などの副葬物をもつものがるのも、西日本では社会の階層化が進みつつある一帯では等しく確認されています。
>>353 画一化させて無意味に見せようとする暴論だな
>>354 事実を指摘したら「暴論」呼ばわりですか?
墓を語るなら平原のような特定個人墓をかたりましょうよ。
356 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 12:18:09.24
>>355 副葬品は?
吉野ケ里はもちろんのこと、前漢鏡を副葬する甕棺もけっこうあるが。
357 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 12:18:40.23
九州説に都合の良いもの→正論 九州説に都合の悪いもの→暴論、曲論
358 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 12:30:33.54
>>355 近畿地方の弥生時代に特定個人墓があったのかな。
>>347 >女王国の根拠?当然倭人伝と倭国伝、
>また記紀や風土紀を初めとする各種文献資料ですよ。
あんたその件でボロクソに批判されて、まだ反論も証拠も根拠も何も出してないけど
いつ出すの?
ロクな反論もせず、証拠も根拠もないじゃ誰も信じないぞ
360 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 12:38:19.22
おまえらみたいなのが刑事だったら 冤罪事件が多発するだろうよww 自分の思いこみでこれが正しいと決めつけすぎ。 そんなやつが学問なんてやる資格はない。
>>356 > 吉野ケ里はもちろんのこと、前漢鏡を副葬する甕棺もけっこうあるが。
吉野ヶ里に「前漢鏡を副葬した墓」があるのですか?
>>355 特定個人墓と言えば平原でしょう。
九州スレのここで、何で近畿地方の話に振るのですか?
「吉野ヶ里」は有名ではありますが、当時の西日本全体の中で別に隔絶した存在では無いでしょう。
そう言っただけです。
それを否定したいがために、一行書の決めつけや、吉野ヶ里以外の例まで出して「反論したつもり」ですか?
単なる論旨のすり替えとしか見えないですよw
とりあえず、真っ当な話ができる空気ではないので退散しますw
362 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 13:09:33.56
>>359 それじゃ単に批判じゃなく中傷ですよw
大体まとな反論がなかったしね。
例えば私は倭人伝が記述された3世紀当時、
「丹とは水銀朱である、ベンガラ(酸化鉄)は丹ではない」と主張してます。
根拠も一番年代の近い鉱物資料である「抱朴子」をあげていますよ。
ここに「鉄丹」なんていう記述はありませんから。
それに対して、3世紀当時の認識で「ベンガラが丹である」という
文献資料を求めましたが、未だに回答はないですよw
>>362 633:日本@名無史さん:2011/06/28(火) 12:08:23.99
水銀厨さんへ
あんたは根拠にならない根拠ばっかりいつも提示する
まずあんたはこれらの疑問を全て解消しなければならない
・阿波や淡が邪馬台国時代からの名称であることを証明しなければならない
・倭と波や淡の関連性を示さなければならない
倭はワ(ワレ)の意味から来たとする説があるが、淡路は阿波への道、阿波は暴るから来たという説が強い
また阿波は古来の表記は粟であり、ますます倭と離れる
・波や淡の中古音・上古音の読みは倭と異なる。同一である根拠を説明しなければならない
・波は万葉仮名でも本来(ハ)と読み、ワと読むのは前の文字との複合による音韻変化であり倭との関連性は見られない
・邪馬台国以前にあった倭奴国は九州にあるのが確定している
つまり、淡路島や四国に関係のないところで「倭」の名称は既に使われている
・記紀で淡島が初めに産まれたとしても、何故淡路島での物語の記述がないのか説明が必要
・同じく淡島が初めに産まれたからと言って、それが邪馬台国時代のことであるということを証明しなければならない
332:日本@名無史さん:2011/05/25(水) 10:59:27.01
>>329 伊都國=■、女王國=□とすると
■ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
□□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
あんたの説だとこれで伊都と女王國が南北関係って無理がないか?
常識的に考えるとおかしいよな
中国正史で大方東西関係でも一部南北関係なら南北と書き記す例があるなら教えてくれ
しかも歩いた距離なら書くはずないだろそんな無意味な情報
魏志が倭の地の大きさを書き記すと言って、自分が歩いた距離を書くなんて大嘘書いたのか?
しかも倭人が里数を図れなくても計算してある程度の里数を算出できるだろ
正史では里数と日数表記を両方用いてるんだから
それと東の海はどうなったの?
365 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 13:44:13.94
>>361 吉野ケ里の墳丘墓に副葬品のあるのはもちろんだが、前漢鏡を副葬する甕棺も九州にはあるということ。
東小田遺跡の甕棺には前漢鏡が2面入っていた。
星雲文鏡、連弧文昭明鏡、連弧文日光鏡、連弧文清白鏡、重圏文鏡、四?(しち)鏡なんかはそうではなかろうか。
筑紫野市の隈・西小田遺跡、二日市峰遺跡、朝倉市の東小田峰遺跡、佐賀県でも三津永田遺跡、上志波遺跡など
たくさんある。
まあ、前漢鏡と特定せずに漢式鏡と言った方が良かったかな。
弥生時代に特定個人墓のない近畿地方で、どうして突然古墳のような墓が芽生えたかは重要だと思う。
弥生時代の早い時期から、中国製の鏡などを墓に副葬する習慣のある九州の方がむしろ連続性があると
思うということなのだが。
336:水銀厨:2011/05/25(水) 11:10:07.66
>>332 元々九州までの行程だって正確に南北と言えるかな?
ずれてるでしょ。
337:日本@名無史さん:2011/05/25(水) 11:13:07.79
>>335 まず質問に答えろよ
それに奴國も九州だろ?
その奴國だけで2万戸だぜ?
あんたの説で言うと九州から東は奈良までかけた邪馬台国は7万戸だぜ?
そんなスッカスカもスッカスカな首都であり、重要な産業拠点があるかよ
田舎丸出しじゃねーか
人口密度1000倍は違うんじゃねーか?
339:水銀厨:2011/05/25(水) 11:22:36.26
まず本当に質問したいのならコテ名乗ってね。
正直何度も同じ書き込みするの面倒だから。
だから、纒向に匹敵す三世紀前半の遺跡が九州にあるかと尋ねてるんだよ。 遺跡がなければだめなんだよ。纒向にはあるんだよ。
369 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 13:52:54.98
>>367 三世紀前半の遺跡があれば全て邪馬台国の遺跡になるのか?
纒向は何度発掘しても邪馬台国に繋がる発見はないし、かつ倭人伝の記述にも合致しないぞ
370 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 13:53:13.31
長くなるので簡単に説明できる事だけな。 >倭はワ(ワレ)の意味から来たとする説があるが、淡路は阿波への道、 阿波は暴るから来たという説が強い 近淡海=琵琶湖=ビワ湖の意味が説明出来ない。 遠淡海と共にワ国本拠からの距離を現すものでしょう。 >また阿波は古来の表記は粟であり、ますます倭と離れる 粟島という国産みでも重要な場所が吉野川にもあるからね。 粟は食物でも重要でしょう。 >邪馬台国以前にあった倭奴国は九州にあるのが確定している 私にとっても別に問題にする点が無いが。
>>369 別の者だが、質問に質問で返したら議論にならんだろ。
はっきり「無い」と答えるべき。
反論はその後にいくらでもすれば良い。
372 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:02:55.67
>>363 >・記紀で淡島が初めに産まれたとしても、何故淡路島での物語の記述がないのか説明が必要
>・同じく淡島が初めに産まれたからと言って、それが邪馬台国時代のことであるということを証明しなければならない
この問題を明確にした奴は今だいないな。
淡路島は翰苑の伊邪分國の一部でしょう。
373 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 14:03:33.58
>>366 >そんなスッカスカもスッカスカな首都であり、重要な産業拠点があるかよ
田舎丸出しじゃねーか
ギュウギュウである必要性なんか全くありません。
瀬戸内海での水運なんて縄文以前でさえ交流が確認済みですよ。
邪馬台国=女王国という点はまだ保留してますけど。
産業拠点は淡路島からは垣内遺跡が確認されました。
製塩は瀬戸内、水産物に関しても同様でしょう。
稲作に関しては各地に確認済みですよ。
石器は讃岐〜河内南部、土器製作は河内、大和、東海。
で、辰砂発掘が四国東部に紀伊半島が主ですね。これが一番重要です。
374 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:03:52.69
遺跡比べをしたって仕方ないんだよ。事実はどうかなんだ。 邪馬台国があったからといって、その遺跡が今発見されているという保証は まったくない。
纒向で邪馬台国の祭祀集団の痕跡が発掘されだしてるから 九州説の人は気が気でないだろうな。
水銀厨につける薬はなし
377 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 14:19:17.16
で、私の質問には回答なしで中傷のみとw
>>370 >>373 >近淡海=琵琶湖=ビワ湖の意味が説明出来ない。
>遠淡海と共にワ国本拠からの距離を現すものでしょう。
いや、これ起点は朝廷の都だからね。
琵琶湖が淡海から近淡海の表記になったのは、少なくとも大化年間からだし
弥生時代から続く名称じゃないからね
>粟島という国産みでも重要な場所が吉野川にもあるからね。
質問との関連が意味不明。粟島という地名だけなら新潟や香川にもある。
>ギュウギュウである必要性なんか全くありません
そんな人口密度の少ない大国がどこにあるんだよ
というか、奴国で二万余戸あって投馬國で五万余戸なのに
北部九州から奈良までかける大国が七万余戸なんて当時の人口分布に確実に矛盾する
379 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:23:50.71
>>375 まあ纏向遺跡は
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛」
「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同」
の記述に完璧に矛盾するからないだろうな。
仮に邪馬台国が奈良にあるというのなら別の遺跡見つけないと
大体水銀水銀言ってる奴は何なんだ 丹のどうのこうのは中国の歴史書でしかないし 邪馬台国関連から奉じられたのが必ずしも水銀とは限らない 辰砂の粉末同色の赤土を丹として奉じた可能性もあるな 実際体に塗っていたのはベンガラの可能性が高いし 虫除けも含めて塗ってたのではないのか 後に鉄丹と呼ばれ薬効成分のある阿蘇リモナイトの可能性もある また水銀が産したことを匂わせる「丹生」のつく神社は九州にも各地に存在している ただ水銀に関しての調査は科学的に行われていないため、そのあたりに埋もれている可能性もある 水銀が出たからといってそこが邪馬台国とは到底決められない
381 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:31:51.83
>>377 その結びつけは全部お前の妄想じゃん
何か裏づけあんのかよ
382 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:34:39.36
どうでもいいから水銀は昨日逃げる際に捨て台詞で言った >まぁ結論からすれば、倭は四国東部を中心としていた、 >としか言えない状況になります。 の証拠をとっとと出せや
383 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 14:34:52.01
>琵琶湖が淡海から近淡海の表記になったのは、少なくとも大化年間からだし 弥生時代から続く名称じゃないからね それこそ倭の範囲が広くなったともとれます。 近飛鳥、遠飛鳥の例もあわせると、基準は大阪湾と考えられます。 >そんな人口密度の少ない大国がどこにあるんだよというか〜 平地が少ない、海岸や海沿いの集落なら、広範囲でその人口というのは 充分ありえると思いますね 。大体奈良といっても 当時は大した人口はいないでしょう。 あそこは神仙思想に基づいて求められた祭祀都市という 認識ですから。人が多いと逆に困りますよ。
スレ違いだから水銀厨は出て行けよ 邪馬台国四国スレでも立てて隔離されて思う存分わめけばいいだろ
水銀水銀言ってるけど もう一つの献上物の青玉の産地なんて四国にあるのか? 九州にある古代の青玉を使った装飾具のかなりは それまで言われていたヒスイではなく九州産の石だったと聞いているが
386 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 14:43:52.71
>>380 倭人伝も中国の文献ですよw
だから丹についての説明も中国の文献資料を基にという事です。
なので当時「鉄丹」の表現が文献上あるなら、私も是非知りたいのですけどね。
>>382 コテを名乗ってマトモな会話が出来るならね。
ま、そのうち何処かで発表しますよw
調査中な事もまだありますから。
387 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:45:37.78
まきむくはすじん天皇の都であって邪馬台国じゃないよ 伊都国が大和朝廷に服従したのはちゅうあい天皇と神功皇后が 九州に行ったときだから まきむくにあった国が伊都国に一だいそつを置いて管理していたとは 考えられないね
>>386 それじゃマトモな会話が出来るはずないだろ
根拠も出せずに叩かれるのは全部お前自身のせいだ
389 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 14:48:03.18
>>385 翡翠ならやはり主は日本海側ですよ。
また青玉なら河内に河内青玉という豪族もいるそうですが。
しかも二上山からはサファイヤまで取れます。
「竹之内」という名前は色々興味深いですよ。
390 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:50:34.33
>>386 ベンガラのことは中国では何と言っていたの?
391 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:52:26.95
豊後風土記に「昔時の人この山の沙を取って朱沙にあやかり、困りて丹生の郷という」 続日本書記に「文武2年(698年)乙西9月豊後国真朱を献ず云々」とあるが 水銀厨終了
392 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 14:53:27.93
>>389 答えになっていない
自分に都合の悪い話はそらすのか?
丹も白玉も青玉も全部九州で賄えると何度も既出だが こいつが悪あがきするのは毎回のことだな
394 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 15:01:29.25
>>390 基本赤土、仙薬扱いは神農本草経からでこれは5世紀の書物のはず。
酸化鉄は代赭石と書かれている。
395 :
水銀厨 :2011/07/02(土) 15:09:27.72
>>391 7世紀末の日本の資料を出させてもな。
記紀にもっと古い例は沢山あるよ。
>>393 一応私は大分からが女王国という説ですw
九州で全部揃おうが何も問題ないんだけどw
キリがないので終了
もう無名は相手しないよ〜
397 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 15:19:43.33
>>ベンガラのことは中国では何と言っていたの? >酸化鉄は代赭石と書かれている。 ベンガラ≠酸化鉄(黒色) ベンガラ≒水酸化鉄(赤色)
398 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 15:21:19.92
文献資料は?
399 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 15:28:13.37
もう誰か立ててやれよ そこなら文句も出ないだろ
>>383 >それこそ倭の範囲が広くなったともとれます。
>近飛鳥、遠飛鳥の例もあわせると、基準は大阪湾と考えられます。
意味不明の上、根拠皆無。
>平地が少ない、海岸や海沿いの集落なら、広範囲でその人口というのは
>充分ありえると思いますね 。大体奈良といっても
>当時は大した人口はいないでしょう。
>あそこは神仙思想に基づいて求められた祭祀都市という
>認識ですから。人が多いと逆に困りますよ。
推定されている弥生時代の人口と矛盾が出るという話だが
>>395 記紀も7世紀の文献だろうに
結論としては3世紀に九州で水銀朱を採掘した痕跡は無いって事だな。
403 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 15:39:43.02
>>365 アナタ、端から見てても恥ずかしくなるような奴だな。
言い訳にも何もならん『私はバカです』と言いたいようなレスを返すな。
404 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 15:41:39.95
つまり、吉野ヶ里は、漢鏡もでず、九州島内ですら見劣りするような遺跡だったわけだ。
405 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:14:43.77
>>403 負け犬の遠吠えのようなレスせずに、具体的に述べよ。
406 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:22:18.05
>>404 吉野ヶ里遺跡も出ていないことはない。破片だが二つ出ている。環濠内から。
407 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:26:02.82
ちなみに、吉野ケ里の甕棺からは鏡は出ていないが、剣と玉類は出ている。
408 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:35:25.24
これじゃ絶対九州説では無理だわ
409 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:35:46.61
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は、紀元前のものとされる。恐らく王族の墓だろうが、その後は墓として 使われていない。主に祖霊信仰の場として使われていた。 つまり、その後は王族の墓がないことになる。王宮と見られる建物はあるのに、王族の墓と 見られるものがないというのはおかしい。 北墳丘墓の隣の小高い所に日吉神社がある。ここがそうではないかという説もあるが、私有地なので 調査はされていない。
410 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:41:33.46
>>408 0点しか取れない畿内説が、満点取れないからといって九州説に文句を言うことはできない。
411 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 16:45:30.97
何に言ってんだか訳わからんよwwww
ぷっ、採点基準がおかしいだろ。
413 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 17:09:22.15
九州説は日本語が苦手じゃないと成れないのか?
>>413 こういう奴って大概否定するしか脳のない馬鹿なんだよ
根拠もなく否定するのなら幼稚園児でもできるんだし
何故九州説はないかという論拠と、何故畿内説が正しいのかという論拠を出してみろ
絶対出せないだろうがな
畿内説では「屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしている。」はどんな住居を想定しているのだろう.。 何千、何万あったであろう庶民の住居が見つからず、 たった一つの卑弥呼の宮殿がたまたま見つかった、ということだろうか? (ただの食物倉庫だと思うが)
416 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 17:19:39.91
いやだから南と東まつがえてちゃ日本にこれないだろっつってんの
アホか方角なんぞ知らんでもみんな海外旅行しとるやないか。
420 :
大御所 :2011/07/02(土) 18:10:06.79
畿内説がダメだということはここへの書き込みを見れば明らかである。タコには筋の通った議論はムリだな。
421 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 18:22:32.28
>>421 畿内説の人に合わせてみたんだけどわかんなかった?
ところで九州でもいいんだけどなんていうかちっこくない規模的にさぁ?
423 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 19:05:06.26
このスレ見る限り、もう九州説の先はねーな‥
>>416 それをなんで俺に聞くかも不明だし
日本語が下手なのと、九州説であることの因果関係も不明だし
別に
>>410 は日本語的にさしておかしくもない
425 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 19:10:28.14
>>394 丹之所蔵者赤 <孔子家語>
丹の蔵する所の者は赤し。(赤土の中に納められたものは赤くなる。)
丹は赤土を意味するということでいいんじゃないかな。
426 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 19:46:20.29
>>425 ベンガラでも水銀でも赤ければ丹なのだ。
鉛丹も赤色の鉛顔料をさすようだな。
>>425 その文からは丹がベンガラという意は証明出来ないと思う。
428 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 19:54:09.30
ただ「丹」とあっても、水銀かベンガラか鉛かわからないということだ。
丹は普通に硫化水銀、つまり水銀朱だろうて。 倭人伝は産物については結構詳細に書いてあるね。
三国志の中にある「丹」という単語のうち、水銀朱を指すと思われるものはない。 (調査の性質上、倭人伝を除く。ただし、倭人伝の丹も、前後の関係からベンガラと解するのが合理的)
431 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 20:02:14.60
>>427 水銀厨が丹は水銀朱に限るって考え方のようだから、そうではなさそうだと
いう意味で出したんだよ。
432 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 20:08:10.32
三品の総覧は、次のように書いている。 朱は硫化水銀であり、丹はおそらく紅柄と呼ばれる酸化鉄を指すものと思われる。 和名抄には、「丹砂似朱砂而不鮮明也」と記して朱が丹に比べて一層良質であるこ とを明らかにしている。
433 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 20:26:20.04
本日、岩戸山古墳とその歴史資料館に行ってきました。 周辺の古墳で、丹が塗られた古墳もあるようですが、 このあたりは鉄丹のようですね。 水銀朱はなさそうです。 岩戸山古墳といえば、石人石馬ですが、 兵士を模したものや、剣を模したものなどいろいろありました。 土器の形をしたものがありまして、石を加工するのが難しいのか 中に穴は開いていませんが、何でそんなものを模して 石を彫らなければならないのか、なかなか理解に苦しむものでした。 土器ならそのまま埋めればいいと思うのですが。 しかも、土器は土器で別のところで出土してるのに。 どうも、意地でも石を彫って埋めたいようです。
磐井の墓やね。 土器は壊れやすいので石で作りたかったのかな。 磐井の敗北後、石人石馬も衰退してしまう。
あそこはさ、例の裁判の様子を模したりしてるでしょ その関係で、土器も石で造ったんじゃないのかな 何かの風景を描いた一群の中の土器じゃないかな
436 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 22:03:19.73
裁判の様子を模した石人石馬は、 前方後円墳の、円墳部に隣接した四角い台地部分のようです。 円墳部に後から付けたような感じで築造されてます。 ここに石人石馬を並べ、裁判のようなものが表現されていたようですね。 さて、この古墳では、お社が二つ、頂上部分にも祀られた痕跡がひとつあります。 しかし、それぞれは微妙に動線から外されていて、 分かりやすく頂上にはいけない構成になっているようです。 まず、一番下のお社が一番立派です。何も知らないなら、ここで手を叩いて そのまま帰ってしまいそうです。 たまたま周囲を歩いたら、少し降りたところから上りの石段がありました。 石段はずいぶんと古そうでした。この先は前方部のようです。 これをさらに登って行くと、おやしろがありました。 ここでお参りして、100円入れて、帰ろうとすると、直角方向に石造りのさくがありました。 ちょっと距離があります。気がつかずに又帰ってしまうところでした。 直角方向ですから、前ばかり見ていたら気付きません。 このさきは、後円部の頂上です。どうも、頂上まで行かせたくないのかなという 印象が残りました。。
437 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 22:16:21.22
>>411 >>413 >>416 理解できないなら言い換えてあげよう。
畿内説は根拠がないから0点。
その畿内説が、九州説に満点を求めるようなケチのつけ方をするのは間違っているということ。
悔しかったら、1点でも取れるような畿内説の根拠を示してみろということ。
畿内説は根拠がないから示せない。畿内説は根拠を出さずに、ケチをつけるだけということだな。
やっぱり九州説は纒向から逃げまわってるんだね。 纒向の年代は炭素と年輪で科学的に測定されている。 箸墓は卑弥呼の墓で、かつ日本最初の古墳だ。 この結論は動くはずがない。
439 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 22:44:57.36
と、言われても、考古学者ですら駄目って言ってるんだからなあ。 君のは単なる信仰ってやつだ。
卑弥呼は台与だよ?
纒向も箸墓も、立派な史跡であることは論をまたない。 ただ、それを邪馬台国と結びつけることだけが間違ってる。
何書いてんだよ、俺orz 神功皇后は台与だよ?
443 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 23:10:51.77
>>441 邪馬台国に結びつけることはいいんだよ。結び付け方が間違っているんだ。
444 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 23:22:08.52
今日も収穫ナシか
445 :
日本@名無史さん :2011/07/02(土) 23:24:17.69
>>444 そりゃ、畿内説にしがみついていたって何の収穫もないさ。気の毒だな。
446 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 01:48:22.45
>>437 こんな低レベルのレスはめったに無い。
俺の九州説は畿内説よりはましだから、畿内説のヤツらはそれを批判するな!
てか。
にちゃんねる の九州説は大体こんな感じの滓ばかりか?
447 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 04:50:10.93
実際問題として、畿内説のレベルが低すぎだろ。 九州説の「ぼくのかんがえたきゅうしゅうせつ」すら超えられないんじゃ どうにもならん。 とりあえず、「ぼくのかんがえたきないせつ」を披露してみろや。 「どっかのえらいひと」の話で思考停止してるんじゃないか?
いや、無理にオリジナリティに拘らなくてもいいだろ。 「既存の学説が間違っている」ってのも思考停止だ。
449 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 06:46:31.92
ごちゃごちゃ言わず、理論的な面で議論したら? 九州説として、一番問題とするところ。それは伊都国の比定だ。 伊都国=怡土では、末盧国で陸行する理由がない。方角・距離も合わない。南水行もできない。 末盧国から東南五百里、佐賀市付近が伊都国だろう。 畿内説論者は、何か言うことがあるかな?
まるで九州説を代表してるような書きっぷりだ。
まず、この見解(
>>449 )は九州説の総意といかなくとも
多数説ぐらいには考えて良いのか?
先に九州説論者に問うてみたらどうなの?
消去法
452 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 07:10:38.72
畿内説論者は逃げの態勢のようだ。九州説論者だって、反対論があったら 意見を出してもらっていいんだよ。どうぞ、どうぞ。
453 :
再々度名無しで :2011/07/03(日) 07:14:33.18
>>449 >末盧国から東南五百里、佐賀市付近が伊都国だろう。
これが新しい趨勢になる。
>>450 >先に九州説論者に問うてみたらどうなの?
伊都国=前原とする九州説も畿内説と一蓮托生だ。
伊都国歴史博物館、伊都キャンパスなどと命名して、
学術社会にあってはならないフライング行為を組織的に平気でやる。
伊都国の比定地問題については九州説の大半が加担している。
この「現実」から整理しなければならない。
小さな子供の一人が、「王様は裸だよ!」と叫んだ。 ついにみなが「王様は裸だ」と叫ぶなか王様一行はただただパレードを続けた。
>>449 同相変わらずじ事ばかり言ってるwww
無限ループだな、そりゃ九州説はバカにされるよ。
456 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 07:25:47.72
>>455 いまだかってまともな反論を聞いたことがないんでね。
反論の余地がありませんていうなら、それを徹底的に明らかにして
おけばあとが楽だろ。佐賀から近畿に行くはずはないから、畿内説
は無条件降伏も同然。
そりゃ、何言われても「まともな反論」と認めなければ 脳内では常に勝利できるからな。
>>456 まともな反論と言っても君の主観だろ。
別に佐賀方面に伊都国があっても問題無い
という人もいる以上、議論は殆ど無意味では?
459 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 07:34:43.89
まともな反論ではない反論→455、457 もう少しまともな反論が書けないのかね。
460 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 07:49:36.48
九州説は伊都国の場所を比定するどころか それ以前の話で停滞する
461 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 08:31:26.22
いや、いや、伊都国=佐賀説、これは反論の余地がないということだ。 となれば、次の問題は、その伊都国から先を連続式に読むのか、それとも 放射式に読むのかということだよ。 当時の史書は、国などの位置関係を記すときに、連続式に記す場合と放射式 に記す場合とがあった。現代のアマチュアの多くは連続式に読むのが普通だ などという思い込みがあるようだが、西域伝などを読むと放射式も多用され ている。文献史学者の間では、放射式の方が有力だ。 私も倭人伝は、放射式で書いているとみる。その理由は何よりも伊都国から 先の行程記事の書き方。奴国に至るには百里、不弥国に至るには百里、投馬 国に至るには水行二十日という具合に、距離を示しているだけで、そこまで 進んだという書き方をしない。そこから、伊都国を起点として放射式に説明 していることが読み取れる。そして、伊都国が佐賀ならば放射式は当然のこと となる。佐賀は有明海沿岸、海辺へ出てきているのに、そこから奴国や不弥国 を巡り歩く必要はない。伊都国から南へ水行できるんだからね。
倭人伝の地名と里程と方位だけを際限なく議論する九州説には 未来はない。江戸時代のレベルのままだ。
463 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 08:47:29.74
倭人伝の地名と里程と方位を無視して邪馬台国を比定しようとする畿内説には 未来はない。せいぜいファンクラブだね。江戸時代のレベルにも達していない。
↑ 考古学を知らないアホウが九州説派
465 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 09:00:32.10
↑これが畿内説のレベル。
466 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 09:25:54.57
江戸以前なんて九州説自体が存在しないしなw ヤマタイは大和だって。
__ __ .: : : : : `´: : : .丶 /^l /^l /: : : : : : : : : : : : : ヽ /^l l | l | /: : : : : : : : : : : : : : : .ヽ ,' | | | | | 畿内説、無用! /: :|: : : :|: : : : | l: : : : : : .ヽ , l | | | | | ,:' : : l: :l 人: : : :| |: :_;_」: : : : .\ l | l | l | | /: : : : :∨ ─- ̄ ̄-─ ∨: : : : : ', │ l l | :._」 | /⌒) /:/: : : : :「ハ;;ハ丶 イ;;ハ/: : : : : : | ' l :.ノ | / / .イ : : : : :八 ・/: : /: : : :ノ ', ′ V / 九: : : : : : ヽ ‥ /: : / : ::州 :. / / l 州:: : : :>. ─‐ <: ノ: : 九 ヽ / ̄ / | `  ̄ ̄`ト イ´ ̄ ̄ ´ . ′ | __/ ̄\_/ \ | ', 厂 ̄`ヽ-ヘ \ ∨: \ノ八\ l. / ヽ \ ∨: /厂 ト、 〉 ', __,. < 〉 〉⌒ ∨: / l九l \ \_ / / / ∨: l l ヽ `丶 _ _/ / / ∨: l州l |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ < /州九∠ _/∨:. l l |
468 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 10:09:04.91
次の場所のみ放射式と連続式で比定すれば良いのでは そこが妥当であるなら、以下はどちらかだけで済む
じゃ、次の場所いってみよう。
470 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 16:33:36.97
一大率のもとに一旦草鞋を脱いだ使者一行は、一大率が邪馬台国本国にお伺い を立てた返事が戻るまで、伊都国に滞在したんだろう。奴国、不弥国はその間 に国々の状況視察ということで訪ねたってことだろう。奴国は筑後川左岸の大 川か城島あたり、不弥国は吉野ヶ里だろうな。 次の投馬国は、本格的な南水行だ。二十日間だから、かなり遠くまで行ったこ とは当然。となれば、薩摩川内しかあるまい。後に薩摩国府が置かれたところ だから、3世紀当時にもそれなりに地方の中心都市だったと考えられる。 最後の邪馬台国は、伊都国から水行十日陸行一月だ。これを十日又は一月と読 む説があるがそれはごまかしだな。「又」とか「或」といった言葉がないのに 十日又は一月と読むのは、目的地を先に想定し、それに合わせようとするもの で邪道だ。となれば、水行十日で上陸する地点は熊本か八代、そこから南へ陸 行一月都城盆地あたりが邪馬台国だろう。
471 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 18:08:20.71
奴国は本州に及ぶ国だよ。
472 :
日本@名無史さん :2011/07/03(日) 21:52:43.88
>>471 珍しい見解だな。本州のどこまでが奴国なんだ?
473 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 12:53:16.28
翰苑 「從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國到拘耶韓國 七十餘里」 の、「七十餘里」は韓國、拘耶韓國二点間の距離ではない。 「七十餘里」は「拘耶韓國の 海岸線長」である。
474 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 12:58:43.00
>>472 >珍しい見解だな。本州のどこまでが奴国なんだ?
尾道から庄原そして出雲と島根県太田市を結ぶ領域プラス四国。
>>474 すげーwww
邪馬台国の存在価値がないなw
奴国=根の国=出雲 だろ
477 :
水銀厨 :2011/07/04(月) 13:14:53.02
長門、穴戸という位だから、関門を奴国が支配してたのでしょう。 伊都比古がこの辺りまで来て、この国の王だと主張した 記紀の説話とも一致しますね。
478 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 13:16:00.75
>>475 名前:日本@名無史さん :2011/07/04(月) 13:07:11.53
>>474 >すげーwww
>邪馬台国の存在価値がないなw
邪馬台国とは邪馬壹國・邪馬臺國のどっちだ?
>>478 どっちでも構いませんw
それより邪馬壹國と邪馬臺國は別の国なのか?
480 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 13:27:20.94
>>479 名前:日本@名無史さん :2011/07/04(月) 13:21:28.71
>>478 >どっちでも構いませんw
>それより邪馬壹國と邪馬臺國は別の国なのか?
邪馬壹國の領域内に邪馬臺國が在る。
481 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 13:36:35.72
>>477 >長門、穴戸という位だから、関門を奴国が支配してたのでしょう
下関、長門を支配していた国は翰苑のイ妾国時世です。
魏志で下関、長門は末廬國です。
482 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 14:49:50.79
関西、特に大阪。四国なんかは、すごい・・・。 友人がいる人は調べてみて・・・。 昔からの「えた・ひにん」が、そのまま生きている。 なんと、その人たちは宇宙人とも関係があるという。。 幽体離脱も出来るとか・・・。
483 :
水銀厨 :2011/07/04(月) 17:08:06.26
>>481 関門近くまできてこの国の王だと主張した
伊都比古をどう判断するかですね。
菅首相の資金管理団体、北の拉致容疑者親族所属政治団体から派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に6250万円献金★25
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1309748129/ 現実のほうがものすごいことが起きている件について、キミはどう思う?
特捜1「献金されています!五千万です!」
特捜2「献金元はどこだ・・・!?」
特捜1「・・・これは・・・ウソだろ?総理です!総理が五千万献金しています!」
110:名無しさん@12周年 07/02(土) 08:36 GAZzjy8T0 [sage]
オバマがビンラディンの親族が属する政治団体に大口寄付してたようなものw
909:名無しさん@12周年 07/02(土) 09:55 oEGy+UI/0 [sage]
テロのスポンサーが総理大臣って…。
>25 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/07/02(土) 08:22:15.91 ID:8a/xyVGw0 [1/9]
>一瞬拉致被害者団体に献金ならまぁいいんじゃないかと思ったんだが
>よく読んだら容疑者団体ってwwwwww
>有り得ない文字に目がおかしくなったのか俺wwwww
俺もwwwwww
やっぱりな、
拉致被害者ってゆすりが目的だと
思ってたけどやっぱりそうだったのか
なんか胡散臭いとずっと思ってたけど
これで証明されたな、
時の政権からお金むしりとるのが目的の乞食
485 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 17:29:58.95
短里で矛盾なく九州内に収まることまでは確認できたとしてよいだろう。 だが、記述場所の確定や、中途からの放射説など、確認しなければならない部分はある。 これには、記紀や風土記、逸文などの補強が必要だろうな。 これらの資料でもかなり後世の資料ではあるのだが。
486 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 17:44:46.50
487 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 23:43:54.90
従来、倭人伝に従うならば、はるか九州南方海上に邪馬台国を求めなければならず、 距離と方位のいずれかを修正しなければ、列島内に比定することは不可能だ、と言 われてきた。倭人伝によるかぎり、九州説も畿内説も、ともに成立しない、と決め つけて、非常識な読替を恥じることなく続けてきたのである。 しかし、倭人伝をまったく修正することなく九州内に比定することができるという ことが明らかとなった。これは邪馬台国研究史上の革命的出来事といってよい話だ よ。
488 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 00:05:50.29
一月行を短里千里とする行程計算手法 知る限りでは数カ月前に出てきた記憶があるけど、 直接的な反論がないですね。 それから、議論の方向が変わってきたような気がします。 そう簡単には突き崩せないんでしょうかね。 何の影響もない反論らしきものは別として。
489 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 00:36:06.35
それより何の根拠もないから相手にされないんじゃないかな。
490 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 00:43:39.85
「一月行を短里千里とする行程計算手法」 「九州王朝はなかったのか?」スレに、数年前から時々書いていましたが。 「其國境東西五月行南北三月行各至於海」の東西と南北の逆読とセットで。 然しながら、まともな反論は全くありませでした。 ピーちゃんのサガミハラハラ氏なら記憶にあるかも? 東西と南北の逆読みについては、ローガン氏の反論があったことくらいかな。 これは論破しました。
反論というより相手にされてないだけですよ〜
短里説自体が伊都国と奴国を通説の地に比定して 逆算したものだからなあ。 短里という結論だけ採用して、その根拠たる 伊都国の位置をずらしちゃ説として成り立たんよな。
方位と距離は自説にかなう形で弄くれば万人に受け入れられるのは難しい 故にこれまで畿内説、九州説ともに自分達の都合の良い解釈しかできず話しは平行線である 短里説もまたご他聞にもれないかもしれないが、その範囲から邪馬台国の構成国の位地がある程度絞り込めないだろうか? このような場合、ランドマークを基点に各々の主張する場所に倭人伝の伝える行程上の国があったのか その痕跡を早く見つけるべきなのである ランドマークとは壱岐対馬 私見だが壱岐対馬まで海路が確保されているならその先の行き先は九州 まずは最初に着いた場所から検証するべきだろう
494 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 01:05:31.81
>>491 「有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里」の東西と南北の逆読みに、
ローガン氏は「周書」をもって反論したが、逆読みを突き崩せなかった。
これが唯一のまともな反論。
495 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 01:07:14.07
前スレコピペ 実際の地理に基づく行程距離より、短里は公里の1/5〜1/6の距離であると推測 周髀算經での千里=77km前後 より短里の可能性を補強 公里千里=一月行=435km、一日あたり14.5kmより一月行を補強 卑彌呼の都は久留米氏の記事より >隋書記事を付けたすと、 >@「南海行三月」から約80m/里 >A「(国境)南北三月行」から約80m/里 >B「国境東西五月行」から約80m/里 >C「西行三日至狛國」から約1000里/水行1日=80km/千里=80m/里 より、短里千里=一月行は、公里一月行の1/5〜1/6であることを補強 以上により、 行程記事をすべて短里で計測し、一月行を短里千里と換算することで、 すべてを九州内に収めることができる。 つまり、すべて短里に換算しただけで行程記事は全て説明できるのである。
当時遭難も多かった船旅を日本に着いてから多用したとはあまり思えない 九州の何処かに使節の泊があったはずで、港を探すべき
南北三月行の中に朝鮮半島南部も含んでないと当時の状況には合わないよ
498 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 01:21:44.07
>>496 >九州の何処かに使節の泊があったはずで、港を探すべき
泊は唐津古松浦湾(湖)内南岸中原遺跡
強引に俺様根拠で数字合わせしたところで、 じゃ消えた邪馬台国はどうなったの?という無限ループだな。 他の事も説明出来なきゃ最初から時間の無駄です。
危険な海路を最短にするには朝鮮経由もあるが 果たして朝鮮から船で日本に発つような魏の港湾施設と船が朝鮮にあっただろうか?
501 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 01:32:33.55
>>497 「南北三月行」は、五島から豊後水道まで。
「東西五月行」は、対馬から大隅まで。
俀國は隋の屋久島上陸に脅威を持っていたが、屋久島は俀國に含まれていなかった。
その脅威が多利思北孤の随対等外交の一因と思う。
502 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 01:36:18.28
俺様根拠かどうかは水掛け論なので、 根拠に足るかどうかは読者の判断に委ねたい。 しかし、ある程度の論拠が示されており、 過去の行程論議と比べればかなり信頼性は高いと 判断する。 今まではこの程度の論拠すら示されていなかった。 いや、そもそも九州にも畿内にも明確に収まる 理論そのものが提示されてこなかったと見るべきだろう。 納得できない不思議な解釈はどっさりあったが。
納得出来ない不思議な論が増えただけだな。
504 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 01:49:28.80
>「南北三月行」は、五島から豊後水道まで。 >「東西五月行」は、対馬から大隅まで。 各々海に至るとあるから、陸地だけで三月、五月のはずだよ。
505 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 01:57:53.45
自分は、 南北三月行、東西五月行は、タテヨコを逆にして、 そのまま九州島全体を示しているとみるが、 対馬や五島からでも、実質距離は同じだな。
そもそもその部分は使節が自分で図った距離ではなく伝聞ではないのかね?
507 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 02:26:37.91
>>502 >しかし、ある程度の論拠が示されており、
>過去の行程論議と比べればかなり信頼性は高いと
>判断する。
みんな自分の説について、そう思っているし、
他人の説については、
>納得できない不思議な解釈
と思っている。
>>502 の説も、自分で思ってるほど、他人は信頼性が高いとは思わない。
仮に伝聞だったとして陸地移動の場合、解釈の仕方に地理的要件を考慮しなければおかしい 日数が長い方が距離が長いという考え方に根本的な間違いがある可能性がある 九州は南北には行きやすいが東西は九州山脈で隔てられ、馬もいない所で徒歩しか手段がない場合を考えれば 南北三月行、東西五月行 は簡単に解決する
509 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 06:34:03.88
>>508 確かに、今の地図をみて直線距離で東西は何キロ、南北は何キロなどというのは
無意味だろうね。具体的なコース、難易度を考慮する必要がありそうだ。
510 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 06:53:54.94
>>495 >行程記事をすべて短里で計測し、一月行を短里千里と換算することで、
>すべてを九州内に収めることができる。
「一月行を短里千里と換算する」という根拠が分からんな。何かそんな文献があったのかね。
千里(80キロ)ならば、1日8キロ歩けば10日で踏破できる。一月もかかるわけがない。
海上の距離ならば、舟で2、3日だろう。必死で漕げば1日でも行けるかという距離だ。
これも一月かかるわけがない。
行ったとしても、不弥国までなんじゃないの そこから先は水行の単位が日にちになってるのだから 基本、使者だから邪馬台国まで行ったって考え方なんだろうけど
512 :
伊作 :2011/07/05(火) 07:46:28.89
3世紀末には関東にも高塚式古墳(前方後方墳・前方後円墳など)が出現する。 このことは、列島各地に見られる墓制と信仰的精神性とをもった勢力が、 はやくも進出を果たして毛人を関東以北に駆逐し、 安定基盤と安定収穫を確保していたことを示唆する。 そこから3世紀後の隋の使節が見聞した倭国の版図が、 まさか九州島だったわけがなかろう。 「隋の使節が訪問した倭国王都は九州にあった」などという、 反逆的素人研究者のバカげた仮説を信じてるバカがここに混じってるのか。 こんな理屈は、ちょっと説明すれば小学低学年生でも理解できる。 なお、版図説明(地理規模説明)でいう「行」は基本的には陸行徒歩行程だが、 河川や海峡横断を含む一括表現だ。
513 :
伊作 :2011/07/05(火) 08:13:13.41
ほれ。ちっとは恥というものを自覚しろ。 608年に隋の使節が倭国を訪れた22年後の630年に遣唐使が中国を訪れる。 そこで唐側が把握した日本国の版図はこうだ。 「その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はみな大海に至り、 東界と北界は大山があり限りとなし、山外はすなわち毛人の国」。 これが九州のことだとすれば、 7世紀の日本国の都は熊本平野だったという事実があるか。 で・筑紫、大分、日向には「毛人」がいたという事実があるか。 少しは休み休みバカをいうことだな。
514 :
伊作 :2011/07/05(火) 08:27:03.24
それにしても、九州説の底辺は頭が悪すぎる。 山一つ隔てた東側に毛人がいては安心して都をつくれないから、 早くも3世紀には関東まで部隊を派遣して毛人を駆逐する。 そうしたあとで、おもむろに大和での都建設が行なわれた。 少なくとも、九州説底辺でうごめく「ぼんくら」たちよりも、 古代人のほうが頭がいいし現実的だし戦略的だったことは事実だ。
515 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 08:30:33.09
>>510 考え方は
>>495 で書かれているので、そちらを参照されたし。
当時どのくらい時間がかかったかは議論の余地があると思うが、
歩行での旅程距離は一日当たり15キロ程度、一月なら435キロは妥当な距離である。
当時の船は風や潮任せながら、時速2ノット程度と言われる。1.85キロ×2である。
一日10時間航行したとすれば、37キロ
乗りっぱなしで24時間航行なら88.8キロである。
水行20日で投馬国、水行10日陸行1月で邪馬台国
単純計算で、740キロ+370キロ+435キロとなる。
水行陸行表記部分だけで、北海道まで行ける
ちなみに、福岡県宇美市から、畿内まで道なりで、長めに見積もって600キロ程度
細かい数値には、変更の余地はあるだろうが、これがだいたいのオーダーとなる。
放射説や併記説などを駆使すれば、どのようにもどの場所にも比定はできるだろうが、
それでは、どこに比定しても同じだろう。
北海道に比定しても沖縄に比定しても同じことである。
>放射説や併記説などを駆使すれば、どのようにもどの場所にも比定はできるだろうが、 それでは、どこに比定しても同じだろう。 同じじゃないでしょ。 それを補うのが各種文献の資料であり、考古学、出土物の解釈だろう。
>>514 何一つ裏付けのないボンクラの脳内妄想()
518 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 08:58:14.14
>>495 により短里千里を一月行とした場合、矛盾は全くない。
この考え方を採用するかしないかは自由だが。
他で矛盾が出たら意味ないでしょw
俺は九州説だが 記録に何もない単位を勝手に作られてもな 結論に嵌め込もうとするから間違いを犯したり、伊作とかいうおかしな妄想になる
521 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 09:07:26.96
旧唐書東夷伝では、倭国、日本国が並立している様が書かれている。 また、この記事で記述されているのは648年が最後の記事だそうである。 つまり、7世紀中旬までは、倭国、日本国がともに存在している。 白村江が663年である。その後、倭国が日本国に吸収されているとみてよいと思う。 それ以前に、九州倭国が畿内日本国を建国したかどうかは、知らん。 その議論に加わるつもりはない。
522 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 12:14:21.75
「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東」・・・・隋書 から、「イ妥國」の領域の南の境界は「會稽之東」である。 「會稽」は北緯30度であるから、『會稽之東』のは口之島(並びに種屋久島)になる。 「從郡至倭・・・自郡至女王國萬二千余里・・・計其道里當在会稽東治【冶】之東」・・・・魏志 から、「倭國」の領域の南の境界は「会稽東治【冶】之東」である。 「会稽東治【冶】」は北緯26度であるから「会稽東治【冶】之東」は沖縄・糸満市に当たる。
523 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 12:52:32.23
>>514 >早くも3世紀には関東まで部隊を派遣して毛人を駆逐する。
>そうしたあとで、おもむろに大和での都建設が行なわれた。
一里=1800尺、一尺≒24cmを無視し、
短里かそれに順ずる度量を発明しないと成立しない論。
>>380 古代の製鉄遺跡が阿蘇にある
これは弥生後期といわれているが
実はそこが阿蘇リモナイトの採掘場所
リモナイトは加熱すると赤くなりベンガラとなる
525 :
塩土老翁 :2011/07/05(火) 15:41:42.02
>>514 伊作氏
>早くも3世紀には関東まで部隊を派遣して毛人を駆逐する。
そうしたあとで、おもむろに大和での都建設が行なわれた。
「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺」
晋書「泰始初、遣使重譯入貢。」
この時代には、壹與の東遷が終わってた可能性はないだろうか?
倭人伝としては、張政が最後の情報だろう。
526 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 16:38:39.40
鉄器加工遺跡と製鉄遺跡を区別するのは非常に重要な事項であるが、 得てして、HPなどに書かれている資料でも、混同されている場合が多い。 今のところ、確実とされる製鉄遺跡は5世紀以降である。 書かれている資料をよく読んでみると鉄器加工遺跡を 製鉄遺跡と間違えているところがよくあるので注意されたい。
527 :
伊作 :2011/07/05(火) 17:31:17.94
>>525 >この時代には、壹與の東遷が終わってた可能性はないだろうか?
東遷が終わるのは、九州に装飾古墳が展開する時期と無縁ではない。
私の見立てでは4世紀末から5世紀前半ごろに東遷が終わる。
五王の諸国平定旅が終わり列島統一がなって、半島への武力介入がはじまる。
このあたりが東遷実現の時期じゃないか。
森某というしばしば文献に口だしする考古学者が、
臺與の晋への朝貢が張政らの帰国の時期とする歴史錯誤をしてみせたが、
滅びた魏の掾史(下士官)が晋政府のどこへ「帰還」するというのか。
こういうバカげた言説に影響されないようにしたい。
528 :
伊作 :2011/07/05(火) 17:32:24.80
>>526 それが正論。
ただし、
弥生の鉄鍛冶の中心が熊本だったことは学術的にコンセンサスができている。
529 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 17:35:23.58
>>504 >>「南北三月行」は、五島から豊後水道まで。
>>「東西五月行」は、対馬から大隅まで。
>各々海に至るとあるから、陸地だけで三月、五月のはずだよ。
『其國境』について述べているから、海陸合わせたもの。
国境は陸上にあるだけではない。海上にもある。
530 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 17:41:43.58
>>508 >日数が長い方が距離が長いという考え方に根本的な間違いがある可能性がある
『月行』は長さの単位。日数や時間とは無関係。
『里』が長さの単位であるのと同様。
10里に里(さと)10個の意味がないのと同じ。
531 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 17:52:14.40
>>510 考え方は
>>495 で書かれているので、そちらを参照されたし。
@〜Cは、地図上の実測距離(km)から求めたもの。
1月行=水行1日=1000里とすることで、1里≒80mが求められる。
なお、水行1日=1000里は魏志倭人伝から求められる。
532 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 18:25:35.13
>>526 >書かれている資料をよく読んでみると鉄器加工遺跡を
>製鉄遺跡と間違えているところがよくあるので注意されたい。
初期の製鉄遺跡と鉄加工遺跡の判別はできない。
製鉄炉の大きさはドラム缶程度の大きさだから。
スラグでも判別がつかないから。
533 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 18:27:25.00
誰だよ中国にもない単位を勝手に開発する奴はw
534 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 18:30:14.34
>>532 痕跡が少なければ判別はできないが、たたら式、高炉式が確認できれば
製鉄遺跡であると判断できる。
温度だけではなく、酸素コントロールが必要なので
炉の形状が残っていれば判別しやすい。
535 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 18:34:38.51
中国の文献に「月行」なんて距離の単位があるのかよ?おい
>>524 確かに製鉄する際に火で地面が過熱されるからそこがベンガラの産出地になった可能性はあるな
>>531 時間と距離を同時に現すような便利な言葉はない
仮に1日に同じ速度で進む場合を仮定し単位を設定したとしても、現実には日本には山や高地があり進める距離は大きく違う
つまり机上の空論
結論に当てはめようとするからそんな考えが出てくる
地理的な条件で進む距離はまったく違うのだ
海路についてもそれは言えて当事の黒潮などの海流の状況でも進める距離は違うということだ
538 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:04:33.58
だいたいその当事測量したわけでもあるまいに 九州の東西南北の距離がわかるわけがない 現地で東西・南北の距離を聞いて答えられる奴がいたのか? 距離はわからないが行き来するのに5ヶ月くらいと3ヶ月くらいかかるということだろ 途中山岳コース等の難所があれば当然距離が短くても時間がかかる そういう確定しない情報を元に距離の単位を作り出すとかご都合主義すぎるな
>>487 > これは邪馬台国研究史上の革命的出来事といってよい話だよ。
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里なら短里で九州内に収まるね、という話になるのであって、
フェニックス@日向厨は女王国と邪馬台国は別物、一万二千里は帯方郡から女王国の国境までの距離だというんだから、
逆に短里は関係なくなるじゃないか。
フェニックス@日向厨説では伊都国から水行十日陸行一月の距離があらためて問題になってしまうのであって、
せっかく短里で九州に収まるといってるものを御破算にしちゃうんだよ。
540 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:13:33.08
隋書に水行三月行の記載がある。実際には240キロ程度の距離である。 240キロを三月、90日もかけて移動するとは考えにくいだろう。 実際には様々な要因で距離が変化するだろうが、 一月行と読者が読んで想定できるだけの距離はある程度決まっていないと 文献に記載する情報の意味をなさない。 一月行は距離の単位として使われていると考えてよい。
541 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:17:45.67
隋書一月行の距離を倭人伝でも採用する、とすればいい。 たまたまそれは、短里千里に近い数値だったということだ。
542 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:34:49.67
>>515 >>495 を読んでも分からんのだよ。一月=435キロは妥当な距離というなら、短里の一月行は
五千里ぐらいにせんと計算が合わんだろ。ところが、短里千里も一月行だという、何でだ?
543 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:47:41.39
>>539 >帯方郡から邪馬台国まで一万二千里なら短里で九州内に収まるね、という話
そんな話に頼って九州説を説こうなんてのはごまかしだよ。
邪馬台国までの行程は、あくまでも水行十日陸行一月だ。万二千里は邪馬台国までの話
ではない。短里で考えるべきは、末盧国東南五百里の距離、周旋五千里の距離、東渡海
千余里の距離だ。もちろん、女王国国境までの万二千里もそうだがね。
伊都国を正しく比定すれば、誤魔化し無しで九州内に収まる、そこが革命的なんだよ。
>せっかく短里で九州に収まるといってるものを御破算にしちゃうんだよ。
御破算にしたってちゃんと収まるんだからいいじゃないか。万二千里に頼った読み方は
どうみてもまともじゃない。
544 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:48:28.10
>>542 公里435mを短里77mとして、
同じ割合で小さくしたということ。
実質的な一月の旅程が435km程度で、これはほぼ公里千里と定義される。
ここで、一月行は距離の単位として定義される。
魏の国内では統一令が出され、公里の使用が強制されたが、
魏の国外で強制力が効かないところでは、
相変わらず周の時代の里程が使われ続けていた。
一月行千里も、短里千里に置き換えられたということだ。
545 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 19:50:24.62
水行10日 帯方郡〜狗邪韓國:7000里 狗邪韓國〜末盧國:3000里 合計10000里=水行10日 陸行1月 末盧國〜邪馬壹國:1000里 内訳 末盧國〜伊都國:500里 伊都國〜不彌國:100里 不彌國〜邪馬壹國:400里(魏使の推定値) 水行20日 帯方郡〜末盧國:10000里=水行10日 末盧國〜投馬國:水行10日(魏使の推定値) 推定の根拠 邪馬壹國比定地:筑後平野の内陸部 投馬國比定地:筑後平野の沿岸部
546 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 19:56:26.24
隋書の一月行は周髀算經での千里に近いということはわかっている。 そのため、一月行=千里と仮定すると、 不弥国まで10700里 投馬国まで水行二十日=666里 邪馬台国まで水行十日=333里 陸行一月=1000里 より、合計12700里となる。 これは邪馬台国まで、万二千余里と矛盾しない。 このことも、一月行=千里、の補強材料と言えるだろう。
547 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 20:03:35.63
ただの推論だが、 投馬国と邪馬台国を放射式で考えれば、投馬国の距離を入れる必要が無くなる。 不弥国まで10700里 邪馬台国までの距離は、12033里となり、 邪馬台国まで万二千余里とほぼ完璧に一致することになる。 ただし、放射式であるかどうかはわからない。
548 :
ローガン :2011/07/05(火) 20:08:06.42
>>490 >東西と南北の逆読みについては、ローガン氏の反論があったことくらいかな。これは論破しました。
懐かしいなあ。「九州王朝説撲滅委員会」以下コピー
739 : ローガン : 2009/02/19(木) 23:18:02 : AAS
>>738 > 其の文献の出典は何ですか?
●周書です。
> その文献は、百濟の南は海となっていますから、 新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、 唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。
●え〜と出来たのは、貞観2年(628)だったと記憶してます。(違ったらごめんなさい)百済滅亡は確か餘豊2年…唐高宗の龍朔3年(663)
>「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か?
●隋書成立の8年前、隋書と同じ総監房玄齢。
741 : 九州王朝大好き : 2009/02/20(金) 13:06:56 : AAS
>>740 偽名ではありません。最近老眼が進んできただけです。
>>739 北周書は検討したことがありません。
これから検討します。
北周代の百濟は少なくとも前半(570年頃)までは南は對馬海峡に面しています。
そしてその地形は縦長になりますね。
742 : ローガン : 2009/02/20(金) 14:59:58 : AAS
>>741 > そしてその地形は縦長になりますね。
その縦長の地形をさして「東西四百五十里南北九百餘里」と隋書とほぼ同時期の史書に書いてあるという事です。
よって隋書倭国伝の「東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が五ヶ月で南北は三ヶ月…と普通に読めばいいのです。簡単な事ですね。
↑ ↑ ↑
「これは論破しました。」って笑っちゃう。
549 :
九州王朝大好き :2011/07/05(火) 20:38:33.79
>>548 北周書は南史のカーボンコピーだから、北周書は論拠にならない。
と言うことで、その後論破されましたね。
ポイント
隋代の百濟の南側は新羅であったこと。西南海岸部は除く。
即ち、百濟の内陸領域は錦江流域だけになっていた。
しかし、よく古い記事をとってあるね。 うかつなコトは言えないな、こりゃ
>>548 これで論破なんて‥よく恥ずかしくないねw
そりゃ九州説なんてまともな候補地出来ないよ。
>>543 > ちゃんと収まるんだからいいじゃないか。
「ちゃんと収まる」はいいとして、
「伊都国から水行十日陸行一月の距離」がどれだけかわかるというのかい?
553 :
九州王朝大好き :2011/07/05(火) 21:44:50.51
∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵ 『 随書の半島世界 』 ∵∵∵┏┛〜┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵ ∵∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜 ∵┏┛〜〜┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛〜〜〜〜〜〜〜 ┏┛〜〜┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜┏┛∵┏━┛〜┗┓高麗∵∵│2000里┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜┗━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵││∵其國東西二千里南北千餘里 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵◎平壌││∵┗┓〜都於平壌城〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛←1000里→┤↓∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠──────┴┴∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┓∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜 『 随書の半島世界 』 〜〜〜〜┃∵∵∵∵新羅∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛(旧百濟)∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜┬─────┠────┐∵│∵∵其國東西四百五十里 〜〜〜〜 450里〜〜〜百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵┃〜南北九百餘里〜 〜〜〜〜〜〜┼─────┠────┼─┘新羅┃南接新羅北拒高麗 南海行三月〜↑〜〜〜〜〜┠─900里 ┤∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜 有[身冉]牟 〜│〜〜〜〜┏┛∵∵新羅∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜 羅國〜〜〜三月行〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜貊國●〜│〜〜〜┗┓∴┏━━━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜●〜〜│〜竹島●┗━┛〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜 貊國●〜〜〜│〜〜(倭) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜↓〜〜├1000里┤〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜┼──┏━━━┓〜[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里 〜〜〜数百里┴──┗━━━┛〜[身冉]牟羅國=耽牟羅国(発音同一)
554 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 21:58:05.94
実にゲージツ的なマップだ
王朝さん生きてたんだw
556 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 22:07:04.84
>>552 >「伊都国から水行十日陸行一月の距離」がどれだけかわかるというのかい?
水行二十日の投馬国が川内、水行十日の上陸地点はその半分、そして陸行一月
で行き着く先は都城だろう。それ以外のところでは、別ルートの方が便利だと
かいろいろ不合理な点がでてくる。
人によって詳細は違うにせよ、里程の証明がなされているように見える。 こういうやり方は、畿内説では無理だなあ。 あとは、なかったことにするくらいかな
558 :
伊作 :2011/07/05(火) 22:18:04.24
>>535 >中国の文献に「月行」なんて距離の単位があるのかよ?おい
>>538 >九州の東西南北の距離がわかるわけがない
>現地で東西・南北の距離を聞いて答えられる奴がいたのか?
「倭人は里数を知らず、ただ日をもって計る」。
東西5月行は、関東から九州までの版図を日数の行程でもって答えた。
559 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 22:40:12.13
>>559 確かに本州と考えれば倭人伝の記述はないなw
その当時九州山脈越えるなら特定のルートしかないだろうが端から端までなら5ヶ月かかっても不思議はないな
561 :
ローガン :2011/07/05(火) 23:16:15.47
>>557 >こういうやり方は、畿内説では無理だなあ。
その通りだと思う。自説を述べるのは結構。しかし、そのためとはいえ、
なんで、都合に合う度を発明してまで……というのが我々の正直な感想。
562 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 23:22:22.77
>都合に合う度を発明してまで 発明したわけではない。倭人伝に書いてあるのをそのまま読んだだけ。
563 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 23:27:35.68
ひと通り根拠も書いてあるからね。 根拠のない里程論は出しにくくなるねえ。 よっぽど説得力ないと無視されそう。
>>556 > 水行二十日の投馬国が川内、水行十日の上陸地点はその半分、
> そして陸行一月で行き着く先は都城だろう。
それじゃ結論先にありきだ。
川内も都城も『魏志』倭人伝から導き出されたんじゃないだろ。
565 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 23:31:05.92
九州説スレは元気だけど、他のスレはネタ切れなのか 余り書き込みがないね。
>>562 皆そう言ってる訳ですがw
根拠というのは少なくとも他の資料に例があるとかですよ。
567 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 23:41:24.38
>なんで、都合に合う度を発明してまで……というのが我々の正直な感想。 短里など考えていない説もあるね。誇張説だ。里数も日数も戸数も5倍に誇張されているとする。 帯方郡から狗邪韓国を経て末盧国までは1万里ではなくて2千里(約870km)、末盧国から邪馬台国までは2千里 ではなくて4百里(約170km)である。水行二十日は水行4日、水行十日陸行一月は水行2日陸行6日である。 また、奴国の戸数2万は4千、投馬国のそれは1万、邪馬台国のそれは1万4千である。他の国の戸数も記載値 の1/5である。 このように5倍に誇張された数値で書かれているとすれば無理無く九州に納まる。
568 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 23:42:18.16
>>564 >それじゃ結論先にありきだ。
そうではないな。倭人伝の行程と現地の状況とを照らし合わせて合理的に
比定したまでのことさ。
対馬国から南一海を渡る千余里だってまっすぐ南の海中ではなく島をみつ
けて一支国を比定してるだろ。それと同じだ。水行二十日したあたりで、
5万戸の国があったと思われるところ、それを投馬国に比定したまでのこと。
569 :
日本@名無史さん :2011/07/05(火) 23:45:35.79
>>567 とりあえず周髀算經を短里の根拠のひとつにしているものは多いと思うが、
これの根拠はどういう論理展開で持っていく?
570 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/05(火) 23:57:10.72
@隋書「其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海」と A新唐書「日本・・・・・・東西五月行 南北三月行」の比較 @は俀國の国域の周りは海である。国域の南北と東西の比は5対3である。 一月行を1000短里とすると、俀國は九州島とその周辺諸島であると見做せる。 Aは日本の国域を示している。国域の南北と東西の比は3対5である。 一月行を1000長里とすると、日本は東北地方南部以南の日本列島であると見做せる。
571 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 00:01:31.72
>>566 >根拠というのは少なくとも他の資料に例があるとかですよ。
そんな必要はないな。倭人伝自体に「東夷においては60歩をもって1里となす」
と書いてあったらどうかな?それだって根拠になるだろ。ということは、他の資料
なんてことは要件ではないってことだよ。
現実の倭人伝には、上のように親切な注意書きはない。しかし、韓は方四千里とか
末盧国までの各里数とか、具体的に記してある。それをみれば、倭人伝の書く一里
がどの程度の長さか分かる。それで十分なんだよ。
東夷の尺度で魏書が書かれる事自体不合理だな
>「東夷においては60歩をもって1里となす」 そんな事書いてあったら根拠なんて要らないのは当然だろ‥ 正直皆呆れてるよw
574 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 00:18:18.84
そんなことはない。東夷の尺度をいちいち魏の里に換算していたら、面倒な上、やたら端数 がでて妙なことになるじゃないか。もともとが大ざっぱな数字なのに、端数を細かく書いて いたら極めて正確な数字なのかと誤解されかねない。 試しに換算してみな。馬鹿馬鹿しくなるから。
575 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 00:19:40.28
>そんな事書いてあったら根拠なんて要らないのは当然だろ‥ 根拠が要らないんじゃない、それが根拠なんだよ。
>@隋書「其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海」 @は俀國の国域の周りは海である。国域の南北と東西の比は5対3である。 一月行を1000短里とすると、俀國は九州島とその周辺諸島であると見做せる。 東高西低の地形が抜けてるな、九州では無理なので妄終了です。 二度と妄想は止めような、恥ずかしいから。
俺は九州説だが妄想を何時までも主張する短里説は見てて痛いわ 九州説自体がトンデモに見られかねん 中国の文献や尺度のどこにそんなものが出てくる? いい加減に絵に描いた餅と気付け あと東高西低の地形なら長崎-佐賀・福岡の位地がそれに当たるな
何で中国の記録書に倭人の尺度で書く必要があるんだ?
短里の単位となる大元の根拠がなく説の信憑性自体が薄弱 結論から行程を合わせるようなやり方では皆さん騙されない
581 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 00:52:59.54
そう、単に倭人伝の書く一里がどの程度の距離かを考えればいいんだよ。
測量したわけでもない2000年前の住人が正しい寸法出せるわけないだろ 故に倭人は里数を知らないと書かれてるんだよ ましてや九州全体の東西南北の寸法など知るはずがない 実際に行き来する日数なら答えられるだろうが そして移動日程は地理的条件が大きく左右する そのようなアバウトな日数を無理やり作った短里の寸法に合わせる自体が結論ありきの落とし穴に嵌まっている
583 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 07:07:35.56
短里の根拠なんてものは、分かった方がいいだろうが、分からなかったところで どうということではない。短里の1里がどの程度の距離か、それが分かりさえす ればそれで結構だ。 日程の日数(投馬国、邪馬台国)は、里数が良く分からなかったから日数で書い たんだろう。無理に里数に換算しないことだ。常識的な範囲で考えればいい。
584 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 08:14:20.53
東高西低なら、福岡から有明海沿い全域でそんな地形だな。 筑後から熊本なら、東に山、西に海と、わかりやすい地形だ。
585 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 08:20:31.28
畿内説では里程の記録が正確ではないという立場が 多いのが普通だが、それによるトンデモ解釈が行き過ぎて、 でたらめでないと困るところまで飛んでしまっているようで。 誤差があるのは当然だが、ある程度は文献に沿う必要が あるとおもうのだがな
>>584 移動に3、5カ月もかからないし四方海でもないな。
まぁ無駄な時間を費やすなよw
>>586 バカだろ
東高西低は邪馬台国の邑がある場所の特徴を表し
四方海は九州島全体の事を表してるんだろうがよ
588 :
水銀厨 :2011/07/06(水) 09:24:20.21
曲解もいい加減にした方がいいですよ。 前も指摘しましたが、垂仁天皇の時代に 伊都比古が長門辺りまでやってきて、 この国の王は俺だと主張しています。 つまり関門を管理しているのです。 九州内に倭国の範囲を収めるのはこの時点で不可能ですから。
山口は九州圏というのは昔から常識
590 :
水銀厨 :2011/07/06(水) 09:32:51.18
つまり長門、山口が奴国と女王国との境界線でしょう。 倭人伝の奴国と女王国との境界線はこの辺りで 記紀との記述とも一致しますね。
>伊都比古が長門辺りまでやってきて、 この国の王は俺だと主張しています。 つまり関門を管理しているのです。 馬鹿じゃないのか? 東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚●有千余戸●
位置関係もわからんのにまた我田引水か
593 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 09:55:09.89
>>588 つまり、そのころは九州奴国、伊都国勢が関門海峡を管理していて、
大和勢の支配下には無かったということだよな。
まあ、それは可能性としてはありだろう。
奴国、伊都国勢が共立30カ国の一つで
邪馬台国が熊本あたりにあることと矛盾するものではないし。
熊本かどうかは知らん。念のため
594 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 10:03:49.39
九州勢が関門海峡を握り、そこを足がかりにして じわじわと宇部や長門のほうに手を伸ばしていたのかね。 で、垂仁天皇の時代の境界線が互いの勢力の境目だったんだろう って、なんだか東遷説みたいになってきた。 自分は東遷説を支持しない立場なのだが。
595 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 10:05:13.46
日本語が変だ。
>>594 で、垂仁天皇の時代、そのあたりが互いの勢力の境目だったんだろう
596 :
水銀厨 :2011/07/06(水) 11:03:00.22
垂仁天皇の時代ならモモソ姫の後だからな。 そのモモソ姫は丹後畿内から瀬戸内に伝承を残しているからね。 また伊都比古の存在はトヨが立つ前後に 男王が立つが再び争いが生じるという記述にも合致しますからね。 まぁ瀬戸内に勢力争いがあったのは 文献記録や考古学上でも否定出来ないですから。
>また伊都比古の存在はトヨが立つ前後に 男王が立つが再び争いが生じるという記述にも合致しますからね。 やっばり馬鹿だった。 話にならん。
598 :
水銀厨 :2011/07/06(水) 12:15:35.14
また中傷ですか…情けないですね。 九州説に見切りをつけて転向した理由の一つですよ。 口は悪いが伊作さんは勉強してるなと思いますが。
599 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 12:59:26.85
>>590 >つまり長門、山口が奴国と女王国との境界線でしょう。
>倭人伝の奴国と女王国との境界線はこの辺りで
「丗有王皆統屬女王國」「自郡至女王國萬二千余里」
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」の、
女王國とは邪馬【臺】國で、
「自女王國以北」の 「自女王國」とは「女王卑彌呼の共立統治國」。
故に、
魏志に於いて、奴國と「女王國=邪馬【臺】國」の境界は存在しません。「奴國」と境界を接するのは、「不彌國・投馬國そして伊都國」です。
勿論、奴國は「女王卑彌呼の共立統治國=自女王國」です。
600 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 13:12:55.85
>>558 :伊作
>「倭人は里数を知らず、ただ日をもって計る」。
>東西5月行は、関東から九州までの版図を日数の行程でもって答えた。
「其國境東西五月行南北三月行各至於海」
は、北は北緯38度、南は北緯30度の列島領域であり、プラス半島の海域をも含む。
601 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 13:32:40.20
大海之中という記述はそこがアイランドという認識があるんだろ 本州は北は蝦夷であってその先がどうなってるかなんてわからない だとすれば九州か四国なんだが 中華の人間が大海と呼ぶのは東シナ海一帯 瀬戸内が大海とは呼べない つまり九州以外にありえないな
602 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 13:38:07.96
意味わからんw
603 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 14:48:20.76
本州が島かどうかを中国が知るのは 宋史以降ですな。
604 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 15:08:36.16
魏志倭人伝の倭人についてシナ人には沖縄の情報も入っていて、倭国は南方に伸びているはずだという先入観があったんではないか。 方角について辻褄合わせをしているように思える。黒歯国とか朱儒国、裸国などというのも沖縄を連想させる。
605 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 15:28:17.02
>>604 先入観じゃ無くて、最初から血統的に南有りの物語だよw
こんなでっち上げ物語に大和民族は何時迄も関わらん方が後々の為だ
>九州説に見切りをつけて転向した理由の一つですよ。 そりゃ良かった。二度と戻ってくるな。 >口は悪いが伊作さんは勉強してるなと思いますが。 無駄なことだ。 馬鹿の考え休むに似たり。
607 :
水銀厨 :2011/07/06(水) 15:54:39.37
>>599 巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。
此れ女王の境界の尽くる所なり。
こういう文章もありますからね。
これを播磨、吉備、穴戸(宇部?)そして奴国とも比定できますな。
正に瀬戸内の本州諸国の並びで、境界が奴国なら
記紀での伊都比古の記述とも一致しますから。
>>606 いや、来ますよw一応大分も女王国に比定してるからね。
まだまだネタは一杯ありますから。
608 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 16:27:07.24
もはや、距離方向関係なしで、名前すら似てないから、 どこにでも比定出来ますねえ。 日本海側はどうですかね。 どこかのホームページで、松浦から延々と20キロ間隔くらいで 一本線で、倭人伝記載国を比定したとこあったねえ。 そんな感じでしょうかね。
>>604 でっち上げではないだろうな
九州の縄文文化はムー大陸にも比されるスンダランドから移住してきた民族が主になっていたと言われている。これが5万年ほど前
海侵が進む大陸から島伝いに北上したのが我我の祖先。沖縄の海底遺跡はその名残ともいえる
その後九州まで移動した海洋民族は、上野原遺跡に代表されるような定住集落を既に9500年前に形成
まさに縄文文化の中心地であった場所だ
しかし悲劇が彼らを襲った。鬼界カルデラの大噴火だ。これが6300年前。
南九州の縄文文化は壊滅した。火砕流の痕跡があるのは桜島より南の大隈と鹿児島の半島であるが
高温の熱風はその先の上野原遺跡にも到達してなぎ払っている
あたりは焼け野原になった上その後降り積もるアカホヤと呼ばれる火山灰に埋もれている
南九州の自然が回復し再び人が居住できるようになるまで500〜1000年ほどは必要だっただろう
しかしこの南九州の縄文文化は滅亡はしていなかったという見解がある
地層を分析すると喜界カルデラの噴火は数回に分かれていて
最初の噴火の際はまだ大規模火砕流が発生する破局的な噴火ではなかったらしい
天を突く噴煙と降り積もる灰と火山礫から逃げたであろうことは想像に難くない
なぜならその年代以降この南九州の縄文文化独特の石器が四国-近畿-中部-関東と海流の流れを北上するように見つかっている
つまり縄文-弥生-ヤマトに繋がる日本の祖は火山の大噴火をきっかけに広がっていった九州であるのだ
偽書といわれる上記にある神武以前のウガヤフキアエズ王朝の王たちの名前は
もしかすると南九州に花開き数千年にわたって定住していた縄文人の記憶が伝わったものなのかもしれない
つまり天孫降臨のニニギの東征は6300年前の鬼界カルデラ大噴火の際の出来事であり
天岩戸の話は日食ではなく火山の大噴火による日光遮断の寓話なのかもしれない
その後九州で生き延びた彼らの子孫が神武に至る日向の一族とも取れる
何故神話の地が九州にあり神武東征を用い日向とヤマトを神話で融合したのか?
その答えは遙か数千年前の九州の縄文文化にあるのではないだろうか
九州説終わったな。
いや「ムー大陸」とか「スンダランド」が出てくるあたり九州説の真骨頂。 九州説始まったな。
612 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 17:04:31.40
自演乙
613 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 17:08:21.96
日本人のルーツは九州だな。ワクワクするわ。 もはや邪馬台国などチンケな問題だ。畿内説でファビョる奴らの祖先も九州。 九州最強!
>>611 南方起源説も勉強しない奴に邪馬台国を語る資格などない
615 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 17:15:53.32
海底遺跡って自然の物だって結論出たはずだけど
616 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 17:23:04.00
そんな結論出てないだろ あんなもんが自然に出来るはずがない
618 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 18:12:00.21
九州最教 東遷宗 九州王朝宗
619 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 19:27:01.22
以前から感じていたことだが、 水銀厨氏は、印象的な見方だけで直感を語るから 同じ材料で逆の結論を導き出されてしまう。 一つの直感を語るのはいいのだが、それから導き出された結果を、 別の根拠と整合させて裏を取らないと、読者に何の影響も与えないと思うよ。 スルーされるだけ。 本職と関係があるようなことをほのめかしているけど、 このやりかたでは、論文にも何にもならないよね。 直感や発想はみんなたくさん持ってるんだけど、 それを、他人に見せて説得力を持たせるなら裏を 示せなければならないんだよ。
620 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 20:13:59.57
そうかな?神武東征とか地名の類似とかを 根拠にしてる論もあるくらいじゃねーの?
>>609 スバラシイ
半島起源などというアホな妄想を鬼海カルデラが吹っ飛ばしてるなw
622 :
伊作 :2011/07/06(水) 21:07:21.71
623 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 21:30:44.83
>>622 ゴミクズ森村伊作大センセイ
以前にふと思ったんだが…その『民族の指紋』と言うタイトルはお前が考えたのか?
恐らくそれを見た(古代史に興味を示すような)人間の多くは
グラハム・ハンコック『神々の指紋』を連想すると思うのだが(爆
624 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 21:40:50.01
>>611 >いや「ムー大陸」とか「スンダランド」が出てくるあたり九州説の真骨頂。
あと「アトランティス」とか「レムリア」とか「ゴンドワナ」とか…
また「シャンバラ」「アガルタ」も欲しいw
そのうちUFOから舞い降りてくる遮光土器にそっくりな宇宙人も登場願いたいところwww
(古本屋で見たナントカ三郡誌と書かれた本のカバーにそんなデザインがあったような・・・)
>>624 お前はスンダランドを架空の物語みたいに考えてるのか?
氷河期が終わって海侵が進む前には陸地だったのは学術的にも考証されてる場所だぞ
627 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 21:56:30.66
>>625 はいはいバカに言われなくともそれぐらいは知っている。
ちなみに先に出した「ゴンドワナ」も学術的に考えられている。
もう一つ「パンゲア」も追加しておこうwww
628 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 22:01:27.60
>>620 類似の用語を結びつけるだけなら俺だってできるぜ。
それだけで論文書けるなら、俺は今頃学者になってるはずだが。
629 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 22:02:25.77
亀だが…
>>333 >石野
>箸墓は3世紀末の大王墓である。その築造年代は、一部に3世紀中葉説
>があるが容認できない。
>寺沢も確か否定してたな。
そう布留開始が3世紀の中葉か後葉と言う論争で
まして庄内の開始時期をも4世紀に持っていこうなんて言うのは
まあ極々少数派。
うち邪馬台国九州説が絡んで必死のパッチな先生方もいるがwww
>>627 でたな中年ニート草生やしハゲ 九州大王朝のどこがまちがってるのか耳をそろえ言ってみろ
言ってみるんだああ これほどの理は始めて聞きし大古田
古田いよいか 住みよいか
音に聞こえし大古田 ニートクズはこの御名を聞いただけで恐れおののき 三歩下がって師の影を踏む
はははははははは
631 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 22:03:16.24
632 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 22:07:51.21
>>630 どうせ中身は「筑紫の民」なんだろう?
その情けない粘着ぶりは同一人物と思うんだがw
叩かれてもどうせ「サイキバ」と言うハンドルだから自分にはノーダメージと言う計算かな?w
別に古田の名前を出さずともお前らの殆どは「九州王朝」「大九州主義」「九州版皇国史観」の幻影に囚われたキチガイの集団だからw
>>632 ふざけるんじゃあない。九州王朝偉大なり 大和朝廷はこそ泥のような簒奪者なりいい
法隆寺 東大寺 薬師寺 長谷寺 興福寺 桂離宮 伊勢神宮 これらすべて九州倭国の
地からの移築であり 九州王朝の歴史を闇に葬るために大和朝廷は徹底的な焚書を行い
何千もの人の口を封じて歴史を塗り替えたのだ
こんなことが許されるものか
いやはや日本人の起源について話が出たスンダランドに ゴンドワナとかパンゲアとか持ち出す馬鹿がいてワロタw
古田先生は大智だ 古代史の神だ 草生やしニートに何がわかる何がわかる 何がわかる ニートは刺身にタンポポでものせておればよいのだ ああ わが心の大九州 君が代は九州王朝の歌だこの不敬者め
636 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 22:21:36.11
>>633 筑紫の民
日帝三十六年!イルボン許せないニダ!!
謝罪と賠償を!! <丶`∀´>
…にそっくりだなw
筑紫の民は大和にコンプレックスでもあるのかい?www
まあ客を応接室に通した場合でも先に入室しておくのがマナーとか
やっぱ異文化なのかもしれないがwwwwww
ははははははははははははは 明治時代の選定経過によれば君が代は九州に残存していた歌であり 志賀海神社の「山ほめ祭」では神に捧げる歌であった ここでいう「君」とは九州王朝の諸大王のことをいうのだ わかったか わかったか わかったか ははははははははははは
あ 九州偉い 九州王朝偉い 古田先生は偉い 偉い 偉い 偉い 偉い 九州王朝偉大なり ああ偉大なるかな東海道より 偉い エラスムスより偉い かの「源氏物語」も実は九州が舞台であったのだ 筑紫偉い 筑紫偉い 九州万歳 九州万歳 今の天皇家の歴史はニセ歴史たい
あ 祭器をする場が祭器場で 祭祀という言葉は大和朝廷の用語だ ははははははは 九州王朝では 神を祀る神聖地が祭器場 真性は草生やしニートコテ
秘儀、ほめ殺し
642 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 22:38:11.33
>サイキバU 中々良い切れ具合だwww この芝居ッ気はもしかしたら・・・と考えなくも無いが とりあえずそのキャラで突っ走れwwwwww
九州王朝とかそんなトンデモこじつけなくとも九州には日本史をひもとく貴重な移籍が眠ってるのに それで九州の学術的調査が30年は遅れた 罪深いわ
644 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 23:11:43.57
>>643 まあ九州王朝説と言うより邪馬台国論争そのものが
実は九州の考古学にとって何の利ももたらさなかったんだと思うが・・・
それでも「30年遅れた」というのはどうか?
邪馬台国論争の喧騒を他所に地道にやってたと言う印象だが・・・
予算が「邪馬台国」関連に大きくとられたと言うのはそんなにないと思うがどうかな?
まあここのゴミクズレベル九州説の被害妄想だと
今でも畿内の考古学に九州の考古学の予算がごっそり分捕られているらしいがwwwww
645 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 23:49:46.14
もはや、畿内説連中は論争する気もなくしたような感じだな。 次にスレたてするときは、「畿内説の断末魔と絶望を楽しむスレッド」 とでもしとくか。
そりゃ宇宙人とは論争出来ないなw
647 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 06:28:08.26
伊都国=佐賀説に基づき、伊都国から放射式に進むとどうなるかを
>>470 で示した
が、それに対する反論はまったくないということでいいのかな?
反論があったら遠慮無く出してね。
もはや九州説の恥だなw
649 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 08:28:43.79
そうでもない
650 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 08:40:49.58
素直に卑弥呼の用いた鬼道が、女シャーマンが神憑りになって口にする 神託のことなら、宇佐が有力だと思う。日本でそういう神事が行なわれていた 場所は宇佐だけだし、文献でも道鏡事件で和気清麻呂が神託を受けた話がそれを 物語ってるよね。 又全国十数万ある神社の四分の一が八幡宮で、その総元締めが宇佐八幡宮であり この地が太古以来の聖地だったことが分かるね。 卑弥呼が死に政治状況が変わり宗教的な信仰だけが神社として残った。 こういう仮説はどうだろうか。
651 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 08:59:33.36
宇佐が卑弥呼に関係すると言う説はよく出てくるね 豊前、豊後の中心に当たるところだし、 トヨさんのいた場所かもね 卑弥呼の時代は九州内だと思うけど、 まとまって戦がなくなれば、余力も出来て 広がる力もでてくるだろう。 宇佐は瀬戸内海を意識した場所だし、 水銀廚氏の書き込みをみると、 奴国と当時の天皇が争っていたみたいだから、 トヨの時代に版図を広げて行ったのかもね
>>647 南方(侏儒国)に明るく、風俗は海洋民族を思わせるけど
あえて都城盆地なのは何故だろう
653 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 09:16:33.89
記述通りに辿ればそのあたりに来るもんねえ。 日向の神武を意識してるのもあるのかな。 自分は人吉盆地に付いたが、それほど強く主張するつもりもない。 九州はそれらしい弥生遺跡なんてどこからでも出てくるから 正直、決定打がない。環濠集落も周辺探せばどこかにある。 途中の水行では当然海で生活している人を見る機会は多いだろう。 国の主要な部分は熊本で、卑弥呼の王都だけ、 あのあたりに点在する盆地の何処かにあったかもしれないが、 余り根拠はない。
654 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 10:41:06.94
魏志倭人伝の方角がおかしいのは九州西岸の複雑な多島海地形を巡って方向感覚が狂っているのかも知れんな。
655 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/07(木) 12:05:27.42
>>647 反論します。
魏志倭人傳 地図
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │郡⇔不彌國(女王國):12000餘里
〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜 │郡⇔投馬國:水行20日(有明海・島原湾・天草灘・角力灘・対馬海峡・韓沿岸)
〜〜〜〜〜一大國┃◎↓壱岐〜〜〜〜〜 │郡⇔邪馬壹國:水行10日(韓沿岸・海峡)と陸行1月(倭地)
〜〜〜〜 [一支國]┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜┏━┛∵┗┿┛観音峠∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │ [城郭位置]
〜〜〜〜〜┃∵末盧國◎→▲→┐∵∵∵∵∵∵∵倭∵∵∵∵∵ │末盧國:唐津鏡中原遺跡
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:惣座遺跡(肥前國庁址付近)
〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國を構成する国
〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里遺跡
〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃│●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川中心部
〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃●投馬國∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米南部
〜〜〜〜〜〜角┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國 :佐賀市中心部
〜〜〜〜〜〜力┃∵┃┗┓∵┗┓有〜┃∵∵┌─────── │
〜〜〜〜〜〜灘┗┓┃〜┃∵∵┃明〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛海〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:方保田東原遺跡(狗奴國連合の中核国)
〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │狗奴國連合(15〜25ヶ国) 卑彌弓呼王
〜〜〜〜〜〜┏┛┏━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │倭地:狗奴國連合以北の九州島
〜〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃島〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │ (周旋可5000餘里[350km余])
〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛原〜┃∵狗奴國連合∵∵∵ │
〜〜〜〜┗━┛天草灘┗━━━┛〜湾┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
656 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 12:32:09.07
657 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 12:33:58.59
>>622 :伊作:
>縄文の火焔土器のダイナミックかつエキゾチックな造形感覚や、遮光器土偶が袖つき(らしい)
>衣服を着ていることには、つねづね興味を抱いていた。
火焔土器は蛇を表現した女王文化の象徴で、遮光器土偶は蛙を表現した男王の文化の象徴。
二者の境界は基本的に北緯39度で、39度以北が蛙の男王文化。
又、蛇と蛙を知りたいものは↓を
[Frogs are assciated with biogenetic experiments. Snakes represent human DNA.]
で潜れ。
658 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 12:58:03.69
武帝は前漢の第七代皇帝 (前141-前87)。 「大倭王居邪馬臺國」の記述がら少なくとも、 「邪馬臺國」は紀元前87年には存在した。 火焔土器は、大倭王である女王の「邪馬臺國」の遺品だろう。
659 :
塩土老翁 :2011/07/07(木) 13:11:54.71
>>637 サイキバU
>志賀海神社の「山ほめ祭」では神に捧げる歌であった
ここでいう「君」とは九州王朝の諸大王のことをいうのだ
「山誉め祭, 神楽歌」
君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな
志賀海神社では、3・4年に一度位で「本祭り」があり、それ以外は、「御仮屋」
での仮の祭りがある。 この本祭りに降臨して来る「祖神」が「君」と考られる。
万葉歌碑(志賀島第一号歌碑)
ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)
応神にて、全国の海人族の騒動を黙らせた阿曇の祖「大浜宿禰」「阿曇磯良丸」
が「皇神」に相応する。 海人族内の話と考える。
660 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 13:48:11.63
>>658 ソースの書名と原文の抜き出しお願いします。
661 :
塩土老翁 :2011/07/07(木) 14:34:09.62
>>650 名無史さん
>神託のことなら、宇佐が有力だと思う。日本でそういう神事が行なわれていた
場所は宇佐だけだし、文献でも道鏡事件で和気清麻呂が神託を受けた話がそれを
物語ってるよね。
古来の宇佐神宮は、御諸山を御神体とする神体山(神奈備信仰)である。
宇佐氏は、六世紀半ば磐井の乱と同時期に衰退し、大和の三輪山信仰「応神霊」
を祭神とする「大神氏」(おおが)が入植し制圧した。
「神託」として活躍するのは、仏教と融合した神仏習合後のことであり、
卑弥呼の時代とは関係ないでしょう。
>女シャーマンが神憑りになって
可能性があるとすれば、宇佐北部の「辛嶋氏」でしょう。
「八幡神」は、この辛島氏が持ち込んだ神であり、新羅神に源を発している。
八幡宇佐宮御託宣集の巻三・五に「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、
吾は日本の神となれり」という著名な一文がある。
662 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 15:12:51.85
>>660 >>658 >ソースの書名と原文の抜き出しお願いします。
「それでも邪馬台国は九州にあった6」は、
コピペonlyでoriginalはだめかい?
663 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 15:59:23.67
漢書武帝紀の何、という具合にまず書名お願いします。
664 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 16:12:18.83
倭在韓東南大海中 依山爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國・・・・後漢書 で、充分でしょう。 「邪馬臺國」は紀元前87年には存在した。 とする根拠は。
665 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 16:30:15.07
火焔土器出土の北限は高平遺跡. 村上市であり、村上市の緯度は北緯38度13分26秒 , 東経139度28分48秒で、村上市と与那国島を直線で結ぶと 2,185.622kmで魏尺の五千五十九里である。 「樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里」・・・後漢書 「拘邪韓國」から「邪馬臺國」迄の距離五千余里に一致している。
だからどうして2000年も前に正確な距離が測量できたと思うんだよ? 字面だけ捕らえて妄想するからそんな机上の空論になる
正確に総量出来たと主張するなら、 当時のアジア地図がなんで記録にないんだよWWWW
668 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 17:34:21.25
まあ、おちつけ
倭人伝でも倭人は里数を知らずとあるから当事日本に距離を現す単位はなかったことが伺える その証に途中から記述が距離表示から日数表示に変わってるんだな つまり行程の日数を距離に置きなおそうとかいうのは愚の骨頂 地理的要因も含め総合的に判断すべき 地理的要因も入れれば九州説になるがな
670 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 17:54:06.56
日数を距離に置きかえられないという意見、まあそれはそれでいいんだが、 投馬国、邪馬台国で、合計、水行一月、陸行一月 里程表記から日数表記に変わったのは正確でないというのは一理あるだろう。 しかし、個人的にはある一定の距離を示しているものとみる。 そうでなければ記事に乗せる意味がない。少なくとも読者には見当がつく程度の距離のはずだ。 それを無視すれば、現実的には、これだけの日数移動すれば、日本中どこにでも移動できるんで、 かなり強力な根拠がないと、どこともきまらない。 まあ、これが畿内説の最後の拠り所なのだが。もっとも記録一切無視という意見もあるが。
そういう考え方だと、自分の都合の良いように数字をひねくり回す輩が出てくるわけだ 例えばありもしない単位を開発する奴とかな
俺様根拠の奴とかなww 日数合わせても他が無茶苦茶なら意味ねーよ。
673 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 18:54:36.81
>>671 いいたいことは想像できるが、短里千里=一月行説は無視してもらっても構わないよ。
基本的には考え方と、それによって推測できる結果を提示しただけだからな。
もっと納得できる考え方があれば、自分自身いつでもそれを捨てるかもしれないからな。
変に持論に固執しても、いいことは何もない。
基本的に理系なんで、どこかに正しい答えがあり、それに近付きたいとは思っているが
同時に自分の論がその正しい考え方ではない可能性もあるだろうとは考える。
いまのところ、間違ってなさそうな論と言うだけのこと。
ただし、変な里程論をむりやりひねくりだしても、瞬殺されるだけのことだ。
正直言って、畿内説はもちろん、九州説の皆さんも、先に目的地があって
そこに比定させるがために、さまざまな解釈をする理由がよくわからない。
自分自身は比定地を持ってない。
最初の仮説で位置を推測して、そのあたりに該当するような遺跡があるかどうかは
よく調べてはいるのだが。
パソコンの演算速度が発達した今 過去の海流や地理的条件等をシュミレートして可能性がある範囲を絞り込んで現地調査し その地域の伝承や遺構を検証しながら、ある一定の可能性があれば発掘調査をやって 場所を絞り込めないものか?
吉野ヶ里がそれに近いな パソコンはなかったけど
676 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 18:59:52.20
九州説とか畿内説とかに組しないどっかの大学あたりがNHKとかタイアップしてやってくれんかな
先入観ってのはどうしたって消せないもの。 先入観があるっていう前提で考えればいいだけの話で 思い込みがないっていう思い込みが一番厄介なんだよ。
678 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 19:20:48.78
短里千里=一月行説は何の根拠もないと思うが、水行二十日とか水行十日陸行一月は それなりに距離を表しているとみるべきは当然のことだろう。 ただ、これまでの説をみていると、1日の進行距離を大きくみているようだ。大勢で やってきて、「帝の使者であるぞ」と威張っていたであろう連中が飛脚みたいに旅を 急ぐわけはない。2日進んで1日休みぐらいののんびりした行程を考えるべきだろう。 というのは、倭の地の大きさからも裏づけられる。周旋五千余里、これが倭の地の大 きさを示した数字だ。ということは、水行十日陸行一月の距離はそれよりも短くなけ ればならない(倭の地の果てに都があるわけではないだろうからな。)。
どうしても時間と距離が別物だということが解らない御方がいるようだ
680 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 19:33:31.71
ただの思いつきで無視してもらって一向に構わないが 周旋五千余里を荒っぽく円周として考える。実際にはそんなことはあり得ないのは 重々承知の上である。 その中心部に邪馬台国があるとすると、周囲までの半径は約800里 不彌國までが10700里だから、そこから中心の邪馬台国まで行くと 11500里となる。 周旋五千余里を九州島と仮定すると、まだ500里ほどあるので、 九州島の中心より南側になるだろう。 これから推測すれば、やはり熊本の中南部付近だろうか。
681 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 19:34:17.81
>周旋五千余里 これ信憑性のある数字なのかよ? 誰か測った奴いるのか?
根拠となる数字の信憑性が不明なら説としては脆弱だな
683 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 19:43:10.19
>>682 でも、それを上回る説がなければ仕方がない。
もっと説得力のある説を引っ張ってくるか、考えるかすればよい。
それがなければ、ただの断末魔にしか見えない。
684 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/07(木) 19:50:00.15
>>678 >短里千里=一月行説は何の根拠もないと思うが、
短里千里=一月行説の根拠
@「其南海行三月 有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里」隋書百濟傳
A「其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海」隋書俀國傳
@Aを満足する里論が「短里千里=一月行説」である。
短里千里=水行一日説の根拠のひとつ。
「百濟自西行三日 至狛國云」
錦江中流の居抜城から黄海沖の狛國まで約3000里
685 :
伊作 :2011/07/07(木) 20:02:18.14
俺がこの板に登場した最初の頃に書いたことだが、 このことを知らない新手のタコが多くなったらしい。再掲するから勉強しろ。 ●周旋 『倭人伝』を収録した『三国志』の魏書に登場する周旋の用例。 ・明帝紀に使われている周旋は「天体・五行の運行や循環」。 ・曹仁、曹真、崔琰、郭嘉 、董昭、任峻、鄭渾、杜襲の各伝は「征討して回る」「軍事行動による転戦」。 ・管輅伝の場合は、「常に馬車に同乗して巡る」と「万物の巡る変化」。 以上の用例から判断すると、周旋は巡る・回ると解釈して間違いない。 ●参問 参問の参は参上・参拝・参詣などに使われる参と同じで、 「足を運ぶ・赴く・訪れる」という行動を意味する文字として使われている。 わが国では禅の世界に参問という用語がある。 これは、修行僧などが禅師のところへ「出向いて質問する・問答をする・教えを乞う」といった意味で使われる。 『倭人伝』のいう参問は「訪問調査」と翻訳するのが最も妥当だと判断する。 ●正しい読み方 「魏の使節たちが訪れた倭地は、大陸から途絶えた海中洲島の上にあって、 大小の島々や入り江や半島からなっており、訪問調査で周り巡ったのは五千余里ばかりである」。
686 :
伊作 :2011/07/07(木) 20:03:17.86
●忠告 なお、この文章は倭地の沿革、倭地までの行程説明と各国の概要などなど、 倭国見聞調査記録の結びとして書かれている。 むろん、一連の文章は文章構成、章立て、記述趣意のどの角度からみても、 邪馬台国に至るまでの里程数値や倭地の領域とは何の関係もない。 この中の周旋5000余里を、里程計算や女王国の領域計算に取り込んではならない。 ●検算せよ それでもまだ、5000余里を倭国の外周距離だというタコに要求する。 韓伝の方4000余里は、三韓の面積を4000余里四方で表現しているが、 これでいけば三韓の外周距離は1万6000余里になる。 朝鮮半島の南部にあった三韓の外周距離が1万6000余里で、 これと比較すると倭国の外周距離5000余里は狭すぎる。 仮に5000余里が倭地の外周距離だとすれば、倭地は方1250余里になる。 これが九州島のことにしろ本州のことにしろ、 三韓領域の方4000余里と比較して妥当な数値だというタコはタコである。 文句があるタコは、この天才の正攻法の論拠を超えるものを提示して反論せい。 無知・無恥をとりつくろうための転移行動めいた負け惜しみは無用とせい。
687 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 20:38:51.82
>周旋五千余里を荒っぽく円周として考える。 これが間違い。周旋は、荒っぽく言えば半周だ。
伊作もたまにはイイこと言うな。
689 :
水銀厨 :2011/07/07(木) 20:48:32.19
伊作さん流石だと思いますね。周旋五千里については全く同意です。
690 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 20:50:34.32
>>652 >南方(侏儒国)に明るく、風俗は海洋民族を思わせるけどあえて都城盆地なのは何故だろう
都城盆地以外は、南・水行十日陸行一月に照らして不自然さがあるからだよ。
例えば、宮崎平野ならば単に南というのは適当でない。国分や加治木ならば水行十日陸行一月
よりも簡単なコースがある。
以前まで周旋五千余里を全く信用できないと言っていたのに 自分に都合のいい理論が出てくるとすぐに迎合しててワロタw
693 :
水銀厨 :2011/07/07(木) 21:47:57.45
>>691 私の事?以前畿内説で周旋五千里を説明しろと言われた時、
実際まわった距離だと主張したはずですが。
遠方で詳細がわからないと記述されてるのに、
倭国の広さなんかわかるはずがないとね。
ただ基本的に距離や方角について、当時の地図でも発見されない限り
どんな説でも根拠にはならない、とは思いますが。
海洋民族と言えば壱岐対馬や天草だな
695 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 22:00:26.29
>>692 水行三十五日か四十日だな。日数的には同じとしても、舟で行けるならばその方が楽だ。
>>695 持衰での倭人の渡海の恐れ方を考えれば、可能であれば外洋は絶対避けると思う。
内海はもちろん、日本海より全然波は高いから。
697 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 22:21:03.89
外洋だからといっていつも波が高いわけではない。 志布志沿岸は、前方後円墳だってあるだろ。本州とだって舟は行き来していたんだ。
納得はしないけど、取りあえずは考え方はわかりました。
盆地なら九州最大の盆地(カルデラ)が阿蘇にあるな 縄文以前から人が住んでるし
700 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 23:12:18.19
>実際まわった距離だと主張したはずですが。 実際にどれだけ歩いたかを主張してみたところで意味はないだろ。 東夷伝の全体を読んでみな。だいたい、方何千里とか書いて国の大きさを示して いる。倭国の大きさはどこに示されているんだ?周旋五千余里しかあるまい? これこそ、倭地の大きさを示したものなんだよ。
701 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 00:25:49.68
>>700 別に意味はなくないと思いますけど。
むしろ文意としては詳細(里)が判らない国が大半なのに、
倭地の大きさが里で書いてある方が不自然でしょう。
隋書倭国伝における「倭人は里を知らない」という記述と、
後年の記録なのに月日で倭地の大きさを表している点とも矛盾します。
>隋書倭国伝における「倭人は里を知らない」という記述と、 後年の記録なのに月日で倭地の大きさを表している点とも矛盾します。 隋書倭国伝に書かれているのは里数文字を知っている邪馬台国ではなく 大和朝廷の勢力。 隋書倭国伝は邪馬台国がどうであったかの根拠にはならない。
703 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 01:22:19.43
>>702 >隋書倭国伝は邪馬台国がどうであったかの根拠にはならない。
主張するのは自由ですがそれを証明するのは貴方ですから。
私は「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」とある以上は
ヤマタイ=ヤマトという説をとります。
704 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 01:24:52.25
よ。 とりあえず7月8日は鷹の祭典ダ。 みんなで応援行くんダ。なんちって。
705 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 01:40:58.31
>> 水行一月、陸行一月・・・現実的には、これだけの日数移動すれば、日本中どこにでも移動できるんで、 ・・・江戸時代の朝鮮通信使でもソウル〜江戸まで半年かかっているんだが。
706 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/08(金) 04:37:36.98
「周旋可五千餘里」 倭の最初のA点から目的地Z点に行くのに、 B、C、D・・・と順番に訪れると、 その距離は5千余里ばかりである。 敢えて具体例に当てはめると、「周旋可五千餘里」は對海國(A点)から一大國、 末盧國、・・・、投馬國、邪馬壹國(Z点)と訪れる行程が5千餘里になることに相当する。 「周旋」に周を回って行くの意味はない。片道を順番に訪れて行く程度の意味しかない。 往復や一周の意味の場合は「周匝」である。
707 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 07:16:19.59
>>701 >詳細(里)が判らない国が大半なのに、倭地の大きさが里で書いてある方が不自然でしょう。
そんなことはないね。使者は、投馬国を訪ね、邪馬台国を訪ねたことで倭の地の大きさを
だいたい知ることができたんだよ。戸数道里が分からない旁国は、その投馬国や邪馬台国の
周辺にあったわけで、その旁国を訪ねていないからといって倭の地の大きさが分からない
わけではない。
>隋書倭国伝における「倭人は里を知らない」という記述と、
>後年の記録なのに月日で倭地の大きさを表している点とも矛盾します。
倭の地の大きさは倭人に聞いたんだろうと思っていることがまちがい。
使者は自ら訪問して確かめたってことだよ。→参問
708 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 08:40:28.71
残念ながら上記の説明では倭人伝での五千里が、 倭国伝では東西5カ月南北3ヶ月としてる理由にはなりませんな。 どちらにせよ記紀の国生みは淡路島周辺でして、 この辺りに倭の中心があるという認識です。
709 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 09:09:30.34
周旋五千余里は使者が実地調査か何かで回った距離ですか。 松浦まで1万里、残り2000里 松浦から邪馬台国に行って2000里、帰ってきて往復4000里 1000里ほど、よそを回ってきて、5000里 実際に回った距離とすれば、矛盾はないね。
710 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 09:15:55.11
回り道した距離が1000里、短里で77キロ前後 福岡のほうに回ったと考えればどうだろう? 松浦の船を伊都まで運んで、伊都から帰るとか
>>703 >主張するのは自由ですがそれを証明するのは貴方ですから。
何も根拠のある証明しない水銀厨がよく言うよ。
>私は「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」とある以上は
ヤマタイ=ヤマトという説をとります。
そんなものが根拠になるなら
日本國者倭國之別種也
日本舊小國 併倭國之地
を根拠に大和≠邪馬台国だ。
自筑紫宮入居大和州橿原宮
を根拠に邪馬台国があったのは筑紫だ。
712 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 09:35:50.21
>>711 別に根拠が無いと思われるならそれでいいと思いますよ。
貴方の主張にそった資料、候補地や人物、
出土品との整合性を取れば良いのですから。
今の所大半の九州説論に対しては整合性どころか、
矛盾点が多すぎだと思いますが。
>矛盾点が多すぎだと思いますが。 どこが矛盾点だ? 矛盾に思えるのは間違った解釈をしているからだ。 本当の矛盾ばかりなのは畿内説。 四国なんぞは問題外。
水銀厨氏は、「思い込んだら試練の道を♪」タイプだからw 悪く言うと、大局観に欠ける。 あまり論争しても益はありませんよ〜
715 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 09:53:50.48
大体今の九州説の根拠って何でしょうね? 鉄器の出土品なら倭人伝には倭に鉄は豊富だなんて何処にも書かれてないですよ。 丹についての記述の方が多いですね。 また淡路島に垣内遺跡が確認された事で、 鉄は既に畿内説のネックではありません。 まぁ今の九州説の矛盾点なんて数え切れない程ありますよ。
716 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 09:54:03.16
周旋五千余里 邪馬台国まで行って帰って4000里 帰る途中で、久留米あたりから、大宰府に寄って一席設けて会談でもして、 帰ってくれば1000里=77kmくらいですね。 奴国も主要な国家であることは間違いないでしょうから。
>>712 >別に根拠が無いと思われるならそれでいいと思いますよ。
じゃ
四国スレでもたててそこで自己満足してろよ。
わざわざ九州スレに来ることもない。
何でも言い放題だぞ。
誰も相手にしないだろうがな。
718 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 09:59:45.78
水銀厨氏が壊れた感がする。
>まぁ今の九州説の矛盾点なんて数え切れない程ありますよ。 ごちゃごちゃ言ってないで その矛盾点とやらを提示してみろよ。
720 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 10:05:34.57
淡路島の鉄器加工遺跡は、鉄を独占した、 鉄が希少という事実の象徴だと思うのだ。 九州のようにいたるところで鉄器を加工していては 独占のしようがない。加工技術はどこも持ってるし、 輸入を独占しようとしても、北九州から長崎まで、 各国、勝手に船を出してしまうから。
721 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 10:07:47.01
>>714 まぁそうですからね。
結構以前から(一応鍵唐古や椿井大塚発掘等は仕事で協力してます)
三角国産説で水銀朱の重要性、鍵唐古は
神仙思想の影響下にあると主張してたので、
最近の流れは…まぁ喜んでますが。
722 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 10:16:15.52
>>719 単純に言うと候補地と比定人物の存在。
よくある東征説の考古学の不一致。
またそれら3世紀邪馬台国の年代との不一致。
詳細論ではもう数え切れない程ありますよ。
>>722 >単純に言うと候補地と比定人物の存在。
邪馬台国があったのは山門郡だ。
大和朝廷とは無関係だから大和朝廷の資料に名前が無いのは当然。
>よくある東征説の考古学の不一致
考古学の不一致もににも
邪馬台国は東征などしていない。
>またそれら3世紀邪馬台国の年代との不一致。
どのように不一致しているんだ?
>詳細論ではもう数え切れない程ありますよ。
だから
提示してみろよ。
また水銀厨の証拠あるある詐欺か。 畿内説から、定期的にこんな奴らが出てくるな。 同一人物かもしれないが。
725 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 10:30:36.80
九州説の根拠 ○倭奴国王の金印(倭国=古の倭奴国と隋書に明記) ○魏志東夷伝倭人条が示す邪馬台国の方向(距離は単里) ○鉄の生産量 ○金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 九州説以外の説でこれらを超える決定打はない。
726 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 11:21:50.81
詳細はさすがにここでは無理なので、都度各論に指摘してますよ。 まず山門説では人口に難があると思います。 七万戸が面積的に可という論もありますが、 この地域に倭人だけとは限りませんからね。 対抗勢力や土蜘蛛がいた可能性もあります。 この事は九州内に全てを納めようとする論にも指摘出来る点ですが。 まぁ東征…あっても3世紀以降では有り得無いのは 確定事項でもいいとは思いますが。
727 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 11:30:04.12
>>725 金印の件は大半の畿内説では全く問題無し。
鏡も私は大分=女王国の一部なので問題なし。
距離や方角も言える事ですが、私は地図が無い以上根拠にはしません。
鉄が豊富と倭人伝に記述はありません。
むしろ鉄に関する記述なんて僅かです。
>>726 >まず山門説では人口に難があると思います。
有明海沿岸は当時最大人口を要する最大人口密集地帯だ。
人口的に難があるどころか最有力地域だ。
2-300年ほど後に作られた神籠石は
10q以上も離れた別の山から最大で畳一枚ほどの石を切り出し加工して運んで
山腹に灼く3qも並べている。
2-300年で人口大幅増なとあるはずもなく
少人数の国で神籠石がつくれるはずもない。
>この事は九州内に全てを納めようとする論にも指摘出来る点ですが。
間違った人口の解釈をしているからだ。
>まぁ東征…あっても3世紀以降では有り得無いのは
確定事項でもいいとは思いますが。
邪馬台国は東征などしていないと言ったはずだが無視しているのか?
そんな根拠にならない矛盾ではなく
まともな矛盾は無いのか?
一つも矛盾が提示されてないぞ。
729 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 11:46:22.97
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した日田は、 現在の行政区画で大分県だけど地形的には 筑後平野の延長にある盆地だよ。 だから、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の持ち主は 筑紫かその周辺であった確率の方が高い。 金印はやはり決定打だよ。器に説の人々は その存在から目を背けているだけだね。 鉄=国力だよ。何をもって国を平定するのか? 宗教・道徳・価値観が違えば争いが始まる。 これを押さえ、法に従わせるためには武力が必要なのだよ。
730 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 11:48:55.24
>>657 火焔土器
朱などによって彩色されたものはない。
遮光器土偶
二戸市の雨滝(あまたき)遺跡から出土した土偶は全長23.5センチ、頭部は山形状の装飾、顔面朱塗りで、晩期前葉を代表するものです。
の様に、女王に赤を施すことはない、女王の色は青だ。
逆に、男王の象徴色は赤である。
731 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 11:53:52.94
旧唐書に 「倭国者、古倭奴国也。」とあるのをご存じですか? 中国でも倭奴国=倭国と認識している。 畿内の出土物で確実にそこに倭奴国や倭国であったと実証できる 物はあったのか?
>>722 東征の不一致?
三世紀を境に畿内の銅鐸は急に消えていく。
かつ四世紀の頃から徐々にに、鏡・勾玉・剣・鉄製品・絹製品などの倭人伝に記される品や、三種の神器のモチーフとなった物が畿内に出土するようになる。
元々それらの品は三世紀の九州で多数出土するが、畿内にはほとんど出土しない。
考古学的によく一致するが。
畿内瀬戸内はほとんど何も出ないけどね。出るのなら証拠だしてね。モチロン九州以上に出るはずだろ?
畿内と九州の地名の類似も根拠の一つかな。
あと倭が鉄が豊富じゃないとか言ってるけど
「國出鐵濊倭馬韓並從巿之」『後漢書』辰韓伝
「國出鐵韓濊倭皆從取之」『三国志魏書』弁辰伝
盛んに半島から鉄を取ってるのは明らかだね
>>726 一戸一人説が妥当。
まああんたの、九州から奈良にかけて七万戸の方が人口分布図に確実に矛盾するけどな
>>727 鏡が大分で瀬戸内周辺にはほとんどでないんだが、大分に女王がいたってした方がいいんじゃないの?
まさか卑弥呼に100枚も鏡送って、件の卑弥呼は鏡を大分に忘れてきてほとんど持ってなかったのか?
その前に大分より福岡とかの方が多数出土するが、これはどういった状況なんだ?
ほら、九州の矛盾点とやらを出してみろよ
あんたの説の矛盾点は多数指摘されてるけど、そろそろ反論してみたら?
根拠はあるけど出さない戦法と文献の記述は信用できない戦法で切り抜けるのは無しだぞ?
733 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 11:57:20.19
さ、そろそろ出撃準備ダ。 「鷹の祭典」ホークス絶対勝つ。
734 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 11:59:51.69
>>686 >それでもまだ、5000余里を倭国の外周距離だというタコに要求する。
「 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千余里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」
の、「侏儒國」「裸國黒齒國」の比定地明確に出来ない者に
その外周括れといっても無理だろう。
「倭国の外周距離」ということは決してありえない。
735 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 12:01:58.89
筑後の、というか八女周辺の古墳から、金銀で飾られた鉄剣が出てきてるけど、 そこの古墳は鉄朱で、量もわずかだった。 北部九州全体的に言えるけど、あまり朱には興味持ってないね。 金銀で飾られた鉄剣があるくらいだから、裕福ではありそうだけど、 朱に金をかけようという気はなかったようだね。 岩戸山古墳には、純金のイヤリングとかもあったな。
736 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 12:11:54.28
>>731 名前:筑紫の民
>旧唐書に
>「倭国者、古倭奴国也。」とあるのをご存じですか?
>中国でも倭奴国=倭国と認識している。
『中国でも倭奴国=倭国と認識している。』
という解釈は、問題じゃないか?
『倭国と倭奴国』には差違がる。
『倭奴国』は『倭国』に存在した一国であるから。
737 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 12:22:21.44
>>736 旧唐書に「倭国者、古倭奴国也」とあった。
私は、中国で倭奴国=倭国と認識していたと解釈した。
特に問題ない。
それよりも
『倭奴国』は『倭国』に存在した一国であるから。って
何を根拠にそう解釈したの?不明
738 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 12:28:18.61
各論長いからまた後ほどに反論します。 では一つだけ指摘しときますが、イザナギ神社は何処にありますかね? あとイザナミの名を持つ神社は何処ですか? これを九州説ではどう認識するのでしょううね。
739 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 12:33:16.73
>>737 名前:筑紫の民
>それよりも
>『倭奴国』は『倭国』に存在した一国であるから。って
>何を根拠にそう解釈したの?不明
「 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」・・・・後漢書
「倭國之極南界」に存在した「倭奴國」
です。が正しい解釈でしょう。
740 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 12:41:18.89
>>739 わたしは、黙りをしません。
大変勉強になりました。
では、旧唐書に「倭国者、古倭奴国也」
をどう解釈しますか?
741 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 12:49:43.09
>>740 名前:筑紫の民
>では、旧唐書に「倭国者、古倭奴国也」
>をどう解釈しますか?
「倭国者」の、出自が「古倭奴国」である。
と、解釈します。
742 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 12:57:39.74
>>741 「倭国者」の、出自が「古倭奴国」である。
と、解釈します。
では昔の倭奴国の民が倭国の民で
金印の倭奴国から倭国まで連綿と
つながっていたという解釈ですね。
>>738 >では一つだけ指摘しときますが、イザナギ神社は何処にありますかね?
あとイザナミの名を持つ神社は何処ですか?
これを九州説ではどう認識するのでしょううね。
邪馬台国問題とは関係の無い話だ。
そんなことより
>>715 まぁ今の九州説の矛盾点なんて数え切れない程ありますよ。
はどうした?
まだ一つとして出てないぞ。
>>738 また逃げの一手か
伊弉諾神宮だ?それが邪馬台国論争にどう繋がるのか教えてくれよ
いくら祖霊信仰が日本にあるからと言ってイザナギ・イザナミまで実在の人物を神格化した姿には捉えられないだろう
実績が現実離れしすぎていてるから
この二柱の神は、神話によくある天地創造の話を造るために創作された神だろう
そして仮にこれらが実在の人物をモチーフにしたとして、はたしてそれが邪馬台国の時代の話なのか?
また、伊弉諾神宮はいつできたのか?
まずこれらに答えてからその無知な指摘をしてくれな
>>732 一戸一人説が妥当
その通り
戸は【人民の住む家。また、民家を数えることば】
であり
倭人伝には【有屋室父母兄弟臥息異處】と
別々の家に住んでいるとわざわざ記載している。
ことさら
1戸=5-10人と矛盾する解釈をするのは馬鹿のすること。
746 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:05:35.24
福岡の高祖山連峰の飯盛山の飯盛神社がイザナミを主神とした神社 篠栗の太祖山の太祖神社がイザナギを主神とした神社。 国生みの神であり、日本の高祖、太祖を語るにふさわしい まあ、後からのこじつけかもしれないけどね。
747 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:06:15.35
「 倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通」・・・舊唐書 「倭者 自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東」・・・梁書 の「東西五月行 南北三月行」と「去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東」の緯度領域は同じですが経度領域は異なる。 「倭國者」と「倭者」 の差違は重要で検討する価値がある。
748 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:09:46.32
>>742 名前:筑紫の民
>では昔の倭奴国の民が倭国の民で 金印の倭奴国から倭国まで連綿と
>つながっていたという解釈ですね。
当然です。
「 倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通」・・・舊唐書
「倭者 自云太伯之後 俗皆文身
去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東」・・・梁書
の「東西五月行 南北三月行」と「去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東」の緯度領域は同じですが経度領域は異なる。
「倭國者」と「倭者」 の差違は重要で検討する価値がある。
749 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:20:51.50
記紀に書いてあるから、何かの機会があれば、 イザナギ、イザナミの神社がいずれ淡路島に作られるのは 予想の範囲内と言えるだろう。 で、全国にイザナギイザナミを祭る神社は200以上 末社まで、合わせてまつられる分まで合わせると3000以上と言われる。 まあ、当然だな。 おもしろいのが、イザナギイザナミを祭る神社は、 愛知、岐阜などの東海に多く、ついで岡山や島根、福岡が割と多いところ。 で、以外にも畿内は少ないようだ。
750 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:25:06.59
地図で見ると。淡路島周辺はむしろ、イザナギイザナミを祭ってる神社少ないね。 空白地帯に近い状態。 まあ、記紀成立後に、そのあたりの豪族の誰かが建てたんだろうと 推測できそうだ。
751 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:33:24.79
イザナギイザナミの話は東海神話なのかな。 スサノオは出雲神話だろうし、神武は九州神話 記紀の成立過程で、どのように神話が合従されているのかを 考えていくのも面白いかもね。
752 :
筑紫の民 :2011/07/08(金) 13:53:09.52
>>748 私は、そのことをあの水銀なんとかさんに言いたかっただけです。
金印の倭奴国から倭国(邪馬台国含む)と連綿とつながっていた。
だから邪馬台国九州説の方が畿内説やその他の説より有利であると。
753 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 14:57:06.96
>>752 >金印の倭奴国から倭国(邪馬台国含む)と連綿とつながっていた。
>だから邪馬台国九州説の方が畿内説やその他の説より有利であると。
志賀島から金印が出土したから、邪馬台国は九州に在ったとすることは出来ないでしょう。
光武印綬者はあくまでも倭奴國王ですから。
金印のデザインから倭奴國王は女王であったことは疑う余地はなく、又
「其大倭王居邪馬臺國」から『邪馬臺國王』も女王であった。
754 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 15:01:24.58
ネット出来る環境になったので‥
>>743-744 別にイザナギ・イザナミが邪馬台国の時代の人物だという
主張はしませんよw
ただ記紀の一番最初に出てくる重要人物に関する神社が
何故四国や淡路島に存在するの?という単純な疑問です。
九州説を主張するなら九州内に存在しないとけないのでは
という疑問ですね。どう位置づけてるのか説明してください。
これはまず九州説の(特に東征説や四国をスルーしている人)
の大きな課題です。
神話で創作の神だから‥
安本大先生はアマテラスを卑弥呼に比定してませんかw
756 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:06:40.86
大倭王の邪馬臺國王家・光武印綬の倭奴國王家そして太伯之後の王家。 三王家の痕跡がハッキリと残っている。
757 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 15:07:43.03
>>728 >邪馬台国は東征などしていないと言ったはずだが無視しているのか?
では名乗られてちゃんと主張してください。
そんなに鉄器も多く人口の多い山門は何処の誰に滅ぼされたのですか?
そこが邪馬台国ならどんな経過をたどって滅びたのか
説明出来ますかね? 人物比定と宮の候補地も宜しく。
758 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:10:21.53
>>754 それじゃ神武の神社が天草に全国の半分以上あるのはどう説明するんだ?
お前の言い分なら日向がが天草になっちまうぞw
759 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:11:57.52
>>755 >>753 >日本語になってないぞ
理解能力欠如症かな。君は!
ま〜〜 ある程度のレベルに達していないと理解できないのも無理はない。
760 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:12:23.95
水銀何たらの言い分は無茶苦茶な自説を正当化すtるための屁理屈でしかない 何の根拠も証拠も出さない嘘吐き
761 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:13:26.80
どうでもいいから水銀は先日逃げる際に捨て台詞で言った >まぁ結論からすれば、倭は四国東部を中心としていた、 >としか言えない状況になります。 の証拠をとっとと出せや
762 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:16:15.93
神社のほとんどは後代に磐座に神を招致して作られたもの 壮健の年代の考証もないまま名前だけで何かの根拠にする奴は馬鹿
>>754 邪馬台国論争に関係ないならその質問はいらないんじゃないの?
>ただ記紀の一番最初に出てくる重要人物に関する神社が
>何故四国や淡路島に存在するの?という単純な疑問です
>>749 さんのを見る限り、別に不思議なことじゃないな
>九州説を主張するなら九州内に存在しないとけないのではという疑問ですね
邪馬台国の時代の人物だという主張を自分でするつもりはないと言っているのに、何故九州内に存在しないといけないのか?
>神話で創作の神だから‥
祖霊信仰では先祖の実在する人物を神格化することはよくあるが、全ての神が実在する人物がモチーフになっているとは限らない
アマテラスやスサノオは神話での書かれ方や、描写から実在する人物をモチーフにしている可能性があることが随所に覗えるが
イザナギ・イザナミはそういった描写はない
やったことは天地創造と神の創造という神話にありがちな実績で人らしい逸話がないことから
これらの神は創造の可能性の方が高い
逆に質問さしてもらうけど
淡路島以外にもイザナギ・イザナミを祭る神社はいっぱいあるらしいけど?これはどうなの?
そして淡路島の伊弉諾神宮はいつ造られたんだ?
邪馬台国以前に造られたんじゃないのなら、なんの証拠にもならんしな
764 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:17:30.59
>>754 >ただ記紀の一番最初に出てくる重要人物に関する神社が
>何故四国や淡路島に存在するの?という単純な疑問です。
日本中にあるよ。
むしろ多いのは東海だね。
765 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 15:20:58.12
>>732 矛盾点を理解してないだけでしょう?
>元々それらの品は三世紀の九州で多数出土するが、畿内にはほとんど出土しない。
考古学的によく一致するが。
巻向周辺の古墳に関しては、阿波や吉備の影響が特に大きいと
現時点では考えられてますが。
>畿内と九州の地名の類似も根拠の一つかな。
今時こんな主張は有りませんよw
大宰府の時に命名された逆の移植でしょう。
別に福岡が発展していようが鉄を半島にとりに行こうが
全然問題ないですが。
当然倭人伝には委奴国王がいると記述してあるので
誰も否定してませんよ。
多くの畿内説では、3世紀の倭国は半島南部から紀伊半島にかけての
国だという主張ですよ?忘れてないですかw
766 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:24:54.12
「イザナギ・イサナミを祭った神社」 でググると、本の記載を転記している人がいるね。
767 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 15:26:03.90
>>749 祀る神社はその影響力の大きさですよ、基本的には。
勿論正確な謂れ等はよく確認して調べる必要がありますが。
主張しているのは「祀ってる神社」ではなく、名前そのものの神社ですよ。
特にイザナミ神社は四国の美馬に一つだけです。
邪馬台国があった年代は、その後律令を用いた中央集権の国家が出来るまでは海を隔てた国家などは治世が可能だったのかはなはだ疑問 九州島内や近畿一帯、もしくはどこぞのお方が言う四国のそれぞれの範囲でなければ交易はあっても国家連合としては政治的にも交通的にも厳しい その上でクニの集団として大陸からの文化・貿易が可能であった九州がその場にふさわしいのは少し考えれば誰にでも想像がつく 一方四国は単体でクニとしての体裁が整っているとはとてもいい難いが如何か
ヒント:神社がある場所がその神の発祥の地とは限らない
770 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:32:48.85
神社って勧請とかできるんで、由緒見とかないと、 そこが発祥の地だ、とは言えないんだな。 伊勢神宮が天皇家の宮でも、そこが発祥とはいわないよね。 逆に、祭ってる神社が少ないことからみても、 淡路はイザナギイザナミ神話とは関係が薄い気がするよ。
イザナミの御陵は出雲ですが何か
>>765 >巻向周辺の古墳に関しては、阿波や吉備の影響が特に大きいと
>現時点では考えられてますが。
反論としての意味がわからないな。
わかるように、論理だてて説明してくれ
>今時こんな主張は有りませんよw
>大宰府の時に命名された逆の移植でしょう
大和なんかは天下ったニニギ(物部氏の祖先)が名づけたんだがな
それは無視か?
大宰府が奈良の地名を名づけた意味は?そんな紛らわしいことをする意味はないな
九州から東遷してきた連中が奈良に同じ地名をつけるのは理解できるが、大宰府が奈良の地名をつけるのは理解できないな
>多くの畿内説では、3世紀の倭国は半島南部から紀伊半島にかけての
>国だという主張ですよ?忘れてないですかw
「中国正史で大方東西関係でも一部南北関係なら南北と書き記す例があるなら教えてくれ」
はやくこれに反論してくれよ。
そして何故畿内には倭人伝で記されてる物がでないんだよ?
辺境で先進文物が出て首都では出ないって、普通に考えたらそれは逆だとわかるよな?
773 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 15:37:16.96
>クニの集団として大陸からの文化・貿易が可能であった九州がその場にふさわしいのは少し考えれば誰にでも想像がつく 誰も否定してませんけどね、倭人伝の記述読めば誰でもわかります。 また出土物の優勢でも明らかですから。 ただ倭人伝の邪馬台国は「3世紀」の国です。 更に詳細は遠方で傍国についてわからんと書かれてあるのに 少なくとも北部九州に無いのは当然だと思うけどね。 瀬戸内海を中心とした交易なんて、縄文以前から盛んなのは 考古学からは常識以前の話。
おっと
>>772 の「ニニギ」は論争を呼ぶかもしれないから「ニギハヤヒ」に変えといてくれ
>>773 >更に詳細は遠方で傍国についてわからんと書かれてあるのに
>少なくとも北部九州に無いのは当然だと思うけどね。
理由が不明だな主観で決めてるなら簡便してほしいな
そして何故出土物が優勢な九州を差し置いてわざわざ瀬戸内周辺という辺境を比定するのかわからないな
三世紀の鉄の出土数を見るに、九州と日本海側の地域以外ではほとんど見られない
これは半島から鉄を直接輸入してるという理由によるが、瀬戸内や畿内内陸部ではほとんど鉄は見られない
これは明らかに関門海峡を封鎖し鉄の流通を制限しているからであって、勢力の分断がここに見られる
鉄の流通が大きな外交カードになっていた可能性は高い
776 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 15:51:23.17
>>769-771 国生みの近くという場所が重要でしょ?
吉野川沿いではその後蛭子〜粟島〜淡路島という
流れも説明がつきますよ。
>>772 正直主旨が理解し難いですね。
ホケノ山や箸墓では阿波や吉備の影響下にあると
現時点では考えられてるとしかいいようがないですが。
北部九州の影響下とは考えられていないという事です。
大和からの名前の移植も九州からなんて理由がない、
という皮肉です。
大体4世紀以降九州からの東遷なんてなんの証拠も無い。
大宰府に下った役人は皆奈良が恋しいと歌ばかり歌ってますがw
777 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 15:56:31.51
>>776 >国生みの近くという場所が重要でしょ?
由緒だと奈良時代からみたいなんで、
記紀が書かれた後に建立したみたいだな。
まあ、日本中、記紀の話をもとにして建立された神社は
いっぱいありそうだが。
778 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 16:01:21.50
>>775 >理由が不明だな主観で決めてるなら簡便してほしいな
そのまま返しますよ。
だから魏志倭人伝には、倭国は鉄器を豊富に使うとは
記述されてませんが。
それに2世紀前後に最盛期を迎える垣内遺跡は君にとって
どんな存在なのかな?
大体当時の中国人にとっては丹の方がはるかに重要物資ですよ。
鉄なんて特に意識してないです。
雑に説明すると、丹が四国や紀伊半島にあるのだから、
委奴国の連中が紀元前後から四国や紀伊半島に勢力を
拡大しただけの話。
それが瀬戸内海を巡る倭国大乱という事だろう。
イザナギとイザナミは南方から海を渡ってきた海洋民族の可能性がある ポリネシアにも同様の神話があり、海流の流れ、日本人の祖先がどこから来たのかを考えれば当然として考えられることである またイザナギ・イザナミの語源が古代ポリネシア語にあるとも言われている 南方から沖縄を経由し日本に到達した海洋民族はまず九州に到達し定住をはじめた、これが南九州の縄文文化の始まり 現段階では1万年近く前の生活跡が確認されている 人口が増えるにつれ人口ポンプともいうべき移住の必要性が高まり 当事活発であった黒潮の海流に乗り四国-近畿-中部-関東へと拡散していっただろう可能性が高い その後も何度か南九州からの縄文人の移動はあったはすで 大移動は鬼界カルデラの噴火の際と思われる その独特の石器から関東まで到達していることがうかがえる この移動が6300年ほど前で天孫降臨のニニギが高天原から東征した神話がこの記憶の可能性もある 文化の始まりは伝播する大元のコースをたどらなければ見えてこない 四国などは通過点に過ぎないのである
780 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 16:12:36.07
>>775 >鉄の流通が大きな外交カードになっていた可能性は高い
常識でしょう。
>>778 >鉄なんて特に意識してないです。
こりゃ、ダメだ!
>>799 つまり日本の神の祖先は南方起源ということですね
782 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 16:18:21.71
>>778 九州では、金銀の装飾品が出ても
鉄丹で塗られている遺跡もある。
水銀朱に特別な意味はなかったんじゃないかな。
有れば朱を使い、無ければ鉄丹を使う程度で、
わりとどうでもいい扱い。
783 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 16:21:01.73
ポリネシア人は比較的最近だろ
784 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 16:27:56.60
>>780 >>782 だから倭人にとって鉄は重要でも、中国人にはそうじゃないだろw
倭人伝は倭人が書いてるんじゃないですよ(当然だが)
鉄が必要なら半島が豊富だが、辰砂は稀少だよ。
>>779 南方からなら流れに乗れば、高知なんて
九州南部と大差ないんじゃないのかな?
それに噴火の影響もあるかもね。
785 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/08(金) 16:29:20.39
>>782 >水銀朱に特別な意味はなかったんじゃないかな。
>有れば朱を使い、無ければ鉄丹を使う程度で、
>わりとどうでもいい扱い。
同意。
水銀朱に固執したのは、良質のベンガラ朱が産出しない地方だけ。
>>779 高知に1万年前の大規模集落が出たら認めてやるが
あるのかそんなの?
787 :
786 :2011/07/08(金) 16:36:33.98
日本人の起源はスンダランド-沖縄-九州の南方人と樺太-北海道-東北の北方人 そして大陸または朝鮮半島経由の渡来人の3つだ 縄文期を形成したのは南方人と北方人 その後大和朝廷の範囲拡大とともに渡来人が増え三者が混血していった事は日本人のDNAを見れば解る 現在の日本人のほとんどはこの混血だが血統の割合は多少違うようだ 混血は文化の中心から進むから北方にアイヌの民・南方に沖縄の民が残った 彼らこそ日本の大元の縄文人の血統を色濃く受け継いでいるといえるだろう つまり日本文化の始まりはその流れの端にあるといっていい 邪馬台国にしてもしかり。日本人がどこから来たのかを考えねばたどり着くことは出来ない そして重要な場所はまたしても九州なのである
日本の学者も政治も間抜け揃いなんだよな。巨大な基地外2匹が何故東シナ海張り付くか理解出来ない。
790 :
伊作ファン :2011/07/08(金) 16:51:38.27
ちょっと横レス。
>>737 :筑紫の民
>私は、中国で倭奴国=倭国と認識していたと解釈した。特に問題ない。
貴方の論調に沿って書くと…
旧唐書に「倭國者、古倭奴國也。」とあるので 旧唐書が書かれた頃の中国では、倭奴国=倭国と認識されていたと。
同様に考えれば、「日本國者、倭國之別種也。」なので、旧唐書が書かれた頃の中国では、倭国≠日本と認識されていた…となりますね。
しかし、旧唐書を遡る約150年前の中国での認識は倭=日本。又、旧唐書成立から、約100年後の中国の認識は日本=倭奴国。
貴論調に沿えば、10世紀中頃のある時期に限り、倭≠日本という認識があったという事ですな。
791 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 16:51:56.94
東遷説を支持しない立場だが、仮に東遷するとしても、 水銀朱のために東遷なんかするかな? 九州はもともと水銀朱を重要視する文化じゃない。 畿内に東遷して、ベンガラの代わりに そこにある水銀朱を使ったという程度じゃないかな。 交易品として使えるものかよくわからない。 現地じゃダブついてるみたいだし。
792 :
塩土老翁 :2011/07/08(金) 16:52:28.43
>>784 水銀厨
>だから倭人にとって鉄は重要でも、中国人にはそうじゃないだろw
秦代になると鉄を大量に所有した秦が、中国最初の統一王朝として君臨する。
秦代には鉄富豪が多数存在していた。しかし次の王朝、漢になると紀元前119年に
すべての鋳鉄所を国営にし、皇帝がその製造を独占する。
全人類、当時の鉄は宝です。
793 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 16:54:07.27
鉄を大事にし、もたらした民族とは?
794 :
伊作 :2011/07/08(金) 17:19:50.29
>>790 名前
>「日本国者、倭国之別種也。」なので、旧唐書が書かれた頃の中国では、
>倭国≠日本と認識されていた…となりますね。
NO!
この一連の文章は倭国が日本国に改名した動機や経緯について、
中国が把握している事実に伝聞を幾つか添えているにすぎない。
「日本国とは倭国の別種なり」は、日本国と倭国との種や民族に触れたものではない。
「日本国という国名は倭国という国名が変わったもの」という程度の「別種」である。
厳しい民族観と支配者の出自には特に関心をもっていた中国人のことだ。
支配層の出自や民族について「○○は○○の別種なり」と書いた場合は、
必ずといって良いほど「その出自や文化」について言及している。
伊作のファンならこれも読まなくちゃ。
「江上波夫氏の『騎馬民族説』批判02」の中の ●破壊的な『旧唐書』解釈の項
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/8f0d7c8eb4a6fc0702c8c9099fd81123
795 :
筑紫次郎 :2011/07/08(金) 17:23:04.10
>>751 >ただ記紀の一番最初に出てくる重要人物に関する神社が
何故四国や淡路島に存在するの?という単純な疑問です。
九州説を主張するなら九州内に存在しないとけないのでは
という疑問ですね。どう位置づけてるのか説明してください。
記紀は大和朝廷についての記録だろ?
邪馬台国は大和朝廷が滅ぼした国だ。
邪馬台国と記紀の一番最初に出てくる重要人物に関する神社などは無関係だ。
>神話で創作の神だから‥
安本大先生はアマテラスを卑弥呼に比定してませんかw
安本先生は邪馬台国が大和朝廷の祖先だと考えているんだろ?
だから
アマテラスを卑弥呼と言ったりするし
邪馬台国の本当の場所が判らない。
残念なことだ。
796 :
ローガン=790 :2011/07/08(金) 17:29:27.58
いやまあ…筑紫の御仁を揶揄しただけなんでね。
797 :
ローガン :2011/07/08(金) 17:37:19.21
>>775 >瀬戸内や畿内内陸部ではほとんど鉄は見られない
では、纏向の矢板は九州で加工されたと? (笑)
798 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 17:42:20.27
>>797 >では、纏向の矢板は九州で加工されたと? (笑)
後世になって、畿内でも鉄が豊富に出てくる時期に加工されたんじゃないの?
矢板もそうだし、纏向の大量の木製鋤鍬、むろん掘立柱建物も鉄器の存在なくしては作れない。
800 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 17:46:06.82
>>797 ふむ、マキムク遺跡が古墳時代以降という傍証になるかもね。
4世紀というのは以前から言われていたわけで。
801 :
筑紫次郎 :2011/07/08(金) 17:46:16.91
>>757 >では名乗られてちゃんと主張してください。
ヤフーではfsrfbでここでは筑紫次郎だ。
>そんなに鉄器も多く人口の多い山門は何処の誰に滅ぼされたのですか?
そこが邪馬台国ならどんな経過をたどって滅びたのか
説明出来ますかね? 人物比定と宮の候補地も宜しく。
当時最大の人口密集地帯で一番繁栄していたのは博多湾岸地域ではなく有明海沿岸だ。
博多湾岸朝鮮系大和朝廷の祖先は
有明海沿岸中国系邪馬台国の地域を支配しようとして攻撃をしかけた。
それが倭国大乱だ。
しかし、結局攻めきれないので
有明海沿岸中国系邪馬台国の卑弥呼を共立して倭国大乱を終結させたのだ。
しかし
邪馬台国は魏の後ろ盾を得て韓国でも有名になり
諸外国は邪馬台国以外を交渉相手として認めない。
帝国主義の野望を持つ大和朝廷としては非常に困る。
だから
後ろ盾となった魏が滅んだあと邪馬台国の田油津姫を神功皇后が
「鬼道を操り神功皇后を暗殺しようとした、」と濡れ衣を着せて滅ぼしたのだ。
大和をヤマトと不自然な読み方をさせているのは
諸外国との交渉をするために邪馬台国を詐称しているからだ。
後の中国の書物に混乱がみられるのはこの件に関して
嘘を言ったり本当のことを言ったりしているからだ。
邪馬台国と言うのは大和と違って国名だ。
802 :
伊作 :2011/07/08(金) 18:00:19.79
>>797 ローガンくん
弥生時代の加工鉄器は、熊本の鍛治工房を基点として普及するのは間違いなかろう。
必然的に、鍛治工房も鉄鍛冶技術も熊本を基点として普及することになる。
ついでに金鑚(かなさな)。
鑚(さな)とは、火をおこす時に使う「火鑚(き)り鉄(がね)」を意味する。
また、「さな」「さなぎ」とは鉄鍛冶用の鉄塊そのものをいった。
華奴蘇奴とは『倭人伝』の中でもとくに変わった国名だが、
これを「かなさな」と読めば、鉱山か鉄鍛冶と関連する匂い。
鉄となると、熊本平野と阿蘇地方は弥生の鉄鍛冶の中心地だったから、
熊本平野か阿蘇地方の国名だった可能性が高いな。
あるいは、ベンガラの原料となる赤鉄鉱採掘と関係があるのか。
こちらもまた阿蘇地方が本場だから、阿蘇地方の国名だった可能性が高くなる。
803 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/08(金) 18:43:17.59
>ベンガラの原料となる赤鉄鉱採掘と関係があるのか。 ベンガラの原料はリモナイト。熊本では阿蘇リモナイトが最良質な原料。 >弥生時代の加工鉄器は、熊本の鍛治工房を基点として普及するのは間違いなかろう。 >必然的に、鍛治工房も鉄鍛冶技術も熊本を基点として普及することになる。 その通り。 阿蘇リモナイトが、顔料として良質なベンガラ原料であり、消臭材としてのベンガラ原料。 墓から大量に出てくるベンガラは消臭材。 ベンガラを材料とする鉄は熊本で発展した。 その鉄器で勢力の伸ばしたのは、邪馬壹國を滅ぼした狗奴國。 狗奴國を起源とする勢力は倭五王の時代の初期には九州全土を統一した。 彼等の勢力伸張は、横穴式石室を持った装飾墓(古墳)の菊池盆地からの北進が示している。
804 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 18:54:11.81
基本的に製鉄遺跡は5世紀以降と言われていますが、 熊本は、荒尾玉名菊池エリアという熊本県の北側 そして八代宇城エリアという南側に固まっているようです。 八代側が狗奴國だったのでしょうか。
805 :
伊作 :2011/07/08(金) 19:51:59.21
>>803 装飾古墳は、大和へ引っ越したあとの九州管理を任された、
「○○の君」を名乗る皇別豪族の墓だよ。
(「○○の君は天皇家から分かれた豪族の名で、彼らはみな支配者の近親同族)
放っておけば筑紫の君・磐井のように力をつけるのが分かっているから、
細かく分断して支配管理させた。だから九州には「○○の君」がやたらと多い。
国や地方の指定古墳で発掘されていない大古墳を掘れば、
その大半には何らかの装飾がほどこされていると天才は確信している。
その図柄も、蛇のウロコをあらわす鋸歯文(連続三角文)、玉璧をあらわす同心円文、
同じく蛇をあらわす「うず巻き文」だろう。
なぜならば、彼らの遠祖は蛇を神と崇め、文身とお歯黒をする稲作民族なのだから。
この手の民族が古墳時代をもたらしたのだ。
現在の中国で少数民族と呼ばれる「文字を持たない民族」がそれだな。
「卑弥呼だ邪馬台国だ」という前に、こうした事実を踏まえることかこそ重要なのだ。
806 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 19:54:37.57
>>729 筑紫の土民=サイキバU
>筑後平野の延長にある盆地だよ。
>だから、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の持ち主は
>筑紫かその周辺であった確率の方が高い。
すごいな。呆れるわw
ゴミクズレベル九州説は日頃考古学の引用について散々文句言っているんだが
(「土器やその他の出土物で政治状況が分るはずがない」等々)
てめえの番になるとこんな与太でも平気で主張する、真性のアホなのか?wwwww
まあ普通だったら共伴の出土物や墳墓の築造技術その他で
被葬者と筑紫の関係を計ることからスタートすると思うが
もう地続きの九州だったら何処でも良さそうだなwwwwww
>>729 筑紫の土民=サイキバU
>鉄=国力だよ。何をもって国を平定するのか?
これもゴミクズレベル九州説によるトンデモオレサマ考古学だなw
どう与太を飛ばそうが鉄貧乏であるはずの大和でやがて古墳時代がスタートする。
ゴミクズレベル九州説がヤマトの鉄不足、九州の鉄の豊富さを強調すればするほど
鉄の価値が昔考えられていたような万能な物ではなくなると言うジレンマwwwwwwwwwwww
アホの脊髄反射を予想して、念のため言っておくがここで東遷説を持ってきても
「国を平定する必須アイテム」であるところの鉄を持ってこずに東遷してきたと言うお笑い話にしかならないwwww
808 :
伊作 :2011/07/08(金) 20:11:36.32
>>805 のつづき
中国には現在でも50を超える少数民族がいる。
主に、北方を除く長江流域の諸民族のうち、
数十の民族(似てはいるが少しずつ文化の異なる民族)が
縄文時代後期から弥生時代へかけて長江河口から継続的にやってきている。
火焔土器も遮光機土偶も彼らがつくったものだ。
その証拠に、彼らが神と崇めてきた蛇あらわす渦巻き文様が明確に刻まれている。
(北海道で出土した縄文後期の土偶にもそうした文様が確認できる)。
のちに、土蜘蛛・熊鷹・熊襲などと呼ばれた社会部族もまた、
長江河口からやってきた諸民族の中の「異種部族」だったと天才はみている。
中でも日本列島の支配の主流となったのが、三苗(南蛮・荊蛮)と呼ばれた民族で、
現在のミャオ族系民族だろう。これらはかつての呉・楚・越の構成民族でもある。
稲作・横穴墓・高塚墓・船型木棺・環濠集落・高床式住居などは
みな彼らがもたらしたものだ。
だからこそ日本の神話も登場人物も、「稲・穂・田」にまつわる所から始まっている。
809 :
伊作 :2011/07/08(金) 20:18:36.07
>>808 のつづき
中国人(漢族)の女性は、横に細くタテに長い。
少数民族の女性は横幅が広くタテに短い。
われわれ日本人は後者だ。これが揺るぎない事実だ。
疑う奴は、町中で駅で行き交う女性を観察するといい。
己の父母や祖父母の体形を想像してみるがいい。
圧倒的大多数は後者のはずだ。
当事の国は互いに領地を接してたんじゃなくてそれぞれコロニーみたいなもんだったんだろ? そしてそれぞれ行き来しながら物々交換して繁栄していた だから交流があって仲がいいところは連携して対抗する勢力からお互いを守ったんだろ コロニーは昔から住み易い所に出来て大規模な自然災害で放棄せざるをえない以外は 必ず人の居住地になっていたはず だから現在の九州の主要な都市の中に倭人伝に謳われた国が埋まってるはず
強引ではないよ 居住地の中で一番条件のいい場所であったということは そこが核になっている可能性のが高いんだよ
吉野ヶ里級の遺跡がその辺の家の下にあるかもな
814 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 20:31:02.53
>>809 筑紫の土民の気体(ヘリウムガス)の星 森村伊作
>中国人(漢族)の女性は、横に細くタテに長い。
>少数民族の女性は横幅が広くタテに短い。
根拠無し。
アホの妄言。
なんでゴミクズレベル九州説のアホはこう言う感覚でものを言うのか?wwww
まあ体型と民族とかを関係付けて言いたいのなら
「より寒冷地に適応した新モンゴロイドは胴長短足」…とかだなw
同じ100℃の熱湯でもコーヒーカップ一杯とバスタブ一杯の物とではどちらが冷めやすいか
無い脳味噌絞って考えてごらん、一応ヒントだwwwwwwwwww
埋まっているはずじゃダメでしょ。 遺跡や伝承の一致とかで突っ込まれて終了。
>>776 >国生みの近くという場所が重要でしょ?
>吉野川沿いではその後蛭子〜粟島〜淡路島という
>流れも説明がつきますよ。
だから意味がわからんて。わかるように説明してくれよ
なんか前提があるんだろうけども、あんたの前提はあんたしかわからんからな。
>大宰府に下った役人は皆奈良が恋しいと歌ばかり歌ってますがw
なんだこの関係のない文?
当時の奈良人が九州にいったんだから恋しくて当たり前だろ。
>だから魏志倭人伝には、倭国は鉄器を豊富に使うとは
>記述されてませんが。
「國出鐵濊倭馬韓並從巿之」『後漢書』辰韓伝
「國出鐵韓濊倭皆從取之」『三国志魏書』弁辰伝
何度ほどこれを無視するのかな?鉄を取っていて使うと書いてある以上
鉄をよく使ってる地域が比定されるのは当たり前。
垣内遺跡?
倭種の国の遺跡の一つだろう。当時倭種の国が列島にいることは考古学的にも文献学的にもわかってることだが。
>雑に説明すると、丹が四国や紀伊半島にあるのだから、
>委奴国の連中が紀元前後から四国や紀伊半島に勢力を
>拡大しただけの話。
>それが瀬戸内海を巡る倭国大乱という事だろう。
論拠がどこにも書いてないな。
そう思ってるのなら早く論拠出せば?
水銀厨さんへの要求 ・阿波や淡が邪馬台国時代からの名称であることを証明しなければならない ・倭と波や淡の関連性を示さなければならない 倭はワ(ワレ)の意味から来たとする説があるが、淡路は阿波への道、阿波は暴るから来たという説が強い また阿波は古来の表記は粟であり、ますます倭と離れる ・波や淡の中古音・上古音の読みは倭と異なる。同一である根拠を説明しなければならない ・波は万葉仮名でも本来(ハ)と読み、ワと読むのは前の文字との複合による音韻変化であり倭との関連性は見られない ・邪馬台国以前にあった倭奴国は九州にあるのが確定している つまり、淡路島や四国に関係のないところで「倭」の名称は既に使われている ・記紀で淡島が初めに産まれたとしても、何故淡路島での物語の記述がないのか説明が必要 ・同じく淡島が初めに産まれたからと言って、それが邪馬台国時代のことであるということを証明しなければならない ・伊都國と邪馬台国について、中国正史で大方東西関係でも一部南北関係なら南北と書き記す例を出さなければならない ・九州から畿内にかけて7万戸しかないという、人口分布図に関する矛盾を証明しなければならない ・「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛」 といった遺構が瀬戸内海にあることを証明しなければならない。 もちろん兵には鉄鏃その他を使用すると書いてあるので、これらも出土しないといけない ・なぜ鏡や鉄剣、勾玉のような三種の神器のモチーフになったものが三世紀の九州にあって畿内にないのか説明が必要 ・ニギハヤヒが大和と名づけたのを何故無視して、地名の類似を九州が後と決め付けているのか?説明が必要 ・淡路のイザナギ神宮がいつ造られたのかを証明しなければならない。 紀元前後から存在するなら論拠として十分だが、後世に造られたのなら論拠として不十分 ・鉄は関係ないとか言っているが、絹も九州の方がはるかに出土する。三種の神器のモチーフは上でも述べたとおり ・証拠があるとか言いながら、全く出さない証拠を出さなければならない 上で少々訳のわからん反論もあった奴もそのまま残しているが 何度も言うように納得いくように説明してくれ ころころ言うこと変えられるとわけがわからん
818 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 21:03:35.26
>>816 >なんか前提があるんだろうけども、あんたの前提はあんたしかわからんからな。
国生み神話が淡路島からと記している以上は、この周辺が
倭国では重要な場所だろう、という前提だね。
無関係な場所を記述する理由は有りますか?
>当時の奈良人が九州にいったんだから恋しくて当たり前だろ。
だから地名も奈良地方に倣ったんだろう。
福岡だって元々岡山の名前だからな。
>鉄をよく使ってる地域が比定されるのは当たり前。
だから倭国は半島南部から紀伊半島に及ぶと主張してますよ。
北部九州で鉄器が多く出土しても問題ない。
何度もいってるけどね。垣内遺跡は少なくとも畿内にも
鉄が入ってた証拠。それしか存在理由はない。
>論拠がどこにも書いてないな。
論拠は現時点での考古学の結論だね。
各古墳石室内の水銀朱産地分析結果、
高地性集落の分布図及びその年代別方位等。
また各種古墳の埋葬品状況その他の結論だね。
双方中円墳をどのように評価してますか?
820 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 21:12:22.63
>国生み神話が淡路島からと記している以上は、この周辺が >倭国では重要な場所だろう、という前提だね。 いつの間に大和政権の神話が倭国の神話になったんだw
>>818 >国生み神話が淡路島からと記している以上は、この周辺が
>倭国では重要な場所だろう、という前提だね。
>無関係な場所を記述する理由は有りますか?
>>817 で書いたけどもう一度言う。
なぜ記紀の神話時代の話に淡路島や四国の記述がほぼないのか?
>だから地名も奈良地方に倣ったんだろう。
何故全く逆のことが書かれている、ニギハヤヒの伝承を無視するのか?
>何度もいってるけどね。垣内遺跡は少なくとも畿内にも
>鉄が入ってた証拠。
畿内にもと言うが、奈良はほぼ出土しないし、京都や兵庫は出土するものの日本海沿岸に集中している
その他はほとんど出ない
ただ少量出ると言うだけならどこにでも出るからな
それと、絹や剣・鏡・勾玉は全然でないがこれは大丈夫なのか?
まさか皇室の三種の神器のモチーフが田舎にしかないってことなのか?
それならその「田舎」に皇室の祖先がいるってことじゃないのかな?
それに漢鏡はまあ良いとしても、魏鏡がほぼ出ないのは致命的だろうに
続き >論拠は現時点での考古学の結論だね。 >各古墳石室内の水銀朱産地分析結果、 >高地性集落の分布図及びその年代別方位等。 >また各種古墳の埋葬品状況その他の結論だね。 だからその考古学の結論とやらを論拠を提示しつつ教えてくれよ それだけ出されても何が何かわからんわ で、現時点での考古学ってどこの考古学なの? 大学や教授陣やらの名前は?
>論拠は現時点での考古学の結論だね 学術的に説はあるがそれをもって結論となりうるような そんなものは な い
824 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/07/08(金) 21:22:15.34
ジャ〜〜〜パ・ネット♪ジャ〜〜〜パ・ネット♪ ♪ ∧,_∧ ♪ ( ´・ω・) )) (( ( つ ヽ、 ♪ 〉 とノ ))) (__ノ^(_) ∧_,∧ ♪ (( (・ω・` ) ♪ / ⊂ ) )) ♪ ((( ヽつ 〈 (_)^ヽ__) 九州説はジャ〜〜〜パ・ネット♪考古学の遺物をジャ〜〜〜パ・ネット買って来た♪
825 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 21:22:19.26
>阿波や淡が邪馬台国時代からの名称であることを証明しなければならない 漢字なのに必要ないでしょ。接頭語ア+ワに漢字をあてただけ。 >淡路は阿波への道、阿波は暴るから来たという説が強い それじゃ琵琶湖の説明がつかないので、私は採らないだけです。 近淡海=琵琶湖=ビ+ワの海です。 >また阿波は古来の表記は粟であり、ますます倭と離れる 粟は重要な穀物、オオゲツ姫の説話からもわかるでしょ。 その字をあてたのでしょう‥ 基本的に「倭国は本州の広範囲にわたる」で説明できる点は省略します。 まあ要求してくれるのは勝手ですが、もう少し内容をまとめて もらえませんかね? 正直な話、本にまとめてくれという話を以前から何件か頂いてまして どうしょうかと色々調査中ですのでね。
826 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 21:26:12.68
>>825 水銀厨
>正直な話、本にまとめてくれという話を以前から何件か頂いてまして
で、水銀にまつわるお話として大仏建立や空海、あるいは伊勢白粉まで手を伸ばすのかな?wwwwwwwwwww
827 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 21:32:24.44
書いてるほとんどがこじつけの域を出ないから説得力がないのにw
828 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 21:32:45.99
>>826 色んな案を頂きましたよ、そういうのもありましたがw
でもどうせ売れないで苦労してるのはよく見てますからね〜
四国を重要視するなら猫塚・鏡塚の双方中円墳、それに1世紀先行する楯築弥生墳丘墓との関係をどう考えてるのかを 聞かせて頂きたかったんですが無視されてしまったようですね。
830 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 21:54:15.39
>>829 場所柄注目はしてますが、まだ資料不足ですね。
何より盗掘が酷い場所ではなかったかな?
でも希少なカタチですからね。
>>825 >漢字なのに必要ないでしょ。接頭語ア+ワに漢字をあてただけ。
なんで接頭語のアをつけるんだ?
接頭語の「ア」って「あそこ」とか「あれ」とかのアだよな?
国名であり国の中心がなんで接頭語がつくようになったんだよ。
辺境とかの名づけならよくあるけどね。
琵琶湖って昔は近淡海「おうみ」だろ?
琵琶湖が今の表記(発音)になったのってかなり後の話だろう
「水輪」からの転化だとか、琵琶の形ににてるからとか色々説があるのに
ビ+ワって勝手に決めてるのはなぜ?
しかも、昔の音はビ+ハでハの音韻変化でワになっただけだから
元から「ワ」の音の倭とは関係ないからな。何度もいうに
もう一度言うぞ「ハ」と「ワ」は別物(古来においては特に)
ハとワは万葉仮名や漢字(中古音・上古音)でも表記は別で、音も別
関連性は皆無
ただ後世になって音韻変化を起こす「ハ」の字を、変化後の読みである「ワ」の表記になっただけ
>>825 内容をまとめろと言われたのでこれだけは説明して欲しいと言う事項を書いていくわ
・中国正史で大方東西関係でも一部南北関係なら南北と書き記す例
・七万戸の人口分布図の矛盾
・鏡・鉄剣・勾玉の三種の神器モチーフの不足
(皇室のシンボルが辺境にあってに倭の中心にないのはなぜか?)
・九州から来たニギハヤヒが奈良をヤマトと名づけたことと、九州が奈良の地名をまねたと言う矛盾
・淡路のイザナギ神宮がいつ造られたのか
まずこれだけでいいから、反論してね
>>832 ×まずこれだけでいいから、反論してね
○まずこれだけでいいから、説明してね
細かいことだけど一応
あと上で言い忘れたけど
ア+ハって接頭語のアを取ると表記も発音も「ハ」になるからな
ワとは無関係だぞ
834 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 22:09:38.96
纏向は裸邪馬台国と同時代とかいうが、その証拠は何もないみたいだな。
835 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 22:10:48.63
>>831 昔は〜とか古来は、とかよく何度も言ってるけど、
それ自体は実証されてる訳ではないでしょう。あくまで通説。
しかも大半の言葉も諸説ある話では?
琵琶だっていつの時代にあったんだろうね?
言葉や発音のルーツ自体、通説には色々疑問があるんでね。
特に地名のように地方で発音が変化する事が多々ある場合
単純に決め付けはダメだと思うよ。時間による変化なんて
特に実証は難しい‥
抽象的な返事で悪いね、時間無いので本当に失礼。
836 :
水銀厨 :2011/07/08(金) 22:17:37.16
>>832 >・中国正史で大方東西関係でも一部南北関係なら南北と書き記す例
これは何に対しての質問かよく理解出来ていない。
>・七万戸の人口分布図の矛盾
遺跡の出土状況において、畿内なら四国や紀伊半島位
必要じゃないかという意見、石野氏と同意。
>・鏡・鉄剣・勾玉の三種の神器モチーフの不足
未発掘、盗難の可能性も考慮>
>・九州から来たニギハヤヒが奈良をヤマトと名づけたことと、九州が奈良の地名をまねたと言う矛盾
九州から来たと思っていない。
> ・淡路のイザナギ神宮がいつ造られたのか
1〜2世紀ではないかと想定。
駆け足で悪いね。
>>835 「ハ」が文頭以外では「ワ」に転化されてるのは事実
また、阿波は「アハ」と表記されているのも事実
「ハ」と「ワ」の音が違うのも事実
別に通説もなにも根拠も証拠もあるけどね
>言葉や発音のルーツ自体、通説には色々疑問があるんでね。
>特に地名のように地方で発音が変化する事が多々ある場合
>単純に決め付けはダメだと思うよ。時間による変化なんて
>特に実証は難しい‥
じゃあなんであんたは阿波(淡)ア+ワ(倭)って決め付けてるんだよ
自分で根拠ないだとか思ってるのなら主張するなよ
あとな、地名はかなり後まで残るのが常識だ
意図があって全く別の音や字を当てはめられない限り後世までよく残る
それだけは覚えておけ。時間による変化もないことはないがね
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/08(金) 22:24:44.76
毒敵山か〜。
>>836 >これは何に対しての質問かよく理解出来ていない。
伊都國=■、女王國=□とすると
■ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
あんたの論では大方こんな感じの邪馬台国と伊都國の位置関係になるんだろ?
しかし、普通に見るとこれは東西関係だが、伊都と邪馬台国(女王国)は南北関係と記されている
だから、中国正史で大方東西関係でも一部南北関係なら南北と書き記す例でも引っ張ってこないと
こんな位置関係はありえないということ
>遺跡の出土状況において、畿内なら四国や紀伊半島位
>必要じゃないかという意見、石野氏と同意。
説明になってない。意味不明
>未発掘、盗難の可能性も考慮
無いものは未発掘・盗掘されたというのならなんとでも言えるわな
>九州から来たと思っていない。
じゃあどこから来たのかな?
>1〜2世紀ではないかと想定
根拠なしかよ。まあそれは想定してたけどね
まあ急いでるらしいから、また時間あるときにでもゆっくり頼むわ
>>839 伊都國=■、女王國=□と、那国=◆すると
■ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆略
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆略
□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□略
こんなかんじだな。
841 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 22:57:03.89
【 暖簾に腕押し 】 こんなかんじだな。
彼は結論ありきで全て我田引水するからみんな呆れてんだろ そんな輩におかしな点を指摘してもかたくなに自分の説を曲げたりするわけないじゃん 聞く耳持たない奴に何を言っても無駄
意見曲げないなんて全員そうだろw
明確に否定できなければ「あった」と 断定する思考に付いて行けない。
845 :
水銀厨 :2011/07/09(土) 08:33:06.63
>>839 考古学ではないが講師を頼まれていて、本当に準備の為時間がないのでね。
位置関係の認識だけかいておく。
>伊都と邪馬台国(女王国)は南北関係と記されている
伊都国の位置は大宰府周辺だと仮定している。
(糸半島は伊都の津で立てに長い国、もしくは飛び地的な存在と考えているが)
で、女王国とは日田辺りに境界線があると考えている。
よって厳密には南北関係と少し誤差があるかもしれないが。
奴国の位置も伊都比古の逸話だとずっと本州西側に伸びているはず。
まあ女王国は東西に長い国というのを知らなくても矛盾はない、
遠方で詳細が判らないとしてるのだからな。
使いは北部九州辺りを周遊したにすぎない、よって例の五千里という
数値が記されているのだろう。
つまり大分辺りが九州での入り口という認識だね。
よって厳密には南北が
846 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 09:45:38.45
>>845 水銀厨
>奴国の位置も伊都比古の逸話だとずっと本州西側に伸びているはず。
甕棺墓の出土は、福岡市が最も多く。西は、飯塚立岩遺跡まで。
東は、佐賀・長崎全土。 南は熊本宇土半島までの範囲。
宗像・遠賀川・行橋、大分からは、出土していない。
これは安曇族が奴国。 宗像族が行橋・大分で別の勢力のはず。
関門海峡の布刈神社の祭神は、安曇磯良丸だが、これは安曇族の
発展がはやく、規模も大きかった為と思われる。
奴国は、本州西側まで伸びてないと推測する。
847 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 11:26:28.72
倭人伝には関門海峡の話はまったく出てこない。奴国が本州にまでのびている なんてのは自説に合わせるためのこじつけにすぎない。
848 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 12:00:26.32
Polygonal rifling, on the other hand, shapes the bore itself into a twisting geometric shape with hills and valley, such as hexagonal or octagonal, instead of cutting twisting grooves and leaving behind lands inside a round bore. Really good information about this can be found on Google, including pictures showing the difference.
849 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 12:32:15.00
850 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 12:44:24.07
851 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 12:57:24.60
852 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 13:07:58.51
>>846 失礼! 西と東を間違えてる。
訂正しときます。
853 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 13:34:02.91
Harappa の同心円紋画像。↓
C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\Resized
http://www.harappa.com/indus4/347.html より
Steatite button seal
Steatite beads
"Priest King" Forehead
Red stoneware bangle
>>845 >奴国の位置も伊都比古の逸話だとずっと本州西側に伸びているはず。
伊都比古の話と奴国関係ないだろ。伊都國の話だとまだわかるが
しかも、垂仁天皇の話だから時代が違うだろ
>まあ女王国は東西に長い国というのを知らなくても矛盾はない、
>遠方で詳細が判らないとしてるのだからな。
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
どこにも女王国が遠方で詳細がわからないとは書いてないからな。
「其餘旁國」がわからないってだけで。
>使いは北部九州辺りを周遊したにすぎない、よって例の五千里という
>数値が記されているのだろう。
以前までそんな主張したこと無かったのに、伊作の意を借る水銀厨か
855 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 13:50:04.58
>>846 > これは安曇族が奴国。 宗像族が行橋・大分で別の勢力のはず。
日本書記(巻一神代上)の誓約の条に天照大神の生んだ三女神を地上に
降臨させる話がある。 通常では宗像の地とされ、宗像三神となったと
言われている。
ところが、同じ条の第三の一書には、三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)は、
「宇佐嶋」に降臨せしめたと記されている。
これらの伝承からも、宗像と宇佐は同勢力と想像できる。
856 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 14:07:00.90
>>845 >まあ女王国は東西に長い国というのを知らなくても矛盾はない、
>遠方で詳細が判らないとしてるのだからな。
『女王国』が『遠方で詳細が判らない』としている
原文を記述してくれませんか?
誤読からの解釈だろうと。。。。。。。
東夷伝の序文だろ
>>854 垂仁天皇なら時代はそんなに変わらない。
モモソを卑弥呼に想定してるならな。
859 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 15:38:49.06
卑弥呼がモモソモモソいう奴がずっと粘着してるが 何の関係もないだろ? 証拠は?
860 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 15:41:06.86
証拠は私の脳内妄想です(キリッ!
じゃあ誰? アマテラスw まさかの田油津かなww
\ お そ .い ヽ か の や | し り ` ,. -──- 、 い .く / /⌒ i'⌒iヽ、 つ / ,.-'ゝ__,.・・_ノ-、ヽ は i ‐'''ナ''ー-- ● =''''''リ _,....:-‐‐‐-.、 l -‐i''''~ニ-‐,....!....、ー`ナ `r'=、-、、:::::::ヽr_  ̄ \ヽー' !. t´ r''"´、_,::、::::} ノ` ,.i'・ ,!_`,!::::::::::::ヽ ヾ、 ゝゝ、,,ニ=====ニ/r'⌒; rー`ー' ,! リ::::::::::::ノ i`''''y--- (,iテ‐,'i~´,ゝ'´  ̄ ̄ヽ` :::::::::::ノ .| !、,............, i }'´ _ 、ー_',,...`::::ィ' ●、_!,ヽ-r⌒i-、ノ-''‐、 ゝ`ーt---''ヽ'''''''|`ーt-'つ ( `ーイ ゙i 丿 ;'-,' ,ノー''''{`' !゙ヽノ ,ヽ, `ー--' --'` ̄ `ー't,´`ヽ;;;、,,,,,,___,) ヽ'-゙'" (`ー':;;;;;;;;;;;;;;;ノ ``''''''``'''''´
863 :
水銀厨 :2011/07/09(土) 18:41:21.19
>>854 >しかも、垂仁天皇の話だから時代が違うだろ
私も倭迹迹日百襲媛命を卑弥呼と比定してますので。
次の垂仁天皇の代で男王が立つが、再び争いが起きるという
記述には合うと思いますが。
>どこにも女王国が遠方で詳細がわからないとは書いてないからな。
文意の解釈の違いでしょう。
>以前までそんな主張したこと無かったのに、伊作の意を借る水銀厨か
前から別スレでも書いてますよ、私は以前からこの主張です。
中傷されるのが目的ならレスは辞めますよ。時間の無駄ですからね。
ただ伊作さんとは意見が近いような気がしますけど。
巻向の解釈は異なってますが(王都の近くに墓は造らないの部分)
でも基本的にファンです、口の悪さ以外はw
阿波の件だけ補強しておきます。
旧国名の粟というだけでも、倭の重要地という指摘は出来ると思いますが
(オオゲツ姫の国ですからね)
本来のア+ワは安曇氏の倭、という意味ではないかという認識ですね。
海人族の拠点なので北部九州との交流には欠かせません。
後に漢字二文字で阿波をあてたのは、梵語の阿に
土地柄象徴的な波を合わせたものでしょう。
864 :
筑紫次郎 :2011/07/09(土) 18:42:49.31
(卑弥呼)‐(壹與)‐(?)………(?)‐(田油津姫) 239年朝貢 248年頃 ↑380年〜390年代頃 (神功皇后)
865 :
筑紫次郎 :2011/07/09(土) 18:52:13.14
水銀厨
>>715 まぁ今の九州説の矛盾点なんて数え切れない程ありますよ。
いくら要求してもたった一つの矛盾点も提示できないのだから
謝罪して
二度と無責任なこと言うな。
866 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 18:54:55.90
《応神天皇三年(壬辰二七三)是歳》是歳百済辰斯王立之失礼於貴国天皇。故遣紀角宿禰。羽田矢代宿禰。石川宿禰。木菟宿禰。嘖譲其无礼状。由是。百済国殺辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿花為王而帰。 辰斯王在位は385年 - 392年 都怒我阿羅斯等 『日本書紀』に登場する伝説上の人物。別名は,于斯岐阿利叱智干岐。崇神天皇のとき,加羅国の王子都怒我阿羅斯等が,天皇に会おうと出雲を経て笥飯浦(敦賀市)へきたが,天皇が亡くなったので,阿羅斯等は 次の垂仁天皇に3年仕えた。垂仁天皇は,御間城(崇神)天皇の名をお前の国の名にしろと命じ,赤絹を与えて阿羅斯等を本国へ帰した。これが,弥摩那(任那)という国名の起源となった。 任那の建国は369年 応神天皇と垂仁天皇は同世代を生きた人間なのか???
867 :
水銀厨 :2011/07/09(土) 19:02:25.61
>>865 矛盾点なら何点も指摘してますが。
矛盾という言葉が不適当なら不都合な点ですかね?
まず肝心で一番重要なのは決定的候補地や比定人物の不在、
それを補う文献資料ですよ。
868 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 19:02:57.91
>>どこにも女王国が遠方で詳細がわからないとは書いてないからな。 >文意の解釈の違いでしょう。 それを誤読というんだ。
869 :
水銀厨 :2011/07/09(土) 19:07:49.01
>>868 現に名前の挙がった国の詳細はありませんからね。
一応断っておきますが女王国=ヤマタイ国かは
まだ保留してますので(以前にも書いてます)
870 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/09(土) 19:49:53.23
>>866 別世代ですね。
紀と三国史記とは年代差が120年前後の断層が結構あるから、辻褄が合わ
ない事がある。この年代差は、当時の日本が倍暦行使をしていた関係で
それを未知だったとなればこういう年代差が出来、編纂に四苦八苦する。
>私も倭迹迹日百襲媛命を卑弥呼と比定してますので。 >次の垂仁天皇の代で男王が立つが、再び争いが起きるという >記述には合うと思いますが。 あんた淡路島が邪馬台国の中心とか言ってたじゃないか、モロに奈良じゃねーか しかも崇神天皇なんかどう考えても4世紀の人物なのに年代が合わないだろう >文意の解釈の違いでしょう。 解釈の違いじゃなくて完全な誤読な。論証してもいいぞ >前から別スレでも書いてますよ、私は以前からこの主張です。 >中傷されるのが目的ならレスは辞めますよ。時間の無駄ですからね。 あんた倭人伝の里数や道程は当時の地図が無い限り信用できないって言ってただろう それなのに >使いは北部九州辺りを周遊したにすぎない、よって例の五千里という >数値が記されているのだろう。 とか言うなよ。信用できないのになんで解釈してるんだよ。 どれだけ都合のいいように解釈しようとも、自分で信用できないと言ってるんだからそれを貫け。 発言を変えるな。
続き >阿波の件だけ補強しておきます。 >旧国名の粟というだけでも、倭の重要地という指摘は出来ると思いますが (オオゲツ姫の国ですからね) 意味不明すぎだろう。粟なんて地名はいくらでもあるし、しかも俺が阿波の表記は粟であると言うまで そんなこと一言も言ってなかっただろ >本来のア+ワは安曇氏の倭、という意味ではないかという認識ですね。 >海人族の拠点なので北部九州との交流には欠かせません。 接頭語のア+ワとか言ってたのはどうした? 発言ころころ変えるなよ >後に漢字二文字で阿波をあてたのは、梵語の阿に >土地柄象徴的な波を合わせたものでしょう。 そういう全く根拠の無いことを言うのをやめてね 何百回も言うが根拠を出してくれ。頼むから。 こう考えられるとか想定されるとかは、幼稚園児でもできるからな? それに伴う根拠がないと信憑性は皆無だよ
ハツクニシラスメミコト・・・神武=崇神 次代・・・応神=垂仁 これでいいんじゃねーの?
>>867 >まず肝心で一番重要なのは決定的候補地
あんたも瀬戸内沿岸部とか無茶苦茶適当だろう
なにを自分のこと棚に上げて批判してるんだ?
>比定人物の不在、それを補う文献資料ですよ。
まるで畿内説が豊富にいるかのような発言だな
まさかモモソ姫を出してくるのかな?
墓は魏志倭人伝の記述に合わない、生きた年代も決定的に違う
その他記述で大きく矛盾があるのにな
それに九州にも天照だとか人によって違うがいるだろう
まだまだ九州説の矛盾はさぞたくさんあることだろう
色々出していってくれ
それと俺が指摘した、あんたがほったらかしにしているあんたの説の矛盾も答えてくれたらうれしいな
>>874 あんたも人に質問ばかりせず主張しなよ。
誰を卑弥呼にしてんの?
\ お そ .い ヽ か の や | し り ` ,. -──- 、 い .く / /⌒ i'⌒iヽ、 つ / ,.-'ゝ__,.・・_ノ-、ヽ は i ‐'''ナ''ー-- ● =''''''リ _,....:-‐‐‐-.、 l -‐i''''~ニ-‐,....!....、ー`ナ `r'=、-、、:::::::ヽr_  ̄ \ヽー' !. t´ r''"´、_,::、::::} ノ` ,.i'・ ,!_`,!::::::::::::ヽ ヾ、 ゝゝ、,,ニ=====ニ/r'⌒; rー`ー' ,! リ::::::::::::ノ i`''''y--- (,iテ‐,'i~´,ゝ'´  ̄ ̄ヽ` :::::::::::ノ .| !、,............, i }'´ _ 、ー_',,...`::::ィ' ●、_!,ヽ-r⌒i-、ノ-''‐、 ゝ`ーt---''ヽ'''''''|`ーt-'つ ( `ーイ ゙i 丿 ;'-,' ,ノー''''{`' !゙ヽノ ,ヽ, `ー--' --'` ̄ `ー't,´`ヽ;;;、,,,,,,___,) ヽ'-゙'" (`ー':;;;;;;;;;;;;;;;ノ ``''''''``'''''´
877 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 20:46:11.66
やっぱり九州説って何にも出ないんだなw
九州島内部であれば何処でもいいからね。
879 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 21:29:58.25
呪い節…涙
880 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 22:06:20.28
【 丗有王、皆統屬女王國 】 (この国には代々国王がいて、みな女王国に統属している) どうも気にくわない。 専門家の中には、「丗有王」を三十カ国の王達と解釈してる人もいる。 しかし、伊都国の所に書かれているので、伊都国王のことだろう。 後の奴国、不彌國の前に記載されているのは、文法上不自然である。 しかし、前原三雲遺跡からは王統を示すものが出土している。(玻璃など) 伊都国の歴代の王達が、全員女王国に統屬していた。 これもおかしい、ぞな、もし!
中国語は名詞の格変化が無いから苦労するな
882 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 22:14:31.10
>>880 自説(トンデモ説)
伊都国までは、記載にない郡史の「報告書」が原史料ではないだろうか。
ならば、「郡使往來常所駐」で終わっている可能性もある。
魏略逸文には、「其国王皆属女王也」(その国王は、皆女王に属するなり)とある。
そうすると、「其国王」は對馬國、一大國、末廬國、伊都国の4人の王達となる。
「特置一大率、檢察諸國」は、この四カ国を、伊都国で治めていたのではないだろうか。
883 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 22:20:09.16
丗有王、皆統屬女王國は、伊都国王ではない。伊都国の記事は、千余戸有りで終わっている。 千余戸有りなどと戸数のことを書いてから、王のことを書くのは順序がおかしいだろ。 それに、伊都国歴代の王ならば、それらが皆集まって女王国に属する(統属)ことはできない。 皆統屬は、対馬国、一支国、末盧国、伊都国の王のことだよ。
885 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 22:35:31.79
>>883 名無史さん
何処の何方かしりませんが、嬉しいですね。同見解の人がいると。
間違ってたら、どしどし意見して下さい。
間違いを指摘されるのは、素人にとってはありがたいことです。
よろしく。
886 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 22:40:54.66
>>883 >千余戸有りなどと戸数のことを書いてから、王のことを書くのは順序がおかしいだろ。
おかしいかな?對海国、一大国、末盧国のところでも戸数のあとに暮らしぶりなどの記事があるけど。
「世有王皆統屬女王國」が伊都国のことを述べたものでないのならそのあとの書かれている「郡使往來
常所駐」はどこのことになるのかな?それは伊都国だと言うのならなんで「世有王皆統屬女王國」が途
中に入りこんでいるのだ?
887 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 22:45:38.84
>郡使往來常所駐は何処だよ 4か国です。常所駐は常に宿泊するところという程度の意味。伊都国に限った話 ではない。 これは、対馬国から伊都国までの4か国は郡使が倭国の都への往来に際して経由 する所ということ。つまり、逆にいえば、奴国、不弥国などは経由地ではないっ てことね。 「特置一大率、檢察諸國」の一大率は、4か国だけではなく、不弥国までの諸国を 検察していたのでしょう。
888 :
筑紫次郎 :2011/07/09(土) 22:49:15.65
>>867 矛盾という言葉が不適当なら不都合な点ですかね?
まず肝心で一番重要なのは決定的候補地や比定人物の不在、
それを補う文献資料ですよ。
候補地ではなく邪馬台国は山門郡にあったといっている。
比定人物は卑弥呼だ。他の名前はない。
神功皇后だとかモモソ姫だとか天照大神だとか年代、履歴の合わない比定人物が何人いようとも無意味。
卑弥呼が大和朝廷の人物なら豊富な資料があるはず。
あらゆる資料がありながら
卑弥呼のことを記した資料が皆無なのが畿内説にとって極めて不都合だ。
逆に
九州説にとっては
邪馬台国は大和朝廷が滅ぼしてりすました国だから文献資料が無いのは当然。
889 :
筑紫次郎 :2011/07/09(土) 23:02:13.86
>>885 東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王国郡使往来常所駐
の前は末盧国の説明
後は奴国の説明
対馬国から邪馬台国まで
道里の後の説明は全てその国の説明。
世有王皆統属女王国郡使往来常所駐だけが
が伊都国の説明でないと解釈するのは極めて不自然ですよ。
>>888 邪馬台国は君の脳内にしまっておきなさい。
891 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 23:07:54.88
>>887 狗邪韓国や投馬国はどうなる。経由地ではないわけ?
892 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 23:08:44.47
>>886 名無史さん
>それは伊都国だと言うのならなんで「世有王皆統屬女王國」が途
中に入りこんでいるのだ?
確か魏略逸文には「郡使往來常所駐」はなかったですよね?
「其国王皆属女王也」で終わってたと覚えてますが・・・
ついでに「東南陸行五百里、到伊都國」も「陸行」もなかったと。
(東南五百里にして、伊都国に到る)
私は、郡使往來常所駐は伊都国だけと思ってます。
福岡市西区唐泊(金印出土の真正面)
893 :
筑紫次郎 :2011/07/09(土) 23:09:42.77
>>890 理解する能力の無い貴方のために書いているのではありません。
私の投稿は無視してください。
894 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/09(土) 23:17:33.08
モモソ媛は卑弥呼とほぼ同時代の人物ですね。ただし双方は別人です。
895 :
塩土老翁 :2011/07/09(土) 23:17:45.45
>>892 奴国、不彌國は、保留して
「南至投馬國、水行二十曰。〜 自郡至女王國、萬二千餘里。」は魏使による
報告書の可能性は大きい. ならば「郡至倭」が別途に頭に記載されていたかもね??
「水行二十曰、水行十曰、陸行一月」は、郡からの総日数を支持してます。
896 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 23:19:52.07
>>891 >狗邪韓国や投馬国はどうなる。経由地ではないわけ?
狗邪韓国は経由地だが、倭の国ではないから問題外だよ。
投馬国は経由地ではない。 分かる? その意味が。
897 :
886 :2011/07/09(土) 23:24:28.32
翰苑に魏略日として 東南五東(百)里到伊都國 戸万餘 置〔闕「官」〕曰爾支副曰曳渓觚柄渠觚 皆統屬王女(女王)也とあります。 「陸行」も「郡使往來常所駐」もありませんが『世有王」もありません。上記文だと官の曰爾支と副官の曳渓觚 と柄渠觚の3名が王女(女王)に統属すると読めますね。
898 :
886 :2011/07/09(土) 23:31:52.18
>>896 >狗邪韓国は経由地だが、倭の国ではないから問題外だよ。
倭人伝には從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里とある。
到其北岸狗邪韓國に注意すべきでしょう。其北岸は倭の北岸(倭の北端)であるから狗邪韓國も倭の国である。
狗邪韓国には官や国情の記述が無いから倭国じゃないな。
>>897 上記文だと官の曰爾支と副官の曳渓觚
と柄渠觚の3名が王女(女王)に統属すると読めますね。
倭人伝とは明らかに違った情報を記載してますね。
どちらが信頼性が高いかの問題になります。
その検討をしないで片方の記述をもとに他方の記述を否定はできません。
901 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 23:47:47.54
>>897 >>899 氏のとおり。其北岸は倭の北岸だが、倭は方角の基点を示しているだけで、
倭の領域だと言ってるわけではない。
倭の北方にある朝鮮半島の岸の国ってことだよ。
>其北岸狗邪韓國に注意すべきでしょう。其北岸は倭の北岸(倭の北端)であるから狗邪韓國も倭の国である。 誤読
903 :
水銀厨 :2011/07/09(土) 23:54:10.12
>>871 正直ただの言い掛かりレベルの反論しか思えませんよ。
面倒臭いので書ける範囲だけな。
>あんた淡路島が邪馬台国の中心とか言ってたじゃないか
河内〜大和〜四国東部を中心とした範囲、です。
人口については当時の代表的遺跡の大半が、1000〜2000を
想定してるなら、未発見の遺跡等を考慮しても
七万戸(約30万人想定)をあてはめるなら相当な広さが必要という認識です。
よって北部九州や八女地方に比定するのはとても無理だと思います。
>崇神天皇なんかどう考えても4世紀
そう思ってないだけでね。
>倭人伝の里数や道程は当時の地図が無い限り信用できないって
あのね、この件は「説明出来るならやってみろ」と言われただけですよw
これを根拠の一つにする気はないですな。
>粟なんて地名はいくらでもあるし、しかも俺が阿波の表記は粟であると言うまで
オオゲツ姫ってなんの姫だ?
理由説明しただけでこれじゃ、ホントいいがかりだろw
>何百回も言うが根拠を出してくれ。頼むから。
自分で調べて理解してください、としか‥
倭迹迹日百襲媛命を想定してるのは、一番卑弥呼像に
近い人物で、複数の書物から逸話が存在する点。
瀬戸内海や近畿に伝承を残している点等からです。
まあこれ以上無駄みたいなので、せめて貴方も
比定地等を主張してくださいね、頼みますよ。
904 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 23:56:17.96
>>897 引用で「其国王」を抜かしているんじゃないか? 魏略の文は4か国の国王が皆
王女(女王の誤記だろう)に統属すと読まれているよ。
905 :
886 :2011/07/09(土) 23:57:01.84
>>901 其北岸は倭の北岸、すなわち倭の北端であるから狗邪韓国は倭の国である。倭の北方にある朝鮮半島の岸の国
という意味であれば其北岸という表現にはならない。
また水銀が根拠もない脳内妄想で人を煙に巻いてるのか 私はこう思いますってこじつけてるだけだろ全部
907 :
886 :2011/07/10(日) 00:02:03.33
>>904 >魏略の文は4か国の国王が皆 王女(女王の誤記だろう)に統属すと読まれているよ。
その原文(魏略の文)を提示してほしい。
908 :
塩土老翁 :2011/07/10(日) 00:03:28.11
>>900 名無史さん
>その検討をしないで片方の記述をもとに他方の記述を否定はできません。
まさに、私の主張です。
私は、魏志倭人伝の絶対視に反対しています。
909 :
水銀厨 :2011/07/10(日) 00:03:58.07
根拠どころか文献や記録にない事を妄想で語る人達に 言われたくないけどね。
水銀は辻褄の合わないこじつけ展開するから、根拠だせと言うと 出てくるのは根拠のない関連付けばかり その割りには他を否定してそのまともな根拠も示さない 誰も呆れてるから賛同がないだろ
911 :
886 :2011/07/10(日) 00:07:54.74
水銀は危ないですね。中毒に気をつけて下さい。
忌部の本拠地が徳島だから、大和朝廷の前身だろうけど 邪馬台国とは繋がらない。
七万戸が30万人の根拠は? 脳内妄想か?
915 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:14:23.83
伊作氏の装飾古墳論からすると大和朝廷は熊本の狗奴国が東遷して建てたものだな。
916 :
水銀厨 :2011/07/10(日) 00:17:23.00
まあ私は古事記の調査の仕事が色々忙しいので。 西都原と徳島辺りの発掘調査が進むといいですな。 何か出るかな〜 巻向はどうでしょうねw 一応私も元々宮崎辺りの九州説ですからね。
結論ありきで資料かき集めるとそうなる 説の弱い部分を強引な設定で埋めようとする だから他から見ればこじつけに見えるんだな 想像〜結論にいたる間の芯が弱すぎるんだよ
918 :
水銀厨 :2011/07/10(日) 00:23:06.59
>>917 もどかしい部分もあるんですけどね。
ある資料をポンとだせればいいですが。
ネットで披露したりするのは色々困難な部分もあるんですよ。
察してくださいね。
荒らしたようになるのは不本意なので消えます。
919 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:24:05.95
>>907 東南五東里到伊都國 戸万餘 置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚 其国王皆屬王女也
水銀厨のブログってどこ?ないの?
921 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:27:48.89
晋書には倭について「戸有七萬」とある。三国志東夷伝とは認識が違うね。晋書は唐の時代に編纂されたものだが 晋の時代の文書を調べて書かれたものだろうか?そうだとしたら、倭人伝の記述は誇張されたものだったというこ とになるのかな。7万戸なら九州で十分だろう。
922 :
伊作 :2011/07/10(日) 00:32:53.91
>>915 大和朝廷は熊襲と隼人によって成り立ち支えられてきた。
大和の朝廷人は熊襲・隼人と呼ばれた社会部族と同族だ。
どだい。
クマソのタケルを殺すのに女装して近づくとは、互いが顔見知りだったということだし、
殺した敵の渠帥の名を、だまし討ちにしたほうが「もらい受ける」なんてあり得ない。
そもそも同族間の確執だったから、そういう奇妙な話になっているのだ。
923 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:34:11.71
>>919 その文が記されている史書の名は?
それはそれとしても、その文でも其国王皆が4カ国の王とは判らないね。
924 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:49:49.17
>>923 翰苑に引用されている魏略だよ。写真版で確認した。
其国王皆を4カ国の王と読む説が多いことは三品の総覧に指摘されているよ。
橋本は、魏略に記された「其国王皆属女王也」の一文に注目して「魏略本文について
考えれば、対馬、一支、末盧、伊都と順次にその大官及び副官を掲げし後、乃ちこれを
受けて 其国王皆属女王也というのであるから、其の国王とは以上列挙せし各国の国王を
意味するものとして認めるべきかの如き文脈をなしている・・」と述べている。
皆を対馬以下の各国の王とする見解は白鳥をはじめ賛同する学者が多いが・・・・
925 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:59:23.11
帥升は倭国王だから、帥升の国が卑弥呼時代と同程度の国々を統属していたというのは考えられること。 帥升の時代は2世紀初めだから、その頃から伊都国の代々の王が統属していたと考えれば何の不思議もない。 倭人伝の「その国、元また男子を以って王と為す」からも妥当性が高い。 四カ国なんてとんでもない読み方をするのは、卑弥呼の前に王がいては困る畿内説か?
926 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/10(日) 01:05:19.59
>>905 >倭の北方にある朝鮮半島の岸の国という意味であれば其北岸という表現にはならない。
「其北岸」の「其」は、「循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」の
直前に先行する名詞、「循海岸水行」の「海」を指す。
水行する海岸の海の北岸である。
即ち狗邪韓國は韓地の南岸となる。
倭人伝には「倭」について書かれているのであって、
「韓」について書かれているのではない。
であるから、「歴韓国」と「狗邪韓國」は、韓地の「倭」である。
>>905 倭の北方にある朝鮮半島の岸の国
という意味であれば其北岸という表現にはならない。
出鱈目を言ってはいけませんよ。
狗邪韓国は九州の北方の岸
中国語では、即ち
九州北岸、九州を其に置き換えれば
其北岸になる。
>915 水銀厨並の伊作の脳内妄想を真に受けるとは。
929 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 01:20:12.20
>>905 >倭の北方にある朝鮮半島の岸の国という意味であれば其北岸という表現にはならない。
漢文の場合は、そのような表現をとるんだよ。
山尾の魏志倭人伝でも読んでみな。同じような文が紹介されているから。
930 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 01:31:00.44
徳島説急浮上だな
931 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/07/10(日) 01:33:14.08
>>924 翰苑は、対句練習用の幼学書であることに注意。
>>925 >帥升の時代は2世紀初めだから、その頃から伊都国の代々の王が統属していたと考えれば何の不思議もない。
帥升は伊都國(倭都國)の初代王。
帥升は倭國王であるが、倭面土國の王でもある。
倭面土國(倭米多國)の都は吉野ヶ里。
吉野ヶ里の近くには「目達」「米多」がある。
932 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 01:42:59.00
>>925 >帥升の時代は2世紀初めだから、その頃から伊都国の代々の
>王が統属していたと考えれば何の不思議もない。
卑弥呼の前は、女王国は存在しないんだよ。男王国だ。
933 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 02:11:17.24
>>932 これが読めないか?
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
>>931 倭面土国=邪馬台国ということになる。
>922 その社会部族ていどの集団が、あれだけの規模の古墳を多数造ったとすれば驚異です 無駄な土木工事にGNPを消費する馬鹿な民族なんでしょうか
>正直ただの言い掛かりレベルの反論しか思えませんよ。 >面倒臭いので書ける範囲だけな。 面倒くさいから書ける範囲だけか。 反論が辛くなってきたらそうなるわな。俺の質問に筋の通った答全く出してくれないしな。 まあ、質問攻めにしたのは悪かったな。 九州スレで誰にも賛同得られない持論唱えたらそうなるもんだからな。許してくれや。 とりあえず四国・淡路説唱えるなら専用のスレ建てろってこった。 >オオゲツ姫ってなんの姫だ? >理由説明しただけでこれじゃ、ホントいいがかりだろw 別に粟の姫じゃないからね。他の穀物や蚕も出してるからね >自分で調べて理解してください、としか‥ ないならないと言えば良いのに
続き
>人口については当時の代表的遺跡の大半が、1000〜2000を
>想定してるなら、未発見の遺跡等を考慮しても
>七万戸(約30万人想定)をあてはめるなら相当な広さが必要という認識です。
>よって北部九州や八女地方に比定するのはとても無理だと思います。
七万戸が30万人というのは根拠の無い想定だろう
それは
>>745 さんが詳しい
「有屋室父母兄弟臥息異處」や
なにより一戸に4、5人いるなら
対馬千余戸や壱岐三千家が当時の食料自給率では絶対にカバーできない(交易を考慮に入れても)
平成の世でも対馬は33000人、壱岐は28000人ほどで、
弥生時代後期の人口は最大で300万人程で(50〜70万人前後の説が強い)1億2000万人の現在とは40倍〜240倍の開きがある
にも関わらず対馬に4000〜5000人、壱岐に12000〜15000人(家なので戸とは違うかもしれないが)いるのは
現在が都市部に人口が集中してることを考慮しても比率がおかしい
また一戸一人説を採るのなら、人口は7万いくらであり
当時最大の平野(関東・北海道は除外、大阪平野は海)が筑紫平野で最大の人口密集地帯であることを考慮すると
7万人はすんなり入る
937 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 06:32:11.71
なんだ、このキチガイスレは。 まともなのは伊作だけだな。
938 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 07:47:04.65
>>936 一戸一人説なんてのは、トンデモだよ。やめた方がよい。
一戸一人はさすがに無理だよw それにオオゲツヒメは粟の神だな。
倭人伝には「父母兄弟が臥息するのに所を別にする」 という記述があるので、一戸一人というのはあながち 根拠がない訳ではない。 この時代なら、土地はいくらでもあったろうし。 家もすぐできて、すぐ壊れたろうし
>>940 戸には日本語にも中国語にも建物としての家という意味はあっても
家族という意味はありません。
一家族と解釈するのは字の意味を無視した曲解です。
戸が一人という意味の方がもっとないけどな。
>>943 「有屋室父母兄弟臥息異處」の意味も理解できない馬鹿だ。
945 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 08:15:01.21
少なくとも吉野ケ里では、大人の家を中心に、周り数件、竪穴式住居が立てられていて、 それで一家族を構成していたようである。 倭人伝にも書かれているように、一夫多妻制では、主の家と、妻の家が別になっている らしい記述と合致する。
>943 戸には家と言う意味はあっても 一人と言う意味も家族と言う意味も無いですよ。
>937 自画自賛の得意な遺作出現。
>>945 し
>>946 をよく読んで理解すべし。
基地外遺作の馬鹿には理解不能だから理解せんでもいい。
なら最初から家や戸と書かず、人で書けば済むだろw トンデモは止めときな、恥ずかしい。
>>949 脳タリンで恥ずかしいのお前。
戸には乳幼児などのプラスαがあるんだよ。
爺婆もいるだろw だから家や戸数だってーのw
家の無い人もいたかもしれない。 家の数で数えないと正確な人口は分からなかったのかもね、
これで人口問題で 畿内のお世話にならなくてすむし 広大な国を想定しなければならなくなる矛盾も無くなった訳だ。 やっと一件落着だな。
一人一戸ね、どれだけの規模と数の遺跡が必要か考えろよw
通説の矛盾をあきらかにして ここで通説を打ち破ったことになるのですか? これって何かすごくないすか?
>>984 一人一戸ね、どれだけの規模と数の遺跡が必要か考えろよw
馬鹿じゃないのか?
それは
1戸5人10人だったらの話だろ。
>>956 いや、遺跡の推定人口が変わるだけだよ。
戸数に一人と計算するならね。それだけの話w
一応は距離も人口の問題も解決しちゃったわけか まあ、しばらくはいろいろ反論もあるだろうけど。
家の数 1戸5人ならば1戸1人のばあいの5倍になるな。
960 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 10:02:49.72
そろそろ、次スレを考えなければならないわけだが、 どうするね。 このスレ無くすと、九州説の人が、既存の邪馬台国スレに 流れ込んできそうだけど。
961 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 10:08:29.39
一人一戸なんてトンデモに飛びつく馬鹿が結構いるんだな。 「有屋室父母兄弟臥息異處」とあるのは、父母兄弟が一戸に住んでいる、雑魚寝では ないってことだ。
こりゃ阿波徳島説くるかもな。
>>961 苦しいね〜。もうひとひねり、してくんね?
>753 無理無理 トンデモと根拠無く念仏を唱えるだけ。 まともな説明できんでしょ。
考古学やれよ。 小説じゃないのだから、安楽椅子探偵のごとく 文献だけで何でも判るはずがない。
安価がまともに打てない輩がいるが、俺のいるスレ荒らしに来る糖質そっくりだ
967 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 12:15:39.83
>>921 >晋書には倭について「戸有七萬」とある。三国志東夷伝とは認識が違うね。
「戸有七萬 男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫」
「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり、その「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり、その出自は「太伯」です。
出自は「太伯」です。
晋と魏の時制の人口等の認識は同じです。
「倭者 自云太伯之後・・・梁書」
も「倭」はすべて「太伯之後」であると分別されている。その王は女王である。「即倭王所居・・・ 梁書」の「倭王」は女王である。
一方、
「イ妥國」の王は男王である。
「安帝初元年 イ妾王師升等獻・・・
景初三年 イ妾女王遣大夫難升未利等・・・翰苑」は、『季歴之後』になるだろう、だから、『イ妾・メカケ』という言葉を挿入してある。
968 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 12:17:06.37
>>921 >晋書には倭について「戸有七萬」とある。三国志東夷伝とは認識が違うね。
「戸有七萬 男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫」
「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり、その出自は「太伯」です。
晋と魏の時制の人口等の認識は同じです。
「倭者 自云太伯之後・・・梁書」
も「倭」はすべて「太伯之後」であると分別されている。その王は女王である。「即倭王所居・・・ 梁書」の「倭王」は女王である。
一方、
「イ妥國」の王は男王である。
「安帝初元年 イ妾王師升等獻・・・
景初三年 イ妾女王遣大夫難升未利等・・・翰苑」は、『季歴之後』になるだろう、だから、『イ妾・メカケ』という言葉を挿入してある。
大事な事だから2回言いました。
970 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 13:12:34.55
>>965 >考古学やれよ。
それは考古学板でやれよ。
971 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 13:20:30.52
正論すぎw
考古学の成果を認めたら九州説は著しく不利になるからな。
973 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 14:40:35.12
974 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 14:51:47.08
>>973 >>967 , 968
>あほな事を2度も言うな。
史実は史実だ。
君の解釈を記述しなさい。
それからだ。
975 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 17:21:59.07
>>974 >「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり、その出自は「太伯」です。
この文章自体が論理的でない。この文章では「その出自」の「その」は「戸数七萬」を指すことになる。
また、「「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり」とは君の思い込みにすぎない。晋書のどこにもそ
んなことは書かれていない。このように文章としても拙劣であり、内容にも根拠がない。あほな事と言わ
れる所以だ。分ったかね?
976 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 17:25:38.43
隔離スレ立て乙!
979 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 01:40:15.16
981 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 11:26:37.68
>>975 >>「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり、その出自は「太伯」です。
>この文章自体が論理的でない。この文章では「その出自」の「その」は「戸数七萬」を指すことになる。
こんどは作文にいちゃもんか。
『晋書には倭について「戸有七萬」とある。三国志東夷伝とは認識が違うね。』
に答えたへ、その錯誤をただしたものだ。
『晋書には倭について「戸有七萬」とある。』との記述は正しいが、
『三国志東夷伝とは認識が違うね。』と解釈したのは、
『倭』を『倭の領域・所謂倭国』と解釈していることだ。
それをただしたレスだよ。
「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口(人の意)であり、その人の出自は「太伯」です。ということだ。
こんなこと、そのレベルなら容易に理解できる作文だよ。
>「「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり」とは君の思い込みにすぎない。
>晋書のどこにもそ んなことは書かれていない
レスをいれるならもっとまともなレスにしてくれ。
いいか、「「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり」
今一つの意は、倭の一方の境界を提示している。
他の一方は、「計其道里當會稽東冶之東」で(北緯26度の沖縄)だ。解ったか?
俺の論を否定するならお前の肯定する論を示せ。
因みに、「戸有七萬」の意を君はどの様に解釈しているかを書きこしなさい。
どこが誤読か指摘してあげるから。
【邪馬台国論争、審議中】 ∧,,∧ ∧,,∧ ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) | U ( ´・) (・` ) と ノ u-u (l ) ( ノu-u `u-u'. `u-u'
【邪馬台国論争、投票中】 /| ̄ ̄ ̄∧,,∧ /| ̄ ̄ ̄|..(ω・` ) /| ̄ ̄ ̄|....|φ ∪ ) ∧,,∧ | ̄ ̄ ̄|....|/ `u-u´ ( ) |___|/ ∧,,∧ ( o ∪ || || (´・ω・) ∧,,∧ `u-u´ ( つロと) (´・ω・) `u-u´ (∪ つロ_____ `u-u/ = = /| | ̄ ̄ ̄ ̄| | | 投票箱 | |
【邪馬台国、結果発表】 パッ パッ パッ パッ パッ パッ [九州] [九州] [九州] [九州] [徳島] [纏向] ‖∧∧ ‖∧∧ ‖∧,,∧ ‖∧,,∧ ‖∧∧ ‖,∧∧ ∩・ω・`)∩・ω・`)∩・ω・`)∩・ω・`)∩・ω・`)∩・ω・`) ( ). ( ). ( ) ( ) ( ) ( ) `u-u´ `u-u´ `u-u´ `u-u´ `u-u´ `u-u
985 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 13:39:40.13
阿波徳島に決定したよ。
986 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 14:41:38.16
>>981 君は日本語を勉強し直したほうがいい。筋の通った文章が出来てから書き込まないと相手にして貰えないよ。
987 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 14:54:34.16
>>986 :日本@名無
>>981 >君は日本語を勉強し直したほうがいい。筋の通った文章が出来てから書き込まないと相手にして貰えないよ。
結局、何も答えられず逃げただけか!
空きっ腹に酒でも飲んでみな、よい薬になるから。 藁。
988 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 15:29:45.22
>>987 >いいか、「「戸有七萬」は邪馬壹【臺】國の人口であり」
>今一つの意は、倭の一方の境界を提示している。
>他の一方は、「計其道里當會稽東冶之東」で(北緯26度の沖縄)だ。解ったか?
わかって貰いたかったら誰にでも通じるまともな文章にしなさい。
989 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 15:49:13.87
>>988 >わかって貰いたかったら誰にでも通じるまともな文章にしなさい。
なあ〜〜んだ、結局は俺の記述が理解できないということじゃないか。
君に理解できるように書くとすれば可也の長文になる。
そんなことは、この掲示板では無理。
要点をとらえて書きこするしかないだろう。
990 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 17:54:16.37
>なあ〜〜んだ、結局は俺の記述が理解できないということじゃないか。 非論理的な文章で妄想を語られても理解できる者はいないであろう。 晋書倭人条には 倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬 とある。これからは「戸有七萬」は邪馬壹(䑓)国一国のこととはとれない。昔相接して存在した百餘小國あるいは魏時 代に通好した30国の戸数として述べられている。 「計其道里當會稽東冶之東」は三国志東夷伝の記述を引いたものと思われるが、計の字が用いられていることから推定を 示したものである。あくまでも「郡から女王国まで万二千餘里」という数値から推定した位置であって、実際に確認され たものではない。こんなものを「戸有七萬」についての議論に持ち出す意味がわからない。
991 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 18:08:28.63
古代史秘録 卑弥呼の伝承は「おてもやん」として残っていた
熊襲の位置的には八代平野以南〜人吉盆地辺りが有望だ 五木村に縄文遺跡があるしあの辺りの民であればイメージ的にぴったりなんだよな
994 :
筑紫の民 :2011/07/11(月) 22:01:08.96
さ、あと7レス
995 :
筑紫の民 :2011/07/11(月) 22:01:43.07
6レス
996 :
5 :2011/07/11(月) 22:02:17.97
5
997 :
4 :2011/07/11(月) 22:02:34.27
4
998 :
3 :2011/07/11(月) 22:03:06.93
3
999 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 22:16:16.12
>>991 ほとんどの人達が貴方のような見解をお持ちでしょう。989の人はおかしいですね。
│ │ |┃三 ∩___∩ |┃ | ノ 他 ヽ |┃ ≡ / ● ● | <地デジ化完了 ____.|ミ\___| ( _●_) ミ |┃=___ |∪| \ |┃ ≡ ) ヽノ 人 \ ガラッ
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。