>>944は
影がなくなるのは、
夏至のときは周の陽城から南に16,000里
冬至のときは南に135,000里の地点
だった。すまぬ。
周髀算經自体、成立した年代がよくわからない。
3世紀初頭じゃないかと言われてるけど、
それまでの伝承や知識が含まれているらしい。
953 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 23:52:38.15
<Wikiジョーカー>
相手がいなくなったあと負け犬の遠吠えレスを入れるのも特徴的。
最近はサイキバを避けるため、別スレにコピペをしてそこで
負け犬の遠吠えレスを入れるという手を使っている。(
>>947&
>>949)
この項目は書きかけです。
954 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 00:07:59.26
>>944 >>938の間違い修正
北回帰線は南8000里では無く、南16000里でした。
因みに太陽の高さは80000里。
>北回帰線まで版図に入ったのに、何も気付かなかったというのは
周髀算經はBC200年頃の編纂ですから、
北回帰線はまだ前漢の版図に入っていません。
北極の位置測定の内容から判断して、
周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃になります。
955 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 00:15:23.51
<Wikiジョーカー>
相手がいなくなったあと負け犬の遠吠えレスを入れるのも特徴的。
最近はサイキバを避けるため、別スレに逃げ出しそこで コピペをして
負け犬の遠吠えレスを入れるという手を使っている。
(「それでも邪馬台国は九州にあった」その4スレの
>>947&
>>949参照)
この項目は書きかけです。
956 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 00:33:12.94
>>954の補足説明
>北極の位置測定の内容から判断して、
>周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃になります。
原文
『正極之所游 冬至日加酉之時 立八尺表 以繩繫表顛 希望北極中大星
引繩致地而識之 又到旦 明日加卯之時 復引繩希望之 首及繩致地而識其端
相去二尺三寸 故東西極二萬三千里 其兩端相去正東西 中折之以指表 正南北
加此時者 皆以漏揆度之 此東西南北之時 其繩致地所識 去表丈三寸 故天之中去周十萬三千里』
上記『大星』と正北極(北極樞)の為す角度は、5°であることの意味が書かれています。
『大星』は小熊座のβ星です。(地軸の歳差運動から特定できる)
小熊座のβ星と正北極がなす角度が5°の時は、BC1000年頃です。
>>954 秦の時代には版図に入ってたのは無視?
ハノイの辺まで行ってたハズ。
北極星の話は知らね。
ただ、周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃ってのは少々変な話だ。
その頃は西周の時代だから首都は陽城じゃなくて鎬京だからね。
958 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 09:04:20.77
天照大神が隠れるシーンは「皆既日食」ともいわれているけど
近畿地方で皆既日食が観られたという記録ある?
959 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 09:14:53.71
天照大神は実は月読だったのだ。
月食なら6月16日にもあったし、よくあることだ。
961 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 10:10:36.69
>>957 >秦の時代には版図に入ってたのは無視?ハノイの辺まで行ってたハズ。
>周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃ってのは少々変な話だ。
>その頃は西周の時代だから首都は陽城じゃなくて鎬京だからね。
もう少し詳しく書きます。
大星(小熊座β星)と北極樞(正北極)のなす角度が約5°であったのは、
BC1000年からBC2000年の1000年間です。
周髀算經の引用文の内容を知見し、
これを正しいと確認できて記述できるのは、上記千年間だけです。
上記知見があったのは夏の時代から、
数学書として書かれたのは周の時代だったのでしょう。
その数学書を『周髀算經』として編纂したのがBC200年前後の期間なのでしょう。
編纂者(蓋天説の思想家)にとって、一瞬である秦代の北回帰線にかんする知見は、
知らなかったか無視したのでしょう。
963 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 11:24:33.93
>>958 皆既日食なんて、縄文時代から何度も起きてる。
>>961 観測誤差が無いという前提を置くと、計算は正しいのでしょうね。
中国天文学の発達を考えると、もっと後代、春秋戦国時代の知識と思いますが。
>『周髀算經』として編纂したのがBC200年前後
この根拠がわからない。
著者の趙君卿は三国志と同時代、3世紀頃の人と推測されているのだが。
965 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:17:47.49
>>956 >北極の位置測定の内容から判断して、
>周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃になります。
>『大星』は小熊座のβ星です。(地軸の歳差運動から特定できる)
>小熊座のβ星と正北極がなす角度が5°の時は、BC1000年頃です。
「『大星』は小熊座のβ星です。」のベーター星とはコカブ(Kochab)のことですか。
コカブ(Kochab)は紀元前1500年から西暦500年頃までの北極星です。
ですから、紀元前1000年頃なら
「正北極」は小熊座のβ星のコカブ(Kochab)で
『大星』はそれ以前の北極星であった
りゅう座アルファ星(α Draconis / α Dra)のトゥバン(Thuban)です。
トゥバン(Thuban)は紀元前2790年頃から
小熊座のβ星のコカブ(Kochab)が北極星になる紀元前1500年以前迄
北極星だった。
966 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:18:40.69
続き
小熊座のβ星のコカブ(Kochab)の後の北極星は
小熊座のα星・ポラリス(Polaris)です。
>小熊座のβ星と正北極がなす角度が5°の時は、BC1000年頃です。
もし、
正北極が小熊座のα星・ポラリス(Polaris)で、
『大星』が小熊座のβ星のコカブ(Kochab)なら、
その角度が5°あるなら、西暦140年頃でしょう。
もし、
正北極が小熊座のβ星・コカブ(Kochab)で、
『大星』がりゅう座アルファ星(α Draconis / α Dra)のトゥバン(Thuban)なら、その角度が5°あるなら、紀元前1140年頃でしょう。
967 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:22:32.82
968 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 13:04:53.09
>>961 >大星(小熊座β星)と北極樞(正北極)のなす角度が約5°であったのは、
>BC1000年からBC2000年の1000年間です。
大星と北極樞の位置関係が「BC1000年からBC2000年の1000年間です。」
固定された、といことは歳差が有る以上不可能です。
1000年間に約13.9度の位置移動が歳差によって起こるからです。
因みに、一度ズレを起こす年数は72年です。
969 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 15:48:24.84
地球が太陽の周りを回る公転軸と月が地球の周りを回る回転軸が揃ってきたのはつい最近ことです。
それまでは、月食も日食も起きていなかったのです。
今までの天文学の常識は間違っていました。
黄道(太陽の軌道面)と白道(月の軌道面)が平行である必要はない。
交差していれば、食は起こる。
971 :
sss:2011/06/18(土) 16:22:21.16
>>969 日本書紀にも日食の記述はあるし…。
推古天皇36年、2月、天皇、病に伏す。
3月、日食が起きる(日有蝕尽之)。
3月、天皇崩御。
どうも日食は女帝や皇后にとって縁起の悪いことと見られていたらしい。
天武天皇九年(西暦680年)十一月、日蝕之。皇后体不予
というのもある。
日食が女帝にとって縁起が悪いというのは後漢のケ太后から来ているとか。
(元初)六年(西暦119年)十二月戊午朔日有蝕之幾盡 地如昏状 在須女十一度 女主悪之 後二歳三月ケ太后崩
日食の二年後に、ケ太后が亡くなっている。
>>971 2年後なのに?
2chでよく見かける人達と似てるな
何か1度でも事が起きると、何十回も起きてるように騒ぐオカルトな・・・
973 :
sss:2011/06/18(土) 16:42:39.84
>>972 というか、ケ太后の頃にはそういう風潮(迷信?)があったということだろう。
日食が起きて、「女主悪之」となり、2年後に崩御ということで。
974 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 17:33:24.48
日食で卑弥呼が死んだ=天照大神の天岩戸隠れ
みたいな、小学生並の話を信じないでくださいね。
975 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 17:58:53.40
>>965-966 >>968 周髀算經に描かれた時代には北極星がありません。
天の北極の周りを星が回転していたのです。
天の北極のことを「北極樞」と、回転している星のことを「大星」と書いています。
コカブ(こぐま座 β星)が「大星」として、最も天の北極点(北極樞)に近づいたのは、
BC1100年頃で、その角度は5°を切っています。
りゅう座アルファ星(α Draconis / α Dra)のトゥバン(Thuban)が、
天の北極点に最も近づいたのは、BC2800年頃です。
このとき、りゅう座α星(トゥバン)は北極星と見做してよいほど天の北極点に接近しています。
その角度は1°以下です。
BC2000年頃の「大星」は、りゅう座α星(トゥバン)です。
BC1100年頃の「大星」は、小熊座β星(コカブ)です。
つまりBC1800年頃には、「大星」はりゅう座α星(トゥバン)と小熊座β星(コカブ)の2つがあったことになります。
またBC900年以降には、天の北極点と小熊座β星(コカブ)のなす角度は遥か5°以上になり、
観測された大星に相当する星はなくなります。
ところが周髀算經の記述では「大星」は一つです。
商代に知見した「大星」と周代に確認した「大星」は別の星であったのです。
もし殷代の記録があれば「大星」が二つ描かれていたに違いありません。
一方、観測時間が夕方6時頃と朝6時頃であることから、「大星」は小熊座β星(コカブ)となります。
商代に知見された大星(りゅう座α星(トゥバン))は、周代に錯誤の再確認をされて、
それ(小熊座β星(コカブ))を大星として周髀算經に書かれたといえるのです。
976 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 18:09:42.75
周髀算經で使われている平面幾何を使って説明しましょう。
『正極之所游 冬至日加酉之時 立八尺表 以繩繫表顛 希望北極中大星
引繩致地而識之 又到旦 明日加卯之時 復引繩希望之 首及繩致地而識其端
相去二尺三寸 故東西極二萬三千里 其兩端相去正東西 中折之以指表 正南北
加此時者 皆以漏揆度之 此東西南北之時 其繩致地所識 去表丈三寸 故天之中去周十萬三千里』
「大星」が正北極(北極樞)を回る時の直径は二萬三千里である。
一方、8尺棒の先端を支点として、「大星」の描く円周上の点が地上に描く軌跡の円の直径は、二尺三寸である。
これらは即ち、地表上の軌跡から「大星」までの距離と「8尺棒」までの距離の比は10001:1である。
測定地(周地)から「大星」(北極樞・天之中)迄の距離は勾丈三寸(勾十萬三千里)であるから、
弦丈三尺(弦十三萬里)となり、「大星」が正北極(北極樞)を回る時の直径二尺三寸(二萬三千里)を見る時の視角は10.0°となる。
よって、「大星」が正北極(北極樞)となす角度は5.0°である。
参考
弦を臨む角が90度である三角形。
弦:勾:股=5:4:3
弦:勾:股=13:12:5
弦:勾:股=130:103:80
>>976 「周髀算經」に出てくる里はすべて短里なの?
あるいは、部分的に短里?
978 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 19:46:32.95
>>977 周の短里、1里=76〜77m、です。
谷本茂氏が周髀算經から平面幾何の計算によって導き出しています。
>>977 別の者だが、基本的に比の話なので長里も短里も関係なく議論できる。
ただ、1寸千里を正しいと仮定すれば全て短里で語られている事になる。
1寸千里は何の検証も無く天文上の定数として使用されていると思われるので
里程論争には意味は無いだろうが。
980 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 20:06:59.27
影の長さが1寸変化する距離を千里と規定する計算法は、
尺や歩を積算する方法と根本的に異なる。
メートル法の子午線距離の1/10000、地球一周の1/40000
を一キロとした地球を元にした計算法と同じである。
もっとも、影の長さではなくて棒の頂点からの影の角度で
算出すれば、場所により誤差は出なかったのだが
そこまでは考え難かったのだろうか。
尺や歩を根拠に用いてないわけだから、
いくら、尺の大きさなどを論争しても
コジツケ以上の結論は出ないことになる。
偶然にも何かが一致すれば別だが。
ピタゴラスの定理がギリシャから300年程度で中原にまで伝わっていたというのは、すごいね。
982 :
卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 20:42:23.66
>>981 周髀算經の内容から推論すると、
BC2000年商代には、ピタゴラスの定理や円周率は既に知見されていました。
地球の自転は周期的な変動を繰り返している。
原始的な生物の体内と計は1日25時間だ。
しかし、実際のところ、縄文時代には地球の自転速度は遅れ1日は30時間程度になった。
しかも、地球の公転速度は上がったので、1年は182日程度まで短縮されたのだ。
それが倍暦の真相だ。
これで全ての謎が解けた。
984 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:54:53.70
>>981 確か3平方の定理は元々エジプトでナイルの氾濫後の土地測量の中で見つけられたんじゃなかったか?
エジプトから直輸入という線はどうだろう?wwwwww
985 :
思金 久延毘古:2011/06/18(土) 22:59:23.61
>>958 158年 7月13日 皆既日食 琵琶湖 京都 大津 津
元伊勢(籠神社)、伊勢遺跡、伊勢神宮 のライン
(日食・月食・星食情報データベース 等)(ΔT= 8042.58 等)
天岩戸隠れの時の宮
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江
(ホツマツタエ 7アヤ)
天安河=野洲川 説
近江高天原説
滋賀県守山市 伊勢遺跡
弥生時代後期 二世紀初めから半ばが最盛期
東西750メートル、南北400メートル
大型建物が半径約100メートルの円周上に並んでいる
---------------
七夕のついでに、天岩戸日食祭り とかやらないかな
伊勢神宮が毎年7月13日に鏡を公開してくれるといい
986 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 09:22:40.63
もはや歴史学というより、オタの勝手な妄想だなw
古代史など歴史学の領域から外してかまわん。
確かに文献の拡大解釈が過ぎるよな。
めぼしいものが発掘されないから仕方ないけど。
988 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 10:56:00.34
吉見百穴、あれを古墳時代の中級官人の集合墓とする説は納得できない。
あれは土蜘蛛と呼ばれた原日本人の集合住宅である。
彼らは入口に戸板か暖簾を吊るしてその中で寝泊りをしたのだろう。
古墳時代にやってきた出雲系の渡来人は、土蜘蛛を追い出し、その穴を墳墓として再利用したのだ。
土蜘蛛で思い出すのが、古代日本の礼式である匍匐礼のことだ。
『日本書紀』には大化3年(647年)、孝徳天皇が難波の小郡宮で「礼法」を定めたということが記されている。
冠位を有する官人は、毎朝午前4時ころまでに朝庭南門の外にならび、日の出とともに庭にはいって天皇に再拝し、そのあと正午まで朝堂で政務を執ることとした。
つまり、朝廷とは朝の庭で執り行われる儀式のそのものなのだ。
遣隋使が派遣されるまで日本では匍匐礼が辞しされており、大和朝廷は土蜘蛛系の原日本人だったことがわかる。
989 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 12:12:14.70
>>988 朝廷では毎日朝礼をやっていたのか。すまじきものは宮仕えだな。
朝礼の前に掃除とラジオ体操もするよ
今のスレが実質5で、次のスレが6だよね。
スレ立てした方がいいかな
992 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:16:57.32
梅
993 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:18:14.04
埋め
994 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:18:25.82
995 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:24:43.17
宇目
996 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:26:25.85
生き埋め
た、助けて!
スレたてだめだった orz
999 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:30:06.65
>>991 邪馬台国関連スレは乱立してる。
もう立てなくてもいいと思う。
1000なら九州説は死亡
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。