【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その16
1 :
日本@名無史さん:
前スレ
その15
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1305115876/ ─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
2 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 22:35:09.40
3 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 00:11:12.07
4 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 03:36:06.46
5 :
本田:2011/06/01(水) 06:35:37.06
歴史における「真実」とは
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-17.html しかも日本史学会や、考古学会は学際的な研究をほとんど行ってこなかったし、
学際的な研究がどうも嫌いなように見受けられる。
日本史学会などは国内においてすべてが完結してしまう学会である。
これこそ万邦無比と言うしかない特殊性である。
ヨーロッパや中国史の研究は国際的に為されており国際的学会が存在し活動している。
しかも、いくら自国の歴史を歪曲しようとしたところで
その国の歴史を見つめ記述してきた他の国からすぐに指摘を受けてしまう。
日本史は客観的歴史記述が事実上中国文献しか存在しないということもあってか、
外国の研究者がほとんど存在しない。
そのため日本史を研究し論じるのはほとんど日本人だけのため、
どうしても日本国家と国民にとって心地の良い日本史を作りがちである。
教科書の記載もはっきりした表現を巧妙に避けながらも「日本人は大昔から日本国に住んでいたのだ」という考え方を植え付けるように書かれている。
このような戦後の日本史業界を支配している、
「単一国家・単一民族」思想とそれに基づく「大和朝廷国内自然発生説」は、
充分に疑ってかかる必要がある。
6 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 06:48:46.65
朝鮮人は劣等民族だから、好き勝手にやらせておくとどこへ行くかわからんほど
間違ったことをしでかす。
もう一度日本の植民地支配が必要だな。
誤爆乙
元伊勢を辿る旅に出てくる
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命で確定的ですか?
内藤湖南の垂仁天皇の皇女倭姫命説はダメですか?
倭迹迹日百襲姫命や倭姫命、豊鍬入姫命でもよいが、これらの人物が一人一人実在であると
見るのはなかなか難しい。ヤマトタケルがヤマト王権伸長期に各地に派遣されて戦った多くの
皇子たちの姿を集合した像であるとする説があるように、これらの姫命もシャーマン的な役割を
王権内で司っていた女性の象徴として記されているのかもしれない。
箸墓の伝承が面白いから、つい卑弥呼に結びつけてしまうんだろうな。
考古学上、箸墓は、その後の前方後円墳の定形化という意味で画期的な古墳。
紀では、少しばかり神託が出来る皇女の1人であるにも関わらず、その死や墓の造り方まで事細かに載せている。この異常さは何か?
>この異常さは何か?
そう。この後、記紀には埴輪などの話はあっても、古墳についてはほとんど登場しないんだよな。
三種の神器の一つ、天叢雲剣は銅剣だったという話って、どうなのかね。
熱田神宮のご神体を見たという記録にあるその形状から判断すると
どうも銅剣のもののようだという事だけど。
やはり初期ヤマト政権は鉄器に恵まれてなかったのかな。
>>13 結局のところ、三輪山の宗教的権威を物語るために挿入されたんだと思う>トトヒモモソ媛の説話。
箸墓はおそらく三輪山祭祀の起源伝承とセットになっていて、最終的に巫女は悲惨な死を遂げ、三輪氏の祖である大田田根子(男子)が継承するという筋。
>>15 ただ三輪山の祭祀遺跡とは箸中山は時代がずれてるんだよね。3世紀は三輪山が禁足地に
なっていたという説もあるけど。
17 :
日本@名無史さん:2011/06/01(水) 23:33:45.83
官僚機構などの政治体制が整備されてくると、宗教的権威は逆に邪魔になり、政治から排除されるようになる。
雄略の頃には三輪山神もすっかり零落してしまい、天皇の命を受けたスガルに捕縛されるまでに至る。雷で雄略を怖がらせたのは、せめてもの意地か。
トトヒモモソ媛の物語は、昔、三輪山神がまだ絶対的な権威をもっていた頃の昔話、神話だろう。
箸墓の頃に三輪山が信仰の対象だったかどうかは確かに微妙だが、
後世に箸墓と三輪山信仰がセットになった、でも別にいいんじゃないかな?
そもそも三輪山山麓に昔、都があって、箸墓に巫女が葬られている、程度の記憶は残っていたのかもしれない。それが後世の三輪山祭祀と合わさって、トトヒモモソ媛説話が創られた。
トトヒモモソ媛の悲劇的な死は、父性原理が進展して、三輪山の神官が女性から男性に転換したことのメタファーだろう。
>>18 俺もその程度の捉え方でいいと思う
考古学的に見ても、纏向以前の木製鳥器の出土などが、肝心の三輪山では全く確認されていないし
祭祀跡ともくされる遺構もない
当然纏向期にしても円形埴輪などは三輪山では確認されない、遺構も然り
ようやく早くて6世紀末か7世紀初頭ではないかと思われる巨石モニュメントが出現するわけだが
それ以前の三輪山を仮に禁足地だったとの仮定にしても、麓周辺に祭祀跡と見られるものが皆無だ
つまり三輪山信仰そのものが、かなり時代を下った頃に発生したものであり
纏向成立の頃には神格化されては居なかったと見るのが、現時点では正しいと思う
新たな発掘成果が出るまでは、関連性を論じるのは早計だろう
ついでに言うなら、高千穂伝説などの山岳信仰そのものが
飛鳥以降に出来上がった概念ではないかとも思う
それ以前の山岳地帯の遺跡といえば、実用性重視の高地性集落くらいしかない
そしてそのどれもが宗教儀式を思わせる遺構が皆無であり、東大寺遺跡のように中規模集落として普通に生活していたものもある
とても禁足地として扱われていた形跡が見当たらない
これは九州でもそうだし、遡った東北・関東の縄文遺跡でも状況は同じだから
山岳信仰そのものが、比較的新しい概念として記紀に反映されているだけだと見たほうが自然だろう
三輪山の祭祀は、現禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物の特徴として、
古墳時代中期(4世紀後半〜)から後期(6世紀)にかけての時期に集中。4世紀後半から
始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。
6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われ、須恵器も多量に出土する。
記紀でいえば、須恵器と陶邑出身の太田田根子との関係かねえ。
>>21 いや
>古墳時代中期(4世紀後半〜)から後期(6世紀)にかけての時期に集中。
これは祭祀遺跡じゃなく、いわゆる工房だよ
その場で作ってその場で奉納したにしては、あまりに扱いが雑すぎる
失敗作や割れた土器のゴミ捨て場の中で祭祀をしていたとするのなら話はまた変わるが
>4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える
磐座祭祀にしても、現在では4世紀後半開始というのは大方否定されている
簡単にいえば、須恵器も含めた中小企業の工場密集地帯みたいなものだろう
前方後円墳の首長霊祭祀が確立した後で、原始的な三輪山信仰が始まるというのも、
奇妙な話しだけどね。
もともとマキムクが聖地で、三輪山が霊山として禁足地だったのが、
前方後円墳の首長霊祭祀の確立に伴い、三輪山祭祀様式も変化したと考えたほうがよいのではないか?
証拠が無い以上、断言はできないがな。
で、箸墓はだれの墓か?布留0を280年頃とみれば卑弥呼の墓ではない可能性が高い。
190以前 各地における天候不順、食糧不足などによる争乱多発。
190年頃 東海勢力、東瀬戸内勢力、河内や地元大和の勢力の連合により纏向遺跡が建都される。
卑弥呼の共立。銅鐸祭祀の終焉。
200年代前半 石塚など早期の前方後円墳の築造開始。公孫氏への朝貢、画文の輸入開始。
240年頃 卑弥呼の魏への朝貢、吉備、山陰などの連合への参画、初期の三角輸入開始?
卑弥呼倭王冊封により各地首長による纏向詣でが始まる。全国的な前方後円墳の展開。
西新を中心とした大陸との交易。対狗奴国(東海?)戦争、東海の影響力低下。
250年頃 卑弥呼死亡、墳墓造営。男王擁立。東日本に高地性集落出現、東国への勢力拡大。
庄内式土器の北部九州への流入、伊都国への一大率の設置?
260年頃 台与共立。九州での環濠集落の終焉。
北部・東部九州への影響力拡大。南九州生目勢力と連合。
270年代以降 ヤマト王権の成長、国産三角製造。
いや、しかし三角縁国産化、そんなに遅いですか?
景初四年の紀年鏡とか、同時代たがらこそ起き得る錯誤だと思うけどなあ。
うーん、三画の系統研究から50年程度は同一集団が作っていたとみて。ただし最初から国産の
可能性もある。
28 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 18:57:04.70
中国北方にもある「特異な規矩鏡群」と文様要素が関連し、その要素の変遷も並行しているから、始めから国産というのは難しいでしょう。
福永のD段階以降は国産の可能性はあるが。
んー鏡師集団を招聘した可能性も捨てきれない。
景初四年の三角縁やら、黒塚のバリ付きの三角縁や画文(公孫)>三角(巍)の扱いとかを見る限り、三角縁はかなり早い段階で国産化してた、と思うよ。
公孫氏と結びついてた畿内マキムクは当初画文帯を配布することで連合の結束を高めたが、
公孫氏が滅亡すると画文帯の流入がストップし、やむなく銅鏡国産に踏み切る。布留の頃の話。
31 :
伊作:2011/06/02(木) 21:18:12.38
●纏向・ミスってりツアー。
周知の既報。
天理大学のレーダー探査で、最古(3世紀前半築造)の前方後円墳といわれたホケノ山古墳は、
となりの堂ノ後古墳の周濠の一部を削ってつくられていることが判明した。
堂ノ後古墳を発掘したところ、出土した土器などから5世紀後半の築造だったいうことが分かった。
どうしてくれるんだ畿内説考古学のタコ野郎ども。
>しかし、桜井市教委が今年(2009)6〜7月に堂ノ後古墳の前方部を発掘したところ、5世紀後半の円筒埴輪や
須恵器の破片などが見つかり、ホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった。
同市教委は「レーダー探査で墳丘を前方後円墳と解明するなど、天理大の調査には一定の評価ができる。今後も
古墳の調査には発掘を含めた総合的な手法が必要だ」と話している。
レーダー調査の画像は見たが、ホケノの周壕を切り崩してはいない。単に学生たちがそう見ただけのこと。天理大教授
もこの件に関しては勇み足だったとのコメントを出している。
33 :
伊作:2011/06/02(木) 21:30:31.66
●ボケの山ミステリー
5世紀後半築造の堂ノ後古墳の周濠の一部を削って、
3世紀前半築造のボケの山古墳がつくられた。
これが、ウソで固めた考古所見の末路国。
年代操作による意図国。まんま「ボケの山たい国」。
わからんやつだな。堂の山の周壕うんぬんは発掘調査ではなく、地中レーダー画面を学生が
見て判断しただけのこと。しかも天理大が誤りだったとのコメントを出している。この話もさんざん
やってるので過去ログを見な。
あんま触るなよ。放っておけ
36 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 21:50:38.67
ホケノ山の土器は庄内ぐらいだろう?
5世紀じゃないよな。
37 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:24:41.81
天理大の担当教官が勇み足だったとコメントしているのは記憶があるが、
間違いだったとは言ってない。
レーダーでそう見えるのは事実で、さらに調査を進める前に
公表してしまったのが勇み足と言っているだけだ。
どっちが正しいかは、結論が付いていないのである。
恐ろしくて調査できないような気もするのである。
>>31 なんでお前は今更そんな嘘を書くんだ?
堂ノ後古墳は天理大学の勇み足だと「大々的に」報道されただろ
此処の住人がそれすらも知らんとでも思ってるのか?
馬鹿を弄らぬようにw
嘘しか付けないんだから、このボケ九州説はw
今さら堂ノ後の話で笑いを取る奴が現れるとは思ってもみなかったw
よっ!自爆芸人w
堂ノ後についてはたしかこのスレでも当時
地中探査のデータの読み方の難しさや、その制度などについて
スレの半分くらい使って皆で議論した覚えがあるな
院生の読み違いにしても皆同情的だったが、これを鵜呑みにして発表するとか天理大のリテラシーはどうなってんだとここは批判していたっけ
地中レーダーは土壌や水道管の調査で慣れてる土建屋さん入れてやるべきなんだよな、ホントは。
学生がちょっと見てもわからん。
42 :
伊作先生:2011/06/02(木) 23:20:52.48
けっきょくは・うやむやか。わらわら
43 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 23:36:04.36
>>42 お前が思うのならそうだろう、お前の中ではな
>>23 どうなんだろう
>>20の言うように山岳信仰は仏教思想由来の新しい概念だと考えたほうがしっくりくる
「三輪山周辺スゲー!どんだけ職人多いんだよ!」
「あれってさ、最近聞いたんだけど山には神とか仏とかがいて、その超能力を分けてもらえるんだって」
「へー!じゃあ三輪山にはカミサマいたんかいな」
「うーんそうじゃね?」
「どの山にもカミサマいるんだね!」
「まあ・・・そうかも」
「スゲー!三輪山のカミサマスゲー!」
「まあどうでもいいけど・・・何のカミサマなんだろうねぇ」
こんな感じで意味論を操る神というプリミティブ概念からは遠い事代主とかが創設されたんじゃないかな
45 :
日本@名無史さん:2011/06/02(木) 23:48:39.51
仏教思想って原理的に山岳信仰とはあわない気がする。
日本の仏教的山岳信仰は、むしろ神道と融合して
生まれたのでは。
後代の修験道は根本は密教だけどね。まあ時代が違いすぎるか。
>>11 倭迹迹日百襲姫命や倭姫命、豊鍬入姫命でもよいが、これらの人物が一人一人実在であると
見るのはなかなか難しい。ヤマトタケルがヤマト王権伸長期に各地に派遣されて戦った多くの
皇子たちの姿を集合した像であるとする説があるように、これらの姫命もシャーマン的な役割を
王権内で司っていた女性の象徴として記されているのかもしれない。
倭迹迹日百襲媛命=複数モデル 説か…
面白いと言うか、賛意を示しておきたいと思う
確かにヤマトタケル(古事記Ver)が複数の人物の事績を仮託したしたもの(丁度、聖徳太子と厩戸皇子に似るかな?)
…と言うのは意識していたのに何で今まで思いつかなかったのだろうwww
崇神の大叔母で武埴安彦との戦にコミットしたかなりリアリティのある人物と
三輪の蛇神との言わば「異種婚譚」とでも言う話の人物と
少なくとも二つの元ネタはありそうだw
尚、神が通い婚していてその姿を見られて逃げる…という話は
ギリシア神話プシューケーとエロース(キューピット)の話にも似ている気がするw
(まあ記紀神話には他にもオルフェウスの冥界巡りとかペルセウスが怪物の生贄の美女を救うとかに似たような話があるがw)
>>45 大乗仏教とは相性が悪いが、チベット仏教のように仏は地上に非ず
むしろ高山のように天上に近い位置におわすみたいな地方仏教の概念も同時に輸入されているんじゃないかな
当時の学問が体系的に分類されていたとは考えにくいから
それとそれまでの遺跡に山岳信仰の痕跡が全く見つからないというのは重要要素かも
神道というか修験道的なサンカにしても平安期の発生だし、そもそも神道として体系づいたのは鎌倉期だし
さすが畿内説!
宗教談義に花が咲く・・・と。
>>47 トトモモソちゃんが複数モデルによる複合神話だというのは
大国が大嫌いなwww津田が戦前から指摘していたな
まあ氏の推論はあくまでも推論でしか無かったが、普通はそう考えるよなってところで
近年の民話・神話比較学でも伝来による短期間での神話体系の塗り替え(恣意的な意図なき)が頻繁に行われているというのは
前提として考えねばならないと思う
有名な「黒い瞳」の歌による民族的記憶の上書き事例によるまでもなく
>>47 倭迹迹日百襲姫命の父の孝霊天皇を欠史としておきながら、その娘を実在とするのは
アンフェアじゃないかな。
説としては持統6年(692)に伊勢御幸があり、ここで伊勢神宮の祭神が伊勢大神からアマテラス
に変わった可能性が高い。これが倭姫命のモデルとなったのではないかと推測している。これらの
姫たちにはかなり後代の事績が投影されているのかも。
山岳信仰と言うか所謂「神奈備信仰」とでも言うような物が纏向にあったかどうに関しては
>>18-19あたりと同意見。
度々言っているが伝承の宮の位置なら
>>17に出てくるオオモノヌシをディスったはずの雄略の方が
纏向より三輪に近かったりするwww
現在分っている纏向の姿からは山岳信仰や太陽信仰というよりやはり水に関わる祭祀を髣髴させる。
山中の磐座はそこに「神を降ろす」仕掛けであって天空の神に近づこうという装置ではない。
祭りに神を降ろす「ヨリシロ」として高い木(=高木神)を広場におったてる様な天を祭る宗教で
やはり5世紀頃急速に日本に流入してきた北東アジア系の信仰ではないかと思う。
尚外出だが山岳信仰は後の密教の要素もあるし
中には妙見信仰に結びついている物もあることに留意した方がいいと思う。
53 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 00:39:14.08
>>52 >祭りに神を降ろす「ヨリシロ」として高い木(=高木神)を広場におったてる様な天を祭る宗教で
>やはり5世紀頃急速に日本に流入してきた北東アジア系の信仰ではないかと思う。
5世紀と断定した根拠について詳しく聞きたいね。
巨木を立てた痕跡は、少なくとも平原に例があるが?
巨柱を立てて信仰した例は縄文時代からあるよ。日本海側が多いかな。
55 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 00:49:01.92
>>53 まあ両者を直接結びつける物は無いな、あくまで俺個人の想像と思ってもらって良い。
五世紀にかけ須恵器だの馬匹文化だのあるいは文字による系譜の記録だの
半島の文化が急激に入ってきたのは間違いないと思うが
その時に天孫降臨神話のような北東アジア系の神話も入って来たのだろうと思っている。
鳥居は、インドのトラーナ、中国の華表、朝鮮の紅箭の関連を言われているな。
三輪山が禁足地を伴う山岳信仰の対象であったのが
果たして三世紀にまで遡るか否かという議論は面白いな
個人的には後の輸入思想の影響大だとの説のほうがしっくりくるが
ここで考古学的な裏付けは
>>21と
>>22のどちらが正しいのだろうか?
我がつたない知識では
>>22のいう工房説のほうが一般的だと聞きかじっているが
58 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 01:20:26.16
>>55 貴方が思うのは勝手だが、
それなら俺は、稲作伝来と同時期に流入してきたと思うことにするよ。
民族の起源神話が、大王が立ってから農業も鍛冶も盛んな5世紀に形成とはちょっと考えられん。
59 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 01:23:49.56
>>57 三輪山信仰が4世紀以後としても、別にかまわんが、
それはそれで記紀の記述を、考古学が裏付けることになる。
箸墓が作られた頃に、三輪山信仰が始まったことを、7世紀の人は記憶してたわけだ。
ただ、箸墓の被葬者と三輪山の巫女が同じモモソヒメかどうかは、わからんがね。
内容:
>>52 反論ではなく>妙見信仰、これは取り扱い要注意事項だと思う
というのは相当に後世に体系づけて出来上がったいわゆる、齟齬や矛盾を理論的に解決しましたという知的整合性を有した辻褄合わせの部分が強いから
悪く言えば詭弁みたいなもので、それまでのプリミティブな伝承を美味く関連付けたよく出来た物語の結晶でもある
61 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 01:29:53.96
>>58 まあこちらとしても最後まで詰める材料が無いし
どうせ平行線をたどるのが分っている話を引っ張るのもスレ違いになるので望む所じゃないが
神話中の時系列で古い部分は古い元ネタに基づく…と言うのは
少し柔軟に考えた方が良いだろうとは思うw
例えば高天原に馬が出てくるとか…まあ言い出したらきりがないがwww
>>58 起源神話の保存と新文化の流入を、そのまま在地を新文化が凌駕したというのは早計ではないかな
元からあったものに、後付的な体系がくわわってさももっともらしくなるってのは
昨今のラノベやアニメで散々やりつくされている、ある意味古典的な神話体系発生の手法だろう
>>22 >>57 我がつたない知識では
>>22のいう工房説のほうが一般的だと聞きかじっているが
ソースを開示してくれ
つまりな、三輪山工房説を主張している学者さんは誰々よ?
64 :
52:2011/06/03(金) 01:37:21.46
どうも余計な話を入れてしまってスレ違いな内容になっているのはスマンw
まあ要するに現在の纏向に(三輪を対象にした)山岳信仰だの太陽信仰の跡は中々見出せないと言う
このスレで過去散々言われて来たお話ねwww
65 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 01:43:42.60
>>61 高天原は、明らかに7世紀の創作だからどうでもいい。
>>62 根拠を示さず、恣意的に、あれは古い、あれは新しいと言うだけでは、貴方も俺もレベルは同じだろ?
神話は史実ではないのは当然としても、断定的に否定するなら、相応の根拠を示して欲しいわけよ。
66 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 01:45:10.31
>>65 >高天原は、明らかに7世紀の創作だからどうでもいい。
高木神が出てくるのが高天原なのだが・・・
三輪山の山ノ神遺跡なら、
・4世紀後半〜5世紀前半の碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
・5世紀後半〜6世紀初め滑石製模造品・土製模造品など
これらが出土していて、辺鄙な山中で工房跡ということはないよ。
あと文武即位(697年)の詔に「高天原」が出てくるけど、アマテラス活躍の舞台が整ったのは
確かにその頃だろう。
>>63 誤解なきように三輪山工房説ではなく、三輪山麓周辺にある工房遺跡についての話な
これを宗教施設として見るにはあまりに雑多すぎるということで
逆に宗教施設として考査する学者を知らないというか、そんな論文や著書を見たことがないということ
有名所でも寺澤、石野、都出などにしても、三輪山周辺の4,5世紀の遺構を
三輪山山岳信仰に結びつけて、これらの遺跡の多さ故に三輪山が聖地であったという結論に持っていったものは見たことがない
つまり美輪さんを頂点とした禁足地信仰に結びつける根拠は、今のところ一切無いということだ
逆にそれを本気で主張する論文があるのなら教えてくれ
>>52の言うように水(河川)との関連のほうが近しいと考える
71 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 02:05:34.31
天照大神=伊勢大神も、もとは川の神らしいね。
>>68 ちょっと待ってくれ
山ノ神遺跡の出土物(というか発見物)は土中からではなく
千年以上もその磐座の背後に鎮座ましましていましたという触れ込みで
実年代も実測されていない(私有物であるため所有者の同意が得られない)保留事項のシロモノだろう
それを
>・4c後半〜5c前半:碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
>・5c後半〜6c初頭:滑石製模造品・土製模造品(鏡・剣・玉に類似した模造品が多い)
と鑑定(調査ではない)したのは一体誰なんだ?
>>72 『大神神社境内地発掘調査報告書』奈良県立橿原考古学研究所編集 寺沢薫 から
74 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 02:25:04.26
神話の話と一緒で、碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡が、全て同時期に4c後半〜5c前半に奉られた証拠は無いよね?
バラバラの時期に作られたものが、バラバラに奉られて、何百年かの間に人の手で奉りなおされていったなら、
いつの時代の遺物かなんて容易にわかるわけがない。
>>73 申し訳ないが、それは形式及び形態特徴からの診断であり
その当時の形式に非常に酷似しているという、寺澤氏の論文の前段階での引用だね
しかし論文を最後まで読めば一目瞭然だが、この形式が山ノ神遺跡出土という確証はなく
(寺澤氏ら橿原考古学研究所が直接発掘したものではない)
さらには後世の模造品である可能性も多々ありという、まさに保留事項のものだったはずだが
貴方は同論文を直接読まずして、そに恣意的な部分を抜き出したどこかのサイトや新書を鵜呑みにしてはいないか?
原文は橿考研のサイトでPDFで読めたはず
もし登録制だったならお手数だが照会してアクセス許可をとればいいかと
安本と同じ手法で騙しにかかる奴は、やっぱ畿内説にもいるんだ
詐欺って応用が効く普遍的なやり口なんだなw
ちょっと面白い話でスレ違いすまないが
それって某神社の縁起録の鑑定で
A大学のB教授がほぼ後世の創作だと論じたのに納得しなかった神社が
C大学のD教授に再鑑定を依頼して
結論はA大B教授とほぼ同じだが、本物の可能性が0%とは言えないという表現を
C大D教授の鑑定によれば・・・という、例の斑目原子力安全委員会委員を拡大解釈して
立て札にして観光客集めしているようなものなのか?
京都の有名陰陽師の神社みたいに
出現期の古墳が山の尾根の先に築造されてるから、山岳信仰がそれ程新しいとは思えないのだが。
国見とか国誉めの習俗は、出来るだけ高い場所に行き、国を誉めることで豊穣を祝う儀式。
そもそも三世紀の邪馬台国が「山」を国名につけてるんだから、山岳信仰は少なくとも三世紀には遡れるだろw
崇神天皇
武埴安彦 卑弥弓呼
倭迹迹日百襲姫 卑弥呼
垂仁天皇
狭穂彦の乱
倭姫 台与
いや、だからさ、
記紀の崇神の頃はほとんど説話文学の時代だから、
安易に史実を求めちゃダメだよw
実際のところ、記紀が編纂された八世紀には、卑弥呼が誰か解らなくなってたんだし
>>78 三輪周辺が工房で密集してたなら、山岳信仰はあったんじゃねーのかな
工房が沢山あったなら薪を大量に消費してただろうし、その産地としての山は職人達にとっては身近にある大切な物だったわけだしさ
実際沿岸部なんかは海の神様より、山や木の神様信仰してる事が多くって
何でかってゆうと海に出るための船の原料が樹木であり、産地の山を信仰の対象にしたそうな
>>72 出土物と発見物は違うのだね
ちょっと勉強になった
>>78黎明期古墳はその構造上の理由から平地でなく尾根などに築かれているんじゃなかったか
つまり元からあった微高知を基本に盛土をして前方後円墳に仕立て上げるというように
宗教的な意味合いより、物理的工法的な理由で
体積を稼ぐ意味で尾根上に造ったのか、被葬者に国を見守ってもらいために見晴らしの良い場所に造ったのか。
その両方、てのが一番妥当な気がするが。
伊勢遺跡
ここらで原点に戻って
>>1の是非を考察してみないか?
老教授による
>>1はかなり緻密な考古事実による考察を簡易な言葉で、しかも各説に考慮して一般論のひとつとしてまとめたものだし
それも何年も前の話だろう
どこかの任意の一つの勢力が単独の力で制服や建国を成し得たとは考えられないというのは
ここの住人のほとんどが同意する事項だろう
では纏向成立のたとえば6割を引っ張ったのが河内大和なのか
いや吉備が5割以上、いやいや北部九州が主導8割とか、何を言う東海が9割以上だろうとか各自色々あると思うんだ
でやり方として、可能性の低いものから潰していくというオッカムの剃刀を使って
まず九州からの武力侵攻はない、畿内の武力西征もないというように、無いものから消してゆき考慮するべき可能性を論じるってのはどうかな
88 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 04:30:36.89
>>87 原点回帰は賛成。
で、テンプレ読んで前々から疑問に思ってたんだが、
>>1 >その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
ここで老教授は、なぜか「河内」を抜かしてるね。
単なる書き忘れなのか、それとも意識的に抜かしたのか・・・
もしわざと「河内」を入れなかったとするなら、なんか深い理由でもあるのだろうか?
89 :
水銀厨:2011/06/05(日) 07:10:26.82
何故か河内を皆避ける傾向がありますね。
重要な土地なのは当然だと思いますが。
本人じゃないからわかんないけど、入れ忘れっぽいような
この
>>1の文章自体が、久々に出てきて酒飲みながら書きましたって雰囲気だったように記憶してる
でもわざと外したと解釈したほうが面白いからw
そっち方面で考えてみると
弥生後期の河内は北部九州の縮小版みたいな感じで
全く一枚岩とは言い難いのよね
すでに出雲なども東西で文化層が違うとかあるけど、これは出雲と一括りにするのがそもそも乱暴で
河内みたいに湿地中心で微高地が少ないところで、小中規模集落が乱立し
そのひとつひとつが独立して強い連立がないというとこは珍しいように思う
だから主導するには至らず、もっと大きな事業主体(王権?)が出来始めたときに
下請けのように仕事を求めて各自がバラバラに参画したみたいな雰囲気だったとしたらどうだろう
91 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 10:41:10.28
河内はひとつのクニというより、他のクニから上陸した人がつくった集落群しかないんじゃないの?
河内がマキムクを開発とかは無いでしょ。
92 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 14:34:58.52
庄内甕で熱効率革命をもたらした河内が単なる集落群だなんて
>>92 そういう意味では非常に優秀な技術を持つ、中小企業群みたいな技術者集団だったのかも
東海のように組織的に労働者を送り込んできた勢力とは、何かしら行動原理そのものが違う気がする
吉備・出雲・阿讃などは
>>1のいうように時期の差はあるんだろうが
積極的になんつーか政策みたいな感じで一体化して纏向を目指すみたいに
総合的な技術と輸送力、人材を送り込んでいるのに、なんか河内はそういう組織だったところがない
そして弥生後期の河内の大和川流域では、すでに外来式土器の出土率が当時としては突出する集落遺跡が複数あるんだよな
それも集落ごとに吉備だったり山陰だったりで完全に別れている
これは吉備と貿易する集落、出雲と貿易する集落と、ほぼ完全に住み分けしていたことになる、この狭い地域で
そして加美遺跡や東大寺遺跡のように、東海まで含めた外来式が出土するようになり
同じ時期にに唐古・鍵がこの時期ゆるやかに衰退していく
大和川が纏向の時代になっても直通で川上リができなかったという説も浮上しているし
纏向の政治的宗教的主体になったのではなく、技術的あるいは商業的なノウハウをその小さな集落が各自持っていたという
職人&商売人たちが底上げするように関与したのかも知れない
第一河内を経由せねば、西と東の物流など不可能だったろう
大和→山科→近江→若狭という日本海ルートもおそらく当時からあったはずだとは思うが
ついでに書くというか教えていただきたい部分なのだが
>>93で「東海のように組織的に労働者を送り込んできた勢力」と書いたのは
もちろん北条説の受け売りなのだが、過去スレの老教授の書き込みによれば
東海は畿内や九州より一世代ほど前に集落再編成が始まっていて
2世紀末の纏向建設時には、すでに大きな勢力として一本化していたとさらに踏み込んでいるのだが
それを裏付けるというか詳しく解説した著作とか、どこかにないものだろうか
論文名は明記されていたが、どうやら一般にはウェブでも開放されていないようで
当方は休日の図書館めぐりぐらいでしか資料入手ができないので
閲覧可能な大学とか教委とかがあればぜひとも教えていただきたい
有給とって日帰りで見に行くくらいの気概はあるのでお願いします
96 :
ひとぶた:2011/06/05(日) 15:40:28.33
>>94 テンプレの件はともかく、
私はヤマト王権の母体は、吉備、播磨、阿讃や瀬戸内の水上勢力の影響を受けた河内の地で形成され、
それが後に纏向へ移転したのだと思いますよ。
文化的、経済的融合が生じる地理的特性は、対東海条件を除けば、河内の方が強いですから。
97 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 15:57:16.04
>>95 論文名がわかるなら、明記してくれよ。
調べられないだろ。
>>96 つまり東瀬戸内の経済圏が先に出来上がっていて
それが東海北陸も視野に入れたか、あるいは東海北陸がそれに目をつけたかという
双方の利害が一致したというのが源流にあって、新設の交易拠点として纏向が築かれたという解釈でいいのですかね
ただそこで疑問なのが、わざわざ纏向を新設した理由って何なのだろう
唐古・鍵を再開発するとかで十分用は足りたような
あるいは伊勢遺跡でもいいし、加美遺跡の拡大でも良かったというかそっちのほうが手頃で簡単だったはずなのに
わざわざ未曽有の造成をしてまでハコモノを創った理由とはなんなのだろう
広域王権の存在はその時代には想定できないのだから、そこがまさに纏向のネックとして引っかかる
99 :
ひとぶた:2011/06/05(日) 16:07:28.12
>>98 >唐古・鍵を再開発するとかで十分用は足りたような
大和盆地の旧勢力は、保守的で初期の連合には非協力的だったんじゃないですかね。
庄内式の受容が見られないとか言う事実から、纏向参加勢力とは、若干の断絶感がみられるような・・・
>>97 村山恭通 1992 「中九州における弥生時代鉄器の地域性」
明治大学考古学博物館館報 1991 「弥生時代石器の基礎的研究」
論文集「中部の弥生時代研究」
コピペですがこれらが挙げられていました
>>99 芝遺跡のように纏向が前方後円墳をつくりまくった時期でも参加しなかった集落も、奈良盆地内にはあるけど
唐古・鍵などは人形水路の水底に並べられた鳥型や
纏向と同時に再編成して当時としては近代都市に生まれ変わる事実をみると
唐古・鍵だけが協力的だったのか、それとも衰退の一途だったのが、カネに誘惑に負けたのか
今の段階では色々考えられるので、考えがまとまらないのですよ
>>100 明大の図書館は、人物証明ができれば一般(OB、地域住民以外)の方でも利用できますよ。
自分のとこの発行物なら必ず所蔵してるでしょう。
他の館にも所蔵されていて、そちらで閲覧可能なら断られれますが。
103 :
日本@名無史さん:2011/06/05(日) 16:38:15.13
104 :
ひとぶた:2011/06/05(日) 16:44:08.35
>>101 >唐古・鍵などは人形水路の水底に並べられた鳥型や
鳥型は、私的には穀霊信仰レベルのモジュールなので、纏向以前に有ってもOKかと。
>纏向と同時に再編成して当時としては近代都市に生まれ変わる事実をみると
同時かどうかは微妙ですが、激しく影響は受けているところではあります。
>考えがまとまらないのですよ
これは、私も同感かとw
>>102 早速照会して申し込んでみます
久々の東上ですが楽しみです
>>103 それが逆に頭を抱える材料で
もし唐古・鍵が纏向造成や拡大と共に衰退するのなら、それはそれで分かりやすい
しかし事実は違う、大福遺跡も再編成再開発の兆しもある
じゃあ奈良盆地がこぞって大歓迎かというとそれも違うし
現在の奈良県針に点在する名阪高速に沿った遺跡群にしても
纏向で飛び抜けた東海外来式の割合を底支えするパーセンテージの底上げが見当たらない
なんか纏向だけ突如、土器が空を飛んできたみたいに突然集まるのが不思議すぎる
その前段階が今のところ見つからなさ過ぎる
106 :
ひとぶた:2011/06/05(日) 16:50:29.06
>>103 >唐古・鍵は庄内式でてるんじゃないの?
環濠の埋立てに使われたやつですよね。
書き方が拙かったです。
私の書いた「受容」とは「製造する」の意味にとっていただければと思います。
107 :
水銀厨:2011/06/05(日) 16:58:55.49
何故河内から巻向なのかと言うと、
三輪周辺の丹の山の存在という事ですよ。
桃や鏡に水銀朱と揃うのですから。
勿論物流の為の水運や防衛上の地の利もありますが。
桃や鏡に水銀朱では、実用品や実戦に役立つものじゃないよね。
そこまで宗教にどっぷり漬かる余裕があるかどうかだな。
109 :
水銀厨:2011/06/05(日) 18:57:39.02
生活の痕跡が何も出ないという事はそういう事です。
この周辺が鉱山に関する交易場だった事は、
後の海柘榴市という名前からも判る事ですよ。
何言ってもだめだよ
この人水銀に犯されてるから
お気の毒に…
112 :
水銀厨:2011/06/06(月) 19:49:34.05
私にとってそれは誉め言葉ですねw
でも以後間違いなくこの主張が証明されてゆきますから。
「河内」は中期には等間隔に並立する拠点集落を中心とした地域構造ができあがっていた。
それが中期末に拠点集落が消滅する。代わって高地性集落が出現する。
拠点集落消滅の原因は、洪水によるものという説、農耕技術の革新により大規模な労働力の集約が必要なくなったという説、がある。
ではその後の後期の「河内」の様相はどのようなものであったのか?
終末期環濠拠点集落の解体、散村化は、首長権力が確立し集落外への居館建設、と一体になって考えられているのではなかったか。
すると後期の河内では拠点集落中心の地域ブロックが解体し、より広範囲を統率する首長が出現していたといえるのだろうか。
しかし実際にはそのような存在を示す首長墓はない。
拠点集落もなく、首長墓もなく、中小の集落が点在し、水稲耕作は発展している。いったいどうなっていたのだろう。
中河内に新たな集落群が現れるのがマキムク建設と同時期だという。
これらはマキムクと同様に外来系土器の比率が高い。
そしてそれらの集落はマキムクと同時に消滅する。
庄内甕は畿内と吉備の製作技術の融合だという。
瀬戸内航路の終着点が河内。さらに東の地域との結節点が大和盆地ということを考慮すると、
外来系土器に見られる地域の人々がやって来て交易していた、とは言えるだろう。
では「河内」の人々はどうしていたのか?
終末期に現れた新興集落は、外来系の人々が建設したのか地元民が建設したのか?
以西の地域と東日本との交易の仲介を果たしていたのか? マキムクも同様の流れだったのか?
115 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 22:28:56.74
中河内がマキムクの最初からの主要構成員のひとつなのは間違いないだろう。
老教授が河内を抜いたのは、酔っていてたまたまのド忘れか、もしくは「大和」と書いてるが実は「大和川水系の首長連合のこと」という認識があったのかもしれない。あくまで推測だが。
俺自身は大和=中河内連合がマキムクの主体になったと思っているので、余り旧国名に拘らなくて良いと思ってる。
古代日本の陸上交通は貧相で、川沿いの道や河川の両岸から筏を引っ張り上げるという水運などで、密に交流があり、それら集落同士がやがて連合、同族化していき、やがてクニになるのだと思う。
116 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 22:39:43.30
日本神話から見られる、山vs海の相剋の物語は、実は内陸部(大和、東海)vs東瀬戸内(河内、阿讃播、吉備)じゃないのかな?
その2勢力の中間地点、緩衝地帯だったのがちょうどマキムクで、大和川水運が陸路山辺の道に切り替わる場所だった。
その2勢力から少し距離を置いたところで、淀川や琵琶湖水運の首長連合がいるというのが、初期ヤマト王権の実態ではないか?
117 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 23:03:03.59
大和外からの搬入土器の内訳
東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%
しかし纏向1式では、東海、吉備、北陸・山陰、西部瀬戸内、近江の5地域。
河内の登場は、関東、播磨、紀伊とともに纏向2式になってからの登場。
>>116 海彦山彦の話?
単に縄文時代の名残を残した説話だと思う。
農業が重要になった弥生以降の話にしては
生産手段が狩猟と漁業というのでは不自然だから。
>>115 旧国名に拘らないほうがいいというのは極めて同意
単に都道府県で区切るよりさらに細かいしまだわかりやすいから便宜的にそう表現するだけで
誰もが知っているように筑前も筑後も、河内も大和も弥生・古墳期にはそれぞれひとつのクニどころか
同一グループとして、いわゆる”面”としてはまとまっていない
それを踏まえて”大和川流域グループ”というのが纏向黎明期やそれ以前に
本当にグループとしてまとまっていたか否か
まとまりではなくとも相互に貿易し、極端な話だがある集落は玉を特産品とし
またある集落は東瀬戸内各地からの輸入品を仕入れる商店であったとかの特色が分かってきたら
ひいては当時の交易実態にも迫れるのではないか
120 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 23:29:11.99
>>112 水銀朱の扱いが軽くなっているというか、忘れられかけていない?
最近水銀朱を話題にしてるのは水銀厨さんだけのような。
纏向以前は銅鐸グループだろ。唐古だって近江や東海と近いんだろう。
素人ですみません、宇佐以外で埋葬された遺体に水銀朱が塗られてた例ってあるんですか?
123 :
sss:2011/06/06(月) 23:44:29.78
>>122 吉野ヶ里遺跡の甕棺からは、朱を含ませた布を顔にかけていたものが出てきたなあ。
桜井茶臼山古墳から水銀朱200kg
125 :
sss:2011/06/06(月) 23:51:58.51
>>124 やはり、水銀朱は貴重という前提が間違っていると思う。
貴重だから大量に使うのがステータスなんだろ
127 :
sss:2011/06/06(月) 23:55:53.36
水銀朱は、辰砂をすり鉢ですりつぶせば出来るものだし。
>>117 外来系土器をどう解釈するか?で変わってこないかな?
例えば、東海は大和の最大の交易相手とされるけど、東海からは畿内の土器は余り出てこない。
土器の多寡=親密さ、てのは少し単純過ぎやしないか?
129 :
ローガン:2011/06/07(火) 00:04:06.38
まあ、神話はよくわからないけど…
拡散した大和庄内の胎土にある流紋岩質岩起源の砂礫。
「大和盆地には広域には存在せず、東部の山地から流れ出る 初瀬川の砂礫に混ざっている程度である。(中略)
つまり、西日本各地に出土している庄内大和型甕は、地元で製作されているものを除けば、
大和で製作されたものではなく播磨で製作されたものであるということが、胎土観察の結果から明らかになってきた。」(庄内土器研究T 1992 米田敏幸)
とは、環瀬戸内説の水銀厨氏に送る塩。
庄内大和型甕という名前だが庄内播磨甕とな?
131 :
水銀厨:2011/06/07(火) 00:16:09.87
まぁこの3世紀前後の巻向周辺の土地で、
一体何が貴重な物かというと、水銀朱の存在しか無い訳ですから。
これ無しで一体何を語るというんでしょうねw
大体大和天神山古墳のように水銀朱自体が埋蔵主という例もありますから。
132 :
水銀厨:2011/06/07(火) 00:19:34.02
神話と塩で思い出したけど、弥生以前から大和の塩は竹之内経由の流通ですな。
133 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 00:39:49.41
134 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 01:09:16.81
>>128 なぜ東海が交易相手なの?
巨大古墳を作るために東海から動員された人が土器を持ち込んだ
奉仕労働として代わる代わる一定期間定住したから、土器が東海の特徴を保ち続けたんでしょ
136 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 02:16:58.66
>>135 東海が労働者を送ったとして、タダ働きなわけないだろ。
食料とかはどこから調達したの?
大和で食料がありあまってない限り、東海から食料も調達したはず。
そこまでして、東海の労働者がマキムクで奉仕する理由は?
鉄器や鏡がもらえたわけでもないのに。
前方後円墳祭祀とも距離を置いていたようだし。
かといって、当時の大和に、東海を征服するような力は無いよね?
大和と東海とは労使関係でなく、対等の交易をしてたとしか考えられないと思うが。
137 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 08:17:38.61
壺や甕なら東海の産物を畿内に運び込んでいたというkとで
食器なら人が東海から畿内に移住したということだろう。
で、畿内で発掘される東海土器ってどんなの?
食器も産物だったら?
139 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 09:18:50.45
東海が食器の生産工場ならそれもありかもね。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_04_29.htm 奈良盆地の弥生後期の遺跡からは、他の地域との交流を示す地方の土器が見つかっている。
まず弥生中期後半から後期前葉にかけて多く見られるのが瀬戸内海地方、とくに吉備地方の
土器である。唐古・鍵遺跡などから吉備系の大型器台や壺が出土している。だが、後期中葉から
後葉にかけて、吉備系土器の出土例は少なくなる。この系統の土器の出土が再び増えるのは
後期末から古墳前期にかけてだそうだ。
河内系の土器は弥生時代の全期間を通じて見られるが、後期に目立つようになるのは、近江系の
土器である。口縁が受け口状で、櫛描門や突帯で飾られた甕や鉢が特徴的な近江系の土器は、近江
から直接運ばれたものだけでなく、在地で真似て作られたものも多いという。
つづき
後期後半になると東海系の土器が増加してくる。奈良盆地の東部を中心に、ほとんどの遺跡で東海の
影響を受けた土器が出土するようになる。近江系土器によく似た形状をしているが、赤い塗料で文様が
描かれている。ただし、後期後葉の遺跡から出土するものは、いずれも在地で作られたものらしい。東海
地方から直接運ばれてくるようになるのは、後期末から古墳前期になってからとのことだ。
>>141にある東海のパレース式もそうだが
最近は外来式土器と呼ぶ人が増え、従来の搬入土器で一括りにしなくなったのが
このような在地制作型外来式が時代ごとに区分されるようになったからだね
東海に関しては纏向に外来式が非常に多い理由として
東海地方で広範囲に混乱が起き、大量の難民がほとんど着の身着のまま畿内に来たという考え方と
東海のまとまりが畿内より早く、組織的に労働力を送り出してきたという考え方、このふたつがあったが
これらも
>>141にある在地制作の外来式と、搬入外来式の時代のずれを根拠に考えられた
今は上の方にあったように、後者の東海からの派遣者という考えの人のほうが多いのではないか
143 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 17:14:43.10
東海がマキムクの大スポンサーだったのはそうだろう。
で、その見返りは、瀬戸内海航路から流れてくる大陸利権しかない。土木や機織りなどの新技術や、鉄や鏡などの舶載品を求めた筈。
弥生後期、権力の不在で瀬戸内海には海賊が横行、各々勝手に通行税を取って、東海にたどり着くまでにはかなりの割高になっていた。
東海にとって、マキムクに王権が出来ることで、機能不全を起こし易い瀬戸内海航路を管理統括してもらい、鉄などの安定供給をもとめた、ということではないだろうか?
ていう、昔からの説明が一番しっくりくる。
しかし、東海ではマキムク以降、逆に鉄が減っているという話だし、違うって言う人もいるし。
144 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 17:27:22.55
鉄は淡路島で一括管理ができるくらい
ごく少量しか入ってきていないといえる。
瀬戸内海航路が樹立されているのなら
九州から鉄が入ってきてもよいはずだが
そうなっていない以上通行権が確立されているとはいいがたい。
鉄の出土状況からは、順に交易で順に伝わっているようにしか見えない。
順調にというか、九州から距離に応じて出土量が減っている。
145 :
伊作先生:2011/06/07(火) 17:38:23.09
纏向に対するまっとうな専門家の見方は、倭国の組織的墓域であり葬送センターだろ。
ここが倭国の政権中枢だとか倭国政権発祥の地であることはない。
ここを国葬センターに指定し、近隣から資材や労働力を集めるよう支持したはずの
政権中枢がいったいどこにあったのかを考えるのがまっとうじゃないのか。
それと、俺が先に提示したことだが。
纏向の土器は生活用の土器か、輸送と貯蔵用の土器か、祭祀用の土器か。
考古学は明確に情報公開をしているのか。
土器の性格と種類と数の比較などで纏向の性格も分かるし、
ものだけの移動か人間の移動を伴うかも分かるし、
一定期間だけ労働力が滞在したのか・永住的集落なのかも分かるだろう。
「東海と交易」だのというが、
大和盆地の山の中と東海じゃアクセスは不便なんだぜ。
146 :
ひとぶた:2011/06/07(火) 18:35:35.16
>>144 鉄製品の分布についてはもっともなことだと思いますけど、
布留の時代になると事情は変わりますよね。
全体の供給量も増えますが、大和への供給量は飛躍的に伸びるのではないですか。
庄内のころには、まだ並列的だった交易連合の諸国の中から
大和が突出して来て、名実ともに盟主と言えるようになった。
なので鉄の消費も増えた、これは鉄に限る話ではないのでしょうけど。
147 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:51:05.53
>>246 >布留の時代になると事情は変わりますよね。
布留の時代っていうと4世紀初頭くらいからですかね?
出土量に変化あります?
布留と庄内といった細かい時代別の出土量のグラフは見たことないんで
何かソースがあれば教えてください。
148 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:51:31.02
150 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:56:51.13
>>145 >大和盆地の山の中と東海じゃアクセスは不便なんだぜ。
ば〜か。
おまえが考古学にクチ出しても
恥をかくだけだから、やめとけって。
151 :
ひとぶた:2011/06/07(火) 19:19:50.00
>>147 実年代のことはおいときますが、庄内との違いはホケノ山の出土品を見ても判るかと思いますが。
ホケノの頃はそう増えてはいない、3世紀半ばすぎだろうね。加羅の政変とかかわりがある。
153 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 19:28:00.37
>>149 ありがとう、ちょうどそれ見てました。
やはり、畿内で鉄が出始めるのは古墳時代に入ってからですね。
弥生終末期に備前とか山陰が伸び始めるのは
製鉄が始まってきたのでしょう。
その後、ここを畿内が手に入れることによって、
古墳時代から、鉄の出土量が増え始めることになるのです。
うーん、しかしそれでは、東海がマキムクに労働力を派遣して得た対価が分からないんだよな。
東海がマキムク王に従属していて、江戸初期の天下普請みたく、労働力を提供していたとは考えにくい。
となれば答えはひとつ。
東海勢力が西日本との交易を求めて、マキムクを造った。という仮説。
東海に画文帯や三角縁が出土しないのは、もともとの勢力圏の首長を懐柔する必要がなかったから。
前方後方墳と前方後円墳の形の違いは不明。
マキムクに進出した東海勢力が東瀬戸内の古墳祭祀を採用した、ということでは?
みたいな、東海西遷、みたいな説は成り立ちませんか?
155 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 20:13:42.56
三種の神器のひとつのクサナギ剣が東海(名古屋)にあるのは不思議だな。
7世紀に尾張氏に渡したものだろうが、なぜそんなことをしたのだろう?
156 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 20:18:17.66
三種の神器のひとつのヤタ鏡も、東海(伊勢)にあるしな。
三種の神器というお宝中のお宝を、どうして2個も東海に預けたのか?
7世紀のこととはいえ、よほど東海が大和王権に信用されてないと。
宮崎市定なんか、アマテラスが東海だから、大和朝廷は東海発祥、って大昔に、至ってシンプルに書いてたんだよな。
そんな筈あるか、アマテラスが皇祖神になるのは八世紀だろ、と俺は訳知り顔で言っていたが、
まさかここに及んで、東海が浮上してくるとはw
158 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 20:45:26.84
壬申の乱で政権奪取した天武が東海の息がかかった人物だからじゃないかと思うんだが、
メジャーな説じゃないんだよな。
これを認めると、大和王権は8世紀に東海によって誕生したことになる。w
宮崎市定先生が書いてるならそうなんだろうな。
160 :
伊作先生:2011/06/07(火) 21:08:41.73
纏向という限られたエリアの限られた時期の土器の数が、
日本国の古代の行方を語る手がかりだとは驚きだな。
そして、掘ってもみない箸墓が3世紀半ばの築造だと。
ゴミクズども。
ヤマトに鉄が流入することばかりを意識してるけど
実際に弥生時代末に向けて鉄が増えていくのは「丹波」。
若狭湾の西端、丹後半島を頂点として伯耆但馬越前丹波(丹後)など日本海側。
>>129 検討材料として次の見解も挙げておきましょう。
「私は、岩石学者である奥田氏の砂礫による産地同定が方法としては正しい、としたうえで砂礫は動くと考えた・・・
特定地域の砂礫が含まれる土器は神聖であり、そして多様な意味を持つ、と考えておきたい。
決して土器の遠隔地生産と供給を示すものではない。・・・
砂礫同定の方法は認めたうえで、結果については慎重に対処しようとする岸本道昭氏の考えが穏当であろう。」(石野博信)
163 :
伊作先生:2011/06/07(火) 21:51:12.46
>>161 >実際に弥生時代末に向けて鉄が増えていくのは「丹波」。
>若狭湾の西端、丹後半島を頂点として伯耆但馬越前丹波(丹後)など日本海側。
んー。いい所に目が向いた。
長門・出雲・丹波・丹後。そして、若狭湾からの陸路の要衝となる高島には、
九州勢力の中でも有力な日置氏(九州では「ひおき」と読む)が
配置されていた痕跡がある。
これは、裏街道を使う勢力に対するクサビだろう。
天才は、この日置氏の国こそが倭人伝に「已百支国」と書かれたものと見ている。
書記にも「イオキイリヒコ」「イオキイリヒメ」が登場するしなー。ん
164 :
伊作先生:2011/06/07(火) 21:59:04.56
>>161 ついしん。
(おそらくは出雲を経由して)
日本海側の裏街道から畿内に鉄が入ったことを知ったことで、
これを抑えるために日置氏勢力を配置したんだろうな。
日置氏は古墳時代まで実在が確認できる有力豪族だし。
165 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:31:03.40
>>164 >日置氏は古墳時代まで実在が確認できる有力豪族だし。
根拠もなく、勝手な妄想ばっかりしてんな。
日置氏の実在をどうやって証明するんだね?
166 :
伊作先生:2011/06/07(火) 22:42:30.88
>>165 知らないのか・疑ってるのか。
自分で調べて反論なり否定するという手があるんだぞ。
タコ
167 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:47:04.23
そもそも、皇祖神を伊勢神宮にしたのはなぜかって
疑問が湧いてくるな。
初代天皇は日向だし。
畿内をルーツにしたくないみたいだな。
記紀編纂者は。
168 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:58:15.37
>>166 日本には7世紀以前の文献が存在しないが、
中国の文献には日置氏が記載されてるのかね?
はい、君の論は破綻しました。残念だったね。
169 :
伊作先生:2011/06/07(火) 23:00:14.03
>>167 >初代天皇は日向だし。
>畿内をルーツにしたくないみたいだな。 記紀編纂者は。
んー・いい線を出してるな。
『日本書紀』編纂者は、滅亡百済からの亡命帰化漢人だ。
彼らは三国史倭人伝に目を通しているのだが、
邪馬台国は日向にあったと解釈した節がある。これが原因だろう。
そのくせ、稲・穂・田など稲作にまつわる人名が多く登場するし、
葦原中国をスタートとしている。
ところが、九州山地の傾斜が海岸近くまで迫っている東側には、
葦原中国というほどの大湿地帯はない。このあたりからすでに矛盾している。
畿内をルーツにしたくなかったのではない。
国の興りに関するかすかな伝承逸話と、彼らの創作が混在してる証拠でもある。
170 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:00:31.52
破綻しました、いうわりには、なんにも破綻しとらんなあ。
171 :
伊作先生:2011/06/07(火) 23:02:26.27
>>168 >日本には7世紀以前の文献が存在しないが、
はぁ?
九州の歴史をはじめ、興味のないことに関して知識ゼロといわけだな。
>中国の文献には日置氏が記載されてるのかね?
はぁ?
172 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:06:22.15
>>171 思いつきで適当なことを言ってるから、破綻するんだよ。
日置氏の動向がどうしたって?そんなもの、信用できる文献がどこにあるのだ?と聞いておるのだ。
173 :
伊作先生:2011/06/07(火) 23:07:07.67
>>170 >なんにも破綻しとらんなあ。
畿内説害宣に共通する手法で古典的なやつ。
「刷り込み宣伝・レッテルでっちあげ宣伝」としいう奴だ。
勝ったポーズ・論破したホーズ・相手が返にげたポーズ、
そして論理破綻というポーズをとる。
畿内説害宣伝が半ば義務か仕事なんだろう。
>>167 畿内をルーツにすると、他の畿内有力豪族に簒奪の大義名分を与えると思ったんじゃないかな?
敢えて中央から離れた場所にすることで、政治的利用をさせまいとした。
逆の意味で、侮り難い吉備や筑紫、毛野などは警戒され、美作備前備中備後、筑前筑後、上野下野みたいに細分化。記紀でその地方の神話が語られることもなかった。
出雲神話が大幅に採録のは、悪役を作る必要があったためか?
175 :
伊作先生:2011/06/07(火) 23:11:27.91
>>172 「思いつきで」「適当なことを言って」「破綻した」とは、
勝ったポーズ・論破したホーズ・相手が返にげたポーズ、
論理破綻というポーズでの
「刷り込み宣伝・レッテルでっちあげ宣伝」だよな。
文句があるなら、自分で調べろとゆっておるのだ。
タマには嫌いな九州の歴史をべんきようするのも悪くはないぞ。
纏向一辺倒で「井の中の蛙」にも飽きてきたころだろうし。
176 :
伊作先生:2011/06/07(火) 23:15:23.61
「纏向一辺倒で井の中の蛙」。
畿内説の孫引き・受け売り野郎どもには、けだし名言だな。
うん
177 :
伊作先生:2011/06/07(火) 23:16:54.44
「畿内説の孫引き・受け売り野郎ども」
たしかに、自力で懸賞した目新しいものは何も出てこないもんな。
うん
178 :
水銀厨:2011/06/07(火) 23:26:21.99
畿内をルーツにしたく無いのなら、
国生みを淡路島からなんて説話を入れるはずがないね。
179 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:27:18.61
伊作先生は、論拠を示せず、白旗ですか。
哀れだなあ。そんなに毎日論破されて、ストレスためるようなことしてて平気なのかな?
もしかしてマゾなの?
180 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:31:30.26
>>178 うん、当然、クニ産み神話が淡路島から始まってる以上、
日本神話を共有してた人々は、淡路、播磨、讃岐、阿波、河内の人々だったということだね。
そいつらが大和に移住したってことが、基本でしょ。
181 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:31:48.10
ほう
182 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:35:11.93
九州から東遷があったなら、九州の創世神話を持ち込むはず。
ところが、九州の創世神話というものは、現存しておらず、
高千穂にニニギが降りたというくだりだけが、神代の最後に挿入されただけ。
九州の神話の扱いの低さは、出雲神話にも劣る。
いかに九州の地位が低かったか、神話から一目瞭然なんですよ。
183 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:44:49.59
日置氏については、俺もいろいろ調べてはいたけど、
まあ、大和王権創設には何の役割も果たしてないよね。
菊池の豪族という人もいるが、
スサノオを祖としてることから、出雲が本拠でしょ。
184 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:47:10.06
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原、であるように
黄泉の国に行って帰ってくる話も九州だね。
185 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:50:00.29
>>184 そのエピソードは、創世神話ではなく、中国古典を引用しての後付け。
186 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:50:41.04
逆に創世神話の部分で、畿内の地名がはっきりわかるところはどこかある?
歴代天皇の時代を別にして。
187 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:54:21.76
>>185 そういう似た話があることは否定しないけど、
辿ればほとんどすべての話で似た話が出るよ。
そうなると、
>>182 の問いそのものが、
間抜けな問いということになってしまうけど。
188 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:56:51.42
>>187 どこを舞台にしてるかが重要。
イザナギの九州での禊は、「帰り道の途中」であり「盤古神話」の模倣だから、
たいした意味は持ち得ない。
189 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:57:30.59
ここは神話の史実性、非史実性を論じるスレではない。
190 :
sss:2011/06/08(水) 00:01:16.40
国産神話が淡路島から始まっているわけではなくて、淡路島が最初に出来たということかな。
実際は、そうではないが。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、先に誕生した神々から国土を固めるように命じられ、天沼矛を授かった。
二柱の神が天沼矛で地上をかき回して出来たのが淤能碁呂島(おのころしま)。まず、ここに降り立ち、国産みが始まる。
まず生まれたのが、水蛭子と淡島。これは出来が悪いということで流された。
女から先に声をかけたので出来の悪い子が生まれた。今度は男から先に声をかけよう、ということで生まれたのが
淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、そして本州でこれらを大八島国という。
淡路島に特に意味があるとも思えないが…。
淡路島は四国と大阪湾の子なんだよ。それだけの話。
192 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:05:11.31
>>186 地名というか、国底立尊、国常立尊とかいう、名前だけの神が最初に生まれる。
多くの異伝が、この神が最初に生まれたと書き残してるということは、
本来の日本神話の原型に近いと思う。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B9%8B%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E7%A5%9E 国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。
聖神社 (秩父市)(埼玉県)
蘇羽鷹神社(千葉県松戸市)
日枝神社(東京都千代田区)
大鳥神社(東京都目黒区)
二宮神社(東京都あきる野市)
山津照神社(滋賀県米原市)
城南宮(京都府京都市伏見区)
玉置神社(奈良県吉野郡十津川村)
熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の相殿
若桜神社(鳥取県八頭郡若桜町)
小村神社(高知県高岡郡日高村)
↑
ほとんど近畿で祭られてる神であり九州は無い。
というわけで、九州から東遷なんて、ちゃんちゃらおかしいのですよ。
193 :
水銀厨:2011/06/08(水) 00:06:39.80
>>190 順番は重要ですよ。何処からの視線かという事ですから。
スレから逸脱するので詳細は書きませんが、
国生みの最初の舞台が大阪湾近郊なのは間違いない事です。
194 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:09:53.39
>>189 神話の史実性ではなくて、
神話を残したのは、どこの地域の人々かを考察してる。
結論は近畿ということで動かない。
九州の創世神話は現存してないから。
出雲には国引き神話という創世神話がちゃんとあるのにね。
195 :
sss:2011/06/08(水) 00:10:19.55
>>193 本州(大倭豊秋津島)は最後に生まれているのだが。
国産みで佐度って出てきてるのは、新潟の佐渡ではなくって
西都原、佐土原つまりクマソの国のことだからね。
そこんとこ勘違いしないでね(ハート
197 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:13:03.52
>>195 それがどうかしたの?
イザナギ、イザナミ神話を残した人々は、淡路島周辺のクニってことだよ。
その人々が主要メンバーとして、大和王権を作った。
198 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:14:35.92
いやあ、祀られてるというなら神話の神は
日本全国の神社で祀られてるわけでね。
そういや、伊邪那岐、伊邪那美は福岡の高祖山、太祖山
の神社で祀られてるからね。
そして、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原は、
高祖山から海の方の地名だね。
199 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:16:03.79
>>194 このスレで何を論じるかは
>>1に明記してある。
きみたちの書き込みはスレの趣旨に合っていない。
201 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:18:04.99
高祖山、太祖山の高祖太祖は重要な文字で、
その一族の創始者に高祖や太祖の称号がつけられる。
高祖太祖とイザナギ、イザナミが結び付けられているのは
偶然じゃないんだよ。明らかに意図を持ってつけられているんだ。
202 :
sss:2011/06/08(水) 00:18:19.08
神社は難しいね。記紀以前に遡れる確証のとれるものは少ない。社伝は参考にしにくいものだし。
204 :
sss:2011/06/08(水) 00:22:44.92
>>200 古事記は最後だが、日本書紀は最初の方になっているな。
どっちでもかまわないのだろう。
205 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:23:23.28
>>202 >その気になった?ところで幣立神宮のご紹介。実はこの幣立神宮、高天原神話の発祥の地とされる。
[高天原]が、8世紀の創作だから、ダウト。
あきらめが悪いね。
206 :
sss:2011/06/08(水) 00:25:50.57
207 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:26:18.93
>>198 九州のあちこちでは、神功、応神が祭られてるそうだが、何か言うことはあるかね?
九州の創世神話は、神功時代に消滅したんだよ。
九州に郷土愛があるなら、神功以前の九州の神話を掘り起こしてこいってことだよ。
208 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:28:37.08
高祖山のふもとにある飯盛神社
ここにイザナミが祀られているわけだが、
このすぐ横は吉武高木遺跡なのだ。
最古の三種の神器が出たことで有名だね。
そして、日向峠を通って糸島に入ると、高祖山の裏側は高祖神社
三雲曽根遺跡群や平原遺跡で有名だね。
209 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:31:37.30
淡路島の伊弉諾神宮には勝てんよ。
イザナギの伝承地という動かぬ証拠だからな。
210 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:32:43.79
神埼櫛田神社では、クシナダヒメ、スサノオ、ヤマトタケル、
が祀られているね。
あと糸島のさざれ石神社ではコノハナサクヤヒメとイワナガヒメが祀られている。
消滅したわけじゃないと思うよ。
天沼矛を得てから躍進が始まったんだよね。
この矛っていうのは金属製の矛ってことでいいのかな?
212 :
ひとぶた:2011/06/08(水) 00:40:42.34
>>162 > 検討材料として次の見解も挙げておきましょう。
> 「私は、岩石学者である奥田氏の砂礫による産地同定が方法としては正しい、としたうえで砂礫は動くと考えた・・・
> 特定地域の砂礫が含まれる土器は神聖であり、そして多様な意味を持つ、と考えておきたい。
> 決して土器の遠隔地生産と供給を示すものではない。・・・
> 砂礫同定の方法は認めたうえで、結果については慎重に対処しようとする岸本道昭氏の考えが穏当であろう。」(石野博信)
石橋は敲いても渡らないみたいな論法ですね。
213 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:44:35.07
>>204 淡路島が重要な事には変わりないからな。
ま、諦めろ。
214 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:46:28.41
>>211 金属器が伝わってからの脚色でしょう。
男女が柱の周りを巡って、クニ産みってのが、原型だと思われ。
これは日本オリジナルじゃないかな?
神話に詳しい人、外国に似た神話あるかな?
215 :
ローガン:2011/06/08(水) 00:54:12.48
>>212 >石橋は敲いても渡らないみたいな論法ですね。
S字甕の砂礫…が気になってとか。
(他意はありません)
216 :
sss:2011/06/08(水) 00:56:04.80
>>211 矛と言えば、九州を代表する金属器。その矛が記紀で重要な役割を果たしていることから
神話の舞台は九州ではないかといわれる。
一方で、弥生近畿を代表する金属器である銅鐸は記紀には全く登場しない。
218 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:58:59.03
>>216 8世紀に書かれた神話が何の根拠になるわけ?
重要なのは、淡路島からクニ産みがはじまってること。
九州からは淡路島は遠すぎる。
219 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 01:04:26.63
>>217 銅剣、銅戈、銅矛が北部九州を中心にして
広がっているのが一目瞭然じゃん。
東は銅鐸だけだし。
>>217 銅矛がマキムクに何も影響していないことは判るが、それが何か?
銅鐸文化圏銅矛文化圏なんて昭和の時代の教科書レベルじゃねーか
とっくに否定されてるぞ
倭人の兵は、矛・盾・木弓を使うと魏志倭人伝にあります。
そして卑弥呼は魏から刀(剣)を贈られてます。
銅鐸を作る技術の中から銅矛を作る技術を得て征西、そこで剣という存在を得て東に戻った、そう考えるとしっくりきます。
>>221 ちゃんと一昔前と書いたじゃないですか。
補足すると、細型銅矛は九州西部でしか出ないけど、中細〜広型に関しては、
東が中細で西が広型という傾向があったように記憶してます。
中細から広型への変化を進化と見るならば、やはり銅矛は東から西へと移動してると思います。
進化の過程で
シンプルになると見るか
ごてごてすると見るかで導かれる結果は違うでしょうが
方向が有るのはわかりますね
225 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 06:22:27.16
むかしテレビで、
「マキムクマン」っていたよな?
226 :
伊作先生:2011/06/08(水) 07:44:55.96
燃えるような話題がないなー。
>>179 纏向一辺倒の井の中の蛙。
自力で検証したものは何も出せず、もっぱら孫引き・受け売り。
知らないことは、バカの一つおぼえで「論拠を示せ」という。
>そんなに毎日論破されて、
やることは「中身のない勝利のポーズ」。
でっちあげレッテルの刷り込み害宣。
畿内説の常套手口としては古くさいほうだが、いまだに使う時代遅れ
227 :
伊作先生:2011/06/08(水) 07:58:37.40
>>183 >日置氏については、俺もいろいろ調べてはいたけど、
かんしん・かんしん。
でも・地元の詳しい資料を見なくちゃなー。
ま・その様子からみると、天才の発言の重みだけは自覚できているようだ。
古代史関連のスレッドをみると、九州説者たちの間にも、
天才の影響がかなり浸透しているようだし。いいことだ。
それにしても燃えるような話題がないな。
纏向一辺倒にもそろそろ翳りが出てきたかー。わらわら
朝早くから暇なの?
229 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 11:43:11.76
古今東西自称天才にはろくでもない奴しかいません。
天才とは第三者が判断するものです。
230 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 12:08:55.85
>>142.143.154
S字甕 は伊勢湾岸沿いの平野部、尾張平野、伊勢平野北部地域が発祥との事。
前方後方墳もこの地域が発祥。東海(濃尾平野)をまとめる首長となると
初代倭王・天照火明命の末裔を名乗る豪族でしょうね。
231 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 12:33:06.70
>>227 >でも・地元の詳しい資料を見なくちゃなー。
たかが百年前の資料で何がわかるのかなー
巻向が当時、唯一未開の誰のものでもないが、誰にとっても重要な土地という発見があったとしたら?
関西の交易の中心は琵琶湖でしょう。しかし、そこにはすでに先住者がいた。
交易路の中継点という意味でフロンティアだった。
>>230 S字パレスの発祥はいわゆる三遠でほぼ間違いないだろうが
前方後方墳のそれは意見が分けれていて岐阜の山中との説とも拮抗している
それに文献を重ねあわせるのは早計すぎる
ましてや偽史の疑いが濃厚な古史古伝のように、文献史学ではないオカルト趣味を引き合いに出すのは論外
アマチュア古代史家は、は文献重視を謳うものほどオカルト古史古伝にかぶれている
考古学者はそれを冷笑するだけだが(いろいろな意味で使えるから)
文献学者は後ろから頭を蹴りつけたくなるほど不快に思っている
234 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/08(水) 16:50:54.38
カルト・ホツマの寄生虫に脳内が蹂躙されてる妄想男が宿主たる唐松山と
いう、脳内判断のブレーキがいかれている人物であ〜る。
なおホツマとはそんじょそこらの昔のただのオッサンが恣意的妄想を追加
して書いた朝廷が落第とするであろう危険な史想の書である。おのおの方
はこの書に対し、重々警戒、用心せねばならない。
(・∀・)カエレ!!
236 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 21:27:18.54
>>233 >>230の言う「初代倭王・天照火明命」とは、文字通り記紀・神社伝承に書いてある事柄だけど、
それを否定してる文献学者なんているの?
237 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 21:30:16.31
そもそも、神武東征を否定した場合、
文献上の初代倭王とは、天火明の流れをくむ豪族しかいないわけで。
その豪族とは尾張氏なわけで、東海系土器の多さと符号するのは無視しようがない。
(・∀・)カエレ!!
239 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 21:40:19.64
天火明の話題を出すと、ヒステリー起こす人がいるみたいだが・・・
畿内説には有利なはずなんだがな?
結局、このスレは神武とか天照とかのキャラクターを当てはめる事が目的なのかね。
マキムクの成立過程について語るスレだから
畿内説がどうとか僕の考えた神話解釈とか
どうでもいいから
242 :
ネタ投下第一弾 1:2011/06/08(水) 22:02:25.53
議論があまりにも低調に思えて仕方がないので、ネタ(下記佐々木論文)を投下する。昨年の論文である。
まず、先行研究について記述している部分を抄出する。全文はリンク先紀要参照。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
佐々木憲一
http://www.meiji.ac.jp/bungaku/teachingstaff/teacher_s/sasaki.html 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
『明治大学人文科学研究所紀要』 第66冊(2010年)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(以下抄出)
第1章:研究史
C.古墳出現前後の土器の移動に関する研究史
近年は古墳出現前後の土器の長距離移動と,搬入された土器の在地での模倣に関する研究が大変活発である(西日本を対象とした研究の総論として,森岡1985;1991;米田1990;東日本については加納1985;比田井2001など)。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
森岡秀人
1985「土器の交流一西日本」『考古学ジャーナル』252号,pp.16−22.
1991「土師器の移動一西日本」岩崎卓也(編)『古墳時代の研究』第6巻(土器),pp.229−37,東京,雄山閣
米田敏幸
1990「邪馬台国時代の土器の移動」都出比呂志・山本三郎(共編)『邪馬台国の時代』pp.2741.木耳社
加納俊介
1985「土器の交流一東日本」『考古学ジャーナル』252号,pp.11−15.
比田井克仁
2003「土器移動の類型と原理一弥生後期から古墳時代前期の東日本を対象として一」『法政考古学』第30集,
pp.189−204,
>>242 ああ、俺もそのネタ、文献派のみなさんのために投下しようと思ってたのにwww
244 :
ネタ投下第一弾 2:2011/06/08(水) 22:04:57.86
(つづき)
この研究の大きな出発点は奈良県桜井市纏向遺跡の調査[knr−1]である。
この成果と絡めて,古墳出現前後の地域間交流に関する研究活発化の背景に次の2点を想定できる。
まず第1に,弥生時代と古墳時代の境界をどこに求めるのかという議論。
第2に,本稿の冒頭で述べたように,古墳出現前後の土器の移動が古墳出現と関係するはず,という議論である。
第1の点は,以下の編年の節で詳述する。
纒向遺跡の成果は,この第2点の理解への貢献が極めて大きい。
纏向遺跡出土土器の15%近くは関東から北部九州に至る他地域からの搬入かそれを在地で模倣した土器であり,非在地系土器に限ると,その45%が東海系であることがわかった。
その結果,他地域の古墳出現前後の土器編年との並行関係を知る手がかりを提供したのである。
纒向遺跡と同様,八尾南遺跡[knr−4]など大阪府八尾市内(中河内地域)の遺跡の調査成果に基づき,米田敏幸(1981)が庄内甕を5期に細分し,庄内1を弥生V様式末,庄内5を布留式初頭に比定した。
(つづく)
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米田敏幸
1981「古墳時代前期の土器について」[knr−4], pp.180−189.
[knr−1] 石野博信・関川尚功1977『纏向遺跡』奈良県立橿原考古学研究所
[knr−4] 山本昭・米田敏幸・原田昌則1981『八尾南遺跡』八尾南遺跡調査会
245 :
ネタ投下第一弾 3:2011/06/08(水) 22:07:35.67
(つづき)
さらに八尾南遺跡を始めとする中河内地域の遺跡の遺構から,庄内甕,布留甕と吉備山陰の土器との共伴関係が多数確認され,米田(1985)は,庄内甕の5期の各々の段階で共伴する吉備,山陰の土器型式を明らかにした。
その結果 この時期,中河内,吉備,山陰において,甕形土器が小さな平底から尖り底の段階を経て,丸底に,ほぼ同じスピードで変化することを突き止めた。
また米田(1985,p.103)は,近畿地方中央部への非在地系土器の流入のあり方が,中河内,纒向,そして摂津東部で違いがあることも既に気づいている。
つまり,纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には流入しない土器群がみられる。
さらに摂津の崇禅寺遺跡[knr−6]では,近江系,東海系,吉備系の土器がまとまって出土しており,河内平野の遺跡群とは様相が若干異なる。
(つづく)
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米田敏幸
1985「中河内の庄内式と搬入土器について」『考古学論集』第1集,pp.87−105,考古学を学ぶ会
[knr−6] 大野薫1982『崇禅寺遺跡発掘調査概要1』大阪府教育委員会
246 :
ネタ投下第一弾 4:2011/06/08(水) 22:14:07.31
(つづき)
1986年,奈良県奈良盆地中部に位置する,田原本町矢部遺跡の報告書[knr−2]が寺沢薫編集で刊行された。
ここでは,纏向遺跡と並行する時期でありながら,鈍重な印象を与える伝統的V様式甕が甕形土器組成の中心を成し,纏向編年では甕形土器の編年が説明困難となってきた。
つまり,奈良盆地の中でも,纏向遺跡を中心とする南東部地域と,それ以外の地域では,古墳出現前後の時期は土器の型式変化のスピードが違うのではないかという認識が生まれた。
それに対応する形で,纒向編年以上に土器の組み合わせを重視した,まったく新しい編年の枠組みを寺沢(1986)は発表する。その中で,概ね庄内式後半段階,纒向III式の新段階を布留0式と定義・提唱した。
翌年,寺沢(1987)は「布留0式土器拡散論」と題した短い論文を発表し,彼が布留0式甕とした,畿内型甕が西日本各地に搬入,在地で模倣されている事実を明らかにした。
寺沢(1987)は,布留0式期の甕形土器の西日本各地への移動と移動先での受容の在り方を次の3パターンに区別した。
「北九州型」:布留0式甕を主体として,布留0式期以降の畿内系土器群を顕著に含む遣跡を広範囲かつ高い密度でもつ地域,
「北陸・山陰型」:分布は緩慢だか.点的に顕在化する遺跡をもち,布留1式期には普遍的な拡散をみせる地域
「瀬戸内型」:布留0式甕は希薄だが,布留式傾向庄内形甕や布留式影響庄内形甕,布留式影響弥生形甕を主体とする畿内系土器群が目立つ一方で,布留式1段階でも布留甕の存在はさほど顕著ではない。
さらにこの時期に布留0式土器があまり移動しないケースを「東方型」(布留0式甕はもとより.布留0式土器の様式的受容がみられず,伊勢湾系土器が卓越する)と「辺境型」(布留甕が顕在化するのが布留3式期以降。南九州や東北)に区別した。
(つづく)
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寺沢薫
1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr−2],pp.327−397.
1987「布留0式土器拡散論」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズIII, pp.179−200.
[knr−2]寺沢薫(編)1986『矢部遺跡』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告No,49)奈良県立橿原考古学研究所
247 :
ネタ投下第一弾 5:2011/06/08(水) 22:23:42.13
(つづき)
寺沢(1986,1987)が「布留0式甕」というとき,布留式傾向甕はもちろんであるが,寺沢が「布留式影響庄内形甕」,「布留式影響弥生形甕」と呼称する,この影響を受けた(というより,布留0式期の)庄内甕や伝統的V様式甕も含んでいる。
上記の西日本における布留0式土器受容の3パターンも,受容の量の差異だけではなく,そういった布留0式土器に包括される違った型式の甕の差異の所産でもある。
つまり布留0式土器自体が多様な型式を包括した概念であり,したがって,他地域におけるその受容の在り方もいきおい多様であるのが当然であろう。むしろ我々読者が重視せねばならないのは,この多様性ではないだろうか。
その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.
「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,
換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」
と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。
つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。
米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたいo
(つづく)
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寺沢薫
1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr−2],pp.327−397.
1987「布留0式土器拡散論」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズIII, pp.179−200.
米田敏幸
1997「庄内式土器研究の課題と展望」『庄内式土器研究』XVL pp.1−48.
248 :
ネタ投下第一弾 6:2011/06/08(水) 22:35:54.18
(つづき)
寺沢の画期的論文以降も,この時期の土器の移動を対象とした優れた業績は枚挙に暇がないが,本稿に直接関係あるものを中心に触れておきたい。
寺沢論文に若干遡るが,田崎博之(1983)は
外来系土器の筑前地域への流入過程は,経済基盤の異なる海岸部の集落と内陸部の集落で大きく異なることを指摘し,
氏の設定する「有田式土器古相段階」(概ね後述する布留0から布留1の段階)に外来系土器の流入量の増加と流入される遺跡の増加という「画期」を迎え,
その画期の背景として,海岸部の集落では近畿地方の勢力が海上交易圏を掌握する過程,内陸部の集落では限られた一部(首長層?)が近畿地方を中心とする外来の祭祀権と結び付く過程
と結論付けた。
そして内陸部の集落での場合は,祭祀様式の統一体への帰着として意義づけ,それを定形化した古墳の成立の「統一的な首長霊祭祀型式の創出」と整合すると主張した。
(つづく)
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田崎博之
1983「古墳時代初頭前後の筑前地方」『史淵』120集,pp.219−261. 九州大学文学部
249 :
伊作先生:2011/06/08(水) 22:52:21.60
古墳時代のはまりは3世紀半ばてかい。
古墳時代に入ると、ほぼ全国一斉に同じ墓制と葬送祭祀が蔓延する。
その墓づくりと葬送祭祀をやる人材の育成と供給が、
組織的・計画的に3世紀半ばには行なわれていたわけだ。
さもなければ、ほぼ全国均一ともいえる墓制と葬送祭祀が蔓延するわけがない。
そうした「人材育成と供給」はどこで・どうやって行なわれたのか。
まるで土器に足がついていて意思でもあったかのようにドキ・ドキゆってるが、
人の移動や流れが一次要素でドキなど付属要素だろう。
「土器の移動は人の移動によって生じるもので,移動の動機は複雑多様である」。
考古学の世界は、質的な意味において、慢性的な人材不測のようだな。
250 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 22:56:39.39
>>248 >その画期の背景として,海岸部の集落では近畿地方の勢力が海上交易圏を掌握する過程,内陸部の集落では限られた一部(首長層?)が近畿地方を中心とする外来の祭祀権と結び付く過程
なるほど、このようにして九州は近畿勢力に飲み込まれていったわけか。
さすが、九州の考古学は進んでるな。
251 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 23:00:39.45
>>249 >そうした「人材育成と供給」はどこで・どうやって行なわれたのか。
関東、東北方面は東海勢力が担ってたでしょうな。
252 :
ネタ投下第一弾 7:2011/06/08(水) 23:19:52.76
(つづき)
前述の岩永(1989[1981],p.92)は,古墳出現前後の時期に畿内など外来系の土器が福岡・早良・糸島平野で爆発的に増加することに関して,次のように述べた。
「外来系器種の増加とともに在地系器種の消滅ないし個体数減少が起こっている。
転入者がF地区[福岡・早良・糸島平野(引用者注,以下同じ)]在来の集団中で土器製作に従事していることは
Ilb〜IIIa期[この議論の対象のIIIb期の前,Ilb期は以下に筆者が依拠する久住猛雄(1999a)編年のIb期,岩永IIIa期は久住Ila期に概ね相当する]と変わらないが,
さらに進んで,その転入者に伴って持ち込まれた土器作りに関するもろもろの情報が,在来の集団中の土器製作者に既に広く共有され,在来の人間も外来系の土器を確実に製作し始めていると考えられる(下線は引用者による)。」
つまり,古墳出現期には福岡・早良・糸島平野で外来(この場合は畿内)の土器が在地で大々的に模倣製作されている現象を既に看破しているのである。
さらに福岡・早良・糸島平野と畿内・山陽・山陰地域との土器から窺われる交渉の深化について,
「畿内地域諸集団の側にF地区との交渉を強化すべき必要性があったはずである。
それが,どの程度『政治的』なものであるかの評価は難しいが,首長間の政治的同盟関係が成立する以前に,より下位の集団成員間レベルでの交渉関係が成立していたことは認めてよかろう(下線は引用者による)。」(岩永1989[1981],p.93)
と指摘した。
これも,本稿で筆者が主張する,集落同士のネットワークが前方後円墳で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したことを既に示唆しており,その先見性に敬服する。
(つづく)
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岩永省三
1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43−105.福岡,凸版印刷
久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp. 62−143.
253 :
伊作先生:2011/06/08(水) 23:20:18.84
>>251 ヘタな考古学者よりも天才のほうが、言うことも着想も新鮮だろ。
な
254 :
ネタ投下第一弾 8:2011/06/08(水) 23:24:51.17
(つづき)
ただ岩永(1989[1981],p.93)は甕棺葬の消滅などをあげ,「在来文化の活力の衰微」を畿内系土器の福岡・早良・糸島平野への導入・模倣製作の背景に考える点については,
在地集団の主体的意思で畿内地域諸集団との交渉を強化したかったと考える筆者とは若干立場を異にする。
余談であるが,岩永(1989[1981])論文は1981年1月に脱稿していたが,発表が1989年になった。
その間,類似する内容の論文が溝口孝司(1988)によって岩永論文より先に発表されたためか,後述する久住(1999aなど)も余り引用しない。
しかしながら岩永の研究は,土器の分類にあたって基準とする属性を明示し,その属性の集まりを数量化・グラフ化し,第三者による検証を可能にするなど学ぶべき点は極めて多く,
方法論・理論研究の両面から,この種の研究の画期を成すものと高く評価したい。
(つづく)
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岩永省三
1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43−105.福岡,凸版印刷
溝口孝司
1988「古墳出現前後の土器相」『考古学研究』第35巻第2号.pp.90−117.
久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp.62−143.
255 :
ネタ投下第一弾 9:2011/06/08(水) 23:27:06.91
(つづき)
井上裕弘(1991)も田崎(1983),岩永(1989)と同様,筑前地域における外来系土器の流入過程を検討した。
井上論文の編年にやや無理なところもあるが,外来系土器群の流入過程と4本柱住居の導入を絡めて考察した点は前進である。
また筑前地域における布留式土器の主体的な製作を想定し,また布留式土器製作者に山陰系土器製作者集団が関与していた可能性まで示唆した。
さらに畿内系土器や畿内系集団の北部九州流入が,豊前地域を拠点に進められたと想定した。
最後の点は.以下の次山淳(1997)が,松山平野を介して布留系土器が北部九州に達した可能性を指摘しているのと考え合わせると,大変興味深い。
ただ,伝統的V様式系,庄内系,布留系の流入を井上が一括して考えている点は,議論の余地がある。
(つづく)
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井上裕弘
1991「北部九州における古墳出現前後の土器群とその背景」『古文化論叢』児嶋隆人先生喜寿記念論集 pp.315−372,飯塚市,児島隆人先生喜寿記念事業会
田崎博之
1983「古墳時代初頭前後の筑前地方」『史淵』120集,pp.219−261. 九州大学文学部
岩永省三
1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43−105.福岡,凸版印刷
次山淳
1997「初期布留式土器群の西方展開」『古代』第103号,pp.135−156.
256 :
sss:2011/06/08(水) 23:31:23.76
土器は基本的に台所用品だからなあ。
普通に考えれば、政治的な動きとは別の視点が必要だと思うのだが…。
>>255 首長墓など政治的な遺構の西遷より以前に
経済的な西遷が起こっていたということか。
しかし松山平野を介して北部九州に達していた可能性とか
258 :
ネタ投下第一弾 10:2011/06/08(水) 23:41:24.00
(つづき)
山田隆一(1994)は中河内への外来系土器の流入を分析し,庄内大和型甕が河内にはほとんど発見されないのに対し,庄内河内型甕は纒向遺跡で多数発見されることを指摘する。
そして米田敏幸(1985)が外来系土器の構成比率の差を地域差として捉えたのに対し,当時の纒向遺跡を中心とする大和盆地南東部地域への一方通行的な流通の実態と解釈する。
つまり,中河内地域の諸遺跡は西日本各地の「物」の纒向遺跡への流通経路上の「港湾的機能」有する拠点集落群であり,
東海を含めた東日本諸地域から纒向遺跡にもたらされた「物」は基本的に中河内をはじめとする西日本の諸地域には流出しなかった社会的状況であったと大胆な提言を行う。
高橋浩二(1995)はこの時期の加賀,能登越中を対象とし,
庄内系土器や東海系土器などが北陸各地域へ一様に波及する庄内式新段階と,布留系甕の波及・受容によって土器組成に不均等性が生じた布留式古段階という2つの画期を見出し,定形化した古墳は第2の画期で出現するとした。
そして重要な点は,より古くから畿内の土器様式を受け入れた地域よりも,在地色の強い地域において墳形や規模,副葬品などが卓越した古墳が築造されたと判断したことである。
これは,土器からみた地域間交流のパターンと,地域間交流の所産としての古墳の出現の在り方とは,かならずしも整合しない場合があることを初めて明確に指摘した,極めて重要な論文である。
(つづく)
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山田隆一
1994「古墳時代初頭前後の中河内地域」『弥生文化博物館研究報告』第3集,pp.119−146,
米田敏幸
1985「中河内の庄内式と搬入土器について」『考古学論集』第1集,pp.87−105,考古学を学ぶ会
高橋浩二
1995「北陸における古墳出現期の社会構造一土器の計量的分析と古墳から一」『考古学雑誌』第80巻,pp.279−318.
九州では劣化コピーが行われてた事実には泣けたね。
完全コピーが出来なかったなんて・・
260 :
ネタ投下第一弾 11:2011/06/09(木) 00:14:51.84
(つづき)
次山淳(1995)はまず布留形甕肩部に施された波状文と列点文に注目し,前者が山陰に,後者が吉備に出自をもつ文様であることを確認する。
そして布留甕出現期には両者がみられ,両者の間には近畿地方のなかで地理的な分布に偏りがあることを見出し,それを各々の出自集団の畿内の中での棲み分けの反映と解釈する。
次いで次山(1997)は,各地の布留形甕製作者の出自・系譜を考慮に入れながら,定形化した布留1式直前,布留0式段階の最新型式の土器群が,畿内と北部九州の中間地域である中国・四国地方にどのような経路で伝播したのかを探った。
その結果この地域における初期布留式土器群の分布には特定の方向性があり,面的というよりはむしろ伝播経路に沿った線的なものであることを明らかにした。
特に,その「線」が従来想定されていた中国地方の瀬戸内海沿岸に沿ったものではなく,むしろ松山平野を経由して北部九州地域へ到達した可能性を強く示唆する。
またこの初期布留式土器群の西方展開を担ったのは.その肩部施文率の高さから,山陰系(肩部波状文),吉備系(肩部列点文)畿内集団であること,布留甕口縁部形態の分析から,大和外縁地域と結び付く可能性が高いことを指摘し,
さらに多量の畿内系土器が出土するその松山平野の土器製作者は山陰系畿内集団と想定する。
(つづく)
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次山淳
1995「波状文と列点文一布留形甕にみられる肩部文様の分類・系譜・分布」『文化財論叢II』(奈良国立文化財研究所創立40周年記念論文集),pp.19−39.同朋社
1997「初期布留式土器群の西方展開」『古代』第103号,pp.135−156.
261 :
ネタ投下第一弾 12:2011/06/09(木) 00:18:58.87
(つづき)
続いて次山(2000)は奈良盆地北西部に位置する佐紀遺跡出土の外来系土器を詳細に分析し,奈良盆地南東部に立地する纒向遺跡での外来系土器の在り方と比較する。
その結果佐紀遺跡下層(古墳時代前期)土器全体の中で外来系土器が占める率は16.9%で纒向3式(布留0式)期とあまり変わらないものの,纒向3式期の纒向遺跡に比べ外来系土器に占める甕の比率が佐紀遺跡では96.2%と著しく高いこと,
関東・東北系土器が6.9%に対し佐紀遺跡では42。5%と高いことを指摘した。
もちろんこの違いは奈良盆地内の地域差でもあるのだが,傾向として纒向遺跡でみられる纒向1式から3式,4式への変化の延長線上に佐紀遺跡が位置するという点に全面的に賛成である。
そのほかこの次山(2000)論文には重要な知見が示される。
例えば布留甕成立には吉備南部と山陰系土器との関係が認められるのに,布留式土器の定形化の過程に伴って,吉備系土器の見かけの移動量は低下するし,
東海系土器は纒向遺跡の外来系土器の主体を占めるのに,東海系土器の要素が布留式土器に受け入れられないため,「土器の移動量と要素の授受は必ずしも対応しない」(p.245)という。
また纒向遺跡と佐紀遺跡に近接して大和古墳群と佐紀盾列古墳群が広がることから,
「その[古墳群の]築造とあい前後する時期の隣接集落が,政権中枢のありかたと無関係に存在することは考え難い。
むしろ,こうした集落における外来系土器のありかたは,その時点の大和中枢の他地域との関係,あるいは政治的な志向性を色濃く反映しているものと考えられる。
さらに,搬入率の高さ,構成要素にみられた類似性は,大型古墳群に隣接する集落遺跡の特質を表している可能性が高い。」(p.245)
と論じる。
特に2点目については,本稿の終章で詳しく議論したい。
(つづく)
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次山淳
2000「纒向から佐紀へ一外来系土器組成の時系列的な比較」『一所懸命』(佐藤広史君追悼論文集),pp.237−249.佐藤広史君を偲ぶ会
262 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 00:33:25.97
以下、九州説東遷説の断末魔(へらずぐち)をお楽しみください。
263 :
ネタ投下第一弾 13:2011/06/09(木) 00:58:27.54
(つづき)
角南聡一郎(1997)は,庄内甕を近畿地方中心部(中河内)タイプと周辺部(大和・西播磨)タイプとに分類し,それらの備中,筑前,肥前における受容の在り方を探った。
その結果備中へは中心部タイプの甕そのものが複数搬入され,それに関する情報が多くもたらされたのに対し,北部九州へは中心部タイプの甕の搬入は極めて稀で,主に周辺部タイプに関する情報がもたらされたという。
実際,中河内には多数の「ぼうふら」と呼ばれる吉備の在地の精製甕が多数搬入され,中河内と吉備の間ではこの時期,頻繁な相互交流があったのに対し,北部九州と中河内相互の土器の移動は極めて稀であったことがわかっている。
(つづく)
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角南聡一郎
1997「西日本における畿内系甕製作技術の展開」『奈良大学大学院研究年報」第2号,pp.111−142.
264 :
ネタ投下第一弾 14:2011/06/09(木) 01:04:55.94
(つづき)
最後に,古墳出現前後の時期に方形4本柱竪穴住居が北部九州に徐々に浸透する過程を詳細に辿った寺井誠(1995)の研究にも,土器の研究成果ではないのであるが,本研究に関連が深いので触れておきたい。
方形4本柱竪穴住居は豊前・筑豊の東部地域で弥生時代後期中段階にいち早く出現し,
続いて庄内式併行期には筑前・筑後の西部地域でも現れ(この点についてはすでに井上[1991]が指摘していた),東部から西部に,豊前→筑豊→筑前→筑後と徐々に広がってゆくことを明らかにした。
西部地域では,そのような新しい竪穴住居は出現期(庄内式併行期)→受容期(布留式古・中段階)→普及期(布留式新段階)の3段階の緩やかな変遷過程を経ることも確認した。
これは,畿内から北部九州にほぼダイレクトに伝わる布留式土器様式や前方後円墳の採用の過程とは対照的であるとした点は極めて重要である。
特に布留式古・中段階に依然多く残る方形2本柱の竪穴住居から出土する土器の多くは布留式土器である。
このように,同じ地域でも他地域系の土器,住居,墓の導入のありかたが異なるのは,受容した人々の社会階層の違いではないかと推論する。
つまり,征服王ウィリアム1世によるノルマン征服(1066)以降支配階層は大陸的な慣習をブリテン島に持ち込んだが,一般民衆は従来のサクソンSaxon的慣習を維持したという実例を引用し,北部九州の古墳出現期も類似した状況とする。
非常に示唆に富む提言である。
(第1章:研究史 C.古墳出現前後の土器の移動に関する研究史 の抄出はここまで)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
寺井誠
1995「古墳出現前後の竪穴住居の変遷i過程一北部九州の事例を基に」『古文化談叢』第34集,pp.193−224.
井上裕弘
1991「北部九州における古墳出現前後の土器群とその背景」『古文化論叢』児嶋隆人先生喜寿記念論集 pp.315−372,飯塚市,児島隆人先生喜寿記念事業会
(つづく)
※このあと中間は省き、終章:古墳の出現と畿内型甕形土器の西方拡散 の部分を抄出する予定。
266 :
伊作先生:2011/06/09(木) 10:01:51.17
同じことを宣伝してたのがいるんでこっちにも貼ろう。
>三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に 高くなったようだ。
街頭香具師みたいなことをいうな。
この天才が現れたからにはそういう手口は通用しない。
問題の本質は中国産か倭国産かではなく、
中国産ならばどこで作られたである。
魏の尚方(官製鏡工房)で卑弥呼に贈るためにつくられた特注品か否かだ。
>畿内説への反論 が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
バカ野郎。
神獣鏡は当時の魏の敵国たる呉地方の特産で、
魏の尚方(官製鏡工房)では絶対につくられない様式の鏡だ。
(わかるかなー。王朝とは威厳・格式というものにこだわるものだ)。
魏の尚方(官製鏡工房)では絶対につくられるはずのない神獣鏡に、
あろうことか魏の年号が入っているという、この「超不条理」。
天才がはじめて指摘した盲点をどう処理するかだな。
(がんたれどもに・わかるかなー)。
267 :
伊作先生:2011/06/09(木) 10:33:07.43
神獣鏡がみな、中国も中国「呉」で作られたと分かったら面白い。
魏が卑弥呼に贈った鏡とはまったく別の、ただの流通鏡という論理に帰結する。
文春にのっかったセンセはどういう結論なのか。
またぞろ、「畿内説のやることはマンガ以下」の轍を踏むんじゃなかろうな。
わらわら
268 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 10:58:55.14
伊作先生必死だなあ。
中国文献をよりどころしにして、東遷説を構築してたのに、
三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に 高くなっては、もともこもない。
「三角縁神獣鏡が中国産かどうかなんて関係ない」と言い訳するしかない。
>>267 >神獣鏡がみな、中国も中国「呉」で作られたと分かったら面白い。
安本先生によれば、当時の魏は銅が不足してて、鏡を特注するのは困難であり、
だからこそ、三角縁神獣鏡は国産だとか言ってたな。
一方、その頃の呉は、魏に征服されており、鏡職人、銅材料など魏に徴用されたことだろう。
魏が鏡を生産できなかったのに魏志倭人伝では「卑弥呼に鏡を送った」とあるのだから、
三角縁神獣鏡が呉鏡だとしても、卑弥呼のもらった中国産を補強するものでしかない。
269 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 11:05:21.72
邪馬台国がどこかなんてそんなもん
考えたって答えは絶対に出てくるわけないだろw
そんなこともわからん馬鹿どもが。
こんなん歴史オタが妄想で語ってるだけ。
意味ない作業だよ。
270 :
伊作先生:2011/06/09(木) 11:18:25.12
>>268 >中国文献をよりどころしにして、東遷説を構築してたのに、
いいや。日本列島特有の地形から東遷説でしか説明がつかないとしているのだが。
>三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に 高くなっては、もともこもない。
いいや。魏の尚方でつくられた可能性はゼロだから「ゆよう」こいてるのだが。
>一方、その頃の呉は、魏に征服されており、鏡職人、銅材料など魏に徴用されたことだろう。
みごとな詭弁だか、これは239年頃の話かい?
>魏が鏡を生産できなかったのに
後漢末の動乱で中断した魏都・洛陽の工房は明帝の時代に復活している。
ここで最初につくられたのが青龍年号入りの鏡だろうな。
必死なのはそっちだろ。ウソつくな
>三角縁神獣鏡が呉鏡だとしても、卑弥呼のもらった中国産を補強するものでしかない。
大帝国のトップ外交の帝室ご用達贈答品に呉式の粗末な鏡を贈ることはあるまい。
これは帝室のメンツの問題だ。中国産でいい。どうせ呉でつくられた流通品だ。
>>265 これかな?
56 :日本@名無史さん:2011/06/09(木) 10:10:58.41
今週の週刊文春に三角縁神獣鏡が中国で生産された特注品である文献
証拠が発見されたとあるね。また景初四年という年号も当時は
中国で使われていた記録が晋書天文志という古代の公式天文記録
に使われているなど三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に
高くなったようだ。これで九州説の大きなな畿内説への反論
が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
呉の様式と魏の年号の融和、まず候補にすべきは蝙蝠外交をやってた公孫氏の帯方でないかい?
273 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 13:17:47.82
>>270 >ここで最初につくられたのが青龍年号入りの鏡だろうな。
近畿で出土した鏡のことですか?
274 :
伊作先生:2011/06/09(木) 13:55:01.06
>>271 「邪馬台国は九州にあった」のスレッドをみてみ。
週刊誌を呼んだ人がいて、
509で 「週刊新潮の衝撃の一石はとんでもないまぬけな話」とゆってるよ。
思った通り、というよりも、話にならないレベルらしい。
275 :
伊作先生:2011/06/09(木) 14:42:25.46
>>273 >近畿で出土した鏡のことですか?
そう。年代的にもデザイン的にも様式的にも、
こっちのほうが卑弥呼に贈られた鏡の可能性が高い。
ほんのわずかしか出ていないところもそれらしさを感じさせる。
発掘できない大古墳に副葬されているかも知れないし。
・安満宮山古墳(長方形墳) 古墳時代初期て正確には4世紀初頭か?
青龍三年鏡と三角縁神獣鏡が一緒に副葬されていたらしい。
・大田南5号墳(方墳) 4世紀後半
青龍三年鏡が出土。4世紀後半まで地上で伝世していたわけだ。
これだから、必ずしも卑弥呼の時代に近い時代に副葬されたという保証はない。
いずれも円墳や前方後円墳ではなく方墳だ。
>伊作
纏向に関係の無い話は邪馬台国スレでやれ馬鹿者が
流行の最先端をゆくオシャレな街、それが纏向
278 :
伊作先生:2011/06/09(木) 21:29:19.17
>>276 纏向に関係のない話を持ち込んだやろうに言え馬鹿者が
279 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 21:39:42.48
>>271 >今週の週刊文春に三角縁神獣鏡が中国で生産された特注品である文献
>証拠が発見されたとあるね。また景初四年という年号も当時は
>中国で使われていた記録が晋書天文志という古代の公式天文記録
>に使われているなど三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に
>高くなったようだ。これで九州説の大きなな畿内説への反論
>が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
週刊新潮ですね。というわけで、読んできましたよ。
この記事のキモは三角縁が中国で作られた証拠として、
「景初4年は実在した」ことをつきとめたことですね。
長年の研究ご苦労様というわけです。
「景初4年は実在した」ということなら、国産だから間違えたという論は消滅します。
そして、景初4年は実在したということが、間違いなく「景初4年」の時代に三角縁が中国製だったという証明になるわけです。
つまり、卑弥呼のもらった鏡に間違いなく、その鏡が近畿を中心に広まってるので、
邪馬台国は近畿、奈良ということで決着したというわけです。
考古学的には答えが出てましたが、
長年の論争もこれでやっと本当に終止符が打たれたわけですね。
民主党みたいな野郎だな伊作
281 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 21:47:58.87
>>261 纒向に東海系土器が多いから纒向を擁立したのが東海勢力というストーリーが展開されるなら
佐紀楯波は関東が擁立したというのか・・・
>>279 マジ?景初4年鏡って見つかってるのは福知山と西宮の2枚だっけ。
ともかく、畿内周辺に卑弥呼の鏡が2枚あるのか。
283 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:05:04.70
>>282 「天文志」という中国の文献には、「景初四年」という記述があるそうです。
天文学の本ですから、これは当たり前のことで、
今年の年号が変わるか変わらないか、前もって知ることなど出来ないのですから、
「景初三年」の翌年の記録は「「景初四年」と記述するのは当たり前のことです。
天文学以外でも、年号を扱う各所であっても、
「景初三年」の翌年に行った事は「景初四年」と記述するのは当然です。
お上のほうから、「年号が変わったよ」と通達されて、はじめて新しい年号を使うようになるのですから。
したがって、「景初四年」とある三角縁は、
「景初四年」だった中国で作られたことは疑いようがありません。
後年になれば、「景初四年」は使われない年号になるわけですから。
284 :
伊作先生:2011/06/09(木) 22:05:21.74
厳密には景初4年はあった。ただし1ヵ月間だけ。
景初4年があったというだけなら、大騒ぎすることはない。
それが三角縁が中国で作られたという証拠にはならない。
こんなにガセネタ言説はそこそこにしとけ。
285 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:15:19.68
>>284 今夜は悔し涙で枕を濡らすのかい?
>それが三角縁が中国で作られたという証拠にはならない。
中国製であっても動じないフリをしてたようだが、
やっぱり中国製じゃ困るわけか。
286 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:20:33.24
景初4年が次の年号の元年になるのか、景初3年が次の年号の元年になるのか、
今までは景初4年がないことを前提に暦が組まれていたわけだが、
景初4年が存在するとなると、以後暦が一年ずれることになるのだが、
それって大変なことではないかな。
中央では景初3年までで終わって、連絡が遅い
地方や辺境では景初4年でつくってしまったという方が
妥当ではないか。
もちろん日本も辺境の一つだ。
つまり、今までと一緒だ。
287 :
伊作先生:2011/06/09(木) 22:25:32.63
>>285 困らん。
ただ中国製というのと、魏の尚方でつくった中国製とは意味が違う。
呉でつくられた中国製ならばただの流通商品。
すでに先に述べたことだが。ぼんくら
288 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:29:16.11
>>286 >景初4年が存在するとなると、以後暦が一年ずれることになるのだが、
>それって大変なことではないかな。
ずれるわけじゃありません。
なにか勘違いしてるでしょ?
289 :
伊作先生:2011/06/09(木) 22:31:45.14
もう一度いう。
厳密には景初4年はあった。ただし1ヵ月間だけ。
景初年号と正始年号では暦法が違う。
明帝の喪あけに正始元年となるのだが、その空白の時期が1ヵ月。
あえていえばこれが景初4年だ。
どうってことはない話だ。浮き足だつな。芥ども
290 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:45:58.49
>>289 トヨが266年に朝貢してるので、景初4年が使われなくなったのを知ってるはず。
すると、景初4年とある三角縁は、それ以前に作られたことになる。
中国で作られようが、日本でつくられようが、同じこと。
日本でつくられたとしたら、3世紀に、神獣鏡を作れて、魏の年号を知ってる鏡職人が近畿にいたということだ。
つまり、3世紀には、九州よりも優れた鏡職人が近畿にいたということを認めるしかないわけだな。
トヨタン・・・・・・・・・・
292 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:09:43.18
>>289 だからね、
3世紀の近畿に、九州より高度な鏡職人がいたってことだよ。
九州に、三角縁以前に、出来の良い鏡がなんかあった?
293 :
伊作先生:2011/06/09(木) 23:12:49.32
>>292 高度でもなかろう。粗末すぎるくらい粗末だぜ。
まだ、平原から出たフライパン鏡のほうが立派だ。
時代が逆行したかと思うほどヘタだな。わらわら
294 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:17:04.30
久しぶりに畿内説が喜びそうなネタも
もう消えたか。瞬殺だったな。
295 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:23:18.51
ここは邪馬台国じゃなくてマキムクのスレなんだってば
296 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:26:34.77
三角縁なら語れるだろ。
ホケノ山からは三角縁は出てないのだから、
ホケノ山の築造は、景初4年より前ってことでいいね?
297 :
伊作先生:2011/06/10(金) 00:00:56.59
>>296 なぬボケの山。畿内説連中はたしかにボケの山だ。
>ホケノ山からは三角縁は出てないのだから、
三角縁が出るのはなぜか古墳時代の古墳からだと聞いたぞ。
もっとも、古墳時代とは3世紀末以降説をとる人の意見だが。
三角縁は3世紀末以降の古墳からしか出ないのかね。おしえろ
ところで、ボケの山と堂ノ後のミステリーは解決したのか。
これもおしえろ
このネタなら文句ないだろ。ボケの山しょくん
298 :
伊作先生:2011/06/10(金) 00:23:05.76
・正始元年鏡 (三角縁神獣鏡)
・景初4年鏡(斜縁盤龍鏡)
景初4年と正始元年は実質的には同じ年なんだが、
どうしてこういう現象が起きるんだ? ナイスなネタだろ。ついでにおしえろ。
十円玉に
昭和64年と平成元年がある
どうしてこういう現象が起きるんだ?
300 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 02:26:28.08
>>297 >ところで、ボケの山と堂ノ後のミステリーは解決したのか。
直接、当事者に会って聞けばいいだろ?
メールでもいいし。
で、本当はどうだったか確かめてからほざけ。
>>299 > 十円玉に
> 昭和64年と平成元年がある
>
> どうしてこういう現象が起きるんだ?
それは・・・・昭和64年は1週間だけとはいえ、両方とも実際に存在する事例でしょう。
例えが悪い杉w
302 :
ワッカ:2011/06/10(金) 03:38:05.47
畿内の「三角縁神獣鏡」って、大量生産の安物です。後進地域の畿内王家に
ふさわしい。
それに対して、九州北部・筑前地域の「方格規矩四神鏡」の方は、堂々たる
本格王家・本格国家の鏡だ。
北部九州(筑前地域)と畿内大和では、格が違う。レベルが違う。
そのレベルが低い畿内大和が日本の中心であったわけがない。
>>302 問題は数
神獣鏡をつかう道教思想が畿内を基点に大ブレイクしたという事だ
304 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 14:15:44.71
もはや何を言った所で倭の中心は淡路島だよ。
305 :
ローガン2世:2011/06/10(金) 15:59:14.64
>>303 >神獣鏡をつかう道教思想が畿内を基点に大ブレイクしたという事だ
それが何時だったかが問題なんだね。4世紀以降じゃないかな〜。
ホケノ山古墳から布留0(布留1とする説もある)土器と同じ地層に埋もれていた桃の核のC14年代
測定では4世紀半ばの確率が最も高いという樫考研の報告があったと思うけど、畿内説の諸氏は知らん
かな〜。
>>302 >北部九州(筑前地域)と畿内大和では、格が違う。レベルが違う。
…で、
『鍛え方が違う! 精魂が違う! 理想が違う! 決意が違う!
我ら九州説悪魔超人!』
ですね、わかります。
307 :
ローガンV世:2011/06/10(金) 22:20:38.00
>>305 箸中山古墳の話とごっちゃになっているようだ。
ホケノ山のC14年代測定は桃の核についてではなく出土した小枝についてのものだね。これは畿内説には
具合が悪いので抹殺されたかも知れないね。
格が違う レベルが違う 鉄が違う 鏡が違う
ごめんね。昔の説に まだ縛られてる
309 :
ひとぶた:2011/06/10(金) 23:02:13.36
>>305 > ホケノ山古墳から布留0(布留1とする説もある)土器と同じ地層に埋もれていた桃の核のC14年代
桃?は、知りません。
御存じなのかも知れませんが、橿考研が2008年に新しい資材(確か槨内に有った小枝)で行ったC14の測定値を報告してますよね。
概報の測定値(棺材、BC30〜AD235)より各段に新しい(AD250〜420)値で、
比較的に支持者の多い布留期の実年代と齟齬の無い結果ですよね。
神獣鏡について言うと三角縁が出なかったことから、同じ布留期の黒塚よりは古いと推定できるかと思いますよ。
310 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:07:59.91
C14の特性上、中央値が一番確率が高い
正規分布となるので、
330年当たりと見てよさそうですね。
311 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:11:35.66
「桃核」だの「小枝」だのくだらない話だ。
それが資料の中で一番適当である根拠を出してみろって話で
天井が崩落したホケノであれば後からそこに紛れ込んだ可能性もあろうし
それを考えるなら木棺がサンプルとして一番いいのは自明の理。
ついでに表面を焼いてあった(防腐処理だったか?)のはC14の測定には都合が良かったんだよな
(理屈はホケノの報告書にあったと思うが忘れた)
イチャモン付けるのに必死なゴ*ク*レ*ル九*説はとにかく出てきた数値の中で
とにかく自説に都合が良いものをチョイスして喧伝するしか能がない。
312 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:13:09.47
木郭材とかでもない、木郭崩落後の混入品の可能性を排除できない「小枝」の測定年代が古墳の年代とするのはちょっと無理な気が。
歴博の甕の煤によるAMS年代論と同じくらい、ある意味選ん試料に問題がある。
>>312 >ある意味選ん試料に問題がある。
だからその「選択」にある意図あるいは事情が絡んじゃってるって話だなw
まあ分って言っているんだろうがwwwwwwwww
314 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:28:25.04
ホケノは木棺を年輪年代測定したという噂もあるけど、報告書には無かったね。
誰か真相知っているエロイ人いる?
おいおい、九州説を一緒くたに非難するのは止めてくれw
穏当な九州説は、布留0を三世紀半ばから後半と認めてる。
風前の灯の九州東遷説とは違うんだからさw
316 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:36:04.23
布留0を3世紀半ばから後半と認めて、なお九州説 とはかなり無理がある希ガス
奴国伊都国以上の勢力が九州内陸部または九州中南部や東部にあるとは思えない。
317 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:39:00.67
佐賀、熊本、太宰府
318 :
www:2011/06/10(金) 23:40:16.19
>>315 だからきちんと「ゴ*ク*レ*ル九*説」とまともな九州説と峻別する為に使っている。
つうか元々その年代観は九州の考古学が基準になっただけの話だからなw
(ぶっちゃけて言えばホケノや箸墓の年代がどう動こうが
そっちの”大元”を動かさない限り邪馬台国東遷説なんて物は単なるファンタジーに過ぎない)
もし九州説に理論的な可能性すらゼロだと言い
つまりそれは畿内説が100%完全無欠のものだと言ってしまえばそれはもう学説でもなんでもないからなw
いくら俺でもその程度はわきまえているつもりだwwwww
319 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:40:54.31
3世紀の具体的遺跡を上げてくれ
320 :
sss:2011/06/10(金) 23:45:29.16
>>319 有名な大集落遺跡では、吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡、方保田東原遺跡だろう。
>>318 五百ベクレル九州説
邪馬台国は九州にあり、4世紀以降に一切の考古遺物を伴行せず
支配者だけがヤマトにやってきました
なぜなら九州原発が爆発して放射能で九州が死の国になったから
着の身着のままで避難してきたんです…
322 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:50:40.97
>>316 「偽僭説」あるいはそれに準ずるようなものでおk
伊刀島の存在って皆さん知ってるのかな?
水銀朱の産地だったりしたら面白いと思ったんだけどぐぐっても出てこない
324 :
ひとぶた:2011/06/11(土) 00:03:56.31
>>310 > C14の特性上、中央値が一番確率が高い
> 正規分布となるので、
>
> 330年当たりと見てよさそうですね。
試材は2点だけだったらしいです。
そして、二つの測定値は、かなり離れています。
325 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 01:05:56.58
>320
三雲遺跡群、須玖岡本遺跡群、那珂比恵遺跡群には規模、質的に負けている。
326 :
ローガン:2011/06/11(土) 01:40:43.46
布留0…って、使いやすいけど、わかりにくいよねぇ。上で興味深い「ネタ投下」頂いたんだけど。
とある大阪の学芸員氏は、0期と言う表現は使わないなあ。
327 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 02:48:08.02
>>322 「偽僭説」というのは、99%畿内説で決まりなところを、
「九州説の可能性はゼロではない」という文言に甘えた上で成り立ってるだけってことは理解してるのかな。
>>320 なぜにそこで吉野ケ里や平塚川添のような全盛期が3世紀でない遺跡や
方保田東原のように、三雲や須玖や那珂の足元にも及ばないものをわざわざもってくるんだ?
単に無知なだけ?それともわざとやってるの?
>>327 いや「偽僭説」てのは、いわゆる論理的に絶対否定出来ない悪魔の証明みたいなものなのよ
邪馬台国フィリピン説ってのも、実は偽僭説のひとつであり
例のエジプト説もそうなんだ、自分の国を倭国(日本)だと偽僭したってことだね
ただ九州の偽僭説ってのは、可能性としては5%くらいは考慮してあげてもいいんじゃないかっていう
フィリピン説やエジプト説よりは可能性はあるねってくらいの話
330 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 10:41:37.33
平塚川添は古墳初めまで住居がたくさんあるぞ。
吉野ヶ里は北内郭の大型建物は庄内並行イコール3世紀前半だ。集落としては3世紀前半まで中心的。
もちろん那珂比恵や三雲には劣るがな。
あと須玖岡本は巨大で青銅器生産が半端ないが、弥生終末3世紀前半まで。3世紀後半には小さくなる。
方保田は古墳前期前半まで栄える。吉野ヶ里クラスかそれ以上かも。狗奴国かもしれん。畿内邪馬台国説でも狗奴国候補として考慮しておこう。
331 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 10:43:17.21
C14は正規分布になるのと、
裾野を結構広く取る傾向になるから、
広く取った幅に入ってれば安心としてしまうと
足をすくわれる。
現在の観測技術では、中央値プラスマイナス数年で、
少なくともその試料は確定したと思っていい。
あとは、丸太の中央部を採取してしまったときとか、
試料がほかの物質で置換されている場合に誤差が出るが、
これは、一定の法則がないので、試料の由来をよく調べなければならない。
桃の種や小枝なら、出来てから総時間がたつとは考えにくいので、
割と正確と思っていいでしょう。
332 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 10:45:39.12
総座遺跡の佐賀市大和町は、縄文から古墳時代まで...いや、
肥前政庁や国分寺まで含めれば、奈良時代までまんべんなく出土する。
333 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 11:04:26.93
>332
そんな他の時代や周囲まで含めてよければ、まんべんなく出土する遺跡は全国にたくさんあるぞ。
惣座は確かに弥生終末前後の拠点環濠集落だが、規模は吉野ヶ里にやや劣るクラスだ。
>>330 吉野ケ里の庄内並行期はあなたのいうように北内郭の頃だから
それ以前の吉野ヶ里とは別物になった頃の話だね
むしろ集落としては完全に衰退していたとみられているから、流石に3世紀の大集落遺跡とする
>>320は
二重三重の意味で間違えているわな
335 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 11:55:45.30
狗奴国は伊勢湾岸沿いの濃尾平野。
336 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 12:16:46.47
>334
吉野ヶ里は庄内並行にも南内郭は残っているよ。西側の倉庫群もまだまだある。ただし、大きな外環濠は埋没しているね。
特定箇所に環溝があるのは惣座と同じ様相。佐賀平野では原古賀三本谷とかも似た様相。
>335
濃尾だとS字甕ほか東海系土器がマキムクほか奈良盆地にかなり入っていて、交易や土木労働のためにヤマトに東海の人がかなり来ている状況なので、「敵」なのかビミョー
だいたい、狗奴国東海説の根拠の前方後方墳東海起源説が怪しい。廻間SZ01は廻間1式前半としているが、その根拠になる土器は墳墓周囲のより古い遺構に伴う位置にある。
周溝くびれあたりの、普通はそれを古墳祭祀土器にしそうな土器群は廻間3式で布留1式並行。ある論文を見ていてホンマか?と思ったが、報告書見ると確かにそうだった。
これは大問題。
337 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 12:41:01.10
前方後方墳と、前方後円墳は、形状が違うだけですかね?
祭祀用土器にも違いがあったりしますか?
たとえば、土器の種類が違うとかが認められれば、
祭祀した集団が違うことになるし。
同じ集団なら、前方後方墳は敵対的な意味を持たない、デザインの問題になるし。
偽僭説=九州説?
それを言うなら、むしろ漢委奴国王やら倭面土国王(伊都)に連なる筑紫の方が、倭王権として正当でしょ?w使い方が間違ってると思うなあw
江戸時代の国学者か、記紀を信仰する大和中心史観の人しか、今時そんな言い方しないよw
以後、改めるようにw
まあ、それは置いとくとしてw、九州説の畿内説に対する反論の一番の根拠が三角縁国産説で、
黒塚でのバリつきの三角縁や、画文帯>三角縁の取り扱い等。
本当に大陸交易の主体を畿内が担っていたのなら、わざわざ舶載鏡を偽造したりしないと思うんだよね。
そのあたりはどう考えてるんだろう?
339 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/11(土) 13:43:35.02
>>337 前方後方墳も前方後円墳も同じ旦波国の方形貼石墓から発展しました。
上賀茂神社と下鴨神社の違いと同じくらいの意味ですね。
341 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 13:54:30.85
>>338 九州には三角縁に匹敵するような魏代の鏡が無いわけだが。
だから九州説では、魏は古い後漢鏡を百枚集めて卑弥呼に送ったとされてるわけでしょ?
342 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 13:58:00.27
当初公孫氏と結びついた大和王権は、画文以降、舶載鏡を威信財に採用して、政治体制を構築しようとしたんだろう。
ただ、国内での大和王権の急速な伸張に鏡が足らなくなり、踏み返しでコピーを取った、というのが妥当ではないか?
343 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 20:14:44.15
九州の場合は、三角縁を割って敷き詰めるような
葬送儀礼が存在しないみたいだからな。
例外として大量に出てくるのは伊都だが、
なにか関係があるのかな。
344 :
伊作先生:2011/06/11(土) 20:50:02.16
>>342 何を寝言ゆってるんだ。
倭人の外交相手は一貫して中原の覇者となった王朝。
火事場泥棒みたいな公孫親子など相手にするものか。それが倭人の誇りというものだ。
ところでおぬし。
「当初公孫氏と結びついた大和王権」て、バカ素人らしい発言だが、
公孫親子が息をしていた時代にはすでに「大和王権」がすでにあったのか。
345 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/11(土) 21:09:49.96
>>344 中原の覇者である袁紹と結びついた大和の女王卑弥呼が正しい表現ですね。
346 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 21:45:05.99
(
>>264つづき)
佐々木憲一論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」(
>>242)の続きである。
当初、途中は省き、佐々木教授の結論部分である終章のみを抄出して終わりにするつもりだったが、予定を変更する。
第2章の中に土器編年についてまとめが示されている一節がある。。興味深い点なのでまずここを抄出する。
なお図はすべて省略する。論文原文(
>>242のリンク)を参照していただきたい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第2章:分析の枠組み
B.編年について
日本考古学の大きな柱は土器の分類とそれに基づく編年研究である。
注目すべきは,1930年代以来小林行雄や森本六爾など一部の考古学者はデュルケムを読み,土器は社会の一側面しか示さないという重要な問題を認識していた。
そのため,違った機能の土器がどのように同時に使用されているかという点に注目しながら弥生時代の細分を行おうとした。これが現代の弥生・古墳時代編年の基礎となっている。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
小林行雄
1935「弥生式土器の様式構造」『考古学評論』1(2),pp.1−9.
1976『古墳文化論考』平凡社
森本六爾
1934「弥生式土器における2者一様式,様相単位決定の問題」『考古学』第5巻,pp.3−8.
347 :
ネタ投下マン:2011/06/11(土) 21:52:40.41
>346名前訂正
日本@名無史さん → ネタ投下第一弾 15
348 :
ネタ投下第一弾 16:2011/06/11(土) 21:54:34.81
(つづき)
この時期の編年が日本考古学で大きな課題となってきたのは,
庄内式期を古墳時代の始まりとするのか(石野1976;置田1982;寺沢1986など),
あるいは庄内式期を弥生時代末とし,布留式期から古墳時代とするのか(都出1974;西1979;小山田1982;関川1988;柳本1983など),
あるいはまた庄内式期の前半を弥生時代末とし,庄内式期後半から古墳時代とするのか(白石1979)
で,1990年代まで長い議論が続けられたからである。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
石野博信
1976「総括」knr−1, pp.580−594.
置田雅昭
1982「古墳出現期の土器」『えとのす』19, pp,109−121.新日本教育図書
寺沢薫
1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr−2],pp.327−397.
都出比呂志
1974「古墳出現前夜の集団関係」『考古学研究』第20巻第4号,pp.20−47,
西弘海
1979「西日本の土師器」楢崎昌一(編)『世界陶磁全集』第2巻(日本古代)pp.155−173.平凡社
小山田宏一
1982「布留式成立に関する覚書」『考古学と古代史』同志社大学考古学シリーズr,pp.177−189,
関川尚功
1988「弥生土器から土師器へ」『季刊考古学』24,pp.18−23.
柳本照男
1983「布留式土器に関する一試考」『ヒストリア』101, pp.1−16.
白石太一郎
1979「近畿における古墳の年代」『考古学ジャーナル』164号,pp.21−26.
[knr−1]石野博信・関川尚功1977『纏向遺跡』奈良県立橿原考古学研究所
[knr−2]寺沢薫(編)1986『矢部遺跡』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告No,49)奈良県立橿原考古学研究所
349 :
ネタ投下第一弾 17:2011/06/11(土) 21:56:55.22
(つづき)
纏向遺跡[knr−1]では弥生時代後期(V様式期)末から庄内式期を経て布留式期初頭までを,纒向1〜IVの4段階の編年に成功し,
本稿の対象とする甕形土器に限っても,弥生V様式甕,庄内甕布留式傾向甕,布留甕が順次出現することが明らかになった。
さらに1999年,豊岡卓之(1999a)が報告書『纒向』に掲載されたすべての土器の出土位置等の再検討を行い,纏向1類〜纒向5類からなる新たな編年案を提示した。
弥生時代第V様式終末にあたる纒向1類
小型丸底鉢・小型器台が登場し発展する纒向2〜4類
それらが定式化する纒向5類つまり布留式初頭,
である。
纒向2〜4類が従来の庄内式に相当するが,豊岡(1999b,p.107)は田中琢(1964)の庄内式の設定を問題視しており,纒向2〜4類を庄内式の概念で捉えてはおらず,纒向式と捉える。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
豊岡卓之
1999a「『纒向』補遺篇」石野博信・豊岡卓之(共編)『纒向』第5版補遺編,pp.1−69.奈良県立橿原考古学研究所
1999b「『纒向』土器資料の基礎的研究」石野博信・豊岡卓之(共編)『纒向』第5版補遺編,pp.71−127.奈良県立橿原考古学研究所
田中琢
1964「布留式以前」『考古学研究』第12巻第2号,pp.10−17.
[knr−1]石野博信・関川尚功1977『纏向遺跡』奈良県立橿原考古学研究所
350 :
ネタ投下第一弾 18:2011/06/11(土) 22:01:41.05
(つづき)
報告書『纒向』出版直後から議論となった,辻土壌4下層資料を
石野・関川[knr−1]が判断したように庄内後半に併行する纒向III式(その終焉)に含めるのか(石野1979),
次の布留式の段階に含めるのか(木下1978),
あるいは布留0式(寺沢1986)とするのか
については,従来通り,石野・関川の指摘するように布留式を象徴する小型精製土器がないことを重視し(甕Cや布留式影響庄内大和型甕が増加しているが,土器の組成を重視し),布留式の直前段階とする。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
石野博信
1979「奈良県纒向石塚古墳と纒向式土器の評価」『考古学雑誌』第64巻,pp.365−371.
木下正史
1978「書評『縄向』」『考古学雑誌』第64巻pp.83−87
寺沢薫
1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr−2],pp.327−397.
[knr−1]石野博信・関川尚功1977『纏向遺跡』奈良県立橿原考古学研究所
[knr−2]寺沢薫(編)1986『矢部遺跡』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告No,49)奈良県立橿原考古学研究所
351 :
伊作先生:2011/06/11(土) 22:03:21.32
>>345 「中原の覇者となった王朝」だよ。袁紹は王朝を樹立できたかね。
オタクは俺にまとわりつかないよおに。
352 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 22:14:45.37
九州には、卑弥呼のもらったであろう鏡が1面も出てないのが痛いな。
なあ?>伊作
353 :
ネタ投下第一弾 19:2011/06/11(土) 22:21:09.28
(つづき)
『纒向』の報告書が刊行されても,どの段階の土器をもって古墳時代とするのかという議論は,纒向石塚や箸墓など纒向編年(当時)のどの段階に位置づけられる墳丘墓を古墳時代最古の古墳とするかが研究者によって違うため,混乱を極めた。
筆者はいわゆる定形化した前方後円墳の出現を重視しており,奈良県桜井市箸墓古墳を最古の古墳と捉える立場である。
寺沢薫(1988)の「纒向型前方後円墳」の定義は,円丘の両側に突出部を有する岡山県倉敷市楯築遺跡(弥生時代後期)までもそのカテゴリーに入れるなど,恣意的過ぎるため,賛成できない。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
寺沢薫
1988「纒向型前方後円墳の築造」『考古学と技術』同志社大学考古学シリーズIV, pp.99−111.
354 :
ネタ投下第一弾 20:2011/06/11(土) 22:22:54.78
(つづき)
この箸墓築造を古墳時代開始とした場合,箸墓の造営期を示す土器[knr−3]は,豊岡(1999b)の新纒向編年の纒向4類に相当することがわかった。
豊岡の基礎研究以前の枠組みに強いてあてはめて箸墓の築造時期を考えると,庄内式期後半,あるいは寺沢薫(1986)の定義する布留0式となる。
ちなみに
纒向型前方後円墳の典型例の纒向石塚古墳の造営は豊岡(1999b)編年の纒向3類初頭以降,
纒向矢塚古墳(周壕一括土器)は纏向4類,
大和古墳群柳本支群の行燈山古墳は纒向5類後半期(東側外堤斜面出土の小型丸底壼が辻地区古墳時代前期河道下〜上層の中間的形態を示す)。
萱生支群の中山大塚古墳は纒向4類半ばかそれを少々下る時期,
同じ支群の東殿塚は纒向5類中頃。
纒向支群の南隣磐余地域の桜井茶臼山古墳は纏向5類の最古段階
という。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
豊岡卓之
1999b「『纒向』土器資料の基礎的研究」石野博信・豊岡卓之(共編)『纒向』第5版補遺編,pp.71−127.奈良県立橿原考古学研究所
寺沢薫
1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr−2],pp.327−397.
[knr−3]寺沢薫・佐々木好直(編)2002『箸墓古墳周辺の調査』(奈良県文化財調査報告書 第89集)奈良県立橿原考古学研究所
[knr−2]寺沢薫(編)1986『矢部遺跡』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告No,49)奈良県立橿原考古学研究所
355 :
ネタ投下第一弾 21:2011/06/11(土) 22:40:00.94
(つづき)
ただ,この豊岡による編年案がいかに妥当であれ.それは本人が「纒向式」というようにこれは奈良盆地南東部を対象とした編年である。
このように,編年は地域による細分化が進み,北部九州と近畿など遠隔地同士での編年の細かい併行関係が把握しにくくなっている。
したがって,地域によって古墳時代の始まりを時間的に統一することは簡単ではない。
即ち,「庄内式末」あるいは「布留式初頭」と言及した際そのおおよその西暦年代が地域によって若干異なるという問題がないわけではない。
一応,近畿地方では庄内,布留式土器の時代を対象とし,それ以上細分はしない。
この種の研究の編年の基準を提供した纒向遺跡に関しては,豊岡(1999b)の新編年を重視し,纒向2〜4類と,布留式が成立した纒向5類は区別する。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
豊岡卓之
1999b「『纒向』土器資料の基礎的研究」石野博信・豊岡卓之(共編)『纒向』第5版補遺編,pp.71−127.奈良県立橿原考古学研究所
356 :
ネタ投下第一弾 22:2011/06/11(土) 22:59:21.39
(つづき)
北部九州(筑前)では,久住猛雄(1999a)による最新の編年により,1,II,III期を対象にする。
ちなみに
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)に,
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式に,
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IVに,
IIB期が纒向4類5類,庄内IV〜Vに,
IIC期が布留1式に
おおむね併行する(久住2005,pp.155−6)。
なお,本稿で「初源期」の古墳という場合,それは近藤義郎編集の『前方後円墳集成』の1期の古墳を指す。
このなかには、箸墓や纒向石塚のように纒向4類の時期に遡るものが含まれるが,それらは奈良盆地南東部の大和古墳群の纒向支群に現在のところ限られており,一般的に布留式前半(纒向5類)の時期と考えてよい。
(第2章:分析の枠組み B.編年について の抄出はここまで)
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久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX,pp.62−143.
2005「3世紀の筑紫一北部九州・特に博多湾岸周辺における外来系土器の受容と展開」『邪馬台国時代の筑紫と大和』(ふたかみ邪馬台国シンポジウム5),pp,149−188.奈良県香芝市二上山博物館・香芝市教育委員会
近藤義郎(編)
1991−2『前方後円墳集成』全5巻 山川出版
(つづく) ※このあと第3章:畿内型甕形土器の煮沸痕跡 は全て略すが、第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入 には分析の実際例が豊富に述べられているので、いずれか一地域を選んで抄出してみようと思っている。
長えよwwww
358 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 23:59:25.09
>ネタ投下絨毯爆撃魔
ええと、もういいのかな?先ずは大枠の話として…
「古墳時代の始まりを何処に置くか?」という問題について、素人の浅薄な認識に基づいた意見を言わせてもらえば
やはり庄内の始まりに置くのが妥当だと思う。
その形状や機能と言ったものより「斉一性」をキーワードに出現する土器であるということに重きを置きたい。
それまでの地域の枠を超えた規格化・共通化とでも言うかそのムーブメントが古墳時代に繋がるのだから。
逆にこれを弥生時代に置くというのは次に始まる楽曲のイントロ部分までを
その曲の範疇に入れるような無理を感じるwwwwwww
359 :
伊作先生:2011/06/12(日) 00:08:44.30
>>352 >九州には、卑弥呼のもらったであろう鏡が1面も出てない
基本的な盲点。
考古学は、発掘可能な指定漏れの中小の古墳から出たもので、
倭国・日本国の支配者と支配層の動向を論じている。
ギミックというかトリックというか欺詐ともいえる間違いだ。
そんなのを信じて受け売り・孫引きしてるバカどもが。
「卑弥呼のもらったであろう鏡」て何だ。
粗製濫造の粗末な三角縁のことか。
青龍年号入りの鏡なら枚数的に少ないし「これから」だし、
呉式の神獣鏡ではなく黄河流域の漢式鏡だし、
明帝の代に復活し魏の尚方でつくられものと思われる。
ちみたちは・倭国の行方を左右したと思われる人物たちの大古墳を掘ってみないうちに、
軽々に・付和雷同的に「ああでもない」「こうでもない」といいすぎる。
なぜならば・ちみたちはバカだから。
相変わらずスレ違いでわめいてる自称”先生”もバカだから。
361 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 02:31:50.17
>>359 >ちみたちは・倭国の行方を左右したと思われる人物たちの大古墳を掘ってみないうちに、
3世紀の大古墳で、掘られてないのってどれ?
まさか箸墓とか言わないよね?
まさかと思うが、陵墓指定墳墓などの誰が見ても古墳だと今でもわかる墳墓が
過去に全く盗掘の被害に遭っていないとでも考えているのだろうかw
そんなもん、鎌倉時代あたりにほとんど盗掘済みだw
日本人の住む島で盗掘されないわけが無い
>>358 > 次に始まる楽曲のイントロ部分までをその曲の範疇に入れるような無理を感じる
さなぎと蝶、おたまじゃくしとカエルは別もの、という見方もある。
弥生時代、古墳時代というのは考古学的観点による区分だから、
それを区切るのは定型化した前方後円墳とその祭祀のための布留式土器の成立、としたい。
庄内の時期はまだ大和王権は地方政権のひとつに過ぎなかった。マキムク石塚は、ヒラバルや西谷、楯築と同じ。先発のクニより非常に広範囲に、阿讃播の東瀬戸内から東海まで、オウを共立したのがマキムク。だから寺沢みたいに全国政権と勘違いしてしまうのも仕方がない。
布留以降、箸墓で前方後円墳が初めて定型化する。ここに古墳時代の始まりを見るのは妥当だろう。
366 :
ひとぶた:2011/06/12(日) 11:51:39.86
>>365 石塚の被葬者が、倭王であろうが、東瀬戸内王であろうが、日本史の時代区分としては、とても判りやすい定義でございます。
寺沢が言うような筑備讃播の西日本勢力の都としては、マキムクは東に片寄り過ぎている。
東瀬戸内から東海までの、いわゆる銅鐸圏の連合政権と考えれば、マキムクはまさに中心地だし、交易の結節点と呼べるだろう。
まず地方政権としてのマキムクがあって、布留の頃に画期があって、大国のマキムク=ヤマトが倭王に承認されたということだろう。
240年以降、卑弥呼の倭王冊封を知った各地の首長らが纏向詣でを行い、技術供与を受けて
地元に造ったのが各地の早期前方後円墳。
>368
妄想、妄想。
370 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 15:02:47.66
ホケノ山の頃は、吉備〜大和〜東海の連合国としての大和があって、
そのとき、九州には、邪馬台国があったという考え方はできないの?
371 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 16:56:56.58
ケツの穴むしられてましたってwwww
ケツの毛じゃないのかwww
>>370 俺はそれでも良い
何時の間にか、アーっ!な展開になってんのな。
>>362 盗掘されて鏡はその後どうなったの?
売買されないの?
少し位コレクター持ってるか博物館に出所不明で存在したりしそうだけど
江戸まで下らなきゃ、鋳つぶされて銅原料。
377 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 20:17:03.44
個人で持ってる鏡とか相当数あるらしく、
三角縁はあまり値がつかないとか。
学術的に保管している数倍、一説によると
10倍くらい個人で保有されているという話である。
378 :
伊作先生:2011/06/12(日) 20:19:59.06
>>362 盗掘と発掘を同じ意味だと思ってる。タコ
379 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:00:14.66
>>372 九州と近畿は緊密な交易をしていたことは伺えるけど、
九州内に邪馬台国連合が無かったとまでは言えないよね?
邪馬台国と不仲だったクナ国が近畿と見ることもできるわけだし。
あ、伊作のバカは論外ということで。
380 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:08:57.47
つまり、モナコ公国とフランスは緊密な交易をしてるけど、
外交的にはモナコは独立国。
2000年後に文字資料が失われた場合、考古学ではモナコが独立国だったと証明は難しいだろう。
フランスの一部にしか見えないはず。
いくら、近畿大和王権が九州よりも巨大な勢力といえど、
倭国の貿易港のメインは九州だから、
魏は九州の卑弥呼に金印を送ったと。
問題は、魏と近畿大和王権と九州の卑弥呼は同時代だということだ。
382 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:43:01.58
距離は結構離れているし、鉄の出土から見れば
それほど強いつながりはなさそうだから、
同時並立でよかろう。
互いにマイペースでちょっと交易してたくらいだろ。
>>375 老教授によれば盗掘者が欲しかったのは銅鏡や銅矛などでなく
単に銅が欲しかったそうだ、あと鉄もあればラッキー
だからほとんどは鋳潰されて別の物になってしまったんだろうな
だから盗掘の後があからさまな古墳でも、玉とかは残ってたりする
そして銅鏡とかのコレクターが盗掘し始めるのは明治以降
中でも昭和初めの西都原古墳群での地元住民たちによる大盗掘事件は有名
古鏡など、江戸後期に国学が出てくるまで珍重されることはなかったんだよ。盗掘は
現在なら電線を盗んで銅原料として売るような感覚だろ。
銅はお金そのものみたいなもんだからね
>>372 畿内の土器が筑紫に入り、また生産されるようになってるからと言って、大和>筑紫ではないと思うよ。
単に、大和からの移民が多かったのか、単に熱電導的に優れてたから模倣しただけかもしれない。筑紫の土器が畿内から出ないのは、単に九州からの主要な交易品が鉄など、土器を使わず運ばれるモノだったからとか。
前方後円墳とか方形周溝墓などの畿内の墓制度の影響は流石に畿内>九州なんだろうけど、
その流れは三世紀突然、とかではなくて、古墳前期を通じて徐々に、畿内勢力が蚕食する感じで進行したと思うなあ
土器と金属器が物々交換で交易されてたんだと思うが
388 :
日本@名無史さん:2011/06/13(月) 15:05:50.27
土器というか、中身ね。
何が交易品だったのかね?
漬物かな?
389 :
ネタ投下第一弾 23:2011/06/13(月) 22:14:25.78
(
>>356つづき)
佐々木憲一論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」(
>>242)の続きである。
今回は、第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入 の中から、福岡市博多区に所在する比恵・那珂遺跡群の部分を抄出する。
なお例によって図はすべて省略する。論文原文(
>>242のリンク)を参照していただきたい。
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第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入
比恵・那珂遺跡群(博多区,図6−6)[czr−19〜28]
(つづく)
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[czr−19]小林義彦1985『比恵遺跡一第7次調査一』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第117集,福岡市教育委員会
[czr−20]横山那継(編)1986『比恵遺跡一第6次調査・遺物編一』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第130集,福岡市教育委員会
[czr−21]杉山富雄・吉留秀敏1986『比恵遺跡(第9・10次調査報告)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第145集,福岡市教育委員会
[czr−22]山崎龍雄・米倉秀紀(編)1987『中部地区埋蔵文化財調査報告II』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第146集,福岡市教育委員会
[czr−23]菅波正人(編)1992『比恵遺跡群(11)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第289集,福岡市教育委員会
[czr−24]下村智(編)1994『比恵遺跡群(20)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第451集,福岡市教育委員会
[czr−25]池崎譲二(編)1992『那珂5一第10〜12・14・16・17・21次調査報告一』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第291集,福岡市教育委員会
[czr−26]下村智(編)1993『那珂遺跡8一那珂遺跡群第20次調査の報告一』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第324集,福岡市教育委員会
[czr−27]下村智(編)1997『那珂18一那珂遺跡群第50次調査の報告一』福岡市埋蔵文化財調査報告書第518集 福岡市教育委員会
[czr−28]井沢洋一(編)1986『那珂八幡古墳』福岡市埋蔵文化財調査報告書第141集福岡市教育委員会
390 :
ネタ投下第一弾 24:2011/06/13(月) 22:17:12.85
(つづき)
比恵・那珂遺跡群は福岡平野のほぼ中央に位置し,那珂川と御笠川・諸岡川に挟まれた段丘上に立地南北約2.3km,東西O.5〜0,8kmの範囲に縄文時代晩期末,弥生時代全期間,古墳時代前期までの遺構が分布する。
この段丘は,弥生時代中期の奴国の王墓と解釈される須玖・岡本遺跡群のある春日丘陵から舌状に連なるもので,時代は違うが,その王墓から比恵・那珂遺跡群中心部との距離は約4.5kmである。
IA期の段階は,須玖・岡本遺跡群がまだ福岡平野の中心集落として機能している(久住2000a)。
比恵遺跡群と那珂遺跡群の間には浅い谷が入るが,本稿の対象とする古墳出現前後の時期には遺構は切れ目なく分布し,この時期は同一の集落となり,その総面積は100haを超える(久住2000a)。
古墳出現前後の時期には,遺跡の西縁に延長2.Okmに及ぶ「道路」を備え(久住1999b),その「道路」は同時期の集落や墓地の方位・配置に強い規制を与えている。
比恵遺跡群北端では「運河」が掘削され,比恵遺跡群中央北部には倉庫群が存在する(久住2000a)。
この時期の輪の羽口や柑渦も出土する[czr−24]ことから,金属器も生産されていた可能性があり,その極めて複雑な内部構造は,奈良県桜井市纒向遺跡にも相通ずるもので,都市とも評価できる(佐々木2007a;久住2008)。
(つづく)
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久住猛雄
1999b「弥生時代終末期『道路』の検出」『九州考古学』第74号,pp。18−53,
2000a「奴国の遺跡一比恵・那珂遺蹟と須玖・岡本遺蹟群」『考古學から見た弁・辰韓と倭』pp,143−176.九州考古学会・嶺南考古学会第4回合同考古学大会
2008「福岡平野 比恵・那珂遺跡群一列島における最古の『都市』一」設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦(共編)『弥生時代の考古学』8(集落から読む弥生社会),pp.240−263.同成杜
佐々木憲一
2007a「国家形成と都市」吉村武彦・山路直充(共編)『都城:古代日本のシンボリズムー飛鳥から平安京へ』pp.317−338.青木書店
[czr−24]下村智(編)1994『比恵遺跡群(20)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第451集,福岡市教育委員会
391 :
ネタ投下第一弾 25:2011/06/13(月) 22:19:53.86
(つづき)
遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。
那珂八幡古墳の第2主体部からは三角縁画文帯五神四獣鏡が出土している。
ただし,那珂八幡古墳は周りに一辺20m前後の大型のものを含む方形周溝墓群に囲まれている点が箸墓の立地と異なる。
外来系土器の搬入は多く,山陰系の甕・壺・注口壺,吉備系の甕・高杯,北四国系の壷,防長系の壺,東海系の壷,庄内大和型発などがある。
朝鮮半島系土器も多く,瓦質・陶質土器が出土している(久住2004)。
ただ搬入品となると,庄内甕・布留甕は少ない。在地で大量に模倣生産するからであろう。
(つづく)
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久住猛雄
2002「九州における前期古墳の成立」『日本考古学協会2002年度橿原大会研究発表資料集』pp.295−310.日本考古学協会2002年度橿原大会実行委員会
2004「古墳時代初頭前後の博多湾岸遺跡群の歴史的意義」『ヤマト王権と渡来人』pp.54−61.大阪府立弥生文化博物館図録30
[czr−28]井沢洋一(編)1986『那珂八幡古墳』福岡市埋蔵文化財調査報告書第141集 福岡市教育委員会
392 :
ネタ投下第一弾 26:2011/06/13(月) 22:25:47.66
(つづき)
以下,時期別に畿内型・系甕の導入のあり方を記述する。
IA期の資料として,伝統的V様式甕が那珂16次調査SD37溝[czr−25,吉留による第6章]で2点出土している。この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。この段階で庄内甕と共伴する在地の長胴甕は,底部が丸底化していない。
該当する資料は比恵36次調査SDO1溝下層[czr−23],比恵7次調査SE16井戸[czr−19],那珂12次調査第1号井戸[czr−25],那珂20次SE37井戸[czr−26],那珂21次SC71住居[czr−25]で出土している。
比恵7次SE16井戸では,庄内甕と吉備の下田所式の甕が共伴している。
那珂12次調査第1号井戸では,報告された甕7点の内,2点が庄内大和型甕 3点はそれを在地で模倣した上,胴部外面にハケメ調整を施したものである。
那珂20次SE37井戸では,報告の4点の甕の内1点が庄内大和型甕であった。
(つづく)
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[czr−25]池崎譲二(編)1992『那珂5一第10〜12・14・16・17・21次調査報告一』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第291集
[czr−23]菅波正人(編)1992『比恵遺跡群(11)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第289集,福岡市教育委員会
,福岡市教育委員会
[czr−19]小林義彦1985『比恵遺跡一第7次調査一』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第117集,福岡市教育委員会
[czr−26]下村智(編)1993『那珂遺跡8一那珂遺跡群第20次調査の報告一』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第324集,福岡市教育委員会
393 :
ネタ投下第一弾 27:2011/06/13(月) 22:47:29.62
(つづき)
IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。
比恵6次調査SE46井戸[czr−20],比恵50次調査SE52井戸[czr−24],比恵53次調査SE27井戸中層[czr−24],那珂21次調査SC60住居[czr−25]出土資料が該当する。
比恵50次SE52井戸では,搬入品の庄内大和型甕1点,布留系甕口縁部破片1点が報告されている。
その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,比恵・那珂遺跡群に特徴的な特殊な遺構である。
比恵53次SE27井戸中層では在地の長胴甕1点,布留系甕1点,伝統的V様式系・庄内系折衷甕1点,内面ヘラケズリが施された伝統的V様式系甕1点,庄内甕2点が出土した。
布留系甕はなで肩を呈し在地での製作と考えられる。庄内甕2点は技術的には庄内大和型甕であるが,胎土は在地と報告者はいう。
(つづく)
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[czr−20]横山那継(編)1986『比恵遺跡一第6次調査・遺物編一』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第130集,福岡市教育委員会
[czr−24]下村智(編)1994『比恵遺跡群(20)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第451集,福岡市教育委員会
[czr−25]池崎譲二(編)1992『那珂5一第10〜12・14・16・17・21次調査報告一』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第291集,福岡市教育委員会
394 :
ネタ投下第一弾 28:2011/06/13(月) 22:50:54.29
(つづき)
IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。ただ,庄内系の割合が減少し,代わりに布留系甕の割合が増加する。
この段階に該当する資料は比恵9次調査SEI5井戸[czr−21]と比恵7次調査SEO8井戸[czr−19]で検出されている。
比恵9次SE15井戸では,報告の9点の甕すべてが庄内系・布留系である。
組成にはその他小型精製器種や畿内系高杯を含み,在地の土器が含まれず,久住(1999a,p.64)に言わせると,「そのままでは周縁遺跡には存在しない」組成と型式である。
IIC期もIIB期の傾向が続く段階である。
この段階に該当する資料は比恵11次調査SEO4井戸[czr−22],比恵9次調査SDI7溝下層[czr−21],比恵50次調査SEl36井戸[czr−24],比恵50次調査SE105井戸下層[czr−24]で検出されている。
比恵11次EO4では報告された甕11点すべてが北部九州型布留系甕である。比恵50次SE136でも報告された甕9点すべてが北部九州型布留系甕である。
ただし,報告者の久住[czr−24, pp.49−52]は胎土の観察に基づき,このうち7点を比恵・那珂遺跡群以外から搬入されたものと推定する。
特に内面ヘラケズリなどの技術が稚拙なものは比恵・那珂遺跡群以外の製作であることの根拠という。
比恵50次調査SE105井戸下層からは布留系甕と小型丸底壼のみの出土である。
(つづく)
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久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp.62−143.
[czr−21]杉山富雄・吉留秀敏1986『比恵遺跡(第9・10次調査報告)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第145集,福岡市教育委員会
[czr−19]小林義彦1985『比恵遺跡一第7次調査一』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第117集,福岡市教育委員会
[czr−22]山崎龍雄・米倉秀紀(編)1987『中部地区埋蔵文化財調査報告II』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第146集,福岡市教育委員会
[czr−24]下村智(編)1994『比恵遺跡群(20)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第451集,福岡市教育委員会
395 :
ネタ投下第一弾 29:2011/06/13(月) 23:04:52.74
(つづき)
比恵・那珂遺跡群ではIIIA期になると遺構が減少する。
この段階に該当する資料は比恵50次調査SE IO5井戸中層[czr−24],那珂50次調査SDO4溝上層[czr−27](A・C群はIIIA期, B群はIIC期,他はIIB〜IIIAの混在資料),那珂21次調査SC64住居[czr−25]で検出されている。
比恵50次調査SE105井戸中層から出土の甕4点すべてが北部九州型布留系甕である。
なお,IIIB期になると,消滅に近い状況で遺構が激減する。
(つづく)
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[czr−24]下村智(編)1994『比恵遺跡群(20)』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第451集,福岡市教育委員会
[czr−27]下村智(編)1997『那珂18一那珂遺跡群第50次調査の報告一』福岡市埋蔵文化財調査報告書第518集 福岡市教育委員会
[czr−25]池崎譲二(編)1992『那珂5一第10〜12・14・16・17・21次調査報告一』福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第291集,福岡市教育委員会
396 :
ネタ投下第一弾 30:2011/06/13(月) 23:26:10.15
(つづき)
以上,比恵・那珂遺跡群における畿内型・系甕の導入に関してまとめるとまず庄内大和型甕が他の同時期の集落に先駆けて導入されたようである。
布留甕についても,導入の先駆けとしての役割を果たしている。
ただこの遺跡群を特徴づけるのは,導入よりも在地模倣生産・搬出センターとしての役割であろう。
この点は,後述する豊前山口遺跡や豊後小迫辻原遺跡における「畿内系」甕の導入を検討するときに,より明らかとなる。
久住(2000a,p。148)は須玖・岡本遺跡群の重要性を考慮に入れ,こちらを「政治・祭祀センター」とし,比恵・那珂遺跡群を「交易センター」とする。
しかしIB期には須玖・岡本遺跡群の機能が比恵・那珂遺跡群に移動している可能性があり,また那珂八幡古墳の存在も併せ,比恵・那珂遺跡群もこの時期の政治的拠点と考えたい。
(第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入 A.筑前 比恵・那珂遺跡群 の抄出はここまで)
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久住猛雄
2000a「奴国の遺跡一比恵・那珂遺蹟と須玖・岡本遺蹟群」『考古學から見た弁・辰韓と倭』pp,143−176.九州考古学会・嶺南考古学会第4回合同考古学大会
(つづく)
397 :
日本@名無史さん:2011/06/13(月) 23:45:43.09
まだ続くの? 長いなあ。ww
もちっと要約してよ
でも
>>391 >外来系土器の搬入は多く,山陰系の甕・壺・注口壺,吉備系の甕・高杯,北四国系の壷,防長系の壺,東海系の壷,庄内大和型発などがある。
>朝鮮半島系土器も多く,瓦質・陶質土器が出土している(久住2004)。
>ただ搬入品となると,庄内甕・布留甕は少ない。在地で大量に模倣生産するからであろう。
各地から土器がやってきているけど、形式が似ている庄内は自前で作ってるから入ってこないなんて
これじゃあ中身が入ったなにかを交易しているんじゃなくって土器をやり取りすること自体が目的みたいじゃないか
まるで各地の形式の土器がほしいだけの土器コレクターだ・・・
399 :
日本@名無史さん:2011/06/13(月) 23:54:48.82
(つづく)
>>398 いやだから、土器に中身を入れてもってきたのではなく
各地から人が集まってきて、現地でそれぞれの地元タイプの土器を焼いて使ってたって話だよ
初期の頃は
ただ庄内が普及してからは、模倣庄内が里帰りするケースはそこにあるように極めて稀
なぜかというと、庄内「甕」という煮炊き用品であって「壺」ではないから
401 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 00:20:09.92
ようするに、大和の土器職人が九州に西征したってことだろ。
はっきり言ってほしいね。
東遷説は、とっくに破綻してるってさ。
まだ騙されて夢みてるやつが哀れ。
天照大神が卑弥呼だと思っちゃってるんだぜ?笑っちゃうね。
402 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 00:25:52.17
(つづく)
東遷説
(おわり)
404 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 00:49:24.89
畿内説は嘘でも百回言えば本当になると思っているらしい。
>>404 九州説が終わりだなんてことはないよ
古典的東遷説が終了なだけ
喚き続ければ声闘で負けたことにはならない、ただそれだけかと。
407 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 00:57:44.36
むしろ負け犬の悪あがきに見える。
408 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 01:11:30.91
畿内説は、結論を連呼するだけで、根拠が全く語られないからなあ。
409 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 02:58:48.86
>>408 過去レスが読めない文盲ならしょうがない。
>>401 東遷説で畿内説だけど
天照大神と卑弥呼が一緒の訳ないじゃん
祭るれる神と祭る人なんだから
>>408 九州説こそ根拠なんて皆無ですよ。候補地も比定人物についても
>畿内説は、結論を連呼するだけで、根拠が全く語られないからなあ。
無い根拠は語れない。
まぁそう思いたい気持ちはわかるけどね。
ネタ投下テロが吹き荒れた
というか九州説の言う根拠とやらは、文献を手前勝手に解釈した自画自賛だもんなあ
一般的な解釈を敵視して「学者は信用できない、ボクの解釈が真実なんだ!」みたいなのしかない
で、そのボクの解釈は、すべて考古事実に反している
だから九州説は考古学が大嫌い
でも都合の良さそうなところだけ、ちょいちょいとつまみ食いする
つまるところ、今では偽僭説しか成立不可なんだよな、あらゆる九州説は
それも相当に低い確率でしか無い
416 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 14:41:34.23
>>415 考古学が嫌いなわけではないが、畿内説の考古学は持分を逸脱している。
他のどんな時代でも、土器で歴史が語られるなんてことはない。
縄文時代でも、奈良時代でも、鎌倉時代でもそんなことはありえない。
戦国時代の勢力図を土器で語るなんて言ったら笑われてしまう。
でも、畿内説の考古学ではそれが堂々と語られている。
417 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 15:12:25.01
安本美典の庄内式土器はじつは九州発祥で、
九州勢が畿内へ持ち込んだ、なんてのは大ウソだよね(笑)
投下ネタ論文を読んでよくわかった、サンクス
418 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 16:07:49.85
>>417 いまだにHPで堂々と掲げてるんだっけ?
よく平気だな。
信者向けなんだろうけど。
某会の主張なんて極めて詐欺に近いと思う。
420 :
伊作先生:2011/06/14(火) 17:31:30.48
>>416 >畿内説の考古学は持分を逸脱している。
コンチキ図で語り、粗末な鏡で語り。
土器に付着していたカーボンで語り、木材の切れ端の年輪で語り。
古墳の年代をずり下げて語り、特定の遺跡から出た土器で語り。
これだけのものがすべて畿内説のいう通りだったら、
これらの総合所見で決着はついていた。
だが「一つがダメならまた次に」という具合に、
次々に出してきたものがダメだった。
ご覧のとおり、
「畿内説で決まり」というカラ宣伝だけが目立って、
なに一つ解決も進展もしていない。
もともと、ありもしなかった所を掘って
「あったことにしよう」としているだけだから。
>畿内説の考古学ではそれが堂々と語られている。
畿内説者の仕事だし、飯のタネだし、必須条件だし、使命だから。
421 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 18:26:56.54
まあ、畿内説で決まりなんだけどね。
422 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 18:31:34.84
ほんとに、畿内説の有用な書き込みって少なくなったな。
ここは邪馬台国が畿内か九州かを争うスレではありませぬ。
>>417 畿内の年代をいじって九州の年代をいじらなければそういう事にならざるを得ないw
意味不明
426 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 19:41:17.85
だから、畿内説の人には、三角縁国産の疑問点に答えて貰いたい。
卑弥呼の鏡はどれになるの?
畿内が倭王として大陸交易を采配していた場合、なぜわざわざ舶載鏡を偽造する必要があったのか?
>>417 この人のHP見ると天照大神=卑弥呼になってるけど最近の主流なの?
他のスレでも時折見かけるし、何処かは覚えてないけど別なHPでも見かけた
違和感ありまくりなんだけど、気にしてはいけないの?
>>416 様式を時間に置き換える作業をしてるだけじゃん。
土器以外でも古墳や青銅器、石器、服装、貨幣、建築法等々、
様式で時代を分析するのはどの時代でも行われてる。
429 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 20:38:15.31
しかし毎度毎度のうんざりな流れだな。
「畿内説が憎い、考古学が憎い、纏向遺跡が憎い」式の負け犬ゴミクズレベル九州説によるカキコ…
現在「畿内説」と言われているものは畢竟
「古代の日本の成立のプロセスを考えるにおいて3世紀に中国から冊封されたようなクニがあったとしたら
今のところ畿内ヤマトしか考えられない」と言う話で
邪馬台国なんて「おまけ」「副産物」でしかない。
先にも出てきたが九州に邪馬台国があったならあったで修正なんか容易に出来る話。
ただ現在のところそれを考える材料が無い。
ネタのないものを議論の俎上に上らせることはできないそれだけの話し。
ここでヒステリー起こしているなら土器でも威信財でも墓制でもなんでも
3世紀の九州に邪馬台国を彷彿させるような動きを見ることができるようなんネタを探してこい。
無論、それら考古資料による考察をハナから否定するのも自由だが
その場合「(豊富な舶載品による)九州の先進性」なんて話も失くなる(苦笑
そこまで筋を通して話すなら構わないがそれもスレ違いだ他でやれ。
430 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 20:38:31.27
>>427 天照大神=卑弥呼は初心者が陥りやすい初歩的思い込み。
安本はそれを逆手にとって、初心者を騙して金儲けしてる。
きちんと文献を検証すれば、天照大神は天皇の皇祖神じゃないし、
天照大神は伊勢の地方神だったことがわかる。
431 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 20:46:37.12
>>427 先ずタダで見られるサイトであるから文句言う筋じゃ無いということとw
書かれてあることは基本『嘘』ではない。
先に出ていたホケノの「桃核」「小枝」にしても、それで測定された年代の数値は嘘じゃない。
(と言うか別に安元センセイが測定したわけじゃないw)
が、果たしてそれがサンプルとして一番適切かどうか(崩落後外部から混入する可能性等)は別な話。
そこまで読み取る必要はあるだろうなw
1から10までの事実のうちある意図に沿って情報を選択して2〜3だけ出す(当然出された物個々は事実)というのは詐欺というか
大きく言えば「プロパガンダテクニック」のひとつwwwww
432 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 20:48:15.52
安本のサイトみてると、ウソばっかりで吐き気がする。
邪馬台国で検索して、引っかかる人が後を絶たないのは困ったものだよ。
433 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:07:08.05
むしろ、九州説が憎いって感じじゃのう
434 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:20:52.12
「邪馬台国畿内説」を撃破する! (宝島社新書) 安本 美典 (著)
「撃破する!」ですよ(笑)
いった、何と戦ってらっしゃるんだこの人は(笑)
ほかにも、
>>433にオススメなのがこれ。
「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!(宝島社新書 296) 安本 美典 (著)
天照大御神は卑弥呼である -真説・卑弥呼と邪馬台国- (Shinkosha Selection―日本を識る) 安本 美典 (著)
435 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:28:57.05
>>396 >以上,比恵・那珂遺跡群における畿内型・系甕の導入に関してまとめるとまず庄内大和型甕が他の同時期の集落に先駆けて導入されたようである。
>布留甕についても,導入の先駆けとしての役割を果たしている。
まあ畿内説的に言えば戸数二万の数を誇る北部九州の大国「奴国」は比恵・那珂って事なんだろうなw
逆に吉野ケ里を邪馬台国の候補地としてエントリーして構わないという(極めて”マニアック”なw)年代観なら須玖岡本か?wwwww
436 :
伊作先生:2011/06/14(火) 21:29:32.56
>>429 「今出ている遺跡や物では九州にはない、だから畿内にあった」
という論理だが。
畿内で出ているという遺跡という奴も邪馬台国とは無縁のものだ。
ウソをついてでった上げても決め手に欠ける。だから、
いつまでもガキのなじり合いにも似た紛議がつづくわけだよな。タコ
437 :
伊作先生:2011/06/14(火) 21:32:55.04
>>432 名
>安本のサイトみてると、ウソばっかりで吐き気がする。
俺の見たところでは、畿内説批判はクールで論理的だが、
彼の邪馬台国論は、他者を批判するときのようなクールさがないな。
しょせんはエゴに支配された人間の論の域を出ていない。
>>436 落ちこぼれ伊作
>という論理だが。
そういう理論にはならないアホ。
もう少し日本語の文章を理解する能力をつけてこいボケ。
小学生からやり直してこいカス。
タコ、アホ、ボケ、カスはやめれ
じゃあ
バカ、タゴサク
俺は九州説、筑後山門説だが、確かに径百余歩はどう考えても古墳だし、九州説のネックだ。
あとまあ、広形銅矛以降、筑紫に威信財体系が見当たらないのもそう。
最後の希望がヒラバルな気がするがw
442 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:51:50.63
筑紫に威信財体系が見当たらないって、きちんと現実を見る目があるなら、
どうして九州説にこだわるんだろうね?
九州説にこだわる自分の心理状態も冷静に観察してみたらどうよ?
443 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:01:55.84
まあ、九州は剣や矛なんかも、実戦向きの実用品が多いな。
そういや、吉野ヶ里だったか総座だったかで出土した、巴形銅器?
あれは威信財なんだかなんなんだか。
常識的に考えれば装飾品?、なんだろうか?
444 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:10:20.16
>>443 しかし広形銅矛なんかもどんどん大型化し武器としてのフォルムなくしてね?w
(パッと見超大型靴べらw)
まあ「威信」という作用は「実用性」とはかけ離れた言わば「浮世離れ」する必要があったのかもしれないw
一目見てそれが何に使われるか分かるものより
何に使うかさえ分からないものの方が有難味があるみたいなwww
日本の古代の青銅器の大型化傾向は実用的な物から抽象的な物への変遷として捉えれば分かり易い気がするw
あとまあ、九州説から言えば、卑弥呼がギに遣いを送ったのが、倭人伝で景初二年(238年)になっているのも?
公孫氏が司馬イと交戦中、常識的に考えて239年とされてるが、本当にそうなのか?
公孫に統属してた倭というのはあくまで畿内マキムクのこと。漢委奴国王以来、中国皇帝と誼を通じていた筑紫は、畿内とは別に238年にギに使者を送ったのではないか?
そうとでも考えないと、変わり身の速さ、大陸から距離がある畿内なのに外交テク有り過ぎ、てことになってしまう。
画文帯が公孫の鏡で畿内中心に出土すること。黒塚で扱いが画文>三角縁なこと。東大寺山の中平の鉄剣も公孫から下賜された?という説もあるし、新興の畿内は、筑紫と対抗する意味でも外交的に公孫と結びついたんだろうと思う。
庄内の頃の畿内の筑紫進出はそのように解釈出来るんではないか?
446 :
sss:2011/06/14(火) 23:17:08.43
447 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:24:59.71
>庄内の頃の畿内の筑紫進出はそのように解釈出来るんではないか?
いや、出来ん。
448 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:36:23.24
銅鐸も大型化して非実用的になっていくな。
厚みをそのまま再現すると、音を鳴らしたら
空き缶叩いたみたいに、ボコボコになっちゃうような
音を鳴らすのには使えねえ、ものもあったらしい。
非実用性に走るのは畿内人の習性だろうか。
>>396 乙
大陸文物にしても鉄器にしてもほしがったのは東方の人々だろう。だからはるばるやって来た。交易品をたずさえて。
九州からはわざわざ出かける必要はなかった。
北部九州には以前から大陸との太いパイプがあり、海運専業集団がいた。高度な鉄器生産体制もあった。
それらを博多湾岸で他地域の人々相手に交易していたということだろう。
出土する外来系甕は交易のために居住した人々の生活用品。
450 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:44:50.97
交易するにしても、なにか代わりになるブツを指し出さないと、
売ってはくれないだろう。
甕や壺は中に何かを入れて持ってきたんだろう。
>>448 > 非実用性に走るのは畿内人の習性だろうか。
銅矛もしかり。
現代人でもあるよ。
個人ではリーゼント、ハイヒール、デコ携帯。
国家ではタワー、庁舎など。
ネクタイが一番非実用じゃね。
いや、だから、連続投下でも書かれてることは、土器ってのは一般ピープルレベルでの交流を物語ってるんであって、墓制や威信財とは切り離して考えるべき、てこと。
要は、庄内の時期に筑紫と大和が連合したとか有り得ない、寺沢の勇み足ということだろ。
畿内説の一部バカはちゃんと読めてないのか?
>>441 > 広形銅矛以降、筑紫に威信財体系が見当たらない
広形銅矛は威信財じゃなく祭器でしょ?
後期後半以降北部九州では
「‥‥生産・流通機構が高度に発達した社会において、イデオロギーを表現するシンボルが退行ないしは放棄された‥‥」(村上恭通)
ということではないか。
>>430 天照が伊勢の地方神?
どうみても、天照は葛城地方・ヤマト地方で信仰されていた神だろう?
ただし、天照は、大海人皇子が古事記を偏差する前までは
女神ではなく、男神として信仰されていた。
>>443 銅剣や銅矛にしても、実用武器として使用されたとみられるものなど一切出土していないはずだが
第一柄の部分まで銅にする必然性が全くない
もっと後の時代になれば、木柄に差し込んで目釘で止める実用系の物もでるが
458 :
水銀厨:2011/06/15(水) 07:16:03.14
三世紀頃に大陸勢力が求める交易品として
何が一番価値が有るかと言うと、
鉱山物質、特に水銀朱しか無いんですよ。
壷の中身は辰砂の塊、前方後円墳が壷の形なのはその為なのです。
直接実用には役立たない威信材がちょいちょい出土するわけだが
大量の朱が出てきたところがあるよな。
ちょっと見には、そんなに朱がそんなに貴重品なら、周辺の豪族や
部下にでも少しは分けてやれば、国の基盤ももうちょっと固められたり
するのではないかと思う。
早い話が、政治や支配に切羽詰まってなくてぬるいんだ。
非実用的な威信材もね。
つまりは、そんなものが出てくるということは、
反乱の危険があるような時代じゃなくて、
平安時代のような危機感の薄い時代だということだ
460 :
ひとぶた:2011/06/15(水) 08:05:21.60
交換比率の高いものと言えば鉱産物かもしれませんけど、
量的な主力商品は『人』だと思いますよ。
>>459 そういう意味からも、平和な共存という高い理念などではなく
物理的に侵略や侵攻が不可能だったからこその危機感の薄さってのが、この時代における戦争に対する概念なんだろうね
弥生時代からずっと、環濠が埋まるまでめんどくさがって掘らないとかでは防衛施設とはとても呼べないし
祭祀具・威信財としてどんどん非実用的になる武器類といい
また真に実用とみられる武具も防御施設も防具もなく、戦術すらあったかどうかも不明
こうなってくると王権の発生過程にしても武力によるものとはとても考えにくい
実際エジプトでもローマでもそして中国でも、武力征服ってのは実際はなくて主な征服方法は経済制圧だったしなあ
>>457 仕様痕のある物は出土してないが、
触角式有柄銅剣辺りはそのまま使える形で、
使ったことないと見做すほうがちょっと無理があると思う。
木柄はちょっと固定概念にとらわれ過ぎじゃないか。
触角式有柄銅剣なら握るところを布できつく巻けば事足りる。
>>445 > 変わり身の速さ、大陸から距離がある畿内なのに外交テク有り過ぎ、
筑紫と畿内が協力的だった、ということで疑問解消。
>>454 一般ピープルってどんな人々を想定してんの? 交易できたのは首長層とよんでいる階層の人々だから。
上記ネタがいうには、北部九州が他地域と主体的な交流をしていた、ってことで国家的統制はないという主張だろ。
そのうえで大陸との通商にあたって畿内と協力関係にはあっただろう。それを通商連合とよんでいいと思う。
で、それを通じて威信財としての鏡の入手は庄内式期から。
共通の墓制施行は箸墓を契機に祭祀同盟が成立してから。マキムク型ってのはたしかに肯けない。
465 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/15(水) 19:55:44.19
古代日本の輸出品は塩です。中国が塩の専売制をしていたので海人族が密輸して暴利を得ました。
また日本の塩は海藻を燃やした灰でカンスイを灰汁抜きした高品質な純白の塩でした。
466 :
ネタ投下第一弾 31:2011/06/15(水) 21:35:03.21
(
>>396つづき)
佐々木憲一論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」(
>>242)の続きである。
前回は、第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入 の中から「比恵・那珂遺跡群」の部分を抄出したが、それに先立つこの章の前置きには、先行諸研究をふまえての概要が述べられている。
古墳出現期における畿内型土器の北部九州への流入という問題をかいつまんで把握するには有用と思われ、あと先になってしまいまことに申し訳ないが、以下この第4章前置き部分も抄出することにした。
おそらくここを読めば研究史的理解も深まるであろう。
なお例によって図はすべて省略する。論文原文(
>>242のリンク)を参照していただきたい。
(以下第4章前置き部分を抄出)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入
この地域では大量の布留系土器が流入していることが早くから注意されており(例えば寺沢1987),
したがって第1章の研究史で触れた田崎博之(1983)や井上裕弘(1991)のほか,数多くの研究者が古墳出現期の編年と当時の社会動態について優れた論考を発表してきた。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
寺沢薫
1987「布留0式土器拡散論」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズIII,pp.179−200.
田崎博之
1983「古墳時代初頭前後の筑前地方」『史淵』120集,pp.219−261. 九州大学文学部
井上裕弘
1991「北部九州における古墳出現前後の土器群とその背景」『古文化論叢』児嶋隆人先生喜寿記念論文集 pp.315−372,飯塚市,児島隆人先生喜寿記念事業会
467 :
ネタ投下第一弾 32:2011/06/15(水) 21:37:47.36
(つづき)
単純化を恐れずに紹介すると
土器の型式学に重きを置いた柳田康雄(1982)と田崎(1983),
型式変化だけでなく土器組成の変化を重視した武末純一(1977),岩永省三(1989[1981]),久住猛雄(1999a),重藤輝行(2001),
日本では珍しい統計学的な分析を行った溝口孝司(1988)
などである。
本稿ではこのなかで,最新の成果を取り入れ,他地域も視野に入れ汎用性の高い久住(1999a)の枠組みを採用する(図3)。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
柳田康雄
1982「三・四世紀の土器と鏡」『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』下巻,pp,869−922.福岡市,同 論文集刊行会
田崎博之
1983「古墳時代初頭前後の筑前地方」『史淵』120集,pp.219−261. 九州大学文学部
武末純一
1978「福岡県早良平野の古式土師器」『古文化談叢』第5集,pp.37−62.
岩永省三
1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43−105.福岡,凸版印刷
久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp.62−143.
溝口孝司
1988「古墳出現前後の土器相」『考古学研究』第35巻第2号.pp.90−117.
468 :
ネタ投下第一弾 33:2011/06/15(水) 21:43:58.95
(つづき)
久住(1999a)は古墳出現前後の時期をおおきく3期に分け,1期をA,B期に,II期をA,B,C期にさらに細分した。
畿内の土器が数多く搬入され,また近畿地方でも北部九州の土器が若干発見されているので,クロスデーティングにより,近畿地方の古墳出現前後の編年との対応も可能である。
前述の通り,
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)に,
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式に,
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IVに,
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜Vに,IIC期が布留1式に
おおむね併行する(久住2005,pp.155−6)。
箸墓の出現を久住はIIA期と捉える。
編年の基本は在地系.伝統的V様式系,庄内系,布留系の各々の土器群の型式変化を追究し,そして相互の相関関係をみるという方法である。
というのは,器種により,地域により,土器の型式変化のスピードが異なるからである。
ただ,本稿では福岡平野以外の,型式変化のスピードが遅い地域も扱うので,このような細分ができず,複数の細分時期を適宜まとめることとする。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX,pp.62−143.
2005「3世紀の筑紫一北部九州・特に博多湾岸周辺における外来系土器の受容と展開」『邪馬台国時代の筑紫と大和』(ふたかみ邪馬台国シンポジウム5),pp,149−188.奈良県香芝市二上山博物館・香芝市教育委員会
469 :
ネタ投下第一弾 34:2011/06/15(水) 21:54:42.28
(つづき)
以下,各時期の様相を簡単にまとめる。
・IA期:
在来系土器が主体で(在来系長胴甕の底部はレンズ底〜尖り底が主体)で,点的に少量の伝統的V様式土器が伝播・受容される時期。庄内甕は受容されない段階。
・IB期:
在来系土器が主体で(在来系壺・甕の底部は丸底化していない)で.庄内甕が布留式受容以前に出現する。
庄内甕はこの時期,比恵・那珂遺跡群周辺のみで受容,生産され,在来系土器群とは排他的に出土する傾向がある。庄内河内型甕を中心とした津古遺跡周辺でも限定的に受容されたようである。
(つづく)
470 :
ネタ投下第一弾 35:2011/06/15(水) 21:57:15.92
(つづき)
・IIA期:
在来系土器が根強く存在しながら(在来系壺・甕の底部の多くは丸底)も衰退する(特に比恵・那珂遺跡群,博多遺跡群では在地系土器群が急激に衰退)一方で,庄内式系土器群から北部九州型ともいうべき布留式類似土器群が成立する。
在来の甕と庄内系の甕はかなり残る。
伝統的V様式甕も多く,レンズ底状,丸底が多く,球胴化し,タタキ後ハケメ仕上げのものが半数以上を占める。
なお特徴的な土器様相は比恵・那珂遺跡群,博多遺跡群のほかは非常に点的・限定的にしか波及せず,在来系土器については,この段階でも周辺遺跡ではレンズ底が根強く残る。
・IIB期:
布留式類土器群が面的に波及し,多くの集落でも外来系土器群が在来系土器群に対して優勢になる段階である。
在来系土器群は胴部が下膨れのものが多くなり,製作規範が緩み,粗雑なものが多くなる。庄内系甕の量が少なくなり,口縁部が布留系と共通するものが多くなる。
・IIC期:
布留系土器群がほとんどの集落で優勢になる段階である。
伝統的V様式土器群は変容・衰退して,布留系に埋没する(ただし.形態的には布留系でも,粗雑な作りのものが周辺遺跡で多くなる)。庄内系はほぼ消滅する。
布留系は球胴化傾向が進み,やや下膨れのものが出現するが,特に比恵・那珂遺跡群でなで肩気味は相変わらず主流である。口縁部は上方に延びるものが多くなる。
・IIIA期:
布留式高杯,布留式系X形小型器台が出現する段階である。
甕の大部分は布留系で,球胴下膨れ気味のものが多く,口縁部は直線的に長く伸びるか,内湾するものの2種あり,その立ち上がり角度は上方を向くものが大部分である。
「く」字口縁で球胴(または卵形胴)丸底,内面ケズリだがやや器壁が厚く,口縁部から肩部にかけての回転的なヨコナデ・横ハケが施されない甕があり,これらは技法上からは在来系長胴甕の変容である。
(つづく)
投下マンキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
472 :
伊作先生:2011/06/15(水) 22:09:49.25
ネタ投下。
まじめに読んでる奴がいるとすれば、
それはそれでかんしん・かんしん。
ヤケに字あまり。
473 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 22:11:49.88
474 :
ネタ投下第一弾 36:2011/06/15(水) 22:22:39.86
(つづき)
すでに森岡秀人(1991)が示唆していたが,北部九州において布留系土器群が独自に生産され,拡散していたことを久住(1999a)が追認し,本研究でも特に豊前山口遺跡,豊後小迫辻原遺跡,壱岐や朝鮮半島南部での調査で確認できた。
これに関連して,久住(1999a,pp.113−116;2005,pp.150−2)が庄内筑前型甕(図4−2)・北部九州型布留系甕(図4−4)を提唱,区別しているのは妥当である。
これらの概念を用いることで,北部九州の周縁地域の当該期の複雑な様相が,ある程度理解しやすくなる。
庄内筑前型は,庄内大和型甕の系譜を引くもので,口縁部は外反するものが多く,タタキは左上がりが大多数で,水平は少ない(一部右上がり)。
頚部内面(図5[久住1999a,図21])は,屈曲部に指押さえの痕跡があり,屈曲部よりやや下がったところからヘラケズリが施されるといった特徴があるものが多い(図5のD,E類)。
屈曲部直下よりヘラケズリが施されるB類はごく少数で,IB期ではC類が多く,IIA期遺構はD類が主体で,E類も少なくない。
胴部形態は肩部が直線的な「なで肩」を呈するものが比較的多く,また球胴というよりは倒卵形をなすものが多い。
久住は,これが比恵・那珂遺跡群周辺において成立・生産されたとする。もともとは,比恵・那珂遺跡群に搬入された庄内大和型甕の模倣から生まれたものであろう。
(つづく)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
森岡秀人
1991「土師器の移動一西日本」岩崎卓也(編)『古墳時代の研究』第6巻(土器),pp.229−37,東京,雄山閣
久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp.62−143.
安本の庄内土器九州発生→ニギハヤヒ畿内持ち込み説 が いかに出鱈目か よおく分かった。w
安本は知っててわざとやってるからタチが悪い。
477 :
ネタ投下第一弾 37:2011/06/15(水) 22:48:58.11
(つづき)
北部九州型布留系甕はIIA期に成立し,庄内筑前型甕と同様なで肩を有し,肩部の波状文・沈線文が普遍的である。
IIB期になると整美な倒卵形,また肩がやや張った球胴傾向のものが現れ,頸部のしまりが狭くなり口縁部は長くなり,上方に立ら上がる傾向が現れる。
この時期,北部九州型布留系甕にも比恵・那珂遺跡群と西新町遺跡・三雲遺跡とで微妙な地域的差異が生まれる。
特に西新町遺跡(博多遺跡の一部)の布留系甕は,胴部形態になで肩が少なく肩がやや張っており,口縁部の技法や断面形態など,同遺跡出土の山陰系甕との関係が濃厚という(久住1999a,pp.74−75)。
さらに久住(1999a,pp.116−117)は庄内筑後型甕も提唱している。
それは庄内河内型に似るが,口縁部つまみ上げが顕著にならず,「なで肩」の胴部を有し,器壁が本場の河内型に比べやや厚い特徴がある。これも筑後に搬入された庄内河内型甕の模倣から派生したものである。
ただ,筆者はこれについては保留したい。
というのは.庄内筑前型甕や北部九州型布留系甕は,福岡平野の比恵・那珂遺跡群とその周辺で製作され,北部九州の様々な場所へ搬出され,ひとつの型式(亜型式)を成していると判断するが,
庄内筑後型の場合,庄内河内型甕が小郡市とその周辺で受容され,やや変容しただけと考えたい。
(第4章前置き部分はここまで)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
久住猛雄
1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX,pp.62−143.
(つづく) ※次回は第4章の筑前地域のまとめを抄出する予定。
まだつづくのか・・・・・
479 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 23:18:40.57
安本信者、何か言ってみろ。
480 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 23:21:11.43
うん、長いというか、しつこいというかw
安本は庄内について柳田からレクチャー受けてるはず。HPではさらっと流していたが。
482 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 23:33:35.30
>>480 ネタ投下マンは長期投稿することで、安本教信者をジンワリたっぷりイタぶってる気配。w
「邪馬台国時代の倭は九州限定で本州・畿内とは交渉なし」、っていう九州説も一刀両断じゃね。ww
オタクがやりがちな一番ダメなやり方
484 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 00:30:22.25
>>482 かすかな希望ってやつか。
そうなるといいね
485 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 01:04:45.08
安本信者ほいほい
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
釣れる釣れるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
いずれにしても迷惑だわな
487 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 01:12:13.34
この程度の論文も読めない低学歴はお呼びじゃないよ。
488 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 01:34:22.71
ただ、言えることは、当時の倭国でそこまで国家権力が民衆の上にのし掛かっていた、とは思えず。
人と物の流れはもっと流動的だっただろうということ。
戸籍も組織立った収税システムも無く、恐らくは単に人と物が多く集まる場所(交易路の結節点)に市場が出来て、集まった人々が市場内や交易路の秩序を求め、統治権力を求めた。民衆→国民の流れ。その市場を差配する人間、おそらくは宗教的権威者がやがてオウになる。
おそらくは、弥生中期後半以降、そういった社会的潮流は各地で起きていたが、大和東海はかなり後発、庄内で漸くクニとしてまとまり出す。
東海勢力による関東進出という倭国世界の東への急激な拡大、それによって交易の中心が筑紫から大和にポールシフトした、ということだ。
そのように考えれば
>>1が言うような「どのクニが主導したか?」という問いかけが如何に不毛か、というのが分かる。
クニという固定概念を取り去り、単純に各地から人と物が集まったマキムクにクニの萌芽が芽生えた、ということで良いのでは?と思う。
489 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 01:52:43.86
>>448 そうだね。
どこかの国が主導したとかは無いわ。
九州なんて東進した痕跡すら無いし。
まさにそのとおりで、筑紫の一般ピープルは、倭国世界の人と物の集積地であった筈のマキムクに、「何故か?」移住していない。
そこに邪馬台国九州説の延命措置の可能性が残っていると思うw
491 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 02:19:20.28
>>490 >延命措置
面白い言い方、あるいは皮肉かもしれんがwww
要するに「纏向体制」とでも言うものにまだ飲み込まれておらず
まだ独立した体制を保持していたというようなお話なのかな?
(「独立」とか「体制」というのはあくまで分かりやすくデフォルメしているってことでw)
継体天皇って畿内に入るのに20年も掛かってるんだっけ。
493 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 02:57:42.48
>>490 そうそう。
筑紫の影響がマキムクに現れたら、九州説は完全にアウトなんだが、
九州の影響が無いってところが、逆に畿内説のウィークポイントだと思う。
寺沢氏はそれでも、大和連合に九州は参画してたと言ってるが。
筑紫の独立性に注目してアプローチすれば、九州説の目は十分にある。
しかし東征にこだわってるやつらは、本音は九州説じゃなくて東遷説ありきだから、
証明は永遠にできないだろうな。
仲哀の香椎宮京、神功の三韓征伐の痕跡が確かにあるということか…
495 :
伊作先生:2011/06/16(木) 08:05:48.20
>>488 「倭国王権」などというかと思えば、
原始共同体にケが生えた程度の首長集落の集まりでもあるかのようにいう。
都合に合わせて3世紀の倭国評価も自在というわけだ。ふざけやがって
「人民は租賦(租税)を納めていた」.........。
この事実だけで、3世紀の中国人が目撃した倭国は、
国邑(各地の豪族の領地)を二重構造的に包み込んだ、
統一国家の雛形的体制ができていたことがわかる。
武力支配の時代とはいえ、国家と人民はギブ・アンド・テイクの関係にある。
人民から租税をとるに値する国家として、
経営側は何をなされなければならないかを考えてみよう。
・防衛体制の確立:人民の生命・財産と日常の生活権を守ることが、
国家を形成する政治共同体がなすべき最大の責務となる。
・総合インフラ:治水土木工事(開拓開墾と水利の確保)がなされていた。
・統治体制:人民(あるいは屯田開墾集団)をとり仕切ると統治値からが機能していた。
労働力の確保と配分、道具の割り当て、労働者の食い扶持の確保と手配がなされていた。
・管理体制:農地・土地の所有形態と所有区分の明確化がなされていた。
租税・兵力・国力の基盤となる国勢(人口・資源・産業)の把握と、末端管理体制が確立されていた。
つづくぞ
496 :
伊作先生:2011/06/16(木) 08:09:42.42
●その他『倭人伝』が目撃した倭国の実情
・各国に官を配した中央集権国家のひな形構造が見える。
・警察権と法制:罪状の程度に応じた厳しい刑罰があった。
・訴訟:盗窃せず、訴訟ごとは少ない。(民事訴訟も存在したようである)。
・軍政:各国に防衛・管理・行政の官吏がいた。
・流通:各国に市場があった。
・市場管理:各国それぞれの市場には、大倭という中堅役人がいて交易を管理していた。
・外交事情:中国との朝貢外交のほかに三韓諸国(朝鮮半島諸国)とも交流していた。
・警備体制:武器を所持した兵士が24時間不寝警備をしていた。
馬韓などは、各国に王はおらず統一王も折らず首長がいるだけで統治体制は弥寺発達で、
郡から遠い所では奴婢か犯罪者の集団のようだったという。
それに比べて倭国では、庶民のモラルも東夷諸国では抜けている。
大震災のどさくさにも「暴動「略奪」がない日本人の特性がもう出てるぜ。
何をいっても自由だが。せめて時代評価ぐらいはまっとうにやれ。クソ野郎ども
497 :
伊作先生:2011/06/16(木) 08:11:45.86
馬韓などは、各国に王はおらず統一王も折らず
首長がいるだけで統治体制は弥寺発達で、
↓↓↓
馬韓などは、各国に王はおらず統一王もおらず
首長がいるだけで統治体制は未発達で、
498 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 09:53:47.68
東海、甕、纏向、祭祀、巫女、ヤマト朝廷、全てを結びつけるキーワードは「酒」だな
499 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 11:30:30.49
>>498 俺も東海の赤い土器の産物は酒かな?と思うけど、
液体入りの壷を抱えて移動できるものなのだろうか?
漏れたりしないのかな?
素焼きなら漏れるだろうね
おっさん朝から飛ばしてたんだな
502 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 16:03:31.24
東海土器は、大和だけでなく、関東北陸にも拡散してる。
よほど、東海の産物が好まれていたらしい。
赤く彩色するという手間をかけても、採算が取れるというわけだから、
よほど伊勢湾に特化した産物だったのだろう。
海産物の発酵食品だったのではないか?
503 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 17:10:40.00
土師器は液体の入れ物には向いていないな。須恵器と違って耐水性に欠ける。
穀物とかの保存にはねずみ避けで向いているかもしれない。
しかし、穀物などの運搬には、大黒様のような大きな袋を使ったほうが
ずっと効率的。
ろくな道もない時代に、人が歩いて運ぶには土器は適していないと思う。
504 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 17:55:50.89
今出土している土器は釉薬使っているのかいないのか。
自然灰釉でもかかっていれば、液体も運べるけどな。
目の前にあればわかるような気もするが、
そこまで書かれた記録があるかどうか。
それと、桃の種は酒だろうね。
505 :
水銀厨:2011/06/16(木) 18:02:48.01
赤い土器という時点で答えは半分出てると思いますよ。
石室をベンガラで赤く彩色するのと同じ理由で。
土地柄酒という説も有りとは思いますが‥
506 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 18:04:46.34
まあ、遠距離の運搬を前提とするなら底はフラットにするだろうな。
焼ものに釉薬っていつの時代の話だよ。
>>503 縄文時代から目を詰まらせて液体入れる方法は分かってるよ。
重くなるから運搬用途には適さないけども。
509 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 18:13:29.39
漏れる土鍋の目をふさぐには
昔から粥を炊くときまってたもんだ。
>>508 でんぷん質のものを炊いて「目潰し」するって方法だな。
まあ運搬時、重量がネックになるとすれば薄くして軽量化した土師器は運搬に適しているとも考えられるのか…
511 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 18:17:34.58
わざわざ思い土器をマキムクに搬入する意味は何か?
異国情緒のある土器自体に価値があったんではないか?
例えば各地からのニエを、「敢えて他国産の土器に詰めて」運び込ませた。マキムクが全国規模の王権であることの証左としてオウに喜ばれた。
第二案としては、マキムク詣で各地から来た人々が、旅行中に使用した土器を、到着地のマキムクで捨てた、とか
512 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 18:38:55.02
>>511 マキムクは集積・配送センターだったんじゃないの?
ヤマト運輸の?
ww
東海土器が多いのは、後世の御食国として機能してたからだと思うよ。
大王に海産物を奉納して、大王がそれを食すという儀式を通じて支配権を誇示したということ。
雄略なんかも敢えて日本各地から采女(その土地土地の祭祀者=首長の娘)を集めて、
それら国御魂と呪術的に交わることで地方支配、倭国の宗教的最高権力者足らんとしたのだろう。
大王への貢納品にしろ、東海輸出の交易品にしろ、派手な土器に入れられて、それが東海ブランドとして機能してたんじゃないかなあ
巫女の踊りを見ながら酒を酌み交わして親睦を深めるんだろ
ゴクリ……
521 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 00:08:14.13
>>517-520 実は台与も十歳になるかならぬうちからそうした踊りをマスターしていた。
女王卑弥呼が一族の娘たちの中から抜擢していただけに、台与の踊りは群を抜いて見事なものであった。
招かれた諸国の老首長たちは皆一様に台与の踊りを食い入るように眺め、回春の思いに浸っていた。
「ひ、卑弥呼さま、あ、あの巫女は…」
「ほっほっほ。気に入ったか? あれが台与じゃ、覚えておくがよい」
「こ、今宵は、ぜ、ぜひ台与さまを、わ、わしの枕に…」
「ほっほっほ、高くつくぞ。まあ、おぬしの国もとは今年大豊作じゃったそうでまことに目出度いかぎり…。ほっほっほ」
卑弥呼は甲高く笑い、それから台与に目配せをした。
かがり火に照らされた台与の眼が妖しく光った。
(つづく)
ト、トヨタン・・・・・・・・・・
523 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 00:25:09.64
そういう三文小説はもういいよ。
(;´Д`)ハァハァ・・・
525 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 14:55:16.61
ここはアホの巣窟みたいだ。
後期後半は階層分化の点からすると、共同体内部での首長層と一般構成員の差異は大きいものだったと思う。
当時の人々は共同体を離れては存在できなかっただろう。
その理由は、生産物である食料その他の生活物資は共同体のもとに集約・管理されて、私有財産が発生していなかった、
と考えられるから。
また、一般構成員は、1.生産手段の一部として土地に縛りつけられており、
2.共同体を離れて生活物資を得ることができない、ために土地から離れられなかっただろう。
移動できたのは首長層であって、北部九州にみられる外来系の人々は、各共同体から(出張費支給で)派遣されたバイヤーだろう。
交易について。
日常物資の補完的交換は物流コストを考えれば中期社会でもみられるように地域ブロック内で行われるもの。
広域に流動したモノとは大陸文物や遠隔地の特産品であり、その性格は威信財や地域社会共用の生産財もしくはその素材。
具体的には鏡や鉄刀等と鉄(製品と素材)だろう。それらに対する需要があり、交換する財をもっているのは首長層。
>1でいう「クニ」とは、山陰の四隅、吉備の特殊器台・壺、北近畿の大型方形墓、など首長墓の出現と葬送祭祀の共通化、
および土器の形態が地域別にまとまる様相から、後期後半に各地方が広域的なまとまりにあっただろうというものであって、
むしろ考古資料から導き出された概念だろう。
マキムクは自然発生したものではなく、人為的・意図的に建設されたものだと考えられる。
後期後半において人々は共同体の構成員であり、独立して存在し得なかった。
そして、共同体が結合したクニが各地域に成立していた。
また、交易とは遠隔地交易であり、それを行ったのは各クニである。
したがって、マキムク建設の主体となったのは各クニであろう。
527 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 00:37:32.06
>>526 >1.生産手段の一部として土地に縛りつけられており、
ちょっと違和感があるねえ。
農民ばっかりじゃないわけで、
狩猟採集してたひとは、山くらい越えるだろうし。
海で漁をしてた人は、瀬戸内海の対岸を行き来することくらいは日常的にしてたはずだ。
首長が交易を管理してたかのようなモデルは承服できないなあ。
528 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 00:42:48.65
卵が先か、鶏が先かになるけど、
クニの首長層とは関係なく、交易をしてた人々の市が特定の場所に自然発生し、
市が大きくなれば、市を管理する必要性から、市を管理する首長が生まれる。
それまでは、集落から首長が生まれていたのに対し、
交易する人々の市から首長が生まれるケースもあったのではないか?
529 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 02:02:34.10
面白そうなネタなんですけど、一つ一つのコトバの定義をしっかりして使わないと議論が噛み合わないですよね。
纏向建設について、大ざっぱに言うと、私自身は自然発生的な市が成長したものと言うより、
既に有力な支配層がいて、その下に出来上がった交易拠点だと考えますね。
細かいところでは、卵が先か鶏が先か的な問題はあるでしょうけど。
530 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 02:24:14.68
交易拠点って、どことどこが何を交易するわけ?
531 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 02:46:45.46
>>526 >また、交易とは遠隔地交易であり、それを行ったのは各クニである。
遠隔地交易なんてことが存在したのか?
九州からの東征がありえないのと同じで、
近畿から一足飛びに九州まで庄内土器が運ばれたなどとは考えられないが。
隣のムラを介して、少しずつ物が流れていったのではないかな?
高速道路もタンカーも無い時代だぞ?
532 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 03:22:23.07
畿内・九州交易なら東征よりはハードルが低いな。
キミは韓半島と北九州の交易も認めないタイプの人なのか?
533 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 06:58:56.53
庄内式様式の伝播は、瀬戸内を飛ばして、ヤマトから福岡平野の拠点に一気に行った感じなんだが。
534 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 07:09:02.43
威信財(鏡とか長刀とか)にしても、奢侈品にしても(玉類とか)日常財(生産財としての鉄器や土器)にしても、原産地または分布中心地から距離に反比例した正規分布をするわけではないものが多くある。
だから、必ずしも隣接地をリレー式につないで交易されたばかりわけではないことがわかる。
レンフルーの交易論でも読め。
535 :
水銀厨:2011/06/18(土) 07:49:23.73
三世紀前後に大陸の新知識や文物が集中してくるような
主要な交易品というと、鉱山物質、特に水銀朱しか選択肢は無い訳です。
北部九州からはいわば交易商人(海援隊の遠い祖先みたいなもの)が
行き来していたのでしょう。
ま、嫌でも倭人伝の記述に一致してしまう部分なんですけどね。
536 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 07:57:01.29
>>530 交易拠点は、各地に様々な規模のものがあったと思いますが、
纏向について言えば、瀬戸内海以西から東海以東へは、鉄や銅などの金属製品、それと食料かなと思います。
食料については、東西の生産性に著しい格差が生じていることが前提で、
それを実証出来ないとなりませんがね。
逆の東から西への『交易品』は『人』、労働力だと想定しています。
これも東西の格差が前提ですが、人口急増で食料自給が困難な程度まで需給バランスが崩れたり、
自然災害などで生産性が低下すると、労働力の確保による生産性の向上が放棄され、
身売りや出稼ぎなどの形で労働力の流失が起きます。
この労働力が『奴隷』と言う形で商品化されないと東西の交易バランスは維持できないでしょうね。
537 :
水銀厨:2011/06/18(土) 08:03:06.82
人が交易品の主力なら、巻向辺りではなく琵琶湖周辺にも
拠点を設けると思いますね。
日本海でも瀬戸内利用でも使えますから。
>>531 >近畿から一足飛びに九州まで庄内土器が運ばれたなどとは考えられないが。
隣のムラを介して、少しずつ物が流れていったのではないかな?
高速道路もタンカーも無い時代だぞ?
そうだ、そうだ。
畿内と九州はとてつもなく離れているんだぞ。
高速道路もタンカーも無い時代だぞ?
畿内と九州を巻き込んだ倭国大乱が歴年続いたなどあり得ないな。
倭国大乱とは邪馬台国のあった九州北部内だけの話だ。
>>526 松木武彦の列島創世記を読めば、人々は土地に縛られることなく、気候変動を契機にダイナミックに移動してることが書かれてたけどね。
読みました?
541 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 10:30:03.99
>>537 >人が交易品の主力なら、巻向辺りではなく琵琶湖周辺にも拠点を設けると思いますね。
東西交易の中継拠点は、適地にはいくつもあったと思いますよ。
琵琶湖周辺も適地と言えますね。
纏向と同時期であれば、湖東地区の中沢・斗西遺跡なんかが該当するんじゃないんですか?
まさに纏向のライバル的な勢力だったでしょう。
地元では、神郷亀塚を「狗奴国王墓」と称して喧伝しておりますがw
>>539 > 読みました?
読みました。
じつは昨夜も、鶴見川・早渕川流域の宮ノ台式期の集落群が、土地の開墾に合わせて移動しているという話を読んでいて、
「土地に縛られる」という表現は適切じゃないなと思ったところです。
当時の人々は集団を離れては存在できなかっただろうから、個人の自由意志による移動はなかったと言いたかったんです。
543 :
526:2011/06/18(土) 11:13:50.75
>>527 > 首長が交易を管理してたかのようなモデル
「日常物資の補完的交換」と「大陸文物や特産品の広域的な流動」は別の動機によるものだと考えます。
畿内の人間が北部九州へ交易のために移動していること。これについては首長層の統制によるものだと思います。
544 :
526:2011/06/18(土) 11:30:50.29
>>528 > 交易する人々の市から首長が生まれるケースもあったのではないか?
集団原理から離れた個人の自由意志にもとづく活動がなかった、という前提で考えているので、
そのプロセスから発生するのは各集団のヒエラルキーの頂点に位置する大首長だろうと思います。
中期後半の北部九州、後期後半の吉備・山陰・北近畿などがそうだろうし、
畿内でも後期の間にそのような進展があったかもしれません。
545 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 11:40:11.97
>>536 東海の食糧事情が悪かったような書かれ方をしてますが、認識がおかしいのでは?
弥生時代で東海は人口が多く、それを養えるだけの食料があり、
土器を赤く塗って輸出するという余剰生産力があったことは明らかですが?
546 :
526:2011/06/18(土) 11:41:34.38
>>536 物流コストを考えると食料の遠隔地交易は考えにくい。
人口増加や環境変化によって需給バランスがくずれた場合は、
むしろ集落自体の移動が起こるのでしょう。鶴見川・早渕川流域の宮ノ台式期の集落群のように。
547 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 11:45:31.59
>>536 >自然災害などで生産性が低下すると、労働力の確保による生産性の向上が放棄され、
これは、全く空想の話しです。
空想の上に、「東海は、労働力の確保による生産性の向上が放棄され、 身売りや出稼ぎなどの形で労働力の流失が起きた。」と推論してはいけません。
自然災害が、東海にのみ起きたことをまず証明してください。
天候不順などは全国的規模で起きるもので、東海の生産性が落ちたなら、他の地域も打撃を受けたはずです。
弥生時代末に小氷河期があったことは言われてますが。
548 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 11:57:51.47
>>536 労働力を輸出とか簡単に言いますが、
奴隷としてですか?契約労働者としてですか?
奴隷としてなら、東海がマキムクに隷属されていたことを証明しないといけません。
契約労働者としてなら、労働の対価を支払わないと、人は集まりません。
東海は、労働の対価に何を得たのでしょうか?
古墳時代初頭の段階で、東海は鉄も鏡も持っていないはずです。
また、東海が飢饉になったために労働者が食料を求めてきたというなら、
マキムクには労働者を養えるほどの余剰食糧があったことになります。
東海が労働者を出したというシナリオのためには、
東海地方のみが自然災害に襲われ、困窮した人がマキムクに集まり、
マキムクでは東海人を追い払うかわりに食料を与えて労働者として雇った、となります。
「東海地方のみが自然災害に襲われた」という前提なしに、この仮説は成立しません。
549 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:06:29.00
東海労働者に与える食料は、「東海労働者に与えるためにマキムクに集められた食料」ではないはずです。
マキムクに食料があったのなら、各地から集められた交易品であるはずで、
各クニも、食料しか輸出品の無い時代に、
食料を東海の労働者に与えていたのでは交易が成り立ちません。
あるいは、奈良盆地の食料自給率が格段に上がったという証拠が必要です。
水田跡の遺跡が増えているとか。
それこそ、
「各クニが同意して、食料を拠出し、東海から労働者を雇い入れ、マキムクを開発した。」と、
想定する必要がありますが、神武東征並に、空想的ではないでしょうか?
550 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:15:22.76
マキムクが、各クニの交易品を売買するために、ある秩序の下に開発されたなら、
各クニがほぼ平等に、食料も労働者も送っていたはずです。
「東海のみ、輸出品が労働者だけ」というシナリオは、はなはだ不自然です。
東海の労働者は、食料も東海から持参して自給自足でマキムク開発に参加していたと考えるのが妥当です。
かつ、東海はみかえりとして、鉄も鏡も求めなかった、ということであり、
東海がマキムクに参加した動機は、より慎重に考察する必要があります。
551 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 13:21:09.62
>>550 つまり、東海地方の労働力は強制的に連れて来られた。
552 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 14:34:37.20
>>551 「強制的に連れてこられた」て、神武東征並のファンタジーですが。
東海ってのは倭国世界の東方開拓の前進基地で、マキムクに送られた労働力は蝦夷の人々と考えるべきだろう。
この東国の労働力を畿内が徴発するという流れは、後代、鎌倉幕府の成立まで続く流れ。
古墳時代の始まりで、東海でむしろ鉄が減少する、という話はどこまで本当なんだろうか?
554 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 15:42:20.64
2世紀末頃に九州から吉備、讃岐を経て奈良に入って来た神武が奈良湖の干拓事業を始めたことにより
畿内の食糧生産力が飛躍的に向上したというようなことを誰かが言っていたような気がするが、どうだろね。
東海の労働力は干拓事業に使われ、そして農業に従事した というようなことは考えられんかな。
さんざん考古的には土器が西へ移動しているって論文が連投されているタイミングで
まだ神武東遷説かよ
本当におめでてーな
>>554 >2世紀末頃に……神武が奈良湖の干拓事業を始めた
なんら史料に基づかない妄想。
考古学的にも不可。
557 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 16:02:20.33
>>545 > 東海の食糧事情が悪かったような書かれ方をしてますが、
そうは書いてませんよ。「未実証の前提」です、
>>536でも、そのよう断っております。
別にツリでは無いので勝手に釣られないでくださいな。
> 認識がおかしいのでは?
> 弥生時代で東海は人口が多く、それを養えるだけの食料があり、
そうでしょうか?
小山修三氏式の推定法では、東海は弥生期の人口増加率が他地域に比べて低いはずです。
畿内との関係で言えば縄文晩期の人口では東海の方が優っていましたが、弥生期には逆転しています。
これは、東海の生産性向上率が他の地域に比べて劣っていたと考えられませんか?
> 土器を赤く塗って輸出するという余剰生産力があったことは明らかですが?
パレススタイルの移動は、主に関東へですよね。
それが輸出だとして、関東からは何を輸入したのですか?
東海は、その関東からの輸入品を、また、纏向へ輸出するわけですね。
また、東海の拠点集落は伊勢湾に直接面した、低海抜地の集落(朝日とか)が多いです。
地震や台風などの災害遭遇率も他の地域に比べて高そうに感じます。
旧奈良湖や河内潟、尾張の湿地帯が肥沃な土地で将来強国が生まれるのは確かにそうなんだけど、
一代で成し遂げたことじゃなく、弥生〜古墳時代を通じた何百年ものスパンの話だと思うよ、常識的に考えて。
559 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 16:04:26.76
>>546 > 物流コストを考えると食料の遠隔地交易は考えにくい。
そうですかね。
九州から東海へ食糧が動くとか言ってるわけではありませんが、
生産性の西高東低が有れば、総じて余剰分の食糧は西から東へ動くと言う想定です。
560 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:06:44.08
そこでなぜ、東海が「雇われて」となるのかが疑問だな。
雇われた東海人が暴動起こしたらマキムクは終わりだろ。
暴動を抑え込めるような権力構造がマキムク開発前段階ですでに存在したなどというのは、
神武東征並のファンタジー。
561 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:09:37.24
>>559 >生産性の西高東低が有れば、
結論先にありきか。
神武東征と同じ論法だというのがわからんのか?
562 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 16:09:39.42
>>548 > 奴隷としてですか?契約労働者としてですか?
> 奴隷としてなら、東海がマキムクに隷属されていたことを証明しないといけません。
なぜ、東海が纏向に隷属していないとならないのですか?
「奴隷」を商品として交易するわけですから、対等互恵でないとなりません。
> 契約労働者としてなら、労働の対価を支払わないと、人は集まりません。
> 東海は、労働の対価に何を得たのでしょうか?
多分、
>>536の「身売りや出稼ぎなどの形で労働力の流失が起きます。」に反応した問いなのでしょうか。
今回の文章では、文末への導入として一般論を書いただけで、纏向でのこととはしていませんよ。
ただ、「労働の対価」であれば、一般的には食糧でしょう。喰いっぱぐれへの報酬ですから。
> また、東海が飢饉になったために労働者が食料を求めてきたというなら、
> マキムクには労働者を養えるほどの余剰食糧があったことになります。
> 東海が労働者を出したというシナリオのためには、
> 東海地方のみが自然災害に襲われ、困窮した人がマキムクに集まり、
> マキムクでは東海人を追い払うかわりに食料を与えて労働者として雇った、となります。
> 「東海地方のみが自然災害に襲われた」という前提なしに、この仮説は成立しません。
そんな古代における派遣労働者みたいなこと空想するのは面倒くさそうです。
奴隷の方が想像しやすいでしょう。
563 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:11:08.25
>>562 >奴隷の方が想像しやすいでしょう。
もう、むちゃくちゃ。
マキムク以前に、東海に出向いて奴隷を連れてこれるような権力構造がどこにあったんだよ?
564 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 16:12:52.83
あなたも
>>536へのレスなのでしょうか?
しかし、よく釣れたもんだw
纏向は交易の中継点です。
纏向の成立には、交易の当事者として、当然、東海も深く関与していたでしょう。
そして、「奴隷」は纏向開発の労働力としても利用出来るでしょうが、本来は東西交易の商品ですから、
纏向からさらに西へ西へと交換されていかないといけません。
何れ九州を越えて韓半島まで移動し、そこで鉄や銅製品などと交換されることになりますのでしょうか。
鉄は韓国から入ってきます。
現時点での古代製鉄に関する知識からは、これは絶対条件です。漢鏡などの工芸品も同じでしょう。
そして、倭人が奴隷として「輸出」されることは「漢書」などの中国文献で確認されることです。
鉄や鏡が西から入ってきて東へ流れる、その対価として人が用いられるなら、
奴隷は東で集められて、西へ流れ、最終的に韓地へ輸出される。
東西交易の流れの中にこの二つの要素は必ず存在します。
そして、喰いっぱぐれを「奴隷」として商品化するまでのシステムは、商品の提供者側に依存します。
中継点である纏向には、そのような機能は必要ありません。
>>536の「この労働力が『奴隷』と言う形で商品化されないと東西の交易バランスは維持できない」とはそう言う意味です。
565 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:13:06.89
神武東征はあったんじゃないの。無かったら何故記紀に書かれたのかな。
566 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:16:14.46
それとも、東海にあったクニの首長が奴隷をマキムクに差し出して、
食料と交換したということかな?
それなら、東海には、マキムクを上回る権力構造
(人の自由を束縛して遠隔地に送り、暴走を押さえ込めるほどの警備要員の確保)
がすでに存在したという話しとセットにする必要があるが、そこまで想定してるならわからんでもないが?
東海には畿内や外来の土器が余り入っていかないから。西高東低の余剰生産物が西から東海に輸出された、という想定自体に無理があるような。
卑弥呼は生口を贈ってるわけだが生口って何なんだ?
569 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:20:03.20
東海からは移民が入って来たんじゃないか。神武の干拓事業の話を聞いて一旗あげようとね。
570 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:20:35.72
>>564 「奴隷」の商品化とハッキリ断言したね?
古墳時代ともなれば、関東の奴隷を集めてくることもできるだろうが、
マキムク開発前段階では無理だって言ってるの。
奴隷の管理ってどうやってやるんだよ?
輸出するなら、健康で体力があって力もあるような人間じゃないと商品価値ないよ?
その奴隷の暴動を、どうやって抑え込めるわけ?
武器も十分でない弥生時代末の近畿で?
571 :
sss:2011/06/18(土) 16:36:07.30
>>568 奴隷の一種とも言われるが、人間の献上品ということじゃなかろうか。
倭人伝にも奴隷と思われるものは出てくるが、奴婢という言葉が使われているから単なる奴隷とは
ちょっと違うと思われる。
出典は忘れたが、高句麗が新羅に対して生口の献上を要求するという記述もあったから、
生口を献上するというのは相当な服従を意味しているのかもしれない。
572 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:38:42.15
東海が奴隷を輸出してた、ていうのは、東海の急激な東方膨張と不可分だろ。
むしろ、東海の鉄や先進技術、余剰生産物で関東から人を徴発、奴隷商人だというなら話がわかるが。
東海が水害の危険に晒されてたのは、弥生時代の昔も現代も同じで、マキムクの頃限定で、急に東海が食糧危機に陥り、食いっぱぐれた東海の人々が畿内や関東に移住した、ていう想定自体が非常に苦しい。
てか、考古学的根拠皆無だし。
先々週末の鉄軽視説に引き続き
今週末は東海の影響を低く見積もりたいようだな
赤い土器は濃尾平野というより信濃の伝統産物だな
のちに三遠南信に広がる
574 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:50:40.87
マキムクが交易の拠点だったということの考古学的根拠って何かな?各地の土器が集まっているという
ことか?だがそれがなんで交易に結びつくのだ?交易された物は何だ?それが各地からの土器に詰めら
れて運ばれたという証拠がなければ話にならんと思うけどな。
575 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 16:52:30.19
>>570 もしかしたら
>>563氏でしょうか?
すいません
>>564が
>>563へのレスのように見えてしまいましたが、
実は>>の振り漏れで、あの文章は
>>549-550氏へのレスでした。
まあ、話が進まないので、それは置いといてください^^;
さて、揚げ足取り見えるかもしれませんが、そこかしこに私のレスを読み替え、書き変えされていますよね。
>「奴隷」の商品化とハッキリ断言したね?
まず、”「奴隷」の商品化”、奴隷は他者の所有物です、売買・交換の対象です。
つまり、奴隷化と商品化はほぼ同義なので、私はそのようなクドイ表現は使っておりません。
昨夜(要するに最初からw)の
>>536で”労働力が『奴隷』と言う形で商品化されないと”は申し上げておりますが・・・
当時、奴隷が存在し、それが海外に流出していたことは事実でしょう。
貴方の御指摘は、そういった奴隷交易を維持できるような流通システムが無かっただろう、と言うことですね。
「マキムク開発前段階では無理だって言ってるの。」って言うのも少し違うような・・・
私は、一度もそのようなことは申しておりません。
強いて言えば「発展段階」でしょう。開発前なら流通そのもが出来ない、できないから纏向を造ったということじゃないですかね。
「奴隷の管理ってどうやってやるんだよ?」
発展段階だろうが終末段階であろうが、これは難題ですよね。
はい、素直に認めますが、ただ、現実に韓半島まで輸出されることも事実です。
食いつめた東海の人々が、なぜ東国に進出できたか?そもそもこの点に疑問がある。
急激な気候変動で新天地を求めた、とかならまだ分かるのだが。
奴隷として関東に売られたとか言い出すんだろうなあw
577 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:58:53.28
Korean Peninsulaのことを朝鮮半島ではなく韓半島と書くあたり
危険なにおいがするな
>>574 人と物が集まる場所として、マキムクが交易拠点だったのだろう、と考古学者が想定してるだけ。
しかしそれ以外で、人と物が集まる理由を考えるのが苦しいので、「交易」を理由にするのが妥当だと思うよ。
無理やり他に理由を求めるとすれば、当時三輪山山麓が聖地、宗教的権威として君臨していて、その御利益を求めて、各地から人々が供物を持ってマキムク詣でに集まった、とか。
しかしそれでも人と物が集まれば、自然と市場が形成されたと思う。卵が先か鶏が先かの議論になるな。
579 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 17:10:18.06
>>574 あとは、マキムクが宗教的無人都市で、オウが食いつめた民衆をまとめるために、ケインジアン的に、
わざと運河やら古墳の大土木工事を行い、サラリーとして河内の塩を支払ったという説明。
この説明でも、結局は各地から集まった大量の労働者によって市場が形成された筈だと思うんだよね。
こういった考察の末、まあ、交易拠点でいいんじゃない?>マキムクてことになる。
580 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 17:14:40.24
>>566 > それとも、東海にあったクニの首長が奴隷をマキムクに差し出して、
> 食料と交換したということかな?
西からの交易品は、もともと食糧だけじゃないんですが、喰いつめ奴隷の話とセットでレスが付くので強調されちゃいましたね。
優秀な奴隷とは、自己の奴隷としての立場を受け入れている奴隷です(受け入れられなければ死を選ぶしかありませんが)。
戦争捕虜とか、飢餓民とか、生命の代償として自由を喪失することに有る程度納得できる従順なタイプの人間でしょう。
鞭で追われたり、槍で威嚇されたりしなくとも、生命と食糧の保障が有れば、少数のの人間で管理することは可能では?
別に一回の交易に数珠つなぎにして何百人も連れてこなくてもよいのだし。
581 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 17:42:46.36
>>580 「自己の奴隷としての立場を受け入れている奴隷」って、
それも大変な話しですよ?
たとえば、自分が奴隷になることで、故郷の家族の身の安全が保障されるとか、
そういうものだとしても、奴隷交易国が他国を自治権を奪ってるわけですから、
相応の権力構造が東海に無いと成り立たない話。
そういう、東海の突出した権力構造を認めた上での話しなのか?ということです。
582 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 17:43:45.36
>>578,
>>579 >しかしそれでも人と物が集まれば、自然と市場が形成されたと思う。
>結局は各地から集まった大量の労働者によって市場が形成された筈だと思うんだよね。
まあ、人が多く居れば市ができるだろう。それは何処でもそうだろう。倭人伝にも國國有市交易有無
と書かれている。
だから、こんな理由でマキムクが交易の拠点であったということの説明にはならないだろ。
583 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 17:55:14.35
マキムクの掘っ立て柱の建物は箸墓古墳などの前方後円墳の築造と関係があるのではないか?
出土する土器は各地から集められた労働者が持ち込んだ物だろう。
584 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 18:00:38.78
>>583 各地の労働者を集めるだけの権力は3世紀の畿内には生まれていないだろうから、マキムクの遺跡は
4世紀以降のものだろう。
へんな立論だな
586 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 18:24:34.80
>>584 マキムクの黎明を4世紀以降に邪馬台国以降にしたいんだろうけど
後世に詰めれば詰めるほど以降の古墳の築造ペースが短くなるぞ
587 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 18:44:41.91
>>586 >後世に詰めれば詰めるほど以降の古墳の築造ペースが短くなるぞ
そんなことは知ったことじゃない。古墳の築造ペースが早くなったとしてもそれが歴史的事実であれば
受け入れるしかない。
樫考研の関川尚好氏は箸中山古墳やホケノ山古墳は(出土した壷や特殊埴輪から)4世紀半ば頃の築造
という見解である。
588 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 18:45:03.34
>>581 > たとえば、自分が奴隷になることで、故郷の家族の身の安全が保障されるとか、
江戸時代の女衒と身売り娘みたいな話ですねw
> そういうものだとしても、奴隷交易国が他国を自治権を奪ってるわけですから、
> 相応の権力構造が東海に無いと成り立たない話。
すいません。
奴隷交易国=奴隷の供出国(例えば東海や関東) 他国=奴隷の流出先(例えば纏向以西の地域)
と言う話でしょうか?
奴隷の従順性の担保に「故郷の家族の身の安全」とかまでは含まれないでしょう。
後世の人身売買と違い、この時代のシステムは属人的なものだと思いますよ。
前述の「身売り娘」のようなシステムでは、証文に足抜けが起きたら身売り代金を家族から返還させるなどと言う一文が
書かれている(実際に取り立てが可能かどうか知りません)と思いますが、このような社会システムはかなり高度なものです。
担保はあくまでも、自身への衣食住の支給と生命の保証だけでよろしいのではないですか?
だから、売られた後の「他国の自治権」などは考慮する必要はございません。
また、奴隷の供給地を東海に固定する必要も無いかと思います。
東海は、どこで奴隷を仕入れたかは別にして、纏向へ運んでくれば交易に参加することができるのですから。
ただ、一時、朝日遺跡の逆茂木が環濠内側に向いている、奴隷の収容施設ではなどと言う話があったと思います。
あれは、正確な観察結果だったのでしょうかね?
589 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 19:07:34.45
>>587 じゃあその場合、ヤマト王権の成立プロセスをどう説明する気なん?
邪馬台国論争から除外しさえすればあとはどうでもいいってか?
ここはマキムクスレなんだからちゃんとその位置づけを
590 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 19:14:35.29
>>588 いずれにしても、マキムクの外来土器の大部分を東海土器が占めてて、
それが奴隷の持ち物だったというのは、むちゃくちゃ。
奴隷にこだわってる以上、東海の交易の大部分は奴隷と考えているのだろうが、
奴隷としてつかまった人間が東海土器をたまたま所持してたのかね?
それとも、東海が奴隷を交易するときに、奴隷に東海土器を持たせて運ばせたのかね?
みかえりとして得た物品は、別の商人が東海に運んだのかね?
その商人はてぶらで西に帰ったのかね?(東海からの交易品が奴隷以外に無いわけだから)
591 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 19:32:19.38
>>590 > いずれにしても、マキムクの外来土器の大部分を東海土器が占めてて、
> それが奴隷の持ち物だったというのは、むちゃくちゃ。
はあ?
誰もそのようなことは言ってませんよ。
空耳つーか、掲示板ですから「空目」ですかw
> 奴隷にこだわってる以上、東海の交易の大部分は奴隷と考えているのだろうが、
> 奴隷としてつかまった人間が東海土器をたまたま所持してたのかね?
交易会場へ「商品」だけが一人でのこのこ歩いてくるとか言うわけですかww
貴方のレスが何番と何番なのかわりませんが、貴方の脳内ではどんどん話が進んでるわけですね?
いったい、どなたと話をしてるのですかね・・・
592 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 20:08:13.49
>>591 東海の主要輸出品が奴隷だといったのは貴方ですよ?
自分のケツくらい自分で拭いて下さい。
593 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/18(土) 20:16:10.51
ここは薄汚い朝鮮人を賛美したNHK歴史大捏造番組「日本と朝鮮半島2000年」のスレですか?
ウリナラ♪マンセー♪ ウリナラ♪マンセー♪ ウリナラ♪マンセー♪ ウリナラ♪マンセー♪
∧_,,∧ ∧_,,∧ ∧_,,∧ ∧_,,∧
(((o<*`∀´ >o))) (((o<*`∀´ >o))) (((o<*`∀´ >o))) (((o<*`∀´ >o)))
ヽ .ヽ ♪ ヽ .ヽ ♪ ヽ .ヽ ♪ ヽ .ヽ ♪
し―-J し―-J し―-J し―-J
594 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 20:52:40.81
>>589 >じゃあその場合、ヤマト王権の成立プロセスをどう説明する気なん?
伊作氏が言っているような九州からの東遷が最も考えやすいのではないか。
595 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:16:29.33
596 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:35:19.21
597 :
sss:2011/06/18(土) 21:41:20.73
>>594 そう、東遷を考えるのが一番合理的。でも、ここではタブーだから。
というか、畿内説にとっては東遷説はずっとタブー。
奴隷も飯と住処さえ与えてやれば逃げ出さずに働くよ
脱走したとしても、追っ手に追われて故郷にも帰れず、かと言って転がり込む村も無く、原生林を開墾する力も無いだろうよ
おまえは人間というものを解ってないな
599 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:44:00.34
>>596 僅か8つの文字、記号しか書けないあんたは バカね。
600 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:47:32.19
>>597 畿内説にとっては東遷説ほど怖いものはないのでしょう。
601 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:54:58.82
濃尾平野支流川、木曽川上流域沿いに岐阜県各務原市(かがみはらし)が
あるが、ここは古代に鏡作部(かがみつくりべ)銅鏡などを作る特殊技能集団が
いたことからと言い伝えられている。鏡作部の祖人である天火明命を祀る神社が
中央に位置する。鏡→各務と言う地名由来。
602 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:56:34.63
>東遷
纏向遺跡が、東遷した九州出身の支配者によってつくられた、という考えですか?
纏向遺跡の出土品や遺構でそれ(東遷)を裏付けられますか?
603 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:58:07.68
で、九州の卑弥呼が天照大神で、その子孫の神武が東征して、大和王権をつくったってか?
魏志倭人伝に書いてあること→卑弥呼は独身=子供はいない
神話に書いてあることを→神武の兄弟は東征中に全滅&神武の長男は大和で殺される
これで、どこが東遷説の根拠になるのかな?
604 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 21:58:40.47
マキムクの主要遺跡(前方後円墳、建物)が4世紀以降のものであれば、ここで交易拠点だとか首長連合
だとかの妄想を語っても無意味だな。
605 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:00:53.87
このスレでも、何度も出てくるが、
マキムクには、吉備、山陰、河内、東海など近畿周辺の土器はいっぱい出土するが、九州の土器はカケラだけ。
はっきりいって、九州の人など、来ていない。
606 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:02:54.09
>>604 マキムクが4世紀でも、九州の痕跡が無いのは同じ。
九州勢力は、4世紀初頭に勝手に自滅したというわけだ。
607 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:03:04.65
>>602 箸中山古墳など主要な古墳の発掘調査が行われていない段階ですからね。発掘調査が行われれば出て来るでしょう。
608 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:04:59.14
>>605 そうですね。
纏向遺跡には九州の臭いは極めて希薄な感じがします。
609 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:06:36.54
>>603 それは安本美典氏の説でしょう。その説については本人に聞いて下さい。私は伊作氏の言うような東遷説
なんで。
610 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:09:11.93
>>609 伊作は、考古学オンチで現実が見えてないだけ。
自分の不勉強を棚に上げて、考古学はインチキとか、恥ずかしいやつだな。
611 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:09:25.93
>>607 纏向遺跡の今までの調査結果の中に、なにか東遷を裏付けるものがありますか、とお訊きしたつもりです。
そうしますと、今までの調査結果の中には、なにも無いわけですね。
612 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:11:34.88
>>605 >マキムクには、吉備、山陰、河内、東海など近畿周辺の土器はいっぱい出土するが、九州の土器はカケラだけ。
九州からわざわざ土器みたいなものを持って来なくても。現地人に作らせればいいことだからね。あるいは各地から
土器職人を徴発すればすむことだからね。王者は自ら土器など作らんだろ。
613 :
sss:2011/06/18(土) 22:14:16.33
>>600 ずっと論争を避けてきているから。
銅鐸の消滅。首長墓の出現。鏡文化の到来。棺の中を見ると九州系の副葬品がいっぱい。棺の中は朱でいっぱい。
皇室に伝わる三種の神器。記紀の重要なモチーフである『神武東征』。
魏志倭人伝と記紀の類似性。いっぱいあるな。
>>605 そういう言い方が可能なら、九州からは土器を作る人が来ていないと言える。
九州と無関係に邪馬台国連合は成立しないから。
614 :
ひとぶた:2011/06/18(土) 22:19:20.05
>>592 >
> 東海の主要輸出品が奴隷だといったのは貴方ですよ?
> 自分のケツくらい自分で拭いて下さい。
でも、商品である奴隷が一人で纏向来るなんて言ってませんよw
>> 奴隷としてつかまった人間が東海土器をたまたま所持してたのかね?
貴方の書いた文章です。
私のどの発言に対する質問何ですかね?
どこをどう縦読みすれば、そう言う疑問(つーか、単なる見当違いの揶揄なんでしょうが)が生じるのですか?
纏向と言うのは畿内大和を窓口とした東瀬戸内と東海の間の交易拠点です。
そこから東海式土器が出土する理由として、貴方は「奴隷さんが運んできた」以外のものを想定できないのですね。
俺は畿内説で東遷説だけど、畿内説だと少数派なの?
ちなみに天照大神=卑弥呼もありえないと思ってる
でも、ここは巻向は大和王権の礎の地かってスレなので
畿内、九州はあまり関係ないのでは?
616 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:30:45.33
自己レスですが、再掲します。
>>602 >纏向遺跡が、東遷した九州出身の支配者によってつくられた、という考えですか?
この問いにはまだ正面からお答えをいただいていないようですね。
東遷説の方、ご回答お願いします。
617 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:30:47.15
>>600 あれだけ文献爆撃されて
考古学的には東遷なんてケツの毛むしられてペンペン草も生えないって状況なのに
まだ東遷説?
>>615 説明できればいいけど、かなり苦しいと思うよ
淡路島や阿讃あたりからの参画という狭義の東遷ならともかく
九州からの東遷を説明するのは正直厳しいだろ
619 :
sss:2011/06/18(土) 22:35:22.40
銅鐸は集落の祭器といわれる。共有財産のようなものと。このような祭器の存在は、社会があまり分化して
いないことを示している。そこに古墳という首長墓の突然の出現。社会に大きな変化が起きたことを
示している。さらに、鏡の大量普及。これは宗教文化の大きな変化を示している。
銅鐸の消滅は、このように社会的にも宗教的にも劇的な変化があったことを意味していると思う。
620 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:38:54.84
>>617 >あれだけ文献爆撃されて
>考古学的には東遷なんてケツの毛むしられてペンペン草も生えないって状況なのに
庄内式土器の発祥は畿内だという誤った前提で書かれた論文をいくら積み上げてもねえ。
先入観を捨てれば、九州北部の博多湾岸地域で生まれ、改良された土器が有明海方面などに伝わり、
瀬戸内から畿内の一部に伝わったと見ることも出来るんだけどね。
>>619 >>このような祭器の存在は、社会があまり分化していないことを示している
銅鐸の製作技術って相当のもんだ
集落レベルで作れる物ではないと思うが
622 :
伊作先生:2011/06/18(土) 22:46:15.93
>>
>伊作は、考古学オンチで現実が見えてないだけ。
纏向に限定した土器の種類と産地比率だけで、
日本という国の古代の歴史動向を決める手法が考古学か?
そのバカさ加減とそこにチラつく欺詐にもう誰もが気づいている。
>>616 >纏向遺跡が、東遷した九州出身の支配者によってつくられた……
厳密には、東遷の地ならしの過程で、
先遣開拓部隊が築いた祭祀人材の育成と供給センターだな。
「大和王権の礎の地」は九州だ。「大和王権の揺籃の地」は九州だ。
文句があるならば、奥まった大和盆地独自に、
どうやって「王権の礎」ができたのか。
この詰問に対して、ふにゃふにゃした願望推論抜きで
誰もが納得する説明をできた者はいない。
正面から回答できず、話題をそらしてやり過ごしすだじゃないか。
623 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:47:05.99
>>616 >>纏向遺跡が、東遷した九州出身の支配者によってつくられた、という考えですか?
当然そうですよ。マキムクの前方後円墳は半島での戦闘(4世紀半ば)で戦死した王族や将軍達の墓です。
非常に短い期間に沢山の前方後円墳が作られています。
>>616 遺跡の発掘中ですので、もうしばらくお待ちください
後、1を読んでください
625 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:02:48.46
>>620 >庄内式土器の発祥は畿内だという誤った前提で書かれた論文をいくら積み上げてもねえ。
>先入観を捨てれば、九州北部の博多湾岸地域で生まれ、改良された土器が有明海方面などに伝わり、
>瀬戸内から畿内の一部に伝わったと見ることも出来るんだけどね。
あなたは庄内式土器が九州発祥と考えておられるわけですね。
地域も「九州北部の博多湾岸地域で生まれ」と、かなり限定されておられるので、それでは私からお尋ねします。
あなたの見立てによる九州最古の庄内式土器は、何遺跡から出土したどの土器ですか。
報告書の遺物番号でお答え願えれば、と思います。
626 :
伊作先生:2011/06/18(土) 23:11:11.74
>>623 >キムクの前方後円墳は半島での戦闘(4世紀半ば)
で戦死した王族や将軍達の墓です。
そこまではいい切れるかどうか不確実だが、
纏向遺跡と当地の大円墳を同時代のものとするところも盲点で、
畿内説考古学が誘導的欺詐の香りが漂っている。
>>626 そうかもしれない
でも、あなたのは妄想的詐欺の香りがします
628 :
伊作先生:2011/06/18(土) 23:17:25.50
畿内説考古学によると、
「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期に、
纏向に12基もの大古墳がつくられたことになる。
こんな場所に王都や政権中枢のあったわけがなかろう。
さながら・墓域と雑居した王都だ。
さらには、大和王権の重要人物が一時期に死亡したことになるのだが、
そんなことが歴史として文献的に考古的に「あった」のか?
(俺のサイトには書いたことがあるが)
こういうことに誰も言及したことがなかろう。
629 :
伊作先生:2011/06/18(土) 23:19:44.92
>>627 >あなたのは妄想的詐欺の香りがします
ただの切り返しで、的確な反論にはなっていない。
それに、俺は「詐欺」とは書いていない。「欺詐」だ。
ことばの品格というものがあろう。注意力散漫くん。
京都も各地から寺が集まってくる場所なんですよね
墓、或いは宗教的モニュメントを作りたくなる場所なんだろうね、畿内は
631 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:22:03.38
>>623 >マキムクの前方後円墳は半島での戦闘(4世紀半ば)で戦死した王族や将軍達の墓です。
失礼ながら真面目にお答えになっているとは思えないのですが、一応お尋ねしておきます。
あなたが「マキムクの前方後円墳は半島での戦闘(4世紀半ば)で戦死した王族や将軍達の墓」だ、と断定する理由は何ですか。
また纏向遺跡の大溝は、仰るところのは半島での戦闘よりも先に掘削されたのですか。それとも後ですか。
632 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:24:58.31
>>629 同義語だと思いますが
後、今よく聞くペテンも同義語になります
633 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:26:06.86
>>631 自己レス訂正です。
仰るところのは半島での戦闘 → 仰るところの半島での戦闘
失礼しました。
634 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:31:29.96
>>626 >纏向遺跡と当地の大円墳を同時代のものとするところも盲点で、
「当地の大円墳」とは、どこの何という古墳ですか。古墳名をご教示ください。
635 :
伊作先生:2011/06/18(土) 23:35:33.82
>>634 わるいな。
きみのようなタイプは好きじゃないのだ。
>>622 大和の揺籃・・・・
何気に宣伝されてますがなw
637 :
伊作先生:2011/06/18(土) 23:39:45.57
>>636 いいタイトルじゃないか。
流行語になるぞ。わらわら
638 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:43:11.35
>>635 お好きでなくても構いません。
古墳名を挙げてもらわないと、あなたが纏向遺跡と何古墳との新古を比較しようとされているのか、スレッドの参加者の全員が判断不可能です。
ぜひともお答えください。
639 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:44:47.53
>>622 >文句があるならば、奥まった大和盆地独自に、
>どうやって「王権の礎」ができたのか。
さんざん、このスレで説明してるのに、どうして過去ログ読まないの?
しかも、過去ログの反論も無しに。
640 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:48:48.55
>>628 >畿内説考古学によると、
>「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期に、
>纏向に12基もの大古墳がつくられたことになる。
纏向遺跡の範囲に、大古墳と呼べる古墳が12基もあるのでしょうか。
641 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 23:54:16.34
庄内九州発祥とか
崇神陵もその形から「纏向型」とし他の纏向型もほぼ同じ年代に作られた(臣下を顕彰するため)とか…
安本東遷説のネタの繰り返しだな(まあいつもの恨み節東遷厨が混ざっていると思うが)
いい加減うんざりだな
>>640 ないよ
伊作はなんか勘違いしてるんだろ、
m(-_-m)〜 ウラメシヤー
644 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:04:52.02
>纏向に12基もの大古墳がつくられたことになる。
12基?
ホケノや石塚といった所謂「纏向型」と箸墓合わせても12もないぞ?
伊作の阿呆は一体何を見て書いているんだ?
ヤツは平気でデタラメを書く、いつものことだ
646 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:11:57.99
>>642,644
わかりました。ありがとうございました。
647 :
伊作先生:2011/06/19(日) 00:18:51.45
やいのやいの・やかましいな。
12基が10基でも同じ。大古墳が大小の古墳でもいい。
俺はもっと重要なことを指摘してるんだ。
気が済むように書き直すから、本論を正視しろタコども。
「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期に、
纏向に10基前後の大小の古墳がつくられたことになる。
こんな場所に王都や政権中枢のあったわけがなかろう。
さながら・墓域と雑居した王都だ。
さらには、大和王権の重要人物が一時期に死亡したことになるのだが、
そんなことが歴史として文献的に考古的に「あった」のか?
どや。
648 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:24:52.55
>>647 >纏向に10基前後の大小の古墳がつくられたことになる。
勝手に10基とか大目の数字を上げて、
大和王権の重要人物が一時期に死亡したとか、このひとバカなの?
650 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:29:48.05
>>647 >さらには、大和王権の重要人物が一時期に死亡したことになるのだが
全ての墳墓の築造時期が同じである根拠を出せアホ
それとも
>「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期
というのが一世代という長さなのか?
ちなみに纏向型と箸墓を合わせても10基もない。
間違ってたらせめて調べ直してこい無知無能のドアホ。
651 :
伊作先生:2011/06/19(日) 00:35:40.72
「古墳時代・前期・初頭」て、
いかにも卑弥呼時代を匂わせる表現だが、
どのくらいの時間的スタンスなのか。
おしえろ。ほんでもって、
「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期が、
なんで 「一世代という長さ」に飛躍するのか、
このバカげた切り返しのバカさ加減を考えろ。タコ
652 :
伊作先生:2011/06/19(日) 00:38:39.29
枝葉攻撃になっているから本題をくり返す。
「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期に、
纏向に10基前後の大小の古墳がつくられたことになる。
(確認できない中小の古墳もたくさんあったというじゃないか)
さながら・墓域と雑居した王都だ。
こんな場所に王都や政権中枢のあったわけがなかろう。
さらには、大和王権の重要人物が一時期に死亡したことになるのだが、
そんなことが歴史として文献的に考古的に「あった」のか?
653 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:40:19.35
「古墳時代・前期・初頭」って、変な言い方だなあと思ったら、
伊作の造語だったのか。
こっちが意味を聞きたいわ。
654 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:42:58.19
>>651 ゴミ
>なんで 「一世代という長さ」に飛躍するのか
お前が
>大和王権の重要人物が一時期に死亡したことになる
と言っているからだだろうがクズ
被葬者がほぼ同時期に死んだのならその墳墓の築造時期もほぼ同じになるだろう。
もともとこのバカが「古墳時代・前期・初頭」を一世代ぐらいに想定しているのなら
その間に死んだ人間の墓もほぼ同時期の築造になるってことだ。
ニホンゴワカリマスカ?
655 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:44:03.66
>>652 >「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期に、
>纏向に10基前後の大小の古墳がつくられたことになる。
"「古墳時代・前期・初頭」という限られた時期"は、伊作が定義したのだから、
その期間を具体的に教えてもらわないと、誰も答えようがないよね?
東遷説とか有り得ないんだし、無視して相手にしなくていいんじゃないかな?
庄内九州発祥とか、まともな頭なら有り得ないことが分かる。
安本はそれを「畿内説の偽造」とか言って、苦しい言い訳をしてるだけ。
657 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:47:44.48
>>652 生ごみ
>こんな場所に王都や政権中枢のあったわけがなかろう。
お前の妄想している「王都の条件」なんか知った事ではない。
それを条件とするのなら根拠を出せ馬鹿者。
既に一次産業従事者と権力者の居住空間が分離
墳墓すらその近くにないような『都』が出現しているのか?
現在纏向ですら本当に一次産業と分離しているかどうかも結論が出ていない状態だと思うが
お前の脳内モデルは根拠にならないぞ阿呆。
658 :
sss:2011/06/19(日) 00:54:23.90
古墳の棺の様子は、明らかに弥生時代の九州と連続性がある。
内部を朱で染める習慣。鏡、剣、玉類を副葬する習慣。
副葬品自体が弥生時代のほかの地域ではまず見られない。
九州の土器は見られないというが、権力者の墓である古墳では九州色が濃い。
こういうのも東遷の根拠と言える。
>>656 安本たんがどうとかどうでもいいけど
東遷説はもう無理なんだよ
660 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:55:51.89
>>658 その九州色が濃いとされる古墳ってのは、どの古墳のことをいってるの?
661 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:57:43.95
この一連の話は、基本的に奈良盆地には古い都市の痕跡はない、から始まって
古墳時代に、東海や瀬戸内から人が集まって畿内ができた派と
九州が東遷して畿内ができた派、
の対決と見ていいのかな。
銅鐸はそれ以前の原住民かね?
662 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 01:04:39.36
>>661 大きくスレ的には東遷or西遷で外部勢力が纏向を作った派
と外部の影響・刺激の大なるところは認めても外部勢力による纏向の勃興には否定的派だと思うが
もっとも前者の「外部勢力による纏向の勃興」にしても
九州の一勢力をそれにするというのは殆ど珍説扱い。
(目があるとすれば吉備とかか?)
九州邪馬台国東遷説の連中がこのスレでヒスっているだけ。
また後者の「外部勢力による纏向の勃興には否定的派」にしても
全てが畿内で完結するような自生説とも一線を画すと思う。
663 :
sss:2011/06/19(日) 01:05:10.27
>>661 そういうことになるのかな。
畿内説の『ゆるやかな首長連合?』というのは比較的新しい。
まあ、自生説が頓挫してからの説ということになるのだろう。
664 :
sss:2011/06/19(日) 01:11:51.44
ただ、纏向は、それより後の時代とはちょっと異質だと思う。
古墳が作られるようになる時代と纏向とは一線を画すると思う。
まあ、土器で言えば、庄内期と布留期ということになるのかな。
665 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 01:26:58.46
>>664 物証として九州の影響が全く無いのに東遷を主張してるおまえが、
「纏向は、それより後の時代とはちょっと異質だと思う。 」
「まあ、土器で言えば、庄内期と布留期ということになるのかな。 」
とは笑わせる。
>古墳の棺の様子は、明らかに弥生時代の九州と連続性がある。
>内部を朱で染める習慣。鏡、剣、玉類を副葬する習慣。
>副葬品自体が弥生時代のほかの地域ではまず見られない
弥生時代中期以降に大型の首長墓が登場してくる地域では
朱も副葬品も結構認められるので一概に九州の影響とはいえない
もっと正確な情報の収集につとめるように
667 :
伊作先生:2011/06/19(日) 07:04:43.60
九州一辺倒のタコに言われたくないよなw
九州からの東遷説なんてもはやどう足掻いても無理です。
マキムクに九州の影響はは殆ど見られない。
むしろ、畿内の土器や前方後円墳、方形周溝墓などが九州に伝播してるんだよな。
東遷説はもう死んでいる。
>>661 俺の立場は違う。
漢への朝貢時点で西日本から中部日本にかけての広い範囲に那という連合国家が成立していた。
○那という地名はその冊封体制に入ってたことの証。
朝貢という概念があった時点で少なくとも律令制もどきは成立していた。
それは宗教的なものをもとにした序列だったかもしれないが。
序列があればばその頂点には人と物が集まってくることになる。
そのような連合国の中で金属器という力を背景にして出雲と吉備が勢力を拡大してきた。
それに対して両国に服しない勢力が集まって共立したのが邪馬台国。
671 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 20:00:24.46
はいはいボクの考えた邪馬台国
672 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 20:39:23.77
<ジョーカーの真実>
=≡.i≡ミ 、
,|《ソ⌒⌒ヾ.||
.||||| 〜 〜 ||||
||||,! ` .. ´ !|||
.|||( ノ 3ヽ )|||. < そうですわたしがジョーカーです
巛||,ヽ--- イソリ わたしの脳味噌は生ゴミレベルwww
/ \
.__| ジョーカー |_
「東海の人々が、食糧を求めて、東やら畿内に身売りした」ていう仮説は、
このスレ的には賛成反対、どちらが多かったの?
古墳時代以降、東海は人口も鉄器も減っていったらしい、という提言。この現象をどう考えるのか?だと思う。
地球規模の寒冷化により今までの社会システムが立ち行かなくなった東海勢力が、関東に急激に進出していく流れなんだろう。やっぱり。
鉄器や人が減っているのは、鉄器を持った東海の人々が関東やら畿内に移住したから。
敢えて奴隷を持ち出すまでもない。
後は、東海が畿内マキムクと対立していたのか?の問題。
675 :
日本@名無史さん:2011/06/20(月) 19:51:14.71
江戸時代以降の寒冷化だと、関西東海より関東のほうが低温で不作になり、
温暖化で九州から関西が干ばつになる傾向がある。
東海がどっちの気候かはよく知らないが、寒冷化なら、関西畿内側に移住した
可能性が高いのではないだろうか。
<684年>(<天武>13年) <白鳳地震>(東海東南海連動)
山崩れ、家屋、社寺の倒壊多数。
地質調査によると、南海地震と同時期に発生したと考えられる。
<887年>(<仁和>3年) <仁和地震>(東海東南海連動)
京都で民家、官舎の倒壊による圧死者多数。特に摂津での被害が大きかった。
地質調査によると、南海地震と同時期に発生したと考えられる。
<1096年>(<永長>元年) <永長地震>(東海単独?)
皇居の大極殿に被害があり、東大寺の巨鐘が落下、近江の勢田橋が落ちた。津波により駿河で民家、社寺400余が流失。
東南海地震の発生は不明。ただし、東南海地震連動、あるいは東海地震ではなく東南海地震の震源域で発生したとする説もあり。
この地震の3年後に南海地震(<康和地震>)が発生した。
以下省略 (Wikiより)
>>675 >そうですわたしがジョーカーです
わたしの脳味噌は生ゴミレベルwww
何をおっしゃるジョーカーどの。
わたしの脳味噌も生ゴミレベルですが
わたしの脳味噌はすでに腐敗して嫌な臭いがしとりますです。
ハイ。
>>557 伊勢湾台風など、東海で台風の大きな被害を受けたのは、
かなり時代が下った時の湾岸地帯だよ。
古墳時代前後は、もっと海岸から離れた扇状地、丘陵地に暮らしてる。
朝日遺跡なんてむちゃくちゃ内陸だよ。北名古屋市辺りはすこし隆起してて。
まあ戦国時代も南西の湿地帯を利用して清洲城を守ったんだけども。
奈良東部の急峻な扇状地の方が増水被害は多かったはず。
679 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 19:25:51.05
<ジョーカーの真実>
=≡.i≡ミ 、
,|《ソ⌒⌒ヾ.||
.||||| 〜 〜 ||||
||||,! ` .. ´ !|||
.|||( ノ 3ヽ )|||. < そうですわたしがゴミクズポチジョーカーです
巛||,ヽ--- イソリ 生ゴミの脳味噌が腐ってしまい、 もはやレスアンカー
/ \ もまともにつけられないwww(
>>677参照)
.__| ポチ ジョーカー|_
弥生後期の土器の流れは、フェニキアやギリシアの植民都市に近いんじゃないかな?
それぞれの中心、筑紫や出雲、吉備、畿内、東海。それぞれが己の交易圏、経済圏を拡げるために、周辺国に進出した。
その中で、一番後背地を持っていた、畿内や東海が力を持ちヤマト王権を設立させたということ。
681 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 23:08:44.16
「東海系の土器の多さ」…については後代の東海の立ち位置から
「みけつくに」として考えるようなレスが先の方にあって自分個人もこのスレに過去に書いた記憶があるがwwwww
同じく東海地域を後代の「窯業」という観点から見れば
例えば5世紀の須恵器窯跡を見れば畿内も上回るような数が見られる。
まあ「瀬戸物」の本場という面目躍如と言ったところか?w
(焼き物に適した良質の粘土でも採れることに起因でもするのだろうか?
焼き物の知識のある人には教えてもらいたい)
で、そこから想像して東海には3世紀頃にも土器を大量に作る能力があり
纏向にすれば自分の所の集落で作るより東海から入手した方が手っ取り早かったのではないか?
それに本当に一次産業から分離したような都市だったら
本来土器製作に当たるような階層の人間が居らず人口の構成も「逆ピラミッド」型になっていたとすれば
尚の事土器も外部からインポートする必要があったのではないのか?
以上チラ裏
682 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 23:45:01.40
土器生産で言えば、燃料としての豊富な木材資源が一番重要だと思う。
須恵器の一代生産拠点となった堺〜和泉市の和田川上流の陶邑、いわゆる上神谷(にわだに)も、
平安前期に山を禿げ山にしてしまい、急激に衰退してしまう。
にわだにという地名は元々三輪谷で、神=御輪、
ろくろ無しで紐状の輪っかを重ねていく製造方式から、蛇のとぐろが連想され、
蛇神に捧げる土器を三輪と呼ぶようになったのだろう。
蛇が酒好きなのも土器からの連想。蛇神に対するカワラケ祭祀が古代倭国で行われていたと思う。
酔ってるんで、まあ、これくらい書いてもいいかな…とw
684 :
日本@名無史さん:2011/06/24(金) 23:44:23.77
ネタが無くなったのでこのスレは自動的に消滅します。
嵐が吹き荒れそうな気がする
基本的にまったりスレだから
新発見があればそれを肴にマキムクを語るのが本来の姿
時々、邪馬台国野郎とか記紀原理主義者が蹂躙してくるけど、煽り飽きれば
ごらんのとおり
>>686 ニュー速+のスレが終わった
悪者にされたりして
>>687 そのスレROMってたけど、ほとんどの九州説の人って考古知識が皆無なんだな
たぶん古代史が好きで九州説を唱えているわけでもないんだろうと思ってしまった
単に九州が好きとか近畿が嫌いとか、そんなレベル
皆無っつーか憎いから学びたくないんじゃね?
吉野ケ里の頃にはあんなに私を愛してくれたと思ってた考古学が
実は身体(発掘)目当てで金(予算)目当てで、心のなかで舌を出してたことを思い知ったから
しかも今は大嫌いなあの女(近畿)と仲良くリア充なわけだから
まさに恨み節なわけよ
あの人(考古学)も憎い、あの女(畿内説)はもっと憎い
呪ってやる、荒らしてやるみたいな
纏向がどれだけ特殊な、そしてどれほど異端の遺跡なのか理解が足りないのだろう
これが大和の国の地元民が造りました、はいここが邪馬台国ですならばどれほど楽な話か
基本的に地元民が作ってきた過去のすべて集落と、根本から性格が違うわけで
俺らもここが最大の謎だから、キナイセツとかの話してる場合じゃねえってとこまで来てしまった
西暦3世紀に、日本全国規模で計画された
大都市が、あそこに存在したツー話だな。
でもそうなると嫌でも邪馬台国が
クローズアップされてしまう、という話。
極端に意識する必要はないが
無視する姿勢もどうかと思う。
693 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 17:11:19.17
>>689 マキムクの出土物から言えることは何だろう?それらの出土物の実年代は確定したのだろうか?
土器で当時の政治や社会体制が分るのだろうか?
>>693 土器では絶対年代は分らん。
学者が推測する実年代は、その学者のサジ加減。
土器だけでは、当時の政治体制や社会体制は分らん。
でも、考古学者は土器だけで社会体制を推測しようとしすぎるなw
交易、流通の範囲位でしょう。
後は技術的水準の考察か。
まあ、土器が一番残り易いし、考察の対象になり易いのは仕方がないのでは?
私個人は九州説なのでアレだが、土器の流れからも墓制からも、筑紫遷は流石に無いと思う。
結局、九州説論者は、何にこだわっているの?
神武東征の伝承?
それとも、それ以外?
>>697 九州説、ていうか筑後山門説の立場から言うと、筑紫の神話が記紀に殆ど採用されてないし、筑紫東遷はない。
神武はせいぜい5〜6世紀に生まれた説話で史実性は薄いだろう。
拘ってるのは、三世紀の筑紫は、まだ大和との関係は薄いだろう、ということ。個人的に大和と筑紫が連合するのは四世紀末以降だろうと思う。
三角縁にしても国産の立場で、マキムクの王権が筑紫の外交権を掌握していれば、わざわざ偽造はしないよ、という。
700 :
水銀厨:2011/06/25(土) 19:12:53.79
東遷なら巻向に関してはむしろ阿波からの方が
可能性は高いですから。
>>699 神武が5世紀ぐらいに作られた説話?
わざわざ、あんな面倒くさい説話作るか?
記紀を読むと分るのだが、イワレ彦(神武)東征を読んで
あれから、日本の首都が、日向から畿内に移転したと想像するほうが困難だよ。
あれって、日向の豪族が少数の兵隊で畿内に援軍として駆り出される話だから。
また、イワレ彦が東征する前も後も
日向は田舎、畿内は発展した地域って感じだよ、あの記述から。
>>701 少数の兵隊が畿内に援軍したってのを伝承として残す必要あるの?
>>702 正しくは、
イツセ(神武の長兄)とワカミケヌ(神武)の軍は
河内湾で河内上陸戦をするも、待ち構えていたナガスネヒコの軍に敗れ
イツセは戦死、ワカミケヌは命からがら紀の国(現在の和歌山県)方面から
生き残った少数の軍で上陸、ヤマト本国を目指し、
運よくナガスネヒコを討って、ナガスネヒコに担がれていたニギハヤヒが
ワカミケヌに降伏して、目立たしめだたしって話。
704 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 20:42:06.31
近畿説も東征+九州説も死んだ。もう生き返らない。
東征はなかった+九州説しか可能性が無い。
705 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 20:46:50.63
東征っつーか、潜り込んだ豪族の一つが
九州出身ていう程度じゃないかなあ。
706 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 20:50:49.44
東征がありえない以上は、近畿説もまた消滅する。
近畿説は、記紀ではなぜ神武以前は九州の話ばかりが出てくるのかを合理的に
説明できない。近畿説では国家事業でイミフな無駄ごとをぐだぐだやったと考えなく
てはならなくなる。絶望的で可能性の無い説だ。
邪馬台国は九州で、名前だけを近畿に引継ぎ消滅したと考えなければしょうがない。
他に選択肢がない。
707 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 20:52:53.85
神武って、九州の滅びかけた邪馬台国から近畿勢にハイヤーされた雇われ店長なんじゃないか?
>>704 なぜ、そうなるのか分らない...
畿内説が正解であり
東征はあったが、東遷は無かったというのが、正解だろう?
709 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 20:56:04.85
>>708 意味が良くわからない。東征って九州勢が近畿勢を軍事的に制圧したという意味で
言ってるんじゃね?
710 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 21:01:11.99
九州勢力と近畿勢力がまとまった状態での
全面戦争は補給と軍旅の問題からありえない。
成功するとしたら、片方は軍を率いる組織運用力を持ち、
もう片方が軍どころか少数の雑魚の集まり、程度でなければならない。
大軍になればなるほど補給の問題で行けない。
紀元前660年なら、ちょっとした軍組織でも
全く組織化されてない相手にならなんとかなるかもしれないが、
でも、それを信じているひとは少ないだろ。
>>710 卑弥呼=モモソ媛命ならば、
イワレ彦(神武)東征は、西暦1世紀ごろの話だろう?
712 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 21:16:56.03
>>711 卑弥呼=モモソ媛命とかやめろよ。
そのレベルで九州説がどうのとか言ってるのか。
単なる貴種流離譚。
714 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 21:18:59.64
ボクの邪馬台国論はスレ違いなので他スレでどうぞ。
716 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 21:34:45.03
うわ。近畿説やっぱ死んでるね。
確認したわ。ありがと。
717 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 21:38:41.47
百襲姫は岡山から来た渡来系の女王、奈良盆地を桃源郷村にするために立ち上がったのだ。
特殊器台の分布を見れば一目瞭然なのに、どうして認めようとしないのだろう?
まず岡山を桃源郷にしろよ
なんで、モモソ媛命が渡来系になるんだよw?
>>717 百襲姫は岡山から来たのではなく、岡山を平定した父(孝霊天皇)の娘だが。
倭国大乱は、孝昭〜孝元の間に起こった。
スレ違い
邪馬台国スレ行けよ
巻向からは桃の種が大量に出てるのだから
そんなにスレ違いという事はないぞ。
桃太郎は初瀬川から流れてきた桃から産まれて
田原本(鍵唐古)周辺で育つのだからな。
桃太郎のモデルは、吉備津彦で、諱はイセサリ命。
モモソ姫命の同母弟。
鬼退治の話は、西暦3世紀の四道将軍派遣戦争の話やら
その後の西暦7世紀の白村江の戦いの時の話など
いろいろ合わせて出来てきた話だと思う。
ベースは古事記の孝霊天皇平定話だろ。
孝霊天皇の平定話なんて、古事記にはないんだよ。
ただ、孝霊天皇の注のところに
息子には、四道将軍の時の吉備津彦がいるって書いてあるだけ。
息子に行かしたという事だから同じ事だよ。
どちらにしても吉備の人間ではなくヤマトの人間だよね。
当然渡来人ではない(というか鬼退治なんだからな)
728 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 23:41:43.86
周防にせよ呉にせよ、中国大陸南岸の海洋民族の日本列島における拠点だろう。
三国志の桃園の近いにあるように、中国いでは桃は神聖な食べ物だったことは確実。
倭は、中山靖王劉勝の子孫が打ち立てた国なのだ。
その後の血統で子沢山が多いことでもわかる。
桃は仙果、あと洪水の多いような場所の魔よけ。
また桃は実を沢山つける木、だから木+兆だしな。
子沢山=子孫繁栄の意味もある。
まあ桃太郎が倭人で鬼を退治に行く訳だ゙が
そもそも桃は良く出土するものなので気にしてたらきりが無いぞ。
その出た場所と量は重要だけどな。
>>728 そんなトンデモ説、信じるやつ、まだいるのw?
734 :
水銀厨:2011/06/26(日) 08:34:20.08
吉備式の祭祀の形跡があるという事は、
吉備の支配者という事ではなく、
吉備を鬼(侵略者)から救ったので
吉備の人間が祭祀を行った、という事かもね。
温羅(うら)って、何者?
736 :
水銀厨:2011/06/26(日) 08:51:53.83
やはり瀬戸内を東へ向かってやってくる連中の一部じゃないかな。
737 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 14:55:53.35
あまり日本の史学者は話題にしないのだが
魏の曹操の伯父が呉の太守に封じられ、1972年にその墓から
倭人の協力を得て邪教集団(恐らく黄巾党)からの攻撃を撃退したという
内容の碑文が発見されてるんだよね。これは当時、呉に倭人の居留区があり
、少なくとも援軍に成り得る程の軍事力を派遣出来た事を意味するよな。
これってある程度、魏志倭人伝でも記録されているようにかなり倭は大国扱い
されてた事を表しており、当時の倭は国家としてかなり広範囲に整備が
整った国の形をなしていたのでは?そうすると九州に首都機能があるのは
統治上かなり無理があるよな。
コロンブスがアメリカの原住民をインド人と信じていたようなものだろうな。
739 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 15:08:56.10
>>737 >そうすると九州に首都機能があるのは 統治上かなり無理があるよな。
ぜ〜んぜん。無理なんかないだろ。
倭人字磚の場合は中国本土に居住していた倭人のことをさしているのだと思うが、どこまで
倭本国と関係を持っていたかはわからない。
741 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 17:23:30.51
>>737 :日本@名無史さん:2011/06/26(日) 14:55:53.35
>あまり日本の史学者は話題にしないのだが
>魏の曹操の伯父が呉の太守に封じられ、1972年にその墓から
>倭人の協力を得て邪教集団(恐らく黄巾党)からの攻撃を撃退したという
>内容の碑文が発見されてるんだよね。
それについて詳しく。はつみみ。
吉備はキビツヒコに、大和はイワレヒコに征服されたように記紀では書かれているが、
実際のところ、始祖を飾り立てるために勇ましい征服伝承を創作した、というのが妥当な線。
大和の傘下に入る時に、各地の伝説上の始祖王は、大和の大王の息子に仮冒された。
出雲は反抗的だったので、アメノホヒは記紀ではあの扱い。
>>743 そんな証拠ないな。無意味だよ、そんな創作するの。
倭国を統一する時には神話も統一しないといけない。無意味じゃないよ。
てか、継体以前の記紀の記述を根拠もなく信用してる方がどうかと思うがな。蛇と結婚したり、死んで白鳥になったりしてるのにさw
746 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 22:41:50.70
中国安徽省琢県にある曹宗族で会稽郡の太守だった曹操の伯父に当たる人
の墳墓から1978年の出土でした。
間違ってすみません。
古代煉瓦に「倭人、時をもって盟することありや」とあり魏に盟したか
反乱軍に盟したかは両方説があるということです。
現在安徽省の博物館にあるようです。
747 :
ひとぶた:2011/06/26(日) 23:00:18.41
>>742 曹操の「伯父」だとすると従兄の夏侯淵か夏侯惇の父親でしょうかね?
これでしょ。後漢代だよ。
>安徽省亳県(あんきしょう・はくけん)所在の曹操宗族墓群の中の「元宝坑村一号墓」から、
多量の字磚が出土したが、その中の一枚に倭人という字を含む文章があった。
この「元宝坑村一号墓」は一族の曹胤(そういん)の墓と言われ、
築造年代は後漢の建寧年間(168〜172年)であることが分かっている。
「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」
日本人の祖先じゃなさそうだな
少なくとも紀元前1世紀の前漢代のころから、日本列島のことを
倭国という風になっていたよ、中国では。
紀元1世紀の頃に、中国の王莽の時代に貨幣が吉備でも
流通していたと裏付ける発見が出たし。
>>745 まあ、蛇だとか白鳥だとかは、そりゃ神話だがw
でも、記紀にある系譜は、おおかた正しいでしょう?
つーか、あの記紀にある系譜から
皇室が何に触れてほしくなかったのか、よく読める。
皇室は嘘はついてないが、記紀の書き方の印象操作によって
触れてほしくないことを薄めるようにしているw
あれだと、記紀編纂時には、皇室が何を隠したかったのか
諸豪族は良く分っていただろうが、でも、まるまる偽造していたわけではないので
諸豪族も不満を言いづらかったかもな。
ただし、後世になるにつれて、時代の真相の記憶が曖昧になると、
記紀に書いてある意味が分らなくなって、皇室の隠したかったことに
諸豪族や庶民は気がつかなくなるw
卑弥呼が魏に使者を使わした頃から古事記成立まで約470年
日本書紀なら約480年
卑弥呼の頃は文字が無かったと言われる日本
記紀がそんなに詳しく日本の始まりを記してあると思うの?
実際は漢字が書かれた遺物がもっと前から出てくるんだけどな。
>>699 九州の鏡の専門家たちは、
遅くとも三世紀後半には近畿から鏡が流入して、
完成鏡として副葬され始めていると考えてるぞ。
(北部九州は破鏡副葬がメインだった)
ただ初期のグループは覇権を継続出来なかったようだが。
755 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 16:13:46.43
>蛇と結婚したり、死んで白鳥になったりしてるのにさw
この理屈なら首が空を飛んだ平将門も怨霊となった菅原道真も崇徳天皇も酒呑童子を殺した源頼光も架空か?
文字記録のある時代になってもこのような荒唐無稽な伝承は生まれるんだ。説話的な伝承だからといって、
信用性どころか存在まですべてを否定することはできん。大筋はなんらかの史実の反映とみることを否定はできない。
記紀の編纂者たちは、神武以降を「人代」とした。彼らは神武以降は史実と認識しており、当時の皇族以外の有力者達にも
受け入れられるだけの説得力があったとみるべきだ。
もちろん、口承口伝だった以上、系譜や事跡に相当の間違いがあることは否定できんがね。ヤマト王権の日本制覇の経緯など
マクロ的な事跡は、ほぼ史実の反映だろう。
>>755 >記紀の編纂者たちは、神武以降を「人代」とした。
>彼らは神武以降は史実と認識しており、当時の皇族以外の有力者達にも
>受け入れられるだけの説得力があったとみるべきだ。
神代と人代と明確に分けているのは、日本書紀から。古事記では分れていない。
>もちろん、口承口伝だった以上、
>系譜や事跡に相当の間違いがあることは否定できんがね。
>ヤマト王権の日本制覇の経緯など
>マクロ的な事跡は、ほぼ史実の反映だろう。
そりゃ、なかには間違いもあるだろうね。ただ、まったく間違っているとも思えん。
だいたい、あっているよ、系譜も事跡も。
あの系譜見たら分るが...古事記みたいに神代と人代を分けずに考えると
皇室の事実上の最初の先祖は天忍穂耳命だということが分る。
彼は、アマテラスとスサノオの誓約で飛び散ったものから誕生した、
事実上、皇室とは無関係の話。
一方、天忍穂耳命以降は、男女の婚姻関係で系譜が続いている。
アマテラスとかスサノオは、ヤマトや出雲で信仰されていた神様で
その誓約で誕生したということで、自身の系譜に正統性を与えたんだろう?
じっさい、各地の信仰でも、天忍穂耳命を最初の先祖とし
それ以前は、ずっと前の先祖というぐらいの位置づけだから
事実上、関連性を認めていない。
757 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 18:21:57.82
>>737 >あまり日本の史学者は話題にしないのだが
いわゆる「倭人字磚」というやつだな。
亳県南郊の古墳群には曹操の父親の曹嵩の墓もあり曹氏の古墳群らしいんだが
そこに「倭人」の文字が刻された「磚」が見つかって
(銘文=『有倭人以時盟不』)
曹氏の一族が会稽郡の太守であった時、倭人と接触していた可能性を示す物らしいが
倭人との間に交わされた盟約がどのような物か?については色々推測があるらしい。
個人的には邪馬台国論争で九州説畿内説に利する物というより
そのような過去に倭人と接触したという事もあって倭人伝に見える厚遇に至ったのではないかと想像している。
あと倭人と言っても本国(列島)?と通信があったかどうか
倭人と言っても列島の倭人か半島の倭人かは考えておくべきだと思うwwwwwwww
(後代の倭寇なんかだと実際は殆ど中国人だっけ)
>>742 >それについて詳しく。はつみみ。
以上、森浩一『古代史おさらい帖』に出てますた、参考までに。
758 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 20:14:06.96
>>755 まあ確かに、歴史上の人物が後世、神話化してしまうことはあると思うよ。
記紀でも継体以前、特に応神以前は説話的要素が強過ぎると思うんだよね。安易に史実性を見るのは慎重になるべきだろう。
記紀が正史でありながら、敢えて説話文学のような内容を記載するのは、同時代の記録がなく、口承で伝わるうちに神話化していった、と捉えるべきだと。
>>758 応神どころか、継体以後もそうだし
そんなこといったら、きりがないね。
>>757 ほぼ同時期の遺物としては、中平の刀があるね。
761 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 22:38:47.21
>>759 いや、伝承ってのは口伝えしていくうちにどんどん伝説化、説話化してしまうもの。
記紀の時点ではタジマモリやキビツヒコだったのが、後世には浦島太郎やら桃太郎に変化してしまう。
歴史書てのは、変化していく宿命の伝承を、その時代時点での状態で、フリーズドライみたく後世に伝えるものだよ。
そして記紀編纂時点では、崇神の頃の記録が文書として残っておらず、口承していくうちに説話化した伝承しか残っていなかった。
何らかの史実は伝えている可能性はあるが、かなり改変されている可能性があり、安易に史実と考えちゃダメだろう。
>>761 まあ、確かにそうなんだが...とくに時系列とか、ごちゃごちゃになるしね。
でも、説話としての浦島太郎や桃太郎とは別に
但馬守や吉備津彦の系譜もちゃんと残ったわけだし。
ちなみに、記紀などにある系譜などで皇室にとって
微妙に都合が悪い事実って何だと思う?
仮に、あれが、おおかた真実だとしても、
皇室にとって都合が悪い真実があるのだよ。
ただし、それについて印象操作して記載しているから
後世の人間には、完全に謎として封印されてしまった。
いや、だからタジマモリが後世に伝わったのは、記紀編纂、文書化のおかげなんだよ。
少なくとも八世紀の時点での状態がフリーズドライされて後世に伝わってる。
記紀が無ければ、浦島太郎の昔話としてした記憶されていなかっただろう。
浦島太郎って、太郎というぐらいだから、あれ新しいよな。
>>763 元は(浦の島子・うらのしまこ)=温羅の島子
>>765 違う。一見、そうかなと誤解しやすいがw
正しくは、
『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に
「詠水江浦嶋子一首」として、
浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。
「浦島太郎」という名前は中世から登場し、
それ以前は水江浦嶼子を略して「浦島子」と呼ばれている。
>>762 >ちなみに、記紀などにある系譜などで皇室にとって
>微妙に都合が悪い事実って何だと思う?
>仮に、あれが、おおかた真実だとしても、
>皇室にとって都合が悪い真実があるのだよ。
>ただし、それについて印象操作して記載しているから
>後世の人間には、完全に謎として封印されてしまった。
それ、神武以前の記述な。それ以前は、日本書紀では神代とされた。
一方、古事記では、神代と人代の区別がされていない。
古事記編纂から日本書紀編纂にかけても、
その部分が皇室にとって微妙に都合が悪いから
神代ということにされ、後世の人間が注目しないように細工された。
ただし、あそこに書かれていることをよく分析すると、皇室の触れてほしくない部分は
誰にもわかるw
皇室が触れてほしくない箇所は、出雲国譲りの真相だ。
>>765 温羅伝説
温羅伝説とは、吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説である。
古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という鬼が住んでおり、
鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。
吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、
これを救うべく崇神天皇は孝霊天皇の子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・
吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した。
命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。
そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。
温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。
更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。
こうして温羅を討ったという。
それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、鯉喰神社が存在している。
温羅は製鉄技術をもたらし吉備を治めた技術者であり豪族ではないかとされる。
また、血吸川の川の赤さは鉄分によるものであろう。
吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く吉備」と呼ばれていた。
実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡が存在する。
なお、この伝承はその後、鳴釜神事の成り立ちへと続く。
>>768 時代的に百済は無関係だよな。
崇神天皇の時代は卑弥呼の時代ぐらいだから
その頃の半島は、北半分は中国の地方行政区間であり、
南半分は、三韓時代。
770 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:55:59.59
>>767 >皇室が触れてほしくない箇所は、出雲国譲りの真相だ。
言ってみ?
すぐに論破してやるよ。
771 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 18:09:40.85
論破?かっこいいと思ってるとかw
どんな国でもそうだが、権力者は
自らの権力の正統性についてのよりどころがほしいと考えている。
ヤマト王朝も、それは同じだ。
日本の神社などを調べていけば、ヤマト王朝が何を
自らの正統性のよりどころとしていたことが、よく分る。
注目すべきは、纏向遺跡の西暦3世紀の日本では
既に中国的な思想が流行していたということ。
桃源郷思想みたいなもんも、当時の倭国は流行っていた。
そして、王朝に対する正統性に関しても、中国的な物事の考えを取り入れていた。
そこがポイントだ。
まあ確かに倭人は呉の太伯の裔を自称してたしな。
倭国の弥生の拠点集落、てのは、揚子江文明が交易圏の拡大を目指し、山東半島→半島南部を経由して、倭国に築いた植民都市、
という位置付けでいいと思う。
775 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 21:37:47.64
>>767 そうですよねえ。
はるばる九州からやってきた神武一行を暖かく迎え、娘と結婚までさせた大物主(大国主)
が、垂仁天皇の頃には祟り神となって祀られてるんですから。
その国譲り(実際はクーデターによる暗殺か自殺の強要?)はたぶん神武から崇神垂仁の間の
欠史8代の間に行われたんでしょうね。
>大物主(大国主)
全くの別人、いや、別神だろ
前方後円墳は壺の形。
蓬壺すなわち蓬莱山を象ったもの。
778 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 22:40:06.21
>前方後円墳は壺の形。
苦しいなあ。
壷の形は結構多様性があるから。
前方後円墳型壷は、ごく一部のなんということない壷だし。
>>774 意味が分らんね。
なんで、そういう発想になるかよw
それに、わざわざ半島南部を経由しないといけないのかも分らん。
倭国ってのは、もろ土着の王権だよw
当時の中国の文献でも、明らかに、別の異民族というかんじだしな。
重要なのは、倭国はかなり前から中国との間に外交関係があり
その過程で、中国的な思想も、当時の倭国に輸入されていたということ。
倭国は公には漢字は使われてはいないが、
中国との外交や交易の関係から、中国の漢字や歴史に精通した者も、いたわけだ。
実際に、紀元前の遺物で、漢字が書かれたものが、日本からも出土するしな。
そして、王権に関する思想も、中国的な考えもしていたと思われる。
それは、ずばり
「禅譲」と「簒奪」に関する考え方だ。
ヤマト王朝は、あくまでも、出雲王朝から「禅譲」されることによって
天下を支配するようになったと考えていたわけだ。
「簒奪」ではなく「禅譲」だ。だからこそ、出雲の神様も大切にする。
自分達が、出雲王朝から「禅譲」された王朝だという前提があったからだ。
問題なのは、その出雲王朝から「禅譲」された時の
ヤマト王朝の国家元首は、誰だったのか?ということだ。
781 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 23:25:25.37
でました!「出雲王朝」
では、出雲王朝の実態について詳しく論じていただきましょうか?
出雲王朝の王都はどこにあって、その勢力範囲はどこからどこまでなのかな?
はい、もう答えに窮してしまいましたね。ばーか。
>>775 それは、まちがい。
神武をヤマト朝廷初代に見てはいけない。
現在の皇室にとってはイワレ彦(神武)は象徴的な人物だったが、
ヤマト朝廷全体にとっては、ヤマト朝廷の中興の祖ぐらいの位置づけの人物。
しかも、イワレ彦(神武)は、ヤマト王朝の王にすら
なってないのかもしれない。
国譲り、つまり、出雲からの禅譲は、イワレ彦(神武)よりも前の時代に
おこっている。それは、記紀にあるとおりだ。
時代は、イワレ彦の曾祖父のニニギの時代。
そこが、ヤマト朝廷が出雲王朝から禅譲されて天下を統一された時代。
783 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 23:39:29.01
「出雲王朝」とかってトンデモを吹かすのはやめてください。
考古学上、「出雲王朝」なる勢力は、大和に存在しません。
島根県には四隅突出型墳がありますが、日本海側の勢力であって、大和には無いわけです。
百歩ゆずって、出雲の国譲りが史実の反映だとしても、四隅突出型墳の終焉を伝えたものにすぎませんね。
終焉させたのは、吉備でしょう。
784 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 23:52:52.23
>>780 禅譲じゃなくて簒奪でしょ?
だからこそ祟らないように出雲の神様の為に出雲大社という巨大な社が創られたんじゃないか?
淡海のつけた名前から見ると、安寧、懿徳あたりは平和そうなイメージだから
やはり「孝」の4代がクーデターをやったんでしょう
>>784 だから、建前の話。出雲国譲りというぐらいだから
簒奪ではなく、禅譲という建前だった。(実際は、簒奪みたいなもんだが)
もともと、中国との間の外交関係の代表的な立場だったのが出雲の王権であり
そこが対中国外交上、倭の王という立場だったんでしょう?
そこから、倭の王の地位を奪ったのが、畿内の王権だったんだろう?
記紀を読めばわかるが、出雲国譲りがおこったのは、ニニギの時代。
イワレ彦(神武)の曾祖父であるニニギの時代におこっている。
そこで、ヤマト王朝が倭王室の地位についたんだろう?
んじゃ、その時のヤマト王朝のナンバー1、つまり、大倭王になったのは誰か?だが、
それは、九州南部の高千穂に降臨したニニギではないだろう?って話。
つまり、出雲国譲り→ヤマト王朝の天下統一で、その時に
初代、ヤマト王朝の初代倭王になったのは、
現在の皇室の祖先であるニニギではないだろうと。
もし、ニニギがヤマト王朝の初代倭王になっていたら、彼を初代天皇として
記紀に書けばよかったわけだからw
纏向の議論はどこへ行った?
787 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 00:08:24.65
ではその件は終了じゃね。
これからは纏向の議論をどぞ。
>>787 んじゃ、出雲国譲りで、出雲王権から禅譲されたヤマト王朝の初代倭王は
誰かというと、天照国照彦・火明命だろう?と。
古事記によれば、現在の皇室の祖先・ニニギの兄にあたる。
天照国照彦という通称は、天津と国津の両方の支配者って意味。
もじどおり、出雲国譲り実現させて、天津と国津の両方を制覇した最初の人物。
あと、欠史八代の時代に着目したのは、良い線いっているよ。
卑弥呼(モモソ媛命?)の擁立の切欠になった倭国大乱ってのは、
例の「孝」の字が送られた漢風諱号の
4人の天皇(実際に大倭王だったのかはしらん)だと思うよ。
なぜ、倭国大乱が起こったのかというと、
今の皇室の祖先、つまり、欠史八代に相当する人物が、
天照国照彦の男系の直系の子孫から、大倭王の地位を奪おうとしたんでしょう?
790 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 00:32:32.85
>>789 出雲王朝の実態について詳しく論じてみろって言ってるだろ。
出雲王朝の王都はどこにあって、その勢力範囲はどこからどこまでなのかな?
答えてみろって言ってるんだよクソガキ。
791 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 00:44:23.51
ありもしない「出雲王朝」や「国譲り」を勝手に史実と思い込んで、
僕の考えた古代史を妄想するから、あっさり論破されてバカにされるんだよ。
ちょっとは反省しろよ。
>>789
>>790 出雲の王都は、旧・意宇郡あたりだろう?
勢力範囲は、出雲周辺を中心とした日本海沿岸部の広範囲の地域だろう?
後のヤマト王権と比べて、中央集権的ではなく
日本海沿岸部を中心とした合従連衡的な王権だと思う。
(これは、日本海沿岸の海路を中心として出来た王権である出雲と
畿内盆地という内陸部を中心に勢力を拡大させた王権であるヤマトとの
大きな違いだな。)
中世の山名氏や尼子氏なんかに近い勢力地図。
山名氏や尼子氏も、一時期、山陰を中心に日本最大規模の石高を誇っていたし。
中世の場合、畿内を中心とした権威(朝廷、幕府)などが確立していたから
あくまでも、地方で勢力をふるう有力豪族だという位置づけだが、
紀元前1世紀なんかは、まだ畿内を中心とした権威が確立していないから
そのまま出雲が日本最大規模の覇者という位置づけになたと思われ。
793 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 01:16:21.51
>>792 >日本海沿岸部を中心とした合従連衡的な王権だと思う。
それなら、大和とは、全然関係ないだろ。
仮に、日本海側に出雲王朝があったとして、大和なんて、全く関係ない土地で、
「禅譲」なんて話が出てくるんだ?バカバカしい。
出雲が大和も支配してたというならまだしも、考古学上、そんな証拠は無いしな。
所詮、神話に惑わされて、ありもない史実を妄想してるだけだ。
>紀元前1世紀なんかは、まだ畿内を中心とした権威が確立していないから
>そのまま出雲が日本最大規模の覇者という位置づけになたと思われ。
四隅突出型墳が日本海側しかないのに、なにが日本最大規模の覇者だよ。
出雲は、登場から滅亡まで、日本海側の辺境の勢力にすぎない。
大和とは、ちょっと交易があったくらいだ。
794 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 01:19:29.72
大和の大物主が、大国主の子とか同一とか神話に書いてあるから、鵜呑みにしてるんだろうが、
2神は、そもそも別神であり、8世紀に天津神、国津神に色分けされた段階で、国津神=出雲系に集合されただけ。
8世紀の官吏の創作に惑わされて、史実だと思い込んじゃうなんて、
恥ずかしいとは思わんのかね?
795 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 01:28:53.43
後はあれかな?
神無月が、出雲では神有月なのは、10月に日本中の神が出雲に集まるからという話しを信じてるとか。
あれ、出雲大社が勝手にでっち上げた作り話だからな。
その証拠に出雲風土記には、出雲に神が集まったなんて話は一切無いし、延喜式にも規定は無い。
神無月は、「神の月」という意味で、「無」に無いという意味があるわけじゃないから。
>>793 いや、それは、ちゃんと言っていることだが、
要するに、対中国上の倭国代表権をイズモが掌握していて
一方、ヤマトは、対中国外交上からみたら、内陸部の辺境にすぎなかった
ということだろうと思う。
でも、その後の歴史が示す通り、山陰の勢力ってのは
北東アジアの交易の面では、日本最大の勢力になり、
海路を中心には発展しやすいから、勢力範囲も日本海中心に広げやすいが、
しょせん、平野部が狭くて、地理的にはまとまりがないので
その後の勢力の広がりに限界がある。
ぎゃくに、畿内・濃尾平野の勢力は、平野面積も広く、
地理的に東日本と西日本の交通の要所を握っているうえに、
領国もまとまりがあるから、中央集権的で統一しやすい。
このへんは、近代において、海路を中心に港を抑えた大英帝国が
領域が飛び地に点在したので、地理的にまとまりがなく、
最終的には空中分解したのにたいして
アメリカやロシアのような本国の大きな国は、
今も大国として君臨できているようなものに似ている。
イズモは大英帝国的な位置づけであり、
ヤマトはアメリカ・ロシア・中国のような位置づけだと思えば良い。
>>794 自分も、大物主と大国主は別神だと思うよ。
実際に古事記では別神としていただろう?
あと、同一神と別神かでもめるのが、二ギハヤヒとホアカリなんだが、
これも、完全に別神だと思うよ。
ニギハヤヒの正式名称は、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒだろう?
で、かれは略して、櫛玉命と呼ばれて慕われている。
櫛玉ってのは、奇霊のことだといわれており、これは形見って意味。
つまり、二ギハヤヒってのは、火明命の形見だと主張した人物の可能性が高い。
だからこそ、新撰姓氏録でも、二ギハヤヒは、火明命と別とされ
ニギハヤヒの子孫である物部氏は、天孫(王家の親藩豪族)ではなく、
天神(王家の譜代豪族)とされた。
798 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 01:41:39.86
>>796 だから、出雲と大和は、まるで違う勢力、別個に勢力を拡大したものだ。
出雲は大和を支配した実績は無いのに、
なんで「禅譲」になるんだ。バカじゃないのか?
出雲は、丹後に地位を奪われ勝手に衰退して滅んだだけだ。
799 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 01:46:30.79
>>767 >ニギハヤヒの子孫である物部氏は、天孫(王家の親藩豪族)ではなく、
>天神(王家の譜代豪族)とされた。
そういう知識があるなら、天火明の直系子孫を名乗る尾張氏を無視するのはいただけないね。
君の「僕の考えた古代史」に、尾張氏はどれくらい登場する?
カゲも形も出てこないんじゃないかね?
ニニギだのニギハヤヒだのホアカリだの
そんなのが実在したと思っちゃう痛い連中がまた暴れてるのか
マキムクを語れよ
>>799 尾張氏は、もう、むちゃくちゃ重要だよw
天火明命の男系の直系で、おそらく、その嫡流の一族。
そして、大海人命(天武天皇)にとって、
その晩年、一番もめまくった相手が、尾張大隅だからw
>>798 実際に軍事的に支配はしていないが、朝貢するぐらいの関係には
あったんじゃないのかな?
おそらく、最初、勢力を拡大させたのは、イズモで
でも、そこから伸びなくて、後からヤマトが一気に抜き去ったつーか。
たとえば、戦国時代、初期は中国地方の大内氏が、武門では最高位に
ついたこともあっただろう?
実際に大内氏が支配した範囲は、中国地方西部、北九州を中心に150万石程度で
日本全体の10分の一以下の勢力範囲だが、
でも、ほかの諸大名に比べたら、比較優位には立っていて
大内氏に臣従する形の同盟を結んだ大名もいたしな。
あと、禅譲で重要なのは、婚姻関係な。
イズモの大国主命は、娘の天道日女命を、天火明命の妃にしていた。
結果的に、イズモの大国主命は、娘婿に国譲りする形になった。
これ、重要な。播磨国風土記にもある。
そして、この天火明命と天道日女命の間に誕生したのが、天香語山命な。
この人物は、父方をヤマト、母方をイズモにもつ、象徴的な人物。
そして、彼の名は、ヤマト盆地で有名な天の香具山の名前にもなっているし
尾張氏の傍系にあたる丹波の海部氏の籠神社の籠(かご)も、
この天香語山命の「かご」から来ていると思う。
802 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 11:02:13.37
播磨も丹後も大和も、出雲とはなんのつながりもないのに、
どうして「禅譲」にこだわってるんだろうね?
8世紀に創作された記紀だの風土記だので歴史を語っても無意味だっての。
考古学上の証拠を出してから言え。
また頭の悪そうなレスだなw
804 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 11:10:07.27
古代の出雲王国が、天孫のニニギやニギハヤヒに国を奪われた!って空想したほうが、
歴史にとっつきやすいのかなあ。
大奥にスポットを当てたほうが女性が時代劇にとっつきやすいとか、
そういう、下衆な話題は、お呼びでない。ここの人は誰も興味ないよ。
805 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 11:20:31.14
火明命は、瓊瓊杵尊の兄弟とも子とも言われるが今一つピンと来ないな。
日本書紀には、火明命の子孫については何も書かれていない。
尾張氏や海部氏は、火明命を遠祖としていて、皇室に匹敵する家系とするには格好の人物と
言えるかもしれない。
まあ、古代の豪族にとっては天孫族であることがステータスだったのは確か。
由緒ある家系にするために火明命が標的にされた可能性もある。
>>800 存在しないと断ずるのは
存在すると言い切るより愚かな事だな
807 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 11:31:59.22
ここは巻向スレであって
神話スレじゃないよ
808 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 12:52:50.59
>>801 天火明命・天香語山命は二世紀後半〜三世紀に濃尾平野の動脈川、
木曽川流域に入り込んでいます。
809 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 13:06:38.96
>>808 カガミハラですか?
前方後方墳も、そのあたりが発祥なら面白いネタになるんだろうけど、
そうじゃないからなあ。
木曽川流域には、目だった古墳すらないし。
神話ネタはこじつけにもならん。
810 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 13:27:38.11
>>809 木曽川流域低地部、山脈付近は前方後方墳の発祥地にも
挙げられている。
尾張氏は畿内を追われ金谷峠を越えている
812 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 14:11:44.57
>>811 嫡流なので、権威をある程度は保持した。前方後円墳とは
少し違う前方後方墳を作ることも権威の表れ。
瓊々杵尊の御陵も彦火々出見尊の御陵も鵜茅草葺不合尊の御陵も
かつて日向の一部だった現在の鹿児島にあって宮内庁が管理し
鵜茅草葺不合尊の吾平山上陵には昭和天皇や今上天皇も参拝されている
大和王権の出自は日向高千穂であって、瓊々杵尊の勢力が畿内に至って治めたのが古代の大和政権であり
残った勢力が構築したのが後にウガヤ朝と呼ばれる南九州の勢力
また西都原古墳群の存在もそれを裏付ける
その中から神武の勢力が畿内に向けて移動したのが東征
出自が同じ部族なので、瓊々杵尊から年代が離れ抵抗する勢力もあったが、結果的に融合したのが大和王権
つまり大和王権の源流は九州にあり、ニニギとウガヤは血縁の部族
海幸山幸の伝説が隼人の部族によってなされたのも道理
さて、邪馬台国だが、これは南九州の勢力と敵対していた九州北部の勢力で
大陸に朝貢を行い国の体裁を整えていたが、朝鮮での大敗やその後の大乱で弱体化
南九州のウガヤ勢力と既に出雲まで手中にしていたニニギ勢力が塗り潰したと見るべき
景行天皇の熊襲征伐は実は邪馬台国の残党狩りで
その後南九州を回ったのは自らの祖先の地を巡行されたわけだ
神武皇后については非常に疑問な点も多く、実在した場合でもその業績については作られた可能性がある
九州の地を平定するために卑弥呼に比して邪馬台国の業績を摩り替えた政治的意図があるように感じる
いずれにしても大陸からの海の玄関であった九州に邪馬台国と大和王権の勢力が並立していた可能性は充分にあり
記紀の神代からの記述に邪馬台国がないのはもともと敵対していた別物だったがためと推し量ることが出来よう
814 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 15:55:01.50
>>813 で、北九州にあった邪馬台国とやらは、その後どうなったの?
大和王権によって滅ぼされたんだよね?
当然。
>>813 おまえ、空気の読めないレスだな。
このスレの流れから逸脱しているレスだ。
纏向と同じ測定を他の古墳にもやれよ
西都原とか九州の古墳にも
まあもともと穴の大きな測定法だがw
817 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:26:53.26
九州にあった邪馬台国が、
その後どうなったのか、誰も明確に語らないんだな。
所詮その程度のおこさま歴史解読ごっこなんだよ。
東遷しました〜なんて言った日にゃ、笑いものだし。
818 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:28:21.16
ここはマキムクスレだ。スレ違い。
九州説は九州説スレ行ってやれ。
中国史書が書くとおり、倭人は呉の太伯の後裔を名乗ってたんだよね。
ホアカリやら言ってる人は記紀に毒され過ぎ。
>>819 記紀では、そのホアカリについて、そんなに詳しく書いてないんだけどね。
それにしても、出雲国譲りが、大国主が娘婿の火明命への国譲りだったのは斬新。
だとしたら、火明命の嫡子のカゴヤマ命は、出雲とヤマトの合一の象徴だよな。
その男系子孫へと王位が継承されていたと考えるなら
火明命の弟のニニギ命の男系子孫である神武皇統の正統性は微妙だな。
しかも、出雲国譲り直後、九州南部の高千穂に飛ばされて、そこで分家していた傍系だったみたいだし。
巻向スレと関係ない話題というが
その巻向遺跡の真ん中には、天照御魂神社があり
天火明命を祭っていたりする。
ニニギ命の男系子孫であるモモソ媛命(卑弥呼)やイニエ命(崇神)は、
天照(火明命)と大国の祟りを恐れていた。
出雲の大国主命は、娘婿の火明命に出雲国譲りをし
娘の産んだ天香語山命に倭王の位を継承させることを条件に国譲りをした。
そう言う風に考えたら、ニニギ命の子孫たちに、倭王の地位を奪う権利はない。
824 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 01:08:20.62
>>821 出雲王朝など存在しないといっとるだろうが。
で。九州にあったという邪馬台国は、その後、大和王権に滅ぼされたんだろうね?
まさか、東遷したなどとくだらん主張を繰り返さないだろうな?
はっきり言えよ。
825 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 01:35:42.07
マキムクって都市なの?
ただの墓場じゃないの?
826 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 01:42:52.15
>>824 東遷も一つの可能性。
真正面から取り組むのも必要だな。
逃げてばかりいたってしょうがないだろう。
ひとつの可能性とか言っても
道端に4億円が落ちていて、それを拾った瞬間に裸の前田敦子が求愛してくるみたいな
極端に低い可能性を考慮してもしょうがないだろw
東遷・東征を語るなら、何故奈良盆地どころか
吉備、出雲、播磨、河内といった途上にすら九州の文化痕跡がないのかをまず合理的かつ物証を挙げ説明してからの話だな
>>824 おまえ、あほか。そりゃ、東遷はしていないw
する意味が分らん。
邪馬台国=ヤマト国だよ。つまり、纏向遺跡あたりのへん。
出雲国譲りは、おそらく紀元前1世紀から紀元1世紀くらいだと思う。
これ、2ちゃんに文字だけで書いても
あんまり、おまえらに伝わらんみたいだなw
いろいろ、図で説明してやらんといかんみたいだし。。
でも、面倒くさいな。
829 :
水銀厨:2011/06/30(木) 07:19:01.20
東遷があったとしたら徳島からですね。
九州なんかよりずっと可能性高いでしょう。
徳島(笑)
831 :
水銀厨:2011/06/30(木) 09:14:06.30
まぁ現時点でも徳四国東部の影響は確認済みですね。
前方後円墳の原型の件もそうですし。
832 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 11:17:09.25
>>824 東遷説の可能性は高いだろう。
畿内説が主張してきた唐古・鍵・邪馬台国説や、三角縁神獣鏡魏鏡説、箸墓・卑弥呼の墓説、
纏向邪馬台国説なんてのよりははるかに高いと思う。
それにしても、唐古・鍵・邪馬台国説と纏向・邪馬台国説は、主張していることがほとんど同じと
言うのが面白い。唐古・鍵のときも盛んに各地の土器を主張していた。
833 :
水銀厨:2011/06/30(木) 12:52:04.69
各地の土器は当然交流の範囲を示す物ですから。
鍵唐古と巻向の関係も、単純距離の短さや
水運の利便性から考えると切り離して考える事は無理です。
834 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 14:56:11.63
ヤマト王権は最初は出雲、吉備、毛野、葛城などの大豪族の連合的な感じだな
大王が次第にこれらの勢力を削って行って大王家が圧倒するようになる感じ
雄略天皇時代に一つの完成を見るけど、
その反動で雄略天皇の後に動揺が起こり継体天皇が擁立されるよう感じ
崇神、雄略、継体天皇の時代は大きな変革点であることが感じられる
835 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 15:15:35.02
出雲は崇神天皇の時の神宝事件、垂仁天皇の当麻蹴速事件で衰退したのかな
そのあとほとんど勢力として登場しなくなる
この二つの事件を合わせて出雲の国譲りの神話が想起されて面白い
神宝事件=国譲り要請
当麻蹴速=タケミカヅチとタケミナカタの力比べ(両方とも相撲の元祖とされる事件)
>>832 東遷してきたのに鉄も持ってこず、墓制も放棄して
祭器すらも他の地方のものだけを使って、改宗したんですねw
役立たずだなあ、九州勢力
>>835 出雲国譲りは、崇神の時代に起こったわけではないだろうw?
崇神の10代以上前の話だ、出雲国譲りは。
卑弥呼=モモソ媛命ならば、その時代が日本書紀で言う崇神時代。
だとしたら、出雲国譲りは、西暦紀元0年前後ぐらいだろう?
出雲国譲りとは、出雲王の大国主が、娘婿の近畿王・火明命に
出雲の支配権をあたえた事件で、これにより近畿王による天下統一が
確実になったと思われる。
以後、正統な倭王の地位にあったのは、火明命と天道日女命(大国主の王女)の
間に産まれた天香語山命の男系子孫たちであった。
このへん系図でみれば一目で理解できると思うが...
なぜ、モモソ媛命やイニエ命(崇神)が、
大国主と天照(実は天照国照彦=火明)
の祟りを恐れたのかってこと。
モモソ媛命や崇神の一族(つまり、後世、神武皇統といわれる)が、
倭国大乱で、正統な倭王の地位を、火明命の男系子孫から奪ったからでしょう?
火明命の嫡流の子孫は、熱田社の尾張氏として存続することになるのだが
継体天皇は本人も、
ヤマト入りする前までの正妃だったと推定できる尾張の目子媛も、
前方後方墳圏の人で、さらに出雲(東部)は前方後方墳圏だよ。
それから出雲国風土記には国譲り神話は含まれない。
(逆に国引き神話は記紀には含まれない)
むしろ継体天皇のヤマト入りが逆国譲りになってる。
出雲の勢力が早い時期に削がれていると推定するのは早計。
840 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 17:58:57.92
記紀は古事記冒頭の編纂趣旨や、讖緯説に基づく年代に対する頓着のなさなどから見ても
ただの歴史や神話の寄せ集めでなく統一した意図があることがわかる
そう考えると書かれてることが必ずしも順番通りでないのは想像に難くない
特に崇神天皇は歴史的に初代の天皇ではないかという説もある
これ以降の歴史の出来事の根拠を神代に求める事があっても不思議ではない
841 :
水銀厨:2011/06/30(木) 18:42:04.58
やっぱりミマキイリヒコを阿波の美馬方面から迎えたと考えれば
繋がる話でしょう。
>>840 >そう考えると書かれてることが必ずしも順番通りでないのは想像に難くない
そういうふうに21世紀の人間が、勝手に順番変えまくって
トンデモ説まきちらすから、余計、迷宮入りするんだろうが、日本古代史がw
>特に崇神天皇は歴史的に初代の天皇ではないかという説もある
ニニギ命の男系子孫で、正式に初代倭王の地位に就いた最初の男王が
イニエ命(崇神)だったんでだろう?
女王も含めたら、大叔母のモモソ媛命が、ニニギ系の初代倭王かもしれんがw
でも、邪馬台国では、モモソ媛命(卑弥呼)よりもずっと前から
男王が継承されていた時代があって
おそらく、最初に建国した男王ってのが、天照国照彦(火明命)だったんだろう?
843 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 19:08:20.22
神話の話がしたいなら、神話すれ立ち上げてそっちでしろよ
ここはマキムクスレだ
纏向遺跡の真ん中に
天照御魂神社がある。
天照国照彦(火明命)をまつった神社だ。
そして、崇神が天照大神の祟りを恐れて祭った神社の天照が、
なぜか、天照国照彦のほうになっているw
なんていうか、一昔前の「倭人伝を読む・邪馬台国はどこですか?」スレに近い雰囲気になってきたなあ。
根拠なく、僕ならこう読む的、チラシの裏の駄文は読む気が起きない。
学問板なんだから、せめて学問らしく、記紀の記述をまるまる信じるなんていう非学問的態度は改めようw
846 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 20:55:17.61
>>845 2行目と三行目が繋がってない
どっちやねんw
このスレは考古学重視のスレだから、「記紀読んで僕はこう思う」的、根拠なし非学問的レスは似つかわしくないと思う。
少なくとも記紀の内容を全面的に信じてる人間いない訳で。「どこまで信じるか?」なんてものは個人の恣意性に大きく左右され、そんなものは学問的ではないと言わざるを得ない。
せめて、無い知恵絞って、馬鹿は馬鹿なりに、考古学的知見を絡めてくれたら、もう少し読む気が起こるのだが。
考古学重視というがマキムクの年代測定には大いに疑問点があるがな
その大元が確かでないなら議論も無駄だと言うことだ
実年代が分からなくても、土器編年で用は足りると思うがな。事実、考古学者の大半が、実年代を嫌って土器編年でヤマト王権の成立プロセスを考察している。
無理に倭人伝を絡めようとするから、不確かな実年代を採用しないといけなくなる。
そうなるとやはり築造期を3世紀前期〜中期に戻さないといけないのでは?
851 :
日本@名無史さん:2011/06/30(木) 22:28:29.15
信長が本能寺で死んで、その姪の茶々を秀吉が貰って国も譲って貰ったというのと同じじゃないか。
天下分け目の関ヶ原といった大きな争いがなかったということだな。
とりあえず、考古学板に移らないと以前のスレの質は維持できそうにない。
そのうち飽きてどっかに行くさ
そうやって少しずつ最新成果を考査してきたスレだから
てか老教授はまだモンゴルはネパールにでも居るのかな
>>851 それ、2ちゃんに文字で普通に書き込んでも分らない。
系図で詳しく説明したほうが分りやすい。
なぜ、ニニギの子孫である現皇室の正統性が微妙なのかって。
855 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 01:27:34.80
「九州王朝」とか「九州邪馬台国東遷」とかのキ○ガイ電波でおなか一杯なのに
その上に『出雲王朝説』か…もう本当に勘弁してくれだよな。
いつもの「ホアカリ厨」か?
本人は「系図を図示しないと説明が困難云々」言っているが「紀元前後の禅譲劇」?
はあ?禅譲した出雲王朝と禅譲された大和王朝の実態を示す資料の一つでも出してくれ。
規模・版図は?脳内系図だけで語られても付いていけんわwww
記紀信者の居座りが菅直人レベル
857 :
「出雲王朝幻想」の背景:2011/07/01(金) 01:38:20.24
日本人なら誰でも記紀神話の神代における出雲神話の比重の大きさを知っていて
荒神谷とか加茂岩倉のような発見により
「記紀に描かれた出雲王朝が実際に出てきた!」となりやすいんだろうが…
これも過去に何度も言ったことだが
そもそも平安の頃にも出雲はイケイケだったわけで
「雲太和二京三」の示す古代の高層建物を建てる経済力もあったわけだ。
記紀に於ける出雲神話の比重は何の事はない当時のリアルな出雲の権威の大きさの繁栄と見ることもできる。
もしこれが記紀編纂時に出雲が寂れまくってたら何かの特殊な事情を考えなければならないだろうが…
858 :
「出雲王朝幻想」の背景:2011/07/01(金) 01:53:03.41
で、考古学的に一般に言われているのは…
・山陰北陸の影響が強く出てくるのは布留から
・前方後円墳の葺石が山陰の四隅から…とも言われることもあるが
石塚・勝山・矢塚・東田大塚からは出ていない。
・前にも書いたが纏向のツクシ式フイゴ羽口も学者らは
日本海側からの伝播ルートを考えていないようだ
…etc、少なくとも山陰が纏向立ち上げにコミットしたと思わせるような物は凡そ無い。
(あれば後学のために教えてくれ)
纏向に参画したとしても布留からか?
そもそも四隅の分布を見ても日本海ルートを交易の場としたであろう山陰と
瀬戸内ルートの東の果てのヤマトがどう被ったのか想像もできないwww
出雲族が元々畿内にいて後のヤマト王権の祖に駆逐されたとか、その手のムー的お話なのか?
もう纏向より2世紀3世紀も前、プレプレプレ纏向とでも言うようなものを見つけて来いと言うお話だなwwwww
859 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 02:04:14.88
>>829-831 阿波東遷説か…まあ確かに萩原の槨の構造とか画文帯神獣鏡の副葬とかを見れば
ホケノと親子関係か兄弟関係というのは直ぐに分ることだが
かと言ってホケノが纏向で最古というわけでもないんだよなあ…
その点をどう評価するか?
前方後円墳が阿波で完成されてそれが大和に持ち込まれた…と言う絵図を描くには難しいと思うが
あと細かいことを言えばw萩原のものは前方部が「末広がり形」にはなってないみたいだが
その形の変化に前方部の意味が違ってきたのではないかと思う。
>>858 纏向遺跡よりも前にヤマトに首都があったとしたら
それは葛城地方だろうな。
現在の御所市・葛城市のあたり。
やたら、ヒステリーがいるな、出雲王朝の話に対してw
出雲王朝といえば、なんか日本全国を支配した王権だったと
誤解しているやつがいるが...
別に地方政権の範囲内でも、地方限定の王朝だったといえば
納得してもらえるかなw
まあ、地理的にみて、出雲に出来る政権が、日本全国を支配するのは、
その後の歴史をみても、無理な話だな。
せいぜい、日本海沿岸部の広域圏の中で中心的な役割を演じた王権が
あの地域の限界だろうね。
それでも、近畿王権が日本全国を統一しようと思ったら、
その最大級のライバルになるのは、中国地方の王権だったりする。
近畿王権にとっては、中国地方の王権を併合した時点で
ほぼ、日本全域の覇権の確立は決定だから。
豊臣秀吉も、毛利家との和睦で、ほぼ天下を手中したでしょう?
また、足利幕府も、大内氏や山名氏など中国で勢力を誇っていた大名の
討伐に必死になった。
古代においても、
近畿王権が、日本全域での覇権を握ろうと思えば、
出雲王権を中心とした中国地方の平定だろう。
ここを抑えれば、九州も関東も、もう近畿王権に対抗できない。
古代においては、近畿王権は、出雲王権から出雲の王女を妃に迎え
その間にできた子供を近畿と出雲の合一の象徴にすることによって
国譲りをしようとしたんじゃないのかな?
それが、播磨国風土記にもある。
結果的には纏向も出雲も含む大和を日向の神武が東征したんだがな
>>864 神武が東征したのは、巻向が建設される前だな。
また、畿内王権が建設されたのは
神武が東征するよりも、さらに前。
出雲は別に日本海側中心の勢力じゃないだろ。
京都丹波に元出雲があるのに。
>>861-863は
>>801の人かな?
>実際に軍事的に支配はしていないが、朝貢するぐらいの関係には
あったんじゃないのかな?
おそらく、最初、勢力を拡大させたのは、イズモで
でも、そこから伸びなくて、後からヤマトが一気に抜き去ったつーか。
この辺は概ね同意しとく。
纒向が造られる直前、もしくは纒向でなんらかの連合が誕生するまで出雲は
最大勢力の可能性が高いと思う。理由は西谷墳墓群から。
ついでに播磨国風土記は結構考古学的なものと合致しそうな気がする。
もう一つついでに、確かに出雲は全国を支配したわけではないけど、出雲文化はかなり広範囲に
浸透してたのではないかと思う。
>>858 前方後方墳がヤマトの直ぐ傍まで来ているのが不思議だな。
何故連合はヤマトを選んだのだろう。
なんで平安時代にこの辺りの荘園は出雲庄って呼ばれていたんだろうな。
そういう名前ついてたのは出雲だけじゃないだろ
>>869 ヤマトどころか九州にまで前方後方墳は進出してるね
もうこうなると墓制が権力範囲を示すとかの単純な話ではなく
なんか新しいカッコイイ墓が流行ってるんで
俺は◇○で、いや俺はちょっと尖って◇□でって感じの単なる流行じゃないかとさえ思ってしまう
墓制というか墓の形状で権力主体を考察する事自体が、3,4世紀では的はずれなのかも知れない
873 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 15:30:18.23
九州の場合は前方後円墳より後で、なおかつ大きい円墳なんてのも
結構あるからね。
前方後円墳が好きな人もいれば、昔からの円墳にこだわる人とか
いろいろいたんじゃないかな。
もちろん、勢力が大きいほど大きい古墳になる傾向はあるだろうけど。
キリスト教の教会も国や時代によってデザインは違うが
基本的な構造は似ている
宗教施設とはそんなものでは
>>869 >前方後方墳がヤマトの直ぐ傍まで来ているのが不思議だな。
>何故連合はヤマトを選んだのだろう。
要するに、基本、同族同士だからでしょう?
876 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 17:21:22.36
>>861-863 出雲ホアカリ厨
>別に地方政権の範囲内でも、地方限定の王朝だったといえば
だからその地方王権でいいからその存在を示すような考古資料を出せと。
全国規模じゃなくて地方王権と言えば自分の言ってることに整合性が出てくると勘違いしているのか?
そもそも今日纏向に見る初期ヤマト王権を武力でもって全国を平定したような
王権として捕らえているやつは殆どいないだろう。
それに先駆ける数百年前の話なら尚の事地方の勢力であたりまえ。
一体どのような王権構造があったのか?
脳内ストーリー以外にきちんと第三者にも認識できる資料を出せ。
(系図もリアルタイムで書かれたもの以外は無しだ。
後代に書かれたものでも良いのなら「幻の○○王朝」を示したような奇書の類はいくらでもあるだろうし)
「昔昔ある日、日向の勢力が神様のお告げで無敵鉄器軍団を組織して一路東進。
大和に入りそこを拠点に全国を〆ました、めでたし、めでたし」
…と言うムーレベルの与太となんら変わらない。
『歴史ネタファンタジー』をやりたければ他所でやってくれ。
それで無くとも邪馬台国スレでその手の与太は吐き気するぐらい聞き飽きている。
>>876 >そもそも今日纏向に見る初期ヤマト王権を武力でもって全国を平定したような
>王権として捕らえているやつは殆どいないだろう。
息をするように嘘をつくなw
考古学的な物的資料だけで、そんなこと分るかよw
何も分らんってのが本当のところ。
>(系図もリアルタイムで書かれたもの以外は無しだ。
> 後代に書かれたものでも良いのなら「幻の○○王朝」を示したような奇書の類はいくらでもあるだろうし)
そういう21世紀の君の言うことは、なおさら信用できんだろうw
そもそも、中国の歴史なんかも、リアルタイムで書かれたのは、史書がはじめて
殷、周、秦、漢の前半ぐらいまでは、後世に書かれたもので判断しているにすぎない。
878 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 18:38:45.88
>>876 おまえな...昨日からかヒステリーおこしているやつか...
まあ、このスレは、纏向遺跡のスレだから、考古学ぽいスレだけど
いちおう、ここは日本史板だから。
ココとは別に、考古学板スレもあるから、そっち行けば?
あと、考古学的な資料で、こうに違いないなんてことは、
絶対にないよ、普通。
879 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 18:43:45.18
>>877 >息をするように嘘をつくなw
ん?このスレの人間の大半がそんなことを思っているのか?
考古資料にそのようなことを推測させる物が無ければ
「無かっただろう」と言うのが常識的判断。
じゃあ古代の今日のような日本に民主主義が完成していたと言う想像も自由
紀元前に北海道から沖縄まで征服した大和王朝が存在したと言う想像も自由
証明の義務を負うのはナントカ王朝を主張しているやつの側にある。
勘違いするな
なんかケチをつけるためのケチレスだな。馬鹿馬鹿しい。
880 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 18:49:02.93
>>878 で、結局お前の言う禅譲劇の根拠はなんだ?
記紀から想像した「オレサマストーリー」だけか?
別に考古資料だけとは言わないが
その画餅を食える餅にするだけの材料があるのか?
脳内ストーリーだけならそれは単なるフィクション。
他所でやれ馬鹿者。
「ん?」とかwwwっぽいけど、別人?
絡みたいけど時間がないw
882 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 19:37:31.73
>>881 同一人物でおkだwwwwww
この出雲厨のストーリーは過去にも見た記憶があるが…
その禅譲劇の舞台は奈良盆地なんだろうが
紀元前1世紀から紀元後1世紀の間に奈良盆地に出雲王朝があって王権を禅譲された大和王権があった。
…なんて話ならこのスレで「16」を数える纏向スレで語られてきたことは一度全部ご破算だなw
「考古資料でそんなことが分るわけがない」と言う逃げ口上だが
如何なる考古資料でも「出雲王朝が無かった」なんて”悪魔の証明”ができるわけがない。
別に考古資料だけに限定しないからさっさと証明材料を出せと…
ちなみに素朴な疑問として
じゃあ出雲風土記に見える八束ナントカの神様による「国引き神話」は一体何なのか?とw
大和を追われた出雲族が恥ずかしい過去を封印して新たに作った神話なのかとかw
与太は新たなる与太を呼び寄せるwwwwwwww
>>859 ヨコから
> その点をどう評価するか?
ホケノの築造が布留0という見方がある。
おなじ布留0には箸墓がつくられている。
埋葬施設や副葬品からみてホケノが先行するとは思うが、
ホケノの被葬者と箸墓の被葬者は同時期に生存していたことになる。
両者の関係を考えれば、ホケノの被葬者は箸墓の被葬者の下位に位置していたのだろう。
>>861-863 > 近畿王権が日本全国を統一しようと思ったら
マキムク王権は、各地域王権の一定の同意のもとに成立した西日本広域秩序、の調整機構というのが
このスレ的検討での共通理解だと思うが。
国譲りとか統一とかいった指向は、少なくとも纒向終末ごろから次代のことだろう。
885 :
sss:2011/07/01(金) 23:23:12.81
>>858 日本書紀によると、神武天皇は紀元前667年10月に日向を発っている。
その月のうちに宇佐に到着、11月に筑紫国岡水門に到着。
12月には安芸国に到着、翌年の3月に吉備に到着。
けっこう足早に進んでいるが、吉備では高島宮を起こし、なんと3年も過ごしている。
古事記では、もっと長く8年を吉備で過ごしたと書かれている。
神武天皇と吉備はけっこう結びつきが深いものと思われるな。
>>884 本当のことを言うと、倭国大乱とはなんなんのか
卑弥呼共立とは何なのか?
詳しいことは何もわからん。
ただし、卑弥呼が箸墓の被葬者であるモモソ媛命ならば、
倭国大乱は欠史八代の時代におこった戦乱ということになる。
また、魏志倭人伝にも書いてあるが、卑弥呼の王権は、卑弥呼が最初ではない。
卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱よりも数十年前に
男王によって建国されたと、魏志倭人伝によって記載されている。
>卑弥呼の王権は、卑弥呼が最初ではない。
言ってる意味が判らんぞ。
あとな、同時代の中国の文献には、皇帝が共立されたという表現が
複数出てくるが
いずれの場合も、同一王朝内部での皇位継承争いがおこって
家臣たちによって話し合いで擁立された場合に使われる。
普通、皇帝や国王の位は、前皇帝や前国王が決めるもんだから。
それが、何かの要因でそれが不可能になった場合
家臣たちが話し合いで共立する。
>>887 つまり、卑弥呼よりも前に
卑弥呼の一族によって、この国家は建国されたという意味。
もし、卑弥呼が新しい王朝を建国したとするのなら
そこで新しい国家が誕生したという解釈になる。
でも、魏志倭人伝によると、卑弥呼の国家は、卑弥呼よりもずっと前に
男王によって建国されたことになっている。
記紀を読んで系図見て、隠された歴史がわかった気になっているバカは幸せだと思う。
記紀編纂が卑弥呼から数えて五百年も経っていなかったら、まだ信用も出来たのだが>記紀
現代で言えば、戦国時代を、まともな文献もなく、語り部の伝承だけを頼りに記述しているようなもの。
記紀は意外と正確かもしれないよ。
勿論西暦何年の出来事かまでは割り出せないが。
>>891 古事記には年代書いてないからね。
日本書紀は中国との外交に使わないといけないので
編年体で書かないといけないので、
どうしても、無理に年代書かないと駄目だった。
893 :
日本@名無史さん:2011/07/01(金) 23:59:10.64
>>888 倭人伝を読んでもそれは窺える。
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」
台与が女王になった経緯を見ても、その妥当性がわかる。
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
卑弥呼共立は王の継承をめぐる争いの結果というわけだが、畿内説としては、卑弥呼の前に倭王がいては
困るというわけなんだろうな。
894 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 00:01:15.55
>>890 畿内説は、戦国時代を土器で語ろうとしているわけなんだが。
そもそも実態として卑弥呼が倭国の女王だったとは考えにくいからな
地方限定の小国連合の代表だった可能性は残っているが
それだと国内交易が盛んであった事実が全く倭人伝では語られていないのはなぜかという疑問も残る
>>894 弥生時代と戦国時代を同列に語るかw
えらい勇ましい弥生時代を脳内に創りあげてるんだな
大昔の古い認識から脱却しようや
>>895 そんな事ないと思うが。
それに諸国に市があるとも書かれてる以上
国内交易が盛んと見れると思うけど。
>>896 本当ことをいうと、弥生時代とか戦国時代なんて
近代の人間が勝手に考え出した時代だからw
そもそも、どちらも農耕時代なんだから、一人当たりの経済活動は
そんなに大差がない。
>>895 一応、中国は卑弥呼を倭国の女王と認定している。
>>886>>889 > 卑弥呼の王権は、卑弥呼が最初ではない。
「其國本亦以男子為王」
この「王」とは『後漢書』東夷伝の「倭國王帥升」のことだろう。
帥升の政権と卑弥呼の政権が継続したものだとはいえない。
もとの秩序が崩壊したのち、新たな枠組によって首長を選出したのだろう。
>>888 > いずれの場合も、同一王朝内部での皇位継承争いがおこって
後継者問題で共立される場合は、その事情が説明されている。
そうではない場合の用例もいくつかあるのだから、「共立」は一般的な意味でしかない。
901 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 02:29:36.37
>>899 倭人伝から読み取れることは、帥升と卑弥呼が同一の王統だと陳寿が思っていること。
秩序の崩壊ではなく後継者争い。それは台与の例からもわかる。
902 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 02:33:45.68
>>896 畿内説は、『倭国の大乱』を戦国時代も及ばないほど全国的な争いと考えているんじゃなかったかな。
まあ、土器でそんなことを考えたら、何でもありになってしまう。何でもありでないと畿内説は
成り立たないのかもしれないが。
903 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 06:59:44.28
なんと言うか…
いつもの負け犬九州説の「キナイセツガー」の繰り返しだなw
土器をバカにしてるけど、土器の編年で初めて各地の遺物の併行関係が分かるわけだから。
記紀と系図しか読まないバカは、こういう基本的なことも分かってないように思う。
まともな考古学の本、一冊くらい読もうな。
考古学自体を否定してる人にそれを言ってもね。
都合が悪いから認めないだけだから。
906 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 08:42:47.82
とりあえず「九州邪馬台国東遷説」も「出雲王朝国譲り」も同レベルのお話と言うことでw
>>894 まともな文献がないから、考古学重視になるんだよ。
古代と戦国時代を比べるのがそもそもおかしい。
あ、俺は筑後山門説だから、一応
908 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 09:24:09.57
万葉集には大和って出て来ないんだな。
全部別の字が当てられてる。
>俺は筑後山門説だから、一応
考古学重視ならその結論は無いw
考古学重視した結果筑後山門説になる根拠がむしろ知りたい
どういう論理展開してるのか
意味不明
大陸とのルートを持っていれば、わざわざ舶載鏡を偽造する必要がない、ということ。
事実、卑弥呼は鏡百枚貰ってる訳だしさ。
100枚じゃ足りなかったとか?
頂戴って言って、ハイヨってくれるもんでもないだろし
まあ、足りなかった説はあると思うよ。
それでも黒塚の画文>三角の扱われ方が説明出来ない。
ギからもらった三角より、画文の方が上、てのはおかしいでしょ?
魏滅んじゃったし、そんなに大事じゃなかったのかもね。
つまりは畿内マキムクは公孫と結びついて台頭したんだけど、公孫が滅んで鏡の入手ルートが無くなり、やむを得ず三角を偽造した、ということ。
記年鏡あるし、公孫氏からってのは無さそうだな。
920 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 17:41:54.95
いや、具体的に反証してもらはないと意味不明だからw
三角縁神獣鏡の中には魏の年号入りの記年鏡がある。
この年号は公孫氏が滅んだ後のもの。
更に言えば、滅亡の2年ほど前から、公孫氏は独自の年号を使用していた。
よって、この三角縁神獣鏡は公孫氏が作成したものではなく、
中国から来たとするならば、魏からもたらされたものだろう。
923 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 18:00:10.15
>>921 公孫氏が滅んだ後で、魏からの使者が来てるだろ。
君は何がしたいのか意味不明
いやだから、画文=公孫からの鏡ってことだよ。
三角は国産、偽造って書いてるだろ。
画文が大事なら、そちらをコピーするだろ。
死者を弔う事を考えたら被葬者が大事にしてたのかもな。
しかし考古学資料をきちんと用いて、あえて九州説を唱えるとなったら
逆に伊都国とされる三雲・井原あたりが最も有力な候補地になってしまうんだよな
あそこ以上に各集落と交易、交流がある遺跡群は。3世紀の九州には他にないからね
というか三角縁が舶載であろうが国産であろうが
イコール卑弥呼の鏡だと未だに考えている奴なんて、もはやごく少数派だろ
なんで頭の中というか情報が30年前で止まってるんだ?
928 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 18:27:01.87
けっきょく、邪馬台国九州説の奴って
なんで、そこまで邪馬台国九州説にこだわるの?
正直に、その拘りの理由を言えよ。
>>925 しかしまあ、公孫滅んじゃったし、国内向けで利用できるのは三角縁だろう。
畿内、黒塚の被葬者的には公孫>ギだったみたいだが。
930 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 18:31:17.39
>>907 たとえば、鎌倉時代だとか戦国時代だって
当時の陶器とか調べても
その当時の政治情勢まで、絶対に分らないことばかり。
これらの時代は文献があるから分ったんだ。
だから、文献がない時代の政治情勢を調べることは
ほぼ無理なんだけど。
公孫が滅んで鏡の入手ルートが無くなったなら
三角縁コピー用の原本が入手できん。
>>927 それじゃあ、卑弥呼の鏡はどれなのさ。
畿内説唱えるならきちんと説明してみ?
933 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 18:33:27.66
倭人用オリジナルデザインの三角縁が魏鏡でしょ。
>>932 分からんというのが一番正直な答えだろう
だいたい100枚が実数かどうか、実数だとしても単一種類なのかどうかすら文献からは押しはかれない
九州でも事情は同じだろ(まさか後漢鏡とか言うのはやめてくれよ)
>>928 狂おしいまでのコンプレックスだろう
だから各自が俺だけが解読に成功した!ってのばかり
ひとくちに九州説と言っても行程解釈など各自が違い、何百何千もあるからね
>>930 鎌倉も室町も、「リアルタイムに書かれた多数の文献」がたとえ写本であっても存在するが
弥生期に倭国のことをほぼリアルタイムに述べた文献は、倭人伝のみだからね
そんな浦の取れない単一資料のみを使って政治情勢を探るとか、まともな人ならやらない
紀年鏡で言えば、卑弥呼の鏡は三角縁なのは間違いないだろう。
まずそこから話を始めるべき。
>>937 そこから始めたいのなら邪馬台国スレに行ってね
ここは幕末で言うなら、長州を語るとか薩摩を語るとかのスレ
時代が同じだからといって新選組隊士の話を延々とするっ奴は
アスペか」荒らしのどちらかだろ?
少なくとも、卑弥呼の時代、畿内マキムクを中心に倭国がまとまり始めたのは考古学的に間違いない。
しかし、九州の地方政権のひとつが中国皇帝に遣使した可能性は否定できない、てのがコンセンサスだろ?
九州説の可能性は十分にあるよ
>>939 まあ可能性は極端に低いがね
魏の使いもその後に来た梯儁とかも、本州の大勢力に全く気づかず
また派遣元の劉夏も、その九州の地方勢力に騙され続けたことになる
まあ晋の時代になってほとんど情報が途切れるのは
だまくらかしやがって!金印返せ!って言われて笑いものになって九州邪馬台国は滅んだのかも知れないが
941 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 19:10:24.40
>>939 要するに、中国に朝貢した、中国に格下に見られている
ってのが、気にいらないんだろう?
それが、本居宣長の國学思想の終始一貫の立場。
本居宣長は邪馬台国九州説をぶちまけた人間だから。
でも、こんな説を出したおかげで、日本の皇室や古代史の歴史が崩壊してしまい
逆に、その間隙を突かれて、騎馬民族征服王朝説やら三王朝交代説やら
反皇室のトンデモ説がわんさかでてきたw
完全に裏目に出ているんだよww
942 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 19:16:30.38
纏向遺跡の箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば、
卑弥呼=モモソ媛命だろう?
しかも、巻向遺跡の宮殿あとから、桃の種が大量に出てきたし。
モモソ媛命と桃の祭祀になんか関係あるかもね。
943 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 19:53:39.34
>926
那珂・比恵は?
まあ奴国なんだけど
誰が日本国王なのかって、海外の連中は
よく間違えまくっていたからな、中世なんかでも。
天皇なのか、将軍なのか、はたまた地方の大名なのかw
そりゃ、日本ってのは、誰がリーダーなのか分りにくい。
今でもそうだしなw 天皇は国家元首ではなく象徴。
じゃ、首相はどうかというと、1年おきに交代。
また、首相よりも与党の幹事長のほうが権力持っていたりw
>>943 横からだけど
那珂、比恵は3世紀中頃にはもう完全に衰退期だからな
その後も三雲、井原を最後に同じクラスのものはもう出てこなくなるからね
九州の他の集落があのクラスを従えていたとはちょっと考えにくい
946 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 22:15:54.08
>>942 巻向遺跡の宮殿あとから、桃の種が大量に出てきたし。
と言う事は桃の木が宮殿の周りに大量に植えられていたんですかね?
桃って、祭祀に使うんじゃないの?
948 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 22:35:08.99
桃を祭祀に使うことを否定はしないが、その宗教的儀式が
邪馬台国とどう繋がるかだな。
桃は一番古い栽培性果物だ。
梅、スモモ、桃の種は縄文遺跡からも出土する。
酒でも仕込んで、儀式の際に飲み、底に残った
種をまとめて捨てたとかどうかね。
949 :
水銀厨:2011/07/02(土) 22:54:28.65
桃については△や水銀朱が周囲から沢山出る環境なんだから、
やっぱり神仙思想との関連は想定するべきだと思いますよ。
まあ私も酒造の可能性は否定しませんが。
950 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 23:24:15.82
>945
那珂・比恵は古墳前期前半まで大集落だよ
南半の那珂で墳墓群が「道路」に沿って継続的に作られるが、那珂の他地区や比恵では集落が存続しているはずだが。
畿内系土器様式が北部九州に広まる中心地になっているし。
3世紀中頃衰退というのは須玖岡本の間違いじゃないの?
ただ、三雲は初期須恵器直前の古墳中期前半まで続いているが。
951 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 23:28:31.58
水銀厨氏の場合、正しいとも間違っているとも言えない
どっちつかずの書き込みが気になる。
畿内説にも九州説にもなんら益にはならないんじゃないかね。
スルーしても互いの説に何ら影響を与えないように
952 :
水銀厨:2011/07/02(土) 23:40:21.62
>>951 一応畿内説だが、特にこのスレでは邪馬台国〜説というのは
意識してないんだけどね。
でも西日本を中心とした交易関係のある国は
存在するというだけで。
(
953 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 23:40:38.78
>>928 >なんで、そこまで邪馬台国九州説にこだわるの?
そりゃ切手の収集家・マニアに
「なんでそこまで切手に拘るのか?」
と訊くようなものでツッコミとしてはあまり意味がないかとwww
現在畿内説と言われているものに対しては
「考古資料が示しているのはあくまで3世紀ごろにはヤマト王権の原型ができつつあったということであって
それが当時の国内最大の勢力であっても魏から冊封された邪馬台国がその最大勢力であったという保障は実は何もない」
…と言うだけで理論的には否定できる、それは上でも出ている通り。
が、ここの九州説はそう言う反論の仕方すらできない・しない。何故なら
「『オレサマの九州邪馬台国』が畿内ヤマト如きの後塵を拝するような事があってはならないっ!」からだwww
だから纏向がヤマト王権の萌芽・揺籃の地であったと言う現在の日本人の常識レベルのことすら否定する。
てかこいつらホンマにニホンジンデスカ?wwww
この連中が異常なのはそう言った「大九州主義」とか「九州版皇国史観」に囚われている所ダとオモフwwwwwww
だから九州説でも東遷説を一緒くたに語るのは止めてくれw
俺はマキムクの優位を認めた上で、山門説だから。
955 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 00:00:29.15
神武東征伝承しか根拠がない東遷説は排除するとしてw
畿内説にしろ九州説にしろ「筑紫がヤマト王権に完全に併呑された時期をいつと捉えるか?」の違いだけだろう。
マキムクの九州色の薄さから考えて、少なくとも三世紀初めではなく、後半から四世紀にかけてではないか?
紀で書かれている景行親征がそれだ。
最後まで抵抗した邪馬台国後裔の田油津媛を殺して三角縁を奪った。
>>955 なんで近畿を中心に三角縁神獣鏡がそれこそ踏み返しまでしてゴロゴロある状況になって
そのなんたら姫を殺害してまでその特定の三角縁だけを奪い取りにいかなならんのだ?
>>955 邪馬台国畿内説ならば、西暦3世紀で
邪馬台国(ヤマト国)は。北九州に一大率設置していたことになるよ。
記紀を頼りにするのなら、
いつ、九州を統治したのかって、けっこう、意味ないと思う。
たえず、統合、分裂、統合の繰り返しだから。
九州は地理的に遠いから、畿内がいくら統治しても、じきに統治が緩むと
独自的な動きに出たんだろう?
そして、再び統治、反抗、統治の繰り返しだったと思われる。
>>954 山門説だから。
それにまず間違いありませんよ。
しかし
何故山門になるのか【九州にあった】で教えてくれませんか?
959 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 13:33:13.03
>>954 東遷説はもはやエジプト説並の扱いだし、九州説とか以前の存在
一緒くたにはしてないよ
ただ九州説の話は専用スレでやってくれないか
ここじゃなく2つも3つもあるだろう、その話題にふさわしいところが
わざわざ邪馬台国について触れないスレに書き込まねばいけない理由がわからない
神武東遷って、あれ、記紀で良く読んでの印象...
神武の東征の前後もずっと、倭国の首都は畿内だろう?
実際に、ワカミケヌ(神武)は、
日向は狭い土地、ヤマトは豊かで広大で栄えた土地って
認識だし。
また、神武の東遷みても、倭国の首都が移転したような大規模な
印象は全くないんだよな。
いいぞいいぞ
マキムクは倭人伝と同時代とされてるし(仮)、邪馬台国から逃げるのもどうか?と思うがな。
九州説でも考古学重視なら歓迎。
神武東征なんて皇国史観を認めたら戦争が起きるからな。
神武東征はあっただろうが、
あれは、あくまでも倭国の首都の畿内で起こった内戦に
九州で分家していた王族が、援軍で駆けつけた戦争って話だろう?
もともと東遷説というのは、反皇国史観だろ
天皇家の祖はそれほど古くない、せいぜい3世紀以降だというね
それを神武とくっつけて、何故か新皇国史観として湧いて出てきたのが安本史観
まあ畿内説をサヨクだという奴もいればウヨクだと言う奴も居るし
自分の嫌いな説はきっと嫌いなイデオロギーの持ち主だと、脳内仮想敵をつくりまくってるんだろうな
最近では何故か九州王朝を唱える奴まで、反対論者をサヨクと誹謗する奴まで居る
古田が聞いたら悶死するんじゃないかw
>>965 具体的にどんな武器で戦って、どんな輸送方法で兵を送ったんだい?
きちんと出土品から根拠を出して答えてくれ
鉄剣とか軍船とか、今さら言うなよw
神武軍は南蛮渡来の火縄銃で畿内勢力に圧勝したんだよ。だって、
南九州は種子島に近いだろ?
969 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 19:45:06.58
>>963 >九州説でも考古学重視なら
無理無理w
もはや倭人伝など弊害しかない
神武軍は、どうみても、大敗なんだけどなw
兄貴まで戦死しているしw
971 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 20:04:18.47
神話の話がしたいなら、よそでやれよ
ここはマキムクスレだ
>>969 倭人伝アレルギーもここまでくれば立派。
少なくとも古代史を語るなら、一般教養として倭人伝、記紀くらい読んどいてね。
>>967 そんなこと分らんけど
すくなくとも、あの神武東征戦争の実態は
畿内本国で、二ギハヤヒ・ナガスネヒコが
倭王・天村雲命に対してクーデター起こした戦争だろう?
なんでも、二ギハヤヒは自らを、
初代大倭王の天照国照彦(天火明命)の形見だと自称していた。
この危機に、天村雲命は全国各地に
ニギハヤヒ・ナガスネヒコ討伐の援軍を号令した。
その援軍の中の一部に、
日向家出身のイツセ命とワカミケヌ命(イワレ彦=神武)がいた。
この戦争の主戦は、あくまでも
ニギハヤヒVS天村雲命
>>973 そんな全国各地に討伐の援軍を号令したとかが、現実に弥生時代に可能だったのかと聞いてるんだよw
書いてあるから事実だろうとかで思考停止か?
まあ、纏向遺跡って名前自体
記紀を意識したネーミングだからなw
>>974 可能だろうよ。
弥生時代を何か特別に考えてないか。
経済活動も何も、基本、徳川時代までと大差がない。
どちらも一人当たりの経済活動に大差がないしな。
>>972おそらく全員読んでいるんじゃないか
読んでいるからこそ記述と出土状況が一致しないと分かっている
>経済活動も何も、基本、徳川時代までと大差がない
あほだ、こいつ
弥生に大帝国があったと信じてる
>>977 記述と出土状況が一致した状態って、どういう状態よ?
ドンと来いスレが閑古鳥が鳴いてるよ、あっちでやらないか
>>978 一人当たりの経済水準が劇的に変化したのは
19世紀の産業革命以降だからな。
それ以前は、基本、太陽エネルギーに依存した農耕生産と
人力による労働によって、経済活動はできていた。
それが、19世紀以降、化石燃料を動力にすることによって
経済水準に劇的な変化が生じた。
>>979 五万戸や七万戸と思われる集落遺跡が出たとか
河内湾で海戦したのなら造船工房跡が見つかったとかだろ
あの時代にそんなモノあるかってんだw
>>981 で弥生時代に江戸時代でも不可能だった討伐大号令だして
全国規模で討伐させる大帝国がありましたかw
漫画の読み過ぎ
>>983 徳川の前の秀吉は
後、徳川も関が原とか、末期には長州征伐とかやってんだろ
秀吉にしても関ヶ原にしても、従属国や部下とは言いがたい状況下だからなあ
まあこのあたりは専門的な話になるが
しかし弥生時代に全国に討伐号令とかは流石にあり得ないだろう
すでにスレ的には
>>1で否定されているのに
987 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 21:16:23.52
>>975 いや、発掘前から真上に巻向駅があるぞw
討伐号令だすぐらいのことは、いつの時代でもできるよw
それが、どの程度、拘束力を持ったかは別としてw
記紀の内容からだと、討伐軍はかなり苦戦したんだな。
しかも、討伐した後も、全国への縛りが緩い」だかんありあり。
あと、イツセ命とワカミケヌ命は、いちおう、
天村雲命らの親族だったから、そりゃ、どこの馬の骨か分らん
ニギハヤヒを討伐するでしょうよ。
>>987 いやいや、漢字をわざわざ
纏向のほうを使っているわけだからw
遺跡一帯が旧「纏向村」だから。
地名の大字名を遺跡名に採用しただけだよ。
「纏向」と言う呼称が、一部の記紀ヲタを引き寄せる原因となっているなら、
次スレでは、スレタイを少し弄る必要があるかな?
無問題
纏向遺跡といえば、石野さんだが
このオッサン、もろ記紀をよんで、
いろいろ推測しているから。
>>988 なんでこいつは「ボクの考えた記紀超人」を延々スレ違いの場所で続けるんだろう
バカなの?アホなの?死ぬの?
>>988 天村雲命かどうかは分らんぞ。
先代の天香語山命かもしれんし、次代の天忍人命かもしれんしな。
>>973 『宋史』日本伝『王年代記』の天村雲尊と磐余彦尊は時代が違うのですが?
天御中主(1)
天村雲尊 (2)
天八重雲尊 (3)
天弥聞尊(4)
天忍勝尊 (5)
贍波尊(6)
万魂尊(7)
利々魂尊 (8)
国狭槌尊 (9)
角〓魂尊(10)
汲津丹尊 (11)
面垂見尊(12)
国常立尊(13)
天鑑尊(14)
天万尊(15)
沫名杵尊(16)
伊奘諾尊(17)
素戔烏尊(18)
天照大神尊(19)
正哉吾勝速日天押穂耳(20)
天彦尊(21)
炎尊(22)
彦瀲尊(23)
磐余彦尊(24)
以下略
>>995 宋史日本伝って、内容が違うんだよな、
記紀なんかとは一部において。
うんでも、天村雲命なんかは、日向三代と同世代の
天火明命の孫として
新撰姓録にも登場するしね。
>>992 石野さんは発掘報告書ではそんなことしてないでしょ。
報告書以外では古代史の論考はしているけども。
たまに発掘報告書に記紀とか倭人伝の事書いているバカがいるね。
1000 :
日本@名無史さん:2011/07/04(月) 16:24:04.47
1000ならヤマト王権の礎の地が九州で発見
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。